麻柄一志「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P68-81)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 許家窰遺跡群は1973年に発見された山西省許家窰村の73113地点と、1974年に発見された河北省侯家窰村の74093地点から構成されます。侯家窰/許家窰遺跡の日本語でのこれまでの表記には、侯家窯/許家窯の場合があり、当ブログでは許家窯遺跡としてきました。現代中国語では侯家窑/许家窑ですが、「窑」は窰と窯の簡体字です。簡体字の普及以前の侯家窑村、许家窑村の表記が文献では「侯家窰村」、「許家窰村」となっているので、以下では侯家窰/許家窰遺跡とします。

 数次にわたる発掘調査が実施され、豊富な遺物が出土し、許家窰遺跡として知られているのは河北省侯家窰村の74093地点です。74093地点を河北省は侯家窰遺跡と呼びます。74093地点の遺跡名称は20世紀まで「許家窰遺跡」が主流でしたが、遺跡の所在地が河北省侯家窰村で、2007年から2012年にかけての河北省文物研究所の調査で、遺跡の所在地に基づいて「侯家窰遺跡」と呼ばれたので、侯家窰遺跡の名称が普及しました。古脊椎動物与古人類研究所は1974年の調査以来、「許家窰遺跡」の名称を使い続けており、古脊椎動物与古人類研究所所管の資料(人類化石など)を使用した近年の外部研究者の研究でも、「許家窰遺跡(Houjiayao)」の名称が使われています。

 これに対して、河北省文物研究所のトレンチでのサンプリング資料を用いた研究では「侯家窰遺跡(Xujiayao)」の名称が多く使われています。遺跡名称の混乱については以前かから指摘されていますが、解決していません。なお、古い文献には74093地点の所在地を山西省陽高県許家窰村としたものもありますが、明らかな間違いです。ちなみに現地には、中華人民共和国文物保護法に基づき、国務院が全国重点文物保護単位に指定した「侯家窰遺址」の石碑があります。

 中国科学院古脊椎動物与古人類研究所の1973年と1974年の一帯の踏査では、1974年に74093地点が発見され、試掘調査の結果、地表から8mの深さの灰褐色粘土層、黄緑色粘土層から589点の石器と大量の動物化石が発掘されました。1976年の大規模調査では、人類化石9点、石器約13650点と骨角器、20種類の脊椎動物化石が出土しています。石器、人類化石、動物化石は地表から8~12mの深さで出土すると記載されていますが、土層図では8mと12mのレベルで二つの文化層が明記されています。

 1977年の大規模な調査では、人類化石8点、8657点の大量の石器と骨角器、動物化石が出土しています。1979年の第4次調査では、3点の人類化石と石器など1419点と、動物化石が出土しました。このように古脊椎動物古人類研究所による短期間の集中的発掘調査で、25000点近い石器と20点の人類化石が出土しました。考古資料の検討から、年代は中期更新世後期から後期更新世前期と推定されました。また年代測定ではウラン系列法の測定値が採用され、10万年前の前後とされ、アジア東部を代表する中部旧石器時代の石器群と人骨との評価が定着しました。

 その後、河北省文物研究所は2007年と2008年に第5次調査を実施し、2012年まで継続調査を行ないました。この一連の調査は発掘面積が極めて狭く、人類化石は得られていませんが、後述のように、さまざまな関連諸科学の資料採取が行なわれ、年代や地形や環境などの分析結果が報告されました。著者は2010~2012年に侯家窰遺跡の再整理を行ない、河北省文物研究所調査のトレンチで標本が採取され、石器群の検討もこの時の出土資料でした。

 2019年12月14・15日の「パレオアジア文化史学 第8回研究大会」において、王法崗氏と張文瑞氏は「泥川湾盆地における20万年におよぶ古人類の痕跡」と題して発表し、泥川湾盆地に焦点を当て、現生人類(Homo sapiens)の展開として侯家窰遺跡から於家溝までの変遷を示し、侯家窰遺跡を最も古い20万~16万年前頃と位置づけました。侯家窰遺跡の年代はそれまで10万年前頃前後とされてきましたが、近年の新たな年代測定により若干変更されています。2020年に王法崗氏たちは、2007年から2012年までの河北省文物研究所の調査に基づいて、侯家窰遺跡のこれまでのさまざまな理化学的年代を整理し、遺跡の年代問題を総括しています。

