大河ドラマ『青天を衝け』第16回「恩人暗殺」

 一橋家臣となった栄一(篤太夫)と喜作(成一郎)は、関東で一橋家に役立つ人物を集めようとします。その二人の出立を平岡円四郎が見送ります。今回、その平岡が殺害されましたが、平岡は栄一の大恩人で理想的な上司として描かれていたので、大きな喪失感があります。西郷吉之助(隆盛)の発言など、史実を知らずとも平岡の最期を予感させる構成になっており、唐突感がないことを評価する視聴者もいるでしょうが、あざといと批判する視聴者もいるかもしれません。私は、なかなか上手く構成されていたと思います。


 今回は、栄一と喜作の関東での人材集めと並行して、池田屋事件と水戸天狗党の決起が描かれました。池田屋事件は平岡の殺害と深く関わっており、水戸天狗党の決起に血洗島の人々も巻き込まれます。幕末の重要な事件を単発的に描くのではなく、主人公およびその周辺の人々がしっかり関連しているので、ここまでは大河ドラマとしてなかなかの高水準になっていると思います。ここまで大きな存在感を示した平岡の退場は寂しいものの、今後もこれまでのような水準で話が続くのではないか、と期待しています。

バスク人の起源と遺伝的構造

 バスク人の起源と遺伝的構造に関する研究(Flores-Bello et al., 2021)が公表されました。ピレネー山脈を介してスペインとフランスの国境の西部を含むフランコ・カンタブリア地域は、ヨーロッパの人類史における役割から、いくつかの分野で注目されています。フランコ・カンタブリア地域は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)のヨーロッパにおいて最も人口密度の高い氷期退避地の一つで、重要な考古学的発見、とくに最古となる既知のヨーロッパの洞窟壁画と関連しています(関連記事)。

 フランコ・カンタブリア地域の最も興味深い特徴の一つは、バスク人の存在です。バスク人は歴史的にピレネー山脈の西端に沿って分布しており、スペインとフランスにまたがっていて、現在は7行政区分で構成されています。それは、ピレネー山脈の西側のギプスコア(Gipuzkoa)県とビスカヤ(Bizkaia)県とアラバ(Araba)県、ナファロア(Nafarroa)県、ピレネー山脈の北側のスベロア(Zuberoa)地域とラプルディ(Lapurdi)地域とナファロア・ベヘレア(Nafarroa Beherea)県です。バスク人はヨーロッパの文脈内でその特異性と孤立を定義する歴史的・人類学的・生物学的特徴のために、おそらくは際立っています。

 注目すべき特徴はバスク語で、5つの主要な方言があり(図1)、他のあらゆる現存言語と密接な関連のない孤立した非インド・ヨーロッパ語族言語です。ロマンス諸語の圧力による地理的後退の前には、現在の分布を超えて、バスク語は歴史的に7つの地方で話されていました。さらに、古代のバスク語関連言語はずっと広範に話されていた、と提案されています。この地域には、近隣のスペイン北部地域やフランスのアキテーヌ地方南部が含まれます。バスク語がバスク人の近隣人口集団との間の文化的障壁だった可能性が指摘されてきましたが、バスク語方言は内部障壁としても機能した可能性があります。バスク語方言は相互理解性の低下を示し、バスク語の標準語は1968年まで確立せず、1980年代以降にのみ広く使用されるようになりました。以下は本論文の図1です。
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 バスク人の遺伝に焦点を当てた研究は多くありますが、その人口史に関する活発な議論が続いています。そうした関心は、新生児溶血性疾患と関連する遺伝的多様体である、Rh-血液型の高頻度の注目すべき観察で始まりました。より多くの遺伝的標識を用いたその後の研究では、バスク人はヨーロッパ人の遺伝的文脈内ではとくに分化している、と明らかになりました。これらの結果は、考古学的・文化的・言語学的データとともに、この地域において孤立し続けた古代の人口集団から派生したバスク人として解釈されました。しかし、他の研究では、バスク人集団の遺伝的特異性の証拠は提供されておらず、ヨーロッパ全域の遺伝的均質性が示唆されています。

 バスク人の起源も議論になってきました。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)に基づく一部の研究では、バスク人は、LGM後に氷河の退避地からヨーロッパに再居住した後にその地に留まった、孤立した新石器時代前のヨーロッパ人集団を表している、と提案されました。逆に他の研究では、バスク地域における新石器時代の移住の影響が示され、旧石器時代以来の遺伝的継続性に反論しています(関連記事)。

 片親性遺伝標識の徹底的な分析は、バスク人における新石器時代以前からの継続性と、ローマ期の前の遺伝的構造を示しました。これを支持するのは古代DNAデータで、バスク人は共通のイベリア半島鉄器時代人口集団として実際に説明でき、新石器時代後の草原地帯牧畜民祖先系統の重要な遺伝的影響があるものの、ローマ人やアフリカ北部人のようなその後イベリア半島に侵入してきた人口集団からの混合を欠いている、と示唆されました(関連記事)。

 バスク人についての論争では、バスク人の特徴と起源だけではなく、バスク人内部の遺伝的異質性にも焦点が当てられてきました。バスク人集団のゲノム規模データは矛盾した結果を示してきており、一部の研究ではフランスのバスク人はスペインのバスク人と著しく異なり、後者は他のイベリア半島人口集団と類似している、と示唆されたのに対して、他のデータは、バスク人内部の均質性と非バスク人集団との顕著な遺伝的分化を示すものと解釈されました。

 これらの注目すべき矛盾した結果は、限定的な方法論と解像度により説明できるかもしれません。バスク人およびその近隣地域集団を表すとされた、これらの分析で用いられた標本数の少なさが、主要な制限要因と考えられてきました。さらに、そうした分析は古典的な遺伝標識のアレル(対立遺伝子)頻度か、片親性遺伝標識の系統か、標本と遺伝標識の減少した数に基づいています。以前の研究の限界を克服するため、本論文では堅牢なゲノム規模研究設計が採用され、その独自性や起源や遺伝的構造を含む、議論のあるバスク人の人口史の解明が可能となりました。

 本論文で提示される全フランコ・カンタブリア地域の独特で網羅的なデータセットは、以前の研究に影響を及ぼしたあらゆる標本抽出の偏りの可能性を制限し、小地域および大規模な水準での徹底的な分析を提供します。さらに、本論文の標本抽出で考慮された民族言語学的情報により、バスク人とその周辺人口集団の遺伝的項羽像の形成において文化的要因がどのように関連し得たのか考慮して、遺伝的データを超えて結果を解釈することが可能となりました。最後に、より正確なハプロタイプに基づく手法を活用して、精細な遺伝的構造と混合パターンが明らかになります。


●ヨーロッパ・地中海におけるバスク人の特異性

 バスク地域の標本抽出地点18ヶ所からの新たな190個体を含む、1970個体の現代人および古代人標本で、合計629000個のゲノム規模多様体が分析されました。まず、バスク人が広範な文脈で調べられ、大規模で多様な人口集団群内の遺伝的多様性が評価されました。主成分分析では、バスク人はアフリカ北部人の反対側の端に位置し、サルデーニャ島人と類似してヨーロッパの周辺に位置しており、バスク周辺集団(伝統的にガスコーニュ語とスペイン語の地域を取り囲んでいます)はその中間に位置します(図2A)。

 混合分析を用いて、これらの人口集団の広範な遺伝的祖先系統構成要素を考慮すると、バスク人で差異を示す遺伝的パターンが観察されます(図2B)。K(系統構成要素数)=6では、バスク人はおもに2つの構成要素を示します。主要な構成要素(深緑色)はヨーロッパ人にも存在しており、中東・コーカサスとアフリカ北部でも低頻度で見られます。もう一方のより割合の低い構成要素(濃赤色)は、ヨーロッパ中央部・東部において高頻度で見られます。ヨーロッパの残りの集団で見られる他の構成要素は、バスク人では存在しません(頻度1%未満)。バスク周辺地域標本群は、バスク人と類似のパターンを示すものの、バスク人では存在しない他の外部構成要素が低頻度で見られます。K=7では、新たな特定の構成要素が出現し(水色)、バスク人では最大となり、バスク周辺地域では50%以上の頻度です。この構成要素はスペインとフランスの標本群でも観察されますが、他の外部ヨーロッパ人標本群では実質的に存在しません。以下は本論文の図2です。
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 fineSTRUCTUREで実行されたハプロタイプに基づく分析を用いて、バスク人における顕著な水準の分化が検出されました(図3)。まず、バスク人集団は大規模なヨーロッパ人の分枝内でクラスタ化しますが、それは他のヨーロッパ人標本群の外部でのことです(図3A)。この結果は、バスク人クラスタと他のヨーロッパ人集団との間で共有されるハプロタイプの少なさと、バスク人の明確な内部および特有の遺伝的特性を示します。次に、バスク周辺地域集団も他の外部人口集団と分化を示しており、ヨーロッパ人の内部でクラスタ化するものの、スペイン人標本群とクラスタ化するカンタブリア地域標本(gCAN)を除いて、特定の分枝を形成します。

 fineSTRUCTURE分析では、フランコ・カンタブリア地域標本群の過剰表現による推定される不自然な結果を破棄するために、フランコ・カンタブリア地域の無作為標本抽出が実行され、類似の結果が得られました。さらに、非負制約付最小二乗法(NNLS)分析で計算された祖先系統特性は、上述の結果を反映しています(図3B)。バスク人はフランコ・カンタブリア地域の内部集団とのみハプロタイプを共有しています。バスク周辺地域人はおもに、地域内の集団とハプロタイプを共有していますが、非フランコ・カンタブリア地域のスペイン人およびフランス人集団ともハプロタイプを共有しており、バスク人とその周辺の外部人口集団との間の緩衝地帯として機能しています。

 バスク周辺地域人で観察された中間的な祖先系統特性は、フランコ・カンタブリア地域集団とその外部集団との間の遺伝子流動を示唆します。したがって、可能性のある混合事象が、GLOBETROTTERの使用によりバスク周辺地域で検証され、fineSTRUCTUREにより推定されたバスク人と全ての外部クラスタが代理として考慮されました。2つの供給源集団を含む単一の混合事象が、全ての対象とされたバスク周辺地域集団で検出され、11~16世紀頃と推定されました。類似の供給源が各対象クラスタで説明されました。主要な供給源はおもにバスク人とスペイン人の祖先系統により表され、より影響の小さい供給源はおもにスペイン人祖先系統により表されます。さらに、ブートストラップから推定された年代の信頼区間は、各バスク周辺地域の対象、とくにフランスのビゴール(Bigorre)地区で重複した幅広い範囲となりました。これは、バスク周辺地域における混合の単一ではあるものの継続的な波と、11~16世紀と最近の歴史時代においてバスク周辺地域に影響を及ぼした一般的な大規模人口統計的事象を呼び起こしたかもしれません。

 バスク人の遺伝的分化をさらに調べるため、ROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。バスク人はROHの全体的な最大総数(NROH)と全長(SROH)示し、長いROHを有しており、ヨーロッパ人の平均をわずかに上回るROH値を示すと報告されているサルデーニャ島人よりもさらに高く、バスク周辺地域集団が続きます(図3C)。中間のROH区分では、外部人口集団で表される標本群の合計割合はひじょうに小さくなっています。このことから、これらの区分がバスク人やサルデーニャ島人やバスク周辺地域集団といった孤立した集団でより一般的ではあるものの、外部集団では観察された値が不可解に近親交配の外れ値と関連している可能性があることを示します。

 これらの結果は、集団内の標本間で共有される同祖対立遺伝子(identity-by-descent。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、同祖対立遺伝子領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)の割合(PI_HAT)の調査と一致しています。さらに、経時的な有効人口規模(Ne)の推定がバスク人の低く安定した値を示す一方で、スペイン人やフランス人など外部集団は1000世代前の頃に劇的な増加を示します。これらの結果は、バスク人には近親交配を伴う孤立のパターンがあり、バスク周辺地域人にはその程度がより低いことを示唆します。そのような孤立のパターンは、他の全ての証拠によりずっと最近と推定され、周辺の人口集団における明らかな有効人口規模の旧石器時代の成長の痕跡を消すのに充分な深さだったようです。以下は本論文の図3です。
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●鉄器時代後の人口史に起因するバスク人の遺伝的独自性

 次に、バスク人の遺伝的特異性の起源を解明するため、古代の標本を含めて分析されました。古代の標本を投影した主成分分析では、バスク人は新石器時代前の狩猟採集民および新石器時代ヨーロッパ農耕民だけではなく、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団祖先系統と関連する一部の新石器時代後の草原地帯牧畜民にもより近い、と示されます。

 ADMIXTURE分析(K=4)では、他のヨーロッパ人口集団と比較して、バスク人とバスク周辺地域人はレヴァントおよびイラン関連新石器時代構成要素の割合が最低で、アナトリア半島・ヨーロッパの農耕民構成要素の割合がやや高い、と示されます。古代の標本群と共有される浮動を検証すると、外群f3統計は、バスク人とヨーロッパの3つの主要な古代構成要素(旧石器時代狩猟採集民、新石器時代農耕民、ヤムナヤ文化祖先系統と関連する新石器時代後の牧畜民)との間で共有される高い浮動を示します。

 次にqpGraphを用いて、フランコ・カンタブリア地域集団と他のヨーロッパ人口集団が古代の標本群とモデル化されました。このモデルは検証された各ヨーロッパ人口集団で適合しました。2つの古代構成要素の推定される混合割合は、これら古代構成要素の予測されるヨーロッパの南北の勾配にしたがって、一般的なヨーロッパ人と比較してバスク人の違いを示しません。さらに、フランコ・カンタブリア地域集団を個々にモデル化すると、これら古代構成要素の割合に関して内部の違いは観察されませんでした。この知見からは、バスク人の遺伝的特異性は、ローマ期とイスラム期における最近の歴史的影響のような、鉄器時代後の人口統計学的過程に依存しているかもしれない、と示唆されます。

 したがって、qpAdm分析により、バスク人の特異性を説明できるかもしれない妥当な鉄器時代後の混合モデルが検証されました。この分析では、バスク人はイベリア半島の鉄器時代標本群でほとんど説明でき(関連記事)、バスク周辺地域に隣接する一部の集団ではローマ帝国期の標本群の影響はひじょうに限定的だった(関連記事)、と示されます(図4)。これらのローマ人関連の割合増加は、対象となる人口集団がフランコ・カンタブリア地域から離れるほど増加します。さらに、フランコ・カンタブリア地域ではアフリカ北部の標本群を考慮したどのモデルでも、有意な結果は観察されませんでした(図4)。全体としてこれらの結果は、バスク人がイベリア半島において最近の歴史的事象の期間に限定的な遺伝子流動を受けたかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図4です。
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●フランコ・カンタブリア地域の地理と相関した遺伝的不均質

 バスク人に関する主要な論争の一つは内部の遺伝的異質性なので、フランコ・カンタブリア地域に焦点を当てた分析で、内部の遺伝的多様性が調べられました。主成分分析では、PC1軸は全てのフランコ・カンタブリア地域集団を遺伝的勾配で分離し、一方の極には全てのバスク人が、もう一方の極にはスペインとフランスの非フランコ・カンタブリア地域人が、その中間にはバスク周辺地域人が位置します(図5A)。PC2軸は、フランコ・カンタブリア地域を東西で分離します。主成分分析では、バスク人集団の顕著な小地理的遺伝的構造とクラスタ化を示します。

 本論文のような小地理的規模での類似の規模と標本抽出密度の外部参照を取得するため、カタルーニャ地域の標本群が本論文のデータセットと比較されました。カタルーニャ人の主成分分析では、バスク人およびバスク周辺地域人との比較であらゆる地理的構造を示さず、バスク人で観察されるクラスタ化は固有であり、標本抽出戦略とは無関係である、と示唆される可能性があります。フランコ・カンタブリア地域とカタルーニャ地域集団間の遺伝的分化を定量化して比較するため、各組み合わせのFST(遺伝的違い)距離が推定され、MDS(多次元尺度構成法)図で示されました。

 この場合でも、フランコ・カンタブリア地域人が明確な内部の分化を示したのに対して、カタルーニャ人は遺伝的構造もしくは極端な内部分化の証拠を示しませんでした。さらに、さまざまな地理的階層で分子分散分析(AMOVA)により地域内で異質性が検証されました。明らかにされた遺伝的分散は小さかったものの、全ての結果は統計的に有意で、フランコ・カンタブリア地域、とくにバスク人集団での内部分化を示します。じっさい、カタルーニャ人での同じ分析は、全ての比較で説明された分散が低くなりました。

 ADMIXTUREを用いてフランコ・カンタブリア地域で行なわれた遺伝的構成要素の分析は、上述の結果を反映しています(図5B)。K=2(交差検定誤差が最良)では、バスク人は主要な構成要素(深緑色)を示し、これはバスク周辺地域集団でもかなりの割合で存在し、外部標本群でもわずかに見られます。K=3および4では、内部の異なる構成要素がバスク人内部で出現します。K=3では、バスク人関連構成要素は西部(紫色)と東部(深緑色)の2つの特定構成要素に分かれます。これらの構成要素は非フランコ・カンタブリア地域標本群ではほとんど示されません。K=4では別の構成要素(濃赤色)が出現し、アラバ県およびその周辺集団で最大化します。したがって、これら4構成要素は、非フランコ・カンタブリア地域(橙色)と東部バスク人関連(深緑色)と中央部バスク人関連(紫色)と西部バスク人関連(濃赤色)にまとめることができます。

 標本間のこれら構成要素の分布は、フランコ・カンタブリア地域における遺伝子と地理との間の相関を証明しています。この相関を検証するため、距離による分離(IBD)分析が行なわれました。マンテル検定がFST値と地理的距離との間で適用され、正の明確な統計的に有意な結果が得られました。次に、空間的に明示的な統計手法であるEEMS(推定された有効移動面)は、バスク地域とバスク周辺地域の間およびその内部の両方で、よく定義された障壁の内部パターンを示しました。じっさい、移動率がより高い回廊のパターンは、標準偏差が重複している集団間で、ADMIXTURE分析と主成分分析で観察された関係を反映しています(図5)。カタルーニャ人標本群で同じ分析が実行され、類似の規模の地域にも関わらず、結果は、マンテル検定に対して有意ではなく負の傾向と、EEMS分析における障壁の欠如を示します。以下は本論文の図5です。
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 最後に、フランコ・カンタブリア地域内の人口集団間の関係を洗練するため、ハプロタイプに基づく手法が適用され、内部の異質性の類似のパターンが観察されました(図3および図6)。fineSTRUCTURE樹状図(図3A・B)では、バスク人クラスタの区別に加えて、フランコ・カンタブリア地域におけるいくつかの内部クラスタがおもに地理および言語と関連して定義できます。一方では、バスク人の分枝において3クラスタが示され(図6A)、その一つは、中央部バスク人クラスタに加えて東部バスク人と西部バスク人のクラスタを含みます。他方では、バスク周辺地域人の分枝で2クラスタが示され(図6A左側)、それは西部および東部バスク周辺地域人クラスタと、外部スペイン人クラスタ内に収まるカンタブリア地域標本群(gCAN)です。

 データセットを削減する分析では、類似のクラスタが観察されます。バスク人で見つかった違いも、NNLS分析で計算された祖先系統特性で示されます(図3Bおよび図6B)。バスク人クラスタはバスク人もしくはバスク周辺地域人構成要素でのみ形成されますが、バスク周辺地域人は外部の祖先系統も示します。バスク人に焦点を当てると、中央部集団がバスク人祖先系統でのみ定義されるのに対して、東部および西部バスク人はバスク周辺地域人祖先系統を25%程度示します。西部バスク人集団におけるスペイン人およびフランス人祖先系統の一部の痕跡にも関わらず、他の外部祖先系統はバスク人では存在せず、外部からの寄与なしにフランコ・カンタブリア地域内でハプロタイプが共有されていることを示唆します。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文の結果は、小さな有効人口規模、ROHの数の多さと長さ、PI_HAT値(図3C)に反映されている継続的な近親交配の証拠とともに、全ての分析においてヨーロッパ人の中でのバスク人の明確な遺伝的特異性を示します。それは、最近の歴史におけるバスク人の遺伝的孤立のパターンを示唆します。対照的に、バスク周辺地域人は、バスク人と外部のスペインおよびフランスの人口集団との間の移行を示し、開かれた人口集団と孤立した人口集団との間の中間事例となります。じっさい、バスク人は非フランコ・カンタブリア地域集団との最近の混合事象の証拠を示しませんが、バスク周辺地域人は少なくとも中世以来の遺伝子流動を示します(図3Bおよび図6B)。

 これらの集団で推測された混合事象は、フランコ・カンタブリア地域関連集団とスペイン関連集団を含む可能性がおり、おもにいわゆるレコンギスタ期とその直後の数世紀にさかのぼります。これは、イベリア半島における領土を維持するためのイスラム軍とキリスト教王国との間の紛争により特徴づけられる長い期間で、718年のコバドンガの戦いから、1492年のグラナダのナスル朝の滅亡によるイベリア半島のイスラム教勢力支配の終焉まで拡大しました。それは、イベリア半島の歴史における複雑な政治的および行政的状況をもたらしたので、これらの結果は、フランコ・カンタブリア地域と特にバスク周辺地域に沿ってこれら数世紀に繰り返された領土再編成の結果を反映しているかもしれません。

 それにも関わらず、本論文の分析は、バスク人の遺伝的独自性は他のイベリア半島人口集団と比較して異なる起源に由来するのではなく、以前の研究で示唆されたように(関連記事)、鉄器時代以降の外部からの遺伝子流動の減少と不定化に起因する可能性がある、という見解を支持します。バスク地域で観察された鉄器時代後の遺伝子流動の勾配は、バスク人特有の遺伝的特性が最近の遺伝子流動の欠如により説明できる可能性を示唆します。

 本論文の分析は、バスク人が周辺地域人口集団と類似のパターンで鉄器時代までのヨーロッパにおける主要な移住の波に影響を受けた、と確証します。当時、バスク人は現在の遺伝的景観で観察されるように、ローマ化やイスラム教勢力の支配など、イベリア半島に影響を及ぼした後の人口移動との混合がひじょうに少ないことにより特徴づけられる、孤立の仮定を経ました(図3B)。これは短いROHと小さな有効人口規模値により証明されるように、それ以前の孤立期間の可能性を排除するわけではありません。短いROHと小さな有効人口規模値はバスク地域における古代の交雑の兆候を裏づけ、それはサルデーニャ島人よりもさらに高く、新石器時代後の孤立が示唆されています。したがって、約1000世代前の外部集団でのみ観察された有効人口規模の増加は、LGMおよびその後の拡大期における氷期の退避地としてのフランコ・カンタブリア地域の役割と関連している可能性があります。

 本論文の結果は、現代バスク人のほとんどにおける鉄器時代からの遺伝的継続性を裏づけますが、バスク中核地域の周辺に位置する集団は、イベリア半島におけるローマ帝国の存在と適合する接触の兆候を示します(図4)。これらの結果は、考古学および歴史的記録と一致します。ローマ帝国の重要な存在はフランコ・カンタブリア地域全体で報告されてきましたが、学者たちは、南部の周辺地域、とくにナファロア県とアラバ県におけるずっと高い影響を示唆しています。それ以外では、アフリカ北部の影響は、イベリア半島南部および北西部の人々が含まれるモデルにのみ適合します(図4)。これは、すでに片親性遺伝標識を用いた研究と、ゲノム規模およびハプロタイプに基づく最近の研究で報告されているように、イスラム教勢力支配期におけるアフリカ北部からの流入者とのイベリア半島の東部および北部の集団との間の遺伝子流動の減少を確証します。

 言語は集団の人口統計学的過程において主要な役割を果たす可能性があり、本論文では、バスク語の驚くべき特性を考えると、バスク地域の民族・言語シナリオは分析の解釈において考慮されるべきです。本論文の結果は、鉄器時代後の大きな遺伝子流動を妨げ、バスク地域の遺伝的概観を形成する主因の一つとしてのバスク語と適合的です。他の研究で以前に示唆されているように(関連記事)、鉄器時代以来のバスク人の遺伝的継続性も、草原地帯祖先系統の拡大はヨーロッパ西部において先インド・ヨーロッパ語族完全には消し去らなかった、という仮説を裏づけます。ローマ人のイベリア半島への到来前には、バスク語はイベリア語るなど他の先インド・ヨーロッパ語族と共存していました。

 本論文の分析で確認されたように(図4)、ローマ人、したがってラテン語との接触は、イベリア半島地中海沿岸地域ではより早くてより強く、その後で大西洋沿岸へと拡大し、フランコ・カンタブリア地域にはその後に到来し、影響はより低くなりました。したがって、ラテン語はローマにより強く支配された強い地域では影響がより大きく、言語の置換が加速したのに対して、バスク語はほとんど影響を受けなかった、と予測されます。ラテン語がイベリア半島の大半で定着すると、バスク語は遺伝子流動の文化的障壁として機能し、バスク人の遺伝的分化と、バスク語における言語的ロマンス諸語基層の低い影響につながったかもしれません。

 地理との正の強い相関とともに、本論文の結果は、バスク人とバスク周辺地域人における明確な内部の異質性を確証します。この異質性では、東西の遺伝的クラスタがフランコ・カンタブリア地域に沿って明らかで、核地域から外部地域への最も密接な集団間のより高い遺伝子流動を伴う遺伝的勾配が示されます。この遺伝的下部構造は、ピレネー山脈により隔てられている、現在のスペインとフランスとの間の南北の山岳および行政的境界よりも複雑です。代わりに、ハプロタイプに基づく手法は、中央部バスク人クラスタに加えて西部および東部バスク人とバスク周辺地域人の遺伝的クラスタを正確に定義でき(図3Bと図5と図6)、古典的な遺伝的指標によるフランコ・カンタブリア地域におけるこのパターンをほとんど示唆しなかった以前の結果を明確にします。

 東部および中央部バスク人が外部供給源集団との明らかな遺伝子流動を示さなかった一方で、西部バスク人クラスタは外部集団とのわずかな遺伝子流動を示します(図3Bと図4と図5と図6)。この遺伝的下部構造は、バスク人とその近隣地域集団との間の歴史的および言語的状況を反映しています。その外部地域から最も遠い場所と関連する歴史に沿って外部供給源集団からの影響がより小さため、バスク中央部の遺伝的構造が最も分化しています。さらに、バスク中央部と東部地域の言語と政治と行政の状況は、歴史時代にはひじょうに安定していました。しかし、バスク西部地域は複雑なシナリオにより特徴づけられ、行政区分の再編成、および周辺のロマンス諸語とおもにスペイン語の強い影響に起因するバスク語の後退と関連しています。

 現代バスク人の遺伝的下部構造におけるバスク語方言の役割を評価することは、より困難です。ほとんどの言語学者は、最も密接な方言間の近い距離を伴う東西の方言の不連続性について合意しています。それらの方言の起源について最も受け入れられている仮説は、中世に出現した、というものです。しかし本論文の結果は、より早期に形成されたかもしれないバスク人内の明確に定義された遺伝的構造を明らかにします。じっさい、先ローマ期の遺伝的下部構造は、すでに片親性遺伝標識に基づいて提案されてきました。したがって、バスク人内の方言の多様化と遺伝的異質性は、共通して地理と相関している可能性があり、言語学的研究においてバスク語方言のより早期の起源を再考する価値があるかもしれません。

 本論文は、新たな観点からバスク人の遺伝的独自性に関する長年の議論を解明し、バスク人の人口史に関する議論の解決に役立つ、より精細で信頼性の高い結論を提供します。これは、ある種の祖型ヨーロッパ人としてのバスク人の立場を裏づける明確な証拠がほとんど存在しなかったとしても、ひじょうに頻繁に推測されるバスク人の遺伝的特徴を解明するのに役立ちます。さらに、いくつかの一連の新たな証拠が考古学と人類学の分野に提示され、さらに調べることができます。本論文の遺伝学的結果は、古代遺跡との人類学および年代とのつながりや、バスク語とその方言を中心とした歴史的および言語的関係を裏づけます。集団の進化と人口史を研究して、それを文脈化し、仮説を検証して結果を解釈するさいには、学際的手法の重要性を強調する必要があります。この意味で、完全かつ対照的で信頼性の高い研究を後押しするために、さまざまな知識分野の統合と共同研究を促進することが重要です。


参考文献:
Flores-Bello A. et al.(2021): Genetic origins, singularity, and heterogeneity of Basques. Current Biology, 31, 10, 2167–2177.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.010

岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』

 小学館より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎の伝記です。渡辺については、学者肌の軍人だったことと、二・二六事件で殺害されたことくらいしか知らず、愛知県出身であることも、子供の頃に母親の実家に養子に入ったことも知りませんでした。厳父と賢母に育てられて鍛えられた渡辺は、養子に入って養父には愛されたものの、養母は渡辺を歓迎しなかったようです。

 渡辺は家業の手伝いのため小学校には満足に通えなかったものの、読書には熱心だったようです。というか、渡辺は子供の頃から向学心が強く、貧しく中学に通えないなか、1894年、優秀な成績で士官学校に合格します。渡辺を見下す役人もいましたが、渡辺を支える身近な人もおり、渡辺は努力家であるだけではなく、子供の頃から人格も優れていたようです。渡辺の士官学校の同期には、林銑十郎がいました。士官学校卒業時の渡辺の成績は206人中4番で、林は15番でした。士官学校8期生ではこの2人が大将まで昇進します。

 渡辺は士官学校卒業後、鯖江に4年間赴任し、その間に陸大に入学し、主席で卒業します。日清戦争が始まった年に士官学校に入学した渡辺は、日露戦争時には大尉に昇進しており、乃木希典司令官の第三軍に属する中隊長として出征します。第三軍は旅順攻防戦で多数の戦死者を出し、渡辺は1904年8月の第一回旅順要塞総攻撃で負傷し、野戦病院へ搬送されます。渡辺の部隊は第9師団に属しており、第9師団は旅順攻防戦で全滅に近い損害を受けたので、渡辺も負傷しなければその後の運命はどうなったか分からない、と本書は指摘します。渡辺は後に日本に送還され、傷が完治した後、大本営陸軍幕僚附、参謀となり、終戦を迎えます。

 日露戦争後、渡辺は山県有朋の副官となります。渡辺は山県に気に入られ、渡辺は山県を尊敬していたようです。細かい山県により、渡辺は終世勉強する習慣を身に着けたのかもしれない、と本書は評価します。軍人として渡辺にとって大きな転機となったのは第一次世界大戦でした。渡辺の最初のヨーロッパ留学先はドイツでした。日本の軍人(の一部)にも大きな衝撃を与えた第一次世界大戦の視察のため、渡辺は1917年にオランダ国公使館付後武官として派遣されます。ドイツではなくオランダなのは、日本とドイツが交戦関係にあったからです。ドイツ降伏後、渡辺は講和条約履行委員としてドイツに入国します。渡辺は1919年4月から約1年ドイツに滞在しました。

 渡辺は第一次世界大戦に大きな衝撃を受け、総力戦となった以上、負けた場合はもちろん勝っても国民は悲惨な目に遭うと考え、非(避)戦のための軍備を主張するようになります。第一次世界大戦を踏まえた渡辺の教訓は、安易な戦線拡大や精神論偏重の不可、情報通信の重視など、多岐にわたっていました。中将昇進後に陸大校長に任命された渡辺は、自身の軍事思想に基づいた教育を進めようとしますが、軍上層部には容れられず、1年も経たずに旭川の師団長に転任となります。渡辺はこの時、退役が近いと覚悟していたようです。

 航空機の重要性に早くから着目していた渡辺は、1929年3月に航空本部長に就任します。渡辺は、空襲の脅威とそれによる国民の動揺を強く懸念していました。国民の動揺は合理的な軍事および政治外交判断を制約し、戦況に悪影響を及ぼしかねない、というわけです。こうした懸念の根底にあるのが、第一次世界大戦により総力戦の時代に突入した、との認識で、それ故に渡辺は、防空には軍民一致が必要と主張します。その後、台湾軍司令官に就任した渡辺は、霧社事件の鎮圧で批判も受けましたが、昭和天皇からは労われたことにたいへん感激したそうです。

 渡辺は台湾から本土に戻った後、再度航空本部長に就任し、1931年8月、大将に昇進します。渡辺が大将に昇進した頃の陸軍には、「革新」を主張して政治的野心を隠さない軍人がおり、この後から二・二六事件にかけて、派閥争いが激化しました。渡辺は政治活動には関わろうとせず、三月事件後に橋本欣五郎からクーデタへの参加を誘われたさいにも、これを一蹴しました。このように陸軍の派閥争いから距離を置いていた渡辺ですが、皇道派の荒木貞夫と真崎甚三郎の専横を苦々しく思っていたようで、同期の林に協力する形で皇道派を陸軍中枢から追いやり、1935年7月、真崎は教育総監の座を追われます。真崎の後任は渡辺でした。こうして林を支えて粛軍に乗り出した渡辺ですが、翌月に林が頼りにしていた永田鉄山は殺害されてしまいます。これは渡辺にとっても大打撃となりましたが、渡辺は永田殺害に怯むことなく、真崎を追及し続けます。これにより、渡辺は「反皇道派」の中心的人物の一人として攻撃対象となります。

 この時期、渡辺に対する批判をさらに強めた原因になったのが、天皇機関説問題でした。渡辺の将校への訓示が、天皇機関説擁護として大問題になりました。しかし、渡辺は天皇機関説についての議論を整理し、軍人は山県有朋のように慎重な態度をとるべきで、本来の職務に専念すべきというものだった、と本書は指摘します。またこの時期、林陸軍大臣の後継として渡辺を推す動きもあり、渡辺は陸軍における権力闘争に関わっていくことになります。渡辺に身の危険を知らせる人は少なくなかったものの、渡辺はすでに死も覚悟していたようです。

 こうして皇道派の主要な標的の一人とされた渡辺は二・二六事件で殺害されましたが、殺されなければ、その後の日本の動向は変わっていた、と評価する人もいます。本書は最後に、渡辺の遺族と渡辺を殺害した遺族との間の交流も取り上げており、考えさせられるところがありました。本書は、さまざまな史料から渡辺の人物像を描写するとともに、渡辺を時代の大きな流れ・構造の中に位置づけており、たいへん興味深く読み進めることができました。本書を読み、渡辺の勤勉さと自律には倣うべきところが多々あるとは思うものの、率直に言って、怠惰な性分の私にはとてもできない、とも思います。情けない話ではありますが。

高畑尚之「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B02「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の現象数理学的モデル構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P27-44)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 現生人類(Homo sapiens)に関する古代ゲノム研究は、大まかにせよ、過去のある時点におけるある地域集団の生物学的特徴、つまり生理学的あるいは形態学的な表現型、移住率や繁殖個体数や交配様式などの人口動態、あるいは祖先の由来つまり祖先系譜(ancestry、当ブログでは最近は「祖先系統」と訳しています)を明らかにしてきました。こうした生物情報には、集団内の個体間の近縁度や社会構造(関連記事)、あるいはグループ間の遺伝的な分化や地理的勾配(関連記事)など、ヒトの行動や文化と密接に関係した情報が含まれます。さらに、完新世の狩猟採集から農耕牧畜社会への移⾏に伴う代謝、免疫および髪や皮膚や目の色に関する変異(関連記事)、酪農社会に適応した乳糖耐性に関わる変異(関連記事)、あるいはグリーンランドのような寒冷地やチベットのような高地での居住に伴う変異(関連記事)どもゲノムに刻まれています。

 しかし、こうした生物情報だけでは現生人類の歴史が語れないのは明らかであり、古代ゲノム研究とは異なる視点からアプローチすることが必要です(関連記事)。当然その主分野は考古学で、古代ゲノム研究とは相補的な関係が期待されます。ゲノムでは決してわからない(骨)考古学の力を示す分かりやすい例は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体です。田園個体の足の指骨は短いものの、それは日常的に靴かブーツを履いていたためと推測されています(関連記事)。またシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)から装飾品と共伴した縫針も同様の文化情報です(関連記事)。ただ、古代⼈の被服に関しては、アタマジラミとコロモジラミの分岐時期を利⽤したユニークなゲノム研究もあります。本論文は以上のような状況を踏まえて、古代ゲノム研究から得られたユーラシア北部の人々に関する知見を整理し、考古学的手法とのさらなる協業への寄与を意図しています。


●古代北ユーラシア人(ANE)

 現生人類の第二次出アフリカは58000年前頃で、レヴァントに長期間逗留したさいにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と交雑し、その後ユーラシアやサフルランドに拡散しました。ただ、この時期やネアンデルタール人との交雑の場所については、議論があります。ユーラシアにおける初期現生人類の代表的集団が古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasians、略してANE)です。現在、世界人口の半数以上が5%以上のANE祖先系統を有しています。中でもシベリア西部のマンシ人(Mansi)やハンティ人(Khanty)では57%にも達します。同様に、シベリア最後の狩猟採集民と呼ばれるエニセイ川流域のケット人(Ket)では、27~43%がANE祖先系統です。

 もともとANE は、ヨーロッパ⼈とアメリカ大陸先住民の共通祖先として、理論的にその存在が予測された集団でした。そのため当初はゴースト(仮定的)集団でしたが、その後すぐ、古代ゲノムから予想通りの存在が明らかになりました(関連記事)。これがバイカル湖に近いマリタ(Mal’ta)遺跡から出⼟した少年個体(MA-1)です。現時点では、MA-1 のゲノムは充分な精度(網羅率1倍以上)では解読されていません。その重要性を考えると、さらに高精度の配列データが望まれます。MA-1 に代表されるANE は、31600年前頃となるシベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の2個体(ヤナ1およびヤナ2)とともに、シベリア中央部から東部に存在していた古代北ユーラシア集団を形成します(関連記事)。

 ANE とヤナ1およびヤナ2に代表されるANS(古代北シベリア人)はクレード(単系統群)を形成し、ヨーロッパ集団(EUR)とは4万年以上前に分岐しました。45000年前頃から最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)にかけて、バイカル湖を中心とした地域にはANEが連続的に居住していました。この連続性はエニセイ川流域のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の17000年前頃の個体に基づきますが、最近の研究ではバイカル地域におけるウスチキャフタ3(Ust-Kyahta-3)遺跡などの新石器時代初期の集団でも確認されています(関連記事)。


●アジア東部集団

 MA-1は24000年前頃のANE個体ですが、アジア東部人(EAS)の祖先系統を17%ほど有しており、すでにアジア東部人系統との交雑が起きていた、と示されます。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された人類の頭蓋冠は放射性炭素年代測定法により較正年代で34950~33900年前と推定され、そのミトコンドリアDNA(mtDNA)はユーラシア現代人集団で広範に存在するハプログループ(mtHg)Nに分類される、と示されました(関連記事)。サルキート個体は、その祖先系統の約2/3がEAS、残りの約1/3がANSまたはANEです(関連記事)。このようにアジア東部には上部旧石器時代からEAS が居住しており、既知の最古の個体は4万年前頃の田園遺骸です。

 EAS のゲノムには、例外なく2種類の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)由来のゲノム領域(本論文ではD0・D2と表記)のどちらか、あるいは両⽅が合わせて0.1%以上浸透しており(関連記事)、田園個体では0.13%、サルキート個体では0.12%です。ネアンデルタール人と同様に、デニソワ人の場合も交雑の場所が現生人類の拡散経路を推測するうえで有効です。D2は45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のオビ川支流のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体(関連記事)を除き、全てのユーラシア東部集団に浸透していることから、交雑の場所はアジア南東部近辺で現生人類拡散の早期に起きた可能性が高そうです。これは、EAS がいわゆる南回り経路でアジア南東部から北上したことを強く示唆します。

 一方、D0の浸透が起きた交雑場所は推測しにくく、D0はD2やメラネシア⼈に特異的に浸透しているD1と比較してデニソワ洞窟の個体(デニソワ3)のゲノムに最も近いことから、ANE の拡散途中にアルタイ地方で交雑が起きた、と想定されました(関連記事)。しかし、MA-1 やヤナ1および2に浸透したデニソワ人のゲノム量がわずか0.04~0.06%であることや、0.2 cM (センチモルガン)以上の⻑さをもつデニソワ人ゲノム断片数が田園個体やサルキート個体では18~20 個であるのに対してMA-1 やヤナ1および2では3~6 個と少数であることは、交雑がアジア東部で起きANE には間接的に伝わった可能性が高そうです。じっさい、中華人民共和国内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、現在の中国北部にネアンデルタール人もしくはデニソワ人との交雑集団が居住していた可能性も指摘されています(関連記事)。

 チベット⼈の高地適応に関係したEPAS1 遺伝子はデニソワ人由来と考えられます(関連記事)。しかしこのデニソワ人は、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で出⼟した16万年以上前の下顎骨(関連記事)や土壌から得られた4タイプのmtDNA(関連記事)とは直接的な関係がありません。チベット人に高頻度で見られる高地適応型EPAS1遺伝子は、現在の中国となるアジア東部低地から後期更新世もしくは早期完新世に移住してきた集団に由来し、D0タイプと推測されています(関連記事)。43000 年前頃にデニソワ人との交雑が起き低い頻度で維持されていたものが、12000 年ほど前からチベット人(の祖先集団)の間で頻度を増した、というわけです。その交雑の場所は、現在でも中国人にEPAS1 遺伝子を有する⼈がいることや、農耕が黄河流域で始まりオルドス地方からチベットへ農耕民の拡散があったことなどから、現在の中国北部かもしれません。ともかく、D0 に関係した交雑場所の他に、田園個体、サルキート個体、MA-1、ヤナ1および2に、D0とD2がどのような割合で浸透しているのか、今後の研究が注目されます。

 古代のユーラシア北部で注目される不可解な知見は、中国の田園個体とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)の間でさえ、遺伝子交流の兆候があることです。4万年前以前のユーラシア大陸を横断する交流には、ANEやウスチイシム集団が何らかの中継的な役割を果たした可能性があります(この問題については本論文刊行後に重要な研究が公表されたので後述します)。さまざまなユーラシア北部集団の遺伝的な繋がりに関する主成分分析の結果(図2)では、集団の連続的な分布が見られくす。⼤半の集団は、右下のクラスタとなっているアジア東部集団からWHG(ヨーロッパ西部狩猟採集民)、マリタ/EHG(ヨーロッパ東部狩猟採集民)、FAM(最初のアメリカ人、First Americans)の3頂点に向かって分布しています。

 華北からアムール川盆地さらにヤクーツクやコルイマに至るまで、アジア東部集団の拡大は初期の拡散以降も引き続き起きたようです。その中には田園個体に近縁な集団もおり、現在はアンダマン諸島に孤⽴しているオンゲ人に近縁な集団(ユーラシア東部基層集団)もいました。それらの集団と古代ユーラシア北部集団との間で3万年前以前から平均2対1の割合で交雑が起きました。しかし上述のように、ヤナ1および2個体に代表されるANSは、この交雑に直接関与しておらず、直接関与したのはANE です。交雑集団はかなり多様で、たとえば、シベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の9800年前頃となる個体(Kolyma1)や、14000年前頃となるロシアのブリヤートの14000年前頃の個体(UKY001)もこうした交雑の結果形成された集団に属しますが、ベーリンジア(ベーリング陸橋)を渡りアメリカ大陸先住⺠とはなりませんでした(関連記事)。

 これに対して田園個体やオンゲ人由来の交雑集団は、他集団とともに「最初のアメリカ人(FAM)」となりました。この集団の特異な祖先系統はFAM の中でも際⽴っています。そのためこの集団はYと呼ばれていますが、その祖先系統はアマゾンの先住⺠であるカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)に集中しています(この問題については本論文刊行後に重要な研究が公表されたので後述します)。いずれにしてもANE 祖先系統は南北アメリカ⼤陸に拡散したので、⽂化の伝搬もあったと考えられます。たとえば、ANEの発明と思われる細⽯刃(microblade)は北アメリカ大陸にも伝わっています。ただ、その分布は現在のカナダ以南では稀です。細石刃を使用しなくなったか、そもそもFAM の⼀部集団はこの⽂化を有していなかった可能性すらあります。

 ANEとEASの交雑の年代場所、そのような集団がベーリンジアに逗留した期間、アメリカ大陸への拡散時期と移動経路など、さまざまな研究が進んでいますが、本論文では以下の3点が取り上げられます。第一に、移動経路の候補として、現在のカナダのアルバータ州を南北に縦断する無氷廻廊に関する研究があります。かつての無氷回廊の周辺地域にはアサバスカン人々が居住していますが、1500kmに及ぶこの回廊に植⽣が回復して人の移動が可能になったのは12600年前です。この推定年代は14000年前以前にさかのぼるチリのモンテヴェルデ(Monte Verde)遺跡や先クローヴィス(Clovis)文化よりはずっと後のことで、過小評価の可能性もありますが、FAMのアメリカ⼤陸における初期拡散(16000年前頃)は無氷回廊とは別の北西太平洋沿岸と考えられます。

