田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は4~7世紀のローマ東方(東ローマ帝国)史で、ローマ皇帝の役割を中心に、統治の仕組みを取り上げます。そのさい重要なのがコンスタンティノープルの役割で、統治の仕組みの変容とコンスタンティノープルの発展がどう関連しているのか、そもそも「都」とは何なのか、といった問題を論じます。コンスタンティノープルは324年に建設が始まり、330年に完成します。一般的には、これはローマ帝国の遷都と認識されていますが、本書は、そもそもローマ帝国の都とは何なのか、検証します。ローマ帝国の都は一般的にローマと考えられており、当時の人々もそう考えていましたが、実際には崩れている事例もある、と本書は指摘します。3世紀の歴史書には、皇帝のいる場所こそローマとの認識が見られます。

 こうした認識の前提として、ローマ帝国が広大になり、一人の皇帝で統治することが難しくなったこととともに、帝国辺境の軍事情勢が不安定化し、皇帝が派遣した将軍の台頭を警戒して親征するようになった、という事情がありました。3世紀の軍人皇帝時代には、ローマから遠い地域でも軍隊が勝手に皇帝を擁立するようになり、複数の皇帝が並立するとともに、皇帝位や官職がイタリアから乖離していきます。この状況が後の分割統治につながります。軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の四分割統治を実施し、各皇帝が大規模な軍隊を率います。皇帝は大規模な軍隊を維持するため、拠点としての大都市を定めますが、ローマは前線から遠いため、軍事拠点の候補地にはなりませんでした。こうした状況で、皇帝のいる場所こそローマとの理念が顕著になります。

 ディオクレティアヌス帝の退位後に正帝に昇格した父の後継者として台頭したコンスタンティヌスが、コンスタンティノープルを建設します。コンスタンティノープルの建設は、ディオクレティアヌス帝以降の皇帝による大規模な拠点の建設という方針と、自身の名を冠した都市の建設という東地中海世界の伝統が組合わさったものでした。一方、分割統治時代に大発展した近くのニコメディアを拠点としなかったことは、新たな試みではないか、と本書は指摘します。また本書は、コンスタンティヌス帝が複数のローマを築こうとしたことも指摘します。

 コンスタンティヌス帝は息子も含めて複数の親族を副帝としており、血縁による後継を企図していました。しかし、337年のコンスタンティヌス帝の死後に軍隊の暴動により多数のコンスタンティヌス帝の親族が殺害されます。その後も混乱が続いてコンスタンティヌス帝の親族が相次いで死に、ローマ帝国は東部を治めるコンスタンティウス2世と西部を治めるコンスタンス帝の二帝体制が確立し、10年近く政治情勢は安定します。この二帝体制は、複数皇帝体制でもその中で主導権を有する皇帝が明らかだったそれまでとは異なり、明瞭な上下関係がありませんでした。この二帝体制は、350年にコンスタンス帝が部下に殺害されたことで崩壊します。コンスタンティウス2世はこの混乱を収拾して帝国全土を掌握します。コンスタンティウス2世の統治期にコンスタンティノープルは発展していき、元老院も拡大します。コンスタンティウス2世は出自ではなく個人的実力を重視し、元老院議員に低い身分の家柄の者を登用していきました。コンスタンティウス2世が元老院を拡大していったことで、コンスタンティノープルには知識層が集まっていきます。

 コンスタンティウス2世の方針をほとんど覆そうとしたのが、コンスタンティウス2世の後継者となったユリアヌスでした(関連記事)。ユリアヌスは正帝称号の承認をコンスタンティウス2世に認められず、ローマ帝国は内戦に発展しかけますが、コンスタンティウス2世は病に倒れ、ユリアヌスに帝国を委ねて没します。ユリアヌス帝はキリスト教への厚遇を撤回し、伝統重視の政策を打ち出しますが、サーサーン朝との戦いで重傷を負って陣没します。その後の皇帝選出で、後に多くの東ローマ皇帝が帝位を受けることになるコンスタンティノープル近郊のヘブドモンで、初めて皇帝が推戴されます。また、ユリアヌス帝没後の反乱でコンスタンティノープルが拠点とされたこともありました。こうして、コンスタンティノープルはじょじょに政治的中心の位置を確立していきます。

 しかし、コンスタンティノープルの拡大に貢献したコンスタンティウス2世にしても、ユリアヌス帝没後の混乱を一旦は収拾したウァレンス帝にしても、コンスタンティノープルを訪れることは稀でした。これは、軍人皇帝の時代以降の皇帝は軍隊とともに戦線を移動していき、宮廷も皇帝に随行したからです。奴隷も含めると、この移動する宮廷には1万人以上の人々がいました。当時、大都市と言われるアンティオキアやアレクサンドリアでも、人口はせいぜい30万人程度と推測されています。これは、宮廷の移動先の地域に大きな負担を強いることになります。

 このように皇帝および宮廷の移動が常態だったローマ帝国ですが、テオドシウス帝の治世においてコンスタンティノープルにほぼ定住するようになります。本書はその理由として、移動宮廷の弱点を指摘します。地方ごとに慣習や人間関係は大きく異なり、遠隔地の情報に疎い移動宮廷は現地の有力者に主導権を掌握されやすい、というわけです。ローマ皇帝がコンスタンティノープルから動かなくなった決定的な理由は、皇帝が拠点となる都市を定めることで、儀式の主導権を確保することにあったのではないか、と本書は推測します。それがテオドシウス帝によりなされたのは、皇帝が移動宮廷とともに前線に赴く統治方式では戦死する可能性が低くなかったこととに加えて、それまでの皇帝たちと血縁関係がなく、自らの権威を確立するとともに、ローマ帝国西部との対抗も考えねばならず、ローマ帝国東部を自らの支持基盤として、新たな秩序を築く必要があったからでした。帝国西部に対する東部の対抗意識は、キリスト教の教会会議がコンスタンティノープルでも開催されるようになったことに表れています。

 395年のテオドシウス帝の死をもってローマ帝国は東西に分裂した、と一般的には言われますが、当時の人々にとっては以前からの分割統治の継続に見えただろう、と本書は指摘します。後にローマ帝国を単独で掌握する皇帝が出現せず、ローマ帝国西方はゲルマン人の諸勢力に侵食されて476年に「滅亡」したことに基づく、結果論的解釈だろう、というわけです。テオドシウス帝の死後も、儀礼空間の整備などコンスタンティノープルは発展していき、皇帝が基本的には配下の将軍に軍事遠征を任せて常駐したこともあり、コンスタンティノープルはローマ帝国の「都」としての地位を確立していきます。

 こうしてコンスタンティノープルはローマ帝国東方、つまり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「首都」として発展していき、一方で西ローマ帝国は476年に「滅亡」します。ただ、476年に起きたのは、ローマ帝国西方の有力軍人だったオドアケルが幼帝のロムルスを廃位し、皇帝の標章をローマ帝国東方に変換しただけで、ローマの元老院は健在でした。同時代人には劇的な「滅亡」事件として把握されていなかっただろう、というわけです。コンスタンティノープルは、皇帝の常駐とともに、皇帝即位といった儀式が発展し、皇帝の存立条件として「首都」住民の支持が重要になっていきます。そのさいに大きな役割を果たしたのが宗教で、この時代では具体的にはキリスト教となります。キリスト教は大衆と有力者をつなぐ社会的接点となり、皇帝にとって無視できない存在でした。本書は、皇帝の選出および承認など、社会的合意形成の場としての儀式の整備が政治的安定をもたらし、東ローマ帝国長期存続を可能にした、と指摘します。一方、ローマ帝国西方では、ローマにおいて儀式の発展はあったものの、政治的拠点としてコンスタンティノープルほどには集約されず、イタリア北部のラウェンナが重要な役割を担い、広範な合意形成の場が確立しませんでした。これが、ローマ帝国の東西の運命を分けた一因になった可能性を、本書は指摘します。

 上述のように、ローマ帝国西方における476年の幼帝廃位は、同時代人にとって「滅亡」や「衰退」と結びつける必要のないものでした。しかし、それから半世紀ほど経過した6世紀前半に、ローマ帝国東方ではローマ帝国西方の衰亡言説が流布していました。そうした状況を背景に即位したユスティニアヌスは、積極的にローマ帝国の「再興」に取り組みます。それは、軍事遠征とローマ法典の編纂事業に代表されます。ユスティニアヌス帝はこの過程で、ローマ帝国の過去を意識的に継承していきます。しかし、それは現実を踏まえた選択的なもので、法典編纂において現行の法習慣に敵うものだけを収録しました。これは、時代錯誤の法も収録した以前の法典の編纂方針とは大きく異なります。ユスティニアヌス帝は、過去を尊重する姿勢を示しつつも、現実の要請に応じて過去を加工していき、それは法典編纂でも見られます。また、すでに地中海東部地域ではギリシア語が支配層の共通言語になっていたのに、法典編纂ではほとんどラテン語が採用されており、ローマの伝統を自分のものにするという意志があったのではないか、と本書は推測します。また、法典編纂におけるラテン語の使用は、地中海西部のラテン語圏も視野に入れていたためではないか、と本書は指摘します。ユスティニアヌス帝は法典編纂と並行して軍事活動を進め、イタリア半島を支配下に置きます。

 上述のようにユスティニアヌス帝はローマ帝国の「再興」に取り組み、復古的なところがありましたが、法典編纂で現行の法習慣に敵うものだけを収録するなど、現実的な側面も見られ、それはコンスルの廃止にも表れています。ユスティニアヌス帝は一方で、他の行政分野では官職の名称をローマの伝統的なものに「戻して」いますが、復古を謳いつつ実質的には新たな行政機構・官職を創設しており、復古的ではあるものの現実的であるユスティニアヌス帝の性格がよく示されています。ユスティニアヌス帝はキリスト教の内部抗争を懸念して教会再統合も試み、全面的な教会統一こそ達成できなかったものの、大半の司教はユスティニアヌス帝の主導下にまとまります。

 ユスティニアヌス帝は意欲的にローマの「復興」に取り組みましたが、疫病や戦争の継続により領内が疲弊したことも否定できません。本書は、結果論ではあるものの、ローマを滅ぼしたのはゲルマン人以上に東ローマ帝国だっただろう、と指摘します。ユスティニアヌス帝の相次ぐ遠征により、水道橋などの社会資本は傷つき、ミラノなどイタリア北部の主要都市は何度も略奪され、主要な貴族はコンスタンティノープルなどへ避難しました。旧都ローマの歴史と権威は、新都コンスタンティノープルに奪われました。ローマはもう一つのローマにより「滅ぼされた」、というわけです。

徳之島出土人骨のmtDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。鹿児島県徳之島は、奄美群島のほぼ中央に位置する離島の一つで、その位置から、南方より日本列島への流入経路と考えられるだけではなく、古来より沖縄本島と九州南部をつなぐ交流の要所にもなっています。徳之島には縄文時代にさかのぼる遺跡も存在し、人骨も出土しています。したがって、この地域の「縄文人」のDNAは、古代人の移動経路と交流の範囲やその実態を知る鍵になると考えられます。本論文は、これまでの琉球列島や九州南部の「縄文人」のDNAデータを徳之島の「縄文人」と比較することで、この地域の集団の移住や拡散の状況を解明します。

 DNA解析に用いられたのは、徳之島伊仙町の面縄第1貝塚とトマチン遺跡、天城町の下原洞穴遺跡の人骨です。面縄貝塚は貝塚時代前1期(縄文時代早期~前期並行期)からグスク時代(中世並行期)に欠けての複合遺跡で、面縄第1貝塚では1982年の発掘で石棺墓から保存状態良好な人骨が1体出土しています。その後、2007~2015年の調査でも合計3体の人骨が出土しています。トマチン遺跡は1992年に最初の調査が行なわれ、2004~2009年の発掘で石棺墓3基と土壙墓1基が発見され、石棺墓からは複数の人骨が出土しています。共伴遺物から、年代は貝塚時代前5期末(縄文時代晩期末~弥生時代前期並行期)と推測されています。下原洞穴遺跡では、2016年度の調査で縄文時代晩期末(2500年前頃)の爪形文土器や貝装飾品を伴った、1次葬骨と見られる男女2体を含む複数の人骨が出土しています。

 これまで、トマチン遺跡から出土した人骨2体についてはミトコンドリアDNA(mtDNA)の予備的研究が行なわれていますが、面縄第1貝塚と下原洞穴遺跡で出土した人骨についてはDNA分析が行なわれていません。本論文は、次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer、NGSを用いての、この3ヶ所の遺跡の人骨のmtDNA解析結果を報告します。分析に用いられた人骨は、面縄第1貝塚がC-5トレンチ5層標本(壮年男性)、トマチン遺跡が2号(熟年男性)・3(壮年男性)・4号(壮年女性)、下原洞穴遺跡が第2トレンチ人骨(性別不明)です。

 APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)によるmtDNA分析では、mtDNAハプログループ(mtHg)は、面縄第1貝塚C-5トレンチ5層標本がMで、その他の4個体はM7a1と分類されました。NGSを用いた解析でのmtHgは、面縄第1貝塚C-5トレンチ5層標本がM7a1a、トマチン遺跡2号がM7a1a*、トマチン遺跡3号がM7a1a8、トマチン遺跡4号がM7a1a*、下原洞穴遺跡が第2トレンチ人骨がM7a1a*で、いずれもmtHg-M7a1aに分類されました。

 トマチン遺跡では同一の石棺に複数個体が埋葬されており、その血縁関係が問題となります。mtDNAは母系遺伝なので、同一の配列を有する個体同士は母系の血縁関係にある、と推定されます。しかし、全塩基配列を用いた系統解析からは、トマチン遺跡の3個体のmtDNA配列は細部で異なっている、と明らかになりました。したがって、これら3個体間には母系の血縁関係はなかったことになります。しかし、トマチン遺跡2号とトマチン遺跡4号は1塩基が異なるだけなので、ひじょうに近い関係にあると考えられます。

 これら徳之島の遺跡の5個体のmtHgは全てM7a1aで、沖縄本島の貝塚前期の遺跡から出土した人骨のほとんども、mtHg-M7a1aと明らかになっています。九州本土の「縄文人」や「縄文人」の子孫と考えられる西北九州「弥生人」でも、mtHg-M7a1が確認されていますが(関連記事)、沖縄と九州本土のこれらの個体は、同じmtHg-M7a1でも異なる系統と示されており、これまで九州と南西諸島で共通する系統は報告されていません。

 mtDNAの全配列が読めているトマチン遺跡の3個体について、他のmtHg-M7a1aの個体との系統解析が行なわれ、トマチン遺跡の3個体は2系統に分かれており、それぞれと同じ系統に南西諸島の人骨が含まれ、九州北部集団とは別の系統に属す、と示されました。したがって、徳之島の縄文時代相当期集団は、基本的には南西諸島集団の一部だった、と推測されます。mtHg-M7a1aの系統樹から、九州北部集団と南西諸島集団の分岐は10985±1442年前となる、縄文時代早期の初め頃と推定されます。mtHg-M7a1aからは、この頃に九州から南西諸島に人々が到来し、その後に独自集団として拡散していった、と推測されます。

 九州南部の「縄文人」である鹿児島県出水市の出水貝塚で出土した人骨3体のmtDNAも分析されており、いずれもmtHg-M7a1aでしたが(関連記事)、そのmtHgはトマチン遺跡出土個体とは異なり、九州北部個体と同じ系統に属します。九州と南西諸島の「縄文人」との間に母系での明確な違いがあることは、この地域の「縄文人」成立を解明する重要な手がかりとなります。今後は、九州南部の「縄文人」のmtDNA解析数の蓄積とともに、核DNAの解析も期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「鹿児島県徳之島所在遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P449-457

鹿児島県南種子島町広田遺跡出土人骨のmtDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。弥生時代以後期後半~古墳時代(紀元後3~7世紀)の鹿児島県南種子島町広田遺跡では、合計158体の人骨と多数の貝製品が出土しています。弥生時代から古墳時代にかけて行なわれた九州北部と南西諸島の貝交易の経路上にあることから、この時代のヒトとモノの流通に重要な役割を果たした遺跡と考えられています。

 人骨の形態は極端な短頭で、成人男性で平均約154cm、女性で平均約143cmと小さく、同時代の九州北部の「弥生人」と比較して極端に小さい、と明らかになっています。その特異な形質から「南九州弥生人」としてまとめられています。広田遺跡の人々の系統は、南島の貝文化の考察において重要な情報を提供すると考えられていますが、その起源とおよび周辺集団との関係について、現状では自然人類学的研究からは確定的な結論が出ていません。

 2003~2006年の発掘調査で出土した人骨については、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の予備的研究が行なわれていますが、当時の分析技術では得られた情報はさほど精緻なものではなく、結論も限定的になっています。本論文は、2005年に発見された1体の人骨(南区2号墓人骨)の、次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer、NGS)を用いてのmtDNA全配列の解析結果を報告します。まず、APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)によるmtDNAハプログループ(mtHg)分析が行なわれ、次にNGSを用いたmtDNAの全塩基配列が決定されました。APLP解析では、南区2号墓人骨はmtHg-B4で、a・b・c以外の下位区分と示唆されました。NGSでは、mtHg-B4f*と推定されました。

 これまでの研究では、南西諸島の縄文時代相当期には、mtHg-M7a1系統が卓越する、と示されています。形態学的には南方「縄文人」系統と考えられている広田遺跡南区2号墓人骨もmtHg-M7a1と予想されましたが、じっさいにはB4fでした。mtHg-B4fはこれまでに「縄文人」で検出されたことはなく、現代日本人に占める割合は0.7%で、中部地方においてやや割合が高い、と報告されています。

 次に、これまでに報告されているmtHg-B4fの現代人の全塩基配列と、南区2号墓人骨の系統樹が作成されました。mtHg-B4fは5個体報告されており、地域不明の1個体を除いて全て日本人です。そのうち3個体はmtHg-B4f1に分類されましたが、南区2号墓人骨は別系統となり、mtHg-B4f1の日本人の多数派が成立する以前に分離した系統です。解析個体数が少ないので限定的な結論になりますが、mtHg-B4fが報告された個体は日本人だけなので、日本列島で誕生した系統とも考えられます。

 南区2号墓人骨の年代は古墳時代なので、mtHg-B4fは弥生時代以降のアジア東部大陸部から日本列島に到来した集団からもたらされた、とも考えられます。一方で、南区2号墓人骨の形態からは「縄文人」系統とも考えられます。同じく「縄文人」系統と考えられる西北九州「弥生人」では、形態的に「縄文人」系と推定される個体でも、核DNA解析では弥生時代以降の「渡来系」集団の遺伝的影響を受けている事例が確認されています(関連記事)。南区2号墓人骨の由来を正確に把握するには、核DNA解析を行なう必要があります。南区2号墓人骨は、汚染率がやや高いものの、核DNA解析は可能と判断されており、核DNA解析結果が注目されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「鹿児島県南種子島町広田遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P433-439

南九州古墳時代人骨のmtDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。九州南部東側地域では、紀元後5世紀初頭から7世紀前半の古墳時代に、墳丘を造らず地下の玄室に遺体を葬る、地下式横穴墓が造られていました。地下式横穴墓には複数の人類が埋葬されており、基本的には親族の墓と考えられています。したがって、各墓地に埋葬された人骨間の血縁関係が分かれば、当時の社会構造を推測する重要な知見が得られます。

 考古学では、これまで埋葬人骨間の血縁関係は、埋葬状態や副葬品などの情報にもとづいて推定されてきましたが、確実とは言い切れません。一方、形質人類学では、歯冠計測値などに基づいて推定されてきましたが、歯の形態形成に関する遺伝的メカニズムには不明な点が多く、その結論は推定の域を出ません。いずれにしても、文献がない限り、被葬者間の血縁について、確実な情報を得ることは困難でした。

 近年では、古人骨のDNA分析が可能になり、形態学的特徴に基づく以前の方法よりも格段に精度の高い推定が可能になっています。DNA情報は同一遺跡に埋葬された個体間の血縁関係の推定に確度の高い情報を提供できるので、DNA解析により埋葬人骨間の血縁関係について新たな知見を提供できます。本論文は、南九州の地下式横穴墓に埋葬された人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告します。

 これら南九州(宮崎県と鹿児島県)の地下式横穴墓の人骨には次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer、NGS)が用いられました。しかし、NGS解析は高額で手間がかかることから、地下式横穴墓埋葬人骨のように保存状態の悪い個体全てに適用するのは現実的ではありません。そこで、分析の第一段階として、APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)によるmtDNAの簡易分析が行なわれ、NGSを用いたmtDNAの全塩基配列決定が試みられました。分析対象となったのは、宮崎県えびの市大字島内字平松・杉ノ原に位置する、島内地下式横穴墓群(5世紀後半~6世紀)と鹿児島県鹿屋市の立小野堀遺跡および町田堀遺跡です。

 島内地下式横穴墓は、1905年に短甲と冑が出土して以来、古墳群として周知されており、これまで断続的な調査により多数の副葬品とともに人骨が出土しています。今回分析の対象となったのは、2012~2015年の緊急調査により出土した人骨です。この緊急調査では23基の地下式横穴から少なくとも65体の人骨が出土し、全体的に保存状態はよくないものの、中には全身の形態を保っているものもあります。これらの人骨は形態的に、「縄文人」的な形質を残す周辺の南九州山間部「古墳人」に近似すると指摘されていますが、高顔性など宮崎平野部の人骨と類似した「渡来系」の形質を示し個体も報告されています。頭蓋小変異22項目の出現頻度データを用いたクラスタ分析では、島内遺跡個体群は宮崎平野の「古墳人」や九州北部の「弥生人」と同じクラスタに属する、と示されています。

 立小野堀遺跡は2010~2014年にかけて東九州自動車道の建設に伴う調査により発掘された遺構で、合計200基の地下式横穴墓が検出され、30体の人骨の形態学的調査が行なわれました。町田堀遺跡も東九州自動車道の建設に伴う調査により発掘された遺構で、地下式横穴墓が88基見つかっています。形態学的調査ができたのは12体で、立小野堀遺跡個体群と同様に、大隅半島の地下式横穴墓から出土した人骨に共通の形態的特徴が見られます。

 これまでの研究で、南九州の古墳時代には、宮崎県の平野部と山間部で形質の異なる集団が共住していた、と指摘されています。しかし、これまで大隅半島の古墳時代人骨についての報告は少なく、その実態はよく知られていませんでした。これまでの人骨形態の調査では、大隅半島集団は宮崎県の平野部や山間部とも異なり、山間部集団よりは「縄文人」的な形質が弱く、また平野部集団より「渡来系」の形質が弱いという、独特な形質が指摘されています。

 島内遺跡で3個体(147号墓1号と148号墓3号と151号墓1号)、立小野堀遺跡で3個体(90号墓個体、130-3号墓個体、166号墓個体)、町田堀遺跡で1個体(76号墓個体)のmtDNAが解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)MとNを判定するAPLP分析では、島内遺跡の148号墓3号と151号墓1号でD4の可能性が、立小野堀遺跡では、90号墓個体はM7、130-3号墓個体はM8の可能性が、町田堀76号墓個体はD4の可能性が示されました。細分APLP分析では、島内遺跡148号墓3号がD4でもa・b・e・g・h・j・oのいずれでもない下位区分に分類され、島内遺跡151号墓1号はD4b2の可能性が示されました。立小野堀遺跡では、90号墓個体がM7a1に分類され、130-3号墓個体はC1の可能性が示されました。町田堀遺跡76号墓個体はD4b2と分類されました。

 NGS分析によるmtHgは、島内遺跡の148号墓3号がM7a1a2、立小野堀遺跡の90号墓個体がM7a1a7で166号墓個体がD4a1c、町田堀遺跡76号墓個体はD4b2と分類されました。ただ、町田堀遺跡76号墓個体については、現代人による汚染の可能性も排除できませんでした。解析した7個体のうち確実にmtHgを決定できたのは3個体となります。APLP分析とNGS分析の結果はおおむね一致していましたが、人骨のDNAが少ないとAPLP分析の結果は安定せず、異なる結果を提示する可能性がある、と示されました。理想的には、NGS分析が望ましいものの、費用と手間の問題があります。立小野堀遺跡の90号墓個体と166号墓個体はmtDNAのデータ量が多く、核DNA分析が可能と考えられます。

 上述のように、南九州では古墳時代において比較的狭い地域に異なる人類集団が存在した、と形態学的研究で指摘されています。人骨の形態学的研究では、現代日本人は在来の「縄文人」と弥生時代以降に日本列島にアジア東部大陸部から到来した集団との混血により形成された、と考えられています。したがって、古墳時代には「在来」集団と「渡来」集団との混血が進んだと推測され、地域により遺伝的に異なる集団が棲み分けていたとしても不思議ではありません。

 形態学的研究では、南九州の古墳時代において、山間部では「縄文人」系の形質が残り、宮崎県の平野部では「渡来系」の形質が卓越し、大隅半島では両者の混合が進んでいた、と示唆されています。今回検出されたmtHgはM7aとD4です。このうちM7aは日本列島全域の「縄文人」で検出されており、「縄文人」の主要なmtHgの一つと考えられます。これが島内遺跡の148号墓3号と立小野堀遺跡の90号墓個体で検出されたことは、ともに「縄文人」系の遺伝的要素を有する集団だったことを示唆します。一方、立小野堀遺跡の166号墓個体はmtHg-D4a1cで、これは既知の「縄文人」では見られず、弥生時代以降の「渡来系」と考えられので、立小野堀遺跡集団では混血が進んでいた、と示唆されます。しかし、少数のmtDNA解析例だけで混血状況の結論を提示することは困難で、核DNA解析が重要となります。

 島内遺跡の148号墓3号と立小野堀遺跡の90号墓個体で検出されたmtHg-M7a1系統は、縄文時代の南西諸島集団の系統とは異なり、九州本土「縄文人」の系統(関連記事)に属します。南九州から南西諸島に至る地域では、長期間にわたって海を隔てた棲み分けが行なわれていた可能性も考えられます。中世になると、奄美群島でも人口が増加し、人骨の出土例が増えますが、その集団の由来を知るうえでも、今回の南九州「古墳人」のDNAデータは重要となるでしょう。今後は、これら南九州の遺跡で出土した人骨の核DNA解析の進展が期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「南九州古墳時代人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P417-425

鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。出水貝塚は鹿児島県出水市にある縄文時代後期の遺跡です。1919年には貝塚と確認され、1954年には本格的に発掘調査され、4体の人骨が出土しました。この出水貝塚人骨は、現時点では南九州最古の人骨と考えられており、この時代の九州縄文人の遺伝的特徴を知るための貴重な資料です。本論文は、出水貝塚で出土した人骨3体と、鹿児島県垂水市柊原貝塚で出土した人骨1体のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析結果を報告します。これらの人骨の放射性炭素測定法による較正年代は、紀元前2280~紀元前1975年頃です。

 これまでの九州北部と南西諸島の縄文時代相当期人骨のDNA分析では、mtDNAハプログループ(mtHg)はほとんどM7a1系統であるものの、南西諸島と九州北部の系統は1万年以上前に分岐している、と明らかになっています。しかし、南九州の「縄文人」に関しては、これまでDNA分析が報告されておらず、九州北部と南西諸島のどちらの系統なのか、明らかになっていません。そこで本論文は、詳細なmtHg分析により、この問題を解明します。

 APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)による解析では、出水貝塚の3個体のうち2号と3号で詳細な結果が得られ、いずれもmtHg-M7a1でした。柊原貝塚個体は、APLP法ではmtHg-Dで、D5・D6・D4jではないもの、D4か否かは判定が分かれました。次世代シークエンサ(NGS)によるmtDNA分析でのmtHgは、出水貝塚1号がM7a1a*、出水貝塚2号がM7a1a2、出水貝塚3号がM7a1a2、柊原貝塚個体がM7a1a*でした。出水貝塚2号および3号に関しては、APLP分析と結果が一致していますが、2号は汚染率が高めなので、出水貝塚の他の2見たいよりも信頼性は低くなります。柊原貝塚個体は、APLP分析では結果が安定せず、NGSを用いたmtDNA全配列分析では異なる結果が得られました。

 mtHg-M7aは「縄文人」の主要系統の一つで、「縄文人的遺伝子型」と認識されています。現代の日本列島での頻度は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」では7.5%、沖縄本島では26%で、「本土」と南西諸島では明確に頻度分布に違いがあります。これまでの分析から、南西諸島貝塚前期の遺跡から出土した人骨のほとんどがmtHg-M7a、とくにその下位区分であるmtHg-M7a1aでした。九州の「縄文人」や「縄文人」の系統と考えられている西北九州「弥生人」でもmtHg-M7a1aが確認されていますが(関連記事)、九州北部と南西諸島で共通するmtHg-M7a1aの下位系統はまだ確認されていません。

 出水貝塚人骨のmtHg-M7a1aと、他の九州および沖縄の縄文時代から弥生時代の人骨のmtHg-M7a1aとを合わせて系統樹を作成すると、出水貝塚人骨は南西諸島集団の系統ではなく、九州北部の「縄文人」や「弥生人」の系統に分類されました。出水貝塚は熊本県との境の鹿児島県北部に位置するので、九州北部系統に近いことは不思議ではありません。今回の分析で、縄文時代における九州本土集団と南西諸島集団との遺伝的違いがより明確になりました。なお、柊原貝塚個体はmtHg-M7a1aの基底部からT720Cの変異だけを有しており、その変異を共有するmtHg-M7a1aの個体は、現代人でも古代人でも見つからなかったので、柊原貝塚個体のmtHg-M7a1aが九州系統と南西諸島系統のどちらなのか、判定できませんでした。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P403-409

堺市野々井二本木山古墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。大阪府堺市の野々井二本木山古墳では、松林を開墾中に和泉砂岩製の刳抜式石棺が見つかり、2体の人骨が頭位を同じ方向に向けて葬られていました。棺蓋と棺身の合わせ目から刀が1本検出された他には、副葬品は見つかりませんでした。野々井二本木山古墳は、1977年の調査で直系13m程度の円墳と明らかになっています。この2体の人骨はともに頭蓋がよく残っています。埋葬の前後関係は不明ですが、2体は自然な姿勢で棺内にあった、と推測されます。この推測が正しければ、被葬者が埋葬されてから追葬者が葬られるまでの時間は長くなかった、と考えられます。

 上述のように副葬品は刀が1本だけなので、古墳の築造年代を決定する手がかりに欠けていますが、刳抜式石棺の形態から古墳時代前期末葉~中期前葉と推測されています。2体のうち一方は壮年後半から熟年期の男性で、もう一方は頭蓋遺骸の残存状況が悪いので確実ではありませんが、熟年期の女性と推測されています。墳丘の規模は小さいものの、石棺の形状などから、被葬者はこの地域を治めた小首長と考えられています。

 この2個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、男性個体の方はあまり多くのmtDNAが回収されず、細分APLP分析ではmtDNAハプログループ(mtHg)D4(a・b・g・h・j・oではありません)と判定されましたが、正確な推定はできませんでした。一方女性個体の方は、mtHg-D4g1bで、個体特異的な変異の蓄積は見られなかったので、典型的なmtHg-D4g1bと考えられます。女性個体の方は汚染率も比較的低く、核DNA解析も可能と示唆されました。mtHg-D4bとD4hの一部系統を除いてこれまで「縄文人」からは検出されておらず、「渡来系弥生人」と考えられる鳥取市青谷上寺遺跡個体群(関連記事)では2個体で検出されています。したがって、mtHg-D4g1bは弥生時代以降に日本列島に流入した可能性が高そうです。

 自然人類学では、古墳時代に在来の「縄文系」の人々と弥生時代以降にアジア東部大陸部から日本列島に到来した人々が混合していった、と考えられており、古墳に埋葬された小首長の母系遺伝(mtDNA)がアジア東部大陸部系であることは、不思議ではありません。ただ、両者の混血の状況を調べるには核DNAを解析する必要があり、まだ結論を提示できません。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳出土人骨は、核DNA解析の結果、現代日本人の範疇に収まる、と示されています(関連記事)。

 野々井二本木山古墳は、同一の古墳に埋葬された男女ということで、その血縁関係についても関心が抱かれています。歯冠計測値では、両者は夫婦ではなく「キョウダイ」と示唆されます。APLP分析では両者のmtHgは異なりますが、上述のように男性個体は明確にmtHgを決定できなかったので、両者の血縁関係について明確な結論を提示できません。今回の解析は時間と資料的制約から結論が中途半端なものにならざるを得なかった、とのことなので、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登、清家章(2021)「大阪府堺市野々井二本木山古墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P287-293

アフリカにおける最古の埋葬

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アフリカにおける最古の埋葬に関する研究(Martinón-Torres et al., 2021)が報道されました。アフリカにおける現生人類(Homo sapiens)の起源と生物学的および文化的進化について、ますます精密に調べられています(関連記事1および関連記事2)。埋葬慣行は現生人類の進化の重要な構成要素です。正式な埋葬は掘られた墓に死体を埋めることとして定義され、ホモ属においてより曖昧な慣行が先行していたかもしれません。この過程の検証はとくにアフリカでは困難で、それは死体処理の明確で年代のはっきりした証拠のある遺跡が少ないためです。

 ケニアの湿潤な沿岸森林地帯に位置するパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡(PYS)は、環境代理指標の優れた保存状態(関連記事)、技術革新と象徴的特色の特有の系列、生体分子情報の保存状態(関連記事)から、アフリカにおける中期石器時代(MSA)および後期石器時代(LSA)の重要な遺跡の一つとして注目されています。発掘された洞窟系列は約3mの深さで、19層に及びます(図1)。一連の層序的に順序づけられた放射性炭素年代とルミネッセンス(発光)年代は、ベイズモデルに組み込まれる場合、50万~78000年前頃のヒトの居住を示唆し、直近の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5段階のほとんどを占めています。

 PYSの2013年の発掘調査では、横向きの部分的な土坑遺構(pit feature)が明らかになり、全体的な系列を特徴づける緩やかな色の変化とは著しく対照的で、周囲の環境と比較して独得な質感と色を示しています(図1)。遺跡に発光管(OSL4)と微細標本(PYS 13_1)が置かれ、ひじょうに劣化した骨の存在が明らかになりました。発掘は2017年に拡大され、第18層の下部に位置する遺構の上部が明らかになりました。土坑の平面図は亜円形で、南北36.7cm、東西39.8cm、深さ12.5cmでした。土坑上部の限定的な発掘調査では、遺構は脆く劣化した骨が集中的に含まれており、MSA石器と関連しており、第19層の周囲の堆積物とは異なる環境に埋められていた、と示唆されました。発掘面は、子供の頭蓋骨基部および関節でつながった脊椎骨と後に示された、分解された骨の存在を示唆しました。以下は本論文の図1です。
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 2017年の発掘調査では、いくつかの骨の小断片が露出していましたが、保存状態が悪かったため、全体を石膏で覆い、慎重に実験室で調べるため輸送されることに決まりました。石膏で固められた遺骸は、まずケニア国立博物館(NMK)へ、次にスペインのブルゴスの国立人類進化研究センター(CENIEH)の保存修復研究所に運ばれ、機械的およびデジタル洗浄が行なわれました。注意深く調べると、未成年のヒトの関節のある部分的な骨格が明らかになりました(図2)。

 2013年にこの遺構から直接的に採取されたOSL4標本は、ロンドンのロイヤル・ホロウェイで処理され、76000±7400年前という層序的に一貫した年代を提示しました(ルミネッセンス年代は全体で68.2%の信頼区間で示されます)。この年代をベイズモデルに組み込むと、土坑埋積では78300±4100年前という推定年代が得られました。骨格要素を含む堆積物塊の発掘調査により、周囲のMSA層と一致する石器および動物相の存在が明らかになりました。第17~19層では、上部のLSA層(関連記事)とは異なり、アフリカ東部の他のMSA石器群と一致する大型のMSA石器群(2180点)が見つかりました。古代DNAに関する堆積物と骨格の判別検査では、結論は得られませんでした。以下は本論文の図2です。
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●一次および意図的な堆積

