上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史

 上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史に関する研究(Kılınç et al., 2021)が公表されました。シベリアは、ウラル山脈から太平洋へと東西、アルタイ地域のサヤン山脈から北極海へと南北と、アジア北東部の広大な地域にまたがっています。シベリアは世界で最も人口密度の低い地域の一つにも関わらず、その巨大な領域は、複数の民族集団の本拠地と、アメリカ大陸先住民の起源地域としての、興味深い歴史を有しています。

 現生人類(Homo sapiens)は、大型動物の一部、つまりマンモスやケブカサイ(関連記事)やホラアナライオン(関連記事)などとともに、シベリアの北東部に38000年前頃に拡散しました。これらの拡散は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の始まりの前に起きました。氷河作用の終了までに、20000~18000年前頃、シベリアの人類とその他の大型動物はLGMの影響を受けましたが、新たなデータは、シベリアにおける著しい定住の減少に関する以前の推測と矛盾します(関連記事)。石器技術および新石器時代前の土器の存在により明らかなように、アジア北東部におけるLGMとLGM後の人類の活動の痕跡は、バイカル湖の東側であるトランスバイカル地域と同様に、シベリア高原東部全域で見られます。完新世を通じて、複数の文化複合がアジア北東部全域でじょじょに出現し、そのうちのいくつかはアラスカ北部を通って東方へと広がり、以前には無人だったグリーンランドに4500年前頃に到達しました。

 最近の遺伝的研究により、複数の混合および遺伝子流動事象により形成された、アジア北東部における複雑で動的な人口史が明らかになってきました。これらの研究では、アジア北東部全域での移住と関連した、人類集団の遺伝的構造におけるかなりの変化が報告されました(関連記事)。しかし、この広大な地域の人口動態を長期にわたって充分評価するには、さらなる調査が必要です。アジア北東部の遺伝的に未調査の地域や遺跡からの古代遺伝データの分析により、解像度を上げることができます。たとえば、LGM後の人類の居住の最初の痕跡を有するトランスバイカル地域と、古イヌイット(古エスキモー)のサカク(Saqqaq)文化複合と関連するヤクーチア(Yakutia、サハ共和国)の遺跡からの遺伝的データは、新たな調査の場所を提供できます。本論文はこれらの地域に焦点を当て、アジア北東部、とくにレナ川とアンガラ川とコリマ川の流域およびバイカル湖地域全体の人口史を調べます。本論文は古代ゲノムの包括的標本を研究するにあたって、移動性、混合過程、あるいは感染爆発が完新世のアジア北東部にどの程度影響を及ぼしたのか、推測します。


●ゲノム規模古代DNAデータ

 上部旧石器時代後期から中世までの40人のゲノム規模データが生成されました。地域はロシア連邦の異なる5行政区域にまたがっており、それはヤクーチア(サハ共和国)とトランスバイカルとシスバイカル(バイカル湖の西側)とクラスノヤルスク地方とアムール州です。以下、地域区分と各標本の場所および年代を示した本論文の図1です。
画像

 各地区のゲノムデータの内訳は以下の通りです。ヤクーチアは、16900~2490年前頃(以下、基本的に較正年代です)の10個体です(網羅率は0.03~8.9倍)。トランスバイカル地域は、8515~3000年前頃の8個体です(網羅率は0.1~4.7倍)です。シスバイカル地域は、8980~550年前頃の20個体です(網羅率は0.1~14.5倍)。クラスノヤルスク地方は、4280~4085年前頃の1個体です(網羅率は13.6倍)。アムール州は1345~1270年前頃の1個体です(網羅率は0.7倍)。これら40個体のうち、15個体が女性で25個体が男性です。全個体は、Y染色体ハプログループ(YHg)ではQもしくはN、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では非アフリカ系統のM・N・R(Nから派生に分類されました。頻度分析では近縁な個体は除外されました。

 世界の現代人集団を用いた主成分分析(図2A)では、ユーラシア西部からアジア中央部および東部へと広がる遺伝的勾配が示されます。本論文で分析されたアジア北東部の個体群は、アジア中央部および東部の現代人集団と遺伝的類似性を有します。アジア北東部におけるLGM後の人口動態を推測するため、まず本論文で最古の個体が分析され、次に中世までの経時的な人口変化が調べられました。


