新型コロナウイルス症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人由来の遺伝子

 新型コロナウイルス症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の遺伝子に関する研究(Zeberg, and Pääbo., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ネアンデルタール人は50万年前頃にユーラシア西部で進化し、その後はアフリカの現生人類(Homo sapiens)の祖先とはほぼ離れて生存していましたが、アフリカからの限定的な遺伝子流動が起きた可能性は高そうです(関連記事)。その後、ネアンデルタール人とアジアにおけるその姉妹集団である種区分未定のデニソワ人(Denisovan)は、4万年前頃に絶滅しました。しかし、ネアンデルタール人は、滅亡前の数万年間に起きた現生人類集団への遺伝的寄与を通じて、現代人の生理機能に影響を与えてきました(関連記事)。

 これらの寄与のうち一部は、ネアンデルタール人が数十万年以上暮らしていたアフリカ外の環境への適応を反映しているかもしれません(関連記事)。この期間に、ネアンデルタール人は感染症に適応した可能性があり、それは、少なくとも部分的には、サハラ砂漠以南のアフリカ人とユーラシア人との間で異なっていたかもしれない強い選択要因である、と知られています。じっさい、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)から現生人類へともたらされたいくつかの遺伝的多様体は、免疫に関連する遺伝子に影響を与えた、と示されてきました(関連記事)。とくに、自然免疫(先天性免疫)におけるいくつかの遺伝子座の多様体、たとえば、ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)感染症への感受性やアレルギーの危険性を低下させるToll様受容体遺伝子多様体は、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来します(関連記事)。さらに、RNAウイルスと相互作用するタンパク質は、予測よりも頻繁にネアンデルタール人から遺伝子移入されたDNA領域によってコードされていると示されており、RNAウイルスは人類において多くの適応的事象を引き起こした可能性があります。

 最近、3番染色体上の1領域のハプロタイプが、重症急性呼吸器コロナウイルス2(SARS-CoV-2、新型コロナウイルス)に感染すると重症化することと関連し、ネアンデルタール人から現生人類にもたらされた、と示されました(関連記事)。SARS-CoV-2により起きる症状は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれ、無症状もしくは軽症から呼吸不全への急速な進行まで、症状が大きく異なります。このハプロタイプの各コピーは、SARS-CoV-2に感染した場合に保因者の集中治療を必要とする危険性を約2倍にします。このハプロタイプは、アジア南部では最大65%、ヨーロッパでは最大16%の頻度に達しますが、アジア東部ではほとんど存在しません。したがって、このハプロタイプは現在の大流行時にはその保因者にとって有害ですが、アジア南部では以前には、おそらくは他の病原体に対する防御をもたらすことにより有益だったかもしれません。一方アジア東部では、このハプロタイプは負の選択により除去されたかもしれません。

 救命救急診療における死亡率の遺伝学(GenOMICC)協会からの新たな研究が、最近利用可能になりました。これには、2244人の重症のCOVID-19患者と対照群が含まれます。3番染色体上のリスク遺伝子座に加えて、6・12・19・21番染色体に位置する、ゲノム規模で有意な影響を持つ7ヶ所の遺伝子座が特定されました。本論文は、これらの遺伝子座の1ヶ所で、SARS-CoV-2感染時に重症化する危険性の減少と関連するハプロタイプが、ネアンデルタール人に由来することを示します。


●12番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプ

 指標一塩基多型、つまり6・12・19・21番染色体上の、SARS-CoV-2感染時に集中治療を必要とする危険性と関連した7ヶ所の遺伝子座において最も強い関連性を有する一塩基多型は、ネアンデルタール人的なアレル(対立遺伝子)を有しています。この解明のため、指標一塩基多型のアレルの一つが、アフリカのヨルバ人108個体のゲノムで欠けている一方で、高品質のネアンデルタール人3個体のゲノム全てと合致する、という場合が求められました。6・19・21番染色体上の遺伝子座にはこれらの基準を満たす指標一塩基多型はありませんでしたが、12番染色体上にはありました。

