ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大

 ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大に関する研究(Wilkin et al., 2021)が公表されました。考古学と歴史学において、ユーラシア草原地帯の牧畜民は長く高い関心を集めてきました。前期青銅器時代に、ユーラシア西部草原地帯の複数集団がヨーロッパからモンゴルまでユーラシア北部の広範な地域へと拡大しました。考古学と遺伝学を組み合わせた証拠は、前期青銅器時代のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの広範な人口移動を裏づけます。

 この人口移動により広大な距離にわたる遺伝子流動が生じ、スカンジナビア半島のヤムナヤ(Yamnaya)文化牧畜民と、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化として知られる、はるか東方のアルタイ山脈(関連記事1および関連記事2)およびモンゴル(関連記事)の牧畜民集団が結びつけられました。一部のモデルは、この拡大が、ウマによる牽引、荷車による大量輸送、食性の肉および乳への日常的な依存を特徴とする、新たに移動性となった牧畜経済の帰結であったことを示していますが、そうした経済的特徴を裏づける確かな証拠は得られていません。

 本論文は、ユーラシア西部草原地帯で発見されたさまざまな個体に由来する歯石のプロテオーム(タンパク質の総体)解析を利用して、青銅器時代初頭の酪農に大規模な変化があったことを示します。酪農の至る所での急速な開始が、草原地帯集団の拡散の開始と知られている時点であることは、草原地帯での移動性をもたらした重要な原因に関する重大な手がかりとなります。また、馬乳タンパク質が見いだされたことで、前期青銅器時代までのウマの家畜化が示唆され、草原地帯の拡散でのウマの役割が裏づけられます。本論文の知見は、紀元前三千年紀までにポントス・カスピ海草原地帯がウマの家畜化の中心地であった可能性を示しており、動物の二次的な産物の新規利用が、前期青銅器時代までのユーラシア草原地帯牧畜民の拡大の重要な原動力であった、という見解を強く裏づけています。

 ヤムナヤ文化の拡大はよく明らかになっていますが、その背後にある原動力は不明なままです。広く引用されている理論によると、ユーラシア全域での牧畜民の初期の拡大は、ウマの牽引と荷車による輸送の組み合わせにより可能となった、新たな移動牧畜経済により促進されました。肉と乳への一定の食性依存と相まって、草原地帯は牧畜民共同体による開拓と占有の対象となりました。しかし、このモデルは説得力があるものの、直接的な考古学もしくは生体分子データの裏づけが不充分なままです。銅器時代マイコープ(Maikop)文化と前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団による荷車輸送使用の考古学的証拠は、荷車と頭絡の形で存在しますが、このモデルの他の二つの重要な構成要素、つまり家畜化されたウマと反芻動物の酪農への依存は、考古学的には証明されていないままです。

 ユーラシアのウマの家畜化は長く議論されており(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)では、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化の銅器時代遺跡の初期のウマが、現在の家畜ウマ(Equus caballus)ではなくモウコノウマ(Equus ferus przewalskiiもしくはEquus przewalskii)と特定されました。ウマは草原地帯において前期青銅器時代に出現しますが、当時のウマに人々が騎乗していたのかどうか(関連記事)、あるいは牧畜の一部だったのか単に狩られていたのか、不明確なままです。ユーラシア東部草原地帯については証拠が蓄積されつつあり、ウマは紀元前1200年頃以前には騎乗もしくは搾乳に用いられておらず、初期牧畜民集団では一般的ではなかったかもしれない、と示唆されています。

 西部草原地帯における初期の反芻動物の酪農も充分には論証されておらず、それはこの地域のヒトの安定同位体データが、乳製品消費を示唆してはいるものの、確証できていないからですか。古プロテオミクスは、個体の(乳生産よりもむしろ)乳製品消費を示し、分類学的解決を示せる唯一の方法で、これまでは草原地帯人口集団にほとんど適用されていませんでした。ヤムナヤ文化とアファナシェヴォ文化の人口集団全体で、酪農の証拠は東部草原地帯のわずか数個体でのみ利用可能で、これらの個体は西部草原地帯集団からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しています。そのうち最初の個体は、分類学的に曖昧な反芻動物(ヒツジ属かウシ属)のペプチドの結果のみをもたらしました。

 何が草原地帯全体でヤムナヤ文化の拡大を引き起こしたのか、という激しく議論されている問題に取り組むため、銅器時代から後期青銅器時代(紀元前4600~紀元前1700年頃)にわたる草原地帯の56個体の歯石のプロテオーム解析が実行されました。銅器時代(紀元前4600~紀元前3300年頃)の標本は5ヶ所の遺跡の19個体から構成されます。その内訳は、ムルジハ2(Murzikha 2)遺跡の6個体、フヴァリンスク(Khvalynsk)1および2遺跡の9個体、エカテリーノヴカ・ミス(Ekaterinovka Mys)遺跡の1個体、レビャジンカ5(Lebyazhinka 5)遺跡の1個体、フロプコヴ・ブゴール(Khlopkov Bugor)遺跡の2個体です(図1a)。

 フヴァリンスク遺跡とヴォルガ菓舗およびコーカサス北部の他の銅器時時代遺跡の古代DNA分析結果(関連記事1および関連記事2)は、ヤムナヤ文化人口集団と遺伝的に類似しているものの、後に草原地帯に到達した追加の(アナトリア半島)農耕民祖先系統が欠けている、この地域全体の銅器時自体人口集団の存在を裏づけます。ポントス地域の銅器時代人口集団に適用された既知の安定同位体および考古学的研究は、漁撈と在地植物の採集と家畜化された動物の飼育に基づく経済を示します。初期の牧畜拡大の再構築におけるウマの重要性を考えて、ボタイ文化のよく知られた遺跡の2個体の歯石も調べられました。おもにウマ遺骸で占められる動物相と、紀元前3500年頃までのその遺跡におけるウマの搾乳を示唆する土器の脂質に関する初期の研究とともに、この遺跡はユーラシア草原地帯における初期のウマの搾乳と酪農に関する議論の中心となります。

 本論文の青銅器時代の標本は、ヴォルガ・ウラル草原地帯の20ヶ所の遺跡の35個体に由来し、年代的に二分できます。一方は、ヤムナヤ文化の遊牧期となる前期青銅器時代(紀元前3300~紀元前2500年頃)です。もう一方は中期~後期青銅器時代の移行期(紀元前2500~紀元前1700年頃)で、戦車(チャリオット)と要塞化された集落と新たな西方由来の影響を受けた遺伝的祖先系統が、シンタシュタ(Sintashta)文化とともに出現しました。

 前期青銅器時代の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。クラシコフスキー1(Krasikovskyi 1)遺跡が2個体、クラスノホルム3(Krasnokholm 3)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9(Krivyanskiy 9)遺跡が2個体、クツールク1(Kutuluk 1)遺跡が2個体、レシュチェフスコエ1(Leshchevskoe 1)遺跡が1個体、ロパティノ1(Lopatino 1)遺跡が1個体、ムスタヤエヴォ5(Mustayevo 5)遺跡が2個体、ニズナヤ・パヴロフカ(Nizhnaya Pavlovka)遺跡が1個体、パニツコエ(Panitskoe)遺跡が1個体、ポドレスノエ(Podlesnoe)遺跡が1個体、ピャティレツカ(Pyatiletka)遺跡が1個体、ツルドヴォイ(Trudovoy)遺跡が1個体です(図1b)。

 中期~後期青銅器時代の移行期の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。ボルシェカラガンスキー(Bolshekaraganskyi)遺跡が1個体、カリノフスキー1(Kalinovsky 1)遺跡が2個体、カメンニー・アンバー5(Kamennyi Ambar 5)遺跡が3個体、クラシコフスキーI(Krasikovskyi I)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9遺跡が3個体、ロパティノ1および2遺跡が2個体、ポタポフカ1(Potapovka 1)遺跡が1個体、シュマェヴォ2(Shumayevo 2)遺跡が1個体、ウテフカ6(Utevka 6)遺跡が5個体です(図1c)。以下は本論文の図1です。
画像

 考古学および安定同位体の知見(関連記事)から、前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団の食性は、動物の群れ、とくにウシとヒツジとヤギが中心だった、と示唆されています。ウマ遺骸も数ヶ所の遺跡で多数見られますが、前期青銅器時代のウマの地位は、家畜でも狩猟対象でも、不明なままです。中期~後期青銅器時代の移行期には、より大規模なウマの利用と戦車使用への移行が、家畜への継続的な食性への集中の文脈の中で見られます。本論文で検証された56個体のヒトの歯石標本のうち、55標本で抽出に成功し、識別可能なタンパク質データが得られました。この55標本のうち48標本(87%)で、口腔内で一般的に見られるタンパク質の評価を通じて、保存の強い兆候がある、と判断されました。

 本論文の最初期の標本(紀元前4600~紀元前4000年頃)は、ロシア南西部に位置するか、ヴォルガ川およびその支流に近い5ヶ所の銅器時代遺跡に由来します(図1aおよび図2a)。これら19標本のうち、11標本では抽出に成功して保存状態が良好で、10標本は乳製品消費の証拠を示しません。1個体の歯石には、乳食品タンパク質であるウシ(ウシとスイギュウとbison)のα-S1カゼインに特有の2つのペプチドが含まれていました。しかし、この標本に含まれ唯一の食性ペプチドはカゼインに特異的で、最も一般的に回収される乳タンパク質であるβ-ラクトグロブリン(BLG)の証拠が欠けていたので、この個体における乳製品消費の証拠は確実ではありませんでした。

 一般的に、カゼインペプチドはBLGよりも保存性が低いようなので、それ自身だけよりも他の乳タンパク質ペプチドとともに同定されることが最も多くなります(関連記事)。さらに、2つの特定されたカゼインペプチド内では、アミノ酸の脱アミノ化は1ヶ所しかなく、これらのペプチドの古さの推定はひじょうに困難です。以前の研究では、乳タンパク質におけるアミノ酸の脱アミノ化のきょくたんな変動が実証されており、この1個体で発見されたペプチドの信憑性の確認能力を制約します。ボタイ文化の追加の2個体の歯石は充分な保存状態を示しましたが、乳製品消費の証拠が欠けていました。

 前期青銅器時代個体群(ヤムナヤ文化開始期)では、乳ペプチドが分析された16個体のうち15個体で回収されました(図1bおよび図2b)。この15個体全てで、BLGを含む反芻動物の乳タンパク質と合致する複数のペプチドが含まれ、一部の個体はα-S1カゼインかα-S2カゼイン、もしくは両方も含んでいました。乳ペプチドの多くは、偶蹄類(ウシ、ヒツジ、ヤギ、スイギュウ、ヤク、トナカイ、シカ、カモシカ)の下目である真反芻類など、より高次の分類群にのみ特異的ですが、他のものは、科か属か種を含む、より特異的な分類が可能です。

 前期青銅器時代個体群では、ヒツジ属やヤギ属やウシ属のものが見つかり、多くの標本にはいくつかの種の乳ペプチドが含まれていました。とくに、クリヴャンスキー9の南西部の遺跡(紀元前3305~紀元前2633年頃)からは、前期青銅器時代17個体のうち2個体で、BLGIタンパク質のウマ特有の乳ペプチドが特定されました。ウマ属はウマやロバやチベットノロバを含みますが、ウマ種(Equus caballus、Equus przewalskii、Equus hemionus、Equus ferus)のこが前期青銅器時代草原地帯では考古学的に証明されており、ウマとの特定を裏づけます。

 中期~後期青銅器時代の移行期では、19個体のうち15個体で歯石標本な反芻動物の乳を消費した証拠が認められました(図1cおよび図2c)。前期青銅器時代と同様に、BLGとα-S1カゼインとα-S2カゼインと乳清タンパク質のα-ラクトアルブミンが同定されました。分類学的識別は、真反芻類下目から属水準(ヒツジ属とウシ属を含みます)までの範囲でしたが、ヤギ属もしくはウマ属に特有の識別はありませんでした。以下は本論文の図2です。
画像

 全体的に本論文の結果は、ポントス・カスピ海草原における銅器時代と前期青銅器時代との間における、乳消費パターンの明確で顕著な変改を示します。本論文の分析対象とされた銅器時代の個体の大半(11個体のうち10個体)では、乳消費の証拠が欠けていますが、前期青銅器時代のほとんど(16個体のうち15個体)は、歯石に乳製品消費の充分なプロテオミクスの証拠を含んでいます。銅器時代のフヴァリンスク遺跡の1個体は、ウシの乳消費のやや曖昧な証拠を示し、小規模な父の使用を示唆しているかもしれませんが、この個体の識別の信頼性には疑問があります。

 本論文の調査結果から、ポントス・カスピ海草原における定期的な乳製品消費が銅器時代から前期青銅器時代の移行期に限られる、と示唆されます。ヨーロッパにおける近隣の銅器時代農耕集団は酪農を行なっていたようですが、草原地帯の辺境全域に居住している人々は搾乳慣行を採用しておらず、文化的境界の存在を示唆します。プロテオミクスデータは、ウクライナでの脂質分析とほぼ一致しています。プロテオミクスデータは、銅器時代から青銅器時代のサマラ(Samara)の個体群の同位体分析とも一致しており、サマラの個体群はこれに対応して、魚やシカや他の河川森林資源への強い依存から、陸生および草原(C3およびC4)の動物製品により大きく依存する変化を示します。

 プロテオミクスデータの重要な利点の一つは、場合にゆっては種特有のタンパク質同定を提供できることです。本論文はヒツジとヤギとウシの青銅器時代の搾乳の証拠を提示しており、これらの動物の放牧の証拠と一致します。ポントス・カスピ海草原の青草の多い河川流域は、乾燥に適応したヒツジやヤギの混合群とともに、より多く水に依存するウシに充分な飼料と水分補給を提供しました。最近の研究では、成人でも乳糖分解酵素の生産を可能とするアレル(対立遺伝子)の存在の結果である乳糖分解酵素活性持続が、前期青銅器時代の草原地帯人口集団では稀だった、と示していますが(関連記事)、本論文では、西部草原地帯共同体は、定期的に乳製品を消費しており、それには新鮮な乳および/もしくは他の加工製品(ヨーグルトやチーズや発酵乳飲料など)が含まれていたかもしれない、と明らかになりました。

 曖昧ではあるものの、脂質分析により初期のウマの搾乳が示唆された、ボタイ文化の銅器時代遺跡から東方までの個体の歯石分析では、乳タンパク質は得られませんでした。2点の標本は幅広い結論を引き出すには不充分ですが、この調査結果は遺跡での広範な乳消費を裏づけません。しかし、ポントス・カスピ海地域の前期青銅器時代個体群の歯石標本2点では、ウマの乳消費の証拠が得られました。ボタイ文化のウマは現在の家畜ウマ系統(DOM2)とは異なっていた、と推測した考古遺伝学的証拠(関連記事)と組み合わせると、本論文の調査結果は、さらなる標本抽出と分析により裏づけられるならば、ユーラシア西部草原地帯において持続的な初期のウマの家畜化の焦点を、ポントス・カスピ海地域へと確実に移行させることになるでしょう。

 現時点では、DOM2系統を有する最古のウマ標本は紀元前2074~紀元前1625年頃で、現在のロシアとルーマニアとジョージア(グルジア)で証明されています。本論文における草原地帯もしくは他地域での最初のウマの乳のタンパク質の同定は、前期青銅器時代までに西部草原地帯において家畜ウマが存在したことを明らかにしており、ウマにより牽引される戦車(チャリオット)の最初の証拠が紀元前2000年頃に出現するこの地域は、紀元前四千年紀後期もしくは紀元前三千年紀にDOM2系統の家畜化の最初の震源だったかもしれない、と示唆されます。

 全体的に本論文の調査結果は、前期青銅器時代までにユーラシア草原地帯において二次産品革命が起きた、という考えを強く支持します。人骨の安定同位体やプロテオミクスにより示唆される生計のこの変化は、銅器時代の川沿い集落遺跡の広範な放棄、川の谷間の以前には未開拓だった乾燥した大地におけるクルガン(墳丘)墓地の出現ヤムナヤ文化の墓に車輪付き乗り物とたまにウマの骨が含まれていたことを伴っていました。同時に草原地帯のヤムナヤ文化集団は、ヨーロッパへと西進し、アルタイ山脈へと東進しており、その範囲は6000kmに及びます。本論文のデータに基づいて騎乗や牽引の問題への直接的洞察を提供できませんが、搾乳されたウマの証拠は確実に、ウマの家畜化の可能性を高め、ヤムナヤ文化集団の拡大にウマが役割を果たした、と示唆します。

 動物の牽引と酪農とウマの家畜化の三要素は、ポントス・カスピ海草原の経済の変革と、前期青銅器時代までにヒトの居住地により広範な草原地帯を開放するのに役立ったようです。これらの要素の一部もしくは全てさえ青銅器時代の前に存在していたならば、多くの集団間で集中的かつ持続的に利用されるようになったのは、この後期の時代になってからです。他の要因も重要だったことは間違いないでしょうが、より高い移動性と、寒冷で乾燥した草原地帯での生存に適応した牧畜社会(ウマが他の動物に雪で覆われた牧草地を開いたかもしれず、乳がタンパク質と栄養と水分の持続的な供給源となりました)の出現は、ヤムナヤ文化集団など青銅器時代牧畜民の拡大に疑いなく重要でした。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で言及されていたウマの家畜化について最近の研究では、DOM2系統の起源地はヴォルガ川とドン川の下流域だった可能性が高く、ウマが草原地帯関連祖先系統を有する集団のヨーロッパへの最初の拡大を促進した証拠はない、と指摘されています(関連記事)。ペスト(関連記事)などにより後期新石器時代のヨーロッパで人口が減少し、草原地帯牧畜民の西方への拡大の機会が開かれたのではないか、というわけです。草原地帯牧畜民の西方への拡大は、ヨーロッパ現代人の遺伝的形成に重要な役割を果たしたと考えられており、関心の高い問題なので、すでにかなり解明されているものの、今後も研究の進展が期待されます。


参考文献:
Wilkin S. et al.(2021): Dairying enabled Early Bronze Age Yamnaya steppe expansions. Nature, 598, 7882, 629–633.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03798-4

更科功『「性」の進化論講義 生物史を変えたオスとメスの謎』

 PHP新書の一冊として、PHP研究所より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は性の起源について、繁殖と無関係だった可能性を指摘します。それは、有性生殖は無性生殖よりも増殖率において不利だからです。また本書は、有性生殖にも安定化淘汰が作用しており、無性生殖と比較して進化が速いとは限らない可能性を指摘します。本書はDNA修復システムに性の起源がある可能性も取り上げていますが、それにより有性生殖が有利な理由を説明できるわけではない、とも指摘します。そこで本書が注目するのは、有害な変異が蓄積されることです。有性生殖では、有害な変異を有していても、それを持たない他個体の遺伝子と交換できるからです。ただ本書は、そうだとしても、有性生殖が無性生殖よりも増殖率で不利になるコストを上回れるのか、疑問を呈します。本書は、これらの有性生殖進化説について、短期的利益ではなく長期的利益を追求している点に疑問を呈します。

