藤本透子、菊田悠、吉田世津子「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P15-23)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部は現生人類(Homo sapiens)がユーラシアに拡散した重要な経路上に位置すると考えられますが、近接するアジア南西部およびシベリアと比較して人類遺骸の残存が限定的で、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と現生人類との関係、あるいは初期現生人類とその後に拡散した現生人類との関係について不明な点がひじょうに多くなっています。その中で、考古学分野では旧石器時代に関する現地調査が進められ、既知の遺跡の再発掘や、新たな遺跡の発掘が行なわれてきました。旧石器時代より後の時代の方で証拠が多く見つかっているため、集団間の接触に関してモデル化しやすく、そのモデルは旧石器時代に応用する上でも意義深いので、新石器時代に関する研究も同時に進められています。一方、遺伝学でも、現生人類がアジア中央部に拡散した後の移動や集団間の関係について次々と明らかにされつつあります(関連記事)。文化人類学が直接の観察対象とする現代の社会は旧石器時代とは大きく異なりますが、農耕牧畜が開始された新石器時代以降に関する近年の研究結果を間に挟むことで、旧石器時代に関する考古学的証拠と現代の人類学から導き出されるモデルとの相互関係が考えやすくなります。

 このため、本論文は、アジア中央部に関する遺伝学の近年の成果もふまえて、文化人類学調査の結果の位置づけを試みます。とくに、生態環境への適応と集団間接触の影響について、居住形態、生活用品の製作と利用、象徴的意味をもつ墓地と墓碑に着目して検討します。これまでアジア中央部のウズベキスタンとクルグズスタン(キルギス)とカザフスタンを対象に、著者3 名は人類学調査を行なってきましたが、2020 年度は新型コロナウイルス感染症の拡大により現地調査を行なえず、昨年度までに収集したフィールドデータを整理してまとめる作業に注力しました。2020 年8 月にカザフスタンで開催された国際会議(大草原地帯の歴史と文化)に著者の一人(藤本氏)がオンライン参加し、考古学と人類学と遺伝学と歴史学の知見を総合してアジア中央部草原地帯の歴史と文化を解明しようとするこの会議はで得られた知見も、本論文で報告されます。


●アジア中央部における移動と集団間の接触

 ユーラシアの中央部に位置するアジア中央部は、人の移動が繰り返し生じてきた地域です。旧石器時代にアジア中央部に暮らしていた人々の姿やアジア中央部現代人との関係について、遺伝学的知見が蓄積されつつあります。それによると、アフリカを出て中東に到達した現生人類は、47000年前頃(この年代は確定していません)にユーラシア集団が東西に分岐しました。その後、ユーラシア西部集団の一部は、いわゆる北方経路でアジア東方に拡散し、ユーラシア東部集団は南方経路でアジア東方に拡散しました(この南方経路が確定したとは言えないように思います)。その後、シベリアではユーラシア西部集団とユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団が混合しました(関連記事)。

 アジア中央部でも、シベリアとやや事情は異なりますが、ユーラシア西部集団とアジア東部集団との混合が、近年明らかになりました。まず、ユーラシア西部集団に関しては、アジア中央部とヨーロッパとアジア南部という広域に関わる研究結果が報告されています(関連記事)。その研究によると、アジア中央部および南部の357個体の古代DNA解析の結果、インド・ヨーロッパ語族の広がりに関して新たな発見がありました。具体的には、アジア中央部に紀元前3000 年頃に現れたヤムナヤ(Yamnaya)文化の牧畜民が、ヨーロッパとアジア南部に拡散して遺伝的に大きな影響を残しており、インド・ヨーロッパ語族祖語を話していた可能性が高そうです。

