2021年度アメリカ自然人類学会総会(ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域差)

 来月(2021年4月)7日~4月288日にかけて、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市で第90回アメリカ自然人類学会総会が開催される予定ですが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2) により起きる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、オンライン開催となるそうです。アメリカ自然人類学会総会では、最新の研究成果が多数報告されるだけに、古人類学に関心のある私は大いに注目しています。総会での各報告の要約はPDFファイルで公表されているのですが、まだいくつかの報告をざっと読んだだけです。とりあえず今回は、とくに興味深いと思った、ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響の地域差報告(Witt et al., 2021)を取り上げます(P115)。

 ネアンデルタール人由来のゲノム領域は、は全ての現代ユーラシア人口集団で見つかりますが、不均一に分布しており、アジア東部人はヨーロッパ人よりもゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域が優位に多い、と報告されています。具体的には、ヨーロッパ人も含めてユーラシア西部現代人では1.8~2.4%、アジア東部現代人では2.3~2.6%と推定されていますが(関連記事)、両者の違いはこの推定より低い、との見解も最近提示されました(関連記事)。この違いに関しては、ネアンデルタール人からのアジア東部現代人の祖先集団への追加のネアンデルタール人からの遺伝子流動や、ネアンデルタール人からの遺伝的影響をほとんど受けていない現生人類集団(基底部ユーラシア人)とユーラシア西部現代人の祖先集団との混合による「希釈」の効果(関連記事)など、複数の人口統計学的モデルがこの違いを説明するために提案されてきました(関連記事)。

 この研究は、以前から報告されてきたユーラシア東西間のネアンデルタール人からの遺伝的影響の程度の違いを解明するため、1000人ゲノム計画のデータに基づいて、現代ユーラシア人口集団における古代型の一塩基多型を識別し、ヨーロッパ人口集団とアジア東部人口集団との間の個体および人口集団特有の古代型網羅率のパターンを比較しました。その結果、アジア東部人とヨーロッパ人は、人口集団全体でほぼ同じ数の古代型アレル(対立遺伝子)を有しているものの、アジア東部人は個体間で共有されるアレルの割合がより高いので、ヨーロッパ人よりも個体あたりのネアンデルタール人由来の多様体の数が多くなる、と示されました。

 次に、「追加の古代型遺伝子流動」仮説および「希釈」仮説と一致する人口統計学的モデルを用いてシミュレーションが実行され、どの人口統計学的仮説が、ヨーロッパ人と比較してアジア東部人において、より多い個体あたりのアレル数があるものの、人口集団あたりのアレル数は類似していることと最も一致するのか、検証されました。その結果、どちらの人口統計学的モデルも経験的結果を個別に複製しませんが、これらのモデルの組み合わせは、ユーラシア現代人で見られるような、個体および人口集団全体のアレル分布をもたらしました。

 したがって、ユーラシア現代人全体におけるネアンデルタール人由来のアレルの分布は、ネアンデルタール人と現生人類との間の複数回の相互作用、および、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けたユーラシア西部現代人の祖先集団と、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けていない仮定的な(ゴースト)人口集団(基底部ユーラシア人)との間の遺伝子流動の結果と推測されます。おそらく、本論文が指摘するように、複数の複雑な要因により、ユーラシア現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来領域の割合の地域差が生じたのでしょう。なお、アメリカ自然人類学会総会に関するこのブログの過去の記事は以下の通りです。


2020年度(第89回)
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_16.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_29.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_30.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_36.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_46.html

2019年度(第88回)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_50.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_51.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_53.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_1.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_10.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_11.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_23.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_24.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_34.html

2018年度(第87回)
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_46.html

2017年度(第86回)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_13.html

2016年度(第85回)
https://sicambre.at.webry.info/201606/article_23.html

2015年度(第84回)
https://sicambre.at.webry.info/201504/article_15.html

2014年度(第83回)
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_22.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_34.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_5.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_7.html

2013年度(第82回)
https://sicambre.at.webry.info/201304/article_30.html

2012年度(第81回)
https://sicambre.at.webry.info/201204/article_20.html

2011年度(第80回)
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_27.html

2010年度(第79回)
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_23.html

2009年度(第78回)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_27.html

2008年度(第77回)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_20.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_32.html

2007年度(第76回)
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_32.html
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_11.html


参考文献:
Witt ‪KE, Villanea FA, Huerta-Sánchez E.(2021): Accounting for Neanderthal ancestry differences in Eurasians using archaic SNP identification and simulations. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

スキタイ人集団の遺伝的構造

 スキタイ人集団の遺伝的構造に関する研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)が公表されました。鉄器時代への移行は、ユーラシア史において最重要事象の一つです。紀元前千年紀の変わり目に、考古学的記録の変化は、アルタイ山脈からポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)西端までの草原地帯全域の、いくつかの遊牧民文化の台頭を証明します。これらの文化は、その埋葬文脈で見られる共通の特徴に基づいて、まとめてスキタイとよく呼ばれます。先行する青銅器時代人口集団と比較して、スキタイは定住型から遊牧型の牧畜生活様式への移行を経ており、戦争の増加と、鉄製武器の新様式や鞍の導入を含む乗馬技術など軍事技術の進歩と、階層的なエリートに基づく社会の確立を示しました。

 以前のゲノム研究では、青銅器時代草原地帯において大規模な遺伝的置換(したがって、かなりの人類の移住も)が検出され、それは最終的に、西部および中央部草原地帯の定住牧畜民を特徴づける、均質で広範に拡大した中期~後期青銅器時代遺伝子プールの形成をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら中期~後期青銅器時代(MLBA)クラスタの急速な衰退とスキタイの台頭を促した理由は、まだよく理解されていません。研究者たちが指摘してきたのは、最も関連する要因のなかで、気候湿潤化と、近隣農耕文化(文明)、つまりバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化と関連する文化からの社会経済的圧力です。

 スキタイ人の起源に関しては、競合する3仮説が議論されてきました。第一に、推定されるイラン語により支持されるポントス・カスピ海草原起源説です。第二に、考古学的知見により支持されるカザフ草原起源説です。第三に、共通の文化的特徴を採用した遺伝的に異なる集団の複数独立起源説です。これまでに鉄器時代草原地帯遊牧民から回収されたゲノムの数は限定的で、スキタイ人の遺伝的多様性を一瞥できるものの、さまざまなユーラシア東西の遺伝子プール間の混合の複雑なパターンを特徴づけるには、とても充分ではありません(関連記事1および関連記事2)。

 考古学的観点からは、遊牧民戦士文化と関連する最初の鉄器時代埋葬は、カザフ草原東端の、トゥワ(Tuva)とアルタイ地域で特定されました(紀元前9世紀)。この初期の証拠に続いて、カザフスタン中央部および北部のタセモラ(Tasmola)文化は、最初の主要な鉄器時代遊牧民戦士文化の一つです(紀元前8世紀~紀元前6世紀)。これらの早期集団の後には、カザフスタン南東部と天山(Tian Shan)山脈に位置する象徴的なサカ(Saka)文化(紀元前9世紀~紀元前2世紀)や、アルタイ山脈を中心とするパジリク(Pazyryk)文化(紀元前5世紀~紀元後1世紀)や、ウラル南部地域に最初に出現し(紀元前6世紀~紀元前2世紀)、コーカサス北部やヨーロッパ東部にまで西進した(紀元前4世紀~紀元後4世紀)サルマティア人(Sarmatian)が続きます。遊牧民集団も、トボル(Tobol)川とエルティシ(Irtysh)川との間の北部森林草原地帯に位置する、サルガト(Sargat)文化遺構(紀元前5世紀~紀元前1世紀)と関連する文化など、その定住型隣人に影響を与えました。

 鉄器時代後のカザフ草原は、東方の匈奴(Xiongnu)や鮮卑(Xianbei)、南方のペルシア人関連王国の康居(Kangju)など、複数の帝国の拡大の中心として機能しました。これらの事象は、スキタイ東部文化の終焉をもたらしましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的交代はよく理解されていないままです。さらに、遊牧民生活様式の形態は、何世紀にもわたってカザフ草原で存続しました。遊牧民人口集団の最近の歴史における重要な事象は、紀元後15・16世紀に起きました。この時、現在のカザフスタンの領域に住む全部族が組織化され、主要な3ジュズ(Zhuz)に分類されました。それは、長老(Elder)ジュズと中年(Middle)ジュズと若年(Junior)ジュズで、それぞれカザフスタンの南東部・中央部および北東部・西部に位置します。ジュズとは、本来「100」を意味する言葉で、「(カザフ人全体の中の)部分」を意味する、民族と部族の中間概念とのことです(関連記事)。

 この分割はアジア中央部全域に拡大し、ジョチ・ウルス崩壊後に外部の脅威から自衛する必要があった、異なる部族間の政治的で宗教的な妥協でした。これは、カザフ・ハン国(紀元後1465~1847年)設立の基礎を築きました。現在、カザフスタンのカザフ人集団は依然として、その部族同盟を維持しており、その文化の一部の側面を維持しながら遊牧民の歴史を尊重しています。これらの伝統の一つは、親族間の結婚を避けるために父系により家系図を7世代までさかのぼる「ジェティ・アタ(Zheti-ata)」です。

 さまざまな鉄器時代遊牧民文化の遺伝的構造や、その起源と衰退に関する人口統計学的事象を理解するため、カザフ草原全域(カザフスタンとキルギスとロシア)の39ヶ所の遺跡で回収された古代人111個体と、現在のハンガリーに位置するフン人エリートの埋葬から回収された1個体のゲノム規模データが生成されました。本論文のデータセットの範囲はおもに紀元前8世紀~紀元後4世紀までで、中世の3個体も含みます(図1)。また、最近の歴史事象が現代遊牧民の遺伝的構造をどのように形成してきたのか、よりよく理解するため、現在のカザフスタンの全域にわたる、主要な3ジュズに分類されるいくつかの部族に属する現代カザフ人96個体の新たなゲノム規模データも生成されました。

 1233013ヶ所の一塩基多型を濃縮するよう設計されたDNA解析技術を用いて、古代人117個体のゲノム規模データが得られました。品質管理の後、現代カザフ人96個体と古代人111個体のデータが保持され、少なくとも2万ヶ所を超える一塩基多型が網羅され、全個体で常染色体網羅率1.5倍のゲノム規模データが得られました。これら新たなデータは、以前に公開された現代および古代の個体群の参照データセットと統合され、586594ヶ所の一塩基多型で主成分分析および混合分析が行なわれました。各個体は、年代と考古学的文化により分類されました。以下、本論文の図1です。
画像


●カザフ草原における鉄器時代の移行

 全体として、主成分分析とADMIXTUREでは、かなりの人口統計学的変化がカザフ草原の青銅器時代から鉄器時代の移行期に起きた、と示唆されます(図2)。紀元前二千年紀末までカザフ草原全域で見られるひじょうに均質な草原地帯中期~後期青銅器時代(MLBA)とは対照的に、鉄器時代個体群は主成分分析空間全体、とくにPC1軸とPC3軸に散らばっています。これらPC軸に沿った広がりはそれぞれ、MLBA人口集団と比較しての余分なユーラシア東部人との類似性と、最終的には新石器時代イラン人および中石器時代コーカサス狩猟採集民(以下、イラン人関連祖先系統と呼ばれます)と関連する南部人口集団との余分の類似性の、さまざまな程度を示唆します。

 高い遺伝的多様性にも関わらず、同じ文化および/もしくは地域の古代の個体群の均質なクラスタを評価できます。年代順に従うと、前期鉄器時代タセモラ文化と関連する遺跡の個体群のほとんど(タセモラ650BCE)と、カザフスタン中央部・北部の「サカ文化カザフスタン中央部・北部600BCE」は、主成分分析の中央部でクラスタ化し、ADMIXTURE分析では遺伝的構成要素の均一なパターンを示します(図2A・D)。トゥワのアルディベル(Aldy-Bel)文化遺跡の以前に報告された2個体も、この遺伝的集団内に収まります(図2A)。この遺伝的特性は後の中期・後期鉄器時代で持続し、ベレル(Berel)のパジリク文化遺跡のほとんどの個体(パジリク・ベレル50BCE)により示されます(図2B)。

 この鉄器時代クラスタは、同じ地域に居住していた以前の草原地帯MLBA集団とは異なり、これはほぼPC1軸沿いにユーラシア東部人の方へとかなり動いているためです。さらに、主要クラスタよりもユーラシア東部人へと一層強く動いている外れ値も明らかになりました。これは、パジリク・ベレル50BCEの外れ値2個体と、ビルリク(Birlik)のタセモラ文化遺跡の3個体(タセモラ・ビルリク640BCE)と、カザフスタン中央部・北部のコルガンタス(Korgantas)段階の4個体のうち3個体です(図2B)。ユーラシア東部人の遺伝的特性を有するビルリクの女性1個体(BIR013.A0101)は、典型的なユーラシア東部草原地帯の特賞を示す副葬品(青銅鏡)とともに発掘されました。

 天山山脈地域から南方までの古典的な鉄器時代サカ文化個体群(サカ・天山600BCE、サカ・天山400BCE、以前に報告されたサカ・天山200BCE)は、タセモラ文化・パジリク文化クラスタとイラン人関連遺伝子プールとの間でPC3軸沿いに勾配で分布します(図2A・B)。新石器時代イラン人へのより強い類似性も、ADMIXTURE分析で見つかります(図2D)。イラン人関連遺伝子プールへの移動は、早くも紀元前650年頃に、サカ文化のエリート被葬者から回収されたエレケ(Eleke)・サジー(Sazy)の1個体(ESZ002)で見つかりますが、カスパン(Caspan)の紀元前700年頃となる最初の天山サカ文化遺跡の1ヶ所で発見された4個体のうち3個体は、タセモラ・パジリク集団の範囲内に収まります。

 カザフ草原北方の森林草原地帯の定住性サルガト文化と関連する個体群(サルガト300BCE)は部分的に、タセモラ・パジリク文化クラスタと重なりますが、主成分分析では、ユーラシア西部人(PC1軸)および内陸部北方ユーラシア人の最上端の勾配(PC2軸)へと移動する集団を形成します(図2B)。主成分分析と一致して、サルガト文化個体群は、さらに南方の遊牧民集団では検出されなかった、アジア北東部人祖先系統のさまざまな種類の小さな割合を有しています(図2D)。

 タセモラ・パジリク集団に収まる外れ値1個体を除いて、早期のサルマティア450BCEや後期のサルマティア150BCE、西部のサルマティア・カスピ海草原地帯350BCEといったサルマティア文化と関連する個体群は、広範な地域と期間にまたがっているにも関わらず、遺伝的にひじょうに均質です(図2A・B)。カザフスタン中央部および西部の早期サルマティア文化の7ヶ所の遺跡からの本論文の新たなデータ(サルマティア450BCE)は、この遺伝子プールがすでにサルマティア文化の初期段階にこの地域に広がっていた、と示します。さらに、サルマティア人は、ユーラシア西部人へと動くクラスタの形成により、他の鉄器時代集団とは急激な不連続性を示します。以下、本論文の図2です。
画像


●鉄器時代人口集団の混合モデル化

 qpWaveとqpAdmにより実行された鉄器時代集団の遺伝的祖先系統モデル化では、草原地帯MLBA集団が鉄器時代スキタイ人におけるユーラシア西部祖先系統起源にほぼ適切に近似しているのに対して、ヤムナヤ(Yamnaya)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団のような先行する草原地帯前期青銅器時代(EBA)クラスタは近似していない、と確認されました。ユーラシア東部人の代理として、時空間的近接性に基づき、モンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)の後期青銅器時代(LBA)牧畜民が選ばれました。他のユーラシア東部人の代理は、古代北ユーラシア人(ANE)系統(関連記事)への類似性の欠如もしくは過剰のため、モデルに適合しませんでした。

 しかし、このフブスグルと草原地帯MLBAの2方向混合モデルは、スキタイ人の遺伝子プールの遺伝的構成要素を完全には説明しません。欠けている断片は、コーカサス・イランもしくはトゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)の中部地域に居住していた古代人口集団と関連する起源集団からの、小さな寄与とよく一致します(図3A)。この祖先系統の割合は経時的・地理的に増加します。最北東部のアルディ(Aldy)・ベル(Bel)700BCE集団ではごくわずか、早期のタセモラ650BCEでは6%、パジリク・ベレル50BCEでは12%、サルガト300BCEでは10%、サカ・天山600BCEでは13%、サカ・天山400BCEでは20%で(図3A)、f4統計と一致します。サルマティア人のモデル化にも、イラン人関連祖先系統が15~20%ほど必要となりますが、東部スキタイ人集団よりもフブスグル関連祖先系統がずっと少なく、草原地帯MLBA-関連祖先系統が多くなっています。

 サルマティア人と後の天山サカ人にとって、銅器時代集団やBMACやBMAC後といったトゥーラーンの集団のみが起源集団として一致しますが、イランとコーカサスからの集団は適合しません。本論文では、代表的な代理としてBMACとBMAC後の集団が用いられました(図3A)。タセモラ・ビルリク640BCEやコルガンタス300BCEやパジリク・ベレル50BCEoといった外れ値の余分なユーラシア東部人の流入は、フブスグルのような以前の集団と同じユーラシア東部の代理には由来しません。代わりに、ロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡の前期新石器時代集団(悪魔の門N)に表される、古代アジア北東部人(ANA)系統でのみモデル化できます(図3A)。以下、本論文の図3です。
画像


●カザフ草原における鉄器時代後の遺伝的置換

 紀元後千年紀早期(鮮卑・フン・ベレル300CE)からカラカバ(Karakaba)830CEやカヤリク(Kayalyk)950CEなどの個体群まで、上述の新たなユーラシア東部人の流入の劇化が観察されます。これらの個体群は主要な鉄器時代タセモラ・パジリクのクラスタからANA 集団に向かってPC1軸沿いに散在しています(図2C)。紀元後3世紀のフン人エリート層埋葬と関連する2個体は、一方がカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡で、もう一方がハンガリーのブダペストで発見されていますが(フン人エリート350CE)、この勾配に沿って密集してクラスタ化します(図2C)。

 カザフスタン南部のオトラル(Otyrar)オアシスの古代都市の個体群は、ひじょうに明確な遺伝的特性を示します。コンレイ(Konyr)・トベ(Tobe)300CE と呼ばれる5個体のうち3個体は、類似の年代と地域の康居250CE個体群と近く、サルマティア人とBMAC集団の間に位置します(図2C)。コンレイ・トベ個体群のうちKNT005は主成分分析ではBMACの方へと動いています(図2C)。さらに、KNT005はアジア南部人のY染色体ハプログループ(YHg)L1a2(M357)を有する唯一の個体で、ADMIXTUREではアジア南部人の遺伝的構成要素を示します(図2D)。KNT004はPC1軸ではアジア東部人の方へと動いています。アジア南部人からの流入を10%、ユーラシア東部人からの流入を50%含む混合モデルは、それぞれ適切にKNT005と KNT004を説明します。対照的に、コンレイ・トベ遺跡の200km東方に位置する天山山脈のアライ・ヌラ(Alai Nura)遺跡の個体群(アライ・ヌラ300CE)は依然として、コンレイ・トベ300CE により近い4個体およびタセモラ・パジリク集団により近い4個体とともに、天山サカの鉄器時代勾配に沿って位置しています(図2C)。


●古代の混合の年代

 DATESプログラムでの混合年代測定により、紀元前1500~紀元前1000年頃の主要なスキタイ人遺伝子プールの形成が明らかになります(図3C)。DATESは2方向混合のみをモデル化するよう設計されているので、qpWaveとqpAdmで得られた推定される3方向モデルを説明するため、3対比較が個別に検証されました(草原地帯MLBAとBMACとフブスグル)。DATESは、ユーラシア東西の2組、草原地帯MLBAとフブスグル、BMACとフブスグルについて、指数関数的減衰の適合に成功しましたが、ユーラシア西部同士(草原地帯MLBAとBMAC)では失敗しました。

 各標的について、草原地帯MLBAとフブスグル、およびBMACとフブスグルでは、ほぼ同じ混合年代推定が得られました。本論文の推定年代は、真のシミュレーション3方向混合を反映しているというよりはむしろ、2つのユーラシア西部起源集団からの相対的寄与により重みづけされる、遺伝的に区別できる東部(フブスグル)と西部(草原地帯MLBAとBMAC)の祖先系統間の平均年代をほぼ反映している、と考えられます。BMAC 関連祖先系統が増加するにつれて、天山サカ集団におれる混合年代が新しくなる、とDATES により明らかになったことは注目されます。サカ・天山600BCEからサカ・天山400BCEまで、タセモラ650BCEの年代についてパジリク・ベレル50BCEおよびサルガト300BCEと同様に、とくに後のアライ・ヌラ300CEにおいてはそうです。

 鉄器時代に継続したBMAC関連起源集団からの小規模な遺伝子流動は、BMAC関連祖先系統の割合の増加と、ますます新しくなる混合年代の両方を説明できるかもしれません(図3A)。繰り返しになりますが、推定された年代は、BMAC関連起源集団との鉄器時代の混合と、草原地帯MLBAとの後期青銅器時代の混合の平均を反映しているので、それらの推定年代は鉄器時代の遺伝子流動の実際の年代よりも古い期間に動いている可能性があります。

 qpAdmの結果を確認して、タセモラ・ビルリク640BCEとコルガンタス300BCEの混合個体群(混合東部鉄器時代)は、ひじょうに最近の混合年代を示します(図3C)。鮮卑・フン・ベレル300CEとフンエリート層350CEとカラカバ830CEといった後の集団はさらに、混合の最近の年代というこの傾向を確証し、この新たなユーラシア東部流入は鉄器時代に始まった可能性が高く、少なくとも紀元後千年紀の最初の数世紀の間継続した、と明らかになります。


●現代カザフ人

 現代カザフ人で行なわれた主成分分析とADMIXTUREとCHROMOPAINTER/fineSTRUCTUREの詳細な規模のハプロタイプに基づく分析は、地理的位置もしくはジュズの所属に関わらず、カザフ人の間での緊密なクラスタ化と検出可能な下位構造の欠如を明らかにします(図2)。ほぼ地理的起源を反映するジュズの所属に従ってカザフ人個体群を分類し、独立した複製としての経路にしたがってGlobetrotter分析を実行して、カザフ人の遺伝子プールに寄与しているさまざまな祖先系統の起源集団が識別され、混合事象の年代が測定されました。Globetrotter分析は、3集団が同じ起源構成要素と混合年代を有し、さまざまなユーラシア西部・南部・東部の祖先系統の複雑な混合の結果である、と確認しました。Globetrotterにより特定された混合年代は、現代カザフ人の遺伝子プール形成の狭く最近の時間範囲(紀元後1341~1544年頃)を浮き彫りにします。


●考察

 アジア中央部の古代人100個体以上の本論文の分析は、カザフ草原の鉄器時代遊牧民人口集団が広範な混合を通じて形成され、草原地帯の先行するMLBA人口集団と近隣地域人口集団との間の複雑な相互作用から生じた、と示します(図2A、図3 A・C、図4A)。本論文の知見は、スキタイ文化の起源について新たな光を当てました。本論文は、スキタイ文化のポントス・カスピ海草原起源を裏づけず、じっさい、同説は最近の歴史学と考古学ではひじょうに疑問視されています。カザフ草原起源説は、代わりに本論文の結果とよりよく一致しますが、人口集団拡散の単一起源と、文化伝播のみの複数起源という、二つの極端な仮説の一方を裏づけるというよりもむしろ、少なくとも2つの独立した起源と、人口集団拡散および混合の証拠が明らかになりました。とくに東部集団は、シンタシュタ(Sintashta)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化など、さまざまな文化と関連しているかもしれない先行する在来の草原地帯MLBA起源集団と、近隣のモンゴル北部地域に後期青銅器時代にはすでに存在していた、特定のユーラシア東部起源集団との間の混合の結果として形成された遺伝子プールの子孫であることと一致します(関連記事)。

 カザフスタン中央部と北部の前期鉄器時代タセモラ文化集団の遺伝的構造は、ほぼこれら2祖先系統で構成されていますが、そのモデル化にはイラン人関連起源集団からの遺伝子流動もわずかに必要です(図3 A、図4A)。トゥーラーンの全体的なBMAC関連人口集団は、本論文のモデルに最適であるものの、コーカサス北部青銅器時代集団のようなさらに西方のイラン人関連起源集団では適合しない、と明らかになりました。これらの結果は、南方文化と北方草原地帯の人々との間の文化的接続という、歴史学と考古学の仮説を確証します。このBMACからの流入は、後の紀元前4世紀~紀元後1世紀となる、ベレルに位置する北東部のパジリク文化遺跡のスキタイ人集団で継続し、南東部に位置する天山山脈のサカ文化個体群で次第に増加し、不均一に分布します(図2B・D、図3 A・C、図4B)。

 以前に報告されたトゥワ地域のアルズハン2(Arzhan 2)遺跡のアルディ・ベル文化の2個体は、主要な東部スキタイ人遺伝的クラスタ内に収まり、最初のスキタイ埋葬が見つかる同じ遺跡にも存在した、と確認されます。モンゴルにおける鉄器時代移行からの最近の知見と組み合わせると(関連記事)、これらのデータは、全東部スキタイ人を形成した主要な遺伝的下位構造のアルタイ地域起源を示しているようです(図4B)。ウラル地域南部の西部サルマティア人も、東部スキタイ人と同じ3祖先的起源集団間の混合の結果として形成されました(図3 A)。それにも関わらず、ユーラシア東部人祖先系統はサルマティア人ではわずかしか存在しません(図3 A)。さらに、サルマティア人と東部集団との間の、その早期の混合(図3 C)と混合勾配の欠如(図2A・B・D)からは、サルマティア人が、東部スキタイ人に寄与した遺伝子プールと比較して、関連しているものの異なる後期青銅器時代遺伝子プールに由来し、おそらくは後期青銅器時代混合勾配に沿って異なる位置にある、と示唆されます。

 既知で最初のサルマティア人遺跡の場所を考えると、この遺伝子プールは後期青銅器時代ウラル地域南部に起源がある、と仮定されます(図4B)。コーカサスとヨーロッパ東部の、後の年代で西端となるスキタイ文化からのより多くのデータが、本論文で分析されたカザフ草原のより早期のスキタイ人との遺伝的類似性の、さらなる理解を提供するでしょう。さらに、本論文の結果から、北部の定住性サルガト関連文化個体群は、スキタイ人、とくに東部遊牧民集団と密接な遺伝的近似性を示す、と明らかになります(図2B)。サルガト文化個体群は、究極的にはシベリア北部系統と関連する、スキタイ人には見られない追加の遺伝的類似性を示します(図2D、図3 A)。これは、サルガト文化集団が、侵入してくるスキタイ人集団と、標本抽出されていない在来人口集団、もしくは恐らくこの余分なシベリア人祖先系統を有する近隣人口集団との間の混合の結果として形成された、との歴史的仮説と一致します。

 紀元前千年紀後半から、興味深いことに、カザフスタン中央部のタセモラ文化を置換したコルガンタス文化の出現と関連する多くの外れ値で、大きな遺伝的変化が検出されます。とくに、後期青銅器時代の変化に寄与した起源集団とは異なる、ユーラシア東部起源集団からの流入が観察されます(図3 A、図4C)。紀元前千年紀の変わり目に、この混合された遺伝的特性は、鮮卑・フン文化および後の中世個体群と関連する北東部個体群間で広がるようになりました(図2C・D、図3 B、図4C)。それらの個体群で得られたひじょうに変動的な混合割合と年代から、これが紀元後千年紀(少なくとも紀元後1世紀~紀元後5世紀)を特徴づける継続的な過程だった、と示唆されます(図3 C)。紀元後千年紀の追加の遺伝的データが、この不均質性の性質と程度のより包括的な理解を可能とするでしょう。

 代わりに、カザフスタン南部地域では、オトラル・オアシスの古代都市に位置するコンレイ・トベ遺跡の個体群が、イラン人関連遺伝的祖先系統の増加によりほぼ特徴づけられる、異なる遺伝的置換を示し、ペルシア帝国の影響を反映している可能性が最も高そうです(図4C)。ユーラシア東部人との高い混合もしくはアジア南部からの遺伝子流動を有する外れ値個体群からは、この時点でオトラル・オアシスの古代都市人口集団は不均質だった、と示唆されます(図2C)。この時期に、オトラルは康居王国の中心で、シルクロードの交差点でした。天山山脈の近隣地域では、アライ・ヌラの紀元後3世紀の遺跡の個体群で、ずっと早い鉄器時代天山サカ個体群に典型的な遺伝的特性がまだ見られます(図3 B)。

 カザフスタンの鉄器時代と鮮卑・フンと中世で観察される不均質性と地理的構造化は、現代カザフ人で観察される遺伝的均質性とはひじょうに対照的です。詳細なハプロタイプに基づく分析はこの均質性を確認し、以前の知見(関連記事)と一致して、カザフ人の遺伝子プールはユーラシア東西のさまざまな起源集団の混合である、と示します。古代人口集団に関する本論文の結果から、これがひじょうに複雑な人口史の結果で、経時的に混合するユーラシア東西の祖先系統の複数の層を伴う、と明らかになりました。

 現代カザフ人で得られた混合年代は、カザフ・ハン国が設立された期間(紀元後15世紀)と重なります。さらに、現代カザフ人の遺伝子プールは、鉄器時代後の北部の鮮卑・フンおよび南部の康居と関連する遺伝子プールの混合として、完全にはモデル化できません。これらの知見から、紀元後二千年紀に起きた可能性が高い最近の事象は、厳密な族外婚を有するカザフ・ハン国の設立の結果として、最終的にカザフ人の遺伝子プールの均質化につながった、この地域のより多くの人口統計学的交代と関連していた、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
画像


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示したことからも、たいへん意義深いと思います。本論文は改めて、ユーラシア草原地帯の人口集団が大規模な移動と複雑な混合により形成されてきたことを示しました。人口集団の遺伝的構造が、均質から不均質へ、また均質へと変わっていく様相は、動的なユーラシア草原地帯の歴史を反映しているのでしょう。これは、ユーラシア草原地帯で巨大勢力が急速に勃興し、また急速に崩壊することとも関連しているのかもしれません。今後、歴史学でも古代DNA研究の成果が採用されていくのではないか、と予想されます。

 私が日本人の一人として注目したのは、コンレイ・トベ300CEの個体KNT004(紀元後236~331年頃)が、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、YHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHV18と分類されていることです。YHg-D1a2a2aは「縄文人」で確認されており、一般的には「縄文系」と考えられているでしょうが、それが現在のカザフスタン南端の紀元後3世紀の個体で見られる理由については、私の知見ではよく分かりません。一般的に、片親性遺伝標識、とくにY染色体は現在の分布から過去を推測するのに慎重であるべきで、研究の進展により、YHg-D1a2a2aの分布についてより詳細に明らかになるでしょうから、それまでは判断を保留しておくのが妥当でしょうか。KNT004は、ADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の個体群(関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、それとも関連している可能性が考えられます。


参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414

過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類の移住

 過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類(Homo sapiens)の移住に関する研究(Larena et al., 2021)が公表されました。フィリピンは、アジア太平洋地域の過去の人類の移住の交差点となるアジア南東部島嶼部(ISEA)に位置する、7641の島々から構成される群島です。最終氷期末(11700年前頃)までに、フィリピン諸島は一つの巨大な陸塊としてほぼつながっており、ミンドロ海峡とシブツ海峡によりスンダランドと隔てられていました。少なくとも67000年前頃以降、フィリピンには人類が居住してきました(関連記事)。ネグリートと自己認識している民族集団の祖先が、最初の現生人類の居住と広くみなされていますが、その古代型ホモ属(絶滅ホモ属)や他の早期アジア集団やその後の植民との正確な関係は充分に調査されておらず、議論の余地があります。

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)および/もしくは常染色体データを用いての以前の調査は、ISEAへのさまざまな移住事象の可能性を解決しようとしましたが(関連記事1および関連記事2)、明確な合意には至っていません。分析の欠如は、フィリピンの多様な民族集団の不充分な把握と、用いられたゲノムデータの限定的な密度に起因するかもしれません。これらの問題に対処するため、これまでで最も包括的なフィリピンの人口集団ゲノムデータセットが収集され、分析されました。その内訳は、全地理的範囲の115の異なる文化的共同体からの1028個体で、250万ヶ所の一塩基多型が遺伝子型決定されました。また、早期完新世におけるアジア東部本土からの移住史をよりよく理解するため、台湾海峡に位置する福建省の亮島(Liangdao)の古代人2個体(それぞれ、較正放射性炭素年代で8320~8060年前頃と7590~7510年前頃)からのゲノムデータが生成されました(図1A)。

 本論文の分析から、フィリピンでは少なくとも5回の大きな現生人類の移住があった、と示唆されます。それは、フィリピン内で在来の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)とそれぞれ独立して混合した、基底部オーストラレシア集団の南北のネグリート分枝集団と、パプア人関連集団、基底部アジア東部人の分枝であるマノボ人(Manobo)とサマ人(Sama)とコルディリェラ人(Cordilleran)です。基底部アジア東部人の最小限の混合分枝のままであるコルディリェラ人は、農耕移行の確立年代に先行してフィリピンに到来し、全オーストロネシア語族(AN)話者人口集団で広がっている遺伝的祖先系統をアジア東部人とともに持ち込んだ可能性が高そうです。この複雑な人口統計学的歴史は、アジア太平洋地域の人口集団の遺伝的構成に大きく影響を与えた、出入口としてのフィリピンの重要性強調します。


●フィリピン現代人の複数の祖先

 主成分分析による調査は、フィリピンの民族集団が世界規模の比較でアジア太平洋地域人口集団とともにクラスタ化する、と示します(図1B)。ネグリートがパプア人と非ネグリートとの間で一直線に並ぶ独特の勾配を形成するのに対して、コルディリェラ人は興味深いことに、PC1軸でアジア東部人クラスタを定義する端に位置し、アメリカ大陸先住民集団およびオセアニア集団よりもさらに極端です(図1B)。ネグリートと非ネグリートとの間には明確な二分があり、コルディリェラ人に最もよく表される基底部アジア東部人祖先系統と、ネグリートおよびオーストラロパプア人により表される祖先系統との間の深い分岐が示唆されます(図1B)。アジア太平洋地域人口集団の詳細な分析を見ると、非ネグリートは、コルディリェラ人、もしくはティン人(Htin)およびムラブリ人(Mlabri)かマレーの非ネグリートのような、アジア南東部本土(MSEA)民族集団のどちらかに属する集団に明確に分かれます。

 さらなる分析により、後述のようにフィリピンのネグリート集団間の明確な遺伝的構造と、非ネグリート集団間の階層構造とが明らかになり、それはコルディリェラ人やマンギャン人(Mangyan)やマノボ人(Manobo)やサマ・ディラウト人(Sama Dilaut)集団により例証されます(図1C)。これらの観察結果は、推定された祖先系統構成要素と一致します。簡潔に言うと、階層構造はオーストラロパプア人関連のネグリート対非ネグリートの間の二分で始まり、コルディリェラ人対MSEAに属する人口集団への非ネグリートのクラスタ化と、アイタ人(Ayta)やアイタ人(Agta)集団へのネグリートの階層構造、およびコルディリェラ人やマンギャン人やマノボ人やサマ人関連人口集団への非ネグリートの階層構造が続きます。以下、本論文の図1です。
画像


●フィリピンのネグリートは深い分岐を示します

 地理的障壁と人口集団間の孤立の長い歴史の可能性を考えると、ネグリート集団間ではある程度の分化が予測されます。たとえば、ネグリート集団に限定された主成分分析は、ルソン島中央部ネグリート集団と南部ネグリート集団との間の勾配(PC1軸)、PC2軸沿いのフィリピン北部におけるネグリートの東西のクラスタ化を明らかにします。さらにフィリピン北部ネグリートは深い人口集団構造を示し、3クラスタに分かれます。それは、全アイタ人(Agta)となるルソン島中央部ネグリート、ビコル(Bicol)地域およびケソン(Quezon)州のアイタ人(Agta)集団となるルソン島南東部ネグリート、カガヤン(Cagayan)地域のアイタ人(Agta)とアッタ人(Atta)とアルタ人(Arta)のネグリートとなるルソン島北東部ネグリートです。

 フィリピン北部のネグリートは、オーストラリア先住民およびパプア人の両方にとって外群です(図2A)。合着(合祖)に基づく分岐時間推定手法を用いて人口集団分岐モデルを仮定すると、フィリピン北部のネグリートの祖先は46000年前頃(95%信頼区間で46800~45500年前)に共通の祖先的オーストラレシア人口集団(基底部スンダ)と分岐した、と推定されます。この分岐はスンダランドの古い大陸の陸塊で起きた可能性があり、オーストラリア先住民とパプア人の25000年前頃(95%信頼区間で26700~24700年前)の分岐に先行し、おそらくはフィリピン北部の現在のネグリートにつながる、ルソン島への移住の結果としてでした。

 北部とは対照的に、オーストラロパプア人的な遺伝的兆候は、他のネグリート集団においてよりも、ママヌワ人(Mamanwa)のような南部ネグリートにおいて明らかに高くなっています(図2A)。ママヌワ人ネグリートも、パプア人およびオーストラリア先住民にとって外群として現れ、祖先的ママヌワ人は、37000年前頃(95%信頼区間で36200~38700年前)に分岐した基底部オセアニア人の派生集団で、オーストラリア先住民とパプア人の分岐前に恐らくはスールー諸島経由でミンダナオ島に拡散した、と示唆されます。しかし、南部ネグリートが北部ネグリートとクレード(単系統群)を形成する、という代替的なモデルは却下されません。これを考えると、共通祖先的ネグリート人口集団が、パラワン島もしくはスールー諸島経由で単一の地域からのみフィリピンに拡散し、続いてフィリピン内で分岐して、南北のネグリートに分岐した、という想定を排除できません。

 南北両方のネグリートはその後、コルディリェラ人関連人口集団と混合し、興味深いことに、南部ネグリートはオーストラリア先住民とパプア人の分岐後にパプア人関連人口集団から追加の遺伝子流動を受けました。この以前には評価されていなかったパプア人関連祖先系統の北西部の遺伝子流動は、インドネシア東部や、サンギル人(Sangil)とブラーン人(Blaan)のようなフィリピン南東部の民族集団で最大の影響を有します。


●マノボ人とサマ人の祖先のフィリピンへの早期拡散

 フィリピン南部の民族集団は、非オーストラロパプア人関連で、一般的にフィリピン北部の非ネグリート集団では欠けている、遍在する祖先系統を示します。これまで「マノボ人祖先系統」と呼ばれていたこの独特遺伝的痕跡は、ミンダナオ島の内陸部マノボ人集団で最も高くなっています。コルディリェラ人および南部ネグリート祖先系統を隠し、マノボ人祖先系統のみを保持すると、ミンダナオ島の他の民族集団間でマノボ人構成要素がより明らかになりました。マノボ人祖先系統に加えて、他の異なる祖先系統がフィリピン南西部で識別されました。この遺伝的兆候は、スールー諸島のサマ人海洋民で最も高く、「サマ人祖先系統」と呼ばれます。全ての他の祖先系統を隠し、サマ人祖先系統のみを保持すると、サマ人構成要素は、サンボアンガ半島(Zamboanga Peninsula)、パラワン島、バシラン島、スールー諸島、タウイタウイ島の民族集団間、さらにはサマ人としての自己認識がないか、サマ人関連言語を話さない人口集団間でさえ、より明確になります。

 高いサマ人祖先系統を有する民族集団は、最小限の混合マノボ人集団であるマノボ・アタ人(Manobo Ata)と比較して、ムラブリ人やティン人のようなアジア南東部本土(MSEA)のオーストロアジア語族話者民族集団と顕著に高い遺伝的類似性を示します。このティン・ムラブリ関連遺伝的兆候は、サマ・ディラウト人や内陸部サマ人集団だけではなく、フィリピン南西部のパラワン島およびサンボアンガ半島民族集団でも見られます。これらの知見は、ティン・ムラブリ関連遺伝的兆候がインドネシア西部の民族集団間で検出される、という以前の観察と一致します(関連記事)。本論文の分析では、この遺伝的兆候もインドネシア西部を越えてフィリピン南西部に広がっている、と明らかになります。

 マノボ人とサマ人の両遺伝的祖先系統は、台湾先住民とコルディリェラ人との間の推定される分岐よりも早く、共通アジア東部祖先的遺伝子プールから15000年前頃(95%信頼区間で15400~14800年前)に分岐しました(図2B)。驚くべきことに、マノボ人とサマ人の祖先系統は両方、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)やコルディリェラ人からの漢人や傣人(Dai)やキン人(ベトナム人)の分岐前に、共通アジア東部人から分岐しました(図2B)。したがって、本論文の知見からは、祖先的マノボ人およびサマ人は、他のティン人およびムラブリ人関連民族集団とともに、漢人や傣人や日本人やキン人やアミ人やタイヤル人の拡大前に、基底部アジア東部人から15000年前頃に分岐した分枝を形成します(図2B)。

 サマ人はマノボ・アタ人と比較してティン人とクレードを形成します。サマ人とティン人およびムラブリ人集団の共通祖先は、祖先的マノボ人と12000年前頃(95%信頼区間で12600~11400年前)に分岐した、と推定されます。ティン人およびムラブリ人関連遺伝的兆候の現在の地理的分布を考えると、その祖先はコルディリェラ人関連人口集団の拡大前に、スンダランドを経由してインドネシア西部とフィリピン南西部に拡大した可能性が高そうです(関連記事)。興味深いことに、15000年前頃および12000年前頃という上述の推定は、最終氷期末におけるスンダランドの復元から推測される、アジア南東部島嶼部(ISEA)における主要な地質学的変化と一致します。したがって、ISEAにおける気候要因の変化は、人口集団の氷期後の移動と孤立を促進し、ISEAにおける民族集団の分化につながったかもしれません。以下、本論文の図2です。
画像


●アジア東部人集団としてのコルディリェラ人

 コルディリェラ人民族集団は、ルソン島北部から中央部のコルディリェラ山脈を越えて、フィリピンで唯一の海に接していない地域に居住しています。歴史的に、コルディリェラ人はスペイン人による直接的な植民地化とキリスト教化に抵抗したと知られており、したがって、その独特の文化的慣習の多くを保持できました。この地理的および文化的孤立は、この地域の高い言語的多様性と、一部の集団により示される遺伝的混合の低水準に役割を果たしたかもしれません。以前に報告されたカンカナイ人(Kankanaey)と(関連記事)、それに続く混合およひf3・f4統計分析の組み合わせに加えて、ボントック人(Bontoc)とバランガオ人(Balangao)とトゥワリ人(Tuwali)とアヤンガン人(Ayangan)とカランガイ人(Kalanguya)とイバロイ人(Ibaloi)が、基底部アジア東部人祖先系統を有する最小の混合人口集団として明らかになりました。

