極東アジア最古の現生人類の年代

 極東アジア最古の現生人類(Homo sapiens)の年代に関する見解(Hublin et al., 2021)が公表されました。本論文は、極東アジアに最初に現生人類が拡散してきたのがいつなのか、近年の研究を簡潔に整理しており、この問題に関して調べる場合、まず読むべき有益な文献だと思います。これは日本列島への現生人類拡散の問題でもあるので、日本人がどのように形成されてきたのか、との観点からも注目されます。ただ本論文では、直接的には日本列島に関する言及はありません。

 現生人類のアフリカ起源を裏づける、豊富な遺伝学的および考古学的証拠があります。現生人類は進化のある時点でアフリカからユーラシアへと拡大し、他の在来人類集団を置換したか、部分的に吸収しました。現生人類は最終的に、人類がそれまで存在しなかった地域にも拡散しました。現代人は、地域的条件への適応と孤立から生じるある程度の身体的変異を示しますが、全員最近のアフリカ人系統を共有します。アフリカからのこの拡散が何回、いつ、どのような理由で起きたのか、古人類学の分野では継続的な議論の問題となってきました。過去10年間で、研究努力により、極東アジアでは現生人類の到来の時期を解明する研究努力が強化され、いくつかの注目すべき文献が刊行されました。最近、これらの議論の中心だった主要な中国の人類遺跡の一部の年代測定に関して、疑問が呈されました(関連記事)。またその研究では、考古学的および化石記録がこの地域において解釈され得る方法について、重要な問題を提起します。

 アフリカからの現生人類の最初の拡散は、おもに環境変化により起きたようです。過去50万年間に、地球は大きな気候変動を経てきました。アフリカでは、乾燥化進展の広範な傾向とは対照的に、数千年紀の湿潤化の波がサハラ砂漠の大半を、時には湖が現在のドイツ並の大きさとなるような、川と湖のネットワークが交差するサバナの巨大な外観へと周期的に変えました。重要なことに、これらの「緑のサハラ」事象は、アラビア半島とアフリカの人類集団にも影響を与えました。アフリカの人類集団は、このタイプの生態環境に適応しており、これら新たに生息可能となった地域へと拡大した可能性があります。

 アジアにおける現生人類最初の疑問の余地のない痕跡は、アフリカの端であるレヴァント南部で194000~177000年前頃のものが見つかっていますが(関連記事)、古遺伝学は、アフリカの人類集団とユーラシア西部のネアンデルタール人との間の、より古い可能性がある接触の兆候を提供します(関連記事)。しかし、現生人類拡散の主要段階は5万年前頃かその少し前に始まりました。その頃までに、社会的・文化的・人口統計学的変化により、アフリカ起源の狩猟採集民集団は在来の古代型集団を犠牲にして、まったく新たな環境に居住できるようになりました。中緯度では、現生人類はすでに45000年前頃以前にヨーロッパ東部に存在しました(関連記事)。また現生人類は、シベリアでは北緯57度にまで東方へと拡大し(関連記事)、ヒマラヤ山脈を避ける「北方経路」沿いに、モンゴルと中国北部にまで到達したかもしれません(関連記事)。

 南方に関して中心的な話題は、熱帯アジア全域での現生人類の拡大が、アジア南西部における早期の到来の単なる継続だったのか、それともいわゆる「南方経路」沿いのずっと後の拡散段階の結果だったのか、ということです。残念ながら、中国とジャワ島の注目に値する例外はあるものの、この地域の人類化石はほんの僅かで、しばしば単に存在しません、したがって一般的に、集団遺伝学および考古学に基づく間接的な議論に頼らねばなりません。母系で伝わるミトコンドリアDNA(mtDNA)の現在の系統の多様化の年代測定は、全ての非アフリカ系集団の55000年前頃未満の単一の急速な拡散を裏づけます。しかし、先駆者集団は後に人口的に優勢な波に完全に置換されたかもしれず、そのため現生集団には遺伝的痕跡を残さなかった、とよく主張されてきました。

 考古学に関しては、骨格遺骸がない場合、特定の様式の製作者の人工物の生物学的性質を確認することは困難です。これはとくに、人類化石が表される遺跡とのつながりを確立できない場合に当てはまります。オーストラリアは、現生人類以外の人類が存在しなかったと想定されているので、とくに興味深い地域です。オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では、65000年前頃の人工物が発見されています(関連記事)。この推定年代が妥当ならば、必然的にアジア南東部におけるより古い現生人類の存在を意味します。しかし、この推定年代には疑問が呈されており(関連記事)、オーストラリアへの現生人類の初期の拡散の失敗が確認されなければ、その推定年代を遺伝的証拠と一致させることは困難です(関連記事)。

 年代測定可能な人類遺骸のある中国中央部および南部の遺跡は、とくにこの議論と関連しています。中国には、旧石器時代考古学と人類古生物学の長い研究伝統があり、その豊富な化石記録は周辺諸国とは対照的です。いくつかの遺跡では、現代人と解剖学的に近い化石が発掘されており、中国における現生人類のひじょうに早期の存在を記録している、と主張されました。最初期の発見の中で、1958年に広西壮族(チワン族)自治区の通天岩(Tongtianyan)近くの柳江(Liujiang)で発見された保存状態良好な頭蓋は、洞窟で肥料を集めている農民により発見された他の人類骨とともに、言及する必要があります。この問題のある発見状況にも関わらず、洞窟の流華石の異なる層の年代測定は、これらの人類遺骸の下限年代が68000年前頃、さらにはもっと古い可能性がある、と示唆します。不純物がほとんどない方解石の形成にさいして、硬い流華石は、鉱物堆積時に捕捉されたウランの既知の崩壊速度に基づくひじょうに信頼性の高い年代測定法(ウラン系列法)を適用するのに理想的な物質を表します。

 他の推定される初期現生人類は、亜熱帯中国における組織化された発掘の過程で見つかり、人類遺骸を覆う流華石のウラン系列法による年代測定、これら人類化石の予想外に古い地質年代を裏づけるのに広く用いられてきました。広西チワン族自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)遺跡(関連記事)と月(Luna)洞窟遺跡、湖北省の黄龍洞窟(Huanglong)遺跡、湖南省の福岩(Fuyan)洞窟遺跡(関連記事)での人類遺骸の発見は、最も注目に値します。これらの人類遺骸は全て、7万年以上前、時には10万年以上前とさえ主張されています。これらの発見は、おもに最近の現生人類の歯列と形態的に区別できない歯を表していますが、智人洞窟では、現代的および祖先的特徴の混合を示す下顎断片も報告されています。

 「地層累重の法則」は地質学と考古学の基本的な公理で、それによると、層序系列では、下層が古く、より新しい堆積物によって覆われます。この原則が歪みのない堆積盆地や洞窟に容易に適用できるならば、より難しい状況がかなりあります。深い洞窟は一般的に、石灰岩のような解ける岩を通じて水の循環により形成されます。これらの地下ネットワークでは、水の循環は輸送と充填の主因でもあり、炭酸凝結物を堆積し、外部から堆積物をもたらします。ネットワークにおける水循環の強さはおもに気候条件に依存するので、時間の経過とともに、深い洞窟は通常、中断のある程度の期間とともに、侵食と堆積段階の変化が起きます。時には、窪みが既存の堆積物へと切り込まれ、より深い部分により新しい物質で再充填されることもあり得ます。

 あらゆる年代の化石および考古学的対象物は、最初の状況から離れて、再加工・移動・再堆積されることがあり得ます。堅く結びついた流華石のような硬い堆積物は侵食に抵抗できますが、その下にある古いもののより柔らかい堆積物は取り除かれて、後により若い堆積物に置換されることもあり得ます。したがって洞窟では、さまざまな種類の標本から絶対年代を得るのと同様に、遺跡の形成過程の解明が重要です。これらの複雑化の教科書的な事例が、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で提示されています。リアンブア洞窟では、オーストラリアへ向かう途中の現生人類によるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の置換年代が、18000年前頃から5万年前頃に改訂されました(関連記事)。

 上述の月・黄龍・福岩の3ヶ所と、湖北省の楊家坡(Yangjiapo)および三游(Sanyou)の2ヶ所、計5ヶ所の洞窟遺跡の古代DNA分析を含むいくつかの年代測定手法の使用により、これらの洞窟における共通のパターンが示されました(関連記事)。さまざまな年代の、しかし一般的に10万年前頃に形成された古代の流華石は、あらゆる年代の可能性があるものの、明らかに主要な場所にはない堆積物の上に位置します。これらの下にある堆積物は再加工され、哺乳類の骨や時として人類遺骸を含みます。そうした哺乳類遺骸は、放射性炭素法により直接的に、流華石と堆積物両方の年代よりもずっと新しい、と年代測定されることもあり得ます。じっさい、これらの発見物はいずれも3万年以上前のものではなく、しばしば僅か数千年前にさかのぼります。

 この新たな知見は以前に提起された疑問を確認し、7万年以上前のアジア東部における現生人類の存在を裏づける現在の議論のいくつかは真剣に議論を挑まれています。中国中央部と南部のいくつかの洞窟を除けば、アジア南東部の2ヶ所の遺跡のみがこの早期の年代に近いままで、精査に値します。ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタムパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(図1)では、いくつかの現代人的な下顎骨と頭蓋骨の断片が、一連の一貫した年代を提供する厚い層序で発見されました(関連記事)。最古の解剖学的に重要な標本は、堆積物が日光に最後に暴露した時間を評価する、刺激ルミネッセンス法(OSL)と赤外線刺激ルミネセンス法という2つの手法で年代測定された層に由来します。技術的な問題は、OSLにより提供された48000年前頃の年代が過小評価されていることを示唆します。赤外線刺激ルミネセンス法は7万年前頃を示唆しましたが、ひじょうに大きな不確実性があります。

 スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡では、2個の現生人類のものと分類されている歯が、ウラン系列法と電子スピン共鳴法により73000~63000年前頃と推定されていますが(関連記事)、これらは1880年に発見されており、その元々の位置を疑うのは正当です。したがって現時点では、現生人類がおそらくアジア東部に達したのは55000年前頃もしくは50000年前頃であるものの、そのずっと前ではなかった、と推測できます。以下、本論文の図1です。
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 可能な場合はいつでも、放射性炭素年代測定法と古遺伝学による人類遺骸の直接的な年代測定が不可欠です。さらに、いわゆる絶対年代測定手法により確立された年代は、科学的裏づけがあるように見えるものの、同時に、これらの手法全てが同水準の信頼性と精度を提供するわけではありません。最終的に、他の科学と同様に考古学では、さまざまな手法で得られた結果の一貫性と観察結果の再現のみが、モデルの有効性を保証できます。アジア東部や南東部に限らず、有力説よりもずっと早い年代は注目を集めやすいものの、本論文が指摘するように、慎重に検証していかねばなりません。


参考文献:
Hublin JJ.(2021): How old are the oldest Homo sapiens in Far East Asia? PNAS, 118, 10, e2101173118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2101173118

高杉洋平『昭和陸軍と政治 「統帥権」というジレンマ』

 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2020年11月に刊行されました。本書は、現代日本社会ではきわめて評判の悪い昭和期陸軍を、「統帥権独立」という観点から見直します。昭和陸軍は横暴で、政治に介入して国策を誤り、ついには敗戦に至り国家を破局に陥らせた、というのが現代日本社会における一般的な印象でしょうか。さらに、もう少し詳しい一般層では、陸軍が政治に統制されず暴走したのは、「統帥権独立」が要因だった、との認識が根強くありそうです。本書は、そもそも「統帥権独立」とはどのように規定され、軍人の意識と政治介入にどのような影響を及ぼしたのか、昭和期を中心に明治期までさかのぼって検証します。

 統帥権独立とは、狭義には軍の作戦用兵を担当する参謀本部の内閣からの独立(天皇の直轄)ですが、これによって、統帥権の範囲を拡大解釈することで内閣の干渉を排除できるようになり、さらには内閣の施策に大きな影響を及ぼすことも可能となります。そのため、近代日本において統帥権独立制度は癌だった、とも評価されます。本書は、統帥権独立のそもそもの目的は、軍の政治化への警戒にあった、と指摘します。じっさい、一部の軍人は自由民権運動に共鳴しました。軍の政治化を阻止するさいにもう一つ問題となるのは、陸軍省と海軍省が内閣の管轄であることです。その対策として制定されたのが、軍部大臣現役武官制でした。後に軍部の政治への介入を促進した統帥権独立と軍部大臣現役武官制は、当初軍人の政治化を阻止することが目的だった、というわけです。ただ本書は、明治期に政治と軍事との分離が意図されながら、明治維新の功労者でもあった軍人が少なからず入閣したことも指摘します。

 こうした明治維新の功労者でもあった明治期前半の将校に対して、次第に士官学校と陸軍大学で専門教育を受けた「新世代」の軍人が台頭します。この「新世代」は、政治指導者でもあった前世代とは異なり、「生粋の軍人」で、政治と軍人の間に一線を引くようになり、現役の軍人が軍部大臣以外で入閣するようなこともほとんどなくなります。一方、これが専門分野における排他的独占意識を増幅したことも、本書は指摘します。陸軍は第一次護憲運動で大打撃を受け、軍部大臣現役武官制は改正され、現役軍人でなくとも軍部大臣に就任できるようになります。これに強く反対したのが宇垣一成でしたが、それは軍部大臣現役武官制を軍部の既得権と認識していたからではなく、軍隊の政治利用と軍人の政治関与を防ぐためでした。宇垣は、政党政治の現実を前に、軍隊の中立を守るため、運用上では政党政治と協調し、軍部大臣武官制を守ろうと考えていましたが、これは危うい自己矛盾だった、と本書は指摘します。

 統帥権が広く注目されるようになったのは、ロンドン海軍会議でした(統帥権干犯問題)。浜口内閣の陸軍大臣である宇垣は、陸軍大臣権力の最大化を意図した点では政友会や海軍軍令部とは明確に異なっていましたが、その憲法解釈は政友会や海軍軍令部と近接しており、浜口内閣にとって潜在的に危険だった、と本書は指摘します。宇垣と浜口首相は互いに配慮し、矛盾しないような答弁に終始して政友会の追及を切り抜け、宇垣の政治的影響力は高まります。しかし、政府と妥協しつつ陸軍省の権限を拡大していこうとする宇垣の方針や、宇垣軍縮にも関わらず列強と比較して近代化が進んでいないこと(これは当時の列強と比較しての日本の国力では多分に仕方のないところでもありましたが)に、陸軍内部で不満が高まっていきました。とくに、第一次世界大戦後の軍縮の風潮で苦境に立たされていた軍人にとって、宇垣軍縮は怨嗟の直接的対象となりました。宇垣軍政への陸軍内の反感は革新運動の盛り上がりにつながり、宇垣は1931年の三月事件で大きな政治的打撃を受け、現役を退いて朝鮮総督に就任します。

 宇垣が去った後の陸軍では、革新運動が皇道派と統制派に分裂していきます。皇道派若手将校が中心となって起きた二・二六事件後、陸軍の政治関与は強化されていきますが、陸軍の方でも二・二六事件への反省がなかったわけではなく、軍部大臣現役武官制の復活にしても、軍人の政治関与への抑制との意図もあった、と本書は指摘します。宇垣内閣が成立するに至らず、林内閣が成立する過程で、宇垣を排除した石原莞爾は自分に好都合な内閣を成立させようとして、陸軍省次官の梅津美治郎の反対により挫折しますが、本書は梅津の政治的行動にしても、軍人が極力政治に関わらないようにするためだった、と指摘します。

 石原莞爾の内閣構想が挫折した後の陸軍では、すでに皇道派が没落し、統制派も永田殺害後派閥としての実態を失い、一種の無派閥状態となります。これにより、陸軍全体の行動を意図的に方向づける推進力が失われ、陸軍自らがある種の政治力を発揮するさいに外部勢力への依存度を深めたと本書は指摘します。林内閣は短命に終わり、次の近衛内閣で日中戦争が始まって泥沼化します。この時期、杉山元が大臣で梅津が次官の陸軍省は参謀本部を統制できていましたが、日中戦争泥沼化の原因を陸軍にのみ押しつけた近衛は、日中戦争を解決すべく杉山と梅津を解任しようとして天皇・皇族を利用しました。これにより、矯正されつつあった陸軍の統制が再び乱れることになります。

 近衛内閣の後継の平沼内閣で問題となったのは、陸軍では推進派が多く、海軍では強硬な反対派がいた、日独伊三国軍事同盟でした。陸軍では、軍務課長の有末精三を中心に、平沼内閣の後継首班選定に関わり、再び政治への関与を強めます。しかし、有末の組閣への関与は、昭和天皇の介入により挫折し、有末は転出して武藤章が後任となります。平沼内閣の後継の阿部内閣での、町田忠治入閣構想が失敗したことにより、武藤は阿部内閣を見放します。本書は、陸軍が阿部内閣を見放し、陸軍の「政治不介入」により倒された、と指摘します。陸軍の政治不介入の態度が大きな政治的影響力を有し、結果として政治介入と同義になる、というわけです。阿部内閣の崩壊後、武藤は現役の陸軍の軍人を首相とすることに強い拒絶反応を示し、それは陸軍省の軍人にも共通していました。それは、陸軍側の政権担当能力不足もありましたが、文官の首相が個人として統帥権の行使に関わる武官だと、一般政務と統帥の区別が曖昧になり、統帥権独立に悖ると考えられたからでした。当時、関東大震災直前に没した加藤友三郎を最後に、現役軍人が首相に就任することはなく、昭和期の陸軍は、政治と軍事の区別に関して明治期の軍人よりも潔癖でした。この武藤の方針もあり、陸軍内閣は成立せず、米内光政内閣が成立します。海軍の米内は日独伊三国軍事同盟に強硬に反対してきたため、陸軍にとって本来は好ましくない事態でした。

 米内内閣が陸軍との対立により退陣した後、近衛内閣が成立します。近衛内閣は、近衛文麿の複雑な政治的個性を反映して、さまざまな政治的立場の人々が関わり、またそれぞれの立場から近衛というか新体制運動に期待・幻想を抱きました。陸軍も同様で、もちろん一枚岩ではありませんでしたが、新体制運動に深く関わったのは武藤など限られていました。武藤は当初、既成政党の親軍派を通じて影響力を及ぼそうとしましたが挫折し、既成政党の影響力の強さを痛感したところ、予想外に政党が近衛新体制運動に参加し、解党するに至りました。この政治的現象に陸軍の役割は限定的だった、と本書は指摘します。

 近衛新体制運動において、陸軍で関わった中心的人物である武藤は、一般的な印象とは異なり、政党の力量を認め、一党制に近い一党優位を目指すものの、野党の存在も必要と想定されていました。武藤は新体制への軍人の参加も認めない方針でした。しかし、この武藤構想は、軍人の新体制への参加を求める近衛側近層の構想と対立しており、近衛個人の意向も同様だと知った武藤は、日中戦争解決のためには新体制が必要で、それには近衛の存在が必要と考えて、近衛側に譲歩します。武藤は同様の理由で、新体制運動での既得権侵害を警戒して激しく抵抗する内務省にも妥協します。その結果、武藤は政党勢力にも批判されます。武藤構想の破綻は、新体制による日中戦争解決を志向しながら、陸軍がその当事者になることを徹底的に忌避したからでした。陸軍から独立した政治勢力が陸軍の求める政策を忠実に実行することを前提とした武藤構想は、本質的矛盾を抱えていた、というわけです。

 日米交渉が行き詰まり、近衛が退陣した後、東条英機が現役のまま首相に就任し、陸相も兼任します。これは統帥権独立の原則と矛盾しかねず、陸軍でも東条の予備役編入を求める者がおり、東条もそうした懸念を認識していました。しかし東条は、首相と陸相の立場を使い分ける、という分かりにくい対応を取りました。それでも、この東条の方針により、東条内閣では軍務局幕僚の政治的影響力は抑制されました。しかし、東条は参謀本部を統制できず、それは戦局の悪化に伴って顕在化していきました。そこで東条は参謀本部総長を兼任しますが、陸軍内で強い反発を受けました。ここでも東条は、陸相と参謀本部総長の立場を生真面目に使い分ける、という分かりにくいやり方で対応しました。

 本書は、政治と軍事を峻別する制度・規範意識である統帥権独立には、政治介入とその阻止という二面性があった、と指摘します。昭和の軍事指導者たちの多くは、少なくとも主観的認識では、統帥権独立という制度・規範意識に沿うよう努力しました。本書は、統帥権独立制がなければ、軍部の政治介入がより露骨化・深刻化した可能性すら指摘します。軍部の政治介入や独走の助長に統帥権独立制が果たした役割は否定できませんが、政治・社会的事情も考察する必要がある、というわけです。

山田仁史「宗教と神話の進化―集団間の動態におけるその役割」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P41-46)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、人類における宗教・神話の進化に関する従来の諸仮説を総合し、宗教や神話が集団間の動態にいかなる影響をおよぼし得たのか、考察します。まず1960 年代、宗教社会学のベラー、人類学のウォーレス、インド学・仏教学の中村元らがそれぞれ独立して、宗教の進化に関する大きな見通しを提出しました。これらは多少とも、ヤスパースの「枢軸時代(Achsenzeit、Axial Age)」概念に依拠しています。これは、紀元前500 年頃、より広くとれば紀元前800~紀元前200 年頃に、ユーラシア大陸の東西に広く精神的な覚醒が起き、いわゆる「救済宗教」が生じた、という議論です。この「救済宗教」を狭義の宗教とすれば、本論文で扱われるのはより広義の「宗教」です。21 世紀になると、この概念の有効性はますます認められる方向にありますが、人類の宗教進化については、より古い時代までさかのぼって検討する動向が生じています。それは最近30年ほどの動向で、考古学や古人類学や遺伝学の進展にともない、数万年におよぶ宗教進化について様々な仮説が提示され、以下のような三つの立場に分けられるますが、いずれも宗教の価値判断につながるという難点を有しています。

(1)宗教は人類進化にとって適応的(adaptive)とする見解です。個体水準でのハンディキャップ理論(costly signalingtheory)と、集団水準での多水準淘汰説があります。

(2)宗教は人類進化における何らかの心理機制の副産物(by-product)とするスパンドレル説(spandrel theory)や、行為主体を過敏に探知する装置説(HADD:hyperactive agency detection device)や、心の理論(theory of mind)です。

(3)宗教は文化的に伝達される非適応的(maladaptive)現象とする見解で、文化進化、とくにミーム理論(meme theory)です。

 またこれらとは別に、出アフリカのさいに現生人類(Homo sapiens)はどのような神話を有してこおり、どう拡散したのかについても、新たな仮説が登場しています(関連記事)。たとえばインド学のヴィッツェルによると、最古の人類がもっていたパン・ガイア神話のうち、古層部分はゴンドワナ神話群として残存し、ユーラシア大陸圏ではローラシア神話群と呼ぶべき発展があった、と指摘されています。また、考古学・人類学のベリョースキンによる世界伝承モチーフの膨大なデータベース化によれば、死の起源の神話などは出アフリカ以前から知られていました。その後、インド太平洋とユーラシア大陸の間において長い隔離が続いた結果、大きな二つのクラスタが形成されるに至った、と指摘されています。さらにデュイの神話の「系統発生分析(phylogenetic analysis)」では、コズミック・ハントとポリュペーモス(アニマル・マスター)神話に焦点が当てられています。

 他にも、この文脈で考慮に入れるべき仮説としては、まずフロベニウスの理論があります。フロベニウスによると、人類文化は有機的であり、文化生成時点で人が何に「心とらわれた状態(Ergriffenheit)」だったかを考慮する必要がある、と指摘されています。またエリアーデによると、ヒトが直立歩行を開始し、周囲の空間に不安をおぼえた時、宗教がきざした、と指摘されています。これは当然暗喩ですが、人間における実存という問題に触れている点が注目されます。この他に、ルロワ=グーランは狩猟採集民の巡回空間と定住農耕民の放射空間、という認識の違いを指摘し、北米のトリックスター譚などにこのアイディアを適用しました。またオングは、無文字社会における記憶術として、奇怪な姿の神話的存在が語られた、と主張しました。この議論は、いわゆるアニマル・マスターの表象などを考える際にきわめて示唆的です。さらにボームは、狩猟採集民社会においても「超自然的制裁(supernatural sanctioning)」が広く行なわれていた、と強調しています。以上のような動向も踏まえて、今後への見通しをひとまずまとめると、以下のようになります。

 まず宗教の進化については、枢軸時代を中心とする仮説はいまだに有力ですが、より古い人類史にまで遡っての検討が進行中です。そうした検討では、宗教が人類進化にとって(1)適応的か、(2)それ自体は適応的でも非適応でもなく中立的な副産物にすぎないのか、(3)非適応的か、という三つの立場が見られます。しかし、これらは宗教に対する価値判断を含みがちです。次に神話の進化について、出アフリカ時点で現生人類が持っていた神話やその後の拡散が議論されています。無文字の狩猟採集民が早期に有していたかもしれない神話として、コズミック・ハント、アニマル・マスターやトリックスター、死の起源などが挙げられそうです。これらは当時の人々が「心とらわれ」、実存の不安に対処する中から生まれたものとも言えるでしょう。最後に、こうした象徴化や物語による自然認識・環境認識の共有は、超自然的制裁といったモラルの浸透にも伴って、他集団との対決に際して有利に働いた可能性が考えられます。具体的な民族誌データにもとづく検討とモデル化が今後の課題です。

 さらに本論文は、宗教の進化に関わる三つの立場を解説しています。英語圏においてこの問題を論じる場合、「宗教」への価値づけあるいはイデオロギーを含んでしまう、という難点があります。「宗教なるもの」を今後も擁護すべきなのか、不要な過去の遺産として棄却してゆくべきなのか、という立場表明をしなければいけないことが見えてきます。つまり、「宗教(religion)」のもととなった「religare」というラテン語の両面でもあります。その語義は英語で「to bind」、すなわち人々を「結びつける」という正の面と、「束縛する」という負の面の両方が、この語で含意されています。

 宗教の進化に関わる三つの立場とは、上述のように、(1)宗教は適応的(adaptationist explanations)、つまり「adaptive」であると支持する立場、(2)宗教は適応に関しては中立的で、人類進化において宗教とは別の適応的な心理機制の副産物として生まれたもの(byproduct explanations)、つまり宗教は「nonadaptive」とする中立の立場、(3)宗教は文化的に伝達される非適応的現象(cultural explanations)という、「maladaptive」だと批判する立場です。2017年の研究によると、これら三つの立場のうち、(1)と(3)は宗教というものが如何に維持されてきたかを扱いますが、宗教の発生自体については何も言っておらず、他方で(2)は宗教の起源と維持について語っています。以下、これら三つの立場に関する解説です。

(1)宗教を適応的とする見解
 先駆者はフィッシャーで、形質進化においては自然淘汰のみが重要である、と強調しました。次に生物学者ウィリアムズにより、初めて現在の適応学説が提唱されました。つまり、身体的・心理的形質が適応的か非適応的かを認めるために、自然淘汰概念を適用する一般基準が定義されました。次に、以降の議論では(i)個体(individual)と(ii)集団(group)の二つの水準おける適応が区別されます。

(1.i.)個体水準の適応
 個体水準の適応を提唱したのは、人類学者のリチャード・ソーシスです。ソーシスの「高コストシグナル理論(costly signalling theory、日本ではハンディキャップ理論として知られています)」とは、もとはザハヴィにより、野生動物における捕食者と獲物の間にみられる特異なシグナル行動を説明するために発展された、ハンディキャップ原理(handicap principle)とも呼ばれる、より広範なシグナル理論の特殊な応用にすぎません。ソーシスらはユダヤ教のキブツなども含む様々な宗教共同体を調査し、高コストな儀礼に参加する者は集団内で高評価を得るので配偶へのアクセスが増加する、と結論しました。なぜならば、高コストな儀礼に参加することは共同体内で共有された信念に関わることを意味し、これにより共同体側も参加者に好意的に振舞うようになるからです。ソーシスたちによれば、宗教的であることによりもたらされる利益はかかるコストをはるかに上回るので、宗教的行動は個体水準において適応的です。また宗教的であることにより、心身の健康にもたらされる利益も報告されていますが、因果関係は必ずしも明らかでない、との批判もあります。

(1.ii.)集団水準の適応
 これは、非宗教的共同体と比較して、宗教的共同体においてはメンバー間の団結や協力が増す、という議論で、主要な論者の1 人はデイヴィッド・ウィルソンです。そのマルチレベル選択説(多レベル淘汰、multilevel selection theory)によると、淘汰圧(選択圧)は個体と集団の両方の水準にかかります。個体水準では高コストで不利な行動でも、集団水準では利益をもたらす可能性があります。エリオット・ソーバーとウィルソンはこの理論を用いて、人類における利他性の存在を説明しました。つまり利他的であることは、個体水準では行為者の遺伝的適性を損なうかもしれないものの、集団内での協力を促進するので、集団全体の適性を増進する、というわけです。これはつまり、集団選択・群淘汰(group selection)を重視したことになります。

 マルチレベル選択説を宗教に適用し、デイヴィッド・ウィルソンとエドワード・ウィルソンたちは、宗教の集団利益はコストをはるかに上回る、と主張します。ただ、集団水準での適応性は、個体水準での適応性とは必ずしも一致しません。利他性の例のように、個体としては非適応的になってしまう場合もあります。ウィルソンは、宗教は各個人の向社会的行動を奨励することで、共同体統合の役割を果たす、と指摘しました。宗教による道徳的教化力、つまり自動的監視(automatic policing)の役割を重く見たわけです。

 ブルブリアも、宗教的共同体では人々の行動に賞罰を与える強力な主体が存在する場合、外的な規則の強制はさほど要請されない、と指摘します。ウィルソンの議論は、経済的ゲームの研究により広汎な経験論的支持を受けています。つまり、宗教的な人間は、同じ宗教に属する人と取引するさい、信用や利他性をより大きく発揮します。個体と集団の両水準を併せて考えると、宗教がなぜ繁栄を続けるのか、よりよく説明されます。それは、個体も集団も、宗教的である方が非宗教的であるよりも利益を受けやすい傾向にある、ということです。

 この議論について批判は二つあります。まず集団の定義が曖昧というものです(a)。たとえばジョーゼフ・ブルブリアは二つの長老教会を例に出していますが、どちらも一つのセクトに属する一方で、構成員やファンドをめぐっては競合関係にあります。これは異なる集団とすべきか、それとも同一集団と見なすべきか、という疑問が残ります。もう一つの批判(b)は、群淘汰は宗教発展の初発の原因とは言えない、というものです。

 他には古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドと遺伝学者リチャード・ルウォンティンも、適応論者たち一般を批判しています。諸形質を適応と説明もするのに急であり、そうした形質が選択された正確なメカニズムを示していない、というわけです。重要なのは、宗教に関する特定の行動が、世代内・世代間においていかに伝達されるのかを示すことだ、とグールドやルウォンティンは指摘します。

(2)宗教は適応に関しては中立的とする見解
 宗教は適応に関して中立的で、人類進化において宗教とは別の適応的な心理機制の副産物として生まれたもの(by-product explanations)という立場です。これはスパンドレル(アーチ・壁の外側の弯曲部と天井・枠組みとの間にできる三角形の部分)説とも言われます。つまり宗教とは、宗教以外の心理的機制における適応の、スパンドレルである、というわけです。上記のグールドとルウォンティンが提唱したもので、「適応主義」に対する「反適応主義」とも呼ばれます。つまり、宗教それ自体は適応の副産物だが、それ自体が適応的なわけではない、ということです。生物学の事例としては、鳥の羽は元々、暖をとる目的で選択されましたが、後には飛行に用いられるようになり、羽の主要機能になった例があります。

 そもそも宗教とは進化の副産物である、という見解はダーウィンが初めに主張しました。その後、ステュワート・ガスリーは、適応的な心理特性による選択が宗教の発展を説明する、と主張した最初の論者たちの1 人です。ガスリーは、宗教の核心にあるのは超自然的動作主が存在するという信念で、これは行為主体を探知する過働装置(overactive agency detection systems)によると主張しました。これはジャスティン・バレットにより、「行為主体を過敏に探知する装置」(HADD:hyperactive agency detection device)と命名されました。人間にはこれが備わっているため、何もない所にも擬人化した物を見がちです。それが宗教的認知に寄与している、というわけです。これについては実験により支持する結果が多く出されています(パレイドリア、pareidolia)。たとえばコンピュータによりランダムに生成されたパターンに人間の顔を認めてしまうなど、パターンを認識しようとする強い傾向が人間の認知システムにはある、というわけです。バレットもガスリーも、HADD は人類の祖先にとって適応的だったと考えていました。たとえば狩猟をしていて、後ろの茂みがガサガサした時、逃げた方が生存に有利だったはずだから、というわけです。

 これに心の理論(theory of mind)、つまりヒトが他者の心の状態を察する能力もあわせ考えると、宗教的信念がいかにして発生したのか、説明できそうだ、と指摘されています。またこれ以外にも多くの心理機制が宗教の発達に寄与しただろう、と推測されています。たとえばパスカル・ボイヤーは、宗教は心理機制の選択によってのみでは説明できない、と主張します。宗教が共同体と世代を越えて伝わるのはなぜか、説明できないからです。ボイヤーによると、宗教にとって非常に重要な特性とは、最小限の反直感構造(minimally counterintuitive structure)です。つまり、宗教的な概念には、直感に反する要素が少しあるものの、あまり多すぎてはいけず、それがあることで記憶し伝達する気にさせる、というわけです。

 こうした副産物論者への批判としては、認知的説明に頼りすぎており、文化の役割を十分に考慮していないというものがある[Wilson 2002]。ただ批判はあるにせよ、副産物というニュートラルなとらえ方は保守的でもあり、支持されやすい。また宗教そもそもの起源についても説明しているのである。

(3)宗教は文化的に伝達される非適応的現象
 宗教は文化的に伝達される非適応的現象(cultural explanations)で、「maladaptive(不適応)」だとの見解です。宗教を文化として説明する論者たちは、宗教が人々に押しつける重大な対価を強調し、その非適応性を主張し、おもに文化進化とくにミーム理論に依拠します。ミームはもともとリチャード・ドーキンスの発案ですが、ボイヤーやアトランはミームという観点を拒否しています。他方でデネットはミーム理論を採用しますが、ミームも遺伝子と同じく淘汰圧にさらされる、と主張します。デネットは、宗教の非適応的側面だけでなく、適応的な面も指摘しました。ただ、ミーム論を宗教の説明に適用することについては、経験論的な支持がほとんど得られていません。総じて、副産物という第二の説明が今のところ最も支持を得ています。


参考文献:
山田仁史(2019)「宗教と神話の進化―集団間の動態におけるその役割」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P41-46

地球環境の変化を引き起こした42000年前頃の地磁気逆転

 地球環境の変化を引き起こした42000年前頃の地磁気逆転に関する研究(Cooper et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。地質記録には、地球の磁極反転の事例が多数残されています。現在こうした事象が起これば、現代的な電子技術や衛星技術に大混乱をきたすことはほぼ間違いないでしょう。しかし、こうした事象が環境に及ぼし得る影響はほとんど分かっていません。

 最近の大規模な地磁気反転であるラシャンプ・エクスカーションは、41000年前頃に起きた比較的短期間の地磁気事象で、地球磁場の極端な変化が及ぼし得る影響を研究するうえで、最高の機会を提供します。しかし、この事象と同時期に大規模な環境変化および生態系変化が起こったことを示唆するような、有力な証拠が古環境記録から得られているにもかかわらず、この事象の特徴を正確に表し、同時期に起こった地球規模の変化におけるその役割(もしあれば)を解明する方法は、放射性炭素年代測定に限られていました。

 この研究では、正確に年代を特定した大気中放射性炭素記録が新たに提示されました。この記録は、ニュージーランドの湿地帯で数千年間保存されていた古代カウリマツの年輪から得られたものです。失われた要石のようにこの新しい記録を使うことで、地球規模の放射性炭素や氷床コアに残るその他の記録とラシャンプ・エクスカーションの時期とを、上手く一致させることができました。

 この研究は、磁場強度が弱まって極性反転が生じた時期に、大気中放射性炭素が大幅に増加したことを確認しました。この増加の影響をモデル化することにより、地球磁場の極小期(当時の地球磁場は現在の値のわずか6%ほどだったと推定されます)が、大気中オゾン濃度と大気循環に大きな変化をもたらした、と明らかになりました。こうした変化は、42000年前頃に起きたことが別の気候記録に残っているような、地球規模の気候変化や環境変化を同時期に引き起こした可能性があります。地球磁場の変動が大気の温度と循環に地球規模で影響を及ぼし得るというこれらの知見は、変則的で突発的な古環境変化を理解するためのモデルを提供する、と指摘されています。

 ラシャンプ・エクスカーションが起きた41000年前頃は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅直前の時期と推測されているので(関連記事)、その観点からも注目されます。ラシャンプ・エクスカーションにより、大きな環境変化や絶滅事象、人類の行動の長期変化が引き起こされた、と推測されていますが、ネアンデルタール人の絶滅もそうした文脈で解釈できるのかもしれません。もっとも、ネアンデルタール人はおそらく数十万年以上ヨーロッパで存続してきた人類集団で、大規模な環境変化を何度も生き延びてきたでしょうから、ネアンデルタール人の絶滅要因は、究極的には現生人類(Homo sapiens)との競合と考えるべきでしょう。もちろん、現生人類とはほぼ無関係に、一部のネアンデルタール人集団は環境変化が原因で絶滅した可能性も高そうですが。


参考文献:
Cooper A. et al.(2021): A global environmental crisis 42,000 years ago. Science, 371, 6531, 811–818.
https://doi.org/10.1126/science.abb8677

ホモ・エレクトスと現生人類の頭蓋進化の比較

 ホモ・エレクトス(Homo erectus)と現生人類(Homo sapiens)の頭蓋進化を比較した研究(Baab., 2021)が公表されました。ホモ・エレクトス(Homo erectus)は人類進化史において中心的な位置を占めています。古代DNAからの種分岐の年代測定の進歩により、エレクトス(もしくはこの系統の一部)は、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の最終共通祖先候補として位置づけられます。ネアンデルタール人とデニソワ人が70万~50万年前頃以前に分岐したならば(関連記事)、これは他の共通祖先候補に分類されている化石、つまり広義のホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の大半よりも後になります。エレクトスと比較的最近の現生人類は、地理的に最も広範な人類種でもあります。この研究は、27個のエレクトス頭蓋化石と現生人類約300個体の比較標本への人口史理論に基づく方法の適用により、と相対的な遺伝的多様性と、エレクトスの種分化を伴う小進化過程への新たな洞察を提供します。

 エレクトスは現生人類と進化史のいくつかの重要な特徴を共有しており、それにはアフリカからの移住とユーラシア全域のより季節性で温暖な生息地の居住が含まれます。したがって、現生人類はエレクトスの人口史について考察するさいの有用なモデルとして機能します。現生人類の遺伝的景観は、主要な出アフリカ人口ボトルネック(瓶首効果)、連続創始者効果、分布範囲全域での限定的な遺伝子流動、地域的適応により形成されました。これらの同じ人口史事象は、種の頭蓋表現型に痕跡を残しました(関連記事)。

 エレクトスは広く定義されており、年代は180万年前頃以降、地域はアフリカとユーラシアの南緯25度から北緯40度に及びます。従来の通念では、エレクトスの起源は190万年前頃のアフリカ東部にあり、そこには最古級のいくつかのエレクトス遺跡と、より古いホモ属種の豊富な証拠があります(図1)。アフリカのエレクトスはアジアへと東方に拡散し、これはコーカサスなどアジア西部における180万年以上前(関連記事)、また中国南部の170万年前頃(関連記事)の(一時的かもしれない)分布も含まれます。アジア東部(中国)および南東部(ジャワ島)の集団は相互に、通常は単一の移住事象の結果とみなされています。多くの想定では、遺伝的浮動および/あるいは環境適応を通じての、しかし、種の結合を維持する充分な遺伝子流動を有する、各地域での系統発生的変化を促進した地域的な孤立の期間が示唆されます。一部の研究者は、アジアにおける表現型変動の南北の勾配を識別します。ほとんどの研究者は、これら時空間的変動を、種水準としてよりもむしろ、集団もしくは亜種とみなしています。

 しかし、エレクトスのアルファ分類に関しては長い議論があります。極端な場合、初期現生人類やエレクトスなどいくつかの初期ホモ属種の包摂を主張したり、伝統的なエレクトス標本を多くの異なる種に分割したりする、少数の研究者がいます。しかし、ほとんどの研究者は、エレクトスを広く分布した多型の種か、特殊化したアジア系統とみなしています。後者の立場では、早期のアフリカおよびジョージア(グルジア)の化石は、別の種ホモ・エルガスター(Homo ergaster)に分類されます。エレクトスの形態的変動の程度は、現生種で記録されている範囲の上限にありますが、時空間的範囲を考慮すると比較的低く、さらに、その神経頭蓋形態は、それ以前および以後の両方の古代型ホモ属種と異なります。さらに、歯や顎の形態はとくに、単純な東西の二分法で把握されるよりも、時間の経過に伴う地域集団間のより複雑な一連の関係を示唆します。これらの理由のため本論文では、エレクトスはアフリカとユーラシア(西部)とアジア東部および南東部の化石を含むものとして定義され、他の尤もな分類仮説がある、と認識されます。