●アジア北東部におけるLGMおよびその後の人口動態

 レナ川中流のハイヤルガス(Khaiyrgas)洞窟は、アジア北東部におけるLGM後の人類居住の最初の遺跡の一つです。しかし、アジア北東部のこの地域の人々の起源と影響は不明のままです。アジア北東部におけるLGM後の人口動態を調べるため、ハイヤルガス洞窟の旧石器時代の上層から発掘された、16900年前頃の未成年期女性の乳歯から古代DNAが解析されました。この個体(ハイヤルガス1)は、シベリア中央部高原の居住者のうちLGM後となる最初の既知の人類の1人です。この個体により地理的に代表される人類集団は、15000~13000年前頃となるボーリング- アレロード(Bølling-Allerød)間氷期にこの地域から撤退しました。

 ハイヤルガス1は主成分分析では、シベリア北部のウラル語族話者集団である現代のセリクプ人(Selkup)へと向かって遺伝的類似性を示します(図2A)。ハイヤルガス1は、チェイン人(Chane)やグアラニー人(Guarani)やカリティアナ(Karitiana)といったアメリカ大陸先住民集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しますが、外群f3統計では、他の世界の集団と比較してセリクプ人との程度は低くなります。ADMIXTUREで、ハイヤルガス1のゲノムの祖先クラスタが推定されました(図2B)。K=14の祖先構成では、アジア北東部の現代のガナサン人(Nganasan)集団で最大化される遺伝的構成(図2Bの黄色)と、現代のアメリカ大陸先住民集団で最大化される別の遺伝的構成(図2Bの紫色)が、他のユーラシアの上部旧石器時代個体群と比較して、ハイヤルガス1のゲノムにおいて高水準で存在しました。

 主成分分析では、ハイヤルガス1はLGMの終了時におけるこの地域全体で最初の大きな遺伝的変化を示しました。TreeMixを用いて適合する最尤系統樹で異なる系統を表すハイヤルガス1は、主成分分析では古代シベリア北部人(ANS)を含むシベリアの異なる2系統間に位置づけられます。その一方はシベリア北東部の住民で、38000年前頃となる上部旧石器時代のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体(ヤナUP)に代表されます。もう一方はアメリカ大陸先住民のシベリアの祖先である古代旧シベリア人(AP)で、コリマ地域の9800年前頃の個体(コリマM)に代表されます。

 LGMの期間とその後における地域的な継続性、つまり38000年前頃のヤナUPと16900年前頃のハイヤルガス1と9800年前頃のコリマMとの間の遺伝的継続税があったのかどうか、あるいは、この地域への遺伝的に離れた起源集団からの遺伝子流動の可能性があるのかどうか、検証するために、f4統計により共有される遺伝的浮動の検証が実行されました。f4統計(ヨルバ人、検証集団、ヤナUP、ハイヤルガス1)では、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡(関連記事)の1個体(MA1)、もしくは16000年前頃となるア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァゴラ3)が対象となり、両者は古代北ユーラシア人(ANE)に分類されます。その結果、ハイヤルガス1はANSに分類されるヤナUPよりもANE系統とより多くの遺伝的浮動を有している、と明らかになったので、LGMにおけるこの地域へのユーラシア西部からの遺伝子流動の可能性が示唆されます。

 f4統計(ヨルバ人、ハイヤルガス1、検証集団、コリマM)と別のf4統計(ヨルバ人、コリマM、検証集団、ハイヤルガス1)の結果、ハイヤルガス1とコリマMは、ヤナUPと、MA1およびアフォントヴァゴラ3や、ロシアの45000年前頃となるウスチイシム(Ust'-Ishim)個体(関連記事)およびコステンキ14(Kostenki 14)遺跡個体(関連記事)およびスンギール(Sunghir)遺跡個体(関連記事)や、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の個体(関連記事)を含むユーラシアの他の上部旧石器時代個体群と比較して、相互により多くの遺伝的浮動を共有しています。例外は、北アメリカ大陸の12000年前頃となるアンジック(Anzick)遺跡の男児アンジック1(関連記事)と、グリーンランドの4000年前頃となるサカク(Saqqaq)文化遺跡の男性(関連記事)で、両者ともにコリマMとより多くの遺伝的浮動を共有します。