 第二に、FAMは11500年前頃の中央アラスカのアップウォードサン川遺跡(the Upward Sun River Site)で発見された幼児個体(USR1)ではなく、集団Yを含む南アメリカ大陸先住民だったかもしれません。こうした研究では、レナ川流域やアムール川流域が交雑の候補地であり、逗留地もベーリンジア東部ではなく、シベリア北東部と推測されています。第三に、ANE祖先系統は、12000年前頃となる中華人民共和国吉林省の関鍵詞為(Houtaomuga)遺跡出⼟の個体や、現代日本人および韓国人とも近縁な7700年前頃となる朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域に位置する新石器時代の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡個体群(関連記事)には及んでいません。とくに「悪魔の門」遺跡個体群はアムール川盆地の人々とも連続性を有しており、目は褐色、シャベル状切歯、乳糖不耐などの典型的なアジア表現型を示します。それにも関わらず、細石刃はLGM期にこれらの極東地域で盛⾏しており、文化と生物的なヒトが乖離する例です。


●古代ユーラシア北部集団のLGM 後の大移動と拡大

 LGM 後には、EAS の西方への拡大、あるいはヨーロッパの氷河の後退につれて、ANE もシベリア西部(ウラル山脈とエニセイ川の間の地域)、さらにはウラル山脈を越えてヨーロッパ東部平原へと移動しました。青銅器時代以降のユーラシア草原地帯の人々に関する古代ゲノム研究では、ANEがEHGの直接の祖先とされています。11250年前頃となるロシアのセデルキーノ個体はEHGの直系です。EHGはコーカサス狩猟採集民(CHG)と交雑し、青銅器時代になって牧畜民ヤムナヤ(Yamnaya)文化を形成します(関連記事)。ヤムナヤ文化関連集団は、アナトリア半島から移住してきた農耕民と在地の狩猟採集民が居住するヨーロッパへと多数が拡散して交雑し、ヨーロッパ現代人を形成する三大祖先系統の⼀つとなりました(関連記事)。

 その後もヤムナヤ文化関連祖先系統はユーラシア草原地帯を東に南に移動・拡大し続けました(関連記事1および関連記事2)。ケット人のANE祖先系統は、この頃のアルタイ地方(オクニボ⽂化)で獲得した、と指摘されています。こうした広範な移動の結果、現在世界人口の半数以上が5%以上のANE 祖先系統を有している、と推測されています。青銅器や鉄器が最初に作られたのも、馬の家畜化が始まり戦車(チャリオット)が発明されたのもユーラシア草原地帯です。完新世には人類史に絶大な影響を及ぼした多様な集団が、この草原地帯で興亡を繰り広げましたが、その歴史は上部旧石器時代から居住したユーラシア北部の人々の生物的・文化的遺産に依拠したものでした(図3)。


●まとめ

 今後の古代ゲノム研究では、シベリアとモンゴルと中国北部が焦点になると思われます。ユーラシア草原地帯とツンドラ・タイガは、上部旧石器時代以降における東西ユーラシア集団の分化と融合の地です。集団の移動や置換が激しい地域ほどその時点に近い古代ゲノムを必要としますが、これまでの古代ゲノム研究は数千年前程度の比較的新しい標本でも、予想外の出来事を明らかにしてきました。そうした生物情報がパレオアジアの⽂化史を理解する⼀層の助けになる、と期待されます。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、近年の古代ゲノム研究を整理するとともに、7000年以上前の現生人類のゲノム一覧を掲載しており、たいへん有益だと思います。近年における古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、本論文の刊行(もしくは脱稿)後にも重要な研究が相次いで公表されています。本論文で不可解とされた、北京近郊の4万年前頃の田園個体とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)との間の遺伝子交流の兆候については、重要な進展がありました(関連記事)。その研究によると、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された44640~42700年前頃の現生人類個体群は、遺伝的にはユーラシア西部現代人集団よりも現代のアジア東部・中央部およびアメリカ大陸先住民集団の方と近縁で、Goyet Q116-1とも密接な遺伝的関係を有している、と明らかになりました。45000年前頃のヨーロッパ東部には、アジア東部現代人の直接的な集団と遺伝的に密接な関係にある集団が存在し(バチョキロ洞窟集団がアジア東部現代人の直接的な祖先集団の一部だった可能性も低いながら想定されますが)、その集団(と遺伝的に近縁な集団)が後の更新世ヨーロッパ西部集団にも一定の影響を及ぼしていた、というわけです。これにより、田園個体とGoyet Q116-1との遺伝的近縁性については、かなり解明が進んだと思います。

 アマゾン地域先住民集団における「Y集団」の遺伝的影響については、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることが示されました(関連記事)。Y集団は遺伝的にオーストラレシア人と密接に関連しており、Y集団の遺伝的影響が南アメリカ大陸太平洋沿岸先住民集団にどのようにもたらされたのか、現時点では不明です。最近のアジア東部における古代DNA研究(関連記事)では、Y集団祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、とも考えられますが、現時点ではまだ不明な点が多いので、今後の研究、とくに古代ゲノム研究の進展が期待されます。


参考文献:
高畑尚之(2021)「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)』P27-44

北アメリカ大陸における白亜紀のカメの存在

 北アメリカ大陸における白亜紀のカメの存在を報告した研究(Adrian et al., 2021)が公表されました。この研究は、アメリカ合衆国テキサス州ウッドバイン層のアーリントン化石主竜類遺跡で発見された曲頸亜目のカメの化石を報告しています。曲頸亜目のカメは、脅威を感じると、首を横に曲げて甲羅に収納します。この研究は、ギリシア語のPleuro(横)、カドー語のCha'yah(カメ)、北アメリカ大陸のアパラチア地方にちなんで、この化石を新種「Pleurochayah appalachius」と命名しました。

 この化石の年代は後期白亜紀となるセノマニアン期(1億~9400万年前頃)前期~中期で、これまで北アメリカ大陸最古の曲頸亜目のカメとされていたアメリカ合衆国ユタ州で発見されたセノマニアン期後期とされる化石(Paiutemys tibert)よりも古く、北アメリカ大陸で最古の曲頸亜目のカメとなります。本論文は、この新種の曲頸亜目のカメが海洋環境での生活に適応していた可能性を指摘し、その根拠としてさまざまな特徴を示しています。たとえば、肩関節の一部を形成している上腕骨端部の頑強な骨性突起は、遊泳時にストロークの力を高めた可能性があり、甲羅の骨の分厚い外表面は、甲羅の強度を高め、海洋環境での生息を保護していた、と推測されます。

 また、カメ種間の進化的関係も分析され、この新種の曲頸亜目のカメが、1億4500万~1億年前頃にゴンドワナ超大陸で出現した曲頸亜目であるボトレミス科の初期種だった、と示唆されました。本論文は、こうした知見との新種の曲頸亜目のカメが海洋環境に適応していたことを根拠として、ボトレミス科の初期種が、セノマニアン期あるいはそれ以前にゴンドワナ超大陸から大西洋中央部またはカリブ海を経由して北アメリカ大陸に移動した、と推測しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:米国テキサス州で発見された古代のカメの化石がもたらす進化の新知見

 最古の曲頸亜目(Pleurodira)の北米種が発見されたことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。曲頸亜目のカメは、脅威を感じると、首を横に曲げて甲羅に収納することが知られている。今回の知見は、曲頸亜目のカメがセノマニアン時代(1億~9400万年前)に北米に移動した可能性を示唆している。

 Brent Adrianたちの研究チームは、ギリシャ語のPleuro(横)、カドー語のCha'yah(カメ)、北米のアパラチア地方にちなんで、この最古の北米種をPleurochayah appalachiusと命名した。P. appalachiusの化石は、米国テキサス州のウッドバイン層のアーリントン化石主竜類遺跡で発見され、セノマニアン期前期~中期のものとされた。これは、ユタ州で発掘されたPaiutemys tibertの化石よりも古い。Paiutemys tibertは、セノマニアン期後期のものと年代測定されて、これまで最古の曲頸亜目の北米種と考えられていた。Adrianたちは、P. appalachiusが海洋環境での生活に適応していた可能性があると考えており、それを示唆する数々の特徴を報告している。例えば、肩関節の一部を形成している上腕骨端部の頑強な骨性突起は、遊泳時にストロークの力を高めた可能性があり、甲羅の骨の分厚い外表面は、甲羅の強度を高め、海洋環境に生息するP. appalachiusを保護していたと考えられる。

 また、カメ種間の進化的関係の分析も行われ、P. appalachiusが1億4500万~1億年前にゴンドワナ超大陸で出現した曲頸亜目であるボトレミス科の初期種であったことが示唆された。Adrianたちは、こうした知見とP. appalachiusが海洋環境に適応していたことを根拠として、ボトレミス科の初期種が、セノマニアン時代あるいはそれ以前にゴンドワナ超大陸から大西洋中央部またはカリブ海を経由して北米に移動したという仮説を提示している。



参考文献:
Adrian B. et al.(2021): An early bothremydid from the Arlington Archosaur Site of Texas. Scientific Reports, 11, 9555.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-88905-1

現生人類アフリカ南部起源説に対する批判

 現生人類(Homo sapiens)アフリカ南部起源説に対する批判(Schlebusch et al., 2021)が公表されました。一昨年(2019年)、現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析から、現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張した研究(Chan et al., 2019)が公表されました(以下、Chan論文)。Chan論文に対して厳しい批判があることは、当ブログで取り上げたさいにもいくつか紹介しましたが(関連記事)、いずれも短いものでした。本論文はChan論文に対する体系的批判で、学ぶところが多いため、取り上げます。

 「アフリカ南部の古湿地におけるヒトの起源と最初の移動」と題したChan論文は、198点の新規のミトコンドリアゲノムを報告し、「解剖学的現代人」の起源は20万年前頃のアフリカ南部の現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ・オカバンゴ(Makgadikgadi–Okavango)古湿地にある、と推測しました。この主張は情報量の少ないデータに依存しています。欠陥のある論理と疑わしい仮定に加えて、著者たちは驚くべきことに最近のデータ(関連記事1および関連記事2)を無視し、アフリカにおけるヒトの起源について議論しています。結果として、Chan論文の強調されており遠大な結論は正当化されません。


●情報量の少ないデータ

 Chan論文は南アフリカ共和国の198個体の完全なミトコンドリアゲノムを配列し、おもにアフリカ南部の既知の1000個体のミトコンドリアゲノムと統合しました。Chan論文は次に、mtDNA系統の系統発生構造を推測し、その系統樹のさまざまな枝の年代を推定して、現代の地理的分布を検討しました。mtDNAは特定の人口史の問題に取り組むのに有用であり、標本数の少ない人口集団に注目するのはよいことですが、mtDNAのような単一の組換えのない遺伝子座における系統樹は、人口史に弱く制約されるだけの、強く確率的な系統発生過程の一つの結果です。じっさい、これは、その人口史に関する有用ではあるものの限定的な情報が含まれることを意味します。

 とくに、現代人の標本がいかに多く含まれていても、過去を振り返ると情報は急速に減少します。Chan論文がその分析の焦点を当てた系統樹の一部である、全てのmtDNA系統がその最新の共通祖先に合着(合祖)する時点の近くでは、mtDNA系統は現代人がその時点で有している数十万人の祖先のごく一部を表しているにすぎないので、人口史の妥当なモデルを区別するための情報は殆どもしくは全く提供されません。別のよく解明された単一遺伝子座系統樹であるY染色体を検討するならば、異なる系統地理構造が明らかです(関連記事)。

 現代の集団遺伝学的手法は、数十万の独立した遺伝子系統樹(全ゲノム配列およびゲノム規模一塩基多型遺伝子型決定から得られます)を利用し、数桁の統計的出力を得ています。各系統樹は人口史により弱く制約されますが、確率論的手法と多くの系統樹の組み合わせにより、さまざまな人口統計学的シナリオの可能性を定量化できます。しかし、問題となる期間からの情報をもたらす古代DNAデータがない場合、現生人類の起源の正確な場所に関する推測は、その間のヒトの移動性についての強力でおそらくは不当な仮定が必要となるので、注意して扱う必要があります。現代および完新世のアフリカ人口集団のゲノム規模研究は、深い構造と経時的な移住率の変化など、複雑な人口統計を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。しかし、はるかに多くの情報量にも関わらず、Chan論文ほど現生人類の起源について時空間的正確性を正当化できるゲノム規模研究はありません。


●系統は人口集団ではありません

 mtDNA系統樹とその分岐点の年代を推定するのに用いられる手法は比較的議論の余地がありませんが、分枝をハプログループに割り当てる自然な水準はなく、任意に定義されたハプログループの年代に特別な意味はない、と注意することが重要です。Chan論文は系統を都合よく用いて、先史時代の実際の人口集団を表すものとして扱います。遺伝子系統樹における系統は親子の子孫の系統に対応し、系統樹における各分節点は2系統の最新の共通祖先(MRCA)に対応します。そのような系統は明らかに現在の人口集団に対応しておらず、それらが過去に存在したと仮定する理由はほとんどありません。代わりに、複数の異なる系統は通常、多くの異なる人口集団間で共有され、共有の程度は人口史により形成される無作為な仮定の結果です。mtDNA系統樹における分岐年代が人口集団水準の分岐事象に直接的に対応している、と仮定する理由もほとんどありません。代わりに、系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差があります。

 またChan論文は、ベイズスカイライン分析を任意に選択した系統に適用し、経時的な祖先の人口規模の変化を推測しました。これは、ベイズスカイライン分析の重要な仮定を破る標本抽出の偏りを課し(つまり、データはモデルで仮定された構造化されていない人口集団標本ではなく、系統標本に由来します)、経時的な人口規模の再構築を無効にします。Chan論文は2つの研究を引用して、この手法の使用を正当化します。しかし、そのうち新しい方は、この問題に関して古い方を引用しているだけで、どちらの研究も、ベイズスカイライン分析が「それにも関わらず、人口統計学的過程を示す可能性がある」と述べているだけで、この主張の理論的検証を提供していません。その結果、Chan論文は信頼できる正当な理由なく、この誤りを繰り返しています。


●人口集団は静的ではありません

 現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題は、人口史が起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」がどの程度だったのか、ということです。Chan論文は、現代の個体群の場所が過去の人口集団の場所を表している、という暗黙の仮定に基づいています。10万年以上前にわたる性的な人口集団との仮定は、考古学と古代DNA研究の両方で充分に説明されている長距離および短距離の移動、人口集団の縮小と拡大と置換の観点から問題で、こうした事象はユーラシアやアメリカ大陸やオセアニアだけではなく、上述の現代および完新世のアフリカ人口集団のゲノム規模研究でも示されているように、アフリカでも起きています。

 静的な人口集団との仮定は、考古学と化石と理想的には古代DNAの証拠により裏づけられる必要があるでしょう。現在まで、そうした証拠はアフリカのどこでも長い期間にわたって提示されていません。それどころか、原材料の輸送の研究は、更新世狩猟採集民間の高水準の移動性を示しており(関連記事)、10万年以上前の期間にわたる孤立した人口集団との見解と対立します。この問題は、たとえばmtDNAのような単一の遺伝子座データ、もしくはより強力な情報を提供する複数の遺伝子座のゲノムデータが考慮されているかどうかに関係なく、残ります。


●古人類学

 Chan論文は、「解剖学的現代人」がアフリカ南部のマカディカディ・オカバンゴ古湿地で20万年前頃に進化した、と結論づけています。しかし、アフリカ全域からの化石人類データは、現生人類に特徴的な形態が30万年以上前にアフリカ大陸の反対側(アフリカ北西部)に存在したことを示唆します(関連記事)。現生人類の形態の進化は、時空間にわたってさまざまな派生的および祖先的特徴の斑状により特徴づけられ、これらのデータは単一の起源地点を示唆していません(関連記事1および関連記事2)。Chan論文は、10万~6万年前頃のアフリカ南部の「現代人的行動」の考古学的証拠を用いて、アフリカ南部における10万年以上前の現生人類の起源との主張を裏づけます。しかし、複雑な文化の証拠はこの期間にアフリカの他地域でも見つかっています(関連記事)。まとめると、現在の古人類学的データは、アフリカの単一地域が現代人の「故郷」だった、という主張を裏づけていません。


●気候の再構築

 気候の再構築を用いて遺伝的データに基づく推論を文脈化することは、賞賛すべき目的です。しかし、Chan論文は湿地が安定的な環境だったと主張するものの、湿地が古代の人類に適した生態系を提供しているという証拠を示さず、アフリカの他の古湿地を考慮していません。これらの問題に対処せずに、どのタイプの気候再構築が現生人類の起源モデルの検証を提供できるのか、理解することは困難です。草地やサバンナや地中海性生物群系のような他の生態系は、長く現生人類が居住していたので、長期の現生人類の居住に明らかに適していました(関連記事)。

 同様に妥当な代替仮説は、半砂漠条件はヒトに適した生息地であり、それは季節・年間の時間枠で気候が大きく変動するからだった、というものです。Chan論文が採用した気候モデルは、そうした特徴をよく把握していません。現生人類の起源と関連する期間の、アフリカの古気候および古人類学的データの概要が存在します。気候と人口統計との間の関係は、アフリカ全域の他の関連データを無視する事後説明よりもむしろ、空間的に明示的なモデル化を通じて最もよく調査されます。


●まとめ

 人類進化の研究では確かに一般的ですが、Chan論文のとくに厄介な側面は、Chan論文が主張する単純なモデルや、あるいは同等に複雑ではあるものの大きく異なるモデル、たとえばアフリカの別の場所の現生人類起源や、もしくはアフリカ全域の複数地域起源よりも、単純なモデルによりデータがどのように説明できるのか、定量化する試みが行なわれていないことです。1919年の生物標識を用いた最初の研究では、単一の遺伝子座(ABO式血液型)で世界中のさまざまな人口集団が分類されました。この研究は革命的でしたが、2つの祖先の「人種」があり、それはA型とB型に対応しており、2つの異なる地理的起源は後に世界的に混合した、と結論づけました。集団遺伝学やゲノミクスや考古学や古人類学のその後の発展により、ひじょうに異なっていてより複雑な状況が明らかになりました。しかし、限定的なデータと問題のある仮定に基づいて結論を出す危険性は、現在でも同様に指摘されています。そうした研究は、メディアや科学界で注目することが予想され、単純ではあるものの疑問のある結果が発表されるので、ヒトの起源に関する科学やそのより広範な普及に貢献しません。


参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Schlebusch CM. et al.(2021): Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374

ルーマニアの34000年前頃となる現生人類女性のゲノム解析

 ルーマニアの34000年前頃となる現生人類(Homo sapiens)女性のゲノム解析結果を報告した研究(Svensson et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパでは45000年前頃以降の上部旧石器時代は劇的な気候変化により特徴づけられ、ヨーロッパにおける解剖学的現代人(Homo sapiens、現生人類)の最初の出現を示します(関連記事1および関連記事2)。ヨーロッパへの人類の移住は、地中海沿いとドナウ川回廊沿いの主要な2経路が用いられた、と一般的に考えられています。

 現在のルーマニアのカルパティア山脈はドナウ川回廊沿い経路の近くに位置し、ヨーロッパ最初期の現生人類遺骸の一部はこの地域で見つかっており、カルパティア山脈がヨーロッパの初期現生人類にとって重要な地域だったことを確証します。「骨の洞窟(Peştera cu Oase、以下PO)」や「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」やチオクロヴィナ・ウスカタ洞窟(Peștera Cioclovina Uscată、以下PCU)などルーマニア南部~西部の洞窟で発掘された人類遺骸(関連記事)は、これまでに発見されたわずかな3万年以上前のヨーロッパの現生人類個体群の一部です(図1)。

 1952年、現生人類3個体分の骨格部分がルーマニアのPMで発見されましたが、一部の要素はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)的特徴を示します(関連記事)。状況はやや不明確ですが、近くのオーリナシアン(Aurignacian)の道具から、これら人類遺骸はオーリナシアン技術伝統と関連している可能性が高そうです。前期上部旧石器時代(EUP)には、物質文化におけるいくつかの変化が報告されてきており、遺伝的証拠は人口集団変化の繰り返しを示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図1です。
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 現生人類の起源がアフリカにあり、その後のアフリカからの移住で世界の他地域に居住していったことを解明したのは分子遺伝学の重要な成果で(関連記事)、化石記録からの仮説を裏づけます。現代におけるサハラ砂漠以南のアフリカ人と非アフリカ人との間の遺伝的多様性の観察された違いは、比較的小規模の出アフリカ集団による移住と関連したボトルネック(瓶首効果)により説明されてきました(関連記事1および関連記事2)。アフリカ系現代人と比較しての非アフリカ系現代人の低い遺伝的多様性は、有害な多様体の効果的除去の低下を起こし、たとえばアフリカ系現代人と比較して現代ヨーロッパ人において「遺伝的負荷」の増加をもたらした、とも提案されてきました(関連記事)。しかし、有効人口規模の減少は遺伝的負荷の増大を引き起こすほどではなかった、との主張もあります。

 本論文は、較正年代で34000年前頃となるPMで発見された現生人類女性の頭蓋(PM1)のゲノム分析結果を報告します。いくつかの他の完全なEUP期ヨーロッパ人のゲノムデータと合わせて、EUPヨーロッパにおける比較的高い遺伝的多様性の状況が示され、この多様性は24000~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)およびその後に減少し、ヨーロッパへの遺伝的に多様な新石器時代集団の移住(および混合)後にのみ回復します。本論文はさらに、免疫系遺伝子への病原体選択圧を調べ、EUPヨーロッパ人のゲノムにおける医学的に関連する多様体の景観を報告し、現代ヨーロッパ人口集団と類似した有害な多様体負荷を示します。


●新たな手法によるDNA解析

 DNAの保存はEUPの標本では一般的に不充分なので、データからの推論を制約します。これまで、網羅率が1倍を超えるゲノムは、EUPでは4遺跡の8個体で得られています。それは、44380年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された1個体(関連記事)と、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された38700~36200年前頃となる若い男性1個体(関連記事)と、31600年前頃となるシベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の2個体(関連記事)と、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡で発見された、34000年前頃の4個体(関連記事)です。PM1は9番目となる網羅率1倍以上のEUP個体です。

 PM1の4本の歯からDNAが抽出され、内在性DNAの割合は約1~2%で(図2)、この年代およびヨーロッパの以前の観察と類似しています。これまでの手法では、予測されるゲノム網羅率は約0.5倍ですが、新たな手法(標本抽出装置の熱から標本を保護するダイヤモンドカッティングホイールなど)を用いると、これまでの手法と比較して内在性DNAの割合が増加し、最大で33倍に増加します。その結果、PM1では13.49倍のゲノム網羅率が得られました。以下は本論文の図2です。
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 PM1のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)については、U6系統の基底部に近いとの以前の研究(関連記事)が改めて確認され、PM1は先史時代ヨーロッパ人における現時点で唯一のmtHg-U6個体となります。mtHg-U6の派生ハプロタイプは先史時代および現代のアフリカ北部人口集団でおもに見られますが、現代ヨーロッパ人では見られません。完新世およびそれ以前かもしれませんが、ユーラシアからアフリカ北部への移住の証拠は充分あり(関連記事)、この観察を説明できる可能性があります。f4統計は、PM1と洗練された石の鏃や尖頭器を用いる文化であるイベロモーラシアン(Iberomaurusian)狩猟採集民(関連記事)との間でアレル(対立遺伝子)が過剰に共有される証拠を示しません。


●ネアンデルタール人との混合

 PM1は現生人類とネアンデルタール人の両方と関連する形態的特徴のモザイク状を示すと示唆されており(関連記事)、そのゲノムは同じ年代枠の他のEUP現生人類遺骸と比較してネアンデルタール人との類似した混合水準(3.1%)を示し、現代ヨーロッパ人(2.2~2.7%)と比較してわずかに高いだけです(関連記事)。さらに、PM1のゲノムにはLGM後の個体群と比較して少ないもののより長いネアンデルタール人由来の断片があり、より古いウスチイシム個体よりも多いものの短い断片がある、と明らかになりました。この観察結果は、これらの個体の祖先における単一のネアンデルタール人からの遺伝子移入事象と一致します。

 現代のルーマニアで発見されたPOの4万年前頃の下顎(個体PO1)も異なるパターンを示し、その4~6世代前にネアンデルタール人の祖先がおり、ゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は6~9%と推定されています(関連記事)。したがって、PM1とPO1は、古代型の形態的特徴を有すると示唆されてきた事実にも関わらず、明らかに異なるネアンデルタール人との混合水準および歴史を示します。PM1はEUPユーラシアの他の個体群と類似した色素沈着と関連する既知の一塩基多型祖先的多様体を有しており、皮膚の色素沈着は比較的濃く、茶色の目をしていた可能性が高そうです。


●PM1と他のEUP個体群およびヨーロッパ現代人との関係

 上述のように、EUPユーラシアでは人口集団変化の繰り返しが指摘されており、45000~30000年前頃にはいくつかの遺伝的に異なる狩猟採集民集団の共存の可能性が高く、後の石器時代集団や現代の人口集団との関係は異なっています。考古ゲノム研究により、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)や上述のロシアのスンギール遺跡(スンギール3)およびコステンキ14遺跡の個体といったヨーロッパの狩猟採集民と、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)に代表されるアジア東部の狩猟採集民とのEUPの時点での分離が明らかになってきましたが、上述のウスチイシム個体やPO1のように、ユーラシア現代人には遺伝的に直接的には寄与していない、と推測されている集団の遺伝的データも存在します。

 遺伝的に、PM1は同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが(図3)、より古いウスチイシム個体やPO1とは、とくにPO1とは地理的に近いにも関わらず、その変異内に収まりません。スンギール3やコステンキ14やPM1といったEUP個体群間の遺伝的類似性は、2000kmに及ぶ地理的範囲によたって広範な遺伝的類似性を示し、階層構造は地理よりも時間に起因する、と示唆されます。混合グラフとして関係をモデル化すると、PM1は遺伝的にヨーロッパ東西の狩猟採集民の中間に位置し、ヨーロッパ現代人に寄与した後の狩猟採集民とは遠い関係を示します(図3)。PM1は全ての現代ヨーロッパ人口集団と同様の遺伝的類似性を示しますが、かなり固有の遺伝的浮動も示しており、ヨーロッパ現代人の祖先の側枝だった集団を表している、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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●遺伝的多様性の比較

 網羅率の高い古代ゲノムが利用できるので、これらさまざまな集団と期間の遺伝的多様性の偏りのない推定が可能となります。興味深いことに、ヘテロ接合性はLGM前にはLGM後の狩猟採集民よりも有意に高い、と示されました(図4A)。LGMにおける多様性の同様の喪失は、mtHgでも見られました。現代のアフリカとアフリカ外の人口集団間のほとんどの多様性低下は、出アフリカ移住と関連する(単一もしくは複数の)ボトルネックに起因しますが、ヨーロッパにおける経時的な遺伝的多様性(図4)は、その後の気候および人口統計学的事象の影響と重要性を示します。

 まず、多様性の低下は出アフリカ移住だけが原因ではない、と結論づけられます。むしろヨーロッパで見られるように、低い多様性は人口集団の入れ替わりを伴う拡大期間におけるアフリカ外の低い人口密度に起因するようです。次に、LGM後のヨーロッパには、比較的小規模な狩猟採集民集団が1ヶ所もしくはわずか数ヶ所の氷期の退避地から再移動してきた、という可能性が高そうで、農耕と関連する後の大規模な移住によりLGM前の水準に近い遺伝的多様性の増加がもたらされました。

 ヘテロ接合性に加えて、高網羅率のゲノム配列を有する古代および現代の個体群における、ROH(runs of homozygosity)とも呼ばれるホモ接合状態の隣接するゲノム領域が評価されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 ROHは同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)の証拠とみなすことができ、個体の最近の人口史の反映に用いられます。ROHはLGM前の狩猟採集民がおそらくは親族間の配偶を回避する社会的行動をとっていた、と示すのに用いられてきました(関連記事)。

 部位ごとのヘテロ接合性と一致して、ROHはLGM後の狩猟採集民よりもLGM前の狩猟採集民の方がずっと遺伝的に多様である、と示唆されます(図4B)。とりわけ、LGM前のより新しい狩猟採集民であるスンギール3とPM1は両方の分析で中間の遺伝的多様性を示します。これは、LGMおよびその後の遺伝的多様性の喪失が、小集団から始まった再居住および人口集団の入れ替わりと相まって、過酷な気候条件により引き起こされた可能性が高いことを示します。以下は本論文の図4です。
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●疾患関連遺伝子

 PM1の完全なゲノム配列と、既知の高網羅率の古代人のゲノムとを合わせることにより、ヨーロッパの石器時代(EUPから新石器時代)個体群の間の疾患と関連する多様体の景観を調査できました。遺伝医学の方法論を用いて、潜在的な病原性変異とその頻度変化が調べられました。まず、LGM前の狩猟採集民、LGM後の狩猟採集民、新石器時代農耕民に分類される、古代の個体群のゲノムのコード領域(エクソン)における変異負荷の観点で、相互および現代の健康な個体群と比較して違いがあるのかどうか、調べられました。死後のDNA損傷の影響と配列エラー率に起因する古代人のゲノムにおける偽陽性の可能性を避けるため、コーディング領域の既知の一塩基多型のホモ接合性の置換多様体に焦点が当てられました。非同義多様体、非同義多様体と同義多様体の比率、停止多様体の類似の数により示されるように、現代人のゲノムと比較して古代人のゲノム間では、タンパク質を変えるような多様体のコーディングの負荷に有意な違いはありませんでした。

 全てのミスセンス多様体(アミノ酸置換をもたらす変異)間で損傷の可能性がある多様体の負荷を評価するため、2つの代理が用いられました。一方はヌクレオチド保存得点の分布で、もう一方はCADD(複合注釈依存枯渇)の分布です(図5)。これらの測定では、古代人のゲノムの3集団(LGMの前と後および新石器時代)は、現代人のエクソームと有意な違いを示しません。さらに、個々の古代人のエクソームは、現代人のエクソームと有意な違いを示しません。EUPの人口規模は、おそらく近親交配とボトルネックに起因する多様体損傷の発生増加をもたらした可能性がありますが、違いの欠如は、代わりにLGM前の人口集団の高い多様性と一致します。以下は本論文の図5です。
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 ほとんどの期間でエクソームの損傷多様体の数がより多いという強い兆候はありませんが、古代の個体群は現代人と比較して異なる一連の損傷多様体を有していたかもしれません。本論文は、古代人のゲノムを走査し、ヒトの病理に関わっている可能性があるいくつかの多様体を特定しました。本論文では、先史時代のヒトのエクソーム、もしくはHGMD(ヒト遺伝子変異データベース)の多様体における、稀でおそらくはホモ接合性の多様体に焦点が当てられます。

 最近の文献で重度の単一遺伝疾患と関連すると示唆された遺伝子において、2つの多様体が特定されました。一方は、ANKRD11遺伝子で特定されたホモ接合性のミスセンス多様体(Glu1413Lys)です。ANKRD11遺伝子におけるヘテロ接合型病原性多様体は、重度のKBG症候群の原因として報告されてきました。KBG症候群の患者は、巨大歯症、特徴的な頭蓋特色、低身長、骨格異常、全般的な発達遅延、発作、知的障害により特徴づけられます。しかし、さまざまな遺伝性パターン、ミスセンス多様体の未知の影響、PM1の頭蓋の特徴に基づいて、この診断は除外されました。

 もう一方は、14000年前頃のビション(Bichon)遺跡個体(図1)で特定されたAIPL1遺伝子の同じ多様体(His82Tyr)で、レーバー先天性黒内障4の網膜色素変性症の劣性型の散発的な症例における複合ヘテロ接合性状態で以前に報告されました。しかし、ビション遺跡個体の多様体は機能的ドメインにはなく、同じ多様体はホモ接合性状態でExAC(エクソーム集約コンソーシアム)において3回報告されています。これらの観察から、これがホモ接合性状態の病原性多様体である可能性はひじょうに低い、と主張できます。

 これら2例は、こうした多様体が病原性との考えに疑問を提起し、古代ゲノムの配列と詳細な分析が、現代の患者の潜在的な疾患原因変異の病原性に関する結論を導くのに役立つ、と示します。したがって、レーバー先天性黒内障4の以前の報告事例は、この特定のAIPL1変異により引き起こされた可能性は低そうです。さらにPM1で、医学的に関心がもたれそうな可能性のある、いくつかの稀でおそらくはホモ接合性の非同義多様体が特定されました。そのうち、発癌に重要な遺伝子である、IL-32のホモ接合性非同義多様体(Trp169∗)が特定されました。

 古代ゲノムの評価は、歴史時代におけるさまざまな病原体負荷による免疫応答の形成に関しても情報を提供できます。サイトカインは病原体に対する宿主防御の重要な免疫媒体です。より高いサイトカイン産生能と強く関連していると知られている、5つの遺伝子多型の存在が評価されました。興味深いことに、PM1のゲノムには、これら5ヶ所の一塩基多型のうち4ヶ所で、サイトカイン産生能の大幅な増加と関連する多様体が含まれています。それは、TLR1遺伝子のrs4833095におけるCアレルのヘテロ接合性、TLR6遺伝子のrs5743810におけるGアレルのホモ接合性、TLR10遺伝子のrs11096957におけるGアレルのヘテロ接合性、IL-10遺伝子のrs1800872におけるTアレルのヘテロ接合性です。

 さらにPM1では、平均的なサイトカイン産生と関連するIFNG遺伝子のrs2069727のヘテロ接合性保有も確認されました。全体として、これらのデータから、PM1はサイトカイン産生能の観点では高い応答性を有している、と示唆されるものの、ヨーロッパ現代人で高いサイトカイン産生の多型の組み合わせを示しているのは4%未満です。高い感染負荷の状況における高い免疫応答の保護効果を考慮すると、この遺伝的構成は、病原性微生物に対する保護をもたらす適応状態を表している可能性が高そうです。


●考察

 PM1の高い網羅率のゲノムデータにより、LGM前の人口集団における遺伝的多様性の特定が可能となり、それはヨーロッパの初期現生人類人口集団の新たな理解をもたらします。これらのデータは、アフリカからの移住後の初期現生人類集団は以前に考えられていたよりも多様であり、多様性の喪失と関連するボトルネックは北方の氷期により引き起こされた、という新たな枠組みを提案します。

 EUP個体群のゲノムで観察された高い多様性と一致して、その損傷多様体の負荷は現代人とほぼ同じでした。これは、小さな孤立した人口集団で見られる有害な多様体の高い負荷とは明らかに異なるパターンで、ヒトにおける遺伝的負荷のさまざまな見解を理解するのに役立つかもしれません。しかし、これらの高網羅率のゲノムは、ひじょうに小さな標本規模を表しており、この結果がEUPにおける人口集団全体に推定できるのかどうか、不明です。

 最後に、医学ゲノミクスで採用された新たな方法論を用いて、病原性の可能性がある多様体について、古代の個体群のゲノムが調べられました。EUP個体群のゲノムでは、医学的影響を伴ういくつかの興味深い稀な多様体が特定されました。レーバー先天性黒内障4の散発的な症例で説明されているAIPL1遺伝子の多様体(His82Tyr)など、特定された他の多様体の事例では、不充分な文献証拠に基づいて病原性である可能性は低い、と提案されます。さらに、旧石器時代には完全な盲目で生活することは困難である、と主張できます。しかし、先天的傷害もしくは負傷を有する個体への世話が、中期更新世以来考古学的記録に存在し(関連記事)、その多様体が盲目の原因として特定されたならば、初期のヒト社会において重度の障害を有する個体への世話の別の事例が追加できることにも、注意が必要です。この事例は、古代ゲノム分析が、現代の患者における稀な遺伝的多様体の病原性評価にも役立つことを示します。

 本論文は、古代ゲノム研究への新たな手法の道を開き、新たな手法では、古典的な集団遺伝学は医療ゲノミクスと組み合わせて人口統計学と疾患疫学について結論を導けます。将来の研究課題は、より大きな人口集団でこれらの医療遺伝学の観察を広げ、古代の人口集団における選択のパターンを調べて、狩猟採集民がLGM後に復興した退避地と人口集団を直接的に特定するために、拡張されるでしょう。本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、LGMにおける局所的な現生人類集団の遺伝的多様性の低下はおそらく世界中で起きており、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Svensson E. et al.(2021): Genome of Peştera Muierii skull shows high diversity and low mutational load in pre-glacial Europe. Current Biology, 31, 14, 2973–2983.E9.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.045

大河ドラマ『青天を衝け』第15回「篤太夫、薩摩潜入」

 一橋家の家臣となった栄一は、平岡円四郎により篤太夫という名を与えられます。栄一(篤太夫)と喜作(成一郎)は、一橋家の家臣の出自が多様で、身分に拘らない起用がされていることに感銘を受けます。栄一は平岡から、摂海防禦の要職にある薩摩藩士の折田要蔵の隠密調査を命じられます。栄一はそこで西郷吉之助(隆盛)と出会います。徳川慶喜の政治工作に負けた島津久光は、大久保一蔵(利通)の意見を受け入れ、西郷などを残して一旦薩摩に戻ります。

 栄一を警戒する薩摩藩士の三島通庸たちは、栄一を殺そうとしますが、西郷は栄一が気になったのか、会食に誘います。西郷はそこで、先の見えすぎる平岡の今後を案じます。栄一と喜作は一橋家臣を集めるため、関東への出張を平岡から命じられますが、関東の情勢も不穏で、水戸では藤田東湖の息子の小四郎が幕府に攘夷実行を迫って挙兵します。今回は、栄一が一橋家臣となって幕末政治の中心に近づいたこともあり、栄一視点と慶喜視点がますます重なってきて、さらに話にまとまりが出てきたように思います。これまでのところは、幕末大河ドラマとしてなかなか質が高くて面白くなっており、楽しく視聴できています。

大相撲夏場所千秋楽

 もうすっかり慣れてしまいましたが、今場所も横綱不在となりました。相撲協会も少なからぬ報道関係者も一般の愛好者も、横綱不在に不満を抱き、相撲人気の低下を不安に思っているかもしれませんが、私は横綱不在になれたこともあり、横綱不在に関して不満はほとんどありません。今場所大関に復帰した照ノ富士関が横綱に昇進できず引退するか、大関から再度陥落するようだと、明確に横綱制度が確立してからは前例のない、長期の横綱不在時代が到来するかもしれませんが、それでも相撲を楽しめるかな、と考えています。

 優勝争いは、ずっと照ノ富士関が先頭を走り、11日目に相撲内容では完全に勝っていたのに反則で負けても動揺することなく12日目と13日目も勝ったので、14日目に優勝を決めるのかと思ったら、優勝争いに残っていた遠藤関に際どい相撲で負けてしまいました。取り直しにすべき一番だったように思いますが、照ノ富士関にすると、膝の状態から考えて取り直しよりも負けた方がよかったかもしれません。それでも、千秋楽を迎えて照ノ富士関が2敗で3敗が貴景勝関と遠藤関と、照ノ富士関が優位な状況には変わりありませんでした。

 千秋楽は、まず遠藤関が正代関と対戦し、正代関が押し出しで勝ち、遠藤関は11勝4敗となって優勝争いから脱落しました。照ノ富士関と貴景勝関は結びの一番で対戦し、貴景勝関が立ち合いで強く当たった直後に引き落として勝ち、ともに12勝3敗で優勝決定戦となりました。優勝決定戦では、照ノ富士関が激しい突き合いからはたき込んで勝ち、4回目の優勝を果たしました。照ノ富士関は本割の内容がよくなかっただけに、膝の状態がかなり悪いのではないか、と心配しましたが、落ち着いていたと思います。

 来場所、照ノ富士関は横綱昇進に挑むことになります。照ノ富士関は最初に大関に昇進した頃と比較すると、心と技は間違いなく上でしょうが、やはり膝の状態は以前と比較すると悪いようなので、体の面ではかなり不安が残り、白鵬関の復活が難しそうな現時点では文句なしに現役最強とはいえ、来場所後の横綱昇進は楽観視できないように思います。また、照ノ富士関は横綱に昇進できたとしても、膝の状態が悪く、半年後には30歳になるだけに、長く務めるのは難しそうです。

 不甲斐ないと言われ続けてきた照ノ富士関を除く3大関では、貴景勝関は優勝決定戦にまで持ち込みました。しかし、押し相撲で不安定なところがあり、横綱昇進はかなり難しそうです。ただ、若手が伸び悩んでいるので、貴景勝関が大関の地位を長く維持できる可能性はあると思います。角番の正代関は相撲内容が全体的によくなかったものの、何とか勝ち越して9勝6敗としました。まあ、照ノ富士関や朝乃山関との対戦がなかったことなど、恵まれた感もありましたが。

 その朝乃山関は、7勝4敗となったところで12日目から休場となりました。相撲協会の指針に反して外出していたとのことで、同様の問題を起こした阿炎関が3場所の出場停止処分でしたから、大関の朝乃山関は一度疑惑を否定していたことからも、それ以上の処分となることは確実でしょう。そうなると、朝乃山関は大関から陥落となります。朝乃山関は正統派の四つ相撲を取ることから、相撲協会でも報道関係者でも一般の愛好者でも、横綱候補として期待していた人は少なくなかったでしょうから、その意味でも衝撃は大きかったと思います。ただ、拳銃密輸と比較すると糾弾するほどの問題かな、とも思いますが。

アフリカ北部の人口史

 アフリカ北部の人口史に関する研究(Lucas-Sánchez et al., 2021)が公表されました。アフリカ北部人類集団の遺伝的研究は、一般的に軽視されてきました。代わりに、人口集団の遺伝学的分析の焦点は近隣地域に当てられ、それによりアフリカ北部の関連性は影を潜めています。一方で、アフリカ大陸は人類の発祥地であることで最も注目を集めてきましたが、遺伝学的研究の焦点は、現生人類(Homo sapiens)の地理的起源として提案されたため、おもにアフリカ東部と南部に当てられてきました。主要な人口集団移動の一つと関連する、アフリカ西部からのバンツー語族話者集団の拡大も、大きな注目を集めてきました。

 したがって、アフリカ北部はアフリカ大陸の他地域と比較して、遺伝学的研究において軽視されてきました。さらに、アフリカ北部はアフリカ大陸への中東の拡張とみなされてきたので、最近まで特有の存在としての認識がほとんどありませんでした。ヒトゲノム多様性計画やサイモンズゲノム多様性計画(関連記事)のような最近の世界的なゲノムデータベースでさえ、単一の人口集団(ムザブ人)と、ムザブ人(Mozabite)2個体とサハラウィ人(Saharawi)2個体の計4個体のゲノムを扱っただけでした。幸いなことに、過去数年間で古代人および現代人の全ゲノムデータを含む遺伝的データが分析され、アフリカ北部の人口史は洗練されてきました。


●アフリカ北部の人類の遺伝的データ

 アフリカ北部の人口集団のデータは限定的ですが、ほとんどの分析では、広範な混合と、アフリカの他地域とアフリカ北部との区別により特徴づけられる、遺伝的多様性の複雑なパターンが示されてきました。古典的な遺伝的指標の研究では、アフリカ北部とアフリカ他地域との区別が明らかになりました。これは、アフリカ人の主成分分析の第一構成要素で示されており、アフリカ北部の人口史は出アフリカ(OOA)人口集団とより密接に関連している、と示唆されます。古典的な遺伝的指標による別の研究でも、他のアフリカ集団との比較におけるアフリカ北部の区別が示され、地中海とサハラ砂漠により制約された人類の動きの結果として、東西軸の遺伝的多様性の勾配が指摘されました。

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)分析も、アフリカ大陸におけるアフリカ北部の独自性と、近隣地域からの系統の混合を明らかにしました。サハラ砂漠以南のアフリカと中東もしくはヨーロッパ起源の片親性遺伝標識系統の存在は、アフリカ北部への遺伝子流動の複雑なパターンを示唆します。しかし、アフリカ北部では在来系統も報告されており、系統のさまざまな勾配を有する在来集団と外来集団の広範な混合が示されます。過去10年に、ゲノム規模一塩基多型分析により、アフリカ北部の遺伝的景観についての知識が洗練され、アフリカ大陸の他地域と区別されるような、アフリカ北部における混合と孤立の複雑な人口統計学的パターンの見解が強化されました。この見解は、古代および現代の標本の完全なゲノムに関するまだ限定的なデータの分析により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。


●アフリカ北部の遺伝的構成要素

 現代の人口集団の遺伝的データは、アフリカ北部の人々の遺伝的祖先系統の少なくとも4つの主要な起源を伴う、複雑なパターンを示唆します。以前の研究はまず、現代アフリカ北部の人口集団における、マグレブ構成要素として知られる在来の祖先的構成要素、およびヨーロッパと中東とサハラ砂漠以南のアフリカの構成要素の存在を示しました。この結果から、アフリカ北部人口集団は独自の祖先的構成要素を有し、近隣地域からの外来祖先系統の単なる混合の結果とはみなせない、と示されました。この構成要素は、12000年以上前と完新世に先行して出アフリカ集団の他系統と分岐した、初期アフリカ北部人口集団と関連しています。

