2万年以上前の北アメリカ大陸の人類の足跡(追記有)

 2万年以上前の北アメリカ大陸の人類の足跡を報告した研究(Bennett et al., 2021)が報道されました。日本語の解説記事もあります。アメリカ大陸への人類集団の後期更新世の拡大は、現生人類(Homo sapiens)の「出アフリカ」移住の最終章です。アメリカ大陸への拡散と居住の最古の証拠については、まだ議論が続いています。その仮説は、クローヴィス(Clovis)文化を最初(13000年前頃)の人類の居住とするものから、「先クローヴィス」と呼ばれるより古い16500年前頃か、さらに古い遺跡群を支持するものまであります(関連記事)。

 16500年前頃は、26500~20000もしくは19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後となります。アジアからの実行可能な移動経路は年代と関連する環境条件に依存し、無氷回廊を通る内陸経路(関連記事)か、太平洋沿岸経路か、あるいは両方で起きたかもしれません。しかし、これらの経路はLGMには閉ざされていたか、少なくとも可能性は低そうです。

 北アメリカ大陸のほとんどの初期遺跡は、本論文ではLGM後の初期もしくはそれ以前と定義され、年代測定か、ヒトと提案された人工物の関連についての不確実性のため、疑問視されています。ヒト足跡化石は、年代的に良好な原位置の堆積層から発掘された場合、ヒトの存在の証拠の代替的証拠を提供します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。文化的遺物や加工された骨や他のよりありふれた化石とは異なり、足跡は一次堆積の文脈を有しており、刻印された表面に固定されています。

 本論文は、ニューメキシコ州中南部のホワイトサンズ国立公園(White Sands National Park)の一連のヒトの足跡を報告します(図1A)。この足跡は、種子層に囲まれた複数の層序遺構で見られます。その結果、ヒトが少なくとも23000年前頃までにはヒトがこの地に存在した、と示唆され、約2000年間にわたるヒト居住の証拠が得られました。これらのデータは、LGMにおけるローレンタイド(Laurentide)氷床の南側の北アメリカ大陸におけるヒト居住の決定的な証拠を提供します。以下は本論文の図1です。
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 ホワイトサンズ国立公園(WHSA)は、14000㎢におよぶ地形的に閉ざされたトゥラロサ盆地(Tularosa Basin)に位置します。トゥラロサ盆地の底部には、後期更新世の湖底の風成収縮により形成された石膏窪地が含まれます。オテロ湖(Lake Otero)の正確な歴史は現在知られていませんが、36000~19000年前頃にトゥラロサ盆地に存在したいくつかの長期的に持続した湖のうち最大のものでした。この期間を通じて、トゥラロサ盆地の水収支は水位の変化、したがって湖から湿地までの範囲で変化をもたらし、降水量と地下水流入と流入もしくは流失の変動と関連していました。絶滅した後期更新世動物相の生痕化石が窪地の端で広く見られ、長鼻目(マンモス)やナマケモノ亜目(地上性ナマケモノ)や食肉類(イヌ科とネコ科)や鯨偶蹄目(ウシ科とラクダ類)が含まれ、そのほとんどはヒトの足跡と関連しています(関連記事)。

 WHSA第二地区は、現在の窪地と白砂の砂丘地帯との間の浅い(6m未満)浸食急斜面アルカリ平地の東側に位置します。溝により露出した堆積物系列は、湖成粘土および薄く埋まった石膏性と珪砕屑性の砂や沈泥や粘土と共に挿入された1.25mの層から構成され、これらは後期更新世における水文状態の変化に応じた、湖生態系から土砂堆積状態への変化を表します(図2)。カワツルモ(Ruppia cirrhosa)の内果皮は系列全体で不連続な層として見られます。ヒトや長鼻目やイヌ科の足跡は全ての層で、断面と試掘坑に隣接する掘削面の両方で見られます(図1B~E)。合計61個のヒトの足跡が確認され、記録されました。以下は本論文の図2です。
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 全ての面から報告されたヒトの足跡は、解剖学的によく定義されており(つまり、可視化された踵の跡、縦足弓内側部、趾球)、他の更新世の足跡や生痕化石分類である現生人類的な足跡と比較して、現生人類と一致しています。WHSAの足跡標本を一連の現代人の足跡およびナミビアの足跡化石と地形計測的に比較すると、広範な類似性が明らかになります。WHSAの足跡は、ナミビアの足跡化石と類似しており、現代人の標本群よりも平坦な足をしており、類似の形態は靴を履かない習慣の個体群で報告されています。WHSAの足跡はより長い趾球も有しており、運動中の足の滑りとの関連が示唆されます。

 7個の足跡面、つまり足跡の層位1~7(TH1~TH7)と、1個の複数面の足跡のある一組(TH8)が存在します。37個の足跡のあるTH4を含むすべの足跡面が発掘されましたが、とくに注目されるのは試掘坑の基底部に位置するTH1とTH5とTH7です。TH1は層序的に最下層の足跡で、二段の足跡を含むいくつかのヒトの足跡を示す南北側の試掘坑で露出しています。TH5は遺跡の西端表面で見られますが、東西の主要試掘坑の床へと9.35m後方にたどれることができ、そこでは2個の足跡がさまざまな方向や数cmの堆積物により相互に垂直に分離されています。追加の足跡が、32mm高く350mm東側の試掘坑の底部でも発見されました(TH7)。

 足跡を残したヒトの身長と年齢と歩行速度の推定は図2Bに示されますが、足跡を残した集団の不確実な人体計測的類似性の結果であることには要注意です。多くの足跡はティーンエイジャーと子供たちのもののようで、大きな成人の足跡はあまり見られません。この観察の仮説の一つは、成人が熟練作業に携わっているのに対して、「取ったり運んだり」する作業がティーンエイジャーに任されている、というものです。子供たちはティーンエイジャーに同行し、化石記録にはその分優先的に残ることになります。このパターンは全ての発掘面で共通しています。

 水生植物カワツルモの巨視的な種子の原位置の層での放射性炭素年代測定を用いて、足跡を含む堆積物の年代制御が確立されました。種子層は堆積物系列全体から標本抽出され、その較正年代は22860±320~21130±250年前で(標本数11点)、TH2とTHの間の不確実性内で層序順は維持されました(図2)。カワツルモなど水生物質の放射性炭素年代測定は、硬水もしくはリザーバー効果の影響を受けるかもしれません。これは、実年代よりも古すぎる年代測定結果を出す可能性があるので、3通りの証拠を用いて、WHSA第二地区のリザーバー効果の可能性が調べられました。

 まず、ヒトの足跡を残している浅い湖岸の地質と水文学的環境から、水生植物の生育地が硬水の顕著な影響を受けている可能性は低そうです。次に、較正放射性炭素年代は、標本を数cmごとに分けた場合でさえ層序順を維持しており、これは硬水効果が大きくて変動する場合には当てはまりません。最後に、トゥラロサ盆地の独立した年代データを評価すると、陸生および水生物質の放射性炭素年代が44000~25000年前頃と一致し、これは、多雨期のオテロ湖の硬水効果がこの期間に数百年未満しか持続しなかったことを示唆します。44000~23000年前頃に硬水効果が最小限だった場合、放射性炭素年代測定結果に硬水効果が大きな影響を及ぼすとしたら、23000年前頃までに大きな硬水効果を引き起こすような、一連のあり得ない事象が必要と考えられます。こうした理由から、本論文の放射性炭素年代は堅牢と結論づけられます。

 WHSA第二地区の較正放射性炭素年代の基礎となる分布を決定するため、OxCal4.4.2 r:5のカーネル密度推定モデル(KDEモデル)関数が適用されました。さらに、OxCal境界関数を用いて較正年代により表される開始年代と終了年代が決定され、区間関数を用いて足跡の層位に表される年代が決定されました。本論文のデータとモデル化は、TH2とTH6の年代が23000~21000年前頃で(図3)、ヒトが北アメリカ大陸南西部においてLGMに約2000年間存在した、と示します。TH8の長鼻目の足跡の存在は、系列の上部の年代に追加の制約をもたらし、後期更新世を超えて拡大しない、と示されます。以下は本論文の図3です。
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 本論文で報告された堆積物系列は、23300年前頃に始まるダンスガード・オシュガー(Dansgaard–Oeschger)事象2における急激な温暖化と年代的に対応して起きた沖積堆積物に湖の状態が継承された、という古気候兆候の可能性を示します。ダンスガード・オシュガー事象は氷期の北大西洋における急激な温暖化で、グリーンランドから得られた氷床コアの記録に最も鮮明に見られます(関連記事)。この乾燥事象は、アメリカ合衆国南西部の古水文学的記録で観察された系列と類似しています。トゥラロサ盆地では、湖の水位低下により湖岸に広範な領域が露出し、ヒトや大型動物がそこを通過しました。

 本論文で提示された証拠から、LGMの氷河発達により無氷回廊と太平洋沿岸経路が閉ざされ、アジア(ユーラシア北東部)からのヒトの移動が妨げられる前に、北アメリカ大陸にはヒトが存在していた、と確認されます(関連記事)。この期間に少なくとも2000年間ヒトと大型動物が重複していたことから、人々が大型動物を狩っていたのならば、少なくとも当初は持続可能な狩猟慣行だった、と示唆されます。これは、大型動物の絶滅はヒトの到来に先行すると以前には考えられていた、よく理解されていない大型動物絶滅におけるヒトの役割の可能性も提起し、アメリカ大陸の「初期(クローヴィス文化よりも前)」の遺跡群の信憑性を高めます。しかし、人々が西半球に初めて到来した正確な時期と、継続的な居住が確立された時期については、両方とも依然として不確実で、議論となります。本論文が提示するのは、北アメリカ大陸にヒトが存在した時期と場所の証拠です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、LGMの北アメリカ大陸南西部における人類の存在を示した点で、たいへん注目されます。本論文でも指摘されているように、アメリカ大陸への人類最初の移住については議論が続いています。本論文は、内陸経路も太平洋沿岸経路も氷床形成により利用できなくなるLGMの前に、人類がアメリカ大陸へとすでに拡散していた可能性を提示します。これにより、2万年以上前と推定されているアメリカ大陸における人類の証拠(関連記事)の中に妥当なものが含まれている可能性は高い、と考えられます。

 ただ、古代人および現代人のゲノムデータからは、アメリカ大陸への人類の拡散が2万年以上前である可能性は低い、と考えられます(関連記事)。では、2万年以上前にアメリカ大陸に存在した人類集団はどう位置づけられるのかというと、本論文で示唆されているように、継続的な居住ではなかったというか、完新世のアメリカ大陸の人類集団と遺伝的にはほとんどつながっていない、と想定することが最も節約的と考えられます。その場合でも、どのような遺伝的構成の人類集団が2万年以上前にアメリカ大陸に到来したのかが問題となりますが、おそらくは、現代のアメリカ大陸先住民と近縁で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない「古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人」のように(関連記事)、現代のアメリカ大陸先住民の祖先集団と2万年以上前に分岐した集団だった、と考えられます。なお、古代ベーリンジア人と現代アメリカ大陸先住民の祖先集団との推定分岐年代は22000~18100年前頃です(関連記事)。


参考文献:
Bennett MR. et al.(2021): Evidence of humans in North America during the Last Glacial Maximum. Science, 373, 6562, 1528–1531.
https://doi.org/10.1126/science.abg7586


追記(2021年10月1日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

一卵性双生児に特異的なエピジェネティック・シグネチャー

 一卵性双生児に特異的なエピジェネティック・シグネチャーに関する研究(van Dongen et al., 2021)が公表されました。全ての妊娠の12%は多胎妊娠として始まると推定されていますが、多胎出産に至るのは全妊娠のわずか2%です。こうした状態は、バニシングツイン症候群として知られています。一卵性双生児が発生する原因は未だに解明されておらず、一卵性双生児が家族内で遺伝することは稀なため、この現象はランダムに起こるとする仮説が有力視されてきました。

 この研究は、いくつかの大規模な国際的双生児コホートを対象として、一卵性双生児に特異的なエピジェネティック・シグネチャーの特定を試みました。その結果、全ての一卵性双生児に共通するエピジェネティック・シグネチャーがあり、受胎から成人期まで存続する、と明らかになりました。また、この研究は、こうしたエピジェネティック・シグネチャーを用いれば、双生児でない者が当初は一卵性双生児として受胎していたかどうかを判定できる、と実証しています。ただ、このエピジェネティック・シグネチャーが一卵性双生児に何らかの生物学的影響を及ぼすのかどうかは不明で、さらなる研究が必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:一卵性双生児に特異的なエピジェネティック・シグネチャーが見つかった

 一卵性双生児のDNAには、受胎から成人期まで存続する特異的なエピジェネティック・シグネチャーがあることを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、一卵性双生児の受胎に関係する生物学的性質を解明する新たな手掛かりとなる。

 全ての妊娠の12%は多胎妊娠として始まると推定されているが、多胎出産に至るのは、全妊娠のわずか2%である。こうした状態は、バニシングツイン症候群として知られている。一卵性双生児が発生する原因は、いまだに謎であり、一卵性双生児が家族内で遺伝することはまれなため、この現象はランダムに起こるとする仮説が有力視されてきた。

 今回、Jenny van Dongen、Dorret Boomsmaたちは、いくつかの大規模な国際的双生児コホートを対象として、一卵性双生児に特異的なエピジェネティック・シグネチャーを特定する研究を行った。その結果、全ての一卵性双生児に共通するエピジェネティック・シグネチャーがあり、受胎から成人期まで存続することが明らかになった。また、この著者たちは、このエピジェネティック・シグネチャーを用いれば、双生児でない者が当初は一卵性双生児として受胎していたかどうかを判定できることを実証している。

 このエピジェネティック・シグネチャーが一卵性双生児に何らかの生物学的影響を及ぼすかどうかは不明であり、さらなる研究が必要である。



参考文献:
van Dongen J. et al.(2021): Identical twins carry a persistent epigenetic signature of early genome programming. Nature Communications, 12, 5618.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25583-7

ホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシスの起源

 人間進化研究ヨーロッパ協会第11回総会で、ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)の歯に関する研究(Zanolli et al., 2021)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P134)。ホモ・ルゾネンシスは、フィリピンのルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された、一連の歯と頭蓋外要素に基づいて最近報告され、その年代は少なくとも67000~50000年前頃までさかのぼる、と推測されています(関連記事)。

 犬歯後方の7点の上顎歯がこの分類群に割り当てられており、そのうち5点が同じ個体(CCH6)に由来し、ホモ・ルゾネンシスの正基準標本を表しており、遊離した上顎小臼歯のCCH8と上顎第三大臼歯のCCH9はホモ・ルゾネンシスの副基準標本です。これらの全ての歯は、その小さな面積(現生人類の変異幅よりも小さい範囲か、わずかに下回る範囲)と、大臼歯と比較してのとくに大きな小臼歯により特徴づけられます。

 小さな歯列は、アジア南東部の島嶼環境で進化したホモ・ルゾネンシスとは別の人類であるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)でも見られますが(関連記事)が、ホモ・ルゾネンシスよりは小さいとしても、大きな小臼歯はホモ・エレクトス(Homo erectus)でも見られます。カラオ洞窟遺骸の犬歯後方の歯は、歯冠における現代人的な特徴(単純な咬合形態が伴います)と、歯根におけるより古代型の特徴(3根小臼歯と大きな歯根容積)の混合を示します。

 カラオ洞窟遺骸の手足など頭蓋外の骨はホモ・ハビリス(Homo habilis)的もしくはアウストラロピテクス属的な特徴を示し、ホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシスの現代人系統との初期の分岐を示唆しますが(関連記事)、頭蓋と歯の形態は、アジアのホモ・エレクトス集団に由来する、という仮説とより一致します(関連記事)。この斑状の形態のため、ホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシス両方の系統発生関係は議論が続いています。

 ホモ・ルゾネンシスがアウストラロピテクス属など初期の小型人類ではなくホモ・エレクトスに由来するという仮説を検証するため、歯のマイクロCT記録が分析され、信頼性の高い分類代理であるEDJ(象牙質とエナメル質の接合部)を含む、外部と内部の構造が調べられました。これらのデータが利用可能なホモ・ハビリス/ホモ・ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)や広義のホモ・エレクトス(アフリカと中国とインドネシアの標本が含まれます)やホモ・フロレシエンシスやネアンデルタール人や現生人類(Homo sapiens)と比較されました。

 歯冠組織の割合が定量化され、歯髄の形態変異が調べられ、歯冠の外部輪郭とEDJ形態が、幾何学的形態測定手法(外部輪郭楕円フーリエ分析とEDJの微分同相写像表面合致)で評価されました。その結果、ほとんどの歯の位置で比較的一貫しており、ホモ・ルゾネンシスの外部歯冠形態はホモ・ハビリス/ホモ・ルドルフェンシスよりもホモ・エレクトスの方と一致します。ホモ・ルゾネンシスの内部構造組織は、ネアンデルタール人および現生人類とよりも、ホモ・エレクトスおよびホモ・フロレシエンシスの方と類似しており、例外は第二大臼歯がより中間的な兆候を示すことです。

 まとめると、ホモ・ルゾネンシスの歯の外部および内部の構造組織の分析は、この分類群の有効性を証明し、アジア南東部島嶼部の更新世人類の分類学的多様性を浮き彫りにします。本論文の結果は、ホモ・フロレシエンシスとンシスとホモ・ルゾネンシスの両方ともホモ・エレクトス集団から進化した可能性が高く、両者の起源となったホモ・エレクトスは、アジア南東部島嶼部のさまざまな島に分散し、島嶼部で更新世に少なくとも2回起きた固有の種分化事象の発生までに孤立するようになった、と示唆されます。


参考文献:
Zanolli C. et al.(2021): The structural organization of Homo luzonensis teeth. The 11th Annual ESHE Meeting.

白鵬関引退

 白鵬関が引退する意向を固めた、と報道されました。秋場所終了後の記事では、白鵬関もう2場所連続皆勤できるだけの状態ではなさそうと述べましたが、報道によると、今後本場所で横綱として15日間土俵を務めることはできないと判断し、引退を決意したそうです。白鵬関の土俵上の態度への疑問はこれまで当ブログでも述べてきましたが(関連記事)、過去の大横綱や名横綱と比較して、品格が大きく劣るとの評価には大いに疑問が残ります。白鵬関は少なくとも、新興宗教にはまって警官相手に抵抗したり、拳銃を密輸したりしたわけではありません。

 白鵬関は、その偉大な記録だけではなく、野球賭博や八百長問題で揺れて本場所の開催さえできなかった時代も含めて、大相撲の低迷期を支えた功績は称賛されるべきだと思います。気になるのは白鵬関の今後で、すでに日本国籍を取得していますが、まだ親方株を取得していないようです。横綱ならば、親方株を取得していなくとも5年は協会に残れますが、このままでは白鵬関が自分の部屋を開くことはできません。白鵬関は、すでに炎鵬関などの内弟子がおり、弟子育成の手腕にも期待できそうです。以前述べましたが、鶴竜関の前に引退した横綱7人のうち5人が定年よりもずっと前に相撲協会から離れていることもありますから(関連記事)、白鵬関には何とか親方として相撲協会に残ってもらいたいものです。

 白鵬関は一代年寄を与えられると期待していたようですが、上記報道によると、その可能性は低そうです。しかし、これまでの白鵬関の功績を考えれば、一代年寄を認めるべきでしょう。最近、有識者会議で一代年寄の廃止が示唆されましたが、これは白鵬関の引退が近づき、白鵬関に一代年寄を与えないための露骨な口実作りと言うべきで、白鵬関のような大功労者に対して取るべき態度ではないと思います。以前にも述べましたが、白鵬関に対する相撲協会・報道関係者・愛好者の態度には大いに疑問が残ります(関連記事)。私は、苦しい時期の大相撲を一人横綱として支えた白鵬関にはたいへん感謝していますし、ぜひとも協会に残って部屋を開き、弟子を育成してもらいたい、と考えています。

大河ドラマ『青天を衝け』第28回「篤太夫と八百万の神」

 栄一(篤太夫)は明治政府に召喚されることになり、それが仕官要請だと知って断るつもりで上京します。栄一はまず伊藤博文と会い、伊藤は同じく攘夷に身を投じていた栄一をすぐに気に入ったようです。栄一は大隈重信と会い、早速仕官を断りますが、大隈は日本で誰も新たな仕組みまだ知らない中で、誰かがやらねばならない、と言って栄一を説得しようとします。栄一は幕府を倒した明治政府への不満を大隈にぶつけ、大隈とは激論となりますが、全国から優秀な人材を集めて新国家建設に邁進して欲しい、との大隈の熱意に打たれます。

 それでも、明治政府の倒幕にわだかまりがあり、大隈から明治政府の混乱と無能を聞かされた栄一は、駿府に留まり明治政府が倒れるのを待って決起しよう、と慶喜に訴えます。しかし慶喜は、栄一が本心では明治政府で手腕を振るいたいと考えている、と悟っており、栄一に明治政府に仕官するよう命じます。今回は、栄一と慶喜との深いつながりと、慶喜の聡明な人物像を活かした描写になっていました。今回から本格的な明治編と予想していましたが、今回で幕末編に区切りがついたといった感じで、慶喜の出番は減っていくのでしょうか。ただ、栄一と慶喜との関係は明治時代にも続くので(関連記事)、慶喜は終盤まで度々出演するのではないか、と期待されます。

大相撲秋場所千秋楽

 今場所は、白鵬関が自身は感染しなかったものの、期待の新十両の北青鵬関など同部屋で新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)者が出たため、初日から休場となりました。白鵬関が2場所連続皆勤したのは2017年夏場所と名古屋場所が最後となり、もう2場所連続皆勤できるだけの状態ではなさそうですから、白鵬関にとってはむしろ幸いだったとさえ言えるかもしれません。白鵬関は先場所全勝優勝したように、ある程度以上の体調で出場すれば優勝できるだけの力はまだあるので、来場所出場してくれば優勝争いに絡む可能性はありますが、さすがにこうも休場が多いと、稀勢の里関の事例から白鵬関の休場をずっと擁護してきた私も、さすがにやり過ぎかな、と思うようになってきました。それでも、まだ引退勧告すべきではないと思いますが。

 優勝争いは新横綱の照ノ富士関が引っ張り、ひじょうに落ち着いた相撲なので初の全勝優勝を達成するのではないか、と思いましたが、9日目に大栄翔関に敗れました。この一番は、照ノ富士関攻略の見本を示したように思います。今場所の照ノ富士関の落ち着きから負ける姿をなかなか想像しにくかったのですが、幕内復帰後の照ノ富士関がやや苦手としていた力士の一人が大栄翔関だったので、さほどの驚きではありませんでした。大栄翔関が照ノ富士関に勝ったことにより、早々に照ノ富士関の独走とならなかったのは何よりでした。照ノ富士関は12日目にそれまで負けたことのない明生関にも敗れ、この一番も照ノ富士関攻略の見本を示したように思います。

 千秋楽を迎えた時点で、2敗の照ノ富士関を3敗の妙義龍関が追う展開となりました。まず妙義龍関が明生関と対戦し、引き落としで敗れて照ノ富士関の5回目の優勝が決まりました。照ノ富士関は結びの一番で正代関にあっさりと寄り切って勝ち、13勝2敗で場所を終えました。照ノ富士関は新横綱の場所で優勝を果たし、過去には大横綱でも新横綱の場所は苦戦する傾向にあるだけに、見事だと思います。ただ、照ノ富士関は過去の大横綱よりも横綱昇進の時点で経験豊富だっただけに、新横綱での優勝は意外ではありません。

 ただ、照ノ富士関は終盤になって膝の状態が悪化していたようで、幕内復帰後ずっとこの傾向が見られましたから、今後も終盤は苦戦しそうです。照ノ富士関は今場所から横綱土俵入りもやることになり、それも膝への負担になっているのかもしれません。また、今場所は長い相撲もあったので、それも膝の状態を悪化させたのかもしれません。その意味で、照ノ富士関本人も覚悟しているようですが、横綱を長く務めることは難しそうです。照ノ富士関には、今場所は発熱で途中休場となり負け越した豊昇龍関やCOVID-19で全休となった北青鵬関が大関に昇進するまで、何とか横綱を務めてもらいたいものです。

 貴景勝関は初日から3連敗となり、首の状態がかなり悪いように思われたので、大関からの陥落どころか、引退もあるのではないか、とさえ懸念しましたが、その後は立て直し、8勝7敗と何とか勝ち越して角番を脱しました。正代関も随分と不安定なところを見せながらも勝敗と何とか勝ち越しました。ただ、貴景勝関も正代関も大関の地位を保つのが精一杯といった感じで、横綱昇進は難しそうです。とくに貴景勝関は千秋楽の御嶽海関戦の内容も悪く、来場所までにというか、今後立て直せるのか、懸念されます。次の横綱候補として期待できそうなのは豊昇龍関と北青鵬関ですが、まだ大関昇進もまだ時間がかかりそうですし、白鵬関と照ノ富士関が引退したら、しばらく横綱不在が続くかもしれません。

オホーツク文化人のゲノム解析とアイヌ集団の形成過程

 オホーツク文化人のゲノム解析結果を報告した研究(Sato et al., 2021)が公表されました。古代ゲノム学は、過去の人口史の遺伝的特徴の片鱗を捉えることのできる強力な手法です。最近の古代ゲノム研究は多くのアジアの旧石器時代人と新石器時代人のゲノムを報告しており、ユーラシア東部におけるヒトの移住過程への新たな洞察を提供してきました(関連記事)。とくに、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)と、シベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡(関連記事)の少年個体(MA-1)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)の古代ゲノム研究は、ユーラシア東部の初期人口史を理解するうえで重要です。

 系統樹では、田園個体はパプア人およびユーラシア東部人口集団と一まとまりを形成しますが、MA-1とヤナRHSの2個体(ヤナUP)はユーラシア西部人口集団と遺伝的に密接です。詳細な経路はまだ議論の余地がありますが、これら古代人のゲノムは、ユーラシア東部への2回の過去の移住を示唆しています。一方は南方経路で、ユーラシア大陸南岸地域に沿って拡散し、もう一方の北方経路は、おそらくシベリアも含めてユーラシア中緯度の草原地帯を通って拡散しました。南方の移住の波は、アジア東部(本論文では、現在の中国と日本と朝鮮とモンゴルと台湾を含む地域として定義されます)および南東部の局所的人口集団に分化していったようです。北方の移住の波は南方の移住の波とおそらくはシベリアで混合し、チュクチ・カムチャッカ(チュクチ半島とカムチャッカ半島、図1a)の人口集団とアメリカ大陸先住民の起源となりました(関連記事)。さらに、新石器時代と青銅器時代以降の古代人ゲノムを分析したその後のいくつかの研究では、半島アジア大陸における新石器時代後の人口動態が明らかにされてきました(関連記事1および関連記事2)。

 日本列島に関しては、完新世人口集団である「縄文人」のゲノムが報告されており(関連記事1および関連記事2)、南方移住の波系統からの深い分岐が示唆されています。しかし、新石器時代以後の日本列島の人口集団の遺伝的歴史は、この期間の古代ゲノムデータの不足ため、依然として不明です。いくつかの以前の研究では、現代日本列島の人口集団はアジア東部大陸部人口集団および/もしくはアジア北東部(本論文ではロシア極東に相当します)人口集団からの遺伝子流動の影響を受けたものの、その詳細な起源と移住の仮定は不明なままと示唆されています(関連記事)。したがって、そうした過去の移住の遺伝的特徴の解明も、日本列島周辺の人口史の理解の向上に重要です。考古学的証拠で示唆されているように、新石器時代後に日本列島に起きたように見える過去の主要な移住事象の一つは、先史時代オホーツク人による日本列島北部での定住です。

 高度な海洋漁業と狩猟技術を有する先史時代狩猟採集文化であるオホーツク文化は、紀元後5世紀~13世紀まで、オホーツク海の南部沿岸地域に分布していました(図1a)。オホーツク文化の最も重要な特徴である海洋資源への依存は、以前の動物考古学および同位体研究により明らかになりました。じっさい、オホーツク文化の遺跡の分布は明らかに沿岸地域に限られています(図1a)。この特徴は、日本列島における先住の縄文文化(紀元前14000~紀元前300年頃)やその後の続縄文時代(紀元前3世紀~紀元後7世紀)や擦文時代(紀元後8~14世紀)とは大きく異なります(図1a)。

 アジア北東部におけるオホーツク文化とその近隣古代文化との間の関係の観点では、オホーツク文化の遺跡から発掘された土器や鉄器や青銅器の一部が、ロシアのプリモルスキー(Primorski)地域で発展した、紀元後6~9世紀となるモヘ(Mohe、靺鞨)文化(図1a)遺跡で発見されたものと類似しています。さらに、オホーツク文化の遺跡から発掘されたセイウチの牙製の彫像や釣針は、オホーツク文化と紀元後5~17世紀となる古代コリャーク(Koryak)文化(図1a)との間の相互作用を示唆しており、それはセイウチが現在では北極海とベーリング海にしか分布していないからです。しかし、考古学的遺物のこれら文化間の共通性がヒトの移住と移住なしの交易のどちらに由来するのかは、不明なままです。

 オホーツク文化人の起源は、考古学者と人類学者により長く議論されてきました。オホーツク文化人の骨格遺骸の形態学的研究は、アムール川流域周辺およびサハリン北部の現代人集団との類似性を示唆してきました。さらに、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果は、形態学的証拠を裏づけます。mtDNAハプログループ(mtHg)Y1とG1bとN9bはアムール川下流人口集団間において高頻度で共有されており、オホーツク文化の骨格遺骸でよく検出され、オホーツク文化人のアムール川下流地域起源を示唆します。しかし、オホーツク文化人の包括的なゲノム規模データが欠けているため、最終的な結論にはまだ達していません。したがって、この研究の主な動機は、ゲノム規模データ分析に基づいてオホーツク文化人の遺伝的起源を理解することです。

 考古学的証拠に基づくと、オホーツク文化は紀元後13世紀頃に消え、その原因は依然として不明です。これと関連して、オホーツク文化とその後のアイヌ文化との間の関係が調べられてきました。考古学者たちは、アイヌとフィン人とニブフ人とサーミ人などユーラシア北部の民族集団間で広く観察される宗教的慣行である熊崇拝もオホーツク文化人により共有されていた、と考えてきました。他方、そうした宗教的慣行の痕跡は、アイヌ文化期より前の縄文時代と続縄文時代の遺跡では発見されていません。アイヌ文化の熊崇拝はイオマンテで見られ、これは熊を犠牲にしてその精神をカムイ(アイヌ文化の神聖な存在)の世界に送る儀礼です。オホーツク文化では、ヒグマの安置された頭蓋骨がいくつかの住居遺跡で発見されており、熊崇拝と関連した宗教的慣行が示唆されます。

 これは、オホーツク文化がアイヌ文化の形成に寄与したことを示唆します。いくつかの頭蓋学およびmtDNA研究は、アイヌとアジア北東部人口集団との間の遺伝的類似性を示唆してきました。頭蓋測定に基づく統計分析では、アジア北東部人がオホーツク海沿岸に居住するアイヌにわずかな遺伝的影響を残した、と示唆されました。アイヌ現代人のmtDNAとY染色体DNAの分析は、ニブフ人とアイヌとの間の母系および父系遺伝子プールの類似性を示唆します。これらの知見は、アジア北東部から(北海道を中心とする)日本列島北部への遺伝子流動の可能性として解釈されてきました。さらに、古代のmtDNAと頭蓋非計測的変異の研究は、オホーツク文化人とアムール川下流人口集団との間の密接な関係と、アムール川下流人口集団からアイヌへのオホーツク文化人経由の遺伝子流動を示唆しており、これはオホーツク文化人がアイヌ文化の確立に寄与した、との考古学的仮説を裏づけます。

 しかし、これらの研究の形態学的もしくは遺伝学的指標は少なく、オホーツク文化人のアイヌへの遺伝的寄与について最終的な結論を提供できません。それは、こうした研究が統計的に人口集団の混合を評価できないからです。対照的に、統計的に人口集団の混合を評価できる現代人の最近のゲノム規模一塩基多型分析は、アムール川下流人口集団からアイヌへの遺伝子流動を検出していませんが、これはオホーツク文化人がアイヌに遺伝的に寄与したならば、予測されることです。したがって、さまざまな手法を用いた多くの研究がアイヌ集団の形成過程を解明する目的で行なわれてきましたが、オホーツク文化人がこの過程に遺伝的に寄与したのかどうかは不明なままです。

 オホーツク文化人の形成過程と、アイヌへの遺伝的および文化的寄与を調べるため、国際的な学際的調査団が、北海道の礼文島の浜中2遺跡の発掘に着手しました(図1a)。2013年に、重度の骨肥厚症の成人女性のよく保存された骨格遺骸(NAT002)が、オホーツク文化期の最終段階となる貝塚の上部表面で回収されました(図1b・c)。NAT002の較正放射性炭素年代は紀元後1060~1155年(68.2%)と推定され、骨肥厚症は皮膚科学的観察なしの滑膜炎と痤瘡と膿疱症と骨肥厚症と骨炎(SAPHO)症候群と診断されました。

 本論文は、NAT002の全ゲノム配列結果を報告し、オホーツク文化人の起源に関する問題と、アイヌ集団への遺伝的寄与に関する問題を解決します。本論文はNAT002のゲノムをアジア東部および北東部の現代の人口集団および最近報告されたアジア北東部古代人と比較します。この古代人には、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(関連記事)や、プリモルスキー地域の新石器時代後個体群(関連記事)や、礼文島の浜中2遺跡に近い(図1a)船泊遺跡(関連記事)の縄文時代の女性個体(F23)が含まれます。また本論文は、NAT002の一部の骨で観察されたSAPHO症候群的骨肥厚症の遺伝的背景の特定も試みます。

 NAT002のDNA保存状態は良好で、平均深度35.03倍のゲノム配列が得られました。これは埋葬と寒冷な環境と比較的新しい年代(紀元後11~12世紀)に起因すると考えられますNAT002はX染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と推定され、これは形態学的およびアメロゲニン遺伝子に基づく以前の性別判定と一致します。以下は本論文の図1です。
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●NAT002と隣接集団との間の遺伝的関係

 アジア北東部人口集団に対するNAT002の遺伝的類似性を評価するため、49079ヶ所の一塩基多型で外群f3統計が計算されました。f3(ムブティ人;NAT002、X)では、NAT002は近隣地域のニブフ人とアイヌとウリチ人とF23に密接に関連しており、それに続いて密接なのが、イテリメン人(Itelmen)やコリャーク人(Koryak)を含むカムチャッカ半島人口集団、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人、オロチョン人(Oroqen)やダウール人(Daur)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)を含むアムール川上流人口集団です(図2)。以下は本論文の図2です。
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 49079ヶ所の一塩基多型に基づく主成分分析(図3)も、NAT002が遺伝的にニブフ人およびウリチ人と密接であることを示唆し、以前の形態学的およびmtDNA研究を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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 ADMIXTURE が2~10の系統構成要素(K=2~10)で実行されました(図4)。最小交差検証(CV)誤差はK=5の時に観察されました。NAT002は4つの遺伝的構成要素で混合された個体として表されました(図4)。緑色の構成要素(24.6%)は、広くアジア北東部人口集団で共有されています。青色の構成要素(15.8%)は、アジア東部人で広く共有されています。濃紺色の構成要素(33.2%)はF23とアイヌにおいてほぼ100%で観察されます。黄色の構成要素(26.4%)はイテリメン人およびコリャーク人に高い割合で共有されています。NAT002の構成要素の割合は、ニブフ人やウリチ人などアムール川下流人口集団と似ています。以下は本論文の図4です。
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 次に、NAT002とアジア北東部人との間の系統発生関係を推測するため、NAT002とF23とSGDP(サイモンズゲノム多様性計画)標本で観察される2556493ヶ所の多様体に基づくTreeMixが実行されました。NAT002とニブフ人とウリチ人は単系統性の一まとまりを形成し(図5a)、主成分分析およびADMIXTUREの結果と対応しています。2回の移住事象を想定した場合、遺伝子流動はF23からNAT002とニブフ人との間の共通祖先で観察されました(図5a)。

 F23とウリチ人との間、およびNAT002とイテリメン人との間でも大規模な残余が観察され、それらの間の遺伝子流動が示唆されます(図5b)。ウリチ人と「縄文人」/アイヌとの間の遺伝的類似性は以前に報告されていました(関連記事)。さらに、NAT002とアジア北東部の前期新石器時代人の悪魔の門個体群との間の遺伝的類似性が、外群f3(ムブティ人;悪魔の門個体群、X)の計算により調べられました。検証人口集団間で、NAT002はニブフ人に次いで2番目位に高いf3値を示しました。この結果は古代人のゲノム間で共有された偏りの影響を受けた可能性がありますが、古代人のゲノム間の遺伝的類似性のそうした過大評価は、おもに配列の短さや死後の損傷の高頻度や比較された古代人2個体の不充分な深度に起因する可能性が高そうです。

 悪魔の門個体群のゲノムにおける参照の偏りの程度は、低い網羅率のため比較的強くなるでしょう。しかし、NAT002ゲノムにおける参照の偏りは、本論文の遺伝子型コール閾値として用いられた、選別の水準0および1の現代日本人のゲノムの30倍の網羅率よりもさほど強くありませんでした。したがって、悪魔の門個体群とNAT002との間の観察された類似性は、大幅に過大評価される可能性は低そうです。f3(ムブティ人;悪魔の門個体群、NAT002)の高い値は、オホーツク文化人の起源がアムール川流域周辺にある、との仮説を裏づけます。他方、F23は低いf3値を示しており、日本列島北部からアムール川流域への「縄文人」系統の移住はおもに新石器時代後に起きた、と示唆され、ウリチ人における以前の混合年代を裏づけます。以下は本論文の図5です。
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 系統樹の接続形態を考慮すると(図5a)、f3(ムブティ人;NAT002、X)により示されるアムール川流域人口集団とNAT002との間の類似性は、密接な系統発生関係として解釈できます。これらの示唆された混合事象を確認するため、49079ヶ所の一塩基多型に基づくD(ムブティ人、X;ニブフ人、NAT002)検定が実行され、F23とアイヌとイテリメン人は有意な正の値を示しました(図6a)。古代人のゲノム間の共有された偏りのため、D(ムブティ人、F23;ニブフ人、NAT002)で観察された兆候の過大評価の可能性も考慮されねばなりませんが、F23とNAT002の参照の偏りは現代日本人の網羅率30倍のゲノムと比較してさほど強くないので、過大評価の程度はそれほど深刻ではないでしょう。混合兆候はD(ムブティ人、F23;アムール川流域集団、NAT002)とD(ムブティ人、イテリメン人;アムール川流域集団、NAT002)でも観察されました。この場合のアムール川流域人口集団とは、ウリチ人とオロチョン人とホジェン人とダウール人とシボ人(Xibo)です(図2)。これらの知見から、NAT002は3祖先的系統(アムール川流域集団、チュクチ・カムチャッカ集団、「縄文人」)間の混合個体だった、と示唆されます。

 次にqpAdmモデルを用いて、NAT002と関連する過去の混合事象についてのこの仮説が検証されました。オロチョン人とイテリメン人とF23が、それぞれアムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の供給源人口集団の代表として用いられました。完全ランク付けモデルに対する提案された混合の尤度比検定(LRT)のP値は有意ではなく(P=0.14)、NAT002のゲノムはアムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の混合として説明できます。アムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の推定された祖先系統は、それぞれ64.9±8.0%、21. 9±6.4%、13.2±4.3%です(図6c)。

 アムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団からの推定される祖先系統の割合の比較的大きな標準誤差は、これら供給源人口集団間の密接な関係に起因するかもしれません。じっさい、ADMIXTURE分析(図4)で観察された黄色と赤色の構成要素は、チュクチ・カムチャッカ人口集団(イテリメン人とコリャーク人とエスキモーとチュクチ人)間で支配的ですが、ニブフ人やウリチ人やオロチョン人やホジェン人やダウール人やシボ人などアムール川流域人口集団でも広く観察されます。構成要素のこの共有は、アムール川流域人口集団とチュクチ・カムチャッカ人口集団との間の混合か、両者の間で部分的に共有される遺伝的浮動の結果のようです。さらに、入れ子モデルへのLRTでは、あらゆる2方向混合モデルがNAT002ゲノムを適切に説明できない、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
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●在来祖先系統と混合年代の推定