 最近、バイカル湖の南側で発見された14500年前頃となる上部旧石器時代個体(UKY)が、コリマMと密接に関連している、と明らかになりました(関連記事)。UKYとコリマMは、アメリカ大陸先住民集団に向かって遺伝的類似性を有します。さらに、f4統計(ヨルバ人、アンジック1、ハイヤルガス1、UKY)では、アンジック1がハイヤルガス1と比較してUKYとより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。ハイヤルガス1とUKYとコリマMの間の複雑な関係をさらに評価するため、f4統計(ヨルバ人、UKY、ハイヤルガス1、コリマM)が実行され、予想外に、ハイヤルガス1とコリマMがUKYと比較して対称的に関連しているように見えました。さらに、f4統計(ヨルバ人、ハイヤルガス1、コリマM、UKY)でも、UKYとコリマMが対称的にハイヤルガス1と関連している、と示唆されました。

 これらの結果は、一連の検証が比較的少ない一塩基多型数に基づいているので、データと一致する複数のシナリオを提示することに起因する可能性が高そうです。qpAdmを用いると、コリマMは、ハイヤルガス1(80±19%)とロシア極東の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)集団(19±19%)との2方向の混合としてモデル化されます。本論文の結果は、アジア北東部における新たなLGM後の系統の存在を示し、それはハイヤルガス1に代表され、38000年前頃にこの地域に居住していたより古いANS系統の集団とは異なります。この系統は、アジア北東部において後の集団である9800年前頃に居住していたAPに、直接的に遺伝的影響を残しました。以下、本論文の図2です。
画像


●ヤクーチア全域の集団変化と古イヌイットの起源

 旧石器時代から新石器時代への移行により特徴づけられる大きな文化的および社会的変化の期間である、13000~2500年前頃のアジア北東部における人口動態をさらに調べるため、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の年代順のゲノムデータが分析されました。これらのデータには、シャラフ(Syalakh)文化複合と関連する6800年前頃のマッタ1(Matta-1)個体、ベルカチ(Belkachi)文化複合と関連する6200年前頃のオニョス1(Onnyos-1)個体、4780~2490年前頃の7個体が含まれます(図1)。主成分分析では、上部旧石器時代後期から鉄器時代にかけての西から東の遺伝的勾配と、レナ川およびコリマ川流域全体のこの期間における3回の主要な遺伝的変化の存在が明らかになりました。これらは、上部旧石器時代後期と中石器時代の間の9800年前頃の変化(関連記事)と、それとは別の中石器時代と前期~中期新石器時代との間の6800年前頃の変化と、前期~中期新石器時代と後期新石器時代~鉄器時代との間の4700年前頃の変化を含みます(図2A)。

 マッタ1とオニョス1は主成分分析では、ハイヤルガス1とコリマMとその後のヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の個体群との間で、異なる集団(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団)を形成しました。クラスノヤルスク地方の4280~4085年前頃となるクラ001(kra001)個体は、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の個体群と集団化します。ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団は、アジア北東部現代人集団へと向かって遺伝的類似性を示します。ADMIXTURE分析では、上部旧石器時代後期から鉄器時代にかけて、アジア北東部関連系統の増加パターンと、アメリカ大陸先住民関連系統の減少パターンが明らかになります(図2B)。一貫して、アジア東部系統を表す悪魔の門個体群と、アメリカ大陸先住民系統を表すアンジック1個体は、その後行および先行集団と相互により多くのアレルを共有しており、新石器時代と青銅器時代における、極東の起源集団からレナ川およびコリマ川流域の集団への遺伝子流動の存在が示唆されます。

 新石器時代にはさまざまな文化複合がヤクーチア全体に出現し、とくに、アンガラ川およびレナ川流域の巨大な新石器時代墓地に代表されます。これらのうち、ベルカチ石器複合はとくに興味深く、それは、ベルカチ石器複合関連の人々は、遺伝的証拠はないものの、古イヌイットのサカク文化複合と関連しているかもしれない、との仮説が提示されているからです。主成分分析(図2A)では、マッタ1とオニョス1(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団)は古イヌイットのサカク文化個体に向かって遺伝的類似性を示しており、これはf4統計でも確認され、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とサカク文化個体は相互に、他の古代集団と比較してより多くの遺伝的浮動を共有しています。一貫して、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とサカク文化個体のゲノムにおける系統構成の分布は類似しています(図2B)。

