加藤真二「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」

 本論文のユーラシア東部とは、中国を中心とする大陸部を指し、中国は秦嶺山脈―淮河線で南北に区分されます。ユーラシア東部と日本列島を結ぶ路線としては、北ルート(アムール河口部―サハリン-北海道)、西ルート(陸化した大陸棚・朝鮮半島-九州北部)、南ルート(華南-台湾-琉球弧-九州南部)の他、日本海ルート(日本海横断)などが想定できます。ただ、現生人類(Homo sapiens)以前の人類が日本列島へ移動するさいには、渡海能力が低かったので、氷期に陸化した北ルートや西ルートを経由したと考えられます。

 中国北半部、華北北辺の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)では166 万年前の河北省馬圏溝III以降、旧石器遺跡が断続的に形成されます。したがって、少なくとも、これ以降の西ルートが陸化した時期には、日本列島への人類集団と石器群の拡散機会があったことになります。この陸化した西ルートを通り、120万年前頃にトロゴンテリゾウなどの動物群、43 万年前頃にナウマンゾウの祖先種などの動物群が中国北半部を含む旧北区から、また63 万年前頃にトウヨウゾウなどの動物群が中国南半部以南の東洋区から、日本列島に渡来しました。この時、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が動物群とともに列島にやってきたとすれば、どのような石器群を持ち込んだのか、という点が問題となります。

 華北の河北省飛梁・麻地溝(120 万年前頃)、北京市周口店第1地点上部文化層(50万~40万年前頃)などでは、不定形剥片を臨機的に二次加工したノッチやペッグなどの小型剥片石器に粗粒石材の礫器を交えた石器群が見られます。一方、中国南半部となる長江下流域の江蘇省和尚墩12 層(66万~62万年前頃)では、礫器やピックなどの大型重量石器を主体とする石器群が出土しました。朝鮮半島南部でも、東洋区の動物群が列島に渡来した時期に、全羅北道甑山などのピックや多面体石器などの大型重量石器をもつ石器群が出現し、それ以後、最終間氷期ごろまで盛行することが知られています。

 ユーラシア東部では、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5(128000~71000年前頃)となる最終間氷期に、北ルート入口と同緯度の北緯50度付近まで旧石器遺跡が形成されます。そのため、この地域にいた種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの非現生人類ホモ属が、MIS4(71000~57000年前頃)となる間氷期直後の寒冷期に陸化した北ルートを経由して、北海道に渡来した可能性があります。なお、MIS4では西ルートは陸続きになりませんでした。

 このMIS5~4において、中国北半部には、鋸歯縁石器類や厚型削器などの各種削器、カンソン型やタヤック型などの尖頭器、石球をもつ鋸歯縁石器群が広く見られます。これと類似する同時期の石器群が東シベリアのイゲチェイスキー・ログ1(北緯53 度)でも抽出されています。一方、中国東北部では、内蒙古自治区三龍洞でキナ型スクレイパーやムスチエ型尖頭器をもつ石器群が出土しました。内蒙古自治区チンスタイ(金斯太、Jinsitai)8・7層(北緯45度) でもルヴァロワ(Levallois)技法が確認されています(関連記事)。これらはムステリアン(Mousterian)が北方もしくは西方から中国東北部に伝播したことを示している、と考えられます。将来、北ルートを経由してきた絶滅ホモ属集団がもたらした、鋸歯縁石器群やムステリアンなどの中部旧石器が北海道で出土するかもしれません。

 ユーラシア東部に現生人類による上部旧石器的な石器群が出現するのは、中国南半部でやや古く43500年前頃、中国北半部では41500~40000年前頃です。現生人類は渡海能力を有しており、日本列島への移動は氷期でなくとも可能でした。また、これまでの2ルートに加えて、海上移動が必須な南ルートなども利用されました。現生人類が最初に日本列島にもたらした石器群を考えるさいにまず参考になるのは、中国南半部最古の上部旧石器で、43500年前頃のスマトラリス(甲高な打製石斧)を有するホアビニアン的な雲南省硝洞の石器群です。

 中国北半部最古の上部旧石器は、寧夏回族自治区水洞溝(Shuidonggou)の41500~41000年前頃のものです。円盤状石核や柱状石核から剥離された大型石刃に特徴づけられる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)石器群です。IUP 石器群は、忠清北道スヤンゲ第6 地点やシベリア東部のカーメンカやマカロヴォIVなどでも出土しており、各地での最古の上部旧石器とされています。ただ、中国北半部では水洞溝石器群のみで、中国におけるEUP(上部旧石器時代前期)石器群とされる、小石刃技術や磨製骨角器、装身具類などの上部旧石器的要素を付加し、技術変容した鋸歯縁石器群が主体的です。この石器群は、熊本県石の本8区や江原道魯峰第2文化層の石器群などとも類似点を有します。また、山西省下川の36000~27000年前頃の石器群は、小石刃技術や石斧や台形様石器など、日本列島のものと共通する要素を有しており、注目されます。

 上述のように41500~40000年前頃とされる中国北半部での現生人類の出現について、50000~40000年前頃とされる河北省西白馬営では、初源的な磨製骨器や火処での火の管理など、現生人類的な活動の痕跡が認められ、この地域での現生人類の出現は従来の説よりも古かったかもしれません。その場合、日本列島に近い華北沿海部でも見られた中部旧石器的な鋸歯縁石器群が日本列島に拡散した可能性もあります。最後に本論文は、日本列島では最古の上部旧石器や上部旧石器以前の確実な石器群は、まだ発見されていない、との認識を示しています。一方で本論文は、ユーラシア東部に起源するより古い石器群が日本列島で出土しても不思議ではない、とも指摘しています。


参考文献:
加藤真二(2020)「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P42-43

孵化直後の翼竜類の飛行能力

 孵化直後の翼竜類の飛行能力に関する研究(Naish et al., 2021)が公表されました。翼竜類は、三畳紀とジュラ紀と白亜紀(2億2800万~6600万年前頃)に存在していた空を飛ぶ爬虫類の一種です。化石化した翼竜の卵と胚はほとんど見つかっておらず、孵化したばかりの個体と小さな成体を区別することも難しいため、孵化したばかりの翼竜が飛べたのかどうか、分かっていません。

 この研究は、2種の翼竜(Pterodaustro guinazuiとSinopterus dongi)の孵化直後の幼体の化石と胚の化石として確立されている合計4点の化石から以前に得られた翼の測定値を用いて、孵化直後の幼体の飛行能力をモデル化しました。また、この翼の測定値が同種の成体のものと比較されるとともに、翼の一部を形成する上腕骨の強度が、孵化直後の幼体3頭および成体22頭とで比較されました。

 この研究は、孵化直後の幼体の上腕骨が多くの成体の上腕骨よりも強いことを明らかにしました。これは、孵化直後の幼体の上腕骨が飛行に充分な強度を有していた、と示しています。また、孵化直後の幼体の翼は、長くて幅が狭く、長距離飛行に適していましたが、成体の翼と比較すると短くて幅が広く、孵化直後の幼体の翼面積は、その質量と体サイズの割に大きい、と示されました。孵化直後の幼体は、こうした翼の寸法のために、長距離の移動では成体よりも効率が悪かったかもしれませんが、より機敏な空飛ぶ爬虫類として、方向や速度を突然変えることができた可能性があります。

 この研究は、孵化したばかりの翼竜が、機敏な飛行スタイルにより捕食者から素早く逃れることができ、成体の翼竜よりも、敏捷性に優れた獲物を追いかけ、密集した植生の中を飛ぶことに適していたのではないか、と推測しています。この研究はこうした知見に基づいて、孵化したばかりの翼竜が密集した生息地で生活し、成体の翼竜が開放された環境で生息していたかもしれない、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:孵化したばかりの翼竜も飛べたかもしれない

 翼竜類は、孵化直後から飛ぶことができたが、その時点での飛行能力は、成体の翼竜とは異なるものだったと考えられることを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。

 翼竜類は、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀(2億2800万~6600万年前)に生きていた空飛ぶ爬虫類の一種である。化石化した翼竜の卵と胚はほとんど見つかっておらず、孵化したばかりの個体と小さな成体を区別することも難しいため、孵化したばかりの翼竜が飛べたかどうかは分かっていない。

 今回、Darren Naishたちは、2種の翼竜(Pterodaustro guinazuiとSinopterus dongi)の孵化直後の幼体の化石と胚の化石として確立されている合計4点の化石から以前に得られた翼の測定値を用いて、孵化直後の幼体の飛行能力をモデル化した。また、Naishたちは、この翼の測定値を同種の成体のものと比較するとともに、翼の一部を形成する上腕骨の強度を、孵化直後の幼体3頭と成体22頭とで比較した。

 Naishたちは、孵化直後の幼体の上腕骨が多くの成体の上腕骨よりも強いことを発見した。これは、孵化直後の幼体の上腕骨が飛行に十分な強度を有していたことを示している。また、孵化直後の幼体の翼は、長くて幅が狭く、長距離飛行に適していたが、成体の翼と比べると、短くて幅が広く、孵化直後の幼体の翼面積は、その質量と体サイズの割に大きかった。孵化直後の幼体は、こうした翼の寸法のために、長距離の移動では成体よりも効率が悪かったかもしれないが、より機敏な空飛ぶ爬虫類として、方向や速度を突然変えることができた可能性がある。

 Naishたちは、孵化したばかりの翼竜が、機敏な飛行スタイルによって捕食者から素早く逃れることができ、成体の翼竜よりも、敏捷性に優れた獲物を追いかけ、密集した植生の中を飛ぶことに適していたのではないかと推測している。Naishたちは、これは、孵化したばかりの翼竜が密集した生息地で生活し、成体の翼竜が開放された環境で生息していたことを示している可能性があると指摘している。



参考文献:
Naish D, Witton MP, and Martin-Silverstone E.(2021): Powered flight in hatchling pterosaurs: evidence from wing form and bone strength. Scientific Reports, 11, 13130.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-92499-z

紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化

 紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化に関する研究(Papac et al., 2021)が公表されました。考古遺伝学は過去1万年のヨーロッパにおける2回の主要な人口集団交替を明らかにしてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最初のものは、紀元前七千年紀に始まり、アナトリア半島からの農耕民共同体の拡大と関連していました。ヨーロッパの前期新石器時代農耕民は当初、在来の狩猟採集民と遺伝的に異なっており、アナトリア半島農耕民とほぼ区別できませんでしたが(関連記事1および関連記事2)、その後数千年にわたって遺伝子プールに狩猟採集民祖先系統(祖先系譜、ancestry)を組み込んできました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 2番目の主要な人口集団交替は、紀元前三千年紀早期に縄目文土器(Corded Ware、略してCW)文化の個体群で起きました(関連記事1および関連記事2)。以下本論文では、ヒト骨格遺骸と考古学的文化(たとえば、副葬品や身体の向き)の標識の共伴を用いて、個体群と考古学的文化との間の関連が、たとえば「CW個体群」のように示されますが、これは統一された社会的実体を反映していないかもしれません。CWはヨーロッパ中央部と北部と北東部における主要な文化的変化を表しており、経済とイデオロギーと埋葬慣行に変化をもたらしました。

 CW個体群は、文化的にCWに先行する人々とは遺伝的に異なると示されており、その祖先系統の75%はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群と類似しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。その後、このヤムナヤ的「草原地帯」祖先系統は急速にヨーロッパ全域に拡大し、紀元前三千年紀末の前には、ブリテン島とアイルランド島とイベリア半島とバレアレス諸島とサルデーニャ島とシチリア島に到達しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 紀元前三千年紀の重要性にも関わらず、現在の遺伝学的理解はおもに汎ヨーロッパ的な標本抽出戦略による研究に基づいており、地域的で高解像度の時間的区間にはほとんど重点が置かれていません。その結果、多くの時間的および地理的標本抽出の間隙が残り、社会と共同体の水準での過程、および文化的集団がどのように相互作用して影響を及ぼし、相互に生じたのかについて、知識が限定的です。さらに、地域を超えた考古学的現象を表す小さな標本規模の使用と、結果として生じる過度に単純化された文化・歴史的解釈は、考古学者から批判されてきました。

 未解決の問題は、CWと鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してBB)個体群の遺伝的および地理的起源、両者の相互関係およびヤムナヤ個体群との関係、前期青銅器時代(EBA)のウーニェチツェ(Únětice)個体群の起源に関するものです。CWは遺伝的にヤムナヤ的な人々の男性に偏った西方への移住から形成された、と提案されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、Y染色体系統の重なりは、いくつかの分類できないY染色体ハプログループ(YHg)I2を例外として、おもにYHg-R1aのCW男性と、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)を有するヤムナヤ男性との間で見つかってきました。

 草原地帯祖先系統はBB個体群にも存在しますが(関連記事)、そのYHgはおもにR1b1a1b1a1a2(P312)で、これはCWもしくはヤムナヤ男性ではまだ見つかっていません。したがって、草原地帯祖先系統の共有とかなりの年代的重複にも関わらず、現時点では、ヤムナヤとCWとBBの各集団を父系の供給源として直接的に結びつけることはできません。とくに、草原地帯祖先系統が男性主導で拡大したと示唆されていることと、これら3社会の父方居住・家長的社会親族制度が提案されていることを考慮すると(関連記事)、注目に値します。

 紀元前三千年紀のヨーロッパにおける文化的・社会的・遺伝的変化を理解するのに重要なのは、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のようなCWに先行する文化と、CWやBBやEBAウーニェチツェに分類される社会の存在(共存)を証明する、緻密な居住地域です。現在、そうした地域は考古遺伝学の観点では体系的に研究されていません。ヨーロッパの中心部に位置し、重要なエルベ川に密着する、現在のチェコ共和国西部であるボヘミアの肥沃な低地では、多くの主要な超地域的な考古学的現象が見られました(図1)。

 ボヘミアの密集した農耕定住は、早期新石器時代農耕民の到来とともに紀元前5400年後に始まり、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化や後期刺突文土器(Stichbandkeramik、略してSTK)文化やレンジェル(Lengyel)文化です。これらの文化は、ヨルダヌフ(Jordanów)文化やミシェスベルク(Michelsberg)文化や漏斗状ビーカー(Funnelbeaker)文化やバデン(Baden)文化やリヴナック(Řivnáč)文化やGACや前期および後期CWやBBなど、二桁の考古学的文化集団と関連する、銅器時代(紀元前4400~紀元前2200年頃)の多くの社会に継承されました。銅器時代には、重要な革新(冶金や車輪や荷馬車と犂や要塞化された丘陵や古墳)が見られ、ボヘミア周辺に地理的に集まった、拡大したEBAウーニェチツェ文化に継承されました。

 物質的および技術的発展に加えて、埋葬行動を通じて示されるようにイデオロギー的変化も明らかです。漏斗状ビーカー期(紀元前3800~紀元前3400年頃、ボヘミアで100基の墓が知られています)には比較的一般的でしたが、通常の墓は中期銅器時代(紀元前3500~紀元前2800年頃)となるバデン期やリヴナック期やGAC期にはほぼ消滅します(ボヘミアでは20基)。単葬墳は、現在では身体の位置と副葬品で厳密な性区分が伴いますが、紀元前2900年頃のCWでは多数再出現して(ボヘミアでは1500基)BB期に継続し(ボヘミアでは600基)、BBは先行するCWとは重要な違いを発展させ維持しました。EBAウーニェチツェ文化では単葬墳が継続しましたが(ボヘミアでは4000~5000基)、再度身体位置の性差はなくなりました。

 これらの変化をよりよく理解するため、ボヘミア北部の271個体(新たに報告される206個体と既知の65個体)の高解像度の考古遺伝学的時期区分が分析されました(図1)。時空間的に重複する考古学的文化からの密な遺伝的標本抽出を通じての本論文の目的は、(1)ヨーロッパ中央部の銅器時代とEBAにおける文化的変化が非地元民の流入により引き起こされたのかどうかに取り組み、(2)CWの出現直前のヨーロッパ中央部の遺伝的多様性を特徴づけ、(3)ヤムナヤ的草原地帯祖先系統を有する個体群がヨーロッパ中央部に最初に出現した時期を特定して、その遺伝的起源と社会的構造を理解し、(4)CW出現後の「地元民」と「移民」との間の生物学的交換の性質と程度を特徴づけ、(5)遺伝的および考古学的変化と関連する社会的変容を特定することです。以下は本論文の図1です。
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●標本の概要

 37ヶ所の遺跡から古代人261個体が調べられ、219個体のゲノムで、1233013ヶ所の祖先系統(祖先系譜、ancestry)の情報をもたらす部位が濃縮されました(1240kキャプチャパネル)。濃縮後、3万ヶ所未満の部位もしくは汚染の兆候がある13個体は削除され、206個体の新たなデータセットが得られました。この新たなデータセットは、ボヘミアの既知の古代人65個体およびより広範な個体群と組み合わされ、それにより、ボヘミアの新石器時代および先CW銅器時代個体は7から58に、CW個体は7から54に、BB個体は40から64に、EBA個体は11から95に拡大されました。

 重要なのは、CW形成の頃(紀元前3200~紀元前2600年頃)の個体の標本規模をかなり拡大したことです(1個体から50個体)。その内訳は、バデン文化とリヴナック文化とGACとなる最後の先CW個体が0から18に、前期CW個体が1から32に増加しており、ヨーロッパ中央部のCWの起源と、その移住の性質と、共存する先CWの人々との社会的相互作用を直接的に研究できるようになりました。一親等の親族関係はアレル(対立遺伝子)頻度に基づく分析(f統計、qpWave、qpAdm、進化的兆候の祖先系統の時間区間の分布を示すDATES、Y染色体分析)では除外されました。本論文は140点の新たな放射性炭素年代も報告し、より精細な時間的解像度を支援し、重要な紀元前三千年紀の文化的集団(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)の前期と後期の間の遺伝的変化を調べることが可能となります。


●紀元前2800年頃以前となる先CW期のボヘミア

 まず、ボヘミアの古代人を、ユーラシア西部現代人1141個体から構築された主成分分析の最初の2軸に投影することにより、ゲノム規模データが評価されました。その結果(図2A)、ボヘミアの全ての先CW個体(58個体)はアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の間で、ヨーロッパ中央部の既知の文化的に先CWに分類される個体群と密接した状態に位置しました。これは、草原地帯祖先系統の欠如を示唆しており、qpAdmモデル化を用いても確認され、ボヘミアの先CW個体群はほぼアナトリアNとWHGの2方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図3A)。狩猟採集民(HG)祖先系統の割合は年代と正の相関があり、以前に報告された新石器時代におけるHG祖先系統の増加傾向はボヘミアでも起きた、と示されました(関連記事1および関連記事2)。このHG祖先系統の増加は2段階の線形過程として最良にモデル化でき(図3A)、紀元前五千年紀にHG祖先系統が増加し、その後に停滞(有意ではない勾配)が続く、と明らかになりました。以下は本論文の図2です。
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 HG祖先系統がボヘミアの先CW個体群の遺伝子プールに組み込まれた過程への洞察を得るため、qpAdmを用いて、先CW文化的集団がそれぞれ、アナトリアNとルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体とケレス(Körös)遺跡狩猟採集民の3方向混合としてモデル化され、組み込まれたHG祖先系統の遺伝子移入された年代がDATESにより推定されました(図3B)。HG祖先系統の連続的な組み込みを伴う人口集団継続性のシナリオでは、後続の文化の遺伝子移入の平均年代は、図3Bの灰色の間隔(右側)で示唆されるように、経時的により新しくなる、と予測されます。逆に、さらなるHG祖先系統の組み込みがない人口集団の連続性では、混合年代は類似のHG割合を有する連続した文化的集団では類似したものになるはずです。

 本論文の結果は、両方の予測が満たされない、2つの文化的移行を示唆します。まず、ボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーは類似の量のWHG祖先系統を有していますが、漏斗状ビーカーのWHGからの遺伝子移入の推定年代(図3B)はヨルダヌフ(紀元前4636~紀元前4310年)よりも有意に早く(紀元前5079~紀元前4748年)、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群がさまざまな人口集団(その祖先系統はさらに昔に組み込まれました)に由来することと一致し、ボヘミアではヨルダヌフ人口集団に取って代わりました。

 ヨルダヌフと漏斗状ビーカーとの間のこの移行は、3点の追加の観察により裏づけられます。第一に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアの漏斗状ビーカー;ボヘミアのヨルダヌフ、ドイツの漏斗状ビーカー)は正で、ボヘミアの漏斗状ビーカーが、先行する在来のヨルダヌフ個体群よりも、ザクセン=アンハルト(Saxony-Anhalt)のバールベルゲ(Baalberge)遺跡とザルツミュンデ(Salzmünde)遺跡の漏斗状ビーカー個体と有意により大きな遺伝的類似性を示す、と明らかにします。逆に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアのヨルダヌフ;ドイツの漏斗状ビーカー、ボヘミアの漏斗状ビーカー)は一貫して0と一致しており、ボヘミアのヨルダヌフ個体群に関して、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間の系統発生的クレード(単系統群)化を示唆します。

 第二に、ボヘミアのヨルダヌフ個体群は、アナトリアNとケロスHGの2方向混合としてモデル化できるものの、アナトリアNとロシュブールの2方向混合としてはモデル化できない一方で、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群では逆が当てはまります。これは、さまざまな遺伝子移入年代に加えて、ボヘミアのヨルダヌフ文化的集団と漏斗状ビーカー文化的集団におけるHG祖先系統のさまざまな類似性を示唆します。第三に、qpWaveはボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーの個体群間のクレード化を裏づけませんが、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間のクレード化を却下できません。まとめると、これらの結果は、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群の大半(有意に50%以上)の非在来の遺伝的起源を示唆します。

 この第二のような事例は、リヴナックからGACへの文化的移行で見られます。GAC個体群はボヘミアの先CW文化的集団で最も高いHG祖先系統を有しており(25.7±1.4%)、リヴナック個体群よりも有意に多くにっています。しかし、GACにおけるHGとの混合の推定年代は、リヴナック個体群よりも遅いわけではなく(図3B)、GAC個体群はリヴナックとHGの起源集団の最近の混合に由来するのではなく、ボヘミアにおける最近の非在来の侵入を構成しており、それは、たとえばポーランドのように(関連記事1および関連記事2)より多くのHGからの遺伝子流動を受けた地域からの侵入で、考古学的証拠の解釈とも一致します。

 リヴナック個体群とGAC個体群の異なる遺伝的起源は、主成分分析とqpAdmモデル化によりさらに裏づけられます。主成分分析では、GACのTUC003個体を除いて、リヴナック個体群とGAC個体群は異なる一群を形成します(図3C)。これはqpAdmモデル化により確認され、GAC個体群はアナトリアNとロシュブールの混合としてモデル化できますが、アナトリアNとケロスHGの混合としてはモデル化できない一方で、リヴナック個体群にはその逆が当てはまります。その結果、リヴナック個体群とGAC個体群はHG祖先系統の量と供給源に基づいて区別でき、ボヘミアにはCW出現時にリヴナック個体群とGAC個体群という遺伝的に異なる集団が存在した、と示唆されます。リヴナック個体群の外れ値個体(TUC003)も、GAC集団で生まれたものの、リヴナック集団の文化的背景で埋葬された、という興味深い可能性を提起します。以下は本論文の図3です。
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 ボヘミアにおけるCWの出現と同時代かその後のリヴナックとGACの16個体間(図1B)では、草原地帯祖先系統の検出可能な痕跡は見つからず(図2A)、CW/ヤムナヤから文化的にCWに先行する人々(リヴナックやGACなど)への生物学的交換は低く、おそらく存在していなかった、と示唆されます。草原地帯祖先系統は、CW個体群とともに紀元前三千年紀初期のボヘミアに出現します。


●縄目文土器(CW)

 本論文は現時点で最初期となるCW個体群のゲノムデータを報告し、その中には、紀元前3010~紀元前2889年頃となるボヘミア北西部のSTD003個体や、紀元前3018~紀元前2901年頃となるボヘミア中央部のVLI076個体や、紀元前2914~紀元前2879年頃となるボヘミア東部のPNL001個体が含まれ、CWはボヘミア全域に紀元前2900年頃までに広範に拡大した、と示されます。これら初期の放射性炭素年代は、これらの個体の遺伝的特性によっても裏づけられます。これらの個体は、最初のCWが地元民と混合した東方からの移民で、後の世代ではPC2軸の位置が中間になる、というシナリオで予測されているように、PC2軸では最も極端な位置にあります(図2B)。

 ボヘミアのCW個体群の遺伝子プールの形成を調べるため、草原地帯祖先系統を有しており平均年代が紀元前2600年以前のCWの27個体がボヘミアCW前期、残りの21個体がボヘミアCW後期とまとめられました。ボヘミアCW前期を、あらゆる既知のヤムナヤ供給源と、あらゆる在来のボヘミアもしくはポーランドやウクライナやハンガリーやドイツといった非在来の先CW供給源の2方向混合としてモデル化する統計的裏づけは乏しい、と明らかになりました。新石器時代祖先系統(アナトリアNと一連のHG供給源)の代理として遠方の供給源を用いると、3方向遠位混合モデルの一つを除いて強い裏づけは見つかりませんでした。しかし、この統計的に裏付けられた一つのモデルから、ヨーロッパにおける新石器時代祖先系統の以前には観察されていなかった比率が得られました。それは、アナトリアNとスウェーデンのムータラ(Motala)遺跡狩猟採集民との1:1の混合比の新石器時代人口集団です。さらに、前期CWを個々に、アナトリアNとWHGとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の「標準」3方向混合としてモデル化すると、37%(27事例のうち10事例)で、このモデルが強い裏づけを欠いている、と明らかになりました。

 ヤムナヤとヨーロッパ新石器時代人口集団の供給源間の2方向近位モデルが、ボヘミアCW前期の遺伝的多様性を説明するのに不充分な理由を調べるため、よりよいモデル適合を得られる第三の供給源の追加が試みられました。ラトヴィア中期新石器時代(ラトヴィアMN)やウクライナ新石器時代(ウクライナN)や円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化のいずれかを供給源として追加すると、ほぼ全てのモデル(285例のうち280例)の適合が改善し、その改善のほとんどは数桁に達しました。全ての2方向近位モデル(95例)が強い裏づけを欠いている一方で、ラトヴィアMN(95例のうち57例)かウクライナN(95例のうち53例)かPW(95例のうち32例)を供給源に追加すると、裏づけられたモデルの数が大幅に増加しました。

 これらの結果は、全ての既知のヤムナヤおよびヨーロッパ中央部新石器時代人口集団と比較して、ボヘミアCW前期における、ラトヴィアMN/ウクライナN/ PW的な祖先系統の存在を示します。本論文のモデルから、この祖先系統はボヘミアCW前期遺伝子プールの5~15%を占める、と示唆されます。ボヘミアCW後期およびドイツCWをモデル化すると、これら第三の供給源のいずれかとのモデル適合の増加も観察され、この祖先系統が後のヨーロッパ中央部CWにも存在し、CW集団はヤムナヤよりも古代ヨーロッパ北東部集団と多くのアレルを共有すると示すアレル共有f4統計とも一致する、と示唆されます。

 本論文は、草原地帯祖先系統を有さないCW個体群からの最初のゲノムデータを提供し、それにより、CWとCWに先行する人々との間の相互作用の社会的過程を解明します。草原地帯祖先系統を有さない前期CW個体群間の女性のみ(4個体)の観察結果(図2Bおよび図3C)から、先CWの人々を前期CW社会に同化させる過程が女性に偏っていた、と示唆されます。この女性4個体のうち2個体(STD003とVLI008)は主成分分析ではボヘミアとポーランドのGAC個体群の近くに位置します(図3C)。これらを一群にまとめると、STD003とVLI008はボヘミアのリヴナック個体群よりもボヘミアのGAC個体群とより多くの遺伝的類似性を共有します。STD003とVLI008はポーランドのGAC個体群と比較してボヘミアのGAC個体群と遺伝的により密接ではなく、非在来の東部もしくは北東部起源(たとえば、ポーランド)の可能性が除外できないことを意味します。さらに、VLI009とVLI079は主成分分析では、標本抽出されたボヘミアの中期銅器時代(バデンとリヴナックとGAC)個体群の遺伝的多様性の範囲外に位置し、有意により多くのHG祖先系統を有しており、前期CW社会の遺伝的に先CW女性の大きな割合(50%か、STD003とVLI008を含めるとそれ以上)はボヘミア外に由来する、と示唆されます。

 ボヘミアCW後期はボヘミアCW前期と比較して、有意に先CW銅器時代的祖先系統をより多く有する、と明らかになりました。しかし、この兆候は草原地帯祖先系統を有さない前期CW女性を含めると失われます。ボヘミアCW前期と比較しての、ボヘミアCW後期におけるこの追加の先CW銅器時代的祖先系統は、地元の供給源に由来するものとしては上手くモデル化されず、ボヘミアのCW遺伝子プールに地元以外の遺伝的影響が経時的にあった、示唆されます。これは、ボヘミア外に由来する遺伝的に先CWの女性と一致し、類似の量の先CW銅器時代的祖先系統を有するにも関わらず、ボヘミアCW前期(草原地帯祖先系統を有さない女性を含みます)とボヘミアCW後期がqpWave分析でクレード化しない、という知見により裏づけられます。

 経時的な常染色体の遺伝的変化に加えて、前期CWの異なる5系統から後期CWの優勢な(単一)系統へと移行する、Y染色体多様性の急激な減少が観察されます(図4A)。フォワードシミュレーションを用いて、Y染色体多様性の観察された減少を説明できる人口統計学的シナリオが調べられました。ボヘミアCW前期で観察された開始頻度を中心としたYHg-R1a1a1(M417)の開始頻度で人口集団のシミュレーションが100万回実行され、この系統が、閉鎖集団と任意交配のモデル下で500年の時間枠において、ボヘミアCW後期で観察される頻度(11個体のうち10個体)に達する妥当性が評価されました。

 その結果、妥当な人口規模の広範囲を考慮すると、この頻度変化が偶然に起きたという「中立的」仮説は却下されました。代わりに本論文の結果から示唆されるのは、YHg-R1a1a1は無作為ではない増加を経ており、この系統の男性は他系統の男性と比較して1世代あたり15.79%(4.12~44.42%)多く子を儲けた、ということです。Y染色体頻度におけるこの変化は、同じ男性内の充分に網羅された常染色体124万ヶ所におけるアレル頻度の変化と比較して極端だと明らかになり、常染色体の遺伝的多様性と比較してY染色体に不均衡に影響を及ぼした過程が示唆され、このY染色体多様性の急激な減少の原因として人口集団のボトルネック(瓶首効果)は除外されます。以下は本論文の図4です。
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 本論文の結果から、前期CW男性のY染色体系統の多様性は、無作為ではない過程により取って代わられ、それは選択か社会的構造か外来のYHg-R1a1a1の流入であり、Y染色体多様性の崩壊を引き起こした、と示唆されます。新石器時代にさかのぼるY染色体多様性の同時に起きた減少は、ほぼ全ての現存YHgで観察されており、おそらくは男性を中心とした家系間の紛争増加に起因します(関連記事)。本論文は、社会的構造の変化(たとえば、厳密に排他的な社会規範を有する孤立した婚姻ネットワーク)が別の原因かもしれないものの、基礎となるモデルパラメータで区別することは難しいだろう、と考えます。初期CW個体群内の最大の遺伝的分化は、ヴリネヴェス(Vliněves)遺跡個体で見られます。ヴリネヴェス遺跡のPC2軸上のCW個体群で最も高い3個体と最も低い3個体間の遺伝的違いは、全ての現代ヨーロッパの人口集団の組み合わせ比較よりも大きくなります(図5)。以下は本論文の図5です。
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●鐘状ビーカー(BB)

 最初期のBB個体群は、主成分分析ではCWと類似の位置を占めており(図4B)、ある程度の遺伝的連続性が示唆されます。前期BB個体群(ボヘミアBB前期、平均年代が紀元前2400年以前で、3個体)の遺伝的起源を調べるため、先行する文化的集団と同時代の文化的集団との間の2方向混合としてモデル化されました。その結果、地元起源の裏づけが明らかになりましたが、外来の代替案を除外できませんでした。しかし、本論文のボヘミアBB前期集団はわずか3個体の女性で構成されているので、供給源人口集団を識別するための代表性と解像度が制約されているかもしれません。

 後期BB個体群(ボヘミアBB後期、紀元前2400年以後で、56個体)は、ボヘミアBB前期と比較して有意により多くの中期銅器時代的祖先系統を有する、と明らかになりました。この遺伝的変化を調べるため、ボヘミアBB後期がボヘミアBB前期と地元の中期銅器時代供給源の2方向混合としてモデル化され、ボヘミアBB前期と比較してボヘミアBB後期では追加の20%程度の地元の中期銅器時代的祖先系統の裏づけが見つかりました。

 前期CWとBBで見つかったY染色体系統間では、後期CWもしくはヤムナヤおよびBBの場合より密接な系統発生関係が観察されます。YHg-R1b1a1b1a1a(L151)は前期CW男性では最も一般的なY染色体系統で(11個体のうち6個体)、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の祖先的系統であり(図4A)、BBでは優勢な系統です。YHg-R1b1a1b1a1a2の(複数の)変異がボヘミアの前期CWのYHg-R1b1a1b1a1a男性の1人で生じたのかどうか、判断できませんが、ほとんどのボヘミアのBB男性はさらに派生的なYHg-R1b1a1b1a1a2(S116)とYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)を有しており、何人かはYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)派生的変異を有するイングランドの男性とは対照的です。これは、イギリスとボヘミアのBB男性が相互の子孫ではあり得ず、むしろ並行して多様化したことを示します。YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がボヘミアとイングランドの間のどこか、おそらくはライン川の近くで生じ、その後で北西と東方へ拡大した、とのシナリオは、古代のYHg-R1b1a1b1a1a(L151)の派生的系統の系統地理に関する本論文の理解と一致します。


●EBAウーニェチツェ文化

 ボヘミアにおけるEBAへの移行は、先行する後期BBと比較して、PC2軸の正の変化と関連しています(図4B)。ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)もしくはシベリア西部狩猟採集民(WSHG)を、時空間的に近接するボヘミアにBB後期に加えて第二の供給源として用いると、f3統計の混合は最も負の値となり、ボヘミアウーニェチツェ先古典期への北東部からの寄与が示唆されます。あり得る追加の供給源人口集団の適切な代理を見つけるため、ボヘミア・ウーニェチツェ先古典期が、地元のボヘミアBB後期とPC2軸上のより正の値を示すさまざまな供給源の2方向混合としてモデル化されました。

 その結果、ボヘミアBB後期とヤムナヤ、もしくはボヘミアBB後期とCWを含む混合モデルは却下されました。ボヘミアBB前期63.5%とボヘミアBB後期36.5%の2方向混合モデルは却下できず、前期BB系統からの大きな割合が示唆されます。前期BB系統は後期BB段階(紀元前2400~紀元前2200年頃)ではほぼ標本抽出されていませんが、青銅器時代開始期のあり得る新たな系統を表しています。Y染色体データはさらに大きな置換さえ示唆します。後期BBでは100%だったYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、先古典期ウーニェチツェ文化では20%に減少しており、EBA開始期における少なくとも80%の新たなY染色体の流入が示唆されます。

 しかし、ボヘミアBB前期の解像度が限定的なため(小規模で低解像度で大きな標準誤差)、先古典期ウーニェチツェ個体群について代替モデルが調べられました。ラトヴィアBAを供給源に含めると全てのモデル化が改善し、2つの追加のモデルが裏づけられます。ボヘミアBB後期とボヘミアCW前期とラトヴィアBAの3方向混合は、47.7%という人口集団置換の控えめな推定値を裏づけるだけではなく、先古典期ウーニェチツェで見つかるY染色体多様性も説明し、その中にはボヘミアBB後期のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)と、ボヘミアCW前期のYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびI2と、ラトヴィアBAのYHg-R1a1a1b(Z645)があります(図4A)。

 この新たな祖先系統の地理的起源は正確に特定できませんが、3点の観察結果が手がかりを提供します。第一に、全てのモデル適合性を改善するラトヴィアBA祖先系統は、究極的な北東部起源を示唆します。第二に、YHg-R1a1a1bはEBAの始まりにボヘミア(およびより広範なヨーロッパ中央部)で初めて出現します。YHg-R1a1a1bはそれ以前にはバルト海地域に固定されており、スカンジナビア半島のCW男性で一般的で、北部・北東部からの遺伝的寄与を裏づけます。第三に、ウーニェチツェの遺伝的外れ値であるYHg-R1a1a1bの男性個体VLI051は、青銅器時代(BA)のラトヴィアの個体群と類似しており(関連記事)、北東部からの移住の直接的証拠を提供します。

 先古典期から古典期へのウーニェチツェの遺伝的移行も検出され、それは紀元前2000年頃以後のウーニェチツェ個体群のPC2軸における減少に反映されており、qpWaveとf4統計で確認されました。ボヘミアのウーニェチツェ古典期個体群は、ボヘミアのウーニェチツェ先古典期と地元の銅器時代の供給源の混合としてモデル化できます。後期BBと先古典期ウーニェチツェとの間の遺伝的変化とは対照的に、Y染色体多様性はウーニェチツェの両期間(先古典期と古典期)を通じて類似しており、同化と微妙な社会的変化を示唆します。


●考察

 ボヘミアにおける高解像度の遺伝的時間区間により、文化的集団の前期と後期を区別して個々に研究することが可能となり(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)、草原地帯祖先系統到来前後のいくつかの大きな過程を解明します(図6)。本論文の密な標本抽出により、厳密な文化史的観点を通じて見るならば、文化的集団内の新しく重要でおそらくは「予期せぬ」変化の検出が可能となりました(CWやBBなど)。以前の研究では、新石器時代の始まりと終わりにおける主要な移民の解明としておもに解釈されてきましたが(つまり、侵入集団が遺伝的にひじょうに異なる期間です)、本論文の結果は、追加の大きな遺伝的置換を明らかにします。連続的かつ部分的な同時代の文化的集団の標本抽出により、漏斗状ビーカーとGACの拡大は、ウーニェチツェの起源と同様に、短期間での大きな遺伝的変化を伴っており、おそらくは移住により説明される、と示されます。以下は本論文の図6です。
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 前期CWは遺伝的にひじょうに多様で、一部はGACやヤムナヤと似ており、いくつかの個体は以前に標本抽出されたヨーロッパ中央部新石器時代の遺伝的多様性の範囲外に位置する、と示されます。そうした顕著に多様な兆候は、多様な文化的および言語的背景から、考古学的に類似しているものの多民族的もしくは複数社会への人々の密集の結果だった可能性があります。民族自認の重要な要素には、祖先系統と歴史とイデオロギーと言語が含まれます。草原地帯祖先系統の割合が高いか存在しない前期CW個体群間の遺伝的分化の水準(つまり、共通祖先以来の時間)は、長い生物学的孤立と、それ故の異なる歴史を示唆します。前期CWにおけるGAC的およびヤムナヤ的遺伝的特性の発見は、イデオロギー的に多様な社会(つまり、CWとは異なり、GACもヤムナヤも埋葬慣行で強い性差はありませんでした)から来た人々の統合を示唆します。GACとCW/ヤムナヤ個体群が異なる言語を話していた可能性はあり、それが意味するのは、ボヘミアの前期CW社会は明らかに異なる歴史を有しており、イデオロギー的に多様な文化に由来したかもしれず、異なる母語を話す人々が含まれていた、ということです。

 前期CW社会への草原地帯祖先系統を有さない個体群の同化過程は、女性に偏っていました。しかし、草原地帯祖先系統の最高量を有する個体群間でも女性が見つかっており(5個体のうち3個体、図2B)、移住してきたCW個体群間にも女性が存在したか、近隣のヤムナヤ集団から恐らくは同化されたことを示唆します(たとえば、現在のハンガリー)。前期CWにおける草原地帯祖先系統を有さない個体の発見は、先CWにおける草原地帯祖先系統を有する個体よりも一般的です(たとえば、先CWのGACではそうした個体が確認されていません)。同時代のGACとCWとの間の非対称的な遺伝子流動のこのパターンは、自分たちの共同体に重要な在来の知識(つまり、先CW文化からの知識)を有する人々を組み込むことでより多くの利益を得た、新来者(CW集団)を反映しているかもしれません。考古学的記録では、いくつかの地域におけるそうした知識(たとえば、土器製作や石材)の継続性が示されます。

 ヴリネヴェス遺跡は、高い草原地帯祖先系統を有する個体群と草原地帯祖先系統を有さない個体群間の相互作用の解明に重要です。ヴリネヴェス遺跡では、最初期のCW個体(紀元前3018~紀元前2901年頃のVLI076)が見つかっており、VLI076は先CW個体群と遺伝的に最も分化していますが、ヴリネヴェス遺跡の標本抽出された前期CWの15個体のうち3個体は草原地帯祖先系統を有していません。興味深いことに、ヴリネヴェス遺跡とシュタッダイス(Stadice)遺跡の草原地帯祖先系統を有する個体と有さない個体との間の考古学的違いは観察されず、同じ考古学的文化内の、遺伝的に、および恐らくは民族的に多様な個体群の完全な統合が示唆されます。

 前期CWにおけるラトヴィアMN的祖先系統は、前期CWとヤムナヤの男性間で共有されるY染色体の欠如とともに、ヨーロッパ中央部へのCWの起源と拡大における既知のヤムナヤの限定的もしくは間接的役割を示唆します。本論文の結果は、前期CWへのヨーロッパ北東部銅器時代森林草原地帯(考古学的証拠の一部の解釈と一致する地域です)の寄与か、過剰なラトヴィアMN的祖先系統を有するこれまで標本抽出されていない草原地帯人口集団を示唆します。これは、紀元前3000年頃の草原地帯集団間の高水準の遺伝的均質性を考えると、ありそうにないことです。たとえば、ヤムナヤとシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)は、2500km離れているものの、遺伝的にはほぼ区別できません。紀元前4000~紀元前2500年頃のヨーロッパ東部(北東部)の遺骸の大半は標本抽出されておらず、前期CW個体群の正確な地理的起源は理解しにくいままです。

 社会的親族制度は遺伝的多様性のパターンに影響を及ぼすので(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、いくつかの異なる親族制度が紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部に存在したかもしれません。前期CWのひじょうに多様な遺伝的特性(常染色体とY染色体の両方)は、Y染色体パターンが厳密な父系を示唆する後期CWおよびBBとは異なる社会組織を示唆します。これが示唆するのは、さまざまな文化的集団が、多様な形態の物質文化と埋葬慣行を用いたことに加えて、その配偶パターンおよび/もしくは社会組織で表現されているような、異なるイデオロギーに従っていた可能性がある、ということです。これは、部分的に同時代の後期CWとBBとの間の完全に重複しないY染色体多様性の発見により裏づけられ、これら2集団間の父方の大規模な配偶孤立を示唆し、たとえばヴリネヴェス遺跡のように同じ遺跡でさえ見られます。

 先古典期ウーニェチツェ文化の始まりは、究極的には北東部に起源があり、後期CWとBBの性別による埋葬慣行の違いと厳密な父系を破壊した、40%以上の核DNAと80%以上のY染色体の寄与が伴いしました。これは、埋葬慣行でも物質文化でも明らかではありませんでしたが、バルト海地域との根底的なつながりを表しており、バルト海地域は、後に出現する琥珀路と関連する、ボヘミアにおけるEBAの琥珀の究極的な供給源だったかもしれません。したがって本論文の結果は、北東部からの遺伝的影響の2つの主要な期間(前期CWと前期ウーニェチツェ)を示唆し、その時期の人類遺骸の大半はヨーロッパの考古学的記録では標本抽出されていません(たとえば、ベラルーシなど)。

 本論文の結果は、新石器時代からEBAのヨーロッパ中央部の複雑でひじょうに動的な歴史を明らかにし、この期間には人々の移住と移動が急速な遺伝的および社会的変化を促進しました。大規模な人口拡大が、ヨーロッパにおける草原地帯祖先系統の出現の前後に複数回起きました。前期CW社会は多様で、強い文化的および遺伝的移行の最中に出現し、多様な起源とおそらくは民族性の男女が関わっていました。CWとBBとEBAの社会内では、物質文化の連続性にも関わらず、遺伝的変化が生じました。文化的役割が紀元前三千年紀の社会的行動に重要な役割を果たしましたが、究極的には経時的な新たな人々の流入に伴って変化しました。遺伝的多様性のパターンには社会的過程の影響が観察されますが、これらの変化の動因を小規模および大規模両方の地域的水準で特徴づけるには、さらなる学際的研究が必要です。


参考文献:
Papac L. et al.(2021): Dynamic changes in genomic and social structures in third millennium BCE central Europe. Science Advances, 7, 35, eabi6941.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi6941

黒田基樹『下剋上』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、戦国時代の重要な特徴と一般的に考えられている下剋上の実像を個別の事例から検証していきます。下剋上という言葉は戦国時代の前から低頻度ながら使用されており、その意味は、家臣による主君の排除だけではなく、百姓が領主支配に抵抗したり、下位の者が上位の者を殺害したり、分家が本家に取って代わったり、下位の者が上位者を追い越したりすることなど広範でした。共通しているのは、下位の者が主体性を有し、実力を発揮して、上位者の権力を制限したり排除したりすることです。これは時代を超えて普遍的に見られますが、自力救済を基調として、さまざまな水準での戦争が絶えず、社会秩序の流動性が高かった中世ではとくに頻繁でした。その中でもとくに一般的によく知られているのが戦国時代の武家社会の事例で、家臣が主君を排除し、取って代わりました。ただ、戦国時代にそうした行為は頻繁に見られるものの、当時の史料で下剋上と表現されている事例は確認されておらず、それは江戸時代以降となります。

 本書がまず取り上げるのは、戦国時代初期に主殺しを意図して大規模な叛乱を起こした長尾景春です。景春は山内上杉の家宰(家臣筆頭で、主家の家政や分国・領国支配を統括)だった長尾景信の嫡男で、山内上杉の有力宿老である長尾一族の庶流で、孫四郎家と呼ばれています。景春は父の死後、祖父と父が就任した家宰を継承できなかったことから、1477年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)正月、主君の山内上杉顕定に対して叛乱を起こします(長尾景春の乱)。山内上杉の家宰は長尾嫡流か一族の最有力者が就任することになっていたものの(遷代の論理)、享徳の乱を契機に景春の祖父と父が継承したことから、景春とその家臣・与党は孫四郎家を継承した景春が就任すべきと考えたようです(相伝の論理)。伝統的な「遷代の論理」と直近に形成された「相伝の論理」との衝突の結果として起きた長尾景春の乱は、当時の山内上杉方勢力を二分する大規模なものでした。家宰には権益分配の役割も果たし、それを通じて与党が形成されていったわけです。主君の顕定殺害後の景春の政治抗争は不明ですが、顕定に代わる当主を用意していないことから、自らが主君に取って代わろうとしたのではないか、と本書は推測します。しかし、景春は頼みとしていた叔母婿の太田道灌が敵に回ったことにより敗走し、古河公方足利成氏の支援を受けてその支配下に入り、独自の政治勢力ではなくなります。景春はその後も北武蔵で蜂起するなどしぶとく抵抗を続けますが、1480年には武蔵から没落して東上野に退き、これをもって長尾景春の乱は終結したとされます。景春は敗者となったわけですが、景春による叛乱成功の可能性もあった、と本書は指摘します。本書は、長尾景春の乱について、主君としての器量を問題にしたもので、その後もしばしば類例が見られることを指摘します。その後の景春は、短期間和睦したこともあるものの長く顕定に抵抗し続け、その執念は実らず没します。

 伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)は通俗的には下剋上の典型で、出自不明の牢人から戦国大名に成り上がった、と言われていますが、現在の有力説では、室町幕府政所頭人の伊勢氏一族で、下剋上とされてきた行動も幕府中枢と連携したもので、何よりも宗瑞自身は晩年まで今川の一員との意識を強く持ち続けた、とされています。宗瑞は京都で生まれ育ったと考えられ、足利将軍の近臣の一人として活動していました。その宗瑞が駿河に赴いたのは、姉が今川義忠の正室だったからで、宗瑞は今川の一員として関東で独自の勢力を築いていきます。本書は、下剋上とされる宗瑞の行動について、名誉回復的な性格が基底にあったことを指摘します。宗瑞の事績とその背景については、著者の『戦国大名・伊勢宗瑞』を当ブログで取り上げたさいにやや詳しく述べたので(関連記事)、今回は省略します。