 アムール川流域集団と「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ集団の系統間の混合事象の順番を決定するため、NAT002ゲノムの在来祖先系統が推測されました。本論文の在来祖先系統推定は大陸内規模(つまり、アジア東部と北東部全参照人口集団)で行なわれましたが、NAT002ゲノムの大半は0.9以上の事後確率を有する3つの祖先的ハプロタイプの一つに分類できました。在来祖先系統の割合から計算された世界規模の祖先系統の割合は、アムール川流域集団が83.6%、チュクチ・カムチャッカ集団が10.0%、「縄文人」が6.4%です。

 ADMIXTURE(図4)とqpAdm(図6c)の結果を考慮すると、「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ集団の祖先系統の堀合は過小評価されているようで、おそらくは参照人口集団における「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ個体の標本規模の小ささに起因します。「縄文人」は1個体(F23)のみで、チュクチ人やエスキモーなどチュクチ人口集団の5個体とともに、チュクチ・カムチャッカ参照人口集団におけるカムチャッカ人口集団の代表としてイテリメン人1個体のみが含まれています。

 本論文は、3系統間の混合年代を推測するため、単純な波動移住モデルを想定しました。アムール川流域系統の移住年代はNAT002の22世代前と推定されました(図7)。1世代30年と仮定し、NAT002の放射性炭素年代(900年前頃)を考慮すると、アムール川流域関連祖先系統の移住は1600年前頃に起きました。これは、以前の考古学的証拠により示唆されるように、オホーツク文化の始まりと正確に対応していますが、本論文の混合年代は1個体のみの祖先系統の領域の長さに基づいています。

 チュクチ・カムチャッカ系統と「縄文人」系統間の混合はNAT002の35世代前(1950年前頃)と推定され、縄文時代の後の続縄文時代(紀元前3~紀元後7世紀)と対応します。本論文が把握している限りでは、その期間のカムチャッカ半島から日本列島北部へのヒトの移住を示す考古学的証拠は提示されていませんが、以前の古代DNA研究は縄文時代標本と続縄文時代標本との間のmtHg特性の変化を報告しています。カムチャッカ半島人口集団においてひじょうに高頻度で観察されるmtHg-G1bは、続縄文時代の標本の15.0%で検出されますが、縄文時代標本では検出されません。さらに最近の研究では、千島列島南西部に位置する択捉島のタンコウォイェ1(Tankovoye 1)遺跡(図1a)の続縄文時代標本と、イテリメン人やコリャーク人などカムチャッカ半島現代人集団との間の遺伝的類似性が報告されました。これらの知見は、続縄文時代における千島列島を経由してのカムチャッカ半島から日本列島北部への移住の波を裏づけます。

 本論文は、混合していないアイヌの10個体を参照「縄文人」に追加することにより、類似の混合年代測定を実行しました。この場合、NAT002における「縄文人」祖先系統の割合は増加し、アムール川流域祖先系統が64.4%、チュクチ・カムチャッカ祖先系統が9.8%、縄文人祖先系統が25.8%と推定されました。しかし、推定された混合年代は、アムール川流域関連祖先系統の移住についてはNAT002の17世代前(1410年前頃)、「縄文人」系統とカムチャッカ系統との間の混合についてはNAT002の37世代前(2010年前頃)と大きくは変わらず、本論文の混合年代は中程度の堅牢性を有する、と示唆されました。以下は本論文の図7です。
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●アイヌ集団に対するオホーツク文化人の遺伝的寄与

 アイヌ集団の形成過程は長く議論されてきました。しかし、アイヌと縄文時代個体群との間の遺伝的類似性は以前の研究で確認されてきましたが(関連記事)、新石器時代後の人口動態に関する決定的な結論には至っていません。F23と比較して主成分分析では、アイヌ個体群はわずかにアジア北東部人に影響を受けていると示唆されますが(図3)、ADMIXTURE分析の結果では、アイヌ個体群はほぼ単一の祖先系統で表される、と示唆されます。
 したがって、縄文時代後のアジア北部人口集団からの遺伝的影響を確かめるため、D(ムブティ人、X;F23、アイヌ)検定が実行されました。その結果、アジア北部人口集団は有意に正の値を示しました。とくに、イテリメン人やコリャーク人などカムチャッカ半島人口集団と、ホジェン人やオロチョン人やシボ人やダウール人などアムール川流域人口集団は強い兆候を示しました。以前の研究では、アイヌとカムチャッカ半島人口集団との間の遺伝的類似性が報告されました。

 アイヌ集団の形成過程をモデル化するため、qpGraphを用いて混合図が作成されました。まず、NAT002やF23やSGDP標本群を含む混合図が作成されました。アムール川流域系統と「縄文人」系統とカムチャッカ半島系統の間の混合事象の順序は、混合年代の結果にしたがって決定されました。図における最低のf4統計のZ得点は-2.1でした。次に、足場図(scaffold graph)にアイヌを追加することにより、アイヌ集団の形成過程が検証されました。アイヌは「縄文人」とオホーツク文化人と「本土」日本人の間の混合人口集団と仮定したモデルが、検証されたモデルの中で最適でした(図8a)。

 しかし、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流動を仮定しない別のモデルも許容されました(図8b)。最低のf4統計を考慮すると、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流動を仮定する最初のモデル(図8a)が最も可能性の高いシナリオですが、混合図の枠組みでは2番目のモデル(図8b)を明示的に却下できませんでした。この二つのモデル間の顕著な違いの一つは、「本土」日本人からアイヌへの混合割合で、最初のモデルでは29%、二番目のモデルでは44%でした。以前の研究はmtHg頻度に基づいて、近世アイヌ集団における「縄文人」とオホーツク文化人と「本土」日本人の混合割合が推定されました(関連記事)。その研究では、アイヌへの「本土」日本人の遺伝的寄与は28.1%と推定され、本論文の最初のモデルと近くなっているので、最終的な結論には至りませんが、本論文の最初のモデルが最も可能性の高そうなシナリオとして支持されるようです。以下は本論文の図8です。
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●HLA型とNAT002の骨肥厚症への遺伝的感受性

以前の研究では、HLA(ヒト白血球型抗原)B遺伝子、とくにHLA-B*27アレル(対立遺伝子)が、SAPHO症候群と強く関連している、と報告されました。したがって、以前の研究によりSAPHO症候群として推測されたNAT002の骨肥厚症への遺伝的感受性を調べるため、HLA-VBSeqとHLA EXPLORE を用いてNAT002のHLA型が決定されました。HLA-VBSeqでの型別における上位2つの平均深度はHLA-B*40:02:01(平均深度22.93倍)とHLA-B*40:06:01:01(平均深度12.57倍)で、NAT00がB*40:02:01とB*40:06:01:01の異型接合体だったことを示唆します。しかし、B*40:06:01アレル特有の配列はTARGTとHLA EXPLOREでは検出されませんでした。おそらく、HLA-VBSeqで識別されたB*40:06:01:01はHLA-C遺伝子座に由来するリードのミスマッピングで、それは、HLA-Bエクソン3におけるB*40:06:01特有の置換部位を含む100塩基対配列が、IMGT/HLAデータベースのリリース3.43.0におけるHLA-C配列とひじょうに高い同一性を示すからです。

他の古典的なHLA遺伝子も、HLA-VBSeqとTARGTとHLA EXPLOREで分類されました。HLA-VBSeqの結果から、NAT002はA*02:01:01(平均深度30.74倍)とC*15:02:01(平均深度33.33倍)とDQB1*05:03:01(平均深度35.07倍)の同型接合体で、DRB1*14:05:01(平均深度7.36倍)とDRB1*14:54:01(平均深度12.93倍)の異型接合体と示唆されました。しかしHLA-DRB1については、DRB1*14:05:01アレルはTARGTとHLA EXPLORE分析では検出されませんでした。これも、HLA-VBSeqのミスマッピングの結果と推測されます。

HLA 領域でNAT002の同型接合体と異型接合体を確認するため、NAT002配列データの別のアレル頻度が調べられました。HLA領域を含む約1000万塩基対におよぶ領域で、中間的な別のアレル頻度の明らかな欠如が観察され、ROH(runs of homozygosity)が示唆されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています。

6番染色体上でROHが観察される領域と他の領域との間の類似した配列深度を考えると、アレルの脱落である可能性は低そうです。HLA-DRA・DRB1・DRB5・DRB6を含むHLA-DR領域(参照ゲノムhs37d5では、HLA-DRB3・DRB4が含まれません)における比較的多い部位は、HLA-VBSeq分析でも示唆されているように、この領域におけるNAT002の異型接合体を示唆している可能性が高そうです。しかし、これらの部位の配列深度は他の部位よりも顕著に高く、この領域への配列のミスマッピングを示唆します。したがって最終的に、NAT002はA*02:01:01とB*40:02:01とC*15:02:01とDQB1*05:03:01の同型接合体と結論づけられますが、HLA遺伝子座で1個体が同型接合体であることは一般的に稀です。

本論文が把握している限りでは、SAPHO症候群とHLA-B*40アレルとの間の関連は充分には解明されていませんが、以前の研究では、SAPHO症候群の日本人患者6人のうち3人でHLA-B61(B*40:02やB*40:03やB*40:06などいくつかのHLA-B*40アレルを含む血清型)が検出されました。さらに、HLA-B*40アレルは、強直性脊椎炎や反応性関節炎や未分化脊椎関節症の危険性アレルの一つと報告されてきました。これらの疾患はSAPHO症候群と類似しており、骨肥厚症を伴う疾患でもあります。したがって、HLA型はNAT002における骨肥厚症への遺伝的感受性を部分的に説明できるかもしれません。ニブフ人ではHLA-B*40アレルが高頻度(1998年の研究では25.5%、現在のアレル頻度データベースでは31.2%)です。

NAT002とF23との間では、共有されるHLAアレルは観察されませんでした。F23では、A*24:02:01とB*15:01:01とC*03:03:01が同型接合体です。したがって、HLA遺伝子の観点では、同じ礼文島で発掘されたNAT002とF23との間の遺伝的関係を議論できません。しかし、NAT002とF23は両方、HLA 領域では同型接合体とみなされました。これは、おそらくNAT002とF23が小さな人口規模しか維持できなかったひじょうに小さな島で暮らしていた、という事実に起因するかもしれません。


●アジア東部/北東部人において高頻度で観察される形質の推定表現型

アジア東部/北東部人口集団と他の人口集団との間で顕著に異なる頻度を示す形質と関連するいくつかの一塩基多型について、NAT002の遺伝子型に基づいてNAT002の表現型が推測されました。NAT002は、耳垢の表現型を決定するABCC11遺伝子の一塩基多型(rs17822931)でAアレルの同型接合体を有しており、乾燥した耳垢だったと示唆されます。以前の研究では、オホーツク文化標本では乾燥した耳垢が高頻度(83.9%)と報告されました。

NAT002はADH1B遺伝子の一塩基多型(rs1229984)とALDH2遺伝子の一塩基多型(rs671)でGアレルの同型接合体を有しており、それぞれアルコールとアセトアルデヒドの代謝率と関連していて、アルコール耐性が示唆されます。アルコール不耐性のアレルは、アジア東部新石器時代農耕民に遺伝的影響を受けた人口集団において、シベリア人を含む他の人口集団よりも高頻度を示します。NAT002の推定されるアルコール耐性は、アジア東部農耕民よりもシベリアの狩猟採集民において高頻度で観察される表現型と関連しているようで、アジア北部人口集団とのNAT002の遺伝的類似性に対応しています。


●まとめ

 北海道の礼文島の浜中2遺跡の先史時代オホーツク文化個体である、NAT002の高網羅率ゲノムが得られました。本論文の集団遺伝学的分析の結果から、NAT002と、ニブフ人やウリチ人などアムール川下流人口集団との間の密接な関係が示唆され、以前の形態学的およびmtDNA研究の結果を裏づけます。系統樹におけるNAT002への外部分枝の長さ(図5)は、現代のニブフ人およびウリチ人と同等で、死後損傷もしくは不充分な深度に起因する本論文の配列データの間違った遺伝子型呼び出しの小さな影響を示唆します。

 NAT002のゲノムは、日本列島北部周辺の3系統(アムール川集団、「縄文人」、カムチャッカ半島集団)間の過去の混合事象を裏づけます。これらの混合事象で最古となるのは、「縄文人」系統とカムチャツカ系統との間だったようです。混合年代測定に基づくと、「縄文人」系統とカムチャツカ系統との間の混合は続縄文時代となる2000年前頃に起きた、と仮定されます。本論文が把握している限りでは、続縄文時代におけるカムチャッカ半島から日本列島北部への移住を示唆する考古学的証拠は報告されていませんが、本論文の結果は以前の遺伝学的研究と一致します。さらに、歯冠測定に基づく以前の形態学的研究も、続縄文時代におけるアジア大陸部から日本列島北部への移住を示唆していますが、移住の起源はカムチャッカ半島ではなくアムール川流域と推定されました。この混合事象を明らかにするには、続縄文時代標本のさらなるゲノム研究が必要です。

 アムール川関連祖先系統の移動は、以前の考古学的証拠により示唆されたように、オホーツク文化の始まりに相当する1600年前頃に起きた可能性があります。本論文のゲノム研究は、アムール川流域からの移住の波が北海道におけるオホーツク文化開始の契機だった、との仮説を裏づけます。他方、アイヌ集団の形成過程へのオホーツク文化人の遺伝的寄与に関しては、最終的な結論には達しませんでした。

 本論文の限界の一つは、オホーツク文化期の1個体(NAT002)のみに由来するゲノムデータに依存し、NAT002が先史時代のオホーツク文化人を代表できると仮定していることで、NAT002が他地域からの移住個体である可能性を完全には排除できません。炭素と窒素の同位体比からは、NAT002が同じ遺跡で発掘された先史時代オホーツク文化個体群の変異内に収まり、NAT002が礼文島のオホーツク文化の一般的な食習慣だった、と示唆されます。しかし、この事実はNAT002がこの地域で生まれたことを証明できません。以前の研究では、女性のコラーゲン代謝回転率が、思春期には0.060±0.040で、成長停止後は0.041±0.010だった、と報告されています。したがって、NAT002が移民だとしとても、移住後に充分な時間が経過した場合には、炭素と窒素の同位体比で移住前の食習慣が反映されないでしょう。

 ストロンチウム同位体分析はNAT002の出生地を明らかにできるかもしれませんが、日本列島北部周辺のストロンチウム同位体の地理的分布図は利用できません。NAT002が先史時代オホーツク文化人を代表できるのかどうか調べる別の方法は、オホーツク文化個体の多くの標本を分析することです。したがって、複数のオホーツク文化標本を用いてのさらなるゲノム研究が、環オホーツク海地域周辺の人口史を明らかにするには必要です。さらに、本論文は特定の偏りのない混合年代測定において単一波動の移住モデルを想定しました。将来、オホーツク文化期のさまざまな時間区分の時点の複数個体のゲノムが、その詳細な移住様式(たとえば、単一、複数、継続)を明らかにできるかもしれません。環オホーツク海地域周辺の人口史についての提案に加えて、本論文は1000塩基対より長いDNA分子が特定の理想的な条件下でほぼ千年残存することも示唆しており、古代DNA研究への追加の洞察を提供できるかもしれません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、オホーツク文化遺跡の1個体(NAT002)の高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん意義深いと思います。本論文が指摘するように、NAT002がオホーツク文化集団を表しているとは断定できないものの、その可能性は高そうです。オホーツク文化集団は、続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合集団と、アムール川流域集団との混合により形成された、と推測されます。続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合は、考古学的裏づけはまだないようですが、mtDNA研究ではその可能性が示唆され、今後の古代ゲノム研究の進展が期待されます。続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合集団と、アムール川流域集団との混合は、オホーツク文化が始まった1600年前頃に起きたと推定されており、オホーツク文化が遺伝的に異なる集団間の混合により形成されたことを示唆します。もちろん本論文が指摘するように、こうした混合事象が1回だけではなく、複数回起きたり継続的だったりする可能性も考えられます。

 オホーツク文化集団とアイヌ集団との遺伝的関係については、本論文では決定的な結論には至りませんでしたが、アイヌ集団の形成において、オホーツク文化集団が一定以上の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。本論文で提示された最も可能性が高い混合モデルに従うと、遺伝的にほぼ「縄文人」の構成の擦文文化集団(69%)とオホーツク文化集団(31%)が混合し、この混合集団(71%)と「本土」日本人集団(29%)が混合したことにより、現代アイヌ集団が形成されました。江戸時代のアイヌ集団94標本のmtDNA分析によると、「本土」日本人型は28.1%を占めます(関連記事)。これは、江戸時代においてアイヌ集団と「本土」日本人集団との混合がすでにかなり進んでいたことを示唆します。

 擦文文化集団が遺伝的にほぼ「縄文人」で、本論文のモデルが妥当だとすると、江戸時代アイヌ集団のゲノム構成は、単純計算で50%弱が擦文文化集団に由来することになります。以前の研究では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」構成要素の割合は66%と推定されていますが(関連記事)、その10~15%はオホーツク文化集団と「本土」日本人集団に由来するかもしれません。その意味でも、遺伝的にアイヌ集団を「縄文人」の単純な子孫と考えることはできず、「縄文人」以外の遺伝的影響はかなり大きかった、と考えるべきでしょう。

 また、本論文でも改めて指摘されているように、アイヌ集団の重要な文化要素と考えられる熊崇拝の痕跡が、縄文時代と続縄文時代で見られないことも、オホーツク文化がアイヌ集団の形成に及ぼした重要な影響を示唆します。アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係を検証した最近の研究でも、音楽でアイヌとコリャーク人とが比較的近いと示されており、アイヌ集団にアジア北東部集団が文化的影響を与えてきた、と示唆されます(関連記事)。アイヌは非縄文文化から多くの影響を受けて成立したのでしょう。

 しかし、まだ擦文文化集団の古代ゲノム研究が進んでいないとはいえ、本論文の結果からは、擦文文化集団がアイヌ集団の最も重要な祖先となった可能性が高いと考えられ、文化的にも、オホーツク文化およびその後継のトビニタイ文化の消長からも、オホーツク文化集団に対する擦文文化集団の優位が示唆されます(関連記事)。その意味で、アイヌを遺伝的にも文化的にも単純に「縄文人」の子孫とは言えないとしても、アイヌは鎌倉時代に北海道に侵略してきた外来集団といった、現代日本社会の一部?で根強く支持されているかもしれない言説(関連記事)は的外れだと思います。

 「縄文人」は、今ではアイヌなど一部の集団にしか遺伝的影響を残していないため、本論文の系統樹(図5a)で示されているように、アジア東部現代人集団との比較では特異な集団に位置づけられます。しかし、「縄文人」はユーラシア東部の人類集団間の複雑な相互作用により形成されたと考えられ、当時は「縄文人」のようにアジア東部現代人集団とは遺伝的に大きく異なる複数の集団が存在した、と考えられます(関連記事)。最近、「縄文人」に関する研究が大きく進展しており(関連記事)、今後は「縄文人」の時空間的にさらに広範囲の古代ゲノムデータが蓄積されていき、アイヌ集団との関係など日本列島も含めてユーラシア東部の人口史の解明が進むことを期待しています。


参考文献:
Sato T. et al.(2021): Whole-Genome Sequencing of a 900-Year-Old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab192.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab192

渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』

 草思社より2017年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は百姓視点の幕末維新史です。私のような非専門家だと、幕末維新史はどうしても、将軍など幕府要人、雄藩の大名や著名家臣、志士、列強との外交関係に注目しがちでしょうから、百姓視点本書の一般向け書籍の意義は大きいと思います。本書が対象とする年代は1830年代から1880年代で、地域ではとくに出羽国村山郡を中心に取り上げています。

 本書はまず、江戸時代の百姓と村の基礎知識について解説します。18~19世紀の平均的な村は、村高が400~500石、耕地面積が50町、戸数が60~100軒、人口が400人程度でした。今では網野善彦氏の一連の著書により一般層にもかなり浸透していると思いますが、本書でも改めて指摘されているように、百姓は農民だけではありませんでした。江戸時代後期には、商品作物の浸透により所有地がなくとも経営を成り立たせる家が現れ、また幕末にかけて格差が拡大していきます。

 飢饉なども原因となった村落における格差の拡大によって土地の質入れは一般的となり、それは村落内だけではなく村落間でも起きたので、土地の所有はひじょうに複雑かつ広域的な問題となりました。こうした土地問題を背景として、小作人や地主が村落を超えて広域的にまとまって行動することもありました。そうした村落を超えた広域的な動きは、菜種など商品作物の買い取り価格でも起きました。こうして幕末には、村落および村落を超えた広域的な自治が一定水準以上成立していました。また江戸時代の村落には多くの武器があり、幕末に治安が悪化していくなかで武装化が進み、村落を超えた広域的な武装協力が形成されます。

 村落はこうした状況で明治維新を迎えます。開国により物価が高騰したこともあり、百姓の多くは幕府に批判的だった、と本書は指摘します。明治になり、地租改正によって江戸時代の複雑でよく係争になった土地問題は、かなりのところ解消されました。それでも、水路をめぐって紛争が起きることもありました。地租改正により利益を得る人も失う人もおり、地租改正に代表される明治政府への人々の姿勢はさまざまでした。また本書は、明治の近代化が単なる公権力による上からの押しつけではなく、村落の有力者が関わることもあったことを指摘します。本書は具体的で興味深い事例から幕末を中心とした村落の様子を描き出しており、参考になりました。

後期更新世のゾウの足跡

 後期更新世のゾウの足跡に関する研究(de Carvalho et al., 2021)が公表されました。この研究は、スペイン南西部のウエルバ(Huelva)にある「マタラスカーニャのゾウの踏み跡(Matalascañas Trampled Surface)」で発見された、後期更新世(129000~11700年前頃)のゾウの行跡(連続した足跡)化石34組の分析結果を報告しています。この足跡を残したゾウは、円形か楕円形かという基準やその他の基準により、現生種のマルミミゾウ(Loxodonta cyclotis)と近縁関係にあるアンティクウスゾウ(Palaeoloxodon antiquus)と同定されました。

 この研究は、アンティクウスゾウ個体の年齢を決定するために、足跡の長さに基づいて肩高と体重を算出しました。その結果、14頭の仔ゾウの足跡が同定され、これらが新生仔と2歳までの仔ゾウの足跡で、体重は70~200kgと推定されました。また、8頭の幼年期(2~7歳)のゾウと6頭の青年期(8~15歳)のゾウの行跡も同定されました。これらの化石において若いゾウの占める割合が大きく、この地域にはかつて砂丘池があり、ゾウの群れの繁殖地になっていて、周囲の植生が他の食物源に長距離移動できない若いゾウの食物源になっていたことを示す、と考えられます。

 またこの研究は、若い仔ゾウの行跡の側にあった成体のゾウの行跡を同定し、これらの行跡が近い位置関係にあったことから、3頭の成体の雌ゾウ(15歳超)の行跡である可能性を指摘しています。雄ゾウの行跡として同定されたのは、わずか2組でした。これらの足跡は他の足跡よりかなり大きく(長さ50cm超)、体重は7t超と推定されました。この研究は、ウエルバのる「マタラスカーニャのゾウの踏み跡」は、雌ゾウが仔ゾウを育てるための繁殖に適した豊かな生息地であり、雄ゾウが訪れることは稀だった、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:先史時代のゾウの足跡と行跡の化石から分かった仔育ての場所

 スペイン南西部のウエルバにあるMatalascañas Trampled Surface(マタラスカーニャのゾウの踏み跡)で発見された行跡(連続した足跡)の化石から、この地域が後期更新世(12万9000~1万1700年前)に、アンティクウスゾウ(Palaeoloxodon antiquus)が新生仔を育てるために使用されていたことが示唆された。この知見を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Carlos Neto de Carvalhoたちは、連続した足跡の化石(34セット)を分析した。これらの化石は、足跡が円形か楕円形かという基準やその他の基準により、アンティクウスゾウの行跡化石と同定された。アンティクウスゾウは、現生種のマルミミゾウ(Loxodonta cyclotis)と近縁関係にある。de Carvalhoたちは、アンティクウスゾウ個体の年齢を決定するために、足跡の長さに基づいて肩高と体重を算出した。

 今回の研究で、14頭の仔ゾウの足跡が同定され、これらが新生仔と2歳までの仔ゾウの足跡で、体重は70~200キログラムと推定された。また、8頭の幼年期(2~7歳)のゾウと6頭の青年期(8~15歳)のゾウの行跡も同定された。これらの化石において若いゾウの占める割合が大きく、この地域には、かつて砂丘池があり、ゾウの群れの繁殖地になっており、周囲の植生が他の食物源に長距離移動できない若いゾウの食物源になっていたことを示すものだと考えられる。

 また、de Carvalhoたちは、若い仔ゾウの行跡のそばにあった成体のゾウの行跡を同定し、これらの行跡が近い位置関係にあったことから3頭の成体の雌ゾウ(15歳超)の行跡である可能性があるとしている。雄ゾウの行跡として同定されたのは、わずか2セットだった。これらの足跡は、他の足跡よりかなり大きく(長さ50センチメートル超)、体重は7トン超と推定された。

 de Carvalhoたちは、ウエルバのMatalascañas Trampled Surfaceは、雌ゾウが仔ゾウを育てるための繁殖に適した豊かな生息地であり、雄ゾウが訪れることはまれだったと結論付けている。



参考文献:
de Carvalho CN. et al.(2021): First tracks of newborn straight-tusked elephants (Palaeoloxodon antiquus). Scientific Reports, 11, 17311.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-96754-1

黒竜江省で発見された中期更新世のホモ属頭蓋

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、黒竜江省で発見された中期更新世のホモ属頭蓋に関する二つの研究と総説(Ji et al., 2021)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。総説では、黒竜江省で発見された中期更新世のホモ属頭蓋についての概略が解説されています。以下、総説を参照しつつ、二つの研究をざっと見ていきます。

 一方の研究(Ni et al., 2021)はこの中期更新世ホモ属頭蓋の形態を分析し、人類進化系統樹に位置づけています。現生人類(Homo sapiens)の起源については、長く議論されてきました。中期更新世後期および後期更新世に、明らかに種の水準でいくつかのヒト系統がアフリカとユーラシア全域で現生人類と共存していました。これらの絶滅人類には、ホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)/ホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)、ホモ・ナレディ(Homo naledi)、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)、ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 これら共存していた非現生人類(古代型)ホモ属と現生人類との間の系統発生関係は、長く議論されてきました。アジアにおいて疑問の余地のない現生人類が出現する前には、ナルマダ(Narmada)人や馬壩(Maba)人や大茘(Dali)人や金牛山(Jinniushan)人や許昌(Xuchang)人や華龍洞(Hualongdong)人など、いくつかの非現生人類ホモ属(とされる)化石が、ホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシスやネアンデルタール人や現生人類に存在する特徴の寄せ集めのような組み合わせを示します。したがって、これらアジアの人類はホモ属の後の進化と現生人類の起源の研究に重要である、と広く考えられています。

 これらの化石の不完全な保存と、それらが地域的連続性の主唱者によりおもに報告されてきた、という事実により、それらのホモ属化石をヒト進化のより広範な全体像に統合することは困難になりました。たとえば、許昌人や大茘人や華龍洞人は、中国のホモ・エレクトスと現生人類との間の移行的形態として報告されてきており、その類似性は遺伝子流動の網状の流れのネットワークの文脈で理解できます(関連記事1および関連記事2)。

 本論文は、現生人類のように大きな脳容量と短い顔面と小さな頬骨の組み合わせだけではなく、ほとんどの絶滅ホモ属(古代型ホモ属)のように低い頭蓋冠と強い眉弓と大きな大臼歯と歯槽下顎前突の組み合わせによっても特徴づけられる、化石ヒト頭蓋を報告します。系統発生および生物地理学的分析によるこの研究の主張は、この化石が独特な中期更新世系統のほぼ完全な代表であり、アジア東部における別の進化史を有する、というものです。

 このホモ属頭蓋(ハルビン頭蓋)は、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市で、1993年に松花江(Songhua River)での東江橋(Dongjiang Bridg)の建設中に発見されたと報告されており、河北地質大学(HGU)に2018年に寄贈されました(図1)。このHBSM2018-000018(A)標本は、歪みのないほぼ完全な単一の頭蓋です。この頭蓋の発見以来の長く混乱した歴史のため、発見の正確な場所は不確かです。この頭蓋は発見した男性により使われなくなった井戸の中に隠され、発見者は生前に隠し場所を孫たちに明かし、2018年に骨が回収されました。

 希土類元素(REE)の濃度、この化石のストロンチウム同位体構成、発見されたと報告されている東江橋近くの松花江の堆積物から回収されたさまざまな哺乳類のストロンチウム同位体が検証され、非破壊的蛍光X線分析(X-ray fluorescence、略してXRF)が用いられて、これらのヒトおよび非ヒト哺乳類化石の元素分布が調べられました。その結果から、ハルビン頭蓋と東江橋近くで発見された哺乳類化石の元素分布とREE濃度は類似の分布パターンを有している、と示されました(後述)。

 ハルビン頭蓋のストロンチウム同位体組成はこの地域の中期更新世~前期完新世のヒトおよび非ヒト哺乳類化石の範疇に収まります(後述)。ウラン系列非平衡年代測定手法により、ハルビン頭蓋の年代も測定されました。その結果、ハルビン頭蓋の下限年代は146000年前頃と示唆されます(後述)。これらの結果はハルビン頭蓋の正確な位置と層位を示せるわけではありませんが、ハルビン頭蓋がハルビン地域の中期更新世後期の層に由来する、という結論と一致します(後述)。以下は本論文の図1です。
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●形態

 ハルビン頭蓋は歪んでおらず、ほぼ完全で、主な喪失は左側第二大臼歯を除く全ての歯と左側頬骨弓のわずかな損傷です(図2)。ハルビン頭蓋のサイズは大きく、本論文の比較化石データベースでは、最大頭蓋長、鼻後頭長い、眼窩上隆起幅などの測定で最大値を示し、二番目に大きい測定値は、両耳介幅、前頭弦、頬骨幅、両側眼窩幅です。

 ハルビン標本の頭蓋冠は大きく、脳容量は約1420 mLと推定されます。しかし、脳頭蓋は明らかに古代型で、ひじょうに広い眼窩上隆起と付け根と口蓋、側面から見ると長くて低い形状、前頭部の後退と頭頂部の均一な湾曲が見られます。それにも関わらず、ハルビン頭蓋にはホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)に見られる強い横方向の隆起を有する角張った後頭部と、ネアンデルタール人に典型的な中央部のイニオン上窩を有する突出した後頭領域の両方が欠けています。後方から見ると、竜骨のない頭蓋は乳突上領域で最も広く、その下ではよく発達した乳様突起が内側に傾斜しています。

 ハルビン頭蓋の側頭と頭頂はホモ・エレクトス化石のように強く収束しているわけではありませんが、現生人類に見られるような上部頭頂骨の拡大も、ネアンデルタール人に典型的な形態もありません。側面から見ると、顔の高さは比較的低く、頭蓋冠の下に引っ込んでおり、ホモ・エレクトスとハイデルベルク人に典型的な全体的な前方への突出が欠けています。顔面上部と鼻孔はひじょうに広いものの、頬骨上顎領域は横方向に平坦で、前方に向いており、現生人類のような形態を有しています。

 ハルビン頭蓋の、古代型ではあるものの巨大な脳頭蓋冠と、広いものの現生人類的な顔面の組み合わせは印象的で、大茘人や金牛山人など不完全な中期更新世の中国の化石でも見られますが、それらの不完全な化石は詳細な形態ではハルビン頭蓋と異なります。不完全な華龍洞頭蓋はいくつかの点で大茘人に似ており、その違いの一部は未成熟に起因する可能性がありますが、許昌人と馬壩人の頭蓋はより異なっているように見えます。

 全体的に、ハルビン頭蓋は特徴の個々の組み合わせを示し、おそらくは、現生人類やネアンデルタール人やハイデルベルク人など、他の分類された中期および後期更新世のヒト分類群とは異なるホモ属種を表しています。またハルビン頭蓋は、最近のヒトのように下顎前突が縮小した状態で脳頭蓋に付着します。ハルビン頭蓋はその特徴の組み合わせにおいて、現生人類の後の標本よりも、ジェベルイルード1号(Jebel Irhoud 1)やエリースプリングス(Eliye Springs)など初期現生人類に分類される化石の方と似ています。

 おそらく重要なことに、ハルビン頭蓋に残った第二大臼歯(近遠心長は13.6mmで頬舌幅は16.6mm)は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の後期更新世ホモ属遺骸(関連記事)の永久歯の大臼歯と最も密接に合致します。デニソワ洞窟のホモ属化石のうち、デニソワ4号の第二および第三大臼歯の近遠心長は13.1mmで頬舌幅は14.7mm、デニソワ8号の第三大臼歯の近遠心長は14.3mmで頬舌幅は14.65mmです。以下は本論文の図2です。
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 ハルビン頭蓋の、全体的なサイズ、頑丈さ、厚くて強い眼窩上隆起、大きな乳様突起、顕著な側頭線は、男性個体であることを示唆します。中ラムダ、ラムダ、オベリオン、前矢状、上蝶形骨、切頭骨、前・後中央口蓋、横口蓋における頭蓋外縫合は、すべて完全に消滅しています。十字縫合と中冠状とプテリオンと蝶形前頭骨における頭蓋外縫合は、顕著な閉鎖を示します。現生人類の基準では、頭蓋外縫合混合得点は、50歳くらいの高齢男性を示唆します。しかし、ハルビン頭蓋の歯はより若い年齢を示唆します。

 ハルビン頭蓋で唯一残っている第二大臼歯には依然として多くのエナメル質があり、象牙質の露出は上顎大臼歯近心舌側咬頭と頬側咬頭に存在します。比較的完全な頭蓋外縫合癒着は、ハルビン頭蓋の頑丈さと関連しているかもしれません。強い眼窩上隆起を有する大きくて四角の眼窩は、目が深いことを示唆します。大きくて広い梨状口は巨大で丸く膨らんだ鼻を示唆します。膨らんだ副鼻腔と比較的突出した中顔面に、平たく短い現生人類的な頬領域が一致します。大きな切歯と犬歯の歯槽は、ハルビン頭蓋がおそらくは巨大な前歯と広い口を有していた、と示唆します。

 ハルビン頭蓋の下顎は不明ですが、系統発生分析では、ハルビン頭蓋と甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された下顎(夏河下顎)が姉妹集団を形成する、と示唆されます。ハルビン頭蓋の第二大臼歯の大きさは、夏河下顎の歯と一致します。ハルビン頭蓋はおそらく夏河下顎と同じくらい頑丈な下顎を有し、頤はない、と推測するのが妥当です。遺伝的情報なしにハルビン個体の肌の色や髪の色を復元することは困難ですが、利用可能な遺伝的データからは、ネアンデルタール人とデニソワ人と初期現生人類は一般的に、比較的濃い肌と髪と目の色をしていた、と示唆されます。ハルビン頭蓋の出所が高緯度地帯であることを考えて、ハルビン個体の復元図では中程度の濃い肌の色とされました(図3)。以下は本論文の図3です。
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●ハルビン頭蓋の系統発生的位置

 節約基準およびベイジアン推定に基づく本論文の系統発生分析は、まずネアンデルタール人の単系統性と現生人類の単系統性を裏づけます(図4)。モロッコのジェベルイルード化石は現生人類クレード(単系統群)の最基底部の作業上の分類群単位(OTU)を形成し、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃のホモ属頭蓋は、ネアンデルタール人クレードのOUTを形成しており、他の現在の解釈と一致します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 ハルビン頭蓋と夏河下顎は姉妹集団を形成し、それに大茘人と華龍洞人と金牛山人標本と、ヨーロッパのホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)の部分的頭蓋と、アフリカのエリースプリングス頭蓋とラバト(Rabat)の口蓋が加わり、単系統性集団を形成します。このクレードは同様に現生人類クレードの姉妹集団を形成します。ホモ・ハイデルベルゲンシス/ホモ・ローデシエンシスと伝統的にまとめられてきた標本群は単系統性集団を構成せず、アジアとアフリカのホモ・エレクトス標本群は同様に側系統集団を形成します。

 夏河下顎をネアンデルタール人の姉妹集団として、現生人類とネアンデルタール人のクレード外にホモ・アンテセッサーを位置づけて、古プロテオームおよび古代DNA研究の結果を反映するようバックボーン制約を用いると、ハルビン頭蓋を含めて中国の中期更新世後期のホモ属遺骸は、ネアンデルタール人の姉妹集団として単系統性クレードを形成します。最節約的でバックボーンの部分的に制約された系統発生系統樹は、大茘人と金牛山人と華龍洞人と夏河下顎とハルビン頭蓋を含む集団の単系統性を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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 一部の研究者は、全ての中期更新世人類は現生人類へとつながる単一系統に分類され、大茘人や華龍洞人などアジアの中期更新世人類は、ホモ・エレクトスとアジアの現生人類との間の移行形態だった、と提案してきました(関連記事)。他の一部の研究者たちは、これらのアジアの人類をホモ・ハイデルベルゲンシス/ホモ・ローデシエンシスの一部として認識してきました。全体的な類似性に基づく以前の分析では、大茘人および馬壩人とホモ・ハイデルベルゲンシスとされる標本群との間の違いと、大茘人および馬壩人とアフリカの初期現生人類との間のつながりの可能性が示されました。

 本論文の分析では、ハルビン頭蓋は大茘人や金牛山人や華龍洞人や許昌人とともに、アフリカおよびヨーロッパのホモ・ハイデルベルゲンシス/ホモ・ローデシエンシスクレードの一部ではなく、現生人類の姉妹集団と示唆されます。ハルビン頭蓋と夏河下顎との間の姉妹関係は、ベイジアン推定により特定されるように、とくに興味深いものです。夏河下顎はプロテオーム解析ではデニソワ人の特徴を示し(関連記事)、非公式にホモ・サピエンス・アルタイエンシス(Homo sapiens altaiensis)もしくはホモ・アルタイエンシス(Homo altaiensis)と呼ばれており、チベット高原の白石崖溶洞の堆積物からはデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が検出されました(関連記事)。

 ハルビン頭蓋の第二大臼歯も、デニソワ人の永久歯の大臼歯とサイズおよび歯根形態では一致します。デニソワ人の発見以来、大茘人や金牛山人や河北省張家口市陽原県で発見された許家窯(Xujiayao)人など、アジアの中期更新世の人類が、デニソワ人のアジア東部集団を表している、と主張されてきました。夏河下顎に対応するハルビン集団のより多くの下顎標本もしくは頭蓋標本により、ハルビン頭蓋と夏河下顎が形態学的にどれくらい密接なのか検証されるでしょうが、新たな遺伝的物質により、これら人口集団の相互およびデニソワ人との関係が検証されるでしょう。

 ベイジアン・チップ年代測定分析の結果から、ハルビン頭蓋化石と夏河下顎化石は共通祖先を188000年前頃(397000~155000年前頃)に有しており、ハルビン頭蓋と現生人類を含むクレードは共通祖先を949000年前頃(1041410~875250年前頃)に有している、と示唆されます。本論文の分析では、ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代は1007000年前頃(1114000~919000年前頃)でした。この推定年代は、mtDNAに基づくSHの基底部ネアンデルタール人と現生人類との間の分岐の範囲に収まるものの(関連記事)、核DNAに基づくネアンデルタール人系統と現生人類系統との間の推定分岐年代よりもずっと古くなります(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 しかし、このより新しい推定分岐年代は、「超古代型」との混合と「最近の遺伝子流動」事象との間の統計的平均の歪みかもしれません(関連記事)。本論文の分析に含まれる現生人類のOUTの共通祖先は77万年前頃(922000~622000年前頃)、現生人類クレードは以前の推定よりもずっと深い起源を有する、と示唆されます。ユーラシアの現生人類のOUTは416000年前頃(534000~305000年前頃)の共通祖先を有しています。しかしアフリカ外では、既知の最古の現生人類化石はわずか21万年前頃です(関連記事)。

 ベイジアン・チップ年代測定分析では、ユーラシアの現生人類の仮定的な共通祖先とじっさいの化石記録との間に大きな時間的空隙があります。もっともらしい仮説の一つは、ユーラシアの現生人類の祖先的集団はユーラシアへと拡散する前に長い間アフリカで多様化していた、というものです。古代DNAに関する遺伝的研究では、ネアンデルタール人と現生人類との間の最初の遺伝的交換は468000~219000年前頃(関連記事)もしくは37万~10万年前頃に起き(関連記事)、その遺伝子移入はアフリカ起源集団からの遺伝子流動に起源があったかもしれない、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。興味深いことに、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝子移入事象の推定年代が、本論文におけるユーラシアの現生人類の共通祖先の年代の予測と重なるだけではなく、遺伝子移入のアフリカ起源も本論文におけるアフリカの祖先的集団の仮説と一致します。


