桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』

 日本評論社より2021年3月に刊行されました。人類進化に関してさまざまな知見が得られそうなので、読みました。社会学に関しては門外漢なので、日本の社会学における生物学嫌い(バイオフォビア)に関しては(日本に限らないかもしれませんが)、本書を読んで多少は把握できたように思いますが、深く理解できたわけではないので言及せず、本書の興味深い知見を以下に短く備忘録的に述べていきます。



第一部 遺伝子社会学の試み


1●桜井芳生、西谷篤、赤川学、尾上正人、安宅弘司、丸田直子「ツイッター遺伝子の発見?──SNP(遺伝子一塩基多型)rs53576解析による遺伝子社会学の試み」P3-20
 本論文は前提として、遺伝決定論ではなく、遺伝子・環境相互作用論を採用する、と明言します。その主題からして、本書に対する「社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)」側からの警戒は強いでしょうから、この立場表明は必要と言えそうです。本論文が取り上げたのはオキシトシン受容体OXTR遺伝子の一塩基多型(rs53576)です。ホルモンの一種であるオキシトシンは、他者への信頼・共感・養育行動のような「向社会性」との関連が指摘されています。rs53576ではGが野生型、Aが変異型とされています。本論文は、AA型のヒトのTwitter利用頻度の高さに注目していますが、同時に、試料数の少なさと、この多型がTwitter利用頻度の違いという「表現型」の違いにどう発言したのか、未解明であることから、生理的機序・心理的機序・社会環境など環境要因も考量する必要性を指摘します。また今後の展望として、ジャポニカアレイの利用による大規模分析が視野に入れられています。


2●桜井芳生、西谷篤、尾上正人「現代若者「生きにくさ」に対する、セロトニントランスポーター遺伝子多型5-HTTLPRの効果」P21-30
 本論文は、「生きにくさ(生きづらさ)」を感じる要因として、社会経済的側面だけではなく、遺伝的側面にも注目します。具体的には、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)がSS型のヒトほど、「生きにくさ」を感じやすいのではないか、と指摘されています。セロトニンは神経伝達物質のひとつで、ドーパミンやノルアドレナリンを制御し、精神を安定させます。5-HTTの反復配列領域の多型(5-HTTLPR)は一般的に、短いS型と長いL型に二分され、SS型・SL型・LL型に分類されます。本論文は、5-HTTLPRが「生きにくい」との意識に直接的効果を有すると指摘し、「発達障害(あるいは、自閉症・アスペルガー症候群)」自体が、5-HTTLPRによる影響である可能性も示唆します。また今後の展望として、発達障害などにおいて、個人の遺伝子に応じた政策の必要性が指摘されています。


3●桜井芳生、西谷篤「(補論)セロトニントランスポーター遺伝子多型におけるヘテロ二本鎖解析の検討」P31-38
 セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)は、第2論文で指摘されているように、上述のように、一般的にその反復配列の長さからSS型(短)・SL型(中間)・LL型(長)に分類されていますが、反復配列の数と並び方で複数のサブタイプが存在すると報告されており、DNA配列の決定が必要となります。本論文は、「ヘテロ二本鎖」への対応方法を検討し、最適なアニーリング温度(68度)を明らかにし、多型のサブタイプ頻度が、以前の報告とおおむね近い値となったことを示します。各多型の頻度は、SS型が76%、SL型19%、LL型が5%と報告されています。


