白亜紀後期の小惑星衝突にさかのぼる現代の熱帯多雨林の起源

 現代の熱帯多雨林の起源が白亜紀後期の小惑星衝突にさかのぼることを報告した研究(Carvalho et al., 2021)が公表されました。日本語のサイトからの解説記事もあります。6600万年前頃となる白亜紀後期の衝突は、世界中の生態系に壊滅的な被害を及ぼしましたが、熱帯林に及ぼした長期の影響は謎のままでした。これはおもに、熱帯林における古植物学的調査が不足しているのが原因で、こうした問題を評価するのに必要なデータは供給され始めたばかりです。

 この研究は、コロンビアで発掘された花粉と葉の化石を用いて、衝突による南米の熱帯林の変化を調べたところ、種構成および森林構造が大規模に変化したことを明らかにしました。この調査結果によると、白亜紀後期の多雨林は林冠が開放していましたと。しかし、、地球上の生物種の75%近くが絶滅した白亜紀と古第三紀の境界(K/Pg境界)で、植物多様性が約45%減少するとともに、広範囲で絶滅が起きました。この傾向は種子植物でとくに顕著でした。その後の600万年間で森林は回復し、被子植物(顕花植物)が森林で優勢になりました。この変化により林冠が閉じて、植物の生物多様性が層状に垂直分布するようになり、現代の熱帯多雨林の形になりました。

 この研究などから得られた結果により、K/Pg境界衝突と絶滅事象からの回復および長期にわたる影響は多様で、クレーターからの近さや地域の条件(気候など)に大きく左右されることが実証された、と指摘されています。現在、世界は6度目の大量絶滅に直面していますが、今回は地球上のどこにいても最大要因である人類から離れることはできず、近接する摂動は、程度の差はあるにせよ、どこでも存在しており、今後も存在すると思われる、とも指摘されています。


参考文献:
Carvalho MR. et al.(2021): Extinction at the end-Cretaceous and the origin of modern Neotropical rainforests. Science, 372, 6537, 63–68.
https://doi.org/10.1126/science.abf1969

西北九州弥生人の遺伝的な特徴

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、西北九州「弥生人(弥生文化関連個体)」の遺伝的な特徴に関する研究(篠田他., 2019)が報道されました。最近、「弥生人」の遺伝的構成に関するやり取りを見かけたこともあり、「弥生人」の遺伝学的側面の基本文献となる本論文を取り上げるとともに、本論文刊行後の研究にも言及します。

 弥生時代は、日本列島に本格的な水田稲作がもたらされ、在来の「縄文人」と稲作を持ち込んだ主体と考えられるアジア東部本土(大陸部)から到来した人々との混血が始まる時期とされています。そのため、この時期の日本列島には在来集団と大陸から渡来した集団の双方が存在した、と考えられています。形質人類学的な研究から、最初に渡来系集団が侵入した九州ではその情況を反映して、渡来系集団と在来の「縄文人」の系統である西北九州の「弥生人」が存在し、さらに独特の形質を持つ南九州の「弥生人」が暮らしていた、と指摘されています。しかし、各集団の関係や、その後の混血の状況については、依然として多くが不明です。

 長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡では、2個体の弥生時代人骨(成人女性の下本山2号と成人男性の下本山3号)が出土しています。放射性炭素年代測定法による較正年代では2001~1931年前頃と推定されています。この遺跡は西北九州「弥生人」の居住地域にあり、出土した人骨の形質も「高顔傾向が見られる点に留意しなければならない」と指摘されつつも、全体的には北部九州の「渡来系弥生人」よりは縄文時代の人々と類似する、との結論が提示されています。つまり、下本山岩陰遺跡の弥生時代の2個体は、形質の面からは他の西北九州の弥生時代の人々と同じく、「縄文人」の系統を引く集団の構成員と判断されます。

 本論文は、次世代シークエンサ(NextGeneration Sequencer、NGS)を用いて核DNA を分析し、この問題の解決を目指します。核ゲノムは両親から継承されるので、遺伝的に異なる集団からの遺伝子の寄与についての情報を得られます。2010 年以降、NGSは古代人遺骸のDNA分析に用いられるようになり、得られた核ゲノムの情報は、分析された標本の由来や形質に関して、以前の方法では得られなかった精度の高い推定が可能になっています。日本でも北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)や愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された「縄文人」の核ゲノムが解析されており、その系統的位置についての情報が得られるようになっています。アジア東部本土から稲作農耕民が最初に侵入したとされる北部九州地域の情況を知ることは、現代日本人の成立を知る上で重要な知見となります。その意味でも西北九州「弥生人」の核ゲノム解析は重要です。


●DNA解析結果

 性染色体のDNAのリード数から、下本山2号は女性、下本山3号は男性と判定されました。下本山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はOの可能性が高い、と推定されましたが、それ以上の下位区分はできませんでした。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の系統解析では、同一の石棺に合葬された上記の2 体のうち、2号女性のmtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a4、3号男性はD4a1で、前者は典型的な「縄文人」の系統、後者は「渡来系弥生人」の系統のmtHgと判明しています。この異なる2つのmtHgが同一の遺跡、しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは、2号と3号が夫婦関係にあることともに、在来の縄文系集団と弥生時代以降の渡来系集団との混合が始まっていることを予想させますが、母系遺伝のmtHgのデータだけでは、その程度について結論を提示することは困難です。

 そこで、核ゲノムデータでの分析が行なわれました。1KG(1000人ゲノム計画)およびSGDP(サイモン図ゲノム多様性計画)のデータとの比較の結果、下本山2号および3号(以下、両者をまとめての分析では下本山弥生人と表記します)は主成分分析ではともに、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人と縄文人との間に位置します。日本列島の本土とアイヌと沖縄人という3集団との比較でも、下本山弥生人は本土および沖縄集団とアイヌ集団との間に位置し、アイヌ集団の一部とは重なっています。

 外群f3統計(ムブティ人;検証集団X、下本山弥生人)で集団間の遺伝的類似性を比較すると、下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と最も多く遺伝的浮動を共有し、両者と遺伝的に近い集団と示されました。また、その次に近いのは日本列島の3人類集団で、これは主成分分析の結果と一致します。f4統計(ムブティ人、船泊縄文人;下本山弥生人、検証集団X)でも、下本山弥生人は現代のどの集団よりも縄文人との遺伝的類似性を示しました。また、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人の方と遺伝的に近い傾向を示し、外群f3統計の結果とも一致します。

 次に、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、船泊縄文人)で、下本山弥生人に弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系の遺伝的要素が含まれるのか、検証されました。その結果、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人と比較してアジア東部本土集団との遺伝的類似性を示す傾向が確認されました。最後に、弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるのか検討するため、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、現代日本人)が実行され、現代日本人がアジア東部本土か集団との遺伝的類似性が有意に高い、と示されました。


●考察

 上述のように、下本山3号はYHg-Oで、それ以上の下位区分はできませんでしたが、これは渡来系弥生人に由来する、と推測されます。下本山3号はmtHg-D4aで、父系でも母系でも弥生時代以降にアジア東部本土から到来した系統と考えられます。しかし、核ゲノム解析では、下本山3号も縄文人系の遺伝子を有していると示され、在来の縄文集団と弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系集団の双方に由来するゲノムを有している、と明らかになりました。同様に、縄文人系のmtHg-M7a1a4を有していた下本山2 号女性人骨も、核ゲノム解析からは渡来系弥生人に由来すると考えられる遺伝子も有している、と示されました。このような集団内に異なる系統の遺伝子が混在している状況をmtDNAやY染色体DNAの情報で明らかにするには、同一の遺跡から出土した多数の標本を分析する必要があります。しかし、わずかな個体を解析するだけでも混血の状況を明らかにできる核ゲノム解析は、得られる標本が少ない遺跡の解析にはとくに有効であることを示しています。

 日本列島の人類集団の形質は、縄文時代から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており、弥生時代は現代日本人の成立を考える上で重要な時期です。この形質の移行期の九州には、出自の異なる3集団が存在した、と指摘されています。そのうち、西北九州弥生人の顔面部の形態は、低顔性が強く、眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で、鼻根部は深く陥没します。男性の身長は160cm以下とやや低く、四肢骨の比率でも、四肢骨の末端が比較的長い縄文人と共通した特徴を有しています。その形態学的な特徴をまとめた研究では、四肢骨の形状に古墳時代の人々につながる特徴も認められていますが、西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を合わせて、「縄文人の継続であって、新しい種族の影響を受けたとは考えにくい」との結論が提示されています。西北九州弥生人の歯の形態に関する研究でも、北部九州弥生人が縄文人および西北九州弥生人と比較して大きな歯を有し、縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有意差がなかったことを見いだしており、西北九州弥生人は縄文人の系統の集団である、との結論を提示しています。

 下本山岩陰遺跡は1970 年に発掘されており、以前の研究で西北九州弥生人の遺跡分布の範疇として指摘された地域内に位置します。下本山岩陰遺跡の人骨形態に関する研究では、箱式石棺に埋葬されていた2 号と3 号骨は、縄文人と共通する低顔、凹凸のある鼻根部の周辺形態、四角い眼窩などの特徴を備えている、と報告されています。したがって形態学的な研究からは、下本山岩陰遺跡人骨は縄文人の形質を強く残した西北九州の弥生人集団に含まれる、と判断されます。

 一方、これまで紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年間と考えられてきた弥生時代の年代幅は、大きく修正されつつあります。21世紀になっての高精度の炭素14 年代法による年代研究の結果、水田稲作が始まったのは、当時考えられていた紀元前5 世紀ごろではなく、約500年古い紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、と指摘されました。ただ、弥生時代の開始年代については議論が続いています(関連記事)。弥生時代が従来の想定よりも長期間に渡る可能性の提示から、この時代における集団の形質の変化についても、千年を超える時間範囲を念頭において考える必要があります。こうした情況において、九州の弥生集団を系統の異なる集団として固定的に把握することが適切なのか、改めて検討する必要があります。

 人骨の試料的な制約もあって、これまで弥生時代における形質の変化を追う研究は困難でした。しかし、高精度の核ゲノム解析が可能になったことで、これまで渡来系や在来系の集団と位置づけられていた弥生人も、時間の中で変化していくものとして把握することが可能となりました。本論文の分析では、下本山弥生人の遺伝的な特徴は、いずれも縄文人と現代の本土日本人の中間に位置する、と明らかになりました。また、下本山弥生人が船泊縄文人よりも伊川津縄文人に近い傾向を示したことから、地理的に近い縄文人が混血に寄与した可能性も示されました。

 主成分分析では下本山弥生人とアイヌの一部の個体が重なっていますが、これは一部のアイヌが本土日本人と混血することで類似の位置にいると考えられ、集団として互いが直接的に関係するわけではない、と推測されます。下本山弥生人は、放射性炭素年代法により弥生時代後期に属すると推測されているので、本論文の結果から、弥生時代末には西北九州地域でも在来の縄文集団と渡来系集団の混血がかなり進んでいた、と示唆されます。形態学的な研究では縄文人系と把握される集団でも、ゲノムの解析では混血が進んでいる、と明らかになったわけです。古代核ゲノム解析により、形態の変化からは定量的には把握できなかった縄文時代から弥生時代への移行の状況の解明が可能であることも示されました。

 本論文の最重要点は、九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式から、弥生時代の状況を誤って解釈する可能性を示したことにあります。少なくとも、渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には、形態学的な研究が予想するよりもはるかに大規模な混血があり、双方は弥生時代の全期間にわたって明確に分離した集団ではなかった、と考えられます。ただ、その交雑の状況は、地域・遺跡ごとにさまざまだった可能性があり、本論文の分析から西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできません。しかし、西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく、時代とともに変化していった流動性のあるものだった、と把握する視点は重要でしょう。渡来集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったと考えれば、形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は、混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである、との解釈も成り立ちます。

 本論文は、1ヶ所の遺跡のわずか2個体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは困難です。しかし、解析個体を増やしていくことで、古代核ゲノム解析は、九州における縄文時代から弥生時代にかけての集団の変遷について、更に詳細なシナリオを描くことになるはずです。日本列島本土では、弥生時代の幕開けとともにアジア東部本土から稲作農耕を行なう集団が渡来し、在来集団と混血していくことで現在につながる集団が形成されていきました。北部九州は、その渡来が最初に始まった地域であり、この地域での混血の状況を明らかにすることは、その後の日本列島での集団形成史を知るための重要な知見を提供します。幸いなことに、北部九州地域は、先人の努力により相当数の渡来系弥生人と西北九州弥生人の人骨が発掘され、保管されています。これらの人骨の核ゲノム解析を進めることで、日本人成立のシナリオは更に精緻なものになるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生人の核ゲノム解析はまだ始まったばかりで、本論文が強調するように、少ない事例から時空間的に広範囲の状況を安易に推測してはならないでしょう。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代の日本列島の人々の遺伝的構成は、縄文人とアジア東部本土集団の間で時空間的に大きな変動幅が見られるのではないか、と予想されます。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だった可能性も考えられます。

 本論文刊行後の研究では、縄文人はユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)の混合として、現代本土日本人は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(関連記事)。九州の縄文時代早期の人類遺骸のDNA解析からは、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的にはかなり均質だった可能性も示唆されています(関連記事)。まだ縄文人と弥生人の核ゲノムデータは少なく、現代日本人の形成過程には不明なところが少なくありません。関東地方に関しては古墳時代における人類集団の遺伝的構成の大きな変化の可能性が(関連記事)、現代日本人の都道府県単位の遺伝的構造からは、古墳時代以降における近畿地方へのアジア東部本土からの移住の影響の可能性(関連記事)が示唆されているように、現代日本人の形成過程においては地域差と年代差も大きいと予想され、その解明には、時空間的により広範囲の古代人の核ゲノムデータが必要となります。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231

大河ドラマ『青天を衝け』第20回「篤太夫、青天の霹靂」

 今回は一橋慶喜の将軍就任決定が描かれました。14代将軍の家茂は病に倒れ、慶喜に孝明帝の望みである長州討伐を託して死亡します。家茂には子がおらず、慶喜を後継者と考えている者が多いことから、栄一(篤太夫)は慶喜が将軍となって衆人の怨みを買うのではないか、と懸念していました。家茂から後継者は田安亀之助(徳川家達)と聞かされていた天璋院は、慶喜の将軍就任に反対しますが、家茂の正室の和宮は、慶喜が将軍に就任して苦しめばよい、と考えていました。幕府要人は慶喜に将軍就任を要請しますが、慶喜は躊躇っています。そこへ永井尚志が、慶喜に政務を委任するのは家茂の遺志だった、と主張し、慶喜はそれが嘘だと疑いつつ将軍就任の覚悟を決めます。

 慶喜は家茂の遺命である長州討伐を続行し、栄一も従軍することになります。しかし、戦況は幕府軍にとって不利で、慶喜は長州討伐の中断を決意します。慶喜の将軍就任により栄一の運命も大きく変わります。栄一は幕臣となりますが、慶喜に会うことも叶わなくなり、自暴自棄になりかけます。しかし、土方歳三とともに不逞浪人の取り締まりに赴き、吹っ切れたようです。本作はこれまで慶喜を軸に当時の要人を描いており、慶喜周辺の人物は、栄一と直接的関りがない人物の登場時間は短かったのですが、天璋院も和宮もなかなか印象に残る人物造形になっており、今回のやり取りも不自然ではなかったと思います。もう大政奉還まで1年ほどとなり、栄一はパリの万国博覧会へと向かいますから、いよいよ前半の山場が近づいてきたわけで、栄一のパリでの描写とともに、慶喜視点の国内政局描写も楽しみです。

11000年前頃以降の中国南部の人口史

 11000年前頃以降の現在の中華人民共和国広西チワン族自治区一帯の人口史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジア東部および南東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史は長く、古代人のDNAに基づく最近の研究では、アジア南東部と中国南部(本論文ではおもに現在の行政区分の広西チワン族自治区と福建省が対象とされます)で異なる人口統計学的パターンが明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの研究で明らかになったのは、アジア南東部の8000~4000年前頃となるホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民が、深く分岐したアジア祖先系統(本論文ではホアビン文化祖先系統と呼ばれます)を有しているのに対して、4000年前頃以降となるアジア南東部最初の農耕民は、中国南部の現代人と関連する祖先系統(祖先系譜、ancestry)とホアビン文化祖先系統の混合を示す、ということです。

 中国南部では、福建省の9000~4000年前頃の個体群が、中国北部とは異なる祖先系統を示しますが、ホアビン文化祖先系統ほどには深く分岐していません(ホアビン文化祖先系統と比較すると中国の南北間の祖先系統は相互に近縁です)。本論文では、この祖先系統は福建省祖先系統と呼ばれ、現代の中国南部人口集団で部分的に見られ、アジア大陸部から数千年前にアジア南東部やオセアニアへと航海で拡散した人口集団の子孫である、オーストロネシア語族現代人で見られる祖先系統と密接に関連しています(関連記事)。これらの知見から、古代DNA技術を用いて祖先人口集団および早期、とくに農耕移行前の人口動態を調べることは、過去の人口史をよりよく理解するのに重要である、と示されます。

 人類学的および考古学的証拠も、アジア東部および南東部における人口統計学的複雑さを浮き彫りにします。物質文化の調査により、ホアビン文化祖先系統と関連する文化は中国南部でも存在したかもしれない、と示唆されています。中国南部とアジア南東部の境界で発見された先史時代人骨格形態の比較から、アジア東部と南東部の現代人で観察されたものとは異なる、深い祖先系統を示唆するパターンが示されます。以前の比較考古学的研究で示唆されるのは、中国南部において2つの異なる文化伝統が存在し、一方はおもに中国南部沿岸とその近隣の島々で、もう一方はベトナムとの国境地域で見られ、これはアジア南東部と中国南部の古代の個体群で観察される2つの異なる遺伝的パターンを反映している、ということです。

 アジア東部および南東部の歴史がより明確になってきているにも関わらず、中国におけるベトナムとの国境地帯の広西チワン族自治区のような地域は、中国南部とアジア南東部全域の人口史がまだ充分に確立されていないことを示します。広西チワン族自治区では、隆林洞窟(Longlin Cave)において1万年以上前となる祖先的特徴と現代的特徴の混合した頭蓋が見つかっており(関連記事)、ホアビン文化祖先系統と類似しているか、もしくはそれ以前に分岐した祖先系統の可能性が指摘されていて、これは現時点でアジア東部および南東部の古代人では観察されていないパターンです。

 ホアビン文化的な物質文化は中国南部の他地域でも見られますが、ホアビン文化祖先系統はアジア南東部外の古代人ではまだ見つかっていません。広西チワン族自治区の現代の人口集団はタイ・カダイ(Tai-Kadai)語族話者とミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族話者で、福建省祖先系統と中国北部祖先系統の混合を示します(関連記事)。中国南部とアジア南東部をつなぐ広西チワン族自治区の中心的位置にも関わらず、古代DNA技術は広西チワン族自治区の古代人には適用されておらず、これはおもに、高温多湿地域での古代DNAの保存が不充分なためです。

 この標本抽出の困難にも関わらず、この研究は過去11000年の広西チワン族自治区の古代人に関して、広西チワン族自治区で深く分岐した祖先系統が果たした役割、とくに隆林洞窟個体に関してと、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統がこの地域に拡大したのかどうか、もしそうならば、どのように相互作用したのか、ということと、広西チワン族自治区の古代人が現代の人口集団にどのように寄与したのか、ということを調べます。


●DNA解析

 これらの問題に対処するため、広西チワン族自治区の30ヶ所の遺跡から170点の標本が調べられました。上述のように広西チワン族自治区は古代DNA研究に適した地域ではありませんが、30個体で10686~294年前頃(放射性炭素年代測定法による較正年代で、以下の年代も基本的に同様です)のゲノムデータを得ることに成功し、この中には上述の1万年以上前と推定されている隆林洞窟の人類遺骸も含まれます。また、福建省の斎河(Qihe)洞窟遺跡の追加の個体(11747~11356年前頃となる斎河3号)からもゲノムデータが得られました。隆林遺骸と斎河3号の年代は12000~10000年前頃で、更新世から完新世の移行期におけるアジア東部の遺伝的多様性を調べられます。広西チワン族自治区で標本抽出された古代DNAは、アジア南東部や中国南部の福建省など他地域で観察されたものとは異なる遺伝的歴史を明らかにします。

 120万ヶ所の一塩基多型で内在性DNAが濃縮され、合計31個体で遺伝的情報が得られました(網羅率は0.01~4.06倍)。まず親族分析が実行され、広西チワン族自治区の30個体のうち7組で密接な親族関係(1親等および2親等)が見つかりました。これら7組のうち得られた一塩基多型数が最も多い個体以外は集団遺伝学的分析で除外され、親族関係にない23個体が残りました。これら広西チワン族自治区の古代人23個体について、主成分分析(図1C)と外群f3統計とf4統計とADMIXTURE分析が実行され、9集団に分離されました(図1A・B)。福建省の斎河3号は、同遺跡の以前に報告された個体と遺伝的にクラスタ化します。以下は本論文の図1です。
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●11000年以上前の広西チワン族自治区個体で見つかった未知のアジア東部祖先系統

 この研究で標本抽出された最古の個体は広西チワン族自治区の隆林洞窟で発見された10686~10439年前頃の個体で、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)的特徴と初期現生人類的特徴が混合した頭蓋形態を示します。しかし、隆林個体の遺伝的特性は、現代のアジア東部人口集団で見られる遺伝的多様性内に収まり、非現生人類ホモ属に由来する祖先系統の割合はアジア東部現代人で観察される水準と類似しています。

 中国で標本抽出された9000~4000年前頃の個体群との比較から、隆林個体は現時点で標本抽出されたアジア東部人と密接に関連していない、と示されます。隆林個体は外群f3分析では、アジア東部現代人と密接に関連する古代人、つまり中国北部の山東省で発見された9500~7700年前頃の個体群、および中国南部の福建省で発見された8400~7600年前頃個体群と、遺伝的類似性をほとんど共有していません。じっさい、山東省前期新石器時代(EN_SD)集団と福建省前期新石器時代(EN_FJ)集団は、相互に隆林個体とよりも密接な関係を共有しており、どちらも隆林個体と過剰な類似性を共有していません。

 こうした知見から、隆林個体の系統は、北方の山東省祖先系統と南方の福建省祖先系統が分離する前に分岐した、と示唆されます。混合グラフとTreemix分析の両方(図2A・B)を用いた、隆林個体と新石器時代アジア東部人との間の系統関係をモデル化した後、隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団に代表される南北のアジア東部祖先系統の外群である、という想定のさらなる裏づけが見つかります。以下は本論文の図2です。
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 隆林個体がアジア東部人からどれくらい深く分岐しているのか調べるため、隆林個体および新石器時代アジア東部人と、深く分岐したアジア祖先系統を有する他の個体群が比較されました。後者には、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(関連記事)と、現代のパプア人およびアンダマン諸島のオンゲ人(関連記事)と、アジア南東部の8000年前頃の1個体(関連記事)が含まれます。比較の結果、隆林個体は深く分岐したアジア祖先系統のどれよりも山東省および福建省の新石器時代集団と密接に関連している、と明らかになりました。本論文の遺伝的分析から、隆林個体はアジア東部現代人系統の側枝で、深く分岐したアジア祖先系統との密接な関係はない、と示されます。

 縄文文化と関連する愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる個体(関連記事)は、アジア東部人および田園個体など深く分岐したアジア人に対して、隆林個体と同様のパターンを示します。伊川津「縄文人」と隆林個体は、深く分岐したアジア人とよりも相互に密接な関係を共有します。どれがアジア東部人とより密接に関連しているのか評価するため、伊川津縄文人と隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団と比較されました。f4分析では、山東省および福建省の新石器時代集団は隆林個体および伊川津縄文人と同様に関連しており、隆林個体と伊川津縄文人は両方、他の個体では見られない山東省および福建省の新石器時代集団とのつながりを有しています。これらのパターンは、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。

 したがって、隆林個体関連祖先系統(以下、広西祖先系統)は、中国南部およびアジア南東部に囲まれた地域で以前に観察された福建省祖先系統およびホアビン文化祖先系統の両方と異なっている、と分かります。日本列島の伊川津縄文人で見られる縄文人祖先系統と同様に、広西祖先系統は田園個体やホアビン文化祖先系統など深く分岐したアジア人祖先系統よりも、アジア東部人祖先系統の方と密接に関連しています。しかし、伊川津縄文人とは異なり、隆林個体は地理的に他の大陸部アジア東部人から孤立していませんでした。これらのパターンは、11000年前頃のアジア東方における遺伝的多様性が、人類の歴史のその後の期間よりも高かったことを示唆します。


●9000~6400年前頃までの中国南部における混合

 11000年前頃の1個体(隆林個体)で広西祖先系統が観察されたので、次に、広西チワン族自治区のより新しい人口集団にも広西祖先系統が見られるのか、調べられました。9000~6400年前頃となる、広西チワン族自治区の独山洞窟(Dushan Cave)遺跡と包󠄁家山(Baojianshan)遺跡の2個体のゲノム規模データが得られました。8974~8593年前頃となる独山洞窟の男性1個体が、隆林個体よりもアジア東部南北の人々とより密接に関連する人口集団の子孫ならば、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、アジア東部人)~0と予想されます。しかし、代わりに、シベリア(関連記事)および福建省の一部のアジア東部人と関連して、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、悪魔の門新石器時代個体および斎河遺跡個体)<0と観察され、隆林個体と独山個体との間での遺伝的つながりの存在が示唆されます。外群f3分析で隆林個体をアジア東部および南東部の古代人と比較すると、最高値は独山個体で観察され、隆林個体は独山個体と最も遺伝的類似性を共有している、と示されます。これらのパターンは、広西祖先系統が独山個体に存在することを示唆します。

 しかし、独山個体の外群f3分析では、独山個体が単に広西祖先系統を有するよりも、福建省新石器時代集団およびアジア南東部農耕民と高い遺伝的類似性を共有している、と示され、これは隆林個体では観察されないパターンです。移住事象を表せる系統発生分析(図2A・B)は一貫して、独山個体を隆林個体関連起源集団(17%)と福建省(斎河遺跡)個体群関連起源集団(83%)との混合としてモデル化します。f4分析では、独山個体がシベリア関連アジア東部北方集団および山東省集団と比較して、福建省祖先系統の集団とつながりを共有する、と裏づけます。独山個体で観察された遺伝的パターンから、9000年前頃までに、広西祖先系統を有する集団と福建省祖先系統を有する集団との間で遺伝子流動がおきており、両祖先系統の混合集団が誕生した、と示唆されます。

 独山個体と福建省祖先系統を有する人口集団(図2B)との間で共有されるアレル(対立遺伝子)の増加を考慮して、混合した広西および福建省祖先系統が福建省の人口集団に影響を及ぼしたのかどうか、次に検証されました。その結果、独山個体は、斎河遺跡と亮島(Liangdao)遺跡の個体群でまとめられる福建省前期新石器時代人口集団と比較して、渓頭(Xitoucun)遺跡と曇石山(Tanshishan)遺跡でまとめられる後期福建省人口集団の方とより多くの類似性を示す、と明らかになりました。このパターンは塩基転換(ピリミジン塩基からプリン塩基の置換およびその逆の置換)でのみ持続しました。さまざまな遺跡の個体を分離しておく拡張分析では、12000年前頃の斎河3号と比較して、独山個体への類似性が評価されました。独山個体との類似性は、4100~2000年前頃の後期福建省人口集団だけではなく、1900~1100年前頃となる台湾の漢本(Hanben)個体群でも持続します。

 ベトナムのマンバク(Man_Bac)遺跡とヌイナプ(Nui_Nap)遺跡の個体群に代表される4100~2000年前頃のアジア南東部人口集団と、1500年前頃の広西チワン族自治区の人口集団で、同じ独山個体との類似性が観察されました。BH(Benjamini-Hochberg)補正により、古代アジア南東部人口集団はもはや有意な類似性を示しませんが、広西チワン族自治区のBaBanQinCen(Banda遺跡とQinCen遺跡とBalong遺跡)個体群は示します。塩基転換の場合のみ、独山個体の類似性は渓頭個体で持続しました。全体としてこれらのパターンは、おそらくは広西祖先系統と福建省祖先系統の混合である独山個体と関連する祖先系統が、中国南部の先史時代には重要な役割を果たした、と示唆します。

 広西祖先系統と福建省祖先系統の混合は、包󠄁家山遺跡の8300~6400年前頃の女性1個体で見られる遺伝的パターンに基づくと、広西チワン族自治区では数千年持続したようです。独山個体と同様に、包󠄁家山個体は福建省新石器時代人口集団およびアジア南東部農耕民と最高の遺伝的類似性を共有します。また包󠄁家山個体は、山東省および福建省新石器時代集団の両方と比較して、独山個体とより多くの祖先系統を共有しています。

 包󠄁家山個体は、独山個体と祖先系統を共有する一方、独山個体および他の先史時代広西チワン族自治区個体群とは異なり、アジア南東部の深く分岐したホアビン文化狩猟採集民ともアレルを共有します。f4分析では、ホアビン文化狩猟採集民は、隆林個体および独山個体では観察されないアジア東部北方人と比較して、包󠄁家山個体とのつながりを示します。qpAdmで混合の割合を推定すると、包󠄁家山個体は独山個体関連祖先系統(72.3%)とホアビン文化関連祖先系統(27.7%)の混合としてモデル化でき、qpGraph分析の推定と類似の割合となります(図2B)。移住事象を示すTreemix分析では、包󠄁家山個体は独山個体とクラスタ化し、隆林個体系統からの移住事象を共有し、ホアビン文化集団からの追加の移住事象が推定されます(図2A)。したがって、福建省祖先系統とホアビン文化祖先系統の両方が、8300~6400年前頃の広西チワン族自治区で見つかり、まとめると、南方の3祖先系統全てが包󠄁家山個体を通じて広西チワン族自治区において混合の形で見られます。

 9000~6400年前頃には、中国南部とアジア南東部の境界の先史時代人口集団において混合が重要な役割を果たしました。独山個体は広西祖先系統と福建省祖先系統の混合を有する人口集団に属していましたが、包󠄁家山個体は独山個体と類似しているものの、追加のホアビン文化祖先系統を共有しています。これらのパターンが裏づけるのは、一部の中国南部の遺跡の物質文化の研究で示唆されてきたように、ホアビン文化祖先系統が中国南部に拡大した、ということです。しかし、これらのパターンは、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統のどちらも、中国南部とアジア南東部の境界に存在した人口集団の説明に充分ではないことを浮き彫りにします。広西祖先系統は少なくとも6400年前頃まで部分的に存続し、独山個体と関連する祖先系統は、同様に広西チワン族自治区外の先史時代人口集団に影響を及ぼした可能性が高そうです。

 本論文の知見から、広西チワン族自治区の9000~6400年前頃の先史時代は、アジア東方南部の各祖先系統のさまざまな水準を含む混合人口集団で満ちている、と示されます。これら混合人口集団の年代と考古学的関連から、混合はアジア南東部の4000年前頃の標本(関連記事)で示されているような農耕文化発展のずっと前に、中国南部とアジア南東部で大きな影響を及ぼした、と示唆されます。広西チワン族自治区では、これらの混合個体群は隆林個体と密接には関連していません。これは、同じ頃の福建省個体群で観察されたパターンとほぼ対照的で、後期新石器時代福建省人口集団は、前期新石器時代福建省人口集団との密接な遺伝的関係を示します。


●広西チワン族自治区の歴史時代の人口集団における変化

 1500~500年前頃の広西チワン族自治区の標本で、歴史時代における上述のアジア東方南部の3祖先系統(福建省と広西とホアビン文化)の役割が評価されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、主成分分析では先史時代人口集団とクラスタ化しない、と明らかになりました(図1C)。代わりに、1500年前頃の歴史時代の個体群の大半は類似の遺伝的特性を共有し、タイ・カダイ語族話者と緊密なクラスタを形成して重なります。しかし、500年前頃となるGaoHuaHua(広西チワン族自治区のGaofeng遺跡Huaqjao遺跡とHuatuyan遺跡)人口集団は1500年前頃のクラスタとは異なり、主成分分析(図1C)と外群f3分析の両方でミャオ・ヤオ語族話者の近くに位置します。

 現代の人口集団との関係を直接的に比較するため、f4(ムブティ人、アジア東部現代人、1500年前頃の広西チワン族自治区集団、500年前頃の広西チワン族自治区集団)が実行され、ミャオ・ヤオ語族話者は常に500年前頃のGaoHuaHua人口集団と有意な類似性を示す、と明らかになりました(図3A)。広西チワン族自治区の全ての歴史時代人口集団は、洞窟埋葬遺跡から標本抽出されました。碑文と棺の類型に基づいて、広西チワン族自治区の洞窟埋葬はタイ・カダイ語族であるチワン人(Zhuang)の祖先のものと考えられていました。しかし、GaoHuaHua人口集団が標本抽出された500年前頃となる洞窟埋葬は、ミャオ・ヤオ語族人口集団とつながっていた、と仮定されてきました。本論文の遺伝的分析から、以前に提案されたように、これら2期の広西チワン族自治区の人口集団はじっさい遺伝的にかなり異なっており、異なる人口集団に属する、と示唆されます。したがって、これらの人口集団が広西チワン族自治区の現代のタイ・カダイ語族集団とミャオ・ヤオ語族に最終的に寄与したと仮定すると、少なくとも500年前頃までに強い遺伝的構造が見つかります。

 qpAdmを用いて歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の遺伝的構造がさらに調べられ、さまざまな起源祖先系統から混合割合がモデル化されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、独山個体もしくは斎河3号関連祖先系統(58.2~90.6%)とアジア東部北方関連祖先系統(9.4~41.8%)の混合としてモデル化できます。BaBanQinCenを除く全ての人口集団で、独山個体と関連する深い祖先系統の有意な兆候は見つからず(図2D)、これら歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる南方祖先系統は、福建省祖先系統と密接に関連している、と示唆されます。

