国武貞克「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-20)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部西部の初期上部旧石器(IUP)は、アルタイ地域と比較して、大型石刃生産技術にルヴァロワ(Levallois)技法の影響が少ない点や尖頭器の形態組成に違いがあるなど、部分的には地域的な特徴を示します。しかし、大型石刃と小石刃と尖頭器の生産という3セットを基本とする石器群で、アルタイIUPと共通する石器組成と技術組成を示す、と明らかになりました。そのインダストリーは中部旧石器時代のオビ・ラフマティアンから連続的に成立したと考えられるので、アルタイIUPの起源として、アジア中央部西部における中部旧石器時代のオビ・ラフマティアン(Obirakhmatian)を想定できます。

 さらに、アジア中央部の西部と東部、およびアジア北部のIUP期の石器群をユーラシアIUP石器群と概括し、その展開がユーラシア東部で追跡されました。その結果、2020年の日本列島中央部における野外調査により、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島の後期旧石器時代初頭に到来した証拠と見られる石器群を新たに把握できました。これは、ユーラシアIUP石器群の荷担者とみられる現生人類(Homo sapiens)によるユーラシア北回りの拡散が、日本列島に及んでいた可能性を示唆します。


●ユーラシアIUP石器群の特徴

 アルタイ地域を中心としたアジア中央部東部からアジア北部にいたるIUP石器群は、その組成と製作技術に高い斉一性が指摘されています。一方で、同様の石器群がウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟で確認されており、その石器組成は下層から上層までよく類似しています。アジア中央部西部でオビ・ラフマティアンと呼ばれるこのインダストリーについては、全て中部旧石器時代前半に帰属するとする見解が示される一方で、再発掘調査の結果IUP期にまで継続すると指摘されるなど、近年位置づけが流動化しています。

 そこで、アジア中央部西部における確実なIUP石器群を把握するため、タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓に立地するフッジ遺跡の本格的な発掘調査が、2019年10月~11月に実施されました。その石器組成は、10cm前後の大型石刃を主体とし、三角形剥片による未調整の尖頭器が伴い、小石刃(幅1cm前後)も出土しました。約4000点の石器が地表下6.5~3.5mの3mの間で検出され、第1~第4文化層の4枚の文化層が識別されました。地床炉から採取した木炭試料の放射性炭素年代測定の結果、較正年代では、第1文化層で42135~41255年前頃、第3文化層で43024~42438年前頃と47329~45577年前頃と推定されており、年代値は層序堆積と整合しています。

 2019年の発掘調査により得られたフッジ遺跡の新たな年代値から、おそらくIUP期の単純石器群を把握できたと評価されます。第3文化層の年代(47329~45577年前頃)はアジア中央部西部におけるIUP期の初源に近く、以後の第3文化層の43024~42438年前頃と第1文化層の42135~41255年前頃という年代は、この地域におけるIUP期石器群の継続性を示しているようです。石器組成と技術組成については、第1~第3文化層において大きな変化は認められませんでした。

 石器製作技術では、大型石刃はルヴァロワ並行剥離による平面的な石核消費に加えて、半円周(亜プリズム)型、小口面型など立体的な石核消費が目立ちます。尖頭器は、典型的なルヴァロワ型尖頭器も少数組成しますが、多くは求心剥離石核から剥離された斜軸剥片を素材とするものと、幅広の尖頭形石刃を素材とするものが主体的に見られ、長さが6~7㎝前後で未調整である点に斉一性が見られます。小石刃核としては、末端が肥厚した大型石刃や縦長剥片を素材としたいわゆる彫器状石核(burin-core)が特徴的でした。二次加工石器の詳細は現在調査中です。

 これらの知見から、オビ・ラフマート洞窟の年代に関わらず、オビ・ラフマティアンがアジア中央部西部のIUP期にまで継続することは、タジキスタンのフッジ遺跡の発掘調査により確認できた、と言えそうです。天山・パミール地域を中心とするアジア中央部西部では、アルタイIUPと石器組成及び石器製作技術が共通する石器群はアルタイ地域より年代的に先行するとともに、それと同時期にも展開していました。このため、アルタイIUPに加えて、むしろ核心であるアジア中央部西部におけるIUP石器群を合わせて一体として把握し、ユーラシアIUP石器群と呼称します。