4●桜井芳生、西谷篤、尾上正人、赤川学「日本若年層の「スマホゲーム」頻度に対する、遺伝子一塩基多型(SNP)rs4680の看過しがたい効果」P39-46
 本論文は、カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)遺伝子の一塩基多型(rs4680)に注目し、スマホゲーム頻度との関連を検証します。COMTは、ドーパミンやノルアドレナリンやアドレナリン系脳内ホルモンを不活性化させ、排せつするのに必要な酵素です。COMT遺伝子の一塩基多型(rs4680)では、Aアレル(対立遺伝子)だと前頭前皮質のドーパミンが多くなり、心理に影響を及ぼす、と指摘されています。変異型のAアレルは心配性(痛みの閾値が低く、ストレスにより脆弱ではあるものの、ほとんどの条件下で情報処理がより効率的)、野生型のGアレルは勇士(痛みの閾値が高く、ストレス回復力が向上するものの、認知能力がわずかに低下)とされています。分析結果は、Aアレルを有するヒトほどスマホゲームをせず、外向性が低くて協調性は高く、技能向上の訓練機会が多いことを重視しません。今後の課題として、スマホゲームの内容(「勇士」的なものか否か)、1日あたりのゲーム時間の調査が挙げられています。



第二部 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて


5●桜井芳生「「社会学の危機」から、「バイオダーウィニスト」の「理解」社会学へ」P49-60
 英語圏では社会学部の廃止など「社会学の危機」が論じられており、「標準社会科学的モデル(SSSM)」批判の議論がよく言及される、と本論文はまず指摘します。1990年代に、SSSMを批判し、進化心理学を基盤として自然科学と社会科学をつなぐ試みである統合因果モデル(ICM)が提唱されました。本論文は、社会学の伝統にある中核部分である理解社会学的方略が、近代科学についてのある種の思い込みにより不当に軽視されており、現代バイオダーウィニズムの援用により再評価できるのではないか、と指摘します。理解社会学的方略を理由とする社会学の科学性への懐疑には、理解社会学的方略の選択自体を必然的な理由として近代経験科学に値しないとする立場と、理解社会学的方略の選択によりほぼ必然的に学理上の難点(他我理解問題)に逢着するので、理解社会学は科学に値しない、とする立場があります。本論文は、これまで分別されてこなかった両者を分別することで、現代ダーウィニズムの進展が理解社会学の擁護に資する、との見通しを提示します。本論文が重視するのは、生得的な二つの認識能力です。一方は、外界をいわば「物」として把握するセオリーオブセオリー、もう一方は、対象をいわば「心ある者」として認識するセオリーオブマインド(心の理論)です。本論文は、理解社会学への批判は、経験科学である以上、この二種の認識のうちセオリーオブセオリーだけであるべきとの暗黙の前提があるのではないか、と指摘します。本論文は、そうした区分ではなく、反証可能性こそが科学的認識の線引きに相応しい、と提言します。他我理解の問題に関しては、各人は自分の思念する意味を内心に持っていることが前提とされているものの、心の目理論に基づくと、元々他個体の振る舞い予測の方略として意味理解が進化したので、他個体の把握における意味利用は、近代科学の仮説=テスト図式に親和的である、と本論文は指摘します。


6●赤川学「高田少子化論の進化論的基盤」P61-76
 本論文は、20世紀前半の社会学者である高田保馬の少子化論を取り上げています。少子化に関しては、(1)1人あたりGDPの高い国は出生率が低く、(2)日本やアジアの都市部は村落部と比較して出生率が低く、(3)世帯収入の低い女性の子供の数は多く(貧乏人の子だくさん)、(4)歴史的に豊かな階層の子供の数は多い(金持ちの子だくさん)という事実が知られています。本論文はこの4点の事実を説明する有効な社会学理論として、高田の見解を取り上げています。高田は、日本での出生率低下を案じる社会学者が他にいなかった1910年代中盤において、日本でも欧米のような低出生傾向がやがて起きる、とすでに懸念しており、その理論的検討を始めていました。本論文では、「金持ちの子だくさん」はヒトの遺伝子レベルに書き込まれた「進化時間」への適応、「貧乏人の子だくさん」は産業革命以降に文化的な媒体・経路を通じて個体間で学習された「歴史時間・文化時間」への適応と位置づけられます。