 エレクトスと最近の現生人類が人口史でどの程度収束したのか、これまで調査されてきませんでした。人口史に基づく統計モデルは、これらの人口史シナリオで現れる小進化過程の過去の兆候を検出する、強力な手法一式を提供します。定量的遺伝学は、頭蓋形態のような多遺伝子性遺伝により決定される表現型特徴を含む、複雑な特徴の進化と関連します。定量的遺伝学から改良された進化的形態分析は、すでに人類進化への貴重な洞察をもたらしており、それには人類進化における中立的過程(たとえば遺伝的浮動)により大きな役割を果たしたとの認識も含まれますが、人類の顔面と頭蓋以外の骨格の進化における選択も裏づけます。

 現在の研究は、共有された進化史と関連する、類似のおもに中立的な小進化要因がエレクトスと最近の現生人類の頭蓋形態を形成した、という仮説を評価します。しかし、この仮説は単純化しすぎています。それは、人口規模や遺伝子流動や遺伝的浮動や変異や選択の詳細が、確実に種間で異なっていたからです。しかし、予測は詳細というよりもむしろ一般化されており、人口史の微妙な詳細ではなく、経時的な最も一般的パターンを反映するでしょう。

 予測1:エレクトスは最近の現生人類と類似の種内頭蓋変異の程度を示します。この予測は種内頭蓋変異が人類全体の中立的な遺伝的変異と相関している、との観察に基づいており、頭蓋変異形成における人口史(たとえば、遺伝的浮動や遺伝子流動)の重要な役割を示唆します。

 予測2:エレクトスは最近の現生人類集団よりも多様な集団でした。これは、エレクトス集団間の分岐以来の時間が現生人類集団よりもずっと長いことを考慮して、両種の集団分岐がおもに中立的過程(たとえば、遺伝的浮動)に起因するならば、変異・浮動平衡下の予想となります。

 予測3:中立的な進化過程(たとえば、遺伝的浮動)は、エレクトスと現生人類の集団間の表現型の分岐を説明できます。この予測は、地域的なエレクトス集団の地理的および遺伝的孤立についての長年の見解、現生人類を含む他のホモ属種における中立的な頭蓋多様化の経験的証拠と一致します。

 これらの仮説は、前頭骨および後頭骨では最大の化石標本規模で別々に評価され、モザイク状の頭蓋進化が評価されました。脳頭蓋と顔面との間のモジュール性、および/あるいは現生人類で観察された頭蓋統合が一般的に低水準であることを考慮すると、顔面と頭蓋の異なる選択が、前頭骨と後頭骨でそれぞれ異なる進化史をもたらしたかもしれません。これらの分析は、エレクトスの頭蓋変異を形成した進化過程に光を当てる、定量的遺伝学の最初の使用を表します。以下、本論文の図1です。
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●頭蓋分析

 エレクトスと最近の現生人類の後頭骨と前頭骨の形態の3次元データが分析に用いられました。エレクトス標本は、後頭骨では23個体、前頭骨では22個体で構成され(両方残存している個体が多いので合計27個体)、それぞれ時空間的に区分された2~6個体から構成される6集団に区分されました。それは、183万~177万年前頃のアジア西部(WAS)、163万~150万年前頃の初期アフリカ東部(EAF)、80万~75万年前頃の初期アジア東部(EAS)、90万~79万年前頃の初期アジア南東部(ESA)、中期更新世となる後期アジア南東部南方(LSA-S)、12万~11万年前頃となる後期アジア南東部北方(LSA-N)です。

 前頭骨と後頭骨の形態の変異の主要軸は、エレクトスと現生人類を分離しました(図2a・b)。形態の違いは、種間のよく証明された違いを反映しています。エレクトスは、より高い眼窩上隆起と眼窩上隆起後方のより大きな狭窄を伴う、より平らな前頭鱗を有している一方で、後頭骨は比較的広いものの、正中線上での角度がよりきつくなっています(図2c・e)。エレクトスの種内変異のパターンは、前頭骨と後頭骨とで異なっていました。後頭骨の形態(PC1軸)の最大の対比は、最古のWAS集団と最新のLSA-NおよびLSA-S集団との間にあります。アジアのエレクトス4集団(EASとESAとLSA-NとLSA-S)は、前頭骨の形態ではより大きな類似性を示し、最古の集団(WASとEAF)間ではより大きな変異がありました。以下、本論文の図2です。
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 予測1に関して、エレクトスの前頭骨の固有値の合計(SEV)は最近の現生人類の平均SEVより67%高く、再標本抽出された現生人類の値の100%を越えていました(図3c・d)。エレクトスの後頭骨のSEVは現生人類の平均SEVより27%大きく、それらの値の98%より高くなりました。分析をアジアの狭義のホモ・エレクトスに限定すると、同様のパターンが得られましたが、後頭骨の形態の集団内変異は、エレクトスにおいて有意にはより高くなりませんでした。予測2に関しては、前頭骨形態の集団間変異はエレクトスでは最近の現生人類の約2倍で、エレクトスの値は再標本抽出された現生人類の値の100%を超えました(図2g・h)。集団間変異はエレクトスでは後頭骨で50%高く、エレクトスの値は最近の現生人類の値の99%を超えました。分析をアジアの狭義のエレクトスに限定すると、類似の結果が得られました。予測3に関しては、エレクトスの集団間変異で最大の傾向を表すのは、前頭骨と後頭骨の傾きで、現生人類ではより緩やかになっています。アジアのエレクトスのみに限定しても、類似の結果が得られました。以下、本論文の図3です。
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●考察

 本論文は、ホモ・エレクトスと最近の現生人類両方の前頭骨および後頭骨の人口史の兆候を調べました。両種は、アフリカからの大きな移住と、その後のユーラシア全域のより多様な生息地への拡散を経験しているという点で、人類において独特です。両種は、エレクトスがほぼ200万年と現生人類よりもずっと深い化石記録を有しており、緯度の分布範囲が現生人類よりも狭いという点で異なります。本論文の結果は、エレクトスと最近の現生人類における共有された人口史と、エレクトスにおける頭蓋のモザイク状進化への、限定的な支持を示唆します。

 また本論文の結果は、エレクトスにおける前頭骨と後頭骨の異なる進化史を浮き彫りにします。これは、後頭骨と比較しての、集団間の前頭骨多様化における自然選択のより強い兆候と、前頭骨と後頭骨に関して集団間の形態分化の不一致パターンにより裏づけられます。エレクトスと現生人類は多かれ少なかれ、前頭骨の形状では最大限の集団内変動の軸に沿って分岐しましたが、後頭骨の形態では最大値にほぼ直行しており、これらの領域でも異なる種の歴史が示唆されます。頭蓋冠と顔面との間のモジュール性は、これらの異なる進化経路を促進したかもしれません。

 エレクトスにおける種内変異が現生人類より大きいことは、エレクトス標本の現生人類より大きな時間深度に起因すると考えたくなりますが、経験的証拠からは、これが大規模な時間枠でさえ、種内変異全体に控えめな影響をもたらした、と示唆されます。最近の現生人類と比較してのエレクトスにおけるより大きい頭蓋変異は、人類全体の頭蓋および中立の遺伝的変異の強い関連を考慮すると、それに応じて遺伝的多様性が高いことを示唆します。最近の非アフリカ系(出アフリカ系)現生人類における低い遺伝的多様性は、現生人類の出アフリカにおける大きな人口ボトルネックに起因するので、エレクトスにおけるより高い遺伝的多様性からは、エレクトスが移住にさいして同じような劇的な人口ボトルネックを経験しなかった、と示唆されます。

 エレクトスにおけるより高い集団分化の変動性は、より大きな時間深度に起因するエレクトスと現生人類両方の中立進化の仮説と一致しますが(予測2)、集団間の減少した遺伝子流動やより強い地域的適応のエレクトスといった、他の小進化過程を除外するには不充分です。中立進化の検証はいくらかの明確さを提供します。中立進化は後頭骨では却下できませんが、選択は、広義のエレクトスでは前頭骨形態の進化で示唆されます。しかし、アジア系統のエレクトスに限定されている場合は、当てはまりません。対照的に最近の現生人類は、一貫して前頭骨と後頭骨両方の形態における集団間の分岐の中立パターンを示し、これは、人類頭蓋が強い人口史兆候を保存している、と主張する以前の研究と一致します。

 これらの結果は、潜在的に興味深い方向を示します。たとえば、脳の形態発生と神経頭蓋形成との間の強い関係を考えると、脳での選択は前頭骨の変化につながる可能性があります。しかし、アフリカと中国とインドネシアのエレクトスの頭蓋内容積の分析では、脳の形態における地域的違いを識別できず、この説明はなさそうです。現生人類の頭蓋形態、とくに顔面形態における方向選択は通常、ひじょうに寒冷な気候もしくは食性の変化と関連しています。前頭骨形態、とくに眉弓の形成は、顔面上部と前方神経頭蓋の神経と骨構造の統合を反映しています。したがって、エレクトスにおける地域的選択はおそらく、顔面の気候適応と関連しており、全体的な高い多様性、より大きな集団分化、選択の兆候をもたらしたかもしれません。前頭骨での選択の証拠は基礎となる分類群次第で、エレクトスのより広範な定義にのみ適用されます。それは、アジアとアフリカとユーラシア西部の集団を含むものの、より限定的なアジアのみのエレクトスには適用されません。


●まとめ

 ホモ・エレクトスと現生人類は、重要な人口史の特徴を共有しており、それは(アメリカ大陸やオーストラリア大陸を除く)世界全域への大きな拡散において最も顕著で、おそらくは連続創始者効果や地域的適応やさまざまな遺伝子流動を伴いました。それでも、定量的な遺伝的検証は、エレクトスと現生人類の異なる進化史を明らかにします。集団間の頭蓋変異の程度は、ともに類似の地理的範囲に分布したにも関わらず、最近の現生人類よりもエレクトスの方で大きい、と明らかになりました。これは、エレクトスにおける中立選択のより顕著な役割を示唆しているかもしれません。じっさい、中立進化の検証は、エレクトス間の前頭骨多様化における自然選択の役割を明らかにしましたが、現生人類集団では違いました。これは、後頭骨で明らかになったおもに中立の兆候とは対照的で、前頭骨と後頭骨における異なる進化の軌跡を示唆します。このパターンは、前頭骨の進化が前頭骨と顔面の統合による顔面の選択への相関応答であるように、顔面と脳頭蓋との間のモジュール性により促進されたかもしれません。


参考文献:
Baab KL.(2021): Reconstructing cranial evolution in an extinct hominin. Proceedings of the Royal Society B, 288, 1943, 20202604.
https://doi.org/10.1098/rspb.2020.2604

ネアンデルタール人の南限範囲の拡大および現生人類と共通する石器技術

 ネアンデルタール人の南限範囲の拡大および現生人類と共通する石器技術を報告した研究(Blinkhorn et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)集団とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)集団との間の交雑の遺伝的証拠(関連記事)を考慮すると、両者がいつどこで相互に遭遇したのか限定することは、現代人に共有されているネアンデルタール人からの遺伝的影響の理解に広範な結果をもたらします。

 年代測定された旧石器時代遺跡群が比較的狭い地域に豊富にあり、その多くで化石人類標本が保存されていたため、レヴァントは、これら人類集団間の生物学的および行動上の違い、および人類集団間の潜在的な相互作用を検証するための焦点の重要な地域です。レヴァントにおける現生人類集団とネアンデルタール人集団のどちらも初期の証拠は疎らで、中期更新世のホモ属集団間の広範な変動性を反映しているケセム洞窟(Qesem Cave)のような下部旧石器時代遺跡があり、中期更新世後期の地中海東部における現生人類の存在は、孤立した事例で示唆されています(関連記事)。後期更新世には、現生人類は海洋酸素同位体ステージ(MIS)5(13万~71000年前頃)にレヴァントに生息しており、次にレヴァントでの記録が確認されているのは5万年前頃以降です(関連記事)。

 MIS4(71000~59000年前頃)開始時のより涼しい気候条件の始まりとともに、ネアンデルタール人集団の化石が、中部旧石器時代後期石器群と関連した地中海東部沿岸の森林景観から一貫して発見されてきました。レヴァントにおけるネアンデルタール人の居住のより早期の証拠は、タブン(Tabun)C1の年代測定や由来など、議論になっています。したがって、MIS5以降、かなりの人口統計学的変化がレヴァントで観察でき、ネアンデルタール人が前には現生人類が存在したレヴァントへと北方から以拡大してきました。これは、現生人類と密接に関連している求心性ルヴァロワ(Levallois)剥片縮小に焦点を当てた石器群の置換と関連した集団転換として解釈されてきており、代わりに出現したのは、単方向収束ルヴァロワ尖頭器製作がとくに顕著であるように見える石器技術で、ネアンデルタール人と関連しています。人口統計学的および行動におけるこの明らかな転換は、新たな旧北区分類群が出現するレヴァントの動物相記録で見られるような、より寒冷な条件への回帰と関連する景観全体の変化と同時代のようで、人類集団間の相互作用の重要な背景を提供するかもしれません。

 最終氷期開始時のネアンデルタール人集団の南方への拡大を記録し特徴づけることは、適切な化石が保存されている遺跡の不足により複雑になっています。これは、生物学のパターンと文化的記録との間の直接的一致を描くことと、まずレヴァントにおけるネアンデルタール人の出現を報告した研究の歴史的慣行により複雑になっています。レヴァント全域で、人為的角礫岩のある遺跡は人類化石の主要な供給源となってきており、最小限の歴史的干渉しか見られなかったイスラエルのティンシェメット洞窟(Tinshemet Cave)のような遺跡(関連記事)では、新たな発見の可能性がありますが、残念ながらそうした遺跡は稀です。

 シュクバ洞窟(Shukbah Cave)はエルサレム北方のパレスチナのヨルダン川西岸のユダヤ/ヘブライの丘に位置し(図1)、人為的角礫岩が保存され、1928年にドロシー・ギャロッド(Dorothy Garrod)により大規模な発掘が行なわれた洞窟遺跡です。これらの発掘により、中部旧石器時代の人工物、化石動物相、稀な人類標本の豊富な収集物が得られましたが、最近の分析の不足も一因となって、レヴァントのより広範な研究ではほとんど見過ごされてきました。この人類化石はネアンデルタール人に分類されていますが、主要な人類化石は20世紀のほとんどを通じて私的収集物だったので、ネアンデルタール人との主張を検証する比較分析は禁止されていました。

 発掘された石器群は選択的に収集され、その後、完全なルヴァロワ剥片およびポイント、再加工石器群、少ないものの石核に重点が置かれ、発掘を支援したいくつかの世界の研究機関に分散されましたが、細かい借方(廃棄物)と単純な剥片と壊れた破片は廃棄されたようです。既知の石器収集物の最初の詳細な評価では、ネアンデルタール人遺骸のある他の中部旧石器時代遺跡に相当する石器技術が示唆されました。とくに、単方向収束ルヴァロワ尖頭器縮小の傑出に重点が置かれましたが、内側・遠位隆起を作成する剥離表面の特徴的な遠位発散痕パターンを有するルヴァロワポイントの図は、ヌビア式ルヴァロワ技術と一致しており、石器群内のより大きな多様性の証拠を示唆します。以下、本論文の図1です。
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 アラビア半島南部では、ヌビア式ルヴァロワ技術の存在は、アフリカからの現生人類の拡大を反映している、と主張されてきました。そのような技術と現生人類との間のつながりは、レヴァント南部でも提案されています。本論文は、シュクバ洞窟の化石と考古学的発見物を再検討し、アジア南西部の中部旧石器時代における人口統計学的および行動的多様性を調べます。本論文では、人類の下顎大臼歯(EM 3869)の外部および内部構造と、シュクバ洞窟D層の完全で人為的な角礫岩から回収された中部旧石器時代石器群の比較定量分析が行なわれます。


●EM 3869大臼歯標本の分析

 EM 3869(図2)は下顎右側大臼歯の永久歯で、その咬合や歯冠や歯根の形態から、M1もしくはM2と推定されます。以下、本論文の図2です。
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 EM 3869は、エナメル質表面や歯根といった外部特徴や、EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)のような内部特徴で、典型的なネアンデルタール人的特徴を示します。他の現生人類やネアンデルタール人の臼歯との比較は、図3aで示されます。EM 3869のサイズはネアンデルタール人に近いものの、現生人類の範囲とも一致します。EDJ形態の分析では、ネアンデルタール人と更新世の現生人類と完新世の現生人類は区別され、EM 3869標本はネアンデルタール人として分類されます(図3b)。以下、本論文の図3です。
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 EM 3869標本の歯根は比較的短く、ネアンデルタール人や化石現生人類や最近の現生人類の平均をわずかに下回ります。EM 3869標本は軽度のタウロドンティズム(歯根への歯髄腔の垂直拡大、歯根異常)を示します。他のアジア西部のネアンデルタール人のM1のタウロドンティズムは、存在しないか軽度です。タウロドンティズムはレヴァントのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)など初期現生人類でも見られます。EM 3869標本の歯根内の比率はネアンデルタール人の値と近いものの、化石および最近の現生人類とは異なります。


●石器群

 シュクバ洞窟遺跡D層の707点の石器が分析されました。これは、ギャロッドにより選択され報告された収集物全体の57%で、現在保管場所の判明している収集物の61%です。これらの石器は全て、さまざまな燵岩(チャート)で製作されています。分析の結果、ルヴァロワポイントの製作に重点が置かれていることは明らかである、という以前の分析が裏づけられましたが、本論文の分析では、以前の認識よりも石器群内の変動が大きい、と明らかになりました。本論文では、石核と剥片両方で明らかな剥離表面の形成パターンに関して、この多様性が強調されます。

 シュクバ洞窟石器群の評価では、12個のヌビア式ルヴァロワポイントと16個のヌビア式ルヴァロワポイント石核が明らかになりました(図5)。ヌビア式ルヴァロワ石器はアフリカとレヴァントの遺跡でも確認されており、レヴァントの他の全ての遺跡およびアフリカの多くの遺跡よりもシュクバ洞窟の方で多数見つかっていますが、アラビア半島南部の一部の遺跡ほど頻度は高くありません。より徹底的な石器収集戦略では、シュクバ洞窟の石器群でヌビア式ルヴァロワ石器の頻度はさらに高くなるかもしれません。以下、本論文の図5です。
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 ルヴァロワポイントのデータセットの多変量解析では、シュクバ洞窟D層のヌビア式ルヴァロワポイントが、D層のルヴァロワポイントと全体的な特徴では区別されない、と示唆されます(図6a)。本論文はこの分析を拡張し、アジア南西部のネアンデルタール人の存在期間および/またはネアンデルタール人遺骸の発見されている中部旧石器時代後期の石器群との比較により、シュクバ洞窟D層の石器群をより広い文脈に位置づけます。データセットの多変量解析では、これらの遺跡間でいくつかの内部の変動性が示唆され、シュクバ洞窟D層のルヴァロワポイントでは、地域的な変動性の全体的なパターンと明確な違いは示しません(図6c)。これは、選択的精選がデータセットを実質的にゆがめなかったことを示唆します。

 分析の結果から、シュクバ洞窟のヌビア式ルヴァロワポイントは、MIS4および3の多くの遺跡で明らかなルヴァロワポイントと一致する形状を示す、と示唆されます。ヌビア式ルヴァロワポイントがとくに豊富なアラビア半島南部の石器群(関連記事)、およびカフゼーやスフールなど他の現生人類と直接的に関連している中部旧石器時代遺跡の石器群との比較では、アラビア半島のヌビア式ルヴァロワポイントと他のルヴァロワポイントとの間の有意な違いが示唆され、おもにサイズの違いにより説明できます。シュクバ洞窟のヌビア式ルヴァロワポイントは、形状的に分析対象のルヴァロワポイントのより広範な標本と類似しており、ヌビア式ルヴァロワ石器群の変動性とも部分的に重なります。

 石核データセットの多変量解析により、シュクバ洞窟のルヴァロワ剥片とポイント石核との間の実質的な違いが明らかになりました。ヌビア式ルヴァロワ石核の変動性は、他のポイント石核間で観察された変動性と大きく重複しています(図6b)。シュクバ洞窟D層のルヴァロワポイント石核とヌビア式ルヴァロワポイント石核は、他の中部旧石器時代後期の比較石器群に存在するポイント石核と同等の変動性を示し、比較研究のための石器群の潜在的有用性をさらに裏づけます。とくに、ネアンデルタール人遺骸が発見された、イランのまだ年代測定されていないビストゥン(Bisitun)洞窟遺跡のルヴァロワポイントの精査でも、ルヴァロワ石核(図5i)が明らかになり、これはヌビア式ルヴァロワ技術の記載と一致し、地域全体でのより広範な出現が示唆されます。多くの場合、ヌビア式ルヴァロワ技術は存在しても低頻度ですが、借方(廃棄物)のさらなる調査はこの発見を裏づけるかもしれません。中部旧石器時代後期の比較遺跡群から標本抽出された全てのルヴァロワ石核全体の変動性の調査から、ポイント石核は通常、剥片石核間で観察された変動性の部分集合を示す、と明らかになり、シュクバ洞窟で識別された傾向を裏づけます(図6d)。

 本論文では、アフリカ東部とアジア南西部にまたがる後期更新世比較石器群全体のルヴァロワ石核間の変動性が調べられました。このデータセットの多変量解析では、ルヴァロワ剥片石核は形状的にポイント石核よりも多様で、それはこの多様性の部分集合を示すものの、アラビア半島南部のヌビア式ルヴァロワポイント石核はこのパターンからの逸脱を示し、それはおもに石核サイズの違いに起因する、という示唆がさらに裏づけられます(図6f)。この文脈内では、シュクバ洞窟のヌビア式ルヴァロワポイント石核は、比較データセット全体の他のルヴァロワポイント石核と一連の特徴を共有し、ヌビア式ルヴァロワポイント石核で観察された変動性を拡張します。以下、本論文の図6です。
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●考察

 シュクバ洞窟の化石と石器の新たな分析により、ネアンデルタール人の形態と物質文化両方における予期せぬ多様性が明らかになりました。本論文の結果は、EM 3869標本がネアンデルタール人集団に確実に属することを明らかにし、以前の評価を裏づけます。摩耗の程度や完全に発達した歯冠などから、EM 3869標本個体の死亡年齢は7~12歳と推定されます。ネアンデルタール人の歯の発達には大きな違いがあり、さらに正確な年齢を推定することはできません。シュクバ洞窟のネアンデルタール人の大臼歯のサイズは、アムッド(Amud)やデデリエ(Dederiyeh)やケバラ(Kebara)やシャニダール(Shanidar)やタブン(Tabun)やテシクタシュ(Teshik-Tash)といった他のアジア西部のネアンデルタール人よりもずっと大きいものの、ヨーロッパのネアンデルタール人、とくにクロアチアのクラピナ(Krapina)のネアンデルタール人とより近くなっています。EM 3869標本は、ネアンデルタール人のM1では最大級となり、ネアンデルタール人の間の形態計測の多様性に追加されます。EM 3869標本は、確実にネアンデルタール人に分類されたことで、既知のネアンデルタール人集団の最南端の化石となります。

 シュクバ洞窟D層の石器技術は、しばしばネアンデルタール人化石と関連して、レヴァント全域で見られる他の中部旧石器時代後期石器群の広範な特徴を共有しています。しかし、シュクバ洞窟石器群の詳細な分析により、ヌビア式ルヴァロワ技法の存在が明らかになり、この技術とネアンデルタール人との関連を初めて示します。ヌビア式ルヴァロワ技術とその現生人類への顕著な帰属に関しては、かなりの論争があります。ヌビア式ルヴァロ技術の時間・空間・技術的文脈全体の広範な分布と、通常は発見数が少ないことから、文化的継承の堅牢な指標としての有用性に疑問が呈されています。ネアンデルタール人と関連するシュクバ洞窟、また可能性があるビストゥン洞窟のヌビア式ルヴァロワ技術の出現は、ルヴァロワポイント製作に焦点を当てた結果として生じる技術的収束により最も簡潔に説明されます。これは、ヌビア式ルヴァロポイントおよび石核と他のルヴァロワポイントの製作手法間で見られる広範な重複と一致します。中部旧石器時代および(サハラ砂漠以南のアフリカの)中期石器時代集団間のヌビア式ルヴァロ技法の文化的継承は、この発見により排除できませんが、それらはまだ実証されておらず、最節約的な説明を表していません。本論文の結果から、ヌビア式ルヴァロ技術と現生人類との間の直接的つながりはもはや想定できない、と示唆されます。

 EM 3869標本のネアンデルタール人形態と、シュクバ洞窟D層の石器群の中部旧石器時代後期的特徴は、7万~5万年前頃のレヴァントのより広範なネアンデルタール人の存在と一致します。じっさい、ヌビア式ルヴァロ技術は、「ヌビア複合(Nubian Complex)」(関連記事)の提案者によりMIS5と顕著に関連づけられていますが、詳細な分析は、中期更新世後期および後期更新世全体の、中部旧石器時代および中期石器時代石器群間の繰り返しの出現を示唆します。その結果、シュクバ洞窟のヌビア式ルヴァロワ技術の出現だけでは、明確な年代的制約を提供せず、むしろ石器群のより広範な特徴は、ネアンデルタール人と関連する他の石器群に相当するままです。これは動物相記録の評価とも一致しており、ハタネズミ(キヌゲネズミ亜科)の存在とアフロアラビア動物相の不在が示唆され、それはレヴァントにおける氷河期の開始で特定されたより広範な動物相の変化を示しています。これらの知見を組み合わせると、シュクバ洞窟D層の居住は、7万~5万年前頃のレヴァントにおけるネアンデルタール人の存在のより広範な時間枠への帰属を裏づけますが、これを確認するには、直接的な年代測定が必要です。

 ネアンデルタール人の範囲の限界を調べることは、ネアンデルタール人集団の環境耐性を評価し、その生態学的適応性と行動の柔軟性を調査するのに重要です。シュクバ洞窟におけるネアンデルタール人の居住の確認は、ネアンデルタール人集団の範囲を大きく南方へと拡大します。ネアンデルタール人は多様な技術と関連し、他のルヴァロワ技法の中でもヌビア式ルヴァロワ縮小手法の存在が明らかです。これらの知見は、トール・ファラジ(Tor Faraj)やトール・サビーハ(Tor Sabiha)のような、さらに南方の遺跡にさえネアンデルタール人が存在したとの仮定を裏づけるのに役立ちます。

 レヴァントにおけるネアンデルタール人の存在は伝統的に、地中海森林生息地と関連づけられており、野営地は起伏の多い地形に位置しているようで、資源生態的地位を圧迫している可能性がありますが、シリアとイラン(関連記事)の一見すると乾燥した地域におけるネアンデルタール人の存在は、アジア南西部の生態系への適応におけるネアンデルタール人のより広範な行動の柔軟性を示唆します。シュクバ洞窟は現時点で、ネアンデルタール人の範囲の最南端を示しており、現生人類集団との相互作用の検証にさいして、レヴァントのこの地域の潜在的重要性を強調します。しかし、シュクバ洞窟は、ネアンデルタール人がさらに南方の乾燥地帯に拡大するための、重要な足がかりを提供したかもしれません。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、ネアンデルタール人の生息範囲の南限をさらに拡大したという点で、注目されます。アフリカではまだ明確なネアンデルタール人遺骸は発見されていないと思いますが、あるいは、ネアンデルタール人が一時的にでもアフリカにまで拡散したこともあったのでしょうか。また本論文は、特定の石器技術を特定の生物学的人類集団と結びつける危険性を改めて示したという点でも注目されます。ヌビア式ルヴァロ技術も含めて、レヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類との相互作用がどのようなもので、いつから始まったのか、まだわずかしか明らかになっていない、と言うべきでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Blinkhorn J. et al.(2021): Nubian Levallois technology associated with southernmost Neanderthals. Scientific Reports, 11, 2869.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-82257-6

大河ドラマ『青天を衝け』第2回「栄一、踊る」

 今回も渋沢栄一の子供時代が描かれました。栄一の子供時代は、栄一の周囲の物語を中心に、徳川慶喜の周囲の物語も描くという構成になっています。この二重構成で、農村と中央政界とを描くという意図なのでしょう。この構成は栄一が慶喜に仕えるまで続きそうで、その後も、栄一は外国に行きますから、その間は慶喜を中心に幕末の国内情勢が描かれるのでしょう。この構成は2008年放送の大河ドラマ『篤姫』と似ており、NHKでは今でも『篤姫』が最良の模範作と考えられているのかな、と思います。まあ、栄一のように当初から政治の中心にいたわけではない人物を主人公とする場合、大河ドラマとして無難な構成かな、とも思いますが。

 大河ドラマ愛好者の多くは、何よりも合戦場面を、次に中央政界の政治劇を好みそうですから、前回と今回のような農村の話を退屈と考えるかもしれませんが、農村場面は当時の豪農を中心に人々の生活が描かれ、ロケが多く鮮やかな映像になっているので、私はさほど不満に思っていません。何よりも、栄一の人となりとその形成過程を描かねばなりませんから、栄一と両親や親族との関りを中心として、農村場面を重点的に描くことは必須だと思います。今回、終盤で栄一や周囲の人物は成人役に交代となります。初回の冒頭と第2回の終盤に成人後の主演を登場させれば、全回で主演をクレジットに載せられるので、大河ドラマの定番の手法となっています。本作の子役との交代は獅子舞の場面となり、悪くない演出だったと思います。栄一が中央政界と関わるのはもう少し先なので、しばらくは農村の話が中心となりそうですが、青春群像劇といった感もあり、私はなかなか楽しめています。

『卑弥呼』第57話「事代主」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年3月5日号掲載分の感想です。前回は、那(ナ)の国のウツヒオ王が、日見子(ヤノハ)と2人だけで会いたい、という出雲の神和(カンナギ)にして金砂(カナスナ)国の支配者である事代主(コトシロヌシ)からの申し出を、議なのか戦なのか、思案するところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、出雲で事代主の世話をしているシラヒコが、事代主に朝餉を用意する場面から始まります。事代主は穏やかな感じの中年男性です。事代主はシラヒコに、自分の選択をどう思うか、尋ねます。しつこく国を譲るよう要求する日下(ヒノモト)の国にはうんざりしているものの、これ以上鬼国(キノクニ)と戦い続ける力も自国にはないので、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に顕れた新しき日見子(ヒミコ)が自分と和を結ぶか、それとも戦を望むか問えるのは、日下が沈黙した今しかなかった、というわけです。シラヒコは、今度の日見子様(ヤノハ)は政治にも秀でた方と聞いているので、きっとこちらの意を汲んでくれるはずだ、と答えます。では、真の泰平も夢ではない、と事代主は言います。

 夜萬加(ヤマカ)の洞窟で鹿の骨を焼いて占っていたヒルメは、そのひび割れから何も読めない、と悩んでいました。そこへ、山社(ヤマト)の近くの森に火を放ち、ヤノハが真の日見子なのか確かめるようヒルメから命じられていた、山社の祈祷女(イノリメ)の副長であるウズメが現れます。命じられた通り森に火を放った、とウズメから報告を受けたヒルメは、これでヤノハの神通力は消えた、いや元々持っていなかったのだから、化けの皮が剥がれたと言うべきか、と喜びます。すると、ウズメは怒って取り乱し、日見子様(ヤノハ)の祈祷が天に通じて雨が山火事をすっかり消し去った、一時でも日見子様が偽物と疑うなど、我々は大罪を犯した、と言って刃物を取り出し、ヒルメを殺して自殺しようとします。ヒルメは近くの灰をウズメの顔に投げつけ、鹿の骨でウズメの首を刺して殺し、何とか難を逃れます。ヒルメは、ヤノハを犯すよう命じていたナツハから報告がないことを不審に思います。

 山社では、ヤノハがミマト将軍とイクメにまだ謁見を許さず、楼観に籠っていました。山火事は昨日収まったので報告をしたい、と言うミマト将軍に対して、娘のイクメは、山火事は一見鎮まったように見えて必ずくすぶっているので、それが消えるまで祈祷を続ける、とのヤノハの意図を父に説明します。ヤノハが楼観に籠ってから、すでに5日目になっていました。そこへ、那のウツヒオ王からの使者が木簡(日本列島における木簡使用の証拠は、現時点では7世紀までしかさかのぼらないと思いますが)を届けてきます。那の使者から木簡を受け取ったミマト将軍の部下らしいタカクラは、どうしても日見子様の判断を仰ぎたい、とのウツヒオ王の要請をミマト将軍とイクメに伝えますが、日見子様は祈祷中なので、誰も面会はできない、とイクメは言います。するとタカクラは、この木簡の差出人はウツヒオ王ではなく出雲の王(事代主)で、那の使者によると、放置すれば戦が起きる一大事だ、とミマト将軍とイクメに伝えます。楼観に籠り切りのヤノハは、どうしたらよい、とモモソに問いかけます。幸運にも大雨が降って山火事は消え、自分の力を皆が過大評価するようになるが、そもそも自分には力すらない、とヤノハ自嘲します。モモソのように本当に神通力を持つ誰かが現れれば、すぐにその者に倭の安寧を託し、自分は弟のチカラオ(ナツハ)と雲隠れできるのに、とヤノハぼやきます。

 そこへチカラオが現れ、ヤノハは布で隔てて自分の姿が見えない状況で、ミマト将軍とイクメから報告を受けます。イクメはヤノハに、出雲は金砂国の聖地で、事代主は山社の日見子・日見彦(ヒミヒコ)に相当する人物だ、と説明します。自分とは違う神の使いなのか、とヤノハに問われたイクメは、金砂や吉備(キビ)が奉ずるのは大穴牟遅(オオアナムヂ)という神だ、と答えます。出雲から那に届けられた木簡の内容をヤノハに問われたミマト将軍は、事代主からの国譲りの申し出だ、と答えます。それは、筑紫島を譲れということなのか、それとも金砂国を譲るということなのか、とヤノハに問われたミマト将軍は、どちらにも取れる、と答えます。イクメがヤノハに、事代主は筑紫島と和議を結ぶため、日見子様(ヤノハ)と対決したいと所望している、と説明します。和議のための対決とは何なのか、とヤノハに問われたイクメは、日見子様が奉ずる神と、事代主が信ずる神のどちらが倭国を真に司る神か二人で決しようとの提案だ、と答えます。面白い、と言うヤノハに、裏がある話かもしれないのでこの申し出を受けるべきではない、とイクメもミマト将軍も反対します。するとヤノハは、自分の大望は誰がやってもよいのではないかと常々思っていた、と意図を打ち明けます。万が一、自分が敗れても、倭を平らかにする大仕事は事代主に任せられるわけですね、とヤノハが愉快そうに笑い、すぐ真顔に戻るところで今回は終了です。


 今回は、出雲の事代主が登場し、いよいよ壮大な話になってきたな、と今後がますます楽しみになってきました。出雲の社はひじょうに高く、出雲大社は古代には現在よりもずっと高い建物だった、との見解が採用されているようです。事代主は、政治力の高い現在の日見子(ヤノハ)ならば、自分の意を汲んでくれるだろう、と言っているので、単純に日見子と対決して、どちらの神が倭国を真に司るのか、決しようとしているわけではなさそうです。事代主の意図がどこにあり、ヤノハがそれを見抜いてどのような決断を下すのか、たいへん注目されます。他に適任者がいれば倭国泰平を任せてもよい、とのヤノハの発言は、弟のチカラオと逃亡しようと決断したことからも、本音でしょう。その開き直りとも言えるヤノハの思い切りのよさが、チカラオに犯されて窮地に立っている現状を打開するのかもしれません。また、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔が治める日下の動向も気になります。日下が沈黙した隙に、事代主は山社と接触したわけですが、日下の沈黙の理由とともに、日下の偵察を命じられたトメ将軍とミマアキが任務を果たせるのかも注目されます。これまで、本作の舞台は基本的に九州に限定されていましたが、いよいよ本格的に本州が登場しそうで、今後の話も大いに期待されます。

新型コロナウイルス症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人由来の遺伝子

 新型コロナウイルス症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の遺伝子に関する研究(Zeberg, and Pääbo., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ネアンデルタール人は50万年前頃にユーラシア西部で進化し、その後はアフリカの現生人類(Homo sapiens)の祖先とはほぼ離れて生存していましたが、アフリカからの限定的な遺伝子流動が起きた可能性は高そうです(関連記事)。その後、ネアンデルタール人とアジアにおけるその姉妹集団である種区分未定のデニソワ人(Denisovan)は、4万年前頃に絶滅しました。しかし、ネアンデルタール人は、滅亡前の数万年間に起きた現生人類集団への遺伝的寄与を通じて、現代人の生理機能に影響を与えてきました(関連記事)。

 これらの寄与のうち一部は、ネアンデルタール人が数十万年以上暮らしていたアフリカ外の環境への適応を反映しているかもしれません(関連記事)。この期間に、ネアンデルタール人は感染症に適応した可能性があり、それは、少なくとも部分的には、サハラ砂漠以南のアフリカ人とユーラシア人との間で異なっていたかもしれない強い選択要因である、と知られています。じっさい、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)から現生人類へともたらされたいくつかの遺伝的多様体は、免疫に関連する遺伝子に影響を与えた、と示されてきました(関連記事)。とくに、自然免疫(先天性免疫)におけるいくつかの遺伝子座の多様体、たとえば、ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)感染症への感受性やアレルギーの危険性を低下させるToll様受容体遺伝子多様体は、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来します(関連記事)。さらに、RNAウイルスと相互作用するタンパク質は、予測よりも頻繁にネアンデルタール人から遺伝子移入されたDNA領域によってコードされていると示されており、RNAウイルスは人類において多くの適応的事象を引き起こした可能性があります。

 最近、3番染色体上の1領域のハプロタイプが、重症急性呼吸器コロナウイルス2(SARS-CoV-2、新型コロナウイルス)に感染すると重症化することと関連し、ネアンデルタール人から現生人類にもたらされた、と示されました(関連記事)。SARS-CoV-2により起きる症状は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれ、無症状もしくは軽症から呼吸不全への急速な進行まで、症状が大きく異なります。このハプロタイプの各コピーは、SARS-CoV-2に感染した場合に保因者の集中治療を必要とする危険性を約2倍にします。このハプロタイプは、アジア南部では最大65%、ヨーロッパでは最大16%の頻度に達しますが、アジア東部ではほとんど存在しません。したがって、このハプロタイプは現在の大流行時にはその保因者にとって有害ですが、アジア南部では以前には、おそらくは他の病原体に対する防御をもたらすことにより有益だったかもしれません。一方アジア東部では、このハプロタイプは負の選択により除去されたかもしれません。

 救命救急診療における死亡率の遺伝学(GenOMICC)協会からの新たな研究が、最近利用可能になりました。これには、2244人の重症のCOVID-19患者と対照群が含まれます。3番染色体上のリスク遺伝子座に加えて、6・12・19・21番染色体に位置する、ゲノム規模で有意な影響を持つ7ヶ所の遺伝子座が特定されました。本論文は、これらの遺伝子座の1ヶ所で、SARS-CoV-2感染時に重症化する危険性の減少と関連するハプロタイプが、ネアンデルタール人に由来することを示します。


●12番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプ

 指標一塩基多型、つまり6・12・19・21番染色体上の、SARS-CoV-2感染時に集中治療を必要とする危険性と関連した7ヶ所の遺伝子座において最も強い関連性を有する一塩基多型は、ネアンデルタール人的なアレル(対立遺伝子)を有しています。この解明のため、指標一塩基多型のアレルの一つが、アフリカのヨルバ人108個体のゲノムで欠けている一方で、高品質のネアンデルタール人3個体のゲノム全てと合致する、という場合が求められました。6・19・21番染色体上の遺伝子座にはこれらの基準を満たす指標一塩基多型はありませんでしたが、12番染色体上にはありました。