●ホモ属種/人口集団の生物地理学

 18の異なる生物地理学的モデル下で最尤分析が行なわれ、生物地理学的確率地図作成(BSM)を用いて生物地理学的事象が推定されました。赤池情報量基準(AIC)モデル選択は、創始者事象拡散モデルを伴う拡散・絶滅分岐進化を、最も適合して可能性の高い生物地理学的モデルとして選択しました。この最適モデル下では、ハルビン頭蓋や金牛山人や大茘人や夏河人や華龍洞人集団の祖先の分布範囲は、アジアにあった可能性が最も高そうです。ハルビン頭蓋と現生人類クレードの祖先地域はアフリカである可能性が最も高く、アフリカが現生人類クレードの起源の中心地である、との見解を裏づけます。ネアンデルタール人と現生人類とハルビン頭蓋を含む集団の祖先の分布は、アフリカもしくはヨーロッパです。

 ホモ属種/人口集団の生物地理学的歴史の本論文のシミュレーションは、同所性多様化(57%)と創始者事象拡散(42%)を、ホモ属の系統発生樹全体の生物地理学的段階の一般的な種類として識別しました。全てのOUTは単一の地域の人口集団水準にあるので、BSMシミュレーションで範囲の拡大もしくは範囲の縮小事象が検出されないのは妥当です。創始者事象拡散は通常、長距離移動を通じて新たな地域に拡散し、新たな孤立した創始者人口集団を確立する、少ない個体を含みます。分布範囲の変化は系統分岐点で起き、新たな範囲への子系統の拡散と、他の子系統の祖先的範囲への残留をもたらします。同所性多様化と創始者事象拡散が最も支配的な生物地理学的種類であることは、複数系統のホモ属が中期および後期更新世のアフリカとヨーロッパとアジアで共存していた、という事実を反映しています。これらホモ属系統はおそらく、長距離拡散の強い能力を有していましたが、比較的小さく孤立した人口集団に留まりました。

 BSMは、アフリカとアジアとヨーロッパの間の拡散の方向性が非対称であることを示唆します(図5)。アジアは、アフリカとヨーロッパへと拡散をもたらすよりも、アフリカとヨーロッパからより多く拡散してくるホモ属種/人口集団の吸込み口です。アジアは合計の拡散事象の42%を受け取り、他の大陸への拡散をわずか24%しか提供していません(図5)。アフリカはホモ属拡散の主要な供給源です。合計で、全拡散の40%はアフリカに由来しますが、アフリカはアジアとヨーロッパから22%の拡散も受け取っています。一方向の「出アフリカ」モデルの代わりに、複数方向の「定期往復モデル」が、アフリカとユーラシアのホモ属種/人口集団間の複雑な系統発生接続の説明としては可能性がより高そうです。以下は本論文の図5です。
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●形態分析のまとめ

 ハルビン頭蓋は全ての古代型ヒト化石で最良の保存状態の一つであり、中期更新世後期というその推定年代は、進化しつつある現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人のアジアの同時代系統として位置づけられます。ハルビン頭蓋のサイズは巨大で、頭蓋冠および顔面におけるその特徴の独特な組み合わせは、現生人類やネアンデルタール人やそれ以前のホモ・ハイデルベルゲンシス/ホモ・ローデシエンシスとは異なります。

 じっさいハルビン頭蓋は、華龍洞人や大茘人や金牛山人など中期更新世の中国のホモ属化石と似ています。これは、節約およびベイジアン手法を用いての系統発生分析により確証され、これら中国の化石は現生人類の姉妹集団の一部としてハルビン頭蓋とともに位置づけられます。その根拠は共有派生形質で、中程度の後円環溝、緩やかに湾曲した頬骨歯槽稜、弱い眼窩上隆起、強い頬骨小結節、厚い乳様突起などです。本論文の分析は、ハルビン頭蓋と夏河下顎との間のつながりの可能性も示唆しており、夏河下顎はデニソワ人系統に位置づけられています。

 現在の間氷期でさえ、ハルビン一帯の地域は冬の平均気温が氷点下16度以下なので、ハルビンが北方に位置していることは、中期更新世のヒトの適応能力への示唆にもなります。頭蓋サイズから判断して、ハルビン個体のひじょうに大きなサイズは、こうした寒冷条件への身体的適応を示唆しているかもしれません。アジアの中期更新世後期および後期更新世におけるいくつかのヒト系統の共存は、おそらくその多様な古環境(ゴビ砂漠から熱帯雨林、沿岸平野から青海チベット高原まで)と関連しており、ヒト進化の多様な生物地理学的吸込み口を生み出しました。

 総説では、ハルビン頭蓋と夏河(Xiahe)下顎との間の姉妹集団関係から、両標本を新種ホモ・ロンギ(Homo longi)と分類することが可能と指摘されています。この種名は、黒竜江省で一般的に使われており、文字通り「竜の川」を意味する竜江(Long Jiang)という地名に由来します。ハルビン頭蓋は「竜人」とも呼ばれています。総説では、中国および近隣地域の中期更新世さらなるヒト化石が、この見解を検証するだろう、と指摘されています。以下は本論文の要約図です。
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●非破壊XRF分析

 もう一方の研究(Shao et al., 2021)は、竜人頭蓋の年代と発見場所(図1)を推定しています。ハルビン頭蓋と、ハルビン地域の松花江と江蘇省と広西チワン族自治区の更新世堆積物から回収された広範な哺乳類化石を対象に、非破壊蛍光X線分析(X-ray fluorescence、略してXRF)が行なわれました。ハルビン頭蓋とハルビン地域の哺乳類化石は、ストロンチウムとイットリウムとジルコニウムの相対量について、ほぼ同じXRFパターンを示します(図2A)。XRF分析は、ハルビン頭蓋とハルビン地域で回収された哺乳類化石が、おそらく同じ環境で堆積して化石化したことを示唆します。以下は本論文の図1です。
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●REE濃度パターン

 希土類元素(REE)濃度パターンは、化石や生物の起源を追跡するための効果的手法と証明されています。ハルビン頭蓋の鼻腔の小骨片が、REE分析のために注意深く収集されました。比較のため、ハルビン地域の松花江の堆積物から回収された哺乳類7個体とヒト2個体の骨片も分析されました。これら比較標本の年代は、ウラン系列法で示されるように中期更新世から完新世です。ハルビン頭蓋と分析された化石は、類似のREE濃度パターンを示します(図2B)。ハルビン頭蓋と中期更新世~完新世のヒトおよび哺乳類化石のREE濃度パターンと重希土類元素および軽希土類元素の比率は、これらがおそらく同じ地理的起源であることを示唆します。以下は本論文の図2です。
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●ストロンチウム同位体組成

 ストロンチウム同位体比は、岩石/堆積物の形成源を特定するための岩石成因論的追跡子として広く使われています。人類学や考古学ではこの手法を用いて、先史時代のヒトの移動(関連記事)や古代の動物の移動(関連記事)や動物資源利用の特別な事象が調べられます。ハルビン頭蓋と、ハルビン地域の松花江の堆積物から回収された哺乳類化石7点およびヒト化石2点でストロンチウム同位体分析が行なわれました。さらに、ハルビン頭蓋の鼻腔に付着した堆積物標本1点と、東江橋近くで掘削されたコア標本45点(図1B)も分析されました。ハルビン頭蓋のストロンチウム87/86比は0.709423±0.000009で、松花江の堆積物から回収された哺乳類化石7点およびヒト化石2点の0.709066~0.709574の範疇に収まります(図3)。以下は本論文の図3です。
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 これらの化石のストロンチウム同位体比は全て、ハルビン地域で生物学的に利用可能なストロンチウムの変異内(0.7070~0.7110)に収まります。ハルビンとその周辺地域で生物学的に利用可能なストロンチウムは、中国で最も低いストロンチウム87/86比を示し、その地質に関連していると考えられます。これらのストロンチウム同位体データは、分析された化石が共通の地質環境と生物学的に利用可能なストロンチウム源を共有している、と強く示唆します。ハルビン頭蓋の鼻腔に付着した堆積物標本のストロンチウム87/86比(0.711898±0.000003)は東江橋近くのコアで測定された範囲内(0.709765~0.714884)に収まり、東江橋近くのコアの約12mの深さの堆積物に近い値です(図4)。以下は本論文の図4です。
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●岩相層序相関

 東江橋コアの堆積系列には、最上部から中生代との不整合まで9層が含まれています(図4)。これらの層は、東江橋から約15km離れた地域の第四紀層序の標準区画である黄山(Huangshan)区域と相関しています。黄山区域とそのコアは地磁気層序法と光刺激ルミネセンス(optically stimulated luminescence、略してOSL)法により、よく年代測定されています。黄山コアにはストロンチウム同位体比もあります

 ハルビン地域は中国でもとくに化石の豊富な地域で、70種以上が報告されています。松花江の堆積物から回収された哺乳類化石7点およびヒト化石2点のウラン系列年代測定の結果、34600±300年前~9000±4000年前と、201000±1000年前から132600±4000年前という二つの範囲の年代値が得られました。上部黄山層は、OSLでは309000~138000年前頃です。これらの年代は層序学的相関と一致しており、ハルビン頭蓋はおそらく上部黄山層の上部の年代に収まると推測されます。


●ウラン系列年代測定

 ハルビン頭蓋の年代がウラン系列年代測定法により推定されました。化石の骨は堆積後に地下水からウランを取り込みやすいため、ウラン系列年代測定には炭酸塩よりも適していません。しかし、骨の堆積後のある時期に取り込まれたウランが溶出していなければ、ウラン系列の見かけ上の年代は化石の下限年代を提供できます。ハルビン頭蓋の破壊を最小限に抑えるよう、ウラン系列年代測定のための標本が抽出されました(図5)。以下は本論文の図5です。
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 補正されたウラン系列の見かけ上の年代は、62000±3000年前と296000±8000年前で、大きく二つの区間に分かれます。比較的新しい年代ウラン系列の見かけ上の年代(62000±3000~148000±2000年前)には、5点の標本(第一群)が含まれます(図6の赤色)。これらの試料の同位体データは、ウラン234/238の初期値が1.70である場合のウラン系列進化曲線の周りに無作為に分散しています。このパターンは、これらの試料のウランの供給源は同じであるものの、埋没後のウラン溶出の明白な証拠なしに、異なる時間間隔でウランが取り込まれた、と示唆します。

 最も新しい二つの範囲のウラン系列の見かけ上の年代は62000±3000年前と85000±4000年前で、両方ともハルビン頭蓋の第二大臼歯から露出した象牙質で得られました。歯根のセメント質と象牙質は骨よりもはるかに密度が高く、おそらくウランの象牙質への移動を妨げているため、新しい年代はおそらく、ウラン取り込みの遅延が原因です。他の三つのウラン系列の見かけ上の年代は106000±1000年前、129000±1000年前、148000±2000年前です。このデータ群にはウラン溶出の明らかな証拠はなく、ハルビン頭蓋の下限年代を推定するには妥当です。このデータ群から得られる最良の推定下限年代は、データ群の最大値である148000±2000年前です。

 第二群(図6の緑色)には、比較的古いウラン系列の見かけ上の年代(296000±8000~185000±2000年前)の標本5点が含まれます。第二群はより新しい第一群と比較して、トリウム230/ウラン234同位体比が高く、ウラン234/238の初期値がより広く分散しています。ウランの継続的な取り込みを経た骨では、トリウム230/ウラン234放射能比は1未満になると予想されますが、ウラン溶出の発生により、トリウム230/ウラン234放射能比が同位体平衡を超えて高い値に動く可能性があります。

 標本HH19-3はウラン系列の見かけ上の年代が最古で296000年前頃ですが、そのトリウム230放射能がウラン234を上回っており、この古い年代はウラン溶出の可能性がひじょうに高い、と示唆されます。古い年代の他の4標本はトリウム230/ウラン234比が同位体平衡に近く、わずかなウラン溶出があった、と示唆されます。溶出した標本からは有用な年代情報が得られないので、ハルビン頭蓋の最も慎重な推定年代値は146000年前頃とされました。以下は本論文の図6です。
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 ハルビン地域の哺乳類とヒト化石のウラン系列の見かけ上の年代は、それぞれの化石標本の下限年代とみなされますが、一部の標本にはウラン溶出の可能性があります。これらの標本のウラン234/238の初期値はハルビン頭蓋の測定値と同程度なので、ハルビン頭蓋がこれらの化石と同じような堆積環境だった可能性を示すもう一つの証拠となります。


●考察

 分析の結果、ハルビン頭蓋はハルビン地域の更新世堆積物から回収された哺乳類とヒトの化石のようなXRF元素パターンとREE濃度パターンを示す、と明らかになりました。ハルビン頭蓋のストロンチウム87/86同位体比(0.709423)も、ハルビン地域の哺乳類やヒトの化石の範囲内(0.709066から0.709574)に収まります。これらのストロンチウム87/86同位体比は、いずれもハルビン地域の生物学的に利用可能なストロンチウム同位体比の値の範囲内に収まります。ハルビン頭蓋の鼻腔に付着した堆積物のストロンチウム87/86同位体比は0.711898で、東江橋コアの上部(深さ約12m)の測定値にひじょうに近くなっています。ストロンチウム同位体データと層序的特徴に基づいた地域的な層序的相関から、ハルビン頭蓋はおそらく上部黄山層の上部で回収された、と示唆されます。

 ハルビン頭蓋の直接的なウラン系列年代測定では、ウラン溶出を受けた標本群と、ウラン溶出の明らかな証拠のない継続的もしくは遅延的なウラン取り込みを受けた標本群がある、と示唆されました。ウラン溶出のない標本群の見かけ上の年代は、最も慎重な年代(下限年代)として、146000年前頃の値が得られました。この下限年代は、ハルビン地域の層序相関と一致しています。これら複数の一連の証拠は、ハルビン頭蓋が発見された場所と層を正確に示せないものの、ハルビン頭蓋がハルビン地域の中期更新世後期に由来する、という結論を一貫して裏づけます。

 146000年以上前となる中期更新世後期のハルビン古代人は、16万年以上前の夏河下顎(関連記事)や20万年以上前の金牛山人や327000~240000年前頃の大茘人や345000~265000年前頃の華龍洞人(関連記事)など、中国で発見された他のいくつかの中期更新世後期古代人とほぼ同年代です。これらアジア東部の古代人がじっさいに現生人類系統にとって単系統性の進化系統に属すのであれば、このヒト系統はアフリカや中東の初期現生人類集団と同様に成功したに違いなく、それは、これらのアジア東部古代人が一部の極限環境(高地や高緯度)を含むひじょうに広範な地域に分布していたからです。以下は本論文の要約図です。
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 以上、ハルビン頭蓋についての研究をざっと見てきました。形態に基づく分類は難しく(関連記事)、この研究の分類がどこまで妥当なのか、検証は困難でしょうが、分類について議論が続いてきた、中国で発見された中期更新世の複数のホモ属遺骸が現生人類の姉妹集団と分類されたことなど、興味深い結果が提示されています。ただ、形態に基づく分類の難しさを考慮すると、この研究で示された系統発生分析結果は、古代DNAデータもしくは古プロテオーム解析による検証が必要になると思います。その結果はたいへん興味深いものになるのではないか、と期待されます。中国で発見された中期更新世の複数のホモ属遺骸がネアンデルタール人よりも現生人類の方に近いとの本論文の推定が妥当ならば、アフリカ起源の現生人類に近い集団との混合も想定できるように思います。

 やはり注目されるのは、古プロテオーム解析によりデニソワ人と分類された夏河下顎とハルビン頭蓋との近縁性で、もちろん古代DNA解析もしくは古プロテオーム解析による検証が必要になりますが、ハルビン頭蓋がデニソワ人に分類される可能性は高いように思います。デニソワ人の発見当初から恐らくは多くの人が考えていたでしょうが、中国の中期~後期更新世の分類の曖昧なホモ属遺骸の中に、デニソワ人に分類できるものは少なくなさそうです。

 また本論文は、後期ホモ属の複雑な進化史を示唆します。アフリカとアジアとヨーロッパの間で相互に複雑な移動があったのではないか、というわけです。古代DNAデータと化石記録から、後期ホモ属の進化史がかなり複雑だった可能性はすでに指摘されており(関連記事)、現時点ではひじょうに解像度の低い全体像しか見えていないことは否定できないでしょう。今後、新たな化石の発見は滅多に期待できないだけに、既知の化石のDNA解析と、洞窟堆積物のDNA解析の進展が、後期ホモ属の進化史の解明に大きく貢献するのではないか、と期待されます。


参考文献:
Ji Q. et al.(2021): Late Middle Pleistocene Harbin cranium represents a new Homo species. The Innovation, 2, 3, 100132.
https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100132

Ni X. et al.(2021): Massive cranium from Harbin in northeastern China establishes a new Middle Pleistocene human lineage. The Innovation, 2, 3, 100130.
https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100130

Shao Q. et al.(2021): Geochemical provenancing and direct dating of the Harbin archaic human cranium. The Innovation, 2, 3, 100131.
https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100131

齋藤慈子「霊長類の子育」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収のコラムです。霊長類は同じ体サイズの哺乳類と比較して生活史がゆっくりとしており、成長度が遅く、子供期と性成熟に達するまでの期間が長く、成長してからの繁殖速度が遅く、妊娠期間が長く、寿命が長い、という特徴があります。哺乳類に含まれる霊長類では授乳という世話と子育てが必須ですが、一度の出産ではほとんどの場合1子のみを産み、長い期間をかけて子育てします。霊長類の子は生後ゆっくりと時間をかけて成長しますが、誕生直後からある程度運動能力が発達しており、自力のみで母親にしがみつけるため、概して早成性(離巣性)と言えます。

 霊長類はこうした長い子供期の間に、社会の中で生きる術を学びます。霊長類の社会構造は、単独性から100頭を超える群れ、群れのなかでも単雄単雌、単雄複雌、複雄複雌とさまざまですが、多くの種、とくに真猿類は、個体が相互に認識し合うだけではなく、他者間の関係も認識して社会交渉を行なうような群れを形成します。社会構造だけではなく、配偶システムも一夫一妻から一夫多妻、乱婚まで多様ですが、そうした社会で霊長類の子供は他者との関りを学んでいるようです。

 多くの種では子育ては社会の中で行なわれますが、直接的な世話を担うのは多くの場合母親です。生後しばらく、子供は文字通り四六時中母親と密着しており、雌による育児放棄はほとんどない、と言われています。一方、雌が乱婚的に配偶する種が多く、父性の不確実性が高いため、父親による子育ては進化しにくくなっています。じっさい、父親が子供に直接的な世話をする種は少ないものの、群れ外雄による子殺しや捕食者からの保護が、父親による間接的な子供の世話としてさまざまな種で報告されています。

 しかし、社会性が多様であるように、子育てにも多様な例が見られます。小型の新世界ザルであるマーモセットやタマリンの仲間では、子供の出生直後から子供を背負うなど、父親による積極的な子育て行動が見られます。コロブスの仲間では、他の旧世界ザルではあまり見られない、母親以外の雌による世話行動がよく見られます。チンパンジーでは、雄を含む世話好きな個体が血縁関係のない子供の世話をする例も報告されています。ゴリラはおもに一夫多妻制で、基本的に群れ内の子供は全て1頭の雄の子供で、父親が離乳後の子供の世話をする、と知られています。一夫一妻でペアとその子供から構成される群れを作るテナガザルは、子供の父性は確実ですが、父親が子供を抱くことはないようです。

 ヒトの子育ても、霊長類であることから、母親からの授乳が必須である点、子供期が長く、長期間の世話が必要である点は他の霊長類と共通していますが、特異な点もあります。ヒトの場合、二足歩行により骨盤が変形したことと、脳が他の霊長類と比較してさらに大型化したため、より未熟な状態で子供が生まれるようになりました(生理的早産、二次的就巣性)。さらに、長寿化や脳の大型化にともない子供期はますます長くなった一方で、授乳期間は短くなり、出産間隔は短くなっています。また離乳後も食を大人に依存しており、ヒトは未熟で労力的にも時間的にもひじょうに手のかかる子供を、同時に複数育てるような子育てをします。他の霊長類が、上の子供が離乳し、ほぼ世話が必要なくなった後に、次の子供を産むのとは大きく違います。

 こうしたヒトの子育ては、母親単独で行なうことは困難で、じっさいヒトは、共同繁殖する種と言われ、母親だけばなく父親や祖父母、その他の血縁者や非血縁者による子供の世話が広く見られます。自身の繁殖を停止した後も生存する動物はひじょうに稀ですが、そうした存在であるヒトの「おばあさん」は、自身の娘や血縁者の子育てを手伝うことで、包括適応度を上昇させられるために存在する、という「おばあさん仮説」も提唱されています。「おばあさん」の存在は、ヒトの子育てが共同繁殖であることの象徴とも言えます。現代では保育所や学校などの機能を考えると、血縁者や共同体の枠を超えた社会の中で子育てが行なわれている、とも言えます。


参考文献:
齋藤慈子(2021)「霊長類の子育」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)P21-22

過去40万年間のアラビア半島への人類の複数回の移動

 過去40万年間のアラビア半島への人類の複数回の移動に関する研究(Groucutt et al., 2021)が公表されました。アフリカとユーラシアとの間の唯一の陸橋として、アジア南西部はヒト進化と地球上の移住の重要な段階を理解するのに特有の位置を占めています。サハラ・アラビアと旧北区の生物群系間の移行する境界における環境的および生態学的条件は、孤立と多様化とその後の人口集団の混合を経て、ヒトの人口統計のパターンに強く影響を及ぼしました(関連記事1および関連記事2)。

 顕著な事例は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の混合の地理的状況に関するものです。両者の混合はアジア南西部で起きたと示唆されてきており、それは非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、ancestry)の遍在性のためですが、混合の「現地」の証拠、あるいは現生人類との時空間的な同時性さえ、アジア南西部では曖昧なままです。

 この一因は、アジア南西部の古生物学と古環境と考古学の記録のひじょうに断片化された性質です。これにより、アジア南西部の古人類学的記録に関する問題のある一般化を克服し、この地域の人類の居住の継続程度について、人類のこの地域への拡散と地域内の拡散の役割、生物地理学と環境と生態学に関連する人類集団間のこれらの拡散と相互作用について、重要な問題に関する一般化を克服する能力が制約されました。

 アジア南西部の研究は、レヴァントの冬季降雨疎林地帯の深く層序化された洞窟系列に伝統的に焦点を当ててきました(図1)。これは、旧北区生物群系の南方の延長である疎林地帯の詳細な記録につながりました。しかし過去10年、アラビア半島の研究では、草原や湖や川により特徴づけられる偶発的湿潤期間における、乾燥したサハラ・アラビア生物群系の人類の居住が記録され始めました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。アジア南西部における空間的に分岐した文化的進化発展の出現パターンは、アラビア半島中央部における新しい(20万年前未満)アシューリアン(Acheulean)の存在が含まれ(関連記事)、アシューリアンはホモ・エレクトス(Homo erectus)のような以前の人類と一般的に関連している技術です。アラビア半島南部の「退避」地域では、在来の発展として一般的には解釈される、特有の局所的特徴の出現もあります。

 これらの進歩にも関わらず、アラビア半島内陸部と北部のいくつかの報告された遺跡(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の人工物の標本規模は小さく、多くの場合、それらの遺跡は素材の調達と作業場で、レヴァントの疎林記録で支配的な洞窟や岩陰の「生活遺跡」とはひじょうに異なる特徴を示します。アラビア半島には恒久的な河川体系と深く層序化された洞窟系列がないため、長期間の考古学的および水文学的系列の構築が妨げられてきました。これは、人類の分布と人口統計と行動の変化と関連する、考古学的および古生物学的記録の重要なパターンを認識する試みを制約してきました。以下は本論文の図1です。
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 本論文は、アラビア半島北部のネフド砂漠の石器群および化石動物相と関連した複数の古湖沼系列を報告します。これは、アラビア半島における人類居住の最初となる詳細な長期間の記録を表します(図1~3)。ハール・アマユシャン4(Khall Amayshan 4、以下KAM4)は、単一の砂丘間盆地内の一連の重なった湖の系列で構成されます。KAM4遺跡では、現時点でアラビア半島では珍しく、ヨーロッパ北西部のような地域で保存されている詳細な河川記録と類似した記録が保存されています。さらに、近くのジュバ(Jubbah)古湖沼盆地の海洋酸素同位体ステージ(MIS)7および5の発掘された遺跡群からは、複数の人類居住の証拠が提示されます。KAM4とジュバの一連の証拠から、過去40万年間にアラビア半島への人類の複数回の拡散があった、と示されます。

 KAM4の各古湖沼堆積物は層序的に類似しており、おもに砂上に塊状もしくは細かく重なった炭酸塩に富んだ泥灰土で構成されています。これら泥灰土の類似性は、それぞれ不連続の湖の段階により形成され、KAM4の古環境は連続的な湿潤段階期に広く類似していたことを示唆します。堆積物はネフド砂漠西部の他の古湖沼堆積物(関連記事)に匹敵しますが、層序的に明確で重なり合った特徴と、関連する石器および化石の豊富さで注目に値します。

 KAM4の堆積物は細粒(砂、沈泥、泥灰土)で、低エネルギーもしくは静水条件での堆積を反映しています。より大きな砕屑物(砂利)は存在せず、堆積物蓄積のさいに、より高いエネルギーの流れの過程が盆地に供給されていないことを浮き彫りにしています。したがって、周囲の景観からこれら湖の本体に石器群や化石群が流入した可能性はきわめて低そうです。したがって本論文は、これらの堆積物に関連して発見された石器群や化石群は原位置にある、と主張し、それは北西湖の場合には発掘により確認されました。

 独特なKAM4の記録は、盆地全域をベルトコンベアのように移動した砂丘のため存続しており、侵食から系列のより古い部分を保護し、各湖沼段階と関連する異なる考古学的遺物および古生物学的遺骸が混ざることを防いでいます。KAM4は、アラビア半島における中期更新世後半および後期更新世の最初となる長期的系列を提供し、広く類似した環境および石材の利用可能性と関連した人類の居住の各段階を伴います。

 KAM4で最古の堆積物となる中央湖の年代は、ルミネッセンス法で412000±87000年前です(図2)。また中央湖の堆積物はKAM4における他の堆積物と比較してひじょうに鉄分が多く含まれており、盆地内での古さを証明しています。中央湖は層序的に、ルミネッセンス年代が337000±39000年前と306000±47000年前となる北東湖の最南端に重なっています。中央湖と北東湖両方の推定年代の不確実性は大きいものの、本論文は、MIS11および9両方の千年間に地域的乾燥の証拠があると強調し(図2)、中央湖をMIS11、北東湖をMIS9に分類するのが妥当です。

 北西湖は部分的に北東湖と重なっており、泥灰土堆積物の2段階の間に挟まった炭酸塩の豊富な砂の一連のルミネッセンス推定により、210000±16000年前と192000±20000年前の間と年代測定されています。同じ層のウシ科化石の直接的なウラン系列年代推定値は、一貫して205000±2000年前です。したがって北西湖はMIS7と相関していると考えられ、これは中期更新世の最期の湿潤期です。南西湖のルミネッセンス推定年代は143000±10000年前なので、MIS6後期か、可能性は低いもののMIS5への移行期となります。

 中央湖と北東湖の上に位置する南東湖の砂は、ルミネッセンス推定年代は159000±11000年前~149000±9000年前で、南湖の年代である168000±12000年前~142000±13000年前と類似しています。下層の砂に由来するこれらの最大推定年代から、南東湖と南湖の年代は中期更新世の最後の千年か、それに続く後期更新世で、後者の可能性の方が高い、と示唆されます。後述のように、本論文は考古学的根拠に基づき、南湖の年代はMIS5、南東湖の年代はMIS3早期と仮定します。以下は本論文の図2です。
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 発掘された層序化された石器から構成されるジュバの記録により、この地域の人類居住系列をさらに拡張することが可能となります。ジェベル・カッター1(Jebel Qattar 1、以下JQ1)での発掘調査の大幅拡大により、以前の研究で報告されている211000±16000年前の石器標本規模が250%にまで増加しました。ジェベル・ウム・サンマン1(Jebel Umm Sanman 1、以下JSM1)では、以前の検証発掘のすぐ西側に新たな4ヶ所の試掘坑が掘られました。JSM1の試掘坑により、深い(1.5~2.5m以上)層序系列が明らかになり、これは局所的な砂利砕屑物の頻度が変化する一連の沈泥砂から構成されます。ルミネッセンス年代測定では、JSM1系列の下部の年代は130000±10000年前なのに対して、石器の見つかった上部は75000年前頃と示唆されました。

 南西湖を除くKAM4における湖形成の各段階は、異なる石器群と関連しています(図3)。40万年前頃となる中央湖の石器群Aは、握斧(ハンドアックス)と関連する削片群(debitage、非目的製作物)から構成され、アラビア半島における最古のアシューリアン石器群です。石器群Aは、珪岩の角のある石板の形成(打製石器)により作られた、小さく洗練された握斧の製作を示します。30万年前頃となる北東湖の石器群Bも、小型握斧の製作により特徴づけられます。これらの握斧は技術と形態がかなり均一で、小さくとがっています。剥片を製作する石核の縮小技術も、石器群Bでは低頻度で存在しており、そのほとんどは選好ルヴァロワ(Levallois)縮小により特徴づけられます。

 その後の20万年前頃となる北西湖の石器群Cは、中部旧石器技術を示します。表面採集と発掘により回収された石器群は、握斧製作の完全な欠如と、求心性が高いもののやや多様なルヴァロワ技術への集中を示しています。125000~75000年前頃となる南東湖の石器群Dと55000年前頃となる南湖の石器群Eは、両方中部旧石器の特徴を示しています。石器群Dは求心性ルヴァロワ技術に重点が置かれており、石器群Eはやや多様な技術であるものの、収束的なルヴァロワ剥片を製作する単方向収束調整の強い要素が伴っています。以下は本論文の図3です。
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 JQ1における発掘調査拡大とともに、21万年前頃の石器群は明確な中部旧石器の特徴を示し、ルヴァロワ剥片が存在しており、両面技術は欠如しています。75000年前頃となるJSM1石器群は、アラビア半島北部で発掘された最大の中部旧石器群で、求心性ルヴァロワ縮小に明確な重点が置かれ、ルヴァロワ剥片の83%に求心性痕跡パターンがあります。

 水中気候およびそれと関連する人類居住のこの独特な記録から、アシューリアンの下部旧石器技術は中期更新世後期の湿潤期に存在しており、ルヴァロワ技術はアシューリアンの最終段階に存在していた、と示されます。レヴァントの疎林地帯のアシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)との類似性を示す石器群はアラビア半島では特定されておらず、アジア南西部内における異なる軌跡が浮き彫りになります。MIS7からは、アラビア半島の中部旧石器群は降水量増加の各段階とともに出現しており、MIS7のさまざまなルヴァロワ技術からMIS4の求心性ルヴァロワ技術とMIS3の単方向収束技術まで、用いられた縮小手法の観点ではさまざまな技術的焦点を示しています。

 KAM4石器群Cは、頻繁な求心性ルヴァロワ剥片のような技術的特徴を示し、この技術は同時代のレヴァントの中期石器時代前期よりもアフリカ東部の中期石器時代の技術と類似しています。中期更新世後期のレヴァントの剥片の主成分分析では、KAM4石器群Cはアフリカ東部のオモ・キビシュ(Omo Kibish)AHSとレヴァントのミスリヤ(Misliya)遺跡の間に位置する、と示されます。後期更新世では、主成分分析により、オモ・キビシュBNS30およびアラビア半島のアル・ウスタ(Al Wusta)遺跡など現生人類と関連する石器群と、ケバラ(Kebara)やトール・ファラジ(Tor Faraj)のネアンデルタール人と関連するレヴァントの石器群とが区別されます。KAM4石器群DとJSM1はMIS5の現生人類関連石器群へと向かっていますが、KAM4石器群Eの第2主成分構成要素の負の値は、MIS4~3のレヴァントのネアンデルタール人の石器群へと向かっています。

 KAM4の動物化石(おもに脊椎動物)により、人類居住期の古環境および生物地理学的状況の再構築が可能となります。アラビア半島におけるMIS5のカバの化石は、以前に報告されました(関連記事)。KAM4では、カバはMIS7にも存在したと示されており、まだ暫定的ですが、MIS9における存在も指摘されています。ティズ・アル・ガダー(Ti's al Ghadah)の近くの遺跡では、化石の表面散乱でもカバが特定されました。水深数メートルの恒久的な水域を必要とする半水生哺乳類であるカバの繰り返しの存在は、繰り返される「緑のアラビア」の多雨期における環境改善の程度の強力な証拠を提供します。

 さらに、KAM4の古生物学的遺骸は、アラビア半島の哺乳類動物相が、レヴァントの疎林地帯とよりも中期および後期更新世のアフリカの方と強い類似性を有していた、と示唆する証拠の増加に寄与します(関連記事)。アラビア半島北部におけるアフリカ水牛やセーブルアンテロープなどアフリカのウシ科分類群の存在は、豊富な淡水を有するアフリカ北部およびアラビア半島全域の草原の隣接地域の繰り返しの確立を示唆し、人類を含むさまざまな種の拡散経路を提供します。しかしアラビア半島は、ユーラシアおよび固有の分類群も特徴としており、アフリカとユーラシアの他地域との間の重要な生物地理学的つながりで、それにより人類にとっても重要な相互作用地帯を構成していたかもしれない、と示唆されます。

 アラビア半島北部の中期更新世後期の石器群は同様に、レヴァントの疎林地帯遺跡群よりもアフリカの方と大きな類似性を示します。中期更新世アラビア半島中央部における大型握斧と鉈状石器の継続的な製作(関連記事)は、この時点での高水準の人口構造を示唆し、おそらくアラビア半島にはさまざまな人類種が居住していました。MIS5には、アフリカ北東部とアジア南西部の大半は類似の物質文化を共有しており、現生人類の広範な拡散と一致します(関連記事)。

 その後、最終氷期周期の寒冷化と乾燥化が、人口集団の断片化と現象につながりました。59000~50000年前頃となるMIS3前期の部分的な気候改善期には、おそらくは北方からのネアンデルタール人の到来も含む新たな拡散がありました。レヴァントの疎林地帯のような比較的安定した環境および生態学的条件は、特有の局所的な物質文化段階の発展を促しました。対照的に、アラビア半島北部内陸部の記録は、環境の湿度増加の一時的な段階における居住の波を示唆しており、乾燥化が進むと地域的な過疎化が繰り返されるようです。

 本論文はアラビア半島北部へのヒト拡散の少なくとも5回の波(40万年前頃、30万年前頃、20万年前頃、130000~75000年前頃、55000年前頃)を特定し、それぞれの拡散は乾燥化減少段階と関連していました。これらの段階間の物質文化の違いは、アシューリアン技術の2段階と、その後の中部旧石器の異なる3形態で、多様な人類集団とおそらくは異なる複数種が、さまざまな時期にアラビア半島北部に拡大した、と示唆されます。アラビア半島の新たな古人類学的記録は、アジア南西部のさまざまな地域における、中期および後期更新世の人類の人口統計および行動の動態と地域的な特異性を浮き彫りにします。これらの過程は、地域的な気候変化と密接に関連していました。

 利用可能な記録は、脈動的な広範囲の拡散の後、局所的な変異と、最終的には人口減少が起きた、と強調します。アラビア半島内の根本的に異なる技術の時間的重複と、動物相の混合についての生物地理学的証拠を考えると、遺伝的分析により特定された人類の混合過程の一部がアラビア半島で起きたかもしれません。したがって、アラビア半島と、より一般的にアジア南西部は、現生人類がアフリカを越えてどのように拡大したのか、というますます複雑になりつつある歴史だけではなく、もっと広く、現生人類の最近の成功が、著しい環境変動の状況で起きた人類の拡散や地域的発展や混合のより長い歴史とどのように関連しているのか、理解するのに重要な地域です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:アラビア半島への初期人類の移動に水文気候変動が関係していた

 初期人類は、過去40万年間に少なくとも5回の移動期でアラビアに足を踏み入れていたことを報告する論文が、Nature に掲載される。アラビアの砂漠で発見された一連の石器と動物化石が、こうした初期人類の移動の証拠となっており、それぞれの移動は、一時的に乾燥度が低下した期間と関係していた。

 アラビア半島の広大な乾燥地帯は、アフリカとユーラシアを結ぶ唯一の陸橋であるため、アフリカ大陸から外界へ移動し、アフリカ大陸に戻ってきたヒト族(ホモ・サピエンスと現生人類の近縁絶滅種)の進化に関する研究の焦点になっていた。このようにアラビアが重要であるにもかかわらず、この地域で発見された文化的記録、生物学的記録、環境的記録は限られており、ヒト族の人口動態と行動に関する我々の理解は十分でない。

 今回の論文で、Huw Groucutt、Michael Petragliaたちは、サウジアラビア文化省遺産委員会との共同研究で、サウジアラビア北部のネフド砂漠にかつて存在していた湖の付近の堆積層から発見された一連の石器と動物化石について報告している。これらの発見物の中には、これまでで最古のヒト族のアラビアでの居住記録に関連する人工産物も含まれており、更新世(約260万~1万1700年前)に初期のヒト族のアラビアへの分散は少なくとも5回起こったことが明らかになった。これらの移動期は、それぞれ、環境条件が有利な時期、つまり一時的に乾燥度が低下した時期(約40万年前、30万年前、20万年前、13万~7万5000年前、5万5000年前)と一致していた。これらの移動期は、物質文化の違いによっても分類することができ、2回の移動期にはアシュールの技術(一般にホモ・エレクトスのような初期のヒト族種に関連している)が含まれ、3回の移動期には、中期旧石器時代の技術のそれぞれ独自の形態(手斧や大包丁など)が含まれていた。以上の知見は、アラビアに多様なヒト族集団が移住し、この集団が複数のヒト族種によって構成されていた可能性があることを示唆している。

 Groucuttたちは、これらの発見物は、アフリカとユーラシアの連結点におけるヒト族の移動に関する理解を深める上でアラビアが重要なことを裏付けるだけでなく、より具体的には、初期人類集団間の相互作用が著しい環境的変化と生態学的変化の時期にどのように関連していたのかを明らかにするものだと結論付けている。


考古学:過去40万年間の複数回にわたる西南アジアへのヒト族の分散

考古学:「砂漠のアラビア」物語

 西南アジア、とりわけアラビア半島は、人類の最初の出アフリカとその後の分散に極めて重要だった可能性がある。この地域は、現在は乾燥しているが、かつては穏やかで十分に水のある場所だった。今回H Groucuttたちは、アラビア地域のネフド砂漠の現在最も過酷な奥地の古代湖の堆積層から発見された、石器群や哺乳類化石について報告している。これらの遺物から、ヒト族が、約40万年前、約30万年前、約20万年前、約13万~7万5000年前、約5万5000年前の乾燥が短期的に緩和した時期に、アラビア内陸部へと繰り返し移動していたことが明らかになった。



参考文献:
Groucutt HS. et al.(2021): Multiple hominin dispersals into Southwest Asia over the past 400,000 years. Nature, 597, 7876, 376–380.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03863-y

白亜紀-古第三紀の大量絶滅後に進んだヘビの多様化

 白亜紀-古第三紀の大量絶滅後にヘビの多様化が進んだことに関する研究(Klein et al., 2021)が公表されました。6600万年前頃となる白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、地球上の生物種の推定76%の消失をもたらしましたが、その後、脊椎動物のいくつかの分類群で種の多様性が増大しました。しかし、大量絶滅事象がヘビの進化に及ぼした影響は明らかになっていません。

 この研究は、絶滅していないヘビ分類群(115群)の間の進化的関係、DNA上の変異発生率、化石種と非絶滅種のヘビの地理的分布に関するそれぞれのデータを組み合わせることにより、ヘビの進化史を再構築しました。その結果、大量絶滅事象を生き残ったヘビはわずか6系統で、大量絶滅事象の頃にヘビ種の多様性が増大したことと、ヘビの体型および体サイズの範囲が大量絶滅事象後に拡大し、ギガントフィス(Gigantophis)とティタノボア(Titanoboa)という巨大ヘビが出現した、と明らかになりました。

 この研究は、大量絶滅事象の頃にボア科とクサリヘビ科を含む分類群がアジアに出現し、現生種のニセサンゴヘビやホソメクラヘビやメクラヘビを含む分類群も出現した、と示しています。この研究は、ヘビには滅多に餌を取らなくても生きられる能力があり、大量絶滅事象後に競争者や捕食者が絶滅したため、ヘビの生存とその後の多様化が可能になった、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:白亜紀-古第三紀の大量絶滅の後にヘビの多様性が進んだ