 朝倉孝景は室町幕府管領の斯波家の重臣で、朝倉家は基本的には当主に従って在京していましたが、すでに越前に本拠的な所領として一乗谷があったようです。孝景は応仁・文明の乱において、将軍の足利義政の命により西軍から東軍へと鞍替えする約束で1468年に越前に赴きますが、孝景にとっては越前における勢力の確保の方が優先されただろう、と本書は推測します。孝景は1471年に幕府から事実上の越前国主と認められますが、守護に任命されたわけではありませんでした。ここで孝景は明確に東軍への加担を表明して放棄し、敗北しつつも1474年には越前を平定します。朝倉は越前の戦国大名として一般的には有名ですが、その過程は平坦ではなく、とくに斯波家との関係は後々まで問題となり、孝景の死の直後には斯波家を名目的な守護に推戴せざるを得ませんでした。朝倉が名目的にも越前国主としての地位確立するのは、1516年でした。尼子経久は京極家重臣でしたが、主君と対立し、応仁・文明の乱以後の戦乱が恒常化する時代に、一旦は没落しつつも、出雲の領国化を進めていきます。本書は、出雲における尼子と京極の争いは、当主と家宰のどちらが分国と家中の維持を担えるか、という器量をめぐるもので、こうした対立構造は戦国時代には珍しくなかった、と評価しています。経久は出雲を領国化した後、周辺諸国へと勢力を拡大し、西国有数の大名となります。朝倉も尼子も守護家重臣の立場から自立し、実力により領国支配を達成し、主家の影響力を排除して戦国大名化しました。

 越後では1450年から守護の上杉房定が在国するようになり、1471年からは恒常的に在国して領国化が進められました。長尾為景は越後上杉家の家宰で越後守護代でしたが、1507年に主君の房能(房定の三男)と抗争して敗死させ、房能の従兄弟の上杉定実を擁立します。これは先代からの守護と守護代との対立という側面があり、先に仕掛けたのは房能の方だったようです。ここまでの為景の行動は主家における主導権確保と言えそうです。1509年には房能の実兄である山内上杉顕定が越後に侵攻してきましたが、為景は顕定を討ち取って危機を脱しました。1513年、定実は為景を追い落とそうとして両者の抗争が始まりますが、為景が勝って定実を傀儡化し、実質的な越後国主の地位を確立します。為景は1527年には幕府からも守護家相当の地位を認められますが、この後に守護一族の叛乱や内乱が起きて為景の求心力が低下し、一方で定実の発言力が強まるなか、為景は1540年には嫡男の晴景に家督を譲ります。その後も続く越後の内乱の中で晴景と弟の景虎(上杉謙信)が対立し、定実の仲介により景虎が家督を相続します。定実は1550年に没し、後継者がいないため越後上杉家は断絶し、この直後に景虎は幕府から守護家相当の地位を認められ、1551年には越後を領国化します。越後長尾家は親子二代にわたって下剋上に成功したことになりますが、主君とその一族からの抵抗は執拗で、主家との関係は微妙でした。景虎がそれを克服できたのは、主家に後継者がなく断絶した、という幸運があったからでした。越後の戦国大名としての地位を確立した景虎にとって、越後の上杉一族との関係が問題として残りましたが、景虎が山内上杉憲正の養子として家督を継承し、関東と越後の上杉一族全体の惣領家の当主になったことで解決しました。

 斎藤利政(道三)は、他国から美濃に来て長井家に仕えてその一族となった父の長井新左衛門尉(豊後守)の息子で、親子二代かけて美濃国主に成り上がる下剋上を達成したことになります。長井新左衛門尉は京都妙覚寺の法華宗の僧侶で、還俗して西村の名字を称して長井秀弘に仕えて長井の名字を与えられました。長井新左衛門尉の活動が確認されるのは1526年からで、すでに利政は23歳になっており、当初は新九郎規秀と称していました。当時、美濃では土岐頼武とその弟である頼芸が争っており、土岐家の家宰で守護代は斎藤利良で、斎藤家の家宰である長井家の当主は秀弘の息子である長弘でした。新左衛門尉は長弘とともに主人の斎藤利良から離れて土岐頼芸に加担し、頼芸が勝って斎藤利良は討ち死にしました。この功績が高く評価されたのか、新左衛門尉は土岐家直臣となり、惣領の長井長弘とほぼ対等の地位を認められたようです。新左衛門尉の動向が確認されるのは1528年までですが、その後に豊後守を称しており、1532年頃まで活動していた可能性がある、と本書は推測します。息子の長井新九郎規秀が登場するのは1533年以降で、1535年までには長井長弘の嫡男の景弘を滅ぼして長井惣領家の地位を獲得していた、と推測されます。1535年、土岐頼武の嫡男の頼充が六角と朝倉の支援を得て美濃に復帰しようとして、美濃は内乱に陥ります。長井新九郎規秀は頼芸方の中心人物として活動し、斎藤利政と名乗るようになります。これは、頼芸から斎藤名字を与えられて斎藤一族の立場に引き上げられたからだろう、と本書は推測します。さらに利政は出家して法名道三と称していますが、その後還俗しています。1538年9月には頼芸と頼充の間に和睦が成立しましたが、頼充は美濃での在国を続けたので、頼芸にとっては妥協の結果でした。1539年に利政は斎藤一族の中でも、さらには土岐家の家臣の中でも第三位の地位にまで昇ります。頼芸と頼充は再び対立し、利政は1544年には頼充を尾張に追いやりますが、頼充は尾張の織田信秀の支援を受けて美濃に侵攻します。1546年9月、頼芸と頼充の間に再度和睦が成立し、頼充は頼芸の後継者とされます。頼芸と利政には、六角と朝倉と斯波(中心勢力は尾張の織田信秀)の支援を受けた頼充と戦う実力が備わっていなかった、と考えられます。利政は娘を頼充に嫁がせますが、1547年11月には頼充が急死し、後世には利政による毒殺と伝わりますが、当時の史料からは利政の関与はなかった、と考えられます。しかし、利政が土岐一族を粛清していったのは事実でした。この過程で利政は斎藤正義を暗殺し、斎藤家惣領の利茂も討った可能性が指摘されています。これにより、利政は斎藤家惣領に取って代わる存在となり、当主の頼芸に次ぐ地位に昇ります。利政は強引な手段で1548年までには美濃の戦乱を収拾し、1549年5月には再度出家して道三と称します。この間、利政は尾張の織田信秀と激しく抗争するようになり、頼充の妻だった自分の娘を信秀の嫡男である信長に嫁がせることで、和睦を結びます。信長の妻となった道三の娘は、1573年12月25日に死去したと推測されているそうです。こうして国外勢力との同盟を成立させた道三は、事実上美濃の戦国大名となり、1551年10月頃には頼芸を国外に追放し、幕府からも事実上承認されました。本書は、下剋上により戦国大名化した人物でも道三が最も大きな成り上がりだった、と評価します。道三は息子の利尚(范可、高政、義龍)に家督を譲ったと一般的には言われていますが、本書は、道三は利尚に家督を譲ったわけではなく、利尚と対立して戦い討ち取られた、と推測しています。本書は、能力と功績により身分を大きく上昇させていった道三は、織田信長や羽柴秀吉といった後の人々の意識に大きな影響を与えただろう、と推測します。

 陶晴賢(隆房)は西国最大の戦国大名だった大内義隆の家宰で、周防守護代でした。隆房と義隆の対立が明らかになってくるのは1548年7月頃からです。1543年に尼子との戦いで大敗して以降の義隆は軍事行動に消極的になり、それに隆房は不満だったようです。隆房の謀反の動きは大内家中ではすでに知られているようになっていましたが、義隆は長くその可能性を信じなかったようです。義隆は主君失格と判断した隆房は、1551年8月に挙兵して義隆を自害に追い込み、義隆の嫡男の義尊も殺害しました。しかし、隆房は自らが主家に取って代わろうとしたわけではなく、豊後の戦国大名である大友義鎮(宗麟)の弟である晴英(大内義長)を後継者に迎えて、晴賢と改名します。晴英は以前に義隆の養嗣子として迎えられる予定でしたが、義尊が誕生したため、取り止めになりました。この謀反に毛利も加担していましたが、備後の所領をめぐる問題で陶と毛利との関係は悪化し、晴賢は1555年10月の厳島合戦で毛利元就に敗れて戦死します。本書はこの背景に、主殺しにより信用を失ったこともあるのではないか、と推測します。下剋上とはいっても、身分秩序や主従関係の意識がまだ強固だった時代には、主殺しの有無で周囲の反応が大きく変わったのではないか、というわけです。

 戦国時代における幕府の統治地域はほぼ畿内に相当し、これが「天下」の範囲と認識されるようになりました。この「天下」における下剋上の最初が三好長慶(範長)となります。三好家は管領細川家(京兆家)の家臣で、長慶は晴元に仕えていましたが、晴元と氏綱の細川家の内乱において晴元と対立するようになり、晴元に対する優位を確立して細川家から自立し、幕府直臣となって畿内における戦国大名としての地位を確立していきます。長慶は1553年8月に将軍の足利義輝を京都から近江に追放し、実質的に「天下」を統治しました。これは、長慶がすでに幕府の政治秩序に依拠せず戦国大名として独自の領国支配を展開していたため、可能になったことでした。朝廷も長慶の「天下」統治に依存するようになります。しかし、足利将軍家の存在を否定し続けることはまだ難しく、将軍家とその支援勢力の反撃を受けて、1558年11月に和睦して義輝を京都に帰還させます。とはいえ、その後も長慶の領国支配は継続されました。長慶の「天下人」としての期間は短く、また1564年に一族の分裂が兆す中40代で没し、三好は内紛で没落していったので、一般的な評価はあまり高くないかもしれません。しかし、京都に将軍が不在で、将軍相当の人物も存在しない状況において、長慶が事実上の「天下人」となっていた期間が確かにあったわけで、これは後の織田信長による「天下」統治の直接的な前例となりました。長慶は、「天下」を統治する「天下人」には相応しい器量が求められ、特定の家系による世襲という観念が相対化される重要な契機を作った、と本書は評価します。

 織田信長について、本書は典型的な下剋上の連続だった、と評価します。信長の織田家は、尾張守護の斯波家の重臣で守護代の清須織田家の重臣でした。信長の父の信秀は、すでに事実上尾張を代表する力な勢力になっていましたが、清須織田家や国主の斯波家との主従関係が完全に解消されていたわけではありませんでした。信長が幕府の政治秩序における「斯波家の代官」との立場を克服したのは、1568年に足利義昭を奉じて入京し、義昭を将軍職に就けて幕府を再興してからでした。この頃の信長は幕府内部に深く関わることを忌避していたようですが、それは、「天下」統治が将軍義昭の管轄で、自身は尾張・美濃・近江の戦国大名として支える立場を選択下からだ、と推測されています。「天下」統治を担っては、戦国大名として領国統治が疎かになり、自己の存立基盤を失いかねないと恐れたのではないか、というわけです。しかし現実には、朝廷は実力者の信長を頼り、信長は「天下」統治に関わらざるを得ず、その結果として次第に信長と義昭近臣との間に対立が生じます。信長はその後、対立した義昭を追放し、自ら「天下」を統治することになり、これは三好長慶と同様です。ただ、信長も当初は幕府秩序の全否定を考えておらず、義昭の息子(義尋)を将軍家後継としていました。信長と長慶との最大の違いは、信長が朝廷から足利将軍家と同等の身分を獲得し、名実ともに「天下人」の地位を確立したことです。信長が1582年6月2日の本能寺の変で横死した後、「天下人」の地位を獲得したのは、信長の家老だった羽柴秀吉でした。秀吉は主君を傀儡化し、対立した織田家当主の信雄を降伏させ、公卿となることで「天下人」としての地位を確立しました。秀吉の羽柴(豊臣)政権下で最大の大名だった徳川家康は、秀吉の死後に主君である秀吉の息子の秀頼を傀儡化し、関ヶ原合戦を経て秀頼を実質的には一大名の地位に追い落とし、将軍に就任することで主家からの自立を図りました。しかし家康は、織田信雄を配下に組み込んだ秀吉とは異なり、旧主家の羽柴家を完全に取り込むことはできず、1615年に羽柴家を滅ぼします。これにより、江戸幕府を中核とする新たに政治秩序が確立し、下剋上は封印されます。

 本書は最後に、下剋上の特徴をまとめています。主君に取って代わるさいに必ず生じる問題は、主殺しや追放や傀儡化や当主挿げ替えなどといった主君の扱いです。下剋上が横行したとはいえ、身分制社会の戦国時代において、これらの行為は本来容易には社会で容認されないものでした。しかし、戦線の恒常化により、そうした行為が頻出するとともに、一定程度許容されていきました。とはいえ、上述のように主殺しへの視線はとくに厳しいものでした。こうした下剋上の正当化に用いられたのが、幕府からの国主・守護相当の家格の獲得でした。足利義昭が追放されて以降は、「天下人」の地位は朝廷の官職により正当化され、「天下人」としての信長の後継者となった羽柴秀吉は、官位を明確な政治秩序編成の手段としました。この頃には、一族による当主の地位をめぐる内紛はあっても、家臣が取って代わる下剋上は見られなくなっていきます。本書はこの背景として、個々の戦国大名家の領国の広域化と継続性により、戦国大名としての枠組みが確固たるものになっていたことと、統一政権の出現を挙げます。「天下人」たる羽柴秀吉による戦国大名の従属や討滅で「天下一統」が達成されると、大名家の地位は実力ではなく統一政権の承認に基づくようになり、自力解決が制御されることで、下剋上は封じ込められていきます。本書は下剋上を、社会秩序が流動化したなかで、社会に求められた器量をもとに、実力により社会的地位を獲得する行為だった、と評価します。

ワラセアの中期完新世狩猟採集民のゲノム解析

 ワラセア(ウォーレシア)の中期完新世狩猟採集民のゲノム解析結果を報告した研究(Carlhoff et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)は、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセアを通って、遅くとも5万年前頃(関連記事)、早ければ65000年前頃(関連記事)にはサフルランドに到達しました。

 現時点で、ワラセアにおける現生人類最初の考古学的証拠は45500年前頃のスラウェシ島における具象的芸術にまでさかのぼり(関連記事)、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟における行動変化は47000~43000年前頃に起きました(関連記事)。ワラセアで最古となる現生人類の骨格遺骸は13000年前頃のものです。現生人類がどのような経路でサフルランドに到達したのか、まだ明らかになっていません。

 人口統計学的モデルでは、オセアニア集団とユーラシア集団の祖先間の人口集団分岐は58000年前頃、パプア人とオーストラリア先住民の祖先間の分岐は37000年前頃と推定されています(関連記事)。この期間に、現生人類は種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)関連集団と複数回混合し(関連記事)、他の未知の人類と混合した可能性も指摘されています(関連記事)。

 アジア南東部本土は、考古学的記録が乏しく、熱帯気候のため古代DNAの保存に適していないので、古代ゲノムデータは少ないものの、ラオスのファ・ファエン(Pha Faen)遺跡とマレーシアのグア・チャ(Gua Cha)遺跡のホアビン文化(Hòabìnhian)関連の狩猟採集民個体の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)が明らかになっており、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人と最も高い類似性を示します(関連記事)。

 これらの古代人および現代人は、パプア人ほどデニソワ人関連祖先系統を有しておらず、ホアビン文化およびオンゲ人関連系統は、デニソワ人関連集団から現生人類への主要な遺伝子移入事象の前に分岐した、と示唆されます。ワラセアの現代人のデニソワ人関連祖先系統の割合はホアビン文化関連個体やオンゲ人よりも多いものの、パプア人やオーストラリア先住民よりもかなり低くなっています。これは恐らく、ワラセアに4000年前頃に到来したアジア東部新石器時代農耕民(オーストロネシア語族話者)との混合に起因します(関連記事)。


●リアン・パニンゲ鍾乳洞

 ワラセアの完新世狩猟採集民と関連する最も特徴的な考古学的遺物は、トアレアン(Toalean)技術複合に分類されます。トアレアン文化はスラウェシ島南部の1万㎢の地域にのみ見られ(図1b)、一般的に、背付き細石器と「マロス尖頭器(Maros points)」と呼ばれる小型投擲石器により特徴づけられます。2015年に、スラウェシ島南部のマロスのマラワ(Mallawa)地区のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発掘が行なわれ、厳密にトアレアン文化と関連づけられる最初の比較的完全な埋葬人類が発見されました。

 この個体は、豊富な先土器トアレアン層で屈曲した状態で埋葬されていました。約190cmの深さで露出した埋葬遺骸は、カンラン属種(Canarium sp.)の種の放射性炭素年代測定により、7300~7200年前頃と推定されました。この人類遺骸の形態学的特徴から、17~18歳の女性で、広くオーストラロ・メラネシア人との類似性を有するものの、最近のアジア南東部の変異の範囲外に位置する、と示唆されました。以下は本論文の図1です。
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●ゲノム解析

 リアン・パニンゲ鍾乳洞で発見された7300~7200年前頃の人類遺骸(以下、LP女性)の側頭骨錐体部から、DNAが抽出されました。その結果、ヒトゲノム全体で約300万ヶ所の一塩基多型が濃縮され、ほぼ完全なミトコンドリアゲノムが得られました。1240 Kパネルでは263207ヶ所の一塩基多型が、古代型混合パネルでは299047ヶ所の一塩基多型が回収されました。遺伝的にも、LP女性は女性と確認されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はMの深い分岐と示唆されました。

 まず主成分分析により、LP女性のゲノムが、アジア東部および南東部とオセアニア(オーストラリア先住民とパプアニューギニアとブーゲンビル島)の現代人と比較されました。次に、ユーラシア東部の古代人が主成分分析で投影されました。LP女性は、現代人もしくは古代人が占めていない主成分分析空間に位置しますが、大まかにはオーストラリア先住民とオンゲ人との間に位置します(図2a)。f3統計(ムブティ人;LP女性、X)では、Xがアジア太平洋地域の現代人集団で検証され、LP女性はニアオセアニア個体群と最も遺伝的浮動を共有する、と示唆されました(図2b)。これらの結果はf4統計でも確認され、ニアオセアニア集団がLP女性を除外するクレード(単系統群)を形成するにも関わらず、LP女性とパプア人のアジア現代人への同様の類似性が示唆されます。この地域の全現代人集団はママヌワ人(Mamanwa)とレボ人(Lebbo)を除いて、パプア人関連祖先系統からわずかな寄与しかありません。

 デニソワ人関連集団に起因する遺伝的寄与の存在と分布を調べるため、f4統計(ムブティ人、デニソワ人;LP女性、X)が実行され、Xはアジア南東部島嶼部とニアオセアニアとアンダマン諸島の現代人およびアジア太平洋地域の古代人が対象とされました。ニアオセアニア集団で得られた正の値は、LP女性よりも高いデニソワ人関連祖先系統を示唆していますが、オンゲ人と残りの古代人は負の値を示し、デニソワ人関連祖先系統のより低い割合が示唆されます。

 f4比統計でデニソワ人の割合が推定され、デニソワ人祖先系統量は、オーストラリア先住民とパプア人が類似している(約2.9%)のに対して、LP女性はそれよりも低い2.2±0.5%と確認されました。LP女性におけるデニソワ人との混合割合は、ファ・ファエン遺跡とグア・チャ遺跡のホアビン文化関連の2個体よりも高く、ワラセアとスンダ大陸棚の狩猟採集民の祖先集団が、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と異なる遺伝子移入事象に関わった、と示唆されます。

 さらに、現代人における古代型祖先系統の寄与を測定するために設計された一連の一塩基多型でD統計が実行されました。その結果、LP女性が、パプア人と共有するデニソワ人関連アレル(対立遺伝子)は少ないものの、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類個体(関連記事)を含む、ほとんどの検証集団よりもそうしたアレルを多く有している、と示されました。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来と推定されるアレルの共有は、検証された非アフリカ系現代人集団全てで類似していました。古代型混合の一塩基多型セットでadmixfrog(関連記事)が実行され、LP女性のゲノム全体に分散する33ヶ所の断片で2240万±190万塩基対が測定されました。このデニソワ人からの寄与は、パプア人集団で見られる量の約半分ですが、LP女性とニアオセアニア現代人集団のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片には有意な相関があり、共有された遺伝子移入事象が示唆されます(図2c)。以下は本論文の図2です。
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 主成分分析でニアオセアニア集団からLP女性が明らかに離れていることは、遺伝的浮動だけに起因するのかどうか調べるため、f3(ムブティ人;LP女性、X)として測定された遺伝的類似性に基づいて多次元尺度構成プロットが実行されました。LP女性の多次元尺度構成プロットは主成分分析を要約し、LP女性はパプア人とアジア人の中間に位置します。次に、f4統計とqpWaveを用いて、パプア人関連祖先系統以外のLP女性における追加の遺伝的供給源の存在が検証されました。その結果、古代アジア人のゲノムへのわずかな類似性と、デニソワ人および/もしくは古代アジア人集団がqpWave参照集団に含まれる場合の少なくとも2つの祖先系統の流れが識別されました。

 これらの結果に基づいて、qpAdmを用いて、パプア人関連構成要素とともに、LP女性のゲノムにおけるアジア人関連祖先系統のあり得る供給源が識別されました。さまざまなアジア人集団間で循環手法を用いると、LP女性のゲノムをパプア人と田園洞窟個体(51±11%)もしくはオンゲ人(43±9%)の混合としてモデル化できました(図3a)。現代人集団および関連する古代人を含む、qpGraphとTreeMixで組み込まれた混合図でのさらなる調査により、深いアジア人祖先系統の存在の証拠が提供されました(図3b・c)。

 TreeMixでは、最初の混合端はデニソワ人関連集団からLP女性とニアオセアニア現代人集団の共通祖先への古代型遺伝子移入を表しています。その後、中国南東部の前期新石器時代農耕民のゲノムを表す、福建省の斎河(Qihe)遺跡の個体(関連記事)を基点として、アジア東部人関連の遺伝子流動がLP女性に起きました(図3b)。qpGraph分析により、この分岐パターンが確認され、LP女性はデニソワ人からの遺伝子流動後にニアオセアニア集団クレードと分岐したものの、最も支持される接続形態は、LP女性のゲノムへの約50%の基底部アジア東部人構成要素を示唆します(図3c)。以下は本論文の図3です。
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●考察

 LP女性のゲノム規模分析により、ほとんどの遺伝的浮動がニューギニアおよびオーストラリア先住民の現代人集団で共有されている、と示されます(図2b)。しかし、このトアレアン文化関連とするLP女性のゲノムは、以前には報告されていなかった祖先系統特性を表しており、一方は、オンゲ人関連系統およびホアビン文化関連系統の分岐した後に、パプア人およびオーストラリア先住民集団と同じ頃に分岐した系統です(図3b・c)。LP女性が、遅くとも5万年前頃となるサフルランドへの最初の人類移住の前にスラウェシ島に存在した局所的祖先系統を有している可能性はありますが、この人口集団がスラウェシ島南部の岩絵(関連記事1および関連記事2および関連記事3)を描いたのかどうか、分かりません。

 LP女性はかなりの量のデニソワ人関連祖先系統を有しており、おそらくはニアオセアニア現代人集団と古代型混合を共有しています(図2c)。これは、現生人類がサフルランドに到達する前に起きた主要なデニソワ人関連の遺伝子流動への強い裏づけを提供し、ワラセアとスンダ大陸棚がこの古代型遺伝子移入事象の同等の可能性の候補地となります。しかし、スンダ大陸棚ドの既知の狩猟採集民ゲノムは、ほぼデニソワ人関連祖先系統を有しておらず、古代型遺伝子流動後のアジア南東部へのホアビン文化関連集団の拡大か、ワラセアがじっさいに絶滅ホモ属と現生人類との重要な遭遇地点だったことを示唆します。

 スラウェシ島南部は古代型人類集団が明らかに長く存在した地域で(関連記事)、この古代型遺伝子移入事象の候補地となります。以前の研究では、深く分岐したデニソワ人系統がパプア人の祖先と混合したと示唆されましたが(関連記事1および関連記事2)、本論文のゲノムデータには、1回もしくは複数回の遺伝子移入の波を区別するのに充分な解像度はありません。

 LP女性におけるパプア人やオーストラリア先住民よりも低いデニソワ人祖先系統の量は、ニアオセアニア集団の共通祖先へのデニソワ人祖先系統との追加の混合か、デニソワ人関連祖先系統が少ないか存在しない祖先系統との混合を通じての、LP女性のゲノムにおけるデニソワ人関連祖先系統の希釈の結果かもしれません。本論文のアレル頻度に基づく分析は、前者の仮定を裏づけず、後者の仮定を支持します。アジア全域の新石器時代前のゲノムの不足により、この遺伝子流動事象の正確な供給源と混合割合を定義することが妨げられます。

 しかし、再構築された人口集団系統樹(TreeMixおよびqpGraph)が、アジア東部本土からの中期完新世スラウェシ島への遺伝的影響を示唆するにも関わらず、本論文のqpAdmモデル化が、アンダマン諸島現代人と関連する集団からのアジア南東部の寄与を除外できないことは注目に値します(図3)。これは古代のオンゲ人関連人口集団と田園個体関連人口集団との間でのアジア全域の広範な混合を報告する最近の研究と一致します(関連記事 )。しかし、ワラセアからの中期完新世狩猟採集民であるLP女性におけるこの型の祖先系統の存在は、アジア人関連の混合がオーストロネシア語族社会のワラセアへの拡大のずっと前に起きた可能性を示唆します。

 検証された現代人集団では、LP女性の祖先系統の証拠は検出できませんでした。これは、ワラセアにおけるニアオセアニア関連祖先系統の全体的な限定的割合か、より早期の狩猟採集民と現代人集団との間の大規模な遺伝的不連続性に起因する可能性があります。後者の想定では、LP女性と関連するあらゆる遺伝的兆候は、オーストロネシア人の拡大を含む後の人口統計学的過程により覆い隠された、と提案されます。この独特な祖先系統特性と、より一般的にワラセアの狩猟採集民の遺伝的多様性をさらに調べるには、スラウェシ島の現代人集団からのより高い網羅率の遺伝的データと、追加のトアレアン文化関連の古代人のゲノムが必要です。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、スラウェシ島南部という低緯度地域で発見された7000年以上前の人類遺骸のゲノム解析結果を報告した点で、大いに注目されます。何よりも興味深いのは、LP女性の遺伝的構成および他集団との遺伝的関係です。LP女性の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。

 このLP女性の遺伝的構成はこれまで知られておらず、現代人集団でもLP女性的な祖先系統は検出されていませんが、検証対象を拡大して網羅率を高めることで、今後現代人集団でLP女性的な祖先系統が見つかる可能性もあるとは思います。ただ、見つかったとしても、LP女性的な祖先系統を主要な遺伝的構成とする現代人集団はいないでしょう。その意味でも、LP女性的な集団は(ほぼ)絶滅してしまった可能性が高そうです。

 最近、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された10686~10439年前頃の現生人類個体(隆林個体)は未知の遺伝的構成を示し、現代人には遺伝的影響を残していない、と報告されました(関連記事)。後期更新世~中期完新世にかけて、アジア東部南方やアジア南東部には遺伝的に大きく異なる複数の現生人類集団が存在したようです。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、遺伝的分化が進みやすかったのだと思います。

 完新世になると、農耕開始による人口増加とその圧力、さらには気候温暖化により通交が容易になったことなどで、ユーラシア規模で現生人類集団の遺伝的均質化が進み(関連記事)、ほぼ絶滅した集団も珍しくはなく、LP女性も隆林個体も、そうした集団を代表する個体だった可能性が高そうです。もっとも、こうした置換は更新世においても珍しくなかったようで、かつてアムール川地域も含めてアジア東部北方に広く存在したと考えられる田園個体的な集団は、少なくともアムール川地域ではLGMまでに置換されたようです(関連記事)。むしろ、完新世よりも気候が不安定だった更新世の方が、人類集団の絶滅は頻繁だったかもしれず、それは現生人類に限らずネアンデルタール人やデニソワ人でも起きたことでしょう(関連記事)。

 本論文のLP女性のゲノム解析で注目されるのは、パプア人やオーストラリア先住民やオンゲ人など、オーストラレーシア人の現生人類進化史における位置づけです。本論文は、古代のオンゲ人関連人口集団と田園個体関連人口集団との間でのアジア全域の広範な混合を示唆し、オーストラレーシア人はユーラシア東西系統の分岐後にユーラシア東部系統内でアジア東部系統と分岐した、と推定します。一方、最近の研究では、まずオーストラレーシア人がユーラシア東西集団の共通祖先と分岐した、と推定されています(関連記事)。

 こうした矛盾するように見える結果をどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、パプア人が、ユーラシア東部系統内で早期にアジア東部系統と分岐した可能性と、ユーラシア東西系統の分岐前に分岐した系統(適切な名称ではありませんが、仮に「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びます)とアジア東部系統との45000~37000年前頃の均等な混合として出現した可能性は同等である、と指摘した研究です(関連記事)。後者は、出アフリカ現生人類の系統樹において位置づけの異なる系統間の混合によりオーストラレーシア人が形成されたことを意味します。ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が非アフリカ系現代人でほぼ同じであることから、原オーストラレーシア祖先系統とユーラシア東西の共通祖先系統との分岐は、現生人類とネアンデルタール人との主要な混合の後だったでしょう。

 この仮定は、Y染色体ハプログループ(YHg)との関連でも注目しています。オーストラレーシア人のYHgでは、アンダマン諸島人がほぼD(D1a2b)なのに対して、オーストラリア先住民とパプア人ではK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっていますが、田園個体がYHg-K2bなので、オーストラリア先住民とパプア人のYHg-K2はアジア東部祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団に由来するかもしれません。YHg-Cは、遺伝的にアジア東部系に近いヨーロッパの4万年以上前の集団でも確認されているので(関連記事)、こちらもアジア東部系集団に由来するかもしれませんが、YHg-Cは分岐が早いので、原オーストラレーシア系集団にも存在していて不思議ではないと思います。

 アンダマン諸島人がほぼYHg-Dで、ホアビン文化集団でもYHg-Dが確認されていることから(関連記事)、原オーストラレーシア祖先系統が主要な遺伝的構成要素だった集団では、元々YHg-Dが多く、アンダマン諸島人の祖先ではアジア東部系集団と混合してもYHg-Dが残ったのに対して、オーストラリア先住民とパプア人の共通祖先ではYHg-Dが消滅したのかもしれません。ご都合主義的な推測ではありますが、YHgは置換が起きやすいので(関連記事)、無理な想定ではないと思います。

 アジア東部系集団と原オーストラレーシア系集団がいつどのようにアジア南東部やワラセアやオセアニアに拡散してきたのか、現時点では不明で、この私見に基づいて考古学的知見を整合的に解釈できるような見識と能力は現時点でありません。それでもあえて推測すると、アジア東部系集団に関しては、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。原オーストラレーシア系集団は、ユーラシアを南回りで東進してきた可能性が高そうです。

 オーストラレーシア人関連祖先系統は、アジア東部でも北方の遼河地域で確認されており(関連記事 )、さらには南アメリカ大陸先住民でも確認されています(関連記事)。原オーストラレーシア祖先系統は、アジア東部祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団との複雑な混合により、ユーラシア東部沿岸に広まったのかもしれません。パプア人もオーストラリア先住民も原オーストラレーシア祖先系統とアジア東部祖先系統との混合により形成されたとすると、LP女性の祖先系統の起源もかなり複雑なものになりそうです。

 原オーストラレーシア祖先系統が主要な遺伝的構成要素だった集団は、隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸などから推測すると、かなり頑丈な形態だった可能性があります。ただ、原オーストラレーシア系集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 以上、まとまりのない私見がやや長くなってしまったので、今回はここまでとして、述べ忘れたことは今後機会があれば言及するつもりです。この試験が的外れである可能性は低くありませんし、仮にそうでなくとも、かなり単純化した話になっており、じっさいの人口史はずっと複雑なのでしょう。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人との間の関係さえ複雑と推測されていますから(関連記事)、現生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないでしょうが、上述のように現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。

 オーストラレーシア人の出アフリカ現生人類進化史における位置づけは、デニソワ人と現生人類の混合が起きた場所・年代・回数の問題とも関連して、かなり複雑です。本論文も示唆するように、デニソワ人がスラウェシ島に存在した可能性も低くはないでしょう。もしそうならば、デニソワ人は高地から熱帯環境まで適応できたことになり、現生人類に次いで多様な環境に適応できた分類群かもしれません。それは、デニソワ人系統では遺伝的分化が進んでいたことも示唆しており、それもデニソワ人と現生人類との混合の解明を難しくしているのかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ウォーレシアの古代人DNAが回収された

 新石器時代以前のウォーレシアの狩猟採集民のゲノム規模のデータについて記述された論文が、今週のNature に掲載される。今回の研究で、初めてのウォーレシアの古代ヒトゲノムデータが得られ、東南アジアでの人類の定住を解明するための新たな手掛かりになった。

 ウォーレシアは、主にインドネシアの島々(スラウェシ島、ロンボク島、フロレス島など)からなる島嶼の一群である。この地域では、化石が少なく、熱帯気候のために古代DNAが分解しやすいため、この地域の現生人類の集団史はほとんど分かっていない。現生人類は、少なくとも5万年前にウォーレシアを経由してオーストラリア大陸へ移動したが、ウォーレシアにおける人類の存在を示す最古の考古学的証拠は、それより後の時代のもので、その一例が、少なくとも4万5500年前のものとされるスラウェシの洞窟壁画だ。

 今回、Adam Brumm、Selina Carlhoffたちは、インドネシアの南スラウェシにあるLeang Panninge鍾乳洞で骨格の残骸が発見されたことを報告している。これは、若い女性のものとされ、約7200年前にToaleanの埋葬複合体に埋葬されていた。錐体骨から回収したDNAの解析が行われ、この女性が、東アジア集団よりも現代の近オセアニア集団に近縁な集団に属していたことが明らかになった。ただし、この女性のゲノムは、未知の分岐したヒト系統のゲノムであり、地球上の他の地域では見つかっていない。

 著者たちは、この若い女性の祖先が、現生人類が到来した時からスラウェシ島で生活していた可能性があるという考えを示しているが、この祖先の集団が、スラウェシ島南部で洞窟壁画を描いていたかどうかは不明だ。


進化学:ウォーレシアで見つかった中期完新世の狩猟採集民のゲノム

進化学:ウォーレシアの人骨から得られた古代ゲノムDNA

 東南アジアは考古学的および古ゲノム学的記録が乏しく、この地域におけるヒト集団史の解明はなかなか進んでいない。今回A Brummたちは、インドネシア・南スラウェシ州のLeang Panninge鍾乳洞で発見された女性の骨格について行った、DNAのゲノム解析結果を報告している。この女性の骨は新石器時代以前のToaleanの埋葬跡から発見されたもので、年代は約7200年前と推定された。錐体骨から抽出したDNAから得られたゲノム規模のデータによって、このLeang Panningeの女性が属していた集団が、現代の東アジア人集団よりも近オセアニア集団に近縁であること、そして、その独特な祖先構成は現在世界のどこにも見られないことが明らかになった。



参考文献:
Carlhoff S. et al.(2021): Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea. Nature, 596, 7873, 543–547.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03823-6

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

北極マンモスの生涯にわたる移動

 北極マンモスの生涯にわたる移動に関する研究(Wooller et al., 2021)が報道されました。日本語の解説記事もあります。マンモスは最も広く研究されている氷河期を象徴する動物の1種であるにも関わらず、化石からだけだと、マンモスの生活における静的で特異的でありがちなことしか推測できないため、自然界でのその生活史についてはほぼ分かっていません。しがたって、マンモスの行動圏や移動範囲、つまり生涯を通してどこをどう移動していたのか、という点については概ね解明されていません。

 しかし、日常的な壮大な距離の移動は親戚である現存するゾウやその他の北極圏の動物の移動パターンの特徴なので、マンモスもそれらと似た行動を取っていた、と考えられます。太古に絶滅したマンモスの移動パターンを潜在的に再構築する一つの方法として、生存中に歯と牙に取り込まれた酸素およびストロンチウム(Sr)の同位体分析を行なうという手段があります。土と植物の中のストロンチウム同位体比(87Sr/86Sr)はその下の基盤地質を反映し、それは地勢にわたって異なります。動物がこれらの植物を食べると、その地域の87Sr/86Srパターンが細胞内に取り込まれます。したがって、マンモスの牙などの生涯を通して伸び続ける組織の中の87Sr/86Sr比は、動物の長期にわたる移動の追跡に使える記録です。

 この研究は、現在のアラスカ本土に17100年以上前に生息していた雄のマンモスの長さ1.7メートルの牙を使用して、高時間分解能同位体記録をまとめ、そのマンモスの28年という生涯の移動の詳細を明らかにしました。この記録により、広大な地理的行動圏内を繰り返し移動した経路が示されたとともに、そのマンモスが28年間でアラスカをあまねく移動し、それはほぼ地球2周に相当することも明らかになりました。またこの結果から、そのマンモスが、群れとともに移動した幼い時期や若い時期、より広い範囲を移動した動き盛りの成体期、最期の数年など、様々なライフステージにしばしば訪れた地域も明らかになりました。このマンモスはアラスカ北部の狭い地域で餓死した、と推測されます。


参考文献:
Wooller MJ. et al.(2021): Lifetime mobility of an Arctic woolly mammoth. Science, 373, 6556, 806–808.
https://doi.org/10.1126/science.abg1134

コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動

 コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動に関する研究(Bartolini-Lucenti et al., 2021)が報道されました。野生のイヌは中型から大型のイヌ科動物で、いくつかの純肉食的な頭蓋歯の特徴と複雑な社会的および捕食的行動を有しています。つまり、社会階層的集団を構成し、自身と同等以上の大きさの脊椎動物を群れで狩ります。アフロユーラシアでは野生イヌ2種が現存しており、それはインドのアカオオカミ(Cuon alpinus)とアフリカの猟犬リカオン(Lycaon pictus)です。国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種のレッドリストによると、両者はどちらも現在、絶滅危機もしくは絶滅寸前とされています。リカオンとアカオオカミ(ドール)は、いくつかの歯の純肉食的形質や走行性群狩猟に適した骨格や高度に発達した社会的行動の組み合わせのため、それぞれの生息地で頂点捕食者の一種とされています。これら純肉食性イヌ科の進化はまだ不明で、議論されています。

 さらに、絶滅した大型で純肉食性のイヌ科の分類にも大きな混乱があり、さまざまな分類法の命名で呼ばれていました。そうした学名は絶滅分類群との暗黙もしくは提案された類似性を示唆することがよくありますが、系統発生分析に基づくことはめったにありません。分子系統学の結果を考慮すると、リカオンとアカオオカミはイヌ科のクラウングループの姉妹分類群であることは明らかで、クセノキオン(Xenocyon)属の大型の構成員はリカオンとアカオオカミの両方と関連しているかもしれません。本論文は、イヌ(Canis)属とクセノキオン属の両方のうちどちらかとより密接な関係を示唆する名称を避け、より節約的な命名であるイヌ属(クセノキオン属)という名称を優先します。

 純肉食性のイヌ科種の最初の記録は、チベットのザンダ盆地(Zanda Basin)で発見された381万~342万年前頃となるイヌ属(クセノキオン属)種(Canis(Xenocyon) dubius)の片方の下顎骨です(図1の28)。Canis(Xenocyon) dubiusは一般的に、ドール属の系統と関連づけられています。より新しくより完全な標本は山西省の太谷(Fan Tsun、Taigu)県(図1の32)で発見された250万年前頃のイヌ科(Canis(Xenocyon) antonii)です。Canis(Xenocyon) antoniiは大型で、純肉食性への初期の適応を示唆する明らかな歯の特徴を示します。純肉食性の特徴を有する大型イヌ科の他の記録はユーラシア全体でかなり乏しく、前期更新世のアジアにおける純肉食性イヌ科の存在を考えると、分類は困難です。

 200万~180万年前頃に、アフロユーラシアのいくつかの地域でさまざまな形態のイヌ科が出現しました。これらの形態は独特の歯の特徴、つまり拡大した頬側犬歯を伴う広く頑丈な裂肉歯(顎の中央にあって食物を剪断する歯)を示し、頭蓋下顎の特徴(頑丈な下顎と発達した前頭洞)が組み合わされます。ヨーロッパ西部のイヌ科(Canis(Xenocyon)falconeri)や、アフリカのタンザニアやアルジェリアのイヌ科(Canis(Xenocyon)africanus)の西方への分散により証明されているように、歯の適応と組み合わされた大型化は、同時代の中型で中程度の肉食性のイヌ科に対する優位性を決定づけたかもしれません。Canis(Xenocyon)falconeriに分類される祖先的な野生イヌの記録も、多摩川の堆積物から報告されており、年代は210万~160万年前頃です。両分類群間の密接な関係が、現代のリカオンの祖先とみなす研究者たちにより提案されましたが、他の研究者たちから合意は得られていません。

 最近、南アフリカ共和国のクーパーズ洞窟(Cooper’s Cave)で発見された190万年前頃の断片的な頭蓋と、同じく南アフリカ共和国のグラディスヴェール(Gladysvale)洞窟で発見された100万年前頃のほぼ完全な骨格に基づいて、新たなリカオン属種(Lycaon sekowei)が記載されました。しかし、正基準標本とされたクーパーズ洞窟で発見された遺骸のいくつかの形態(高い歯冠の上顎小臼歯や近心咬合面や第四小臼歯プロトコーン舌側の突起、第一大臼歯の相対的な頬舌側の長さなど)により、その分類とイヌ科集団との実際の関係には疑問が呈されています。さらに、その上顎の歯は、大型のイヌ科でおそらくはイヌ科の純肉食性系統に区分されるアジアのイヌ属種(Canis chihliensis)と類似しています。

 前期更新世後半となるカラブリアン期(180万~80万年前頃)には、他のより祖先的な種がアフリカに留まった一方、より派生的な形態のイヌ属(クセノキオン属)がアフロユーラシア世界全域に出現して拡大しました(図1)。そのうちCanis(Xenocyon) lycaonoidesはCanis(Xenocyon) falconeriと似ているものの、より派生的な頭蓋歯的特徴を有する大型のイヌ科で、その最初期の記録はスペイン南部のヴェンタ・ミセナ(Venta Micena)のようです(図1の2)。その不確実な年代にも関わらず、より派生的な形態の大型イヌ科の初期の出現は、この純肉食性種の起源がアジア東部であることを示唆します。

 その後、前期更新世後期および中期更新世初期となる160万~70万年前頃には、Canis(Xenocyon) lycaonoidesがユーラシアの肉食動物分類群の最も一般的で重要な種のひとつとなりました(図1)。さらに、Canis(Xenocyon) lycaonoidesはアフリカにも拡散し、アフリカ北部および東部で発見されています(図1)。頭蓋全体と歯の特徴を考慮して、以前の研究ではCanis(Xenocyon) lycaonoidesは現生リカオン(Lycaon pictus)の近縁と分類されました。この解釈を支持しない研究者もいますが、類似の結論を提示する研究者もおり、現生のアフリカの猟犬の起源がユーラシアにあることを支持しています。

 現生食肉目のうち、リカオン(Lycaon pictus)は最も複雑で構造化された独特な社会的行動を示す動物種の一つです。リカオンに最も近い分類群の一つとされるCanis(Xenocyon) lycaonoidesはユーラシアの猟犬で、リカオンに匹敵する複雑な社会性を有していたかもしれません。以前の研究では、大型種(21.5kg以上)では代謝エネルギー要件により、自身より大きな獲物を捕食しなければならないので、純肉食性イヌ科では協力して狩りをする必要がある、と示されました。このように、直接的証拠が限られていても、絶滅した純肉食性イヌ科の社会的行動を判断できます。それにも関わらず、間接的で推論的な証拠とは別に、ユーラシアの猟犬の社会的行動の直接的証拠が報告されてきました。

 本論文は、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡(図1の22)における最初の野生イヌの証拠を報告します。ドマニシ遺跡は骨格遺骸の豊富さと完全性および保存状態の点で優れた化石記録を保持しており、それは177万年前頃となるサイの歯の化石に基づく分子系統樹を報告した研究により証明されています(関連記事)。本論文は新たに発見された遺骸(177万~176万年前頃)を報告し、それらを分類学的に同定して、イヌ属(クセノキオン属)の前期更新世の多様性の枠内で解釈しました。

 さらに、ドマニシ遺跡では出アフリカ人類のユーラシアにおける最初の直接的(人類遺骸)証拠が得られており(関連記事1および関連記事2)、この集団の複雑な社会性も示唆されています。180万年前頃に同じ場所で社会性の高い2種(人類と野生イヌ)が共存していたことになり、この時期にはこの2クレード(単系統群)がその起源地の中心(人類はアフリカ、野生イヌはアジア東部)から極端に多様化して拡大していることから、これらの種の地理的拡大における社会的行動および互恵的協力の果たした役割が注目されます。以下は本論文の図1です。
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 ドマニシ遺跡における大型イヌ科の発見は重要な発見を表しており、前期更新世後半(カラブリアン期)におけるイヌ科の放散に関する現在の知識に重要な情報を追加します。標本の断片化された性質にも関わらず、大型イヌ科標本(D6327)の一連の特徴(図2)により、おそらくは現生アフリカ猟犬の祖先であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesに確実に分類できます。D6327はユーラシアの猟犬の最古の記録となり、カラブリアン期におけるアフロユーラシア世界全体の猟犬の拡散爆発に先行します。以下は本論文の図2です。
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●ドマニシ遺跡の猟犬の食性選好

 ドマニシ遺跡の猟犬および他の前期更新世動物の食性適応を検証するため、現生イヌ科(32種247標本)で線形判別分析が行なわれ、2つの摂食集団に分類されました。それは、雑食動物(食性に占める脊椎動物の肉の割合が70%未満で、中~低度の肉食性、27現生種210標本)と、食性がほぼ完全に脊椎動物の肉で構成され、自身以上のサイズの獲物を群で狩る純肉食性動物(4現生種34標本)です。このデータセットのうち、ドマニシ遺跡標本において測定値が利用可能だった7つの指標変数が分析に用いられました。それは、下顎第三小臼歯の長さと幅、下顎裂肉歯の三角錐の長さと幅、第三小臼歯と第四小臼歯の間で測定される顎の深さです。交差検証の結果、判別関数(図3)は98.8%の標本をそれぞれの摂食集団に正しく分類できました(図3)。

 純肉食性動物は雑食性動物と比較して、第三小臼歯が相対的に近遠心側に短く、頬舌側が狭いなどといった特徴があり、以前の分析と一致します。ドマニシ遺跡の大型イヌ科標本D6327は純肉食性動物に分類され、やや新しいスペイン南部のヴェンタ・ミセナの2標本(160万年前頃)も同様ですが、D6327よりも高い純肉食性を示しました。ハラミヨ(Jaramillo)正磁極亜期(106万~90万年前頃)のドイツのウンターマスフェルト(Untermassfeld)遺跡の単一標本は、化石猟犬では最高の肉食性得点を示しており、現生アフリカ猟犬のように純肉食性への適応が進んでいることを反映しています。これらの結果は、ドマニシ遺跡のユーラシア猟犬の頭蓋の特徴が、脊椎動物の肉のみに依存する食性に適していたことを確証します。さらに、Canis(Xenocyon) lycaonoidesの最古の標本(ドマニシ遺跡のD6327)から最も派生的な標本(ドイツのウンターマスフェルト遺跡)にかけての頭蓋歯の適応の漸進的進化があった、と示され、以前の形態学的証拠を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●考察

 ドマニシはヨーロッパの門となるコーカサスに位置し、アフリカとユーラシアとの間の交差点に近いので、アフロユーラシア世界における大型動物相交替の時期における、大型動物種の拡散を説明する重要な遺跡となります。またドマニシ遺跡では、180万年前頃となる、人類のアフリカ外における存在とユーラシアへの拡散を示す最初の直接的証拠(人類遺骸)も得られています。本論文は、ユーラシアの猟犬であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesの記録を報告します。これは、より派生的で純肉食性のアジア東部起源となるイヌ科動物の拡散の始まりを証明しており、ドマニシ遺跡では、中程度の肉食性のオオカミ的な種(Canis borjgali)も発見されています。

