初期現生人類のアフリカからの拡散

 初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、一度まとめようと考えていた現生人類の初期のアフリカからの拡散を取り上げており、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。現生人類のアフリカからの拡大(出アフリカ)に続き、究極的にはオセアニアとユーラシア東西の大人口集団の形成に至った人口動態は、長く議論されてきました。出アフリカの年代は7万年前頃(関連記事)から65000年前頃(関連記事)で、ユーラシア東西の人口集団間の最初の分岐は現代人のDNAデータから43000年前頃以降と推定されており(関連記事)、現在の主要な問題は、遺伝的に分化する前のアフリカからの初期移住の場所に関するものです。

 ユーラシアにおける50000~35000年前頃の人口集団および技術的変化の根底にある過程を解明するには、現代の大人口集団の形成を説明し、考古学的記録に見える文化的変化が、人口集団の移動や集団間の相互作用や収束や生物文化的交換の中間的メカニズムに寄与し得たのかどうか、理解することが必要です。この期間は、以下のように分類される技術的特徴に基づく、いくつかの技術複合の出現と交替により特徴づけられます。

 (1)初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)として広範に定義される容積測定とルヴァロワ(Levallois)手法を用いる石刃製作です(関連記事)。(2)石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられる石器インダストリーで、装飾品や骨器をよく伴い、上部旧石器(UP)と包括的に定義されます。(3)中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期に出現する非ムステリアン(Mousterian)および非IUPで、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やセレッティアン(Szeletian)やLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)で構成されます。古代DNAが利用可能な物質文化および層序の両方と関連する人類遺骸はわずかしかなく、文化的変化と人類の移住や、特定の人類集団の内外の相互作用との関連で多くの仮定を提示できます。

 遺伝的観点からの最近の二つの研究により、45000年前頃のヨーロッパには、全ユーラシア人の基底部に位置する人口集団(関連記事)か、現代人も含めて後のヨーロッパ人よりも古代および現代のアジア東部人の方と類似している人口集団(関連記事)が存在した、と明らかになりました。これにより、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された37000年前頃の若い男性(関連記事)に見られるヨーロッパ人の遺伝的構成要素が、どこでどのようにアジア東部のそれと分離したのか、という問題が提起されます。

 本論文は、最近の研究(関連記事)で提案された単純な人口集団系統樹から始めて、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の初期現生人類個体群(関連記事)を、すでに報告されている追加のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの遺伝子移入を除いて、追加の混合事象なしにさまざまな位置に追加しようと試みます。バチョキロ洞窟個体群の祖先と混合した可能性が高いヨーロッパのネアンデルタール人を、出アフリカ直後に全ての非アフリカ系現代人の祖先と混合したネアンデルタール人集団と異なることを考慮して、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人と密接なさまざまな分岐点としてモデル化しました。両方のネアンデルタール人集団が同じならば、推定される両者の分岐点は0になるでしょう。

 さらに、本論文の結果がユーラシアとアフリカ西部との間の後の人口集団の相互作用(関連記事)、もしくは古代型ゴースト人類集団とのムブティ人の推定される混合(関連記事)により駆動されるのを避けるため、ムブティ人の代わりに南アフリカ共和国の古代の狩猟採集民4個体(関連記事1および関連記事2)が用いられ、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)の姉妹系統としてバチョキロ洞窟初期現生人類個体群は最もよく位置づけられる、と明らかになりました。

 この位置づけは最近の研究(関連記事)と異なっており、これはqpGraphモデル化の最初の段階においてネアンデルタール人の遺伝的影響がすでにあることか、出アフリカ現生人類の基底部に位置する可能性がある、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のゲノムデータが利用可能であることに起因するかもしれない、と推測されます。コステンキ14個体を重要な古代ヨーロッパの標本として追加した後、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性(関連記事)は、田園個体およびバチョキロ洞窟初期現生人類個体群につながる分枝の基底部での分岐によりよく適合する、と明らかになりました。