 これ以後の時代に関する研究(関連記事)では、青銅器時代(紀元前2500年頃以降)から中世(紀元後1500年頃まで)に至る137 個体のゲノムが解析されました。その結果、ユーラシア草原地帯の住民の多くは、大部分がユーラシア西部集団祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有するインド・ヨーロッパ語族集団から、ユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団祖先系統を有する現代のテュルク系集団へと変化した、と示されました。鉄器時代を通じてユーラシア草原地帯で優勢だったスキタイは、共通する遊牧文化と動物文様で知られますが、後期青銅器時代の牧畜民とヨーロッパ農耕民とシベリア南部狩猟採集民という異なる起源をもつ人々から形成されていました。スキタイは後に、匈奴連合を形成した草原地帯東部の遊牧民と混合して西方に移動し、紀元後4~5 世紀にフンとしてヨーロッパに現れました。これらの遊牧民は、中世にいくつかの短期間のハン国が形成されたさいに、さらにアジア東部集団と混淆しました。スキタイに関しては、最近包括的な古代ゲノム研究が公表されました(関連記事)。

 10 世紀ころまでに東方からテュルク系の人々が到来し、それまでイラン系だったアジア中央部の住民が「テュルク化」したことは、歴史学では広く知られた事実です。しかし、人口比が不明だったため、それが言語の変化だったのか、それとも住民自体の大きな変化を伴うものだったのかは、よく分かっていませんでした。ゲノム研究により、アジア中央部のテュルク化とは、ユーラシアライブ集団に由来するイラン系の人々が、ユーラシア東部集団に由来するテュルク系の人々と混合した結果だった、とが示されたことになります。ただ、イラン系の人々はテュルク系と比較して人口は減ったものの、その後もアジア中央部の歴史で重要な役割を果たして現在に至っています。以前の研究(関連記事)では、ウズベキスタンとタジキスタンとキルギスとカザフスタンの現代人のゲノムも解析され、集団混合によりアジア中央部現代人が形成されてきたこと、またその混合には地域的偏りが見られ、イラン系住民が多い地域とテュルク系住民が多い地域では祖先集団の比率が異なることも示されています。

 カザフスタンでは現代人(テュルク系)1956個体、古代人(おもに青銅器時代から中世初期まで)117個体のゲノムが解析され、古代人のY染色体ハプログループ(YHg)はR1が54.8%、Q1が19.4%、J2aが6.5%で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHが19.6%、D4eが15.7%、Aが11.8%、Uが11.8%、C4が7.8%、Jが7.8%でした(5%以下のグループは省略)。一方、現代カザフ人の特徴は古代人とは異なっており、YHgではC2が47.6%、Rが14.5%、O2が7.6%、Jが5.6%、Gが5.6%、mtHgではZが20.6%、Dが17.0%、Uが12.2%、Cが9.7%、Aが5.1%、Bが5.1%です。YHgの分岐形態から類推された世界への拡散の様子(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P58)を参照すると、古代人YHgで最多のRはヨーロッパに多い系統で、現代カザフ人で最も多いCは南方経路でアジアに達した系統とされています。また、mtHg間の系統関係(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P 76)を参照すると、古代人にヨーロッパ集団、現代カザフ人にアジア集団にみられるmtHgの割合が高い、と示されます。この現在のカザフスタンにおける古代人と現代人のゲノム分析結果の差異は、北方経路のユーラシア西部集団に、南方経路のアジア東部集団の人々が入っていったことを示している、と考えられます。YHgの方がmtHgより偏りは大きいことも同時に注目され、「集団の混じり合いにおける性的バイアス」(David Reich『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』P331~334)に相当します。また、カザフ人に関しては、父系の外婚制の規範があることの影響も大きいと考えられます。
 