 本論文の全混合分析で観察されたコルディリェラ人の間の均質な祖先系統は、強い遺伝的浮動の存在により説明できます。しかし、ホモ接合性連続の数と領域の長さに基づく以前の分析および本論文の調査は、コルディリェラ人の間での最近のボトルネック(瓶首効果)もしくは広範な近親交配を裏づけません。さらに、f3混合とf4統計を用いての検証は、中央部コルディリェラ人が、ネグリートからの遺伝子流動を受けなかったフィリピン内で唯一の民族集団であり続けた、という直接的証拠を提供します。コルディリェラ地域の周辺での一連の移住および植民地期と、ルソン島のネグリートおよび非ネグリート集団との交易および歴史的相互作用の報告された記録を考えると、これは予想外です。アジア太平洋地域の他の全民族集団は、アンダマン諸島人かパプア人かネグリートかティン人およびムラブリ人か、アジア東部北方人と関連する遺伝的祖先系統と混合しています。したがって、地域集団間の標本規模の違いを制御した後でさえ、コルディリェラ人集団は一貫して世界規模の主成分分析ではPC1軸を一貫して定義し、アフリカのコイサン民族集団とは対極に位置する、と明らかになりました(図1B)。

 台湾のアミ人もしくはタイヤル人ではなくコルディリェラ人は、オーストロネシア語族話者人口集団拡大についての最小限の混合された遺伝的兆候の、最良の現代の代理として機能します。アミ人とタイヤル人は両方、ティン人・ムラブリ人関連(もしくはオーストロアジア語族関連)およびアジア東部北方関連と類似した遺伝的構成要素との混合を示します。さらに、全てのフィリピンの民族集団は、アミ人もしくはタイヤル人とよりも、コルディリェラ人とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有します。さらにコルディリェラ人は、アミ人とタイヤル人を除いて、マレーシア人やインドネシア人やオセアニア人と、さらにはマレー半島とオセアニアのラピタ(Lapita)文化の古代個体群の間でさえ、最も多くのアレルを共有します(関連記事)。


●アジア本土からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移住

 台湾海峡の馬祖(Matsu)島(馬祖列島)は行政区分では中華人民共和国でも中華民国(台湾)でも福建省に属し、現在は台湾が実効支配しています。馬祖島の亮島(Liangdao)で発見された2個体は、現代人ではコルディリェラ人やアミ人やタイヤル人、古代人ではフィリピン北部やマレーシアや台湾やラピタ文化の個体群と最高水準の遺伝的浮動を共有します。中国本土に近い亮島の位置(中国本土からは26km、台湾からは167km)を考えると、8000~7000年前頃の個体である亮島2は、アジア本土への「コルディリェラ人」祖先系統の最古のつながりを表します。

 予測されるように、亮島の2個体(亮島1および亮島2)は、基底部スンダ祖先系統との混合を示しません。亮島1および亮島2は両方、アジア東部北方集団との共有された祖先系統・混合明確な証拠を示し、それはアジア東部本土と台湾の現代および古代の人口集団・個体群と類似しています。これは、アジア東部の古代の個体群の最近の分析と一致します。それによると、さまざまな時点で人口集団間の遺伝子流動が明らかになり、アジア東部北方人と亮島の2個体を含むアジア東部南方人との間である程度の遺伝的類似性が示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 しかし、現代コルディリェラ人はこのアジア東部北方祖先系統構成要素を示さないので、コルディリェラ人関連集団とアジア東部本土および台湾の民族集団との間の分岐の下限(8000年前頃)を提供します。この知見は、フィリピン北部における4000~3000年前頃の新石器時代遺物の最初の考古学的証拠と合わせて、最初のコルディリェラ人はこの時点でのアジア東部沿岸部の他集団と同様に、定住農耕民ではなく複雑な狩猟採集民だった、と示唆されます。アジア東部北方祖先系統は後に到来したに違いなく、中国沿岸部と台湾地域に起源があり、パタン諸島およびルソン島沿岸地域へ拡散しました。アジア東部北方祖先系統の存在がじっさいに農耕拡大の遺伝的兆候ならば、コルディリェラ人におけるその一般的な欠如から、これらの集団間での新石器時代への移行は、人口拡散ではなく文化的拡散の結果だった、と示唆されます。


●完新世の移住と言語および新石器時代文化

 フィリピンへの完新世の移住については、2つの対照的なモデルが提示されてきました。一方は出台湾仮説で、オーストロネシア語族と赤色スリップ土器と穀物農耕をもたらした、台湾から海洋航海民による新石器時代要素一式の北方から南方への一方向の拡大を支持します。もう一方は出スンダランド仮説で、海洋交易ネットワークと、以前に居住可能だった土地の気候変化による浸水に続いてのスンダランドからの人口集団拡大により先行する、早期完新世以来のフィリピンへの人口集団の複雑な南北の移動を想定します。

 本論文の分析では、ネグリートやマノボ人やサマ人的集団の北方への移住後、中国南部・台湾地域からフィリピンへのコルディリェラ人関連祖先系統の遺伝子流動が、1万年前頃以後に複数の波で起きたかもしれない、と示唆されます。これは、アミ人と、コルディリェラ人とフィリピン中央部・北部のさまざまな集団との間の分岐よりも早い中央部コルディリェラ人との間の、推定される(遺伝的)分岐を説明できるかもしれません。さらに、ルソン島からミンダナオ島へのコルディリェラ人関連祖先系統の単純で段階的な一方向の移動で予想される、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の年代の南北の勾配は観察されません。それどころか、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の最古の年代は、フィリピン諸島全域に散らばっており、推定される中国南部・台湾の起源地域からフィリピンへの人口集団の複雑で不均一な移動を示唆します。

 多様な遺伝的祖先系統からの移住にも関わらず、フィリピンの全民族集団が、オーストロアジア語族のマレー・ポリネシア分枝内に収まる言語を話す、という事実の観点では、フィリピンの言語的景観は著しく多様性が低くなっています。言語と遺伝子の不一致のあり得る一つの説明は、フィリピン諸島内外で広範な言語置換を促進した、移住してきたオーストロネシア語族話者人口集団の支配的影響です。一部の単語が元の非オーストロネシア語族言語に保持されてきた可能性があるので、完全に言語置換は起きなかったかもしれません。たとえば、一部のネグリート集団は、あらゆる他のオーストロネシア語族言語では完全に説明されていない、特定の語彙要素を含む言語を話します。同様に、ボルネオ島の陸ダヤク人(Land Dayak)のオーストロネシア語族話者は、その言語に保持されたオーストロアジア語族の語彙項目の証拠をいくつか有しています。

 一連のさまざまな遺伝的および考古学的証拠から、農耕はフィリピンにおけるコルディリェラ人関連人口集団の最初の到来と関連していなかった、と示唆されます。コルディリェラ人には欠如しており、8000年前頃となる亮島の2個体には存在するアジア東部北方祖先系統構成要素に加えて、コルディリェラ人とアミ人・タイヤル人との間の8400年前頃(95%信頼区間で8800~8000年前)の分岐は、台湾およびフィリピンへの農耕の到来に先行します。公開されている利用可能なゲノム配列データを用いて2・2外群(TTo)手法を適用すると、その分岐年代は17000年前頃(95%信頼区間で25000~9500年前)とさらに古くなります。

 さらに、考古学的証拠では、7000~5000年前頃の中国南部沿岸部とベトナム北部の共同体は漁撈民・狩猟採集民であり農耕民ではなく、水田稲作は中国南部とISEAで3000~2000年前頃にやっと確立した、と示唆されます(31)。これは、ジャポニカ米(Oryza japonica)の最近の包括的な系統発生分析と一致します。コメがISEAにもたらされたのは2500年前頃後で、フィリピンの稲作はもっと最近始まった可能性が高い、と示唆されます(32)。さらに、ISEAにおける稲作の研究では、台湾からのフィリピンとインドネシアのイネ品種の起源への裏づけも、コメの台湾からのおもな拡散への強い裏づけも提供されません。

 したがって、コルディリェラ人関連集団の移住の推進力は、農耕ではなく、気候変化による台湾と中国南部との間の古代の陸塊の地質学的変化により触媒されたかもしれません。その地質学的変化は、12000~7000年前頃の沿岸部平野の漸進的な浸水をもたらしました。これは、コルディリェラ人の有効人口規模における推定される減少の時期の頃であり、コルディリェラ人関連人口集団とアミ人・タイヤル人との間の分岐年代と一致します。したがって、以前に議論された一連の証拠を伴う本論文の知見は、フィリピンとISEAの先史時代の文脈における農耕と言語と人々の拡散の一元的モデルを支持しません。


●一部のフィリピンの民族集団への最近のアジア南部人およびスペイン人との混合の証拠

 2000年前頃から植民地期以前まで、ISEAの文化的共同体は地域全体のインド洋交易ネットワークに積極的に参加しました。この長距離の大洋横断交換経路に沿って、2つの連続したヒンドゥー教と仏教の王国であるシュリーヴィジャヤとマジャパヒトがあり、MSEA沿岸部やインドネシア西部やマレーシアやフィリピンのスールー諸島までの広範な地域を支配しました。この大規模な多国間交易の人口統計学的影響は、低地マレー人やインドネシアの一部民族集団において現在明らかで、アジア南部人の遺伝的兆候の検出により示されます。ジャワ島やバリ島やスマトラ島のインドネシア人に加えて、航海民のサマ人関連人口集団であるコタバル・バジョ(Kotabaru Bajo)やデラワン・バジョ(Derawan Bajo)も、アジア南部人祖先系統の検出可能な水準を示します。したがって、予想外ではありませんが、これらの知見から、スールー諸島の海洋民であるサマ・ディラウト人や、サンボアンガ半島のサマ沿岸部住民は、アジア南部人からの遺伝子流動の証拠を示します。

 フィリピンは1565~1898年の333年間、スペインの植民地でした。しかし、ビコラノス人(Bicolanos)や、スペイン語系クレオール話者のチャバカノ人(Chavacanos )といった、一部の都市化された低地住民でのみ、ヨーロッパ人との混合の有意な人口集団水準の兆候が観察されます。ボリナオ人(Bolinao)やセブアノ人(Cebuano)やイバロイ人やイロカノ人(Ilocano)やイヴァタン人(Ivatan)やパンパンガ人(Kapampangan)やパンガシナン人(Pangasinan)やヨガド人(Yogad)の集団の一部の個体も、ヨーロッパ人との混合の低水準を示しました。この混合は450~100年前頃に起きたと推定されており、スペイン植民地期に相当します。他のいくつかのスペイン植民地とは対照的に、フィリピンの人口統計は、ヨーロッパ人との混合による影響を大きくは受けていないようです。


●まとめ

 本論文で説明されたフィリピンの微妙な人口史は、出台湾もしくは出スンダランド仮説のどちらかの基礎的モデルとのみ一致しているわけではありません。まとめると、フィリピンは過去5万年に少なくとも5回の古代の現生人類の移住の大きな波があった、と示されます(図3A~D)。最初の2回は46000年前頃以後の旧石器時代狩猟採集民集団の拡散に特徴づけられ、現代人の基底部オーストラレシア分枝と遺伝的に関連しています。これらのうち、より早期のネグリート集団は、おそらくパラワン島およびミンドロ島を経由してフィリピン北部に拡散してきて、続いてママヌワ人に代表される基底部オセアニア人分枝(図2Aおよび図3A)が、スールー諸島経由でフィリピン南部へと拡散しました。

 さらに、デニソワ人もしくは他の関連する絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は、ネグリートの拡散時にすでにフィリピンに存在しており、独立した局所的な古代型ホモ属との混合が生じました(関連記事1および関連記事2)。さらに、ネグリート民族集団間のデニソワ人祖先系統の検出可能な水準を考え得ると、この絶滅ホモ属からの遺伝子移入兆候は現在まで明らかです。さらに、狩猟採集慣行を伴う元々の狩猟採集民の遺伝的祖先系統が、その後の移住により置換および/もしくは希釈されたにヨーロッパの人口史とは対照的に、フィリピンにおけるネグリートの祖先系統は現在まで依然として大量に存在します。これは、現在までの一部集団で観察されるように、生計の狩猟採集民様式の実践が伴います。

 ネグリートに続くのは、15000年前頃以後のフィリピンへの「マノボ人」的および祖先的「サマ人」的な遺伝子流動で、それは最終氷期末のISEAにおける大きな地質学的変化の頃に、南方経路で起きた可能性が高そうです。その後もしくは同時に、パプア人関連人口集団の西方への拡大があり、フィリピン南東部の民族集団に遺伝的影響を残しました。最後に、アジア南部人からサマ人民族集団への遺伝子流動のわずかな影響と、一部の都市化された低地住民とヨーロッパ人との最近の混合に先行する、最も新しい大きな移住事象は、早ければ10000~8000年前頃となる、中国南部と台湾からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移動でした(図2Bおよび図3D)。この拡大は複数の波で起きた可能性が高く、古代の航海民集団は、フィリピン内外の現代の人口集団に広がっている言語優位の持続的遺産をもたらしました。以下、本論文の図3です。
画像

 現在確認されている、水田稲作の到来および拡大の年代と、中国南部・台湾からフィリピンへの人々の人口統計学的移動の年代との間の関連についての遺伝的証拠は見つかりません。全員が一部のアジア東部北方祖先系統を示す、亮島2および他の台湾とアジア東部南方の古代人個体群の遺伝的構成を考えると、最も簡潔な説明は、コルディリェラ人はアジア東部北方人集団からの遺伝子流動の前にフィリピンに拡散してきた、というものです。この観察から、フィリピンにおけるコルディリェラ人の到来年代の境界は遅くとも8000~7000年前頃と推測され、フィリピンの早期コルディリェラ人は遊動的な狩猟採集民だった、と示唆されます。フィリピンの集団間の複雑な混合から分かるように、他の全てのコルディリェラ人的集団は最終的に、さまざまな時点で在来人口集団と混合しました。したがって、コルディリェラ人は人口史において独特の位置を占めており、基底部アジア東部人の最小限の混合された子孫として明らかにされます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、フィリピンへの現生人類の拡散が、台湾もしくはスンダランドのどちらかのみに由来するのではなく、複雑な複数回の移動の結果だった可能性が高いことを示しました。また、農耕の拡大と人類集団との拡大が一致しない場合もあることも示されました。本論文は、アジア南東部に留まらず、アジア東部やオセアニアの現生人類集団の進化史を考察するうえでも重要な知見を提示した、と言えるでしょう。なお、恐らくは執筆に間に合わなかったため本論文では取り上げられていない最近の研究としては、2200年前頃のグアム島集団がフィリピンから到来した可能性を指摘した研究(関連記事)と、ISEA現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響を検証し、ホモ・エレクトス(Homo erectus)のような「超古代型人類」と現生人類との交雑はなかっただろう、と推測した研究(関連記事)があります。最近のアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(関連記事)を踏まえると、コルディリェラ人関連祖先集団は遺伝的には、基本的に内陸部南方祖先系統で構成されていた、と言えるでしょう。今後のユーラシア東部における古代DNA研究により、内陸部祖先系統内の南北の混合がいつどのように進んでいったのか、明らかにされていくと期待されます。


参考文献:
Larena M. et al.(2021): Multiple migrations to the Philippines during the last 50,000 years. PNAS, 118, 13, e2026132118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026132118

大河ドラマ『青天を衝け』第7回「青天の栄一」

 今回、徳川家康の解説では江戸時代の漢詩の重要性が指摘され、近代以降の日本社会、とくに第二次世界大戦後には、日本史における漢詩の重要性はあまり意識されていないように思うので、よかったと思います。主人公の渋沢栄一を中心とする農村部の話は、千代をめぐる栄一と喜作の三角関係が描かれました。大河ドラマ愛好者にはこうした話を嫌がる人が多いかもしれませんが、千代は主人公の妻ですし、さほど長くはなかったものの、3人の心理が割と丁寧に描かれていたので、悪くはなかった、というかなかなかよかったのではないか、と思います。また、江戸に出た尾高長七郎が尊王攘夷の動向に突き動かされていくところも、なかなか丁寧な描写になっていて、よいと思います。

 徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話では、阿部正弘が没し、井伊直弼と将軍の徳川家定が接近し、いよいよ幕末の政治的激動が始まったことを予感させます。井伊直弼はすでに登場していましたが、これまではほとんど目立たず、モブキャラのようでしたが、今回終盤でやっと目立った感があります。本作では慶喜が重要人物として描かれていますが、幕末政治史の重要人物である父の斉昭だけではなく、母と妻も短い描写ながらキャラが立っています。栄一は幕末の最終段階で海外に行くため、国内の政治情勢は慶喜を中心に描かれ、慶喜の周囲の人物も重要になってきそうですから、今からしっかりキャラを立てておくことは必要でしょう。井伊直弼も以前の登場でもう少しキャラを立てておいてもらいたかったものです。

大相撲春場所千秋楽

 もうすっかり慣れてしまいましたが、両横綱のうち鶴竜関は初日から、白鵬関は3日目から休場となり、またもや横綱不在の場所となりました。稀勢の里関の悪例があるので、白鵬関と鶴竜関の休場に関して私はずっと擁護してきましたが、さすがに鶴竜関に関しては厳しいと思っていたところ、場所中に鶴竜関は引退を表明しました。親方として鶴竜を襲名するとのことで、まだ親方株を取得していないのでしょうか。鶴竜関は優れた親方になりそうですし、鶴竜関の前に引退した横綱7人のうち5人が定年よりもずっと前に相撲協会から離れていることもありますから、鶴竜関には親方株を取得してもらい、長く後進の指導に当たってもらいたいものです。白鵬関は来場所も休場して七月場所で進退をかけるそうですが、膝の状態がかなり悪そうなので、このまま引退することになりそうです。白鵬関はこれだけの実績を残しているので、一代年寄を認められるべきだと思いますが、もし認められないようならば、これを機に一代年寄制を廃止すべきでしょう。

 横綱不在で今場所も混戦となり、千秋楽を迎えた時点で4敗の力士にも優勝の可能性が残されているくらいでした。優勝争いを引っ張っていた高安関が13日目・14日目と連敗して後退したところは、兄弟子の稀勢の里関の勝負弱さを想起させました(2012年夏場所)。14日目を高安関とともに3敗で迎えた照ノ富士関は14日目に朝乃山関に勝ち、単独首位で千秋楽を迎えました。まず、4敗の碧山関と高安関が対戦し、高安関は硬くなっていたのか、はたき込みで敗れ、10勝5敗で優勝争いから脱落しました。高安関は、あるいは終盤にどこか痛めたのでしょうか。照ノ富士関は貴景勝関に一度は押し込まれながら逆襲して押し出して勝ち、12勝3敗で3回目の優勝を果たしました。

 照ノ富士関は大関復帰を確実にしました。序二段まで陥落しながら大関に復帰したのは見事です。白鵬関はこのまま引退しそうですから、現時点では照ノ富士関が最強と言えるかもしれません。しかし照ノ富士関は、大関から陥落する原因となった大怪我の前よりも心技の面では成長が見られますが、やはり体の面では膝の状態が悪いので、横綱に昇進するのは難しそうですし、仮に昇進できたとしても、満足な成績を残せず短命に終わりそうです。そもそも、照ノ富士関は今年(2021年)11月には30歳になりますから、大関の地位を長く維持することも容易ではないでしょう。

 高安関は最近復調してきたように見えたので、横綱不在の中、今場所最後まで優勝を争ったことは意外ではありませんでした。ただ、高安関も全盛期より力が落ちていることは否定できず、両横綱の衰えと若手の伸び悩みにより、また優勝争いができるようになった、と私は考えています。外国出身力士も幕内上位にいますが、少子高齢化が進む中、やはり圧倒的多数を占める日本出身力士の素質が以前よりも低いことは否めないので、全体的な水準が以前より下がっていると考えるべきなのでしょう。高安関の「復調」や照ノ富士関の大関復帰も、そうした文脈で解釈すべきだと思います。

 7勝8敗と負け越した正代関は不安定で今年11月には30歳になりますし、何とか二桁勝った朝乃山関は出稽古禁止で伸び悩んでいるところがあり、貴景勝関は押し相撲で不安定ですから、間もなく迎えるだろう横綱不在は長期化しそうです。貴景勝関は減量について色々と言われましたが、押し切れないところが見られたので圧力は減少したかもしれないものの、動きは良くなって総合的には正解だったと言えそうです。白鵬関の引退がいよいよ近づき、不安はありますが、横綱不在とはいっても、毎場所混戦の優勝争いも面白いものですから、悲観要素だけでもないとは思います。仮に以前よりも八百長が激減しているとしたら、横綱に昇進するにはそれこそ全盛期の白鵬関くらい力量が抜けていないと難しいので、今後は横綱不在が当たり前のように思えてくるのかもしれません。

アジア南東部現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響

 アジア南東部現代人におけるデニソワ人(Denisovan)の遺伝的影響に関する研究(Teixeira et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。デニソワ人は、現生人類(Homo sapiens)およびネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との遺伝的関係で、現生人類よりもネアンデルタール人に近い種区分未定のホモ属分類群です(関連記事)。ただ、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体では、(後期)ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現代人の方と近縁です(関連記事)。

 アジア南東部島嶼部(ISEA)には、更新世を通じての独特で多様な人類の化石記録があります(関連記事)。ジャワ島は、アフリカ外の拡散に成功した最初の人類種であるホモ・エレクトス(Homo erectus)の範囲の南東部を示しており(本論文はこのような認識を提示しますが、エレクトスよりも前にユーラシア東部まで拡散した人類が散在した可能性も指摘されています)、エレクトスは149万年前頃(関連記事)から117000~108000年前頃(関連記事)までジャワ島に存在しました。

 少なくとも2つの追加の固有種が更新世においてISEAに生息しており、5万年頃前後(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の現生人類の到来まで生存していた可能性が高そうです。その固有種とは、インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と(関連記事)、ルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)です(関連記事)。これら2種の相互および他の人類との系統発生的関係には、依然として議論の余地があります。最近の解釈では、フロレシエンシスはエレクトスの近縁種か(関連記事)、アフリカからの別の拡散事象でISEAに独立した到達したホモ属のより古代型種を表している(関連記事)、と提案されています。ルゾネンシスの現在の分類も不確かです。ルゾネンシスの利用可能な標本は、アウストラロピテクス属やアジアのエレクトスやフロレシエンシスや現生人類などさまざまな人類の分類群と、特定の形態的特徴で類似性を共有しています(関連記事)。

 現代人のゲノムに保存されている遺伝的証拠からは、追加の1つの人類集団がおそらくは現生人類到来時期のISEAに生息していた、と示唆されます。ISEAやニューギニアやオーストラリアに住む現代人集団は、デニソワ人からのかなりの遺伝的祖先系統を有しています。デニソワ人はネアンデルタール人の姉妹系統で、その化石記録は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)からの数個の骨格断片(関連記事1および関連記事2)と、チベット高原で発見された16万年前頃の下顎(関連記事)に限定されており、チベット高原では洞窟堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析されました(関連記事)。この地理的に限定された化石記録にも関わらず、現代人集団におけるデニソワ人の祖先系統のパターンから、現生人類到来時のISEA全域にデニソワ人が存在したかもしれない、と示唆されます(関連記事)。

 人口統計学的および古代型祖先系統の推論に固有の複雑さにより、現生人類とデニソワ人との間の遭遇の正確な回数と地理的位置を推測することは困難ですが、現代人集団におけるデニソワ人との混合の複数の異なる波動(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)からは、デニソワ人はおそらく5万年前頃までにウォレス線の東のいくつかの島々に居住するようになった、と示唆されます。20万~10万年前頃のスラウェシ島の石器も(関連記事)、デニソワ人がウォレス線の東側に存在した可能性を示唆しますが、ISEAにおけるデニソワ人の直接的な化石証拠は、これまで目立ったものがありません。

 ISEAにおけるデニソワ人の化石記録の欠如と、ISEAでの現生人類とデニソワ人の混合事象を示唆する遺伝的証拠の増加との間の不一致は、人類の先史時代における重要な未解決の問題を提起します。この問題に関する簡潔な解決は、ルゾネンシスおよび/もしくはフロレシエンシスが、ISEAの現代人のゲノムにおけるデニソワ人祖先系統の起源である、というものです。しかし、ルゾネンシスやフロレシエンシスといったISEAの絶滅人類種の現生人類への遺伝的寄与は、アルタイ地域やチベット高原のデニソワ人のいくつかの確認された標本と容易に一致しません(関連記事1および関連記事2)。

 さらに、形態学および考古学的データからは、フロレシエンシスとルゾネンシスは両方、ISEAにおける広範な歴史を有しており、それはデニソワ人の推定出現年代に先行する、と示唆されます(関連記事)。したがって、フロレシエンシスとルゾネンシスは、それぞれの島環境で進化した2つの異なる超古代型人類として解釈されます。他の可能性がある混合の起源はインドネシアのエレクトスですが、その最終出現年代が117000~108000年前頃(関連記事)なので除外されます。したがって、ISEAにおけるデニソワ人から現代人のゲノムへの遺伝子移入の(複数の)起源は、理解しにくいままです。

 あるいは、現生人類のISEA到来まで、ISEAではフロレシエンシスとルゾネンシスが存在していたかもしれず、両者もISEAの現代人集団の祖先と混合した、という可能性があります。超古代型人類との混合の痕跡がアルタイ山脈のデニソワ人で検出されており(関連記事)、それはアンダマン諸島現代人集団でも検出される可能性があることから、超古代型人類とより派生的な人類種との間の交雑が以前に起きて子孫を残した、と示唆されます。そのような交雑事象が現生人類とISEA固有の人類との間に起きたならば、この混合の証拠はISEAの現代人集団のゲノムではまだ検出されていないかもしれず、ISEAにおける1つもしくは複数の超古代型人類種の過去の存在を間接的に確認するでしょう。


●手法

 この問題に対処し、ISEAの先史時代へのさらなる洞察を提供するため、現代人のゲノムにおける遺伝子移入された超古代型人類の領域に関して、これまでで最も包括的な調査が実行されました。フロレシエンシスやルゾネンシスや他の仮定的な後期生存超古代型人類種のような、古代型人類からの遺伝子移入と一致するゲノム痕跡に関して、パプアとISEAの人口集団からの214個体を含む世界中の現代人計426個体のゲノムが調査されました。遺伝子移入された超古代型人類のDNAの領域を検出するため、本論文で「HMMarchaic」と呼ばれる隠れマルコフモデル(HMM)検出手法と、ChromoPainter(CP)と、HMMとを含めることにより、以前の研究(関連記事)で用いられた分析経路が拡張されました。

 重要なことに、HMMarchaicは遺伝子移入されたDNAの検出を導く参照ゲノムを必要としない点でCPおよびHMMと異なり、ゲノム情報が現時点で存在しない超古代型人類集団からのDNAの識別に適しています。したがって、426個体全員のゲノムでの3通りの検出手法の実行と、CPおよび/もしくはHMMにより予測されるネアンデルタール人およびデニソワ人とまったく重ならない領域の保持により、推定される遺伝子移入された超古代型人類の領域を区別できます。結果として生じる一連の推定上の超古代型人類の配列は、残留古代型領域と呼ばれます。重要なのは、ISEAにおける超古代型人類の祖先系統のパターンにとくに焦点を当てるため、本論文の戦略がアフリカ人口集団と非アフリカ人口集団との間で共有される遺伝的変異を意図的に除外することです。したがって、ホモ・ナレディ(Homo naledi)といった(関連記事)、アフリカの現生人類と関わるあらゆる超古代型人類との混合は、本論文の結果から除外されるでしょう。


●現生人類における超古代型人類からの遺伝子移入の証拠はありません

 ネアンデルタール人およびデニソワ人の遺伝子移入された区域に重なるHMMarchaic遺伝子移入領域をフィルタリングすると、個体あたり1250万塩基対の残留古代型配列が識別されました。これが、超古代型人類から遺伝子移入されたと推定される領域です(図1a)。検出された残留古代型配列の量は、世界規模の人口集団全体で一致しており、ISEA東部(1500万塩基対)とパプアおよびオーストラリアの人口集団(1800万塩基対)でわずかに高い量になっています。

 以前の結果と一致して、ISEAとパプアとオーストラリア(先住民)の人口集団は、デニソワ人祖先系統の最大量(パプア人とオーストラリア先住民のゲノムでは6000万塩基対に達します)を有しており、それが意味するのは、パプアやオーストラリア先住民の人口集団が、分析された全人口集団で観察された古代型祖先系統の合計と比較して、残留古代型配列の割合が最も低い、ということです。本論文の結果から、超古代型人類の祖先系統は、アフリカ外の現代人集団のゲノム祖先系統の、少量の可能性があるものの一貫した量を含むかもしれない、と示唆されます。

 しかし、現代人集団における広範な超古代型人類との混合の証拠は現在欠如しており、この世界的な残留古代型兆候は、手法的な人口産物か、出アフリカ移住に先行する現生人類集団における古代の遺伝的兆候か、不完全な系統分類もしくは平衡選択の結果として生じる、本論文のアフリカ人参照標本では検出されない高度に分岐した現生人類由来の配列の分離である可能性がより高そうです。同様に、パプアとオーストラリア先住民人口集団で観察される残留古代型配列の追加の250万~500万塩基対は、パプアとオーストラリアにおける少量ではあるものの意味のある超古代型人類の祖先系統を表しているかもしれませんが、代わりに、デニソワ人の断片もしくは一部の他の手法的人口産物を検出する、統計的手法の能力における人口集団内多様性を単純に反映しているかもしれません。

 残留古代型領域が本当に遺伝子移入された超古代型人類のDNAなのかどうかさらに区別するために、残留古代型領域内の遺伝子移入された超古代型人類のDNAに特徴的な、遺伝的に異なる変異モチーフ(一定の機能を有すると予測される特徴的な共通の配列や構造、アレル状態)の調査により、一致した痕跡が検索されました。具体的には、残留古代型領域における各ヌクレオチド位置について、検証個体(X)、デニソワ人(D)、ネアンデルタール人(N)、非アフリカ系個体(H)のアレル状態が特徴づけられました。これにより、X・D・N・H形式の一連の変異モチーフが得られ、タイプ1000と0111は超古代型人類からの遺伝子移入の兆候を示している可能性があります。各個体における全ての残留古代型領域のこれら変異モチーフを列挙した後、一般化線形モデルを用いて、モチーフの割合が人口集団特有の違いを示すのか、また切片のみで構成される帰無モデルを有する完全なモデルを対比させることによりP値を計算するのかどうか、検証されました。

 線形モデルで仮定されたように、多項ロジスティック回帰モデルを用いず、線形モデルを考慮した場合、人口集団間で変異モチーフは有意に異なりました(図1b)。しかし、これらの違いはひじょうに微妙で、既知の古代型祖先系統と強く相関しており、交絡効果の存在と一致します(図1c)。たとえば、パプア人のゲノムは他の人口集団と比較して1000モチーフのわずかに高い割合(2%未満)を示しますが(図1b)、個体間変動も高く、超古代型人類の遺伝子移入のシナリオでも予測される、人口集団における0111モチーフの割合での類似の増加は観察されません。

 全モチーフ数の違いを正確に説明することは重要ですが、あり得る説明は、祖先的もしくは派生的で複雑な人口史や、フィルタリング段階で除去されなかった残留古代型領域の中でのネアンデルタール人とデニソワ人の古代型兆候の持続のような、アレル(対立遺伝子)の誤分類を含んでいることです。たとえば、パプア人とオーストラリア先住民で観察される250万~500万塩基対の余分な残留古代型配列は、アルタイ山脈のデニソワ人のゲノムとはひじょうに分岐しているデニソワ人的起源からのかなりのより多くの遺伝子移入を有する、これら人口集団に起因しているかもしれません(関連記事)。

 この結果、より分岐した領域の一部は、参照配列のないHMMarchaic走査では検出されるものの、参照ゲノム配列に依存する2つの手法(CPとHMM)では検出されない可能性があります。じっさい、デニソワ人とネアンデルタール人の祖先系統は全人口集団で1000モチーフの割合と正の相関がありますが、0111モチーフの割合とは負の相関があり、これらモチーフの割合における違いは、残留古代型領域内の割り当てられていないネアンデルタール人とデニソワ人の祖先系統により引き起こされた、と強く示唆されます。以下、本論文の図1です。
画像


●デニソワ人からの超古代型人類のDNAの間接的遺伝子移入

 最近の研究では、現代人は遺伝子移入されたデニソワ人の配列に含まれている超古代型人類の祖先系統(デニソワ人と未知の超古代型人類との間の古代の混合事象に由来します)の痕跡(400万塩基対)を有する、と報告されました(関連記事)。重要なことに、これらの間接的に遺伝子移入された超古代型人類のゲノム断片の大半は、本論文でも検出されました(回収された各遺伝子移入された領域の配列の長さの100%で)。これらのほとんどは、本論文における推定される超古代型人類の領域にも含まれていました。同様の結果は、HMMarchaicと、予測されたネアンデルタール人の遺伝子移入された領域内の超古代型人類断片を有する残留古代型領域との比較で得られました。


●合着シミュレーションは経験的観察を裏づけます

 本論文の分析経路による間接的に遺伝子移入された超古代型人類断片の正確な回復から、低水準の直接的に遺伝子移入された超古代型人類祖先系統がもし存在するならば、検出するのに充分に強力である、と示唆されます。それにも関わらず、現代人への超古代型人類からの遺伝子移入の証拠の欠如が統計的能力の欠如に起因する可能性を除外するため、合着(合祖)ソフトウェアmsprimeを用いて、オーストラリア先住民とパプア人の歴史が経験的に情報に基づいた人口統計学的モデル下でシミュレートされました。これらのシミュレーションには、オーストラリア先住民とパプア人の共通祖先人口集団における超古代型人類の異なる量(2%、1%、0.1%、0%)を有する、別々のネアンデルタール人およびデニソワ人との混合事象が含まれています。次に、完全な分析経路をこれらシミュレートされたゲノムデータセットに適用し、超古代型人類の領域が検出され、さまざまな水準の超古代型人類からの遺伝子移入の能力と誤検出率が定量化されました。

 本論文のシミュレーション結果から、HMMarchaicは超古代型人類の祖先系統を確かに検出できる、と示されました。真陽性率(TPR)は、0.1%と2%の超古代型人類祖先系統を有するモデルで50~90%の範囲です。一方、偽陽性率は極端に低い割合を維持します。0.1%と0%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルにおける個体あたりで検出された残留古代型配列の量(2000万塩基対、図2a)は、パプア人とオーストラリア先住民の経験的データで観察された量と著しく近くなっています(1800万塩基対、図1a)。これらのモデルに関しては、残留古代型兆候の大半は、CPとHMMでは検出されなかった、ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝子移入に由来します。対照的に、1%と2%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルは、経験的推定よりも個体あたり少なくとも2倍以上の残留古代型配列を検出し(それぞれ3300万塩基対と4700万塩基対)、それはおもに超古代型人類の領域の数で膨張により引き起こされました。興味深いことに、HMMarchaicを用いてのネアンデルタール人とデニソワ人の領域を検出する能力は、増加する超古代型人類の祖先系統の量により負の影響を受けます。それは、この手法の能力が、遺伝子移入された古代型人口集団と外群の現生人類人口集団との間の分岐に比例しているからです。

 同様に、0.1%と0%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルで観察された変異モチーフは、超古代型人類からの遺伝子移入の高水準を提供するよりも、経験的データへの密接な適合を提供します。たとえば、1000変異モチーフと0111変異モチーフは経験的データではそれぞれ27%と6%なのに対して、0.1%モデルでは26%と6.5%で、0%モデルでは22.5%と4%です。本論文の経験的観察への0%モデルと0.1モデルの密接な適合は、非アフリカ系現代人のゲノムへの遺伝子移入された超古代型人類からの配列がほとんどないか、皆無であることへの強い裏づけを提供します。以下、本論文の図2です。
画像


●考察

 ネアンデルタール人および/もしくはデニソワ人との過去の混合を経由して間接的に継承されたわずかな水準を超えての、非アフリカ系現代人のゲノムにおけるあらゆる検出可能な超古代型人類の欠如は、現代ISEA人口集団の祖先とデニソワ人との混合の強い証拠とは完全に対照的です(関連記事1および関連記事2)。超古代型人類集団の子孫としてのルゾネンシスおよびフロレシエンシスの現在の古人類学的解釈に基づくと、本論文の結果は、ルゾネンシスやフロレシエンシスと現生人類との間の交雑は起きなかった、と示唆します。しかし、ルゾネンシスやフロレシエンシスと現生人類との遭遇が、生存可能な子孫を生み出せなかったか、子孫が生存できたとしても、これらの系統がその後絶滅したならば、交雑が起きた可能性を完全には否定できません。アルタイ山脈のデニソワ人と(関連記事)、おそらくはアンダマン諸島人口集団の祖先への超古代型人類の遺伝子移入の証拠から、生存可能な繁殖がじっさいにあり得たかもしれないものの、これらの仮説のさらなる評価は、利用可能なデータを考慮すると、現時点では不可能です。

 代替的な説明は、ルゾネンシスとフロレシエンシスは現在受け入れられているよりも現生人類との分岐がずっと遅い人類クレード(単系統群)で、ISEA全域のデニソワ人的系統のより早期の分岐の子孫で、かなり後期まで生存していた、というものです。これは、フローレス島の100万年以上前(関連記事)およびルソン島の70万年前頃(関連記事)の人類の存在は継続的ではなく、ISEA全域に遍在するデニソワ人祖先系統はルゾネンシスとフロレシエンシスの一方もしくは両方から生じた、と示唆します。じっさい、ISEA全域のデニソワ人祖先系統のパターンは、ルゾネンシスの存在したフィリピンと、可能性がある候補地としてフロレシエンシスの存在したフローレス島(関連記事1および関連記事2)での、別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象と一致します。さらに、フロレシエンシスとルゾネンシスの顕著な小型化と固有の島での進化の長期化は、その形態とあり得る系統発生関係の複雑な評価を有している可能性があります。この説明は、「南放デニソワ人」の独自性への簡潔な答えを提供するでしょうが、考古学および化石データの解釈に基づく現在の総意とは一致しません(関連記事)。

 これらの問題の解決において大きな混乱は、デニソワ人化石記録の少なさで、現時点では、指骨1個、下顎1個、いくつかの歯と一部の頭蓋断片だけで、意味のある形態学的比較がひじょうに困難です。さらなる研究のための有望な地域にはスラウェシ島が含まれ、そこでの石器記録は、デニソワ人の居住の可能性がある20万~10万年前頃と一致します(関連記事)。興味深いことに、スラウェシ島は、固有の小型スイギュウ(Bubalus spp.)やスラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)や野生イノシシ科種(Babirusa spp.)が生息しており、それらは完新世まで生存したと知られているウォレス線の東側の数少ない大型動物種です。ISEA東部の大型動物相生存のパターンは、現生人類以前の人類の既知の居住地域と一致しており、フローレス島やその周辺のコモドドラゴン(Varanus komodoensis)、オセアニアフィリピン諸島の現存するミンドロスイギュウ(Bubalus mindorensis)、ブタ(Sus spp.)、ルサジカ属種(Rusa spp.)が含まれます(図3)。このパターンは、古代型人類によるあり得る狩猟圧力への長期暴露が、その後の現生人類と接触における大型動物種の生存を促進した可能性がある、と示唆します。したがって、そのような島々は、理解しにくい「南方」デニソワ人の証拠を回収するための、将来の研究努力の要望な候補地です。別の興味深いものの低そうな可能性はオーストラリアで、北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では65000年前頃の人工物が発見されており(関連記事)、デニソワ人の存在と関連していたかもしれません。以下、本論文の図3です。
画像

 明らかに、ISEAにおける人類の先史時代のさらなる解決は、ISEAにおけるデニソワ人の存在の直接的な化石および考古学的証拠から大いに恩恵を受けるでしょうし、DNAが回収できない系統発生関係の解決に役立つのは、プロテオーム解析かもしれません。それにも関わらず、現在の化石および考古学的記録は、ISEA全域の遺伝的証拠の増加とともに、ウォレス線の東側の古代型人類の広範な存在を示し、ISEAに到来した最初の現生人類集団が、どのような経路でサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)に拡散したとしても、恐らくさまざまな人類集団と遭遇しただろう、と示唆されます。これは、ISEAとニューギニアとオーストラリアの現代人集団で見られるデニソワ人祖先系統のほとんどがその地で得られた可能性を示唆し、将来にはこの充分には研究されていな地域全体でより多くの考古学的および遺伝学的研究が必要になる、と強調します。


参考文献:
Teixeira JC. et al.(2021): Widespread Denisovan ancestry in Island Southeast Asia but no evidence of substantial super-archaic hominin admixture. Nature Ecology & Evolution, 5, 5, 616–624.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01408-0

倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、天皇(大王)に即位できた皇子(王子)とできなかった皇子とを比較し、その理由を検証することで、古代日本、さらには日本の王権の特質を解明していきます。対象となるのは、伝承的性格の強い日本武尊の頃から院政期までです。日本武尊は、倭王武の上表文に窺えるような、倭王権の支配地域を拡大させた複数の王族将軍を集約させた存在ではないか、と指摘されています。

 5世紀のいわゆる倭の五王の時代には、まだ王位を世襲する「王家(大王家)」という血縁集団は形成されておらず、「皇統譜」も成立していなかったので、五王が『日本書紀』のどの天皇に該当するのか、議論することにはほとんど意味がない、と本書は指摘します。継体「天皇」の即位まで、記紀をどこまで信用できるのか、よく分からず、継体即位後も、その一族の間で政治的対立があった可能性を本書は指摘します。こうした王権の動揺は欽明の即位により収束し、ここに血縁集団としての大王家が成立した、と本書は評価します。またこの頃までに、氏(ウヂ)という支配者に特有の政治組織と、姓(カバネ)という政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、倭王権を構成する支配者層が再編されました。本書は欽明以降の飛鳥時代の王統を蘇我系と非蘇我系に把握していますが、この問題は今後も考えていきたいものです。

 天武朝とその次の持統朝は国制の画期となったようです。多くの息子がいた天武の後継者に関は、天武朝末の時点では、年齢と母の出自から草壁と大津に絞られていた、と本書は指摘します。本書は、大津を個人的能力に優れた専制君主型、草壁を機関・象徴・超越型と評価します。ただ本書は、そもそも草壁が病弱で凡庸な人物だったとの一般的認識は、大津の人となりを伝える記事との相対的な想像にすぎない、とも指摘しています。確かにその通りですが、そうならば、草壁を機関・象徴・超越型と評価するのもどうかな、とは思います。持統から文武への譲位にはかなり無理があり、朝廷で広範な支持は得られていなかった、と指摘されています。

 奈良時代には、皇位継承をめぐる政変が頻発しました。これは、文武天皇の息子が公式には首皇子(聖武天皇)1人だけだったこと(本書で言及されているように、他にも存在した可能性はあります)に起因する、と本書は指摘します。文武には皇后がおらず、当時皇后は皇族に限定されていたものの、適齢の皇女がほとんどいなかったからではないか、と本書は推測します。皇統の観点からは転機となった白壁王の即位(光仁天皇)は、白壁王と聖武天皇の娘(井上内親王)との間の息子(他戸王)の将来の即位が前提とされていましたが、光仁の即位後間もなく、井上内親王は皇后の地位を、他戸王は皇太子の地位を追われます。本書はこれを、藤原式家の陰謀と推測しています。平安時代初期の桓武天皇や嵯峨天皇や仁明天皇には子供が多く、これは文武天皇の子が少なく、皇位継承に問題が生じたことを反面教師としたためかもしれません。