 こうした知見を踏まえて提案される系統樹(図1A)からの想定では、ズラティクンはユーラシア集団内における全ての後の分岐の基底部に位置する人口集団として示されます。ズラティクンの分岐後、遺伝的にアジア東部系統(赤色)となるウスチイシム個体とバチョキロ洞窟初期現生人類個体群と田園個体などの古代人標本と、遺伝的にユーラシア西部人系統(青色)のコステンキ14やロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)との分離は、ユーラシア現代人の遺伝的構成要素の最初の主要な分岐を定義します。

 重要なことにこの構造は、現在の考古学的知見によると、大陸間規模の物質文化証拠の時空間的分布と広く合致します。年代的観点からは、図1Aの右側(赤色)は45000~40000年前頃の標本を、左側(青色)の標本は37000年前頃のコステンキ14個体とスンギール遺跡個体群を表しています。遺伝的距離から現れる構造は、技術的証拠でも確認されています。赤色の分枝は一貫して、IUP技術を直接的に示すか、時空間的にIUP技術に囲まれています。青色の分枝は、UP技術の文脈でおもに特徴づけられます。基底部のズラティクン(黄色)は、ムステリアンや非ムステリアンやIUP技術を示すヨーロッパ東部の遺跡と同年代です。

 ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase1」は、以前の研究(関連記事)でユーラシア現代人とは無関係の系統とみなされてきましたが、バチョキロ洞窟の初期現生人類個体群とネアンデルタール人との間の追加の混合としてモデル化できます(図1A)。この結果は、地理的および年代的観点から一貫しており、Oase1はバチョキロ洞窟個体群の5000年後の個体で、骨の洞窟はバチョキロ洞窟から数百km離れているだけです。また、以前の研究で主張された、非アフリカ系現代人全員に共有されるネアンデルタール人からの遺伝的影響の他に、Oase1の4~6世代前の祖先で追加のネアンデルタール人との混合があったことも改めて確認されました。そうした混合事象は、Oase1の祖先とみなせる、バチョキロ洞窟個体群もしくはその近縁な集団と共有されている可能性があります。これは、「骨の洞窟」で発見された別の標本(Oase2)のアジア東部人との遺伝的類似性とも一致します。

 本論文のモデルは次に、シベリアへの初期のIUPの移動の結果としてのウスチイシム個体(関連記事)と、より広範な移住事象の一部としての、少なくとも45000年前頃からヨーロッパに存在したバチョキロ洞窟個体群的集団の存在を説明します。この広範な移住は極東には4万年前頃に到達しており(田園個体)、ズラティクン的集団との相互作用は殆ど若しくは全くないものの、ネアンデルタール人との接触は時折起きました(関連記事1および関連記事2)。

 このモデルのUP分枝は次に、45000年前頃のかなり後に推定上の出アフリカ接続地から現れます。これは、ヨーロッパにおけるUP技術複合、とくにオーリナシアン(Aurignacian)の以前に仮定された出現の裏づけを明らかにするシナリオです。これは少なくとも部分的には、既存技術の在来というよりもむしろ、移民が契機となりました。アジア北部に関する限り、UPの遺産はすでに報告されているシベリアなどユーラシア内陸部のユーラシア西部構成要素に起因するかもしれません。具体的には、34950~33900年前頃となるモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)の個体(関連記事)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)と、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体(関連記事)です。

 スンギール個体群と田園個体の姉妹集団間のさまざまな割合での混合事象は、この観察をじっさいに説明できます(図1A)。これはヤナRHSとマリタ遺跡のより新しい年代によりさらに裏づけられ、37000年前頃以前のある時点での出アフリカ接続地からのUPの拡大に続く、シベリアのユーラシア西部構成要素の段階的到来と一致します。田園個体およびその後のアジア東部個体群におけるユーラシア西部構成要素の欠如は、侵入してくるUP人口集団の移動に対するアジア東部集団の抵抗、もしくは遺伝的にIUP的な人口集団の「貯蔵所」からのその後の再拡大に関する手がかりを提供するかもしれません。