このように、遺伝子に反映された過去の集団の移動や通婚について詳細に明らかにされつつありますが、集団間の関係は遺伝子水準に反映されるものばかりではありません。8 世紀における中東からアジア中央部へのアラブの侵出、13世紀におけるモンゴルの中央アジア侵出などは、遺伝子に痕跡が残されている以上に文化・社会的影響が大きかった可能性もあります。さらに、18 世紀頃から20 世紀にかけては、イラン系およびテュルク系の人々が主に暮らしていたアジア中央部にスラヴ系の人々(とくにロシア人)が北方から侵出しました。その際、通婚は一部のみでしたが、集団間の接触による文化・社会的影響は広範な地域に及びました。現代を対象とする文化人類学研究において実際に観察できるのは、このイラン系およびテュルク系、スラヴ系の人々との直接的・間接的接触です。以下では、これまでの調査結果をまとめながら、集団の接触にともなう居住形態とその変化、生活用品(とくに器)の製作と利用、象徴的意味を持つものの製作と利用(とくに墓制と関連する墓碑)について検討されます。なお、言語系統が同一であっても生態環境への適応によって生業が変化し、別の集団を形成する場合があるため、言語系統と生業による集団の区分とその変化に留意することが必要です。


●居住形態とその変化

 旧石器時代には、アジア中央部に居住した現生人類は狩猟採集民として移動する生活を送っていた、と考えられています。新石器時代には、アジア南西部で開始された農耕牧畜が伝播し、定住生活が営まれるようになり、さらに紀元前1000年頃の気候の乾燥化に伴って、牧畜に特化して季節移動する遊牧民と、河川や泉などを中心とするオアシスで農耕を行なって定住する人々が生まれました。遊牧民と定住農耕民という2集団間の交渉は、20 世紀初頭まで形を変えながらも続きました。こうした生業と居住形態の変化の結果、現在ではアジア中央部に狩猟採集民は存在しません。この点で、狩猟採集の生活が形を変えながらも20世紀まで続いたシベリアとは異なっています。ただ、アジア中央部でもとくにシベリアに近い地域では、狩猟や植物採集が一部で行なわれています。たとえば、草原地帯に居住するテュルク系のカザフ人は牧畜を主な生業としていますが、狩猟や採集も行ないます。狩猟対象はキツネやウサギで、その毛皮で外套や帽子を作ります。また、野イチゴやラズベリーなどのベリー類の採集が現在も行なわれており、ベリー採集を生業の重要な一部とするシベリアと共通性があります。

 現在では狩猟採集をおもな生業とする人々が存在しない地域についても、民族考古学の手法を用いて季節移動という側面から分析する試みが行なわれており、温帯草原に暮らす人々の移動パターンは全体的に採集民(collector)に近いものの、夏季は頻繁に居住地を移動すること(forager的)が指摘されています。これまで草原地帯で発掘されている旧石器時代の遺跡は、おもに山麓で水源に近いところに点在しており、19世紀から20世紀初頭までの遊牧民の冬営地と立地条件が類似しています。つまり、山麓や岩山のかげで風を遮ることができ、なおかつ川や泉などの水源に近い場所にあります。20 世紀初頭までのカザフ遊牧民の移動パターンを、現地での聞き取りにもとづいて整理すると次の通りです。(1)温帯草原での居住と移動には季節による顕著な差があり、厳寒となる冬季には一地点に居住する傾向が強く、夏季には頻繁に移動します。(2)このため、居住の痕跡は夏営地には残りづらく、冬営地に残りやすくなります。後述の埋葬地も、冬営地のそばにまとまりやすくなります。(3)遺物は長期間滞在する冬営地に集中しますが、人々の交流は移動が容易な夏にむしろ活発です。肉の共食が、家族を超える集団の交流に重要な役割を果たしており、動物骨がその痕跡として意味をもつと考えられます(関連記事)。