 次に本書が取り上げるのは、寄生者への抵抗です(赤の女王仮説)。免疫にかかわる主要組織適合遺伝子複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)は、種全体では多様性があるものの、個体では限界があります。進化の速い寄生者に対抗するには、有性生殖で異なるMHCパターンを獲得するのが有利になる、というわけです。本書は赤の女王仮説の根拠になり得る事例として、非アフリカ系現代人において、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来のMHC遺伝子の変異の割合が地域により高いことを挙げています。出アフリカ現生人類(Homo sapiens)にとって、現生人類には存在しなかったネアンデルタール人MHC遺伝子の変異を交雑により獲得したことが有利に作用したのだろう、というわけです。

 本書は性の進化として、同性同士の競合・対立とともに、異性間の競合・対立(性的対立)も指摘します。性的対立は生物において珍しくなく、「軍拡競争」的側面が強いことを本書は指摘します。「軍拡競争」的側面は、上述の宿主と寄生者との関係でも強く現れています。本書は性的対立の「軍拡競争」的側面について、人類を具体的に取り上げているわけではありませんが、人類でも恐らくそうした側面があることは否定できないでしょう。人類の社会制度設計も、そうした進化的側面を考慮しなければ、設計者の予期せぬ弊害が生じることは少なくないように思います。その意味で、進化学は現代社会において必須とも言えるでしょう。


参考文献:
更科功(2021)『「性」の進化論講義 生物史を変えたオスとメスの謎』(PHP研究所)

家畜ウマの起源

 家畜ウマの起源に関する研究(Librado et al., 2021)が報道されました。ウマの家畜化は、長距離移動と戦争を根本的に変容させました。しかし、現代の家畜品種は、紀元前3500年頃となるアジア中央部のボタイ(Botai)文化における頭絡使用や搾乳や囲い飼育の考古学的証拠と関連づけられている、最初期の家畜ウマ系統の子孫ではありません(関連記事1および関連記事2)。イベリア半島やアナトリア半島(関連記事)など、以前よりウマの家畜化の候補地とされてきた別の地域に関しても、近年では異議が唱えられています。そのため、現代の家畜ウマの遺伝的・地理的・時間的起源は不明のままです。

 この研究では、家畜ウマの起源地を特定するため、イベリア半島とアナトリア半島とユーラシア西部およびアジア中央部の草原地帯を含む、全ての家畜化中心候補地のウマ遺骸が収集されました(図1a)。標本抽出の対象は以前には過小評価されていた期間で、放射性炭素年代で紀元前44426~紀元前202年頃の201頭と、紀元前50250~紀元前47950年以前の5頭です。

 DNAの品質により、264頭では平均網羅率が0.10~25.76倍のショットガン配列が可能となり(239頭は網羅率1倍以上)、その中には以前に報告されたデータに追加された配列の16頭が含まれます。死後のDNA損傷の酵素および計算による除去により、変異が経時的に蓄積するならば予測されるように、標本の年代に伴って減少する派生的変異を有する高品質のデータが得られました。広範囲の高品質のウマのゲノム時系列を得るため、一貫した技術もしくは関連する時空間で特徴づけられる、既知の10頭の現代の馬と9頭の古代のウマが追加されました。以下は本論文の図1です。
画像


●家畜化以前の集団構造

 近隣結合系統ゲノム推論により、地理的に定義された4単系統集団が明らかになりました(図1b)。これらは、構造体f4手法の拡張を用いて特定されたクラスタ(まとまり)を密接に反映しており(図1d・e・f)、例外は新石器時代アナトリア半島集団(NEO-ANA)で、系統樹とデータの適合度から、系統発生の誤配置が示唆されました(図1c)。

 最基底部クラスタには、後期更新世から紀元前四千年紀にかけてシベリア北東部で特定された系統である、レナウマ(Equus lenensis)が含まれます。第二のクラスタは、後期更新世のルーマニアとベルギーとフランスとブリテン島、および紀元前六千年紀~紀元前三千年紀のスペインからスカンジナビア半島とハンガリーとチェコとポーランドの地域を含む、ヨーロッパが対象です。第三のクラスタは、以前に報告されたように(関連記事)、ボタイ文化の最初の家畜ウマとモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)から構成され、紀元前五千年紀から紀元前三千年紀にアルタイ山脈とウラル南部に拡大しました。

 第四のクラスタとなる現代の家畜ウマは、紀元前2200年頃以降および紀元前二千年紀に地理的に広範に拡大して顕著になった集団内にまとまります(DOM2)。このクラスタ(DOM2)は、ユーラシア西部草原地帯(WE)で暮らしていたものの、カルパチア盆地の南側となるルーマニアのドナウ川下流よりも西方には、紀元前三千年紀以前には存在しなかったウマと遺伝的に密接なようです。遺伝的距離と地理的距離との間の有意な相関と、推定有効移動面(EEMS)との限られた長距離接続の推論により、紀元前3000年頃以前のウマ集団の強い地理的分化が確認されます(図2a)。

 ボタイ文化を含む新石器時代アナトリア半島および銅器時代アジア中央部におけるウマの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)特性は、後期更新世および紀元前四千年紀もしくは紀元前三千年紀にヨーロッパ中央部および東部でもかなり存在した(図1eおよび図3a)、遺伝的構成要素(緑色)を最大化します(図1e・f)。しかし、この遺伝的構成要素は、紀元前六千年紀から紀元前三千年紀におけるルーマニアのドナウ川下流(ENEO-ROM)集団とドニエプル川草原地帯(Ukr11_Ukr_m4185)集団とヴォルガ・ドン川西部下流(C-PONT)集団では、存在しないか中程度でした。これは、ユーラシア西部草原地帯には到達しなかったものの、ヨーロッパ中央部および東部とアジア中央部地域両方へのアナトリア半島のウマの拡大の可能性を示唆します。典型的な新石器時代アナトリア半島集団(NEO-ANA)祖先系統の欠如は、コーカサス山脈横断でのアナトリア半島からアジア中央部へのウマの拡大を除外しますが、紀元前3500年頃以前のカスピ海の南側の接続を裏づけます。


●DOM2の起源

 ヴォルガ・ドン川西部下流(C-PONT)集団は中程度のNEO-ANA祖先系統を有していただけではなく、典型的なDOM2祖先系統構成要素(橙色、図1e・f)が紀元前六千年紀に支配的になった最初の地域でした。多次元尺度構成法(Multi-dimensional scaling)ではさらに、C-PONTの3頭のウマが、紀元前3500~紀元前2600年頃までの、草原地帯のマイコープ(Maykop)文化のアユグルスキー(Aygurskii)遺跡、ヤムナヤ(Yamnaya)文化のレーピン(Repin)遺跡、ポルタフカ(Poltavka)文化のソスノフカ(Sosnovka)遺跡と関連して、DOM2と遺伝的に最も密接と特定されました(図2a・bおよび図3a)。さらに、DOM2との遺伝的連続性は、紀元前2200年頃以前の全てのウマ、とくにNEO-ANA集団のウマで却下され、例外は、紀元前2900~紀元前2600年頃となる後期ヤムナヤ文化のテュルガニック(Turganik)遺跡(TURG)の2標本で、この遺跡はC-PONTよりもさらに東方に位置します(図2a・bおよび図3a)。したがってこれらは、DOM2ウマの直接的祖先の一部を提供したかもしれません。以下は本論文の図2です。
画像

 qpADM でのDOM2集団のモデル化は、2~4集団全ての組み合わせの循環により、NEO-ANA集団からの寄与の可能性を排除しましたが、C-PONTとTURGのウマからの約95%の遺伝的寄与を含む、ユーラシア西部草原地帯(WE)内での形成の可能性を示唆しています。これは主要な祖先系統の組み合わせを表す9系統のOrientAGraphモデル化と一致しており、DOM2におけるNEO-ANA遺伝的祖先系統の欠如と、C-PONTのウマの姉妹集団としてのDOM2を確証しました(図3b)。以下は本論文の図3です。
画像

 しかし、別々の集団を特定し、単一の一方向性の波として混合をモデル化することは、空間的な遺伝的連続性の範囲を考慮すると、ひじょうに困難でした。じっさい、典型的なDOM2祖先系統構成要素はC-PONT集団で最大化されますが、NEO-ANA祖先系統の割合が増加するにつれて、紀元前三千年紀には東方に向かって(TURGとアジア中央部)急激に減少しました。これは、ユーラシア西部草原地帯とアジア中央部の東側の遺伝的連続性の勾配を示唆しており、C-PONTとTURG よりも東側でのDOM2祖先を除外します。

 類似の遺伝的勾配はC-PONTの西側に位置する地域を特徴づけており、そこではDOM2祖先系統構成要素が、ドニエプル川草原地帯やポーランドや東トラキアやハンガリーにおいて、紀元前五千年紀から紀元前三千年紀に着実に減少しました。これは、DOM2の祖先がC-PONTとドニエプル川草原地帯よりもさらに西方だった可能性を除外します。さらに、遺伝的データの空間的な自己相関パターンは、DOM2祖先の最も可能性の高い場所としてユーラシア西部草原地帯を示唆します(図3c)。まとめると、本論文の結果が示すのは、DOM2祖先は、アナトリア半島ではなく、ユーラシア西部草原地帯、とくにヴォルガ・ドン川下流に、紀元前四千年紀後期と紀元前三千年紀初期に生息していた、ということです。


●草原地帯関連の牧畜の拡大

 古代人のゲノム分析により、ヤムナヤ文化と関連した、紀元前三千年紀におけるユーラシア西部草原地帯からヨーロッパ中央部および東部への大規模な拡大が明らかになりました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。この拡大は、紀元前2900~紀元前2300年頃に、縄目文土器複合(Corded Ware complex、略してCWC)集団に草原地帯関連祖先系統の少なくとも2/3をもたらしました(関連記事)。雄牛がヤムナヤ文化の重くて頑丈な車輪付き貨車を牽引した可能性があるので、この拡大におけるウマの役割は不明なままです。しかし、CWC文脈のウマの遺伝的特性は、DOM2とヤムナヤ文化のウマ(TURGとレーピン)で最大化される祖先系統をほぼ完全に欠いており(図1e・fおよび図2a・b)、OrientAGraphモデル化では、C-PONTおよびTURG両方を含むユーラシア西部草原地帯(WE)集団との直接的つながりを示しません(図3b)。

 典型的なDOM2祖先系統は、漏斗状ビーカー(Funnel Beaker)文化および初期円洞尖底陶(Pitted Ware)と関連した、デンマーク(FB/PWC)やポーランド(FB/POL)やチェコ(ENEO-CZE)のCWCよりも前のウマでも限定的でした。DOM2祖先系統は紀元前三千年紀半ばのソモギヴァー・ヴィンコフチ(Somogyvár-Vinkovci)文化と関連したハンガリーの1頭のウマ(CAR05_Hun_m2458)で最大12.5%に達しました。qpAdmモデル化では、DOM2祖先系統は、ドニエプル川草原地帯(Ukr11_Ukr_m4185)ではなく、トラキア南部(Kan22_Tur_m2386)からの遺伝子流動に続いて獲得されました。紀元前三千年紀初期におけるウマ拡散増加の欠如と組み合わせると(図2b)、これらの結果が示唆するのは、DOM2のウマはカルパチア盆地の北側では草原地帯牧畜民の拡大を伴っていなかった、ということです。

 紀元前2200~紀元前2000年頃までに、典型的なDOM2祖先系統特性が、ユーラシア西部草原地帯外に出現し、それはボヘミアのホルビッチェ(Holubice)遺跡、ドナウ川下流のゴルディネシュティ2(Gordinesti II)遺跡、アナトリア半島中央部のアセムヒュユック(Acemhöyük)遺跡で、その後すぐにユーラシア全域に広がり、最終的に全ての既存系統を置換しました(図2c)。ユーラシアのウマは高い遺伝的連続性により特徴づけられるようになり、紀元前三千年紀後期および紀元前二千年紀初期までの大規模なウマの拡散を裏づけます。この過程は、常染色体とX染色体の変異により示唆されるように、種牡馬と牝馬を含んでおり、ミトコンドリアとY染色体両方の変異で明らかな、爆発的な個体群統計により維持されました。全体的に、本論文のゲノムデータはウマ集団の大きな置換を明らかにしており、過去のウマ飼育者はDOM2ウマを大量に生産し、紀元前2200年頃からのウマの移動性への増加する需要を供給しました。

 注目すべきことに、DOM2の遺伝的特性は、紀元前2000~紀元前1800年頃の、最初の輻のある車輪の戦車(チャリオット)とともにシンタシュタ(Sintashta)文化のクルガン(墳丘墓)に埋葬されたウマに遍在していました。典型的なDOM2特性は、アナトリア半島中央部にも存在し(AC9016_Tur_m1900)、紀元前1900年頃からの二輪車の図像と同時でした。しかし、戦車の最初の証拠の前となるホルビッチェ遺跡やゴルディネシュティ2遺跡やアセムヒュユック遺跡のウマにおけるそうした特性の台頭は、DOM2ウマの核地域外への最初の拡散を促進する騎乗を裏づけており、紀元前三千年紀後期および紀元前二千年紀初期のメソポタミアの図像と一致します。したがって、戦車と馬術の組み合わせが、都市国家から分散型社会までのさまざまな社会的状況で、DOM2を拡散させた可能性が高そうです。


●DOM2の生物学的適応

 ヒトによるDOM2ウマの拡散は、おそらく騎乗および戦車と関連する表現型の特徴の選択を含んでいました。そこで、紀元前三千年紀後期のDOM2ウマで過剰に表れている遺伝的多様体のデータが調べられました。最初の顕著な遺伝子座は、GSDMC遺伝子のすぐ上流でピークに達し、DOM2を除く全系統の2ヶ所のL1転移因子で配列網羅率が低下しました。他の哺乳類における追加のエクソンの存在は、独立したL1挿入がDOM2の遺伝子構造を再構築した、と示唆します。ヒトでは、GSDMCは慢性腰痛と脊柱管狭窄症の遺伝的指標で、これは椎間板硬化と歩行時の痛みを引き起こす症候群です。

 第二の識別された遺伝子座は3番染色体上の約1600万塩基対に広がっており、ZFPM1遺伝子が選択のピークに最も近くなっています。ZFPM1遺伝子は、気分調節および攻撃的行動と関わる背側縫線セロトニン作動性神経細胞の発達に不可欠です。マウスにおけるZFPM1遺伝子の不活性化は、不安障害と文脈恐怖記憶を引き起こします。まとめると、GSDMC遺伝子とZFPM1遺伝子における初期の選択は、より従順で、ストレスへの回復性がより高く、長距離走や荷重耐性および/もしくは戦いを含む新たな歩行運動に関わっている、ウマへの使用変化を示唆します。


●ターパンの進化史と起源

 本論文の分析は、DOM2ウマの地理的・時間的・生物学的起源を解明します。本論文は多様な古代ウマのゲノムデータセットを特徴としており、非DOM2ウマにおける深いミトコンドリアおよび/もしくはY染色体ハプロタイプの存在を明らかにします。これは、まだ標本抽出されていない分岐した集団が、DOM2を除くいくつかの系統の形成に寄与した、と示唆します。これは、予測されるロバへの遺伝的距離が減少するイベリア集団(IBE)でとくに当てはまり、OrientAGraphモデル化ではNEO-ANAにも当てはまります。そうした標本抽出されていない系統の正確な分岐と祖先系統の寄与を解明することは、現在利用可能なデータでは困難です。しかし、イベリア半島とアナトリア半島はよく知られた2ヶ所の退避地で、個体群は氷期に退避地で生き残り、混合したかもしれない、と強調できます。

 本論文の分析は、20世紀前半に絶滅した野生ウマとされるターパンの不思議な起源を解明しました。ターパンはヨーロッパ在来ウマ(CWCウマの祖先系統の割合は、OrientAGraphでは28.8~34.2%、qpAdmで32.2~33.2%)とDOM2に密接に関連するウマとの混合に続いて誕生しました。これは、ウクライナ西部の祖先を予測するLOCATORと一致しており(図3c)、ターパンを野生の祖先かDOM2の野生化かモウコノウマとの交雑種とした以前の仮説に異議を唱えます。


●考察

 本論文は、家畜ウマの起源と拡大についての長年の議論を解決します。紀元前四千年紀後期と紀元前三千年紀前期にユーラシア西部草原地帯に生息していたウマがDOM2ウマの祖先でしたが、以前に仮定されていたような、それらのウマがヒトの草原地帯関連祖先系統のヨーロッパへの拡大(関連記事)を促進した、という証拠はありません。したがって、騎乗での戦争の代わりに、後期新石器時代のヨーロッパでの人口減少が、草原地帯牧畜民の西方への拡大の機会を開いたかもしれません。

 レーピン遺跡とテュルガニック遺跡のヤムナヤ文化のウマは、おそらく紀元前六千年紀の狩猟採集民遺跡の野生ウマ(NEO-NCAS、紀元前5500~紀元前5200年頃)よりも多くのDOM2ウマとの遺伝的類似性を有しており、初期のウマの管理と放牧慣行を示唆しているかもしれません。ともかく、ヤムナヤ文化の牧畜民はその原産地から遠くまでウマを広めることはなく、この点ではボタイ文化のウマの家畜化と同様に、定住型集落体系内での局所的慣行に留まっていました。

 世界化の段階は後になって始まり、DOM2ウマはその核地域外に拡散し、まずは紀元前2200~紀元前2000年頃までにアナトリア半島とドナウ川下流とボヘミアとアジア中央部にまで、次にその後すぐヨーロッパ西部とモンゴルに到達し、最終的には全ての在来集団を紀元前1500~紀元前1000年頃までに置換しました。この過程はまず騎乗を伴っており、輻のある車輪の戦車は後の技術革新を表し、トランスウラル地域のシンタシュタ文化で紀元前2000~紀元前1800年頃に出現しました。シンタシュタ文化と関連する武器と戦士と要塞化された集落は、乾燥化と重要な放牧地をめぐる乾燥化と競争の激化に対応して出現し、土地所有と階層化を強化したたかもしれません。これはアジア中央部草原地帯におけるヒトとウマのほぼ完全な遺伝的置換をもたらした、その後数世紀にわたる征服の基礎を提供したかもしれません(関連記事1および関連記事2)。

 カルパチア盆地と、おそらくはアナトリア半島およびレヴァントへの拡大は異なる歴史的過程を伴っており、専門化したウマの調教師と戦車製作者が、ウマの交易と乗馬で広がりました。どちらの場合も、背部の病状が減少し、従順性が増したウマは、青銅器時代のエリートの長距離交易需要を促進し、ひじょうに価値のある商品および地位の象徴となり、急速な拡散をもたらしました。しかし、本論文の分析対象はかなりの時空間的流動性とエリートの活動への証拠の偏りがあるので、ウマの拡散における追加の証拠が得られにくい要因は無視されるわけではありません。

 本論文の結果には、二つの主要な言語拡散を支える重要な示唆もあります。ユーラシア西部草原地帯からのインド・ヨーロッパ語族の拡大は伝統的に、騎乗牧畜と関連しており、CWCがヨーロッパにおける主要な足がかりとして機能した、とされてきました。しかし、ウマの家畜化には圧倒的な語彙の証拠がありますが、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派におけるウマが牽引する戦車と派生的神話や、より深いインド・ヨーロッパ語族祖語の水準でのウマの飼育慣行の言語学的兆候は、じっさいには曖昧です。CWCにおけるウマの限定的存在と、CWCのウマの在来の遺伝的構成は、ウマがヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の最初の拡大の背後にある主要な原動力だった、とする想定を却下します。