 その構成要素はおそらく、アフリカへの「逆移動」でもたらされ、すでにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U6とM1(関連記事)や、核DNAデータにより示唆されています。それは、アフリカ北部全域で西から東への減少勾配で分布します。その後の研究では、現代人のゲノムをアフリカ北部のさまざまな地域で回収された古代の現生人類標本のデータと比較することで、この在来構成要素の存在が確証されました。この分析は、アフリカ北部人口集団における祖先系統の起源を精査し、コーカサス狩猟採集民・新石器時代イラン関連構成要素を追加して、モロッコの続旧石器時代および前期新石器時代標本群に多く見られることを考慮し、在来のアフリカ北部構成要素の起源の可能性を、続旧石器時代もしくは前期新石器時代に位置づけました。


●アフリカ北部における古代人のゲノム

 アルジェリア北東部のアインハネヒ(Ain Hanech)研究地域では240万年前頃の石器と解体痕のある動物の骨が発見されており(関連記事)、これがアフリカ北部における最初の人類の痕跡となります。年代測定された人類遺骸としては、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された30万年前頃のホモ属遺骸が、アフリカ北部最古となります(関連記事)。アフリカ北部では多くの化石が発見されてきましたが、ゲノムが分析されたのはごくわずかです。

 較正年代で15100~13900年前頃となるモロッコのタフォラルト(Taforalt)の近くにあるピジョン洞窟(Grotte des Pigeons)で発見された現生人類遺骸は、アフリカ北部だけではなくアフリカ大陸全体で最古のDNAが分析された人類遺骸です(関連記事)。この分析されたタフォラルト個体群は、近東人口集団、とくに続旧石器時代のナトゥーフィアン(Natufian)集団との高い類似性を示し、平均してその祖先系統の63.5%を共有しています。これらの個体群のmtHgはU6 とM1で、完新世前のアフリカへの「逆流」事象と一致します。このタフォラルト個体群にはサハラ砂漠以南のアフリカの祖先系統構成要素も存在し、ヨルバ人とナトゥーフィアン人のどの組み合わせとよりも、タフォラルト個体群と高い類似性を示します。また、旧石器時代のヨーロッパ人からの遺伝子流動は観察されていません。

 これら続旧石器時代アフリカ北部古代人のゲノムに加えて、前期新石器時代のIAM(Ifri n’Amr or Moussa)遺跡と後期新石器時代のKEB(Kelif el Boroud)遺跡の個体群が分析されました(関連記事)。7000年前頃となるIAM個体群は、タフォラルト個体群と密接なゲノム規模の類似性を示します。これは、アフリカへの「逆移動」と関連する類似のmtHg(U6とM1)でも裏づけられ、マグレブ地域における後期石器時代と前期新石器時代の人口集団間の継続性を示唆します。他方、KEB集団はゲノム分析では、IAM集団とアナトリア半島・ヨーロッパ新石器時代集団の混合としてモデル化でき、IAM集団もしくはタフォラルト集団よりもサハラ砂漠以南のアフリカの構成要素は少ない、と示唆されます。これら標本群のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)は、おもにアナトリア半島とヨーロッパの新石器時代標本群で見られます。

 リビアのタカールコリ岩陰(Takarkori Rockshelter)遺跡では7000年前頃の人類遺骸2個体のmtDNAが分析され、mtHg-Nの基底部に新たに同定されました。このハプロタイプは、レヴァントからの牧畜民の拡大におけるアフリカへの「逆移動」事象で到来したか、アフリカ内のmtHg-L3から分岐し、後にアフリカ外に拡大した可能性があります。サハラの乾燥化は、アフリカの他地域では置換された間に、タカールコリ岩陰遺跡個体のハプロタイプの孤立と存続の原因となった可能性があります。

 エジプトに関しては、アブシールエルメレク(Abusir-el Meleq)遺跡で発見された紀元前1388年~紀元後426年頃のミイラが分析され、信頼できる人類のDNAデータとして、mtDNAが90人分、ゲノム規模で男性3人分が得られました(関連記事)。これらの遺伝的データから、全標本では小さくひじょうに類似したハプログループ特性が示され、標本間の遺伝的距離が小さく、この地域における遺伝的継続性との見解が裏づけられます。現代エジプト人(約20%)と比較して、古代の標本群ではサハラ砂漠以南のアフリカのmtHgが欠如していることは、最近の砂漠以南のアフリカのからの遺伝子流動により説明できるかもしれません。これら古代エジプト人の核DNAデータはこれらの結果をさらに裏づけ、現代エジプト人よりも大きな新石器時代近東構成要素を明らかにし、アフリカ北部古代人の他の標本と一致します。

 アフリカ本土以外では、他の古代DNA標本群がアフリカ北部人口集団の遺伝的祖先系統の評価に役立ってきました。紀元後7~11世紀となるカナリア諸島の先住民であるグアンチェ人(Guanche)の標本群は、片親性遺伝標識データと全ゲノムデータが分析され、アフリカ北部在来のmtHg-U6とYHg-E1b1b1b1a1(M183)の存在に基づいてカナリア諸島の移民のアフリカ北部起源が示唆されました(関連記事)。また、全ゲノムデータでは続旧石器時代アフリカ北部人と共有される顕著な遺伝的構成要素が示唆されました。常染色体データは、モロッコのKEB個体群との混合特性を示しており、単一の祖先的アフリカ北部起源と一致しますが、カナリア諸島の最初の移住後に小さな遺伝子移入事象が起きた可能性もあります。さらに、イベリア半島と地中海諸島のヨーロッパ古代DNA標本群は、アフリカ北部から北方への前期青銅器時代における広範な散発的遺伝子流動を確認します(関連記事1および関連記事2)。


●人口集団置換と人口統計学的連続性

 アフリカ北部は人類の初期段階から居住されてきましたが(関連記事)、古代ゲノムデータは、アフリカ北部在来人口集団の直接的子孫かもしれないタフォラルトの続旧石器時代個体群以降でのみ利用可能です。現在までのこの在来構成要素の継続性は、近隣人口集団からのアフリカ北部への不断の遺伝子流動により挑戦を受けてきており(図1)、それは部分的にさまざまな時期(旧石器時代と新石器時代と歴史時代)にアフリカ北部の元々の人口集団を部分的に置換しました。
 
 アフリカ北部では、先史時代における中東のナトゥーフィアンからの遺伝子流動が観察されています(関連記事1および関連記事2)この遺伝子流動はアフリカ北部の最新の湿潤期と一致しており、両人口集団間のつながりを容易にした可能性があります。サハラ砂漠では後期更新世と前期完新世に強い気候変動が起きました。「完新世の気候最適条件」では、温暖化して湿潤化した環境条件が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の12000~5000年前頃に出現し、水路と動植物の増加につながり、サハラ全域の人類集団の拡大を促進しました。後の乾燥期にいくつかの人口集団は退避地で孤立し、遺伝的浮動により遺伝的系統の消滅が起きたかもしれません。

 新石器時代への移行に関しては、農耕の文化拡散仮説と、在来狩猟採集民人口集団の新石器時代集団との置換仮説との間で議論が存在します。人口拡散仮説は、アフリカ北部における新石器時代化のメカニズムとして伝統的に受け入れられてきており、移行の起源として中東人口集団が提案されていますが、後期新石器時代におけるイベリア半島人口集団との接触(関連記事)も観察されています(図1)。それにも関わらず、現代人のゲノムおよびタフォラルト個体群との比較や、タフォラルト個体群と初期新石器時代IAM個体群とのゲノム間で共有される地域特有の最近の分析から、アフリカ北部における旧石器時代構成要素の継続性が示されたものの、この在来旧石器時代構成要素は、ヨーロッパ現代人で観察される旧石器時代構成要素よりもずっと低くなっています。したがって、新石器時代の影響はアフリカ北部では劇的でしたが、在来構成要素を完全に消滅させたのではなく、人口拡散前に文化的拡散が起きたことを示唆します。以下は本論文の図1です。
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 新石器時代化後のユーラシアからアフリカ北部への遺伝子流動の影響は比較的少なかったようです。アフリカ北部に高い遺伝的影響をもたらした新石器時代後の移動は、まずサハラ砂漠以南のアフリカのからの遺伝子流動です。これは、おもにローマ期から(紀元前1世紀以降)アラブによる征服を通じて19世紀まで続いた、サハラ砂漠横断奴隷貿易経路に起因します。次にアラブ化で、これは7世紀に始まり、アフリカ北部全域で中東からの遺伝子流動がもたらされ、アフリカ北部現代人で見られる中東構成要素の東から西への勾配の形成に寄与しました。他の歴史的な移動は遺伝的構成にわずかな影響しか及ぼしていません。これらの移動には、フェニキア人やローマ人やヴァンダル人やビザンツ人やオスマン帝国トルコ人や他の地中海ヨーロッパ人口集団を含みます。


●アラブ人とベルベル人の文化および遺伝的分化

 文化的観点から、アフリカ北部の人口集団は伝統的にアラブ人とベルベル人に分けられてきました。とくに「ベルベル人」は、ラテン語のバルバロス(野蛮な)に由来する古典期までさかのぼる誤称で、ベルベル人はアマジグ(Amazigh、歌)・イマジゲン(Imazighen、複数形)と自称しています。この分化はアフリカ北部のアラブ人による征服に起因します。アラブ人はアフリカ北部を占拠し、新たな言語・宗教(イスラム教)・習慣を紀元後7~11世紀にかけて強いました。ほとんどのアフリカ北部の人々は新たな文化を取り入れ、新参者たるアラブ人と混合し、自身をアラブ人と認識し始めました。しかし、他の人々はこの影響から逃れ、山や離れた村に退避し、そこで以前の生活様式を維持し、アマジグ人としての自己認識とタマジーク語(Tamazight)を維持しました。イマジゲンは、アフリカ北部の在来の住民とみなされており、それは、歴史的記録がフェニキア人到来(紀元前814年)前の彼らの存在を説明しており、完新世前のアフリカ北部のカプサ(Capsian)文化との考古学的つながりが示唆されているからです。

 さまざまな研究で、古典的指標やmtHgやYHgやゲノム規模データや全ゲノムのようないくつかの遺伝子標識遺伝的観点から、アフリカ北部における文化的分化が評価されてきました。これらの研究は、アフリカ北部人口集団内の顕著な異質性、およびアラブとアマジグ人口集団間の全体としての明確な分化を明らかにしました。一部のアマジグ集団はアラブ人との違いを示しますが、他のアマジグ集団は文化的自己認識を共有する他の人々とよりも、特定のアラブ人と多くの遺伝的類似性を共有します。それにも関わらず、一部のタマジーク語話者人口集団は外れ値で、隣接するアラブ語話者人口集団もしくはタマジーク語話者人口集団とさえ、強い遺伝的違いを示します。これは、非対称のサハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的影響とともに、孤立と遺伝的浮動の過程に起因する可能性があります。したがって、アフリカ北部における文化的および遺伝的人口集団の定義は困難です。到来した人口集団とのさまざまな接触と新参者の文化の受容は、不均一な混合と局所的孤立過程につながり、アフリカ北部のさまざまな地域で文化の異なる役割を有する、遺伝的に多様な人口集団の複雑なモザイク状を形成しました。


●遺伝子流動の起源としてのアフリカ北部

 歴史を通じて多様な人口移動の到着地だったアフリカ北部は、受け手だっただけではなく、周辺地域(地中海ヨーロッパやカナリア諸島や一部のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団)への遺伝子流動の起源地でもありました(図1)。近隣地域へのアフリカ北部の影響については歴史的および考古学的証拠が存在し、現代および古代の標本を用いた最近の遺伝学的研究はこれを裏づけます。その近隣性と比較的最近の歴史事象のため、イベリア半島はアフリカ北部からの遺伝子流動の主要な受容地域の一つです(図1)。アラブ人の拡大はおもにアマジグの人々をイベリア半島へともたらし、イベリア半島に700年以上留まりました。

 それにも関わらず、考古学および人類学的知見は、地中海西部の両岸間のずっと古い接触を報告しており、新石器時代あるいはずっと古く旧石器時代後期を示します(図1)。イベリア半島におけるアフリカ北部起源のmtDNAとY染色体の配列の存在、およびゲノム規模データで明らかにされた混合の証拠は、この地中海横断の遺伝子流動を裏づけます。現代の標本で推測される年代は、アラブ人による征服にイベリア半島の混合の波を置き、おそらくはより古い混合事象を隠します。

 しかし古代DNA研究は、地中海西部両岸間の以前に報告された先史時代の接触の遺伝的証拠を提供します(関連記事)。イタリアやフランス南部のようなヨーロッパ南部の他地域も、アフリカ北部からの遺伝子流動の到着地でしたが、イベリア半島よりもその程度は小さくなっています。そうした地域におけるアフリカ北部構成要素の年代は、少なくとも5~7世代前に移住事象があったとされますが、最近の研究では、イタリアにおける混合の波はずっと古いと推定されており、アフリカ北部からの移動は紀元後4世紀頃のローマ帝国の崩壊と一致する、と示唆されます。

 カナリア諸島は、アフリカ西部沿岸から近いことと一致して、アフリカ大陸からの移住の痕跡も示しており(図1)、現代および古代のゲノムにおける強い証拠は、最初の居住民のアフリカ北部起源を裏づけます(関連記事)。ゲノム規模データにより、混合の起源の地理的位置はカナリア諸島とヨーロッパ南部の間で異なっており、前者は大西洋沿岸、後者は地中海側と明らかになりました。

 アフリカ北部からサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団への南に向かう遺伝子流動は、牧畜の拡大と関連してきました(図1)。ウシの家畜化は新石器時代にアフリカ北部で出現し、南方の人口集団との接触はアフリカ北部起源のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続アレル(対立遺伝子)をもたらしました。このアレルは現代の一部のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団で検出できます。アフリカ東部からアフリカ北部への牧畜民の移住は4500~3300年前頃ですが、アフリカ北部とアフリカ西部との間の接触は2000年前頃とそれよりも新しいようで、アフリカ西部における牧畜の最初の痕跡とほぼ同時代でもあります。


●まとめ

 アフリカ北部の遺伝的景観の研究についての一つの主要な課題は、利用可能なデータの不足です。最近まで個体の完全なゲノムデータは存在せず、人口集団水準での全ゲノムは依然として不足しています。最近の努力にも関わらず、古代ゲノムデータも限定的です。アフリカ北部におけるゲノムデータの収集・解明は急務です。それは、人口史に関連する問題の解明だけではなく、健康と病気の状態に関わる遺伝的多様体やゲノム領域の理解のためでもあります。アフリカ北部とその周辺地域との間の広範で双方向のつながりを考えると、遺伝的多様性や人口集団の疾患危険性パターンの研究は、アフリカ北部外のヨーロッパや中東やサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団にも影響を及ぼす可能性があります。


参考文献:
Lucas-Sánchez M, Serradell JM, and Comas D.(2021): Population history of North Africa based on modern and ancient genomes. Human Molecular Genetics, 30, R1, R17–R23.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddaa261

黒田基樹『戦国北条家の判子行政』

 平凡社新書の一冊として、平凡社より2020年10月に刊行されました。本書は、戦国大名である北条家の領国統治の仕組みが、その後の近世大名と基本的に変わらなかった、とその意義を高く評価します。江戸時代につながる統治権力による領民統治の基本的な仕組みは、織田信長と羽柴秀吉ではなく、すでに戦国大名により作り出されていた、というわけです。本書は、近世大名と比較できるだけの統治政策の具体的内容が分かるのは北条家だけである、と指摘します。さらに本書は、北条家の統治が現代の統治制度の原点に位置する、と指摘します。表題にもなっている判子はその象徴と言えるでしょう。

 本書は、現代につながる判子文化の源流としても北条家を重視します。北条家の印判使用には、領域権力としての戦国大名が領国内の村落を等しく統治しなければならなくなり、一方で中世において根強く浸透していた身分差の障壁を克服できる、といった理由があり、同時に大量に文書を発給することが可能となりました。北条家が用いた虎朱印は、当主が交替しても使用され続け、当主の個人印ではなく、戦国大名北条家の公印でした。これは、当主の交替に左右されない継続性のある組織の成立を意味します。北条家による印判状の文化は周辺大名にも影響を拡大していき、戦国大名北条家の初代当主だった伊勢宗瑞が日本の判子文化に果たした役割は、ひじょうに大きかったようです。なお、印判状が東国の戦国大名で発達したのに対して、西日本の戦国大名ではほとんど発達しなかったことを、官僚的・機構的な前者と、人格的関係に基づく後者との違いとする見解が提唱されましたが、現在では明確に否定されているそうです。

 公権力の裁判も戦国時代に変容していきます。それまで、村や町の納税主体は室町幕府に直接訴訟できず、訴訟の主体になれるのは幕府や朝廷の構成員だけでした。実質的な訴訟主体は村や町としても、名目的な訴訟者は領主でした。しかし江戸時代には、村や町が江戸幕府や大名家に訴訟できるようになります。その転機となったのが戦国時代で、村や町が直接大名に訴状(目安)を差し出す仕組みが整備されていきます。これは、徴税における不正の抑制・処罰を主目的としていましたが、当時目立った村落間の争いでも機能しました。北条家は目安制の最古の事例ではないとしても、その全体像を把握できる唯一の大名です。また本書は、この過程で大名が又家来の処罰を行なうようになったことを重視します。家来への処罰は主人の専管事項でしたが、それがさらに上の権力により制約されるようになります。これも、領域権力として成立した戦国大名が、権力維持のために領国内の争いを防ごうとしたからでした。北条家において目安制は給人領にも拡大していきます。これは、江戸時代における、地方知行の形骸化(実際の支配は領主ではなく幕府・大名が一元的に行ない、個々の領主には年貢・公事分を支給)と、領地支配の失態を理由とした減封・改易へとつながります。目安制は江戸時代半ば以降には、村や町だけではなく個人も訴訟主体と認められるようになります。

 租税の在り様も戦国時代に変わっていきます。戦国時代よりも前には、統治権力による民衆への直接課税はなく、基本的には個別的でした。戦国時代には、領国内の全村落に等しく賦課される租税としての「国役」が成立していきます。国役の徴収を通じて、戦国大名は領国内全ての村落と結びついていきます。北条家ではこの過程で、全領国規模で統一的税制が確立されていき、他の戦国大名と比較してきわめて統一性の高い領国支配体系が形成されます。これは、深刻な領国危機に対応したものでした。徴税方法も、戦国時代よりも前の、徴収者が納税者より税を取り立てる制度から、納税者が納付する制度へと変わり、近世・近代へと継承されます。北条家に関しては、その変化を具体的に見ていくことができます。この過程で村役人制が成立していきます。また本書は、戦国時代に納税が貨幣から現物へと変わる傾向にあり、その要因は撰銭対策で、北条家においてその変容をよく把握できる、と指摘します。本書は撰銭問題を飢饉との関連で把握します。

 こうした領域支配を前提として、北条家は武田や羽柴との全面戦争のような存亡のかかった非常事態に、「御国」のためとの論理で、領国の民衆を軍事動員しました。この論理の前提となったのは、北条が外敵からの侵略を防ぎ、領国内の村落同士の争いを調停しており、村落の平和を維持している、との認識でした。本書はこのような戦国大名の在り様に、近代国家の要素の源流の一端を見いだしています。同様に、領域支配と「村の成り立ち」の保証を前提として災害対応という非常事態から行なわれるようになったのが、現代にもつながるような「公共工事」でした。北条家をはじめとして戦国時代には、そうした普請役たる「公共工事」は城郭建築・整備など軍事的性格の強い事業が少なからずありましたが、戦争が抑止された江戸時代になると、治水工事など社会資本整備に振り向けられていきます。本書は、近代国民国家の基点として戦国大名権力による日本史上初の領域国家を重視します。そうした特徴がよく研究されている北条家は、戦国時代の意義を一般向けに解説するうえで最適の事例と言えるかもしれません。

真正な自己表現と主観的幸福感

 真正な自己表現と主観的幸福感に関する研究(Bailey et al., 2020)が公表されました。アメリカ合衆国の人々の約80%は何らかのソーシャルメディアを利用しており、そのようなユーザーの3/4が自身のアカウントを毎日チェックしています。しかし、これらのソーシャルメディア上で理想化された自己像を追求すると、ユーザー個人の幸福に悪影響が及ぶ場合もある、という見解が提示されています。

 この研究は、2007~2012年に収集された10560人のフェイスブックユーザーのデータを分析することで、ソーシャルメディア上での自己理想化と真正性が幸福に与える影響を調べました。まず、フェイスブックユーザーは、ビッグファイブ性格特性(同調性や外向性などの諸特性を測定する確立された性格モデル)の測定を含む一連の心理試験を受けました。この研究は次に、ソーシャルメディア上での真正性を推定するために、個々のユーザーが自らの性格について自己申告した内容(心理試験に基づいた結果)とユーザーのソーシャルメディア上の性格(フェイスブック上での「いいね!」と投稿の言葉遣いに基づくコンピューターモデルによる予測結果)を比較しました。

 その結果、真正な自己表現が、高水準の生活満足度(全体的な幸福感の尺度)の自己申告と相関していました。この相関関係は、さまざまな性格タイプで一貫して見られると考えられます。また別の研究では、平均年齢23歳の参加者90人が対象とされ、ソーシャルメディア上で真正な投稿をするよう求められた参加者が申告した主観的幸福感のレベルは、他の参加者より高かった、と明らかになりました。こうした認知メカニズムの進化的基盤という観点も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


心理学:フェイスブックで自分に正直になることが幸福につながる

 フェイスブックで真正な自己表現をする人は、主観的幸福感を高く申告するという傾向を明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この知見は、ユーザーがソーシャルメディア上で自己表現をする場合、自分に正直になることが心理的利益をもたらす可能性を示唆している。

 米国人の約80%は何らかのソーシャルメディアを利用しており、そのようなユーザーの4分の3が自身のアカウントを毎日チェックしている。しかし、これらのソーシャルメディア上で理想化された自己像を追求すると、ユーザー個人の幸福に悪影響が及ぶことがあるという見解が示されている。

 今回、Erica Baileyたちの研究チームは、2007~2012年に収集された1万560人のフェイスブックユーザーのデータを分析することで、ソーシャルメディア上での自己理想化と真正性が幸福に与える影響を調べた。最初に、フェイスブックユーザーは、ビッグファイブ性格特性(同調性や外向性などの諸特性を測定する確立された性格モデル)の測定を含む一連の心理試験を受けた。次に、Baileyたちは、ソーシャルメディア上での真正性を推定するために、個々のユーザーが自らの性格について自己申告した内容(心理試験に基づいた結果)とユーザーのソーシャルメディア上の性格(フェイスブック上での「いいね!」と投稿の言葉遣いに基づくコンピューターモデルによる予測結果)を比較した。その結果、真正な自己表現が、高レベルの生活満足度(全体的な幸福感の尺度)の自己申告と相関していた。この相関関係は、さまざまな性格タイプで一貫して見られると考えられる。

 また、Baileyたちは、平均年齢23歳の参加者90人を対象とした別の研究で、ソーシャルメディア上で真正な投稿をするよう求められた参加者が申告した主観的幸福感のレベルは、他の参加者より高かったことを明らかにした。



参考文献:
Bailey ER. et al.(2020): Authentic self-expression on social media is associated with greater subjective well-being. Nature Communications, 11, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18539-w

『卑弥呼』第63話「別の神話」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年6月5日号掲載分の感想です。前回は、弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)ら到着したヤノハとチカラオを、事代主(コトシロヌシ)が出迎えるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)でトメ将軍とミマアキがモモソと名乗る女性と面会している場面から始まります。モモソがトメ将軍とミマアキの長旅を労うと、山社の繁栄に感嘆した、とトメ将軍は言います。モモソは、現在都には自分しかおらず、疫病神(エヤミノカミ)に負けた、と打ち明けます。王や豪族や民がどこにいるのか、トメ将軍に尋ねられたモモソは、難を逃れた北に移った、と答えます。一人で残って何をしているのか、ミマアキに尋ねられたモモソは、鬼と戦っており、木々に吊るした金(カネ)の楽器(銅鐸と思われます)は鬼を追い払う道具と説明します。桃の園と地面に盛られた大量の桃の種についてトメ将軍に尋ねられたモモソは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の方々なら知っているだろうが、伊弉諾(イザナギ)様が黄泉の国でお使いになった鬼返しの禁厭(マジナイ)だ、と答えます。ミマアキは、黄泉比良坂(ヨモノヒラサカ)で桃の実を鬼に向かって投げた、という話をすぐに想起します。

 サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の子孫なのか、ミマアキに問われたモモソは、自分の父であるフトニ王はサヌ王から数えて8代目と答えます。フトニ王とは、『日本書紀』の大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)、つまり第7代孝霊天皇のことと思われ、その娘に倭迹迹日百襲姫命がいますが、本作ではサヌ王から数えて8代目とされています。トメ将軍は、自分たちの旅の目的が、日下の王は代々、いつか筑紫島に戻り征服したいと考えていると言い伝えられており、筑紫島の人々はそれを信じて恐れていることについて、サヌ王の末裔に真相を尋ねることにある、とモモソに説明します。するとモモソは微笑を浮かべ、3代前のカエシネ王まではそのような野心があったと聞いているが、今の我々はひたすら倭国泰平を望むのみだ、と答えます。モモソの返答を聞いて、ミマアキは安心して感心したような表情を浮かべますが、トメ将軍はモモソの真意を探るような表情をしています。カエシネ王とは、『日本書紀』の観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)、つまり第5代孝昭天皇のことと思われます。筑紫島のどこから来たのか、とモモソに尋ねられたトメ将軍とミマアキは、それぞれ那(ナ)国と山社(ヤマト)国だと答えます。その返答を聞いて頷くモモソを、トメ将軍は注意深く観察しているようです。山社を国としたことにサヌ王の末裔であるモモソがどう考えているのか、気になっているのでしょうか。

 弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)では、事代主(コトシロヌシ)とヤノハが嵐のなか、館で面会していました。部屋には熊の皮と思われる敷物が二つ用意されており、どちらに座ればよいのか、ヤノハに問われた事代主は、出雲の神は西方にいるので自分は東に座ると答え、ヤノハは西側に座ります。天照様はお日様の化身ゆえ東にいるが、大穴牟遅神(オオアナムチノカミ)はなぜ西にいるのか、とヤノハに問われた事代主は、日の沈む場所にある深い穴、黄泉の国にいるからだ、と答えます。大穴牟遅は「死」を起点に人を統べる神で、「生」を起点に人を治める天照とは正反対の存在なので、両者はまったく別の神話だ、と事代主はヤノハに説明します。筑紫島では、出雲は伊弉冉命(イザナミノミコト)が身罷った地で、その後、母を慕って須佐之男命(スサノオノミコト)が黄泉の国に降ってその地を支配した、と伝えられています。しかし、出雲の言い伝えには伊弉諾や伊弉冉や須佐之男という神はいない、と事代主は説明します。それを聞いたヤノハは、面白い、と言います。すると事代主は、同じ神を信奉しているのに、筑紫島の日見子(ヒミコ)、つまりヤノハと日下の日見子では随分反応が違う、と言います。日下にも日見子がいることに驚くヤノハに、山社の日見子は自分に、大穴牟遅命を須佐之男命の娘婿という設定に変えるよう命じてきた、と事代主は説明します。それは、須佐之男の姉である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が最高神ということで、神の地位を譲れとは当然国も譲れということだ、と事代主はヤノハに説明したうえで、筑紫島の日見子殿(ヤノハ)は大穴牟遅命をどうしたいのか、と尋ねます。

 事代主はヤノハに、日下は戦好きで残虐な国だ、と言います。倭には八百万の神がおり、神々は互いに何の関係もないのに、日下はそれらの神を全て天照大御神の下に統合するよう強制する、というわけです。各土地に伝わる神々の言い伝えを意図的に歪めているのですかね、というヤノハに事代主は、そればかりか、他国の王や民を土蜘蛛(ツチグモ)と呼びさげすんでいる、と説明します。日下にはかつて鳥見という国があり、鳥見一族は饒速日という神を奉っていたが、サヌ王はこの神を天照様より下位の神と認めさせ、謀反の代償として鳥見の戦人100名の供御を要求した、と事代主はヤノハに説明します。ヤノハも、やはり饒速日のことを知りませんでした。事代主はヤノハに、自分たちの神(大穴牟遅)をどうしたいのか、と再度尋ねます。するとヤノハは、互いが互いの神を敬えばよいこと、と答え、事代主は笑顔を浮かべます。

 日下の都では、トメ将軍がモモソに、倭から全ての戦をなくそうとしているのは我々の日見子様も同じ考えだ、とモモソに説明し、それならば和議も夢ではない、とミマアキは言います。サヌ王は日下の地をどのように手に入れたのか、トメ将軍に問われたモモソは、日下の説明から始めます。日下は河内湖(カワチノウミ)の広大な干潟で、胆駒山(イコマヤマ)の麓の邑で、サヌ王はその地を所望したが、そこは鳥見国(トミノクニ)の領地で、鳥見には猛々しい戦人がおり、「屈強な足腰の男」を意味する「長脛(ナガスネ)」と呼ばれる人たちがいて、サヌ王は鳥見を落とせず30年の年月が流れました。トメ将軍は、「長い脛」が勇者の代名詞か、と得心したように言います。これが後に長髄彦と伝えられたのでしょうか。鳥見の民はどのような神を信仰していたのか、と問われたモモソは、良い問いだ、と言います。鳥見は饒速日(ニギハヤヒ)なる神を敬っていた、とモモソは答えますが、トメ将軍もミマアキも饒速日を知りません。饒速日は天照様と同じくお日様の化身だ、と説明するモモソに、なんたる偶然、とトメ将軍は言います。長い戦で双方疲れ果てた時、鳥見の巫女である鳥見屋媛(トミヤヒメ)は、饒速日が元々は天孫に付き従って降臨した神だったのではないか、と気づきました。つまり、同じお日様の化身ではあるものの、天照様より下位の神だったはずで、ならば、鳥見国は天照様の直系であるサヌ王に従わねばならない、というわけです。サヌ王は鳥見屋媛と和議を結んだわけですね、とミマアキに問われたモモソは、鳥見屋媛は無条件でサヌ王に降伏した、と答えます。そう答えるモモソを、トメ将軍は注意深く観察しているようです。

 トメ将軍はモモソに、自分たちが戦人であることをお忘れか、と問いかけます。何を言いたいのか、とモモソに問われたトメ将軍は、先ほど都には自分しかいないとモモソは言ったが、何者かがこの屋敷を囲んでいることに儂がきづかないと思うのか、と問い返します。さらにトメ将軍は、モモソの話にはいくつかの偽りが混じっている、と指摘します。トメ将軍がそれに気づいたのは、ミマアキが山社国から来たと言った時でした。サヌ王の時代、山社は国ではなく「聖地」でした。モモソが何も知らないならそのことに疑問を呈したはずなので、そうしなかったのは、すでに何者かに自分たちのことを聞かされていたのだ、とトメ将軍はモモソに指摘します。それが誰なのか、モモソに問われたトメ将軍は、日見子様を敵視する古の一族の一人であるトモ殿だ、と答えます。するとモモソは、自分がトメ将軍とミマアキを見くびっていた、と打ち明けます。さらにトメ将軍が、モモソこそ日下の日見子ではないのか、とモモソに問い詰めるところで、今回は終了です。


 今回は作中の重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。事代主は、互いの神を尊重する、というヤノハの考えに満足したようで、ヤノハと協力して疫病対策と倭の泰平に力を尽くす考えではないか、と推測されます。しかし、ヤノハは事代主に倭国のことを託して姿を消すつもりですから、今後具体的に山社国を中心とした筑紫島の勢力が出雲とどう協力関係を築いていくのか、まだ山場を超えていないようにも思います。日下とモモソについては、今回かなり作中設定が明かされました。ミマアキは山社のモモソを、穏やかで理知的な人物で信頼できると考え始めていたようですが、トメ将軍は途中からかなり警戒していたようで、ここは、若く未熟なミマアキと、経験豊富なトメ将軍との対比がよく描かれていたように思います。事代主の話と合わせて考えると、日下は今でも倭国統一を志向する野心的で好戦的な国のようです。それが、疫病の流行により逼塞せざるを得なくなったのでしょうが、その潜在的な危険性は変わっていないのでしょう。山社国と日下との関係が、今後の話の中心となりそうです。記紀神話からは、かつてサヌ王が筑紫島の王たちに、お前たちの歴史を全て我々勝者の歴史に塗り替えると宣言したように(第37話)、日下に都合よく歴史・神話が書き換えられたようです。しかし、日下の重要な祭祀具である銅鐸はその後伝えられておらず、記紀の頃にはすっかり忘れ去られていたようですから、単に日下の勢力が後に倭国を統一した、という設定でもないようです。これまで、記紀説話を上手く取り入れた話が展開しているので、今後どのように記紀説話と整合的な話が語られていくのか、たいへん楽しみです。

澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇「アジア東部のホモ属に関するレビュー」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P101-112)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 近年、遺跡の発掘とともに遺伝学の知見も増え、中期更新世以降の人類史がかなり多様であった、と明らかになってきました。たとえば、遺伝学により初めて見つかった種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、ルソン島から発見された新たな種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)などが、相次いで報告されています。また、新たな年代測定値が報告され、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・エレクトス(Homo erectus)の年代観も更新されました。本論文は、ユーラシア東部(現在の中国とアジア南東部)において、さまざまな人類、とくに現生人類(Homo sapiens)以外のホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)が、どの地域にいつ生息していたのかに焦点を当て、化石の出土している遺跡について、現時点で最新の知見を外観するとともに、現生人類の拡散時期に関しても概説して現時点での情報を整理し、今後ホモ属の系統推定や分類群同定に使われるだろう新たな手法を解説します。


●ホモ・エレクトス

 ホモ・エレクトスはアフリカとヨーロッパと中国とジャワ島で見つかっており、200万年前頃から10万年前頃までと生息年代はひじょうに幅広いとされています。エレクトスの分類に関しては、アフリカのエレクトスをホモ・エルガスター(Homo ergaster)という別種にするなど様々な説がありますが、本論文はアフリカの化石群も同じエレクトスとして、エレクトスを「広義」のもの(Homo erectus s.l.)として扱う。エレクトスの最古の化石は、南アフリカ共和国のドリモレン(Drimolen)で発見された204万年前頃の頭蓋(DNH134)です(関連記事)。ヨーロッパで最初期の化石としては、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)で180万年前頃の、5個体分の頭蓋と4個体分の下顎骨が発見されています(関連記事)。

 中国では上陳(Shangchen)から212万年前頃までさかのぼる石器が出土し、この頃から人類が生息していた可能性が報告されています(関連記事)。この石器を用いたのはエレクトスと考えられている。中国では他にも、泥河湾盆地(the Nihewan basin)の馬圏溝III(Majuangou III)で166万年前頃の石器、上砂嘴(Shangshazui)から170万~160万年前頃の石器が出土しています(関連記事)。化石としては、前期更新世に関しては上陳の近くに位置する陝西省の藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)で165万~163万年前頃の頭蓋が発見されています(関連記事)。また、中国南部の雲南省楚雄イ族自治州元謀(Yuanmou)で170万年前頃の切歯2本が見つかっていますが(関連記事)、化石の年代に関しては批判もあります。湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州建始(Jianshi)県竜骨洞(Longgudong)では、214万年前より古い地層から4本の歯が発見されています。現時点では、石器の証拠と合わせて考えると、中国では170万~160万年前頃にはホモ・エレクトスが進出していた、というのが確からしい推定と考えられます。

 中期更新世に関しては、周口店(Zhoukoudian)から77万年前頃の6個体分の完全な頭蓋と100本以上の歯などが出土しており、最小個体数は40という大規模な化石群が発見されています(関連記事)。これがいわゆる北京原人ですが、周口店の化石は第二次世界大戦の際に消失しており、実物は残っていません。他にも64万年前頃の山東省沂源(Yiyuan)県など複数の遺跡から化石が出土しています。周口店の化石は、その年代の下限について様々な報告がありますが、40万年前頃と考えられています。また同時期に、中国南部の安徽省馬鞍山市和県(Hexian)で41万年前頃の化石も出土していますが、和県の化石に関しては、中国北部のエレクトスとは形態が異なり、異なる系統との指摘もあります。現時点で、中国においては40万年前頃にエレクトスが消滅したと考えられます。

 ジャワ島のホモ・エレクトスの年代はひじょうに幅広く、おもな遺跡は前期(130万~80万年前頃)のサンギラン(Sangiran)やトリニール(Trinil)、中期(30万年前頃)のサンブンマチャン(Sambungmacan)、後期(10万年前頃)のンガンドン(Ngandong)です。サンギラン遺跡のエレクトスの上限年代は127万年前頃もしくは145万年前頃で、少なくとも150万年前よりは新しい、と示されました(関連記事)。一方で、サンギラン遺跡のエレクトスの下限年代は79万年前頃です(関連記事)。最も新しいンガンドン遺跡のエレクトスの年代は7万~4万年前頃と推定されていましたが(関連記事)、近年では117000~108000年前頃と推定されています(関連記事)。


●ホモ・ルゾネンシス

 ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)の2003年の発掘では25000年前頃の地層で終了していましたが、2004年のホモ・フロレシエンシスの報告を受けて2007年から発掘が再会され、ホモ属の中足骨が発見されました。その後、他の部位の骨も発見され(歯7個、手の中節骨1個、手の末節骨1個、足の基節骨1個、足の中節骨1個、大腿骨1個)、少なくとも3個体分あると明らかになりました。このホモ属化石には、大臼歯のサイズがひじょうに小さいことや、指の骨には木登りに適応したと考えられる屈曲や関節面があることなど、エレクトスやフロレシエンシスとは異なる特徴が見られることから、ホモ・ルゾネンシスと新たに種として報告されました(関連記事)。この化石の年代は67000~50000年以上前と推測されています。ルソン島ではほかに70万年前頃と推定されている人類活動の痕跡(石器と解体痕のある動物骨)が見つかっており、この頃から既に人類が生息していたと考えられます(関連記事)。


●デニソワ人

 デニソワ人は2010年に報告された、遺伝学的に定義されたホモ属の分類群です(関連記事)。デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見され、遺伝的には現生人類よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方と近縁です。デニソワ人から現代人への遺伝的寄与は、フィリピンやメラネシアでとくに高い、と明らかになりました(関連記事)。これらの集団は、デニソワ洞窟から遠く離れたウォレス線(Wallace-Huxley line)の東側に居住しているので、意外な結果でした。デニソワ人と現生人類との交雑は少なくとも3回起こっていたと推定され、そのうち1回はウォレス線の東側で、約3万年前に起こったと考えられています(関連記事)。おそらくは本論文脱稿後に公表された最近の研究でも、デニソワ人と現生人類との複数回の混合の可能性が示されており、そのうちパプア人関連集団固有のデニソワ人からの遺伝子移入は25000年前頃に起き、その場所はスンダランドもしくはさらに東方だった、と推測されています(関連記事)。これらの知見から、デニソワ人はユーラシア東部に広く生息していた可能性も指摘されています。

 デニソワ人の化石は、デニソワ洞窟で指骨と歯など断片的なものが、甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で下顎骨が見つかっているだけです(関連記事)。デニソワ人は古代DNA分析を通じて存在が明らかになったホモ属の分類群なので、既知の化石の中にデニソワ人に分類されるものが含まれている可能性もあります。たとえば、後述する台湾沖で発見された19万~1万年前頃の澎湖1号(Penghu 1)化石や、37万~10万年前頃(諸説ある年代のうち最大幅)の河北省張家口(Zhangjiakou)市の陽原(Yangyuan)県の侯家窰(Xujiayao)遺跡で発見されたホモ属化石(関連記事)です。

 デニソワ人の年代に関して、デニソワ洞窟では、古い個体が195000年前頃から、最も新しい個体は76000~52000年前頃と推定されています(関連記事)。白石崖溶洞の下顎の年代は16万年以上前で、土壌DNA分析では10万~6万年前頃の地層からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が検出されています(関連記事)。デニソワ人がどのくらいの年代幅で、またどのくらいの広さの範囲に生息していたのかは、現在の人類学の重要課題で、さらなる化石資料の発見や分析が待たれます。


●澎湖人

 上述の澎湖1号は、台湾沖の海底から発見されたホモ属の下顎骨です(関連記事)。その年代19万~13万年前頃または7万~1万年前頃と推定されています。この下顎骨はかなり頑健で大きく、臼歯の大きさは前期のジャワのエレクトス(サンギラン遺跡)と同程度に大きい、と報告されています。澎湖1号の形態は、安徽省馬鞍山市(Ma'anshan)の和県(Hexian)で発見された40万年前頃のホモ属化石(下顎骨・頭蓋・遊離歯など)と類似しています。この「和県人」はエレクトスとされていますが、近年見直されています。下顎骨と歯の分析からは、周口店などの中国北部やヨーロッパのエレクトスとは異なる形態をしており、アフリカのエレクトスに近い、と指摘されています。澎湖1号が他の人類とどのような系統関係にあるのかまだ不明ですが、白石崖溶洞のデニソワ人の下顎と類似しているとの報告もあるため、今後の研究が期待されます。


●後期古代型ホモ属

 中国などアジア東部のユーラシア大陸においては、エレクトスが進出した後の中期~後期更新世に、分類について議論のあるホモ属が出現する。アジアに出現したこの古代型ホモ属は、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)、あるいは古代型サピエンス(archaic Homo sapiens)、あるいは後期古代型ホモ属(late archaic human)と呼ばれますが、年代幅や系統関係が不明である点も考慮し、本論文では後期古代型ホモ属が用いられます。この時代のホモ属化石として、河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された125000~105000年前頃のホモ属頭蓋があります(関連記事)。他にも陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡、遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡、上述の河北省張家口市陽原県の侯家窰遺跡、吉林省延辺(Yanbian)朝鮮族自治州の巣県(Chaoxian)遺跡、湖北省宜昌市長陽(Changyang)トゥチャ族自治県の遺跡、中国南部では広東省韶関市(Shaoguan)曲江区(Qujiang)馬壩(Maba)町の洞窟などが挙げられます。

 これらの後期古代型ホモ属化石は地理的に広範に分布しており、その系統を形態から推定するのは難しく、現地のエレクトスから進化したのか、アフリカやヨーロッパなどから古代型ホモ属が拡散してきたのか、あるいはそれらが交雑したのかなど、さまざまな状況が考えられますが、詳細は不明です(関連記事)。中には祖先的な特徴と派生的な特徴を併せ持つものもあり、これら後期古代型ホモ属化石のうち、デニソワ人に分類されるもの、もしくは交雑したものは存在するのか、またこれらの系統関係など疑問点は多く、今後の進展が期待されます。


●現生人類

 現生人類の出アフリカの最も早い証拠は、ギリシア南部のアピディマ洞窟(Apidima Cave)で見つかった、21万年以上前の現生人類的特徴を有する頭蓋です(関連記事)。レヴァントからは複数の現生人類的な化石が見つかっており、イスラエルのミスリヤ洞窟(Misliya Cave)では194000~177000年前頃の上顎骨(関連記事)、イスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)洞窟では12万~9万年前頃の複数の頭蓋などが見つかっています。このように、21万~6万年前頃までの間に、1回あるいは複数回の現生人類による出アフリカがありました。本論文は、6万年前頃までの現生人類の出アフリカをまとめて第1次出アフリカ、6万年前頃以降の現生人類の出アフリカを第2次出アフリカと定義します。

 現生人類の第一次出アフリカが、現在の中国やアジア南東部まで広がっていたのか、まだ不明な点が多いものの、中国に関しては、おもに南部で12万~6万年前頃のホモ属遺骸が発見されています。広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)では10万年前頃のホモ属下顎と数本の歯が見つかっており(関連記事)、湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞(Fuyan Cave)では12万~8万年前頃の47本の歯が発見されています(関連記事)。この他にも、広西壮族(チワン族)自治区の陸那(Luna)洞窟や、広西壮族(チワン族)自治区の柳江(Liujiang)や、江西省万年(Pytel)県の仙人洞(Xianren Cave)遺跡や、湖南省張家界市の黄龍洞(Huanglong)などがあります。ただ、これらの遺跡については、年代が疑わしいなど、疑問視する意見もあります(関連記事)。じっさい、最近の研究では、福岩洞など中国南部の6万年、さらには10万年以上前と主張されていた初期現生人類遺骸の実際の年代は35000年前頃以降で、完新世の遺骸も少なくない、と明らかになりました(関連記事)。中国に近いラオス北部のタンパリン(Tam Pa Ling)遺跡(関連記事)では現生人類的な頭蓋や下顎など5個体分の人骨が出土しており、後にこれらホモ属遺骸の一部の年代は7万年前頃と修正されましたが、この新たな年代についても批判があります。