 皇位継承をめぐる争いは9世紀半ばの摂政の出現後も続きますが、この頃になると、平安時代初期までに見られたような、敗者側の皇子が死に追いやられるようなことは見られなくなります。本書はこれを、日本的な政治の美意識だろう、と指摘します。皇位継承に母方の有力者の存在が大きな意味を有したのは9世紀以前も同様ですが、摂政・関白(または内覧)が常置される摂関期になると、皇位継承は完全に時の執政者とのミウチ関係に左右されるようになります。これが大きく変わったのは後三条天皇の即位で、「治天の君」と称された上皇が皇位継承者選定の主導権を握るようになります。この院政期になると、后妃の家柄が以前ほどには問われなくなります。

 本書は、初代天皇の神武の子孫が皇位を継承するという制度を築いたため、天皇は皇子を儲けねばならなくなり、ほとんどの天皇は気の向くままに何人もの后妃や女官と接触して皇子を儲けことから、悲劇の皇子が再生産され続けた、と指摘します。それは、血縁に基づく世襲による皇位継承という制度に必然的に付随する矛盾だったかもしれない、というわけです。また本書は、皇位継承に敗れた皇子が、伝承の世界で流浪・遍歴を重ね、各地の民衆と結びついてきた、と指摘します。その一例が、出羽の羽黒山に伝えられている、崇峻天皇の皇子である能除太子(鉢子皇子)です。

イヌの身体意識

 イヌの身体意識に関する研究(Lenkei et al., 2021)が公表されました。これまでの研究から、イヌは共感や社会的学習といった複雑な認知能力を有することが明らかになっていますが、イヌが何らかの形の自己認識を示すのかどうかは分かっていません。この研究は、32匹の飼いイヌに「体が障害物になる」という課題の実験を行なわせました。この課題は、小型マットの上に立たされたイヌが、マット上に配置した玩具を飼い主に渡すというもので、玩具をマットに固定した場合には、イヌは玩具を飼い主に渡すためにマットから降りなければなりません。

 実験の結果、玩具をマットに固定した場合、玩具を地面に固定した対照実験と比べて、イヌはマットから降りる頻度が高く、マットから降りるまでの時間が短かい、と明らかになりました。対照実験で、イヌがマットから降りることは玩具を飼い主に渡す能力に影響を与えませんでした。また、玩具をマットに固定した場合、対照実験と比べて、イヌが玩具を口にくわえたままマットから降りる頻度が高いことも明らかになりました。

 これらの知見は、イヌが、玩具を飼い主に渡すさいに自分の体が障害物になっていることを認識でき、課題を遂行するためにマットから降りる必要がある条件と、マットから降りると課題を遂行できない条件とを区別していた、と示唆しています。身体認識とは、自分自身の体と自分以外の物体との関係を理解する能力のことで、自己認識の前兆とされます。これらの知見は、イヌが身体認識を有し、自分自身の行動の結果をある程度理解している、という仮説を裏づけるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:イヌには身体意識があって自分の行動の結果を理解できるのかもしれない

イヌは自分の体を障害物として認識していて、自分の行動の結果を理解している可能性のあることが、32匹の飼い犬を対象とした研究から明らかになった。この結果を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

これまでの研究から、イヌは共感や社会的学習といった複雑な認知能力を有することが明らかになっているが、彼らが何らかの形の自己認識を示すのかは分かっていない。

今回、Péter Pongrácz、Rita Lenkeiたちの研究チームは、イヌに「体が障害物になる」課題をさせる実験を行った。この課題は、小型マットの上に立たせたイヌが、マット上に配置した玩具を飼い主に渡すというもので、玩具をマットに固定した場合には、イヌは、玩具を飼い主に渡すためにマットから降りなければならない。

実験の結果、玩具をマットに固定した場合、玩具を地面に固定した対照実験と比べて、イヌはマットから降りる頻度が高く、マットから降りるまでの時間が短かった。対照実験で、イヌがマットから降りることは玩具を飼い主に渡す能力に影響を与えなかった。また、玩具をマットに固定した場合、対照実験と比べて、イヌが玩具を口にくわえたままマットから降りる頻度が高かった。以上の知見は、イヌが、玩具を飼い主に渡す際に自分の体が障害物になっていることを認識でき、課題を遂行するためにマットから降りる必要がある条件とマットから降りると課題を遂行できない条件を区別していたことを示唆している。

身体認識とは、自分自身の体と自分以外の物体との関係を理解する能力のことで、自己認識の前兆とされる。今回得られた知見は、イヌが身体認識を有し、自分自身の行動の結果をある程度理解しているという仮説を裏付けるものかもしれない。



参考文献:
Lenkei R. et al.(2021): Dogs (Canis familiaris) recognize their own body as a physical obstacle. Scientific Reports, 11, 2761.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-82309-x

100万年以上前のマンモスのDNA解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、100万年以上前のマンモスのDNA解析結果を報告した研究(Valk et al., 2021)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。古代DNA研究は近年大きく発展しており、人類を含むさまざまな動物遺骸からゲノムデータが得られ、先史時代の人口動態や古代の遺伝子移入事象や絶滅種の人口統計に関する理解が深まりました。しかし、一部の進化過程は、古代DNA研究の時間的限界を超えている、とみなされる時間枠で起きます。たとえば、多くの現代の哺乳類および鳥類種は、前期および中期更新世に起源があります。したがって、種分化過程の古代ゲノム調査では、少なくとも数十万年前の標本から古代DNAを回収する必要があります。

 マンモス(Mammuthus sp.)は500万年前頃にアフリカに出現し、その後、北半球の大半に拡散しました。260万~11700年前頃となる更新世に、マンモス系統は南方マンモス(Mammuthus meridionalis)とステップマンモス(Mammuthus trogontherii)を出現させた進化的変化を経て、後にはコロンビアマンモス(Mammuthus Columbi)とケナガマンモス(Mammuthus primigenius)が派生しました。これら分類群間の正確な関係は不確かですが、一般的な見解では、コロンビアマンモスは150万年前頃に北アメリカ大陸への拡散初期に進化し、ケナガマンモスは70万年前頃にシベリア北東部で最初に出現した、とされています。ステップマンモス(トロゴンテリーゾウ)と類似した(およびそれと同種と考えられている)マンモスは、少なくとも170万年前頃からユーラシアに生息していました。

 ケナガマンモスおよびコロンビアマンモスの起源と進化を調べるため、前期および中期更新世のシベリア北東部のマンモスの大臼歯3個からゲノムデータが回収されました(図1a)。これらの大臼歯は、シベリア北東部のよく記録された化石を含むオリョリアン・スイート(Olyorian Suite)に由来し、古地磁気逆転の世界的な系列、およびベーリンジア東部の絶対年代を有する動物相と結びついた、齧歯類の生層序を用いて年代測定されました。これらの大臼歯のうち、その発見場所に基づいてクレストフカ(Krestovka)と呼ばれる標本は、元々ヨーロッパの中期更新世化石で定義された種であるステップマンモスと形態的に類似しており、120万~110万年前頃の下部オリョリアン堆積物から収集されました。第二の標本はアディチャ(Adycha)と呼ばれ、ステップマンモスのような形態で、オリョリアン・スイート内の年代はさほど確実ではありません(120万~50万年前頃)。しかし、アディチャ標本の形態からは、年代は前期オリョリアンで、おそらくは120万~100万年前頃と強く示唆されます。第三の標本はチュコチヤ(Chukochya)と呼ばれ、ケナガマンモスの初期形態と一致しており、上部オリョリアン堆積物のみが露出している区画で発見されており、80万~50万年前頃と示唆されます。これら3標本から完全な(網羅率37倍以上)ミトコンドリアゲノムが回収され、核ゲノムデータに関しては、クレストフカ標本が4900万塩基対、アディチャ標本が8億8400万塩基対、チュコチヤ標本が36億7100万塩基対ほど得られました。以下、本論文の図1です。
画像


●DNAに基づく年代推定

 ミトコンドリアゲノムを用いて標本の年代を推定するため、放射性炭素年代を有する標本群を用いて較正されたベイジアン分子時計分析と、530万年前頃のアフリカのサバンナゾウ系統とマンモス系統との間のゲノムの違いを仮定した対数正規分布事前分布が実行されました。この分析に基づいて、クレストフカ標本は165万年前頃、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)では208万~125万年前、アディチャ標本は169万年前頃(95% HPDで169万~106万年前)、チュコチヤ標本は87万年前頃(95% HPDで107万~68万年前)と推定されます。また、常染色体ゲノムデータを用いて、より高い網羅率のアディチャ標本(0.3倍)とチュコチヤ標本(1.4倍)の年代が調べられました。これは、アフリカのサバンナゾウとの最新の共通祖先以来の派生的変化の数の推定に基づきます。一定の変異率を仮定して、経時的な派生的多様体の蓄積に基づく手法が用いられました。この分析から、アディチャ標本は128万年前頃(95%信頼区間で164万~92万年前)、チュコチヤ標本は62万年前頃(95%信頼区間で100万~24万年前)と示唆されました。この分析は低網羅率のデータに基づいており、信頼区間は広く、推定年代はミトコンドリアミトコンドリアデータから得られたものと類似している、と本論文は指摘します。

 チュコチヤ標本およびアディチャ標本のDNAに基づく推定は、生層序および古地磁気から独立して得られた地質学的年代推定と一致していますが、クレストフカ標本の分子時計年代測定は、生層序から得られた年代よりも古い、と示唆されます。これは、クレストフカ標本がより古い地質堆積物から嵌入したか、ミトコンドリアの変異率が過小評価されてきたことを意味するかもしれません。しかし、クレストフカ標本の遺伝的および地質学的年代推定の信頼区間はわずか5万年離れているだけで、全推定値は100万年以上前の年代を裏づけます。


●遺伝的に分岐したマンモス系統

 常染色体データに基づく系統では、クレストフカ・アディチャ・チュコチヤの前期および中期更新世3標本は、スコットランド(48000年前頃)やシベリアのカンチャラン(Kanchalan)のケナガマンモス(24000年前頃)を含む、後期更新世の全てのユーラシアのマンモスのゲノムの範囲外となります(図1b)。アディチャ標本とチュコチヤ標本の系統的位置は、全ての後期更新世ケナガマンモスの直接的祖先集団に由来するゲノムであることと一致しますが、クレストフカ標本のゲノムは、コロンビアマンモスとケナガマンモスのゲノム間の分岐以前に分岐しました(図1b)。同様に、168個体の後期更新世マンモス標本を含むミトコンドリア系統のベイジアン再構築では、前期更新世のクレストフカ標本とアディチャ標本が、既知の全てのマンモスのミトコンドリアゲノムの基底部に位置づけられるのに対して、中期更新世のチュコチヤ標本のミトコンドリアゲノムは、後期更新世ケナガマンモスで以前に報告された3クレード(単系統群)の一つの基底部となります(図1c)。

 核ゲノムおよびミトコンドリア両方のデータに基づく分岐年代の推定は、クレストフカ標本と本論文で分析された他の全マンモスとの間の深い分岐を示唆します。クレストフカ標本のミトコンドリアゲノムは、他の全てのマンモスのミトコンドリアと266万~178万年前(95% HPD)に分岐した、と推定されます。常染色体データから類似の推定分岐年代(95%信頼区間で265万~196万年前)が得られますが、この分析は限定的なゲノムデータに基づいていることに注意が必要です。さらに、F統計を用いての相対的分岐推定では、クレストフカ標本の核ゲノムは、高網羅率のケナガマンモスではヘテロ接合である部位において、他のあらゆるマンモスよりも派生的アレル(対立遺伝子)が少ない、と示されます。これは、クレストフカ標本系統が、アジアゾウとの分岐後ではあるものの、本論文で分析された他のマンモス間の分岐よりも前に分岐した、という見解へのさらなる裏づけを提供します。

 全体としてこれらの分析で示唆されるのは、マンモスの2つの進化系統(つまり、2つの孤立集団が経時的に存続しました)が前期更新世後半にシベリア東部に生息していた、ということです。クレストフカ標本に代表される一方の系統は、北アメリカ大陸におけるマンモスの最初の出現前に他のマンモスと分岐しました。もう一方の系統は、中期および後期更新世の全ケナガマンモスとともにアディチャ標本で構成されます。


●コロンビアマンモスの起源

 いくつかの証拠は、全ての他のマンモスと比較してコロンビアマンモスでは、クレストフカ標本に代表される系統にその祖先系統のずっと高い割合が由来する、と示唆されます。D統計を用いての分析では、コロンビアマンモスとクレストフカ標本との間で共有される過剰な派生的アレルの強い兆候が明らかになりました(図2a)。これは、その後の混合D統計なしの想定ではゼロから逸脱してないので、他の全てのマンモスのゲノムの基底部に位置するクレストフカ標本の平均的な系統的位置と矛盾します。そこで、Tree- Mixを用いてこのパターンがさらに調べられました。移動(混合)事象をモデル化しないと、どのモデルもデータに適合しません。代わりに、1つの移動事象をモデル化すると、良好な適合が観察されました。これは、コロンビアマンモスの祖先系統の一部がクレストフカ標本系統に由来することを示唆します。

 マンモスの集団史におけるクレストフカ標本系統の進化的背景をさらに評価するため、補完的な混合グラフモデル手法が用いられました。クレストフカ標本とアディチャ標本とチュコチヤ標本を、シベリアのケナガマンモスとコロンビアマンモスとアジアゾウに関連づける、全ての可能性のある系統の組み合わせが、徹底的に検証されました。誤って呼び出された遺伝子型の影響を制限するために、アジアゾウ6頭のゲノムで多型として識別された1ヶ所を含めて、アジアゾウが外群として設定されました。混合事象なしのグラフモデルでは、データにうまく適合しなかったので、単純な系統樹のような集団史は除外されました。対照的に、1回の混合事象を伴うグラフモデルは、完全な適合を提供し、有意な外れ値なしで全てのf4統計の組み合わせを説明します。2つの混合グラフモデル手法から得られた点推定に基づいて、コロンビアマンモスは、クレストフカ標本と関連する系統に由来する祖先系統が38~43%、ケナガマンモス系統からの祖先系統が57~62%の混合事象の結果と推定されました(図2b)。

 未知の起源集団(つまり、ゴースト混合)からの混合ゲノム領域を識別する目的の隠れマルコフモデルを用いて、コロンビアマンモスの複雑な祖先系統のさらなる裏づけが得られました。前期および中期更新世標本を一切含まずに行なわれたこの分析では、コロンビアマンモスのゲノムの約41%は、ケナガマンモスとは遺伝的に区別される1系統に由来する、と示唆されました。その後、ゴースト混合の結果として識別されたゲノム領域の2者間距離系統樹が再構築され、クレストフカ標本のゲノムと密接に関連している、と明らかになりました。対照的に、これらの領域を除外すると、コロンビアマンモスのゲノムの残りは、後期更新世ケナガマンモスの多様性の範囲内に収まります。

 最後に、本論文のD統計分析でも、コロンビアマンモスとアメリカ合衆国ワイオミング州のケナガマンモスとの間での、派生的アレル共有のより高水準が識別されました。F4比に基づくと、これらのゲノム間で共有される祖先系統の過剰は10.7~12.7%と推定され、以前の研究と一致します。コロンビアマンモスはクレストフカ標本祖先系統の大きな割合を有しているので、コロンビアマンモスから北アメリカ大陸のケナガマンモスへの遺伝子流動は、クレストフカ標本系統のマンモスとワイオミング州のケナガマンモスとの間でのアレル共有のより大きな割合を生じたでしょう。クレストフカ標本のゲノムと、ワイオミング州の個体を含むDNA解析されたあらゆるケナガマンモスとの間のアレル共有の過剰は見つからなかったので、遺伝子流動のこの第二段階は一方向で、ケナガマンモスからコロンビアマンモスだった可能性が示唆されます。これは、コロンビアマンモスのゲノムの構成が2回の混合事象の結果であることを示唆します。その混合では、最初はクレストフカ標本系統とケナガマンモス系統のそれぞれから約50%の寄与が、その後では北アメリカ大陸のケナガマンモスからの約12%の遺伝子流動が続きます(図2c)。以下、本論文の図2です。
画像


●マンモスの適応的進化への洞察

 ケナガマンモスは一連の適応的変化を通じて、耐寒性で開地の専門家へと進化しました。本論文のゲノムの古さは、これらの適応がいつ進化したのか、調べることを可能にします。そのために、全ての後期更新世ケナガマンモスが有している派生的アレルと、全てのアフリカのサバンナゾウとアジアゾウが有する祖先的アレルのタンパク質コード変化が識別されました(合計5598個)。前期および中期更新世のマンモスのゲノムで呼び出される可能性のある多様体のうち、マンモス特有のタンパク質コード変化の85.2%(918個のうち782個)と88.7%(2906個のうち2578個)が、ステップマンモス的なアディチャ標本のゲノムと、前期ケナガマンモスであるチュコチヤ標本にそれぞれすでに存在しました。さらに、本論文でDNA解析された前期・中期・後期更新世のマンモスのゲノム間で、非同義箇所と同義箇所の比率の有意な違いは検出されませんでした。したがって、中期更新世開始式の気候とマンモスの形態の変化にも関わらず、この期間中にタンパク質コード変異率に顕著な変化は観察されません。

 以前の分析では、北極圏環境への一連のケナガマンモスの適応の根底にあると考えられている、特定の遺伝的変化が特定されています。これらの多様体(91個)に関して、アディチャ標本とチュコチヤ標本のゲノムが、後期更新世のケナガマンモスで観察されたものと同じアミノ酸変化を共有するのかどうか、評価されました。毛の成長、概日リズム、熱感覚、白色および褐色脂肪沈着と関連する可能性がある遺伝子のうち、コーディング変化の大半がアディチャ標本(87%)とチュコチヤ標本(89%)の両方のゲノムに存在する、と明らかになりました。これは、シベリアのステップマンモス的なマンモス、つまりアディチャ標本が、すでに体毛やいくつかの寒く高緯度の環境への生理的適応をすでに発達させていた、と示唆します。しかし、ケナガマンモスで最もよく研究されている遺伝子の一つである、熱感覚毛の成長に関わっているかもしれない温度感受性チャネルをコードしているTRPV3では、後期更新世ケナガマンモスで識別された4個のアミノ酸変化のうち2個だけが、初期ケナガマンモス(チュコチヤ標本)のゲノムに存在していました。これは、TRPV3遺伝子における非同義変化が、適応的進化の単一の短い突発というよりはむしろ、数十万年にわたって起きたことを示唆します。


●考察

 本論文のゲノム分析からは、コロンビアマンモスが、ケナガマンモスと、クレストフカ標本に表される以前には認識されていなかった古代マンモス系統との間の混合の産物である、と提案されます。これらの系統それぞれが最初にこの古代の混合のゲノムの約半分に寄与した、という知見を考えると、コロンビアマンモスの起源は交雑種分化事象を構成する、と提案されます。この異種交配事象は、北アメリカ大陸のマンモス集団の平均的な大臼歯形態に変化を与えなかったようですが、ミトコンドリアゲノムでは、全ての既知のコロンビアマンモスはケナガマンモスの多様性内に収まるという、コロンビアマンモスにおけるミトコンドリアゲノムと核ゲノムの不一致を説明できます。

 ミトコンドリアゲノム系統樹に基づくと、全ての後期更新世コロンビアマンモスの最も近い共通母系祖先は42万年前頃(95% HPDで511000~338000万年前)と推定され、この異種交配事象が起きた下限年代を提供します(図1c)。マンモスはすでに北アメリカ大陸において150万年前頃までに出現していたので、これらの知見からは、異種交配事象前の北アメリカ大陸のマンモスはクレストフカ標本系統に分類される、と示唆されます。クレストフカ標本の形態を考えると、これは、最初の北アメリカ大陸のマンモスが、北アメリカ大陸への南方マンモス(メリジオナリスゾウ)の拡大に由来するというよりはむしろ、ステップマンモス的なユーラシアの祖先から派生した、という以前に提案されたモデルを確証します。

 本論文の知見は、ゲノムデータが前期更新世標本からも回収できることを示し、種分化事象全体の適応的進化の研究の可能性を開きます。本論文で提示されたマンモスのゲノムから、この可能性を垣間見ることができます。ステップマンモス的な分類群(アディチャ標本)からケナガマンモス(チュコチヤ標本)への移行は、大臼歯形態の顕著な変化を表していますが、この間にゲノム規模の選択率の増加は観察されません。さらに、後期更新世マンモスで特定された多くの重要な適応は、すでに前期更新世のアディチャ標本のゲノムに存在していました。したがって、ケナガマンモスの起源と関連する適応的進化率増加の証拠は見つかりません。これは、マンモスの生息地と形態における大きな変化が、南方マンモス的集団とステップマンモス的集団との間でより早期に起きたと示唆した、以前の研究と一致します。

 100万年以上前のDNAの回収は、古代の遺伝的記録は以前に示されたものを超えて拡張できる、とする以前の理論的予測を確証します。これまでで最古のDNA解析に成功した動物遺骸は、カナダのユーコン準州で発見された78万~56万年前頃のウマの骨でしたが(関連記事)、この研究の成果はこれを大きくさかのぼることになります。前期および中期更新世のゲノムの追加の回収と分析により、進化的変化と種分化の複雑な性質についての理解がさらに深まる、と期待されます。本論文の結果は、DNA回収の時間的限界を拡張するための永久凍結環境の価値を浮き彫りにし、高緯度からの標本が重要な役割を果たすだろう古代DNA研究の将来の時間的深さの重要な一区切りを示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:100万年前のマンモスのDNAが発見された

 マンモスの標本2点から100万年以上前の古代DNAが回収されたことを報告する論文が、Nature に掲載される。これまでに塩基配列が解読された最古のマンモスのDNAの年代は、78万~56万年前のものであった。

 古代DNAは、先史時代の生物集団に関する我々の理解を深めてきた。しかし、種分化(新種の形成)などのいくつかの進化過程は、DNA研究の限界を超えていると考えられる時期に起こっていることが多い。それにもかかわらず、理論モデルからは、DNAが必要とされる時間スケールで存続できるかもしれないことが示唆されている。

 今回、Love Dalénたちは、シベリア北東部で出土した前期更新世と中期更新世のマンモスの標本3点の臼歯からDNAが回収されたことを報告している。臼歯が採取された堆積層の年代に基づいて、3点中2点の標本(KrestovkaとAdychaと命名された)は100万年以上前のものとされた。ミトコンドリアゲノムデータを用いて得られたDNAに基づいた年代推定では、Krestovkaが約165万年前、Adychaが約134万年前、そして第3の標本(Chukochya)が87万年前のものであることが示唆された。

 これらの標本から得られたゲノムデータは、前期更新世のシベリア東部に2系統のマンモスが存在していたことを示唆している。AdychaとChukochyaはケナガマンモス(Mammuthus primigenius)につながる系統だが、Krestovkaマンモスはこれまで知られていなかった系統だった。Dalénたちは、Krestovkaのゲノムが他のマンモスのゲノムから分岐したのは約266万~178万年前であり、Krestovkaは、北米に定着した最初のマンモスの祖先だと推定している。


古代DNA:100万年前のDNAが解き明かすマンモス類のゲノム史

古代DNA:100万年前の古代DNA

 更新世の北米に生息したコロンビアマンモス(Mammuthus columbi)とケナガマンモス(M. primigenius)は、より以前の年代のユーラシア大陸に生息したメリジオナリスゾウ(M. meridionalis)やトロゴンテリーゾウ(M. trogontherii)の系統から派生した。今回L Dalénたちは、メリジオナリスゾウやケナガマンモスに似た形態を示す前期および中期更新世のシベリアのマンモス3個体について報告している。各標本の年代は、齧歯類の生層序に基づき、Krestovkaが120万~110万年前、Chukochyaが80万~50万年前、Adychaが(追加的な形態データの助けも借りて)120万~100万年前と推定された。著者たちは、マンモス種間の進化的関係をより明確にするため、これら3個体の大臼歯から古代DNAを抽出してゲノム規模のデータを得た。KrestovkaとAdychaの核DNAデータは、これまで得られたものの中で最も古い。系統発生解析および集団遺伝学的解析から、Krestovkaのゲノムの分岐は266万〜178万年前と、コロンビアマンモスとケナガマンモスの分岐のはるか前であったこと、そして、コロンビアマンモスはKrestovkaに代表される古代マンモス系統とケナガマンモスとの交雑の結果生じたことが示唆された。



参考文献:
Valk T. et al.(2021): Million-year-old DNA sheds light on the genomic history of mammoths. Nature, 591, 7849, 265–269.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03224-9

ヤツメウナギ類のアンモシーテスの進化

 ヤツメウナギ類のアンモシーテス(現生ヤツメウナギ類の濾過摂食性の幼生)の進化に関する研究(Miyashita et al., 2021)が公表されました。アンモシーテスは、脊椎動物の祖先に関する仮説に長年影響を与え続けてきました。外見がナメクジウオに似たアンモシーテスから特殊化した捕食性の成体へと変態する、現生ヤツメウナギ類の生活史は、脊椎動物の起源に関して広く受け入れられている仮説を再現するように見えます。しかし、アンモシーテスの進化的な古さを裏づける直接的な証拠はなく、脊椎動物における原始的形態のモデルとしての位置づけは不確かです。

 本論文は、古生代のステム群ヤツメウナギ類4属、つまりハルディスティエラ(Hardistiella)、マヨミゾン(Mayomyzon)、ピピシカス(Pipiscius)、プリスコミゾン(Priscomyzon)の幼生および幼形について報告しています。これらの標本には、後期デボン紀のゴンドワナ大陸南端で発見された、プリスコミゾン属の孵化期から成体期に至る成長系列が含まれます。これら4属いずれにおいても、幼生にアンモシーテスの典型的な形質は認められませんでした。その代わり、これらの幼生は、大きく発達した眼、角質性の歯を伴う摂食装置、後部が閉ざされることにより消化管から独立した鰓篭など、現生ヤツメウナギ類では成体にしか見られない特徴を示しています。系統解析の結果、これら非アンモシーテス型の幼生は、ステム群ヤツメウナギ類の独立した3つ以上の系統で見られることが明らかになりました。この広がりは、アンモシーテスが脊椎動物の祖先の名残ではなく、現生ヤツメウナギ類の系統で生活史が特殊化した結果であることを強く示唆しています。

 以上の系統学的知見からはまた、ヌタウナギ類とヤツメウナギ類の最終共通祖先は、濾過摂食性の幼生期を持たない巨食性(macrophagous)の捕食者であったことも示唆されました。したがって、全ての現生脊椎動物の最終共通祖先の形質をよりよく表すのは、現生の円口類ではなく、円口類と顎口類のステム群をそれぞれ構成する、装甲を持つ「甲皮類」がふさわしいと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:古生代のステム群ヤツメウナギ類の非アンモシーテス型幼生

動物学:ヤツメウナギ類のアンモシーテスは比較的最近出現した

 ヤツメウナギ類のアンモシーテスは、脊椎動物の祖先の名残と考えられている。しかし、宮下哲人(カナダ自然博物館ほか)たちが今回報告している新たな化石証拠からは、最古のヤツメウナギ類が、現生ヤツメウナギ類の成体をそのまま小さくしたような姿で孵化していたことが明らかになった。これは、アンモシーテスが、より最近になって進化した形態である可能性を示唆している。この知見は、捕食性の脊椎動物が濾過摂食性の祖先から進化したとする脊椎動物の進化モデルの文脈において重要である。



参考文献:
Miyashita T. et al.(2021): Non-ammocoete larvae of Palaeozoic stem lampreys. Nature, 591, 7850, 408–412.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03305-9

デンマークの新石器時代単葬墳文化の人々の遺伝的構成

 デンマークの新石器時代の単葬墳文化(Single Grave Culture、略してSGC)の人々の遺伝的構成に関する研究(Egfjord et al., 2021)が公表されました。最近の大規模な古代人口集団の遺伝的研究では、ヨーロッパの縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)は、紀元前三千年紀にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から西方へと拡大し、ヨーロッパの新石器時代人口集団と混合した、ヤムナヤ(Yamnaya)文化とつながる集団として出現した、と示されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 この移住過程は、ヨーロッパの文化的および遺伝的景観を永久に変えました。4850~4600年前頃のデンマークとドイツ北部とオランダにおけるSGCの出現は、ヨーロッパの他地域のCWCの形成と類似した文化的変化を表しており、何十年も、これは考古学者の間で広く議論されてきた現象でした。デンマークでは、最初のSGC定住地域はユトランド半島中央部および西部の平坦な砂質土壌で、ここでは骨格遺骸が保存されていないものの、何千もの小さな塚(古墳)がSGCの大規模な存在を証明しています。花粉分析で報告されているように、SGCの到来には景観変化が伴いました。

 デンマーク西部となるユトランド半島では、SGCはおもに埋葬で知られています。定住の証拠は疎らで、建物の残骸はほぼ独占的にSGCの後の段階に由来します。SGCの墓は通常、小さな古墳の下の単一の土葬です。墓において遺体の位置を反映する土壌痕跡からは、遺体は横向きに置かれ、一般的には東西軸の南向きである、と示されます。右側に横たわる遺体(頭は西)は通常、戦斧や燧石の斧や琥珀色の円盤が伴っていますが、左側に横たわる遺体(頭は東)は土器と琥珀色のビーズを有しており、全体的なCWC伝統と一致して、性別を強調する埋葬の扱いが示唆されます。

 生計の証拠は乏しいものの、エンマーコムギやハダカムギの耕作および家畜の飼育が証明されています。ユトランド半島西部の花粉の証拠は、おもに牧草地の形でのこの時点での広範な開墾を示しており、その目的は明確に、放牧のための広大な開地の確保でした。デンマーク東部では、SGCの存在は後からとなりあまり目立たず、さまざまな形となります。デンマーク東部では、いくつかの例外はあるものの、古典的なSGCの塚は見られず、代わりに既存の巨石墓が再利用されます。SGC伝統はより古い漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、略してTRB)と統合します。またデンマーク北部では、ブーストロプ(Bøstrup)様式の窯のような新たな様式の巨石墓が建てられ、その事例としてゲアイル(Gjerrild)遺跡の埋葬記念碑(図1)があります。

 デンマークにおけるSGCの発展が(南方地域からの)人々の移住により促進されたのか、それとも在来の文化的適応およびTRBの在来新石器時代農耕民の拡大を表しているのか、あるいはこの2つの現象の組み合わせなのか、長く未解決の問題でした。この議論は、カテガット海周辺のデンマーク沿岸部の、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)とつながる混合経済の存在により複雑になっており、この混合経済は魚とアザラシを含む非家畜資源に大きく依存しました。PWCは年代的にSGCと重なり、ゲアイル記念碑が位置するデューアスラン(Djursland)北部に強い存在感を示します。

 ユトランド半島やドイツ北部やオランダにおける何千もの塚の存在にも関わらず、SGC集団が好んで居住した地域の一般的な土壌条件のため、人類遺骸はひじょうに疎らです。この点で、ゲアイル遺跡埋葬のよく保存された骨格(図1)は幸運な例外です。ゲアイル遺跡のSGC個体群が典型的な新石器時代遺伝的祖先系統の在来の人々で、単に新たな埋葬文化を採用したのか、それとも移民CWC集団を表しているのか調べるために、古代DNA分析と放射性炭素年代測定とコラーゲンの炭素13・窒素15食性測定を目的として、ゲアイル遺跡の骨格のうち5個体が標本抽出されました。次世代「ショットガン」配列を用いてゲノム規模情報が得られ、ゲアイル遺跡個体群の祖先系統を、ヨーロッパの他の関連する新石器時代および前期青銅器時代集団と比較できました。本論文は、この例外的なデンマーク先史時代遺跡に埋葬された個体群への詳細な洞察を提供し、ヨーロッパ北部の紀元前三千年紀における移住の役割と新たな文化の形成の理解に貢献します。以下、本論文の図1です。
画像


●ゲアイル遺跡

 ゲアイル遺跡はユトランド半島東部のデューアスラン北部に位置し、デンマークで知られているSGC遺骸では最も保存状態が良好で数も多い点で注目されます。デンマークの新石器時代文化史では、デューアスラン北部はTRB最終期の発見が欠けていますが、代わりに比較的短いものの重要な狩猟漁撈採集民志向のPWC段階(紀元前3000~紀元前2700年頃)を経ている点で独特です。PWC段階の後、デューアスランの文化的発展はデンマーク東部に続き、巨石墓の継続的使用とわずかなSGCの単葬墳と少なく遅い戦斧により特徴づけられます。したがって、4ヶ所のSGC墓のみが以前のPWCが優勢なデューアスラン北部において報告されており、これらは全て紀元前2500年頃以後となります。

 ゲアイル遺跡の墓は1956年に発掘され、その埋葬は考古学的に副葬品に基づくSGCの上部墓時代(紀元前2450~紀元前2250年頃)となり、薄い刀身と厚い端の燧石手斧や2個の琥珀色ビーズや3個の燧石鏃で構成されます(様式D)。古典的なSGC墓のほとんどとは異なり、ゲアイル遺跡の塚はいわゆるブーストロプ棺である巨石墓を含みます。ブーストロプ棺はほぼ独占的にユトランド半島北部および北東部で見られるので、ユトランド半島中央部および西部の初期各地域の北部と東部の、SGCの後の拡大を表しています。墓室は乱されていたものの、その輪郭を再構築できました。墓室はより広い北端では長さ2.8~3m、幅1.6~1.7mですが、南部では幅がわずか約1mで、入口が見つかりました。

 ゲアイル遺跡の人類遺骸には、少なくとも10個体が含まれており、成人6個体、学童期(juvenile、6~7歳から12~13歳頃)1個体、子供3個体です。これらの頭蓋の形態分析から、ドイツ中央部のCWC個体群とまとめられましたが、その後となるデンマーク後期新石器時代の個体群は、TRB集団とCWC集団両方の混合とされました。これら人類遺骸のいくつかは関節がつながっていましたが、他は多かれ少なかれ乱れており、関節が離れていました。以前の研究では、1~9の番号が振られた数個体の遺骸が識別されました(図1)。2個の遺骸(ゲアイル6および7)は互いに並行して仰向けに置かれており、他の2個体は腰掛けのような位置にいました。ゲアイル6の顕著な特徴は、胸骨に刺さっている燧石鏃で(図1)、おそらくは死因となった戦傷です。様式Dの鏃は後のSGC段階(紀元前2525~紀元前2250年頃)を特徴づけると考えられていますが、本論文のゲアイル6遺骸の放射性炭素年代は、そのような鏃の最初の「直接的」年代測定です。ゲアイル7遺骸の注目される特徴は、おそらく外傷で溜まった血を出すような健康上の問題の治療のための、穿孔による頭蓋の穴でした。

●同位体測定と放射性炭素年代測定

 コラーゲンの炭素13および窒素15値からは食性を推定できます。ゲアイル遺跡個体群の両同位体値は低く、海洋および/または淡水食資源からの寄与は限定的と示されます(図2)。ゲアイル遺跡個体群のうち、ゲアイル1は完全に陸生食性を示しますが、ゲアイル6および7は限定的な海洋食性を示します。以下、本論文の図2です。
画像

 放射性炭素年代は、6個体のうち5個体は4007~3790年前(非較正)で、較正年代では紀元前2575~紀元前2035年頃となります。これら5個体のうち最古の個体はゲアイル8で(較正年代で紀元前2575~紀元前2345年頃)、ゲアイル5が最も新しく、較正年代で紀元前2284~紀元前2035年頃です。これらの年代から、ゲアイル遺跡の墓室がSGC期に使われたと確認されます。ゲアイル遺跡個体群のうち、1・6・7・8はSGC中期および後期と結論づけられます。これは、考古学で示されたよりも早い記念碑の建設と長い使用期間を示唆します。ゲアイル5の年代はわずかに新しく、後期新石器時代もしくは中期~後期新石器時代移行期に相当します。6個体のうち頭抜けて新しい下顎骨標本(較正年代で紀元前1741~紀元前1443年頃)は前期青銅器時代に相当します。男性2個体(ゲアイル6と7)は年代が重なっており、同時代の可能性がありますが、ゲアイル8はもっと早く、ゲアイル5はそれより後になります。ゲアイル1はゲアイル8とほぼ年代が重複していますが、やや後かもしれまず、ゲアイル8とゲアイル6および7の中間です。


●DNA解析と性別決定

 ゲアイル遺跡個体群のDNA保存状態は悪かったものの、ゲアイル1・5・8個体で、それぞれゲノム網羅率0.007倍・1.038倍・0.020倍のデータが得られました。遺伝的に、ゲアイル5・8は男性、ゲアイル1は女性と識別されました。ゲアイル1は以前に形態学的に女性と識別されていましたが、ゲアイル5・8は遺伝学で初めて性別が識別されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、ゲアイル5・8がK2aで、ゲアイル1がHV0です。Y染色体ハプログループ(YHg)は、ゲアイル8では識別できず、ゲアイル5はR1b の稀な下位系統であるR1b1a2(V1636)です。ゲアイル5のYHgと、以前にYHg-R1b1a2が確認された個体群から、YHg-R1b1a2の分岐がYHg-R1b1a1b(M269)の拡大と多様化に先行する、と示されます。YHg-R1b1a1bの下位系統には、ヤムナヤ埋葬と関連する古代の個体群間で一般的なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)や、ヨーロッパ現代人全体で一般的なYHg-R1b1a1b1a(L51)が含まれます(図3)。以下、本論文の図3です。
画像


●人口集団分析

 ゲアイル遺跡の3個体(1・5・8)のゲノムデータが、他のユーラシア西部古代人と比較されました。主成分分析(図4)では、年代・地理・文化と関連する古代の個体群のクラスタ化が確立されました。主成分分析では、MDS(多次元尺度構成法)1は、オクネヴォ(Okunevo)文化やボタイ(Botai)文化のようなアジア中央部青銅器時代個体群と新石器時代個体群を分離し、ヨーロッパおよび草原地帯青銅器時代個体群を両者の勾配に位置づけます。MDS 2は、より早期のヨーロッパ狩猟採集民とアジア中央部の新石器時代個体群を区別します。

 ゲアイル遺跡の3個体が、線形陶器文化(Linear Pottery Culture、略してLBK)やTRBや球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)集団で観察される、典型的な前期および中期新石器時代祖先系統を示さないことは明らかです。ゲアイル遺跡個体群はむしろ、CWCやスカンジナビア半島の戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)やドイツのウーネチチェ(Unetice)文化のような、ヤムナヤ文化集団の移住とつながる個体群に先行するヨーロッパ北部および東部の個体群と遺伝的に類似しています。より詳細な水準では、ゲアイル遺跡の3個体は、草原地帯個体群に遺伝的により近いCWCと関連する最初期の個体群から、やや離れてクラスタ化しています。以下、本論文の図4です。
画像

 ADMIXTUREの結果(図5)から、ゲアイル遺跡の3個体全員が主要な「ヨーロッパ後期新石器時代および青銅器時代」クラスタの範囲に収まり、それに応じて草原地帯関連祖先系統構成要素を示す、と確認されます。以下、本論文の図5です。
画像


●考察

 SGCはオランダからデンマークのユトランド半島まで広がっていました。ゲアイル遺跡個体群のDNA分析から、TRBと関連する以前の新石器時代人口集団には存在しない草原地帯関連祖先系統として観察された、CWCと関連する個体群との密接な遺伝的関係が示されました。したがって本論文の結果から、SGCの習慣に従って生活して埋葬された人口集団が、遺伝的にはCWCと関連する人口集団の北西部の分枝とみなされるべきである、と提案されます。

 SGCは紀元前2850~紀元前2700年頃にユトランド半島中央部および西部に出現し、ユトランド半島の砂質土壌の平坦な景観には、先行する新石器時代集団の居住は疎らでした。ユトランド半島では森林がむしろ開けており、容易に牧草地に変換できます。それは花粉分析で明らかになっており、牧畜経済戦略を志向した後期TRB集団の居住地域で起きた過程です。考古学的指標に基づくと、SGC移住者群の起源はドイツ中央部のハレ(Halle)地域を示しているかもしれず、森林が数世代以内で消滅したので、かなりの程度で継続的だったに違いありません。SGCがユトランド半島中央部および西部に確立すると、デンマークの島々やユトランド半島北部および東部において、まだ後期TRB集団が存在したかもしれない地域に拡大した可能性が高そうです。ゲアイル遺跡個体群は、拡大の第二段階に由来します。


▲ゲアイル遺跡古墳の年代と使用

 ゲアイル遺跡塚の主要な使用期間は紀元前2600/2500~紀元前2200年頃以後で、紀元前1700年頃に再利用されました。これの年代は、人工物から推測されたよりも長い期間で、建設はSGCの中期となります。この年代は、最古の個体ゲアイル8に基づきます。残りの年代は、(再利用されたさいの紀元前1700年頃の個体を除く)最新の個体ゲアイル5に基づきます。スカンジナビア半島南部における中期~後期新石器時代の境界の定義に基づくと、ゲアイル5は後期新石器時代早期もしくは中期~後期新石器時代移行期に分類できます。ゲアイル遺跡では、個体が同時に埋葬されたのではなく、推定約300年間使われたことは明らかです。埋葬されたのが10人以下の場合、平均して1世代に1人しか埋葬できなかったかもしれず、全人口からの強力な選択を示唆します。墓室の個体群が同じ家系に属すのかどうか、本論文の結果からは決定できませんが、選択は性別や年齢の基準ではなかったことが明らかです。

 上述のように、ゲアイル6の胸骨には様式Dの燧石鏃が刺さっていました。様式Dの鏃は後期SGC(紀元前2525~紀元前2250年頃)と考えられており、本論文のゲアイル6の年代(紀元前2447~紀元前2201年頃)を確証します。ゲアイル遺跡の発掘では、ゲアイル6が最後に埋葬された個体と推測されましたが、これは放射性炭素年代と矛盾しています。様式Dの鏃は古典的なPWCの鏃(様式A~C)から派生した、と推測されています。様式CとSGCの様式Dは両方、特殊な戦争用鏃とみなされています。

 2個の土器で大きい方は石棺のほぼ中央で発見され、高さは16.7cm、幅は20.5cmです。これはユトランド半島東部北方地域のヒマーランド(Himmerland)を中心に分布する丸胴様式の典型的な事例です。墓の南端にある、ゲアイル6頭蓋の近くに置かれているより小さな土器は、高さが9.5cm、縁の直系が11.7cmです。これはまっすぐなビーカー(大杯)の大型に分類されますが、側面が湾曲しています。この様式はユトランド半島北東部の同じ地域でも見られますが、じっさいにはデューアスラン西部に由来します。両方の土器は後期SGC(紀元前2450~紀元前2250年頃)に分類され、少なくとも一部の被葬者では、墓の様式のように、後期SGCの内陸部の文化的環境と関連しています。