 対照的に、紀元前二千年紀初期から中期のアジアにおけるDOM2ウマの拡散は、戦車およびインド・イラン語派の拡大と同時で、その最初の話者はシンタシュタ文化に直接的に先行する人口集団と関連しています。したがって、言語学と遺伝学の両方で記録されている栗毛色を含むウマの改良品種と戦車の新たな一式が、紀元前2000年頃以後の数世紀内に大きくユーラシア青銅器時代社会を変えた、と結論づけられます。この新たな制度の採用は、戦争か威信かその両方のためか、おそらくはヨーロッパの分散した首長制国家とアジア西部の都市国家との間で異なっていました。したがって、本論文の結果はこれら異なる社会的軌跡の歴史的発展について、新たな研究の道を開きます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ウマの故郷を突き止める

 現代の家畜ウマの起源は、今から4200年以上前の西ユーラシアのステップだったとする論文が、Nature に掲載される。この研究では、乗馬に使用する現生のウマにとって望ましい適応に関連する2つのゲノム領域候補が特定され、それらが選択されたことが、西ユーラシアのステップからのウマの普及に役立ったと考えられている。

 ウマの家畜化は、長距離移動と戦争の様相を一変させたが、現代の家畜ウマの遺伝的起源と地理的起源は不明のままだ。現在のところ、紀元前3500年頃の中央アジアのボタイ入植地に関連する家畜ウマの系統に関する証拠が存在しているが、こうした古代のウマは現代の家畜ウマと近縁でないことが知られている。

 今回、Ludovic Orlandoたちは、現代の家畜ウマの「故郷」を特定するために、イベリア、アナトリア、西ユーラシアと中央アジアのステップなど、馬の家畜化が可能であると以前から考えられていた地域から273頭の古代のウマの遺骸を収集した。そして、Orlandoたちは、これらの遺骸から単離されたDNAの解析を通じて、現在のロシアに位置する下部ボルガ-ドン地域にあった家畜化の拠点を特定し、そこから4200年前にウマが世界中に普及したことを明らかにした。また、Orlandoたちは、乗馬と関連性のある重要な運動適応と行動適応(持久力、荷重耐性、従順性、ストレスへのレジリエンスなど)を、2つの遺伝子(GSDMCとZFPM1)の正の選択と関連付けた。

 Orlandoたちは、乗馬とスポーク車輪の戦車の使用が、新たに家畜化されたウマの普及を下支えし、家畜化によって生まれた新しいウマの品種によって最初の家畜化から約500年以内にユーラシア全域で全ての従来種が置き換わったという考えを示している。


進化学:家畜ウマは西ユーラシアのステップで生じ、そこから広がった

Cover Story:ウマのルーツ:現代の家畜ウマの遺伝的起源

 表紙は、フランスのソルド・ラベイにあるDuruthy岩陰遺跡で発見された、約1万7000年前のマドレーヌ文化中期にさかのぼる3体の馬の彫刻の1つである。家畜化されたウマの遺伝系統は明らかになっておらず、現代の家畜ウマのウマ科の祖先は分かっていない。今回L Orlandoたちは、ユーラシア各地の古代ウマ273頭のDNA解析の結果を提示している。彼らは、この情報を用いて、紀元前2700年頃以降のヴォルガ川とドン川の下流域(現在のロシア)が、ウマの家畜化の中心地であると特定している。今回のデータは、乗馬と戦車の使用が新たに家畜化されたウマの広がりを支え、このウマの系統が、家畜化から約500年以内にユーラシア全域でそれまでの地域個体群の全てと入れ替わったことを示唆している。



参考文献:
Librado P. et al.(2021): The origins and spread of domestic horses from the Western Eurasian steppes. Nature, 598, 7882, 634–640.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04018-9

近藤修「旧人ネアンデルタールの盛衰 現生人類との交代劇」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。人類史においてさまざまな化石集団が知られていますが、その中でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はとくに有名です。ネアンデルタール人の研究史は19世紀半ばにまでさかのぼり、有名なのは1856年に現在ではドイツ領となっているデュッセルドルフ近郊のネアンデル渓谷のフェルトホーファー洞窟(Feldhofer Cave)で発見された部分骨格で、当時はヨーロッパ「人種」の祖先と考えられ、ホモ・ネアンデルターレンシスと命名されました。当時、すでにネアンデルタール人の化石がベルギーとジブラルタルで発見されていましたが、その意義が理解されるようになったのは、このネアンデル渓谷での発見以降でした。これを契機に、現生人類(Homo sapiens)とは異なる人類集団が(化石人類)がかつて存在していた、と認められるようになり、現在に至るまで、ネアンデルタール人の生物学的および解剖学的側面や生活といった側面まで、多くのことが研究されています。しかし、ネアンデルタール人について依然として謎は多く、とくに現生人類との関係も含めてその終焉については、現在でもさまざまな研究が進行中で、議論百出といった感があります。


●ネアンデルタール人の進化的位置

 人類史においてネアンデルタール人は、現代人にとって「最も近縁な親戚(イトコ)」とよく言われます。つまり、ネアンデルタール人はさまざまな化石人類の中で、現代人に最も近い集団であるものの、直接的祖先ではない(イトコ)、というわけです。ネアンデルタール人化石は多数発見されており、この解釈はおおむね正しいようです。つまりネアンデルタール人は、アフリカからユーラシアへと拡散したホモ属集団が、おもにヨーロッパで固有の進化を遂げた結果生まれた、と考えられています。種分化の具体的な年代や要因は不明ですが、氷期と間氷期の振幅の増加や、集団の孤立による遺伝的浮動などにより、ネアンデルタール人に特有の形質が獲得されていった、と考えられています。もしそうならば、ネアンデルタール人は30万年前頃までにヨーロッパを中心として形成されたようです。この時期にアフリカ(の少なくとも一部地域)では、解剖学的現代人が出現していたようです。つまり、ネアンデルタール人は現生人類の直接的祖先ではありません。一方、ネアンデルタール人は絶滅したと考えられますが、ネアンデルタール人の遺伝子はわずかながら現代人に残っています。つまり、アフリカでは解剖学的現代人が、ヨーロッパではネアンデルタール人がそれぞれ誕生して進化し、後に両者が一部地域で交雑した、と考えられます。


●現生人類の進化仮説

 ネアンデルタール人の消滅と現生人類の拡散は、現生人類の進化仮説と深く関わっています。ネアンデルタール人から一部の現生人類(ヨーロッパ現代人)進化した、との見解(多地域進化説)に対して、現生人類の起源は単一で、ネアンデルタール人などは移住してきた現生人類と交替した、との見解が提示されており(単一起源説)、後に遺伝学的研究やアフリカでの初期現生人類化石の発見やレヴァントの初期現生人類化石の年代の見直しなどから、現生人類の唯一の起源地はアフリカで、その後でユーラシアへと拡散していった、との現生人類アフリカ単一起源説が有力となり、現在では共通認識となっています。この現生人類アフリカ単一起源説に基づくと、ネアンデルタール人は絶滅し、アフリカ起源の現生人類と「(一部交雑しながら)交替」したことになります。そこで、なぜネアンデルタール人が絶滅し、現生人類が拡散(繁栄)したのか、という点に関心が寄せられてきました。


●「交替」の時代背景

 ヨーロッパとアジア南西部の中部旧石器および上部旧石器文化の遺跡からは、ネアンデルタール人と解剖学的現代人が見つかっています。おもに、中部旧石器遺跡からはネアンデルタール人が、上部旧石器遺跡からは現生人類が見つかっていますが、人類化石のない遺跡も当然多くあります。ロシアからスペインにかけてのネアンデルタール人遺跡の年代再検討により、ネアンデルタール人は4万年前頃に消滅し、最も早い解剖学的現代人のヨーロッパ拡散は45000年前頃と推定されています(関連記事)。当時ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と解剖学的現代人がほぼ同地域に混在し、同じ環境を共有していたわけです。

 一方、イスラエルなどアジア南西部の一部地域では、より古い10万年前頃に、中部旧石器文化を伴う解剖学的現代人化石が見つかっており、アフリカ起源の現生人類が一時的にアジア南西部に到達したものの、本格的なヨーロッパへの侵入はそのずっと後だと考えられています。解剖学的現代人がアジア南西部経由でヨーロッパに拡散していくにつれて、ネアンデルタール人は西へと追いやられたようです。この時期の気候は氷期・間氷期周期の最中で、北方は氷床に覆われており、ヒトは住めませんでした。この時期の気候変動は、グリーンランド氷床コアから得られた酸素同位体比の変化により推定できます。ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」は酸素同位体ステージ3に相当します。この時期に温暖から寒冷へと気温が変化したことに伴い氷床が発達し、ネアンデルタール人の生息域も移動もしくは縮小しました。45000年前頃以降、ヨーロッパには現生人類が到来しますが、ヨーロッパ北部地域への到達は遅れ、寒冷化が進むにつれて生息域は限定的になっていきます。こうした生息域の変遷パターンはネアンデルタール人と解剖学的現代人とで類似しており、寒冷化は「交替劇」の直接的要因ではないとされていますが、ネアンデルタール人集団の縮小を招いた根本的要因として重視されています。


●「交替劇」に関する仮説

 ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」に関するおもな仮説には、(1)解剖学的現代人は複雑で抽象的な意思疎通ができ、完全な構文言語を有した、(2)ネアンデルタール人は革新(発明)の能力が弱かった、(3)ネアンデルタール人は狩猟の効率が悪かった、(4)ネアンデルタール人の狩猟具は解剖学的現代人のそれ(投槍器)より劣っていた、(5)ネアンデルタール人は食性の幅が解剖学的現代人より狭く、競争に敗れた、(6)解剖学的現代人は罠(トラップ)を用いて狩猟した、(7)解剖学的現代人の石器の固定方法は複雑で高度な認知を必要とするが、ネアンデルタール人のそれは簡素だった、(8)解剖学的現代人はネアンデルタール人より大きな社会的ネットワークを有していた、(9)ネアンデルタール人の領域に侵襲した初期解剖学的現代人は、ネアンデルタール人集団よりも人口が多かった、(10)4万年前頃の寒冷化がネアンデルタール人の人口減少の一要因だった、(11)75000年前頃のトバ火山の爆発が間接的にネアンデルタール人の絶滅を引き起こした、といったものがあります。

 (10)と(11)を除いて、これらの仮説はネアンデルタール人に対する現生人類の優位を根拠としています。これは元々、ヨーロッパとアジア南西部のネアンデルタール人と解剖学的現代人の文化水準の比較から提唱されました。つまり、ネアンデルタール人の中部旧石器文化と解剖学的現代人の上部旧石器文化を比較し、後者には新たな技術や抽象的意思疎通や装飾品と芸術(洞窟壁画など)の創造を伴い、解剖学的現代人は日常活動(生業)水準でネアンデルタール人と違いがあった、と考えられました。こうした解剖学的現代人の「優位性」が環境への適応力を上げ、同時代に同地域に住んでいたネアンデルタール人よりも高い生存可能性を生み出した、というわけです。出アフリカ以前の解剖学的現代人にも、この「現代人的行動」の「優位性」の証拠が、ヨーロッパの中部旧石器時代と匹敵する古い年代(7万年以上前)から見つかっています。つまり、現生人類の「優位性」は出アフリカ以前に芽生えつつあり、その後ヨーロッパでネアンデルタール人と遭遇した時には、その「優位性」により生き残り、ネアンデルタール人は絶滅した、というわけです。しかし、最近になって、この見解に疑問を嘆かれる証拠が報告されるようになっており、「現代人的行動」の特徴と考えられた考古学的証拠が、ネアンデルタール人遺跡からも発見されています(関連記事)。

〇言語と抽象的概念(仮説1)

 化石人骨から言語や抽象的概念の起源を探る試みは、これまで何度も行なわれてきましたが、たとえば、頭蓋底の屈曲程度と咬頭・咽頭の関係や、舌骨の形態や舌下神経管の形態や、脳鋳型が、直接的な因果関係を導くことは依然として困難です。そこで、やはり直接的証拠ではないものの、考古学的証拠が注目されます。出アフリカ以前の解剖学的現代人の文化は、ヨーロッパやアジア南西部の中部旧石器時代と同じ頃の中期石器時代に比定されます。中期石器時代の遺跡から、線刻オーカーや貝製ビーズや火工技術を利用した石器など、言語の起源や抽象的概念を想起させるいくつかの証拠が見つかっています。これは、アフリカにおいてすでに中期石器時代に、抽象的思考や個人間の情報伝達がそれなりの発展段階にあったことをしみします。しかし、これらの証拠がヒトの特徴である「完全な構文構造を有する言語」とどこまで結びつくのかは不明です。

 一方で、アフリカの中期石器時代の解剖学的現代人が示す「抽象的表現」に匹敵する事例は、ネアンデルタール人の中部旧石器時代遺跡でも見つかっています。たとえば、オーカーやマンガンによる彩色(関連記事)、貝(関連記事)やワシの爪(関連記事)や鳥の羽根を利用した装飾品や、洞窟深部の精巧な円形構築物(関連記事)です。これらの「抽象的表現」は、ネアンデルタール人にある程度の高度な思考能力があつたことを示します。考古学的証拠のみで比較すると、ネアンデルタール人と解剖学的現代人との間に大きな差があるようには見えません。ネアンデルタール人と現生人類の抽象的思考能力の比較には、事例の観察だけではなく、それを生み出す行動や技術内容に踏み込むひとが必要でしょう。

〇革新(発明)能力(仮説2)

 考古学的証拠から、「革新(発明)」能力が評価されてきました。つまり、上部旧石器時代(解剖学的現代人)では、中部旧石器時代(ネアンデルタール人)と比較して、石器型式の変化が速く、短期間に多様化することから、解剖学的現代人は「革新(発明)」能力が高く、ネアンデルタール人はその能力が欠けている、というわけです。一方、ヨーロッパの中部旧石器の形式細分の検証から、石器型式の変化速度は、中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてそれほど違いはない、といった見解もあります。これらの見解の相違は、各石器型式の存続年代の精度にも問題がある、と考えられます。

〇狩猟方法と製作技術と食性の幅(仮説3~7)

 仮説3~7では、ネアンデルタール人と解剖学的現代人との間には、狩猟方法や狩猟道具の効率性に違いがあり、あるいはこれと関連して、食料資源の多様性に違いが生じ、両者の生存確率に差が生じた、と想定されます。ネアンデルタール人はすでに火を制御しており(関連記事)、複雑な工程の石器を製作し、加工して槍先として木の棒に装着し、道具として大型動物を狩っていました。生息地域によっては得られる資源が異なり、たとえばアジア南西部のレヴァントでは、狩猟の標的はヤギやヒツジなど中型草食獣で、陸生カメなども食用とされていたようですが、石器製作や狩猟技術や日常生活様式はヨーロッパのネアンデルタール人と変わらない、と考えられます。ネアンデルタール人の狩猟はおそらく、少人数で獣を追い込み、接近して槍で突くか槍を投げる、といったものと考えられ、そのために肉体的負荷が大きく、骨折などの負傷も多かったようです(と本論文は指摘しますが、2万年前頃までネアンデルタール人と現生人類の頭蓋外傷受傷率に違いはない、との見解もあります)。一方45000年前頃にヨーロッパに進出した解剖学的現代人は、より複雑な石器製作技術でより小型の尖頭器や石刃を作成しました。その後、解剖学的現代人はこれら小型石器を槍先に装着し、投槍器や弓矢で射る狩猟技術を用いるようになります。これにより、獲物から離れた狩猟が可能となりますが、ヨーロッパの上部旧石器時代でこれらの技術がどこまでさかのぼるのか、これまで不明でした。

 最近の石器使用痕の研究は、45000~40000年前頃というネアンデルタール人と解剖学的現代人が共存した時代に、こうした遠距離狩猟技術がさかのぼる可能性を指摘します(関連記事)。この研究では、イタリア半島南部のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)遺跡のウルツィアン(Uluzzian)層で発見された三日月型の小型石刃の使用剥離痕と柄への装着方法の詳細な分析の結果、この剥離痕が強い衝撃速度によるもので、柄との積極に複雑な工程を要した、と結論づけられました。つまり、当時すでに投槍器や弓に匹敵する機械的発射技術があり、複雑な石器装着技術は高度な認知能力を必要としたかもしれない、というわけです。カヴァッロ洞窟の人類の乳歯は解剖学的現代人のものとされており(関連記事)、アフリカ起源の解剖学的現代人は、すでに行動な狩猟技術を有していたことになります。同時期のネアンデルタール人では、まだこうした狩猟技術の証拠は見つかっていません。この狩猟技術の差が明らかならば、環境への適応能力の差として「交替劇」を説明できるかもしれません。

 狩猟技術と関連して、食性の多様性も議論されています。直接的証拠として、遺跡で見つかる動植物化石から食性が復元され、ネアンデルタール人が利用した食料資源については、大型~中型の草食獣が中心なのに対して、解剖学的現代人の食性はより多様で、水産資源(魚介類)や小型動物(鳥やウサギ)に加えて、植物も食べられていた、と考えられてきました。より間接的な証拠としては、人骨のコラーゲンから炭素と窒素それぞれの安定同位体比を計測する方法が確立しています。ネアンデルタール人では、炭素と窒素の安定同位体比は食物連鎖の最上位となる食肉類の位置を占め、ネアンデルタール人はウシ科やウマ科など大型草食動物を主要なタンパク資源としていた、と考えられてきました。

 一方、量は多くないかもしれないものの、ネアンデルタール人がウサギなどの小型動物を食べていた証拠(解体痕)や、上述のように鳥の羽根やワシの爪を装飾品として利用した可能性が指摘されるなど反論もあり、さらには淡水魚や植物資源の利用も示唆されています(関連記事)。ネアンデルタール人の植物利用の証拠として、歯石からデンプン粒や植物珪酸体を同定した研究では、ネアンデルタール人は大型獣の狩猟が主だったとしても、植物資源も広く利用されていただろう、と結論づけられています(関連記事)。人骨のコラーゲンから炭素と窒素の安定同位体比を得て推定される食性は、タンパク質源となる主要な食材を示していると考えられ、一方で歯石のデータが示す植物資源の利用は、食性の幅を定性的に見ているにすぎません。「交替劇」に結びつく議論としては、環境への適応能力という観点で比較すべきですが、どちらを重視すべきか、難しい問題かもしれません(なお、本論文では言及されていませんが、排泄物の研究でも、ネアンデルタール人がおもに肉食に依存しつつも、植物も食資源としていた、と指摘されています)。


●ネアンデルタール人の解剖学

 環境への適応能力として石器など道具製作技術に注目するなら、手の器用さは重要となるかもしれません。手の器用さには脳と神経伝達という神経系も関わりますが、手の骨に残る解剖学的特徴を比較すると、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属までは全体的に筋肉が発達し、拳全体を強く握るような「power grip(パワーグリップ)」が主と考えられてきました。さらに、指骨の長さや関節面の湾曲程度の比較から、現代人が指先でつまむような「precision grip(精密グリップ)」は、非現生人類ホモ属では解剖学的に可能でもその頻度は少ないだろう、と考えられてきました。しかし、最近の研究では、指を動かす筋の付着面積が三次元的に測定され、比較基準となる現代人が職業別に「精密グリップ」群と「パワーグリップ」群に分けられ、ネアンデルタール人と現代人とが比較された結果、ネアンデルタール人の筋付着面パターンは「精密グリップ」に属し、とくに親指で高得点であることが特徴でした(関連記事)。これを素直に解釈すると、ネアンデルタール人には指先を用いた精密グリップに特徴的な筋配置があったことになります。一方、現代人は精密グリップ群からパワーグリップ群まで広く分布し、まとまりを示しません。これは分業が進んでいたためではないか、と推測されています。フランスのネアンデルタール人遺跡の証拠から、ネアンデルタール人は淡水魚や鳥やウサギを捕獲し、石器表面に付着した繊維から糸を紡いでいたのではないか、と推測されています。