 近年、侯家窰遺跡についての様々な研究が公表されているが、ロビン・デネル(Robin Dennell)氏は侯家窰遺跡の位置づけについて、「難しい」と評しています。年代が確実でないこと(20万~16万年前頃、33万年前頃、16万年前頃よりずっと新しい、といった説が提示されています)、人類化石がホモ・エレクトス(Homo erectus)でもホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑した人類である可能性があることなどのためです。とくに、河南省許昌市霊井(Lingjing)遺跡の2点の頭蓋骨(関連記事)について、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人の特徴を合わせもっていることが例として挙げられており、現在の中国に現生人類到達以前に異なる集団と交雑した人類集団が存在した、と想定されています。


●年代

 侯家窰遺跡の1974年の試掘調査の報告では、動物化石群から気温が現在より低いと考えられ、石器群の様相に基づいて発展ムステリアン(Advance Mousterian)からオーリナシアン(Aurignacian)初期と位置づけられて、遺跡の年代は6万~3万年前頃と推定されました。1976年の調査報告では、総合的に判断して10万年以上前とされています。また動物化石の分析では、丁村の化石群より新しく、薩拉烏蘇の化石群より古いと判断され、6万年前頃と推定されています。

 調査の初期段階から放射性炭素年代測定も行なわれました。1976年の調査地点では地表から8mの上文化層で16450±2000年前、下層の9.9~12.3mの4点でいずれも4万年以上前との結果が報告されています。2007・2008年の調査地点では、動物化石3点と堆積物の測定が日本の加速器分析研究所で行なわれました。これらは下文化層のピート層から採取されましたが、No.7の動物骨42800±290年前はNo.8(54060年以上前)とNo.9(54040年以上前)の骨や歯と比較して、炭素含有率とコラーゲン回収率が低いので信頼性が劣るとされ、No.10・11の堆積物も炭素含有率はかなり低く(0.3と0.4%)、「何らかの形で年代の異なる有機物が加わった可能性がないか注意する必要がある」と指摘されています。信頼性が高いのはNo.8とNo.9のようです。

 発掘資料と遺跡での採集資料(動物化石)のウラン系列法による年代測定も行なわれました。上層のウマとサイの歯は8.8±0.5万年前と9.1±0.9万年前、下層上部のウマの歯2点は9.9±0.6万年前と10.2±0.6万年前、下層(黒色)のウマの歯は11.4±1.7万年前と9.4±0.7万年前と報告されています。その後、華北地区の主要旧石器遺跡のウラン系列年代が報告され、侯家窰遺跡の上層資料(サイの歯)が追加されており、その年代は10.4~12.5万年前です。

 これに対して、侯家窰遺跡とその周辺での古地磁気年代測定と火山灰年代測定などから、侯家窰遺跡の文化層は50万年前頃もしくは中期更新世の前期から中期と推定されました。しかし、周辺の地形調査から遺物包含層は泥河湾層(I面)を刻む開析谷中に堆積したII面構成層で、II面は開析の進んでいない若い扇状地性の段丘面であるとされ、最下部に泥炭層が堆積している、と確認されました。つまり、遺物包含層は泥河湾層ではなく、泥河湾層の上に不整合に堆積している河川堆積物なので、堆積速度等から年代を計算できる環境ではない、と言えます。

 また、近年では泥河湾層の最上部の年代が明らかになっています。侯家窰遺跡でも観察できるように泥河湾層は河川によって開析され、その上に扇状地性の堆積物が認められます。つまり、泥河湾層の最上部は失われている場合が多く、地点によって最上部の年代に差異があります。泥河湾湖の収縮は27万年前頃から始まり、最後に残った盆地中央部も3万年前頃には湖が消滅しており、湖沼堆積物である泥河湾層の最上部は27万年前頃以前にはさかのぼらないことになります。つまり、泥河湾層の上位の河成堆積物も27万年前頃以前にはさかのぼりません。

 泥河湾摩天嶺遺跡では、泥河湾層の最上部の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代は335000万年前で、その上に不整合面があり、黄土層の堆積が見られます。このように頂部が浸食されていても、30万年代の値が得られており、侯家窰遺跡の遺物の包含層は泥河湾層の上に堆積した層なので、27万年前頃をさかのぼることはなさそうです。2009年には赤外光励起ルミネッセンス(IRSL)測定により、侯家窰遺跡の文化層上部で60000±8000年前、文化層中間で69000±8000年前との結果が得られています。ただ、この報告では結果のみが記載され、遺跡のどの場所のどの層位で資料採取が行なわれたのか、不明です。古脊椎動物与古人類研究所調査地点では詳細は不明ですが、北京大学によるOSLの測定も行なわれており、文化層中部の年代が13万年前を超える、と報告されています。