 アジア東部南方現代人と同様に、1500年前頃以降となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団も、アジア東部北方人からの混合を示します。アジア東部北方のさまざまな地域からの既知の古代人口集団を比較し、どの祖先系統が歴史時代の広西チワン族自治区人口集団に最も強い影響を及ぼしたのか、検証されました。外群f3分析では、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は黄河下流近くで見つかる古代の人口集団と最も密接な遺伝的類似性を示します。たとえば、變變(Bianbian)遺跡と小荆山(Xiaojingshan)遺跡の個体群に代表される9500~7900年前頃となる山東省の人口集団(関連記事)と、4225~2000年前頃となる中原の人口集団(関連記事)です(図3B)。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団と7900年前頃となる小荆山遺跡個体群との間の遺伝的区類似性は、1688年前頃以降となる歴史時代最初期のBaBanQinCen集団から持続しています。したがって、1500~500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる北方からの遺伝的影響は、9500~7700年前頃の山東省祖先系統と最も密接に関連しています。以下は本論文の図3です。
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●考察

 中国南部の広西チワン族自治区の11000~6000年前頃の個体群の分析は、以前には標本抽出されていなかった、アジア東部人と深く分岐した遺伝的系統を明らかにします。この系統は11000年前頃の隆林個体により最もよく表され、山東省および福建省の新石器時代個体群に存在するアジア東部の南北両方の祖先系統の外群として機能し、アジア東部系統の深い分岐が、日本列島の縄文人のような孤立した地域だけではなく、アジア東部本土でも見つかることを明らかにします。もう一方の12000年前頃の個体は中国南部沿岸の福建省地域で標本抽出され、隆林個体とは異なり、福建省祖先系統を示します。これら2個体から、12000~10000年前頃には、中国南部は少なくとも2つのひじょうに多様な人口集団により特徴づけられていた、と示されます。しかし、斎河3号に代表される福建省関連祖先系統は12000~4000年前頃で存在しましたが、このパターンは広西チワン族自治区には当てはまりません。

 もっと最近の標本抽出では、人口集団の継続性は広西チワン族自治区の特徴ではなく、遺伝子流動が9000~6400年前頃に形成的な役割を果たした、と示されます。9000年前頃の独山個体は、福建省祖先系統と隆林個体に代表される広西祖先系統の混合として最もよく特徴づけられ、独山個体と関連する祖先系統は、後に渓頭遺跡個体群に代表される4000年前頃の福建省人口集団に現れます。対照的に、8300~6400年前頃となる広西チワン族自治区の包󠄁家山遺跡個体は、福建省祖先系統および広西祖先系統と追加のホアビン文化祖先系統の混合です。ホアビン文化祖先系統は深く分岐したアジアの祖先系統で、4000年前頃以前にはアジア南東部に広範に存在しました(関連記事)。

 包󠄁家山遺跡個体におけるホアビン文化祖先系統の存在は、ホアビン文化祖先系統の範囲がアジア南東部から中国南部へと拡大したことを示唆します。しかし、福建省祖先系統と広西祖先系統とホアビン文化祖先系統の混合で構成される人口集団は、アジア南東部と中国南部の境界に位置する広西チワン族自治区が、単純に単一の人口集団と関連する祖先系統により特徴づけられないことを示します。中国南部とアジア南東部におけるこれら多様な3祖先系統間の混合から、混合は広西チワン族自治区とアジア南東部において農耕導入前に先史時代人口集団に顕著な影響を及ぼした、と示されます。

 以前の研究では、日本列島と広西チワン族自治区の先史時代人口集団の頭蓋形態がオーストラロパプア人と類似性を共有しており、アジア南東部のホアビン文化個体群と類似している、と示唆されていました(関連記事)。アジア東部と南東部に祖先系統の2層が存在する、とのモデルが提案されてきており、第1層はオーストラロパプア人と密接に関連する先史時代人口集団と関連する初期祖先系統により表され、第2層はアジア東部北方起源で、農耕拡大とともに第1層をしだいに置換していった、と想定されます。

 しかし、第1層としてまとめられてきた中国南部とアジア南東部と日本列島の標本全体の類似した頭蓋の特徴は、本論文や他の研究(関連記事1および関連記事2および関連記事3)では遺伝的に類似のまとまりを示しません。これは、研究されてきた頭蓋の特徴が、これら農耕開始前の人口集団全体の多様性を正確に把握していないかもしれない、と示唆します。ホアビン文化祖先系統のような深いアジア祖先系統は存在しますが、広西チワン族自治区や福建省や日本列島も含めてアジア東部全域の過去11000年の標本抽出された人類遺骸は、相互により多くの共通祖先系統を有しており、アジア東部系統の多くの側枝を明らかにします。

 1500~500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団では、黄河流域のアジア東部北方人と関連する山東省祖先系統が顕著で、中国南部とアジア南東部全域で観察されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。11000~6400年前頃の広西チワン族自治区の個体群では北方祖先系統は観察されておらず、山東省祖先系統を有する人口集団の移動は6400~1500年前頃に起きた、と示唆されます。歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、オーストロネシア人とは異なり、アジア東部北方祖先系統を有する人口集団からの大きな影響を示します。検出可能な広西祖先系統の欠如から、広西祖先系統が中国南部ではこの時期までに消滅し、この地域で現在見られる遺伝的多様性に実質的には寄与していない、と示唆されます。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の標本抽出は、広西チワン族自治区の最近の人口史と関連するいくつかの議論を解決します。現在広西チワン族自治区では2つの主要な言語集団が見られ、一方はタイ・カダイ語族話者、もう一方はミャオ・ヤオ語族話者と関連しています。本論文のデータにおける歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、タイ・カダイ語族話者と関連する祖先系統が少なくとも1500年前頃までに見られる一方で、ミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統は500年前頃の個体群に見られることを示します。したがって、これら2つの人口集団は、少なくとも500年間広西チワン族自治区に継続して居住してきました。

 11000年前頃までに、広西チワン族自治区はホアビン文化祖先系統もしくは福建省祖先系統と関連しない深く分岐した祖先系統を示し、この広西祖先系統は9000~6400年前頃までにひじょうに混合した人口集団に取って代わられました。福建省とは異なり、広西チワン族自治区におけるひじょうに混合した人口集団の存在から、広西チワン族自治区は、広西チワン族自治区在来の人口集団、福建省からの人口集団、アジア南東部のホアビン文化と関連する人口集団間の相互作用地帯だった、と示唆されます。アジア南東部とは異なり、農耕開始のずっと前の遺伝子流動が、これらの地域における農耕開始前の人口集団の形成に重要な役割を果たした、と明らかになりました。

 これらの先史時代個体群は、広西チワン族自治区の現在の人口集団とは密接な関係を共有していませんが、1500年前頃以降、現在のタイ・カダイ語族話者およびミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統が見つかりました。長江および中国南西部近くの地域における標本抽出により、6000~1500年前頃に中国南部で現在見られる遺伝的構成をもたらすに至った遺伝的変化と、さらに、アジア南東部全域の人類の顕著に多様な遺伝的先史時代が明らかになります。以下は本論文の要約図です。
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 本論文は最後に、限界も指摘しています。本論文での標本抽出は限定的な数の個体に基づいているので、この期間のアジア東部と南東部に存在した遺伝的多様性を充分に表していないかもしれません。12000年前頃から現在に至るアジア東部および南東部のより広範な地域にわたるさらなる標本抽出が、この地域の先史時代人類の遺伝的相互作用のさらなる調査に必要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部における近年の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあり、本論文は気候条件から古代DNA研究には適さないアジア東部南方の古代人、それも1万年以上前の個体も含めてのDNA解析結果を報告しており、たいへん重要な成果と言えるでしょう。アジア東部南方やアジア南東部の更新世人類遺骸の古代DNA解析はかなり難しいでしょうし、そもそも人類遺骸自体少ないわけですが、気候条件がDNA解析に厳しいものの、最近急速に発展している洞窟堆積物のDNA解析が成功すれば、さらに詳しい人口史が明らかになるのではないか、と期待されます。

 本論文は、完新世最初期の時点でのアジア東部の現生人類集団の遺伝的異質性が現在よりもずっと高かったことを、改めて示しました。アジア東部では完新世に人類集団の遺伝的均質化が進んだわけですが、それが現在の広西チワン族自治区など一部の地域では農耕開始前に始まりつつあったことを示したのは、大きな成果だと思います。とくに、ホアビン文化集団の北方への移動の可能性が高いことを示したことは、大いに注目されます。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)など寒冷期に、人類集団が孤立して遺伝的に分化していった地域は多く、遺伝的分化が進展していき、その後の温暖化により人類集団の広範な地域への移動と相互作用が活発化し、遺伝的に均質化していったのではないか、と考えられます。

 また本論文は、特定の地域における長期の人類集団の連続性を自明視すべきではないことも、改めて示したと言えるでしょう。この問題には最近言及しましたが(関連記事)、アジア東部南方についてはほとんど言及できなかったので、本論文は私にとってたいへん有益でした。本論文は改めて、現代の各地域集団の遺伝的構成から過去の同地域の集団の遺伝的構成や拡散経路や到来年代を推測することは危険である、と示したように思います。多くの地域において、現生人類が拡散してきた後期更新世から完新世にかけて、絶滅・置換・変容が起きたのでしょう。また本論文は、非現生人類ホモ属である可能性さえ指摘されていた隆林個体が、遺伝的にはユーラシア東部の現生人類の変異内に収まる、と示しており、形態学的特徴による区分がいかに難しいのか(関連記事)、改めて確認されました。

 本論文は、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。ただ、最近の研究で、縄文人が(本論文の云う)ホアビン文化祖先系統(とより密接な祖先系統)と福建省祖先系統(とより密接な祖先系統)の混合だと推測されているように(関連記事)、じっさいの人口史はずっと複雑である可能性が高いように思います。系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らず、隆林個体や伊川津縄文人の位置づけに関しては、今後の研究の進展によりさらに実際の人口史に近づけるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018

繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は藤原公任が『北山抄』を著したことで残った「三条家本北山抄裏文書」に基づき、平安時代中期の地方における武士の在り様を検証しています。平安時代の一般的な?印象とは異なり、とくに地方は、ひじょうに粗暴で危険な社会であり、そうした殺伐さの大きな要因として武士の存在があった、というのが本書の見通しです。平安時代の一般的?な印象は貴族の日記や物語に基づいており、偏っているのではないか、というわけです。ただ最近では、著者の他の著書などにより、都の貴族の暴力的性格も知られるようになってきていると思います。

 本書はさまざまな事件を通じて、当時の武士・豪族の在り様など、社会の特徴を浮き彫りにしていきます。一族内の対立が武力衝突に至ることは珍しくなかったようですし、国司や田堵の有り様も見えてきます。本書はおもに「三条家本北山抄裏文書」に基づいていますが、そこから当時の社会習慣や人々の行動・観念を叙述していく手腕は見事だと思います。また本書は理解が難しいとされる荘園制についての解説もなかなか充実しており、この点でも有益だと思います。

 本書の提示するからは、平安時代にはかなり治安が悪かったように思え、じっさい当時の貴族の日記でも治安の悪さが指摘されています。ただ、現代においてそうであるように、「体感治安」と「客観的な」治安状況が一致するとは限りません。平安時代の「客観的な」治安状況を定量的に評価することは困難ですが、本書から窺える平安時代の荘園制下の農業はかなり不安定で、後世のような安定的集落はまだ広範に存在しなかっただろうことを考えると、本書で取り上げられた事件は氷山の一角で、平安時代はかなり治安状況が悪かったのではないか、と思います。また、藤原純友の乱の鎮圧後も、瀬戸内海で海賊が跋扈していた様子も窺えます。

デニソワ洞窟の堆積物のmtDNA解析(追記有)

 シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Zavala et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。シベリア南部のデニソワ洞窟は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)だと初めて確認された遺骸が発見された有名な遺跡です(関連記事)。デニソワ洞窟ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸や、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の間に生まれた娘の遺骸も発見されています(関連記事)。

 デニソワ洞窟は、中期更新世から完新世にかけての層序系列の堆積物を含む、3ヶ所の空間で構成されています(主空間と東空間と南空間)。デニソワ洞窟の更新世堆積物では、骨と歯と炭の放射性炭素年代(5万年前頃以降)と堆積物の光学的年代(光ルミネッセンス年代測定法、30万年以上前)が得られています。主空間と東空間の光学的年代(図1a~c)は共通の時間枠で調整できますが、南空間では発掘が進行中で、層が暫定的にしか認識されていません。以下は本論文の図1です。
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 mtDNAと核DNAが8点の人類化石から回収されており、デニソワ人4個体(デニソワ2・3・4・8号)、ネアンデルタール人3個体(デニソワ5・9・15号)、上述のネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の間に生まれた娘(デニソワ11号)に分類できます。しかし、化石が少なすぎるので、人類居住の年代と順序の詳細な復元と、デニソワ洞窟で識別された早期中部旧石器時代(以下、eMP)と中期中部旧石器時代(以下、mMP)と初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の石器群と、特定の人類集団との関連づけができません。さらに、IUP層では2点のデニソワ人化石(デニソワ3・4号)が発見されているものの、現生人類遺骸は発見されていないので、IUPに関しては、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)と現生人類のどちらがIUP関連の装飾品や骨器を製作したのか、議論されています。

 デニソワ洞窟の堆積物のDNA保存に関する以前の予備的研究では、52点の標本のうち12点で非現生人類ホモ属のmtDNAが特定されました(関連記事)。本論文は、デニソワ洞窟の3空間の堆積物から、10~15cmの碁盤目状パターンで収集された728点の標本の分析結果を報告します。29万年以上前のものを含む全ての標本抽出された層の685点の標本で、古代の哺乳類のmtDNAが識別されました。これらのmtDNAには、古代DNAの特徴である脱アミノ化による置換が確認されました。この置換は年代がさかのぼるとともに著しく増加し、他の層への浸透がなかったことを示唆します。また、年代がさかのぼるにつれて、平均的なDNA断片長とmtDNAの数が大幅に減少することも確認されましたが、層間のバラツキは脱アミノ化の場合よりも大きく、環境の局所的違いに起因すると考えられます。


●古代の人類のmtDNA

 3空間ほぼ全ての層にわたる175点の標本で古代の人類のmtDNAが検出されました(図1a~c)。4点の標本はおもに1つのハプロタイプが存在する証拠を示し、80%以上の完全なmtDNAコンセンサス配列を復元するのに充分なmtDNA断片が得られました。東空間第11.4および第11.4/12.1層の標本E202・E213と主空間第19層の標本M65は、既知のmtDNAで構築された系統樹のネアンデルタール人とまとまり、具体的には、デニソワ5号および15号とメズマイスカヤ1号(Mezmaiskaya)とスクラディナI-4A(Scladina I-4A)です(図1d)。主空間第20層の標本M71のmtDNAはデニソワ人型で、デニソワ2号および8号の基底部に位置します。主空間のネアンデルタール人の最も完全なmtDNA配列(M65、再構築されたミトコンドリアゲノムの99%以上)は、遺伝的推定年代が14万年前頃(95.4%最高事後密度区間で181000~98000年前)で、第19層の堆積年代(151000±17000~128000±13000年前)と一致します。

 残りの171点の標本も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人に分類されました。その結果、ネアンデルタール人のmtDNAは3系統が区別されました。まず、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下 、SHと省略)の43万年前頃のネアンデルタール人系統で、デニソワ人と最も密接に関連しています。次に、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HST洞窟と省略)の12万年前頃のネアンデルタール人系統で、他の全てのネアンデルタール人のmtDNAの基底部に位置します。最後に、「典型的な」ネアンデルタール人のmtDNAで、他の全てのネアンデルタール人はこれに区分されます。

 古代の現生人類のmtDNAの存在は、現代人のDNA汚染の影響を軽減するため、脱アミノ化断片に分析を限定することにより評価されました。デニソワ人と典型的なネアンデルタール人のmtDNAはそれぞれ79点と47点の標本で、現生人類のmtDNAは35点の標本で識別されました。10点の標本で人類2集団のDNAが検出され、それは単一のライブラリ内の場合か、独立した下位標本から準備されたライブラリ全体にわたっている場合です。

 さらに、HSTと典型的なネアンデルタール人のmtDNAに共有されている分枝を裏づける人類のmtDNA断片を含む1標本(主空間第20層のM76の)が特定されましたが、どちらの分枝もそれらの系統を定義していません(図1d)。この兆候は、ネアンデルタール人とデニソワ人と古代もしくは現代の現生人類からのmtDNA断片の混合により作成できません。祖先化したネアンデルタール人のmtDNAとのシミュレーションに基づくと、この標本のmtDNAはこれまで知られていなかったネアンデルタール人のmtDNA系統の存在と一致しており、典型的なネアンデルタール人のmtDNA系統とは255000~230000年前頃に分岐し、それはHSTと典型的なネアンデルタール人のmtDNA系統の分岐の20000~45000年後になる、と推定されます。

 回収された最古の人類のmtDNAはデニソワ人に分類され、250000±44000年前に堆積が始まった主空間第21層に由来します。これは、デニソワ洞窟における人類の居住に関する最初期の遺伝的証拠を提供します。デニソワ2号はその下層となる第22.1層で発見されましたが、おそらく上層からの嵌入で、推定年代は194400~122700年前頃です(関連記事)。主空間と東空間のeMP層の標本223点のうち、50点はデニソワ人のmtDNAを含んでおり、ネアンデルタール人のmtDNAを含むのは3点だけで、それは全て主空間の第20層に由来します。この標本3点のうち2点(M174とM235)は典型的なネアンデルタール人のmtDNAを含んでおり、上の堆積物との小規模な混合が起きた可能性のある区画に由来します。もう1点の標本M76は第20層の中間に由来し、上述の未知のネアンデルタール人のmtDNA系統を有しています。

 これらの結果は、eMP石器群の最初の主要な製作者がデニソワ人で、170000±19000年以上前だったことを示します。この解釈と一致して、以前の予備的研究(関連記事)では、東空間のeMP第14層の堆積物標本でネアンデルタール人のmtDNAが検出されましたが、これは不正確な分類に起因しており、後に東空間の第11.4層のmMPに修正されました。本論文の結果も、ネアンデルタール人がeMPの末にデニソワ洞窟に初めて居住し、それ故にその後の段階でこれら石器群の製作に寄与した可能性がある、と示唆します。

 主空間と東空間のmMP 層(16万~6万年前頃)の173点の標本のうち40点で、ネアンデルタール人および/もしくはデニソワ人のmtDNAが検出され、6点の標本で両者が存在しました(図1a~c)。ネアンデルタール人およびデニソワ人両集団のmtDNAは、南空間の変形したMP層にも含まれています。注目されるのは、主空間と東空間の120000±11000~97000±11000年前の堆積物ではデニソワ人のmtDNAが検出されなかったものの、12点の標本にはネアンデルタール人のmtDNAが含まれていることです。これは、この期間にデニソワ洞窟に居住したのがネアンデルタール人だけで、おそらくは海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の大半にわたっていたことを示唆します。

 44000±5000~21000±8000年前となる主空間の第11.4層以上のIUPおよび上部旧石器時代(UP)層では、ネアンデルタール人のmtDNAが検出された第11.2層のIUP期の標本1点を除いて、古代の現生人類のmtDNAのみが検出されました。IUP石器群と現生人類の出現との間の関連は、47000±8000年前以後に堆積された、IUPとなる南空間第11層の標本1点の現生人類のmtDNAの回収により、さらに裏づけられます。東空間のこの状況はより複雑です。デニソワ人とネアンデルタール人と古代の現生人類のmtDNAがIUPとなる第11.2層で、ネアンデルタール人と古代の現生人類のmtDNAがIUPとなる第11.1層で回収されました(図1a)。これらの結果と、IUP石器群と関連する層からの2点のデニソワ人化石(デニソワ3号および4号)を考えると、現生人類に加えて、デニソワ人とネアンデルタール人がIUP石器群の製作期にデニソワ洞窟に存在した可能性を無視できません。

 100以上の脱アミノ化された人類のmtDNA断片が検出された37点の標本のうち34点で、特定のネアンデルタール人およびデニソワ人のミトコンドリアゲノムとの類似性が特定されました(図1a~cの円以外の記号)。この分析により、250000±44000年前となる主空間と東空間のeMP層、および146000±11000年前となる東空間の最初のmMP層は、デニソワ2号およびデニソワ8号的なmtDNA断片を含みます。これは、80000±9000年前以後に堆積したmMP層で回収されたデニソワ人のmtDNAと対照的で、それらは南空間の標本群と同様にデニソワ3号および4号的な配列が検出されました。

 これらの結果は、146000~80000年前頃のある時期に、デニソワ人のmtDNA配列に変化が起きたことを示唆し、おそらくは異なるデニソワ人集団を反映しています。本論文の結果は、デニソワ2号・3号・4号のモデル化された年代や、分子年代測定から推定されたデニソワ8号の相対的年代ともよく一致します(関連記事)。MIS5において、13万~10万年前頃(その後の2万年の時間差を考えると、恐らくはそれ以上)の堆積物には、ネアンデルタール人のmtDNAと化石の証拠のみが含まれており、デニソワ11号的なmtDNA配列は、8万年前頃以後の堆積物でのみ検出されます。


●非ヒト動物のmtDNA

 現時点では主空間と東空間でのみ利用可能なデニソワ洞窟の古生物学的記録に存在する全ての大型哺乳類も、堆積物のDNAで特定されました。さらに、東空間第12層の標本1点でラクダ類の古代DNAが見つかり、デニソワ洞窟一帯におけるラクダ種(Camelus knoblochi)の更新世の存在と一致します。大型哺乳類とは対照的に、メクラネズミ類やウサギ科やリス科など小型哺乳類は、生物量が少ないか、捕獲調査の提示不足のため、遺伝的データがほとんど含まれていません。主空間の第22.1層と第21/20層の間のように、隣接する層の一部における動物相mtDNA構成間には鋭い境界があり、DNAの堆積後の浸出があったとしても限定的だった追加の証拠を提供します。

 デニソワ洞窟における化石のひじょうに断片的な性質と、さまざまな種により堆積したかもしれないDNAの可変的な量にも関わらず、経時的な哺乳類のDNAの相対的存在量の変化は、ウシ科やハイエナ科やクマ科やイヌ科などの系統の骨格記録の変化とほぼ一致します。遺伝的データも、ゾウ科やクマ科やハイエナ科のように包括的参照データが利用可能な場合、種もしくは集団水準での動物相多様性の調査機会を提供します。ゾウ科のmtDNAは全ての層でおもにケナガマンモスに分類されましたが、クマ科種の相対的存在量は、187000±14000年前以前に堆積した層で検出されたおもにホラアナグマから、112000±12000年前以後に堆積した層で検出されたヒグマのみに変わりました。

 また、以前に報告されたブチハイエナ属(ブチハイエナとドウクツハイエナ)のmtDNAハプログループ3系統(関連記事)の存在も検出されました。20万年前頃以前および12万~8万年前頃以後に堆積した層ではほとんど、アフリカのブチハイエナとヨーロッパのドウクツハイエナで見られるmtHg-Aが検出されましたが、中間の年代の層では、アジア東部のドウクツハイエナ(mtHg-D)とヨーロッパのドウクツハイエナの一部(mtHg-B)のmtDNAがおもに検出されました。したがってアルタイ山脈は、哺乳類骨格遺骸の研究で以前に示唆されたように、人類とハイエナや他の動物の異なる系統の接触地帯だったかもしれません。

 堆積物のDNAから、大型哺乳類の少なくとも2回の大きな交代が明らかです(図2)。まず、ウシ科とイヌ科とウマ科とクマ科のmtDNA断片の相対的な割合の著しい変化と、ブチハイエナ属のmtHgの交代と、ホラアナグマからヒグマへの変化が19万年前頃に起き、これは間氷期のMIS7から氷期のMIS6への気候変化とほぼ同年代です。ネアンデルタール人のmtDNAの最初の痕跡もこの頃に出現します。次の交代は13万~10万もしくは8万年前頃に起き、MIS6~MIS5の気候変化の期間およびその後です。ウシ科とイヌ科とネコ科とクマ科のmtDNAの割合が減少した一方で、シカ科とウマ科の割合は増加し、ホラアナグマとブチハイエナ属の2系統のmtHgが消滅しました。この期間は、デニソワ洞窟の堆積物でデニソワ人のmtDNAが存在しないことでも注目されます。これらの変化は、人類と非ヒト動物の集団の交代がつながっており、生態学要因と関連していたかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図2です。
画像


●考察

 175点の標本における古代の人類のmtDNAの識別は、デニソワ洞窟の堆積物から回収された人類化石の数を桁違いに上回り、更新世層のほぼ全てで人類の存在の遺伝的特性を提供します。これらのデータは685点の標本からの非ヒト動物のmtDNA配列により補完され、それは他の大型哺乳類の多様性とその相対的存在量の変化についての情報を提供します。しかし、人類と非ヒト動物の洞窟利用の推定された順序は、いくつかの要因により制約されることに注意が必要です。層序記録には2つの大きな間隙があること(170000~156000年前頃と97000~80000年前頃)、各堆積層の蓄積に固有の平均時間、穴掘り動物もしくは小規模な混合に起因する一部の層の堆積後の攪乱、年代推定に使用される光学的年代の精度です。

 本論文の結果は、人類によるデニソワ洞窟利用の歴史を復元するだけではなく、人類の過去の理解へのより広範な示唆になります。まず、8万年前頃以後に堆積したデニソワ洞窟のmMP層で回収されたデニソワ人のmtDNA断片は一貫して、デニソワ3号および4号と最高の類似性を示し、ほぼ同年代(70000~45000年前頃)となる、チベット高原の北東面に位置する中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の堆積物で回収されたmtDNA断片と同様です(関連記事)。このパターンは、デニソワ3号および4号のmtDNA系統が8万年前頃以後にはデニソワ人では最も豊富だったことを示唆します。

 古生物学的研究では、更新世の哺乳類はアジア南東部からヒマラヤ山脈の東方山麓に沿ってアルタイ地域北西部に移住した、と示唆されています。これらの動物相の移動は、デニソワ人のアルタイ山脈への拡散を駆り立てたかもしれません。次に、17万年前頃以後のネアンデルタール人のmtDNAの存在は、ネアンデルタール人の歴史における初期の事象の年代をさらに制約します。43万年前頃となるSHの初期ネアンデルタール人で見つかったmtDNA系統は、43万~17万年前頃に現生人類により近い集団からの遺伝子移入により置換された、と推測されます(関連記事)。したがって、堆積物のDNAの高解像度鑑定は、骨格遺骸の発見とは関係なく、人類の進化史と古生態学の知識における間隙を埋める、効果的な手段を提供できます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。洞窟堆積物のDNA解析の進展は目覚ましく、最近もスペイン北部の洞窟の堆積物のネアンデルタール人の核DNA分析結果が報告されました(関連記事)。その研究は、アルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の堆積物のDNA解析結果も報告しています。更新世の人類遺骸はきわめて少ないだけに、今後は洞窟の堆積物のDNA解析が更新世人類の研究において大きな役割を果たすのではないか、と予想されます。日本人の私としては、更新世の人類遺骸がきわめて少ない日本列島での洞窟堆積物のDNA解析の進展に期待しています。

 本論文の知見からは、デニソワ洞窟を最初に利用した人類はデニソワ人で、その後にネアンデルタール人が到来し、ネアンデルタール人のみが利用していた期間を経た後にデニソワ人が再度利用するようになり、45000年前頃以降はほぼ現生人類のみが利用していた、と考えられます。ただ、こうした動向がアルタイ山脈全域にも当てはまるのか、今後の研究の進展が期待されます。本論文が示唆するように、アルタイ山脈は人類に限らず複数の動物にとって異なる分類群の接触地帯だったかもしれません。遺骸から分布範囲がある程度推測できるネアンデルタール人は、ヨーロッパからアルタイ山脈へと東進してきた、と推測されます。一方デニソワ人に関しては、遺伝的データと形態学的データの照合が困難なので(関連記事)、洞窟堆積物のDNA解析により、分布範囲の推定が進むと期待されます。現時点での化石証拠と合わせて考えると、デニソワ人の主要な分布範囲はアジア東部で、時としてアルタイ山脈へと西進してきたのかもしれません。

 また本論文は、デニソワ洞窟ではIUP期に現生人類だけではなくネアンデルタール人とデニソワ人も存在した可能性を指摘します。古代ゲノムデータと考古学的データとを組み合わせた最近の研究では、出アフリカ現生人類で遺伝的にユーラシア東部系統に分類される集団とIUPの拡大が関連づけられています(関連記事)。その研究からは、ヨーロッパにおけるIUP現生人類集団とネアンデルタール人との共存が示唆されます。その意味で、アルタイ山脈においてもIUP現生人類集団とネアンデルタール人やデニソワ人との共存があったとも考えられ、そこで遺伝的な側面とともに石器技術など文化面でも相互作用が起きたかもしれません。近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、考古学や形態学や古気候学など関連分野との関連づけも進んでいくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:デニソワ洞窟に居住していたのは誰?

 ロシアのデニソワ洞窟では、デニソワ人がネアンデルタール人よりも前から居住していた可能性のあることを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究で、最終氷期にユーラシアに住んでいたヒト集団の理解を深める重要な考古学的遺跡であるデニソワ洞窟での居住に関する年表が明らかになった。

 デニソワ洞窟で発見された化石から抽出された古DNAについて、これまでに実施された解析からは、この洞窟にネアンデルタール人、デニソワ人、両者の混血の子孫が居住していたことが明らかになっていた。しかし、遺骸化石の数が少ないため、居住の時期と順序は不明のままだった。今回、Elena Zavalaたちの研究チームは、この問題を解決するために、30万~2万年前の700点以上の堆積物試料を収集し、堆積物中の有機物(例えば、ヒトや動物の遺骸の微細な断片)に由来すると考えられるDNAを抽出した。これらの試料のうちの175点からヒト族のミトコンドリアDNAが回収された。25万~17万年前のものとされた旧石器時代の石器との関連性を有する最古のヒト族DNAはデニソワ人のDNAで、最古のネアンデルタール人のDNAは旧石器時代の終わり頃のものだった。

 685点の堆積物試料からは動物のミトコンドリアDNAが検出され、さらなる状況が明らかになった。ヒト族のミトコンドリアDNAには複数回のターンオーバーが見られ、それに加えて、動物(例えば、イヌ科、クマ科、ウマ科の動物)のミトコンドリアDNAの組成にも変化が認められた。Zavalaたちは、気候の変化に応じて、さまざまなヒト族と動物が現れて、洞窟内で居住し、去っていったという考えを示している。また、Zavalaたちは、約4万5000年前の堆積物試料から現生人類のミトコンドリアDNAを初めて検出したことから、デニソワ人とネアンデルタール人が、この洞窟に繰り返し居住し、それが4万5000年前頃まで続いたと考えている。デニソワ洞窟で現生人類の化石が発見されていないため、今回の研究では、ヒトの進化史を解明するのに役立つ堆積物分析の価値についても強調されている。



参考文献:
Zavala EI. et al.(2021): Pleistocene sediment DNA reveals hominin and faunal turnovers at Denisova Cave. Nature, 595, 7867, 399–403.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03675-0


追記(2021年7月15日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



進化学:更新世の堆積物中のDNAから明らかになった、デニソワ洞窟におけるヒト族および動物相の入れ替わり

進化学:堆積物中の古代DNAから得られた、デニソワ洞窟のヒト族と動物相に関する知見

 ロシアのデニソワ洞窟からはヒト族の遺骸が数多く出土しているが、異なるヒト族集団がこの洞窟に居住した時期と順序、そうした集団の考古学的遺物や環境的背景との関連性についてはあまり分かっていない。今回E Zavalaたちは、デニソワ洞窟の3つの空洞全てにおいて、30万~2万年前の地層断面から堆積物を系統的に採取し、計728点の堆積物試料についてDNA解析を行った結果を報告している。175点の試料からヒト族のミトコンドリアDNA(mtDNA)断片が回収され、この洞窟にはデニソワ人がネアンデルタール人よりも先に居住したこと、そして、この遺跡の歴史全体を通してヒト族集団の入れ替わりが複数回あったことが明らかになった。現生人類のmtDNAは後期旧石器時代の層でしか発見されていない。動物相のmtDNAからは大型哺乳類の入れ替わりも明らかになり、それらが、今回調べられた期間に起こったいくつかの気候変動事象と関連する可能性が示された。

ハチを殺虫剤から守れるかもしれない微小粒子

 ハチを殺虫剤から守れるかもしれない微小粒子に関する研究(Chen et al., 2021)が公表されました。花粉媒介生物は、世界の食料生産のために生態系機能を維持する上で不可欠です。しかし、殺虫剤への曝露は、全世界で花粉媒介生物が減少する主要な原因の一つになっています。有機リン化合物は殺虫剤として広く使用されており、ミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示します(関連記事)。これまでの研究では、酵素の一種であるホスホトリエステラーゼ(OPT)が有機リン系殺虫剤への曝露に対する治療法になり得る、と示唆されています。しかし、ハチにOPTを投与する現行の方法は有効性が低い、と示されています。

 この研究は、花粉から着想した使い捨て型の均一な微小粒子(PIM)を開発しました。PIMは炭酸カルシウムで構成される微小粒子で、この内部にOPTが封入され、OPTが消化の過程で分解されないようになっています。この研究は、マルハナバチの微小コロニーに、マラチオン(有機リン系殺虫剤)で汚染された花粉パティを投与しました。OPTが封入されたPIMを与えられたハチは、マラチオンに曝露された後でも、観察期間中(10日間)の生存率は100%でした。これに対して、OPTのみ、またはショ糖のみを与えられたハチは、マラチオン曝露の5日後と4日後の生存率がそれぞれ0%でした。

 この研究は、こうした低コストでスケーラブルな生体材料を用いる方法は、今後、コロニー規模の検証が必要ではあるものの、有機リン系殺虫剤が使用されている地域では、飼育下の花粉媒介生物のための予防措置または治療手段として利用できる可能性がある、と指摘しています。このハチの解毒戦略は、飼育下のハチ個体群が有機リン殺虫剤に曝露されるリスクを低減する上で重要な意味を持つと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生物工学:花粉から着想した微小粒子でハチを殺虫剤から守れるかもしれない

 有機リン系殺虫剤に曝露されたハチの解毒に使える可能性のある、花粉から着想を得た微小粒子について報告する論文が、Nature Food に掲載される。このハチの解毒戦略は、飼育下のハチ個体群が有機リン殺虫剤に曝露されるリスクを低減する上で重要な意味を持つと考えられる。

 花粉媒介生物は、世界の食料生産のために生態系機能を維持する上で不可欠である。しかし、殺虫剤への曝露は、全世界で花粉媒介生物が減少する主要な原因の1つになっている。有機リン化合物は殺虫剤として広く使用されており、ミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示す。これまでの研究では、酵素の一種であるホスホトリエステラーゼ(OPT)が有機リン系殺虫剤への曝露に対する治療法になり得ることが示唆されている。しかし、ハチにOPTを投与する現行の方法は有効性が低い。