 縁が僅かに窪んだ薄い刀身と厚い端の燧石手斧はゲアイル6の近くの墓の南部見つかっており、その長さは13.1cm、縁の幅は5.9cmです。燧石の手斧(釿)は、SGCの古墳期に出現し始めました。ゲアイル遺跡の薄い刀身の手斧は様式3A1に分類されており、年代は後期SGCの上部墓期なので、土器の年代に相当します。墓の燧石手斧は、ゲアイル周辺地域が後期SGCの人々の標的になった理由を説明できるかもしれません。この種の燧石手斧は、デューアスラン東部で顕著な分布を示します。隣接するゲアイル・クリント(Gjerrild Klint)には、高品質の豊富な燧石がありました。そのような燧石資源の管理は、これら新たに確立した共同体に、より高品質のさまざまな燧石製品を作って交換することで利点を与えたので、地域を超えてより大きなネットワーク同盟を形成するでしょう。


▲食性と移動性

 骨のコラーゲンの炭素13と窒素15の値から、食性を推定できます。ただ、この値は気候や植生被覆や牧畜のような人類の活動により時空間的に変化する可能性があります。局所的で時系列的に関連する背景知識がない場合、ゲアイル遺跡個体群の同位体値の解釈は一般的でしかありません。ゲアイル遺跡は海岸に近いにも関わらず、その個体群では限定的な海洋性タンパク質摂取量が示唆されます。成人女性のゲアイル1は、完全に陸生食性を示す点で他の個体と異なります。これは、ヨーロッパ北部の他の新石器時代個体群の値と類似しているかわずかに低く、ドイツのCWC集団よりも明らかに低くなっています。これらの結果から、ゲアイル1の食性はおもに植物、つまり穀物に依存していた、と推測されます。これは、後期SGCにおける最初の数世紀よりも高い農耕への依存度と移動性の低い生活様式を示唆する、定住と経済のデータを裏づけます。

 ストロンチウム同位体比(87/86)は以前の研究で示されていましたが、最近のより詳細な研究で訂正する必要があるようです。ゲアイル遺跡の青銅器時代の下顎骨(RISE72)は最低のストロンチウム同位体比を示し、その他の個体と一致します。ゲアイル5・6・7・8はRISE72よりも高い値を示し、とくに成人個体ゲアイル6および7はひじょうに類似した値を示すので、同じ地域で成長した可能性があります。そのような値の最も近い地域は、ゲアイル遺跡から西方に約10~20kmに位置します。同様の値は、スウェーデン南端やヨーロッパ中央部の多くの地域や他のデンマーク地域でも見られるので、この2個体の起源の問題に決定的に答えることはできません。しかし、このストロンチウム同位体比に関する最も簡潔な説明は、ゲアイル遺跡の墓に葬られる個体の地域は、遺跡から少なくとも10~20km離れた地域を含んでいた、というものです。

 成人女性ゲアイル1は、全個体で最も高いストロンチウム同位体比を示し、これは明らかにデンマーク外の出自なので、長距離移動が示唆されます。上述のように、ゲアイル1は海洋資源に依存する食性を示しませんでした。そのため、ゲアイル1の出身地としては、スウェーデン南部、ボーンホルム島、ヨーロッパ中央部のいくつかの地域が考えられますが、同位体もしくは考古学的データからは区別できません。ともかく、ゲアイル1はそのストロンチウム同位体比から、ドイツ南部のCWC集団でも示唆されているように、族外婚慣行と一致します。


▲遺伝的祖先系統

 温帯地域の古代人遺骸でよく見られるように、ゲアイル遺跡個体群のDNAの保存状態は、錐体骨からDNAが得られたゲアイル5を除いて不充分でした。この結果は、錐体骨が古代DNA分析に適していることを改めて確認しました(関連記事)。ゲアイル遺跡個体群のうち3個体で分析に充分なゲノム規模データが得られ、最も高品質なゲアイル5では網羅率1倍以上のデータが得られました。

 本論文の分析は、ゲアイル遺跡の3個体が「草原地帯DNA」と呼ばれる特定のゲノム祖先系統構成要素を有意な割合で有する、と明確に示します。これは、ヨーロッパの遺伝的景観を永久に変えた紀元前3000年頃のヤムナヤ文化関連集団の移住のゲノム痕跡です。紀元前3000年頃以前のヨーロッパ新石器時代農耕民は、紀元前8000年頃に始まる中近東からの大規模な人口集団拡大に直接的にさかのぼるゲノム祖先系統を示しました。しかし紀元前3000年頃に、ヤムナヤ牧畜民がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から東方へはアルタイ山脈、西方へはヨーロッパと両方に拡大しました。在来の新石器時代共同体との遭遇は時として劇的で暴力的だったかもしれませんが、新たな文化の形成、つまりCWCをもたらしました。したがって、CWCおよび関連する文化の遺骸から古代DNAが分析されると、ヨーロッパ新石器時代とヤムナヤ関連の祖先系統が常に明らかになります(関連記事)。

 ゲアイル遺跡個体群の祖先系統分析からは、デンマークのSGCはCWCの北方の「分枝」として遺伝的に特徴づけられるかもしれない、と示されます。TRBからSGCへの移行は、単純な人口統計学的継続性として特徴づけられる可能性はほとんどありません。むしろSGCの出現は、紀元前3000年頃にヨーロッパの大半で起きつつあった同じ大きな人口統計学的変化の産物です。ヨーロッパ規模の人口統計学的変化に関する現在の知識を考えると、これは驚くべき結果ではありません。しかし本論文の観察はCWC拡大の地理的範囲と年代の理解に重要な情報を示しているので、デンマークにおけるSGCの起源と後の拡大に関する長く続く議論に貢献します。より具体的には、ゲアイル遺跡の3個体はユトランド半島東部への東方へと向かう地域的移住のより後期の段階を表しています。

 ゲアイル遺跡個体群の遺伝的データは3個体分しかなく、そのうち1個体(ゲアイル5)だけが網羅率1倍以上なので、デンマークのSGCの正確な起源や他のCWC的集団との関係について、本論文では詳細な遺伝学的議論は行なわれません。しかし、ゲアイル遺跡の3個体は、平均してわずかに高い割合の草原地帯関連祖先系統を示す、主要なヨーロッパCWCクラスタとはやや離れているようです(図4および5)。ゲアイル遺跡の3個体は、スウェーデンの戦斧文化関連個体群、ポーランドのウーネチチェ文化個体群、以前に分析されたデンマークの後期新石器時代および前期青銅器時代個体群など、他のCWC派生文化の個体群と密接な遺伝的類似性を有しています。これらの観察は、より広範なCWCにおける、微妙な地理的もしくは時間的な人口集団の遺伝的構造を示唆します。ゲアイル遺跡の3個体の遺伝的構成は、まだ存在していた新石器時代人口集団との相互作用の長期の過程から生じたものの、その適切な検証にはより大規模な人口集団ゲノムデータセットのより詳細な分析が必要になる、と本論文では提案されます。

 残念ながら、デンマークとスウェーデン西部どちらのPWC個体群でも、利用可能な遺伝的データはありません。しかし、ゲアイル遺跡の3個体は、草原地帯関連祖先系統を示さないスウェーデン東部の既知のPWC個体群とは遺伝的類似性を示さない、と確認できます(関連記事)。PWC集団はひじょうに移動性が高く、紀元前3000年頃から前期SGC段階まで続くユトランド半島北部およびデューアスランのPWC遺跡群があります。したがって、スウェーデン東部のPWC個体群が、その移動性のためより広範な観点でPWCの遺伝的代表とみなせるならば、SGCの初期段階におけるPWCとSGCの相互作用はひじょうに異なる2人口集団のもので、この時点でヨーロッパの大部分において起きているより広範なCWCとTRBの相互作用と類似しています。しかし、この提案は、西部PWCと関連する個体群の将来のDNA分析により検証される必要があります。

 mtHgは、ゲアイル8および5がK2aで、ゲアイル1がHV0です。これらのmtHgは「新石器時代一括」の一部で、新石器時代以降後にヨーロッパで一般的になり、mtHg-K2の下位系統は以前にその後のCWC集団やイングランドの鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)集団(関連記事)で観察されました。これは、女性遺伝子プールの継続性としてよく解釈されており、到来してくるCWC関連移民はおもに男性で、その後で在来の女性がCWC集団に取り込まれた、と示唆されます。ゲアイル遺跡の3個体のmtDNA分析は、この見解と矛盾していません。さらに珍しいのは、ゲアイル5のYHg-R1b1a2です。これはYHg-R1bの稀な下位系統で、ポントス・カスピ海草原の銅器時代の4個体と、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の銅石器時代1個体(関連記事)で観察されています。


▲考古学的意味と解釈

 デンマークにおけるSGC到来の年代は、花粉分析により確証されます。ゲアイル遺跡の理解でとくに重要なのは、デューアスラン北部のPWCの活動が紀元前28世紀頃に終わり、その後、この地域の考古学的発見がほぼ完全に欠落している、という事実です。この欠落は、紀元前26世紀と正確に年代測定された、最初のゲアイル遺跡埋葬の頃に終わりました。ゲアイル遺跡の西方約12kmに位置するデューアスラン北部のフールスー(Fuglsø)湿原からの高解像度花粉図表では、農耕活動の200年の脱落と森林の再生が観察できます。SGCがデューアスラン北部に到来した時、森林はおもに恒久的な放牧のために再び開けました。花粉拡散の増加は開地の指標として観察できますが、以前のTRB農耕期よりも顕著に少なくなっています。したがって、ゲアイル遺跡の古墳は、約2世紀の「暗黒時代」の後に、この地域において復活した定住の時期を示しています。

 人類遺骸はSGCでは疎らなので、ゲアイル遺跡個体群のDNAデータは、紀元前三千年紀のデンマークにおけるSGCと関連する文化的および社会的変化の背景にある過程に、独自の洞察を提供します。デンマークの地域的なSGCが文化的変容だけではなく、ヨーロッパ他地域におけるCWCの拡大と関連する遺伝的変化も表している、と本論文は提案します。この変容がどのように地域的に認識されたのか、明らかではありません。デンマークのPWCは、ユトランド半島の北部および北東部の沿岸地域で見つかる比較的少ない大規模定住遺跡により特徴づけられます。しかし、利用可能な少ない情報を見るならば、PWC集団との遭遇は必ずしも平和的ではなかった、と示唆されます。経済は混合され、海洋資源に注目しているものの、狩猟や家畜や小規模農耕を含んでいるようです。

 当初、PWCとSGCの共同体はおそらく、領土や資源をめぐって深刻には競争していませんでした。しかし、これはSGCがユトランド半島北部と北東部に拡大してきた時に変わった可能性が高そうです。それは、特殊なPWCの戦争用鏃(様式C)を含む、 SGCの下部墓期(紀元前2850~紀元前2600年頃)の墓により示唆されます。墓の中の鏃の位置は、埋葬のさいに身体に供えられた可能性が高そうです。4基の単葬墓が、リームフィョー(Limfjord)のすぐ南のユトランド半島北部のSGCとPWCの境界地帯として定義される場所にあります。墓のうち3基は、PWC中核領域とみなせるかもしれない場所に位置する、最北で記録される初期SGC墓にあります。したがって、拡大するSGC集団と在来のPWC集団にとって関心のある地域において、侵入もしくは短期の確執の形で起きた暴力的遭遇を予想しなければなりません。そのようなパターンはじっさい、紀元前三千年紀の激しい人口統計学的および文化的過程において暴力的衝突が重要な役割を果たした、と示唆するヨーロッパ他地域の証拠と一致します(関連記事)。

 様式Dの鏃の存在と、ゲアイル遺跡の埋葬の比較的遅い年代から推測して、ゲアイル遺跡個体群の一部の外傷はPWCとSGCの遭遇の結果ではなさそうです。代わりに、そうした外傷はSGC内の競争の結果である可能性が高そうです。明らかな紛争の原因は、本論文で分析されたゲアイル遺跡の石棺の東方1.5km未満の沿岸の崖で見つかる、豊富な燧石堆積物だった可能性があります。これらの資源はPWC期に集中的に利用され、薄い刀身との燧石手斧と様式D鏃の一定の集中により示唆されるように、おそらくその後のSGC期にも利用されました。いずれにしても、鏃および外傷と関連する2個体(ゲアイル6および7)の問題が重なっており、同時代かもしれないことは注目に値します。これは、2人が以前のPWC 地域に居住するSGC集団間の、同じもしくは恐らく関連する一連の敵対的遭遇の犠牲者だったかもしれない、という可能性を提示します。

 上述のように、ゲアイルとデューアスラン北部のいくつかの同時代SGC遺跡は、この地域が放棄されたように見える約2世紀の後の定住を表しており、海から容易に利用できる高品質燧石堆積物のより制約されていない、もしくは共同の利用を可能としたかもしれません。ゲアイル遺跡の塚を建築した集団が紀元前26世紀にこの地域に定住した時、その集団は、この地域と、長く争われていたか未制御だった資源への領域的主張をした、いくつかの集団の一つだったかもしれません。この仮説は、ゲアイル遺跡の人類遺骸に反映されている暴力的紛争を説明できるかもしれません。


参考文献:
Egfjord AF-H, Margaryan A, Fischer A, Sjögren K-G, Price TD, Johannsen NN, et al. (2021) Genomic Steppe ancestry in skeletons from the Neolithic Single Grave Culture in Denmark. PLoS ONE 16(1): e0244872.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0244872

大河ドラマ『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」

 今回冒頭で、徳川家康により水戸藩における尊王の伝統が語られました。本作でもう一人の主人公と言えそうな徳川慶喜の言動を理解するうえで、これは重要となるでしょうから、適切な解説だったと思います。最初は、幕末~近現代の大河ドラマに徳川家康が登場するという演出には懐疑的でしたが、今では、解説がなかなか的確なこともあり、成功と言えるように思います。幕末の複雑で急変する政治状況を家康が解説すれば、本作をよりよく理解できそうですし、明治以降も家康の解説があるとよいのですが、どうなるでしょうか。

 今回も、渋沢栄一を中心とする農村部の話と、慶喜を中心とする「中央政界」の話の二部構成でした。今回、栄一と慶喜が遭遇したとはいえ、両者はまだ本格的に接続しておらず、まとまりの悪いところがあるとも言えますが、両者の接続はそう遠くないでしょうから、その時が楽しみです。ただ、現時点でも話はなかなか面白くなっており、とくに不満はありません。農村部の話は大河ドラマらしくない、と不満に思う大河ドラマ愛好者は少なくないかもしれませんが、道場破りや攘夷に向かう当時の農村有力者層の動向が描かれており、大河ドラマとして見てもとくに不満はありません。判断は時期尚早ですが、本作は当たりとなりそうで、今後も楽しみです。

後期更新世アジア北部におけるY染色体ハプログループC2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源

 後期更新世アジア北部における特定のY染色体ハプログループ(YHg)C2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源に関する研究(Sun et al., 2021)が公表されました。以前の考古学的および遺伝学的研究では、アジア北部における現生人類(Homo sapiens)の出現と最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の再拡大に関わる過程が明らかにされてきました。アルタイ山脈からチュクチ半島にいたるアジア北部では、一連の旧石器時代遺跡が発見されており、古代DNA研究では、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年1個体のゲノムに代表される「古代北ユーラシア」人口集団が、現代ユーラシア人およびアメリカ大陸先住民の遺伝子プールに大きく寄与した、と示されています(関連記事)。24000~18000年前頃のLGMは、アジア北部の人口集団の遺伝的構造を強く再形成しました(関連記事)。LGM後、さまざまな地域の古代人口集団は、アジア北部全域に再拡散しました。これら古代人口集団間の長期の混合はついに、アジア北部の現代人集団の出現につながりました。

 以前の調査では、アジア北部の人口集団は4系統のYHgと多くの稀な系統で構成されます。たとえば、YHg-Nは、ウラル語族の唯一の創始者父系で、ツングース語族やモンゴル語族やテュルク語族人口集団において高頻度ですが、YHg-C2a1a3(M504)はモンゴル語族人口集団の創始者父系の一つです。古代および現代の人口集団両方の研究により、YHg-C2a1a1b1(F1756)が東胡(Donghu)や鮮卑(Xianbei)や室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)といった人口集団で優勢な系統だった、と示されました。YHg-C2a1a2a(M86)はツングース語族の人々の唯一の創始者父系です。これら4系統のYHgの下位系統は過去5000年に出現しました。

 YHg-C2a(L1373)には多くの少数派の下位系統があり、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の人口集団から無作為に検出されてきました。たとえば、コリャーク人(Koryak)のYHg-C2a1a1b2(B77)・C2a1a4c(B79)・C2a1a2b1(B91)、朝鮮人のYHg-C2a1b(BY145927)、日本人のC2a1a4(M8574)です。一般的に、これら稀な系統のほとんどの起源と拡散過程は曖昧なままです。以前の研究では、YHg-C(M130)もしくはC2(M217)もしくはC2a1a1a(P39)の広範な分布が明らかにされてきました。重要なことに最近の研究では、エクアドルのワランカ人(Waranka)集団で新たなYHg-C2a2b(MPB373)が識別されており、アメリカ大陸先住民の祖先集団の形成における「短いベーリンジア停止」期間を裏づける、と示唆されています(関連記事)。古代DNA分析では、1万年前頃となるブラジルのCP19個体(関連記事)と、ロシア沿海地域のNEO239個体(関連記事)も、YHg-C2a2bに分類されます。これら現代および古代のデータからは、YHg-Cの下位系統がアメリカ大陸先住民の創始者父方系統の一つだった、と示唆されます。

 「ベーリンジア停止仮説(ベーリンジア潜伏モデル)」は、過去10年のアメリカ大陸先住民の起源に関する最も評判のよい理論です(関連記事)。この仮説では、以下のことが提案されています。まず、アメリカ大陸先住民の直接的祖先はベーリンジアに32000年前頃もしくは22000年前頃に移動してきました。次に、アメリカ大陸先住民関連の遺伝的構成の分化はLGMにおいて大ベーリンジア地域で起き、LGM後のベーリンジアから東方への拡大は、アメリカ大陸先住民の出現とベーリンジアからの西進につながりました。このいわゆる「逆移動」は、シベリアにおけるアメリカ大陸先住民の最も密接に関連する系統とほとんどのユーラシア北部人の起源です(関連記事)。31600年前頃となるシベリア北東部のヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、以下ヤナRHS)は、かつてベーリンジア停止仮説を裏づける最も強力な証拠とみなされました。現在利用可能な証拠は、LGMにおいて最寒冷地域の一つであるシベリアの古代人集団はベーリンジアに集中し、LGM後にそこからシベリア北東部の大半とアメリカ大陸に拡散した、と提案する以前の仮説と矛盾している、と本論文は主張します。

 ヤナ遺跡集団の古代DNAの最も進んだ分析では、以下のように提案されています(関連記事)。マリタ遺跡の少年個体に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先集団、古代旧シベリア人(APS)、古代ベーリンジア人は、LGM前に分岐した古代北シベリア人(ANS)およびこれらの祖先集団と遺伝的構成を共有しています。アジア東部人とANS関連祖先系統の混合によりAPSと古代ベーリンジア人とアメリカ大陸先住民の直接的祖先集団が生まれ、この混合は2万年前頃に起きました。混合人口集団の北方への拡散はLGM後に起きた可能性が高く、LGM後の細石刃技術の拡大に反映されているようです。アジア東部人の遺伝的構成の欠如のため、31600年前頃のヤナRHS個体はアメリカ大陸先住民の直接的祖先集団ではありません。最近の古代DNA研究では、後期更新世以来のアジア北東部とシベリア北東端のチュクチ半島と北アメリカ大陸のより詳細な人口史が提供されています(関連記事)。一般的に、最近の技術による古代DNA研究は、「長期ベーリンジア停止仮説」と一致しません。本論文では、アメリカ大陸先住民の創始者系統に最も密接に関連するYHgが特定され、アメリカ大陸先住民の祖先集団の出現は、LGM後のユーラシア全域での大きなYHg-Q1b1(L53)の拡散の一部だった、と提案されます。

 本論文は、アメリカ大陸先住民の創始者父系であるYHg-C2a1a1a(P39)とC2a2b(MPB373)のより詳細な起源過程に焦点を当てます。YHg-C2a(L1373)の稀な下位系統であるC2a1a3(M504)・C2a1a1b1(F1756)・C2a1a2a(M86)に分類される、43人の男性のY染色体DNA配列が分析されました。年代推定を有する改訂された系統樹が、YHg-C2aの利用可能な全下位系統で再構築されました。旧石器時代のこれら下位系統の起源および分化過程が調べられました。とくに、稀な下位系統の分岐パターンに焦点が当てられ、アメリカ大陸先住民におけるYHg-C2a1a1aとC2a2bの起源を調べる証拠が用いられました。全体として、本論文は正確な年代の洗練されたY染色体系統樹を生成し、YHg-C2a下位系統の起源と拡散およびアメリカ大陸先住民の祖先集団の形成における寄与を調べます。


●分析結果

 調査対象の標本の地理的位置は図1に示されます。緑色の台形は大きい方が現代、小さい方が古代のYHg-C2a(L1373)の稀な下位系統を表します。灰色の円形は、大きい方が現代、小さい方が古代のYHg-C2aの主要な下位3系統であるC2a1a3(M504)・C2a1a1b1(F1756)・C2a1a2a(M86)を表します。赤色の四角はアメリカ大陸の標本を表します。以下、本論文の図1です。
画像

 YHg-C2a の改訂された系統樹には、1816ヶ所の非固有多様体と2257ヶ所の固有多様体が含まれていました。上述のYHg-C2a の主要な下位3系統に加えて、他の稀な27の下位系統が識別されました(図2)。中国では、YHg-C2a の稀な下位系統は北方の国境付近の人々に由来し、YHg-C2a の主要な下位3系統と同じパターンを示します。YHg-C2a の稀な下位系統は、カムチャッカ半島やアムール川地域や韓国や日本やヨーロッパ中央部やパキスタン北部で見つかりました。アメリカ大陸先住民の2個体ではYHg-C2a1a1aとC2a2bが確認され、暫定的に北アメリカ大陸北部と分類されました。データ不足のため、一部の例外を除いてモンゴルにおけるYHg-C2a下位系統の分布は不明確です。一般的に、YHg-C2a の稀な下位系統の分布は、アムール川地域からモンゴル高原および隣接地域までのアジア北部の低緯度地域に集中している、と本論文は結論づけます。ヨーロッパ中央部とパキスタン北部の標本は、最近のユーラシア東部からの移住の結果の可能性が高そうです。

 年代推定を伴うYHg-C2aの再構築系統樹からは、YHg-C2aが17700~14300年前頃に急拡大した、と示唆されます(図2)。主要な下位系統であるYHg-C2a1a3・C2a1a1b1・C2a1a2aの他に、YHg-C2aの多くの少数派の下位系統があります。アメリカ大陸先住民で見つかったYHg-C2a1a1a(P39)とC2a2b(MPB373)は、14000年以上前に出現した下位12系統のうちの2系統です。YHg-C2a1a1aはその最も密接に関連する系統C2a1a1b(F11350)と14300年前頃(95%信頼区間で15100~13500年前)に分岐しました。YHg-C2a2bはエクアドルの1個体(Waranka9586)で見つかり、YHg-C2aの最初の分岐です。Waranka9586個体のデータは低網羅率なので、192ヶ所の多様体のうち84ヶ所で結果が得られませんでした。YHg-C2a2bはYHg-C2aから22400もしくは17700年前頃に分岐したと推定され、より信頼できる分岐年代の決定には、より高品質のデータが必要です。以下、本論文の図2です。
画像

 また、利用可能なYHg-C2aの古代人37個体が再分析されました(図1)。朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域に位置する悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡の7400年前頃の個体(NEO239)はYHg-C2a2bです。ブラジルの1万年前頃の個体(CP19)もYHg-C2a2bです。NEO239個体はアムール川地域に分類され、アジア北部および最古のYHg-C2a2bを表す、ブラジルのCP19個体におけるYHg-C2a2bの初期の起源の手がかりを提供します。ロシアのブリヤートの14000年前頃の個体(UKY001)はYHg-C2a1a1a(P39)で、ユーラシアにおける最初のYHg-C2a1a1aの事例を表します。以前の研究ではYHg-C2a1a1aがアメリカ大陸先住民に特有とされていたことを考えると、これは驚くべき重要な発見です。UKY001個体とアメリカ大陸先住民との間の常染色体およびY染色体の大きな類似性(関連記事)から、アジア北部低緯度地域は混合が起きたかもしれない地域で、アメリカ大陸先住民の直接的な起源だったかもしれない、と示唆されます。

●YHg-C2aのLGM後の分化

 現代人集団ではYHg-C2a1a1b1(F1756)・C2a1a3(M504)・C2a1a2a(M86)の頻度が高いため、ほとんどの研究はこれらYHg-C2aの主要な下位3系統の拡大過程と、祖型モンゴル人、現代モンゴル語話者人口集団、ツングース語族人口集団の形成におけるその役割に注目してきました。本論文は、YHg-C2aの稀な下位系統の初期の分化史に注目します。YHg-C2b(F1067)との35000年前頃の分離後、YHg-C2aは約17000年間のきょくたんに長期のボトルネック(瓶首効果)を経ました。LGM後、YHg-C2aの急速な文化により、14300年以上前に12の下位系統が生じました(図2)。

 上述のように、YHg-C2aの稀な下位系統の標本のほとんどは、アムール川地域やモンゴル高原や中国北方の国境やその隣接地域のような、アジア北部低緯度地域の人口集団で見つかりました。以前の研究でも、アムール川地域はYHg-C2aの主要な下位3系統(C2a1a1b1・C2a1a3・C2a1a2a)の原郷で、過去数千年の拡大の前だった、と示されてきました。これらの知見と、たとえばYHg-C2a2bのNEO239個体やYHg-C2a1a1(B473)のようなUKY001個体といった利用可能な古代DNAに基づくと、YHg-C2aの最初の分化はアジア北部の低緯度地域(アムール川地域の可能性が高そうです)で、18000~14000年前頃のYHg-C2aの連続的な分化パターンは、LGM後の南方から北方や西方へのアジア北部の移住に対応しているかもしれない、提案されます。


●「ベーリンジア停止」期間の減少とその重要性の低下

 「ベーリンジア停止」期間は、過去数十年の遺伝学的研究の発展により大きく短縮しました。ヤナRHSとミトコンドリアDNA(mtDNA)の観点での最初の提案では、15000年ほどの停止が主張されました(関連記事)。しかし、その後の研究では、アメリカ大陸先住民の祖先はアジア北東部の近縁集団と23000年前頃に分離した、と提案されました(関連記事)。したがって、アメリカ大陸先住民の祖先は23000年前頃以前にはアメリカ大陸に拡散しておらず、ベーリンジアでの孤立期間は8000年以下となります。

 アラスカで発見された末期更新世の個体(USR1)のゲノム分析では、アメリカ大陸先住民の共通祖先は20900年前頃に分岐し、その場所はアジア北東部もしくはベーリンジア東部だったかもしれない、と示されました(関連記事)。したがって、「ベーリンジア停止」があったならば、6000~5000年ほど(21000~16000年前頃)続いたかもしれません。最重要なのはヤナRHSの2個体の古代DNA分析で、古代ヤナRHS人口集団はアメリカ大陸先住民集団に直接的には寄与しなかった、と明らかになりました(関連記事)。最近のY染色体の研究では、ベーリンジア停止期間は2700年もしくは4600年と提案されています(関連記事)。

 本論文のY染色体の証拠は、アメリカ大陸先住民の祖先直接的な祖先集団が、「古代北シベリア人(ANS)」とアムール川地域の旧石器時代共同体の混合で、LGMの間およびその後に出現した、との古代DNA分析(関連記事)の議論を裏づけます。混合人口集団の大ベーリンジア地域への移動に長い期間かかったかもしれないことも、注目に値します。したがって、大ベーリンジア地域における停止の実際の間隔は、2000年もしくは1000年未満だったかもしれません。一般的に、この短いベーリンジア停止期間は、停止として解釈されるパターンがおそらくはシベリア南部からの移住過程の一部にすぎず、もし停止があったならば、その期間は最初に考えられたよりも進化的圧力としての重要性はずっと低くかった、という可能性がひじょうに高そうです。


●アメリカ大陸への移住の複数の可能性

 まず、主要な祖先系統と最初の混合についてです。シベリア南部は、アメリカ大陸先住民の創始者父系YHg-Q(M242)の起源地と一般的に認められています。現代のエニセイ語話者人口集団は、ユーラシア人の中でアメリカ大陸先住民に最も近いとみなされています。LGMにおけるYHg-Qを有する古代人口集団の退避地は、シベリア南部にあったかもしれません。本論文では、アムール川地域はLGM 後のYHg-C2a(L1373)の拡大中心地だった可能性が高く、シベリア南部地域から遠く離れている、と提案されます。したがって、LGMにおけるシベリア南部とアムール川地域の古代人口集団は、アメリカ大陸先住民の主要な2祖先系統だったかもしれません。シベリア南部の人口集団がアムール川地域からの移民と混合し、ベーリンジア地域においてアメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団が形成されるには、長期間を要した可能性があります。

 第二に、多様な遺伝的系統の起源についてです。アメリカ大陸先住民のmtDNA創始者系統と、そのユーラシア人で最も密接に関連する系統の分岐年代は、研究により大きく異なります。以前の研究では、アメリカ大陸先住民の主要な3創始者父系、つまりYHg-Q1b1a1a(M3)・Q1b1a2(Z780)・C2a1a1a(P39)は、相互にひじょうに古い時代に分岐した、と明らかされてきました。以前の研究では、アメリカ大陸先住民の祖先集団の多様な遺伝的系統は、ベーリンジア地域における単一で孤立した人口集団としての長期の分化の結果と考えられていました。しかし、古代ゲノムの分析により明らかになったように(関連記事)、アメリカ大陸先住民祖先系統の起源集団は、上部旧石器時代にシベリア全域により広範に拡大しており、この基底部アメリカ大陸先住民集団は、アジア北東部人口集団と複数回の遺伝的接触を経て、明確に古代シベリア人口集団が形成されました。したがって、アメリカ大陸先住民の祖先集団の遺伝子プールで観察された多様性には2つの起源集団があったかもしれない、と本論文は提案します。一方は、シベリア南部とアムール川地域における祖先集団の多様な系統です。もう一方は、ベーリンジアにおける長期の孤立期間というよりもむしろ、シベリア南部からベーリンジアへの移動中に新たに出現した構成要素かもしれません。

 第三に、単一の祖先集団だったか否か、という問題です。古代ゲノムの以前の研究では、アメリカ大陸先住民の単一の小さな祖先集団を想定し、複雑な分化と混合過程を解釈する傾向があります。本論文では、現在利用可能な遺伝的証拠は、30年以上前に最初に提案された「移住の複数の波モデル」を裏づける傾向にある、と提案されます。アメリカ大陸先住民の一部の遺伝的系統は、比較的古い時代にアメリカ大陸へと拡散し、たとえば、mtDNAハプログループ(mtHg)D4h3aやX2aです。対照的に、一部の他の系統は、アジア北東部の近縁系統と比較的最近分離しました。たとえば、YHg-C2a1a1a(P39)と、YHg-C2a1a1b1(F1756)のようなその最も密接に関連した系統は、14300年前頃に分離しました。これらの想定では、アメリカ大陸先住民の一部の祖先集団は、アジア北部の低緯度地域に居住していた可能性がある一方で、他の祖先集団は北アメリカ大陸における拡大を始めていたかもしれません。一般的に、多数の創始者の母系および父系と、これらの系統のさまざまな出現・拡大年代は、全アメリカ大陸先住民の単一の共通祖先を裏づけず、それは古代DNA研究の議論と一致します(関連記事)。

 第四に、石器技術の観点における人類の拡散です。細石刃技術の痕跡は、アジア北東部において考古学で特定された最初の文化である35000~13000年前頃のデュクタイ(Dyuktai)文化の遺跡では稀です。デュクタイ文化は10500~6000年前頃のサムナギン(Sumnagin)文化に置換されました。サムナギン文化では細石刃技術の繁栄を示唆する痕跡が残っており、アジア北部の低緯度地域から拡散しました。考古学では、デュクタイ文化の古代人口集団が早期に北アメリカ大陸へと移動していった一方、細石刃技術の古代人口集団がその後で北アメリカ大陸へと拡散した、と提案されてきました。移住のこれら2回の波が、北アメリカ大陸北部における細石刃技術の普及につながりましたが、細石刃技術の痕跡は北アメリカ大陸南部と南アメリカ大陸では稀です。デュクタイ文化の古代人遺骸のより多くの分析が、シベリアにおけるアメリカ大陸先住民の祖先集団の進化史の解明に重要です。

 第五に、拡散の可能性がある3回の主要な波についてです。全体として本論文は、石器技術の移行、YHg-C2a2b(MPB373)とC2a1a1a(P39)の分岐パターン、アメリカ大陸先住民の3集団の出現過程が、アメリカ大陸先住民の起源に関する移住の複数の波モデルを裏づける、と提案します。移住の第二の波がナ・デネ(Na-Dene)語族話者人口集団の祖先を形成した一方で、他のアメリカ大陸先住民は移住の最初の波の古代人の子孫かもしれません。移住の別の後の波は、エスキモー・アレウト(Eskimo-Aleut)語族話者人口集団を形成したかもしれません。アメリカ大陸先住民の異なる父方および母方の創始者系統の分岐年代の間隙は、アジア北部からベーリンジアの低緯度地域への長距離移住に対応しているかもしれません。混合人口集団は、アメリカ大陸へと拡散する前に長くベーリンジア地域に留まらなかったかもしれません。要するに本論文の提案は、本論文で提示された父方の創始者系統に関する証拠が最近の古代DNA分析の知見を裏づける、というものです。最近の古代DNA分析では、アメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団は、LGM前の大ベーリンジアもしくは隣接地域の古代人口集団というよりもむしろ、「古代北シベリア人(ANS)」と、LGM後にアジア北東部へと拡散したアムール川地域の旧石器時代後期共同体の混合だった、と提案されました。

 結論として、本論文はユーラシア東部人口集団からの稀なYHg-C2a(L1373)の下位系統の大規模な標本セットを収集し、18000~14000年前頃のこれら下位系統の明確な分化パターンの証拠を提供しました。これらの標本の分布と、YHg-C2aの下位系統全ての拡大史に基づき、LGM 前のYHg-C2aの分化はアムール川地域からアジア北部の他地域へと北方への拡散の波と対応しているかもしれない、と本論文は提案します。現在利用可能な古代人および現代人のDNAデータは、「長期ベーリンジア停止モデル」よりもむしろ、「移住の複数の波モデル」と一致します(図3a・c)。「短期ベーリンジア停止」モデルはまだ可能性がありますが、その重要性は当初に考えられていたよりも大きく減少しました(図3b)。シベリア東部における24000~10000年前頃の人類遺骸からのより多くの古代DNAデータは、ユーラシアにおけるアメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団の形成過程に関する追加の詳細の提供に役立つかもしれません。以下、本論文の図3です。
画像



 以上、本論文についてざっと見てきました。アメリカ大陸への人類最初の移住年代については議論が続いており、まだ確定していません。アメリカ大陸におけるLGM直後やLGM期さらにはその前までさかのぼるかもしれない人類の痕跡としては、16000年前頃までさかのぼるアメリカ合衆国アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡(関連記事)や、3万年前頃までさかのぼるかもしれないメキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)遺跡(関連記事)の事例が報告されています。

 これらの遺跡の年代と本論文の見解がともに妥当だとしたら、LGM期さらにはその前までさかのぼるかもしれないアメリカ大陸の人類は、完新世のアメリカ大陸先住民にほとんど遺伝的影響を残していないかもしれません。あるいは、最近mtDNAの変異率の見直しが提案されているように(関連記事)、Y染色体DNAの変異率の見直しにより、アメリカ大陸への人類拡散の推定年代が本論文の想定よりもさかのぼる可能性があるとは思います。これらの問題の解決には、アメリカ大陸の更新世の人類遺骸のDNA解析が望ましいものの、アメリカ大陸の更新世の人類遺骸は少ないので、堆積物のDNA解析による研究の大きな進展が期待されます。


参考文献:
Sun J. et al.(2021): Post‐last glacial maximum expansion of Y‐chromosome haplogroup C2a‐L1373 in northern Asia and its implications for the origin of Native Americans. American Journal of Physical Anthropology, 174, 2, 363–374.
https://doi.org/10.1002/ajpa.24173

長谷川岳男『背景からスッキリわかる ローマ史集中講義』

 パンダ・パブリッシングより2016年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもにローマの始まりから拡大期を経て安定期までを扱い、紀元後3世紀以降は簡略な解説となっています。ローマ史の復習になると思い、読みました。これまで考えてこなかったというか、意識してこなかった本書の指摘は、近代日本において、当初はローマよりもギリシアへの関心の方が高く、それは第二次世界大戦後も変わらなかった、というものです。

 1980年代になると、ローマをアメリカ合衆国、カルタゴを日本になぞらえる風潮が現れ、日本社会においてローマへの関心が高まります。なお第二次世界大戦前には、裕福で物資文化重視のアメリカ合衆国を第二次ポエニ戦争時のカルタゴ、貧しくとも質実剛健な気風の日本をローマになぞらえる見解もあったそうです。1980年代後半のバブル期には、漠然とした先行きへの不安からか、日本社会ではローマ帝国の滅亡への関心が高まりました。日本をカルタゴになぞらえたり、ローマ帝国の滅亡への関心が高まったりした現象は、同時代を過ごした私も印象に残っています。ただ本書は、表面的な事柄だけで日本とローマの共通性を感じたり、ローマから教訓を得たりするのは危険だ、と指摘します。ローマは現代日本とは明らかに異質だ、というわけです。

 本書のローマ史概説は、堅実で分かりやすいものになっており、世界史の授業でローマ史に関心を抱いた高校生はもちろん、中学生でもある程度以上の割合が読み進められるのではないか、と思います。もちろん本書は、平易だからといって内容が薄いわけではなく、時に日本史を比較対象とするなど、あくまでも一般向けであることを意識して分かりやすく解説しよう、という意図が伝わってきます。これまでローマ史関連の本をそれなりに読んできましたが、著者の本は今回が初めてだったので、新鮮に読み進められました。

 初期ローマは一時エトルリアに支配されたと考えられてきましたが、決定的な証拠はなく、考古学ではこの時期におけるギリシアの影響が指摘されているそうです。なお、中石器時代から現代と長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変化に関する研究も公表されており(関連記事)、エトルリア人とラテン人との間にかなりの遺伝的異質性が存在した可能性も示唆されています。今後は歴史学においても古代DNA研究が積極的に取り入れられていくのではないか、と予想されます。

 ローマが拡大を続けた理由に関しては、ローマが高度に軍事的な共同体で、軍事に関することがきわめて高く評価されていたからだ、と指摘されています。指導者として優れた人物として認められるには軍事的資質が要求された、というわけです。ローマ社会では出世に軍功が必要で、それが拡大をもたらしました。本書は、開放性が高く、人口移動が激しいイタリア半島中部では、軍事を重視する社会が成立しやすかったのではないか、と指摘します。また本書は、対外戦争による(勝利の結果としての)経済的利益も、ローマが対外戦争を続けた理由として挙げます。対外戦争は、経済的利益でもとくに 奴隷供給源として重要になり、基本的に奴隷は家庭を持てないため、多数の奴隷が必要な社会経済構造が一旦確立すると、奴隷を獲得し続けるためにも対外戦争が必要になった、と本書は指摘します。

 ローマは拡大に伴い、軍事的負担の増加から中小農民が没落していき、元老院議員のような上層の大土地所有が進展したため、紀元前2世紀半ばには格差が拡大し、自営農民である市民に依拠していたローマの軍事力は低下します。そこで、大土地所有の制限などの改革が試みられましたが、社会的対立が激化し、ローマは内乱の時代に突入します。この間、軍事面では市民の徴兵だけではなく募兵制が次第に採用されるようになり、司令官と兵士との結びつきが強くなります。これも、内乱を激化させた側面がありました。

 この内乱を終息させようとする動向の中からカエサルが登場し、オクタウィアヌスの元首政へとつながっていきますが、平和をもたらしたと言われるオクタウィアヌスも、領土拡大のための軍事行動を続けた、と本書は指摘します。ローマが内乱の世紀を経て帝政前期に安定した理由としては、その開放性が挙げられています。それが、新たな支配地の有力者をローマに協力的にさせた、というわけです。ローマの衰退については、都市の衰退と連動していた、と本書は指摘します。都市の役割が大きかったローマにおいて、軍事費や公共施設建造・維持の負担から、都市が疲弊していき、富裕層は没落したり郊外に拠点を移したりします。また本書は、ローマ帝国西方が崩壊・滅亡しても、ローマ帝国の理念がヨーロッパで長く生き続けたことを指摘します。

『卑弥呼』第59話「厲鬼」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年4月5日号掲載分の感想です。前回は、ところで終了しました。今回は、吉備の高嶋をトメ将軍とミマアキが訪れている場面から始まります。高嶋(高島)は、神武天皇が東征のさいに3年間行宮を置いた場所とされています。高嶋でも人の姿が見当たらず、大きな穴には多数の人々の焼死体が積み重なっていました。トメ将軍は、戦ならば槍や礫や矢がどこかに落ちているはずなのが、奇襲による焼き討ちではないか、と推測します。トメ将軍は、不吉な予感がすることから直ちに島から出て吉備本土に向かいます。トメ将軍一行が海岸に近づくと、お暈(ヒガサ)様を象ったワニ家の紋章の入った舟がすでに到着していました。どうやら、穂波(ホミ)の国の重臣で、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔が治めるとされる日下(ヒノモト)の国に向かったトモに追いついたようですが、トメ将軍は慎重で、夜まで様子を見ることにします。)

 山社(ヤマト)では、楼観でイクメがヤノハに、出雲の神和(カンナギ)にして金砂(カナスナ)国の支配者である事代主(コトシロヌシ)と会うことにまだ疑問を呈していました。ヤノハはイクメに、顔を見なければ人となりも分からない、と言います。金砂国が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)より優れているものは何か、と問われたイクメは、事代主も巫覡(フゲキ)も神に仕える身であると同時に、毉(クスシ)であることだろう、と答えます。イクメの説明によると、毉とは筑紫島の呪禁師もしくは巫医で、草木を育てて薬を作り、民に役立てることから毉と呼ばれているそうです。それなら和議を結んで損はない、とヤノハは考えます。そこへヌカデが多禰(タネ、種子島でしょうか)国より戻ってきます。最近のヤノハは、弟のチカラオ(ナツハ)以外には顔を見せませんでしたが、ヌカデとは対面します。日見子(ヒミコ)様とヤノハに呼びかけるヌカデに対して、二人だけの時はヤノハと呼んでよい、堅苦しい言葉は抜きだ、とヤノハは言います。少し女っぽくなったな、とヌカデに言われたヤノハは、チカラオに犯されたことに気づかれたのか、と慌てます。多禰での交渉についてヤノハに問われたヌカデは、ノシュ王はできた人で、山社との間に暈(クマ)があるので大っぴらには言えないものの、山社と争う気はないと言った、と答えます。閼宗(アソ)でヤノハが襲撃された件についても、ノシュ王は関りがないと述べ、サヌ王の末裔に仕える古の五士族が動いたのだろう、とヌカデは推測します。古の五士族の一人であるトモを殺すよう、トメ将軍に命じており、近いうちに事代主と会うためにと弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に行く、と聞かされたヌカデは、改めてヤノハに感心します。