 その後、河北省文物研究所調査トレンチの壁面のOSL測定値が公表されています。番号Ll453-457のサンプル採取レベルは9~12層に対応するので、上文化層の年代となります。しかし、12層は上面から少量の遺物が出土しているので、Ll453~Ll456までが上文化層に対応し、その年代は161000±13000~188000±23000年前のOSL年代の範囲に収まることになります。その後、同じトレンチの下文化層相当層のOSLが実施され、深度12.83mで198000±15000年前、深度13.85mで212000±16000年前、14.25mで188000±10000年前と測定されていますが、この分析での最下層が上位2点より新しく、他の研究で示された深度9.75mの測定値とも一部逆転しています。測定機関は最上部が蘭州大学、上文化層の上位の砂質粘土層が国土資源部、上文化層が北京大学、下文化層が南京大学と分かれていますが、年代値はほぼ整合しています。このOSL測定値は、河北省文物研究所のトレンチで地表から約7.5~10m(第9層~12層)の上文化層は19万~16万年前頃、地表12.6mの黒色粉砂質粘土層(第14層)である下文化層が20万年前頃です。脊椎動物与古人類研究所調査地点の上文化層中部の13万年を超えるという測定結果も、矛盾しません。

 近年、中国では下部旧石器時代の遺跡に対して、宇宙線照射年代測定法と呼ばれる26Al/10Beの測定が行なわれるようになり、侯家窰遺跡でも実施されています。2007・2008年調査トレンチの14層(地表から12.1~12.3m)から採収された2点の石英資料は26万±6万年前と17万±12万年前で、加重平均は24万±5万年前と報告されています。資料が採収された14層は下文化層に相当します。

 河北省文物研究所調査トレンチでは電子スピン共鳴法(ESR)の測定行なわれています。地層区分は調査者それぞれの認識が異なっているため、各調査分析との対比はできませんが、地表からの深度が明記されており、深度を参考に対比すると、報告者は深さ8~12mまでを遺物層とし、8~9.6mを上部、9.6~12mを下部とし、上から順に連続させて標本抽出しています。上部は上から順に267000±29000年前、232000±34000年前、282000±27000年前、下部は上から順に374000±32000年前、373000±22000年前、376000±25000年前と測定されており、上部は28万~23万年前頃、下部は37万年前頃となります。上部はOSLの上文化層の標本抽出位置に近いものの、数値は10万年ほど古くなっています。下部では最下部の標本抽出位置がOSLの12.83m(198000±15000年前)、26Al/10Beの14層(12.1~12.3m)に近く、下文化層相当と推定できますが、OSLは198000±15000年前、26Al/10Beが24万±5万年前と報告されており、ESRの年代が十数万年古くなっています。

 このように、2007・2008年の河北省文物研究所調査トレンチでは、その後、標本抽出のための深堀も行なわれ、放射性炭素、OSL、26Al/10Be、ESRの年代測定が行なわれていますが、多くは、脊椎動物与古人類研究所調査地点での初期の分析測定を大きく上回る数値が提示されています。中国では2010年代初めまで、侯家窰遺跡をめぐるさまざまな研究は、その年代を12万~10万年前頃または7万~6万年前頃という前提で議論を進めています。しかし、近年では侯家窰遺跡を22万~16万年前頃とする論考が見られるようになりました。


●人類化石

 侯家窰遺跡ではこれまでに20点の人類化石が出土しており、調査当初から後期更新世の遺跡と考えられたため、中国では数少ない後期更新世の人骨と中部旧石器が出土する遺跡として注目されていました。侯家窰遺跡からの人類化石の出土は、現時点で1970年代の脊椎動物与古人類研究所調査地点に限られており、近年も続けられている化石人骨の研究は、40年以上前に出土した資料に基づいています。賈蘭坡氏たちは、1976年の侯家窰遺跡の発掘調査で出土した人類化石の特徴をホモ・エレクトス(いわゆる北京原人)とネアンデルタール人のいくつかの特徴が混在していると指摘し、エレクトスからネアンデルタール人への過渡的類型と把握しました。1977年出土の頭頂骨や後頭骨や歯などの人類化石を分析した呉茂霖氏は、侯(許)家窰人をネアンデルタール人に分類しました。さらに呉氏は1979年出土の側頭骨を分析し、その特徴が初期現生人類と類似すると指摘し、あるいはエレクトスと現生人類の間に位置づけています。