 PYSの人類遺骸は、頭蓋底のかなりの部分、完全な下顎枝のある左側下顎骨、5点の歯(右下顎第一大臼歯、右上顎第一大臼歯、左上顎第二乳大臼歯、未萌出の左下顎第一大臼歯、左上顎第一大臼歯)、肋骨と関連する頸椎および胸椎、右鎖骨、左上腕骨で構成されています(図2および図3)。さらに、頭蓋と顔面と胸部と骨盤と四肢の領域に対応するいくつかの断片がありましたが、骨の堆積後の変化(生物侵食および再結晶)により解剖学的識別は困難です。

 左橈骨および尺骨の断片および左頭頂骨の変形した断片も、主要な塊から剥がれていたものの、回収されました。石膏で固められる前に野外で回収された、いくつかの識別できない骨片は、おそらくは頭蓋冠が押しつぶされてひどく歪んでいることに対応します。骨の進んだ堆積後の変化は、残っている骨格要素の保存および/または回収を妨げました。2013年の微細形態標本抽出後に撮影された写真は、断片内の右大腿骨の近位部分を示し、2017年の平面図の写真は左大腿骨の近位端を示します(図1b)。PYSの人類遺骸は歯の発達に基づいて2.5~3.0歳で死亡したと推定され、スワヒリ語で「子供」を意味する「ムトト(Mtoto)」と命名されました。以下は本論文の図3です。
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 死後間もない身体が分解の全過程の起きた場所に置かれたことを示す4点の特徴は、以下の通りです。(1)身体の巨視的な解剖学的保全性、とくに不安定な関節です。(2)分解の結果として説明される移動を伴う、最小限の骨の変位です。(3)死体の近くでミミズを餌にする陸生腹足類が豊富なことです。(4)その場での分解および腐敗過程を示唆する地球化学的および組織学的分析です。ムトトは、これら4点の基準を全て満たします。

 ムトトの骨の大半は、厳密な関節もしくは良好な解剖学的関連のいずれかで現れ、わずかな変異は分解およびその後の二次的空間の形成の結果として説明できます。写真と表面スキャナーと微小断層撮影データを、土坑的遺構の座標と合わせると、遺骸は右側に向かって曲がった姿勢で、大腿は動態に向かって90度未満の角度で曲がっている、と確認されます(図3)。脊椎は警部から遠位胸部に伸びる弧を形成します。これは、下肢の相対的位置とともに、体のしっかりと湾曲した位置を示します。

 体は平らに横たわっていませんが、背骨は水平軸から約12度の角度に位置します。胸部は横方向に圧縮されています。右側肋骨は平らになっており、左側肋骨はより高い屈曲角形成になっています。同じ脊椎水準の左右の肋骨の前端間に空隙があり、ムトトの体は元々右側に横たわっていた、という解釈と一致します。堆積物の圧力は胸部を平らにしましたが、胸郭は崩壊しませんでした。これにより肋骨の元々の空間的関係と湾曲が保護され、充填空間での分解が示されます。

 ほとんどの胸部関節と胸郭体積の保存から、軟組織と内臓の破壊が大きな一時的空間を生み出さなかった、と示唆されます。この現象はとくに、浸透による流動性堆積物を特徴とする状況で発生する傾向があり、間接的ではあるものの、その場で堆積が進行した確かな証拠です。粒子分析により、第17~19層の比較において(例外は第18層最上部の標本2点)埋葬内の堆積物は沈泥(シルト)と砂の両方の割合がより高く、粘土の割合がより低い、と確認されています。これは、死体が分解するにつれて内部空間の漸進的な充填に有利に作用し、死体がその場で分解した、という仮説を補強します。

 右鎖骨は斜めに向いており、胸骨の端はほぼ90度下降しています。同様に、第一および第二右肋骨も遠位で変位し、内側に約90度回転しますが、胸帯の胸骨関節の変位を最小限に抑えて、肋間腔を維持します。鎖骨の窪みと斜め向きは、しっかりと覆われた埋葬の典型です。これは、腐敗しやすい布もしくは物質に上半身が覆われていたことか、土坑構造内で遺体が密集して詰められていたことと一致します。いずれにしても、遺体のこのような意図的な扱いは、張り出した腕の肩甲骨と上腕骨がその場で例外的に保存されていることや、脊椎と肋骨の関節が無傷で残っていることを説明できるでしょう。遺体を意図的に扱わねば、分解が進むにつれてこれらの骨は崩壊した可能性が高いでしょう。

 頭の回転は重力と崩壊の結果として埋葬においては一般的で、頭蓋の重量により頭蓋と脊椎の付着から離れ、不安定な位置となります。ムトトの場合、頭蓋と最初の3点の脊椎は1単位として関節離断し、部分的に脊柱から関節が外れます。頭の動きは、その周囲のいくらかの空間の存在を示し、遺体の残りの漸進的な充填および最小限の変位とは対照的です。死後間もない遺体では、この型の頸椎を含む頭の脱臼は、頭の下に置かれた腐敗しやすい物質の腐敗による崩壊を示唆するかもしれません。ムトトの頭の脱臼は、鎖骨および最初の2つの肋骨の窪みとともに、上半身が覆われ、頭が腐敗しやすい物質で支えられていたことと一致します。上半身と下半身の保存の違いは、この保護的扱いの追加の証拠となるかもしれません。この証拠は、死体の構造化された放棄や偶然の埋葬ではなく、葬儀における共同体のより念入りな関与があった、という考えを裏づけます。

 解剖学的に完全で、いくつかの不安定な関節が厳密に連結されていることから、一時的で攪乱されていない堆積物であることと、ムトトがその場に置かれた後、急速に堆積物で覆われたことが示唆されます。化石生成論や組織学や地球化学的分析は、その場での分解と腐敗を裏づけます。ムトトの解剖学的整合性と高度な続成作用は、第17~19層の動物遺骸のひじょうに断片化された状態および変成作用の状況とは対照的です。利用可能な全ての証拠は、死後の急速な埋葬と、周囲の層の動物遺骸に起きた堆積後の激しい破損からの骨格の保護を裏づけます。

 ムトトの上肢骨断片の光学顕微鏡分析は、ヒトおよび非ヒト動物の骨が異なる化石生成論的過程を経た、と示します。ヒトの骨への生物侵食と再結晶と酸化鉄沈着パターン、および埋葬堆積物の微細形態的特徴の最も節約的な解釈は、ムトトの身体が死後間もなく埋葬されて分解し、それは偶発的に浸水した埋葬環境においてだった、というものです。頭蓋骨は、昆虫と腹足類の活動を示唆するいくつかの星型の痕跡と骨の穴を示しており、その場での分解と一致します。土坑における酸化マンガンと酸化カルシウムのより高い濃度も、腐敗細菌により媒介される身体のその場の分解と一致します。

 堆積物基質には、小木炭か灰か他の微視的な(推定上の)ヒトが投入したものはありません。5点のアフリカマイマイ属の陸生カタツムリ(Achatina sp.)の殻の断片が、ムトトの後頭部周辺の骨格と密接に関連して見つかりました。これら殻の断片のうち1点は、周囲の層からの断片には見られない、点により刻まれた線があります。しかし、アフリカマイマイ属種の殻の断片は、準同時代の第18層に豊富に存在し、加熱と消費の痕跡を示します。したがって、土坑内の殻の断片の意図的な配置を示唆する充分な証拠はありません。それにも関わらず、土坑からのアフリカマイマイ属の殻は、準同時代の第18層のものよりも顕著に大きく、踏みつぶすといった過程による激しい破損はなかったもと示唆されます。ムトトの発掘中に発見された赤みかがった塊の分析から、それらの塊は人為起源ではない、と示されました。


●埋葬と遺体隠しの区別

 埋葬の認識には、遺骸の主要な配置に加えて、意図的に掘削された土坑と、それに続く意図的に遺骸を覆うことの確認が必要です。新たな地層の区別は、埋葬と、「遺体隠し(funerary caching)」として知られる慣行である、洞窟の裂け目や窪みなど自然の場所への遺体の収容とを区別する鍵となります。PYSの層序からは、意図的埋葬を裏づける証拠が提供されます。試掘坑4号の発掘により、明確な特徴が明らかになりました。これは、堆積物基質のある境界を確定した土坑で、色と質感が他の土坑系列とは異なり、第19層への意図的掘削でのみ生じる可能性があります。

 埋没物は含鉄沈泥(シルト)と砂の混合で、組成的には第18層上部および第17層底部と類似しており、土坑が発掘された第19層とは異なります。骨格内基質のきめ細かい質感は、埋葬堆積物の元々の組成を表しているか、遺骸が骨格化するにつれての骨の間での堆積物の浸入の結果だったかもしれません。これは、露地の堆積物における漸進的な充填の証拠と一致します。埋没堆積物には洪水および/もしくは大量流の計測的特徴が欠如しており、遺骸堆積直後の洪水時に堆積物が土坑に流れ込んだ可能性は低そうです。最も節約的な解釈は、ムトトの身体が、第18層の洞窟の床を構成する崩積土から掬い上げられた埋め戻し用の堆積物で意図的に覆われた、というものです。

 まとめると、ムトトが意図的に埋葬されたという解釈は、以下の証拠に基づきます。(1)第19層に掘られた明確な土坑的遺構の識別です。(2)埋葬充填物を周囲の層と区別する地球化学的および粒度測定証拠で、堆積物はムトトの分解と昆虫の活動により形成された空間をじょじょに埋めていった、と示唆されます。(3)ムトト骨格の全体的な完全性と解剖学的に完全な状態、および土坑におけるしっかりと湾曲した身体の配置です。(4)ムトト遺骸の独特な堆積および化石生成論的歴史と、同じ層の動物遺骸のそれとの間の顕著な違いです。


●分類学的評価

 ムトトの歯が、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と最近および化石現生人類(Homo sapiens)を表す大規模な歯の標本と比較されました。いくつかの小円鋸歯(crenulation)と近心辺縁結節(mesial accessory tubercle)では、ムトトの左上顎第二乳大臼歯は最近の標本よりも祖先的です。ムトトの上顎第一大臼歯標本は、現生人類の変異内に収まりますが、その顕著なカラベリー(歯の異常形態)発現および例外的に大きく細分化された次突起(hypocone)において、形態学的により複雑な中期石器時代となるアテリアン(Aterian)個体群と類似しています。ムトトの左上顎第二乳大臼歯と第一大臼歯の両方で、咬合多角形は化石および最近の現生人類よりも菱形ですが、ネアンデルタール人ほど歪んではいません。

 ムトトの第一大臼歯の先端サイズは、一方では最近の現生人類と上部旧石器時代現生人類の間に、他方ではネアンデルタール人とイスラエルのカフゼー(Qafzeh)遺跡個体との間に位置します。ムトトの第一大臼歯の形態は現生人類と一致しますが、そのエナメル質の大量の小円鋸歯は、最近の現生人類およびアフリカとレヴァントとヨーロッパとアジア東部(関連記事)の一部の化石現生人類よりも複雑です。ムトトの第一大臼歯の先端サイズ系列は、初期現生人類標本とネアンデルタール人および最近の現生人類との間の中間です。EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)の咬合輪郭の形態分析により、全てのムトトの歯は、ネアンデルタール人とより密接な下顎第一大臼歯を除いて、現生人類とクラスタ化する、と明らかになります。

 ムトトの歯の面積は、最近の現生人類の範囲内に収まります。ムトトの乳歯と永久歯の大臼歯両方のエナメル質は厚く、現生人類および、ネアンデルタール人を除く人類化石記録標本の大半と共有される状態です。ムトトの歯列は現生人類と一致しますが、他の広範な同年代の人口集団よりも形態学的に派生していないことを示唆する、いくつかの祖先的特徴を保持しています。下顎枝は対称的な下顎切痕を示し、歯の下顎頭および筋突起が水平になっています。これは、強く弓状になった側頭鱗とともに、ムトトを現生人類と一致させます。


●ヒトの文化的進化への影響

 中期更新世後期における「現代人的行動」の出現に関するアフリカの中心性との主張にも関わらず、アフリカにおける埋葬慣行の初期の証拠は稀です。これまで、アフリカにおける最初の埋葬の可能性がある遺跡として、エジプトのタラムサ(Taramsa)と南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)の2ヶ所があります。タラムサ遺跡では、68600±8000年前の子供の骨格が、近くのMSAの燵岩(チャート)採掘土坑と類似した土坑で発見されました。その土坑は燵岩の採掘と関連しているので、タラムサ遺跡は現生人類の長期の遺体隠し伝統の後期の事例として解釈されます。

 1941年にボーダー洞窟で発見された人類の乳児(BC3)は、年代が74000±4000年前と推定され、単一の穿孔されて着色されたイモガイの殻と明らかに関連していました。その証拠の最近の再評価により土坑の存在が確認されましたが、残念ながらこの埋葬に関する記録は限られています。ボーダー洞窟土坑内のBC3の関節の程度もしくは位置に関して利用可能な情報はなく、その年代は、電子スピン共鳴法により年代測定された、土坑から10m以上の場所に位置する区画との層序学的相関から推測されています。BC3の年代および層序学的データは58000年以上前で、おそらくは74000年前頃という点で一致していますが、骨格のより制約された年代は利用できません。

 PYSで利用可能な状況的および年代的および化石生成論的情報は、一次埋葬を裏づけ、後期更新世における人類の単純な初期土葬の基準を満たしています。複数の層序学的に一貫した光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代に基づくと、PYSは78300±4100年前頃というアフリカにおける意図的埋葬の既知の最初の証拠を表しており、死者の複雑な扱いが海洋酸素同位体ステージ(MIS)5後半までに現生人類により行なわれていた、と示します。PYS遺跡の埋葬は、現生人類とMSA技術との間の明確で直接的な関連を明らかにします。この関連は、現生人類出現についての最近の想定に照らして適切です。その想定では、現生人類の出現におけるさまざまなアフリカの人口集団の共同の役割と、鍵となる現代的な解剖学的および文化的特徴の出現における地域的な非同時性の可能性とが強調されます(関連記事1および関連記事2)。

 PYSのムトトは、ボーダー洞窟の乳児(BC3)の埋葬およびタラムサ遺跡の子供の遺体隠しと合わせて、現生人類集団が78000~69000年前頃に集団の若い構成員の遺骸を意図的に保存していた、と示唆します。78000年以上前には、初期MSA人口集団が象徴的表現の洗練された形態を示しているにも関わらず(関連記事)、アフリカの現生人類における明確な埋葬は知られていません。その前には、60万年前頃となるエチオピアのボド(Bodo)遺跡の人類頭蓋や、同じくエチオピアの16万年前頃となるヘルト(Herto)遺跡の人類の子供の標本で、意図的な肉剥ぎが推測されてきました。スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の43万年前頃の人類集団と、南アフリカ共和国で発見された335000~226000年前頃(関連記事)のホモ・ナレディ(Homo naledi)の遺骸(関連記事)に関しては、遺体隠しが提案されてきました。

 アフリカの証拠は、ユーラシアにおけるネアンデルタール人と初期現生人類の埋葬行動との対比を示します。ネアンデルタール人と現生人類は一般的に、少なくとも12万年前頃から居住地に死者を埋葬しました。乳児と子供の埋葬はレヴァントとヨーロッパのネアンデルタール人と初期現生人類の遺跡では遍在しており、12万年前頃以後の全ての既知の中部旧石器時代およびMSA埋葬の35~55%を占めています。PYSのような居住地の埋葬は、追悼行動と死者を近くに留める意図を反映している、と提案されてきました。

 現生人類の起源地であるにも関わらず(関連記事)、アフリカではMSAの大半で埋葬慣行が稀で、来世および/もしくは死者の扱いに関する現代的概念の裏づけは、現在ほとんどありません。それにも関わらず、現生人類の文化間の証拠は、行動の欠如は必ずしもそうした行動のための能力が欠如していることを意味しない、と明確に強調します。高度な計画性と象徴性の証拠は32万年前頃までに、とくに10万年前頃以後のアフリカ東部および/南部に存在します(関連記事1および関連記事2)。

 32万年前頃までのMSAの開始(関連記事)以降の埋葬の欠如と、78000年前頃以後の稀な埋葬事例は、さまざまな要因のためかもしれません。それは、理解しにくい考古学的痕跡もしくは変化を残す文化的慣行や、15万~8万年前頃にアフリカ東部の遺跡で観察される、肉剥ぎと修正から遺体隠しと埋葬への変化などです。PYSの埋葬は、死者の土葬が最終間氷期にアフリカ内外の人口集団で共有されていた慣行であることを示します。

 78300年前頃のPYSの骨格遺骸は、アフリカにおける現生人類の進化への洞察という点で興味深いものです。ムトトの下顎および歯の評価は、現生人類への分類と一致しますが、他のほぼ同時代の人口集団との比較における一部の祖先的な歯の特徴から、現生人類は、細分されて地域的に異なる人口集団と、さまざまな古生態学的条件とで進化したかもしれない、と示唆されます。本論文は、現生人類の生物学的および社会文化的進化が複雑で地域的に多様な仮定だった、との提案を再確認します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人間行動学:アフリカの現生人類による最古の意図的埋葬

 ケニアの洞窟で発見された幼児の骨が約7万8300年前のものと推定され、これが意図的埋葬であり、アフリカの現生人類が埋葬目的で遺体を収容していたことを示す最古の証拠であることが明らかになった。今週、Nature に掲載されるこの発見は、アフリカの現生人類集団が死者をどのように処遇したのかを解明する新たな手掛かりとなる。

 現生人類の行動の進化に関する研究は、アフリカの中期石器時代(約28万0000~2万5000年前)に焦点に合わせたものが多いが、行動進化の重要な要素である正式な埋葬が、その時代のアフリカで行われたことを示す証拠は非常に少ない。今回María Martinón-Torresたちは、ケニアの海岸近くにあるパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)と呼ばれる洞窟遺跡の中石器時代の地層から採集された2.5~3歳の幼児の部分的な骨格について記述しており、この骨格には、ホモ・サピエンスと同じ歯の特徴が認められた。

 Martinón-Torresたちは、この部分骨格を「ムトト(Mtoto)」(スワヒリ語で「子ども」を意味する)と命名し、約7万8300年前に埋葬されたと推定している。発見された骨の断片の配置からは、遺体の足が胸部まで引き上げられた状態で横向きに置かれていたことが分かった。ムトトが横たわっていた土坑は意図的に掘られたものとみられ、遺体は洞窟の地面から掘り取られた堆積物で覆われていた。これらの特徴は、遺体が堆積物で素早く覆われて、その場で分解したことを示す証拠とともに、意図的な埋葬であったことを示している。

 この証拠に加えて、以前の研究で中期石器時代に埋葬が行われていたとする仮説が提唱されたことから、アフリカの現生人類の埋葬行動が、少なくとも約12万年前頃から死者を居住地に埋葬するのが一般的だったネアンデルタール人やユーラシアの初期現生人類の埋葬行動とは異なっていたことが示唆されている。以上のMartinón-Torresたちの知見は、アフリカにおけるヒトの進化に関する新知見であるだけでなく、ヒトの進化の地域的多様性を明確に示している。


考古学:アフリカにおける既知最古のヒトの埋葬

Cover Story:アフリカにおける埋葬:アフリカでの現生人類の既知最古の埋葬を示す遺骨

 表紙は、約7万8000年前の幼児の部分骨格の再現図である。今回M Martinón-Torresたちは、ケニア沿海部のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)と呼ばれる洞窟遺跡でこの遺骨を発見し、それを調べた結果を報告している。発見されたのは、アフリカにおける現生人類の既知最古の意図的な埋葬である。ネアンデルタール人が死者を意図的に埋葬したことは知られているが、初期人類が埋葬を行った証拠はこれまでほとんどなかった。著者たちが「Mtoto(スワヒリ語で「子ども」の意)」と名付けたこの幼児は、3歳ほどで、脚を胸に引き寄せた形で横向きに寝かせられていた。Mtotoは、意図的に掘られたと思われる土坑に埋められており、洞窟の床から掘り出された土で覆われていた。この発見は、中期石器時代の人々が死者をどのように扱ったかについて新たな光を当てるものである。



参考文献:
Martinón-Torres M. et al.(2021): Earliest known human burial in Africa. Nature, 593, 7857, 95–100.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03457-8

黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、一般的には北条早雲として知られている伊勢宗瑞の伝記です。宗瑞は一般的に、「一介の素浪人」から戦国大名に成り上がった下剋上の典型で、当時としては高齢になって武将としての本格的な活動を開始した、と長く語られてきました。そうした通俗的な宗瑞像は過去数十年の研究の進展により大きく修正され、一般にも浸透しつつあるように思います。宗瑞の出自とともに、応仁の乱後の関東と京都の政治情勢の解明が進み、宗瑞の行動を当時の政治状況に的確に位置づけることが可能となりました。本書は、こうした宗瑞に関する研究の進展を踏まえた伝記となります。

 すでに江戸時代初期から宗瑞の出自には諸説ありましたが、近年の研究の進展により、備中伊勢氏庶流の伊勢盛定の次男である盛時と明らかになっています。伊勢氏本宗家は、代々室町幕府政所頭人(長官)を務める重臣の家柄でした。備中伊勢氏とはいっても、生活の拠点は京都で、盛時も京都で生まれ育ちました。盛定は本宗家の有力一族として各地の有力大名への取次を務め、その縁で盛時の姉(北川殿)が今川義忠の正妻となります。盛時が生まれたのは1456年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)で、以前の通説1432年とは親子ほどの違いがあります。

 京都時代の盛時は幕府直臣で、少年の頃の細川政元とすでに接点がありました。幕府官僚として活動していた盛時にとって転機となったのは、1487年10月頃の駿河行きでした。前駿河守護今川義忠の正妻は盛時の姉である北川殿で、盛時は両者の息子である竜王丸(氏親)を家督につけようとしました。1476年、義忠は戦死し、義忠の従兄弟で年長の小鹿範満と竜王丸との間で内乱が勃発して、扇谷上杉が堀越公方の足利政知と連携して範満を支持します。上杉の軍事圧力に竜王丸は屈し、範満が今川家を継承します。しかし、北川殿は息子への家督継承を諦めず、1587年、扇谷上杉の内乱に乗じて、その姿勢を明確にします。竜王丸側と足利政知との連携もあって同年11月に範満は攻め滅ぼされ、竜王丸が今川当主となり、盛時は守護代的役割を担いますが、竜王丸の家臣になったのではなく、叔父としての立場からの「後見役」だった、と本書は評価します。

 竜王丸の家督継承に成功した盛時は、遅くとも1491年5月までには京都に戻りますが、盛時が再度駿河に行ったのは、堀越公方家の内紛のためでした。堀越公方家茶々丸がクーデタを起こし、足利政知から盛時に与えられた所領も没収されたと考えられることから、盛時も利害関係者だったようです。堀越公方の茶々丸も絡んで、東国では15世紀末以降、山内と扇谷の両上杉の対立が続き、甲斐の武田も内紛からこの争いに関わっていきます。今川も武田の内紛に関わり、盛時は元服前の竜王丸に代わって軍を指揮しただろう、と本書は推測します。1493年、盛時は伊豆に侵攻し、茶々丸を攻めます。以前は、これを盛時による下剋上の典型とみなす見解が有力でしたが、現在では、京都の明応の政変と連動しており、新将軍の義澄および政変主謀者の細川政元の承認を得ていた、と考えられています。盛時は伊豆侵攻にさいして、茶々丸が山内上杉と結んでいたのに対抗し、扇谷上杉と連携します。この頃、盛時は出家して宗瑞と名乗っています。本書は、盛時が幕府直臣を辞めて今川家の一員になると表明するためだった、と推測しています。宗瑞が京都に戻らず駿河に留まった理由は、応仁の乱後、在所していない所領の支配が難しくなっていたからではないか、と本書は推測します。

 伊豆に侵攻した宗瑞は、そのまま伊豆攻略に専念したわけではなく、今川軍の総大将として遠江にも侵攻しています。一方、宗瑞は1493年9月に山内上杉と対立する扇谷上杉への援軍にも赴いていますが、これは今川家の後見人としてではなく、独自の軍事行動だったようです。伊豆への侵攻を始めてから2年後の1495年、宗瑞は茶々丸を追い落とし、伊豆北部の領国化に成功し、この頃今川から与えられた駿河の所領と居城(石脇城)を今川に返還したようです。宗瑞は新たに伊豆の韮山城を拠点とします。これにより、宗瑞は今川家当主で甥の竜王丸の後見人でありながら、領主としては今川に依存するのではなく、自立していきます。本書はこの時点の宗瑞を国衆と位置づけています。この頃竜王丸は元服し(氏親)、名実ともに駿河国主となります。

 宗瑞と茶々丸の戦いは、上述のように1495年に宗瑞が一旦は茶々丸を追い落とすものの、1497年には茶々丸から反撃を受けたように、宗瑞が順調に勢力を拡大したわけではありませんでした。しかし、1498年に宗瑞は茶々丸を自害に追い込み、堀越公方を滅亡させ、伊豆攻略を完了します。伊豆は宗瑞の領国とされ、これは、今川からの援軍があったにしても、基本的には宗瑞のほぼ独力により伊豆攻略が達成されたことに対する今川氏親の配慮だろう、と本書は推測します。これ以降、宗瑞は周囲の政治勢力から「豆州」と称され、将軍の足利義澄からも伊豆国主として扱われます。宗瑞の伊豆攻略は義澄の母と弟の敵討ちとしての性格もあり、宗瑞が義澄から伊豆を領国として認められたのはその功賞だろう、と本書は推測します。

 宗瑞の伊豆支配では、村落を対象にして諸役が賦課されていました(村請)。村請こそが領域権力である大名・国衆の特徴です。宗瑞の戦国大名化とは、支配下の村落への村請の適用の展開だった、と理解されます。この過程で、宗瑞は寺社支配と家臣団編成も進めます。宗瑞は土豪を直臣化していき、それは戦国時代における戦争の展開に伴うものでした。また、戦国大名・国衆による家臣団統制の基本となる寄親・寄子制も採用されていきます。

 宗瑞の関東への侵攻は1500年に始まります。宗瑞は相模西郡の軍事拠点だった小田原城を攻略し、相模西郡を領国化します。本書は、宗瑞の小田原城攻略が1500年6月4日の相模湾地震に乗じたものだった、と推測します。この宗瑞の事例もそうですが、戦国時代における領国拡大は、既存の戦国大名・国衆により形成されていた領国を、そのまま編成する形で展開される、と本書は指摘します。北条家の検地として最初に確認されるのは相模西郡で、1506年のことです。これは、戦国大名による検地として明確に確認される最初の事例と考えられています。

 このように伊豆だけではなく相模西郡を領国化していった宗瑞ですが、1501年には今川氏親に従って遠江に軍を進めており、この時点ではあくまでも氏親の配下だったことを明確に示しています。東国の諸勢力の対立・連合関係の中で動いていた宗瑞にとって、この頃の主要な敵は山内上杉およびその同盟者の甲斐武田でした。宗瑞は扇谷上杉と連携して山内上杉領へと侵攻します。宗瑞が扇谷上杉および今川とともに山内上杉を破ったこともありましたが、山内上杉は越後からの援軍を得て、1505年には扇谷上杉を降伏に追い込みます。これにより、長きにわたった長享の乱は終結し、宗瑞は本来の役割である今川家の一門衆・後見人として三河へと侵攻します。宗瑞は今川氏親の名代として1508年にも三河に侵攻しましたが、結果的にこれが、宗瑞の今川軍としての最後の行動となります。ただ本書は、その後も宗瑞は今川の軍事行動に関与するつもりで、それが叶わなかったのは、関東での軍事的負担が増えたからだ、と指摘します。

 長享の乱に伴って関東に侵出した宗瑞が関東の情勢に再度関わり、それにより今川家の一門衆・後見人として活動できなくなるのは、1506年に始まった永正の乱が契機でした。本書は、この頃には戦国大名・国衆の抗争が基軸化し、関東の古河公方や両上杉といった上位権力がその抗争状況に規定されていった、と指摘します。永正の乱において、宗瑞は1508年頃より長年盟約関係にあった扇谷上杉と敵対するようになり、和睦を挟みつつ、扇谷上杉領へと侵攻していきます。宗瑞と扇谷上杉との対立要因は、伊豆諸島支配をめぐってのことでした。宗瑞は和睦関係にあった山内上杉とも敵対するようになり、宗瑞の一族(後北条家)と両上杉との抗争という構図は、宗瑞没後も長きにわたって関東の政治情勢を規定することになります(関連記事)。両上杉を敵に回した宗瑞は、1510年には小田原城に攻め込まれるなど苦戦し、1511年11月までに扇谷上杉と和睦しています。この時点でも、宗瑞は今川家の一員との意識を強く持ち続けたようです。宗瑞は苦戦しつつも1515年には相模をほぼ支配下に置き、伊豆と相模を領国とする有力な戦国大名の一人となります。

 相模をほぼ支配下に収めた宗瑞の次の標的は、扇谷上杉領の武蔵ではなく、上総でした。当時、上総では真里谷武田と下総の千葉の家臣である小弓原との抗争が展開されており、宗瑞は真里谷武田を支援して上総に侵攻しています。真里谷武田は宗瑞が当時敵対していた扇谷上杉の与党ですが、宗瑞は東京湾の海上権益の問題を最優先したのではないか、と本書は推測します。永正の乱は1518年に集結しますが、対立構造が解消されたわけではなく、足利義明が真里谷武田の要請により上総の小弓城に入り、小弓公方家が成立します。こうして関東では、古河公方家と小弓公方家との抗争という大きな政治的枠組みが成立します。宗瑞は真里谷武田と盟約関係にあり、その真里谷武田は扇谷上杉の与党でしたから、宗瑞と扇谷上杉は1519年7月までに和睦します。これにより、それまで駿河今川の一員だった宗瑞が明確に関東の政治秩序に組み込まれた、と本書は評価します。上述のように宗瑞自身は晩年まで今川家の一員との意識を強く持ち続けたようですが、すでに伊勢家(後北条家)と今川家は別の勢力に分かれつつあり、宗瑞の後継者である氏綱の代にそれが明確化します。それが可能だったのは、宗瑞が伊豆と相模を独力で領国化していたからだ、と本書は指摘します。

 すでに宗瑞はその生涯の晩年を迎えていましたが、まだ内政面での改革を進めており、虎朱印状を創出します。印判が押捺されて出された文書は印判状と呼ばれ、この文章様式は、戦国大名が領国における公権力として存立していたことを象徴するものとして、これ以降と東国の諸大名にも普及していきます。宗瑞は印判状により、郡代・代官の家来による大名権力の命令以上の挑発を防ごうとします。それと関連して、宗瑞は村落へ直接的に文書を発給します。それまで、大名の発給文書には花押が据えられたものしかなく、大名が文書を出せる目下の者は対面性のある家臣に限定されていました。そうした書札礼における障壁を乗り越えて村落にも大名が文書を発給できるよう、花押ではなく印判を用いた新たな文書様式が創出されました。中世において根強く浸透していた身分差の障壁を、花押ではなく印判の使用により克服した、というわけです(関連記事)。本書はこうした宗瑞の政治改革を、飢饉対策として評価しています。

 宗瑞は1519年4月28日から6月20日までの間に隠居したと推測され、嫡子の氏綱が伊勢家の新たな当主となります。宗瑞の死は隠居から間もなくの1519年8月15日でした。本書は、一般的には北条早雲として知られている伊勢宗瑞の伝記として現時点ではまず推奨されるだけの充実した内容になっていると思います。宗瑞が「一介の素浪人」ではなく「中央政界」の名家出身だったことは、すでに一般層にも浸透しつつあるように思いますが、本書はそれを一般向けに詳しく解説するとともに、下剋上の典型とされてきた宗瑞の行動が「中央政界」の意向と連動していたことを改めて示しており、私のような後北条家に詳しくない読者にとってたいへん有益だと思います。

愛知県清須市朝日遺跡の弥生時代人骨のmtDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。朝日遺跡は東海地方西部を代表する弥生時代の遺跡で、長期にわたる発掘調査により、多数の遺物とともに人骨が出土しています。1970年代の発掘では、弥生時代中期~後期の人骨6体が見つかりました。その形質は古墳時代人骨と類似しているとされますが、少数例からの結論なので確実ではありません。1980年代の発掘調査でも人骨が見つかり、人骨は合計で23体となります。人骨の保存状態は個体によりさまざまで、中には詳しく形態の分かる個体もありますが、全体的な集団の特徴は明らかになっていません。

 こうした形態学的研究に対して、1990年代以降は人骨のDNA分析も行なわれ、その血縁や系統に関する研究も進められてきました。DNAは遺伝物質そのものなので、そこから得られる情報はひじょうに精度が高い、と期待されます。しかし、技術的制約から、初期の古代人骨のDNA研究は核DNAよりも分析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域でした。しかし、2010年以降には、次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、古代人骨の核DNAの分析も以前よりはるかに容易となりました。

 これにより、弥生時代の人々のDNA研究も進められていますが、これまでは西日本に偏っていました。自然人類学では、在来の「縄文人」の世界に、弥生時代勝機にアジア東部大陸部から「渡来系弥生人」が水田稲作とともに日本列島に到来し、両者の混血により現代日本人が成立した、と考えられています。しかし、この「渡来系弥生人」の影響がどのように日本列島全体に及んだのか、まだ充分に把握できていません。朝日遺跡は稲作とともに拡散したと考えられている遠賀川系土器の出土範囲の東限に位置するので、朝日遺跡の人々の遺伝的特徴は、「縄文系」集団と「渡来系弥生人」との混合の様子の解明において重要となります。本論文は、朝日遺跡出土の弥生時代人骨のmtDNA分析結果を報告します。

 分析された10個体のDNA保存状態は悪く、明確に確認された「弥生人」のDNAに基づいてmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されたのは2個体のみで、12号がD4g1b、13号がB4c1a1a1aです。13号の放射性炭素年代は紀元前775~紀元前540年となり、弥生時代前期に相当します。一方、朝日遺跡は発掘初見では弥生時代中期中葉以降か、古墳時代の可能性も指摘されていました。朝日遺跡12号と13号のmtHgはどちらも「縄文人」では検出されておらず、基本的には弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と考えられます。朝日遺跡は典型的な「渡来系弥生人」の遺跡と考えられており、その意味ではmtDNAの解析結果は不思議ではありません。

 これらの知見から、北部九州に到来した稲作農耕民が、人口を増やしながら東進した、と推測されます。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、2個体だけでは明確な結論を提示できません。さらに、上述のように朝日遺跡出土人骨のDNA保存状態は悪いので、多くの個体からmtDNAを解析することは難しそうなので、混血の状況をよりよく理解するには、核DNA解析が重要となります。現代日本人における割合は、mtHg-D4g1が3.1%、mtHg-B4c1が3.8%で、どちらも中部地方でやや高い割合となっています。mtHg-D4g1およびB4c1は、弥生時代から中部地方でも比較的割合が高めだったかもしれません。

 すでに愛知県田原市伊川津貝塚遺跡の出土人骨では「縄文人」の核DNAも解析されており(関連記事)、時空間的により広範囲の古代人の核DNA解析が進めば、中部地方の人類集団の遺伝的構成の経時的変化もよりよく理解されるようになるでしょう。朝日遺跡で一つ問題となるのは年代で、弥生時代中期中葉以降と想定されていたのに、放射性炭素年代では弥生時代前期と推定されていることで、これはアジア東部大陸部から日本列島に到来した稲作農耕民集団の東進速度とも関わってくるので、今後の研究の進展に注目しなければならないでしょう。伊川津貝塚遺跡の出土人骨の年代は紀元前500年頃ですが、同じ愛知県とはいっても、清須市は名古屋市よりも岐阜県寄りで、伊川津貝塚遺跡は渥美半島ですから、朝日遺跡が紀元前7世紀までさかのぼるとしても、伊川津貝塚遺跡ではまだ縄文時代が続いていたとして、不思議ではないように思います。ただ、愛知県の考古学には詳しくないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2021)「愛知県清須市朝日遺跡出土弥生人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P277-285