 この遺伝子座をさらに調べるため、COVID-19ホストジェネティクスイニシアチブ(Host Genetics Initiative、略してHGI)のデータが用いられました。その結果、COVID-19での入院と関連する12番染色体上の遺伝子座における一塩基多型は、ヨーロッパ人では連鎖不平衡(LD)にあり、75000塩基対のハプロタイプ(113350796~113425679、ハプログループ19)を形成する、と明らかになりました(図1)。ヨルバ人には存在しないものの、ネアンデルタール人には存在するこの長さのアレルを有するハプロタイプは、ネアンデルタール人との交雑により現生人類の遺伝子プールに導入された可能性が高そうです。以下、本論文の図1です。
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 75000塩基対のハプロタイプがネアンデルタール人からの遺伝子流動の結果なのかどうか検証するため、現代人および古代人のゲノムが分析されました。そのために、1000人ゲノム計画の個体群で10回以上見られたハプロタイプと、シベリア南部アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の7万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の5万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)、シベリア南部アルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の12万年前頃のネアンデルタール人(関連記事)および8万年前頃のデニソワ人(関連記事)のゲノム配列が用いられました。図2では、これらのハプロタイプ間の関係を推定した系統樹が示されています。現代人の64個のハプロタイプでは、8個がネアンデルタール人3個体の配列と単系統群を形成します。以下、本論文の図2です。
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 ネアンデルタール人のゲノムと類似したゲノム断片は、50万年前頃に存在した両者の共通祖先に由来するか、10万年前未満の両者の混合によりネアンデルタール人から現生人類へともたらされたかもしれません。75000塩基対の断片がゲノムのこの領域で、各世代の染色体に影響を与える組換えにより解体されずに両者の共通祖先以来存続してきたのかどうか検証するために、既知の計算式を用いました。それは、1世代29年、100万塩基対当たり0.80cM(センチモルガン)の領域組換え率、ネアンデルタール人と現生人類との間の55万年前頃の分岐年代と5万年前頃の交雑です。これらの仮定では、この領域において、長さ16300塩基対もしくはより長い塩基対の断片は、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先集団に由来するとは予想されず、75000塩基対のハプロタイプがそうである可能性はほとんどありません。したがって、このハプロタイプはネアンデルタール人から現生人類の遺伝子プールにもたらされた、と結論づけられます。これと一致して、以前の研究では、このゲノム領域におけるネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動が報告されました。


●COVID-19の防御と地理的分布

 GenOMICC研究における防御ハプロタイプの指標多様体(rs10735079)は、ネアンデルタール人3個体全員のゲノムに合致します。集中治療を必要とする相対的な危険性は、ネアンデルタール人のハプロタイプ1コピーごとに22%減少します。系統学から予想されるように(図2)、指標一塩基多型の防御アレルと同時分離するアレルのほぼ全ては、ネアンデルタール人のゲノムに見られます。現在、このハプロタイプはサハラ砂漠以南のアフリカ人集団ではほぼ完全に存在しませんが、ユーラシアのほとんどの集団では25~30%の頻度で存在します(図3)。アメリカ大陸では、アフリカ人系統の一部集団でより低い頻度になっており、おそらくはヨーロッパ人もしくはアメリカ大陸先住民系統の集団からの遺伝子流動に起因します。以下、本論文の図3です。
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●推定機能多様体

 12番染色体上のCOVID-19重症化に対する防御的なネアンデルタール人のハプロタイプは、オリゴアデニル酸合成酵素をエンコードする、3個の遺伝子(OAS1とOAS2とOAS3)の全てもしくは一部を含みます。これらの酵素はインターフェロンにより誘導され、二本鎖RNAにより活性化されます。これらの酵素は短鎖ポリアデニル酸を生成し、それが次に細胞内二本鎖を分解し、ウイルスに感染した細胞内の他の抗ウイルスメカニズムを活性化する酵素である、リボヌクレアーゼLを活性化します。

 これらの遺伝子のどれがCOVID-19重症化に対する防御に関わっているのか調べるために、COVID-19重症化と関連する一塩基多型のP値の下で、3個のOAS遺伝子のゲノムの位置が示されました。関連は3個のOAS遺伝子全てと重複していますが、最も有意な関連の一塩基多型はOAS3にあります。しかし、関連における高水準の連鎖不平衡と確率性は、P値に基づく因果関係に関する結論を薄弱にします。

 それにも関わらず、機能的に重要である可能性があるものとして際立っているネアンデルタール人のハプロタイプにはアレルがあります。1個の一塩基多型(rs10774671)は、OAS1遺伝子のスプライス受容体に影響を及ぼすものとして説明されてきました。この一塩基多型における派生的アレルは現代人において最も高頻度のアレルで、いくつかのタンパク質アイソフォームがネアンデルタール人で保存されている祖先的アイソフォームの代わりに生成されるように、OAS1遺伝子の転写のスプライシングを変えます。後者のネアンデルタール人的なアイソフォームは、現代人で一般的な派生的アイソフォームよりも高い酵素活性を有します。アフリカ外では、祖先的アレルはネアンデルタール人のハプロタイプの文脈でのみ存在しますが、アフリカにおいては、おそらくアフリカから拡散した現生人類集団では失われた遺伝的多様体が現生人類とネアンデルタール人の共通祖先から継承されたので、祖先的アレルはネアンデルタール人的なハプロタイプとは別に存在します。