 一方、ユーラシア西部のIUP人口集団は衰退し、最終的には消滅した可能性が高く、これは、本論文の人口集団系統樹が、既存のIUP集団もしくはネアンデルタール人とのさらなる混合を経ていないUP集団のヨーロッパにおける到来と一致する、という事実によっても示唆されます。この例外は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃となる1個体(Goyet Q116-1)で、田園個体との遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。Goyet Q116-1のアジア東部構成要素は、バチョキロ洞窟個体群的な集団と、追加の田園個体的構成要素を有するヨーロッパ西部に侵入してきたUP集団との間の相互作用として説明できます。それ以外の場合、ユーラシア西部のGoyetQ116-1標本でみつかるさまざまなアジア東部の基質は、IUP人口集団の分枝内のまだ報告されていない複雑さを説明します。

 これまでに利用可能な古代DNA標本を用いての、出アフリカ後のユーラシア人口集団の移動を説明するために必要な比較的単純な人口集団系統樹と、ズラティクンの基底部の位置を考慮して、オセアニア人口集団(現代パプア人)を系統樹内でモデル化し、長く議論されてきたユーラシア東西の人口集団との系統樹における位置づけの解決が試みられました。以前の研究(関連記事1および関連記事2)にしたがって、まずパプア人が非アフリカ系現代人系統の最基底部に位置づけられ、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合(関連記事1および関連記事2)が考慮されました。人類系統でまだ特徴づけられておらず、深い分岐の系統からの牽引を除外するため、標本抽出されたデニソワ人の古代DNAを系統樹内に含めることが避けられ、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)系統の代理のゴースト分岐が選択されました。

 その結果、単純にパプア人を基底部に位置づけること(ズラティクンの分岐の前か後のどちらか)は却下され、パプア人と田園個体との間の顕著な牽引が浮き彫りにされました。次に、パプア人を田園個体の姉妹系統としてモデル化した結果(図1B)、全ての一塩基多型を考慮しても解決できる限界外れ値が2つだけ生じました。この接続形態は、出アフリカ系統樹に沿って、および超えて、その位置が深くなるほど大きさが減少する基底部系統の寄与を考慮すると、わずかに改善される可能性があります。バチョキロ洞窟個体群および田園個体の祖先として94%、もしくは最基底部IUP系統として53%、ユーラシア東西の分岐前では40%、ズラティクン系統の前では2%、出アフリカ経路および以前の研究(関連記事)で提案された絶滅出アフリカ現生人類からの2%の遺伝的寄与に沿っています。

 とくに、より広範な出アフリカ系統樹内のパプア人の位置づけに関する全ての許容可能な解決は、ズラティクンを既知のゲノムデータが得られている出アフリカ個体間の最基底部として確証します。サフルランドの最終的な居住の下限に近い年代(37000年前頃)と合わせると、オセアニア人をアジア東部系統とユーラシア東西の基底部系統との45000~37000年前頃のほぼ均等な混合としての出現、もしくは、わずかな基底部出アフリカ系統か未知の出アフリカ系統の寄与の有無に関わらず、アジア東部系統の姉妹系統として位置づけるのが妥当です。本論文では、パプア人を田園個体の単純な姉妹集団として節約的に記述しますが、5つの同じ可能性の1つにすぎないことに要注意です。以下は本論文の図1です。
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 結論として、出アフリカ後の人口集団の接続地という概念を導入することで、本論文のモデルは堅牢で簡潔で節約的な枠組みを提供し、60000~24000年前頃のユーラシア全域の、これまでに利用可能な古代DNAデータが得られている最も代表的な人類間の関係を説明します。それは、推定される出アフリカ接続地からの3回だけの拡大で構成できます。ズラティクンは初期の拡大を反映している可能性があり、その後のユーラシア人に殆ど若しくは全く遺伝的痕跡を残さず、45000年前頃以前に出現しました(図2A)。この人口集団の移動は、48000~44000年前頃にヨーロッパ中央部および東部に出現した非ムステリアンおよび非IUP石器技術複合(セレッティアンやLRJなど)と関連していたかもしれない(関連記事)、と本論文は推測します。

