ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織

 ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織に関する研究(Sjögren et al., 2020)が公表されました。最近の遺伝的研究により明確になったのは、紀元前三千年紀がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパ中央部、後にはヨーロッパ西部への一連の移住の期間であり、まず紀元前2900~紀元前2100年頃の縄目文土器(Corded Ware)複合、次に紀元前2750~紀元前2000年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)複合の形成をもたらした、ということです(関連記事)。これはヨーロッパ中央部の共有された埋葬儀式でも証明されており、個々の埋葬と体の向きにおける男女間の厳密な区別が特徴です。これらの移住から生じた遺伝的混合は、現在のヨーロッパにおける1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族の先行者が、これらの移民によりもたらされた可能性がひじょうに高いのと同様に、依然として現代ヨーロッパ人集団を特徴づけています。

 しかし、これらの変容の契機や仕組み、集団もしくは個体の動態についての仮説を推測することしかできないので、この変容事象の規模と程度と速度について、依然として多くの問題が未解決です。また、これらの集団にとって、その文化的・社会的・言語的一貫性を確立して長期にわたって維持することがどのように可能だったのかも、まだよく理解されていません。縄目文土器複合(CWC)の場合、最初の移住は男性が優勢で、おそらくは新石器時代以来の在地集団の女性と結婚した、と提案されてきましたが(関連記事)、現時点では、これらの集団に寄与した男性優勢の移住の遺伝的証拠に説得力があるのかどうか、議論されています。個々の集団は共同体水準では父系制と外婚を実践した可能性が高い、との証拠もあります。

 本論文は、ヨーロッパ中央部においてCWCの次となる鐘状ビーカー文化(BBC)について、親族構造や父方居住や外婚のパターンが持続するのかどうか、検証を試みました。これらのパターンの一部は、ドイツの南バイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川(Lech River)渓谷の、BBCや前期青銅器時代の埋葬共同体で提案されています(関連記事)。本論文は、こうした結婚パターンが遺伝子プールの多様化増加につながる、との見解(関連記事)の検証も試みました。本論文は、その程度は社会的同盟の複雑さにより変化し、より大きな同盟ネットワークは、たとえばミトコンドリア系統のより高い多様性につながる、と提案します。また本論文は、男性系統が長期にわたって維持されていたのかどうか、検証を試みます。これらの知見を踏まえて最終的には、どの社会的仕組みと精度がそのような長期的な遺伝的および恐らくは言語的安定性を支えるのか、考察します。

 これらの仮説を評価するための基準点は、ドイツ南部バイエルン州の後期BBCの2ヶ所の墓地における発見で、両方ともドナウ川の近くに位置し、相互に17km離れており、ほぼ同じ年代の層位となっています(図1)。一方はシュトラウビング=ボーゲン(Straubing-Bogen)郡のイルルバッハ(Irlbach)に、もう一方はシュトラウビング(Straubing)市レルヒェンハイト(Lerchenhaid)のアルブルク(Alburg)に位置します。両方とも1980年代の調査で完全に発掘され、それぞれ24ヶ所と18ヶ所の墓として報告されています。

 両墓地とも、詳細な考古学的評価を受けており、葬儀習慣や物質文化や年代が浮き彫りにされています。両墓地とも、自然人類学的にじゅうぶん分析されており、歯のエナメル質の複数の同位体測定が行なわれ、性別やミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)や系統や遺伝的親族関係が調べられた、最近のヨーロッパ規模のBBC関連個体群の古代DNA研究(関連記事)の一部です。本論文では、ゲノム解析をさらに進めて、個体間の親族関係を詳細に調べます。以下、本論文の図1です。
画像


●考古学と自然人類学からの知見

 イルルバッハ墓地には24基あり、ドイツ南部では最大のBBC墓地となります。しかし、ほとんどの墓は耕作により損傷を受けており、発掘前にさらに数基が完全に破壊されたかもしれません。墓地には元々、西から東の3群に配置された約30基の墓があり、全体は東西60m×南北30mでした。配置は、西部に6基、中央部に14基、東部に3基、孤立した位置に1基です(図1)。対照的に、アルブルク墓地はほぼ完全に保存されており、約10m×30mの領域に18基の墓が存在します(図1)。最大で1.4m×0.8mの墓穴があるほぼ全ての墓は南北方向に長い列で並んでいます。アルブルク5号墓(ALB 5)のみがこれらの列のいずれかより外れており、本当にアルブルク墓地に属しているのかどうか、確認できませんでした。

 記録できた41基の墓は、おもに南北方向の、しばしば非常に浅い埋葬坑の個人の土葬墓で、多くの場合、墓の列に配置されているか、密集しています。例外もあり、アルブルク墓地では、18号墓被葬者は火葬で、10号墓には2人の幼児期1(0~7歳)の子供(おそらくは双子の新生児)が埋葬され、イルルバッハ2号墓(IRL 2)には「若年成人」女性1人と幼児期1の子供が1人葬られています。ほとんどの埋葬には土器が共伴しており、おもに1個もしくは2個のカップおよび/もしくは皿・椀で、イルルバッハの6基の墓には、元々は供え物だった食料の残骸としての単一の動物の骨があります。アルブルク墓地9号墓にのみ、BBCに因む様式の装飾されたビーカー容器1個があります。

 土器以外にも、男性の墓には時として、燧石製の鏃、シカの歯、通常は狩猟と関連する装飾された牙や角のペンダントが含まれていました(イルルバッハ墓地では4人、アルブルク墓地では3号墓に1人)。女性の墓には、一連の小さなV字穴の骨や枝角のボタンが含まれていました。イルルバッハ墓地の3被葬者にはわずかしか含まれていませんでしたが、アルブルク墓地の6基の墓には多くのボタンが含まれており、6号墓だけで29個、15号墓に22個が、U字型で鎖骨から胸骨下部、その後でもう一方の鎖骨へと上向きに配置されており、そのほとんど穿孔された側が上向きです。男女とも、威信材の存在に基づく社会的分化の兆候をほとんど示しません。小さな銅剣が1本だけありますが、地位と関連するような、手首の防護や、金・銀・琥珀の工芸品はありません。

 物質文化は埋葬の時系列の基礎を形成し、器材と土器の特徴的な集合により、数世代を構成する可能性が高い相対的な段階として、A2b・B1・B2が定義されます。イルルバッハとアウグスブルクの両墓地は、A2bからB2にまたがる類似の時系列を示し、ほとんどの墓はB1期となります。したがって考古学的用語では、両墓地はほぼ同年代とみなされるかもしれず、イルルバッハ墓地の5号墓と10号墓は最初期のものです。イルルバッハ墓地の東部の墓4基(6・11・20・21号墓)が最も新しく、バイエルン地域におけるBBCの最終段階を表しています。