 今回、Minglin Maたちの研究チームは、花粉から着想した使い捨て型の均一な微小粒子(PIM)を開発した。PIMは、炭酸カルシウムでできた微小粒子で、この内部にOPTが封入され、OPTが消化の過程で分解されないようになっている。Maたちは、マルハナバチの微小コロニーにマラチオン(有機リン系殺虫剤)で汚染された花粉パティを投与する実験を行った。OPTが封入されたPIMを与えられたハチは、マラチオンに曝露された後でも、観察期間中(10日間)の生存率は100%であった。これに対して、OPTのみ、またはショ糖のみを与えられたハチは、マラチオン曝露の5日後と4日後の生存率がそれぞれ0%だった。

 Maたちは、このような低コストでスケーラブルな生体材料を用いる方法は、今後、コロニー規模の検証が必要だが、有機リン系殺虫剤が使用されている地域では、飼育下の花粉媒介生物のための予防措置または治療手段として利用できる可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Chen J. et al.(2021): Pollen-inspired enzymatic microparticles to reduce organophosphate toxicity in managed pollinators. Nature Food, 2, 5, 339–347.
https://doi.org/10.1038/s43016-021-00282-0

イラン大統領選結果

 今月(2021年6月)18日に投票が行なわれたイラン大統領選挙で、検事総長や司法府長官などを歴任したエブラヒム・ライシ氏(60歳)が当選しました。得票率は約62%と圧勝でしたが、護憲評議会による事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となり、少なからぬ国民が冷めていたためか、投票率は1979年のイスラム教体制成立後の大統領選挙では最低となる約48.8%でした。ライシ氏は前回(2017年)の大統領選挙にも立候補し、得票率は38.5%でロハニ大統領に敗れています。穏健派とされるロハニ大統領でも経済制裁解除で目立った成果は挙げられず(アメリカ合衆国では最近まで4年間トランプ政権だったこともありますが)、有力者が失格にならずとも、ライシ氏が勝っていたかもしれません。

 ライシ氏は「反米・保守強硬派」と言われており、以前より有力候補とされていましたが、大統領としての政治手腕はどうでしょうか。ライシ氏は次のイラン最高指導者の有力候補とも言われており、大統領就任はライシ氏に箔をつけるために現最高指導者のハメネイ氏が画策した、との憶測もあります。ライシ氏の勝利を確実にするため、事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となったのでしょうが、それで少なからぬ国民が冷めたのだとしたら、長期的には体制維持にとって悪影響となるかもしれません。とくに独自の知見を提示できるわけではありませんし、イラン政治を日頃から熱心に追いかけているわけでもありませんが、当ブログを開設してからイラン大統領選を毎回取り上げてきたので、今回も言及しました。なお、過去のイラン大統領選に関する記事は以下の通りです。

2009年
https://sicambre.at.webry.info/200906/article_14.html

2013年
https://sicambre.at.webry.info/201306/article_18.html

2017年
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_23.html

アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性

 最近、人類集団の地域的連続性に言及しましたが(関連記事)、その記事で予告したように、近年大きく研究が進展したアジア東部に関してこの問題を整理します。なお、今回はおおむねアムール川流域以南を対象とし、シベリアやロシア極東北東部は限定的にしか言及しません。初期現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究は近年飛躍的に進展しており、その概要を把握するには、現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021、関連記事)や、現生人類に限らずアジア東部のホモ属を概観した総説(澤藤他., 2021、関連記事)や、上部旧石器時代のユーラシア北部の人々の古代ゲノム研究に関する概説(高畑., 2021、関連記事)が有益です。最近の総説的論文からは、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021、関連記事)。これらの総説を踏まえつつ、アジア東部における人類集団、とくに初期現生人類の拡散と地域的連続性の問題を自分なりに整理します。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。これは、現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、関連記事)。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに整合的です。中国では現在(少なくとも2008年頃まで)でも、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、関連記事)。ただ、中国人研究者が関わった最近の研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、人類アフリカ起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの(Gokcumen., 2020、関連記事)、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては学術的にほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相は、先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、関連記事)。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、関連記事)。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000~45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、関連記事)、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。一昨年(2019年)の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、関連記事)、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、関連記事)。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、アジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、関連記事)の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、以下に掲載する上述のVallini et al., 2021の図1のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係でさえ複雑なものと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。
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 特定の地域における過去と現代の人類集団の連続性に関しては、上述のように最近の総説的論文から、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021)。具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は、ヨーロッパ最古級(45000年以上前)の現生人類集団を表しますが、現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、関連記事)。ズラティクンは、出アフリカ系現代人の各地域集団が遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 その他には、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640~42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響は小さかった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。Vallini et al., 2021では、ウスチイシム個体とOase 1はユーラシア東部系統に位置づけられ、Oase 1はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640~42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、関連記事)。


●アジア東部における人類集団の遺伝的連続性

 このようにヨーロッパにおいては、初期現生人類が現代人と遺伝的につながっていない事例は珍しくありません。アジア東部においても、最近では同様の事例が明らかになりつつあります。アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、関連記事)で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2020、関連記事)です。最近になって、そのサルキート個体に次いで古い、34324~32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、関連記事)。

 Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似していることを示します。アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統(祖先系譜、ancestry)は、まずユーラシア東部と西部に分岐します。その後、ユーラシア東部系統は沿岸部と内陸部に分岐します。ユーラシア東部沿岸部(EEC)祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部の後期更新世~完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このユーラシア東部内陸部祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang et al., 2021の図2です。
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 田園個体とサルキート個体とAR33Kはおもに、南北に分岐する前のEEI祖先系統で構成されますが、サルキート個体には、別の祖先系統も重要な構成要素(25%)となっています(Mao et al., 2021)。それは、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される祖先系統です(Sikora et al., 2019、関連記事)。この祖先系統は、24500~24100年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年個体(MA-1)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先とされ、Sikora et al., 2019では古代北シベリア人(ANS)と分類されています。MA-1はアメリカ大陸先住民との強い遺伝的類似性が指摘されており(Raghavan et al., 2014、関連記事)、MA-1に代表されるANEは、おもにユーラシア西部祖先系統で構成されるものの、EEI祖先系統の影響も一定以上(27%)受けている、と推測されます(Mao et al., 2021)。今回は、ANSをANEに区分します。ANE関連祖先系統は、現代のアメリカ大陸先住民やシベリア人やヨーロッパ人などに遺伝的影響を残しています。

 重要なのは、田園個体とサルキート個体とAR33Kの年代がいずれも、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも前で、現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されていることです(Mao et al., 2021)。南北に分岐する前のEEI関連祖先系統でおもに構成されるこれらの個体に代表される集団は、アムール川流域からモンゴル北東部まで、LGM前にはアジア東部北方において広範に存在した、と推測されます。つまり、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高く、アジア東部でもヨーロッパと同様に初期現生人類集団の広範な絶滅・置換が起きた可能性は高い、というわけです。もちろん、古代ゲノム研究では標本数がきわめて限定的なので、田園個体などに代表される絶滅集団とアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団が隣接して共存していた、とも想定できるわけですが、その可能性は低いでしょう。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れているので、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がいつアジア東部に到来したのか、ほとんど明らかになっていません。アムール川流域はその解明が比較的進んでいる地域と言えそうで、LGM末期の19000年前頃には、AR33Kよりもアジア東部現代人と遺伝的にずっと近い個体(AR19K)が存在し、14000年前頃にはより直接的に現代人と遺伝的に関連する集団(AR14K)が存在したことから、アムール川流域では現代にまで至る14000年以上の人類集団の遺伝的連続性が指摘されています(Mao et al., 2021)。AR19KはEEIでも南方系(EEIS)よりも北方系(EEIN)に近縁で、19000年前頃までにはEEIの南北の分岐が起きていた、と考えられます。以下、これらの系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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●アジア東部現代人の形成過程

 かつてアジア東部北方に、4万年前頃の田園個体と類似した遺伝的構成の集団が広範に存在し、現代人には遺伝的影響を(全く若しくは殆ど)残していない、つまり絶滅したとなると、上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高くなります。では、これらの集団がいつどのような経路でアジア東部に拡散してきたのか、という問題が生じます。初期現生人類のゲノムデータと考古学を統合して初期現生人類の拡散を検証したVallini et al., 2021は、ウスチイシム個体や田園個体やバチョキロ洞窟の4万年以上前の個体群に代表される初期のEEI集団が、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の担い手だった可能性を指摘します。IUPは、ルヴァロワ(Levallois)手法も用いる石刃製作として広範に定義され(仲田., 2019、関連記事)、レヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。(仲田., 2020、関連記事)。

 Vallini et al., 2021は、その後、ユーラシア西部のどこかに存在した出アフリカ後の人口集団の「接続地」から、石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられ、装飾品や骨器をよく伴う上部旧石器(UP)の担い手であるユーラシア西部祖先系統でおもに構成される集団がユーラシア規模で拡大し、ユーラシア東部では、在来のEEI関連祖先系統を主体とする集団との混合により、31600年前頃となるヤナRHSの2個体に代表されるANE(もしくはANS)集団が形成された、と推測されます。上述のように、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体はANE集団から一定以上の遺伝的影響を受けています。しかし、アジア東部でも漢人の主要な地域(近現代日本社会で一般的に「中国」と認識されるような地域)や朝鮮半島およびその周辺のユーラシア東部沿岸地域や日本列島では、古代人でも現代人でもユーラシア西部関連祖先系統の顕著な影響は検出されていません。Vallini et al., 2021は、これらの地域において、侵入してくるUP人口集団の移動に対するIUPの担い手だったEEI集団の抵抗、もしくはEEI集団の再拡大が起きた可能性を指摘します。

 EEI集団がどのようにアジア東部に拡散してきたのか不明ですが、文化面ではIUPと関連しているとしたら、ユーラシア中緯度地帯を東進してきた可能性が高そうで(ユーラシア南岸を東進してアジア南部か南東部で北上した可能性も考えられますが)、その東進の過程で遺伝的に分化して、田園個体やAR33Kに代表される集団と、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団とに分岐したのでしょう。もちろん、実際の人口史はこのように系統樹で単純に表せないでしょうから、あくまでも大まかに(低解像度で)示した動向にすぎませんが。アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がLGMの前後にどこにいたのか、現時点では直接的な遺伝的手がかりはなく、アジア東部では更新世の現生人類遺骸が少ないので、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(澤藤他., 2021)に依拠するしかなさそうです。

 ただ、EEIの南北の分岐(EEISとEEIN)が19000年前頃までに起きたことと、シャベル型切歯の頻度から、ある程度の推測は可能かもしれません。シャベル型切歯は、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られ、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達しますが、アジア南東部やオセアニアでは低頻度です。シャベル型切歯はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異との関連が明らかになっており(Kataoka et al., 2021、関連記事)、この変異は派生的で、出現は3万年前頃と推測されています(Harris.,2016,P242、関連記事)。Mao et al., 2021は、この派生的変異がアジア東部北方では、LGM前の田園個体とAR33Kには見られないものの、19000年前頃となるAR19Kを含むそれ以降のアジア東部北方の個体で見られることから、LGMの低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択だった、との見解(Hlusko et al., 2018、関連記事)を支持しています。

 これらの知見から、現代のアジア東部人やアメリカ大陸先住民において高頻度で見られるシャベル型切歯は、EEIN集団においてEEIS集団との分岐後に出現した、と推測されます。上述のように、EEISとEEINの分岐は19000年前よりもさかのぼりますから、シャベル型切歯の出現年代の下限は2万年前頃となりそうです。さらに、上掲のMao et al., 2021の図3で示されるように、アメリカ大陸先住民と遺伝的にきわめて近縁な、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された1個体(USR1)は古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人を表し、ANE関連祖先系統(42%)とEEIN関連祖先系統(58%)の混合としてモデル化できます。古代ベーリンジア人の一方の主要な祖先であるEEIN関連集団は他のEEIN集団と36000±15000年前頃に分岐したものの、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(Moreno-Mayar et al., 2018、関連記事)。

 そうすると、25000年前頃までにはシャベル型切歯が出現していたことになりそうです。EEINとEEISは4万年前頃までには分岐し、シャベル型切歯をもたらす変異はEEINにおいて3万年前頃までには出現し、LGMにおいて選択され、アジア東部現代人とアメリカ大陸先住民の祖先集団において高頻度で定着した、と考えられます。この推測が妥当ならば、EEIN集団は、EEIS集団と遺伝的に分化した後、アムール川流域やモンゴルよりも北方に分布し、2万年前頃までにはアムール川流域に南下していた、と考えられます。一方、EEIS集団は、長江流域など現在の中国南部にLGM前に到達していたのかもしれません。私の知見では、この推測を考古学と組み合わせて論じることはできないので、今後の課題となります。またシャベル型切歯に関するこれら近年の知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)はほぼ完全に否定された、と言えるでしょう。


●日本列島の人口史

 日本列島では4万年頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。4万年以上前となる日本列島における人類の痕跡としては、たとえば12万年前頃とされる島根県出雲市の砂原遺跡の石器がありますが、これが本当に石器なのか、強く疑問が呈されています(関連記事)。おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。現代日本人の形成という観点からは、日本列島では4万年前以降の遺跡のみが対象となるでしょう。

 日本列島の更新世人類遺骸のDNA解析は、最近報告された2万年前頃の港川人のmtDNAが最初の事例となり(Mizuno et al., 2021、関連記事)、ほとんど解明されていません。日本列島で古代ゲノムデータが得られている人類遺骸は完新世に限定されており、縄文時代以降となります。愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる縄文時代個体の核ゲノム解析結果を報告した研究では、「縄文人(縄文文化関連個体)」は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解が支持されています(Gakuhari et al., 2020、関連記事)。しかし、港川人のmtDNAは、少なくとも現時点では現代人で見つかっておらず、ヨーロッパやアジア東部大陸部と同様に、日本列島でも更新世に到来した初期現生人類の中に絶滅した集団が存在した可能性は高いように思います。この問題の解明には、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析が大きく貢献できるかもしれません。

 「縄文人」のゲノムデータは、上述の愛知県で発見された遺骸のみならず、北海道(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)や千葉県(Wang et al., 2021)や佐賀県(Adachi et al., 2021、関連記事)の遺骸でも得られています。これら縄文時代の後期北海道の個体から早期九州の個体まで、これまでにゲノムデータが得られている縄文人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、縄文人が文化的にはともかく遺伝的には長期にわたってきわめて均質だったことを示唆します。しかし、現代日本人の形成において重要となるだろう西日本の縄文時代後期~晩期の個体のゲノムデータが蓄積されないうちは、縄文人が長期にわたって遺伝的に均質だったとは、とても断定できません。

 縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。これらは、シャベル型切歯に関する上述の推測と整合的です。

 縄文人はYHgでも注目されています。現代日本人(「本土」集団)ではYHg-D1a2aが35.34%と大きな割合を占めており(Watanabe et al., 2019、関連記事)、北海道など上述の縄文人でもYHgが確認されている個体は全てD1a2aで、日本列島外では低頻度であることから、YHg-D1a2aは日本列島固有との認識が一般的なようです。しかし、カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)はYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、悪魔の門遺跡個体群はAR14Kと遺伝的にきわめて密接です。また、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)は、YHg-DEです。アムール川流域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415~4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。ほぼEEC関連祖先系統で構成されるアンダマン諸島現代人のYHgがほぼD1で、YHg-D1の割合が高い現代チベット人はEEC関連祖先系統の割合が20%近くと推定されます(Wang et al., 2021)。また、縄文人と悪魔の門遺跡個体群などアジア東部沿岸部集団との遺伝的類似性も指摘されています(Gakuhari et al., 2020)。EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。

 これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。カザフスタンの紀元後3~4世紀の個体(KNT004)がYHg-D1a2a2aで、悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高いことからも、YHg-D1a2aは日本列島固有ではなく、アジア東部沿岸部を中心にかつては広範にアジア東部に存在し、縄文時代の始まる前に日本列島に到来した、と推測されます。現代日本人で見られるYHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐も、日本列島ではなくアジア東部大陸部で起きていたかもしれません。そうすると、4万年前頃までさかのぼる日本列島の最初期現生人類のYHgはD1a2aではなかったかもしれません。また、KNT004の事例からは、現代日本人のYHg-D1a2a2aの中には、弥生時代以降に到来したものもあったかもしれない、と考えられます。

 日本列島の最初期現生人類が縄文人の直接的祖先なのか否か、縄文人がどのような過程で形成されたのか、現時点では不明ですが、日本列島も含めてユーラシア東部の洞窟の土壌DNA解析により、この問題の解明が進むと期待されます。一方、おもにEEI関連祖先系統で構成される集団のYHgに関しては、田園個体が(高畑., 2021)K2bで、アムール川流域の19000年前頃以降の個体がおもにCもしくはC2であることから、CとK2の混在だったかもしれません。YHg-K2から日本人も含めてアジア東部現代人で多数派のOが派生するので、この点も核ゲノムではアジア東部現代人がおもにEEI関連祖先系統で構成されることと整合的です。



●まとめ

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。

 具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、関連記事)。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、関連記事)。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、関連記事)。

 こうしたヨーロッパにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、関連記事)。さらにいえば、ホモ属(関連記事)や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険でしょう。その意味で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万~130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、関連記事)、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。

 その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、関連記事)。今回はユーラシア東部内陸部に関してほとんど言及できませんでしたが、バイカル湖地域では更新世から完新世にかけて現生人類集団の大きな遺伝的変容や置換があった、と推測されています(Yu et al., 2020、関連記事)。またモンゴルに関しては、完新世において最初に牧畜文化をもたらした集団の遺伝的構成は比較的短期間で失われた、と推測されています(Jeong et al., 2020、関連記事)。

 これらは上述したオーストラリアの事例でも当てはまるかもしれず、65000年前頃の人類の痕跡が本当だとしても、それが現代のオーストラリア先住民と連続しているかどうかは不明で、mtDNAで推測される5万年近くにわたるオーストラリアの人類の連続性との見解も、古代DNAデータが得られなければ確定は難しいでしょう(オーストラリアで更新世の人類遺骸や堆積物からDNAを解析するのは難しそうですが)。日本列島も同様で、4万年以上前とされる不確かな遺跡はもちろん、4万年前以降の人類、とくに最初期の人類に関しては、縄文人などその後の日本列島の人類と遺伝的につながっているのか、まだ判断が難しいところです。日本列島の人口史に関しては、人類遺骸からのDNA解析とともに、更新世堆積物のDNA解析が飛躍的に研究を進展させるのではないか、と期待しています。

 もちろん、上記の私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(Wang et al., 2020、関連記事)。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。


参考文献:
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佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P27-62
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澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇(2021)「アジア東部のホモ属に関するレビュー」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P101-112
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高畑尚之(2021)「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)』P27-44
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仲田大人(2019)「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P125-132
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仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91
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吉田泰幸(2017)「縄文と現代日本のイデオロギー」『文化資源学セミナー「考古学と現代社会」2013-2016』P264-270
https://doi.org/10.24517/00049063
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大河ドラマ『青天を衝け』第19回「勘定組頭渋沢篤太夫」

 栄一(篤太夫)は一橋家の財政の充実に奮闘し、一橋家の勘定組頭に抜擢されます。栄一が藍の商売で培った才覚と経験を活かしていくものの、それが順調に進むわけではなく、抵抗も描かれるところは、ドラマとして単調ではなく、なかなかよいと思います。今回は、財政の充実による富国強兵を図る人物として、幕府の小栗忠順(上野介)と薩摩の五代才助(友厚)も描かれました。五代は顔見世程度だった初登場時とさほど出演時間は変わらなかったかもしれませんが、幕末政治に本格的に関わってきた感があり、初登場時よりも見せ場があったように思います。小栗と五代は栄一との対比で描かれることになりそうで、楽しみです。まあ現時点では、小栗・五代と栄一とでは身分に大きな違いがありますが。

 これまで見せ場のなかった大久保一蔵(利通)も、松平春嶽を訪ねて説得し、今回初めて見せ場がありました。大久保は明治時代になって栄一と関わりますし、幕末政局でも重要人物だけに、今後も見せ場がありそうです。本作の準主人公とも言うべき一橋慶喜は政界に復帰後、中央政局の描写が多く、今回も見せ場がありました。慶喜の勤皇は今回もこれまでもよく描かれており、孝明天皇からの厚い信任も改めて明示されました。そのため孝明天皇の突然の崩御は将軍に就任していた慶喜にとって打撃だった、という話になりそうです。鳥羽伏見の戦いでの慶喜の逃走は、勤皇という観点から描かれるのでしょうか。

アルタイ山脈のネアンデルタール人の新たなゲノムデータ

 シベリア南部のアルタイ山脈のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の新たなゲノムデータに関する研究が報道されました。この研究は、今月(2021年6月)1~4日にかけてオンラインで開催された第9回生体分子考古学国際研究討論会で報告されたそうです。この研究が論文として公表されるのはしばらく後かもしれませんが、たいへん興味深いので取り上げます。

 49000年以上前、ネアンデルタール人がシベリアのアルタイ山脈に存在した時、バイソンやアカシカや野生ウマが存在しました。洞窟の主空間で、10代の少女が、父親もしくはその親族が広大な草原で狩ってきたバイソンをかじっているさいに歯を失いました。現在、研究者たちはこの父と娘およびその親族12個体のゲノムを分析しています。これらの個体の多くは100年以内に同じ洞窟で暮らしていました。これらの新たなゲノムが得られた個体数は、ゲノムデータが得られている既知のネアンデルタール人個体数(19個体)と近く、ネアンデルタール人の分布範囲の東端における、絶滅の危機に瀕していた頃のネアンデルタール人集団およびその社会構造の手がかりを提供します。これら新たな古代ゲノムデータから、ネアンデルタール人における最初の父親と娘の組み合わせが特定され、多くの現代人社会のように、男性たちが成人として家族集団に留まっていたことが示唆されます。この新たなゲノムデータの意義の一つは、既知のゲノムデータが得られているネアンデルタール人は女性が多かったのに対して、男性が多いことです。

 この研究は、アルタイ山脈のチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟とオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟で発見された歯・骨片・顎骨などのネアンデルタール人遺骸から、DNAを抽出して解析しました。ネアンデルタール人遺骸の周囲の堆積物の光刺激ルミネッセンス法(OSL)によると、これらネアンデルタール人遺骸の年代は59000~49000年前頃と推定されます。チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が発見されたデニソワ洞窟(Denisova Cave)の近くに位置し、27万~5万年前頃にかけてデニソワ人とネアンデルタール人の双方が断続的にデニソワ洞窟を利用しました(関連記事)。

 この研究は、チャギルスカヤ洞窟の男性7個体と女性5個体、オクラドニコフ洞窟の男女1個体ずつのゲノムの、70万ヶ所以上の部位を分析しました。その結果、家族関係が明らかになり、チャギルスカヤ洞窟の1点の骨片は父親で、歯はその10代の娘でした。一部の個体は、2種類のミトコンドリアDNA(mtDNA)を共有していました。これらのゲノムはまだ相互に区別されないので、同じ世紀に生きていたに違いありません。

 ゲノムデータからはネアンデルタール人の社会構造も推測されました。チャギルスカヤ洞窟の男性数人は、同じ最近の祖先からの同一の核DNAの長い塊を有していました。彼らのY染色体も同じで、既知のネアンデルタール人男性と同様に(関連記事)、(広義の)現生人類(Homo sapiens)系統に由来します(デニソワ人よりも現生人類の方と近いことになります)。また核DNA解析では、これらのネアンデルタール人が同じアルタイ山脈のデニソワ洞窟で発見されたそれ以前のネアンデルタール人個体(関連記事)よりも、スペインで発見されたそれ以降のネアンデルタール人の方に近いことも明らかになり、移住が示唆されます。

 新たにゲノムデータが得られたアルタイ山脈のネアンデルタール人個体群で見られる男性間の遺伝的類似性は、これらのネアンデルタール人が子供のいる男性数百人程度の1人口集団に属していたことを示唆します。これは、絶滅危惧種である現代のマウンテンゴリラ(Gorilla beringei beringei)の繁殖年齢の男性とほぼ同じ数です。この推定が妥当ならば、この時期のアルタイ山脈のネアンデルタール人は絶滅の危機に瀕していたことになるでしょう。Y染色体と核DNAとは対照的に、これら新たにゲノムデータが得られたアルタイ山脈のネアンデルタール人のmtDNAは比較的多様で、男性よりも女性の祖先の方が人口集団の遺伝的多様性に寄与したことを示唆します。これは創始者効果の可能性があり、最初の集団では女性よりも男性の方が子孫を残す個体数は少なかったかもしれません。あるいは、これはネアンデルタール人社会の性質を反映している可能性があります。子孫を残すのは女性よりも男性の方が少なかったか、女性が頻繁に集団間を移動していた、というわけです。

 この研究は後者の可能性を示唆します。モデル化研究では、ヨーロッパからシベリアへ拡大する移民の小集団が、ほとんど女性で男性が少ない可能性は低い、と示します。代わりに、これらのネアンデルタール人は30~110個体の繁殖可能な成人で構成されるひじょうに小さな集団で暮らしており、若い女性は出生集団を去って配偶相手の家族と暮らす、と考えられます。ほとんどの現代人の文化も父方居住で、ネアンデルタール人と現生人類の類似性を示すもう一つの慣行です。ただ、この研究は、14個体のゲノムでは全てのネアンデルタール人の社会生活を明らかにできない、と注意を喚起します。また、この研究は、男性の低い遺伝的多様性に不吉な兆候を見出します。ネアンデルタール人は絶滅に近づいており、この新たにゲノムデータが得られた個体群から5000~10000年後にネアンデルタール人は絶滅しました。


 以上、この研究に関する報道についてざっと見てきました。この研究は、ネアンデルタール人14個体のゲノムデータを一気に報告し、その中にこれまでゲノムデータの少なかった男性が多く含まれる点で、画期的と言えるでしょう。とくに注目されるのはネアンデルタール人の社会構造で、イベリア半島北部のネアンデルタール人に関する以前の研究で示唆されていたように(関連記事)、59000~49000年前頃のアルタイ山脈のネアンデルタール人集団も父方居住である可能性が示唆されました。もちろん、この研究が指摘するように、これがネアンデルタール人社会全体に当てはまるとは断定できませんが、同じ頃の遠く離れたネアンデルタール人社会において類似の社会行動が見られるわけですから、ネアンデルタール人社会の全てではないとしても、広範囲に父方居住が行なわれていた可能性は高いように思います。

 現代人およびネアンデルタール人の直接的祖先ではないだろうアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)では、男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、現代人も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)は、オランウータンに関してはやや母系に傾いていると言えるかもしれないものの、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 これらの知見を踏まえると、現代人(ホモ属)とチンパンジー属とゴリラ属の最終共通祖先の段階では、非母系社会もしくは時として父系に傾いた社会が見られ、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先の段階では、かなり父系に傾いた社会が形成されていたのではないか、と推測されます。人類はチンパンジー属との分岐後も長く父系的な社会を維持していたものの、現代人につながる進化系統のどこかの時点で、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようになり、そうした特徴が人類社会を重層的に組織化した(関連記事)、と考えられます。これは、現代人が多くの場合複数の自己認識・帰属意識を有することと関連しているのでしょう。私は、こうした現代人社会の基本的な特徴を双系的と考えています(関連記事)。それ故に、現代人は父系に偏った社会から母系に偏った社会まで、さまざまな形態の社会が存在するのだろう、というわけです。現代人社会に父方居住が多いのは、単に農耕開始以降の社会構造の変化(国家形成など)が原因ではなく、元々進化史において長期にわたって父系的な社会が維持されていたからだろう、と私は考えています。

 これまでの知見からは、ネアンデルタール人社会で強く示唆される父方居住は、現生人類との類似性というよりは、チンパンジー属との最終共通祖先までさかのぼるかもしれない行動に進化的起源がある、と評価する方が妥当なように思います。ネアンデルタール人社会には、現生人類社会で見られるような、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようなことがあった、ということを示す強力な証拠はまだないように思います。しかし、ネアンデルタール人社会でも黒曜石の長距離移動の事例が報告されており、ある程度以上の広域的な社会的ネットワークが存在した可能性は高そうですから(関連記事)、現生人類との違いがあるとしても、ネアンデルタール人社会においても、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようなことはあったかもしれません。

坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』

 PHP新書の一冊として、2020年12月にPHP研究所より刊行されました。本書は鎌倉幕府の初代から三代目までの源氏将軍を取り上げ、なぜ源氏将軍が三代で途絶えたのか、そもそも源氏将軍とは何だったのか、検証します。初代の源頼朝についてまず言えるのは、源氏における頼朝の卓越した地位は当初から確立していたのではなく、内乱を勝ち抜いた結果だった、ということです。とくに、奥州藤原氏を攻め滅ぼしたことは、源氏嫡流・武家の棟梁としての頼朝という意識の定着に大きな影響を及ぼしたようです。頼朝が征夷大将軍を熱望したものの後白河はそれを許さず、後白河没後に実現した、との以前の有力説は現在では否定されており、四通りの大将軍候補が朝廷で検証され、消極的に征夷大将軍が選ばれた、と指摘されています。

 こうして頼朝の権威は確立していきましたが、その地位が息子の頼家に継承されることは自明視されていなかったので、頼朝は巻狩などで頼家の権威を確立しようと試みた、と本書は指摘します。頼朝が弟の範頼や源氏の有力者などを粛清していったのも、そうした文脈で解されます。晩年の頼朝は娘の入内工作など朝廷とのさらなる関係強化に乗り出しますが、老獪な源通親に翻弄されます。本書はこれを、頼朝が頼家の地位を確たるものにしようと考えたからだろう、と指摘します。

 二代将軍の頼家は暗君と長く評価されてきましたが、20世紀後半以降、再評価されるようになりました。本書も、北条を賞揚する『吾妻鏡』の記事の偏向を指摘し、頼家暗君説の見直しを提言しています。頼家から実朝への継承に関して、本書は通俗的な歴史像とは異なる見解を提示しています。当時、北条は比企よりも勢力が劣っており、この一連の経緯は北条側のクーデタだった、というわけです。優勢だった比企が滅亡したのは油断があったからだろう、と本書は推測します。また本書はこの一連の経緯で、頼家が急に重篤になることと、そこから亡くならずに回復することを当時の要人は予測できなかった 、ということを重視しています。

 三代将軍の実朝は、武士の棟梁でありながら朝廷文化に傾倒した文弱な人物で、政治への意欲に欠けて政務も怠っており、ついには宋への逃亡も図ったが失敗した、というのが長く一般的な評価だったように思います。兄の頼家のような粗暴なところはないものの、暗君だった、というわけです。こうした実朝の評価は随分前から見直しが進んでおり、本書も、実朝の政務への関与と、叔父でもある配下の北条義時などの補佐があり、将軍と幕臣との協調的な政治が進められたことを指摘します。その実朝の短い生涯の晩年に問題となったのが、子のいない実朝の後継者でした。その解決策は、後鳥羽の皇子を将軍に迎え入れることでした。この構想は実朝が発案し、幕臣の北条義時も後鳥羽も強く指示していた、と本書は指摘します。

 この状況で、当時の要人のほとんどが予想できなかっただろう、実朝の殺害事件が起きます。実朝を殺害したのはその甥(頼家の息子)である公暁で、実朝に子供が生まれないなか、本来は頼家の嫡男のはずだった自分が将軍になろうとして、実朝を調伏していたのだろう、と本書は推測します。しかし、親王将軍と実朝の後見という構想を知った公暁は焦り、実朝を殺害したのではないか、というわけです。この実朝殺害事件に関しては、以前から黒幕をめぐる議論がありますが、本書は公暁の単独犯行と指摘します。

 実朝死後も幕府首脳は源氏の地に拘り、新たに将軍に迎えられたのは、両親がともに頼朝と血縁関係にある九条頼経で、妻には頼家の娘(竹御所)が迎えられました。しかし、両者の間に子供は生まれず、頼朝の子孫による源氏将軍の可能性は消滅します。ただ、その後も源氏将軍観は根強く生き続け、幕府第7代将軍の惟康親王は臣籍降下して源姓を賜与されます。本書は、「源氏将軍断絶」とは実朝殺害により起きた自明の事柄ではなく、実朝が生き続けて後鳥羽の皇子が将軍となることこそ、正真正銘の「源氏将軍断絶」だった、と指摘します。

『卑弥呼』第65話「苦難」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年7月5日号掲載分の感想です。前回は、日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)の館で、日下の日見子(ヒミコ)と思われるモモソがトメ将軍とミマアキに、自分の父のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に厲鬼(レイキ)を送りこみ、今頃筑紫島では多くの人が死に瀕しているだろうから、3年後の日下とその配下の国々による筑紫島への侵攻が絵空事ではないと理解していただけたか、と不敵に問いかけるところで終了しました。今回は、その2日前に日下(ヒノモト)の都を、ともにサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)に仕えた五支族の末裔である、トモとワニが訪ねている場面から始まります。穂波 (ホミ)の大夫でもあるトモは、ヤノハが日見子(ヒミコ)と名乗り、サヌ王の領地で不可侵とされていた日向(ヒムカ)に山社(ヤマト)国を建てたことに、強い反感と敵意を抱いています。

 トモとワニを出迎えたのは、伊香(イカガ)のシコオと名乗る男性でした。シコオはフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)から、トモとワニが古の支族であることを確認し、二人を信頼したようです。トモとワニは、シコオが厲鬼で半分以上の従者を失いながら無事だったことに安堵し、我々が慕うサヌ王の導きだ、と言います。遠路はるばる訪ねてきたのは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に一大事が起きたからなのか、とトモとワニに訊いたシコオは、フトニ王は多忙なので自分が代わりに話を聞く、と言います。ワニはシコオに、古の支族に伊香という家はないが、シコオはどのような立場なのか、と尋ねます。シコオによると、伊香一族は河内湖(カワチノウミ)の沿岸と胆駒山(イコマヤマ)を住まいとした長髄日子(ナガスネヒコ)の末裔で、長髄日子とは勇猛果敢な戦人の通称であり、現在の日下では物部(モノノフ)と呼んでいるそうです。シコオの妹はフトニ王の子息に嫁いだので、シコオは王家の親戚筋となります。それを聞いたトモとワニは、シコオに敬意を払います。