 6600万年前の白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、ヘビ種の多様性が急速に増すように作用した可能性のあることを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。

 白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、地球上の生物種の推定76%の消失をもたらしたが、その後、脊椎動物のいくつかの分類群で種の多様性が増大した。しかし、大量絶滅事象がヘビの進化に及ぼした影響は明らかになっていない。

 今回、Nicholas Longrich、Catherine Kleinたちは、絶滅していないヘビ分類群(115群)の間の進化的関係、DNA上の変異発生率、化石種と非絶滅種のヘビの地理的分布に関するそれぞれのデータを組み合わせることによって、ヘビの進化史を再構築した。その結果、大量絶滅事象を生き残ったヘビはわずか6系統で、大量絶滅事象の頃にヘビ種の多様性が増大したこと、そして、ヘビの体型と体サイズの範囲が大量絶滅事象後に拡大し、ギガントフィス(Gigantophis)とティタノボア(Titanoboa)という巨大ヘビが出現したことが分かった。著者たちは、大量絶滅事象の頃にボア科とクサリヘビ科を含む分類群がアジアに出現し、現生種のニセサンゴヘビ、ホソメクラヘビ、メクラヘビを含む分類群も出現したことも示している。

 著者たちは、ヘビには、めったに餌を取らなくても生きられる能力があり、大量絶滅事象後に競争者や捕食者が絶滅したため、ヘビの生存とその後の多様化が可能になったと結論付けている。



参考文献:
Klein CG. et al.(2021): Evolution and dispersal of snakes across the Cretaceous-Paleogene mass extinction. Nature Communications, 12, 5335.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25136-y

大河ドラマ『青天を衝け』第27回「篤太夫、駿府で励む」

 栄一(篤太夫)は駿府藩への仕官を断りつつも、栄一が水戸藩に仕官して殺されることのないよう配慮した慶喜の配慮に感謝し、駿府で新たに生計を立てようとします。しかし、駿府藩の財政危機を知った栄一は、駿府藩が自立できるよう、パリで学んだ知識を活かして財政改革に乗り出します。駿府藩の武士も商人もなかなか栄一に協力しませんが、栄一は江戸に行くなどして金策に走り、事業は何とか軌道に乗ります。ここは栄一が農村で見せていた商売の才覚を活かした場面となっており、地味で退屈と思っていた視聴者も少なくなかったかもしれませんが、序盤の農村の話は必要だったのだな、と改めて思います。

 函館では旧幕府軍の敗色が濃厚となり、討ち死にを覚悟した土方歳三は喜作(成一郎)に生きるよう言い残します。五稜郭は陥落し、土方は戦死して戊辰戦争は終結します。栄一は五代才助(友厚)と遭遇し、最後に伊藤博文と大隈重信も登場して、今回は幕末編から明治編への移行といった感じでした。次回からはいよいよ本格的に明治編が始まりますが、残り14回と短いのが残念です。本作については放送開始前から幕末編重視と聞いていましたが、放送開始が遅れて全41回で終わるのは残念です。

縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ

 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88~7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150~2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9~11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000~15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20~30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000~18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000~15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000~16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500~3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75~8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991~8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980~7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000~3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300~4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000~15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950~33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001~1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期~古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6~7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398~468年頃)および2号個体(紀元後407~535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9~56.4%と42.4~51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800~2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半~紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419

『卑弥呼』第71話「本物の日見子」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年10月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがオオヒコに、千穂の厳谷(イワヤ)に行き300日間人々に祈祷(イノリ)を捧げる、と伝えたところで終了しました。今回は、ミマアキたちが八咫烏(ヤタガラス)を迎え撃った現場を、日下(ヒノモト)の重臣でフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)と姻戚関係にあるシコオが見分している場面から始まります。ミマアキたちが松カサとツバキの実で火を熾し、鐸(銅鐸)があるたことに気づいたシコオは、八咫烏を炎で炙り出し、松カサの強烈な臭いで嗅覚を奪い、鐸で聴覚を封じたと悟り、トメ将軍とミマアキたち筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の一行が強者だと改めて悟ります。追撃を主張する排他に対してシコオは、都に戻るよう命じます。トメ将軍とミマアキの一行はすでにフトニ王に従わない當麻(タイマ)一族の手中にあるから、というわけです。筑紫島の一行は逃げおおせたのだろうか、と配下に問われたシコオは、それは分からない、當麻一族の長は気まぐれで残酷なので、筑紫島の一行は我々に捕らえられなかったことを後悔するかもしれない、と答えます。

 トメ将軍とミマアキの一行は當麻一族の邑に到達します。邑には柵が張りめぐらされていました。サヌ王の息子のタギシ王の末裔と名乗る阿多(アタ)のチカトは、當麻一族は今の王家を信用していない、と改めてトメ将軍とミマアキに伝えます。邑ではマガリと名乗る人物が現れ、チカトには去るよう命じ、トメ将軍とミマアキの一行には中に入るよう、促します。チカトはトメ将軍に、當麻一族がどのようにトメ将軍とミマアキの一行を扱うか分からないので油断しないよう、警告します。この邑での厲鬼の被害についてトメ将軍に問われたマガリは、近隣の邑は全滅し、當麻一族だけが早々に門を閉ざしたので無事だった、と答えます。マガリはトメ将軍とミマアキに建物で休むよう促し、我々の長は慈悲深いのできっと歓迎するだろう、と笑顔で言います。土俵が作られていることに気づいたトメ将軍に、明日手乞(テゴイ)がある、とマガリは説明します。ミマアキは手乞について知らず、捔力(スモウ)のことだ、とトメ将軍が説明します。手乞で競うことにより饒速日(ニギハヤヒ)様の力を借り、厲鬼を土俵の下に葬るのだ。とマガリは説明します。厲鬼は筑紫島にもあるが、日下とどう違うのかぜひ拝見したい、とトメ将軍し言います。

 筑紫島の那(ナ)国では、オオヒコとヌカデの先導によりヤノハの乗った籠が聖地の千穂(高千穂)へと向かっていました。那国では甕棺による埋葬が慣行とされていますが、厲鬼(レイキ)、つまり疫病の流行があまりにも早く、火葬とするのが精一杯だったのだろう、とオオヒコは推測します。ヤノハ一行は、疫病神(エヤミノカミ)に冒されて家々を焼いた、とくに被害の大きい邑に到達します。そこへある家族が現れ、オオヒコは慌てて家から出ないように命じますが、その家族に続いて多くの者が次々と現れ、日見子(ヒミコ)であるヤノハの乗った籠を崇め始めます。ヤノハは籠を下すよう命じますが、オオヒコはヤノハを制止して先に進むよう命じ、穂波(ホミ)との国境で多くの死体と遭遇します。隣国に行けば厲鬼から逃れられると思ったのだろう、とオオヒコは推測します。そこへ、那国から穂波国へと向かう難民がやって来ます。オオヒコは難民に向かって、道を開けて地に座して頭を垂れよ、と命じます。日見子の一行だと気づいた難民はヤノハの乗った籠を崇め、厲鬼から自分たちをお守りください、と懇願します。オオヒコは、早く道を開けないと斬り捨てるぞ、と難民に警告しますが、ヤノハはオオヒコの制止を聞かず強引に籠を降ろすよう命じ、籠から出てきます。ヤノハは難民に顔を上げるよう促し、今、天上では天照大神(アマテラスオオミカミ)様が疫病と戦っておられるが、敵は手強く天照様が勝つとは限らないので、皆に力を借りたい、と言います。自分は天照様の力になるため祈祷(イノリ)の場に籠り、皆も自分と同じく家に帰ってともに祈って欲しい、というわけです。食糧や水の確保の他には外出せず、家族以外とは話さず、ただひたすら祈ってほしい、一年皆が耐えてくれれば、必ず天照様は疫病神を退散させてくれる、とヤノハは難民に訴えます。すると難民は、自分たちも邑に帰って祈る、と誓います。ヌカデが言葉を発しないナツハ(ヤノハの弟のチカラオ)に、日見子(ヤノハ)様は本物の日見子になったと伝え、ナツハが笑顔を見せるところで、今回は終了です。


 今回は、トメ将軍およびミマアキの一行とヤノハの動向が描かれました。シコオによると、當麻一族の長は気まぐれで残酷とのことで、手乞(相撲)でトメ将軍かミマアキに疫病退散のため命がけで勝負するよう、命じるのかもしれません。そこでトメ将軍かミマアキが負ければ、筑紫島の者は生贄として皆殺しにされそうですが、トメ将軍は『三国志』に見える倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、相撲での勝負となるのか否かは分かりませんが、無事筑紫島に生還すると予想しています。當麻一族の長がどのような人物なのかも注目されます。ヤノハは、妊娠という逆境をも活かして運命を切り開こうとしており、この生命力の強さと大胆さが魅力になっていると思います。ヤノハが人々にも協力を要請したことで、暈(クマ)の国はともかく、筑紫島の人々がまとまりやすくなったように思います。ヤノハの妊娠を知っているのは事代主(コトシロヌシ)とチカラオとヌカデだけで、ヤノハが出産して子を託すとなるとこの3人しかいませんが、あるいはヌカデを介して出雲の事代主に預けて修行させるのでしょうか。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、台与の登場は本作の終盤になりそうですし、ヤノハとチカラオとの間の子供の登場もずっと先かもしれません。まずは、筑紫島の疫病をヤノハがどのように収束させるのか、注目されます。

吉村武彦『新版 古代天皇の誕生』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2019年6月に刊行されました。 電子書籍での購入です。本書は『漢書』に見える倭人の記事から天皇号成立の頃までの、王位継承とその称号の変遷についての概説です。本書は『漢書』や『後漢書』に見える卑弥呼以前の倭の記事を簡潔に取り上げた後、卑弥呼についてはやや詳しく言及しています。本書は、女性の王としての卑弥呼と台与は特殊な政治状況下の存在で、一般化できない、と指摘します。また本書は、卑弥呼の時代の倭国とヤマト王権とは連続しない、との見解を提示していますが、これに関しては議論があるとは思います。

 紀元後3世紀の前方後円墳の出現は王権史において画期となりそうですが、本書は、王権研究の主対象は古墳ではなく王宮であるべきだ、と指摘します。いわゆる倭の五王については、『宋書』では倭姓の同じ父系一族と把握されており、『宋書』から当時の倭王が二つの氏族・家柄が存在したとは言えない、と指摘されています。また本書は、「大王」は称号ではなく尊称だった、と指摘します。本書がヤマト王権における王位継承で重視するのは、王は群臣の推挙を経て即位するのであり、王もしくは王族内の自由意志により王位継承を実現させる条件はなかった、ということです。この新王即位において、大臣をはじめとして群臣も改めてその地位を確認されました。

 『隋書』と『日本書紀』の相違について、本書は当時の倭国王が基本的には人前に現れない存在で、外交使節にも姿を見せなかったことが要因ではないか、と推測しています。隋から倭国に使節として赴いた裴世清が接触したのは厩戸王子(聖徳太子)で、裴世清は自分の任務達成のために、厩戸王子を国王に見立てる倭国側の方策を受け入れた、というわけです。なお、本書では『隋書』に倭国王の名(字)が「多利思北(比)孤」であることからも、裴世清が倭国王を男性として隋に報告したことは間違いないとされますが、律令制確立前の日本においては名前が男女で明確に区別されていたわけではなく、『日本書紀』などに見える、これまで男性と考えられてきた名前の人物の中に女性もいたかもしれない、と指摘されています(関連記事)。

 乙巳の変は、ヤマト王権史上初の譲位が実現した点で画期的だった、と本書は評価します。それまでは終身王位制で、しかも上述のように群臣推挙により王は即位ましたが、乙巳の変後の皇極から孝徳への譲位には群臣が介在せず、国王の意思に基づく王位継承だった、というわけです。その後の王権において重要なのは、壬申の乱に勝った天武天皇以降、天皇の神格化が始まったことです。天皇号の使用については、天武朝には確実で、天智朝にまでさかのぼる可能性があるものの、法制度化されたのは浄御原令からだろう、と本書は指摘します。

上峯篤史「存否問題のムコウ」

 本論文はまず、2000年11月5日に発覚した旧石器捏造事件の影響もあり、日本列島における4万年以上前の人類の存在に慎重な意見も少なくないなか(関連記事)、日本列島には4万年以上前に人類が存在したと断定し、そもそも4万年以上前の遺跡の存否問題はずいぶん前に決着している、と指摘します。その根拠は岩手県遠野市の金取遺跡で、第III文化層からはハンドアックス(握斧)を彷彿とさせる両面調整石器や円盤状石器やシンボリックな石器群が発見されました。接合資料をも含むこれらの石器群について、人工品でないとする意見を寡聞にして知らない、と本論文は指摘します。

 金取遺跡の石器群はⅢ層上面に集中し、下位のⅢd層はYk-M(焼石村崎野軽石)から構成されます。Yk-Mそのものの年代は未詳ですが、北上低地ではYk-Mの直上にYk-Y(焼石山形軽石、82000±19000年前)が堆積していて、両者の年代は近いと推測されます。Ⅲd層上面は波状帯となって。Ⅲb 層下部におよび、第Ⅲ文化層の遺物分布を乱します。の波状帯は、北上山地一帯で観察される周氷河インボリューションです。周氷河インボリューションの形成機構を考慮すれば、波状帯の凹み最下底で出土したカバノキ属近似種炭化材の放射性炭素年代測定値(46480±710年前)は、第Ⅲ文化層の年代下限の定点になります。

 周氷河インボリューションより上位ではIw-Od(岩手-生出火山灰、5万~3万年前頃)由来の火山ガラスが検出され、この年代観と矛盾しません。Iw-Yu(岩手-雪浦軽石)のフィッション・トラック(FT)年代(67 ± 7ka, 伊藤ほか2007)をIw-Od年代の近似値とみなし、第Ⅲ文化層の年代に関連づける意見もありますが、Iw-YuはIw-Od(ないしは生出黒色火山灰、OBA)の火山ユニットの最下部で、Iw-Od はやや長期にわたる堆積物とされているので、Iw-YuのFT 年代は第Ⅲ文化層の年代根拠には採用しにくく、第Ⅲ文化層の年代が4 万年以上前であることは明らかです。

 存否問題を乗りこえれば、日本列島各地に20ヶ所弱ある4 万年以前の遺跡候補地の再点検、とくに4万年以上前の年代測定がますます重要になってきます。OSL(光励起ルミネッセンス、光刺激ルミネッセンス法)法にかかる期待は大きいものの、その測定値のセカンドオピニオンをもつ意味でも、火山灰編年学を徹底したい、と本論文は提言します。金取遺跡の年代研究では、発掘調査区のみならず、遺跡を載せる地形面、同一水系の地形面群へと調査範囲を拡大し、この地域の地形形成史のなかで金取遺跡の堆積物が年代づけられました。これは地形層序学的手法のお手本です。遺跡候補地の再点検にあたっては、考古学研究者自身が周辺地形・地質調査に取り組むことも辞さない、発掘区と周辺地形とを関連づける調査が存在感を増すでしょう。

 石器と自然破砕礫の識別、すなわち石器認定をめぐる潜思も避けられませんが、科学的コンセンサスを醸成していくには、方法の整備と検証可能な根拠の明示が求められます。著者が以前に指摘したように、割れ痕跡の判読が安定しない不均質石材でも、手間をかければ、黒曜岩などのガラス質石材と同様に観察所見を蓄積できます。この方法に則る限り、島根県出雲市の砂原遺跡の石製資料の割れ経過にはパターンが認められます。他方、すべての出土物を堆積物と再認識したうえで、その場からその資料が出土する事実を自然現象で説明できるかという観点からも、石器認定を議論できます。砂原遺跡では、原位置性を示す堆積学的根拠をもった石製資料群が、乾裂面が示す旧地表面上でいくつかの集中部を見せていました。長野県大町市の木崎小丸山遺跡では、火山灰由来の細粒堆積物から剝離痕を持った石製資料が複数出土しました。

 割れ現象や出土状況に関わる、奇妙なようで見慣れた現象を自然現象で説明する妙案が浮かぶまでは、出土物は人が関与した遺物であると考えるのが妥当だろう、と本論文は指摘します。空想を語る場面ならともかく、研究者が意見を述べるにおいては根拠が必要で、その根拠は特定の対象から明確な方法に基づいて導かれていなければならず、夢や信念、ましてや学統の出る幕ではない、というわけです。科学の舞台で語る以上、すべては方法と根拠の問題で、確からしい判断と、より確からしい判断が鎬を削ることになるだろう、と本論文は指摘します。


参考文献:
上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析

 本論文(安達他.,2021)は清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』に所収されており、PDFファイルで公開されています(P105-118)。本論文は、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡で発見された人骨のDNA解析結果を報告しています。磯間岩陰遺跡では保存状態のきわめて良好な12個体の人骨が発見されています。本論文は、これらの個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)および核DNA解析結果と、各個体の血縁関係や系統分析結果を報告します。mtDNAの解析結果とmtDNAハプログループ(mtHg)の分類は以下の表1に示されています。APLPは「Amplified Product-Length Polymorphism」の略称、NGSは次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer)の略称です。
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 APLP分析では、全12個体から再現性のある結果が得られました。また、第4号・第5号・第6号石室出土人骨について行なわれた高多型領域のダイレクトシークエンス解析についても、全個体で再現性のある結果が得られました(表1)。第4号石室出土人骨のmtHgは3個体ともM7a1aで、ダイレクトシークエンスの結果も分析できた範囲で同一でした。第5号および第6号石室出土人骨のmtHgはそれぞれD4b2a2a1およびM7a1b1と推定されました。これらのmtHgは遺跡内の他の個体では見られません。

 1号・第2号・第3号石室出土人骨の7個体については、NGSによるミトコンドリアゲノム分析が行なわれました。いずれの個体からもミトコンドリアゲノムにマップされたリードが多く得られました。このデータから推定されたmtHgはAPLP法による分析結果と矛盾しませんでした。第1号石室1号および2号のmtHgはともにN9b1の祖型に分類され、個体特異的変異の多くも共通しますが、G7521Aの変異の有無で違いが認められました(表1)。ただ、ミトコンドリア全配列で1塩基のみの違いであるため突然変異の可能性は否定できず、両者が母系の血縁者である可能性は排除されません。一方、第2号石室の3個体、および第3号石室2号人骨のmtHgは全てM7a1a4aで、かつ、個体特異的変異まで共通していたことから、これらの人骨は母系の親族である可能性が高そうです。しかし、第3号石室1号人骨のmtHgはD5b2で、遺跡内の他の個体では見られません。

 ミトコンドリアゲノム分析で良好な結果が得られたことから、核ゲノム分析が進められており、現時点では第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)で核ゲノム解析結果が得られています。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から性別を判定したところ、両個体とも男性と判断する基準である10:1に近いことから男性と判定されました。検出されたY染色体ハプログループ(YHg)は、第1号石室1号がO1b2a1a1、第1号石室2号がD1b(現在の分類ではD1a2aだと思いますので、以下D1a2aで統一します)でした。

 主成分分析によりアジア東部の現代人・古代人と比較した結果、第1号石室2号人骨は本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人クラスタの近傍に投影されましたが、1号人骨は「本土」日本人と「縄文人」クラスタの間に位置しました(図1)。傾向としては、西北九州弥生時代の長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡2号・3号(関連記事)と類似しています。次にF4統計による集団比較では、f4(ムブティ人、船泊縄文;アジア東部、磯間岩陰遺跡個体)で正の値(f4>0、Z>3)であることから、いずれも現代日本人と比較して縄文的な遺伝要素が多い、と統計的に有意に示されました。f4(ムブティ人、アジア東部人;船泊縄文人、磯間岩陰遺跡個体)の比較から、磯間岩陰遺跡個体の2個体には「渡来系集団」の混血がすでに認められます。混血の程度を判断するためにf4比による定量が行なわれた結果、1号および2号人骨は「縄文要素」がそれぞれ52.9~56.4%と42.4~51.6%で見られました。以下は本論文の図1です。
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 血縁推定は一般にIBS(identical by state)やIBD(identity-by-descent)に基づいた手法の開発がなされています。IBSは同じアレル(対立遺伝子)を有していることです。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。しかし、これらの手法はゲノム網羅率が1倍以下の古代DNA試料には適用できず、この手法で血縁推定が可能な古代DNA試料はひじょうに限定されます。一方READ(Relationship Estimation from Ancient DNA)は、平均深度1倍以下と網羅率の低い古代DNAでも、個体間の血縁推定を2親等までは高い精度で推定できます。必要な一塩基多型数も2500以上あれば推定可能なので、READによる第1号石室1号および2号の血縁推定が試みられました。

 READでははじめに、4個体以上の同一系統集団を用いて基準となる「赤の他人同士」の遺伝的差異(normalized-P0)を取得する必要があります。これは、主成分分析で同一クラスタに属する別集団で代用することも可能です。しかし今回は、磯間岩陰遺跡内では2個体のみです。また、主成分分析やF4統計の結果からも明らかなように、第1号石室の2個体は「渡来系弥生時代人」や現代人よりも「縄文人」的で、遺伝的に類似の別集団で解析に利用できる個体は西北九州弥生時代人である下本山3号のみです。そこで、やや強引ではありますが、「縄文人」と「渡来系弥生人」の両集団を用いてnormalized-P0の取得と血縁推定が行なわれた結果、第1号石室の2個体は2親等の範疇に含まれました。

 磯間岩陰遺跡第1号石室の2個体についてまず言えるのは、「縄文的」遺伝子を古墳時代人としてはかなり多く受け継いでいる可能性が高いことです。遺跡内に母系の血縁者が多いことは要注意ですが、mtHgはM7aとN9bが大部分を占めており、いずれも「縄文的遺伝子型」として知られています。また、核ゲノムでも第1号石室1号人骨は古墳時代人としては例外的に「縄文人」に近く、第1号埋葬2号人骨も現代日本人よりは「縄文的」です。さらに、各石室内でmtDNAの塩基配列の一致例が多く、母系単位の埋葬慣行の可能性が高そうです。しかし、第3号石室は2体合葬ですが、それぞれの人骨の母系が異なっています。第3号石室1号と2号には埋葬時期に時間差があり、歯冠計測値を用いた血縁推定でも血縁関係は否定的でしたが、今回の結果はそれを支持しています。第3号石室2号人骨はmtDNAの配列が完全に一致する第2号石室の3個体と母系の血縁があり、1号人骨とは血縁関係がないのかもしれません。

 遺跡の主体部である第1号~第3号石室から離れた第4号~第6号石室の埋葬人骨では、第4号石室出土の3個体はそれぞれ母系の血縁者である可能性があり、かつ第2号石室の3個体および第3号石室2号との血縁関係も否定されませんでした。一方、第5号および第6号石室人骨のmtHgは両方とも磯間岩陰遺跡で唯一のもので、主体部とは母系がはっきり異なっていました。上述のように磯間岩陰遺跡の埋葬原理は母系の血縁である可能性が高いので、第5号・第6号については主体部との血縁関係がないかもしれません。考古学的に第1号~第4号石室は紀元後5世紀中頃から6世紀初頭までに位置づけられる前半期の、第5号~第8号は紀元後6世紀後葉の埋葬施設で、遺跡の利用には6世紀前葉~中葉に空白期間があります。つまり、磯間岩陰遺跡を利用した人々はこの地をいったん放棄している可能性があるわけです。第5号および第6号石室人骨のmtHgが前半期に見られないタイプなのは、これが一因かもしれません。

 上述のように、第1号石室の2個体は2親等の範疇に含まれたが、父系を示すY染色体の遺伝子型が大きく異なり、母系のつながりを示すmtDNAの塩基配列にも1塩基ながら違いが見られました。mtDNA全配列中1塩基のみの違いは突然変異により生じる可能性があることから、この2個体に母系の親族関係が存在する可能性は否定されません。そこで、1塩基の違いを重視して両者に母系の親族関係がないと仮定する場合と、突然変異の可能性を考えて両者に母系の親族関係があると仮定する場合に分けて、両人骨の親族関係が検証されました。

 第1号石室の2個体に母系の親族関係がないと仮定した場合、Y染色体の遺伝子型が異なり、mtDNAの塩基配列を共有しない2親等の男性親族関係とすれば、まず祖父(1号人骨)と孫(2号人骨)が考えられます。Y染色体の遺伝子型が異なるので、2号人骨は1号の娘の子と想定されます。この場合、1号人骨と2号人骨の年齢差が問題となります。埋葬時期がほぼ同時と考えられているので、死亡年齢の差がそのまま生前の年齢差となります。他の分析によれば、1号人骨は中年、2号人骨は3歳前後と推定されています。両名ょ祖父と孫の関係とするにはやや年齢が近いものの、可能性はあります。奈良時代の戸令によれば男性は15歳、女性は13歳から婚姻が許されます。1号人骨とその娘がともに早くに婚姻して子を儲けたとすれば、1号人骨と2号人骨が祖父と孫の関係である可能性は残ります。

 また、3親等ではありますが、オジ(1号人骨)とオイ(2号人骨)の関係も考えられます。この場合、Y染色体とmtDNAの遺伝子型をともに共有しないので、2号人骨は1号人骨の異父兄弟の子か、1号人骨の異母姉妹の子と想定されます。以前の古代戸籍の研究によると、奈良時代では再婚が数多く行なわれていた、と指摘されています。多産多死の世界では集団を維持するためには再婚は必要で、この傾向は古墳時代でも当てはまる、と予想されます。また、古代は夫婦のつながりが弱い対偶婚であったとする説もあり、その場合も再婚が頻繁に行なわれます。そうならば2号人骨が1号人骨の異父兄弟の子、あるいは異母姉妹の子という想定もあり得ます。なお、イトコは4親等です、この可能性は排除されません。その場合、1号人骨と2号人骨の親の関係が姉弟や兄妹のように異性であることが求められます。ただ、30歳以上年齢差のあるイトコの想定は難しく、可能性は低いと言えるでしょう。

 第1号石室の2個体に母系の親族関係があると仮定した場合、父系を示すY染色体の遺伝子型が異なり、母系のつながりを示すmtDNAの塩基配列を共有する2親等となれば、両者は異父兄弟である可能性があります。しかし、埋葬時期ほぼ同時と考えられるにもかかわらず両者の年齢差が大きいことから、この考えは棄却されます。そうすると考えられるのは3親等ですが、両者の血縁関係としてはオジ(1号人骨)とオイ(2号人骨)が最も考えやすそうです。mtDNAを共有するとすれば、2号人骨は1号人骨の同母姉妹の子であるはずですが、父が同じか否かは問われません。また、母系の親族関係がないと仮定した場合と同じく、4親等のイトコの関係だった可能性は排除されません。その場合、mtDNAを共有するので、1号人骨と2号人骨の親は同母姉妹の必要があります。母系の親族関係がないと仮定した場合と同じく、30歳以上年齢差のあるイトコの想定は難しく、可能性は低いと言えるでしょう。

 この推定結果の信頼性については将来、磯間岩陰遺跡の別個体の核ゲノムを用いて検討することになりますが、現時点で遺伝的に類似している下本山3号との比較で、第1号石室1号および2号と下本山3号の分布域はnormalized-P0(0.1193)と重複することから、両者に2親等レベルの血縁関係が存在する、という推定結果には妥当性があると考えられます。ただ、normalized-P0はその集団の遺伝的多様度により変動することから、多様度が下本山3号と磯間岩陰遺跡個体群で異なる場合は、normalized-P0も信頼できません。将来的には、縄文時代人と「渡来系弥生時代人」を磯間岩陰遺跡集団と同程度に混血させた模擬データを用いた詳細な検証が必要でしょう。あるいは上述のように、磯間岩陰遺跡の残りの個体についても核ゲノム分析を行ない、そこから推定することが望ましいと言えます。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、古墳時代の近畿地方においても、日本列島「本土」現代人集団よりも顕著に高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素の個体が存在したことを示しています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性遺骸(茶臼山3号)は、核ゲノムでは日本列島「本土」現代人集団の分布範囲内に収まるものの、日本列島「本土」現代人集団よりも「縄文人」に遺伝的に近い、と推測されており(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が弥生時代以降に長い時間をかけて形成され、古墳時代にはまだ大きな地域差があった、と示唆されます。磯間岩陰遺跡の事例は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(関連記事)。磯間岩陰遺跡は「周辺部」に位置し、「縄文人」的な遺伝的構成要素が遅くまで残りやすかったのではないか、というわけです。


参考文献:
安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118

コーカサス現代人の起源とその移動経路

 コーカサス現代人の起源とその移動経路に関する研究(Gavashelishvili et al., 2021)が公表されました。コーカサスはヨーロッパとアジア、黒海とカスピ海の境界線上にある山岳地帯です。コーカサスでは、地理的範囲が比較的小さく、ほぼ温暖な気候にも関わらず、自然景観や動植物種や栽培家畜品種の多様性はひじょうに高くなっています。この多様性のため、コーカサスは世界の生物多様性のホットスポットの一つであり、地球上の全言語のほとんどを占める、かなりの言語多様性も含んでいます。

 コーカサスは世界の重要な退避地の一部を提供しました。退避地では、ヒトも含めて陸生動植物のほとんどが一連の氷期極大期に生き残り、その現在の分布はおもに退避地からの氷期後の拡大を反映しています。これら氷期の退避地と移動への障壁はヒトの進化において重要な役割を果たし、現在世界で見られるヒトの遺伝的および民族言語的パータンのほとんどを生み出しました(関連記事)。コーカサスはヤムナヤ(Yamnaya)の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の約半分に寄与しました(関連記事)。つまり、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の牧畜民です。

 この後期銅器時代から前期青銅器時代の牧畜民集団は、顕著な人口統計学的および文化的影響をユーラシアの大半に及ぼしました。たとえば、遺伝的影響やインド・ヨーロッパ語族や乗馬の拡大です(関連記事1および関連記事2および関連記事33)。インド・ヨーロッパ語族祖語は、コーカサスの古代語とポントス・カスピ海草原のウラル語族祖語の混合から生まれた、と仮定されています。したがって、コーカサスは過去と現在のユーラシアの遺伝的および文化的多様性の形成に重要な役割を果たしてきました。

 研究技術が進歩してより多くの標本が得られるにつれて、研究により、コーカサス人口集団の遺伝的変異と地理やさまざま民族性の指標との関連がさらに多く明らかにされてきました。コーカサスの常染色体ゲノムとミトコンドリアDNA(mtDNA)の変異は比較的均一に見えますが、Y染色体の多様性はコーカサスの東部と西部を区別する地理的不均一性を明確に示します。コーカサスにおけるこの東西の勾配は、ジョージア(グルジア)人を下位の民族集団に区別した場合、常染色体ゲノムの変異でも示されてきました。

 ゲノム規模の常染色体特性やミトコンドリアやY染色体のハプログループの研究から、現在のコーカサス南部では少なくとも13000年前頃となる上部旧石器時代後期にまでさかのぼる遺伝的連続性がある、と裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。コーカサス北部では、この連続性はユーラシア草原地帯の人口集団との青銅器時代後の混合のため崩壊しました(関連記事)。現在、コーカサスにおける民族/下位区分民族集団間の遺伝的差異は、ヒトの移動の景観浸透性と相関しています。これは、民族的もしくは言語的境界というよりもむしろ、地形の険しさや森林被覆や降雪により決定されます。

 以前の研究の仮説は、次のようなものでした。コーカサス現代人の遺伝的構成はいくつかの異なる氷期退避地からのヒトの拡散により最終氷期と初期完新世に形成され、その後、大コーカサス山脈の人口集団間の遺伝子流動は、歴史時代にかなりの混合を経てきたコーカサスの他地域の人口集団間よりも少なかった、というものでした。退避地人口集団からのヒトの移動の性質を理解することが、この仮説を提示した研究の背後にある主要な動機でした。

 本論文は、コーカサスの現代の人口集団と過去の狩猟採集民人口集団との間のゲノム規模の遺伝的類似性を測定し、これらの人口集団間の遺伝的類似性が地理的特徴により決定されるのかどうか検証し、退避地人口集団のコーカサスへの主要な拡散経路を推測します。この研究の結果により、最終氷期から初期完新世を通じてのコーカサスの移住の全体像の再構築が可能となります。


●標本抽出と遺伝子型決定

 コーカサスの地理的および言語的に異なる集団の男性77人(表1)から標本抽出されました(図1)。その内訳は、ジョージアとトルコのカルトヴェリ語族話者、ロシア連邦との北西コーカサス語族話者とテュルク語族話者、ジョージア南部のジャヴァヘティ(Javakheti)州のアルメニア語話者で、アルメニア語話者は19世紀初期にトルコ東部のムシュ(Mush)とエルズルム(Erzurum)から逃れてきた人々の子孫です。各人口集団の遺伝的識別特性の代表制を最大化するため、標本は過去3世代にわたって各民族・地理的人口集団の外部からの祖先がいない地元の人々から収集されました。DNA標本は、常染色体693719ヶ所とX染色体17678ヶ所で遺伝子型決定されました。

 これらコーカサス現代人のゲノムデータに、既知のムブティ人10個体、上部旧石器時代から中石器時代の122個体のゲノムデータが組み合わされました。古代人の遺伝子型は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)もしくは氷期退避地内に由来する個体が選択されました。古代人標本群は2000年間隔で区分され、次に地理単位でまとめられました(表2)。以下は本論文の図1です。
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●分析結果

 標本抽出された中で12個体は3親等と4親等の関係にあると推測されましたが、残りは無関係でした。標本抽出された現代人はほぼゼロ水準の近親交配を示しました。コーカサスの現代の人口集団間の平均Fst(遺伝的距離)は0.00951で、最大値はジョージアのヘヴスレティ(Khevsureti)集団(KHEVS)とジョージアのメスケティ(Meskheti)集団(MSKH)との間の0.027です。カルトヴェリ語族話者のAJARとSMGとIMRとKRTとKAKH(表1)の間では有意な違いはありませんでした。残りの集団は、これらの集団および相互と有意に異なっていました。現代人のデータのADMIXTURE分析では、全てのK値にわたってKHEVSとTUSHを他のデータと区別しました。K=2はKに応じて増加する交差検証誤差が最小でした。ADMIXTUREプロットは、南西と南(LAZとMSKH)から北と北東(CHCHNとKHEVSとTUSH)への勾配を示唆しました。

 主成分分析の第1軸と第2軸はアナトリア半島北東部(カルトヴェリ語族話者のLaz共同体)からコーカサス北東部(BalkarとKarachayとChechen共同体)への明確な勾配を示しました。大コーカサス山脈の主要な尾根の南側の人口集団は、北部の人口集団間よりも相互に密接に関連しています。北部人口集団は2つの明確なクラスタを示しました。それは、カルトヴェリ語族話者の北東部クラスタ(KHEVSとTUSH)と、北東コーカサス語族およびテュルク語族話者(CHCHNとBLKとKRCH)です。

 古代の人口集団を主成分分析の最初の2軸に投影すると、類似の勾配が生成され、アナトリア半島とレヴァントの古代の人口集団は古代のシベリアおよびヨーロッパの人口集団の反対側に位置します。これらの勾配では、レヴァントおよびアナトリア半島の古代の人口集団とアナトリア半島北東部の現代の人口集団が一方の端に、シベリアとヨーロッパの古代の人口集団とコーカサス北部の現代の人口集団がもう一方の端に位置します。古代のコーカサス狩猟採集民は現代のカルトヴェリ語族話者のSVNとSMGの変異の範囲内に収まりました。古代のアナトリア半島人とレヴァント人は現代の南カルトヴェリ語族話者(MSKH)とアルメニア語話者(ARM)の変異内に収まります。古代のシベリア人とヨーロッパ人は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の人口集団(ChechensとBalkarsとKarachays)とより密接でした。

 一般的に、現代のコーカサスの人口集団は時空間的により密接なコーカサスの古代の人口集団と遺伝的により類似しており、この関係は現代の人口集団間の遺伝的違いをよく説明しました(図2および図3)。この類似性は、コーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の初期の氷期後の人口集団で最高でした。コーカサス古代人の祖先系統はカルトヴェリ語族話者集団において最高で、ジョージア西部のイメレティア人(Imeretians)集団(IMR)とスヴァン人(Svans)集団(SVN)とメグレリアン人(Megrelians)集団(SMG)で最高に達します。つまり、古代コーカサス狩猟採集民(CHG)と地理的に最も近い人口集団です。

 アナトリア祖先系統は、ジョージア南部のカルトヴェリ語族話者であるメスヘティ人(Meskhs)集団(MSKH)およびラズ人(Lazs)集団(LAZ)と、トルコ北東部のインド・ヨーロッパ語族話者のアルメニア人集団(ARM)で最高でした。バルカンおよびシベリア祖先系統は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の集団で最高に達します。つまり、ジョージア北東部のカルトヴェリ語族話者のトゥシェティ人(Tushs)集団(TUSH)と、ロシア連邦の北東コーカサス語族話者のチェチェン人(Chechens)集団(CHCHN)テュルク語族話者のバルカル人(Balkars)集団(BLK)です。以下は本論文の図2です。
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 コーカサス現代人と古代の人口集団との間のf3統計の遺伝的類似性は、最小コスト経路および最小コスト(LCD)の相互作用とこれら人口集団間の現在から過去への平均年代(BP)により最もよく説明されます。最良のモデルでLCDが示唆するのは、(1)ヒトの移動は地形の険しさ(TRI)により妨げられ、(2)ポスポラス・ダーダネルス海峡とイギリス海峡は障壁として機能せず、(3)沼地や氷河や砂漠は完全な障壁ではなかったものの、コスト節点の最高コストで浸透性があり、(4)砂漠の川辺と河川はTRI値で浸透性がある、ということです。つまり、コスト節点は、表3で特定された地理的特徴(2・4・6・8・10・12・14)の組み合わせでした。遺伝的類似性は一般的に、BPとLCDの減少につれて増加しました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 このコスト節点により生成されたLCD.Dは、f4統計に基づく遺伝的類似性との最高の一致度を示しました(図4)。F3統計とLCDとの間、およびf3統計とBPとの間には全体的に負の相関がありました。f3統計とLCDとの間の部分相関は−0.297でした。LCDと遺伝的類似性との間の相関は、15950~5950年前頃の期間ではひじょうに有意でした。25950~17950年前頃となる氷期極大期には相関が低下しました。さらにさかのぼる25950年以上前には、ほとんどの場合で相関は有意ではありませんでした。以下は本論文の図4です。
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 本論文のモデルは、15950~13950年前頃と39950~37950年前頃となる古代の人口集団への遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を示します(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950~13950年前頃の標本群とよりも同期間のアペニン山脈標本群(図1)の方と多くの遺伝的類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950~13950年前頃の標本群とよりも、同期間のアナトリア半島標本群の方と多くの遺伝的類似性を有ます。本論文のコーカサス現代人標本は、最小コスト距離がより近いバルカン半島の39950~37950年前頃の個体よりもアジア東部の古代人個体の方とより多くの類似性を示しました。

 本論文のモデルは、ユーラシアとアフリカの古代の人口集団から現代のコーカサスの人口集団への最小コスト経路を生成しました(図5)。ヨーロッパとシベリアとアジア東部の古代の人口集団からの全ての最小コスト経路は、ヨーロッパ東部平原とカスピ海北西部沿岸とムツクヴァリ(Mtkvari)川(クラ川)の氾濫原を経て大コーカサス山脈の南側の人口集団に到達しました。大コーカサス山脈の南側の全ての古代の人口集団は、カスピ海西部沿岸もしくはボスポラス・ダーダネルス海峡とヨーロッパ東部平原を経て大コーカサス山脈の北側の人口集団に到達しました。

 アナトリア半島の古代の人口集団からコーカサスの人口集団のカスピ海流域への最小コスト経路は、ボスポラス・ダーダネルス海峡を横断し、ヨーロッパ東部平原とカスピ海西部沿岸とムツクヴァリ川の氾濫原を通りました。アフリカとレヴァントとアナトリア半島とイランのアルボルズ(Alborz)州からの最小コスト経路は、ポントス山脈を横断するか、アラス(Araxes)川およびムツクヴァリ川の氾濫原を通ってコーカサス南部に達しました。アフリカからの最小コスト経路は、コーカサスに到達する前にレヴァントに収束しました。以下は本論文の図5です。
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 Fstは、f3およびf4統計の最良の説明となる同じ地理的特徴に由来するLCDと最も強い相関がありました。Fstに基づく近隣結合樹は、(1)ジョージア西部とトルコ北東部のカルトヴェリ語族話者人口集団、(2)ジョージア南部とトルコ東部のカルトヴェリ語族話者およびアルメニア語話者、(3)コーカサス北部の北東コーカサス語族話者およびテュルク語族話者、(4)他とは遺伝的に最も異なる大コーカサス山脈北東部のカルトヴェリ語族話者でそれぞれ一まとまりとなります。