 この遺伝子座をさらに調べるため、COVID-19ホストジェネティクスイニシアチブ(Host Genetics Initiative、略してHGI)のデータが用いられました。その結果、COVID-19での入院と関連する12番染色体上の遺伝子座における一塩基多型は、ヨーロッパ人では連鎖不平衡(LD)にあり、75000塩基対のハプロタイプ(113350796~113425679、ハプログループ19)を形成する、と明らかになりました(図1)。ヨルバ人には存在しないものの、ネアンデルタール人には存在するこの長さのアレルを有するハプロタイプは、ネアンデルタール人との交雑により現生人類の遺伝子プールに導入された可能性が高そうです。以下、本論文の図1です。
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 75000塩基対のハプロタイプがネアンデルタール人からの遺伝子流動の結果なのかどうか検証するため、現代人および古代人のゲノムが分析されました。そのために、1000人ゲノム計画の個体群で10回以上見られたハプロタイプと、シベリア南部アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の7万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の5万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)、シベリア南部アルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の12万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)および8万年前頃のデニソワ人(関連記事)のゲノム配列が用いられました。図2では、これらのハプロタイプ間の関係を推定した系統樹が示されています。現代人の64個のハプロタイプでは、8個がネアンデルタール人3個体の配列と単系統群を形成します。以下、本論文の図2です。
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 ネアンデルタール人のゲノムと類似したゲノム断片は、50万年前頃に存在した両者の共通祖先に由来するか、10万年前未満の両者の混合によりネアンデルタール人から現生人類へともたらされたかもしれません。75000塩基対の断片がゲノムのこの領域で、各世代の染色体に影響を与える組換えにより解体されずに両者の共通祖先以来存続してきたのかどうか検証するために、既知の計算式を用いました。それは、1世代29年、100万塩基対当たり0.80cM(センチモルガン)の領域組換え率、ネアンデルタール人と現生人類との間の55万年前頃の分岐年代と5万年前頃の交雑です。これらの仮定では、この領域において、長さ16300塩基対もしくはより長い塩基対の断片は、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先集団に由来するとは予想されず、75000塩基対のハプロタイプがそうである可能性はほとんどありません。したがって、このハプロタイプはネアンデルタール人から現生人類の遺伝子プールにもたらされた、と結論づけられます。これと一致して、以前の研究では、このゲノム領域におけるネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動が報告されました。


●COVID-19の防御と地理的分布

 GenOMICC研究における防御ハプロタイプの指標多様体(rs10735079)は、ネアンデルタール人3個体全員のゲノムに合致します。集中治療を必要とする相対的な危険性は、ネアンデルタール人のハプロタイプ1コピーごとに22%減少します。系統学から予想されるように(図2)、指標一塩基多型の防御アレルと同時分離するアレルのほぼ全ては、ネアンデルタール人のゲノムに見られます。現在、このハプロタイプはサハラ砂漠以南のアフリカ人集団ではほぼ完全に存在しませんが、ユーラシアのほとんどの集団では25~30%の頻度で存在します(図3)。アメリカ大陸では、アフリカ人系統の一部集団でより低い頻度になっており、おそらくはヨーロッパ人もしくはアメリカ大陸先住民系統の集団からの遺伝子流動に起因します。以下、本論文の図3です。
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●推定機能多様体

 12番染色体上のCOVID-19重症化に対する防御的なネアンデルタール人のハプロタイプは、オリゴアデニル酸合成酵素をエンコードする、3個の遺伝子(OAS1とOAS2とOAS3)の全てもしくは一部を含みます。これらの酵素はインターフェロンにより誘導され、二本鎖RNAにより活性化されます。これらの酵素は短鎖ポリアデニル酸を生成し、それが次に細胞内二本鎖を分解し、ウイルスに感染した細胞内の他の抗ウイルスメカニズムを活性化する酵素である、リボヌクレアーゼLを活性化します。

 これらの遺伝子のどれがCOVID-19重症化に対する防御に関わっているのか調べるために、COVID-19重症化と関連する一塩基多型のP値の下で、3個のOAS遺伝子のゲノムの位置が示されました。関連は3個のOAS遺伝子全てと重複していますが、最も有意な関連の一塩基多型はOAS3にあります。しかし、関連における高水準の連鎖不平衡と確率性は、P値に基づく因果関係に関する結論を薄弱にします。

 それにも関わらず、機能的に重要である可能性があるものとして際立っているネアンデルタール人のハプロタイプにはアレルがあります。1個の一塩基多型(rs10774671)は、OAS1遺伝子のスプライス受容体に影響を及ぼすものとして説明されてきました。この一塩基多型における派生的アレルは現代人において最も高頻度のアレルで、いくつかのタンパク質アイソフォームがネアンデルタール人で保存されている祖先的アイソフォームの代わりに生成されるように、OAS1遺伝子の転写のスプライシングを変えます。後者のネアンデルタール人的なアイソフォームは、現代人で一般的な派生的アイソフォームよりも高い酵素活性を有します。アフリカ外では、祖先的アレルはネアンデルタール人のハプロタイプの文脈でのみ存在しますが、アフリカにおいては、おそらくアフリカから拡散した現生人類集団では失われた遺伝的多様体が現生人類とネアンデルタール人の共通祖先から継承されたので、祖先的アレルはネアンデルタール人的なハプロタイプとは別に存在します。

 スプライス受容体部位に加えて、ネアンデルタール人のハプロタイプは、OAS1遺伝子に1個のミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)多様体(rs2660)、OAS3遺伝子に1個のミスセンス多様体(rs1859330)と2個の同義多様体(rs1859329とrs2285932)、OAS2遺伝子に1個のミスセンス多様体(rs1293767)を含んでいます。これらネアンデルタール人的な多様体のうち3個は祖先的で、アフリカ人でも見られますが(rs2660とrs1859330とrs1859329)、2個はネアンデルタール人において派生的です(rs2285932とrs1293767)。

 12番染色体のハプロタイプにおけるいくつかの一塩基多型は、以前に他のウイルス感染への影響に関して研究されてきました。ネアンデルタール人的なスプライス受容体多様体は、西ナイルウイルスに対する防御と関連しており(rs10774671)、ネアンデルタール人的なハプロタイプはC型肝炎感染への耐性増加と関連しています。とくに、OAS1遺伝子のネアンデルタール人のミスセンス多様体(rs2660)もしくはこの多様体を有する連鎖不平衡における多様体は、SARS-CoVに対する中程度から強い防御と関連している、と示されてきましたが、この研究は症例と対照の数が限られていました。SARS-CoVはSARS-CoV-2と密接に関連しており、2003年に出現し、全年齢の感染者で9%の死亡率を引き起こし、高齢者ではずっと高い死亡率となりました。OAS遺伝子群のネアンデルタール人型は、発現水準とスプライス形態の両方の観点から、組織培養の細胞において色々なウイルスの感染に対してさまざまな応答で発現されます。


●経時的なハプロタイプ頻度

 過去数年の間に、先史時代人類の何千ものゲノム規模データが生成されてきました。これにより、遺伝子多様体の頻度がどのように経時的に変化してきたのか、直接的に測定できるようになります。この手法は、個体数が比較的小規模であることと、データが利用可能な地域により依然として制約されていますが、本論文では、SARS-CoV-2感染時の臨床転帰に影響を与える2個のネアンデルタール人由来のハプロタイプで適用されました。

 12番染色体上のネアンデルタール人のOASハプロタイプに標識を付けるため、派生的なネアンデルタール人アレルを有しており、GenOMICC研究の指標多様体と関連し、本論文で用いられた古代人ゲノムの大半を研究するために使われたAffymetrix Human Originsアレイにより遺伝子型決定された、1個の一塩基多型(rs1156361)が用いられます。この分析は、単一の標識一塩基多型を追跡するという点で制限されていますが、それがネアンデルタール人系統とネアンデルタール人のハプロタイプを有する連鎖不平衡で派生しているという事実により、この分析が実行できます。本論文では、分析がユーラシアに限定され、データを20000~2000年前頃の間の5期間に分割し、利用可能なゲノムの数を比較考量しながら、頻度の潜在的な違いが識別できるようにされます。

 図4Aは、ネアンデルタール人のOASハプロタイプが2万年前頃以前には10%未満の頻度だったようであることを示します。2万~1万年前頃、このアレル頻度は15%程度でした。その後、3000~1000年前頃までには、20%かわずかに20%未満の頻度だったようです。興味深いことに、ユーラシアにおける現在のアレル頻度は約30%で、ネアンデルタール人のOASハプロタイプの頻度は比較的最近増加したかもしれない、と示唆されます。

 同様に、3番染色体上のネアンデルタール人のリスクハプロタイプ(関連記事)の頻度を推定するため、上記の適用基準を満たす一塩基多型(rs10490770)が使用されました(図4B)。2万年前頃までは、利用可能な16個体のゲノムではリスクハプロタイプが見つかりませんでした。2万~1万年前頃とその後の個体群では、このハプロタイプは現在まで約10%の頻度です。したがって、OAS遺伝子座と同様に、ネアンデルタール人の3番染色体遺伝子座は、その頻度が2万年前頃以前にはそれ以降の期間よりも低かったようです。しかし、データはまだ不足しているので、この観察は予備的です。OAS遺伝子座とは対照的に、3番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプの頻度は、歴史時代に増加の兆候が見られません。以下、本論文の図4です。
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 注意すべきは、先史時代の利用可能なデータはユーラシア西部に大きく偏っており、とくにより古い時期にはまだ疎らであることです。しかし、古代人遺骸の追加のデータが急速に生成されており、アレル頻度のゲノム規模変化を引き起こす移住事象の補正と同時に、特定の地域における経時的なアレル頻度の研究により、すぐに正および負の選択の標的だった可能性がある遺伝子座を特定できる、との確信を本論文は述べています。

 これらの注意にも関わらず、ネアンデルタール人由来のOAS遺伝子座のユーラシアにおける最近の頻度増加は興味深いことです。これは、現代人集団間の多様性に関する以前の研究と一致しており、この遺伝子座は正の選択を受けた、と示唆されます。それはまた、たとえば断片的な受容体部位(rs10774671)で祖先的多様体を有する、この遺伝子座の型をデニソワ人がオセアニアの人々にもたらしたこととも一致しており、オセアニア現代人ではかなりの頻度に達します。


●結論

 12番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプは、現在のSARS-CoV-2の大流行における重症化への防御です。それはユーラシアとアメリカ大陸の現代人集団に存在し、その保有者の頻度は50%に達するか超えることが多くなっています。したがって、祖先的なネアンデルタール人のOAS遺伝子座多様体は、ユーラシア全域では現生人類にとって有利だったかもしれません。それはおそらく、とくにネアンデルタール人のハプロタイプが少なくとも3個のRNAウイルス(西ナイルウイルスとC型肝炎ウイルスとSARS-CoV)に対する防御になると明らかになっていることを考慮すると、RNAウイルスを含む一つもしくは多くの伝染病に起因します。この見解を裏づけるシミュレーションでは、ネアンデルタール人のOASハプロタイプは現生人類では正の選択下にあった、と示されました。

 驚くべきことに、現代人のOASハプロタイプによりコードされるOAS1タンパク質は、ネアンデルタール人のハプロタイプによってコードされるタンパク質よりも低い酵素活性となります。これは、アフリカにおいてある時点で有利になった可能性があります。なぜならば、OAS1遺伝子座の機能喪失型変異が多くの霊長類で多く起きているからで、OAS1活性の維持は組織にコストがかかることを示唆します。現生人類がアフリカ外で新たなRNAウイルスに遭遇した時、ネアンデルタール人との遺伝的相互作用を通じて獲得された祖先的多様体のより高い酵素活性が有利だったかもしれない、と推測することは可能です。

 興味深いことに、ネアンデルタール人的なOASハプロタイプの頻度が最近ユーラシアで増加したかもしれない、という証拠があり(図4A)、過去千年に選択がネアンデルタール人由来のOAS遺伝子座に正の影響を与えたかもしれない、と示唆されます。歴史時代の人類遺骸の将来の研究により、これが起きたかどうか、またいつ起きたのか、明らかになるでしょう。


 以上、ざっとこの研究を見てきました。上述のように、現代人の3番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプがCOVID-19重症化の危険性を高める、と指摘されており、たいへん注目されましたが、現代人の12番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプには、COVID-19重症化の防御になるものもある可能性が高い、と示されました。アジア東部では、日本は中国北部よりもその割合が低いようで、これも何らかの選択圧と関わっているのかもしれません。また、COVID-19重症化の危険性を高める3番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプが、2万年以上前のユーラシアの個体群ではまだ見つかっていないことも注目されます。このハプロタイプを有する集団は、比較的緯度の低い地域に存在したのかもしれず、今後の古代DNA研究の進展により、どのようにアジア南部で高頻度になったのか、解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Zeberg H, and Pääbo S.(2021): A genomic region associated with protection against severe COVID-19 is inherited from Neandertals. PNAS, 118, 9, e2026309118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026309118

上横手雅敬『日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2002年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は雑誌の連載をまとめた、中世史を中心とした歴史随筆集ですが、著者は日本中世史の碩学だけに、教えられるところが多々ありました。これまで知らなかったこととして、著者は1953年頃に研究者として歩み始めますが、当時は社会主義に共感する知識人が多く、歴史学も例外ではなかったなか、漠然たる好古趣味から歴史学を専攻した著者は、意識の低さを軽蔑され、肩身の狭い思いをした、ということです。

 著者のような碩学でもそうだったのか、とやや意外ではありましたが、特定の思想に傾倒して歴史学を志したわけではないことも、著者が歴史学の研究者として大成した一因なのかもしれません。著者は、近い将来の社会主義到来を知識人が確信していた一方、一般庶民はその生活感覚から社会主義が到来するとは思っていなかった、と指摘し、学問をするほど人間は愚かになるのだろうか、と問題提起します。著者はそうして悩むなか、過去は現在とは異なる社会で、それを解明するのが歴史学である、という立場から、現代との継続性も意識するようになったそうです。

 そうした視点から語られるそれぞれの話は、さすがに碩学だけあって教えられることも考えさせられることも多く、本書は体系的な通史ではなく、特定の問題を取り上げているわけでもありませんが、読んで正解でした。たとえば、平安京は天皇・貴族・官僚の都であり、庶民生活の発達に基づいて形成された都市ではなかったことを、『今昔物語集』と芥川龍之介の小説から一般向けに分かりやすく解説するところは、碩学らしく巧みだと思います。藤原頼長など「悪」を滅ぼしたのは凡俗の人々が構成する「世」だった、との指摘も考えさせられます。

海鳥グアノ肥料により1000年頃から発達したアタカマ砂漠の農業

 海鳥グアノ肥料によりチリのアタカマ砂漠で紀元後1000年頃から農業が発達したことを報告する研究(Santana-Sagredo et al., 2021)が公表されました。この研究は、アタカマ砂漠で得られた紀元前1000~紀元後1800年頃のトウモロコシ・チリペッパー・ウリ・豆類・キヌア・野生地場果実の完全な標本を分析しました。その結果、紀元後1000年頃から窒素同位体値が大幅に上昇している、と明らかになりました。最も変化が大きかったのはトウモロコシで、窒素同位体値は30‰上昇していました。

 この研究は、同じ地域と年代範囲の800以上の既報のヒト同位体値を分析し、ヒトの骨のコラーゲンが同様の傾向をたどっていることも明らかにしました。さらに、炭素同位体値の有意な上昇も明らかになり、同時代にトウモロコシの消費量が増加した、と示唆されました。スペイン人が侵略する以前(先コロンブス期)のチリ北部の考古学的記録には、極端な乾燥条件では説明のつきにくい水準の農業の成功を示唆する、多様な作物が大量に保存されていたわけです。

 この研究は、こうした窒素同位体値の極端な上昇(考古学的植物に関しては世界最高の上昇)は、海鳥グアノを作物の肥料として使用したことに起因する、と推測しています。この研究は、「白い金」として知られる海鳥グアノ肥料の使用が、インカ帝国前における、農業の集約化と人口増加、さらにはこうした極端な環境条件ではあまり見られない社会の複雑性に強い影響を与えた、と指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


農業:海鳥グアノが紀元1000年以降のアタカマ砂漠でのロバストな農業を促進した

 「白い金」として知られる海鳥グアノ肥料は、アタカマ砂漠の乾燥地域にありながら生産性が高かった、前インカ文明の農業システムに貢献した可能性があることを報告する論文が、Nature Plants に掲載される。この知見は、現在のチリ北部で紀元1000~1450年に大規模な人口集積地と社会が発達したことに光を当てるものである。

 世界で最も乾燥した砂漠に位置するロバストな農業システムが、数世紀にわたって前インカ文明を支えていた。スペイン人が侵略する以前のチリ北部の考古学的記録には、説明のつかないレベルの農業の成功を示唆する、多様な作物が大量に保存されている。

 今回、Francisca Santana-Sagredoたちは、アタカマ砂漠で得られた紀元前1000~紀元1800年のトウモロコシ、チリペッパー、ウリ、豆類、キヌア、野生地場果実の完全な標本を分析した。その結果、紀元1000年頃から窒素同位体値が大幅に上昇していることが分かった。最も変化が大きかったのはトウモロコシで、窒素同位体値は30‰上昇していた。Santana-Sagredoたちはまた、同じ地域と年代範囲の800以上の既報のヒト同位体値を分析して、ヒトの骨のコラーゲンが同様の傾向をたどっていることを明らかにした。さらに、炭素同位体値の有意な上昇も明らかになり、同時代にトウモロコシの消費量が増加したことが示唆された。

 Santana-Sagredoたちは、こうした窒素同位体値の極端な上昇(考古学的植物に関しては世界最高の上昇)は、海鳥グアノを作物の肥料として使用したことによるものだと考えている。彼らは、海鳥グアノ肥料の使用が農業の集約化と人口増加、さらには、こうした極端な環境条件ではあまり見られない社会の複雑性に強い影響を与えたと主張している。



参考文献:
Santana-Sagredo F. et al.(2021): ‘White gold’ guano fertilizer drove agricultural intensification in the Atacama Desert from AD 1000. Nature Plants, 7, 2, 152–158.
https://doi.org/10.1038/s41477-020-00835-4

中国南部における初期現生人類の年代の見直し

 中国南部における初期現生人類の年代を検証した研究(Sun et al., 2021)が公表されました。化石記録では、現生人類(Homo sapiens)は31500年前頃までにアフリカで進化し(関連記事)、アジア西部に177000年前頃以前に拡大しましたが(関連記事)、アジア西部では消滅し、75000~55000年前頃までにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に置換されたようだ(関連記事)、と示唆されています。いわゆる解剖学的現代人(現生人類)によるアフリカからの第二および最後の拡散は、最後の古代型人類(絶滅人類)の消滅の直後に起き、ほぼ一致します。この現生人類の拡散は、非アフリカ系現代人全員の祖先を含み、分子データによると65000~45000年前頃に起きました。現生人類の起源や拡散については、最近総説が公表されました(関連記事)。

 この「後期拡散」理論の追加の裏づけは、現代および古代のアフリカ東部集団と密接に関連する全ての非アフリカ系現代人のDNA系統の地理的構造や、アフリカからユーラシアへの減少する多様性の勾配パターン、つまり連続創始者効果の痕跡により提供されます。この確証は、古代DNA分析により判明した、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊で発見された較正年代で46880~43210年頃の大腿骨(関連記事)や、較正年代で42000~39000年前頃の中国北東部の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性遺骸(関連記事)の古代DNA分析により判明した、ユーラシア東西の人口間の47000~42000年前頃という推定分岐年代にも提供されます。その後の研究では、この分岐年代は43100年前頃と推定されています(関連記事)。さらに、この現生人類の拡散の上限年代は、65000~47000年前頃に起きたと推定される初期現生人類とネアンデルタール人との間の交雑と、現代ニューギニア人の祖先と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との46000年前頃と30000年前頃という推定交雑年代(関連記事)により制約されます。

 対照的に、一部の古人類学者は、現生人類がアジア東部大陸部にずっと早く、12万~7万年前頃に定住し、「早期拡散」理論と一致する、と提案します。このモデルは、中国南部の黄龍(Huanglong)洞窟や月(Luna)洞窟や福岩(Fuyan)洞窟(関連記事)で発見された遊離した人類の歯と、智人洞窟(Zhirendong)で発見された部分的下顎(関連記事)の年代測定におもに基づいています。しかし、何人かの研究者は、それらの遺骸のうち一部の現生人類としての識別や、人類遺骸と年代測定された物質との間の関係、もしくは堆積物の文脈と年代測定について利用可能な限定的情報に関する不確実性に基づいて、これらの遺跡や他の早期の年代を示す遺跡に関して疑問を呈しています(関連記事)。

 本論文は、明らかに初期現生人類の遺骸が発見された洞窟遺跡で、人類の歯の古代DNA分析や流華石と堆積物と化石遺骸と炭の年代測定を用いて、中国南部における現生人類の到来年代の調査結果を報告します。この5ヶ所の遺跡とは以下の通りです。

(1)黄龍洞窟(図1の1)
 湖北省北部の鄖西(Yunxi)県から25kmに位置します。2004~2006年の発掘では、91の分類群と中期~後期更新世のジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相を表す化石記録、石器、7点の現生人類の歯が見つかり、薄い流華石層のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、101000~81000年前頃です。

(2)月洞窟(図1の2)
 広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)の布兵(Bubing)盆地の南東部のカルスト山脈に位置します。ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の哺乳類化石の小規模標本、石器、2個の現生人類の歯が、2004年と2008年の発掘で見つかりました。流華石のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、127000~70000年前頃です。

(3)福岩洞窟(図1の3)
 湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)に位置します。2011年と2013年の発掘では、ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の哺乳類化石の小規模標本と、47個の現生人類の歯が発見されましたが、関連する人工物はありません。流華石のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、12万~8万年前頃です。同じ場所で2019年に現生人類の歯がさらに2個発見され、層序的には以前の発見と関連しています。

(4)楊家坡(Yangjiapo)洞窟(図1の4)
 湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州建始(Jianshi)県の大規模なカルスト地形です。2004年の発掘では、ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の80種の断片的な骨との関連で11個の歯が発掘され、光龍洞窟や月洞窟や福岩洞窟と類似の年代と示唆されています。石器や他の文化的遺物は見つかりませんでした。

(5)三游(Sanyou)洞窟(図1の5)
 湖北省宜昌(Yichang)市付近の長江と西陵峡(Xiling Gorge)の合流点に位置する石灰岩の丘に位置する小さな洞穴です。1986年の小規模な発掘により、後期更新世の可能性がある、部分的な現生人類の頭蓋冠が見つかりました。以下、本論文の図1です。
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●古代DNA分析

 上記5ヶ所の洞窟のうち、光龍洞窟と月洞窟の人類遺骸は利用できず、他の3ヶ所の人類遺骸からDNA抽出が試みられました。その結果、楊家坡洞窟の8個の歯と福岩洞窟の2個の歯でDNA配列に成功し、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されました(図2)。mtHgは、楊家坡洞窟の8個の歯のうち、標本JJD301.1とJJD301.6がD4b2b5、標本JJD301.2とJJD301.3がB4a4a 、標本JJD301.4とJJD301.8がB5b2c、標本JJD301.9とJJD301.11がA17です。福岩洞窟の2個の歯では、mtHgはともにD5a2aで、標本FY-HT-1がD5a2a1ab、標本FY-HT-2がD5a2a1h1です(図2のII)。次に、楊家坡洞窟の4個の歯と福岩洞窟の2B比の歯、多様な地域の53個体、ネアンデルタール人10個体、デニソワ人2個体、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された40万年以上前のネアンデルタール人的な形態を示すホモ属1個体、チンパンジー1個体のmtDNA配列を用いて、最大節約系統樹が構築されました(図2のI)。驚くべきことに、福岩洞窟の標本FY-HT-2のmtDNA系統はチベット・ビルマ集団の現代人でも検出され、両者の遺伝的つながりの可能性が明らかになりました。

 楊家坡系統と福岩系統の合着(合祖)年代が、最尤法とρ統計手法を用いて推定されました。これらの標本で見られる系統と関連する系統のmtDNA配列を用いると、クレード(単系統群)推定分岐年代は、mtHg-D4b2b5で3630年前頃と3360年前頃、mtHg-B4a4aで11010年前頃と10910年前頃、B5b2cで12400年前頃と14380年前頃、A17で15610年前頃と12200年前頃、D5a2a1abで16900年前頃と12900年前頃、D5a2a1h1で7440年前頃と6680年前頃です。これらの結果を合わせると、楊家坡洞窟と福岩洞窟の標本群の上限年代は15600年前頃未満と示唆されます。BEASTソフトウェアで実行されたベイジアン枠組みでも年代が推定され、楊家坡洞窟では、標本JJD301.1とJJD301.6が2400年前頃、標本JJD301.2とJJD301.3が2700年前頃、標本JJD301.4とJJD301.8が3000年前頃、標本JJD301.9とJJD301.11が7600年前頃で、福岩洞窟の標本と類似しています(標本FY-HT-1は3700年前頃、標本FY-HT-2は12000年前頃)。以下、本論文の図2です。
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●複数の手法による年代測定

 光龍洞窟では、人類化石が見つかった第3層の6点の堆積物標本で光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定が行なわれ、全て215000年以上前でした(図3)。これらの結果は、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代に基づく既知の後期更新世の年代(人類遺骸の年代は103000~81000年前頃)とは対照的です。第3層の哺乳類の歯4個と骨1個では少ないながらコラーゲンが得られ、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素(炭素14)年代測定結果は、較正年代(以下、AMS炭素14年代測定の年代は基本的に較正されています)で26700~25940年前から8620~8450年前でした(確率68.2%)。AMS炭素14年代測定結果が得られた13個の哺乳類の歯は種水準で識別され、現生のスイギュウ(Bubalis bubalis)とシカ属種もしくは完新世に絶滅したインドサイ属種(Rhinoceros sinensis)系統を表します。第3層で収集された炭標本の断片も、AMS炭素14年代測定で34850~35540年前から33920~33290年前(確率68.2%)との結果が得られ、哺乳類の歯の年代を裏づけます。

 月洞窟では2個の現生人類の歯が発見され(深さ70~65cm)、以前にウラン-トリウム法年代測定に標本抽出されたのと同じ層(深さ70~60cm)から、流華石が収集されました。新たなウラン-トリウム法年代測定では、97000±3000年と推定され、以前の127000±2000年前という推定よりかなり新しくなりました。次に深さ80~10cmで収集された6点の堆積物標本にOSLが適用され、78000~11000±2000年前という年代が得られました(図3)。現生人類の歯に層序的に最も近い堆積物標本のOSL年代は、それぞれ78000年前(深さ80cm)と42000年前(深さ60cm)でした。9個の哺乳類の歯のうち2個と、2個の骨標本では充分な量のコラーゲンが得られ、AMS炭素14年代測定で9530~9420年前(標本LND-C-6-2)と6710~6490年前(標本LND-C-6-4)という結果が得られました(確率68.2%)。残りの歯のコラーゲンは少なく、15500~14860年前から4780~4530年前という結果が得られました(確率68.2%)。AMS炭素14年代測定に用いられた哺乳類の9個の歯は種水準で識別され、現生分類群の、イノシシ(Sus scrofa)が5個、ウシ科が2個、シカ属が2個でした。さらに、人類遺骸が発見された層(深さ32~25cm)のすぐ上の堆積物で2個の炭標本が収集され、堆積物の年代は7160~7040年前から4780~4550年前と推定されました(確率68.2%)。

 福岩洞窟では、47個の現生人類の歯が発見された第2層のすぐ上に位置する、第1層の洞窟生成物標本が採集されました。3点の流華石標本のウラン-トリウム法年代測定では、142000±2000年前、95000±1000年前、168000±2000年前という、さまざまな年代が得られました(図3)。第2層の6点の堆積物標本のOSL年代は、302000~200000±29000年前でした。予備検査(コラーゲンが重量比1%超)後、上述のDNAが解析された2個の人類の歯(FY-HT-1とFY-HT-2)を含む同じ位置の16個の人類の歯にAMS炭素14年代測定が適用され、2個の標本(FY3-1とFY3-5)でそれぞれ13590~13350年前と9390~9160年前という結果が得られました。コラーゲンの年代は全有機体炭素(TOC)の年代と同じで、優れた品質の年代測定結果を示唆します。明らかに現生人類のもので、計測的および形態的に福岩洞窟の以前発見された歯の範囲内にある2個の人類の歯の年代は、9479~9290年前から2670~2370年前です(確率68.2%)。人類の歯の1標本(FY-HT-1)は2回年代測定され、ほぼ同じ結果が得られました。追加のコラーゲンの少ない歯では、15290~14660年前から6210~6050年前という結果が得られましたが(確率68.2%)、慎重に解釈する必要があります。炭素14年代測定に用いられた現生人類の歯以外に、合計14個の哺乳類の歯が種に同定され、その全ては現生分類群で、イノシシが2個、ヤマアラシ科種(Hystrix subcristata)が2個、シカ属が10個です。同じ場所で収集された2個の炭標本のAMS炭素14年代は4410~4300年前と3330~3230年前(確率68.2%)で、人類と他の哺乳類標本のAMS炭素14年代が完新世であることを裏づけます。

 楊家坡洞窟で発見された11個の人類の歯は、歯冠および歯根の形態と歯冠測定と古代DNA分析の観点から、全て明確に現生人類に分類されます。人類の歯の地質年代を測定するため、第4層底部と人類の歯が発見された第2層の堆積物内の洞窟生成物に、ウラン-トリウム法年代測定がまず適用されました。結果は、第4層が317000±1100年前で、第2層が151000±6000年前と90000±3000年前でした。第2層で得られた堆積物標本7点のOSL年代測定結果は、205000±14000年前と94000±7000年前の間でした(図3)。したがって、これらの年代を組み合わせると、現生人類の歯の年代は205000~90000年前の範囲内に収まります。しかし、16個の哺乳類の歯のうち、充分なコラーゲンの得られた2個の歯のAMS炭素14年代は、29390~28550年前(YJP-1054)と4050~3850年前(YJP-2936)でした(確率68.2%)。残りのコラーゲンの少ない標本の年代は、19800~19100年前と9410~9170年前の間でした(図3)。Beta Analytic社によるさらなる11個数の骨標本からコラーゲンが抽出され、炭素14年代は44370~43090年前から4900~4850年前でした。DNAも分析された人類1標本(JJD301.11)の単一の歯のAMS炭素14年代測定結果(確率68.2%)は、完新世の3370~3280年前でした(図3)。現生人類以外に合計16個の哺乳類の歯が種水準で識別され、その全てはイノシシやヤマアラシ科種(Hystrix subcristata)やシカ属のような現生分類群か、完新世に絶滅したインドサイ属種(Rhinoceros sinensis)系統でした。

 三游洞窟の層序系列は単純で、単一の堆積単位のみで構成されており、人類遺骸は深さ20cmで発見されました。人類遺骸の上に位置し、堆積物を塞いでいる流華石標本7点のウラン-トリウム法年代測定結果は、129000±900年前と107000±900年前でした(図3)。さらに、深さ20cmの小さな鍾乳石のウラン-トリウム法年代測定結果は、17000±100年前~16000±100年前で、塞いでいる流華石のかなり後に形成され、おそらくは堆積物の形成と一致していることを示唆します(図3)。しかし、人類遺骸の回収場所から150cm離れて場所で収集された堆積物標本4点のOSL年代測定結果は、35000±4000年前(深さ30cm)、30000±4000年前(深さ20cm)、32000±4000年前(深さ15cm)、23000±3000年前(深さ10cm)と、垂直的な年代系列を示しました。人類の後頭骨標本のAMS炭素14年代測定結果(確率68.2%)は1730~1640年前でした(図3)。以下、本論文の図3です。
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●考察

 本論文の結果は、人類進化における重要な事象に時間枠を設定するのに、単一の手法に過度に依存することから生じるかもしれない問題のいくつかを浮き彫りにします。この事例では、中国南部における現生人類の到来年代の推定に、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代測定を用いると、誤って古い年代が得られ、化石と遺伝的データとの間の間違った対立が生じました。一部の古人類学者は、現生人類が中国南部に12万~7万年前頃に到来した、と考えていますが、本論文の結果はそうではないことを示します。調査した5ヶ所の洞窟遺跡で、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代測定により、研究者たちは人類遺骸の年代を誤解し、提案された早期の到来年代は精密な調査に耐えられない、と明らかになりました。

 福岩洞窟の以前に発見された47個の人類の歯および層序的に関連した2個の人類の歯と、楊家坡洞窟の8個の人類の歯のmtDNAが配列決定され、その全ては上限合着年代が16000年前未満でした。12000~2400年前という年代は、流華石のウラン-トリウム法から推定される年代(151000~90000年前)よりも桁違いに新しいものでした。予想されるように、福岩洞窟の人類の歯のAMS炭素14年代(2510±140年前、2540±130年前、9380±90年前)は、分子年代(それぞれ、3700年前、3700年前、12000年前)よりもやや新しいものでした。同じ状況は、楊家坡洞窟の単一の人類の歯(AMS炭素14年代で3310±75年前、分子年代で7600年前)にも当てはまります。それでも、福岩洞窟の堆積物で発見された人類遺骸の年代に関しては、以前に示唆された12万~8万年前頃ではなく、完新世であることは明らかです。

 5ヶ所の洞窟の堆積物のOSL年代と動物遺骸および炭のAMS炭素14年代も、流華石の年代との大きな違いを浮き彫りにします。1ヶ所の遺跡のみで、堆積物の年代と流華石の年代が一致し、他の遺跡全てで大きな不一致が見られました。同様に、現生人類も含めて動物遺骸の推定された同時代性はそのままで、流華石は5ヶ所の洞窟全てで不正確と示され、その違いは1桁になりました。本論文で検証された最後の仮定は、動物遺骸と炭とが、それらを含む堆積物と同年代だった、というものでした。これは、月洞窟ではおおむね正しいものの、光龍・福岩・楊家坡・三游洞窟では却下され、それらの洞窟の堆積物は、動物遺骸や炭よりもかなり古い、と明らかになりました。さまざまな標本にわたるそのような大きな年代の違いは、洞窟生成物の起源や堆積や侵食や再堆積といった事象を含む、これらの洞窟全てにおけるひじょうに複雑な堆積史を浮き彫りにします(図3および図4)。

 流華石の形成は一定の時点を表すので、静的な時系列標識を提供します。流華石はほとんどの場合、これらの洞窟において温暖湿潤期の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に形成されました(図3および図4)。一方、堆積物の形成ははるかに動的な過程で、経時的に各場所で機能する水文の枠組みにおける違いを表します(図4)。本論文では、地下に小川が流れる巨大な洞穴である楊家坡洞窟において最も単純な事例が観察され、そこでは流華石と堆積物が中期更新世後期から後期更新世初期にかけて形成されたものの、哺乳類遺骸は43600年前頃(おそらくはもっと早いものの、炭素14年代測定の限界を超えています)から後期完新世まで堆積しました。そのような状況は、比較的低いエネルギーの水による侵食と、OSL年代をリセットしない暗い洞窟内での再堆積の複数の事象によってのみ説明できます。複雑な堆積史は、5ヶ所の洞窟全てで起きていたに違いありません。なぜならば、動物の歯(および、存在するならば炭)は常に流華石よりもずっと新しく、4ヶ所の洞窟では堆積物がそれらを囲んでいたからです。さらなるあり得る説明は、完新世における小規模な侵食事象、堆積物崩壊、生物攪乱、もしくは人為的攪乱を通じての、より新しい動物遺骸のより古い堆積物への嵌入です。以下、本論文の図4です。
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 またここで関連するのは、中国南東部の広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で発見された人類の下顎で、以前には流華石のウラン-トリウム法年代測定を用いて層序的に10万年以上前と推定され(関連記事)、その後の研究で19万~13万年前頃と改訂されました。直接的な年代測定が欠如している場合、本論文で取り上げられた5ヶ所のカルスト洞窟の分析から得られた教訓は、智人洞窟にも当てはまる可能性があり、その年代を確信する前に、直接的な年代測定もしくは古代DNA分析が待たれます。さらに、智人洞窟の下顎の分類は、初期現生人類との主張もありますが、議論が続いています。智人洞窟の人類の2個の臼歯はひじょうに摩耗しており、形態学的特徴の識別と現生人類への分類には疑問が呈されています。対照的に、智人洞窟の人類遺骸は、身体の厚さや形態、真の現生人類の顎に特徴的な解剖学的構成要素の欠如など、絶滅ホモ属(古代型ホモ属)分類群との多くの類似性を示します。現生人類で見られるものと並行して、華奢化への長期の傾向はインドネシアのホモ・エレクトス(Homo erectus)や中国の中期更新世人類でも報告されており、これは智人洞窟個体と初期現生人類との間の歯の類似性を説明できるかもしれません。

 中国南部の他のいくつかの後期更新世洞窟は、初期現生人類もしくは予期せぬ形態の人類遺骸が発見されているため、興味深い存在です。柳江(Liujiang)で発見された現生人類頭蓋は、その周囲の継続的な不確実性にも関わらず、流華石のウラン-トリウム法分析から、層序的に139000~68000年前頃の年代と推定されています(関連記事)。雲南省の龍潭山1(Longtanshan 1)遺跡では、おそらくは現生人類のひじょうに摩耗した2個の歯が、流華石と哺乳類の骨のウラン-トリウム法分析で年代測定されており、下限年代が83000~60000年前と推定されています。

 対照的に、雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡(関連記事)や、広西チワン族自治区田東県林逢鎮の独山洞窟(Dushan Cave)遺跡(関連記事)や、隆林洞窟(Longlin Cave、Laomaocao Cave)遺跡の人類遺骸は、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)もしくは古代型ホモ属と現生人類特有の特徴のモザイク状を示し、間接的に15000~11000年前と年代測定されてきました。しかし、シカの骨と歯の従来のウラン-トリウム年代測定とレーザーアブレーション・ウラン-トリウム年代測定により、馬鹿洞遺跡の化石の中には実際には中期更新世のものがある、と判明しました。したがって、本論文の結果と組み合わせた馬鹿洞遺跡における最近の研究からは、中国南部におけるほとんどの更新世の古人類学的洞窟は、推定されてきたよりも複雑な堆積史を示す可能性が高い、と強く示唆されます。したがって、これらの人類遺骸に関して、できれば炭素14年代測定もしくは古代DNA分析を用いる直接的な年代測定が成功するまで、それらの年代は恐らく不確実であるとみなされるべきである、と本論文は強調します。

 さらに遠方では、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタムパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡の頭蓋(関連記事)や、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)の歯や、マレー半島北部西方のレンゴン渓谷(Lenggong Valley)のコタタンパン(Kota Tampan)開地遺跡の石器(関連記事)が、現生人類のユーラシア東方への早期到来の証拠と主張されています。おそらく48000年以上前となるタムパリン遺跡の人類遺骸は、部分的な下顎だけです。しかし、これに関して、下顎と関連したOSL石英年代(48000±5000年前)は赤外光ルミネッセンス法(IRSL)の長石年代(70000±8000年前)よりも信頼性が高い、と考えられます。リダアジャー洞窟世紀では、1880年代に発見された現生人類の歯を含む哺乳類遺骸の標本が、ウラン系列法と電子スピン共鳴法(ESR)で73000~63000年前と年代測定されました。この層序年代は慎重な裏づけを得ていますが、人類遺骸の直接的な炭素14年代測定もしくは古代DNA分析により、さらなる確信が得られるでしょう。コタタンパン遺跡の人工物は最近の再分析により、OSL年代測定で7万年前頃と推定されました。それでも本論文は、将来の研究では、遺跡の堆積史の理解と、人工物と年代測定されたトバ噴火堆積物との間の関係の評価が要求される、と注意を喚起します。

 本論文の知見に照らすと、光龍洞窟や月洞窟や福岩洞窟で報告されているような中国南部における現生人類の早期到来との主張は、現時点では実証できていない、と結論づけられます。代わりに、中国南部における現生人類の最初の証拠は35000年前未満で、50000~45000年前頃という分子推定年代と一致する、と明らかかになりました。中国の現生人類の直接的な年代測定の他の2事例が、後期更新世と主張されていた人類遺骸は完新世だった、と確証したことも注目されます。ヨーロッパにおける同様の試みでも、かつて後期更新世と考えられていた骨格が完新世に関連づけられました。この一覧に中国の楊家坡・三游・福岩洞窟が追加されます。本論文は、中国南部のような亜熱帯地域のカルスト洞窟における堆積史の復元と関連した課題の理解を提供します。この堆積史には、侵食と再堆積の事象、おそらくは遅ければ後期完新世に起きた嵌入が含まれ、包括的な年代測定戦略を通じてのみ検出できます。今後、中国南部を対象とする研究者にとって、直接的な炭素14年代測定や古代DNA分析のために人類類遺骸を標的とすることを含む、複数手法戦略を常に採用することが急務となります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、中国南部における現生人類早期到来の根拠と主張された人類遺骸が、直接的な年代測定や古代DNA分析の結果、16000年未満で、完新世のものも少なくないことを示しました。まだ直接的な年代測定や古代DNA分析が行なわれていない、5万年以上前と主張される中国南部の現生人類遺骸もありますが、現時点では、中国南部に5万年以上前に現生人類が到来した確証は得られていない、と考えるべきでしょう。ただ、古代DNA分析の成功は重要な成果で、今後は核DNAの解析の成功が期待されます。