〇ネアンデルタール人の脳解剖

 ネアンデルタール人と解剖学的現代人の能力差を考えるさいには、脳の働きも検証対象となります。古人類学では、化石頭蓋の内腔の鋳型をとり(頭蓋内鋳型)、この形が比較されてきました。最も直接的に計測される指標は頭蓋内鋳型の要領で、これを脳容量と変換してさまざまな種間や集団間が比較されてきました。脳容量の飛躍的増大はホモ属出現以降の特徴で、その中で、ネアンデルタール人は現生人類と遜色ない(平均値はやや大きい)脳容量を有していた、と明らかになっていすます。頭蓋内鋳型だけではなく、形や比率の比較、脳の溝や皺の痕跡などから、脳の部位(前頭葉や側頭葉など)や言語野(ブローカ野やウェルニッケ野)や視覚野の位置と大きさと発達過程などが調べられてきました。しかし、頭蓋内鋳型は脳の入れ物であり、脳そのものではないので、MRI(磁気共鳴画像)を使った脳機能研究による成果などと直接的に比較することは困難です。

 脳機能研究で用いられている統計的計算解剖学の手法を用いて、この問題に取り組んでいる研究もあります。脳機能研究では、さまざまな被験者の脳機能画像を標準化して重ね合わせ、実験による脳活動部位を表示する手法が用いられます。これは、個人間でバラツキのある三次元画像を一つの基準化した脳(平均脳)にそれぞれ個別の関数により変換することで達成されます。化石人類の頭蓋内鋳型はそれぞれ少しずつ形が異なりますが、ヒト平均脳を化石人類の頭蓋内鋳型に当てはめることで得られた、ネアンデルタール人と解剖学的現代人(この場合は初期現生人類)とヒト平均脳の表面形態を比較すると、ネアンデルタール人の脳は後頭葉が大きくて小脳が小さく、解剖学的現代人ののうは後頭葉が小さくて小脳が大きい、と示されました。現生人類の小脳が相対的に大きいことはすでに知られていましたが、その特徴が「交替劇」の時期にまでさかのぼる、と示されたわけです。小脳の神経ネットワークは、均質な神経モジュールの集合体として構成されています。小脳は、大脳それぞれ機能部位との連絡により、運動機能だけではなく、さまざまな高次の脳機能(言語や作業記憶や社会性や認知)との関連も重視されており、小脳の(相対的)サイズと高次機能との関係が今後の課題となります。

〇種間交雑と同化

 このように、考古学的情報と人骨形態の解剖学的情報から、「交替劇」の要因となりそうな仮説が提示されてきましたが、少なくとも単独の仮説が支持される状況ではありません。解剖学的現代人がネアンデルタール人よりも「優れて」いた可能性は残っているものの、否定的な証拠も増えつつあります。また両者の関係として、交配も注目されています。多地域進化説では、ネアンデルタール人とヨーロッパの現生人類との連続性が想定されており、いくつかの人類化石が両者の中間段階と位置付けられてきました。現生人類アフリカ単一起源説が有力になって以降は、後期ネアンデルタール人やヨーロッパの初期現生人類に見られる中間的形質が、両集団の交雑の証拠と主張されたこともありました。

 ネアンデルタール人と現生人類の交雑がより直接的に示されるようになったのは、ネアンデルタール人の核ゲノムが解析され、現生人類と比較できるようになってからです。その結果、アフリカから拡散した解剖学的現代人がネアンデルタール人と5万年前頃に遭遇して交雑したことにより、非アフリカ系現代人は1~3%とわずかながらネアンデルタール人由来のゲノム領域を有している、と推測されています(関連記事)。現代人のゲノムに残るネアンデルタール人由来の遺伝子の中には、適応度を高めるものも含まれていた可能性があり、じっさい、免疫系(関連記事)や紫外線への適応で有利に作用した(あるいは、有利に作用する遺伝子の近傍にあり、ともに伝わった)、と推測されています。

 そこで、交雑が確認されているネアンデルタール人と現生人類は、現在一般的には別種として扱われているものの、同種ではないか、との疑問も呈されます。多地域進化説では、現生人類とネアンデルタール人は同種(Homo sapiens)で、亜種の水準で異なっていた、と想定されています。生物学的な「種」の定義では「交配可能性」が重視されるので、現時点での知見から、厳密な「生物種」の立場ではネアンデルタール人と現生人類は同種となります。今でも一般的にネアンデルタール人が現生人類とは別種と扱われるのは、生物学的「種」の定義をそのまま進化史に当てはめるのは矛盾をはらんでおり、現生野生動物種においても隣接する別種間で中間種が見つかることもあり、厳密な「生物種」と「化石種」を同一視しなくてもよい、という立場によります。

〇感染症(疫病)仮説

 ネアンデルタール人と現生人類が交配可能で、じっさいに直接的接触があったならば、両者間で病気の伝播が起きた可能性も考えられます(関連記事)。じっさい、ネアンデルタール人由来のゲノム配列には、多くの感染症や免疫系と関連する遺伝子が含まれています。感染症への抵抗性の違いが、ネアンデルタール人と現生人類の命運を分けた可能性も考えられ、感染症の動態と交雑による影響をモデル化することで「交替劇」を説明する研究もあります。異なる病原群を有する2集団は、感染性の病気の存在により集団間の人口動態を安定化させることができ、交雑による遺伝子流動後には、道の病原菌の減少により集団間の往来の障壁はなくなります。各集団がもともと有していた病原群に違いがあり、未知の病気の数が異なることにより、障壁の取り払われる時期と、その後の集団規模の変化も異なることが示されたわけです。

 このモデルにより、アジア南西部のレヴァント地域におけるネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」は、以下のように説明されました。アフリカ起源の現生人類は熱帯性、ヨーロッパ起源のネアンデルタール人温帯性の病原群を有しており、互いに未知の病気を持っていました。18万~12万年前頃、現生人類の出アフリカの最前線だったレヴァントでは、現生人類とネアンデルタール人が長期にわたってレヴァントという狭い地域で接触していましたが、その間に徐々に遺伝子流動が起きました。5万年前頃以降のある時点で両者の障壁が低くなり、接触範囲が広がりましたが、この時点で両者にとっての未知の病気の深刻度が異なり、現生人類が集団規模を拡大した一方で、ネアンデルタール人では集団規模が縮小した、というわけです。具体的な感染症や病因を特定できていませんが、現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の配列の分析から、自然選択に有利に作用している部分を調べることにより、こうした病因関連配列の候補が見つかるかもしれません。


●環境への対応能力と偶然

 ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」の要因に関して、決定的な解答はまだ見つかっていません。これら関して、「偶然」の重なりを指摘する見解もあります(関連記事)。人類進化の過程は直接的ではなく、複数の人類集団が生まれては消えていきました。アウストラロピテクス属の頃から現生人類の出現に至るまで、複数の人類集団が地球上で共存したことは明らかで、各集団はそれぞれの地域環境に適応していました。ネアンデルタール人と現生人類も同様で、「交替劇」の環境で遭遇した両集団のうち、現生人類が生き残り、ネアンデルタール人が絶滅した理由は、「偶然」の積み重ねでした。適切な時に適切な場所にいたのが、偶然にも現代人の祖先だった、というわけです。一方ネアンデルタール人は、不適切な時に不適切な場所にいました。

 この仮説では、ネアンデルタール人と現生人類の「能力差」に見える事象も偶然の産物のようです。同時代を生きた両者は地域環境の変化にあわせてそれぞれ革新を起こした、というわけです。イベリア半島の端に追いやられたネアンデルタール人が4万年前頃以降も生き延びたのは、その地の海産資源を食べたからでした。一方でアジア中央部に拡散した現生人類は、ツンドラステップという寒冷・乾燥した大平原への適応を可能にしました。それぞれの環境への適応を果たした点で、両者間に能力差はなかったものの、その後の気候変動(や何らかの環境変化)が偶然にも現生人類に有利に作用した、というわけです。偶然上手くいったものが残り、そうでなかった者は個体数を減らして絶滅へ向かうという進化の考え方は、ダーウィン(Charles Robert Darwin)の主張した「適者生存」と、木村資生の「分子進化の中立説」を統合する現代的な進化の考え方と適合します。偶然の事象が重なった結果、「交替劇」が起きたのかもしれません。


参考文献:
近藤修(2021)「旧人ネアンデルタールの盛衰 現生人類との交代劇」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第4章P59-74

ゾウにとって強力な選択圧となる象牙の密猟

 ゾウにとって密猟が強力な選択圧になることを報告した研究(Campbell-Staton et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この現象は以前から報道されていました。この研究は、モザンビーク内戦(1977~1992年)中とその後、モザンビークのゴロンゴーザ(Gorongosa)国立公園に生息するアフリカゾウの進化に対する象牙目当ての狩りの影響を調査しました。この内戦中、両軍は戦費調達のために象牙取引に大きく依存し、それによってゾウの個体数は90%以上も激減しました。

 この研究は過去の現場データと個体数モデリングを使って、内戦中の激しい密猟によりこの地域で完全に牙のない雌のゾウの割合が増加したことを示しました。これは密猟という脅威下ではるかに高い確率で生き延びることができる表現型の出現だと指摘されています。食料や安全や営利のどれが目的であれ、種の選択的殺傷は人口の増加と技術の進歩につれて増え、激化したにすぎません。したがってそれは、人間による野生生物の搾取が標的種の進化を促す強力な選択圧になることを示しています。この研究結果は、人間による捕獲が野生動物群に対して及ぼす可能性のある強力な人為的選択圧を明確にする上での新たなヒントになる。

 この研究は、牙のない雄が全く観察されなかった性差の原因として、牙の遺伝パターンには伴性の遺伝的原因があることを示唆している、と指摘しています。全ゲノム解析により、哺乳類の歯の発生における役割が判明している遺伝子座であるAMELXを含む、一対の候補遺伝子が明らかになりました。ヒトの場合、これらの遺伝子はゾウの牙に相当する側切歯の成長を阻害する雄にとっては致死的なX連鎖性優性症候群と関係があります。この研究の単純明快な手法は、選択的捕獲に対する遺伝的反応を記録した希少な研究の一つで、これにより選択的捕獲が進化的応答につながる可能性を議論するさいの知識を得られる、と評価されています。


参考文献:
Campbell-Staton SC. et al.(2021): Ivory poaching and the rapid evolution of tusklessness in African elephants. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abe7389

海部陽介「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。国連推計では2019年の世界人口は約77億人で、増加率は鈍化してきているとは、今後も増加し、2050年には約97億人に達すると予測されています。人類がこうした「繁栄」を示すようになった理由と時期、その過程で身体と社会はどう変わってきたのか、といった答えは全て人類進化史にあります。本論文は、広域分布と均一性という、現生人類(Homo sapiens)のきわだつ二つの特質に注目しながら、ホモ属の人類史を概観します。

 現生人類は人類の1種で世界中に分布しており、これは完新世最初期から同様です。しかし、他の生物は異なります。現生人類のように、異なる気候帯や植生帯、広大な海をまたいで地球上のほぼ全ての陸地に分布している動物は、他にはいません。さらに、これだけ広域分布しながら1種であることも、現生人類の不思議な側面です。広域分布する哺乳類として、たとえばタイリクオオカミ(Canis lupus)はかつてユーラシアと北アメリカ大陸の大半に生息していましたが、基本的には北半球の動物で、北半球でもアジア南東部の熱帯雨林やアフリカ大陸には存在しませんでした。動物たち通常、広域分布するようになると多様な種に分化していきます。移動性の低い小型種ほどその傾向は顕著で、たとえば南極を除く全世界に分布するネズミ目の種数は2000から3000と推測されています。ヒトを宿主とする病原体ならば爆発的に広がる機会があるでしょうが、現生動物種では、自力で地球全体へと広がることがいかに困難なのか、了解されます。

 霊長類(霊長目)では、これがより明確になります、現生人類霊長類は200~500種と推測されていますが、基本的には亜熱帯の森林を生活域にしています。霊長類の中には草原に適応した分類群もいますが、砂漠や高緯度地域には進出できませんでした。しかし、現生人類の分布域は、1種だけでこれら200種以上よりもはるかに広くなります。人類が、いつからどのようにして世界へ広がったのか、その過程で何が起こったのか、本論文は概観します。


●ホモ属の出現

 700万~350万年前頃の「初期の猿人」や420万~140万年前頃の「狭義のアウストラロピテクス属」および「頑丈型の猿人」では、直立二足歩行が進化して地上への進出が強化され、330万年前頃には初歩的な石器が使い始められていた、と考えられています(関連記事)。しかし、これらの人類の脳サイズは現生大型類人猿並で、顔面や体系などの各所に(非ヒト)類人猿的要素が色濃く残っており、その長い歴史において最後まで故郷のアフリカを出ることはありませんでした。

 そうした人類進化史に大きな変化が現れ始めたのは300万~200万年前頃で、アフリカ東部のこの時期の地層からは、歯や顎がやや小型化し、脳サイズは「猿人」よりも明らかに大きい人類化石が発見されています。このように頭骨と歯に「ヒトらしさ」が現れた人類はホモ属と分類され、「猿人」とは区別されています。日本では、このホモ属の祖先的集団をまとめて「原人」と呼ぶことが慣例となっています。「原人」はアフリカ東部に生息していた「猿人」から派生したと考えられますが、現時点では300万~200万年前頃の人類化石の発見例が少なく、その出現期の詳細について不明点が多いものの、以下の3点が重要です。

 まず、この時期は地球史における第四紀氷河時代の始まりに相当し、アフリカでは古土壌の安定同位体や哺乳類の種構成などに、森林が減少し、草原が広がった痕跡を読み取れます。つまり、気候の乾燥化と植生の変化の中で、そこに暮らしていた人類は食性など生存戦略の変化を迫られたはずで、その新たな選択圧下でホモ属が出現したようです。

 次に、石器の増加が注目されます。当時の主要な石器は、拳大の円礫の一部を打ち割って刃をつけた単純なもので、その石器製作伝統はオルドワン(Oldowan)、その特徴的石器はオルドヴァイ型石器と呼ばれますが、それがアフリカ東部の260万年前頃以降の地層から散発的に見つかるようになります。同時に、動物骨に石器で切りつけた解体痕(cut marks)の発見例が増えることから、「原人」たちは石器で動物を解体し、肉食の頻度を増やしていたようです。おそらく石器の使用と肉食への移行と脳の増大と歯の小型化には相互関連性があり、たとえば肉食による消化器官の負担軽減がエネルギーコスト面での脳の増大化への道を開いた、とする仮説が有力視されています。

 最後に、この時期に生存していた人類が「原人」だけではなかったことです。ホモ属の登場と時期を同じくして、アフリカ東部には臼歯と顎が極端に大型化した、「頑丈型猿人(パラントロプス属)」が出現します。「頑丈型猿人」では脳サイズの変化は微増程度に留まっており、ホモ属とは別の道を歩んだ人類だった、と示されます。しかし、「頑丈型猿人」は当時のアフリカにおいて弱小なそんざいではなく、アフリカでは東部から南部まで化石が多数見つかっており、140万年前頃に化石記録が途絶えるまでは、一つの勢力としてホモ属と長期にわたって共存していました。

 初期「原人」については、分類をめぐって長く論争が続いています。一部の研究者は、1964年に提唱されたホモ・ハビリス(Homo habilis)以外に、アフリカ東部には複数の初期ホモ属種が共存し、複雑な進化を遂げたと主張していますが、他の研究者は、それは種内の個体変異を過大評価しているにすぎない、と考えています。こうした論争を決着させる新たな化石の発見他のため、アフリカでは各国の研究者が調査を続けています。


●「原人」の出アフリカ

 アフリカに登場した初期「原人」のホモ・ハビリスは比較的小柄で、脳サイズも現生人類の半分程度(約640cc)でした。近年、化石骨や石器の年代整理が進んだことで、「原人」のその後の進化について、一つの傾向が浮き彫りになりつつあります。それは、175万年前頃に、「原人」の身体と石器文化に大きな変化が現れたことです。175万年前頃を境に、脳サイズが約850ccと一層大きくなり、身長も現代人並に高くなったホモ属化石が見つかるようになります。専門家はこの人類をホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類していますが、アフリカのホモ属をエルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。ホモ・エレクトスの脳は現代人の2/3程度の大きさでしたが、現代人的な脚長の体型や股関節の構造などから、長距離走や投擲が特異なヒト特有の運動機能を発達させ、さらに発汗により効果的に体温を冷却するヒト的生理機構が進化していた、と推測されています。

 ホモ・エレクトスの登場と同じ頃に、アシューリアン(Acheulian)と呼ばれる新たな石器文化が出現しました。その代表的石器はアシュール型ハンドアックス(握斧)と呼ばれる大型の打製石器で、左右や表裏に対称性があり、土掘りや動物の解体など、多様に用いられていたようです。アシューリアン(アシュール文化)の石器はその後、経時的にさらに洗練されていきました。

 「原人」の出アフリカについて、20世紀の人類進化学の教科書では100万年前頃に初めてユーラシアへと広がった、と書かれていましたが、その後の発見と研究により、出アフリカはもっと古い、と明らかになってきました。黒海とカスピ海に挟まれたジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃にさかのぼるオルドヴァイ型石器と、178万年前頃の「原人」化石が大量に発掘されています。ドマニシ遺跡の「原人」は、報告者たちによりホモ・エレクトスに分類されていますが、その頭骨は実際にはかなり祖先的で、既知のホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間的特徴を示しています。ドマニシ「原人」は人類化石として現時点ではユーラシア(非アフリカ地域)最古となり、脳が大きくないといった祖先的特徴を備えています。

 ドマニシ遺跡を越えて西方に広がるヨーロッパでは、60万年以上前となる古い人類遺跡の発見例が乏しいものの、見つかった石器はオルドヴァイ型です。現時点では、スペインで見つかった78万年前頃の子供の頭骨や、120万年前頃とされる断片的な下顎骨化石が知られていますが、これらの人類化石と既知の「原人」との関連性は明らかではあれません。

 アジア東方で最古の人類遺跡は中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)に位置し、人類化石は出土していないものの、ドマニシ遺跡より古い212万年前頃の地層でオルドヴァイ型石器が発見されており、中国北部では、その他にも170万~120万年前頃になるかもしれない石器が、いくつかの遺跡で見つかっています(関連記事)。

 中国での発見事例を考えると、より温暖なアジア南部および南東部にも、200万年前頃に「原人」が進出していたとして不思議ではありませんが、現時点ではその証拠はほぼ皆無です。インドネシアの「ジャワ原人」については、最古の年代が127万年前頃もしくは145万年前頃以降と推定されています(関連記事)。ただ、その化石にはかなり祖先的な特徴があるので、アジア南東部大陸部に200万年前頃に進出していた古い「原人」集団が、大陸部と接続したり切断されたりを繰り返していたジャワ島へ渡るのに数十万年かかった、と想定することもできます。