 ジョージア中央部(KRT)と東部(KAKH)の標本抽出されたカルトヴェリ語族話者人口集団は、最も混合していました。追加のマンテル検定では、Fstが古代の4人口集団(アナトリア半島とバルカン半島とコーカサスとシベリア)からの寄与における違いと有意に相関していた、と示されました。これら古代の人口集団からの寄与の違いは、LCDとも有意に相関していました。LCDを制御した部分的マンテル検定では、Fstと古代の寄与との間の相関は有意ではありませんでした。古代の寄与の制御では、FstとLCDの相関は有意に減少しました。マンテル検定では、LCDと古代の祖先系統がコーカサスにおける現代の遺伝的変異のほとんどを説明する、と示唆されました。


●考察

 本論文の結果は、コーカサスの現代の人口集団がコーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の狩猟採集民からの検出可能な祖先系統を有している、と示唆します。コーカサス狩猟採集民(CHG)は現代のコーカサスの人口集団にとって主要な遺伝的寄与者です。CHGのアレル(対立遺伝子)の割合は、ジョージア西部の遺跡群と近接した地域の現代の人口集団で最高となり、そこではCHGの遺骸が発見されていて(関連記事)、この地域から離れると徐々に減少し、アナトリア半島およびヨーロッパの古代人のアレルにほとんどが置換されます。これらの遺跡はコルシック(Colchic)退避地内にあり、そこではコーカサスにおいてLGMを含む一連の氷期極大期をヒトが生き延びました。本論文のモデルは、氷期後の早期に他地域からコーカサスへの狩猟採集民の移住が増加した、と示します。

 アナトリア半島古代人のアレルはジョージア南部およびトルコ東部の現代人、つまりジョージアのメスケティ(Meskheti)州のジョージア人とラズ人とアルメニア人のゲノムで最も高い頻度となりますが、ヨーロッパもしくはバルカン半島の古代人のアレルは、コーカサス北部の現代の人口集団において最も一般的で、ヨーロッパの狩猟採集民が小アジアというよりもむしろヨーロッパ東部平原を横断してコーカサスに移住した、と示唆します。注目すべきことに、レヴァントのナトゥーフ文化(Natufian)とアトラス山脈(アフリカ北西部)の古代人のゲノムは、アナトリア半島古代人のように同じ現代の人口集団と最も高いアレル共有を示しており、古代アナトリア半島人口集団がコーカサスに拡大する前に、これらの人口集団間で何らかの混合があったことを示唆します。本論文の主成分分析投影におけるコーカサスの古代人および現代人の遺伝的勾配の類似性は、上部旧石器時代後期から現代までの遺伝的連続性を改めて確証します(関連記事)。本論文はこの現象の理由を明確に説明します。

 コーカサスの現代の共同体における古代のさまざまな人口集団(移住源)の痕跡は、(1)拡散の物理的障壁により重みづけされた地理的距離、および(2)古代の人口集団の年代とともに減少します。この兆候は、現代の人口集団間を個々の古代の人口集団との類似性により区別するのに充分な強さです。本論文の分析から示唆されるのは、上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民の退避地人口集団の拡大は、起伏の多い地形や沼地や氷河や砂漠により大きく妨げられ、コーカサス現代人におけるこれら狩猟採集民の遺伝的遺産は、退避地の人口集団間の景観浸透性によりよく説明される、というものです。古代の遺伝的痕跡と景観浸透性との間の関係は、退避地人口集団が時間的にコーカサス現代人とより近ければより強くなり、特定の祖先的地域と関連する遺伝的痕跡が、遺伝的浮動とその後の混合事象の結果として消えていく、と示唆されます。

 本論文のモデルはひじょうに高い性能を示しましたが、15950~13950年前頃と39950~37950年前頃の古代の人口集団では、遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を説明できませんでした(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、地理的により近い15950~13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアペニン山脈標本の方と多くの類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、地理的により近い15950~13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアナトリア半島標本の方と多くの類似性を有しています。これはおそらく、氷期後初期のアナトリア半島狩猟採集民とコーカサスおよびヨーロッパの狩猟採集民との混合、およびこの時期のアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民とヨーロッパ狩猟採集民との混合に起因します。

 これらの混合事象が本論文の景観浸透性と組み合わされた結果、コーカサス狩猟採集民の遺伝的痕跡を有するアナトリア半島古代人が、ヨーロッパ中央部狩猟採集民に対してよりも、ポスポラス・ダーダネルス海峡およびバルカン半島を通ってアペニン山脈の狩猟採集民へと多くの遺伝的影響を与えた一方で、ヨーロッパ中央部狩猟採集民はユーラシア草原地帯を通じてアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民からより多くの遺伝的影響を受けた、と示唆されます。これら東方から西方への混合事象は、技術的発展もしくは自然選択を通じての利点(たとえば、致命的な感染症への耐性)を通じて促進されたかもしれず、現代の人口集団の本論文の標本を、ヨーロッパ中央部の古代の人口集団よりもアナトリア半島とアペニン山脈の古代の人口集団の方とより密接に関連させます。

 39950~37950年前頃となる古代の人口集団の本論文の標本は、バルカン半島とアジア東部の単一個体によりそれぞれ代表されます。コーカサス現代人の本論文の標本が、地理的により近いバルカン半島の39950~37950年前頃の1個体とよりも、同じ年代のアジア東部の1個体の方とより多くの類似性を示すことは、二つの想定により説明できます。一方は、このバルカン半島の個体がどこかから移動してきて、あらゆる現代の人口集団に遺伝的に寄与しなかった、と示される場合です。もう一方は、現生人類がヨーロッパに45000年前頃に到来した時とLGMとの間で、気候が最も穏やかだった39950~37950年前頃に、ユーラシア東西間でより多くの遺伝子流動があり得た場合です。

 この遺伝子流動は、バルカン半島のこの1個体が旧石器時代および中石器時代のヨーロッパ人よりもアジア東部人の方と密接に関連している、という事実により支持されますが(関連記事)、ロシア西部の同年代の1個体は、アジア東部人よりも後のヨーロッパ人の方と密接に関連しています(関連記事)。氷期極大期には、起源となる人口集団はひじょうに断片化され、相互の遺伝子流動はなかったか限定的で、氷期退避地で生き延び、そこから人口集団が温和な気候期に拡大し、過酷な気候期には縮小して戻りました。したがって、本論文のモデルは、もし古代の人口集団間でその人口集団内よりも多くの遺伝的非類似性があるならば、コーカサス現代人における古代の人口集団の遺伝的遺産をよりよく説明します。

 現在でさえ、コーカサスの現代の人口集団間の遺伝的類似性(Fst)は、これらの人口集団間の接続地間の最小コスト距離と有意に相関しており、限定的な標本および遺伝的指標に基づく以前の研究と一致します。現代の人口集団間の遺伝的類似性は、同じ地理的特徴により重みづけられた最小コスト距離に最も強く対応しており、その地理的特徴は、古代と現代の人口集団間の遺伝的類似性を最もよく説明します。しかし、過去のメタ集団間の状況を考慮しなければ、現代の人口集団間の景観浸透性でコーカサスの現在の遺伝的構造の変異のかなりの部分を説明することはできません。

 大コーカサス山脈および小コーカサス山脈とポントス山脈の両方は、コーカサスを通っての推定されるヒトの移動をかなり妨げた、と示唆されます。大コーカサス山脈はヒトの移動にとって大きな障壁をもたらし、遺伝的多様性の南北の勾配と一致します。遺伝的分化は大コーカサス山脈の主要な尾根の南北の人口集団間で最も強く、大コーカサス山脈が最終氷期以降ヒトの拡散にとって重要な物理的障壁だったことを再度示唆します。しかし、大コーカサス山脈の同じ側の人口集団間の顕著な違いもあり、不均一な景観を通って入ってくる移民への異なる接触を示唆します。

 カスピ海の西側は、黒海の東側よりもヒトの移動にとってより浸透性があったようです。ヨーロッパとシベリアとアジア東部からの最小コスト経路のどれも、黒海の東側を通りませんでした。黒海の東側は、北は大コーカサス山脈、南は小コーカサス山脈とポントス山脈に囲まれていますが、カスピ海の西側はほとんど開けています。コーカサスの東端と西端との間の違いが、コーカサスにおけるY染色体と常染色体ゲノムの変異の東西の勾配を説明します。

 本論文では、コーカサスの他の民族集団の標本が対象とされておらず、もしそれらの民族から標本が得られていたならば、コーカサスの遺伝的構造についてより多くの情報が得られたはずです。しかし、得られた標本は本論文の仮説の検証には充分でした。これまでの研究は、現在の多くの共同体における古代の人口集団のゲノム規模の祖先系統を測定してきました。しかし、本論文が把握している限りでは、さまざまな地理的特徴の機能としての景観浸透性への現代と古代の人口集団間のゲノム規模遺伝的類似性の関係を推定し、退避地人口集団からの主要な拡散経路を推測したのは、本論文が初めてです。本論文のモデルは、コーカサスだけではなく他の地域との関連においても、先史時代の事象の拡散と移住の経路の年代を定めて地図を作成することに役立てます。異なる遺伝的痕跡の古代の供給源からの重みづけされた地理的距離と、この供給源との遺伝的類似性との間に有意な負の相関があることは、特定の経路で特定の年代に移住したことの証拠とみなせます。


参考文献:
Gavashelishvili A. et al.(2021): Landscape genetics and the genetic legacy of Upper Paleolithic and Mesolithic hunter-gatherers in the modern Caucasus. Scientific Reports, 11, 17985.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-97519-6

中川和哉「朝鮮半島南部の石器群から見た日本の前・中期旧石器」

 2000年11月5日に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)は、考古学のみならず日本社会に大きな衝撃をもたらしました。捏造石器と日本列島に隣接する地域の後期旧石器以前の石器群との明らかな違いにも関わらず、明確に古い地層から出土する石器を根拠に、日本列島には極東地域とは変容した文化がある、と考えられました。問題を複雑にしたのは、放射性炭素年代測定では5万年前頃までしか計測できず、前期石器時代はもちろん中期旧石器時代もそのほとんどが適用範囲外となることです。極東の遺跡では光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代に依拠することが多く、その年代値が極端な場合もあることから、石器群の年代決定は困難でした。

 韓国では1978 年の全谷里遺跡におけるハンドアックス(握斧)の発見以後、後期旧石器時代より古いと考えられる石器群が相次いで発見されて調査されました。その年代については、石器の持つ稚拙な加工やアシューリアン(Acheulian)に類似した形態から、70 万年前以前の石器群であるという見解や、理化学的な年代測定結果から4 万年以降とする説などがありました。全谷里遺跡などの発掘調査に携わっていた裵基同氏は、遺跡に共通してみられる地層の濃淡が過去の気候変動と連動しており、地層で編年できる、と主張しました。

 韓国の地層にみられる周期的な色調変化は、中国の黄土高原で顕著に認められるレス-古土壌連続であると考えた松藤和人氏たちは、2001 年からの日中韓の共同研究において年代測定や火山灰分析、地形学などの手法を駆使し、韓国に見られる周期的な土層変化がレス-古土壌堆積物であり、海洋酸素同位体ステージ(MIS)に対応すると位置づけました。レス-古土壌編年研究の結果、アシューリアン類似のハンドアックスや石球やチョッパーやチョッピングツールといった重厚な石器は、MIS5aの8万年前頃まで存続している、と明らかになりました。また、こうした石器群には小型の石器が伴い、その数は重厚な石器に比べて多い傾向にあります。小型石器にはノッチやベックや錐や鋸歯縁などがあります。MIS4の石器群の詳細は、明確な出土石器が少ないため分かりませんが、4万年前前後にはスヤンゲ遺跡第VI地点4文化層や龍湖洞遺跡3文化層に見られるように、石刃技法により作られた剥片尖頭器石器群が出現します。

 剥片尖頭器石器群以前のMIS3前半期の石器群は、層位関係においては不明ですが、坪倉里遺跡や新華里遺跡のように、MIS3の地層から剥片尖頭器石器群とは異なる石器群が出土しています。剥片尖頭器石器群がMIS2まで存続することを考えると、剥片尖頭器石器群以前の石器群と想定できます。両遺跡では石材環境を反映し、坪倉里遺跡では石英類、新華里遺跡1・2文化層ではフォルンフェルスが用いられています。坪倉里遺跡では、小型の石核から剥片を剥がし、掻器やノッチなどが製作されました。新華里遺跡では、大型剥片や大型石刃とともに、掻器やベックや削器などが出土しています。両者にはMIS5以前には少なかった掻器が特徴的に含まれており、刃部が弧状を呈しているなどの共通点が認められます。

 日本列島のMIS3前半期とされる遺跡として挙げられるのが熊本県沈目遺跡で、鋸歯縁状の加工などの共通点もありますが、大型石刃や、小型の石核からある程度打面を固定して剥片を取る技術、弧状の刃部を持つ掻器がないなど現状では、積極的な共通点は見いだせません。ただ、韓国側の資料が多くはなく、将来的に再検討する可能性もあります。MIS5の資料としては、島根県砂原遺跡や長崎県入口遺跡があります。いずれの遺跡もアシューリアン類似の大型の礫器を含まない石器群です。韓国のアシューリアン類似の石器は、全谷里遺跡で見られるように石英質の石材が多く用いられますが、江原道錦山里葛洞遺跡や日本海沿岸部の遺跡では、堆積岩や火山岩も用いられており、石材環境が変化しても同じ形の石器が作られています。鋸歯縁状の加工は共通していますが、簡素な形態なので、詳細な研究により対比が可能になると考えられます。

 前・中期旧石器時代の遺跡を見つける作業は、これからも必要とされます。一方、百数十万年前にアフリカを出たホモ・エレクトス(Homo erectus)は、その保有していた石器構成をほとんど変えずに極東アジアに至り、数十万年間その形態を変えませんでした。ホモ・エレクトスの末裔が日本列島に到来してアシューリアン類似の石器をすべて捨て去り生活様式を変えたとするのは、現状を解釈する上で一つの方法ですが、なぜ日本列島でだけ変容したのかについては、疑問が残ります。朝鮮半島の資料から見れば、これまで日本列島で出土している石器群は類似していないようです。


参考文献:
中川和哉(2020)「朝鮮半島南部の石器群から見た日本の前・中期旧石器」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P44-45

大河ドラマ『青天を衝け』第26回「篤太夫、再会する」

 元号はすでに明治となっていますが、幕末の最終段階で日本におらず、国内の政治体制の激変に戸惑っていた栄一(篤太夫)が家族・親族・郷里の人々や慶喜と再会し、今回で幕末編が終了となり次回から明治編になる、といった区切りをはっきりと感じさせる構成だったように思います。帰郷した栄一は、政治体制が激変するなかで、故郷が変わっていないように見えることに安堵します。確かに、明治になってすぐに全国一律に近代化が急速に進展したわけではなく、明治編ではそうした側面も描かれるのではないか、と期待しています。

 注目は栄一と慶喜との再会で、これまで鳥羽伏見の戦いから謹慎までの心境がほとんど描かれていなかったため、栄一と会って慶喜がどう語るのか、気になっていましたが、栄一に鳥羽伏見の戦い以降の行動を問いただされた慶喜は、すでに過ぎたことと言って答えませんでした。あるいは今後、明治時代に慶喜が栄一に鳥羽伏見の戦い以降の心境をわずかながらでも語ることはあるのでしょうか。栄一と慶喜との関係は慶喜の最期まで続くので、明治になっての栄一の活躍とともに、今後の二人の関係の描写も注目されます。

中期更新世の火の使用と人類集団間の文化的拡散

 中期更新世の火の使用の時空間的パターンから当時の人類集団間の関係を検証した研究(MacDonald et al., 2021)が公表されました。維持と火熾しの強化を含めた火との相互作用は、一般的に人類の文化的進化の中で最重要過程と考えられています。火は捕食者と寒さから人類を保護し、利用可能な食料の範囲と、調理を通じて食料から得られるエネルギー量の範囲を拡大し、物質の操作を可能とし、1日(活動時間)の長さを拡大し、社会的相互作用の性質に影響を与えました。火は人類に生息地の生産性を高める手段を与え、自然の景観は経時的に大きく変わりました。火は、人類が使用するさいに燃料を集めて中心部に運ぶ必要があり、集団内の協力が必要なので、負担がかかりました。

 火の技術が有したに違いない影響を考えると、火の使用の起源と発展の理解は、本論文で議論される文化的行動の重要性を含む経時的な人類種の生態的地位の発展に関する理解と関連しています。じっさい本論文は、その期間を(相対的な)40万~30万年前頃の時間枠に絞り込み、きょくたんに広範な地理的地域にまたがっている恒常的な火の使用の出現に関する証拠の蓄積は、火の使用と関連する技術の文化的拡散により最もよく説明できる、と仮定します。事実、火の記録は人類進化における文化的拡散の出現の最初の明確な証拠を提供する可能性があり、現生人類(Homo sapiens)の文化的行動の特有の特徴はこの時点で整っていた、と示唆されます。

 現在、現生人類にとって文化的行動の重要性は明らかです。現代人は日常的に自身では発明できない技術を使い、現代人の文化は複雑な技術から言語や貨幣や記号数学まで、独特な物質的および象徴的人工物を生み出しています。文化的行動はヒトの進化の性質を変え、文化的行動が家族以外の構成員間の大規模な協力と認知の側面の進化に役割を果たした、と主張する人もいます。中には、文化的行動で現生人類のほぼ世界規模の拡散と成功を説明する人もいます。しかし、現代人に存在する文化的行動の重要な特徴がいつ出現したのか不明で、一部の特徴は他のものよりも早く出現した可能性があります。これらの特徴には、そのしばしば適応的もしくは固有の価値、多くの種に存在する地域的伝統、非ヒト動物には稀な要素の蓄積、もしくは「ラチェット(歯止め)」が含まれ、長距離にわたって、社会的に学習された構造の急速な拡大も含まれているかもしれません。

 文化的伝播は、文化的行動の要素(着想や行動や人工物)が拡大できるいくつかの過程の一つです。文化的伝播は、社会的学習を通じて文化的特徴をある個体から他の個体に伝える過程を指します。文化的伝播はいくつかのパターンを生み出す可能性があり、地元の伝統、累積的文化、本論文の焦点である文化的特徴の広範な分布です。本論文は、「文化的拡散」という用語を使って、ある人口集団から次の人口集団への、文化的伝達の過程を通じての文化的特徴の拡大を説明します。

 文化的特徴の拡散に関する研究は、主要な革新に焦点を当ててきました。革新の拡散に関する古典的研究は、農耕や狩猟や土器や建築技術や建築様式の採用を扱っています。革新や他の文化的特徴の地理的に広範な分布や、それがさまざまな人口集団や社会に存在することは、文化的拡散が原因かもしれません。他の生物種では、広範な行動は一般的に、遺伝的進化の過程で説明されます。大規模な文化的拡散は現生人類の重要で独特な特徴であり、本論文は考古学的記録にその最初の出現がある可能性を調べます。


●火の使用の時空間的パターン

 初期の火の使用の記録に関する完全な再調査は本論文の範囲を超えています。本論文の目的は、40万年前頃前後の記録間の対比に焦点を当ててパターンを報告し、説明を提案し、議論とさらなる研究を促すことです。火の痕跡を人為的と識別することは簡単ではないので、時空間的な初期の火の使用の発展を追跡することは困難と証明されています。この一因は、火の周りの構造物には滅多に労力を費やさない、遊動的な狩猟採集民の広く分布した一時的な性質です。したがって、狩猟採集民の火の一般的な代理指標は熱に曝された物質から構成され、炭や加熱処理された石器や炭化した骨や燃えた場所の熱変性堆積物が含まれます。開地では、これら脆弱な痕跡の多くは自然の過程により簡単に除去されますが、自然の火からは人為的な火の痕跡に似ている広範な代理指標が生成され得ます。

 これらの問題に対処するため、新たな分析方法が開発されてきており、木材や骨やさまざまな種類の人工物や火の下の堆積物の加熱効果を検証する、実験的研究が行なわれています。そうした手法はまだ広く適用されていないので、火の使用の以前の事例はまだ検出されていなかった、と推測できます。しかし、考古学的記録の証拠の制約にも関わらず、以前の研究ではヨーロッパにおける明確なパターンが特定されました。考古学的記録からは、人為的な火の使用が中期更新世の前半にはひじょうに稀か存在しなかった、と示唆されます。これは、わずかに散らばった炭の粒子を除いて、深く層序化された考古学的なカルスト系列における人為的な火の使用の代理指標の欠如により示されます。具体的な遺跡として、スペインのアタプエルカ(Atapuerca)遺跡複合や、フランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l’Arago)や、イギリスのボックスグローヴ(Boxgrove)開地遺跡があります。対照的に、40万年前頃以降の記録は、主要な考古学的系列文脈内における複数の火の使用の代理指標(たとえば、炭や加熱された石器や炭化した骨や熱変性した堆積物)を伴う遺跡の増加により特徴づけられます。

 その後の研究では、ヨーロッパを超えてこのパターンが強化され、40万年前頃以降の火の使用の存在が特定されました。たとえば、ポルトガルのアロエイラ洞窟(Gruta da Aroeira)遺跡(関連記事)では、加熱された骨の形での火の使用の代理指標が40万年前頃の層で現れ始めます。スペインのボロモール洞窟(Bolomor Cave)では、加熱された物質と関連する14ヶ所の炉床が、35万~10万年前頃の複数の層で発掘されました。火の使用の代理指標は、開地遺跡や岩陰遺跡にも存在し、24万~17万年前頃となるフランスのビアシュ・サン・ヴァ(Biache-Saint-Vaast)のように、そうした火の使用の証拠が繰り返し何度も長期にわたって繰り返される開地遺跡もあります。火は洞窟深部に入るため(関連記事)や樹脂の生産や調理などの過程に用いられ、後期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に関して報告されていますが、それ以前にも関連していたかもしれません。

 重要なのは、レヴァントについて、習慣的な火の使用の出現が35万~32万年前頃と推定されていることです。この年代は、イスラエルのタブン洞窟(Tabun Cave)のよく年代測定された系列や、レヴァントの他の広範な遺跡群からの証拠の再調査に基づいています。イスラエルのケセム洞窟(Qesem Cave)では、40万~20万年前頃となる人類の使用期間を通じて広範囲の燃焼の証拠に加えて、ひじょうに巨大で繰り返し用いられた中央の炉床が見つかり、その年代は30万年前頃です。アジア西部を越えて東方となると、これまでのところ中期更新世における火の使用の証拠はひじょうに限定的です。中国の周口店(Zhoukoudian)遺跡では火の使用の証拠が推定されていますが、活発な議論となっており、最近の研究では人為的な火の痕跡を特定されたものの、その痕跡が見つかった層の推定年代は年代測定技術により50万~25万年前頃と大きく異なります。これは、ユーラシア西部における火の使用の出現と同じ期間です。

 このパターンはユーラシアに限定されません。モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡では30万年前頃の明確な火の兆候が見られ、人為的な火の使用の豊富な証拠があり、加熱された石器や動物遺骸が含まれます(関連記事)。ジェベルイルード遺跡の証拠は、アフリカの中期石器時代の他の証拠とひじょうによく一致します。中期石器時代は35万~35000年前頃となり、大まかにはユーラシア西部の中部旧石器時代と同年代です。さまざまな種類の火の証拠のを再調査した以前の研究では、火の技術はサハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代初期にはひじょうに重要だった、と示唆されていますが、遺跡の数は少なく、南アフリカ共和国の洞窟遺跡群がおもで、南アフリカ共和国における野外調査の量を反映しています。南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)では、炉床と灰の層が23万年前頃から紀元後1000年頃までの複数の層で発掘されてきました(関連記事)。火は、石材の特性変更(関連記事)や洗浄やおそらくは害虫駆除(関連記事)やデンプン質の根茎の調理(関連記事)に用いられました。

 40万年前頃以降、そうした顕著で地理的に広範に分布した恒常的な火の使用のパターンがあることは、人類が40万年以上前には火を使用しなかったかもしれない、と示唆するわけではありません。じっさい、人為的な火の痕跡はスペインとイスラエルでは80万年前頃、南アフリカ共和国では100万年前頃(関連記事)、アフリカ東部ではさらに古くなるかもしれない、と示唆されています。さらに、解剖学的変化についての古人類学的証拠に基づいて、火は最初にホモ・エレクトス(Homo erectus)により180万年前頃に使用された(調理仮説)、とも主張されています(関連記事)。

 しかし、40万年以上前となる人為的と評価される火の使用の痕跡のほとんどは議論となっています。たとえば、ケニアのクービフォラ(Koobi Fora)地域のFxJj20遺跡の150万年前頃となる堆積物の赤くなった区画の起源は、最初の報告から現在まで40年間議論されてきました。40万年以上前の証拠の詳細な再調査は本論文の範囲を超えていますが、いくつかの特徴的な景観からの記録は、初期の火の記録の孤立した問題のある性質を示しています。その好例が南アフリカ共和国のワンダーワーク洞窟(Wonderwerk Cave)で、クルマン丘(Kuruman Hills)の東斜面に位置しています。ワンダーワーク洞窟で回収された100万年前頃の加熱された物質が、じっさいに人為的な火の結果ならば、クルマン丘の西斜面で回収されたほぼ同年代の何百万もの石器の中で、加熱された石器が見買っていないのは驚くべきことです。以前の研究では、この状況が、調理仮説で推測されるようなこの期間における火の重要な役割と一致させることは困難である、と指摘されています。

 別の興味深いの火の兆候は、エチオピア北部高地のアワシュ川上流渓谷の海抜約2000mに位置する、メルカクンチュレ(Melka Kunturé)開地遺跡複合に由来します。メルカクンチュレ遺跡は、170万年前頃から後期石器時代までのひじょうに長期にわたる、高地環境への人類の適応を記録しています。更新世において、これらの高地では深刻な寒冷期があり、ゴンボレII(Gombore II)遺跡の85万~70万年前頃の居住の兆候で示唆されるように、おそらくは継続的な人類の存在には寒すぎました。後期アシューリアン(Acheulian)遺跡であるガルバ1(Garba 1)の加熱された可能性がある1点の礫器を除いて、空間的に広範なメルカクンチュレ複合全体では、後期石器時代まで火の使用の存在の証拠はありません。

 40万年以上前となる恒常的な火の使用の確たる証拠の欠如を注意深く解釈する必要がありますが、火の代理指標と関わる化石生成論的問題と、一般的に初期の遺跡群の時空間的な標本抽出の限界を考えると、各地域の複数の遺跡における複数の代理指標により記録され、遺跡内で繰り返し使用されるという、40万年前頃以降に観察されたものと同様のパターンを実証するものはありません。アフリカとユーラシアにおける初期の火の使用についての現在のデータは、200万年前頃のユーラシアへの初期人類の拡散が考古学的に視覚化された火の使用のあらゆる種類と関連していなかったことを示しているだけではなく、人類の技術一覧の恒常的な構成要素としての火の使用がずっと後の現象で、中期更新世後半であることを示唆します。

 その頃、アフリカとユーラシアには多様な人類集団(亜集団)が存在しており、具体的には、アフリカの現生人類やホモ・ナレディ(Homo naledi)、ユーラシア西部のネアンデルタール人、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、さらに東方のホモ・エレクトス(Homo erectus)集団です、その多くは相互作用し、より広範な人類のメタ集団(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群)の近隣亜集団と遺伝子を繰り返し交換していました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。


●火の使用の文化的拡散?

 考古学的記録から浮かび上がる火の兆候の顕著な特徴は、広範な地域にわたって、(地質学的に)同じ期間に、さまざまな人類亜集団で、火の使用の証拠が強く増加していることです。本論文は、これが考古学的記録に示されるヒト進化における広範な文化的拡散の最初の明確な事例を表している、と提案します。文化的拡散は先史時代において、技能や技術の革新の急速な拡大に重要な役割を果たしました。上述のように、本論文はこれを現代人の文化のいくつかの区別される特徴の一つとみなしており、その中には累積的な文化発展や地域的伝統の存在も含まれます。

 本論文の仮説が示唆するのは、知識と技術が人類の社会的ネットワークを介して伝播され、「旧世界」の主要地域に居住するより広範な亜集団内で相互作用していた、というものです。本論文は以下で、観察されたパターンに対する代替的な説明に反論し、文化的拡散仮説を裏づける証拠について議論します。また本論文は、火の記録とは別でやや新しい、中期更新世後半における文化的拡散の解釈をより強く裏づける考古学的データ、とくに特定の石器製作技術、つまりルヴァロワ(Levallois)技術の考古学的記録を示します。本論文は最後に、これを考古学的記録により証明された広範な文化的拡散の最初の明確な事例として解釈する理由を説明します。


●独立した革新や遺伝的もしくは人口的な説明に対する反論

 考古学的記録における革新出現の時空間的パターンは、革新がどのように広範に分布するようになったのか、特定することと関連する証拠を提供します。つまり、独立した革新や人口過程や文化的拡散や遺伝的過程を通じて、ということです。恒常的な火の使用が比較的急速に「旧世界」全域においてさまざまな人類亜集団で出現したという事実から、火の使用は、繰り返し独立して発明されたというよりも、起源の一地点から拡散もしくは拡大した、と強く示唆されます。

 追加の証拠は環境データから得られます。火の使用が収斂進化の産物ならば、環境圧と相関すると予測されます。したがって、この想定では、人類の亜集団がその環境で同様の課題に対応して、さまざまな場所で類似の技術を開発した、と提案できます。こうした想定では、地理的領域全体の地域環境に同等の影響を有する変化、そのうち最も可能性が高い気候の地球規模の変化と対応するか、それに続く火の記録の変化が予測されます。また、火の使用の出現と消滅は、人類がこうした変化への適応を示すまで環境条件に依存していた、とも予測されます。火の使用にはいくつかの利点があり、それはとくに、より寒冷な条件で有利だったかもしれません。同時に、火の使用の労力は、とくに燃料の収集に関して、開けた条件ではより高いと考えられます。

 人類による火の使用の増加に関して、二つの環境仮説があり得ます。一方は、必要性によって促進されたより寒冷な条件下で、もう一方は労力がより低い森林性の条件下です。50万年前頃までに、更新世後半の特徴的な氷期と間氷期の10万年周期がしっかりと確立され、世界規模の大規模な氷床と関連しています。このパターンは、125万~70万年前頃となる中期更新世移行期の後には優勢となり、生物相と景観に大きな影響を与え、火の記録における顕著な変化の30万年前頃には完了しました。海洋酸素同位体ステージ(MIS)12のひじょうに深刻な氷期は、世界規模の寒冷化および乾燥化の状態と関連しており、火の記録が発見される前に終わりました。40万~30万年前頃で回収された火の確実な証拠がある遺跡群は、寒冷条件および温暖条件の両方と関連しています。さらに、更新世全体で比較的森林性の期間が繰り返されました。したがって、環境変化は火の使用の収斂進化の想定と一致していないようです。

 さらに、火の使用の時空間的パターンから、その根底にある過程について窺えます。一般的に、広範な地域での新技術の拡散は、遺伝的か人口的か文化的観点、もしくはそれらの組み合わせで説明されます。これらのうち、他の事情が同じならば(亜集団全体もしくは種全体)、遺伝的拡散が最も遅い過程で、人口的拡散はそれよりも幾分速く、文化的拡散は新規の行動の最速の拡大につながります。遺伝的拡散では、(行動を含む)遺伝的特性が自然選択もしくは浮動の結果として集団(亜集団)内でより高頻度となります。亜集団の規模や選択圧の強さによりますが、この過程にかかる時間は最小で数世代です。この特性が遺伝的に複数の亜集団で拡散する場合、恒常的な火の使用が多くの亜集団にまたがったことを想起すると、さらに多くの世代が必要です。行動の急速で遺伝的な拡大は、局所的集団内、もしくは遺伝的拡散が強い人口拡散の過程を伴う場合にのみ実現可能です。

 人口拡散では、人口統計学的および範囲の拡大、亜集団の融合、他の集団による局所的集団の置換により、特性の拡散が促進されます。こうした人口統計学的および移動の過程は、世代ではなく数十年の時間規模で起きる可能性があります。文化的拡散はさらに短い時間枠(数十年単位ではなく年単位)で機能する可能性があります。その場合、行動特性の伝達は文化的学習、つまり他者の観察もしくは他者に教えられることによる特性の学習により推進されます。個体群もしくは亜集団間の接触が友好的で充分な頻度がある限り、行動特性は1年でも長距離を移動することが可能です。

 文化的および人口的拡散過程は、原則として考古学的記録から計算された拡散率に基づいて区別できますが、年代測定手法の制約のため、旧石器時代についてはひじょうに困難です。中期更新世の放射性年代測定と関連する大きな誤差により、人口的拡散と文化的拡散との間を定量的に区別することはできません。しかし定性的には、本論文の観察現象は比較的小さな時間枠と広範に拡散した地域における火の使用の出現を含んでおり、急速な過程を示唆します。さらに、遺伝的および化石証拠は、遺伝的および人口的拡散の観点における説明を弱化させます。

 化石証拠は、火の恒常的使用前の、50万~40万年前頃となるネアンデルタール人と現生人類の集団分岐の仮説を裏付けますが、遺伝学的研究が示唆するのは、そのずっと前の分岐で、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人の最終共通祖先が765000~55万年前頃と推定します(関連記事)。歯の進化に関する最近研究では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人の最終共通祖先の年代は80万年以上前と推定されています(関連記事)。これらの推定年代と一致して、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の化石集団の遺伝的研究から、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐は43万年以上前と示唆されています(関連記事)。これらの人類亜集団は遺伝的および系統発生的に火の恒常的使用が始まる前に分岐し、その頃にはさまざまな大陸に存在しました。複数の人類亜集団が存続し、火の使用の証拠を残したので、火の使用と関連する慣行が単一の拡散する人類亜集団により伝達された可能性は低そうです。さらに上述のように、「火の使用の遺伝子」がさまざまな人類集団で環境変化に応じて繰り返し進化した可能性は低そうです。


●文化的説明の議論

 次に、火の使用と関連する技術の文化的拡散の議論に戻ります。中期更新世人類はしばしば、「疎ら」であるとして特徴づけられ、中期更新世後半の人類の世界は、複数の亜集団と主要な地理的障壁を特徴としていました。しかし遺伝的証拠からは、集団が文化的拡散の発生には充分なほど相互に遭遇していた、と示唆されます。具体的には、最近の遺伝学的研究は、古代の現生人類からネアンデルタール人への30万~20万年前頃の遺伝子移入を含む、人類のメタ集団内の遺伝子の繰り返しの交換を伴う、亜集団間の直接的接触を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。したがって、これら亜集団の構成員は相互に繰り返し長期にわたって遭遇し、文化的拡散のための舞台を提供しました。シベリアの後期更新世のネアンデルタール人に関して示唆されるように(関連記事)、個体群は比較的孤立し、ほとんどの時間を小規模な集団で暮らしていたかもしれませんが、遺伝的記録から、さまざまな地域的集団の個体群間の相互作用は繰り返し起きていた、と示されます。

 恒常的な火の使用期間における人類の社会構造は少なくとも、以下で議論される火の技術の伝播に必要な集団間の寛容性の適切な水準を支えただろう、と考えるいくつかの理由があります。まず、火を使い熾すことと関連する技術は、特性と物質(燧石や黄鉄鉱や可燃性物質や燃料)の知識を含んでおり、火を熾すための技術も含まれているかもしれません。これらは、離れた場所からでも数日以内に、学習者の多大な労力なしに、指導の有無にかかわらず、すぐに容易に伝えられます。第二に、火の技術と関連する専門分野はほとんどありません。最近の狩猟採集民93集団の火の使用慣行の調査では、火熾しを男性の任務として言及したのは5集団だけで、火の維持を女性の任務として言及したのは10集団でした。専門分野がほとんど必要ないので、集団の構成員は観察により火熾しと火の維持に必要な知識を容易に身につけられます。

 第三に、非ヒト霊長類の分析から、ヒトとチンパンジーの最終共通祖先はおそらく、すでにある程度の社会的寛容性を有しており、それは異なる集団の個体間のこの水準の学習を支えた、と示唆されています。たとえば、非ヒト霊長類における寛容な集団間遭遇は、採餌応答の増加、集団外交配、移動前の新たな集団の査察といった理由で報告されていますが、ボノボは最近、集団外で肉を共有している、と観察されてきました。そうした非ヒト霊長類の遭遇は、数時間から数日続き、これは観察による火と関連する技術の拡散には充分な長さです。さらに、資源を守る労力が排他的な利用の利点を上回る火のような資源の場合、寛容な遭遇や学習機会の可能性が高くなり、とくに、火を使うことで得られる利益は、他の人が使っても減らないからです。

 集団間の相互作用の最小限の想定について上述しましたが、異なる集団の個体間での寛容性以上のものを必要としません。しかし、最近の狩猟採集民のように、多数の個体間のより複雑な文化的および協力的相互作用を含む最小限の想定も考えられます。40万年前頃までに、脳サイズとそれに対応する必要なエネルギーは、人類がチンパンジーおよびボノボとの最終共通祖先と分岐してからの進化の(少なくとも)600万年間において、かなり増加しました。強化された集団間の協力は、遠方の資源の入手と情報を維持することにより、高いエネルギー要求と関連する不足の危険性増大を管理する戦略だったかもしれません。

 本論文の文化的拡散の説明を強化するもう一つの要因は、過去の狩猟採集民の社会組織の流動性および規模の見解の変化と関連しています。ますます多くの民族誌的研究がこの特徴を強調しており、個体は一般的に認められているよりも大きな社会的ネットワークの一部です。以前の研究では、「小規模な社会組織が祖先の人類の共同体を特徴づけていたならば、そうした共同体は現代の遊動的な狩猟採集民との明確な類似点を有さない」と指摘されています。狩猟採集民社会組織の伝統的な見解と定量的な民族誌的証拠との間のこの一般的な切断は、ヒトの認知と向社会性と狩猟採集民の規模と組織との間の共進化関係に関する、現在の古人類学的および神経学的モデルの重要な弱点を浮き彫りにします。

 霊長類の傾向に基づいて推定された人類集団の規模もしくは「分散共同体」は600万年前頃以降に増加しますが、集団化の最大水準は現生人類に限定されると主張されています。以前の研究では、社会的ネットワークにおける複数水準のクラスタ化を伴う流動的な社会構造が、33万年前頃には中期更新世後期の狩猟採集民にとって特徴的だった、と示唆されています。これらの研究で指摘されているように、中期石器時代初期には原材料の長距離輸送が行なわれており(関連記事)、遊動性と社会的つながりの変化が示唆されます。

 中部旧石器時代の記録には、これら新たな長距離輸送の類似点が見られます。中期更新世において個体がじっさいにずっと大きくてより流動性の高い集団の構成員だったならば、それほど早くないとしても、上述の「旧世界」の考古学的記録における変化は広大な地域で地質学的に同様の年代に起きており、さまざまな集団の個体間の偶発的で友好的な接触の結果だったかもしれず、それは経時的に広範な地域と長期の文化的伝播を支えました。以下で議論するように、火と関連する技術に加えて、この社会構造は他の比較的複雑な文化的人工物と技術の伝達に重要だったかもしれません。

 協力的相互作用の増加は、人類の集団規模の増大と相関しているかもしれませんが、その必要はないことに要注意です。最良の入手可能な証拠から、人類集団は更新世末になってやっと成長し始めた、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。それでも、集団規模推定値が困難とよく知られていることを考えると、データは更新世の人口統計学的パターンを間違えている可能性があります。いずれにせよ、人口統計はより複雑な協力的ネットワークを促進する可能性がある唯一の仕組みではありません。これらは、移動性の増加や社会組織の変化の結果かもしれません。


●強化された集団間の相互作用

 中期更新世の考古学的記録で顕著になる別の特徴は、火の恒常的使用よりも10万年遅れます。これは石器製作のいわゆるルヴァロワ(Levallois)技術で、1個もしくは複数のより大きくて薄い剥片製作のための石核を調整するひじょうに特殊な方法を伴います。ルヴァロワ技術出現の年代は、広範囲にわたって再調査されています。調整された石核技術の単純な形態と適切に区別されれば、その出現を30万年前頃の狭い時間帯に割り当てることができます。