 ユーラシアにおけるIUPと関連するその後の拡大は、以前の研究(関連記事)で提案されているように45000年前頃の可能性があり、本論文は、IUPがそれから5000年未満で地中海東岸(関連記事)やヨーロッパ東部(関連記事)やシベリアおよびモンゴル(関連記事)やアジア東部(関連記事)まで分布するようになったより広範な現象だった、と提案します。IUPと関連した集団はオセアニアには37000年前頃以前に到達し、ヨーロッパではバチョキロ洞窟個体群やOase1に示されるように、ネアンデルタール人との繰り返しの混合の後に消滅しました(図2B)。ヨーロッパ西部では同じ時間枠で、この相互作用がシャテルペロニアン物質文化の発展の契機として提案されていますが、地中海ヨーロッパのウルツィアン(Ulzzian)技術複合は、出アフリカ接続地からの追加のまだ特徴づけられていない拡大でより適切に説明できるかもしれません(関連記事)。

 観察されたデータを説明する最後の主要な拡大はUPと関連しており、45000年前頃以降で37000年前頃以前に起き、ヨーロッパにおいては、コステンキ14個体やスンギール個体群に代表される集団の再居住、もしくはGoyetQ116-1に代表される既存の集団との相互作用をもたらし、その5000~10000年後に東進すると、シベリアではヤナRHSやマリタ、またおそらくはモンゴルのサルキート個体のように、以前の拡大の波の子孫と混合した集団が形成されました(図2C)。したがって、現代人のゲノムから推定されるユーラシア東西の出アフリカ現生人類集団間の分岐年代と、これら2大人口集団の分化は、出アフリカ接続地からのIUPの拡大の推定年代により説明でき、その後でユーラシア西部人の祖先の接続地内での分化が続き、後に継続的なユーラシア間の遺伝子流動により低減されました。以下は本論文の図2です。
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 本論文は、現在の粗い分析規模での人口移動と一致する広範な文化分類を用いしました。本論文で観察された一般的な傾向は大まかな観点から得られたもので、分岐や地域適応や文化伝播や収束の実際の過程に関する具体的な仮説を検証するには、さらなる研究が必要です。同様に、推定される人口集団の接続地の正確な場所についてもまだ分かっていません。より多くの古代ゲノムデータと、現時点では既知の物質文化が複雑な軌跡を示唆している(関連記事1および関連記事2)、アジア南部および南東部の役割をよりよく理解することが必要です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文は査読前ですが、初期現生人類の拡散について最新のデータを用いて見直しており、たいへん有益でした。最近では査読前論文をあまり取り上げないようにしていましたが、本論文を読まずに初期現生人類の拡散についての記事を執筆しなくてよかった、と考えています。本論文は、今後公表されるデータも盛り込んで査読誌に掲載されることになるかもしれず、さらに洗練された内容になっているかもしれないので、査読誌に掲載されたら改めて取り上げる予定です。

 本論文からは、パプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人などユーラシア東部沿岸部祖先系統(関連記事)でおもに構成される集団の形成が複雑だった可能性も窺えます。パプア人などの主要な祖先集団がユーラシア南岸を東進したとすると、関連する4万年以上前の個体のゲノムデータを得るのは難しそうですから、ヨーロッパ人と比較すると、その形成過程の解像度は将来も粗いままである可能性は低くなさそうです。それでも、古代DNA研究の近年の飛躍的進展からは、ユーラシア東部沿岸部祖先系統の形成過程に関しても近いうちに大きな成果が提示されるのではないか、と期待されます。またこの問題は、デニソワ人との混合の場所および年代の観点からも注目されます(関連記事)。

 ユーラシア東西系統の分岐前に出アフリカ系統から分岐したと推測されていた(関連記事)ウスチイシム個体が、ユーラシア西部系統よりもユーラシア東部系統の方と近縁とされたことや、Oase1がバチョキロ洞窟個体群と近縁な集団の子孫とされたことなど、本論文の注目点は少なくありません。もちろん、これらの混合系統樹は実際の人口史をかなり単純化したもので、今後の追加データと分析手法の改良により、さらに実際の人口史に近い図が提示されていくだろう、と期待されます。

 ユーラシア東西系統が分岐する前に出アフリカ現生人類系統から分岐したズラティクンだけではなく、大きくはユーラシア東部系統に位置づけられるウスチイシム個体もOase1もバチョキロ洞窟個体群も田園個体(関連記事)も、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようです。本論文からは、出アフリカ後の現生人類は広大な地理的範囲に拡散していき、急速に遺伝的に分化していったものの、それら多様な集団のごく一部が現代人の主要な祖先になった、と考えられます。