韓国の三国時代の人骨のmtDNA分析

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。これまでの形質人類学では、現代日本人の形成の考察において重要なのは、「縄文人」と「弥生人」の関係とされ、多くの研究が提示されてきました。現在ではその結果、基層集団である「縄文人」の社会に、アジア東部大陸部から水田稲作と金属器技術を有する「渡来系弥生人」が日本列島に到来し、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」では、両者の混合により現代日本人が成立した、と考えられています(二重構造説)。一方、古代DNA研究の進展により、「渡来系弥生人」の遺伝的特徴も明らかになりつつあり、両者の混合の状況をより正確に把握できるようになりました。しかし、「渡来系弥生人」の故地と考えられる朝鮮半島の弥生時代~古墳時代相当期の人骨のDNA分析は行なわれておらず、「渡来人」の遺伝的性格が不明なので、まだその実態は明らかではありません。

 そこで本論文は、朝鮮三国時代の古墳として有名な、慶尚北道高霊郡に位置する、慶北高霊池山洞44号墳の出土人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析結果を報告します。池山洞44号墳は5世紀後葉の大加耶の王墓で、墳丘は直径25~27m、墳丘中央に9.4m×1.75mの大型竪穴式石室(主槨)があります。30基以上の殉葬墓が主槨を取り囲むような状態で見つかっており、主槨の人骨は失われていましたが、殉葬墓からは多くの人骨が発掘されています。これらの人骨から直接的に「渡来系弥生人」の遺伝的特徴を推定することはできませんが、この時期の朝鮮半島南部の人類集団の遺伝的特徴を解明することは、弥生時代から古墳時代にかけての日本列島の人類集団の成立解明において重要な情報を提供する、と考えられます。

 DNA分析に用いられたのは4個体(13-1号、20号、27-1号、30号)で、APLP(Amplified Product-Length Polymorphism)分析によるmtDNAハプログループ(mtHg)分類は、13-1号がG2、20号がB4c、27-1号がD5b、30号がB5でした。27-1号と30号のmtHgはそれぞれD5b1b1とB5a2a1bで、APLP分析と矛盾しません。データベースで検索すると、mtHg-B5a2a1bもmtHg-D5b1b1もそれぞれ3個体ずつ報告されており、いずれも日本人でした。現代韓国人で一致する個体が確認されなかったのは、DNAデータベースに現代韓国人がほとんど登録されていないからと考えられ、現代の日本人と韓国人ではmtHgの構成がよく似ているので、mtHg-B5a2a1bおよびD5b1b1が現代韓国人で今後確認されても不思議ではありません。現代韓国人では、mtHg- B5は3.8%、mtHg-D5は6.5%ほど存在します。

 一方、既知の「縄文人」のmtHgではmtHg-B5a2a1bおよびD5b1b1は確認されていません。一方、弥生時代の鳥取市青谷上寺遺跡で出土した人骨では、mtHg-B5およびD5が確認されており、弥生時代中期の「渡来系弥生人」である福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された個体もmtHg-B5でした。青谷上寺遺跡の「弥生人」のmtHgは大半が「渡来系」と推定されています(関連記事)。現代日本人に占めるmtHg-B5およびD5の割合はさほど大きくなく、アジア東部の分布では南方に多い傾向が見られます。現時点では、古代の分布を推定できませんが、弥生時代開始期以降にアジア東部大陸部から日本列島に到来した人々の中には、mtHg-B5およびD5を有している人がいたかもしれません。慶北高霊池山洞44号墳の出土人骨では今後核DNA解析も予定されているとのことで、研究の進展が期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登、清家章、李在煥、朴天秀 (2021)「韓国高霊池山洞44号墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P465-471

『卑弥呼』第67話「八咫烏」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年8月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)に戻らず300日の祈祷に入る、と宣言したヤノハに、どこで祈祷するのか、とイクメが訪ねるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国でトメ将軍とミマアキの一行が胆駒山(イコマヤマ)を目指して急いでいる場面から始まります。ミマアキは胆駒山に烽(トブヒ、狼煙)が上がっていることに気づき、兵士たちも周囲で狼煙が上がっていることに気づきます。トメ将軍は、自分たちがどれだけ俊敏に移動しても包囲されたままだと悟ります。ミマアキは、対岸にいた山社の兵士たちの仕業と疑いしますが、トメ将軍は、山社の兵士たちは重装備で自分たちに追いつけるとは思えない、との判断から他の者の仕業と考えます。

 その頃、トメ将軍とミマアキの一行を追っていたシコオは、狼煙を上げたのがフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)の命を受けた八咫烏(ヤタガラス)だと気づきます。配下の兵士に八咫烏について尋ねられたシコオは、王直属の秘密の軍団だ、と答えます。兵士は、その武部(モノノベ)が我々を差し置いて手柄を立てるつもりか、と疑いますが、シコオは、八咫烏は武部ではなく志能備(シノビ)だ、と答えます。兵士は、ただの伺見(ウカガミ)だと思って安堵し、自分たちにトメ将軍とミマアキの一行の場所を教えてくれるのだ、と考えますが、シコオは、八咫烏が殺戮専門の志能備だと兵士に教えます。シコオによると、八咫烏はサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の時代から王に仕えており、代々の頭は賀茂のタケツヌと称し、サヌ王の時代にカラスに化身してサヌ王を日下まで導いた神の末裔と伝えられているそうです。八咫烏がいつ筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の者たちに追いつくのか、不安な兵士に対して、八咫烏はとっくに追いついて取り囲んでいるだろうが、筑紫島の者どもも百戦錬磨の手練れなので、自分たちが追いつくまで決着がつかないことを祈ろう、とシコオは言います。

 筑紫島では、岡(ヲカ)では、オオヒコとヌカデが、日見子(ヒミコ)たるヤノハとナツハ(ヤノハの弟のチカラオ)との話し合いの結果を待っていました。ヤノハが山社に戻らずどこに行くのか、ヌカデもこの話し合いの後に教えられることになっていました。オオヒコは、頼りになるイクメが事代主(コトシロヌシ)から贈られた木簡の翻訳のため早々に出立し、ヤノハ(日見子)がどこに行っても警固するつもりではあるものの、同行を許可されるのかどうか、悩んでいました。ヤノハはチカラオに、事代主から妊娠していると指摘された、と伝えます。本来は生まれてはならない子なので、チカラオは自分が姉とは気づかずにヤノハを強姦して妊娠させた罪の意識から、ひどく怯えて泣き出します。ヤノハは事代主から堕胎の薬を与えられるとともに、誰にも知られず産む手立てもあることを伝えられており、産むか否か、チカラオに意見を訊きます。

 日下では、トメ将軍とミマアキの一行が都だったと思われる場所に到達していました。日下では遷都は珍しくなく、トメ将軍とはこの旧都らしき場所を覗いてみることにします。トメ将軍とミマアキの一行は鳥居らしき建築物をくぐり、この地が廃棄されてから百年以上は経っていそうだ、と推測します。そこへ兵士の一団が現れ、ここは古のタギシ王の都だった、とトメ将軍とミマアキの一行に伝えます。タギシ王とは、記紀に伝わる神武天皇の長男で弟(綏靖天皇)に討たれた手研耳命(タギシミミノミコト)でしょうか。トメ将軍とミマアキの一行は直ちに臨戦態勢に入りますが、指揮官らしき男性は、トメ将軍に安心するよう伝えて、タギシ王の末裔の阿多(アタ)のチカトだと名乗ります。タギシ王はサヌ王の最初の太子にして次の王だった、とチカトに伝えられたトメ将軍は、フトニ王の追手だと考えて再度臨戦態勢に入りますが、チカトはトメ将軍を宥め、タギシ王について伝えます。チカトによると、タギシ王はサヌ王の最初の妃である日向(ヒムカ)のアヒラツ媛の息子で、次の王としてこの地に都を築いたものの、二人の弟に裏切られて暗殺されました。アヒラツ媛とは、『日本書紀』に見える、日向国の吾田邑(アタノムラ)の吾平津(アヒラツ)媛でしょうか。チカトたちはタギシ王に忠誠を誓い、長く現王朝に抵抗してきたので、フトニ王に追われているように見えたトメ将軍とミマアキの一行の力になろう、とトメ将軍に提案します。

 チカラオとの話し合いを終えたヤノハはヌカデを建物に呼びますが、ヌカデはヤノハが緊張していることに困惑します。ヤノハはヌカデに頭を下げ、一生一代の頼みを聞いてほしい、と言います。ヤノハは、父親が誰かは打ち明けませんでしたが、ヌカデに妊娠を伝えて力を貸してほしい、と頼みます。出産を決意したヤノハに、妊娠を知られれば、日見子の座から引きずり下ろされるどころか命も危ない、と指摘して、ヤノハを助けるべきか否か悩んでいるような様子を見せて戸の方を一瞬見た後、答えは決まっている、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)でのヤノハの大罪(モモソを殺害したこと)も見逃した自分が、妊娠した程度でお前を見捨てない、倭の乱世を終わらせるのはお前しかいない、と言って大笑し、ヤノハは安堵します。ヌカデがヤノハに、自分がヤノハを助けないと言えば、外に控えるナツハ(チカラオ)に命じて自分を殺すつもりだったのだろう、と指摘するところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍一行とヤノハの危機が描かれ、新たな情報も明かされて楽しめました。本作の日下は軍事に特化した国のようで、八咫烏という殺戮専門の志能備も存在します。トメ将軍とミマアキの一行は八咫烏に追われて窮地に陥りますが、そこへタギシ王の末裔と名乗るチカトが現れて、トメ将軍とミマアキの一行に助力を申し出ます。チカトを信用できるのか、まだ分かりませんが、ここも記紀の伝承を上手く活かした話になっていると思います。ヤノハの方は、やはり自分の本性を知るヌカデに妊娠を打ち明けましたが、ヌカデが自分を助けると言った時に安堵したのは、断られたら進退が極まったからというよりは、有能なヌカデを殺さずにすんだ、という思いからでしょうか。ヤノハの本性を知るヌカデも、早々にヤノハの意図に気づいたようです。ヤノハもヌカデも、互いに本性を知っており、警戒と信頼の入り混じった複雑な思惑で互いを利用しているのでしょう。この人間関係の微妙で複雑な描写、本作の魅力になっていると思います。

福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析

 本論文(篠田他.,2020)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2018年度】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。福岡県那珂川市の安徳台遺跡は弥生時代中期の大規模な集落で、1997年~2003年までの7年間の発掘により、集落跡からは多くの住居跡や豊富な副葬品のある首長の墓と推定される10基の甕棺墓が発見されています。このうちの6 基は4 m×5 m の巨大な墓坑に集中して埋葬されており、貝輪やガラス製の勾玉や鉄剣などが副葬品として共伴していることから、この地域の有力首長の墓と考えられています。そのうち5 基の甕棺には人骨が残存しており、発掘の当初から、埋葬された人々の系統や被葬者間の血縁関係などに関心が持たれました。

 発掘当時にも、形態学的な研究とともにDNA の分析が試みられました。古人骨由来のDNA 分析では、解析した個体間の血縁関係に関する解析と、集団間の比較が行なわれますが、当時の分析法の限界から、解析対象は母系に遺伝するミトコンドリアDNA(mtDNA)の一部領域に留まっており、そこから得られる情報にも限界がありました。また、最初に研究結果が報告された2006年以降にも縄文人と弥生人のDNA 分析が進み、現在では在来系の「縄文人」と弥生時代以降に渡来した人々のDNAについて多くのデータが蓄積されているので、系統に関してもより詳しい分析が可能になっています。とくに古人骨に残るDNA の解析は、次世代シークエンサ(NGS)と呼ばれる機器の開発により、2010 年以降に大きく進展しています。それまで不可能と考えられていた核DNAの解析も可能になったことで、1個体の分析だけでも、集団の遺伝的な特徴などの把握も可能になりました。本論文は、以前にmtDNAが分析された標本のNGSによる再解析結果を報告します。

 安徳台遺跡の10 基の甕棺のうち、これまで8 基が調査されており、その中で人骨が残っていた5基(安徳台2・3・5・8・10号)について、2016 年に再度標本を採取してNGSによる分析が行なわれました。以前は、DNAが最も残っているのは歯とされていましたが、最近では側頭骨錐体にある内耳骨にDNAが最も残っている、と考えられています。この研究でも、側頭骨からの標本抽出が可能な人骨については、錐体部が用いられました。分析の結果、mtDNAハプログループ(mtHg)の決定に充分な量のDNA断片が得られたのは安徳台5号だけでした。安徳台2号と10号では側頭骨が用いられましたが、いずれも満足な結果を得られず、形態が保たれている側頭骨であっても、必ずしも解析に足るDNA が残っていないこともある。と判明しました。安徳台遺跡は限られた地域に複数の甕棺が集中しており、その血縁関係に関心が持たれていましたが、今回の解析で確実な結果が得られたのは1個体だけだったので、相互の関係についての議論はできませんでした。

 安徳台5号のmtHgはB5bですが、これまでに報告されている下位区分のB5b1~5のいずれとも異なる特殊な系統で、中国で報告されている2個体とともにB5b6系統を形成します。現代人では、mtHg-B5はおもに中国南部に分布しており、現代日本人におけるmtHg-B5の割合は4.3%程度です。これまでに報告されている「縄文人」にはmtHg-B5は存在せず、弥生時代以降にアジア東部大陸部からもたらされた、と推測されます。

 安徳台5号では核ゲノムも解析され、Y染色体と判定されるDNA断片がほとんどないことから女性と判断されましたが、これは形態学的研究とも一致します。安徳台5号の核ゲノムデータから抽出された1098136ヶ所の一塩基多型データを用いて、おもにユーラシア東部の現代人と古代人を対象として主成分分析が実行されました(図2)。図2で、下から斜め右上の方向に向かって、現代の大陸の集団が北から南に向かって並んでいますが、これはアジア南東部からアジア東部の集団が互いに関係を持ちながらも、ある程度遺伝的に分化している様子を示しています。一方、現代日本人(本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人)はこの大陸集団から離れた部分に位置しています。さらに、北京の中国人(漢人)と現代日本人の中間に1人の韓国人が位置しており、北京の中国人と現代日本人を結ぶ直線の反対側のはるか離れた場所に「縄文人」が位置しています。以下は本論文の図2です。
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 安徳台5号は、形態学的にも考古遺物の検討からも、典型的な「渡来系弥生人」と考えられています。したがって、安徳台5号の核ゲノムは「渡来人」の源郷と考えられる朝鮮半島や「中国」と類似する、と予想されました。しかし、その遺伝的な特徴は現代日本人の範疇に収まるものでした。この結果を単純に解釈すると、「渡来系弥生人」もかなり在来の「縄文人」と混血が進んでいたことになります。ただ現状では、弥生時代開始期における大陸側の遺伝的な特徴が明らかになっていないので、その検証はできません。今後、朝鮮半島における集団の遺伝的な変遷が明らかになれば、「渡来系弥生人」と規定される集団の成立についても、さらに推測が可能になるでしょう。

 一方、安徳台5号の遺伝的な特徴は、日本人の形成について新たな想定が必要なことを示唆しています。なぜならば、この集団が東進して在来の「縄文集団」を吸収していったとすれば、集団の内部に更に「縄文人」の遺伝子を取り込むことになり、現代日本人は更に「縄文人」に近づくことになります。「渡来系弥生人」との混血だけで現代日本人が形成されたとすると、東日本の「縄文人」が現代日本人に全く遺伝子を残していない、と仮定しない限り、「渡来系弥生人」は現代日本人と大陸集団の間に位置しなければなりません。渡来系集団が在来集団を絶滅させたという証拠はないので、この情況は弥生時代以降も渡来が続いていた、と考えないと説明できません。人類学の分野でも、これまで古墳時代以降の渡来について言及した研究者はいましたが、資料的な制約もあり、大陸からの渡来を弥生時代に限定した研究が多くなっていました。しかし本論文の結果から、アジア東部大陸部からの「渡来」の問題はその後の古墳時代までを視野に入れるべきである、と示されます。弥生時代後期の青谷上寺地遺跡出土人骨のゲノムはひじょうに多様性が大きい、と明らかになっています(関連記事)。弥生時代の「在来集団」と「渡来集団」の混合の様子は複雑で、さらに地域と時代の幅を広げて議論を進めていく必要があるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。形態学的にも考古学的にも、安徳台遺跡の人類は典型的な「渡来系弥生人」と考えられてきましたが、遺伝的には現代日本人の範疇に収まる、と示されました。韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体は、核DNA解析から現代韓国人よりも「縄文人」的と明らかになっています(関連記事)。本論文刊行後の研究では、佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨(関連記事)や、香川県高松市の高松茶臼山古墳の古墳時代前期人骨(関連記事)の核DNAが解析され、前者は既知の「縄文人」の範疇に、後者は現代日本人の範疇に収まる、と示されています。

 これらの知見に基づいて現代日本人の遺伝的形成過程をどう整合的に解釈すべきなのか、私の知見では難しく、日本列島に限らずユーラシア東部の古代DNA研究の進展を俟つしかなさそうです。現時点であえて推測すると、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団で、弥生時代以降にアジア東部大陸部から、「縄文人」とは大きく異なり青銅器時代西遼河地域集団と遺伝的に近い集団(関連記事)が日本列島に到来し(渡来系)、かなり後の時代まで、さまざまな程度の「(在来系)縄文人」と「渡来系集団」との混合割合の集団が存在しており、混合の進展は地域・時代差が大きかった、となります。弥生時代には遺伝的に「縄文人」そのものの集団と現代日本人の範疇に収まる集団とが存在し、「渡来系」そのものの遺伝的構成の集団も一時的に存在したでしょうから、弥生時代は日本列島の人類史上最も遺伝的異質性が高かった期間かもしれません。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210

大河ドラマ『青天を衝け』第23回「篤太夫と最後の将軍」

 今回は、ヨーロッパでの栄一(篤太夫)の活躍と、慶喜視点の国内政局が描かれましたが、国内政局は一気に大政奉還から王政復古まで進みました。ヨーロッパには慶喜の命を受けて栗本鋤雲が来るなど、ヨーロッパの栄一の動向と国内政局とが連動して描かれているのはよいと思います。原市之進の殺害は、なかなかよいキャラだっただけに、分かってはいても悲しいものです。そういえば、もう四半世紀近く前に熱心にやったゲーム『維新の嵐 幕末志士伝』でも原市之進は優秀な能力設定になっており、陸奥宗光とともに説得の補助役としてよく起用したものでした。

 国内政局の描写では、慶喜の思惑が独り言の形で示されました。ややご都合主義的とも言えるかもしれませんが、平岡円四郎に続いて原市之進も殺され、相談役がいない慶喜の孤独を示したという点で、悪くはなかったと思います。ただ、大政奉還にいたる政治的描写は明らかに不足していたので、幕末歴史ドラマとしては疑問が残るところではあります。ただ、本作の主人公はあくまでも栄一なので、海外に出ている栄一から見た国内政局の分かりにくさ・不透明さを視聴者に印象づけるという意味では、悪くない構成だったように思います。せっかく盛り上がってきたのに、オリンピック中継のため3週放送休止となり、次回の放送が来月(2021年8月)15日になるのは何とも残念です。

大相撲名古屋場所千秋楽

 2年ぶりの名古屋開催となり、横綱昇進のかかった照ノ富士関と、進退のかかった白鵬関とが注目されました。先場所優勝決定戦で照ノ富士関に敗れた貴景勝関も、高い水準(全勝か1敗?)での優勝ならば横綱昇進が示唆されていましたが、2日目の逸ノ城関との一番で負傷して敗れ、3日目から休場となりました。貴景勝関の現在の相対的な実力ならば、角番脱出は容易だと思いますが、かなり深刻な負傷のようにも見えたので、再度の大関陥落もあるかもしれません。朝乃山関は1年間の出場停止で三段目あたりまで陥落することになりそうですし、今場所8勝7敗と何とか勝ち越した正代関も不安定ですから、照ノ富士関が横綱に昇進することになり、大関不在の時代が来るかもしれません。

 さらにいえば、白鵬関の引退が近づき、照ノ富士関も膝の状態が悪くいつ引退してもおかしくありませんから、横綱と正規昇進の大関が不在になる可能性さえあります。そうすると、大関昇進の基準を満たさなくとも、関脇の力士を大関に昇進させることになるわけで、横綱大関はこれまで何度か見てきましたが、そうした事例での大関昇進を見るのは私も初めてです。八百長が以前よりも激減しているのだとしたら、今後はそうした事例が増え、横綱不在が当然のようになるのかもしれません。次の最有力の大関候補は、10勝5敗と勝ち越した豊昇龍関だと思いますが、14日目の御嶽海関戦などを見るとまだ地力不足といった感じで、白鵬関、さらには照ノ富士関の引退までに大関に昇進できるかとなると、微妙だと思います。逸ノ城関は西前頭2枚目で10勝5敗でしたから、来場所以降に期待したいところですが、上体を起こされると脆いのは相変わらずで、大関昇進は難しそうです。

 優勝争いは、場所前から注目されていた白鵬関と照ノ富士関の一騎討ちとなりました。しかも、千秋楽結びの一番での全勝対決となり、たいへん盛り上がりました。結びの一番は激しい攻防となり、白鵬関が小手投げで勝って全勝で45回目の優勝を果たしました。白鵬関は進退のかかった場所で次第に調子を上げてきて、現役続行となりました。まあ、解説ではこれで引退の可能性も言及されていましたが、さすがに全勝優勝した直後の引退はないでしょう。白鵬関が全盛期からかなり衰えていることは否定できず、満身創痍といった感じですから、引退は近そうです。14日目の正代関との一番に関して、白鵬関への批判が多いようですが、このように勝利に執着しているところが、40回以上優勝して14年以上横綱の地位を保てている要因なのでしょう。千秋楽でも照ノ富士関相手に肘打ちに行っており、白鵬関の土俵上の態度には確かに疑問に思うところもありますが、過去の大横綱や名横綱と比較して、とくに品格が劣っているとは考えていません。

 照ノ富士関は負けて優勝を逃しましたが、2場所連続優勝の後に14勝1敗ですから、横綱昇進を事実上決めたと言えるでしょう。ただ、照ノ富士関は先場所まで14勝以上の経験がなく、その点はやや引っかかります。とくに、最初に大関に昇進した頃は対戦相手に恵まれていただけに、この点では物足りなさもありますが、それはもう昔のことであり、幕内復帰後の安定性と優勝回数を考えると、文句なしの横綱昇進だと思います。照ノ富士関は横綱として短命に終わりそうですが、何とか横綱として複数回優勝してもらいたいものです。

アメリカ大陸への人類の移住に関する総説

 アメリカ大陸への人類の移住に関する総説(Willerslev, and Meltzer., 2021)が公表されました。アメリカ大陸への人類の移住に関する研究は、とくに遺伝学の分野で21世紀になって大きな進展があり、最近までの関連諸研究をまとめた本論文はたいへん有益です。ゲノミクスの登場前には、アメリカ大陸への移住の遺伝的証拠は、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体の非組換え領域の研究に依拠していました。これらの片親性遺伝標識は、アメリカ大陸への移住の大まかな概要を提供しましたが、潜在的に複雑な祖先系統(祖先系譜、ancestry)や人口構造と混合の解明には限界があり、性別の偏った文化的慣行により上書きされる可能性があり、遺伝的浮動と系統損失の影響を受けやすくなります。系統損失の問題はアメリカ大陸に関してはひどくなり、片親性遺伝標識研究の大半は現代の人口集団で行なわれ、過去の人口集団もしくは遺伝的多様性を代表していないかもしれません。それは、16世紀のヨーロッパ人による感染症の伝来や、戦争と飢饉と奴隷化と搾取の付随的な打撃後の、先住民集団の人口崩壊に起因します。

 アメリカ大陸先住民の人口史へのより広く深い洞察は、多くの独立した系統の斑状を提供するゲノム研究によりもたらされました(関連記事)。ゲノム研究は、過去の人々のゲノムを回収できるようになった時、その力が拡大しました。最初のアメリカ大陸古代人のゲノムは、12800年前頃となるアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(Anzick-1)で、2014年に公表されました(関連記事)。それ以来、南北アメリカ大陸全域の多くの古代人のゲノムが配列されており(図1)、アメリカ大陸の人口史の理解に革命をもたらしています。以下は本論文の図1です。
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 しかし、アメリカ大陸人口史についての理解は決して完全なものではない、と強調することが重要です。それはとくに、アメリカ大陸古代人のゲノムの数が比較的少なく、南アメリカ大陸よりも北アメリカ大陸の方が少なくなっているためで、その理由は、古代人遺骸に関する先住民の伝統や、遺産保護法が異なっていることに起因します(関連記事)。本論文は、今後数年でいくつかの解釈がおそらくは変わることを認識しつつ、アメリカ大陸への移住についての現時点で知られているゲノム証拠をまとめます。


●考古学的および地質学的知見

 アジア北東部における現生人類(Homo sapiens)の最初の確実な証拠は、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)までさかのぼります。これにより、更新世の最終期開始前に、アメリカ大陸への出発点からまだかなりの距離があるもの、人類がそこに近い北極圏にすでに存在していたことになります。この時までに、大陸の氷床が形成され始め、世界の海面が低下し、23000~19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)で最高に達しました。

 北太平洋の相対的海面が現在より50m低下すると、ベーリング海峡地域の大陸棚は乾燥した土地となり、南北約1800kmの陸橋、つまりアジア大陸とアメリカ大陸をつなぐベーリンジアとして知られる地域の中心部が形成されました。この陸橋は、おそらく早くも3万年前頃には横断可能で、それは12000年前頃の氷期後の海面上昇まで続きました。ベーリンジアはほぼ無氷でしたが、LGMには、寒冷で過酷な条件により移動が制限されたかもしれません。

 12000年前以後、人類集団はもはやアメリカ大陸へと歩いて行けなくなり、代わりにベーリング海峡とチュクチ海を渡らねばなりませんでした。これには、極寒で頻繁に嵐が起き、季節によっては閉ざされる海を横断する技術と戦略を有する航海技術が要求されました。アメリカ大陸への移動の手段と課題のこの違いや、適応的戦略の変化は、おそらく最初の祖先的アメリカ大陸先住民集団到来の現在受け入れられている考古学的証拠(15500~15000年前頃)と、アメリカ大陸への次の主要な人口集団移動、つまり古イヌイットのアメリカ大陸への拡散(5500年前頃)との間の間隙を説明します。

 アジア北東部の考古学的記録が限定されていることもあり、いつ人々がベーリンジアを渡ったのか、不明です。ヤナRHSにおける人類の痕跡の後、次に古い既知の遺跡はシベリアのディウクタイ洞窟(Diuktai Cave)で、16800年前頃以降となります。約15000年におよぶ人類の痕跡の証拠の欠如は、人類集団がシベリアを放棄したことに起因するかもしれません。それはある程度、小規模でひじょうに遊動的な人口集団が考古学的に検出されにくいこと、広範な地域で遺跡を探すこと、この遠隔地の考古学的調査が比較的限られていることにも起因します。

 ベーリンジア東部における人類の最初の存在は、14200年前頃となるアラスカのスワンポイント(Swan Point)遺跡にさかのぼります。しかし、これは最初の人々の到来年代ではありません。なぜならば、南北アメリカ大陸にはすでに先クローヴィス(Clovis)文化期(南アメリカ大陸にはクローヴィス文化は存在しませんが)となる15500~15000年前頃にはすでに人類が存在していたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 北アメリカ大陸において最初の広範囲な人類の存在を示すクローヴィス複合と南アメリカ大陸におけるその同時代の集団は、それから約1500年後に出現します。先クローヴィスおよびクローヴィス文化人口集団が歴史的に関連する集団を表しているのかどうか、不明です。アメリカ大陸の氷床の南側ではより古い遺跡群が報告されており、LGMに先行するものも含まれますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、LGMに先行する遺跡は実証されていないか、論争が続いています。

 15500年前頃までのアメリカ大陸の氷床の南側における人類の存在は、アラスカから南方への移動に人々が用いた(複数かもしれない)経路の再検討を必要とします。LGMとなる23000年前頃には、現在のカナダの大半を覆ってアメリカ合衆国北部に達していたコルディレラ(Cordilleran)氷床とローレンタイド(Laurentide)氷床とが、南方への通交を事実上妨げていました(図2)。伝統的概念は、人々がロッキー山脈の東側面に沿って氷期後に開けた無氷回廊を通って移動した、というものでした(関連記事)。この見解は、回廊が15000~14000年前頃に完全には無氷ではなかった、と示す地質学的証拠と、化石バイソンと湖の堆積物両方からの古代DNAの証拠により、最近疑問が呈されました。それらの証拠では、狩猟採集民が約1500kmの経路において食資源として必要としただろう動植物が、13000年前頃まで回廊では利用できなかった、と示唆されました(関連記事)。したがって、この経路は、最初の人々の移動に間に合うほど早くには開けなかったでしょう。

 内陸経路の欠如から、アメリカ大陸最初の人々が太平洋沿岸を南方に移動した、と示唆されます。氷河は早くも23000年前頃にはその経路を遮断しましたが、LGM後の氷河後退に伴って17000年前頃以後には無氷となり、16000~15000年前頃までには沿岸はほぼ開けており、移動する人類にとって必要な資源を支えました。沿岸経路により、人類は現在受け入れられている最初の考古学的存在よりもかなり前に、氷床の南側のアメリカ大陸に到達できました。クローヴィス文化集団は後に無氷回廊経由でアメリカ大陸に到来したものの、回廊地域における人類の最初の考古学的証拠はクローヴィス文化期に先行する、と提案されてきましたが、南下ではなく北上の移動を示しているようです。


●古代ゲノミクスと最初の人々

 ヤナRHSと24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体群のゲノムから、シベリアには「古代北シベリア(ANS)個体群」と呼ばれる人口集団が居住していた、と示されます(関連記事)。この構造化された人口集団は、ユーラシア西部人口集団とユーラシア東部人口集団が分岐した直後となる39000年前頃(95%信頼区間で45800~32200年前)に、ユーラシア西部人口集団と分岐しました(関連記事1および関連記事2)。ANSは最終的に別々の人口集団として消滅しましたが、その遺伝的影響は後の古代人や一部の現代人集団に残っており、とくに顕著なのはアメリカ大陸先住民集団で、シベリアの先住民集団にはさまざまな程度で見られます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これが示唆するのは、後期更新世におけるANSの地理的分布は全体として、シベリアの大半とおそらくはベーリンジアにまで広がっていたに違いない、ということです。

 現在の証拠では、23000~20000年前頃にANSとアジア東部集団との間で遺伝子流動があった、と示唆されています。関連する人口集団の既知の場所(一方はシベリア、もう一方はアジア東部)に基づいて、両者の混合はバイカル湖地域もしくはその東側か、おそらくはベーリンジア西部のさらに北方で東方の地域だった、と仮定されていました(関連記事)。これらの仮定のどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要でしょう。

 ともかく、これら人口集団間の遺伝子流動は、(異なる混合割合で明らかなように)最終的に別々の機会に少なくとも2つの異なる系統を生じさせました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。一方は、シベリア北東部の9800年前頃となるデュヴァニヤー(Duvanny Yar)遺跡のコリマ(Kolyma)個体のゲノムに基づいて命名された「古代旧シベリア人(APS)」で、その言語が旧シベリア言語族の範疇に収まるチュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)など、シベリア北東部現代人の祖先集団を形成します。他の系統は基底部アメリカ大陸分枝となり、その子孫は最終的にアメリカ大陸に渡りました(関連記事)。

 その基底部アメリカ大陸分枝の形成時期の可能性がある代替案は、シベリア南部のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の18000年前頃となる1個体(Afontova-Gora 3)が、マリタ遺跡個体よりもアメリカ大陸先住民と多くの遺伝的浮動を共有している、との観察に基づきます。この知見から、ANSとアジア東部人口集団間の混合は、マリタ遺跡個体よりもアフォントヴァゴラ3号と密接に関連した人口集団とのものなので、基底部アメリカ大陸系統の形成はLGMの前ではなく後に起きた、と示唆されます。しかし、アフォントヴァゴラ3号の人口集団とマリタ遺跡の人口集団の分岐年代に追加の制約がなければ、混合年代について確実な推定はできません。遺伝子流動は、マリタ遺跡個体に代表される人口集団がアフォントヴァゴラ3号に代表される人口集団と分岐した後に起きさえすれば、24000年前頃(マリタ遺跡個体の年代)の前に起きた可能性さえ残っています。したがって、基底部アメリカ大陸分枝がいつどこで出現したのか、正確には不明なままです。

 それにも関わらず、基底部アメリカ大陸分枝の出現は21000~20000年前頃以前だったに違いなく(したがって、混合はLGM以前と推測されます)、それは、その後までに基底部アメリカ大陸分枝が別々の系統に分岐し始めており、APSもしくは他のアジア北東部人口集団からのその後の遺伝子流動の証拠が示されないからです。アメリカ大陸先住民個体群がANSとアジア東部の祖先系統(祖先系譜、ancestry)しか有していないことは注目に値します。シベリア北東部個体群は、さまざまな割合のANSとアジア東部祖先系統と、追加の祖先系統を有しています(関連記事1および関連記事2)。これは、基底部アメリカ大陸分枝が早期に地理的に孤立しており、その場所はおそらくベーリンジア西部(アジア北東部)もしくはさらに南方だった、と示唆します(関連記事1および関連記事2)。可能性の一つは、LGMの居住しにくい気候および環境が、集団の分離と基底部アメリカ大陸分枝の孤立と、その後の基底部アメリカ大陸分枝内の分岐につながった、ということです。これは、提案されてきたように、LGMにベーリンジアの一部が放棄された場合に起きた可能性がありますが、上述の理由で放棄の問題は議論されており、検証困難です。

 LGMの孤立は、アメリカ大陸への拡散はすぐに起きず、代わりに、おそらくはベーリンジア地域で長い休止が続いた、と提案するベーリンジア停止モデル(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)と一致しています。その孤立した人口集団から、いくつかの系統が出現しました。それは、現在ほとんど知られていない「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)と、「古代ベーリンジア」個体群と、「祖先的アメリカ大陸(ANA)」個体群(関連記事)です(図2)。これら3人口集団は最終的に北アメリカ大陸へと移動しましたが、それら3集団間の深い分岐と限定的な遺伝子流動からは、それら3集団が別々の移動で北アメリカ大陸へと渡った、と示唆されます。

 古代ベーリンジア個体群はアラスカへと渡りましたが、明らかにそれ以上南下しませんでした。この人口集団の構成員は、アメリカ大陸氷床の南側では確認されていません。アラスカで知られている最も新しい古代ベーリンジア人であるトレイルクリーク洞窟(Trail Creek Cave)個体の年代である9000年前頃以後のある時点で、この人口集団は消滅しました。その地域の現在の先住民集団は、古代ベーリンジア人と密接には関連していません(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、古代ベーリンジア個体群は他のあらゆる現在の人口集団よりも、過去および現在のアメリカ大陸先住民個体群の方と密接です。

 ANA系統内では、連続した内部分岐がありました。最初のものは21000~16000年前頃で、「ビッグバー」系統がANA系統から分岐し(関連記事)、次に15700年前頃(95%信頼区間で17500~14600年前)に、北アメリカ大陸先住民(NNA)人口集団と南アメリカ大陸先住民(SNA)人口集団との間の分岐が起きました(関連記事)。「ビッグバー」系統は太平洋北西部で知られていますが、アラスカでは確認されておらず、系統地理的にNNAとSNAの分岐よりも早く、ベーリンジア東部(アラスカ)から南方へ移動するにつれて分岐したに違いありません(関連記事)。これは、NNA集団とSNA集団が遺伝的に古代ベーリンジア個体群と等距離である、という事実と一致して、NNAとSNAの分岐がさらに南方で起きたことを示唆します(関連記事)。

 この証拠は、祖先的アメリカ大陸先住民個体群がベーリンジアを越え、古代ベーリンジア個体群よりも先に氷床南側の北アメリカ大陸へと到達したことを示唆します。代替的な可能性として、これら全ての人口集団が、アジア北東部もしくはベーリンジアの同じ地域に居住している間に分岐した、というものもありますが、現在は証拠のない強い長期間の人口集団構造を必要とします。あるいは、おそらく全集団が同じ人口集団の一部としてベーリンジア東部に到達し、その後でNNA集団とSNA集団が分岐し、アメリカ大陸氷床の南側に移動しました。これは、古代ベーリンジア個体群および祖先的アメリカ大陸先住民個体群がひじょうに異なる文化的分類と関連していることを考えると、可能性が低そうですが、文化的分岐は人口集団の分岐と一致しないかもしれません。これらのどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要になるでしょう。