 アルブルク墓地では、18・9・13・16・2号墓が最初期で、最初の南北方向に配置された列となります。アルブルク墓地では、6・17号墓が最新のようです。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、100年以上使われていました。厳密な年代を確定するため、放射性炭素年代測定が行なわれました。その結果、紀元前2300~紀元前2150年頃と推定され、バイエルン地域における他の中期~後期BBC墓地と一致しますが、物質文化と遺伝学に基づく相対年代を超えて墓地の使用寿命の推定を改善するには、少なすぎて不正確です。

 ドイツ南部のBBC関連の人々は、ほぼ全ての女性が頭を南に向けて右側にしゃがみ、ほぼ全ての男性が北に頭を向けて左側に横たわるという、性別の埋葬慣行を有していました(図1)。自然人類学的および遺伝的性別は両方、この習慣の広範な厳守を確認します。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地ではそれぞれ例外もあります。耕作により攪乱されたイルルバッハ墓地17号墓被葬者は、脚がおそらくは他の女性とは異なり左側に置かれた成人女性で、さらに、脚を曲げて仰向けになっているかもしれません。ALB 14は、ほとんどの男性のように埋葬されているにも関わらず、遺伝的に女性と明らかになりましたが、1個の椀と2個のカップの副葬品は女性に典型的です。どちらの事例も、他の不規則性を示しません。

 性別は両墓地で均衡が取れています。イルルバッハ墓地では11人の女性と9人の男性で、アルブルク墓地では7人の女性と8人の男性です。成人は、イルルバッハ墓地が14人(6人の男性と7人の女性と性別不明の1人)、アルブルク墓地が10人(3人の男性と7人の女性)です。イルルバッハ墓地では、7人の幼児期1(0~7歳)と幼児期2(7~14歳)の被葬者(少なくとも2人の少女と3人の少年)と、学童期(juvenile)の2人(1人は少女の21号墓被葬者で、もう一方は性別不明)の未成年がいます。アルブルク墓地では、5人の乳児期1および2の被葬者がおり、2人の少年と少なくとも1人の少女ですが、同様に学童期の2人がいます(ともに少年)。したがって、乳児期の子供は、子供の死亡率の高い前産業化社会での予想よりも少なくなります。これが示唆するのは、選択された子供が共同墓地での適切な埋葬を許可される、という社会的制度が共同体において実践されていたことです。両方の墓地の被葬者の合計が埋葬で少年を選好しており不均衡に見えるので(7人の少年と4人の少女)、そのような制度は思春期にも適用されたかもしれません。ただ、本論文も後述しているように、女児よりも男児の方で一般的に死亡率が高いことも反映しているかもしれません。

 両墓地の埋葬からは、死因の人類学的証拠は得られません。病状はほとんどなく、栄養失調の証拠は最小限で、対人暴力はイルルバッハ墓地14号墓の男性1例のみです。この男性は、右橈骨の形が変わり、遠位関節面のすぐ上の尺骨が折れていました。この男性は平均身長をはるかに上回り、墓地では最も身長の高い男性の1人で、右橈骨・尺骨に銅の短剣を有している、両墓地で唯一の個体です。別の銅製品がイルルバッハ墓地22号墓被葬者に与えられた可能性がありますが、それは古代においてすでに除去されていました。イルルバッハ墓地20号墓も意図的に攪乱されていました。

 上腕骨の不完全な癒合面である中隔開口部の非計測特性は、イルルバッハ墓地の3・14・21・22号墓の被葬者で見られ、その内訳は男性2人と女性2人で、そのうち1人は学童期の15~16歳です。この特性は、現代の一般的な集団ではわずか6%です。両墓地の遺骸群において、少なくとも1つの癒合した上腕骨の遠位関節面を有する合計9人と比較して、イルルバッハ墓地の被葬者は不均衡です。イルルバッハ墓地でみつかったこれらの特性の数は、遺伝、したがって親族関係の結果かもしれません。


●古代DNA

 イルルバッハ墓地の18基とアルブルク墓地の16基の墓で遺伝的データが得られました。このデータセットは、YHg、mtHg、高解像度の系統推定と親族分析が可能な常染色体データに区分できます。本論文では、mtDNA情報のみを有する4個体(アルブルク墓地の3人とイルルバッハ墓地の1人)が新たに報告され、最近の研究で報告された14人の追加のDNAライブラリが生成されました。

 両墓地で充分なデータのあるBBC関連男性は全員、YHg-R1b1a1b(M269)で、これはヨーロッパ西部において紀元前2500年以後の草原地帯系統の到来と関連している主要系統です。BBCに先行し、部分的に重なるヨーロッパ中央部のCWC集団ではYHg-R1aが優勢でしたが、YHg-R1bも少数ながら存在しました。YHg-R1b1a1bと決定できた個体群では、全員が同じ派生変異(S116/P312)を有している、と明らかになりました(YHg-R1b1a1b1a1a2)。これは、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なYHgです。これは男性系統の並外れた均一性を表しており、じっさい、両墓地の男性全員と、実質的にヨーロッパ中央部のBBCのYHg-R1b1a1b1a1a2の男性の大半とを結びつけます。しかし、このYHgは数世紀前に出現した可能性が高いことを考えると、この均一性は必ずしも、これら両墓地の共同体およびヨーロッパ中央部のBBCの男性間の、全体としてひじょうに密接な父系での関係を示唆しているとは限りません。

 父系となるYHgとは対照的に母系では、イルルバッハ墓地の18個体のうち14個体が異なるmtHgを有しており、アルブルク墓地の16個体では9系統のmtHgが確認されます(図3A・B)。これは、さまざまな背景の女性を何世代にもわたって埋葬地共同体に組み込み、拡張親族集団にまとめる、広範でおそらくは制度化された外婚パターンの可能性を示唆します。興味深いことに、どのmtHgも両墓地で共有されていません(図3A・Bでは同じ区分となっているmtHg-T2が、じっさいにはT2g2やT2fやT2bのようにさらに詳細に区分されています)。最近利用可能になった同年代で唯一の他のデータセット(関連記事)では、両墓地から約200km離れている、アウグスブルク市近郊のBBC3集団および2基の単一墓で、19人のうち16人が異なるmtHgを有しますが、ミトコンドリアの多様性をこれと比較すると、イルルバッハ墓地は類似しているのに対して、アルブルク墓地では低くなっています。以下、本論文の図3です。
画像