 トモはシコオに本題を切り出し、暈(クマ)の国に偽りの日見子(ヤノハ)が顕れ、こともあろうにサヌ王の聖地を侵して山社国を名乗っている、と伝えます。その不届き者(ヤノハ)は日下への侵攻も考えているのか、とシコオに問われたトモは、そこまでは分からない、と答えます。シコオがトモにこう尋ねたのは、筑紫島から来たと思われる2艘の舟が河内湖に現れたからでした。トモは、日下に立つさいに偽りの日見子に兇手(キョウシュ)を放ったので、その者が仕損じていれば日見子(ヤノハ)は自分の命を狙うはずだ、と答えます。するとシコオは、いずれにしてもおとなしく返すわけにはいかないので、筑紫島から来た者たち(トメ将軍とミマアキの一行)を日見子様(日下のモモソ)の屋敷に招いて気の緩みを突いて殺すか、と思案します。日下にも日見子がいることに驚いたトモとワニは、日下の日見子の身を案じます。するとシコオは、筑紫島の日見子と日下の日見子では立場が違うようだ、日下の日見子は人と神の真ん中に位置し、その役目は人柱だ、とトモとワニに説明します。

 舞台は現代に戻り、ヤノハと事代主(コトシロヌシ)が面会している弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)です。ヤノハから薬草の知識の伝授を要請された事代主は、身体に入った厲鬼は熱を発して人を殺すので、熱冷ましにはイヌホオズキやアヂサイやヨモギなどが有効だが、厲鬼から民を守る最善の策は国と邑と家を閉ざすことだ、と答えます。人と人との接触を断ち、会う場合は布で口を覆い、何かに触れた指は水で洗うことなのか、とヤノハは悟ります。事代主は、歴代の事代主に伝わる木簡をヤノハに見せます。そこには166の薬草とその効能が記されていますが、出雲文字(神代文字の一種という設定でしょうか)という変わった文字が用いられていました。筑紫島に読める方がいるならこの木簡を進呈しよう、と申し出る事代主に対して、イクメという者が読めるはずなので、いただけるならありがたい、とヤノハは答えます。民のことを本当に考えている、と事代主に言われたヤノハは一瞬照れます。

 筑紫島では日見子が身罷った場合、次の日見子をどう選ぶのか、と事代主に問われたヤノハは、筑紫島の暈の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)では女性だけが学び、巫女になりたい者や素質のありそうな者が預けら、その中から選ばれる、と答えます。日見子に相応しい者が顕れない場合はどうなるのか、と事代主に問われたヤノハは、それは筑紫島の不幸なのでじっと耐えねばならない、と答えます。事代主は、出雲の場合、事代主の息子の中から後継者が選ばれる、とヤノハに説明します。血筋が重んじられる、というわけです。事代主は、自分には3人の妻がおり、息子は3人、娘が2人ですが、相応しい者がいなければ、新しい妻を娶り、また子を儲けねばならない、とヤノハに説明し、日見子という立場で子を孕むことは禁忌なのか、と尋ねます。ヤノハは、日見子たる者は生涯男を遠ざけねばならない、と答えます。

 すると事代主は一瞬考えこみ、そろそろ決めましょうか、とヤノハに言います。事代主は、出雲と山社が連合を組むことにお互い異議はないので、どちらが主導権を取るのか決めねばならないが、日見子殿(ヤノハ)は最初から自分にそれを託すつもりだったのだろう、と笑顔で問いかけます。ヤノハは、自分は間違って日見子に選ばれたので、人の上に立てる器ではない、と答えます。すると事代主は真顔になり、どのようにして大役を任されたのかは問題ではない、大切なのは任された後に何をするかだ、そなたにはその資格が充分ある、と指摘します。事代主はヤノハに、すでに気づいているだろうが、自分には「知」はあるが「政(マツリゴト)」を成し遂げる力はない、と率直に打ち明けます。事代主はヤノハに、出雲がある金砂国(カナスナノクニ)の王は小人ゆえに簡単に日下に取り込まれるだろうし、それを自分は見ているだけでどうすることもできないが、日見子殿は違う、「聖」から「政」を見おろして支配できる方なので、自分と日見子殿ならば、どちらが主導権を取るべきなのか、火を見るよりも明らかだ、と指摘します。それでも、自分の望みは違う、と言いかけるヤノハを、倭国のためなのでその望みは諦めるよう、事代主は諭します。しかし、自分の目が節穴でなければ、ヤノハには大役を担ってもらうには大きな苦難が立ちはだかっている、と事代主は指摘しますが、ヤノハはその意味を理解できません。

 日下では、トメ将軍とミマアキの一行がモモソと面会した館から立ち去ろうとしていました。モモソはトメ将軍に、日下の戦人はトメ将軍に危害を加える意図はないと伝えましたが、油断は禁物と考えるトメ将軍は、日没前には船着き場まで戻るつもりでした。ミマアキはトメ将軍に、自分たちを包囲していた戦人の一団が気配を消した、と指摘します。トメ将軍もそれには気づいており、新たな都に帰還したか、自分たちを見届けるのかもしれない、と考えます。自分たちを見届けるのが目的ならば、包囲したまま観察を続けるだろうし、攻めるつもりなら、包囲を解いて船着き場で待ち伏せるはずだ、とミマアキはトメ将軍に指摘します。するとトメ将軍は、自分たちは日下の日見子たるモモソの言葉を筑紫島に伝えねばならないので、何としても生きて戻る必要がある、と力強く言います。では、攻撃があると考えて日下の戦人の裏をかくべきでは、とミマアキはトメ将軍に進言します。舟を諦めて徒歩で胆駒山を越えれば、河内湖沿岸の邑々は無人なので、舟を調達できると思う、と構想を打ち明けるミマアキに対して、問題は、胆駒山にはナガスネと言われる戦人の邑があることだ、とトメ将軍は言います。サヌ王でさえ打ち破った勇者たちの邑だ、と言うミマアキに対して、ふいを突けば、船着き場で自分たちを待ち構える敵よりは勝機がある、とトメ将軍は明るい表情で答えます。震える兵士のフキオを卒長がからかい、一瞬緊張が解けた一行覚悟を決めます。場面が弁都留島に戻り、自分の苦難とは何か、とヤノハに問われた事代主が、妊娠しているのではないか、とヤノハに問いかけるところで、今回は終了です。


 今回は、日下に向かってからの動向が不明だったトモとワニが再登場し、トメ将軍とミマアキの器の大きさが描かれ、事代主がヤノハの妊娠の可能性を指摘するなど、見どころが多く、楽しめました。トモはサヌ王の末裔のフトニ王の重臣と思われ、親戚筋ともなるシコオ(後の物部氏という設定のようです)と会い、ヤノハへの敵意がさらに強化されたように思います。ヤノハが率いる山社国とって、トモのような筑紫島内部のサヌ王一族の一派は今後も脅威となりそうです。ヤノハはトメ将軍に、トモを殺害するよう命じていますが、トモは日下の戦人の支援を受けているでしょうし、トメ将軍もトモも筑紫島に戻るとしても、トメ将軍が広大な瀬戸内海でトモを見つけるのは困難でしょう。トモが穂波に帰還した場合、ヤノハは穂波のヲカ王にトモの粛清を指示するのでしょうか。トメ将軍とミマアキがどう苦難を乗り越えるのか、という点も注目されます。かつてサヌ王と長きにわたって戦った長髄日子(ナガスネヒコ)の末裔で、現在の日下では物部(モノノフ)と呼ばれている戦人との関係がどのように描かれるのか、楽しみです。

 今回最大の注目点は、ヤノハの妊娠の可能性を事代主が指摘したことです。ただ、ヤノハは自身の妊娠に気づいていなかったようです。ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に強姦された時点で、ヤノハは妊娠し、そのため『三国志』に見えるように卑弥呼(日見子)はほとんど人と会わなくなったのではないか、と予想していましたが(第54話)、やはりヤノハは妊娠しているようです。事代主がヤノハに、日見子という立場で子を孕むことは禁忌なのか、と尋ねた時、事代主がヤノハを新たに妻に迎えて子を儲けるつもりなのか、と一瞬考えましたが、すぐに、ヤノハの妊娠に気づいたのかな、と考えなおしました。医術に長けている事代主はヤノハの妊娠に気づいた、ということなのでしょう。問題は今後で、ヤノハが事代主に堕胎を要請することも考えられますが、事代主が出産までヤノハを匿い、ヤノハとチカラオとの間の子供を引き取るのかもしれません。その子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、どうなるでしょうか。事代主はなかなかの人格者のようで、山社国と出雲との提携は上手くいきそうですが、妊娠したヤノハが日見子としての権威をどう維持するのか、という新たな難問が生じ、山社国を盟主とする連合国家の安定にはまだ大きな山場がいくつもありそうです。その分、物語を楽しめそうでもあり、今後の展開も大いに期待されます。

東アジアの考古学は国の歴史以外のなにものでもない

 検索して見つけた報告(吉田.,2017)で、表題の興味深い指摘を知りました。この報告によると、「東アジア」諸国の考古学は以下の3種類に区分されているそうです。それは、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国と朝鮮民主主義人民共和国で顕著な「土着発展(The indigenous development model)」型、日本国で顕著な「同一性連続(The continuity with assimilation model)」型、大韓民国で顕著な「単一始祖系譜(The single ancestral antecedent model)」型です。

 おそらく現在では、各国において程度の差はあれども、こうした現代の国家を前提とした考古学研究は相対化されつつあるでしょうが、歴史教育などを通じて一般層には強い影響力を及ぼし続けているかもしれません。「東アジア」とあるように、これらの国々は漢字文化圏だった地域が主体となって成立し、今ではベトナム社会主義共和国は完全に漢字文化圏から離脱し、朝鮮民主主義人民共和国はかなりの程度、大韓民国は一定程度離脱した、と言えるかもしれません。まだ漢字文化圏と言える中華人民共和国と日本国に関しても、前者は簡体字、後者は常用漢字の使用が一般的となり、前近代の漢字文化とはかなり異なっている、とも評価できるでしょう。こうした「一国的」考古学の在り様は前近代の漢字文化に由来する、とも考えたくなりますが、近代化における一般的な反応と評価する方が妥当かもしれません。また「土着発展」型に関しては、社会主義との関連も想定すべきかもしれません。

 ベトナム社会主義共和国と朝鮮民主主義人民共和国の事情はよく知りませんが、大韓民国に関しては、20世紀末の高校の歴史教科書『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』において、

 どの国の歴史でもすべての種族は近隣の種族と交流して文化を発展させ、民族を形成してきた。
 東アジアでは先史時代に諸民族が文化の花を開かせたが、そのなかでもわが民族は独特の文化を作りあげていた。人種上では黄色人種に属し、言語学上ではアルタイ語系に属するわが民訴は、久しい以前から一つの民族単位を形成し、農耕生活を基礎にして独自な文化を築きあげた。
 われわれの祖先はだいたい、遼西、満州、韓半島を中心にした東北アジアに広く分布していた。わが国に人が住みはじめたのは旧石器時代からであり、新石器時代から青銅器時代を経る過程で民族の基礎が築きあげられるようになった。


と述べられており(P30)、「一国的」考古学が窺えます。日本国に関しては、本報告において、「左右」両方の政治的立場で、同質的な日本を前提とし、それが縄文時代にまでさかのぼるという認識がある、と指摘されています。

 中華人民共和国における「土着発展」型考古学との認識は、中華人民共和国がかつては現生人類(Homo sapiens)多地域進化説の主要拠点の一つだったこと(関連記事)を考えると、説得力があるように思います。「土着発展」型考古学は、長期にわたる地域的発展の連続性を前提として、現生人類多地域進化説ときわめて親和的です。アジア東部における現生人類多地域進化説の根拠としてよく言われていたのがシャベル型切歯で、貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』など一般向けの歴史書でも取り上げられたことから(P44~45)、現在でも日本ではアジア東部におけるホモ・エレクトス(Homo erectus)から現代人への連続性の根拠と考える人が一定以上いるかもしれません。しかし、シャベル型切歯の遺伝的基盤となる変異は派生的で、3万年前頃(分子時計は確定的ではないので、この年代は前後する可能性があります)と現生人類の進化史でもかなり最近になって出現したと推測されており、「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化、あるいは「北京原人」から(他の絶滅ホモ属を経由して)の遺伝子流動による表現型と考えることは無理筋と言うべきでしょう(関連記事)。

 問題となるのは、今ではほぼ否定された「北京原人」など非現生人類ホモ属から現代人に至る地域的連続性だけではなく、現生人類の地域的連続性です。これは古代DNA研究の進展に伴ってますます明らかになりつつあり、ヨーロッパ(関連記事)でもアジア東部北方(関連記事)でも、最初期の現生人類集団は同地域の現代人にほとんど遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されています。しかし近年(2019年)でも、地域的連続性を前提として現生人類の起源を論ずる研究が有力誌に掲載され、強く批判された事例があるように(関連記事)、人類集団の地域的連続性を前提とする認識は今でも根強いのかもしれません。今後、アジア東部に関して、この問題を取り上げる予定です。


参考文献:
貝塚茂樹、伊藤道治(2000)『古代中国』(講談社)

申奎燮、大槻健、君島和彦訳『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』(明石書店、2000年)

吉田泰幸(2017)「縄文と現代日本のイデオロギー」『文化資源学セミナー「考古学と現代社会」2013-2016』P264-270
https://doi.org/10.24517/00049063

暁新世後期の哺乳類の足跡化石

 暁新世後期(6600万~5600万年前頃)の哺乳類の足跡化石に関する研究(Wroblewski, and Gulas-Wroblewski., 2021)が公表されました。この研究は、植物と花粉の化石を用いた年代測定により5800万年前頃と決定された区域で1000m以上にわたる足跡化石を調査して撮影し、複数種の行跡を特定しました。1つの行跡は現代のヒグマの足のサイズに匹敵する比較的大きな5本指の足跡で、もう1つの行跡は中型の4本指の足跡でした。この研究は、5本指の足跡が、カバに似た半陸半水生の汎歯目哺乳類の一種であるコリフォドンの足跡と考えています。4本指の足跡は、古新世後期の既知の哺乳類の骨格証拠と一致しませんでしたが、偶蹄目哺乳類およびバク上科哺乳類(有蹄哺乳類)と類似点がありました。ただし、これらの哺乳類が古新世に存在していたことは、まだ立証されていません。

 これらの行跡化石は、先史時代の海生軟体動物や海生環形動物だけでなく、イソギンチャクも生息していた痕跡のある区域まで続き、その区域を横切っていました。これは、その区域が、かつては浅い潟湖か湾であったことを示しています。この研究は、先史時代の哺乳類が海岸近くに集まった理由は、この区域を横切る渡り、捕食者や刺咬昆虫からの防護、先史時代の北米熱帯林では限られていたナトリウム鉱物の入手など、現生哺乳類と同様である、と推測しています。この知見は、哺乳類が海洋生息地を最初に使用したのが、これまで考えられていたより少なくとも940万年早く、始新世(5600万~3390万年前)ではなく暁新世後期であったことを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:先史時代の哺乳類は海岸近くを好んだことを示唆する足跡化石

 米国ワイオミング州のハンナ累層で最近発見された、5800万年前のものとされる行跡化石は、哺乳類が海岸近くに集まっていたことを示す最古の証拠と考えられることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、哺乳類が海洋生息地を最初に使用したのが、これまで考えられていたより少なくとも940万年早く、始新世(5600万~3390万年前)ではなく暁新世後期(6600万~5600万年前)であったことを示唆している。

 今回、Anton WroblewskiとBonnie Gulas-Wroblewskiは、植物と花粉の化石を用いた年代測定によって5800万年前と決定された区域で1000メートル以上にわたる足跡化石を調査し、撮影した。Wroblewskiたちは、複数種の行跡を特定した。1つの行跡は、現代のヒグマの足のサイズに匹敵する比較的大きな5本指の足跡であり、もう1つの行跡は、中型の4本指の足跡だった。Wroblewskiたちは、5本指の足跡が、カバに似た半陸半水生の汎歯目哺乳類の一種であるコリフォドンの足跡だと考えている。4本指の足跡は、古新世後期の既知の哺乳類の骨格証拠と一致しなかったが、偶蹄目哺乳類とバク上科哺乳類(有蹄哺乳類)と類似点があった。ただし、これらの哺乳類が古新世に存在していたことは、まだ立証されていない。

 これらの行跡化石は、先史時代の海生軟体動物や海生環形動物だけでなく、イソギンチャクも生息していた痕跡のある区域まで続き、その区域を横切っていた。これは、その区域が、かつては浅い潟湖か湾であったことを示している。Wroblewskiたちは、先史時代の哺乳類が海岸近くに集まった理由は、この区域を横切る渡り、捕食者や刺咬昆虫からの防護、先史時代の北米熱帯林では限られていたナトリウム鉱物の入手など、現生哺乳類と同様であると推測している。



参考文献:
Wroblewski AFJ, and Gulas-Wroblewski BE.(2021): Earliest evidence of marine habitat use by mammals. Scientific Reports, 11, 8846.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-88412-3

港川人のミトコンドリアDNA解析

 港川人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Mizuno et al., 2021)が報道されました。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸と太平洋とフィリピン海プレートの境界に位置する日本列島は、1500万年前頃までにアジア大陸から分離して形成されました。考古学的証拠からは、4万~3万年前頃に日本列島に最初の人々が出現した、と示唆されます(関連記事)。旧石器時代後の日本列島の先史時代は、一般的に対照的な時代である縄文時代と弥生時代に区分されます。縄文時代は1万年以上続き、狩猟採集民の生計により特徴づけられます。

 一方、弥生時代は水田稲作農耕により特徴づけられます。稲作はアジア本土からの移民により日本列島にもたらされた、農耕移民は日本列島に弥生時代以降に到来した、と考えられています。19世紀半ば以降、現代日本人の人口史に関していくつかの仮説が提案されてきましたが、現在一般的に受け入れられている見解は、現代日本人が少なくとも2つの祖先系統(祖先系譜、ancestry)から構成され、一方はアジア南東部起源の「縄文人」、もう一方はアジア北東部起源の「弥生人」である、というものですが、旧石器時代人に関してはほとんど知られていません(関連記事)。

 日本列島は火山灰の酸性土壌に広く覆われており、古代DNA研究は困難です。本論文は、日本列島における旧石器時代人のミトコンドリアゲノム配列を初めて報告し、旧石器時代と縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々の完全なミトコンドリアゲノム配列を用いて日本列島の人口動態を調べ、ハプログループ多様性の観点から、母系遺伝子プールにおける連続性を明らかにします。日本列島の2000個体以上を用いての人口統計分析を通じて、狩猟採集から農耕への文化的変化における劇的な人口爆発が観察されます。これは、温度が短期間で急激に変化したことで知られている時期です。最終氷期(LGP)から完新世の移行期において、ヤンガードライアスとして知られる氷期への一時的な揺り戻しもありました。この急速な気候変化は、大型動物の広範な絶滅と強く関連していることが示されています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Mは、現代のアジア人口集団において高頻度で観察されますが、現代のヨーロッパ人口集団では見られません。しかし、最終氷期前となる後期更新世のヨーロッパの人類遺骸では、複数の個体がmtHg-Mに分類されています(関連記事)。これは、母系遺伝子プールにおける劇的な変化を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。完全なミトコンドリアゲノム配列を得ることにより、旧石器時代とその後の狩猟採集の縄文時代および農耕の弥生時代の人々における遺伝的関係が調べられ、さらには現代日本人集団の過去の人口史が明らかになります。現代アジアの人口集団では見られないmtHgが見つかった場合、ヨーロッパで観察されたように、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性があります。しかし、現代アジアの人口集団で見られるmtDNAと密接に関連する配列のmtDNAが見つかった場合、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性は低くなり、つまりは人口集団の連続性が示されます。


●旧石器時代の人類遺骸のミトコンドリアゲノム

 本論文は、おそらく日本列島最初の人類の直接的子孫であろう、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号の完全なミトコンドリアゲノム配列結果を報告します。港川1号の発見場所は、以下の本論文の図1で示されています(図1の1)。
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 港川1号のミトコンドリアゲノム配列の平均深度は52倍で、mtHg-Mに分類されましたが、既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換は見つかりませんでした。mtHg-Mは、現代のアジア人とオーストラリア先住民とアメリカ大陸先住民で高頻度です。港川1号で見られるmtHg-Mの祖先型の配列は、本論文で新たに決定された現代日本人2062標本、既知の現代日本人672標本、中国の漢人21668標本(関連記事)では見つかりませんでした。以下の図2では、日本列島の古代人18個体と現代人171個体のミトコンドリアゲノムのベイズ系統樹が示されています。
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 以下の図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
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 これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。同様の事例はアジア本土で報告されており、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)は、4ヶ所のシングルトン(固有変異)を有する祖先型のmtHg-Bと報告されています。つまり、現代人のmtHg-Bの共通祖先というわけです。

 地球規模の気候変動のため、旧石器時代の最終氷期は生存困難な時期と考えられており、遺伝子プールの変化は世界中のさまざまな人口集団で起きる、と予測されています。しかし、港川1号と田園個体を含む系統発生ネットワークの結果(図4a・b)から示唆されるのは、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、ということです。なぜならば、港川1号と田園個体が母系ではアジア東部現代人の祖先集団に属するからです。以下、本論文の図4aおよび図4bです。
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●縄文時代狩猟採集民のミトコンドリアゲノム

 さらに、8300~3700年前頃の縄文時代6遺跡の10個体(図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は11~1577倍)。縄文時代の個体は全て、系統発生ネットワークと系統樹とMDSプロットにおいて現代日本人と同じクラスタに収まりました(図2・3・4)。これは、日本列島における縄文時代から現代までの人口集団の継続性を示し、旧石器時代から新石器時代の日本列島の人類集団における母系遺伝子プールでは劇的な変化がなかったことを意味します。この結果は、本論文の縄文時代個体のほとんどがmtHg-MもしくはNに分類され、その多くは下位区分ではmtHg-M7aもしくはN9bとなることも示します。これは、PCRに基づく以前の結果と一致します。mtHg-M7aとN9bはともに現代日本人でも見られ、その割合は、mtHg-M7aが7.9%、mtHg-N9bが1.3%です。


●弥生時代農耕民のミトコンドリアゲノム

 弥生時代の人類遺骸4個体(佐賀県神埼町の花浦遺跡と山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡から2個体ずつ、図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は13~5891倍)。弥生時代は、移民が日本列島にもたらした水田稲作農耕生活様式により始まりました。弥生時代の4個体はmtHg-D4に分類されました。mtHg-D4は現代日本人では最も一般的で(34.3%)、アジア東部全域でも一般的です(関連記事)。

 縄文時代の個体群と同様に、弥生時代の個体は全員、系統発生ネットワークとMDSとベイズおよび近隣結合系統樹のクラスタのいずれかに収まり、そのクラスタは現代日本人とともに構築されますが、縄文時代と弥生時代の個体群はそれぞれに特徴的なmtHgの下位区分を有します(図2・3・4)。港川1号と縄文時代の標本群の結果を組み合わせると、日本列島では後期更新世から現代の人口集団で少なくともある程度の連続性がある、と示されます。


●過去の人口動態傾向の推定

 本論文の結果は、旧石器時代に始まり狩猟採集の縄文時代と農耕の弥生時代を通じて1万年以上にわたり、日本列島の人々の遺伝的多様性の全てを飲み込み、現代日本人の遺伝子プールが確立されてきたことを示します。現代日本人2062個体を用いてのベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析では、45000~35000年前頃と15000~12000年前頃と3000年前頃となる、3回の大きな人口増加が明らかになりました(図5)。これらはそれぞれ、後期更新世における気温上昇、アジア東部における農耕の始まり、弥生時代の開始と対応しています。

 アジア東部に関する最近の研究(関連記事)では、現代中国の漢人21668個体のミトコンドリアゲノム配列から人口史が推測され、最終氷期末に向かって45000~35000年前頃に人口が増加し、その後、別のより急速な人口増加が15000~12000年前頃に起きた、と推測されています。本論文の分析で示された最初の2回の人口増加は、現代の日本と中国(漢人)の人口集団で共通していますが、3番目の人口増加は現代日本人に特有です。この3番目の人口増加は弥生時代開始後に起きており、現代日本人の人口規模に大きく寄与しました。

 この知見と組み合わせると、現代日本の人口集団で見られる最初の2回の人口増加は、おもに弥生時代以降に農耕民が日本列島へと移住してくる前に起きた人口増加を反映しているはずです。容易に予測できますが、水田稲作農耕を日本列島にもたらした弥生時代以降の移民は、日本列島における人口およびその構造に大きな影響を及ぼしたはずです。2800年前頃もしくは4200年前頃に起きた完新世の気候変動が朝鮮半島の人口集団に影響を及ぼし、日本列島への移住を促進した、と示唆されています。

 その後のさらなる人口増加は、日本列島への鉄器導入と関連している可能性があり、鉄器導入はより効率的な水田稲作農耕とより安定した食料供給を可能としました。得られた全ての知見を踏まえると、本論文の結果から、現代日本の人口集団の遺伝的構成は、弥生時代の農耕民の移住事象と、その後のアジア本土からの複数の移住により作られた、と示されます。しかし、現代日本の人口構造への縄文時代の人々の寄与は無視できません。

 本論文が示すのは、mtHg多様性の観点から、旧石器時代の日本列島への最初の移住の波以来、母系遺伝子プールにおける連続性があったことと、現代日本人の祖先は3回の大きな人口増加を経たものの、最初の2回はおもにアジア本土で起きた、ということです。3番目の人口増加は比較的短期間で起きた急激なもので、縄文時代狩猟採集民の遺伝子プールは、弥生時代に農耕をもたらした移民の到来と、それに続く人口爆発の後でさえ生き残ってきました。以下は本論文の図5です。
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 弥生時代の移住後の各段階で、縄文時代からの在来狩猟採集民と日本列島に移住してきた農耕民が混合したのかどうか、もしそうならば、どのようなものだったのか、といったヨーロッパでは明らかになりつつあるような(関連記事1および関連記事2)重要問題は未解決です。本論文にはミトコンドリアゲノムのみが含まれており、その標本数は限定的です。したがって、より明確な結論に到達するには、古代人のより多くのゲノム情報を明らかにする必要があり、そうすれば、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代の農耕民との間の友好的関係の存在に関するより明確な証拠を得られます。他の旧石器時代の人類遺骸のさらなるミトコンドリアゲノム調査と港川1号の核ゲノム分析は、日本列島の人口史解明のためのより多くの手がかりと詳細を与えてくれるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、日本列島の旧石器時代の人類遺骸では初となるDNA解析結果を報告しており、たいへん意義深いと思います。港川1号はmtHg-Mで、Mの基底部近くに位置します。mtHg-Mはユーラシア西部現代人には基本的に見られず、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸(先住民)の現代人にのみ存在します。本論文は、この新たな知見から、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、と指摘します。確かに、更新世には存在したmtHg-Mがその後消滅したヨーロッパと比較すると、日本列島、さらにはアジア東部では母系遺伝子プールにおける劇的な変化は起きなかった、と評価できるかもしれません。

 しかし、本論文が示すように、港川1号のmtHg-Mは本論文で取り上げられた古代人および現代人のmtHgとは直接的に関連しておらず、消滅したようです(今後現代人で見つかる可能性は皆無ではありませんが)。さらに、43000年以上前のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類のmtHgでは、Nの基底部近くに位置したり、Nの下位区分であるRに区分されるものも確認されています(関連記事)。また、44000年前頃と推定されるチェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された現生人類女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のmtHgはNで、基底部近くに位置します(関連記事)。

 確かに、ヨーロッパでは後期更新世の最初期現生人類に存在したmtHg-Mがその後消滅しましたが、一方で最初期現生人類においてmtHg-Nも確認されています。本論文の基準に従えば、ヨーロッパでも後期更新世からの母系遺伝子プールの連続性が確認される、と評価できるのではないか、との疑問が残ります。ヨーロッパの最初期現生人類ではmtHg-Mしか確認されていないのだとしたら、ヨーロッパの現生人類における母系遺伝子プールの劇的な変化との評価も妥当だとは思いますが。

 そもそも、本論文も指摘するように、遺伝的連続性の評価も含めて人口史の解明には、核ゲノムデータが必要になると思います。本論文は、田園個体もアジア東部における母系遺伝子プールの連続性の証拠としますが、田園個体的な遺伝的構成の集団は、北京近郊だけではなくアムール川地域からモンゴルまで4万~3万年前頃にはアジア東部において広範に存在した可能性があるものの、現代人には遺伝的影響を残しておらず、3万~2万年前頃に異なる遺伝的構成の集団に置換された、と指摘されています(関連記事)。

 ヨーロッパでも、ズラティクン的な遺伝的構成は、どの現代人集団とも近縁ではなく、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています。バチョキロ洞窟個体群は、ヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に近縁ですが、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています(関連記事)。mtHg-L3から派生した、MやNといった大きな基準では、母系遺伝子プールに限定したとしても、遺伝的連続性を評価するのはあまり適切ではないように思います。

 これら最近の古代ゲノム研究から示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散した後、アフリカ外の各地域で初期に出現した集団がそのまま同地域の現代人集団の祖先になったとは限らない、ということです(関連記事)。これは現時点では、ヨーロッパとアジア東部大陸部だけで明確に示されていると言えるかもしれませんが、他地域にも当てはまる可能性は低くないように思います。日本列島も例外ではなく、後期更新世の最初期現生人類集団が、縄文時代、さらには現代まで遺伝的影響を残しているとは、現時点ではとても断定できません。本論文も指摘するように、日本列島は動物遺骸の保存に適していないので、更新世の人類遺骸はほとんど見つかっておらず、古代DNA研究での解明は絶望的かもしれませんが、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(関連記事)が進めば、日本列島における人口史の解明は劇的に進展するかもしれない、と期待しています。

 現時点では、港川1号の日本列島、さらにはアジア東部の人口史における位置づけは困難ですが、本論文とアジア東部の古代ゲノム研究の進展(関連記事)を踏まえてあえて推測すると、港川1号も含まれる港川フィッシャー遺跡集団は、古代人ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団、現代人ではアンダマン諸島人と遺伝的に近いかもしれません。これらの集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されています。これに対して、アジア東部現代人はおもにユーラシア東部内陸部祖先系統で構成されています。ユーラシア東部内陸部祖先系統は北方系統と南方系統に分岐し、アジア東部でより強い影響を有するのは北方系統で、オーストロネシア語族集団では南方系統の影響が強い、とモデル化されています。

 縄文時代個体群は、ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)とユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)の混合とモデル化されています。港川フィッシャー遺跡集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されているか、ユーラシア東部内陸部南方祖先系統との混合集団で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないものの、縄文時代個体群の直接的祖先とは遺伝的に近縁かもしれません。もちろん、これは特定の研究のモデル化に依拠した推測にすぎないので、今後の研究の進展により、さらに実際の人口史に近いモデル化が可能になるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2

大河ドラマ『青天を衝け』第18回「一橋の懐」

 今回は、栄一(篤太夫)の一橋家での奉公とともに、天狗党の乱が描かれました。兵の募集ではなかなか上手くいなかった栄一ですが、交流を深めて次第に信頼関係を築き、応募する者も出てきます。栄一はそれを利用して代官を脅迫し、多くの者が志願してきます。この功績を一橋慶喜に認められた栄一は、兵を維持するために一橋家の財政の充実を慶喜に強く訴えます。具体的な方策を主張する栄一に感心したのか、慶喜は栄一の提言を採用します。今回、慶喜と栄一の間に強い信頼関係が築かれたようです。

 主人公の具体的な業績があまり描かれないのに、なぜか周囲の人物が主人公を持ち上げたり、主人公と対比される重要人物を貶めることで主人公を相対的に高く評価したりする作品もありますが、本作は血洗島時代も一橋家臣時代も栄一の業績をしっかりと描いており、栄一が周囲の人物に高く評価されるようになった経緯に関しては、なかなか説得力があるのではないか、と思います。これならば、栄一が歴史上の重要人物として活躍する明治時代以降の描写もかなり期待できそうです。ただ、まだ栄一が外遊にも出ていないので、明治時代以降の描写は駆け足というか薄くなるかもしれませんが。

 天狗党の乱は、慶喜が重要人物だけに、なかなか詳しく描かれました。栄一は関東から連れてきた兵を率いて従軍し、喜作(成一郎)は天狗党首脳に慶喜からの密書を届け、武田耕雲斎は慶喜に降伏します。幕府は慶喜が天狗党残党を取り込んで幕府に害をなすと警戒し、天狗党の者たちは全員斬首されました。今回は小栗忠順(上野介)と栗本鋤雲が初登場となります。小栗忠順は幕末大河ドラマで登場することが少ないように思いますが、今回はなかなか目立っており、今後重要な役割を担うのでしょうか。

藤本透子、菊田悠、吉田世津子「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P15-23)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部は現生人類(Homo sapiens)がユーラシアに拡散した重要な経路上に位置すると考えられますが、近接するアジア南西部およびシベリアと比較して人類遺骸の残存が限定的で、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と現生人類との関係、あるいは初期現生人類とその後に拡散した現生人類との関係について不明な点がひじょうに多くなっています。その中で、考古学分野では旧石器時代に関する現地調査が進められ、既知の遺跡の再発掘や、新たな遺跡の発掘が行なわれてきました。旧石器時代より後の時代の方で証拠が多く見つかっているため、集団間の接触に関してモデル化しやすく、そのモデルは旧石器時代に応用する上でも意義深いので、新石器時代に関する研究も同時に進められています。一方、遺伝学でも、現生人類がアジア中央部に拡散した後の移動や集団間の関係について次々と明らかにされつつあります(関連記事)。文化人類学が直接の観察対象とする現代の社会は旧石器時代とは大きく異なりますが、農耕牧畜が開始された新石器時代以降に関する近年の研究結果を間に挟むことで、旧石器時代に関する考古学的証拠と現代の人類学から導き出されるモデルとの相互関係が考えやすくなります。

 このため、本論文は、アジア中央部に関する遺伝学の近年の成果もふまえて、文化人類学調査の結果の位置づけを試みます。とくに、生態環境への適応と集団間接触の影響について、居住形態、生活用品の製作と利用、象徴的意味をもつ墓地と墓碑に着目して検討します。これまでアジア中央部のウズベキスタンとクルグズスタン(キルギス)とカザフスタンを対象に、著者3 名は人類学調査を行なってきましたが、2020 年度は新型コロナウイルス感染症の拡大により現地調査を行なえず、昨年度までに収集したフィールドデータを整理してまとめる作業に注力しました。2020 年8 月にカザフスタンで開催された国際会議(大草原地帯の歴史と文化)に著者の一人(藤本氏)がオンライン参加し、考古学と人類学と遺伝学と歴史学の知見を総合してアジア中央部草原地帯の歴史と文化を解明しようとするこの会議はで得られた知見も、本論文で報告されます。