 カラブリアン期には、Canis(Xenocyon) lycaonoidesはアフロユーラシア世界全体の動物相の共通要素となっており、その時期に北アメリカ大陸にさえ到達しました。この拡散では、ユーラシア猟犬は人類とは逆方向の拡散パターンを示します(ユーラシア猟犬はアジア東部からユーラシア西部とアフリカへ、人類はアフリカからユーラシアへ)。両種の同時の拡散は、アフリカ起源のネコ科の剣歯虎(マカイロドゥス亜科)であるメガンテレオン属種(Megantereon whitei)などの大型肉食分類群とともに、生態学的条件がこの時期にこれらの種の拡散に有利であったことを示唆します。この大型肉食目は、大型の死肉漁り動物である大型ハイエナ(Pachycrocuta brevirostris)と直接的に競合する人類にとって、死肉漁りの重要な供給者として認識されてきました。

 前期更新世後半におけるイヌ属(クセノキオン属)とホモ属の社会的行動では相互援助も重要で、社会性は相互闘争と同じくらい一般的でした。おそらく、絶滅した人類と化石猟犬との間の最も関連する共通の特徴は、両種の互恵的協力についての化石証拠です。これは、ドマニシ遺跡のほとんど歯のないホモ属化石(D3444/D3900)により報告されています。なお、ドマニシ遺跡のホモ属の分類には議論がありますが(関連記事)、本論文ではホモ・エレクトス(Homo erectus)とされています。

 この年配のホモ属個体は、1個を除いて歯を失ってから数年は生きていました。この個体は頭蓋が華奢なので女性と考えられており、死の数年前には固いものや革質のものを噛めず、おそらくは家族の援助に依存していました(図4a)。以前の研究で指摘されているように、この利他的行動は生物学的利他性の形態を超えており、利他的行動や高齢者への配慮が、少なくとも200万年前頃には人類において発達した可能性を示唆します。食肉目では、強力により得られる多くの利点(繁殖成功率と個体生存率の向上、狩猟成功率の向上、より大きな獲物を殺す能力、寄生動物への抑止、仔の養育への協力)を考えると、社会的行動が頻繁に見られます。

 イヌ科には、たとえばハイイロオオカミなどで、全ての哺乳類の社会組織の最もよく知られた例がいくつかあります。おそらくあまり知られていませんが、興味深いのはアフリカ猟犬(リカオン)の事例です。純肉食性のリカオンは、イヌ科でも独特のより複雑で固有の一連の行動を示します。これには、排他的な協力的狩猟、義務的な協力的繁殖、獲物への仔犬の優先的利用、動物で最も多様な発声、「くしゃみ」による合意的な意思決定などが含まれます。多くの研究者は、タイリクオオカミやアカオオカミといった他の社会性イヌ科種と比較して、リカオンでは獲物を食べている間でも、群れの構成員間の攻撃性が低いことを指摘しています。

 化石イヌ科の社会性は多数調べられており、21.5kg以上の大型イヌ科には、自身よりも大きな獲物を殺すために協力して狩る必要がある、と証明されました。ユーラシア猟犬であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは、じっさい大型の純肉食性種でした。このユーラシア猟犬の推定身体サイズはリカオン(平均体重が20~25kg)と似ており、推定体重は28kgです。ドマニシ遺跡のユーラシア猟犬個体(D6327)は、若いにも関わらずかなり頑丈で、体重は30kg程度と推定されます。その体重と顕著な純肉食性から、Canis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは現生のタイリクオオカミやアカオオカミやリカオンのように協力的な狩猟戦略を採用した、との見解が支持されます。

 ひじょうに社会的な集団組織のさらなる裏づけは、化石病理学的標本により提供されます。最近の研究では、中華人民共和国河北省の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)の神庙咀(Shanshenmiaozui)で、120万年前頃となるイヌ科化石の怪我が報告されています。そのうち一方の標本は、骨など硬いものを噛んださいに起きたかもしれない歯の感染症の痕跡が見られ、もう一方の標本は脛骨の転位骨折の痕跡を示しますが、このような重症(孤立性肉食動物では致命的です)にも関わらず、外傷が治癒するまで生き延びられました。複雑骨折の治癒には長い期間を要し、外傷によりその後の捕食能力が低下したと考えられることから、社会的狩猟戦略や群れの他の構成員による食料共有といった支援が示唆されます。類似の症状は、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部の後期更新世のダイアウルフ個体群でも検出されました。ダイアウルフは最近、分類がCanis dirusからAenocyon dirusに変更されました(関連記事)。

 多くの研究で現生のオオカミとリカオンの両方について報告されているように、集団の効率性の観点では負担がかかるにも関わらず、現生イヌ科の群れは集団の負傷したかあるいは病気の構成員を一時的に養っているので、更新世のイヌ科で同様の行動が見られても驚くべきことではありません。リカオンの場合いくつかの研究では、獲物を仕留めるにあたって、負傷した個体だけではなく障害を負ったか老齢の個体にも寛容だと報告されています。さらに、障害があるか老齢のリカオンは、吐き戻しを通じて群れの仲間から食べ物を受け取り、これは他のイヌ科では、血縁者やごく稀に非血縁者の仔犬や繁殖期の雌にのみ与える食物の共有方法です。

 化石記録からは、絶滅狩猟犬でも同様の行動の証拠が得られます。障害個体への食料供給の利他的行動は、ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusでも報告されています(図4b)。ヴェンタ・ミセナ遺跡では、下顎骨を有するほぼ完全な頭蓋が発見されました(頭蓋VM-7000)。この頭蓋の個体の年齢は、歯の中程度から重度の摩耗を考慮して7~8歳と推定されました。この標本の最も突出した特徴は、高度な頭蓋の上下の非対称性と、上顎右側犬歯と第三小臼歯と第三大臼歯の無発生などいくつかの歯の異常です。これらの歯は、頭蓋のCTスキャンやX線写真で示されるように、個体の生前に折れたり失われたりしませんでした。上顎右側の犬歯の歯槽は、他の歯と同様にほぼ完全に欠如しています。さらに、右側第二大臼歯は欠損しており、その歯槽は一部再吸収されています。ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinus個体の奇形は、おそらくは前期更新世後半のバザ盆地に生息していた野生イヌの比較的小さな個体群における高水準の遺伝的ホモ接合性に起因します。

 無歯症と頭蓋の両側の非対称性は両方とも、ポーランドなどで、深刻なボトルネック(瓶首効果)と近親交配の対象となる小規模のオオカミの現生集団で記録されています。現代のリカオンの場合、博物館の頭蓋の研究は、前世紀のサハラ砂漠以南のアフリカにおける種の個体数の劇的な減少を記録しており、集団のホモ接合性水準の増加の結果として頭蓋の非対称性の顕著な増加が示されてきました。これは、ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinus頭蓋の奇形が、地理的に他の集団から孤立していた、バザ盆地の猟犬の比較的小さな集団における遺伝的ホモ接合性の高水準の結果としての発達不安定性を反映している、と示唆します。

 さらに、現代のリカオンの有効集団規模は通常、下位個体の繁殖抑制と不均等な性比により、調査された個体数の20~35%にまで減少しています。ヴェンタ・ミセナ遺跡の場合、これもさらなる近親交配とホモ接合性を促進したでしょう。しかし、多くの先天的障害にもかかわらず、VM-7000個体は成体に達することができ、それはおそらく、群れの狩猟活動における能力に影響を及ぼし、あるいは妨げさえしました(図4b)。これは、家族集団の他の構成員からの協力的行動と食料供給こそ、VM-7000個体が成体まで生き延びた唯一の方法だった、と示唆します。家族からの利他的な助けと世話により老齢に達したドマニシ遺跡の人類と同様に、VM-7000個体は成体に達しました。この真に利他的な行動はおそらく、ドマニシ遺跡の猟犬集団にも当てはまりますが、ドマニシ遺跡におけるこの種の記録が少ないため、直接的推論はできません。以下は本論文の図4です。
画像

 したがって、これらの知見は、協力的で利他的な行動の増加が、アフリカとユーラシアと北アメリカ大陸の開けた環境における、ヒトと大型の社会的肉食動物両方の生存と拡散の重要な原因だった、と示唆しているようです。興味深いことに、現時点で、食料共有も含めて集団の他の構成員への利他的行動が証明されている、前期更新世後半のひじょうに社会的な種は猟犬と人類だけです。上述のように、そうした利他的行動は現生のアフリカ猟犬でとくに発達しており、遺伝的異常や病気や高齢から生じる制約のある個体は、家族の他の構成員により助けられ、支えられています。

 Canis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは、群れの構成員に対して協力的で利他的な類似のパターンを示します。ドマニシ遺跡におけるユーラシア猟犬の出現は、この大型であり群れで狩猟をするイヌ科の、最初の、年代のより限定された記録を示しています。他の大型イヌ科が到達したことはない、大陸横断的な広範囲の拡散の成功は、種の構成員間の協力につながる進化的傾向の結果として、これら絶滅猟犬の互恵的協力と利他的性質の利点と関連しているかもしれません。それは、「個体にとって有利になる最良の経路」だった、というわけです。ホモ属とひじょうに社会的なイヌ科はともに、ひじょうに社会的な祖先の子孫で、その祖先は集団で暮らしていました。これは選択ではなく不可欠な生存戦略で、そこから相互援助が出現しました。


 以上、本論文についてざっと見てきました。180万年前頃のドマニシ遺跡の人類がイヌ科動物を家畜化していたわけではありませんが、死肉漁りなどにおいて、人類にとってイヌ科動物は身近で競合的な存在だったと考えられ、200万年前頃かそれ以前からの長期にわたって観察機会が多かったのではないか、と推測されます。イヌは人類にとって最初の家畜化動物で、それも他の種よりもずっと早かったと考えられますが、これはイヌ科動物が人類にとって長きにわたって身近な存在だったからなのでしょう。また本論文は、社会性の発達が大きく異なる種で独立して起きることを改めて示しています。上述のように、ドマニシ遺跡で発見された177万年前頃のサイの化石ではプロテオーム解析に成功しており、ドマニシ遺跡のイヌ科遺骸でも成功すれば、本論文では曖昧とされた進化系統樹における位置づけをより明確にできるかもしれないので、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:ヨーロッパにおいて、有史以前の猟犬は初期人類のそばで暮らしていた可能性

 ジョージアのドマニシで最近発見された有史以前の猟犬の遺骸が、ヨーロッパに猟犬が到来したことを示す最古の証拠なのではないかという知見を示した論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、この猟犬が、同じ場所で発見された初期人類のそばで生活していた可能性を示唆している。

 今回、Saverio Bartolini-Lucentiたちの研究チームは、177万~176万年前と年代決定された大型犬の遺骸を分析した。この遺骸の標本は、ヨーロッパに近い地域での最古の猟犬の事例で、猟犬がアジアからヨーロッパとアフリカへと広範囲にわたる移動をした更新世カラブリアン期(180万年前~80万年前)より古いものとされる。

 Bartolini-Lucentiたちは、このドマニシ犬が、東アジアに起源を持っていて現生アフリカ猟犬の祖先と思われるユーラシア猟犬のCanis(Xenocion)lycaonoides種に分類できることを示唆する、独特な歯の構造を持つことを突き止めた。また、このドマニシ犬の歯の特徴は、肉食性の強いこと(食餌の70%以上が肉であること)が明らかになっている同時代の他のCanid(野生の犬に似た動物種)や現代のCanidとも類似している。これらのCanidの歯の特徴としては、雑食動物よりも幅が狭く、短い第3小臼歯や大きく鋭利な裂肉歯(顎の中央にあって食物をせん断する歯)などがある。しかし、ドマニシ犬の歯には、著しい摩耗が認められなかったため、大型の若齢成体であることが示唆され、体重は約30キログラムと推定された。

 これまでにドマニシで発見されたヒトの遺骸は、約180万年前に初期人類がアフリカから移動したことを示す最も古い直接証拠となっているため、今回の研究結果は、ドマニシで猟犬が初期人類のそばで生活していたことを示唆している。ユーラシア猟犬はその後、アフリカ、アジア、ヨーロッパに分散し、化石記録上、最も広く分布した肉食動物の1つとなった可能性がある。



参考文献:
Bartolini-Lucenti S. et al.(2021): The early hunting dog from Dmanisi with comments on the social behaviour in Canidae and hominins. Scientific Reports, 11, 13501.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-92818-4

中沢祐一「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P45-63)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 人類のアジア東部への拡散の中でも、北緯40度以北の高緯度への移住は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)やアメリカ大陸への拡散を達成する前提であり、アジア東部の東端に位置する日本列島の居住史を理解するうえでも重要な課題です。後期旧石器時代(上部旧石器時代)初頭の考古学的遺跡の分布からは、石刃技術や装身具などに代表される上部旧石器的要素の存在により、アジア中央部から東方への拡散が確認されており、北回り経路として知られています(関連記事)。この北回り経路はステップ環境が広がる地域であり、石刃技術の利用がステップ環境での生存にとって適切であった、と指摘されています(関連記事)。最終氷期の北海道には草原と針葉樹が広がっており、北回り経路の延長線上にある生態環境と言えます。

 北海道は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3以降の最終氷期にはユーラシア大陸と地続きの半島の一部でした。この古サハリン/北海道/クリール列島(Paleo-SHK)と呼ばれる半島は、アムール川下流域から南に突き出した半島であり、その南端は津軽海峡によって古本州島と切り離されていました。後期更新世における北海道の地理的な特性は動物の拡散にも影響しており、最終氷期には北海道へと北回りで拡散したトナカイやバイソンやマンモスやヒグマなどのマンモス動物群がいました。この時期に北回りで拡散した草原性の動物の中には、完新世以後も居住域を縮小しつつも生き残ったエゾナキウサギ(キタナキウサギの亜種)のようなレリクト(残存種)もおり、氷期の北海道がステップ性動物群の生息環境を備えていた、と示唆されます。

 こうした古生物地理的な特質に加えて、後期更新世の北海道における考古記録は石器製作技術や遺跡のパターンなどの側面に、古本州島とは異なる特徴をもつ点があります。古本州島の後期旧石器時代末に確認される細石刃技術のうち、クサビ形の細石刃核をもつグループは、しばしば「北方系」や「削片系」や「削片-分割系」という名称でくくられており、北海道の後期旧石器時代に展開したいくつかの細石刃技術(湧別技法、ホロカ技法)との共通性が高い、と指摘されています。地理的に近い東北地方や北関東の削片-分割系の細石刃技術は北海道のそれと対比可能なことから、細石刃技術が17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて北海道から南下した、と提示されています。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の直後に北海道から古本州島北部へ人類集団が南下した、という想定です。

 「故地」とされる北海道の細石刃技術の出現は、確実な層準から細石刃が検出された柏台1遺跡の年代を基準とし、LGMまでさかのぼります。一方、近年までの調査で、LGMの技術的多様性やLGM以前の細石刃や石刃をもたない考古記録の特徴や課題も明らかになってきました。本論文は、北海道の後期旧石器時代の考古記録の通時的な特徴や変化を、パレオアジア文化史学で重点的に扱ってきた技術や行動の選択、居住活動、拡散(とくに北回り経路)との関係といった論点によって整理し、見解を提示します。

 現在までに明らかになっている北海道の考古記録を年代軸に沿って配置すると、LGMを真ん中に挟んで前後に大きく3つの時期に分けることができます。年代の古い段階から、LGM以前、LGM、LGM以後の3時期で、それらの時期に伴う特徴的な剥片石器の製作技術(細石刃技術、石刃技術、剥片技術など)が確認されます。LGM以後については当該期に多様化する細石刃技術に代表される技術的特徴や石器組成などから、おおむね前半と後半に分けて把握されます。なお、年代および層序が確実な遺跡はLGMに集中しており、年代が得られていない遺跡も少なくなく、前後の時期にどの遺跡やどのような技術が該当するのかについては、研究者間で一致していない部分もあります。


●LGM以前

 層位と放射性炭素年代の整合性という観点からみて、LGM以前を代表する遺跡は、北海道中央部の石狩低地帯に位置する祝梅遺跡三角山地点(通称、祝梅三角山下層)です。祝梅遺跡は、1970年代に発掘調査され、剥片石器が出土し、当時はナイフ形石器として分類された石器を介して本州や中国との関係が示唆されました。発掘調査で回収された炭化物の放射性年代測定から、21000年前(未較正)という年代値が得られ、北海道最古の石器群の位置づけがなされました。その後、2015年に改めて炭化物が標本抽出され、加速器質量分析(AMS)法により再測定され、29500~28500年前という較正年代値が得られました。これはMIS3とMIS2の境界年代となり、古本州島の後期旧石器時代の前半期と後半期を区分する基準となるAT(姶良丹沢火山灰)層年代ともほぼ対応します。

 しかし、北海道ではATが層位的に検出されることはほとんどないため、AT以前・以後という対比は容易ではありません。ATに相当する噴出年代をもつテフラが乏しい中で、経験的に後期旧石器と関連するテフラには、2万年前頃のEn-a降下軽石(恵庭降下軽石)といった段階まで新しくなります。北海道中央部(石狩低地帯)や東南部(十勝平野)では、En-a下位に遺跡が一定数残されていますが、柏台1遺跡などLGMの遺跡も含んでおり、層位的根拠のみで前半期の遺跡を抽出するには至りません。こうした地理的特徴から、北海道においてAT下位相当の後期旧石器時代前半期の存在を示唆するのは、古本州島前半期を代表する石器器種である台形様石器といった示準的な石器の認定とその評価です。

 祝梅遺跡三角山地点より出土した石器は点数が少なく、器種認定可能な掻器や錐形石器などを除くと、微細な剥離痕を残す剥片であり、形態的な多様性が乏しい、と指摘されています。後者の、二次加工や微細剥離を残す寸詰まりの剥片を台形様石器とし、後期旧石器時代前半期と関連づける見解があります。一方、剥片の端部に二次加工を施した「基部平坦加工石器」や「裏面微細加工石器」などの中立的な呼称を用いることもあります。剥片素材の石核や円礫に対して打面調整を施さずに、寸詰まりの剥片を(おそらくは直接打撃により)剥離している特徴があります。石核から推測される剥片剥離工程はいくつかに類型化できるものの、打面調整や石核調整を施さないため、石刃や細石刃製作でみられるような特定の手順を踏んだ体系的な「技法」は抽出しにくくなっています。こうした剥片がいかなる作業に用いられたのかについても、まだ具体的な研究が進んでおらず、古本州島では台形様石器の一部は着柄や飛び道具として機能したという説や、直接保持して切る作業などに用いたという説などがあります。LGM以前の剥片石器に関しても、いかなる道具としての視点が成立するのか、といった検討が必要となるでしょう。

 祝梅三角山下層とともにLGM以前として注目されるのは、若葉の森遺跡(帯広市)のEn-a降下軽石の下から検出された剥片石器群です。祝梅三角山下層と同様に器種が乏しく、縁辺に微細な剥離を残す剥片が一定量あるものの、台形様石器といった形態をもつ石器は見られません。大部分は搬入した転礫に対して、分割や打面転位を繰り返して剥離された剥片です。石刃とは言えませんが、縦長剥片と呼べる形状の剥片が一定量あるところは、祝梅三角山下層と違う点のようです。En-a降下軽石の下のローム層の石器群に近接して残された焼土から得られた炭化物の年代は、27600~24000年前となります。IntCal20(関連記事)による較正年代は32025~31159年前で、AT降灰直前でMIS3の後半と考えられます。また、石器が残された後に焼土が形成されたという所見から、年代値よりも石器群の形成年代が古いと推測されています。遺跡形成過程の検討が必要ですが、MIS3の人類集団の存在が問われる例です。

 LGM以前の北海道では、若葉の森遺跡の例のように、台形様石器とは関連が薄そうな石器群が残されていますが、その一方で台形様石器と認定できる資料もあります。とくに、秋田10遺跡(置戸町)の資料は、表面採集ですが注目されます。台形様石器や局部磨製石斧と認定可能な石器が抽出されており、古本州島の後期旧石器時代前半期に相当する石器群と関連づけられました。具体的には、MIS3の北海道には、古本州島に生息したナウマンゾウやオオツノシカなどの動物化石が確認されることから、北海道における台形様石器の存在を森林性の中小型獣を狩猟対象とした人類集団の北上によって残された、という生態学的な仮説が提示されています。

 北海道と古本州島東北部に文化的関連はありそうですが、台形様石器の認定は難渋しています。万人が見ても明瞭に台形へ加工された「タイプ」のみを抽出して、形態的特徴や加工技術から比較検討するオーソドックスな型式学的手法をもっても、帰属時期(前半期か後半期か)の推定は揺れています。おそらく、台形様石器の素材となる寸詰まりの剥片は素材剥離に至る工程が石刃製作などに比べて短いため、原石の形状や大きさなどに影響され、素材作成時点での形状の変異幅も大きく、遺跡間および地域的・時間的ばらつきが生じる、と予想されます。一般論ですが、似ている・似ていないといった評価には、研究者の依拠する分類(型式認定)基準が反映されやすく、今期待される議論の方向性は、進化論的な観点に思えます。そこで定式化されているように、同系統の技術であるがゆえに形態が同じなのか(相同)、形態が似ているだけで非なる技術であるのか、似た技術といえるが古本州島からの系統ではないのか(収斂・相似)、といったいくつかの想定を技術の関連・非関連の形成過程として考慮していく必要があるでしょう。

 地域を隔てた石器の形態的相似をどのように説明するかという難題を抱えているのに対して、北海道と古本州島の関連は石材利用に明確に見られます。古本州島東北部の清水西遺跡(山形県)では、後期旧石器前半期に相当すると考えられる類米ヶ森型の台形剥片や石刃や局部磨製石斧などが出土しており、蛍光X線分析によって、黒曜石で製作された石器のいくつかは北海道置戸山産(置戸町)と推定されています。ATの検出場所と石器の出土地点が異なるものの、清水西遺跡は古本州島の前半期と評価されています。この遺跡例に基づいて、北海道から古本州島への集団の南下を評価する見解もあります。ナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の北上に加えて、MIS3における人類集団の南下も想定され、北海道と古本州島の間に双方向移住があった、と示唆されます。

 ストーンボイリングなど石器製作以外の考古記録に関する論点に関して、ヨーロッパやアフリカでは上部旧石器時代や中期石器時代になると、技術革新や採食活動の多様化や象徴の利用など、「現代人的」行動がそれ以前よりも急速に広がる、と指摘されています。こうした視点から想定される石器群には、器種分化や製作・使用技術の多様性が表れると期待されますが、LGM以前の北海道における後期旧石器相当の石器には、そもそも狩猟具といえる石器も未確認で、台形様石器に伴う局部磨製石斧などの磨製の加工具の存在も秋田10遺跡などの例を除くと希薄です。少なくとも、技術革新や多様性が顕在化しているようには見えません。同様に、象徴的あるいは様式的な要素も確認しがたく、現状ではむしろ、石器として可視化される考古資料の限定的な側面に囚われすぎず、石器石材の選択と剥片剥離工程の関連、使用痕跡、遺跡形成過程などの多方面の検討から活動に関する理解を柔軟に求める必要がありそうです。

 そこで注目されるのは、礫群の存在です。祝梅遺跡三角山地点では報告されていませんが、年代的に近い上似平遺跡下層には礫群があり、ほぼ同時期と考えられる勢雄遺跡や上似平遺跡や大成遺跡にも礫群があります。いずれも十勝平野に位置する開地遺跡で、LGM以前の北海道東部に居住した人類が食資源を利用したさいに好んで用いた加熱調理技術だった、と考えられます。日本列島では後期旧石器時代を通じて礫群が発達していますが、古本州島の南関東地方では29000年前頃以降のLGMにかけて増加する、と指摘されています。同様な増加傾向は東海地方や九州南部でも見られます。古本州島で礫群が増加し始める時期と、北海道で礫群が確認され始める時期とが一致することになります。異なるのは、LGMとそれ以降からの展開です。嶋木遺跡など礫群が確認される北海道のLGMの遺跡は少なく、同様な大規模遺跡である川西C遺跡(十勝平野)や柏台1遺跡(石狩低地帯)では礫群の影が薄く、むしろ北海道のLGMの遺跡では炉址が顕著となります。

 これまで日本列島の後期旧石器時代における礫群の機能に関しては、オセアニアの民族誌からの類推に基づく石蒸し調理法が想定され、実験研究も蓄積されています。同じく熱した石の熱を水へ伝達させて熱水へと換える加熱調理法である、ストーンボイリング法も着目されます。ストーンボイリング法に関する民族事例を渉猟した研究では、クリール・アイヌ、イテリメン、北アメリカ大陸先住民といった北半球の少数民族社会の中で、油脂抽出のためにストーンボイリング法が広く採用されていた、と明らかにされています。油脂の抽出とは、骨の中の海綿状骨に貯蔵された油脂を抽出することです。カリブーやヒツジでは、大腿部の遠位端(後肢)、上腕骨の近位端(前肢)、脛骨の近位端(後肢)には特に油脂が多く含まれます。ヨーロッパの上部旧石器時代の礫群の検討からは、油脂抽出のためにストーンボイリング法が採用された、と推論されており、資源の集約的利用が示唆されます。加えて、風味などの味への嗜好も影響することから、現生人類(Homo sapiens)による味覚や嗜好の多様化といった側面を示している可能性もあります。北海道の最終氷期における礫群の形成背景にもストーンボイリング法が想定されますが、仮にそうであれば、LGM以前の段階ですでに資源の集約的利用や嗜好の多様化をうながす程度に、地域人口が増加していた可能性もあるでしょう。

 LGM以前の年代値を示す遺跡が限られている現状では、LGM以前の人類居住がどこから始まるかについて、明確ではありません。LGM以前の集団が一定期間存続した場合、残された遺跡は本来残された遺跡を母集団とすればサンプルに過ぎません。化石人骨の年代値は、得られた年代値がその人類集団の存続期間のどのタイミングを示しているかが問題となりますが、考古記録についても同様です。つまり、最古の年代を示す遺跡の存在が、無人地帯に移住した最初の人類集団の居住を示しているとしても、それが最初に拡散した時期よりもやや時間が経過した段階の遺跡であることもあり得ます。むしろ、一定期間居住が継続しなければ地域内の人口が増えず、それゆえに考古記録(遺跡や技術)も可視化されにくくなります。とくに北海道に関してはLGM以前の年代値が片手に満たない程度なので、それらをもって居住の最初期と結論づけるよりも、もう少し年代値をそろえる必要があります。

 このサンプリング・エラーに加えて、タフォノミック・バイアスも考慮されます。具体的には、後期旧石器時代の遺跡が集中する石狩低地帯南部や、北海道東北部の屈斜路湖~オホーツク海沿岸などでは4万年前頃に大規模な火砕流(Spfa1、Kp1)が噴出しており、仮にこうした地域にMIS3の人類が居住していたならば、死滅したか人口が減少した、と想定されます。少なくとも、4万~3万年前頃となるLGM以前の北海道でも火山活動は活発で、北海道内でも生態環境や景観の安定性には地域差があった、と考えられます。上述の礫群の増加を資源の集約的利用と解釈するならば、LGM以前における地域内の資源分布の偏在に起因する地域間の人口移動を推測することも可能でしょう。


●LGM期

 LGMでは、石器群間変異と細石刃の出現をめぐる論点があります。LGMでは該当する遺跡数は限られるものの、それ以後の細石刃石器群よりも年代と層序に関するデータが蓄積されています。LGMには、細石刃石器群と剥片石器群と石刃石器群という技術基盤の異なる3種類の石器群があります。これらはLGMの中で同時併存していたと考えられ、それぞれが特定の集団の中でのみ伝達される排他性の強い技術だったのか、同じ集団が資源利用に対して適応した行動の違いが異なった技術の選択として表れたのか、という問題があります。これはボルド(François Bordes)とビンフォード(Lewis Binford)の間で交わされたムステリアン(Mousterian)論争と共通する、石器群間の変異・多様性に関する課題です。本論文は以下のように、行動様式の差による選択技術の違いが顕著に表れた結果ではないか、と推測しています。

 まず、LGMを26000~19000年前頃と把握するならば、北海道で最古の細石刃技術が確認された柏台1遺跡の年代が25000~22000年前頃となり、LGMにおいて細石刃技術が北海道に存在したことになります。世界的には細石器の出現をもって組み合わせ道具の普及と把握されていますが、形態的定義やその製作意図(機能・用途)の多様性や地域的差異は明確ではありません。ヨーロッパやレヴァントでは背付き細石器(backed bladelets)が頻出するのに対して、LGMの細石刃の中にはそうした刃潰し加工を施した細石刃は見られません。刺突による破損は一部に観察されるものの、使用された痕跡のある細石刃は少なく、これはLGM以後の北海道の細石刃石器群にも共通しており、大量製作した細石刃の一部を選択した、と推測されます。柏台1遺跡の石核の消費工程からは、細石刃の製作は石刃の製作と一体化していた、と考えられます。これを人類集団の一つの戦略と把握するならば、移動の最中にキャンプ地で細石刃・石刃を製作しながら狩猟具を補給することで、細石刃を剥離できるような良質の石材が獲得できる産地へと回帰する頻度を減らしつつ、狩猟活動を継続できる、という利点があります。北海道LGMの細石刃技術は、分散する資源利用に応じて長距離移動する動物を追尾することや、そうした資源を小集団に分散して獲得する移動式の生活様式には最適な技術だった、と考えられます。

 細石刃技術発生の背景の意義については、北太平洋を挟んだシベリアと北アメリカ大陸北部で細石刃技術の共通性が以前から指摘されています。進展するゲノム研究からは、アメリカ大陸先住民の祖先集団がアジア東部人との共通祖先から分岐した年代が36000±15000年前頃で、LGMとなる25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。アメリカ大陸への(現代のアメリカ大陸先住民と遺伝的につながる)人類の拡散はその後となりそうで、シベリア東部がLGMで無人化した可能性があることや、同様な細石刃技術は北海道にも広がり、その年代もLGMとなることから、単純にシベリア東部→ベーリンジア(ベーリング陸橋)東部という人類拡散の想定は再考されつつあります。北回りの人類拡散の過程で、北海道へも拡散の分岐があったことも論点となるでしょう。

 細石刃技術の出現ばかりが注目されがちな北海道のLGMですが、大部分のLGM遺跡から検出されるのは、剥片を素材とした石器が中心となる剥片石器群です。柏台1遺跡でも、細石刃関連の遺物と空間分布を違えて剥片石器が多量に残されています。柏台1遺跡の剥片石器は、円礫を主とする多様な石材(安山岩やチャートや頁岩など)から厚手の剥片を、おそらく直接打撃によって剥離し、石核素材に利用してさらに剥片を剥離し、二次加工を施して掻器や削器を量産しています。また縁辺に微細な剥離を残した剥片も顕著にあります。細石刃のような狩猟具をもたず、剥片素材の加工具(掻器、削器)が卓越します。LGM以前よりも加工具が量的に増えますが、LGM以前の剥片石器との技術的な連続性も窺えます。

 細石刃技術と剥片技術とは別に、石刃技術を基盤とする遺跡も少数確認されています。LGMの石刃技術は川西C遺跡(十勝平野)のEn-a降下軽石下のローム層から検出されており、炉より得られた年代からもLGMであることは明らかです。川西C遺跡では石刃を剥離した石刃核は残されておらず、遺跡外で石刃が製作され携帯されていた、と考えられます。遺跡に搬入された石刃は縁辺を二次加工によって再生し、折りとった面から樋状剥離を縁辺に施して新たな刃部を作り出すことにより、頻繁に刃部の更新をしています。その結果、掻器や削器や彫刻刀形石器という複数の器種に変形する様子が、接合資料から明らかにされています。

 石刃か剥片かという技術の選択については、どのような状況で両者が選択されるのか、簡単なシミュレーションが行なわれました。これは、行動生態学で用いられるコスト・ベネフィット分析です。石器のベネフィットが刃部の長さであるのに対し、石器のコストが運搬コスト、すなわち容量とされました。石器がつくられた当初の効用(IU)は長さの2乗と幅の和、初期のコスト(IC)は長さの3乗とされました。移動型の狩猟採集民が想定され、その石器が作られてから滞在した資源パッチ数をsとし、それぞれの滞在先で石器を使うことで石器の効用は減じられます。一方でコストも減ります。仮定としては、10回の滞在で石器の寿命が尽き、かつ途中で石器は補給されない、というモデルです。石器は剥片と石刃に限定し、長さ1幅1を単位とするヴァーチャルな剥片を基準とし、大きめの剥片(長さ2 幅2)、石刃(長さ2 幅1)、長めの石刃(長さ4 幅1)の4形態について、移動による効用に対するコストの値の変化が調べられました。

 その結果、移動を通じて効率性(効用/コスト)が最も高いのは剥片、次いで大きめの剥片、石刃、長めの石刃という順番でした。一方、パッチの移動にともなって安定した効率性が得られたのは、この逆の順番でした。つまり、効率性が比較的高かった剥片は、移動する資源パッチ間の効率性にばらつきが大きかったのに対して、石刃はばらつきが小さかった、というわけです。効率性のばらつきが大きいほど、使用する資源パッチによって効用が異なることになり、安定的な資源利用という観点からはリスクがあることになります。そうした中で石刃は効率性が低いものの、資源パッチ間での効率性のブレは小さいため、資源パッチを連続的に開発するパッチ選択型の狩猟採集活動では有用な道具だった、とみなされます。

 この結果からLGMの石刃と剥片の技術を解釈すると、道具を携帯しながら、移動の先々で資源を開発した集団にとっては、石刃が望ましいことになります。同じ状況は、柏台1遺跡の石刃製作と細石刃製作が一体化した技術体系にも見られます。原産地に回帰する頻度も他の石器技術を選択するよりも少なくなった、と考えられます。川西C遺跡と同様な遺跡が、石刃を製作するのに十分な大きさの黒曜石が豊富な環境下にある白滝遺跡群でもひじょうに少ないことは、その傍証と思われます。反面、石器を補充せずに移動し続けるという状況に迫られなければ、石刃よりも剥片を随意利用することが効率性の高さを保証することになります。剥片と石刃の効率性の観点から北海道のLGMの石器群間変異を説明するならば、それを残した狩猟採集集団がLGMの資源を利用するさいに何を重視したのかに応じて選択された技術の違い、つまり資源選択や移動様式の違いが、石器群の変異として表れたと考えられるでしょう。

 移動に対して居住に関しては、川西C遺跡では炉と石器の集中が重複しており、炉を中心とする活動空間が組織されたことは、被熱遺物の分布パターンから明らかです。遺跡形成過程の分析からは、炉にたまった廃棄物が遺跡内の別の場所に二次的に廃棄されたと推定できるため、一定程度の居住強度(遺跡滞在時間と滞在者数を合わせた概念)の高さが示唆されます。同じく炉と遺物分布が重複する柏台1遺跡についても同様の分析を経て、剥片石器を用いた集団の遺跡における居住強度の評価が必要です。現状では、単純に炉の規模や遺物数を見る限り、柏台1遺跡の剥片石器を用いた集団は、細石刃を用いた集団よりも居住強度が高かった、と予想されます。

 LGMの表徴行動をめぐっては、たとえばヨーロッパ東部のグラヴェティアン(Gravettian)などでは、女性像などの偶像(ヴィーナス像)という可動芸術が発達します。こうした「芸術性」の発露は、北海道のみならず日本列島の後期旧石器記録の中では稀です。北回り経路による人類拡散や文化伝達を経て、北海道へも可動芸術が到達した可能性は皆無とは言えませんが、芸術品と識別できるような遺物は極めて少なく、あえて挙げるならば、柏台1遺跡のLGMの居住面より出土した、コッペパンのような楕円な石の側面に沿って刻みが並列する石製品です。この石製品が検出された柏台1遺跡(B地区)からは約35000点もの遺物が出土していることから、ごく稀に残ったユニークな道具と判断されます。同じく柏台1遺跡では、琥珀玉が1点検出されており、同様の細石刃核型式(蘭越型)が出土した湯の里4遺跡と美利河1遺跡、広郷型細石刃核が伴う美利河遺跡E地点でも玉が検出されています。中国大陸部でも石製の装身具はダチョウの卵殻などよりも検出例が少ないことを勘案すると、日本列島の装身具記録の乏しさは化石生成論的偏りを反映している面がありそうです。

 玉は装身具に用いられたと考えられます。装身具の一種であるビーズは、つなげることを基本としつつも、石や貝殻や歯や骨や木の実やガラスなどの多様な素材を用います。LGM以前ですが、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡のように、墓に埋葬された人物の装飾品としてビーズ(マンモス象牙製)が確認されている例もあります。ユーラシア大陸部における旧石器時代の墓壙の検出例は一定数あるものの、ヨーロッパの後期旧石器時代の装身具(ペンダントなど)は特別にキャッシュされた状態で残されるとは限らず、石器や獣骨と同じく遺物層から検出されることが珍しくありません。湯の里4遺跡の玉は土坑に共伴しますが、一般に言われるように「墓壙」と推定するには、考古学的証拠(人骨や副葬品)が乏しいことは否めません。北海道におけるLGMの遺跡から検出された玉は、石製ビーズがほどけて遺存したといった、物の破損などに伴う日常的な物の廃棄に関わるコンテクストに位置づけることが自然かもしれません。

 一方で、装身具が集団や社会の表徴(いわゆるスタイル)であるとするならば、事例は少ないものの、北海道LGMの初源期の細石刃技術の中に特徴的に装身具を示唆する記録があるという状況は、細石刃技術を担った集団の中に自らを独自とみなす意識があり、集団的アイデンティティーが表れていた、と想定することも可能でしょう。アイデンティティー形成の背景には、他者への意識が存在したことになる。北海道のLGM社会には、細石刃技術を担った集団とそれ以外の技術を用いた集団が、互いを意識していた状況があったと想定されます。そうならば、それは資源をめぐる競合だったのか、協調だったのかが問われるでしょう。一方で、身体を飾る装身具が他者に対する自己の表徴となったことも自明であり、それを身に着けていた個人のファッション性や個人のアイデンティティーが表出した場合も考えられます。

 北海道のみならず日本列島の旧石器時代では、装身具と判断できる考古遺物の検出例は玉くらいで、あるなしというレベルに留まります。少なくともスタイルを示すようなパターンを抽出する程の、空間的・時間的ヴァリエーションは整っていません。仮に、細石刃技術などの特有の技術を共有する集団の中に個人を超えたアイデンティティーが物象化されたことを想定するならば、民族誌的現在で社会的意味が示唆されるビーズなどの装身具よりも、考古記録にパターン化されるような、長期的に維持された技術やそれを運用する知識のパッケージ(石器作り、狩猟方法など)に集団のアイデンティティーが覆いかぶさっている、という可能性を検討することが現実的と言えそうです。かつて、硬質頁岩製の荒屋型彫刻刀形石器が集団関係を取り結ぶ機能をもった、というアイデアが提示されましたが、LGM以後に顕在化する特定の石材と器種の対応関係などの経験的パターンは、集団の表徴行動を示している可能性も含めて、改めて注目されます。

 いわゆる現代人的行動とされる象徴行動の痕跡として、顔料の体系的な利用があります。北海道の後期旧石器時代の中でも顔料としての評価が可能な彩色鉱物は玉よりもはるかに検出例が多く、中でもLGMの遺跡に顕著に見られます。嶋木遺跡や川西C遺跡や柏台1遺跡や美利河遺跡(D・E地点)では、赤色および黒色の鉱物(褐鉄鉱、磁鉄鉱、マンガンなど)の小破片が多数出土しています。これらは概して破片化していますが、ナゲット状で表面に擦痕を残すものも少なくありません。LGM相当の南町2遺跡スポット1では台石の研磨面に赤色鉱物が残されており、実験からも、台石などを用いて研磨することにより粉末が作られた、と考えられます。同時に、LGM以前には影が薄い磨製の技術(ground technology)が、LGMの旧石器社会で顕在化することを示唆します。

 同様なナゲット状の赤色鉱物は、スペイン北部のエル・ミロン(El Mirón)洞窟遺跡に残されたマグダレニアン(Magdalenian)の文化層より回収された遺物の中にあります。エル・ミロン洞窟には壁画はありませんが、赤色のみならず黄色など多彩な鉱物破片は、石器や獣骨にまじった遺物層から多数出土していました。その後拡張した発掘区から、赤色鉱物(赤鉄鉱)を散布した埋葬人骨が確認され、ほぼ同じ時期に描かれたと推定される線刻のある石灰岩塊にも赤鉄鉱が残存していたことから、死者を弔う場面で用いられた顔料があったことは確実です。

 北海道の後期旧石器記録では、墓や芸術品が乏しいのに対して、赤色・黒色の鉱物は確実にLGMの段階で用いられています。これらは、LGMの剥片石器および石刃石器を伴う遺跡の多くに残されています。また、美利河遺跡D地点・E地点では黒色の鉱物(マンガン)が多量に搬入されており、その用途が注目されます。こうした色彩をもった鉱物を「顔料」(pigment)とすることにはやぶさかではありませんが、「顔料」の存在をもって象徴品の出現とみなす評価には異論があります。日本国内の旧石器記録については、少なくとも先に述べたようなスタイルや表徴をめぐる理論的考察も不活発であり、時期尚早と思われます。彩色鉱物の機能的側面も無視できず、赤色・黒色がモノの加工のために用いられた実用品(機能的側面)だった可能性もあります。例えば、平原部のアメリカ大陸先住民にみられる革をなめす活動は、水漬けや毛の除去など多工程を踏み、彩色には顔料を用います。

 掻器や削器といったスクレイパー類が主となる北海道のLGMの遺跡には、しばしば赤色・黒色の鉱物が伴います。LGMの寒冷乾燥気候下では、現代の北方狩猟採集民が身に着ける防寒具や移動式テントの覆いの製作といった、寒冷地への適応行動として皮革加工が北海道を含む高緯度域を中心とする地域に浸透していた、と想定されます。ただ、LGMの川西C遺跡の石刃の縁辺に残された使用痕跡からは、刃部再生を繰り返しながらも、カットを示す動作が大部分であり(111/144件)、スクレイピング作業はそれほど多くありません(24/144件)。LGMの石器の種類からみれば、鉱物利用と革なめし作業との関連性はありそうですが、現状では作業内容に関する分析結果は革なめしを素直にトレースするものではありません。LGMの人類集団、とりわけ石刃技術を運用した集団は、居住活動の内容に応じて刃部を調整しつつ多用途へ融通させており、比較可能なデータを集積する必要があります。

 象徴的側面が強調されがちですが、彩色鉱物の用途に関しては、アフロ・ユーラシア大陸の旧石器記録の研究から、いくつかの機能的説明が提示されています。薬説や接着剤説(関連記事)や着火剤説などです。たとえば着火剤説は、黒色鉱物が多数検出されたフランスのムステリアンおよびシャテルペロニアン(Châtelperronian)の遺跡についての実験研究があります(関連記事)。黒色鉱物は大部分が二酸化マンガンであり、着火の温度を低下させる効果がある、と指摘されています。ただ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺跡からの見解のため、現生人類もこうした知識をもって鉱物を利用したのか、定かではありません。細部の検証が果たせていませんが、北海道のLGMは生活様式の異なる二つの狩猟採集社会が併存した時期と言えそうです。一方は細石刃技術をもつ高頻度の移動を繰り返す狩猟採集集団で、もう一方は剥片・石刃技術を運用した移動性も居住強度も高い集団です。前者を「玉(装身具)をもつ社会」、後者を「彩色鉱物(顔料)をもつ社会」と大まかに区別することも可能かもしれません。


●LGM以後

 LGMが終わった後から更新世の終末までをLGM以後とするならば、それは19000~11500年前頃までの7500年間となります。考古学的には後期旧石器時代後半となり、北海道では細石刃技術の多様化(細石刃核型式の増加)により特徴づけられ、遺跡数も増加します。LGM以後の石器群は6種類13類型に分けることが可能で、広範囲に移動しつつ資源利用していた前半から、ベースキャンプをもちつつ兵站的な資源利用をするようになった後半へと居住様式が変化する、と指摘されています。

 LGM以後の石器技術は細石刃と石刃技術が普遍化し、石器の器種も彫刻刀形石器や掻器や削器や尖頭器など多様となります。技術面では両面調整技術が出現します。これは尖頭器(石槍)の加工技術のみならず、湧別技法による細石刃製作技術の中で、両面調整体を準備する中でも用いられます。柏台1遺跡にあるLGMの細石刃技術における石核の準備でも、下縁や側縁に面的な調整がなされますが、両面調整体を仕上げる方向ではありません。両面調整技術はむしろ、LGM以後の湧別技法の運用の中で頻繁に用いられる技術となります。

 石器の器種では、尖頭器や有茎尖頭器や舟底形石器などLGMにはなかった新たな道具が、細石刃技術や石刃を素材とする掻器や削器や彫刻刀形石器などの加工具と共伴します。尖頭器の出現は、細石刃(組み合わせ道具)とともに新たな種類の飛び道具が人類集団の道具立ての中に加わった、と示唆します。彫刻刀形石器はLGMの細石刃技術の中で初めて登場しますが、LGM以後になると形態も多様化します。忍路子型や広郷型の細石刃石器群にはしばしば斧形石器という磨製石器も加わり、器種は増えます。前半と後半の石器群における石器器種の種類を定量的に検討した結果でも、LGMを過ぎると器種の種類は明らかに増えます。

 LGM以後の石器群には、石刃と細石刃と両面調整という主要な3技術がまんべんなく見られますが、LGMと異なり、それらが遺跡や石器群に一対一対応するのではなく、いくつかの技術が組み合わされ、考古記録(石器群)として表れていることが多くなります。これは石器群相互がポリセティックな連結をもつ、いわば技術複合(technocomplex)です。石器製作技術の核となる石刃技術や細石刃技術も、LGMよりもはるかにヴァリエーションが増えます。端的には、石刃の打面調整方法や細石刃製作技法の増加に表れています。また、機能・用途が未解明ですが、舟底形石器のような、細石刃核の整形技術の一種(ホロカ型細石刃核)から分化したような石核石器が登場し、示準的な石器となります。

 ただ、技術複合をどのように把握するか、それらの出現・存続期間については資料の多さも相まって、研究者間で一致をみていない現状です。たとえば、石刃を素材として規格的な細石刃を製作する広郷型細石刃核は、北海道のみならず、サハリンや朝鮮半島をめぐる日本海沿岸に広がり、北回り経路による人類拡散との関連性も窺えます。しかし、数少ない放射性炭素年代値の評価をめぐり、後期旧石器時代後半とする見解とLGMまでさかのぼるとする見解に割れているのが現状で、北回り経路と関わるような、どこからどこへ技術が広がったのかという議論には至っていません。

 彩色鉱物と黒曜石の広域移動に関しては、石器は多様化するものの、LGMで確認された装飾品は乏しく、頻出した鉱物も減少するようです。たとえば、吉井沢遺跡(北海道東北部)では22265点の全遺物のうち鉱物は34点のみです。吉井沢遺跡では、彫刻刀形石器の彫刃面に赤色の粒子が付着している、と確認されており、かきとりや削り出しといった動作の過程で赤色鉱物との接触があった、と示唆されています。大部分の彫刻刀形石器の用途が骨・角であることから、LGMで想定されたような革なめしと彩色鉱物との関係を必ずしも支持していません。あるいは、鉱物自体の役割がLGMとそれ以後では変化した可能性も考えられます。

 石器に基づく技術複合の広がりよりも明確な空間的スケールを示しているのは、北海道産黒曜石の広域への移動でしょう。サハリンのLGM以後の遺跡(アゴンキ5、ソコルなど)では北海道白滝産の黒曜石が確認され、さらにアムール川下流域では前期新石器時代(8600~7200年前頃)には白滝産の黒曜石が確認されるようになります。こうした石器石材の移動を長距離に及ぶ人類集団の北上と把握するのか、Paleo-SHKにおける南北方向への交換ネットワークが確立していたのかが、論点となります。また、産地から遠くへ運ばれた石器がどのくらい保持され続けたのか、それはどのような社会であったのかといった、石器の管理性(curation system)やその意義をめぐる理論的課題もあわせて検討されるべきです。