 本論文は現代の少子化問題として、ハイポガミー(女性下降婚)とハイパガミー(女性上昇婚)も取り上げています。女性の下降婚と上昇婚の違いは、社会における資源専有の性別の偏りに起因する、との見解もあります。富や地位の性別格差が、男性優位で大きければ女性上昇婚が多く、小さければホモガミー(同類婚)が多くなる、というわけです。女性上昇婚や同類婚が進化時間における最適な戦略とすれば、女性下降婚の割合はあらゆる社会において低くなっているはずですが、実際には女性下降婚の割合が高めの国もあり、その方が出生率は高めです。ただ、本論文は断定には慎重です。本論文は、日本など女性下降婚の少ない国の事例は、進化時間における適応の結果というよりは、歴史・文化時間における事象ではないか、と指摘しています。この問題に関して私は不勉強なので、今後も地道に調べていかねばなりません。


7●尾上正人「育ち(Nurture)の社会生物学に向けて──共進化とエピジェネティクスから見た社会構築主義」P77-110
 「生まれか、育ちか」という伝統的な対立軸において、社会学ではその草創期から、「育ち」を重視した理論やモデルが構築され、「生まれ」による影響は「生物学的」とみなされ、距離を置かれるか拒絶されてきましたが、近年の進化生物学は、一般的な社会学者の想定とはかなり異なる内容へと発展している、と本論文は指摘します。具体的には、文化的要素との共進化を説く潮流と、分子レベルでの遺伝的決定からの修正を重視するエピジェネティクスの台頭です。本論文の目的は、これら進化生物学の新たな潮流が、社会構築主義に自然科学的な裏づけを部分的に与える可能性はあるものの、同時に社会構築主義の限界も示唆していると考えられることから、社会構築主義を進化生物学もしくはより広く自然科学的に許容できる範囲内に位置づけし直し、再定式化しようとすることです。

 本論文は、社会生物学で当初想定された、文化は遺伝子により「引き綱」をつけられており、相対的に自律しているにすぎない、との見解が、その後の遺伝子と文化の共進化論により修正されていったことを指摘します。文化伝達には「不適応」をもたらす力があり、その具体例が、エベレスト登山などの危険な競争や、ポリネシアにおける高価で健康を脅かすタトゥーへの固執です。本論文が重視するもう一方のエピジェネティクスも、文化と遺伝子の共進化と同様に、急速で劇的な適応を可能にした、と本論文は指摘します。本論文がとくに重視するのは表現型可塑性で、一卵性双生児における形質の違いや、爬虫類の性別が卵の温度に左右されることなどです。

 本論文はこれらを踏まえたうえで社会構築主義を改めて位置づけようとしますが、そのさいに重要なのが、社会構築主義を二分していることです。一方は、観念・概念の出現により社会的事象が生まれるとする客観的観念論に該当する立場でブランクスレート(空白の石板)説を強く主張する傾向にあり、もう一方は、不可知論もしくは主観的観念論に該当する立場です。本論文は、客観的観念論の社会構築主義は、「知識と実在の一致」を批判するものの、それは多分に藁人形的論法で、主観的観念論の社会構築主義は、「実在の状態」からの絶縁を強調しすぎると、ブランクスレート説に近づいてしまう、と指摘します。本論文はブランクスレート説の問題点を、自然的(物理的、生物学的など)現実の影響力もしくは拘束力を軽視し過ぎていることにある、と指摘します。ヒトを、空白の石板ではなく、物理的・生物学的な制約を受けた存在としてまず把握すべきというわけです。

 本論文は社会構築主義の新たな位置づけの参考として、ニッチ構築論を挙げます。ニッチ構築論では、生命体による生物も含めた環境の改変・構築が重視され、生命体と環境の共進化が主張され、その対象範囲はヒトに限らず生物全体に及びます。近年になってこのニッチ構築論から、発声と進化における構築過程の役割を強調する「拡張版進化総合」が提唱されています。本論文は、これら新たな進化生物学の潮流では「育ちの強さ」が明らかにされつつあり、それを踏まえたうえでの社会構築主義の自己革新を提言します。一方で本論文は、エピジェネティクスや構築の「強さ」だけではなく、「弱さ」の認識の必要性も指摘しており、「育ち」の「強さ」も「弱さ」も踏まえたうえでの、総合的理解が求められているのでしょう。


