義江明子『女帝の古代王権史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。6世紀末~8世紀後半の日本においては女性君主(大王、天皇)が普遍的で、その背景には双系的親族結合と長老原理があった、と本書は指摘します。それが、律令など「中国」の漢字文化を導入して国家形成を進めていく過程で、父系原理・男系継承「中国」社会で長年かけて形成された法体系が導入されることになり、官人の支族意識・家意識・王位継承観など社会全般に大きな影響を及ぼし、古代の女性君主(女帝)の終焉をもたらした、というのが本書の見通しです。一方で本書は、双系的血統を尊重する観念がその後の貴族社会にも残り、庶民の間では公的父系原理のもとで双系的親族結合が現実に意味を持ち続けた、とも指摘します。ただ、全体的には日本は父系社会になっていった、と本書は評価します。

 双系社会で指導者となったのは男女の長老で、6~7世紀の大王(天皇)は男女ともにほぼ40歳以上で即位した、と推測されています。一方、父系直系継承は幼年での即位にもつながります。本書は、未熟な国家体制では、経験を積んだ熟年の王の人格的指導力が統治の必須要件だった、と指摘します。7世紀末に軽皇子が15歳(数え年)で即位し(文武天皇)、祖母の持統太上天皇の後見による「共治」体制が敷かれました。長老女性が退位後も太上天皇として年少男性の天皇を支える体制は、双系社会の長老原理を土台に、新たに導入された直系的継承への軟着陸だった、と本書は評価しています。以前は、古代の女帝父系直系継承を支える「中つぎ」とみなされてきました。女帝は、通常の皇位継承に困難がある場合の緊急避難的な擁立だった、というわけです。しかし、皇位継承の困難は必ずしも女帝の擁立に結びつかない、と本書は指摘します。「中つぎ」説は、高位の男系男子継承が法制化された明治時代に提唱され、1960年代に学説として確立しました。しかし現在では、そもそも世襲王権の成立自体、6世紀前半の継体~欽明期以降と考えるのが通説となっています。

 本書は卑弥呼までさかのぼって「女帝」出現の背景を解説します。卑弥呼や台与の事例から、弥生時代後期~古墳時代前期の王は世襲ではなく、選ばれる地位だったことが窺えます。この頃の日本列島の記述に関して、本書は政治的意味を有する「会同」の場に男女が参加していたことに注目します。また本書は、同時代の朝鮮半島と比較して、日本列島では身分差が大きくなかったことも指摘します。男女の区別なく政治に参加する慣行は8世紀半ばにも見られ、大事な農耕神事後の村の集会には男女が集まっていました。本書は、卑弥呼や台与が例外的な「女王」だったのではなく、考古学では古墳時代前期には日本列島各地に女性首長がおり、その割合は3~5割だった、と指摘します(関連記事)。

 またこの時代の婚姻は基本的に妻問婚と呼ばれる別居訪問婚で、8世紀頃まで男女の結びつきは緩やかだった、と本書は指摘します。男が複数の女と、女が複数の男と結びついていた、というわけです。ただ、夫婦の絆は弱かったものの、兄弟姉妹、とくに同母の場合は結びつきが強く、生涯を通じて互いに助け合い支え合ったようです。同一の墳墓の成人男女は、以前は夫婦と考えられがちでしたが、兄弟姉妹であることが弥生時代終末期から古墳時代を通じて一般的だったようです。

 いわゆる倭の五王の時代についても、『宋書』など「中国」史書の分析から、史書に親子関係とあってもじっさいにそうとは限らず、王は豪族連合の盟主であって血縁による世襲ではなく、政治的実力のある者が王に擁立されていた、と本書は指摘します。本書は、この時代に宋など中華王朝から任官されたのが男性に限定されていたことに注目します。男性首長が政治的優位を占めるようになりつつあった、というわけです。古墳被葬者の性別に関しては、副葬品から推測されており、刀剣類は女性首長でも副葬品とされますが、鏃と甲冑はおもに男性首長の副葬品だったようです。この推測に基づくと、古墳時代中期には首長の数において軍事統率者たる男性が女性を圧倒していたようです。ただ、対外軍事活動を契機に首長の軍事編成が進み、男性首長の数的優位がもたらされても、女性首長が消えたわけではなかった、と本書は指摘します。また本書は、卑弥呼に関してよく指摘される、宮殿に籠る「見えない」神秘的な王は、倭の五王の一人とされる軍事王ワカタケルも含めて倭国王としての強固な伝統だった、と指摘します。さらに本書は、5世紀後半までの倭王は基本的に連合政権で、王が首長たちに「共立」されて有力首長に「佐治」されるあり方は、男性の倭の五王も卑弥呼も同様だった、と指摘します。