 上述のように、LGM以後に北海道から人類集団が南下した、つまり17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて東北地方へ南下した、という見解が提示されています。北海道と古本州島東北部の文化的関連は、削片-分割系という北海道とパラレルである石器技術の分布によって注目されており、背景にある石材を節約するといった行動面の共通性や、近年では北海道産黒曜石が古本州島東北地方でも確認されるという経験的データからも示唆されます。一方で、LGM以後の北海道からの南下仮説の前提は、中心である北海道から周縁の古本州島への移住に伴う伝播(demic diffusion)、ならびに水平方向の文化伝達モデルです。現時点では、なぜ南下したのかといった点に関する明確な仮説はありませんが、まずは南下仮説の当否を検証するため、その前提となるモデルの妥当性が問われるでしょう。つまり、中心部の北海道における削片-分割系の初源年代が17000~16000年前頃かそれ以前であることが必要条件となります。たとえば、湧別技法をもつ上幌内モイ遺跡(北海道厚真町)の炉の炭化物の年代のうち、最古の年代は14770±70年前で、石川1遺跡(北海道函館市)の炭化物は13400±160年前です。IntCal20による較正年代では、それぞれ18240~17892年前、16627~15667年前となります。オルイカ2遺跡(石狩低地帯)の14690±70年前という放射性炭素年代値は、IntCal20による較正年代では18209~17813年前です。仮に湧別技法が北海道で発生したとしても、ほとんど時間差なく古本州島で同様な技術が出現した状況となります。いずれにしても、各地域で年代値の信頼性やLGM以後の古環境条件を吟味しつつ、拡散のベクトルを議論することが必要です。


●まとめ

 北海道は最終氷期を通じてPaleo-SHKの南端であったことから、陸路による北回り経路のどん詰まりであり、吹きだまり地勢を呈します。また、古本州島の旧石器文化の形成といった観点からはしばしば「北方系」の要素を見出し、多くの考古学者がその背後に、北海道およびその先のシベリア東部などアジア東北部大陸部からの人類の南下や文化伝播を想定しています。一方で北海道の考古記録の変遷には多様性と独自性が顕著であり、それがいかにして形成されたかに関する北回り経路の果たす役割は、まだ議論が始まったばかりとも言えます。さらに、LGM以前で想定されるようにMIS3の段階で津軽海峡を越えた古本州島からの北上経路も、北海道の旧石器記録の形成に影響を及ぼしている可能性があり、吹きだまり特有の人類拡散があったのかもしれません。より微細に見るならば、細石器などの組み合わせ道具、ストーンボイリング法による油脂抽出、装身具、彩色鉱物などの要素の展開は、ヨーロッパを含むユーラシアの各地やアフリカでも見られる事象です。こうした現生人類の多彩な技術の諸相が北海道の旧石器記録にも確認されるわけですが、遅れる場合とパラレルに生じる場合の両方がありそうです。これは、二重波モデルとの関連でも興味深い問題です。

 古本州島でも後期旧石器時代を通じて朝鮮半島からの人類の東進や文化伝播の証拠が示されており、緯度は異なるものの、Paleo-SHK同様に古本州島も吹きだまり地勢であることに変わりありません。現生人類の北回り経路をめぐる現時点の議論では、トランス・バイカル地域やモンゴルや中国東北部などアジア北東部内陸部の旧石器記録が積極的に意義づけされていますが(関連記事)、その先にある地域へ最終氷期の人類がいつどのように拡散したのかを関連づけることで、北回り経路の吹きだまりである北海道(古本州島との関連を含みます)の旧石器文化の成立過程といった、史的過程の構築が可能となるでしょう。一方でアジア北東部からの北回り経路による直接的な人類移住に対して、アジア南東部から現生人類が北上してアジア北東部地域にいた集団が押し出された結果、Paleo-SHKに吹きだまったという想定もあり得るでしょう。


参考文献:
中沢祐一(2021)「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 33)』P45-63

閉経時期と関連する遺伝的多様体

 閉経時期と関連する遺伝的多様体に関する研究(Ruth et al., 2021)が公表されました。生殖能力の長期維持は妊孕性に必須で、女性の健康的な老化に影響を与えます。平均的には、大半の女性が50~52歳の間に閉経を経験し、閉経が近づくにつれて女性の自然生殖能力は低下し、骨折や2型糖尿病などの疾患のリスクが高まります。しかし、その根底にある生物学的機構や、生殖能力を温存する治療法についての知見は限られています。

 この研究は、ヨーロッパ系女性20万1323人のゲノムワイド関連解析と、自然閉経年齢に見られる正常なばらつきに基づいた評価により、約1310万の遺伝的対幼体を検証した結果、卵巣の老化に対する290個の遺伝的決定因子を特定しました。これらのありふれた対立遺伝子は、自然閉経年齢の臨床的極端値と関連しており、遺伝的感受性が上位1%の女性では、FMR1の単一遺伝子前変異を持つ女性と同等の早発卵巣機能不全のリスクが見られました。

 特定された一連の座位から、広範なDNA損傷応答(DDR)過程の関与が示され、こうした座位には主要なDDR関連遺伝子の機能喪失多様体が含まれていました。実験モデルとの統合により、これらのDDR過程が生涯にわたって働き、卵巣予備能とその低下速度を形作っている、と明らかになりました。さらに、ヒト遺伝学により明らかになったこれらの遺伝子のうちの2つ(Chek1とChek2)について、DDR経路をマウスで実験的に操作すると、妊孕性が高まり、生殖寿命が延長する、と示されました。

 特定された遺伝的多様体を用いた因果推論解析では、女性の生殖寿命の延長は、骨の健康を改善し、2型糖尿病のリスクを低下させる一方で、ホルモン感受性癌のリスクを増加させる、と明らかになりました。これらの知見は、卵巣の老化を制御する機構と、それらがいつ働き、そうした機構を、妊孕性の延長や疾患予防を目的とした治療的取り組みによりどのように標的化できるのか、手がかりをもたらすものです。今後は、地域集団間の差があるのか、という人類進化の観点からも研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:閉経時期に関連する遺伝的バリアント

 大規模なゲノムワイド関連解析が実施され、閉経年齢に関連する290個の遺伝的バリアントが特定されたことを報告する論文が、Nature に掲載される。今回の研究で、生殖寿命を制御する生物学的機構に関する知識が得られた。この知識は、新たな不妊治療法の発見や疾患の予防を目的とした今後の研究に役立つ可能性がある。

 平均すると、大部分の女性が50~52歳の間に閉経を経験する。閉経が近づくにつれて、女性の自然生殖能力は低下し、骨折や2型糖尿病などの疾患のリスクが高まる。なぜこのようなことが起こるのか、そして生殖能力を維持するための治療法の開発については、あまり知見が蓄積されていない。

 今回、John Perryたちは、40~60歳で自然閉経を迎えたヨーロッパ系女性20万1323人の遺伝的データを解析した。約1310万の遺伝的バリアントが検討された結果、卵巣の加齢性変化の決定因子が290個特定され、これらが閉経の遅れに関連することが分かった。また、さまざまなDNA損傷応答遺伝子が、自然閉経年齢に関連し、女性の一生にわたって作用して、卵巣機能を制御していることも判明した。マウスにおいて、これらの遺伝子のうちの2つ(Chek1とChek2)を特異的に操作すると、生殖能力と生殖寿命が影響を受けることが分かった。さらにヒトでの遺伝的解析から、閉経の遅れが、骨の健康状態の改善と2型糖尿病の発症確率の低下とそれぞれ因果関係のあることが示唆された。その一方で、閉経の遅れは、ホルモン感受性がんのリスク上昇とも関連していた。

 生殖年齢の期間に影響を及ぼす数多くの因子(非遺伝的因子を含む)については解明が進んでいないが、Perryたちは、今回の研究で得られた知見が、女性の生殖機能を高めたり、生殖能力を維持したりするための新しい治療法に関する将来の実験的研究にとって有益な情報となることを期待している。


リプロダクティブ・ヘルス:ヒトの卵巣の老化を制御する生物学的機構に関する遺伝学的知見

Cover Story:卵巣の老化:生殖寿命を駆動する遺伝的特徴

 女性の生殖寿命にはかなりのばらつきがあり、そうした寿命を迎えるタイミングは妊孕性と健康な老化に影響を及ぼす。多くの女性は40〜60歳で閉経を迎え、自然妊孕性はその5~10年前から低下する。今回、大規模な国際研究チームが、この過程の背後にある遺伝的特徴に光を当てている。著者たちは、20万2323人の女性の遺伝学的データを分析し、閉経のタイミングに関連する290の遺伝的決定因子を特定した。マウスでこうした遺伝子の2つ(Chek1とChek2)を操作した結果、それらが妊孕性と生殖寿命に直接影響を及ぼすことが見いだされた。著者たちは、この結果から、妊孕性の延長や疾患予防のための治療手段が得られる可能性があると期待している。



参考文献:
Ruth KS. et al.(2021): Genetic insights into biological mechanisms governing human ovarian ageing. Nature, 596, 7872, 393–397.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03779-7

ハチの個体数減少に対する農薬の影響

 ハチの個体数減少に対する農薬の影響に関する研究(Siviter et al., 2021)が公表されました。広範に報告されている花粉媒介者の減少は、世界的に懸念されています。それは、世界の食料安全保障と野生生態系にとっての脅威だからです。ハナバチの個体群に対しそれぞれが単独で有害となる人為的ストレッサー(農薬や寄生虫や栄養的ストレス要因など)がいくつか明らかになっており、たとえば殺虫剤がミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示すことはすでに広く知られています(関連記事)。

 これらのストレッサー間の相乗的な相互作用は、そうしたストレッサーによる環境的影響を大きく増幅させる可能性があるため、花粉媒介者の健康の改善を目指す政策決定に重要な意味を持つと考えられますが、これまでの研究は、結果がまちまちで、決め手に欠けていました。この研究は、そうした脅威の規模を定量的に評価する目的で、農薬や栄養的ストレッサーや寄生虫のさまざまな組み合わせにハナバチを曝露させた90件の研究に由来する、356の相互作用効果量のメタ解析を行ないました。

 その結果、ハナバチの死亡率に対する、複数のストレッサー間の全体的な相乗的影響が明らかになりました。ハナバチの死亡率に関するサブグループ解析から、ハナバチが野外の現実的なレベルで複数の農薬に曝露された場合に、相乗作用が見られることを示す強力な証拠が得られましたが、ハナバチが寄生虫や栄養的ストレッサーに曝露された場合は、それらの相互作用は相加的な期待値を超えるものではありませんでした。

 適応度の代理指標や行動や寄生虫量や免疫応答に対する全ての相互作用的な影響は、相加的または拮抗的のいずれかであったことから、観測されたような、ハナバチの死亡率に対する相乗的相互作用を駆動していると考えられる機序は依然として不明です。農薬への曝露リスクの相加的影響を想定した環境リスク評価計画は、ハナバチの死亡率に対する人為的ストレッサーの相互作用的影響を過小評価している可能性があり、持続可能な農業を支える重要な生態系サービスを提供している花粉媒介者の保護には成功しない、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生態学:ハチの個体数減少に対する農薬の影響が過小評価されている可能性がある

 複数の農薬(殺虫剤、除草剤など)の相乗的相互作用は、相加的であれば、ハチの死亡率に予想以上に大きな影響を与えることをメタ分析によって明らかにした論文が、今週、Nature に掲載される。農業に関連する環境ストレス要因の相互作用による影響が過小評価されているとすれば、ハチが現行の規制制度では保護されない可能性が生じる。

 ハチの個体数が減少することは、世界の食料安全保障と野生生態系にとっての脅威である。この個体数減少に対しては、数多くの要因(例えば、農薬、寄生虫、栄養的ストレス要因)が、それぞれ寄与していることが明らかになっているが、これらの要因の相互作用を調べるこれまでの研究は、結果がまちまちで、決め手に欠けていた。

 今回、Harry Siviter、Emily Bailesたちは、こうした脅威の程度を定量的に評価するため、、農薬、寄生虫、栄養的ストレス要因の356種類の相互作用がハチの健康に及ぼす影響を比較した90件の研究結果をまとめて分析した。全般的に言うと、複数のストレス要因が相乗的にハチの死亡率に影響していることが明らかになり、相互作用するこれらのストレス要因の複合効果が、ストレス要因の個々の効果の合計より大きくなることが分かった。ただし、このメタ分析の結果をストレス要因の種類別に整理すると、農薬が散布された作物中の残留農薬濃度として報告されている濃度の農薬間の相乗的相互作用がハチの死亡率に影響していることを示唆する強力な証拠が得られた。他方、ハチと共進化してきたストレス要因(寄生虫感染および/または栄養不良)の場合には、その複合効果が、ストレス要因の個々の効果を合計した期待値を超えなかった。

 Siviterたちは、以上の結果は、農薬のストレス要因が相加的に相互作用することを前提としていて、その結果として人為的発生源がハチの死亡率に及ぼす相乗的な相互作用の影響を過小評価しているかもしれない環境リスク評価計画における警告を浮き彫りにしている可能性があると結論付けている。Siviterたちは、もしこの問題に取り組まなければ、ハチの個体数がさらに減少するリスクが生じ、世界の食料生産にとってかけがえのない財産である花粉媒介にも連鎖反応的な影響が及ぶと述べている。


生態学:複数の農薬が相乗的に相互作用してハナバチの死亡率を上昇させる

生態学:ハナバチの死亡率に対する複数のストレッサーの相乗的影響

 ハナバチ個体群の世界的な減少が食料安全保障と野生生態系を脅かしている。こうした個体群の減少は、農薬、寄生虫、栄養的ストレッサーの相互作用的影響によって促進されていると考えられているが、そうした相互作用を調べた研究ではそれぞれ異なる結果が得られている。今回H Siviterたちは、農薬、寄生虫、栄養的ストレッサーが、ハナバチの健康に及ぼす相互作用的影響のメタ解析を行った。その結果、ハナバチが野外の現実的なレベルで複数の農薬に曝露された場合に、ハナバチの死亡率に「相乗的影響(ストレッサーの組み合わせによる影響が、想定される相加的影響を大きく上回る)」が認められることが分かった。一方、ハナバチが寄生虫や栄養的ストレッサーに曝露された場合の相互作用は、相加的期待値を超えるものではなかった。農薬への曝露の相加的影響を想定した環境リスク評価計画は、ハナバチの死亡率に対する人為的ストレッサーの影響を過小評価している可能性がある。



参考文献:
Siviter H. et al.(2021): Agrochemicals interact synergistically to increase bee mortality. Nature, 596, 7872, 389–392.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03787-7

大河ドラマ『青天を衝け』第25回「篤太夫、帰国する」

 今回は栄一(篤太夫)の帰国と、栄一が海外にいる間の国内情勢が描かれました。栄一が横浜に到着したのは明治元年10月で、すでに慶喜は鳥羽伏見の戦いで負けて江戸に戻り、さらに水戸から駿府へと移って謹慎しており、江戸城は新政府軍に明け渡されており、戊辰戦争が継続中でした。主人公である栄一の視点では、この間の国内情勢は遅れて得た断片的な情報から推測するしかなかったわけで、栄一が帰国後に福地源一郎たちからこの間の国内情勢を聞かされるという構成で種明かしのように激変した国内情勢を描くのは、悪くないと思います。

 栄一の親族である喜作(成一郎)や平九郎や惇忠の運命に時間がより多く割かれましたが、栄一と関わりのあった小栗忠順(上野介)の最期が描かれたのは、よかったと思います。とくに平九郎は明治時代を生きた喜作や惇忠とは異なり戊辰戦争で討ち死にしだけに、その最期は長く描かれました。栄一が帰国した時にはまだ函館で喜作は土方歳三たちとともに戦っていましたが、栄一は函館には向かいませんでした。徳川昭武から今後も仕えるよう要請された栄一は、まず慶喜に会おうとします。すでに明治と改元されていますが、幕末編は次回で終了のようです。幕末編の結末がどのように描かれ、明治編につながるのか、楽しみです。

アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係

 アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係に関する研究(Matsumae et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事と筆頭著者の解説記事もあります。現生人類(Homo sapiens)の歴史には、大規模な移住や他の移動の事例が多数あります。これらの過程は、現代人の遺伝的および文化的多様性を形成しました。現生人類は他種と比較して相対的に均質ですが、さまざまな地理的規模で観察できる遺伝的変異には微妙な人口集団水準の違いがあります。さらに、全ての既知の社会には言語と音楽があるように、現生人類の行動には普遍的特徴がありますが、その文化的多様性は後代です。たとえば、現代人は7000以上の相互理解できない言語を話すか書き、民族・言語集団ごとに多くの異なる音楽様式が存在する傾向にあります。

 これまでの研究では長く、歴史的および考古学的データと現在の生物学的および文化的多様性のパターンとの組み合わせによる、世界的な移動と多様化の歴史の再構築に関心が抱かれてきました。ダーウィンまでさかのぼると、多くの研究者は、文化的進化史は生物学的進化史を反映する傾向にある、と主張してきました。しかし、文化的特徴とゲノムが伝わる方法の違いは、遺伝的および文化的変異がさまざまな歴史的過程により説明される可能性を意味します。20世紀後半以降の集団遺伝学および文化的進化の両方における大きな進歩により、今では遺伝的および文化的データの照合により容易にこれらの見解を検証できるようになりました。

 言語の文化的進化は、過去の人口史(遺伝的変異から統計的に推測される遺伝的歴史)を理解するためにとくに有益だと証明されてきました(関連記事)。古典的手法は、言語間の相同(同語源)な単語のセットを特定し、分析することです。この語彙的手法により、オーストロネシア語族やインド・ヨーロッパ語族など、単一の語族内の進化系統と関係の再構築が可能となります。しかし、語彙的手法は通常、複数の語族には適用できません。なぜならば、複数の語族は確実に信頼できる同語源を共有していないからです。同語源の分析限界年代は、系統的兆候が一般的に失われてから1万年間とされています。別の手法は、文中の品詞の相対的順序もしくは鼻腔子音の存在など、文法と音韻の特徴の分布を研究することです。言語の構造的データは、語族の系統的兆候を保存するには進化が速すぎる傾向にあり、語彙と構造の歴史は部分的に、たとえばクレオール言語の出現のように、独立しているかもしれません。しかし、言語構造の地理的分布は多くの場合、個々の時間の深さを超えた語族全体の進化における、接触により起きる類似点を示します。

 しかし、言語は深い歴史の代理として役立てる多くの複雑な文化的特徴の一つにすぎません。音楽は言語よりもさらに深い文化史を保存しているかもしれない、と提案されてきました。リズムやピッチや歌唱様式など標準化された音楽分類体系は、遺伝的および言語的違いの比較のため、人口集団間の音楽的多様性のパターンを定量化するのに使用できます。オーストロネシア語族話者である台湾先住民間では、これらの分析により、音楽とミトコンドリアDNA(mtDNA)と語彙の間の有意な相関が明らかになり、音楽が人口史を保存している可能性が示唆されました。しかし、これらの関係が語族の水準を超えているのかどうかは不明です。

 本論文はこの間隙に対処するため、アジア北東部およびその周辺の人口集団に焦点を当てます(図1)。アジア北東部は、遺伝的および文化的多様性が高水準なので、有益な検証地域を提供します。その中には、小規模な語族もしくは孤立語があり、たとえば、ツングース語族(エヴェン語・エヴェンキ語)、チュクト・カムチャツカ語族(チュクチ語・コリヤーク語)、エスキモー・アリュート語族(西グリーンランドイヌイット語)、ユカギール語族(ユカギール語)、アイヌ語、ニブフ語族(ニブフ語)、朝鮮語、日本語、テュルク語族(ヤクート語)、モンゴル語族(ブリヤート語)、フィン・ウラル語族(セルクプ語、ガナサン語)などです。重要なのは、世界の大半の遺伝的および言語的データが公開されている一方で、アジア北東部は音楽的データが公開されている唯一の地域で、音楽と遺伝と言語の多様性の直接的な一致比較が可能である、ということです。以下は本論文の図1です。
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 本論文はこれらの一致比較を用いて、さまざまな形式の文化的データが語族の限界を超えた水準で人口史を反映している程度について、競合する仮説を検証します。具体的には、文化的進化のパターンが遺伝的進化のパターン(人口史)と有意に相関しているのかどうか検証し、もし相関しているならば、個々の語族内の言語(空間的自己相関)と共有された継承との間の最近の接触の影響を制御したうえで、音楽もしくは言語(語彙か文法か音韻)のどちらが遺伝的多様性のパターンと最高の相関を示すのか、検証することを目的とします。


●分析結果

 アジア北東部および周辺部の、ゲノム規模一塩基多型と文法と音韻と音楽のデータが利用可能な、11語族・孤立語の14集団が選択されました。各調査の類似性は、分岐ネットワークにより図示されました(図2)。語彙データでは、全体的に星型の構造のネットワーク形態が得られました(図2C)例外は、互いに関連し、近接して際立っている3組で、ともにツングース語族のエヴェン人とエヴェンキ人、ともにチュクト・カムチャツカ語族のチュクチ人とコリヤーク人、ともにウラル語族のセルクプ人とガナサン人です。この距離分析の結果は、語彙資料は語族内の関係を検出できるものの、語族間の歴史的関係を解決できない、という事実と一致します。以下は本論文の図2です。
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 文法と音韻と遺伝と音楽の距離分析により、さらに多くの情報が得られる構造が明らかになるかもしれません。言語構造は語族関係を識別しないという主張と一致して、距離分析からのクラスタ化は一般的に語族と一致せず、例外は遺伝と音韻におけるチュクト・カムチャツカ語族のチュクチ人とコリヤーク人です。クラスタ化のほとんどは代わりに、語族間の関係を示します。たとえば、朝鮮語と日本語は、文法と一塩基多型と音楽に基づくとネットワークで近隣となりますが、音韻では異なります。ブリヤート人とヤクート人は、一塩基多型と文法と音韻では密接に関係していますが、音楽では違います。音楽に基づくネットワークは、音楽構成要素のクラスタ化分析に基づいて、アイヌの音楽の独自性と極地付近の音楽からのアジア東部の音楽の区別を示す以前の研究と一致します。ニブフ人は各要素で異なるパターンを示します。たとえば、ニブフ人は他の人口集団よりも朝鮮人と日本人とブリヤート人の方と遺伝的に密接で、距離行列では次に全人口集団でアイヌと2番目に高い類似性を示し、系統樹での位置を反映しています。しかし、音楽と文法と音韻は、ニブフ人ではこれらの関係に従っていません。

 まとめると、これらの結果から、人口史も語彙を除く文化的特徴も、語族に沿った単純な垂直系統により進化したわけではない、と示唆されます。むしろ、チュクト・カムチャツカ語族の可能性を除けば、それぞれが独立した軌跡をたどったかもしれません。これは、単一的な系統発生という考えに疑問を提起する一方で、特徴の一部は相互に関連しており、それは水平および垂直伝達の先史時代の迷路をたどったから、という可能性を残します。換言すると、特徴は依然として相互に関連しているかもしれず、それは、特徴が同じ(複数かもしれない)時期と場所に存在し、そこでは人々が接触し、および/もしくは遺伝的に関連していたからです。

 そうした関連が現在でも検出可能なのかどうか明らかにするため、データの主成分もしくは座標に対して冗長性解析(Redundancy Analysis、略してRDA)が実行されました。RDAは説明変数で説明できる応答変数の変動を要約し、直接的な関連を見つけます。RDA分析は並べ替え検定で有意な2つの関連を明らかにします(図3)。つまり、文法的類似性は遺伝的類似性を予測し、遺伝的類似性は文法的類似性を予測します。両者の関連は、同じ起源の単語により識別できるように、現在の語族の形成前にさかのぼる深い時間の対応を反映している可能性がある一方で、社会間の空間的な近接性や接触が、比較的最近で浅い関連の類似のパターンにつながっている可能性もあります。以下は本論文の図3です。
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 この問題を解決するため、データの兆候を説明する以下の3通りの想定が評価されました。(1)最近の接触です。関連は最近および現在の接触を反映しているので、現在のデータの空間的な自己相関により説明可能です。つまり、現在相互に密接な社会は、類似の文法と人口史を有する傾向にあります。(2)この関連が共通祖先を反映している想定です。この関連は残りの語族内の垂直系統から生じ、本論文の標本ではその語族には複数(ツングース語族とチュクト・カムチャツカ語族とウラル語族)が含まれます。(3)深い時間に対応している想定です。この関連は、既知の語族内の最近の接触もしくは系統発生的継承では説明できない、文法と遺伝との間の浅くない対応を反映しています。

 これら3仮説を区別するため、空間的な近接性と継承を潜在的交絡要因として扱い、その影響を制御するために部分的RDAが実行されました。赤道から離れた社会と言語はより大きな空間的範囲を示す傾向にあるので、各社会の領域は点ではなく範囲で表現され、これらの範囲内から無作為の空間位置が標本抽出されました。部分的RDAは、最近の接触に反して強い証拠を明らかにします。空間的近接性では文法と遺伝の関連を説明できません。空間的自己相関を制御すると(1000個の無作為標本で人々の位置の不確実性を考慮)、観測された説明の分散は依然として、無作為な並び替えよりも大きくなります。

 部分的RDAにおいて言語の最近の接触と系統発生的継承の両方を制御すると、依然として文法と遺伝の関連は他の関係よりも強い証拠を示します(図4)。本論文の分析では、同等の強さで他の関連は見られません。いくつかの弱い兆候(たとえば、文法と音楽と音韻)はありますが、空間的自己相関と系統の両方を制御すると、これらは全て消えます(図4)。これは、そうしたあらゆるパターンが、最近の接触および語族特有の一連の継承に由来する可能性が高いことを示唆します。以下は本論文の図4です。
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 わずか14集団の小規模な標本を前提として、3種の感度分析を通じて文法と遺伝の関連の堅牢性が評価されました。まず、RDAへの主成分もしくは座標の数が変更され、したがって、応答と予測因子の両方に分散の量が変わりました。ある構成要素はどれだけの分散を説明する必要があるかというさまざまな閾値(10%と15%と18%)は、結果にほとんど影響がありませんでした。次に、RDAへの言語標本が変えられました。ほとんどの言語は兆候にほとんど影響を与えませんが、アイヌに関しては当てはまらず、アイヌを分析から除外すると、文法と遺伝の関連は弱くなります。

 最後に、部分的RDAでは、一部の空間標本が他の標本よりも応答の分散を上手く説明する場合があります。低い調整済R2を有する場所の空間的クラスタは、最近の言語設定を示している可能性があり、高い調整済R2を有するクラスタは、系統的外れ値が兆候に影響している可能性を示唆します。0.2および0.8パーセンタイルの場所をマッピングすると、高パーセンタイルでは弱くて部分的なクラスタ化しか見つからず、低いパーセンタイルではまったく見つかりませんでした。これは、最近の接触も系統的外れ値も兆候を説明しない、と示唆します。

 要約すると、アジア北東部においてゲノムと音楽と言語の完全な一式を用いると、基本RDAにより遺伝と文法との間に有意な相関関係がある、と明らかになりました。地理や言語継承を制御した部分的RDAや感度分析では、遺伝と文法の関係は最近の接触および継承前の言語間の早期の関係にさかのぼるかもしれない、と示唆されます。


●考察

 本論文は語族の水準を超えて、遺伝と言語と文化間の関係を同時に調べました。その結果、人口史と文法の類似性との間の関係の顕著な証拠が見つかりましたが、ゲノムと文法は、配偶体系と文化伝達との間の違いなど、さまざまな進化の力に影響を受けたかもしれません。集団遺伝学は、系統発生的関係を超えて人口集団間の遺伝子流動を検出します。本論文のデータセットは、人口集団の系統発生的広範囲を網羅します。それは現代アジア東部人の3系統(アイヌとアジア東部人とアジア北東部人)と北アメリカ大陸の1系統(グリーンランドのイヌイット)で、日本人とアイヌやブリヤート人とヤクート人のように、系統を超えた遺伝子流動が含まれます。

 人口史に影響を及ぼす進化の力はかなりよく理解されていますが、特定の人口集団の遺伝的関係が、共有された祖先系統(祖先系譜、ancestry)と文化の先史時代の接触のどちらをどの程度反映しているのか判断することは、まだ困難です。さらに、文化と言語に影響を及ぼす進化的過程は議論されていますが、ゲノムに影響を及ぼす進化的過程とは明らかに異なる可能性があります。たとえば、文化的置換と言語変化は、植民地化もしく戦争や文化的拡大など他の社会政治的要因により、1世代でも起きる可能性があります。

 文化的類似性における近接性の影響を排除した本論文の結果は、これらのさまざまなデータはさまざまな歴史的パターンを明らかにする、という見解を支持しますが、一部の文化的特徴は依然として、語族の境界さえ超えた関係の維持が可能であることを示します。文法の類似性は、単純に遺伝的系統に従った場合に生じるわけではなく、朝鮮人と日本人とニブフ人とアイヌの遺伝的近接性は文法には反映されておらず、チュクチ人とコリヤーク人と西グリーンランド人も同様です。むしろ、先史時代に部分的に独立した垂直および水平伝達の複雑な相互作用を反映している可能性が高そうです。

 このパターンは、語族をなぞる語彙では著しく異なりますが、本論文のデータセットではより上位水準の関係は明らかになりません(図2)。これは、歴史言語学や、文法がオーストロネシア語族では語彙よりも速く進化し、インド・ヨーロッパ語族でも急速な進化を示す、という最近の知見からの予測とは対照的です。たとえば、英語とヒンディー語は多くの同起源の単語を保存していますが、両者は語順および格表記が大きく異なります。しかし、これらの知見は語族内の文法進化と関係していますが、本論文の手法は、語族間の初期の接触を可能とする共有された歴史を解明しようとします。したがって、本論文の知見は、語順など固有の特徴は語族内で急速に進化したものの、繰り返し模倣されて新たに調整された、という想定と一致し、それは同じ期間の遺伝的ネットワークを反映する先史時代にわたる比較的均一な特性をもたらします。感度分析でアイヌを削除すると、この兆候を検出する統計的能力が弱くなります。これは、アジア北東部の文脈におけるアイヌの特別な位置を示唆しているかもしれませんが、この問題の解決には、この地域の内外の言語と人口集団のより大きな標本が必要です。

 本論文の結果は、遺伝と言語と音楽の関係を定量的に比較した唯一の先行研究とは質的に異なります。以前の研究では、台湾先住民のオーストロネシア語族話者集団間では、音楽は遺伝と有意に相関していたものの、言語とは相関しておらず、一方で本論文では、音楽は言語もしくは遺伝のどちらとも強固には関連していない、と明らかになりました。しかし、これらの違いの背景にはいくつかの方法論的違いがあります。以前の研究ではmtDNAと語彙データと集団の歌のみが検証対象だったのにたいして、本論文では、ゲノム規模一塩基多型データと構造的な言語の特徴と集団および個人の歌が取り上げられました。より大規模な標本とさまざまな種類のデータを用いたさらなる研究が、言語と音楽と遺伝の間の一般的関係の解明に役立つかもしれません。

 最近の研究は、基底部ユーラシア東部人の主要な遺伝的構成要素の一つとしてのアジア北東部人口集団を浮き彫りにします(関連記事)。アジア北東部の高い言語的多様性は、以前の研究で仮定されていたように、地理的障壁による農耕人口集団からの影響が少ない、先史時代の関係を反映しているかもしれません。しかしアジア北東部では、文化と地域的人口史との間の関係についての知識は限られています。本論文の結果は、遺伝的パターンと文法的パターンとの間の関連だけではなく、複雑な分離も明らかにしており、そこでは、これらのデータが、文化的変化も含むかもしれないさまざまな地域史を反映しています。たとえば、以前の研究が朝鮮人と本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人口集団との間の特有の遺伝的および文化的関係を提案するか、共有された起源を仮定する一方で、本論文の知見は、一塩基多型と音楽と文法では類似しているのに対して、語彙と音韻では類似していないことを裏づけます。

 アイヌはとくに日本人と遺伝的類似性を示しますが、その音楽はコリヤーク人とより密接にまとまります(図2)。これは、歴史のさまざまな時点で起きた、さまざまな水準の遺伝と言語と音楽の交換を反映しているかもしれません。音楽のパターンは、オホーツクおよび他の「極地付近」の人口集団からのより最近の文化的拡散や遺伝子流動を反映しているかもしれません。それらの人口集団は過去1500年以内に北方から到来してアイヌと相互作用し、これは日本列島の歴史の「三重構造」モデルで以前に提案されました。

 新たに遺伝子型決定されたニブフ人の標本は一塩基多型ではアイヌと近いものの、他のデータでは近い関係ではなく(図2)、アジア北東部沿岸地域における歴史的関係が示唆されます。ニブフ人はアイヌと他のアジア北東部人をつなぐ重要な人口集団かもしれませんが、ニブフの人口史はよく理解されていません。したがって、近隣網系統樹は、人口集団と関連する関係を反映しているかもしれないものの、ニブフ人を含むアジア北東部人における地域の人口史と文化的関係をより詳細に調べるには、さらなる分析が必要です。将来の研究では、社会のより大規模な標本とその文化的特徴のより豊かなコード化が必要になるでしょう。

 結論として、本論文は多様なアジア北東部語族全体で文法とゲノム規模一塩基多型との間の関係を示しました。本論文の結果から、文法的構造は語彙を含む他の文化的データよりも密接に人口史を反映しているかもしれない、と示唆されますが、本論文は、遺伝的データと文化的データのさまざまな側面が、複雑な人類史のさまざまな側面を明らかにすることも見出しました。換言すると、文化的関係は人口史により完全には予測できません。これらの不一致の別の解釈は、地域史における言語変化などの歴史的事象か、遺伝的進化から独立した文化固有の進化です。より明確なモデルを用いたより大きな規模での、これらの関係についての将来の分析は、ヒトの文化的および遺伝的進化の複雑な性質の理解の改善に役立つはずです。


参考文献:
Matsumae H. et al.(2021): Exploring correlations in genetic and cultural variation across language families in northeast Asia. Science Advances, 7, 34, eabd9223.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd9223

麻田雅文『日露近代史 戦争と平和の百年』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2018年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は幕末から1945年までの日露(日ソ)関係史です。近現代日本の対外関係において重要な国がイギリスとアメリカ合衆国であることは、現代日本社会において一致する見解でしょう。第二次世界大戦で日本はその両国と戦い惨敗したため、戦後日本政治ではその両国、とくにアメリカ合衆国との協調関係が至上命題とされました。一度は戦争に至ったものの、協調関係志向の期間が長かった対英米関係に比して、対露(ソ)関係は、日露戦争や冷戦での対立の印象もあり、対立の歴史が強調されてきました。

 しかし近現代日本において、ロシア(ソ連)との協調を志向する政治家は絶えずいましたし、協調的な関係が築かれた期間もありました。ただ本書は、これらロシア(ソ連)との協調を志向した人々は、日本外交の一潮流として無視できないものの、細々とした流れだった、と指摘します。本書は、近代日露(ソ)関係史を三区分し、各時期で対露(ソ)外交に積極的だった代表的な政治家を三人取り上げています。時期区分は、日露戦争前後までと、日露戦争後から大正時代と、満州事変から日ソ中立条約までです。各時代を代表するのが、伊藤博文と明治天皇、桂太郎と後藤新平、松岡洋右です。本書は最後に、大日本帝国終末期の対ソ外交を論じます。

 江戸時代の日露の交流は、漂流民を介した散発的なものでした。アヘン戦争でイギリスが清朝(ダイチン・グルン)を蹂躙しているとの風聞が日本に伝わると、佐久間象山など蘭学者の間でロシアとの連携が説かれるようになります。こうした幕末の対露提携には、橋本左内のように、覇権国(当時はイギリス)への対抗という目的が示されており、この構図は近代日本を貫くことになります。しかし、福沢諭吉などじっさいにロシアを訪れた知識階層の人々が、農奴制と皇帝専制政というロシアの実態を見てロシアへの評価を下げたことや、幕府がフランス、薩長がイギリスと交流を深めたことで、明治維新前後にはロシアへの関心は低下していました。

 明治維新後の日露関係は、国境交渉から始まりました。日露間で国境問題となったのは樺太で、伊藤博文は早くも1869年、樺太を放棄して北海道の保持に注力すべきと主張しました。この樺太問題をめぐって、強硬派の西郷隆盛と外交解決派の大久保利通とが対立します。西郷の失脚後、大久保は榎本武揚を起用してロシアと交渉させ、1875年、樺太千島交換条約により、日本は樺太を放棄して千島列島を全て領土としました。この後、明治天皇がロシア皇帝に好意的で、伊藤博文がロシアを警戒しつつも協調関係を築こうとしたため、日露関係は比較的安定していましたが、1891年の大津事件により、日露関係は危機に陥ります。これは、ロシアとの関係を重視してきた明治天皇や伊藤博文や榎本武揚たちの奔走により、開戦のような破局には陥らずにすみました。しかしその後、日露関係は朝鮮半島をめぐって悪化し、それは三国干渉により決定的となります。ただ、日本政府首脳部、とくに長州系の伊藤博文と山県有朋と井上馨は、ロシアとの宥和を模索しました。これは結局実らず、日露戦争が勃発しますが、伊藤は1903年になっても日露協商の可能性に拘っていました。それどころか、伊藤が最終的に日露開戦を決意したのは1904年1月でした。

 日露両国は戦後の1906年2月、国交を回復します。すぐに日露関係が良好になったわけではありませんが、1907年7月には、イギリスやフランスの後押しもあり、日露通商航海条約と第一次日露協約が結ばれます。日露の戦後の関係で重要な役割を担ったのが後藤新平でした。後藤は満鉄の経営を成り立たせるため、鉄道を介してロシアとの提携を模索しますが、思惑通りに進まないところもありました。しかし、この交渉で後藤はロシアに人脈を築き、後の日露(日ソ)関係で重要な役割を果たします。1909年に伊藤が殺害されたのは後藤にとって大きな痛手となり、後藤が伊藤の後継としてロシア外交で担ぎ上げたのは桂太郎でした。ロシアは日本による大韓帝国併合も容認し、アメリカ合衆国に対して日本と共同で満洲での利権確保に努めるなど、朝鮮半島や満洲で勢力範囲を線引きできたことで、友好的な対日関係が築かれます。

 この良好な日露関係は、1917年のロシア革命により大きく変わります。10月革命で権力を掌握し、ドイツと講和して連合国から離脱したボリシェヴィキ政権に対して列強がシベリアに出兵し、列強では地理的に最も近い日本は最大の兵力を派遣しました。後藤もシベリア出兵に同意しており、それには後藤なりの国益計算がありました。しかし、シベリア出兵は失敗に終わり、英米との協調という後藤の目論見に反して、とくにアメリカ合衆国との関係が悪化しました。後藤はシベリア出兵への負い目があったのか、ソ連との国交樹立に奔走します。後藤個人の努力は直接的には実らないところも多かったとはいえ、1925年1月に日ソ基本条約が調印されます。田中はその後も満洲での権益確保と対中政策の観点からソ連との提携を進めようとしますが、中国情勢の急変に対する日ソの隔たりは大きく、後藤の構想は実現しませんでした。

 1929年4月13日に亡くなった後藤の外交構想を継承したのは、松岡洋右でした。しかし、日ソ不可侵条約締結への日本国内の反対は強く、とくに陸軍の一部は対ソ防衛も目的としてきたことから予算を削減されるのではないか、と恐れていました。1936年11月25日に締結された日独防共協定により日ソ関係は悪化し、翌年始まった日中戦争によりさらに悪化します。それは、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件といった武力衝突につながります。本書はノモンハン事件を、「戦争」と呼べる規模だった、と評価します。さらに日本を苦境に追い込んだのは、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約でした。これにより、日本は頼みとしていたドイツとの関係も悪化します。

 しかし、この苦境を逆手にとってソ連との不可侵条約を締結しようとする動きが出てきます。ドイツの一部にも日本の一部にも、独ソに日本、さらにはイタリアも加えて連合を形成しよう、というわけです。第二次近衛内閣の外相に就任した松岡は、日独伊三国同盟によりソ連に圧力をかけて有利な条件でソ連と不可侵条約を締結し、その圧力を背景に対米交渉に臨もうと構想します。1940年9月の日独伊三国同盟締結後、松岡はソ連との交渉に臨みますが、1941年3月、ドイツを訪問した松岡は、独ソ関係の悪化に気づきます。松岡はドイツのリッベントロップ外相から、ソ連との不可侵条約もしくは中立条約を締結しないよう警告されましたが、ソ連との中立条約締結は独ソ和解への第一歩になると考え、モスクワを訪れて1941年4月13日に日ソ中立条約が締結されます。難しいと考えられていた日ソ中立条約が急遽調印に至ったのは、独ソ関係の悪化、とくにバルカン半島情勢の悪化が原因と松岡は考えていました。松岡の構想は、1941年6月22日に始まった独ソ戦により完全に破綻します。すると松岡は、ソ連との「即時開戦」を主張します。松岡は後に、この主張が日本軍の南進を牽制するための謀略だった、と明かしています。しかし本書は、松岡が独ソ戦でのドイツの短期間の勝利を確信しており、ソ連への攻撃を主張していた、と指摘します。対米交渉の邪魔になると考えられた松岡は、第三次近衛内閣で外相に再任されず、実質的に追放されます。

 第二次世界大戦末期、戦局がきょくたんに悪化した日本では、講和交渉の仲介者としてソ連に期待する声が指導層の間で高まります。ソ連に対日参戦確約を伝える情報は日本にも届いていましたが、当時の日本の支配層は、ソ連を強く警戒しつつも、無条件降伏を恐れて、ソ連が仲介者の役割を担うことに期待しました。貧すれば鈍するというか、溺れる者は藁をもつかむ、という心理でしょうか。日ソ中立条約がまだ有効である1945年8月9日、ソ連は日本軍への攻撃を始め、ソ連軍を防ぐべく満洲に配置された関東軍は、すでにかなりの部隊が他戦線に投入されていたこともあり、ソ連軍の進撃を止めることはできませんでした。ソ連の対日参戦により、日本人では軍人のみならず民間人も多大な被害を受け、これがそれ以降の多くの日本人のロシア観を決定づけた、と本書は指摘します。

『卑弥呼』第69話「逃走」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年9月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがヌカデに、疫病が終結せず民が自分を人柱にしようとしたならば、自分を祈祷(イノリ)の場から引きずり出して殺せ、と命じるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国で、トメ将軍とミマアキの一行が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に戻るべく急いで逃走している場面から始まります。一行は一度立ち止まり、兵士たちは地面に大量の松カサを拾います。すると、サヌ王の息子のタギシ王の末裔で、現在の日下の王家とは対立していると言う阿多(アタ)のチカトは、日下のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)がトメ将軍とミマアキの一行を追撃するよう命じた八咫烏(ヤタガラス)は距離を縮めているので、休んでは駄目だ、と忠告します。チカトの部下は地面に耳をつけて八咫烏との距離を測り、すでに自分たちの声が聞ける距離に潜んでいる、とチカトに報告します。日が暮れる前に視界の開けた場所にたどり着かねば我々は全滅だ、とチカトは呟きます。

 しばらく走ると、今度はミマアキがツバキの実を拾い、急いで逃走はなければと焦るチカトは、ツバキの実がそんなに珍しいか、と声を荒げてしまいます。しばらく走った後、夜は休まず走るから、と言ってチカトは小休止を提案し、トメ将軍とミマアキの一行は安堵します。木には小さな銅鐸が吊るされており、これは魔除けの鐸で當麻(タイマ)一族のものだから、當麻一族の領地の端を示している、とチカトは説明します。トメ将軍の配下の者が銅鐸を見ていい土産になる、と呑気に言っているのにチカトの配下は呆れます。當麻一族はかつて鳥見の長脛者(ナガスネモノ)と勢力を二分していましたが、長脛者たちがサヌ王と連合した結果、往時の勢力を失い、現王朝には面従腹背というか、逆らわないものの服従もしないという態度を取っています。もう少し進めば視界の開けた地に出る、と説明するチカトに、そこなら夜でも八咫烏は攻めづらいのだな、とトメ将軍は言います。チカトは、八咫烏は変幻自在なので油断禁物で、開けた土地でも隙をつくれば必ず攻めてくる、休まず走り続ければ勝機はある、とトメ将軍に伝えます。トメ将軍は、兵士たちが疲労しているのを見て、考えるところがあるようです。

 夜、開けた土地に出ると、トメ将軍はチカトに、もう限界なのでここで休まねば先に進めない、と言って野宿を求めます。チカトは仕方なく認め、大きな火を焚き周囲を明るく保ちます。チカトはトメ将軍とミマアキの一行に鹿の皮を渡して休むよう勧めます。夜、トメ将軍とミマアキの一行に全身を黒い服で覆った者たちが密かに近づき、吹矢でトメ将軍とミマアキの一行を攻撃します。しかし、その一部は案山子で、ミマアキたちを刺そうとした八咫烏は、寝ていると見せかけたミマアキたちに逆に刺されて殺されます。チカトは、鹿皮が吹矢を防いでくれる、と事前にトメ将軍とミマアキの一行に伝えていました。トメ将軍の配下の兵が火をつけると一気に燃え盛り、トメ将軍とミマアキの一行とともに八咫烏は火に囲まれます。ツバキの実と松カサを置き、一気に火がつくよう手配していたわけです。さらに、チカトの兵が小さな銅鐸を鳴らします。八咫烏は闇の戦闘に備えて耳と鼻を鍛えているので、炎で闇を消し、松カサの匂いで嗅覚を使えなくして、聴覚も互角になった、というわけです。ミマアキはトメ将軍に、残って自分が解きを稼ぐので先に行くよう、進言していました。トメ将軍は、ミマアキの方が配下の者とともに葛城山(カツラギノヤマ)を越えるよう要請しますが、當麻一族は頭であるトメ将軍の言葉以外信用しないだろう、と言いました。ミマアキは、八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物に勝負を挑みます。

 那(ナ)の国の岡(ヲカ)では、ヤノハの籠る建物の前でヌカデとオオヒコがヤノハの指示を待っていました。ヤノハはヌカデにもまだ行先を告げず、ヌカデも聞かされていない誰かを待っているようでした。ナツハ(チカラオ)の操る犬と狼が一瞬店を見上げたことから、曲者が来たのか、とオオヒコは一瞬警戒します。その曲者はアカメで、オオヒコにも気づかれずヤノハの籠る建物に入ります。アカメはヤノハに、厲鬼(レイキ)は五百木(イオキ)から海を越えて山社(ヤマト)にもたらされたようで、どの国も同じ状態だ、と報告します。暈(クマ)の国の様子をヤノハに尋ねられたアカメは、国を閉ざして人々の往来を禁じたが、いささか遅きに失したようで、他国以上に人が死んでいる、と答えます。ヤノハは暈の最高権力者となった鞠智彦(ククチヒコ)に書状を届けるよう、アカメに命じます。それは、ヤノハが出雲の事代主(コトシロヌシ)から聞いた厲鬼(疫病)撃退の術で、近いうちに厲鬼封じの薬も教えるという内容でした。暈は宿敵ではないか、と驚くアカメに、厲鬼は等しく人に災いをもたらし、暈の厲鬼が死なないと山社の厲鬼も死なないので、もはや敵味方と言っていられる状況ではない、とヤノハが答えるところで今回は終了です。


 今回はトメ将軍とミマアキの一行の逃走が主題でした。トメ将軍配下の呑気に見えた行動には意味があるのだろうな、とは思っていましたが、さすがにトメ将軍は百戦錬磨です。ミマアキが一騎討ちを求めた八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物は、八咫烏の一般的な兵に対する優位を失ったとはいえ、武芸に長けているはずなので、ミマアキが勝てるのか、予測しにくいところがあります。あるいは、ミマアキは負けて捕らえられ、筑紫島の情勢を尋問されるのでしょうか。ヤノハが暈にも疫病対策を伝えたことが、今後の展開にどう影響するのか、という点も注目されます。トメ将軍とミマアキの運命とともに、出産と疫病撃退を決意したヤノハの運命がどう描かれるのか、次回以降もたいへん楽しみです。

ホモ・フロレシエンシス頭蓋の生体力学と摂食能力

 ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)頭蓋の生体力学と摂食能力に関する研究(Cook et al., 2021)が公表されました。本論文の概要は、すでに今年(2021年)4月7日~4月28日にかけて、オンラインで開催された第90回アメリカ自然人類学会総会にて報告されていました(関連記事)。インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見された小柄な人類はホモ属の新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と分類され、その頭蓋下顎や歯の形態は広く研究されてきましたが、その機能と接触生体力学に関する議論は続いています。

 フロレシエンシス遺骸の年代は10万~6万年前頃で(関連記事)、その頭蓋歯形態には、食性の生態的地位についての手がかりを提供する多くの祖先的特徴があります。以前の研究では、フロレシエンシスの上下の横溝を有する頑丈な下顎枝と下顎結合が示されました。これらアウストラロピテクス属にも存在する特徴は、硬い種子やナッツを割る時など、高い咀嚼圧力に対して顔面を「強化する」と考えられています。ホモ・フロレシエンシスはホモ・ハビリス(Homo habilis)と類似した小臼歯も示しており、おそらくは小臼歯が関わる摂食行動中の強い咬合を示唆します。しかし、ホモ・フロレシエンシスの大臼歯サイズは縮小しており、とくに上下の第一大臼歯が短く、より頑丈な人類種と比較して、咬合負荷の減少が示唆されます。さらに、ホモ・フロレシエンシス頭蓋の顔面中央骨格は顕著なサイズ縮小を示しており、後のホモ属と類似した華奢化を伴います。