 かつてアメリカ大陸氷床の南側に位置したNNA集団とSNA集団の拡散パターンは、ひじょうに異なっていました。NNAは北アメリカ大陸に留まったようです。NNAが南アメリカ大陸に到達したかもしれない、との提案(関連記事)は支持されていません(関連記事)。完新世のある時期、おそらくは古代ベーリンジア人が消滅した後、NNA集団はさらに北方に移動したに違いなく、それは、NNA集団が現在アラスカとユーコン準州に現在存在するからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 無氷回廊では12600年前頃に人類の考古学的証拠があり、その頃までには横断可能になっていしました。この証拠は、その物質文化がより古いクローヴィス伝統と関連して歴史的に出現する人々の、北方への拡散を示しています。それでも、クローヴィスはSNA分枝の範疇に収まり、現在のアラスカではSNA集団の証拠はありません。これは、いくつかのあり得る想定を示唆します。まず、クローヴィス文化はNNA個体群を含んでいた、ということです。次に、北極圏への複数回の帰還があり、現在その地で暮らすNNA集団は、異なる後の北方の移動の結果だった、ということです。あるいは、NNAとSNAの分岐はアメリカ大陸氷床の北側で起きました。現在の証拠では、最初の2仮説のうちどちらかを除外できません。最後の仮説が正しければ、ビッグバー系統の分岐を北方へと変えねばなりませんが、ビッグバーとNNAとSNAの密接な時期の分岐や、SNA集団の16000年前頃以後のアメリカ大陸氷床の南側での広範な分布を考えると、その可能性は低そうです(関連記事1および関連記事2)。

 NNA集団とは対照的に、SNA集団は急速に南方へと拡大し、それは同じく1万年前頃に存在したものの、数千km離れて南北アメリカ大陸に暮らしていた、古代の個体群間の密接な遺伝的つながりに明らかです(関連記事1および関連記事2)。SNA拡散の急速さは、南北アメリカ大陸の最初期の遺跡の近同時代性に基づいて長く考えられていた、初期の移動と一致します。それは、単一の放散ではなかったかもしれません。アルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とアンジック遺跡個体(アンジック1号)とのさまざまな程度の類似性を考えると、南アメリカ大陸へのSNA集団の少なくとも2回の後期更新世の移動があったようです(関連記事1および関連記事2)。拡散の見かけの急速さが、おそらく居住地内および居住地間のより遅くて小規模な移動を隠している、と認識することも重要ですが、それは放射性炭素年代測定の誤差の範囲内なので、考古学的にほとんど検出できません。

 到来する人口集団の比較的小さな規模(関連記事1および関連記事2)、およびその集団と子孫による半球全体の最初の移動範囲の広大な距離は、南方への移動に連れてのSNA系統内の繰り返しの分岐(関連記事)で明らかなように、孤立と分岐の機会を増大させ、南アメリカ大陸古代人におけるかなりの祖先系統の変動をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 アメリカ大陸への人類の移住の注目すべき推論はイヌの遺伝的歴史に見られ、イヌはおそらくシベリアもしくはベーリンジアで後期更新世に家畜化され、シベリアもしくはベーリンジアからアメリカ大陸へのmtDNA系統の分岐は、拡散する人口集団内の主要な分岐とほぼ一致しています(関連記事)。人類とイヌの分岐が相互に並行していることはとくに驚くべきではなく、それは、人類はアメリカ大陸にイヌなしで移動できたものの、イヌは人類なしではアメリカ大陸へと移動しなかったからです。人類の集団が相互に孤立するようになるにつれて、人類とともに移動したイヌも相互に孤立していきました。

 現在まで、アジア北東部人類遺骸の地域人口集団がアメリカ大陸最初の人類の重要な起源だった、というゲノム証拠はありません。ヨーロッパの後期更新世の文化であるソリュートレアン(Solutrean)と、北アメリカ大陸のクローヴィス文化との間の石器技術の表面上の類似性に基づく、アメリカ大陸最初の人々は北大西洋経由でヨーロッパから到来した、との物議を醸す主張は、祖先的アメリカ大陸先住民集団のSNA分岐の範疇に収まる、アンジック遺跡のクローヴィス文化の子供(アンジック1号)のゲノムにより突き崩されました(関連記事)。アメリカ大陸の人類の古代もしくは現代のゲノム(もしくはmtDNAもしくはY染色体)は、上部旧石器時代ヨーロッパ人口集団との直接的類似性を示しません。

 同様に却下されたのは、異なる頭蓋を有する古代およびより最近の骨格、いわゆる「古代アメリカ人」が、ヨーロッパ人やオーストラリア先住民や日本列島のアイヌやポリネシアの人口集団と関連するかもしれない異なる祖先系統を有しているので、現代アメリカ大陸先住民集団とは遠い遺伝的関係にある、との主張です。アメリカ合衆国ネバダ州の精霊洞窟(Spirit Cave)の10700年前頃の個体や、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)の10400年前頃の個体(関連記事)や、アメリカ合衆国ワシントン州で発見されたケネウィック人(Kennewick Man)と呼ばれる9000年前頃の個体(関連記事)も含めて、現在までに配列された全ての「古代アメリカ人」は、アメリカ大陸先住民の遺伝的多様性の範疇に収まります。じっさい、後に到来した古イヌイットやイヌイットチューレを除いて、アメリカ大陸の全ての古代人のゲノムは、世界中の他のあらゆる現代の人口集団よりも現代のアメリカ大陸先住民の方と密接な類似性を有する、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
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●完新世の歴史

 完新世の何千年にもわたって人々の移動は継続し、完新世には開けたベーリング海とチュクチ海を横断してのアジア北東部からのものと、アメリカ大陸内との両方がありました(図3)。ベーリング海峡を横断した集団の最初の証拠は、5200年前頃の海洋考古学的伝統とともに現れ、それは一般的にゲノム記録に見える中期完新世人口集団の分岐および拡散とも一致します(関連記事)。

 北アメリカ大陸北部のアサバスカ(Athabaskan)集団はNNAの分枝で、他のNNA(もしくはNSA)集団よりもわずかに多くのアジア東部人の遺伝的祖先系統を有しています。最近、この遺伝的兆候は、グリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体の祖先である「祖型古エスキモー」により、5000~4400年前頃にアラスカで起きたと推定されるNNA集団への遺伝子流動でもたらされた、と提案されました(関連記事)。しかし、古代旧シベリア人(APS)がサカク遺跡個体と関連している人口集団よりもアサバスカ個体群の方と密接に関連していることを考えると、この解釈には問題があります(関連記事)。

 じっさいAPSは、ケット人(Ket)やコリャーク人(Koryak)など現在の旧シベリア人の主要な祖先的構成要素を表しています(関連記事)。これは、コリャーク人がアサバスカ個体群で見られる余分なアジア東部人の兆候を有する最も近い現代の人口集団であることにより、証明されています(関連記事)。したがって、アサバスカ個体群への追加のアジア東部人からの遺伝子流動を提供した供給源集団は、現代の旧シベリア人や旧イヌイットやアメリカ大陸先住民の祖先と遺伝的に近かったに違いありません。じっさい、その人口集団の要素が複数回アメリカ大陸に渡りました。

 この余分なアジア東部人の兆候が古代ベーリンジア個体群では欠けていることを考えると、この人口集団とアサバスカ人との間の接触は、アラスカからの古代ベーリンジア個体群の消滅に続いて起き、それは同じ地域における旧イヌイットの到来前だったので、9000~5500年前頃と推測されます(関連記事1および関連記事2)。この過程でも言語要素が交換された、と仮定されています。言語学者は、アサバスカ諸語とシベリア中央部のエニセイ語族話者のケット人との間のつながりを議論してきました。言語学的根拠に関するこの仮説への批判はさておき、ケット人とアサバスカ人との間の遺伝的関係は単純ではなく、いずれにしても、言語的つながりの確証に古代DNAを用いることはできません。

 北アメリカ大陸北極圏の完新世後期の歴史は、2つの特徴的な北極圏全体の考古学的伝統により特徴づけられます。一方は最初の旧イヌイット文化で、北アメリカ大陸極北とグリーンランドで5200年前頃に考古学的記録に現れ、紀元後1500年頃に消滅しますが、その間、年代や場所や文化的区分に基づくさまざまな名称の文化があります。旧イヌイット文化は最終的に、現在のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の祖先と一般的に考えられている、以前には新エスキモーと呼ばれていたチューレ(Thule)文化の人々に置換されました。さらに、2000年前頃となるエクヴェン人(Ekven)と現代のチュクチ人の遺伝的構成において、アメリカ大陸からシベリアへの逆移住の証拠があります(関連記事1および関連記事2)。

 古代ゲノミクスを用いての分析の前には、旧イヌイット集団が相互に、もしくは現代のイヌイットやアリューシャン列島人やシベリアの人口集団やアサバスカ個体群や他のアメリカ大陸先住民と関連していたのか、不明でした(関連記事)。上述のようにサカク遺跡個体はアメリカ大陸先住民個体群とは異なり、コリャーク人やチュクチ人のような旧シベリア人集団とより密接です。したがって旧イヌイットは、他のアメリカ大陸先住民とは完全に独立した、シベリアからアメリカ大陸へと拡散した人口集団を表しています(関連記事)。これまでにDNA解析された旧イヌイットの個体数は限定的で、同じmtDNAハプログループ(mtHg)D2a193を有しており、創始者集団が小規模だったサカク個体ゲノムからの証拠と一致します。

 チューレ文化はおそらく早くも紀元後200年頃にはアラスカのベーリング海峡と沿岸部地域で発展しましたが、紀元後1200頃に急速に東方へ拡大し、グリーンランドにほぼ同時に出現しました。遺伝的には、チューレ人は旧イヌイット関連集団とアメリカ大陸先住民の混合なので(関連記事)、チューレ人がシベリアからアメリカ大陸への独立した移住(おそらく、逆移住したアサバスカ個体群と混合しています)を表しているのかどうか、あるいはアラスカ内で出現したのかどうか、不明なままです。イヌイットにおけるアメリカ大陸先住民構成要素は、その地理的近接から予測されるように、NNA集団に由来します。

 旧イヌイットとイヌイット・チューレ人集団は数世紀にわたって重複していましたが、考古学者は、両者が同じ時代に同じ場所に存在したのかどうか、疑問視しています。遺伝的には、旧イヌイットとイヌイット・チューレ人との間の混合、およびアサバスカ個体群との混合のいくつかの証拠があります(関連記事)。しかし、それぞれの拡散を伴う遺伝的に異なるイヌでも明らかなように(関連記事)、遺伝子流動の程度はおそらく限定的でした。ともかく、旧イヌイットは最終的に考古学およびゲノム記録から消滅し、その理由はまだ不明です。

 グリーンランドのノース・ヴァイキングは、アメリカ大陸に到達した最初のヨーロッパ人で(紀元後1000年頃)、先住民の遺跡におけるノース人の製品の出現に基づくと、ノース人は旧イヌイットと遭遇したかもしれず、あるいは、年代に基づくとより可能性があるのは、イヌイット・チューレ人およびアメリカ大陸先住民との遭遇です。ヴァイキング人口集団内のかなりの混合の古代ゲノムの証拠があり、交易および襲撃のネットワークを反映していますが(関連記事)、旧イヌイットもしくはイヌイット・チューレ人との混合を示唆する証拠はありません。アメリカ大陸における先住民共同体へのノース人の遺伝子流動があったならば、その証拠は紀元後1000~1500年頃の個体で探せるでしょう。

 完新世中期および後期においてさらに南方では、現在のメソアメリカ人の祖先が拡大し、南北両アメリカ大陸で他のSNA人口集団と相互作用していました(関連記事)。このメソアメリカ人関連の遺伝子流動は、「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)を含み、北アメリカ大陸西部のグレートベースンにおいて明らかで、それは1900年前頃~700年前頃のある時点でのことです(関連記事)。この下限年代は、ネバダ州のラブロック洞窟(Lovelock Cave)の2個体のゲノムデータに基づいています。

 南アメリカ大陸へのメソアメリカ人の拡大は、いくつかの現代の人口集団において明らかですが、アンデス山脈の反対側ではさまざまな割合で、長期にわたって続きました(関連記事)。第二の、「非アンジック」SNA系統の示唆的な証拠もあり、カリフォルニアのチャネル諸島の古代人との類似性を有しており、この古代人は5000年前頃となる完新世中期に南アメリカ大陸へと拡大し、アンジック個体と密接な類似性を有する人口集団の子孫を含んで、それ以前に到来していたSNA集団をほぼ置換しました(関連記事1および関連記事2)。この祖先系統がどのようにメソアメリカ人の拡大と関連しているのか、明らかではありません。

 完新世中期と後期において、カリブ海諸島への人口集団の移動の少なくとも2回の主要な事象がありました。最初のものは6000年前頃以後の「古代(Archaic)」期となり、2つの分離した南アメリカ大陸の人口集団の移動を表している、と元々考えられていました(関連記事1および関連記事2)。しかし、その後の研究では、南アメリカ大陸祖先系統の単一の波のみが検出されました(関連記事)。2500年前頃以後のある時点で、土器時代の人々が南アメリカ大陸北部から到来し、それはアマゾン集団を含む単一の起源人口集団からで、カリブ海のタイノ人(Taino)とアマゾン北部の他のアラワク語族との間の提案された関係と一致します(関連記事)。土器時代および古代の人口集団はまだ解明されていない期間重複していましたが、現時点ではひじょうに限られている混合の証拠しかありません(関連記事1および関連記事2)。

 中南米全域で後期完新世までに、人口集団は本質的に「定住し」、多くの地域では、ヨーロッパ人の到来前の数千年にわたって人口集団が継続しています。もちろん、人口集団の移動混合も継続していましたが、それ以前の期間よりはずっと小さな空間規模でした(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。インカ帝国のように後に帝国が台頭した地域でさえ、広大な地域への拡大は、たとえば新石器時代やその後のユーラシアで見られるような、広範な人口集団の移動を必ずしも伴いませんでした。それでも、これらの拡大はずっと多様な遺伝的景観をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図3です。
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●太平洋における接触の可能性

 イヌイットの人々がベーリング海を横断してアラスカへと渡ったのとほぼ同じ頃、ポリネシアの航海者が遠く離れた東太平洋のラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)に到達しました。ポリネシア人が東方へ航海を続けて南アメリカ大陸に上陸した(不利な海流に対して約3700kmの追加の航海が必要です)のかどうか、あるいはアメリカ大陸先住民が太平洋へと西方へ航海したのかどうか、長く議論されてきました。ラパヌイの現代人の最初のゲノム研究は、低水準のアメリカ大陸先住民祖先系統を示唆し、その遺伝子流動は紀元後1280~1425年頃に起きたと推定されましたが、それがどのように起きたのかは不明なままです。しかし、混合が起きた時期の曖昧さを考慮し、ラパヌイの古代人2個体の後の研究結果に基づくと、ラパヌイにおけるアメリカ大陸先住民祖先系統の推論は却下されました(関連記事)。

 太平洋の人々とアメリカ大陸先住民との接触の可能性は、太平洋の島々および中南米の沿岸に住む現代のアメリカ大陸先住民数百個体の最近の研究で再度提起されました。コロンビアのゼヌ人(Zenu)と最も密接に関連するアメリカ大陸先住民との混合を有するポリネシア人は、広範に散在する東太平洋の9つの島で見られます。その混合事象は紀元後13世紀に起きたと推定されており、太平洋におけるヨーロッパ人の存在と最初の定住のずっと前です(関連記事)。これは、アメリカ大陸先住民の東太平洋への拡散を表しているものの、より可能性の高い想定では、太平洋の島への定住をオセアニア航海民に結びつける豊富な考古学的証拠を考慮すると、これら太平洋の島々におけるアメリカ大陸先住民祖先系統は、太平洋の人々が南アメリカ大陸を訪れて混合したか、南アメリカ大陸の人々とともに太平洋の島々に戻って来た結果である、と提案されています。先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民とポリネシア人との接触の年代と性質に関する問題はおそらく、現代の太平洋諸島の人々で検出されるよりも強いアメリカ大陸先住民の遺伝的兆候を有しているかもしれない、古代ポリネシア人の分析でのみ解決できます。


●より大きなパターンと過程

 大陸規模では、古代のゲノムおよび考古学的証拠は、アメリカ大陸全域の急速な最初の拡大を示しており、これには顕著な文化的変化も伴いました。ゲノム記録も、かなりのボトルネック(瓶首効果)を経て、人口が到来後数千年で急激に増加した、と確証しており(関連記事)、これは現生人類(Homo sapiens)の人口史で最も顕著な成長事象の一つだったかもしれません(関連記事)。

 最初の放散の急速性にも関わらず、古代のゲノム記録も、拡散後に多くの地域の集団が多かれ少なかれその地域に定住した、と明らかにしています。これは人口集団の継続性をもたらし、一部地域では数千年にも及び、長く持続したものの、比較的小規模な人口集団とおそらくは相互作用と交換のより限定的な地理的範囲を反映しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。

 人口集団の継続性は時として、放棄や置換につながる可能性が高いと考えられている生態学的条件下でも起きました。たとえば、北アメリカ大陸のグレートベースン西部では、中期完新世の数千年にわたる深刻な乾燥と旱魃により、人口密度が急激に低下しました。この期間の前後の考古学的記録はかなり異なっており、かつては新たな(複数)集団による在来の人々の置換を表している、と考えられていました。しかし、その数千年間の前(10700年前頃の精霊洞窟個体のゲノム)および後(2000~700年前頃のラブロック個体群)の個体群のゲノム間には強い類似性があり、ラブロック個体群のうち新しい方でメソアメリカ人との混合さえ認められます(関連記事)。

 他の事例では、古代ゲノムは2種類の不連続性を明らかにします。まず、古代人が現代人とつながっているものの、現在その地域に居住している人々とはつながっていない場合です。つまり、地域放棄の事例です(関連記事)。具体的には旧イヌイットが当てはまり、そのDNA断片は現代のアサバスカ個体群で見られます(関連記事)。次は、古代の人口集団が完全に消滅した事例で、その人口集団に由来する現代人は存在せず、具体的には古代ベーリンジア人口集団などです(関連記事)。とはいえ、古代ベーリンジア人口集団は北極圏に1万年以上存在したので、「失敗した移住」ではありませんでした。

 古代の標本は古代の人口集団の規模および分布と比較して必然的に制限されるので、人口集団の不連続性や置換に関する記述には注意が必要です。ともかく、次のように疑う理由があります。移住過程の初期に、小さく孤立して分散した一団(バンド)が遠くの故郷もしくは親族から離れた不慣れな土地を開拓したさいに、数十もしくは数百年で消滅した可能性があり、それは、充分な人口の欠如、もしくは新たに発見された環境で確率的事象に対処できないためです。

 地理的および社会的障壁両方に起因する、孤立の証拠は明らかです。これは、アンデス山脈の一方の側の人口集団におけるゲノム(およびmtDNAとY染色体でも)の違いで見られ、アンデス山脈両側への最初の南方への拡散も反映しているかもしれず、山脈を越えての東西の移動の困難により経時的に維持された分離です(関連記事1および関連記事2)。より小さな規模では、地域的孤立のパターンがあり、たとえば低地と高地との間(関連記事)や、島々(関連記事)や、大陸のより遠い辺境部(関連記事1および関連記事2)で見られます。

 社会的孤立は、たとえばブリティッシュコロンビア沿岸の中期完新世集団のゲノムから推測され、この集団は数百km離れた内陸部の同時代の人口集団とは、フレーザー川(Fraser River)経由で両地域を比較的容易に行き来できるにも関わらず、遺伝的に異なっています(関連記事)。この地域の自然の豊かさと多様性により、人類集団はさまざまな環境条件に住むことができ、恐らくそこから、人口集団の分離を維持する境界が出現しました。

 ゲノムの連続性もしくは不連続性、孤立もしくは混合が、人口集団の生物学にのみ関連し、文化的パターンに実質的な影響を及ぼすとは限らない、と強調することは重要です。たとえば、後期更新世に存在したクローヴィス文化と西方有茎伝統(Western Stemmed Tradition、略してWST)の石器技術は、「遺伝的に分岐した創始者集団」に起因するとされるほど、充分に異なります(関連記事)。しかし、クローヴィス文化のアンジック個体(アンジック1号)と精霊洞窟のWST関連個体のゲノム間の密接な類似性が示すように、両文化は強い遺伝的類似性を有する人々の所産でした(関連記事)。文化的な継続性や不連続性や浮動や混合は、人口集団の仮定とは独立して進行する可能性があります。じっさい、人口集団と社会的動態の両方が、地域の遺伝的および文化的景観の形成において、重要で時には独立した役割を果たしました。これはとくに、後の時代と、強い領域境界が確立もしくは蹂躙された地域に当てはまります(関連記事1および関連記事2)。


●人口史を超えて

 古代ゲノミクスは、疾患史の仮説に取り組むためにも使用されてきました。たとえば、結核の原因となる結核菌(Mycobacterium tuberculosis)と関連する細菌系統は、ペルーの1000年前頃の人類に存在しました(関連記事)。したがって、結核は先コロンブス期には存在しており、以前に信じられていたようにヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされなかったかもしれません。注目すべきことに、古代の結核菌系統はアザラシやアシカで見られる結核菌(Mycobacterium pinnipedii)と最も密接に関連しており、先コロンブス期の結核が海獣を通じて人類に感染した、と示唆されます。これまでのところ、アメリカ大陸の病原体研究は限られていますが、アメリカ大陸先住民共同体が限定的か全く免疫を有していない、ヨーロッパ人によりもたらされた一連の感染症の歴史と、長期的な健康への影響とを理解するのに役立つ可能性があります。

 古代DNAの分析も、環境条件や食性の変化により起きるアレル(対立遺伝子)頻度の変化を特定できるので、たとえば、人類が最初にアメリカ大陸熱帯地域に拡散した時に受けたような、有病率に影響する遺伝的要因と環境要因との間の相互作用への新たな洞察を生みだせます。古代および現代の人口集団ゲノミクスを通じて人類の疾患の歴史に取り組む利点は、最近報告されています。古代ゲノミクスを用いて疾患の問題に取り組む研究はまだ比較的稀で、とくにアメリカ大陸先住民に関しては少ないままです(関連記事)。現代のDNAと古代DNAの機能的研究を組み合わせることにより、アメリカ大陸先住民における、進化と生活様式および代謝性疾患の根底にある遺伝的原因への新しく有益な洞察を得る、強力な手法を構成できるかもしれません。

 その可能性を実現するには、先住民と科学界の間でより協力的な関係を築くことが必要です。これは、アメリカ大陸先住民集団への非倫理的で搾取的な研究の長い歴史の結果である、アメリカ大陸先住民の間の不信の深い遺産を是正するために必要です。研究共同体は現在、人類の参加者に関する遺伝的研究のより強力な指針を有しており、先住民の利益をよりよく保護しようとしています。たとえば、文化的に有害な方法での標本の未承認の使用の禁止です。それにも関わらず、ほとんどの場合、そうした監視はおもに存命者の研究と関連しており、古代人とは関連しておらず、しばしば存命者のみが対象となります。古代DNAの使用は、人類遺骸への利用、遺骸に関する研究への同意、データの所有権と配布に関する複雑さの尺度を追加します。とくに、古代人遺骸が組織により保有され、共同体もしくは特定の部族に所属しないとみなされる場合はそうです。

 研究と先住民共同体の間で、古代ゲノム研究の最初の10年を特徴づけてきた科学的な「骨の殺到」の倫理性を問うことも含めて、古代人の研究への倫理的に健全で協調的な最良の実践を発展させるために、努力がなされています。時間と適切な協約により、より協力的な関係を確立できるでしょう。これらの研究の利害関係者間の協議と協力においてより大きな努力を払い、その方向ですでに前向きな進展があります。これらの努力は、ひじょうに意見の相違した返還の事例だった古代ゲノミクスの適用を可能にしました。たとえば、ケネウィック人はDNA標本を提供したコルビル(Colville)の連合部族の協力により解決され、精霊洞窟個体は、ファロン・パイユート・ショショーニ(Fallon Paiute–Shoshone)部族とネバダ州立博物館がゲノム分析を進めることに合意しました。


●ゲノムの過去を見据えて

 古代ゲノミクスは、アメリカ大陸の人口史に関する理解を変えてきました。それにも関わらず、まだ知られていないことが多くあります。その一つは、アメリカ大陸の氷床の南側におけるひじょうに古い(たとえば、LGM以前)遺跡(関連記事1および関連記事2)の主張が確かなのか、不明なままです。そうした主張がもし確かならば、それらの遺跡群が、祖先的アメリカ大陸先住民集団がその時点ではまだアジア北東部で特有の人口集団として出現していなかった、と推測されている現在のゲノムデータからの想定とどのように適合するのか、不明です。

 その時点でアメリカ大陸に人類が存在したならば、考古学的にも遺伝学的にも、現時点で確実な証拠はない初期人類が存在した、と示唆されます。しかし、クローヴィス文化期以前のアメリカ大陸の個体からはゲノムデータが得られていない、と強調することも重要です。したがって、先クローヴィス文化期人口集団がNNA系統とSNA系統のどちらかに相当するのか、両系統の分岐前なのか、あるいは別の集団なのか、不明です。アメリカ大陸最初期の遺跡群の骨格遺骸は欠如しており、古代環境ゲノミクスが役立つかもしれません。それは、植物や人類も含めての動物といった複雑な組織を有する生物からのDNAが古代の堆積物から得られて、人類の存在を明らかにできる可能性があるからです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候は、僅かではあるものの、ブラジルの比較的小さな地域の古代人1個体と現代人で報告されてきました(関連記事1および関連記事2)。南北アメリカ大陸もしくはアジア北東部では、そうした兆候を有する古代人も現代人も、他には見つかっていません。この兆候がひじょうに構造化された最初期人口集団に存在し、ブラジル以外の地域での欠如は標本抽出の偶然なのかどうか、あるいは、この兆候は祖先的アメリカ大陸先住民集団の到来前にほぼ消滅し、わずかな程度の遺伝子移入しかない、アメリカ大陸のより早期の人口集団を表しているのかどうか、もしくは、アメリカ大陸全域に人類が最初に拡大した後の完新世の移動の事例なのかどうか、判断は困難です。しかし、これまでにDNA解析された古代人の数を考えると、最後の仮説の可能性はますます低くなっているようです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候はさまざまな領域に散在しているので、遺伝的収束や「偽陽性」兆候の事例ではないようです。この問題を解決するための課題の一部は、先クローヴィス文化期個体群のゲノム証拠の欠如で、それが得られれば、少なくとも、オーストラレーシア人のゲノム兆候がより早期の集団とともに到来したのかどうか、解決できます。同様に、アジアからの更新世人類遺骸のゲノムデータは比較的少なく、オーストラレーシア人のゲノム兆候の起源と拡大は、もし存在するならば、アジア、とくに北東部のより多くの個体の配列を通じて調べられるべきです。最近の古代ゲノム研究で、オーストラレーシア人の遺伝的兆候が中期完新世のアジア南東部本土の狩猟採集民集団で見つかったことは、注目に値します(関連記事)。したがって、他の人口集団がアメリカ大陸先住民の祖先系統に寄与した可能性は残っており、それら人口集団の一部は、たとえばUPopAのようなゴースト的存在か、まだ検出されていない方法で関連している可能性があります。また、これまでに検出されたものよりも、祖先的アメリカ大陸先住民集団内で多くの系統分岐と移動があった可能性は高そうです。

 古代ゲノム記録は広範な拡散や長期間の継続や人口集団置換事象や遺伝子流動と混合の証拠を示してきましたが、人々が移動した(もしくは留まった)理由、異なる集団が遭遇した時に相互に何が起きたのか(混合を除いて)、一部の集団はなぜ消滅し、これらの過程は考古学的に見られる物質文化の記録と変化にどのように関連するのか、といった問題にはほぼ沈黙しています。これらの問題には、単にゲノムと文化の変化の間の相関(関連記事)に注目するだけではなく、ゲノム記録と考古学的記録を今よりもはるかに統合する必要があります。結局のところ、文化的変化は人口集団の混合とは無関係に起きる可能性があり、全ての人口集団の混合が文化的変化につながるわけではありません。

 なお、オーストラレーシア人のゲノム兆候は最近になって、現在南アメリカ大陸太平洋沿岸に住むアメリカ大陸先住民で検出されました(関連記事)。これは、オーストラレーシア人のゲノム兆候の範囲と構造が、上述した既知の知見よりも大きいことを示唆します。オーストラレーシア人のゲノム兆候は太平洋沿岸経由でアメリカ大陸に到来した人口集団によりもたらされた、と推測されますが、その地域の古代人と、北および中央アメリカ大陸の古代人および現代人からのオーストラレーシア人のゲノム兆候の欠如は、まだ説明されていません。


参考文献:
Willerslev E, and Meltzer DJ.(2021): Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature, 594, 7863, 356–364.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03499-y

高橋のぼる『劉邦』第1集~第10集

 最近、『ビッグコミック』にて劉邦を主人公とした作品が掲載されており、すでに単行本で第10集まで刊行されていることを知ったので、第10集までまとめて購入して読みました。『ビッグコミック』に掲載されていた『天智と天武~新説・日本書紀~』が2016年7月に完結(関連記事)して以降、『ビッグコミック』をまったく読んでいなかったので、最近まで劉邦を主人公とした作品の連載が始まっていたことを知りませんでした。劉邦に関しては、中学生の頃に司馬遼太郎『項羽と劉邦』を熱心に読んだことがあるので、思い入れの強い時代でもあり、どのように描かれているのか、興味があり読むことにしました。

 本作の劉邦は、身勝手で怠惰で卑劣なところを見せつつも、情に厚いところもあり、嫌ったり警戒したりしている人も少なくないものの、なぜか多くの人々に慕われている、という人物像になっています。身近にいたら、迷惑には思いつつも、なぜか惹かれてしまうかもしれません。まあ、劉邦の嫂のように、毛嫌いしてしまうかもしれませんが。その嫂も父親もほとんど登場せず、劉邦の兄はまだ登場していません(見落としているかもしれませんが)。劉邦の家族は、妻となった呂雉(呂后)の出番こそ多いものの、呂雉との間の子供2人(魯元公主と恵帝)はまだ顔見世程度の出番しかなく、家庭ドラマ的性格は強くないように思います。もちろん、今後魯元公主と恵帝が重要な人物として描かれる可能性はありますが。

 本作の主要な脇役は、蕭何など劉邦の家臣となっていく周囲の人物と、項羽およびその周辺の人物と、劉邦が項羽たちとともに打倒することになる秦王朝の人物で、それぞれキャラが立っているので楽しめています。本作は、『史記』などでよく知られた逸話を盛り込んでいきつつも、創作を挿入しており、大きな歴史の流れは変わらないのでしょうが、どのように描かれるのか予測しにくいところもあり、楽しめています。たとえば、趙高は秦の第2代皇帝の胡亥を自害に追い込んだ後に胡亥に殉ずるかのように自害しており、玉座を窺うような人物としては描かれていません。趙高の描写はさほど多くありませんが、李斯を処刑に追い込むなど宮廷政治には長けているものの、反乱軍への対処も含めて大規模な国家の運営に関しては無能だった、ということでしょうか。

 最新の単行本第10集は、鴻門の会が始まったところまで描かれています。劉邦の生涯においてとくに劇的な物語になりそうな鴻門の会がどう描かれるのか、たいへん楽しみです。最終的な結果は史書で伝えられている通りとしても、本作のこれまでの描写からして、かなり捻ってくるのではないか、と予想しています。第10集では韓信が本格的に登場し、魅力的な人物として描かれているので、活躍が楽しみです。今後登場するだろう人物では陳平も楽しみで、どのような人物像となるのでしょうか。また、人物紹介で「謎の美人」とある虞は、これまでのところ秦に深い恨みを抱いており、武芸にも長けた剛毅な人物といった感じで、とくに謎はないように見えますが、あるいは深い設定があるのでしょうか。

 私も含めて多くの読者にとって気になるのは、劉邦を主人公としてその最期まで描かれるのだろうか、ということだと思います。項羽を打倒した後には功臣の粛清が続くわけで、陰鬱な話になりそうですが、それも本作らしく明るく描かれるのでしょうか。また、皇帝即位後の劉邦にとって大失態と言える匈奴との戦いでの敗北が描かれるのか、そうだとしたら冒頓単于はどのような人物像になるのか、という点も気になります。もし劉邦の最期まで描くのだとしたら、本作はかなりの長期連載となりそうで、長く楽しめる作品になりそうです。

高松市茶臼山古墳の古墳時代前期人骨の核DNA分析

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。香川県高松市の高松茶臼山古墳は、古墳時代前期の讃岐における最大規模の前方後円墳です。1967年に発掘調査が行なわれ、第Ⅰ主体部から第Ⅷ主体部までの8つの埋葬施設が検出されています。このうち、第Ⅰ主体部から2体(E地区とW地区)、第Ⅲ主体部から1体の人骨が出土しています。第Ⅲ主体部の人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析からは、(縄文時代晩期もしくは弥生時代早期以降の)アジア東部大陸部からの「渡来系」集団に由来するmtDNAハプログループ(mtHg)D4m1が検出されています。高松茶臼山古墳は、その規模から讃岐の盟主的古墳と理解されており、埋葬されていた人物のさらなる遺伝的背景が注目されます。本論文は、mtDNA解析に成功している第Ⅲ主体部の人骨(茶臼山3号)の核DNA分析結果を報告します。

 茶臼山3号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から男性と判断され、これは人骨の形態学的特徴による推定と一致します。茶臼山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はC1a1です。主成分分析によるアジア東部の現代人および古代人との比較の結果、茶臼山3号は現代日本人の分布範囲内に収まりました。より詳細に他集団との関係を明らかにするためのf4統計では、茶臼山3号は現代日本人よりも統計的に有意に縄文人に遺伝的に近い、と示されました。

 茶臼山3号のYHg-C1a1を含むYHg-Cは、在来の「縄文系」に由来すると考えられており、とくにYHg-C1a1は現代人ではほぼ日本人に固有です。本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人におけるYHg-Cの頻度は、2013年の研究では5.4%で、2019年の研究では8.2%です(関連記事)。一方、茶臼山3号のmtHg-D4m1は「渡来系」集団に由来すると考えられます。茶臼山3号は、父系では在来の「縄文系」、母系では「渡来系」となり、在来系と「渡来系」の混血後の集団が古墳時代の讃岐まで広く分布していた、と改めて示されました。これは、より大規模なデータである核DNA解析でも支持されましたが、茶臼山3号は日本列島「本土」現代人(東京)よりも「縄文人」的だったことから、混血がまだ充分には進んでいなかったことも示されました。ただ、茶臼山3号のDNAの汚染率はやや高めなので、それが解析結果に影響を与えている可能性もあります。

 これまでの弥生時代~古墳時代の人骨の核DNA解析結果から、「渡来系」集団の影響と拡散には地域差が見られます。このような傾向は形態学的研究でも指摘されており、膨大なDNA情報を用いた解析により、その精度がはるかに高まっています。今後、分析個体を蓄積していき、DNAデータから混血の程度を定量的に評価することで、日本列島における混血の実態がより明らかになるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。古墳時代前期の讃岐の有力者と思われる男性は、父系では在来の「縄文系」、母系では「渡来系」と推測されています。ただ、YHg-C1a1はまだ「縄文人」では確認されていないと思いますので、「縄文系」と断定することはできないでしょう。この問題の解決には、日本列島に限らずユーラシア東部の時空間的に広範囲の古代DNA研究の進展が必要になります。同じく「縄文系」とされている現代日本人のYHg-Dも、そのうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」である可能性を現時点では想定しておくべきではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373