 ルヴァロワ技術は初期現生人類やネアンデルタール人などさまざまな人類集団により、「旧世界」の大半、つまりアフリカ(関連記事)とアジア西部(関連記事)とヨーロッパで用いられています。ルヴァロワ技術はこれまでアジア東部の中期更新世の記録では回収されておらず、中国南西部における17万年前頃のルヴァロワ技術の可能性を主張した最近の研究(関連記事)は、せいぜい単純な調整された石核技術の石器を表しているにすぎない、とも指摘されています(関連記事)。

 最近の研究では、下部旧石器時代から中部旧石器時代への移行は、ヨーロッパ北西部と近東で28万~25万年前頃に完全に採用されたことにより示される、と位置づけられています。したがってルヴァロワ技術の時空間的分布は、恒常的な火の使用と比較して、地理的範囲は類似しているものの、開始年代はずっと絞り込まれています。それ故に、初期ルヴァロワ技術は、文化的拡散が40万~25万年前頃に技術と行動の変化に役割を果たした、という追加の証拠を提供します。さらに、ルヴァロワ技術の石の打撃の複雑さは、広範な実験的な打撃と改造の研究で示されており、積極的な指導と組み合わされた近くて長い観察によってしか習得できないことを意味しており、40万年前頃に集団間の相互作用が活発化した、という上述の本論文の主張を裏づけます。

 興味深いことに、以前の研究では、本論文における火の使用に関する主張と類似の主張がなされており、下部旧石器時代と中部旧石器時代の大陸規模での技術的変化の疑似的同時性が指摘されています。また以前の研究では、上部旧石器時代の1/3程度の期間である1万年程度の許容誤差で世界規模のデータを調べると、ヨーロッパとアジアとアフリカ全域にわたる変化の時期の同時性が理解される、と指摘されています。これらの急速な技術変化は「旧世界」の主要部分の広範な環境で起きた、というその研究の見解では、この急速な技術変化の要因として、生物学的なホモ属種の影響と環境要因の影響が否定されています。さらに以前の研究で強調されているのは、これらの迅速で大規模な変化の舞台に対して、各地域は地域的な文化的パターンと強くつながる固有の技術的特徴と軌跡を示している、ということで、ルヴァロワ技術が比較的早く導入されて在来の技術伝統と統合された、と示唆され、295000~29万年前頃のイタリア半島中央部の初期ルヴァロワ石器群の研究により結論が裏づけられています。

 狭い時間枠と大規模な地域と複数の集団が関わっていることとを考えると、本論文は、中期更新世の初期現生人類の範囲が時として拡大したことを示唆する証拠(関連記事)にも関わらず、人口拡散は大規模なパターンを説明できる可能性が低い、と主張したこのような先行研究に同意します。火の使用と比較してのルヴァロワ技術の伝達のより複雑な性質と、おそらくは積極的な教育の役割を考えると、発達および社会的文脈に関する問題が提起されることにも要注意です。ネアンデルタール人と初期現生人類の長い学童期(juvenile)は、広範で複雑な身体的および社会的技能を学ぶ必要性と関連づけられてきました。寿命が長いほど学習により多くの時間を費やすことや、他集団の行動など他者の観察機会が多くなることが可能となります。現生人類の生活史のパターンは、中期更新世中期までに出現したかもしれず、複雑な技術的技能の学習やそうした技能の拡散の機会が生まれます。

 さらに以前の研究では、この期間の空間組織の変化が浮き彫りにされており、それはとくに、持ち込んだ資源や他の人類の利用可能性に人類が惹きつけられた場所の持続的な再利用で、新たな「社会的相互作用にとっての進化の場」を提供します。これは、教育を含んでいたかもしれません。石器についての考古学的記録のさらなる変化は、アフリカの中期石器時代における識別可能な地域的伝統の出現で、他の要因のなかでも、長く存続した亜集団の学ばれた伝統と関連しているかもしれません(関連記事)。これは、現代人に存在する文化的行動の特徴的な様式がこの期間に出現したことをさらに裏づけます。


●考察

 初期の火の使用とルヴァロワ技術の時空間的パターんの徹底的な再調査は、本論文の目的から外れていました。代わりに本論文は、パターンの解釈と、仮説の提示に焦点を当てました。この仮説は、中期更新世の考古学的研究を新たな方向に進められますが、それは、本論文の仮説の間違いの証明を明らかに目的とする新たな研究を促進することによってのみで、それにより過去の行動の発展の時系列についてこの分野の知識を発展させられるからです。

 ルヴァロワ技術と火の記録は、アシューリアンの握斧(ハンドアックス)技術と対比させることができます。アシューリアンの握斧技術は、旧石器時代の初期に起きた技術移転の、主要で、他に広範に分布し、特徴的で、年代的にやや絞り込める事例だからです。ルヴァロワ技術と恒常的な火の使用との顕著で重要な違いは、握斧がアフリカの記録で175万年前頃(関連記事)、あるいはレヴァントで140万~120万年前頃に最初に出現してから、ヨーロッパの初期の居住者の技術的一覧に登場するまで、70万~60万年間要していることです(関連記事)。したがって、アシューリアンの記録は人口拡散仮説とより一致しているようです。じっさい、アフリカはアシューリアンの起源地ですが、アフリカ外でのアシューリアン握斧技術の出現は、人類拡散の結果として広く見られ、これはアシューリアンの記録の系統発生分析と、ヨーロッパではアシューリアンの存在と欠如の詳細なパターンにより裏づけられた仮説です。

 一部の研究では、アシューリアンの記録が遺伝的伝播の想定を示唆してさえいる、と指摘されています。以前の研究は、アシューリアンの「基準標本化石」の「非文化的」特徴を強調し、「保守的な」握斧を文化的伝播というよりも寧ろおもに遺伝的伝播の結果として解釈しました。この解釈は、アシューリアン記録の変動性を強調したいくつかの反証を受けており、その変動性が後期においてはかなり大きいことは確かです。本論文は、恒常的な火の使用以前の文化的拡散の可能性を否定するわけではありませんが、人口拡大により最もよく説明できるように見えるアシューリアンの記録との対比は、火の使用とルヴァロワ技術はヒト進化史において技術の広範な文化的拡大の最初の明確な事例を表している、という本論文の主張を裏づけます。

 本論文は、40万年前頃に文化的過程が広範な地域で技術の変化を支えた、という仮説を提示しました。これは少なくとも、さまざまな集団の個体の一定程度の社会的寛容性を示唆しており、最小限ではあるものの、依然として妥当な仮説を提案します。その仮説は、大規模なネットワーク内のより強い協力的相互作用が40万年前頃にはすでに形成されており、より広範な人類のメタ集団内で、通常は異なる生物学的集団として推測される個体群間で時として境界を越えることがあった、というものです。

 本論文の結論は、考古学的記録における恒常的な中期更新世の火の使用の時空間的パターンは、人類の「道具箱」における重要な道具の出現以上のものを示している、ということです。つまり、40万年前頃の文化的行動の存在は、現生非ヒト大型類人猿よりも現代人の方に近かった、というわけです。本論文は、中期石器時代後期/中期更新世、およびより繁栄した後期石器時代/上部旧石器時代と関連する文化的繁栄のずっと前に、人類は技術と行動の複雑さや変動性や広範な拡散の能力を発達させ始めていた、と提案します。そうした能力は、これまで現生人類とのみ関連づけられる傾向にありました。


参考文献:
MacDonald K. et al.(2021): Middle Pleistocene fire use: The first signal of widespread cultural diffusion in human evolution. PNAS, 118, 31, e2101108118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2101108118

水谷千秋『女たちの壬申の乱』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。壬申の乱に関する一般向けの本は少なくありませんが、本書の特徴は女性に焦点を当てたことです。具体的には、鸕野讚良皇女(持統天皇)と倭姫と遠智娘と姪娘とカジ媛娘と額田王と元明天皇と十市皇女です。これらの女性は、壬申の乱で戦った大海人皇子(天武天皇)と大友皇子、もしくは大友皇子の父である天智天皇の娘や配偶者でした。十市皇女のように、大海人皇子の娘にして大友皇子の妻だったり、鸕野讚良皇女のように天智天皇の娘にして大海人皇子の妻だったりする場合もあります。

 本書は、まず壬申の乱の背景と推移を解説します。本書の見解でまず注目されるのは、病床の天智と大海人とのやり取りです。『日本書紀』によると、天智が大海人に皇位を譲ろうとしたものの、大海人は病気を理由に断り、皇后の倭姫に皇位を継承もしくは代行させるよう天智に進言しました。兄弟のこのやり取りは天智紀と天武紀上に見え、両者には多少の違いがあります。しかし本書は、このやり取りには創作がある、と推測します。天智はすでに弟の大海人ではなく息子の大友を後継者として決めており、大海人を呼んだのは、大友の後見を頼んだものの、大海人は断って出家を申し出て、天智はそれを認めた、というわけです。

 天武に最も愛された女性は、有力氏族の出身ではなく政略結婚とは思えないものの、天武との間に4人の子を産んだカジ媛娘だっただろう、と本書は推測します。さらに本書は、大海人が吉野へ妻では鸕野讚良だけではなくカジ媛娘も同行させたのではないか、と推測します。その根拠は、大海人が吉野へ行くさいに同行させた子供が、鸕野讚良の息子の草壁とカジ媛娘の息子の忍壁だったからです。そのため、忍壁は母とともに鸕野讚良に嫉妬・警戒され、天武朝では重用されたものの、持統朝では冷遇された、と本書は推測します。

 また本書は、天智の三人の后妃(倭姫と遠智娘と姪娘)の墓の記録が残っていないのは、三人が壬申の乱の終わりまで近江朝廷方に属しており、近江朝廷方に殉じて非業の最期を遂げたからではないか、と推測します。当時、自害した要人の妻が自殺することはよくあった、と本書は指摘します。倭姫など近江方に殉じた女性たちの歌を後世に伝えたのは額田王だっただろう、と本書は推測します。吉野盟約については、それまで天武がやや冷遇してきた天智の息子たちと和解し、彼らを積極的に登用することで、壬申の乱のような事態の再来を防ごうとした、と推測されています。

 持統は遷都や律令といった天武朝の未完の事業を継承して完成させましたが、天武朝に始まった史書編纂が形となったのは持統没後かなり経過してからでした。本書はその理由を、持統が史書編纂に熱心ではなかったからではないか、と推測します。壬申の乱の記憶も生々しかった当時、史書編纂を進めると対立が再燃し、融和路線が挫折すると持統は恐れていたのではないか、というわけです。一方、持統が編纂に深く関わったと考えられる、『万葉集』の原型と思われる歌集では、倭姫や有間皇子といった墓が記録に残っていない敗者の歌も採録されており、本書はそこに持統の深慮を見ています。本書は、歌を積極的に取り入れて当時の要人の関係や思惑を推測しており、大胆に思えるものもありますが、昔から関心を持っていた倭姫(関連記事)の最期など興味深い見解を知ることができ、有益でした。

長井謙治「日本列島最古級の石器技術を考える」

 本論文はまず、紅村弘氏の研究を参照します。紅村氏は、「截断(剥離)技法」という独自性の高いアイデアを提示していました。紅村氏は、愛知県加生沢遺跡の石核について、立位複方向剥離石核と称する垂直方向の剥離が交差する立磐状の石核の存在を指摘し、これをバイポーラー・テクニックや円盤型石核技術とは異なる極東アジア的な剥片剥離法と示しました。紅村氏の提唱した「截断(剥離)技法」とは、鈍角剥離によって礫を縦分割するというアイデアにあり、90度°に近い打撃痕を正しく見抜くことで生まれました。紅村氏は立位複方向剥離石核についても、垂直方向からの打撃痕を正しく捉えることで、石核が縦位に置かれた状態で剥離が進んだことを見抜いていました。

 この紅村氏の洞察はおそらく独立独歩ではあるものの、手にした資料を忠実に観察していたことが厚い記述から読み取れ、その着眼点と研究態度は評価されるものである、と本論文は指摘します。しかし、この紅村氏の先駆的業績が、その後積極的な評価を受けることはありませんでした。また、バイポーラー・テクニックについて、芹沢長介氏や佐藤達夫氏や小林博昭氏や岡村道雄氏が注視し、その存在を指摘していたものの、これについても具体的な議論へと発展しませんでした。本論文はこれに関して、不運な時世と比較対象となる資料が不足していたこととともに、学説史としての哲学的・思想的背景があったことも指摘します。

 2000年の旧石器捏造発覚以降、学説史としてのパラダイムは解体し、国外の当該資料は充実した、と本論文は指摘します。近年、柳田俊雄氏と梶原洋氏はテクノロジーの視角に再び光を灯しており、愛知県加生沢遺跡、岐阜県西坂遺跡、大分県早水台遺跡、群馬県鶴ヶ谷東遺跡、栃木県星野遺跡、宮城県蒲沢山遺跡の出土試料に「両極剥離」の存在を指摘し、これを中国北部や朝鮮半島を含むアジア東部の「前期旧石器時代」に通有の技術基盤として再評価しています。本論文は、国内外の研究成果を渉猟し、「両極剥離」の内実を具体的なものへと昇華させようとする柳田氏と梶原氏の姿勢には大いに賛同しつつ、両氏たちが日本の「前期旧石器時代」の存在を当然視して議論を進めていることは、懐疑論者には少しついていけないところがあるだろう、と指摘します。石器か否かを決める一つの「言語」として「両極剥離が存在する」ことが利用されてきたような、負の学史が日本にはある、というわけです。「両極剥離」があるから真の石器があるのか、真の石器があるから「両極剥離」があるのか、堂々巡りしてはならない、と本論文は指摘します。

 著者も偽石器論争の渦中にあった「鈍角剥離」の用語を踏襲し、その技術的意義を唱えたことがあるそうです。しかし、著者の議論そのものが「石器認定論」と混同した印象を与えたことにより、学界に強い印象を残すことはできなかったようだ、と本論文は指摘します。「鈍角剥離」という用語もまた、捏造事件の後遺症を引きずる用語として、研究者の深層心理に負のイメージとして刷り込まれている可能性を本論文は指摘します。その後著者は、岩手県金取遺跡IV文化層、愛知県加生沢遺跡、岐阜県西坂遺跡、朝鮮半島の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に相当する萬水里遺跡、錦山里葛屯遺跡の大形石器群、さらには長野県石子原遺跡、竹佐中原遺跡の移行期石器群のなかに台石上の鈍角打撃技術を見出して、後期旧石器時代初頭を遡るアジア東部大陸部と島弧における技術体系としてその存在意義を主張し続けています。

 21 世紀には、更新世旧石器時代考古学の技術論者を中心として、非アシューリアン(Acheulian)系石器群としての両極技術ユニットの見直し機運が醸成しています。ヴァンデルドリフト(Jan Willem van der Drift)氏はこの学説を牽引する一人で、オンラインや映像媒体を通して積極的に成果発表をしています。2012 年に上梓された著書『旧石器時代の分割:両極道具体系概念への誘い』はその白眉とも言え、クラーク(John Desmond Clark)氏による石器階梯論モード1・2・3(関連記事)の見直し案が提示されています。ヴァンデルドリフト氏は、前・中期旧石器時代(下部旧石器時代と中部旧石器時代)の非アシューリアン系技術モードとして両極打撃群によるモードXを見出しており、これをモード2・3に並行する存続時期の長い剥片剥離モードとして位置づけています。両極打撃については、いわゆるナッツ割りを想起させる水平台石上での鉛直方向への挟み撃ち法のみならず、地面上保持による垂直打撃、あるいは台石保持による斜めの打撃などのいくつもの亜種を提示し、その技術的基盤としての特性を明示しています。ヴァンデルドリフト氏は、こうした亜種をふくむ両極打撃系石器群に対して、両極トゥールキット概念(bipolar toolkit concept)と呼称して、アシューリアン概念とは異なる別立てユニットを捉えています。

 日本列島においても、両極打撃に対しては、長らく石器経済上の補完的役割を担う利便的な技術としての評価が強く、原材料の制約に直接関与する代替手法として、あるいは節理のある小型石材への特別措置しての存在意義が強調されてきました。しかし、こうした前提については修正が必要となるでしょう。両極打撃と似たハンマー操作により計画的な剥片剥離が可能であること、あるいは台石利用の打撃により硬質円礫素材を容易に分割できることが、国内外の実験例により検証済みです。

 両極打撃には手保持の打撃に優るところがあります。それは、強大な力を岩石に与えられる点にあります。ヴァンデルドリフト氏は、手保持による自由裁量剥離の限界を負荷量の違いで説明しています。円礫を手保持の自由裁量で剥離した場合、円礫の上に水を入れたバケツを置く程度の衝撃しか与えられません。しかし、台石を使うと、ハンマー衝撃による減速ははるかに速くなり、減速に要する時間は0.0002秒、測定値は50000m/sec.square、減速質量は25000ニュートンに達します。つまり台石を使うことで、円礫に3台の小型車を乗せているのと同等の負荷を与えることができる、というわけです。

 両極打撃は、硬くて丸い大きな石を砕くことのできる優れた剥離技術モードの一つです。両極打撃はオルドワン(Oldowan)のスフェロイド(石球)の成形にも採用されています。著者は、デラトーレ氏たちがオルドワン石器群のハンマー分析で明らかにした受動打撃(passive hummer percussion)に注目しています。つまり、アジア東部更新世遺跡の原材料にある内部欠陥性を超克する戦術的手法の一つとして、台石利用の受動打撃が採用されていた、と本論文は推測します。これを台石上の打撃として手保持の打撃とは概念的に区別しよう、というわけです。

 岩手県金取遺跡第IV文化層から出土した接合資料には双極打撃痕が残されており、台石からの受動打撃が加わった証拠を留めています。この資料は9万~8万年前頃の地層から出土したと言われていますが、全体の資料数が少なく、この時期の類似の資料が他に見つかることこそまず前提である、と本論文は指摘します。日本列島最古級の石器技術を語るにはまだ証拠が不足している、というわけです。4万年前頃以前の日本列島における人類の存在については議論になっていますが、仮に存在したとしても、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少ないことから、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がなかったように思います。


参考文献:
長井謙治(2020)「日本列島最古級の石器技術を考える」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P26-27

呉汝康「中国古人類学30年」

 中華人民共和国における古人類学の発展に関する概説(呉., 1981)を読みました。40年前の論文なので、もちろん現時点では更新された情報が多く、基本的に個別の事例は取り上げませんが、最近言及した中国における人類進化認識(関連記事)との関連で取り上げます。個別の事例を一つだけ取り上げると、ギガントピテクスについて本論文は、「絶滅枝の一つであり,従って人類あるいは猿類の直系の祖先とすることはできない」と指摘しており、最近のタンパク質解析研究でも改めて示されました(関連記事)。ギガントピテクスは、現生類人猿ではオランウータンと最も近縁です。

 本論文はまず、

中国は人類の起源と発展にとって重要な地域であり,人類化石や旧石器等の関連資料がきわめて豊富である。しかし半封建・半植民地の状態にあった旧中国においては,この方面の科学が重視され発展するということはありえなかった。1949年に新中国が成立してから,中国の古人類学は独立自主の道を歩むことになった。この30年間に我々は比較的大規模な調査活動をすすめ,かつまた重要な地点を選んで発掘を行ない,大量の新しい資料を獲得して各方面の研究を進展させた。

と指摘します。本論文は最後に、

我国において古人類学に従事するということは,人類の起源と発展の過程とその法則を理解するということだけではなく,人類の起源と発展の科学的事実を通じて労働者・農民・兵士と広範な大衆に対して弁証法的唯物論と歴史的唯物論を宣伝することなのである。

と指摘し、

我国において古人類学に従事するということは,人類の起源と発展の過程とその法則を理解するということだけではなく,人類の起源と発展の科学的事実を通じて労働者・農民・兵士と広範な大衆に対して弁証法的唯物論と歴史的唯物論を宣伝することなのである。

と結んでいます。本論文は全体的には中国の個々の遺跡と化石と石器を簡潔にまとめており、1981年時点での中国における古人類学の状況を把握するのにたいへん有益だったでしょうし、40年経った現在でも、学説史を把握するうえで大いに参考になるとは思います。ただ、本論文からは中国の古人類学研究における強いイデオロギー色も窺えます。もちろん、「自由主義陣営」や「先進国」にもイデオロギーはあり、それが古人類学に限らず学問を規定するというか制約することは否定できません。本論文からは、1981年の中国におけるイデオロギーが窺え、当時と40年後の現在で中国が大きく変わったことを否定する人はほぼいないでしょうが、一方で当時のイデオロギーや人類進化認識は現在でも建前として多分に残っているようにも思います。

 本論文は、

丁村人,北京原人,現代黄色人種の間には体質形態上少なからぬ類似点がみられる。たとえばシャベル形の切歯を持つことや頭頂骨の後上角に鋸歯状のぎざぎざを持つことからインカ骨があると考えられること等は,三者の間に親縁関係のあったことを示すものである。丁村人は北京原人と現代黄色人種の中間に位置するリンクの一つである。

と指摘し、

我が国の旧石器時代後期の文化遺物の発見件数は多く,分布範囲も広い。この時期のホモ・サピエンス化石とその文化遺物の発見と研究は,現代人の種族の起源を探るうえにおいて,とりわけ黄色人種あるいはモンゴロイドの起源を探るうえにおいて重要なよりどころを与えるものであり,また中国の遠古の住民が当時の外界と接触し文化交流を行ないつつも,彼等自身及びその文化には独自の特徴が継承されていたことを明らかにしたのである。

との見解を提示しており、中国における人類の長期の連続性を前提としています。原書が2009年刊行の『人類20万年遥かなる旅路』(関連記事)やそのドキュメンタリー番組(関連記事)でも、中国の経済が飛躍的に発展し、社会が大きく変わっても、中国において現生人類(Homo sapiens)多地域進化説が多数派を占めている、と指摘されています。中国の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型と分類されており(関連記事)、現生人類多地域進化説ときわめて親和的です。しかし、遺伝学を中心に現代中国の専門家の間では、ホモ属のアフリカ起源、さらには現生人類のアフリカ単一起源説を前提とする傾向が現在では強いようです(関連記事)。なお、シャベル型切歯が「北京原人」と現代中国人(さらにはアジア東部現代人や現代のアメリカ大陸先住民)との遺伝的連続性の証拠になるとの主張は、今では無理筋と言うべきでしょう(関連記事)。

 さらに現代中国の遺伝学の研究者の間では、現生人類アフリカ単一起源説を前提として、中国で発見された非現生人類ホモ属が現代中国人の主要な祖先集団であることに否定的なばかりか、5万年前頃以降に現在の中国領に拡散してきた現生人類集団の中に、現代人とは遺伝的につながらず絶滅した集団も存在した、と明らかにされており、それは現在の中国領の北方(関連記事)でも南方(関連記事)でも確認されています。これは、本論文の見解と大きく異なります。2009年と今年(2021年)とでは、中国社会における人類進化認識がかなり変わっているかもしれませんが、十数年では社会全体で大きく変わる可能性は低いように思います。その意味で、現在の中国領で発見された人類化石のうち、非現生人類ホモ属のみならず、現生人類の中にも現代中国人と遺伝的につながらない集団が存在した、との見解は現代中国社会ではあまり受け入れられていない可能性が高そうです。ただ、現代中国社会の主流的見解とは異なっても、古代DNA研究も含めて遺伝学的研究は中国の技術と経済の発展に必要と考えられているでしょうから、中国政府が古代DNA研究を抑圧する可能性は低い、とやや楽観的に考えています。

 また本論文は、中国における人類進化の長期の連続性とともに、唯物史観的な人類進化観を強く打ち出しており、これも建前として「特色ある社会主義」が強調されている現代中国社会において、依然として強い影響を有しているかもしれません。本論文は、

1949年の中国解放以後,我々は労働が人類を作ったとする理論にもとづき,新しい解釈を提出した。原人の体質形態は人体各部の発達が不均衡であったことを明示している。人類進化の過程の中ではまず直立二足歩行が確立し,手が支持作用から解放され,道具を製作・使用して生産労働を進めていくようになったのである。ヒトの脳は直立二足歩行確立の後,長期にわたる生産労働の実践中に発展したものである。エンゲルスはこう言っている。「或る意味では労働が人間自身を作ったと言わざるをえない」と。原人化石の研究は,エンゲルスの労働が人類を創造したとする理論に有力な証拠を提供した。

 と指摘します。しかし、570万~530万年前頃となるアルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)の存在から、人類の直立二足歩行は600万年前頃には確立していた可能性が高そうなのに、「脳の発展」というか脳容量の増加はホモ属系統においてで、せいぜい300万年前頃以降のこととなり、しかも体格の大型化と連動しています(関連記事)。チンパンジーの事例から、人類も直立二足歩行以前から道具を使用していた可能性は高い、と考えられます(関連記事)。直立二足歩行により「道具を製作・使用して生産労働を進めていく」ことがより効率的になったとしても、直立二足歩行の開始から脳容量の増加が始まるのにおそらく300万年以上要しており、道具製作が「脳の発展」というか脳容量の増加とどれだけ直結していたのか、はなはだ疑問です。

 脳容量の増加というかホモ属出現の背景としては、不安定な気候が指摘されています(関連記事)。ホモ属が出現する頃のアフリカの気候は、乾燥化と草原の拡大(森林の減少)という傾向として単純に把握できるものではなく、環境が不安定化・断片化したことが重視されるべきだ、というわけです。この300万~200万年前頃のアフリカにおける気候変動に対応して、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)はそうした状況で定期的に食料不足に陥り、それへの適応として、広範な生態系で活動し、食料不足に対応したのではないか、と推測されています(関連記事)。また、アウストラロピテクス・アフリカヌスの母親が育児にさいして、食料不足の時期には授乳で対応し、それが長期にわたったことから、母子の間のつながりとともに、授乳期間の長期化による潜在的な出産回数の減少を招来し、200万年前頃にはアフリカ南部でアウストラロピテクス属が絶滅した一因になった可能性も指摘されています。もちろん、道具使用と脳容量増加との間に関連はあったというか、道具使用が脳容量増加の選択圧の一つにはなったでしょうが、直立二足歩行が始まっておそらく300万年以上前も脳容量の大幅な増加が見られず、不安定な気候で脳容量増加が始まり、しかもそれは体格の大型化と連動していたわけですから、「労働が人間自身を作った」との評価は的外れだと思います。

 最近、環境問題対策としての「脱成長」の典拠をマルクス(Karl Marx)に求めるような動きもありますが、「聖典」としてのマルクスの言説の中に現在の問題の解決策を見出すのは、率直に言ってマルクスを崇める宗教だと思います。マルクスの言説は広範囲にわたり、期間も長いので、その中に現代の問題と解決策と通ずるように思えるもしれない言説もあるかもしれませんが、それをわざわざ現代においてマルクスの言説の中に見出す必要があるのか、はなはだ疑問です。「マルクス教」の神官ならば、時代に適応して生き残るために、「教祖」の言説を現代的に解釈する必要もあるでしょうが、それは「マルクス教徒」ではないほとんどの人々にとってはさして意味のない行為であり、社会に大きく役立つとは言えないでしょう。

 人類進化を唯物史観というかエンゲルス(Friedrich Engels)の主張に沿って解釈することにも、同様の問題があります。エンゲルス(やマルクス)のような大家ならば、示唆に富んだ言説は多くあるでしょうし、そうした中には、現代における人類進化の有力説と通ずるものもあるかもしれません。しかし、人類はもちろん、非ヒト霊長類の研究が現代と比較にならないほど貧弱だった時代の研究に依拠しているエンゲルスの主張の枠組みで人類史を理解しようとすることには大きな無理があると言うべきでしょう。また、仮に現代にも通ずるようなエンゲルスの指摘があったりしても、それが人類進化の研究においてエンゲルスの言説を重視すべき理由にはならないと思います。「唯物史観教」の「神官」や「信者」が人類進化史におけるエンゲルスの言説に「重要な示唆」を見出すのは自由ですが、エンゲルスの言説に沿って人類史を理解するのは、率直に言って時代錯誤だと思います。おそらくはエンゲルスの言説により広まった人類の「原始的社会」は母系制だった、との現在でも根強そうな理解も、今となってはかなりの無理筋だと思います(関連記事)。


参考文献:
呉汝康著、谷豊信翻訳(1981)「中国古人類学30年」『人類學雜誌』第89巻第2号P127-135
https://doi.org/10.1537/ase1911.89.127

藤田祐樹「サピエンス以前の人類の島への分布を考える」

 本論文はまず、インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)やシベリア南部およびチベットの種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など、相次いで新たな分類群の人類が発見されたことから、アジアの更新世人類史が従来の想像をはるかに超えて複雑だった可能性を指摘します。現生人類(Homo sapiens)以外の人類が日本列島に到来していたのかどうか、まだ明らかにはなっていませんが、日本列島は更新世に何度か大陸と陸続きになった、と考えられています。非現生人類ホモ属が分布を広げたとすれば、大陸と接続した時期に日本列島に移住した可能性を考えるべきでしょうが、本論文はあえて、非現生人類ホモ属の渡海について考察しています。本論文は、非現生人類ホモ属に現生人類のような渡海能力がなかったのは当然としても、それならば島々への非現生人類ホモ属の分布をどう解釈すればよいのだろう、と問題提起します。

 人類の海洋進出は、現生人類において飛躍的に発展しました。その重要な舞台となったアジア南東部島嶼域では、4 万年前頃からマグロやカツオといった外洋性の魚類が獲られ(関連記事)、16000~23000年前頃には釣り針も発明されていました。日本列島も現生人類の海洋進出の重要な舞台で、35000年前頃に黒潮を越えて恩馳島の黒曜石利用していたことや、琉球列島全域への35000~30000年前頃の移住、サキタリ洞の23000年前頃の貝製釣り針や多様な貝器、水産資源利用などは、いずれも現生人類の渡海能力や海と関連の深い生活を示す証拠です。これらの他にも、西太平洋島嶼域には、現生人類の海洋進出の証拠が数多く発見されています。

 それに対して非現生人類ホモ属は、一般的には陸上資源に強く依存していたと考えられていますが、ネアンデルタール人に関しては、地中海沿岸域の遺跡では貝類など水産資源を利用し、冷水刺激により生じる外耳道骨腫の報告もあります(関連記事)。地域的には、水辺環境を積極的に利用する集団もいたと考えられます。ホモ・エレクトス(Homo erectus)などネアンデルタール人出現以前の人類(本論文では「原人」とされています)水産資源利用の証拠はもっと乏しいものの、アフリカではオオナマズやカバなど水辺の動物を利用し(関連記事)、インドネシアではホモ・エレクトスによる貝殻の線刻が報告されています(関連記事)。更新世に大陸と接続しなかったフローレス島やスラウェシ島やルソン島における「原人」の分布からも、この地域に水辺環境に親しんだ「原人」がいた可能性も考えられそうです。

 「原人」の島への分布は、偶然の漂流を想定するのが主流ですが(関連記事)、一般的に陸上動物の海流分散の頻度はかなり低く、たとえば琉球列島のトカゲの仲間では、琉球列島全体に分布を広げるのに数百万~数十万年かかっています。アジア南東部島嶼域の「原人」と琉球列島のトカゲを比較するのは乱暴ですが、トカゲ類は一年に複数回、数個の卵を産むのに対して、数年で一子を産む「原人」の海流分散の成功率は、ずっと低くなるはずです。少ない証拠で議論しても仕方ありませんが、動物にとって移動の障壁となるハックスレー線やウォーレス線を越えて複数の「原人」遺跡が見つかるのは、もっと高い頻度で移住を実現したからと考えられます。「原人」の中にも積極的に水産資源を利用するような集団があり、漂流の確率や漂流後の生存確率を高めるような何かしらの行動的特徴(ある程度の遊泳能力や木片を浮き具として利用するなど)を有していた可能性も考えられるかもしれません。

 渡海の問題では、琉球列島で1970 年に港川人が発見されたさいに、旧石器人に渡海能力はないと考えられていました。そのため、古地理学や動物地理学や古生物学の点から後期更新世の琉球列島陸橋化は否定されていたにも関わらず、港川人は最終氷期最寒冷期の陸地化によって分布を広げた、と結論づけられたまし。「原人」の分布がこれと同じ状況だとは言えないとしても、「原人」の島への分布を偶然の漂流と簡単に決めつけないほうがよいでしょう(関連記事)。

 遺跡出土の証拠だけではなく、新技術により判明する新事実に対しても同様で、近年のDNA研究によれば、オセアニアやアジア南東部の現代人にデニソワの遺伝子が一部共有されている、と指摘されています(関連記事)。現生人類とデニソワがどこでどう接触したの、まだ不明です、一連の近年の発見からは、かつてユーラシア東部には「原人」、ネアンデルタール人やデニソワ人などの「旧人」と現生人類人が共存し、部分的に複雑に交流したようです。日本列島に「原人」や「旧人」が到来していたのか、まだ不明ですが、現代日本人の祖先が「原人」や「旧人」と何らかの形で接触していた可能性も考えられます。


参考文献:
藤田祐樹(2020)「サピエンス以前の人類の島への分布を考える」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P6-7

中村美知夫「ヒト以外の霊長類の行動と社会 ヒトを相対化する」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。本書は、第1部「人類進化の歩み」が第1章~第4章、第2部「ヒトのゲノム科学」が第5章~第8章、第3部「生きているヒト」が第9章~第12章、第4部「文化と人間 文理の境界領域」が第13章~第15章で構成されています。本書を1本の記事にまとめるとひじょうに長くなりそうなので、各章およびコラムを単独の記事で取り上げます。本書は参考文献と索引もあり、人類進化に関する最新の知見を日本語で学ぶのに適切な一冊になっていると思います。


●霊長類の分類と生活

 本論文は、ヒト(Homo sapiens)が霊長類、さらには類人猿(ヒト上科)の一種であることから、その行動や社会の進化を考察するさいに参考になる、ヒト以外の(野生)霊長類の行動と社会を取り上げています。本論文はまず、霊長類には分かりやすい視覚的な特徴を見つけにくいものの、四肢がいずれも手のようになっていることは特徴と言えるかもしれない、と指摘します。これにより、手足の親指が残り4本の指と離れた拇指対向性を示し、枝などをつかめる、というわけです。また、両目が顔面前方にあり、立体視できることも霊長類共通の特徴で、樹上生活への適応と考えられています。

 霊長類(霊長目)は、大きく曲鼻亜目と直鼻亜目に分類されます。かつては原猿亜目と真猿亜目に二分されていましたが、原猿に分類されていたメガネザルが系統的には真猿類に近いと明らかになり、メガネザルと真猿類をあわせて直鼻猿に分類されるようになりました。真猿類は一般的に想像されるだろう「サル(monkey)」のことで、さらに広鼻猿類と狭鼻猿類に区分されます。広鼻猿類はラテンアメリカに、狭鼻猿類はアジアとアフリカに生息しています。狭鼻猿類はさらにオナガザル上科とヒト上科に区分され、オナガザル上科には日本固有種のニホンザルも含まれます。ヒト上科は類人猿で、比較的小型のテナガザル科と大型類人猿およびヒトを含むヒト科に区分されます。

 霊長類は熱帯から温帯にかけての森林におもに分布しており、赤道付近の熱帯森林では同所的に複数(場所によっては十数種)の霊長類が共存しています。霊長類の中には乾燥地や寒冷気候に適応した種もおり、ヒヒやパタスモンキーは乾燥地の木が疎らなサバンナに生息しており、二次的に地上性が強くなっています。ニホンザルは積雪地帯にも生息しており、ヒトを除く霊長類の分布の北限(青森県下北半島)を表しています。

 霊長類の祖先は樹上の昆虫食者として進化したと考えられており、夜行性曲鼻類の多くはそうした食性ですが、真猿類はほとんどが昼行性で、果実を主食とする雑食性です。真猿類の中には脊椎動物や昆虫を捕食する種もいますが、コロブス亜科は葉食に適応した胃の構造を有しており、ゴリラは草本を中心とした食性で、草食傾向がつよい霊長類もいます。

 霊長類の捕食者には、中~大型の食肉目や大型猛禽類や爬虫類などがいます。大型食肉目はヒトも含めて大型類人猿を捕食することがあります。霊長類の進化において捕食圧は重要で、とくに昼行性霊長類の集団生活は、捕食者への対抗のためと考えられています。集団生活により捕食者を早く発見できるほか、捕食者に標的を絞りにくくさせる「薄めの効果」や、集団防衛の効果が推測されています。一方、集団生活により採食競合が激しくなるため、捕食者に対する利点と採食に関する不利益の均衡で集団規模が決定されている、と考えられています。動物の生体には寄生者の存在も重要で、多くの霊長類は回虫や条虫や線虫や蟯虫といった内部寄生中に感染しており、その多くは複数種で共通しています。外部寄生虫も霊長類の進化においては重要で、多くの霊長類にとって重要な社会行動である毛づくろいは、外部寄生虫であるシラミ除去のためです。


●霊長類の社会

 霊長類の社会について、伊谷純一郎氏が社会構造を全体としての社会として把握するのに対して、欧米の霊長類学では、社会は下位の要素に分解できる、と考えられる傾向が強いようです。たとえば、社会システムは、社会組織と繁殖システムと社会構造に3区分されています。ここでの社会組織とは、社会集団の大きさや性年齢構成や時空間的な凝集性などです。単独生活やペアや単雄複雌群や複雄複雌群といった区分は、社会組織に関するものです。繁殖システムは、じっさいにどのような雄と雌が交尾により仔を残すのか、という問題で、社会組織と密接に関連しますが、区別して考えるべきとされます。たとえば、単独生活の霊長類でも、1頭の雄が複数の雌の行動圏を移動し、繁殖に関しては一夫多妻になっている場合があります。社会構造は、社会的相互作用のパターンと、その結果として生じる社会関係の累積です。たとえば、ある種では血縁雌同士の絆が強く、別の種では雄同士が強固な関係を築きます。

 夜行性曲鼻類の多くは単独性で、交尾と子育ての間だけ同種他個体と関わります。夜行性曲鼻類は営巣し、仔を1回に複数産む種がいる点でも、昼行性真猿類とは社会の特徴が異なります。曲鼻類の中でも比較的から他の大きい昼行性のキツネザル類は、母系の複雄複雌群を作ることが多く、ワオキツネザルのように、雌の方が体は大きく、雄より優位な種も存在します。広鼻猿のうち、クモザルなどは父系の複雄複雌群を作ります。小型のマーモセット類は、繁殖ペアと子供たちで集団を作ることが多く、双子が多いことも特徴です。雄も子供の運搬などを手伝い、父親が子育てを手伝う点でヒト社会との共通点も注目されています。

 ニホンザルなどマカク属は、母系の複雄複雌群を作ります。母娘や姉妹など母系の血縁に基づいた雌同士の結びつきが強く、個体間で順位が不明なことも多くなっています。ヒヒには、1頭の雄と複数の雌から構成される「ワン・メイル・ユニット」が多数集まる重層社会を形成するものもしられています。派手な顔をしているマンドリルは、ヒトを除く霊長類で最大の集団を形成し、詳細はよく分かっていませんが、500~600頭の大集団が確認されています。

 類人猿は、少ない種数のわりには多様な社会を形成します。テナガザルは、多くの場合ペア型の集団を作り、雄と雌が共同で縄張りを防衛します。オランウータンは、昼行性霊長類としては例外的に単独性が強く、典型的には、単独で動く複数の雌の遊動域を1頭のフランジ雄(顔ひだのある成熟雄)がカバーしますが、地域によっては複数の雌が集団を作ることもあります。ゴリラはまとまりのより単雄複雌群を作りますが、マウンテンゴリラでは、成熟した息子が群に残り、父系的な複雌群となることもあります。チンパンジーとボノボは父系の複雄複雌集団を形成します。類人猿の社会に共通しているのは、いずれも非母系である点です。母系社会は哺乳類の多くの種に見られるため、類人猿(ヒト上科)で母系が見られない理由について、現時点で明確な答えはありません。

 霊長類では離合集散が見られ、集団内の構成員が繰り返し集まったり離れたりします。以前は、クモザルやチンパンジーなどが離合集散型の社会を作り、ニホンザルやゴリラの安定した群型社会とよく対比されていました。しかし、こうした二分法は必ずしも適切ではない、と指摘されるようになっています。たとえば、基本的には安定した群を作るニホンザルでも、群が数日間二分してしまったり、1~数頭の個体が群から離れてしまったりする現象が確認されています。現在では、離合集散性は度合の問題で、離合集散性が低くて遊動時の構成員が安定した社会から、離合集散性が高くて遊動時の構成員が大きく変わる社会まで連続的に把握すべきと考えられています。