 吉備では、トメ将軍一行がトモのものと思われる舟を見張っていましたが、夜明け近くになっても人の気配がまったくしません。トモは近くの邑に逗留しているのではないか、とミマアキは推測し、トメ将軍は上陸を決断します。トメ将軍一行がトモのものと思われる舟に近づくと異臭がしてきて、多数の死体が見つかります。トメ将軍は、即刻離れて口と鼻を覆うよう、命じます。トメ将軍は、これが韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)で一度見た疫病神(エヤミノカミ)の祟りだ、とミマアキに説明します。トメ将軍によると、それは厲鬼(レイキ)という見えない鬼で、人の体内に巣食い、人は身を焼かれ、摧かれるようにもがき苦しみ、前進に醜い瘡を発して死に、患者の近くで呼吸し唾を浴びた者は全員同じ厲鬼に取り憑かれるので、助かるには焼く以外に術はないそうです。トモの一行は、半数の漕ぎ手が厲鬼に憑かれ、舟を放棄するしかなかったのだろう、というわけです。豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の人々は死に絶えたかもしれない、とトメ将軍が言うところで今回は終了です。


 今回は、今後いよいよ本格的に本州の情勢が描かれていくのではないか、と予感させる内容になっており、ますます楽しみです。阿岐(アキ)や高嶋で多数の焼死体が見つかり、吉備でそれが疫病による死者だと明らかになりました。日下の国が突如沈黙したのも、この疫病が原因なのでしょう。今回の描写からは、この疫病は天然痘のように思われますが、日本列島に天然痘が到来したのはもっと後(本作は現時点で3世紀前半のようです)のようですから、別の疫病かもしれません。出雲はこの疫病の影響を受けていないようですから、現時点では本州・四国の瀬戸内海沿岸でのみ広がっているのかもしれません。この疫病は、『日本書紀』巻第五(崇神天皇)に見える疫病のことかもしれません。そうすると、ミマアキは『三国志』に見える彌馬獲支なのでしょうが、『日本書紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)も想起させる名前ですから、後にはミマアキが「昼の王」となり、後世には「天皇」として語り継がれるようになった、という設定なのでしょうか。それはともかく、この疫病が山社と日下の国との関係を大きく動かしていくことになりそうですが、事代主は薬にも通じていると今回語られていますから、それが大きな役割を果たすのでしょう。次回もたいへん楽しみです。

アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路

 アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路に関する研究(Coelho et al., 2021)が報道されました。イヌは家畜化されて以来、世界中で人類とともに移動しており、アメリカ大陸への人類の拡散にも不可欠だった、と考えられています(関連記事)。しかし、アメリカ大陸への人類の移動の正確な年代と(複数かもしれない)経路は、イヌの場合と同様に未解決です。遺伝的証拠からは、アメリカ大陸先住民はアジア東部現代人の祖先と23000年前頃以降に分岐したと提案されており(関連記事)、考古学的証拠からは、16000年以上前にアメリカ大陸氷床の南に人類集団が存在した、と示唆されていますが、示唆されていますが(関連記事)、北アメリカ大陸最古の人類遺骸は12600年前頃(12707~12556年前頃)までにしかさかのぼりません(関連記事)。なお、この人類遺骸の年代は、最近12905~12840年前と修正されました(関連記事)。

 イヌの遺伝的データでは、アフロユーラシアにおける家畜化は32100~18800年前頃に起きたと示唆されており、北アメリカ大陸への人類最初の移住よりも前となりそうです。しかし、人類と同様に、イヌの考古学的証拠はDNAに基づく年代よりも遅れており、アフロユーラシアでは15000~12500年前頃以降となります。遺伝的証拠と遺骸証拠との間の間隙は、イヌがアメリカ大陸への人類最初の移住に同行していたのかどうか、あるいは、イヌは人類とともにもっと後のアメリカ大陸への移住の波でのみ到来したのか、という問題を残します。これまでのところ、北アメリカ大陸における最古の確認されたイヌ遺骸は、イリノイ州のコスター(Koster)遺跡およびスティルウェル2(Stilwell II)遺跡の埋葬で発掘されており、その年代は10190~9630年前頃で、最古の確認された人類遺骸よりも2000年以上新しくなります。最近の遺伝的研究では、これら初期のヨーロッパ人との接触前のイヌ(PCD)は、北アメリカ大陸の北アメリカ大陸のオオカミから家畜化されたのではなく、シベリア東部のジョホフ(Zhokhov)島の9000年前頃のイヌ集団との共有祖先から分岐した、と示されています(関連記事)。

 アメリカ大陸の人類とイヌの先史時代は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)およびその直後の生物学的生産性および食料入手可能性と同様に、氷期の年代と程度にも密接に依存しています。LGMにおいて、ローレンタイド(Laurentide)氷床とコルディレラ(Cordilleran)氷床は北アメリカ大陸の大半を覆っており、人類と他のほとんどの動物相および植物相にとって、この地域の生息もしくは通過さえ不可能でした。この回廊は早ければ15000年前頃には開けていたかもしれませんが、13000年前頃までは生物は生存できなかった可能性が高そうです。

 別の仮説は、北西太平洋沿岸(NPC)に沿ったコルディレラ氷床の後退が、現在よりも低い海面と組み合わさり、初期人類と他の生物相にとってより早期の無氷沿岸回廊を提供した、というものです。アレクサンダー諸島を含む北西太平洋沿岸諸島は、独特な生物多様性を保持しており、コルディレラ氷床がその最西端で後退し始めた17000年前頃まで資源の利用が可能でした。この時期は、アメリカ大陸への人類最初の移住時期の遺伝的証拠とほぼ同じで、イヌがすでに家畜化されていたことを示唆する遺伝的証拠と一致します。イヌが北アメリカ大陸に最初の人類とともに到来したのか、その後なのかいずれにしても、イヌはアメリカ大陸全域に拡大しました。考古学的証拠では、イヌは1万年前頃にはアメリカ大陸中央の異なる遺跡に存在しており、それは4000年前頃までにはニューファンドランドからアラバマとカリフォルニアに、1000年前頃までには南アメリカ大陸に及びました。

 現代および古代のイヌは、主要な4ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と、少数派の2mtHgに分類されます。mtHg-Aは最も多様で、ほとんどの犬種とPCD下位クレード(単系統群)を含みます。過去2000年、アメリカ大陸への少なくとも3回のイヌの移動が、PCD集団に直接的に影響を及ぼしました。第一に、チューレ(Thule)文化とともにアジア東部から北極圏のイヌが到来しました。チューレ文化の前には、イヌはアメリカ大陸北極圏では稀でした。北アメリカ大陸北極圏全域のイヌの急速な拡大は、後のイヌイットのそりイヌ文化と関連していた可能性が高そうです。ヨーロッパ人は、現代の犬種の新たな波をもたらし、ほとんどのPCDはおもに文化的選好のため置換されました。ヨーロッパからアメリカ大陸への入植者たちは、集落や家畜を守る能力がより高く、軍用犬もしくは狩猟犬として使えるため、小さなPCDよりも大きなヨーロッパの品種を好みました。ヨーロッパの犬種は、在来のPCDが感染しやすい病気をもたらした可能性もあります。さらに後になって、シベリアンハスキーがアラスカのゴールドラッシュのさいに導入されました。

 最古のアメリカ大陸のイヌ遺骸はアメリカ大陸中西部で発見されたので、PCDがアメリカ大陸への移動のさいにどの経路で持ち込まれたのか、強力な洞察を提供しません。北西太平洋沿岸の古代PCD個体群の直接的証拠は、この難問を解決するのに役立つでしょう。本論文は、古代のイヌ1頭のミトコンドリアゲノムを報告します。このイヌの年代は10150±260年前頃で、アラスカ南東部のアレクサンダー諸島のランゲル(Wrangell)島の東のアラスカ本土に位置する法曹洞窟(Lawyer's Cave)で発掘されました(図1)。この1頭のイヌはPP-00128として知られ、法曹洞窟で発見された最古の骨遺骸を表しており、アメリカ大陸で発見された最古の遺伝的に確認されたイヌです。法曹洞窟では、PP-00128標本以外にも、さまざまな哺乳類や鳥や魚の骨や人類遺骸や人工物が発見されています。人工物には、骨製品や貝殻のビーズや黒曜石の細石刃および剥片などが含まれています。PP-00128標本は当初、クマの骨片と考えられていました。以下、本論文の図1です。
画像


●放射性炭素年代と炭素13同位体分析

 放射性炭素年代測定では、PP-00128の較正年代は10150±262年前となり、既知のアメリカ大陸最古のイヌ遺骸の年代9910±280年前より240年ほど古いことになります。PP-00128の炭素13値から、その食性はおもに海洋性動物に依存しており、アラスカ南西部のユピク(Yup'ik)の遺跡のあるヌナレク(Nunalleq)で発見された1頭の古代イヌと類似しています。これは、現代のイヌの範囲の下限と重複し、非肉食性哺乳類の範囲内にある北アメリカ大陸中西部地域の他の同時代のイヌとは対照的です。


●系統分析

 分析された全ての系統樹において、PP-00128はPCD内に収まり、mtHg-Aに分類され、シベリア東部のジョホフ島のイヌ集団と密接に関連しています。北アメリカ大陸北極圏地域とグリーンランドの古代および現代のイヌもジョホフ島系統のmtHg-A2aに分類されます。PCD系統はmtHg-A2bとなり、本論文の分析では下位クレード3系統に分離します(図1b・2b)。mtHg-A2b1はシベリアのコスター遺跡の古代のイヌや、北アメリカ大陸全域やカリフォルニアのチャネル諸島や南アメリカ大陸の4000~1000年前頃のイヌや、現代の犬種を含みます。mtHg-A2b2はおもに、イリノイ州のジェニ・B・グード(Janey B. Goode)遺跡とオハイオ州のサイオト洞窟(Scioto Caverns)のイヌに加えて、アラバマ州やミズーリ州の4000年以上前のイヌが含まれます。mtHg-A2b3は、北極圏全域およびブリティッシュコロンビアのプリンスルパート島(Prince Rupert Island)からカリフォルニアまでの太平洋沿岸の4000年前頃以降のイヌで構成されます。PP-00128のmtHgにおける位置づけはデータセットにより異なり、mtHg-A2b1の姉妹系統とも、mtHg-A2b1・A2b2の両方を含むより大きな系統の姉妹系統とも分類されます。mtHg-A2b3の位置づけはデータセット間で大きく異なり、mtHg-A2b2姉妹系統とも、mtHg-A2b1の姉妹系統とも、mtHg-A2全体の姉妹系統とも位置づけられます。以下、本論文の図2です。
画像

 ミトコンドリアゲノムのハプロタイプネットワーク(図3)では、mtHg-A2aとA2bは6ヶ所の置換により区別されます。mtHg-A2bでは、PP-00128はネットワークの中心にあり、そこからPCDの下位クレードが放散します。PP-00128は他のイヌとは共有されない4ヶ所の変異を有しており、コスター遺跡のイヌ個体群と密接に関連し、それらとは7~9ヶ所の置換により分離します。他の全てのPCDは、少なくとも9ヶ所の置換によりPP-00128と分離します。mtHg-A2b内の下位3クレードは、最大で6ヶ所置換により相互に異なります。以下、本論文の図3です。
画像


●分岐年代と個体群統計学的推定

 各データセットからの推定分岐年代は比較可能です。最も包括的なデータセットに基づく推定分岐年代は図2bに示されます。PCDとジョホフ島のイヌの祖先は16700年前頃、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)では18719~14894年前推定されます。PCDの最終共通祖先は16200年前頃(95% HPDで18125~14378年前)で、mtHg-A2b3の分岐年代でもあります。PP-00128系統の分岐は14500年前頃(95% HPDで16261~12988年前)です。mtHg-A2b1とA2b2は14040年前頃(95% HPDで15651~12570年前)に分岐しました。とジョホフ島のイヌと密接に関連する北極圏のそりイヌは、10300年前頃(95% HPDで10998~9197年前)に存在した祖先を共有しています。個体群の統計学的推論では、PCD集団は15000年前頃に合着(合祖)した、と示されます。最初の約5000年間、集団規模は1万年前頃まで増加し、その後では2000年前頃まで一定で、2000年前頃以後に減少が始まりました。


●考察

 イヌと人類との間の密接な文化的関係、およびイヌが全大陸で人類に同行したという事実のため、イヌは人類の移住パターンを理解するための代理として使えます。ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化の前には、イヌはベーリンジア(ベーリング陸橋)を通ってアメリカ大陸先住民の祖先とともにアメリカ大陸へと移動してきました。しかし、在来のアメリカ大陸のイヌの遺骸はほとんど確認・分析されてきませんでした。既知の全てのPCDはmtHg-A2bに分類され、全てのアメリカ大陸の在来イヌの間での密接な関係を示唆します(関連記事)。

 アメリカ大陸最古の人類遺骸および考古学的証拠は、アメリカ大陸におけるイヌの証拠よりも古いものの、氷床の南のアメリカ大陸への最初の人類の移住に関する現在の遺伝的推定は、シベリア東部のイヌからのPCDクレードの分岐に関する本論文で報告された16700年前頃という年代、およびPCDクレード自身の16200年前頃という合着(合祖)年代と一致します。この年代は、現在の推定値よりも1000年古くなります(関連記事)。北アメリカ大陸の2つの氷床間の内陸部経路は13000年前頃以後に生物学的に利用可能となりましたが、コルディレラ氷床は北太平洋沿岸で急速に後退した可能性が高く、遅くとも17000年前頃にはアラスカ南東部の周囲に生態学的に利用可能な回廊が出現し、15000年前頃までには内陸部のフィヨルドと入り江は無氷になりました。

 考古学的(関連記事)および遺伝的(関連記事)証拠は、アメリカ大陸に移住した最初の人類が、大陸経路の代わりに沿岸経路を用いた、という仮説を裏づけます。シベリア東部のイヌとのPCDの推定分岐年代は、提案されている北アメリカ大陸への初期の人類の移住と類似しているので、イヌはアメリカ大陸への北太平洋沿岸経路での人類最初の移住においてもたらされた可能性が高そうです。しかし、人類と同様に、イヌ遺骸は半化石記録ではずっと後の年代でしか知られておらず、PCDはLGMにおいてベーリンジアに存在し、沿岸経路での後の南方への人類の移住に同行した、という可能性を除外できません。

 年代測定された法曹洞窟で発掘された人工物は、法曹洞窟のPP-00128標本とは年代が一致しません。興味深いことに、PP-00128標本が見つかった場所からそう遠くない、プリンスオブウェールズ島の「膝の上洞窟(Shuká Káa)」では、10300年前頃の人類遺骸が識別されています(関連記事)。PP-00128標本の系統発生および地理的位置と、時空間的にほぼ同時となるこの人類遺骸から、イヌと人類は前期完新世に北太平洋沿岸に居住しており、遅くともこの時期までには北太平洋沿岸の経路が用いられていた、と示されます。

 PP-00128標本の年代は10150±262年前となり、アメリカ大陸で最古の遺伝的に確認されたイヌ遺骸で、スティルウェル2遺跡の1頭のイヌとコスター遺跡の2頭のイヌがその後に続きます。これらの北アメリカ大陸中部のイヌの大きさは中型で、下顎の大きさに顕著な変動がありました。PP-00128標本の限定的な保存(大腿骨の小さな断片)のため、他の初期PCDとの形態的比較はできません。しかし、本論文の全ての系統分析では、PP-00128標本の高網羅率のミトコンドリアゲノムは全てのPCDと密接に関連しており、ほとんどの分析では、古代のスティルウェル2遺跡とコスター遺跡のイヌを含む系統の姉妹系統です。PP-00128標本の、不確実ではあるものの、PCDのハプロタイプ間の提案された基底部の位置は、PP-00128標本がPCDの初期系統に属することを示唆します。

 経時的な有効個体数規模の変化を見ると、PCD集団のmtDNAの変異は15000年前頃に合着しており、その後集団は1万年前頃まで拡大しました。PCD集団は2000年前頃まで安定した規模を維持し、その後、おそらくは北アメリカ大陸にヨーロッパのイヌが到来した頃に、系統が絶滅したと推定されるまで減少し始めました。以前の研究では、9000年前頃とより新しい合着年代が明らかになり、その後、ほぼ一定の集団規模が続きました。しかし、以前の研究では、同じ時期の同じハプロタイプのイヌが多数標本抽出されており、そのほとんどはイリノイ州のジェニ・B・グード遺跡に由来します。これは、標本抽出の偏りにつながる可能性があります。

 在来のイヌと同様に、アメリカ大陸先住民集団の有効人口規模は同じ時期に減少しました。この現象は、イヌイット文化の移動の始まりと一致します。さらに、同じ時期に、イヌイット到来前に北極圏に存在したイヌも集団規模で減少しました。これらの結果と本論文の結果は、人類とイヌ両集団が同じ時期に減少を経たことになるので、イヌは人類集団の移住や人口統計学的パターンさえ分析する代理として使えるかもしれない、という考えを裏づけます。アメリカ大陸への到来後、PCDは2000年前頃まで孤立していました。この時期以後、北アメリカ大陸への3回の新たなイヌの導入があり、PCDの個体数減少を加速した可能性があります。イヌイットは北極圏のイヌをシベリア東部からも導入し、ヨーロッパのイヌは15世紀に始まる植民者に同行し、もっと最近では、シベリアンハスキーが20世紀のアラスカのゴールドラッシュ期に導入されました。

 ヨーロッパの犬種がアメリカ大陸にもたらされた時、PCD集団はすでに減少しつつあり、遺伝的浸透を通じて容易に置換もしくは吸収された可能性があります。ヨーロッパの犬種と北極圏のそりイヌはPCDを完全に置換したように見えますが、一部の現代の品種ではPCDのわずかな遺伝的遺産があるようです(関連記事)。たとえば、PCDクレード内で7頭の現代のイヌがまとまっており、さらには2頭の歴史時代のイヌも同様です。本論文の分析では、別の現代のアラスカのアメリカエスキモー犬は、これら他の現代のイヌとは異なるPCD下位クレードに分類されます。これらの知見は、まだほとんど標本抽出されていないPCD祖先系統のより高い程度が、現代もしくは歴史時代のアメリカ大陸のイヌに存在しているかもしれない、と裏づけます。

 安定同位体は、生物の古食性を推測する代理として用いることができます。安定同位体分析により、食性が異なる光合成経路(C3やC4)で構成されているのかどうか、食性が海洋性と陸生どちらの食資源の消費に基づいているのか、区別できます。海洋食資源とC4植物は、食物連鎖でより高次の消費者では炭素13値濃度がより高くなる傾向があります。アラスカ南東部の現代の動物の食性を調べることで、PP-00128標本がどの食資源にどの程度依存していたのか、推定できます。

 PP-00128標本の食性は海洋哺乳類の範囲と推定され、ベーリング海沿いのアラスカ南西部の古代のイヌと類似しており、海洋性食資源に大きく依存している人口集団のとも一部重複します。アラスカでは最近まで魚がそりイヌの主食で、人類があまり食べない一部のサケもあります。たとえば、アラスカ南部全域ではイヌのサケとも呼ばれるシロザケ(Oncorhynchus keta)は、PP-00128標本が存在した頃にアラスカ南東部でイヌに餌として与えられていたかもしれません。臓器など人類の狩猟の残り物もイヌの餌として使われてきた、と報告されており、そうした動物にはアラスカ南東部のアザラシやクジラが含まれていたかもしれません。したがって、PP-00128標本は海洋性食資源に依存した食性を有しており、前期完新世にアラスカ南東部沿岸に居住した人類と同様だった可能性があります。


●まとめ

 本論文の結果から、PP-00128標本は初期に分岐したPCDを表している、と示唆されます。本論文は、PP-00128標本が、アメリカ大陸への移住期に人類に同行した最初の家畜化されたイヌの近縁だったかもしれない、と提案します。PP-00128標本の沿岸部の位置は、最初のアメリカ大陸のイヌおよび氷床の南方の人類の拡散に関する、放射性炭素年代および分子時計と組み合わされて、アメリカ大陸最初の人類とイヌの移住は、内陸部経路とその後の沿岸部への西進ではなく、北太平洋沿岸経路だったことを裏づけます。PCDは、後のイヌイットのそりイヌおよびヨーロッパの植民者とともに到来したヨーロッパの犬種によりほぼ完全に置換され、現代のイヌではわずかなPCDの遺伝的影響しか残っていません。PP-00128標本を含めてPCDの将来の核ゲノム分析は、PCDの運命についてより詳細な洞察を可能とするでしょう。


参考文献:
Coelho FAS.. et al.(2021): An early dog from southeast Alaska supports a coastal route for the first dog migration into the Americas. Proceedings of the Royal Society B, 288, 1945, 20203103.
https://doi.org/10.1098/rspb.2020.3103

ハヤブサの飛行の形成要因

 ハヤブサの飛行の形成要因に関する研究(Gu et al., 2021)が公表されました。北極圏の季節的に好条件となる繁殖地を利用する渡り鳥は数百万羽おり、冬はユーラシア各地で過ごしますが、こうした北極圏に生息する鳥類の渡り経路の形成・維持・未来・渡りの距離の遺伝的決定要因については、ほとんど知られていません。この研究は、ユーラシア大陸の北極圏で繁殖したハヤブサ(Falco peregrinus)の6個体群に属する56羽に関して、人工衛星での追跡により大陸規模の渡りのマップを構築し、このうち4個体群に属する35羽のゲノム塩基配列の再解読を行ないました。

 その結果、これらの繁殖個体群はユーラシ大陸全域にわたる5つの異なる渡り経路を用いていることが明らかになり、これの経路はおそらく、23000~19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)から11700年前頃に始まる完新世への移行期に繁殖地の経緯度の変化により形成された、と考えられました。これらの渡り経路は現在、環境的に互いに異なっており、各経路の固有性はこうした相違により維持されているようです。

 また、個体群水準の渡りの距離の差異には、ADCY8遺伝子が関連する、と示されました。この遺伝子の調節機構を調べたところ、ハヤブサの個体群間に見られるADCY8の相違に対する選択因子は、長期記憶である可能性が極めて高い、と明らかになりました。全球の温暖化は、ユーラシア大陸の北極圏に生息するハヤブサ個体群の渡り戦略に影響を及ぼし、繁殖域を縮小させる、と予測されています。生態学的相互作用と進化的過程を利用して気候に駆動される渡りの変化を調べることは、渡り鳥の保全に役立つ可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生態学:ハヤブサの渡りを解読する

 ハヤブサが渡りに使う経路は、最終氷期以降の環境の変化によって形成されてきたことを報告する論文が、Nature に掲載される。この論文では、渡りの距離が遺伝的要因の影響を受けたことの証拠も示されている。

 多くの渡り鳥は、北極に、季節的に有利な繁殖地を持っているが、冬はユーラシア各地で過ごす。一方、渡りの経路の形成、維持、将来の見通し、あるいは渡りの距離の遺伝的決定因子については、ほとんど分かっていない。

 今回、Xiangjiang Zhanたちの研究チームは、ユーラシア北極圏の個体群に属する56羽のハヤブサの衛星追跡データと35羽のハヤブサのゲノムデータを組み合わせて、ハヤブサの渡りを調べた。その結果、ユーラシア大陸では5つの経路が渡りに使われており、これらの経路は、最終氷期極大期(約2万~3万年前)以降の環境の変化によって形成されたことが分かった。また、渡りの距離の長いハヤブサは、ADCY8遺伝子の優性(顕性)の遺伝型を有することも明らかになり、Zhanたちは、これが長期記憶の発達と関連している可能性があるという見解を示している。

 Zhanたちは、全球の気候が変化している中で、ユーラシア西部のハヤブサは、個体数減少の確率が最も高く、新しい越冬地に渡るか、あるいは渡りを完全にやめる可能性があると提起し、生態学的相互作用と進化過程を用いて、気候を駆動要因とする渡りの変化を研究することが、渡り鳥の保全を促進するために役立つ可能性があると結論付ている。


動物行動学:気候に駆動される渡りルートの変化と記憶に基づく長距離の渡り

Cover Story:ハヤブサの飛行:環境の変化、記憶、遺伝子が鳥類の渡りを形成する

 北極圏に生息する鳥類の渡りルートを何が決めているのかについては、ほとんど分かっていない。今回X Zhanたちは、ハヤブサ(Falco peregrinus)が北極圏の繁殖地から移動してユーラシア全体のさまざまな場所で越冬する際の渡りルートを調べている。彼らは、56羽のハヤブサの人工衛星追跡データと35例のゲノム塩基配列再解読データを組み合わせ、古気候データを用いてこの鳥類の過去の繁殖地と越冬地の分布を再構築した。その結果、ハヤブサの渡りのパターンが主に最終氷期極大期末(2万2000年前)以降の環境の変化によって形成されたことが分かった。また、ハヤブサのより長い距離の渡りに役立っている可能性のある遺伝的要素として、ADCY8の優性(顕性)の遺伝子型が特定された。これは長期記憶の発達と関連付けられることから、渡りルートの維持に寄与していると考えられる。表紙は、追跡用のGPS発信機を装着したハヤブサである。



参考文献:
Gu Z. et al.(2021): Climate-driven flyway changes and memory-based long-distance migration. Nature, 591, 7849, 259–264.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03265-0

クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析

 クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析に関する研究(Novak et al., 2021)が報道されました。スーダンのジェベルサハバ(Jebel Sahaba)の墓地で発見された致命的な暴力的傷害を示す、両性と全年齢の多数の骨格遺骸により証明されるように、少なくとも13000年前頃にはヒト社会において大規模な暴力が存在していました。ジェベルサハバの事例は一般的に、集団的暴力もしくは戦争の最初の証拠を表すとみなされています。この仮説は、ケニアのトゥルカナ湖西方で2012年に発見されたナタルク(Nataruk)遺跡の、先史時代の狩猟採集民集団の虐殺を報告した最近の研究(関連記事)によりさらに強化されましたが、ナタルク遺跡が初期の集団間暴力を表すとの結論を疑う人もいます。

 ヨーロッパでは、タールハイム(Talheim)とアスパルン・シュレッツ(Asparn/Schletz)の前期新石器時代となる線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)遺跡の他に、ドイツ(関連記事)などで先史時代となるいくつかの類似の事例が報告されています。古代の虐殺の古ゲノムおよび生物人類学的研究が浮き彫りにしてきた遺跡に関しては、犠牲者が、男性でおそらくは戦闘で全員死亡したか(関連記事)、共同体の部分集団に意図的に向けられた殺害から予測されるように同じ家族の構成員として処刑されたか(関連記事)、あるいは虐殺された個体がおそらくは以前に確立していた集団との対立で移民共同体の構成員だったか(関連記事)、あるいは殺害が宗教的儀式の一部だった証拠があります。

 古代と現代の両方の文脈でそうした事象を扱う場合、「虐殺」という用語の明確な定義が必要です。これに関してはさまざまな定義が用いられており、本論文では、スウェーデンのサンドビーボルグ(Sandby borg)遺跡の虐殺に関する研究で用いられた、「戦闘準備をしていない多数の人々に対する意図的な殺害行為で、集団により行なわれる殺害を伴う」という定義が採用されます。本論文は、クロアチア本土のポトチャニ(Potočani)の銅器時代の集団埋葬から回収された41個体の報告された虐殺犠牲者のうち38個体で、ゲノム規模古代DNAの生成により、特定の家族に向けられなかった大規模な殺害の証拠を提供します(図1)。以下、本論文の図1です。
画像

 ポトチャニ集団埋葬地は小さな坑で表され、直径は約2m、深さは約1mです。多くの混合された、場合によってはまだ関節がつながっているヒトの骨格遺骸は41個体分あり、両性と広範囲な年齢にまたがっています(図2a・b)。具体的には、遺伝学と形態学から、男性21個体と女性20個体と確認されています。このうち半数以上(21個体)は未成年で、2~5歳の幼い子供が2個体、6~10歳の年長の子供が9個体、11~17歳の思春期が10個体です。成人20個体の内訳は、18~35歳の青年が14個体、36~50歳の中年が5個体、死亡年齢を特定できなかった成人が1個体です。

 複数個体の病変とともに、13個体の頭蓋骨で負傷が確認されています。観察可能な頭蓋負傷のパターンは、年齢と性別の特定のパターンに従っておらず、幼い男子1個体、年長の女子1個体、思春期の男子3個体と女子1個体、青年期の男性1個体と女性4個体、中年男性2個体です。頭蓋の負傷のほとんどは、側面と後部および/または上部にあります。考古学的背景と絶対年代を組み合わせると、さまざまな武器による負傷は、単一の実行事象を示します。窒素と炭素の安定同位体分析から、同時代のクロアチア本土の集団と比較して、ポトチャニ集団はより多くの動物性食品を消費していた、と示唆されます。以下、本論文の図2です。
画像

 直接的な放射性炭素年代(紀元前4200年頃)と、いくつかの回収された土器の破片から、ポトチャニ遺跡の虐殺犠牲者は、クロアチア本土やボスニア北部やスロヴェニアやオーストラリア東部やハンガリー西部に広範に拡大した、中期銅器時代のラシニヤ(Lasinja)文化に分類されます。ラシニヤ文化はレンジェル(Lengyel)文化に由来する、と一般的に信じられていますが、その広大な範囲と追加の影響のため、起源の問題には追加の複雑さがあります。ラシニヤ文化は、何らかの方法で在来の新石器時代人口集団により「刺激を受けた」一連の推進力に起因する、経済および社会変化が起きた銅器時代となります。

 考えられる理由の一つは、ウシの増加です。ウシは集落周辺の牧草地を枯渇させた後、より頻繁な生息地の変化を要求します。ラシニヤ文化の人々にとってのウシの重要性は、動物考古学的記録により確認されており、ウシの飼育が人々の生活において重要な、さらには支配的な役割を果たした、と示唆されています。より大きな遊動性はおそらく、異なる文化集団間のより大きな意思疎通につながりました。これら全ての事象に影響を及ぼす要因は、ヴィンチャ(Vinča)文化の衰退と消滅です。この期間の他の重要な特徴は、強化された銅採掘およびこれらの過程と関連するネットワークの形成です。クロアチアのラシニヤ文化の遺跡ではごくわずかの銅しか知られていませんが、銅器時代のクロアチアの人々は異なる鉱床(炭酸塩と硫化鉱)からの銅を用いていたので、銅生産に精通していました。さまざまな銅器時代文化の金属と堆積物からの鉱石標本に関する以前の研究から、発掘された鉱石と金属の循環が複雑なネットワークに続いた、と示されています。

 ゲノム規模データの得られた38個体の分析の結果、その祖先系統は均一と示されました。主成分分析では、この38個体はアナトリア半島新石器時代クラスタからヨーロッパ西部狩猟採集民の方向にわずかに動いており、草原地帯祖先系統の到来前となる他の中期~後期新石器時代農耕民に類似しているものの、とくにヨーロッパ東部の祖先系統と類似している、と明らかになりました(図3A)。このパターンは、ポトチャニ個体群を、草原地帯関連祖先系統の証拠なしに、おもにアナトリア半島新石器時代祖先系統と9%程度のヨーロッパ西部狩猟採集民祖先系統(図3B)の混合としてモデル化できることにより、確認されます。これはさらに、バルカン半島の新石器時代人口集団に典型的な父系である、Y染色体ハプログループ(YHg)G2・I2・C1a2(V20)の存在と、草原地帯関連集団の拡大に典型的なYHg-R1a・R1b1a1b(M269)の欠如により裏づけられます。全体的に、本論文の片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)の分析は、異なるミトコンドリアの30系統とY染色体6系統を識別し、ポトチャニ遺跡の犠牲者は女性系統の多様な遺伝子プールを有する大規模な共同体に属していた、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
画像

 次に、常染色体で親族関係が調べられ、38個体のうち11個体のみが密接に(3親等もしくはそれ以上)関連しており(図4)、異なる4家系に属する、と明らかになりました(図5)。若い男性(I10068)には6~10歳の少女I10070と11~17歳の少女I10074という2人の娘と、6~10歳の甥I10045がいました。6~10歳の姉妹I10067とI10293には、3親等の若い親族男性I10295がいました。中年男性I10061には、11~17歳の息子I10294がいました。6~10歳の少年I10054には、母方のオバもしくは異母姉妹の若いI10065がいました。以下、本論文の図4です。
画像

 いくつかの1親等および2親等の関係を通じてつながった拡大家族を表すポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の紀元前3000年頃の集団墓地とは異なり(関連記事)、ポトチャニ遺跡の虐殺は、親族集団が標的ではなく、分析された個体群の約70%は被葬者に近親者がいませんでした。これは、共同体内の少数の家族を標的にした殺害ではなく、多くの家族集団で構成される共同体における個体群の小さな部分集合を標的とする暴力的攻撃を示唆します。遺伝的分析は性的偏りがないことを明らかにし(女性20個体と男性18個体)、虐殺は戦闘で予想される男性間の戦いの結果でも、特定の性の個体群を標的とする報復事象の結果でもなかったことを示します。以下、本論文の図5です。
画像

 ホモ接合性連続(両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)の分析は、個体の両親がどの事例でも密接に関連していないことを明らかにします。この分析で充分な網羅率を有する27個体のうち、ホモ接合性の長い連続(20センチモルガン超)の欠如により反映されるように、1親等もしくは2親等のイトコ水準で近親交配は検出されませんでした。27個体のうち21個体では、4cM(センチモルガン)以上の連続さえありませんでした(図6)。そのような低い出自関連性は、数十世代にわたって持続する大きな地域的人口規模を示します。ホモ接合性が4~20cMの長さの連続の割合を用いて、任意交配祖先系統プールと過去数十世代にわたる一定規模の人口集団を仮定すると、最近の有効人口規模は20100~75600と推定され、農耕への移行後のユーラシア西部人口集団に典型的な推定範囲内に収まります。以下、本論文の図6です。
画像

 ポトチャニ遺跡の集団埋葬は、2つの軍隊間の戦いではなく、性別や年齢に偏りがない人口集団の無関係な部分集合の無差別殺害の結果です。この仮説は、若い男性や中年男性が圧倒的な戦闘関連個体群で見られる分布とは異なる、両性とさまざまな年齢集団を含む、ポトツァニ遺跡個体群の人口統計学的構成に基づいています。人口統計学的分布の観点では、ポトチャニ遺跡個体群は、タールハイムやアスパルン・シュレッツやシェーネック・キリアンシュテッテン(Schöneck-Kilianstädten)やコシツェのような他の先史時代虐殺とほぼ同じですが、共同体の全体もしくは一部が殺されたもっと新しい事例とも同じであることは明らかです。ヨーロッパにおける新石器時代(および銅器時代)の虐殺発生と大規模な暴力の急増の理由は、複雑で多因子的です。それにも関わらず、気候条件不順と人口規模における有意な増加の組み合わせが、通常はこの現象の最も可能性が高い理由として挙げられます。

 現代の虐殺の事例では、虐殺は通常、経時的に展開し、さまざまな方法で現れる特定の暴力パターンを有する過程です(および単一の事象ではありません)。この文脈では、虐殺の前後の事象や行動の理解が重要です。なぜならば、これらは虐殺の感情的条件に寄与するからです。一部の著者によると、虐殺は、通常加害者により「他者」とみなされる犠牲者を軽蔑し、破壊することを含む、精神的複合体により特徴づけられます。この過程が終了した後でのみ、犠牲者は殺されます。換言すると、指導者たちは、社会全体に存在する苦しみや辛さに関して特定の集団を非難し、その集団が排除された後に状況が改善するだろう、と示唆します。共同体の不安を標的となる集団への恐怖に向けることは、最終的には恐れられている「他者」を排除するという欲求に変わっていく憎悪で、「他者」である集団への憎悪を生じます。無実の非戦闘員の虐殺に寄与するかもしれない追加の重要な側面は、アイデンティティの構築と「他者」の非人間化過程であり、そこでは「他者」は脅威として認識され、社会を救うために「他者」は破壊されねばならない、という考えにつながります。

 本論文は現時点で古代の虐殺の最大規模の遺伝的分析であり、大規模社会の台頭前の組織化された暴力の様相への洞察を提供します。虐殺の頃の人口集団置換の兆候は見つからず、前期新石器時代のピレネー山脈(関連記事)もしくは球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(関連記事) での虐殺パターンとは対照的です。それらの虐殺では、新たな人々の到来が重要な役割を果たした可能性が高そうです。報復もしくは懲罰殺害により予想されるような、虐殺において性的もしくは年齢的に偏っているか、特定の家族を標的とする証拠もありません。代わりにデータは、この期間の組織化された暴力は、無差別殺害が歴史時代もしくは現代の生活の重要な特徴であったように、無差別だった可能性を明らかにします。今後の研究の重要な方向性は、古代の暴力のこのパターンの流行を決定するために、追加の虐殺遺跡を調べることです。


参考文献:
Novak M, Olalde I, Ringbauer H, Rohland N, Ahern J, Balen J, et al. (2021) Genome-wide analysis of nearly all the victims of a 6200 year old massacre. PLoS ONE 16(3): e0247332.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0247332

大河ドラマ『青天を衝け』第5回「栄一、揺れる」

 今回は大相撲春場所初日で後半に2番取り直しがあったため、相撲中継が18時過ぎまでずれ込み、放送開始が4分遅れました。そのため、予約録画が機能せず、急遽ワンタッチ録画を使いました。最近の録画機ならば、昔と比較して高機能なので前番組の延長にも対応してくれるものかと思っていましたが、何とも残念でした。私の設定が悪かったのかもしれませんが。前作と前々作のように午前9時からの放送ならば、こうしたことを心配せずによかったのですが、ともかく、来週も今回のような事態を想定しておかねばならないでしょう。再放送が地上波だけになったことも残念です。

 今回も、渋沢栄一の農村場面と、徳川慶喜を中心とする「中央政界」の場面との二部構成になっていました。「中央政界」場面の方が大河ドラマらしいとも言えるので、長年の大河ドラマ愛好者には好評かもしれませんが、私は当時の生活・価値観を描いている農村場面もかなり気に入っています。農村場面はこれまで屋外ロケが多いことも、高評価の一因です。農村場面では、外国船の到来が相次ぎ、当時の武士以外の知識階層の一部にも焦燥感が見えてくるところも描かれており、この点も良いと思います。何よりも、他の人物を貶めて主人公を相対的に持ち上げるとか、主人公を周囲の人物が不自然に称賛するとかいったことがなく、主人公の合理性や若者らしい行動力がしっかりと描かれているのはよいことだと思います。藤田東湖は、今回で退場となるためか、見せ場が多くありました。藤田東湖が地震で亡くならねば、その後の水戸藩の動向が変わったのかどうか、気になるところです。

古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史(追記有)

 古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文はすでに昨年(2020年)3月、査読前に公開されていましたが(関連記事)、その後に公表された複数の重要な研究を取り入れ、データと図がかなり修正されているようなので、改めて取り上げます。本論文は、この研究がアジア東部の人口史の理解における重要な進歩を示しており、氷河期以前のアジア東部個体と中国南部の完新世個体の古代DNAデータがより多く分析されれば、さらなる洞察が得られるだろう、と指摘しています。本論文はアジア東部の包括的な古代DNA研究成果を提示しており、この問題を調べるならば、現時点でまず読むべき重要な文献と言えるでしょう。

 アジア東部は動物の家畜化と植物の栽培化の最初期の中心地の一つで(関連記事)、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族など、ひじょうに多様な語族を有しています。しかし、チベット高原と中国南部の現代人の遺伝的多様性の標本抽出が最小限であるため(関連記事)、アジア東部における人口史の理解は不充分なままです。

 この研究は、人口史の広範な研究への使用に同意した中国(337人)とネパール(46人)の46人口集団から383人のDNAを収集し、約60万ヶ所の一塩基多型の遺伝子型が決定されました。古代DNA分析に関しても、現代の共同体とのつながりの可能性が高い時には、共同体からの許可が得られました。本論文は、新たに166個体のデータを報告します(図1)。その内訳は、紀元前5700~紀元後1400年頃となるモンゴルの82個体、中国の黄河流域の紀元前3000年頃となる1ヶ所の遺跡の11個体、紀元前2500~紀元前800年頃となる日本の縄文時代の狩猟採集民7個体、ロシア極東では紀元前5400~紀元前3600年頃となるボイスマン2(Boisman-2)共同墓地の18個体および紀元後900年頃の1個体と紀元後1100年頃の1個体、紀元前1300~紀元後800年頃となる台湾の2ヶ所の遺跡の46個体です。集団析では、汚染の証拠がある16個体、5000~15000ヶ所の一塩基多型データしか得られなかった10個体、データセットで他のより高い網羅率の個体の密接な親族となる11個体を除外して、130個体に焦点が当てられました。これらのデータは、公開されている古代人1079個体、および16人口集団の現代人3265個体のデータと統合されました。地理と年代と考古学的文脈と遺伝的クラスタにより、これらの個体群はまとめられました。

 主成分分析が実行され、古代の個体群は現代人を用いて計算された軸に投影されました。人口構造は地理および言語と相関していますが、例外もあります。中国北西部とネパールとシベリアの集団はユーラシア西部人に向かってそれており、平均して5~70世代前の混合を反映しています。初期完新世のアジア東部人では、現代(FST=0.013)と比較して遺伝的分化がずっと高く(FST=0.067)、深いアジア東部系統間の混合を反映しています。現在、最小限のユーラシア西部関連祖先系統を有するアジア東部人は、これらの極の間でじょじょに変化します。「アムール川流域クラスタ」は、アムール川流域の古代人および現代人と相関し、言語ではツングース語族話者およびニヴフ人と相関します。「チベット高原クラスタ」は古代ネパール人と在来チベット人で最も強く表されます。「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾人および、タイ・カダイ語族とオーストロアジア語族とオーストロネシア語族を話すアジア東部人で最大化されます。自動クラスタ化でも類似の結果が得られます。

 本論文は、主題に沿って調査結果を整理します。第一に、深い時間を考慮します。アジア東部人に寄与する初期に分岐した系統は何か、という問題です。第二~第四は、言語の拡大とその農耕拡大とのあり得るつながりについて、3通りの仮説を検証することにより、人口構造がどのようにして現在のものになったのか、明らかにします。第五に、ユーラシア西部人とユーラシア東部人とが地理的な接触地帯に沿ってどのように混合したのか、説明します。以下、本論文の図1です。
画像


