極東アジア最古の現生人類の年代

 極東アジア最古の現生人類(Homo sapiens)の年代に関する見解(Hublin et al., 2021)が公表されました。本論文は、極東アジアに最初に現生人類が拡散してきたのがいつなのか、近年の研究を簡潔に整理しており、この問題に関して調べる場合、まず読むべき有益な文献だと思います。これは日本列島への現生人類拡散の問題でもあるので、日本人がどのように形成されてきたのか、との観点からも注目されます。ただ本論文では、直接的には日本列島に関する言及はありません。

 現生人類のアフリカ起源を裏づける、豊富な遺伝学的および考古学的証拠があります。現生人類は進化のある時点でアフリカからユーラシアへと拡大し、他の在来人類集団を置換したか、部分的に吸収しました。現生人類は最終的に、人類がそれまで存在しなかった地域にも拡散しました。現代人は、地域的条件への適応と孤立から生じるある程度の身体的変異を示しますが、全員最近のアフリカ人系統を共有します。アフリカからのこの拡散が何回、いつ、どのような理由で起きたのか、古人類学の分野では継続的な議論の問題となってきました。過去10年間で、研究努力により、極東アジアでは現生人類の到来の時期を解明する研究努力が強化され、いくつかの注目すべき文献が刊行されました。最近、これらの議論の中心だった主要な中国の人類遺跡の一部の年代測定に関して、疑問が呈されました(関連記事)。またその研究では、考古学的および化石記録がこの地域において解釈され得る方法について、重要な問題を提起します。

 アフリカからの現生人類の最初の拡散は、おもに環境変化により起きたようです。過去50万年間に、地球は大きな気候変動を経てきました。アフリカでは、乾燥化進展の広範な傾向とは対照的に、数千年紀の湿潤化の波がサハラ砂漠の大半を、時には湖が現在のドイツ並の大きさとなるような、川と湖のネットワークが交差するサバナの巨大な外観へと周期的に変えました。重要なことに、これらの「緑のサハラ」事象は、アラビア半島とアフリカの人類集団にも影響を与えました。アフリカの人類集団は、このタイプの生態環境に適応しており、これら新たに生息可能となった地域へと拡大した可能性があります。

 アジアにおける現生人類最初の疑問の余地のない痕跡は、アフリカの端であるレヴァント南部で194000~177000年前頃のものが見つかっていますが(関連記事)、古遺伝学は、アフリカの人類集団とユーラシア西部のネアンデルタール人との間の、より古い可能性がある接触の兆候を提供します(関連記事)。しかし、現生人類拡散の主要段階は5万年前頃かその少し前に始まりました。その頃までに、社会的・文化的・人口統計学的変化により、アフリカ起源の狩猟採集民集団は在来の古代型集団を犠牲にして、まったく新たな環境に居住できるようになりました。中緯度では、現生人類はすでに45000年前頃以前にヨーロッパ東部に存在しました(関連記事)。また現生人類は、シベリアでは北緯57度にまで東方へと拡大し(関連記事)、ヒマラヤ山脈を避ける「北方経路」沿いに、モンゴルと中国北部にまで到達したかもしれません(関連記事)。

 南方に関して中心的な話題は、熱帯アジア全域での現生人類の拡大が、アジア南西部における早期の到来の単なる継続だったのか、それともいわゆる「南方経路」沿いのずっと後の拡散段階の結果だったのか、ということです。残念ながら、中国とジャワ島の注目に値する例外はあるものの、この地域の人類化石はほんの僅かで、しばしば単に存在しません、したがって一般的に、集団遺伝学および考古学に基づく間接的な議論に頼らねばなりません。母系で伝わるミトコンドリアDNA(mtDNA)の現在の系統の多様化の年代測定は、全ての非アフリカ系集団の55000年前頃未満の単一の急速な拡散を裏づけます。しかし、先駆者集団は後に人口的に優勢な波に完全に置換されたかもしれず、そのため現生集団には遺伝的痕跡を残さなかった、とよく主張されてきました。

 考古学に関しては、骨格遺骸がない場合、特定の様式の製作者の人工物の生物学的性質を確認することは困難です。これはとくに、人類化石が表される遺跡とのつながりを確立できない場合に当てはまります。オーストラリアは、現生人類以外の人類が存在しなかったと想定されているので、とくに興味深い地域です。オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では、65000年前頃の人工物が発見されています(関連記事)。この推定年代が妥当ならば、必然的にアジア南東部におけるより古い現生人類の存在を意味します。しかし、この推定年代には疑問が呈されており(関連記事)、オーストラリアへの現生人類の初期の拡散の失敗が確認されなければ、その推定年代を遺伝的証拠と一致させることは困難です(関連記事)。

 年代測定可能な人類遺骸のある中国中央部および南部の遺跡は、とくにこの議論と関連しています。中国には、旧石器時代考古学と人類古生物学の長い研究伝統があり、その豊富な化石記録は周辺諸国とは対照的です。いくつかの遺跡では、現代人と解剖学的に近い化石が発掘されており、中国における現生人類のひじょうに早期の存在を記録している、と主張されました。最初期の発見の中で、1958年に広西壮族(チワン族)自治区の通天岩(Tongtianyan)近くの柳江(Liujiang)で発見された保存状態良好な頭蓋は、洞窟で肥料を集めている農民により発見された他の人類骨とともに、言及する必要があります。この問題のある発見状況にも関わらず、洞窟の流華石の異なる層の年代測定は、これらの人類遺骸の下限年代が68000年前頃、さらにはもっと古い可能性がある、と示唆します。不純物がほとんどない方解石の形成にさいして、硬い流華石は、鉱物堆積時に捕捉されたウランの既知の崩壊速度に基づくひじょうに信頼性の高い年代測定法(ウラン系列法)を適用するのに理想的な物質を表します。