8●三原武司「進化社会学的想像力──3つの進化社会学ハンドブックの検討と進化社会学的総合」P111-128
 本論文は、3冊のハンドブックを取り上げることで、進化社会学もしくは生物社会学の英語圏における動向を解説しています。これら3冊のハンドブックからは、広範囲の生命科学関連領域が社会学に導入された、と分かります。また、人類学や社会疫学や医学や犯罪学や政治学などの研究者も寄稿しており、進化社会学と隣接領域の深い共同も窺え、社会学の全領域を反映した傾向のようです。進化社会学ではすでに論争点も現れており、一方は現在の標準的な生物学であるネオ・ダーウィニズムもしくは現代的総合(MS)、もう一方は本書第7章でも取り上げられた拡張版進化総合(EES)です。EESの新たな動向として、(1)従来の血縁選択と互恵的利他主義の理論から、マルチレベル選択理論などより向社会的な利他主義の理論への変化、(2)脳を孤立したデータプロセッサのようなものと考える以前の見解から、社会脳仮説などに見られる多重接続された社会的なものとして表現するようになったこと、(3)エピジェネティクスへの注目、(4)個体の自律性と独立性から共生的プロセスの強調への変化、(5)生態学的相互作用と微生物への関心の高まり、(6)遺伝子の水平伝播やキメラ現象への関心です。また新たな動向として、エボデボ(進化発生生物学)やニッチ構築理論なども挙げられています。これらの中で、集団選択もしくはマルチレベル選択の問題では、選択の単位として遺伝子よりも集団が強調されます。これらの動向により社会学は大きく変わっていき、本論文は社会学とMSやESSをつなげていく試みについて、「進化社会学的総合」と呼んでいます。


9●高口僚太朗「「女性特有の病気だから」という理由で沈黙せざるを得ない父親たち──ターナー症候群の娘を持つ父親たちの「生きづらさ」とは何か」P129-144
 近代医療は患者が「寛解者(本論文では慢性疾患当事者も含まれます)」として長く生きることを可能にしましたが、それによる「生きづらさ」も生じます。本論文は、その具体的事例として、女性にのみ発症するターナー症候群当事者の家族、とくに父親の「生きづらさ」を取り上げます。ターナー症候群はX染色体の全体もしくは一部の欠失に起因した疾患の総称で、性腺機能不全を主病態とし、多くの当事者が不妊となります。患者数は約1000人に1人と推測されており、具体的な症候として、低身長や卵巣機能不全に伴う二次性徴への影響や月経異常などがあります。ターナー症候群と診断された当事者の多くは小学校高学年の頃から低身長が顕著となり、母親にのみ告知することが標準医療として推奨されています。本論文では、ターナー症候群当事者の父親は、妊孕性や妊娠や出産よりも、自立した生活を送れるのか、心配する傾向にあると分析されています。また、ターナー症候群が女性特有であることから、父親には娘と不本意に距離を取る苦悩があることも指摘されています。本論文は、ターナー症候群当事者の父親の「生きづらさ」は、家族との関係性の中で成立し、家族の抱える「生きづらさ」とも同一ではない、と指摘しています。


10●桜井芳生「バイオダーウィニズムによる〈文化〉理論──なんの腹の足しにもならないのに、、、」P145-164
 本論文はまず文化を、「ヒトの行動・表象のうちで、なんの腹の足しにもならないのに、望ましいもの、価値あるもの、として評価されているものの謂である」と定義します。これはバイオダーウィニズムの「性淘汰の理論」を下敷きにしており、つまり孔雀の尾やライオンの鬣のような資源の浪費に見えるような形質が選択されてきたのは、異性から選ばれたからだ、というわけです。本論文は、ヒトの「文化的なもの」のほとんどは性淘汰の産物だろう、との見通しを提示しています。ただ、進化的観点では、この性淘汰は石器時代というか更新世の環境に適応したものなので、現代社会において性淘汰における適応度指標として機能するとは限らない、と指摘されています。


