高杉洋平『昭和陸軍と政治 「統帥権」というジレンマ』

 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2020年11月に刊行されました。本書は、現代日本社会ではきわめて評判の悪い昭和期陸軍を、「統帥権独立」という観点から見直します。昭和陸軍は横暴で、政治に介入して国策を誤り、ついには敗戦に至り国家を破局に陥らせた、というのが現代日本社会における一般的な印象でしょうか。さらに、もう少し詳しい一般層では、陸軍が政治に統制されず暴走したのは、「統帥権独立」が要因だった、との認識が根強くありそうです。本書は、そもそも「統帥権独立」とはどのように規定され、軍人の意識と政治介入にどのような影響を及ぼしたのか、昭和期を中心に明治期までさかのぼって検証します。

 統帥権独立とは、狭義には軍の作戦用兵を担当する参謀本部の内閣からの独立(天皇の直轄)ですが、これによって、統帥権の範囲を拡大解釈することで内閣の干渉を排除できるようになり、さらには内閣の施策に大きな影響を及ぼすことも可能となります。そのため、近代日本において統帥権独立制度は癌だった、とも評価されます。本書は、統帥権独立のそもそもの目的は、軍の政治化への警戒にあった、と指摘します。じっさい、一部の軍人は自由民権運動に共鳴しました。軍の政治化を阻止するさいにもう一つ問題となるのは、陸軍省と海軍省が内閣の管轄であることです。その対策として制定されたのが、軍部大臣現役武官制でした。後に軍部の政治への介入を促進した統帥権独立と軍部大臣現役武官制は、当初軍人の政治化を阻止することが目的だった、というわけです。ただ本書は、明治期に政治と軍事との分離が意図されながら、明治維新の功労者でもあった軍人が少なからず入閣したことも指摘します。

 こうした明治維新の功労者でもあった明治期前半の将校に対して、次第に士官学校と陸軍大学で専門教育を受けた「新世代」の軍人が台頭します。この「新世代」は、政治指導者でもあった前世代とは異なり、「生粋の軍人」で、政治と軍人の間に一線を引くようになり、現役の軍人が軍部大臣以外で入閣するようなこともほとんどなくなります。一方、これが専門分野における排他的独占意識を増幅したことも、本書は指摘します。陸軍は第一次護憲運動で大打撃を受け、軍部大臣現役武官制は改正され、現役軍人でなくとも軍部大臣に就任できるようになります。これに強く反対したのが宇垣一成でしたが、それは軍部大臣現役武官制を軍部の既得権と認識していたからではなく、軍隊の政治利用と軍人の政治関与を防ぐためでした。宇垣は、政党政治の現実を前に、軍隊の中立を守るため、運用上では政党政治と協調し、軍部大臣武官制を守ろうと考えていましたが、これは危うい自己矛盾だった、と本書は指摘します。

 統帥権が広く注目されるようになったのは、ロンドン海軍会議でした(統帥権干犯問題)。浜口内閣の陸軍大臣である宇垣は、陸軍大臣権力の最大化を意図した点では政友会や海軍軍令部とは明確に異なっていましたが、その憲法解釈は政友会や海軍軍令部と近接しており、浜口内閣にとって潜在的に危険だった、と本書は指摘します。宇垣と浜口首相は互いに配慮し、矛盾しないような答弁に終始して政友会の追及を切り抜け、宇垣の政治的影響力は高まります。しかし、政府と妥協しつつ陸軍省の権限を拡大していこうとする宇垣の方針や、宇垣軍縮にも関わらず列強と比較して近代化が進んでいないこと(これは当時の列強と比較しての日本の国力では多分に仕方のないところでもありましたが)に、陸軍内部で不満が高まっていきました。とくに、第一次世界大戦後の軍縮の風潮で苦境に立たされていた軍人にとって、宇垣軍縮は怨嗟の直接的対象となりました。宇垣軍政への陸軍内の反感は革新運動の盛り上がりにつながり、宇垣は1931年の三月事件で大きな政治的打撃を受け、現役を退いて朝鮮総督に就任します。

 宇垣が去った後の陸軍では、革新運動が皇道派と統制派に分裂していきます。皇道派若手将校が中心となって起きた二・二六事件後、陸軍の政治関与は強化されていきますが、陸軍の方でも二・二六事件への反省がなかったわけではなく、軍部大臣現役武官制の復活にしても、軍人の政治関与への抑制との意図もあった、と本書は指摘します。宇垣内閣が成立するに至らず、林内閣が成立する過程で、宇垣を排除した石原莞爾は自分に好都合な内閣を成立させようとして、陸軍省次官の梅津美治郎の反対により挫折しますが、本書は梅津の政治的行動にしても、軍人が極力政治に関わらないようにするためだった、と指摘します。