●後期更新世の沿岸部拡大

 アジア東部で利用可能な氷河期前のゲノムは2個体だけです。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)1個体(関連記事)で、もう一方はモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000年前頃の現生人類1個体(関連記事)です。それにも関わらず、重要な洞察は氷河期後のゲノム分析から収集できます。一つの問題は、アジア東部の現生人類の移住が沿岸と内陸部のどちらの経路だったのか、ということです。チベット人が深く分岐したY染色体ハプログループ(YHg)D1(M174)を高頻度(50%)で有しているように、示唆的な遺伝的証拠はY染色体に由来します。YHg-D1は、現代日本人(および日本列島の縄文時代の狩猟採集民)およびベンガル湾のアンダマン諸島先住民と共有されています。

 qpGraphを用いて、データと一致する人口集団分岐および遺伝子流動が調べられ、本論文の主成分分析で祖先系統の両極端に寄与する主要系統の深い歴史に関して、節約的な作業モデルが特定されました。本論文の適合からは、アジア東部人祖先系統の大半は2つの古代人口集団の異なる割合の混合に由来する可能性がある、と示唆されます。一方は4万年前頃の田园個体と同じ系統、もう一方はアンダマン諸島先住民(オンゲ人)と同じ系統です。

 北方に分布する田园個体関連系統は、モンゴルの新石器時代の人々の祖先系統の98%、(現代チベット人を形成するチベット狩猟採集民から推測されるオンゲ関連系統と混合した)黄河上流域農耕民の90%に寄与した、と推測されます。より南方に分布する別の田园関連系統は、中国南東部沿岸の紀元前6300~紀元前5600年頃の前期新石器時代となる福建省の粮道(Liangdao)遺跡の狩猟採集民の祖先系統の73%と、日本の縄文時代狩猟採集民の56%に寄与しました(関連記事)。日本列島には氷河期の前後に人類が居住するようになり、南北の「縄文人」は形態学的に異なっているので、本論文で検出された混合と関連しているかもしれません。北部の田园個体関連系統は、西遼河農耕民(67%)と台湾農耕民(25%)の両方にも寄与し、その祖先系統の残りは、粮道遺跡の南部狩猟採集民と関連しています。北部の田园個体関連系統は、黄河上流域農耕民に寄与した系統とは関連しているにも関わらず異なる、という事実から、黄河流域農耕民の拡大とは関係していない、台湾への北部農耕民の拡大の可能性が高い、と示唆されます。

 オンゲ関連系統の寄与は、沿岸部集団に集中しています。この系統は、アンダマン諸島人で100%、「縄文人」で44%、古代台湾農耕民で20%と推定され、アンダマン諸島人と日本人に見られるYHg-D1に基づいて仮定された沿岸経路拡大と一致します。当然チベットは沿岸部に位置していませんが、古代チベット人へのこの系統の比較的高い推定される寄与(24%)と、現代チベット人におけるYHg-D1の50%の割合は、YHg-D1とオンゲ関連系統との間のつながりを強固にします。チベットの狩猟採集民は、内陸部に拡大してチベット高原に居住したこの後期更新世沿岸拡大の早期に分岐した枝を表す、と本論文では仮定されます。


●トランスユーラシア仮説の精緻化

 農耕・言語拡散仮説では、栽培化・家畜化の中心およびその周辺における人口密度増加が、言語を拡大させる人々の移動の推進に重要だった、と提案されますが、アジア東部では、この仮説を検証する利用可能なデータが限られていました。まず、共有された農耕用語を含む再構築された特徴に基づいて、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族などの大語族を提案している、「トランスユーラシア仮説」の遺伝的相関関係が調べられました。トランスユーラシア仮説では、これらの語族は、モンゴルへと西方に、シベリアへと北方に、朝鮮半島と日本列島へと東方に拡大した、中国北東部の西遼河周辺の初期雑穀農耕民の拡大と関連する祖型言語に由来する、と提案されます。

 この言語拡大のあり得る遺伝的相関への洞察を得るため、まずアムール川流域の年代区分調査が行われました(関連記事)。紀元前5500年頃の初期新石器時代個体群と紀元前5000年頃のボイスマン(Boisman)遺跡個体群から、紀元前900年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化、および紀元後50~250年頃となる鮮卑(Xianbei)文化まで、アムール川流域個体群は一貫して、qpWaveではクレード(単系統群)であることと一致します。この局所的に継続した人口集団も、後の人口集団に寄与しました。それは、ボイスマン遺跡個体群のYHg-C2a(F1396)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D4・C5に反映されています。これらのハプログループは現代のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族話者において優勢で、紀元後1100年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)文化と関連する1個体でも確認されます。この黒水靺鞨文化関連1個体は、43±15%のアムール川流域新石器時代祖先系統を有する、と推定されています(歴史時代に南方からの移民があった場合に予想されるように、残りの祖先系統は漢人によりよくモデル化されます)。

 この古くに確立されたアムール川流域系統は、東方のより多くの縄文人関連性と、西方のほとんどのモンゴル新石器時代関連祖先系統との勾配の一部でした。バイカル湖狩猟採集民(関連記事)における77~94%のモンゴル新石器時代関連祖先系統が推定され、残りは、氷河期にバイカル湖地域に居住していた、ユーラシア西部関連系統と深く分岐した、古代北ユーラシア人に由来します(関連記事)。ボイスマン遺跡のようなアムール川流域狩猟採集民では、モンゴル新石器時代関連祖先系統が87%(残りは縄文人関連祖先系統)と推定されます。アメリカ大陸先住民は、ボイスマン遺跡やモンゴルの新石器時代個体群の方と、他のアジア東部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有し、この系統の初期の分枝は図2の田园関連分枝の北部の分布を反映しており、アメリカ大陸先住民におけるアジア東部関連祖先系統の起源です。

 トランスユーラシア仮説は、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族の祖型言語が西遼河地域の農耕民により広がった、というものです。西遼河地域の農耕民は、本論文の分析(図2)では、黄河上流域関連祖先系統(67%)と粮道関連祖先系統(33%)の混合を示します。祖先系統のこの特徴的な混合は、本論文の対象ではモンゴルとアムール川流域の時代区分で欠如している、と観察されます(図3)。これは、西遼河農耕民の拡大がモンゴル語族とツングース語族を広めた、とする仮説の予測でありません。対照的に、西遼河農耕民祖先系統は、おそらくさらに東方に影響を及ぼしました。たとえば、現代日本人は青銅器時代西遼河人口集団(92%)と縄文人(8%)の2方向混合としてモデル化でき、黄河流域農耕民集団が本論文のqpAdm分析での外群として含まれ、そのモデルが適合されるので確認されるように、黄河流域農耕民関連集団からの無視できる程度の寄与を伴います。この祖先系統は、朝鮮半島を経由して伝わったことと一致します。それは、日本人が朝鮮人(91%)と縄文人(9%)の混合としてモデル化できるからです。

 本論文で取り上げられた縄文人6個体は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えているエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の370V/A多様体の派生的アレル(関連記事)を有していません。EDAR遺伝子の370V/A多様体の派生的アレルは中国本土で3万年前頃に出現したと推定されており、アジア東部本土とアメリカ大陸の完新世の人口集団で高頻度に達しました。この派生的アレルが縄文人にはほぼ欠如しているという事実は、アジア東部本土集団と比較しての縄文時代の人口集団の遺伝的相違を強調します。以下、本論文の図2です。
画像


●シナ・チベット語族の北部起源

 チベット高原には現生人類が4万~3万年前頃以来居住してきましたが(関連記事)、恒久的居住の証拠があるのは、農耕到来の紀元前1600年頃以降です(関連記事)。先住チベット人も、中国沿岸部平原の言語とつながるシナ・チベット語を話します。これらの密接に関連する言語の起源に関する「北部起源仮説」では、黄河上流および中流域でアワを栽培していた農耕民がチベット高原へと南西に拡大し、現在のチベット・ビルマ語族を広げ、中原および東岸へと東方と南方に拡大して、祖型的中国語を広めた、と提案されています(関連記事)。「南部起源仮説」では、祖型シナ・チベット語は高地を低地とつなぐチベットのイー(Yi)回廊で出現し、早期完新世に拡大した、と想定されます。

 チベット人の祖先系統と、中国語話者の祖先系統との関係を明らかにするため、現代の17の人口集団が3つの遺伝的クラスタにまとめられました。それは、「中核チベット人」、中核チベット人およびユーラシア西部人と関連する系統間の混合である「北部チベット人」、qpAdmでは30~70%のアジア南東部人と関連する系統を有し、チベット語話者だけではなく、チアン人(Qiang)やロロ・ビルマ語話者も含む「チベット・イー回廊」人口集団です。古代黄河流域農耕民と現代漢人とチアン人は、中核チベット人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、チベット人と漢人とチアン人は全て、新石器時代黄河流域農耕民と関連する人口集団からの祖先系統を有する、との仮説と一致します。混合連鎖不平衡の崩壊を通じて、中核チベット人における大規模な混合(最小で22%ですが、おそらくはるかに高く、図2の推定値84%と一致します)が確認されました。これは、中核チベット人とその遺伝的にほぼ区別できない古代ネパールの近縁集団が、チベットの狩猟採集民の継続的な子孫を表している可能性は低い、という独立した証拠を提供します。単一混合モデルでは、混合は平均して紀元前290~紀元後270年頃に起きた、と推定されますが、混合の始まりは、チベット高原への農耕拡大の紀元前1600年頃までさかのぼるかもしれません。

 現代漢人は南北の遺伝的勾配が特徴です。黄河上流および中流域の新石器時代農耕民とチベット人は、アジア南東部クラスタと比較して、現代漢人とより多くのアレルを共有していますが、アジア南東部クラスタ集団は、黄河流域農耕民と比較すると、ほとんどの漢人の方とより多くのアレルを共有しています。qpWaveを用いると、2つの起源集団がほとんどの漢人の全ての祖先系統への寄与と一致し、例外は本論文で2~4%のユーラシア西部関連系統との混合が推定される北部漢人である、と決定されました。このユーラシア東西の混合は32~45世代前に起きた、と推定されます。これは、紀元後618~907年の唐王朝および紀元後960~1279年の宋王朝の時期と重なります。唐代と宋代には、漢人(の主要な祖先集団)と西方民族集団との統合の歴史的記録があります。他の漢人全員に関しては、黄河上流および中流域の農耕民と関連する祖先系統が59~84%、残りは古代粮道遺跡狩猟採集民と関連する人口集団に由来する、と推定されました。粮道遺跡狩猟採集民集団は、長江流域の稲作農耕民と遺伝的構成が一致すると推測されます。この推論は、粮道遺跡狩猟採集民祖先系統が、おもに多くのオーストロネシア語族話者、海南島(Hainan Island)のタイ・カダイ語族話者のリー(Li)人(66%以下)、青銅器時代アジア南東部人の主要な系統で、一部のオーストロアジア語族話者の祖先系統の2/3である、という事実(図3)により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。

 現在のシナ・チベット語族話者と黄河上流および中流域の新石器時代農耕民との間の特有のつながりが検出されたので、本論文の結果はシナ・チベット語族の「北部起源仮説」を裏づけます。考古学的に証明されているこの地域からの農耕の拡大と同じ時期であることは、紀元前3800年頃の単一の男性祖先に由来する、漢人とチベット人との間で共有されているYHg-O2a2b1a1(M117)の証拠でも裏づけられます。現在の南部漢人における増加する粮道遺跡狩猟採集民関連祖先系統の勾配はおそらく、漢人(の主要な祖先集団)が中国南部に拡大したと歴史的文献で記録されているように、拡大する漢人と南部集団との混合に起因します。しかし、これは最初の南方への移住ではありませんでした。それは、中国南部の漢人が遺伝的に、中期新石器時代の中国南部農耕民よりも、後期新石器時代黄河流域農耕民の方と遺伝的に近く(関連記事)、古代台湾農耕民では約25%の北方系統も観察されるからです(図2)。


●稲作農耕の拡大が言語を広めます

 アジア南東部の以前の古代DNA分析では、アジア南東部最初の農耕民は、おそらく中国南部農耕民に関連するアジア東部人からの2/3の祖先系統と、深く分岐した狩猟採集民系統から1/3の祖先系統を有していると示され、これはオーストロアジア語族話者において最も強く明らかで、言語の拡大との関連が示唆されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。古代台湾農耕民からの約2000年にわたる時系列の利用により、これがより広範なパターンだと確証されました。古代台湾の個体群は、現代のオーストロアジア語族話者と強い遺伝的つながりを示します。これは、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)によりさらに裏づけられます。古代台湾の個体群では、YHgはO2a2b2(N6)が、mtHgはE1a・B4a1a・F3b1・F4bが優勢です。これらのハプログループは現代の台湾先住民に共有されており、おそらくは太平洋南西部に最初のオーストロネシア語族をもたらした(関連記事)、バヌアツのラピタ(Lapita)文化個体群(関連記事)にも存在しています。

 古代台湾集団とオーストロアジア語を話す現代台湾先住民は、中国南部本土のタイ・カダイ語族話者の方と、他のアジア東部人よりも有意に多くのアレルを共有しています。これは、現代のタイ・カダイ語族話者と関連し、長江流域農耕民(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)からそれ以前に派生した古代の人口集団が、紀元前3000年頃に台湾へと農耕を広めた、との仮説と一致します。意外な発見は、古代中国北部個体群が、台湾海峡の本土側の初期完新世狩猟採集民よりも、本論文における台湾の時代区分の古代個体群の方とより密接に関連している、との観察です。これは、新石器時代中国北部から台湾への遺伝子流動を示唆し、黄河流域農耕民の2集団系統の一方に派生するとモデル化する場合、25%の遺伝的影響が推定されます。この祖先系統は、黄河流域農耕民自体から由来すると仮定するならば適合せず、南北の移住はこれらの農耕民の拡大とは関連しない、と示唆されます。推測できる可能性としては、この祖先系統が紀元前8000年頃までに中国北部で栽培化されたアワの耕作者により伝えられ、中国南部では紀元前3000~紀元前2500年頃となる台湾新石器時代の大坌坑(Tapenkeng)文化で比較的早期に出現した、というものです。


●ユーラシア東西の混合

 モンゴルはユーラシア草原地帯の東端近くに位置し、考古学的証拠では、完新世を通じてユーラシア東西の文化的交換の水路だった、と示されています。たとえば、ヤムナヤ(Yamnaya)草原地帯牧畜民文化の東方への拡大である紀元前3100年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化は、モンゴルに最初の酪農をもたらし、紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化のようなその後の現象に文化的影響をもたらしました。

 本論文におけるモンゴルの時代区分では、紀元前6000~紀元前600年頃の4起源集団に祖先系統が由来します。最初に確立し、おもにアジア東部人と関連する唯一の起源集団は、紀元前6000~紀元前5000年頃となるモンゴル東部の新石器時代狩猟採集民2個体において基本的にほぼ100%で表され、本論文のデータセットでは最初期の個体群となります(図3)。第二の起源集団は、紀元前5700~紀元前5400年頃のモンゴル北部の新石器時代狩猟採集民7個体で最初に現れ、以前に報告されたシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する祖先系統(関連記事)を5%程度有するとモデル化できます。第三の起源集団はアファナシェヴォ文化個体群で最初に現れ、遺伝的にはヤムナヤ草原地帯牧畜民とひじょうに類似しており、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群のパターンと一致します。第四の起源集団は紀元前1400年頃までに現れ、シンタシュタ(Sintashta)文化の牧畜民のような祖先系統を有する人々に由来するとモデル化されます。シンタシュタ文化牧畜民は、ヤムナヤ関連祖先系統(約2/3)とヨーロッパ農耕民関連祖先系統(約1/3)の混合に由来します。

 モンゴルにおける混合史を定量化するため、qpAdmが用いられました。多くのモンゴル東部人は、新石器時代のモンゴル東部人(65~100%)とシベリア西部狩猟採集民の単純な2方向混合としてモデル化できます。このモデルに適合する個体群は、新石器時代集団(0~5%のWSHG)だけではなく、アファナシェヴォ・クルガク・ゴビ(Afanasievo Kurgak govi)遺跡の前期青銅器時代の子供(15%)、ウルギー(Ulgii)集団(21~26%)、中期青銅器時代のムンクカイルカーン(Munkhkhairkhan)文化の主要な集団(31~36%)、モンゴル中央部・西部地域の後期青銅器時代結合集団(24~31%)、モングンタイガ(Mongun Taiga)の個体群(35%)です。クルガク・ゴビの子供はアファナシェヴォ文化との関連および年代にも関わらずヤムナヤ関連系統祖先系統を有しておらず、ヤムナヤ関連祖先系統を有さないアファナシェヴォ伝統で埋葬された個体の最初の事例となります。モンゴルに拡大したヤムナヤ期の遺産は、紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体で継続し、その祖先系統は、ヤムナヤ・アファナシェヴォを一方の起源集団として用いてのみモデル化できます(33~51%)。これは、古代ヨーロッパ農耕民を外群で含める場合でも適合し、人々の長距離の移動はヨーロッパ西部の巨石文化伝統をチェムルチェク文化の人々に広めた、という仮説の証拠を提供しません。

 紀元前600年頃より前の4起源集団モデルが適合しない1事例は、チェムルチェク文化の1個体ですが、ずっと南方のトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)地域と関連する人口集団からの15%の追加の祖先系統でモデル化できます。最近の研究では、トゥーラン集団とボタイ(Botai)遺跡の初期カザフスタン牧畜民の混合としてチェムルチェク文化関連個体群がモデル化され、本論文において全てのチェムルチェク文化関連個体で検出された他の3祖先系統はいずれも確認されませんでした(関連記事)。本論文の最適モデルは、ボタイ文化関連個体群が参照セットにある時に合格するので、本論文と他の研究の知見は、どちらも正しいならば、ボタイ文化集団関連祖先系統を有する一方の移住の波と、それを有さないもう一方の移住の波を伴うような、チェムルチェク文化関連個体群のひじょうに複雑な起源を示唆します。

 中期青銅器時代以降、モンゴルの時代区分データでは、アファナシェヴォ文化とともに拡大したヤムナヤ派生系統の持続に関する説得力のある証拠はありません。代わりに、ヤムナヤ関連祖先系統は、中期~後期青銅器時代のシンタシュタ文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々と関連する後の拡大に由来するものとしてのみモデル化できます。シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化の人々は、2/3のヤムナヤ関連祖先系統と1/3のヨーロッパ農耕民関連祖先系統の混合です。シンタシュタ文化関連祖先系統は、中期~後期青銅器時代の集団で0~57%の割合で検出され、モンゴル西部でのみかなりの割合となります。これら全集団に関して、qpAdm祖先系統モデルは、外群にアファナシェヴォ文化関連個体群を用いて合格しますが、起源集団としてのアファナシェヴォ文化関連個体群と外群にシンタシュタ文化関連個体群を用いるモデルは全て却下されます(図3)。

 新たな祖先系統は後期青銅器時代から大きな割合で到達し始め、qpAdmでは、新石器時代モンゴル東部個体群を、フブスグル(Khövsgöl)やウラーンズク(Ulaanzukh)やモンゴル中央部・西部地域の一部後期青銅器時代個体群、石板墓(Slab Grave)文化と関連した前期鉄器時代2個体、匈奴や鮮卑やモンゴル時代の個体群において、単一のアジア東部人起源集団としてモデル化すると失敗します。しかし、漢人を起源集団として含めると、これらの個体群の9~80%の祖先系統の割合が推定されます。トゥーラン派生祖先系統は、紀元前6世紀~紀元前4世紀までに、鉄器時代のサグリ(Sagly)文化の複数個体において再度モンゴルに拡大しました。明るい肌の色素沈着と関連する2ヶ所の遺伝子多型(rs1426654とrs16891982)、およびヨーロッパ人で青い目と関連する1ヶ所の多型(rs12913832)のアレルは、サグリ文化個体群で高頻度ですが、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する多型(rs4988235)のアレルは、本論文で分析されたアジア東部人全員でほぼ欠如しています。

 ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統が中期~後期青銅器時代までにモンゴルでほぼ消滅したことで一致している一方、ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統拡大の遺産が中国西部で紀元前410~紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)文化の時期に存続したことを示唆する、以前の古代DNA分析が確認・補強されました。石人子溝文化個体群の多くと5つの遺伝的に均質な下位クラスタのうち3クラスタを別々に考慮すると、唯一の節約的なモデルは、アファナシェヴォ文化個体群と関連する集団からのユーラシア西部関連祖先系統に全てが由来し、後にアジア中央部とモンゴルで出現した特徴的なヨーロッパ農耕民関連混合のないアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統は現在の新疆ウイグル自治区で持続した、と確認されます。

 たとえば、最もユーラシア西部関連祖先系統を有する2個体(石人子溝文化)にとって、3方向モデルに適合する全モデルは、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統を71~77%含みます(図3)。さらに、そのようなモデルにおいて小さな割合で適合できる他のユーラシア西部関連2集団からの祖先系統の合計は、常に9%未満です。国家以前の社会では、言語はおもに人々の移動を通じて拡大すると考えられているので、これらの結果は、タリム盆地のトカラ語がヤムナヤ文化の子孫のアルタイ山脈およびモンゴルへの移住を通じて(アファナシェヴォ文化の外観で)拡大し、そこからさらに新疆ウイグル自治区へと拡大した、との仮説に重要な意味を追加します。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化の仮説にとって重要です。なぜならば、インド・ヨーロッパ語族系統樹における二番目に古い分枝の分岐は紀元前四千年紀末に起きた、という仮説を支持する証拠が増加しているからです。以下、本論文の図3です。
画像


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で取り上げられていない最近の研究では、まだ査読前ですが、チベット人の形成過程と地域差を詳細に分析した論文(関連記事)や、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史を分析した論文(関連記事)や、前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造を分析した論文(関連記事)があります。本論文が指摘するように、アジア東部の更新世人類遺骸と、新石器時代長江流域個体群の古代DNAデータが得られれば、アジア東部、さらにはアジア南東部における現在の人口集団の形成史の理解は大きく進むと期待されます。

 上述のように、本論文は昨年3月に査読前に公開された時からかなり修正されており、それは昨年の公開時以降に公表された研究を取り入れているからでもあります。まず、査読前論文では、アジア東部における主要な祖先系統の大きな区分はユーラシア東部で、それが南北に分岐し、さらにユーラシア東部北方祖先系統から分岐したアジア東部祖先系統が南北に分岐した、とされていました。この大きな祖先系統間の関係は本論文でも変わっていませんが、ユーラシア東部系統の南北の分岐が、南方は沿岸部祖先系統、北方は内陸部祖先系統と名称が変わっています。4万年前頃の田园個体はユーラシア東部内陸部祖先系統に位置づけられるものの、アジア東部現代人の直接的な祖先集団とは早期に分岐し、現代人には殆どあるいは全く遺伝的影響を残していない、と推測されています。

 ユーラシア東部内陸部祖先系統(以下、内陸部祖先系統)は南北に分岐し、これが査読前論文のアジア東部南方祖先系統とアジア東部北方祖先系統に相当します。黄河流域新石器時代集団では内陸部北方祖先系統の割合が、前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体では内陸部南方祖先系統の割合がひじょうに高くなっていますが、それぞれユーラシア東部沿岸部祖先系統(以下、沿岸部祖先系統)の遺伝的影響も多少受けています。長江流域新石器時代集団は、粮道遺跡狩猟採集民と類似の遺伝的構成と予想されていますが、現時点ではまだゲノムデータが公表されていないと思います。上述のように、アジア東部の古代DNA研究における今後の注目点の一つが、長江流域新石器時代集団の遺伝的構成でしょう。

 黄河流域で新石器時代に成立した遺伝的構成をアジア東部北方祖先系統、中国南部新石器時代集団の遺伝的構成をアジア東部南方祖先系統とすると、現代中国における各人口集団の南北それぞれの割合は図3aで示されています。査読前論文と比較すると、漢人では全体的にアジア東部北方祖先系統の割合の方が高いものの、以前よりもアジア東部南方祖先系統の割合が高くなっています。これは、アジア東部北方祖先系統を表すのが、紀元前3000年頃となる後期新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡個体群から後期新石器時代黄河上流域個体群に、アジア東部南方祖先系統を表すのが、台湾の紀元後1~4世紀の漢本(Hanben)遺跡個体群から前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体に変わったことが大きいようです。後期新石器時代黄河上流域個体群は、新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(関連記事)で取り上げられた、ともに青海省に位置する、紀元前2461~紀元前2208年頃の金蝉口(Jinchankou)遺跡と紀元前2866~紀元前2237年頃の喇家(Lajia)遺跡の個体群で表されます。

 モンゴルでは改めてユーラシア西部関連祖先系統の流入が確認されましたが、最初に到来した祖先系統が消滅し、後に別の祖先系統が流入するなど、ユーラシア草原地帯における完新世の複雑な人口史が示唆されます。ユーラシア西部関連祖先系統の流入は、上述のようにトカラ語との関連でも注目されます。現代チベット人は内陸部北方祖先系統の圧倒的な割合と、沿岸部祖先系統の比較的低い割合とで構成され、内陸部南方祖先系統の影響はほとんどないようですが、上述のチベット人形成史に関する詳細な研究では、現代チベット人内部では明確な遺伝的地域差があり、地域によってはユーラシア西部関連祖先系統や内陸部南方祖先系統が明確に示されています。

 日本人の私は、やはり自分が属する現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団の形成過程に注目してしまいます(まあ、自分のゲノムを解析してもらったことはないので、じっさいに「本土」集団の遺伝的構成の範囲内に収まるのか、確定したわけではありませんが)。本論文では、縄文時代の7個体が分析されました。内訳は、紀元前2500~紀元前800年頃の千葉市の六通貝塚の6個体と、紀元前1500~紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1個体です。六通貝塚の6個体では1親等の関係にある2個体が確認されたので、そのうち網羅率のより低い1個体は集団遺伝分析から除外されています。

 縄文人は、内陸部南方祖先系統56%と沿岸部祖先系統44%の混合としてモデル化されます。この混合がいつどこで起きたのか、縄文人の年代・地域での遺伝的違いはどの程度だったのか、今後の研究の進展が期待されます。また、現代日本の「本土」集団の形成に関しては、縄文人とアジア東部大陸部から到来した集団との混合との見解が最近の研究でも改めて確認されており、アジア東部大陸部からの縄文時代以降のおそらくは2回(あるいはそれ以上)の移住が想定されています(関連記事)。本論文は、現代日本の「本土」集団は、縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と指摘します。縄文時代以降に日本列島に到来し、圧倒的な遺伝的影響(90%程度)を現代「本土」集団に残した集団は、考古学で強く示唆されているように、朝鮮半島経由で到来した可能性が高そうで、今後この推測が大きく変わることはなさそうです。もちろん、本論文の祖先系統モデル化は、あくまでも現時点でのデータに基づいており、今後の古代DNA研究の進展により、さらに精緻化されると期待されます。

 本論文で分析された縄文人7個体のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に区分できた4個体のうち3個体がN9b1、1個体がN9b2aです。礼文島の1個体と六通貝塚の6個体のうち3個体は男性です。YHgは、礼文島の1個体がD1(F1344)、六通貝塚の3個体がD1a2a1c1(Z1570)とD1a2a1c1(Z1575)とD1a2a1c1a(CTS11032)です。アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415~4160年前頃の1個体(Ma911)のYHgもD1(M174)です(関連記事)。ホアビン文化狩猟採集民は遺伝的には本論文の沿岸部祖先系統の影響が圧倒的に強く、沿岸部祖先系統を有さないアジア東部の古代人ではまだYHg-D1は確認されていないと思いますので、アジア東部の個体群のYHg-D1は沿岸部祖先系統にのみ由来する可能性が高そうです。日本列島やチベットでは、内陸部祖先系統の遺伝的影響が圧倒的に強くなってもYHg-D1が残ったのに対して、農耕到来とともに内陸部祖先系統の遺伝的影響が強くなったアジア南東部では、YHg-D1がほとんど消えた理由に関しては、拡散の経緯や外来集団と在来集団との力関係や社会構造などの影響が大きいかもしれませんが、今後の研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


追記(2021年3月18日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



集団遺伝学:東アジア人集団の形成に関するゲノムからの知見

集団遺伝学:古代DNAでたどる東アジア人の集団史

 古代東アジア人の利用可能なDNAデータは、これまで限定的だった。今回D Reichたちは、台湾、モンゴル、チベット、中国など、東アジア各地の古代人および現代人から得られた、大規模なゲノム規模のデータセットを報告している。このデータセットを既存のデータセットと統合して解析した結果、モンゴルおよびアムール川流域、黄河流域、台湾など、さまざまな地域での集団の移動が詳細に推測された。

朝ドラ『繭子ひとり』で延命の嘆願が寄せられた露口茂氏

 『女性自身』2021年3月23・30日号に朝ドラ特集記事が掲載されていました。朝ドラ史上平均視聴率が最高の作品は、1983年4月1日から1984年3月31日まで放送されていた『おしん』であることは、よく知られています。この特集記事によると、朝ドラ史上平均視聴率第2位の作品は、1971年4月5日から1972年4月1日にかけて放送された『繭子ひとり』とのことです。『繭子ひとり』は総集編も含めて映像が全く残っていなかったそうですが、出演者の1人である杉良太郎氏からNHKに提供されたビデオの中に第125回の一部の映像が含まれていたそうです(関連記事)。

 『繭子ひとり』の主役は山口果林氏演じる加野繭子で、繭子は雑誌社の女性記者となり、北川編集長に恋をしますが、どうも北川編集長は原作では死ぬ設定の役だったようで、この特集記事によると延命嘆願が寄せられたそうです。北川編集長を演じたのは露口茂氏なので注目したわけですが、ウィキペディアの記事を読むと、すでに書かれていた情報でした。勝手に少し興奮して損をした気分になりましたが、1972年7月21日放送開始の『太陽にほえろ!』前の露口氏の芸能界における立場を窺える興味深い情報が得られたので、読んで正解でした。

 『太陽にほえろ!』での露口氏は、山さん役で一定以上の年齢の女性からの人気がひじょうに高かったそうですが(若い女性から高い人気を得たのは殿下役の小野寺昭氏)、すでに『太陽にほえろ!』の放送開始前に、『繭子ひとり』などで一定以上の年齢の女性から高い支持を受けていたのかもしれません。露口氏は北川編集長をひじょうに魅力的に演じたのでしょうから、映像がほとんど残っていないのは何とも残念です。

 1973年に放送された大河ドラマ『国盗り物語』も、露口氏が葛籠重蔵役で出演していますが(関連記事)、総集編しか映像が残っておらず、この頃のNHKのドラマの映像がほとんど残っていないのは日本の芸能史における大きな損失だと思います。ネットで見かけた情報だと、『国盗り物語』本編で葛籠重蔵の出番は多かったそうなので、いつか本編の録画も見つかるのではないか、と期待してきたのですが、残念ながら叶わないようです。

 私は戦後芸能史に詳しくないので、『太陽にほえろ!』放送開始前の露口氏の立場がどのようなものだったのか、ほとんど知りませんが、『繭子ひとり』での演技が評判だったことや、山口崇氏が出演していた、1972年5月6日~1972年8月26日まで放送された『お祭り銀次捕物帳』でクレジットのトメは露口氏でしたから、すでにかなりの地位を確立していたように思います。『太陽にほえろ!』のサウンドトラックの解説(確か1975年頃発売のレコード盤の解説そのままだと思います)で、プロデューサーの岡田晋吉氏が、露口氏が出演依頼を承諾してくれた時に成功の手応えを感じた、というようなことを述べていたと記憶していますが、これも『太陽にほえろ!』放送開始直前の時点で、すでに露口氏が俳優として高く評価されていた傍証になりそうです。

中邑徹『地震とミノア文明』

 「自然異変と文明シリーズ」の一冊として、白水社より2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はミノア文化を地中海世界に位置づけ、近東およびヨーロッパとの関連で論じます。また表題にあるように、本書はミノア文化に大打撃を与えた地震に着目し、クレタ島やその周囲の地理・地形も詳しく解説しています。ミノス王朝下のミノア文化最盛期には、クレタ島のクノッソス宮殿周辺では、2万人以上の住民が経済活動に従事していた、と推測されています。

 農村は小規模でしたが、最大で200人規模の農村が存在した可能性も指摘されています。ミノア文化は優れた青銅製品を輸出し、その原材料となる銅や錫を輸入するため、キプロス島など東地中海にも進出しました。古代地中海世界における青銅製品の普及は、ミノア文化の優れた青銅生産技術と海上交易圏拡大が大きかった、と本書は指摘します。こうした地中海世界の交流の中で、ミノア文化とエジプトとのつながりも生じました。ミノア文化とフェニキアとの深い交易関係もあり、紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火後にミノア文化が衰退すると、フェニキアは急成長します。

 ミノス王朝のクノッソス宮殿は、紀元前1700年頃の大地震で破壊され、その後再建されました。クノッソス宮殿の最終的な破壊と原因については議論があり、紀元前1450年頃のミケーネ王国によるクレタ島への侵攻が原因との説もありますが、最近では、紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火による地震と津波が原因と指摘されています。しかし、津波と地震の後の数世代にわたる政治的混乱と内紛拡大が原因との見解も提示されています。紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火による自然変異が収まった後、ミケーネ王国がクレタ島に侵入し、ミノス王朝に代わってエーゲ海群島を支配しました。

 古代DNA研究によると、当時のミケーネ王国とクレタ島の住民の遺伝的構成は類似していましたが、前者には後者と異なり、ユーラシア草原地帯もしくはアルメニア系統が見られます(関連記事)。紀元前1200~1100年頃、ミケーネ王国は「海の民」も関わった東地中海の大混乱の中で滅亡し、ギリシア本土は「暗黒時代」に入ります。この大混乱の中で、青銅器時代から鉄器時代へと移行します。しかし本書は、この「暗黒時代」を経ても、ミノア文化の遺産がギリシア世界に受け入れられたことを指摘します。

 テラ島の大噴火の後、ミノス王朝は衰退し、ミケーネ王国がクレタ島を支配しますが、ミケーネ王国の植民地拡大とともにミノア文化の影響は広がり、「海の民」も関わった青銅器時代末期から鉄器時代にかけての地中海東部の混乱にも関わらず、継承されていきました。その一例が、ミノア文化で筋力と速さと精神力を競う行事で、アテナイにおいてオリンピックとして定着しました。食文化でもミノア文化の影響は後世に伝えられており、単に「滅亡した文化」と把握することはできないでしょう。尤もこれは、他の「滅亡した」と認識されている文化にも当てはまるでしょうが。

中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器

 中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現生脊椎動物のうち哺乳類は、音波を変換し可聴周波数範囲の拡大(特に高音域)を促進する3つの耳小骨(槌骨と砧骨と鐙骨)の連鎖を有する点で他と区別されます。対照的に、初期の化石哺乳類および近縁動物では、これらと相同の骨は下顎骨との連結を介して咀嚼の機能も果たしていました。近年、保存状態の良好な中生代哺乳類がいくつも発見されたことで、耳小骨の二重の機能(咀嚼と聴覚)から単一の聴覚機能への移行について垣間見る機会が得られています。こうした移行は、哺乳類の進化において少なくとも3回起こったことが、現在広く受け入れられています。この研究は、槌骨と砧骨と外鼓骨(鼓膜を支える骨)が極めて良好に保存された、中期ジュラ紀(1億6000万年前)のハラミヤ類(Vilevolodon diplomylos)のものとされる頭蓋および頭蓋後方の骨格について報告します。

 ハラミヤ類として知られる、きわめて古い絶滅した哺乳類分類群の系統発生学的な位置づけに関しては、これまで2つの相反する見解がありました。議論の中心となってきたのは、哺乳類の進化できわめて重要となる中耳の構造です。一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が、骨化したメッケル軟骨により歯骨と連結されたままになっていたというもので、これによるとハラミヤ類はきわめて祖先的となります。もう一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が3つに分かれていたというもので、この解釈ではハラミヤ類は多丘歯類(同じく絶滅した哺乳類分類群で、進化的により派生的)に近縁となります。当ブログではこれまでハラミヤ類について、大いに繁栄した後に絶滅した齧歯類様の多丘歯類に近縁だとか(関連記事)、最古の滑空哺乳類だとか(関連記事)、独特の中耳構造だったとか(関連記事)、ゴンドワナ大陸の分類不明な「hahnodon」類の歯との類似性だとか(関連記事)いった見解について、取り上げてきました。

 この新たなハラミヤ類化石標本を他の中生代哺乳類および現生の哺乳類のものと比較した結果、その下顎には歯骨後方の溝もメッケル溝も見られませんでした。これは、この化石を含む複数の中生代化石、現生の単孔類、および現生の有袋類や有胎盤類の個体発生初期に見られる重なり合った砧槌関節が、耳小骨の二重機能から単一機能への移行において複数の哺乳類分類群で進化した形態である、と提案されます。ハラミヤ類はきわめて祖先的な哺乳類の派生的分類群ではなく、より進化的に進んだ(多丘歯類により近縁の)分類群だった可能性が高い、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器

古生物学:ハラミヤ類の謎が解けた

 ハラミヤ類として知られる、極めて古い絶滅した哺乳類分類群の系統発生学的な位置付けに関しては、これまで2つの相反する見解があった。議論の中心となってきたのは、哺乳類の進化で極めて重要となる中耳の構造である。一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が、骨化したメッケル軟骨によって歯骨と連結されたままになっていたというもので、これによるとハラミヤ類は極めて原始的ということになる。もう一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が3つに分かれていたというもので、この解釈ではハラミヤ類は多丘歯類(同じく絶滅した哺乳類分類群で、進化的により派生的)に近縁となる。今回S Biたちは、ハラミヤ類Vilevolodon diplomylosの新たな標本について報告している。この標本は、以前Natureで記載されたホロタイプと同一の場所および地層から発掘されたもので、その下顎には歯骨後方の溝もメッケル溝も見られなかった。これは、Vilevolodonのホロタイプを除く他の全ての真ハラミヤ類で報告されている状態で、このことから、ハラミヤ類が極めて原始的な哺乳類の派生的分類群ではなく、より進化的に進んだ(多丘歯類により近縁の)分類群であったと示唆された。



参考文献:
Wang J. et al.(2021): A monotreme-like auditory apparatus in a Middle Jurassic haramiyidan. Nature, 590, 7845, 279–283.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03137-z

前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造

 前期新石器時代~漢代にかけての、現代の中華人民共和国山東省の人類の母系の遺伝的構造に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代DNA研究により、アジア東部の南北の古代人口集団間の遺伝的区別など、ユーラシア東部の人口史と進化が明らかにされてきました(関連記事)。山東省は中国の北部沿岸地域に位置し、中国の南北を地理的に接続しています。山東省は多文化の中心地として、大汶口(Dawenkou)文化(6000~4600年前頃、黄河下流域)や山東省龍山(Longshan)文化(4600~4000年前頃、龍山文化の地域的文化)が存在しました。以前の古代DNA研究では、いくつかの山東省で発見された人類遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)の短い超可変領域1に焦点が当てられていましたが、ハプログループを識別する能力は限定されていました。

 最近、ゲノム規模研究(関連記事)とユーラシア東部の人口史の概説(関連記事)により、古代山東省個体群はアジア東部の人口集団の遺伝的歴史と過去の移住の特定に重要な役割を果たした、と明らかになりました。4ヶ所の前期新石器時代遺跡の古代山東省6個体(9500~7700年前頃)は、アジア東部北方人口集団と関連する祖先系統を有し、これは後にアジア東部南方への拡大した祖先的系統構成要素だった、と示されました。しかし、これらの研究は標本の不足により限定的で、山東省およびその近隣地域の経時的な変化する遺伝的関係の理解には大きな間隙があります。

 本論文は、山東省の12ヶ所の遺跡(図1a)で発見された古代人86個体(9500~1800年前頃)の高品質で完全なmtDNA配列(16569塩基対)の分析と、mtDNAハプログループ(mtHg)の分類を提示します。本論文は、山東省の母系の遺伝的構造に関する人口集団動態と、これらの人口集団が山東省外の人口集団とどのようにつながっていたのか、説明するにあたって、以前の研究よりも時空間的に広範で精細な解像度を提供します。以下、本論文の図1です。
画像


●4600年前頃までに分離された遺伝的構造

 山東省の古代人86個体(9500~1800年前頃)から、合計56個のハプロタイプが特定されました。A5aやB5b2a2など特定のハプロタイプは、蓓倩(Beiqian)遺跡の同じ墓に葬られた2~5個体に共有されている、と明らかになり、これら被葬者間の母系親族関係が示唆されます。母系親族関係の可能性がある標本に関しては、その後の遺伝的分析のために1個体のみが対象とされ、10個体は除外されました。56個のハプロタイプは13個の基底的mtHgに分類され、それはA・B・C・D4・D5・F・G・M8・M9・M11・N9a・R・Zです。AMOVAを用いて、標本の年代に基づきどの人口集団グループ化が山東省の全遺跡の遺伝的構造を最もよく表すのか、検証されました。その結果、最大の分散は人口集団が4600年前頃よりも古いものとそれよりも新しいものとに区分した時に観察され、これは6000~4600年前頃の大汶口文化期と4600~4000年前頃の龍山文期との間隔に一致します。


●4600年前頃以前の山東省における母系の遺伝的構造

 28個体が4600年前頃以前となります。その内訳は、9500年前頃の變變(Bianbian)遺跡1個体、8200年前頃の小高(Xiaogao)遺跡の1個体、8200年前頃の淄博(Boshan)遺跡の1個体、8000~7700年前頃の小荆山(Xiaojingshan)遺跡の3個体、6000~4600年前頃の伏佳(Fujia)遺跡の3個体、5500~5300年前頃の蓓倩遺跡の19個体です。これらの個体群のうち、4600年前頃よりも古い標本は、mtHg-B(B4c1とB5b2で24.14%)とD(D4とD5で37.93%)の高頻度を示します。

 mtHg-B4はおもに現代人ではアジア中央部~東部に分布していますが、mtHg-B4c1は、アジア東部南方(61.70%)と、ムアン(Mueang)やタイ(Tay)やフラ(PhuLa)やキン(Kinh)やラフ(LaHu)といった、アジア東部南方人と密接に関連するアジア南東部人口集団(25.53%)でおもに見られます。mtHg-B5bはアジア東部全域で広範に見られ、現代朝鮮人で最も高い多様性が示されます。mtHg-B5b2は、おもに漢人(Han)やホジェン人(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やミナン人(Minnan)やマカタオ人(Makatao)で見られるmtHg-B5b(63.64)の派生mtHgですが、キン人やブリヤート人(Buryat)やハムニガン人(Khamnigan)やキジ人(Kizhi)など他のアジア東部人でも見られます。

 mtHg-Dの場合、D4とD5の両方がアジア東部北方の古代人口集団において高頻度ですが(17.60~43.75%)アジア東部南方の古代人口集団ではそれよりも低頻度です(0~20%)。さらに、mtHg-N9aが8200年前頃の小高遺跡の1個体で見つかっています。mtHg-N9aはユーラシア東部系統に属し、おもにアジア東部に分布しています。これらの結果から、山東省の人口集団は4600年前頃以前にはアジア東部の南北両方と関連するmtHgを含んでいた、と示唆されます。


●4600年前頃以後の山東省における母系の遺伝的構造

 山東省の遺跡のほとんどでは、mtHg-BとDが本論文の標本抽出期間(9500~1800年前頃)で高頻度(20%超)を維持していますが、mtHg-C(6.00%、C7a1とC7b)、M9(6.00%、M9a1)、F(2.00%、F1a1とF2aとF4a1)は4600年前頃よりも新しい標本でのみ観察されます(図3b)。これら新たにもたらされたmtHgから、山東省人口集団の母系の遺伝的構造は、龍山文化期(4600~4000年前頃)の開始期により多様になった、と示唆されます。