 草原地帯におもに居住するカザフ人はテュルク系諸民族の一つですが、同じテュルク系でもウズベク人のようにより早く定住化した人々もいます。生業に基づく集団区分と、言語系統に基づく集団区分とが、一致しないことに要注意です。テュルクは遊牧民としてモンゴル高原からアジア中央部に到来しましたが、アジア中央部東方(東トルキスタン)では定住化し、西方(西トルキスタン)では定住した人々と遊牧を継続した人々に分かれました。これは、アジア中央部西方ではオアシスの間に草原が広がっている、という生態学的な条件の差異によるものと指摘されています。13 世紀にはモンゴル系の人々が支配階層として到来しましたが、次第にテュルク系に吸収され、草原のテュルク系遊牧民とオアシスのイラン系・テュルク系定住民の両方の社会上層に入ることになりました。

 生態環境への適応は、社会組織にも影響を与えました。父系出自で夫方居住である点は、アジア中央部のテュルク系・イラン系諸民族に共通しますが、遊牧民は外婚制の規範をもつ点で定住民と異なります。たとえばカザフ人の間には、父系7 世代をさかのぼって共通の祖先がいる場合は結婚しない、という規範があります。この外婚制の規範は、父系親族集団の認識とも部分的に重なり合います。遊牧民の間でこうした血縁にもとづく集団認識があったのに対して、定住民は居住する町とその内部の居住区が生活の単位で、地縁に基づく集団認識を有していました。同じテュルク系に属する諸民族の間でも、居住形態や結婚に関する規範が、自他を区別する際の指標となってきました。

 こうした状況をさらに複雑にしたのが、スラヴ系集団(おもに定住農耕に従事)のアジア中央部侵出により、居住形態に変化が生じたことです。カザフスタンにおける居住形態の変化に加えて、ウズベキスタンとキルギスの事例を検討すると、(1)イラン系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、(2)イラン系定住民・テュルク系定住民の居住地域にスラヴ系が定住、(3)テュルク系遊牧民の居住地域にスラヴ系定住民が進出して定住、(4)スラヴ系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、という4パターンがあります。このうち、カザフスタンの事例は(3)と(4)に含まれます。季節的移動性の高い集団(遊牧民)と低い集団(定住農耕民)は、通常は自然環境によって住み分けますが、(3)のパターンでは、定住的な生活をする集団が草原に進出したことで季節的移動性の高い集団を圧迫しました。そのさい、草原に点在する湖や森林など、限定的ではあるものの周囲と異なる環境が進出の足掛かりとなった点は注目されます。ミクロな環境への適応が、集団間の新たな接触と居住形態の変化に結びついた、と考えられます。


●器に注目した生活用品の製作と利用

 居住形態とその変化および集団間の接触は、生活用品の製作と利用にも影響を与えてきました。本論文は、生活用品のなかでもとくに器(容器や食器)に着目します。アジア中央部の乾燥した気候条件では、河川の流域や山岳地帯をのぞけば植物は限られています。このため、とくに草原地帯では、動物資源の利用が相対的に重要です。現在も骨製品がごく一部とはいえ使われ続けている他に(関連記事)、毛皮やなめし皮の利用がさかんです。毛皮は防寒着に使われ、なめし皮は衣服の他に馬乳酒を入れる革袋に加工され、容器としても用いられます。動物の胃や腸などの内臓も、容器として活用されます。たとえば、ヒツジの胃袋を洗って表面をナイフでなめらかに整えた後で干して匂いをとり、それを水でもどしてから油脂(バター)を詰めて保存します。ウシの盲腸も同様に、油脂を保存するために利用します。胃や腸を加工した容器を使うと空気が入らず、油脂の品質が長期間保たれるためです。また食器に関しては、定住化以前は木製の大皿が肉料理用として、椀が馬乳酒用として用いられていました。移動する生活では、土器や陶器など壊れやすい材質のものは好まれず、このように動物資源を活用した容器や、木製品と金属製品が多く使われていました。