 スプライス受容体部位に加えて、ネアンデルタール人のハプロタイプは、OAS1遺伝子に1個のミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)多様体(rs2660)、OAS3遺伝子に1個のミスセンス多様体(rs1859330)と2個の同義多様体(rs1859329とrs2285932)、OAS2遺伝子に1個のミスセンス多様体(rs1293767)を含んでいます。これらネアンデルタール人的な多様体のうち3個は祖先的で、アフリカ人でも見られますが(rs2660とrs1859330とrs1859329)、2個はネアンデルタール人において派生的です(rs2285932とrs1293767)。

 12番染色体のハプロタイプにおけるいくつかの一塩基多型は、以前に他のウイルス感染への影響に関して研究されてきました。ネアンデルタール人的なスプライス受容体多様体は、西ナイルウイルスに対する防御と関連しており(rs10774671)、ネアンデルタール人的なハプロタイプはC型肝炎感染への耐性増加と関連しています。とくに、OAS1遺伝子のネアンデルタール人のミスセンス多様体(rs2660)もしくはこの多様体を有する連鎖不平衡における多様体は、SARS-CoVに対する中程度から強い防御と関連している、と示されてきましたが、この研究は症例と対照の数が限られていました。SARS-CoVはSARS-CoV-2と密接に関連しており、2003年に出現し、全年齢の感染者で9%の死亡率を引き起こし、高齢者ではずっと高い死亡率となりました。OAS遺伝子群のネアンデルタール人型は、発現水準とスプライス形態の両方の観点から、組織培養の細胞において色々なウイルスの感染に対してさまざまな応答で発現されます。


●経時的なハプロタイプ頻度

 過去数年の間に、先史時代人類の何千ものゲノム規模データが生成されてきました。これにより、遺伝子多様体の頻度がどのように経時的に変化してきたのか、直接的に測定できるようになります。この手法は、個体数が比較的小規模であることと、データが利用可能な地域により依然として制約されていますが、本論文では、SARS-CoV-2感染時の臨床転帰に影響を与える2個のネアンデルタール人由来のハプロタイプで適用されました。

 12番染色体上のネアンデルタール人のOASハプロタイプに標識を付けるため、派生的なネアンデルタール人アレルを有しており、GenOMICC研究の指標多様体と関連し、本論文で用いられた古代人ゲノムの大半を研究するために使われたAffymetrix Human Originsアレイにより遺伝子型決定された、1個の一塩基多型(rs1156361)が用いられます。この分析は、単一の標識一塩基多型を追跡するという点で制限されていますが、それがネアンデルタール人系統とネアンデルタール人のハプロタイプを有する連鎖不平衡で派生しているという事実により、この分析が実行できます。本論文では、分析がユーラシアに限定され、データを20000~2000年前頃の間の5期間に分割し、利用可能なゲノムの数を比較考量しながら、頻度の潜在的な違いが識別できるようにされます。

 図4Aは、ネアンデルタール人のOASハプロタイプが2万年前頃以前には10%未満の頻度だったようであることを示します。2万~1万年前頃、このアレル頻度は15%程度でした。その後、3000~1000年前頃までには、20%かわずかに20%未満の頻度だったようです。興味深いことに、ユーラシアにおける現在のアレル頻度は約30%で、ネアンデルタール人のOASハプロタイプの頻度は比較的最近増加したかもしれない、と示唆されます。

 同様に、3番染色体上のネアンデルタール人のリスクハプロタイプ(関連記事)の頻度を推定するため、上記の適用基準を満たす一塩基多型(rs10490770)が使用されました(図4B)。2万年前頃までは、利用可能な16個体のゲノムではリスクハプロタイプが見つかりませんでした。2万~1万年前頃とその後の個体群では、このハプロタイプは現在まで約10%の頻度です。したがって、OAS遺伝子座と同様に、ネアンデルタール人の3番染色体遺伝子座は、その頻度が2万年前頃以前にはそれ以降の期間よりも低かったようです。しかし、データはまだ不足しているので、この観察は予備的です。OAS遺伝子座とは対照的に、3番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプの頻度は、歴史時代に増加の兆候が見られません。以下、本論文の図4です。
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 注意すべきは、先史時代の利用可能なデータはユーラシア西部に大きく偏っており、とくにより古い時期にはまだ疎らであることです。しかし、古代人遺骸の追加のデータが急速に生成されており、アレル頻度のゲノム規模変化を引き起こす移住事象の補正と同時に、特定の地域における経時的なアレル頻度の研究により、すぐに正および負の選択の標的だった可能性がある遺伝子座を特定できる、との確信を本論文は述べています。