 これら新たなmtHgの起源を調べると、mtHg-Cは、たとえばオロチョン人(Oroqen)集団(29.55%)のようなアジア東部の北方民族集団において優勢で、それはmtHg-Cが北方の民族集団でより多様である、という以前の観察と一致します。mtHg-M9aは、アジア南東部から北に向かってアジア東部本土へと15000年前頃に拡大したと提案されており、アジア東部北方現代人では限定的な分布になっています(0~4.20%)。

 mtHg-F1・F4は、アジア東部南方とアジア南東部でアジア東部北方よりも一般的ですが、mtHg-F2はアジア東部北方人においてより高頻度で分布しています。これらのより最近のmtHgはアジア東部の南北両方で見つかっているので、山東省の人類遺骸におけるこれらの出現は、4600年前頃以前に観察されたmtHgの置換なしに、4600年前頃以後の山東省の外部からの人口集団の流入を表しているかもしれません。

 さらに、mtHg頻度の主成分分析を用いて、4600~1800年前頃の各遺跡の人口集団が調べられました(図1b)。アジア東部の北方と南方の現代人はPC1軸で区別でき、それはおもにmtHg-D・B・Fの異なる割合に起因します。アジア東部北方現代人は、たとえば、モンゴル人で39.58%、吉林省漢人で35.29%、山東省漢人で36.00%と、mtHg-Dのより高い割合を示しますが、mtHg-B・Fは、たとえば、Bが江西省漢人で34.78%、広東省漢人で30.43%、Fがヴァ人(Va)で31.82%、ラフ人で33.33%、ペー人(Bai)で25.00%と、アジア東部南方現代人においてより高頻度です。

 龍山文化期およびその後の4400~3300年前頃となる城子崖(Chengziya)遺跡と、龍山文化期となる4600~4000年前頃の桐林(Tonglin)遺跡の個体群は、PC1軸の中心に位置し(図1b)、それはおもに、この2遺跡がアジア東部人の南方もしくは北方で割合の高いmtHgを高い割合で有することに起因します。具体的には、この2遺跡のmtHg-Bの頻度は37.50%よりも高く、mtHg-Dの頻度は城子崖遺跡で20.00%、桐林遺跡で37.50%です。mtHg-Fも桐林遺跡において12.50%の頻度で見つかります。

 3050~1800年前頃の新智(Xinzhi)遺跡と、3050~2750年前頃の後李(Houli)遺跡の個体群は、PC1軸ではアジア東部北方人により近づいており(図1b)、mtHg-Dのより高い割合で説明できます(新智遺跡では50.00%、後李遺跡では33.30%)。3100~1800年前頃の劉家荘(Liujiazhuang)遺跡の集団はアジア東部北方現代人とクラスタ化し(図1b)、これは現代の山東省人口集団とmtHg- A・B・D・G・M11・M8・N9aを59.40%共有することに起因します。他方、2300~1800年前頃の一席(Yixi)遺跡個体群は、mtHg-Fを40.00%有し、PC1軸でアジア東部南方人とより近づいています(図1b)。


●古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の関係

 次に、古代山東省人口集団がアジア東部現代人とどのように関連しているのか、調べられました。まず、古代山東省人口集団とアジア東部現代人(漢人および他の民族集団から選択された15人口集団)との間のΦst(集団の遺伝的分化を示す指標)が計算されました(図1c)。5500~5300年前頃の蓓倩遺跡個体群は遺伝的に、アジア東部現代人とのより多くの類似性を示す(0~4人口集団が有意なΦstを示します)より新しい山東省人口集団と比較して、アジア東部現代人とはより大きく異なっている(8人口集団が蓓倩遺跡個体群と有意なΦstを示します)、と明らかになりました。さらに、古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の、(ハプロタイプ頻度の相関に反映される)ハプロタイプ構成が調べられました。古代山東省人口集団は、他のアジア東部現代人カと比較して、ザフやウズベクやウイグルといった北方民族集団、およびペー人やジーヌオ人(Jino)といった南方民族集団とはあまり類似していない、との観察結果が得られました(図1d)。


●山東省の沿岸部と内陸部の間の遺伝的交換の可能性

 沿岸部の蓓倩遺跡と内陸部との間の人口動態も経時的に調べられました。沿岸部の蓓倩遺跡個体群には、mtHg-M(10.50%)とA(5.30%)が含まれていました(図3b)。しかし内陸部遺跡群では、これら2つのmtHgは3100年前頃よりも新しい遺跡の個体群(M8が10%、Aが16%)でしか観察されませんでした(図3b)。さらに、沿岸部の蓓倩遺跡の人口集団と3100年前頃よりも古い(4600~3100年前頃)内陸部遺跡の人口集団は、沿岸部の蓓倩遺跡およびより新しい(3100~1800年前頃)内陸部遺跡群との間の遺伝的距離と比較して、遺伝的距離の値がより大きい、と明らかになりました。

 AMOVA分析で類似のパターンが観察され、沿岸部の蓓倩遺跡とより古い内陸部遺跡群は、沿岸部の蓓倩遺跡とより新しい内陸部遺跡群との間の分散値よりも大きな分散値を有しています。これらの結果から示唆されるのは、沿岸部と内陸部の人口集団間の遺伝的交換は3100年前頃以前にはより低頻度だということで、それは、龍山文化期およびそれ以前には沿岸部と内陸部との間の文化的違いがあった、という考古学的知見と一致します。代替的な説明は、mtHg-M8・Aをもたらしたアジア東部の他地域からの祖先系統を有する人々の流入に起因するかもしれない、というものです。以下、本論文の図3です。
画像


●山東省におけるmtHg-B5b2の発見

 以前の研究では、mtHg-B5bを有する人口集団はアジア東部本土北西部から他のアジア東部地域へと移住した、と推測されていました。それは、アジア東部本土北西部の3000年前頃の個体群に基づくmtHg-B5bが、古代山東省の人類遺骸では観察されていなかったからです。本論文では、山東省の6ヶ所の遺跡(9500~1800年前頃)において、mtHg-B5bの個体群が識別されました。内訳は、變變遺跡で1個体、蓓倩遺跡で4個体、後李遺跡で1個体、桐林遺跡で1個体、新智遺跡で1個体、城子崖遺跡で1個体です。

 mtHg-B5bをより詳細に調べるため、アジア東部現代人20個体のmtHg-B5bの完全な配列が得られました。内訳は、北部漢人2個体、南部漢人3個体、ホジェン人1個体、ミナン人1個体、マカタオ人1個体、客家(Hakka)1個体、キルギス人2個体、ティンリー人(Tingri)1個体、ブリヤート人1個体、ハムニガン人1個体、キジ人1個体、日本人1個体、スワイ人(Suay)1個体、シャン人(Shan)1個体、キン人2個体です。ミトコンドリアゲノムの合着(合祖)年代は、BEASTを用いて完全なデータから推定されました。

 mtHg-B5b2では、蓓倩遺跡の5500~5300年前頃の個体(BQ-M2*)の下位系統B5b2a2が、現代人ではホジェン人1個体(HGDP01238)・ブリヤート人1個体(JN857016)・ハムニガン人1個体(JN857039)と共通祖先を有しています(図2a~c)。mtHg-B5b2a2の最新の共通祖先(TMRCA)の推定年代は、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)で8056年前です。さらに、蓓倩遺跡の2個体(BQ-M31-AとBQ-M24*)は、共通のmtHg-B5b2a祖先を13040年前頃(95% HPDで20329~7595年前)に有しています。蓓倩遺跡の1個体(BQ-M139-D)と新智遺跡の1個体(XZ-M59)は、共通のmtHg-B5b2b祖先を、南方漢人1個体(HG00690)および北方漢人1個体(NA18643)と11513年前頃(95% HPDで18102~6368年前)に有しています。

 したがって、これらの個体は全員、9500年前頃の變變遺跡1個体と関連する共通のmtHg-B5b2祖先を17293年前頃(95% HPDで26726~10503年前)に有しています。これらの結果から、9500年前頃の變變遺跡1個体で見られるmtHg-B5b2は、アジア東部人およびアジア北部人の祖先である可能性が高い、と示唆されます(図2a~c、図3a)。これは、以前の研究で提案された、アジア東部の西方と南方への拡大、および仰韶(Yangshao)文化のような他の文化との相互作用を有する、山東省における人口動態と一致します。以下、本論文の図2です。
画像


●まとめ

 本論文では、過去9000年にわたる山東省人口集団の母系の遺伝的構造が再構築されました(図3)。9500年前頃以降、アジア東部北方および南方の現代人の主要なmtHgは、山東省の古代人口集団で観察できます。4600年前頃以後、山東省の内外の人口集団間で追加の接続が識別されました。3100年前頃以後、山東省内の沿岸部と内陸部の間での遺伝的交換の可能性が観察されました。さらに、山東省人口集団で新たに発見されたmtHg-B5b2では、9500年前頃の變變遺跡1個体がアジア東部人および北部人の祖先的系統に属する可能性が高いことと、9500年前頃の變變遺跡1個体から5500~5300年前頃の蓓倩遺跡人口集団への継続的な母系の遺伝的構造が観察されました。より広範囲の時空間的なY染色体および核ゲノムデータが、これらの洞察に基づいてさらに構築され、古代山東省の人々の遺伝的歴史と人口移動のより包括的な全体像を提供できるでしょう。以下、本論文の要約図です。
画像


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文が指摘するように、mtDNAからは母系の遺伝的関係しか明らかにならないので、今後はY染色体および核ゲノムデータが望まれます。しかし、mtDNAは核DNAよりもずっと解析が容易で、Y染色体とは異なり全員が保有しているため、核ゲノムよりも多くの標本数を得やすい、という利点があります。その意味で、これまでの研究よりも時空間的に分析範囲を広げた本論文の意義は大きいと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていた、アジア東部も含むユーラシア東部の古代DNA研究が近年大きく進展しつつあるように思われるので、今後がたいへん楽しみです。


参考文献:
Liu J. et al.(2020): Maternal genetic structure in ancient Shandong between 9500 and 1800 years ago. Science Bulletin, 66, 11, 1129-1135.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.01.029

現生人類のmtDNAの進化速度の見直し

 現生人類(Homo sapiens)のミトコンドリアDNA(mtDNA)の進化速度を見直した研究(Cabrera., 2021)が公表されました。進化遺伝学は、人類史を時系列的な分子の文脈の中で研究しています。この点で、その主要な手法は分子時計です。分子時計は、系統間の変異の違いとして測定される、タンパク質もしくはDNA配列の間の分岐速度が、その最初の分離から経過した時間に比例していることを確立しました。しかし、その後の研究では、分子時計は系統内のヌクレオチドもしくはアミノ酸の位置により、系統間でも、さらには分類群間でも異なる、と明らかになりました。したがって、この不均一性を考慮に入れるために、毎回より洗練されたモデルを実装する必要があります。

 この分子時計の時間目盛内で検出された別の問題は、分子時計が、種内および種間で調べられた系統の歴史に沿って変わることです(関連記事)。最近、古代DNA分析の発展により、進化速度の推定を改善するための、さまざまな時点での追加の較正点が提供されました。しかし、少なくともヒトにおいては、これらの改善が、現代の配列で以前に得られた進化速度を実質的には変えていません。さらに、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)が大規模な全ゲノム配列決定に置き換えられるか、あるいは変異率が組換え率に置き換えられた場合、変異率と進化速度推定値との間で観察される有意な違いは消えていません。

 これら進化速度の不確実性にも関わらず、遺伝学は人類史の解釈において権威のある役割を果たしつつあります。したがって、考古学が現生人類の起源を30万年以上前に、もしくはアフリカからユーラシアへの拡大を12万年以上前に想定する場合、その年代は遺伝的推定年代(現生人類の起源は20万~15万年前頃、出アフリカは6万~5万年前頃)よりもずっと古くなり、それら遺伝的推定年代よりも古い年代の現生人類は現代の人口集団の遺伝子プールに寄与しなかったかもしれないので、考古学的知見は遺伝的に無関係とみなされます(関連記事)。その見解に反して著者は、過去の人口統計学的動態への分岐率の依存性を受け入れ、信頼できる値として平均的な生殖細胞系変異率を信頼することで、遺伝学的年代と考古学的年代を一致させられる、と示唆しました。さらに、世代に沿った人口集団における祖先系統の持続性が、速いmtDNA変異率にも関わらず、種内合着(合祖)年代推定値の精度に強く影響する、と分かります。

 本論文は、古代と現代のミトコンドリアゲノム配列を比較して、進化速度は経時的に著しく変化し、平均生殖細胞系変異率よりも顕著に遅い値と速い値に達する、と確認します。したがって、進化速度には時間依存性の影響が存在し、最近では加速度が増加しています。一過性の多型が、系統樹から推定される進化速度に減速の役割を果たすことも検出されました。これらの不確実性を修正するための実用的手法として、ハプログループ内の最も多様な系統の使用が提案されます。


●分子進化速度

 古代人423個体と現代人784個体のミトコンドリアゲノムを用いて、ミトコンドリアの進化速度が推定されました。古代人のミトコンドリアゲノムは較正年代に応じて10区分され、平均年代は1119±483年前から40160±4658年前です(表1)。この期間内の各ミトコンドリアマクロハプログループ(MとNとR)の現代人と古代人の配列間の変異の違いの平均数を比較すると、有意な違いは観察されませんでした。最も分岐した比較の対応のないt検定は、p値が0.54でした。mtDNAハプログループ(mtHg)間のこの均一性は、得られた合計値の統計的信頼性を強化します。観察された進化速度は、最新の期間(表1の第1期間)の1年につき4.33×10⁻⁸から、最古の期間(表1の第10期間)の1.91×10⁻⁸までの範囲です。前者の推定値を、最後の生殖細胞系変異率(1.30×10⁻⁸もしくは1.89×10⁻⁸)と同等とするならば、それぞれ2.27~3.33倍速くなります。しかし、最古の期間で得られた変異率(1.91×10⁻⁸)は、他の研究で計算された変異率のより低い範囲にあります。


●時間依存効果

 経時的な変異の線形蓄積を想定すると、最新の期間と最古の期間の両方で同じ変異率が予想されますが、実際には、最古の期間で観察された変異率は最新の期間のそれよりも2.27倍遅くなっています。これは、ヒトや他種で観察されたように、より古い期間の変異率と比較して有意に速い最近の置換率を有する変異率に対しての、時間依存効果の存在と一致します。この効果は図1で表されており、期間に沿って蓄積された変異の観測数と予想数が、1000年単位で示されています。じっさい、同じ期間に観察された進化速度に対して、各期間の年代の有意な負の回帰が観察されます。以下、本論文の図1です。
画像


●一過性の多型効果

 一過性のmtDNA多型の持続は約2Ne(有効人口規模)なので、ヒトにおける女性5000個体の有効規模を仮定すると、その過程は約1万世代、1世代平均25年とすると、25万年続くでしょう。直接的結果は、ヒトのような増加する集団では、固定時間、したがって一過性の多型の持続はさらに長くなるだろう、ということです。したがって、ヒト集団に見られる通常は高いミトコンドリアゲノム多様性にも関わらず、同じミトコンドリアゲノムを共有する多数の個体が存在するかもしれない、と予想されます。たとえば、古代mtDNA研究では、8000年以上の期間にわたる、祖先的なM系統の持続を裏づけます(関連記事)。

 さらに、1年につきゲノムあたり1.947×10⁻⁴の平均変異率を用いると、祖先的なミトコンドリアゲノムにおいて12500年の期間で変異を生じない確率は、まだ有意ではありません。これは、人口集団において同じミトコンドリアゲノムを共有する2個体が母系で関連している時間として発見された、500減数分裂/世代(1世代25年と仮定して12500年)の限界とひじょうによく似ています。この期間は、人口集団が大きなボトルネック(瓶首効果)を受けたか、新たな世代が少数の個体群から創出され、単一系統もしくは主要系統のみが残っている場合に、増加する可能性があります。その結果、系統は数世代にわたって変わらないかもしれませんが、同じ人口集団の同一系統には、同じ期間に1つもしくは複数の変異が生じます。このような想定は図2Aで示されます。祖先系統は人口集団に存在する間、さまざまな世代で子孫を生み出せることに注意が必要です。

 このように、人口集団がn世代後に標本抽出される場合、祖先系統(e)に加えて、有意な変異の違いを蓄積した祖先系統から派生した系統も見つけられます(f、h)。しかし、この事実は、同じ標本(図2B)から構築された系統樹には反映されていません。なぜならば、それらの系統が出現した世代とは関係なく、全ての派生的な系統が祖先分岐点(e)から同じ時に出現するからです。系図と系統樹との間のこの違いは、注目すべき結果をもたらします。一方では、この違いは、選択的制約を呼び出す必要なしに種内ハプログループ比較で見つかった、系統間の変異率均一性の欠如を説明できます。他方では、系統樹が構築されている系統への変異の影響なしに移った世代の表現の欠如は、これらの系統樹から計算された合着(合祖)の年代を短縮する一般的な効果があります。以下、本論文の図2です。
画像

 この短縮効果を弱める一つの単純な方法は、配列の平均の代わりに分析されたハプログループからの主要な変異数を有する、それらの配列を選択するか、ポアソン分布の分散を考慮して、下位四分位にまとめられた配列の平均を取得することです。本論文では、アフリカのmtDNAマクロハプログループL0およびL3と、出アフリカmtDNAマクロハプログループM・N・Rを構成する主要なハプログループの最高の変異数を有する配列がまとめられました。これらのデータと進化速度を用いて、mtHgの分岐で表される人類史の重要事象の合着(合祖)年代が計算されました。それは、現生人類の年代(L0とL1~7の分岐)、出アフリカ(L3とL4の分岐)、ユーラシア人口集団のアフリカへの「帰還」(L3の合着)、ユーラシア全域への現生人類の拡大(M・N・Rの合着)で、とくに重視されるのが、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散(Pの合着)、ヨーロッパへの拡散(U5の合着)、アメリカ大陸への拡散(A2・B2・C1・D1・D4h3a・X2aの合着)です。予想されるように、全てのこれら新たな推定は、以前の計算よりも顕著に古くなります(表3)。


●考察

 mtDNAの変異率は環境および遺伝的変数にも関わらず、合意の得られている平均値に近似しますが、本論文では、mtDNAの置換率は経時的に変わり、変異率よりも小さくも大きくもなり得る、と確認されました。したがって、進化速度が変異率の2倍になると明らかになった全ゲノムの同じ状況に達し、人類進化の年代に疑問を提起します。しかし、進化速度が人口規模に依存し、最近の爆発的な人口増加を有する人口史を通じて人口集団規模における大きな違いがあった、と認めるならば、これが当てはまると予想すべきです。分子進化の中立理論とのこの明らかな矛盾は、いくらかの説明に値します。まず、伝達率と固定率を区別することです。

 N0規模の人口集団において変異が出現すると、それは1/N0の次世代(N1)に伝達される確率と、伝達された場合の1/ N1の固定される確率があります。人口規模が世代に沿って一定のままである場合、伝達の確率と固定の確率は中立説の予測のように同じです。しかし、人口規模が世代間で変動する場合、伝達の確率は固定の確率とは正反対の動作を示します。次世代で人口規模が2倍になる場合(N1=2N0)、伝達の確率は2/N0です。しかし、変異が伝達されるならば、変異の個体確率は1/2N0です。逆に、次世代で人口が半減した場合(N1=N0/2)、伝達の確率は1/2N0ですが、伝達されるならば、固定の確率は2/N0です。繰り返すと、これは、大きな人口集団では変異の固定確率は小さな人口集団よりも低い、と予測する中立説に従っています。しかし、進化速度を駆動するのは伝達の確率です。

 人口集団もしくは種の間の進化速度を推定する場合、これらの多様体が異なるアレル(対立遺伝子)に固定されるのか、各人口集団もしくは種における一過性の多型として分離されているのかに関係なく、我々は配列間の変異の違いを数えています。したがって、本当に重要なのは、各系統で独立して蓄積された変異の量です。じっさい、変異は変異率に従って現れますが、増加する人口集団では、より多くの系統、系統ごとにより多くの変異があり、これらの系統は減少する人口集団の場合よりも長期間維持される、と知られています。これは、増加する人口集団では進化速度が加速し、変異率よりも高くなる理由を説明します。なぜならば、伝達される可能性がより高いように見える変異と、すでに人口集団で分離している変異が、より長い期間多型のままであるからです。人口が減少すると、正反対のことが起きます。

 本論文で古代と現代のミトコンドリアゲノムの比較分析により確認された時間依存効果は、人口規模動態への分岐速度の依存に関する上述の議論を経験的に確証します。同義置換と非同義置換の進化速度の違いにより繰り返し示されているように、選択が進化速度にも重要な役割を果たすことは確かです。しかし、その効果は、遺伝的浮動に分子進化の主要な役割を与える分子進化のほぼ中立進化説により説明されるかもしれません。

 著者は以前、ヒト集団で観察される急激な増加の効果を相殺する新たなアルゴリズムを提案しましたが、それは標本抽出された系統をまとめる系統樹の形態に基づいています。しかし本論文では、系統樹が経時的な祖先的系統を無視し、その結果、実際の年代よりも新しい合着年代が得られる、と示されました。平均ではなく各ハプログループ内の変異の数が多い系統を採用するよう、本論文では提案されましたが、実際の合着年代を推定する実用的手法として、変動する人口規模と系統樹が進化速度に課す問題に対処するには、より洗練されたモデルが実装されるべきです。

 それにも関わらず、本論文の2つの手法が、最近の考古学的知見(関連記事)とより一致する、30万年前頃という現生人類の起源の合着年代を示していることに言及する価値があります。現生人類の出アフリカは15万年前頃と推定されており、これはレヴァントのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)、さらには17万年前頃となる(ミスリヤ洞窟(Misliya Cave)での発見(関連記事)と一致する可能性があります。また、ユーラシアのmtHg-M・N・Rの合着年代は、ユーラシアにおける現生人類の拡散を10万年前頃までさかのぼらせ、これは中国南部の福岩洞窟(Fuyan Cave)遺跡の現生人類遺骸の年代と一致します(関連記事)。オーストラリアのmtHg-Pの分岐は、現生人類がサフルランドにアジア東部と同じ頃に到達した、と示唆しているようです。この同年代の拡大の一部として、ユーラシアの人口集団はmtHg-L3の分岐と一致してアフリカに「戻った」かもしれません(関連記事)。

 著者は以前、アメリカ大陸への人類の拡散を4万年前頃と提案しましたが、それは直接的もしくは間接的(関連記事)に考古学的年代により裏づけられます。しかし、このアメリカ大陸への最初の移住は、mtHg-A2・B2の年代により示され、その後で第二の波が続き、また27500年前頃のmtHg-C1・D1・D4h3a・X2aにより示される、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前だった、という可能性があるようです。ヒトの進化速度は未解決の問題として存続しますが、ヒト進化の主要事象について遺伝学者により提案された年代を疑問視するのに充分な証拠がある、と著者は考えています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。21世紀になって、DNAの変異率は現生人類の出アフリカなど人類史における重要な事象の年代を推定する重要な根拠とされてきましたから、DNA変異率の推定値はひじょうに重要です。本論文は現生人類のmtDNAの変異率の見直しと、より洗練されたモデルを提言していますが、確かに重要な指摘だと思います。ただ本論文は、mtDNAの変異率の見直しの結果、出アフリカやユーラシア各地への拡散といった現生人類史の重要な事象の年代が現在の有力説よりもさかのぼり、それは近年の考古学的知見とも整合的と指摘しますが、現生人類の起源と拡散はひじょうに複雑な問題で(関連記事)、特異な遺伝(片親性遺伝標識)となるmtDNAの分岐をそのまま現生人類史の重要事象に直結させてよいのか、慎重な検証が必要だとは思います。

 また本論文は、新たなmtDNAの変異率とそこから推測される現生人類史の重要事象の年代が、近年の考古学的知見と整合的と主張しますが、これも慎重な検証が必要でしょう。たとえば本論文は上述のように、中国南部の福岩洞窟の現生人類遺骸の年代は12万~8万年前頃と推定する研究を肯定的に引用していますが、この年代は以前から強く疑問視されており、最近になって、15000年前頃未満で、完新世のものも含まれる、との結果が得られています(関連記事)。現時点では、アジア東部における6万年以上前の確実な現生人類の痕跡はまだ確認されていないと考えるべきで(関連記事)、本論文の見解を直ちに有力説として認めるべきではないでしょう。


参考文献:
Cabrera VM.(2021): Human molecular evolutionary rate, time dependency and transient polymorphism effects viewed through ancient and modern mitochondrial DNA genomes. Scientific Reports, 11, 5036.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84583-1

歯根形態と関連する遺伝子

 歯根形態と関連する遺伝子についての研究(Kataoka et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。人類の歯の経時的な形態変化はよく研究されてきました。以前の研究では、歯の形態における人口集団内および人口集団間の多様性が明らかにされてきました。アジアの人口集団では、いくつかの歯の特徴が、「モンゴロイド歯科複合」と呼ばれる混合表現型としてまとめられています。これは後に、シノドントとスンダドントに二分されました。シノドントの特徴は、上顎中切歯(UI1)のシャベル状、単一歯根の上顎第一小臼歯(UP1)、3本歯根の下顎第一大臼歯(LM1)、C字根の下顎第二大臼歯(LM2)などです。対照的に、スンダドントでは、2本歯根の上顎第一小臼歯と下顎第一大臼歯を示す傾向にあります。

 以前の遺伝的研究では、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子(rs3827760:アミノ酸もしくはヌクレオチド配列に応じて、それぞれ370V/Aもしくは1540T/C)がシノドントおよびスンダドントの歯冠の特徴と強く関連している、と示されています。EDAR遺伝子は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えています。また370Aアレル(対立遺伝子)は、370Vアレルと比較して、乳腺管分岐の増大およびより小さな乳腺脂肪体と関連している、と示されています。370Aアレルは派生的で、3万年前頃の出現との推定もあり(関連記事)、アジア東部およびアメリカ大陸先住民集団でひじょうに高い頻度で見られ、アフリカおよびヨーロッパの人口集団では存在しないか稀です。

 さらに、集団遺伝学の研究では、アジア東部において強い選択が370Aアレルに作用した、と示唆されています。乳腺管分岐の増大をもたらす370Aアレルは高緯度地帯において適応的で、ベーリンジア(ベーリング陸橋)において出現して定着したのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。これらの知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)は、今ではほぼ完全に否定されたと言えるでしょう。

 本論文は、歯冠形成と比較して研究が遅れている歯根形成の分子メカニズムを、EDAR 370V/Aとの関連において、コンピューター断層撮影(CT)画像分析と、反応拡散モデル(空間に分布された一種あるいは複数種の物質の濃度が、物質がお互いに影響し合うような局所的な化学反応、および空間全体に物質が広がる拡散の、二つの過程により変化する様子を数理モデル化したもの)を仮定したコンピューターシミュレーションにより解明します。対象となったのは成人患者255名(男性98名と女性157名)で、CT画像とDNAが分析されました。

 255人のうち、EDAR遺伝子の多様体の割合は、Vのホモ接合型が25人(9.0%)、V/Aのヘテロ接合型が120人(47.1%)、Aのホモ接合型が112人(43.9%)です。EDAR遺伝子型と上顎第一小臼歯および下顎第二大臼歯の歯根の形態との間に有意な関連性が観察されました。また、EDAR遺伝子型と下顎第一大臼歯・上顎第一小臼歯・下顎第二大臼歯の歯根形態との関連も示されました。EDAR遺伝子の370Aアレルはシノドントの表現型と有意に関連する、と示されました。しかし、370Aアレルの影響は3種類の歯で異なっており、上顎第一小臼歯では歯根数の減少、下顎第一大臼歯では歯根数の増加、下顎第二大臼歯では歯根の不分離と関連していることも示されました。

 反応拡散モデルを想定した単純化コンピューターシミュレーションにより、C字根を含むさまざまな歯根型の形状パターンが、活性因子と抑制因子の誘導の強さを表すパラメーター(αsおよびγ)に依存して生成される、と示されました。歯が成長して断面が大きくなるにつれて、歯根の本数増加の傾向が見られました。活性因子の誘導の強さαsが減少するにつれて歯根の数は増え、増加するにつれてC字型の歯根のパターンが現れることと、抑制因子の誘導の強さγは逆の効果を有することが明らかになりました。

 本論文は、用いたモデルが単純化されており、じっさいの発現はもっと複雑である、と注意を喚起しています。それでも、EDAR 370V/A多型が現代アジア人口集団で観察される歯根形態および歯根数と関連している、と明らかになりました。ただ、上述のように歯根数への影響は単純ではありません。また、EDAR遺伝子型はアジアの人口集団で観察される歯の形態の二形性の強力な遺伝的要因ですが、他の遺伝的要因も関わっているかもしれません。以前の研究では、WNT10AおよびPAX9遺伝子の一般的な多様体が歯冠サイズと関連している、と示されており、歯根形態にも関連しているかもしれません。

 本論文は、現代アジア東部における人口集団の形成過程の観点でも注目されます。上述のように、現代のアジア東部やアメリカ大陸先住民の人口集団で多いシノドントの遺伝的基盤となるEDAR遺伝子の370Aアレルは派生的で、3万年前頃の出現との推定もあり、その出現候補地としてベーリンジアが指摘されています。最近のアジア東部現生人類(Homo sapiens)集団の古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、EDAR遺伝子の370Aアレルが出現したのは、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統のうち、アジア東部北方系統集団だったかもしれません。アジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統集団で、スンダドントの比率が高いポリネシア人の主要な遺伝的祖先はアジア東部南方系統集団だからです。今後の古代DNA研究の進展により、アジア東部現代人集団の形成過程がより詳しく解明されていく、と期待されます。


参考文献:
Kataoka K. et al.(2021): The human EDAR 370V/A polymorphism affects tooth root morphology potentially through the modification of a reaction–diffusion system. Scientific Reports, 11, 5143.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84653-4

大河ドラマ『青天を衝け』第4回「栄一、怒る」

 今回も、渋沢栄一を中心とする農村部の話と、徳川慶喜を中心とする「中央政界(ここまではおもに江戸で、たまに水戸)」の話の二部構成になっています。両者はまだ接続されておらず、前振り段階といった感じですが、栄一とすでに遭遇している平岡円四郎が慶喜に仕えることになり、今後話がつながることを予感させます。慶喜と円四郎との関係は割と丁寧に描かれました。両者は重要人物のようですから、主人公が関わらない場面の描写も必要なのでしょう。まだ幕末激動期が始まろうとしている段階ですが、慶喜場面は一般的な大河ドラマの印象に沿った描写になっていると思います。

 一方、栄一の話は農村が中心で、幕末の激動の波が及んできているとはいえ、まだ「中央政界」と直接的には関わっていないため、大河ドラマ愛好者には不評かもしれません。しかし私は、栄一の個性と才覚を描くことは必要だと思いますし、すでに商品経済がかなり浸透していた江戸時代後期の農村の様子をなかなか興味深く視聴しています。周囲の人物に褒めそやされるという主人公描写ではなく、栄一の個性と才覚を描こうとしているところはよいと思います。栄一の話と慶喜の話が合流するまで、視聴率が低下していきそうなのは気がかりですが、本作はこれまでのところ当たりを予感させるだけに、何とか最終回まで視聴率二桁を維持してもらいたいものです。

オーストラリア最古の岩絵の年代

 オーストラリア最古の岩絵の年代に関する研究(Finch et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。岩絵は世界中で、複雑なヒトの意思伝達の最初期の試みのいくつかを記録しています。有機物の保存に有利ではない条件の地域では、過去のヒトの活動の証拠はおもに、微細形態学的証拠や石器や岩絵に限定されています。石器の使用は、石器が見つかった考古学的発掘層の放射性炭素年代測定により年代が推測されます。残念ながら、放射性年代測定技術が岩絵に適用されることは滅多にないので、岩絵の年代はさほど絞り込まれていません。結果として、気候や海水準や食資源や人口の変化の記録を、たとえば人々が岩絵で描こうと選択した主題と相関させられず、考古学的記録は不完全なままになります。

 岩絵を直接的に年代測定する信頼できる手法が存在しないので、主題の重複と保存状態の広範な観察を用いて、一般的な特徴を共有する主題の集まりの相対的な年代順が決定されました。主要な岩絵地域の多くでは、様式と重複の分析が、相対的な様式期間を仮定するのに用いられてきました。しかし、様式の分類は必ずしも時系列で分離しているわけではありません。さらに、特定の様式の正確な定義における実際上の困難と、最古の色褪せた顔料の重複順序を確実に決定することの実際上の困難は、この手法に不確実性を追加します。これらの仮説を検証し、所与の様式を決定するために共通の特色を確認もしくは改善するには、個々の主題の絶対年代もしくは充分に限定された年代が必要です。

 たとえば、炭で着色された絵が深部で保存されているフランスの洞窟のような稀な例外を除いて、11500年前頃以前となる更新世の絵に残っている顔料は、直接的に年代測定できない物質を含んでいます。たまに、片面に顔料をいくらか含む岩絵の断片が、埋葬時の年代推定を提供する層序文脈を有する発掘調査で見つかります。オーストラリアでは、2回の発掘でそのような断片が見つかりました。一方は28000年前頃で、もう一方は4万年前頃ですが、どちらも描かれた岩絵の主題として明確に分類されておらず、いずれにしても、特定の様式に分類できません。

 本論文は、個々の主題に下限もしくは上限年代を提供するため、岩絵の上もしくは下に位置する年代測定されたドロバチの巣という偶然の条件に依存します。ハチの巣もしくは表面の鉱物付着を利用するこうした技術は、スペイン(関連記事)やインドネシア(関連記事)やオーストラリアの具象的な岩絵の年代を更新世に絞り込んできました。これらの限られた事例は、動物の「現実的な」絵がさまざまな大陸で最古の具象的な岩絵で優勢である、との主張を裏づけます。

 オーストラリアで最も広大な岩絵が見つかっているキンバリー(図1)とアーネムランドの2地域では、重複分析に基づくと、最古の様式期間において写実的な動物が最も一般的な主題ですが、その古さと定義の妥当性に関しては議論があります。同じもしくは類似の動物は、より新しい芸術期でも描かれていますが、異なる様式技術(たとえば、不規則な顔料付着というよりもむしろ固体もしくは規則的な顔料付着、頭や尾や四肢の末端の固体顔料付着)を用いています。したがって、これらの主題のいずれも古い放射性年代により絞り込まれていないので、古い年代を検証するにはさらなる証拠が必要です。キンバリー地域では、より最近のグィオン(Gwion)様式期と推定された絵が18000~12000年前頃に激増した、と知られているので、相対的な岩絵の順序からは、写実的な動物の絵がこれよりも古いはずと予測される、と一般的に合意されています。

 キンバリー地域の岩絵様式の様式順序では、これらの写実的な動物は岩絵の最初の既知の段階に分類され、これはIIAP(Irregular Infill Animal Period)と呼ばれています。アーネム地域(キンバリー地域の東方約700km)における類似の主題の分類に関する上述の議論にも関わらず、本論文では前提としてキンバリーIIAPの包括的な定義が採用されます。IIAPの主題の定義には、手形やブーメランおよびその他の物体、ヤマイモのような植物、カンガルーやハリモグラや鳥やトカゲや魚やオポッサムのような動物、稀ではあるものの擬人化されたものなどが含まれます。本論文は、8ヶ所の別々の砂岩岩陰(図1)から収集された、27個のドロバチの巣の放射性炭素年代を報告します。15個の巣が10点のIIAPの主題の上に、6個の巣が5点の主題の下にありました。重要なのは、上下それぞれ3個の巣の年代が1点のIIAPの主題から年代測定されたため、その絵の年代を絞り込めることです。以下、本論文の図1です。
画像


●年代測定結果

 キンバリー地域北東部の岩絵の主題の顔料の上下にある75個のドロバチの巣に、放射性炭素年代測定法が用いられました。このうち27個の巣はIIAP様式であることが確実か、ひじょうに高い可能性と分類された16個の主題と接していました。他の古い素は、IIAPの可能性が低い主題と関連づけられているので、本論文では分析対象外となります。各年代値は信頼性得点(RS)が高い順に10~1までの段階に評価されました。これらの年代値は、主題の上(下限年代)、主題の下(上限年代)、単一の主題の上下両方に3区分されます。

 6点の異なる岩絵から、IIAPだと「確実」もしくは「ひじょうに可能性が高い」主題10点の上に位置する、15個のドロバチの巣に放射性炭素年代測定法が適用され、その年代が較正されました(図2)。これらの主題のうち3点には、年代測定された複数の巣がありました。顔料の上にある巣の場合、(複数あるならば最古の)較正年代の95.4%の確立範囲の新しい方の年代が下限年代として採用されます。たとえば、カンガルーもしくはワラビーを描いた主題(DR015_04)は、11200年前(標本DR015_04-2、RSは8)よりも古いことになります。以下、本論文の図2です。
画像

 5点の異なる主題の下にある6個のドロバチの巣に放射性炭素年代測定法が適用され、その年代が較正されました(図3)。DR006_08は、少なくとも下部で塗り直されているかもしれませんが、全主題はIIAPに分類されます。したがって、DR006_08の上限年代は18700年前頃となります。以下、本論文の図3です。
画像

 岩陰遺跡の傾斜した天井に描かれた巨大な絵(DR015_10)は、その上下にドロバチの巣があるため、年代を絞り込めるという点で注目されます(図4)。絵の上に位置する最古の巣の標本(DR015_10-2)の年代から、下限年代は17200年前頃と推定されます。絵の下に位置する巣の標本(DR015_10-1)の年代から、上限年代は17500年前頃と推定されます。以下、本論文の図4です。
画像

 これらの年代から、各様式の年代が推測できます。グィオン様式の絵に関しては、12000年前頃に激増した、との仮説を確認できました。グィオン様式の主題と関連する2個のドロバチの巣を除く全ての年代分布から、主題の上に位置する15個の巣は12000年前頃よりも新しく、全てが13000年前頃よりも古い6個の下に位置する巣と重複しない、と明らかになりました。対照的に、本論文で検証されたIIAP主題の年代は、類似の比較的短期間の激増を支持しません。以下で述べられるように、絵の上下の巣の間の重複年代(図6)は、長期の製作とより一致しています。絵の上下の巣の年代からは、IIAP主題が少なくとも17200~13100年前頃まで製作された、と示唆されます。以下、本論文の図6です。
画像

 上述のように、カンガルーを描いた巨大な絵(DR015_10)には上下にドロバチの巣があり、IIAPは遅くとも17200年前頃には始まった、と強く裏づけられます。13100年前頃というIIAPの終了年代は、ブーメランを描いた絵(DR013_09)に由来します。DR013_09はIIAPに分類されましたが、グィオン様式と同年代との見解も提示されています。しかし、DR013_09はグィオン様式の主題に上塗りされており、IIAPである可能性が高そうです。ただ、DR013_09は他のIIAP主題よりも新しく、グィオン様式の主題に近い可能性があり、より正確な年代の確定にはさらに多くの年代値が必要です。DR013_09がIIAPに含まれない場合、IIAPの期間は17200~15100年前頃となります。


●考察

 キンバリー地域のIIAPの絵は、世界の他地域の写実的な動物主題と類似の様式特徴(節約的な塗り方、顔料の色、解剖学的詳細、等身大に近い描写)を共有します。これら世界の放射性炭素年代が得られている絵の年代は、たとえば中国の5000年前頃のものから、アジア南東部のスラウェシ島の44000年以上前のもの(関連記事)やボルネオ島の4万年以上前のもの(関連記事)まで、広範囲です。同様のスペインを中心とするヨーロッパの具象的主題の年代は35000年前頃と示唆されていますが、フランス南部のショーヴェ洞窟(Chauvet Cave)の壁画の年代は7000~33500年前頃と31000~28000年前頃の2期と推定されており(関連記事)、ヨーロッパではより一般的に33000~12000年前頃まで具象的な壁画が描かれました。

 IIAP様式は、岩絵と接触している27個のドロバチの巣の放射性炭素年代から、17200~13100年前頃と推定されます。このうちカンガルーを描いた絵の年代は、ヨーロッパの具象的主題の年代範囲の中間に位置する17500~17100年前頃と、より絞り込まれています。これは、近くのジョセフ・ボナパルト湾の海面が、21000±3000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に、現在よりも125m低下した時期となり、IIAP様式の絵の年代の大半は、海面が急速に上昇した14600~8000年前頃以前となります。12000年前頃までに、オーストラリア北西部の海岸線は300km内陸へと移動しており、キンバリー地域沿岸の人類集団の多くの世代は、数千年にわたる領土の継続的な喪失を経験しました。ほぼ同時期の14000~13000年前頃にかけて、古環境記録から、この地域はモンスーン活動と降水量の増加による気候改善が示唆されています。

 キンバリー北部でグィオン様式の絵が急増したのは12000年前頃の直後でした。IIAP様式のおもな主題は動物で、低頻度ではあるものの植物も描かれました。これがグィオン様式期には置換され、装飾された人物像にほぼ完全に焦点が当てられました。岩絵様式の変化と環境条件との間の一致は、IIAP様式からグィオン様式への変化はこの地域の社会および文化的変化を反映しているかもしれない、と示唆します。たとえば、芸術様式の変化は、気候改善に支えられた利用可能領域と人口の増加に対応していたかもしれません。

 オーストラリアの岩絵の最初の既知の期間におけるこれら写実的な動物の主題は、創造的なヒトの活動をLGM末期に位置づけます。キンバリー北東部の8ヶ所の岩絵遺跡の最初の分析結果は、不規則に塗る動物様式の期間が、17000~13000年前頃にかけて延びたことを示唆します。現在でも見える絵の完全な年代順の範囲が決定される前に、この期間のより多くの年代値が必要です。今のところ、カンガルーの絵の17300年前頃という堅牢な年代は、オーストラリアで放射性年代測定された最古の岩絵です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:カンガルーを描いたオーストラリアで最古の岩壁画

 オーストラリアのアボリジニの既知の最古の岩壁画には、カンガルーのような動物が描かれており、これは1万7000年以上前に作られたものであることを報告する論文が、Nature Human Behaviour に掲載される。

 岩に描かれた壁画は、最も初期に記録されたヒトのコミュニケーションの試みを表している。オーストラリアのアボリジニによる岩壁画には、写実的な動物が描かれていることが多いが、放射性炭素年代測定に不可欠な顔料中の有機物質を見つけにくいため、こうした壁画の年代を特定するのは困難だった。

 今回、Damien Finchたちの研究チームは、西オーストラリアのキンバリー地域のAboriginal Traditional Ownersと協力して、岩壁画試料の解析を行った。その結果、一部の岩壁画の上部と下部には古代のジガバチの巣の残骸が含まれており、放射性炭素年代測定が可能なことが判明した。ハチの巣の年代測定から、この様式の壁画が1万7000~1万3000年前に描かれたことが明らかとなった。ほとんどの壁画は、ヘビやトカゲのような姿、3頭のカンガルー類(カンガルー、ワラビー、クアッカワラビーを含む有袋類)などを描いたものであったため、この様式の壁画は、最終氷期極大期末期に少なくとも4000年にわたり存在していたことが確認された。また、カンガルーを描いた壁画の1つは、1万7500~1万7100年前のものと年代決定され、動物の姿を描いた壁画として、現時点でオーストラリアで最古のものとなった。