 アルタイIUPは、ルヴァロワ技法による石刃生産技術が特徴とされますが、それは中部旧石器時代にルヴァロワ・ムスティエ文化(Mousterian)が発達したアルタイ北麓ならではの特徴です。より広域に見渡すと実態はそれに限定されず、ルヴァロワ技法によらない平面剥離型や小口面型や各種の立体剥離型など、多様な石刃生産技術が同居します。アジア中央部西部のうちフッジ遺跡やジャル・クタン遺跡などIUP期に帰属するとみられる石器群には、天山・パミール地域における中部旧石器時代の非ルヴァロワ・ムスティエ文化伝統を背景にして、立体剥離型による亜プリズム型、大型分割礫片を素材とする小口面型、中部旧石器的な平面剥離型のいずれもが認められます。

 タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓は、集中的な資料調査により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)7から続く石刃を特徴とするオビ・ラフマティアンが普遍的に見られる、と明らかになっていますが、編年ではその最終末段階がフッジ遺跡と推定されていました。この推定は、2019年の発掘調査により放射性炭素年代値から裏づけられた、と言えそうです。アルタイIUP石器群においても、ルヴァロワ型石刃生産技術に限定されず、多様な技術が同時に発揮されています。このため、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術は、立体型・平面型・小口面型の3様相の共存を特徴する点が重視されるべきです。

 さらに尖頭器の形態組成においても、ルヴァロワ型尖頭器、未加工の斜軸剥片(つまり斜軸尖頭器)、斜軸剥片に二次加工を施したムスティエ型尖頭器、寸詰まりの尖頭形石刃の4種が概ね共通して見られます、このうちいずれかが卓越するかにより、石器群間の違いが際立ちます。尤も、尖頭形石刃と尖頭器の違いは定義上の長さの違いでしかないため、実態としては同一視されています。ここで重視すべきは、尖頭器の形態組成の違いの根底には、ルヴァロワ技法がどの程度その技術的な基盤を構成するかにより起因することがあり、石刃の形態と同様に、アジア中央部西部における中部旧石器時代のルヴァロワ技法の比率の低さと関係している、と見られることです。すでにフッジ遺跡の組成の評価で指摘されているように、アジア中央部各地における中部旧石器時代終末段階の技術様相の多様性が表出していると考えられます。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来説とそれへの反対説

 日本列島の石刃の起源については、後期旧石器時代初頭の石刃石器群の類例が必ずしも多くないことあり、まだ定まった理解がありません。日本列島の後期旧石器時代最初期に小型剥片石器群が先行し、やや遅れて関東地方を中心に石刃石器群が現れる現象の解釈について、石刃の大陸伝播説と日本列島自生説のどちらかは、日本の旧石器研究における長年の課題でした。その後、現生人類の渡海技術を前提にしたMIS3における日本列島への現生人類の拡散を踏まえることで、石刃石器群の大陸伝播説は一般的な理解となります。

 ただ、具体的にユーラシア大陸のいかなる文化段階のものが流入したのかまでは、議論の対象となりませんでした。しかし、恐らくアルタイIUPの概要が整理されて、ユーラシア旧石器研究が日本旧石器研究に参照され始めたことが契機となったため、日本列島における石刃石器群の起源を具体的にユーラシアIUP石器群に見定めた見解が、2015年3月に2件同時に発表されました。ともに日本列島最古の石刃石器群である長野県佐久市八風山II遺跡の起源についての議論です。

 一方は「尖頭石刃や小口面タイプの石刃核を含む」点に着目し、ユーラシア中央部を東西に横断して分布するIUP石器群であるエミラン(Emiran)と関連させました。較正年代で4万年前頃の年代と合わせて、石器が似すぎており「他人の空似」と決めつける根拠もない、と指摘されています。この視点は継承され(関連記事)、アジア東部への現生人類到来に伴う石刃石器群の系譜が、各地の在地の石器群との関係性から明確化されます(関連記事)。