 その他アジア南東部における初期現生人類の証拠としては、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟で発見された73000~63000年前頃と推定される現生人類の歯(関連記事)や、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された65000年前頃の磨製石器(関連記事)などがあります。しかし、これらに関しても確実な証拠なのかどうか、議論があります。リダアジャー洞窟の歯に関しては、博物館の収集品から見つかったもので、確実に古い地層由来なのか疑われており、マジェドベデ岩陰遺跡に関しても、年代が疑問視されています(関連記事)。ジャワ島のプヌン(Punung)で発見された、143000~118000年前頃の歯は、当初現生人類と報告されたものの、後にエレクトスと指摘されています。また、マレーシア西部のコタタンパン(Kota Tampan)遺跡で発見された、現生人類の所産とされる73000年前頃の石器に関しても、後に現生人類の所産ではない、と指摘されています。ただ、昨年(2020年)公表された研究では、コタタンパン遺跡の石器群は現生人類の所産と改めて主張されています(関連記事)。

 このように、アジア南東部における6万年前頃までの現生人類の決定的な証拠はまだ提示されていません。また、遺伝学における証拠からも、第1次出アフリカの人々の痕跡の確たる証拠はありません。以前、パプア人のゲノムに第1次出アフリカ現生人類集団の痕跡があると報告されましたが(関連記事)、その後の研究ではそうした証拠は見つかっていません(関連記事)。これらの知見を考慮すると、現時点では、現生人類は6万年前までにアジア南東部までは到達していない、あるいは到達していたとしても、それらの初期現生人類は絶滅し、第2次出アフリカの人々により置換された、と想定されます。

 6万年前頃以降の現生人類の第2次出アフリカに関する早期の証拠としては、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見されたものをここで挙げておく。中国北部では田園洞(Tianyuan cave)から4万年前頃の下顎や大腿骨があり、その核DNA解析から、現代のアジア東部やアメリカ大陸先住民集団に近縁で(関連記事)、すでにネアンデルタールやデニソワ人からの遺伝子流動が起きていた(関連記事)、と明らかになりました。また、中国南部では広西壮族(チワン族)自治区来賓(Lanbin)市麒麟山(Qilinshan)遺跡で44000~38500年前頃のホモ属遺骸が発見されています。

 アジア南東部では、大陸側のラオス北部のタンパリン(Tam Pa Ling)遺跡で、上述のように46000年以上前とされる現生人類の頭蓋や下顎などが出土していますが、上述のようにその年代に関しては議論があります。ボルネオのニア洞窟(Niah cave)ではからはと呼ばれる頭蓋が出土しており、その年代は45000~39000年前頃と推定されています。この頃の現生人類が他系統の人類と共存していたのか、まだ不明な点が多く残っています。メラネシア現代人に関しては、上述のように3万年前頃以降の(おそらくは)アジア南東部におけるデニソワ人との交雑の証拠が指摘されているので、その推定年代が妥当ならば、少なくともデニソワ人とは共存していた時期があると考えられます。


●新たな手法

 今後、アジア東部では新たな人類遺骸の発掘とともに、既知の人類遺骸の年代測定・系統解析が行なわれると期待されます。とくに系統解析に関しては、古代DNA解析がこれまでよく用いられてきましたが、アジア東部・南東部は温暖・湿潤な地域で人類遺骸のDNAが保存されにくく、新たな手法が必要とされます。そこで近年注目されているのが、古代プロテオミクス分析です。これは2012年に本格的な応用が始まった比較的新しい研究分野で、古代DNAが残存しない標本や100万年以上前の標本にも適用可能です。380万年前頃のダチョウの卵殻(関連記事)や、190万±20万年前のギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)の歯のエナメル質(関連記事)など、近年ではさまざまな標本に適用されています。

 人類遺骸に関しては、スペイン北部で発見された949000~772000年前頃と推定されているホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)の歯エナメル質のプロテオミクス解析により、現生人類やネアンデルタールやデニソワ人と姉妹群である、と明らかにされました(関連記事)。ただ、ドマニシ遺跡の180万年前頃のホモ属のプロテオミクス分析では、系統関係を調べられるほど充分なデータは得られませんでした。チベットの白石崖溶洞で発見された16万年以上前の下顎骨き、古代プロテオミクス分析によりデニソワ人と同定されました(関連記事)。150万年以上前の古代プロテオミクス解析においては、骨や象牙質よりもエナメル質の方でタンパク質の残りがよい可能性も示唆されました。ただし、古代プロテオミクス分析も万能ではなく、DNAによる系統解析と比較すると解像度が悪く、詳細な系統解析が難しい場合も多くなります。また、タンパク質の種類や、ペプチドのアミノ酸の組成により残存しやすさが変化する、とも指摘されています。

 近年海水や土壌などからの環境DNA解析が増えてきています。デニソワ洞窟の土壌から、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する配列をもつDNAが確認されました(関連記事)。また、上述の16万年以上前のデニソワ人の下顎骨が発見された白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)では、洞窟の土壌DNA解析も報告されており、デニソワ人由来のmtDNAが検出され、継続的なのか断続的なのかはまだ不明ですが、10万~6万年前頃にデニソワ人がこの白石崖溶洞に存在していた、と明らかになりました(関連記事)。ジョージア西部のイメレティ(Imereti)地域のサツルブリア(Satsurblia)洞窟の上部旧石器時代層堆積物(25000年前頃)のDNA解析では、オオカミやバイソンと共に、現生人類のミトコンドリアゲノムと核ゲノムが分析されました(関連記事)。今後、堆積物のDNA解析はさまざまな遺跡に適用されていく、と期待されます。

 成長途中の小児骨も形態分析の対象になる可能性があり、ネアンデルタール人の胸郭は0~3歳からすでに現生人類と異なる形態的特徴を示す、と指摘されています。ネアンデルタール人は現生人類より多くのエネルギーを必要とし、成人では大きな肺を格納するために胸郭は大きい、と示されています。そのため、ネアンデルタール人の胸郭は頭蓋方向に短く前後に深くなっており、腰側の胸郭は左右に広がっています。このような、成人のネアンデルタール人に特有の特徴を小児も有しており、この知見から、小児骨の形態分析によっても、どの人類集団かを同定できる可能性がある、と示されました。


参考文献:
澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇(2021)「アジア東部のホモ属に関するレビュー」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P101-112

エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析

 エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析に関する研究(Clemente et al., 2021)が公表されました。本論文は、最近公表されたイタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(関連記事)とともに注目されます。ユーラシアの青銅器時代(BA)は、社会的・政治的・経済的水準の重要な変化より特徴づけられ、最初の大規模都市センターや記念碑的宮殿の出現に明らかです。ギリシア本土とアナトリア半島西部とクレタ島に囲まれた地中海の湾であるエーゲ海(図1A)は、とくに最初の記念碑的都市センターの一部がエーゲ海沿岸に形成されたため、これらの革新の形成に重要な役割を果たしました。

 エーゲ海文化とよく呼ばれるエーゲ海の青銅器時代文化は、クレタ島のミノア文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、ギリシア本土のヘラディック文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、エーゲ海中央部のキクラデス諸島のキクラデス文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、アナトリア半島西部文化(紀元前3000~紀元前1200年頃)を含みます。ヘラディック文化の最終段階がミケーネ文化(紀元前1600~紀元前1100年頃)です。これらの文化化は土器様式や埋葬習慣や建築や芸術において異なる特徴を示します。しかし、これらの文化は手工業や農業(果実酒や油)の専門化、大規模な貯蔵施設や再流通体系の構築、宮殿、集約的交易、金属の広範な使用に関連する共通の革新を共有しています。

 青銅器時代エーゲ海で発展した経済的および文化的交流の増加は、資本主義や長距離政治条約や世界貿易経済など現代の経済体系の基礎を築きました。後期青銅器時代(LBA)には、線文字A(ミノア文化)と線文字B(ミケーネ文化)というエーゲ海地域最初の文字が出現しました。線文字Aはまだ解読されていませんが、紀元前1450年頃の線文字Bはギリシア語の最古の形態で、インド・ヨーロッパ語族内では最長の歴史が記録されている現存言語の一つです。これらの新規性は、都市化の初期形態を定義しており、伝統的に都市革命と「文明」の出現として記述されており、ヨーロッパ史の重要な事件を構成します。

 広範な考古学的データに基づいて、これらの文化の起源と発展に関するいくつかの仮説が提案されてきました。第一に、局所的革新を想定する見解で、変化は在来新石器時代集団の遺伝的および文化的継続に基づいていた、とされます。第二に、アナトリア半島とコーカサスからの前期青銅器時代(EBA)における新たな人口集団の移住を想定する見解です。第三に、前期青銅器時代の始まりにポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から到来したかもしれないインド・ヨーロッパ語族話者の影響を想定する見解です。

 ヨーロッパ中央部・北部・西部では、ほとんどの青銅器時代個体のゲノムは、在来の農耕民と在来の狩猟採集民(HG)の混合です(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。古代DNAデータは東方からの大規模な人口集団移動を明らかにし、コーカサス狩猟採集民構成要素とヨーロッパ東部狩猟採集民構成要素とを類似の割合でもたらしました(関連記事1および関連記事2)。これらの構成要素は、後期新石器時代および前期青銅器時代(紀元前2800年頃まで)におけるポントス・カスピ海草原人口集団の移住の波に起因するかもしれません(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最近、草原地帯関連祖先系統が青銅器時代のバルカン半島北部(ブルガリア)やバレアレス諸島やシチリア島(関連記事)で報告されましたが、サルデーニャ島では報告されませんでした(関連記事)。しかし、この草原地帯関連祖先系統が時間的もしくは地理的にヨーロッパ南東部にどれだけ拡大したのか、不明なままです。

 西洋「文明」台頭とインド・ヨーロッパ語族の拡大を理解するための重要性にも関わらず、エーゲ海の青銅器時代個体群の全ゲノムはまだ配列されていません。したがって、新石器時代から青銅器時代の移行の背後にある人々の遺伝的起源とギリシア現代人口集団への寄与については議論が続いています。現在のギリシアとアナトリア半島西部の新石器時代個体群の全ゲノム配列データはほとんど区別できず、エーゲ海全域に拡大した共通のエーゲ海新石器時代人口集団を裏づけます。

 コーカサス狩猟採集民関連祖先系統は後期新石器時代エーゲ海個体群と後期青銅器時代ミケーネ文化個体群と前期~中期青銅器時代(EMBA)ミノア文化個体群の一部に存在し(関連記事)、東方からの遺伝子流動の可能性を提起します。後期青銅器時代ミケーネ文化個体群も、ポントス・カスピ海草原もしくはアルメニアからの遺伝子流動に起因する祖先系統の証拠を示します(関連記事)。現代ギリシア人は、これら以前に報告されたミノア人およびミケーネ人とは遺伝的にかなり異なっている、と明らかになりましたが、この違いの原因は調査されていません。

 エーゲ海における新石器時代から青銅器時代の移行期のゲノムデータの不足により、ヨーロッパにおける青銅器時代の特定の側面を理解するための重要な問題が部分的に未解決となっています。そこで本論文は、以下の問題を検証します。第一に、青銅器時代への移行の契機となったエーゲ海人は同じ地域の新石器時代集団と関連しているのか、という問題です。第二に、ヘラディック・キクラデス・ミノアの青銅器時代文化間の遺伝的類似性はどのようなものだったのか、つまり、それらの文化の違いは人口集団構造を伴っていたのか、ミケーネ人のような後期青銅器時代人口集団とどのように関連していたのか、という問題です。第三に、一部の新石器時代および銅器時代アナトリア半島人で観察された東方(コーカサスもしくはイラン)祖先系統はエーゲ海人において青銅器時代まで存続したのか、そのような遺伝子流動の時期はいつだったのか、という問題です。第四に、ポントス・カスピ海草原からヨーロッパ中央部への大規模な移住はエーゲ海青銅器時代人口集団に影響を及ぼしたのか、もしそうならば、この遺伝子流動の時期はいつで、どの程度だったのか、という問題です。第五に、青銅器時代全体のエーゲ海個体群は同じ地域の現代ギリシア人とどのように関連しているのか、という問題です。

 これらの問題に答えて、エーゲ海青銅器時代の洗練された宮殿と都市センターの背後にある人口集団を特徴づけるため、前期青銅器時代4個体とキラディック文化期の2個体を含む、青銅器時代エーゲ海人の全ゲノムが生成されました(図1)。表現型予測に既存の手法を用いて、標準的な人口集団ゲノム手法を適用し、古代と現代の人口集団間の関係が特徴づけられます。新石器時代および銅器時代から現代までのエーゲ海の人口統計を推測するため、全ゲノムデータが活用され、古代ゲノムに特徴的な典型的な網羅率の低さと損傷と現代人の汚染を考慮して拡張した、ABC-DLと呼ばれる深層学習と組み合わせた近似ベイズ計算の手法(関連記事)が利用されました。以下は本論文の図1です。
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●資料

 新たに青銅器時代エーゲ海の6個体分のゲノムデータが得られ、網羅率は2.6~4.9倍(平均3.7倍)でした。内訳は、ユービア(Euboea)島(エヴィア島、エウボイア島)のマニカ(Manika)遺跡の前期青銅器時代ヘラディック文化期の1個体(Mik15)、クレタ島のケファラ・ペトラス(Kephala Petras)埋葬岩陰遺跡の前期青銅器時代ミノア文化期の1個体(Pta08)、コウフォニッシ(Koufonisi)島の前期青銅器時代キクラデス文化期2個体(Kou01とKou03)、ギリシア本土北部のエラティ・ログカス(Elati-Logkas)遺跡の中期青銅器時代2個体(Log02とLog04)です。

 これらの個体は、ヘラディックマニカEBA(Mik15)、ミノアペトラスEBA(Pta08)、キクラデスコウフォニッシEBA(Kou01とKou03)、ヘラディックログカスMBA(Log02とLog04)と呼ばれます。さらに、4個体(Mik15とPta08とKou01とKou03)はまとめてEBAエーゲ海人、2個体(Log02とLog04)はMBAエーゲ海人と区別されます。同様に既知の個体群も分類されます(表1)。さらに、11個体のミトコンドリアゲノムも得られました。


●異なる文化的背景のEBAエーゲ海全域におけるゲノムの均一性

 エーゲ海の青銅器時代個体群の全体的なゲノム規模の遺伝的関係は、古代および現代のユーラシア人口集団の文脈で調べられました。EBAのヘラディック・キクラデス・ミノアは、それぞれ異なる文化にも関わらず、全ての分析で個体群のゲノムは類似しています。外群f3統計(ヨルバ人、Y、X)では、Xが現代の人口集団、Yが本論文の古代人で、ヘラディックマニカEBA(個体Mik15)とミノアペトラスEBA(個体Pta08)とキクラデスコウフォニッシEBA(個体Kou01とKou03)は類似の特性を有すると示され、ヘラディックログカスMBA(個体Log02とLog04)とは対照的です。

 EBAエーゲ海人(個体Mik15とPta08とKou01とKou03)はヨーロッパ南部現代人、とくにサルデーニャ島現代人とより高い遺伝的類似性を示します。古典的なMDS(多次元尺度構成法)分析では、個体間の遺伝的非類似性は、EBAエーゲ海個体群(Mik15とPta08とKou01とKou03)とMBA個体群(個体Log02とLog04)がf3特性と一致して2集団を形成します(図2)。これらの結果と一致して、ADMIXTUREにより推定された祖先系統の割合(K>2)からは、EBAエーゲ海人は遺伝的に相互に類似しており、MBAエーゲ海人とは異なる、と示唆されます(図3)。以下は本論文の図2です。
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 他の古代ユーラシア人口集団と比較して、EBAエーゲ海人は他のエーゲ海BAおよびアナトリア半島人口集団と類似していますが、全てのバルカン半島人口集団とはかなり異なります。たとえばMDS分析では、EBAエーゲ海人はミノア文化ラシティ(Lasithi)遺跡MBA人口集団やミケーネ文化ペロポネソスLBA人口集団やアナトリア半島のテペシク・シフトリク(Tepecik_Ciftlik)遺跡のようなアナトリア半島人口集団の範囲内に収まるか、その近くに位置します(図2)。同様に、ADMIXTURE分析では、EBAエーゲ海人は、ミノアEMBAやアナトリア半島クムテペ遺跡集団やアナトリア半島の銅器時代からEMBAの人口集団など、他のエーゲ海人口集団と類似の祖先系統割合を示します(図3)。

 エーゲ海と一部のアナトリア半島の文化全体におけるEBA集団のゲノム均一性から、エーゲ海人口集団は文化的だけではなく遺伝的にも相互作用する海上1経路を用いた、と示唆されるかもしれません。これは、考古学的水準ではよく報告されており、「エーゲ海の国際精神」と呼ばれてきた、エーゲ海の通交の強力なネットワークの結果だったかもしれません。さらに、ミノアペトラスEBA(個体Pta08)とキクラデスコウフォニッシEBA(個体Kou01とKou03)との間の高い遺伝的類似性を考えると、ゲノムデータとキクラデス諸島からクレタ島への居住地の形成と関連する議論に情報を提供します。以下は本論文の図3です。
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●EBAエーゲ海人の祖先系統構成要素

 ADMIXTUREの結果は、EBAエーゲ海人口集団がおおむね新石器時代エーゲ海人と共有される祖先系統で構成されている(65%超)一方、残りの祖先系統のほとんどはイラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民関連人口集団に割り当てることができる(17~27%)、と示唆します(図3)。これらの結果は、qpWave/qpAdmで再現されました。初期新石器時代人口集団と狩猟採集民人口集団を起源とみなすと、EBA個体群は一般的に、アナトリア半島新石器時代関連人口集団に由来する祖先系統が大半であること(69~84%)と一致する、と明らかになりました。これは、新石器時代から青銅器時代の移行期の人々が、おもに先行するエーゲ海農耕民の子孫だったことを示唆しており、EBA変容の考古学的理論と一致します。qpWave/qpAdmにおける第二の構成要素は、イラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民関連人口集団に割り当てることができます(16~31%)。この結果と一致して、MDS分析(図2)では、エーゲ海EBA個体群は新石器時代エーゲ海人とイラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民(CHG)を結ぶ軸(コーカサス軸)に位置します。

 エーゲ海の外部からの遺伝子流動事象をさらに検証するため、D統計が計算されました。とくに、H3人口集団、たとえばADMIXTUREでは青色の構成要素のイラン新石器時代もしくはCHG(図3)が、H1(アナトリア半島新石器時代人口集団)と、もしくはさまざまな期間のエーゲ海・アナトリア半島人口集団(ギリシア新石器時代やエーゲ海・アナトリア半島青銅器時代やギリシアとキプロスの現代人=H2)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有するのか、古代エチオピアのモタ(Mota)個体(関連記事)を外群Dとして用いて、検証されました。

 その結果、EBAエーゲ海人は相互に類似している、と明らかになりました。EBAエーゲ海人は、他の分析(図3)では「イラン新石器時代・CHG的」構成要素を有していますが、イラン新石器時代もしくはCHGからの遺伝子流動の統計的に有意な証拠は検出されませんでした。しかし、明らかな傾向からは、紀元前4000年以後のエーゲ海人(アナトリア半島銅器時代からミケーネ文化期)は、アナトリア半島新石器時代集団とよりも、イラン新石器時代・CHGの方とより多くのアレルを共有します。

 この傾向はADMIXTUREの結果(図3)で再現され、CHG的構成要素の低い割合が新石器時代以降に、バルカン半島ではなく、エーゲ海とアナトリア半島の両側の個体群で観察されました。このCHG的構成要素は、たとえばボンクル(Boncuklu)やテペシク・シフトリク遺跡などアナトリア半島の初期新石器時代や、エーゲ海の後期新石器時代や、アナトリア半島青銅器時代において頻度が増加していきます。これはバルカン半島では見られず、新石器時代から青銅器時代への移行は、「ヨーロッパ狩猟採集民的」祖先系統の増加とほぼ関連しています(図3)。

 競合するシナリオを比較し、新石器時代と青銅器時代と現代のギリシアの人口史をともに説明しながらエーゲ海への起こり得た遺伝子流動事象の状態と速度を推測するため、ABC-DLが実行されました。狩猟採集民とエーゲ海新石器時代集団との間の関係を確定するため、まずこれら3祖先人口集団(CHG、ヨーロッパ狩猟採集民、エーゲ海新石器時代集団)の3葉モデル(図4A)が対比されました。この分析では、ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)・CHG・エーゲ海新石器時代集団の3葉モデルの事後確率が最高でした(図4A1)。この結果は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とよりも、CHGとドイツのシュトゥットガルトの「初期農耕民」との間の密接な関係を明らかにした以前の研究と一致します。

 この系統樹はより複雑な7葉モデル(図4B)に用いられました。上記の全結果と一致して、CHG的な遺伝子流動の波がない7葉モデル(図4 B1~3)は、より低い事後確率と関連していました。対照的に、CHG的な遺伝子流動を含むモデル化は、紀元前5700年頃の推定16%の遺伝子流動モデルで、ずっと高い裏づけが得られました(図4 B4)。まとめると、これらの結果から、CHGと関連する人口集団が移住を通じてエーゲ海人に直接的に影響を及ぼしたか、CHG的構成要素が新石器時代集団のアナトリア半島人口集団との遺伝的交換を通じて間接的にもたらされた、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●エーゲ海EBA集団においてほとんど見られないEHGの遺伝的影響

 青銅器時代のヨーロッパ中央部・西部・北部では、CHG構成要素は一般的にEHG構成要素を伴い、これは、草原地帯関連人口集団を介して伝わった場合、同様の割合で現れると予測されます。対照的に、EBAエーゲ海人はEHG祖先系統をほとんど若しくは全く有していません。D統計分析に基づくと、ほとんどのEBAエーゲ海人とアナトリア半島新石器時代集団のゲノムはEHGに等しく近くなることを却下できません。さらに、qpWave/qpAdmにおける潜在的な3起源集団を検討すると、EBA個体群の祖先系統の割合は、EHGがわずか1~8%に対して、CHGは24~25%です。

 これは、ADMIXTUREの結果(図3)によりさらに裏づけられ、新石器時代からEBAへの変化が、エーゲ海およびアナトリア半島におけるイラン新石器時代・CHG的祖先系統の増加とほぼ関連している一方で、バルカン半島とヨーロッパの残りの地域はEHG的祖先系統の増加とほぼ関連している、と示唆されます(図3)。EBAエーゲ海人の祖先へのEHGの遺伝子流動を含む全てのABC-DLモデル(図4B5・6)は、無視できる事後確率でした。まとめると、これらの結果は、エーゲ海のEBAにおいてEHGと関連する人口集団の影響がほとんどなく、コーカサス構成要素が独立してエーゲ海に到来したことを示唆します。


●エーゲ海MBAにおけるゲノムの不均質性

 EBAと比較してMBAには、エーゲ海でかなりの多くの人口集団構造が観察されます。ギリシア北部のMBA個体群は、全ての分析で見られるように、EBAエーゲ海人とはかなり異なります。たとえばf3分析では、EBAエーゲ海人とは異なり、MBA個体群はヨーロッパ全域のずっと多くの人口集団と遺伝的に等しく離れています。MDS分析(図2)とADMIXTURE分析(図3)では、MBA個体群はEBAエーゲ海人と異なる分離集団を形成し、現代ギリシア人と同じ構成要素を共有します。対照的に、ミノア文化ラシティMBAは、EBAエーゲ海人口集団とひじょうによく似ています(図2・図3)。

 ヘラディックログカスMBAを同時代のミノアラシティMBAと区別する主要な特徴は、「ヨーロッパ狩猟採集民的」祖先系統のより高い割合です。たとえばADMIXTURE分析では、全体的なヘラディックログカスMBAの祖先系統の26~34%が「ヨーロッパ狩猟採集民的」構成要素で、エーゲ海のEBA個体群で見られる2~6%の4倍以上です(図3)。同様にqpWave/qpAdmでは、ヘラディックログカスMBA個体(Log04)は3方向混合モデルと一致し、その祖先系統の58%がエーゲ海新石器時代人口集団で、残りはCHG的集団(16%)とEHG的集団(27%)です。これは、EBAエーゲ海人と比較すると、EHGからの寄与がずっと大きくなっています。

 EHGとCHGは草原地帯関連人口集団の主要な構成要素で、草原地帯EMBAはEHG的集団(66%)とイラン新石器時代・CHG的集団(34%)としてモデル化され、以前の研究と一致しているので、ポントス・カスピ海草原からの人口集団がヘラディックログカスMBA個体群の祖先系統に寄与した、という仮説が裏づけられます。この組み合わされた祖先系統は、青銅器時代のヨーロッパ中央部・西部・北部の個体群で観察され、「大規模な」草原地帯からの移住の結果として解釈されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文のADMIXTURE分析の推定値は、バルカン半島を含むヨーロッパのほとんどの地域で、後期新石器時代とEBAにおけるEHG構成要素の増加と一致します。しかしアナトリア半島では、EHG的祖先系統の増加は誤差で、エーゲ海では後のMBA(ヘラディックログカスMBA)でやっと見られるようになり、エーゲ海における草原地帯関連祖先系統のより遅い到来が示唆されます。

 このような草原地帯からの遺伝的寄与の証拠は、たとえばMDS分析(図2)で見られ、ヘラディックログカスMBAは、新石器時代エーゲ海人と草原地帯人口集団を結ぶ「草原地帯軸」上に位置しています。ADMIXTURE分析(図3)では、ヘラディックログカスMBAは、草原地帯EMBAと類似した相対量の「イラン新石器時代・CHG的」構成要素(1/3)と「EHG的」構成要素(2/3)を有しています。また、新石器時代とEBAのエーゲ海人およびアナトリア半島人やミノアラシティMBAとは異なり、ヘラディックログカスMBAはアナトリア半島新石器時代集団と比較して、CHGや EHGや草原地帯EMBAと顕著により多くのアレルを共有します。さらに、ヘラディックログカスMBAの個体Log04は、アナトリア半島新石器時代集団(53%)と草原地帯EMBA (47%)もしくはアナトリア半島新石器時代集団(38%)と草原地帯MLBA (62%)の2方向混合(近似起源)として直接的にモデル化でき、草原地帯からの強い遺伝的寄与と一致します。

 人口統計モデル化では、MBAの分岐前の、草原地帯EMBAと関連するゴースト人口集団からの遺伝子流動(8~45%)が、データへのモデルの適合性を大きく改善します(図4B1・4)。ヘラディックログカスMBAの祖先へのそうした遺伝子流動の時期は、ログカス遺跡個体群の放射性炭素年代に基づくと紀元前1900年頃までに起きたはずで、ABC-DL分析では紀元前2300年頃と推定されます。これは、草原地帯的集団の移住の波がMBAまでにエーゲ海に到達した可能性を示唆します。サルデーニャ島には草原地帯関連祖先系統が本質的に欠けており(関連記事1および関連記事2)、ミノア人で草原地帯的もしくはEHG的祖先系統の証拠はないので、草原地帯関連人口集団が青銅器時代には渡海しなかったことを示唆しているかもしれません。この仮説の裏づけとして、考古学的記録では、ポントス・カスピ海草原からの青銅器時代人口集団が航海民だったことを示唆していません。

 しかし、ログカス遺跡個体群で観察された草原地帯的祖先系統は、ポントス・カスピ海草原起源の人口集団の移住により直接的に、もしくはかなりの草原地帯的集団からの遺伝子流動を有する人口集団により間接的にもたらされたかもしれないことに、注意が必要です。あるいは、草原地帯的構成要素は、標本抽出されていない、遺伝的に類似の人口集団(たとえば、MBAバルカン半島人)によりもたらされた可能性があります。間接的寄与は、エーゲ海よりもバルカン半島で草原地帯関連祖先系統のより早期の影響を示唆するADMIXTURE分析の推定値と、バルカン半島LBA 個体群を含む2方向混合としてのMBA個体 Log04のqpWave/qpAdmモデル化により裏づけられます。この知見は、青銅器時代におけるバルカン半島と草原地帯の人口集団間の断続的な遺伝的接触の示唆(関連記事)、および紀元前2500年頃のヨーロッパ南東部とポントス・カスピ海草原間の文化的接触の考古学的証拠と一致します。さらにこれは、草原地帯的祖先系統を有する人口集団がヘラディック文化の形成に寄与した、という考古学と言語学両方の証拠に基づく以前の仮説と関連しているかもしれません。


●性的に偏った遺伝子流動とEBAおよびMBAにおける交雑

 青銅器時代エーゲ海人の間の性的に偏った遺伝子流動を評価するため、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体とX染色体が分析されました。17個体の推定mtDNAハプログループ(mtHg)と2個体のY染色体ハプログループ(YHg)はヨーロッパ新石器時代個体群で一般的であり、エーゲ海の外部からの性的に偏った遺伝子流動の明確な証拠を示しません。YHgが決定されたのはペトラス遺跡のEBA個体Pta08とコウフォニッシ島のEBA個体Kou01で、Pta08がYHg-G2(L156)、Kou01がYHg-J2a(M410)です。

 性的に偏った遺伝子流動をさらに調べるため、X染色体と常染色体上の祖先系統が教師有ADMIXTURE分析と比較されました。EBAエーゲ海人では性的に偏った遺伝子流動の証拠は見つからず、イラン新石器時代・CHG的祖先系統の点推定値は常染色体上のそれと重なっていました(図5A)。対照的に、MBAエーゲ海人では、個体Log04はX染色体と常染色体上で草原地帯的祖先系統の類似した量を有していますが、個体Log02は草原地帯的祖先系統を、X染色体上では有さないのに対して、常染色体上では25~52%有します(図5B)。

 さらに、mtDNAでは、ギリシア北部のEBAとMBAのエーゲ海人の間で有意な人口集団構造が見つかりませんでした。まとめると、X染色体とmtDNAにおけるこれらのパターンは、草原地帯的祖先系統からエーゲ海への男性に偏った遺伝子流動により説明できます。同様に、以前の研究(関連記事1および関連記事2)では、ヨーロッパの後期新石器時代とEBAにおけるポントス・カスピ海草原人口集団の移住では、女性よりも男性の方がずっと多かったかもしれない、と示唆されています。以下は本論文の図5です。
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 EBAおよびMBAにおける結婚慣行に関する遺伝的手がかりをさらに得るため、現代ギリシア人と本論文で新たに提示された青銅器時代エーゲ海6個体の全ゲノムにおける、ROH(runs of homozygosity)とも呼ばれるホモ接合状態の隣接するゲノム領域が推測されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。個体Log04は、他の古代の個体群より多くて(最大で29対7)長いROH(500万塩基対以上のROHが2ヶ所)を有しています。最近の近親交配を含むさまざまな進化的・人口統計学的過程が、Log04のデータを説明できます。いずれにせよ、Log02は同様に長いROHを有しておらず、Log04のデータの根本的な原因はヘラディックログカスMBAを一般的に特徴づけるものではない可能性がある、と示唆されます。


●LBAミケーネ人の遺伝的構成

 青銅器時代最後の段階は、後期ヘラディック文化であるミケーネ文化です。紀元前1200年頃、ミケーネ文化は衰退し始め、宮殿は破壊され、線文字Bは放棄され、その芸術や工芸品は滅びました。その衰退の原因については議論が続いており(気候変化や侵略など)、LBAから鉄器時代にかけて地中海東部地域で起きた広範な諸文化・勢力の崩壊・衰退には複雑な要因があった、とも指摘されています(関連記事)。以前の研究(関連記事)では、ミケーネ人は現代の人口集団とはかなり異なっていると示されましたが、ミケーネ人とEBA人口集団との関係は不明なままです。

 ヘラディックログカスMBA個体群との文化的類似性にも関わらず、分析結果からは、ミケーネとペロポネソスのLBA集団は遺伝的にかなり異なっており、MDS分析(図2)ではログカスMBA個体群とEBAエーゲ海人およびミノアラシティMBAとの中間に位置する、と示されます。ログカスMBA個体群とは異なり、ミケーネとペロポネソスのLBA集団はADMIXTURE分析(図3)ではEHG的構成要素の割合がより低く、D統計においては、アナトリア半島新石器時代個体群と比較して、イラン新石器時代・CHGもしくはEHGと有意により多くのアレルを共有しているわけではありません。

 しかし、ヘラディックログカスMBAのように、ミケーネとペロポネソスのLBA集団は草原地帯EMBAとより多くのアレルを共有します。ミケーネとペロポネソスのLBA集団は、青銅器時代草原地帯もしくはアルメニア関連人口集団のどちらかを含むqpWave/qpAdmモデルと一致する、と以前に示されました(関連記事)。本論文はこの結果を再現し、さらに、ミケーネとペロポネソスのLBA集団も、起源人口集団としてEBAエーゲ海人とアナトリア半島新石器時代集団を含むモデルと一致する、と明らかにしました。対照的に、ヘラディックログカスMBAは草原地帯的起源集団を必要とし、アルメニア的起源集団を含む単純なモデルで説明できません。

 データと一致するさらなる代替的説明もあります。まず、ミケーネとペロポネソスのLBA集団はMBAログカス人口集団およびEBAエーゲ海人口集団と密接に関連した人口集団の子孫で、ヘラディックログカスMBA(21~36%)とミノアオディギトリア(Odigitria)EMBA およびミノアラシティMBA(64~79%)の2方向混合だった、というものです。同様に、ヘラディックログカスMBA個体Log04(34~36%)とEBAエーゲ海人(64~66%)の2方向混合も却下できません。次に、アルメニア青銅器時代集団と関連する人口集団が、LBAもしくはその前に地理的に局所的にエーゲ海人に寄与したかもしれません。この想定は考古学の文献で提案されており、ミケーネ人は後の世代の個体群に多くの遺伝的痕跡を残さなかった、と示唆されます。


●現代ギリシア人とMBAログカス集団との類似性

 以前の研究(関連記事)では、ギリシアの現代人口集団はエーゲ海の青銅器時代の後期集団とはかなり異なる、と明らかになりました。対照的に、本論文の結果からは、ギリシアの現代の個体群(ギリシア北部のテッサロニキとクレタ島)は、ギリシア北部のヘラディックログカスMBA個体群と密接に関連しており、MDS分析(図2)では現代ギリシア人の近くに位置し、ADMIXTURE分析(図3)では同じ祖先系統構成要素を共有し、ひじょうに類似したD統計を有します。

 さらに、qpWave/qpAdm分析では、テッサロニキ(Thessaloniki)個体群はログカスMBA個体群関連祖先系統(93~96%)と、EHGもしくはヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の38700~36200年前頃となる若い男性個体(関連記事)のようなユーラシア上部旧石器時代人口集団といった、第二構成要素(4~11%)の小さな割合でモデル化できます。後者はエーゲ海人のゲノムから離れた外群を構成する基底部人口集団で、本論文の全検証で互換性があるようです。これは、ギリシア北部とクレタ島の現代人口集団がエーゲ海EBA人口集団の子孫かもしれず、ポントス・カスピ海草原EMBAと関連する人口集団とのその後の混合を伴う、と示唆します。興味深いことに、キプロス島現代人は分析全体で草原地帯的な遺伝子流動の証拠を示しません(図2・3)。


●色素沈着と乳糖耐性

 遺伝子型データを用いると、個体Pta08・Kou01・Log02は茶色の目と暗褐色から黒色の髪と濃い色の肌を有している、と予測されます。これらの予測は、髪と目については、ミノア文化期クレタ島の壁画の男性個体群の視覚表現と一致します。目と髪の色の予測は、青銅器時代エーゲ海の後期段階集団と類似しています。これら3個体(Pta08・Kou01・Log02)全ての全体的な予測は濃い肌の色ですが、この3個体にはより薄い肌の色と強く関連するアレル(SLC24A5遺伝子のrs1426654とSLC45A2遺伝子のrs16891982)もあります。後者に関しては、ヨーロッパ南部の新石器時代以来、皮膚の色素脱失が分離している、という観察結果と一致します。

 成人期の乳糖不耐症は、2ヶ所の強く関連する多様体、つまり古代および現代のヨーロッパ人で選択下にあるrs4988235のTアレル(13910T)と、rs182549のAアレル(22018A)で検証されました。これら3個体(Pta08・Kou01・Log02)全員とログカスMBA個体は、13910T と22018Aの両方でホモ接合型の祖先的状態を有していました。これは、新石器時代ヨーロッパ人およびエーゲ海人に関する以前の研究(関連記事)と一致し、酪農がすでによく行なわれていたものの、当時の人々は乳糖不耐症だった、と示唆されます。この観察は、種や表現型全体で広く観察されているように、変異限定適応のモデルを裏づけます。最近の研究では、ヨーロッパにおける乳糖耐性(ラクターゼ活性持続)の急激な頻度上昇は紀元前4000~紀元前1500年前頃の間に起きた可能性が高い、と推測されています(関連記事)。


●まとめ

 EBAにおいて、エーゲ海では交易・手工業の専門化・社会構造・都市化で重要な革新が起きました。新石器時代の終わりを示すこれらの変化は、ヨーロッパに消えない痕跡を残し、都市革命の始まりを示します。この文化的変化の始まりにおいて、エーゲ海世界はおもに、3つの象徴的な宮殿文化であるヘラディックとキクラデスとミノアに分かれていき、それぞれ手工芸品や土器様式や埋葬習慣や建築により区別されます。

 この変化の背後にある人々の起源をよりよく理解するため、エーゲ海青銅器時代の3文化(ヘラディックとキクラデスとミノア)全てを網羅するEBA個体群のゲノムと、ギリシア北部のMBAの2個体と、EBAエーゲ海人11個体のミトコンドリアゲノムが配列されました。青銅器時代エーゲ海人の後の期間の以前の一塩基多型データと比較して、本論文の全ゲノムデータによる多様体の数の増加と、全ゲノムを特徴づける固有の無作為多様体選択により、人口統計学的推論と人口史の統計的対比が行なわれました。さらに、本論文で新たに提示された全ゲノムデータは、どのゲノムデータとも容易に組み合わせられ、人口史の将来の研究における多様体の損失は限定的です。エーゲ海人の分析されたゲノムが青銅器時代のキクラデス文化とミノア文化とヘラディック文化を全体としてどの程度表しているのか確定するには、今後の研究が必要なことに注意しなければなりません。

 要約すると、青銅器時代のキクラデス文化とミノア文化とヘラディック文化(ミケーネ文化)の個体群のゲノムからは、これら文化的に異なる人口集団が、青銅器時代の始まりにはエーゲ海とアナトリア半島西部全域で遺伝的に均質だった、と示唆します。EBA個体群のゲノムから、その祖先系統は在来のエーゲ海農耕民が主で、CHGと関連する人口集団にも由来する、と示されます。これらの知見は、新石器時代から青銅器時代の変化に関する長年の考古学的理論、つまりアナトリア半島とコーカサスからの新たな移住と一致します。しかし、在来の新石器時代人口集団の寄与は顕著なので、在来要素と外来要素の両方がEBAの革新に貢献したようです。

 対照的に、MBAエーゲ海人口集団はかなり構造化されていました。こうした構造の考えられる一因は、エーゲ海人への追加のポントス・カスピ海草原関連の遺伝子流動で、その証拠は新たに配列されたMBAログカス個体群のゲノムに見られます。草原地帯関連祖先系統も有する現代ギリシア人は、その祖先系統の90%をMBAエーゲ海北部人と共有しており、現代とMBAとの間の継続性が示唆されます。対照的に、LBAエーゲ海人(ミケーネ人)は、希釈された草原地帯もしくはアルメニア関連祖先系統を有しています。この相対的な不連続性は、考古学的文献で以前に提案されたように、ミケーネ文化の一般的な衰退により説明できます。

 推測された移住の波は全て、線文字Bの出現(紀元前1450年頃)に先行します。結果として、ゲノムデータは祖型ギリシア語の出現とインド・ヨーロッパ語族の進化を説明する主要な両方の言語学理論を裏づけます。つまり、これらの言語はアナトリア半島に起源があるか(アナトリア半島およびコーカサス的遺伝的祖先系統と相関します)、ポントス・カスピ海草原地域に起源があります(草原地帯的祖先系統と相関します)。アルメニアおよびコーカサス地域の中石器時代から青銅器時代の将来のゲノムデータは一般的に、エーゲ海への遺伝子流動の起源と様相をさらに正確に示し、ゲノムデータを既存の考古学および言語学的証拠とよりよく統合するのに役立つ可能性があるでしょう。


参考文献:
Clemente F. et al.(2021): The genomic history of the Aegean palatial civilizations. Cell, 184, 10, 2565–2586.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.03.039

大河ドラマ『青天を衝け』第14回「栄一と運命の主君」

 平岡円四郎から一橋家への士官を誘われた栄一と喜作は、返答を保留します。喜作は徳川方への士官となるので反対しますが、栄一はこのままむざむざ死ぬよりは仕えた方がよい、と主張します。栄一は士官にさいして徳川慶喜への建白書提出と直答を要求します。この頃、慶喜は横浜鎖港問題などで多忙のため、さすがに栄一や喜作と面会する時間もなく、平岡は慶喜の外出時に姿を見せるよう、栄一と喜作に提案します。こうして、栄一と喜作は慶喜と出会い、拝謁を許されます。

 数日後、栄一と喜作は屋敷で慶喜に拝謁し、栄一は志士を広く集めるよう、提言します。しかし、栄一は熱く語るものの、慶喜は冷ややかです。平岡は栄一と喜作に慶喜の置かれた立場と人となりを説き、喜作は慶喜に興味を持ち、栄一はこれまでの世界観が揺らいだことに衝撃を受けます。一橋家に出仕するようになった栄一と喜作は、慣れない仕事と金欠に苦しみつつ、日々を懸命に過ごします。慶喜は参預会議で島津久光たちと対立し、幕府を守る決意を松平慶永に伝えます。栄一との出会いが慶喜を後押しした、というわけでもないのでしょうが、慶喜の本格的な政治行動が描かれるようになり、栄一が慶喜に仕えて、話が大きく動き始めました。今回も幕末の複雑な政治情勢が描かれましたが、徳川家康の解説もあり、なかなか分かりやすくなっていたように思います。

イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化

 イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(Saupe et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。イタリアの銅器時代(紀元前3600~紀元前2200年頃)は新石器時代(紀元前7000~紀元前3600年頃)と青銅器時代(紀元前2200~紀元前900年頃)の間となり、さまざまな金属資源の新たな道具の開発により特徴づけられ、集団的から個人的なものへの移行、個人的な威信を示す副葬品といった埋葬慣行など、大きな文化的変化に続きました。

 古代DNA研究は、狩猟採集から農耕など、物質文化の変化と一致する人口集団の遺伝的特性における大きな変化の発生を浮き彫りにしてきました(関連記事1および関連記事2)。銅器時代(CA)から青銅器時代(BA)の移行期の初めとなる5000年前頃、ユーラシア草原地帯の人々がヨーロッパに到来し、在来人口集団とさらに混合しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これらの事象はヨーロッパのほとんどで広く研究されてきており(関連記事1および関連記事2)、イタリア半島(関連記事)やサルデーニャ島(関連記事)やシチリア島(関連記事)の古代ゲノムに関しては多くの研究がありますが、イタリア半島における銅器時代と前期青銅器時代の人口動態はまだよく特徴づけられていません。

 以前の研究では、紀元前2300年頃以後にイタリア北部とシチリア島に草原地帯関連祖先系統構成要素が到来した、と示されていますが、紀元前1900~紀元前900年頃の年代的間隙が存在し、イタリア中央部における草原地帯関連祖先系統の到来についてはほとんど知られていません。さらに、利用可能なデータは、紀元前900年以後のサルデーニャ島で検出されたイラン新石器時代関連構成要素を示しますが(関連記事1および関連記事2)、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイラン新石器時代農耕民との類似性が、イタリア中央部新石器時代個体群(関連記事)と中期青銅器時代シチリア島個体群(関連記事)に存在し、その割合は現代イタリア人より低くいと示されています(関連記事)。

 しかし、シチリア島における青銅器時代個体群のCHGとの類似性はf4統計により裏づけられるものの、新石器時代個体群のCHG流入の証拠はさほど堅牢ではありません。さらに、いくつかの例外を除いて(関連記事1および関連記事2)、以前の調査は、これらの事象と関連する社会動態(たとえば、先史時代社会における親族関係構造の評価)に焦点を当てる問題を犠牲にして、おもに祖先的関係の説明もしくは人口集団の移動と混合の推測に焦点を当ててきました。