 一方オアシスでは、定住民により土器や陶器が製作され使用されてきました。土器や陶器は旧石器時代にはアジア中央部には存在しませんでしたが、人の行動パターン、とくに製品や技術の変化に関するモデルを抽出する上で参考になると考えられます。こうした観点からの陶工の調査では、アジア中央部オアシス地帯では8 世紀頃まで土器と金属器がおもに使われていたものの、アラブの侵攻により生活全般に及ぶ規範であるイスラム教が新たに伝えられ、次第に浸透したことを契機として、陶器の製作と利用が盛んになりました。陶器は用途に合った共通様式の確立後、その形が数世紀にわたりほとんど変化しませんでした。その一方で、陶土や釉薬は製作地近くから調達され、各オアシスで異なる特徴を生み出すことになりました。オアシスごとに陶器の色彩や文様に特徴があることは、オアシスごとの帰属意識が強いこととも重なり合います。

 遊牧民との接触の影響については、13 世紀にモンゴル系遊牧民がアジア中央部を支配した時期に、一時的に陶器の質は低下したものの、復興すると同じ形態の陶器が作られるようになりました。これは、陶器を製作する集団にあまり変化がなかったためと推測されます。一方、テュルク系遊牧民との接触を示すものとして、文様や色の特徴が挙げられます。たとえば、草原地帯とオアシス地帯の境界線上に位置するチャーチュ(現タシケント)で見られる動物文様は、草原地帯の衣服の動物文様とも共通性があります。また、陶器の青い色合いは、テングリと呼ばれる天の神を信仰したテュルク系遊牧民の好みの影響と言われています。

 技術変化に関しては、陶器製作の事例から、(1)革新的技法の導入と(2)秘儀の継承を指摘できます。革新的技法の導入については、軟質磁器の技法(カオリンを含まない陶土を磁器に近づけます)と、後述の20世紀における磁器製作の導入の例があります。ウズベキスタンの陶土にはカオリンが含まれないため、磁器を製作できません。しかし、磁器に似せて高温で硬く焼きしめた陶器、つまり「軟質磁器」を製作する技法が14~16世紀のティムール朝時代にサマルカンドで開発されました。その後、19 世紀にフェルガナ盆地のリシトンで、軟質磁器は盛んに生産されるようになりました。リシトンの陶工が、他のオアシス都市に赴いて技術を学んで持ち帰ったとされます。つまり、個人が先進地域に行って革新的技法を身に着け、周囲にそれを伝えるという形態です。この他、5~6代前の祖先がサマルカンドから移り住んできたという伝承を持つ住民が1948~1950 年の調査で確認されており、彼らがサマルカンドから軟質磁器の製法をもたらした可能性もあります。この場合は、革新的技法を持つ小集団が別の地域に移住してそれを伝える、という形態になります。

 復興を経て現在も秘儀として継承される技術としては、陶器の植物灰釉イシコールの事例が挙げられます。イシコールの原義はアルカリで、植物の灰を燃やしてガラス質を取り出して釉薬とします。ろくろ成形や複雑な顔料や釉薬の配合といった一種の秘儀については、親方たちは息子や甥といった、身近な親族にのみ伝えようとするのが一般的です。イシコール技法は基本的に男系で世襲され、娘が継ぐ場合はまだありません。息子や甥が陶工としての資質を欠いている場合は伝承されないか、親族関係のない弟子に伝えられます。

 陶器製作に関して高度で秘儀的な技術があるのに対して、開始されてまだ数十年の磁器製作に関しては、秘儀的な技術の継承は観察されていません。磁器は、スラヴ系(ロシア人)との接触を契機として19世紀以降のアジアで中央部広く使われるようになりました。ウズベキスタンでは、20世紀にタシケントに磁器製作が導入され、そこに行って技法を学んだ者によって、リシトンに磁器製作が導入されました。陶器製作技術をもとに磁器製作技術を導入するのは、比較的容易だったと考えられます。陶土が地元で産出するのに対して、カオリンを含んだ磁器用の土は他地域から運搬します。つまり、運搬が可能になったことで磁器を生産できるようになりました。磁器に変わっても、製作される食器の形状は陶器の場合と基本的に変わらず、アジア中央部の生活に則した共通様式が継承されており、文様には地域的特徴が表れています。