 古イヌイットとチュクチ・カムチャツカ語族(Chukotko-Kamchatkan)話者との間の遺伝的類似性は、以前の研究でも報告されていました(関連記事)。外群f3統計(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団、検証集団、ヨルバ人)では、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団が、チュクチ・カムチャツカ語族話者、つまりイテリメン(Itelmen)やコリャーク(Koryak)といった現代人集団とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。サカク文化個体のゲノムにおける系統の割合を確認するためqpAdmが用いられ、サカク文化個体はヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団(90±10%)とユーラシア西部人(10±10%)の混合と推定されます。これらの結果は、古イヌイットのベルカチ文化複合関連系統の最初の直接的証拠を提供します。


●バイカル湖地域集団の起源と相互作用

 バイカル湖周辺地域、とくにトランスバイカルは、アジア北東部におけるLGM後の人類の人口動態を研究するための、もう一つの独特な地域として役立ちます。それは、この地域が新石器時代よりも前の土器に示唆される、LGM後の人類の活動の最初の証拠を有しているからです。この地域における13000~11000年前頃となる新石器時代よりも前の土器の出現は、アジア南東部からの移住の可能性と関連していました。遺伝学的研究により、バイカル湖の西側(シスバイカル)では完新世における集団変化が明らかになりましたが、トランスバイカルはまだ調べられていません。本論文では、アジア北東部におけるLGM後の人類の背後にある動態をじゅうぶん理解し、バイカル湖地域集団の系統と相互作用を評価するために、8515~3000年前頃となるトランスバイカルの8個体と、8980~560年前頃となるシスバイカルの20個体のゲノムデータが分析されました(図1)。

 主成分分析では、トランスバイカル地域の8515年前頃のヅィフリンダ1(Dzyhlinda-1)個体が、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団のすぐ近くに位置します。ヅィフリンダ1は、サカク文化個体およびコリマMに向かって遺伝的類似性を示し(図2A)、現代人ではイテリメンやチュクチやイヌイットとアレルを共有します。ヅィフリンダ1は、他の古代集団と比較して、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とより多くの遺伝的浮動を共有しており、トランスバイカル地域に8515年前頃に居住していた人々はレナ川流域の住民の祖先だった、と示唆されます。

 他のトランスバイカル地域の個体群は明確な遺伝的集団を形成し、この地域における8345~3000年前頃の大きな人口変化のない遺伝的継続性が示唆されます。この集団(トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)は遺伝的に、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群と近く、アジア中央部および東部の現代人集団に向かって遺伝的類似性を示します。ヅィフリンダ1とは対照的に、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団の個体群は、比較的より多くのアジア北東部および南東部関連系統と、より少ないアメリカ大陸先住民関連系統構成を有している、とADMIXTURE分析により明らかになり、f4統計で裏づけられました。アムール州の1345年前頃の1個体は、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団に向かって遺伝的類似性を有します。この結果はしたがって、経時的かつトランスバイカルから極東までの広範な地域の遺伝継続性のさらなる裏づけを提示しており、ヤクーチア全体の人口変化のパターンとは対照的です。

 それどころか、本論文のデータは、8980~560年前頃の間の、シスバイカル地域全体の複数の人口変化を明らかにしました。8980年前頃のシスバイカル地域個体であるポポフスキー1(Popovskij-1)は、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団の遺伝的多様性に収まります(図2)。ポポフスキー1は、他の古代集団と比較して、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団とより多くの遺伝的浮動を共有しており、8900年前頃のこの地域全体の均一な遺伝子プールの存在が示唆されます。7900年前頃となるシクロドローム1(Cyclodrome-1)個体は、シスバイカル地域全体で最初の遺伝的変化を示し、7200~6200年前頃となる個体群と密集して、主成分分析では明確な遺伝的集団(シスバイカル地域の7200~6200年前頃の集団)を形成します。しかし、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の個体群は、ユーラシア西部関連系統を比較的多く、アジア北東部関連系統を比較的少なく有する、別の集団(シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団)を形成します(図2)。670~550年前頃となる中世シスバイカル地域の1個体は、アジア東部集団に向かって増加する遺伝的類似性を有する他の個体群とは、遺伝的に異なっていました。YHgの分布は、観察された遺伝的集団と一致していました。