 古代DNAは、過去の社会的構造と繁殖行動の推測に役立ちます。ヨーロッパの新石器時代(N)では、いくつかの研究で父系社会組織の広範な文化的つながり(関連記事)が、また青銅器時代への移行期には、大規模で性的に偏った移住(関連記事)や、父方居住と女性族外婚(関連記事1および関連記事2)や、文化拡散と移住の影響が検出されています(関連記事)。これらの変化の社会的影響はまだ議論されていますが、文化的変化は適応に影響を及ぼす可能性があり、たとえば、技術の変化は食性の変化につながり、代謝遺伝子への選択圧につながります。

 これまで、銅器時代から青銅器時代の移行期におけるイタリア中央部の社会的構造や、文化的慣行の変化(親族関係や父方居住や族外婚)の変化が草原地帯関連祖先系統到来と相関しているのかどうか、まだ調べられていません。これは、イタリア銅器時代には多種多様な埋葬慣行が存在するものの、それらが多くの場合、混合された遺骸の集団埋葬により特徴づけられる、という事実に部分的に起因するかもしれません。これにより、埋葬集団の人類学的分析および親族関係と社会的構造に関する解釈が困難になりました。しかし、高処理能力古代DNA配列により、多数の骨格遺骸の遺伝的検査と、関節離断した遺骸からの個体の復元が可能になりました。

 ヨーロッパ大陸部の人口史理解の再形成に加えて、ヨーロッパの古代ゲノムの分析は、ヨーロッパにける表現型形質の選択の時間的深さに関する仮説に疑問を呈しています。たとえば、古代DNA研究では、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民は濃い肌の色と青い目の色を有していた(現在では稀な組み合わせです)可能性があり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、肌の色素沈着の選択が過去5000年に起きた、と明らかにしてきました。他の最近の研究では、脂肪酸代謝およびデンプン消化と関連する遺伝子内の選択は、農耕移行期に起きたのではなく、ヨーロッパへの草原地帯関連祖先系統の到来に続く紀元前2000年頃に始まり、草原地帯関連祖先系統構成要素自体が動因だったかもしれない、と示唆されています。

 もう一つの未解決の問題は、ヒトゲノムの形成における病原体の役割で、古代DNAを用いて調査が始まりつつあります。一つの特定の病原体であるハンセン病は、青銅器時代の地中海で古病理学的証拠が最初に見られ、紀元前300年頃までにイタリア中央部および北東部での症例が指摘されています。ハンセン病は後にローマの軍事行動により拡大し、ヨーロッパでは中世前期に増加した可能性がありますが、紀元後15世紀までには減少し、この減少におけるヒトの遺伝的適応の役割は不明です。最近古代DNA研究で発見されたものも含めて(関連記事)、感染の発現と進行に関連する遺伝子座は多く存在します。本論文は古代DNAを用いて、イタリア北東部および中央部の銅器時代と青銅器時代の移行以前およびその期間を通じての祖先系統構成要素の多様性と、草原地帯関連祖先系統の変化が推定される社会的構造および/もしくは表現型特性の変化と相関しているのかどうか、調査します。


●資料

 新たに得られたイタリアの古代DNAデータは、ネクロポリス(巨大墓地)のガットリーノ(Necropoli di Gattolino)と、3ヶ所の洞窟から得られました。3ヶ所の洞窟とは、北東部のブロイオン洞窟(Grottina dei Covoloni del Broion)、中央部のラサッサ洞窟(Grotta La Sassa)とマルゲリータ洞窟(Grotta Regina Margherita)です(図1A)。合計で22個体の古代DNAデータが得られました。内訳は、ブロイオン洞窟が銅器時代(CA)4個体と前期青銅器時代(EBA)2個体と青銅器時代(BA)5個体の計11個体、ガットリーノ洞窟が銅器時代4個体、マルゲリータ洞窟が青銅器時代3個体、ラサッサ洞窟が銅器時代4個体です。これらの平均網羅率は0.0016~1.24倍です。

 これら22個体の年代は、ヒト遺骸と共伴した土器破片や金属器などの考古学的証拠と、22個体のうち12個体の直接的な放射性炭素年代に基づいています(図1B)。直接的な放射性炭素年代のない10個体のうち、個体BRC013の年代は、1親等(おそらくは兄弟)の直接的に放射性炭素年代測定された個体(BRC022)に、女性の平均的な繁殖期間(30年)を組み合わせて推測できます。しかし、他の9個体に関しては、考古学的情報と遺伝学的情報の両方を考慮して、最も節約的な区分に割り当てられました。以下は本論文の図1です。
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●新石器時代から鉄器時代のイタリアの遺伝的構造

 イタリアの銅器時代と青銅器時代の個体群を他の古代および現代のヨーロッパ人口集団と比較するため、主成分分析が実行され、古代の標本群がユーラシア現代人1471個体の遺伝的多様性に投影されました(図2A)。新たに生成された標本は、2つの主要なクラスタに分散しています。それは、青い円のヨーロッパ新石器時代(EN)と、赤い円の新石器時代後(PN)です、前者は、ラサッサCA(銅器時代)とガットリーノCAとブロイオンCAを含み、後者はマルゲリータとブロイオンの前期青銅器時代(EBA)および青銅器時代(BA)標本を含みます。

 興味深いことに、文献から利用可能な新石器時代と銅器時代と青銅器時代のイタリアの標本のほとんどはENクラスタ内に収まりますが、PNクラスタはほぼ鉄器時代(IA)標本群が中心で、既知の何点かのBA個体を含みます。これは、現時点で利用可能なイタリアBA標本群のほとんどがサルデーニャ島とシチリア島に由来し、この2島では草原地帯関連祖先系統構成要素の減少が報告されてきた、という事実と一致します(関連記事1および関連記事2)。これはDyStruct分析により確認され(図2B)、銅器時代から青銅器時代のサルデーニャ島とシチリア島の個体群における高いアナトリア半島新石器時代(N)構成要素も示します。

 ENクラスタ内の分離(図2A)は明確に、アナトリア半島およびヨーロッパ東部新石器時代個体群(右側)をヨーロッパ西部新石器時代個体群と区別し、それはドイツ西部の標本群(左側に位置し、ヨーロッパ西部狩猟採集民により近く位置します)として定義されます。類似の分離はすでにこれの標本群におけるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の割合の違いとして報告されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ただ、本論文で新たに提示される銅器時代個体群のほとんどは、両クラスタの右側(アナトリア半島およびヨーロッパ東部)に位置することに注意が必要です。

 f4統計(ムブティ人、イタリア中石器時代、サルデーニャ島新石器時代、X)により、イタリアの銅器時代標本群とWHGとの間の類似性がさらに調べられました。XはイタリアN(新石器時代)、ラサッサCA、がCA、ブロイオンCAのいずれかです。負のZ得点は、イタリア中央部中石器時代標本が、イタリア半島銅器時代標本よりもサルデーニャ島Nとより多く共有することを示唆します。同時に、f4統計(ムブティ人、アナトリアN、サルデーニャ島N、X)では、ガットリーノCAとの比較のみで有意な負の値が得られ、ENクラスタの両方の間もしくはEN構成要素内の構造間のWHGとアナトリアNの構成要素における不均衡が、本論文の結果を説明できるかもしれない、と示唆されます。

 しかし、f3(ムブティ人、イタリアCA、Y)では、イタリアCAは全てイタリア半島の銅器時代標本で、YはENクラスタとなりますが、主成分分析の観察を識別する能力がないかもしれないことに、注意が必要です。いくつかの研究では、新石器時代に始まるジョージア(グルジア)およびイランの狩猟採集民と関連する集団からの影響が検出されてきましたが(関連記事)、f4(ムブティ人、ジョージアKotias、サルデーニャ島N、X)は、青銅器時代前のイタリア集団のどれとも有意ではありません。

 qpWaveとqpAdmの枠組みを用いて、新石器時代・銅器時代と青銅器時代との間の境界における連続性の可能性が評価されました。2つの推定起源集団を用いると、本論文におけるイタリア北部および中央部の全ての対象とされた青銅器時代集団は、銅器時代的個体群が草原地帯関連祖先系統からの遺伝的寄与を受け、それはおそらく、ドイツの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団、フランスの中期新石器時代集団、イタリアの銅器時代集団など、北方の後期新石器時代・銅器時代集団を通じてだった、というシナリオが支持されます。選択されたユーラシアの中石器時代から鉄器時代にいたる古代人と現代人のモデルベースクラスタ化分析(DyStruct、図2B)とADMIXTURE分析は、サルデーニャ島およびシチリア島個体群との主要な違いとして、イタリア半島の青銅器時代個体群における草原地帯関連祖先系統構成要素の存在を示し、主成分分析におけるPNとEN間の個体群の分布を説明します(図2A)。以下は本論文の図2です。
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 これがf4(ムブティ人、ヤムナヤKalmykia、X、アナトリアN)で検証されました(図2C)。Xはイタリアの中石器時代後の標本(少なくとも5000ヶ所の一塩基多型が利用可能な標本のみ)で、検証の結果、草原地帯関連祖先系統構成要素の有意な濃縮のある個体群のみが、本論文で新たに生成されたEBAおよびBA個体群内と、既知の鐘状ビーカーもしくはイタリア鉄器時代個体群に含まれます。ヨーロッパにおける他の銅器時代から青銅器時代への移行について以前に報告された研究とは対照的に、外群f3検定(イタリアCA・EBA・BA、古代人、ムブティ人)では、草原地帯関連祖先系統を有する人口集団はイタリアでは男性に偏った兆候を残さず、仮にその偏りがあったとしても、代わりに在来の新石器時代集団の寄与を通じて見られます。

 コピー類似性に基づく2つの直行性手法であるChromopainter/NNLSとSOURCEFINDを使用し、複数のf4の組み合わせの比較に基づいて、新たな状況が要約されました(図3)。新規標本に関しては、両方の手法はDyStruct(図2B)との全体的な一貫性を示し、ヨーロッパ狩猟採集民関連構成要素の新石器時代後の増加と、草原地帯関連祖先系統の到来を浮き彫りにし、例外は前期青銅器時代のサルデーニャ島です。さらに、イタリアN・CAについて報告されたアナトリアNとWHGの割合は、主成分分析で識別されたENクラスタ内の位置に関係なく類似しています。以下は本論文の図3です。
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 新たに生成された全標本でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)は、Y染色体の網羅率が0.01倍以上の男性10個体で決定されました。以前に報告された草原地帯関連祖先系統とYHg-Rの同時拡大と一致して、イタリアBA男性4個体のうち3個体がYHg-R1で、そのうち2個体はYHg-R1bに分類できました。YHg-R1bは銅器時代の標本では見られません。イタリアのYHg-R1bの2個体はヨーロッパ西部現代人と、鐘状ビーカー文化の被葬者で一般的なYHg-R1b1a1b1a1a(L11)で、ロシアの草原地帯の古代人のゲノムで見られるYHg-R1b1a1b1b(Z2105)ではありませんでした。


●銅器時代と青銅器時代における構造と移動性

 本論文で新たに生成された標本が出土した遺跡は、単一埋葬のネクロポリスがガットリーノ洞窟(紀元前2874~紀元前2704年頃)のみの1ヶ所で、残りのブロイオンとラサッサとマルゲリータは混合埋葬洞窟です。本論文におけるラサッサ洞窟の標本は銅器時代(紀元前2850~紀元前2499年頃)のみで、マルゲリータ洞窟の標本は青銅器時代(紀元前1609~紀元前1515年頃)のみです。ブロイオン洞窟は、銅器時代(紀元前3335~紀元前2936年頃)と青銅器時代(紀元前1609~紀元前1515年頃)の両方の時代にまたがる唯一の遺跡です。

 遺跡の利用と違いが洞窟と墓地の埋葬の間にあるのかどうか、埋葬行動の変化は遺伝的祖先系統の変化と同時に起きたのかどうか、よりよく理解するために、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体で、母系と父系の系統多様性と移動性の情報が得られます)と遺伝的親族関係(家族構造の移動性の情報が得られます)とROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 合計で銅器時代(12標本)と青銅器時代(10標本)の標本規模はほぼ等しく、男性と女性の総数は予測と異なりません。しかし、銅器時代の洞窟内における男女比は7:1で予測とは異なるものの、ブロイオン遺跡とマルゲリータ遺跡の青銅器時代層もしくはガットリーノ遺跡の銅器時代ネクロポリスにおける男女比は異なりません。これらの結果は、銅器時代の洞窟埋葬における男性へのわずかな偏りを示唆します。

 1親等および/もしくは2親等の遺伝的親族関係がこれら4遺跡内もしくは4遺跡間の個体群、あるいは新たに生成されたゲノムと既知の古代ゲノムデータセットとの間に存在するのかどうか識別するため、2つの手法が用いられました。まず、親族関係度の最初の決定のため、擬似半数体データのペアワイズミスマッチ推定が用いられました(READ)。新たに報告された古代ゲノムの全てを1集団として、遺跡および/もしくは年代(新石器時代および銅器時代と、青銅器時代)ごとに分けて解析すると、まとめ方に関わらず一貫した結果が得られました。

 親族の程度(たとえば1親等では、両親が同じキョウダイと親子関係)の関係タイプを区別するため、遺伝子型についてのPlink-1.959に実装されているIBD解析が用いられました。IBDとは同祖対立遺伝子(identity-by-descent)で、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存しており、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。遺伝子型はパイプラインを用いて決定され、親族関係が近い場合(1親等から2親等)には、両方の手法が一貫した結果を提供しました。なお英語圏では、キョウダイが1親等(日本語では2親等)、イトコが3親等(日本語では4親等)となります。

 検証された青銅器時代の7個体では、新たにゲノムが生成された遺跡間、もしくは既知のデータとも、親族関係が見つかりませんでした。しかし、標本規模が小さいので、これらの個体から一般的確実性のパターンを推測するさいには注意が喚起されます。銅器時代の12個体については、密接な親族関係がラサッサとブロイオンの両洞窟遺跡で検出され、全ての親族関係は男性間でした。ラサッサ遺跡では、男性2個体(LSC002/004とLSC011)が同じY染色体ハプロタイプを有しており、LSC011はYHg-J2a(M410)、LSC002/004はJ2a1a1b1(Z2397)に分類されます。一方、mtHgは異なっており、LSC002/004がH1bv1、LSC011がJ1c1です。両者は1親等の関係と推定され、IBD値の割合は親子関係と一致し、父子関係と示唆されます。放射性炭素年代測定の較正曲線の性質により、どちらが父親なのか、正確に推定することはできません。しかし、放射性炭素年代測定は、古代DNAから推測される両者の関連性を却下しません。ひじょうに低い網羅率のLSC007はLSC002/004と1親等の関係にあるようで、両者は同じmtHg-H1bv1を有しています。LSC007は、YHgの分類には網羅率が低すぎました。

 これらの個体と同年代の女性LSC005/013(mtHg-H1e5a)は、検出可能な密接な遺伝的親族関係を有さず、主成分分析では男性と離れてクラスタ化し、ラサッサ遺跡の標本抽出された歯では、他の歯の範囲外に位置するストロンチウム同位体値を示します。LSC005/013が遺伝的に他のラサッサ遺跡個体群よりも別の人口集団の方と類似しているのかどうか検証するため、f4(ムブティ人、LSC005/013、ラサッサCA、他の標本・人口集団)が実行されました。いくつかの同時代人口集団では0ではない正のZ得点がありますが、有意な閾値を超えるものはありません。証拠の要約から、LSC005/013は他のラサッサ遺跡個体群と同じ地域で育ったわけではないかもしれないものの、その遺伝的類似性の確定にはより高い網羅率のゲノムデータとより多くの包括的な標本が必要になる、と示唆されます。

 ブロイオン遺跡では、銅器時代と直接的に年代測定された全個体(BRC001とBRC013とBRC022)および/もしくはヨーロッパ新石器時代(EN)クラスタに分類される(図2A)個体(BRC011)は男性で、直接的に年代測定された3個体は全て1親等および2親等の関係を示します。直接的に年代測定された3個体はYHg-G2a(P15)を共有しており、下位区分もYHg-G2a2b2b1a1(F2291)で同じです。しかし、網羅率の違いのため、末端の分枝の遺伝子標識は3個体全てで得られませんでした。BRC013とBRC022はmtHg-H5a1を共有しており、1親等の関係ですが、mtHg-J2a1a1のBRC001/023はBRC013と2親等の関係にあるものの、BRC022との親族関係はありません。PI_HAT値はBRC013とBRC022の間の全兄弟(両親が同じ兄弟)としての1親等の関係と、BRC013とBRC022とBRC001/023の間の異なる2親等の関係を裏づけます。これらの値を考えると、最も節約的な想定は、BRC013とBRC022が兄弟で、BRC013はBRC001/023の祖父である、というもので、放射性炭素年代はこの想定を却下しません。

 新たにゲノムデータが得られた22個体のうち、N・N1・H・J・Kと多様なmtHgのうち、一致するのは2例のみでした。これは、ミトコンドリア水準での検出可能な構造の欠如を示唆しており、銅器時代と青銅器時代における、より大きな母系人口規模・族外婚および/もしくは父方居住親族構造と一致する可能性があります。この想定をさらに調べるため、古代および現代の人口集団におけるROHが分析されました(図4A~C)。これは、ハプロタイプ参照パネルを用いて、低網羅率ゲノムでROH断片を検出する方法です。網羅率の違いが統計的に偏らせてないことと(図4D)、帰属や配列のエラーがないことを確認しました。ゲノム断片の数と長さが、1.6 cM(センチモルガン)未満、1.6~4 cM 、4~8 cM 、8 cM 超の4区分で計算されました。本論文は1.6 cM以上の区分(4 cMや8 cMの区分も含まれます)に焦点を当てました。それは最近の親族関係に関する情報をもたらし、最も確実に推測できます。

 中石器時代後の古代人標本について1.6 cM超のROHの推定値は、現代イタリア人で得られた値の範囲内にあり、同水準の族内婚を示唆します(図4A・B)。しかし、イタリア新石器時代個体群と本論文で新たに報告されたイタリア青銅器時代個体群の1.6 cM超の断片の長さと1.6 cM超の断片の数との間には有意な違いがあり、青銅器時代のより大きな有効人口規模、もしくは在来の銅器時代人口集団との混合事象に続く追加の多様性の結果と一致します。ラサッサ遺跡内では、個体LSC002/4において1.6 cM超断片の合計の長さが最高となり、唯一8cM超の断片が検出されました。以下は本論文の図4です。
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●イタリア古代人の表現型特徴の変化

 経時的な祖先系統構成要素の変化が表現型の変化に対応しているのかどうか確定するため、本論文および以前の研究で提示された古代人標本における、代謝・免疫・色素沈着と関連する115個の表現型と関連する遺伝的標識が分類されました(関連記事1および関連記事2)。本論文で新たに提示された16個体と文献からの316個体の計332個体が分析されました。これらは、イタリア中石器時代3個体、イタリア新石器時代および銅器時代52個体、イタリア青銅器時代60個体、イタリア鉄器時代および現代133個体、近東新石器時代および銅器時代41個体、近東青銅器時代18個体、ヤムナヤ(Yamnaya)文化18個体に分類されます。

 3個体以上の標本規模の集団について、各人口集団におけるそれぞれの表現型多様体の有効アレル(対立遺伝子)の頻度が計算された後、アレル頻度における変化を分析するためANOVA検定が実行されました。異なる期間のイタリアおよび非イタリア集団両方の間と、イタリア内の集団間が比較され、イタリアの個体群は期間と地理的位置に基づいて12コホートに分類されました。両方の検定で、ボンフェローニ補正の適用により有意な閾値が設定され、テューキー検定を用いて有意な組み合わせが決定されました。

 イタリア集団を近東およびヤムナヤ文化人口集団と比較すると11個の多様体が有意で、イタリア内検定では8個が、両方の検定では4個が有意でした。標本規模が小さいため、これらの結果は注意して解釈する必要がありますが、いくつかの潜在的に興味深い結果が出現します。両方の検定で有意な多様体、つまりTLR1(rs5743618)、TNF(rs1800629)、HLA(rs3135388)、SLC45A2(rs16891982)については、兆候はほぼ完全に、ローマ共和政期イタリア中央部集団(Cen_postRep)により駆動されており、ローマ期と古代末期と中世の個体群を含みます。追加の草原地帯関連祖先系統にも関わらず、本論文のイタリア青銅器時代標本群とイタリア新石器時代・銅器時代集団との間に検出可能な違いはありません。

 本論文で浮き彫りになった4多様体のうち3個は、ハンセン病に対する保護と感受性に関連しています。HLA(ヒト白血球型抗原)関連多様体(rs3135388)は、デンマーク中世人口集団においてハンセン病の身体症状に対する感受性が示唆されており、青銅器時代後のイタリア人と新石器時代・銅器時代の近東人と青銅器時代イタリア人とヤムナヤ文化個体との間で有意に異なっていました。この検定におけるrs3135388の統計的有意性は、おそらくは鉄器時代以後のイタリア中央部人における保護的アレルの低頻度に起因します。腫瘍壊死因子関連のTNF遺伝子の多様体(rs1800629)も、保護的アレルの頻度が減少しているようです。両方の結果は、ヨーロッパの歴史的および考古学的記録におけるハンセン病の頻度上昇と一致しています。先天性免疫に関わるToll様受容体であるTLR1の多様体(rs5743618)は、アジア人口集団におけるハンセン病に対する保護と結核への感受性増加の両方と関連しており、他の方向での有意な結果を示し、ローマ共和政期イタリア中央部集団でのみより高頻度で引き起こされます。

 両方の検定で重要な4番目の多様体(SLC45A2遺伝子のrs16891982)は、髪と目の色素沈着に関係しています。身体的外見では、銅器時代および青銅器時代のイタリア集団は、イタリアと近東のより早期の集団よりも、鉄器時代および後のローマ期の集団と類似した表現型を有しています。イタリアの既知の中石器時代3個体は、肌と髪の色が濃く、目は青色と予測されていますが、他の標本のほとんどは、中間的な肌の色と茶色の髪と青い目が予測されています。しかし、濃い色もしくは茶色の髪と青い目の組み合わせの個体群も、イタリア中央部の新石器時代個体群を除く全ての期間で予測されます。より濃い色の目と髪に関連する多様体(rs16891982)は、青銅器時代後のイタリア集団とそれ以前のイタリア集団との間で有意な違いを示し、イタリア中央部における頻度低下は本論文で新たに報告された銅器時代個体群で始まり、同じく本論文で新たに報告された青銅器時代個体群と、ローマ共和政期後のイタリア中央部集団で最低の値が観察されます。この違いは、青銅器時代前の新石器時代イタリア中央部集団およびサルデーニャ島集団と比較してとくに顕著です。


●考察

 本論文で新たに報告されたゲノムは、ヨーロッパにおけるイタリア先史時代後期の人口動態のより詳細な説明を提供します。主成分分析で観察され、以前の研究(関連記事)で報告されている、ヨーロッパ前期新石器時代個体群の2集団への区分は、イタリア本土個体群からサルデーニャ島新石器時代個体群を分離し、サルデーニャ島新石器時代個体群がアナトリア半島新石器時代個体群およびWHGとより高い類似性を示しており、ヨーロッパ新石器時代構成要素内の人口集団構造の可能性を提起しますが、祖先系統における微妙な違いを解明するには、高網羅率の古代ゲノムを含むより詳細な分析が必要です。

 本論文の分析は、イタリア全域における草原地帯関連人口集団からの青銅器時代の頃および青銅器時代後の予測される兆候を示します。草原地帯関連祖先系統は、新石器時代および銅器時代のイタリア個体群には欠けており、イタリア前期青銅器時代の、鐘状ビーカー文化期の個体I2478(紀元前2195~紀元前1940年頃)と、レメデッロ(Remedello)遺跡の個体RISE486(紀元前2134~紀元前1773年頃)と、ブロイオン遺跡の個体BRC010(紀元前1952~紀元前1752年頃)に出現し、ブロイオン遺跡個体からマルゲリータ遺跡個体GCP003(紀元前1626~紀元前1497年頃)にかけて増加します。これらの標本群は、草原地帯関連祖先系統が、少なくとも紀元前2000年頃までにイタリア北部に到来したことと、その4世紀後までにイタリア中央部に存在したことを確認しますが、この拡大の動態を評価するには、より高密度の標本抽出戦略が必要です。

 本論文のqpAdmの結果から、草原地帯関連祖先系統構成要素はヨーロッパ中央部から後期新石器時代および鐘状ビーカー文化集団を通じてイタリアに到来した、と示唆されますが、標本規模が小さく、時空間的分布が限定的なので、不明な点として、複数の草原地帯人口集団が供給源となったのかどうかと、イタリア半島全域の草原地帯関連祖先系統の正確な年代と拡散が残ります。青銅器時代ブロイオン遺跡個体に見られるYHg-R1bの下位区分は、古代シチリア島標本群およびイタリアの鐘状ビーカー文化個体群で見られます。イタリア北部および中央部青銅器時代集団と後期新石器時代ドイツ集団との常染色体の類似性と合わせて、Y染色体データは、イタリアの草原地帯関連祖先系統の、おそらくは北部とアルプス横断地域と鐘状ビーカー文化関連の起源を示します。

 銅器時代と青銅器時代の境界における男性親族構造の重要性も、本論文の常染色体データを用いて調べられました。銅器時代の混合洞窟埋葬は何らかの親族構造を含む、と長く仮定されてきましたが、古代DNA研究の出現前にそれを直接的に明らかにすることはできませんでした。本論文は、銅器時代において混合洞窟埋葬が密接に関連した男性の埋葬に優先的に用いられた、というパターンを確認しましたが、この事実の社会的重要性は明らかではありません。イタリアの銅器時代人口集団は、より早期の大西洋沿岸で見られる巨石記念碑の建築よりも、自然の埋葬室空間や横穴墓や溝墓を利用していましたが、関連する男性をともに埋葬する重要性は共有される特徴です。

 本論文の遺伝的証拠は、ラサッサ遺跡とブロイオン遺跡両方の人口集団がこれら埋葬儀式について父系子孫と父方居住を強調したことと一致しており、この強調は青銅器時代には消滅するものの、ガットリーノ遺跡の単一埋葬様式銅器時代墓地にも存在しません(おそらくは標本規模が小さいため)。これらの遺跡は在来人口集団の無作為で偏りのない標本抽出ではなく、むしろこれらの社会の一つの特定の儀式的側面の断片を表している、と注意することが重要です。したがって、父方居住と父系が一般的に行なわれていたのかどうか、もしくはこれらのパターンが経時的に変化したのかどうか、推測することはできません。一般的な人口集団構造と共同体間の関係を復元するには、遺伝子と同位体の標本抽出を増やす必要があります。

 草原地帯関連祖先系統の到来は、本論文で評価された表現型のどの頻度パターンにも影響を与えていないようです。むしろ、最大の変化はローマ帝国期もしくはその後に起きたようです。鉄器時代後のハンセン病に対する保護と関連するアレルの減少は、紀元前三千年紀と紀元前四千年紀から紀元後千年紀の頃の衰退までのヨーロッパの生物考古学および歴史的記録におけるハンセン病の症状の増加を考えると、興味深い問題です。これらの多様体がハンセン病および他の病原性マイコバクテリア感染症とどのように相互作用するのか、まだ正確には明らかではありません。したがって、完全な進化史を確定する前に、臨床面でのより多くの研究が必要です。本論文は全ての可能性のある表現型ではなく小規模な部分集合を検証したので、本論文の結果は、表現型の違いだけではない可能性があり、進化のメカニズムとヒトの遺伝子との間の複雑な関係を完全に理解するには、より多くの研究を行なう必要があります。幸いなことに、この研究で生成されたような全ゲノムは、生物学と遺伝学の全領域で進歩の観点から再考できる貴重な情報源を提供します。


参考文献:
Saupe T. et al.(2021): Ancient genomes reveal structural shifts after the arrival of Steppe-related ancestry in the Italian Peninsula. Current Biology, 31, 12, 2576–2591.E12.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.022

黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2017年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、織田信長と羽柴秀吉による天下一統路線を大前提とする通俗的な結果論的戦国時代認識に対して、関東における「関東の副将軍」たる上杉と「日本の副将軍たる」北条(後北条)との55年にわたる抗争に着目し、戦国時代の変化を把握します。信長や秀吉が台頭したのは戦国時代の最終盤なので、戦国時代の変化を把握するには他の事例が適している、というわけです。上杉は室町時代に関東管領を世襲し、戦国時代初期には、関東管領の山内上杉と、その一族で新たに台頭してきた扇谷上杉が有力でした。戦国時代前期の関東は、この両上杉を新興の北条が攻略していく過程として把握できます。

 1524年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)1月、北条氏綱は扇谷上杉の領国への本格的な侵攻を始めます。これ以降55年間、関東では上杉と北条という大きな枠組みで、講和期間を挟みつつ争乱が続きます。すでに北条はそれ以前に、相模や武蔵の両上杉の重臣を一部従属させていました。両上杉は3年ほど争っていましたが、この北条の侵攻の直前に講和します。扇谷上杉は、武田と結んで北条に対抗します。これに対して北条氏綱は、それまで敵対関係にあった古河公方と提携しようと試みますが上手くいかず、両上杉および武田と講和します。

 北条は両上杉や武田や小弓公方を敵に回してしまい、いわば北条包囲網が形成された状況となりました。北条は不利な条件での和睦などでこの苦境に対処します。その後、北条包囲網を担っていた山内上杉家や古河公方家で内乱が起き、さらに里見家起きた内乱に乗じることなどで北条は勢力を拡大していき、1535年には、しばらく劣勢だった扇谷上杉に対して攻勢に出ます。今川は1536年の内乱後、北条に断りなく武田と同盟を締結し、激怒した氏綱は今川との戦いに注力し、関東では劣勢になる局面も出てきました。

 しかし1538年、北条は第一次国府台合戦に勝ち、主要人物が揃って討ち死にした小弓公方家は事実上滅亡します。これにより関東足利唯一の正嫡となった古河公方家は北条氏綱を「関東管領職」に補任し、関東では山内上杉と北条が関東管領家として併存することになりました。北条の家格は大きく上昇し、関東の諸勢力からよそ者と非難されることもなくなりました。1541年、北条氏綱が死去し、氏康が家督を継承した時点で、北条は関東最大の大名となっていました。氏康は山内上杉を共通の敵としていた武田と、さらには両上杉対策で今川とも和睦し、駿河から撤退します。1546年、北条は河越合戦で両上杉に勝ち、扇谷上杉は事実上滅亡します。山内上杉も北条の攻勢に耐えられず、1552年、当主の憲政は長尾を頼って越後へと落ち延びます。氏康は甥(義氏)に古河公方の家督を継承させ、古河公方を源氏将軍、北条を執権に擬すことで、関東における政治的正統性の確立に務めます。また氏康は、武田・今川と婚姻関係の構築により攻守軍事同盟を締結します。

 こうして背後を固めた北条は上野に侵攻し、ほぼ領国化しますが、1560年、山内上杉を保護していた越後長尾の当主景虎(上杉謙信)が上野に侵攻してきて、これ以降の関東における北条と上杉との抗争は、北条氏康・氏政父子と謙信との戦いとして展開します。すでに関東に北条と対抗できる勢力はなく、関東の反北条勢力は外部勢力(越後長尾)を頼った、というわけです。本書は越後長尾の関東侵攻の背景として、東日本の広範な飢饉を指摘します。1561年、長尾景虎は山内上杉の名跡を継承し、関東では有力な関東管領が併存することになります。上杉も北条も、共に相手を旧名字で呼び(伊勢と長尾)、自身の正統性を主張しました。1567年まで、上杉は毎年関東に侵攻してきて、北条は同盟国の武田とともに上杉に対抗しました。このように、関東では北条・武田・上杉と有力大名間の抗争が続き、それが飢饉を悪化させた側面もあるようです。ただ本書は、こうした抗争が、大名の直接的支配領域の拡大ではなく、多分に国衆の動向をめぐるものだったことも指摘します。北条は上杉との戦いで苦境に立つ場面もありましたが、1567年には、その前年の関東における上杉の敗北から、関東の国衆の多くは北条に従属します。

 しかし、ここで関東の政治的枠組みに大きな変化が起きます。武田が東美濃で衝突した織田と、対斎藤目的で和睦し、これに今川氏真の妹を妻としていた武田信玄嫡男の義信が反発しました。信玄と義信の対立は、義信の廃嫡と自害に至り、これに反発した氏真は義信の妻だった妹を引き取り、北条にも内密に上杉と同盟を締結し、信濃への侵攻を要請します。こうして、北条と武田と今川の同盟は崩壊しました。この情勢激変に、北条は武田から支援を求められますが、北条は今川を支援し、武田と戦うことにします。氏康は強敵の武田と戦うに際して、上杉との同盟を画策します。この同盟交渉は国衆を通じて行なわれ、また国衆の帰属が交渉を難しくしました。本書は、戦国時代の戦いも和睦も、国衆の動向が大きな役割を果たした、と指摘します。北条は関東管領職の譲渡など大きく譲歩し、1569年、上杉と同盟を締結します。この北条の懸念は杞憂ではなく、武田軍は小田原まで侵攻してきました。北条と武田との戦いにおいて、上杉は北条が期待したような援軍を出さず、北条家中では上杉との同盟に疑問を抱く者が増え、氏康の死後、北条は武田との同盟を復活させ、上杉との同盟を破棄します。

 北条が武田と再度同盟し、上杉との同盟を解消したことで、関東では再び北条と上杉との抗争が始まります。上杉は謙信自身が出陣し、北条に対抗しますが、1560年代と比較して、関東での勢力は衰えていきました。一方北条は、長年敵対関係にあった里見を事実上降伏させるなど、じょじょに勢力を拡大していきます。1578年3月、謙信が急死し、上杉は内乱(越後御館の乱)が勃発したこともあり、以後は関東の政治秩序に介入することはありませんでした。こうして、55年の長きにわたった関東における北条と上杉の抗争は幕を閉じました。この後の関東では、諸勢力が織田や豊臣のような「中央政権」の介入を要請するようになり、新たな争乱の段階を迎えます。

最終氷期極大期における広範な陸域の寒冷化

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)における広範な陸域の寒冷化に関する研究(Seltzer et al., 2021)が公表されました。最終氷期極大期(最終氷期の最も寒冷だった数千年間)における全球の寒冷化の規模は、地球の気候感度の見積もりを評価するさいの重要な制約条件です。高緯度域の氷床コアから信頼性の高いLGMの気温が得られていますが、陸域の低地での定量的な記録が少ない低緯度域では、代理指標記録の間に大きな相違があります。

 こうしたデータの空白を埋めるものとして、太古の地下水に含まれる希ガスは、水への溶解度の温度依存性に起因する直接的な物理的関係を通して、過去の地表温度を記録しています。溶存希ガスは、生物学的過程や化学的過程の影響を全く受けず、LGMの年代の地下水が世界中に遍在するため、LGM温度の適したトレーサーです。しかし、独立した複数の希ガス研究により、LGMにおいて熱帯域がかなり寒冷化したと示されているものの、それらは異なる方法論を用いており、空間範囲も限られています。

 この研究は、地下水に含まれる希ガスを用いて、LGMに低中緯度域(南緯45度から北緯35度)の標高の低い地表が5.8 ± 0.6℃(平均± 95%信頼区間)寒冷化したことを示します。この分析には、熱帯域の新しい記録に加えて、6大陸から得られた40年にわたる地下水の希ガスデータが含まれており、それら全てが同一の物理的枠組みを用いて解釈されました。この陸域ベースの結果は、気候感度が以前の見積もりよりも大きかったことを示唆する、海洋の代理指標データの同化に基づく最近の再構築結果をおおむね支持しています。

 LGMは、現生人類(Homo sapiens)の人口史において重要な期間だと考えられます(関連記事)。出アフリカ現生人類集団は末期更新世までに遺伝的に多様化していきましたが、完新世にはユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展します。これは、LGMによりユーラシア各地域の現生人類集団が分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなったから、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000~15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、との見解(関連記事)が妥当だとすると、現代人の言語の分岐の多くがLGMに起きた可能性も想定されます。現生人類の遺伝的分化・文化的相違の形成過程を解明するためにも、LGMにおけるさらに詳細な気候変化の解明が期待されます。


参考文献:
Seltzer AM. et al.(2021): Widespread six degrees Celsius cooling on land during the Last Glacial Maximum. Nature, 593, 7858, 228–232.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03467-6

池谷和信「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P1-4)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 初期現生人類(Homo sapiens)の象徴行動(symbolic behavior)のうち、顔料の使用や副葬品による埋葬などとともに、ビーズの存在が一つの指標として注目されてきました。これまで、アジア・アフリカにおける更新世の各地の遺跡から様々な素材のビーズが報告されています。イスラエルの海岸部のスフール(Skhul)洞窟では巻貝やムシロガイ、内陸部のカフゼー(Qafzeh)洞窟では二枚貝、アフリカ東部の内陸部の遺跡ではダチョウの卵殻、インドネシアのスラウェシ島ではバビルサの骨などです。中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点で現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていない、との指摘もあります(関連記事)。

 しかし、数万年前の先史狩猟採集民を対象にした考古学的ビーズ研究では、その年代やビーズの素材は明らかになりますが、誰が身に着けたのか、どのように入手し、どのような役割があったのか、把握することは困難です。本論文は、現存する狩猟採集民のなかでビーズの素材や製作技術や利用と役割についての基礎資料を提示します。著者はこれまで、ボツワナのカラハリ砂漠のサン人およびタイ南部のマニ人という二つの狩猟採集民社会で、人類のビーズ利用に関して民族考古学やエスノヒストリー調査を実施してきました。本論文では、マレー半島に位置するタイ南部のマニ人集落の調査結果が報告されます。マニ人はオラン・アスリ(マレー半島の先住少数民族)の北部集団に分類されます。現在マニ人は、定住化した集団と半定住化した集団と遊動している集団に分類され、調査地は遊動している集団の事例です。

 キャンプAでは、5事例が報告されています。事例1では、成人女性は細長い黄色の筒と3 個と黒の玉を半分にしたもの2 個を組み合わせていました。黄色の筒は動物(ジャコウネコ)の骨、黒色の球形は植物の実です。彼女がなぜそれらを選んだのか、不明です。また、なぜ複数の素材を組み合わせたのも不明です。ただ、動物の骨は同じキャンプの狩猟者からもらい、植物は自分が採集した、との情報が得られました。事例2では、成人女性が3 種類の異なる素材を使っています。上述と同じ木の実が1 個、木の根が3 個、アルマジロの甲羅の破片が1 個です。部材の合計の数は5 個で、素材は事例1 と比較してさらに多様になっています。事例3では、子供男性が2 個の黄色の骨に1 個の木の根を組み合わせています。事例4では、子供男性が2 個の木の根のみを身に着けています。事例5では、1 個の木の根と2 個のプラスティク製のものを身に着けています。キャンプBでは、1事例が報告されています。事例6では、成人女性が15 個の部材を身に着けていました。12 個が上述と同じ木の実で、2 個がアナグマ(Hog badger)の歯から構成されています。キャンプ内では肉が食用にされて、犬歯の部分が装身具に使われています。この二つのキャンプの事例から、この地域のビーズの素材として、植物の実や根や骨や歯が利用されている、と明らかになりました。

 これらの事例では、ビーズを身に着けていたのは成人女性と子供で。成人男性の事例は見いだせませんでした。これは、著者が現地で観察したカラハリの狩猟採集民の事例ともよく類似しています。成人女性は、ダチョウの卵殻や木の実やガラスなどの素材のビーズを、首のみならず頭飾りとしても利用していました。子供の場合は、誕生後に手首などに着けられます。一方で、キャンプのなかのすべての女性がビーズを見に着けているわけではありません。両キャンプのビーズを比較すると、数の違いはありますが、木の実の利用が広く共通して見られました。同時に、誰一人として同じ素材を組み合わせる人はいなかった点が注目されます。ここから、ビーズは人々の美しさのためだけではなく、自らの個性を示すものであり、よい匂いなどの目的のために身に着けている、と分かりました。

 素材は、植物の実や根や動物の骨でした。これに、貝類の素材を加えることからビーズの製作技術について考えてみると、まず、貝類のなかでは人の手を加えることなしに穴があくものもあります。また動物の骨は、なかに空洞が見られるので、その中に糸を通すことが可能である。一方、木の実や根茎は穴を開けるための道具が必要です。それに使用されたのは、動物の角や石器などの可能性が高そうですい。これに対して、ダチョウの卵殻には、これらの素材との比較ではあるものの、かなりの労力が必要になってくると推定されます。

 他地域の事例として、カメルーン南東部の森林地域で暮らすピグミーの場合には、森の産物を用いたビーズを身に着けています。子供が産まれると、親は「赤子が早く歩き出すように」、「災難から守ってくれるように」と願いを込めて、森で見つけた木の実や枝、野生動物の骨や角に穴を開け、首やお腹や手首に巻きつけます。また、ピグミーが重い病気の時のみ、呪術が込められたお守りとしてのビーズが知られています。

 以上のようなことから、以下のようにまとめられます。ビーズを身に着ける目的に関して、当初は、自らの美しさのため、よい匂い、魔除け(ピグミーの事例、呪術的意味)などのために、植物や動物の素材をビーズに使用していた段階(マニの事例)があった、と推測されます。続いて、ダチョウの卵殻や貝の首飾りのように製作や交易に労力を費やすものが生まれ、集団間の社会関係や集団のアイデンティティのために用いられるようになった段階(サンの事例)に変化した、と推定されます。

 考古資料と民族誌資料との関係について、民族誌の事例では、素材の組み合わせにより作られた首飾りが知られていますが、初期人類の考古資料からは見つかっていません。これには、植物製の素材が残りにくいことも関与しているかもしれません。本論文の報告では、個々のビーズが他地域から伝播したものなのか、個々に独立発生したものであるのか、充分十分に区別できていません。ビーズの民族誌は、どのような点で考古資料の解釈に有効であるのか否か、今後の課題として残されています。


参考文献:
池谷和信(2021)「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P1-4

恐竜の鳥類に似た特徴の起源

 恐竜の鳥類に似た特徴の起源を指摘した二つの研究が報道されました。日本語の解説記事もあります。一方の研究(Hanson et al., 2021)は、非鳥類型恐竜・ワニ類・鳥類を含む主竜類群の絶滅種と生存種を対象にその内耳構造を調査し、半規管と蝸牛の形が二足歩行・四足歩行・飛行といった運動能力と高周波音を聞く聴力に関係する、明確なパターンを発見しました。この研究は、これらの分析により恐竜の飛行能力を示す最古の例が示されたとともに、最古いと考えられる親子間の口頭伝達も明らかになった、と指摘します。

 もう一方の研究(Choiniere et al., 2021)は、獣脚竜の生存種と絶滅種を対象に内耳と視覚系の状態を調査し、フクロウのような夜間の捕食に必要な聴覚と視覚の適応は、とりわけ後期白亜紀のアルヴァレスサウルスでは、早い時期に進化したことを発見しました。この発見は、夜間活動のための恐竜の感覚適応は現代の鳥類の登場のかなり前に個々に進化したことを示唆しているとともに、これらの特徴が非鳥類型恐竜・鳥類・哺乳類の間で何百万年もの時間をかけて収斂したことを実証しています。

 絶滅種124種と生存種91種を対象とした内耳構造と眼球を支える強膜輪に関するこれら二つの研究により、恐竜の感覚器官の生態と、飛ぶ・夜間に狩りをする・子供の甲高い鳴き声を聞くといった能力を含む行動の進化について、新たな知見が得られました。これら二つの研究では最先端の画像技術と高度な統計分析が活用されており、これまで調査の届かない部分だった、器官内部の構造の多くの特徴と子育てや日常の活動パターンといった習慣との確かな関連性が示されました。


参考文献:
Choiniere JN. et al.(2021): Evolution of vision and hearing modalities in theropod dinosaurs. Science, 372, 6542, 610–613.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667

Hanson M. et al.(2021): The early origin of a birdlike inner ear and the evolution of dinosaurian movement and vocalization. Science, 372, 6542, 601–609.
https://doi.org/10.1126/science.abe7941

アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動

 アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動に関する研究(Wilkins et al., 2021)が公表されました。アフリカ南部沿岸地域における考古学的発見は、現生人類(Homo sapiens)を特徴づける複雑な象徴的および技術的行動の出現に関する知識を変えました。特定の種類の象徴的物資の製作と使用は10万年前頃までさかのぼり、南アフリカ共和国のブロンボス洞窟(Blombos Cave)における顔料処理道具一式と線刻のあるオーカー小瘤を含みます。同じ頃、南アフリカ共和国のピナクルポイント(Pinnacle Point)洞窟13B層とクラシーズ川(Klasies River)主遺跡のヒトは、斬新で非実用的な物(非食用海洋性貝)を集めており、おそらくは象徴的慣行の構成要素でした。