 福岩洞窟の現生人類の歯は、上述のように以前は12万~8万年前頃と推定されており、レヴァントのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)といった洞窟で発見された10万年前頃の初期現生人類化石の歯よりも派生的で、現代人に類似していることから、現生人類の拡散に関して有力説に疑問が呈されていました。さすがに、現生人類の起源地が中国も含むアジア東部だとまで主張する人は、少なくとも専門家にはいなかったと思いますが、上記のような中国南部における一連の10万年前頃かそれ以上前の現生人類の存在との主張から、現生人類アフリカ単一起源説に疑問を呈し、多地域進化説を支持する根拠として肯定的に評価する専門家はいたようです(関連記事)。

 中国では現生人類多地域進化説が長く大きな影響力を有してきたようで、ナショナリズムを背景とする歪みがあるのではないか、と私は考えてきましたが、中国も含めてアジア東部が人類進化史の研究において軽視されてきた、との中国の研究者の不満に尤もなところがあるとは思います(関連記事)。とはいえ、この研究が中国人主体であるように、中国人研究者から中国のナショナリズム昂揚と親和的な見解を実証的に否定する他の研究も提示されているわけで(関連記事)、人類進化史に関して中国は基本的に健全な状況にあると考えてよさそうです。

 私は、ギリシアで20万年以上前となる広義の現生人類系統の遺骸が発見されていることから、アフリカやレヴァントを越えて広義の現生人類が世界に広く拡散していたとしても不思議ではない、と考えています。その意味で、中国南部に限らずユーラシア東部において、10万年以上前の現生人類の存在が確認される可能性はあり、それが現生人類アフリカ単一起源説を否定することにはならない、と考えています。また、ユーラシア東部にそうした初期の現生人類が存在していたとしても、現代人への遺伝的影響はほぼ皆無である可能性が高い、とも予想しています。


参考文献:
Sun X. et al.(2021): Ancient DNA and multimethod dating confirm the late arrival of anatomically modern humans in southern China. PNAS, 118, 8, e2019158118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2019158118

マダガスカル島現代人の起源

 マダガスカル島現代人の起源に関する研究(Heiske et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。何世紀にもわたって、マダガスカル島集団の起源は謎めいたままでした。この問題に関する歴史的文献は豊富で、少なくとも16世紀のポルトガル船員によるマダガスカル島への到来までさかのぼれます。マダガスカル島はアフリカ東部沿岸から400km未満、他の海岸線から1000~数千km離れた場所に位置しますが、マダガスカル島への古代人の到来に関しては、アジアやインドやメラネシアやアラビア半島やペルシアやセム語派の集団が提案されてきました。しかし20世紀まで、マダガスカル島集団の起源に関する合意はなく、最も議論された問題の一つは、アフリカ人系統の重要性でした。本論文は遺伝的結果によりマダガスカル島集団の起源に関する歴史的な問題がどの程度解決したのか、評価することを目的とします。まず、なぜ多くの起源集団が提案されてきたのか、調べます。次に、20世紀の遺伝的結果を再調査します。最後に、最新の結果に基づいて、マダガスカル島集団の起源に関する理解しにくい問題への「現時点」での回答を提示します。


●起源に関する歴史的要素と理論

 マダガスカル島人類集団の起源に関する最古かもしれない文献は、ムハンマド・アル=イドリースィーが12世紀に残した記録で、シュリーヴィジャヤ王国と関連した「Komr(コモロ諸島)」とあり、イブン・サイード・マグリビーが13世紀に残した記録では、「中国人」と関連した個体群が見えます。しかし、古代ギリシア・ローマ世界やアラブや中国の人々によるインド洋の記録には不確実性があります。早くも1604年には、マダガスカル島は古代の宇宙地理学者に本当に知られていたのか、それとも「最近発見された」のか、その結果として、マダガスカル島を「古代世界」と「新世界」のどちらに分類すべきなのか、問題にされていました。

 16世紀の変わり目に、マダガスカル島沿岸へ最初に行ったポルトガル艦隊の報告では、2つの集団が報告されました。一方は、アフリカ人集団と関連した濃い肌の色の個体群で、もう一方はアラブ人移住者で構成された海辺の都市に住む集団です。1559年、ポルトガルの船員の報告では、マダガスカル島の個体群はジャワ人のような外見と言語で、マダガスカル島東部はジャワ人集団により入植されたかもしれない、と結論づけられました。1611年の報告には、マダガスカル島は中国人により入植され、住民の顔はその顔色を除いて中国人と似ていると「言われている」、とありました。1614年、イエズス会の司祭は、マダガスカル島北西部沿岸地域に住んでいた、モザンビークとマリンディ出身の集団を報告しました。しかしイエズス会の司祭には、マダガスカル島内陸部全域では、マレー語とひじょうに類似した言語が話されているように見えました。したがってイエズス会の司祭は、マダガスカル島最初の住民はマラッカの港から来た、と結論づけました。

 これらの報告に加えて、マダガスカル島南部の住民はオランダの船員に、祖先の一部はポルトガルやマンガルール(Mangalore)やメッカから来た、と説明しました。1655年、宗教的慣習の研究に基づいて、マダガスカル島集団の一部がアブラハムの系統に属していると示唆されましたが、ペルシアのイスラム教徒の子孫との推測もありました。1781年には、言語の類似性に基づいて、マダガスカル島に古代フェニキアの交易所があった、との見解も提示されました。

 これらマダガスカル島人類集団の起源に関するさまざまな物語は19世紀に議論され、1908年には、少なくとも50人の著者が異なる起源を仮定しました。当時、マダガスカル島中央高地の人々は最近到来したマレー語話者集団の子孫で、より濃い顔色の海岸部の人々は、アフリカのバンツー語族話者集団の古い移民の子孫である、との見解が優勢でした。これに加えて、アラブ人やインド人やヨーロッパ人による後の到来と限定的な寄与が想定されました。口頭伝承に基づいて、ヴァジンバ・キモジー(Vazimba/Kimosy)のような、後の移民により置換されたかもしれない、オーストロネシア人もしくはアフリカのピグミーのどちらかと関連した、未知の起源集団のより早期の存在も主張されました。1927年、デュボアはマダガスカル島集団の起源に関する5つの独立した理論を特定しました。そのうちの1つはグランディディエ父子により提案され、マダガスカル島沿岸部集団はアフリカ人の子孫ではなく、むしろパプア人・メラネシア人の子孫だ、というものでした。この仮説は、現在のマダガスカル島集団へのアフリカ人とオーストロネシア人の寄与に関する問題を活発な論争に変えました。

 20世紀には、言語学と考古学の進歩が議論を支えました。資料の不足にも関わらず、考古学的研究ではマダガスカル島における古代の人類の存在が示唆されました。じっさいマダガスカル島では、1万年以上前の大型鳥であるエピオルニス(Aepyornis maximus)の骨の人為的痕跡が報告されています(関連記事)。しかし現在まで、こうした古い時代の居住者の起源に関するさらなる兆候はありません。対照的に、言語学的分析では、マダガスカル語は南ボルネオ島で話されているマニャーン語(Ma’anjan)と密接に関連している、と示されてきました。言語の借用に基づく年代測定からは、紀元後千年紀内の他のインドネシア集団からの先マダガスカル島集団の最近の分岐が示唆されます。現代のマダガスカル語へのアフリカ人の寄与はひじょうに限定的と考えられていました。


●アフリカ人とアジア人の祖先の割合の推定

 20世紀初頭以来、遺伝学により目に見える表現型の特徴に基づいた考察を超えることが可能になりました。マダガスカル島における、ABO式血液型のB型アレル(対立遺伝子)頻度に基づいて、パプア人・メラネシア人集団にはそれが欠けていることから、20世紀前半にパプア人・メラネシア人集団からの大きな影響は除外され、代わりにインドやジャワ島からの推定上の系統が提案されました。さらに1957年に、マダガスカル島のハプロタイプで観察されたRh血液型の頻度を得るために必要な、バンツー語族集団とジャワ島集団との間のアレル比率を計算すると、遺伝的にマダガスカル島集団はアフリカ人2集団およびアジア人1集団と仮定されました。マダガスカル島集団におけるヘモグロビンS型の存在は、これがアフリカとインドとアラビア半島のどれに由来するのか、という議論を惹起しました。インド・アラビア半島起源説では、人類集団がマダガスカル島に移住する前に、ボルネオ島とスラウェシ島の船乗りたちがインド南部の集団と混合した、と想定されました。この仮説では、マダガスカル島住民系統へのアフリカ人集団の寄与は限定的と示唆されました。

 1990年代半ばに、DNAに基づいた証拠を有する最初の研究が刊行されました。この新たな分子的手法を用いて、マダガスカル島集団に存在するヘモグロビンS型はバンツー語族話者集団に由来すると示され、インド・アラビア半島起源説と矛盾しました。さらに、マダガスカル島集団でも確認されているアフリカ西部とポルトガルに存在する血液型が特定されました。これは、16世紀にヨーロッパの船員がおそらくアフリカ西部の奴隷とともに到来した現象と関連づけられました。さらに、変異していない型の分析から、アジア東部およびオセアニアとアフリカからの混合の寄与が示唆されました。対照的に、2つの研究では、アジア東部からの顕著な寄与と、アフリカからのわずかな兆候が特定されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の9塩基対欠失の分析に基づいて、マダガスカル島の280個体標本の18%でポリネシア人の塩基配列が特定されました。別の分子研究では、HLAクラスIIハプロタイプ分析と、中央高地の農村共同体の55個体に由来するデータに基づいて、マダガスカル島住民とジャワ島住民との間の集団類似性の分子証拠が示されました。

 いくつかの要因により、20世紀のさまざまな遺伝学的研究により提示された、マダガスカル島集団の遺伝的構成へのアジア人とアフリカ人の寄与の程度に関する、明らかに矛盾する結果を説明できます。たとえば、創始者効果の影響や、単一の遺伝標識の進化史がゲノムを表していないかもしれない、という事実を考慮に入れる必要があります。また、標本構成の関連性についてほとんど議論されていませんが、特定の遺伝標識の頻度は、研究対象の集団によりかなり異なる可能性があります。たとえば、標本抽出された個体の大半は、「メリナ(Merina)」と呼ばれる「部族」に分類されましたが、「メリナ」はじっさいには、マダガスカル島の中心部を指す地理的用語です。じつさい、集団分類は不適切である場合が多く、特定の表現型や祖先、文化的特異性、推定上の利益、出生地もしくは現時点での居住地に基づいているので、取り扱いには注意が必要です。

 21世紀の変わり目に、一連の研究により、マダガスカル島集団におけるアフリカ人とオーストロネシア人両方の構成要素の存在が確認されました。しかし、両者の相対的な寄与を定量化しようとする分析は、依然としてさまざまな結果を示します。たとえば、67個体の15ヶ所の常染色体縦列型反復配列(STR)特性に基づくと、アフリカ人系統が66.3%と推定されました。一方、いくつかの系統分析では、mtDNAとY染色体の系統分析により、混合比が推定されました。ただ、mtDNAとY染色体はそれぞれ母系と父系を表しており、系統全体を代表しているわけではありません。マダガスカル島中央高地集団に関する研究では、mtDNA系統の38%、Y染色体系統の51%がアフリカ人に由来する、と推定されました。中央高地集団と南東部集団との比較により、地域的違いと性的に偏った混合の兆候が見つかり、Y染色体系統では73%、mtDNA系統では38%がアフリカ人に由来する、と推定されました。

 逆に、同様のデータセットの異なる分析では、母系でのアフリカ人の寄与がわずか7%に限定されている、と示唆されました。これは、マダガスカル島集団で高頻度であるものの、推定上の起源集団(ボルネオ島)では欠けている、固有のmtDNA系統の以前の発見に基づいていました。シミュレーションでは、これは93%のアジア系子孫の女性のひじょうに限定された人数によるマダガスカル島の定住の結果かもしれない、と示唆されました。しかし、このモデルは他のパラメータ(現在の混合比や包括的なmtDNA多様性など)を考慮しておらず、代替仮説(複数集団の到来)を調べませんでした。

 2017年に、マダガスカル島全域の住民の包括的なゲノム研究が公表され、遺伝的多様性の観点からの広範な見解が提示されました(関連記事)。この研究ではマダガスカル島全域の300ヶ所の村で標本抽出され、10年間の集中的研究により包括的な分析が可能となりました。マダガスカル島のような大規模な地域のゲノム多様性が、ゲノミクスと言語学と民族誌を組み合わせた体系的な現地研究手法により標本抽出されたわけです。

 マダガスカル島全域におけるアフリカ人とアジア人両系統の存在は、各個体(地域系統)のゲノム断片の起源の評価と、ゲノム全体の独立した何千もの多型に基づく類似の計算手法の適用により、示されました。平均して、アフリカ人系統は59%、アジア人系統は37%、ユーラシア西部人系統はわずか4%でした。興味深いことに、系統の割合は全染色体で同一ではありませんでした。じっさい、マダガスカル島集団のゲノムは、現代人で報告された最近の選択の最も強い兆候の一つを示しました。アフリカ人起源のアレルは、1番染色体の1/4以上(約6000万塩基対)で選択されてきました。この選択の最も可能性が高い候補は、ダフィーヌル血液型です。この遺伝子型は、アフリカには存在しない寄生虫である三日熱マラリア原虫(Plasmodium vivax)に対する耐性を提供します。注目すべきは、この寄生虫がマダガスカル島にアジア人集団によりもたらされた可能性がある一方で、保護変異(ダフィーヌル血液型)はアフリカ人集団により導入された、と示唆されることです。

 さらに、集団の遺伝的構造とマダガスカル島の鳥との間の相関関係が検出されました。いくつかの遺伝的クラスタは、混合年代と割合の点で同一です。これは、マダガスカル島における自然地理や王国の形成のような外的要因がマダガスカル島集団のゲノム景観に影響を及ぼし、おそらくは人口移動や交流による影響を受けた、と示唆します。それにも関わらず、アフリカ人系統とアジア人系統の相対的な割合には著しい地域差があり(図1および図2)、これは局所的な標本抽出に基づく起源に関する以前の結論が、マダガスカル島集団を全体として推定できなかった理由を説明します。興味深いことに、最大のアフリカ人系統を有する集団はマダガスカル島北東部、とくに17世紀の記録でアフリカの言語(マダガスカル島の他地域とは対照的です)を話していた集団が居住していた、と報告されている地域で見つかった一方で、最大のアジア人系統を有する集団は、中央高地で見つかったことです。以下、本論文の図1(常染色体ゲノム規模の、aはアジア人系統、bはアフリカ人系統の割合)および図2(アジア人系統の、aは母系、bは父系の割合)です。
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●具体的な起源集団と移住年代の特定

 系統の割合に加えて、DNAに基づく研究では、マダガスカル島への移住につながるシナリオの理解に焦点が当てられてきました。ゲノム規模分析により、マダガスカル島の個体群はアフリカのバンツー語族話者集団およびアジアのオーストロネシア語話者集団と強い遺伝的つながりを共有している、と判明し、どちらかの子孫の個体群による移住が示唆されています。これらの分析は、インドやアフリカの角やメラネシアの現在の住民と関連した集団による大きな寄与を提案する仮説に異議を唱えます。さらに、マダガスカル島集団を狩猟採集生計戦略のアフリカ人集団と関連づける証拠はありません。とくに、ミケア(Mikea)の森に居住しているマダガスカル島の狩猟採集民集団に関しては、異なる起源が推測されています。しかし、ゲノム規模分析では、ミケアの森の狩猟採集民集団はマダガスカル島の他の現代人と同じ系統を共有している、と示されており、最近の文化的「復帰」が示唆されます。それにも関わらず、ユーラシア西部由来の系統のような、マダガスカル島集団の系統で特定されてきた他の小さな系統構成があります。これはとくに、アラビア文字のソラベの使用のような、アラブ・イスラム教的側面を組み入れているように見える、特定のマダガスカル島集団に関連しています。しかし恐らく、マダガスカル島集団系統のこれらユーラシア西部構成要素は、ヨーロッパからのもっと最近の寄与にも由来しているかもしれません。しかし、これに関してはさらなる分析を通じて明らかにする必要があります。

 言語学的研究と一致して、片親性(母系のmtDNAと父系のY染色体)およびゲノム規模分析により、マダガスカル島集団に最も近い集団はアフリカ東部のバンツー語族話者集団と、マカッサル海峡周辺のオーストロネシア語族話者集団である、と判明しました。しかし、片親性遺伝標識の詳細に関しては、アジア側に難問があります。Y染色体の多様性は、マカッサル海峡の西側の集団と類似しているものの、mtDNAの多様性は、さらに東方の集団と近いように見えます(ポリネシア塩基配列の存在)。これは、移住過程(さまざまな集団に由来する個体群や、創始者効果など)もしくはマダガスカル島における人口統計学的事象を反映しているかもしれません。さらに、マダガスカル島集団の祖先がインドネシアを去って以降に起きたかもしれない変異が、役割を果たした可能性があります。別の理由としては、インドネシアの不充分な遺伝的標本抽出に起因するかもしれません。インドネシアの古代DNA分析は、アジア側の起源集団についてより詳しい情報を提供し、この謎の解決に役立つでしょう。

 驚くべきことに、バンツー語族話者集団とオーストロネシア語族話者集団との関連性は、マダガスカル島集団の祖先の最近のマダガスカル島への到来という理論を裏づけます。とくに、アフリカ東部沿岸のバンツー語族話者集団の到来はより最近の現象です。片親性遺伝標識に基づいた分析と全ゲノム分析を通じて、過去2000年におけるオーストロネシア語族話者集団との混合を年代測定できました。一部のアジア東部人系統の証拠も、コモロやアフリカ東部やアラビア半島の個体群で特定されました。興味深いことに、コモロ諸島のアンジュアン島で起きた混合は、マダガスカル島よりも古い可能性があります。しかし、計算方法もしくはパラメータのセットを変更した場合、この結果は再現されませんでした。

 マダガスカル島集団のアジア人の祖先と比較して、アフリカ人の祖先は、ずっと最近各起源集団と分岐したようです。アフリカのバンツー語族話者集団とマダガスカル島集団との間のより最近のつながりに加えて、アフリカ人の父系の過剰出現は、すでにオーストロネシア語族話者集団が居住していた領域へのバンツー語族話者集団の後の到来、という仮説につながりました。この仮定的シナリオを裏づけるのは、アラブ人作家の証言と、マダガスカル島にかつてアジア人が居住していた、という記述です。さらに、1575年に報告された奴隷の証言では、マダガスカル島全域の既存の村や都市を襲った大暴風と津波の組み合わせが述べられています。この大惨事の生存者は、高台に逃げた人々だけだったでしょう。

 荒廃した領土とわずかな生存者に直面して、アフリカの2つの王国(ソファラとモザンビーク)は、3000~4000人を再定住のためにマダガスカル島に送ったかもしれません。この物語に喚起されたキリスト教の王国は、混合のゲノムに基づく推定年代、バンツー語族話者集団の移動、インド洋の津波の証拠と一致する年代を示唆します。しかし、これは既知の唯一の引用で、全ての既存の仮説を考慮すると、ゲノムの結果に一致するものを見つけるのは驚くべきことではありません。ゲノミクスと考古学を組み合わせたより多くの研究が、このシナリオのさらなる調査を可能にするはずです。遺伝学は現代の集団の直接的祖先に関する情報しか提供できないので、マダガスカル島の最初の居住者に関する情報は提供できないことにも、注意する必要があります。


●まとめ

 マダガスカル島現代人集団アフリカ人とアジア人の祖先の寄与に関する理解への探求は、隠された動機のない真っ直ぐな道ではありませんでした。1957年には、全てのフランスとマダガスカル島の作家の記事に、マダガスカル島集団のアフリカ人起源の可能性について、いくぶん汚名があるようだ、と批判されています。その後のDNA配列決定は、予想されるほど急速には論争を解決しませんでした。現在では、割合の小さいユーラシア西部構成要素に加えて、アフリカ人とアジア人両方の寄与が証明されています。それにも関わらず、マダガスカル島における定住の歴史はまだほとんど不明で、過去に提起された他の寄与の程度を理解するには、さらなる調査が必要です。

 ヒトの遺伝的情報の利用は、研究者が文化的要因(つまり言語)とヒト(個体群)との間の起源と拡散に関する問題を区別できるようになったので、この分野に混乱を引き起こしました。現在の課題は、マダガスカル島の定住につながった定住現象の包括的見解の形成です。これには、マダガスカル島の歴史の文化的および生物学的側面が組み込まれます。今後数十年にわたって、現代および過去の標本に基づくヒトや動物や植物のDNAを研究することで、マダガスカル島の歴史に関する予期せぬ新たな洞察が得られるはずです。


参考文献:
Heiske M. et al.(2021): Genetic evidence and historical theories of the Asian and African origins of the present Malagasy population . Human Molecular Genetics, 30, R1, R72–R78.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddab018

『地球ドラマチック』「ネアンデルタール人 真の姿に迫る!」

 NHK教育テレビで放送されたので、視聴しました。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の足跡(関連記事)や、ネアンデルタール人の食性の範囲が以前の想定よりも広かったこと(関連記事)や、ネアンデルタール人による投槍(関連記事)や、ネアンデルタール人の持続的な土地利用(関連記事)など、近年の研究が取り上げられており、全体的に、ネアンデルタール人が以前に考えられていたよりも認知能力や社会組織の点で優れていたことを強調する内容になっていました。もっとも、ネアンデルタール人の評価は発見以来揺れ動いており(関連記事)、とくに評価が低かったのは、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、現代人とは異なる分類群であることが明らかになった1997年から、ネアンデルタール人と現生人類との交雑が有力説になった2010年5月までだと思います(関連記事)。

 ネアンデルタール人の社会性については、負傷からの回復に関する研究が取り上げられていました(関連記事)。ネアンデルタール人は深い思いやりから負傷者や疾患のある人を長く世話していたのではないか、というわけです。ネアンデルタール人による薬用植物の使用に関する研究にも言及されていました(関連記事)。また、ネアンデルタール人の社会性と関連して、その象徴的思考能力に関する研究も取り上げられていました。たとえば、フランス南西部のブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)で発見された、切り取られた石筍で作られた環状の建築物です(関連記事)。これは、石筍に付着した方解石のウラン系列年代から、この環状の石の構造の年代は176500±2100年前と推定されており、ネアンデルタール人の所産である可能性が高い、と考えられています。ただ、ギリシア南部マニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟遺跡で、21万年以上前となる広義の現生人類(Homo sapiens)系統と言えそうな遺骸が発見されており(関連記事)、フランスに関してはそうした証拠はまだ確認されていませんが、広義の現生人類が関わった可能性もわずかに想定しておくべきではないか、と思います。

 象徴的思考能力では、更新世人類の記号に関する研究が取り上げられていました(関連記事)。洞窟に描かれた模様のようなものは記号だったのではないか、というわけです。問題は、ネアンデルタール人が洞窟壁画を描いていたのか、ということで、近年になって、ネアンデルタール人の所産と推測される洞窟壁画に関する研究が大きな話題を呼びました(関連記事)。この研究は番組内でも大きく取り上げられましたが、番組でも多少言及されていたように、この年代には疑問も呈されており(関連記事)、まだネアンデルタール人が洞窟壁画を描いていたとは確定していない、と考えるのが現時点では妥当なところでしょう。

 ネアンデルタール人と現生人類との関係では、両者の交雑が取り上げられました。ネアンデルタール人由来の遺伝子が現代人の健康に悪影響を与えている可能性も取り上げられていました(関連記事)。ただ、さすがに最近公表されたばかりの、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)により起きる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の重症化にネアンデルタール人由来の遺伝子が関わっている、という研究(関連記事)は取り上げられていませんでした。おそらく、この研究が公表されたのは番組制作後だったのでしょう。この番組は全体的に、近年の研究成果を取り上げた優れた内容になっていると思います。名前しか知らなかったような研究者が動いて話す姿を見られたという点でも、私にとっては貴重な番組でした。

大河ドラマ『青天を衝け』第1回「栄一、目覚める」

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響もあり、例年より1ヶ月遅れて新作大河ドラマの放送が始まりました。主人公の渋沢栄一の一般的な知名度は、次の1万円札の肖像に起用されたこともあり、低いとまでは言えないとしても、本作の前後の大河ドラマの主人公である、西郷隆盛や明智光秀や徳川家康と比較すると大きく劣ることも確かです。また、大河ドラマで幕末ものや近代ものは視聴率で苦戦する傾向にあり、本作の視聴率も低迷しそうですが、そうなったとしても、大河ドラマ存続の観点からも、質の高い作品になるよう願っています。

 まず、徳川家康が登場して日本史の解説を始め、家康が登場するとは聞いていましたが、この構成には驚きました。今回家康は、途中でも少し登場しましたが、語りというわけでもなく、どのような役回りなのでしょうか。さすがに毎回登場するわけではなさそうですが、あるいは節目に登場して解説する役割を担うのでしょうか。物語は、1864年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、主人公の渋沢栄一が徳川慶喜に直訴する場面から始まります。色調は、昨年の『麒麟がくる』の初回よりも落ち着いている感じです。オープニングも落ち着いた感じで、やや盛り上がりに欠けるかもしれませんが、今後聴き続けていくと印象が変わるでしょうか。成人後の栄一と徳川慶喜は初回の顔見世といった感じで、オープニング後、物語は1844年から始まり、子供時代の栄一が描かれます。

 初回は、強情で行動力があり、好奇心が強い、という栄一の個性が浮き彫りにされました。栄一の家族・親族を中心に、当時の豪農と農村の在り様も描かれました。まだ幕末動乱前夜で、農村場面の描写は、大きな歴史の動きを期待する大河ドラマ視聴者には不満かもしれませんが、それは水戸藩や幕府の場面で描いていく、という構成なのかもしれません。両者を上手く接続できるか否かが、序盤の評価に関わってきそうです。初回は、まだ幕末動乱前夜とはいえ、ロケを多用してなかなか迫力のある映像になっていたと思います。本作への一般的な期待はあまり高くなさそうですが、初回を視聴した限りでは、少なくとも外れではないかな、と思います。昔からの大河ドラマ愛好者の意見とは大きく異なりそうですが、近年の大河ドラマはほぼ当たりだと私は考えており、本作も当たりになりそうかな、との予感を抱いた初回でした。

現生人類系統の起源に関する総説

 現生人類(Homo sapiens)系統の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)が公表されました。本論文は、考古学にはほとんど言及していないものの、現生人類の起源やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係について、遺伝学(DNAとタンパク質)および形態学(化石証拠)的研究から現時点での諸見解を整理しており、引用文献も豊富なので、現生人類の起源について把握するのに適した文献だと思います。本論文は当分、現生人類の起源に関する基本文献となるでしょう。

 現代人は全員、過去への祖先の長い線を通じて歴史をたどります。現代人の祖先の一部は、化石記録で特定できる集団もしくは人口に生きていましたが、その他の祖先についてはほとんど知られていません。本論文は、過去へと現代人の系統をたどることにより、初期現生人類人口史の現在の理解を再調査します。現生人類の祖先が異なる時点で地理的にどこに居住していたのか、これらの祖先集団は現在の化石記録で表されるのかどうか、ということについて何が言えるのか、本論文は調べます。本論文はこの枠組み内で、現代人の系統が誕生した時空間的に単一の点のモデルに焦点を当てる、経験的もしくは概念的理由はほとんどない、と主張します。



(1)段階3:アフリカからの世界的な拡大

 アフリカの集団や個体群の現代の遺伝的多様性は世界のどの他地域よりも大きく、これは最初にミトコンドリアDNA(mtDNA)で観察されたパターンでした。化石形態の変化とともに、これは、アフリカ人の多様性の部分集合を有する人口集団が、規模の点でボトルネック(瓶首効果)を経て、その後で世界規模の拡大の創始者になった、と想定する「最近のアフリカ起源」の強力な証拠とみなされました。このモデルは今では、アフリカの初期化石(関連記事)、アフリカ外の古代型ヒト集団との交雑のゲノム証拠(関連記事)、アフリカ東部系統に最も近い完新世(過去12000年)における、アフリカ人系統内で入れ子式になっているように見えるアフリカ人のゲノム系統の大きな割合により強く裏づけられています。しかし、ユーラシアへの拡大の回数と年代に関しては、さまざまな仮説が提案されてきました。

 化石記録から、現代人も化石人類も含む現生人類の、アフリカからアジア西部および地中海東部(レヴァント)への初期の範囲拡大があったことは、長い間明らかでした。これら現生人類の初期拡大は、13万~9万年前頃となるイスラエルのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)といった洞窟、9万年前頃となるサウジアラビアのネフド砂漠のアルウスタ(Al Wusta)遺跡(関連記事)の化石記録で報告されているように、でサハラ・アラビア地帯の好適気候条件期に起きた可能性があります。さらに古いものの、より断片的な現生人類化石は、18万年前頃となるイスラエルのミスリヤ洞窟(Misliya Cave)遺跡(関連記事)や、21万年前頃となるギリシア南部マニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟遺跡(関連記事)で発見されています。

 アフリカ外の現生人類的な化石は、中国の広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前のものが(関連記事)、湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)で12万~8万年前頃のものが(関連記事)、スマトラ島で7万年前頃の歯が(関連記事)、ラオスで5万年以上前の頭蓋と下顎が発見されており(関連記事)、オーストラリア北部では65000年以上前の人工物が発見されています(関連記事)。ただ、これらのユーラシア東方における6万年以上前の初期現生人類の証拠に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。

 したがって、アフリカとアジア西部を越える65000年前以前の古人類学的証拠と、アフリカ外の全現代人集団の大半の系統は6万~5万年前後に世界規模でアフリカから拡大した集団に由来する、というゲノム証拠との緊張が高まっているように見えます(図1)。主要な一連の証拠は、これまでに研究された全ての現代および古代の非アフリカ系現生人類のゲノムに見られるネアンデルタール人系統です。このネアンデルタール人系統は、単一の混合事象からの由来とほぼ一致しており(関連記事)、6万~5万年前頃と推定されています。この年代的枠組みは、シベリアや他地域の45000年前頃の古代現生人類遺骸のゲノムにおいて長いネアンデルタール人断片から明らかで(関連記事)、アフリカ外のmtDNAとY染色体(関連記事)の系統が55000~45000年前頃までに多様化した、という事実によりさらに裏づけられます。


●初期拡大仮説

 いくつかのゲノム研究では、別のより早期の世界規模の拡大からの系統がオセアニア(たとえば、オーストラリアとニューギニア)に存在し(関連記事)、アジア沿岸に続く他の「南方経路」仮説と一致する、と示唆されてきました。しかし、そのような分析は、これらオセアニアの集団における分岐したデニソワ人系統により混同される可能性があり、他の研究では、この系統の裏づけは見つかっていません(関連記事)。したがって、6万年前頃以前とされるアフリカとアジア南西部両方以外の現生人類の化石および考古学的記録は、後の主要な拡大の後に到来した人類で検出される系統に寄与しない、早期の拡散による遺伝的データと最もよく一致します。

 アフリカ外の現代人に関する理解への最近の追加は「基底部ユーラシア人」系統で、これは他の非アフリカ人系統とそれらが多様化する前に分岐し、おそらくはネアンデルタール人との混合が欠如していた、と推測されています(関連記事)。基底部ユーラシア人系統はおそらく6万年以上前に他の非アフリカ人系統と分岐し、モロッコの15000年前頃の個体群(関連記事)や、26000年前頃となるジョージア(グルジア)のズズアナ(Dzudzuana)洞窟で発見された2個体や、25000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の、ジョージア西部のイメレティ(Imereti)地域のサツルブリア(Satsurblia)洞窟の上部旧石器時代層堆積物で確認されており(関連記事)、ユーラシア西部とアジア南部に完新世に拡大しました。したがって、これらの地域の現代人集団における一部の系統は、6万~5万年前頃の世界規模の拡大前に分岐した集団に由来します。基底部ユーラシア人系統の起源は、アジア南西部とアフリカ北部の辺りに集中していた可能性が最も高く、6万年以上前にアフリカから遠く離れた地域の現生人類の証拠に結び付けられる可能性は低そうです。


●ユーラシアの絶滅ホモ属からの遺伝子流動事象

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑には大きな関心が寄せられており、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類との間の多数の混合事象が提案されてきました。しかし本論文は、現時点でこれらの事象のうち4つのみ(そのうち1つは現代人に寄与しませんでした)が、広範な合意を得ており、決定的に実証されたとみなせる、と主張します。


●ネアンデルタール人からの遺伝子流動

 最初の現生人類と絶滅ホモ属との混合事象の結果、サハラ砂漠以南のアフリカ以外の現代人集団のゲノムには約2%のネアンデルタール人系統がもたらされ(関連記事)、更新世のベルギーやシベリア西部(関連記事)や中国北東部(関連記事)の個体を含む、これまでにゲノムが分析された45000年前頃までの現生人類個体全員に見られます。ネアンデルタール人系統はこれら非アフリカ系現代人よりはずっと少ないものの、アフリカ東部および西部の現代人でも確認され、それは一度アフリカからユーラシアへ拡散した現生人類集団のアフリカへの「逆流」を反映しています(関連記事)。しかし、アフリカ中央部のムブティ人や東部のディンカ人のような一部のアフリカ人集団は検出可能なネアンデルタール人系統を欠いており、エチオピアの4500年前頃の個体(関連記事)や、アフリカ南部の2300~1800年前頃の個体(関連記事)や、マラウイの8100~2500年前頃の個体(関連記事)も同様です。

 アフリカ外のネアンデルタール人系統の地理的な遍在性から、混合はアジア南西部もしくはその近くで起きたと示唆されていますが、これまで明確な証拠は得られていません。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と現生人類との数千年もの共存(関連記事)が推測されているにも関わらず、後期ネアンデルタール人は現代人集団に遺伝的に寄与していないようです。ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は、遺伝的にコーカサスのネアンデルタール人よりも、現代人に遺伝的に寄与したネアンデルタール人集団と近いわけではありません(関連記事)。

 現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の地理的分布の主要な特徴は、ユーラシア東部集団と比較して、ユーラシア西部集団では1/5~1/10ほど割合が低くなっていることで、アジア南部と中央部はその中間水準です。ただ、最近になってもっと違いは小さいのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。この観察は複数の混合事象を反映している、とも提案されてきましたが(関連記事)、現時点で最も可能性の高い説明は、上述のネアンデルタール人系統を全くもしくは殆ど有していない「基底部ユーラシア人」集団による「希釈化」です。

 現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNA断片の比較から、非アフリカ系現代人の祖先集団と混合したネアンデルタール人集団の遺伝的多様性は低いものの、2~3個体以上が寄与したに違いない、と示唆されています(関連記事)。さらに、現代人のネアンデルタール人系統は遺伝子領域およびプロモーターの周辺で、約1/3が枯渇しており(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の人口規模が小さいために蓄積された遺伝的負荷に起因する、と推定されています(関連記事)。ネアンデルタール人系統の減少は過去45000年の古代現生人類ゲノムでほとんど観察されておらず(関連記事)、自然選択によりネアンデルタール人と混合した最初期現生人類のゲノムにおける約10%のネアンデルタール人系統は、急速に現代人と同水準の約2%に低下した、と推測されています。したがって現時点では、ネアンデルタール人がより大きな拡大していく現生人類集団に吸収された、とする「同化」シナリオを除外できません。


●デニソワ人からの遺伝子流動

 第二の強く裏づけられた混合事象は、現代のオセアニア個体群における約3.5%のデニソワ人関連系統です(関連記事)。この混合事象に由来する系統はアジア南東部とオセアニア全域に存在し(関連記事)、アジア東部および南部集団やアメリカ大陸先住民集団ではごくわずか(約0.1%)です(関連記事)。シベリアのデニソワ人個体(関連記事)は、オセアニア現代人の祖先集団と交雑した仮定的な「南方デニソワ人」とはわずかに異なっているので(関連記事)、主要な問題は、この混合がどこで起きたのか、ということです。オセアニア現代人のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片はネアンデルタール人由来の断片よりも長いので、デニソワ人との混合はネアンデルタール人との混合よりも後の55000~45000年前頃と推定されてきました(関連記事)。ネアンデルタール人系統と同様に現代のデニソワ人系統も、ゲノムの機能領域周辺で枯渇しているので、おそらくは負の選択の類似の過程を経てきた、と推測されます(関連記事)。


 現代人の系統における第三の強く裏づけられた混合事象は、オセアニア現代人の祖先集団と交雑したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団からアジア東部現代人の祖先への遺伝子流動で、0.1%程度の割合で見つかります(関連記事)。アジア東部現代人の祖先集団と混合したこのデニソワ人集団は、シベリアのデニソワ人とより密接に関連しているようで(北方デニソワ人)、またアジア東部現代人集団では「南方デニソワ人」の遺伝的影響も見られます(関連記事)。したがって、アジア東部現代人集団は、2つの異なるデニソワ人関連集団にごくわずかな系統をたどることができます。


●アフリカ以外の古代の混合の頻度

 もう一つの強く裏づけられた混合事象は、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された4万年前頃の個体に由来し、4~6世代前にネアンデルタール人の祖先がいた、と推測されています(関連記事)。しかし、このネアンデルタール人との混合は、おそらく現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されています。ネアンデルタール人とデニソワ人との間の混合の発見(関連記事)と合わせると、これらの少ないものの直接的な観察混合の観察は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の混合に対する、強い生物学的もしくは行動的障壁がなかったことを示唆します。

 さらなる古代の混合事象が提案されてきましたが、合意は不足しています。これらの提案された混合事象は、ネアンデルタール人(関連記事)やデニソワ人(関連記事1および関連記事2)や未知の古代系統(関連記事)からの追加の混合を含みます。これまでの研究で提案されてきたこうした混合事象から、これらの人類集団が接触する時はいつでも、現生人類集団と絶滅ホモ属集団との混合が頻繁に起きた、と考えられます。そうした混合の複雑さは確かに尤もですが、現在よく裏づけられている混合事象には上記のものだけが含まれる、と本論文は主張します。

 また現在のゲノムデータは、たとえばホモ・エレクトス(Homo erectus)や他の集団など、非アフリカ系現代人における実質的な未知の「ゴースト」古代型系統を裏づけません(関連記事)。そうした系統のより実質的な量は、一部の非アフリカ系現代人集団において他集団に対する祖先的多様体の過剰を惹起し、起源集団のゲノムへの直接的検証がなくても検出でき、デニソワ人系統で確認できる兆候です。以下、本論文の図1です。
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(2)段階2:アフリカ起源

 第二の主要な段階は現代人系統の多様化です。アフリカはおそらくこの過程の中心でしたが、近隣地域のアジア南西部は、過去数十万年の人口史の重要な地域として除外できません(関連記事)。しかし、ユーラシアのさらに遠方地域における現代人の多様性の起源は、とてもあり得ないようです。本論文では、30万~6万年前頃のアフリカの現生人類について知られていることを考察します(図2a)。その中で、過去10万年のアフリカ内の完全な置換シナリオのみを、現在では除外できます。


●アフリカにおける現生人類の起源の化石記録

 30万~15万年前頃のアフリカの人類頭蓋化石は、形態的に大きな多様性を示します(図2b)。対照的に、アフリカ全域で30万年前頃に出現した中期石器時代技術は、多様なヒト集団の行動の類似パターンを示唆します(関連記事)。モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された315000年前頃の人類遺骸(イルード1および2号)と、エチオピアで発見された195000年前頃のオモ・キビシュ2(Omo Kibish 2)遺骸(オモ2号)はよく現生人類系統に位置づけられますが、球状の頭蓋冠を欠いています。じっさい、現生人類との類似性を示す特定の歯や下顎の特徴にも関わらず、イルード1号が現代人よりもネアンデルタール人の方と類似している、との指摘もあります(関連記事)。

 現在利用可能な証拠に基づくと、球状の頭蓋冠は20万~15万年前頃以降にしか現れず、これは195000年前頃のオモ1号や、エチオピアの16万年前頃となるヘルト(Herto)の頭蓋(ヘルト1および3号)の時代ですが、21万年以上前となるギリシアのアピディマの部分的頭蓋や、24万年前頃となるケニアのグオモデ(Guomde)の部分的な頭蓋冠にも、球状の頭蓋冠が存在した可能性はあります。26万年前頃(年代は訂正されるかもしれません)となる南アフリカ共和国の断片的なフロリスバッド(Florisbad)頭蓋は、頭蓋冠の球状性の程度を判断するにはあまりにも不完全で、現生人類との関係は不確実です。

 現在利用可能な化石証拠は疎らなので、球状頭蓋冠や下顎の突出した顎やより狭く広がった骨盤のような「現代的」な形態的特徴一式を生み出した、30万~20万年前頃の特定の進化事象があったのかどうか、不明です。ある理論的根拠では、そのような特徴は現代の系統の最初の分離前に存在していた、と示唆されました。しかし、早期の分離がより漸進的であれば、以下に説明されるように、「現代的」特徴は後の遺伝子流動により一般的になったかもしれません。したがって、現代人系統の多様化の時期は、形質進化に対する弱い制約しか提供しません。