●アジアにおける「原人」と「旧人」の多様化

 アジアに広がった人類からその後、ホモ・エレクトスの地域集団である「ジャワ原人」や「北京原人」が派生しました。かつて、最初にアジア東方へ広がったのはこのホモ・エレクトスで、その後100万年間近く、アジア東方にはホモ・エレクトス以外の人類は存在しなかった、と考えられていました。しかし近年になってアジア東方において、これまで人類化石が確認されていなかった地域で新たに人類化石が複数発見されています。

 ジャワ島のフローレス島では、2003年に10万~5万年前頃(報告当初は18000年前頃と推定されました)の地層から新種の「原人」化石が発見され、新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名されました(関連記事)。これが大きな話題となったのは、身長が105cm程度とひじょうに小型で、脳サイズもチンパンジー並だったからです。過去200万~5万年前頃に、人類の身体および脳サイズは大きくなる傾向にありましたが、「フローレス原人」はこの傾向に明らかに反しています。フローレス「原人」の起源については激しい議論が続いていますが、本論文は「ジャワ原人」起源説を主張します。その根拠は、「フローレス原人」の諸特徴が「ジャワ原人」と酷似しており、それ以上の祖先性は認められない、という形態解析結果です。この見解が正しいならば、身長165cmで脳サイズ860cc程度の110万年前頃の「ジャワ原人」の状態から、身長105cmで脳サイズ426cc程度の「フローレス原人」の状態まで、劇的な矮小化が起きたことになります。そうした極端な進化はあり得ない、との見解もありますが、最近になってフローレス島で70万年前頃の人類化石が発見されたことにより、「ジャワ原人」起源説が改めて指示されました(関連記事)。

 過去の海水準変動でアジア大陸部と接続・文壇を繰り返したジャワ島とは異なり、フローレス島はずっと孤立した島でした。動物学では、そうした島で動物の身体サイズや脳サイズに劇的な変化が起こり得る、と知られており、島嶼効果(島嶼化)と呼ばれています。フローレス島でもそれが起こり得ることは、フローレス島のゾウ類がウシのサイズに縮小している事実からも裏付けられます。「フローレス原人」の発見は、人類といえども、島嶼化のような動物進化の法則から独立しているわけではない、と改めて研究者に突きつけました。2019年には、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された人類化石が矮小化した「原人」と判明した、と報告されました(関連記事)。この「原人」は新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と命名され、島環境における特殊な人類進化がさらに注目されました。

 台湾の西側の海底では、漁船の底引き網にかかって人類の下顎骨化石が発見され(澎湖人)、その年代は間接的証拠から45万年前頃以降で、おそらく19万年前頃よりも新しい、と推測されています(関連記事)。この下顎骨は頑丈で歯が大きい点で、より古い80万~75万年前頃の「ジャワ原人」や「北京原人」よりも祖先的に見えます。「原人」の歯と顎は経時的に小型化していく傾向にあるので、「北京原人」も「ジャワ原人」も澎湖人の祖先とは考えにくく、両者とは異なる系統の人類がアジア大陸の辺縁部に存在したことを示唆します。

 現在はロシア領となるシベリア南部のアルタイ地方は、モンゴルと中国とカザフスタンの国境が入れ乱れる地域の付近に位置します。アルタイ山脈には古い人類遺跡のある洞窟がいくつか知られており、その一部は化石とDNA解析からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と同定されました。さらに、現生人類ともネアンデルタール人とも異なる人類の存在が明らかになり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と呼ばれています(関連記事)。デニソワ人はDNAから同定された初めての人類で、その素性はまだよく分かっていません。その後、チベット高原で発見された人類化石がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と明らかになっており(関連記事)、チベット高原の洞窟堆積物ではデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人でもアルタイ山脈やチベット高原から遠く離れたオセアニアおよびアジア南東部島嶼部の一部集団でとくに高いと示されており(関連記事)、その解釈をめぐって研究が続けられています。

 このように新たな化石の発見と分析技術の進歩により、ホモ属の進化史はじゅうらいの認識よりも多様で複雑だった、と明らかになりつつあります。その状況は、「原人」よりも派生的な形態特徴を有する「旧人」が現れてからも、おそらくは変わっていません。おそらくヨーロッパでは60万年前頃以降、アジア東部では30万年前頃以降に「旧人」が出現し、ともに5万~4万年前頃まで存続していた可能性があります。しかし、その時点でアジア辺縁部にはなおも「原人」系統が存在しており、人類進化史の複雑性とともに、現生人類しか存在しない現代が特異な時代であることを示します。


●現生人類の出現

 上述のように、5万年前頃までの地球上において人類はかなり多様で、世界の異なる場所には異なる種が存続しているのは普通でした。それから状況は大きく変わり、「原人」も「旧人」もいなくなり、現在では現生人類1種だけが、かつての人類の分布域を大きく越えて世界中で暮らしています。この激変を説明する理論が、現生人類アフリカ単一起源説です。1980年代頃までの学界では、多地域進化説が一定の影響力を有していました。多地域進化説では、これは、アフリカとユーラシア各地へ広がった「原人」の子孫たちが、隣接集団間の遺伝子交換により進化の方向性を共有しつつ、基本的に各地域で「旧人」を経て現代人へと進化した、と想定されました。これに対して現生人類アフリカ単一起源説では、現生人類がアフリカの「旧人」集団から進化して世界各地へ広がった、と想定されます。

 2000年代以降、現生人類アフリカ単一起源説は遺伝学(ゲノムデータに基づく系統樹では、現代人は全員20万~10万年前頃にアフリカで派生したと示されます)や化石形態学(現代人と同様の形態特徴を有する化石頭骨は、30万~15万年前頃にアフリカで最初に出現します)や考古学(装飾品や模様などの「先進的」行動はアフリカで最初に始まります)など、さまざまな証拠により固められ、定説となりました。現生人類の起源が明らかにされたことで、現生人類の歴史を本格的に語る枠組みが得られました。これまでの歴史叙述の多くは「文明」の誕生と発展に力点を置いてきましたが、人類史は「文明」誕生以前から始まっており、地域によっては「文明」とは縁遠い暮らしを続けてきた人々もいます。そうした全ての人々を視野に含めた歴史を語るならば、現生人類自身の歴史にもめを向けるべきで、現生人類アフリカ単一起源説の確立を受けて、今はそれが可能となっています。近年脚光を浴びている「グローバルヒストリー」の背景には、こうした流れがあります。


●世界へ広がった現生人類

 「原人」や「旧人」はユーラシアへと拡散したとはいえ、その分布域は世界の陸域の半分にも満たないものでした。「原人」や「旧人」のそれ以上の拡散を何が阻んでいたのか、逆にそれを突破した現生人類の新規性がどこにあるのかを、読み取れます。遺跡証拠に基づく現生人類の拡散経路の復元地図は直接的証拠なので、遺伝学に基づくそれよりも確度が高くなります。現生人類が世界へ広がった最終氷期後半(5万~1万年前頃)は、海水面が最大で現在よりも125~130m下がっていました。

 現生人類の出アフリカの年代については、10万年前頃や7万年前頃や5万年前頃などの仮説がありますが、現代人の系譜へとつながるユーラシア全土への本格的な拡散が始まったのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代(後期旧石器時代)です。その時点で、ユーラシアの中~低緯度地域には多様な「原人」や「旧人」の先住者がいましたが、なぜかこの時期にその大多数は姿を消しました。アフリカからユーラシアへと拡散していった現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人などと部分的に混血したことが、化石人類および現代人のゲノム解析から判明しており、非アフリカ系現代人は、そうした非現生人類ホモ属由来のゲノムを数%程度継承しています。

 出アフリカ後の現生人類は、直ちに「原人」や「旧人」の分布域全体へ広がり、さらにその先の無人領域へと拡散しましたるまず、何らかの舟で西インドネシアの海に進出した現生人類集団が、ニューギニアやオーストラリアへ到達しました。そのような海洋進出は、やがて西太平洋のアジア大陸部辺縁地域に転がり、38000~35000年前頃には対馬海峡や台湾沖の海を越えて、日本列島への移住を果たした集団が現れました。島へ渡った現生人類は、海洋航海に限らず、いくつかの新規的行動の痕跡を残しています。たとえば本州や九州では、現時点で最古となる3万年以上前の狩猟用落とし穴(罠猟の証拠)が多数発見されています。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡からは、現時点で世界最古となる23000年前頃の釣り針が発見されました。世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、島が水平線の向こうに見えないほど遠い台湾から与那国島への海峡を、丸木舟で渡る実験航海では、古来の航海術で45時間かけて与那国島へたどり着けました。

 アジア大陸内陸部では、同じ頃にシベリアへの現生人類の進出が始まっていました。現生人類は45000年前頃には、バイカル湖の南側の「旧人」生息域の本源に達し、32000年前頃までには、それをはるかに超えて現在の北極海沿岸にまで進出しています。その背景には、寒さに耐えるための住居建設、裁縫による毛皮の衣服、食料や道具素材の貯蔵など新たな技術開発がありました。シベリアの奥地へ到達した現生人類集団の一部は、やがてアラスカへと進出し、さらにアメリカ大陸へと広がっていきました。

 こうして最終氷期が終わって気候の温暖化が顕著になる1万年前頃までに、南極大陸を除く全ての大陸が現生人類の分布域となりました。その後、一部地域で農耕が始まって新石器時代になると、より規模の大きい海洋進出が始まり。3500~1000年前頃には、木造の大型帆つきカヌーを有する集団が出現し、アジア南東部を起点に太平洋の中央に位置するポリネシアや、インド洋のマダガスカル島に拡散しました。

 このように現生人類は、ヨーロッパで「大航海時代」が始まるずっと前から、南極を除く地球上のほぼ全ての陸域で暮らすようになっていました。その拡散の様相をたどると、他の動物とは異なる現生人類の特異性が浮き彫りになります。他の動物が新たな環境に進出するさい、身体構造の進化を伴うのが普通ですが、現生人類は海を越えるために舟を発明し、寒さに耐えるために他の動物の毛皮を利用するというように、技術と文化でそれを解決しました。


●現代人の多様性の逆説

 20世紀後半以降に急速に発展した人類遺伝学は、現生人類アフリカ単一起源説の確立に大きく貢献しましたが、その他に重要な発見が一つあり、それは、外見から受ける印象とは異なり、現生人類の遺伝的多様性は低い、ということです。世界各地の現代人は、肌の色や体型や顔や髪質などでかなりの多様性を示すので、外見からその人の出身地を大まかに言い当てることもできます。一方でチンパンジーには、現代人の視点ではそれほど外見の多様性はありません。しかし、非ヒト類人猿と現代人のゲノムの比較では、現代人の方が遺伝的多様性は低く、これは、現生人類は誕生(より正確には現代人の遺伝的分化の開始)以降の歴史が浅い、と示します。このように、見かけと遺伝的多様性の様相が相反することを「現代人多様性の逆説」と呼びます。

 この逆説の理由は、現生人類が急速に世界へと拡散したことと関連しています。つまり、気温や日照条件などが異なる各地へ拡散した現生人類は、各地に適応するような選択圧が作用し、関連する一部の遺伝子が変異して(あるいは非現生人類ホモ属から適応的な変異を得て)外見上の多様性が生まれました。具体的には、肌の色は紫外線照射量と相関しており、身長や体型もある程度は気温と関連している、と示されています。現生人類では、一部の遺伝子が多様化して見かけの集団間の多様性が生まれましたが、ゲノム全体の種内多様性は低く、この逆説を正しく認識することは現代社会において有益です。現生人類は視覚で判断する性向を有するので、外見が異なる他者を異質と決めつけて排除してしまう危険性があります。これは無用な差別の温床になり得るので、これを避けるには、個々人が多様性の実態を理解しなければなりません。


●世界拡散以後の四つの革命

 現在、多様な現生人類の言語や文化が存在しますが、これも上部旧石器時代以降の歴史の産物です。古代「文明」以降、そうした文化の地域的多様性はさらに増し(と本論文は指摘しますが、「文明」以降、逆に均質化が進んだのではないか、と私は考えています)、やがて支配する集団と支配される集団の関係が生まれました。しかし、こうした差異を集団の優劣の反映と安直に考えるべきではありません。「グローバルヒストリー」の観点から、どの地域でどのような文化が生まれるかは、その集団の移住先の地政学的要因や歴史に強く作用される、との認識が提示されています。こうした文化や社会体制の多様化の経緯も、上述の身体形質とともに、現生人類の歴史として理解すべきです。異文化に敬意を抱き、多文化共生を目指すならば、そうした姿勢が必須となるでしょう。

 進化ではなく歴史が社会を変えてきた具体例として、人類史でよく知られたいくつかの「革命」があります。それは、認知革命や農業(食料生産)革命や産業革命や情報革命などです。千年単位の長い過程の結果である農耕の発生に革命という呼称は相応しくない、との見解もありますが、興味深いのは、革命により生じた文脈です。認知革命の定義はあいまいですが、一般的には、創造力や想像力や認識力や言語による複雑な情報伝達力や未来予見性や計画力にたけた、現生人類の認知能力の進化を指しています。農業革命と産業革命と情報革命は現生人類の世界への拡散後に生じたもので、認知能力の進化を伴うわけではありません。それは、食料生産や工業生産や情報技術のどれも、発明者から近隣集団へとすぐに伝わったことからも明らかです。

 つまり、現生人類は特別な進化なしに、過去5万年間に技術や社会体制を飛躍的に発展させました。考古学によると、そうした大変革の萌芽はすでに上部旧石器時代に存在しており、文化が地域的多様化や時代的変遷を示すことは、上部旧石器文化の特徴の一つと把握されており、たとえばヨーロッパ西部の上部旧石器文化は、オーリナシアン(Aurignacian)やグラヴェティアン(Gravettian)など細分化され、日本列島の後期旧石器時代も前半と後半と末期では様相が異なります。つまり、先代の技術や知識を継承しながら次々と発展させていく行為そのものが、現生人類の特徴と言えます。進化していく過程で新たなものを獲得する他の生物とは異なり、独自に歴史を創出して変えていくのが現生人類で、上部旧石器時代の世界規模の拡散もそうして達成されました。現生人類はこうした能力を共有していますが、各地域の歴史的経緯が異なったので、文化や暮らし方は多様になりました。


●現生人類の功罪

 このように右肩上がりの発展と多様化を遂げてきた現生人類ですが、今やその行動には、有用と判断した動植物の生育を制御し、有害と判断した生物を排除し、陸の地形を変え、気候に影響を及ぼし、海にも宇宙にも廃棄物があるなど、自然を左右するほどの影響力があります。その功罪一覧は膨大になるでしょうが、人類史の視点から二つ挙げると、大絶滅および「文明病」と呼ばれる疾患です。現生人類が世界各地へ拡散した更新世末には大絶滅が起きたとされており、ユーラシアの非現生人類ホモ属とともに、各地の大型哺乳類や地上性鳥類が次々と絶滅しました。気候変動がその絶滅の一部を説明できるかもしれませんが、現生人類に大きな責任があることは否定できないようです。絶滅の影響は、それまで無人だったオーストラリアやアメリカ大陸などでとくに大きく、日本列島でも、ナウマンゾウやケナガマンモスやステップバイソンやオオツノジカやヒョウなどが、現生人類の到来後に消滅しました。つまり、現生人類による環境破壊は上部旧石器時代から始まっていたわけです。

 「文明病」と呼ばれる一連の疾患には、高血圧や心筋梗塞や虫歯などがあり、食生活の変化に起因します。1990年代末に登場した進化(ダーウィン)医学では、これが身体と生活環境の不一致という視点で解釈されます。つまり、現生人類にとって最適な食生活とは、長期にわたる旧石器時代の狩猟採集生活に合うよう調整されてきたはずなのに、「文明」の発展に伴って環境が急激に変わり、祖先がおそらく経験しなかった、飽食や糖分の過剰摂取が容易な社会を形成してしまい、その環境に身体がついていけずに生じている新たな病的状態が一連の文明病である、というわけです。このように人類史の次元で歴史を把握し直すことにより、現代人は自身の再発見の機会を得られます。そのため、学際的な人類史のさらに詳しい復元が今後も必要となるでしょう。


参考文献:
海部陽介(2021)「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第3章P43-58

大河ドラマ『青天を衝け』第32回「栄一、銀行を作る」

 大蔵省を辞めた栄一は銀行作りに奔走し、第一国立銀行の設立に関わって総監役に就任します。官界でも民間でもそれぞれ違う苦労があるもので、それぞれの立場に応じて栄一の才覚と苦労が描かれており、よいと思います。民間に転じた栄一は癖のある人物相手に苦労が多いものの、それを楽しんでもいるように見えます。今回新たに登場した岩崎弥太郎は、ひじょうに癖のある人物として描かれるようで、まだ栄一とは会っていませんが、二人の対面というか対決は後半の見どころの一つになるのではないか、と期待しています。

 今回は栄一の家庭場面の描写が長めで、家庭場面を描くことにやたら否定的な大河ドラマ愛好者もいるようですが、世相の変化も台詞で自然に示されていましたし、何よりも栄一の母親の退場ですから、長めでよかったのではないか、と思います。史実がどうだったのか知りませんが、本作では栄一は両親に恵まれています。気になるのは、相変わらず大久保利通が悪役寄りの小物のように見えることで、今後、大物政治家としての側面が描かれるのでしょうか。

古代DNA研究の倫理的指針

 古代DNA研究の倫理的指針(Alpaslan-Roodenberg et al., 2021)が公表されました。この指針はオンライン版での先行公開となります。この指針は複数の言語に翻訳されており、日本語訳もあります。古代DNA研究の倫理的問題については以前から指摘があり(関連記事)、古代DNA研究の側でも対応が進んでいるように思われますが、この倫理的指針では、それは個別的なので世界的に適用可能な基準が必要になる、と指摘されています。さらにこの倫理的指針では、過去10年間、古代DNA研究は、他の学問分野からの情報に加えて、あらゆる集団の「純血」神話を否定し、人種差別主義者や国粋主義者の主張が間違っていることを立証してきており、遺伝情報を集団の帰属判断のための道具として誤用しようとする人がいますが、遺伝情報をアイデンティティの主要な基準として使用することは不適切である、と指摘されています(関連記事)。以下、要約の日本語訳を引用します。

 私たちは31 カ国と多様なグローバルコミュニティを代表する考古学者、人類学者、博物館学芸員、遺伝学者のグループです。その多くは2020年11月に開催された古代DNA研究における倫理をテーマにしたバーチャルワークショップに参加しました。そこでは、 世界的に通用する倫理ガイドラインが必要であるという点で広く合意が得られましたが、北米でのヒト遺骨・遺体研究に関する議論に基づいた最近の推奨事項は、世界的には普遍化できないおそれがあります。様々な状況を考慮して、私たちは以下のような世界的に適用可能なガイドラインを提案します。これらは、1)研究者は、研究を実施する場所やヒト遺骨・遺体が出土する場所における、すべての法令や規則に準拠していることを確認すること、2)研究者は、研究を始める前に詳細な計画書を作成すること、3)研究者は、ヒト遺骨・遺体の損傷を最小限に抑えること、4)研究者は、科学的知見を批判的視点から再検証できるように、論文発表後にデータを確実に公開し利用可能にすること、5)研究者は、研究の初期段階から他の利害関係者と対話を進め、利害関係者の視点を尊重し細心の注意をもって理解すること、からなります。私たちは、このガイドラインを遵守することを約束し、これにより、ヒト遺骨・遺体についてのDNA 研究における高い倫理基準が育まれることを期待しています。