 離合集散性の高い社会を作るチンパンジーでは、単位集団の構成員が日常的には1~数十頭に分かれて遊動します。こうした一時的な小集団は「パーティ」もしくは「サブグループ」と呼ばれています。採食時には平均2~4頭のパーティとなることが多く、移動や休息のさいには十数頭くらいとなります。そのため、離合集散性の度合は、基本的には食物の分布と量に関係している、と考えられています。季節によっては、パーティ同士が数ヶ月も出会わないこともありますが、長期の別離でも単位集団が崩壊することはなく、再会しても同じパーティで共に遊動できます。離合集散性の高い種では、別離後の再会時に、「挨拶」と呼ばれる行動が生じることも多くあります。


●知性

 霊長類の治世の進化に関する仮説は、「生態仮説」と「社会仮説」に大きく区分されます。生態仮説では、複雑な環境への対処が知性の進化に重要だった、とされます。環境の中から餌を探し出すことなどにおいて高い知性が必要だった、というわけです。より具体的には、行動圏の中に食べ物がある場所と時期を覚えておく「メンタルマップ」、地下や倒木の中などに隠れた食物や、棘や殻などで防御された食物を利用する「取り出し採餌」などが指摘されており、道具使用も生態仮説の一部として理解できます。

 社会仮説では、集団生活を送る中で同種の他個体と駆け引きをしたり協力したりするといった、社会的もんだいへの対処により知性が進化した、とされます。多くの昼行性霊長類は集団を作るので、社会的環境が霊長類の治世の進化においてとくに重要な淘汰圧になった、というわけです。狭鼻猿類において集団規模と大脳新皮質との間の正の相関が見られることからも、この仮説は支持されています。社会的知性仮説の中でも、とくに相手を騙したり出し抜いたりすることを強調するものは、「マキャベリ的知性」と呼ばれています。

 かつてはヒトにのみ見られると考えられていた「知的」行動が他の霊長類でも確認されるようになってきており、道具使用はその代表例です。動物の行動研究において道具とは、下界から切り離されて手や口などで操作可能な物体と定義され、類似の機能を果たす「基盤使用」と区別されます。つまり、操作可能な石を使ってナッツを割る場合は道具使用で、岩盤にナッツを打ち付けて割る場合は基盤使用となります。道具使用は霊長類に限らず、道具使用は稀でも基盤使用が多い種もいます。

 チンパンジーの道具使用は、おそらく非ヒト動物では最も多様で、また最もよく調べられています。重要なのは、道具使用自体はチンパンジーにおいて普遍的ですが、使用道具は場所により異なることです。これは、道具使用が固定的行動ではなく、何らかの社会学習による獲得であることを示唆します。じっさい、チンパンジーの道具使用の獲得には一定の時間がかかり、多くの場合2~3歳で最初の道具使用に成功し、効率よく使えるようになるには、さらに数年かかります。ナッツ割りのように石の道具が使われる場合もありますが、チンパンジーの道具の大半は植物性(棒や蔓や葉など)です。これは初期人類の道具使用にもおそらく当てはまり、石器として考古学的証拠が残るずっと前から植物性の道具はつかわれていた、と考えられます。

 社会的知性では、チンパンジーの駆け引きがよく知られています。タンザニアのマハレの事例では、第1位雄のカソンタと第2位のソボンゴが順位をめぐって争っている間、第3位のカメマンフはカソンタとソボンゴのどちらにも付く日和見的な姿勢を見せ、カメマンフの動向により上位2個体の形成が逆転するため、カメマンフは第3位であるにも関わらず、上位2個体に一目置かれる存在となり、その間一時的に、カメマンフの交尾頻度が高くなりました。類似の三者関係は飼育下でも観察されています。他には、マハレのントロギという第1位雄は、自分にとって脅威となる第2位の雄が他の雄と毛づくろいしていると、突撃ディスプレイをして蹴散らす一方で、連合相手には肉分配で寛容だったことなど、自分以外の個体関係も理解したうえで狡猾に振舞っていました。


●肉食と食物分配

 人類進化のある段階で、肉食の重要性が増したと考えられています。ヒトは他の類人猿と比較して明らかに高い割合で動物性食物を食べており、相対的に腸が短く(一般的に、肉食動物と比較して草食動物の腸は長いと考えられています)、大型化した脳が高質の栄養を必要とすることなどから、支持されています。そのため、かつては「狩猟仮説」が優勢でした。狩猟仮説では、人類進化の過程で、家族・性的分業・直立二足歩行・食物の運搬・ホームベース・道具使用などのヒト的特徴が、いずれも狩猟の開始とともに生じた、とされていました。現在ではこうした狩猟仮説は否定されており、それは、直立二足歩行を始めた直後の人類が弓矢のような高度な武器を用いて体系的な狩猟をしていたとは考えられていないからです。しかし、肉食および狩猟の重要性は変わっておらず、その関係でチンパンジーの肉食が注目されることも多くなっています。

 チンパンジーは日常的に哺乳類を捕らえて食べますが、その対象は自身よりも小型の動物です。霊長類学ではこうした捕食が「狩猟」と呼ばれますが、初期人類の「狩猟」が議論される場合には、こうした小動物の捕獲はしばしば考慮されません。それは、獲物の化石に残された痕跡などから明らかにできるのは、槍や弓矢などの道具を用いて大型獣を組織的に狩るようなものがほとんどだからです。

 チンパンジーの狩猟対象はおもにアカコロブスという猿類で、小型のレイヨウやイノシシの幼獣や齧歯類や鳥類なども対象となります。サル以外の獲物の場合、機会的につかみ取りすることが多いものの、アカコロブスが対象の場合は集団での狩猟が行なわれます。つまり、多くのチンパンジーが包囲網を作るようにアカコロブスの群にさまざまな方向から近付き、一部の個体は木に登ってアカコロブスを枝先に追いやり、逃げ損なって地面に落ちるアカコロブスを別の個体が待ち伏せています。こうした状況は、一見すると勢子と待ち伏せ役との役割分担ができており、「協力」しているようですが、この評価に関しては議論となっています。節約的解釈では、各個体が最も捕まえやすそうと判断する場所に自らを配置することで、結果的に包囲網が形成され、役割分担ができているように見える、と指摘されています。真に協力的な場合、協力の程度に見合った「分け前」があってしかるべきですが、そうなっていない場合が多い、というわけです。むしろ多くの場合、狩猟への貢献度よりも肉の保持者との社会関係により分配がなされています。

 初期人類は大型獣狩猟を行なっていなかった、との見解で重視されているのが屍肉食です。肉食獣などが殺した獲物の屍体を入手する形での肉食が先行していた、というわけです。チンパンジーも屍肉食をしますが、その頻度は自ら動物を捕まえるよりもずっと低く、それは森林で新鮮な動物の屍体に遭遇する頻度が低いからです。チンパンジーが動物の屍体と遭遇した場面の分析では、屍体が狩猟対象になっている(食べ慣れている)種のもので新しければ、屍肉食をする割合は高く、同所的に生息するヒョウ(チンパンジーにとって捕食者です)から獲物を入手することはないと考えられてきましたが、チンパンジーが集団で駆けつけてヒョウの獲物を入手して食べた事例も報告されています。

 チンパンジーの獲物は小型でも5~10kgほどあるのりで、一気に食べられるものではなく、肉食のさいには頻繁に分配が見られます。食物分配(もしくは食物移動)も、人類進化の考察では興味深い行動です。多くの霊長類が主食とする果実は、ほぼその場で口に入れて消費できる程度のサイズで、周辺で他にも入手できるため、さほど食物分配が生じる必然性はありません。ただ、未成熟個体が母親から果実などの一部を与えられて食べるような、恐らく採食アイテムの学習に貢献している事例は、より多く見られます。チンパンジーの肉分配は基本的に消極的で、貰う側がベッギング(掌を上に向けて相手の口の付近に伸ばすなど)を示して初めて、分配が起きることがほとんどです。このため、食物分配は「許容された盗み」とも呼ばれており、基本的には肉を完全に防衛するよりも一部を分配した方がコストは低い、と考えられています。また、分配される食物は少量で比較的低質のもの(肉をほとんど食べた後の骨など)が多くなります。それでも、肉はチンパンジーにとって価値が高く、分配は社会的用途にも使われます。たとえば、第1位雄が地位を高める目的や、毛づくろいや喧嘩での支援、交尾といった「見返り」を期待してのものなど、戦術的な分配が知られています。チンパンジーの肉分配では、保持者は高位雄であることが多く、価値の高い肉を入手しようと多くの個体が集まってくるため、ひじょうに騒がしく、攻撃的交渉も頻繁に生じます。


●文化

 文化は言語や知性とともにヒト固有の特徴と考えられることが多く、遺伝的多様性の低いヒトの行動や社会が多様なのは、文化の存在が大きいことを示しています。非ヒト霊長類にも文化が存在し得ることは1952年に今西錦司が予言しており、その後のニホンザルの研究で実例が報告されました。1973年には、各地のニホンザルの行動比較から、多様な行動が文化(もしくは前文化)として報告されましたが、国際的にはさほど認知されず、この時点では文化の存在はヒトだけとする見解が根強かったようです。

 動物の文化が世界的に認められるようになった発端は、チンパンジーの文化に関する1999年に報告された研究です。その後、チンパンジーの文化に関する研究が盛んになり、オランウータンやオマキザルやボノボや鯨類でも、行動の地域間比較により文化の存在が報告されています。チンパンジーの文化研究は物質文化が中心で、それは一つには、チンパンジーに多様な道具使用が見られ、地域間での比較が進んだためです。道具使用は知性の進化との関連が指摘されており、道具自体や使用の痕跡が残るため、直接観察ができないような調査地でも研究可能であることも、その理由となっています。

 文化は物質文化だけではなく、挨拶のさいに抱き合うか会釈をするかといった違いも、文化的と考えられます。非ヒト霊長類ではこうした視点での詳細な研究はまだありません。社会的慣習の代表的な事例は、チンパンジーの対角毛づくろいです。これは、2頭が対面して座り、互いの対応する手を宙に上げて組み、相手の脇の下を毛づくろいする、という行為です。この行動はいくつかの集団で見られ、他集団では報告がなく、飼育下の集団での報告もあります。他に、毛づくろいのさいに相手の背中などを「掻く」という単純な行動(ソーシャル・スクラッチ)が限られた集団でしか見られなかったり、毛づくろいのさいに発せられる音が集団によって違ったりする、といった現象も報告されています。

 求愛ディスプレイも集団間で異なり、たとえばマハレでは、求愛のさいに葉を唇でちぎる「リーフ・クリッピング」が行なわれますが、ボッソウでは同じ状況で「かかと叩き」が行なわれます。いずれも微細な干支が出て、その音で相手の注目を惹きつける、と考えられています。類似の機能を果たすものとして、マハレの「灌木曲げ」やタイの「拳たたき」などがあります。こうした社会的習慣の興味深い点は、集団間で違いがあることに積極的な意味を見いだしにくいことです。たとえば、「リーフ・クリッピング」なのか「かかと叩き」なのかに大きな機能的違いがあるとは考えにくく、ヒトの社会的習慣についても同様の「意味がわからない」違いが存在することから、人類学的には興味深い現象です。

 非ヒト動物の研究者による「文化(culture)」の定義は、「(少なくとも部分的には)社会学習によって集団内に共有された行動変異」と言えますが、ほぼ同じものを「伝統(tradition)」と呼んで、文化と区別する研究者もいます。その理由として、高次の社会学習である模倣や教育で伝達されるもののみを文化とすべきとの見解や、文化には累積的に複雑さが増大するラチェット効果があるとの見解が挙げられています。文化(もしくは伝統)に何らかの社会学習が必須との点ではほとんどの研究者が一致しており、そうした社会学習についての研究はほとんどが飼育下で行なわれています。これは、学習に影響し得るさまざまな要因を制御しやすいからです。社会学習の存在を厳密に証明するには、社会的影響を排除した学習との比較が必須ですが、野生動物ではそうした状況をそもそも考えにくい、という事情もあります。

 野生下での分化の存在を示すために用いられることが多いのは、「民族誌的方法(排除法)」です。これは、まず同種の行動を複数の地域間で比較し、地域変異を把握します。全ての変異が文化的なものではないため、遺伝的説明や環境による説明が排除される時に文化的な違いとされます。ただ、この方法論には批判もあり、未知の遺伝的および環境的要因による違いの可能性を排除できないので、じっさいには文化ではないものを文化と判断している可能性があります。逆に、遺伝や環境と文化がそれぞれ排他的と考えることで、じっさいに文化的な変異を文化ではないと排除する恐れもあります。このように、霊長類、さらには動物の文化については、まだ論争が続いています。


●殺し

 ヒトの行動や社会の特徴を理解するには、殺しという暗い側面に注目することも重要です。1960年代頃までは、同種殺しはヒトに特有と考えられていました。非ヒト動物でも種内攻撃はあるものの、通常は相手を殺すまでには至らない、というわけです。こうした見解が大きく変わる契機は、霊長類の野外研究でした。霊長類の子殺しに関する最初の報告は、インドのダルワールでのハヌマンラングールの事例で、1962年に杉山幸丸氏により発見されました。これは当時病的な異常行動と考えられ、正当な評価を受けませんでしたが、その後、社会生物学の興隆とともに、子殺しは雄の繁殖戦略として有効と考えられるようになっていきます。

 ハヌマンラングールは単雄複雌群を形成し、群外の雄による乗っ取りが生じる場合もあり、そのさいに乗っ取り雄が前の雄の子供を次々と殺害します。子供を殺された雌たちは発情を再開し、乗っ取り雄と交尾します。通常、哺乳類の雌は授乳期間には発情しませんが、乳飲み子を失うと発情を再開するので、乗っ取り雄は子殺しにより前の雄の子供が離乳するまで待たずに子供を残せることになります。こうした子殺しは、種もしくは集団の利益のためではなく、個々の雄が自分の遺伝子を最大限に残す戦略として考えれば理解可能です。その後、子殺しは霊長類を含む多くの哺乳類種で確認されており、現在では哺乳類の約40%の種で子殺しがある、と指摘されています。

 チンパンジーでも子殺しが確認されており、殺した乳児を食べるカニバリズムがしばしば伴います。これはハヌマンラングールと同様に雄の繁殖戦略と考えられることも多いものの、乱婚社会のチンパンジーでは自身の子供である可能性がある集団内の乳児を殺す事例や、雌が殺す事例もあるため、単純に繁殖戦略との解釈が当てはまらない場合も多くあります。そのため、競合者を減らすためとか、栄養(肉)のために殺すとかいった仮説もありますが、決定的ではありません。チンパンジーでは、子殺しだけではなく成熟個体の殺害もあります。多くの場合、複数個体が1頭を攻撃し、数的優位性の状態で殺害が起きます。成熟個体の殺しも、集団間のものが多いものの、集団内でも起きます。こうした複数個体による「連合での殺し」ヒトの戦争の起源と関連づけて論じる研究者もいますが、チンパンジーの連合的殺しの場合はあくまでも多数対1個体の攻撃で、戦争に見られるような集団間の組織的な殺し合いではありません。


●ヒトの相対化

 形態や生理や遺伝子などの生物学的特徴は、ヒトでも他の生物でも同じ手法で調べることが可能で、直接的比較ができます。一方、行動や社会については、人間の特殊性が強調されます。これは、人間の行動や社会に関する研究が通常は文系分野で行なわれ、場合によっては生物学とは無関係であるとすら考えられてきたこととも深く関連しています。古くは霊魂や理性、最近では言語や象徴能力など、人間だけが有し、他の動物とは明確に分断されるようなメルクマールが強調され続けてきました。そうした特徴の故に、「人間」は生物学的な「ヒト」以上の存在である、というわけです。

 しかし、ヒトの行動や社会を他の霊長類、さらには動物と比較し、できるだけ相対化することで人間を知ることにつなげることも必要でしょう。霊長類研究は、一昔前ならば人間に特有と考えられてきた数々の行動上の特徴が、程度の違いはあれども、他の霊長類にも見られることを明らかにしてきました。非ヒト霊長類における個体間のやり取りは、「社会的」という用語を使わずに記述することは困難です。

 行動や社会が生物学と無縁のものと考えることは、もはや不合理です。ヒトと他の生物を比較することは、ヒトを物質に諫言して考えることではなく、決定論的に考えることでもありません。ヒトが機械ではないのと同様に、他の生物も機械ではありません。細胞内の物質や遺伝子の水準でのメカニズムの中には、決定論的な仮定もあるとしても、個体の行動や個体間の相互作用により形成される社会水準となると、もはや決定論的かていでは記述しきれないような現象が日常的に生じています。ヒトの行動や社会もまた、他の生物との比較の中で相対的なものとし把握することこそが、本当の意味での人間性の理解につながるでしょう。


参考文献:
中村美知夫(2021)「ヒト以外の霊長類の行動と社会 ヒトを相対化する」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第1章P2-20

ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ

 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300~7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世~完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000~37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万~5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000~24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300~7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000~25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340~13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980~7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万~8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980~7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800~3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000~3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000~3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期~後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800~2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000~2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000~2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6~7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8~9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000~15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415~4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640~42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


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山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)
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新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造

 新石器時代と青銅器時代の現在のクロアチアにおける人口史と社会構造エピに関する研究(Freilich et al., 2021)が公表されました。ヨーロッパ南東部のクロアチアは、連続した生態地域の多様な景観を有しており、東部のアドリア海沿岸と北部の温暖なパンノニア平原を隔てる嶮しい山々があります。クロアチアはヨーロッパ中央部とバルカン半島と地中海の接点に位置するため、アナトリア半島とエーゲ海と草原地域と黒海への経路として用いられてきており、北部の低地はカルパチア盆地を通ってヨーロッパへとつながっています。

 したがってクロアチアは、アナトリア半島西部からヨーロッパへの最初の移住農耕民にとって重要な回廊で、ヨーロッパ最初の農耕民はドナウ川沿いの内陸部とアドリア海沿岸東部の海岸経路を通ってヨーロッパの他地域に拡大しました。クロアチアはヨーロッパにおける人口集団と文化的変遷の理解に重要ですが、利用可能な人類遺骸が限定されており、先史時代人口集団の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)と社会的複雑さについての詳細な知識は乏しいままです。

 以前の研究では、ユーラシア西部における中石器時代に続く遺伝的不連続性が示されてきており、それは初期農耕民の移住および農耕の拡大と関連しています(関連記事)。現在のクロアチアで発見された少ない古代人の刊行されたゲノム規模データで示されてきたのは、新石器時代と銅器時代の人々のゲノムがアナトリア半島の初期農耕民と類似の祖先系統を共有しているものの、一部の銅器時代個体と沿岸部青銅器時代個体群は、紀元前三千年紀にヨーロッパへと拡散した草原地帯牧畜民集団と関連する追加の祖先系統を示す、ということです。

 ヨーロッパ南東部の社会的複雑さの始まりは、考古学者の間で集中的に研究されてきた分野でもあります。古代DNA研究によりますます共同体内の社会組織が調べられてきており、過去の社会の居住パターンや生物学的親族関係や社会的地位が明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。これらの研究では、たとえば、密接に関連した個体がヨーロッパ全域の後期新石器時代と青銅器時代の共同体において特定されてきており、多様性はミトコンドリアが高い一方でY染色体が低いことと関連しており、女性族外婚と父方居住の社会的組織が示唆されます。しかし、これまでクロアチアでは、そうした詳細で遺跡固有の研究はほとんど行なわれてきませんでした。

 現在のクロアチアの東部地域はパンノニア平原(カルパチア盆地とほぼ同義)の南端の境界を定めており、ドナウ川とサヴァ川とドラーヴァ川と他の大きな支流が交差しています。これらの支流には多くの先史時代集落があり、この地域の通交と交換のネットワークの重要な部分を形成しています。クロアチア東部における新石器時代の出現は、現在のセルビア西部および北方からカルパチア盆地にまで拡大したスタルチェヴォ(Starčevo)文化の到来にまでさかのぼりますが、沿岸部の遺跡では、前期新石器時代は紀元前6000年頃からのインプレッソ土器(Impressed Ware)文化の存在により示されます(図1)。

 紀元前5200年頃までに、スタルチェヴォ文化はソポト(Sopot)文化に取って代わられました。ソポト文化では、おもに子供や女性が家の床下や壁沿いか、集落内の他の場所に埋葬される、壁内埋葬の儀式が行なわれていました。古代DNA研究が対処できる一つの重要な問題は、そうした壁内埋葬には誰が選ばれ、生物学的親族関係が役割を果たしたのかどうか、ということです。さらに、遺伝的祖先系統と生物学的親族関係が、身体の位置や遺跡内の埋葬場所もしくは副葬品の分布など埋葬儀式における違いと関連しているのかどうか、解明し始められています。これらの埋葬の違いは、異なる社会的集団の存在を示唆し、故人もしくは会葬者の帰属もしくは業績の地位を表しているかもしれません。

 ヨーロッパ南部とトランスダニュービア(Transdanubia)東部では、後期新石器時代までに新たな埋葬慣行が生活空間から離れた墓の出現とともに現れました。これは被葬者間の増大する社会的分化を伴い、死者と人々の関係における重要な変化を示します。クロアチアの銅器時代(紀元前4500/4300~紀元前2400年頃)には、現在のクロアチアにラシニヤ(Lasinja)文化やバデン(Baden)文化やコストラク(Kostolac)文化やヴチェドル(Vučedol)文化などの集落が見られ、交易ネットワークが成長し、身分の高い被葬者の出現に見られるように社会階層がより明確になりました。より明確な社会階層の発達は、現在のクロアチアでは紀元前2400~紀元前800年頃となる青銅器時代における金属の使用増大と関連しているようで、社会的序列の上昇に伴い、ヨーロッパ東部草原地帯とエーゲ海地域とアナトリア半島からの移民がさらに増えます。

 パンノニア平原で共存していた多くの中期青銅器時代文化の一つがトランスダニュービア皮殻土器(Transdanubian Encrusted Pottery)文化(以下、TEP)で、これは現在のクロアチア東部において紀元前2000~紀元前1500年頃に南北に分かれて存在していました。これまで、おもに火葬遺骸がTEPと関連して見つかってきましたが、今では新たに土葬遺骸が利用可能となって、その遺伝的および文化的構造の解明に古代DNAを用いることが可能となり、その遺伝的データを用いて、威信材の副葬品の分配で見られるような社会的地位についてより多くを知ることができます。

 本論文は、現在のクロアチア東部の2ヶ所の遺跡で発見された28個体の新たなゲノム規模データを提示します。その年代は中期新石器時代からローマ期(1個体)で、移住と混合の過程が、あまり研究されていないクロアチア東部のゲノム変化にどのような影響を与えたのか、調べられました。さらに、さまざまな期間の壁内埋葬地および壁外墓地の両方における異なる埋葬儀式の存在は、クロアチア東部において先史時代を形成した変化する生物文化的影響の文脈における、生物学的親族関係や人口統計学や社会組織への貴重な洞察を得る機会を提供します。以下は本論文の図1です。
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●標本と考古学的背景

 合計54個体が全ゲノムショットガン配列で調べられました。このうち、ベリ・マナスティル・ポポヴァ(Beli Manastir-Popova)遺跡(以下、BMP遺跡と省略)の中期新石器時代層の19個体が分析され(クロアチアPop_MN)、これはクロアチアでこれまで発掘された最大のソポト文化居住地遺跡を構成します。発掘された個体のほぼ半数は16歳未満で、亜成体の高い死亡率が示唆されます。これらの遺骸の2/3は女性でしたが、成人では男女が同数でした。ほとんどの個体は、大きな竪穴住居の壁に沿って、あるいは居住地内の他の竪穴に縮まった状態にて新石器時代埋葬儀式で葬られており、時には頭の近くに土器の副葬品や他の生活用用品が置かれていました。これらのうち3標本(POP07とPOP09とPOP14)には、比較的多くさまざまな副葬品が共伴しており、それらは家庭用や経済活動と関連する日用品で構成されています。別の4個体は、遺跡の東端に沿って、うつむけ若しくは仰向けになった状態で堆積しており、ほぼ副葬品はありませんでした。新たな放射性炭素年代が銅器時代の1個体(クロアチアPop_CA)とローマ期の1個体(クロアチアPop_RomanP)で得られました(図1a・b)。

 BMP遺跡から約12km南に中期青銅器時代のジャゴドヒャク・クルツェヴィネ(Jagodnjak-Krčevine)遺跡(以下、JK遺跡と省略)が位置し、TEP文化に分類されています。JK遺跡では土葬された7個体がさらに分析されましたが、同じ時期の火葬された30個体も発見されています。JK遺跡の土葬個体には、土器から金の装飾品までさまざまな程度の副葬品が含まれています。これらの新たな集団は、ユーラシア西部人口集団の既知のデータと共同分析されました。とくに比較対象となったのが、現在のクロアチアの複数遺跡の個体です。それは、同遺跡もしくは近隣地域では、中期新石器時代のオシイェク(Osijek)遺跡個体(クロアチアOsijek_MN)、銅器時代のBMP遺跡個体(クロアチアCroatia_Pop_CA)、より広範な地域では、銅器時代のラドヴァンチ(Radovanci)遺跡個体(クロアチアRadovanci_CA)やヴチェドル(Vučedol)遺跡個体(クロアチアVučedol_CA)、青銅器時代のダルマチア(Dalmatian)遺跡個体(クロアチアDal_BA)や、現在のハンガリーとバルカン半島のさまざまな期間の集団です。

 これら人類遺骸の錐体骨から最大1倍の全ゲノムショットガンデータが生成され、約124万ヶ所のゲノム規模一塩基多型を用いて擬似半数体が遺伝子型決定されました。遺伝的に15人の女性と13人の男性が特定されました(表1)。これらのデータが、既知の現代人1311個体および古代人1102個体と統合されました。これら現代人と古代人のデータに基づいて主成分分析が実行され(図2)、またADMIXTUREを用いて教師なし様式でクラスタ化が実行されました。


●新石器時代からローマ期への遺伝的変化

 本論文で新たに報告された個体群は主成分分析では、新石器時代農耕民集団と青銅器時代牧畜民集団との間に広がる、ヨーロッパ勾配に沿って位置します。クロアチアPop_MNは他のヨーロッパ南東部および中央部の新石器時代および銅器時代個体群と密接にまとまり、その中にはクロアチアのラドヴァンチ遺跡とヴチェドル遺跡の銅器時代個体群も含まれます。この個体群はさらなる分析でクロアチアの北東部銅器時代クラスタ統合され、アナトリア半島関連祖先系統(アナトリアN)からの主要な寄与とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)関連祖先系統からのわずかな寄与を示す、類似のADMIXTURE特性を共有します。

 クロアチアPop_MNとクロアチアOsijek_MNが統合され、クロアチア北東部MNとまとめられてさらに分析されました。その後、外群f3統計(クロアチア北東部MN、検証集団;ムブティ人)で他の古代および現代のユーラシア西部人口集団と共有される浮動が検証されました。クロアチア北東部MNは、バルカン半島とヨーロッパ中央部の他の新石器時代人口集団およびサルデーニャ島現代人と、最も多くの遺伝的浮動を共有します。

 次に、ヨーロッパ人のゲノム多様性に寄与したと知られている、中石器時代狩猟採集民を表すWHGとアナトリア半島新石器時代農耕民を表すアナトリアNの遠位供給源を用いて、qpAdmで混合割合が定量化されました。クロアチア北東部MNは2.4±1%のWHGと97.6±1%のアナトリアNの混合としてモデル化でき、さらには100%のアナトリアNモデルがデータと適合し、これはバルカン半島とハンガリーの新石器時代集団におけるひじょうに低いWHGからの遺伝子移入を示す以前の研究と一致します(関連記事)。

 鉄門(Iron Gates)狩猟採集民(鉄門HG)をWHGの代わりに用いると、よく似た結果が得られます。DATESを用いて、これらの標本の前後関係の年代の前に、このWHGとアナトリアNとの混合が19~42世代前に起きたと推定され、前期新石器時代に相当します。これは、追加のWHGからの遺伝子流動を示すヨーロッパ中央部および西部の中期新石器時代人口集団とは対照的に、中期新石器時代におけるクロアチアの人口集団の継続性をさらに裏づけます。以下は本論文の図2です。
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 新たな銅器時代個体POP39が、同じ遺跡と時代に由来する既知の個体I3499とまとめられました(クロアチアPop_CA)。主成分分析では、クロアチアPop_CAはPC2軸に沿ってさらに上に移動し、沿岸部ダルマチア遺跡の既知の青銅器時代3個体(クロアチアDal_BA)とまとまり、ブルガリアとハンガリーの青銅器時代個体群およびヨーロッパ南部現代人のゲノムの広範な分布に収まり、草原地帯関連祖先系統の存在が示唆されます。じっさい、qpAdmでの遠位混合モデル化では、71±8%のアナトリアNと29±8%のヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の寄与が推定され、新石器時代には欠如しているものの、ユーラシアの銅器時代と青銅器時代の人口集団間では広く見られる草原地帯関連祖先系統を表しています(図3a)。より近位の、広く同時代の先・草原地帯集団であるクロアチア北東部CA(64±8%)とヤムナヤ・サマラ(36±8%)では、より上手く2方向混合モデルが得られました(図3b)。

 新たに報告されたJK遺跡の中期青銅器時代個体群(クロアチアJag_MBA)のゲノムは、一般的な考古学的背景と主成分分析上のクラスタ化(図2)に基づいて、さらなる集団遺伝学分析では単一の人口集団とみなされました。PC1軸沿いにヨーロッパ西部および鉄門狩猟採集民に向かって顕著な移動が観察され、外群f3統計では最も多くの浮動が共有されます。供給源集団としてWHGとアナトリアNとヤムナヤ・サマラを用いての遠位混合モデル化は、クロアチアPop_CAとは対照的にクロアチアJag_MBAにおける大きなWHG構成要素(20±2%)を確証し、広く同時代のダルマチア遺跡青銅器時代個体で推定されたWHG断片の2倍以上です(図2a)。これは、その有意に正のf4検定(ムブティ人、WHG;クロアチアDal_BA、クロアチアJag_MBA)と一致します。JK遺跡集団は、より古いクロアチアPop_CAと比較してわずかに大きい草原地帯関連祖先系統も有しており(33±5%)、バルカン半島についての以前の知見と一致します。WHGを鉄門HGと置換すると、同等の結果が得られます。JK遺跡集団は主成分分析ではカルパチア盆地の青銅器時代人口集団の広範な分布やフランス人などヨーロッパ北西部現代人の左側に位置し、西方青銅器時代集団の痕跡の東方への拡大が示唆されます。

 ダルマチア遺跡青銅器時代個体群や他の個体群のゲノムに対するJK遺跡集団の異なる遺伝的類似性をさらに特徴づけるため、UMAPと既定のパラメータを用いて解像度を上げることで、クロアチアの新石器時代後の個体群のゲノム間の遺伝的下位構造が視覚化されました(図3c)。UMAPは遺伝的距離を直線的に反映していませんが、明確に定義されたクラスタが明らかになり、クロアチアPop_CAとクロアチアDal_BAは、おもに現在のイタリア北部人のゲノムとともに、ブルガリアとモンテネグロとルーマニアと一部のハンガリーの古代人ゲノムとまとまり、ヨーロッパ南部と一致する遺伝的特性を示します。qpWaveを用いた検定により、クロアチアPop_CAはダルマチア遺跡青銅器時代個体群にとって祖先系統の適した単一供給源を提供する、と確証されます。対照的にクロアチアJag_MBAは、ハンガリーとドイツとチェコとクロアチアの現代人のゲノムの左側に位置し、ヨーロッパ中央部の遺伝的痕跡が示唆されます。この一群における他の古代人ゲノムも、マコ(Makó)遺跡の前期青銅器時代個体やヴァタヤ(Vatya)遺跡の中期青銅器時代個体や後期青銅器時代個体に属する、カルパチア盆地の個体群を含みます。

 中期青銅器時代JK遺跡個体群に存在する過剰なWHG関連祖先系統から、この集団は追加のWHG関連祖先系統を有する人口集団の子孫で、それはより古いクロアチアの銅器時代もしくはダルマチア青銅器時代の個体群では欠けており、qpAdmモデル化と一致します(図3b)。考古学的証拠では、クロアチア東部の中期青銅器時代共同体とさらに北方の他の文化集団との間の交換ネットワークが示されています。カルパチア盆地におけるその年代と中核的分布、UMAPと主成分分析におけるクロアチアJag_MBAとのクラスタ化に基づくと、ハンガリーのマコ遺跡前期青銅器時代個体群(ハンガリーMakó_EBA)が、祖先系統の最も適切な祖先候補とみなされます。この選択は、クロアチアJag_MBAに対してWHGとの浮動の類似量を共有するハンガリーMakó_EBAによりさらに裏づけられます。じっさい、クロアチアPop_CA からの35±11%の寄与を有する2方向モデルとしてか、あるいは単一供給源として、ハンガリーMakó_EBAとの適したモデルが得られました(図3b)。以下は本論文の図3です。
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クロアチアJag_MBAについては、WHGとアナトリアNとの間の混合年代が、人口集団の放射性炭素年代と考古学的文脈の年代の統合より41±13世代前と推定されました。これは、銅器時代と重なる紀元前3424~紀元前2412年の範囲と一致します。また、qpAdmを常染色体とX染色体に別々に適用して、祖先的構成要素の継承における性差の偏りの可能性が調べられました。その結果、有意な性差がないことと一致しましたが、こうした分析における大きな標準誤差は、低いか中程度の性差を隠す可能性があります。


●青銅器時代後の遺伝的変容

 JK遺跡とダルマチア遺跡の青銅器時代集団はどちらも、主成分分析では同地域の現代の人口集団に近くはなく、さらなる有意な人口集団変化がそれ以降に起きた、と示唆されます。本論文のBMP遺跡のローマ期の唯一の個体(クロアチアPop_RomanP)は、青銅器時代後のクロアチアの稀なゲノムデータ(関連記事)を提供します(図4a)。このBMP遺跡のローマ期の1個体は、主成分分析とUMAPでは、クロアチアとブルガリアとルーマニアの現代の人口集団とまとまる、と明らかになりました(図2および図3c)。

このクラスタ化をf4統計で調べると、この個体はヨーロッパの古代および現代の人口集団と比較して、現代クロアチア人とクレード(単系統群)化する、と確証されました。次にqpWaveで人口集団の継続性を検証すると、クロアチアPop_RomanPが現代クロアチア人およびブルガリア人もしくはハンガリー人との遺伝的クレード形成と一致しました。当時のより広範な人口集団を代表しているのか否か不明な単一個体に基づいていますが、このデータから、広く現代の遺伝的識別特性はすでにローマ期までに形成されており、さらなる人口集団の置換は以前ほどには顕著ではなかった、と示唆されます。


●人口集団内の遺伝的多様性と親族関係と人口統計学

 次に、個々の祖先系統、ハプロタイプ多様性、親族関係、ROH(runs of homozygosity)の分析により、と人口集団内の遺伝的不均質性と人口統計学パターンが調べられました(図4)。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 qpAdmでの個々の祖先系統モデル化は、全ての中期新石器時代個体間の高い遺伝的均質性を確証し、大半は、WHG関連祖先系統からの遺伝子移入がなかったか低かったことと、埋葬儀式間の有意な違いがなかったことを示します。JK遺跡中期青銅器時代個体群も構造化されていない祖先系統を示しますが、草原地帯関連祖先系統の割合では部分的により大きな程度の不均質性を示します。

 Haplogrepで分類されたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプロタイプでは、BMP遺跡の新石器時代における高いハプロタイプ多様性が識別されました(表1、図4a)。1個体のmtDNAハプログループ(mtHg)はヨーロッパ狩猟採集民集団と関連するU5ですが、mtHgのほぼ60%はK およびT2系統です。これらのmtHgでは、mtHg-N1aおよびJとともに、クロアチア北部およびその隣接するカルパチア盆地の前期新石器時代のスタルチェヴォ文化および線形陶器(Linearbandkeramik)文化農耕共同体で報告された多様性のほとんどが見られ、遺伝的連続性が示されます。Y染色体ハプログループ(YHg)はYleafで分類され、同様に高度な多様性を示し、男性7個体は4つの異なるYHgで表されます(表1、図4a)。これらのうち、YHg-CおよびIは中石器時代人口集団で見つかりますが、YHg-G2aは一般的に新石器時代の拡大と関連しています。

 JK遺跡でも高いmtDNAハプロタイプ多様性が検出され、男性2個体はmtHg-T2b11の同じ定義変異を有していますが、中石器時代人口集団に存在する、mtHg-Uの下位3クレードとmtHg-Kの下位2クレードも見られます。YHgはG2aクレードに限定されますが、そのうち4個体は同じYHg-G2a2a1a2a2a1a(Z31430)です。第5の個体は変異決定の範囲を読み取れず、上位のハプロタイプに分類されます。これらの共有ハプロタイプは個体間の関連を共有しており、ゲノム規模親族関係分析でさらに調べられました。

 JK遺跡の個体群に関して、ペアワイズゲノム規模ミスマッチ率(図4a)では、JAG58がJAG06の一親等として特定され、その共有されるmtDNAとY染色体のハプロタイプは、この男性2個体が父子ではなく全兄弟(両親が同じ兄弟)だった、という解釈と一致します。さらに、JAG58はJAG34およびJAG82と二親等の関係にあります。JAG06とJAG34も、JAG78とJAG93の場合同様に、三親等もしくはそれ以上の親族関係を示す、ペアワイズミスマッチ率の低下が見られます。成人女性のJAG85は、親族関係が確認されていない唯一の個体です。

 中期新石器時代個体群間では一親等もしくは二親等の親族関係が特定されませんでしたが、BMP遺跡の個体POP05は、他の亜成体2個体(POP02とPOP04)とのより遠い親族関係を示す、低いペアワイズミスマッチ率が見られ、これら3個体は全て同じ竪穴住居に埋葬されています。POP05は、溝に埋まっていた年配男性のPOP24とも低いペアワイズミミスマッチ率を示します。これらのうち3個体も、同じmtHg-K1aを示します。高い近交係数は親族係数を上昇させますが、まとめると、これらの個体が同じ母系の一部だったことを示唆します。POP24も、POP02やPOP04やPOP07と遠い関連があるようで、同じYHg-I2a1b1(M223)を共有します。

 hapROH で4cM(センチモルガン)以上のホモ接合性の連続が推定され、近親交配の水準が評価されて、過去の配偶慣行が推定されました(図4a・c)。20 cM超の長いROHは最近の親族間配偶を示唆しますが、多くの短いホモ接合性の連続は、有効人口規模のより遠い制限を示唆します。中期新石器時代の8個体はROHを有さず、近親交配の欠如、したがって大きな配偶範囲を示します。しかし、残りの2個体(POP05とPOP09)は、多くの20 cM超となる長いROHを有しており、その合計は驚くべきことに95Cmを超えます。これは、POP05とPOP09がイトコもしくは同等の親族関係にある者同士の子供で、古代DNAの記録では珍しいことと一致します。別の3個体は、両親がマタイトコもしくは同等の親族関係同士であることを示す、20 cM超の長いROHをほとんど有していませんが、残りの個体は過去10世代以内の関連を示すROHを有しています。

 対照的に、JK遺跡個体群はROHの合計がずっと低く、20 cM超の長い連続はなく、全ての個体で短い連続がいくつかあり、より遠い関連が示唆されます。乳児のJAG93とJAG58は12cM超のROHを有しており、最大5世代前の両親の関連が示唆されますが、より短いROHがJAG58の一親等の親族であるJAG06で見つかっており、その混合特性に反映されている一部の不均質性を示します。銅器時代とローマ期の個体は、4cM以上のROHをほとんど若しくは全く示しません。以下は本論文の図4です。
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 最近の選択の対象となっている表現型特徴と関連する機能的一塩基多型(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の分析の結果、より明るい皮膚の色素沈着(SLC45A2とSLC24A5)およびより明るい目の色(HERC2)の派生的アレル(対立遺伝子)が全期間の個体に存在する、と明らかになり、SLC24A5の派生的アレルは新石器時代に移住の結果として頻度が急速に増加した、とする以前の知見と一致します。さらに、ヨーロッパ人で成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する一塩基多型の祖先的アレル(LCT rs4988235)を全個体が有しており、成人期には乳糖を消化できなかった可能性が示唆され、ヨーロッパでは乳糖耐性が青銅器時代まで低頻度だった、とする以前の知見と一致します(関連記事)。