 もう一方はやや視点が異なり、小口面剥離によるY字稜をもつ石刃生産技術が、打面の90度転回に特徴づけられる半転型の石核消費でもあるとして、立体的な石核消費を特徴とする上部旧石器的な石刃生産技術とは一線を画した石核消費だった、と評価する見解です。つまり、石核消費が中部旧石器から上部旧石器への移行期的であるとの評価ですが、この見解では、石刃石核消費の特徴に加えて、量産されたY字稜をもつ基部加工尖頭形石刃石器がルヴァロワ型尖頭器の外形を模倣した例として、ユーラシアIUP期の石刃石器群との関連が示唆されていまする。やや不鮮明ですが、大型石刃を石核素材として小石刃生産の可能性がある、彫器状石核の存在も指摘されています。

 これらユーラシアIUP石器群からの影響関係を考慮する見解に対して、石刃生産技術にルヴァロワ技法が認められないため、ユーラシアIUP石器群とは類似しないとして、その影響関係を明確に否定する見解もあります。つまり、「他人の空似」というわけですが、ユーラシアIUP石器群の基本構成と八風山II遺跡の資料の実態を踏まえていない表層的な批判に過ぎなかったことは、3名の連名著者らも認めるところだろう、と本論文は指摘します。その結果として、日本列島の石刃石器群の由来を収斂進化説にもとめる理解に陥った、というわけです。

 八風山II遺跡が仮に日本列島最古の石刃石器群であったとしても、この遺跡の場の性格上、最古の石刃生産技術の全てが表現されていると評価するのは難しい、と考えられます。なぜならば、幅約7mの痩せ尾根上において、基盤の崖錐性堆積物に含まれる黒色安山岩を抜き取り、小口面型石核消費により基部加工尖頭形石刃石器の量産に専従した地点だからです。特定の目的のための作業地点で、同時期の全ての石刃生産技術が発揮されたとは考え難い、というわけです。

 たとえば、1点のみ含まれる打面の細部調整が顕著な和田峠産黒曜石製の石刃など、この地点には見えていない異なる石刃生産技術が存在したことは明らかです。そのため、八風山II遺跡の石刃生産技術が小口面型の単相であることから、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術の多様性が認められないとして、その関係を否定してしまうことは難しいだろう、と考えられます。すでに指摘されているユーラシアIUP石器群との類似点も、要素としては部分的に認められることも確かです。

 そこで、同じ八風山の山中にある香坂山遺跡が取り上げられます。香坂山遺跡は上信越自動車道八風山第2トンネルの立坑地上施設の建設にともない1996年に発見され、1997年に長野県埋蔵文化財センターにより発掘調査されていました。八風山II遺跡よりも80m標高が高く1140mで、周囲から屹立した幅広い平坦な尾根に立地し、黒色安山岩の散布域からは南東に約600m外れています。1997年の長野県調査では、施設建設範囲において地表下5.5mという深さでAT下位から中型剥片石器を主体とする4ブロックが検出され、そこから約40m離れた斜面下方に設定された幅2mの確認トレンチからは、地表下2.7mの同じくAT下位から長さ14cmと11cmで幅が3㎝以上の大型石刃2点と、長さ12cmの大型石刃が剥離された石刃核1点が出土していました。石刃の形態は長方形で先細りせず、石刃核は亜プリズム型で小口面型ではありません。

 さらに、IUP期のレヴァントからアジア北部にまで分布する横断面取石核(truncated-faceted pieces)の範疇で理解できる小石刃核も同じトレンチから出土していました。較正年代では36000~35000年前頃と推定とされ、八風山II跡と同時期の石刃石器群の存在が、香坂山Ib石器文化と命名され、報告されました。確認トレンチの範囲は記録保存の対象とならず、その存在が確認された石刃石器群の包含層は現状保存されました。このため、片鱗のみで確証がもてないものの、香坂山遺跡の確認トレンチ周辺には、八風山II遺跡とは異なる技術と石器組成をもつ石刃石器群が展開し、日本列島の石刃の起源を示唆する未知の情報が埋没しているのではないか、と考えられます。


●香坂山遺跡の学術調査

 日本列島最古の石刃石器群の調査のため、2020年8月から9月に、1997年の長野県調査で石刃が出土した確認トレンチ周辺の国有林と高速道路施設地において、学術目的の発掘調査が実施されました。7ヶ所のトレンチ合計約135㎡を3次にわけて発掘したところ、遺跡が立地する幅約40mの尾根のうち、中心軸から南半に石器包含層が広がる、と確認できました。水洗選別試料を含めて800点以上の石器が、1997年の長野県調査と同一とみられる層準から出土しました。