11●尾上正人「「待ち時間」としてのヒトの長い長い子ども期──社会化説、アリエス、そして生活史不変則へ」P165-184
 本論文はヒトの子供期(離乳から性的成熟まで)に関する議論を検証します。近縁の現生種と比較して長いヒトの子供期は、以前から注目されてきました。ヒトの長い子供期を、一人前になっていくための道程もしくは収斂期間として理論的に緻密化したのが社会化機能説で、家族の重要性が強調されました。ここでは、社会化過程こそがヒトの子供期を長期化させた、と明言されていないものの、社会化と長い子供期を結びつける論理が伏在していた、と本論文は指摘します。その後、家族を重視する見解は批判されても、社会化仮説そのものは自明視され、現在の社会学に継承された、と本論文は評価します。その後、ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)の精神分析理論を取り入れたフェミニズムは、社会化仮説の固定観念化に貢献した、と本論文は指摘します。人類学では徒弟制仮説が提唱され、「近代社会」を念頭に置いたとも考えられる社会化仮説とは異なり、狩猟採集社会を前提にしていますが、両者とも、子供が社会化を達成するのには長い期間が必要で、この長い子供期には何らかの機能があったに違いない、という機能主義的観点は共通していました。

 一方、アリエス(Philippe Ariès)の『<子供>の誕生』では、子供は7歳頃から「大人の小さな者」として成人の大共同体の中に入っていき、近代以降のような明示的な「子供」は存在しなかった、と論じられます(関連記事)。ここでは、機能主義的論法が採用されていません。ただ本論文は、アリエスが近代における子供の位置づけの特殊性を主張したのではなく、むしろ「中世特殊性」論者だったことを指摘します。それでも本論文は、社会化されるべき期間と位置づけられた子供期を相対化したことがアリエスの功績だった、と評価しています。ヒトの長い子供期は、必ずしも機能的課題が課されないとすると、どう解釈されるのか、との問題が生じます。そこで本論文が取り上げるのは、全ての種に普遍的・横断的に当てはまる、生活史不変則です。生活史不変則では、成熟年齢に達するのが遅い、つまり子供期が長い種ほど、その後の余命が長くなる、と指摘されています。長い子供期は繁殖機会増加をもたらす意味はあるものの、それ自体は本来社会的に意味のある期間ではない、というわけです。逆に、子供の社会化が喫緊かつ長期の課題ではなかったからこそ、その期間に「学校化」を挿入でき、新たな子供観が出現し得たのだろう、と本論文は評価します。子供期は人類史において、社会・時代によりさまざまな用途に使えることができた、というわけです。

 ただ、ヒトの長い子供期は、それ自体に特定の機能はなくとも、繁殖行動や家族・集団形成に重大な影響を及ぼしたかもしれない、と本論文は指摘します。まず、雄同士の苛烈で危険な配偶者獲得競争は緩和される傾向があります。余命が長いので繁殖機会は多い、というわけです。その結果、血縁者同士だけではなく、非血縁者も含めた集団が形成されやすくなり、集団の大規模化傾向が生じます。さらに、こうした繁殖機会の多い社会では協力的行動が進化しやすくなります。一方で、中長期的には協力を基調としながらも、常に騙しや裏切りの危険性に曝されているため、「マキャヴェリ的知性」も発達します。本論文は、社会化説は因果関係を逆に把握しており、教育上の実践としては、子供を「育てる」という視点よりも、「育つ」という視点の重要性を指摘します。子供期は現代人(Homo sapiens)と近縁なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも検討されている問題で(関連記事)、私も関心を抱いてきましたが、本論文を踏まえて考え直してみる必要があります。