 他の推定される初期現生人類は、亜熱帯中国における組織化された発掘の過程で見つかり、人類遺骸を覆う流華石のウラン系列法による年代測定、これら人類化石の予想外に古い地質年代を裏づけるのに広く用いられてきました。広西チワン族自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)遺跡(関連記事)と月(Luna)洞窟遺跡、湖北省の黄龍洞窟(Huanglong)遺跡、湖南省の福岩(Fuyan)洞窟遺跡(関連記事)での人類遺骸の発見は、最も注目に値します。これらの人類遺骸は全て、7万年以上前、時には10万年以上前とさえ主張されています。これらの発見は、おもに最近の現生人類の歯列と形態的に区別できない歯を表していますが、智人洞窟では、現代的および祖先的特徴の混合を示す下顎断片も報告されています。

 「地層累重の法則」は地質学と考古学の基本的な公理で、それによると、層序系列では、下層が古く、より新しい堆積物によって覆われます。この原則が歪みのない堆積盆地や洞窟に容易に適用できるならば、より難しい状況がかなりあります。深い洞窟は一般的に、石灰岩のような解ける岩を通じて水の循環により形成されます。これらの地下ネットワークでは、水の循環は輸送と充填の主因でもあり、炭酸凝結物を堆積し、外部から堆積物をもたらします。ネットワークにおける水循環の強さはおもに気候条件に依存するので、時間の経過とともに、深い洞窟は通常、中断のある程度の期間とともに、侵食と堆積段階の変化が起きます。時には、窪みが既存の堆積物へと切り込まれ、より深い部分により新しい物質で再充填されることもあり得ます。

 あらゆる年代の化石および考古学的対象物は、最初の状況から離れて、再加工・移動・再堆積されることがあり得ます。堅く結びついた流華石のような硬い堆積物は侵食に抵抗できますが、その下にある古いもののより柔らかい堆積物は取り除かれて、後により若い堆積物に置換されることもあり得ます。したがって洞窟では、さまざまな種類の標本から絶対年代を得るのと同様に、遺跡の形成過程の解明が重要です。これらの複雑化の教科書的な事例が、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で提示されています。リアンブア洞窟では、オーストラリアへ向かう途中の現生人類によるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の置換年代が、18000年前頃から5万年前頃に改訂されました(関連記事)。

 上述の月・黄龍・福岩の3ヶ所と、湖北省の楊家坡(Yangjiapo)および三游(Sanyou)の2ヶ所、計5ヶ所の洞窟遺跡の古代DNA分析を含むいくつかの年代測定手法の使用により、これらの洞窟における共通のパターンが示されました(関連記事)。さまざまな年代の、しかし一般的に10万年前頃に形成された古代の流華石は、あらゆる年代の可能性があるものの、明らかに主要な場所にはない堆積物の上に位置します。これらの下にある堆積物は再加工され、哺乳類の骨や時として人類遺骸を含みます。そうした哺乳類遺骸は、放射性炭素法により直接的に、流華石と堆積物両方の年代よりもずっと新しい、と年代測定されることもあり得ます。じっさい、これらの発見物はいずれも3万年以上前のものではなく、しばしば僅か数千年前にさかのぼります。

 この新たな知見は以前に提起された疑問を確認し、7万年以上前のアジア東部における現生人類の存在を裏づける現在の議論のいくつかは真剣に議論を挑まれています。中国中央部と南部のいくつかの洞窟を除けば、アジア南東部の2ヶ所の遺跡のみがこの早期の年代に近いままで、精査に値します。ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタムパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(図1)では、いくつかの現代人的な下顎骨と頭蓋骨の断片が、一連の一貫した年代を提供する厚い層序で発見されました(関連記事)。最古の解剖学的に重要な標本は、堆積物が日光に最後に暴露した時間を評価する、刺激ルミネッセンス法(OSL)と赤外線刺激ルミネセンス法という2つの手法で年代測定された層に由来します。技術的な問題は、OSLにより提供された48000年前頃の年代が過小評価されていることを示唆します。赤外線刺激ルミネセンス法は7万年前頃を示唆しましたが、ひじょうに大きな不確実性があります。

 スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡では、2個の現生人類のものと分類されている歯が、ウラン系列法と電子スピン共鳴法により73000~63000年前頃と推定されていますが(関連記事)、これらは1880年に発見されており、その元々の位置を疑うのは正当です。したがって現時点では、現生人類がおそらくアジア東部に達したのは55000年前頃もしくは50000年前頃であるものの、そのずっと前ではなかった、と推測できます。以下、本論文の図1です。
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 可能な場合はいつでも、放射性炭素年代測定法と古遺伝学による人類遺骸の直接的な年代測定が不可欠です。さらに、いわゆる絶対年代測定手法により確立された年代は、科学的裏づけがあるように見えるものの、同時に、これらの手法全てが同水準の信頼性と精度を提供するわけではありません。最終的に、他の科学と同様に考古学では、さまざまな手法で得られた結果の一貫性と観察結果の再現のみが、モデルの有効性を保証できます。アジア東部や南東部に限らず、有力説よりもずっと早い年代は注目を集めやすいものの、本論文が指摘するように、慎重に検証していかねばなりません。


参考文献:
Hublin JJ.(2021): How old are the oldest Homo sapiens in Far East Asia? PNAS, 118, 10, e2101173118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2101173118