 バイカル湖地域の古代人のゲノムを分析した最近の研究(関連記事)では、6700~3700年前頃のシスバイカル地域の個体群は、本論文で提示されたシスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団と類似した遺伝的構成の集団を形成しました。しかし、4300年前頃のシスバイカル地域のグラズコヴスコエ(Glazkovskoe)遺跡の2個体(GLZ001およびGLZ002)は別の集団を形成し、本論文ではGLZ と呼ばれます。この2個体は、アジア東部人との遺伝的類似性も有する本論文におけるトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団と類似した、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群に向かって遺伝的類似性を示します。

 これらの個体群と本論文におけるトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団との間の相互関係を検証するため、f4統計(ヨルバ人、GLZ001、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)と別のf4統計(ヨルバ人、GLZ002、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)が実行されました。その結果、GLZ001およびGLZ002はトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。さらに別のf4統計(ヨルバ人、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群、GLZ個体群、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)では、GLZ個体群(GLZ001およびGLZ002)とトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団は、悪魔の門遺跡の新石器時代個体と対称的に関連している、と明らかになりました。これらの結果は、GLZ個体群の起源集団の一つとして、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団を示唆しているかもしれません。

 本論文の知見は、バイカル地域全体の人口変化の複雑なパターンを明らかにしており、それはバイカル地域周辺の人口構造における動的変化を明らかにしたものと一致します(関連記事)。8500年前頃以前に、人々はトランスバイカル地域に居住していました。かれらはヤクーチアのレナ川流域に定住した人類集団の祖先になりました。8300年前頃、トランスバイカル地域で大きな遺伝的変化が起きました。アジア東部関連系統を有するこの新たな集団は、中石器時代にバイカル湖地域の西側と東側に存在しました。この集団はトランスバイカル地域に3000年前頃まで留まりましたが、遠方の集団からの広範な遺伝子流動が、7900年前頃と6100年前頃に、シスバイカル地域に影響を及ぼしました。


●古代アジア北東部集団の遺伝的多様性

 さらに、古代アジア北東部における人類集団の遺伝的多様性の程度が評価されました。これらの分析は、網羅率が4.5倍以上の個体に限定されました。内訳は、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団から9個体(6.9~14.5倍)、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団から1個体(4.7倍)、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団から3個体(5.5~13.6倍)です。比較のためヨーロッパ西部の古代人のゲノムデータが含められ、具体的には、中期石器時代となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体と、新石器時代となるドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)遺跡個体です。

 ヘテロ接合性の推定により、全集団の遺伝的多様性はヨーロッパ西部の中石器時代集団と新石器時代集団の多様性の間にある、と明らかになりました(図4A)。ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団の遺伝的多様性が最低で、それに続くのがトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団です。シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団は、4400年前頃となる2個体を除いて、ヘテロ接合性の推定値が最も高い、と示されます。一貫して、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団は短いRoHの低水準を有しており、地理的により孤立したトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団およびヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団と比較して、大きな祖先人口規模が示唆されます(図4B)。RoH(runs of homozygosity)とは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。長いRoH水準は、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団と、4400年前頃のシスバイカル地域の3個体で見られ、近い年代でのより限定された移動を示します。

 複数の連続マルコフ合祖(MSMC)分析では、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団の有効人口規模が4700年前頃には小さかった、と明らかになり、この集団で観察される低い遺伝的多様性と一致します。シスバイカル地域の6100~5600年前頃の人類集団の有効人口規模推定値は比較的高いものの、4400年前頃には減少しました(図4C)。4700~4400年前頃のシスバイカル地域とヤクーチアで観察される小さな有効人口規模の類似性は、世界的な気候変化、つまりサブボレアル期(Subboreal Period)の寒冷化を反映している可能性があり、4700~4000年前頃の人口減少を示唆しているかもしれません。以下、本論文の図4です。
画像