●墓制と墓碑など象徴的意味を有するものの製作と利用

 象徴的行為が窺われる遺物として、旧石器時代を対象とした考古学研究では、装身具や墓などが注目されてきました。墓をめぐる社会的な制度を、本論文は墓制と呼びます。葬送が行なわれ、墓地を造るのは、集団意識の芽生えや世代を超えた連続性の意識を示すものでしょう。旧石器時代における葬送と埋葬の展開についての詳細な研究によると、中部旧石器時代に死者を置く場所が次第に定められ、やがて遺体を埋葬するという行為が発展しました。上部旧石器時代には複数の遺体を埋葬する場所が明確となり、副葬品の事例も増加します。しかし、複数の人々が同じ場所に恒常的に埋葬されて明確な「墓地」が形成されるようになるのは上部旧石器時代末以降で、農耕が開始されたこととも関連していると考えられます。

 アジア中央部では、旧石器時代の葬送や埋葬に関しては明らかになっていないことが多いものの、青銅器時代以降は人類遺骸の出土が増えます。草原地帯では、スキタイの墳墓など、遊牧民の首長の墳墓がよく知られています。時代を下って、アラブとの接触によりイスラム教がアジア中央部にもたらされると、8世紀にはオアシス都市の定住民に浸透し、次第に草原地帯の遊牧民にも広まりました。モンゴル帝国のアジア中央部侵出時には、モンゴル君主が埋葬品や殉死者と共に埋葬されましたが、やがてイスラム教を受容したことにより埋葬方法も改められました。イスラム教を受容した後の埋葬形態は、定住民も遊牧民も基本的にはメッカの方角に向けて土葬し副葬品はない、という点で共通します。しかし、地上の建造物や埋葬地や埋葬される集団の範囲には、地域と時代により多様性が見られます。このため、(1)どこに死者を埋葬するのか(埋葬地)、(2)誰を同じ墓地に埋葬するのか(埋葬する集団の範囲)、(3)地上に何を残すのか(墓の形状)について調査されました。(1)は居住形態、(2)は社会関係、(3)は象徴的行為に関連します。

 (1)埋葬地と、(2)埋葬する集団の範囲に関しては、オアシスと草原および山岳地帯とで、異なる結果が得られました。オアシスにおける居住地の一例として、イラン系住民(タジク人)とテュルク系住民(ウズベク人)は混住しており、マハッラと呼ばれる居住区にもとづいて墓地が形成されています。AマハッラとBマハッラの共同墓地、CマハッラとDマハッラの共同墓地というようにまとめられており、イラン系住民とテュルク系住民の墓地は区別されていません。一方、19世紀頃以降に移住してきたスラヴ系住民は、スラヴ系住民の居住区を別個に形成し、従来のイラン系・テュルク系住民の墓地に近接して、別個の墓地を形成しました。これは、イラン系住民とテュルク系住民が1000年以上に及ぶ接触の歴史のなかで信仰(イスラム教)を共有し、次第に同じ居住区に暮らす住民として地縁にも基づく集団の意識が醸成されたのに対して、スラヴ系住民は接触の歴史が100~200年程度と比較的短く、キリスト教徒としてイラン系・テュルク系住民とは信仰を共有していない、という集団間接触の差異によるものと考えられます。

 一方、山岳地帯および草原地帯での調査によると、20世紀初頭まで季節移動していたテュルク系の人々(カザフ人とクルグズ人)は、季節移動の経路に沿って冬営地付近に埋葬地を設ける場合が多かった、と明らかになりました。厳しい寒さを避けられる冬営地は、草原においては岩山陰など立地条件が限定されており、夏営地よりも一ヶ所に滞在する期間が長かったため、そこに埋葬地も設けられた、と考えられます。埋葬される集団の範囲が、血縁(とくに父系の親族関係)に基づいていたことは、オアシス地帯とは異なる特徴です。