 その後、6世紀に世襲王権が成立しますが、それは、欽明の後に4人続けて欽明の子供が即位したという事実の積み重ねの結果で、これ以降血統が王位継承の要件になった、と本書は指摘します。世襲王権成立後の重要な特徴は、双系社会を前提とした、権威と財の分散防止を防ぐ目的の王族の濃密な近親婚です。しかし本書は、濃密な近親婚は単に世襲王権の血統的権威・神聖性の高まりを意味しているだけではなく、有力氏族でも7世紀後半から8世紀にかけて近親婚を繰り返す現象が見られる、と指摘します。律令国家が形成されていく過程で、上層官人(貴族)に勢威と財が集積され始めており、貴族も一族内部で近親婚により政治的権威結集の核を生み出そうとしました。

 上述のように、古代においてはおおむね40歳以上が大王(天皇)即位の条件とされており、同世代の実力者間で王位が継承されてから次の世代に王位が移る「世代内継承」が行なわれていた、と考えられています。古代の村落でも40歳以上を長老とみなす慣行があった、と指摘されています。また、群臣が王を選ぶ仕組みは世襲王権が成立しても変わらず、双系的親族構造と合わせて、女性の大王(天皇)即位は排除されませんでした。本書は、こうした女帝輩出の基盤となった双系的親族構造や妻問婚からも窺える同母子単位の生活実態は、律令国家形成期に父系帰属原理が好適に導入されたことにより変容していき、日本は次第に父系社会になっていく、との見通しを提示しています。

 世襲王権成立後最初の女性君主(大王、天皇)となったのは推古でした。推古即位の根拠は敏達の「皇后」だったことに求められてきましたが、用明のキサキ(皇后)だった間人に政治的活動の痕跡がないことから、単に敏達のキサキだったからではなく、王権中枢での長年のキサキ経験と卓越した本人の資質も重要だった、と本書は指摘します。用明没後直ちに推古が即位しなかった要因は、いわゆる倭の五王に代表される軍事王の歴史があったからだ、と本書は推測します。なお、『隋書』に倭王の名が多利思比孤(タリシヒコ)見えることから、これを男性(具体的には聖徳太子)とみなす見解もありますが、「ヒコ」が男性名接尾辞として固定されるようになったのは早くても7世紀後半以降だろう、と本書は指摘します。推古の在位期間は30年以上に及び、その権威により群臣は次の君主(大王、天皇)の決定にさいして前君主の意向を尊重しないわけにはいかなくなりました。

 この延長線上に推古の次の「女帝」である皇極の「譲位」があります。大王(天皇)位が、群臣による選出ではなく姉から弟(孝徳)への「譲られ」、王権主導の権力集中が進みます。皇極は「譲位」後に「皇祖母尊」と号されました(難波宮跡で出土した木簡には「王母前」とあります)。本書はこれを、退位した王と新たに即位した王との「共治」という後の政治体制の原型と評価します。しかし、ともに後継候補者の子供がいる姉と弟の「共治」は破綻し、皇極は再び「即位」します(重祚して斉明天皇)。本書は、皇極の「譲位」を強制退位とする有力説に対して、「譲位」から「重祚」までの皇極の主導性は否定できない、と指摘します。「重祚」後の斉明は後飛鳥岡本宮の造営・遷居や長大な渠の掘削など、「宮都」構想を進めていきます。