 2010年代になり、侯家窰人の研究は再び活発となり、侯(許)家窰人は、エレクトス本来の特徴を保持するだけではなく、現生人類の派生的特徴も示し、ネアンデルタール人によく見られる性質もある、との見解が提示されています。具体的には、侯(許)家窰15(左側頭骨)の化石の三半規管の分析では、後期更新世のネアンデルタール人に一致し、現代人や前期および中期更新世の人類とは異なる、と指摘されています。1977年の調査で出土した下顎枝、つまり侯(許)家窰14の分析では、比較できる資料がユーラシア東部で存在しないものの、おもにユーラシア西部のネアンデルタール人の間で知られている特徴も示している、と指摘されています。また、年代は以前の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5~4という前提ですが、侯家窰人の歯の分析では、祖先的特徴は前期・中期更新世ホモ属やネアンデルタール人にも共通する古い要素が見られ、分類学的に不明確な集団の存在が示唆されています(関連記事)。

 最近の研究では、侯家窰遺跡の年代の再検討により、中期更新世に種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がユーラシア東部に拡散した時期と一致し、侯家窰人のデニソワ人に似た臼歯などから、侯家窰人が初期デニソワ人を表している可能性がある、と推測されています。また別の研究も、侯家窰人化石の大きな歯、歯の病状や頭蓋骨、下顎骨、歯列の形態的特徴の独特の寄せ集めから、デニソワ人と関連する交雑した人類を示唆しています。また、侯家窰人の臼歯がデニソワ人のものに似ている、とも指摘されています(関連記事)。その後、チベット高原において、ホモ属の下顎骨がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と確認され(関連記事)、また洞窟の堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が検出されたこと(関連記事)から、侯家窰人とデニソワ人との関係をより積極的に示唆する見解が出されています。このように人類化石の研究からは、ネアンデルタール人に類似する要素や、デニソワ人との関係を想定するものなど複雑な様相を示しますが、すでに多くの指摘があるように、交雑した人類である可能性を考えなければならないようです。


●石器群

 近年、侯家窰遺跡の人類化石や地層や地形や古環境等の研究は活発ですが、3万点に近いとも言われている出土石器の分析は低調です。以前の発掘調査での出土石器の概要は報告されていますが、これらは上文化層の出土で、下文化層の様相は不明です。石器の量が膨大なので、つまみ食い的な報告や紹介では全容を把握できません。とくに、器種の分類は個人差があり、器種名自体が報告者独自の命名の場合もあり、文章中の石器組成等では理解が困難です。じっさい、中国の小型剥片石器は、器種分類に迷うような、日本列島の後期旧石器の基準では非典型的なものが多く、また石英製の石器などは二次加工の有無も見分けにくく、全面的に報告書などの記述に頼れません。

 著者たちは、2010~2012年に河北省文物研究所による侯家窰遺跡2007・2008年調査資料を再整理しましたが、この資料も出土層位から上文化層のものです。そのさい、器種分類は竹花和晴氏の指導でフランス石器型式学に基づいています。河北省文物研究所には2007・2008年調査の石器が613点保管されており、その中の141点に2次加工等が認められ、石器(tool)とされました。石材は石英が68%を占め、石英岩(7%)、玉髄(5%)が続き、これらの石材で小型石器の大半が製作されています。

 器種の内訳は大分類で、削器20点(14%)、ノッチ(抉入石器)18点(12%)、ベック(嘴状石器)51点(36%)、鋸歯縁石器10点(7%)、石球または多面体石器21点(15%)となり、主要なこの5器種で84%を占めます。その他に特徴的な石器として、カンソン型尖頭器(Quinson type point)、リマス形尖頭器(Limace point)、タヤック型尖頭器(Tayac type point)がそれぞれ1点ずつ存在しています。さらに上部旧石器時代に特徴的な器種や磨製骨角器も存在しておらず、こうした石器組成は、ヨーロッパにおける中部旧石器時代の一部の石器群(鋸歯縁石器群)に類似している、と指摘されました。