 2020年の学術調査地点では、地表下約2mまで浅間山に由来する軽石層が重層し、その下で30~50cmの斜面崩落土層が堆積し、それにパックされる形で3万年前頃の姶良Tn火山灰層が純層で堆積していました。石器は、その約40~50cm下位を中心に出土しました。石器包含層は層厚が約40cmの軟質な暗色帯で、その中位から下位にかけて石器が包含されていました。この暗色帯の上部には白色と赤色の径2mm程度の小さなパミスが包含されており、これが八風山II遺跡で確認された八ヶ岳第4軽石(較正年代で34000年前頃)となるのかどうか、分析中です。石器製作地点は1次調査区で1ヶ所、2次と3次調査区でそれぞれ2ヶ所ずつ検出されました。その内容は、8月調査の第1次調査区で小石刃生産地点、第2次調査区で尖頭形剥片の生産地点、9月調査の第3次調査区で大型石刃生産地点と小石刃生産地点、および尖頭形剥片の生産地点が検出されました。

 石器は、長さ10cm以上で幅3cm以上の大型石刃、幅1cm前後の小石刃、尖頭形剥片が出土しました。尖頭形剥片は長さ5cm上の斜軸剥片で、定義的な斜軸尖頭器とも言えます。それぞれの石器が剥離された石核も出土したため、製作技術も判明しました。大型石刃は、60度程度の小さい打角をもつ、平面剥離型の両設打面の石刃核から剥離されていました。小石刃は、末端が肥厚した大型石刃や厚手の縦長剥片を石核素材として剥離され、彫器状石核が残されます。尖頭形剥片は、求心剥離石核から規格的に剥離されていました。

 大型石刃生産については、1997年の長野県調査で立体剥離型の亜プリズム型石刃核が出土しており、それとは異なる技術と判明しました。さらに、石核は残されていませんでしたが、石刃の側面に石核側面が取り込まれた例から、小口面型による石刃生産の存在も想定されました。このため、大型石刃生産技術は、中部旧石器的な平面剥離型(2020年学術調査)と上部旧石器的な立体剥離型(1997年長野県調査)、中間的な小口面型(2020年学術調査、ただし石核はありません)の3種の存在が確認できました。この石刃生産技術の多様性は、ユーラシアIUP石器群と共通すると評価できそうです。

 また、小石刃生産の石核素材となった大型石刃や厚手の縦長剥片は、大型石刃の剥離過程で生産され、小石刃核として適した素材が選別されており、アルタイIUPにおいてモードBがモードAに取り込まれている状況を確認できました。小石刃生産による大型石刃素材の彫器状石核は、ユーラシアIUP石器群の示準石器とされています。較正年代は現時点で、中央値の平均が36800年前となることから、日本列島最古の石刃石器群と判明しました。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来の可能性

 大型石刃と小石刃と定義的な斜軸尖頭器の3セットに特徴づけられる香坂山遺跡の石刃石器群の由来については、石器組成と技術組成が上旬のようにユーラシアIUP石器群と共通することから、何らかの影響を考慮しなければなりません。以前の見解では、武蔵野台地X層の石刃出土遺跡を大陸の例と比較する中で、水溝洞やトルバガやワルワリナ山に共通して伴っている、「長三角形剥片を利用した尖頭器」、「両設打面の扁平石刃核」、「円盤形石核」が立川ローム層第I期の石刃出土遺跡には伴っていないことが、相違点として指摘されています)。日本列島最古の石刃石器群である香坂山遺跡は、まさにこの3点が大型石刃に伴って出土した点において、大陸の初期の石刃石器群との共通性を改めて指摘できます。換言すると、これらにより、香坂山遺跡の石刃石器群はユーラシア大陸の初期石刃石器群に起源が求められる、と理解できます。

 その年代から、ユーラシアIUP石器群そのものというよりも、その系譜をひく前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、略してEUP)の石器群をアジア東部に想定して、それが較正年代で36800年前頃までに日本列島に流入したと考えられるでしょう。調査は継続中なのでまだ確定できませんが、細部にわたる共通性から、現時点では移住を伴う伝播と想定するのが妥当なようです。アジア東部のユーラシアIUP石器群の確実な例は、中国寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou)遺跡が挙げられ、較正年代では41000年前頃と推定されています。韓国の較正年代で42000~40000年前頃とされる石刃石器群も、その影響下にあった可能性が考えられます。韓国の初期石刃石器群については、ユーラシアIUP石器群にみられる中部旧石器的な様相、すなわち平面剥離型の大型石刃生産技術や中部旧石器的な尖頭器生産などの有無が、今後の焦点となりそうです。