 皇極以降、王位(皇位)継承も変わっていきます。すでに推古が没した時点で変化が見え始めていましたが、それまでの「世代内継承」から、現君主の遺志および現君主との血縁的近さが最重要となっていきます。皇極(斉明)の息子で斉明の次に即位した天智は、双系的血統と世代内年長者重視という継承理念からの転換を模索し、有力者で年齢も問題ない弟の大海人(天武天皇)よりも、まだ20代前半の息子である大友の将来の即位を構想していたのではないか、と本書は推測します。しかし、そうした構想があったとしても、壬申の乱により破綻します。また本書は、八角墳の導入など、皇極が夫である舒明とともに新たな王統を創出していき、両者の近い祖先が「皇祖」と称されていったことも指摘します。

 天武朝において男女の制度的区別が官人組織の編成として顕著に現れ、氏族に関しては父系の継承原則が定められますが、実際に氏が父系出自集団として明確に現れるのは9世紀以降でした。天武朝では皇位(王位)継承候補者たる御子(皇子)の序列化も吉野盟約などで進みました。しかし、それは容易ではなく、天武の息子の草壁が皇太子に立てられたと『日本書紀』にはありますが、草壁と大津や高市との違いはわずかで、天武最晩年の封戸加増でも3人は同額でした。この3人の地位はほぼ同等だったものの、天武の複数のキサキの中では、吉野盟約を機に鸕野讚良(持統天皇)が特別な地位を示し始めた、と本書は指摘します。本書はこれを、壬申の乱で顕著な活躍を示せなかった鸕野讚良による「記憶の簒奪」だった、と評価しています。

 鸕野讚良は天武没後に有力な皇子で甥でもある大津を謀反の罪で自害に追い込み、強力な統率者としての資質を群臣に示します。鸕野讚良は息子の草壁の死後に即位しますが、この即位儀は画期的だった、と本書は指摘します。かつて、新たな君主へのレガリア奉呈は、即位以前の継承者決定の儀式で、「群臣推戴」の象徴でしたが、鸕野讚良の即位式では、それが即位後の儀礼の一部に組み込まれました。本書はこの転換を可能に下背景として、天孫降臨神話を挙げます。天武が獲得した「神性」は天武個人の人格と結びついた一代限りのものでしたが、持統はそれを神話に基づいて普遍化・体系化した、というわけです。これにより、君主と群臣との一代ごとの相互依存的君臣関係に代わって、制度に支えられた新たな君臣関係が成立していきます。持統の後継者決定のさいには、かつての群臣会議とは異なり、継承候補者を自任する皇子たちも出席しました。それでも、後継者決定を群臣に諮る必要があったことに、前代からの慣習の根強さが窺えます。

 持統の後継者となった軽皇子(文武天皇)は、即位時にまだ数え年で15歳だったので、旧来の世代原理・長老原理を否定することになり、かなり強行的な即位でした。また本書は、持統にしても文武にしても、即位時には前天皇との血縁関係を掲げての正当化がなされていないことを指摘します。皇位継承における父系嫡系の血統理念は8世紀初頭に掲げられるものの、いったんは行き詰まって挫折し、それが定着するのは9世紀前半になってからでした。それでも、持統が現天皇の「譲り」による次の天皇決定という新た制度を構築したことに、大きな意義を認めます。これ以降、日本の王権において譲位は常態化します。なお本書は、唐が新羅の女王を忌避したとの言説は、唐の玄宗朝において則天皇帝の治世を否定する風潮の中で形成されたのではない、と推測します。

 持統により確立された、譲位した天皇(太上天皇)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代には一般的となります。しかし、この「共治」の先駆とも言える皇極とその弟の孝徳との関係が破綻したように、潜在的な対立関係を含む危険性がありました。また本書は、大宝令が参考にした父系原理の唐令とは異なり、双系原理を取り入れた、と指摘します。これと関連して本書は、持統の文武への譲位から孝謙の即位までを一貫して「草壁直系継承」の実現として描く通説に疑問を呈しています。