 Finchたちは、今後の研究によって、こうした創作活動のより詳細な年表が明らかになるだろうと結論付けている。



参考文献:
Finch D. et al.(2021): Ages for Australia’s oldest rock paintings. Nature Human Behaviour, 5, 3, 310–318.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-01041-0

楊海英『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2019年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は独裁の観点からの中国近現代史です。本書は中国共産党を主要な対象としていますが、政権獲得(中華人民共和国成立)前の共産党だけではなく、孫文にまでさかのぼって現代中国の起源を検証します。新書となると、古い時代までさかのぼるよりは、孫文から見ていく方が、分量の点からも適切かもしれません。本書は孫文について、漢民族至上主義的なところがあった、と指摘します。現代中国の民族問題を考えるうえで、孫文にまでさかのぼることは重要だと思います。中国共産党には伝統的な秘密結社の性格が多分にあった、との見解も重要だと思います。現在、中国は事実上共産党の一党独裁制ですが、当初強かった秘密結社的性格が現在の有り様を規定するところはあると思います。

 本書は、国民党と共産党との組織体質や理念の類似性、さらには第一次国共合作において、まだ小勢力だった共産党が国民党に寄生する側面もあったことを指摘します。まだ小勢力だった共産党は、国民党との違いを打ち出そうとします。それは、コミンテルンとの類似性の強調と、民族政策でした。国民党が、孫文の漢民族至上主義方針を継承したのに対して、共産党は各民族の自立、対等の立場での民主共和国の設立を主張しました。一方で共産党は、モンゴルやチベットやウイグルは遊牧など原始状態にあり、それを支援するのが共産党の任務とも主張しました。マルクス史観を根拠に、諸民族を序列化する意識がすでに見られたわけです。とはいえ、当時の共産党は、漢民族による少数民族の植民地支配の見直しと、各民族の独立を主張していました。しかし本書は、こうした主張が野党的な立場にいた時だけだったことを指摘します。

 結成当初、知識人と富裕層が主導していた共産党を変えたのは毛沢東でした。第一次国共合作の破綻により、共産党は国民党に迫害される立場に追い込まれ、農村部に逃亡します。この時、農民をまとめあげて軍隊に組織していったのが毛沢東でした。毛沢東は地主や富農を敵視し、その土地や財産を没収して貧農に分配する「土地革命」により農村に勢力を拡大していこうとしました。しかし、地主や富農は農村の指導者でもあり、毛沢東の思惑通りには支持は拡大しませんでした。

 この状況で国民党からの攻撃を受けた共産党は、延安まで長距離の敗走を余儀なくされ、途中で略奪もしましたが、これを「長征」と輝かしい歴史であるかのように語りました。この過程で、共産党の一方面軍はイスラム軍閥に壊滅させられます。毛沢東は延安で、厳格な等級制を導入し、密告を推奨しました。共産党はモンゴルの有力者と義兄弟の契りを結び、独立を約束するなどして協力関係を築いていきました。抗日戦争における共産党の役割について、本書はかなり厳しいというか、中華人民共和国の体制教義とは正反対に近いような見解を提示します。この問題に関しては不勉強なので、本書の見解がどこまで妥当なのか、的確に判断できませんが、一般的に、中華人民共和国の体制教義をそのまま受容することにはもはや大きな無理がある、と言うべきでしょう。

 第二次世界大戦で日本が敗北した後、中国では国共内戦が再開され、アメリカ合衆国だけではなく、ソ連も国民党の統治を想定していましたが、共産党が勝ち、中華人民共和国が成立します。本書はその理由として、抗日戦争でおもに日本軍と戦った国民党軍が疲弊していたのに対して、共産党軍は戦力を温存していたことと、ソ連軍が一時的に満州を占拠し、日本軍の兵器が共産党軍に渡ったことを挙げます。また本書は、国共内戦における長春包囲戦など、共産党の残虐性を強調します。確かに、中華人民共和国(共産党政権)の体制教義を鵜呑みにすることはひじょうに危険ですが、共産党の勝因やその残虐さの度合いに関しては、今後も少しずつ調べていくつもりです。

 本書は中華人民共和国には三つの側面がある、と指摘します。それは、古くからの王朝支配、ダイチン・グルン(大清帝国)を打倒した孫文に始まる「漢民族中心主義」、中国を「更地化」する社会主義イデオロギーで、これらにより毛沢東は「完璧な独裁」を確立した、と本書は指摘します。土地改革も含めてこの過程で、粛清により多くの人が犠牲になりました。毛沢東による独裁は、1950年代後半の反右派闘争でほぼ完成します。

 1950年代の大躍進政策と1960年代の文化大革命により、中国では多数の死者(とくに大躍進政策で)が出て、経済も大打撃を受けました。本書はこの大惨事の要因が、毛沢東という独裁者だけではなく、共産党政権の志向・野望にもあった、と指摘します。本書は文革を、国際的(とくにインドネシアの九・三〇事件)および地方の視点(漢民族から見て「周辺地域」となるチベットやモンゴルやウイグル)と、中華人民共和国で繰り返され、今も続く「粛清の連鎖」との観点から把握します。「周辺地域」では文革期に、漢民族による強圧的支配が進行しました。本書はこの民族浄化の背景に 漢民族中心主義・中華思想があった、と指摘します。今も続く「粛清の連鎖」は、敵の定義の曖昧さと恣意性、誰でもいつまでも敵とみなされる可能性があることです。著者は1989年の天安門事件の直前に日本に留学しますが、これは、当時の学生運動に半ば見切りをつけたためでもあるようです。モンゴル出身の著者にとって民族問題はひじょうに重要でしたが、北京の学生たちの多くは少数民族問題への関心があまりにも低いように、著者には見えたためでした。

 改革開放路線で中国経済は飛躍的に発展しましたが、腐敗も進み、それは一部の不心得者が起こした例外ではなく、構造的必然だ、と本書は指摘します。これは妥当な見解で、現代中国における腐敗と格差の背景には、根深い歴史的問題があると思います(関連記事)。現在の習近平政権は、反腐敗闘争で支持を得ましたが、腐敗は構造的問題なので、現代中国である程度以上の地位にある人間を腐敗の罪状で処分することはいつでも可能で、腐敗を理由とした政敵の追い落としも可能です。じっさい、習近平政権はそうして政敵を失脚させてきたわけで、本書はこれを文革的手法そのものと指摘します。

 なお本書は、人類の起源について世界中のほとんどの学者はアフリカ起源説を基本に研究を進めているものの、中国は例外で、中国の学者だけは、今も中国人は「北京原人」の子孫で、人類の起源は中国と主張し続けている、と指摘しています。しかし、そもそも以前に中国で主流だった見解は、各地域の現代人の起源は基本的にその地域の太古の人類集団にまでさかのぼり、それは中国も同様とする多地域進化説的な見解で、人類の起源は中国とまで主張した中国人研究者はほとんどいなかったでしょう。また、現在では中国のとくに遺伝学の研究者のほとんどは、基本的に現代人のアフリカ起源説を認めていると言えるでしょう。さらにさかのぼって人類というかホモ属の起源に関しても、自然人類学の研究者たちの多くはアフリカ起源説を大前提としているようです。以前、中国人研究者が中心になって、陝西省の212万年前頃の石器を報告した研究が公表されましたが、アフリカ起源説を前提としています(関連記事)。

 このように、本書の見解には誇張されているところも多いと思われ、もちろん鵜呑みにはできません。著者が中華人民共和国(共産党政権)に批判的なのは明らかで、それは少数民族出身であることから仕方のないところもありますが、それ故の行き過ぎは少なからずあるとは思います。その意味で、本書の問題点を挙げて、著者の見解全体が出鱈目であるかのように主張する人もいるでしょう。ただ、誇張や誤りが少なからずあるとしても、本書の中華人民共和国に関する見解には、参考になるものが多いと考えています。

『卑弥呼』第58話「埃国」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年3月20日号掲載分の感想です。前回は、出雲の神和(カンナギ)にして金砂(カナスナ)国の支配者である事代主(コトシロヌシ)からの、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)との和議締結のために対決したい、との申し出を受けたヤノハが、万が一、自分が敗れても、倭を平らかにする大仕事は事代主に任せられる、と言ったところで終了しました。今回は、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の日下(ヒノモト)の国を目指すトメ将軍とミマアキが、埃国(エノクニ)に到着した場面から始まります。一行は埃国の中心地である阿岐(アキ)に近づきますが(現在の広島県でしょうか)、広大な干潟に守られているとはいえ、門番がいないことをトメ将軍は不審に思います。阿岐は、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が7年間滞在した場所とされています。篝の跡に気づいた一行が近づくと、多数の焼死体が確認できました。トメ将軍は、吉備(キビ)の北の鬼国(キノクニ)は残虐な戦を好むという噂に言及します。ミマアキは2人の兵士とともに阿岐に入りますが、人の気配が全くありません。そこへ建物からツノヲと名乗る老人の男性が現れ、埃国を訪れた旅人のもてなしを王から命じられている、とミマアキたちに説明します。

 ツノヲはその建物でトメ将軍とミマアキを歓待します。ツノヲは、埃国の王や民が鬼に襲われ、阿岐から避難した、と説明します。鬼とは鉄を狙う鬼国の戦人でしょうか、と問われたツノヲは、自分たちに製鉄技術がないのをいいことに襲撃してくる、戦人以上に恐ろしい鬼だ、と答えます。自分たちも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)で鬼退治をしたことがあるが、所詮は人ではないか、とミマアキに問われたツノヲは、人なら見えるが鬼は見えず、干潟の多数の焼死体も鬼の仕業だ、と答えます。今晩はこの建物で休んでいただきたい、翌朝見送りに来る、と言ってツノヲは立ち去ります。しかし、トメ将軍とミマアキはツノヲの話が変だと考えて、寝所を変えようと考えます。夜のうちに出立しますか、と配下に問われたトメ将軍は、何も起きないかもしれないが、ツノヲの魂胆を見届けるために留まる、と答えます。その夜、烏の仮面を着けた者たちが集まり、トメ将軍一行がいるはずの建物を包囲し、呪文を唱えながら放火します。その指揮者がツノヲであることを離れた場所から確認したトメ将軍一行は、舟で立ち去ります。舟上であの呪文が何だったのか、ミマアキに問われたトメ将軍は、おそらく百鬼退散の呪文で、我々は鬼と思われたのだろう、と答えます。トメ将軍は、干潟の多数の焼死体に、刀や矢や槍の傷がなかったことを指摘します。鬼たちに呪い殺されたのか、とミマアキは推測し、トメ将軍は、あるいは埃国の王が民を焼けと命じたかもしれない、と推測します。

 山社(ヤマト)では、ヤノハがイクメに、出雲のことを尋ねていました。天照大御神と、出雲が信仰する大穴牟遅(オオアナムヂ)という神とはどう違うのか、とヤノハに問われたイクメは、天照大御神は天と地の神、大穴牟遅は空と大地の神と答えます。出雲の社(後の出雲大社でしょうか)には大空の雲を表している大きな注連縄があり、天照大御神は伊弉諾(イザナギ)と伊弉弥(イザナミ)の子で、お二柱は最初に淤能碁志摩(オノロゴシマ)を産み、それが倭国になったが、出雲は少し特別な存在で、伊弉弥が身罷った黄泉の国のある場所と言われている、とイクメはヤノハに説明します。黄泉の国とは、天照大御神の弟である須佐之男(スサノオ)が治める根の国の入口だな、と言うヤノハに対してイクメは、出雲の言い伝えでは、八束水臣津野命(ヤツカミオミツヌノミコト)という神が四方から大地を引き出雲が生まれ、その神の志を継いだのが大穴牟遅神だ、と説明します。出雲の神をどう思うのか、ヤノハに問われたイクメは、大穴牟遅神とは、後に出雲の民に侵攻された新たな神ではないか、と答えます。しかしヤノハは、天照大御神の方が古いからといって、本物とは言い張れないだろう、と言います。出雲を都とする国を金砂(カナスナ)と呼ぶ理由をヤノハに問われたイクメは、広大な砂浜のある場所で、その砂には多量の鉄(カネ)が含まれているからだ、と答えます。川上にある金砂の山々には鉄の原石が眠っているのか、とヤノハに問われたイクメは、その鉄を狙って金砂侵略を繰り返しているのが吉備の北にある鬼国で、温羅(ウラ)と名乗る王がおり、韓(カラ、朝鮮半島)からきた戦人集団だ、と説明します。するとヤノハは、出雲はこれ以上、戦線を広げるつもりはないな、と推測します。山社の楼観では、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に、出雲の事代主に会うつもりだ、と決意を打ち明けます。心配そうなチカラオに対して、倭の泰平を事代主に託し、自分たちは姿を消す、とヤノハが言うところで今回は終了です。


 今回は、本州でもおもに中国の情勢が描かれました。本州では出雲に続いて埃国が描かれましたが、干潟の多数の焼死体や鬼国の正体など謎が残り、それは今後明かされていくのではないか、と楽しみです。トメ将軍一行が日下に到達する話はもう少し先で描かれそうですが、鬼国と埃国や金砂国との争いに日下国がどう関わっているのか、サヌ王の子孫が治めているとされる日下国は現在どのような状況なのか、今後の展開と大きく関わってきそうなので、注目されます。ヤノハは事代主と会うと決めましたが、イクメから金砂国をめぐる情勢を聞き、事代主の意図をかなりの度推把握できたようです。それを踏まえたうえで、なおもヤノハは弟のチカラオとともに山社から逃亡しようと考えていますが、ヤノハが『三国志』の卑弥呼でしょうから、このまま山社に留まる可能性が高そうです(一時的に山社から去って復帰するかもしれませんが)。今後の山場はまずヤノハと事代主との面会(対決?)となりそうで、そこでヤノハの決意が変わるのか、注目されます。

コウモリダコの祖先は漸新世から深海に生息していた

 コウモリダコ(Vampyroteuthis infernalis)の祖先が漸新世(約3400万~2300万年前)から深海に生息していたことを報告する研究(Košťák et al., 2021)が公表されました。現生種のコウモリダコは、大西洋とインド洋と太平洋の酸素が極端に少ない海域に生息しています。中生代のイカ類の祖先は、大陸棚上の比較的浅い海域に生息していたことが知られており、コウモリダコが、こうした深海環境で繁殖できる独特な形質をいつ、どのようにして進化させたのか、まだ解明されていません。

 この研究は、ハンガリーで発見され、当初は漸新世のコウイカの一種と考えられていたイカの化石(Necroteuthis hungarica)の正体を解明しました。この研究は、高度な画像化ツールを用いて、この化石に現生種のコウモリダコとの構造的類似点と化学的類似点があることを明らかにしました。また、この化石が現在のブダペスト近くの酸素の少ない土壌環境から発見されたことが突き止められ、当初、酸素の少ない深海域に生息していた、と推測されています。これらの知見から、この化石が現生種のコウモリダコの祖先の化石で、遅くとも漸新世までには深海に移住していた、と結論づけられました。さらに、この研究は、こうした酸素の少ない海域の形成が、コウモリダコの進化史の初期に深海への適応が起こった契機になった、との仮説を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:漸新世から深海に生息していたコウモリダコの祖先

 コウモリダコの進化上の祖先は、漸新世(約3400万~2300万年前)の頃に酸素の少ない深海環境に適応していた可能性があることを報告する論文が、Communications Biology に掲載される。この知見は、コウモリダコの化石記録における1億2000万年の空白を埋めるのに役立つ。

 現生種のコウモリダコ(Vampyroteuthis infernalis)は、大西洋、インド洋、太平洋の酸素が極端に少ない海域に生息している。中生代のイカ類の祖先は、大陸棚上の比較的浅い海域に生息していたことが知られており、コウモリダコが、こうした深海環境で繁殖できるユニークな形質をいつ、どのようにして進化させたのかは解明されていない。

 今回、Martin Košťákたちは、ハンガリーで発見され、当初は漸新世のコウイカの一種と考えられていたイカの化石(Necroteuthis hungarica)の正体を解明した。Košťákたちは、高度な画像化ツールを用いて、この化石に現生種のコウモリダコとの構造的類似点と化学的類似点があることに気付いた。彼らはまた、この化石が現在のブダペスト近くの酸素の少ない土壌環境から発見されたことを突き止めて、この化石動物は当初、酸素の少ない深海域に生息していたという見解を示している。Košťákたちは、この化石が現生種のコウモリダコの祖先の化石であり、この化石動物が、遅くとも漸新世までには深海に移住していたと結論付けた。さらに、Košťákたちは、こうした酸素の少ない海域が形成されたことが、コウモリダコの進化史の初期に深海への適応が起こったきっかけとなったという仮説を提示している。



参考文献:
Košťák M. et al.(2021): Fossil evidence for vampire squid inhabiting oxygen-depleted ocean zones since at least the Oligocene. Communications Biology, 4, 216.
https://doi.org/10.1038/s42003-021-01714-0

巨大なハイギョゲノムから明らかになる脊椎動物による陸上進出

 巨大なハイギョゲノムから脊椎動物による陸上進出を明らかにした研究(Meyer et al., 2021)が公表されました。ハイギョ類が属する肉鰭類は、デボン紀に陸地を「征服」し、最終的にはヒトを含む全ての陸生脊椎動物を生み出した分類群です。この研究は、あらゆる動物の中で最大のゲノムを持つことが知られているオーストラリアハイギョ(Neoceratodus forsteri)の染色体品質のゲノムを決定しました。オーストラリアハイギョのゲノムは規模がヒトゲノムの約14倍とひじょうに巨大で、その大部分は、反復配列がひじょうに多い(約90%)巨大な遺伝子間領域およびイントロンに起因しており、条鰭類のものよりも、おもに長鎖散在反復配列からなる四肢類のものに似ていました。

 このハイギョゲノムは、サンショウウオ類の巨大なゲノムとは異なる機構を介して、独立に拡大し続けている、と明らかになりました(その転位性遺伝因子は、今なお活性を有しています)。完全にアセンブリされた17のハイギョ大染色体は他の脊椎動物の染色体とのシンテニー(異なる種の染色体間の遺伝子の同じ順番の配置・領域)を維持しており、全ての小染色体は祖先的な脊椎動物の核型との保存された古い相同性を維持していました。この系統ゲノミクス解析は、ハイギョが四肢類に最も近縁な現生動物群として進化的に重要な位置を占める、という過去の報告を裏づけるもので、陸生化に関連する多くの新機軸を解明する上でのハイギョの重要性を強調しています。

 ハイギョの陸上生活への前適応には、肉鰭内のhoxc13やsall1といった発生遺伝子での肢様の発現の獲得が含まれます。ハイギョ類に見られる四肢類様の生物学的特徴には、進化速度の増大と、肺サーファクタントや嗅覚受容体遺伝子ファミリー(空気中のにおいの検知に関わるタンパク質をコードする遺伝子群)の拡大といった、絶対的な空気呼吸に関連する遺伝子の重複が寄与したと考えられます。これらの知見は、脊椎動物進化におけるこの重大な移行についての理解を進展させるものです。


参考文献:
Meyer A. et al.(2021): Giant lungfish genome elucidates the conquest of land by vertebrates. Nature, 590, 7845, 284–289.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03198-8

アフリカの人口史

 アフリカの人口史に関する研究(Hollfelder et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アフリカは現生人類(Homo sapiens)の起源地として特定されており、それはアフリカにおいて人々の最も高い遺伝的多様性と深い分岐が見られることからも明らかです。初期現生人類の最古級の化石群がアフリカで発見されてきたという事実は、初期現生人類の進化におけるアフリカの重要性をさらに指摘します(関連記事)。初期現生人類のアフリカの化石記録は、大きな形態的多様性、および他の現生人類もしくは異なる種の今では絶滅した系統との共存の可能性を示します(関連記事)。

 アフリカにおける現生人類の複雑な初期の歴史は、現生人類がどのように出現したのか、深い分岐人口構造とその起源、アフリカにおける現生人類との深く構造化された集団および/もしくは古代型集団との遺伝的交換があったのかどうか、という問題を提起します。多様なアフリカの集団から利用可能なゲノムが増え、古代DNA配列が進めば、アフリカ人の遺伝的多様性に関してより多くの情報をしだいに得られ、これらのゲノムデータは、移住もしくは混合前の情報の提供により未知の系統もしくは遺伝的構成を明らかにでき、人口集団継続の指標を与えることができます。

 狩猟と採集は、新石器時代の移行と農耕および牧畜の出現前には、全現生人類の生活様式でした。ほとんどの狩猟採集民集団は、拡大する農耕民および牧畜民集団により置換されるか、現在狩猟採集生活様式を実践していたとしてもごくわずかで、アフリカを含む世界中のさまざまな地域に散在しています。現在、狩猟採集民集団のほとんどは、農耕もしくは放牧に適さない、熱帯雨林や砂漠のような地域に居住しています。その結果、狩猟採集民集団(およびそれを実践している個体群)の数は過去数千年で大きく減少してきており、それは農耕民と牧畜民の人口規模の拡大と増加に起因します(関連記事)。

 アフリカでは、狩猟採集民集団は南部および東部とコンゴ盆地で見られます。アフリカ南部では、狩猟採集民のサン人と、アフリカ東部の牧畜民と接触した後に牧畜生活様式を採用した牧畜民のコイコイ人が、農耕に適さない乾燥地域に居住しています。こうした人々は、他の点では無関係な5言語族に属する「吸着音(クリック)」が豊富な言語で構成されるコイサン語に対応して、まとめコイサン人と呼ばれています。アフリカ東部では、狩猟採集生活様式をまだ実践しているか、最近まで実践していたさまざまな集団が存在します。アフリカ東部の狩猟採集民(EAHG)は、アフリカの他の狩猟採集民集団よりも相互と遺伝的に密接に関連しています。さらに、ビアカ(Biaka)やバカ(Baka)やバコラ(Bakola)やベヅァン(Bedzan)やバトゥア(Batwa)やトゥワ(Twa)やムブティ(Mbuti)などの狩猟採集民集団が、赤道付近のアフリカ熱帯雨林に居住しています。これら熱帯雨林狩猟採集民(RHG)集団は、近隣の農耕集団の言語を採用してきました。アフリカにおける過去5000年の急速な拡大と、他の最近の移住は、サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口構造のパターンを曖昧にし、亜赤道帯アフリカの大半は現在、バンツー語族話者のアフリカ西部系の人々が居住しています。

 アフリカにおける現生人類集団は8万年前頃の出アフリカ移住の前に階層化していた、と今ではますます認識されており、アフリカ南部および西部とアフリカ外へ拡大したアフリカ東部における単一の任意交配人口集団という見解は棄却されています(関連記事)。10万年を超える深い人口構造を調べるためには、完新世後半に到来した新たな集団の前に、該当地域に居住する集団の子孫を表す可能性がある、広い地理的範囲の人口集団の調査が必要です。狩猟採集民集団と古代の個体群のDNA標本は、最近の大規模な移住の混同要因により曖昧になっていないより深い人口史への洞察を提供できます。最近の混合は、たとえば、分岐年代の過小評価につながる可能性があります(関連記事)。

 また古代DNAは、現代人の遺伝子プールでは失われた遺伝的多様性の解明の可能性を提供します。ゲノム配列技術は急速に発達しましたが、アフリカのほとんどは考古学者により広範には調査されておらず、DNAは高温多湿の気候ではとくによく保存されない、という事実にも関わらず、現代の狩猟採集民の利用可能な全ゲノム配列と、アフリカの考古学的標本からのゲノム規模情報の数は近年急速に増加しています。2015年にアフリカ東部の最初の古代ゲノムが刊行されて以来(関連記事)、いくつかの古代アフリカ人標本のゲノム規模情報の回収に成功し、それは地理的にはアフリカ大陸全域や島嶼部にまで、時間的には15000年前頃にまで及んでいます(関連記事)。


●狩猟採集民の人口構造

 アフリカの高い遺伝的多様性は、おそらくは気候変動のために起きた孤立により形成された、深い人口構造の結果です(関連記事)。比較的高いアレル(対立遺伝子)の豊富さやヘテロ接合性やホモ接合性の短さや遺伝的多様性のさまざまな測定値は、アフリカで最も極端な値を示します。アフリカ人のゲノムは平均して、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)にさかのぼる系統を除いて、現代人全員の中で最も分岐した系統を有しています(関連記事)。アフリカの狩猟採集民集団は、最も遺伝的に多様な現代人集団で、最も基底的な片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と(関連記事)、最も深い常染色体分枝を有している、と以前に示されてきました(関連記事)。

 さまざまな現代の地域的狩猟採集民集団間の遺伝的関係は、距離による孤立でモデル化でき、狩猟採集人口集団が、潜在的に重複する地域でつながり、より大きな地域に居住していた、と明らかになります(関連記事)。コイサン人と他のアフリカの狩猟採集人口集団間の、相互に分岐した後の遺伝子流動の指標があり(関連記事)、遺伝的交換が完新世まで続いたことを示唆します。たとえば、アフリカ南部のサン人集団とアフリカ東部の狩猟採集民との間には勾配のつながりがあるように見えます。現在のマラウイの先史時代個体群は、サン人集団およびアフリカ東部狩猟採集民との類似性を示しており(関連記事)、サン人的な系統はアフリカ東部の古代の個体群で検出されます(関連記事)。現在、アフリカ東部の狩猟採集民は、人口調査の規模が小さいため、低い有効人口規模を示します。

 現在知られている散在する人口集団につながる、かつて広範に存在し重複していた狩猟採集人口集団の縮小は、そのゲノムに痕跡を残しました。たとえば、多くの狩猟採集人口集団は、完新世に有効人口規模の増加を示さず、多くの他集団とは対照的です(関連記事)。現在、熱帯雨林狩猟採集民は周囲の農耕民よりも低い有効人口規模を示します。アフリカ南部のコイサン人は世界規模の比較で最高の遺伝的多様性を示す、と繰り返し指摘されてきており、これは、コイサン人の現生人類史の大半での大きな有効人口規模と、非コイサン人集団との混合に起因します(関連記事)。

 現代コイサン人集団につながる系統は、現代のアフリカ南部狩猟採集民の分布よりも広範な地域に居住していた可能性が高そうです(関連記事)。コイサン人の祖先はアフリカ南部の先史時代の大半においてこの地域唯一の居住者だった可能性が最も高い、との仮説が提示されています。コイサン人と他の全集団との間では、有効人口規模は30万~20万年前頃に異なり始めており、その時点で人口構造が存在し、その後に人口減少が続いて人口集団に異なる影響を及ぼした、と示されます。たとえば、サン人と熱帯雨林狩猟採集民は6万年以上前には他のアフリカ人集団よりも大きな有効人口規模を維持していましたが、コイサン人と熱帯雨林狩猟採集民を含む全集団は、この期間に人口減少を示します。

 アフリカ北部の人口集団は、深いアフリカの歴史を議論するさいに、よく除外されます。それは、アフリカ北部の人口集団がおもにユーラシア人系統を示し、サハラ砂漠以南のアフリカに分類される系統構成が多くないからです。しかし、15000年前頃にさかのぼるモロッコの化石標本に関する最近の古代DNA研究からは、アフリカ北部の当時の狩猟採集民の系統の大半は非アフリカ系で、最もよく適合するのはアジア南西部の14500~11000年前頃の文化であるナトゥーフィアン(Natufians)の担い手であるものの、系統の1/3はサハラ砂漠以南のアフリカ人に由来する、と明らかになりました(関連記事)。

 サハラ砂漠以南のアフリカ系統の構成要素は、アフリカ東部系統と西部系統の混合のようであるものの、明確な起源はなく、むしろ、アフリカ西部および東部両方の現代人と関連している標本抽出されていない人口集団に由来する可能性が高そうです。これらモロッコの個体群のうち新しい標本(7000~5000年前頃)は、経時的なサハラ砂漠以南のアフリカ系統の減少を示しており、この傾向はエジプトでも観察されました。このパターンは上部旧石器時代以降のマグレブにおける孤立から生じた可能性があります(関連記事)。非アフリカ系統が早期にユーラシアからアフリカに戻って来た混合事象に由来するのかどうか、あるいはアフリカ北部と非アフリカ系人口集団との間の長期の遺伝子流動があったのか、まだ解明されていません。


●現生人類進化のモデルと人口集団分岐年代の推定

 人類の進化史を分岐した樹としてモデル化し、分枝間の分岐年代を推定することは一般的です。系統樹は単純化されており、遺伝子流動など人口史の一部の特徴を欠いていますが、集団間の関係と集団間の相対的分岐を理解するのにモデルとして役立ちます。特定の事象の推定は通常、モデルの手法と仮定、基準パラメータ(たとえば、変異率や1世代の時間)、比較に用いられる個体群と人口集団の組み合わせにより異なります。あるいは、人類進化はメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)モデルで表すことができるものの(関連記事)、深い人類史の問題に対処するためのそうしたモデルはまだ稀です。

 図1は、高網羅率の常染色体ゲノムに基づく現生人類の人口史における、深い分岐の推定範囲の概観を示しています。連続マルコフ合祖(MSMC)およびMSMC2手法は、前者が分岐年代として交差合祖の中間点を使用するという事実に起因する可能性があり、系統的一致、頻度に基づく手法、ベイジアン計算分析(同じ変異率での再基準化後)に基づく推定よりも新しい年代となることに注意が必要です。しかし、分岐年代の順序は、異なる手法間であまり違いはなく、これは手法全体で一貫した集団形態を示します。

 コイサン人の祖先と残りの現代人の祖先との間の分岐は、34万(関連記事)~20万年前頃(関連記事)と推定されており、MSMCに基づくより新しい推定年代は16万~9万年前頃です(関連記事)。単純化した分岐系統樹を想定した次の事象は、熱帯雨林狩猟採集民の祖先と(コイサン人の祖先を除く)残りの現代人の祖先との間の分岐です。この分岐の推定年代は35万~7万年前頃までさまざまですが(関連記事)、一般的にコイサン人の祖先と他の現代人の祖先との分岐よりもずっと新しくなります。ハッザ人(Hadza)やサンダウェ人(Sandawe)のような狩猟採集民を含むアフリカ東部集団は、アフリカ西部人を含む他の全アフリカ人集団とは14万~7万年前頃に分岐しました。以下、本論文の図1です。
画像

 ほとんどの研究では、分岐点が現生人類間の最も深い分岐と明らかになっていますが、後述のように未知の集団の潜在的な影響を考慮に入れる必要があります。たとえば、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と完全なゲノムでは、コイサン人と他の全集団との間の最も深い分岐が繰り返し見つかっています。しかし、一部の研究では代替案が指摘されており、たとえば、カメルーン西部のグラスフィールド(Grassfields)地域に位置するシュムラカ(Shum Laka)岩陰遺跡の8000年前頃の人類遺骸(関連記事)に部分的に基づく、熱帯雨林狩猟採集民を含むひじょうに深い分岐、もしくはコイサン人とアフリカ西部人と熱帯雨林狩猟採集民との間の最も深い分岐としての3分岐です。8000年前頃のシュムラカ遺跡の1個体は、興味深いことにアフリカ西部人系統と熱帯雨林狩猟採集民系統の両方を示しました。この個体の分岐年代を推定すると、コイサン人とは35万~26万年前頃、アフリカ西部人および熱帯雨林狩猟採集民とは22万~12万年前頃と示されます(図2)。これにより、8000年前頃のシュムラカ遺跡個体を、コイサン人分枝、アフリカ西部人関連系統、熱帯雨林狩猟採集民系統(の混合もしくは共有系統の結果)として確実に位置づけられます。以下、本論文の図2です。
画像

 よく研究されていませんが、サン人の南北間の分岐の推定年代も、17万~3万年前頃と大きな範囲を示します。これは恐らく、距離による孤立モデルがこれらの集団間の関係をよりよく表しているかもしれない、という事実を反映しています。アフリカ西部および東部の熱帯雨林狩猟採集民の共通起源が示されており、その分岐は6万~4万年前頃と推定されています。これらの推定値は全てMSMC・MSMC2に基づいており、それは通常より新しい分岐年代を提供することに注意が必要です。


●絶滅系統からの遺伝子移入

 アフリカに関しては、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)との混合の問題に再び関心が集まっています。非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人やデニソワ人からの遺伝的影響は、現在では有力説と確立しています(関連記事)。遺伝子移入元の系統からの参照ゲノムを必要としない新たな手法と、より良好なゲノムデータにより、アフリカにおける絶滅系統からの遺伝子移入の問題を調査できるようになりました。こうした新たな手法は、ネアンデルタール人のゲノム解読前に現生人類とネアンデルタール人の交雑を推測でき(関連記事)、アフリカ系現代人における未知の系統の遺伝的痕跡(関連記事)や、アフリカ西部の現代人集団に見られる未知の人類系統の遺伝的痕跡(関連記事)を検出しています。

 アフリカにおける豊かな人類史を考えると、現代人へとつながる系統が、過去に現代人系統と分岐した人類集団と相互作用して混合した可能性があり、おそらくその系統は、ネアンデルタール人やデニソワ人と同じ頃(60万年前頃)に現代人系統と分岐しました。また、おそらく数十万年前もしくはそれ以降に現代人系統と分岐し、後に何らかの理由で絶滅した、異なる現生人類集団が存在した可能性もあります。そうした人口集団は、現代アフリカ人の主要な遺伝的祖先集団と混合したかもしれません。後者の事象は「ゴースト」人口集団からの遺伝子移入、前者は「古代型」遺伝子移入と呼べます。これら2つの遺伝子移入過程を分離する1つの方法は、現代人の中で最も深い分岐前(30万年前頃以前)の系統から分離した人類集団に関わるものが「古代型」遺伝子移入、30万年前頃以降に現代人と分離した絶滅現生人類に関わるものが「ゴースト」遺伝子移入、とそれぞれ定義することです。

 ネアンデルタール人と現生人類との混合に関してはすでに多くの研究がありますが、これはアフリカの人口史にも関連しています。アフリカ西部のヨルバ人は、ネアンデルタール人系統の割合が小さいと示されてきており、世界中の現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の割合を推定するさいに、ネアンデルタール人と混合していない人口集団としてよく用いられてきましたが、新たな手法(IBDmix)を用いたその後の研究で、アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の割合は以前の推定よりも高い、と示されました(関連記事)。この研究では、平均して1個体につき1700万塩基対のネアンデルタール人配列が見つかり、そのうち94%は非アフリカ系現代人と共有されています。別の研究では、ネアンデルタール人およびデニソワ人と共有され、非アフリカ系現代人では存在しない古代型多様体がアフリカ西部現代人で見つかり、アフリカにおけるより大きな遺伝的多様性を反映しています。現代アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統は、ヨーロッパ人的な祖先集団のアフリカへの「逆移住」により説明できます(関連記事)。この想定は、ユーラシア系統の割合と相関するネアンデルタール人系統の割合を明らかにした他の研究(関連記事)により裏づけられます。

 上述のように、ネアンデルタール人のゲノムデータが公開される前でも、現代アフリカ人集団で深く分岐した集団からの遺伝子移入の兆候が検出されていました。この観察の可能性な説明は、これら他の人口集団は今では絶滅し、現代の人口集団にその遺伝的痕跡を残しているのみである、というものです。ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムデータ公開後の研究の進展により、ネアンデルタール人とデニソワ人は非アフリカ系現代人の古代型混合の全てを説明できるものの、現代アフリカの人口集団で観察される古代型混合の兆候を説明できない、と明らかになりました。この古代型集団を表す参照ゲノムが存在しないため、古代型およびゴースト遺伝子移入はよく、強く関連した祖先型多様体を含み、および/もしくは深い合着(合祖)年代を示す、ゲノムにおける分岐した領域として識別されます。この方法で識別された配列は、標本抽出されていない絶滅「ゴースト」人口集団に由来するか、過去の集団間の深い階層化を含む、いくつかの代替的な複雑な人口統計から生じるパターンを表しているかもしれません。しかし、これまでに提示された分析では、深い構造、古代型および/もしくはゴースト人口集団からの真の遺伝子移入、統計上の産物を区別することは困難です。

 表1で示されるように、「ゴースト」人口集団さらには「古代型集団」との混合は、さまざまなアフリカの人口集団の特別な多様性パターンを説明するために提案されてきました(関連記事)。古代型人口集団との交雑は頻繁に起きたものの、低水準だった、との仮説が提示されています。とくにアフリカ西部現代人では、古代型系統を有する、とよく識別されてきました。この兆候は、現代人の祖先とネアンデルタール人の祖先が分岐したのと同じ頃か、やや早い年代に分岐した、1つもしくは複数の人口集団に由来する、と示されてきました(関連記事)。

 古代型遺伝子移入への別の兆候もしくは代替的な説明はアフリカ西部現代人で提案されてきており、それは30万年前頃に分岐したゴースト人口集団からの遺伝子移入です(関連記事)。アフリカ西部における古代型もしくはゴースト人口集団からの混合の兆候は、アフリカ西部および東部人口集団へのコイサン人口集団の非対称的な関係と一致します(関連記事)。さらに、アフリカ全体における古代型系統の割合の違いから、人口構造は遺伝子移入の時点ですでに確立していたか、あるいはこの観察が上述した非アフリカ系集団からの遺伝子流動の結果かもしれない、と示唆されます。

 またいくつかの研究では、遺伝子移入配列は大きな有効人口規模の人口集団に由来し、それは自身が構造化された人口集団であることを示唆している、と提案されています。別の可能性は、大きな有効人口規模が異なる系統からの複数の遺伝子移入により形成され、古代型参照配列なしに区別することは困難である、というものです。残念ながら、アフリカにおける古代型もしくはゴースト遺伝子移入の多くの研究は少数の人口集団に焦点を当てており、および/もしくは推定に1つの手法しか用いていないので、識別された古代型もしくはゴースト遺伝子移入の影響は、まだ体系的な方法では現代人の主要な分枝全てにわたって比較することはできません。

 興味深いことに、多くの研究はアフリカにおける絶滅系統からの遺伝子移入に関してかなり最近の時期を特定しており、非アフリカ系人口集団と分岐した後にさえ遺伝子移入事象があった、と想定しています。これは、比較的最近まで古代型人口集団が存続していたことを示唆します。これは、10万年前以前に形態的多様性のほとんどが消滅したことを示す、化石記録からの観察とは対照的です。ただ、16300~11700年前頃と推定されているナイジェリアのイホエレル(Iwo Eleru)で発見された個体や、25000~20000年前頃と推定されているコンゴのイシャンゴ(Ishango)で発見された個体では、祖先的な形態的特徴が指摘されています(関連記事)。


●今後の展望

 まだ解決されていない問題の一つは、現生人類がどのように出現したのか、ということです。現生人類の起源もしくは出現が比較的長期間の進化的過程であることは明らかですが、いくつかの時間制限を設定することにより、現生人類の起源に関する問題を絞り込めます。現在から始まって過去にさかのぼると、現生人類間の最も深い分岐は30万年前頃となり、充分に発達した(行動と認知両方でその可能性が高い)現生人類(必ずしも解剖学的現代人ではありません)の存在の下限とみなせます。それは単に、この最初の分岐の(現存している)子孫集団が、確かに現生人類であるからです。現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との65万年前頃の分岐は、現生人類固有の特徴の発達の上限とみなせます。

 換言すると、これらの制約の使用により、現生人類がネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から分岐して、現在観察される人類の階層化の開始時期までに、固有の特徴をどのように発達させたのか、という問題を提起できます。そうした固有の特徴は、頻度変化や潜在的にはエピジェネティックな変化を含む遺伝的変化に制御されている可能性があります。アフリカにおける現生人類の起源に関しては、さまざまなモデルがあります。これらのいくつかには、(1)拡大し他の全ての人口集団を置換した単一起源説、(2)いくつかのアフリカ人集団(地理的には分離していた可能性が高そうです)がおそらくは孤立により深く階層化されていたとするアフリカ複数地域モデル、(3)1つの集団および地域からの拡大ではあるものの、一部の地域的継続および/もしくは古代型遺伝子移入を伴う、といった見解があります。

 化石の発見からの多様な形態と物質文化と遺伝学は、アフリカにおける現生人類の純粋に単一の起源を示唆しますが(関連記事)、散在した多様な人口集団からの散発的な遺伝子流動の可能性もあります(関連記事)。しかし、構造化されたメタ個体群のモデルが、現生人類の発達に重要な遺伝的多様体が人口集団間で同時に拡大することを可能としながら、階層化を引き起こす遺伝子流動に対する障壁をどのように維持するのか、明確ではありません。

 現生人類の複雑な可能性がある初期の歴史を解明することは、遺伝子流動や移住のさまざまな形態を含む後の事象が遺伝的兆候を歪めるかもしれないので、やりがいのある研究です。より複雑なモデル、より多様なデータ、より優れた統計手法により、単純な分岐モデルを超えて観察することや、アフリカの人口集団の複雑な人口統計を解明することや、上述したような現生人類の起源のモデルに関する情報を提供することができます。より多くのデータを収集するための努力はありますが、データ標本抽出における偏りが依然として見られます。とくにアフリカ南部は現在、現代人と古代人のゲノムデータの両方で大きな割合を占めます。充分に研究されていない地域からのより多くのゲノムデータと、古代DNA分析における可能な改善により、アフリカの先史時代の時空間的理解が洗練され、現生人類進化の初期の事象を解明できるようになるでしょう。


参考文献:
Hollfelder N. et al.(2021): The deep population history in Africa. Human Molecular Genetics, 30, R1, R2–R10.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddab005

大河ドラマ『青天を衝け』第3回「栄一、仕事はじめ」

 今回は、渋沢栄一が父親に連れられて江戸に行き、見聞を広めるとともに、後に栄一が世に出る契機を作った平岡円四郎と遭遇し、高島秋帆と再会するなど、今後の展開にとって重要な伏線が張られましたが、栄一単独で商談に赴いたとはいえ、まだ栄一の境遇が大きく変わったわけではなく、話が大きく動いたとまでは言えないでしょうか。今回も、栄一を中心とした農村の話と、徳川慶喜を中心とした「中央政界」の話との二部構成になっていました。すでにペリー来航への反応など両者は結びつきつつありますが、まだ明確に接続されたわけではないので、そこまでにどのような構成の話にするかが、本作の視聴率に大きく関わってきそうです。

 なお、今回も冒頭で徳川家康が登場しました。あるいは、毎回登場するのでしょうか。渋沢栄一の知名度がさほど高くないことも踏まえた歴史解説なのかとも考えましたが、これまでは栄一や渋沢家に特化した解説ではなく、海外も含めた幕末情勢が語られています。どうも家康による解説の意図が私にはまだよく見えてきませんが、幕末は現代日本社会で人気の高い時代とはいっても、政治情勢の変化が速く複雑なため、家康は幕末情勢の解説役ということでしょうか。家康を登場させる演出が成功するのかどうか、まだ判断するのは時期尚早のようです。