シチリア島の絶滅ゾウの小型化過程

 シチリア島の絶滅ゾウの小型化過程に関する研究(Baleka et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。島での進化は、小型化や大型化など、比較的短期間でさまざまな表現型の変化を引き起こす可能性がある過程です(島嶼化)。これらの表現型の変化率を調べることは、新たな環境への適応の速度と柔軟性への洞察を提供します。しかし、この変化を正確に測定することは困難です。島への到来の正確な時期は、化石記録が不完全で、正確な年代測定がしばしば困難なため、不確実な場合が多くなります。さらに、到来した祖先の状態が不明な場合もあります。

 分子年代測定は、調査中の系統の共通祖先の年代の推定が可能なので、進化率の測定の方法を提供します。しかし、絶滅した多くの島の小型および大型動物にとって、そうした島の多くが低緯度に位置するので、そうした手法の適用はDNAの保存に適さない気候条件により妨げられます。哺乳類の錐体骨は、他の骨格部分よりも内在性DNAをよく保存している、と示されてきたので、困難な保存条件からの標本抽出に適した資料となるかもしれません。同様に、ミトコンドリアDNA(mtDNA)はその固有の限界にも関わらず、細胞あたりのコピー数が多いため、保存条件の厳しい標本のDNA研究に適した標識です。本論文は、シチリア島の小型ゾウの錐体骨の標本抽出により、低緯度地域のDNAと関連する課題を克服しました。本論文はミトコンドリアゲノム配列を復元し、そのデータを用い地シチリア島の小型ゾウの系統の矮化率を推定します。


●小型化過程の推測

 シチリア島の小型ゾウは、島の進化がもたらすかもしれない極端な形態変化の優れた例です(図1)。一般的には、過去100万年に存在した大きさに基づく2つの分類群が区別され、一方は体高1mのファルコネリゾウ(Palaeoloxodon falconeri)で、層序的により新しい方は体高2mの小型ゾウ(Palaeoloxodon cf. mnaidriensis)です。シチリア島の更新世の動物相の歴史では、いくつかの動物相の交代事象が示唆され、化石記録に示される小型ゾウ分類群の正確な数は議論中です。

 本論文の標本は暫定的に体高2mの小型ゾウ(Palaeoloxodon cf. mnaidriensis)に分類されました。しかし、シチリア島の小型ゾウの分類は議論の対象となるので、本論文はこの標本を、シチリア島のプンタリ洞窟(Puntali Cave)で発見されたことに因んで「プンタリゾウ」と呼びます。それにも関わらず、シチリア島で見つかった全てのゾウ資料はパレオロクソドン属に分類される、という広い合意があり、推定体高2mのプンタリゾウは、ヨーロッパ本土に80万~4万年前頃に存在した推定体高3.7mで体重10tのアンティクウスゾウ(Palaeoloxodon antiquus)の直接的子孫だった、と仮定されています。プンタリゾウの祖先は、ヨーロッパ本土から20万年前頃にシチリア島に到来した、と提案されていますが、シチリア島におけるさまざまなゾウ系統の複数の移住事象と小型化事象が、この推定を複雑にしているかもしれません。以下は本論文の図1です。
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 実際の小型化過程はもっと早く完了したかもしれませんが、本論文ではプンタリ標本の年代が小型化過程の終了年代と定義されます。生層序学的指標に基づいて、プンタリ標本のいくつかの年代が提案されてきました(147000±28700年前、88000±19500年前、7万~2万年前頃)。これらの検証のため、DNA分析に用いられたプンタリ標本で加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行なわれました。その結果、放射性炭素年代測定法の範囲を超えていると証明され、その下限年代は5万年前頃となります。

 そのため、結晶内タンパク質分解の程度を既知の問題の資料と比較することに基づく、アミノ酸地質年代測定も適用されました。プンタリゾウの歯のエナメル質から結晶内タンパク質分解データが得られ、プンタリの追加の小型ゾウおよびシチリア島のスピナガッロ(Spinagallo)遺跡のゾウ標本、イギリスの既知のゾウ標本のデータと比較されました。プンタリゾウおよび他のプンタリ洞窟のゾウ標本の結晶内タンパク質分解は、35万~23万年前頃のスピナガッロ標本よりもかなり低い、と示されました。さらに、プンタリ洞窟の標本は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)7/6となる20万年前頃とされるイギリスのクレイフォード(Crayford)の標本と類似の結晶内タンパク質分解を示します。

 結晶内タンパク質分解の速度は、イギリスのクレイフォード標本と比較してより温暖なシチリア島では速くなるため、プンタリ標本はクレイフォード標本よりも新しく20万年前頃未満と推定され、MIS6の移住事象と一致します。しかし、限られた比較データセットしか利用できないので、結晶内タンパク質分解は現時点で、より正確な年代を提供できません。ヨーロッパ南部の追加の化石資料の結晶内タンパク質分解データが利用可能になれば、プンタリゾウの年代をより絞り込めるはずです。アミノ酸地質年代、放射性炭素年代測定、電子スピン共鳴法(ESR)年代測定により、プンタリ標本の年代は175500~50000年前頃に絞り込め、プンタリゾウの生層序学的年代推定を確証する追加の一連の証拠が提示されます。

 プンタリゾウとその最も近縁なヨーロッパ本土のゾウとの分岐年代は、共通祖先が大型のアンティクウスゾウだったと仮定すると、小型化過程の最初の時点とみなせます。したがって、これは化石証拠と関係なく、プンタリゾウ系統の小型化開始の2番目の推定値を提供します。本土系統からの分岐年代を調べるため、プンタリゾウの錐体骨からmtDNA配列が回収され、ミトコンドリアゲノムの95.5%が再構築されて、平均読み取り深度は61倍に達しました。絶滅ゾウと現生ゾウの系統発生分析により、プンタリゾウはドイツのノイマルク・ノルド(Neumark-Nord)で発見されたアンティクウスゾウの姉妹系統と推定されました(図2)。BEASTでの化石で較正されたベイズスカイライン集団モデルを用いると、プンタリゾウとアンティクウスゾウのミトコンドリアゲノム間の推定平均合着(合祖)年代は、最小標本年代で402000年前頃、最大標本年代で435000年前頃となりました。これらの年代は、種分化モデルを適用した時の平均分岐年代(プンタリ標本の推定年代が、50000年前頃の場合は357000年前頃、175500年前頃の場合は398000年前頃)と密接に一致します。

 遺伝子系統の合着は常に集団分離に先行するので(分岐後の遺伝子流動がない場合)、この合着年代は、プンタリゾウ系統によるシチリア島への移住の上限年代を表します。種間の分岐後の遺伝子流動は、ミトコンドリア系統発生の側系統につながる可能性があり、これは現生のアフリカゾウ2種で以前に報告されていたので、集団間の分岐年代の解釈を複雑にします。完全なミトコンドリアゲノムもしくは短いmtDNA配列において、プンタリ標本とノイマルク・ノルド標本とアフリカゾウを含むミトコンドリアの側系統の証拠は見つかりませんが、本論文で示されたゾウ標本間のmtDNAの関係が種系統樹に対応していることを確証するには、追加の標本および核DNAの分析が必要でしょう。以下は本論文の図2です。
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 シチリア島に移動してきたゾウの実際の起源地は、イタリア本土だった可能性が最も高そうです。イタリアより北方のドイツのゾウ集団に基づく推定合着年代は、ヨーロッパ本土の祖先からのプンタリゾウ系統の分岐というよりもむしろ、ヨーロッパ本土のアンティクウスゾウのこれら地域集団間の分岐を表しているかもしれません。ヨーロッパ本土では、アンティクウスゾウ化石は頭蓋形態で高い多様性を示し、これらの違いが南北の異なる亜種、もしくは種の指標とみなせるのではないか、との議論につながります。

 mtDNAではプンタリ標本とドイツの標本は姉妹系統に位置づけられますが、プンタリ標本の頭蓋形態は南部集団に類似している一方で、ドイツの標本は北部のアンティクウスゾウの頭蓋特徴を示します。しかし、これまでに配列されたアンティクウスゾウのミトコンドリアゲノムの非単系統的性質と、頭蓋形態を決定できる化石からの追加の配列の欠如のため、これらの系統間の合着年代が、南北のアンティクウスゾウ集団間の分岐を表しているのかどうか、不明です。アンティクウスゾウの集団構造とヨーロッパ南部の島々への移動をさらに調べるには、ヨーロッパのアンティクウスゾウのさらなる徹底的な標本抽出が必要です。したがって、プンタリゾウとヨーロッパ本土のアンティクウスゾウ間の推定分子分岐は、小型化開始の上限年代とみなすべきで、最小限の矮化率につながります。

 小型化過程開始のあり得る下限年代は、シチリア島で最初に記録された小型プンタリゾウの年代に基づいてのみ制約できますが、これに関しては議論が続いています。この時点ですでにプンタリゾウは(少なくとも部分的には)小型化過程を経ているので、この年代は小型化開始の絶対的な下限と考えられ、矮化率の学際的推定の価値を浮き彫りにします。ヨーロッパ本土からシチリア島への移動は、海の障壁および/もしくは陸橋接続のため、海面低下時を伴う気候期間(氷期)に起きた可能性が高そうです。ゾウは泳げ、陸橋は島への移動の要件ではありませんが、海面が低ければ島への移動の可能性は高くなります。プンタリゾウの祖先のシチリア島への最初の移動は20万年前頃と提案されてきており、これはMIS6の20万年前頃となる海面低下と一致し、最も海面が低下したのはMIS6の16万~14万年前頃です。プンタリ標本の年代は不確実なので、シチリア島へのプンタリゾウの移動の年代として、125000年前頃となるMIS5e末の急激な海面低下の始まりと、7万年前頃となるMIS4の海面低下も考慮されました。

 プンタリゾウの最新と最古の推定年代、および小型化開始の上限および下限年代を用いて、プンタリゾウ系統の平均矮化率の上限値と下限値を提供できます。中間的な標本年代と小型化の代替の開始を用いた中間的な可能性のあるシナリオは、表1に示されています。体高と体重の減少は、アンティクウスゾウが体高3.7mで体重10t、プンタリゾウが体高2mで体重1.7tと仮定して計算されました。1年間および世代ごと両方の矮化率が提示されます。アンティクウスゾウの1世代の年代として、最も密接に関連している現生種であるアフリカサバンナゾウ(Loxodonta africana africana)の例が用いられました。これは最大の推定値を表している可能性が高く、体重と1世代の年代は一般的に相関しているので、シチリア島の小型ゾウの1世代の年代は減少しているかもしれません。したがって、矮化率は小型化の総量を総年代で割って計算されます。

 その結果、小型のプンタリゾウは、1年あたりでは、体重が0.02~6.48kg、体高が0.005~1.34m減少し、1世代ごとでは、体重が0.74~200.95kg、体高が0.15~41.49mm減少したことになります。これらの進化率を整理するため、1世代あたり1標準偏差分の形質の変化に対応する率の単位であるホールデンに変換されました。この方法は標本抽出間隔を補正しているので、小型化が起きたかもしれない広範囲の年代(352000~1300年前頃)にも関わらず、体高と体重の計算値は古生物学的に観察された他の進化率の範囲内(範囲の上限、つまり速いということです)に収まっています。さらに、この急速な進化の結果として生じた小型化の程度は、これまでに生息した最大級の陸生哺乳類の体格が約85%も減少したことを考えると、真に驚くべきです。


●まとめ

 島での進化は、「進行中の進化」の最も印象的な事例の一つとみなされることが多く、大型動物の子孫として、絶滅した小型ゾウは島の進化の最も興味深い事例の一つです。プンタリゾウが受けた縮小の程度を考えると、現代人がアカゲザル(Rhesus macaque)程度の大きさにまで小型化したことに匹敵します。しかし、古代DNAは小型ゾウが生存していた温暖な気候では保存が困難なので、分子年代測定を用いての小型ゾウの進化の年代範囲を制約することはとくに困難です。本論文は、地中海のシチリア島の更新世のDNAを回収するさいの問題を克服し、島の種の矮化率について、分子的および生物学的に較正された初めての範囲を提供します。古代核ゲノムの復元は、温暖な気候時期の更新世標本では大きな課題ですが、単一の遺伝標識としてのmtDNA固有の限界を克服するには必要で、さらには小型化過程の選択下における機能的領域や、アンティクウスゾウの例外的な交雑起源の識別と調査を可能にするでしょう。島嶼化による小型化に関しては、人類史上少なくとも2回独立して起きた可能性が指摘されており(関連記事)、人類進化の観点からも注目される研究です。


参考文献:
Baleka S. et al.(2021): Estimating the dwarfing rate of an extinct Sicilian elephant. Current Biology, 31, 16, 3606–3612.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.05.037

出雲市猪目洞窟遺跡の古代人骨の核DNA分析

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の「縄文系」と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。その後、二重構造説き現代人や古代人を分析対象としたDNA研究でも支持されており、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人集団の大枠を説明する、と考えられています。

 一方、たとえば「弥生人」の歯の形態学的分析から、「渡来系集団」の影響と拡散の状況には地域差があると示されていますが、日本列島において弥生時代から現代までどのように混血が進行したのか、不明な点が多く残されています。本論文は、島根県出雲市猪目洞窟遺跡から出土した弥生時代中期~古墳時代の人骨のDNA解析結果を報告します。7個体でミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析され、このうちDNAの保存状態がとくに良好な2個体の核DNAが分析されました。これらの研究成果の一部はすでに報道されていました(関連記事)。


●DNA解析

 分析された7個体のうち、猪目3-3-1以外の6個体では良好なmtDNA分析結果が得られました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、猪目3-3-1が明確に分類できず、Aの可能性が指摘されています。その他の個体はmtHgが明確に決定され、猪目13号と猪目3-2-1と猪目1-1-1がM7a1a1a、猪目3-1-1がD4g1、猪目3-1-2がN9a2a1、猪目3-2-2がD4b1a1aです。核DNA解析は、猪目3-2-1(紀元後6~7世紀)と猪目3-2-2(紀元後8~9世紀)で行なわれました。平均深度は、猪目3-2-1が0.53倍、猪目3-2-2が5.60倍です。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から、猪目3-2-1は女性、猪目3-2-2は男性と判定されました。猪目3-2-2のY染色体ハプログループ(YHg)はO1b2a1a1です。主成分分析でのアジア東部の現代人および古代人との比較では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は現代日本人の分布範囲内に収まりました。より詳細に他集団との関係を明らかにするためのf4統計では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は現代日本人よりも有意に「縄文人」に近い、と示されました。


●考察

 猪目洞窟遺跡の6個体のmtHgは、在地の縄文人系統に由来するM7aと、渡来系に由来するN9a・D4b1・D4g1が見られます。父系遺伝のY染色体でも、渡来系に由来するO1b2a1a1が見られ、mtHgと矛盾しません。YHg-O1b2a1a1を含むYHg-O1b2は、日本列島本土現代人と現代韓国人においてそれぞれ29.3%と31.4%と高頻度で見られる主要なYHgで、他のアジア北東部やアジア南東部の集団でも低頻度で見られます。YHg-O1b2でも祖型とその下位区分の出現頻度は、日本列島本土現代人と現代韓国人で異なり(前者では7.7%と22.0%、後者では33.3%と4.0%)、日本列島本土現代人に特徴的なYHgは猪目洞窟遺跡の個体でも見られました。これは、猪目洞窟遺跡集団が在地の縄文人系と渡来系の混血集団であることと共に、現代日本人へ遺伝的につながる系統であることを直接的に示しています。核DNAデータを用いた主成分分析から、猪目3-2-1と猪目3-2-2の混血度合は日本列島本土現代人(東京)とほぼ同程度と推測されます。しかしf4統計では、猪目3-2-1と猪目3-2-2は日本列島本土現代人(東京)よりも縄文人的だったことから、混血が充分には進んでいなかったことも明らかになりました。

 猪目13号は弥生時代中期までさかのぼるので、DNAが分析された猪目洞窟遺跡の6個体の年代幅は1000年近くになります。猪目13号のDNA保存状態も良好なので、核DNA分析に適しており、猪目洞窟遺跡では弥生時代から古墳時代までの遺伝的変遷の解析も今後可能です。年代測定が行なわれていない猪目3-1-1と猪目3-1-2と猪目1-1-1も核DNA分析が可能です。今後、これらの個体の核DNA分析により、猪目洞窟遺跡集団の成立についてより詳細な解明が可能になる、と期待されます。

 mtDNA分析では興味深い結果が得られました。猪目13号と猪目3-2-1と猪目1-1-1はmtHg-M7a1a1aに分類され、mtDNA全配列でも完全に同一でした。通常、1ヶ所の遺跡で複数個体から同一のmtDNA配列が確認された場合、母系で血縁関係にあると判断されますが、年代測定では、猪目13号が紀元前4~紀元前2世紀、猪目3-2-1は紀元後6~7世紀と時期が離れています。つまり、猪目洞窟遺跡では母系で遺伝的に類似の集団が長期にわたって埋葬されていた、と考えられます。また遺伝的多様性は低く、6個体のうち3個体が同一のmtHgです。対照的に、鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代後期人骨36個体のmtDNA分析ではさまざまなmtHgが検出されており、猪目洞窟遺跡よりも遺伝的多様性が高くなっています(関連記事)。今後、両遺跡の核DNAを比較することで、両集団の成立過程についてより詳細な検証が可能となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。猪目洞窟遺跡集団は遺伝的に、古墳時代の個体は日本列島本土現代人集団の分布範囲内に収まるものの、縄文人の遺伝的影響は日本列島本土現代人よりもやや高いと推測されており、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成は、西日本ではおおむね古墳時代までに形成されていたものの、その後の混合も一定以上の役割を果たした、と推測されます。猪目洞窟遺跡集団で注目されるのは、長期にわたる母系での遺伝的に類似した集団の存在ですが、当時の社会構造を推測するには、さらに多くの遺伝的および考古学的データが必要になるでしょう。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340

鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡は、弥生時代前期末から古墳時代初期の遺跡です。1998年度から2000年度の発掘調査で、2区から単独の頭蓋骨(頭骨33号)、3区B26南東側から漂着人骨1体、4区北西側と南西側からそれぞれ漂着人骨2と3、8区西側に検出された溝跡(SD38)から人骨約5300点(少なくとも109個体以上)が、土器などの遺物とともに出土しました。堆積層から出土し、同一層に共伴する土器の形式および人骨の年代分析から、頭骨33号と漂着人骨1および2は弥生時代中期、SD38人骨群は弥生時代後期と明らかになっています。人骨は泥湿地から出土したため保存状態が良好で、中には脳が残っている個体もあります。人骨には多数の殺傷痕が認められ、年代が『三国志』に見える「倭国大乱」の時期と重なってくる点で、発見当時から注目された遺跡でした。

 青谷上寺遺跡出土の人骨については、形態学的研究とともにDNA解析も行なわれ、32個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、さらに保存状態良好な6個体で核DNAが解析されました。これらの研究成果の一部はすでに報道されていました(関連記事)。DNA解析から、青谷上寺遺跡出土の人骨については、母系遺伝のmtDNAでは「(縄文時代晩期もしくは弥生時代以降の)渡来系」型が大半なのに対して、父系遺伝のY染色体DNAでは大半が「縄文系」と明らかになり、婚姻が在来系集団と「渡来系」集団との間で無作為に行なわれなかった可能性が示唆されています。一方、核DNA解析では、両集団の混血が進み、総体としては本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人集団に近い遺伝的組成だったことも明らかになりました。また、個体間の遺伝的違いが大きく、混血が充分には進んでいなかったことも示唆されています。これらの知見は興味深いものの、核DNA解析された個体が不充分なので、結論の提示は困難でした。本論文は、新たに核DNAが解析された複数個体の結果を踏まえて、この問題を検証します。


●DNA解析

 新たにDNA解析された漂着人骨1号および2号では、mtHgがそれぞれD4b2b1dとN9b3と分類され、前者は「渡来系」、後者は「縄文系」と考えられます。核DNAは、漂着人骨2号からの抽出はできず、1号のみとなりました。新たに合計で7個体の核DNA解析に成功し、平均深度は0.0014~1.57倍です。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から性別が推定され、男性が5個体、女性が2個体です。男性5個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、頭骨19号がDもしくはD1b、頭骨25号がO1b2a1、頭骨25号が不明、頭骨9号がD1b、漂着人骨1号がO1b2a1a1です。YHgを定義する変異が明記されていませんが、YHg-D1bは現在のD1a2aだと思います。

 主成分分析により、アジア東部の現代人および古代人と比較した結果、青谷上寺遺跡個体群はおおむね現代日本人の分布範囲内に収まりましたが、個体間でバラツキが見られます。これに関してはデータ不足も考慮する必要があるかもしれませんが、比較的核DNAの網羅率が高い漂着人骨1号と8号も離れていることから、このバラツキは個体間の遺伝的構成の違いを反映している、と考えられます。日本列島の古代人では、九州北部の弥生時代中期人骨の福岡県那珂川市の弥生時代の安徳台遺跡5号が最も近接しており、西北九州弥生人の佐世保市下本山岩陰遺跡の2号および3号(関連記事)とは離れています。

 f4統計では、核DNAが解析された青谷上寺遺跡13個体のうち6個体は、現代日本人と比較して縄文人的な遺伝要素が少ない傾向にある、と示されました。一方で青谷上寺遺跡8号は、現代日本人と比較して縄文人的な遺伝要素が多い傾向にある、と示されました。これらの結果は、主成分分析のアジア東部大陸部集団から縄文人にかけての中央から左上にかけての軸に沿ったバラツキとも一致します。つまり、青谷上寺遺跡個体群の遺伝的な構成のバラツキが、縄文人的な遺伝要素の大小によることを示しています。


●考察

 青谷上寺遺跡で発見された人骨40点のうち36点でmtDNA分析が成功し、血縁関係が疑われる個体を除くと、31系統が確認されました。そのうち、在来の縄文人系のmtHgは2系統です。父系遺伝のY染色体では、現代日本人におけるYHgの頻度は、Cが5.4%、Dが39.6%、Oが53.8%です(2013年の研究)。2019年の研究では、日本列島本土現代人集団でCが8.2%、Dが35.34%、Oが55.1%です(関連記事)。青谷上寺遺跡個体群では、在来の縄文人系統のYHg-C・Dはそれぞれ2個体と3個体の計5個体(と本論文は示しますが、縄文人でまだYHg-Cは確認されていないと思います)、渡来系のYHg-Oが3個体と、依然として縄文人系統の割合は高いものの、現代日本人の比率とそうかけ離れた割合ではありません。これに関しては、婚姻が無作為ではなかった可能性も指摘されていますが、より多い情報を有するX染色体からも検証は可能で、今後の課題となります。

 核DNAが解析された青谷上寺遺跡13個体は、集団の総体として現代日本人に近い遺伝的傾向を示します。一方で、個体間のバラツキが見られ、その要因は縄文人的遺伝要素の強弱にある、と示されました。この強弱の要因の検討点として、資料の年代差、階層との関連、外部集団の流入や混血、在来系と渡来系の混血開始から経過した世代が浅くて充分な混血が進んでいない可能性、などが挙げられます。

 このうち年代については、青谷上寺遺跡の人骨はおそらく同時期に8区画西側の溝に放棄されており、強弱の要因とは考えられません。青谷上寺遺跡33号および漂着人骨1号と溝跡の人骨群との関係は明らかではありませんが、それで結論が変わることはありません。階層については、青谷上寺遺跡のように溝から無秩序に産卵した状態からの人骨からの検討は難しそうで、他の遺跡も含めて階層のはっきりした試料の分析により検討が可能になるかもしれません。外部集団との関りについては、mtHgの多様性から、ヒトの流入が多かったと推測されています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。青谷上寺遺跡は、DNAが解析された個体数の多さからも、現代日本人の形成過程の考察において今後も重要な役割を果たすことになるでしょう。青谷上寺遺跡個体群は遺伝的に、おおむね日本列島本土現代人集団の範疇に収まるものの、個体差が大きく、これをどう解釈するかは、本論文が指摘するように今後の課題となります。青谷上寺遺跡個体群からは、渡来系の女性を在来(縄文人)系の父系集団が受け入れていった、とも解釈したくなりますが、現代日本人のYHg-C・Dのうち、本当に縄文人由来と言える系統がどれだけあるのか、という点も今後の検討課題になるように思います(関連記事)。青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから直接的に朝鮮半島と交易したと推測されており(関連記事)、この考古学的知見も青谷上寺遺跡個体群の遺伝的構成を解釈するうえで重要となりそうです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307

大河ドラマ『青天を衝け』第22回「篤太夫、パリへ」

 栄一(篤太夫)が徳川昭武に同行して外遊に出たので、初期のように栄一の話と慶喜の話が別々に進行することになりました。栄一が外遊に出ている間に国内政局は劇的に動くわけで、栄一を主人公とする場合、幕末編で慶喜を準主人公として描くのは上手い構成だと思います。栄一は慣れない船旅に苦労しつつパリに到着し、万国博覧会の会場を視察し、西洋の技術に圧倒されます。日本の展示場には薩摩藩の紋が高々と掲げられており、幕府使節団は抗議し、フランス側からは妥協案が提示されますが、幕府と薩摩藩は同格の政府との風聞が流れます。これは薩摩藩の五代才助(友厚)たちの策略でした。

 国内政局では、慶喜がフランス公使ロッシュの助言も得て、さまざまな改革を打ち出します。慶喜は外交面ではフランスやオランダやイギリスに開港を約束するなど、将軍として積極的に動きます。渋沢家では、外遊に出た栄一の養子として尾高平九郎が迎えられます。今回は、栄一のパリでの見聞が描かれ、栄一が近代化に役立つさまざまな知見を得ていくところは、主人公の成長が見られてよいと思います。主人公が受動的に振り回されるのではなく、能動的に動いていき成長するところが本作の魅力になっていると思います。

MIS5のチベット高原における人類の存在と石器

 海洋酸素同位体ステージ(MIS)5のチベット高原における人類の存在と石器に関する研究(Cheng et al., 2021)が公表されました。高地(標高2500m以上)環境への適応成功は、人類の進化と拡散における重要な画期的事象です。高地の極端な環境、とくに低酸素症は、いくつかの形態の高山病を起こす可能性があります。医学的および生物人類学的研究では、高地適応には少なくとも、心血管機能や妊娠および胎児の成長や発達反応など、さまざまな生理的利便性が必要と示されています。

 過去10年間の遺伝学的研究では、高地適応関連の遺伝子候補の特定で大きな進展があり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)から現生人類(Homo sapiens)への高地適応関連遺伝子(EPAS1)も示唆されています(関連記事1および関連記事2)。最近の考古学的研究では、デニソワ人はすでに中期更新世後期~後期更新世前期にかけて低酸素環境の高地に居住していた、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。後期更新世後期までに、現生人類はチベット高原(関連記事)とアンデス高原(関連記事)とエチオピア高地(関連記事)という、地球上の高地3地域に居住していました。したがって、遺伝学的研究と考古学的研究は両方、高地環境への適応は長い進化史を有し、人類の進化に重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆します。

 チベット高原は地球上で最も高く最大の高原で、平均標高は海抜4000m以上で、面積は250万㎢です。チベット高原は先史時代人類の拡大に対する自然障壁で、海面より40%低い酸素濃度、強い紫外線、低い気温、低い生物生産性のため、極限環境への人類の適応を調べるのに理想的な地域です。考古学的研究では、チベット高原北東端となる中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave、BKC)には、人類が少なくとも19万年前頃には到達しており(関連記事)、内陸部の高地では尼阿底(Nwya Devu、ND)遺跡で4万~3万年前頃の人類の痕跡が確認され(関連記事)、海抜3000m以上の高地に人類が恒久的に居住するようになったのは、おもにコムギとオオムギの農耕により促進された中期~後期完新世だった、と示唆されています。

 しかし、まだ信頼できる年代の旧石器時代遺跡が少ないので、さらに明確にする必要があります。現在、チベット高原で年代測定された旧石器時代遺跡は約20ヶ所のみで、そのほとんどは15000年前以降です。チベット高原の旧石器時代遺跡で最古となる白石崖溶洞と次に古い尼阿底との間には、年代では少なくとも2万年以上、地理的には約1300kmの間隙があり、過去2回の氷期と間氷期の周期におけるチベット高原での人類の居住の分布と密度と継続性について、疑問が提起されています。

 本論文は、チベット高原北東端の祁連山脈(Qilian Mountains)の、北緯36度49分40.00秒、東経103度0分45.69秒、海抜2763mに位置する、甘粛省永登(Yongdeng)県の新たに発見された将軍府01(Jiangjunfu、JJF01)開地遺跡を報告します(図1A)。将軍府01遺跡の年代は、炭の加速器質量分析(AMS)放射性炭素年代測定と、2点の標本系列の堆積物の光学的年代測定の両方の適用により推定されました。石器と動物の骨が体系的に分析され、環境が再構築されました。本論文は、チベット高原の旧石器時代の人類の居住と、高地環境への人類の適応に関する新たな情報の提供を目的とします。以下は本論文の図1です。
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●将軍府01遺跡

 将軍府01遺跡は、標高は1600~3000mの黄土高原西部からチベット高原北東部への移行帯に位置します。この地域は現在、温暖な大陸性半乾燥気候で、アジア東部のモンスーンと偏西風の影響を受けます。平均年間気温は5.9℃、平均年間降水量は290mmで、降水量の大半は夏から初秋(6~9月)にかけてのものです。将軍府01遺跡は、庄浪河(Zhuanglang River)の小さな支流の西岸の第二段丘に位置する、黄土の露出に埋もれています(図2)。以下は本論文の図2です。
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 将軍府01遺跡は2015年の考古学的調査で発見され、近くの将軍府村にちなんで命名されました。将軍府01遺跡で露出した黄土と古土壌の厚さは約8mです。露出の底部近くで石器や動物の骨や炭が見つかりました。この露出で相互に約10m離れた2系列(系列1と系列2)が調査されました(図2)。2系列の層序はおおむね一致し、合計11の層序ユニットで構成されます(図3)。系列1ではユニット5および10が欠落しており、恐らくは斜面の侵食が原因です。考古学的遺物は古土壌層のユニット6~9に集中しています。ユニット6~9は一般的に薄く、一部が重なっており、石器技術と石材が同一なので、1つの文化層として扱われます。考古学的遺物のないユニット5を挟んでその上にユニット4が、さらにその上は厚さの異なる黄土・古土壌堆積物のユニット1~3で覆われています(図2Cおよび図3B)。以下は本論文の図3です。
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 2015年に、合計18点の石器と1点の礫と1点の岩片が文化層で収集されました。2018年には、合計101点の石器と13点の未加工の岩片が、おもに系列2の文化層で収集されました。文化層の石器密度は比較的高く、人工物の水平方向の分布が一般的ですが、垂直方向の分布はユニット6および8に比較的集中しています。動物の骨片は文化層で合計11点収集されました。AMS放射性炭素年代測定には、系列1のユニット8で収集された炭の標本が用いられ、光学的年代測定には10点の堆積物標本が用いられました。

 合計119点の石器には、石核や剥片や破片や断塊や数点の道具が含まれます。これらの石器(図4)はおもに石英と珪岩の礫で作られ、その95%以上は真新しい刀を示しており、これらの石器が廃棄後に再加工もしくは再輸送されずに埋まったことを示唆します。いくつかの大きなものを除いて、ほとんどの人工物の最大長は5cm未満です。将軍府01遺跡の石器群は、とくに小さく丸みを帯びた団塊が用いられている場合、石英や珪岩によく適用される単純な石核・剥片インダストリーと一致します。人類の活動はユニット6~9で見られ、ユニット6と8で最高頻度となっています。以下は本論文の図4です。
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 文化層(ユニット6~9)で11点の動物の骨が収集され、草食動物の歯の断片1点と長骨幹部断片で構成されます(図6)。骨はすべて化石化が進んでおり、断片化されているので特定は困難です。しかし、緻密骨の厚さは、中型から大型の動物の存在を示唆します。骨はたいへん風化しており、ほとんどの表面はマンガンのため黒くなっています。四肢骨の破壊パターンは、その動物が死後間もない時におもに破壊されたことを示すので、人類が解体したかもしれません。将軍府01遺跡での人類の動物利用と行動に関するより詳細な洞察には、拡張されたより大規模な発掘と、より多くの動物化石の回収が必要です。以下は本論文の図6です。
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 放射性炭素年代測定の結果、炭の年代は放射性炭素年代測定法の限界を超え、4000年以上前と示唆されます。光学的年代測定結果は、2系列の文化層でひじょうによく一致します。光学年代は層序に従い、文化層と関連する6点の標本では12万~9万年前頃となり、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に相当します。考古資料が異なる層序ユニットで垂直に広がっていることから、文化層はMIS5において長期にわたったことが示唆されます。河川による浸食が原因で、文化層(ユニット6~9)とその上のユニット3との間には大きな層序間隙(約5万年)が観察されます(図3)。ユニット3の標本3点は、40000~35000年前と同様の光学年代を示し、ユニット2と3の境界の標本の年代は19700±1300年前です。最上部の古土壌からは標本が収集されませんでしたが、層序の連続から、完新世に形成された可能性が最も高い、と示唆されます。文化層はMIS5に相当し、アジア東部夏季モンスーンの強化とアジア東部冬季モンスーンの弱化に対応して温暖湿潤気候だった、と推測されます。


●考察

 将軍府01遺跡は、チベット高原で最古の信頼できる年代測定がなされた開地旧石器時代遺跡を表し、堅牢な古環境背景が確認され、MIS5もしくは最終間氷期複合(MIS5e~MIS5a)に厳密に分類されます(図9Aおよび図10J)。以下は本論文の図9です。
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 将軍府01遺跡一帯のMIS5の気候条件は完新世と類似していた、と示唆されます。MIS5のチベット高原では、夏は比較的温暖で湿潤な気候で、完新世と類似した植生だったでしょう。チベット高原はMIS5には氷期と比較して、一般的に気温が高くて降水量が多く、植物は密集し、食資源はより多様だった可能性がひじょうに高いようです。さらに、チベット高原南方のより高く乾燥した内陸地域や、北方のきょくたんに乾燥した砂漠と比較して(図1B)、祁連山脈の適度に高い河川流域は、人類にとってより魅力的でした。これらの河川流域は、より居住性の高い間氷期には、チベット高原のより高い地域やより内陸の地域への拡散を促進したかもしれません。以下は本論文の図10です。
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 チベット高原の隆起が遅いにも関わらず、海抜2763mの将軍府01遺跡はすでに、人類の居住が記録されている時期には高地内に位置していました。医学的研究によると、健康な現代人が海抜2500m以上の地域に行くと、低酸素反応が起きる、と示されています。将軍府01遺跡における継続的な人類居住の証拠はありませんが、層序学的証拠と年代測定結果から、人類はこの地域をMIS5におそらく数万年の長期にわたった利用した、と示唆されます。人類は、将軍府01遺跡、さらにはもっと古い白石崖溶洞においてさえ、最終間氷期にチベット高原北東部で高地低酸素のストレスに曝されたかもしれません。これは、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)に対する選択圧上昇をもたらした可能性があります(関連記事)。過去の人口集団内のEPAS1遺伝子の漸進的な濃縮は、最終的には現代チベット人に見られる頻度に寄与したかもしれません。

 白石崖溶洞で発見された下顎骨(関連記事)と堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析(関連記事)から中期~後期更新世のチベット高原におけるデニソワ人の存在が確認されており、本論文の知見と併せると、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯が、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。しかし、これら高地への現在の遺伝的適応が、MIS4もしくは2のようなとくに寒冷で乾燥した期間に海抜3000m以下の適度に高いチベット高原の縁に留まる、人類の存在の継続的記録に起因するのか、それとも好適環境期における繰り返しの段階的な適応に由来するのか、不明です。

 将軍府01遺跡で発掘された考古学的遺物も、チベット高原における現生人類よりも前の人類の石器技術への新たな洞察を提供します。石英と珪岩で作られた将軍府01遺跡石器群は、単純な石核・剥片技術を表します。これは、4万~3万年前頃に尼阿底遺跡で見られる、現生人類の所産と解釈されている石刃技術(関連記事)とは異なります。一方、単純な石核と剥片と掻器は、デニソワ人集団と関連する白石崖溶洞でも優占しており、白石崖溶洞と将軍府01遺跡との間の石器技術の類似性を示します。