 現生人類(Homo sapiens)の顔面中央に見られる類似の華奢化は、石器の開発とそれに伴う口腔前処理の増加に伴う負荷軽減の結果と主張されています。これらの適応的移行は、力学的に強化された頭蓋歯的適応に対する選択圧の緩和と相関していた、と示唆されています。さらに、増大した筋力を受けると、現生人類は臼歯の咬合時に顎関節(TMJ)脱臼の危険性がある伸張反作用力を示します。これらの結果は、より柔らかい食物への移行および/または現生人類による口腔前処理の仮説をさらに裏づけ、それにより強力な咀嚼の力学的圧力に耐えられるような顔面形態の選択圧を緩和します。一方、別の研究では、他の人類に匹敵する咬合反作用力を生成もしくは維持するさいに、人類の頭蓋はさほど頑丈でなくともよく、強力な咬合行動がホモ属の頭蓋形成において選択的に重要だった可能性を指摘します。後のホモ属の華奢化につながる選択圧はまだ不明ですが、これらの仮説はホモ・フロレシエンシスの頭蓋の外見上の華奢化について情報をもたらすかもしれません。

 さらに、ホモ・フロレシエンシスの食物選択の証拠が不足しています。ホモ・フロレシエンシス遺骸のLB1とLB6の下顎歯の摩耗は、関連する動物遺骸がリアンブア洞窟に残っていることと合わせて肉への依存を示唆しますが、エナメル質の同位体特性や歯の微視的使用痕など、食性再構築に関する他の形式のデータはまだ収集されていません。以前の研究では、ホモ・フロレシエンシスは繰り返しの負荷には耐えられたかもしれないものの、咀嚼力はアウストラロピテクス属ほど高くなかった、と指摘されています。ただ現生人類と比較すると、ホモ・フロレシエンシスは比較的頑丈で、咀嚼に関連する負荷の増加が示唆されています。

 本論文は有限要素解析(FEA)を用いて、ホモ・フロレシエンシスの正基準標本であるLB1の頭蓋における摂食生体力学を、アウストラロピテクス属および現代人およびチンパンジー(Pan troglodytes)と比較して調べます。ホモ・フロレシエンシスの咀嚼負荷は、アウストラロピテクス属よりも減少したものの、現代人を上回っている、との以前提示された仮説を本論文は検証します。そうした検証は、ホモ・フロレシエンシスが処理できただろう食物についていくつかの推論を可能にし、生体力学的接触パターンの進化に知見をもたらします。

 LB1の新たな仮想再構築に基づいて、ホモ・フロレシエンシスの有限要素モデル(FEM)が構築されました(図1)。LB1における第三小臼歯(P3)と第二大臼歯(M2)の咬合のさいの顔面の力みの度合と梃子比が分析され、現代のチンパンジーや最近の現生人類やアウストラロピテクス属と比較されました。アウストラロピテクス属には、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)標本(Sts 5)やアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)標本のMH1(関連記事)が含まれ、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)標本(OH5)も比較対象となりました。以下は本論文の図1です
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●分析結果

 ミーゼス応力の大きさと分布を示す図(図2および図3)から、LB1はとくにP3の咬合中に、アウストラロピテクス属よりも一般的に高いひずみみの大きさがあった、と示されます。全体的にLB1の高いひずみの分布は、チンパンジーの方と類似している頬骨の体部と弓部を除いて、現代人と最もよく似ています。以下は本論文の図2および図3です。
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 顔面骨格全体の14ヶ所の相同部位から収集されたひずみの程度(図4)は、図2および図3の結果を裏づけます。P3の咬合時、LB1のひずみは、背側眼窩間(DIT)と作業側背側眼窩(WDO)を除くすべての部位で、アウストラロピテクス属を上回っていました。さらに、アウストラロピテクス・アフリカヌスに分類される標本Sts 5の均衡頬骨弓(BZA)のひずみの程度は、LB1を上回っていました。この負荷事例でLB1ひずみの程度が最大なのは作業鼻縁(WNM)で、分析した他のすべての種を上回りました。M2の噛み合わせでは、結果がやや変化しました。この負荷事例では、LB1のひずみの程度は作業頬骨根(WZR)とBZAでSts 5を上回り、近郊眼窩下(BIF)ではSts 5と同程度でした。以下は本論文の図4です。
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 LB1のP3およびM2の負荷事例の咬合梃子比は両方とも現代人の範囲内で、本論文の標本に含まれる他の人類と同定です。LB1のP3の力学的利点(MA)はチンパンジーのMAと重なっているものの、その上限に向かっているのに対して、LB1のM2のMAはチンパンジーの範囲を超えています。LB1は、大臼歯の咬合時に作業側のTMJでかすかに引張性の関節反作用力を示し、ゼロとの差がほとんどありません。これは、筋の合成運動が両側顎関節と咬合点の3点を頂点とする三角形のすぐ外側にある、と示唆します。一方、MH1や現代人のTMJ反作用力はより強い張力ですが、Sts 5やOH5のそれは圧縮性です。


●考察

 ホモ・フロレシエンシスの正基準標本であるLB1頭蓋の本論文のモデルは、P3とM2両方の咬合におけるアウストラロピテクス属と比較しての構造的弱さを示します。いくつかの例外を除いて、LB1のミーゼスひずみの程度は、顔面頭蓋の大半において現代人で観察されたひずみの上昇に似ていますが、頬骨の体部と弓部ではチンパンジー的な水準のひずみ増加を示します。これはとくにP3負荷の場合に当てはまり、摂食咬合をシミュレートできるかもしれません。摂食行動に大きく依存している種は、吻の張力を減少させる適応を示すはずだ、と示唆されています。アウストラロピテクス・アフリカヌスの摂食生体力学のFEAでは、この化石人類種の鼻縁に沿って走る特徴的な「前柱」が、硬い種やナッツを割るときなどに小臼歯に力が加わったさいに、圧縮ひずみに抵抗する作用をする、と明らかになりました。これらのひずみは、支柱を取り除くか縮小するシミュレーションでは、ひじょうに高くなります。本論文におけるLB1のFEMでは、P3の咬合ではWNMに沿って現代人の上限値より大きなフォンミーゼスひずみが発生し、モデルサイズに合わせると、Sts 5標本を3倍近く上回ります。

 噛み砕く力が強かったという以前の結論とは対照的に、本論文の生体力学シミュレーションの結果は、ホモ・フロレシエンシスの顔面中央が後のホモ属と同様に華奢化し、それに伴って咀嚼負荷が減少したことを示す形態学的証拠と一致します。ホモ属における顔面縮小の適応的意義を説明するための理論は、食性変化の重要性を強調することが多く、通常は口腔内での処理がより少ない食物への移行を伴います。対照的に以前の研究では、現生人類の頭蓋は力強く噛めるよう適応している、と示唆されています。しかし、M2の負荷事例におけるLB1の作業側TMJの張力は、力強く噛むことの限界と、大臼歯を使うさいに関節の張力を和らげる均衡側筋肉の力を減少する必要性を示唆します。さらに、最大咬合力は歯のサイズに比例すると示されており、ホモ・フロレシエンシスの大臼歯の咬合面積が小さいことは、力強い咀嚼が少ないことを反映している、と推測するのが妥当です。

 以前の研究では、ホモ・フロレシエンシスの下顎は摂食負荷においてアウストラロピテクス属的な構造的強さの程度を示すものの、傍矢状の曲がりに関しては現代人に近い、と明らかになりました。その研究では、ホモ・フロレシエンシスはアウストラロピテクス属と比較すると咀嚼負荷が減少している可能性は高いものの、現代人との比較では上昇している、と結論づけられました。本論文のFEAの結果は、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋がこのパターンに従わないことを示唆します。本論文では、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋が同程度の負荷条件では現代人と同じくらい、場合によっては弱かったことを示唆します。

 興味深いことに以前の研究では、食性に関係なく類人猿の骨形状パターンとの一致が観察されました。その研究では、さまざまな食生活(もしくは摂食行動)の力学的要求は、下顎における皮質骨の利用と配置の詳細には現れず、現生ヒト上科において皮質骨の分布と食性との間に明確な関係はない、と結論づけられています。したがって、ホモ・フロレシエンシスの下顎皮質骨の形状から摂食行動を推測できるのか、不明です。むしろ、下顎の強度を考慮するさいには、体格と比較しての体部サイズの方が関連しているかもしれません。なぜならば、アウストラロピテクス属の下顎における力学的強度は、比較的大きな体格とより高水準の骨量によりもたらされるからです。ホモ・フロレシエンシスの下顎枝のサイズが他の人類と比較して推定される身体サイズに比して小さいとの知見は、本論文の結果と一致します。

 霊長類の頭蓋形態が摂食行動に適応しているのかどうかも不明です。じっさい、頭蓋が選択圧にどのように反応し、適応するのか理解することは、頭蓋骨が果たす多くの機能により複雑になります。競合する要求は、さまざまな機能の最適化において複雑なトレードオフ(交換)をもたらし、高度に統合された構造をもたらします。頭蓋骨の歪みのデータは、それ自体では食生活を反映していない可能性もあります。しかし曲鼻亜目では、頭蓋と食性の側面との間の共変動は、下顎と食性との間のそれよりも緊密である、と以前の研究では明らかになりました。現生霊長類における食性と摂食生体力学との間の関係についての研究により、化石種の摂食適応についての理解がさらに深まるでしょう。


●まとめ

 本論文のシミュレーションと分析により、ホモ・フロレシエンシス、少なくともLB1の頭蓋は、咬合力を効率的に伝達できるものの、顔面骨格の大半に比較的高水準のひずみが生じており、力強く大臼歯を噛むと、TMJ亜脱臼もしくは脱臼の危険性がある、と示されました。これらの結果から、LB1は大きくて強力な咀嚼負荷には適しておらず、おそらく犬歯後列の最大咬合力の生成に関して制約を受けている、と示唆されます。したがって、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋は、力強い咬合および/もしくはひじょうに反復的な咀嚼を必要とする硬いものか硬い組織を食べることへの対応で、自然選択により形成された可能性は低そうです。エナメル質の同位体(関連記事)や歯の局所分布や咬合性微視的使用痕(関連記事)や巨視的使用痕のパターンのさらなる分析により、ホモ・フロレシエンシスの食性傾向に新たな光を当てられるでしょう。

 ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学は、現代人で観察されるパターンとよく似ています。現生人類とホモ・フロレシエンシスの最終共通祖先において、本論文で観察されたような顔面中央の縮小と摂食生体力学の現代人的パターンがすでに存在していた、と推測するのは妥当です。ホモ・フロレシエンシスの系統的位置づけは議論されており、依然として不明ですが(関連記事)、ホモ・フロレシエンシスはホモ属の基底部構成員を表しているかもしれず、縮小した顔面中央の骨量や張力TMJ負荷のそうしたパターンは、ホモ属の初期に出現した可能性があります。頭蓋歯摂食の現代人的な生体力学パターンの進化は、このパターンが最初に進化したかもしれない、現生人類とホモ・フロレシエンシスの最終共通祖先の摂食生態と食性のさらなる研究により明らかになるかもしれません。


参考文献:
Cook RW.. et al.(2021): The cranial biomechanics and feeding performance of Homo floresiensis. Interface Focus, 11, 5, 20200083.
https://doi.org/10.1098/rsfs.2020.0083

昆虫のコミュニケーションの起源

 昆虫のコミュニケーションの起源に関する研究(Schubnel et al., 2021)が公表されました。多くの昆虫は、翅の形や色に加えて、翅が発する音を使って、交尾相手を引き寄せたり、捕食者から逃れたりしています。こうした行動が、いつ、どのようにして進化したのか、まだ分かっていません。それは、コミュニケーションに使われている構造と他の目的に使われている構造を、翅化石において区別するのが困難だからです。

 この研究は、フランスのリエヴァン(Liévin)で昆虫の翅の化石を発見し、ティタノプテラ目の新種の翅であることを明らかにしました。ティタノプテラ目はキリギリスに似た巨大な捕食性昆虫で、翅の長さは最長のもので33cmを超えていました。この新種は「Theiatitan azari」と命名されました。テイアー(Theia)とは、ギリシア神話に登場する光の女神です。この翅は、これまで最古とされていたティタノプテラ目種の化石や翅を使って音を出していたと考えられている、「Permostridulus brongniarti」の化石よりも約5000万年古いことになります。

 この研究は、一部のティタノプテラ目種(T. azariを含む)の前翅の中に、さまざまな角度や形状の複数のパネルが存在していることを見いだしました。これらのパネルは、コミュニケーションのために翅を使って光を反射させたり、音を発したりする化石昆虫や現生昆虫の持つパネルに似ています。T. azariは、翅を使って光を反射させたり、パチパチという音を発生させたりすることでコミュニケーションを行なっており、この翅の形状と構造から、それが可能だったのは、こうしたパネルのためと示唆されました。

 これらの知見は、昆虫が翅を使って情報を発信することが石炭紀後期(約3億1000万年前)から始まっていた可能性を示唆するとともに、昆虫の進化史を通じて、翅が昆虫のコミュニケーションにとって重要だった、と明らかにするとともに、T. azariはコミュニケーションのために翅を使用していた最古の昆虫種だった、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:遠い昔の昆虫の翅が解き明かす昆虫のコミュニケーションの起源

 このほど発見された昆虫の翅の化石で観察された複数の特徴が、翅を用いたコミュニケーションを示す最古の証拠になったことを報告する論文が、Communications Biology に掲載される。この知見は、昆虫が翅を使って情報を発信することが石炭紀後期(約3億1000万年前)から始まっていた可能性を示唆している。

 多くの昆虫は、翅の形や色に加えて、翅が発する音を使って、交尾相手を引き寄せたり、捕食者から逃れたりしている。こうした行動が、いつ、どのようにして進化したのかは分かっていない。コミュニケーションに使われている構造と他の目的に使われている構造を、翅化石において区別するのが難しいからだ。

 今回、André Nelたちの研究チームは、フランスのリエヴァンで昆虫の翅の化石を発見し、ティタノプテラ目の新種の翅であることを明らかにした。ティタノプテラ目は、キリギリスに似た巨大な捕食性昆虫で、翅の長さは最長のもので33センチメートルを超えていた。Nelたちは、この新種をTheiatitan azariと命名した。テイアー(Theia)は、ギリシャ神話に登場する光の女神だ。この翅は、これまで最古とされていたティタノプテラ目種の化石や翅を使って音を出していたと考えられているPermostridulus brongniartiの化石よりも約5000万年古い。Nelたちは、一部のティタノプテラ目種(T. azariを含む)の前翅の中に、さまざまな角度や形状の複数のパネルが存在していることを見いだした。これらのパネルは、コミュニケーションのために翅を使って光を反射させたり、音を発したりする化石昆虫や現生昆虫の持つパネルに似ている。T. azariは、翅を使って光を反射させたり、パチパチという音を発生させたりすることでコミュニケーションを行っており、この翅の形状と構造から、それが可能だったのは、こうしたパネルのためであると示唆された。

 以上の知見は、昆虫の進化史を通じて、翅が昆虫のコミュニケーションにとって重要だったことを明確に示しており、T. azariがコミュニケーションのために翅を使用していた最古の昆虫種であることを示している。



参考文献:
Schubnel T. et al.(2020): Sound vs. light: wing-based communication in Carboniferous insects. Communications Biology, 4, 794.
https://doi.org/10.1038/s42003-021-02281-0

野口淳「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」

 本論文は、日本列島において報告された、あるいはこれから報告されるであろう、「後期旧石器時代以前」または「4 万年前以前」の遺跡の存在を定量的に検討するための試論です。本論文はまず結論として、日本列島における「4 万年前以前」とされる「遺跡」の存在を高い蓋然性によって示す・説明することは現状では困難と指摘し、その理由を遺跡分布・立地と地形発達史の関係から説明し、日本列島外の事例と比較します。本論文は、静岡県井出丸山遺跡第1文化層を、2020 年時点で報告されている後期旧石器時代(上部旧石器時代)文化層の最古の年代として、それより以前を「後期旧石器時代以前」とする立場から、「4 万年前」を区切りの目安としています。

 手続き論上、考古学的に「不存在」を証明することはほぼ不可能で、可能なのは、提示・報告された資料・データの確からしさの検証か、状況証拠からの推論による、「存在」の妥当性・蓋然性の検討である、と本論文はまず指摘し、遺跡分布・立地を『日本列島の旧石器時代遺跡』データベース(JPRA-DB)に基づいて検討します。ただJPRA-DBには時期区分情報が含まれないので、本論文では主要石器の組み合わせが示標とされます。具体的には、「台形(様)石器」または「石斧」を含むものの、「剥片尖頭器」や「角錐状石器・三稜尖頭器」や「槍先形尖頭器」や「細石刃・細石核」や「神子柴型石斧」や「有茎(舌)尖頭器」や「草創期土器」を含まない遺跡・地点・文化層が、後期旧石器時代前半(EUP)とされます。JPRA-DB 刊行時のデータで計791件が該当し、地理的には北海道から奄美大島までが含まれます。一方、4 万年前以前とされる遺跡については異論も多く確定的ではありませんが、22ヶ所の 遺跡・地点・文化層を示す2016年の論文もあります。その後報告された長野県の木崎小丸山遺跡を含めて、発掘調査資料で火山灰層序・年代測定により4 万年前以前と言えるのは、8 遺跡12件です。

 まず本論文は、日本列島における4万年前頃以降の旧石器時代遺跡の大幅な増加を指摘します。4万年前頃を境目とした単純な比較では、それ以前に対してそれ以降は80倍以上の増加となります。継続期間を考慮した遺跡数は、4万年前以前が12万~4万年前頃として1000年あたり0.15件、EUPが4万~3万年前頃として1000年あたり79遺跡です。日本列島における4万年以上前の遺跡を認めるとしても、4万年前頃以降に大量の人口移動または増加があったことは間違いない、と本論文は指摘します。

 4 万年前以前と言える8 遺跡12件のうち、4万年前頃以降の文化層も検出されているのは4 遺跡で、重複率は50%です。逆に、EUP 遺跡から見ると、重複率はわずか0.76%です。他の時代との比較では、利用可能な日本列島全体の遺跡のデータ集成がないため、東京都の遺跡6286件のデータが参照されました。EUP以降(4万年前頃以降)の旧石器時代では、単独の立地は7%で、残りの93%は縄文時代以降の遺跡と重複します。「旧石器あり」の遺跡は全体の約11%なので、その後の増加率は約10倍となります。東京都のデータでは、4万年前頃以降の居住・活動の立地選択は、時代を超えて共通していると言えますが、4万年前頃以前は、それとは大きく異なることになります。

 日本列島内における遺跡数や分布・立地、重複率などの大きな変化について、人類集団の渡来・交替による、との説明があります。4万年前頃以降に渡来した集団(population)は、それ以前とは異なる土地利用・資源開発により、短期間に日本列島に適応し急速に多くの遺跡を残したという説明も可能である、と本論文は指摘します。そこで本論文は、日本列島外との比較を試みますが、日本列島内のように網羅的なデータを利用できないので、いくつかの断片的な情報を参照します。

 以前の研究では、韓国の事例の集成から、朝鮮半島南部における後期旧石器時代とそれ以前の遺跡の重複率は約30%、増加率は約3倍と示されています。これは日本列島のそれ(0.7%、80倍)とは大きく異なる緩やかな変化だ、と本論文は指摘します。他の国・地域については同等のデータの比較は困難ですが、アジア東部だけではなく、アジア南部やアジア南東部やアジア中央部やアジア北部など広く見渡しても、開地遺跡において同一地点での中期旧石器時代(中部旧石器時代)以前と後期旧石器時代遺跡の重複、または同一立地の遺跡・遺跡群内での検出が広く確認できます。中期旧石器時代以前の遺跡が存在するとき、同じ立地において後期旧石器時代相当の地形・地層が残されていれば、遺跡が見つかる確率はそれなりにあると言えるだろう、と本論文は指摘します。

 東京都において同一遺跡・地点内で6 以上の文化層が検出された遺跡は、野川流域に多いほか、武蔵野台地の各地にも分布しているので、繰り返し利用された立地が少なくない、と本論文は指摘します。立川面の遺跡を除くと、他はS(下末吉)面~M2b(田柄)面で、14万~7 万年前頃以降の地形・堆積が残されていますが、これまでに発掘されたすべての遺跡・地点で4 万年頃以前の文化層は検出されていません。ヒトの活動の痕跡は、37000年前頃以に出現し、同層準(立川ロームXb層)に多数の地点・文化層が検出されているのに対して、それ以下の層準からの文化層・人工物の報告は、遺跡の形成·遺存が可能な地形·地層があるにも関わらずありません。本論文はこれらの検証から、日本列島において4万年前頃前後に見られる遺跡数の急速な増加や立地選択の変化は、日本列島にのみ特徴的に見られるもので、地形発達史や堆積物の遺存などの要因によるものではない、と結論づけています。

 日本列島における4万年前頃以前とされる遺跡は、アジア各地の人類集団の交替·それに伴う生活や行動の変化のデータと整合性が低いので確実なものとは言えない、と本論文は指摘します。日本列島において4 万年前頃以降に多数の遺跡が「突如」として現れるのは、先行する人類集団のいない事実上空白のニッチに進出した人類集団が、短期間に人口を増やしたか、あるいは広範囲を開発利用したことを示しているのだろう、と本論文は推測します。ただ本論文は、こうした見解が「現在得られている情報にもとづくならば」という留保つきであることから、新発見により見解が変わる可能性も指摘します。日本列島における4万年前頃以前の人類の痕跡を示すならば、上述の日本列島固有に見える特徴を日本列島外との比較で説明できねばならず、合理的な説明は現時点でまだないだろう、と本論文は指摘します。

 日本列島に前期・中期旧石器時代遺跡はあるのか、または4 万年前頃より古い人類の痕跡はあるのかという学術的な問いは、日本列島に最初に到来した人類が何者でどのくらい古いのかという「わたしたちの歴史や来歴」に関する語りに変換され、広く一般市民を魅了するので、一般市民を対象とした場では、科学的手続きに基づいたより厳密な応答よりも、結論を先に明示した上で後から細かい条件を説明すべきなのかもしれない、と本論文は提起します。本論文は、学術的な議論とサイエンス・コミュニケーションを使い分けた上で、「分かりやすく」と「丁寧に」を両立させる配慮を目指し、本論文で提示したデータや分析の説明を行ないたい、と今後の方針を示しています。

 以上、本論文についてざっと見てきました。これまで当ブログでは、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します、というようなことを述べてきました(関連記事)。これはかなり雑な印象論にすぎませんが、本論文で具体的な遺跡のデータおよび他地域との比較を知ることができ、この問題を考えるうえでたいへん有益でした。本論文も指摘するように、今後の発見により見解を大きく変える必要があるかもしれませんが、現時点では、4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、4万年前頃以降の日本列島の人類には遺伝的にも文化的にも影響を及ぼしていない可能性が高いように思います。


参考文献:
野口淳(2020)「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P31-34

大河ドラマ『青天を衝け』第24回「パリの御一新」

 日本では大政奉還から王政復古まで進んでいますが、パリの栄一(篤太夫)には、1868年1月26日(慶応4年1月2日)になってやっと、大政奉還の報が伝わります。激変する国内情勢に栄一たちは困惑します。栄一はフランス側から誘われて証券取引所を訪れ、国債や社債について教えられ、感銘を受けます。翌月になって栄一たちに、慶喜が薩長との対立を避けて大坂城に退いた、との報が伝わります。妻をはじめとして家族・親族からの書状も届き、栄一は安堵しますが、自分の洋装に妻が落胆しているのを知って複雑な気持ちになります。さらに3月になって、鳥羽伏見の戦いと慶喜の江戸への退却が栄一たちに伝わります。栄一たちパリにいる一行は衝撃のあまり、激昂する者も呆然とする者もいました。慶喜から徳川昭武への書状も届き、そこには慶喜の意図が説明されていましたが、慶喜の行動に納得のいかない栄一は一瞬激昂します。

 今回、国内政局は慶喜視点の描写になるのかと予想していたら、慶喜は回想場面にしか登場せず、書状で意図が短く説明されただけでした。平九郎の死もあっさりとした描写でしたが、慶喜の意図と平九郎の最期は次回詳しく描かれるようです。今回、林董も登場しましたが、いかにもといったモブキャラだったので、今後の登場はないでしょうか。まあ、栄一について詳しくないので、明治時代に栄一との関係があったのかもしれませんが。今回、鳥羽伏見の戦いがまったく描かれなかったのは意外でしたが、あくまでも主人公は栄一ですから、パリにいた時は国内政局が分からず、帰国して初めて詳しく知ったという栄一視点を視聴者に強く印象づけるという意味では、悪くなかったように思います。

現代人で最もデニソワ人からの遺伝的影響が強いフィリピンのネグリート

 フィリピンのネグリートにおける種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝的影響に関する研究(Larena et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。出アフリカ以来、現生人類(Homo sapiens)はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やデニソワ人といった絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と、さまざまな年代と場所で共存して交雑してきました。ネアンデルタール人やデニソワ人、さらにおそらくは他の絶滅ホモ属との相互作用(関連記事)は、現代の人口集団のゲノムに遺伝的痕跡を残しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 全ての非アフリカ系現代人は、均一な水準のネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有しますが、オーストラレーシア人は他の人口集団と比較して、デニソワ人祖先系統の割合がより高くなっています。デニソワ人は当初、オーストラレーシア人(フィリピンのネグリートとオーストラロパプア人の間で共有された遺伝的祖先系統の総称)の祖先との単一の混合事象を通じて、現生人類との単一の共有された人口史を有していると考えられていました(関連記事1および関連記事2)。

 その後の研究では、デニソワ人は深く分岐した構造の人口集団である可能性が高く、広範で多様な環境に居住していた、と示唆されました。これは、デニソワ人の祖先系統が、低水準とはいえ、現代のアジア東部人とアジア南部人とシベリア人とアメリカ大陸先住民で検出されたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。人口集団水準のゲノムから回収された絶滅ホモ属由来領域の分析を通じて、現生人類はデニソワ人と過去に少なくとも2回混合し、デニソワ人的な人口集団は、参照されるアルタイ地域のデニソワ人(関連記事)とはさまざまな程度の遺伝的類似性を有する、と最近示されました(関連記事)。その後の研究により、第三の独立したデニソワ人からの遺伝子移入事象が明らかになり、これはパプア人関連人口集団のみで見られ、デニソワ人とオーストラレーシア人との間のますます複雑な混合史が示唆されました(関連記事)。

 デニソワ人とオーストラレーシア人との間の絡み合った人口史は明らかにされつつありますが、アジア南東部島嶼部(ISEA)におけるその特有の相互作用の知識は限られたままです。「ネグリート」と自己認識し、オーストラロパプア人と遺伝的に関連するフィリピンの一部の現代の人口集団が、顕著な水準のデニソワ人祖先系統を示すことから(関連記事1および関連記事2)、これはとくに重要です。ISEA地域における過去のデニソワ人とオーストラレーシア人の相互作用の理解を深めるため、25の民族言語的に多様なネグリート人口集団を含む、フィリピンの118の異なる民族集団からの1107個体の古代型(絶滅ホモ属由来の)祖先系統が包括的に調べられました(図1A)。以下は本論文の図1です。
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●フィリピンのネグリートの人口構造と遺伝的関係

 オーストラレーシア人関連のネグリートは、最終氷期には大半が陸地化していたISEAの連続した生物地理学的地域である、スンダランドの最初の現生人類の住民とみなされています(関連記事)。53000年前頃(95%信頼区間で64000~41000年前)となるパプア人との分岐に続いて、ネグリートは利用可能なパラワン・ミンドロもしくはスールー・サンボアンガ回廊を経由してスンダランドからフィリピンへと移動し、後に複数の言語的に多様な現在のフィリピンのネグリート集団へと分岐しました。

 現在のフィリピンのネグリートの遺伝的類似性の概要を提供するため、オーストラレーシア人とアジア東部人とユーラシア西部人を含む人口集団の部分集合で主成分分析が実行されました(図1B)。全てのネグリートはオーストラロパプア人とフィリピンのコルディリェラ人(Cordilleran)の人口集団クラスタ間に位置し、オーストラレーシア人関連祖先系統とアジア東部人関連祖先系統という、2つの祖先的供給源の混合が示唆されます。さらに、フィリピンのネグリートに限定された部分集合の主成分分析と、ADMIXTUREで実装された教師なしクラスタ化分析により、ネグリートの少なくとも5つの異なる人口集団クラスタが明らかになりました。それは、ルソン島中央部、ルソン島北部、ルソン島南東部、ルソン島南部、南部です(図1C)。

 フィリピンのネグリートはパプア人とクレード(単系統群)を形成する、と以前に示されました。そこで、フィリピンのネグリートとアジア東部人との間の最近の混合の証拠がさらに調べられました。D検定(ムブティ人;アジア東部人、オーストラレーシア人、検証集団)を用いると、ネグリート人はアジア東部人からの顕著な水準の遺伝子流動を示し、中国南部と台湾のより広大な地域からのオーストロネシア語族移民との最近の混合に起因します(関連記事)。連鎖不平衡(LD)に基づく混合年代推定手法を適用すると、ネグリートとアジア東部人との混合事象は2281年前(95%信頼区間で2523~2083年前)と推定されます。

 次に、最小限のアジア東部人との混合供給源の代理としてバランガオ(Balangao)のコルディリェラ人、最小限の混合オーストラレーシア人供給源の代理としてパプア人を用いて、qpAdmの実行で2つの祖先的供給源間の混合の程度が定量化されました。全体的に、ネグリートはアジア東部人とのさまざまな程度の混合を示し(図1D)、マリヴェレニョ語アエタ人(Ayta Magbukon)やアンバラ語アエタ人(Ayta Ambala)のようなルソン島中央部ネグリートは、アジア東部人関連祖先系統が10~30%と最小になっています。

 絶滅ホモ属とのオーストラレーシア人の遺伝的類似性を識別するため、チンパンジーとネアンデルタール人とデニソワ人の個体で主成分分析が実行され、現代のアフリカ人とアジア東部人とフィリピンのネグリートとオーストラレーシア人が投影されました。PC1軸はチンパンジーと絶滅ホモ属の軸により定義されたのに対して、PC2軸はデニソワ人とネアンデルタール人の軸により定義されます。全ての現代の人口集団は中心に位置し、その拡大図では、デニソワ人の軸に向かってのオーストラロパプア人とフィリピンのネグリートの帰属が示されます。興味深いことに、ほとんどのマリヴェレニョ語アエタ人は、パプア人もしくはオーストラリア先住民よりもデニソワ人の軸の端に位置し、オーストラロパプア人よりもマリヴェレニョ語アエタ人の方でデニソワ人祖先系統がより高水準であることを示唆します。


●最高水準のデニソワ人祖先系統を示すフィリピンのネグリート

 ネアンデルタール人祖先系統は全てのフィリピンの民族集団で均一に検出され、それはアフリカ外の世界規模の人口集団と同程度ですが、以前の研究で示されたように(関連記事1および関連記事2)、デニソワ人祖先系統の程度はずっと多様です(図2AおよびB)。デニソワ人祖先系統はネグリートでより高く、非ネグリート祖先系統の水準に比例して減少する明確な勾配があります。したがって、ネグリート祖先系統とデニソワ人祖先系統との間の強い相関が見つかります(図3A)。以下は本論文の図2です。
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 さらに興味深いことに、一部の北部ネグリートはこれまでに記録されたデニソワ人祖先系統の最高推定値を有しており(図2AおよびB)、D検定(ムブティ人;デニソワ人、オーストラリア先住民/パプア人、マリヴェレニョ語アエタ人)基づくと、オーストラロパプア人よりもマリヴェレニョ語アエタ人の方がより高いデニソワ人祖先系統を示します(図3BおよびC)。マリヴェレニョ語アエタ人へのデニソワ人の遺伝子移入のより高い程度は、10~20%のアジア東部人との最近の混合の検出にも関わらず、観察されます。これは、パプア人およびオーストラリア先住民集団との混合が少ないのとは対照的です(図3B~D)。これらの結果は、代替のデータセットを用いて、人口集団の代わりに個体群を検証するか、確認の偏りを考慮するか、これらの人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統を補正しても、一貫しています。

 デニソワ人の混合程度の違いは、ネグリートにおけるアジア東部人関連混合を隠すことでより明確になります(図3BおよびC)。これにより、ほとんどのネグリートでは、パプア人もしくはオーストラリア先住民よりも明らかに高いデニソワ人祖先系統の推定値が得られ、信頼区間は重なりませんでした。さらに、ネグリートにおけるデニソワ人祖先系統とアジア東部人関連祖先系統との間の回帰線を「アジア東部人との混合無し」に外挿法により推定すると、「混合されていない」祖先的ネグリートにおけるずっと高いデニソワ人祖先系統が示唆され、それはパプア人よりも46%高くなります(図3D)。同様に、ネグリートもしくはパプア人関連祖先系統とのデニソワ人祖先系統の比率は、パプア人関連人口集団よりもネグリートの方で顕著に高くなります(図3E)。以下は本論文の図3です。
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●配列データ分析によるデニソワ人祖先系統の割合の比較

 一部のフィリピンのネグリートにおいて、デニソワ人祖先系統が高水準であることについて、さらに調べられました。マリヴェレニョ語アエタ人5個体の高網羅率(平均37倍)の全ゲノム配列が生成され、絶滅ホモ属(関連記事1および関連記事2)および現代人(関連記事)の刊行された利用可能なゲノム配列データセットと統合されました。オーストラリア先住民の高網羅率のゲノムの比較分析に続いて、マリヴェレニョ語アエタ人が世界で最高水準のデニソワ人祖先系統を有する、と確証されました(図4A~C)。それは、f4比統計を用いてのデニソワ人祖先系統推定の違いに基づくと、オーストラリア先住民もしくはパプア人よりも34~40%高くなります(図4B)。以下は本論文の図4です。
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 統計的枠組み(関連記事)を用いて、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人のゲノムにおける(信頼度の高い)絶滅ホモ属由来の領域が特定され、人口集団における古代型ホモ属祖先系統の水準を推定するために、f4比統計における潜在的な偏りが除外されました。マリヴェレニョ語アエタ人における個体あたりのデニソワ人配列の平均量(5194万塩基対)は、パプア人のそれ(4196万塩基対)より有意に多く、マリヴェレニョ語アエタ人がパプア人よりもデニソワ人祖先系統を少なくとも24%多く有する、と示します(図4D)。

 さらに、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人はどちらも、シベリアのアルタイ地域の参照デニソワ人とは中程度の類似性を有するデニソワ人断片を示し、一致率は50%です(図5AおよびB)。これが示唆するのは、マリヴェレニョ語アエタ人およびパプア人へと遺伝子移入した絶滅ホモ属集団は、アルタイ地域のデニソワ人とは遠い関係にある可能性が高く、以前の観察(関連記事1および関連記事2)と一致する、ということです。以下は本論文の図5です。
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 アエタ人における高水準のデニソワ人祖先系統は、最近のデニソワ人との混合事象に起因するかもしれません。そうすると、混合領域はより長くなり、検出がより容易になります。これは、デニソワ人祖先系統がパプア人よりもアエタ人の方で24%過剰であることを説明できるかもしれません。しかし、アエタ人(26万塩基対)とパプア人(262000塩基対)では平均的な領域の長さが類似していることを考えると、この想定は当てはまらないと分かります。同様に、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人におけるデニソワ人領域の累積分布で有意な違いは見つかりませんでした。本論文の知見から、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人では混合年代は近いと示唆され、パプア人よりもアエタ人の方でデニソワ人との混合が多い、との本論文の主張を裏づけます。

 デニソワ人祖先系統の領域の長さは、以前にはパプア人と一部のフィリピンのネグリート集団で調べられ、さまざまな結果が得られました。以前の研究(関連記事)では、アジア東部人とパプア人への提案された2回の遺伝子移入事象に寄与した、混合デニソワ人由来の領域の長さに違いは見つかりませんでした。同様に別の研究(関連記事)では、パプア人における平均的なデニソワ人由来領域の長さには違いが見つかりませんでしたが、パプア人への異なる2回のデニソワ人からの遺伝子移入と一致する、領域の長さの分布における違いが報告されました。

 また別の研究では(関連記事)、本論文のデータセットではアンツィ語アエタ人(Ayta Mag-ants)とインディ語アエタ人(Ayta Mag-indi)と思われるアエタ人集団におけるパプア人よりもわずかに長い平均的な領域の長さが見つかり、アエタ人とパプア人への別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象が示唆されました。ただ、その研究(関連記事)で見つかった平均的な領域の長さは、別の研究(関連記事)よりも15倍短く、本論文の推定では、少なくとも部分的には異なる推定手法に起因しているので、直接的比較が困難であることに要注意です。


●フィリピンのネグリートへの独立したデニソワ人からの遺伝子移入

 パプア人と比較してのマリヴェレニョ語アエタ人における有意に高水準のデニソワ人祖先系統は、オーストラロパプア人の祖先へのデニソワ人からの遺伝子移入事象とは異なる、ネグリートの間でのフィリピンにおける独立したデニソワ人からの遺伝子移入事象を浮き彫りにします。この観察は、現生人類へのデニソワ人からの遺伝子移入の複数の波を示唆する最近の研究と一致しており、デニソワ人はおそらくISEA全域に拡大しており、アエタ人のネグリートは第二のデニソワ人からの遺伝子移入事象を経た可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。そこで、ネグリートとパプア人との間の分岐後に起きた、ネグリートへのデニソワ人からの独立した遺伝子移入事象の一連の証拠がさらに調べられました。

 第一に、ネグリートはオーストラロパプア人におけるオーストラレーシア人関連祖先系統と関連しないデニソワ人祖先系統を有する、と明らかになりました(図3A)。ほとんどのネグリートは、オセアニア人とインドネシア人におけるデニソワ人祖先系統およびオーストラレーシア人関連祖先系統と相関する傾きに対して、明確な外れ値を形成します。

 第二に、パプア人と比較してのネグリートにおけるかなり高いデニソワ人祖先系統(図3BおよびC、図4A~D)は、ネグリートへの追加のデニソワ人からの遺伝子移入事象のモデルと一致します。あるいは、ほとんどデニソワ人祖先系統を含まない人口集団との混合により、パプア人におけるデニソワ人祖先系統の「希釈」が起きたかもしれません。しかし、本論文でも以前の研究(関連記事1および関連記事2)でも、アジア東部人もしくはヨーロッパ人から高地パプア人への最近の遺伝子流動の証拠は見つかりませんでした。それどころかネグリートは、ほとんどデニソワ人祖先系統を有さないコルディリェラ人関連のアジア東部人との最近の混合の証拠を示します(図1D)。

 第三に、ネグリートとオーストラリア先住民とパプア人への共有されるデニソワ人からの遺伝子移入事象に基づく、qpGraphを用いての明示的な人口集団接続形態は却下されました(図6A)。これは、ネグリートへの個別のデニソワ人からの遺伝子移入事象に適合させたモデルとは対照的です(図6BおよびC)。以下は本論文の図6です。
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●シミュレーションにより裏づけられる異なるデニソワ人系統からの独立した遺伝子移入

 合着(合祖)シミュレーターmsprimeを用いてシミュレーションが実行され、共有されたデニソワ人からアエタ人ネグリートとパプア人の共通祖先への遺伝子移入事象の帰無モデル(図7F)、もしくは複数のデニソワ人との混合事象(図7K・P・U・Z)の代替的なモデル(代替1~4)から、アエタ人のネグリートがパプア人よりも高水準のデニソワ人祖先系統を有する、という観察されたデータ(図7A~E)と一致するデニソワ人祖先系統のバターンを得られるのかどうか、評価されました。代替1モデル(図7K)は、アエタ人ネグリートとパプア人の共通祖先集団における混合事象後の、異なる標本抽出されていないデニソワ人集団からのアエタ人ネグリートへの追加の混合事象を示します。代替2(図7P)・代替3(図7U)・代替4(図7Z)モデルは、さまざまな年代もしくは類似の年代に起きた、アエタ人ネグリートおよびパプア人の祖先集団への完全に別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象を示します。

 共有されたデニソワ人との混合事象の帰無モデルとは対照的に、デニソワ人からネグリートへの別々の遺伝子移入事象のモデルに基づくシミュレーションでは、観察されたデータと一致するデニソワ人祖先系統のパターンが得られます(図7)。全ての代替モデルは一貫して、三つの実験上の証拠を再現します。つまり、パプア人よりもアエタ人ネグリートにおいてデニソワ人祖先系統が高水準であること、パプア人よりもアエタ人ネグリートにおいてオーストラレーシア人祖先系統に対してデニソワ人祖先系統の割合が高いこと、アエタ人ネグリートは、デニソワ人祖先系統とオーストラレーシア人祖先系統との間の相関を投影すると、パプア人関連集団により形成された傾きの外側に位置することです(図7)。同じ頃にアエタ人ネグリートとパプア人へのデニソワ人からの遺伝子移入事象が起きたとする代替4モデルのみが、アエタ人ネグリートとパプア人における類似の水準の平均的なデニソワ人由来領域の長さを示し、これは実験上のデータと一致するパターンです(図7Cおよび図7Ab)。その結果、代替4モデルのみが、実験上のデータ全てと一致する定性的パターンを示しました。以下は本論文の図7です。
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 まとめると、本論文のシミュレーションは、独立してアエタ人ネグリートとパプア人へと遺伝子移入した2つの別々のデニソワ人系統の存在を裏づけ、それはネグリートとパプア人の53000年前頃(95%信頼区間で64000~41000年前)の分岐後に同じ頃に起きた可能性が高そうです。最初の現生人類の移民がスンダランドとサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)に到来すると、これらの祖先的オーストラレーシア人集団は、ISEAとオセアニア地域全体に散在していた、深く分岐したデニソワ人関連集団と混合した可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2)。

 最高水準のデニソワ人祖先系統を有する人口集団がISEAおよびニアオセアニア地域で見つかるという事実にも関わらず、デニソワ人化石はこの地域ではまだ見つかっていません。これは部分的には、デニソワ人の決定的な表現型の特徴に関する情報の欠如に制約されているかもしれません。デニソワ人に関する利用可能な知識のほとんどは、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された断片的な遺骸からのゲノムデータに基づいています(関連記事)。

 シベリア以外のデニソワ人に関する他の唯一の直接的証拠は、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見されており(関連記事1および関連記事2)、古代プロテオーム解析と古代ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析により、白石崖溶洞で発見されたホモ属遺骸(夏河下顎)は系統発生的にアルタイ地域のデニソワ人と密接に関連している、と明らかになりました。これは、アジア東部で以前に発見された、中華人民共和国河北(Hebei)省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡で発見されたホモ属遺骸(関連記事)や、台湾沖で発見された澎湖1(Penghu 1)と呼ばれるホモ属遺骸(関連記事)など他の絶滅ホモ属(古代型ホモ属)遺骸がデニソワ人かもしれない、との提案につながります。

 さらに、現在ネグリートが居住するルソン島では、67000年前頃の人類遺骸が報告され、ホモ属の新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)に分類されており(関連記事)、本論文の遺伝的証拠と合わせると、ホモ・ルゾネンシスとデニソワ人が遺伝的に関連しており、異なる形態として存在していたか、あるいは島嶼部の同じ集団に属していた、という可能性が提起されます(関連記事1および関連記事2)。さらに、インドネシア領フローレス島で発見された絶滅ホモ属の新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)がデニソワ人と関連している可能性も、完全にあり得ないわけではありません。

 したがって、ISEAにおける複数の絶滅ホモ属(古代型ホモ属)遺骸の存在は、本論文も含めてこれまでの研究で提示されたゲノム証拠(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)とともに、デニソワ人がかなりの遺伝的および表現型的多様性のある深く構造化された人口集団を構成し、広範な環境に適応できたので、アジア太平洋地域で広く居住できた、という可能性を提起します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これは、パプア人が30000~25000年前頃という最近のデニソワ人からの遺伝子移入事象を経た、と示すゲノム証拠により裏づけられ(関連記事1および関連記事2)、それはアエタ人ネグリートとパプア人との間の53000年前頃の分岐後のことになります。

 本論文の解釈は、絶滅ホモ属とISEAにおける高水準のデニソワ人祖先系統を有する現代の人口集団との共存の節約的な説明を提供しますが、これは利用可能な化石データに関する現在の古人類学的分析とは一致しません。ISEAにおける、デニソワ人とホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシスと他の絶滅ホモ属との間の決定的な系統発生関係はまだ確定しておらず、将来、古代DNAもしくは古代プロテオームデータが利用可能になれば、解決される可能性があります。


●まとめ

 ISEA地域の困難な熱帯環境におけるデニソワ人からの古代DNAの発見と抽出成功が待たれますが、現段階では、計算による遺伝的手法が唯一の実行可能な代替手段のようです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。この手法は、絶滅ホモ属(古代型ホモ属)が現生人類の過去と生物学をどのように形成したのか、理解を深めるのに成功した、と以前に示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。さらに、利用可能な計算ツールを最大限利用することで、フィリピンのネグリートのように、ゲノム調査で標本が不充分だった人口集団の重要性が強調されます。フィリピンのネグリートに関する本論文のゲノム分析は、ヒト進化史の重要な選択に光を当てます。つまり、以前には認識されていなかった、ISEA地域における現生人類とデニソワ人との間の複雑な相互作用です。


参考文献:
Larena S. et al.(2021): Philippine Ayta possess the highest level of Denisovan ancestry in the world. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.07.022

飯山陽『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相』

 扶桑社新書の一冊として、育鵬社から2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現代日本社会におけるイスラム教認識には誤解が多く、その責任は日本のイスラム教専門家やそれを鵜呑みにするマスメディアにある、と主張し、日本におけるイスラム教認識の問題点を指摘していきます。まず、イスラム教は平和の宗教との言説については、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件以降と指摘されています。イスラム教徒への偏見を助長しないような配慮からも、そうした言説が強調された意味はあるかもしれません。しかし本書は、そうした言説の中には、イスラム教徒の多数派が平和を愛好していることを、イスラム教は平和の宗教と読み替えているものがある、と批判します。また本書は、そもそもイスラム教における「平和」は、現代日本人の多くが想定する平和とは大きく異なり、全世界がイスラム法により統治された状態のことだ、と指摘します。またこれと関連して、ジハードの本義を内面的努力とするような日本の知識人(イスラム教の専門家も非専門家も含めて)の言説が批判され、本来のジハードの義務では軍事的な意味が理解されていた、と本書は指摘します。しかし本書は、イスラム教の教義が平和的ではないからといって、イスラム教徒全員が戦争を望んでいるわけではなく、テロリストでもない、と注意を喚起します。本書はその理由を、宗教の区別による差別が不正だからと指摘します。イスラム教が人道主義に立脚していようといまいと、宗教の区別による差別は許されない、というわけです。

 現代日本社会では、イスラム教を「イスラム」もしくは「イスラーム」と表記して「教」を省くことが一定以上浸透しています。本書はその理由として、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているからだ、とイスラム教の専門家たちが主張していることを挙げます。こうした専門家たちは、イスラム教こそ日本や欧米の現代社会の問題を解決する選択肢と考えている、と本書は批判的に指摘します。また本書は、こうした日本のイスラム教専門家が、抑圧体制のイランやその要人を称えることがあることも批判します。こうした日本のイスラム教専門家たちは、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィが指摘する「イスラム左翼主義」で「反米教」なので、事実の客観的分析を期待できない、と本書は指摘します。本書でも言及されていますが、「イスラム国」を擁護する日本のイスラム教(もしくは中東)専門家がいることは、こうした姿勢の延長上として了解されます。さらに本書は、こうしたイスラム教(もしくは中東)専門家のイスラム教賛美を、「西洋近代」を批判するイスラム教の専門家ではない「知識人」が鵜呑みにしていることも、「反近代」という理由でイスラム教を安易に賛美する傾向がある、と批判します。