12●桜井芳生「ある種の両性生殖生物のオス(たとえばヒトの男)は、なぜ母子を扶養するのか──岸田秀を超えて」P185-195
 ヒトなど両性生殖生物の中には、雄が母子を「扶養」する種も存在します。これに関して岸田秀の「セックス=サービス」説がありますが、岸田説は「至近要因による問題の説明」の誤謬に陥っており間違っている、と本論文は指摘します。「究極因」の分析視点からは、セックスをサービスと感じ得ること自体を説明すべきで、セックスがサービスとして機能するからそれを代償として雄は雌とその子を扶養するとの論理は、「至近因」による説明(という誤謬)に陥っている、というわけです。一方本論文は、雄が雌とその子を扶養しないと雄の遺伝子を後世に残せないから、と主張します。より正確には、雄が母とその子を扶養しなければこの血統は維持できず、現存する雄は全て母とその子を扶養する血統に属する、となります。しかし、托卵というかペア外父性の問題があり、軍拡競争的な進化が起きやすくなります。本論文は、雄による雌およびその子の扶養と、ペア外父性との間のせめぎ合いで「均衡値」が存在しただろう、と推測します。また本論文は、同じ雄でも扶養型と托卵型の間で揺れ動くこともあっただろう、と指摘します。岸田説については、扶養している子が実子ではないかもしれない、との不安から自我を防衛すする規制として、セックスなど扶養の対価サービスを得ているという物語が需要されたのではないか、と推測されています。


13●尾上正人「高緯度化と農耕を通じた女の隷属──性分業・家父長制への新たな視座」P197-224
 本論文はまず、母権制あるいは「家母長制」が存在したことを示す経験的証拠はなく、男性優位社会の普遍性は進化史で現れた生物学的特性だった、と指摘します。母系制社会は存在したものの、そこで子供に対して強い権限・権力を有したのは父親よりも母親の兄弟(オジ)で、これは「叔権制」と呼ばれています。これは父性の不確実な母系制における男性の対応で、相対的に父性の確実な父系制では家父長制が採用されやすくなります。ただ、ヒトも含まれる霊長類では、雌が優位の、ほぼ母権制あるいは「家母長制」と言えるような社会を形成する種がいくつか存在する、と本論文は指摘します。次に本論文は、男性支配もしくは家父長制がヒトの社会に普遍的だとしても、その度合いは歴史的に大なり小なり変化して現在に至っている、と指摘します。女性の社会的地位が相対的に高い社会も存在する、というわけです。本論文はその基盤として、性(性役割)分業の可能性を指摘します。

 モーガン(Lewis Henry Morgan)の『古代社会』は独自の婚姻制度発達論を主張し、エンゲルス(Friedrich Engels)が採用したことにより大きな影響力を有しました。しかし、その原始乱婚制や家族形態の進化図式は今では支持されていません。ただ本論文は、人々の性行動に規定されて父性が不確実だと母系制になりやすいという考察に関しては妥当と認めています。母系制は人類の家族史において太古の時代に普遍的に位置づけられるものではないとしても、産業化以前の社会では父系制と母系制はほぼ3:1の比で存在した、と推測されています。モーガン説の問題点として、母系制と母権制を強く結びつけたことも指摘されています。母系制社会では、上述の叔権制が高頻度で出現します。