●アジア中央部における移動と集団間の接触

 ユーラシアの中央部に位置するアジア中央部は、人の移動が繰り返し生じてきた地域です。旧石器時代にアジア中央部に暮らしていた人々の姿やアジア中央部現代人との関係について、遺伝学的知見が蓄積されつつあります。それによると、アフリカを出て中東に到達した現生人類は、47000年前頃(この年代は確定していません)にユーラシア集団が東西に分岐しました。その後、ユーラシア西部集団の一部は、いわゆる北方経路でアジア東方に拡散し、ユーラシア東部集団は南方経路でアジア東方に拡散しました(この南方経路が確定したとは言えないように思います)。その後、シベリアではユーラシア西部集団とユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団が混合しました(関連記事)。

 アジア中央部でも、シベリアとやや事情は異なりますが、ユーラシア西部集団とアジア東部集団との混合が、近年明らかになりました。まず、ユーラシア西部集団に関しては、アジア中央部とヨーロッパとアジア南部という広域に関わる研究結果が報告されています(関連記事)。その研究によると、アジア中央部および南部の357個体の古代DNA解析の結果、インド・ヨーロッパ語族の広がりに関して新たな発見がありました。具体的には、アジア中央部に紀元前3000 年頃に現れたヤムナヤ(Yamnaya)文化の牧畜民が、ヨーロッパとアジア南部に拡散して遺伝的に大きな影響を残しており、インド・ヨーロッパ語族祖語を話していた可能性が高そうです。

 これ以後の時代に関する研究(関連記事)では、青銅器時代(紀元前2500年頃以降)から中世(紀元後1500年頃まで)に至る137 個体のゲノムが解析されました。その結果、ユーラシア草原地帯の住民の多くは、大部分がユーラシア西部集団祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有するインド・ヨーロッパ語族集団から、ユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団祖先系統を有する現代のテュルク系集団へと変化した、と示されました。鉄器時代を通じてユーラシア草原地帯で優勢だったスキタイは、共通する遊牧文化と動物文様で知られますが、後期青銅器時代の牧畜民とヨーロッパ農耕民とシベリア南部狩猟採集民という異なる起源をもつ人々から形成されていました。スキタイは後に、匈奴連合を形成した草原地帯東部の遊牧民と混合して西方に移動し、紀元後4~5 世紀にフンとしてヨーロッパに現れました。これらの遊牧民は、中世にいくつかの短期間のハン国が形成されたさいに、さらにアジア東部集団と混淆しました。スキタイに関しては、最近包括的な古代ゲノム研究が公表されました(関連記事)。

 10 世紀ころまでに東方からテュルク系の人々が到来し、それまでイラン系だったアジア中央部の住民が「テュルク化」したことは、歴史学では広く知られた事実です。しかし、人口比が不明だったため、それが言語の変化だったのか、それとも住民自体の大きな変化を伴うものだったのかは、よく分かっていませんでした。ゲノム研究により、アジア中央部のテュルク化とは、ユーラシアライブ集団に由来するイラン系の人々が、ユーラシア東部集団に由来するテュルク系の人々と混合した結果だった、とが示されたことになります。ただ、イラン系の人々はテュルク系と比較して人口は減ったものの、その後もアジア中央部の歴史で重要な役割を果たして現在に至っています。以前の研究(関連記事)では、ウズベキスタンとタジキスタンとキルギスとカザフスタンの現代人のゲノムも解析され、集団混合によりアジア中央部現代人が形成されてきたこと、またその混合には地域的偏りが見られ、イラン系住民が多い地域とテュルク系住民が多い地域では祖先集団の比率が異なることも示されています。

 カザフスタンでは現代人(テュルク系)1956個体、古代人(おもに青銅器時代から中世初期まで)117個体のゲノムが解析され、古代人のY染色体ハプログループ(YHg)はR1が54.8%、Q1が19.4%、J2aが6.5%で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHが19.6%、D4eが15.7%、Aが11.8%、Uが11.8%、C4が7.8%、Jが7.8%でした(5%以下のグループは省略)。一方、現代カザフ人の特徴は古代人とは異なっており、YHgではC2が47.6%、Rが14.5%、O2が7.6%、Jが5.6%、Gが5.6%、mtHgではZが20.6%、Dが17.0%、Uが12.2%、Cが9.7%、Aが5.1%、Bが5.1%です。YHgの分岐形態から類推された世界への拡散の様子(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P58)を参照すると、古代人YHgで最多のRはヨーロッパに多い系統で、現代カザフ人で最も多いCは南方経路でアジアに達した系統とされています。また、mtHg間の系統関係(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P 76)を参照すると、古代人にヨーロッパ集団、現代カザフ人にアジア集団にみられるmtHgの割合が高い、と示されます。この現在のカザフスタンにおける古代人と現代人のゲノム分析結果の差異は、北方経路のユーラシア西部集団に、南方経路のアジア東部集団の人々が入っていったことを示している、と考えられます。YHgの方がmtHgより偏りは大きいことも同時に注目され、「集団の混じり合いにおける性的バイアス」(David Reich『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』P331~334)に相当します。また、カザフ人に関しては、父系の外婚制の規範があることの影響も大きいと考えられます。
 
このように、遺伝子に反映された過去の集団の移動や通婚について詳細に明らかにされつつありますが、集団間の関係は遺伝子水準に反映されるものばかりではありません。8 世紀における中東からアジア中央部へのアラブの侵出、13世紀におけるモンゴルの中央アジア侵出などは、遺伝子に痕跡が残されている以上に文化・社会的影響が大きかった可能性もあります。さらに、18 世紀頃から20 世紀にかけては、イラン系およびテュルク系の人々が主に暮らしていたアジア中央部にスラヴ系の人々(とくにロシア人)が北方から侵出しました。その際、通婚は一部のみでしたが、集団間の接触による文化・社会的影響は広範な地域に及びました。現代を対象とする文化人類学研究において実際に観察できるのは、このイラン系およびテュルク系、スラヴ系の人々との直接的・間接的接触です。以下では、これまでの調査結果をまとめながら、集団の接触にともなう居住形態とその変化、生活用品(とくに器)の製作と利用、象徴的意味を持つものの製作と利用(とくに墓制と関連する墓碑)について検討されます。なお、言語系統が同一であっても生態環境への適応によって生業が変化し、別の集団を形成する場合があるため、言語系統と生業による集団の区分とその変化に留意することが必要です。


●居住形態とその変化

 旧石器時代には、アジア中央部に居住した現生人類は狩猟採集民として移動する生活を送っていた、と考えられています。新石器時代には、アジア南西部で開始された農耕牧畜が伝播し、定住生活が営まれるようになり、さらに紀元前1000年頃の気候の乾燥化に伴って、牧畜に特化して季節移動する遊牧民と、河川や泉などを中心とするオアシスで農耕を行なって定住する人々が生まれました。遊牧民と定住農耕民という2集団間の交渉は、20 世紀初頭まで形を変えながらも続きました。こうした生業と居住形態の変化の結果、現在ではアジア中央部に狩猟採集民は存在しません。この点で、狩猟採集の生活が形を変えながらも20世紀まで続いたシベリアとは異なっています。ただ、アジア中央部でもとくにシベリアに近い地域では、狩猟や植物採集が一部で行なわれています。たとえば、草原地帯に居住するテュルク系のカザフ人は牧畜を主な生業としていますが、狩猟や採集も行ないます。狩猟対象はキツネやウサギで、その毛皮で外套や帽子を作ります。また、野イチゴやラズベリーなどのベリー類の採集が現在も行なわれており、ベリー採集を生業の重要な一部とするシベリアと共通性があります。

 現在では狩猟採集をおもな生業とする人々が存在しない地域についても、民族考古学の手法を用いて季節移動という側面から分析する試みが行なわれており、温帯草原に暮らす人々の移動パターンは全体的に採集民(collector)に近いものの、夏季は頻繁に居住地を移動すること(forager的)が指摘されています。これまで草原地帯で発掘されている旧石器時代の遺跡は、おもに山麓で水源に近いところに点在しており、19世紀から20世紀初頭までの遊牧民の冬営地と立地条件が類似しています。つまり、山麓や岩山のかげで風を遮ることができ、なおかつ川や泉などの水源に近い場所にあります。20 世紀初頭までのカザフ遊牧民の移動パターンを、現地での聞き取りにもとづいて整理すると次の通りです。(1)温帯草原での居住と移動には季節による顕著な差があり、厳寒となる冬季には一地点に居住する傾向が強く、夏季には頻繁に移動します。(2)このため、居住の痕跡は夏営地には残りづらく、冬営地に残りやすくなります。後述の埋葬地も、冬営地のそばにまとまりやすくなります。(3)遺物は長期間滞在する冬営地に集中しますが、人々の交流は移動が容易な夏にむしろ活発です。肉の共食が、家族を超える集団の交流に重要な役割を果たしており、動物骨がその痕跡として意味をもつと考えられます(関連記事)。

 草原地帯におもに居住するカザフ人はテュルク系諸民族の一つですが、同じテュルク系でもウズベク人のようにより早く定住化した人々もいます。生業に基づく集団区分と、言語系統に基づく集団区分とが、一致しないことに要注意です。テュルクは遊牧民としてモンゴル高原からアジア中央部に到来しましたが、アジア中央部東方(東トルキスタン)では定住化し、西方(西トルキスタン)では定住した人々と遊牧を継続した人々に分かれました。これは、アジア中央部西方ではオアシスの間に草原が広がっている、という生態学的な条件の差異によるものと指摘されています。13 世紀にはモンゴル系の人々が支配階層として到来しましたが、次第にテュルク系に吸収され、草原のテュルク系遊牧民とオアシスのイラン系・テュルク系定住民の両方の社会上層に入ることになりました。

 生態環境への適応は、社会組織にも影響を与えました。父系出自で夫方居住である点は、アジア中央部のテュルク系・イラン系諸民族に共通しますが、遊牧民は外婚制の規範をもつ点で定住民と異なります。たとえばカザフ人の間には、父系7 世代をさかのぼって共通の祖先がいる場合は結婚しない、という規範があります。この外婚制の規範は、父系親族集団の認識とも部分的に重なり合います。遊牧民の間でこうした血縁にもとづく集団認識があったのに対して、定住民は居住する町とその内部の居住区が生活の単位で、地縁に基づく集団認識を有していました。同じテュルク系に属する諸民族の間でも、居住形態や結婚に関する規範が、自他を区別する際の指標となってきました。

 こうした状況をさらに複雑にしたのが、スラヴ系集団(おもに定住農耕に従事)のアジア中央部侵出により、居住形態に変化が生じたことです。カザフスタンにおける居住形態の変化に加えて、ウズベキスタンとキルギスの事例を検討すると、(1)イラン系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、(2)イラン系定住民・テュルク系定住民の居住地域にスラヴ系が定住、(3)テュルク系遊牧民の居住地域にスラヴ系定住民が進出して定住、(4)スラヴ系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、という4パターンがあります。このうち、カザフスタンの事例は(3)と(4)に含まれます。季節的移動性の高い集団(遊牧民)と低い集団(定住農耕民)は、通常は自然環境によって住み分けますが、(3)のパターンでは、定住的な生活をする集団が草原に進出したことで季節的移動性の高い集団を圧迫しました。そのさい、草原に点在する湖や森林など、限定的ではあるものの周囲と異なる環境が進出の足掛かりとなった点は注目されます。ミクロな環境への適応が、集団間の新たな接触と居住形態の変化に結びついた、と考えられます。


●器に注目した生活用品の製作と利用

 居住形態とその変化および集団間の接触は、生活用品の製作と利用にも影響を与えてきました。本論文は、生活用品のなかでもとくに器(容器や食器)に着目します。アジア中央部の乾燥した気候条件では、河川の流域や山岳地帯をのぞけば植物は限られています。このため、とくに草原地帯では、動物資源の利用が相対的に重要です。現在も骨製品がごく一部とはいえ使われ続けている他に(関連記事)、毛皮やなめし皮の利用がさかんです。毛皮は防寒着に使われ、なめし皮は衣服の他に馬乳酒を入れる革袋に加工され、容器としても用いられます。動物の胃や腸などの内臓も、容器として活用されます。たとえば、ヒツジの胃袋を洗って表面をナイフでなめらかに整えた後で干して匂いをとり、それを水でもどしてから油脂(バター)を詰めて保存します。ウシの盲腸も同様に、油脂を保存するために利用します。胃や腸を加工した容器を使うと空気が入らず、油脂の品質が長期間保たれるためです。また食器に関しては、定住化以前は木製の大皿が肉料理用として、椀が馬乳酒用として用いられていました。移動する生活では、土器や陶器など壊れやすい材質のものは好まれず、このように動物資源を活用した容器や、木製品と金属製品が多く使われていました。

 一方オアシスでは、定住民により土器や陶器が製作され使用されてきました。土器や陶器は旧石器時代にはアジア中央部には存在しませんでしたが、人の行動パターン、とくに製品や技術の変化に関するモデルを抽出する上で参考になると考えられます。こうした観点からの陶工の調査では、アジア中央部オアシス地帯では8 世紀頃まで土器と金属器がおもに使われていたものの、アラブの侵攻により生活全般に及ぶ規範であるイスラム教が新たに伝えられ、次第に浸透したことを契機として、陶器の製作と利用が盛んになりました。陶器は用途に合った共通様式の確立後、その形が数世紀にわたりほとんど変化しませんでした。その一方で、陶土や釉薬は製作地近くから調達され、各オアシスで異なる特徴を生み出すことになりました。オアシスごとに陶器の色彩や文様に特徴があることは、オアシスごとの帰属意識が強いこととも重なり合います。

 遊牧民との接触の影響については、13 世紀にモンゴル系遊牧民がアジア中央部を支配した時期に、一時的に陶器の質は低下したものの、復興すると同じ形態の陶器が作られるようになりました。これは、陶器を製作する集団にあまり変化がなかったためと推測されます。一方、テュルク系遊牧民との接触を示すものとして、文様や色の特徴が挙げられます。たとえば、草原地帯とオアシス地帯の境界線上に位置するチャーチュ(現タシケント)で見られる動物文様は、草原地帯の衣服の動物文様とも共通性があります。また、陶器の青い色合いは、テングリと呼ばれる天の神を信仰したテュルク系遊牧民の好みの影響と言われています。

 技術変化に関しては、陶器製作の事例から、(1)革新的技法の導入と(2)秘儀の継承を指摘できます。革新的技法の導入については、軟質磁器の技法(カオリンを含まない陶土を磁器に近づけます)と、後述の20世紀における磁器製作の導入の例があります。ウズベキスタンの陶土にはカオリンが含まれないため、磁器を製作できません。しかし、磁器に似せて高温で硬く焼きしめた陶器、つまり「軟質磁器」を製作する技法が14~16世紀のティムール朝時代にサマルカンドで開発されました。その後、19 世紀にフェルガナ盆地のリシトンで、軟質磁器は盛んに生産されるようになりました。リシトンの陶工が、他のオアシス都市に赴いて技術を学んで持ち帰ったとされます。つまり、個人が先進地域に行って革新的技法を身に着け、周囲にそれを伝えるという形態です。この他、5~6代前の祖先がサマルカンドから移り住んできたという伝承を持つ住民が1948~1950 年の調査で確認されており、彼らがサマルカンドから軟質磁器の製法をもたらした可能性もあります。この場合は、革新的技法を持つ小集団が別の地域に移住してそれを伝える、という形態になります。

 復興を経て現在も秘儀として継承される技術としては、陶器の植物灰釉イシコールの事例が挙げられます。イシコールの原義はアルカリで、植物の灰を燃やしてガラス質を取り出して釉薬とします。ろくろ成形や複雑な顔料や釉薬の配合といった一種の秘儀については、親方たちは息子や甥といった、身近な親族にのみ伝えようとするのが一般的です。イシコール技法は基本的に男系で世襲され、娘が継ぐ場合はまだありません。息子や甥が陶工としての資質を欠いている場合は伝承されないか、親族関係のない弟子に伝えられます。

 陶器製作に関して高度で秘儀的な技術があるのに対して、開始されてまだ数十年の磁器製作に関しては、秘儀的な技術の継承は観察されていません。磁器は、スラヴ系(ロシア人)との接触を契機として19世紀以降のアジアで中央部広く使われるようになりました。ウズベキスタンでは、20世紀にタシケントに磁器製作が導入され、そこに行って技法を学んだ者によって、リシトンに磁器製作が導入されました。陶器製作技術をもとに磁器製作技術を導入するのは、比較的容易だったと考えられます。陶土が地元で産出するのに対して、カオリンを含んだ磁器用の土は他地域から運搬します。つまり、運搬が可能になったことで磁器を生産できるようになりました。磁器に変わっても、製作される食器の形状は陶器の場合と基本的に変わらず、アジア中央部の生活に則した共通様式が継承されており、文様には地域的特徴が表れています。


●墓制と墓碑など象徴的意味を有するものの製作と利用

 象徴的行為が窺われる遺物として、旧石器時代を対象とした考古学研究では、装身具や墓などが注目されてきました。墓をめぐる社会的な制度を、本論文は墓制と呼びます。葬送が行なわれ、墓地を造るのは、集団意識の芽生えや世代を超えた連続性の意識を示すものでしょう。旧石器時代における葬送と埋葬の展開についての詳細な研究によると、中部旧石器時代に死者を置く場所が次第に定められ、やがて遺体を埋葬するという行為が発展しました。上部旧石器時代には複数の遺体を埋葬する場所が明確となり、副葬品の事例も増加します。しかし、複数の人々が同じ場所に恒常的に埋葬されて明確な「墓地」が形成されるようになるのは上部旧石器時代末以降で、農耕が開始されたこととも関連していると考えられます。

 アジア中央部では、旧石器時代の葬送や埋葬に関しては明らかになっていないことが多いものの、青銅器時代以降は人類遺骸の出土が増えます。草原地帯では、スキタイの墳墓など、遊牧民の首長の墳墓がよく知られています。時代を下って、アラブとの接触によりイスラム教がアジア中央部にもたらされると、8世紀にはオアシス都市の定住民に浸透し、次第に草原地帯の遊牧民にも広まりました。モンゴル帝国のアジア中央部侵出時には、モンゴル君主が埋葬品や殉死者と共に埋葬されましたが、やがてイスラム教を受容したことにより埋葬方法も改められました。イスラム教を受容した後の埋葬形態は、定住民も遊牧民も基本的にはメッカの方角に向けて土葬し副葬品はない、という点で共通します。しかし、地上の建造物や埋葬地や埋葬される集団の範囲には、地域と時代により多様性が見られます。このため、(1)どこに死者を埋葬するのか(埋葬地)、(2)誰を同じ墓地に埋葬するのか(埋葬する集団の範囲)、(3)地上に何を残すのか(墓の形状)について調査されました。(1)は居住形態、(2)は社会関係、(3)は象徴的行為に関連します。

 (1)埋葬地と、(2)埋葬する集団の範囲に関しては、オアシスと草原および山岳地帯とで、異なる結果が得られました。オアシスにおける居住地の一例として、イラン系住民(タジク人)とテュルク系住民(ウズベク人)は混住しており、マハッラと呼ばれる居住区にもとづいて墓地が形成されています。AマハッラとBマハッラの共同墓地、CマハッラとDマハッラの共同墓地というようにまとめられており、イラン系住民とテュルク系住民の墓地は区別されていません。一方、19世紀頃以降に移住してきたスラヴ系住民は、スラヴ系住民の居住区を別個に形成し、従来のイラン系・テュルク系住民の墓地に近接して、別個の墓地を形成しました。これは、イラン系住民とテュルク系住民が1000年以上に及ぶ接触の歴史のなかで信仰(イスラム教)を共有し、次第に同じ居住区に暮らす住民として地縁にも基づく集団の意識が醸成されたのに対して、スラヴ系住民は接触の歴史が100~200年程度と比較的短く、キリスト教徒としてイラン系・テュルク系住民とは信仰を共有していない、という集団間接触の差異によるものと考えられます。

 一方、山岳地帯および草原地帯での調査によると、20世紀初頭まで季節移動していたテュルク系の人々(カザフ人とクルグズ人)は、季節移動の経路に沿って冬営地付近に埋葬地を設ける場合が多かった、と明らかになりました。厳しい寒さを避けられる冬営地は、草原においては岩山陰など立地条件が限定されており、夏営地よりも一ヶ所に滞在する期間が長かったため、そこに埋葬地も設けられた、と考えられます。埋葬される集団の範囲が、血縁(とくに父系の親族関係)に基づいていたことは、オアシス地帯とは異なる特徴です。

 19世紀から20世紀にかけて、スラヴ系住民の到来の直接的・間接的影響により定住化が進展すると、埋葬地や埋葬される集団の範囲は変化しました。この変化は山岳地帯においては、埋葬地が山麓から平原に変更されるという垂直移動として現れました。集団の範囲は拡大し、複数の父系親族集団が共同墓地に埋葬されるようになりました。一方、草原地帯では、点在していた埋葬地が定住化に伴ってより大きな共同墓地へと集約されるという、水平方向の変化が生じました。埋葬される範囲が、小規模な父系親族集団から複数の父系親族集団の合同へと拡大されたことは、山岳地帯と同様でした。このように、オアシス地帯と草原・山岳地帯とでは、生態学的条件により、埋葬地と埋葬される集団の範囲、およびその変化の過程に違いが見られました。その一方で、スラヴ系住民がテュルク系住民とは別に墓地を形成した点は中央アジア全体に共通しており、両者の接触期間が比較的短いことと、信仰の差異が集団としての意識に影響している、と示されます。

 (3)墓の形状については、山岳地帯では盛土の上に天然の石や木片を置いただけのものから泥土を固めた墓標に移行し、次いで日干レンガや御影石やコンクリートなどが墓に使われるようになったそうです。また、肖像写真プレートや造花なども見られるようになりました。このうちとくに肖像写真プレートの製作技術の導入に関しての詳細な調査によると、写真焼付はロシアで始まり、ロシアから移住した男性がキルギスに導入した技術と判明しました。首都ビシュケクで普及した肖像写真プレートは、やがて村落部のキルギス人によって、「見て真似る」ことを通して取り入れられました。導入の先駆けとなったキルギス人たちは一定の社会的地位を有しており、自分の居住地から他の居住地へと行って帰ってきた(あるいは往来する)人物でした。肖像写真プレートが多くキルギス人に受容されるに至ったのは、誰のために死後の平安と冥福を祈るのか、明確にする必要があると考えられているためでした。こうして、肖像写真プレートという革新的技法は、観察から模倣へと進むことを通して点から面に広がり、間接的接触をとおして積極的に採用されました。

 草原地帯に居住するカザフ人の墓の形状も、おおよそキルギス人の場合と同様の過程を経ています。ただ、スラヴ系との直接的な接触が早い時期から生じていた点で異なります。たとえば、19世紀に墓碑を建設されたカザフ人男性は、生前にロシアとの間を行き来していた有力者でした。墓碑導入の先駆けと言えますが、すぐには模倣されなかったのは、資材が不充分だったためと考えられます。墓碑が一般化するのは20世紀になってからで、その後にロシア人の間で広まった肖像写真プレートがカザフ人の間でも用いられるようになりました。肖像写真プレートが積極的に受容されたのは、特定の故人(とくに父系の祖先)のために子孫が祈ることを重視しているためと考えられます。つまり、テュルク系の人々の文化的・社会的文脈にそった形で、新たな技術が受容されました。また、碑文に故人の父系クラン名が刻まれることも、スラヴ系とは異なる特徴です。

 このように新しい技術を他地域から導入しつつ、地域によって独自の墓の形状が発展してきたことも改めて示されます。たとえばカザフスタン北東部では、緑がかった層状の石を積みあげて、1~2mの高さの囲いを設け、さらにドーム状の飾りをつける形態が見られます。カザフスタン東部の様式としては、天幕の形状に似た木製の囲いが挙げられます。またフェルガナ盆地のリシトンでは、陶器で飾った囲いを陶工が設置した事例もあり、陶器製作に携わる住民が多い地域ならではの独自の様式と言えそうです。まとめると、埋葬地の変化は、集団間の接触による居住形態と居住地の変化を反映しています。埋葬される集団の範囲は、居住集団の範囲と対応関係にあります。墓の形状には、死後の世界に関する観念だけでなく、祈りの対象を明確にするという語りに見られたように、死者と生者の関係性についての観念が反映されます。新たな技術が導入される場合も、こうした観念に適合したものの製作技術が積極的に取り入れられています。


●まとめ

 本論文は、山岳とオアシスと草原という異なる環境での調査を統合し、アジア中央部社会のより全体的な把握を試みました。ユーラシアの西部集団と東部集団(とくにアジア東部集団)の混合が示すように、アジア中央部では西方からの移動の後に東方からの移動が生じており、集団の形成過程がひじょうに複雑です。集団間の接触が繰り返されてきた結果、アジア中央部に居住していた旧石器時代の集団と現代の集団は、ゲノムにみられる特徴が異なります。また、狩猟採集をおもな生業とする人々は現存しません。しかし、現在では狩猟採集民がいない地域についても、民族考古学で季節移動などの側面からの分析を参照し、草原地帯の事例から動物資源の利用や移動形態と居住の痕跡の関係などが示されました。さらに、異なる生業を基盤とする集団の接触の事例として、遊動的牧畜の集団と定住農耕の集団との関係が取り上げられ、ものの製作と技術に着目しながら、接触にともなう変化の過程が示されました。

 文化人類学の調査結果と遺伝学や考古学の議論を接続していく際、集団をどのように把握するのかは重要な点です。本論文は、アジア中央部の歴史的動態をふまえて、生業に基づく集団と言語系統に基づく集団が、必ずしも一致していないことを示しました。言語系統が異なっても遊牧という同じ生業に従事した事例や、言語系統が同じでも定住と遊牧に分かれた事例が見られたことは、草原やオアシスなどの特定の生態環境への適応の結果でした。さらに、人類学調査に基づくと、居住集団の規模や性質は生業により異なり、居住形態は婚姻形態にも影響を及ぼしてきました。居住形態や婚姻形態の差異は、同じ言語系統であっても自他の集団の区別として機能します。集団を一義的に把握するのではなく、生業や言語系統や居住形態や婚姻形態など、複数の基準を組み合わせてきめ細かに把握する必要があります。

 人の集団とものの変化の関係に着目すると、遺伝子に強く反映された集団間接触がある一方で、遺伝子には強く反映されなくとも社会的・文化的影響の大きい接触もあることが、本論文の事例からは見えてきました。歴史をさかのぼると、オアシス地帯で生じたアラブ人との接触は、中央アジア全域にイスラム教という生活全般に及ぶ規範が次第に普及する契機となり、ものの変化にもつながりました。こうした事例では、直接的接触と間接的接触を区別することが有効と考えられます。人類学調査から観察可能な範囲で考えると、ロシア人との接触は、直接的接触ではなく間接的接触の場合であっても、物質文化に大きな影響をもたらしました。集団間の接触を考える時、直接的な接触だけが重要なわけではなく、間接的接触も新たな技術の導入や新たなものの積極的な受容に結びつきます。また、社会的地位があり外部との接点をもつ人物が他集団で新たな技術を学んで導入するというパターンが、生活用品としての陶器に関しても、象徴性をおびた墓碑に関しても見られたことは注目されます。新たな技術や観念の普及に基づくものの変化は間接的接触をとおしてもあり得ますが、直接的接触が進むにしたがって通婚関係も生じていく、と考えられます。旧石器時代の人の行動の洞察につながり得るモデルを人類学調査から抽出することがB01班の研究の役割ですが、それだけに留まらず、逆に考古学や遺伝学の成果をふまえて人類学のデータの意味を考えることは、現代人自身についての洞察につながります。


参考文献:
Reich D.著(2018)、日向やよい訳『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版、原書の刊行は2018年)
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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藤本透子、菊田悠、吉田世津子(2021)「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P15-23

義江明子『女帝の古代王権史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。6世紀末~8世紀後半の日本においては女性君主(大王、天皇)が普遍的で、その背景には双系的親族結合と長老原理があった、と本書は指摘します。それが、律令など「中国」の漢字文化を導入して国家形成を進めていく過程で、父系原理・男系継承「中国」社会で長年かけて形成された法体系が導入されることになり、官人の支族意識・家意識・王位継承観など社会全般に大きな影響を及ぼし、古代の女性君主(女帝)の終焉をもたらした、というのが本書の見通しです。一方で本書は、双系的血統を尊重する観念がその後の貴族社会にも残り、庶民の間では公的父系原理のもとで双系的親族結合が現実に意味を持ち続けた、とも指摘します。ただ、全体的には日本は父系社会になっていった、と本書は評価します。

 双系社会で指導者となったのは男女の長老で、6~7世紀の大王(天皇)は男女ともにほぼ40歳以上で即位した、と推測されています。一方、父系直系継承は幼年での即位にもつながります。本書は、未熟な国家体制では、経験を積んだ熟年の王の人格的指導力が統治の必須要件だった、と指摘します。7世紀末に軽皇子が15歳(数え年)で即位し(文武天皇)、祖母の持統太上天皇の後見による「共治」体制が敷かれました。長老女性が退位後も太上天皇として年少男性の天皇を支える体制は、双系社会の長老原理を土台に、新たに導入された直系的継承への軟着陸だった、と本書は評価しています。以前は、古代の女帝父系直系継承を支える「中つぎ」とみなされてきました。女帝は、通常の皇位継承に困難がある場合の緊急避難的な擁立だった、というわけです。しかし、皇位継承の困難は必ずしも女帝の擁立に結びつかない、と本書は指摘します。「中つぎ」説は、高位の男系男子継承が法制化された明治時代に提唱され、1960年代に学説として確立しました。しかし現在では、そもそも世襲王権の成立自体、6世紀前半の継体~欽明期以降と考えるのが通説となっています。

 本書は卑弥呼までさかのぼって「女帝」出現の背景を解説します。卑弥呼や台与の事例から、弥生時代後期~古墳時代前期の王は世襲ではなく、選ばれる地位だったことが窺えます。この頃の日本列島の記述に関して、本書は政治的意味を有する「会同」の場に男女が参加していたことに注目します。また本書は、同時代の朝鮮半島と比較して、日本列島では身分差が大きくなかったことも指摘します。男女の区別なく政治に参加する慣行は8世紀半ばにも見られ、大事な農耕神事後の村の集会には男女が集まっていました。本書は、卑弥呼や台与が例外的な「女王」だったのではなく、考古学では古墳時代前期には日本列島各地に女性首長がおり、その割合は3~5割だった、と指摘します(関連記事)。

 またこの時代の婚姻は基本的に妻問婚と呼ばれる別居訪問婚で、8世紀頃まで男女の結びつきは緩やかだった、と本書は指摘します。男が複数の女と、女が複数の男と結びついていた、というわけです。ただ、夫婦の絆は弱かったものの、兄弟姉妹、とくに同母の場合は結びつきが強く、生涯を通じて互いに助け合い支え合ったようです。同一の墳墓の成人男女は、以前は夫婦と考えられがちでしたが、兄弟姉妹であることが弥生時代終末期から古墳時代を通じて一般的だったようです。

 いわゆる倭の五王の時代についても、『宋書』など「中国」史書の分析から、史書に親子関係とあってもじっさいにそうとは限らず、王は豪族連合の盟主であって血縁による世襲ではなく、政治的実力のある者が王に擁立されていた、と本書は指摘します。本書は、この時代に宋など中華王朝から任官されたのが男性に限定されていたことに注目します。男性首長が政治的優位を占めるようになりつつあった、というわけです。古墳被葬者の性別に関しては、副葬品から推測されており、刀剣類は女性首長でも副葬品とされますが、鏃と甲冑はおもに男性首長の副葬品だったようです。この推測に基づくと、古墳時代中期には首長の数において軍事統率者たる男性が女性を圧倒していたようです。ただ、対外軍事活動を契機に首長の軍事編成が進み、男性首長の数的優位がもたらされても、女性首長が消えたわけではなかった、と本書は指摘します。また本書は、卑弥呼に関してよく指摘される、宮殿に籠る「見えない」神秘的な王は、倭の五王の一人とされる軍事王ワカタケルも含めて倭国王としての強固な伝統だった、と指摘します。さらに本書は、5世紀後半までの倭王は基本的に連合政権で、王が首長たちに「共立」されて有力首長に「佐治」されるあり方は、男性の倭の五王も卑弥呼も同様だった、と指摘します。

 その後、6世紀に世襲王権が成立しますが、それは、欽明の後に4人続けて欽明の子供が即位したという事実の積み重ねの結果で、これ以降血統が王位継承の要件になった、と本書は指摘します。世襲王権成立後の重要な特徴は、双系社会を前提とした、権威と財の分散防止を防ぐ目的の王族の濃密な近親婚です。しかし本書は、濃密な近親婚は単に世襲王権の血統的権威・神聖性の高まりを意味しているだけではなく、有力氏族でも7世紀後半から8世紀にかけて近親婚を繰り返す現象が見られる、と指摘します。律令国家が形成されていく過程で、上層官人(貴族)に勢威と財が集積され始めており、貴族も一族内部で近親婚により政治的権威結集の核を生み出そうとしました。

 上述のように、古代においてはおおむね40歳以上が大王(天皇)即位の条件とされており、同世代の実力者間で王位が継承されてから次の世代に王位が移る「世代内継承」が行なわれていた、と考えられています。古代の村落でも40歳以上を長老とみなす慣行があった、と指摘されています。また、群臣が王を選ぶ仕組みは世襲王権が成立しても変わらず、双系的親族構造と合わせて、女性の大王(天皇)即位は排除されませんでした。本書は、こうした女帝輩出の基盤となった双系的親族構造や妻問婚からも窺える同母子単位の生活実態は、律令国家形成期に父系帰属原理が好適に導入されたことにより変容していき、日本は次第に父系社会になっていく、との見通しを提示しています。