 イスラム教は平和の宗教との言説とともに現代日本社会において一定以上浸透していると思われるのが、イスラム教は異教徒に寛容な宗教との言説です。これは、キリスト教、とくに中世ヨーロッパ西部のキリスト教との対比で主張されています。しかし、イスラム教と他の宗教との共存は宗教による差別を大前提としたものであることを、本書は指摘します。また本書は、イスラム教において、キリスト教徒やユダヤ教徒のような啓典の民ではない多神教徒は犬などと同じ「不浄」に分類され、殺しても差し支えない存在とされている、と指摘します。また本書は、イスラム教が棄教や改宗を認めないことも問題視し、棄教者を自ら殺害するイスラム教徒はほとんどいないものの、棄教者は殺されて然るべきと考えているイスラム教徒は多い(2013年の調査で、エジプト人の86%、アフガニスタン人の79%、パキスタン人の76%、マレーシア人の62%)、と指摘します。

 イスラム過激派テロの原因は(貧困や疎外など)社会にある、との言説は日本に限らず広く世界に浸透しているように思いますが、本書はこれも批判します。まず本書が指摘するのは、イスラム過激派テロの原因は何よりもイスラム教の宗教イデオロギーに求められることです。本書はここで、イスラム教の教義には確かに、イスラム教による世界征服を信者に義務づけており、イスラム教徒の大多数はそれを信じていてもジハードを実行するわけではないので、イスラム主義とイスラム教を区別しなければならない、と注意を喚起します。イスラム主義は、イスラム教徒がジハードを実行しないことを咎め、イスラム教の全教義を実践しなければならない、と促すイデオロギーであることを、本書は指摘します。次に本書は、イスラム過激派戦闘員のほとんどはヨーロッパではなくイスラム諸国にいるので、イスラム教徒であるという理由で社会から疎外されたり差別されたりしているわけではない、と指摘します。イギリスの公的調査でも、イスラム教徒のテロ容疑者の2/3は中流か上流階級の出身で、90%は社交的な人物と報告されているそうです。さらに本書は、「イスラーム復興論」を主張して多額の科研費の獲得に成功したイスラム教研究者たちが、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているから「教」をつけてはならない、と主張していたのに、イスラム過激派テロだけをイスラム教から切断することを詭弁と批判します。

 本書は、ヒジャーブ着用に関する日本のイスラム教研究者の言説も批判します。そうした言説では、ヒジャーブ着用によりイスラム教徒女性は守られており、自由が侵害されずにすむ、とされます。ヒジャーブは自由と解放の象徴である、というわけです。しかしそれは、ヒジャーブを着用しない女性の人権は守られなくても仕方ない(奴隷や売春婦とみなされ、強姦されても仕方ない、と認識されます)、ということだけではなく、男性は女性相手に理性を保てない、と言っていることにもなり、きわめて性差別的だ、と本書は批判します。ヒジャーブ着用擁護の言説は、女性が「ふしだらな」恰好をしていたから強姦されたのだ、と言って強姦した男性を擁護するような言説と通じる、と本書は指摘します。本書は、イスラム教徒女性がヒジャーブを着用してもしなくても、敬意を払うべきだ、と提言しています。女性の価値が外見によれ差別されることはあってはならない、というわけです。

 上述のように、イスラム教徒の大半は、イスラム教の教義を信じていてもジハードを実行するわけではありません。しかし本書は、イスラム過激派の支持者は看過できるほど少なくはない、とも指摘します。2015年の調査では、トルコ人のうち、9.3%が「イスラム国」をテロ組織ではないと考えており、5.4%がその行動を支持しています。同じく2015年の調査では、イラクとイエメンとヨルダンとシリアとリビアのイスラム教徒のうち15%が、「イスラム国」はテロ組織ではなく正当な抵抗運動と考えています。これらの調査結果から、「イスラム国」を支持するイスラム教徒の割合は、最低でも5.8%、最大では11.5%になる、と推定されています。さらに本書は、イスラム教徒に占めるイスラム過激派支持者の割合が10%程度だとしても、それ以外の多数派が穏健派とは必ずしも言えない、と指摘します。イスラム諸国では、イスラム法を国の法として施行することに72~99%のイスラム教徒が賛成しています。また、イスラム教徒の70~89%が、手首切断刑や投石による死刑など身体刑の執行に賛成しています。また、イスラム教徒の多数派は棄教を死罪に相当すると考えており、信教の自由を否定しています。さらに、イスラム教徒の9割ほどはLGBTにも否定的です。イスラム諸国では一般的に、同性愛は病気と信じられています。また、児童婚が広く行われているのもイスラム諸国の特徴です。本書は、イスラム教が全体的に、女性は男性より劣っているという大前提でさまざまな規定を設けている、と指摘します。これは、現代日本人の多くが想定する「穏健」の感覚とはかなりずれている、というわけです。

 本書の主張の根幹にあるのは、イスラム的価値観は、全ての人間に等しく自由や権利を与えるべきとする、ヨーロッパ発の近代的価値観とは大きく異なる、との認識です。次に本書が重視するのは、イスラム教は世界征服を目指す政治イデオロギーなので、そのための行動を促すイスラム主義の蔓延を許すと、亡国の危機に陥る可能性がある、ということです。本書は、イスラム教徒が移住先でもイスラム的価値観に従い続けることを擁護するリベラル勢力とその教義であるポリコレを批判します。イスラム教徒と関係を築き共存することは可能であるものの、それには法治を徹底せねばならず、ポリコレや文化相対主義を理由にイスラム教徒の違法行為を見逃したり寛大な措置をとったりしてはならない、というわけです。一方で本書は、イスラム教の教義と個人としてのイスラム教徒を同一視することを誤りと明言しています。イスラム教徒のほとんどは、イスラム教の教義の全てを実践しているわけではない、と本書は指摘します。さらに本書は、サウジアラビアやチュニジアやエジプトやアラブ首長国連邦など近年のイスラム諸国において、イスラム教と近代的価値観の矛盾に起因する問題について改善の兆しが見られることも指摘します。また本書は、最近になって進んだイスラエルとアラブ諸国との国交正常化にも、イスラム主義との決別との観点から注目します。イスラム主義者は多くの場合、イスラエルの殲滅とエルサレム支配を短期目標と定めているからです。

 本書は1章を割いて著者への批判に対する反論を提示しており、本書も多くのイスラム教や中東の専門家に酷評されることになりそうです。イスラム教の専門的な知見について、私の知見では本書の主張の方が妥当だと断定できませんが、ヨーロッパ発の近代的価値観に守られ、日本(や欧米)社会では普段それを声高に主張していながら、それと矛盾するイスラム教のさまざまな規定・慣習を擁護する専門家の姿勢には、根本的な矛盾があるとは思います。まあ、そこからさらに踏み込み、ヨーロッパ発の近代的価値観に覆われた社会のさまざまな問題はイスラム教により解消される、と考えている専門家ならば、矛盾ではなくなるわけですが。ただ、著者の「リベラル」や「左翼」、さらには「ポリコレ」への強い警戒は明らかで、その点は私も同様なだけに、そうした警戒・批判をつい全面的に受け入れてしまいたくなりますが、それだけに、私のような価値観・世界観の読者は、本書の指摘の中に誇張もあるのではないか、と慎重に考えて検証しつつ、本書を咀嚼していく必要があるとは思います。本書をよりよく理解するには、著者の『イスラム教の論理』(関連記事)と『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』(関連記事)を読むとよいでしょう。

高橋啓一「MIS 6の動物の渡来を探る」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P64-68)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)10以降の日本列島の哺乳類化石のうち、これまで報告されてきた沖縄を除く298地点・地域の化石についての、産出化石および産出層準について再検討を報告します。旧石器考古学の主題の一つに、日本列島における4万年以前のヒトの渡来問題があります。4万年前以前の遺跡とされる数には異論もあるようですが、8遺跡12件とされています。それらの年代は、12万~4万年前頃で、MIS6の海面低下期以降の年代を示しています。仮にヒトが12万年前以降に日本列島に渡来したのならば、動物たちも同様に渡来した証拠が残っているはずです。本論文はこうした視点から、改めて日本列島に新たに出現した哺乳動物化石を検証しました。

 日本列島周辺には、4つの海峡があり、このうち間宮海峡と宗谷海峡は敷居水深がそれぞれ20m、60mと浅く、最終氷期まで北海道と大陸は陸続きだったと考えられています。一方、対馬海峡や津軽海峡の敷居水深は約130mと深く、推定された最終氷期最寒冷期の海水準低下量とほぼ同じ値となっています。そのため、両海峡において最終氷期最寒冷期に陸橋が成立したかどうかの議論が繰り返されてきました。しかし、1990 年代前半までに行われた海底地形学による検討や地球物理学的モデルによる解釈では、対馬海峡や津軽海峡は、きわめて浅いながらも最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には陸化しなかった、という見解にほぼ落ち着きました。

 その後、2001年の日本海で行なわれた調査で、隠岐堆から得られたコア(MD01- 2407)の浮遊性有孔虫殻を使った酸素同位体比の研究や、2013年のIODP(Integrated Ocean Drilling Program)第346次航海による過去40万年間の東シナ海北部(U1429地点)の表層海水の酸素同位体比変動の復元により、対馬海峡付近の海水準変動の様子が推定できるようになりました。それらの結果から、MIS6およびMIS10の時代には、対馬暖流の日本海への流入量がMIS2の時代よりもはるかに少なかったか、あるいは停止していた、と示唆されました。

 脊椎動物化石を使った陸橋の成立についての議論は、ユーラシア大陸と日本列島との間の動物相の類似性や、新たな種の出現の証拠に基づいて行なわれてきました。その結果、12万年前頃以降には、後期更新世後半に起きた北方からのわずかな寒冷種の渡来を除いて、西の陸橋を通じての動物種の渡来はなかった、と繰り返し指摘されてきました。こうした脊椎動物化石による見解を用いて議論するさいには、そもそも脊椎動物化石の産出がそれほど多くないことや、それらの中には洞窟堆積物からの産出報告も多く、その化石あるいは動物群の年代とされているものが、MISやGRIP(深層雪氷コア)における温暖期番号(IS)で語れるほどの厳密な年代精度はないことに要注意です。

 このような脊椎動物化石の限界を抱えながらも、上述のようなMISの研究が進展する中で、MIS6にユーラシア大陸から日本列島に動物が渡来しなかったのか、本論文は改めて検討しました。MIS6における低海水準期より前については、「中部更新統上部(QM5帯)」とし、山口県美祢市伊佐町の宇部興産伊佐セメント工場の採石場を産地の代表とする見解が提示されています。また、その低海水準期より後は「上部更新統下部(QM6帯)」とし、その代表的な産地として栃木県佐野市葛生の上部葛生層が挙げられました。

 両者の構成種には、共通するものと異なるものが見られます。海峡を渡るのがより容易な大型の種でQM5帯では見られなかったものの、QM6帯では出現するものには、オオカミ(Canis lupus)、クマ(Ursus arctos)、トラ(Panthera tigris)、ヒョウ(Panthera pardus)、ヤベオオツノジカ(Sinomegaceros yabei)などです。これらのうち、クマやオオカミ、トラなどの大型ネコ科動物は、「中部更新統中部(QM4帯)」からも産出していることから、これらの時代に連続して生息した可能性も考えられます。

 ヤベオオツノジカに関しては、以前の研究で国内28ヶ所の産地が列挙されています。このうち、中期更新世もしくはその可能性があるものは、青森県東通村尻屋崎、秋田県男鹿市脇本、千葉県富津市長浜のみで、他は後期更新世もしくは時代不明のものです。中期更新世もしくはその可能性があるもののうち、尻屋崎の標本は、以前の研究では中嶋・桑野(1957)にリストの中にシカ科種(Megaceros sp.)として挙げられており、長骨の写真があるだけで詳細は不明です。男鹿市脇本の標本については、ヤベオオツノジカの可能性が指摘されているものの、種の同定に疑問が残ります。富津市長浜の標本は、産地などが挙げられているだけで、詳細は不明です。

 結局、ヤベオオツノジカとして確かな標本は後期更新世のものだけということになります。このことから、直ちにMIS6の時代(13万年前頃)に西の海峡部を経て新たな動物種の渡来があったと結論できませんが、海洋酸素同位体比の研究結果を踏まえつつ、今後も脊椎動物化石を丁寧に見直す作業が必要です。なお、著者の関連論文では中国東北部~北部におけるマンモス-ケサイ動物群と北方系細石刃石器群が報告されており(関連記事)、有益だと思います。


参考文献:
高橋啓一(2021)「MIS 6の動物の渡来を探る」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 33)』P64-68

最古の動物の証拠

 最古の動物の証拠に関する研究(Turner., 2021)が報道されました。分子系統学から、後生動物が新原生代の初期に出現したと示されていますが、物的証拠は欠如しています。原生代の動物化石の探索は、予想される体の特徴が不確かであるために進展していません。海綿動物は既知の動物の中で最も祖先的な部類であることから、未発見の原生代後生動物の体化石も、顕生代の化石海綿動物に似た外見をしている可能性があります。現生海綿動物から得られた遺伝学的証拠から、海綿動物が新原生代初期(10億~5億4100万年前頃)に出現した、と示唆されています。しかし、この時代の海綿動物の体化石はまだ見つかっていません。

 蠕虫状の微細構造は、顕生代の礁成炭酸塩や微生物炭酸塩に見られる複雑な記載岩石学的特徴で、現在は、骨針を持たない角質骨格の尋常海綿類の体化石であることが知られています。本論文は、これと記載岩石学的に同一な、約8億9000万年前の礁に由来する蠕虫状微細構造を提示します。これは、カナダ北西部の岩礁から採取された岩石試料で発見されました。この岩石試料は方解石の結晶を含み、それに囲まれた管状構造体の分岐ネットワークが見つかりました。これらの構造体は、角質海綿類(現生海綿動物の一種で市販の浴用スポンジの原材料)の体内に見られる繊維状骨格と、以前に炭酸カルシウム岩で特定され、角質海綿類の体の腐敗によって生成したと考えられている構造体にたいへんによく似ていました。

 蠕虫状微細構造を有する、サイズがミリメートルからセンチメートルのこの生物は、石灰化シアノバクテリア(光合成生物)が構築した礁の表面や内部、ごく近傍にのみ生息し、そうした石灰質微生物群が生息不能な微小ニッチを占めていた、と推測されます。蠕虫状微細構造が実際に角質海綿動物の化石化組織であるとすれば、この標本は、動物の体化石の既知で最古の証拠となり、動物が新原生代の酸素化事象より前に出現し、クライオジェニアン紀の7億2000万~6億3500万年前頃の厳しい氷期を生き延びたことを示す、最初の物的証拠をもたらすことになります。ただ、この見解に対して慎重な研究者もいます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:地球上最古の動物を示す証拠かもしれない

 古代の岩礁の中に海綿動物のような構造体が特定され、海綿動物が早ければ8億9000万年前から海洋に生息していたと考えられることを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見の妥当性が確認されれば、この化石は、これまで知られている中で最古の動物の体化石となり、その次に古い、議論の余地のない海綿動物の化石を約3億5000万年さかのぼることになる。

 海綿動物は単純な動物で、現生海綿動物から得られた遺伝学的証拠から、海綿動物が新原生代初期(10億~5億4100万年前)に出現したことが示唆されている。しかし、この時代の海綿動物の体化石は見つかっていない。

 今回、Elizabeth Turnerは、カナダ北西部の8億9000万年前の岩礁から採取された岩石試料を調べた。この岩礁は、炭酸カルシウムを析出する細菌類によって形成された。この岩石試料の中に、方解石の結晶を含み、それに囲まれた管状構造体の分岐ネットワークが見つかった。これらの構造体は、角質海綿類(現生海綿動物の一種で市販の浴用スポンジの原材料)の体内に見られる繊維状骨格と、以前に炭酸カルシウム岩で特定され、角質海綿類の体の腐敗によって生成したと考えられている構造体に非常によく似ていた。

 Turnerは、これらの構造体が、地球の酸素レベルが動物の生命を維持するために必要と考えられるレベルまで上昇した約9000万年前に、炭酸カルシウム岩礁の内部やその付近に生息していた角質海綿類の遺骸化石であるかもしれないという考えを提示している。この構造体が、海綿動物の体化石と認められるならば、この知見は、初期の動物の進化がこの酸素化事象とは無関係に起こったこと、そして初期の動物が7億2000万~6億3500万年前に起こった厳しい氷河期を生き延びたことを意味している可能性がある。


進化学:前期新原生代の微生物礁における海綿動物である可能性のある体化石

進化学:はるかに古い海綿動物の化石候補

 今週号では、海綿動物が約8億9000万年前の海洋に生息していた可能性が示されている。これは、これまで考えられていたよりも2億年以上古い年代である。海綿動物は極めて単純な動物で、地球上に最初に出現した多細胞動物であった可能性が高い。現生の海綿動物の遺伝学的証拠から、海綿動物の系統が確立されたのは極めて古い年代であったと示唆されているが、海綿動物の決定的な化石証拠として最古のものは、カンブリア紀(約5億4300万年前に始まる)という、他のより複雑な動物が進化・分岐し始めた時代から得られたものである。化石の分子バイオマーカーからはさらに古い証拠が得られているが、それについては激しい議論がある。E Turnerは、浴用スポンジの拡大写真によく似た見た目をした、珍しい岩石構造を研究してきた。より年代の新しい岩石に見られるそうした構造は、海綿動物の腐敗によって生じたと考えられている。今回、それに似た構造が約8億9000万年前の岩石に見いだされたことで、海綿動物が、サンゴ類が進化するはるか前に初期の礁を構成していて、より複雑な動物の進化を可能にした海の酸素化に大きく寄与した可能性が出てきた。



参考文献:
Turner EC.(2021): Possible poriferan body fossils in early Neoproterozoic microbial reefs. Nature, 596, 7870, 87–91.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03773-z

先植民地期のガボンにおける埋葬習慣

 先植民地期のガボンにおける埋葬習慣についての研究(Villotte et al., 2021)が公表されました。アフリカ西部中央の古代人とその埋葬慣行についての知識は、文献の欠如と人類遺骸の不足のためひじょうに限定的です。これに関連して、豊富な人工物と関連する何千点もの人類遺骸を含むガボンのングニエ州(Ngounié Province)のイルング洞窟(Iroungou Cave)遺跡(図1)の発見は、豊富な例外的で新規の情報を表します。

 イルング洞窟は1992年にリチャード・オズリスリー(Richard Oslisly)氏により発見され、2018年に初めて調査され、天井の2ヶ所の開口部を介して表と接続しており、現在では懸垂下降によってのみ入れます。深さ25mの空洞は4ヶ所の主要な階層により構成され、その領域は合計で2000m³になります(図1)。洞窟内に入ることと洞窟内での移動が困難なため、また骨の長期保存を確実にするため、2018年以降に実施された調査は4回だけです。全ての人類遺骸はその場に残されましたが、床に見える人工物は3D写真測量およびレーザースキャンで位置を記録した後で収集されました。以下は本論文の図1です。
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●イルング洞窟埋葬遺跡

 イルング洞窟では骨格要素と人工物は全体に散らばっており、天井の特定された開口部の真下に最も密度の高い蓄積物があります。骨格の保存状態は、完全なものからひじょうに断片的なものまでひじょうに多様です(図2)。一部の骨は堆積物で覆われており、方解石で表見が形成されているか、齧歯類(ヤマアラシ)の歯の跡を示しており、自然作用(重力や水や動物)を含む堆積後の攪乱を示唆します。逆に、人類による遺骸の意図的加工の証拠はありません。解剖学的関連はほとんど保存されていませんが(図2c)、全ての骨格部分が表されており、乾燥した骨ではなく死体が上から投げられたか、洞窟に降ろされたことを示唆します。以下は本論文の図2です。
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 右大腿骨の20点の標本が年代測定の目的で収集されました。充分なコラーゲンが得られた標本10点の放射性炭素年代から、空洞は紀元後14世紀および15世紀に2回もしくはそれ以上死体を埋めるのに用いられた、と示唆されます(図3)。この年代は、15世紀末のポルトガル人との接触の直前となります。以下は本論文の図3です。
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 関連する人工物には、486個の鉄と26個の銅の物質と127個の大西洋の貝殻(そのうち15個は穿孔されています)と39個の穿孔された肉食動物の歯が含まれます。最も代表的な金属性の物質は腕輪と指輪(38.7%)で、小刀(27.9%)と斧(13.5%)と鍬(9.4%)もあります。鉄とは異なり、銅の供給源はアフリカ西部中央では少なく、銅はこの地域では何世紀にもわたって貴重な金属とみなされました。最も可能性の高い銅の供給源は、コンゴ共和国のニアリ盆地(Niari Basin)のミンドゥリ(Mindouli)地域で、イルング洞窟遺跡から約400km離れており、紀元後13世紀以降採掘されてきました。


●骨格標本の構成と身体修飾

 個体群の最少人数(MNI)は、最も代表的な骨格要素の数と年齢の不一致の両方を考慮して評価されました。少なくとも24個体の成人(15歳以上)が下顎体の右側断片の数に基づいて特定され、4個体の非成人も特定されました。全ての年齢層は幼児から中年までで代表されます。利用可能な寛骨のその場の研究から、成人標本には男性(MNI=7)と女性(MNI=3)両方の骨が含まれる、と示されました。

 保存された上顎(MNI=22)のうち、中央もしくは横側の永久歯の切歯を示すものはありません(図4)。全事例で歯槽骨吸収が明らかなので、この欠如は死後の喪失とは関係ありません。むしろ、何らかの文化的慣習の文脈で、標本における歯の喪失の対称性と体系的な繰り返しは抜歯(特定の歯の意図的な除去)を明確に示します。保存された切歯部分を有する下顎(MNI=19)では、抜歯は存在しません。前歯の除去は発音を変え、顔の特徴においてひじょうに視覚的な変化を誘発するので、強い民族的指標として作用します。以下は本論文の図4です。
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 イルング洞窟における体系的な抜歯から、全個体は少なくともいくつかの共通の価値と信念を共有していた、と示唆されます。歯の詰め物や剥離や抜歯など、意図的な歯の修飾はアフリカでは長い歴史があります。アフリカ人の骨格遺骸では、アフリカ外で発見された奴隷も含めて、そうした行為が繰り返し観察されてきました。興味深いことに、上顎の永久歯の切歯4点は全て除去されており(下顎の切歯は除去されていません)、アフリカのほとんどの地域では比較的稀な歯の修飾形態です。これはおもに、19世紀~20世紀初期の民族誌学者によりアフリカ西部中央人口集団に関して報告されてきており、この地域における身体修飾の長い歴史と継続の可能性を示唆します。


●習慣的な埋葬か犠牲かエリートの埋葬慣行か

 アフリカ西部中央では多くの後期鉄器時代の埋葬が報告されてきており、一部では豊富な鉄製人工物が含まれますが、ほとんどは開地遺跡に位置する埋葬遺構の堆積物で構成されています。何百もの金属製人工物と関連する、1ヶ所の洞窟の多くの個体の骨の蓄積は、この地域の考古学的記録では同等のものが知られていませんでした。最も密接な対応物は、年代的および地理的両方の意味で、ナイジェリアのベニンシティ(Benin City)のかつての貯水池で見つかった、紀元後13世紀の人骨の蓄積です。これは大規模埋葬と言われており、40個体以上の遺骸(ほぼ若い成人女性)が含まれており、中央集権を示唆する儀式の犠牲の証拠として解釈されてきました。

 そうした解釈はイルング洞窟では主張できませんが、人骨と関連する豊富な物質は少なくとも、イルング洞窟が単に一般的な葬儀のためだけに用いられた可能性を除外します。物品の量と人類遺骸の人口統計学的特性と明らかな生前の外傷の欠如からも、この堆積物が戦争と関連している可能性はなさそうで、むしろ重要な個体とその付随的な死者(家臣の犠牲、殉死)のための特別な埋葬場所だった可能性を示唆します。将来の考古学的発掘と生物人類学的研究により、この仮説は検証されていくでしょう。最近、ケニアにおいてアフリカでは最古となる埋葬の痕跡が確認されており(関連記事)、サハラ砂漠以南のアフリカにおける埋葬習慣の多様性と変遷についての解明がいっそう期待されます。


参考文献:
Villotte S. et al.(2021): Mortuary behaviour and cultural practices in pre-colonial West Central Africa: new data from the Iroungou burial cave, Gabon. Antiquity, 95, 382, e22.
https://doi.org/10.15184/aqy.2021.80

ブチハイエナの社会構造

 ブチハイエナの社会構造に関する研究(Ilany et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。動物の社会的ネットワークの構造はあらゆる社会過程、および健康状態と生存と繁殖成功に重要な役割を果たしているにも関わらず、野生において社会構造を決める一般的な仕組みは依然として解明されていません。社会的相続と呼ばれる提案されたモデルで、子の社会的親和は親、とくに母親の社会的親和と似る傾向にある、と示唆されています。これまでの研究では、多数の種において、こうした社会的ネットワークの相続が世代を超えて社会的構造に影響を及ぼしている可能性も示されてきた。

 この研究は、高度に構造化された雌優位のブチハイエナ社会における社会的相続の役割について評価しました。この研究は、社会的ネットワークの分析と27年間にわたって収集したハイエナ野生群の73767点の社会的相互作用の観察結果から成る複数の世代間にわたるデータセットを併用し、幼いハイエナの社会的関係は母親の社会的関係に類似していること、また、その類似の水準は母親の社会的地位に応じて上がることを発見しました。

 その研究結果ではさらに、母子関係の強さは社会的相続に影響を及ぼすとともに、母子両者の長寿との間に正の相関関係が認められることも示されました。この研究はこうした結果から、社会的相続淘汰はハイエナの社会的行動と個々のハイエナの適応度の形成に重要な役割を果たしていると考えられる、と指摘しています。また、さらに研究を進めて、さまざまな個体群構造において特定の社会的関係がどの程度広く相続されているか、それが社会的ネットワークの構造に依存する多くの社会過程の進化速度に対してどんな意味を持つのか、調べる必要がある、とも指摘されています。


参考文献:
Ilany A, Holekamp KE, and Akçay E.(2021): Rank-dependent social inheritance determines social network structure in spotted hyenas. Science, 373, 6552, 348–352.
https://doi.org/10.1126/science.abc1966

中東の人口史

 中東の人口史に関する研究(Almarri et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。世界的な全ゲノム配列計画は、ヒトの多様性と拡散と過去の混合事象への洞察を提供してきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、多くの人口集団はまだ研究されておらず、そのため、遺伝的多様性と人口史の理解を制約し、健康の不平等性を悪化させるかもしれません。大規模な配列計画によりとくに研究対象とされている地域は中東です。中東はアフリカとヨーロッパとアジア南部の間に位置しており、ヒトの進化と歴史と移住を理解するうえで重要地域となります。中東ではアフリカ外の現生人類(Homo sapiens)の最初の証拠のいくつかが得られており、177000年前頃のレヴァント(関連記事)や85000年前頃のアラビア半島北西部(関連記事)で年代測定された化石が発見されています。さらに、現生人類のものとされる12万年前頃の道具と足跡も、アラビア半島で特定されました(関連記事1および関連記事2)。

 現在、アラビア半島の大半は超乾燥砂漠ですが、過去には「緑のアラビア」をもたらしたいくつかの湿潤期があり、その時期にはヒトの拡散が促進され、現在の砂漠気候の始まりは6000年前頃に始まった、と考えられています。後期更新世と完新世における湿潤期から乾燥期への移行は、気候に適応した人口集団の移動をもたらした、と提案されてきました。アラビア半島内の新石器時代の移行は、地域内で独立して発展したか、あるいはレヴァントの新石器時代農耕民の南方への拡大によるものでした。こうした問題に取り組むため、アラビア半島とレヴァントとイラクの人口集団からの高網羅率の物理的に位相の揃ったデータセットが生成され、分析されました。将来の医学研究に役立つだろうあまり研究されていない地域における遺伝的多様性の目録の作成に加えて、人口構造、人口統計学および選択の歴史、現生人類および絶滅ホモ属(古代型ホモ属)との混合事象が調べられました。


●データセット

 短い読み取りから長い情報を保存する手法を用いて中東の8人口集団(図1A)の137個体の全ゲノムが配列され、その平均網羅率は32倍です。この「連鎖読み取り(linked-read)」技術を用いる利点は、短い読み取りの整列を区別しない反復領域における、物理的に位相のそろったハプロタイプの再構築と、改善された整列です。調査対象の全人口集団はアフロ・アジア語族のセム語派であるアラブ語を話しますが、例外はイラクのクルド人集団で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語群であるクルド語を話します。

 品質管理の後、2310万ヶ所の一塩基多様体(SNV)が特定されました。このデータセットが、ヒトゲノム多様性計画(HGDP)で特定された多様体(関連記事)と比較されました。本論文のデータセットでは、HGDPでは見つかっていない480万ヶ所のSNVが見つかりました。予測されたように、これらの多様体のほとんどは稀で、その93%は1%未満の頻度ですが、37万ヶ所は一般的(頻度1%以上)です。興味深いことに、これらの一般的な多様体のほとんどは、以前の研究(関連記事)により定義された利用可能性被覆外となります(246000ヶ所の多様体)。これは、中東人など遺伝的にあまり知られていない人口集団の配列決定と、将来の医学研究における地域固有の多様体の包摂の重要性を示します。これは、標準的な短い読み取りを利用しにくい領域に、かなりの量の未知の変異が存在することも示します。以下は本論文の図1です。
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●人口構造と混合

 人口構造と過去の混合事象を明らかにすることは、人口史の理解と医学研究の設計および解釈に重要です。単一の多様体およびハプロタイプの両方に基づく手法を用いて、本論文のデータセットの構造と多様性が調べられました。本論文のデータセットを世界規模の人口集団と統合した後、fineSTRUCTUREで、地理と合致した遺伝的クラスタが識別され、自己標識された人口集団は一般的に異なるクラスタを形成する、と示されました(図1C)。レヴァントとイラク(レバノン人、シリア人、ヨルダン人、ドゥルーズ派、ベドウィンA、イラクのアラブ人)が一まとまりになったのに対して、イラクのクルド人はイラン中央部人口集団とまとまりました。アラビア半島の人口集団(エミラティA、サウジ人、イエメン人、オマーン人)はHGDPのベドウィンBとまとまりました。エミラティ人口集団(アラブ首長国連邦集団)内では、過剰なイランおよびアジア南部祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有する下位人口集団(エミラティBおよびエミラティC)が特定されました(図1B)。また、比較的高いアフリカ祖先系統を有する下位人口集団(サウジBおよびエミラティD)も見つかりました。

 次に古代の地域的および世界的人口集団の文脈で本論文の標本が分析されました。主成分分析(図1D)では、現代の中東人は古代レヴァントの狩猟採集民であるナトゥーフィアン人(Natufian)と新石器時代レヴァント人(レヴァントN)と青銅器時代ヨーロッパ人と古代イラン人との間に位置する、と示されます。アラブ人とベドウィンは古代レヴァント人の近くに位置しますが、現代のレヴァント人は青銅器時代ヨーロッパ人の方に引き寄せられています。イラクのアラブ人およびクルド人とアッシリア人は古代イラン人に比較的近いようです。

 ほとんどの中東現代人は、4古代人口集団の祖先系統からの派生としてモデル化できる、と明らかになりました。それは、レヴァントN、新石器時代イラン人であるガンジュダレー(GanjDareh)N、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、4500年前頃のアフリカ東部人であるモタ(Mota)個体です。レヴァントとアラビア半島の人口集団間での差異が観察されました。レヴァント人は過剰なEHG祖先系統を有しており(図1E)、これは以前の研究(関連記事)で示された、青銅器時代後に古代ヨーロッパ南東部およびアナトリア半島祖先系統を有する人々とともに到来した祖先系統です。本論文の結果は、この祖先系統がアラビア半島と比較してレヴァントでずっと高い、と示します。

 レヴァントとアラビア半島との間の別の差異は、アラビア半島の人口集団におけるアフリカ祖先系統の過剰です。本論文のデータセットにおけるほとんどの人口集団にとってのアフリカ祖先系統の密接な供給源は、エチオピアのナイル・サハラ語族話者に加えて、ケニアのバンツー語族話者である、と明らかになりました。中東におけるアフリカ人との混合は過去2000年以内に起きたと推定され、ほとんどの人口集団は1000~500年前頃の混合の兆候を示しており、以前の研究と一致します。

 4方向混合の選択は、レヴァントNおよびガンジュダレーNが古代近東人にかなりの祖先系統をもたらしたこと(関連記事)、EHG/草原地帯祖先系統が青銅器時代後に中東に浸透したこと(関連記事)、ほとんどのレヴァント人とアラブ人でアフリカ祖先系統が現在見られることといった、中東に関する以前の知識に基づきます。本論文では検証において7つの外群が用いられ、それは、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体と、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された38000年前頃の若い男性1個体と、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と、コーカサス狩猟採集民(CHG)と、ナトゥーフィアン人もしくはレヴァントNと、パプア人と、ムブティ人です。

 EHGとアフリカの祖先系統における違いに加えて、レヴァントと比較してアラビア半島ではナトゥーフィアン祖先系統の過剰が観察されました(図1BおよびE)。中東における祖先系統の供給源としてレヴァントNをナトゥーフィアン人と置換すると、アラブ人はモデル化に成功できますが、レヴァントの現代人はどれもそのようにモデル化できませんでした。モデル準拠クラスタ化でも、アラビア半島の人口集団はレヴァント現代人と比較してかなり低いアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)祖先系統を有する、と示されました(図1Bの紫色の構成要素)。古代アナトリア半島祖先系統におけるこの違いは、アラビア半島への限定的なレヴァントNの拡大に由来するかもしれません。なぜならば、レヴァントNはアナトリアNとかなりの祖先系統を共有しているものの(関連記事)、レヴァントへのアナトリアN祖先系統を有する人口集団の拡大とともに青銅器時代後の事象にも由来するからです(関連記事)。

 続旧石器時代/新石器時代の人々からの在来の祖先系統に加えて、古代イラン人と関連する祖先系統が見つかり、それは現在すべての中東人に遍在します(図1Bの橙色の構成要素)。以前の研究では、この祖先系統は新石器時代のレヴァントには存在しなかったものの、青銅器時代には見られ、在来の祖先系統の最大50%が古代イラン人関連祖先系統を有する人口集団に置換された、と示されました。この祖先系統がレヴァントとアラビア半島の両方に同時に浸透したのかどうか調べられ、混合年代は北方から南方への勾配にほぼ従っており、最古の混合はレヴァントで5900~3300年前頃に置き、その後アラビア半島で3500~2000年前頃に、アフリカ東部で3300~2100年前頃に混合が起きた、と明らかになりました。

 これらの年代は、語彙データから推定された中東およびアフリカ東部におけるセム語派の青銅器時代起源および拡大の年代と重なります(図2)。この人口集団は、レヴァントとアラビア半島にY染色体ハプログループ(YHg)J1をもたらした可能性があります。本論文のデータセットにおけるYHg-J1の大半は5600年前頃に合着(合祖)し、青銅器時代の拡大の可能性と一致しますが、17000年前頃に分岐した稀なより早期の系統も見つかりました。そのYHgはナトゥーフィアン人で一般的なE1b1bで、本論文のデータセットでもよく見られ、ほとんどの系統は8300年前頃に合着しますが、39000年前頃に合着する稀なより深く分岐したYHgも見つかりました。以下は本論文の図2です。
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 次に、標本抽出された地域的な青銅器時代人口集団の一つからの祖先系統の派生として人口集団がモデル化できるのかどうか検証され、レバノンのシドン(Sidon)遺跡の中東青銅器時代人口集団(シドンBA)が一部の現代のレヴァントおよびアラビア半島の人口集団の祖先系統の供給源であり得る、と明らかになりました。本論文の系統発生モデル化では、レヴァント現代人はシドンBA関連人口集団に直接的に由来する祖先系統を有しているかもしれない、と示唆されます。しかし、アラブ人はナトゥーフィアン関連人口集団からの追加の祖先系統が必要です(図3)。以下は本論文の図3です。
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●有効人口規模と分離の歴史

 歴史的な有効人口規模は、母集団から標本抽出された染色体間の合着年代の分布から推測できます。しかし、単一のヒトゲノムを用いた場合、最近の期間では解像度が限定されますが、複数のゲノムを用いると、ハプロタイプ位相のエラーにより不自然な結果が作成されます。位相のないゲノムからアレル(対立遺伝子)頻度範囲を組み込むことによりこれらの範囲を拡張する手法が開発されましたが、最近では、たとえば金属器時代を通じて解像度がありません。

 ゲノム規模系統生成における最近の発展と、本論文の多数の物理的位相標本を活用することで、本論文のデータセットにおける各人口集団のごく最近(1000年前頃)までの有効人口規模を推定できます(図4A)。全中東人の祖先は、7万~5万年前頃の出アフリカ事象の頃に人口規模の顕著な減少を示す、と明らかになりました。このボトルネック(瓶首効果)からの回復は、レヴァントとアラビア半島の間の差異が出現し始める20000~15000年前頃まで、同様のパターンをたどります。レヴァントとイラクの全人口集団はかなりの人口拡大を示し続けますが、アラブ人は類似の人口規模を維持しました。この差異は注目に値します。それは、この差異が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の終了後に始まり、新石器時代に顕著になるからで、新石器時代には肥沃な三日月地帯で農耕が発達し、より大きな人口集団を支える定住社会へとつながりました。

 新石器時代に続いて、6000年前頃となるアラビア半島の乾燥化の始まりとともに、アラビア半島の人口集団はボトルネックを経ましたが、レヴァント人は人口規模が増加し続けました。その後、レヴァント人の拡大は停滞期に入り、4200年前頃の乾燥化事象で人口規模は減少します。エミラティ人(アラブ首長国連邦人)の減少はとくに顕著で、有効人口規模は5000人となり、同時期のレヴァント人およびイラク人の1/20程度でした。人口回復は過去2000年で観察されます。本論文の結果は、以前の人口規模推定に影響を及ぼした可能性のある、中東で一般的な最近の近親結婚に対しても堅牢で、それは、分析において標本ごとに単一のハプロタイプを含めたからです。

 次に、中東の人口集団の、中東人口集団内および世界の人口集団との人口分離の歴史が調べられました。この分析における正確な位相調整の重要性は、統計的に位相データに基づいて、現代パプア人がアフリカからの現生人類(Homo sapiens)の初期の拡大の祖先系統を有している、と提案した以前の知見(関連記事)により示されます。しかし、その以前の知見は、物理的に位相化されたゲノムデータを用いて複製されなかったので、統計的に不自然な結果が原因だった、と示唆されました(関連記事)。

 逆に、最近の人口分離の歴史を調べるさいには、稀な多様体がより多くの情報をもたらすものの、統計的手法により正確に位相化されておらず、参照パネルに存在する可能性は低くなります。本論文ではまず、中東の現代人が出アフリカ現生人類の初期拡大からの祖先系統を有しているのかどうか、HGDPからの物理的に位相化された標本と本論文の人口集団との分岐年代の比較により検証されました(図4B)。分岐年代の発見的推定値として相対的な交差合着率(rCCR)を0.5とすると、レヴァント人とアラブ人とサルデーニャ島人と漢人は同じ分岐年代と、さらに12万年前頃以降のムブティ人からの同じ漸進的な分離パターンを共有している、と明らかになりました。次に、本論文のデータセットの人口集団とサルデーニャ島人が比較され、両者は2万年前頃に分岐し、レヴァント人はアラブ人よりもわずかに最近の分岐を示す、と明らかになりました。

 ムブティ人との漸進的な分離パターンとは対照的に、サルデーニャ島人は中東の全人口集団とのより明確な分岐を示します。注目すべきことに、レヴァントおよびアラビア半島内の全系統と、さらに全ての中東人口集団およびサルデーニャ島人の内部の系統は、過去4万年以内で合着します。これらの結果をまとめると、現代の中東人口集団は、出アフリカ現生人類のより早期の拡大からの顕著な痕跡を有しておらず、全ての人口集団は6万~5万年前頃にアフリカから拡大した同じ人口集団の子孫だった、と示唆されます。

 次に、中東内の人口集団の分離年代が比較され、最古の分離年代はアラビア半島とレヴァント/イラクとの間だった、と明らかになりました(図4C)。エミラティ人はイラクのクルド人と1万年前頃に、ヨルダン人およびシリア人およびイラクのアラブ人とはもっと新しく7000年前頃に分岐しました。同じ人口集団からのサウジ人の分岐年代はもっと最近のようで7000~5000年前頃ですが、イエメン人の分離曲線はエミラティ人とサウジ人の曲線間の中間です。アラビア半島とレヴァントの人口集団間の分岐年代は青銅器時代に先行し、本論文の系統発生モデル化と一致しますが、青銅器時代にアラビア半島への拡大が起きたならば、祖先系統の完全な置換は起きませんでした。以下は本論文の図4です。
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 レヴァントとイラクの内部では、全ての分岐は過去3000~4000年間に起きました。アラビア半島内では、イエメン人がエミラティ人と4000年前頃に分岐し、サウジ人はエミラティ人およびイエメン人の両方と最も分岐度の低い人口集団として現れ、過去2000年以内となる最近の分岐です。注意すべきは、この地域内の分離曲線が漸進的なように見えることで、明確な分岐よりもむしろ、分離後の継続的な遺伝子流動が示唆されます。また、この分離曲線にはこれらの人口集団の混合史が反映されていることにも要注意です。


●中東における古代の遺伝子移入と深い祖先系統

 ほとんどの非アフリカ人口集団における類似のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)祖先系統量と、遺伝子移入されたハプロタイプの低い多様性から、現生人類はアフリカ外に拡大したさいにネアンデルタール人との単一の混合の波を経た可能性が高い、と示唆されています(関連記事)。中東の人口集団は以前に、ヨーロッパおよびアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統が少ない、と示されましたが、この知見の解釈は、ネアンデルタール人祖先系統を「希釈する」最近のアフリカ人との混合により複雑になっています。

 さらに、一部の分析では外群の使用が必要ですが、外群にネアンデルタール人祖先系統が含まれる場合、推定を偏らせる可能性があります(関連記事)。本論文のデータセットにおけるネアンデルタール人からの遺伝子移入を調べるため、標本の正確な位相調整を利用し、高網羅率となるクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人のゲノム(関連記事)と、交差合着率が比較されました。全ての中東人は、他のユーラシア人と同様の時期に古代型混合の兆候を示しました(図5A)。

 次に、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に基づく手法であるIBDmixが用いられました。IBDmixは、標的集団とネアンデルタール人のゲノムを直接的に比較し、ネアンデルタール人起源のハプロタイプを検出します(関連記事)。

 本論文の標本とHGDPデータセットでIBDmixが実行され、ネアンデルタール人起源の可能性が高そうな合計12億7000万塩基対の区域が回収されました。本論文のデータセットに固有ではあるものの、他の非中東地域ユーラシア人には存在しないネアンデルタール人のハプロタイプの量を比較すると、合計で2500万塩基対しか見つからず、中東人におけるネアンデルタール人のハプロタイプの大半が他の人口集団と共有されている、と示されます。しかし、世界では比較的稀であるものの、アラビア半島では高頻度に達する、比較的大きな遺伝子移入されたハプロタイプ(最大50万塩基対程度)が見つかりました。

 次に、人口集団あたりの合計のネアンデルタール人由来の塩基対の平均数が比較され、レヴァント人を含む他のユーラシア人口集団と比較してアラビア半島ではより低い値が見つかりました。たとえば、ドゥルーズ派とサルデーニャ島人は類似の量(1個体平均5640万塩基対)のネアンデルタール人祖先系統を有しています(図5B)。対照的にアラビア半島では、エミラティAとサウジAのネアンデルタール人祖先系統は平均してそれぞれ5270万塩基対と5210万塩基対で、ドゥルーズ派やサルデーニャ島人よりも8%、漢人よりも20%少なくなっています。

 エミラティAとサウジAのアフリカ祖先系統は3%未満なので、アラビア半島におけるネアンデルタール人祖先系統の希釈はアフリカ祖先系統だけでは説明できません。以前の研究では、ネアンデルタール人祖先系統の割合が低いか皆無の基底部ユーラシア人集団が、古代および現代のユーラシア人にさまざまな割合で寄与し、新石器時代イラン人とナトゥーフィアン人では50%に達する、と提案されました(関連記事)。アラブ人は中東の他地域集団と比較してナトゥーフィアン的祖先系統を過剰に有しているので、アラブ人はネアンデルタール人祖先系統を減少させるだろう基底部ユーラシア人祖先系統も過剰に有している、と明らかになりました。

 さらに、ほとんどの中東現代人は最近の混合からアフリカ祖先系統を有しており、それも主要なユーラシア祖先系統を有する時期と比較して、中東現代人の深い祖先系統に寄与しています。中東現代人では、深い祖先系統の増加とネアンデルタール人祖先系統量との間で負の相関関係が見つかりました。全ての古代人口集団を検証すると、ネアンデルタール人祖先系統の希釈を説明する2つの勾配(図5C)が明らかになりました。一方はアフリカ祖先系統により、もう一方は基底部ユーラシア人祖先系統により形成されます。中東人は、両方の祖先系統を有するので、両方の勾配に影響を受けたようです。以下は本論文の図5です。
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●選択

 現在の超乾燥気候は、アラビア半島の人口集団における適応に選択圧を及ぼした可能性があります。これを調べるため、控えめなゲノム規模閾値でひじょうに急速に拡大した変異を有する系統のゲノム規模系図が調べられました。以前の研究では、アラビア半島におけるラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する、ヨーロッパの既知の多様体(rs4988235)とは異なる2つの相関する多様体(rs41380347とrs55660827)が特定されました。アラブ人の多様体rs41380347について、本論文では強い選択の証拠が明らかになりました(図6A)。同様ではあるものの、やや弱く、ヨーロッパ人ではrs4988235における強い選択が報告されています。

 rs41380347はアラビア半島人口集団において最高頻度で存在し、サウジ人とエミラティ人では50%となりますが、レヴァントとイラクでは4%とずっと低頻度になります。注目すべきことに、この多様体は1000人ゲノム計画(1KG)ではユーラシアもしくはアフリカの人口集団に存在しませんが、一部のアフリカ東部集団には低頻度で見られます。この多様体は、レヴァントとイランの古代人を含む既知の古代ユーラシア人157個体でも見つからず、中東内のハプロタイプの最近の起源および選択によるその後の頻度増加と一致します。この多様体は9000年前頃から現代の間に頻度が急速に増加した、と明らかになりました(図6A)。注目すべきことに、この期間はアラビア半島における狩猟採集民から牧畜採集民への生活様式移行と重なります。

 最近の頻度増加を示す追加の多様体も特定されました。多くの遺伝子には発現量的形質遺伝子座(eQTL)でもある、LMTK2遺伝子内の多様体rs11762534は、推定上の選択の証拠を示します(図6B)。LMTK2遺伝子は、アポトーシスや成長因子シグナリングを含む多様な細胞過程に関わり、マウスでは精子形成に不可欠と思われる、セリン/セロトニンキナーゼをコードします。中東以外では、この多様体はひじょうに層序化されており、ヨーロッパ人で最高頻度(1KGで45%)となりますが、アフリカ人とアジア東部人では1%未満と稀です。

 この多様体の頻度は、アラビア半島人口集団では66%、ベドウィンBでは81%ですが、ドゥルーズ派とパレスチナ人ではともに55%とやや頻度か低いようです。rs35241117における強い推定上の選択の兆候も見つかりました(図6C)。この多様体は、サウジ人とイエメン人で最高の世界規模の頻度(最大で60%)を示し、糸球体濾過や利尿や高血圧やBMIなど、多くの代謝や骨格や免疫特性と関連しています。rs35241117はクウェート人サウジ人で選択下にあると最近示唆された40万塩基対外に位置しますが、それとは中程度の連鎖不平衡(LD)です。

 さらに、アラビア半島とレヴァント/イラクとの間の強く違う多様体が探されました。エミラティ人とサウジ人の両方では、7番染色体の97000塩基対で分化の強い兆候が見つかりました。このハプロタイプ(rs1734235)の多様体はアラブ人ではほぼ固定しており、培養線維芽細胞におけるlincRNA AC003088.1の発現増加と関連しています。イエメンで最も極端な人口集団分枝統計はrs2814778で、rs2814778では派生的アレルがダッフィー・ヌル(Duffy null)表現型をもたらし、1KGではアフリカの人口集団においてほぼ排他的に見られます。

