水谷千秋『女たちの壬申の乱』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。壬申の乱に関する一般向けの本は少なくありませんが、本書の特徴は女性に焦点を当てたことです。具体的には、鸕野讚良皇女(持統天皇)と倭姫と遠智娘と姪娘とカジ媛娘と額田王と元明天皇と十市皇女です。これらの女性は、壬申の乱で戦った大海人皇子(天武天皇)と大友皇子、もしくは大友皇子の父である天智天皇の娘や配偶者でした。十市皇女のように、大海人皇子の娘にして大友皇子の妻だったり、鸕野讚良皇女のように天智天皇の娘にして大海人皇子の妻だったりする場合もあります。

 本書は、まず壬申の乱の背景と推移を解説します。本書の見解でまず注目されるのは、病床の天智と大海人とのやり取りです。『日本書紀』によると、天智が大海人に皇位を譲ろうとしたものの、大海人は病気を理由に断り、皇后の倭姫に皇位を継承もしくは代行させるよう天智に進言しました。兄弟のこのやり取りは天智紀と天武紀上に見え、両者には多少の違いがあります。しかし本書は、このやり取りには創作がある、と推測します。天智はすでに弟の大海人ではなく息子の大友を後継者として決めており、大海人を呼んだのは、大友の後見を頼んだものの、大海人は断って出家を申し出て、天智はそれを認めた、というわけです。

 天武に最も愛された女性は、有力氏族の出身ではなく政略結婚とは思えないものの、天武との間に4人の子を産んだカジ媛娘だっただろう、と本書は推測します。さらに本書は、大海人が吉野へ妻では鸕野讚良だけではなくカジ媛娘も同行させたのではないか、と推測します。その根拠は、大海人が吉野へ行くさいに同行させた子供が、鸕野讚良の息子の草壁とカジ媛娘の息子の忍壁だったからです。そのため、忍壁は母とともに鸕野讚良に嫉妬・警戒され、天武朝では重用されたものの、持統朝では冷遇された、と本書は推測します。

 また本書は、天智の三人の后妃(倭姫と遠智娘と姪娘)の墓の記録が残っていないのは、三人が壬申の乱の終わりまで近江朝廷方に属しており、近江朝廷方に殉じて非業の最期を遂げたからではないか、と推測します。当時、自害した要人の妻が自殺することはよくあった、と本書は指摘します。倭姫など近江方に殉じた女性たちの歌を後世に伝えたのは額田王だっただろう、と本書は推測します。吉野盟約については、それまで天武がやや冷遇してきた天智の息子たちと和解し、彼らを積極的に登用することで、壬申の乱のような事態の再来を防ごうとした、と推測されています。

 持統は遷都や律令といった天武朝の未完の事業を継承して完成させましたが、天武朝に始まった史書編纂が形となったのは持統没後かなり経過してからでした。本書はその理由を、持統が史書編纂に熱心ではなかったからではないか、と推測します。壬申の乱の記憶も生々しかった当時、史書編纂を進めると対立が再燃し、融和路線が挫折すると持統は恐れていたのではないか、というわけです。一方、持統が編纂に深く関わったと考えられる、『万葉集』の原型と思われる歌集では、倭姫や有間皇子といった墓が記録に残っていない敗者の歌も採録されており、本書はそこに持統の深慮を見ています。本書は、歌を積極的に取り入れて当時の要人の関係や思惑を推測しており、大胆に思えるものもありますが、昔から関心を持っていた倭姫(関連記事)の最期など興味深い見解を知ることができ、有益でした。