 南アフリカ共和国西ケープ州のディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡(関連記事)では、装飾されたダチョウの卵殻(OES)の廃棄された断片が、ハウイソンズ・プールト(Howiesons-Poort)様式の人工物と関連して発見され、最初期の装飾されていないダチョウの卵殻の根名題は105000年前頃です。現在、アフリカ南部のこれらの遺跡は全て沿岸にありますが、過去には異なっていたでしょう。しかし、過去12万年間の最も極端な氷期においてさえ、海岸はこれらの遺跡から100km以上離れていませんでした。アフリカ南部の内陸部では、保存状態が良好で堅牢な年代の得られている層状遺跡は稀で、その結果、内陸部人口集団の役割を軽視する、沿岸部遺跡への強い偏りが生じます。


●GHN遺跡

 ガモハナ丘(Ga-Mohana Hill)はカラハリ盆地南部にあり、南アフリカ共和国のクルマン(Kuruman)の北西12km、最も近い現代の海岸から665kmに位置します(図1b)。GHN(Ga-Mohana Hill North Rockshelter)遺跡は、2ヶ所の主要な岩陰といくつかの小さな張り出しのうち最大のもので、古原生代にさかのぼる苦灰石のガモハーン層(Gamohaan Formation)内に位置します。合計4.75㎡の3ヶ所の岩陰が発掘され、最大深度1.7mにまで達し、中期石器時代と後期石器時代の一連の層状堆積物が明らかになりました。

 約10cmの緩い表面堆積物の下に、「暗褐色の砂利沈泥(シルト)」、「橙色の灰質沈泥」、「暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)」と呼ばれる3つの層序学的集合体が見つかりました。ルーフスポール(roofspall)とは、洞窟や岩陰の屋根や壁からの破片です。報告された出土品(2128個)の傾きと方向性は、これらの人工物がほぼ主要な文脈にあったことを示唆します。これら3層それぞれの石英単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定の結果、暗褐色の砂利沈泥層は14800±800年前、橙色の灰質沈泥層は30900±1800年前、暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)は105300±3700年前との結果が得られました。

 本論文は、これまでの発掘で最も深い堆積物となる、A地区のDBSRに焦点を当てます。DBSR表面から1.6m下の標本の追加のOSL年代は105600±6700年前で、これは以前の推定と一致しており、DBSRの年代の新たな加重平均は105200±3300年前です。DBSRの剥片石器群は中期石器時代石器群の典型で、石刃や尖頭器や調整石核により特徴づけられます。これらの石器群は、地元で入手可能な燵岩(42%)と凝灰岩(28%)と縞状鉄鉱石(26%)で製作されました。DBSRでは赤色オーカーの大きな断片も回収されました。これには2つの平らな表面の形で使用の証拠があり、そのうち一方には、浅い平行の条線がありました。以下は本論文の図1です。
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●方解石結晶

 DBSRでは22個の未加工の方解石結晶が発見されました。結晶は半透明の白い菱面体で、規則的で整った小面を有し、最大長は0.8~3.2cmです(図1a)。結晶は自然の過程により外部から堆積物にもたらされたわけではありません。DBSRの人工物は水平に積み重なった堆積物内に平らに置かれており、方向性はありません。石膏など続成作用のカルシウム鉱物は、骨の保存を破壊する微結晶集合体として考古学的堆積物に形成されますが、これらはDBSRの方解石結晶(大結晶であり、骨の保存を破壊しません)とは異なります。

 DBSRの方解石結晶は岩陰の壁や天井には由来しません。刀身のある方解石結晶はガモハーン層では鉱脈として自然に発生しますが、それらは小さすぎて(最大長寸法0.5cm未満)形が不規則なので、考古学的結晶の供給源にはなりません。岩陰の壁もしくは天井、あるいはこの研究で集中的に調査されたガモハナ丘の地域内には、形の整った白い半透明の結晶は自然には存在しません。方解石結晶の供給源として可能性があるのはGHN遺跡の南東2.5kmに位置する低地の苦灰石の丘で、大きな菱面体の方解石結晶の形成と豊富な石英結晶が観察されました。これは結晶には地元の供給源があることを意味しますが、その自然的発生は稀です。

 DBSRの方解石結晶はいずれも、意図的な加工の兆候を示しません。方解石はモース硬度3と柔らかく、貝殻様には割れないので、これらの結晶が石器の原料としてGHN遺跡に運ばれた可能性は低そうです。結晶の分布は限られており、大半は2ヶ所の区画(0.5㎡)で回収され、垂直方向の分布は15cm未満だったので、別々の貯蔵物として堆積された、と示唆されます。結晶のサイズは、上層の中期石器時代および後期石器時代層のものと類似しています。したがって、DBSRで発見された方解石結晶は、意図的に収集された非実用的な物体の小さな貯蔵物を表している、と考えられます。

 結晶は中期石器時代アフリカ南部を含む世界中の多くの期間で、精神的信念や儀式と関連づけられてきました。結晶は、アフリカ南部の完新世および更新世の文脈で知られていますが、確実に8万年以上前の堆積物からの結晶群はまだ報告されていません。したがって、105000年前頃となるGHN遺跡における非実用的な物の収集は、アフリカ南部沿岸における非食用海産貝の収集慣行と同年代です。


●ヒトが収集したダチョウの卵殻

 DBSRで42個のダチョウの卵殻(OES)が発見されました。OESを構成する断片は細かく、平均最大断片長は11.3mmです(5.3mm~25.7mm)。いくつかの証拠はOESの起源が人為的であることを裏づけます。第一に、断片は保存状態良好な岩陰遺跡内で発見され、他の多くのヒトの活動の痕跡と直接的に関連しています。第二に、OES断片は燃やされた証拠を示します。OES断片の80%以上に赤色が着いており、これは300~350℃の温度に曝されたことを反映しています。第三に、GHN遺跡における動物相遺骸の蓄積の主因はヒトで、ダチョウの卵を食べるハイエナや他の動物が存在した証拠はありません。

 DBSRの動物考古学的資料の識別可能な断片は、有蹄類とカメの遺骸が優占します。化石生成論的分析は、人為的打撃痕と解体痕の高頻度を示し、動物標本のほとんどには中程度の燃焼の証拠があります。民族誌的観察では、OESは効率的な貯蔵容器の製作に用いることができる、と示唆されており、それは初期のヒトにとって重要な革新を表しています。なぜならば、そうした容器は水や他の資源の輸送と貯蔵に仕えるからです。OES容器の証拠は後期石器時代では一般的で、この技術はアフリカ南部沿岸の遺跡では長い年代を経ており、中期石器時代となる105000年前頃までさかのぼります。ヒトが収集したOES群はカラハリ砂漠の比較可能な文脈で報告されており(図2)、GHN遺跡におけるヒトが収集したOESの出現は沿岸部と同年代である、と示されます。以下は本論文の図2です。
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●古環境的背景

 ガモハナ丘の証拠は、本論文の調査結果の古環境的背景への重要な洞察を提供します。ガモハナ丘には石灰華の蓄積や水溜りや小滝や堰や角礫岩の堆積物が豊富にあり、過去には浅い水溜りや水の流れがあったことを示しています。小滝形成のいくつかの段階は、苦灰石に対してはその場、崩壊した塊としては外側と、GHN遺跡の両側で起きました(図3)。外側のコアからは5点のウラン・トリウム年代値が得られ、その年代範囲は113600~99700年前頃でした。この半連続的石灰華形成は、丘の中腹を流れる豊富な水を示唆します。これはカラハリ盆地の他の古気候記録と一致しており、マカディカディ(Makgadikgadi)盆地の巨大湖の高台の年代はOSLでは104600±3100年前で、カサパン6 (Kathu Pan 6)の堆積物は湿地環境と関連していると解釈されており、OSLでは100000±6000年前となります。以下は本論文の図3です。
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 現代の気候データは、気候変化の過去の潜在的推進要因について情報を提供します。現在、南方振動指数はガモハナ丘周辺の11月と5月の降水量と有意な正の相関を示しますが、それ以外の時期は異なります。インド洋の海面水温は、11月の降水量との有意な負の相関を除けば、ガモハナ丘周辺の降水量と有意には相関していません。インド洋の海洋コア堆積物に基づく海面水温の復元は、11万~10万年前頃の一対の二重極を示唆しており、これがアフリカ南部の対流性隆起に有利に作用したでしょう。しかし、二重極の程度は、降水量増加の唯一の原因となるほど極端ではないようです。したがって、降水量増加は単一の気候要因ではなく、インド洋南西部の海面水温の上昇と、強烈な負の南方振動指数の組み合わせにより降雨量が増加し、苦灰石岩盤の貯蔵能力とともに、景観上で恒久的な水がもたらされた、と考えられます。


●考察

 現代的行動の現生人類の進化に関する単一起源沿岸モデルは、アフリカ内陸部の人口集団が主要な文化的革新の出現に殆どもしくは全く役割を果たさなかった、と仮定します。しかし、カラハリ盆地南部のGHN遺跡における堅牢な年代測定値のある中期石器時代堆積物の発掘により、そうした沿岸モデルと矛盾する証拠がもたらされました。沿岸部から離れた後期更新世遺跡が稀であることを考えると、このモデルは常に問題を抱えています。GHN遺跡での本論文の調査結果は、カラハリ砂漠における非実用的な物体の収集の証拠が105000年前頃までさかのぼるひとを示し、これは沿岸部の証拠と同年代です。GHN遺跡で新たに明らかになった行動的革新の記録は、カラハリ砂漠における降水量増加の期間と同年代で、空白で乾燥した内陸部という長年の見解と矛盾します。水の利用可能性の向上は、一次生産性の向上および人口密度増加と相関しており、それが革新的行動の起源と拡大に影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。

 本論文で用いられた考古学的・年代測定的・古環境的手法は、カラハリ盆地および他の研究されていない地域でのさらなる調査の基礎を築きました。GHN遺跡の証拠は、現生人類特有の行動の出現が沿岸部の資源に依存していた、との仮定に疑問を提起します。代わりに、これらの現代的行動は、多様で離れた環境で共有されていたようで、技術的収斂もしくはアフリカ全域での相互接続された人口集団の拡大を通じての急速な社会的伝達を反映しているかもしれません。したがって、本論文の結果は、沿岸部環境に限定されず、カラハリ盆地南部を含む、現生人類出現の多極起源(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)への裏づけを追加します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


ヒトの進化:初期人類の行動を示す証拠が内陸部で見つかった

 初期現生人類が複雑な行動を取っていたことを示す証拠が、アフリカ南部の内陸部で見つかったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、ヒト(Homo sapiens)の複雑な行動が沿岸環境で出現したとする最も有力な見解に異議を唱えるものだ。

 現生人類が黄土色の顔料、非食用貝の貝殻、装飾された人工遺物などの象徴的資源を使用していたことを示す証拠としてこれまでで最古のものは、アフリカのさまざまな沿岸域で出土し、12万5000~7万年前のものとされる。

 今回、Jayne Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の南アフリカ共和国内の海岸線から約600キロメートル内陸に位置するGa-Mohana Hill North岩窟住居遺跡で発見された約10万5000年前の考古学的遺物について報告している。出土した人工遺物の中には、意図的に収集されて持ち込まれたと考えられる方解石結晶が含まれていた。しかし、方解石結晶の実用上のはっきりとした目的は分からなかった。これに加えて、ダチョウの卵殻の破片も発見され、これは、水を貯蔵するために使われた容器の残骸である可能性がある。

 カラハリ砂漠の数々の古代遺跡に関するこれまでの研究では、初期人類の存在が示されてきたが、実用的でない物の収集や容器の使用といった複雑なヒトの行動を示す証拠で、なおかつ年代がはっきり決定されているものについての報告はない。Wilkinsたちは、アフリカ南部の内陸部における現生人類の行動革新は、沿岸付近の人類集団の行動革新に後れを取っていなかったという考えを示している。


考古学:10万5000年前のホモ・サピエンスの、より湿潤だったカラハリ盆地における革新的な行動

考古学:初期の人類の行動を示す内陸部の証拠

 現生人類に特徴的な行動に関する最初期の証拠は、アフリカの最南部の海岸洞窟から得られており、その年代は12万5000~7万年前と推定されている。しかし、アフリカ南部では内陸部の考古学的標本が極めて少ない。今回J Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の岩窟住居(海岸から約600 km内陸に位置する)で発見された、約10万5000年前の考古学的資料について報告している。これらの資料には、別の場所から運ばれたに違いない方解石の結晶やダチョウの卵殻の破片が含まれていた。これは、他では海岸部の遺跡としか関連付けられていない人類の行動が、はるか内陸部でも存在したことを示している。



参考文献:
Wilkins J. et al.(2021): Innovative Homo sapiens behaviours 105,000 years ago in a wetter Kalahari. Nature, 592, 7853, 248–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03419-0

大河ドラマ『青天を衝け』第13回「栄一、京の都へ」

 これまで、栄一視点の農村部の話と、徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話が、一瞬交わることはあったものの、栄一と喜作は京都に行くことになり、今回からはいよいよ融合していくことになります。ただ、農村部の話もそれなりに描かれそうで、農村部の視点からの幕末の描かれ方も注目されます。京都への途中で栄一と喜作は初登場となる五代才助(友厚)と遭遇しますが、両者はともに相手を強く意識したわけではなく、今回の五代は顔見世程度の出番でした。五代は本作でかなり重要な役割を担いそうで、配役からしても本作の目玉なのでしょう。

 京都に到着した栄一と喜作は、その華やかな様子に圧倒されますが、そこに新撰組が取り締まりに現れ、栄一と喜作は土方歳三と遭遇します。大久保利通も登場しましたが、こちらも土方や五代と同じく顔見世程度の出番でした。栄一と喜作は長七郎を京都に呼びますが、京都へ向かう途中、幻覚を見るなど精神状態が不安定な長七郎は間違って飛脚を斬って捕まってしまいます。そのため、栄一と喜作が長七郎に出した文も役人に入手され、栄一と喜作は窮地に陥ったところ、平岡円四郎に呼び出されます。新章に入り、五代や大久保のような本作では重要な役割を担うだろう人物も顔見世程度とはいえ登場し、いよいよ物語が大きく動き始めました。なお、今回徳川家康の登場はありませんでした。

更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響

 更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響を検証した研究(Louys et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)が最初にニュージーランドの島々に到達した時、モアの9種を含む多様で豊かな生態系が存在しました。現生人類の到達後200年以内に、それらは少なくとも25種の他の脊椎動物とともに全て絶滅しました。後期完新世に、この一連の出来事は太平洋の40以上の島で発生し、平均して太平洋の島嶼部の鳥のほぼ50%が現生人類の定住後に絶滅し、これらの絶滅の大半はヨーロッパ人との接触前に起きました。これらのパターンは、マスカリン諸島やマダガスカル島を含むインド洋の島々の絶滅記録を反映しており、現生人類の定住直後の島嶼部の世界的な絶滅パターンを示唆します。

 島は大陸と比較して、生物相の広範な絶滅が生じやすい傾向にあります。それは、生息する動物相と個体数が少なく、遺伝的多様性が低くて、確率的過程に影響されやすく、再定着の可能性が少なくて、固有性がより高水準だからです。太平洋とインド洋の島々の驚くような絶滅は、現生人類の活動、とくに乱獲と生息地改変と侵入種の導入に起因します。島嶼部動物の絶滅と現生人類の定住の年表は、大陸における大型動物絶滅を理解するための魅力的な類似を提供してきました。以前の研究では、マダガスカル島とニュージーランドにおける人為的絶滅の明示的参照による過剰殺戮仮説が提示され、アフリカと南北アメリカ大陸の大型動物絶滅を説明するのに同様のメカニズムが適用できる、と主張されました。

 島と大陸の生態系間に存在する重要な違いが認められているにも関わらず、島嶼部の記録はその後、更新世の絶滅が大陸でどのように展開したのか理解する理想的なモデルとよくみなされてきました。現在、島嶼部の動物の絶滅は、5万年以上前に現生人類により開始された世界的な絶滅事象の継続と解釈する見解が圧倒的に優勢です。現生人類の到来と大型動物絶滅との間の密接な関連がしっかりと確立されている島嶼部のよく知られている記録は、他の大陸における人為的絶滅仮説の裏づけとして広く引用されています。したがって、島嶼部の大型動物絶滅は、大型動物現象の原因に関する議論において重要な構成要素です。

 現生人類が島嶼部の動物絶滅の主因との仮説は、現生人類が「未開の生態系(過去に現生人類との接触がない生態系)」に到来したことが動物絶滅と密接に関連していることを示唆する、ほぼ同時代の記録に依拠しています。しかし、世界的絶滅仮説の評価において多くの島が考慮されてきましたが、それらの考慮はほぼ完全に完新世の現生人類の存在に焦点が当てられてきました。この枠組みでは更新世島嶼部の重要性と、第四紀における島嶼部の定住事象の増加している考古学的記録にも関わらず、更新世の記録を有する島が、第四紀の絶滅の世界的評価に明示的に含まれることはほとんどありません。技術と行動と、人類種さえ、島嶼部で均一ではないので、これは重要です。人類は少なくとも前期更新世以来、海洋の島々を訪れたか、そこで居住し(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、現生人類は少なくとも5万年前頃には島嶼部に存在しており、この期間に多くの顕著な進化的・行動的・文化的変化が起きました。人類の到来と絶滅との間の関連が更新世に人類が存在した島々に当てはまるのかどうか再調査することは、この研究の不足への対処における重要な第一段階です。

 本論文は、更新世における人類の島嶼部への到達が、島嶼部の動物分類群の消滅と一致している、との仮説をデータが裏づけるのかどうか、調べます。本論文は、更新世における人類存在の記録があり、動物絶滅のいくつかの記録がある全ての島の考古学および古生物学的記録を調べます。本論文は、海洋の島々、つまり第四紀に大陸と陸続きになったことのない島々と、大陸部の島々、つまり最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)やそれ以前に大陸と陸続きになっていたものの、現在では島となっている地域を別々に扱います。また、火山活動など大規模な地質学的事象と、島の生態系へのさまざまな人類の明らかな生態学的影響に関連するデータも調べられます。

 本論文は、動物分類群絶滅と人類の到来との間に時間的重複が存在するのかどうか確立するため、評価を限定しました。本論文は、これが人類の到来と動物絶滅との間の因果関係を意味するとは主張せず、むしろ、そのような関係が存在した可能性を示す最初の兆候とみなします。これにより、人類がそれまで人類の存在しなかった生態系に常に悪影響を及ぼした、との提案を評価できます。この長期的視点は、現代の生態系への現生人類の影響を理解し、島の保全活動に情報を提供するうえで必要な段階です。


●非現生人類ホモ属の島々

 海洋の島における人類最古級の記録(図1および図2)は、フローレス島で100万年以上前の単純な石器(関連記事)、スラウェシ島で194000~118000年前頃の単純な石器(関連記事)、ルソン島で709000年前頃の石器や解体痕のあるサイの骨など(関連記事)が見つかっています。ルソン島における動物種(Nesorhinus philippinensis)とイノシシ科動物(Celebochoerus cagayanensis)の絶滅は、最初の人類の到来とほぼ同時かもしれませんが、現時点では、証拠は単一の年代測定された地点にのみ基づいており、人類と絶滅動物の共存期間に関する確たる洞察は提供されていません。フィリピンの大型動物の多くは6万~5万年前頃に絶滅した可能性があり、その頃までにルソン島に存在していたかもしれない(関連記事)ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)との明確な関連はないようです。大型ラット(Batomys sp.)や小型スイギュウ(Bubalus sp.)は、ホモ・ルゾネンシスと同じ層で見つかっています。それらは、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)の後の堆積層、もしくはルソン島のこれまで発掘された他の遺跡には存在せず、更新世末の前に絶滅した可能性が示唆されます。以下は本論文の図1です。
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 フローレス島では、最初の人類の出現と密接に関連する既知の絶滅はありません。スラウェシ島では、まだ特定されていない人類種の到来と動物の消滅との間で、明確な時間的関連性は示されていませんが、ステゴドン(Stegodon sp.)およびスイギュウ(Bubalus grovesi)の絶滅は、その下限年代が真の絶滅年代に近いとしたら、人類の到来と関連しているかもしれません。ギリシアのナクソス島(Naxos)で記録されている唯一の絶滅したゾウ種(Paleoloxodon lomolinoi)は、人類到来からかなり後のことです。サルデーニャ島では、人類の出現は同様に動物の消滅と関連していません。しかしクレタ島では、フクロウ(Athene cretensis)とイヌワシ(Aquila chrysaetos simurgh)とイタチ(Lutrogale cretensis)の絶滅が、人類の到来と関連しているかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 大陸部の島では、人類最初の記録はジャワ島の130万年前頃のホモ・エレクトス(Homo erectus)となり(関連記事)、ブリテン島では100万年前頃までさかのぼり、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)かもしれない足跡が確認されています(関連記事)。台湾では、分類未定の人類種の存在が45万年前頃までさかのぼる可能性があります(関連記事)。これらの人類の到来と同時の絶滅は記録されていませんが(図3)、これらの絶滅は、島が大陸と陸続きになった時期に起きており、「未開の生態系」への人類の到来というよりもむしろ、これらの人類の範囲拡大の文脈で理解する必要があります。古生物学的および考古学的記録は明らかに限定的ですが、この証拠に基づくと、ルソン島とスラウェシ島とクレタ島では合計7種が非現生人類の到来の結果絶滅したかもしれません。以下は本論文の図3です。
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●現生人類が存在する海洋の島々

 海洋の島々における現生人類の最初の直接的証拠は、アジアにおいて5万年前頃までさかのぼります(図1)。想定される最も広い意味での現生人類最初の到来と時間的に関連している絶滅(5000年以内)は、カリフォルニアのチャネル諸島の2種の長鼻類(Mammuthus columbiaおよびMammuthus exilis)とハタネズミ(Microtus miguelensis)、アイルランドのギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)とレミング(Dicrostonyx torquatus)、スラウェシ島のゾウ(Elephas/Paleoloxodon large sp.)、ティモール島のツル(Grus sp.)です。

 フローレス島では、コウノトリ(Leptoptilos robustus)とハゲワシ(Trigonoceps sp.)と鳴鳥(Acridotheres)と小型ステゴドン(Stegodon florensis insularis)とホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が、最初の現生人類の到来と近い時期および同時期の噴火の頃に消滅しています(図2)。フィリピンでは、ホモ・ルゾネンシスが55000年前頃もしくはその直前までルソン島に存在しており、パラワン島における現生人類最初の証拠は現時点では47000年以上前です。キプロス島と久米島だけで、現生人類到来後すぐに全ての記録された動物の絶滅が起きた、という証拠があります。これらのデータに基づくと、海洋の島々におけるほとんどの既知の絶滅は、更新世人類の到来と関連づけられないか、もしくは非人為的過程との切り離しはできなさそうです。


●現生人類が存在する大陸部の島々

 大陸部の島々に関しては、現生人類最初の記録はスマトラ島(関連記事)で得られていますが(73000~63000年前頃)、この時点でスマトラ島は大陸部と陸続き(スンダランド)だったので、その観点から解釈されます(図3および図4)。ただ、スマトラ島の初期現生人類の年代には疑問が呈されています(関連記事)。ボルネオ島やスマトラ島における動物絶滅の記録は乏しく、とくにジャワ島に関してはほとんど記録がありません。現生人類が到来した時にスマトラ島に生息していたサイやトラやバクなどほとんどの大型哺乳類は、つい最近まで生存していました。

 ジャワ島における動物絶滅は、現生人類の可能性があるジャワ島における最初の人類の記録の前に起きており、氷期におけるアジア南東部本土への一時的なつながりに起因する、動物相交替事象と関連しています。これらの絶滅は、サバンナの広範な喪失と閉鎖的林冠への置換により起きた可能性があります(関連記事)。同様にブリテン島では、ほとんどの動物絶滅が現生人類の到来前に起きました。島の段階での絶滅は、おそらくブリテン島とアイルランド島の氷床拡大に起因しますが、ほとんどの動物絶滅はヨーロッパ本土と陸続きだった期間に起きた可能性が高く(図4)、ヨーロッパ本土の絶滅の文脈で理解されるべきです。これらの絶滅は一般的に、環境変化に起因しています。

 ニューギニアにおけるほぼ全ての更新世の動物絶滅は、現生人類到来後かなり経過してから起きており、動物絶滅も現生人類到来もオーストラリアと陸続き(サフルランド)だった期間のことだったようです(図4)。ウォンバット型亜目種(Hulitherium tomassetti)とヒクイドリ(Casuarius lydekkeri)の絶滅は、その下限年代が化石の実際の年代に近ければ、現生人類の到来と同時だった可能性があります。同様に、カンガルー島では有袋類3種(Procoptodon browneorum、Procoptodon gilli、Procoptodon sp.)は、その下限年代が実際の絶滅年代と近ければ、最初の現生人類の到来と同時期に絶滅した可能性があります。タスマニア島では、2種の有袋類(Protemnodon anakおよびSimosthenurus occidentalis)だけが、現生人類の最初の記録と近い年代に消滅しており、両種のどちらも考古学的記録とは関連していません。大陸部の島々が島だったのは更新世のわずかな期間で、一部の動物絶滅は島嶼化の開始と同時のようですが、ほとんどは大陸と陸続きだった期間に起きました(図4)。したがって、これらの絶滅の根底にあるメカニズムは、海洋の島々に作用するメカニズムと直接比較できる可能性は低そうです。以下は本論文の図4です。
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●動物絶滅のまとめ

 現生人類も含めて更新世人類集団が後期完新世の現生人類と同じくらい破壊的だったならば、その影響は孤立した海洋の島々でとくに明らかなはずですが、本論文のデータでは観察されませんでした。キプロス島と久米島でのみ、現生人類の到来と同時期の全ての動物絶滅の記録を裏づけるデータがあります。海洋の島々における他の全ての更新世の動物絶滅は、少なくとも現在利用可能な年代解像度の範囲内では、そうした原因とは無関係か、時期がずれているようです。

 海洋の島々や遠方の大陸部の島々の累積的動物絶滅は、数は絶対的には少なく、サルデーニャ島とフローレス島でそれぞれ最大12件が記録されています。サルデーニャ島とフローレス島は比較的大きく、とくに孤立していませんが、近くの大陸からは深い海で隔てられています。大陸棚の島々における動物絶滅は、よく表されて制約されている場合でも、時間的にずれており、おもに大陸との陸続きの期間に限定されているようです。最も近い大陸からの分離は、大陸部の島々全体で少なくとも過去50万年間には比較的稀で、間氷期の条件に大きく依存し、顕著な環境変化と関連していました。ジャワ島やブリテン島のような化石記録が豊富な大陸部の島々では、動物絶滅は多発していますが、その原因はおもに、大陸における絶滅のメカニズムの延長線上にある、と考えられるべきです。


●考察

 動物相の入れ替わりは海洋の島々では一般的で、動物絶滅は、ひじょうに大きな島であっても、生態系が平衡状態に向かうさいの自然の過程です。より小さくより孤立した島は遺伝的多様性に大きな影響を及ぼし、人類が存在しない場合でさえ絶滅を起こします。この過程は、海面上昇により強化されます。島の大きさ、したがって資源の多様性は、人類の居住成功の最重要の原因である可能性が高く、陸生タンパク質の欠如は明らかな課題です。海洋資源に特化することにより、この制約を取り除けます。その他の資源には石や竹および/もしくは木材や淡水利用可能性が含まれ、これらは、どの島がどのようにどこで利用可能な資源を有していたのか、いくらかの尺度を提供します。海洋の島々では、淡水の利用可能性が定住の最大の制約だった可能性があります。それは、海洋性タンパク質が豊富だったとしても、多くの小さな島々は、淡水の獲得戦略が利用可能になった後期完新世まで人類により居住されなかったからです。

 以前の乱獲の概念では、島嶼部における動物絶滅は本土の絶滅の加速版とみなされ、何を狩るべきかの選択がほとんどない、という追加の特徴がありました。K選択分類群は、大型動物絶滅モデルにおいて乱獲による絶滅に最も脆弱である、と考えられています。しかし、人類が関わらない海洋の島々の条件は、r選択された分類群を好む傾向にあるので、大型で繁殖が遅い種は、大陸よりも島の方で見られない可能性が高そうです。注目すべき例外にはカメと長鼻類が含まれますが、長鼻類は島では小型化し、島の条件に応じて進化を示す可能性があります。それにも関わらず、島における乱獲は更新世および完新世の動物絶滅を説明する重要な原因の一つであり続けます。

 フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)とルソン島ねホモ・ルゾネンシスのような島に存在した非現生人類ホモ属は、さまざまな陸生動物を利用していました。ジャワ島のホモ・エレクトスは海洋資源の利用が可能でしたが、陸生資源以外のものが消費された明白な証拠はありません。カラオ洞窟では、人類が茶色のシカ(Rusa marianna)やフィリピンヒゲイノシシ(Sus philippensis)を狩るか、その死肉を漁っていました。両種ともルソン島で現存しています。ボルネオ島とジャワ島の動物考古学的記録では、現生人類が陸生と水生と樹上性の脊椎動物を狩り、罠で捕獲するためのさまざまな技術を用いていた、と示唆されます。アジア南東部の広範な地域における遠隔武器(弓矢や槍など)の導入は、狩猟対象の動物相の多様性、とくにサルやジャコウネコのような樹上性分類群に影響を及ぼしたようです。しかし、カニクイザルやリーフモンキーやビントロングのように最も集中的に狩られてきた種は、現存しています。

 ワラセアの海洋の島々における現生人類と関連する更新世の記録は、海洋魚介類が優占しており、遠海漁業と複雑な漁業技術の初期の証拠が含まれます。注目すべき例外はスラウェシ島で、44000年前頃の洞窟壁画には、小型スイギュウ(Bubalus depressicornis)やセレベスヒゲイシ(Sulawesi warty pig)とともに狩猟場面の獣人が描かれており(関連記事)、最初期の考古学的堆積物はイノシシ科のバビルサ(Babyrousa babyrussa)と小型スイギュウ(アノア)が優占します。両分類群はスラウェシ島に現存します。琉球列島中央部の沖縄島では、縄文時代の人々がイノシシ(Sus scrofa)を集中的に狩っており、イノシシは6000年前頃までに小型化しました。その後、食資源は貝類に移行し、イノシシは再び大型化しました。これは、絶滅に至る乱獲を抑制する文化的および/もしくは環境的管理が存在したかもしれない、と示唆します。

 カリフォルニアのチャネル諸島では、現生人類の到来と同じ時期に3つの陸生分類群の絶滅が記録されていますが、マンモスがそれまでに狩られていた兆候はなく、生計は海洋資源に集中していました。同様に、タスマニア島の考古学的記録では、小型から中型の動物のみが狩られており、絶滅種が現生人類により利用されていた証拠、もしくは現生人類が絶滅の原因である証拠はない、と示されています。キプロス島の考古学的記録は、12000年前頃の現生人類の到来に続く大規模な動物絶滅を示唆しており、これは島嶼部の動物絶滅と最初の現生人類到来との間に説得力のある重複が存在する2つの島のうち一方の事例となります。

 絶滅は生計活動と結びついている場合、環境変化の記録から解明することは困難です。フィリピンのパラワン島のタボン洞窟(Tabon Caves)では、47000年前頃となるパラワン島で最初の現生人類の痕跡が確認されており、その頃パラワン島では森林は限定的で、開けた林地が優占していました。後期更新世の狩猟採集民共同体はおもにシカを狩っていました。パラワン島では、前期完新世に熱帯雨林が拡大し、海面上昇のため陸地の80%以上が失われました。シカの個体数は減少し、パラワンイノシシ(Sus ahoenobarbus)は現生人類にとって主要な大型哺乳類資源となりました。3000年前頃までに、シカ集団は絶滅しました。パラワン島では、現生人類の狩猟はシカの絶滅に顕著な役割を果たしましたが、気候と環境の大きな変化も集団回復力に影響を及ぼし、それはより開けた環境を維持しているカラミアン諸島の3島でシカが生存し続けていることにも示されています。

 更新世の少なくともいくつかの島では人類も絶滅し(図1)、いくつかの考古学的記録は島の放棄を表しているようです。たとえば、ワラセアの小さな島であるキサール島に現生人類が最初に居住したのは16000年前頃でした。現生人類の居住は、大規模な海上交易ネットワークの確立後にのみ成功し、前期完新世における島の放棄は、これらのネットワークの崩壊と関連していた可能性があります。カンガルー島は、放棄の最良の直接的な肯定的証拠を保存しています。カンガルー島の記録によると、オーストラリア先住民は4000年前頃までに居住を終えましたが、一時的な訪問(もしくは恐らく継続した限定的居住)がさらに2000年続いた可能性があり、ヨーロッパ人がカンガルー島に到来した時までには、人類は存在しなくなっていました。キプロス島では、小型カバの絶滅後、現生人類の存在は前期新石器時代まで制限されていました。

 島、とくに小さくて大陸から遠い島は、その小ささと孤立のため、無作為な事象が発生しやすくなります。本論文では、火山活動が恐らくは動物絶滅と同時期だった事例はほとんど見つかりませんでしたが(図2および図4)、これらの事象は島における現生人類最初の到来時期とも区別できません。大規模な噴火の第四紀の歴史は、日本列島でとくによく調査されており、噴火は哺乳類種の絶滅と同時期ではないようです。これはフローレス島の噴火記録にも当てはまります。歴史時代に島で起きた比較的よく記録された大規模噴火でさえ、局所的絶滅に対する噴火の影響を評価することは困難です。それにも関わらず、噴火の生態学的影響の研究は、哺乳類群集における短い回復時間と、長期的変化がないことを示しました。

 完新世における島嶼部への現生人類の到来は、島の固有種の大規模な絶滅と同時だった、とよく考えられています。これらの絶滅は概念的に、乱獲や生息地改変や家畜・栽培植物・共生動物の導入のようなメカニズムを通じての、人類の作用と関連しています。家畜・栽培植物・共生動物の導入は間違いなく、島の動物絶滅にずっと大きな影響を及ぼし、それはとくに小型哺乳類や鳥類に当てはまり、それだけではなく大型哺乳類も同様です。たとえば琉球列島の宮古島では、固有種のシカ(Capreolus tokunagai)は最初の現生人類到来により追いやられたのではなく、その絶滅は後期更新世もしくは前期完新世に現生人類がイノシシを導入したことと一致します。

 結果として、完新世において島嶼部で起きたことはしばしば、人々と関連する絶滅過程を理解する理論的および実践的枠組みを提供してきました。これは、現生人類が、以前には到達できなかったか、居住し続けられなかった地域へと完新世に拡大することを考えると、説得的です。それは大陸部の島々にも当てはまり、島の状態や技術変化が完新世の始まりと一致していました。しかし、更新世の記録は島の生物相の影響に関してずっと曖昧です。これは、生計戦略と密接に関連する要因、更新世を通じての技術および行動変化、島とその資源の世界的に特徴的な性質によるものです。

 本論文のデータは、現生人類を含む人類が、現代人のように島の生態系に悪影響を常に及ぼしてきたわけではない、と示します。むしろ、絶滅の加速は前期~後期完新世において始まり、それは移住機会の拡大、航海能力と拡散能力の向上、広範な土地開拓の導入、共生動物やシナントロープ(スズメなど人間社会の近くに生息してそこから食資源や生活空間を得て存続している動物)の導入、人口密度の増加、動物集団の過剰な搾取を可能とする技術の発展の後に続いた事象です。人類が常に「未開の生態系」に有害だったわけではない、との認識は、人類がより受動的な、あるいは有益でさえあった影響を及ぼしてきた事例の特定に重要です。こうした事例は、島の固有動物相の絶滅危険性を増加させる要因の特定を目的とした比較研究に重要です。このような過程を経てのみ、現在島に残る生物多様性を保全できるでしょう。


参考文献:
Louys J. et al.(2021): No evidence for widespread island extinctions after Pleistocene hominin arrival. PNAS, 118, 20, e2023005118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2023005118

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』

 日本評論社より2021年3月に刊行されました。人類進化に関してさまざまな知見が得られそうなので、読みました。社会学に関しては門外漢なので、日本の社会学における生物学嫌い(バイオフォビア)に関しては(日本に限らないかもしれませんが)、本書を読んで多少は把握できたように思いますが、深く理解できたわけではないので言及せず、本書の興味深い知見を以下に短く備忘録的に述べていきます。



第一部 遺伝子社会学の試み


1●桜井芳生、西谷篤、赤川学、尾上正人、安宅弘司、丸田直子「ツイッター遺伝子の発見?──SNP(遺伝子一塩基多型)rs53576解析による遺伝子社会学の試み」P3-20
 本論文は前提として、遺伝決定論ではなく、遺伝子・環境相互作用論を採用する、と明言します。その主題からして、本書に対する「社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)」側からの警戒は強いでしょうから、この立場表明は必要と言えそうです。本論文が取り上げたのはオキシトシン受容体OXTR遺伝子の一塩基多型(rs53576)です。ホルモンの一種であるオキシトシンは、他者への信頼・共感・養育行動のような「向社会性」との関連が指摘されています。rs53576ではGが野生型、Aが変異型とされています。本論文は、AA型のヒトのTwitter利用頻度の高さに注目していますが、同時に、試料数の少なさと、この多型がTwitter利用頻度の違いという「表現型」の違いにどう発言したのか、未解明であることから、生理的機序・心理的機序・社会環境など環境要因も考量する必要性を指摘します。また今後の展望として、ジャポニカアレイの利用による大規模分析が視野に入れられています。


2●桜井芳生、西谷篤、尾上正人「現代若者「生きにくさ」に対する、セロトニントランスポーター遺伝子多型5-HTTLPRの効果」P21-30
 本論文は、「生きにくさ(生きづらさ)」を感じる要因として、社会経済的側面だけではなく、遺伝的側面にも注目します。具体的には、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)がSS型のヒトほど、「生きにくさ」を感じやすいのではないか、と指摘されています。セロトニンは神経伝達物質のひとつで、ドーパミンやノルアドレナリンを制御し、精神を安定させます。5-HTTの反復配列領域の多型(5-HTTLPR)は一般的に、短いS型と長いL型に二分され、SS型・SL型・LL型に分類されます。本論文は、5-HTTLPRが「生きにくい」との意識に直接的効果を有すると指摘し、「発達障害(あるいは、自閉症・アスペルガー症候群)」自体が、5-HTTLPRによる影響である可能性も示唆します。また今後の展望として、発達障害などにおいて、個人の遺伝子に応じた政策の必要性が指摘されています。


3●桜井芳生、西谷篤「(補論)セロトニントランスポーター遺伝子多型におけるヘテロ二本鎖解析の検討」P31-38
 セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)は、第2論文で指摘されているように、上述のように、一般的にその反復配列の長さからSS型(短)・SL型(中間)・LL型(長)に分類されていますが、反復配列の数と並び方で複数のサブタイプが存在すると報告されており、DNA配列の決定が必要となります。本論文は、「ヘテロ二本鎖」への対応方法を検討し、最適なアニーリング温度(68度)を明らかにし、多型のサブタイプ頻度が、以前の報告とおおむね近い値となったことを示します。各多型の頻度は、SS型が76%、SL型19%、LL型が5%と報告されています。


4●桜井芳生、西谷篤、尾上正人、赤川学「日本若年層の「スマホゲーム」頻度に対する、遺伝子一塩基多型(SNP)rs4680の看過しがたい効果」P39-46
 本論文は、カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)遺伝子の一塩基多型(rs4680)に注目し、スマホゲーム頻度との関連を検証します。COMTは、ドーパミンやノルアドレナリンやアドレナリン系脳内ホルモンを不活性化させ、排せつするのに必要な酵素です。COMT遺伝子の一塩基多型(rs4680)では、Aアレル(対立遺伝子)だと前頭前皮質のドーパミンが多くなり、心理に影響を及ぼす、と指摘されています。変異型のAアレルは心配性(痛みの閾値が低く、ストレスにより脆弱ではあるものの、ほとんどの条件下で情報処理がより効率的)、野生型のGアレルは勇士(痛みの閾値が高く、ストレス回復力が向上するものの、認知能力がわずかに低下)とされています。分析結果は、Aアレルを有するヒトほどスマホゲームをせず、外向性が低くて協調性は高く、技能向上の訓練機会が多いことを重視しません。今後の課題として、スマホゲームの内容(「勇士」的なものか否か)、1日あたりのゲーム時間の調査が挙げられています。



第二部 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて


5●桜井芳生「「社会学の危機」から、「バイオダーウィニスト」の「理解」社会学へ」P49-60
 英語圏では社会学部の廃止など「社会学の危機」が論じられており、「標準社会科学的モデル(SSSM)」批判の議論がよく言及される、と本論文はまず指摘します。1990年代に、SSSMを批判し、進化心理学を基盤として自然科学と社会科学をつなぐ試みである統合因果モデル(ICM)が提唱されました。本論文は、社会学の伝統にある中核部分である理解社会学的方略が、近代科学についてのある種の思い込みにより不当に軽視されており、現代バイオダーウィニズムの援用により再評価できるのではないか、と指摘します。理解社会学的方略を理由とする社会学の科学性への懐疑には、理解社会学的方略の選択自体を必然的な理由として近代経験科学に値しないとする立場と、理解社会学的方略の選択によりほぼ必然的に学理上の難点(他我理解問題)に逢着するので、理解社会学は科学に値しない、とする立場があります。本論文は、これまで分別されてこなかった両者を分別することで、現代ダーウィニズムの進展が理解社会学の擁護に資する、との見通しを提示します。本論文が重視するのは、生得的な二つの認識能力です。一方は、外界をいわば「物」として把握するセオリーオブセオリー、もう一方は、対象をいわば「心ある者」として認識するセオリーオブマインド(心の理論)です。本論文は、理解社会学への批判は、経験科学である以上、この二種の認識のうちセオリーオブセオリーだけであるべきとの暗黙の前提があるのではないか、と指摘します。本論文は、そうした区分ではなく、反証可能性こそが科学的認識の線引きに相応しい、と提言します。他我理解の問題に関しては、各人は自分の思念する意味を内心に持っていることが前提とされているものの、心の目理論に基づくと、元々他個体の振る舞い予測の方略として意味理解が進化したので、他個体の把握における意味利用は、近代科学の仮説=テスト図式に親和的である、と本論文は指摘します。


6●赤川学「高田少子化論の進化論的基盤」P61-76
 本論文は、20世紀前半の社会学者である高田保馬の少子化論を取り上げています。少子化に関しては、(1)1人あたりGDPの高い国は出生率が低く、(2)日本やアジアの都市部は村落部と比較して出生率が低く、(3)世帯収入の低い女性の子供の数は多く(貧乏人の子だくさん)、(4)歴史的に豊かな階層の子供の数は多い(金持ちの子だくさん)という事実が知られています。本論文はこの4点の事実を説明する有効な社会学理論として、高田の見解を取り上げています。高田は、日本での出生率低下を案じる社会学者が他にいなかった1910年代中盤において、日本でも欧米のような低出生傾向がやがて起きる、とすでに懸念しており、その理論的検討を始めていました。本論文では、「金持ちの子だくさん」はヒトの遺伝子レベルに書き込まれた「進化時間」への適応、「貧乏人の子だくさん」は産業革命以降に文化的な媒体・経路を通じて個体間で学習された「歴史時間・文化時間」への適応と位置づけられます。

 本論文は現代の少子化問題として、ハイポガミー(女性下降婚)とハイパガミー(女性上昇婚)も取り上げています。女性の下降婚と上昇婚の違いは、社会における資源専有の性別の偏りに起因する、との見解もあります。富や地位の性別格差が、男性優位で大きければ女性上昇婚が多く、小さければホモガミー(同類婚)が多くなる、というわけです。女性上昇婚や同類婚が進化時間における最適な戦略とすれば、女性下降婚の割合はあらゆる社会において低くなっているはずですが、実際には女性下降婚の割合が高めの国もあり、その方が出生率は高めです。ただ、本論文は断定には慎重です。本論文は、日本など女性下降婚の少ない国の事例は、進化時間における適応の結果というよりは、歴史・文化時間における事象ではないか、と指摘しています。この問題に関して私は不勉強なので、今後も地道に調べていかねばなりません。


7●尾上正人「育ち(Nurture)の社会生物学に向けて──共進化とエピジェネティクスから見た社会構築主義」P77-110
 「生まれか、育ちか」という伝統的な対立軸において、社会学ではその草創期から、「育ち」を重視した理論やモデルが構築され、「生まれ」による影響は「生物学的」とみなされ、距離を置かれるか拒絶されてきましたが、近年の進化生物学は、一般的な社会学者の想定とはかなり異なる内容へと発展している、と本論文は指摘します。具体的には、文化的要素との共進化を説く潮流と、分子レベルでの遺伝的決定からの修正を重視するエピジェネティクスの台頭です。本論文の目的は、これら進化生物学の新たな潮流が、社会構築主義に自然科学的な裏づけを部分的に与える可能性はあるものの、同時に社会構築主義の限界も示唆していると考えられることから、社会構築主義を進化生物学もしくはより広く自然科学的に許容できる範囲内に位置づけし直し、再定式化しようとすることです。