 具体的にはムステリアン(Mousterian)の鋸歯縁石器様相に相当する、と指摘されました。同時に再整理が行なわれた西白馬営遺跡も、石材こそ玉髄などの珪質の石材が多いものの、同様の石器組成を示し、やや時代幅はありますが、ユーラシア大陸の東西で中部旧石器時代に類似する石器群が存在する、と確認できました。しかし、その意義については深く言及されていません。中間地帯の中国西部やアジア中央部の情報がよく把握されておらず、ユーラシア大陸の両端でも類似現象の説明ができなかったからです。

 石器型式に注目すると、鋸歯縁石器類の他に、カンソン型尖頭器やリマス形尖頭器やタヤック型尖頭器など、従来ヨーロッパに分布すると考えられていた特徴的な石器の再検討が必要です。とくにカンソン型尖頭器については近年、その分布が追求され、アジア東部の一部にも存在する、と指摘されています。この型式は中国では旧石器時代研究の最も古典的な遺跡である薩拉烏蘇遺跡や周口店LOC.15にも存在しており、山西省塔水河遺跡、河南省霊井遺跡などでも確認され、過去の調査例も精査すれば、さらに増加すると考えられます。この型式の石器はフランスを中心とするヨーロッパの中部旧石器時代に散見されますが、中国の年代が明らかな遺跡ではMIS6~3に存在します。侯家窰遺跡は、かつてMIS5~4と考えられていましたが、近年の研究から、その年代はさかのぼると予想されます。しかし、カンソン型尖頭器やタヤック型尖頭器やリマス形尖頭器の存在は、ヨーロッパの中部旧石器時代の年代枠から外れることはない、と考えられます。

 侯家窰遺跡の鋸歯縁石器群は、小型のベック(嘴状石器)の多量存在にその特徴があります。さらに小型のノッチや鋸歯縁石器が一定量含まれ、安定的に石球/多面体石器を組成し、対照的に狩猟具的石器の欠乏が目につきます。同様の石器組成は西白馬営遺跡や河南省霊井遺跡や遼寧省小孤山遺跡でも認められ、アジア東部で200万年近くにわたって存在する小型剥片石器群の中で一類型をなします。いずれも中部旧石器時代の遺跡で、華北の中部旧石器時代の地域的・時期的な特徴と把握できます。


●まとめ

 年代についての混乱は王氏たちの研究で整理されており、従来の約12~10万年前頃から、現在では20万~16万年前頃と推定されていま。こうした新しい年代観では、従来の人類化石の分析で古い様相が後期更新世まで残っている、といった無理な解釈は必要ではなくなりました。また、初期の調査で上下2層の文化層が認められていますが、出土した人類化石や石器の層位が問題にされることは少なく、この点を2007・2008年の発掘調査トレンチで明確にできた点は重要です。これまでの報告の記述によれば、1970年代の調査で人類化石と多数の石器が出土した層は上文化層と考えてよく、これらの化石や石器の年代も上文化層の年代と考えられます。2007・2008年の発掘調査は上文化層が対象となっており、これまで出土した侯家窰遺跡の出土物は大半が上文化層です。下文化層の年代は分析が蓄積されていますが、現時点では、人類化石や動物化石や石器の議論の対象外です。

 人類化石の研究で俎上に上がる侯家窰(許家窰)人と霊井人との関係は興味深く、化石だけでなく、両遺跡の石器群の様相は近似しています。これらの石器群は侯家窰型鋸歯縁石器群として華北の中期旧石器時代を特徴付けるものと位置づけられましたが、以前から指摘されているように、この石器群は突然出現したものではなく、華北の小型剥片石器群の伝統の中で、鋸歯縁石器群、とくにベックが突出し、ノッチと石球に特徴付けられる石器群がMIS6~3に華北平原から渤海湾周辺に現れた、と考えられます。とくに注目されるのは、この石器群のヨーロッパにおける鋸歯縁ムステリアン(Denticulate Mousterian)との類似性です。侯家窰遺跡や霊井遺跡に見られる石器群の前段階からの継続性と、ユーラシア大陸の東西で共通する要素は、両遺跡出土の人類化石に対する評価と共通する点があります。人類化石については近年詳細な研究が蓄積され、さまざまな要素が複雑な構造を呈している、と明らかになりつつあります。中国大陸の石器群の研究も汎ユーラシア的視点で取り組めば、現生人類出現前夜の様相の解明につながるでしょう。


参考文献:
麻柄一志(2021)「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P68-81