 イルルバッハ墓地の16人とアルブルク墓地の13人のゲノム規模分析系統は、ユーラシア西部現代人集団の遺伝的多様性に古代人標本を投影した主成分分析で示されます(図4)。その結果、両墓地の個体群が青銅器時代草原地帯およびヨーロッパ新石器時代系統により決定される勾配に沿って分布する、と示されます。イルルバッハ墓地の9・10・16号墓個体とアルブルク墓地の14・16号墓個体は、草原地帯およびCWC集団とより近い類似性を有していますが、イルルバッハ墓地の4・14号墓個体とアルブルク墓地の4・6・9・12号墓個体は、より早期に確立した、つまり草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも前の、ヨーロッパの前期および中期新石器時代農耕民の方に寄っています。これは基本的に、上述のアウグスブルク市近郊集団の後の状況と同じです。以下、本論文の図4です。
画像

 ゲノム規模データを用いて、集団内の親族関係が決定されました。1親等の関係(英語圏では親子とキョウダイ)は、イルルバッハ墓地では3・8・9と11・20と14・22号墓被葬者間で、アルブルク墓地では4・6と9・12と2・13号墓被葬者間で、またおそらくはアルブルク墓地の1・2と1・13号墓被葬者間で特定されました。性別・年齢情報や墓の位置や年代を組み合わせると、さらなる結論を導き出せます。

 イルルバッハ墓地では、中央部に位置する3・8・9号墓の被葬者は、11・20・14・22号墓被葬者よりも古い、と推測されます。8・9号墓被葬者は、キョウダイもしくは母親(50歳以上で死亡)と学童期の息子(10~11歳で死亡)です。3号墓被葬者は成人男性(30~40歳で死亡)で、8・9号墓被葬者と1親等の関係です。この3人は同じmtHg-T2bで、墓は相互に隣接しており、母と2人の息子である可能性が高そうです。一方、男性2人と女性1人のキョウダイである可能性は低そうです。20号墓被葬者は学童期の11号墓被葬者の父親で、両者はmtHgが異なります。14号墓の男性(40~45歳で死亡)は、22号墓の成人女性(24~25歳で死亡)の息子かキョウダイです。

 アルブルク墓地では、4号墓の女性が6号墓の女性の母親である可能性が高そうです。9号墓の成人女性は12号墓の少年の母親です。2号墓と13号墓はともに成人男性で、同じmtHg-H1e1aを共有する兄弟です。1号墓の学童期の少年もmtHg-H1e1aで、2号墓の成人男性と同様に土器が共伴せず、2号墓と13号墓との間でわずかにずれた位置にあります。1号墓の少年は、他の兄弟と高い親縁係数を共有します。これらの関係に最もよく適合し、埋葬の時間的な連続と一致するシナリオは、1・2・13号墓の男性が第一世代の兄弟であることです。

 また、2親等と3親等の関係やさらに遠い親族関係も検出されました。イルルバッハ墓地では、14・20号墓被葬者間と20・22号墓被葬者間が2親等、11・14号墓被葬者間と11・22号墓被葬者間が3親等です。このつながりから、11・14・20・22の墓4基は全て密接に関連していると示され、その上腕骨の中隔開口部の表現型と一致しているので、最も可能性の高いシナリオは、20号墓被葬者は11号墓被葬者の父親であるだけではなく、22・14号墓被葬者両方の甥でもある、というものです。同じmtHg-H5a1を完全に一致して共有しているにも関わらず、4号墓被葬者と6号墓被葬者は1親等もしくは2親等ではありませんが、3親等の可能性はあります。1・2・4・5号墓の被葬者は3親等の可能性がありますが、4・5号墓被葬者間は3親等の可能性の方が高そうです。1・2・4・5号墓の被葬者は、11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係です。3・8号墓被葬者間は兄弟関係にありますが、1・2・4・5・11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係の可能性があります。

 アルブルク墓地では、4・12号墓被葬者間は2親等の関係で、8・11号墓被葬者間では同じmtHg-H+16129が共有されており、2親等の可能性があります。1・2・13号墓被葬者はキョウダイの可能性があり、等しく4号墓被葬者と2親等もしくは3親等の関係にあるので、姪と父方のオジの関係です。1・2・13号墓被葬者は12号墓被葬者とも3親等の関係です。14・16号墓被葬者は3親等の関係の可能性があります。7・17号墓被葬者はmtDNAデータしかありませんが、同じmtHg(H1+10410+16193+16286)を4・6号墓被葬者と共有しているので、密接な母系での関係が示唆されます。4号墓被葬者は成人女性で、標本抽出されていない1・2・13号墓被葬者のキョウダイの娘かもしれません。4号墓被葬者が、12号墓被葬者の少年とは関係があるものの、その母親である9号墓被葬者とは関係がないならば、12号墓被葬者の父方のオバ・もしくは姪でしょう。被葬者の中で4号墓被葬者の両親を確認できませんが、彼女は最初の2世代と最後の(1もしくは複数)世代の親族関係の「かなめ」のようです。4号墓被葬者にとって、6号墓被葬者が娘で、7・17号墓被葬者は幼児もしくは孫かもしれません。

 これらの遺伝的つながりから、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方における密接な親族集団の存在の可能性が高いことになり、アルブルク墓地では、4~5世代の可能性が高い単一の核家族を形成する成人10個体が存在した、と示されます。以下、アルブルク墓地の家系図を示した本論文の図6です。
画像

 イルルバッハ墓地では、西部の埋葬集団の6個体が、標本抽出と解像度の限界内では、相互に、および中央集団と無関係のようです。したがって、東部の3被葬者と、孤立して埋葬された6号墓被葬者が遺伝的に主要集団とつながっているので、1家族もしくはより拡大された家族集団の存在を推定できます。墓地の使用期間は5~6世代に及ぶ可能性がありますが、上述のように耕作による破壊のため、その推定は困難なままです。以下、イルルバッハ墓地の家系図を示した本論文の図7です。
画像


●同位体分析

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の合計35基の墓から、遺骸の歯のストロンチウム同位体(ストロンチウム87とストロンチウム86)と酸素同位体が分析されました。ストロンチウム同位体比分析からは、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者、イルルバッハ墓地では6・11・16号墓被葬者が外部起源個体と示されます。アウグスブルク市周辺のBBC遺跡群と比較すると、外来民と地元民との比率はほぼ同じです。これらのうち、アルブルク墓地16号墓被葬者のみ出身地を特定でき、最も近いのはバイエルンとチェコ共和国の間のバイエリッシャー・ヴァルト(Bayerischer Wald)山脈の古生代の岩に沿ったドナウ川の真向かいですが、他の場所の可能性もあります。イルルバッハ墓地の被葬者で外部起源を示す同位体比の外れ値は全て異なるので、それぞれ出身地が異なるかもしれません。アルブルク墓地の被葬者では、ともに女性の8・9号墓被葬者の同位体比はひじょうに類似しており、2人は1世代もしくは2世代離れている可能性もありますが、同じ地域の同じ共同体の出身だった可能性があります。