 しかし、この多様体はイエメン人ではひじょうに一般的で(74%)、アラビア半島を北上するにつれて頻度が減少します(サウジ人では59%ですが、イラクのアラブ人では6%です)。ゲノム全体でこの領域は中東においてアフリカ祖先系統が最も濃縮されており、以前の研究と一致する、と明らかになりました。イエメン人とサウジ人におけるアフリカ祖先系統の平均量はそれぞれ9%と3%なので、この多様体の高頻度はアフリカ人との混合後の正の選択と一致しているようです。この派生的なアレルは、アラビア半島において歴史的に存在してきた三日熱マラリア原虫感染を防ぐ、と考えられてきました。

 ゲノム規模の系統を用いる利点は、比較的弱い選択を検出する力があることです。そこで、とくに過去2000年間の、20の多遺伝子性特徴全体のアラビア半島人口集団における多遺伝子適応の証拠が探されました。ほとんどの特徴では、身長や肌の色やBMIなど、最近の方向選択の証拠は見つからないか、決定的ではありませんでした(図6D)。しかし、いくつかの特徴は証拠を示しており、最も強い選択兆候は、現代西洋社会の教育年数と関連する遺伝子多様体に現れ、全アラビア半島人口集団で一貫しています。これはイギリスの人口集団でも報告されていますが、その兆候は他の特徴で条件付けした後には減少すると示されており、相関する特性を介した間接的選択が示唆されます。

 イギリスの人口集団の知見とは対照的に、日焼けや髪の色などの特徴に作用する推定上の選択の証拠は見つかりませんでした。アラビア半島内では、ほとんどの特徴の推定上の選択の方向性は、おそらく共有された祖先系統の結果として、人口集団全体で類似しています。しかし注意すべきは、アラビア半島全体の現在の変化している環境は、さまざまな最近の選択圧を起こす可能性がある、ということです。エミラティ人では、2型糖尿病を増加させる多様体の推定上の選択の証拠が見つかりました。エミラティ人における2型糖尿病の発症率は世界で最も高く、それは部分的に定住性生活様式への強い最近の変化に起因すると考えられているので、興味深い結果です。同じ人口集団で、低密度リポ蛋白質の水準を向上させ、アポリプロテインBの水準を減少させる推定上の選択のわずかな証拠も見つかりましたが、多重検定を調整すると、これらの証拠は示唆的になりました。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文は、遺伝的に充分に研究されていなかった中東地域の高網羅率のゲノム配列の生成を報告しました。研究された全ての標本は、連鎖読み取り配列を用いて実験的に位相化され、大規模で正確なハプロタイプの再構築を可能とします。以前の世界規模の配列計画では分類されていなかった何百万もの多様体が見つかり、そのかなりの割合が中東では一般的です。これら一般的な多様体の大半は短い読み取りの利用可能な被覆外にあり、標準的な短い読み取りの配列に基づく研究の限界を浮き彫りにします。

 多数の物理的に位相化されたハプロタイプにより、比較的古い期間(10万年以上前)からごく最近(1000年前頃)までの人口史の研究が可能になりました。アフリカからのヒトの初期拡大が、中東の現代の人口集団に遺伝的に寄与した証拠は見つかりませんでした。この知見は、全ての非アフリカ系現代人はアフリカからの単一の拡大の子孫で、その後すぐにネアンデルタール人と混合し、それは世界の他地域に移住する前だった、という支持を集めつつする合意に追加されます(関連記事)。

 中東の人口集団は地域固有のネアンデルタール人由来のDNAをほとんど有しておらず、その大半が他のユーラシア人と共有されている、と明らかになりました。アラビア半島の人口集団は、レヴァントやヨーロッパやアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統の割合が低く、これは、ネアンデルタール人と混合しなかった基底部ユーラシア人からの祖先系統の増加と、ネアンデルタール人の遺伝的影響をユーラシア西部現生人類から間接的にしか受けなかったアフリカ人との最近の混合に起因する、と示されます。

 古代人のゲノムを用いて現代の人口集団をモデル化することにより、レヴァントとアラビア半島の人口集団間の違いが識別されました。レヴァントの人口集団はヨーロッパ/アナトリア半島関連祖先系統の割合がより高い一方で、アラビア半島人口集団はアフリカおよびナトゥーフィアン的祖先系統の割合がより高くなっています。レヴァントとアラビア半島との間の差異は、人口規模の歴史によっても示されます。両者は新石器時代前の20000~15000年前頃に分岐し、定住農耕生活様式への移行はレヴァントで人口増加を可能にしたものの、アラビア半島では並行していなかったことを示唆します。

 アラビア半島では後期更新世と前期完新世の間で人口集団の不連続性が起き、アラビア半島は肥沃な三日月地帯からの新石器時代農耕民により再移住された、と示唆されています。本論文の結果は、レヴァントの農耕民によるアラビア半島人口集団の完全な置換を支持しません。さらに、本論文のモデルでは、アラビア半島の人々は、レヴァントの農耕民ではなく、ナトゥーフィアン的な在来狩猟採集民人口集団に祖先系統が由来する、と示唆されます。アラビア半島北部石器群は、その一部がレヴァントの農耕民により製作された石器群と類似しているように見えると識別されており、さらにレヴァントとアラビア半島との間の家畜動物の移動から、人口集団の移動もしくは文化的拡散のどちらかによるものだった、と提案されてきました。本論文の結果は、文化的拡散および/もしくはレヴァントからの限定的な移住を示唆します。

 中東現代人のモデル化に必要な系統の追加の供給源は、古代イラン人と関連しています。本論文の混合検証では、古代イラン人祖先系統がまずレヴァントに到達し、その後でアラビア半島とアフリカ東部に到達した、と示されます。これらの事象の年代は、興味深いことにセム語派の起源および拡大と重なっており、この祖先系統を有する(おそらくはレヴァントもしくはメソポタミアのまだ標本抽出されていない)人口集団がセム語派を拡大させた、と示唆されます。乾燥化事象と関連する気候変化が人口集団のボトルネックと関連していることも明らかになり、アラビア半島では6000年前頃に砂漠気候の始まりとともに人口規模が減少しましたが、レヴァントでは、4200年前頃の乾燥化事象で人口が減少しました。この深刻な旱魃は、中東とアジア南部の王国および帝国の崩壊の原因になった、と示唆されており、本論文で特定された兆候に遺伝的に反映されている可能性があります。

 多様体の進化史の再構築への祖先的組換え図の適用は、自然選択研究に強力な手法を提供します。本論文は、アラビア半島の人口集団において、選択の兆候を洗練して特定しました。過去数千年に50%にまで頻度が達し、アラビア半島外ではほぼ存在しない多様体と関連するラクターゼ活性持続の事例は、ヒトの歴史と適応の理解において、あまり研究されていない人口集団の研究が重要だと示します。

 本論文の結果から、多遺伝子性選択は、過去に有益だった可能性があるものの、現在では2型糖尿病などの疾患と関連している多様体の頻度増加に役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。本論文では、他の人口集団と比較して、アラビア半島人口集団では多遺伝子性選択の兆候がほとんど見つからず、これは理論的に選択の強度を低下させるだろう長期の小さな有効人口規模の結果かもしれません。長期の小さな有効人口規模は、とくに最近の近親結婚の習慣(関連記事)と相まって、メンデル型や複雑な特徴の研究に利用できます。なぜならば、個体群はホモ接合型の機能喪失変異を有し、自然な「ヒトノックアウト」として機能するからです。本論文と中東地域における最近の国立バイオバンク設立は、健康格差是正への第一歩であり、将来、中東における複雑で疾患性の特徴を調べるための、刺激的な機会を提供します。以下は本論文の要約図です。
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 本論文は最後に限界も指摘しています。アラビア半島人口集団の形成を洗練し、レヴァントとアラビア半島との間の先史時代のつながりをさらに明らかにするには、アラビア半島からの将来の古代DNA研究が必要です。中東の人口集団はゲノム規模関連解析では最も注目されていない集団の一つなので、選択兆候の理解や多遺伝子性特徴の分析には限界があります。中東集団に関する将来のゲノム規模関連解析は、これらの人口集団における多遺伝子性選択の影響を理解するのに必要です。


参考文献:
Almarri MA. et al.(2021): The genomic history of the Middle East. Cell, 184, 18, 4612–4625.E14.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.07.013

Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への農耕民の拡大経路

 Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への拡大経路に関する研究(Rohrlach et al., 2021)が公表されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体の非組換え領域(NRY)のような片親性遺伝標識は、その歴史を単純な進化系統樹により表せるという事実のため、集団の人口史についての魅力的な情報源です。1980年代の先駆的研究以来、ゲノム研究以前には、人類の遺伝的歴史と世界への移住のほとんどは、片親性遺伝標識のmtDNAとNRYから推測されていました。細胞内のコピー数が多く、ゲノムが短くて(17000塩基対未満)、比較的高い置換率のため、mtDNAはとくによく研究されてきており、人口集団の遺伝的変異性についての安価ではあるものの信頼できる情報源を産出してきました。

 逆に、NRYのマッピング可能な部分(古代DNA研究などで短い読み取りが確実にマッピングされている領域)はmtDNAよりもずっと長く(10445000塩基対)、男性個体の細胞で単一コピーとしてのみ表れます。進化的置換率(年間の部位あたりの置換数)は、NRYではmtDNAよりも最大で2桁低い、と推定されました。たとえば、7.77×10⁻¹⁰~8.93×10⁻¹⁰で、ミトコンドリアゲノムでは1.36×10⁻⁸~1.95×10⁻⁸となりますが、置換率の推定に関しては多くの議論があります。しかし、mtDNAと比較してNRYのゲノムがより長いことは、これらの置換率から、および単一系統の場合に、ミトコンドリアゲノムでは約3094~4440年に起きる点変異と比較して、NRYでは約108~123年ごとに点変異が起きることを意味します。その結果、NRYは集団の父方の人口史についてより多くの情報を含み、男性主導の移住もしくは父方居住など、男性に偏った集団の人口統計学的変化について多くの情報を提供できるので、人口集団の父方の歴史を調べることは、ひじょうに重要かもしれません。

 人口史の研究では、古代DNAはかけがえのない情報源として示されてきました。古代DNA研究は、ユーラシア西部における大規模な人口集団の移動と遺伝的交替事象を明らかにしてきており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、これらの事象は現代の人口集団の遺伝的データからの復元は不可能でした。古代人の片親性遺伝標識の研究も、現代人のみの研究では検出できない結果をもたらしてきました。たとえば、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後のヨーロッパの再移住に続くmtDNAの多様性喪失、もしくは新石器時代拡大に続くヨーロッパ東部および中央部における狩猟採集民Y染色体系統多様性の減少と部分的な置換(関連記事)や、紀元前三千年紀初めにおける草原地帯的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の到来に伴う、その後の新石器時代Y染色体系統の多様性喪失です(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNAデータを用いる研究者たちは、通常、標本の品質に関連する問題、とくに死後のDNA崩壊と環境汚染による内在性DNAの減少に直面します。Y染色体は男性細胞の全DNAの2%未満程度を占めており、これが意味するのは、研究者たちが単一コピーのNRYで充分な情報価値のある部位を適切に網羅するためにショットガン(SG)配列の使用を望むならば、良好なDNA保存状態の標本でさえ、かなりの配列作業が必要になる、ということです。

 標的捕捉分析評価の開発により、古代DNA研究者たちは配列においてゲノムの特定の部位と領域を濃縮できるようになり、古代標本からのヒト内在性DNAの収量は大きく改善しました。そうした一般的な分析評価の一つが1240kアッセイ(分析評価)で、ヒトゲノムにおける124万ヶ所の祖先系統の情報価値のある部位を標的とし、そのうち32000ヶ所はY染色体上の既知の多様体の選択を表します。これは、情報価値のあるY染色体の一塩基多型の遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)の一覧に基づきます。注目すべきことに、市販の利用可能版(myBaits Expert Human AffinitiesやDaicel Arbor Biosciences)では、ISOGGにより特定された追加の46000ヶ所のY染色体一塩基多型が含まれており、現代人男性で変異が見られます。

 現在知られている情報価値のあるY染色体の一塩基多型の数(ISOGGでは73163ヶ所、Yfullでは173801ヶ所)と比較して、標的Y染色体一塩基多型の数は比較的少なく、基本的なY染色体ハプログループ(YHg)の分類は可能ですが、現代の多様性と特定地域に大きく偏っています。結果として、1240kアッセイにおける特定のY染色体一塩基多型の表示に応じて、得られるYHgの分類は低く不均一な解像度になる可能性がありますが、標的を絞る手法は、ヒトの過去における隠れたおよび/もしくは消滅した可能性のある系統の検出ができません。

 人口集団の男性の歴史をよりよく研究して理解するために、すでによく知られている一塩基多型だけを標的にするのではなく、NRYの部位の配列データをとくに濃縮する標的分析評価の必要性が認識されました。そのため、YMCA(Y染色体マッピング可能捕獲分析評価)が設計され、実装されました。これは造語で、古代DNAに典型的な短いリードをヒトゲノムに確実にマッピングできるNRYの領域を標的とします。類似の手法はすでに以前の研究で調べられました(関連記事)。しかし本論文では、その研究で提示された精査セットとの詳細な比較は避けられます。その研究では、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)といったずっと古い標本のために設計され、690万塩基対を標的としているので、「マッピング可能」の定義が本論文よりもずっと控えめで制約されています。一方、別の研究では890万塩基対領域が報告され、本論文の標的領域をほぼ完全に(99.97%)含んでいます。本論文は、標的領域の残りの150万塩基対で確実にマッピングされた部位を得られる、と示します。

 本論文は、YMCA がショットガン配列と比較してNRY部位の相対的な網羅率を大きく改善し、同じ配列作業でNRY部位を濃縮できる、と示します。また本論文は、YMCAが2つの点で1240k一塩基多型アッセイ配列よりもずっと性能が優れていることを示します。本論文は実験的に、YMCAが網羅されているNRY部位の数を改善する、と示します。また本論文は、関連するbedファイル(標的領域を記述したタブ区切りのテキストファイル)により定義された標的NRY部位の考慮により、および抽出への高い複雑性を有する標本を配列する場合、YMCAが1240kアッセイ配列と比較して、YHg分類と新たな診断に役立つ一塩基多型の発見に対して、解像度改善の可能性を有することも示します。

 本論文は、YHg-H2(P96)の分析によりYMCA経由で得られた性能改善を強調します。YHg-H2は、ユーラシア西部の新石器時代移行期の初期農耕民と関連した低頻度のハプログループです。本論文は、既知の46個体(古代人45個体と現代人1個体)と、新たにYMCAで配列された49個体(全員古代人)のデータセットを精選しました。おもに現代人20個体の標本に基づくYHg-H2の現在の理解は、本論文のYHg-H2の個体群の古代の多様性と一致しない、と本論文は示します。この古代のYHgの解決において、アナトリア半島からヨーロッパ西部への新石器時代集団にとっての、地中海とドナウ川に沿った異なる2経路を示せます。地中海由来の集団は、最終的にブリテン島とアイルランド島にも到達しました。


●YMCAの性能の検証

 YMCAの性能を評価するため、さまざまな保存状態水準の標本について、内在性ヒトDNAの実験上の倍増が計算されました。ショットガンと1240kとYMCAの配列データについての、多すぎる環境変数の影響を避けるため、同じ遺跡から標本が選択されました。それはドイツのレウビンゲン(Leubingen)遺跡です。次に、網羅されたNRY部位の数と、少なくとも一度各ライブラリタイプで網羅されたISOGGの数を調べることにより、同じライブラリでの標準的なショットガン配列と1240kキャプチャに対するYMCAの実験上の性能が比較されました。ヒト内在性リードのみを選別し、次に500万の内在性リードごとに網羅された部位・一塩基多型の数を正規化することにより、同じ品質と入力配列労力が説明されます。ショットガン配列をYMCAと比較すると、内在性ヒトDNAの量で顕著な増加が観察され、以下ではこれが「濃縮」と呼ばれます。標本の保存状態が増加するにつれて濃縮が減少する、と明らかになりました。つまり、より高い開始内在性DNAの割合が高い標本では、濃縮効果が減少するものの、それでも有意でした。

 ショットガン配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリにより網羅されたNRY部位の数では、15.2倍の顕著な平均増加が観察され、1240k配列と比較した場合は1.84倍となり、YMCAは平均してショットガン配列および1240k配列の両方よりも多くのNRY部位を網羅する、と示されます(図1)。またこれは、ショットガン配列の500万リードあたり平均15.2倍のISOGG一塩基多型を網羅しているので、YMCAのわずか500万リードと比較して、ショットガン配列では同じ数のNRY部位を網羅するのに7600万のリードを配列する必要がある、と示唆します。以下は本論文の図1です。
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 興味深いことに、1240k配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリで少なくとも1回網羅されたISOGG一塩基多型の数では、平均4.36倍増加していることも明らかになりました。これは、同じ配列作業でYMCAがより多くの情報価値のある一塩基多型を網羅していることも示唆します。網羅されたNRY部位の数と、ショットガン配列および1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことと、網羅されたISOGG一塩基多型の数と1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことが明らかになり、これらの結果が標本における回収可能なヒトDNAの相対的量に依存しないことを示唆します。したがって、Y染色体で網羅される一塩基多型は1240kアッセイを用いると追加のボーナスですが、それはおもに男性と女性の常染色体ゲノムの分析で使用されるので、研究者が効率的かつ徹底的にY染色体の非組換え部分を調べたいならば、YMCAは明らか顕著な改善である、と明らかになります。

 次に、各bedファイルにしたがって、1240kアッセイとYMCAにも含まれる、ISOGG一塩基多型一覧14.8版におけるハプログループの情報をもたらす一塩基多型の割合が比較されました。YMCAと1240kアッセイは同じ技術に基づき、同じ実験室の手順で捕捉されているので、この比較はとくに強力です。1240kアッセイは現在掲載されているISOGG一塩基多型の24.44%を標的としますが、YMCAは90.01%を標的とします(図2)。注意すべきは、ISOGG一塩基多型の残り9.99%はNRY領域に存在し、古代DNAで一般的な短いリードでは「マッピングできない」と考えられることです。

 1240kアッセイの各部位は2つの精査(アレルと代替アレル)および多様体のそれぞれの側の5200塩基対により標的とされるので、追加の隣接する「標的」部位もマッピングされたリードから回収可能です。したがって、1240kアッセイの各一塩基多型の120塩基対(それぞれの側で60塩基対)の解析単位(window)も許可され、これは古代DNAの妥当な平均リード長です。この1240k+120塩基対の部位の一覧では、標的とされるISOGG一塩基多型の割合が45.34%にまで増加しますが、これは、1240k一塩基多型アッセイが、情報価値のあるY染色体一塩基多型が含まれる総数により基本的に制約されることも示します。ISOGG標的一塩基多型におけるこの顕著な増加は、同じ配列作業でYMCAがより多くISOGG一塩基多型を網羅する理由も説明します。以下は本論文の図2です。
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 さらに、NRYをできるだけ多く回収することは、とくに研究者がY染色体の新たな多様体を探すか、もはや存在しないかもしれない過去の多様性の解明に関心を持っている場合に、たいへん重要です。1240kアッセイにより標的とされた部位の数をYMCAと比較すると、1240k捕捉アッセイは合計で32670ヶ所の部位を標的とする可能性があり、これはYMCAにより標的とされた部位の数の約0.31%になる、と観察されます。しかし、各一塩基多型の周囲の120塩基対の解析単位を含めると、1240kアッセイは3953000ヶ所の部位、もしくはYMCAを用いての分析できる可能性のある部位の数の37.82%を、標的とする可能性があります。したがって、YMCAは新たな祖先系統の情報をもたらす一塩基多型のNRYを探すための手法としてより優れている、と予測されます。

 この研究では、YMCAと1240kにより標的とされた利用可能なISOGG一塩基多型を考えて、YHg分類の可能な潜在的解像度の比較にも関心がもたれました。各bedファイルのISOGG一塩基多型によると、32000ヶ所のY染色体の周囲の120塩基対を含めた時でさえ、一塩基多型YHgの解像度は改善できないことも明らかになりました。これは、現在優勢なYHgと、とくに、既知の過去の人口集団と関連するものの、現代の人口集団では顕著に頻度が低下しており、1240kアッセイの診断一塩基多型では充分に網羅されないYHgの両方で当てはまります。

 初期狩猟採集民のYHg-C1a2(V20)や、新石器時代の拡大と関連するYHg-G(Z38202)やYHg-H2(P96)などのハプログループでは低解像度がよく観察されます。これらのYHgに関して、1240kアッセイのY染色体一塩基多型は、それぞれ関連するISOGG一塩基多型の0.8%と0%と13%を標的とします。120塩基対の解析単位を含めると、これらの割合はそれぞれ32.5%と31.2%と36.2%に増加しますが、依然としてYMCAにより標的とされた一塩基多型の場合の、89.6%と90.6%と95.2%よりもずっと低くなります(図2)。さらに、初期ヒト集団の移動において存在すると考えられているものの、現代人集団では比較的多く見られるYHgの理論的網羅率が低いことも、1240kアッセイの部位に関して問題となる可能性があります。たとえば、アメリカ大陸への人類最初の移住と関連する、YHg-Q1b1a1a(M3)は、1240kアッセイでは関連する診断上の一塩基多型の11.9%(120塩基対の解析単位を含めると33.5%)しか網羅されていないのに対して、YMCAでは92%となります。

 まとめると、ショットガン配列および1240kアッセイと比較して、YMCAはNRYへのマッピングリードの相対的割合を高めます。またYMCAは、1240kアッセイよりもNRYの部位を2.5倍以上標的としており、新たな診断一塩基多型の検出を可能とします。しかし重要なことは、YMCAが、すでに情報価値があると知られているものの、1240kアッセイでは標的とできない一塩基多型を標的とすることです。


●事例研究としてのYHg-H2へのYMCAの適用

 標本選別のショットガン配列の手順適用と、実験室での適切な標本へのその後の1240kキャプチャを通じて、古代の男性個体におけるさまざまなYHgについて新たなYMCAの性能を調べられました。本論文は、YHg-H2(P96)の事例を紹介します。データ不足と現代の人口集団では低頻度であるため、YHg-H2では進化系統樹の解像度が依然として不明です。現在の古代DNA記録から判断すると、YHg-Hは過去には、とくに新石器時代化の時期のユーラシア西部全域で農耕拡大と関連する男性の間でもっと一般的だったようです。本論文は結果として、古代DNA研究、とくにYHgの高解像度型は、過去と現在のY染色体の進化関係の解明に役立つ、と示せます。

 YHg-H(L901)はアジア南部で48000年前頃に形成された、と考えられています。その下位区分のYHg-H1a(M69)とH2(P96)とH3(Z5857)は、その後4000年で急速に形成されたようです。YHg-H1およびH3は44300年前頃に形成されたと推定されていますが、YHg-H2はわずかに早く45600年前頃に形成された、と推定されています(yfull)。

 YHg-H1およびH3はアジア南部ではまだ20%の頻度で見られますが、ヨーロッパではひじょうに頻度が低く、YHg-H1はロマ人の900年前頃の拡大との関連のみで見られます。逆に、YHg-H2は少なくとも1万年前以来ユーラシア西部に存在してきており、農耕拡大と強く関連していますが、現代のヨーロッパ西部人口集団では0.2%以下の頻度です。対照的に、YHg-H2は新石器時代集団ではより一般的で(関連記事1および関連記事2)、観察されたYHgの1.5~9%を構成しますが、中には例外的に30%に達する個体群も存在します。

 5000年前頃となる草原地帯関連祖先系統の到来とともに、YHg-R1aやR1bなど侵入してくるYHgが、YHg-G2やT1aやH2などより古い「新石器時代」YHgの多くをほぼ置換し、YHg-H2はとくに、新石器時代個体群において高頻度で見られませんでしたが、その多様性も大きく減少し、多くの下位系統が完全に失われたかもしれない、と予測されます。

 本論文のYMCAがハプロタイプ決定品質を向上させて系統地理学的推論も導き出せるのかどうか検証するため、先史時代古代人のDNAデータと、暫定的にYHg-H2に分類された選択された個体群の新たな収集が用いられました。49個体の新たなデータが生成され、既知の46個体のY染色体ゲノムデータと統合されました。

 YHg-H2は、新石器時代のより優勢なYHg-G2a2b2a1a2a(Z38302)とともに一般的に見られますが、本論文ではYHg-H2の低頻度が注目されます。とくに、YHg-G2a個体群の相対的な高頻度と比較してのYHg-H2個体群の相対的な少なさから、系統選別のより強い影響と、したがって観察される地理的パターンのより高い変化を予測するように、「系統の歴史」、したがって潜在的には拡散経路をよりよく追跡できます。この特定の事例では、YHg-H2個体群と関連する固有の遺伝標識を用いて、アナトリア半島からヨーロッパ西部への拡大する新石器時代農耕民を追跡でき、新石器時代拡大の提案されたいわゆる「ドナウ川もしくは内陸部」経路と「地中海」経路を遺伝的に識別可能なのかどうか、検証できます。これらの新石器時代拡大経路は、最近核ゲノム分析でも裏づけられました(関連記事)。

 残念ながら、Y染色体の進化系統樹のYHg-H2の下位区分は、YHg-H2個体の現代人標本の不足とYHg-H2の古代人の相対的な少なさのため現在よく理解されておらず、多くの場合、既知および未報告の古代人標本のほぼ全ての系統樹的歴史と一致しません。本論文では、1例を除く全事例で、YHg-H2個体群は、YHg-H2 a1やH2b1など、現在のISSOG分類における2つの分岐クレード(単系統群)から派生した一塩基多型の混合を有している、と明らかになりました。したがって、上述のYMCAの性能から、さらにYHg-H2個体群が分析され、この系統の分岐パターンの解明が試みられました。

 Y染色体DNAの非組換え部分では、進化史は系統樹構造に従うと予測されるので、たとえばISOGGでのYHg-H2aとH2b1とH2c1aなどの混合ハプログループはあり得ません。これらの個体群のよりよく理解された進化史を見つけるため、IQ-TREEを用いて最尤(ML)系統発生樹が構築されました。ML系統樹(図3A)から2つの主要なクレードが識別され、暫定的にH2m(青色)およびH2d(緑色)と表示されます。現在のISOGGの命名法に関して、YHg-H2mはYHg-H2とH2aとH2a1とH2c1aの一塩基多型の混合により定義づけられることに要注意です。YHg-H2dは、2ヶ所のYHg-H2b1の一塩基多型と、以前には検出されなかった追加の4ヶ所の一塩基多型により定義されるようです。したがって、YHg-H2dは、トルコとドイツの個体群から成る下位クレードを含んでおり、それらは、YHg-H2b1と関連する追加の10ヶ所の一塩基多型により独自に定義され、さらなる下位区分の可能性が示唆されることに要注意です。

 診断一塩基多型の拡張セットに基づいて、ML系統樹に含まれるための最小限の網羅率要件を満たしていない個体も含めてさえ、58個体をYHg-H2mとH2dのどちらか、あるいは(基底部)H2*(低網羅率のため)に分類できました。最終的に、これら追加の一塩基多型のどれにも由来せず、YHg-H2の一塩基多型の多くにとって祖先型である3個体も確認され、基底部の3個体と表示されます。

 本論文の全標本をヨーロッパの地図に投影すると、系統地理的パターンがはっきりと現れました(図3B)。YHg-H2d個体は全員、ヨーロッパ中央部へのいわゆる内陸部・ドナウ川経路沿いで見つかり、YHg-H2mは1個体を除いて全て、ヨーロッパ西部とイベリア半島と最終的にはアイルランド島へのいわゆる地中海経路で見つかりました。ドイツ中央部で見つかった孤立したYHg-H2mの個体(LEU019)は、年代が後期新石器時代・前期青銅器時代で、新石器時代拡大の2000~3000年後となります。ミシェスベルク(Michelsberg)文化のような中期・後期新石器時代集団の東方への拡大の考古学およびmtDNAの証拠は、この単一の地理的に離れた観察結果を説明できるかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 本論文で用いられた古代人標本の不完全でさまざまな網羅率のため、古代人標本の放射性炭素年代測定を用いての、分岐年代推定のための信頼できる較正を作成できませんでした。本論文は代わりに、個体の各組み合わせの最新の共通祖先(TMRCA)以来の年代を推定し、新たに識別されたYHg-H2クレードの分岐年代を調べました。まず、相対的な置換率が構成され、YHg-A0と他の全てのYHgの平均TMRCAが161300年前と推定されました。この較正された置換率を用いてのTMRCAは、YHg-A1が133200年前、YHg-HIJKが48000年前と推定され、これは現在のそれぞれの推定年代(yfull)である133400年前および48500年前とひじょうに近くなっています。本論文はYHg-H2のTMRCAを24100年前と推定し、これは現在の推定年代(17100年前)よりもわずかに古く、高網羅率のYHg-H2の現代人標本を1個体しか利用できず、古代人標本が増加したことで説明できます。

 YHg-H2dとH2mの推定TMRCA年代は15400年前で、それぞれの推定TMRCA年代は11800年前と11900年前です(図4)。しかし、重複する一塩基多型が少ないために関連するエラーバーがより広くなっている場合でも、平均推定年代は依然として比較的一貫していることに要注意です。これらの推定値に加えて、YHg-H2dとH2mの個体がアナトリア半島とレヴァントでも見つかった事実から、YHg-H2の多様性は農耕および家畜の確立以前に近東狩猟採集民に存在していた可能性が最も高く、初期農耕民にも存在し、その後で新石器時代拡大を経てヨーロッパ中央部および西部に広がった可能性が高い、と示されます。以下は本論文の図4です。
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●YHg-H2の解像度向上のための診断用一塩基多型の特定

 YMCAを用いてYHg-H2の新たな下位クレードを特定した後、参照ヒトゲノム配列(hs37d5)と比較して、どの一塩基多型がこれらの下位クレードの診断用なのか、識別することも目的とされました。そのために、次の特性を有する分離部位が探されました。(1)集団内のどの個体もその部位では祖先的ではない場合。(2)その部位では集団内の複数個体が網羅されている場合。(3)その部位では集団外のどの個体も派生的ではない場合。(4)その部位では集団外の複数の個体が網羅されている場合。そのうえで、「新たな」一塩基多型の調査は、CからTもしくはGからAではなく、したがって古代DNA損傷の結果である可能性が低い置換に限定されましたが、本論文の結果でCからTもしくはGからAである多様体も、それらがISOGG もしくはYFullで以前に発見されているならば、含まれました。

 YHg-H2(全て)とH2d(緑色)とH2m(青色)として定義される図3の下位ハプログループ・分枝の、312ヶ所の診断用の可能性のある一塩基多型が特定されました。心強いことに、本論文で特定された312ヶ所の診断用一塩基多型のうち258ヶ所(80.1%)はすでに、ISOGGもしくはYFullの一覧においてYHg-H2(P96)もしくはより派生的な下位区分と関連している、と明らかになっています。本論文では、YHg-H2と関連づけられていなかった、以前に発見された一塩基多型を2ヶ所(0.31%)のみ見つけました。それは、YHg-R1a1およびR1a1aと関連づけられたCからTの置換です。これはYHg-H2標本31点のうち17点で見つかったので、CからTの置換が損傷に起因する可能性は低そうです。さらに、本論文のYHg-H2の古代人(フランスのYHg-H2の1個体を除いて)では、134ヶ所の既知の基底部YHg-H2一塩基多型のうち110ヶ所を見つけられました。

 上述のさまざまなYHgで新たに発見された残りの62ヶ所の一塩基多型は、未発見の診断用一塩基多型か、失われたYHg-H2の多様性を表します。しかし、部位8611196におけるAからGの置換のような、新たに発見された一塩基多型のいくつか(本論文のYHg-H2の31個体のうち20個体)では、新たな真の診断用一塩基多型の圧倒的な証拠が見つかりました。これら明確なYHg-H2の下位ハプログループを検出する本論文の手法の能力、したがって新石器時代拡大における情報価値のあるYHgの分岐年代をさらに解明して推定する能力は、網羅率の増加と、YMCAで標的をとできる部位の数の増加によってのみ可能となります(ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合)。


●考察

 人口集団のY染色体の歴史の分析は、人口史を理解するうえでひじょうに重要かもしれません。この目的のため、本論文は古代のY染色体配列データの標的配列戦略の採用を提唱します。本論文で提示された焦点を絞った研究では、ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合、内在性ヒトDNA含有量を考慮したうえで、同じ配列作業量YMCAを用いたさいに達成可能な一塩基多型の網羅率と数の改善が浮き彫りになります。

 標的となる内在性ヒトDNAの濃縮は、古代DNA研究における不充分な標本の保存状態を克服するためにひじょうに重要です。現代人男性から確認された1240kアッセイのY染色体一塩基多型は単に、信頼できるYHg分類のためのNRY上の診断用一塩基多型を、とくに現代の多様性に先行するYHgの事例では充分に網羅できない、と示され、最新の「Y染色体一塩基多型パネル」のために連続する領域を標的とする必要性が浮き彫りになります。YMCAは、他のキャプチャに使用され、追加の抽出もしくはライブラリの準備を必要としない、同じライブラリに適用できます。YMCAを本論文では試みられていない他のキャプチャアッセイと組み合わせることは確かに可能ですが、管理された研究における選択された男性標本の特注YMCAは、追加の配列作業を伴う(男性および女性標本への)手順複合適用よりも優れているかもしれない、と本論文は主張します。

 YHg-H2(P96)のより詳細な分析を通じて、古代のYHg-H2の多様性に関する現在の理解は、系統樹的な歴史(NRYの歴史にも当てはまるはずです)と矛盾し、この多様性の解決は近東からヨーロッパへの新石器時代拡大の2経路へのさらなる裏づけにつながる、と示せます。それは、YMCAによりもたらされた改善された解像度なしには可能ではなかっただろう観察結果です。ユーラシア西部狩猟採集民のY染色体(YHg-I2aやI2bやC1a)の下位構造の研究や、青銅器時代ユーラシア西部やアジア中央部および南部YHg-R1aおよびR1bの多様化をよりよく特徴づけるために、こうした手法が将来適用されるよう期待されます。


参考文献:
Rohrlach AB. et al.(2021): Using Y-chromosome capture enrichment to resolve haplogroup H2 shows new evidence for a two-path Neolithic expansion to Western Europe. Scientific Reports, 11, 15005.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94491-z

小林登志子『古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とするのはメソポタミアで、年代では都市文化が始まる紀元前3500年頃からおもに紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡までで、その後もアラブ人勢力による支配の始まりとなる紀元後651年のサーサーン王朝の滅亡までが扱われています。メソポタミアは地理的に大きくは、南部のバビロニアと北部のアッシリアの2地域に区分されます。メソポタミアは現在の国境線ではおおむねイラク共和国に相当しますが、この南北の違いは、現在のスンニ派(北部)とシーア派(南部)の対立にも続いている、と本書は指摘します(妥当な見解なのか、疑問は残りますが)。

 世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。

 メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500~紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500~紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、鉱物や石材や木材には恵まれず、オオムギなど農産物を対価としてそれらの物資を入手しました。都市文化の当初より、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠だった、というわけです。そのため、メソポタミア南部全体が共通の経済観念を有していたようで、その証拠が文字の祖型とされるトークン(小型粘土製品)です。紀元前三千年紀後半には、メソポタミアやシリアなどで次々と都市が形成されていきますが、都市の周辺には、都市と関わる遊牧社会も存在しました。

 紀元前3100~紀元前2900年頃となるジェムデット・ナスル期にはバビロニア全域に都市文化が広まり、初期王朝時代が続きます。シュメルでは複数の都市国家が交易路や領土問題で争いました。初期王朝時代には第I期(紀元前2900~紀元前2750年頃)に都市を囲む城壁が出現し、第IIIB期(紀元前2500~紀元前2335年頃)に覇権をめぐる都市間の合従連衡が活発になり、ついにはウルクがシュメルを統一します。ウルクはアッカド語の呼称で、シュメル語ではウヌグです。ウルクにはすでにウバイド文化期に定住が始まり、紀元後634年のアラブ人によるメソポタミアへの侵攻の前後に放棄されたようです。ウルクで発明された文字が完全な文字体系(楔形文字)に整備されたのは紀元前2500年頃でした。メソポタミアの都市国家の王は、都市全域を支配して全住民に人頭税や地租を課すのではなく、広大な耕地と所属員から構成される家産的な独立自営の組織に依存していたようです。

 メソポタミア南部のバビロニアを統一したのは、ウルクではなくバビロニア北部のアッカドのサルゴン王(在位は紀元前2334~紀元前2279年)でした。シュメルとアッカドでは、言語により呼称は違うものの、ほぼ同じ神々が祀られていました。たとえば大地母神は、シュメル語ではイナンナ、アッカド語ではイシュタルです。余談ですが、これが高橋克彦『竜の柩』の設定にも取り入れられていたことを思い出しました。アッカドはバビロニアを統一しましたが、その後もシュメル人がたびたび反乱を起こしました。こともあり、支配が安定したのは第3代のマニシュトゥシュ王の時代だったようです。アッカドの衰退後、シュメル人による最後の統一王朝を築いたのがウル第三王朝でした。ウル第三王朝時代には、現存最古の法典となるシュメル語の『ウルナンム法典』が作成されました。『ウルナンム法典』では、傷害罪は銀で償うと規定されており、『ハンムラビ法典』などに見られる後の同害復讐法とは異なります。ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は政治的・「民族的」独立を失い、日常語はアッカド語となりますが、その後も学校ではシュメル語が教えられ、シュメル語の文学作品が作られました。

 ウル第三王朝滅亡後のメソポタミア南部は古バビロニア時代と呼ばれ、前半は群雄割拠の混乱期だったイシン・ラルサ時代、後半はハンムラビ王(在位は紀元前1792~紀元前1750年)以降のバビロン第一王朝時代と区分されます。紀元前二千年紀前半のメソポタミアで大きな役割を果たしたのは、シリア砂漠からメソポタミアへ侵入してきた、西方セム語族のアムル(アモリ)人でした。メソポタミア北部のアッシリアの歴史は、紀元前2000年頃以降にようやく明確になってきて、アッシリア時代(紀元前2000~紀元前1600年頃)と呼ばれます。アッシリアはアナトリア半島やシリアとメソポタミアとの間の遠距離交易活動を優位に展開した商業国家で、紀元前三千年紀にはアッカド王朝やウル第三王朝に従属していました。バビロン第一王朝は、ヒッタイト王国に攻められて紀元前1595年に滅亡しましたが、都市としてのバビロンの優位は失われず、バビロンを首都とする王朝が新バビロニアまで1000年以上にわたって断続的に続きました。

 紀元前二千年紀後半のメソポタミアでは、同じくアッカド語を使い、同じ神々を祀るなど同一文化を担う二大勢力として、バビロニアとアッシリアによる覇権争いが展開します。この間、バビロニアを長期にわたって支配したのが、「民族」系統不詳のカッシート王朝(紀元前1500~紀元前1155年)でした。一方、アッシリアは不明な点が多くいミタンニ(ミッタニ)王国(紀元前16~紀元前14世紀)に制圧されていましたが、紀元前14世紀後半にミタンニの支配から脱し、メソポタミア北部で勢力を回復します。ただ、アッシリアがバビロニアに軍事的に勝利しても、バビロニア文化に圧倒されることは珍しくなかったようです。この時期のメソポタミアには、このミタンニやアナトリア半島中央部のヒッタイト王国が関わり、さらにはエジプトもアジアへと侵出してきます。こうしてメソポタミアも含めてアジア南西部で諸勢力が並存し、「世界最古」の「国際社会」が形成されます。ミタンニはフリ(フルリ)人の国で、その言語は膠着語であり、紀元前千年紀前半にアナトリア半島東部およびアルメニアを支配したウラルトゥ王国(紀元前9世紀中期~紀元前6世紀初頭)の言語と類縁関係にあります。こうして諸勢力が興亡を繰り返しつつ政治・文化・経済的に交流を続けた「国際社会」は、「紀元前12世紀の危機」で大打撃を受けます(関連記事)。

 「紀元前12世紀の危機」を経た後、紀元前千年紀前半のメソポタミアでは「世界帝国」の興亡が繰り広げられます。この時代の「世界帝国」としてまず台頭したのは、「紀元前12世紀の危機」で中期アッシリアが衰退した後に復興した新アッシリア(紀元前1000~紀元前609年)で、その武力により版図を拡大しました。その背景には鉄器時代の到来があり、鉄製の農具や工具の普及により人類の居住世界が大きく広がるとともに、鉄製武器と騎兵の本格的出現により軍事力が向上しました。この間、アラム語がアジア南西部で広く用いられるようになります。

 紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世(在位は紀元前744~紀元前727年)の代にアッシリアは大きく拡大し、「帝国」としての実態を有するようになっていきます。その後、紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半にかけて、アッシリア帝国全盛期を迎え、ついにはメソポタミアのみならずエジプト全土も支配しますが、この支配は長続きしませんでした。新アッシリアは複雑な官僚組織で広大な帝国を運営し、多くの属国が存在しました。しかし、アッシュル・バニパル王が紀元前627年に死ぬと、新アッシリア帝国は急速に崩壊していき、紀元前609年に滅亡します。

 新アッシリア帝国を単独では滅ぼせなかったものの、新バビロニアは新アッシリア帝国の滅亡後にメソポタミアで大きな勢力を有し、とくに有名な王は「バビロニア捕囚」を行なったネブカドネザル2世です。新バビロニアの都市住民は自由人と奴隷と「半自由人(王室や宮殿または個人に属している人や小作人)」に分かれ、商人の経済活動が活発だったようです。しかし、新バビロニアはペルシアに勃興したハカーマニシュ王朝により紀元前539年に滅ぼされ、本書はこれを古代メソポタミア史の終わりと指摘します。もはやメソポタミアは歴史を動かす主役たり得ず、以後はもっぱら東西の強国に蹂躙されていった、というわけです。紀元後7世紀のアラブ人勢力の支配により、メソポタミア地域の言語がアラビア語へと変わったのは、それを象徴しています。

ヤンガードライアスを同期させるラーハ湖の噴火の正確な年代

 ヤンガードライアスを同期させるドイツのラーハ湖噴火(LSE)の正確な年代に関する研究(Reinig et al., 2021)が公表されました。LSEは、後期更新世におけるヨーロッパ最大級の火山事象の一つと位置づけられています。LSEのテフラ堆積物は、後期氷期から前期完新世への移行期における代理指標アーカイブを同期させるための重要な等時性を示していますが、噴火の年代については不確かさが残っています。

 この研究は、火砕堆積物に埋もれた半化石樹木の年輪年代測定と放射性炭素測定を行ない、LSEの年代を13006±9年前(1950年を基点とする較正年代)と確定しました。これは、じゅうらい認められていた年代より1世紀以上古くなります。LSEの年代が修正されたことで、ヨーロッパの氷縞粘土湖の年代は、グリーンランドの氷床コア記録に対して必然的にシフトし、これによりヤンガードライアスの開始時期は12807±12年前(較正年代)となりました。

 これは、じゅうらいの推定年代より約130年古くなります。この結果は、ヤンガードライアスの開始時期を北大西洋とヨーロッパで同期させるもので、LSEとグリーンランド 亜氷期1の寒冷化の直接的関連性を排除し、温暖化条件下での大西洋の南北方向の鉛直循環の弱化という大規模な共通機構を示唆しています。ヤンガードライアスは、大型動物の絶滅や農耕への移行とも関連している可能性があり、人類史の観点からひじょうに注目される事象だけに、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Reinig F. et al.(2021): Precise date for the Laacher See eruption synchronizes the Younger Dryas. Nature, 595, 7865, 66–69.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03608-x

『卑弥呼』第68話「それぞれの運命」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年8月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがヌカデに妊娠を伝えて助力を要請し、了承したヌカデが、助けないと言えばナツハ(チカラオ)に命じて自分を殺すつもりだっただろう、と指摘するところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)国と都萬(トマ)国との境において、即席で設けられた柵を越えようとする庶民3人を、山社の兵士が取り締まる場面から始まります。3人は、邑が厲鬼(レイキ)に襲われて全滅し国を出ないと一家は飢え死にするので見逃してほしい、と兵士に懇願しますが、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)はどこも厲鬼(疫病)に取り憑かれており、国境を封じて人の出入りを止めるのがせめてもの予防策だ、と言って追い返します。その近くでは、やはり柵を越えようとした庶民が2人、兵士2人に射殺されました。兵士の一人は同情しつつ、日見子(ヒミコ)様でも厲鬼には勝てないのか、と嘆息し、別の兵士がそれを窘めます。

 元は日向(ヒムカ)国だった山社国の油津(アブラツ、現在の宮崎県日南市油津港でしょうか)では、テヅチ将軍が兵士たちを指揮し、疫病で死んだ者たちを舟に乗せて火葬していました。配下のナギヒコに何か懸念があるのか問われたテヅチ将軍は、五百木(イオキ)の賊がなぜわざわざ山社に上陸を試みるのか、五百木から一番近いのは菟狭(ウサ、現在の宇佐市でしょうか)なのに、なぜさらに南西に海路をとるのか、と逆に尋ねます。ナギヒコは、陸までたどり着いた賊が、日向には厲鬼を殺す秘薬があると聞いていると言った、とテヅチ将軍に答えますが、テヅチ将軍はその話を知っており、誰がそのような流言を広めているのか、筑紫島、とりわけ山社に悪意を抱く誰かが、厲鬼に憑かれた者をわざと送り込んでいるのではないか、と推測します。

 日下(ヒノモト)の国の廃都では、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔であるフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)追手での八咫烏(ヤタガラス)から逃れていたトメ将軍とミマアキの一行が、サヌ王の末裔と対立しているタギシ王の末裔の阿多(アタ)のチカトと名乗る武人と、逃亡経路について話していました。タギシ王とは、記紀に伝わる神武天皇の長男で、弟(綏靖天皇)に討たれた手研耳命(タギシミミノミコト)でしょうか。チカトは、トメ将軍とミマアキの一行が胆駒山(イコマヤマ)に向かうことは無謀だ、と警告します。胆駒山は鳥見(トミ)一族の故郷で、隠居した長髄日子(ナガスネヒコ)、つまり元武人が大勢住んでいる、というわけです。老兵の邑なら突破するは逆に容易いのでは、と言うミマアキに対して、隠居したとはいっても、吉備(キビ)国や鬼国(キノクニ)と戦った猛者たちで、トメ将軍とミマアキの一行よりも地の利に長けている、とチカトは警告します。では、生きて日下を抜けるにはどの道を進めばよいのか、とトメ将軍に問われたチカトは、南西の葛城山(カツラギノヤマ)なら可能かもしれない、と答えます。葛城山は當麻(タイマ)一族の地で、當麻一族はかつて鳥見の長脛者(ナガスネモノ)と勢力を二分していましたが、長脛者たちがサヌ王と連合した結果、往時の勢力を失い、現王朝には面従腹背というか、逆らわないものの服従もしないという態度を取っている、とチカトはトメ将軍とミマアキに説明します。當麻の地には走れば明け方には到達する、とチカトから聞いたミマアキは、そうするようトメ将軍に進言しますが、トメ将軍とミマアキの一行は八咫烏に追われている、と警告します。八咫烏はサヌ王の末裔である現在の日下王家お抱えの志能備(シノビ)で、闇夜や叢(クサムラ)での遊撃戦なら最強で、とくに移動中の部隊の隙を突くことに長けていて、さらにフトニ王の中隊が八咫烏の後方から近付いており、その長は伊香(イカガ)のシコオという日下一の将だ、とチカトはトメ将軍とミマアキに警告します。八咫烏の襲撃を警戒して動かず、中隊に追いつかれれば絶体絶命だ、とトメ将軍は思案します。八咫烏の人数をミマアキに問われたチカトは、その姿を見た者はおらず、八咫烏が残した大勢の死体しか見たことはない、と答えます。八咫烏の頭領は賀茂のタケツヌという者で、八咫烏は幼き頃より嗅覚と聴覚を鍛え、目を使わずとも戦えるよう仕込まれているそうです。どうすべきかトメ将軍に問われたチカトは、タギシ王の都だったこの地には自分たちしか知らない秘密の抜け道があり、そこを通って姿を隠し、八咫烏とシコオの中隊が諦めるのを気長に待つよう、勧めます。八咫烏と戦って勝ち目はあるのか、とトメ将軍に問われたチカトは、いかに猛者でも大半は死ぬだろう、と答えます。するとトメ将軍は、運を天に任せて今からひたすら南西に走る、と決断します。動けば八咫烏の思う壺だ、と警告するチカトに、たとえ一人しか生き残らずとも誰かが山社に戻らねばならない、と答えます。日下の王(フトニ王)が厲鬼を五百木の賊に仕込んで筑紫島に送り込んでいることを、一日でも早く我々の日見子(ヤノハ)様に伝えねばならないからだ、と答えます。トメ将軍の自信に満ちた表情を見たチカトは、トメ将軍が八咫烏と戦う策を思いついたのではないか、と悟ります。