●古代アジア北東部におけるペスト菌

 古代アジア北東部個体群における、機能的一塩基多型と、歴史的な世界的流行病と関わったペスト関連の真正細菌(Yersinia pestis)の存在の可能性が検証されました。ペスト菌の最初の証拠は、5000年前頃となる後期新石器時代と青銅器時代のユーラシアで見つかりました。アジア北東部におけるペスト菌の存在と、アジア北東部全体の人口動態への影響の可能性を評価するため、全40個体の配列データが分析されました。その結果、4400年前頃となるシスバイカル地域のアノソヴォ(Anosovo)遺跡の1個体(アノソヴォ1)と、3800年前頃となるヤクーチアのカメンカ(Kamenka)遺跡の1個体(カメンカ2)でペスト菌固有の配列が確認されました。カメンカ遺跡では3人の若い個体が埋葬されており、全員相互に親子関係です。


●まとめ

 アジア北東部、とくにバイカル湖と隣接する地域とロシア極東全体では、これまで未知のLGM後の遺伝的変化を有する複雑な人口史が示されます。トランスバイカル地域では、約6000年にわたる長期の遺伝的継続性があり、遺伝的置換はほとんど見られません。完新世全体にわたるこの独特な人口史パターンは、シスバイカル地域およびヤクーチアの繰り返される遺伝子流動事象とは対照的です。ハイヤルガス1に代表される人類集団がLGM後にヤクーチアへと拡散したに違いない、と本論文は報告します。この集団は遺伝的に、LGMの前にこの地域に居住していたシベリア最初の住民とは異なっていました。この集団の遺伝的影響は、その6000年後の人類集団に見られます。

 本論文のデータは、5000年前頃にアメリカ大陸への遺伝子流動の第二の波を起こした古イヌイットの系統において重要な位置を占めている集団としての、ベルカチ文化集団とよく一致します。また本論文は、人口の少ないヤクーチア地域と、密接につながったシスバイカル地域における、古代ペスト菌の最も北東部での存在を報告します。4400年前頃の有効人口規模と遺伝的多様性水準の減少に見られるように、ペスト菌は両地域における人口動態形成の結果をもたらしたかもしれません。この発見は、青銅器時代のバイカル湖地域におけるペスト菌の発見(関連記事)と一致して、アジア北東部のこの地域におけるペストの流行が、より多くのデータで調査する価値のある仮説である可能性を示唆します。本論文の結果は、シベリアの集団が相互に、また地理的に遠方の集団とも関係したという、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部における複雑な人口史を示しています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ユーラシア東部の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていましたが、昨年(2020年)はユーラシア東部の古代DNA研究が大きく進展し(関連記事)、今年も早々に重要な知見を提示した本論文が公表され、今後の研究の進展が大いに期待されます。本論文はシベリアにおける後期更新世以降の複雑な人口史を提示しましたが、ユーラシア東部の古代DNA研究では、やはり古代DNAの保存に適したシベリアが今後も他地域より進展していきそうです。古代DNA研究において、シベリアは人口密度が低く、したがって人類遺骸の発見確率も低い、という弱点はありますが、堆積物の古代DNA研究も進展しつつありますから、現生人類に限らず非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属)の広範な存在も今後明らかになっていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Kılınç GM. et al.(2021): Human population dynamics and Yersinia pestis in ancient northeast Asia. Science Advances, 7, 2, eabc4587.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abc4587