●現代人集団の構造の時間の深さ

 現代人系統の主要な識別可能要素は、アフリカ西部とアフリカ東部とアフリカ中央部熱帯雨林とアフリカ南部とアフリカ外の集団と関連する要素を含むものとして要約できます(関連記事)。多くのアフリカ人集団は、これらの要素のうち非アフリカ系統を含む1つ以上の系統を有しており、複雑な混合過程を反映している、と説明できます。これらアフリカの系統の多様化はおそらく、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先との分岐後です。なぜならば、これら現代人系統間では絶滅ホモ属(古代型ホモ属)のゲノムとの関連性における古代のゲノムの違いは見られないからです。初期現生人類の多様化過程をより正確に理解することは、現生人類の起源の研究において主要な焦点です。

 現代人集団の構造の時間の深さを概念化する一つの方法は、他の個体群よりも一部の現代の個体群により多くの遺伝的系統を寄与した集団が存在した、最初の時点に焦点を当てることです。この時点より前にも構造は存在したでしょうが、それ以前のあらゆる集団は現代人全員と対称的に関連しています。現時点では15000年前以前のアフリカからの古代DNAが欠如しているため、この問題へのほとんどの洞察が、アフリカ現代人集団間の分岐年代の推定に由来し、さまざまな過程に依存しているので、かなりの不確実性と関連していることを意味します。

 アフリカ内の初期の分岐は突然の分裂ではなく、代わりにずっと漸進的なもので、数万年もしくは数十万年にわたる長期の遺伝子流動を伴っていたことが明確になりつつあります(関連記事)。分離過程の中間点として解釈できる推定値は、162000~104000年前頃と比較的最近の年代を示しているのに対して、遺伝子流動のない瞬間的な分離を仮定するモデルは34万~23万年前頃、遺伝子流動を含むモデルでは34万~125000年前頃を示します(図2c)。したがって、さまざまな手法は漸進的な分離過程のさまざまな側面を部分的に把握できるかもしれません。初期現生人類の人口集団構造の時間の深さを特定の時点の推定値で説明することに概念的な意味はなく、将来の研究では、その推定が分離過程のどの側面を反映しているのか、より明確にすることを目的とすべきである、と本論文は主張します。

 問題は、現代人集団の構造の出現時期をどう説明すべきか、ということです。現代人の遺伝的系統の大半は25万~10万年前頃に収束する可能性があり、それ以前、おそらく50万年前頃以前か、100万年前以前に分岐した集団に由来する系統のわずかな断片を有しています。多くの異なるシナリオが、共有された系統のこの観察された時間規模の根底にあるかもしれず、最近のアフリカ規模の置換モデルを却下すること以外に、現在のデータはそれらのシナリオの間を明確に区別できません(図2a)。


●アフリカにおける絶滅ホモ属との混合の可能性

 現代人集団間の構造の時間の深さに関する問題は、アフリカ内におけるより分岐した人類集団との混合という主張と密接に関連しています。13000年前頃のナイジェリアのイホエレル(Iho Eleru)遺跡化石や、25000~20000年前頃のコンゴ民主共和国のイシャンゴ(Ishango)遺跡化石といった、アフリカ西部および中央部の数少ないより後の化石の一部は、明らかな古代的特徴を示し、それは初期現生人類の形態のひじょうに遅い存続か、(現在観察される範囲外の形態を有する)絶滅ホモ属(古代型ホモ属)系統からの遺伝子流動を示唆します。

 いくつかの研究では、現代人の遺伝的多様性に基づいて、アフリカにおけるひじょうに深い人口集団構造の存在が示唆されており、これには、ネアンデルタール人やデニソワ人とは密接に関連していない、遺伝的に標本抽出されていない「古代」ヒト集団からの混合の示唆が含まれます(関連記事)。これらのゲノム研究では、「古代(archaic)」という用語が、本来の意味のように形態を参照するのではなく、むしろ早期の遺伝的分岐を示唆するために使われています。「古代」という用語は、「あまり進化していない」と誤解される危険性があるので、潜在的に問題があります(関連記事)。長年の使用を考えると、ゲノミクスの文脈ではこの「古代」という用語は、少なくともネアンデルタール人と同じくらい早期に、現代人系統の大半と分離したと明らかに仮定される集団のみ適用されるべきです。

 アフリカにおいてひじょうに分岐した系統を識別することが目的の研究のほとんどは、異常に長く、なおかつ他の断片とは深く分岐しているゲノム断片を探してきました。これらの観察は、シミュレーションにおいて古代型人類との混合のモデルに最もよく合致すると示されてきましたが、そのような断片がひじょうに多様なアフリカ人集団の分岐分布を表している、という主張を除外するのは困難です。したがって、「長期持続構造」と「古代型集団との混合」という概念は、モデルの連続体とみなされるかもしれません(図2a)。しかし、深い混合の裏づけは、現代人集団の連続体の稀で高頻度な末端における、ネアンデルタール人と共有される派生的なアレル(対立遺伝子)にも由来します(関連記事)。

 アフリカの人口史に関する一部のモデルは、ネアンデルタール人と同じ頃かそれ以前に現代人系統と分岐した系統からの遺伝子流動も含んでいますが(関連記事)、より単純なモデルは除外されていません。本論文の見解は、これらのさまざまな知見を古代型ホモ属との混合と言及するのは時期尚早で、直接的なゲノムが利用可能なネアンデルタール人やデニソワ人との混合と同水準には達していない、というものです。それにも関わらず、アフリカ内のひじょうに分岐した集団と現代人系統との混合は、初期現生人類の分離の観察された複雑な時期を説明するのに役立つかもしれません。


●現生人類の起源地の調査

 現時点での証拠では、現代人の共通祖先がアフリカのどこに居住していたのか、より正確に特定することは不可能である、と本論文は主張します。過去にどのように系統が分布していたのかを示す充分な時系列が欠如している場合、特定の地域に起源があることを示す強い一連の証拠は、現代人系統の大半がその地域のより大きな多様性内で「入れ子」になっていたならば、混合を説明しているかもしれません。しかし、そのような基準は現時点で現生人類の起源地としてアフリカを特定していますが、アフリカ内の特定地域を正確に示すわけではありません。

 別の理論的根拠では、遺伝的多様性の最高水準は拡大の起源地で見られると示唆されており、この「連続創始者」モデルは現生人類のアフリカ南部起源を示すのに用いられてきました。しかし、現代人の遺伝的多様性水準は、人口ボトルネック(瓶首効果)に起因する多様性の喪失だけではなく、混合に起因する多様性も反映しており、これは現代においてアジア東部と比較してのヨーロッパにおけるより大きな多様性パターンが、過去の人口集団に存在しなかったことにより示されます。さらに、主要なサハラ砂漠以南の人口集団の多様性水準は、相互に約10%以内で、強い地理的傾向はありません。最近の全ゲノム研究では、最高の遺伝的多様性を有する集団はアフリカ中央部のビアカ(Biaka)で、最近の混合を示します。

 アフリカ南部の人口集団が最も深い分岐時間を示し、進化史の系統樹的なモデルで最初の分岐の位置を占める傾向も、アフリカ南部が現代人の起源地である証拠として解釈されてきました。しかし、系統樹は遺伝的歴史の不充分な表現で、分岐事象は常に2つの対称的な子孫の分枝を有し、そのどちらも他者よりも祖先的ではありません。遺伝子流動を認めるより最近の研究では、少なくともアフリカ南部系統と同程度に分岐した系統が、アフリカ中央部と東部と西部に存在している、と示唆されました(関連記事)。

 さらに重要なことに、人類は20万年以上前に居住していた場所から移動してきた可能性が高いので、現在最も分岐した系統を有する人々の場所が起源地に対応する、という強い予測はありません。同様に、現代人全員の仮定的な母系最終共通祖先であるミトコンドリア「イヴ」は20万年前頃に存在していましたが(関連記事)、彼女もしくは父系となるY染色体「アダム」の存在した場所からは、全ての現代人系統の起源地を必ずしも予想できません。さらに、小さなミトコンドリアの歴史は、より大きなヒトの系図を通る多数の経路のうちの1つだけをたどります。ゲノムの他の多くの部分では、最も分岐した枝はアフリカの他の場所、あるいは時にアフリカ外で見つかります。

 これらの理由のため、現在のゲノムは、現代人の初期の祖先が存在した場所に関する充分な情報を単純に含んでいるわけではありません。最近、現代人の祖先はアフリカ大陸の大半で異なるものの相互に関連した集団に暮らしていた、という仮説への注目が増加していますが(関連記事)、そのような「汎アフリカ」起源仮説(図2a)は、同様にゲノム証拠に対しての検証が困難です。より豊かで地理的により代表的な化石記録と、より古い期間の古代DNAもしくは古代タンパク質が、アフリカ内のヒトの過去の分布により有益な情報をもたらすかもしれません。


●アフリカ全域における後期更新世の拡大の可能性

 アフリカ西部および中央部における深く分岐した系統を含む人口史モデルでは、これらの地域における第二の主要な系統はアフリカ東部集団と関連する傾向にあります(関連記事)。これを説明できる推測的な提案は、6万年前頃以後にユーラシアへ拡大した系統と類似した系統のアフリカ全域での拡大です。これは、アフリカ人および非アフリカ人系統が80000~65000年前頃に共通祖先を有していた、Y染色体ハプログループ(YHg)CT系統の拡大も説明できます(関連記事)。現代人のゲノムの断片間の分岐年代分析は同様に、ネアンデルタール人との混合を欠いているものの、非アフリカ人の祖先と関連する集団から研究された全アフリカ人集団へのかなりの混合を示唆しています。この系統はアフリカ大陸を離れなかったかもしれませんが、ユーラシアへの拡大と同時のアフリカ全域の拡大を表しているかもしれず(図2a)、その拡大はアフリカ現代人集団間で観察される複雑な遺伝的関係の主因だった可能性があります。以下、本論文の図2です。
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(3)段階1:古代型集団との分岐

 最も特徴的なネアンデルタール人化石としては、ヨーロッパで発見された25万~4万年前頃のものが知られており、シベリア南部までのアジアではより限定的な期間で発見されています(関連記事)。化石記録におけるデニソワ人の特定は現時点ではほとんど知られていませんが、10万~6万年前頃にチベット高原で存在していたことが堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)により確認されており(関連記事)、中国の60万~20万年前頃の増加している化石記録は、アジアのより早期のホモ・エレクトスとの違いを示す標本が含まれています(関連記事)。

 中国の陝西省大茘(Dali)で発見された25万年前頃のほぼ完全な頭蓋はホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)に分類されることもありましたが、巨大な眼窩上隆起や古代的な形状の頭蓋冠や少々現代的ではあるもののひじょうに広い顔面の組み合わせを示します。これは独特の形態で、おそらくは、エレクトスやハイデルベルゲンシスやネアンデルタール人の特徴も欠いている、遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や安徽省池州市(Chizhou)東至県(Dongzhi County)の華龍洞(Hualongdong)遺跡で発見されたホモ属頭蓋冠のような他の中国の人類化石頭蓋に反映されています。

 したがってこれらのホモ属頭蓋冠は、甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前の下顎(夏河下顎)や、台湾沖で発見されたホモ属化石「澎湖1(Penghu 1)」とともに、初期デニソワ人の候補を表している可能性があります(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人は現代人系統と分離した後に一部の系統を共有していますが、おそらくは40万年以上前に相互に分岐しました(関連記事)。

 ゲノム分析により、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類系統に加えて、第四の、ひじょうに異なる系統が特定されました。この第四の系統は30万年以上前に存在したものの(図3)、現在では化石記録に見えるあらゆる集団とも関連づけられません。これはデニソワ人のゲノムに存在する「超古代型」系統と提案されています(関連記事)。主要な証拠は、ほとんど或いは全くネアンデルタール人との混合を有していないアフリカ人集団を含む現代人全員が、デニソワ人よりもネアンデルタール人の方とより多くの遺伝的多様体を共有していることで、とくに、初期現生人類で固定された多様体に関して当てはまり、デニソワ人ではこれらの多様体の頻度を希釈する古代型系統が存在します。

 この超古代型集団は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先と140万~90万年前頃もしくはもっと早く分岐したでしょう(関連記事)。デニソワ人はひじょうに異なるmtDNA系統も有しており、この系統は現生人類および(後期)ネアンデルタール人とは140万~70万年前頃に分岐し(関連記事)、「超古代型」集団に由来する、と推測されています。この「超古代型」集団がエレクトスもしくはいくつかの関連集団に対応しているとの推測は魅力的ですが、その遺伝的分岐は遅くとも180万年前頃となるエレクトスの化石記録の最初の出現と一致するには、あまりにも最近のようです。ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)と関連した集団は、「超古代型」集団の代替候補の可能性があります。

 ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先は、現代人の祖先と70万~50万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。この分岐は漸進的な分離過程というよりはむしろ突然だった、と示唆されていますが、50万年以上前以降の完全な遺伝的分離に反する証拠は、わずか45万~35万年前頃に分岐する現代人とネアンデルタール人のmtDNA(関連記事)と、Y染色体の類似の時間枠(関連記事)に由来します。この明らかな不一致は、母系もしくは父系の単系統遺伝(mtDNAおよびY染色体)では、45万年前頃以後のある時点でネアンデルタール人と現生人類の祖先間の遺伝子流動が生じた、と想定すれば説明できます。

 この遺伝的歴史の解明において重要なデータは、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された40万年以上前のネアンデルタール人的な形態を示すホモ属遺骸からのDNAで、SH個体群は核DNAではデニソワ人よりもネアンデルタール人の方と類似性を示します(関連記事)。しかし、SH個体群はmtDNA系統ではネアンデルタール人と現生人類よりもデニソワ人の方と近く(関連記事)、早期ネアンデルタール人は全員このmtDNA系統を有していたものの、後に現生人類に近い系統からの遺伝子流動により置換された、と示唆されています(関連記事)。その後、ネアンデルタール人のmtDNA系統は27万年前頃に多様化していき、現生人類に近い系統からネアンデルタール人への遺伝子流動は27万年前頃以前に起きたと示唆されていますが(関連記事)、この多様性の一部がそれ以前に存在した可能性もあります。

 ネアンデルタール人において現生人類系統からの遺伝子流動は、シベリア南部のアルタイ地域集団では起きたものの、ヨーロッパ集団では起きなかった、と示唆されましたが(関連記事)、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見されたネアンデルタール人個体から得られた高品質なゲノムデータでは、ヨーロッパのネアンデルタール人でも現生人類系統からの遺伝子流動があった、と推定されています(関連記事)。代わりに後の研究では、これまでに研究されたネアンデルタール人全個体の祖先に、数%の現生人類からの遺伝子流動があった、と統計的に推測されています(関連記事)。そのような推論は、アフリカにおける古代型ホモ属集団との混合の分析と同様に、同じモデル化の課題の多くの影響を受けます。それにも関わらず、そのような遺伝子流動は、ほぼ20万年以上前となる現代人の系統の多様化前に分岐した集団に由来する必要があるでしょうが、母系もしくは父系の単系統遺伝の置換につながった同じ事象に対応している可能性があります。

 したがって、ネアンデルタール人とデニソワ人に遺伝的に寄与した可能性のある3系統が仮定されており、現代人との分岐の異なる程度の要素を有します。第一は「超古代型」系統で、100万年前頃に現代人(とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先)系統と分岐しました。第二は元々仮定されていた「中期」古代型系統で、現代人の祖先とは70万~50万年前頃に分岐し、そこからデニソワ人とネアンデルタール人の系統が派生しました。第三は40万~20万年前頃となる「最近の現代人の祖先(と近い系統)からの遺伝子流動」です。

 「超古代型」系統はデニソワ人で(関連記事)、最近の遺伝子流動はネアンデルタール人で(関連記事)推測されていますが、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方が異なる割合でこれらの系統要素を両方有していた、と想定することも可能です。デニソワ人とネアンデルタール人の両方が、「中期」古代型集団にその系統の大半を由来する、と一般的に考えられていますが、推定される古代型系統と現代人系統の70万~50万年前頃という分岐年代は、「超古代型」系統と「最近の遺伝子流動」系統の統計的平均に起因する可能性があります。この代替想定では、70万~50万年前頃のネアンデルタール人の祖先の「中期」集団と拡大は必要ありません。


●現代人と古代型ホモ属の最終共通祖先

 現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統の大半が50万年前頃に収束するならば、ゲノムはその共通祖先がどのような人類だったのか、情報を殆どもしくは全く提供しません。70万~30万年前頃の化石は、解剖学的に異なる多くのヒト集団を明らかにしており、この期間はヒト進化の「中期の混乱」と呼ばれてきました。中期更新世初期の化石を、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先集団を明確に表すものとして特定することは不可能ですが、おそらくはそうではない集団、つまりアジアのエレクトスやアフリカとユーラシア西部の顔面が派生的なハイデルベルゲンシスや、ネアンデルタール人的なSH個体群を特定することは可能です。現生人類の初期祖先のあり得る代替候補は、ヨーロッパのアンテセッサー、アフリカ北西部のティゲニフ(Tighenif)化石群、アフリカ北東部のブイア(Buia)資料です。

 現生人類の祖先はアフリカに50万年前頃以前に居住していた、と一般的に考えられていますが、ユーラシアに居住していた可能性を除外するのは時期尚早です。この期間のユーラシア起源は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と「超古代型」人類系統間の現時点で理解されている関係を説明するために、アフリカとユーラシアの間のより少ない移住も必要とするでしょう(関連記事)。ヨーロッパのアンテセッサーのプロテオーム解析(プロテオミクス)データは、遠い過去の古代タンパク質保存の可能性を示しており(関連記事)、アンテセッサーは現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先と密接に関連していたかもしれないものの、歯のエナメル質のタンパク質により提供されたその系統情報は依然として低解像度である、と示唆されます。

 いずれにしても、アフリカ外での人類の一般的に受け入れられた最古の証拠は200万年前頃に近い年代で、ジョージア(グルジア)で発見されており(関連記事)、化石記録からは、チンパンジーとの共通祖先まで、この時点以前の全てのヒト祖先はアフリカに居住していた、と強く示唆されます。なお、本論文では言及されていませんが、石器証拠からは、レヴァントで250万年前頃、中国で212万年前頃の人類の存在が指摘されています(関連記事)。ただ、これらの初期出アフリカ人類が現代人の祖先である可能性は低そうです。以下、本論文の図3です。
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(4)今後の見通し

 現代人は過去数十万年(たとえば、20万年前頃)のアフリカ起源と一般的に理解されていますが、そうした「起源」が何を伴うのか、しばしばよく定義されていません。形態の進化、つまり、現代人の祖先が形態や行動や生理や認知能力の観点で充分に現代人と類似するようになった時を、遺伝的系統と区別することはますます重要になっています。代わりに、遺伝的観点からの定義は、特定の特徴一式の有無に関わらず、現代人の遺伝的系統のほとんどが特定の地理的領域で発見された期間に焦点を当てられます。

 現代人系統がいつ誕生したのかと尋ねることは、現代人の特徴を通じて定義されるように、いつどこで現生人類が誕生したのか、と尋ねるのとは異なる質問で、本論文で検討された最初の質問の答えは、後者について曖昧にしか情報をもたらさないかもしれません。したがって、現生人類の起源の厳密な定義は、継続的で複雑な、なおかつ多くの側面で未知の、深い現生人類の過去に関する性質を単純化する危険性があります。たとえば現在の証拠では、アフリカとアジア南西部が30万~10万年前頃の現生人類の起源地域として特定されますが、さらなる地理的正確さは提供されず、30万年以上前には、現代人の祖先がどこに居住していたのかについて、さらに不確実となります。

 今後10年間で、これらの洞察はおそらく、古人類学の現地調査の地理的焦点を、アフリカ中央部および西部やインド亜大陸やアジア南東部のような、以前には現生人類の進化の中心の周辺とみなされていた地域へと変えていくでしょう。アフリカ全域および他地域からのより時空間的に代表的な古人類学的および遺伝学的データが利用可能になるにつれて、本論文で説明されてきたように、現生人類の過去を通じての系統理解の洗練が可能になるでしょう。これまでの直接的な遺伝的分析の成功は、より広い古代の遺伝的記録の重要性を浮き彫りにします。これは、骨格資料からの古代DNAの回収(関連記事)、ヒト資料の断片的集合体の生体分子走査(関連記事)、堆積物DNAの分析(関連記事)、古代タンパク質解析(関連記事)における継続的な技術的改善を必要とするでしょう。この組み合わされた記録の学際的な分析は、間違いなく現生人類系統の起源についての新たな驚きを明らかにするでしょう。


参考文献:
Bergström A. et al.(2021): Origins of modern human ancestry. Nature, 590, 7845, 229–237.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03244-5

石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が指摘するように、おそらく北朝の一般的な人気は南朝よりも低く、そもそも北朝への関心が低い、と言うべきかもしれません。北朝は足利将軍家(室町幕府)の言いなりで、南朝と比較して魅力というか個性に欠ける、との一般的な印象が強いようにも思います。本書はその北朝を、両統迭立から織田信長の上洛の頃までの長期的視点から位置づけます。

 両統迭立となり、皇位継承に鎌倉幕府が決定的な影響力を有するようになり、それは裁判などさまざまな政治的判断に及びました。持明院統が幕府に依存する傾向にあったのに対して、大覚寺統は幕府に依存するだけではなく、自助努力により朝廷内で主導権を掌握し、皇位を確保しようとする傾向にあった、と本書は指摘します。鎌倉時代に分裂した持明院統と大覚寺統は、権威の象徴たる楽器の違い(持明院統は琵琶、大覚寺統は笛)など、それぞれ独自の特徴を有するようになっていきました。

 後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、京都を掌握した足利尊氏は、後醍醐天皇に冷遇された持明院統を担ぎ出し、自らを正当化しました。これは、武家社会内の血統観念のみでは、足利家は唯一無二の棟梁として君臨できなかったからです。本書は、足利将軍家と北朝(持明院統)天皇家とは相互依存関係にある運命共同体で、それを維持するための実体的努力は全て将軍家が担わざるを得なかった、と指摘します。大覚寺統の後醍醐天皇は吉野へと逃れ、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝との対立が固定化します。尊氏や弟の直義は、南北朝時代において南朝勢力と戦うさい、自らを「北朝の軍隊」として厳密に位置づけながら戦い続けました。この過程で、初期室町幕府において実質的な統治者的立場にいた直義は、光厳院と「君臣合体」とも言うべき親密な関係を築きます。これが、その後の天皇と将軍との関係の萌芽とも評価できる、と本書は指摘します。

 軍事的には南北朝時代の初期の段階で北朝を擁する足利軍が南朝を圧倒しましたが、その後も南北朝の並立は続きました。これは、足利やその一門も含めて武士勢力内で対立が起きた場合、しばしば一方が南朝を頼ったからでした。その最大の事件が観応の擾乱で、一時は、尊氏が南朝に降ったことにより、北朝が南朝に接収されました(正平の一統)。この過程で、北朝の主要皇族が南朝に拉致され、北朝は天皇になるべき皇族がほとんどいない状況に追い込まれます。そこで室町幕府は、拉致された崇光上皇の弟を即位させます(後光厳天皇)。これにより、北朝の皇統は崇光と後光厳に分裂します。

 北朝が早々に新たな天皇を擁立したことにより、崇光上皇など北朝の主要皇族の人質としての価値はなくなり、南朝は北朝の主要皇族を解放します。皇位は崇光から後光厳に移りましたが、北朝天皇家領の大半を占めた長講堂領の処分権に関して、崇光上皇は強い発言力を有し続けました。しかし、後光厳天皇の後継者として、幕府は崇光の息子である栄仁親王ではなく、後光厳の息子を指名します(後円融天皇)。栄仁親王は、父である崇光の死後に足利義満から所領を没収され、それは後円融の息子の後小松天皇に与えられました。すっかり傍流となった崇光院流(伏見宮家)ですが、栄仁親王の息子の貞成王の代に、後小松の後継者である称光天皇が皇子のいないうちに没し、貞成王息子の彦仁王が後小松上皇の猶子として即位します(後花園天皇)。

 この間、光厳院と直義との間に成立した「君臣合体」は、観応の擾乱により終わり、正平の一統により大打撃を受けた北朝は、以後人材難に苦しみ、特定の固定化された少数のみで、異例の状況で即位して権威に欠けていた後光厳天皇の時期の朝儀が辛うじて支えられていました。自らを正当化してきた北朝の危機的状況を見て、室町幕府は光厳院と直義との間のような個人的関係ではなく、組織として朝廷に関与していくようになります。これ以降、廷臣が南北両方朝の動向を様子見するようなことは許されず、強い忠誠心、具体的には朝儀での朝廷への貢献が要求されるようになりました。廷臣には忠誠心・貢献に応じて信賞必罰がくだされ、その執行を幕府が保証しました。

 室町幕府3代将軍の義満は、権威に欠ける後光厳院流を支持し、崇光院流や南朝(大覚寺統)に厳しく接しました。ただ、崇光院流や大覚寺統に厳しく接しつつ、所領や銭を支給しており、本書は義満の皇族懐柔策を「アメとムチ」と評しています。後円融天皇とは相性の悪かった義満ですが、その息子の後小松天皇をよく補佐し、後小松は義満へと依存を強めていきます。上述のように、後光厳院流は称光天皇の代で途絶え、後継者は崇光院流の彦仁(後花園天皇)でした。4代将軍の義持は、後小松と称光との「親子喧嘩」にまで処理に励み、本書は義持を「王家」の執事と評します。この頃には、足利将軍家が北朝天皇家を公私にわたって丸抱えするようになっていました。

 称光が病弱で皇子もいないことから、義持はすでに称光の生前に後小松上皇と相談し、彦仁を有力な候補と考えていました。義持は称光よりも半年前に没し、将軍に就任したばかりの義教は、重臣・側近たちから義持時代の既定方針を説明され、彦仁が即位します。義持の補佐を受け、義持に依存する傾向が強かった後小松上皇は、義教との関係構築に積極的でした。ただ、義教は後小松に遠慮しすぎで、後小松が望むような両者の関係は構築されなかった、と本書は評価しています。義教は後小松に悪感情を抱くようになり、後小松の死の頃には両者の関係は悪化していましたが、後花園天皇と義教との関係は良好で、義教は後花園にとって「王家」の執事だった、と本書は指摘します。ただ、後花園の実父の貞成と義教との関係は微妙で、義教は貞成を贔屓にしていましたが、貞成は気難しい義教を恐れて迎合するだけで、親近感を抱いていなかった、と本書は評価しています。

 将軍が「王家」の執事として振舞うことは、義教の息子の8代将軍義政も同様でした。義政は退位後の後花園とも良好な関係を築きます。しかし、次代の後土御門天皇の代に応仁の乱が勃発し、疲弊した幕府(足利将軍家)は、譲位や即位や元服といった重要儀式の費用を捻出することが難しくなっていきます。義政は、皇子の元服は天皇家の費用で賄ってもらいたい、と考えますが、将軍に依存しきっていた天皇家は、これに不満を抱きます。応仁の乱以後、もはや将軍家が天皇家を丸抱えすることは難しくなっていました。

 本書はこの過程で、応仁の乱を契機に長期にわたって天皇家と将軍家とが同居したことを重視します。この同居では酒宴が日常化し、前例のない弛緩した事態に、天皇家と将軍家との交流から儀礼性が失われ、財政難もあって儀礼が衰退・変化していきます。義政の息子で9代将軍の義尚は、公家社会との公的な関係構築に消極的でした。義尚がこのような姿勢を示したのは、単に義尚の個性に起因するのではなく、応仁の乱の結果として、もはや中央政権たる幕府の権威に頼るよりも在地での支配確立を有力守護が志向したため、守護在京制が崩壊し、天皇家との儀礼的関係を見せつける相手が存在しなくなった、という大きな構造変化がありました。

 後土御門の次の後柏原天皇の代には、天皇家と将軍家との儀礼的昵懇関係は完全に無実化し、天皇家は将軍家からの最低限の資金援助さえ期待できなくなります。それでも後柏原天皇は、将軍に依存しようとしますが、幕府の衰退は明らかで、戦国時代には、最重要とも言える即位儀さえ大きく遅延するような事態に陥ります。この間、細川政元のように天皇家を支えることに冷淡だった実力者もいますが、大内義隆は後柏原天皇の息子の後奈良天皇の即位儀の費用を負担します。ただ本書は、細川政元のような考え方は少数派としても、大内義隆のように惜しみなく費用を負担する大名も珍しかった、と指摘します。本書は、細川政元のような考えに近い人物として、室町幕府最後の将軍である15代義昭を、伝統的な将軍家と天皇家との親密な関係を望んだ人物として、織田信長を挙げます。つまり、信長の考え方は伝統的だった、というわけです。本書は、北朝(持明院統)天皇家が、自分たちの立場を最大限利用し、その時々の有力な武家を庇護者とすることで中世を生き抜いた、と評価しています。

 なお本書は、後光厳院流が天皇だった時代、とくに後小松と称光の時代における天皇・上皇絡みの密通騒動の多さを指摘しています。これが、後小松と称光の時代に特異的な可能性もありますが、本書でも言及されているように、後光厳院の父である光厳院からして密通を告白しており、江戸時代初期の猪熊事件からも、朝廷において「風紀の乱れ」は程度の差こそあれ長く続いていた可能性が高いように思います。この観点からも、天皇の正統性をY染色体に求める言説にはまったく同意できません。

イヌの家畜化のシベリア起源説

 イヌの家畜化の起源に関する研究(Perri et al., 2021)が公表されました。イヌは最初の家畜化された種で、更新世に人類と家畜関係に入ったことが知られている唯一の種でもあります。古代のイヌ遺骸と古代人の考古学および遺伝的記録に関する最近の遺伝的分析では、特定のイヌのミトコンドリア系統の時空間的パターンはしばしば、異なる年代と場所における人類集団の既知の拡散と相関する、と示されてきました。たとえば、古代の近東およびヨーロッパのイヌのミトコンドリアDNA(mtDNA)研究では、イヌが農耕民とともに近東から拡散した時に、特定のmtDNAハプログループ(mtHg)がヨーロッパに到来した、と示されました(関連記事)。ニュージーランドで最初のイヌは、新たに到来したポリネシア人に連れて来られました。古イヌイット集団が5000年前頃に北アメリカ大陸北極圏に移動してきた時にもイヌを伴っており、この時のイヌは新たな特有のmtHg-A2aを有していました。その後、1000年前頃となるイヌイット集団のこの地域への到来には、新たなmtHg-A1aおよびA1bを有するイヌ集団の到来が伴っていました。

 人類の拡散と特定のイヌ系統との間のこれらの相関は、ずっと早く、おそらくはイヌがユーラシアのハイイロオオカミの祖先から家畜化された後に始まったかもしれませんが、家畜化の起きた正確な場所とその回数は不明なままです。1万年前頃までにアメリカ大陸で考古遺伝学的に報告されたイヌの存在から、イヌはアジア北東部からベーリンジア(ベーリング陸橋)を横断してアメリカ大陸へと初期人類集団と共に移動してきた、と示唆されています。現在の考古学および遺伝学の証拠に基づくと、この移動は15000年前頃以前に起きた可能性が高そうです(関連記事)。本論文は、後期更新世のシベリアとベーリンジアと北アメリカ大陸の記録と新たに利用可能になった証拠を利用して、アメリカ大陸最初の人類がイヌとともにアメリカ大陸で拡散していった、という可能性を評価します。この分析により、この拡散過程をよりよく理解し、家畜イヌの時空間的起源の仮説を提示できます。


●最初のイヌ

 多くの考古年代測定手法が適用され、イヌの家畜化の年代と地理を確立するために、オオカミとイヌと人類との間の相互作用が報告されてきました。これらの研究ではまず、イヌが最初の家畜化された動物で、更新世に人類と家畜関係に入った唯一の種だった、と示されました。次に、イヌの起源となった特定のオオカミ集団は絶滅したようだ、と示されました。最後に、現代および古代のイヌとオオカミの遺伝学および考古学の証拠から、イヌの家畜化はユーラシアで起きた、と示されました。イヌと人類の関係が始まった環境、年代、独立して起きたかもしれない家畜化の回数と(単一もしくは複数の)場所を含む、イヌの家畜化の他の多くの側面は未解決です。

 家畜化につながった人類とオオカミの相互作用の変化は、さまざまな手法で扱われており、最初の認識可能な家畜イヌがいつ出現したのか、議論が続いています。最初の一般的に受け入れられているイヌの年代は15000年前頃で、ドイツのボン・オーバーカッセル(Bonn-Oberkassel)遺跡で証拠が得られました。しかし、古代のイヌ科遺骸の形態学・同位体・遺伝学・文脈的評価に基づいて、家畜イヌは早くも4万年前頃には存在した、とも主張されています。しかし、これらの潜在的な家畜化の標識は、オオカミと初期の家畜イヌは相互に区別が困難かもしれない、という事実のため確実ではありません。

 たとえば、歯の密集や頭蓋の大きさや鼻の長さの縮小のような、家畜化を識別するのに用いられてきた一般的な形態学的特徴は、イヌとオオカミを明確な区別できないことがよくあります。同位体特性や食性の推測は、初期のイヌを識別するのに用いられてきましたが、同位体の変動がオオカミの食性としばしば一致することを考慮すると、疑問視されてきました。さらに、これらの提案された初期のイヌの遺伝的分析では、初期のイヌが古代もしくは現代のイヌと同じ系統に属していない、と示されてきました。複数の研究からのゲノム推定では、イヌの祖先となった系統を含めてオオカミ系統内の分岐年代は40000~27000年頃となりますが、この年代が家畜化過程の開始を反映している可能性は低そうです。また、家畜イヌの存在が主張されている遺跡に関しては、生きて繁殖するイヌ集団の存在を示唆する特徴である、肉食獣の噛んだ痕跡もしくは仔イヌが欠如していることに基づいて、疑問が呈されてきました。

 したがって、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡における家畜イヌの存在という主張は、その頭蓋と歯の形態がオオカミである可能性を除外できないので、議論されてきました。これらイヌ科のmtDNA分析でも、遺伝的にあらゆるイヌのmtHgとひじょうに異なる古代ヨーロッパのオオカミ系統に分類される、と示されました。同様に、シベリアのサハ共和国のウラハーンスラー(Ulakhan Sular)遺跡やトゥマット(Tumat)遺跡、アルタイ地域のラズボイニクヤ(Razboinichya)遺跡、シベリア北極圏のベレリョフ遺跡(Berelekh)、ヨーロッパロシアのコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ8(Kostenki 8)遺跡、シベリアのシスバイカル地域のエリゼーヴィッチ(Eliseevichi)遺跡で提案されてきた旧石器時代のイヌ科遺骸の遺伝的分析では、これらのイヌ科はイヌというよりは古代および現代のオオカミと密接に関連している、と示されてきました。

 チェコ共和国のプシェドモスティ(Předmostí)遺跡のイヌと主張されている遺骸の少なくとも1点も、イヌよりもオオカミの方と遺伝的類似性を示します。これらのイヌ科遺骸の家畜化との指摘も同様に、その歯と頭蓋の形態に基づいて疑問視されてきました。プシェドモスティ遺跡のイヌと主張されてきた遺骸の、食性の同位体および歯の微視的使用痕分析も、地元のオオカミ集団の変動範囲内に収まるかもしれません。さらに、プシェドモスティ遺跡では、肉食獣の噛んだ痕跡もしくは仔イヌの証拠が欠けており、プシェドモスティ遺跡におけるイヌ集団の存在にさらなる疑問を提起します。後期更新世のイヌに関する全ての主張の課題は、いくつかの証拠にわたって、疑問を呈されている標本が明確に同時代のオオカミと区別できる、と決定的に示すことでした。本論文では保守的手法が採用され、分類学的状態が明確に家畜化されているイヌ科遺骸のみが含まれます。

 形態学・遺伝学・同位体・文脈的証拠の集中に基づくと、最初の一般的に受け入れられている家畜イヌ遺骸は、ドイツのボン・オーバーカッセル(Bonn-Oberkassel)遺跡で発見された15000年前頃のものです。この若いイヌの形態および遺伝子は、明確に地元のオオカミと区別されます。このイヌがヒトと共に葬られ、疾患後に世話を受けた証拠からも、イヌと示唆されます。同時代の家畜イヌに関しては、フランスやドイツやイスラエルやイタリアやスイスの遺跡でも主張されています。形態と文脈に基づくと、追加のイヌかもしれない遺骸は、アフォントヴァゴラ(Afontova Gora)やディウクタイ洞窟(Diuktai Cave)やヴァーホーレンスカイア・ゴラ遺跡(Verkholenskaia Gora)といった更新世のシベリアの遺跡に存在するかもしれませんが、まだ確定されていません。アメリカ大陸では、最初の確認された考古学的なイヌ遺骸は、形態と遺伝と同位体と文脈の証拠に基づくと、1万年前頃となるコスター(Koster)およびスティルウェル2(Stilwell II)遺跡に由来します。

 遺伝的観点から、何百もの古代および現代のイヌ科のミトコンドリアおよび核のゲノムが配列されてきました。核ゲノムデータの分析では、全てのイヌは遺伝的に均質な集団で、主要な3祖先系統からさまざま程度の系統構成要素を有している、と示唆されています。それは、ユーラシア西部系統(おもにヨーロッパとインドとアフリカのイヌで見られます)と、アジア東部系統(たとえばディンゴ)、北極圏系統(たとえば、ハスキーや古代アメリカ大陸イヌ)です。数十頭の古代イヌのゲノムに関する最近の研究では、少なくとも11000年前頃までに、これらの系統が全て確立していた、と示唆されています(関連記事)。

 mtDNAデータでは、現代のイヌの大半が4単系統mtHg(A・B・C・D)の1つに分類され、それはmtHg-Aと示唆されています。最近の古代DNA研究では、北極圏より南方のアメリカ大陸における先コロンブス期の全てのイヌは特有のmtHg-A2bを有しており、これはアメリカ大陸の内外の現代のイヌでは事実上消滅しています(0.5%)。mtHg-A2b内では、4系統の追加のよく裏づけられた単系統下位mtHgがあり、mtHg-A2b1・A2b4はアメリカ大陸でしか見られません。これら4系統のmtHgのうち、A2b1はカリフォルニア州のチャネル諸島からアルゼンチンまでアメリカ大陸全域に存在しますが、他の3系統は現在のデータを考慮すると、地理的に限定されています(図2)。

 分子時計分析により、mtHg-A内の分岐と関連する年代が明らかになりました。まず、基底部に位置するmtHg-A1bとA2A間の分岐は、22800年前頃(95%信頼区間で26000~19700年前)です。この年代は、イヌのミトコンドリア2系統間の最古となる既知の合着(合祖)を表しており、イヌは考古学的記録における最初の出現に数千年先行して家畜化された、と示唆されます。この推定年代は、オオカミとイヌとの間の後の遺伝子流動に影響を受けたかもしれませんが、これらのmtHgはあらゆる古代もしくは現代のオオカミで見られず、オオカミとイヌの混合は一般的ではなかったようなので、その可能性は低そうです(関連記事)。この早期の年代から、イヌは人類がアメリカ大陸に到来する前までに家畜化された可能性が高い、と示唆されます。以下、本論文の図2です。
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●アメリカ大陸における最初の人類

 アメリカ大陸最初の人類の起源に関する理解は、アメリカ大陸とアジア北東部における新たな遺跡の特定と古代DNA研究により、過去10年で飛躍的に発展しました。ゲノムの証拠からは、アメリカ大陸先住民系統はアジア東部集団の祖先と3万年前頃(95%信頼区間で36400~26800年前)に分岐したと推定されています。核ゲノムデータに基づくと24000年前頃(95%信頼区間で27900~20900年前)、mtDNAデータに基づくと24900~18400年前頃(関連記事)、アメリカ大陸先住民系統は少なくとも2つの集団に分岐しました。一方はアジア北東端に留まったように見える古代旧シベリア集団(APS)で、もう一方はアメリカ大陸先住民の基底部系統になりました。両集団はその後別々に、シベリア北端の31600年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)と、バイカル湖近くのマリタ(Mal’ta)遺跡で検出された、古代シベリア北部集団(ANS)から遺伝子流動を受けました(関連記事)。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に、アメリカ大陸先住民の基底部系統は、アメリカ大陸に拡散する前までアジア北東部で孤立していたようです。現時点では、この地域における他の集団とのその後の遺伝子流動の証拠はありませんが、遺伝的に見えない他集団との相互作用の可能性は除外されません。この孤立期間は、その推定される場所に因んで、ベーリンジア潜伏モデルとして知られています(関連記事)。核DNAとY染色体とmtDNAに基づくベーリンジア潜伏期間の推定値はさまざまですが、全体的に、ベーリンジアでの潜伏は2400~9000年間続いた可能性がある、と示唆されています(関連記事)。