●考察

 本論文は、現在のクロアチアにおける人類集団の遺伝的構造の時空間的な変容を示しました。主成分分析におけるヨーロッパの勾配に沿ったゲノム分布は、何千年にもわたってヨーロッパ大陸全域を移動する人々にとって、現在のクロアチアが接触地帯として重要だったことを証明します。BMP遺跡のソポト文化共同体は、先行する前期新石器時代のスタルチェヴォ文化からの遺伝的連続性を示し、以前の知見を裏づけるとともに、銅器時代まで続く低水準のWHG関連祖先系統を示し、カルパチア盆地のいくつかの他の同時代人口集団の遺伝的特性を反映しています。さらに、BMP遺跡の銅器時代個体群は、ヴチェドル遺跡において、わずか60km離れた草原地帯集団到来前の銅器時代個体群と共存していただろう、現在のクロアチアにおける草原地帯関連祖先系統を有する人々の初期の存在を表しています。

 青銅器時代には、二つの遺伝的に異なるものの同時に存在した祖先系統が、異なる生態系地域で再度観察されます。セティナ(Cetina)文化と関連するダルマチア遺跡の2個体は、JK遺跡の最新の年代とほぼ同年代ですが、銅器時代BMP遺跡個体群と類似した祖先系統を有しています。この特性は、遺伝的に異なるJK遺跡個体群よりほぼ1000年遅いダルマチア遺跡の第三の個体でも持続しています。JK遺跡個体群と、さらに北方のヴァタヤ文化個体群との間で共有された遺伝的類似性は、高いWHG関連祖先系統により区別され、現在のクロアチア東部におけるカルパチア盆地と南部TEP共同体におけるさまざまな集団間の密接な相互作用と交換ネットワークについての考古学的証拠を裏づけます。

 TEP共同体の土器は近隣のヴァタヤ文化やカルパチア盆地のドナウ川沿いの他の同時代集団で見つかっています。さらに、その共有された類似性は、前期青銅器時代後期のキサポスタグ(Kisapostag)文化だと広く受け入れられている、共通の直接的前身についての考古学的証拠とも合致します。キサポスタグ文化自身は、広く分布するマコ・コシー・カカ(Makó-Kosihy-Čaka)文化複合の一部を基礎としています。したがって、これらの洞察は、ドナウ川とカルパチア盆地に沿って共存した、さまざまな中期青銅器時代文化単位間の関係についての長い議論に寄与し、現在のクロアチア東部とその隣接するカルパチア盆地の人口集団間の複数の期間にわたる遺伝的類似性を明らかにします。

 こうした時空間的関係を超えて、これらの共同体の人口統計学と社会組織への貴重な洞察が得られました。中期新石器時代遺跡全体の構造化されておらず均質な祖先系統は、多くの無関係な個体における高いハプロタイプ多様性および低いか全くない近親交配の兆候とともに、この共同体が大きく安定した族外婚人口集団であったことと一致し、現在のクロアチアにおける高い人口密度の考古学的証拠を裏づけます。しかし、この文脈では、ひじょうに密接な親との関係を示す、遺跡全体で散見されるわずかな個体も検出されます。5個体のうち4個体は同じmtHg-K1aに分類されますが、そのうち2個体(POP02とPOP05)は親族係数の上昇を示し、最大の竪穴住居で相互に隣接して埋葬されていました。まとめると、これらの個体は同年代だった可能性があり、同じ母系内の時として密接な親族単位の事例だったかもしれません。これらの個体を、遺伝的特性もしくは埋葬儀式の観点で同じ遺跡に埋葬された他の個体と区別する他の検出可能な違いはなく、これが社会的に受容された別の配偶選択だったことを示唆します。

 現在のクロアチアにおける壁内埋葬遺跡のこの最初のゲノム規模研究では、一親等もしくは二親等の親族関係が明らかになっておらず、POP05とPOP24のようにわずか数個体がmtHgと同様により遠い親族関係を共有しています。これはいくつかの母系関係の存在と、興味深いことに、溝に埋まった個体(POP24)と主要な壁内の場所に埋葬された他の個体との間のつながりも示唆しますが、密接な生物学的親族関係は埋葬の選択の基礎を形成せず、建物にともに埋葬された個体が拡大家族を表している、との提案に疑問を提供します。しかし、これが埋葬慣行の唯一の形態ではなく、生物学的親族は他の場所で埋葬されたかもしれません。

 子供、とくに少女の割合が高く、新生児の埋葬も多いことから、年齢と性別の選択および共同体の信念体系に基づく地位の付与を示している可能性が高く、その信念体系については、クロアチアにおける類似の新石器時代壁内遺跡に関してさまざまな説明がなされてきました。たとえば、建物は母系主義および祖先崇拝の考えと関連づけられており、社会の再生産と継続に結びついた空間であり、そこに埋葬されることで保護と繁栄がもたらされました。さらに、ここでは埋葬慣行との関連で遺伝的構造化は検出されません。

 副葬品の観点では、個人間の区別の表現は検定的で、埋葬の大半には土器の容器もしくは破片などの物質がほとんど含まれていません。しかし、さまざまな年齢と性別区分の少数の個体(POP07とPOP09とPOP14)には、社会的および経済的地位に基づく限定的な社会的分化を示すように見える、日常活動と関連する豊富な副葬品があります。これらのうち最年少個体は13~15歳と推定されているので、全員が成人の作業に参加するのに十分な年齢で、それ故にこれらの個体がその地位を獲得したのか、それとも継承したのか知ることは困難です。

 居住区での屈葬と、おもに男性である溝の拡張埋葬も、検出された遺伝的祖先系統と相関しません。さまざまな溝での堆積の理由は不明ですが、本論文で見られるような混合した身体位置の存在は、パンノニア盆地の他のソポト文化遺跡で記録されており、さまざまな埋葬習慣と密着した社会的集団を表しているかもしれない、と提案されてきました。高い人口密度地域内のBMP遺跡における高度に族外婚の遺伝的特性を考えると、これを一つの可能な説明として除外できません。じっさい、新石器時代の埋葬儀式と人口構成は大きく異なると示されているので、BMP遺跡のようなより局所的な研究は、この現象の多様性についての理解を深めるのに役立つでしょう。

 JK遺跡におけるさまざまな副葬品が豊富に供えられた中期青銅器時代土葬の回収は、現在までしばしば火葬埋葬儀式と関連づけられてきた文化の遺伝的特性を調査する、稀な機会を提供します。他のTEP文化埋葬遺跡やより広くヨーロッパの青銅器時代埋葬と同様に、本論文は、新石器時代と比較して増加する社会的分化を示唆する、威信材で構成される副葬品を明らかにしました。まず、密接に関連する親族であるJAG06とJAG58との間の埋葬処置の違いが観察されます(図4a)。JAG06の埋葬には、多数の土器とともに石製の鏃や青銅製品や穿孔された貝殻が含まれていたのに対して、JAG58の墓はより大きくて深いものの、わずかな土器や頭蓋から下の骨で構成されています。埋葬儀式におけるこの明らかな違いは、生涯を通じて獲得した地位の違いを反映している可能性があるか、出生順位が富もしくは地位の継承の要因だったのかもしれません。しかし、これらの埋葬には二次走査の兆候があるので、一部の副葬品や骨格要素が一次堆積に続いて攪乱された可能性があり、慎重な解釈を要します。

 副葬品の数と種類の観点で最も豊富な墓の一つは、成人女性JAG85のものです。この墓は土器の容器と金製髪飾りや多くの他の青銅製品から構成されており、JAG85が生家もしくは婚姻関係を通じて獲得した高い社会的地位を反映しているかもしれません。ピンや宝石青銅製品など青銅製の個人的装飾品は、JK遺跡では男女両方の墓で見つかり、個人もしくは家族の地位か富を示している可能性が高い一方で、鏃は成人男性の墓でしか見つからず、社会における個人のさまざまな地位を示唆します。乳児2個体(JAG82とJAG93)の墓では豊富な副葬品が観察され、JAG93には金製ヘアリングが含まれています。これらの個体は、自身で富もしくは地位を獲得するにはあまりにも幼く、家族からの垂直継承が示唆され、それは他のTEP文化や青銅器時代のドイツとセルビアの他の文化でも観察されます。

 相対的に高いミトコンドリアハプロタイプの多様性と、関連する男性間のひじょうに低いY染色体多様性から、埋葬された個体は女性族外婚と、父方居住社会組織の順守により特徴づけられる共同体に属していた、と示唆され、これはヨーロッパの後期新石器時代および青銅器時代墓地でも観察されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの人々の有するホモ接合性の短い連続は、おそらく有効人口規模の過去の制限に起因する、いくつかの遠い共有祖先系統を有する人口集団と一致します。

 全体として、2人の兄弟、多くのより遠い男性親族、1人の無関係で高い地位の成人女性の埋葬は、他の5人の標本抽出されていない土葬男性とともに、父方居住と女性族外婚のある男性系統での、性別の偏った埋葬慣行の存在の可能性を示唆します(関連記事1および関連記事2)。TEP文化を含む現在のクロアチア東部で記録されている多くの青銅器時代遺跡は、地域の人口集団の相互作用の源だった可能性があり、パンノニア平原の縁に住む中期青銅器時代共同体の複雑な模様を示唆します。


参考文献:
Freilich S. et al.(2021): Reconstructing genetic histories and social organisation in Neolithic and Bronze Age Croatia. Scientific Reports, 11, 16729.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94932-9

高橋のぼる『劉邦』第11集(小学館)

 最近、第10集までを読んだので(関連記事)、第11集も楽しみにしていました。電子書籍での購入です。第10集では鴻門の会が始まったところまで描かれており、劉邦がこの危地を脱する展開は史書と変わらないとしても、どのように脱出するのか、注目していました。第10集は、張良が劉邦を弁護し始めたところで終わりました。第11集はその続きとなり、張良は弁舌爽やかに虚偽を述べ立て、それを信じ始めた項羽は、劉邦に自分を関中王と認めるのか、と問い質します。劉邦はそれを認めつつも、項羽に説教を始めます。憎しみは破壊しか生まないので、憎しみを断って人の上に立つ王になるべきだ、というわけです。かつて項羽の叔父の項梁から、項羽の憎しみを受け止め、項羽という刀の鞘になってもらいたい、と言われたことを劉邦は項羽に伝え、項羽もその配下も劉邦の器の大きさに畏敬の念すら抱き始めます。韓信はここで劉邦とともに帰ろうとしますが、劉邦を危険視していた虞が宴を提案して劉邦一行を引き留めます。虞は剣舞に見せかけて劉邦を殺そうとし、韓信がそれに気づいた時はすでに手遅れでしたが、鬼(死者の霊魂)は見えないという劉邦を甘く見ていた項羽は、殺すまでもないと劉邦を助けます。劉邦を殺せなかったとはいえ、秦の都の咸陽を制圧し、項羽が天下を取ったと確信した虞は項羽に体を許し、咸陽宮を焼くよう進言します。項羽は咸陽宮を燃やして財宝を略奪し、女性を捕虜として秦王子嬰など秦の王族を処刑します。

 西楚覇王と名乗った項羽により、劉邦は漢王に任命されます。項羽の側は劉邦を僻地に追いやった認識しており、劉邦側の認識もまた同様でした。故郷の沛県に戻った劉邦は妻の呂雉(呂后)やかつて兄事していた王陵と再会して器の大きさを見せ、王陵の配下で劉邦の仇敵でもある雍歯とともに配下とします。漢王として現地に赴いた劉邦ですが、土地が痩せており、兵士が脱走することに焦ります。韓信は即座に関中を取り戻すよう、劉邦に進言し、そこへ劉邦と親しかった楚の義帝(心)が項羽の命により黥布に殺された、との報せが届きます。義帝は劉邦に、戚という女性を託します。劉邦は韓信を大将軍に任命して関中に侵攻し、章邯を自害に追い込んで関中を制圧します。

 その頃、項羽は論功行賞不満を抱く斉の旧王族の反乱鎮圧に赴いていましたが、その残虐な行為により状況が悪化します。張良が使者となり諸国と同盟を結び、劉邦は大軍で楚の都である彭城を攻め、あっさりと陥落させます。ところが、劉邦とその同盟軍では張耳と陳余の対立があり、さらには恩賞をめぐる要求で内部分裂寸前となって、劉邦は大軍の統制の難しさを痛感します。そこへ項羽が斉から軍を率いて彭城奪還に向かってくる、というところで第11集は終了です。


 第11集では、劉邦の器の大きさが改めて示されるとともに、周囲の人々が劉邦の成長を認める描写も多く、劉邦が「中華一の男」になっていく過程が本書の見どころなのだな、と思います。多くの人に慕われ、そうした人たちを上手く活用する劉邦と、個人的な武勇には優れており周囲から畏怖されるものの、孤独で人々の力を活かせない項羽との対比も、面白くなっていると思います。ただ、劉邦は彭城を攻め落としたものの、諸侯の欲を制御できておらず、これも劉邦にとっての試練で、第12集で描かれる大敗と逃走を経てさらに成長していくのでしょう。諸侯・功臣の欲望の制御という点では、皇帝即位後がどう描かれるのか、楽しみですが、皇帝即位後は功臣粛清が続いて暗い話になってしまうだけに、あるいは項羽を打倒するところで物語は完結するのでしょうか。できれば、劉邦の最期まで続いてもらいたいものです。

 第11集では、劉邦と呂雉との間の二人の子供(魯元公主と恵帝)が初めて本格的に描かれました。恵帝(劉盈)は聡明で活発な感じの男子で、予想とは違っていたのですが、今後父との関係がどう描かれるのでしょうか。第12集で描かれるだろう、劉邦が逃走中に邪魔な子供二人を置き去りにしようとした逸話がどう描かれるのか、注目しています。呂雉およびその息子の恵帝との関係では、戚の登場も注目されます。後に戚は悲惨な最期を迎えるわけですが、劉邦死後のことだけに、さすがに本作では描かれないでしょうか。ただ、劉邦の後継者をめぐる争いでは、戚と劉邦との間の息子(劉如意)が一方の当事者になるわけで(もう一方は恵帝)、今後も戚の出番は多いかもしれません。第11集では登場しなかったものの、韓信が陳平に言及しており、陳平はすでに項羽を見限って劉邦陣営に移っています。韓信は陳平を高く評価しており、今後陳平の活躍場面が描かれそうで楽しみです。

『卑弥呼』第70話「敵か味方か」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年9月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがアカメに、暈(クマ)の国の最高権力者となった鞠智彦(ククチヒコ)に書状を届けるよう、命じたところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)が放った八咫烏(ヤタガラス)との戦いをミマアキに任せて、當麻(タイマ)一族との交渉に向かうべく、サヌ王の息子のタギシ王の末裔と名乗る阿多(アタ)のチカトとともに、トメ将軍が急いでいる場面から始まります。そこへ矢が放たれ、トメ将軍は皆に伏せるよう命じます。その頃、ミマアキは八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物に勝負を挑んでいました。ミマアキもタケツヌも向かい合ったまま動きません。兵士たちは、手練れ同士の戦いはこういうもので、先に動いた方が負けるのだ、と話しています。ミマアキは蜻蛉の構えのまま動きませんが、これはかつて暈(クマ)の国のオシクマ将軍も使っており(第22話)、刀を縦に持って初太刀にかける剣法で、後の示現流の一の太刀の起源という設定のようです。チカトの配下の者は、ミマアキの構えが日下にはないものなので、太刀筋が読めず動けないのだろう、と推測します。タケツヌは配下に仕掛けさせ、ミマアキはタケツヌの配下を初太刀で斬殺します。部下を犠牲にしてまでミマアキの太刀筋を読んだタケツヌはミマアキに斬りかかり初太刀を凌ぎ、トメ将軍の配下の兵士たちはミマアキの負けを覚悟します。それでもミマアキは脛を負傷しつつもタケツヌと何とかやり合います。そこへ矢が放たれ、現れた兵が、ここは當麻一族の地なので勝手な戦は許さない、と言って八咫烏に立ち去るよう命じます。八咫烏は即座に逃走し、ミマアキは當麻一族の兵に投降するよう勧告されます。當麻一族の兵とともに現れたトメ将軍は、ミマアキに勧告に従うよう命じます。當麻一族と出会えたのか、と安堵するミマアキに、我々は捕らえられた、まだ敵か味方か分からない、と言います。

 那(ナ)の国の岡(ヲカ)では、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)とともに出立しようとしていました。数日前、チカラオは自身が強姦したことによりヤノハが妊娠したことを聞かされ、事代主(コトシロヌシ)から堕胎の薬をもらい、また誰にも知られず産む手立てがあることを知らされました。産むべきか否か、ヤノハに尋ねられたチカラオですが、恐怖のあまり答えられません。その様子を見たヤノハは、倭を平らかにするという望みはもう一歩のところまで来ているので、子は無用の存在で、今から薬を飲む、とチカラオに語ります。するとチカラオは必死に止めようとします。ヤノハは、子供が邪魔なのは本心だが、人が命を全うできる世を作るのも自分の願いなので、望まない子供であっても産もうと決心していた、とチカラオに打ち明けます。ヤノハはチカラオを試したわけです。さらにヤノハは、チカラオがヤノハの出産を望まなければ、チカラオの方を殺すつもりだった、と打ち明けます。ヤノハは、300日間人々に祈祷(イノリ)を捧げるためのよい場所がある、とオオヒコに伝えます。オオヒコにその場を訊かれたヤノハが、かつて「鬼」を退治した千穂の厳谷(イワヤ)だ、と答えるところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍とミマアキの一行の動向とともに、ヤノハの決断が描かれました。トメ将軍とミマアキの一行は當麻一族と出会いましたが、當麻一族がトメ将軍とミマアキの一行をどう扱うのか、まだ分かりません。當麻一族はかつて鳥見の長脛者(ナガスネモノ)と勢力を二分していましたが、長脛者たちがサヌ王と連合した結果、往時の勢力を失い、現王朝には面従腹背というか、逆らわないものの服従もしないという態度を取っています。當麻一族の真意がどこにあるのか、トメ将軍とミマアキが當麻一族の長をどう説得するのか、注目されます。弟のチカラオを殺してでも出産しようとするヤノハの決断は驚きましたが、弟以外の身内がもはや存在しないヤノハにとって、新たに生まれてくる子供を殺したくはなく、子供か弟の二択ならば子供を選ぶ、ということでしょうか。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、まずはヤノハとチカラオとの間の子供がどのような扱いを受け、どう育つのか、注目されます。あるいは、事情を知る出雲の事代主に預けるのでしょうか。

現生人類の出アフリカを可能とする気候条件

 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカを可能とする気候条件についての研究(Beyer et al., 2021)が公表されました。化石と遺伝的証拠の分析は、現生人類のアフリカ起源の強い裏づけを提供しますが、アフリカからの現生人類拡大の年代が最近の議論の焦点となっています(関連記事)。ほとんどのアフリカ外の化石、およびミトコンドリアと全ゲノムデータに基づくユーラシアとアフリカの人口集団間の分岐の年代は、主要な出アフリカが65000年前頃であることを示します(関連記事1および関連記事2)。

 しかし、現生人類遺骸の考古学的発見は、サウジアラビアでは少なくとも85000年前頃(関連記事)、イスラエルでは少なくとも10万年前頃で、議論もあるものの(関連記事)おそらくは194000年前頃(関連記事)まで、ギリシアでは21万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類の65000年以上前の出アフリカを示唆しています。さらには、少なくとも8万年前頃、おそらくは12万年前頃までさかのぼる中国における現生人類の痕跡も指摘されていますが(関連記事)、疑問も呈されています(関連記事)。

 これらもしくはそれ以前の出アフリカの波は、パプアニューギニアの現代人で小さな遺伝的寄与(1%程度)も残したかもしれません(関連記事)。あり得るもっと早い出アフリカのさらなる証拠は、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の痕跡で、遺伝的に13万年以上前にさかのぼり(関連記事1および関連記事2)、25万年前までさかのぼる可能性もあります(関連記事)。ユーラシアにおける中期更新世現生人類の存在を確認するにはさらなる研究が必要ですが、現在の証拠から強く示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散できたものの、その回数と年代と経路とそうした初期の出アフリカの波の運命は不明である、ということです。

 古気候の再構築は、出アフリカのあり得る出口への洞察を提供できます。ほとんどの研究では、アフリカ北部の気候条件の再構築を用いて、定性的にあり得るシナリオが議論されてきました。その気候条件の再構築は、ユーラシアへの気候的に実行可能な移住経路の空間的に完全な図を提供することがひじょうに稀な経験的記録か、いくつかの時間的断片からのモデル依拠データに基づいていました。

 アフリカからのあり得る出口を定義する定量的試みは、ヒト拡散モデルに適合する人口統計学的法則を、考古学的記録(関連記事)もしくは遺伝的データのいずれかに合致させてきました。そうした法則を見つけることは可能ですが、生物学的にどれほど現実的なのか、不明です。たとえばその考古学的記録に基づく研究では、ヒトの温度の生態的地位の変化は50度で変わり、沿岸の移住速度は125000年前頃にほぼ6000%増加した、と仮定されています。さらに、考古学的記録は、とくに現生人類の初期拡散と想定される時期に関してはひじょうに疎らであり、遺伝的データは子孫が標本抽出された出口のみを反映しています。

 本論文は、現生人類がアフリカを離れた可能性のある適切な期間を特定するため、別の手法を採用します。まず、過去30万年間の高解像度の古気候シミュレーションを用いて、特定の年代に現生人類がアフリカから出ることができるのに必要だっただろう、低降水量と乾燥への耐性を推定します。第二段階では、これらのデータを、人類学的および生態学的データに基づく狩猟採集民の実際の気候耐性の推定と組み合わせ、アフリカから拡大できる気候的期間の年代を再構築できるようにします。次に、推定された接続期間が、利用可能な出アフリカ拡大の経験的考古学および遺伝的証拠とどれだけ適合するのか、調べます。

 本論文の分析は、考古学的および遺伝的データに基づいて以前に提案された出アフリカの経路と年代が、ユーラシアへのじゅうぶんに湿潤な回廊の存在と一致することを明らかにし、古気候的条件がアフリカからの拡大における重要な要因だったことを示唆します。あり得る接触の期間にあるアジア南西部の厳しい環境条件と、アフリカからの人口流入の中断、他の人類とのあり得る競合は、65000年前頃に始まる世界規模の植民以前の初期の現生人類移住者の消滅を説明できる可能性があります。


●出アフリカに必要な降水量耐性

 最近まで、準時系列的に連続した古気候の復元は、HadCM3などの地球循環モデルや、中間程度の複雑さの単純な地球モデルから得られた過去125000年のものしかありませんでした。本論文は、最近開発されたHadCM3モデルのエミュレータを用いて、過去300年の高解像度気候を1000年間隔で生成し、約0.5度に規模を縮小し、観測された気候条件に合わせて偏りを補正しました。次に本論文は、これらの再構築を年間の古気候変動のシミュレーションと組み合わせ、気候図の時間的解像度を10単位まで改善しました。

 また、アフリカ北部とアジア南西部における現生人類の生存と関連する2点の別の気候変数である、年間降水量と乾燥度が考慮されます。乾燥度については、ケッペン(Wladimir Peter Köppen)の乾燥度指数が用いられ、これは古気候において最も信頼できる乾燥度指標と提案されてきました。降水量と乾燥度への注目は、地域の生態学的制限要因で、したがって初期現生人類がアフリカから移動するさいに、狩猟採集や水といった生存に関わる要因を制約する重要な気候条件だった、と考えられるからです。

 本論文では、アフリカからユーラシアへの初期現生人類の拡散経路として、ナイル川とシナイ半島の陸橋と、バブ・エル・マンデブ海峡というあり得る2経路が考慮され、前者は北方経路、後者は南方経路と一般的に言われています。まず、現生人類がアフリカから移動するために耐えねばならない年間降水量の最低条件が10年単位で推定されました。この値を推定するため、一般的な南北両経路それぞれで、低降水量の閾値で現生人類がユーラシアに到達できただろうあらゆる経路が考慮され、次にアフリカからの経路を接続する最低水準の降水量が決定されました。乾燥度についても、別に同様の分析が行なわれました。

 本論文の推定では、ナイル川デルタは局所的な降水量や乾燥度に関わらず、常に横断可能と仮定されました。湖や小川のような他の特徴を経時的にモデル化することは困難ですが、そうした特徴は、ヒトの居住の比較的低い降水量と乾燥度の閾値よりも湿潤な地域で起きた可能性が高そうです。さらに南方経路の分析では、バブ・エル・マンデブ海峡は常に横断可能と仮定されました。この海峡横断に必要な航海技術が当時じっさいに利用可能だったのかは未解決の問題です(後述)。航海が原則的に可能だったならば、バブ・エル・マンデブ海峡横断の難易度は、海峡の幅が4km~20km以上に変わる海面変動に依存していたはずです(図1b)。図1では、過去30万年間に現生人類によるアフリカからの移動を気候条件的に実現するために必要となっただろう、降水量耐性の推定が示されています。以下は本論文の図1です。
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●狩猟採集民の降水量耐性

 現生人類のアフリカからユーラシア大陸への移動を可能とした気候条件期間は、推定される耐性要件を初期現生人類のじっさいの耐性閾値と組み合わせることで推定できるようになります。低降水量に対する妥当な閾値を確定するため、環境条件に応じた初期現生人類の空間動態を調査するために以前に使用された大規模な人類学的データセットから、現代の狩猟採集民の分布がまず調べられました。淡水源の近くに居住していると知られている3人口集団を除くと、年間降水量が90mm前後の閾値があり、それ以下での狩猟採集民の記録はありません(図2a)。

 この水準は、草食獣集団を維持できる最小降水量とも一致し(図2a)、砂漠から乾燥性低木環境への転換点近くに位置します。現在のアフリカ北部とアラビア半島の降水量はこの程度で、継続的に草で覆われるには乾燥しすぎていますが、散在するアシや草や小さな低木もしくは散在する樹木間の低木や草の斑状により特徴づけられる、擬似サバンナの存続が可能です。こうした植生では、レイヨウやガゼルやキツネやネコやトガリネズミや齧歯類など現生人類の獲物となり得る、ひじょうに乾燥した環境に適応したいくつかの哺乳類の生存が可能です。以下は本論文の図2です。
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●出アフリカが可能な気候的条件

 本論文の降水量の推定閾値である年間90mmに基づくと、過去30万年間にアフリカから南北どちらかの経路での拡大が気候的に可能だった時期(グリーンベルト)がいくつかありました(図2b・c)。最終間氷期以前には、ナイル川とシナイ半島の陸橋は246000~200000年前頃の間のいくつかの期間で横断可能だったはずです(図3a)。アフリカからユーラシアへの出口は13万年前頃に再開された後(図3c)、96000年前頃までは継続的に、78000~67000年前頃には再度横断可能だった、と考えられます。その後、この北方経路は湿潤な完新世まで閉ざされていた可能性が高そうです。

 海上移動が原則的に可能だったならば、過去30万年間にかなりの割合で南方経路を開かせていた気候条件が存在したでしょう。最終間氷期の前には、充分な降雨量と比較的高い海水準が、275000~242000年前頃(図3a)と230000~221000年前頃と182000~145000年前頃の3回にわたって続きました。135000~115000年前頃には、その開始期を除いて、海水準がとくに高くなっています(図3c)。この時期は提案されている北方経路での現生人類の初期出アフリカの時期に近いので、もし移動があったならば、南北の経路でアフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類がアラビア半島で遭遇したかもしれません。

 南方経路が遮断されていた長期間の後、65000~30000年前頃に充分に湿潤な気候のかなりの出口が開かれました(図3e)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)直後と中期完新世には、ユーラシアからアフリカへの人類の「逆流」と一致する、さらなるつながりがありました(関連記事)。現代の狩猟採集民に基づくケッペン乾燥度1.7付近には、降水量についての本論文の推定値と類似した閾値が存在し、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の推定期間は、降水量に関する推定値とほぼ同じです。以下は本論文の図3です。
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 本論文の再構築から、現生人類の出アフリカを可能とする南北両経路のどちらかで、適切な気候の期間がいくつかあった、と示唆されます。これらの期間のいくつかは、アフリカ外の最初の現生人類遺骸に先行しますが、25万~13万年前頃の間のある時点と推定されている、現生人類からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)への遺伝子移入の年代と完全に一致します(関連記事1および関連記事2)。最近では、イスラエルで194000年前頃(関連記事)、ギリシアで21万年前頃(関連記事)の初期現生人類遺骸が報告されています。

 アフリカからユーラシアへの現生人類の移動は、最終間氷期には南北両経路で可能だったと考えられ、考古学的証拠はより大きな期間を指摘します。考古学的および遺伝学的証拠に基づいて、アフリカからの主要な拡大は65000年前頃だったとする南北両経路の仮説は、本論文の推定と一致します。この時期には、4万年におよぶ気候不順の前に北方経路が最後に開かれた直後の時点とともに、南方経路が最終間氷期以来初めて再度開けた時点も示します。南方経路は、経験的な古環境的記録に基づいて議論されてきており、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000~29000年前頃)には、アラビア半島はヒトの移動には継続的に乾燥しすぎていたとの主張から、断続的な湿潤期間だったとの主張や、長い多雨期、だったとの主張まであります。

 いずれにしても、これらの推論は本論文の結果と直接的には比較できません。なぜならば、一つには、いくつかの経験的代理指標(洞窟二次生成物など)は本論文で考慮されたような小規模の降雨量の検出には適していないからです。もう一つには、各経路について、低降水量の最小限の耐性を必要とするアフリカからの特定の経路が経時的に変動するからで、図1に示された降水量が最も少ない区間の地理的位置も変化するので、本論文の推定値は局所的な経験的気候再構築と同じパターンを経時的に示すとは予測されません。


●降水耐性に対する気候期間の感度

 現代の狩猟採集民のデータに由来する降水量や乾燥耐性の閾値を初期現生人類の代理指標として使用できるとの仮定に、限界がないわけではありません。民族誌に記録されている人口集団は世界中で一様に分布しているわけではなく、おもに北アメリカ大陸とオーストラリアと南アメリカ大陸とサハラ砂漠以南のアフリカとアジア南部および南東部に居住しており、気候や土壌の水文学的条件がアフリカ北部やアジア南西部とは大きく異なる可能性があります。さらに、水の貯蔵や輸送の能力などにおける技術的違いは、初期狩猟採集民にとってより高い閾値水準(つまり、より高水準の降雨量)を意味するかもしれません。

 現在利用可能な証拠では、現代のデータに由来する耐性閾値を定量的に改善することはできないかもしれませんが、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の窓をもたらすさまざまな閾値の影響を調べることは可能です(図2b・c)。北方経路では、本論文のデータが示唆するのは、年間110mm以上の降水量の耐性閾値ならば、以前に推定されていた期間でアフリカからの拡大が可能となったのは、降水量が千年規模の平均値を上回るより短い期間に限られていた、と考えられます。この想定では、最終間氷期(13万年前頃)が最も好適な条件だったでしょう。

 年間降水量が130mm以上の耐性閾値では、移住はひじょうに困難で、異常に湿潤な期間に限定されていた可能性が高そうです。南方経路では、より高い降水量耐性水準へのより多くの機会を提供したでしょう。閾値が年間降水量200mm以上だと、最終間氷期にアフリカから移動する機会があったでしょう。この時点から湿潤な完新世までの間に、年間降水量が130mmまでの耐性水準ならば、65000~55000年前頃の好適期間にアフリカからユーラシアへの移動が可能だったでしょう。


●紅海横断の難しさ

 気候的制約に加えて、バブ・エル・マンデブ海峡の横断は、南方経路にとって重要な課題になったでしょう。初期狩猟採集民が紅海を渡ったのかどうか、遺伝学的証拠に基づいて示唆されていますが、この想定を裏づける考古学的証拠がきわめて限定的であるため、議論となっています。海水準が低い期間には、アラビア半島は現在のジブチやエリトリア南東部から見えていたでしょうから、そうした時期に海峡を渡るに際しては、洗練された舟や航海の技術が必要なかったかもしれません。

 しかし、初期現生人類が紅海西部沿岸に居住し、海洋食資源を利用した可能性は高いものの、舟や航海の直接的証拠はまだ見つかっていません。さらに、アラビア半島とアフリカ北東部のいくつかの遺跡間で技術的類似性が示唆されてきましたが(関連記事)、他の遺跡はそうした関係を示しません。したがって、本論文のデータにより提案された南方経路のより好適な気候との解釈は要注意です。むしろ、アフリカからの拡大におけるバブ・エル・マンデブ海峡の役割を明らかにするには、一連の遺伝学的および考古学的証拠を拡大し、一致させることが重要です。


●短期的な気候変動と初期現生人類の人口統計

 過去30万年間にアフリカから移動する現生人類の気候的実現可能性に関する本論文の分析は、年間降水量と乾燥度の10年規模の変化に基づいています。経験的手法もシミュレーションに基づいた手法も現時点では、堅牢性を損なわずに同じ期間と地域のより高い時間解像度での気候条件を再構築できないように見えますが、重要なのは、短期の気候変動が人口集団の動態に重要な役割を果たす可能性がある、と留意することです。嵐とモンスーンの雨に続いて、乾燥した期間が長く続くと、同じ総降雨量が長期にわたって続いた場合とは異なる問題が発生したでしょう。

 本論文の結果は、現生人類にとってアフリカとユーラシアとの間の移動が気候的に実現可能だった時期を推定するものであり、これらの可能な期間にじっさいに現生人類の移動があったのかどうかを示すものではありません。初期現生人類が実際にアフリカから移動したのかどうか確認するには、本論文のデータと、時空間的な人口動態を明確に再現する現生人類拡散モデルとを組み合わせる必要がありますが、本論文はそれを試みていません。

 人口成長率や拡散速度など、人口統計学的過程と関連するパラメータの現在の推定値が数桁の幅に及ぶことを考慮すると、そうした手法と関連する不確実性はかなり大きい可能性が高いでしょう。同様に、初期現生人類の移動パターンの程度がどの程度方向性を有していたのか、あるいは無作為だったのか、初期現生人類はさまざまな環境や人口規模の変化への対応でどう変わったのか、という重要な問題については、ほぼ定量的な回答が欠けています。人類学と考古学と遺伝学のデータを統合することは、既存の不確実性を減らすための最も有望な方法のように見えます。


●ユーラシアには定着しなかった初期現生人類

 考古学的および遺伝学的データでは、現生人類は65000年前頃に始まる大規模な移住の波の前に少なくとも1回ユーラシアに拡大した、と強く示唆されていますが、アフリカ外の恒久的居住の最初の失敗の理由は、あまり明らかではありません。アラビア半島を越えての移動は、トロス・ザグロス山脈を越える能力に依拠していたでしょう。北方ではネアンデルタール人と競合し(図3f)、これは以前には、最終間氷期における現生人類の拡大の限界と主張されていました。また、おそらくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような他の人類と、現生人類は東方で競合したでしょう。デニソワ人の範囲は不明ですが、アジア東部の大半に存在した可能性が高そうです(関連記事)。

 さらに、本論文の再構築から、南北両経路で気候的に好適な期間は、ヒトの生存には不充分な降雨量の期間によりしばしば中断されており(図2b・cおよび図3b)、アフリカから拡散してきた初期現生人類を事実上孤立させたでしょう。アフリカからのさらなる移住による人口流入が欠如していたため、アラビア半島に残された人口集団は気候変動による確率的な局所的絶滅に陥りやすかったでしょう。当時は4kmの幅のバブ・エル・マンデブ海峡の航海が南方経路での移動を可能にしたならば、この制約は、65000~30000年前頃のほぼ好適な気候の前例のない長期間において、南方経路ではさほど重要ではなかったでしょう。

 この長い期間は、成功した大規模な拡散にとって理想的な前提条件であり、アラビア半島の人口集団を安定させただろう、アフリカからの定期的な人口流入を可能としたでしょうから、ユーラシアへの現生人類のさらなる拡大を促進したでしょう。このような動態は、現生人類社会における技術と経済と社会と認知の変化を補完し(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の衰退とともに(関連記事)、現生人類によるユーラシアへのその後の拡大において後期の拡散の成功を説明するでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ヒトの進化:アフリカからの人類の移動には気候上の制約があった

 ホモ・サピエンスがアフリカから移動する際に利用できた時期と経路は、気候の影響を受けていたことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、現生人類の分散における古気候の変動性の役割を強調しており、ホモ・サピエンスの進化史を理解する上で役立つ可能性がある。

 初期人類がアフリカから他の地域に移動したと一般的に考えられているが、これに関連する化石や古代のDNAが稀少であるため、ユーラシアへの移動の時期や経路については論争がある。

 今回、Robert Beyer、Andrea Manicaたちは、古気候の再構築結果と狩猟採集民が生存するために最低限必要な降雨量の推定値を用いて、アフリカからユーラシアへの移動を容易にする良好な気象条件と十分な降雨量が得られる時期と経路を評価した。著者たちのシミュレーションによって示唆された推定時期と推定経路は、考古学的証拠と遺伝学的証拠との整合性が認められ、このため過去30万年間にアフリカからの移動が複数回起こった可能性が示唆された。ホモ・サピエンスは、初期のいくつかの移動の波では、ユーラシアに永住できず、その後の約6万5000年前に、より大きな規模の移動の波が起こって移住に成功した。著者たちは、その理由として、南西アジアの厳しい環境条件、アフリカからの移住者の到着が断続的だったことと、他のヒト族との競争の可能性を挙げている。

 著者たちは、今回の研究で、ホモ・サピエンスがアフリカから移動することが気候的に可能だった時期が実証されたと結論付けている。ただし、そうした時期に実際に移動があったかどうかを調べるためには、さらなる研究が必要とされる。



参考文献:
Beyer RM. et al.(2021): Climatic windows for human migration out of Africa in the past 300,000 years. Nature Communications, 12, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-24779-1

古人類学の記事のまとめ(44)2021年5月~2021年8月

 2021年5月~2021年8月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2021年5月~2021年8月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

ボノボの高品質なゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_10.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

アラビア半島のアシューリアン
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_1.html

高橋啓一「MIS 6の動物の渡来を探る」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_13.html

野口淳「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_17.html

コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_27.html


●ネアンデルタール人関連の記事

森恒二『創世のタイガ』第8巻(講談社)
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_2.html

アルタイ山脈のネアンデルタール人の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_20.html

レヴァントの中期更新世の人類化石と石器
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_8.html


●デニソワ人関連の記事

オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html

デニソワ洞窟の堆積物のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_25.html

MIS5のチベット高原における人類の存在と石器
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_11.html

現代人で最もデニソワ人からの遺伝的影響が強いフィリピンのネグリート
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_15.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシス頭蓋の生体力学と摂食能力
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_19.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

仲田大人「人口モデルと日本旧石器考古学」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_6.html

更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_10.html

アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_12.html

池谷和信「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_14.html

澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇「アジア東部のホモ属に関するレビュー」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_20.html

現生人類アフリカ南部起源説に対する批判
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_28.html

ルーマニアの34000年前頃となる現生人類女性のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_27.html

高畑尚之「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_30.html

初期現生人類のアフリカからの拡散
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_4.html

さまざまな現生人類起源説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_4.html

アフリカにおける最古の埋葬
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_26.html

加藤真二「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_33.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_1.html

藤本透子、菊田悠、吉田世津子「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_13.html

港川人のミトコンドリアDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

東アジアの考古学は国の歴史以外のなにものでもない
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_17.html

アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html

11000年前頃以降の中国南部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html

西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html

佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_13.html

出雲市猪目洞窟遺跡の古代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_14.html

高松市茶臼山古墳の古墳時代前期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_16.html

福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_21.html

韓国の三国時代の人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_23.html

愛知県清須市朝日遺跡の弥生時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_24.html

堺市野々井二本木山古墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_27.html

鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_28.html

南九州古墳時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_29.html

鹿児島県南種子島町広田遺跡出土人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_30.html

徳之島出土人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_31.html

中国要人?の人類進化認識
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_2.html

アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_22.html

中沢祐一「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_26.html

ワラセアの中期完新世狩猟採集民のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_29.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

アメリカ大陸への人類の移住に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html

エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_19.html

バスク人の起源と遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_32.html

イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html

未確認生物とも噂されてきたコーカサス南部の女性の正体
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_1.html

イタロ・ケルト語派の起源
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への農耕民の拡大経路
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_8.html

中東の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_9.html

紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html


●現生人類拡散後のアフリカに関する記事

アフリカ北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_24.html

先植民地期のガボンにおける埋葬習慣
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_11.html


●進化心理学に関する記事

真正な自己表現と主観的幸福感
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_22.html


●その他の記事

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_9.html

最終氷期極大期における広範な陸域の寒冷化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_15.html

シチリア島の絶滅ゾウの小型化過程
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_15.html

ヤンガードライアスを同期させるラーハ湖の噴火の正確な年代
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_6.html

閉経時期と関連する遺伝的多様体
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_25.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
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