 霊長類では母方(妻方)居住の母系制が圧倒的に多く、家族・群れに残る雌が独自の階層を形成する種が多くなります。個体レベルの競争では頻繁に順位が入れ替わる同種の雄と比較すると、雌が作る社会的階層は保守的で流動性が小さい傾向にあります。雌の地位は継承され、そのメカニズムは遺伝的ではなく、おおむね好天的です。マカクザルにおいては、最上位の雌(アルファ雌)はアルファ雄を除く全ての雄よりも有意ですが、群れ全体の頂点はアルファ雄の方です。一方アカゲザルなどでは、母権制・「家母長制」と呼べそうな権力関係が見られます。ヒトも含まれる大型類人猿では、雌は性的に成熟すると出生集団を離れる傾向にあり、他の霊長類とは異なります。雌の社会的地位は種により異なり、かなり強い雄支配のゴリラ社会では、上述の母系制霊長類ほど厳格ではなくとも雌にも優劣関係があります。同じく父系制で近縁のチンパンジーとボノボは対照的な社会を形成し、チンパンジーでは雄は雌に対して優位で、雄同士の激しい地位争いがあります。一方ボノボでは、雌独自の強固な社会階層が見られ、交尾相手の選択権は雌にあります。雄の地位を決めるのは、チンパンジー社会では兄弟の絆で決まりますが、ボノボ社会では母親の地位です。ボノボでは雄と雌の力関係は対等か、やや母権制・「家母長制」に傾いています。本論文はこれらの霊長類の事例から、父系制・母系制と雌雄の権力関係の間に顕著な相関はない、と指摘します。

 一雄複雌のゴリラや一雄一雌のテナガザルは雄が子育てに関与しますが、霊長類の大半の種では父が子育てには関与しません。これは、一雄複雌や一雄一雌では複雄複雌(乱婚制)と比較して父性が確実になることとも関連しているようで、ヒトにも当てはまるかもしれませんが、父性の確実性が必ず父親の子育て関与につながるとは限りません。本論文は他の条件として、アロマザリング(育児の母親代行)を挙げます。ヒトは成長が遅いので、とくにアロマザリングの必要性が生じます。本論文は、人類史における父親の育児への関与は太古からの現象だった、と指摘します。

 性分業では、ヒト社会の採集における女性の役割の大きさが指摘されています。本論文は、これが後世の一部ヒト社会と比較しての女性の相対的地位の高さにつながった可能性を指摘します。本論文はこの性分業において、現生人類(Homo sapiens)による高緯度地帯への拡散を重視します。高緯度地帯ほど狩猟への依存度が高まるので、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。本論文は、女性の社会的地位低下が農耕開始により加速した可能性も指摘します。農耕は狩猟と採集で分かれていた男女の「職場」を一つにして、家畜や重い農具を扱うといった重作業の主導権は多くの場合男たちが握ったと考えられることから、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。また本論文は、農作業で夫婦の過ごす時間が狩猟採集生活よりも増加したことにより、夫の妻に対する正行動の監視(配偶者防衛)は強まっただろう、と推測します。最後に本論文は、自然主義と道徳主義の誤謬に陥らないよう、提言しており、強く同意できます。男性支配・家父長制がヒトの種特異性だからといったそれが現代社会でも望ましい(自然主義的誤謬)と考えたり、現代社会では男女平等が望ましいからかつてそうした理想社会(あるいは男女の力関係が逆転したような社会)が存在したはずと根拠なく想定したりすることも誤りだ、というわけです。


14●桜井芳生「若者の若者文化離れ仮説への、ホルモン時系列推移の状況証拠」P225-240
 文化的創造性曲線と犯罪曲線がかなり相似している(青年期=成年期をピークとして、前後で急上昇・急下降します)ことから、これがかなりの部分で性的淘汰への適応ではないか、と本論文は推測します。本書第10章の議論の「腹の足しにもならない」行為ではないか、というわけです。さらに本論文は、カブトムシやヘラジカの雄の角の突き合いから、こうした行為が進化史的に「かなり根の深い」現象である可能性を指摘します。現代の男性が第二次性徴期に見せる「悪い」行為の進化的起源は、「善悪」の感覚を獲得するかなり前だったのではないか、というわけです。一方現代日本社会において、こうした「危険」で「悪い」行為から若者が離れていっているとも解釈できそうな統計が提示されています。これに関して本論文は、内分泌攪乱物質による影響と、恋愛や結婚のコスパ悪化を要因として想定しますが、今後の調査が必要と指摘しています。


参考文献:
桜井芳生、赤川 学、尾上正人編(2021) 『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』(日本評論社)