 現時点での証拠からは、このベーリンジア潜伏期間、おそらくは21000年前頃(95%信頼区間で21900~18100年前)に、このアメリカ大陸先住民基底部系統は少なくとも2つの区別できる集団に分岐した、と示唆されています。一方は古代ベーリンジア集団(AB)で、もう一方は祖先的アメリカ大陸先住民集団(ANA)です(関連記事)。ABとANAの両集団は分岐後にベーリンジア東部(現在のアラスカ)に拡散しましたが、その拡散の年代や、同時に移動したのかどうか、相互に分岐してからどの程度の期間一定の遺伝子流動を維持したのか、不明です。両集団はアラスカに到達しましたが、現時点ではABのゲノム証拠は、アラスカよりも南方もしくは9000年前頃以後のアラスカ集団では見つかっていません。

 一方ANA系統は、15700年前頃(95%信頼区間で17500~14600年前)に北方系統(NNA)と南方系統(SNA)に分岐した後、氷床の南側の北アメリカ大陸に到達しました。NNA集団とSNA集団は、遺伝的にABと等距離なので、ANA がAB系統により表される集団から分岐した後に、NNAとSNAの分岐が起きたに違いありません。この分岐は、ANAがアラスカから南方へ移動していた時に起きた、と推測されます。

 この分岐の推定年代と、アメリカ大陸の人類の考古学的証拠(関連記事)から、氷床より南方のアメリカ大陸への経路は太平洋沿岸に違いなかった、と示唆されます。氷床間の内陸経路(無氷回廊)という代替案もありますが、まだ氷床は開いておらず、人類に必要な動植物資源の証拠もこれを支持しません。どれくらい早く人類がアメリカ大陸に到達したのか、不明です。発見された最古の遺跡はアメリカ大陸で最古とは限らないため、考古学的証拠は下限年代しか提供しません。一方、早ければ27900年前頃かもしれない遺伝的推定値は、上限年代を提供します。なぜならば、移住過程はアメリカ大陸先住民の基底部の分岐の後であるに違いないからです。しかし、LGMに確実に先行するか、その期間中に居住されていたアメリカ大陸の遺跡がないことは、注目に値します。人類がアメリカ大陸の氷床よりも南方に到達すると、NNA系統の地理的拡大は比較的限定されていたようです。しかしSNA系統は、アメリカ大陸全域に拡散し、その過程で遺伝的に分岐していき、それは14100年前頃(95%信頼区間で14900~13200年前)には始まっていたようです(関連記事)。


●後期更新世の人類とイヌの系統分岐の一致

 アメリカ大陸は人類が移住した世界最後の地域の一つで、北アメリカ大陸のイヌの古さに基づくと、アメリカ大陸最初の人類はアメリカ大陸に到来した時にイヌ科動物を伴っていた可能性があります。イヌは、人類が急速に北半球に拡散したのに役立ったかもしれない、より大きな文化的要素の一部でした(関連記事)。人類はイヌを伴わずにアメリカ大陸に到来できたかもしれませんが、イヌは人類と共にアメリカ大陸に拡散してきたに違いありません。また、人類集団が相互に分裂した時にイヌを連れて行った、と推測することも合理的です。したがって、それぞれの集団分岐を提携させることにより、後期更新世の移動の年代を特定できます(図1)。以下、本論文の図1です。
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 イヌと人類で得られた推定分岐年代の比較には課題があります。アメリカ大陸におけるイヌの導入と関連する年代はmtDNAデータに由来し、とくに祖先集団が大規模ならば、集団分岐に先行する祖先の合着事象を表します。しかし、北極圏以外の全ての古代アメリカ大陸のイヌは同じmtHg-A2bに分類され、これは古代シベリアのイヌ系統と16400年前頃(95%信頼区間で18600~14300年前)に合着します(関連記事)。これはアメリカ大陸におけるイヌの導入の上限年代を提供しますが、古代アメリカ大陸のイヌ系統の創始者と関連する集団ボトルネック(瓶首効果)の証拠から、この年代が実際には、古代のシベリアとアメリカ大陸のイヌの集団分岐に近いかもしれない、と示唆されます。mtHg-A2b間の最も深い合着事象は15000年前頃(95%信頼区間で16900~13400年前)にさかのぼります。mtHg-A2bがアメリカ大陸外では事実上存在しないことを考えると、この最も深い合着はアメリカ大陸のイヌの祖先集団で起きた可能性が高そうです。したがって、この年代は、アメリカ大陸とシベリアのイヌの分岐の下限に近いと解釈できます。

 この年代は、アメリカ大陸への人類最初の移住年代とひじょうに一致しており、いくつかの重要な分岐結節点に共通しています。まず、イヌにおける最も深い分岐は26000~19700年前頃で、27900~20900年前頃となるAPSとANAおよびAB間の分岐と同年代です。この対応は、ANA系統が確立した頃には、イヌがすでに家畜化されていた、と示唆します。次に、mtHg-A2b(アメリカ大陸のイヌ)とA2a(シベリアおよびアメリカ大陸北極圏のイヌ)の合着は18600~14300年前頃で、mtHg-A2b 内の最古の合着事象は16900~13400年前頃で、アメリカ大陸先住民の主要な2系統(NNAとSNA)の分岐年代(17500~14600年前頃)と重なります。これは、アメリカ大陸における主要な人類とイヌの系統が同時に発生し、分岐したことを示唆します。北アメリカ大陸におけるイヌ遺骸の古さ(1万年前頃)と組み合わせたこの証拠と、前期~中期完新世(9000~5000年前頃)までにアメリカ大陸への後の人類の移住が欠如していること(関連記事)から、イヌは更新世にベーリンジアを横断し、mtHg-A2bが分散していった15000年前頃までに氷床より南方のアメリカ大陸に存在していたと示唆され、これはSNA系統の広範で急速な拡散と一致します。

 ANAもしくはABのいずれかが、アメリカ大陸にイヌを導入したかもしれません。なぜならば、両集団によるベーリンジアの横断を裏づける考古学的証拠があるからです。しかし、両集団は同時にベーリンジアに到来しなかったかもしれません。ABは独特な細石刃・細石核石器技術と関連しており、これはシベリア東部の16800年前頃となるディウクタイ洞窟遺跡で見られ、ベーリンジア西部へと北東に拡大し、スワンポイント(Swan Point)遺跡に見られるように、最終的には14200年前頃にアラスカへ到達しました。しかし、その時点までに、ひじょうに異なる技術を用いる人類がすでに氷床より南方のアメリカ大陸には千年以上存在しており、アメリカ大陸全域に拡散し始めていました(関連記事)。時空間を越えた石器技術伝統(収斂の結果として類似の石器は容易に生まれます)間、もしくは石器と人類集団間のつながりを示すさいには常に注意が必要ですが、上記の証拠からは、ABがアラスカに到達するまでに、ANAとイヌはすでにベーリンジアを通過していた、と示唆されます。これは、ANAがアメリカ大陸にイヌを導入した最初の人類だったことを示唆します。


●シベリアにおけるイヌの家畜化

 人類とイヌの集団分岐におけるこれらの類似は、イヌの起源に関して以前に提案された仮説の再評価を可能とする制約を課し、イヌの家畜化の年代と場所に関する仮説を提案します。一方では、イヌの祖先となった系統を含むオオカミ系統間の推定される分岐は、4万年前頃という家畜化の上限年代を提供します(関連記事)。他方、本論文では、イヌはベーリンジアをこの地域最初の人類とともに横断したと確認されたので、15000年前頃までに到達したというアメリカ大陸の人類の考古学的証拠は、イヌの家畜化の下限年代を提供します。イヌはアメリカ大陸では家畜化されなかった、と示唆する証拠(関連記事)と組み合わせると、イヌが15000年前頃以前にシベリアに存在した、と示されます。

 人類の古代ゲノム研究では、この頃にシベリアとベーリンジア西部に存在した複数の遺伝的に異なる集団が特定されてきました。これには、ANSやAPS、21000年前頃にANAとABに分岐するアメリカ大陸先住民の基底部系統が含まれます(図1)。古代ゲノムデータからは、これらシベリアの集団間における23000年前頃以後、もしくは39000年前頃以降となるシベリア外の集団との顕著な遺伝子流動はなかった、と示唆されています(関連記事)。この時期に、北極圏および亜北極圏のシベリアとベーリンジアにおける遺跡は少ない、と示されています。まとめると、この証拠から、シベリアとベーリンジアにおける人類集団は小規模で、比較的孤立して暮らしていたに違いない、と示唆されます。ANAとABが(別々に)アメリカ大陸へと渡った時まで、これらの集団はその地に留まったようです。

 シベリア外の共同体との相互作用がほとんどもしくは全くないとというこの証拠は、ANAが人類とともにアメリカ大陸へと渡ったイヌをどのように獲得したのか、という問題を提起します。考えられる理由の一つは、イヌはシベリアもしくはベーリンジア西部のどこかで、ANAがアメリカ大陸へと拡散する前の更新世にオオカミ集団から家畜化された、というものです。以前の研究では遺伝的証拠に基づいて、イヌがアジア東部かヨーロッパかアジア中央部のどれか、もしくはこれらの地域のどこか一つもしくは複数地域で独立して家畜化された(関連記事)、と示唆されてきました。イヌがユーラシア西部で家畜化されたならば、イヌがシベリアへと東方に拡大するには、人類の広範囲の移動が必要だったでしょう。これはあり得るものの、ユーラシア東西の人類集団がすでに39000年前頃(95%信頼区間で45800~32200年前)には分岐していたことを考えると(関連記事)、可能性は低そうです。

 LGMにシベリアに存在したと知られている人類集団(ANA・AB・APS・ANSおよびその祖先系統)のいずれかが、家畜化されたイヌを飼っていたかもしれません。しかし、ANAと関連するイヌは、基底部系統ではなく北極圏のイヌとのクラスタを表しており、最初の家畜化されたイヌ集団ではない、と示唆されます。同様に、APSは家畜化されたイヌを飼っていたかもしれませんが、ANAとの相互作用のゲノム証拠はありません。ただ、両者が遭遇したものの、考古学や遺伝学には記録が残らなかったかもしれません。同じく、イヌはABにより家畜化されたかもしれませんが、現時点では、ANAとの相互作用の遺伝的証拠はありません。それにも関わらず、イヌは21000年前頃の分岐の前に祖先系統を共有していたことから、家畜化されていた可能性があります。

 したがって、除去の過程および他のいくつかの理由により、ANSはイヌの家畜化過程を開始した可能性が最も高い集団を表します。たとえば、24000年前頃のマリタや17000年前頃のアフォントヴァゴラといったシベリアの遺跡のANS個体群は、これらの集団から古代のアメリカ大陸先住民およびユーラシア西部系統両方への後期更新世の遺伝子流動の証拠を示します(関連記事)。これは、イヌを異なる集団にもたらし、家畜化後の東西両方向への移動の仕組みを提供します。後期更新世のイヌかもしれない遺骸はアフォントヴァゴラ遺跡で特定されており、おそらくは基底部系統を表すものの、これらイヌ科遺骸のゲノムはまだ分析されていません。この仮説は、家畜イヌの単一起源を支持する最近の研究(関連記事)と適合しており、ユーラシア西部と近東とアメリカ大陸における15000年前頃までのイヌの存在を一致させます。

 LGMにおけるシベリアでのイヌの家畜化は、この過程の妥当な背景を提供します。気候条件は、同じ獲物種への魅力を考えると、人類とオオカミの集団に退避地域内でのより近接した関係をもたらしたかもしれません。オオカミと人類は、おそらく相互の獲物の死肉漁り、もしくは人類の野営地のゴミに引き寄せられたオオカミに起因して、両者の相互作用が増加したことで、種間の関係の変化が始まり、ついにはイヌの家畜化につながったのかもしれません。アフォントヴァゴラ遺跡やディウクタイ洞窟のイヌを含む、シベリアの後期更新世のイヌかもしれない遺骸の最近確認された個体数は、この仮説の検証機会を提供します。


●まとめ

 シベリアとアメリカ大陸の初期の人類とイヌ両方の考古学的証拠は希薄です。回収された少数の遺骸から古代DNAを分離して配列する能力は、最初にベーリンジアを東方へと移動してアメリカ大陸へと拡散した集団への新たな洞察をじょじょに提供しつつあります。イヌのmtDNAデータは単一の遺伝子座の歴史を反映しており、イヌ集団史の復元には核ゲノム配列が必要です。それにも関わらず、イヌのmtDNA系統の合着年代の推定からは、イヌと人類がシベリアからアメリカ大陸への集団の分岐と居住の相関した歴史を共有している、と示唆されます。より具体的には、アメリカ大陸に到来した最初の人類は、イヌを伴っていた可能性が高い、と提案されます。その後の各集団内の地理的拡散と遺伝的分岐は、人類とイヌがどこに行ったのか、示唆します。

 シベリアとベーリンジアにおける人類とイヌの初期の遺伝的歴史の収斂から、ここは人類とオオカミが最初に家畜化関係に入った地域かもしれない、と示唆されます。イヌのmtHg-Aの最終共通祖先の最古の年代からは、この家畜化過程がすでに26000~19700年前頃までには始まっており、この年代は11000~4000年前頃というユーラシアの考古学的記録における最初の明確なイヌに先行します。この広範な地域は、限定的な発掘と組み合わされて、シベリアにおけるより早期のイヌ遺骸の欠如を説明するかもしれません。この仮説を検証するには、アフォントヴァゴラ遺跡のイヌ科遺骸のような、わずかな既知の推定されるイヌ遺骸の将来の分析が必要です。

 オオカミからの出現以来、イヌは人類社会内でさまざまな役割を果たしてきており、その多くは世界中の文化の生活様式にとくに結びついています。将来の考古学的研究は、多くの科学的手法と組み合わされて、人類とイヌとの間の相互関係がどのように出現し、世界中に拡散するのに成功したのか、明らかにするでしょう。本論文で指摘されるように、イヌは人類にとってひじょうに身近な動物で、最古の家畜化された種と考えられ、関心が高いため研究も盛んなように思われます。最近も、肉の消費の観点からイヌの家畜化の初期段階を推測した研究が公表されました(関連記事)。本論文はイヌに関してはあくまでもmtDNAデータに基づいており、今後の核ゲノムデータの分析の進展により、イヌの家畜化過程がより詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Perri AR. et al.(2021): Dog domestication and the dual dispersal of people and dogs into the Americas. PNAS, 118, 6, e2010083118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2010083118

氷河期の北極海が淡水化していた時期

 氷河期の北極海が淡水化していた時期に関する研究(Geibert et al., 2021)が公表されました。過去に北極に棚氷が存在した可能性に関する初期の仮説を受けて、現在の海水準の下1000 mの深さにある独特な侵食地形が観測されたため、北極海中央部のロモノソフ海嶺などに厚い氷の層が存在した、と裏づけられました。最近ではモデル研究により、氷期に棚氷がどのように増大し、北極海の大部分を覆うに至った可能性があるのか、明らかにする試みが行なわれています。しかし、これまでのところ、北極域のこうした広大な棚氷に関して、海底堆積物についての反論の余地のない特性評価は行なわれておらず、氷期の状況が北極海に与えた影響について、疑問が提起されています。

 この研究は、北極海および隣接するノルディック海が、広大な棚氷に覆われていただけでなく完全に淡水で満たされており、そのため海底堆積物中のトリウムが広範囲にわたり欠乏していた期間は少なくとも2回存在した、という証拠を提示します。この研究は、これらの北極の淡水期が、それぞれ海洋酸素同位体ステージ(MIS)4と6に相当する、7万~62000年前頃と15万~131000年前頃に生じていた、と推測します。北極域の堆積物記録における、石灰質ナンノ化石である円石藻(Emiliania huxleyi)の最初の出現について別の解釈をすると、より古い期間の年代がより新しい、と示唆されます。この手法は、堆積速度の解釈の相違につながり、年代測定目的の使用を妨げてきた、北極域のトリウム230記録に見られる予想外の極小値を説明します。

 この同位体比の解釈を説明するには、約900万㎦の淡水が必要で、この計算は水文フラックスと境界条件の変化の見積もりにより裏づけられます。これだけの量の淡水が陸地ではなく海洋に蓄積されていたことは、淡水に敏感な安定酸素同位体に基づく海水準の再構築の見直しが必要かもしれないことと、大量の淡水が非常に短い時間スケールで北大西洋に運ばれた可能性を示唆しています。過去の北極域の気候や環境がどのようなものであったかを理解することは、将来どのように変化するのかを予測する上で役立ちます。また、淡水に敏感な安定酸素同位体に基づく海水準の再構築の見直しは、人類の拡散経路・分布の推定とも関わってくるので、この点でも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


環境科学:氷河期の北極海が淡水化していた時期

 北極海とそれに隣接するノルディック海は、最近の二度の氷河期において、海水がなくなり、ほぼ淡水化していた時期が間欠的に存在し、厚い棚氷で覆われていたことを示唆する論文が、今週、Nature に掲載される。この知見は、これまでの淡水レベルの推定値に基づいた古代の海水準の再構築を修正する必要があると考えられることを示している。

 過去の北極域の気候や環境がどのようなものであったかを理解することは、将来どのように変化するのかを予測する上で役立つ。これまでの研究では、過去に北極海のかなりの部分が棚氷で覆われていた可能性のあることが示唆されている。しかし、北極海の海洋堆積物コアからの試料を解釈するのは困難なため、そのような棚氷の証拠は得られていない。

 今回、Walter Geibertたちは、同位体トリウム230の分析を用いて北極海の過去の状態を再構築できることを明らかにした。トリウム230は、塩水中でウランが崩壊すると生成され、海洋堆積物中に捕捉されて、海洋堆積物コアの深度に対応する時点での塩分レベルを示す。Geibertたちは、北極海とノルディック海の堆積物コアの複数の層にトリウム230が存在していないことを報告している。これは、これらの時点ではトリウム230が生成されていなかったこと、従って塩水が存在しなかったことを示している。Geibertたちは、この地域は7万~6万2000年前と約15万~13万1000年前に淡水化しており、こうした変化は比較的短い期間に起こっていたとする仮説を提示している。

 Geibertたちは、淡水化していた時期に、棚氷がノルディック海まで広がっており、ノルディック海を塞いで大西洋からの塩水の流入を防いでいた可能性があるという見解を示している。また、Geibertたちは、この過程が淡水を急速に海洋に放出する手段だった可能性があり、海水準の再構築ではこの点を考慮する必要があると付け加えている。同時掲載のNews & ViewsではSharon Hoffmanが、今回の結果が今後、北極域がどれほど劇的に変化するのかについての再評価を促進する可能性があると指摘している。


古海洋学:北極海が淡水で厚い棚氷に覆われていた氷期の期間

Cover Story:塩のない北極海:堆積物コアが示唆する過去の氷期における淡水で満ちた北極海

 表紙は、アイスランドのヨークルスアゥルロゥン氷河湖とダイヤモンドビーチである。北極海はかつて、その大部分が棚氷で覆われていた時期があったと考えられているが、その明確な証拠を見いだすのは困難である。今回W Geibertたちは、最近の氷期において北極海および隣接するノルディック海の大半が淡水で満たされ、厚い棚氷で覆われていたことを示す結果を報告している。海洋堆積物コアについて、海水に含まれるウランの崩壊によって生成されるトリウム230を分析したところ、北極海とノルディック海から得られたコアの複数の層にトリウム230が見られないことが分かった。著者たちは、これは海水が存在しなかったことを示していると解釈している。彼らは、棚氷が効率よくダムを作り、これによってこうした水塊が大西洋から隔てられ、7万〜6万2000年前と15万〜13万1000年前の2つの期間にこの海域が淡水で満たされたと示唆している。



参考文献:
Geibert W. et al.(2021): Glacial episodes of a freshwater Arctic Ocean covered by a thick ice shelf. Nature, 590, 7844, 97–102.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03186-y

ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成

 ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成に関する研究(Immel et al., 2021)が公表されました。過去数年にわたって、大規模な古代DNA研究により、ヨーロッパの古代人および現代人の複雑な遺伝的歴史が明らかにされてきました(関連記事)。最近の研究は、とくに新石器時代の人口動態に焦点を当てています。紀元前5450~紀元前4900年頃となる均一な線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)とともにヨーロッパ中央部全域で出現する最初の農耕民は、おそらく狩猟採集民と約2000年間共存していました。農耕民と狩猟採集民の両集団は近接して居住していたと考えられていますが、当初、混合は限定的でした(関連記事)。この状況は、初期農耕民による狩猟採集民集団に典型的なゲノム構成要素の遺伝子移入を通じて、紀元前4400~紀元前2800年頃に変わりました。

 後期新石器時代は、強い地域的な多様化と分類の小単位の寄せ集め(たとえば、考古学的文化)により考古学的に特徴づけられます。後期新石器時代開始期に出現したヨーロッパ西部のそうした単位のうち一つは、紀元前3500~紀元前2800年頃となるヴァルトベルク(Wartberg)文化(WBC)と関連しており、これは紀元前3800~紀元前3500年頃となる後期ミシェスベルク(Late Michelsberg)文化(MC)から発展した可能性が最も高そうです。WBCはおもにドイツ中西部で見られます(図1)。WBCは隣接する地域とは異なる巨大回廊墓の巨石建築で知られていますが、パリ盆地とブルターニュ地方の同様の遺跡とひじょうによく似ています。いくつかの方向からの文化的影響を接続するWBCの中心的な地理的位置にも関わらず、WBC遺跡群の人類遺骸のゲノム規模データはこれまで調査されてきませんでした。

 この研究は、ドイツのヘッセン州のニーダーティーフェンバッハ(Niedertiefenbach)町近くのWBC回廊墓に埋葬された、紀元前3300~紀元前3200年頃となる42個体のゲノム規模分析を行ないました。通常は特定の遺跡と期間の少数個体を含む他のゲノム規模古代DNA研究とは対照的に、本論文は、集団墓地を約100年間使用した埋葬共同体のある一時点を提供します。集団遺伝学と親族関係分析の実行に加えて、免疫関連のHLA(ヒト白血球型抗原)領域も調べられました。この手法により、ニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC関連の人々遺伝的系統の復元だけではなく、後期新石器時代集団の免疫関連遺伝子の構成への洞察も得られました。以下、本論文の図1です。
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●DNA解析

 ニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC回廊墓の個体群のうち、25個体で年代が測定されました。この25個体全ての年代は、紀元前3300~紀元前3200年頃と示唆されました。89個体のうち汚染を示す個体を除いた42個体のゲノムデータが、以下の分析で用いられました。これら42個体のDNA損傷パターンは、古代DNAに特有のものを示しました。血液媒介病原体の証拠は得られませんでした。遺伝的には、42個体のうち10個体が女性、25個体が男性で、7個体は性染色体の配列網羅率が欠落しているか低いため、性別を明確に決定できませんでした。そこで、骨格形態に基づいて、女性1個体と男性1個体が追加で識別されました。したがって、42個体のうち、11個体が女性、26個体が男性と決定されました。

 まず、この42個体から得られた一塩基多型情報が、主成分分析を用いて、既知の古代人122集団のデータセットとともに、ユーラシア西部現代人59集団から計算された基本図に投影されました。ニーダーティーフェンバッハ個体群は、第一主成分でおもに狩猟採集民と初期農耕民との間の遺伝的変動により説明されるクラスタを形成しました(図2)。しかし、ニーダーティーフェンバッハ標本群は、集団内の高い多様性を反映す広範な遺伝的空間にまたがっています。一部のニーダーティーフェンバッハ個体は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡(紀元前4100~紀元前3000年頃)の2標本と密接に集団化します。

 4~8の系統構成要素(K=4~8)のADMIXTURE分析では、ニーダーティーフェンバッハ個体群への2つの主要な遺伝的寄与が示唆されます。一方はヨーロッパ狩猟採集民で最大化される系統構成要素で、もう一方はアナトリア半島の新石器時代農耕民で最大化される系統構成要素です。次に、f3外群統計を適用して、外群に対する、ニーダーティーフェンバッハ個体群と他の検証集団との間で共有される遺伝的浮動量が計算されました。共有される遺伝的浮動の最高量は、ニーダーティーフェンバッハ個体群とシチリアやクロアチアやハンガリーのヨーロッパ狩猟採集民との間で観察されました。

 ニーダーティーフェンバッハ集団における新石器時代農耕民と狩猟採集民の遺伝的系統量を推定するため、qpAdmが実行されました。ニーダーティーフェンバッハ集団の可能性が高いモデルは、アナトリア半島起源の新石器時代農耕民とさまざまなヨーロッパ狩猟採集民の2方向混合として得られました。平均すると、新石器時代アナトリア半島農耕民系統が60%、ヨーロッパ狩猟採集民系統が40%です。ニーダーティーフェンバッハ集団の別の可能性が高い2方向混合モデルは、アナトリア半島農耕民系統(41%)とブレッターヘーレ遺跡個体群の組み合わせです。

 次に、連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)に基づく年代測定法(ALDER)を用いて、ニーダーティーフェンバッハ集団における、初期農耕民およびヨーロッパ西部狩猟採集民と関連する系統構成要素の混合年代が推定されました。本論文ではヨーロッパ西部狩猟採集民の代表として、ルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体が用いられました。ALDERでは、ニーダーティーフェンバッハ個体群の年代(紀元前3300~紀元前3200年頃)から14.85±2.82世代前の混合が推定されました。1世代を29年と仮定すると、ニーダーティーフェンバッハ共同体の遺伝的構成の出現年代は、紀元前3860~紀元前3550年頃のようです。以下、本論文の図2です。
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 表現型の再構築のため、皮膚の色素沈着と髪の色(rs16891982)、目の色(rs12913832)、デンプン消化(rs11185098)、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(rs4988235)と関連する選択された一塩基多型が調べられました。配列網羅率の低さのため、調べられた個体全てで、これらの一塩基多型の全てが利用可能だったわけではありません。ニーダーティーフェンバッハ個体群のゲノムデータ分析に用いられた42個体のうち14個体は、rs16891982-Cアレル(対立遺伝子)を有しています。これは、濃い髪の色および皮膚の色素沈着の増加と関連しており、3個体は両方のアレル(CとG)を有していました。青い目の色と関連するrs12913832-Gを有しているのは3個体のみで、7個体は茶色の目と関連するアレル(rs12913832-A)を、8個体は両方のアレルを有していました。rs11185098の少数派アレル(A)は、デンプン消化と関わるアミラーゼ1(AMY1)遺伝子コピーおよび高いアミラーゼ活性と正の関連があります。Gアレルでホモ接合型なのは1個体のみで、6個体は両方のアレルを有していますが、Aアレルのホモ接合型を有する個体は見つかりませんでした。rs4988235の充分な網羅率を有する全個体はGアレルを有していました。Gアレルは祖先的ハプロタイプで、ラクターゼ活性非持続と関連しており、ニーダーティーフェンバッハ集団は乳産物を消化できなかった、と示唆されます。

 ニーダーティーフェンバッハ個体群のHLAクラスIおよびIIアレルを決定するため、以前に開発された手法が適用されました。さらに、HLA 型判定ツールのOptiTypeも使用されました。両方の方法で一貫して見られたアレルのみが、分析の対象となりました。3個の古典的なHLAクラスI遺伝子座A・B・Cでのアレルと、無関係な23個体における3個のHLAクラスII遺伝子座DPB1・DQB1・DRB1の遺伝子型決定に成功しました。これら6個の遺伝子座それぞれについて、2つの最も一般的なアレルは、現代ドイツ人集団とは頻度で少なくとも9%異なり、95%信頼区間(CI)を考慮した場合でさえ、古代と現代のHLAアレルプールの間におけるかなりの違いが示唆されます。

 代理一塩基多型を用いると、12個のアレルのうち7個で、既知のデータセットにおける経時的頻度を追跡できます。このうち5個、つまりHLA-B・C・DRB1のアレルは、ニーダーティーフェンバッハ標本群もしくは初期農耕民よりも狩猟採集民(47%以上)でずっと高頻度と観察されました(図3A)。この知見と一致して、これらのアレルは現代ドイツ人ではさらに低頻度で、HLA-C*01:02のように、その多くは統計的に有意でした。興味深いことに、このアレルはニーダーティーフェンバッハ個体群で観察されたHLA-Cアレル間で最も高い系統発生的相違のいくつかも示しました(図3B)。

 所与のHLA遺伝子座における2個のアレルのアミノ酸配列間の相違の増加は、コードされたHLA分子多様体間のより大きな機能的違いの代理であり、提示された抗原のより大きな全体的範囲につながり、より高い免疫能力と関連しています。じっさい、HLA-C遺伝子型がC*01:02を含むニーダーティーフェンバッハ個体群は、このアレルを有さない個体群よりも、HLA-Cアレル間でより高い差異を示します。さらに、ニーダーティーフェンバッハ個体群におけるHLAアレルは、特定のウイルスペプチドセットに結合するようです。同様のパターンは、HLA-B遺伝子座の最高頻度アレルB*27:05でも観察されました。全体的に、これら2個のアレルと他のアレルの頻度の違いは、ニーダーティーフェンバッハ個体群とドイツ現代人との間のアレルプール構成における有意な違いにつながります。以下、本論文の図3です。
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 本論文は、29系統の異なるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と、Y染色体ハプログループ(YHg)I2に分類される5系統のY染色体ハプロタイプに注目しました。高解像度のY染色体ハプロタイプ情報が得られた男性16個体のうち10個体は、同じハプロタイプ(I2c1a1)を有していました。f3外群統計とREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA)を用いて、親族関係分析が実行されました。両プログラムは、女性1人と男性2人の3人組を一親等(英語圏では親子とキョウダイ)の親族関係として特定しました(女性KH150622と男性KH150620およびKH150623、mtHgは3個体ともX2c1で、YHgは2個体ともI2a1a1a)。骨格形態分析では、これら3個体は全員乳児期(1~3歳)もしくは早期子供期(4~6歳)に死亡したと示されるので、親子関係は除外できます。したがって、この3人はキョウダイとなり、これは、それぞれのmtDNAハプロタイプとY染色体ハプロタイプとHLAアレル特性により裏づけられます。


●考察

 ヨーロッパにおける、広大な地域の均質な物質文化により特徴づけられるLBKから、後のより多様な新石器時代社会への変化は遺伝的混合を伴っていた、と明らかに確認されています。しかし、この変化の根底にある集団の相互作用はまだ充分には解明されていませんでした。この混合事象は地理的にひじょうに局所化されており、異なる系統構成要素を有するさまざまな集団が関わっていました。これらの過程は、中期~後期新石器時代共同体で観察される、狩猟採集民系統の割合とmtDNA系統における増加につながりました。ヨーロッパにおいて何がこれらの広範な人口統計学的およびゲノム過程に影響を及ぼしたのか、現時点では不明ですが、気候変化および/もしくは社会的過程が要因とみなされる可能性があります。

 本論文では、ドイツのニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC回廊墓地で発掘された後期新石器時代42個体の共同体が調べられました。この共同体の放射性炭素年代は紀元前3300~紀元前3200年頃で、これはヨーロッパ中央部における草原地帯系統の到来のわずか数百年前となります。興味深いことに、草原地帯系統を有する混合の遺伝的証拠は観察されませんでした(たとえば、草原地帯系統を有する適切な2方向混合モデルや、草原地帯系統関連集団がヨーロッパ中央部や西部にもたらしたと考えられるYHg-R1bはありませんでした)。

 ニーダーティーフェンバッハ集団は、狩猟採集民と早期農耕民のゲノム構成要素の混合を示します。比較的高い遺伝的な狩猟採集民の割合の連続的範囲(34~58%)は、驚くべきことです。混合年代推定からは、この2系統構成要素の混合は紀元前3860~紀元前3550年頃に起きた、と示唆されます。これらの結果から、寄与する集団自身がすでにどの程度混合していたのか、あるいはどの生存経済が採用されていたのか、推測することはできません。しかし興味深いことに、推定された混合年代は、後期MC(紀元前3800~紀元前3500年頃)における農耕拡大段階および社会的変化と一致します。

 考古学的には、後期MCからWBCにかけてのよく記録された継続性があります。フランスとドイツの2ヶ所のMC遺跡のmtDNAからは、分析された個体群はすでに、農耕民と狩猟採集民両方に典型的なハプロタイプを含む混合された集団に属す、と示唆されています。明確な考古学的MC文脈からのヒトゲノム規模データセットは、まだ利用可能ではありません。考えられる例外は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ遺跡の4個体のデータで、これは年代的(放射性炭素年代で紀元前4100~紀元前3000年頃)および地理的に後期MCおよび/もしくはWBCと関連しているかもしれません。しかし、ヒト遺骸があらゆる明確な文化的分類のない洞窟で発見されたことに要注意です。

 本論文の分析では、ニーダーティーフェンバッハ集団は、ブレッターヘーレ遺跡個体群と最も密接に関連しているようです。ブレッターヘーレ遺跡個体群では、ニーダーティーフェンバッハ集団で観察された範囲内の大きな狩猟採集民系統構成要素(39~72%)を示します。さらに、ブレッターヘーレ遺跡個体群はニーダーティーフェンバッハ標本群における狩猟採集民構成要素の優れた代理です。また、本論文におけるニーダーティーフェンバッハ集団の混合年代は、ブレッターヘーレ遺跡個体群の混合年代(紀元前3414±84年という標本群の平均年代の18~23世代前)とひじょうによく類似しています。したがって、ブレッターヘーレ遺跡に埋葬された人々と、ニーダーティーフェンバッハ町近くの回廊墓に埋葬された人々との間には、遺伝的つながりがあるかもしれません。

 ニーダーティーフェンバッハのWBC関連集団は、狩猟採集民系統の割合がひじょうに幅広い、遺伝的に多様な集団を表しています。この知見は、混合がその時点でまだ進行中だったか、数世代前に起きたことを示唆します。この想定は、混合年代分析により暫定的に裏づけられます。驚くほど大きな狩猟採集民系統構成要素から、その混合は排他的もしくはほぼ排他的な遺伝的狩猟採集民系統を有する個体群も含んでいた、と考えられそうです。利用可能な全ての一連の証拠を考慮に入れると、狩猟採集民構成要素の増加は、MCの統合期および/もしくはWBC開始期に起きた可能性が高く、混合していない在来のヨーロッパ西部狩猟採集民から拡大する農耕集団への直接的な遺伝子流動も含んでいた、と仮定されます。

 ニーダーティーフェンバッハ標本の遺伝的データは、考古学および形態学の分析から得られた情報とともに、この回廊墓を使用した共同体に光を当てます。この7㎡の墓から少なくとも合計177個体の骨格遺骸が発見され、集団的なWBC埋葬のひじょうに高い占有率を反映しています。標本の遺伝的な性別分布からは、成人と亜成人における男性の過剰(70%)が示唆され、これは他の新石器時代集団では報告されていません。この研究は無作為な標本抽出戦略に従ったため、このような過剰は注目に値し、埋葬の偏りを反映しているかもしれません。年齢に関しては、ドイツの新石器時代墓地でよく報告されている、子供の少なさは観察されませんでした。表現型の復元から、検証された個体群はおもに濃い顔色をしており、遺伝的にはまだ、デンプンが豊富な食品もしくは乳糖を消化するようには適応していない、と明らかになりました。これらの表現型は通常、狩猟採集民と初期農耕民で報告されてきました。

 全体的にゲノムデータからは、回廊墓はおもに、さまざまな近隣地域に居住していたかもしれない密接に関連していない人々により使用された、と示唆されます。この観察は、多数のmtHgにより裏づけられます。しかし、関連のある個体も埋葬され、上述のようにキョウダイと思われる3個体が確認されました。さらに、1種類のみの高頻度のY染色体ハプロタイプ(I2c1a1)の存在は、父系社会を示唆します。

 ヨーロッパ中央部の新石器時代集団の健康状態を調査した研究と一致して、ニーダーティーフェンバッハ個体群は、栄養失調や伝染病など身体的ストレスを示唆する多くの非特異的な骨格傷害を示します。興味深いことに、病原体は検出されませんでした。この観察は、新石器時代には感染症疾患が比較的少なく散発的だったことを報告する、古代DNAに基づく知見と一致します。

 ニーダーティーフェンバッハ標本で生成されたHLAクラスIおよびIIデータセットは比較的小さかったので、高度な統計分析はできませんでした。しかし、現代ドイツ人集団と比較して、アレル頻度におけるいくつかの顕著な変化が観察できました。興味深いことに、現在ではあまり一般的ではないアレルのいくつか(たとえば、A*02:01、B*27:05、C*01:02、DQB1*03:01、DRB1*08:01)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)やC型肝炎ウイルス(HCV)やA型インフルエンザウイルスやヘルペスウイルスなどウイルス性病原体に対するより高い耐性と関連しており、しばしば細菌感染もしくはその合併症に対するより高い感受性と関連しています。

 HLAクラスIおよびIIの最高頻度のアレルを経時的に追跡すると、5個のHLA-B・C・DRB1アレルが狩猟採集民の特徴であるものの、後の農耕民の特徴ではない、と明らかになりました。したがって、ニーダーティーフェンバッハ標本におけるそれらの高頻度は、集団におけるかなりの狩猟採集民関連系統の割合を反映しているかもしれません。それらのアレルは、より高い配列の相違や提示された抗原の固有の種類などその機能的特有性のために、その時点においてこの頻度で維持されていたかもしれません。これらの特性は両方とも、多様なウイルスや他の病原体との戦いにおいて利点をもたらすはずです。後に、それらのアレルは相対的な適応度の利点を失ったかもしれません。たとえば、病原体が負の頻度依存選択の過程でこれら最も一般的なアレルに適応し、ペスト菌(Yersinia pestis)のような新たに出現したヒト病原体細菌に対する有益なアレルに置換された、といった理由です。かつて一般的だったHLA-C*01:02アレルについては、現在、感染性病原体素に対する保護効果は知られていません。したがって、HLA-C*01:02アレルが、新石器時代B型肝炎ウイルス(HBV)系統で報告されてきたように、病原性がなくなった、もしくは絶滅した病原体の防御で進化してきた、と推測するのは魅力的です。

 別の注目すべき違いは、HLA- DRB1*15:01アレルに関するものです。これは現代ヨーロッパ人では広く見られますが(約15%)、ニーダーティーフェンバッハ標本群では見られません。このアレルを有していると、マイコバクテリア感染症(結核およびハンセン病)にかかりやすくなります。疾患研究では、一塩基多型アレルrs3135388-Tは、しばしばDRB1*15:01の遺伝標識として用いられます。既知の古代DNAデータセットでは、rs3135388-Tは分析されたヨーロッパの旧石器時代・中石器時代・新石器時代集団の全てで欠けている、と明らかになりました。rs3135388-Tは、青銅器時代に初めて出現したようです。それ以来、その最初の高頻度(20%)は現在の低水準に減少しました。この知見は、rs3135388-Tが末期新石器時代および青銅器時代に、ヨーロッパ人の遺伝子プールに草原地帯関連系統構成要素の一部として組み込まれたかもしれない、という興味深い可能性を提起します。古代人の標本規模が限られていることを考慮すると、これらの考察は推測に留まっており、さらなる古代人集団のHLAデータが利用可能になるまで、確証を待っています。

 農耕の到来とその後の病原体暴露の変化は、初期農耕民の免疫遺伝子を根本的に変えた、と考えられています。ニーダーティーフェンバッハ標本の免疫反応は、ウイルス性因子との戦いに向けられているようです。このHLA特性がニーダーティーフェンバッハ集団固有の人口史(つまり、高い狩猟採集民系統の割合)にどの程度起因するのか、もしくは紀元前四千年紀の新石器時代共同体にどの程度典型的だったのか、まだ明らかにではありません。全体的に本論文では、現代ヨーロッパ人のHLAの種類が過去5000年のいつかというごく最近に確立され、集団混合により形成されたかもしれない、と示されます。

 ニーダーティーフェンバッハ町近くの集団墓地に埋葬されたWBC関連個体群への包括的なゲノム科学手法の適用により、この墓地を約100年間使用したニーダーティーフェンバッハ共同体は遺伝的に異質で、新石器時代農耕民関連系統と狩猟採集民関連系統の両方を有していた、と明らかになりました。これら2構成要素の混合は紀元前四千年紀初めに起きた可能性が高く、ヨーロッパ西部におけるその時期の重要な人口統計学的および文化的変化を示唆します。またこの事象は、その混合集団と子孫の免疫状態にその後何世代にもわたって影響を及ぼしたかもしれません。


参考文献:
Immel A. et al.(2021): Genome-wide study of a Neolithic Wartberg grave community reveals distinct HLA variation and hunter-gatherer ancestry. Communications Biology, 4, 113.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01627-4