 酸素同位体(酸素18)データでは、バイエルン南東部では-4.6~-6.4の範囲となります。異なる離乳効果を考慮に入れても、データセットでは2集団を識別でき、一方は-4.6~-5.4、もう一方は-5.75~-6.4です。各集団では、性別や全ての期間の埋葬が表されます。酸素18の外れ値は、イルルバッハ墓地2号墓の被葬者2人と、4号墓被葬者(死亡時4~5歳の少女)で見られ、それぞれ-4.297と-4.242です。両者の起源地は正確には特定できませんが、高い酸素18値は一般的に、より海の影響の強い地域、つまり西方と北方を表します。

 合計8人が同位体の外れ値とみなせます。これは、6人の女性(イルルバッハ墓地では2・4・6号墓被葬者、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者)と2人の男性(イルルバッハ墓地の11・16号墓被葬者)を表しています。6人は成人で、そのうちイルルバッハ墓地16号墓被葬者のみが西部集団です。2人は子供で、それはイルルバッハ墓地の4号墓被葬者(死亡時4~5歳の少女)と11号墓被葬者(死亡時11~12歳)です。これらの被葬者のうち、ストロンチウム同位体比と酸素18の外れ値の組み合わせはありません。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の外来民と地元民との比率は、アウグスブルク地域のBBC被葬者やドイツ南部の他の被葬者とひじょうによく一致しており、両墓地が父方居住と外婚の共同体であることと一致します。

 考古学・人類学・遺伝学の情報を組み合わせると、外来民のより複雑な状況が浮かび上がります。アルブルク墓地では、同位体データ外れ値の3人の女性のうち2人が第1期で、第一世代のキョウダイの隣に埋葬されています。しかし、その正確な関係と、2人がどのように結びついたのか、まだ情報が得られていない家族、とくに成人男性のために(全体では3人の成人男性と7人の女性)、確定するのは困難です。重要なことに、両墓地で唯一装飾されたビーカー容器が共伴されたアルブルク墓地の9号墓被葬者は、主成分分析では両墓地の被葬者で草原地帯およびCCW系統が最も低く、ヤムナヤ文化よりも前の新石器時代集団に寄っています。9号墓被葬者の息子のアルブルク墓地12号墓被葬者は地元で生まれ、死亡時年齢は7~14歳です。その父親は、本論文で親族関係の情報が得られている成人男性には含まれませんが、この少年は3人の兄弟(1・2・13号墓被葬者)にとって、曾孫よりも、イトコの可能性の方が高そうです。

 アルブルク墓地16号墓被葬者の女性は、バイエリッシャー・ヴァルト山脈からドナウ川を渡って来た可能性が高いと言われているように、mtHgは稀なI3aで、対照的に、両墓地の標本群の中では草原地帯・CCW関連系統が最も高い個体群の1人です。アルブルク墓地14号墓女性には3親等の親族もおり、通常は学童期や若い成人の男性被葬者に見られる体の向きで埋葬されています。しかし、アルブルク墓地14号墓女性は、16号墓被葬者の隣に埋葬された3人の兄弟のうち1人、つまり2号墓被葬者とまったく関係がありません。したがって2人は、14号墓被葬者を16号墓被葬者の他のイトコとみなし、14号墓女性が16号墓被葬者のように外来民で同じ家族出身ではあるものの、アルブルク共同体には恐らく1世代後に到来した、と仮定しない限り、近い関係ではなさそうです。2人とも、同じように高い草原地帯・CCW関連系統を有します。アルブルク墓地8号墓被葬者は、おそらくは第二もしくは第三世代に到来した集団の成人女性です。彼女は近くに葬られた8号墓被葬者の学童期少年(本論文のデータでは父親は確認できません)と2親等の関係にあり、同じmtHg(H+16129)を共有しているので、彼の祖母もしくは母方のオバだった可能性があります。

 イルルバッハ墓地では、酸素18の外れ値個体は2号墓被葬者の若い成人女性で、子供とともに埋葬されていました。彼女は中期に埋葬され、外来のmtHg-X2c1に分類されます。対照的に、ストロンチウム同位体比の外れ値の3人は、最終期に埋葬されました。これは、この時点での新たな人々の到来事象を示しているかもしれません。6号墓被葬者は成人女性(死亡時45歳)で、孤立した場所に葬られていますが、酸素18の外れ値2人のうち1人である4号墓被葬者の少女とは3親等の関係にあるかもしれず、同じmtHg-H5a1に分類されます。

 イルルバッハ墓地の16号墓被葬者である成人男性は、西部集団で唯一の外れ値個体です。彼は主成分分析では最高級の草原地帯・CCW系統を有しており、稀なmtHg-W5に分類されるイルルバッハ墓地で唯一厳密な埋葬習慣から外れた成人女性の17号墓被葬者の、すぐ隣に葬られています。2人は夫婦だったかもしれませんが、西部および中央部埋葬集団他の構成員にとって、無関係だったようです。イルルバッハ墓地で夫婦だった可能性がある他の個体は、隣同士で葬られているものの、遺伝的には無関係のように見える、3号墓男性と2号墓女性、14号墓男性と13号墓女性です。

 イルルバッハ墓地では、11号墓の11~12歳で死亡した少年が、隣に葬られた20号墓男性の息子で、14・22号墓被葬者の大甥でもありますが、同位体データでは外れ値個体です。11・20号墓の2人は東部で第三の被葬者となる21号墓女性(両墓地で唯一のmtHg-HV6に分類され、15歳と唯一の結婚適齢期の少女です)とともに、孤立した集団を形成します。15号墓少女の親族関係データはありませんが、その上腕骨の中隔開口部の非計測的特性から、14・22号墓被葬者と遺伝的につながっている可能性があるので、恐らくは2人の親族です。14・21・22号墓被葬者は全員ほぼ同年代で、別の移民集団を反映しているかもしれません。21号墓少女は、第一大臼歯と切歯でさまざまな同位体値を示し、おそらくはイルルバッハ共同体に結婚のために到来しました。しかし、明確な外部起源の同位体値を示すのは11号墓少年だけで、その父親(20号墓被葬者)とは異なります。この知見と一致する想定できるシナリオは、20号墓男性は元々イルルバッハで生まれて育ち、しばらく故郷から離れて同位体値の異なる環境に居住して息子(11号墓少年)が生まれ、帰郷するまでそこで暮らした、というものです。20号墓男性の複数の地域との関係と、彼が出身集団から離れなかった可能性を考慮すると、別のシナリオでは、11号墓少年は里子として幼い頃に親族に預けられ、亡くなる直前に戻って来た、となります。


