黒田基樹『戦国北条家の判子行政』

 平凡社新書の一冊として、平凡社より2020年10月に刊行されました。本書は、戦国大名である北条家の領国統治の仕組みが、その後の近世大名と基本的に変わらなかった、とその意義を高く評価します。江戸時代につながる統治権力による領民統治の基本的な仕組みは、織田信長と羽柴秀吉ではなく、すでに戦国大名により作り出されていた、というわけです。本書は、近世大名と比較できるだけの統治政策の具体的内容が分かるのは北条家だけである、と指摘します。さらに本書は、北条家の統治が現代の統治制度の原点に位置する、と指摘します。表題にもなっている判子はその象徴と言えるでしょう。

 本書は、現代につながる判子文化の源流としても北条家を重視します。北条家の印判使用には、領域権力としての戦国大名が領国内の村落を等しく統治しなければならなくなり、一方で中世において根強く浸透していた身分差の障壁を克服できる、といった理由があり、同時に大量に文書を発給することが可能となりました。北条家が用いた虎朱印は、当主が交替しても使用され続け、当主の個人印ではなく、戦国大名北条家の公印でした。これは、当主の交替に左右されない継続性のある組織の成立を意味します。北条家による印判状の文化は周辺大名にも影響を拡大していき、戦国大名北条家の初代当主だった伊勢宗瑞が日本の判子文化に果たした役割は、ひじょうに大きかったようです。なお、印判状が東国の戦国大名で発達したのに対して、西日本の戦国大名ではほとんど発達しなかったことを、官僚的・機構的な前者と、人格的関係に基づく後者との違いとする見解が提唱されましたが、現在では明確に否定されているそうです。

 公権力の裁判も戦国時代に変容していきます。それまで、村や町の納税主体は室町幕府に直接訴訟できず、訴訟の主体になれるのは幕府や朝廷の構成員だけでした。実質的な訴訟主体は村や町としても、名目的な訴訟者は領主でした。しかし江戸時代には、村や町が江戸幕府や大名家に訴訟できるようになります。その転機となったのが戦国時代で、村や町が直接大名に訴状(目安)を差し出す仕組みが整備されていきます。これは、徴税における不正の抑制・処罰を主目的としていましたが、当時目立った村落間の争いでも機能しました。北条家は目安制の最古の事例ではないとしても、その全体像を把握できる唯一の大名です。また本書は、この過程で大名が又家来の処罰を行なうようになったことを重視します。家来への処罰は主人の専管事項でしたが、それがさらに上の権力により制約されるようになります。これも、領域権力として成立した戦国大名が、権力維持のために領国内の争いを防ごうとしたからでした。北条家において目安制は給人領にも拡大していきます。これは、江戸時代における、地方知行の形骸化(実際の支配は領主ではなく幕府・大名が一元的に行ない、個々の領主には年貢・公事分を支給)と、領地支配の失態を理由とした減封・改易へとつながります。目安制は江戸時代半ば以降には、村や町だけではなく個人も訴訟主体と認められるようになります。

 租税の在り様も戦国時代に変わっていきます。戦国時代よりも前には、統治権力による民衆への直接課税はなく、基本的には個別的でした。戦国時代には、領国内の全村落に等しく賦課される租税としての「国役」が成立していきます。国役の徴収を通じて、戦国大名は領国内全ての村落と結びついていきます。北条家ではこの過程で、全領国規模で統一的税制が確立されていき、他の戦国大名と比較してきわめて統一性の高い領国支配体系が形成されます。これは、深刻な領国危機に対応したものでした。徴税方法も、戦国時代よりも前の、徴収者が納税者より税を取り立てる制度から、納税者が納付する制度へと変わり、近世・近代へと継承されます。北条家に関しては、その変化を具体的に見ていくことができます。この過程で村役人制が成立していきます。また本書は、戦国時代に納税が貨幣から現物へと変わる傾向にあり、その要因は撰銭対策で、北条家においてその変容をよく把握できる、と指摘します。本書は撰銭問題を飢饉との関連で把握します。

 こうした領域支配を前提として、北条家は武田や羽柴との全面戦争のような存亡のかかった非常事態に、「御国」のためとの論理で、領国の民衆を軍事動員しました。この論理の前提となったのは、北条が外敵からの侵略を防ぎ、領国内の村落同士の争いを調停しており、村落の平和を維持している、との認識でした。本書はこのような戦国大名の在り様に、近代国家の要素の源流の一端を見いだしています。同様に、領域支配と「村の成り立ち」の保証を前提として災害対応という非常事態から行なわれるようになったのが、現代にもつながるような「公共工事」でした。北条家をはじめとして戦国時代には、そうした普請役たる「公共工事」は城郭建築・整備など軍事的性格の強い事業が少なからずありましたが、戦争が抑止された江戸時代になると、治水工事など社会資本整備に振り向けられていきます。本書は、近代国民国家の基点として戦国大名権力による日本史上初の領域国家を重視します。そうした特徴がよく研究されている北条家は、戦国時代の意義を一般向けに解説するうえで最適の事例と言えるかもしれません。