大河ドラマ『麒麟がくる』第40回「松永久秀の平蜘蛛」

 織田と本願寺との戦いは、途中に講和期間も挟みつつ、1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)以来続いていました。義昭が都から追放された後に織田信長に仕えるようになった松永久秀も本願寺との戦いに参陣していましたが、1577年、突如陣を引き払います。伊呂波太夫に呼ばれた明智光秀(十兵衛)は三条西実澄と会い、正親町天皇が光秀に会いたいと言っている、と聞かされます。光秀が伊呂波太夫のいる邸宅に入ると、松永久秀がいました。少し前に、羽柴秀吉が柴田勝家と対立して勝手に退陣し、信長は激怒して秀吉に切腹を命じましたが、家臣団の執り成しで何とか秀吉は赦されました。この大騒ぎを知っていながらなぜ勝手に退陣したのだ、と光秀は久秀を詰問しますが、久秀は、大和守護の原田(塙)直政が本願寺との戦いで討ち死にした後、自分が大和守護に任じられるかと思ったら、筋目の良い筒井順慶が任じられたことに不満がある、と答えます。久秀は、信長は能力のある人物を重用すると言われているが、そうではない、と指摘します。上杉謙信との戦いでは無能なのに譜代の家柄の柴田勝家を総大将に起用し、大和守護に筒井順慶を起用したのも同様だ、というわけです。久秀は大事にしている平蜘蛛の茶釜を信長に渡したくないが、その状況に追い込まれるようならば光秀に渡したい、と言います。光秀も久秀も互いには戦いたくないと考えており、光秀は信長に執り成すと言いますが、久秀は、自分にも意地がある、と答えます。久秀は平蜘蛛を伊呂波太夫に預け、自分が勝てば平蜘蛛を取り戻す、負ければ光秀に与えるよう、指示します。

 久秀は上杉謙信と呼応して決起し、信長の嫡男の信忠を総大将として織田軍が攻めかかり、光秀も参陣します。信長は、久秀が降伏してきたら、茶道具を全て差し出せば赦す、と家臣団に命じます。信長はとくに平蜘蛛に執着していました。しかし、久秀は敗北が決定的になっても降伏せず、茶道具を全て焼くよう家臣団に命じて切腹します。光秀は安土城を訪れ、帰蝶から信長が最近よく泣く、と聞かされます。帰蝶は、信長が高い地位に昇って精神的に不安定になっているのではないか、と案じます。帰蝶は最近の不安定な精神状態の信長との対応に疲れており、美濃に戻ることにします。久秀の茶道具を無傷で回収できなかった佐久間信盛に不満を抱く信長は光秀に、見つからなかった平蜘蛛が誰に預けられているのか知らないか、と尋ねますが、光秀は知らない、と答えます。しかし、信長は忍びの者を放っており、光秀が久秀と密会したことも知っていました。光秀は信長に詰問されても、平蜘蛛の行方は知らない、と答えます。信長は、帰蝶や正親町天皇など、喜ばせたいと思っている相手が自分から離れていくことに不満を抱いていることを光秀に打ち明けます。光秀が退出した後、信長は、光秀が自分に初めて嘘をついたことに激怒し、秀吉を呼びます。どうやら、信長は秀吉から平蜘蛛の在りかについて報告を受けていたようです。光秀は坂本城に戻った後、伊呂波太夫から平蜘蛛を受け取ります。光秀は、なぜか信長に平蜘蛛の在りかを言えなかったが、これは久秀の罠だった、と言って狂ったように笑います。久秀は伊呂波太夫に、平蜘蛛の茶釜ほどの名器を持つには覚悟がいるが、自分はそれを失ってしまった、と光秀に伝えるよう、指示していました。光秀は伊呂波太夫に、正親町天皇と会うよう、仲介を依頼します。

 今回は松永久秀の最期とそれをめぐっての織田家中の波紋が描かれ、本作では最も見どころのある回になったように思います。久秀は初回に登場し、本作では重要人物だったので、その最期と心理がしっかりと描かれたのはよかった、と思います。残り4回となり、光秀がなぜ信長に謀反を起こしたのか、しっかりと描かれるのか、注目していましたが、三淵藤英と松永久秀の最期を見て、両者からその遺志を聞かされたことが、光秀の決断に大きな影響を与えた、という話になりそうです。信長は能力のある人物を出自に関わらず積極的に登用した革新的な人物だった、との通俗的な信長像は根強いように思いますが、今回の久秀の指摘は、信長も同時代の社会規範の中で行動した大名だった、という近年の歴史学での知見を踏まえたものになっており、よかったと思います。また、光秀は正親町天皇の求めに応じて拝謁する決意を固めますが、正親町天皇も光秀の決断に大きな影響を与えた、という話になるのでしょうか。次回、光秀は正親町天皇に拝謁するので、そこでどのような会話がなされるのか、注目されます。