●拡大主義の親族制度

 学際的知見から、イルルバッハとアルブルクという2ヶ所の後期BBC墓地の42基の墓に関して、6つの社会原則により特徴づけられるモデルが提案されます。

(1)基本的な親族単位は核家族です。これは、拡大家族集団というよりもむしろ、小さな家族集団を単に意味します。人類学で証明されているように、核家族はさまざまな方法で組織化されている可能性があります。結婚もさまざまな形態の可能性があり、本論文では最も広い意味で、おもに性的で社会により認可された、ヒト相互の関係の社会的制度として理解されます。イルルバッハ墓地における相互に隣接して埋葬された遺伝的に無関係なように見える男女の事例から、BBC社会の制度の生死における基本的役割に関する示唆が与えられるかもしれません。本論文の証拠を解釈するために、外婚や父系や父方居住という人類学的分類が用いられます。しかし、親族制度に関する文献は膨大で、考古学は、先史時代に親族および結婚制度をどのように適用するのか、まだより深く理解していません。本論文は、結婚と親族のパターンを、社会の政治的・経済的組織と、したがって権力構造の再現と密接に関連しているとみなす、研究伝統を支持します。強い規範的伝統が存在するとしても、そのような慣行は常に交渉可能なので、経時的に変化する可能性があります。親族戦略と祖先を用いて起源を主張し、階層化を可能にする方法も、人類学では指摘されています。北アメリカ大陸先住民のオマハ人の親族用語に関する最近の研究では、父系集団との強い相関関係が示されています。本論文でも示されるように、これは言語学でも実証されます。アルブルク墓地は、2人の兄弟とその妻の可能性がある女性(10代で死んだ第三のキョウダイの可能性があります)から始まり、時間の経過とともに、少なくとも遺伝的には1系統に統合されました。イルルバッハ墓地では、西部集団が異質で他集団とは無関係なので、1つの家族系統があります。本論文の記録ではその構成員の一部が欠けていますが、両墓地、とくにアルブルク墓地の事例では、成人男性に関して4~6世代にわたって追跡できます。年齢分布に基づいて、これらの家族は、両親、さまざまな年齢の子供たちの一部、時として祖父母世代で構成されていました。この意味で、本論文における核家族は、両墓地よりも400年古く、文化的にはCWC区分される、ドイツのオイラウ(Eulau)遺跡の虐殺で報告されたものと同一です。これらCWCやBBCの構造は、その後のアウグスブルク市周辺のほぼ200年以上後の前期青銅器時代で浮き彫りにされたものとも同じです。

(2)これらの核家族集団は、家父長制・父系制・父方居住に基づいています(図9A・B)。これは、アルブルク墓地共同体の創始者である可能性が高い兄弟(1・2・13号墓の男性3人)により示されます。また、オイラウ遺跡やアウグスブルク市周辺で観察されたように、Y染色体の均一性と同位体の性的偏りからも明らかです。この見解はさらに、男性の子供と学童期の埋葬の選好(少年5人に対して少女3人で、学童期では少年2人に対して少女1人)にも裏づけられますが、両墓地の16人の未成年の中に性別が確定していない個体もあるので、この推測は不完全かもしれません。しかし、同様の事例は、他のドイツ南部のBBCや前期青銅器時代の墓地でも観察されています。アルブルク墓地4号墓女性の事例も、そのような核家族集団において地元育ちの女性が有することのできる重要な役割を示します。彼女は3人兄弟(1・2・13号墓の男性3人)と2親等もしくは3親等の親族で、おそらくは孫・姪か曾孫で、6号墓女性の母親でもあり、後の7・17号墓被葬者と密接な母系関係にあるので、世代間をつないでいます。しかし、彼女の親世代は不明なので、彼女もしくはその両親が、出身集団からしばらく離れて過ごしたのかどうか、推測できません。

(3)結婚制度は女性の外婚に基づいており、おそらく一夫一婦制です。これは、両墓地における同位体の証拠と男女の等しい被葬者数、イルルバッハ墓地における成人男女の同数、本論文の遺伝的記録における半キョウダイ(父親と母親の一方のみを共有するキョウダイ関係)の欠如により裏づけられます。またこの見解は、さまざまなmtHgの存在と、数世代にわたるさまざまな地域出身の女性によっても裏づけられます。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の遺伝的背景も、一部の珍しいmtHgや核ゲノムにおける系統のさまざまな程度により示されるように、遺伝的系統の点でたいへん多様です。したがって女性はおもに、「前期・中期新石器時代」と「草原地帯・CCW」の、両方の遺伝的背景に由来します。当時、女性たちは全員、BBC共同体の一部でした。一部の個人もしくは集団は、現在ではハンガリーとなるドナウ川下流地域の出身の可能性があり、その地域では遺伝的により高い「新石器時代」系統が維持されています。このドナウ川のつながりは、現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在したウーニェチツェ(Únětice)文化の領域の推測よりも広範で、アウグスブルク市周辺で観察される、BBCから前期~中期青銅器時代にかけての「アナトリア農耕民関連系統」の増加に役割を果たしたかもしれません(関連記事)。

(4)相続制度は男性長子相続に基づいている可能性があります。子供たちの副葬品が先史時代社会で予測されるものよりずっと少ないだけではなく、子供たちは年齢と性別により埋葬形態で異なっています。乳児期1・2の子供たちで女性がわずかに少ないことは、幼い少女が妻として与えられていた可能性はあり得るとしても、選択を表していた可能性があるので、少年を選好する学童期の性的偏りがあったかもしれません。両墓地で唯一の10代女性(イルルバッハ墓地21号墓)は外部出身の可能性が高く、独特なmtHg(HV6)を示すので、15歳と若くして死亡した既婚の少女だったかもしれません。彼女の隣に埋葬された11号墓少年は里子だった可能性があり、有望な息子を親族に渡すような制度によく合致します。この習慣は、アウグスブルク市周辺で3人の成人男性でも観察され、第一大臼歯と第三大臼歯で明らかな同位体変化を示し、出生地に戻る前に地理的に異なる環境でしばらく過ごした、と推定されます(関連記事)。本論文の家父長制と父系制と父方居住と外婚の証拠を組み合わせると、男系での相続制度の可能性が高いことと、長子相続の重要性が示されます。長子相続は、一流の武器の組み合わせを備えた子供の埋葬により裏づけられ、BBCの狩猟者・戦士の継承された(達成されたのではなく)地位を男子に提供します。