 しかし現時点では、厳密な年代と古環境と考古学的背景のあるチベット高原の伊勢は少なく、将軍府01遺跡の石器インダストリーの製作者の特定はできません。単純な石核・剥片インダストリーは、現在の中国北部ではほぼ200万年にわたって広く見られ(関連記事)、おそらくはホモ・エレクトス(Homo erectus)やデニソワ人や現生人類や他の未知の古代型ホモ属を含む複数の人類種により製作されました。そのため、特定の石器技術の製作者を識別するさいには、慎重に考えることが重要です。これは、将軍府01遺跡石器群がチベット高原北東部の地域的な高地間氷期環境での生活への課題と関連する適応に起因したかもしれない、という可能性によりさらに複雑です。将軍府01遺跡のさらなる研究は、アジア東部の人類進化研究に追加の光を当てる、と期待されます。


●まとめ

 将軍府01遺跡には、光学的年代測定に基づくと12万~9万年前頃に人類が居住しており、最終間氷期複合(MIS5)に対応します。古環境の再構築から、人類の居住はより温暖な気候条件期間だった、と示唆されます。将軍府01遺跡石器群は硬い鎚の打撃と両極打撃により石英と珪岩から製作され、単純な石核・剥片インダストリーの特徴です。将軍府01遺跡の動物の骨はおもに長骨幹部断片で構成されており、ひじょうに化石化して断片化しています。

 将軍府01遺跡は、チベット高原における先史時代人類の居住の新たな証拠と、現生人類よりも前の人類の技術的能力および適応への新たな洞察を提供します。本論文の知見から、比較的低く穏やかなチベット高原北東部山岳地帯は、高地環境への人類の適応の初期段階で重要な役割を果たし、さまざまな極限環境へのそうした適応が、最終的には人類集団の世界的な拡散を可能にした、と示唆します。チベット高原への人類の拡散年代や特定の生物学的および行動的適応を理解するには、将軍府01遺跡や白石崖溶洞のような遺跡からの石器と動物相と古環境の詳細な研究に加えて、継続的な調査と開地遺跡および洞窟遺跡の発掘と年代測定が必要です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者がどの人類系統なのか、慎重に断定を避けています。ただ、少なくともある程度は高地に適応していたと考えられることから、その製作者が広義のデニソワ人である可能性は高いと思います。極限環境に進出できた人類は現生人類だけだった、との見解も提示されていましたが(関連記事)、デニソワ人は一定以上高地環境に適応できていた可能性が高そうです。

 将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群をデニソワ人が製作したとすると、近い年代の他のデニソワ人もしくはデニソワ人候補の人類所産の石器群との比較は興味深いと思います。河北省侯家窰遺跡の22万~16万年前頃のホモ属化石はデニソワ人の可能性があり、その石器群はヨーロッパの中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian)の鋸歯縁石器様相と類似している、と指摘されています(関連記事)。シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していた、と示されています(関連記事)。

 一方、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群は単純な石核・剥片インダストリーですから、その製作者がデニソワ人だとすると、デニソワ人の石器は近い年代でも地域により大きく異なっていた可能性があります。これは、デニソワ洞窟や侯家窰遺跡のデニソワ人はユーラシア西部のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの文化的(および遺伝的)影響を受けていたのに対して、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃のデニソワ人は比較的孤立しており、そうした影響を受けなかったか、過去に受けたとしても技術が失われていたか、環境に応じた選択だった、とも考えられます。

 ただ、デニソワ洞窟ではネアンデルタール人が到来する以前から、デニソワ人は早期中部旧石器を製作していました。しかし、ネアンデルタール人がデニソワ洞窟を利用せずとも、アルタイ山脈にまで拡散していた可能性も考えられます。あるいは、将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の人類は、ネアンデルタール人でもデニソワ人でもアジア東部のホモ・エレクトスの末裔でもない未知の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)だったかもしれません。将軍府01遺跡の12万~9万年前頃の石器群の製作者の特定には、近い年代と地域の遺跡のさらなる研究が必要になるでしょう。


参考文献:
Cheng T. et al.(2021): Hominin occupation of the Tibetan Plateau during the Last Interglacial Complex. Quaternary Science Reviews, 265, 107047.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2021.107047

上田信『人口の中国史 先史時代から19世紀まで』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は先史時代から19世紀までを対象とした人口の観点からの中国通史ですが、おもに取り上げられているのは明清期で、とくに18世紀の人口爆発が詳しく検証されています。確かに、現代中国を理解するうえでこの人口爆発は重要でしょうから、妥当な配分だと思います。本書が対象とする空間的範囲は、「中国文明が包摂した」人口です。

 当然、人口の手がかりとなるような同時代の文献のない時代の推定人口は、信頼性が低くなります。本書は、中国で刊行された人口に関する書籍には、史書の記載を無批判に用いたものが少なくない、と注意を喚起します。現在に伝わる漢字文化圏最初の人口統計は、前漢末期の紀元後2年のものです。本書も指摘していますが、重要なのは、この人口統計はあくまでも王朝が把握できた範囲にすぎない、ということです。これを踏まえないと、三国時代の前後における「中国人」もしくは「漢民族」の絶滅、といった現代日本社会の「愛国者」が好む的はずれな言説に引っかかってしまいます。

 中世以降の中国人口史の特徴の一つは、南方の比重増加です。すでに唐代中期に人口は南方が北方を上回っていましたが、宋代にはその差が拡大し、人口は12世紀には1億人を突破していたと推測されています。ダイチン・グルン(大清帝国)支配下の18世紀に、人口爆発が起きます。明代に進んだ人頭税と土地税の銀納化を前提として、18世紀前半までに地丁銀と呼ばれる新たな税制が成立し、長く続いてきた人頭税が廃止されて土地税の中に繰り入れられます。これにより、それまで隠れていた人口が表に出た、と以前から説明されています。人口統計の基礎的データはこの改革を境に戸口から民数に変わり、人口史研究では画期となります。

 しかし本書は、18世紀を通じて人口は増加し、18世紀半ばには2億人程度だったのが、19世紀半ばには4億人にまで増加する理由は別にあった、と指摘します。別の理由として以前から指摘されているのは、トウモロコシやサツマイモやジャガイモといったアメリカ大陸原産作物が16世紀後半にもたらされたことです。しかし本書は、これら新たな作物が人口急増の要因に直結した、と断定することには慎重です。本書は、族譜に基づく歴史人口学の成果を参照して、18世紀における溺女(女児の間引き)の抑制を1要因として挙げ、その背景に貨幣経済の浸透による貧富の格差拡大に伴う、貧しい男性の地域社会からの脱出がある、と指摘します。また本書はこれと関連して、死亡の季節的変動が18世紀には平準化し、平均寿命が低下し、男性の未婚率が上昇したことを挙げ、18世紀には農業に依存しない生き方が広がったと推測します。

 この18世紀の人口急増とそれによる地縁・血縁に頼れない男性の増加が、19世紀後半に集中的に発生した、太平天国の乱に代表される叛乱をもたらした、と本書は指摘します。人口急増が社会不安につながった、というわけです。この社会状況の不安定化のなかで、19世紀半ばから後半にかけて死亡の季節的変動が17世紀の水準にまで戻ります。本書は最後に、現代の人口統計から過去の人口史を読み取れることも指摘します。2015年の人口では55~69歳以上で人口が急減しており、これは大躍進政策の影響と指摘されています。

佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。同じ著者たちによる長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡の弥生時代の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究を当ブログで取り上げたさい(関連記事)、コメントで佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。他にも興味深い論文が多く掲載されているので、今後当ブログ取り上げていく予定です。

 本論文は、佐賀県唐津市呼子町大友の玄界灘に面した砂丘上に位置する大友遺跡の第5次調査で発見された、弥生時代人骨の核DNA解析結果を報告しています。大友遺跡では、1968~1980年にかけての4次の調査、1999年の第5次調査と2000年の第6次調査により、それぞれ100個体以上と28個体と22個体の人類遺骸が発見されました。これら人類遺骸の副葬品の分析から、年代は弥生時代早期~古墳時代初期と推測されています。大友遺跡は、朝鮮半島由来の支石墓をはじめとして、さまざまな様式の埋葬施設があることで知られています。大友遺跡の人類遺骸の特徴は、支石墓人骨を中心に「縄文人(縄文文化関連個体)」と共通する形質および抜歯風習を有する西北九州型とされています。これに関して、在来集団が朝鮮半島の墓制だけ取り入れたか、現時点では朝鮮半島の弥生時代相当期の人類遺骸が少なく判断困難ではあるものの、墓制の保守性・伝統性重視の観点から、被葬者はアジア東部大陸部起源だった、との見解があります。

 大友遺跡の人類遺骸の由来の解明は、日本人、とくに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団の成立過程の考察において重要です。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の縄文系と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。しかし、二重構造説が依拠した人類遺骸の年代は弥生時代中期以降が大半で、最重要である縄文時代~弥生時代の移行期における人類遺骸を解析の対象としてないことに要注意です。その後、二重構造説は現代人や古代人を対象としたDNA研究からも支持されており、現代「本土」日本人の成立の大枠を説目しています。

 日本列島の古代DNA研究は1990年頃から始まり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析対象とされてきました。mtDNAは細胞内に数百コピー存在するので、核DNAよりも解析が容易です。mtDNAでは、蓄積した変異に基づいたハプログループという分類体系が確立しています。mtDNAハプログループ(mtHg)は、人類拡散の過程で集団に共有されたり、新規に形成されていったりするので、その分布調査により、古代から現代における人類集団の移住と拡散の歴史を解明できます。

 ただ、これまでの分析では既存のmtHgに基づいてmtDNAの一部領域のみを分析しているので、情報量が限られています。また、mtDNAは母系遺伝なので、男系の情報が欠落します。さらに、「縄文人」と「渡来系弥生人」の混血度合といった定量的分析では誤差も多く必ずしも有効な手段ではないなど、複数の点で課題がありました。この状況は、2010年から次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、大きく変化しました。NGSにより古代人遺骸のDNAの網羅的分析が可能になり、mtDNAよりもはるかに多くの情報を有する核DNAの解析が可能になりました。mtDNAに関しても、新規のmtHgや個体特異的な変異の検出も可能となりました。そうした解析から描かれる集団成立史の想定は、以前よりも精緻なものとなっています。

 これまでの形態学的研究から、西北九州「弥生人」は「縄文人」系統の集団と考えられてきました。しかし、上述の下本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、縄文系と「渡来系弥生人」双方のDNAが示され、両系統の混血がかなり進んでいた、と明らかになりました(関連記事)。しかし、混血の地理的・時期的な変遷はまだ不明なので、本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成について結論づけるのは時期尚早です。そこで本論文は、大友遺跡の弥生時代早期の人類遺骸の核DNA解析結果を報告し、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成に新たな知見を加えます。


●DNA解析

 本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と判断され、これは人骨の形態学的所見と一致します。大友8号のmtHgはM7a1a6です。大友8号は、一塩基多型データに基づいて、主成分分析でアジア東部の現代人および古代人と比較されました。アジア東部大陸部の集団は、北から南にかけて、集団ごとにクラスタを形成しながら中央付近で左右方向に連続的に分布しました。日本列島本土現代人は上方に離れてクラスタを形成し、さらに上方に縄文人が位置しています。この分布は、縄文人がアジア東部で遺伝的に特異的な集団であることに加えて、日本列島本土現代人が縄文人由来の遺伝要素を受け継いでいる、と示します。弥生時代早期の西北九州弥生人型である大友8号は、縄文人の分布範囲内となり、アジア東部大陸部や日本列島本土現代人から大きく離れています。一方、同じく西北九州弥生人とされる弥生時代末期の本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人の間に位置します。


●考察

 大友遺跡出土人骨は、形態学的には典型的な西北九州弥生人型で、縄文人と共通する形質を有することから、その遺伝的背景と由来が注目されます。大友8号は、土圧などによる歪みが強く計測されていないものの、形質的には著しい低顔傾向など縄文人的な特徴が指摘されています。大友8号のmtHgはM7a1a6で、縄文人に典型的なmtHgです。南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。大友8号の副葬品は南海産のオオツタノハ貝製腕輪ですが、遺伝的に母系では南西諸島集団からの影響は見られません。

 核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。支石墓は朝鮮半島に起源がある墓制なので、(1)土着住民が朝鮮半島の墓制を取り入れたか、(2)朝鮮半島で支石墓を墓制とする集団に起源がある、と考えられます。(2)では、朝鮮半島にも西北九州弥生人のように人々がいたのか、問題となります。現時点では人骨の形態学的証拠は乏しいものの、韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体の核DNAが解析されており、現代韓国人よりも縄文人的と明らかになっています(関連記事)。しかし、獐項遺跡の2個体の縄文人的な遺伝的構成の割合は日本列島本土現代人と同程度かそれ以下で、西北九州弥生人である大友8号や下本山岩陰遺跡の弥生人2個体とは遺伝的に大きく異なります。これらの知見を踏まえると現時点では、朝鮮半島に西北九州弥生人と遺伝的に同質の集団を想定するよりも、西北九州在来集団が朝鮮半島の墓制を取り入れた、と想定する方が妥当なようです。

 西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。これを地域差と年代差のどちらと解釈すべきなのか、現時点の限定的データからは明らかではありません。大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。大友遺跡の古墳時代初期の人類遺骸の中では、1個体だけ九州北部弥生人との強い類似性が示され、渡来系弥生人の流入の可能性が指摘されています。これらの知見から、西北九州弥生人でも、時期的・地理的に差はありつつ混血が進んだと考えられますが、今後、同時期の朝鮮半島南部および九州北部集団の古代人のDNA分析を継続することで、その実態がより精緻なものになる、と期待されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代早期の九州の大友8号も遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と明らかになったことで、改めて弥生時代の人類集団の遺伝的異質性の高さが示されたように思います。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 その形態から縄文人的と評価されてきた西北九州弥生人のうち、早期の大友8号は核DNAの解析で既知の縄文人の範囲に収まりますが、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人集団との間に位置し、縄文人系集団と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合集団だった、と示唆されます。本論文が指摘するように、これが地域差と年代差のどちらを反映しているのか、現時点では不明ですが、いずれにしても、弥生時代にはアジア東部大陸部に最も近い西北九州でも、遺伝的には縄文人そのものの集団が早期に存在し、末期においても、日本列島本土現代人集団よりもずっと縄文人の遺伝的影響の強い個体が存在したことになり、弥生時代の日本列島本土ではまだ縄文人の遺伝的影響が根強く残っていた、と示唆されます。

 日本列島本土人類集団の遺伝的構成が、縄文人的なものからアジア東部大陸部現代人的なものに近づく過程は弥生時代もしくは縄文時代晩期に始まって長期にわたり、地域・年代差が大きかった、と推測されます。今後、時空間的に広範囲の古代DNA研究が進むことで、日本列島本土現代人集団の形成過程がより明らかになっていくと期待されます。アジア東部の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、縄文人や弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団の形成過程、さらには弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団にどのような年代差と地域差があるのか、といった問題の解明も今後進んでいきそうです。

 また本論文は、縄文人の遺伝的構成が長期にわたってかなり均質だった可能性を改めて示します。最近、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された縄文時代早期の人類遺骸の核DNAが解析され、既知の縄文人の範疇に収まる、と明らかになりました(関連記事)。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されていましたが(関連記事)、縄文時代早期と弥生時代早期の西北九州の個体から縄文時代後期の北海道の個体(関連記事)まで遺伝的に古代および現代の人類集団と比較して緊密なまとまりを示すとなると、縄文人は長期にわたって広範囲に遺伝的には均質だった可能性が高そうです。

 最近、中国南部の広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃の1個体(隆林個体)が、未知の遺伝的構成だと明らかになりました(関連記事)。未知の遺伝的構成とはいっても、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)ユーラシア東部集団の範疇に収まり、その中では他の古代人および現代人と比較して異質の遺伝的構成というわけで、縄文人と位置づけが似ています。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前後でユーラシア東部に拡散してきた現生人類集団は各地で孤立して遺伝的に分化していき、固有の遺伝的構成を形成していったのではないか、と推測されます。そうした集団の中には、隆林個体的集団のように絶滅したものや、縄文人のように一部の現代人に遺伝的影響を残したものもいたのでしょう。孤立性の高い日本列島において、縄文人は長期にわたって独自の遺伝的構成を維持し続けた、と推測されます。

 上述の韓国釜山市の加徳島の獐項遺跡の6300年前頃の2個体の事例からも、縄文人が日本列島から朝鮮半島に渡海したか、縄文人的な遺伝的構成の集団が日本列島だけではなく朝鮮半島南部にも存在した、と考えられます。しかし、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島の文化的交流は限定的で、対馬海峡で文化的に区分される、と指摘されています(関連記事)。その意味で、もちろん文化と遺伝を安易に同一視できないとはいえ、縄文時代と同時期の朝鮮半島において縄文人的な遺伝的構成の集団が大きな影響を有したとは考えにくく、縄文人が日本列島から朝鮮半島へと渡海しても、その影響は限定的で、獐項遺跡の6300年前頃の2個体も、その後の朝鮮半島や日本列島の人類集団に遺伝的影響を残さなかった可能性もじゅうぶんあるとは思います。弥生時代には、遺伝的にアジア東部大陸部の現代人集団と類似して縄文人とは大きく異なる集団が、大陸部から改めて到来したのではないか、と現時点では想定していますが、今後の古代DNA研究の進展により、大きな修正が必要になるかもしれません。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究も最近になって目覚ましく発展しており、今後の研究の進展が楽しみです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393

レヴァントの中期更新世の人類化石と石器

 レヴァントの中期更新世の人類化石と石器に関する二つの研究が報道されました。日本語の解説記事もあります。一方の研究(Hershkovitz et al., 2021)は、レヴァントの中期更新世(77万~126000年前頃)の新たなホモ属化石を報告しています。最近の歯や下顎や遺伝(関連記事1および関連記事2)や人口統計に関する研究では、ネアンデルタール人クレード(単系統群)の進化に寄与した、まだ特定されていないアフリカもしくはアジア西部の中期更新世人口集団の存在が予測されています。これは、ヨーロッパ大陸をネアンデルタール人とその直接的祖先の唯一の起源地とみなしてきた伝統的見解とは対照的です。本論文は、最近発掘されたイスラエル中央部のネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)開地遺跡(以下、NR)で発見された数点の化石を、石器や非ヒト動物遺骸との関連で報告します(図1)。以下は本論文の図1です。
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●NR-1標本

 NRでは、ほぼ完全な右頭頂骨1点と左頭頂骨の断片的な4点から成るNR-1化石が発見されています(図2A)。NR-2化石はほぼ完全な下顎で、左下顎枝と右側下顎枝関節突起と右下顎枝の下顎角のみが欠けています(図3)。左下顎第二大臼歯(NR-2M2)と歯根のほとんどはまだ本来の位置にあります。NR-1およびNR-2はどちらも、考古学的層位の最下層内(図1D、ユニット6)に、動物の骨や燧石製石器とともに見つかり、同一個体を表している可能性が最も高そうです。

 ユニット6は、回収された動物の電子スピン共鳴法・ウラン系列法(ESR-US)年代に基づくと、14万~12万年前頃(125800±5900年前)と推定されます。この年代は、その上層(ユニット5)の焼かれた燧石の一連の熱ルミネッセンス(TL)年代により裏づけられます。ユニット5のTL推定年代は127600±4000年前で、ESR-USによる122300±3300年前の範囲に収まります。これらの年代は、後述のNR全体の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代(17万~78000年前頃)と一致します。

 NR-1とNR-2は、広範な期間の人類とさまざまに解剖学的に比較されました。NR-1頭頂骨の全体的な形態は中期更新世ホモ属標本に典型的で、初期および最近の現生人類(Homo sapiens)とはかなり異なる、古代型の低い頭蓋冠を示します。一方現生人類では、顕著な隆起を伴う湾曲した頭頂骨が見られます。NR-1の古代型形態は、冠状縫合と矢状縫合により形成される角度(c/s角度)でも裏づけられます(91.1°)。この角度は更新世ホモ属において増加し、ホモ・エレクトス(Homo erectus)とアフリカの中期更新世ホモ属は平均して92.1°±2.1°、ヨーロッパの中期更新世ホモ属とネアンデルタール人は94.9°±3.4°、初期および最近の現生人類では99.4°±4.2°です。c/s角度は、これら3集団で大きく異なります。NR-1のc/s角度は古代型ホモ属(非現生人類ホモ属、絶滅ホモ属)、とくにアフリカの中期更新世ホモ属と類似しており、現生人類の変異外に位置します。

 NR-1はおもに頭頂骨隆起領域でかなり厚くなっています。この点では、NR-1はヨーロッパの中期更新世ホモ属、たとえばスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」(以下、SHと省略)やギリシアのペトラローナ(Petralona)の人類化石と類似しています。NR-1の頭頂骨は一般的に、イスラエル北部のアムッド洞窟(Amud Cave)やフランスのラシャペルオーサン(La Chapelle-aux-Saints)遺跡などのネアンデルタール人や、タンザニアのラエトリ(Laetoli)遺跡の30万~20万年前頃の頭蓋(LH18)とエチオピアのオモ(Omo)の頭蓋(Omo 2)を除く初期現生人類よりも薄く、最近の現生人類よりはずっと厚い、と示されます。

 NR-1と時空間的に広範囲のホモ属標本との3D GM分析による比較も(図2C)、NR-1の古代型形態を確証します。最初の3主成分で全体の形態分散の74.5%を説明します。PC1軸(34.9%)は、矢状面と冠状面の両方に沿った顕著な湾曲により、初期および最近の現生人類を他のホモ属集団と区別します(図2C)。PC2軸(21.3%)からは分類学的に情報が得られません。PC3軸(18.3%)は頭頂骨隆起の相対的発達とその相対的な前後の位置に基づいて、アジアのホモ・エレクトスおよびアフリカの中期更新世ホモ属をネアンデルタール人およびヨーロッパの中期更新世ホモ属と分離します(図2C)。ヨーロッパの中期更新世ホモ属集団は、前後左右に平坦な頭頂骨が特徴です(図2C)。NR-1は現生人類とは異なり、ネアンデルタール人と中期更新世ホモ属のクラスタ間の中間に位置します(図2C)。各集団の平均形態に基づく系統発生分析では、NR-1はアフリカの中期更新世ホモ属につながる分枝の起源近くと、ホモ・エレクトスからの分枝およびヨーロッパの中期更新世ホモ属とネアンデルタール人(SH集団を含みます)の近くに位置し、初期および最近の現生人類からは遠く離れています(図2B)。以下は本論文の図2です。
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 頭頂骨内表面の形状に関して、NR-1は多角形、つまりその表面が異なる3平面に沿って明確に配置されています。代わりに、ネアンデルタール人と現生人類はアーチ型の頭頂骨内表面を示します。NR-1の仮想頭蓋内鋳型に見られる上頭頂小葉の平坦性は、中期更新世ホモ属の最も独特な特徴の一つです。NR-1の頭蓋内鋳型の他の重要な特徴で、中期更新世ホモ属に典型的なのは、第一側頭部脳回の上部における最大頭蓋内鋳型の幅のひじょうに低い位置と、ひじょうに短い頭頂葉と、最大頭蓋内鋳型の幅および頭頂骨内の幅のさまざまな長さと、頭頂骨上の後部の位置です。これらの特徴はネアンデルタール人にも見られる場合があります。逆に、最近の現生人類標本では、頭蓋内鋳型および頭頂骨内の幅が最大値以下で、NR-1よりもはるかに高く、より前方に位置しています。

 NR-1の中硬膜血管のパターンは単純です。他の中期更新世ホモ属とネアンデルタール人のように、わずかで短い支脈が見られ、吻合は存在しません、NR-1の中硬膜血管の後方支脈は前方支脈のように発達しており、中期更新世ホモ属で持続するパターンです。ネアンデルタール人と最近の現生人類の両方が、前方支脈の優勢を示しており、最近の現生人類は複雑な血管頭蓋内鋳型の痕跡を示します。


●NR-2標本

 NR-2標本は頑丈な下顎骨で(図3)、中から外側に広く、皮質骨は厚くなっています。その最も顕著な特徴は、高さと比較して短い下顎枝で、頑丈で低く幅広い冠顎骨突起を有しています。NR-2標本は、中期更新世ホモ属に見られる古代型の特徴、たとえば下顎頤の欠如や広い下顎切痕や発達した歯槽平面を示します(関連記事)。

 分類学的に関連する下顎の特徴が、階層的クラスタ化分析と組み合わされました。現代および更新世のホモ属は主要な2クラスタを形成します。NR-2は、SH集団やアフリカ北西部のティゲニフ(Tighenif)標本(ティゲニフ3)やアラゴ(Arago)の標本(アラゴ8号)やネアンデルタール人1標本とともに、更新世標本の側枝に位置づけられます。これらの分離した特徴は、NR-2下顎骨のモザイク性を強調し、いくつかのネアンデルタール人的特徴とともに古代型の形態を示します。

 NR-2下顎骨の癒合領域は16.6mmとかなり厚く、ヨーロッパの中期更新世ホモ属(16.9±2.1mm)に近くなっており、33.7mmとやや高く、ネアンデルタール人の平均(34.0±4.6mm)に近くなっています。第一大臼歯と第二大臼歯の間で測定された体部は17.7mmと厚く、ヨーロッパの中期更新世ホモ属の範囲内(18.1±3.1mm)に収まりますが、32.7mmとヨーロッパの中期更新世ホモ属(30.2±1.6mm)およびネアンデルタール人(29.9±3.3mm)よりも高く、初期現生人類(33.0±4.0mm)に近くなっています。

 NR-2下顎骨の3D GM分析結果(図3C)では、最初の2主成分で全体の分散の47.5%を説明します。PC1軸沿いの変異(37.9%)は、下顎体の長さと、下顎枝の形態(古代型ホモ属間ではより短く広くなっています)と、顎領域の表現の変化により表されます。PC2軸沿いの変異(9.6%)は、下顎体の高さ(おもに顎領域)の変化と、下顎体の平行歯槽および基底の縁から後方に収束する縁への移行における変化を反映しています。PC1軸とPC2軸では、初期および最近の現生人類は他のホモ属と分離していますが、ヨーロッパの中期更新世ホモ属とSH集団は、レヴァントのアムッド1号およびアジアのホモ・エレクトスを含むネアンデルタール人と区別されます。

 NR-2はネアンデルタール人とSHを含むヨーロッパの中期更新世ホモ属との間に位置し、現生人類の範囲外となります。各人類集団の下顎平均形態に基づく系統発生分析では、NR-2はイスラエルのタブン(Tabun)遺跡の個体(タブンC1)とともに別の分枝に位置づけられ、ヨーロッパの中期更新世ホモ属とネアンデルタール人との間の分岐近くに位置し、ホモ・エレクトスやアフリカの中期更新世ホモ属や現生人類からは遠くに位置します(図3B)。この結果は計測にのみ基づいており、離散特性に基づいたクラスタ分析の結果とほぼ一致しており、NR-2はネアンデルタール人との類似性を有する古代型集団に属する、と確証します。以下は本論文の図3です。
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 NR-2の下顎第二大臼歯(NR-2 M2)は完全な状態で、象牙質角のわずかな露出を引き起こす、いくつかの咬合摩耗を示します(図4A)。NR-2 M2の咬合面は4つのよく発達した咬頭と次小錐(hypoconulid)を示します。5つの主要な咬頭の存在は、SH集団とネアンデルタール人のほとんど(70%)で典型的です。NR-2 M2は象牙質表面に明確な連続的中三角頂と不連続な遠位三角頂を有しており、以前の研究の等級3に対応します。中三角頂はネアンデルタール人とSH集団の90%以上に存在します。NR-2 M2のように、中三角頂の等級3の発現は、ネアンデルタール人標本のほぼ60%に存在しますが、現生人類には欠けています。イスラエルのケセム洞窟(Qesem Cave)の第二大臼歯標本(QC-J15)は、連続的中三角頂と不連続な遠位三角頂の類似パターンを示します。ドイツのエーリングスドルフ(Ehringsdorf)遺跡の標本(エーリングスドルフG)は中三角頂のみを示しますが、ドイツのマウエル(Mauer)遺跡標本は中三角頂を全く示しません。

 NR-2 M2は、歯根の第4先端で分岐する、単一のピラミッド型歯根を有しています(図4C・D)。大きな歯髄腔は歯根の中央部まで伸びており、頂点まで伸びる短い歯根管へと分岐し、これは牛歯化(taurodontism)として知られる歯根構成です(図4)。牛歯化歯随腔を有するこのピラミッド型歯根は、ネアンデルタール人ではよく見られます。現代人では、下顎第二大臼歯は歯根管でいくらかの変異がある分離した近心および遠心の歯根を有します。NR-2 M2の歯根(図4)は16.4mmと比較的長く、上部旧石器時代現生人類(11.3~16.8mm)およびネアンデルタール人(14.3~16.5mm)の変異範囲の上限に位置します。以下は本論文の図4です。
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 EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)とCEJ(セメント質とエナメル質の接合部)の情報を組み合わせた標識構成である、歯冠形態の3D GM分析では、NR-2M2はネアンデルタール人の範囲の上側の遠端に位置し、クロアチアのクラピナ(Krapina)標本やエーリングスドルフGに近い、と示されました。PC1軸に沿った形態変異(全分散の30.6%)は、歯冠の相対的高さと象牙質の輪郭に対するEDJの頬舌の拡張に起因します。ネアンデルタール人と現生人類の第二大臼歯のように、NR-2M2は比較的高い歯冠と頬舌の拡張したEDJを示します。

 PC2軸(14.7%)に沿って、NR-2M2は現生人類やSH集団やアフリカの中期更新世ホモ属標本とは反対の、分布の最も極端な範囲に向かって投影されます。関連する形態は、象牙質歯冠の遠位面の拡張、NR-2M2がクラピナ遺跡やエルシドロン(El Sidrón)遺跡の何点かのネアンデルタール人標本と共有する特徴、ヨーロッパの中期更新世ホモ属(エーリングスドルフG)により特徴づけられます。頭頂骨や下顎骨とは異なり、CEJ-EDJデータの組み合わせ(図4B)に基づいて、無根系統発生樹はNR-2M2とネアンデルタール人との明確な関係をもたらしましたが、QC-J15はSH集団と関連しました。歯冠サイズに関しては、NR-2M2は現代人の範囲外です。


●NR化石の人類史における位置づけ

 分析された3つの解剖学的要素(頭頂骨と下顎骨と第二大臼歯)からの累積的証拠は、古代型とネアンデルタール人的な特徴の独特な組み合わせを明らかにし、中期更新世末期における局所的なレヴァント人口集団の存在を裏づけます。二次的判別分析(QDA)の結果はこの観察を裏づけており、NR化石が初期および最近の現生人類に分類される可能性はひじょうに低そうですが、NR化石が中期更新世ホモ属かネアンデルタール人かホモ・エレクトスのどれに分類される可能性が高いのか、確定することは不可能と示されます。その結果、判別関数プロットでは、NR-1の頭頂骨はホモ・エレクトスおよびアフリカの中期更新世ホモ属集団とヨーロッパの中期更新世ホモ属およびネアンデルタール人との間に収まり、分類される可能性はどちらのクラスタでも類似している可能性が高い、と示されます。

 ネアンデルタール人の特徴が識別されたレヴァントで最古となる中期更新世人類化石はケセム洞窟で発見されており、その年代は40万年前頃です(関連記事)。レヴァントで最古となる現生人類的なホモ属遺骸は18万年前頃でさかのぼり、イスラエルのミスリヤ洞窟(Misliya Cave)で発見されました(関連記事)。明確なネアンデルタール人は、中東では7万年前頃には見られません。NR化石は、ひじょうに不均一ではあるものの古代型の形態を示すことにより、この記録の間隙を埋めます。NR化石の頭頂骨は脳頭蓋のかなり古代型の形態を記録し、その下顎は中期更新世ホモ属と類似しており、大臼歯はひじょうにネアンデルタール人的で、エーリングスドルフGと類似しています。

 以前の研究では、ネアンデルタール人において、脳頭蓋と比較して咀嚼器官のより早期の進化的発達が主張されました(関連記事)。同様に、アフリカ北部のジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡の化石は、より祖先的な神経頭蓋を有するものの、より現生人類的な顔面と歯列を示します(関連記事)。ネアンデルタール人的な特徴を有する古代型人口集団は中期更新世にユーラシア大陸の多くにも存在し、中華人民共和国の広東省韶関市の馬壩(Maba)遺跡や河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窰(Xujiayao)遺跡(関連記事)や河南省許昌市(Xuchang)の霊井(Lingjing)遺跡(関連記事)のホモ属遺骸により明らかにされてきました。

 ホモ・エレクトスから著しく逸脱した中期更新世アジア人口集団の存在は、たとえば中華人民共和国貴州省桐梓(Tongzi)県の艶輝(Yanhui)洞窟のホモ属の歯(関連記事)もしくはジャワ島のサンブンマチャン(Sambungmacan)遺跡の頭蓋(サンブンマチャン3号)で繰り返し提案されてきました。サンブンマチャン3号は、ジャワ島のガンドン(Ngandong)遺跡の6号および7号とともに、NR-1の頭頂骨との強い形態学的類似性を示します。

 NR化石は、アムッド遺跡やイスラエルのケバラ(Kebara)遺跡およびアイン・カシシュ(Ein Qashish)遺跡で発見された7万~5万年前頃のレヴァントのネアンデルタール人に先行する、特徴的なアジア南西部中期更新世ホモ属集団の後期(14万~12万年前頃)の生存事例を表しているかもしれません。ネアンデルタール人の特徴をさまざまな程度で示すNR化石のモザイク状の形態に基づくと、イスラエルのケセム洞窟やズッティエ洞窟(Zuttiyeh Cave)や恐らくはタブン洞窟で発見された、分類について長く議論されてきた他の中期更新世レヴァントのホモ属化石も、この集団に分類できるかもしれません。

 本論文は以前の研究に従って、このレヴァントの中期更新世古集団を「ネシェル・ラムラ・ホモ属(Nesher Ramla Homo)」として扱うよう、提案します。「ネシェル・ラムラ・ホモ属」は42万年前頃~12万年前頃にかけて地理的に制約された地域に存在したことにより、ミスリヤ洞窟の人々のような現生人類と繰り返し交雑することが可能だったかもしれず、この見解は共有する技術的伝統にも裏づけられます。この想定は、現生人類とネアンデルタール人との間の40万~20万年前頃となる初期の遺伝子流動の証拠(関連記事1および関連記事2)と一致し、イスラエルのスフール(Skhul)遺跡やカフゼー(Qafzeh)遺跡の後のホモ属化石の歯と骨格の特徴の変動的な発現を説明するのに役立ちます。

 さらに、SH集団とアラゴのホモ属遺骸の歯に関する最近の研究は、中期更新世ヨーロッパにおける複数のホモ属系統の存在を示唆し、ネアンデルタール人的な特徴を有するレヴァントのホモ属集団のヨーロッパのホモ属系統への寄与を仮定します。したがって、ネアンデルタール人的特徴を有する「ネシェル・ラムラ・ホモ属」は、ヨーロッパ西部が一連の連続した移住を通じて再居住されたという、人口統計学的な「供給源と吸込み」モデルで仮定されている「供給源」人口集団を表しているかもしれません。


●求心状ルヴァロワ技法の範囲

 もう一方の研究(Zaidner et al., 2021)は、NRの石器と年代を報告します。中期更新世後期のアフリカにおける現生人類の出現と拡大は、中期石器時代を代表する複雑な行動および技術と関連しています(関連記事1および関連記事2)。中期石器時代の主要な技術革新の一つは、30万年前頃にはアフリカ大陸のほとんどに拡大していたルヴァロワ(Levallois)技術です(関連記事)。中期石器時代には、求心状ルヴァロワ技法が剥片および石刃製作の主要な様式として、アフリカおよびアジア西部の多くの遺跡で用いられていました(図1)。