大河ドラマ『麒麟がくる』の記事のまとめ

 大河ドラマ『麒麟がくる』が終了したので、関連記事をまとめました。

2020年の大河ドラマは明智光秀が主人公の『麒麟がくる』
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金子拓『信長家臣明智光秀』
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第1回「光秀、西へ」
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第2回「道三の罠」
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第3回「美濃の国」
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第4回「尾張潜入指令」
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第5回「伊平次を探せ」
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第6回「三好長慶襲撃計画」
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第7回「帰蝶の願い」
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第8回「同盟のゆくえ」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_14.html

第9回「信長の失敗」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_27.html

第10回「ひとりぼっちの若者」
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第11回「将軍の涙」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_47.html

第12回「十兵衛の嫁」
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第13回「帰蝶のはかりごと」
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第14回「聖徳寺の会見」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_28.html

第15回「道三、わが父に非ず」
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桐野作人『明智光秀と斎藤利三』
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第16回「大きな国」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_4.html

第17回「長良川の対決」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_16.html

第18回「越前へ」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_25.html

第19回「信長を暗殺せよ」
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第20回「家康への文」
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第21回「決戦!桶狭間」
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第22回「京よりの使者」
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第23回「義輝、夏の終わりに」
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第24回「将軍の器」
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第25回「羽運を運ぶ蟻」
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第26回「三淵の奸計」
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第27回「宗久の約束」
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第28回「新しき幕府」
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第29回「摂津晴門の計略」
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第30回「朝倉義景を討て」
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光成準治『本能寺前夜 西国をめぐる攻防』
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第31回「逃げよ信長」
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第32回「反撃の二百挺」
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第33回「比叡山に棲む魔物」
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第34回「焼討ちの代償」
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_38.html

第35回「義昭、まよいの中で」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_7.html

第36回「訣別」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_15.html

第37回「信長公と蘭奢待」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_24.html

第38回「丹波攻略命令」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_33.html

第39回「本願寺を叩け」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_4.html

第40回「松永久秀の平蜘蛛」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_13.html

第41回「月にのぼる者」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_22.html

第42回「離れゆく心」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_30.html

第43回「闇に光る樹」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_39.html

第44回(最終回)「本能寺の変」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_8.html

全体的な感想
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_9.html

大河ドラマ『麒麟がくる』全体的な感想

 本作は、重要人物である帰蝶役の沢尻エリカ氏が逮捕されて川口春奈氏が代役として起用され、撮り直しとなったため放送開始が遅れた上に、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため収録が中断され、最終回が年明けにずれ込むなど、何とも不運な作品でした。本作は、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康という三傑が重要人物として登場する、ひじょうに人気の高い時代を扱うだけに、期待値が高かったと思いますが、このような不運に見舞われたのは残念でした。


 本作に期待していた大河ドラマ愛好者は多かったでしょうが、主人公である明智光秀の事績が比較的よく分かっている足利義昭上洛以降は駆け足気味で、この点に不満を抱いた視聴者は多かったかもしれません。全44回で、義昭の上洛が第27回終盤、義昭の都からの追放が第37回でしたから、光秀の大きな功績のうちの一つである丹波攻略もほとんど描かれませんでした。これは、斎藤道三(利政)の死が第17回だったように、ほとんど不明な光秀の前半生に時間をかけたからです。本作では、光秀1528年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)誕生説を採用しており、1556年はちょうど光秀の人生で半ばの頃となりますが、本作は1547年から始まっているので、1564~1565年が中間となり、第22回~第24回に相当します。その意味で、本作の時間配分は「均等」とも言えます。問題は、ほとんど不明な前半生にも「均等」に時間を配分したことで光秀と主題をよりよく描けたのか、ということです。

 この点に関して、当初は室町幕府将軍、途中から終盤に入った頃までは信長を頂点とする武家の秩序回復、つまり「麒麟がくる」こと(泰平の世の到来)をずっと願い続けたという光秀の個性を浮き彫りにする意味で、前半生の道三や松永久秀や足利義輝とのやり取りを比較的丁寧に描いた本作の方針は、大筋では悪くなかったように思います。「麒麟がくる」ために自分はどうすべきか、悩んで出した光秀の答えが本能寺の変だった、という本作の構図は、初回から描かれていた三淵藤英や松永久秀や帰蝶とのやり取りも大きな意味を有しており、その意味でも不明な前半生を創作で比較的丁寧に描いたのは、少なくとも失敗ではなかった、と私は考えています。また、信長を討ったのが、単に「非道阻止」のためではなく、「暴君」の信長を育ててしまったのは自分であることへの責任感から、という構図も、理想主義的で潔癖の傾向が強い光秀像と整合的で、悪くはなかったと思います。まあ、冷酷で野心家なところがあるとか、織田家中での地位低下を恐れて、千載一遇の好機に決起したとかいった人物像でもよかったように思いますが、大河ドラマの主人公である以上、より多くの視聴者に受け入れられやすい人物像になるのは仕方のないところでしょうか。

 信長に関して、通俗的な印象を覆すような人物描写だったことも注目されます。信長は旧来の権威を破壊していき、出自にかかわらず有能な人材を登用していった革新的な人物との印象が今でも一般的には根強いようです。しかし本作の信長は、幕府や朝廷など旧来の権威に当初から懐疑的だったり対立的だったりしたわけではなく、なぜ自分は幕府や朝廷に尽くしているのに自分に冷たいのだ、というような感情で対立したり懸隔が生じたりしていました。幼少時に母親から愛されなかったために承認欲求がひじょうに強く、それが行動原理になっている、という登場当初からの信長の人物造形と合わせて、上手い構成だったように思います。また、信長が能力本位の人材登用をしていたわけではない、との松永久秀の指摘も、通俗的な信長像を覆す描写で注目されます。

 多くの視聴者に強い印象を残しただろう斎藤道三と松永久秀は私もお気に入りの人物でしたし、代役で帰蝶に起用された川口春奈氏も、予想よりずっとよかったと思います。私は全体的に本作には満足していますが、本作で最も不評だったと思われる駒と望月東庵に関しては、率直に言ってかなり不満が残りました。各回の感想記事でも、途中から両者に言及することはほぼなくなりました。駒はもう一人の主人公とでも言うべき位置づけで、庶民視点からの物語とのことでしたが、徳川家康(松平元康)・羽柴秀吉(藤吉郎)・足利義昭に好意を寄せられ、将軍となった義昭に信頼されて重要な相談もされる話し相手になるとは、さすがにご都合主義が過ぎたように思います。大河ドラマの創作人物は扱いが難しく、過去には『風林火山』の平蔵のようにお世辞にも成功したとは言えない人物もいましたが、駒と望月東庵も明らかに失敗の部類に入ると思います。ただ、COVID-19により色々と予定が狂ったでしょうから、仕方のないところがあるのかもしれません。比較的よく事績の知られている時代の光秀があまり描かれなかったことなど、本作への不満は少なくないかもしれませんが、私は全体的にはかなり満足しています。

大河ドラマ『麒麟がくる』第44回(最終回)「本能寺の変」

 安土城に徳川家康を招いた宴の場で明智光秀(十兵衛)を折檻した織田信長は、饗応役を解かれますが、直後に信長は光秀を密かに呼び、光秀を折檻したのは家康を試したためで、接待役を指名してきた家康の増長を戒めるためだった、と光秀に説明します。信長はその後で光秀に、光秀が取次を務めている長宗我部を討伐する、と告げます。さらに信長は、備中高松で毛利軍と対峙する羽柴秀吉への援軍を命じますが、本当の使命は備後の鞆にいる足利義昭の殺害だと光秀に指示します。信長は自分を諫める光秀に、自分を変えたのは光秀だ、と告げて、と命じます。信長は光秀に、天下が治まれば光秀とゆっくり過ごしたい、と言いますが、光秀は、その命には従えない、と信長に答えます。さらに光秀は、正親町天皇への譲位要請や家臣団の扱いなど、最近の信長は戦で変わってしまい、多くの点で間違っている、と信長に諫言します。しかし信長は、自分を変えたのは光秀だ、と反論します。大きな国を作れと言って自分の後押しをしたのは光秀で、もう止められない、というわけです。信長は、光秀が義昭を殺さないのならば自分が殺す、と光秀に言います。

 義昭の殺害指示に納得できない光秀は、細川藤孝と会います。藤孝は近衛前久から、安土城で光秀が家康の饗応役を解かれた、と聞きます。近衛前久は藤孝に、信長と光秀が対立したらどちらに加担するのか、と問い、そうならないようにする、と藤孝は答えます。藤孝から、義昭の打倒を信長に命じられたのではないか、と問われた光秀は、断ったが、信長は納得しないのでもう一度説得する、と答えます。信長の気性からそれを危ぶむ藤孝に、覚悟はあるのか、と光秀は尋ねます。覚悟とはどのようなものなのか、と藤孝に問われた光秀は、覚悟には限りはない、と答えます。藤孝は光秀を危ぶみ、変事を案じて備中の秀吉に使者を派遣します。藤孝からの書状を受け取った秀吉は、光秀が信長を討てば面白いと言い、黒田官兵衛に毛利との講和を急ぐよう命じます。

 近衛前久は光秀と信長の不仲を案じ、両者が対立した時にどちらに味方するのか、正親町天皇に謁見して尋ねます。正親町天皇は、流れをただ見守るだけだ、と答えます。光秀は正親町天皇や帰蝶の言葉を想起し、明智左馬助(秀満)や藤田伝吾や斎藤利三を前に、信長を討って太平の世を導く、と決意を打ち明け、3人も同意します。明智の陣を、家康から光秀を守るよう命じられている菊丸が訪ねてきます。光秀は菊丸に、信長を討った後は家康と手を組んで世を治めたい、もし自分が敗れれば後を頼むと家康に伝えるよう、命じて家康への書状を渡します。

 1582年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)6月2日早朝、明智軍は信長のいる本能寺を襲撃します。明智軍に包囲されたと知った信長は、悲しむような自嘲するような笑いを浮かべ、覚悟を決めて戦った後、森蘭丸に火を放つよう命じ、自害します。信長の遺骸は見つからず、それでもよい、と光秀は家臣に命じます。信長を討った直後の光秀に伊呂波太夫が語りかけ、正親町天皇も光秀が美しい都を取り戻すと喜んでいるだろう、と言います。光秀は伊呂波太夫に、麒麟の来る世を必ず自分がもたらすと駒に伝えるよう、頼みます。しかし、本能寺の変の直後の6月13日、光秀は秀吉の軍勢に敗れます。1585年、正親町天皇と望月東庵は双六をしており、正親町天皇は、泰平の世はいつ訪れるのか、と言います。駒は備後の鞆に足利義昭を訪ねます。義昭は駒に、世を変えるのは志で、信長にも光秀にもそれかがあった、と言います。駒は義昭に、光秀がまだ生きているとの噂話を伝えます。最後に、駒が市場で光秀らしき人物を見かけ、光秀が馬に乗って駆けているところで本作は終了となります。

 ついに最終回を迎え、主要人物の配役交代や新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による中断など、苦難の多かった本作が放送開始から1年以上かけて無事完結したのは、何とも感慨深く、また寂しいものです。結局光秀が信長に叛いたのは、泰平の世の到来の妨げとなった信長の非道を阻止するためと、そのような信長を育ててしまったのは自分であるとの責任感からでした。家康や正親町天皇など周囲の人物からの期待を受けて信長を討ったものの、その直後に討たれた光秀には、周囲の期待を受けて内部告発をしたものの、その後は不遇だった、というような現代社会の理不尽も感じさせ、そこに感情移入した視聴者もいるかもしれません。本能寺の変の描写はなかなか迫力のあるもので、過去の大河ドラマの本能寺の変の描写と比較しても見劣りしなかったと思います。本作の時間配分など色々と批判はあるでしょうが、私は全体的にかなり楽しめました。

ホンシュウオオカミのゲノム解析

 ホンシュウオオカミ(Canis lupus hodophilax)のゲノム解析結果を報告した研究(Niemann et al., 2021)が公表されました。現代のイヌとユーラシアオオカミの進化的起源および相互の関係は、長く議論されてきました。ゲノム規模のデータセットに基づく分析から、現代のイヌとオオカミが相互に単系統的な姉妹クレード(単系統群)なので、イヌはまだ特定されていない現生ユーラシアオオカミ系統に由来しない、と明らかになっています。イヌがどのオオカミ集団から家畜化されたのか、その共通祖先の起源地はどこだったのか、まだ議論が続いています。

 さらに未解決の問題は、イヌおよびその祖先のオオカミ系統と他のオオカミ集団との関係です。重要な一例は、大型動物の狩猟に特化していたかもしれない、謎めいた更新世ベーリンジア(ベーリング陸橋)のオオカミで、そのゲノムのいくつかは最近半化石資料から配列され、現代のイヌおよびオオカミの範囲外にある系統を表している、と明らかになりました。じっさい、ミトコンドリアおよび核両方のゲノム研究では、更新世および現代のユーラシアオオカミの標本が用いられ、シベリアにおいて更新世系統は失われ、更新世から完新世の移行期の頃に現代系統により置換され、おそらくそれは更新世系統が依存していたかもしれない大型動物の大半の絶滅と関連している、と示唆されています。

 このような諸研究からの興味深い観察の一つは、更新世オオカミと現代のユーラシアオオカミおよびほとんどの現代のイヌ品種の祖先との間の混合の証拠がないことです。ただ、一部のアジアイヌと北極圏のそりイヌは例外です(関連記事)。これは、イヌ科内における他の共存種間の広範な混合を考えると特に目立ち、現代のユーラシアオオカミおよびイヌの更新世の祖先は、シベリア更新世オオカミ系統が14000年前頃以後、おそらくは更新世から完新世の移行期に絶滅する前に、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)においてシベリア更新世オオカミ系統と隔離されていたに違いない、と示唆されます。これにより、この孤立がどこで起きたのか、明白で現在未解決の問題が発生します。

 更新世寒冷期と完新世最初期には朝鮮半島と日本列島(のうち本州と陸続きになっていた九州)は陸続きになっていたので(これに関しては異論があるかもしれませんが)、日本列島は現代のオオカミおよびイヌのLGM退避地の可能性がある地域の一つです。北海道も、後期更新世寒冷期にはユーラシア大陸と陸続きになっていました。日本列島のオオカミは、20世紀初頭に絶滅するまで、表現型がひじょうに異なる2つの固有亜種が確認されており、一方はホンシュウオオカミ(Canis lupus hodophilax)、もう一方はエゾオオカミ(Canis lupus hattai)です。ホンシュウオオカミが本州・四国・九州で見つかる一方、エゾオオカミの生息地は北海道とサハリンに限定されています(図1)。ホンシュウオオカミは世界最小のハイイロオオカミの亜種で、中世日本では、穀物を食べる野生動物を殺すため感謝されていました。しかし日本列島では、17世紀の狂犬病の流行によりオオカミの攻撃が増加し、ヒトによるホンシュウオオカミの迫害が始まり、ホンシュウオオカミは1905年までに絶滅した、と推測されています。

 津軽海峡は本州と北海道との間の主要な動物地理的境界で、ブラキストン線としても知られています。結果として本州の動物相は、ニホンザル(Macaca fuscata)とツキノワグマ(Ursus thibetanus)が生息し、アジア南東部と類似したものとなったのに対して、北海道の動物相は、エゾヒグマ(Ursus arctos lasiotus)が存在し、アジア北東部の生物多様性と類似しています。この障壁の結果として、ニホンオオカミとエゾオオカミの生息地が重複していた証拠はなく、ニホンオオカミは朝鮮半島から、エゾオオカミはシベリアから到来した可能性が最も高そうです。

 ホンシュウオオカミとエゾオオカミという両亜種の正確な系統発生的位置づけは推測となり、両者間の顕著な形態学的差異に注目する骨格比較は別として、その根拠となるのは以前の研究で決定されたミトコンドリアゲノム配列のみです。これらは、全ての現代オオカミに対するホンシュウオオカミの基底部の系統発生的位置と、北アメリカ大陸のオオカミ単系統群におけるエゾオオカミの位置を示唆します。しかし、ミトコンドリアゲノムは1遺伝標識で、混合の定量化はできません。混合は、ホンシュウオオカミとエゾオオカミという両亜種が、更新世のオオカミと現代のユーラシアオオカミをつなぐ潜在的な候補集団であることを考えると、特に興味深いものです。本論文は、ホンシュウオオカミの核ゲノムを配列決定し、ホンシュウオオカミと他のオオカミとの間の関係を再評価し、日本列島が現代のオオカミにとってLGM退避地だった、という仮説を検証しました。以下、本論文の図1です。
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●ホンシュウオオカミと更新世オオカミと現代のオオカミとの間の遺伝子流動

 ロンドン自然史博物館から提供されたホンシュウオオカミ標本から、網羅率3.7倍の核ゲノム配列が得られました。この標本は19世紀に秩父で得られ、雄と推定されました。まず、NGSadmixを用いての全ゲノム混合分析により、ホンシュウオオカミと他のオオカミおよびイヌとの間の進化的関係が調べられました(図2A)。ホンシュウオオカミ標本は、推定される祖先集団の全ての検証数で、更新世オオカミとの混合特性は区別がつかない、と明らかになりました。また、全ての他の現代オオカミ集団とは対照的に、更新世オオカミはホンシュウオオカミのゲノムにかなり寄与した、と明らかになりました。NGSadmix分析で推定された系統クラスタの数に関係なく、ホンシュウオオカミは常に、その系統の大半が更新世オオカミと同じクラスタに由来します。

 ホンシュウオオカミと古代・現代のオオカミおよびイヌとの間の混合をさらに調べるため、D統計を用いてこれらの集団間の遺伝子流動が検証されました。D統計は、ホンシュウオオカミとグリーンランドイヌおよび更新世オオカミおよび中国のオオカミとの間で共有される過剰なアレル(対立遺伝子)の裏づけを提供します。NGSadmix分析ではすでに、更新世オオカミとホンシュウオオカミとの間の共有される遺伝的系統が観察されているので、遺伝的に他の更新世オオカミよりもホンシュウオオカミの方と類似しているかもしれないオオカミおよびイヌ集団をさらに調べるため、ホンシュウオオカミと更新世オオカミ(H3)、ポルトガルオオカミ(H1)、イヌおよび他のオオカミ(H2)でのD統計検定の散布図が作成されました(図2B)。その結果、ホンシュウオオカミと更新世オオカミは対称的に現代のユーラシアおよび北アメリカ大陸のオオカミと関連しており、例外は一部の中国のオオカミで、あらゆる更新世オオカミよりもホンシュウオオカミの方と多くのアレルを共有している、と示唆されました。これに関する可能な説明は、アジア東部のオオカミとイヌとの間の実質的な混合です。

 D統計分析に含まれる全てのイヌ個体は、シベリア更新世オオカミよりもホンシュウオオカミの方と多くのアレルを有意に共有しており、ニホンイヌとグリーンランドイヌはホンシュウオオカミと最も近い遺伝的類似性を有します。さらに、qpWaveを用いた分析では、シベリア更新世オオカミがイヌおよびオオカミと等しく関連する単一の移住の波として説明できるのに対して、ホンシュウオオカミはイヌからの系統を必要とする、と示されました。したがって本論文では、グリーンランドイヌが更新世オオカミから北極圏のイヌへの遺伝子移入により説明でき、中国のイヌが同様に有意なオオカミへの寄与を有すると示されているように、分析されたホンシュウオオカミ個体はニホンイヌと混合した可能性が最も高い、との仮説が提示されます。以下、本論文の図2です。
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●ホンシュウオオカミと更新世オオカミと現代のイヌおよびオオカミのハプロタイプクラスタ化

 オオカミとイヌの標本間の集団構造をより堅牢に特定するため、ハプロタイプクラスタ化ツールであるfineSTRUCTUREが用いられました。これは以前、低網羅率の古代の個体群に用いられました。類似度行列に基づく樹状図では、ホンシュウオオカミはトゥマト(Tumat)やヤナ(Yana)やブンゲ・トール(Bunge-Toll)といった他の更新世オオカミ3個体と同じクレードに位置づけられ、以前の調査結果をさらに裏づけます(図3A)。本論文における更新世シベリアオオカミとのホンシュウオオカミの遺伝的類似性の発見をさらに確かめるため、主成分分析を用いてハプロタイプデータの教師なし次元縮小が実行されました。ホンシュウオオカミは全ての更新世オオカミとともに、第一主成分(PC1)に沿って勾配を形成しました。本論文の分析に含まれ全てのオオカミのうち、最初の2つの主成分では、ホンシュウオオカミはイヌのクラスタと最も近い場所に配置されました(図3B)。以下、本論文の図3です。
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●ニホンオオカミと中国のイヌの混合としてモデル化されたニホンイヌのゲノム

 ホンシュウオオカミの集団史をさらに調べるため、8つの推定関連集団が検証されました。それは、ニホンイヌ、中国のイヌ、グリーンランドイヌ、そりイヌ、ホンシュウオオカミ、更新世オオカミ、ユーラシアオオカミ、北アメリカ大陸のオオカミです。次に、これら各集団の部分集合の染色体が、残り全ての個体群の差異的なハプロタイプで表示されました。得られた染色体の図は、GLOBETROTTERの入力として使用できます。これは、標的集団につながる事前定義された集団を含む、混合事象の記載と年代測定のための情報を共有するハプロタイプを用います。

 GLOBETROTTERは、混合年代を推定するために標的集団における複数個体群のデータを必要とするので、ホンシュウオオカミを標的集団として用いることはできませんでした。代わりに、ホンシュウオオカミと在来のイヌ集団との間の遺伝子流動を潜在的に検出するため、標的集団としてニホンイヌでGLOBETROTTERが実行されました。中国のイヌとグリーンランドイヌとそりイヌとホンシュウオオカミと更新世オオカミとユーラシアオオカミと北アメリカ大陸のオオカミを代理集団として用いると、現代ニホンイヌのゲノムは、中国のイヌ93%とホンシュウオオカミ7%の混合として最もよく説明できる、と推定されます。

 この混合したニホンイヌ集団へとつながる最も可能性の高いシナリオは単一の混合事象で、中国のイヌ9%とホンシュウオオカミ91%の集団と、100%中国のイヌの集団との間で約25世代前に起きた、と推定されます。これらの予備的な結果から、ホンシュウオオカミが現代ニホンイヌのゲノムに有意に寄与したと示唆されますが、ホンシュウオオカミへのニホンイヌの大きな寄与が結果を混同させている、という可能性が最も高そうです。したがって、ホンシュウオオカミのより大きな標本規模のさらなる研究が、ホンシュウオオカミからニホンイヌ品種への遺伝子移入の正確な決定には必要です。


●更新世オオカミと日本および朝鮮半島のイヌの混合としてモデル化されるニホンオオカミのゲノム

 SOURCEFINDで実行されたマルコフ連鎖モンテカルロ(Markov chain Monte Carlo)アルゴリズムを用いて、GLOBETROTTER分析で用いられた8集団(ニホンイヌ、中国のイヌ、グリーンランドイヌ、そりイヌ、ホンシュウオオカミ、更新世オオカミ、ユーラシアオオカミ、北アメリカ大陸のオオカミ)それぞれが、残り7集団の混合としてモデル化されました。対象集団の染色体図は100個の下位区分に分割され、各下位区分は他の集団の1つから最適の対応集団に割り当てられました。

 この方法を用いて、ホンシュウオオカミのゲノムは、更新世オオカミから52%、イヌから47%、現代ユーラシアオオカミから1%の寄与があった、と推定されました。さらに、ホンシュウオオカミから日本および朝鮮半島のイヌ品種クラスタへの15%の遺伝的寄与が検出されましたが、ホンシュウオオカミと中国のイヌとの間で共有されるハプロタイプの証拠は見つかりませんでした(図3C)。上述のように、オオカミやイヌのようなひじょうに混合されて明確に定義されていない集団における共有された系統の推定は計算上困難で、イヌとホンシュウオオカミとの間の遺伝子流動に関するより多くの統計的に堅牢な推定を得るには、より多くのホンシュウオオカミのゲノムを含める必要があります。とはいえ、以前のミトコンドリア研究でも、ホンシュウオオカミから一部のニホンイヌへの遺伝子移入も報告されていました。以下、本論文の見解の要約図です。
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●考察

 本論文の分析結果から、最近絶滅したホンシュウオオカミは、現代のユーラシアオオカミと同じ系統発生的クレードではなく、現代のオオカミとホンシュウオオカミとの間ではわずかな遺伝子流動しか起きなかった、と示されます。したがって、ホンシュウオオカミによる日本列島への移動はLGMに先行すると推定されるので、ホンシュウオオカミの生息地が現代のオオカミおよびイヌの共通祖先にとってLGM退避地だった可能性は低い、と考えられます。しかし、本論文で標本抽出されたホンシュウオオカミ標本が、更新世オオカミとニホンイヌとの間の交雑種として最もよく説明できることは、予期せぬ発見でした。これまで、更新世オオカミは完新世最初期に絶滅したと考えられていましたが、ホンシュウオオカミと更新世オオカミとの間の遺伝的類似性からむしろ、日本列島は何千年も更新世オオカミの退避地で、その子孫がわずか100年前頃に絶滅した、と示唆されます。

 ホンシュウオオカミ標本は、何世紀にもわたるヒトによる迫害の後に残った最後の個体群のうちの1個体で、19世紀に急激な集団減少が起きたので、ヒトにより盛んに狩られるようになる以前のホンシュウオオカミ集団では、本論文で検出されたイヌからの遺伝子移入の程度は、有意により低かった可能性が高そうです。したがって、ホンシュウオオカミの遺伝的構成のより正確な復元を得るには、追加のホンシュウオオカミ標本、とくに個体数減少前の標本のゲノム配列・分析が必要です。現時点で、ホンシュウオオカミ標本におけるイヌの多様体の高い割合により、日本列島のイヌ品種へのホンシュウオオカミの遺伝子移入の程度を定量化する能力が妨げられています。本論文の分析は本州と四国と九州が対象範囲なので、北海道と樺太はLGM退避地の潜在的な候補地のままです。したがって、まだ研究されていないエゾオオカミのゲノムは、現代のイヌとオオカミのまだ特定されていない祖先の謎を解決する鍵となる可能性があります。イヌの進化史(関連記事)など、イヌ科の古代DNA研究も進展しており、たいへん注目されます。当ブログでも、できるだけ最新の研究を追いかけていきたいものです。


参考文献:
Niemann J. et al.(2021): Extended survival of Pleistocene Siberian wolves into the early 20th century on the island of Honshū. iScience, 24, 1, 101904.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2020.101904

関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』

 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2020年6月に刊行されました。本書はまず、古代には『日本書紀』と『古事記』以外にも少なからぬ史書があるのに、膨大な研究蓄積のある『日本書紀』と『古事記』の影響が現代ではあまりにも大きくなっているので相対化する必要がある、と指摘します。『日本書紀』は古代から、『古事記』は江戸時代以来の膨大な研究があります。現代ではあまりにも両書その上で本書は、六国史以前の史書として、帝紀・旧辞と天皇記・国記と『上宮記』と『古事記』を取り上げます。

 帝紀は大王(天皇)家の血縁関係を記した系譜を中心に関連する出来事を記したもの、旧辞はそれ以外の昔の物語、との理解が一般的です。後の大王家を中心とする各地の豪族は祖先伝承を受け継ぐことで支配の歴史を継承し、古墳の造営と祭祀の継続が地域単位でまとまっていた政治社会を維持する舞台装置でした。被葬者(王)の地位(王位)の継承順や妻子などに関する情報が伝承され、これが帝紀の原資料になっていった、と本書は指摘します。当初は口承だった系譜が文字に変化したことは大きな変化なので、その背景に社会発展があったはずだ、と本書は指摘し、帝紀・旧辞の成立は欽明朝とする津田左右吉説を、古代の系譜が血統継承を意味するとは限らない、などといった近年の研究成果に基づいて検証します。

 本書は、諸史料に断片的に見える記事から、帝紀は1~2巻程度で、大王に限らず王族や豪族も作成・所有していた、と推測します。本書は、帝紀成立を欽明朝とする津田説には明確な根拠がなく、稲荷山古墳出土鉄剣銘から、雄略朝期の中央王権に文字化された帝紀が存在した、と推測します。本書はその背景として、対宋外交による漢文運用浸透を挙げます。ただ、当時の帝紀には年月日を伴うものではなかった、とも本書は指摘します。

 旧辞に関しては、帝紀との区別の難しさが以前より指摘されています。帝紀は旧辞の一部と考えるべきかもしれない、というわけです。本書は、旧辞の「旧(むかし)」とは帝紀に対応しており、旧辞とは大王以前の神話を伝えるものだったのではないか、と指摘します。旧辞の古い在り様を伝えているのは大嘗祭で、出雲以東と美濃以西の語部が参加する服属儀礼になっており、その地方と中央の交流が、旧辞の類似性と多様性をもたらした、と本書は指摘します。本書は旧辞が文字化され帝紀に接続された時期を推古朝と推測します。

 推古朝に編纂されたと伝わる天皇記と国記に関して、天皇記は当時「帝紀」だった、と本書は推測します。ただ、それ以前に成立した帝紀と区別して、本書では天皇記と呼ばれています。天皇記の内容について本書は、『日本書紀』につながる系譜と神話は一応完成していた、と推測しています。天皇記は乙巳変で焼失したのに対して、国記は取り出されます。本書は、天皇記が蘇我氏の帝紀だったので乙巳の変後の新政権により抹殺された、と指摘します。国記は編年体の史書ではなく、氏族系譜と推測され、戸籍的な要素も指摘されています。天皇記と国記の編纂の背景としては、隋の出現や新羅との戦いなど対外情勢の緊張と、新興勢力の蘇我氏の自己正当化・権威確立があった、と指摘されています。

 『上宮記』は、聖徳太子没後に蘇我氏に政治権力を奪われた上宮王家が勢力挽回のために編纂された、と指摘されています。『上宮記』はその表記法の古さから、7世紀前半の成立と推測されています。『上宮記』編纂の背景として、聖徳太子と推古帝没後に上宮王家と蘇我本宗家との関係が悪化したことを本書は重視します。上宮王家の賞揚には、蘇我氏を正当化する天皇記に対抗する史書が必要だった、というわけです。『上宮記』の著者は、斑鳩寺(法隆寺)の僧侶と推測されています。

 『古事記』は、10世紀前半には史書とは認識されていませんでした。本書は『古事記』の相対化を主張し、さまざまな帝紀の一つにすぎなかった、との見解を取り上げています。『古事記』と同じような内容と完成度の帝紀は他にも複数あった、というわけです。さらに本書は、『古事記』の序文は偽作だと主張します。一方本文は、蘇我氏が特別な意味を持っていると考えられることや、音韻学の成果などから、7世紀後半にはほぼ完成していた、と推測されています。本書は、古代にはさまざまな書物が朝廷や貴族の邸宅にあり、そのうち一書に後代の人間が偽作(擬作)としての序文を付し、『古事記』が成立した、と推測しています。『先代旧事本紀』もそうした経緯で成立し、古代には『古事記』以上の権威を有しました。

 本書は、『日本書紀』の講書で講師を務め、『先代旧事本紀』の権威を確立した矢田部公望こそ、『先代旧事本紀』に序文を付して権威化した人物と推測しています。本書は、『古事記』本文が蘇我氏系の帝記だった天皇記で7世紀後半に成立し、蘇我氏でも本宗家と敵対的関係にあった倉山田氏が編纂に深く関わっている、と推測します。また本書は、「古事記」とはそもそも普通名詞で、現在伝わる『古事記』いがいに複数の「古事記」があった、と推測します。本書は、9世紀前半に『日本書紀』講書の講師を務めた多人長が、参考書として『古事記』採用し、序文を付けたのだろう、と推測しています。『古事記』はあくまでも『日本書紀』解読のために取り上げられただけで、特別な意味を有するようになったのは江戸時代の本居宣長以降というわけです。したただ本書は、序文偽作としても『古事記』の価値は変わらない、と指摘します。

 本書も認めるように、以上の見解は憶測に憶測を重ねたところが多分にあります。しかし、古代には『日本書紀』と『古事記』以外にも多くの史書があったことと、『古事記』の価値・権威が現在(というか本居宣長以降)よりもずっと低かったことは間違いないでしょうし、本書の見解は全体的に魅力的だと思います。本書が指摘するように、『古事記』序文が後世の偽作である可能性は高いと思いますが、この問題も含めて、本書の見解は今後も議論されていくでしょう。そうした動向も、できるだけ追いかけていきたいものです。

『卑弥呼』第56話「祈り」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年2月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に、ともに山社から逃げよう、と提案したところで終了しました。今回は、那(ナ)の国に舟が現れ、出雲からの事代主(コトシロヌシ)と名乗り、上陸願いの合図を送る場面から始まります。出雲は金砂国(カナスナノクニ)の聖地で、事代主は出雲の神和(カンナギ)にして金砂国の支配者です。宣戦布告かもしれない、と考えた警備兵は、那のウツヒオ王に伝令を送ります。

 山社(ヤマト)では、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に、夜になったらここを出るので、下界に降りて誰も上げないよう、指示します。山火事は、方向を変えて北西に向かっているようです。ナツハが楼観から降りると、日見子(ヒミコ)たるヤノハの朝餉をナツハが取りに来ないことをイクメが叱責します。何かあったのではないか、と懸念するイクメが楼観に入ろうとするのをナツハは阻止します。ヤノハは、森の火が消えるまで祈り続けるので楼観に上がってはならない、食物を絶ちナツハ以外とは合わない、と言ってその場を切り抜けます。山火事の現場では、ミマト将軍たちが山社への火事の侵攻を食い止めていたものの、火の手は一向に衰えず、このままでは西の里が全滅する、と案じていました。ミマト将軍は、西の邑を見捨てられないので、この場に20名を残し、残りの者には西の邑と森の境に溝を掘るよう、命じます。

 楼観で休んでいるヤノハに、夢の中でモモソが語りかけます。弟に犯されたので、天照大御神(アマテラスオホミカミ)様から見捨てられた、と自嘲するヤノハに対して、止めはしないが、眠らずに夜までやるべきことをやれ、とモモソは叱責します。目が覚めたヤノハは、楼観からイクメたちが祈っているのを見下ろし、祈って山火事がどうにかなるものではなかろう、と醒めたことを言いつつ、夜までお勤めをするか、と呟いて祈りを始めます。すると、雨が降り始め、消火に当たっていたミマト将軍たちは歓喜します。そこへ楼観にヤノハが姿を現わし、祈りを捧げていたイクメたちはヤノハを崇めます。那国では、ウツヒオ王が事代主からの書簡(木簡)を受け取っていました。事代主は、宍戸国(アナトノクニ)の弁都留島(ムトリノシマ、現在の六連島でしょうか)で日見子(ヤノハ)と2人だけで会いたい、と提案してきました。この申し出が和議なのか戦なのか、とウツヒオ王が思案するところで今回は終了です。


 今回は、山社から弟のチカラオとともに逃亡しようとしたヤノハが、モモソからの叱責を受け、本気ではないにも関わらず祈りを始めたら、雨により山火事が鎮まり、山社の人々のヤノハへの崇敬の念がさらに高まるところまで描かれました。ヤノハはモモソから叱責され、とりあえず夜まで祈りを続けることにしましたが、日見子として人々からさらに崇敬されることになり、それでも山社から逃亡しようとするのか、注目されます。ヤノハがチカラオ(ナツハ)に犯されたことは、2人が黙っていれば分からないように思いますが、妊娠すると、初期で流産しなければ隠し通すのは難しそうです。あるいは、ヤノハはチカラオに犯されたことを契機に、『三国志』に見えるように人々の前にはほとんど姿を現わさないようになり、卑弥呼(日見子)の部屋に出入りして給仕の世話をしていたというただ一人の男性がチカラオなのかもしれません。そうすると、あるいは出産しても隠し通せるかもしれません。現時点で紀元後208年頃と推測されることから、二人の子供の娘が台与なのでしょうか。

 また、出雲の事代主が日見子(ヤノハ)と接触しようとしたことも注目されます。これまで舞台は九州のみで、本州や四国の情勢は言及されるだけか、宍戸(アナト、現在の山口県でしょうか)の国のニキツミ王が会議に参加するくらいの描写でしたが、事代主が登場し、那のトメ将軍がミマアキとともにサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が支配する日下(ヒノモト)の国の視察に向かっていますから、いよいよ本州や四国の情勢も本格的に描かれることになりそうで、期待されます。倭国の情勢がある程度落ち着いた後は、魏への使者の派遣も描かれそうなので、さらに壮大な話になりそうで、たいへん楽しみです。また、その前に遼東の公孫氏との関係も描かれるかもしれず、かなり長く楽しめる作品になるのではないか、と期待されます。

日本列島「本土」集団の「内部二重構造」モデル

 日本列島「本土」集団(ヤマト人)の「内部二重構造」モデルに関する研究(Jinam et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本列島は南北2000km以上に及びます。日本列島は、1960年代初頭に作家の島尾敏雄により「ヤポネシア(Yaponesia)」と呼ばれました。「Yapo」はラテン語で「日本」、「nesia」はラテン語で「島々」を意味します。ヤポネシアは地理的に、北部・中央部・南部に3区分できます(図1)。北部ヤポネシアは北海道(サハリン島とクリル諸島を含む場合もあります)、中央部ヤポネシアは本州と四国と九州(とその近隣の島々)、南部ヤポネシアは沖縄県の島々(琉球列島とも呼ばれます)で構成されます。さらに詳しく区分すると、本論文では、北部が北海道(図1の1)、中央部が東北(図1の2)と関東甲信越(図1の3)と東海北陸(図1の4)と近畿(図1の5)と九州(図1の7)、南部が沖縄(図1の9)となります。沖縄人と北海道のアイヌを除いて、日本列島の人々はヤマト人と呼べます。以下、本論文の図1です。
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 ヤポネシア人(日本人)に関して、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)は早くも1911年に、アイヌと沖縄人における共通の特徴を指摘しました。この見解は後に多くの研究者により支持され、埴原和郎たちにより「二重構造」モデルと呼ばれました。「二重構造」モデルでは、16000~3000年前頃(開始期は確定的ではないでしょうが)となる縄文時代の前に日本列島に居住していた人々の遺伝的多様性を説明するためによく援用されてきました。「二重構造」モデルでは、象徴的に「弥生」人と呼ばれる稲作農耕民が、紀元前10世紀~紀元後3世紀の弥生時代に移住してきた、と想定されます。なお、弥生時代の開始年代については議論があり(関連記事)、地域差も大きかったと考えられます。「弥生」人は、象徴的に「縄文」人と呼ばれる先住の狩猟採集民と混合し、現代日本人集団が形成されました。図2は、埴原説に基づく「二重構造」モデルを示します。「二重構造」モデルでは、北方の北海道のアイヌと最南端の島々の沖縄人では、ヤマト人と比較して縄文系統の割合がずっと高い、とも仮定されています。「二重構造」モデルは当初、頭蓋計測データから提唱されましたが、今ではゲノム規模一塩基多型データにより強く裏づけられています。以下、本論文の図2です。
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 しかし、ヤマト人のほとんどの遺伝的データは東京およびその周辺の関東地域に由来します。ゲノム規模一塩基多型およびHLA(ヒト白血球型抗原)アレル(対立遺伝子)を用いると、日本人の内部に下位構造がある、と報告されてきました。それにも関わらず、日本の一部地域は集団遺伝学研究で過小評価されています。そこで、島根県出雲市(図1の6)と鹿児島県枕崎市(図1の8)の人々の新たなゲノム規模一塩基多型データが生成され、日本の他地域のデータと併せて、「二重構造」モデルがこれらの集団に依然として適用できるのかどうか、検証されました。

 出雲市では90個体、枕崎市では72個体のDNAが分析されました。出雲市の90個体のうち21個体は2013年に東京地区に居住していた出雲出身者で、血液標本が得られ、その祖父母のほとんども出雲地域で育ちました。出雲市の69個体は、出雲市の荒神谷博物館で2014年に唾液標本が得られました。これら90個体のうち51標本だけが、遺伝子型決定に充分な高品質のDNAを含んでいました。枕崎市の72個体は、2015年に血液標本が収集され、全員祖父母4人は薩摩南部地域で育ちました。3親等までの親族が除外された結果、出雲市では45個体、枕崎市では64個体のゲノム規模一塩基多型データが分析されることになりました。これら出雲市と枕崎市のデータは、バイオバンクジャパン(BBJ)の日本各地のデータ(標本の地理的位置は収集された病院の位置を反映しています)や、アジア東部(韓国と中国とベトナム)のデータと共に分析されました。