 19世紀から20世紀にかけて、スラヴ系住民の到来の直接的・間接的影響により定住化が進展すると、埋葬地や埋葬される集団の範囲は変化しました。この変化は山岳地帯においては、埋葬地が山麓から平原に変更されるという垂直移動として現れました。集団の範囲は拡大し、複数の父系親族集団が共同墓地に埋葬されるようになりました。一方、草原地帯では、点在していた埋葬地が定住化に伴ってより大きな共同墓地へと集約されるという、水平方向の変化が生じました。埋葬される範囲が、小規模な父系親族集団から複数の父系親族集団の合同へと拡大されたことは、山岳地帯と同様でした。このように、オアシス地帯と草原・山岳地帯とでは、生態学的条件により、埋葬地と埋葬される集団の範囲、およびその変化の過程に違いが見られました。その一方で、スラヴ系住民がテュルク系住民とは別に墓地を形成した点は中央アジア全体に共通しており、両者の接触期間が比較的短いことと、信仰の差異が集団としての意識に影響している、と示されます。

 (3)墓の形状については、山岳地帯では盛土の上に天然の石や木片を置いただけのものから泥土を固めた墓標に移行し、次いで日干レンガや御影石やコンクリートなどが墓に使われるようになったそうです。また、肖像写真プレートや造花なども見られるようになりました。このうちとくに肖像写真プレートの製作技術の導入に関しての詳細な調査によると、写真焼付はロシアで始まり、ロシアから移住した男性がキルギスに導入した技術と判明しました。首都ビシュケクで普及した肖像写真プレートは、やがて村落部のキルギス人によって、「見て真似る」ことを通して取り入れられました。導入の先駆けとなったキルギス人たちは一定の社会的地位を有しており、自分の居住地から他の居住地へと行って帰ってきた(あるいは往来する)人物でした。肖像写真プレートが多くキルギス人に受容されるに至ったのは、誰のために死後の平安と冥福を祈るのか、明確にする必要があると考えられているためでした。こうして、肖像写真プレートという革新的技法は、観察から模倣へと進むことを通して点から面に広がり、間接的接触をとおして積極的に採用されました。

 草原地帯に居住するカザフ人の墓の形状も、おおよそキルギス人の場合と同様の過程を経ています。ただ、スラヴ系との直接的な接触が早い時期から生じていた点で異なります。たとえば、19世紀に墓碑を建設されたカザフ人男性は、生前にロシアとの間を行き来していた有力者でした。墓碑導入の先駆けと言えますが、すぐには模倣されなかったのは、資材が不充分だったためと考えられます。墓碑が一般化するのは20世紀になってからで、その後にロシア人の間で広まった肖像写真プレートがカザフ人の間でも用いられるようになりました。肖像写真プレートが積極的に受容されたのは、特定の故人(とくに父系の祖先)のために子孫が祈ることを重視しているためと考えられます。つまり、テュルク系の人々の文化的・社会的文脈にそった形で、新たな技術が受容されました。また、碑文に故人の父系クラン名が刻まれることも、スラヴ系とは異なる特徴です。

 このように新しい技術を他地域から導入しつつ、地域によって独自の墓の形状が発展してきたことも改めて示されます。たとえばカザフスタン北東部では、緑がかった層状の石を積みあげて、1~2mの高さの囲いを設け、さらにドーム状の飾りをつける形態が見られます。カザフスタン東部の様式としては、天幕の形状に似た木製の囲いが挙げられます。またフェルガナ盆地のリシトンでは、陶器で飾った囲いを陶工が設置した事例もあり、陶器製作に携わる住民が多い地域ならではの独自の様式と言えそうです。まとめると、埋葬地の変化は、集団間の接触による居住形態と居住地の変化を反映しています。埋葬される集団の範囲は、居住集団の範囲と対応関係にあります。墓の形状には、死後の世界に関する観念だけでなく、祈りの対象を明確にするという語りに見られたように、死者と生者の関係性についての観念が反映されます。新たな技術が導入される場合も、こうした観念に適合したものの製作技術が積極的に取り入れられています。