 これらの注意にも関わらず、ネアンデルタール人由来のOAS遺伝子座のユーラシアにおける最近の頻度増加は興味深いことです。これは、現代人集団間の多様性に関する以前の研究と一致しており、この遺伝子座は正の選択を受けた、と示唆されます。それはまた、たとえば断片的な受容体部位(rs10774671)で祖先的多様体を有する、この遺伝子座の型をデニソワ人がオセアニアの人々にもたらしたこととも一致しており、オセアニア現代人ではかなりの頻度に達します。


●結論

 12番染色体上のネアンデルタール人のハプロタイプは、現在のSARS-CoV-2の大流行における重症化への防御です。それはユーラシアとアメリカ大陸の現代人集団に存在し、その保有者の頻度は50%に達するか超えることが多くなっています。したがって、祖先的なネアンデルタール人のOAS遺伝子座多様体は、ユーラシア全域では現生人類にとって有利だったかもしれません。それはおそらく、とくにネアンデルタール人のハプロタイプが少なくとも3個のRNAウイルス(西ナイルウイルスとC型肝炎ウイルスとSARS-CoV)に対する防御になると明らかになっていることを考慮すると、RNAウイルスを含む一つもしくは多くの伝染病に起因します。この見解を裏づけるシミュレーションでは、ネアンデルタール人のOASハプロタイプは現生人類では正の選択下にあった、と示されました。

 驚くべきことに、現代人のOASハプロタイプによりコードされるOAS1タンパク質は、ネアンデルタール人のハプロタイプによってコードされるタンパク質よりも低い酵素活性となります。これは、アフリカにおいてある時点で有利になった可能性があります。なぜならば、OAS1遺伝子座の機能喪失型変異が多くの霊長類で多く起きているからで、OAS1活性の維持は組織にコストがかかることを示唆します。現生人類がアフリカ外で新たなRNAウイルスに遭遇した時、ネアンデルタール人との遺伝的相互作用を通じて獲得された祖先的多様体のより高い酵素活性が有利だったかもしれない、と推測することは可能です。

 興味深いことに、ネアンデルタール人的なOASハプロタイプの頻度が最近ユーラシアで増加したかもしれない、という証拠があり(図4A)、過去千年に選択がネアンデルタール人由来のOAS遺伝子座に正の影響を与えたかもしれない、と示唆されます。歴史時代の人類遺骸の将来の研究により、これが起きたかどうか、またいつ起きたのか、明らかになるでしょう。


 以上、ざっとこの研究を見てきました。上述のように、現代人の3番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプがCOVID-19重症化の危険性を高める、と指摘されており、たいへん注目されましたが、現代人の12番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプには、COVID-19重症化の防御になるものもある可能性が高い、と示されました。アジア東部では、日本は中国北部よりもその割合が低いようで、これも何らかの選択圧と関わっているのかもしれません。また、COVID-19重症化の危険性を高める3番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプが、2万年以上前のユーラシアの個体群ではまだ見つかっていないことも注目されます。このハプロタイプを有する集団は、比較的緯度の低い地域に存在したのかもしれず、今後の古代DNA研究の進展により、どのようにアジア南部で高頻度になったのか、解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Zeberg H, and Pääbo S.(2021): A genomic region associated with protection against severe COVID-19 is inherited from Neandertals. PNAS, 118, 9, e2026309118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026309118

上横手雅敬『日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2002年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は雑誌の連載をまとめた、中世史を中心とした歴史随筆集ですが、著者は日本中世史の碩学だけに、教えられるところが多々ありました。これまで知らなかったこととして、著者は1953年頃に研究者として歩み始めますが、当時は社会主義に共感する知識人が多く、歴史学も例外ではなかったなか、漠然たる好古趣味から歴史学を専攻した著者は、意識の低さを軽蔑され、肩身の狭い思いをした、ということです。

 著者のような碩学でもそうだったのか、とやや意外ではありましたが、特定の思想に傾倒して歴史学を志したわけではないことも、著者が歴史学の研究者として大成した一因なのかもしれません。著者は、近い将来の社会主義到来を知識人が確信していた一方、一般庶民はその生活感覚から社会主義が到来するとは思っていなかった、と指摘し、学問をするほど人間は愚かになるのだろうか、と問題提起します。著者はそうして悩むなか、過去は現在とは異なる社会で、それを解明するのが歴史学である、という立場から、現代との継続性も意識するようになったそうです。

 そうした視点から語られるそれぞれの話は、さすがに碩学だけあって教えられることも考えさせられることも多く、本書は体系的な通史ではなく、特定の問題を取り上げているわけでもありませんが、読んで正解でした。たとえば、平安京は天皇・貴族・官僚の都であり、庶民生活の発達に基づいて形成された都市ではなかったことを、『今昔物語集』と芥川龍之介の小説から一般向けに分かりやすく解説するところは、碩学らしく巧みだと思います。藤原頼長など「悪」を滅ぼしたのは凡俗の人々が構成する「世」だった、との指摘も考えさせられます。