●DNA解析結果

 まず主成分分析が実行されました。アイヌと沖縄人と北京の漢人(CHB)を含むと、枕崎市個体群と出雲市個体群はヤマト人とクラスタ化します。次に、枕崎市個体群と出雲市個体群とBBJデータと韓国人と1000人ゲノム計画データを用いた主成分分析が、106237ヶ所の一塩基多型を用いて実行されました(図3)。各小図の左端のクラスタは沖縄個体群で構成され、ヤマト個体群は中央部クラスタとなりますが、他の大陸部アジア人は右側に位置します。北海道(図3の1)と関東(図3の3)と東海(図3の4)の個体群はヤマト人クラスタの中央に分布しますが、東北(図3の2)および近畿(図3の5)個体群は中央クラスタからわずかにずれています。興味深いことに、九州の個体群は、沖縄(九州A)とヤマト(九州B)の両方のクラスタに位置します。沖縄クラスタ内に位置する九州Aは、地理的には沖縄に近いものの、行政区分では九州の鹿児島県に含まれる島々から標本抽出された可能性があります。BBJの標本の地理的位置は、収集された病院の位置を反映しています。対照的に、出雲市と枕崎市の標本群は、祖父母4人が地元民です。枕崎市は九州の南端に位置し(図1の8)、その住民が沖縄クラスタにやや近いことを示します(図3の8)。以下、本論文の図3です。
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 混合分析は、k(系統構成要素の数)=9の結果が示されます(図4)。ヤポネシア人における主要な系統構成要素(10%以上)は、茶色と水色と暗緑色で示されます。水色の系統構成要素はアジア北東部人(CHBおよび韓国人)で最高となり、ヤポネシア人では、沖縄および九州Aを除いて平均17%です。茶色の系統構成要素はヤマト人では42%、韓国人では25%ですが、沖縄人と九州Aと他のアジア集団ではひじょうに頻度が低くなっています。暗緑色は沖縄人において最高の系統構成要素で、ヤマト集団は一貫してこの系統構成要素を示しますが、九州A集団では黄色の系統構成要素が最高の割合を示します。以下、本論文の図4です。
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 無根系統樹は、集団間のFst距離に基づき、近隣結合法を用いて構築されました。集団は多かれ少なかれ、直線的に配置されます。沖縄・九州Aクラスタが左側、CHB・韓国人クラスタが右側に配置されます。ヤマト人が中央に位置し、近畿個体群がCHB・韓国人クラスタの最も近くに位置します。近隣結合法を用いて系統発生ネットワークも構築され、ヤポネシア人とCHB・韓国人(図5)、およびそれらと他の大陸部アジア人との関係に焦点が当てられました。アイヌ集団は他の集団から大きく離れているので(図5A)、その後のネットワーク分析(図5B)から除外されました。沖縄・九州A集団は1つのクラスタを形成し、残りのヤポネシア人7集団(図5Bの水色)は、沖縄・九州AクラスタとCHB・韓国人クラスタの間に位置します。ヤポネシア人7集団の系統発生関係は図5Cに示されています。なお、図5のBBJデータは、他の図のBBJ データとは異なり、7集団から100個体が無作為に選択されました。この標本抽出の違いにより、おそらく東北集団の変化が起きました。図5Cではやや出雲市個体群に近いか、補足図5のJPT(東京の日本人)とほぼ同じです。枕崎市個体群は沖縄・九州Aクラスタに最も近く、出雲市個体群がそれに続きます。沖縄・九州A・東北クラスタは、残り9集団から分岐eで分離されています。以下、本論文の図5です。
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 f4検定は、GBR (イングランドとスコットランドのイギリス人)とCHBと沖縄人と検証集団で行なわれました(表1)。主成分分析や系統樹や系統ネットワークと一致して、近畿集団がヤマト集団で最高のZ得点(26.2)でした。同様に、GBRとCHBと検証集団1および2(検証集団はともに非沖縄ヤポネシア人)でも、近畿集団とCHBの間での遺伝子流動の証拠が示されました。たとえば、検証集団1および2が関東と近畿の場合、Z得点は最も有意となりました(24.7)。GBRと検証集団と出雲と近畿のf4検定も実行され、出雲市個体群に関連する遺伝子流動があるのか、検証されました。Z得点は比較的低いものの、沖縄と九州A集団と枕崎市個体群では、遺伝子流動を示唆する負のf4値が観察されました。これはGBRと検証集団と近畿と枕崎のf4検定でも繰り返され、結果から、枕崎市個体群と沖縄もしくは九州A集団の遺伝子流動の存在が示唆されました。沖縄集団と九州A集団との間の遺伝子流動は、GBRと沖縄と検証集団1および2(検証集団はともに非沖縄ヤポネシア人)のf4検定によりさらに裏づけられました。


●考察

 本論文では、出雲市と枕崎市の個体群のゲノム規模一塩基多型データの結果が提示されました。主成分分析(図3)および系統発生ネットワーク(図5)における枕崎市個体の遺伝的位置は、多かれ少なかれ、その地理的位置、つまり沖縄と日本列島「本土」の間とほぼ同じです。これは、f4検定(GBR、検証集団、近畿、枕崎)により裏づけられており、枕崎市個体群は他のヤマト人とよりも沖縄および九州A集団の方とより多くの遺伝子流動を示します。

 地理的に、出雲市はヤポネシアとアジア東部大陸部との間の沿岸に位置します(図1)。出雲市から朝鮮半島までの距離は約350kmで、出雲市の人々は大陸部アジア人により近いかもしれません。しかし、f4検定(GBR、CHB、Okinawa、検証集団)では、近畿集団が大陸部アジア人に最も近い、と示されます。これは、ゲノム規模一塩基多型データを用いた他の研究でも裏づけられます(関連記事)。興味深いことに、f4検定(GBR、検証集団、出雲、近畿)で示唆されるように、出雲市集団は本州の他の集団よりも沖縄および九州集団との高い遺伝的類似性を示します。この地理的関係との不一致は、距離により通常予想される分離とは異なる、いくつかの遺伝子流動事象の存在を示唆します。

 北海道・東北・関東・東海・近畿・九州・沖縄の7地域から収集された日本人7000個体のゲノム規模一塩基多型データの以前の分析では、「本土」と「琉球」という2つの明確なクラスタが見つかり、本論文でもそれは観察されました(図3)。また本論文では、以前の研究で見つかった地域固有の特徴も確認されました。それは、北海道と関東と東海の個体群が多かれ少なかれ類似しているのに対して、東北の個体群はそれら3地域の人々とは主成分分析やネットワークやf4検定ではわずかに異なる、というものです。以前の研究では、近畿の人々が大陸部アジア人に最も近い、と示されています。近畿は過去に日本の首都がおかれた地域なので、大陸部アジアからの人類の移住史があります。

 これらの結果とHLAデータから、本論文の最終著者(斎藤成也氏)は3段階移住モデルを提唱しました。その後、図6に示されるように、本論文の最終著者と筆頭著者はヤポネシア人の「内部二重構造」モデルを提唱しました。なお、斎藤成也氏は著書『核DNA解析でたどる日本人の源流』(関連記事)第5章にて、「うちなる二重構造」と表記しています。「縄文人」と、おそらくは旧石器時代の人々(最初の移民)を含む祖先たちによる、日本列島最初の移住の後、おそらくは2回(あるいはそれ以上)の大陸部アジアからの人類の移住がありました。この移住事象の正確な年代はまだ決定されていませんが、これらの人々は、本州の沿岸地域(図6の「周辺部」)に居住していた可能性があります。その後、大陸部アジアからの3回目の移住は、おもに大陸部アジアと6地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との間の移動を伴っていました(図6の灰色の円)。これら「中央軸」地域は、歴史的にヤポネシアにおける文化と政治の中心で、大陸部アジア東部から多くの移民を惹きつけた、と推測されます。以下、本論文の図6です。
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 47都道府県全てのヤポネシア人18641個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)頻度データと、沖縄県を除く46都道府県のABO式血液型集団アレル頻度と沖縄県のそれも、「内部二重構造」モデルを裏づけます。47都道府県全てのHLAデータ分析では、15地域の系統発生関係が示されました。興味深いことに、九州北部と関東南部は系統発生的に大陸部アジア人集団により近いのに対して、東北地方北部と四国と沖縄が1クラスタを形成しました。これらのパターンは、図6で示される「内部二重構造」モデルと一致します。しかし中国地方に関しては、図6の「周辺部」に位置する山陰地方と「中央軸」に位置する山陽地方は、HLAデータ分析では系統樹でクラスタ化します。

 「内部二重構造」モデルは、「中央軸」地域の人々が主成分分析やネットワーク分析では密接に関連しているように見える一方で、枕崎市や出雲市や東北といった「周辺部」地域の人々では、最近の移住による遺伝的影響がより少ない理由を説明できるかもしれません。しかし、それら新旧の移民がいつヤポネシアに到来したのか、まだ不明です。全体として本論文の結果は、「内部二重構造」モデルを裏づけているように見えますが、ごく最近の移住のような他の説明も、観察されたパターンに寄与した可能性があります。ヤポネシア人の遺伝的構成を適切に解明するには、全ゲノム配列データとともに、日本列島における分析の進んでいない地域からの標本を追加する必要があります。


 以上、本論文をざっと見てきました。本論文は、日本列島における人類集団の形成に、縄文時代以降の複数回の移住が関わっている可能性を示し、日本列島における歴史的展開と絡めて「内部二重構造」モデルを改めて提唱した点で、たいへん注目されます。日本列島の現代人集団は、大きくアイヌと「本土(本論文のヤマト人)」と沖縄(琉球)に3区分され、「縄文人」が基層集団になったと考えられます。このうちアイヌ集団は、本論文でも示されたように他の2集団と大きく異なっており、それは、CHBや韓国人と近縁な遺伝的構成の、大陸部アジア東部から到来した集団の遺伝的影響が他の2集団よりもずっと小さいことと、オホーツク文化集団など「本土」集団や沖縄集団がほとんど遺伝的影響を受けなかった、北方からの遺伝的影響を一定以上受けたからと考えられます。これを反映して、日本列島3集団における「縄文人」系統の割合は、アイヌが66%、「本土」が9~15%、沖縄が27%と推定されています(関連記事)。

 「本土」集団と沖縄集団は、「縄文人」の後に大陸部アジア東部から到来した、CHBや韓国人と近縁な遺伝的構成の集団との混合により形成され、前者よりも後者の遺伝的影響の方がずっと大きい、と推定されています。この混合が、弥生時代初期の1回のみではなく、複数回ある可能性を提示したという点で、本論文はたいへん注目されます。また本論文が指摘するように、現代日本列島「本土」集団の遺伝的構造は、ごく最近の移住の影響を受けている可能性もあります。日本列島における現代人集団のより正確な解明には、本論文が指摘するように、標本抽出のあまり進んでいない地域の標本追加とともに、古代DNA研究のさらなる蓄積が必要になるでしょう。

 近年の古代DNA研究の進展を踏まえると、日本列島に到来したCHBや韓国人と近縁な遺伝的構成の集団は、古代人では新石器時代黄河流域集団が最も類似しているかもしれません(関連記事)。このモデルでは、新石器時代黄河流域集団は出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団の中で位置づけられます。出アフリカ現生人類は、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。一方、ユーラシア東部北方系統からはアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア東部北方系統は新石器時代黄河流域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団(祖型オーストロネシア語族集団)です(関連記事)。

 現代において、日本列島本土集団や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、それはアジア東部北方系統とアジア東部南方系統との混合により形成された、と推測されます。チベット人はアジア東部北方系統とユーラシア東部南方系統との、日本列島本土集団はアジア東部北方系統を主体とするアジア東部南方系統との混合集団と縄文人との混合により形成されましたが、いずれもアジア東部北方系統もしくはアジア東部南北両系統の融合系統の遺伝的影響の方がずっと高くなっています(80%以上)。「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されています。もちろん、これはあくまでモデル化で、実際の人口史よりもかなり単純化されているでしょうから、古代DNA研究の進展に伴い、より実際に近い人口史が復元されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Jinam T. et al.(2021): Genome-wide SNP data of Izumo and Makurazaki populations support inner-dual structure model for origin of Yamato people. Journal of Human Genetics, 66, 7, 681–687.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00898-3

男性に偏った移住を示す貴州省のフェイ人(回族)

 中国南西部の貴州省のフェイ人(Hui、回族)の起源に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。フェイ人はアジア東部の民族・宗教的集団で、中国全土に分布しており、人口は約2000万人で、おもに中国語を話すイスラム教徒で構成されています。現在、フェイ人の大半は漢人の中国語を話しますが、その文化と食習慣は漢人とは明確に異なります。フェイ人集団の起源と多様化が、ユーラシア西部および中東からの人々の大規模な移動を伴う人口拡散だったのか、それと先住のアジア東部人の大規模な同化を伴う単純な文化的拡散だったのか、長年の議論となっています。歴史的記録では、フェイ人の起源はおもに異なる2期間にあった、と示唆されます。まず、唐王朝(紀元後618~907年)から始まり、ペルシア人とアラブ人が中国南東部沿岸に交易目的で到来し、その後で次第に在来のアジア東部人集団、とくに漢人(の主要な遺伝的祖先集団)と混合しました。次に、アジア中央部人とペルシア人とアラブ人が、13~14世紀にモンゴルの侵略と征服に続いて大元ウルス治下の中国に到来しました。移民は、兵士や商人や政治的使者を含む男性が優勢だった、と示唆されています。

 以前の遺伝的研究では、中国のフェイ人の起源は、父系のY染色体の一塩基多型および縦列型反復配列(STR)分析から推測される先住のアジア東部人の大規模同化を伴っていた、と明らかになりました(関連記事)。母系となるミトコンドリアDNA(mtDNA)分析からは、ユーラシア西部関連系統は中国北西部の新疆(Xinjiang)ウイグル自治区のフェイ人では見られるものの、約6.7%と低頻度だった、と示されています。中国北西部の甘粛省のフェイ人に関する常染色体STR分析は、イスラム教徒集団と在来のアジア東部人集団の遺伝的均質性を示しており、イスラム教化の時期における中東もしくはヨーロッパからフェイ人への実質的な遺伝子流動の証拠はありませんでした。以前の研究はいくつかの光を当てましたが、用いられた遺伝標識が限定的だったので、フェイ人の起源に関する包括的で決定的な理解には程遠いものでした。さらに、フェイ人に関する以前の遺伝的研究の大半は中国北部に焦点を当てており、中国南西部のフェイ人は稀にしか調べられていません。

 中国南西部の貴州省は、遺伝的および文化的多様性の高い多民族地域です。貴州省の人口で最大の割合を占めるのは、総人口の62.2%となる漢人です。イスラム教徒のフェイ人は約9万人で、おもに威寧(Weining)県(威寧イ族回族ミャオ族自治県)に分布しており、貴州省の総人口の0.5%を占めます。威寧県は現在の貴州省に移動したフェイ人の最初の場所でした。歴史的記録によると、フェイ人の祖先はすでに大元ウルス期に現在の貴州省に到来していました。中国のフェイ人の起源はかなり研究されてきましたが、常に議論となっています。この研究では、貴州省のフェイ人の起源および遺伝的構造を調べるため、配列(アレイ)遺伝子型決定を用いて、貴州省のフェイ人標本に関して、699537ヶ所の父系と母系の系統関連一塩基多型および常染色体の一塩基多型を含むゲノム規模データが生成されました。さらに、貴州省のフェイ人における先住民族集団の同化に関する分析を容易にするため、参照人口集団として貴州省の漢人も標本抽出されました。本論文の目的は、貴州省のフェイ人の起源と遺伝的混合を調べ、遺伝的観点から初期の中国のフェイ人の移住に関する理解に光を当てることです。


●標本と分析方法

 貴州省で59個体分の唾液標本が収集され、内訳は威寧県のフェイ人45個体と貴陽(Guiyang)市の漢人14個体です。これらの標本は、両親と祖父母が地元民であり、少なくとも3世代にわたって同じ民族集団内で非近親婚をしてきた無関係の参加者から無作為に収集されました。標本の地理的位置は図1に示されています。59個体のうち23個体が男性で、父系となるY染色体ハプログループ(YHg)が分析されました。母系となるmtDNAは全員が分析され、mtDNAハプログループ(mtHg)が決定されました。外群f3統計(ムブティ人、X、Y)では、ムブティ人が外群とされ、XとY両集団間で共有される遺伝的浮動が計算されました。また、起源集団を調べるためのf3統計(標的、起源1、起源2)も実行されました。f4統計(X、Y、検証集団、外群)では、検証集団がXとYに対称的に関連しているのか、もしくはXとYの一方とアレル(対立遺伝子)の過剰を共有するのか、計算されました。以下、本論文の図1です。
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●貴州省におけるフェイ人集団と漢人集団の遺伝的構造

 まず主成分分析が実行され、貴州省のフェイ人と漢人の個体群が、既知のアジア東部集団とどのように関連しているのか、定性的な像が得られました。本論文は貴州省のフェイ人と漢人の標本を、それぞれ「貴州省フェイ人」、「貴州省漢人」と呼びます。主成分分析の結果は図2Aに示されています。観察を容易にするため、中国南部の漢人(CHS)を除外して図2Aの左端(灰色の枠内)を拡大しました(図2B)。第一および第二主成分に基づくと、貴州省のフェイ人と漢人の個体群は、2つの明確な遺伝的クラスタに区分されます。さらに、貴州省フェイ人は、南方集団よりも、モンゴル語族やシナ・チベット語族やツー人(Tu)や北京の漢人(CHB)といった北方集団と密接にクラスタ化している、と明らかになりました。貴州省フェイ人の遺伝的構造は、地理的分布と一致していませんでした。貴州省フェイ人とは異なり貴州省漢人は、CHSやミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族のシェ人(She)やミャオ人(Miao)やトゥチャ人(Tujia)など中国南部の集団と重なっていました。

 ADMIXTUREクラスタ化分析の結果は主成分分析の結果と一致しており、貴州省フェイ人集団は、南方集団の代わりに北方の集団と平均してより密接な類似性を示しました(図2C)。図2C では、K=4のADMIXTUREの結果が示されています。図2C で貴州省フェイ人集団の主要な系統構成要素(紫色)は、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域に位置する新石器時代の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡の狩猟採集民(関連記事)と、現代のツングース系ウリチ人(Ulchi)でも最大化されています。またADMIXTUREでは、貴州省フェイ人標本群に黄色の系統構成要素も割り当てられていますが、これはユーラシア西部人では最大化されているものの、中国南方集団には存在しません。図2Cに示されている貴州省フェイ人の系統構成要素からは、より多くの北方関連系統構成要素があり、次に南方関連系統構成要素があり、わずかにユーラシア西部関連系統構成要素がある、と示唆されます。貴州省フェイ人は、南方および北方構成要素と関連する混合割合の観点から、CHSやミャオ人やシェ人やトゥチャ人のような中国南方集団と類似した遺伝的特性を示します。以下、本論文の図2です。
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●貴州省のフェイ人と漢人における集団継続性と混合

 ムブティ人を外群とする外群f3統計(ムブティ人、X、Y)では、XとY両集団間で共有される遺伝的浮動が計算され、上述の主成分分析およびADMIXTURE分析で観察されたパターンと一致し、貴州省フェイ人はツー人およびチベット・ビルマ語族話者集団とより多くの遺伝的浮動を共有している、と示唆されました。しかし、貴州省漢人は、中国南方集団、とくにミャオ・ヤオ語族のトゥチャ人やCHSと近い遺伝的近接性を示しました。さらに、本論文の標本群における貴州省のフェイ人および漢人の起源集団を調べるためのf3統計(標的、起源1、起源2)では、貴州省フェイ人の可能性がある関連起源集団は、漢人関連、とくに本論文の貴州省漢人と、ミャオ・ヤオ語族話者集団と、古代および現代のユーラシア西部人で構成されている、と示されました。貴州省漢人の最も可能性のある起源集団は、台湾先住民のタイヤル人(Atayal)と傣人(Dai)とチベット人やウリチ人やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)のような北方関連集団でした。f3統計から推測すると、貴州省フェイ人の遺伝的構造は北方関連集団により密接ではあるものの、貴州省漢人やミャオ・ヤオ語族話者集団のような先住の南方関連集団との遺伝的同化の可能性の兆候が見つかりました。

 f4統計(X、Y、検証集団、外群)では、検証集団がXとYに対称的に関連しているのか、もしくはXとYの一方とアレル(対立遺伝子)の過剰を共有するのか、計算されました。f4統計(貴州省フェイ人、貴州省漢人、検証集団、外群)では、現代および古代ヨーロッパ人が、貴州省漢人よりも貴州省フェイ人と多くの遺伝的浮動を共有していると示され、貴州省フェイ人へのユーラシア西部人の遺伝子流動が示唆されます。貴州省漢人をデータセットの他の漢人集団に置換することにより、結果が確認されました。別のf4統計(貴州省フェイ人、シェ人、検証集団、ムブティ人)とf4統計(貴州省フェイ人、ミャオ人、検証集団、ムブティ人)では同様に、アジア東部集団は貴州省フェイ人よりもミャオ人およびシェ人と多くの遺伝的浮動を共有している一方で、貴州省フェイ人はユーラシア西部関連集団とより密接な傾向にありました。


●貴州省フェイ人の起源集団と関連する系統

 本論文における貴州省フェイ人の可能性が高そうな混合起源集団を特定するため、さまざまなqpAdmに基づく混合モデルが体系的に調べられました。まず、貴州省漢人とフランス人がそれぞれ、2方向混合におけるアジア東部およびユーラシア西部関連起源集団の代理として用いられました。貴州省フェイ人個体群は、フランス人関連系統が6.2%、貴州省漢人関連系統が93.8%と推定されました(図3A)。貴州省漢人を既知のデータセットの漢人と置換して、この推定が確認され、代理の一方が漢人か貴州省漢人かに関係なく、一貫した結果が観察されました。

 さらに、貴州省フェイ人におけるアジア東部関連起源集団が調べられました。まず、貴州省漢人関連の在来南方構成要素と、チベット・ツングース関連北方系統を区別できるのか、確認されました。3起源集団として、貴州省漢人とチベット人とフランス人を用いての、より複雑な3方向モデルが提案されました(図3B)。アジア東部関連起源集団では、漢人関連系統が69.6%と最大の割合を示した一方で、チベット人関連系統も24%と顕著な割合を示しました。次に、チベット人を古代の悪魔の門遺跡個体群(図3D)および現代ウリチ人(図3E)および中国北部のダウール人(Daur)と置換しました(図3C)。新石器時代の悪魔の門遺跡個体群関連の遊牧民系統の混合割合は、貴州省フェイ人では17.4%と推定されました。ダウール人関連系統も、貴州省フェイ人では約16.3%の類似した割合と推定されました。しかし、貴州省フェイ人では、現代ウリチ人関連起源集団の系統割合で違いが観察され、7.4%と推定されました。これらの結果は、貴州省フェイ人の祖先が、中国南西部に移住する前に、チベット・ツングース関連北方系統を大量に有していたことを示唆します。以下、本論文の図3です。
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●mtHgおよびYHg分析

 貴州省のフェイ人と漢人のmtHgは多様性が高く、全てアジア東部集団でよく見られるものでした(図4B)。mtHgの頻度特性では、南北の遺伝的混合パターンが観察されました。より詳しく見ると、mtHg-D4・D5・D6が、貴州省フェイ人個体群では31.11%(45個体のうち14個体)、貴州省漢人個体群では14.29%(14個体のうち2個体)です。以前の研究では、これらのmtHgは中国北部の集団で優勢と示唆されていました。貴州省のフェイ人と漢人で見られるmtHg-G2・Zは、中国北部で比較的高頻度です。さらに、mtHg-B・F・Rはおもに中国南西部およびアジア人東部集団で見られ、貴州省フェイ人では26.67%(45個体のうち12個体)、貴州省漢人では42.86%(14個体のうち6個体)です。mtHg-A・N9のような他系統は、貴州省フェイ人では28.57%(45個体のうち8個体)、貴州省漢人では28.57%(14個体のうち4個体)で、これらはアジア北部で優勢です。mtHg-Cとその下位系統はアジア北東部で拡大したと考えられており、貴州省フェイ人では13.33%(45個体のうち6個体)、貴州省漢人では7.14%(14個体のうち1個体)です。

 YHgの分析(図4A)では、貴州省フェイ人の顕著な特徴は、YHg-Q1b1a3(L330)およびQ1b2b1b2a(F1893)が53.33%(15個体のうち8個体)と高頻度であることです。これらは、アルタイ人やトゥバ人(Tuvans)やケット人(Kets)のような、シベリア南部やその隣接地域のモンゴル高原の集団で見られるYHg-Q(M242)の下位系統です。以前の研究では、YHg-Qはシベリア南部に起源があり、旧石器時代以降にユーラシアの他地域にじょじょに拡散したかもしれなまい、と明らかになりました。貴州省フェイ人で次に高い割合のYHgはN1b2a(M1811)で、26.67%(15個体のうち4個体)です。YHg-N1b2aは、現在のシナ・チベット語族集団で優勢なYHg-N1b(F2930)の下位クレード(単系統群)です。

 YHg-R1a1a1b2(F992)・R1a1a1b1a2b3(FGC4499/Y2192)はYHg-R1a1a(M17)の下位クレードで、アジア中央部草原地帯から移住してきた可能性が高そうです。貴州省フェイ人のYHg特性とは異なり、貴州省漢人のYHgではO1aとO2aが高頻度で、これらはアジア東部およびアジア南東部で主要な在来父系です。とくに、貴州省漢人のYHg-O1a1a2a1(CTS701)・O1a1a1b1(Z23406)・O1a1a1a1a1a1a1a(A12439)は、中国南東部沿岸で優勢だったYHg-O1a(M119)の下位系統です。YHg-O2a2b1a1a1(F8、F42)の下位ハプログループは、5400年前頃の新石器時代に拡大した、現在の中国で3人の「超祖父」の1人と示唆されました。父系となるYHgでは、貴州省漢人と比較して貴州省フェイ人は、アジア北部および中央部でよく見られる系統をより多く有しています。以下、本論文の図4です。
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●貴州省のフェイ人の男性主導の移住

 貴州省フェイ人の人口は比較的少ないものの(貴州省の人口の0.5%)、長い歴史を有します。歴史的記録によると、フェイ人は中国におけるフェイ人集団の形成初期に貴州省威寧県に到来しました。しかし、フェイ人の起源と移住史は、複雑な民族的起源とゲノム規模データの欠如のため、常に曖昧でした。したがって、貴州省フェイ人の研究は、中国におけるフェイ人の初期移住パターンと歴史的慣習の理解に役立ちます。本論文では、貴州省のフェイ人と在来の漢人のゲノム規模一塩基多型データが分析されました。このデータを既知の古代および現代の集団のデータセットと併合し、母系(mtDNA)・父系(Y染色体)・常染色体の遺伝的証拠を包括的に統合することで、貴州省のフェイ人の起源と混合史が推測されました。

 父系の観点から、アジア北部および中央部でよく見られるYHgは、貴州省漢人よりも貴州省フェイ人の方で高頻度に達する、と明らかになりました。しかし、貴州省漢人の方は、貴州省フェイ人と父系では大きく異なり、おもにアジア東部およびアジア南東部で優勢なYHgを示します。また母系では、貴州省のフェイ人と漢人はほぼ全てのmtHgを共有している、と明らかになりました。父系と母系の遺伝的特性の不一致は、貴州省フェイ人の移住が、おそらくは性的に偏った男性主導の過程だったことを示唆します。ただ、貴州省フェイ人の標本には男性が少なく、これが研究の限界になります。しかし、フェイ人で観察された性的偏りのパターンは、中国に移住してきたフェイ人の祖先はおもに男性だったとする、以前の研究(関連記事)や歴史的記録と一致しています。結婚は比較的閉鎖的な内婚制度で、異なる集団間の結婚は通常、フェイ人男性と結婚する時にイスラム教徒に改宗する在来の漢人女性を含んでいました。


●先住漢人との遺伝的同化

 フェイ人には、先住の漢人との強い混合を裏づける遺伝的証拠が見つかりました。母系(mtDNA)では、貴州省漢人は貴州省フェイ人と、B5・D4・C7・B4・A17・A14・FのようにmtHgの大半を共有しています。さらに、qpAdmに基づく混合モデルでも、貴州省フェイ人は他のアジア東部集団よりも貴州省漢人と多くのアレルを共有している、と示されました。貴州省フェイ人の形成において、在来の漢人の大規模な同化があった、と示唆されています。貴州省のフェイ人と漢人との間の遺伝的類似性は、イスラム教徒のフェイ人の遺伝的特性は先住の漢人集団に最も近い、という以前の証拠と一致します。フェイ人の文化はイスラム教の慣行のため漢人とは明確に異なりますが、現在フェイ人の大半は漢人の中国語を話しており、漢人との密接な類似性を示します。


●貴州省フェイ人における限定的なユーラシア西部関連系統

 貴州省フェイ人においてゲノム規模データでは、優勢なアジア東部関連系統に加えて、ユーラシア西部関連系統も検出されました。qpAdm混合モデルに基づく結果では、貴州省フェイ人個体群は、フランス人のユーラシア西部関連系統を約6%有している、と推定されました。本論文ではフランス人が代理として用いられ、混合割合が推定されましたが、ユーラシア西部関連系統は多様だったかもしれず、おそらくはユーラシア西部のさまざまな地域に由来したでしょう。中国のフェイ人集団の起源と多様化が、人々の大規模な移動を含む人口拡散だったのか、それとも単純な文化的拡散だったのか、長く議論されてきました。本論文では、現代フェイ人におけるユーラシア西部関連系統の堀合はたいへん低いと示され、これは、先住のアジア東部人の大規模な同化を含むフェイ人の形成を裏づけます。


●貴州省フェイ人の北方から南方への移住

 歴史的記録では、大元ウルスと明王朝とダイチン・グルン(大清国)以来、イスラム教徒のフェイ人はアジア中央部やアラビア半島やペルシアからシルクロード沿いに中国へと拡大してきました。しかし、貴州省フェイ人の祖先がどこからどのように中国南西部に到来したのか、不明でした。本論文の遺伝的証拠では、貴州省フェイ人はチベット人やツングース・モンゴル語族話者集団のような北方集団と類似性を示す、と示唆されます。貴州省フェイ人の標本群は、貴州省漢人(69.6%)とチベット人(24%)とフランス人(6.4%)、もしくは貴州省漢人(77.1%)とダウール人(16.3%)とフランス人(6.6%)の3方向混合としてモデル化できます。これは、漢人の最近の拡大および遺伝子流動が原因ではありません。なぜならば、現在のチベット人やダウール人の代わりに新石器時代の悪魔の門遺跡個体群を用いても、類似の混合割合が得られるからです。また、貴州省フェイ人の父系Y染色体からこの北方系統を裏づける証拠が見つかりました。イスラム教徒のフェイ人はおそらく北方経路で中国へと移住してきて、その後で貴州省へと南方に移住し、先住民族集団、とくに漢人と大規模に混合し、現在の貴州省フェイ人が形成された、と本論文は提案します。将来の研究では、中国のさまざまな地域に住むフェイ人より多数の標本が、フェイ人民族集団の遺伝的多様性と人口史を包括的に明らかにするでしょう。


●まとめ

 貴州省フェイ人集団は、長い歴史と独特な文化的特徴を有します。しかし、ゲノム規模データが不足しているため、フェイ人の起源と移住史は常に曖昧でした。貴州省フェイ人に関する研究は、中国のイスラム教徒のフェイ人の起源と多様化に関する長い議論に手がかりを提供するのに役立つでしょう。本論文では、ゲノム規模の観点から、母系のmtDNAと父系のY染色体と常染色体DNAの遺伝的結果が総合的に統合されました。現代の貴州省フェイ人は、ユーラシア西部関連の人々のアジア東部への男性優位の移住と、先住のアジア東部人、とくに漢人の大規模な同化により形成された、と本論文は提案します。


参考文献:
Wang Q. et al.(2021): Male-Dominated Migration and Massive Assimilation of Indigenous East Asians in the Formation of Muslim Hui People in Southwest China. Frontiers in Genetics, 11, 618614.
https://doi.org/10.3389/fgene.2020.618614

池谷和信「アジアの新人文化における狩猟活動について―アラビア半島の犬猟に注目して」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」の2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P1-4)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 旧石器時代におけるイヌと人類との関係については、論議があり(関連記事)、近年では古代DNA研究も進展しています(関連記事)。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が絶滅し(より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)、その他の人類系統も絶滅して、現生人類(Homo sapiens)のみが唯一の人類となり、農耕や牧畜が始まっていく過程のどのおいて家畜としてのイヌ(Canis familiaris)が創出されたのか、まだ確定していません。

 シリアのドゥアラ(Douara)洞窟では、35000年前頃のイヌの下顎が見つかっています。ドゥアラ遺跡はネアンデルタール人の居住跡とも言われており、この下顎はオオカミよりも小さいことから、最古級の家畜化されたイヌとされています(本論文はこのように指摘しますが、年代やネアンデルタール人との関連については、慎重な検証が必要だと思います)。また、3万年前頃のウクライナの2ヶ所の遺跡でもイヌとの骨が発見されています。これらは、旧石器時代に存在したイヌであることを示す点では共通しますが、イヌの社会的役割については明らかにされていません。

 本論文の目的は、旧石器時代のアラビア半島を事例にして、イヌを使用する狩猟活動からイヌの社会的役割を把握することです。具体的には、イヌと人類と野生動物の描かれている岩絵を対象にして、当時の狩猟方法を検証します。カラハリ砂漠の狩猟採集民サン人の社会における、実際のイヌを使用する槍猟の参与観察も踏まえて、狩猟における複数のイヌの行動を観察する一方で、狩猟の実際を通じて岩絵についての解釈が試みられます。

 アラビア半島において、考古学的なイヌの遺物は紀元前4000年以前に見つかっていまする(図2)。これは、紀元前6000年前頃のウシの遺物と比較すると新しいものです。しかし、同じ地域における岩絵(rock art)に焦点を当ててみると、紀元前7000年以前までさかのぼれます(図2)。たとえば、アラビア半島北西部のシュワイミス(Shuwaymis)遺跡では、岩絵の作成年代は新石器時代以前(Pre-Neolithic)までさかののぼります(図2)。以下、本論文の図2です。
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 シュワイミス遺跡のパネルは中央部で損傷しており、大量の水流のため古代の色合いが失われているところもあります。パネルの右部には、13 匹のイヌとの狩猟の様子が描かれており、左部には狩猟者と、1頭の大きなウマ科の動物、および8匹のイヌが描かれている(図3)。図3の写真は、彫刻部分を白色でトレースしたもので、未完成な彫刻は白色点線で示されています。この岩絵から、弓矢猟のさいに複数のイヌが使用されている、と分かります。とりわけ個人の狩猟者が獲物を捕獲するさいには、複数のイヌが獲物の周囲を取り囲み、獲物の動きを止めているように見えます。これにより、狩猟者は獲物に接近して捕獲できるでしょう。以下、本論文の図3です。
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 シュワイミス遺跡には、綱で繋がれた2 匹のイヌとさらに3匹のイヌが、1 頭ウマ科の動物およびその子供を狩猟する様子を描いた岩絵もあります(図4)。パネルの上部の左部、また下部の右部、および中央は損傷しており、おそらく本来はさらに狩猟の様子が描かれていた、と推測されます。この岩絵(図4)を図3の岩絵と比較すると、弓矢猟の対象とされる獲物がイヌと比較して大きく描かれている、と分かります。2 頭のイヌが縛られている理由は不明です。狩猟者と獲物の間に描かれているのは、獲物の屠殺や皮剥ぎに用いられた道具の可能性が高そうです。以下、本論文の図4です。
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 シュワイミス遺跡には、パネルの一部で、中央と左の2 頭のアイベックス(Capra ibex)が8 匹のイヌに攻撃されている様子を描いた岩絵もあります(図5)。アイベックスの1頭は、つなぎ縄に引っかかっているようです。もう1 頭のアイベックス(右)は、後に付け加えられたと推測されます。一般にイヌ猟においては、1 頭の獲物を対象にするのが普通で、同時に2 頭を捕獲するのは無理と考えられますが、この岩絵では複数の獲物が描かれています。また中央の獲物は、曲線となる角の向きが野生のそれと比較して逆になっていますが、理由は不明です。以下、本論文の図5です。
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 シュワイミス遺跡には、堤防西側からの一場面を描いた岩絵もあります(図6)。この岩絵では、3 匹のガゼルが4 匹の犬に狩られています。ガゼルはイヌよりも速く走れるのに、複数のガゼルが犬によって足を止められている理由は不明です。図5と同様に、イヌ猟で同時にガゼルを3頭捕獲するのは困難でしょうから、この岩絵は狩猟の場面ではないかもしれません。以下、本論文の図6です。
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 シュワイミス遺跡には、ライオンと2 匹のイヌによる狩猟の様子を描いた岩絵もあります(図7)。図7では見えませんが、さらに5 匹のイヌがライオンの下に彫られています。「Hanakiyah tools」がライオンの腹の下と、背中の上に彫られており、動物の屠殺や皮剥ぎに用いられた道具と考えられます。この雄ライオンは狩猟の対象なのか、そうならば捕獲する意味は何かと考えると、ライオンは、その肉よりは毛皮を利用された可能性が高そうです。以下、本論文の図7です。
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 以上のような事例を含むシュワイミス遺跡およびジュバ(Jubbah)遺跡での完新世における各狩猟場面でのイヌの頭数を比較すると(図8)、ジュバ遺跡では1~3頭のような小さなイヌの群れが一般的なのに対して、シュワイミス遺跡では1~2頭の小さな群れから17~21頭の大きな群れまでイヌの頭数は多様でした。両遺跡の違いの要因は、大きなイヌの群れを維持するにはより多くの餌が必要と考えると、それぞれの対象地の環境資源の大きさが関わっている、と推測されます。以下、本論文の図8です。
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 これら岩絵資料と、カラハリ狩猟民を対象にした犬猟に関する民族誌データ2例を組み合わせると、以下のようなことが明らかになります。まず、狩猟対象は、ウマ科の動物やアイベックスやゲムズボックのような大型動物と、ガゼルやジャッカルのような中型・小型動物に分けられますが、全ての猟においてイヌが使われていました。次に、猟に使用されるイヌの数は、4~5頭から10~15頭までに及び、数頭の犬がいなくては狩猟が維持できない、と考えられます。最後に、野生動物を対象にしてイヌを使用する狩猟法は、弓矢猟が中心であるとはいえ、槍猟や棒で殴る猟まで多様な形が見られます。ただし、先史時代の狩猟者は常に弓矢を持っていたことから、当時、弓矢猟のさいに矢尻に塗られる毒が開発されていたかもしれません。

 今後は、さまざまなイヌ猟の民族誌を参照することから、さらなる新しい解釈が生まれるでしょう。同時に、個々のイヌがどのように生存を維持してきたのかが、気になる点です。民族誌の事例から、イヌの食料が充分に存在することこそイヌの群れを保つには不可欠だった、と指摘されており、先史時代においても類似の構造が働いている可能性があります。イヌは最古、それも他種よりもずっと古く、農耕開始前から(おそらくは現生人類のみに)家畜化されていたと考えられる動物なので、他の家畜種とは異なる人類との関係も考えられ、その点からも注目されます。


参考文献:
池谷和信(2020)「アジアの新人文化における狩猟活動について―アラビア半島の犬猟に注目して」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)』P1-4

ハダカデバネズミの「方言」

 ハダカデバネズミ(Heterocephalus glaber)の「方言」に関する研究(Barker et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ハダカデバネズミは、繁殖を行なう1匹の女家長「女王」が支配する迷路に似た地下コロニーにおいて多世代で生活し、動物界で最も協同的で社会的な集団を形成します。ハダカデバネズミは他の世界の生物をひじょうに嫌い、他のコロニーのハダカデバネズミを攻撃して殺傷することが知られています。しかし、これらのほぼ盲目の生物が、複雑で高度に組織化された社会構造をどのようにして維持しているのか、ほとんど解明されていません。

 この研究は、ハダカデバネズミ社会における口頭伝達の役割を検討するため、応用機械学習技術を記録し、世界中の別々のコロニーに住む動物の36000個を超える「ソフトチャープ(ハダカデバネズミの最も一般的な鳴き声)」の録音の音響特性を解析しました。この研究は、ハダカデバネズミには動物集団に特有の独特のソフトチャープがあることを明らかにしました。また、一連の実験で、この「方言」がコロニーの女王により決定されていると考えられ、ハダカデバネズミの子が幼少期に学ぶことも示されました。

 しかし、これらの「方言」は固定されているわけではありません。コロニーの女王が死んだり交代したりした時は変更され、別のコロニーで育てられた若い仔は養子に迎えられた集団の「方言」を学びます。これは、個々のコロニーの「(世代間での伝達を含めて)の方言」が、遺伝的ではなく文化的であることを示唆しています。また、これは齧歯類にとって驚くべき芸当であり、先天的かつ不変で、遺伝的に受け継がれる大半の哺乳類の鳴き声とは対照的である、と指摘されています。


参考文献:
Barker AJ. et al.(2020): Cultural transmission of vocal dialect in the naked mole-rat. Science, 371, 6528, 503–507.
https://doi.org/10.1126/science.abc6588