●共同体との倫理的関わりは状況に応じて変わる

 その上で指摘されているのは、古代人を対象とした倫理的なDNA研究に関する文献の多くはアメリカ合衆国に焦点を当てている、ということです。開拓者による植民地主義の歴史、先住民の土地や人工物の収奪、先住民共同体の抑圧を経験した地域では、先住民の視点を中心に据えることがひじょうに重要となります。こうした状況においては、共同体との協議なしでは多くの問題が生じる危険性がある、というわけです。アメリカ合衆国では、連邦政府が出資する機関に保管されている古代のアメリカ先住民の遺骨・遺体はすべて、アメリカ先住民の墓地の保護と遺品の返還法(NAGPRA:Native American Graves Protection and Repatriation Act )の対象となります。それらの機関が先住民グループと協議し、古代人の遺体を、文化的に識別できるかどうかにかかわらず彼らに譲渡することに向けて努力することを義務づけています。

 オーストラリアでは、類似の法律により、先住民(アボリジニ)やトレス海峡諸島民の共同体から持ち出された人骨を、4 万年前ころに遡るものの含めて返還しようとしています。しかし、現代の集団との物質的・口承的なつながりがほとんどない(あるいは、あったとしてもきわめて限定的である)古代人の遺体の調査を行なう場合や、ある集団が他の集団よりも文化遺産の所有権を持っている、との考えを支持することが社会的対立の原因となる場合には、古代人の一人一人を現代の集団と関連づけることを義務づける先住民中心の倫理的枠組みは適切ではありません。


●先住民の視点の代表としての政府機関

 アメリカ大陸の多くの国では、先住民族の遺産が国家のアイデンティティに組み込まれ、政府の文化機関に包括されており、たとえばメキシコでは独立後に、大多数を占めるメスチーソ(混血の人々)は、ナワ(アステカ)やマヤやサポテカなど先住民族の遺産を国家のアイデンティティに不可欠な部分として受け入れてきました。ペルーでは、先住民の文化を広め差別と闘うことを目的とした運動であるインディヘニズモ(indigenismo)の流れの中で文化省が設立されました。こうした状況では、ヒト遺骨・遺体を分析するために政府や遺産保護団体に承認を求める手続きは、先住民遺産についての健全な対話と尊重ための方法となり得て、アメリカ合衆国の方式をそのまま適用することは逆効果になるおそれがあります。中南米の古代DNAに関する論文では、アメリカ合衆国で策定された先住民との関与に関する規準に適合していない、との査読評価を何度も受けた著者もおり、中南米出身の研究者は、このような査読評価が、よく言えば高慢、悪く言えば植民地主義的であると感じてきました。中南米の多くの国では、先住民族の遺産を受け入れ、それを政府の承認過程や文化施設に組み込むための取り組みがアメリカ合衆国よりも、はるかに進められてきました。

 しかし、アメリカ大陸諸国では、政府と先住民共同体の関係性に大きな違いがあるため、研究者は個別に追加の協議が必要か否かを判断しなければなりません。ペルーとメキシコでは、先住民族の遺産がアイデンティティの重要な要素を占める集団は、さまざまな割合で政府に参加しています。一方ブラジルでは、先住民の共同体はしばしば抑圧されており、先住民グループが彼らの祖先に関連する考古学的資料の取り扱いについて発言できる法的仕組みはありません。アルゼンチンでは、先住民族の遺産に関わる研究課題を実施するさいには、共同体の同意を得る法律上の義務がありますが、必ずしも守られていません。グアテマラでは、人口の約半分を占めるマヤをはじめとする先住民族が、依然として政治・経済的に恵まれない立場に置かれています。このような状況では、古代DNA 研究チームの構成員は、法律上義務づけられている以上に、共同体との対話を進め、先住民の視点を取り入れることが倫理的な責任となります。


●先住性 の意味における世界的な差異

 先住性(Indigeneity)の意味は世界的に様々です。アフリカでは、植民地化された集団の子孫が圧倒的に権力を握っており、「先住性」とは多くの場合、集団がその地域にどれだけ長く定着しているかという伝統よりも、アイデンティティに基づいて政治的または社会的に疎外されている状態を指します。アフリカの共同体の多くでは、植民地時代やその後の強制的な移住や社会的混乱などの歴史により、自分たちが住む土地との関わり方はひじょうに複雑なものになっています。地域によっては、過去の住民を自分たちと血族関係のあるものと認めないところもあります。この原因として、現代の宗教的・文化的な信念体系が旧来のものとは異なること、他地域からの移住に関する集団的な記憶、他集団と結びついていることによる迫害への恐れ、土地と結びついた社会政治形態を分断し、今でも暴力と望まざる移住の原因となっている、ヨーロッパ人による植民地化の間に行なわれた政策の余波が続いていることなどが挙げられます。こうした状況では、文化遺産に関する意思決定権の付与が社会的な対立を悪化させることのないように、地元集団から政府代表まで含んだ利害関係者間での慎重な協議が必要です。このような場合、先住性を古代のDNA分析を許可するための原則とすることは、望ましくないと考えられます。

 アフリカ(および他の多くの地域)における古代DNA 研究に関連するより差し迫った問題は、非倫理的に収集され、また、多くの場合海外に送られたヒト遺骨・遺体という植民地時代の遺産に対処しなければならないことです。研究者は、古代人の遺体研究の許可を得るために保全機関および由来国の研究者と協力し、その作業の一環として、出所や歴史的不正義や送還や返還に関する議論を進める必要があります。これに関連する問題として、アフリカでは、現地の人々との対話がほとんどない、不公平で多くの場合搾取的な研究が、おもに欧米の研究者によって行なわれてきた歴史があります。外国人研究者は、利害関係者が研究課題や研究計画を立案できるようにするための研修やその他の能力開発などを通して、公平な協力関係を構築することに努力しなければなりません。


●集団アイデンティティの強調が弊害をもたらす可能性

 誰が先住民族なのか議論することで、外国人への嫌悪や国粋主義的な主張を助長することにつながる地域が、世界中にいくつもあります。このような地域では、古代DNA研究許可の権利を持つ人の決定のため先住民のアイデンティティを基準とすることは、集団間の対立や差別を助長することになり、望ましい方法とは言えません。たとえばインドでは、長く集団のアイデンティティーに基づいて虐待が行われてきたので、カーストや宗教的信条に関する質問を避ける人が多く、実際にカーストを理由とした差別は違法とされています。現在、アジア南部の多くの地域では、どの集団が他の集団よりも古代の遺産に対してより多くの権利を持っているかを判断しようとすること自体が紛争の原因となっているだけでなく(関連記事)、ほとんど無意味なものとなっています。なぜならば、現代人集団の大半は、数千年前からインド亜大陸に居住していた祖先を持つ集団の混合により形成されたからです。ただ、アンダマン諸島のように、誰が先住民であるかが明確な場合もあります。アジア南部の多くの地域では、文化遺産を保護するための公的な手続きが発達しており、この枠組みの中で活動することが、共同体を被害から守るための重要な仕組みとなっています。

 ユーラシア西部では、各地域に祖先を持つと主張する集団が特別な地位にあるべきだ、との考え方が外国人排斥や大量虐殺の一因となっています。ナチス時代に「血と土」の思想を推進していた国粋主義者たちは、ヨーロッパ東部の占領を正当化するために、その地で発掘された人骨が「ゲルマン人」の形態を呈すると主張し、考古学的な研究を歪めました。ヨーロッパの考古学者たちは、特定集団による文化遺産所有権の主張が誤った考えに基づいていることを解明するため、何十年もの間努力してきました。ユーラシア西部における古代DNA研究の倫理は、差別の対象となってきた少数民族の視点を尊重しつつ、特定の土地と先祖代々のつながりがあるという自分勝手な主張を文化遺産所有権の判断に適用しない、という流れを推し進める必要があります。政府の指導者が考古学や古代DNA研究を引用して、集団のアイデンティティに関して都合のよいシナリオを主張し、排他政策を正当化するために利用する危険性は、単なる仮説ではなく、実際にハンガリーやイスラエルなどユーラシア西部の一部の国で現在起きている問題です。


●世界的に適用可能な五つの指針

 以下の古代DNA研究における健全な倫理基準を促進するための五つの指針は、上記全ての研究状況だけではなく、言及されなかったアジア中央部および東部および南東部やシベリアやオセアニアなど、他の主要地域にも適用されます。

 (1)研究者は、研究する場所やヒト遺骨・遺体が出土した土地における、すべての規則が遵守されていることを確認しなければなりません。研究者は、ヒト遺骨・遺体のサンプルを取る地域の状況を考慮したうえで、古代DNA研究を行なうことが倫理的に正しいのか、まず判断する必要があります。研究課題を進めたならば、研究者は現地のすべての規則を遵守しなければなりません。一部の共著者による経験では、古代DNA研究者が必ずしも全ての合意事項に従っているわけではありません。たとえば、生物試料の科学的分析や輸出について、研究所や地方や地域や国の各機関からという複数段階の許可を得て、合意された期限内での保全機関への報告書提出が必要になる場合もあります。現地の規則が倫理的に不充分な場合、研究者は以下の原則に従って、より高い基準を遵守しなければなりません。

 (2)研究者は研究開始前に詳細な計画書を作成する必要があります。これには、研究課題の明確化、適用される技術とヒト遺骨・遺体への予想される影響の記述(分析対象となる骨の部位と使用量を含みます)、解読されるDNAデータの種類の記述、共同研究機関との試料の共有のための計画、未使用の試料の返却と結果の共有の予定や結果を、誰がどこでどのように広めるかの計画、能力開発または訓練が有用な場合はその計画、データ公開の原則に基づく、または利害関係者の合意を得た、データの保存と共有の計画などが含まれます。このような計画書は、研究の範囲を定義し、遺伝子データ解析が予期せぬ方向に進む可能性があることを認識した上で、想定される結果を正直に伝える必要があります。こうした計画書は、後に研究が当初の計画から逸脱した場合に参照できる、もともと意図された研究の記録となります。研究計画の変更は、当初の合意に関与した人々の賛同があって初めて行なわれるべきです。研究者は、古代人の遺骨を研究する許可が与えられると、同意を得られた研究目的のための試料の管理者となりますが、試料の「所有権」は移転されないことを認識すべきです。研究者は、その計画書をヒト遺体の管理責任者や、その他の発言権を持つと考えられる集団と共有する責任があります。そのため、専門家ではない人も計画書を理解できるように書く必要があります。また、適切と考えられ、すべての関係者から合意が得られている場合は、出土地以外で保管されているヒト遺体を出土地に戻すための道筋を計画書の中で説明できます。

 (3)研究者は、ヒト遺骨・遺体の損傷を最小限に抑える必要があります。多くの場合他の部位の何倍もの遺伝子データを抽出できる側頭骨錐体部という骨部位が、近年分析の主な対象になっていることを考慮すると、研究による人類学的収集物に対する影響を最小限に抑えることは、とくに重要と言えます。研究者は他の利害関係者と協議しながら、ヒト遺骨・遺体の保護に関する懸念と科学的分析の調和のための方法を考える必要があります。研究者は、有用なデータの抽出量を最大化しつつ、ヒト遺体の損傷を最小限に抑えるために推奨される方法の習得なしに、ヒト遺体の試料を採取すべきではありません。また、科学的な疑問を解決するために必要される以上の試料を採取すべきではなく、いつ標本抽出されたのかを記述した、試料採取の記録をヒト遺体の管理責任者に提出しなければなりません。

 さらに、DNA の保存状態が悪いヒト遺体に同様の方法での分析を繰り返さないために、有用なデータを得られなかった研究についても公表する必要があります。標本抽出の前に、高解像度の写真撮影と生物考古学(形態学を中心とした出土人骨研究)的な評価に基づいて形態を記録しておく必要があります。少なくとも、ひじょうに年代の古い個体や特殊な状況で出土した遺骨・遺体については、マイクロCTスキャンによる分析やレプリカ作成のための鋳型(cast)を作製する必要があり、動物遺体(骨)や生物考古学的にさほど有用でない人骨の部位を最初に分析して、その出土地におけるDNAの保存状態を評価した方がよいのか、議論する必要があります。

 標本抽出後は、その後の研究における追加のサンプリングの必要性を減らすために、試料の他にDNA抽出物やDNAライブラリーなどの分子レベルの生成物を共有することにより、ヒト遺骨・遺体の責任ある取り扱い方を進めることができます。研究者は、研究の再現性を高めるために、このような分子レベルの生成物を保管する責任があります。また、標本抽出したヒト遺体や抽出・生成物を研究室間で共有する許可を得ることが勧められます。これにより、承認された研究計画に沿った使用であれば、最初の研究で取り上げた問題の再評価や最初の研究の範囲を超えた追加分析が容易になります。

 (4)研究者は、成果の発表後、科学的知見の批判的な再検討が可能になるようにデータを公開しなければなりません。古代DNAデータは迅速に発表されるべきであり、その後、少なくとも結果を批判的に再評価する目的で利用できるようにする必要があります。少なくとも、発表された結果の正確さを検証するためのデータ提供の保証がなければ、科学者は倫理的に研究に参加することはできません。この保証は最初の研究許可に組み込まれている必要があります。これは、誤った情報の拡散を防ぐためにも、将来同じ問題を再検討するための分析を可能にするためにも重要です。

 発表後には、データを完全に利用できるようにするのが最善の方法です。実際、ほぼ全ての古代ゲノムデータは、このように永続的な公開データリポジトリで公開されており、この分野の倫理的な強みとなっています。データの完全公開は科学的知識の進歩に貢献するだけでなく、データの再利用でさらなる標本抽出の必要性を減らすことができるという点で、ヒト遺骨・遺体の責任ある管理にも貢献します。しかし、利害関係者間の話し合いにより、古代DNAデータの再利用方法を制限することが倫理的に正しいと判断されるシナリオも想定されます。ある種の分析結果を開示することで利害関係者に不利益が生じ、データを完全公開することの利点を上回る可能性がある場合などです。こうした事例は、研究開始前の話し合いの過程で特定されるべきであり、研究結果を再評価する目的でのみデータを分析することに同意し、必要な知識・技術を持つ研究者にデータの配布を制限することは、最初の研究計画の一部であるべきです。

 データが完全に公開されない場合、結果を批判的に再検証する目的でのデータの管理と配布は、データの誤用を防ぐための専門知識を持ち、研究結果に利害関係のない組織により行なわれるべきです。これまでは、博物館や先住民集団などの関係者が、発表後のデータの研究者への配布を担当すべきとされてきました。しかし、研究結果に利害関係を持つ者が、当初の研究に関する合意で対象とされていた問題を批判的に再検討しようとする、適切な知識と技術を持つ研究者へのデータの提供を拒否できるような研究課題は、研究者の職業倫理に反します。この点に関して、完全公開されていないデータを、批判的再検討の目的での使用を申請した研究者への配布を保証する仕組みが確立されています。たとえば、研究者がデータを管理するリポジトリにデータ使用を正式に申請し、それが出版物に記載されているデータ使用の制限を満たしているとデータアクセス委員会に承認された場合のみ、データを提供するという方法を取ることができます。データ取得の過程に時間を要するという欠点がありますが、dbGaP やEGA リポジトリなどでプライバシーの問題に対処するために、現代人のゲノムデータについてこのような方法がとられることがあります。また、データの保存と普及に共同体が関与する、先住民データのバイオリポジトリが設立され始めています。研究者や共同体の代表者や博物館学芸員などの利害関係者集団は、当初の研究に関する合意で対象とされていた問題の批判的再検証を望む研究者へのデータ配布を管理すべきではありませんが、当初の研究合意に含まれていなかった目的のためにデータを保存・配布する上で、先住民データのバイオリポジトリが重要な役割を果たす可能性があります。

 (5)研究者は、研究の初期段階から他の利害関係者との話し合いを進め、利害関係者の視点を尊重し、よく理解することに務めなければなりません。古代DNAデータを新たに作成する研究課題は、地域共同体や考古学者や人類学者や遺伝学者や博物館学芸員など、さまざまな関係者によって開始されることがあり、それらのうち誰もが、学術的に貢献するなら研究チームの構成員となれます。相談を受けた他の利害関係者が名前を公表することに同意した場合は、論文の謝辞欄にその旨を記載すべきです。研究計画や研究課題や科学計画を進めるべきかどうかにの議論には、利害関係者(研究対象となるヒト遺骨・遺体が出土した地域の集団を含むことが望ましい)が積極的に関与する必要があります。研究者は、計画された研究について利害関係者の全員が一致する支持が得られない場合、否定的な意見を受け入れなければなりません。

 一旦、研究を進めるという合意が得られれば、専門家としての科学倫理では、研究者はさらなる承認を必要とせずに、発表の時点まで研究を進めることができます。出版前に、研究チームの構成員ではない利害関係者集団による原稿の承認を義務づけるべきという条件は、科学研究の独立性を犯すことになり、研究者の職業倫理的上、実現が不可能です。しかし、一度研究が始まれば研究者が科学的な独立性を保つべきだということは、データの影響についての利害関係者の視点を考慮せずに結果を公表してよい、というわけではありません。とくに、研究結果が意外なものだったり、これまでの仮定を覆すものだったりした場合には、公開前に利害関係者の視点を加えたり、批判的な反応を提供してもらったりして、研究結果に関与してもらったりすることは有意義です。特定の方法で研究成果を伝えることが何らかの問題を起こさないのか考えることは、研究者にとって職業倫理上の責任であり、研究開始後、他の利害関係者と話し合いを続けることは、この義務を果たすために効果的な方法です。このような協議の結果、利害関係者集団に重大な不利益をもたらすことなく結果を公表できないと判断された場合、研究者はその結果を発表すべきではありません。

 研究者は、利害関係者に対して定期的に研究の進捗状況を報告し、研究課題の最終段階で結果を提出するという義務を自覚しなければなりません。どのような研究成果が予想されるか、遺伝子データが他の知識体系と矛盾する解釈を示すかも知れないこと、科学的な分析結果を学術的成果として報告することが、伝統的な知識体系や深く根づいた信仰を否定したり、その価値を貶めたりするものではないことを、最初から明確にしておく必要があります。遺伝子解析の結果と他の証拠との間の不一致は、過去を理解するということの複雑さの重要な要素として報告されるべきです。

 研究者は利害関係者と協力して、研究成果を共同体にとって理解しやすい形で広げるための普及活動に取り組むべきです。これには、現地の共同研究者と協力して論文の成果を現地の言語に翻訳すること、子供向けの教育資料を作成すること、図書館やその他の共同体総合施設向けにパンフレットや小冊子を作成すること、博物館と協力して展示会を計画することなどが含まれます。また必要に応じて、利害関係者集団や地域共同体の構成員などの研修や教育に貢献し、収集物の保存状態改善の方法を検討すべきです。これには、データの生成、解釈、普及に参加するために必要な援助、たとえばヒト遺骨・遺体の標本抽出や分析技術に関する訓練、さらなる継続的訓練や学会参加のための経済的支援などが含まれます。助成機関にとっては、能力開発のための計画に適切な資金を割り当てられるようにすることが重要です。