(5)核家族は独立した世帯を形成した可能性が高そうです。しかし、埋葬された家族の構成員および/あるいは世帯主が、世帯を支えるものの埋葬の権利がないような、他の個体や家族ではない構成員や遠い親族なしに、100年も安定した世帯を維持できるのに充分だったのかどうか、という疑問が生じます。したがって、近隣の墓地だけではなく他の墓地における威信材と狩猟者・戦士の地位の不平等な分布は、家族・世帯内の階層化と、それ故の社会的不平等を示しており、不自由で地位の低い家族構成員を儀式的には見えなくしています。これは、その後のアウグスブルク市周辺の前期青銅器時代の墓地(関連記事)やウーニェチツェ文化とは対照的です。

(6)家族・世帯は、親族関係と観察された外婚慣行を通じて同盟を形成し、里子はそのような同盟をさらに築き上げ、おそらくは家族を氏族(クラン)に結びつけました。したがって同盟は、密接な地域的というよりもむしろさらに広域的で、より多くの政治的・民族的実体を形成し、不安定な期間もしくは拡大期間に動員されるようになった可能性があります。このパターンは、イギリスのストーンヘンジ近くのソールズベリー平原の、ほぼ同年代の親族集団により示されているように、ドイツ南部に限定されていません。ソールズベリー平原では、紀元前2200~紀元前2031年頃の父親(I2600)と紀元前2140~紀元前1940年頃となるその娘(I2600)がそれぞれ、相互に6.5km離れたエイムズベリーダウン(Amesbury Down)の墓地とポートンダウン(Porton Down)の墓地に葬られておいます。さらに、3親等・4親等の男性親族2人が、エイムズベリーダウンのI2457の隣と、ウィルスフォードダウン(Wilsford Down)に葬られており、後者は直接的祖先の可能性が高いものの、前者はI2600とI2600のイトコの可能性が高そうです。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の間には、親族関係もmtHgの共有もないので、そのようなつながりは存在しないようです。この状況は、アウグスブルク市周辺で示されるように、前期青銅器時代まで続いたようです。また現時点では、バイエルンの他の被葬者と正確に一致するmtHgはありません。イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地の被葬者のmtHgと最も近いのは、アウグスブルク市のヒューゴ・エクケナー・ストラーセ(Hugo-Eckener-Straße)墓地の3号墓の個体(H1+10410+16193)で、アルブルク墓地では4・6・7・17号墓被葬者のmtHg(H1+10410+16193+16286)と、1ヶ所の変異のみが異なります。しかし両者の分岐は、これらアルブルク墓地個体群の数世代前に起きていた可能性があります。以下、本論文の図9です。
画像


●考察

 本論文では、比較人類学の解釈的枠組みとインド・ヨーロッパ語族の親族体系・制度の言語学的復元の中で、これまでの結果を位置づけます。インドネシア東部のスンバ島とティモール島の伝統的社会における父方居住婚と母方居住婚制度を比較した最近の研究では、これら2制度は言語と遺伝両方の優位に異なる結果をもたらす、と示されます。複数の言語がある地域に存在し、結婚後の居住規則が言語共同体間の持続的な方向性の移動を促進する場合、言語は片方の親側(父系もしくは母系)に沿って伝えられるでしょう。時間の経過とともに、これらの親族関係制度は、その遺伝子と言語の系統を形成しました。その結果、父方居住共同体へと嫁入りした女性は、夫側の言語の採用を強制されます。このような状況は、紀元前三千年紀のヨーロッパとよく似ている可能性があります。インド・ヨーロッパ語族が父方居住的な外婚制度を導入したならば、非インド・ヨーロッパ語族話者共同体の女性は、インド・ヨーロッパ語族話者共同体に移動し、その言語を用いたでしょう。時間の経過とともに、これは1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族方言の遺伝的および文化的優位と統合につながるでしょう。

 本論文のデータから、女性の父方・夫方居住と関連する外婚制度の特定が可能です。これらの結果は、6.5km離れたエイムズベリーダウンとポートンダウンのブリテン島BBCの文脈で埋葬された父と娘の特定により裏づけられます。この親族関係モデルは、有史時代のインド・ヨーロッパ語族話者社会の間で広まっており、以前には、言語復元の手法によりインド・ヨーロッパ語族祖語(PIE)共同体の仮説が提示されてきました。外婚の言語学的指標は、婚資(brideprice、祖語ではh1uedmōn)という単語や、「嫁ぐ(‘to wed)と「導く(to lead)」(祖語ではuodheieti)のような動詞の同義語でおもに復元されたPIEの語彙から構成されており、花嫁はその出身地から離れて新たな夫の世帯へと行きました。

 父方居住および妻の親族との結果として起きる遠隔は、PIEの復元された親族関係用語が、妻の親族の名前の著しい欠如とは対照的に、夫の親族の名前へと強い偏りを示す、という事実によりさらに示唆されます(図9C)。したがって本論文は、紀元前三千年紀におけるPIE話者の言語学的に復元された親族関係構造と、最初期の歴史的資料に見られるその言語学的子孫の親族関係構造との間の、潜在的な継続の最初の特定を提供します。本論文のデータでは、1つの優勢な遺伝的男性系統を特定できますが、複数の女性系統が存在しており、経時的な強い父方居住と父系の優位を示唆します。これは、PIEで復元されてきた父系世帯と類似しており、家の主人(dems potis)、その妻(potnih2)、息子(suHnus)、未婚の娘(dhugh2tēr)、義理の娘(snusos)、孫(nepōts)で構成されます。

 このモデルは、いわゆるオマハ人の親族関係制度と類似しています。オマハの親族制度は、以下のように特徴づけることができます。父方の結びつき、とくに兄弟間が強調され、父方関連男性とその妻および子供たちで構成される世帯は通常、ひじょうに結束しており、最重要の政治・経済的単位です。強い管理が集団構成員の行動に及び、通常、とくに妻と子供は世帯主の独裁的な支配下にあります。結婚生活は厳密に夫方居住で、花嫁の富の支払いは通常高く、離婚や姦通に対しては強い制裁の可能性があります。このようなオマハ人社会の特徴に基づくと、本論文で示されたイルルバッハ墓地とアルブルク墓地は世帯主とその近親者を表しています。

 オマハ人社会の親族制度では、娘と同盟相手の結婚に成功した男性の系統・世帯は、他の人々よりも多くの婚資を受け取るだけではなく、里子の息子をもらう可能性も有したでしょう。里子の息子は、その母親の兄弟に迎えられ、若い戦士となります。母親の家族での少年の育成は、ドイツやケルトの集団など初期インド・ヨーロッパ語族話者共同体では一班的で、通常は母方のオジで育てられました。イルルバッハ墓地では、その可能性のある1事例が特定されました。11号墓の少年(11~12歳で死亡)は、ストロンチウム同位体比では外来の痕跡を示し、その遺伝的な父親は隣の墓で埋葬され、異なる地域の痕跡を有しています。したがって11号墓少年は、おそらくオマハ人社会の用語では祖父(PIEではh2euh2os)と呼ばれる母方のオジとともにイルルバッハとは異なる地域で育てられ、思春期直前に帰郷して死亡した可能性があります。同様の証拠は、三重葬で母と2人の子供と指摘されているものの、生物学的には明らかに母親ではない、オイラウ遺跡の98号墓と、アウグスブルク市近郊の3ヶ所の埋葬で報告されています。これは、初期インド・ヨーロッパ語族の「キョウダイ」という言葉がより広い意味で使われているという観察や、親族関係もしくは共通の社会的所属に関連している若い男性の集団を示唆することと対応しています。