 本論文は、社会生物学で当初想定された、文化は遺伝子により「引き綱」をつけられており、相対的に自律しているにすぎない、との見解が、その後の遺伝子と文化の共進化論により修正されていったことを指摘します。文化伝達には「不適応」をもたらす力があり、その具体例が、エベレスト登山などの危険な競争や、ポリネシアにおける高価で健康を脅かすタトゥーへの固執です。本論文が重視するもう一方のエピジェネティクスも、文化と遺伝子の共進化と同様に、急速で劇的な適応を可能にした、と本論文は指摘します。本論文がとくに重視するのは表現型可塑性で、一卵性双生児における形質の違いや、爬虫類の性別が卵の温度に左右されることなどです。

 本論文はこれらを踏まえたうえで社会構築主義を改めて位置づけようとしますが、そのさいに重要なのが、社会構築主義を二分していることです。一方は、観念・概念の出現により社会的事象が生まれるとする客観的観念論に該当する立場でブランクスレート(空白の石板)説を強く主張する傾向にあり、もう一方は、不可知論もしくは主観的観念論に該当する立場です。本論文は、客観的観念論の社会構築主義は、「知識と実在の一致」を批判するものの、それは多分に藁人形的論法で、主観的観念論の社会構築主義は、「実在の状態」からの絶縁を強調しすぎると、ブランクスレート説に近づいてしまう、と指摘します。本論文はブランクスレート説の問題点を、自然的(物理的、生物学的など)現実の影響力もしくは拘束力を軽視し過ぎていることにある、と指摘します。ヒトを、空白の石板ではなく、物理的・生物学的な制約を受けた存在としてまず把握すべきというわけです。

 本論文は社会構築主義の新たな位置づけの参考として、ニッチ構築論を挙げます。ニッチ構築論では、生命体による生物も含めた環境の改変・構築が重視され、生命体と環境の共進化が主張され、その対象範囲はヒトに限らず生物全体に及びます。近年になってこのニッチ構築論から、発声と進化における構築過程の役割を強調する「拡張版進化総合」が提唱されています。本論文は、これら新たな進化生物学の潮流では「育ちの強さ」が明らかにされつつあり、それを踏まえたうえでの社会構築主義の自己革新を提言します。一方で本論文は、エピジェネティクスや構築の「強さ」だけではなく、「弱さ」の認識の必要性も指摘しており、「育ち」の「強さ」も「弱さ」も踏まえたうえでの、総合的理解が求められているのでしょう。


8●三原武司「進化社会学的想像力──3つの進化社会学ハンドブックの検討と進化社会学的総合」P111-128
 本論文は、3冊のハンドブックを取り上げることで、進化社会学もしくは生物社会学の英語圏における動向を解説しています。これら3冊のハンドブックからは、広範囲の生命科学関連領域が社会学に導入された、と分かります。また、人類学や社会疫学や医学や犯罪学や政治学などの研究者も寄稿しており、進化社会学と隣接領域の深い共同も窺え、社会学の全領域を反映した傾向のようです。進化社会学ではすでに論争点も現れており、一方は現在の標準的な生物学であるネオ・ダーウィニズムもしくは現代的総合(MS)、もう一方は本書第7章でも取り上げられた拡張版進化総合(EES)です。EESの新たな動向として、(1)従来の血縁選択と互恵的利他主義の理論から、マルチレベル選択理論などより向社会的な利他主義の理論への変化、(2)脳を孤立したデータプロセッサのようなものと考える以前の見解から、社会脳仮説などに見られる多重接続された社会的なものとして表現するようになったこと、(3)エピジェネティクスへの注目、(4)個体の自律性と独立性から共生的プロセスの強調への変化、(5)生態学的相互作用と微生物への関心の高まり、(6)遺伝子の水平伝播やキメラ現象への関心です。また新たな動向として、エボデボ(進化発生生物学)やニッチ構築理論なども挙げられています。これらの中で、集団選択もしくはマルチレベル選択の問題では、選択の単位として遺伝子よりも集団が強調されます。これらの動向により社会学は大きく変わっていき、本論文は社会学とMSやESSをつなげていく試みについて、「進化社会学的総合」と呼んでいます。


9●高口僚太朗「「女性特有の病気だから」という理由で沈黙せざるを得ない父親たち──ターナー症候群の娘を持つ父親たちの「生きづらさ」とは何か」P129-144
 近代医療は患者が「寛解者(本論文では慢性疾患当事者も含まれます)」として長く生きることを可能にしましたが、それによる「生きづらさ」も生じます。本論文は、その具体的事例として、女性にのみ発症するターナー症候群当事者の家族、とくに父親の「生きづらさ」を取り上げます。ターナー症候群はX染色体の全体もしくは一部の欠失に起因した疾患の総称で、性腺機能不全を主病態とし、多くの当事者が不妊となります。患者数は約1000人に1人と推測されており、具体的な症候として、低身長や卵巣機能不全に伴う二次性徴への影響や月経異常などがあります。ターナー症候群と診断された当事者の多くは小学校高学年の頃から低身長が顕著となり、母親にのみ告知することが標準医療として推奨されています。本論文では、ターナー症候群当事者の父親は、妊孕性や妊娠や出産よりも、自立した生活を送れるのか、心配する傾向にあると分析されています。また、ターナー症候群が女性特有であることから、父親には娘と不本意に距離を取る苦悩があることも指摘されています。本論文は、ターナー症候群当事者の父親の「生きづらさ」は、家族との関係性の中で成立し、家族の抱える「生きづらさ」とも同一ではない、と指摘しています。


10●桜井芳生「バイオダーウィニズムによる〈文化〉理論──なんの腹の足しにもならないのに、、、」P145-164
 本論文はまず文化を、「ヒトの行動・表象のうちで、なんの腹の足しにもならないのに、望ましいもの、価値あるもの、として評価されているものの謂である」と定義します。これはバイオダーウィニズムの「性淘汰の理論」を下敷きにしており、つまり孔雀の尾やライオンの鬣のような資源の浪費に見えるような形質が選択されてきたのは、異性から選ばれたからだ、というわけです。本論文は、ヒトの「文化的なもの」のほとんどは性淘汰の産物だろう、との見通しを提示しています。ただ、進化的観点では、この性淘汰は石器時代というか更新世の環境に適応したものなので、現代社会において性淘汰における適応度指標として機能するとは限らない、と指摘されています。


11●尾上正人「「待ち時間」としてのヒトの長い長い子ども期──社会化説、アリエス、そして生活史不変則へ」P165-184
 本論文はヒトの子供期(離乳から性的成熟まで)に関する議論を検証します。近縁の現生種と比較して長いヒトの子供期は、以前から注目されてきました。ヒトの長い子供期を、一人前になっていくための道程もしくは収斂期間として理論的に緻密化したのが社会化機能説で、家族の重要性が強調されました。ここでは、社会化過程こそがヒトの子供期を長期化させた、と明言されていないものの、社会化と長い子供期を結びつける論理が伏在していた、と本論文は指摘します。その後、家族を重視する見解は批判されても、社会化仮説そのものは自明視され、現在の社会学に継承された、と本論文は評価します。その後、ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)の精神分析理論を取り入れたフェミニズムは、社会化仮説の固定観念化に貢献した、と本論文は指摘します。人類学では徒弟制仮説が提唱され、「近代社会」を念頭に置いたとも考えられる社会化仮説とは異なり、狩猟採集社会を前提にしていますが、両者とも、子供が社会化を達成するのには長い期間が必要で、この長い子供期には何らかの機能があったに違いない、という機能主義的観点は共通していました。

 一方、アリエス(Philippe Ariès)の『<子供>の誕生』では、子供は7歳頃から「大人の小さな者」として成人の大共同体の中に入っていき、近代以降のような明示的な「子供」は存在しなかった、と論じられます(関連記事)。ここでは、機能主義的論法が採用されていません。ただ本論文は、アリエスが近代における子供の位置づけの特殊性を主張したのではなく、むしろ「中世特殊性」論者だったことを指摘します。それでも本論文は、社会化されるべき期間と位置づけられた子供期を相対化したことがアリエスの功績だった、と評価しています。ヒトの長い子供期は、必ずしも機能的課題が課されないとすると、どう解釈されるのか、との問題が生じます。そこで本論文が取り上げるのは、全ての種に普遍的・横断的に当てはまる、生活史不変則です。生活史不変則では、成熟年齢に達するのが遅い、つまり子供期が長い種ほど、その後の余命が長くなる、と指摘されています。長い子供期は繁殖機会増加をもたらす意味はあるものの、それ自体は本来社会的に意味のある期間ではない、というわけです。逆に、子供の社会化が喫緊かつ長期の課題ではなかったからこそ、その期間に「学校化」を挿入でき、新たな子供観が出現し得たのだろう、と本論文は評価します。子供期は人類史において、社会・時代によりさまざまな用途に使えることができた、というわけです。

 ただ、ヒトの長い子供期は、それ自体に特定の機能はなくとも、繁殖行動や家族・集団形成に重大な影響を及ぼしたかもしれない、と本論文は指摘します。まず、雄同士の苛烈で危険な配偶者獲得競争は緩和される傾向があります。余命が長いので繁殖機会は多い、というわけです。その結果、血縁者同士だけではなく、非血縁者も含めた集団が形成されやすくなり、集団の大規模化傾向が生じます。さらに、こうした繁殖機会の多い社会では協力的行動が進化しやすくなります。一方で、中長期的には協力を基調としながらも、常に騙しや裏切りの危険性に曝されているため、「マキャヴェリ的知性」も発達します。本論文は、社会化説は因果関係を逆に把握しており、教育上の実践としては、子供を「育てる」という視点よりも、「育つ」という視点の重要性を指摘します。子供期は現代人(Homo sapiens)と近縁なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも検討されている問題で(関連記事)、私も関心を抱いてきましたが、本論文を踏まえて考え直してみる必要があります。


12●桜井芳生「ある種の両性生殖生物のオス(たとえばヒトの男)は、なぜ母子を扶養するのか──岸田秀を超えて」P185-195
 ヒトなど両性生殖生物の中には、雄が母子を「扶養」する種も存在します。これに関して岸田秀の「セックス=サービス」説がありますが、岸田説は「至近要因による問題の説明」の誤謬に陥っており間違っている、と本論文は指摘します。「究極因」の分析視点からは、セックスをサービスと感じ得ること自体を説明すべきで、セックスがサービスとして機能するからそれを代償として雄は雌とその子を扶養するとの論理は、「至近因」による説明(という誤謬)に陥っている、というわけです。一方本論文は、雄が雌とその子を扶養しないと雄の遺伝子を後世に残せないから、と主張します。より正確には、雄が母とその子を扶養しなければこの血統は維持できず、現存する雄は全て母とその子を扶養する血統に属する、となります。しかし、托卵というかペア外父性の問題があり、軍拡競争的な進化が起きやすくなります。本論文は、雄による雌およびその子の扶養と、ペア外父性との間のせめぎ合いで「均衡値」が存在しただろう、と推測します。また本論文は、同じ雄でも扶養型と托卵型の間で揺れ動くこともあっただろう、と指摘します。岸田説については、扶養している子が実子ではないかもしれない、との不安から自我を防衛すする規制として、セックスなど扶養の対価サービスを得ているという物語が需要されたのではないか、と推測されています。


13●尾上正人「高緯度化と農耕を通じた女の隷属──性分業・家父長制への新たな視座」P197-224
 本論文はまず、母権制あるいは「家母長制」が存在したことを示す経験的証拠はなく、男性優位社会の普遍性は進化史で現れた生物学的特性だった、と指摘します。母系制社会は存在したものの、そこで子供に対して強い権限・権力を有したのは父親よりも母親の兄弟(オジ)で、これは「叔権制」と呼ばれています。これは父性の不確実な母系制における男性の対応で、相対的に父性の確実な父系制では家父長制が採用されやすくなります。ただ、ヒトも含まれる霊長類では、雌が優位の、ほぼ母権制あるいは「家母長制」と言えるような社会を形成する種がいくつか存在する、と本論文は指摘します。次に本論文は、男性支配もしくは家父長制がヒトの社会に普遍的だとしても、その度合いは歴史的に大なり小なり変化して現在に至っている、と指摘します。女性の社会的地位が相対的に高い社会も存在する、というわけです。本論文はその基盤として、性(性役割)分業の可能性を指摘します。

 モーガン(Lewis Henry Morgan)の『古代社会』は独自の婚姻制度発達論を主張し、エンゲルス(Friedrich Engels)が採用したことにより大きな影響力を有しました。しかし、その原始乱婚制や家族形態の進化図式は今では支持されていません。ただ本論文は、人々の性行動に規定されて父性が不確実だと母系制になりやすいという考察に関しては妥当と認めています。母系制は人類の家族史において太古の時代に普遍的に位置づけられるものではないとしても、産業化以前の社会では父系制と母系制はほぼ3:1の比で存在した、と推測されています。モーガン説の問題点として、母系制と母権制を強く結びつけたことも指摘されています。母系制社会では、上述の叔権制が高頻度で出現します。

 霊長類では母方(妻方)居住の母系制が圧倒的に多く、家族・群れに残る雌が独自の階層を形成する種が多くなります。個体レベルの競争では頻繁に順位が入れ替わる同種の雄と比較すると、雌が作る社会的階層は保守的で流動性が小さい傾向にあります。雌の地位は継承され、そのメカニズムは遺伝的ではなく、おおむね好天的です。マカクザルにおいては、最上位の雌(アルファ雌)はアルファ雄を除く全ての雄よりも有意ですが、群れ全体の頂点はアルファ雄の方です。一方アカゲザルなどでは、母権制・「家母長制」と呼べそうな権力関係が見られます。ヒトも含まれる大型類人猿では、雌は性的に成熟すると出生集団を離れる傾向にあり、他の霊長類とは異なります。雌の社会的地位は種により異なり、かなり強い雄支配のゴリラ社会では、上述の母系制霊長類ほど厳格ではなくとも雌にも優劣関係があります。同じく父系制で近縁のチンパンジーとボノボは対照的な社会を形成し、チンパンジーでは雄は雌に対して優位で、雄同士の激しい地位争いがあります。一方ボノボでは、雌独自の強固な社会階層が見られ、交尾相手の選択権は雌にあります。雄の地位を決めるのは、チンパンジー社会では兄弟の絆で決まりますが、ボノボ社会では母親の地位です。ボノボでは雄と雌の力関係は対等か、やや母権制・「家母長制」に傾いています。本論文はこれらの霊長類の事例から、父系制・母系制と雌雄の権力関係の間に顕著な相関はない、と指摘します。

 一雄複雌のゴリラや一雄一雌のテナガザルは雄が子育てに関与しますが、霊長類の大半の種では父が子育てには関与しません。これは、一雄複雌や一雄一雌では複雄複雌(乱婚制)と比較して父性が確実になることとも関連しているようで、ヒトにも当てはまるかもしれませんが、父性の確実性が必ず父親の子育て関与につながるとは限りません。本論文は他の条件として、アロマザリング(育児の母親代行)を挙げます。ヒトは成長が遅いので、とくにアロマザリングの必要性が生じます。本論文は、人類史における父親の育児への関与は太古からの現象だった、と指摘します。

 性分業では、ヒト社会の採集における女性の役割の大きさが指摘されています。本論文は、これが後世の一部ヒト社会と比較しての女性の相対的地位の高さにつながった可能性を指摘します。本論文はこの性分業において、現生人類(Homo sapiens)による高緯度地帯への拡散を重視します。高緯度地帯ほど狩猟への依存度が高まるので、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。本論文は、女性の社会的地位低下が農耕開始により加速した可能性も指摘します。農耕は狩猟と採集で分かれていた男女の「職場」を一つにして、家畜や重い農具を扱うといった重作業の主導権は多くの場合男たちが握ったと考えられることから、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。また本論文は、農作業で夫婦の過ごす時間が狩猟採集生活よりも増加したことにより、夫の妻に対する正行動の監視(配偶者防衛)は強まっただろう、と推測します。最後に本論文は、自然主義と道徳主義の誤謬に陥らないよう、提言しており、強く同意できます。男性支配・家父長制がヒトの種特異性だからといったそれが現代社会でも望ましい(自然主義的誤謬)と考えたり、現代社会では男女平等が望ましいからかつてそうした理想社会(あるいは男女の力関係が逆転したような社会)が存在したはずと根拠なく想定したりすることも誤りだ、というわけです。


14●桜井芳生「若者の若者文化離れ仮説への、ホルモン時系列推移の状況証拠」P225-240
 文化的創造性曲線と犯罪曲線がかなり相似している(青年期=成年期をピークとして、前後で急上昇・急下降します)ことから、これがかなりの部分で性的淘汰への適応ではないか、と本論文は推測します。本書第10章の議論の「腹の足しにもならない」行為ではないか、というわけです。さらに本論文は、カブトムシやヘラジカの雄の角の突き合いから、こうした行為が進化史的に「かなり根の深い」現象である可能性を指摘します。現代の男性が第二次性徴期に見せる「悪い」行為の進化的起源は、「善悪」の感覚を獲得するかなり前だったのではないか、というわけです。一方現代日本社会において、こうした「危険」で「悪い」行為から若者が離れていっているとも解釈できそうな統計が提示されています。これに関して本論文は、内分泌攪乱物質による影響と、恋愛や結婚のコスパ悪化を要因として想定しますが、今後の調査が必要と指摘しています。


参考文献:
桜井芳生、赤川 学、尾上正人編(2021) 『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』(日本評論社)

白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生

 白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。哺乳形類(Mammaliamorpha)は、トリティロドン類および哺乳類の最終共通祖先と、その全ての子孫から構成されます。トリティロドン類は非哺乳型類(nonmammaliaform)の植食性犬歯類で、後期三畳紀に出現し、ジュラ紀に多様化を遂げ、前期白亜紀まで存在しました。真三錐歯類は、異論はあるものの、一般に絶滅した哺乳類群と考えられてきました。

 本論文は、中国の熱河生物相から新たに発見された、前期白亜紀(1億4500万~1億年前頃)のトリティロドン類および真三錐歯類について報告します。一方の化石は、遼寧省の九仏堂累層から出土したトリティロドン類(哺乳類様爬虫類)の一種で、熱河生物相では初めて特定されました。その体長は316mmで、「Fosiomanus sinensis」と命名されました。もう一方の化石は正三錐歯目(有胎盤哺乳類と有袋類の現生種と遠縁の関係にある動物種)の一種で、熱河生物相では一般的に見られ、「Jueconodon cheni」と命名されました。これは遼寧省の義県累層で発見され、体長はFosiomanusより小さい183mmです。

 熱河生物相では、真三錐歯類は一般的ですが、トリティロドン類はこれまで見つかっていませんでした。これら2種は互いに遠縁ですが、掘削生活に適応した収斂的な特徴を有しており、この生物相で知られる最初の「引っかき型の掘削動物」です。また、これら2種はともに、単弓類や哺乳類の祖先的状態と比較して仙前椎の数が多く、体節性変化およびホメオーシス変化が確認されました。とくに、トリティロドン類の標本は、既知の単弓類(哺乳類およびその絶滅近縁生物からなり、石炭紀までさかのぼります)と比較して、仙前椎の数が最も多く、胸郭が最も長い、と確認されました。

 これらの化石は、脊椎動物の進化学と発生生物学に関する数々の研究で注目されてきた、哺乳形類の軸骨格の進化的発生に光を当てます。これらの化石に記録されている表現型は、現生の哺乳類に認められるような、軸骨格の体節形成およびHOX遺伝子発現における発生学的な可塑性が、ステム群哺乳形類にすでに備わっていたことを示しています。こうした発生機序と自然選択との相互作用が、哺乳形類のさまざまなクレード(単系統群)で独立に進化したボディープランの多様な表現型を支えていた、という可能性がある。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:遠縁の関係にある2種の穴掘り哺乳類が発見された

 中国北東部の前期白亜紀の熱河生物相から発見された、哺乳類の祖先である哺乳形類の2種の化石について記述した論文が、Nature に掲載される。これら2種は、遠縁の関係にあるが、収斂進化を示す穴掘り生活様式の特徴を複数有しており、この生態系で初めて発見されたスクラッチディガー(引っかき掘りをする穿孔哺乳類)となった。

 今回、Jin Meng、Fangyuan Maoたちの研究チームは、前期白亜紀(約1億4500万~1億年前)の、遠縁の関係にある2種の動物の化石について報告している。第1の化石は、遼寧省の九仏堂累層から出土したトリティロドン類(哺乳類様爬虫類)の一種で、熱河生物相では初めて特定された。その体長は316ミリメートルで、Fosiomanus sinensisと命名された。第2の化石は、正三錐歯目(有胎盤哺乳類と有袋類の現生種と遠縁の関係にある動物種)の一種で、熱河生物相では一般的に見られ、Jueconodon cheniと命名された。この動物種は、遼寧省の義県累層で発見され、体長は183ミリメートルでFosiomanusより小さかった。

 穴を掘る生活様式に適応した哺乳類は、穴掘りのための特殊な特徴があることで識別される。Mengたちは、FosiomanusとJueconodonが、遠縁の関係にあるにもかかわらず、こうした特殊な特徴を共に持っていたことを見いだした。例えば、この2種は、共に前肢より後肢が短く、短い尾と強靭な爪のある幅広の前肢を持っており、胸椎の数も多かった。Mengたちは、この2種に共通する特徴は、同じような選択圧の下で独立に進化したと結論付けている。


古生物学:白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生

古生物学:穴掘り動物を発掘する

 今回、中国の熱河生物相で新たに発見・記載された、前期白亜紀の2種の化石哺乳類において、穴掘りの生活様式への収斂適応が見いだされている。一方の標本は、現生の有胎盤哺乳類および有袋類に遠縁の真三錐歯類のもので、体長は約180 mmだった。真三錐歯類は熱河生物相ではごく一般的な哺乳類である。もう一方の標本は、この生物相では非常にまれな、いわゆる哺乳類型爬虫類の中で最も哺乳類に近い動物であるトリティロドン類のもので、これまでに見つかったトリティロドン類の標本の中でも最も保存状態が良好で最も年代が新しい。そのサイズは、体長300 mm以上と、真三錐歯類の標本の2倍であった。これら2種の関係は、カモノハシとセンザンコウ以上に遠縁だが、いずれも掘削への顕著な適応の数々を有していた。これらの適応には、胸椎と肋骨の数が通常より多く、胸部と腰部の境界が不鮮明であることなどが挙げられる。特に、トリティロドン類の標本は、既知の単弓類(哺乳類およびその絶滅近縁生物からなり、石炭紀までさかのぼる)と比べて仙前椎の数が最も多く胸郭が最も長い。今回の発見は、現生哺乳類の椎骨数の変動に関する研究に、時間的な奥行きという極めて達成の難しい要素を加えるものである。



参考文献:
Mao F. et al.(2021): Fossoriality and evolutionary development in two Cretaceous mammaliamorphs. Nature, 592, 7855, 577–582.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03433-2

『卑弥呼』第62話「遭逢」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年5月20日号掲載分の感想です。前回は、トメ将軍とミマアキが、日下(ヒノモト)の国の無人の都を見て、全滅したのだろうか、と案じるところで終了しました。今回は、ミマト将軍が配下の兵士を率いてヤノハ一行に追いつこうと急いでいる場面から始まります。ヤノハ一行は那(ナ)の国の岡(ヲカ)で時化のため足止めを食らっていました。オオヒコはナツハ(チカラオ)に、この時化では出立は無理だ、と諭します。それでも動じる様子を見せないナツハに、ヤノハは弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に着く前に沈むぞ、とヌカデは諭します。ヤノハは建物で待機中に現れたモモソの霊に、自分を解放してくれ、自分より倭国を泰平にするのに相応しい方、つまり事代主(コトシロヌシ)が現れた、自分は事代主に筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)を譲り、弟のチカラオとともに姿を消すつもりだ、と訴えます。しかしモモソは、倭を泰平にするのはヤノハの仕事だ、国を譲る前に事代主とじっくり話して人となりを見極めろ、と答えます。以前より優しくなった、山社(ヤマト)の仲間を想い、生き別れの弟を必死に守ろうとし、それ以上にこの国の民のことに心を砕いている、とモモソに指摘されたヤノハは、買いかぶるな、自分の望みは誰にも邪魔されず生き抜くことだけだ、と反論しますが、モモソは姿を消します。

 日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)では、トメ将軍とミマアキが2日間探索しても誰とも遭遇せず、住民は厲鬼(レイキ)から逃れるため都を捨てたのではないか、とミマアキは推測します。トメ将軍はその可能性を認めつつ、ともかく奥津城(オクツキ)まで行こう、と提案します。トメ将軍とともに奥津城に近づいたミマアキは、擦れるような金(カネ)の音が聴こえてきたのに気づきます。一行が林に入ると、逆さに吊った杯のような形の金物から音が鳴っていました。これは銅鐸なのですが、ミマアキもトメ将軍も詳しくは知らないようです。銅鐸は九州でも出土していますが、数は近畿と比較して圧倒的に少なく、本作の舞台である3世紀初頭には、すでに九州では使われていなかった、という設定なのかもしれません。トメ将軍は、以前吉国(ヨシノクニ)だった邑(吉野ケ里遺跡でしょうか)で見たことがある、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)や伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)に伝わる魔除けの楽器で、鬼があの音を嫌う、とミマアキに説明します。ミマアキは、林の向こうに鬼から身を守る人が住んでいるかもしれない、と考えます。トメ将軍とミマアキが林を抜けると、桃の木が整然と植えられており、枝が落とされていました。夏に果実を採取するため、冬に剪定しているのだろう、とミマアキは推測します。木の下には桃の種が多数置かれており(纏向遺跡では大量の桃の種が発見されています)、何の目的なのか、ミマアキは疑問に思います。そこへ、奥津城というか古墳の前の屋敷の門が開き、女性が現れます。その女性はたいへん美しく、トメ将軍もミマアキも配下の兵士たちも見惚れます。その女性が立ち止まったのを見て、トメ将軍は慌てて、自分たちは筑紫島から来た者で、そなたたちに敵意はない、と説明します。すると女性は、ようこそおいでくださいました、とトメ将軍一行を歓迎し、自分は日下のフトニ王の娘で名はモモソだ、と名乗ります。

 岡では、時化にも関わらず、ヤノハがチカラオとともに出立しようとします。オオヒコは出立を見合わせるよう、ヤノハに進言しますが、時間がない、と言ってヤノハは答えます。それでもオオヒコは、せめてもう1日待つべきと進言しますが、この程度の嵐で死ぬようならば、天照大御神様に見捨てられた証で、もはや倭王を名乗る資格はない、と答えます。もし自分が2日経っても戻らなければ、海の藻屑と消えたか、事代主にしてやられたのだ、とヤノハはオオヒコに言い残します。そこへヌカデが現れ、ミマト将軍一行が到着したことを報告します。ミマト将軍は、日向(ヒムカ)に駐在するテヅチ将軍からの文で、日向の海沿いの邑々の多くの者が死に瀕している、とヤノハに伝えます。やはり筑紫島にも疫病神(エヤミノカミ)が降りたのか、と言うヤノハに、すでにご存じでしたか、とミマト将軍は驚きます。ヤノハはミマト将軍を労い、これから弁都留島に向かう、とミマト将軍に伝えます。この時化にも関わらず出立することにミマト将軍も驚きますが、厲鬼に通じた事代主に助けを求めなければ、人々を救う手立てはない、とヤノハは言います。チカラオとともに弁都留島に向かったヤノハは、時化の中でのチカラオの見事な操船を褒めます。弁都留島に到着したヤノハとチカラオを事代主が出迎えるところで、今回は終了です。


 今回は、話が大きく動き出すことを予感させる内容となっており、たいへん楽しめました。ヤノハは弁都留島に到着し、ついに事代主と対面します。二人の会談というか対決がどのような結果を迎えるのか、二人の駆け引きとともにたいへん注目されます。疫病が本州と四国だけではなく九州でも流行し始めた中、ヤノハは事代主に協力を申し出て、事代主が倭国を導くよう要請するのでしょうが、これまでの描写から、事代主には倭国の王になる野心はなさそうに見えます。ただ、事代主の思惑が詳しく描かれているわけでもないので、事代主の真意がどこにあるのか、ヤノハとの会談で見えてくるのではないか、と期待しています。ヤノハは事代主に全てを譲り、弟のチカラオとともに姿を消すつもりですが、モモソ(の霊)の宣託からは、ヤノハが倭国王となる運命からは逃れられないように思えます。その意味でも、ヤノハと事代主の会談(対決?)は作中の山場の一つになりそうなので、たいへん注目されます。

 今回のもう一つの注目は、疫病のためか人が全くいなかった日下の都で現れた女性です。この女性は、日下のフトニ王の娘のモモソと名乗りました。フトニ王とは、『日本書紀』の大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)、つまり第7代孝霊天皇でしょうか。孝霊天皇の娘に倭迹迹日百襲姫命がいますから、この新たなモモソが後世に倭迹迹日百襲姫命として伝えられた、という設定のようです。これまで、ヤノハに殺された真の日見子(ヒミコ)だったモモソと、卑弥呼(日見子)として倭国王となったヤノハの事績がまとめられ、後世に倭迹迹日百襲姫命として伝えられたのかな、と予想していましたが、日下というか後の大和にも、『日本書紀』の記事にずっと近い設定のモモソがいたわけで、この新たなモモソとヤノハとの関係がどう描かれるのか、注目されます。

 また、モモソは誰もいなくなった日下の都に残って疫病退散の役目を担っているようなので(本来の目的は祖先霊の祭祀かもしれませんが)、霊力のある人物という設定かもしれません。その意味でも、偽の日見子であるヤノハとの関係が気になるところです。日下のモモソは裏のないまっすぐな人物のように見えますが、まだほとんど人物像が描かれておらず、強かなところもあるかもしれず、その人物像も楽しみです。本作の日下は、山陽や山陰にも影響力を及ぼし、巨大な古墳と壮麗な都を築いており、この時点でかなり強大な勢力を築いているようです。この日下と新たに建国された山社とはどのような関係を築くのか、本作における倭国の都というか邪馬台国は、現時点では日向と設定されているようですが、後には日下の都(纏向遺跡と思われます)に移るのか、という点も注目されます。ついに日下の人物が登場し、ますます壮大な話になってきたので、今後もたいへん楽しみです。

仲田大人「人口モデルと日本旧石器考古学」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P92-100)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、考古学と文化進化研究との接点を、とくに人口や集団規模との関係を論じた研究に限定して整理しています。人口統計と文化進化についての論文には相反する二つの立場があり、それらの相違を俯瞰して、考古学から文化進化研究にどんな貢献ができそうか、取り組むべき課題を見つける、というわけです。文化進化研究では、考古データや民族誌学データをそれぞれ用いて、生態的・文化的変数と文化変化の相関を調べています。それによって提示されるモデルは、考古学からみてもイメージ通りと思うこと、また逆に、意表を突かれることもあり興味深いものです。それ以上に、他分野でのモデルを知ることは、考古学が前提としてきた見方や条件を点検する良い機会でもあります。文化進化研究で用いられるデータセットは民族誌学のそれが多いものの、考古学であれば、何を、どのように提示をすればよいのか、考えさせてくれます。

 文化変化と人口との相関については、豊富な考古データを擁する日本の旧石器考古学でも検討してみる価値は充分あると考えられ、それはまた石器文化モデルの構築という作業としても有意義な作業になるでしょう。最近では、文化進化研究の概要を知るのに適した邦訳書が相次いで刊行され(関連記事1および関連記事2)、また、このテーマを扱った入門書・教科書においては、文理の境をほとんど感じさせない脱領域的な状況が、日本考古学において芽生えつつあることも読みとれます。以下では、日本の旧石器考古学と文化進化研究との協同を模索する方向で、文化進化モデルの論文をいくつかが取り上げられ、その内容が確認されていきます。なお、今回は体系的な文献渉猟は試みていないので、それは今後の取り組みとして考えている。


●文化進化と集団規模

 なかなか定義しにくいという意味において、文化の概念はとらえどころがありません。考古学においても伝統的な見方、つまりチャイルド(Vere Gordon Childe)のように考古学的実体を措定してその組み合わせを文化と見立てるものや、それを批判してもっと動的なシステムとみなすもの、あるいは主体やその行為実践に文化をみる社会学的な見方など、さまざまな見解が提示されてきました。それでいて、「文化」について互いに意思疎通がなされている状況は奇妙でもあります。文化進化研究では、文化は情報と把握されています。これは生活知識や習慣、成員の性向や信条などを広くかつ単純に述べたもので、技術も情報の一つとみなされます。情報は他から伝えられたり、学んだりするものであることが何よりも重要です。文化進化とは、そうした情報がある集団においてどのくらい継承され、共有されているかどうか、その時間的な変化のことを指します。

 文化進化研究では変化・変異のパターンと人口統計との相関が一つの主題で、進化という観点から変化のモデルが示されています。その重要論文としてとりあげられるのがスティーブン・シェナン(Stephen Shennan)氏とジョセフ・ヘンリック(Joseph Henrich)氏の研究です。これらは、考古学者が参照しても、文化変化について人口の役割がどれだけ重要なものか、改めて考えさせてくれます。ある集団内で、なぜ文化革新が起きて模倣されるのか、という問題に関して、シェナン氏の2001年の研究のシミュレーションでは、孤立した小さな集団では文化形質の模倣率も集団の適応率も低いのに対して、大きい集団では模倣率も適応率も高い、との結果が提示されています。大きな個体群の方がより小さな個体群よりも文化情報の維持という点では有利に働く、というわけです。これは、大きい集団には「優れた人物(biological fitter)」が多く、学習者が模倣のお手本を見つけやすいのに対し、集団が小さいとお手本も少なくなるため、文化形質がその集団内でしか維持されなくなるからだ、とシェナンは指摘します。シェナン氏はこのモデルを用いて、アフリカの中期石器時代文化の多様性と比較してのアジア南東部やオセアニアの旧石器文化との相違を、74000年前頃となるスマトラ島のトバ大噴火に伴う人口のボトルネック(瓶首効果)と、その後の人口回復が論じられます。

 ヘンリック氏の2004年の論文は、文化進化と人口・集団規模をめぐって論争を引き起こすきっかけにもなった、重要な研究です。文化(=情報)は世代を越えて継承され、同時に蓄積も進みます。文化情報とは、要するに適応度を高める技能やその蓄積のことです。つまり、累積的で適応的なものであり、そうした文化情報を生み出して実践していくには、社会学習者の数(規模や密度)が何よりも求められます。もしその数が少なくなれば、複雑な技能や技術を実践していくのが難しくなります。学習者間での相互作用が低くなれば、習得された文化情報の蓄積や維持が望めなくなるからです。その一方で、模倣するにも手間のかからない単純な技能は、情報として蓄積されるとも考えられています。

 このモデルで、ヘンリック氏たちは、タスマニアの技術的損失について、気候変化によってオーストラリア南部の社会的ネットワークから孤立し、利用可能な土地面積と社会学習者が減少したこととの相関を指摘しています。これはまた、現代人的行動のような複雑な文化情報の累積的進化を調べる場合にも引用されています(関連記事)。シミュレーションによると、複雑なスキルはメタ集団の絶対的な大きさというより、むしろ下位集団、つまりそこに含まれる文化伝達集団相互の頻繁な移動と接触によって蓄積・維持され得る、と指摘されています。

 このように文化進化と人口・集団規模との関係については、シェナン氏とヘンリック氏の研究に基本を負うところが大きいものの、この理論モデルについてはその是非をめぐって、その後いろいろ検討されています。現状では、人口や集団規模と文化的複雑さの関係を支持するものと、影響は見出せず、別のモデルが提案される、との見解が並立した状況のようです。そこで以下では、後者の立場を積極的にとるマーク・コラード(Mark Collard)氏たちの議論が取り上げられます。


●文化進化とリスク戦略

 考古学や民族誌学などでは、なぜ集団によって複雑な道具組成を持つのか、道具の数に大きな偏りが見られるのか、などの理由を考え、いくつかのモデルを提案してきました。コラード氏たちは、それを以下の4点にまとめ、いずれのモデルが妥当なのか、検証しました。そのモデルとは、オズワルド(Wendell H. Oswalt)氏の食料資源の性格、トレンス(Robin Torrence)氏の資源獲得のリスク、ショット(Michael J. Shott)氏の集団の居住形態、ヘンリック氏の人口規模である。

 オズワルド氏のモデルは、食料資源が植物か動物か、つまり対象物が移動するものかそうでないかにより、道具の数や種類などの複雑さが変わる、というものです。食料資源対象の移動性が高いほど道具は複雑でかつその数も多くなる、と指摘されています。トレンス氏のモデルはオズワルド氏のモデルの改良版と言えそうです。トレンス氏は、緯度が高くなるほど食用資源としての植物の数が減少し、動物資源に依存することになるので資源の追跡時間が大きくなり、それが道具の数や複雑さと関係している、と考えました。これは時間圧モデルと呼ばれ、後にトレンス氏は、精巧で複雑な道具が用意されていることは、それだけ資源入手のための高いリスクを回避するものだ、とのリスク回避モデルを採用します。その方針転換を促したのがショット氏で、居住移動性の高さと運搬コストを考慮したモデルを提案しました。移動頻度の高い場合や長距離を移動する場合、その道具組成の多様性は低くなります。これは、移動民の道具が少ない数の道具をより幅広いタスクに用いる、と意味します。またその分、専門的な道具の数も少ない、といった特徴もあります。ヘンリック氏のモデルは上述のように、人口規模と複雑な技能や道具の多様性は相関する、というものです。

 これらのうち、食料獲得のための道具の複雑性に影響を与えている変数を調べるため、コラード氏たちはいくつかの変数間での検定を実行しました。そこで支持されたモデルは、資源リスクへの対応と、道具組成やその構造の複雑さに相関が見られる、というものでした。しかし、コラード氏たちはこの結果をいったん保留します。コラード氏たちは、選んだ変数(有効温度と地上生産数)や集団標本に偏りがあると認めて、自らのモデルを再検討しました。有効温度や地上純生産数がリスク回避モデルを支持する変数だと主張されましたが、これらの変数はおもに植物利用者に関連するもので、動物資源の利用者にとって重要ではない、というわけです。

 コラード氏たちは2011年の論文で、再度リスク回避モデルを検証しました。接触期の北アメリカ大陸西海岸狩猟民を対象に改めてデータが選ばれ、海岸部と高原にそれぞれ居住する16集団が対象とされました。しかし、この場合も結果は芳しくなく、生態学的な変数は海岸部と比較して高原地域のリスクが高いことは示せたものの、道具組成との相関が見られませんでした。この結果についてコラード氏たちは、海岸部と高原の生態学的なリスク差が大きくなく、それ故に道具組成や構造に違いが見つからなかったのだろう、と解釈しました。

 コラード氏たちは2013年の論文で、標本数を80以上に増やして点検してみたところ、降水量と地上での純生産量の二つの変数で、道具組成・構造との間に相関が見られました。集団規模が小さい狩猟採集民では、食糧生産者に比べてその道具組成に環境や資源へのリスク回避が働いている場合が多い、というわけです。これは、何を食糧とするか、つまり生産形態や社会の違いにより採用されるモデルも変わってくることを意味しているのではないか、とコラード氏たちは指摘します。じっさい、食糧生産者の道具組成を調べたコラード氏たちの2013年の論文では、リスク回避モデルよりも人口モデルが支持される結果となっています。

 しかし、たとえ小さな集団であったとしても、ヘンリック氏やパウエル(Adam Powell)氏たちが予測しているように、集団の移動や接触で文化進化は促されます。ストラスバーグ(Sarah Saxton Strassberg)氏とクレンザ(Nicole Creanza)氏は、2021年の論文、集団間の接続についての研究を紹介しています。新しい道具をある集団の道具組成に取り入れてあげると、その集団間で共有される道具の数が増えていくというもので、接続性が道具組成の規模と正の相関関係があることを示唆しています。多くの道具を持つ大きな集団に接続すると、新しい道具の導入可能性があり、反対に、単純な道具組成しか持たない小集団と接続しても、それほど有益にはならない、というわけです。

 こうしたモデルの不一致について、いくつかの論文で気づかされるのは、標本抽出や量的な問題、またデータの使用法に関することです。文化進化モデルの提示を受けて、考古学の側も自らのデータについて洗い直してみたり、考古データとはどういう性質のものなのか、それを理解したりすることが、考古学にとって一層必要な作業になるでしょう。さらに、その認識を異分野間の研究者で共有することが最重要課題となります。


●考古学による人口推定

 これらのモデルのうち、著者が興味を持っているのは人口モデルです。その他のモデルについても関心はあるものの、人口モデルは、石器文化や石器技術がどれだけの人々により支えられてきたのか、という素朴な疑問に最も迫るモデルだから、というわけです。しかし、人口や集団規模サイズを考古学的データから見出していくには、いくつかの前提や条件を踏まえたうえで作業せざるを得ません。たとえば、遺跡数や遺構数を用いる場合は、人が増えれば、考古学的な指標も比例して増えるという単純な論理を前提にしています。じっさい、この手法は、研究者が経験的に感じる部分と相まって、分かりやすいといえば聞こえはよいものの、遺跡数や遺構数は調査における標本抽出の偏りが深く、大きくか変わります。また、居住形態による遺跡利用の違いや、一つの遺跡が実際に一つの集団により利用されたのか、などの見極めも必要です。

 石器群の年代値(放射性炭素年代)は考古事象の豊富さを反映する属性であると考えて、人口の復原に用いられる研究もよくある手法です。しかし、これにも標本抽出や統計的な問題が伴います。標本抽出では、たとえば遺跡や遺構にどれだけ試料が残っているのか、回収率では、発掘した場所や遺構の性質などで、大きく異なってきます。また、研究者がどの時期の遺跡の年代に興味があるか、つまり調査者の研究対象によっても、試料への選択が作用します。測定値の網羅性も問題で、あるデータセットにおいてどれだけ測定値がまとっているかにより、推定される人口値に影響が出る、と予想できます。さらに、データをどう統計的に処理するか、その手法の適切さも問われ続けるでしょう。

 考古データからの人口推定は困難な作業です。遺跡や遺構数にしても年代値のセットにしても、それらは人口に見立てる代替データであり、人口変化についての記述に変換する方策が取られているにすぎなません。それを承知で人口復元を試みようとするならば、できるだけ考古データと年代データが揃っている地域を取り上げ、量的な保証を伴った人口モデルを立てるしかありません。さらに、数値として時間的な変化や地域的な差異が目に見えることも必要です。

 その一例として、メラーズ(Paul Mellars)氏とフレンチ(Jennifer C. French)氏の研究が挙げられます(関連記事)。これは、フランス南西部の現生人類(Homo sapiens)遺跡と絶滅ホモ属(古代型ホモ属)、具体的にはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)遺跡の規模を比較した論文で、表題で現生人類遺跡の規模の大きさが示されています。この論文で採用された遺跡規模を調べる方法は、面倒な手続きが必要ではなく、日本の旧石器遺跡でも検討できます。ごく簡単に言えば、遺跡規模を密度値で示すものです。観察項目は、遺跡の調査面積、出土石器の総数、二次加工石器の総数、遺跡の継続年代です。これに動物遺骸の最小個体数や重量も加えて遺跡規模サイズが推定され、それが人口量に見立てられます。人工物や動物遺骸の密度値を1000年あたりの値に揃えることで、石器文化により継続期間が異なる場合の遺跡を比較対象とできます。日本列島で行なうのならば、石器密度はこの方法で問題なく調べられます。日本列島では動物遺骸は欠落してしまいますが、これを母岩別・個体別資料の点数や重量に置き換えて、遺跡における居住強度と関連づけて人口を考えてもよいかもしれません。

 この論文に対しては批判も提示されています。論文の内容が現生人類とネアンデルタール人の古人口推定に関してでもあるので、石器文化や遺跡の年代について疑問が指摘されている中で注意したいのが、石器組成への言及です。つまり、活動内容により二次加工石器は再利用される可能性があるので、石器数はその頻度に左右されるものだ、と批判されています。消耗の激しいような活動を行なった遺跡では、その分、石器再生も活発になって二次加工石器数も増えるのではないか、というわけです。

 これらの批判に対してメラーズ氏たちは、組成については現生人類遺跡とネアンデルタール人遺跡でその密度値に違いはなく、これは動物遺体の密度値も同様であり、現生人類とネアンデルタール人の居住強度に差はみられないことを強調します。現生人類とネアンデルタール人それぞれの石器文化の継続年代に長短の差があるという事実から、遺物密度データを平均化し、それで得られた値の違いこそ人口差を反映している、という論理です。メラーズ氏たちがネアンデルタール人と現生人類の違いとして重視するのが遺物データの総量であることはよく分かりますが、これは石器組成データが人口を推測するうえでかなり有用な情報であることをよく示しています。