●ヒト遺骨・遺体を対象とした倫理的な古代DNA 研究の推進

 研究者はその仕事の一環として、研究成果のイデオロギーに基づいた歪曲を正すという、社会的に影響の大きい義務も負っています。学術論文でデータが専門的に公表された後、多くの研究は科学ジャーナリストや教育者によって要約され、幅広い読者に伝えられます。ジャーナリストや政府関係者が、政治的な目的のために研究結果を誤って伝えた例がありますが、科学者には誤った解釈を正すために努力する義務があります。一般の人々への普及活動には、エッセイや書籍の執筆、ソーシャルメディアへの投稿、ドキュメンタリーへの参加などがあります。今回のワークショップの多様な参加者の間でこれらの指針が圧倒的に支持されたことから、古代DNA研究に携わるより広範な共同体もこれらの原則を支持すると期待され、今後、雑誌や専門機関や助成機関により作られる公式指針の基礎となることを望みます。


参考文献:
Alpaslan-Roodenberg S. et al.(2021): Ethics of DNA research on human remains: five globally applicable guidelines. Nature, 599, 7883, 41–46.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04008-x

平山優『戦国大名と国衆』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2018年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、甲信の戦国大名武田氏を対象として、その領国(分国)支配と軍事編成の特徴を、国衆の視点から解説します。戦国大名の領国は、大別して直轄支配地域と国衆が原則として排他的に支配する国衆領により構成されていました。直轄支配地域は、戦国大名が軍事的に制圧した地域で、敵方所領を没収し、直接支配することにより成立しました。国衆領は、戦国大名に従属した国衆が戦国大名により自治権を認められた所領で、戦国大名は原則としてその支配領域に干渉しませんでした。国衆領は戦国大名本国の縁辺部に位置していますが、戦国大名領国の拡大に伴い、混在状態になる地域もあります。この支配形態の違いが軍事編成にも反映されています。

 国衆とは、室町期の国人領主とは異なる領域権力となった、戦国期固有の地域的領主と定義されます。重要なのは、国衆が自分の居城を中心に地域的支配権を確立し、一円領として地域的・排他的な支配領域(その多くは郡規模で、「領」と呼ばれ、「国」としても把握されていました)を確立していることです。国衆は平時には基本的に大名の介入を受けず、独自に「家中」を編成し、「領」支配においては行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣団編成などを実施していました。この点で、国衆の領域支配構造は戦国大名とほとんど変わりません。国衆は大名と起請文を交換し、証人(人質)を出すことで従属関係を結びますが、独立性は維持されます。大名が国衆の「領」を安堵する代わりに、国衆は大名に奉公(軍役や国役など)します。大名と国衆との関係は双務的で、大名が援軍派遣を怠ったり、国衆の保護が充分ではなかったりした場合、国衆は大名との関係を破棄して(離叛)他大名に従属することを躊躇しません。大名は国衆統制のため重臣を「取次」として、さまざまな命令を国衆側に伝達し、国衆も「取次」を通じて大名に要望を伝えました。国衆と「取次」は戦時においては同陣(相備)として一体化し、国衆は「取次」たる重臣の軍事指揮に従います。「国衆」という用語の本来の意味は、在庁官人をはじめとして国衙領の住人でしたが、室町期に各国の守護のうち任国に居住した土着の武士を示すようになりました。つまり、地域の武士の総称という性格が濃厚というわけです。

 戦国大名の定義については今でも明確化していないところがありますが、本書は先行研究により提示された要件を挙げています。まず、室町幕府や朝廷や鎌倉府や旧守護家など伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・尊重する以外は、他の権力に従属しないことです。その上で、伝統的上位権力の命令を考慮してもそれに左右されず、政治・外交・軍事行動を独自の判断で行なうことです。次に、自己の個別領主権を超えた地域を一円支配し、「領域権力」を形成して、周辺諸領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込みます。その結果成立する戦国大名の支配領域は、おおむね一国以上が想定されるものの、数郡の場合もあります。

 南北朝から室町期の在地領主は「国人」と呼ばれます。「国人」は地頭御家人の系譜となり、本領を所領支配の中核としつつ、その拡大を指向し、荘園の横領や他氏との抗争を展開する武士とされます。ただ、地方武士を「国人」と呼ぶ事例は鎌倉時代にもあり、室町期の地方武士が「国人」と呼ばれるのには、研究上の意図があり、史料に見える「国人」と一致しているわけではありません。「国人」はかつて、守護とともに荘園を侵食して荘園制を否定する存在と考えられていましたが、その後、ともに荘園制を否定せず、荘園諸職に依拠しつつ権益を拡大していった、と見解が変わりました。本書は、史料に見える「国人」と、「国人」以下の武士を一括し、在地武士層という把握で国人と呼びます。

 室町期の国人領主は、守護や荘園領主など複数の主人に奉公することが常態で、各国は守護権力に一元化されていくわけではありませんでした。上述のように室町期にも守護と国人は荘園制を支え、その枠組みで権益を拡大していきましたが、この室町期荘園制は幕府の政治動向と密接に関連しており、嘉吉の乱を契機に動揺し、応仁・文明の乱により最終的に瓦解して、守護と国人と村社会との新たな支配関係構築をめぐる相克が始まり、戦国時代に突入します。これにより、遠隔地所領の維持が困難となって、国人領主による一円領の形成を促し、国衆が形成されていきます。従来の秩序が崩壊していくなかで、国人領主が村々を支配する主体となっていき、本領を中核に周縁部の村々を取り込んで排他的な一円領を形成し、国衆へと成長していったわけです。この国衆の「領」の本拠などに町場・市場などが成立して地域経済の軸になり、経済的にも一つの地域世界が形成されます。こうした「領」は、戦国期以前には見られず、それが室町期の国人と戦国期の国衆との明確な違いとなります。

 具体的に武田領国の国衆を見ていくと、国衆領の多くは一郡もしくは半郡程度の規模や数十ヶ村などさまざまですが、土豪層をはるかに超える規模の支配領域で、拠点となる城郭があり、鎌倉御家人の系譜であることが多く、荘園や国衙領の地頭職を任ぜられ、それを足がかりに騒乱に乗じて荘園などの押領によりその枠組みを破り、独自領域を自力で確保して一円領を形成した、といったすでに国衆に関する議論で指摘されていたことが改めて、おおむね確認されます。ただ、これら戦国期の「領」が江戸時代の「領」にそっくりそのまま移行したわけではありませんでした。上述のように、これら国衆は独自に「家中」を編成し、大名に奉公しましたが、国衆が頼りにならない大名を見限ることがあったように、国衆の「家中」の構成員が譜代被官でも他家に鞍替えすることは珍しくなかったようです。大名権力はこうした鞍替えを抑制し、「家中」の安定を維持しようとしており、武田氏は国衆の被官の逃亡を厳しく罰しようとしました。これも大名にとって国衆から期待される保護の一環でした。

 戦国大名の勢力争いに巻き込まれた「境目」の国衆では、双方からの調略により「家中」が分裂することもよくありました。また、「家中」は当主の擁立についても大きな力を有しており、当主の判断に従わず追放し、新たな当主を擁立することもありました。勢力争いに巻き込まれやすい「境目」の国衆にとって、大名の判断は存亡に直結し、大名の侵攻により国衆領が再編され、国衆の排他的・一円的支配が制約されることもありました。こうした大名の侵攻に伴い、国衆領で土豪や地下人が大名の被官となることは多くあり、大名がこうした新規の被官に諸役免除などの特権を与えると、国衆の支配に大きな影響を与えるため、国衆と国衆領内の大名被官との間に確執・争論が生じました。大名にとってこの問題は、領国の統制に深く関わっているため重要でした。じっさい、上述のように国衆が大名を見限ることは珍しくなく、武田氏の場合それが滅亡に直結しました。

 戦国期国衆的な存在は豊臣(羽柴)政権により終焉を迎え、国衆は独立大名として取り立てられるか、独立領主としての権限を否定されて大名の家臣となるか、取り潰しになりました。本書は、国衆の終焉が戦国時代の終焉だった、と指摘します。大名と国衆は、庇護と奉仕という人類社会において珍しくない人間関係の一事例として把握できるように思います。たとえば、古代ローマにおけるパトロヌスとクリエンテスの関係です。これは、一方が庇護もしくは奉仕を怠れば解消され、時には殺害に至るような双務的関係で、人類史においてこのような関係がどう形成されてきたのか、その認知的というか進化的基盤は何なのか、という観点で今後も少しずつ知見を得ていくつもりです。

霊長類の脳の進化

 霊長類の脳の進化に関する二つの研究が公表されました。一方の研究(Shibata et al., 2021A)は、レチノイン酸シグナル伝達による霊長類の脳発達推進を報告しています。前頭前野(PFC)とその視床背内側核との結合は、認知の柔軟性や作業記憶に重要であり、自閉症や統合失調症などの障害で変化している、と考えられています。齧歯類では、大脳皮質の領域的パターン形成を支配する発達機構が明らかになっていますが、霊長類で、PFC–視床背内側核間結合の発達や、顆粒細胞からなる明瞭な第4層を伴うPFCの側方拡張の基盤となる機構は解明されていません。

 この研究は、神経の発達と機能を調節するシグナル伝達分子であるレチノイン酸の、前方(前頭部)から後方(側頭部)に向かいPFCで増加する勾配の存在を報告し、ヒトおよびアカゲザルの新皮質で、胎児や胎仔の発生の初期および中期にレチノイン酸によって制御される遺伝子群を明らかにしています。霊長類では、マウスと比較してレチノイン酸合成酵素が特異的に発現して皮質中で広がっていることなど、レチノイン酸源の候補が複数観察されました。また、レチノイン酸シグナル伝達は、レチノイン酸異化酵素であるCYP26B1によるPFC予定域におおむね限局していました。CYP26B1は、運動皮質予定域で発現上昇しています。

 マウスでの遺伝子欠失実験で、レチノイン酸受容体のRXRGとRARBを介したレチノイン酸シグナル伝達とCYP26B1依存的異化作用が、前頭前野および運動野の正しい分子パターン形成やPFC–視床背内側核結合の発達、PFC内部での樹状突起スパイン形成、皮質第4層マーカーRORBの発現に関与している、と明らかになりました。これらの知見から、レチノイン酸シグナル伝達が、PFCの発達と、おそらく進化に伴うPFCの拡大に重要な役割を持っている、と明らかになりました。

 もう一方の研究(Shibata et al., 2021B)は、ヒトとアカゲザルのPFCの違いを報告しています。さまざまな動物種の神経系の間の類似と相違は、発生的な制約と特異的な適応に起因します。高次認知機能や複雑な社会的行動に関わる大脳皮質領域であるPFCの比較解析から、真にヒト特異的、あるいはヒト特異的である可能性のある構造的・分子的特殊化が明らかにされており、たとえば、肥大したPFCで増加した樹状突起スパイン密度の前後勾配などが知られています。これらの変化は、おそらく時空間的な遺伝子調節の相違によって仲介され、この相違はヒトの胎児中期の大脳皮質でとくに顕著です。

 この研究は、ヒトとアカゲザルのトランスクリプトームデータを解析し、シナプス形成開始と同時期である胎児や胎仔の発生中期に、ニューレキシン(NRXN)とグルタミン酸受容体δ(GRID/GluD)が関連するシナプスオーガナイザーであるセレベリン2(CBLN2)の、一過的にPFCで増加する層特異的な発現上昇が見られることを明らかにしました。さらに、CBLN2の発現レベルや層分布の種間の差は、少なくとも部分的には、レチノイン酸応答性CBLN2エンハンサー内のSOX5結合部位を含むヒトに特異的な欠失によることが明らかになりました。

 マウスのCbln2エンハンサーをin situで遺伝的にヒト化すると、Cbln2発現の増加や異所的な層での発現が促され、PFCの樹状突起スパイン形成が亢進しました。これらの知見は、大脳皮質の前後勾配やヒトのPFCの樹状突起スパインの不均衡な増加の遺伝的・分子的基盤、およびNRXN–GRID–CBLN2複合体の機能不全と神経精神疾患の病因とを結びつける可能性がある発生の機構を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


神経科学:レチノイン酸による前頭前野のパターン形成と神経結合形成の調節

神経科学:レチノイン酸シグナル伝達が霊長類の脳発達を推進する

 大脳皮質–視床の神経結合形成の発達機構は、齧歯類では詳しく調べられているものの、霊長類の同じ発達プログラムについてはあまり分かっていない。今回N Sestanたちは、霊長類に特異的なレチノイン酸シグナル伝達経路を発見し、これが霊長類の前頭前野の発達に重要な役割を持つことを明らかにしている。これはおそらく、霊長類の脳の進化的拡大における重要な機構上の岐路の1つであったと考えられる。


神経科学:CBLN2のヒト族特異的な調節が前頭前野のスパイン形成を増加させる

神経科学:樹状突起スパインがヒトとアカゲザルを分ける

 近縁関係にあるヒトとアカゲザルの前頭前野(PFC)の間に見られる構造的・機能的な違いの1つは、PFCニューロン上の樹状突起スパイン密度の高さである。しかし、このような明確な差異を生み出す多くの空間的・時間的な遺伝子調節機構は不明である。N Sestanたちは今回、ヒトのPFCニューロンで樹状突起スパインの不均衡な増加を促進する、レチノイン酸シグナル伝達応答性の遺伝的エレメントを特定した。おそらくこれが、アカゲザルよりもヒトの計算能力が高いことに寄与していると考えられる。



参考文献:
Shibata M. et al.(2021A): Regulation of prefrontal patterning and connectivity by retinoic acid. Nature, 598, 7881, 483–488.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03953-x

Shibata M. et al.(2021B): Hominini-specific regulation of CBLN2 increases prefrontal spinogenesis. Nature, 598, 7881, 489–494.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03952-y

諏訪元「人類化石の発見,いかに」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収のコラムです。人類史をさかのぼっていくと、次第に現代人的特徴が薄れていきます。19世紀異性、さまざまな化石人類の発見が、研究者だけではなく、社会一般でも興味を抱かれることになりました。初めて確認された太古の人類化石は、1856年にドイツで偶然発見されたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の部分骨格です。これは進化論が提唱された時代であり、その後、比較解剖学を研究していたオランダ人のデュボア(Eugène Dubois)が軍医としてアジア南東部赴任を志願し、数年にわたってスマトラ島とジャワ島で人類化石を探しました。デュボアの発掘調査で特筆されるのは、情報の乏しい当時において計画的だったことです。デュボアは1891年に頭蓋冠化石、翌年には大腿骨化石を発見し、ピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus)と命名しました。これは「直立猿人」もしくは「ジャワ原人」として知られるようになり、現在ではホモ属に分類されています(Homo erectus)。

 次の重要な発見は、南アフリカのタウング(Taung)で1924年に発掘された最初のアウストラロピテクス属化石でした。これは子供の頭骨化石で、類人猿的な小さな脳ながらも人類のものだと気づいたダート(Raymond Arthur Dart)が発表しました。現在では、この化石はアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)と分類されています。アフリカ南部の猿人化石に遅れて、1960年頃以降、アフリカ東部で世界的に注目される人類化石が次々と発見され、その立役者はリーキー夫妻でした。リーキー夫妻の1930年代からの長期にわたる野外調査を契機に、さまざまな研究者がアフリカ東部で人類化石の発掘調査を行ない、現在に至っています。中でも有名なのは、1974年にエチオピアのハダール(Hadar)で発見された部分骨格化石「ルーシー」です。ルーシーはアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)に分類されています。ルーシーとその関連化石により、「400万年の人類史」が確立しました。1990年代には、まずエチオピアで440万年前頃となるアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)化石が発見され、2000年代にはさらに古い化石が続々と発見されます。それは、ケニアのアルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)とオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、チャドのサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)で、「700万年の人類史」が語られるようになります。

 南アフリカ共和国の初期人類化石は、石灰岩の空洞に入り込んだ堆積物から出土し、1950年代頃までは、採掘業者が掘り起こした石塊からの発見が多かったものの、1960年代以後は研究者による系統だった発掘調査になっています。一方、アフリカ東部とチャドの調査はかなり事情が異なります。乾燥地帯が多く、古い地層が表面に露出し、数十万から数百万年にわたる地層が断層などで複雑に隣接し合いながら延々と続いています。地層の年代や堆積環境、さらには出土する動植物化石や同位体構成などから、とうじの景観や環境が可能な限り推定されるような全体調査で、稀に人類化石が発見されます。

 日本では、化石というと発掘が想起されますが、アフリカ東部ではまず荒涼とした露頭をひたすら踏査します。自然の侵食で露出している化石の破片の有無と種類や特徴を確認しながら、一定基準で化石の採集が行なわれます。稀な人類化石などとうてい発見されそうもない日々が続くなか、ある時、人類候補の化石が発見されます。そうした時には多くの場合、その周辺を簡易発掘して篩にかけ、あらゆる化石片を回収します。化石包含層そのものから化石が露出しかかっている場合もあります。そうした場合、発掘することで、ごく稀に全身にわたる化石などの大発見につながることがあります。「アルディ」と呼ばれているアルディピテクス・ラミダスの部分骨格化石は、後者の一例です。


参考文献:
諏訪元(2021)「人類化石の発見,いかに」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)P41-42

『卑弥呼』第73話「勝ち抜き」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年11月5日号掲載分の感想です。前回は、腹の子のせいで大勢の民が死ぬが、その子を殺せばもっと大勢の人が死ぬ、とモモソに言われたヤノハが、ではどうすればよいのか、と問いかけるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国の當麻(タイマ)で、手乞(テゴイ)、つまり相撲(捔力)が行なわれている場面から始まります。手乞に勝ち抜いたのはヤマヒコという男性で、蹴速(ケハヤ)の称号が与えられました。この勝ち抜き戦で、かなりの死傷者が出たようです。衝撃を受けたミマアキは、當麻の手乞と比較したら我々筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の捔力(スモウ)は子供の遊びだ、とミトメ将軍に言います。トメ将軍は、當麻の手乞が試合ではなく戦場での組手だ、と指摘します。

 當麻の長であるクジラは、筑紫の客人が當麻の力士(チカラビト)との手合わせを所望だ、と言います。トメ将軍の配下の兵士が何人か名乗り出ますが、トメ将軍は自ら出ると言い、配下の兵士は止めようとします。しかしトメ将軍は、當麻の組手に筑紫の捔力では勝てないので、別の技が必要だ、と指摘します。ミマアキに別の技とは何なのか問われたトメ将軍は、海を越えた彼の大国(漢のことでしょうか)には武術(ウーシュー)と呼ばれる組手がある、答えます。武術とは、400年前に海のごとく広大な黄河の沿岸に住む民から生まれた素手による戦いの技で、地战(ジークゥ)と呼ばれるものがあり、それ以外に當麻の捔力に勝つ術はない、と説明します。トメ将軍が名乗り出ると、クジラは、大将には兵を無事に筑紫に返す使命があるのではないか、と言って却下します。しかしトメ将軍は、三つ要求を提示します。まず、トメ将軍が勝とうが負けようが、河内湖(カワチノウミ)への山越えを當麻が手助けすることです。次に、クジラと戦うことです。するとクジラは愉快そうに笑いだし、自分は不敗のまま後進に道を譲った三代前の蹴速だ、と言います。トメ将軍はきこれを予想していなかったのか、焦ります。最後に、筑紫と當麻の捔力は定め事が違うので、この試合は定め無用とすることで、クジラはそれも認めます。

