倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、天皇(大王)に即位できた皇子(王子)とできなかった皇子とを比較し、その理由を検証することで、古代日本、さらには日本の王権の特質を解明していきます。対象となるのは、伝承的性格の強い日本武尊の頃から院政期までです。日本武尊は、倭王武の上表文に窺えるような、倭王権の支配地域を拡大させた複数の王族将軍を集約させた存在ではないか、と指摘されています。

 5世紀のいわゆる倭の五王の時代には、まだ王位を世襲する「王家(大王家)」という血縁集団は形成されておらず、「皇統譜」も成立していなかったので、五王が『日本書紀』のどの天皇に該当するのか、議論することにはほとんど意味がない、と本書は指摘します。継体「天皇」の即位まで、記紀をどこまで信用できるのか、よく分からず、継体即位後も、その一族の間で政治的対立があった可能性を本書は指摘します。こうした王権の動揺は欽明の即位により収束し、ここに血縁集団としての大王家が成立した、と本書は評価します。またこの頃までに、氏(ウヂ)という支配者に特有の政治組織と、姓(カバネ)という政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、倭王権を構成する支配者層が再編されました。本書は欽明以降の飛鳥時代の王統を蘇我系と非蘇我系に把握していますが、この問題は今後も考えていきたいものです。

 天武朝とその次の持統朝は国制の画期となったようです。多くの息子がいた天武の後継者に関は、天武朝末の時点では、年齢と母の出自から草壁と大津に絞られていた、と本書は指摘します。本書は、大津を個人的能力に優れた専制君主型、草壁を機関・象徴・超越型と評価します。ただ本書は、そもそも草壁が病弱で凡庸な人物だったとの一般的認識は、大津の人となりを伝える記事との相対的な想像にすぎない、とも指摘しています。確かにその通りですが、そうならば、草壁を機関・象徴・超越型と評価するのもどうかな、とは思います。持統から文武への譲位にはかなり無理があり、朝廷で広範な支持は得られていなかった、と指摘されています。

 奈良時代には、皇位継承をめぐる政変が頻発しました。これは、文武天皇の息子が公式には首皇子(聖武天皇)1人だけだったこと(本書で言及されているように、他にも存在した可能性はあります)に起因する、と本書は指摘します。文武には皇后がおらず、当時皇后は皇族に限定されていたものの、適齢の皇女がほとんどいなかったからではないか、と本書は推測します。皇統の観点からは転機となった白壁王の即位(光仁天皇)は、白壁王と聖武天皇の娘(井上内親王)との間の息子(他戸王)の将来の即位が前提とされていましたが、光仁の即位後間もなく、井上内親王は皇后の地位を、他戸王は皇太子の地位を追われます。本書はこれを、藤原式家の陰謀と推測しています。平安時代初期の桓武天皇や嵯峨天皇や仁明天皇には子供が多く、これは文武天皇の子が少なく、皇位継承に問題が生じたことを反面教師としたためかもしれません。

 皇位継承をめぐる争いは9世紀半ばの摂政の出現後も続きますが、この頃になると、平安時代初期までに見られたような、敗者側の皇子が死に追いやられるようなことは見られなくなります。本書はこれを、日本的な政治の美意識だろう、と指摘します。皇位継承に母方の有力者の存在が大きな意味を有したのは9世紀以前も同様ですが、摂政・関白(または内覧)が常置される摂関期になると、皇位継承は完全に時の執政者とのミウチ関係に左右されるようになります。これが大きく変わったのは後三条天皇の即位で、「治天の君」と称された上皇が皇位継承者選定の主導権を握るようになります。この院政期になると、后妃の家柄が以前ほどには問われなくなります。

 本書は、初代天皇の神武の子孫が皇位を継承するという制度を築いたため、天皇は皇子を儲けねばならなくなり、ほとんどの天皇は気の向くままに何人もの后妃や女官と接触して皇子を儲けことから、悲劇の皇子が再生産され続けた、と指摘します。それは、血縁に基づく世襲による皇位継承という制度に必然的に付随する矛盾だったかもしれない、というわけです。また本書は、皇位継承に敗れた皇子が、伝承の世界で流浪・遍歴を重ね、各地の民衆と結びついてきた、と指摘します。その一例が、出羽の羽黒山に伝えられている、崇峻天皇の皇子である能除太子(鉢子皇子)です。