 石原莞爾の内閣構想が挫折した後の陸軍では、すでに皇道派が没落し、統制派も永田殺害後派閥としての実態を失い、一種の無派閥状態となります。これにより、陸軍全体の行動を意図的に方向づける推進力が失われ、陸軍自らがある種の政治力を発揮するさいに外部勢力への依存度を深めたと本書は指摘します。林内閣は短命に終わり、次の近衛内閣で日中戦争が始まって泥沼化します。この時期、杉山元が大臣で梅津が次官の陸軍省は参謀本部を統制できていましたが、日中戦争泥沼化の原因を陸軍にのみ押しつけた近衛は、日中戦争を解決すべく杉山と梅津を解任しようとして天皇・皇族を利用しました。これにより、矯正されつつあった陸軍の統制が再び乱れることになります。

 近衛内閣の後継の平沼内閣で問題となったのは、陸軍では推進派が多く、海軍では強硬な反対派がいた、日独伊三国軍事同盟でした。陸軍では、軍務課長の有末精三を中心に、平沼内閣の後継首班選定に関わり、再び政治への関与を強めます。しかし、有末の組閣への関与は、昭和天皇の介入により挫折し、有末は転出して武藤章が後任となります。平沼内閣の後継の阿部内閣での、町田忠治入閣構想が失敗したことにより、武藤は阿部内閣を見放します。本書は、陸軍が阿部内閣を見放し、陸軍の「政治不介入」により倒された、と指摘します。陸軍の政治不介入の態度が大きな政治的影響力を有し、結果として政治介入と同義になる、というわけです。阿部内閣の崩壊後、武藤は現役の陸軍の軍人を首相とすることに強い拒絶反応を示し、それは陸軍省の軍人にも共通していました。それは、陸軍側の政権担当能力不足もありましたが、文官の首相が個人として統帥権の行使に関わる武官だと、一般政務と統帥の区別が曖昧になり、統帥権独立に悖ると考えられたからでした。当時、関東大震災直前に没した加藤友三郎を最後に、現役軍人が首相に就任することはなく、昭和期の陸軍は、政治と軍事の区別に関して明治期の軍人よりも潔癖でした。この武藤の方針もあり、陸軍内閣は成立せず、米内光政内閣が成立します。海軍の米内は日独伊三国軍事同盟に強硬に反対してきたため、陸軍にとって本来は好ましくない事態でした。

 米内内閣が陸軍との対立により退陣した後、近衛内閣が成立します。近衛内閣は、近衛文麿の複雑な政治的個性を反映して、さまざまな政治的立場の人々が関わり、またそれぞれの立場から近衛というか新体制運動に期待・幻想を抱きました。陸軍も同様で、もちろん一枚岩ではありませんでしたが、新体制運動に深く関わったのは武藤など限られていました。武藤は当初、既成政党の親軍派を通じて影響力を及ぼそうとしましたが挫折し、既成政党の影響力の強さを痛感したところ、予想外に政党が近衛新体制運動に参加し、解党するに至りました。この政治的現象に陸軍の役割は限定的だった、と本書は指摘します。

 近衛新体制運動において、陸軍で関わった中心的人物である武藤は、一般的な印象とは異なり、政党の力量を認め、一党制に近い一党優位を目指すものの、野党の存在も必要と想定されていました。武藤は新体制への軍人の参加も認めない方針でした。しかし、この武藤構想は、軍人の新体制への参加を求める近衛側近層の構想と対立しており、近衛個人の意向も同様だと知った武藤は、日中戦争解決のためには新体制が必要で、それには近衛の存在が必要と考えて、近衛側に譲歩します。武藤は同様の理由で、新体制運動での既得権侵害を警戒して激しく抵抗する内務省にも妥協します。その結果、武藤は政党勢力にも批判されます。武藤構想の破綻は、新体制による日中戦争解決を志向しながら、陸軍がその当事者になることを徹底的に忌避したからでした。陸軍から独立した政治勢力が陸軍の求める政策を忠実に実行することを前提とした武藤構想は、本質的矛盾を抱えていた、というわけです。

 日米交渉が行き詰まり、近衛が退陣した後、東条英機が現役のまま首相に就任し、陸相も兼任します。これは統帥権独立の原則と矛盾しかねず、陸軍でも東条の予備役編入を求める者がおり、東条もそうした懸念を認識していました。しかし東条は、首相と陸相の立場を使い分ける、という分かりにくい対応を取りました。それでも、この東条の方針により、東条内閣では軍務局幕僚の政治的影響力は抑制されました。しかし、東条は参謀本部を統制できず、それは戦局の悪化に伴って顕在化していきました。そこで東条は参謀本部総長を兼任しますが、陸軍内で強い反発を受けました。ここでも東条は、陸相と参謀本部総長の立場を生真面目に使い分ける、という分かりにくいやり方で対応しました。

 本書は、政治と軍事を峻別する制度・規範意識である統帥権独立には、政治介入とその阻止という二面性があった、と指摘します。昭和の軍事指導者たちの多くは、少なくとも主観的認識では、統帥権独立という制度・規範意識に沿うよう努力しました。本書は、統帥権独立制がなければ、軍部の政治介入がより露骨化・深刻化した可能性すら指摘します。軍部の政治介入や独走の助長に統帥権独立制が果たした役割は否定できませんが、政治・社会的事情も考察する必要がある、というわけです。