 日本列島内部では、香坂山遺跡以降は、八風山II遺跡や武蔵台遺跡Xb層など、基部加工尖頭形石刃石器を主たる石器とする石器群が、較正年代で15000年前頃程度の年代差で後続します。このため、香坂山遺跡で確認されたユーラシアIUP石器群の系譜は日本列島内において途中で途絶せず、その後の石刃石器群の起源になった、と評価できます。八風山II遺跡に年代が500年前とわずかではあるものの先行することからも、香坂山遺跡は、較正年代で36000~35000年前頃以降に関東・中部地方で一般化する、小口面型石刃生産による基部加工尖頭形石刃石器に特殊化する以前の石刃石器群と理解できます。このように、ユーラシアIUP石器群の系譜が現生人類の後期拡散の流れにより日本列島にまで到達しており、その最初期の足跡が香坂山遺跡に表れている可能性を指摘できます。しかし、その証明には、大型石刃や尖頭器や小石刃など、両者に共通する石器の詳細な技術上の比較検討が必要です。


●八風山で日本列島最初期の石刃石器群が見つかる理由

 ユーラシアIUP石器群の系譜が、なぜ八風山という日本列島中央部の山中に孤立的に残されたのか、との疑問が生じます。しかし、これについては、ユーラシア中央部におけるIUP期の遺跡立地を参照すると、それほど特異にも見えません。ユーラシア中央部のIUP期遺跡群は、フリント(燧石)や黒曜石と比較するとやや粗粒な石質である堆積岩や火成岩が、大型角礫の形状で産出する石材産地の近傍に立地します。またIUP期遺跡群は、標高1000~1300m程度の比較的標高の高い山中に遺跡が立地する傾向があります。

 この立地傾向は、香坂山遺跡にもそのまま当てはまります。ユーラシアIUP石器群の遺跡が共通してこのような立地となる背景については、現在のところ以下の3点が想定されます。第一に、やや粗粒の大型角礫は、その石材利用可能性として、おそらく大型石刃の生産に適していました。第二に、大型石刃生産技術に平面剥離型が採用されているため、中部旧石器的な石器製作システムが残存していました。このため、石材の運用が中部旧石器時代と大きく異なるものではなかった可能性もあり、結果として石材産地近傍に拠点を置いて継続的に入手する必要がありました。第三に、標高の高さは狩猟対象獣などの生業資源との関りによるものと推定されます。

 恐らくユーラシアIUP石器群の荷担者たちは、これらの条件が満たされる資源環境に限定的に適応して遺跡を残していたため、面的な遺跡分布は形成せず、特定地域に偏在しながら広域に展開していった、と推定されます。そのため、仮に朝鮮半島から日本列島にこの系譜が流入したとしても、九州や近畿地方にこれらの遺跡が見つからず、突如として八風山に出現したように見える理由も理解できます。そもそもユーラシアIUP石器群は、活動地点を面的に展開することができず、資源環境が同一条件に整う特定地域に偏在して展開し、それを求めて拡散しており、日本列島においては八風山がその条件を満たしていた、というわけです。逆に言えば、八風山に限らず、上記の条件を満たす地域があれば、同様の石器群が残されている可能性もあるでしょう。


●まとめ

 日本列島における石刃石器群の起源という日本旧石器研究の長年の課題に対して、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島に流入した可能性を、香坂山遺跡の石器群に見出せました。この仮説の背景には、ユーラシア北回り経路で拡散した現生人類の後期拡散があり、そのアジア東部における終着点として、日本列島が位置づけられることになります。日本列島の後期旧石器文化はその開始期から、ユーラシア旧石器文化の活力に組み込まれていた、とも言えそうです。日本列島を含むアジア東部におけるユーラシアIUP石器群の事例は、今後少しずつ増加していくことが予測され、それらにより本論文の仮説が検証され、より具体的な歴史像へと発展することが望まれます。


参考文献:
国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20

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