 今後の注目は、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残し、ネアンデルタール人と殆ど若しくは全く混合していないと推測される基底部ユーラシア人(関連記事)の位置づけです。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000~24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(関連記事)。基底部ユーラシア人は、ズラティクン系統の前に出アフリカ現生人類系統から分岐し、アフリカ北部(関連記事)かアラビア半島南部に一定以上の期間存在したのかもしれません。

 本論文の最重要の特徴は、古代ゲノムデータと考古学的知見を組み合わせて、初期現生人類の拡散を検証していることです。本論文が指摘するように、現時点では大まかな観点から得られた一般的傾向にすぎないので、今後より正確な現生人類の拡散像を描くには、古代ゲノムと考古学のさらなる研究が必要です。また、特定の石器技術を特定の生物学的人類集団と結びつける危険性もあり、現生人類の所産とされていたヌビア式ルヴァロ技術の一部がネアンデルタール人の所産だった可能性も提示されています(関連記事)。とはいえ、現生人類拡散の主要な3段階を石器技術と関連づける本論文の見解はひじょうに興味深く、検証の価値が充分にあると思います。

 本論文の主題は初期現生人類の拡散と石器技術との関連ですが、本論文ではほとんど言及されていない問題で気になったのは、現生人類拡散後のヨーロッパにおけるネアンデルタール人の石器技術です。ズラティクンやバチョキロ洞窟個体群の事例と、4万年前頃と推定されているネアンデルタール人の絶滅年代(関連記事)からは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類が5000年以上共存したことはほぼ確実と考えられます。もちろん、両者がじっさいに遭遇した頻度はきわめて低かったでしょうし、それは、まだネアンデルタール人がヨーロッパに存在していた頃のズラティクンに、ネアンデルタール人との追加の混合の痕跡がないことからも示されます。

 しかし、バチョキロ洞窟個体群やOase1の事例からは、時としてヨーロッパで初期現生人類とネアンデルタール人とが混合したこともほぼ確実と考えられます。ヨーロッパでネアンデルタール人と現生人類が接触したことは確実で、両者の文化に影響を及ぼした可能性もあります。とくに注目されるのがシャテルペロニアンで、担い手がネアンデルタール人か現生人類なのか、ネアンデルタール人だとして現生人類からの影響はあったのか、議論が続いています(関連記事)。

 シャテルペロニアンの少なくとも一部の担い手はネアンデルタール人と考えられるので(関連記事)、全ての担い手が現生人類だった可能性はかなり低そうです。しかし、ネアンデルタール人の所産と考えられる遺跡数が減少するなか、フランス南西部~スペイン北東部にかけてシャテルペロニアンの遺跡が増加していることから、シャテルペロニアン遺跡の全てがネアンデルタール人の所産と考えると矛盾点が多く、現生人類がその形成に大きく関与していたのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。

 シャテルペロニアンに限らず、48000~40000万年前頃のヨーロッパの文化には、ネアンデルタール人と現生人類の両者もしくはその混合集団が担い手だったものもあるかもしれません。また、この時期のヨーロッパの文化に関しては、シャテルペロニアンをネアンデルタール人の所産と認めるにしても、現生人類からネアンデルタール人への文化的影響が強調される傾向にあるように思います。しかし、皮革加工用骨角器については、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の可能性が指摘されており(関連記事)、一定以上は双方向的な文化的影響を想定する方がよいように思います。

 本論文により改めて、現生人類と他の人類系統との間だけではなく、現生人類の間でも人類集団の移動や置換は珍しくなかったことが示されました。その意味で、いかに当初の想定よりも現生人類アフリカ単一起源説にずっと近づき(関連記事)、現生人類アフリカ単一起源説で単純な特定の1地域の起源を想定しなくなったとはいえ、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(関連記事)。


参考文献:
Vallini L. et al.(2021): Genetics and material culture support repeated expansions into Paleolithic Eurasia from a population hub out of Africa. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2021.05.18.444621