 オマハ人社会の親族関係制度の重要な側面は、その柔軟性と拡大の可能性です。ひじょうに機会主義的ですが、オマハ人社会では同じ家族と2回結婚できない、という1つの規則がありました。そのような規則が実施されたならば、より多様な同盟を生み出すので、交換・交易もしくは狩猟・戦争の動員のどちらであれ、潜在的な政治的支援を拡大するでしょう。これと一致して、本論文はイルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方で複数の女性のmtHgを識別でき、女性の遺伝を特定できました。したがって、唯一の優勢なYHg-R1b1a1b(M269)がある一方で、複数の女性系統(mtHg)が存在し、両墓地は相互に17kmしか離れておらず、ほとんど同年代にも関わらず、同じmtHgは一つもありません。この証拠は、結婚がじっさいに広範な同盟を築く手段で、それは景観に広がる単一の家屋という居住構造に役立った、という見解を裏づけます。これは、そのような制度では経時的に遺伝的多様性が増加する、という見解も裏づけます(関連記事)。このような制度では、拡大主義的同盟制度において家族の結びつきを維持し、新たな技術を外部から嫁ぎ先の世帯に導入する、という重要な役割が女性に認められます。

 元々のPIE社会の制度の言語学的復元がほぼオマハ人社会の制度に対応している一方で、BBC共同体の伝統は、間違いなく革新により特徴づけられます。たとえば、世代間傾斜と呼ばれる典型的なオマハ人社会の特徴、つまり母親側の男性の父系でも母系でもない親族に同一の親族用語を使うことは、PIEでは復元できません。この特徴の証拠は、ヨーロッパのいくつかのインド・ヨーロッパ語族で独立して出現し、アジアでは存在しません。したがって、それはヤムナヤ文化後の文脈で二次的に進化しました。遊動的な草原地帯牧畜民がより定住的な生活様式を採用すると、他の核家族およびとくに母親の親族との接触が強化され、新たな親族関係用語が新しい親族関係の役割とともに言語に追加されました。インド・ヨーロッパ語族方言の拡大を促進他可能性があるのは、この革新的な父系および父方居住親族関係モデルです。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地集団よりもわずかに新しく、いくつかの良好な重複が存在し、イルルバッハ墓地のmtHgの多様性は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地と類似している一方で、アルブルク墓地ではより低くなっています。むしろmtHgの多寡は、集団の異質性と均質性、もしくは成功あるいは不成功を反映しているようです。成功と不成功の問題に関しては、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地では女性のmtHgが共有されていないので、両者の間で競合が作用していたようです。これは、BBC期においてそのような結婚同盟がどれほど広範囲に及んだのか、という問題を提起します。アルブルク墓地では、ドナウ川を越えて到来した女性の1例と、おそらくは同じ場所のストロンチウム同位体比の外れ値個体の他の事例があります。アウグスブルク市周辺では、60kmほど離れた、レヒ川沿いと近隣のリース地域が想定されています(関連記事)。1000年後のヨーロッパ北部の青銅器時代には、ストロンチウム同位体比の解釈が正しければ、400~500kmもしくはそれ以上の、若い女性の移動事例が知られています。

 性別比はほぼ1対1です。本論文の証拠では半キョウダイが検出されなかったことからも、一夫一婦制が優勢な原則と示唆されます。年齢の違いに関しては、いくつかの不均衡があります。明確に学童期(10代)の男性の方が多く(男女比で5:1)、男児の女児より高い死亡率もしくは埋葬における特定の男性の選択を示唆します。本論文は、長子相続の影響を検討します。長子相続は、男性系統の遺伝子と同様に、財産の継承における強い継続性も意味します。しかし長子相続は、将来どこか他の場所を探さねばならない男性も生み出します。したがって、新たな土地に移住する強い動員集団が存在するので、集団を拡大しますが、彼らは成長するまで、将来のために訓練する若い戦士の一団の特別な制度においてしばしば組織化されました。これも危険性と早期死亡の期間をもたらしたかもしれませんが、少女はおそらく思春期に入った頃にはすでに結婚しており、それは墓地における相違を説明するのに役立つかもしれません。これは、アウグスブルク市周辺の後の事例(関連記事)と、結婚同盟の一環としての可能性が高い、14歳でヨーロッパ中央部からデンマークまで移動した14歳で死亡した少女の事例を想起させます。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、始まりだけではなく終焉もほぼ同じで、この地域における墓地のより広い終焉と、新たな場所での墓地の設立の期間に対応します。したがって、定住体系には一定の動態が存在し、100年後に場所を変える周期だったようです。アルブルク墓地では、最初に埋葬されたのは2人の兄弟(2・13号墓被葬者)で、おそらくは第三の兄弟(1号墓被葬者)も2人の隣に埋葬されました。しかし、このうち2人(2・13号墓被葬者)だけが、同じ墓地の後の被葬者の父親と祖父になるまで長く生きました。「建国の父」としての3兄弟は、ずっと後のインド・ヨーロッパ語族の民間伝承と神話で重要な役割を果たし、創始された新たな家族・世帯における長子相続の継承のない息子の役割を反映している可能性があります。それは、神話と象徴主義における「三」を重視する役割と対応しています。両墓地には4~6世代が含まれると本論文は述べてきましたが、新たな親族の構成員は、周期の終わりに向かってイルルバッハ墓地の既存集団に加わったようです。それはおそらく、居住地の移転と拡大の新たな期間の始まりを示唆します。

 これらの観察は、CCWからBBCへの継続性で説明してきた社会制度の固有の拡大主義的動態を強調します。しかし、この型の社会的組織は、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地よりも600年古い、ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)の集団埋葬(関連記事)の、遺伝的およびストロンチウム同位体比の結果とやや反しています。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の事例と同様に、コシツェ遺跡の集団埋葬では6系統のmtHgが確認されており、1系統のみのYHg-I2a1b1a2b1(L801)よりも多様です。これは、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地のように外婚関係と父方居住と父系を示唆しており、おそらくは新石器時代と前期青銅器時代のヨーロッパで広く見られる慣行でした。