 太上天皇(やそれに準ずる皇族長老)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代を通じて続きます。この過程で、上述のように血縁による即位正当化の論理が出現します。しかし、その嚆矢とも言える元明の即位においても、父系直系継承の論理はまったく見られない、と本書は指摘します。それでも、文武の即位を契機として皇位には性差が現れ始めます。それは、女性がこれまで通り熟年で即位するのに対して、男性は年少でも即位します。本書はこれを、社会上層が父系原理へと移行する中での過渡的な在り方と評価しています。

 奈良時代にはまだ父系原理が貫徹していなかったことは、阿倍(孝謙・称徳天皇)内親王が「皇太女」ではなく皇太子だったことからも窺えます。唐では、皇太子が男性であることは自明だったので、安楽公主が皇太子的な地位を望んださいに、「皇太女」という地位を得ようとしました(実現しませんでしたが)。一方日本では、皇太子は男女の総称で、阿倍が皇太子となったのは想定内だった、と本書は指摘します。本書はそこからさらに、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての皇位継承は、持統→元明→元正→光明皇后と、長老女性の執政が途切れることなく続いた、と評価します。

 上述のように、太上天皇と現天皇とによる「共治」は潜在的な対立関係を含む危険性があり、それは孝謙太上天皇と淳仁天皇(というか天皇を擁する藤原仲麻呂)との対立として現実化します。この政争に勝った孝謙は重祚したと一般的には解釈されており(称徳天皇)、道鏡を共同統治者として、ついには道鏡に皇位を譲ろうとしますが、群臣の抵抗もあり、実現しませんでした。本書は、藤原仲麻呂が息子たちを親王に擬えたように、奈良時代には皇位世襲の観念は自明ではなく、道鏡の即位阻止を経てようやく、皇位の世襲が支配層の明確な規範として成立した、と指摘します。

 奈良時代末には、皇后をはじめとしてキサキの在り様も変わります。それまで独立して宮を営んでいたキサキたちが、後宮に集住するようになります。奈良時代末~平安時代には皇后の在り様も変わり、女帝即位につながりかねない「内親王皇后」が忌避され、「臣下皇后」が選択されていくようになります。この間に王権の在り様も変わり、天皇の統治を支える律令官僚制が成熟するなか、天皇の「共治者」の必要性が薄れていきました。平城上皇と嵯峨天皇の兄弟間の争い(平城上皇の変)の結果、嵯峨天皇により太上天皇の役割は大きく変わり、それまでのように譲位と同時に太上天皇と称せられるのではなく、天皇から太上天皇の宣下を受けることになり、国家の君主権は天皇一人に属することが明確化されました。仁明朝には、資質よりも血統の優先が明確化され、高位における直系継承原理が確立して奈良時代までの仕組みは理念として否定されます。

 本書は興味深い見解を提示していますが、女性皇族(王族)の「臣下」との婚姻が制約されていたこと、氷高皇女(元正天皇)や阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)が未婚だったことなどから、本書が主張するように皇位(王位)継承にさいして男系だけではなく女系も認められていたと言えるのか、本書の解説にはやや説得力が欠けていたように思えるので、疑問は残ります。ただ、本書が主張するように、当時の日本列島の社会が双系的だったことと、律令制導入を大きな契機として次第に父系制原理が浸透していったことは確かだろう、と思います。

 日本社会におけるこの移行に関しては、通俗的な唯物史観で想定されるような、母系制の「原始的な未開社会」から父系制の「文明的な社会」への移行期と把握するのではなく、そもそも現生人類(Homo sapiens)社会は本質的に双系的であり、社会状況により父系にも母系にも傾き、軍事的性格というか圧力の強い社会は父系に傾きやすい、と私は考えています(関連記事)。その意味で、飛鳥時代~平安時代にかけての日本社会における父系原理の浸透は、単に律令制の導入だけではなく、それとも大いに関連していますが、白村江の戦い後の軍事体制強化に大きな影響を受けたのではないか、と思います。そもそも律令制の導入の目的も、軍事的側面が多分にあったように思います。「未開」の母系社会が「発達」して父系社会に移行する、といった今でも日本社会では根強そうな見解は根底から見直すべきだろう、と私は考えています。