 世襲王権成立後最初の女性君主(大王、天皇)となったのは推古でした。推古即位の根拠は敏達の「皇后」だったことに求められてきましたが、用明のキサキ(皇后)だった間人に政治的活動の痕跡がないことから、単に敏達のキサキだったからではなく、王権中枢での長年のキサキ経験と卓越した本人の資質も重要だった、と本書は指摘します。用明没後直ちに推古が即位しなかった要因は、いわゆる倭の五王に代表される軍事王の歴史があったからだ、と本書は推測します。なお、『隋書』に倭王の名が多利思比孤(タリシヒコ)見えることから、これを男性(具体的には聖徳太子)とみなす見解もありますが、「ヒコ」が男性名接尾辞として固定されるようになったのは早くても7世紀後半以降だろう、と本書は指摘します。推古の在位期間は30年以上に及び、その権威により群臣は次の君主(大王、天皇)の決定にさいして前君主の意向を尊重しないわけにはいかなくなりました。

 この延長線上に推古の次の「女帝」である皇極の「譲位」があります。大王(天皇)位が、群臣による選出ではなく姉から弟(孝徳)への「譲られ」、王権主導の権力集中が進みます。皇極は「譲位」後に「皇祖母尊」と号されました(難波宮跡で出土した木簡には「王母前」とあります)。本書はこれを、退位した王と新たに即位した王との「共治」という後の政治体制の原型と評価します。しかし、ともに後継候補者の子供がいる姉と弟の「共治」は破綻し、皇極は再び「即位」します(重祚して斉明天皇)。本書は、皇極の「譲位」を強制退位とする有力説に対して、「譲位」から「重祚」までの皇極の主導性は否定できない、と指摘します。「重祚」後の斉明は後飛鳥岡本宮の造営・遷居や長大な渠の掘削など、「宮都」構想を進めていきます。

 皇極以降、王位(皇位)継承も変わっていきます。すでに推古が没した時点で変化が見え始めていましたが、それまでの「世代内継承」から、現君主の遺志および現君主との血縁的近さが最重要となっていきます。皇極(斉明)の息子で斉明の次に即位した天智は、双系的血統と世代内年長者重視という継承理念からの転換を模索し、有力者で年齢も問題ない弟の大海人(天武天皇)よりも、まだ20代前半の息子である大友の将来の即位を構想していたのではないか、と本書は推測します。しかし、そうした構想があったとしても、壬申の乱により破綻します。また本書は、八角墳の導入など、皇極が夫である舒明とともに新たな王統を創出していき、両者の近い祖先が「皇祖」と称されていったことも指摘します。

 天武朝において男女の制度的区別が官人組織の編成として顕著に現れ、氏族に関しては父系の継承原則が定められますが、実際に氏が父系出自集団として明確に現れるのは9世紀以降でした。天武朝では皇位(王位)継承候補者たる御子(皇子)の序列化も吉野盟約などで進みました。しかし、それは容易ではなく、天武の息子の草壁が皇太子に立てられたと『日本書紀』にはありますが、草壁と大津や高市との違いはわずかで、天武最晩年の封戸加増でも3人は同額でした。この3人の地位はほぼ同等だったものの、天武の複数のキサキの中では、吉野盟約を機に鸕野讚良(持統天皇)が特別な地位を示し始めた、と本書は指摘します。本書はこれを、壬申の乱で顕著な活躍を示せなかった鸕野讚良による「記憶の簒奪」だった、と評価しています。

 鸕野讚良は天武没後に有力な皇子で甥でもある大津を謀反の罪で自害に追い込み、強力な統率者としての資質を群臣に示します。鸕野讚良は息子の草壁の死後に即位しますが、この即位儀は画期的だった、と本書は指摘します。かつて、新たな君主へのレガリア奉呈は、即位以前の継承者決定の儀式で、「群臣推戴」の象徴でしたが、鸕野讚良の即位式では、それが即位後の儀礼の一部に組み込まれました。本書はこの転換を可能に下背景として、天孫降臨神話を挙げます。天武が獲得した「神性」は天武個人の人格と結びついた一代限りのものでしたが、持統はそれを神話に基づいて普遍化・体系化した、というわけです。これにより、君主と群臣との一代ごとの相互依存的君臣関係に代わって、制度に支えられた新たな君臣関係が成立していきます。持統の後継者決定のさいには、かつての群臣会議とは異なり、継承候補者を自任する皇子たちも出席しました。それでも、後継者決定を群臣に諮る必要があったことに、前代からの慣習の根強さが窺えます。

 持統の後継者となった軽皇子(文武天皇)は、即位時にまだ数え年で15歳だったので、旧来の世代原理・長老原理を否定することになり、かなり強行的な即位でした。また本書は、持統にしても文武にしても、即位時には前天皇との血縁関係を掲げての正当化がなされていないことを指摘します。皇位継承における父系嫡系の血統理念は8世紀初頭に掲げられるものの、いったんは行き詰まって挫折し、それが定着するのは9世紀前半になってからでした。それでも、持統が現天皇の「譲り」による次の天皇決定という新た制度を構築したことに、大きな意義を認めます。これ以降、日本の王権において譲位は常態化します。なお本書は、唐が新羅の女王を忌避したとの言説は、唐の玄宗朝において則天皇帝の治世を否定する風潮の中で形成されたのではない、と推測します。

 持統により確立された、譲位した天皇(太上天皇)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代には一般的となります。しかし、この「共治」の先駆とも言える皇極とその弟の孝徳との関係が破綻したように、潜在的な対立関係を含む危険性がありました。また本書は、大宝令が参考にした父系原理の唐令とは異なり、双系原理を取り入れた、と指摘します。これと関連して本書は、持統の文武への譲位から孝謙の即位までを一貫して「草壁直系継承」の実現として描く通説に疑問を呈しています。

 太上天皇(やそれに準ずる皇族長老)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代を通じて続きます。この過程で、上述のように血縁による即位正当化の論理が出現します。しかし、その嚆矢とも言える元明の即位においても、父系直系継承の論理はまったく見られない、と本書は指摘します。それでも、文武の即位を契機として皇位には性差が現れ始めます。それは、女性がこれまで通り熟年で即位するのに対して、男性は年少でも即位します。本書はこれを、社会上層が父系原理へと移行する中での過渡的な在り方と評価しています。

 奈良時代にはまだ父系原理が貫徹していなかったことは、阿倍(孝謙・称徳天皇)内親王が「皇太女」ではなく皇太子だったことからも窺えます。唐では、皇太子が男性であることは自明だったので、安楽公主が皇太子的な地位を望んださいに、「皇太女」という地位を得ようとしました(実現しませんでしたが)。一方日本では、皇太子は男女の総称で、阿倍が皇太子となったのは想定内だった、と本書は指摘します。本書はそこからさらに、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての皇位継承は、持統→元明→元正→光明皇后と、長老女性の執政が途切れることなく続いた、と評価します。

 上述のように、太上天皇と現天皇とによる「共治」は潜在的な対立関係を含む危険性があり、それは孝謙太上天皇と淳仁天皇(というか天皇を擁する藤原仲麻呂)との対立として現実化します。この政争に勝った孝謙は重祚したと一般的には解釈されており(称徳天皇)、道鏡を共同統治者として、ついには道鏡に皇位を譲ろうとしますが、群臣の抵抗もあり、実現しませんでした。本書は、藤原仲麻呂が息子たちを親王に擬えたように、奈良時代には皇位世襲の観念は自明ではなく、道鏡の即位阻止を経てようやく、皇位の世襲が支配層の明確な規範として成立した、と指摘します。

 奈良時代末には、皇后をはじめとしてキサキの在り様も変わります。それまで独立して宮を営んでいたキサキたちが、後宮に集住するようになります。奈良時代末~平安時代には皇后の在り様も変わり、女帝即位につながりかねない「内親王皇后」が忌避され、「臣下皇后」が選択されていくようになります。この間に王権の在り様も変わり、天皇の統治を支える律令官僚制が成熟するなか、天皇の「共治者」の必要性が薄れていきました。平城上皇と嵯峨天皇の兄弟間の争い(平城上皇の変)の結果、嵯峨天皇により太上天皇の役割は大きく変わり、それまでのように譲位と同時に太上天皇と称せられるのではなく、天皇から太上天皇の宣下を受けることになり、国家の君主権は天皇一人に属することが明確化されました。仁明朝には、資質よりも血統の優先が明確化され、高位における直系継承原理が確立して奈良時代までの仕組みは理念として否定されます。

 本書は興味深い見解を提示していますが、女性皇族(王族)の「臣下」との婚姻が制約されていたこと、氷高皇女(元正天皇)や阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)が未婚だったことなどから、本書が主張するように皇位(王位)継承にさいして男系だけではなく女系も認められていたと言えるのか、本書の解説にはやや説得力が欠けていたように思えるので、疑問は残ります。ただ、本書が主張するように、当時の日本列島の社会が双系的だったことと、律令制導入を大きな契機として次第に父系制原理が浸透していったことは確かだろう、と思います。

 日本社会におけるこの移行に関しては、通俗的な唯物史観で想定されるような、母系制の「原始的な未開社会」から父系制の「文明的な社会」への移行期と把握するのではなく、そもそも現生人類(Homo sapiens)社会は本質的に双系的であり、社会状況により父系にも母系にも傾き、軍事的性格というか圧力の強い社会は父系に傾きやすい、と私は考えています(関連記事)。その意味で、飛鳥時代~平安時代にかけての日本社会における父系原理の浸透は、単に律令制の導入だけではなく、それとも大いに関連していますが、白村江の戦い後の軍事体制強化に大きな影響を受けたのではないか、と思います。そもそも律令制の導入の目的も、軍事的側面が多分にあったように思います。「未開」の母系社会が「発達」して父系社会に移行する、といった今でも日本社会では根強そうな見解は根底から見直すべきだろう、と私は考えています。

被子植物の起源

 被子植物の起源に関する研究(Shi et al., 2021)が公表されました。化石証拠から、前期白亜紀または白亜紀の中頃には花を咲かせる植物が存在した、と明らかになっていますが、独立した生物群としての被子植物(顕花植物)の祖先は、明確にそれとは認識できないまでも、そのずっと前から存在した可能性を示す手掛かりが増えつつあります。被子植物の二つの重要な特徴は、心皮(子房と柱頭と花柱から構成される雌性生殖器官)に包まれた胚珠(実質的な卵)と、胚珠を取り囲む、2層の珠皮で形成された椀状体(cupule;文字通り椀状の構造)です。外側の層(外珠皮)は種子を包み込むように心皮を内側に折りたたんでおり、種子が露出した裸子植物(文字通り「裸の種子」の意)とは異なっています。

 被子植物の胚珠の第二の珠皮(外珠皮)は種子植物の中でも独特で、その発生遺伝学的な特徴は内珠皮のものとは異なっています。そのため、外珠皮を他の種子植物の構造とどのように対比すべきか理解することは、被子植物の起源という長年の疑問を解決するうえで極めて重要です。これまでに、被子植物の基本的な二珠皮性胚珠の倒生構造を連想させる、反曲した椀状体を有するいくつかの絶滅植物が注目されてきのしたが、それらの解釈は、関連化石の情報が不充分なために妨げられてきました。

 本論文は、中華人民共和国内モンゴル自治区で新たに発見された前期白亜紀(1億2560万年前頃)の珪化泥炭から得られた、保存状態の極めて良好な多数の反曲椀状体について報告しています。これらの新たな標本と、関連する可能性のある中生代(2億5200万年~6600万年前頃)の植物化石の再評価を組み合わせることにより、複数の中生代植物群の反曲した椀状体は全て本質的に比較可能で、それらの構造は被子植物の二珠皮性倒生胚珠における外珠皮の反曲した形態および発生と一致する、と示されました。また、種子植物の大型データセットの系統発生解析(植物の系統樹をつなぎ合わせることに相当する)も行なわれ、これらの形態上の類似点と構造上の類似点が明確に示されました。これは、新たに発見された植物標本が現生被子植物にきわめて近縁なことを示唆しています。

 被子植物の起源をさらに詳しく解明するには、より多くの化石が必要となりますが、こうした被子植物の近縁植物(angiophyte)を明らかにすることは、被子植物の起源という疑問に対して部分的な答えを与えるとともに、今後の研究を種子植物の系統発生学に向けるのに役立ち、被子植物の心皮の起源に関する見解に重要な意味を持ちます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:新発見の植物化石によって被子植物の起源の解明に一歩近づく

 中国の1億2500万年前の泥炭化石から新たに発見された数百点の植物標本が、被子植物の起源に関する新たな手掛かりをもたらした。この知見を報告する論文が、Nature に掲載される。これらの化石標本は、被子植物の近縁種であり、多様に繁殖したことが、他の植物化石との比較から示唆されている。

 被子植物には2つの特徴がある。1つが心皮という雌性生殖器官で、その内部に1つ以上の胚珠が包まれている。もう1つが殻斗と呼ばれるカップ状の外部組織層で、胚珠を取り囲んでいる。この外層は、他の種子植物には見られない被子植物の特徴だ。これらの特徴が出現した過程を説明することは、被子植物の起源を明らかにする上で重要な一要素だ。

 今回、Gongle Shi、Peter Craneたちの研究チームは、中国の内モンゴル自治区で新たに発見された白亜紀前期の泥炭化石から抽出された、数百点の保存状態が極めて良好な絶滅種の種子植物の植物標本の構造を調べた。それらの近縁種である可能性のある国際的なコレクション所蔵の中生代(約2億5200万年~6600万年前)の植物化石との比較から、これらの植物標本の生殖構造には明白な被子植物様の特徴があること、特に、後方に曲がった殻斗が存在することが明らかになった。また、種子植物の大型データセットの系統発生解析(植物の系統樹をつなぎ合わせることに相当する)も行われ、これらの形態上の類似点と構造上の類似点が明確に示された。これは、今回発見された植物標本が現生被子植物に極めて近縁なことを示唆している。以上の結果は、著者たちがangiophyteと呼ぶ植物の中に明確な被子植物の祖先種が存在することを示している。この祖先種は、白亜紀前期または中期の花の出現よりもかなり早い中生代以前にさかのぼることができる。

 被子植物の起源をさらに詳しく解明するには、さらに多くの化石が必要となるが、こうした近縁種の化石を明らかにすることは、種子植物の進化や、心皮や雄ずいなど被子植物のさらなる特徴の出現に関する将来の研究に役立つだろう。


進化学:中生代の椀状体と被子植物の第二の珠皮の起源

進化学:太古の顕花植物の手掛かり

 化石証拠から、前期白亜紀または白亜紀の中頃には花を咲かせる植物が存在したことが分かっているが、独立した生物群としての被子植物(顕花植物)の祖先は、明確にそれとは認識できないまでも、はるかに古くから存在した可能性があることを示す手掛かりが増えつつある。被子植物の2つの重要な特徴は、「心皮(子房、柱頭、花柱からなる雌性生殖器官)」に包まれた胚珠(実質的な卵)と、胚珠を取り囲む、2層の珠皮で形成された椀状体(cupule;文字通り椀状の構造)である。外側の層(外珠皮)は種子を包み込むように心皮を内側に折りたたんでおり、種子が露出した裸子植物(文字通り「裸の種子」の意)とは異なっている。今回G Shiたちは、被子植物とある程度近縁な化石植物に見られるさまざまな椀状体様の器官が同等の(すなわち相同な)構造を持つことを示し、被子植物そのものが出現するはるか前のペルム紀には、その独特な祖先が存在していたことを裏付けている。これはさらに、中国内モンゴルで新たに発見された前期白亜紀の珪化泥炭に由来する、保存状態の極めて良好な多数の反曲した椀状体の報告によって強調されている。



参考文献:
Shi G. et al.(2021): Mesozoic cupules and the origin of the angiosperm second integument. Nature, 594, 7862, 223–226.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03598-w

ボノボの高品質なゲノムデータ

 ボノボ(Pan paniscus)の高品質なゲノムデータを報告した研究(Mao et al., 2021)が公表されました。ボノボとチンパンジー(Pan troglodytes)は現代人(Homo sapiens)にとって最も近縁な現生種で、両者の分岐は170万年前頃と推定されています。両者の遺伝的データにより、現代人に固有の遺伝的変化を特定することが可能となります。ボノボの最初の塩基配列はショートリード全ゲノム配列を用いて生成されましたが(関連記事)、大半の分節重複は取り込まれず、構造変異もほとんど確認されませんでした。初期の次世代シーケンサー技術の精度は低く、チンパンジーのゲノムが断片的だったので、大型類人猿のゲノムの大半を比較できず、遺伝子モデルの大半は不完全でした(関連記事1および関連記事2)。

 過去数年間で、ロングリードゲノム配列技術により、高品質なゲノム生成能力が大きく強化されました。本論文はこの手法を用いて、ボノボの完全に注釈付けされた高品質ゲノムアセンブリについて配列を報告します。ボノボは、ロングリード配列技術を用いてゲノム配列が決定された最後の大型類人猿となります。このゲノムアセンブリは、マルチプラットフォームゲノミクスの手法を適用することにより、参照ゲノムをガイドとして用いずに構築されました(網羅率74倍)。本論文のボノボゲノムアセンブリでは、遺伝子の98%以上が完全に注釈付けされ、ギャップの99%が埋められており、部分重複の約半分と完全長の可動性遺伝因子のほぼ全てが解明されています。この新たなデータに基づくチンパンジーとボノボの間の全体的なヌクレオチドの相違は、常染色体では0.421±0.086%、X染色体では0.311±0.060%です。また。22366個の完全長タンパク質コード遺伝子と、9066個の非コード遺伝子が予測され、ボノボには見られてチンパンジーには見られないエクソンなど、これまで報告されていなかったエクソンも確認されました。

 これらのデータを用いて、以前に配列決定された大型類人猿27個体の遺伝子型が決定されました。得られたボノボのゲノムと他の大型類人猿(関連記事)のゲノムの比較により、ボノボ系統とチンパンジー系統を明確に区別する5569以上の固定された構造多様体が特定されました。本論文は、ボノボ進化の過去数百万年間において、喪失・構造変化・拡大が起こった遺伝子に注目しました。不完全な系統分類(ILS)の高分解能マップの作製により、ヒトゲノムの約5.1%がチンパンジーまたはボノボに遺伝的に近縁であること、また、ゴリラやオランウータンなどのより深い系統発生を考慮した場合は、このゲノムの36.5%以上にILSが認められる、と推定されました。

 さらに、ヒトとチンパンジー、あるいはヒトとボノボの間に見られるILS部分の26%が無作為には分布しておらず、クラスタを形成した部分の遺伝子は、ゲノムの他の部分と比べてアミノ酸置換が著しく過剰であることも明らかになりました。これらの結果は、非同義置換と同義置換の割合(dN/dS値)の遺伝子がILS領域に集中しているという、より微妙な相関関係を示したゴリラに関する先行研究を支持します。以前の研究ではこの観察は、ILS以外の領域でより強い浄化選択が起きたか、有効個体数規模を減少させる背景選択の結果、およびそれに起因するILSの枯渇として説明されました。本論文のゲノム規模エクソン解析では、ILSの一部のエクソンのみがこの効果をもたらしており、れらの経路の遺伝子における緩和選択もしくは正の選択のため、これらの遺伝子は糖タンパク質やEGF様カルシウムシグナルの機能に富むようになった、と示されました。

 ボノボの高品質なゲノムデータは、ヒト科(大型類人猿)の進化史の解明に大きく寄与する、と期待されます。これまで、チンパンジーとボノボとの交雑(関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との交雑(関連記事)の可能性が指摘されてきました。この未知の類人猿は、400万~300万年前頃にチンパンジーおよびボノボの共通祖先と分岐した、と推定されています。また、チンパンジーとともに現代人にとって最近縁の現生種となるボノボの高品質なゲノムデータは、人類固有の表現型の遺伝的基盤の解明にもつながることが期待されます。


参考文献:
Mao Y. et al.(2021): A high-quality bonobo genome refines the analysis of hominid evolution. Nature, 594, 7861, 77–81.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03519-x

初期中新世のサメ類の大量絶滅

 初期中新世のサメ類の大量絶滅に関する研究(Sibert, and Rubin., 2021)が報道されました。日本語の解説記事もあります。研究データによると、今日のサメ類の多様性はかつてのサメ類の多様性のわずか一部に過ぎません。古代の海洋生態系について分かっていることの大半は、岩石と化石記録から得られたもので、そうした試料は一般的に浅瀬の堆積物に限定されており、それでは海洋全域における海洋種の歴史の一端しか見られません。

 この研究は、地球の深海底堆積物コアの中の小さな化石を用いて、海の最上位捕食者の一つであるサメ類の個体数と多様性の変化について、新たな見解を示しました。この研究は、イクチオリスと呼ばれる堆積物コアの中の微化石(海底に自然堆積したサメなどの硬骨魚の鱗と歯)を用いて、この約4000万年にわたるサメの多様性と個体数の記録を作成しました。その結果、サメ類は1900万年前頃の初期中新世に、個体数は90%以上、形態的多様性は70%以上減少し、記録から消えていなくなったのも同然だった、と明らかになりました。

 不可解なこの絶滅事象は、判明しているどの地球規模の気候事象や陸生生物の大量絶滅とも無関係に起こった、と考えられます。その原因は依然として分かっていませんが、この研究は、この絶滅事象によって外洋性捕食魚類の生態系が根本的に変わり、その結果として大型の回遊性サメ類の存続の下地ができ、現在はそれらが地球の海を支配している、と指摘しています。

 近年の保護活動の向上にも関わらず、大洋性のサメ類を対象にした規制を設ける国はほとんどなく、初期中新世の絶滅事象と現在の人為的ストレスが引き起こすサメ類の減少はひじょうに似ている、と指摘されています。外洋性のサメの群れは1900万年前頃の不可解な絶滅事象から回復することはなく、生き延びたサメ類の生態学的運命は、現在では人間の手中にある、というわけです。


参考文献:
Sibert EC, and Rubin LD.(2021): An early Miocene extinction in pelagic sharks. Science, 372, 6546, 1105–1107.
https://doi.org/10.1126/science.aaz3549

イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析

 イタリア北部の16000年前頃の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究(Bortolini et al., 2021)が公表されました。イタリアのヴェネト州のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡は、南アルプス山脈の斜面における人類居住の最初の証拠を表しますが、この地域で主要な氷河が交代し始めたのは17700~17300年前頃なので、この時期の人類の移動の影響に関する疑問を解決するのに重要です(図1A)。以下は本論文の図1です。
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 リパロ・タグリエント遺跡の標本抽出された個体の生物学的背景を評価するため、人類学的および遺伝学的分析が行なわれました。局所的なセメント質骨異形成症が見られる左側下顎骨(図2)は、その年代と、部分的に保存された埋葬から発掘された頭蓋後方の遺骸(タグリエント1号)との同時代性を独自に確認するため、直接的に年代測定されました。このタグリエント2号(Tagliente2)遺骸の左側第一大臼歯(LM1)の歯根の直接的な放射性炭素年代は16980~16510年前(以下、年代は基本的に較正されています)で、文化区分では後期続グラヴェティアン(Late Epigravettian)と確認されました。これは、タグリエント1号の16130~15560年前と近く、同じ文化背景となります。以下は本論文の図2です。
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 下顎および歯から採取された5点の標本でDNAが抽出され、X染色体と常染色体の網羅率の比率からタグリエント2号は男性と推定され、これは形態学的分析と一致します。タグリエント2号のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2'3'4'7'8'9で、他にもヨーロッパの旧石器時代の個体で見られ(図3A)、15500年前頃のリグニー1(Rigney 1)洞窟の個体および13000年前頃のパグリッチ・アクセッソ・サラ(Paglicci Accesso Sala)の個体により共有されています。タグリエント2号のY染色体ハプログループ(YHg)はI2a1b(M436)で、14000年前以前のヨーロッパにおけるYHgの多様性の大半を占めていました(図3B)。この期間の年代測定されたほんどの標本は、単一のmtHg-U5bおよびYHg-I2の系統に分類され、単一の創始者人口集団から拡大した、と推定されています。以下は本論文の図3です。
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 人口集団の観点から、外群f3距離(図4A)に基づくMDS(多次元尺度構成法)分析が実行され、タグリエント2号はより広範なヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まると明らかになり、以前に報告された14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるクラスタとの類似性が示されます。このヴィラブルナ集団は、少なくとも14000年前に以前のヨーロッパ狩猟採集民をほぼ置換した個体間の遺伝的類似性に基づいて定義されています(関連記事)。

 ヴィラブルナ集団は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)やチェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群など、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)までヨーロッパに存在していた狩猟採集民集団からの遺伝的寄与の痕跡を殆どもしくは全く示しません。ヴィラブルナ・クラスタを定義する特徴の一つは、それ以前の旧石器時代ユーラシア西部人により示される遺伝的構成要素よりも、近東集団とのより高い類似性です。

 f4検定でも、タグリエント2号がヴィラブルナ・クラスタと遺伝的特徴を共有しており、それ以前のヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的背景との不連続性が確認されました。タグリエント2号とXとYとムブティ人によるf4検定で、この観察結果がさらに調べられました。Yは対象集団、Xは14000年前頃のヴィラブルナ個体もしくは13700年前頃のビション(Bichon)遺跡個体もしくは中石器時代となる11900年前頃のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民です(図4B)。

 遺伝子型決定戦略(キャプチャ法のヴィラブルナ個体とショットガン法のビションおよびコンティネンツァ個体)による潜在的な偏りを制御するため、独立したWHGの3標本が選択され、データを比較するとじっさいに小さな不一致が見つかりました。この影響を最小限に抑えるため、ショットガンの結果の解釈に重点が置かれました。タグリエント2号と比較した場合、ヴィラブルナ個体やイベリア半島狩猟採集民など後のWHGとのコンティネンツァ個体とビション個体の遺伝的類似性は高く、これは、タグリエント2号のより古い年代により説明できるか、コンティネンツァ個体とビション個体が少なくとも14000年前頃までにヨーロッパ中央部に到達した祖先系統とより密接であることで説明できるかもしれません。

 あるいは、より新しいWHG標本群の間で現れるより高い類似性も、新たに到来したタグリエント2号に代表される個体群と、先住のドルニー・ヴェストニツェもしくはGoyet Q116-1的な遺伝的集団との間の、その後で起きた混合に起因するかもしれません。これは、ルクセンブルクの中期石器時代となる8100年前頃のロシュブール(Loschbour)遺跡個体ですでに報告されています。次に、タグリエント2号の系統樹内の位置がモデル化され、ヴィラブルナ系統内に収まると明らかになり、以前の結果が確認されます。以下は本論文の図4です。
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 本論文では、イタリア半島北部における早くも17000年前頃となるヴィラブルナ構成要素の存在が、ゲノムと片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)と年代測定の証拠により裏づけられました。17000年前頃には、この地域も含めて大きな文化移行が起きました。続グラヴェティアンの前期から後期への移行は急激ではなく、アドリア海とティレニア海の間の地域化および環境/文化的違いの出現にも関わらず、人工物の様式や石器縮小戦略の相対的頻度、原材料獲得と居住パターンの変化が、17000年前頃以降に記録されています。14000年前以後、幾何学的細石器への依存度の高まり、線刻や着色された骨、線形や幾何学模様や動物や擬人化を描いた石のより強い存在により、もっと顕著な不連続性が証明されます。

 続グラヴェティアンの前期から後期の移行は、アルプス山脈の氷河が26000~24000年前頃に最大に達した後の顕著な後退、および16500年前頃以降の海面の急速な上昇とほぼ同時です。これらの過程は、アルプス山脈の地形に大きな変化をもたらし、大アドリア海・ポー平原の広範な表面を安定させました。アルプス山麓の急速な森林再拡大は17000年前頃に始まり、それは15000~13000年前頃となるボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期の温暖化のずっと前でした。アルプス山脈の麓は、開けた植生が遠方で発達した間、カバノキとカラマツのある(開けた)松林となりました。

 LGM末には、局所的な動物の利用可能性は限定的で、ほぼ開けた環境に適応した種で構成されており、そうした環境では、アルプスの野生ヤギのアイベックス(Capra ibex)やリス科のマーモット(Marmota marmota)のように温暖化する亜間氷期により高い場所に移動するか、好適な微気候の地域に退避することにより、最適な気候条件を見つけられました。ヨーロッパ中央部のほとんどの寒冷適応の大型動物種は、LGM開始の前にスロベニア回廊を通ってイタリア半島北部へと侵入しており、これはアドリア海全域で獲物を追って居住したグラヴェティアン期狩猟採集民と同じです。

 LGMにおいては、これら大型哺乳類の新たな到来と北方への移動の両方が妨げられ、それらは局所的に消滅するか、短いLGM亜間氷期と関連して絶滅しました。たとえば、ホラアナグマは24200~23500年前頃に絶滅しました。寒冷期の森林被覆の減少は、ポー平原の中核地域とベリチ丘の両方における、アイベックスやヤギ亜科のシャモア(Rupicapra rupicapra)やマーモットの存在により確認されます。同じ地域では、考古学的記録が、現在では北半球の高緯度地域でのみ見られる旧北区の鳥の存在を示しています。

 まとめると、本論文の結果は、相互に排他的ではないものの、二つの異なるシナリオを支持します。一方は、LGMおよびその直後に地中海とヨーロッパ東部をつなぐ退避地の広範なネットワークを含みます。このネットワークは、黒海からイベリア半島に至る文化的および遺伝的情報両方の段階的な交換を通じて、長距離の伝播を促進した可能性があります。現時点では利用可能な証拠で検証できないこのシナリオは、標本の年代、その場所、比較的豊富な近東現代人と共有されるヴィラブルナ遺伝的構成要素との間の関係を予測するでしょう。文化的観点からは、ヨーロッパ南部における前期および後期続グラヴェティアン物質文化の発展は、急速で千年規模の気候事象によっては直接的には駆動されず、人口移動を伴わない収束と局所的適応と文化的融合から生じた可能性があります。この場合、遺跡間の距離も石器群の類似性を予測するでしょう。

 もう一方のシナリオは代わりに、人口移動と置換、より急速な遺伝的交替、地理的勾配では充分に予測されない遺伝的および文化的両方の類似性の分布を示唆します。この人口集団の変化はLGMに起きた可能性があります。つまり、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolni Vestonice)遺跡で発見された1個体のような遺伝的構成要素がまだイタリア南部のオストゥーニ(Ostuni)に存在した27000年前頃以後から、17000年前頃以前のことです。ヴィラブルナ系統を有する集団は、スロベニア回廊と海面の低下したアドリア海の沿岸を用いて、ポー平原までのイタリア半島アドリア海地域に居住し、その後ようやくアルプス山脈前方の渓谷に再居住したかもしれません。このモデルによると、27000年前頃以後、イタリア半島およびその後でのみ現在のフランスやスペインで見つかる遺伝的系統は、ヴィラブルナ・クラスタと、mtHg-U2'3'4'7'8'9および/もしくはYHg-I2・R1aに分類される片親性遺伝標識系統のどちらか、もしくは両方を示すはずです。このモデルによると、続グラヴェティアン全期でイタリアにおいて記録された文化的変化は、少なくとも一部は人口集団の置換と関連する過程により引き起こされた可能性があります。

 文化的観点から、利用可能な考古学的記録の偏った時空間的分布は、これら二つのモデル間の直接的識別に用いることはほとんどできず、イタリア半島全域の後期続グラヴェティアン開始の根底にある時間的動態には依然としてかなりの不確実性があります。18000~17000年前頃以降、ヨーロッパ南西部におけるソリュートレアン(Solutrean)からマグダレニアン(Magdalenian)への物質文化移行と、ローヌ川からロシア南部平原にいたる広大な地域における続グラヴェティアンの前期から後期への物質文化移行の証拠があります。環境圧力はLGMにおける大型動物の移動を条件付け、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部をつなぐ回廊への人類集団の移動を制約しました。

 この期間に、ヨーロッパ南部の人類集団はヨーロッパ中央部および北部の他地域と比較して、限定的な生態学的危険性に曝されていました。イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)出土の個体群のストロンチウム同位体組成の変動は、グラヴェティアンと前期続グラヴェティアンの狩猟採集民間の居住移動性パターンと適応的戦略の顕著な変化を示します。気候変化のあらゆる背景となる証拠が欠如していることを考えると、これらの違いは文化的要因が理由で、続グラヴェティアンの初期段階ですでに起きていたかもしれない人口集団置換と関連している可能性があります。

 他方、イタリア半島とバルカン半島との間の人工物様式の分布における類似性は、東方・スロベニア経路でのヨーロッパ中央部からの技術複合拡大の可能性を裏づけ、続グラヴェティアン狩猟採集民の長距離移動性を示唆します。しかし、同じパターンは、社会的ネットワーク仮説を支持して、この見解に異議を唱えるのに用いられてきました。バルカン半島とイタリア半島の状況の間の類似性は、グラヴェティアン期から中石器時代まで記録されており、接触には、石材や海洋性軟体類や装飾品のビーズや粘土の小立像や装飾モチーフや石器技術が含まれます。同時に、人類の移動・相互作用の代理としての、有鋌石镞(shouldered points)など一部の文化的指標の信頼性が、最近では疑問視されています。

 片親性遺伝標識は、この提案された二つのシナリオの解明に役立つ可能性があります。確かな遺伝的および年代的根拠に基づいてヴィラブルナ・クラスタに区分される標本の大半(図3)は、mtHgとYHgの限定的な数の系統を共有しています。片親性遺伝標識のヴィラブルナ系統内での多様性低下は、ネットワークを中断するボトルネック(瓶首効果)、もしくは人口集団移行のより広範なシナリオにおける創始者事象と一致します。この片親性遺伝標識は、アドリア海全域の切れ目のない文化的交換、および東方のゲノム構成要素との増加する類似性と組み合わされて、遺伝的置換を本論文の結果への最も可能性の高い説明とします。

 ヴィラブルナ母系内の18500年前頃となるパグリッチ系統の存在からは、イタリア半島南部における18500年前頃もしくはそれ以前の創始者事象と、氷河後退の始まりにおけるイタリア半島北部での後の拡大が主張されます。この観点から、タグリエント2号は南アルプス地域にほぼ居住していたと考えられ、その基底部のmtDNA系統を説明します。南方回廊を通じてのヨーロッパ東西間のより早期のつながりの可能性は、拡大LGMネットワークの形態、もしくはヨーロッパ西部におけるヴィラブルナ的個体群の早期の到来として、ゴイエット2(Goyet-2)的祖先系統とヴィラブルナ・クラスタと関連する祖先系の混合を示す、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体によっても裏づけられます(関連記事)。