 那(ナ)国の岡では、ヤノハとヌカデが建物にて二人だけで話し合っていました。疫病による混乱を利用して妊娠を隠すとは、さすがに自分の見込んだ女性だ、とヌカデはヤノハに改めて感心します。しかしヌカデは、厲鬼に怯える民を見捨てるつもりか、とヤノハに問いかけます。するとヤノハは、正直に言ってもう自分にやることはない、と打ち明けます。厲鬼に勝つ術は神の力でも政治でもなく、ひとえに人々の忍耐と努力だ、とヤノハはヌカデに説明します。人と距離を置き、家人単位で行動し、外出時は布で口や鼻を覆い、帰宅跡すぐに口をゆすいで手を洗って、市などで知人と会っても会話を慎むことが必要だ、というわけです。ヤノハの説明を聞いたヌカデは納得しますが、簡単なようで難しい、と言います。ヤノハはヌカデに、これからも人が続々と死ぬ時に、自分が山社の楼閣に現れたら皆は元気づけられるが、それは最初のうちだけで、二ヶ月もしないうちに自分を非力な日見子と思うだろうから、人前からに姿を消して厲鬼と戦っていると思わせる方がずっと得だ、と説明します。お前はどこまでも勝ち運を呼び寄せる女性だ、と感心するヌカデに、人が自分を信用するのはせいぜい一年と少しで、そこまで経っても厲鬼が去らなければ、民は新たな日見子・日見彦(ヒミヒコ)を望んで自分を人柱にするよう欲するだろう、とヤノハは打ち明けます。そうなった場合、お前が率先して自分を祈祷(イノリ)の場から引きずり出して殺せ、とヤノハはヌカデに命じます。本気なのか、と驚くヌカデに、その時はその時だ、それが日見子の運命なのだ、とヤノハが答えるところで今回は終了です。


 今回は、絶体絶命の危機に陥ったトメ将軍とヤノハの胆力と覚悟が描かれました。トメ将軍が八咫烏とどう戦うのか、注目されますが、ミマアキが千穂で正体不明の「鬼」と戦った経験を活かして活躍する場面もありそうです。正体不明だから恐れるものの、相手が人間だと分かれば対処する方法はある、とミマアキは考えそうです。なお、前回述べ忘れましたが、『日本書紀』の大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)、つまり第7代孝霊天皇と思われるフトニ王が本作ではサヌ王から数えて8代目とされているのは、記紀では天皇とされていない神武天皇の長男である手研耳命がサヌ王の次に即位した王だった、との設定に基づいているようです。ヤノハの決断と覚悟はしっかりとした利害計算に基づくもので、ヤノハのこれまでの描写に合致したものになっていました。ヤノハがこの決断を打ち明けて今後の策を委ねる相手としてヌカデを選んだのは、ヌカデがヤノハの本性を最もよく知ることからも、説得力があったと思います。ヤノハが事代主(コトシロヌシ)から授けられた知識を活かしてこの危機をどう切り抜けるのかが、当面の山場となりそうで、たいへん楽しみです。

イタロ・ケルト語派の起源

 イタロ・ケルト語派の起源に関する研究(Fehér et al., 2021)が公表されました。コッホ(John T. Koch)氏とカンリッフ(Barry Cunliffe)氏が率いる過去20年のケルト研究は、長きにわたる理論「ハルシュタット(Hallstatt)鉄器時代=原ケルト文化」の妥当性に疑問を提起し、一連の「西方からのケルト」において初期ケルト大西洋青銅器時代を主張しました。ギュンドリンゲン(Gündlingen)様式の剣術は青銅器時代後期のブリテン島と低地諸国に起源があり、後に西方から東方へと拡大し、ハルシュタット・アルプス鉄器時代からさらに広がった、との議論があります。鉄器時代前のイベリア半島南西部からのタルテッソスのケルト的性質も、原ケルト人の初期大西洋起源の証拠となります。父系継承のY染色体DNAと両親から継承される常染色体の古代DNAの結果は、「西方からのケルト」をますます裏づけており、本論文はさらに進んで、北西部から到来した「イタリア・ケルト人」を論じます。

 最近の考古遺伝学的研究(関連記事1および関連記事2)では、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b(M269)が、現在のウクライナとロシア南部のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)起源だったことを証明しました。YHg-R1b1a1b(M269)以前ではあるものの、YHg-R1b1a1a(M73)ではない系統、つまりYHg-R1b1a1(P297)からYHg-R1b1a1b(M269)へと至る祖先は、ヴォルガ川流域に位置するロシア西部のサマラ(Samara)文化の紀元前5500年頃の男性個体で見つかっています。また、クルガン(墳丘墓)を建造するヤムナヤ(Yamnaya)文化の草原地帯牧畜民と、その東方の分派でおそらくはトカラ語(Tocharian)祖語を話したアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の男性は、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)でした。

 その後の研究では、「真のアーリア人」が話していた後期インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2350年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)で話されていた可能性が最も高い、と明らかになりました。CWC集団はヤムナヤ関連の西方草原地帯牧畜民(WSH)の常染色体の祖先系統(祖先系譜、ancestry)を顕著に示し、特定の下位系統の拡大と一致する地理的下位集団を有しています。インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900~紀元前2200年頃となるCWCのファチャノヴォ・バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化の東側から到来した、紀元前2200~紀元前1800年頃となるシンタシュタ(Sintashta)文化に由来し、父系はほぼYHg-R1a1a1b2(Z93)です。

 原バルト・スラブ語派集団は、YHg-R1a1a1b1a2(Z280)で、北方に移動して中石器時代のナルヴァ(Narva)文化を置換した、紀元前3200~紀元前2300年頃となるCWC中期のドニエプル(Dniepr)文化集団の子孫候補です。紀元前2800~紀元前2300年頃となる戦斧(Battle Axe、略してBA)文化は、スカンジナビア半島におけるCWCの分枝であり、YHg-R1a1a1b1a3a(Z284)とYHg-I1(M253)が優勢で、中石器時代の円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化を置換しました。単葬墳(Single Grave、略してSG)文化は北ドイツ平原とデンマークの漏斗状ビーカー(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker、略してTRB)文化を置換し、後の紀元前2500年頃以降となる鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してしてBB)文化の祖先となり、そのYHgはR1b1a1b1a1(L11/P311)です。


●原ケルト人の故地

 以前の研究(関連記事)では、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびR1b1a1b1a1a2(P312)につながるようなYHg-R1b1a1b1a1(L52)がCWC期に現在のウクライナとの国境近くのポーランド南東部に存在した一方で、ドイツからポーランド北部を経てエストニアに至るほとんどの他のCWC標本は、YHg-R1a1a1(M417)だった、と示されました。ポーランド南東部のCWC個体群も、他地域のCWC個体群よりも後の鐘状ビーカー文化個体群の方との高い遺伝的類似性を示します。この集団と関連する唯一のCWC集団は、ライン川下流およびエルベ川下流地域の単葬墳文化です。

 したがって、YHg-R1b1a1b1a1(P311)の祖先は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地からカルパティア山脈北方のポーランド南東部を経て、紀元前2900~紀元前2500年頃に北海沿岸に向かって移動した、と確実に結論づけられます。この経路は、常染色体の研究で裏づけられており、イベリア半島(YHg-R1b1a1b1a1a2のみ)外の鐘状ビーカー文化個体群は、ヨーロッパ北部新石器時代集団とヤムナヤ関連祖先系統の混合ではあるものの、イベリア半島新石器時代集団の祖先系統との混合ではない、と結論づけられています。

 CWC集団は常染色体では混合されていないインド・ヨーロッパ語族祖語の人々の起源で、イタロ・ケルト語派祖語(単葬墳文化の人々)とゲルマン祖語(戦斧文化の人々)と原バルト・スラブ語派(ドニエプル川中流)とインド・イラン語派祖語(ファチャノヴォ・バラノヴォの人々)の起源になった、と結論づけられます。常染色体の証拠から明らかなのは、Y染色体DNAでも示されているように、鐘状ビーカー文化期と戦斧文化期以降の、ブリテン諸島とオランダ北部とデンマークを含むスカンジナビア半島の完全な常染色体の連続性です。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の鐘状ビーカー文化個体群が、ラインラントで紀元前2566年頃にのみ出現することにも要注意です。紀元前2800年頃となるアルザス地域のヘーゲンハイム(Hégenheim)標本には草原地帯祖先系統が欠けており、紀元前2574~紀元前2452年頃となるフランス北東部のサルソーニュ(Salsogne、CBV95)標本はほぼ100%ヤムナヤ関連祖先系統で遺伝的に構成され、ヤムナヤ文化集団で優勢なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)に分類されます。以上の点を考慮すると、常染色体遺伝子の結果は、YHg-R1b1a1b1a1(L11/P311)がライン川下流およびエルベ川下流地域で最も多様であり、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)とR1b1a1b1a1a2(P312)が稀なYHg-R1b1a1b1a1a3(S1194)とR1b1a1b1a1a4(A8053)とともに、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の分枝が鐘状ビーカー文化の拡大を始める前の紀元前2800~紀元前2500年頃に、相互に隣り合って存在していたかもしれません。

 父系で最も「ケルト的な」YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)は、ブリテン諸島とイベリア半島のケルト地域(50%以上)で最も頻度が高く、フランス(40~50%)で顕著に見られ、ヨーロッパ中央部および東部に向かってその頻度は減少します。ブリテン諸島で典型的なYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)は、最初の鐘状ビーカー文化住民で見つかりました。ケルト語祖語のカルパティア盆地とアルプス北部もしくはカルパティア盆地とイタリアという移住経路を予測するのは、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の頻度に基づくと合理的ではありません。これは、初期鐘状ビーカー文化標本で示されているように、常染色体DNAの証拠でも強調されており、現代人集団からの遺伝的距離が計測されました。ブリテン諸島の鐘状ビーカー文化標本は、ゲルマン語話者であれケルト語話者であれ、現代のヨーロッパ北部人口集団とクラスタ化します。ほとんどの遺伝的距離(10.00 未満)から、これら現代の人口集団が鐘状ビーカー文化集団の直接的な常染色体子孫で、混合がなく、青銅器時代および鉄器時代の遺伝子流動の北から南および西から東への方向を証明していることも注目されます。


●ライン川下流の故地からのイタロ・ケルト語派の拡大

 もう一つのYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の下位区分はYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)で、イタリア北部およびフランスでとくに高頻度です。既知の最初のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本は、ドイツのオスターホーフェン・アルテンマルクト(Osterhofen-Altenmarkt)の紀元前2571~紀元前2341年の個体です。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の系統は、鐘状ビーカー文化のアルプス北部のボヘミアへの拡大とポーランドへの「逆流」に相当し、ドナウ川沿いに紀元前2500~紀元前2000年頃にブダペストへと南下しました。ボヘミアとバイエルンは鐘状ビーカー文化の起源ではなく目的地だったという間接的な主張も、この地域のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2b1のみ)により強調され、初期鐘状ビーカー文化のブリテン諸島人の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2c1のみ)を反映しています。

 ボヘミアとライン川下流へのポーランド南東部からの経路沿いの停車場だったならば、YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)以外のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性がもっと多くいるでしょう。ブダペストのチェペル(Csepel)地区の紀元前24世紀の鐘状ビーカー文化標本も、ハンガリーが鐘状ビーカー文化拡散の起源地ではなく終点だったことを証明しています。ここでは、「純粋なCWC由来(ケルト語派とゲルマン語派)」系統と直接的な草原地帯関連(CWCのないヤムナヤ文化)系統とラエティア・エトルリア語派系統の混合した、原イリュリア語派集団の常染色体の混合が見つかります。YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)標本は、ブリテン諸島や、スカンジナビア半島とブリテン諸島の常染色体のつながりを特徴とする元のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本と比較して、「南部」集団から常染色体上の遺伝的影響を幾分受けた、と分かります。

 一部のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性とほとんどのYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性は、ライン川沿いにアルプスの西側を移動して、近縁のYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とともにフランス南部に到達し、地中海沿いに紀元前2000年頃以前にイベリア半島とイタリアのリグーリア州(Liguria)に拡散しました。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)が最初に、アルプス経由の代わりにリグーリア州からイタリアに拡散したことを裏づける証拠が二つあります。古代のリグーリア州の標本と初期(ローマ共和政以前)ラテン人標本は、常染色体では相互に密接で、ともにヴァスコン人エトルリア人の混合を示しますが、YHgはR1b1a1b1a1a2(P312)です。

 一方、東部イタリック語派集団の子孫である可能性が最も高い帝政期ローマの標本は、顕著なスラブ化以前のバルカン人の混合(イリュリア人とギリシア人とミノア人)と、追加のラエティア・エトルリア語派集団の特徴を有しており、北東部からのイタリック語派のオスク・ウンブリア語群(ヴィッラノーヴァ人)が、後に異なる人口統計学的波で到来し、元々の西部イタリック語派集団(ラテン人や西シチリア人やおそらくはリグーリア人)よりもイタロ・ケルト語派集団との遺伝的類似性が低かったことを示唆します。

 これが意味するのは、イタリック語派祖語集団がすでに、後期新石器時代のアルプスの北側の「ラエティア・エトルリア語派的」人口集団と混合し、次にアルプスの西側経路でリグーリアとラティウムとシチリアに拡散したイタリック語派集団がアクィタニア(Aquitani)・ヴァスコン人(Vascon)と混合し、カルパティア盆地に拡散したイタリック語派東部集団がエトルリア人に加えてイッリョ・トラキア人(Illyro-Thracian)と混合した、ということです。以前の研究(関連記事)では、シチリア島とサルデーニャ島の人々は草原地帯牧畜民関連の遺伝子流入を紀元前2200~紀元前2000年頃に部分的にバレアレス諸島人から受けており、それは独特な石造物で知られるヌラーゲ文化およびギリシア関連の中東からの遺伝子流入が紀元前1900年頃に到達する前のことでした。

 したがって、初期カルパティア盆地のヤムナヤ文化集団のイタロ・ケルト語派の識別に関するアンソニー(David W. Anthony)の見解を改良にする必要があり、むしろイッリョ・トラキア人がバルカン半島北側に到来した可能性があり、後にブチェドル(Vucedol)文化を通じてバルカン半島北側に拡大しました。同時に、ウサトヴォ(Usatovo)およびエゼロ(Ezero)文化は、原ゲルマン人ではなく原アナトリア半島人の拡大を示しているかもしれません。イタロ・ケルト語派の故地は、Y染色体DNAと常染色体DNAの証拠に基づくと、北ドイツ平原とライン川下流地域に確実に想定できます。


●まとめ

 イタロ・ケルト語派祖語話者は、父系ではYHg-R1b1a1b1a1(P311)に代表され、現在のウクライナからポーランド南東部を経てライン川下流地域に紀元前2900~紀元前2500年頃に移動し、CWCの遺構に分類される単葬墳文化により識別されます。鐘状ビーカー文化は紀元前2500年頃に現在のオランダとドイツ北西部で形成され、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性とともに紀元前2500~紀元前2000年頃にブリテン諸島へと拡散し、後にケルト語祖語集団となり、YHgではR1b1a1b1a1a2c1(L21)に代表されます。鐘状ビーカー文化はイベリア半島とフランス南部にはYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とR1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性とともに、デンマークとスウェーデンのスコーネ地方にはYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)の男性とともに(後の西ゲルマン語群集団の祖先)、アルプス北部とボヘミアとポーランドにはYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性(後のオスク・ウンブリア語群集団)とともに拡大しました。

 常染色体DNAは、混合されていてないイタロ・ケルト語派およびゲルマン語派人口集団がCWCだった一方で、アルプス北部とカルパティア盆地では、非インド・ヨーロッパ語族の常染色体構成要素(ラエティア・エトルリア語派集団やバスク人につながるヴァスコン人)が、後期青銅器時代と前期鉄器時代にまで顕著な存在感を示していた、と証明します。「気高きスキタイ人」と言われるジェロニア人(Gelonian)は、常染色体ではカルパティア盆地とウクライナの紀元前6~紀元前3世紀のゴール人(Gaul)で、ハルシュタットC後のケルト人の広がりの最東端を示します。以前のキンメリア人とその後のサルマティア人は草原地帯牧畜民祖先系統を有しており、おもにイラン人関連祖先系統ですが、一部はコーカサスおよびテュルク人の祖先系統です。

 イタリック語派はこのように一貫性がありません。西方からイタリア半島への最初の波は、リグーリア語とラテン語とおそらくはシケル語をもたらし、同時にルシタニア語(直接的にはブリテン島から)とタルテッソス語(カタルーニャ地方経由で)がイベリア半島に到来しました。その後、骨壺墓地(Urnfield)文化・ヴィラノヴァ文化(Villanovan)期にカルパティア盆地とアルプスからの第二の移住がありました。エトルリア語系話者はリグーリア人とラテン人を分断し、イリュリア語の影響を受けたオスク・ウンブリア語群集団がアドリア海沿いに拡大しました。


参考文献:
Fehér T. (2021). Celtic and Italic from the West – the Genetic Evidence. Academia Letters, Article1782.
https://doi.org/10.20935/AL1782

『卑弥呼』第7集発売

 待望の第7集が発売されました。第7集には、

口伝47「凶手」
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_26.html

口伝48「暗殺」
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_8.html

口伝49「かりもがり」
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_28.html

口伝50「筑紫島と豊秋津島」
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_6.html

口伝51「急襲」
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_25.html

口伝52「擁立」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_6.html

口伝53「呪われた夜 其壱」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_26.html

口伝54「呪われた夜 其弐」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_7.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第7集ではナツハがヤノハを強姦し、その後でヤノハの弟のチカラオと明かされました。ナツハがヤノハの生き別れの弟であることは当初から強く示唆されていたように思いますので、この展開を意外に思った読者は少ないでしょう。

 本作の主人公であるヤノハは、武芸に長けているだけではなく知力も優れており、人の動かし方や先を見通す点ではたいへん優秀です。しかし、単に順調にヤノハの思惑通りに進むのではなく、厳しい状況のなか苦悩して試行錯誤しつつ目的を達成しようとするところが描かれ、時として弟のチカラオに強姦されるような危機にも陥るので、長期の物語として単調になっていないところがよいと思います。第7集まではほぼ九州が舞台となっていますが、その後の連載で本州も本格的に描かれるようになっており、今後は朝鮮半島や魏の人物も登場すると予想され、たいへん壮大な規模の話になるのではないか、と期待されます。なお、第1集~第5集までの記事は以下の通りです。

第1集
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_49.html

第2集
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_60.html

第3集
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_1.html

第4集
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_5.html

第5集
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_37.html

第6集
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_5.html

中国要人?の人類進化認識

 2009年6月22日に、インドの国防関係の査読誌に、「ナチス中国は現れつつあるのか?」と題した記事が掲載され、中華人民共和国の国防部長や人民解放軍の総参謀長も務めた大物軍人である遅浩田氏の演説が引用されていました。10年以上前にこの記事をあるブログ記事で知り、気になっていましたが、そのブログ記事でも指摘されているように、本当に遅浩田氏の演説なのか疑わしいので、当ブログでは取り上げてきませんでした。じっさい、「ナチス中国は現れつつあるのか?」と題した記事は現在では削除されており、本当に遅浩田氏の演説だった可能性は否定できないものの、少なくとも遅浩田氏の演説だったことを前提として語ることはできないよう思います。

 しかし、遅浩田氏の演説とされる文章は、他の文献(関連記事)やドキュメンタリー番組(関連記事)などから窺える、中国における一般的な人類進化認識と基本的な枠組みでは合致しているように思えますし、最近当ブログで取り上げたアジア東部の人類進化に関する認識(関連記事1および関連記事2)と関連しているので、以下に遅浩田氏の演説とされる文章のうち、人類進化に該当する箇所の日本語訳を掲載します。すでに元記事が削除されているので、インターネットアーカイブの2009年6月26日付の保存版から引用します。

 誰もが知っているように、西洋の学者たちにより広められた見解によると、人類全体はアフリカのたった一人の母親から生まれました。したがって、どの人種も人種的優位性を主張できません。しかし、ほとんどの中国の学者の研究によると、中国人は地球上の他の人種とは異なります。我々はアフリカで生まれたのではありません。むしろ、我々は中国の地で独立して生まれました。我々全員がよく知っている周口店の北京原人は、我々の祖先の進化の一段階を表しています。現在我が国で行なわれている「中華文明探源計画」は、古代中国文明の起源と過程と発展について、より包括的で体系的な研究を目的としています。我々はかつて、「中国文明には5000年の歴史がある」と言っていました。しかし現在、考古学や民族文化や地域文化などさまざまな分野で研究を行なっている多くの専門家は、北東部の紅山文化や浙江省の良渚文化や四川省の金沙遺跡や湖南省の永州市の舜帝文化遺跡などの新たな発見はすべて、中国初期文明の存在の説得力ある証拠であり、それらは中国の稲作農耕の歴史だけでも8000~10000年前にさかのぼれることを証明している、との合意に達しています。これは、「中国文明5000年」との概念の誤りを証明します。したがって、我々は100万年以上の文化的起源、1万年以上の文化と進歩、5000年の古代国家、2000年の単一の中国という実体の産物と断言できます。これが「炎帝と黄帝の子孫」と自称する中華民族であり、我々が誇る中華民族です。かつてヒトラーのドイツは、ドイツ人種は地球上で最も優れた人種だと自負していましたが、事実は、我が民族の方がドイツ人よりもはるかに優れています。
 我々の長い歴史において、我々の先祖はアメリカ大陸や環太平洋地域に拡散し、アメリカ大陸ではインディアンとなり、南太平洋では東アジアの民族となりました。
 繁栄をきわめた唐王朝期には、我が国の優位性により我々の文明が世界の頂点にあったことを、我々は全員知っています。我々は世界文明の中心で、我々の文明に匹敵する他の世界の文明はありませんでした。その後、我々の独りよがりと狭量さと我が国の内閉性のため、我々は西洋文明に追い越され、世界の中心は西洋に移りました。
 歴史を振り返ると、人はこう問いかけるかもしれません。世界文明の中心は中国に戻るのでしょうか?


 以上が、遅浩田氏の演説とされる文章のうち人類進化に該当する箇所の日本語訳です。唐王朝に関して過大評価ではないか、など疑問は少なくありませんが、以下ではおもに人類の起源と拡散に関する問題を取り上げます。中華人民共和国の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型と分類されており、現生人類(Homo sapiens)多地域進化説と整合的で(関連記事)、じっさい、中国はかつてオーストラリアやアメリカ合衆国(というかミシガン大学)とともに、現生人類多地域進化説の主要拠点の一つでした(関連記事)。

 上述のドキュメンタリー番組と文献によると、復旦大学の金力(Li Jin)教授(その後、副学長も務めたようです)は、中国人も含めての現生人類アフリカ単一起源説を証明するうえで重要な貢献を果たしましたが、当初は、100万年以上前に現在の中国領にいたホモ・エレクトス(Homo erectus)から現代の中国人は進化した、という中国では有力視されている仮説を証明するために研究を始めたそうです。金力教授もそうした教育を受けており、中国における人類進化の地域連続説の証拠を見つけたかったそうです。上述の遅浩田氏の演説とされる文章に見える人類進化についての認識は、現代中国社会では一般的なものである可能性が高そうです。

 ただ、金力教授のように、人類進化の研究者、とくに遺伝学関連の研究者の多くは、そうした100万年以上におよぶ現在の中華人民共和国領における人類進化の連続性を否定し、基本的には現生人類アフリカ単一起源説を支持しているようです。しかも、それはホモ・エレクトスなど非現生人類ホモ属と現代人との遺伝的連続性の否定のみならず、現生人類についても、現在の中国領も含むアジア東部北方(関連記事)と南方(関連記事)において、人口集団の置換や大きな遺伝的構成の変容があった、と古代DNA研究で指摘されています。しかも、これらの研究は中国人が主体となっており、「西洋の学者たちにより広められた見解」といった発言から窺えるような、現生人類アフリカ単一起源説を「西側」の偏見もしくは虚偽宣伝と敵視するような言説が的外れだと了解されます。なお、現生人類アフリカ単一起源説を認めても、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られるシャベル型切歯は、「北京原人」から(他の非現生人類ホモ属を経由して)交雑により現代人に伝えられた、との推測もあるかもしれませんが、遺伝学的知見から、この想定も無理筋であることが明らかになっています(関連記事)。

 このようなアジア東部における100万年以上前から現代におよぶ人類集団の遺伝的連続性を否定するような研究が、中国人研究者から相次いで公表されていることは、現生人類アフリカ単一起源説も含めて現生人類の起源や拡散に関する学説が、現在の中国政府にとって「核心的利益」とは強く関わっていないことを示唆します。その意味で、今後も現生人類の起源と拡散に関する中国での研究の進展には大いに期待できそうです。十数年前から当ブログでは、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、中国の体制教義的言説が「正しい歴史認識」・「真実の歴史」として日本国内でも声高に主張されるようになることを懸念してきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、少なくとも現時点では、それは現生人類の起源と拡散に関する研究には当てはまっていないと思います。まあ、現在の習近平政権の方向性から考えて、今後もそうだと楽観するのは時期尚早かもしれませんが。

アラビア半島のアシューリアン

 アラビア半島のアシューリアン(Acheulian)に関する研究(Scerri et al., 2021)が公表されました。アシューリアンは、アフロユーラシアの多くの地域で長期にわたって広範に用いられた人類の石器技術です。独特なアシューリアン石器群は、170万年前頃(関連記事)から一部地域の13万年前頃までの大型切削器の製作により特徴づけられます(関連記事)。アシューリアンは技術的に均質でその後の石器文化段階と比較して変化に乏しいものとしてよく説明されます。これは、その広大な時空間的分布や、複数種の人類の所産だった可能性には直観的に反する事実です。この一般的な見解にも関わらず、人類化石が欠如している場合、一部地域、とくに人類の居住が古環境要因に強く調節される氷河地帯もしくは乾燥地帯における人口集団の交替を、物質文化の多様性と関連づけることができました。

 中緯度の砂漠の繰り返される拡大と縮小は、そうした主要な生物地理学的制約の一つで、この場合、アフリカとアジア南西部間、および両者の内部の拡散です。降雨量増加を含む周期的な環境改善により、現在の超乾燥砂漠地域は河川や湿地や湖の広範なネットワークを有する草原に変わりました。とくにアラビア半島は、サハロ・アラビア乾燥地帯内の重要なつながりに位置しており、これまでの研究により、この地域は周期的に大陸全域の生態学的および水文学的障壁を変化させる劇的な環境変動を経てきた、と示されてきました(関連記事)。したがって、アシューリアンの通時的パターンには、アフリカとアジア南西部のさまざまな地域との間の、地域人口集団の交替の関連へのひじょうに必要な洞察を提供し、経時的な人類の景観行動の特徴の変化に光を当てる可能性があります。

 その明確な地理的重要性にも関わらず、アラビア半島のアシューリアンに関する詳細な知識は、現時点で単一のよく報告された遺跡に限定されています。サウジアラビア中央部のサッファーカ(Saffaqah)は、望ましい石材としてひじょうに利用された安山岩の近くに位置します(関連記事1および関連記事2)。サッファーカでは、大きな安山岩石核から剥離された大型剥片で、最小限に調節されしばしば非対称的な握斧が製作されました。これらの握斧は洗練されていないように見えますが、年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)7(243000~192000年前頃)の後期となり、MIS6に続いたようです(関連記事)。

 しかし、アラビア半島の他の場所では、とくにサウジアラビア北西部のネフド砂漠の古代湖の堆積物から、ひじょうに対称的で精密に調節された打製握斧が報告されています。それらは、ミコッキアン(Micoquian)様式の握斧から、長さ7cm~20cmもしくはそれ以上のさまざまな三角形や亜三角形や卵型まで、多様な石器があります。その精密に剥離され対称的な形態に基づくと、最小の握斧は、おそらく下部旧石器時代と中部旧石器時代の移行期にまで存在した、と仮定されます。

 その河川と湖の関連は、かなりの湿潤状態を示しますが、最近まで、年代推定を可能とする年代測定された堆積物と密接に関連しているネフド砂漠の握斧群はありませんでした。さらに、古代湖の堆積物は多種多様に存在し、その年代や推定されるサイズと水深などもさまざまですが、詳細に研究されているものはほとんどありません(関連記事)。結果として、「緑のアラビア」におけるさまざまな湿潤段階で優占していたこの地域の気候および環境条件や、人類集団の存在と行動に影響を及ぼした程度については、ほとんど知られていません。

 本論文は、アラビア半島北部のネフド砂漠で最初に年代測定されたことになる、アンナシム(An Nasim)遺跡を報告します。アンナシム遺跡は、古代砂漠計画による遠隔計測と古水文モデル化により2015年に発見されました。アンナシム遺跡は、他の湖の年代がMIS9(337000~301000年前頃)と年代測定されている地域の、とくに厚い(4m超)古代湖堆積物と関連しています。アンナシム遺跡の位置は、ネフド砂丘西部の西端から約20kmの砂丘間盆地です(図1のNSM-1)。南北方向の横断バルハン砂丘(三日月状砂丘)型巨大砂丘に囲まれ、盆地には以前の湖の段階を示す一連の泥灰土堆積物があります。この状況は、ネフド砂漠の大半の中期および後期更新世の記録に典型的で、乾燥期に形成された砂丘間の窪地が、湖および関連堆積物が湿潤期に形成された空間を提供します。

 アンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の古代湖堆積物を含むそうした多数の盆地の一つですが、盆地内の堆積物の厚さの点では非典型的です。しかし、遠隔計測分析では、これがアンナシム地域の特徴と示唆されており、他のいくつかのこの地域の盆地も厚い系列を示します。本論文は、より広範なアラビア半島のアシューリアンにおける比較的位置づけを考慮しながら、中期更新世に存在した盆地と湖の古地形と年代測定の詳細な説明を、古代湖のアシューリアン人工物の年代および特徴とともに提供します。以下は本論文の図1です。
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●調査結果

 アンナシムは深く狭い砂丘間盆地で構成されており、層状の湖沼泥灰土で覆われた一連の風成砂が保存されています(図2)。アンナシム盆地中央部では、これらの堆積物の露出が見られ、南北800m、東西350mに広がっています。しかし、泥灰土露頭は断片化されて不連続であり、いくつかの異なる高度で見られます。泥灰土の最も厚い目に見える露出は、盆地の東端に沿って見られます(図2)。これらの露出の基底部で、堆積物は以前の砂丘間の窪みを表しており、そこでは堆積物が蓄積し、形成された盆地の中心に向かって観察可能な露頭の端から急に傾斜する凹面の形となります。堆積物の層序もこの古盆地の中心に向かって傾斜しており、静止した水域に堆積し、既存の地形を覆っている、と示します。

 堆積物の西端は海抜930m(MASL)にあり、深く侵食されて小さな崖(最大4mの高さ)を形成し、湖の堆積物が厚く露出しています。この崖の基底部の堆積物の大きな「丸石」が取り除かれ、現在の砂丘の窪みの中心に向かって移動しました。泥灰土は西端で最も厚く、現代の砂丘間古盆地の中心に向かって存在していると思われ、その端に向かって東方向で薄くなっています(最も薄いところで0.5m)。中央地域の泥灰土堆積物の厚さは、ネフド砂漠西部の他の場所で以前に発掘された同年代の中期および後期更新世堆積物と比較して例外的です。古代湖堆積物の追加の地域は、同じ高度で一次露出のすぐ南に存在し、おそらくは相違を示す侵食を経た地域における同じ堆積物の継続です。以下は本論文の図2です。
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 湖沼堆積物の下層接触部の起伏や複雑な地層構造は、既存の風化した砂丘地形の上にこれらの堆積物が蓄積されたことを反映しています。この状況では、泥灰土堆積物は水柱から沈殿して浮流から脱落し、その結果、湖底に保存されている砂丘形状を覆うように厚い層に蓄積されます。結果として、これらの層は盆地の中心に向かって傾斜し、露出部全体で起伏しています。この研究でとくに関連するのは、露頭端の泥灰土ユニットの表面近くに見られる、層序上の位置に石材を含む泥灰土に富む砂層を横方向に追跡すると、盆地の中心に向かって表面から3m下に存在すると明らかになった、という事実です。

 区画の底部にある巨大な泥灰土層(図2a)は水が深い状態を示唆しますが、地層系列の上部に向かって、泥灰土と砂の層が相互に絡み合って乾燥亀裂が生じており、一時的な乾燥を経た浅い水域の典型例となっています(図2a)。上部の第11層および第12層は横方向に広がり、泥灰土の薄い層(第12層)で覆われた水平に層状の砂層(第11層)内の層序位置に石器が含まれます。この地層系列は、水位の低下と周囲の景観からの砂の表層浸食堆積を示唆しており、その後で水位が少し上昇しました。したがって、一次泥灰土系列の上部の堆積学、とくに石器が発見された第11層は、湖の水位が低く乾燥した時期に、アンナシム遺跡に人類が居住したことと一致します。

 再加工が広く行なわれている広く起きている乾燥環境では、石器が堆積物の年代と同時代であると示すのが困難なことはよくあります。しかし、アンナシム遺跡では3点の観察が重要です。まず、石器は泥灰土内で回収されたので、特定の層に直接的に関連している可能性があります。次に、石(礫器)サイズは、砂と沈泥が優占する堆積物内のどの石の粒子サイズよりも顕著に粗いことです。この観察は、これら堆積物の堆積に関わる過程では、人工物の移動と再加工が可能ではなかったことを示します。最後に、主要な泥灰土層の表面はアンナシム遺跡で最も高い地点であり、石器が浸食されて泥灰土層に再堆積するような、より古くてより高い堆積物がないことを意味します。これらの観察を考慮すると、泥灰土層の表面で発見された石器の最も可能性の高い出所は、直接的に回収されたこのユニットの最上層です。

 現在の砂丘間地域内のより低い地帯では追加の泥灰土堆積物が見られ、その全ては上述の一次堆積物よりもずっと明瞭ではなく、より劣化しているように見えます。海抜約930~923mの盆地の北側の側面には泥灰土の3点の小さな露出が存在し、巨大泥灰土の周辺露出の可能性があり、一方で盆地中央には、侵食された泥灰土の2ヶ所の異なる大きな塚が存在します。これらのうち最北端の1号塚の上面は湾曲しており、海抜約921m付近で砂丘間盆地に堆積した湖底を示唆します(図2B)。南方の2号塚(図2B)は海抜916m以下で不明瞭に大きく侵食された上面を有していますが、1号塚との関係は不明です。両方の塚とも侵食され、古代湖堆積物の収縮した残骸で覆われた側面を有する、海抜910mに位置する現在の砂丘間床の上の逆高低的特徴として保存されます。

 これら下部堆積物の一次堆積物との層序関係は、それらの間の不整合を生み出した縮小のため、不確実なままです。しかし、1号塚の形態と、一次堆積物と比較してのこれら堆積物の標高が低いことから、それらが一次堆積物とは異なる湖沼段階に属する、と強く示唆されます。それらは、現在位置する砂丘間領域を形成したより最近の縮小の前に、後の砂丘間の窪みの床に形成された可能性が高そうです。したがってアンナシム遺跡は、ネフド砂漠西部内の周期的な気候変化と関連する、風成縮小事象により分離された古盆地の発展のいくつかの別々の段階を保存しています。

 アンナシム遺跡における堆積学的観察は、より広範なネフド砂漠西部全域で観測された画像と一致しており、別々の湿潤期における地域的な地下水位の繰り返しの上昇により、砂丘間の窪地に湖と湿地が形成されました。以前の分析では、古代湖はネフド砂漠西部全域で広範に存在しており、地域内の大規模な河川活動の証拠の欠如にも関わらず、そうした砂丘間の湖の高密度により人類の拡散が促進された、と示唆されました。

 アンナシム遺跡では、下部旧石器時代人工物の2つの別々の集中が、一次堆積物の表面と下部の塚全体に分布している、と明らかになりました(図3)。体系的な収集により354点の人工物が回収され、それはおもに握斧で、明確に区別できる両面薄化剥片を含むさまざまな剥片が共伴します。人工物はアンナシム遺跡で2つの主要なまとまりで発見され(図2B)、泥灰土堆積物から侵食されているようです。目に見える人工物は体系的に収集され、それらの位置は差分GPS(DGPS)を用いて記録されました。しかし、絶えず変化する砂は視覚から他の人工物を隠す可能性が高いので、収集されなかった人工物もあることに注意が必要です。したがって、石器群はより大きくて厚いため、剥片よりも容易に埋まらない握斧に偏っているかもしれません。この調査の結果は図3に示されており、人工物と湖との間の密接な関係を示します。以下は本論文の図3です。
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 アンナシム遺跡の石器群は、ネフド砂漠における以前に報告されたアシューリアン遺跡と類似しており、比較的厚く精密な剥離された両面石器(通常は三角形で尖っています)で構成されています。石器群は両面加工の系列全体を表しており、その全ては、含鉄珪岩質砂岩の大きな平板状の塊により作られました。これら平板状の塊の最小限に剥離された断片の存在から、石材がその場に持ちこまれ、その一部は端に沿って1個もしくは2個を除去して「検証」した後で、廃棄されたようです。他の剥離された断片は、破棄される前にひじょうに粗く形成されました。

 握斧の多くはその中心に、しばしば両面において、平坦で板状の皮質表面の最後の痕跡を保持していました。握斧の基部も、しばしば板状の塊の厚くて平らな皮質端を保持しており、これはおそらく握りやすくするためです。両面は剥片から作られておらず、大型剥片製作の証拠はなく、おそらくは地元の石材の小さくて板状の性質のためです。じっさい、ネフド砂漠のより広範な調査では、この地元の板状の珪岩が、しばしば他の年代測定されていないアシューリアン表面採集石器群で用いられており、その全ては大型剥片製作の証拠を欠いている、と示唆されています。これは、地元の石材が握斧製作のこの手法を妨げた、と示唆します。

 表面採集石器は類似の高度の風化を示しましたが、埋まっていたもしくは最近露出した状況の石器は真新しい状態でした。握斧の形態は多様で、卵型から心臓型や三角形まであり、ネフド砂漠の他のアシューリアン遺跡と同様で、サイズもさまざまでした(図3)。剥片の跡が観察できる全ての握斧は、形態に関係なく精密な剥離を示しました。50点の握斧の無作為の二次標本の2D幾何学的形態測定(GMM)分析から、この形状変化は連続的ではない、と示されました(図4)。しかし標本では、離散的形態と発見場所との間の空間的関係は観察されませんでした。以下は本論文の図4です。
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 調査により、一次泥灰土堆積物の上部10 cmの区画に見える1個の層状握斧の一方の面が明らかになりました。この場所の周辺の浅い1m×1mの形の小規模発掘により、この確実に埋められた握斧のその後の回収が可能になりました。この握斧は2DのGMM分析(図3)に含まれており、表面で発見された心臓型分類とクラスタ化します。心臓型握斧の緊密で形態に基づくクラスタ化は、製作と石材の類似性とともに、これらの形態が少なくとも、泥灰土において相互に同年代とみなされる可能性を示唆します。

 アンナシム遺跡で表される全ての握斧形態間の類似性は、広範な同時代性も示唆しているかもしれません。年代測定の目的で堆積物標本を掘ることで、砂質の第11層内で固まった両面の薄い剥片の回収も可能になりました。ルミネッセンス年代測定の標本1点(NSM1-2017)は第11層から収集され、遺物も回収されました(図2A)。追加の標本は第8層(NSM1-OSL4)と第7層(NSM1-OSL3)の石器遺構近くで収集されました。これらの標本の線量率は厚いα線源とβ線源の集計により決定されましたが、γ線量率は野外γ分光計を用いて測定されました。

 同じパラメータを用いて、カリウム長石粒子を分離し、次に温度制御下(RF70)での赤外放射蛍光(infrared-radiofluorescence、略してIR)手順を用いて分析されました。IR-RFの線量と年代推定値は表2に示されます。過分散値(OD)は20%未満で、このような堆積物に対する予測と一致します。3点の資料の年代は、NSM1-OSL3が310000±17000年前、NSM1-OSL4が243000±23000年前、NSM1-2017が330±23 年前です。これらの年代は2σで一貫していますが、標本NSM1-OSL4は、よく似た年代が得られている他の2標本よりもずっと新しい年代となります。より古い2点の年代もより新しい年代よりも過分散値が低く、おそらくは信頼性がより高いことを示唆します。

 これらの年代決定をより当時の状況に当てはめて解釈するため、「緑のアラビア」と呼ばれる湿潤期の原動力となった、ネフド砂漠の緯度における夏の平均日射量と比較されました(図5)。埋没した握斧は年代測定された堆積物の上にある厚い泥灰土層と関連しています。堆積学的分析では、これらの泥灰土はかなりの湿潤状態で生成された、と示唆されます。MIS9および7両方の日射量の最大値は、高い離心率により変化しており(図5)、その強度は、巨大な長期の深い湖の形成に充分可能だったと知られている、MIS5aのそれと同等かそれ以上です。このように、MIS9の日射量の最大値は、より古い年代推定値に最も近く、アンナシム遺跡一帯の他の湖が形成されたと知られている時期と対応します(図5)。これらをまとめると、この証拠はアンナシム遺跡堆積物の形成がMIS9の時期だったことと一致していますが、より新しいMIS7の時期だった可能性も完全には無視できません。以下は本論文の図5です。
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●考察

 アンナシム遺跡のアシューリアン石器群の年代は35万~25万年前頃の中期更新世後期となり、MIS9間氷期に相当する可能性が高く、その頃には古代湖の形成がネフド砂漠で広がったようです。アンナシム遺跡の泥灰土の堆積学は、かなりの降雨量と地域的な地下水位の上昇を必要とするだろう、深い湖の存在を示唆します。石器出土層位内およびその下からのルミネッセンス年代測定では、湖はMIS9に形成され、ネフド砂漠に好適な生息条件を提供した、と示唆されます。アシューリアン石器群は一次湖堆積物の最終段階と関連しており、現在の盆地のほぼ全体に広がっています。アシューリアン石器群は古代湖堆積物の内部と上部で見つかり、上部は考古遺物を含むより上層の泥灰土堆積物の収縮の結果です。

 ネフド砂漠におけるアンナシム遺跡と他の年代測定されていないアシューリアン遺跡群との間の類似性から、ネフド砂漠の古代湖は人類拡大の重要な回廊と、人類とおそらくは他の哺乳類にとって生存可能な生息地ネットワークを提供しました。注目すべきは、ネフド砂漠のアシューリアン石器群の技術的特徴が、アラビア半島中央部のサッファーカ遺跡のより新しいアシューリアン石器群(関連記事1および関連記事2)とは対照的であるように見えることです。サッファーカ遺跡の最小限に調節された大きな剥片の握斧とは異なり、アンナシム遺跡の打製握斧は精密に作られ、サイズはさまざまで、製作技術と対称性の程度と洗練度の共有性を特徴とします。これらの特徴は、アンナシム遺跡の石器群の同程度の風化と空間的に示される集中とともに、アンナシム遺跡における限定的な期間の居住を示唆します。

 アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間で観察された技術的違いは、石材と遺跡での活動の違いと関連しているかもしれません。サッファーカ遺跡は、一次剥離が行なわれる、巨大な安山岩の塊を特徴とする石材獲得供給源に位置します。しかし、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の年代および地理的距離の違いから、両遺跡間の観察された物質文化の違いは、異なる握斧使用人口集団もしくは種さえも繁栄しているかもしれません。

 アラビア半島内陸部の部分的もしくは完全な人口減少は、氷期における地域的な超乾燥化の支配的パターンを考えると、MIS8氷期の始まりに起きた可能性が高そうです。アシューリアン技術を有する人類は繰り返しレヴァント南部から南方へと拡散し、古水文学的回廊が繰り返しそうした移動を促進した、という観察と一致します。しかし、この仮説は、ネフド砂漠とレヴァント南部のアシューリアン遺跡群のさらなる年代測定が利用可能になった場合にのみ検証できます。レヴァントのホロン(Holon、図1の3)やレヴァディム(Revadim、図1の5)、ヨルダン東部砂漠地帯のアズラク(Azraq)といった後期アシューリアン遺跡群の年代は、50万~20万年前頃です。これらの遺跡の多くの年代測定は、以前の研究で論じられているようにかなり貧弱です。

 エルサレムと死海の北側のレヴァントでは、アシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)石器群のかなり異なる技術が、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave、図1の2)やケセム洞窟(Qesem Cave、図1の4)などの遺跡で40万~20万年前頃に見られます(関連記事)。レヴァントの証拠は、中期更新世後期における高水準の技術的変動性を示します。握斧の製作はさまざまな頻度と手法で行なわれ、たとえばケセム洞窟では、握斧は一部の層序系列ではほとんど存在しません。アシューリアン石器群内では、石核および剥片技術のさまざまな水準があります。

 本論文においてアラビア半島内で明らかにされた、アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡との間の技術の違いのような中期更新世後期の技術的多様性は、この時期のアジア南西部の技術的変異性の図をさらに追加します。レヴァント北部もしくはアフリカ東部のようなさらに遠くの地域の中期更新世後期技術の体系的な議論は、本論文の範囲を超えています。しかし、記録はひじょうに多様であるように見え、後期アシューリアンの事例では、しばしば年代測定が不充分である、と強調されます。したがって、現在利用可能なデータを用いて、証拠を単純に統合することは困難です。人口統計学および実際的要因(たとえば、石材の違い)の両方と関連している可能性が高い、この変動性の意味を解明することは、将来の研究にとって重要な目標であり続けます。

 アラビア半島内では、アンナシム遺跡などMIS9のネフド砂漠における深く安定した淡水域の存在が、信頼性の高い淡水源と、関連する哺乳類の獲物と他の食資源を提供することにより、人類の拡大を促進したでしょう。多様な小型から大型の哺乳類の存在は、ネフド砂漠における間氷期の古代湖において明らかであり、湿潤期における動物のこの地域への拡大を示唆し、水場における食資源としての動物の利用可能性を示します。

 古環境や行動学の証拠が出てきたことで、アラビア半島のアシューリアンの明確な特徴が浮き彫りになりました。アンナシム遺跡とサッファーカ遺跡の両方は、アラビア半島の中期更新世後期におけるアシューリアン石器群の異なる2形態を示しており、どちらも準同時代のレヴァントにおけるアシュール・ヤブルディアンや後期アシューリアン、およびアフリカにおける後期アシューリアンとは異なります。行動の柔軟なアシューリアン人口集団は、アラビア半島の位置および生態学的条件の中で、独自の文化的特性を育んだかもしれません。これが示唆するのは、アラビア半島を単純に人類集団にとって移動するための「何もない空間」として考えるべきではない、ということです。


●まとめ

 本論文は、アラビア半島北部の新たなアシューリアン古代湖盆地遺跡である、アンナシム遺跡の調査結果を提示しました。このアンナシム遺跡の主要な層序系列は、湖の形成と消滅の単一の継続的な気候周期と関連しており、考古遺物を含む上部は古代湖の断続的な乾燥を反映しています。この古代湖の主要な系列は35万~25万年前頃で、石器を含む第11層の年代は330000±23000年前です。この第11層は、同じく石器群を含み、単一の気候周期の観点では下層の堆積物と明確に関連している、泥灰土の第12層に覆われています。本論文は、この範囲の古い方の年代の過分散値がより低いことと、この地域の複数の他の古代湖盆地の年代がMIS9だったという事実に基づいて、アンナシム遺跡石器群がMIS9の年代だと主張しました。

 アンナシム遺跡石器群は、精密に作られたさまざまな形の打製握斧を特徴としており、その全ては含鉄珪岩性砂岩の大きく平板状の塊で作られています。これらの石器は、ネフド砂漠の同じ地域の他の年代測定されていない遺跡群の石器と類似しています。これらの石器は、年代がより新しいか古いかを問わず、この時期のアジア南西部では独特であり、アラビア半島が、その特定の環境および人口統計学的条件を反映しているかもしれない、独特な地域的アシューリアンの故地だったことを示唆します。


参考文献:
Scerri EML. et al.(2021): The expansion of Acheulean hominins into the Nefud Desert of Arabia. Scientific Reports, 11, 10111.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-89489-6