 求心状ルヴァロワ技法は、一連の明確で反復的な行為を用いて実行される、適切に構造化された技術過程です。求心状ルヴァロワ技法の最初の証拠は、アフリカ東部のカプサリン(Kapthurin)層(25万~20万年前頃)およびガデモッタ(Gademotta)層(276000年前頃)の中期石器時代初期の遺跡で報告されています。一般的に中期石器時代、とくに求心状ルヴァロワ技法は、オモ・キビシュ(Omo Kibish)やヘルト(Herto)やアドゥマ(Aduma)といった遺跡では、現生人類遺骸と関連しています。

 アジア南西部における現生人類の最初の証拠は18万年前頃となり、中部旧石器インダストリーおよびルヴァロワ技術と関連しています(関連記事)。海洋酸素同位体ステージ(MIS)5(13万~71000年前頃)には、アジア西部の全ての現生人類化石は、求心状ルヴァロワ技法と関連しています。現生人類との関連における求心状ルヴァロワ技法の顕著な存在から、求心状ルヴァロワ技法はMIS5におけるアジア西部への現生人類拡散の指標としてよく用いられました。ヨーロッパ西部では、求心状ルヴァロワ技法はMIS8から散発的に見られます。ヨーロッパにおける求心状ルヴァロワ技法の体系的な使用は、MIS5末期とMIS4において記録されています。

 上述のように、NR(図1の1)では、現生人類だけが存在していたと考えられていた時期の、古代型の中部旧石器時代ホモ属の化石が発見されました。これは、現生人類と古代型ホモ属(非現生人類ホモ属)の2集団の重複期間が長かったことを示唆します。NR化石と関連するユニット6の石器群(図2B・C・D)の研究から、中部旧石器時代ホモ属は完全にルヴァロワ技術を習得していた、と示唆されます。本論文は、この新たに発見されたホモ属遺骸と関連する文化的背景と年代測定と石器群を報告します。以下は本論文の図1です。
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●NRの年代

 NRは、イスラエル中央部の後期白亜紀の白亜岩盤内にあります(図2A)。中部旧石器時代の文化的遺物は厚さ8mの系列で発見され、海抜は107.5~99.5mで、窪みの縁から約12m下にあります。文化的系列は6つの考古学的ユニット(図2B・D)から構成されます。本論文でおもに取り上げられる最下部のユニット6は厚さが約1mで、5層から構成されます。ホモ属の右頭頂骨とほぼ完全な下顎骨は、ユニット6の中間のI3層で見つかりました(図2B・D)。以下は本論文の図2です。
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 ESR-USとTLとOSLの組み合わせにより、NR遺跡とそのホモ属遺骸の年代が測定されました。ユニット6 (I2およびI3層)で発掘された3点の草食動物の歯は、堆積以降に発生したかもしれない歯の組織のウラン含有量の変化を克服するため、ESR-USの組み合わせ手法が用いられて分析されました。その加重平均年代は126000±6000年前です。同じ手法による、上層のユニット5で得られた動物の歯の加重平均年代は122000±3000年前です。図3Aには、エナメル質と象牙質の組織の等価線量と線量率とウラン取り込みパラメータとESR-USの全ての年代が示されています。

 さらに、TL年代測定が、化石の約50cm上にあるユニット5で収集された9点の焼けた燧石標本に適用されました。TLの年代は191000±13000年前~104000±11000年前ですが、これらの標本はよく定義された20~40cmの厚さの考古学的層に属するので、同年代である可能性が高そうです。したがって、191000±13000年前という年代値は異常に見え、単純な統計的検定により確認されます。191000±13000年前という年代値が外れ値として除外される場合、その他の8点の燧石の加重平均年代は128000±4000年前です。

 さらに、これらの標本は類似した外部線量率にさらされているので、等時線分析が行なわれ、135000±13000年前という年代値が得られ、TLの加重平均年代と一致します。これは、TLの個々の年代を計算するために用いられる外部線量率がおそらく正しい、と示唆します。TLの年代は、同じユニット5で得られたESR-US年代と区別できず、ユニット5で得られたESR-USの加重平均年代126000±6000年前と一致します。これらの年代測定結果によると、ユニット6は系列全体で以前に得られたOSL年代と一致して、少なくとも12万年前頃と確信をもって推測でき、これはNRの人類による居住がMIS6~5の移行期に起きたことを示唆します。

 遺跡形成過程と石器群の研究は、放射性年代により得られた結果を裏づけます。ユニット5および6は両方、類似の堆積学的および微細形態学的特徴を示します。両ユニット間に中断や不整合は観察されませんでした。微細形態学的および堆積学的分析は、類似の堆積メカニズムによる連続的な堆積を示唆します。したがって、ユニット6とユニット5の蓄積の間に、堆積の間隙もしくは堆積環境の変化は起きなかった、と結論づけられます。

 速く継続的な堆積は、ユニット6および5の両方で類似の特徴を示し、それ故に共有された文化的伝統を有する人類により製作されたかもしれない石器でも裏づけられます。NRのインダストリーは、この地域のMIS5のインダストリーとの明確な類似性を示します。それは、27万~14万年前頃となるこの地域の前期中部旧石器時代インダストリー(関連記事)とは明確に異なります(図3B)。得られた放射性年代と堆積および文化的要素を考慮すると、NRホモ属の年代は14万~12万年前頃の可能性が最も高そうです。以下は本論文の図3です。
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●動物遺骸

 解剖学的関節接合におけるいくつかの屠殺された動物遺骸の存在と、石器の修復と、炉床や大量の灰などの遺跡の特徴は、考古学的系列の蓄積中の人類の活動を示唆します。ユニット6の動物化石は、カメと有蹄類が優占します。動物化石は多数の解体痕と敲石の打撃痕により明らかにされるように、人類の狩猟と処理により変化しました。全ての骨格部分は最大の有蹄類でも表されており、陥落孔かそのすぐ近くで起きた狩猟活動を証明します。

 解剖学的関節接合の存在と、偏りのない骨格部分の特性と、摩耗の事実上の欠如は、陥落孔内での蓄積を示唆します。動物化石は一般的に、ガゼルやウマやダチョウなどの開けた景観の分類群と、オーロックスやイノシシなどより広範な生息環境の動物で構成され、森林景観に適応したダマジカの割合は相対的に小さくなっています。これは、ユニット6におけるNR近くの景観が一般的に開けていたことを示唆します。有蹄類の構成とカメの優占は、他の下部系列ユニットでも同様です。


●NR石器群の特徴

 NRのユニット6では約6000点の2cm以上の人工物が発見されました。ユニット6のI2層からI5層の石器群は、直接的にNR化石群と関連しており、2cm以上の人工物2184点で構成されます。化石が発見された全ての調査された下位区分層は、類似の技術的特性を示します。石器群は燧石で作られています。人類は、ミシャシュ層(Mishash Formation)の地元の高品質燧石を用いました。石核と主な要素と剥片と石核維持石器の存在により示されるように、燧石は遺跡で石器製作に用いられました。石核は完全に使い尽くされており、人類が石核を最大限に活用したことを示唆します。遺跡から10km離れた場所より持ち込まれた燧石は、全ての技術分類において低頻度ですが、再加工された断片ではより高頻度で、人類がその移動用道具一式の一部として再加工された道具を有していた、と示唆されます。

 NRホモ属は、おもに求心状ルヴァロワ技法を用いました。ユニット6の石器群は、求心状で直交性の痕跡パターンを有する、円形もしくは長方形の幅広いルヴァロワ剥片が優占します(図4)。ルヴァロワ石核の非目的製作物(debitage)表面の凸部は、求心状の調整を通じて達成および維持されました。石器群は求心状で直交性の痕跡パターンを伴うルヴァロワ背付き(débordant)剥片と、擬似ルヴァロワ尖頭器および剥片を高頻度で示します(図4)。これら求心状ルヴァロワ縮小体系の古典的な所定副産物は、ルヴァロワ石核の背部表面のこれらの凸部を維持するために使用されました。凸部の準備後、優先法と反復求心状ルヴァロワ技法により、所定の剥片が製作されました。求心状ルヴァロワ技法は、NRの考古学的系列を通じて類似の技術的特性を示します。以下は本論文の図4です。
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 ルヴァロワ尖頭器の製作は、ユニット6で記録される予備的な縮小体系です。ルヴァロワ尖頭器は遺跡の層序系列を通じてさまざまな頻度で見られますが、ユニット6において最も高頻度です。ルヴァロワ尖頭器は優先的な単方向収束ルヴァロワ技法により製作され、ほとんどは古典的なY型で、遠位凸部の修正を目的とした双方向除去の使用は稀です。尖頭器は対称的で平坦で幅広く、製作の優先的な様式から派生します。

 NR石器群のいくつかの追加の明確な特徴は、自然に背付きされたナイフの体系的製作と、部分的に再加工され形成された縁を有する横方向の扁平斧打撃技法の広範な使用です。NRインダストリーのこれら独特な特徴は、求心状ルヴァロワ技法とルヴァロワ尖頭器の製作とともに、遺跡の全考古学的系列を通じてさまざまな頻度で見られます。同じ技術の使用と同じ一連の人工物の製作は、8mの厚さの考古学的系列の蓄積におけるこの地域の文化的継続性を示唆します(図2D・E)。


●中期更新世ホモ属の石器技術と相互作用

 中期更新世ホモ属化石は、文化的背景を欠いている場合が多く、その行動と技術はあまり知られていないままです。それにも関わらず、中期更新世ホモ属はアシューリアン(Acheulian)のような下部旧石器時代インダストリーを製作していた、と一般的に提案されています。NRの証拠からは、中期更新世後期のホモ属が、つい最近まで現生人類かネアンデルタール人のいずれかと関連づけられていた発展ルヴァロワ技術を完全に習得していた、と示唆目します。NRホモ属による求心状ルヴァロワ技法の使用は、MIS5におけるアフリカ外の現生人類の存在拡散の指標として石器技術を用いることへの注意を示唆します。これは、中期更新世ホモ属がアフリカの中期石器時代インダストリーの製作者の一部だったかもしれない、と指摘する最近の見解(関連記事)と一致します。

 レヴァントにおける求心状ルヴァロワ技法の起源に関しては議論があります(関連記事)。レヴァントにおける中期更新世前期(27万~14万年前頃)インダストリーは、非ルヴァロワ層状技法で製作された石刃の優占や、収束単方向および双方向ルヴァロワ技法を用いてのルヴァロワ原形の製作を特徴とする、完全に異なる技術的一式を示します。中期更新世前期インダストリーは、求心状ルヴァロワ技法の体系的使用の証拠を示しません。したがって、レヴァントのMIS5遺跡群の求心状技術は在来起源ではなく、その最も可能性が高い起源はアフリカ東部および北部で、そこではMIS6および5における中心的な構成を表している、と提案されます。

 NRホモ属により用いられた求心状ルヴァロワ技法は、カフゼーとスフールの現生人類遺跡、アラビア半島のMIS5遺跡群、アフリカ北部および東部の中期石器時代遺跡群で用いた技術と明らかに類似しており、この中には現生人類遺骸が発見された遺跡も含まれます。類似点は、凸部を準備する同様の様式や、円形もしくは長方形の所定のルヴァロワ剥片を製作するための石核処理の類似の方法など、細部にあります。その結果、求心状ルヴァロワ石核や、求心状ルヴァロワ剥片や、求心状の痕跡パターンを伴う背付き剥片や、擬似ルヴァロワ剥片および尖頭器のような、類似の様式の石器が製作されました。

 さらに、NRホモ属は他のレヴァントのMIS5遺跡群とルヴァロワ尖頭器製作の優先的な収束単方向技法を共有していました。カフゼー洞窟とNRの両方で、優先技法は平坦で短いルヴァロワ尖頭器の製作において最も一般的な方法でした。単方向収束ルヴァロワ技法によるルヴァロワ尖頭器の製作はMIS5のアフリカでは稀で、NRの中期更新世ホモ属とカフゼーやスフールの現生人類の両方により共有された、おもにレヴァントの特徴だった、と示唆されます。

 本論文の結果は、現生人類と中期更新世ホモ属が、レヴァントのような小さな地域でMIS5に石核縮小技術を共有していた、と明確に示します。ホモ属集団間の文化的拡散と相互作用が、中期更新世ホモ属と現生人類との間のそうした密接な文化的類似性の最も可能性の高い理由である、と本論文は主張します。これらの結果は、中期更新世後期と後期更新世前期における分岐した古代型ホモ属集団と現生人類との間で遺伝子流動が存在した、と示唆する遺伝学的研究の増加と一致します(関連記事1および関連記事2)。本論文の知見は、中部旧石器時代における異なるホモ属系統間の密接な文化的相互作用への考古学的裏づけを提供し、中期更新世ホモ属と現生人類との間の接触はすでに12万年以上前に起きていた、と提案します。


 以上、NRのホモ属化石および石器群に関する研究を見てきました。NRホモ属化石の人類進化史における位置づけは、やはり形態だけではなかなか難しく、かといって中期更新世のレヴァントの化石ではDNA解析も難しそうなので、タンパク質解析に成功すれば、DNAほどの情報は得られないとしても、この問題にある程度の見通しを立てられるかもしれません。最近証拠が蓄積されつつありますが、中期~後期更新世のホモ属化石を形態のみで人類進化史に位置づけることは本当に難しいと思います(関連記事1および関連記事2)。

 Hershkovitz et al., 2021は、NRホモ属がヨーロッパの中期更新世ホモ属の起源集団(の一部)になった可能性を指摘します。NRホモ属は、現生人類ではなさそうですが、ネアンデルタール人的特徴と、現生人類でもネアンデルタール人でもない中期更新世ホモ属の特徴との混在を示します。これをどう解釈するのか、形態からのみでは困難ですが、ネアンデルタール人の主要な祖先集団の一部で、NRホモ属化石がその子孫だった可能性もじゅうぶん考えられます。また、NRホモ属はアジア東方の中期更新世ホモ属集団との類似性も示しており、それらの祖先集団の一部だった可能性も想定されます。いずれにしても、NRホモ属は、どれか特定の集団と単系統でつながる分類群ではなく、中期~後期更新世ホモ属の複雑な進化史の中に位置づけられるのでしょう。

 Hershkovitz et al., 2021は、ネアンデルタール人系統において、母系のミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系のY染色体で置換が起きたと推測されること、NRホモ属との関連にも言及しています。後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりも種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(関連記事)。NRホモ属は、ネアンデルタール人系統におけるこの母系と父系の置換に重要な役割を果たした可能性も考えられます。ただ、ギリシアで21万年以上前の現生人類的な化石が発見されており(関連記事)、ネアンデルタール人系統における母系と父系の置換はヨーロッパ地中海地域で起きたかもしれません。

 Zaidner et al., 2021は石器技術の分析・比較と年代測定から、NRホモ属と現生人類との間の密接な相互作用を想定します。石器技術に関しては、ホモ属の分類群間である程度の遺伝的違いがあっても伝播することは珍しくなかったのでしょうし、石器以外の文化要素でもよくあったことなのかもしれません。もちろん、生得的な認知能力の違いにより伝達の難しい文化要素もあったでしょうが。NRホモ属と現生人類や他のホモ属との間で交雑があった可能性は高そうですが、Hershkovitz et al., 2021の想定とは逆に、ヨーロッパから南下してきたホモ属集団とNRホモ属がレヴァントも含めてアジア南西部で交雑した可能性も考えられます。NRホモ属の人類史における位置づけは今後も確定が難しそうですが、中期~後期更新世のホモ属の進化史の検証において興味深い事例を提供しており、ひじょうに意義深い研究だと思います。


参考文献:
Hershkovitz I. et al.(2021): A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel. Science, 372, 6549, 1424–1428.
https://doi.org/10.1126/science.abh3169

Zaidner Y. et al.(2021): Middle Pleistocene Homo behavior and culture at 140,000 to 120,000 years ago and interactions with Homo sapiens. Science, 372, 6549, 1429–1433.
https://doi.org/10.1126/science.abh3020

東京都議選結果

 今月(2021年7月)4日に投票が行なわれた東京都議選の結果は、自民党33(25)、都民ファーストの会31(45)、公明党23(23)、共産党19(18)、立憲民主党15(8)、日本維新の会1(1)、東京生活者ネットワーク1(1)、無所属4(5)でした。()は改選時の議席数です。投票率は42.40%で、前回(51.28%)と比較して大きく低下しました。投票当日、東京は雨だったこともあるのでしょう。事前の報道では当初、自民党が好調で、都民ファーストの会が大幅に議席を減らすと予想されていましたが、途中からは都民ファーストの会が巻き返している、と予想されており、おおむね予想通りでしたが、それにしても都民ファーストの会が予想以上に善戦し、何とも残念です。小池都知事の入院や自民党要人の発言で、小池都知事と都民ファーストの会への同情から都民ファースの会の候補者に投票した人も少なくないのかもしれませんが、最大の要因は菅内閣への不満でしょうか。

 小池都知事は都議選終盤に退院して、一部の都民ファーストの会の候補者を応援しましたが、都民ファーストの会を半ば見捨てた形ともなったわけで、近く行なわれる衆院選との絡みで、小池都知事の思惑が気になるところではあります。都民ファーストの会の善戦はたいへん残念で、都民ファーストの会が東京都で地域政党として確立しつつあるのではないか、と懸念しています。選管のポスターを除いて色々と残念な今回の都議選の結果でしたが、日本維新の会が1議席に留まったのにはやや安堵しました。過去の都議選に関する記事は以下の通りです。

2009年
https://sicambre.at.webry.info/200907/article_13.html

2013年
https://sicambre.at.webry.info/201306/article_25.html

2017年
https://sicambre.at.webry.info/201707/article_4.html

『卑弥呼』第66話「陣形」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年7月20日号掲載分の感想です。前回は、事代主(コトシロヌシ)が日見子(ヒミコ)たるヤノハに、妊娠しているのではないか、と問いかけるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国の船着き場で、重臣にしてフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)の息子に自分の娘を嫁がせているシコオが、配下からトメ将軍とミマアキが船着き場を避けて北西に向かっている、と報告を受けている場面から始まります。シコオは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の長脛者(ナガスネモノ、勇猛果敢な戦人の通称)は愚かではなかったようだ、と言ったシコオは、トメ将軍とミマアキの一行が舟を捨て、徒歩で胆駒山(イコマヤマ)を越えるつもりだ、と推測します。部下に対応を問われたシコオは、日下には12の川があり、胆駒山まで行き着くには少なくとも4つの川を越えねばならないと言って、その途中で待ち伏せることにします。トメ将軍とミマアキの一行は、邑外れの兵庫(武器庫)で武器を得ることに成功します。一行は、日下が常に外敵に備えていることを自分たちも見習わねばならない、と考えます。盾を入手できたのは不幸中の幸いだった、と言うミマアキに、盾こそ生きて帰るための必需品だ、とトメ将軍とは言います。トメ将軍は対岸に人影が見えないことを確認して、万一敵が潜んで矢を射かけてくる場合に備えて、念のために陣形をとります。

 弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)では、事代主(コトシロヌシ)との会談を終えたヤノハが、弟のチカラオ(ナツハ)とともに筑紫島に帰ろうとしていました。ヤノハは事代主と会った後、チカラオとともに姿を消すつもりでしたが、事代主に諭され、せめて厲鬼(レイキ、疫病)から民を救う手立てを伝えねば天が赦さないだろうから、筑紫島へ戻ると伝え、チカラオも納得します。ヤノハが妊娠していることに気づいた事代主は、ヤノハの反応から望まない妊娠だったことを悟ります。事代主はヤノハに、堕胎するなら良い薬を煎じて差し上げるが、産みたいのならば知恵を授けよう、とヤノハに決断を委ねます。

 胆駒山へと急ぐトメ将軍とミマアキの一行は、堀江(運河)を何本も渡り、疲弊していました。待ち伏せているシコオはフトニ王から、筑紫島の動静を知りたいので、数人を生け捕りにせよ、との新たな指令を受け、策を変えて全ての兵を一列に河原に立たせることにします。シコオの配下は、トメ将軍とミマアキの一行はなかなかの戦上手かもしれないので、兵をみすみす曝すことに反対しますが、シコオは、長蛇の陣形で待ち、鶴翼の陣形で迎え撃つ、と考えを打ち明け、配下も納得します。対岸に日下の兵が姿をさらしているのを見たトメ将軍の配下は、自分たちの渡河の途中まで隠れて一気に矢を射れば自分たちを全滅させられるのに、何を考えているのか、と不審に思います。トメ将軍は、弓を使わないのは、自分たちのうち何人かを生け捕りにしたいのだろう、と推測します。トメ将軍は正面突破しようと考え、亀の陣形をとって渡河します。その途中で、背後に潜んで偵察していたミマアキは、日下の中央の兵が数名わずかに後ろにさがったことをトメ将軍に報告します。トメ将軍から日下の兵が次にとる陣形を問われたミマアキは、自分たちが正面突破を試みた途端、鶴翼の陣形に変えて中央に自分たちを誘い込んで挟み撃ちにするつもりだろう、と答えます。どうすべきかトメ将軍に問われたミマアキは、日下の地形は東西に流れる大きな河(大和川でしょうか)と南北に分かれた支流からなるので、無理に斜め(北西方向)に進まずとも、どこかで曲がれば胆駒山にたどり着ける、と答えます。トメ将軍はその返答に満足したようです。トメ将軍は兵士に鎧を脱いで盾を捨てるよう命じ、身軽になって逃げることにします。それを見たシコオは、最善の策を取った、天晴れだ、と感心します。

 筑紫島では、岡(ヲカ)にてイクメとヌカデとオオヒコがヤノハとチカラオを待っていました。ヌカデから事代主について尋ねられたヤノハは、信頼できる人だったと答え、イクメとヌカデとオオヒコは安堵します。事代主から厲鬼退治の術を授けられたヤノハは、その内容を伝えるので文にまとめるよう、イクメに指示します。ヤノハはオオヒコには、使者を7人用意するよう、命じます。厲鬼退治の術を山社(ヤマト)と講和した国々にも知らせねばならない、というわけです。ヤノハは事代主から授かった出雲文字で書かれた薬草の目録を筑紫島の文字に訳し、写本を作るよう、イクメに命じます。ヤノハはヌカデには、山社に戻らず、作るため300日の祈祷に入るので自分に付いてくるよう、命じます。不安げなイクメが、山社ではなくどこで祈祷するのか、とヤノハに尋ねるところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍とミマアキの優れた判断力と豪胆とともに、ヤノハの決断が描かれましたが、ヤノハがどこで祈祷するのかは明かされていません。日下のシコオは、フトニ王から信頼されているだけあって、軍人として優れているようです。トメ将軍とミマアキは厳しい状況のなか、シコオも認める最善の策を選択したようですが、筑紫島に帰還するまでには、まだ何度も危機を乗り切らねばならないようです。ヤノハの決断は、事代主からの献策を受け入れてのものなのでしょうが、山社に戻らず300日祈祷することを選択したのは、出産すると決意したからでしょうか。ヤノハがどこで祈祷するのかも気になりますが、おそらく、人目を避けられる場所に行き、長期の祈祷中に密かに出産するつもりなのでしょう。ヤノハはチカラオを連れて行くでしょうが、ヌカデも同行するよう命じたのは、ヤノハの本性を知るヌカデには妊娠と出産を打ち明けてもよい、と考えたからでしょうか。このヤノハの300日の祈祷から、『三国志』に見えるように卑弥呼(日見子)はほとんど人と会わなくなったのかもしれません。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、どうなるでしょうか。

大河ドラマ『青天を衝け』第21回「篤太夫、遠き道へ」

 パリで開催される万国博覧会に徳川昭武が派遣されることになり、栄一(篤太夫)は随行を命じられ、行くと即答します。慶喜は将軍に就任しますが、慶喜を信任していた孝明天皇が没し、これは慶喜にとって政治的には大打撃となりました。栄一は慶喜に呼ばれ、昭武のような若い世代にヨーロッパで学ばせ、今後を託そうと考えている、と慶喜から聞かされます。財政好転など一橋家で功績を重ねてきた栄一を慶喜が高く評価し、信用するようになった、ということなのでしょう。最初から慶喜が栄一の非凡な才を見抜いて重用したのではなく、丁寧に描写されているところは、本作のよいところだと思います。

 栄一と小栗忠順(上野介)との会話では、小栗の気宇壮大な構想が描かれました。小栗は幕末の大河ドラマではあまり登場しないような印象がありますが、本作では主人公の生涯に間接的とはいえ大きな影響を及ぼすことになったので、登場するのは不思議ではないでしょう。栄一と喜作(成一郎)や長七郎との再会も描かれました。息子のいない栄一が外国に行くことになり、栄一は渋沢家の見立て養子に尾高平九郎を迎えようと考えます。次回からしばらくは、栄一が日本にいないことになるので、国内政局は慶喜を中心とした描写になるのでしょう。いよいよ大政奉還まで1年未満となり、今後の激動がどう描かれるのか、楽しみです。

さまざまな現生人類起源説

 現生人類(Homo sapiens)の起源に関して、日本(に限らないでしょうが)では多地域進化説とアフリカ単一起源説との対立という図式で語られることが多いようですが、単純に二分できる問題ではないと思います。現生人類アフリカ単一起源説は一般的に、次のように認識されていると思います。現生人類の唯一の起源地はアフリカで、世界中への拡散の過程でネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など先住の非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属、古代型ホモ属)を置換していき、先住人類との間に交雑はなかった、と当初は想定されており(全面置換説)、現在では、ネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属との交雑により、現代人のゲノムにはわずかながら(1~5%)非現生人類ホモ属に由来する領域があると考えられています。また、1987年にミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく人類進化の研究が提示されるまで、現生人類多地域進化説が長い間定説になっていた、との認識(篠田., 2016、関連記事)や、mtDNA研究により初めて現生人類アフリカ単一起源説が主張されるようになった、との認識も広く見られるように思います。

 しかし、一般向けの記事(Hammer., 2013、関連記事)で解説されているように、現生人類の起源についての本格的な遺伝学的研究以前に、形質人類学的研究により現生人類アフリカ単一起源説が主張されており、激論となっていました。また、現生人類アフリカ単一起源説でも、すでにブロイアー(Günter Bräuer)氏は1976年の時点で、現生人類の起源地はアフリカではあるものの、世界各地への拡散の過程でネアンデルタール人と交雑した、と想定していました(Trinkaus, and Shipman.,1998,P473-475)。ブロイアー氏のアフリカ交配代替モデル説(Shreeve.,1996,P136-138)では、現生人類がアフリカから世界各地へと拡散する過程において、さまざまな程度で交雑が起きた、と想定されます。もちろん、アフリカからの現生人類の拡散年代やデニソワ人のような当時は知られていなかった知見など、ブロイアー氏のアフリカ交配代替モデル説が現在そのまま通用するわけではないとしても、1976年の時点で化石証拠から現在の有力説とかなり通ずる仮説を提示していたブロイアー氏の先見の明には驚かされます。

 一方、現代人の多地域的な進化を想定する見解は以前からあり、ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)氏は20世紀半ばに、オーストラリアとアジアとアフリカとヨーロッパの4地域それぞれで、相互の遺伝的交流も想定した長期の進化の結果として現代人が成立した、と提唱しましたが、この見解は20世紀半ばに成立した進化総合説を前提としたものではないこともあり、当初はさほど影響力のある説ではありませんでした(Trinkaus et al.,1998,P314-316,P349-355)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説と対立する仮説としての多地域進化説の成立は意外と遅く、1981年に、アメリカ合衆国(というかミシガン大学)とオーストラリアと中国の研究者が中心になり、世界各地の連続性と遺伝子流動による現代人の成立が主張されました(Shreeve.,1996,P124-127)。

 前置きが予定より長くなってしまいましたが、本題はここからです。こうした現生人類の起源をめぐる議論において、日本人としては無視できないというか、一度整理しておきたいと考えていた仮説があります。それは、現生人類の起源をめぐる一般向けの本の訳者あとがき(1993年12月5日付)にて河合信和氏が述べた現生人類の東西二地域進化説です(Fagan.,1997,P331)。河合氏は、「また九三年秋に、馬場悠男氏は、東アジアと中東・ヨーロッパでは新人移行のシナリオが異なるとした東西二地域進化説を提唱した。新人起源の問題の決着は、なお時間を要するかもしれない」と指摘しています。「新人」は現生人類と読み換えて大過ないと思います。河合氏の指摘した文献は、1993年に刊行された論文(馬場.,1993)と思われるので、以下その内容を見ていきます。


●現生人類東西二地域進化説

 馬場.,1993(以下、馬場論文)は、まず現生人類の起源をめぐって多地域連続進化説(以下、多地域進化説)とアフリカ起源説(以下、アフリカ単一起源説)があることを指摘し、アフリカ起源説の根拠としてmtDNA研究を挙げます。馬場論文はアフリカ単一起源説を全面置換説として把握したうえで、ジャワ島の「原人」、つまりホモ・エレクトス(Homo erectus)化石の研究に基づいて、現生人類というか現代人の起源に関する見解を提示します。次に馬場論文は、頭蓋化石の解釈に関する基礎的認識を整理しているので、以下述べていきます。

 頭蓋の形は、まず咀嚼器として大枠が規定され, 次には脳・眼・鼻のスペースの影響を受け、さらに姿勢との関連で全体的配置が決まります。これらの形態は、「猿人」から「原人」そして「古代型新人」をへて「現代型新人」に至る大きな進化の流れとしては、ほぼ一定傾向の変化を示す、と馬場論文は指摘します。なお、「頑丈型の猿人(パラントロプス属)」は現代人の直接的先祖とは考えられないので省略されています。人類の脳容量は200万年以上前の450mlから現在の約1450mlへと大きく増加します。眼を入れる眼窩はあまり変わりませんが、原人と古代型新人で大きい傾向があります。これは眼球自体のサイズよりも顔面あるいは身体全体のサイズと比例している可能性があります。鼻のスペース(鼻腔)は、吸った空気を暖め湿らせる必要があり、身体のサイズと気候に関係します。ただ、鼻腔のサイズは外鼻の高さとは必ずしも比例しません。咀嚼器の大きさは、脳とは逆に、ほぼ「進化段階」に反比例します。下顎第2大臼歯の近遠心径(前後径)では、変異の幅は広いものの、200万年前頃の「猿人」の15mmから現代人の11mmまで連続的に縮小します。これは、一見するとあまり違わないようですが、咬合面の面積では半分近く、歯の体積ではさらに違いがあります。しかし、顎と咀嚼筋の大きさは必ずしも「進化段階」とは比例せず、「猿人」と「原人」とではほとんど同じで、「古代型新人」以降で急速に退縮します。したがって、歯に比べて咀嚼筋と顎が最も大きいのは「原人」です。頭蓋の後下面の項筋付着部は「原人」が最大で、「古代型新人」が続き、「猿人」と「現代型新人」は小さいと示されています。これは、かつて主張された、前方に突出した顔面を支えるための項の筋肉の発達というよりも、背筋自体の大きさ、すなわち上半身の筋肉の総量、あるいは身体のサイズを反映すると考えるべきです。

 馬場論文はこのように整理した上で、「ジャワ原人」、つまりホモ・エレクトスの化石を検証していきます。ジャワ島のホモ・エレクトスの年代は、馬場論文では100万~70万年前頃とされています。最近では、ジャワ島におけるホモ・エレクトスの出現年代は、サンギラン(Sangiran)遺跡の人類遺骸に基づいて127万年前頃もしくは145万年前頃以降(Matsu’ura et al., 2020、関連記事)、最後の痕跡は117000~108000年前頃と(Rizal et al., 2019、関連記事)と推定されていますが、もちろん、この年代が今後訂正される可能性はあります。馬場論文は、ジャワ島のホモ・エレクトスの脳容量が800~1100mlで、下顎第2大臼歯の近遠心径は12.5~15mmと変異が大きいことから、2群の集団の混成なのか、進化傾向なのか、単なる個体変異か、あるいは性差なのかが問題となっている、と指摘します。とくに、歯と下顎がきわめて大きい数個の化石は、ジャワ島のホモ・エレクトスとは別のメガントロプスである、との議論が昔からあるものの、確かにこれらの化石は大きいとはいえ、他のジャワ島のホモ・エレクトス化石と比べると、形態は区別できず、大きさも連続的に移行しており、独立した1群を作るとは言えない、と馬場論文は指摘します。最近の研究では、ホモ・エレクトスなどに分類されていた歯や顎の化石の一部は、前期~中期更新世のアジア南東部における存在が確認されていたホモ属でもオランウータン属でもギガントピテクス属でもない新たなヒト科系統として分類されており、メガントロプス・パレオジャワニカス(Meganthropus palaeojavanicus)というかつての分類名が採用されています(Zanolli et al., 2019、関連記事)。

 ジャワ島のホモ・エレクトスの進化傾向に関して、頭蓋の大部分が保存されているために同一個体と明らかになっている80万年前頃と比較的新しいサンギラン17号は、脳容量が大きくて歯は小さい、と示されています。サンギラン遺跡のホモ・エレクトスは、さかのぼるほど歯は大きい傾向があり、ジャワ島のホモ・エレクトスにおける形態変異は進化傾向によると考えるのが妥当で、個体変異と性差に関しては証拠がほとんどない、と馬場論文は指摘します。ジャワ島中央部のソロ川(Solo River)流域のンガンドン(Ngandong)遺跡で発見されたソロ人は、ジャワ島の最後のホモ・エレクトスとも言われていますが、馬場論文では20万~10万年前頃(上述のホモ・エレクトスの最後の痕跡に関する研究では117000~108000年前頃)の「古代型新人」と評価されています。ソロ人は眼窩上隆起や横後頭隆起が発達しているので「原人」的に見えるものの、頭蓋冠が高く脳容量も1200~1300mlほどになる、と馬場論文は指摘します。

 馬場論文はサンギラン17号の分析結果を報告していますが、その部分的復元は正確とは言い難く、とくに顔面の歪みが大きい、と指摘します。サンギラン17号頭蓋はひじょうに硬くて脆いので、化石を6分割して造った石膏の複製模型を加工し、化石と比較しながら可能な限り正確な復元が行なわれました。サンギラン17号の脳頭蓋は大きく頑丈です。長く幅広いので高さは低く、眼窩上隆起と横後頭隆起そしてブレグマ(頭頂部)が出っ張っているので、横から見た輪郭は菱形に近くなります。脳頭蓋は大きいものの、同時に骨が厚いので、脳容量は1000mlを超える程度しかありません。しかし、「原人」の脳容量が一般的に800~1200mlであることから判断すると、「進歩的な部類」に属し、脳を入れている脳函自体と眼窩上隆起との分離傾向が弱いことも「進歩的」である、と馬場論文は評価します。

 サンギラン17号では側頭筋が発達しているため、側頭筋の上縁となる側頭稜と下縁となる乳突上稜が突出しています。また、項の筋肉の発達が強いために乳突上稜はさらに発達して横に張り出しています。その結果、後方から見た脳頭蓋輪郭は、低い逆さ台形の上に肩付きテントを張ったような7角形です。このような形態は、脳頭蓋も身体も大きい「進歩的な」原人の典型と言える、と馬場論文は評価します。なお、サンギラン17号の頭蓋の項筋付着部の面積は、20世紀前半の大型力士だった出羽ヶ嶽の頭蓋と同じくらいです。出羽ヶ嶽は元横綱の曙と同じくらいの体格で、普通の人の3倍以上の力があったはずなので、サンギラン17号も、身長は普通ではあるものの、力は曙に匹敵しただろう、と馬場論文は推測します。

 サンギラン17号は、新たな復元により以前とは異なる形態を示します。顔面全体が後方に上方に移動し、脳頭蓋との位置が整えられました。顔面自体も歪みが取れて不足部分も補われたので、顔のイメージが明らかになりました。眼窩上隆起に比べて頬骨の膨隆が目立ち、頬骨下部の幅が著しく大きいので、あまり恐そうな雰囲気ではない、と馬場論文は評価します。鼻は小さくて鼻骨は狭く、ほとんど隆起しません。鼻の穴(梨状口)はいちじるしく低く、口はあまり出っ張っていません。つまり、歯列は現代人に比べれば前進しているものの、頬骨の位置に比べるとあまり前進していないので、顔全体は平坦に見えます。これらの特徴は「モンゴロイ」ド的である、と馬場論文は評価します。また、眼窩が大きいことも併せると、あたかも巨大な幼児の顔面を見ているような印象である、と馬場論文は指摘します。頬骨が頑丈で外側に前方に位置していることは、咬筋のいちじるしい発達を意味しており、咬む力は現代人の5倍はあっただろう、と推測されます。一方、歯は小さく、顔面全体の大きさと頑丈さに比べていちじるしく不均衡な印象を与えます。咀噛力が強い割に歯が減らないという、特殊な食生活の存在が示唆されます。