 この新たな遺伝的シナリオの最も節約的な解釈からは、LGM末からヤンガードライアス末(11700年前頃)にかけてヨーロッパ南部で観察される累積的な文化的変化は、少なくとも部分的には、南東部の退避地からイタリア半島への遺伝子流動により引き起こされた、と示唆されます。この過程はその初期段階およびアルプス山脈以南では、後のボーリング-アレロード事象とは独立しており、イタリア半島全域およびそれ以外でLGM以前の祖先系統の漸進的な置換に寄与しました。しかし、この仮説を検証するには、27000~19000年前頃のヨーロッパ南部のさらなる遺伝的証拠と、イタリア半島と人口移動の推定起源地との間の文化的類似性の分析が必要となるでしょう。

 結論として、タグリエント2号は全てのヨーロッパ人の遺伝的背景に強く影響を及ぼした主要な移動が、以前に報告されていたよりもかなり早くヨーロッパ南部で始まり、LGMの最盛期後の寒冷期にはすでにヨーロッパ南部で起きていた、という証拠を提供し、それはおそらく氷河の段階的縮小とボーリング-アレロード期の急速な温暖化に先行する森林拡大により支持されます。この段階で、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部およびアジア西部は、LGMにおける潜在的退避地の同じネットワークへとすでに接続されており、遺伝的および文化的両方の情報を交換し、観察された人口集団置換の基礎を示します。この知見は、ヨーロッパ南部の同時代の物質文化の経時的変化における妥当な人口構成要素に関する以前の議論をさかのぼらせ、この過程を続グラヴェティアンの前期と後期の移行期に時間的に位置づけますが、あるいはその過程は続グラヴェティアンの最初期に位置づけられる可能性さえあります。


参考文献:
Bortolini E. et al.(2021): Early Alpine occupation backdates westward human migration in Late Glacial Europe. Current Biology, 31, 11, 2484–2493.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.078

大河ドラマ『青天を衝け』第17回「篤太夫、涙の帰京」

 今回は平岡円四郎殺害の余波とともに、禁門の変に四国艦隊下関砲撃事件に天狗党の乱と、幕末の動乱が描かれました。平岡は栄一(篤太夫)にとって大恩人だっただけに、平岡の妻とともにその波紋が描かれました。平岡殺害事件もこれら幕末の動乱の一環で、主人公周辺の描写と歴史的大事件との描写が上手くかみ合ってきたように思います。藤田小四郎と栄一との遭遇が創作なのか否か分かりませんが、創作だとしたら悪くはなかったと思います。本作の慶喜は前半の準主人公とも言うべき重要人物ですから、やはり天狗党の乱の描写は欠かせないように思います。

 四国艦隊下関砲撃事件では、明治時代になって栄一と深く関わることになる井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)も登場しました。顔見世程度ではありましたが、アーネスト・サトウ相手に食い下がるところもあり、なかなか強い印象を残しました。同じく重要人物と思われる五代才助(友厚)の初登場と比較すると、井上と伊藤の方が見せ場はあったように思います。主人公の栄一が政局の中枢とより直接的に関わるようになり、大河ドラマらしくなってきたので、今後も楽しみです。

『卑弥呼』第64話「日下の日見子」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年6月20日号掲載分の感想です。前回は、日下(ヒノモト)都でトメ将軍が、モモソと名乗る女性に、そなたこそ日下の日見子(ヒミコ)ではないのか、と問い詰めるところで終了しました。今回は、その少し前の場面から始まります。日下の都(纏向遺跡でしょうか)の館でトメ将軍とミマアキがモモソと面会している間、トメ将軍の配下の兵士たちは館の外で待機していました。見回りをしてきたフキオという兵士は、何者かに見張られているような気がする、と卒長に報告します。すると卒長は、腕を上げたな、とフキオを褒めます。見張られているどころか囲まれている、と卒長に告げられたフキオは、慌ててトメ将軍に報せようとしますが、トメ将軍はとっくに気づいているはずだ、と卒長は落ち着いて言います。屋敷にはモモソ以外に誰もいない、と報告を受けた卒長は、自分たちを囲んでいる軍が射かけてきたら一目散に屋敷に退避する、と兵士たちに指示を出します。

 屋敷ではトメ将軍がモモソに、自分たちを殺すつもりか、と問い詰めます。するとモモソは、あの者たちはたとえ自分が殺されても何もせず、黙って見ているだけだ、と答えます。では、危険を冒してまで自分たちを屋敷に招き入れた理由は何か、とトメ将軍に問われたモモソは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の客人に伝えたいことがあったからだ、と答えます。モモソは、近いうちに日下は筑紫島に攻め入る、と打ち明けます。伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)の伊予(イヨ)と五百木(イオキ)と土器(ドキ)と賛支(サヌキ)はすでに日下の支配下で、埃国(エノクニ)と吉備(キビ)と針間(ハリマ)とも輪を結び、金砂(カナスナ)国も時間の問題なので、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)最西端の宍門(アナト)国も推して知るべし、というわけです。侵攻まであと3年といったところだろうか、とモモソはトメ将軍とミマアキに告げます。

 弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)では、ヤノハと事代主(コトシロヌシ)が嵐の中、館から出て会話を続けていました。筑紫島の山社(ヤマト)を盟主とする連合国と出雲が手を組めば日下に勝てますか、とヤノハに問われた事代主は、分からない、と答えます。日下とはそれほど強大な国なのか、とヤノハに問われた事代主は、広さはむしろ小国の部類だが、戦人は倭国位置だろう、と答えます。出雲の戦人も筑紫島の戦人もいつもは米や野菜を育てる邑人だろうが、日下の戦人は戦しかしない、と事代主はヤノハに説明します。日下の戦人は戦を生業にしており、出雲の戦人が農閑期にしか戦ができないのと違って、春夏秋冬いつでも戦闘態勢にあり、戦がない時はずっと殺人の方法を考えて稽古をしている、というわけです。なんという国だ、とヤノハは嘆息します。事代主は国の興りを、民がいて国が作られ、王が生まれる、と考えています。しかし、日下は最初に王がおり、王こそが国で、王のために民がいる、と事代主はヤノハに説明します。自分はとても住めない、と言うヤノハに対して、日下にいる日見子はあくまでの王の下で、王が絶対だ、と事代主は説明します。その強国の日下に国譲りを強制されてどう耐え抜いたのか、とヤノハに問われた事代主は、時を稼いだだけで、もはや時間切れと思ったところで、なぜか日下から使者が来なくなった、と答えます。その理由は厲鬼(レイキ)、つまり疫病で、厲鬼が広まると、代々の日下の王は都を捨てて新たな都に移る、と事代主はヤノハに説明します。日下の王は新たな都を造るのに多忙なので、侵略を一時中断した、というわけです。厲鬼とのために戦い方を伝授してほしい、とヤノハに要請された事代主はどうすべきか考えたのか一瞬間を置き、自分の神である大穴牟遅命(オオアナムチノミコト)には少名毘古那命(スクナビコナノミコト)という親指ほどの小さな神である友がいる、と答えます。

 日下ではトメ将軍がモモソに、日下の日見子の役割は示斎(ジサイ)と同じなのだな、と言います。トメ将軍はかつて韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)に渡る舟で何度も示斎になりました。示斎とは舟乗り全員の運命を背負う役で、舟が災難に見舞われたり舟乗りの誰かに不幸が降りかかったりすれば、示斎は身代わりに命を差し出さねばならない、とトメ将軍はモモソに説明します。厲鬼が都を襲ったのは日見子たるモモソの力不足なので、新たな都の建造期間に一人で都に残って鬼と闘い、生き延びればそれでよいが、死ねば新たな日見子が選ばれるだけだろう、とトメ将軍はモモソに指摘します。それ故に屋敷を囲む日下の戦人はモモソの生死をただ見ているだけなのか、とミマアキに問われたモモソは肯き、ミマアキはその酷い境遇に同情します。モモソは、そのうえで自分をどうするつもりなのか、とトメ将軍とミマアキに問いかけます。

 弁都留島では、事代主がヤノハに、古くから密かに伝わる教えがある、と説明します。厲鬼とは人の目に見えない小さなものだが、親指ほどの少名毘古那命になら見え、厲鬼は人の唾や指を介して他人に移り、百骸九竅、つまり人の多数の穴から体内に入る、というのが少名毘古那命の教えでした。どうやれば厲鬼を退散させられるのか、とヤノハに問われた事代主は、厲鬼を落とすには水が一番で、綺麗な水で手や身体をこするのがよく、粘土や灰汁、つまり獣の油に灰を混ぜたものや、胡麻などの油を手につけて洗うのも有効で、布で口や鼻を覆い、素手で人に触れないことが肝心で、あとは薬草を毎日飲み、厲鬼に負けない身体を作ることだ、と答えます。事代主は、自分に跪いたヤノハに、筑紫の女王が頭を下げてはならない、と諭します。ヤノハは事代主に、筑紫島にはすでに厲鬼が上陸しており、このままでは多くの民が死ぬので、自分に薬草の知識を授けてもらいたい、と懇願します。多くの民を救うために自分に頭を下げるヤノハに事代主は驚きつつも喜び、薬草に関する知識を全て教える、と答えます。

 日下では、トメ将軍とミマアキがモモソに礼を述べ、立ち去ろうとしていました。自分を殺さないのか、とモモソに問われたミマアキは、モモソを殺せば自分たちの日見子(ヤノハ)に怒られる、と答えます。ヤノハは無駄な殺生を好まず、ただ倭の泰平を考えている人だ、とモモソに説明するミマアキに続いて、ただ、平和を阻む者には容赦のない人だ、とトメ将軍が補足します。するとモモソは、自分からも忠告がある、とトメ将軍とミマアキに伝えます。モモソはトメ将軍とミマアキに、もはや筑紫島には黄泉の使いが近づいているので、筑紫島に帰らないよう、忠告します。どういう意味なのか、ミマアキに問われたモモソは、自分の父のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)は奸智に長けており、日下の軍門に下った伊予之二名島の五百木の海賊に厲鬼を仕込んで筑紫島に送った、と答えます。今頃筑紫島には厲鬼が蔓延し、多くの人が死に瀕しているはずだ、と説明したモモソが、侵攻まで3年が絵空事ではないことを理解していただけたか、とトメ将軍とミマアキに不敵に問いかけるところで今回は終了です。


 今回も情報密度が濃いというか、とくに日下について重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。ヤノハと事代主の会見は友好的に終わりそうで、ヤノハは事代主から薬草の知識を授かることになりました。ただ、ヤノハと事代主の面会は国譲りの対決でもあるわけで、この点がどう決着するのか、まだ明示されていません。事代主は、互いに自分たちの神を尊重すればよい、という前回示されたヤノハの方針にたいへん満足していたようですし、今回は、民を救うために自分に頭を下げるヤノハの器量に深く感心したようなので、ヤノハを盟主とする山社国連合に加わると決めたようにも思われます。ただ、ヤノハは事代主に倭国を託して弟のチカラオ(ナツハ)とともに逃亡しようと考えており、これまでは友好的なヤノハと事代主の関係がどう定まるのか、なかなか見えにくいところもあります。ヤノハはヒルメに命じられたチカラオに強姦されており、妊娠している可能性があります。そのため、卑弥呼(日見子)は滅多に人々の前に姿を見せなくなったのでしょうか。

 ヤノハが事代主から疫病対策を聞き、薬草の知識を伝授されることになったのは、日下の謀略との関係でも注目されます。日下のフトニ王は疫病患者を筑紫島に送り込み、筑紫島を疲弊させたうえで侵略しようと考えています。しかし、ヤノハによる疫病対策が奏功すれば、日下の侵略も容易ではないでしょう。あるいは、ヤノハは日下やその支配下の国々にも疫病対策を伝えて、それにより西日本を政治的に広く統合することにも成功するのでしょうか。ただ、日下はたいへん野心的で残忍な国と描写されており、容易にヤノハを盟主と認めるとも思えません。ましてや、日下の始祖のサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が絶対に侵略しないよう命じた日向(ヒムカ)を、ヤノハが支配して山社建国に至ったわけですから、なおさらです。そうすると、ヤノハを日見子(卑弥呼)として盟主とする国家連合は、暈(クマ)を除く九州(対馬と壱岐も含めて)と穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)と出雲などくらいで、日下を盟主とする国家連合と対峙することになるのかもしれません。

 ただ、現在に伝わる記紀を中心とした古代神話との整合性からは、日下が倭国を統一した、という話になりそうです。とはいえ、日下の銅鐸信仰は後のヤマト王権には伝わっていないようですから、単純に日下が倭国を統一したという設定でもないようです。あるいは、筑紫島を中心とした山社国(邪馬台国)連合が後に日下の都(おそらくは纏向遺跡)に移り、より本格的な国家(王権)が成立するなかで、権威・権力が強化されたヤノハやその後継者たちは日下の神話を取り込んでいき、自らの正統性を強調するようになった、という話になるのでしょうか。

 日下がどのような国なのかもかなり明かされましたが、広さでは小国でありながら他国にとって脅威となるだけの専業兵士をどのように維持しているのか、気になるところではあります。強力な日見彦(ヒミヒコ)で、今でも筑紫島に信奉して従うものが多いサヌ王の権威により、周辺諸国からの貢納があるのでしょうか。あるいは、武力に特化することで周辺諸国からの略奪もしくは貢納を可能としているのかもしれませんが、ヤノハにとって暈以上の強敵となりそうな日下との関係が、今後の話の中心になりそうです。そうすると、山社国連合が魏に使者(おそらくは『三国志』に難升米と伝わるトメ将軍)が派遣されるのは、随分と先のことになりそうで、できるだけ長く続いてもらいたいものです。

 日下のモモソの人物像もかなり明かされました。モモソは日下の日見子のようですが、その役割は筑紫島の日見子とはかなり異なるようです。筑紫島の日見子は、政治と軍事を司る昼の王と対等というより、むしろ上の立場にいるように思われますが、日下の日見子は王よりも明確に下に位置づけられており、それどころか示斎と似た役割を担っているようです。そのため、日下の日見子は人々の犠牲になることを覚悟しなければいけないわけですが、日下の日見子はそれに相応しく胆力のある人物のようです。ただ、日下の日見子は王の娘ですから、家柄により日見子に選ばれているのだとしたら、ヤノハに殺された暈の「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)のモモソと異なり、霊力はとくに優れていないのかもしれません。ヤノハが日下のモモソの存在を知った時にどう反応し、両者がどのような関係を築くのか、また日下のモモソから筑紫島に帰らないよう忠告されたトメ将軍とミマアキがどう対応するのか、注目されます。本作は色々と見どころがあり、今後もたいへん楽しみです。

黒田基樹『羽柴家崩壊』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2017年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、豊臣氏羽柴家の崩壊過程を、関ヶ原合戦後から片桐且元の大坂城退去まで、羽柴秀頼およびその生母の茶々と片桐且元との関係の視点から取り上げます。関ヶ原合戦後、秀頼はまだ幼く、茶々が「女主人」として羽柴家を率います。本書は、茶々が片桐且元を長きにわたって深く信用していた、と指摘します。その信頼関係が破綻したことで羽柴家は崩壊したわけですが、その過程の詳細な解明が本書の主題となります。

 本書は3人の重要人物のうち茶々について、十代で親がいなくなったことを重視しています。茶々は羽柴秀吉に引き取られた当初より秀吉の妻に迎えられることが決まっており、実家の浅井家が幼少時に滅亡して父は死に、1583年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には母もなくなり、親がいなくなった茶々は秀吉を頼るしかなくなった、という事情があったようです。本書は、茶々が妹の結婚を秀吉に働きかけるなど、凡庸な人物ではなかった、と評価します。片桐且元は秀吉存命時には近臣の一人といった立場でしたが、秀吉没後に秀頼重臣の一人に任命されます。

 関ヶ原合戦後の政治情勢は微妙で、主家として羽柴家が存在している一方で、徳川家が「天下人」として政務を取り仕切っていました。そうした状況で政権財政と羽柴家の家政が明確に分離され、徳川の優位が強化されていくなか、関ヶ原合戦前から徳川家康と親しかった片桐且元は、羽柴家臣で家康と直接接触できる3人のうち1人となり、やがて唯一の人物となります。関白が五摂家に戻され、政権中心地が大坂から伏見へと移り、徳川家の政権掌握が進み、ついに家康は征夷大将軍に就任します。

 羽柴家に対する徳川家の優位が確立していく中、秀頼の将来を不安に思ったのか、茶々は精神的に不安定になることもあったようです。本書は現存する茶々と且元とのやり取りの丁寧な分析から、上述のように親がいない茶々は、今や羽柴家重臣で家康との直接的つながりを有する唯一の人物となった且元を強く頼るようになった、と指摘します。また本書の指摘で興味深いのは、茶々は物事の判断を迅速にできる人物ではなかった、ということです。ただ本書は、秀吉存命時に茶々は政治に直接的に関わらず政治的経験が浅く、実家の後見も期待できなかった、という背景も指摘します。

 羽柴家に対する優位を確立していった徳川家は、羽柴家を明確に服属させようとし、ずっと秀頼わずかに下の官位に留まっていた徳川秀忠は、1614年3月、ついに秀頼も上の位階に叙されます。本書は関ヶ原合戦から大坂の陣勃発までの羽柴家について、羽柴家は徳川家(江戸幕府)に明確に服属しておらず、単なる一大名ではなく、「公儀」の主宰者になり得る存在ではあったものの、「公儀」を構成する側でもない、政治的にはきわめて曖昧な存在だった、と評価します。本書はその曖昧さの由来は、羽柴家と諸大名との主従関係の継続だった、と指摘します。関ヶ原合戦後、諸大名は徳川家と主従関係を結んでいくようになりましたが、羽柴家との主従関係をすぐに切断したわけでもありませんでした。

 この曖昧な羽柴家と徳川家との関係が大きく動いたのは、1614年に起きた方広寺鐘銘問題でした。家康から問題解決のために提示された三ヶ条を片桐且元が秀頼と茶々に申上したところ、秀頼と茶々は不快感を示し、且元を殺害しようという動きがあり、それを知らされた且元が家康の宿老である本多正純に、この間の経緯を書状で伝えます。且元は出仕を拒否し、屋敷に引き籠ります。これが契機となって大坂の陣が勃発し、羽柴家は滅亡に至ります。

 この三条件とは、秀頼が諸大名と同じく江戸に居住するか、茶々が人質として江戸に出るか、羽柴家が大坂城を明け渡して他国に領地替えとなるか、というものでした。秀頼と茶々は、とても応じられないようなこれらの条件を提示するとは、且元は家康に寝返ったのではないかと疑います。ただ、羽柴家において且元と対抗関係にあった大野治長は且元を誅罰しようとしていたものの、秀頼がどう考えていたのか定かではない、と本書は指摘します。本書は、茶々の従兄弟の織田頼長が秀頼を追放しても幕府方と戦おうとしていたところから、秀頼は幕府との戦いに積極的ではなく、且元を誅殺しようとは考えていなかった可能性が高い、と推測します。

 出仕拒否の且元に対して、茶々と秀頼は書状を送ります。茶々と秀頼は且元に、色々と噂があるが信頼していることを書状で伝え、茶々としては精一杯の誠意を示した、と本書は評価します。ただ本書は、且元とのやり取りの中で茶々の指示は家臣に忠実に実行されていたわけではなく、そこから茶々の政治的力量が窺える、とも指摘しています。結局、双方とも相手への警戒心から兵を引かず、ついに茶々は且元の処罰を決意します。それでも、茶々は片桐家を存続させようとしており、頼りにしていた且元の処罰に消極的だったのではないか、と推測しています。

 且元の方も、茶々と秀頼に敵対する意図はなかったものの、茶々も秀頼も大野治長など且元を追い落とそうとする重臣を制御できなかったことから、ついに茶々・秀頼の母子と且元は決裂し、且元は大坂城から退去します。それでも羽柴家で絶大な影響力を有していた且元は、その力を茶々および秀頼との対決に用いるのではなく、逆に残務処理をして立ち去ります。この且元の退去に伴い、羽柴家を見限った重臣もおり、茶々と秀頼が家臣団を充分に統制できていなかった、と本書は指摘します。

 徳川家との交渉中の且元を羽柴家が大坂城から追放した形になったことは、家康を激怒させました。徳川も羽柴もすぐに戦いになると判断し、戦備を整えます。ただ、羽柴家で徳川家との戦いを主導したのは、茶々と秀頼ではなく大野治長だろう、と本書は推測します。本書はこの茶々・秀頼と且元との対立は、羽柴家の将来をめぐる違いにあった、と本書は指摘します。羽柴家は明確に江戸幕府配下の一大名になることで安定的な存続が可能になる、と考えていた且元に対して、茶々と秀頼、とくに茶々は特殊な大名としての羽柴家に拘ったのではないか、と本書は推測します。また本書は、羽柴家において且元があまりにも大きな力を有していたことに対する反感もあったのではないか、と指摘します。本書は、羽柴家には且元以外に政治能力の充分な家臣はおらず、茶々も秀頼も政治経験が浅かったことに、羽柴家滅亡の要因を見ています。

初期現生人類のアフリカからの拡散

 初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、一度まとめようと考えていた現生人類の初期のアフリカからの拡散を取り上げており、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。現生人類のアフリカからの拡大(出アフリカ)に続き、究極的にはオセアニアとユーラシア東西の大人口集団の形成に至った人口動態は、長く議論されてきました。出アフリカの年代は7万年前頃(関連記事)から65000年前頃(関連記事)で、ユーラシア東西の人口集団間の最初の分岐は現代人のDNAデータから43000年前頃以降と推定されており(関連記事)、現在の主要な問題は、遺伝的に分化する前のアフリカからの初期移住の場所に関するものです。

 ユーラシアにおける50000~35000年前頃の人口集団および技術的変化の根底にある過程を解明するには、現代の大人口集団の形成を説明し、考古学的記録に見える文化的変化が、人口集団の移動や集団間の相互作用や収束や生物文化的交換の中間的メカニズムに寄与し得たのかどうか、理解することが必要です。この期間は、以下のように分類される技術的特徴に基づく、いくつかの技術複合の出現と交替により特徴づけられます。

 (1)初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)として広範に定義される容積測定とルヴァロワ(Levallois)手法を用いる石刃製作です(関連記事)。(2)石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられる石器インダストリーで、装飾品や骨器をよく伴い、上部旧石器(UP)と包括的に定義されます。(3)中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期に出現する非ムステリアン(Mousterian)および非IUPで、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やセレッティアン(Szeletian)やLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)で構成されます。古代DNAが利用可能な物質文化および層序の両方と関連する人類遺骸はわずかしかなく、文化的変化と人類の移住や、特定の人類集団の内外の相互作用との関連で多くの仮定を提示できます。

 遺伝的観点からの最近の二つの研究により、45000年前頃のヨーロッパには、全ユーラシア人の基底部に位置する人口集団(関連記事)か、現代人も含めて後のヨーロッパ人よりも古代および現代のアジア東部人の方と類似している人口集団(関連記事)が存在した、と明らかになりました。これにより、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された37000年前頃の若い男性(関連記事)に見られるヨーロッパ人の遺伝的構成要素が、どこでどのようにアジア東部のそれと分離したのか、という問題が提起されます。

 本論文は、最近の研究(関連記事)で提案された単純な人口集団系統樹から始めて、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の初期現生人類個体群(関連記事)を、すでに報告されている追加のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの遺伝子移入を除いて、追加の混合事象なしにさまざまな位置に追加しようと試みます。バチョキロ洞窟個体群の祖先と混合した可能性が高いヨーロッパのネアンデルタール人を、出アフリカ直後に全ての非アフリカ系現代人の祖先と混合したネアンデルタール人集団と異なることを考慮して、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人と密接なさまざまな分岐点としてモデル化しました。両方のネアンデルタール人集団が同じならば、推定される両者の分岐点は0になるでしょう。

 さらに、本論文の結果がユーラシアとアフリカ西部との間の後の人口集団の相互作用(関連記事)、もしくは古代型ゴースト人類集団とのムブティ人の推定される混合(関連記事)により駆動されるのを避けるため、ムブティ人の代わりに南アフリカ共和国の古代の狩猟採集民4個体(関連記事1および関連記事2)が用いられ、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)の姉妹系統としてバチョキロ洞窟初期現生人類個体群は最もよく位置づけられる、と明らかになりました。

 この位置づけは最近の研究(関連記事)と異なっており、これはqpGraphモデル化の最初の段階においてネアンデルタール人の遺伝的影響がすでにあることか、出アフリカ現生人類の基底部に位置する可能性がある、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のゲノムデータが利用可能であることに起因するかもしれない、と推測されます。コステンキ14個体を重要な古代ヨーロッパの標本として追加した後、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性(関連記事)は、田園個体およびバチョキロ洞窟初期現生人類個体群につながる分枝の基底部での分岐によりよく適合する、と明らかになりました。

 こうした知見を踏まえて提案される系統樹(図1A)からの想定では、ズラティクンはユーラシア集団内における全ての後の分岐の基底部に位置する人口集団として示されます。ズラティクンの分岐後、遺伝的にアジア東部系統(赤色)となるウスチイシム個体とバチョキロ洞窟初期現生人類個体群と田園個体などの古代人標本と、遺伝的にユーラシア西部人系統(青色)のコステンキ14やロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)との分離は、ユーラシア現代人の遺伝的構成要素の最初の主要な分岐を定義します。

 重要なことにこの構造は、現在の考古学的知見によると、大陸間規模の物質文化証拠の時空間的分布と広く合致します。年代的観点からは、図1Aの右側(赤色)は45000~40000年前頃の標本を、左側(青色)の標本は37000年前頃のコステンキ14個体とスンギール遺跡個体群を表しています。遺伝的距離から現れる構造は、技術的証拠でも確認されています。赤色の分枝は一貫して、IUP技術を直接的に示すか、時空間的にIUP技術に囲まれています。青色の分枝は、UP技術の文脈でおもに特徴づけられます。基底部のズラティクン(黄色)は、ムステリアンや非ムステリアンやIUP技術を示すヨーロッパ東部の遺跡と同年代です。

 ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase1」は、以前の研究(関連記事)でユーラシア現代人とは無関係の系統とみなされてきましたが、バチョキロ洞窟の初期現生人類個体群とネアンデルタール人との間の追加の混合としてモデル化できます(図1A)。この結果は、地理的および年代的観点から一貫しており、Oase1はバチョキロ洞窟個体群の5000年後の個体で、骨の洞窟はバチョキロ洞窟から数百km離れているだけです。また、以前の研究で主張された、非アフリカ系現代人全員に共有されるネアンデルタール人からの遺伝的影響の他に、Oase1の4~6世代前の祖先で追加のネアンデルタール人との混合があったことも改めて確認されました。そうした混合事象は、Oase1の祖先とみなせる、バチョキロ洞窟個体群もしくはその近縁な集団と共有されている可能性があります。これは、「骨の洞窟」で発見された別の標本(Oase2)のアジア東部人との遺伝的類似性とも一致します。

 本論文のモデルは次に、シベリアへの初期のIUPの移動の結果としてのウスチイシム個体(関連記事)と、より広範な移住事象の一部としての、少なくとも45000年前頃からヨーロッパに存在したバチョキロ洞窟個体群的集団の存在を説明します。この広範な移住は極東には4万年前頃に到達しており(田園個体)、ズラティクン的集団との相互作用は殆ど若しくは全くないものの、ネアンデルタール人との接触は時折起きました(関連記事1および関連記事2)。

 このモデルのUP分枝は次に、45000年前頃のかなり後に推定上の出アフリカ接続地から現れます。これは、ヨーロッパにおけるUP技術複合、とくにオーリナシアン(Aurignacian)の以前に仮定された出現の裏づけを明らかにするシナリオです。これは少なくとも部分的には、既存技術の在来というよりもむしろ、移民が契機となりました。アジア北部に関する限り、UPの遺産はすでに報告されているシベリアなどユーラシア内陸部のユーラシア西部構成要素に起因するかもしれません。具体的には、34950~33900年前頃となるモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)の個体(関連記事)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)と、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体(関連記事)です。

 スンギール個体群と田園個体の姉妹集団間のさまざまな割合での混合事象は、この観察をじっさいに説明できます(図1A)。これはヤナRHSとマリタ遺跡のより新しい年代によりさらに裏づけられ、37000年前頃以前のある時点での出アフリカ接続地からのUPの拡大に続く、シベリアのユーラシア西部構成要素の段階的到来と一致します。田園個体およびその後のアジア東部個体群におけるユーラシア西部構成要素の欠如は、侵入してくるUP人口集団の移動に対するアジア東部集団の抵抗、もしくは遺伝的にIUP的な人口集団の「貯蔵所」からのその後の再拡大に関する手がかりを提供するかもしれません。

 一方、ユーラシア西部のIUP人口集団は衰退し、最終的には消滅した可能性が高く、これは、本論文の人口集団系統樹が、既存のIUP集団もしくはネアンデルタール人とのさらなる混合を経ていないUP集団のヨーロッパにおける到来と一致する、という事実によっても示唆されます。この例外は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃となる1個体(Goyet Q116-1)で、田園個体との遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。Goyet Q116-1のアジア東部構成要素は、バチョキロ洞窟個体群的な集団と、追加の田園個体的構成要素を有するヨーロッパ西部に侵入してきたUP集団との間の相互作用として説明できます。それ以外の場合、ユーラシア西部のGoyetQ116-1標本でみつかるさまざまなアジア東部の基質は、IUP人口集団の分枝内のまだ報告されていない複雑さを説明します。

 これまでに利用可能な古代DNA標本を用いての、出アフリカ後のユーラシア人口集団の移動を説明するために必要な比較的単純な人口集団系統樹と、ズラティクンの基底部の位置を考慮して、オセアニア人口集団(現代パプア人)を系統樹内でモデル化し、長く議論されてきたユーラシア東西の人口集団との系統樹における位置づけの解決が試みられました。以前の研究(関連記事1および関連記事2)にしたがって、まずパプア人が非アフリカ系現代人系統の最基底部に位置づけられ、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合(関連記事1および関連記事2)が考慮されました。人類系統でまだ特徴づけられておらず、深い分岐の系統からの牽引を除外するため、標本抽出されたデニソワ人の古代DNAを系統樹内に含めることが避けられ、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)系統の代理のゴースト分岐が選択されました。

 その結果、単純にパプア人を基底部に位置づけること(ズラティクンの分岐の前か後のどちらか)は却下され、パプア人と田園個体との間の顕著な牽引が浮き彫りにされました。次に、パプア人を田園個体の姉妹系統としてモデル化した結果(図1B)、全ての一塩基多型を考慮しても解決できる限界外れ値が2つだけ生じました。この接続形態は、出アフリカ系統樹に沿って、および超えて、その位置が深くなるほど大きさが減少する基底部系統の寄与を考慮すると、わずかに改善される可能性があります。バチョキロ洞窟個体群および田園個体の祖先として94%、もしくは最基底部IUP系統として53%、ユーラシア東西の分岐前では40%、ズラティクン系統の前では2%、出アフリカ経路および以前の研究(関連記事)で提案された絶滅出アフリカ現生人類からの2%の遺伝的寄与に沿っています。

 とくに、より広範な出アフリカ系統樹内のパプア人の位置づけに関する全ての許容可能な解決は、ズラティクンを既知のゲノムデータが得られている出アフリカ個体間の最基底部として確証します。サフルランドの最終的な居住の下限に近い年代(37000年前頃)と合わせると、オセアニア人をアジア東部系統とユーラシア東西の基底部系統との45000~37000年前頃のほぼ均等な混合としての出現、もしくは、わずかな基底部出アフリカ系統か未知の出アフリカ系統の寄与の有無に関わらず、アジア東部系統の姉妹系統として位置づけるのが妥当です。本論文では、パプア人を田園個体の単純な姉妹集団として節約的に記述しますが、5つの同じ可能性の1つにすぎないことに要注意です。以下は本論文の図1です。
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 結論として、出アフリカ後の人口集団の接続地という概念を導入することで、本論文のモデルは堅牢で簡潔で節約的な枠組みを提供し、60000~24000年前頃のユーラシア全域の、これまでに利用可能な古代DNAデータが得られている最も代表的な人類間の関係を説明します。それは、推定される出アフリカ接続地からの3回だけの拡大で構成できます。ズラティクンは初期の拡大を反映している可能性があり、その後のユーラシア人に殆ど若しくは全く遺伝的痕跡を残さず、45000年前頃以前に出現しました(図2A)。この人口集団の移動は、48000~44000年前頃にヨーロッパ中央部および東部に出現した非ムステリアンおよび非IUP石器技術複合(セレッティアンやLRJなど)と関連していたかもしれない(関連記事)、と本論文は推測します。

 ユーラシアにおけるIUPと関連するその後の拡大は、以前の研究(関連記事)で提案されているように45000年前頃の可能性があり、本論文は、IUPがそれから5000年未満で地中海東岸(関連記事)やヨーロッパ東部(関連記事)やシベリアおよびモンゴル(関連記事)やアジア東部(関連記事)まで分布するようになったより広範な現象だった、と提案します。IUPと関連した集団はオセアニアには37000年前頃以前に到達し、ヨーロッパではバチョキロ洞窟個体群やOase1に示されるように、ネアンデルタール人との繰り返しの混合の後に消滅しました(図2B)。ヨーロッパ西部では同じ時間枠で、この相互作用がシャテルペロニアン物質文化の発展の契機として提案されていますが、地中海ヨーロッパのウルツィアン(Ulzzian)技術複合は、出アフリカ接続地からの追加のまだ特徴づけられていない拡大でより適切に説明できるかもしれません(関連記事)。

 観察されたデータを説明する最後の主要な拡大はUPと関連しており、45000年前頃以降で37000年前頃以前に起き、ヨーロッパにおいては、コステンキ14個体やスンギール個体群に代表される集団の再居住、もしくはGoyetQ116-1に代表される既存の集団との相互作用をもたらし、その5000~10000年後に東進すると、シベリアではヤナRHSやマリタ、またおそらくはモンゴルのサルキート個体のように、以前の拡大の波の子孫と混合した集団が形成されました(図2C)。したがって、現代人のゲノムから推定されるユーラシア東西の出アフリカ現生人類集団間の分岐年代と、これら2大人口集団の分化は、出アフリカ接続地からのIUPの拡大の推定年代により説明でき、その後でユーラシア西部人の祖先の接続地内での分化が続き、後に継続的なユーラシア間の遺伝子流動により低減されました。以下は本論文の図2です。
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 本論文は、現在の粗い分析規模での人口移動と一致する広範な文化分類を用いしました。本論文で観察された一般的な傾向は大まかな観点から得られたもので、分岐や地域適応や文化伝播や収束の実際の過程に関する具体的な仮説を検証するには、さらなる研究が必要です。同様に、推定される人口集団の接続地の正確な場所についてもまだ分かっていません。より多くの古代ゲノムデータと、現時点では既知の物質文化が複雑な軌跡を示唆している(関連記事1および関連記事2)、アジア南部および南東部の役割をよりよく理解することが必要です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文は査読前ですが、初期現生人類の拡散について最新のデータを用いて見直しており、たいへん有益でした。最近では査読前論文をあまり取り上げないようにしていましたが、本論文を読まずに初期現生人類の拡散についての記事を執筆しなくてよかった、と考えています。本論文は、今後公表されるデータも盛り込んで査読誌に掲載されることになるかもしれず、さらに洗練された内容になっているかもしれないので、査読誌に掲載されたら改めて取り上げる予定です。