 しかし、違いもあります。コシツェ遺跡では、4つの核家族もしくはその一部が、単一の大きな拡大家族を形成していたので、親族関係の原則は、イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地とは異なる性質だったかもしれません。コシツェ遺跡のmtHgはBBC集団よりもずっと少なく(15人のうち6系統)、何人かのキョウダイは同じ父親を共有していましたが、母親は異なっており、それにも関わらず相互に関係があったかもしれません。これは、非一夫一婦制もしくは連続的一夫一婦制のいずれかを示します。また、mtHgの多様性が低いことは、根本的に異なる結婚制度を示唆している可能性があるか、あるいは単に全体として遺伝的に均質な社会を示しているにすぎません。したがって、CCWとBBCの社会組織は、先行する新石器時代社会よりも異なる性質を有する兆候はあるものの、将来の研究から学べきことはまだ多くあります。


●まとめ

 考古学・人類学・同位体・古代DNAなど多くの種類の証拠を抽出して組み合わせることで、4000年以上前の2家族の人生について、空前の高解像度の解釈可能な物語の提示が可能となりました。結果は、最初に証明されたインド・ヨーロッパ語族社会と、インド・ヨーロッパ語族祖語の言語学的復元について知られていることと対応します。証拠は、他集団の女性と結婚し、娘を他の共同体に嫁がせることにより同盟ネットワークを構築するような、優勢な男性系統に基づく親族関係構造の復元を確証し、それは安定な期間の競争的動員の一部だった可能性があり、おそらくは金属のような資源の入手を確保するためでもありました。そのような制度は、よく記録されているオマハ人社会の父方居住および父系と長子相続に関連する外婚の親族構造と対応します。そのような制度は広範な移民方針を選好し、男系に沿った先史時代の語族の拡大や経時的な男系の遺伝的優勢に関して、初めて現実的なモデルを提供します。その結果、ヨーロッパ大陸の半分となる北部と西部のほとんどの現代人は、遺伝的に紀元前三千年紀のCCWおよびBBCの人々と関連しており、おそらくはその言語の発展型を話しています。

 しかし、考古学的・言語学的証拠は、むしろ相同的もしくは共有された状況を提供するものの、そのような社会組織はインド・ヨーロッパ語族集団だけてばなく、後の牧畜および農耕牧畜社会でも見られ、それは経済組織における類似性に基づいており、オマハ人社会の親族関係制度にも反映されています。したがって、本論文の考古学的事例研究は、将来の研究でより強力な一般化を達成できるかもしれない親族関係制度についての、考古遺伝学と言語人類学の復元との間の歴史的に特有の一致を提供する、と提案されます。しかし、本論文の結果はバイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川流域の結果と一致しているので、CCW社会に起源があるものの、BBC社会のより広範な地域にまたがる制度化された慣行を扱っている可能性が高いようです。したがって、拡大主義社会組織についての本論文のモデルは、将来の比較研究に検証事例として役立つ可能性があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、考古学・自然(形質)人類学・遺伝学(とくに古代DNA研究)・言語学といった複数分野の知見を統合した、見事な学際的研究の事例を提供しているように思います。このような学際的研究において、近年の進展の目覚ましい古代DNA研究が果たした役割は大きく、ヨーロッパでは紀元前三千年紀でも、まだ一部地域とはいえ、親族制度や社会組織についてこれだけ多くの知見がすでに得られているとは、古代DNA研究がユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れているユーラシア東部圏の1個人としては、羨ましい限りです。ただ、ユーラシア東部でも、まだヨーロッパには遠く及ばないとしても、昨年古代DNA研究が大きく進展したので、今後はいわゆる先史時代でも、これまでよりも詳細な社会構造に関する知見が得られるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Sjögren K-G, Olalde I, Carver S, Allentoft ME, Knowles T, Kroonen G, et al. (2020) Kinship and social organization in Copper Age Europe. A cross-disciplinary analysis of archaeology, DNA, isotopes, and anthropology from two Bell Beaker cemeteries. PLoS ONE 15(11): e0241278.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0241278

大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」

 織田信長は、岐阜城を訪れた三条西実澄から、都にいてもっと朝廷に仕えるよう、促します。信長は、正親町天皇が蘭奢待を毛利に与えたことへの不満と、帝との距離感が以前よりも開いたことを率直に三条西実澄へ伝えます。織田は本願寺との戦いで大和守護の原田(塙)直政が討ち死にするなど苦境に追い込まれており、信長自身が出陣してきます。信長は原田の家臣に一向宗門徒がいると言って激昂し、原田の家臣に八つ当たりします。そんな信長を、松永久秀は冷ややかに見ていました。佐久間信盛や明智光秀(十兵衛)など家臣団が消極的なのに苛立った信長は自身が最前線に出ますが、狙撃されて負傷します。

 過労もあって光秀は倒れ、都の自宅に戻ります。重篤な光秀を妻の煕子と娘たちが懸命に看病し、光秀は回復します。信長は原田の後任の大和守護に筒井順慶を考えていましたが、光秀は久秀の反感を懸念して反対します。羽柴秀吉は久秀と順慶以外の人物を大和守護に任ずるとよい、と言って自薦しますが、大和守護には高い家柄が必要だという理由で却下し、秀吉は微妙な表情を浮かべます。信長は結局、順慶を大和守護に任じます。秀吉は光秀に、近頃の信長の増長を案じていた、と打ち明けます。徳川家康は、信長は徳川を気にかけていないとの報告を受け、織田家中で信ずるに値するのは光秀と改めて考えます。光秀はすっかり回復しましたが、今度は煕子が病に伏せます。煕子は、麒麟を呼ぶものが光秀であればよいとずっと思っていた、と光秀に打ち明けて亡くなります。

 今回は、朝廷との関係や本願寺との戦いでの信長の横暴が描かれ、これも本能寺の変の一因となるのでしょう。信長の横暴は、勢力を拡大して「天下人」になったとも言える中で増長した、と私は解釈しました。光秀は、まだ信長を見限るつもりは全くないようですが、この後、久秀が信長に叛く経緯や、佐久間信盛が追放されたことを見て、信長への不満・違和感をさらに高めていき謀反を決断する、ということでしょうか。今回は、家康の正妻の築山殿や本願寺顕如が初登場となりますが、もう残り5回ですから、深い人物描写は期待できそうにありません。武田信玄もそうでしたが、これならば登場させなくてもよいのではないか、とも思います。少なからぬ視聴者が思っているでしょうが、ほとんど不明な光秀の前半生に時間をかけすぎて、事績が比較的よく解明されている信長家臣時代の描写が駆け足気味になっていることは、どうも失敗だったのではないでしょうか。まあ、最終回まで視聴したら、この感想も変わってくるかもしれませんが。