 多地域進化説の提唱者であるソーン(Alan Thorne)氏とウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏は1981年に、サンギラン17号頭蓋とオーストラリア先住民頭蓋との(分岐系統学的)共有特徴、つまり人類進化の地域固有連続性の根拠を指摘しました。馬場論文は、その12個の特徴のうち、化石の保存状態が悪いためによく確認できなかったものの、復元作業の途中あるいは結果として明らかになった6個の顔面特徴を検討します。サンギラン17号の突顎の程度は強いものの(大後頭孔から鼻根までの距離に対する大後頭孔から中切歯までの距離の百分率である突顎示数は117)、ソーン氏とウォルポフ氏(以下、TW)の復元(示数121.9)よりは弱くなります。TWの復元における突顎の程度が著しすぎる点に関しては多くの批判があり、馬場論文も適当とは評価していません。いずれにせよこの示数117は、オーストラリア先住民を含めた現代人よりも大きく、「原人段階」の状態を表す、と馬場論文は指摘します。

 TWの報告では頬上顎縫合に沿う隆起とされている頬骨(頬上顎)結節は、他の研究では、カストでは見られないと指摘されていますが、ウォルポフ氏は化石には存在すると主張しています。馬場論文は、ヴァイデンライヒ氏が1943年に報告したシナントロプス(いわゆる北京原人)やカブウェ頭蓋のような頬骨外面下部に膨隆する結節は認められなかった、と評価します。カブウェ頭蓋とは1921年に北ローデシア(現在のザンビア)で発見されたブロークンヒル(Broken Hill)頭蓋のことで、年代は30万年前頃と推定されています(Grün et al., 2020、関連記事)。なお、サンギラン17号の頬骨外面最下部には小結節がいくつかありますが、咬筋付着による骨増殖変化と考えられます。頬骨外面下縁の外反は見られませんが、頬骨下部全体が外側に張り出しており、さらに強固な構造を造っているので、下縁の外反と同様なものと見なせるだろう、と馬場論文は評価します。

 眼窩下縁外側部の丸みは、サンギラン17号では眼窩下縁中央部から内側2cmほどに丸みがわずかに認められるだけで、中央部から外側では眼窩入口は鋭い稜となっているので、他の「原人」に見られるような典型的状態とは異なっています。梨状口(鼻の穴)の下面が(境界稜を持たずに)そのまま上顎骨前面に移行することは、梨状口下面にマトリックスが付着しているために部分的にしか確認できませんが、その範囲ではスムースな移行が認められました。上顎臼歯部の歯槽面が強い湾曲をなす点に関しては、サンギラン17号では通常のスピー曲線が認められるだけで、特別の湾曲はありません。なお、TWの復元では歯槽平面が耳眼面に対し強く傾きすぎている、との指摘がありますが、今回の復元では傾斜は緩くなり、通常の範囲に納まっています。

 まとめると、以上の6個の特徴の中で、頬上顎結節と歯槽面の急湾曲は認められず、眼窩下縁外側部の丸みは極めて不明瞭で、突顎はあるものの程度は少なく、頬骨下縁外反と梨状口下縁に境界のない点だけがなんとか認められました。したがって、TWの主張する連続性の基礎となったサンギラン17号の顔面特徴の把握はかなり怪しい、と馬場論文は評価します。馬場氏がこの点をウォルポフ氏に問い質したところ、復元と研究期間が10日しか与えられなかったため、との回答がありました。いずれにしても、サンギラン17号がオーストラリア先住民とのみ系統的に近いという根拠はかなり弱められたと考えるべきだろう、と馬場論文は評価します。他の研究で指摘されているように、ホモ属の中では分岐系統関係を直接判断できる頭蓋形態特徴はほとんどあり得ません。サンギラン17号とアジア東部現代人あるいはオーストラリア先住民との関係を判断するためには、それぞれの特徴の生物学的意味を吟味し、類似傾向を判断することが重要になる、と馬場論文は指摘します。

 サンギラン17号頭蓋の顔面は低く(短く)広いことが特徴です。眼窩と頬骨が大きい割に梨状口と歯が小さく、頬骨が前外側に位置しているため、顔面が平坦です。このような構造の機能的意義は、顎関節を支点としたさいに、歯列に対し咀噛筋(主として咬筋)の位置を近くに(前方に)置いてテコ比をかせぎ、同時に筋肉の断面積を増して咬合圧を高めることです。このような構造は「頑丈型の猿人」にも見られます。しかし、「原人」以降ではアジアの人々にしか見られません。その中でもとくにサンギラン17号は、最も著しい頬骨の発達と平坦性を示すので、アジア人の、あるいは広義の「モンゴロイド」の根幹をなす化石と言える、と馬場論文は評価します。

 それに対して、アフリカおよびヨーロッパの「原人」以降の人々では、顔の中央付近が前方に突出し、頬骨は小さく後退しています。また、一般に顔が高く(長く)、とくにネアンデルタール人では頬骨弓が弓なりに反って上方に位置しています。このような構造は、テコ比の面で咬合圧を高めるには不利ですが、咀嚼筋が歯列に対して相対的に後方に位置しており、咬筋自体も長いため、口を大きく開けることができます。ネアンデルタール人特有の臼歯後隙(第3大臼歯の後ろの下顎枝とのあいだの隙間)も、歯の退化に下顎の退化が追いつかないなどという小理屈をこね回さずに、歯列を咬筋に対し前方に押し出すためと積極的に解釈できる、と馬場論文は指摘します。

 「原人」の時代から現代まで、アジアという東方の地域では頬骨の張った平坦顔が、ヨーロッパとアフリカという西方の地域では頬骨の後退した突出顔が続いてきました。顔の高さ(長さ)の点でも、東方が低くて西方が高い、という傾向があります。「現代型新人」の起源をめぐって、多地域進化説とアフリカ起源説の論争が盛んですが、以上の観点から判断すると、咀嚼機能のパターンの違いに基づく西方と東方の地域の区分はかなり明瞭です。そこで馬場論文は、人類の二地域連続進化説を提唱します(図1)。この仮説の意図するところは大きな区分であり、それぞれの区分の中で部分的な置換が起こったかどうかは問題としません。たとえばヨーロッパ西部では、ネアンデルタール人と現代型新人との問でほぼ全面的な置換が起こった、と馬場論文は想定しています。以下、馬場論文の図1です。
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 人類進化の直接の証拠となる人骨化石はきわめて少ないので、数十万年以上にわたって進化を追えるような地域はほとんどありません。インドネシアでは100万年前頃から現在まで続いているように思われますが、実際は100万~70万年前頃と20万~10万年前頃(上述のように、現在ではこの年代は訂正されています)、そして最近1万年だけで、途中は抜けています。しかし、今後の調査研究により空白時期が埋められる可能性は高い、と馬場論文は指摘します。サンギラン17号がアジア人の共通幹との本論文の見解に立てば、「ジャワ原人」は日本人の遠い祖先でもあります。


●現生人類東西二地域進化説の撤回

 以上のように、馬場氏は1993年に現生人類東西二地域進化説を提唱しましたが、2000年刊行の一般向け新書では、アジアの「新人」、つまり現生人類の起源に関して、「ジャワ原人」から進化したのか、アフリカ起源の現生人類が拡散してきたのか、今も議論が続いている、と述べている程度で(馬場.,2000, P151)、強くは主張していません。馬場氏はこの頃には、現生人類東西二地域進化説に懐疑的になっていたのかもしれません。なお、同書は旧石器捏造事件発覚(2000年11月5日)の3ヶ月ほど前に刊行されましたが、東北旧石器文化研究所の「業績」について触れ、「だが一方で、これらの“物証”には、疑問をもつ研究者も少なくない」と指摘しています(馬場.,2000, P159-161)。さらに馬場氏は、山形県寒河江市の富山遺跡について触れ、この遺跡に他の旧石器時代の遺跡のような不自然さがないことを指摘し、研究所の「業績」への疑問を示唆しています。馬場氏は捏造実行者との会話から、すでに捏造発覚以前に研究所の「業績」が怪しいと考えていたそうです(毎日新聞旧石器遺跡取材班.,2001, P220-221)。

 馬場氏が明確に現生人類東西二地域進化説を撤回したのは、ジャワ島のホモ・エレクトスの研究が進展したからでした(馬場.,2005)。馬場氏は2001年秋に保存状態良好なジャワ島のサンブンマチャン(Sambungmacan)遺跡のホモ・エレクトス化石を分析し、これがジャワ島の前期ホモ・エレクトスと後期ホモ・エレクトスの中間の形態を有する、と明らかにしました。つまり、ジャワ島のホモ・エレクトスでは、前期から中期を経て後期へと独自の特徴が発達したわけです。ジャワ島のホモ・エレクトスは他の地域から隔離されと特殊化していったので、特殊化したジャワ島の後期ホモ・エレクトスが短時間でオーストラリア先住民に進化する可能性は事実上ない、と馬場氏は指摘します。馬場氏たちの研究により、現生人類多地域進化説の最後の根拠が否定され、間接的に現生人類アフリカ単一起源説が擁護された、というわけです。なお、その後の研究では、ホモ属頭蓋は大きくエレクトスの系統とサピエンスの系統に区分でき、ジャワ島のホモ・エレクトス化石のうち、前期更新世のトリニール(Trinil)やサンギランの遺骸はエレクトス系統に分類されるものの、後期のガンドン(Ngandong)遺跡とサンブンマチャン遺跡の遺骸はサピエンス系統に分類されています(Zeitoun et al., 2016、関連記事)。ただ、この研究がどこまで妥当なのか、議論があるとは思います。

 現生人類東西二地域進化説の提唱と撤回は、形態学的特徴による区分がいかに難しいのか、改めて示しているように思います。人類化石はたいへん貴重なので、つい過剰に意味づけしようとする心理が作用するのかもしれません。しかし、ひじょうに少ない人類化石を形態学的分析のみで人類進化史において系統的位置づけることは難しく、この点では、1個体からでも保存状態良好ならば膨大な情報が得られるDNA解析には遠く及ばない、と考えるべきなのでしょう。この問題に関しては、以前にまとめたことがあります(関連記事)。

 具体的には、たとえば2006年にモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で採掘作業中に発見された人類の頭蓋冠は、その形態からネアンデルタール人もしくはホモ・エレクトスに分類される可能性さえ示唆されましたが、遺伝的分析では非アフリカ(出アフリカ)系現代人の変異内に収まり、アジア東部人集団に近いものの、ユーラシア西部集団の遺伝的影響も一定以上受けており、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属からの遺伝的影響は、近い年代のユーラシア現生人類と変わらない、と明らかになっています(Massilani et al., 2020、関連記事)。中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)では11000年前頃の人類遺骸が発見されており、非アフリカ系現代人の共通祖先とは早期に分岐した現生人類か、非現生人類ホモ属である可能性さえ指摘されていました(Curnoe et al., 2012、関連記事)。しかし、核ゲノム分析から、この隆林個体は明確にユーラシア東部現代人の変異内に位置づけられ、非現生人類ホモ属からの遺伝的影響はとくに高いわけではなくアジア東部現代人と類似している、と明らかになりました(Wang et al., 2021、関連記事)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)など気候悪化により人類集団が分断され、ボトルネック(瓶首効果)や新たな環境への適応により形態に大きな違いが生じることは、人類史において珍しくなかったのかもしれません。その意味で、少ない人類遺骸を人類進化に位置づけることには慎重であるべきなのでしょう。


参考文献:
Curnoe D, Xueping J, Herries AIR, Kanning B, Taçon PSC, et al. (2012) Human Remains from the Pleistocene-Holocene Transition of Southwest China Suggest a Complex Evolutionary History for East Asians. PLoS ONE 7(3): e31918.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0031918
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Fagan BM.著(1997)、河合信和訳『現代人の起源論争 新訂版』(どうぶつ社、原書の刊行は1990年、初版の刊行は1994年)

Grün R. et al.(2020): Dating the skull from Broken Hill, Zambia, and its position in human evolution. Nature, 580, 7803, 372–375.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2165-4
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Hammer MF. (2013)、『日経サイエンス』編集部訳「混血で勝ち残った人類」篠田謙一編『別冊日経サイエンス194 化石とゲノムで探る 人類の起源と拡散』(日経サイエンス社、初出は『日経サイエンス』2013年11月号)P84-89
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Massilani D. et al.(2020): Denisovan ancestry and population history of early East Asians. Science, 370, 6516, 579–583.
https://doi.org/10.1126/science.abc1166
関連記事

Matsu’ura S. et al.(2020): Age control of the first appearance datum for Javanese Homo erectus in the Sangiran area. Science, 367, 6474, 210–214.
https://doi.org/10.1126/science.aau8556
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Rizal Y. et al.(2020): Last appearance of Homo erectus at Ngandong, Java, 117,000–108,000 years ago. Nature, 577, 7790, 381–385.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1863-2
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Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

Trinkaus E, and Shipman P.著(1998)、中島健訳『ネアンデルタール人』(青土社、原書の刊行は1992年)

Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
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Zanolli C. et al.(2019): Evidence for increased hominid diversity in the Early to Middle Pleistocene of Indonesia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 755–764.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0860-z
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Zeitoun V, Barriel V, and Widianto H.(2016): Phylogenetic analysis of the calvaria of Homo floresiensis. Comptes Rendus Palevol, 15, 5, 555-568.
https://doi.org/10.1016/j.crpv.2015.12.002
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篠田謙一(2016)「ホモ・サピエンスの本質をゲノムで探る」『現代思想』第44巻10号P57-67(青土社)
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馬場悠男(1993)「化石形態から見たアジアにおける人類の進化 ジャワ原人の最近の研究から」『Anthropological Science』101巻5号P465-472
https://doi.org/10.1537/ase.101.465

馬場悠男(2000)『ホモ・サピエンスはどこから来たか』(河出書房新社)

馬場悠男(2005)「意識を持つのは人間だけか」馬場悠男編『別冊日経サイエンス 人間性の進化』P4-8(日経サイエンス社)

毎日新聞旧石器遺跡取材班(2001)『発掘捏造』(毎日新聞社)

Ulrich Herbert『第三帝国 ある独裁の歴史』

 ウルリヒ・ヘルベルト(Ulrich Herbert)著、小野寺拓也訳で、角川新書の一冊として、KADOKAWAから2021年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はナチス政権期ドイツが侵攻して支配下に置いたヨーロッパ東部をどのように扱ったのか、検証します。本書は、ナチス政権期ドイツのヨーロッパ東部支配が、ヨーロッパ北部および西部の軍事支配とは異なり、ヨーロッパ勢力によるアフリカなど非ヨーロッパ地域の植民地支配と通ずる過酷なものだった、と指摘します。ドイツにとって、人々の外見も文化も、ヨーロッパ東部は非ヨーロッパ地域よりも類似していましたが、その支配(短期間でしたが)様式は本質的に変わらなかったのではないか、というわけです。

 ナチス政権期ドイツのヨーロッパ東部支配とヨーロッパ列強の非ヨーロッパ地域の植民地支配との類似性から、ナチスの世界観が浮き彫りになります。それは人種主義と「民族共同体」で、スラブ人はアーリア人よりも劣る人種と位置づけられました。ユダヤ人は最下層の人種に位置づけられ、過酷な迫害を受けます。「民族共同体」に含まれるのはアーリア人で健康な業績のあるドイツ人で、それに含まれないユダヤ人や障害者や反体制派は容赦なく迫害されました。なお、第二次世界大戦においてドイツはユダヤ人を多数殺害しましたが、その大半はドイツ国内ではなくドイツ支配下のヨーロッパ東部の住民でした。

 本書はドイツにおけるナチス政権成立の前提を、第二帝政までさかのぼって検証します。本書が重視するのは、ドイツにおける近代化進展の速さと、それに伴う社会的軋轢の結果としての、ナショナリズムへの傾倒です。この過程で、後のナチズムの基盤となるような反ユダヤ主義が浸透していきます。第一次世界大戦で戦況が膠着状態に陥ると、ドイツでは反ユダヤ主義的言説が声高に語れるようになります。まず、前線からのユダヤ人の逃亡という噂が広まります。ドイツ政府の調査結果ではこの噂は否定されましたが、反ユダヤ主義的勢力に都合が悪かったので、公表されませんでした。

 第一次世界大戦での敗北により、ドイツではナショナリズムが昂揚しますが、これはドイツだけではなく、オーストリアやトルコやブルガリアやロシアなど第一次世界大戦の敗戦国でも見られ、そうした国々では反民主主義的な体制が成立した、と本書は指摘します。ドイツでは敗戦後すぐに民主主義勢力が議会で多数派を形成したこともありましたが、すぐに左右急進派の武力闘争により治安が悪化し、ヴァイマル体制は不安定化します。ヴェルサイユ条約の過酷な条件は、ドイツにおいてナショナリズムの昂揚と西欧的自由主義やロシアの共産主義への反感と反ユダヤ主義を強めます。ナチスの結党はこうした文脈で解されますが、失敗に終わった1923年の放棄により知名度を高めたとはいえ、インフレが収束していき、相対的に安定していた時期には、ナチスは泡沫政党の一つにすぎませんでした。

 この状況を大きく変えたのが1929年に始まった世界大恐慌で、ドイツでも自由主義経済や民主主義への拒絶傾向が強く見られるようになります。ナチスは議会選挙で躍進し、再選挙による社会民主党の躍進を恐れる保守指導層は、ナチスと組む方がましと考えて、ヒトラーを首班に迎えます。しかし、ヒトラーを飼い慣らせるとの保守指導層の思惑通りにはいかず、ナチスは確たる主導権を確立し、1933年夏までにナチスを除く全政党が解散させられます。労働組合は解体され、大小の圧力団体は禁止されるかナチスによる支配を受けるようになり、「強制的画一化」が進みます。この過程で喧伝された「民族の一体性の回復」は右派と中道派の人々に受け入れられていきます。

 しかし、この過程で民主主義における紛争を調整するための制度が廃止され、ナチス政権期のドイツの行政組織では、どの役所もしくは党組織が自らの意志を押し押せるのかが、その時々の偶発的な権力状況により決まることになります。この争いは、ある程度はヒトラーの傑出した地理により調整できました。ナチス政権期のドイツでは、ヒトラーとの距離が政治・社会的地位や政策実現に決定的な意味を有するようになります。ヒトラーは1934年6月に強大な勢力を有するようになった突撃隊(および敵対的な政治指導者)の粛清により、ナチス体制を確立します。

 ヒトラーとの距離が地位と政策実現を決めるナチス政権期のドイツでは、反ユダヤ主義政策も、当初は明確な方針に基づいていたわけではなく、ヒトラーの歓心を買うべく諸組織・勢力が急進さを互いに競う意合うことになり、ユダヤ人迫害が加速していき、これにはユダヤ人の財産没収や高い社会的地位からの追放も含まれます。それにより、少なからぬドイツ人が利益を得ました。ユダヤ人迫害の過程で、1935年9月にニュルンベルク法が制定されますが、ユダヤ人と認定する基準は曖昧でした。もちろん、ナチス政権期のドイツで迫害されたのはユダヤ人だけではなく、上述のように、「民族共同体」の範疇に入れられなかった非ユダヤ人も対象となりました。

 ナチス政権期のドイツでは急速に失業者が減少し、これがナチス政権への国民の支持を確たるものにしましたが、その功績のかなりの部分はヴァイマル共和国政府にあった、と本書は指摘します。また本書は、この急速な景気回復が大規模な軍備拡張にあったことも指摘します。ナチス政権期はその財源として、国民からの支持喪失を恐れて、戦争に勝利することによる賠償や略奪に依拠しようとしました。「民族共同体」の範疇から外されなかった労働者への社会政策(家族支援や結婚貸付金や安価な旅行の提供など)も、ナチス政権への広範な支持につながりました。

 第二次世界大戦勃発後、当初ドイツは勝ち続け、フランス降伏の頃に国民のヒトラーへの支持は最高に達します。一方、軍事優先で生活物資は多くが配給制となり、貯蓄率が高まったので、これが軍事費に充てられました。ドイツは第二次世界初期にポーランド西部を支配し、人種主義に基づいた植民地支配が始まります。ポーランド人はドイツに強制連行され、開戦による労働力不足を補うべく、まずおもに農業に従事させられます。また、開戦後に注目を集めにくくなるとの判断から、ドイツ国内で精神疾患など病人の殺害が進められましたが、強い抗議のために中断されました。本書は、これが後のユダヤ人の大虐殺につながったものの、第二次世界大戦前の迫害とは質的断絶があった、と指摘します。

 1941年6月に始まった独ソ戦は絶滅戦争となり、ドイツは軍の補給維持のためソ連の都市住民が餓死すること前提条件としました。こうした方針は当然ソ連兵捕虜にも適用され、多くが死に追いやられました。しかし、ドイツが軍事的に劣勢になると、ドイツの軍人も民間人もソ連の報復を受けることになります。ただ、このドイツ敗退の過程でドイツ人が一方的に被害者になったわけではなく、ユダヤ人も含めて強制収容所の囚人の多くが死に追いやられました。またドイツ人でも、多少なりともナチス体制や継戦の意思に欠けるとみなされた者は、ナチス体制の諸組織により容赦なく殺害されていきました。ナチス体制に関しては、国民の福祉に配慮するなど、一見すると「肯定的に」評価できる側面があったことは否定できない、といった主張も根強いかもしれませんが、結局のところ、それは「民族共同体」の敵とされた人々を迫害すること(殺害や拘禁や財産没収や社会的地位の剥奪など)と表裏一体だったわけで、その点を踏まえると、とても肯定的に評価できるものではない、と思います。

小惑星の衝突前に減少し始めていた恐竜の多様性

 恐竜の多様性が小惑星の衝突前に減少し始めていた可能性を報告した研究(Condamine et al., 2021)が公表されました。メキシコのチクシュルーブに大型の小惑星が衝突したことが、6600万年前頃となる非鳥類型恐竜の大量絶滅(白亜紀末の大絶滅)の原因だったことについては、幅広い合意があります。しかし、この小惑星が衝突する前に恐竜類が衰退し始めていたのか否かに関しては論争があり、現在の化石記録によりこの点を評価することは困難でした。

 この研究は、1600点の恐竜化石を分析し、恐竜の6つの科(アンキロサウルス科、ケラトプス科、ハドロサウルス科、ドロマイオサウルス科、トロオドン科、ティラノサウルス科)の種分化速度と絶滅速度を評価しました。その結果、非鳥類型恐竜の多様性が約7600万年前頃に減少し始めた、と明らかになりました。この研究は、こうした多様性の減少が、古い種の絶滅速度の上昇に関連している、との見解を示しています。これは、恐竜の進化的新奇性が失われたことや、これらの恐竜が状況の変化に適応できなかったことを示している、と考えられます。

 また、この研究は、こうした変化に関係する生態学的要因と物理的要因を評価し、白亜紀後期(1億~6600万年前頃)の全球的な気候寒冷化が恐竜類の衰退に寄与した可能性を明らかにしており、ハドロサウルスが他の草食恐竜種との競争に勝利した結果、草食恐竜の多様性が減少したことも関係しているかもしれない、と指摘しています。この研究は、こうした要因が組み合わさったことで、チクシュルーブでの小惑星衝突後の恐竜の回復能力が損なわれ、恐竜の絶滅に寄与した、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:小惑星が地球に衝突する前に恐竜の多様性は減少し始めていた

 小惑星の衝突を原因とする大量絶滅事象が起こる前に、非鳥類型恐竜種の衰退が約1000万年間続いていたという見解を示した論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究結果は、恐竜の絶滅に関する新たな手掛かりになる。

 メキシコのチクシュルーブに大型の小惑星が衝突したことが、6600万年前の非鳥類型恐竜の大量絶滅の原因だったことについては、幅広い合意がある。しかし、この小惑星が衝突する前に恐竜類が衰退し始めていたかに関しては論争があり、現在の化石記録を使ってこの点を評価することは困難だった。

 今回、Fabien Condamineたちの研究チームは、1600点の恐竜化石を分析し、恐竜の6つの科(アンキロサウルス科、ケラトプス科、ハドロサウルス科、ドロマイオサウルス科、トロオドン科、ティラノサウルス科)の種分化速度と絶滅速度を評価した。その結果、非鳥類型恐竜の多様性が約7600万年前に減少し始めたことが分かった。Condamineたちは、この多様性の減少が、古い種の絶滅速度の上昇に関連しているという見解を示しており、これは、恐竜の進化的新奇性が失われたことや、これらの恐竜が状況の変化に適応できなかったことを示していると考えられる。また、Condamineたちは、この変化に関係する生態学的要因と物理的要因の評価を行って、白亜紀後期(1億~6600万年前)の全球的な気候寒冷化が恐竜類の衰退に寄与した可能性があることを明らかにしており、ハドロサウルスが他の草食恐竜種との競争に勝利した結果、草食恐竜の多様性が減少したことも関係している可能性を指摘している。

 Condamineたちは、こうした要因が組み合わさったことで、チクシュルーブでの小惑星衝突後の恐竜の回復能力が損なわれ、恐竜の絶滅に寄与したと結論付けている。



参考文献:
Condamine FL. et al.(2021): Dinosaur biodiversity declined well before the asteroid impact, influenced by ecological and environmental pressures. Nature Communications, 12, 3833.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-23754-0

未確認生物とも噂されてきたコーカサス南部の女性の正体

 未確認生物とも噂されてきたコーカサス南部の女性遺骸のゲノム解析結果を報告した研究(Margaryan et al., 2021)が公表されました。コーカサス南部のアブハジアの民間伝承によると、ザナ(Zana)と呼ばれる「野生の女性」が19世紀に存在し、一部の地元民からアブナウアユ(Abnauayu)もしくはアルマスティ(Almasty、アルマス)と呼ばれていました。これは、コーカサスやアジア中央部に生息しているとされる、ヒマラヤのイエティ(Yeti)や北アメリカ大陸のビッグフット(Bigfoot)と類似した未知の生き物(いわゆる未確認生物)の名前です。ザナは森での野外生活中に捕獲され、後には次々と地元の裕福な人々の奴隷とされ、最終的にはアブハジアの貴族であるエッジ・ジェナバ(Edgi Genaba)に購入され、トキナ(Tkhina)の屋敷に連れて行かれて、1890年頃に亡くなるまでそこで暮らしました。

 ザナは女性のイエティだったかもしれない、という憶測に触発され、ソ連の科学者たちは1962年にアブハジアを訪れ、まだザナを覚えているトキナ村の長老から話を集めしました。地元民のザナに関する説明は、「一部はヒトで一部は動物」であり、身長は2mで、濃い肌の色と太い髪で覆われ、片手で50kgの小麦粉の袋を持ち上げ、競争ではウマを追い越した、というものでした。目撃者の説明によると、ザナは話せず、それはザナの奇妙な行動と外見とともに、ザナがアルマスティ(アルマス)だという評判をもたらしました。またザナは、地元の男性との間に息子と娘を2人ずつ産んだ、と記録されています。ザナは死後にジェナバの家族墓地に埋葬され、ザナの正確な埋葬地は不明でしたが、ザナの2番目の息子であるフウィット(Khwit)の墓は1971年に特定されました。研究者たちは、ザナの埋葬場所を突き止めようと複数回試みた後、身元不明の女性遺骸をジェナバの家族墓地で発見し、ザナかもしれない、と推測しました。

 以前のDNA分析の限界と頭蓋計測研究の曖昧さの可能性を克服するため、この未知の女性とフウィット両者のゲノムが、それぞれ3.1倍と3.3倍の網羅率で配列されました。ゲノム規模分析により、両者の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)と親族関係が調べられ、客観的なゲノム規模データに基づいてザナの物語に光を当てることができました。両者のゲノム規模データは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やチンパンジー(Pan troglodytes)や13300年前頃および9700年前頃のコーカサス南部の人類遺骸(関連記事)と比較されました。これらの遺伝的データは、ザナかもしれない未知の女性遺骸とフウィットが、それぞれ女性と男性であることを改めて確認しました。


●片親性遺伝標識

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)に関して、ミトコンドリアDNA(mtDNA)は女性遺骸とフウィットが同一と確認され、母子関係であることと一致します。両者のmtDNAハプログループ(mtHg)はL2b1bで、その上位区分であるmtHg-L2bはアフリカ西部に広く分布していますが、アフリカ全域でも見つかっています。以前の分析でも同じmtHg-L2b1bが特定されています。フウィットのY染色体ハプログループ(YHg)はR1b1a1b(M269)で、明確に非アフリカ系統を反映しています。YHg-R1b1a1bはヨーロッパとアジア南西部において高頻度です。

 フウィットのmtDNAを分析した初期の研究では、ザナがアフリカ起源と明らかになりましたが、おそらくその時は適切な包括的データセットがなかったため、アフリカの古代系統かもしれない、と示唆されました。本論文は改めて、未知の女性標本のmtDNA配列とmtHg-L2他の93個体との関係を分析し、予測されたように未知の女性標本のmtHgがL2b系統の他の個体とクラスタ化する、と明らかになりました(図1)。以下は本論文の図1です。
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 以前の研究では、mtHg-L2bは24000年前頃に発生したと推定されているので、未知の女性標本が古代型もしくは非現生人類(Homo sapiens)ホモ属起源のmtHgを有している、との仮説は却下されます。未知の女性標本とその姉妹集団の母系の最新の共通祖先の年代(TMRCA)は9800年前頃と推定されました。


●親族関係

 次に、PCAngsdとrealSFSで実装されているPC-relateを用いて、フウィットと女性標本ザナが直接的に関連しているのかどうか、検証されました。ザナとフウィットの組み合わせの親族係数は0.1818で、1親等の関係区間(0.177~0.354)に収まりました。realSFS分析により、0に近いR0値(0.0015)が推定され、親子関係が示唆されました。両者のmtDNAが同一であることと合わせて、未知の女性標本はフウィットの母親であり、ザナと明確に特定できます。


●遺伝的類似性

 核ゲノムデータを用いて、ザナおよびフウィットの親子と他の世界中のさまざまな人口集団との遺伝的関係を評価するため、主成分分析が実行されました。ネアンデルタール人およびデニソワ人3個体も比較対象に含まれ、チンパンジーが外群として用いられました。また、コーカサス南部の中石器時代の狩猟採集民2個体((SATPおよびKK1)も比較対象として含められました。結果は、ザナが非現生人類ホモ属にもチンパンジーのどちらにも遺伝的に近くなく、現代人集団と密接にクラスタ化することを明確に示します(図2A)。両者の親子関係および息子のフウィットのYHg-R1b1a1bから予測されるように、フウィットは主成分分析ではヨーロッパもしくはコーカサスの人口集団とアフリカの人口集団との中間に位置します。

 ADMIXTUREを用いての教師なしクラスタ化分析も明確に、ザナが「非ヒト」起源である、との仮説を却下します。むしろ明らかなのは、ザナが現代のアフリカ東部および西部の人口集団と遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)を共有していることです(図2B)。以下は本論文の図2です。
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 ザナのアフリカ起源をさらに調べるため、追加の主成分分析と混合分析が実行されました(図3A)。ここでも、ザナはディンカ人などアフリカ東部集団とヨルバ人などアフリカ西部集団からの祖先系統構成要素を示し、アフリカ南部と北部と中央部の人口集団からの顕著な遺伝的寄与を有していません。しかし、ザナがディンカ人的な人口集団とヨルバ人的な人口集団(それぞれ図3Aの紫色と桃色)間の混合に由来するのか、それともルヒヤ人やルオ人のようなアフリカ東部集団にのみ起源があるのか、解決できませんでした。

 ザナの祖先系統の割合をより正確に推定するため、アフリカの人口集団の多様性のほとんどを反映するアフリカの13人口集団に基づいて「教師有」様式で混合分析が実行されました(図3B)。その結果、ザナの祖先系統の大半(66%)はアフリカ東部起源と推定されましたが、アフリカ西部人の遺伝的構成要素も顕著な水準(34%)で示されました。アフリカの人口集団とザナの遺伝的関係をさらに視覚化するため、アフリカの東部と中央部と西部の集団とのみUMAP(均一多様体近似および投影)を用いて追加の次元削除が適用され、ルオ人やルヒヤ人などアフリカ東部人口集団とザナの遺伝的近接性が明らかになります(図3C)。これは、TreeMixに基づく最尤分析でも裏づけられます(図4A)。以下は本論文の図3です。
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 ザナのゲノムへのネアンデルタール人からの遺伝子移入の可能性を検証するため、D統計(検証人口集団、ザナ、アルタイ地域ネアンデルタール人、チンパンジー)が実行されました(図4B)。その結果、これまでの研究のように、アフリカ北部および非アフリカ人口集団でのみネアンデルタール人との混合が示唆され、クラスタ化分析に基づいて特定されたサハラ砂漠以南のアフリカの集団とザナとの遺伝的近接性と一致します。以下は本論文の図4です。
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 要約すると、ゲノム規模分析に基づく本論文の結果から、ザナのゲノムはサハラ砂漠以南のアフリカ起源で、以前の頭蓋計測およびmtDNA分析の結果と一致する、と明らかになります。これは、アブハジアにおけるザナの存在が、19世紀のアブハジアにおける奴隷貿易の主要接続地の一つだったイスタンブールへのオスマン帝国の奴隷貿易と関連している可能性を示唆します。さらに、ザナの祖先系統の大半がアフリカ東部であることは、オスマン帝国におけるアフリカ人奴隷の大半はアフリカ大湖沼と現在のスーダン地域が起源だった、と示唆する歴史的記録と一致します。

 ザナの野生に関する同時代の報告やその後の物語は、少なくとも部分的には、言葉が話せないことや知的障害や全身を覆う長い髪など、ザナの珍しい身体的特徴の一部に基づいていました。ゲノムデータは明確にこれら全ての非ヒト仮説を却下し、ザナの身体的特徴のこれらの記述が正確であれば、ザナは先天性の汎発性多毛症(顔貌異形や知的傷害や多毛症を伴う症候群)など稀な遺伝的疾患を有していたかもしれない、と本論文は推測します。


●まとめ

 本論文の結果は、ジェナバ家の墓地に埋葬された未知の女性がザナであることを証明します。ザナはアルマスティ女性だったかもしれない、との推測とは対照的に、本論文の結果は決定的なゲノム規模データを提供し、ザナがヒトの女性ではない、という説に終止符を打てました。ザナはアフリカ東部人の系統である可能性が高いものの、部分的なアフリカ西部祖先系統の可能性も除外できません。本論文の仮説は、ザナの系統が、オスマン帝国による16~19世紀の奴隷貿易の結果として現在のコーカサス南部のアブハジアの領域に到来したかもしれない、というものです。ザナがヒトではない、という神話を煽ったのは単純に、異常な行動や身体的強さや高身長や認識できる言葉の欠如や多毛などザナの珍しい独特の身体的特徴と、その後の何世代もの噂だった、と本論文は推測します。

 ザナは森で捕らえられた後、基本的人権を奪われて奴隷として扱われました。ザナは監禁され、在地の男性と性的関係を強要された可能性が高く、強制労働に従事させられました。ザナの死後、ザナの神話的人物像に関する記述は、ザナの物語の解明へと科学者たちを惹きつけ、ザナの息子の骨が発掘されました。本論文の目的は、ザナの真の人間性を明らかにして、ザナとその子孫の遺骸に相応しい尊厳を与えることです。1960~1970年代の発掘と古代DNA分析の許可は、全て関係当局から得られています。


参考文献:
Margaryan A. et al.(2021): The genomic origin of Zana of Abkhazia. Advanced Genetics, 2, 2, e10051.
https://doi.org/10.1002/ggn2.10051