●まとめ

 本論文は、山岳とオアシスと草原という異なる環境での調査を統合し、アジア中央部社会のより全体的な把握を試みました。ユーラシアの西部集団と東部集団(とくにアジア東部集団)の混合が示すように、アジア中央部では西方からの移動の後に東方からの移動が生じており、集団の形成過程がひじょうに複雑です。集団間の接触が繰り返されてきた結果、アジア中央部に居住していた旧石器時代の集団と現代の集団は、ゲノムにみられる特徴が異なります。また、狩猟採集をおもな生業とする人々は現存しません。しかし、現在では狩猟採集民がいない地域についても、民族考古学で季節移動などの側面からの分析を参照し、草原地帯の事例から動物資源の利用や移動形態と居住の痕跡の関係などが示されました。さらに、異なる生業を基盤とする集団の接触の事例として、遊動的牧畜の集団と定住農耕の集団との関係が取り上げられ、ものの製作と技術に着目しながら、接触にともなう変化の過程が示されました。

 文化人類学の調査結果と遺伝学や考古学の議論を接続していく際、集団をどのように把握するのかは重要な点です。本論文は、アジア中央部の歴史的動態をふまえて、生業に基づく集団と言語系統に基づく集団が、必ずしも一致していないことを示しました。言語系統が異なっても遊牧という同じ生業に従事した事例や、言語系統が同じでも定住と遊牧に分かれた事例が見られたことは、草原やオアシスなどの特定の生態環境への適応の結果でした。さらに、人類学調査に基づくと、居住集団の規模や性質は生業により異なり、居住形態は婚姻形態にも影響を及ぼしてきました。居住形態や婚姻形態の差異は、同じ言語系統であっても自他の集団の区別として機能します。集団を一義的に把握するのではなく、生業や言語系統や居住形態や婚姻形態など、複数の基準を組み合わせてきめ細かに把握する必要があります。

 人の集団とものの変化の関係に着目すると、遺伝子に強く反映された集団間接触がある一方で、遺伝子には強く反映されなくとも社会的・文化的影響の大きい接触もあることが、本論文の事例からは見えてきました。歴史をさかのぼると、オアシス地帯で生じたアラブ人との接触は、中央アジア全域にイスラム教という生活全般に及ぶ規範が次第に普及する契機となり、ものの変化にもつながりました。こうした事例では、直接的接触と間接的接触を区別することが有効と考えられます。人類学調査から観察可能な範囲で考えると、ロシア人との接触は、直接的接触ではなく間接的接触の場合であっても、物質文化に大きな影響をもたらしました。集団間の接触を考える時、直接的な接触だけが重要なわけではなく、間接的接触も新たな技術の導入や新たなものの積極的な受容に結びつきます。また、社会的地位があり外部との接点をもつ人物が他集団で新たな技術を学んで導入するというパターンが、生活用品としての陶器に関しても、象徴性をおびた墓碑に関しても見られたことは注目されます。新たな技術や観念の普及に基づくものの変化は間接的接触をとおしてもあり得ますが、直接的接触が進むにしたがって通婚関係も生じていく、と考えられます。旧石器時代の人の行動の洞察につながり得るモデルを人類学調査から抽出することがB01班の研究の役割ですが、それだけに留まらず、逆に考古学や遺伝学の成果をふまえて人類学のデータの意味を考えることは、現代人自身についての洞察につながります。


参考文献:
Reich D.著(2018)、日向やよい訳『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版、原書の刊行は2018年)
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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藤本透子、菊田悠、吉田世津子(2021)「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P15-23