 石器組成をどう考えるのかも議論のある問題ですが、一般的には、それをそのまま過去の行動や信念の痕跡とはみなせない、との認識で落ち着いています。機能主義の主張では、石器組成とその構造は人々の活動形態やその性格を表していると仮定され、道具の組み合わせの違いが活動の空間配置を示す、と考えられます。しかし、行動とはなんの関係もない要因も組成には一定の影響を与えることが無視されている、というのが行動考古学の見解です。行動考古学では、過去の行動がそのまま痕跡となるわけではなく、歪みをともなうものであることが強調されました。機能主義的考古学の看板ともいえる技術的組織という考え方についても、組成の違いが過去の行動を本当に正しく反映しているのか、問われることになりました。

 このように遺跡の石器組成については、機能的な行動だけではなく、道具の再生や廃棄など、さまざまな要因によって形成されたものである、と現在では認識されているようです。ショット氏の1989年の論文は、組成の規模と多様性(多様度)に注目して、機能的行動(同論文では「実質的な行動」)の内容と性質について推論しています。ショットが注目するのは、道具の組成規模とその多様性である。この二つの変数については、道具の使用期間と居住期間を反映するものである、との見解がすでに提示されており、道具の廃棄率や廃棄量と居住期間の総日数が調べられ、集団規模の推定にも役立てられる、と指摘されました。廃棄率が低く使用寿命が長い道具は、作業期間が長いほど出現しやすくなる、と想定されます。ショット氏は、この論理がクン人の民族誌データには当てはまらないことを指摘したうえで、パレオ・インディアン期の組成の規模と多様性を分析し、規模と多様性の関係は、一つの文化体系における技術変異パターンを表している、と整理しました。

 この結論は、組成規模と多様性の関係が居住形態や移動頻度と関係することを明晰に述べています。民族誌データや考古データでのモデルをそれぞれ統計的に検証し、人口モデルを棄却して、むしろ居住形態モデルを採用する点で、この論文はショット氏の1986年の論文と同じ結論に達している、と了解されます。この検討には確かに説得力がありますが、道具の量的規模や堆積量の時間的経過が直ちに居住パターン違いにのみ還元されるものでもないでしょう。遺物の累積量を調べる研究モデルが、人口規模を論じるのにも有効な属性であることは間違いありません。それを日本列島の考古学でも実践するならば、たとえば組成中の欠損品率や製作品と搬入品との割合や遠隔石材の比率など、規模も含めていくつかの属性が多様性(多様度指数)とどう相関するのか、調べると面白そうです。


●今後の課題

 旧石器考古学のデータから古人口を復元できるか、ほとんど疑わしくなってきますが、データは豊富にあるので、それをどう利用するのか、考えねばなりません。何が難しく、何が課題になるのか、以下では、フレンチ氏の2016年の論文をが参照されつつ整理されます。考古記録には基本的に人口情報が含まれません。日本列島の場合、古人類学的な情報にもそれは言えます。旧石器時代では、琉球諸島を除いてその証拠を把握できません。考古学的証拠については、人口情報に端的につながる属性が何か、直接的には見出せていません。間接的には試行錯誤があっても、どう「見立て」るのか、難しいことは事実です。どのような考古学的パターンが人口へ接近するのに有効なのか、考古記録から観察できたパターンから過去の人口の理解に移行するのに必要な「理論的な飛躍」をどう最小に留められるのか、という2点をの解決が決定的に重要になってきます。

 パターンの説明が必ずしも人口の説明にのみ作用するわけではないことは、ショット氏の1989年の論文に述べてられている通りで、データのパターンが示す可能性をどれか一つに絞り込むことは困難です。それが人口動態と相関するものと考られる代理指標を、考古学者はまだ理解しきれていません。もちろん研究背景にも左右されるところですが、それ故に、組成量の変異が示す意味を、研究者は時間圧モデルや居住モデル、人口モデルという形でそれぞれ説明しているのでしょうし、あるいは説明できてしまうのかもしれません。その意味では、人口動態を反映する、確からしい代理指標をどのように見つけてどう組み合わせるのか、その能力向上が問われます。

 これは、解決すべき二つめの点にも関係してきます。データと説明を結びつける可能性のある中位理論の構築ということです。いわば、指針のような役目を果たすもので、考古データと人口との関係を強く示唆する、そうした民族誌学データや歴史データが思い浮かびます。民族考古学の成果は、とくに人口モデルに異を唱えるモデル研究でよく引用されているようです。民族誌データは道具の廃棄や使用期間、居住状況など詳細なデータを提示してくれますが、考古データとの大きな違いは、観察している時間幅にあります。考古学ではいくつもの行動の結果として累積したデータを取り扱っていることが多いのに対して、民族誌データは長期的観察にもとづくデータもありますが、考古データと比較すると瞬間の切り取りにも近い生活の一コマの記録と言えます。その一コマをモデルとして旧石器時代の人口動態を丸々代弁してもらおうとするのは、間違っているかもしれません。

 むしろ、民族誌において、人口に関係しそうな行動代理指標を複数取り上げ、その組み合わせのうち、最も影響力の強い変数を提示してもらうことが、手続きとして重要になります。その民族誌的変数の中から考古学的に検討ができるものを選び、古人口研究に落としこんでみることが効果的と思われます。フレンチ氏の2016年の論文はこれを「マルチプロキシ・アプローチ(多代理指標手法)」と呼んでおり、たとえばビンフォード(Lewis R. Binford)氏の2011年の民族誌集成や、ケリー(Robert L. Kelly)氏の1995年の民族考古学アトラスに示されている膨大なデータから、人口代理指標とみなせる情報を特定していくよう、提案しています。複数のデータが人口情報に関係がありそうならば、そこに一定の傾向が把握されることになり、さらにそれらが考古学的にも検討できる性格のものならば、古人口の復元にも妥当性が得られる、というわけです。

 こうした方法はとくに目新しいものではなく、北アメリカ大陸の民族考古学などではやり尽くされている感があるかもしれませんが、民族学や考古学や数理人類学などの研究者が大勢集まり、人口推定に関するモデルの構築に取りかかるとなると、そう多くないでしょう。とくに旧石器時代については、古代型ホモ属と現生人類の交替に関するものや、現代人的行動の出現といった主題に集中するようです。いくつか研究が出されているなか、若野友一郎氏と門脇誠二氏たちによる2018年と2021年の研究は、独自の数理モデルに基づいて古代型ホモ属と現生人類をめぐる人類学的・考古学的考察を発表しており、人口モデルが応用されています。日本列島のデータは組み入れられていませんが、このような共同作業により、モデルはより蓋然性が高まったり、反対に、問題点が掘り下げられて明確になったりを繰り返します。


●まとめ

 本論文では、著者の関心から、文化進化研究と考古学研究の人口について取り上げられました。なぜ人口モデルなのか、と問われても論理立てて答えられるほど整った意見はないので、日本の旧石器研究を進めてきたなかで、感覚的にこのモデルで説明できそうなことがあるといった程度だ、と著者は述べます。それ故に、この感覚を具体的にしていかねばならない、と指摘されます。

 田村隆氏の2017年の論文は、人口という観点に立ち、日本列島の旧石器時代を3段階に分けています。つまり、少なくとも3回、日本列島では人口の増減が明確になる事象が起き、その度に生活戦略の刷新を繰り返し、環境変化への対応を図ってきた、というわけです。この回復力の過程を、田村氏は適応サイクル・モデルと名づけています。3つの画期とは、(1)本州では38000年前頃で古北海道島では3万年前頃、(2)25000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)、(3)2万年前頃以降の旧石器時代終末期です。

 著者もこれらの時期の人口推定に関心を抱いています。(1)に関しては、日本列島に到来してきた集団の規模はどのくらいだったのか、日本列島ではなぜ現代人的行動が顕著に現れないのか、という問題です。これらは人類の進化史的にみても重要な問題と言えます。その意味で、最近の井原泰雄氏たちの2020年の論文で提示された人口シミュレーション研究は、大きなヒントを与えてくるかもしれません。(2)に関しては、石器の様式性の高まりと情報交換網の形成がなぜ寒冷期に促進されるのかが、問題なるでしょう。(3)は土器技術についてです。新技術が現れる背景と、なぜそれが当初緩やかにしか増えず、完新世に入って急速に普及するのか、という問題です。

 これらの主題が人口とどのように関係するのか興味のあるところで、詳しい解析には文化進化研究との協同がどうしても必要になってきます。また、これらの主題は日本列島の地域的な事象にとどまらず、世界の先史学にも充分な貢献が期待できる普遍的な主題性を備えています。豊富な考古データを持つ日本列島で、協同研究を少しずつ進展させていくことが今後の課題になるでしょう。


参考文献:
仲田大人(2021)「人口モデルと日本旧石器考古学」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P92-100

『卑弥呼』第6集発売

 待望の第6集が発売されました。第6集には、

口伝39「密談」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_30.html

口伝40「結界」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_7.html

口伝41「答え」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_27.html

口伝42「拝顔」
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_6.html

口伝43「冷戦」
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_24.html

口伝44「貢ぎ物」
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_8.html

口伝45「死と誕生」
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_27.html

口伝46「現在と未来」
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_4.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第39話が掲載された『ビッグコミックオリジナル』2020年6月5日号は昨年(2020年)5月20日の発売ですから、もう1年近く前のことになります。第6集では暈(クマ)というか暈の大夫である鞠智彦(ククチヒコ)とヤノハとの交渉を中心に話が進むとともに、クラトの陰謀への加担やヒルメの陰謀など、同時進行の複数の陰謀が描かれました。

 このように複数の陰謀が同時進行で描かれていますが、それぞれが本筋に密接に関わっていて散漫なところはなく、よく話が練られているように思います。倭国泰平とのヤノハの願いは、さまざまな人々の思惑が交錯し、なかなか一直線には進まず、複雑な事態の展開が描かれています。ヤノハを筆頭にミマアキやトメ将軍や鞠智彦など、個性的な人物も多く、話の構成とともに人物描写の点でも楽しめています。最終的な評価時期尚早ですが、本作は、当ブログで過去に熱心に取り上げた、原作者が本作と同じ『イリヤッド』や、作画者が本作と同じ『天智と天武~新説・日本書紀~』よりも個人的な評価は上になるかもしれない、と期待しています。なお、第1集~第5集までの記事は以下の通りです。

第1集
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_49.html

第2集
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_60.html

第3集
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_1.html

第4集
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_5.html

第5集
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_37.html

大河ドラマ『青天を衝け』第12回「栄一の旅立ち」

 栄一たちは横浜の外国人居留地を焼き討ちしようと計画し、まず高崎城を占拠しようとします。喜作とともに江戸に出て平岡円四郎と再会します(とはいっても、両者ともに過去の遭遇を覚えていないでしょうが)。栄一は平岡に自分には志があると言い、平岡は栄一と喜作に一橋家(と最初は栄一と喜作には明かしていないわけですが)に仕えるよう誘いますが、栄一は断り、平岡は栄一の器量を認めて惜しみます。栄一はたちの攘夷決行の日が近づき、長七郎が戻ってきて栄一たちは喜びますが、長七郎は無謀な決起だと反対します。長七郎は京都の最新の情勢を栄一たちに知らせ、決死の覚悟で中止を訴え、決起は中止となります。

 栄一は役人に目をつけられたことから、喜作とともに京都に向かうことにします。今回は、栄一と父の父子関係とともに、父の器の大きさが印象づけられました。栄一の成功は、豪農出身というだけではなく、理解のある父にも恵まれていたから、というわけでしょうか。徳川慶喜も京都へ向かい、いよいよこれまで別々に描かれてきた栄一の話と慶喜の話の合流が近づいてきました。ここからが本番といった感じですが、これまでの前振りがなかなかよい感じだっただけに、慶喜に仕えてからの栄一は一掃魅力的に描かれるのではないか、と期待しています。

オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合

 オセアニアの人口史に関する研究(Choin et al., 2021)が公表されました。考古学的データでは、ニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島含むニアオセアニア(近オセアニア)には、45000年前頃に現生人類(Homo sapiens)が居住していました(関連記事)。リモートオセアニア(遠オセアニア)として知られており、ミクロネシアとサンタクルーズとバヌアツとニューカレドニアとフィジーとポリネシアを含む太平洋の他地域は、3500年前頃まで人類は居住していませんでした。この拡散は、オーストロネシア語族およびラピタ(Lapita)文化複合の拡大と関連しており、台湾で5000年前頃に始まり、リモートオセアニアには3200~800年前頃までに到達した、と考えられています。

 オセアニア人口集団の遺伝的研究は、オーストロネシア語族の拡大に起因するアジア東部起源の人口集団との混合を明らかにしてきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、オセアニアの移住史に関しては疑問が残っています。太平洋地域への移住が島嶼環境への遺伝的適応をどのように伴ったのか、また古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入がオセアニア個体群においてこの過程を促進したのかどうかも、不明です。オセアニア個体群は、世界で最高水準のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の組み合わされた祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文は、全ゲノムに基づいた調査を報告します。この調査は、太平洋の人口集団の人口史および適応の歴史と関連する広範な問題に対処します。


●ゲノムデータセットと人口構造

 ニアオセアニアとリモートオセアニアの移住史に影響を与えたと考えられる地理的区域の20の人口集団から、317個体のゲノムが配列されました(図1a)。これらの高網羅率ゲノム(約36倍)は、パプアニューギニア高地人やビスマルク諸島人(関連記事1および関連記事2)や古代型ホモ属(絶滅ホモ属)を含む(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、選択された人口集団のゲノムとともに分析されました。最終的なデータセットには、太平洋地域の355個体を含む462個体と、35870981ヶ所の一塩基多型が含まれます(図1b)。

 ADMIXTURE、主成分分析、遺伝的距離の測定(FST)を用いると、人口集団の多様性はおもに4要素により説明される、と明らかになりました。それは、(1)アジア東部および南東部個体群、(2)パプアニューギニア高地人、(3)ビスマルク諸島人とソロモン諸島人とバヌアツ人(ni-Vanuatu)、(4)ポリネシア人の外れ値(本論文ではポリネシア個体群と呼ばれます)と関連しています(図1c・d)。最大の違いはアジア東部および南東部個体群とパプアニューギニア高地人との間にあり、残りの人口集団はこの2構成要素のさまざまな割合を示し、オーストロネシア語族拡大モデルを裏づけます(関連記事)。

 ビスマルク諸島人とバヌアツ人の間では強い類似性が観察され、ラピタ文化期末におけるビスマルク諸島からリモートオセアニアへの拡大と一致します(関連記事)。ヘテロ接合性の水準はオセアニア人口集団の間で著しく異なり、個々の混合割合と相関します。最も低いヘテロ接合性と最も高い連鎖不平衡は、パプアニューギニア高地人とポリネシア個体群との間で観察され、おそらくは低い有効人口規模(Ne)を反映しています。とくにF統計は、バヌアツのエマエ(Emae)島民からポリネシア個体群のバヌアツ人において、他のバヌアツ人より高い遺伝的類似性を示し、ポリネシアからの遺伝子流動を示唆します(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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●ニアオセアニアとリモートオセアニアの定住

 オセアニアの移住史を調べるため、いくつかの進化的仮説により駆動される一連の人口統計モデルが複合尤度法(composite likelihood method)で検討されました。まず、パプアニューギニア高地人と他の現代人および絶滅ホモ属との間の関係が決定され、以前の調査結果(関連記事)が再現されました。次に、遺伝子流動を伴う3期の人口統計が想定され、ニアオセアニア集団間の関係が調べられました。観測された部位頻度範囲は、ニアオセアニアにおける定住前の強いボトルネック(瓶首効果)により最もよく説明されました(Ne=214)。ビスマルク諸島およびソロモン諸島の人々とパプアニューギニア高地人の分離は39000年前頃までさかのぼり、ソロモン諸島人とビスマルク諸島人の分離は2万年前頃で(図2a)、これは45000~30000年前頃となるこの地域における人類の定住の直後となります(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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 次に、マラクラ(Malakula)島のバヌアツ人個体群に代表される、リモートオセアニア西部人口集団がモデルに組み込まれました。バヌアツ人個体群の祖先の一部はビスマルク諸島からの移民で、3000年前頃以後にバヌアツ人の遺伝子プールの31%以上に寄与したと推定され、これは以前の古代DNA研究と一致します(関連記事)。しかし、最適なモデルでは、バヌアツに3000年前頃以降に到来したパプア人関連人口集団は、他のニアオセアニア起源集団の混合だった、と明らかになりました。バヌアツ人のパプア人関連祖先はパプアニューギニア高地人と分岐し、後にソロモン諸島人関連系統から約24%の遺伝的影響を受けました。興味深いことに、台湾先住民のバヌアツ個体群への直接的寄与は3%未満と最小限で、2700年前頃までさかのぼる、と明らかになりました。これは、現代リモートオセアニア西部人口集団のアジア東部関連祖先系統が、おもに混合されたニアオセアニア個体群から継承されたことを示唆します。


●オーストロネシア語族拡大への洞察

 フィリピンとポリネシアのオーストロネシア語族話者を本論文のモデルに組み込むことにより、オセアニア人口集団におけるアジア東部祖先系統の起源が特徴づけられました。移住に伴う孤立を想定して、台湾先住民、およびフィリピンのカンカナイ人(Kankanaey)やソロモン諸島のポリネシア個体群といったマレー・ポリネシア語派話者は7300年前頃に分岐した、と推定され、これはフィリピンの人口集団に関する最近の遺伝学的研究と一致します(関連記事)。他のオーストロネシア語族話者集団をモデル化しても、同様の推定が得られました。

 これらの年代は、台湾からの拡散事象は4800年前頃に始まり、オセアニアに農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした、と想定する出台湾モデルと一致しません。しかし、アジア北東部人口集団からオーストロネシア語族話者集団へのモデル化されていない遺伝子流動(関連記事)が、パラメータ推定に偏りをもたらしているかもしれません。そのような遺伝子流動を考慮すると、出台湾モデルにおいて予測されるよりも古い分岐年代が一貫して得られたものの、信頼区間とは重複します(8200年前頃、95%信頼区間で12000~4800年前)。これは、オーストロネシア語族話者の祖先が台湾の新石器時代の前に分離したことを示唆しますが、パラメータ推定における不確実性を考慮すると、古代ゲノムデータを用いてのさらなる調査が必要です。

 次に、近似ベイズ計算(ABC)を用いて、さまざまな混合モデルにおける、ニアオセアニア個体群とアジア東部起源の人口集団との間の混合の年代が推定されました。その結果、2回の混合の波モデルが、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々の要約統計に最もよく一致しました。最古の混合の波はこの地域でラピタ文化出現後の3500年前頃に起き、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々についてはそれぞれ、2200年前頃と2500年前頃でした(図2c)。これにより、台湾先住民からのマレー・ポリネシアの人々の分離が、ニアオセアニア人口集団との即時で単一の混合事象の後に起きたわけではない、と明らかになり、オーストロネシア語族話者はこの拡散中に形成段階を経た、と示唆されます。


●ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝的影響

 太平洋島嶼部の人々は、主成分分析やD統計やf4比統計により示唆されるように、かなりのネアンデルタール人およびデニソワ人祖先系統を有しています。ネアンデルタール人祖先系統が均一に分布しているのに対して(2.2~2.9%)、デニソワ人祖先系統は集団間で顕著に異なり(関連記事)、パプア人関連祖先系統と強く相関しています(図3a・b・c)。注目すべき例外はフィリピンで観察されており、「ネグリート」と自認しているアイタ人(Agta)と、それよりは影響が劣るもののセブアノ人(Cebuano)で、デニソワ人祖先系統の相対的影響が高めではあるものの、パプア人関連祖先系統をほとんど有していません。

 古代型ホモ属(絶滅ホモ属)祖先系統の供給源を調べるため、信頼性の高いハプロタイプ(図3d)が推測され、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(関連記事)およびシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)とのハプロタイプ一致率が推定されました。ネアンデルタール人の一致率は全集団において単峰型で(図3e)、ネアンデルタール人のゲノム断片は人口集団の組み合わせで有意に重複しており、単一のネアンデルタール人集団からの非アフリカ系現代人集団の祖先への1回の遺伝子移入事象と一致します。

 逆に、デニソワ人から遺伝子移入された断片では、異なる最大値が見られました(図3e)。以前に報告されたように(関連記事)、2つの最大値兆候(デニソワ人のゲノムとの一致率は、それぞれ98.6%と99.4%)がアジア東部個体群で検出されただけではなく、台湾先住民やフィリピンのセブアノ人やポリネシア個体群でも見つかりました。約99.4%一致するハプロタイプは、約98.6%一致するハプロタイプよりも有意に長く、アジア東部人口集団では、アルタイ山脈のデニソワ人と密接に関連する人口集団からの遺伝子移入が、遺伝的により遠い関係の絶滅ホモ属集団からの遺伝子移入よりも新しく起きた、と示唆されます。

 パプア人関連人口集団でもデニソワ人の2つの最大値が観察され、一致率は約98.2%と約98.6%です。近似ベイズ計算を用いると、一貫して、パプアニューギニア高地人は2回の異なる混合の波を受けている、と確認されます。約98.6%の一致率のハプロタイプは、全人口集団で類似の長さでしたが、約98.2%の一致率のハプロタイプは、パプア人関連人口集団において、他の人口集団における98.6%の一致率のハプロタイプよりも有意に長い、と示されました。

 近似ベイズ計算パラメータ推定は、最初の混合の波が222000年前頃にアルタイ山脈デニソワ人と分岐した系統から46000年前頃に起き、パプア人関連人口集団への第二の混合の波が、アルタイ山脈デニソワ人と409000年前頃に分離した系統から25000年前頃に起きた、と裏づけます。このモデルは、アルタイ山脈デニソワ人とは比較的遠い関係にあるデニソワ人系統からの混合の波が46000年前頃に起きた、と報告した以前の研究(関連記事)よりも支持されました。本論文の結果は、パプア人関連集団の祖先とデニソワ人との複数の相互作用と、遺伝子移入元の絶滅ホモ属の深い構造を示します。

 フィリピンのアイタ人についても、2つのデニソワ人関連の最大値が観察され、それぞれ一致率は98.6%と99.4%です(図3e)。99.4%の最大値の方は、おそらくアジア東部人口集団からの遺伝子流動に起因します。アイタ人における遺伝子移入されたハプロタイプは、パプア人関連人口集団のハプロタイプと有意に重複していますが、パプア人とは関係ないデニソワ人祖先系統の比較的高い割合(図3c)は、追加の交雑を示唆します。

 ルソン島におけるホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)の発見(関連記事)を考慮して、ネアンデルタール人やデニソワ人以外の絶滅ホモ属からの遺伝子移入の可能性も調べられました。絶滅ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により絶滅ホモ属との混合の痕跡と思われる領域を検出する方法(関連記事)で、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来するハプロタイプを除外すると、合計499万塩基対にまたがる59個の古代型ハプロタイプが保持され、ほとんどの集団で共通していました。アイタ人とセブアノ人に焦点を当てると、両集団に固有の遺伝子移入された約100万塩基対のハプロタイプしか保持されませんでした。これは、ホモ・ルゾネンシスが現代人の遺伝的構成に全く、あるいはほとんど寄与しなかったか、ホモ・ルゾネンシスがネアンデルタール人もしくはデニソワ人と密接に関連していたことを示唆します。以下は本論文の図3です。
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●絶滅ホモ属からの遺伝子移入の適応的性質

 絶滅ホモ属からの適応的な遺伝子移入の証拠は存在しますが(関連記事1および関連記事2)、オセアニア人口集団における役割を評価した研究はほとんどありません。本論文ではまず、適応的遺伝子移入兆候における濃縮について、5603の生物学的経路が検証されました。ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する断片については、有意な濃縮がそれぞれ24と15の経路で観察され、そのうち9つは代謝機能と免疫機能に関連していました。

 ネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入に焦点を当てると、OCA2やCHMP1AやLYPD6Bなどの遺伝子が複製されました(図4a)。また、免疫(CNTN5、IL10RA、TIAM1、PRSS57)、神経細胞の発達(TENM3、UNC13C、SEMA3F、MCPH1)、代謝(LIPI、ZNF444、TBC1D1、GPBP1、PASK、SVEP1、OSBPL10、HDLBP)、皮膚もしくは色素沈着表現型(LAMB3、TMEM132D、PTCH1、SLC36A1、KRT80、FANCA、DBNDD1)と関連する遺伝子の、以前には報告されていなかった兆候が特定され、ネアンデルタール人由来の多様体が、有益であろうとなかろうと、多くの現代人の表現型に影響を与えてきた、との見解(関連記事)がさらに裏づけられました。

 デニソワ人については、免疫関連(TNFAIP3、SAMSN1、ROBO2、PELI2)と代謝関連(DLEU1、WARS2、SUMF1)の遺伝子の兆候が複製されました。本論文では、自然免疫および獲得免疫の調節と関連する遺伝子(ARHGEF28、BANK1、CCR10、CD33、DCC、DDX60、EPHB2、EVI5、IGLON5、IRF4、JAK1、LRRC8C、LRRC8D、VSIG10L)における、14個の以前には報告されていない兆候が示されます。たとえば、細胞間相互作用を媒介し、免疫細胞を休止状態に保つCD33は、約3万塩基対の長さのハプロタイプを含み、オセアニア集団特有の非同義置換多様体(rs367689451-A、派生的アレル頻度は66%超)を含む、7個の高頻度の遺伝子移入された多様体を伴い、有害と予測されました。

 同様に、ウイルス感染に対するToll様受容体シグナル伝達とインターフェロン応答を調節するIRF4は、29000塩基対のハプロタイプを有しており、アイタ人では13個の高頻度多様体が含まれます(派生的アレル頻度は64%超)。これらの結果から、デニソワ人からの遺伝子移入が、病原体に対する耐性アレル(対立遺伝子)の貯蔵庫として機能することにより、現生人類の適応を促進した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●島嶼環境への遺伝的適応

 太平洋の人口集団における古典的一掃と多遺伝子性適応の兆候が調べられました。デニソワ人からの適応的遺伝子移入として識別されたTNFAIP3遺伝子(関連記事)を含む、全パプア人関連集団に共通する44個の一掃の兆候が見つかりました。最も強く的中したなかには、妊娠中に内因性プレグナノロンの抗痙攣作用を媒介するGABRPと、肥満度指数および高密度リポタンパク質コレステロールと関連するRANBP17が含まれます。最高得点は非同義置換を特定し、おそらくはGABRPの多様体(rs79997355)に損傷を与え、パプアニューギニア高地人とバヌアツ人では70%以上の頻度ですが、アジア東部および南東部人口集団では5%未満と低頻度です。人口集団特有の兆候の中で、栄養欠乏に対する細胞応答を調節し、血圧と関連するATG7は、ソロモン諸島人で高い選択得点を示しました。

 高いアジア東部祖先系統を有する人口集団間では、29個の共有される一掃兆候が特定されました。最高得点は、ALDH2など複数遺伝子を含む約100万塩基対のハプロタイプと重複します。ALDH2欠損は、アルコールに対する有害反応を起こし、日本人では生存率増加と関連しています。ALDH2の多様体rs3809276の頻度は、アジア東部人関連集団では60%以上、パプア人関連集団では15%未満です。脂質異常症および中性脂肪水準とデング熱に対する保護と関連するOSBPL10周辺で強い兆候が検出され、これはネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入と明らかになりました。人口集団特有の兆候として、ポリネシア個体群におけるLHFPL2が含まれ、その変異は、鋭い視力に関わるひじょうに多様な特性である眼の網膜黄斑の厚さと関連しています。LHFPL2の多様体はポリネシア個体群では約80%に達しますが、データベースには存在せず、研究されていない人口集団におけるゲノム多様性を特徴づける必要性が強調されます。

 ほとんどの適応的形質は多遺伝子性と予測されるので、形質関連アレルの統合されたハプロタイプ得点を、一致する無作為の一塩基多型のそれと比較することにより、充分に研究された遺伝的構造を有する25個の複雑な形質(関連記事)の方向性選択が検証されました。対照としてヨーロッパの個体群に焦点当てると、以前の研究で報告されたように、より明るい肌や髪の色素沈着への多遺伝子性適応兆候が見つかりましたが、身長に関しては見つかりませんでした(図4b)。太平洋の人口集団では、ソロモン諸島人とバヌアツ人で、高密度リポタンパク質コレステロールのより低い水準の強い兆候が検出されました。


●人類史と健康への示唆

 オセアニアへの移住は、現生人類の島嶼環境への生息と適応の能力に関する問題を提起します。現生人類の変異率と世代間隔に関する現在の推定を用いると、ニアオセアニアの45000~30000万年前頃の定住の後に、島嶼間の遺伝的孤立が急速に続くと明らかになり、更新世の航海は可能であったものの限定的だった、と示唆されます。さらに本論文では、アジア東部とオセアニアの人口集団間の遺伝的相互作用は、厳密な出台湾モデルで予測されていたよりも複雑だったかもしれない、と明らかになり、ラピタ文化出現後のニアオセアニアで少なくとも2回の異なる混合事象が起きた、と示唆されます。

 本論文の分析は、リモートオセアニアの定住への洞察も提供します。古代DNA研究では、パプア人関連の人々が、バヌアツへと最初の定住の直後に拡大し、在来のラピタ文化集団を置換した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代のバヌアツ個体群におけるほとんどのアジア東部人関連祖先系統は、初期ラピタ文化定住者からよりもむしろ、混合されたニアオセアニア人口集団からの遺伝子流動の結果だった、と示唆されます。これらの結果は、ポリネシアからの「逆移住」の証拠と組み合わされて(関連記事1および関連記事2)、バヌアツにおける繰り返された人口集団の移動との想定を裏づけます。比較的限定された数のモデルの調査だったことを考慮すると、この地域の複雑な移住史の解明には、考古学と形態計測学と古ゲノム学の研究が必要です。

 本論文のデータセットにおける多様なデニソワ人から遺伝子移入されたゲノム領域の回収は、以前の研究(関連記事1および関連記事2)とともに、現生人類がさまざまなデニソワ人関連集団から複数の混合の波を受けた、と示します。第一に、アルタイ山脈デニソワ人と密接に関連するクレード(単系統群)に由来する、アジア東部固有の混合の波が21000年前頃に起きた、と推定されます。このクレードのハプロタイプの地理的分布から、その混合はおそらくアジア東部本土で起きた、と示されます。

 第二に、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的に比較的と追い関係の別のクレードが、ニアオセアニア人口集団とアジア東部人口集団とフィリピンのアイタ人に、類似した長さのハプロタイプをもたらしました。本論文のモデルはニアオセアニアとアジア東部の人口集団の最近の共通起源を支持しないので、アジア東部人口集団はこれらの古代型断片を間接的に、アイタ人および/もしくはニアオセアニア人口集団の祖先的人口集団を経由して継承した、と提案されます。ニアオセアニア個体群の祖先への混合の波を仮定すると、この遺伝子移入はサフルランドへの移住の前となる46000年前頃に恐らくはアジア南東部で起きた、と推測されます。

 第三に、パプア人関連集団固有の別の混合の波は、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的にもっと遠い関係にあるクレードに由来します。本論文では、この遺伝子移入は25000年前頃に起きたと推測され、スンダランドもしくはさらに東方で起きた、と示唆されます。ウォレス線の東方で見つかった絶滅ホモ属はホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)(関連記事)とホモ・ルゾネンシスで、これらの系統がアルタイ山脈デニソワ人と関連していたか、デニソワ人と関連する人類もこの地域に存在していた、と示唆されます。

 アジア東部とパプアの人口集団で検出されたデニソワ人からの遺伝子移入の最近の年代から、絶滅ホモ属は25000~21000年前頃まで生存していた可能性がある、と示唆されます。アイタ人における比較的高いデニソワ人関連祖先系統から、アイタ人の祖先が異なる独立した混合の波を経てきた、と示唆されます。まとめると、本論文の分析から、現生人類と絶滅ホモ属のひじょうに構造化された集団との間の交雑は、アジア太平洋地域では一般的現象だった、と示されます。

 本論文は、太平洋諸島住民の未記載の10万以上の頻度1%以上の遺伝的多様体を報告し、その一部は表現型の変異に影響を及ぼす、と予測されます。正の選択の候補多様体は、免疫と代謝に関連する遺伝子で観察され、太平洋諸島に特徴的な病原体および食資源への遺伝的適応を示唆します。これらの多様体の一部がデニソワ人から継承された、との知見は、現生人類への適応的変異の供給源としての絶滅ホモ属からの遺伝子移入の重要性を浮き彫りにします。

 高密度リポタンパク質コレステロールの水準と関連する多遺伝子性適応の兆候からは、脂質代謝における人口集団の違いがあり、この地域における最近の食性変化への対照的な反応を説明している可能性がある、と示唆されます。太平洋地域の大規模なゲノム研究は、過去の遺伝的適応と現在の疾患危険性との間の因果関係を理解し、研究されていない人口集団における医学的ゲノム研究の翻訳を促進するために必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:太平洋地域の人類集団の祖先を読み解く

 太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。

 太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。

 この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、その後、約2万~4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。

 太平洋地域の集団に属する人々は、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方のDNAを持っている。デニソワ人のDNAは複数回の混合によって獲得されたもので、これは、現生人類と古代ヒト族との混合が、アジア太平洋地域で一般的な現象だったことを示している。ネアンデルタール人の遺伝子は、免疫系、神経発生、代謝、皮膚色素沈着に関連した機能を備えているが、デニソワ人のDNAは主に免疫機能と関連している。そのため、デニソワ人のDNAは、太平洋地域に初めて定住した者が、その地域で蔓延していた病原体と闘うために役立つ遺伝子の供給源となり、島嶼環境の新たな居住地に適応するために役立った可能性がある。



参考文献:
Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5

森恒二『創世のタイガ』第8巻(講談社)

 本書は2020年8月に刊行されました。第8巻は、タイガたちのいる現生人類(Homo sapiens)の集落で、リクが集落の住人とともに鉄製武器の製作を試みている場面から始まります。すでに何度か失敗していたリクは、それも踏まえて今回ついに成功します。リクはタイガの要求に応じて鉄の剣を2本製作し、その他に槍と斧を1本ずつ製作します。剣2本をタイガが、斧をナクムが、槍をカシンが持ち、その威力を実演してみせたところ、集落の人々はその威力に驚嘆します。タイガたちはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に襲撃される現生人類を助けことにし、早速現生人類を襲っていたネアンデルタール人を撃退します。そこで鉄剣は大きな威力を発揮しますが、タイガとアラタは、せいぜい7000年前頃から使われ始めたと言われている投石紐を、ネアンデルタール人が使っていたことに疑問を抱きます。

 タイガたちが集落に戻ると、チヒロが山羊の世話をしていました。チヒロはカシンに山羊を捕獲してもらい、牧畜を始めようとしていました。ここで、ヤギの乳を飲もうとしてユカが吐いたことから、ユカの妊娠が明らかになります。ユカはネアンデルタール人に拉致されて強姦されてしまい、そこで妊娠したようです。タイガたちがネアンデルタール人を殺し過ぎたからこうなったのだ、と責めるレンにアラタは激怒し、タイガはリクに、ネアンデルタール人と戦うなと要求するなら守れない、と覚悟を迫ります。ユカは自暴自棄になり、池に入って流産しようとしますが、ナクムはそれを阻止して自分や妻子とともに住まわせることにします。それでも流産しようとするユカを、その子供は敵(ネアンデルタール人ではなく)ではなく自分たちの子供だ、とナクムは諭します。

 ナクムは、その後もネアンデルタール人と遭遇して戦闘になったことから、同じ現生人類の西の民と同盟を結ぼうとします。タイガもアラタも同行しますが、2人は以前に市の民と遭遇していました(第5巻)。タイガの近くにマンモスのアフリカが寄ってきますが、西の民を恐慌に陥らせると考えたタイガは、アフリカを同行させないことにします。タイガたちは西の民の集落に到着しますが、警戒されているようです。そこでナクムは、斧を置いて、タイガとカシンだけを連れて同盟締結交渉に臨みます。しかし、西の民はナクムたちを信用しません。そこへ、西の民のカイザという腕自慢の男性が現れ、ナクムに決闘を挑みます。ナクムは、自分より強いからと言って、タイガにカイザと戦わせます。タイガは、自分が勝ったら協力してもらう、と要求しますが、カイザは、自分がまけることはあり得ず、お前たちを殺す、と強硬な姿勢を変えません。そこへ、以前タイガに命を救われた(第5巻)男性が現れ、勝者の約束は自分が保証する、と訴えます。タイガはカイザの力に圧倒されつつも、はるかに上回る技術と強力な鉄剣により、カイザをほとんど傷つけずに倒します。

 しかし、そこに多数のネアンデルタール人が襲撃してきて、このままでは勝てないと判断したタイガは、近くにいるアフリカを呼ぶために一旦離脱します。そのタイガの行動に西の民やカシンは不信感を抱きますが、ティアリとナクムはタイガを信じます。その間、投石紐を用いるネアンデルタール人に西の民とナクムたちは何とか押しとどめますが、ネアンデルタール人たちに挟撃されて苦戦します。ネアンデルタール人たちを率いているのは、以前に現生人類の集落を襲撃した時も指揮官的な役割を担っていたドゥクスでした。崖の上から戦況を確認していたドゥクスはナクムの存在に気づき、マンモス(作中では当時の人々はドゥブワナと呼んでいます)タイガがどこにいるのか、探します。そこへタイガがアフリカに乗って現れ、戦況は一気に逆転します。ドゥクスに気づいたタイガは、アフリカから降りてドゥクスを倒そうとし、苦戦しつつも狼のウルフの助けも得て、ドゥクスを圧倒して鉄剣で斬りつけますが、ドゥクスは金属製のサバイバルナイフのようなものでそれを防ぎます。タイガが衝撃を受けている隙にドゥクスは他のネアンデルタール人とともに撤退します。

 襲撃してきたネアンデルタール人を退け、ナクムは再度西の民に同盟を締結するよう、説得しますが、西の民はナクムたちを信用しません。そこでタイガは、アフリカを使って脅しつつ、西の民は同志であり兄弟なので守る、と訴えます。続いてナクムも西の民を同胞(兄弟)と呼び、ナクムたちに強い不信感を示し続けてきたカイザも感激し、同盟締結に成功します。その後ナクムたちは、点在する現生人類の部族と交渉していき、ネアンデルタール人への脅威から同盟交渉は順調に進みます。とくに、マンモスに乗るタイガの効果は絶大でした。タイガは、ドゥクスが金属製のサバイバルナイフのようなものを持っていたことから、自分たち以外に未来からこの時代に来ている人間がいる、と仲間に伝えます。リカコは、が金属製のサバイバルナイフのようなものがアーミーナイフで軍用ではないか、と推測します。その頃、洞窟のネアンデルタール人の拠点では、1人の男性がネアンデルタール人たちを前に演説していました。迷ってはいけいない、迷いは罪である、どれほど我々に似ていても我々以外は人ではない、我々白き民が支配する清浄な世界、一民族による世界の統治が我が総統の夢であり、第三帝国は復活し、歴史は書き換えられるのだ、と男はネアンデルタール人たちに訴えます。男の背後の岩壁には、鉤十字の模様が彫られていました。


 第8巻はこれで終了となります。第8巻は、鉄の武器の製作やユカの妊娠や他の現生人類部族との同盟交渉なども描かれましたが、やはり、以前から言及されていたネアンデルタール人の「王」の正体が明かされことこそ、最大の見せ場と言うべきでしょうか。この男性は、第三帝国の復活が目標と発言していますから、1945年以降の世界から更新世にやって来た、と推測されます。この男性が、第三帝国の軍人なのか、それともナチスとの直接的関りはなく、軍事訓練を受けたネオナチなのか、まだ分かりません。また、この男性にタイガたちのような同行者がいるのかも、まだ明らかになっていません。この男性は(作中舞台から見て)未来の知識を活用してネアンデルタール人を心服させていったのかもしれませんが、「色つき」を滅ぼそうとする意図は、ナチズム信奉者ならば不思議ではないとしても、同じ現生人類ではなくネアンデルタール人の方に肩入れする理由はよく分かりません。ただ、男性がタイガたちと違って人類学に疎ければ、ネアンデルタール人と現生人類の違いもさほど気にならず、単に肌の色を重視してネアンデルタール人による「世界征服」を試みている、とも考えられます。正直なところ、ナチスを敵役として出すのは安易なようにも思いますが、いよいよ本作の核心に迫って来た感もあり、私はかなり楽しんで読んでいます。なお、第1巻~第7巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

第6巻
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_41.html

第7巻
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_22.html

古人類学の記事のまとめ(43)2021年1月~2021年4月

 2021年1月~2021年4月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2021年1月~2021年4月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

現代人の骨盤の性差の起源
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_7.html

マウンテンゴリラの情報伝達
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_25.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

鮮新世温暖期の偏西風
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_10.html

ホモ・エレクトスと現生人類の頭蓋進化の比較
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_26.html

初期ホモ属の祖先的な脳
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_19.html


●ネアンデルタール人関連の記事

ネアンデルタール人に関する「ポリコレ」や「白人」のご都合主義といった観点からの陰謀論的言説
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_12.html

『地球ドラマチック』「ネアンデルタール人 真の姿に迫る!」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_17.html

新型コロナウイルス感染症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人由来の遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_22.html

ネアンデルタール人の南限範囲の拡大および現生人類と共通する石器技術
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_25.html

地球環境の変化を引き起こした42000年前頃の地磁気逆転
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_27.html

2021年度アメリカ自然人類学会総会(ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域差)
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_34.html

新たな手法により推測される人類史における遺伝的混合
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_8.html

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_14.html

洞窟堆積物から得られたネアンデルタール人の核DNA
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_20.html


●デニソワ人関連の記事

アジア南東部現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_29.html

麻柄一志「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_23.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_17.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_24.html

スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_25.html

現生人類系統の起源に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_15.html

中国南部における初期現生人類の年代の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_19.html

極東アジア最古の現生人類の年代
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_30.html

アフリカの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_2.html

オーストラリア最古の岩絵の年代
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_7.html

現生人類のmtDNAの進化速度の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_10.html

過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類の移住
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_32.html

ヨーロッパ最古級となるバチョキロ洞窟の現生人類のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_9.html

ヨーロッパ最古級となるチェコの現生人類遺骸のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_11.html

国武貞克「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_15.html

加藤真二「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_16.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_14.html

男性に偏った移住を示す貴州省のフェイ人(回族)
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_3.html

日本列島「本土」集団の「内部二重構造」モデル
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_4.html

ホンシュウオオカミのゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_7.html

歯根形態と関連する遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_9.html

前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_11.html

古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html

スキタイ人集団の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_33.html

新疆ウイグル自治区の青銅器時代以降の住民のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_4.html

九州の縄文時代早期人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

北アメリカ大陸の絶滅したダイアウルフのイヌ科進化史における位置づけ
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_28.html

イヌの家畜化のシベリア起源説
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_13.html

海鳥グアノ肥料により1000年頃から発達したアタカマ砂漠の農業
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_20.html

アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_19.html

後期更新世アジア北部におけるY染色体ハプログループC2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_22.html

南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html

ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_32.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html

コーカサスの上部旧石器時代層堆積物のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_16.html

後期新石器時代から鐘状ビーカー期のフランスの人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_23.html

ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html

ポーランド南東部の縄目文土器文化集団の遺伝的多様性
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_40.html

池谷和信「アジアの新人文化における狩猟活動について―アラビア半島の犬猟に注目して」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_2.html

ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_11.html

クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_17.html

デンマークの新石器時代単葬墳文化の人々の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_24.html

グリーンランド現代人におけるヨーロッパ人からの遺伝子流動の時期
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_29.html

新石器時代アナトリア半島における親族パターンの変化
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_31.html


●進化心理学に関する記事

Joseph Henrich『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化−遺伝子革命〉』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_3.html

ヒトの幼児の食べ方の学習
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_9.html

類似した文脈で世界共通に現れるヒトの16種類の顔表情
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_19.html

自閉症におけるde novo縦列反復配列変異のパターンとその役割
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_20.html

山田仁史「宗教と神話の進化―集団間の動態におけるその役割」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_28.html

人間は減法的変化を体系的に見落とす
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_24.html


●その他の記事

野生のニューギニア・シンギング・ドッグ
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_8.html

イヌの家畜化の初期段階
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_15.html

アルコール摂取と疾患の遺伝的関連の分析に生じる偏り
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_18.html

更新世の氷期の海洋循環を再編成する南極氷山
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_33.html

古気候の証拠の解釈の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_37.html

氷河期の北極海が淡水化していた時期
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_12.html

マダガスカル島現代人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_18.html

100万年以上前のマンモスのDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_26.html

放射性炭素年代と遺伝的データによるマンモスの絶滅過程
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_27.html


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