 本論文からは、パプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人などユーラシア東部沿岸部祖先系統(関連記事)でおもに構成される集団の形成が複雑だった可能性も窺えます。パプア人などの主要な祖先集団がユーラシア南岸を東進したとすると、関連する4万年以上前の個体のゲノムデータを得るのは難しそうですから、ヨーロッパ人と比較すると、その形成過程の解像度は将来も粗いままである可能性は低くなさそうです。それでも、古代DNA研究の近年の飛躍的進展からは、ユーラシア東部沿岸部祖先系統の形成過程に関しても近いうちに大きな成果が提示されるのではないか、と期待されます。またこの問題は、デニソワ人との混合の場所および年代の観点からも注目されます(関連記事)。

 ユーラシア東西系統の分岐前に出アフリカ系統から分岐したと推測されていた(関連記事)ウスチイシム個体が、ユーラシア西部系統よりもユーラシア東部系統の方と近縁とされたことや、Oase1がバチョキロ洞窟個体群と近縁な集団の子孫とされたことなど、本論文の注目点は少なくありません。もちろん、これらの混合系統樹は実際の人口史をかなり単純化したもので、今後の追加データと分析手法の改良により、さらに実際の人口史に近い図が提示されていくだろう、と期待されます。

 ユーラシア東西系統が分岐する前に出アフリカ現生人類系統から分岐したズラティクンだけではなく、大きくはユーラシア東部系統に位置づけられるウスチイシム個体もOase1もバチョキロ洞窟個体群も田園個体(関連記事)も、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようです。本論文からは、出アフリカ後の現生人類は広大な地理的範囲に拡散していき、急速に遺伝的に分化していったものの、それら多様な集団のごく一部が現代人の主要な祖先になった、と考えられます。

 今後の注目は、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残し、ネアンデルタール人と殆ど若しくは全く混合していないと推測される基底部ユーラシア人(関連記事)の位置づけです。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000~24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(関連記事)。基底部ユーラシア人は、ズラティクン系統の前に出アフリカ現生人類系統から分岐し、アフリカ北部(関連記事)かアラビア半島南部に一定以上の期間存在したのかもしれません。

 本論文の最重要の特徴は、古代ゲノムデータと考古学的知見を組み合わせて、初期現生人類の拡散を検証していることです。本論文が指摘するように、現時点では大まかな観点から得られた一般的傾向にすぎないので、今後より正確な現生人類の拡散像を描くには、古代ゲノムと考古学のさらなる研究が必要です。また、特定の石器技術を特定の生物学的人類集団と結びつける危険性もあり、現生人類の所産とされていたヌビア式ルヴァロ技術の一部がネアンデルタール人の所産だった可能性も提示されています(関連記事)。とはいえ、現生人類拡散の主要な3段階を石器技術と関連づける本論文の見解はひじょうに興味深く、検証の価値が充分にあると思います。

 本論文の主題は初期現生人類の拡散と石器技術との関連ですが、本論文ではほとんど言及されていない問題で気になったのは、現生人類拡散後のヨーロッパにおけるネアンデルタール人の石器技術です。ズラティクンやバチョキロ洞窟個体群の事例と、4万年前頃と推定されているネアンデルタール人の絶滅年代(関連記事)からは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類が5000年以上共存したことはほぼ確実と考えられます。もちろん、両者がじっさいに遭遇した頻度はきわめて低かったでしょうし、それは、まだネアンデルタール人がヨーロッパに存在していた頃のズラティクンに、ネアンデルタール人との追加の混合の痕跡がないことからも示されます。

 しかし、バチョキロ洞窟個体群やOase1の事例からは、時としてヨーロッパで初期現生人類とネアンデルタール人とが混合したこともほぼ確実と考えられます。ヨーロッパでネアンデルタール人と現生人類が接触したことは確実で、両者の文化に影響を及ぼした可能性もあります。とくに注目されるのがシャテルペロニアンで、担い手がネアンデルタール人か現生人類なのか、ネアンデルタール人だとして現生人類からの影響はあったのか、議論が続いています(関連記事)。

 シャテルペロニアンの少なくとも一部の担い手はネアンデルタール人と考えられるので(関連記事)、全ての担い手が現生人類だった可能性はかなり低そうです。しかし、ネアンデルタール人の所産と考えられる遺跡数が減少するなか、フランス南西部~スペイン北東部にかけてシャテルペロニアンの遺跡が増加していることから、シャテルペロニアン遺跡の全てがネアンデルタール人の所産と考えると矛盾点が多く、現生人類がその形成に大きく関与していたのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。

 シャテルペロニアンに限らず、48000~40000万年前頃のヨーロッパの文化には、ネアンデルタール人と現生人類の両者もしくはその混合集団が担い手だったものもあるかもしれません。また、この時期のヨーロッパの文化に関しては、シャテルペロニアンをネアンデルタール人の所産と認めるにしても、現生人類からネアンデルタール人への文化的影響が強調される傾向にあるように思います。しかし、皮革加工用骨角器については、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の可能性が指摘されており(関連記事)、一定以上は双方向的な文化的影響を想定する方がよいように思います。

 本論文により改めて、現生人類と他の人類系統との間だけではなく、現生人類の間でも人類集団の移動や置換は珍しくなかったことが示されました。その意味で、いかに当初の想定よりも現生人類アフリカ単一起源説にずっと近づき(関連記事)、現生人類アフリカ単一起源説で単純な特定の1地域の起源を想定しなくなったとはいえ、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(関連記事)。


参考文献:
Vallini L. et al.(2021): Genetics and material culture support repeated expansions into Paleolithic Eurasia from a population hub out of Africa. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2021.05.18.444621

外来のマングースによる在来のカエルの進化

 外来のマングースによる在来のカエルの進化に関する研究(Komine et al., 2021)が公表されました。日本語のサイトからの解説記事もあります。もともと強力な捕食者がいない島の在来種は、あまり「逃げず」、新たに侵入してきた外来の捕食者に簡単に食べられてしまう、と知られています。その中でも、新たな捕食者からうまく逃げられない個体が頻繁に食べられ、少しでも上手く逃げられる個体が生き残りやすい、と考えられます。これは、高い逃げる能力という性質が世代を超えて受け継がれていく可能性を意味します。ここから、外来捕食者の強い影響を受けた島の在来種は、新たな捕食者に応じた逃避能力を発達させる、と予想されます。しかしこれまでは、新たな外来の捕食者に対して在来種がどのように応答しているのか、その詳細は知られていませんでした。

 奄美大島に1979年に導入されたマングースは、島全域には拡大しなかったものの、導入地点に近い地域では多くの在来種を減少させました。その後、環境省の駆除活動によりほとんどのマングースは駆除されましたが、もし在来種の逃避能力がマングースの捕食圧により進化したのであれば、マングースがいなくなっても、その変化が持続している、と予想されます。また、奄美大島には在来の捕食者としてヘビ類がいます。ヘビ類は待ち伏せ型の捕食者ですが、マングースは追跡型の捕食者です。ヘビ類などの待ち伏せ型の捕食者から逃げるためには瞬発的に逃げればよいものの、マングースなどの追跡型の捕食者(捕食性哺乳類)から逃げるためには、逃げ続ける能力(持久力)が必要と考えられます。

 この研究は、こうした捕食者のタイプの変化に在来種のカエルがどのように応答しているのか調べるため、2015年と 2016年の6~8月にマングースの影響が異なる地域において、逃避に関わる脚の長さや持久力の指標となるジャンプ可能回数などを計測しました。脚の長さはノギスを用いて計測し、ジャンプ可能回数は、手持ち網の中で何回までジャンプを繰り返す事ができるのか、その上限を計測しました。その結果、マングースの影響が強かった地域のカエルは、他地域と比較して相対的な脚の長さが長く、ジャンプ可能回数が多い、と明らかになりました。

 これは、マングースという追跡型の捕食者に応答し、わずか数十年の間にカエルの形態や持久力が発達した事を示しています。また、この調査を行なった時点では、環境省によりほとんどのマングースが駆除されています。ここから、マングースがいなくなっても、一度発達した形態や持久力はすぐには戻らない事が示されました。これは、マングースによりカエルの形態や持久力がわずかな時間で急速に進化し、世代を超えて受け継がれた可能性を示す結果です。外来種は、「逃避能力が低い」という島嶼生物ならではの性質を短期間のうちに変化させている、と明らかになりました。

 外来種による在来種の減少についてはとても多くの報告がありますが、形態や運動機能といった性質への影響は解明が始まったばかりです。この性質の変化という観点で外来種と在来種の関係を見ると、他の多くの生物でこれまで知られていなかった影響が明らかになるかもしれません。たとえば、外来種と問題なく共存しているように見える在来種も、実際は、本来持つ様々な性質が外来種によって変化しているかもしれません。また、外来種を駆除する事で数が回復した在来種も、その性質は本来持っていた性質とは異なるかもしれません。とりわけ、これまで多くの島嶼生物が外来種によって絶滅してきた、と知られていますが、たとえ絶滅に至っていない場合でも、本来の性質が変化している可能性も考えられます。島嶼生物の性質は、強力な捕食者がいないという特殊な環境で独自に進化してきた歴史を反映しています。進化の独自性を反映する性質への影響を評価することで、外来種による在来種への影響の実態や根深さが明らかになる、と期待されます。


参考文献:
Komine H, Iwai N, and Kaji K.(2021): Rapid responses in morphology and performance of native frogs induced by predation pressure from invasive mongooses. Biological Invasions, 23, 4, 1293–1305.
https://doi.org/10.1007/s10530-020-02440-0

アスガルド類古細菌の多様性および真核生物との関係

 アスガルド類古細菌の多様性および真核生物との関係に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。アスガルド類は最近発見された古細菌の上門で、真核生物に最も近縁な古細菌を含む、と推測されています(関連記事)。真核生物の祖先古細菌がアスガルド上門に属するのかどうか、また、その祖先が他の全ての古細菌類と姉妹群の関係にあるのかどうか(すなわち、生命系統樹が2つのドメインからなるのか、それとも3つのドメインからなるのか)については、議論が続いています。

 本論文は、アスガルド類古細菌の完全またはほぼ完全なゲノム162例について、比較解析の結果を提示します。このうち75例はメタゲノム再構築ゲノム(MAG)で、これまで未報告のものです。得られた結果は、アスガルド類の系統発生学的多様性を著しく拡大するもので、これに伴い、新たに6つの門が提案されます。これらには、暫定的に「ウーコンアーキオータ(Wukongarchaeota)」と命名された深い分岐の1系統が含まれます。

 この系統ゲノミクス解析の結果は、真核生物が古細菌内に起源を持つのか(生命系統樹の2ドメイン説)、それとも古細菌と真核生物が共通祖先らから分岐したのか生命系統樹の(3ドメイン説)、という真核生物とアスガルド類古細菌との間の進化的関係を明確に解明するものではありませんが、系統発生の構築に用いる種や保存遺伝子の選択に依存して、真核生物のアスガルド類起源(拡大されたヘイムダルアーキオータ–ウーコンアーキオータ系統の姉妹群として)、あるいは真核生物祖先の古細菌内でのより深い分岐のいずれかを支持しています(2ドメイン説)。

 アスガルド類ゲノム162例を用いた網羅的なタンパク質ドメイン解析の結果、真核生物に特徴的なタンパク質(ESP)の一群が大幅に拡大されました。アスガルド類のESPには不均一な系統分布および多様なドメイン構造が認められ、これは遺伝子の水平伝播、遺伝子喪失、遺伝子重複、ドメインシャッフリングを介した動的な進化を示唆しています。アスガルド類古細菌の系統ゲノミクスは、真核生物の祖先古細菌(アスガルド類内またはアスガルド類外)において、古細菌の可動性の「ユーカリオーム(eukaryome)」の要素が、大規模な遺伝子水平伝播を介して蓄積したことを示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アスガルド類アーキアの拡大された多様性およびその真核生物との関係

進化学:アスガルド類アーキアの新たなメタゲノム再構築ゲノム

 アスガルド類アーキアは、真核生物に特徴的なタンパク質(ESP)を多数コードしており、アーキアと真核生物の間の進化的関係を解明する試みにおいて重要な上門だと見なされている。今回E Kooninたちは、アスガルド類アーキアのメタゲノム再構築ゲノム(MAG)75例を新たに再構築し、それらを、公開されている87例のMAGと合わせて比較解析を行った結果を報告している。彼らは、アスガルド類アーキアのオルソログ遺伝子のクラスターを構築して系統発生学的解析に用いることで、新たに6つの主要なアスガルド類系統を発見した。著者たちはさらに、アスガルド類アーキアのコア遺伝子の一群を明らかにするとともに、アスガルド類ゲノムの真核生物的特徴を描写している。今回の解析結果は、真核生物がアーキア内に起源を持つのか(生命系統樹の2ドメイン説)、それともアーキアと真核生物が共通祖先らから分岐したのか(同3ドメイン説)という疑問を完全に解決するものではないが、今回示された系統ゲノミクス解析の結果は、真核生物が、アスガルド類内から生じたか、アーキア内のより深い分岐を持つ系統から生じたという筋書き(つまり2ドメイン説)と一致する。



参考文献:
Liu Y. et al.(2021): Expanded diversity of Asgard archaea and their relationships with eukaryotes. Nature, 593, 7860, 553–557.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03494-3

後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史

 後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。現生人類(Homo sapiens)は早くも4万年前頃にはアジア東部北方に存在していました(関連記事)。アジア東部北方の定義には、モンゴル高原と中国北部と日本列島と朝鮮半島とロシア極東山岳地域が含まれ、その全てはヨーロッパ中央部および南部と類似の緯度の範囲に位置します。ヨーロッパでは、人口集団の移動と規模は氷期の気候変動の影響を受け、たとえば人口規模は30000~13000年前頃に13万人~41万人の範囲で変動しました(関連記事1および関連記事2)。これらの気候変動は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000年前頃以降)と2(29000年前頃以降)におけるモンゴルでの人類居住の間隙を示唆する考古学的知見により明らかなように、アジアの高緯度地域および高地帯の人口史に同様の影響をもたらしたかもしれません。

 いくつかの研究により、9000年前頃から歴史時代にかけてのアジア東部古代人に関する理解が進展してきましたが(関連記事)、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも古い人類のゲノムデータは、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃となる人類の頭蓋冠(関連記事)の2点しか報告されていません。したがって、LGM亜氷期の前後のアジア東部北方の人口集団構造はほとんど知られておらず、アジア東部北方の40000~9000年前頃となる人類化石の欠如により、この先史時代の重要期間の理解が妨げられています。


●標本と古代DNA分析

 アジア東部北方の深い人口史を調べるため、アムール川地域の黒竜江省の松嫩平原(Songnen Plain)で発見された古代人25個体のゲノム規模データが生成されました。この25個体の放射性炭素年代は33590~3420年前です(以下、基本的に較正年代です)。この25個体は、考古学的文脈のない建設現場、もしくは夏の雨季に松花江(Songhua River)と嫩江(Nen River)の沖積堆積物に形成された、侵食された小峡谷や小さな渓谷で発見されました。これら25個体からDNAが抽出され、120万ヶ所の参照一塩基多型を用いて濃縮されたデータの網羅率は0.002~14.453倍です。1親等もしくは2親等の親族関係にある個体と、一塩基多型が25000ヶ所未満の個体を除外すると、20個体の採集データセットが得られました。一塩基多型が5万ヶ所未満の2個体には「_LowCov」という接尾辞がつきます。

 これら20個体は年代で5区分され、各集団内で類似のゲノム特性は人口集団として扱われます。その5集団とは、(1)更新世でもLGM前となるより早期(34324~32360年前頃)の1個体(AR33K)、(2)LGM末期の19587~19175年前頃となる1個体(AR19K)、(3)最終氷期末の14932~14017年前頃となる2個体(AR14.5KとAR14.1K、AR14Kと表記)、(4)12735~10302年前頃の4個体(AR13-10Kと表記)、(5)9425~3360年前頃の12個体(各表記は、AR9.2K_oが1個体、ARpost9Kが9個体、AR7.3K_LowCovが1個体、AR3.4K_LowCovが1個体)です(図1A)。以下は本論文の図1です。
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●LGM前に時空間的に広範囲に存在した田園個体関連祖先系統

 LGM亜氷期以前の更新世後期人口集団は、アジア東部では化石が限られているのでほとんど知られていません。アジア東部でもとくに北方の現生人類の初期の居住をよりよく理解するために、LGM前となる33600年前頃の女性個体AR33Kのゲノム特性が調べられました。まず、AR33K個体が他の世界の古代および現代の人口集団とどのように関連しているのか、f3外群分析を用いて調べられました。興味深いことにその結果からは、AR33Kとその7000年ほど前の田園個体が、他の全ての検証人口集団よりも相互により多くの遺伝的浮動を共有している、と示されました(図1Cおよび図2A)。D統計を用いた対称性検定でも、AR33Kと田園個体は他の全ての古代および現代の人口集団との比較でクラスタを形成する、と示されました。これは、qpGraphと最尤系統樹でも裏づけられます。さらに、これらの分析は、AR33Kと田園個体を全てのアジア東部人の基底部に位置づけ(図3A)、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入検出の分析では、AR33Kと田園個体は、以前の研究で報告されたように(関連記事)、より新しい人口集団と比較して種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)祖先系統の過剰を示す、明らかになりました。

 以前の研究で、田園個体はベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)と、他の同時代のユーラシア西部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、アマゾン地域の現代の人口集団と、他のアメリカ大陸先住民よりも多くのアレルを共有する、と示されました(関連記事)。AR33Kと田園個体との間の高い遺伝的類似性にも関わらず、AR33Kは田園個体ほどにはGoyet Q116-1と同じ遺伝的類似性を共有していない、と明らかになりました。代わりに、AR33Kは他のアジア東部古代人と類似の特性を示し、他のユーラシア西部古代人と比較してのGoyetQ116-1関連祖先系統の上昇傾向を示しますが、統計的有意性のちょうどカットオフ値かそれ以下でした。AR33Kが他のアメリカ大陸先住民よりもスルイ人(Suruí)と多くのアレルを共有している証拠は見つからないので、アジア東部北方ではLGM亜氷期前にすでに複雑な人口集団構造が存在していたかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 33600年前頃のAR33Kは34950~33900年前頃のモンゴル北部のサルキート個体(関連記事)とほぼ同年代で、AR33Kの発見場所からの距離はサルキート渓谷(1159km)も田園洞窟(1114km)も同じくらいです。サルキート個体は、田園個体関連祖先系統(75%)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)の関連祖先系統(25%)の混合と、以前の研究(関連記事)で提案されており、田園個体と同様にGoyet Q116-1とのつながりを示す、と推測されています。しかし、サルキート個体とは異なり、AR33Kは田園個体よりもヤナ関連祖先系統を多く有していません。これはおそらく、田園個体関連祖先系統が、LGM亜氷期前にアジア東部北方に、地理的にも(現在の北京近くの中国北方平原からモンゴル北東部のサルキート渓谷と中国北東部のアムール川地域まで)時間的にも(40000~33000年前頃)広範に存在していたことを示唆します。田園個体関連祖先系統を有する人々は、LGM前にアムール川地域で孤立したまま、モンゴルでヤナ関連祖先系統の人々と混合した可能性があります。以下は本論文の図3です。
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●LGM末における最初のアジア東部北方人の出現

 LGM亜氷期はヨーロッパでは先史時代の人口動態に大きな影響を及ぼしましたが(関連記事1および関連記事2)、この期間の深刻な気候変化がアジア東部北方の人口集団にどのように影響したのかについては、ほとんど知られていません。本論文は、26500~19000年前頃となるLGMのアジア東部の1個体(AR19K)の遺伝的証拠を報告し、それはこの過酷な期間の終わりにおけるアジア東部北方の人口動態の理解に重要です。

 まず、主成分分析(図1B)と外群f3分析(図1 C)を用いてAR19Kが評価され、AR19Kはそれ以前のアジア東部人と比較して後のアジア東部人とより多くの遺伝的類似性を有する、と示されました。AR33Kと田園個体は、AR19Kおよびその後のアジア東部人により共有されていない特有の遺伝的浮動を共有しており、これはqpGraphモデル化(図3A)と系統樹により支持される関係です。この特有の浮動はD統計にも反映さています。

 これらの観察から、アジア東部北方における人口集団の変化は、LGM末にはすでに起きており、レナ川中流のハイヤルガス(Khaiyrgas)洞窟(ロシアのサハ共和国)で発見された16900年前頃の未成年期女性1個体のゲノムデータに基づいて最近の研究で提案された、LGM後の人口集団の変化(関連記事)よりも早いことになります。この人口集団変化は、LGMにおいてもっと早く起きた可能性さえあります。なぜならば、22000~18000年前頃の間の遺伝的継続性が、シベリアのさらに西方のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡とアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の個体で言及されているからです(関連記事)。アムール川流域のLGM亜氷期における追加の遺伝学的および考古学的証拠が、この地域におけるAR19Kとその後の個体群により代表される系統の出現時期の解明に必要です。

 最近、遅くとも8000年前頃までに、山東省の變變(Bianbian)遺跡と淄博(Boshan)遺跡と小高(Xiaogao)遺跡と小荆山(Xiaojingshan)遺跡の個体群を含むアジア東部北方沿岸部古代人口集団(aCNEA)と、福建省の斎河(Qihe)遺跡と亮島(Liangdao)1・2遺跡と渓頭(Xitoucun)遺跡と曇石山(Tanshishan)遺跡の個体群を含むアジア東部南方沿岸部古代人口集団(aCSEA)とがすでに2つの異なる南北の遺伝的集団に分離していたかもしれない、と示されました(関連記事)。


 D統計を用いると、AR19Kは、本論文で新たに報告された14000~6000年前頃の他の個体とともに、aCSEAよりもaCNEAの方と遺伝的に近い、と明らかになりました(図2B)。小荆山遺跡と變變遺跡の個体に対するD統計が均衡しているのは、それらの個体群が他のaCNEAよりも相対的に多くのaCSEA祖先系統を有していることにより説明可能です。興味深いことに、qpGraphと Treemixを用いての混合グラフモデルでは、AR19Kは14000年前頃以降のアジア東部北方個体群の基底部に位置する、と明らかになりました(図3A)。

 これらの結果は、アジア東部系統の南北分離を指摘した研究の想定よりも1万年古い、早くも19000年前頃のアジア東部系統の南北分離の存在を明らかにします。さらに、14000年前頃よりも新しいアジア東部北方古代人は、AR14KよりもAR19Kの方との遺伝的浮動の共有が少なく、aCNEAにおけるAR19Kの基底部の位置と一致します。LGM亜氷期末となるAR19Kの分析は、AR19Kがこれまでに特定された最初のアジア東部北方人であり、アジア東部北方現代人とのある程度の継続性と、LGM以前にアジア東部北方に存在した現生人類(田園個体やAR33K)とは異なる遺伝的祖先系統を有する、と明らかにします。


●アムール川地域における遺伝的連続性とLGM後の人口集団の相互作用

 ロシア極東の沿海地方の悪魔の門(Devil’s Gate)洞窟(関連記事)と、アムール川流域(関連記事)の新石器時代の狩猟採集民・農耕民から得られた古代DNAデータにより、現代の人口集団との遺伝的連続性がアムール川地域において8000年前頃以来存在している、と明らかになりました。しかし、アムール川地域の人口動態は、8000年前頃以前に関しては不明確です。本論文のより新しい標本群は、遺伝的類似性と年代に基づいて、AR14KとAR13-10KとARpost9KとAR9.2K_oを含む 4つの下位集団に区分されます(図1B・C)。LGM亜氷期後の広範な年代からのこの標本抽出の増加により、アムール川地域およびその周辺地域における人口動態の解像度が向上します。

 全体として、主成分分析(図1B)と外群f3(図1C)とADMIXTURE分析からは、AR14KとAR13-10KとARpost9Kは遺伝的に悪魔の門新石器時代人口集団(悪魔の門N)と最も近い、と示唆されます。これは、D統計によりLGM後のアムール川地域人口集団が他のアジア東部北方古代人と比較して悪魔の門Nとより多くのアレルを共有していると示され(図4A)、qpGraphとTreemixでも裏づけられたので(図3A)、確認されました。

 さらに、14000年前頃以後の短いROH(runs of homozygosity)により測定されているように、個体間の関連性の減少が観察されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。この観察は、アムール川地域における局所的な人口規模の増加を示唆しており、それはおそらく、定住農耕への移行(新石器時代移行)に起因します。

 外れ値となる1個体はAR9.2K_oで、14000年前頃以後のアムール川地域の古代人口集団と遺伝的に密接です。興味深いことに、AR9.2K_oは古代山東省人口集団とも一部の遺伝的類似性を共有していますが、この人口集団間の相互作用の可能性は、さらなる標本抽出により確認される必要があります。本論文の結果から、アムール川流域の現代の住民と悪魔の門洞窟の人口集団との間で報告された遺伝的連続性は、おそらく早くも14000年前頃には始まり、以前の推定よりも約6000年さかのぼります。これは、アムール川地域における土器の最初の出現を示す考古学的記録と一致します。さらに、アムール川地域の大きな生物学的多様性により、人類は狩猟や漁労や畜産など多様で豊かな生存戦略を採用でき、この遺伝的連続性が支えられました(関連記事)。

 古代旧シベリア人(APS)として定義される古代の人口集団は、9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)と、バイカル湖南部のウスチキャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡の個体(UKY)により代表され、古代北ユーラシア人(ANE)の子孫で、アジア東部祖先系統を有する新たに到来した人々と混合した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。APSはアメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民集団と最も密接と示されており、細石刃技術の拡大およびマンモス・ステップ生態系の拡大と関連していました(関連記事)。

 しかし、アジア東部祖先系統を表す悪魔の門NとANE祖先系統を表す個体アフォントヴァゴラ3の2方向混合としてのAPSのモデル化は、UKYもしくはコリマでは成功せず、APSに寄与した可能性があるアジア東部人口集団はまだ特定されていない、と示唆されます。そこで、13000年以上前のアジア東部北方標本(AR19KとAR14K)とAPSとの間の関係が調べられました。qpAdmを用いると、UKY個体とコリマ個体はAR19K/AR14KとUSR1個体の混合としてモデル化できる、と示されます(図3B)。USR1は、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された、放射性炭素年代測定法により較正年代で11600~11270年前頃の個体です(関連記事)。

 qpGraphにより、AR14K関連人口集団はAPSの直接的なアジア東部起源集団である可能性も示されました(図3A)。これは、APSが他のアジア東部北方古代人よりも14000年前頃以後のアムール川地域人口集団の方と遺伝的に密接だった、と示唆するD統計とも一致します。14000年前頃以後のアムール川地域祖先系統は、APSのアジア東部構成要素にとって悪魔の門N祖先系統よりも適しているので、アムール川地域人口集団は、APS に寄与した可能性が高いANE関連人口集団との相互作用の最前線にいたかもしれない、と本論文は提案します。


●40000~6000年前頃のアジア東部北方古代人における適応的な遺伝的多様体

 古代DNAを用いてユーラシア西部人では選択が推測されていますが(関連記事)、アジア東部古代人のゲノムは限定されているので、アジア東部では同様の研究が妨げられてきました。本論文のデータを古代アジア東部人口集団の最近の研究と(関連記事)合わせると、適応的多様体の進化を理解するための、LGMの前後にまたがる40000~6000年前頃と大きな時間枠を提供できます。

 アジア東部人にとって1つの重要な適応的多様体は、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異です(関連記事)。これは、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達し、ゲノム規模関連研究では、より太い毛幹やより多くの汗腺やシャベル型切歯との関連が示されています。しかし、EDAR遺伝子のV370A変異の選択の背後にある正確なメカニズムは、現代人のゲノムのみで得られた証拠を用いて検出することは困難です。

 2つの選択メカニズムが提案されており、一方は2万年前頃の低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択(関連記事)、もう一方は3万年前頃の温暖湿潤気候期における体温調節の発汗を調節する選択です。本論文は、LGM亜氷期前の2個体となるAR33K と田園個体を除いて、V370A変異がAR19Kを含む全てのアジア東部古代人に見られることを示します。これは、V370A変異の高頻度への上昇がLGMもしくはその直後だった可能性を示唆します。

 古代DNAを用いてのこれらの直接的観察から、V370A変異は温暖湿潤環境期の選択だった、との仮説の可能性は低そうです。さらに、V370A変異の年代は、現代人のゲノムを用いて、大きな信頼区間(43700~4300年前)で11400年前頃と以前には推定されていましたが、本論文の直接的観察からは、AR19K個体で観察されるように(図4B)、このアレルは早くも19000年前頃に出現していたと示され、アレルの推定年代のより古くてより正確な上限を提供します。以下は本論文の図4です。
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 結論として、本論文の知見は、LGM亜氷期の前(33000年前頃以前)と後(19000~6000年前頃)を含む、アジア東部北方で長期にわたって起きた人口統計学的変化を明らかにします。この期間には14000年前頃以前に2つの大きな人口集団変化が起き、その後でアムール川地域における長期の遺伝的連続性が続きました。LGM以前には、田園個体関連祖先系統が広範に分布しており、アムール川地域ではヤナ関連祖先系統の証拠はありません。19000年前頃のLGM末には、田園個体関連祖先系統はアジア東部現代人祖先系統により置換された可能性が高そうです。

 また、AR19Kに代表される最初のアジア東部北方人口集団は、LGMの最終段階にアムール川地域に出現し、全てのアジア東部北方古代人の基底部に位置します。14000年前頃以後、アムール川地域の人口集団は遺伝的連続性を維持し、APSにとって既知の最も密接なアジア東部起源集団となります。APSの1系統は、アメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民集団と最も近縁となります。以前には知られていなかった人口動態を明らかにすることに加えて、本論文の分析は、EDAR遺伝子のV370A変異の出現年代を限定する古代DNAの証拠を提供し、V370A変異はLGMもしくはその直後に高頻度に上昇した、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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●本論文の限界

 本論文は後期更新世から完新世までの長期間の古代の個体群を提示しますが、詳細な人口動態の一部は、さらなる標本抽出を通じて検証される必要があります。まず、本論文で観察されたLGM後の人口集団の置換と、アジア東部北方人の環境変化への適応をさらに解明するために、LGM亜氷期を表すより多くの標本を収集しなければなりません。次に、アムール川地域と山東省沿岸部など周辺地域の古代の人口集団間の相互作用の可能性を実証するため、14000年前頃以後の追加の標本を収集しなければなりません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。田園個体(に代表される人口集団)は以前より、大きく見るとアジア東部系統に分類されるものの、現代人の直接的祖先ではない、と指摘されており(関連記事)、その後の研究でも同様の結果が提示されています(関連記事1および関連記事2)。この田園個体関連祖先系統がLGM前にはアジア東部北方において広範に存在していたことを、アムール川地域の個体AR33Kのゲノムデータにより本論文は証明しました。

 ただ本論文では、ベルギーのゴイエット遺跡の35000年前頃となる1個体(Goyet Q116-1)との遺伝的関係において田園個体とAR33Kとの違いも示されており、田園個体関連祖先系統の影響の強い人口集団でも4万~3万年前頃にはすでに遺伝的分化が進んでいた、と示唆されます。本論文でも言及された田園個体とGoyet Q116-1との遺伝的類似性については、最近重要な進展があり、45000年前頃のヨーロッパ東部にはアジア東部の古代人および現代人と遺伝的に類似した集団が存在し、Goyet Q116-1にも遺伝的影響を及ぼした可能性が指摘されました(関連記事)。

 田園個体関連祖先系統は、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようで、アムール川地域においては、田園個体関連祖先系統から現代人につながるアジア東部祖先系統への移行は、LGM末までには起きていたようです。現代人につながるアジア東部祖先系統を有する集団がいつどこからアムール川地域に移動してきたのかを解明するには、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 本論文は、アムール川地域における現代までの14000年にわたる遺伝的連続性を示した点でも注目されます。こうした更新世からの長期にわたる遺伝的連続性は、世界でも珍しいと言えるかもしれませんが、本当に珍しいのか、それとも古代DNA研究の進んでいない地域では長期の遺伝的連続性が一般的なのか、という問題に関しても、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 また本論文の注目点として、すでに先行研究で指摘されていた、完新世初期(新石器時代開始)の時点での、アジア東部における明確な南北の遺伝的分化(関連記事1および関連記事2)がすでに19000年前頃までに起きていた、と示したことも挙げられます。この遺伝的分化がどのようにして起きたのか解明するには、繰り返しになりますが、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 本論文では詳しく言及されていませんが、AR13-10K集団にまとめられている11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のY染色体ハプログループ(YHg)がDEに分類されていることも注目されます。これは、カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)のYHgがD1a2a2a(Z17175、CTS220)に分類されていることと関連しているかもしれません(関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では悪魔の門N系統構成要素の割合が高いと示されていることから、アジア東部北方にはかつてYHg-Dが現在よりも広く分布しており、そうした集団との混合により、紀元後3世紀に現在のカザフスタン南部にYHg-Dの個体が存在した、とも考えられます。この問題の解明も、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較するとかなり遅れており、人口史もヨーロッパほどには詳しく解明されていませんが、それでも近年の研究の進展は目覚ましく、今後の研究もできるだけ多く追いかけていきたいものです。今後の注目は、アジア東部南方系統の主要な分布地と考えられている長江流域の新石器時代集団のゲノムデータです。現時点では、長江流域新石器時代集団は、福建省の前期新石器時代個体と遺伝的に類似していると想定されていますが(関連記事)、前期新石器時代の時点で、すでにある程度遺伝的分化が進んでいることも想定されます。


参考文献:
Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040