 トメ将軍とクジラの捔力が始まりますが、両者互角で、組んだまま動きません。トメ将軍が先に足で仕掛け、それを返したクジラがトメ将軍を投げ飛ばし、勝ったと確信したクジラは倒れたトメ将軍を蹴り始めます。何発か蹴られたトメ将軍は、クジラの蹴りをかわすとその手と足を掴んで倒し、寝技に持ち込んでクジラの足首の辺りを極めます。クジラは動けず痛みのあまり悲鳴を発し、殺せ、と喚きますが、トメ将軍は技を解きます。とどめを刺せ、と言うクジラに、勝負は着いた、とトメ将軍は言います。立ち上がろうとしても足が動かないクジラに、跟腱(コンケン、アキレス腱)を切った、とトメ将軍は言います。なぜ殺さない、とクジラに問われたトメ将軍は、勝敗は敵の命を奪うことではなく、敵が戦えなくなれば充分で、我々が報じる日見子様はいつも、無用な殺生はするなと言う、と答えます。ミマアキやトメ将軍の配下の兵士たちは、さすが歴戦の戦人だ、とトメ将軍を称えます。筑紫の兵士たちの力を認めたクジラは、河内湖までの山越えを當麻の者に案内させると約束し、トメ将軍は礼を述べます。

 日鷹(ヒタカ、現在の大分県日田市でしょうか)では、ヤノハの腹の子のせいで大勢の民が死ぬが、その子を殺せばもっと大勢の人が死ぬ、との予言はどのような意味か、とヤノハがモモソに問い質します。するとモモソは、腹の子は愛おしいか、命に代えても子を守りたいか、とヤノハに尋ねます。ヤノハは、正直なところ分からないが、人は生まれたら天命を全うすべきと思う、と答えます。腹の子と倭国の泰平のどちらを選ぶのか、とモモソに問われたヤノハは、沈黙してしまいます。日見子(ヒミコ)をやめたければやめるがよいが、ヤノハ以外では倭国の平和はない、天照様の怒りを身体中に受け、偽りと血にまみれて生きれば、倭国に明日は来る、とモモソはヤノハに告げます。モモソがヤノハに、一つ教えてやろう、と言って、今、腹の子を殺さねば、その子にお前は殺される運命だ、と告げるところで今回は終了です。


 今回は、當麻での命をかけたトメ将軍とクジラとの大将同士の戦いが中心に描かれ、最後にモモソからヤノハに衝撃的な予言が告げられました。トメ将軍とミマアキの一行が命をかけて當麻の力士と戦って勝ち、窮地を脱することは予想できていましたが、何度も朝鮮半島に渡っているというトメ将軍の設定を活かした面白い話になっていたと思います。以前にもトメ将軍は、倭国では見慣れない漢の刀と剣法で暈(クマ)のオシクマ将軍に勝っており(22話)、今後もトメ将軍のこの設定を活かした話が描かれるのではないか、と楽しみです。

 モモソの予言は衝撃的でしたが、漠然としており、具体的にどのような状況でヤノハが自分の子に殺されるのか、予想が難しいところです。自分が祈祷女(イノリメ)になる前に死ぬことまでは予知できても、楼観からヤノハに突き落とされて殺されるところまでは予知できなかったように、モモソにも漠然とした未来しか見えてなさそうですから、より具体的な内容はヤノハの子が成長するまで分からないままでしょうか。『三国志』では、魏に使者を派遣した倭国王は年長とされているので、その頃の日見子(卑弥呼)がヤノハである可能性は高そうです。『三国志』からは、狗奴国(おそらくは暈)との戦いの中で卑弥呼が死んだと考えられるので、暈との戦いで情勢が厳しくなるなど、日見子の権威が低下するなかで、ヤノハは自分の子に殺されるのでしょうか。『三国志』では、卑弥呼の死後に男王が擁立されたもののまとまらず、卑弥呼の一族である台与(壱与)という13歳の少女を擁立することで国が収まった、とあります。台与がヤノハとチカラオ(ナツハ)との間の子供が儲けた子供(ヤノハにとって孫)と予想していましたが、ヤノハとチカラオとの間の子供は男性で、ヤノハを殺して王になったものの倭国がまとまらず、その娘でモモソのように霊力のある台与が王に擁立されてやっと国がまとまった、ということでしょうか。もっとも、それが描かれるのは終盤でしょうし、まだ疫病がどう終息するのか、日下との関係がどうなるのか、といった話が長く続きそうですから、魏への使者の派遣とヤノハの晩年が描かれるのは当分先になりそうです。本作はかなり壮大な話になりそうなので、これまでのような丁寧な描写が長く続くよう、期待しています。

河野礼子「猿人とはどんな人類だったのか 最古の人類」


 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。本論文はまず、「猿人」について定義します。霊長類で人類の身体的独自性を3点に集約すると、直立二足歩行に適した全身、拡大した脳、縮小した犬歯となり、「猿人」を簡単に言うと、脳が拡大していない人類となります。また、現代人も含まれるホモ属とは別属に分類される人類全てのことでもあります。現代人は分類学的には、霊長目真猿下目ヒト上科ヒト科ホモ属サピエンス種(Homo sapiens)と位置づけられます。霊長目は全ての霊長類を、真猿下目はニホンザルやリスザルなどのサルらしいサルを含み、ヒト上科(Hominoidea)には現生および絶滅したヒトと(非ヒト)類人猿が全て含まれます。

 ヒト科(Hominidae)の定義は多少ややこしく、従来はチンパンジーとの共通祖先から分岐して以後のヒトの系統ほうべてヒト科としてきましたが、DNA研究の進展などにより、ヒトとチンパンジーの違いがごくわずかと示され、科の水準では区分できないのではないか、と議論されるようになりました。現在では、ヒト科にチンパンジーとゴリラも含める立場がどちらかと言えば優勢で、その立場では従来のヒト科を一つ下の分類階級のヒト族(Hominini)として扱います。しかし、オランウータンまでヒト科に含める意見や、従来的な定義の方が適切との立場もあり、広く合意が形成されているわけではありません。

 「猿人」というまとまりは正式な分類群ではなく、元々英語の「ape man」に対応した訳語として「猿人」という用語になりましたが、英語圏では現時点でこの「猿人」に対応した用語は正式には使われておらず、つまり日本独自の用語です(関連記事)。これは、新たな属名や種名がさまざまに提唱されたり、既存の分類群の定義について研究者間で見解が異なったりする場合などもある状況で、ある進化段階を表す名称が実用的で便利なので、慣例的に用いられ続けている、という事情のためです。同じ理由でホモ属についても、段階を表す用語として「原人」と「旧人」と「新人」という表現が慣例的に用いられています。

 本論文は「猿人」を3集団に大別します。まずは「初期猿人」で、1990年代以降に化石が発見されるようになった、400万年以上前の人類化石で、アウストラロピテクス属には含まれない、それ以前の人類となります。次に、狭義のアウストラロピテクス属です。最後に、「猿人」独自の特徴である咀嚼器官の発達がとりわけ顕著な3種から構成される「頑丈型猿人」です。「頑丈型猿人」は、属の水準ではアウストラロピテクス属とは別のパラントロプス属に分類されることもあります。狭義のアウストラロピテクス属は頑丈型に対して華奢型と呼ばれることもありましたが、現代人との比較では「猿人」全体で咀嚼器官が発達しているので、華奢とは言えません。現在では、頑丈型に対して「非頑丈型」と呼ばれることもあります。以下基本的に、「猿人」を「」でくくらず、類人猿は非ヒト類人猿を示します。


●初期猿人

 初期猿人は、サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、アルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の4種です。サヘラントロプス・チャデンシスは、現時点で最古となる人類(候補)化石で、アフリカ中央部のチャドの砂漠地帯で発見され、トゥーマイと呼ばれる頭骨化石が基準標本です。この化石が発見された地域には放射性年代測定法の適用可能な火山性堆積物が存在しないので、推定年代は他地域との化石動物層の対比に基づいており、700万~600万年前頃ですが、その後の研究では704万±18万年前と推定されています(関連記事)。トゥーマイの頭骨の下面には脳から体へ神経をつなぐ脊髄の出入口である大後頭孔という直径3~4cmの穴があり、この穴が下方を向いているので、サヘラントロプス・チャデンシスが直立二足歩行していたことを示す、と解釈されていますが、異論もあります。

 現時点でアフリカ東部最古となる人類(候補)は、ケニアのトゥゲン丘陵で発見されたオロリン・トゥゲネンシスの化石です。その年代は、放射性年代測定法により600万年前頃と推定されています。オロリン・トゥゲネンシスの化石では、大腿骨近位半や上腕骨遠位半などの四肢骨片、下顎骨片、遊離歯などが報告されています。大腿骨近位半は3標本あり、大腿骨頸断面の緻密骨分布パターンが類人猿よりも人類に近いことなどから、オロリン・トゥゲネンシスも直立二足歩行だった、と指摘されています。

 1990年代に400万年以上前の人類(候補)化石として最初に発見されたのはアルディピテクス・ラミダスでした。当初はアウストラロピテクス属の一種として報告されましたが、アウストラロピテクス属とは明瞭に異なる進化段階にあるとして、アルディピテクス属に分類されました。2009年にはアルディピテクス・ラミダスの包括的な分析結果が公表されました(関連記事)。この包括的な分析に基づくと、アルディピテクス・ラミダスは腰や足部の骨の形状から地上では直立二足歩行だったと考えられますが、後の人類とは異なり拇指対向性を残していたので、樹上ニッチ(生態的地位)も完全には放棄していなかったようです。アルディピテクス・ラミダスの歯や顎は特殊化しておらず、果実やその他さまざまな食料を利用するジェネラリスト(万能家)だった、と推測されます。アルディピテクス・ラミダスの犬歯の大きさについては、発見されている20個体分以上が全て雌のチンパンジー程度、雄相当の大きなものが含まれないため、確率論的に雌雄の差はほぼなくなっていた、と推測されています。つまり、直立二足歩行への移行と犬歯の小型化がすでに始まっている人類だった、というわけです。アルディピテクス属には、ラミダスよりも古い年代の別種としてカダバも報告されています。ラミダスと比較すると資料は少なめですが、より大きな犬歯など、ラミダスの前段階である特徴が認められます。

 これら初期の猿人各種については、発見されたのが比較的最近ということもあり、相互比較研究などはさほど進んでいません。そのため、これら3属がじっさいに別の属として成立するのかどうか、といった観点の検討は今後の課題となりそうです。属の水準では全て同じでよいという結論になる可能性もあるものの、その場合は先に命名された属名に先取権があるため、全てアルディピテクス属に含められることになります。


●アフリカ東部の狭義のアウストラロピテクス属

 アウストラロピテクス属の既知の最古種は、アルディピテクス属と同じく1990年代に報告されたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)です。アウストラロピテクス・アナメンシスは大きな臼歯列などアウストラロピテクス属の特徴を示すことから、既知のアウストラロピテクス属と属の水準で区別する必要はなく、おそらくアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)の祖先だろう、と推測されました。最近、エチオピアのウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域で発見された380万年前頃の頭骨(MRD-VP-1/1、以下MRDと省略)が、犬歯の形態などに基づいて、アウストラロピテクス・アナメンシスに分類されました(関連記事)。MRDには脳頭蓋が前後に長細いというサヘラントロプス属に似た祖先的特徴と、頬骨が前方へ向くという頑丈型猿人とも似た派生的特徴とが混在する、と報告されています。アナメンシスはアファレンシスと共存していた可能性も指摘されており、猿人進化に関する理解が、一段と進むことも混迷することもありそうです。

 アウストラロピテクス・アファレンシスは猿人を代表する種の一つで、現在のエチオピアとケニアとタンザニアにまたがる広範な地域から化石が出土し、資料数も多いことから、猿人像についての知見のかなりはアファレンシス化石の研究により明らかになった、と言えます。ルーシーと呼ばれるアファレンシスの有名な部分骨格標本(A.L. 288-1)や、一地点からまとまって発見されたために「最初の家族」と呼ばれる化石群など、アファレンシス化石の9割近くはエチオピアのハダール(Hadar)で得られていますが、基準標本に指定されたのはタンザニアのラエトリ(Laetoli)で発見された下顎骨です。また、チャドで発見され、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)という新種として報告された下顎骨標本も、形態的にはアファレンシスの変異の範疇に収まる、と考えられています。ケニアで発見され、アウストラロピテクス属とは別属とされたケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)化石については、中心的標本である頭骨の保存状態が悪いため、同年代のアファレンシスの違いが確定的とは言えないようです。

 エチオピアのウォランソミルでは、新たなアウストラロピテクス属化石(上下の顎骨数点)が報告されており、新種のアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda)と命名されました(関連記事)。デイレメダはアファレンシスと年代が重なり、発見場所も近いものの、臼歯列が小さめであることや顎骨の形態などに基づいて、新種と判断されました。これらの化石が発見されたウォランソミルのブルテレ地点では、それ以前に猿人の足部の化石が発見されており、拇指対向性が見られることから、アファレンシスと同年代にアルディピテクス属のような形態を有する別種の存在が示唆されていました(関連記事)。ウォランソミルの歯や顎がアファレンシスとは種の水準で異なると言えるのか、判断は難しく、またデイレメダとその足部化石との対応関係は確認できていません。


●アウストラロピテクス・アフリカヌス

 上述の猿人化石はいずれもアフリカ東部と中央部で発見されましたが、アフリカ南部でもアウストラロピテクス属化石が発見されており、最初に発見された猿人は現在の南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)化石でした。ただ、類人猿とヒトの中間的特徴を示すこの化石が報告された1925年には、後に捏造が発覚するピルトダウン人に学界の関心が集中しており、単なる類人猿の化石と考えられ、その意義は軽視されました。ピルトダウン人は、現代人的な脳と類人猿的な咀嚼器官を有する人類の祖先がヨーロッパで進化した、という当時の人類進化観に当てはまっており、逆に脳はヒトより小さいものの、咀嚼器官はヒト的な人類の祖先がアフリカ南部に存在した、という見解はなかなか受け入れられませんでした。アウストラロピテクス・アフリカヌスが人類の祖先として受け入れられるようになったのは、発表から20年近く経ってからでした。

 アフリカヌス化石は南アフリカ共和国のスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟やマカパンスガット(Makapansgat)で発見されており、とくにスタークフォンテンではかなりの点数が見つかっています。アフリカヌスはアファレンシスとともに猿人の代表種と言えますが、スタークフォンテンで発見された複数個体分の部分骨格はいずれも、頭骨と確実にセットになっていません。アフリカヌスの形態では個体変異が大きく、2種以上が含まれる可能性も指摘されていますが、明瞭な境界の定義も難しいので、アフリカヌスとしてまとめられています。

 アフリカヌスの系統的位置づけについては、アファレンシスから進化した、との見解以外にも、アファレンシスより祖先的とか、ホモ属の祖先とか、ホモ属と頑丈型猿人であるパラントロプス(もしくはアウストラロピテクス)・ロブストス(Paranthropus robustus)両者の祖先であるとか、さまざまな見解が提示されています。こうした議論の錯綜は、アフリカ南部の化石は基本的に洞窟堆積物から発見され、放射性年代測定によるアフリカ東部の化石よりも年代推定が難しく、揺れ幅が大きい、という事情も少なからず影響しています。

 スタークフォンテンでは、堆積物に全身骨格化石(90%以上の保存状態)が存在する、と1997年に確認されて以降、20年にわたって発掘作業が続けられ、最近になって化石の掘り出しと洗浄がほぼ完了し、分析結果が報告され始めています。この化石はリトルフット(StW 573)と呼ばれており、アフリカヌスの発見地点よりも下層で発見され、その年代は360万年前頃と推定されていますが、280万年前頃以降との見解も提示されています(関連記事)。リトルフットにはアフリカヌスとは異なる形態的特徴が認められ、アフリカヌスとは別種と判断されています。ただ、新種ではなく、20世紀半ばに提案されたアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus)に分類されています。


●頑丈型猿人

 アナメンシス以降のアウストラロピテクス属各種は、犬歯よりも後方の臼歯列、つまり小臼歯と大臼歯が大きく、表面を覆うエナメル質が厚いなど、全体的に咀嚼器官が発達しています。とくに顕著に咀嚼器官が発達しているのが、頑丈型と呼ばれる猿人です。頑丈型猿人では3種が存在します。頑丈型猿人はアファレンシスやアフリカヌスとは明らかに異なる進化段階を示していると考えられるので、アウストラロピテクス属とは別属のパラントロプス属と分類することが多くなっています。しかし、頑丈型猿人3種の系統関係が完全には解明されていない現状では、アウストラロピテクス属から独立させることの妥当性も担保されていないので、アウストラロピテクス属に分類する立場もあります。本論文は、基本的に頑丈型猿人をアウストラロピテクス属に分類しています。

 頑丈型猿人3種のうち最古はパラントロプス(アウストラロピテクス)・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)で、おもにアフリカ東部のエチオピアとケニアで化石が発見されています。資料数はあまり多くないものの、ケニアのトゥルカナ(Turkana)湖西岸でブラックスカルと呼ばれるほぼ完全な頭骨化石(KNM-WT 17000)が発見されています。この頭骨化石は、広くて平たい顔面部と突出した上顎が特徴で、歯はほとんど残っていないものの、歯根などから臼歯列はひじょうに大きかった、と推測されます。

 アフリカではもう1種の頑丈型猿人が確認されており、それはパラントロプス(アウストラロピテクス)・ボイセイ(Paranthropus boisei)です。ボイセイはおそらくエチオピクスから進化史、より咀嚼器官が発達した、と考えられます。ボイセイ化石で最良の保存状態の頭骨(OH5標本)は、アフリカ東部の猿人化石で最初に発見されました。OH5標本は、「皿状」とも評される顔面部と、分厚いエナメル質で表面を覆われたひじょうに大きな臼歯列が特徴的です。ボイセイ化石はアフリカ東部のエチオピアとケニアとタンザニアにまたがる広範囲で比較的多く発見されています。ボイセイは、下顎骨か大きくしっかりとしており、頭骨にはその下顎を動かすための強大な咀嚼筋の付着部となる骨の出っ張り(矢状稜)などが著しく発達し、顔面が平坦で皿状とも言われ、臼歯列の各歯のサイズはエチオピクスや同じく頑丈型猿人のパラントロプス(アウストラロピテクス)・ロブストス(Paranthropus robustus)と比較しても多くいものの、切歯と犬歯は相対的のみならず実寸でも著しく小さくなっている、といった共通の特徴が認められ、種としてのまとまりが分かりやすくなっています。ただ、エチオピア南部のコンソ(Konso)で発見された140万年前頃の頭骨化石には、エチオピクスやロブストスと類似する特徴が混在するので、種内変異もそれなりにあった、と推測されています。

 アフリカ南部で発見された頑丈型猿人がロブストスで、頑丈型猿人としては最初に発見されました。ロブストスは1930年代にクロムドライ(Kromdraai)で頭骨化石などが発見されて以降、スワートクランズ(Swartkrans)やドリモレン(Drimolen)などで数百点の化石が見つかっています。ロブストスは、咀嚼器官が発達している点ではアフリカ東部の2種(エチオピクスとボイセイ)と共通しており、ロブストスの方がエチオピクスよりも派生的で年代も後なので、頑丈型猿人3種はエチオピクスを祖先種とするクレード(単系統群)と考えるのが最も自然です。しかし、アフリカ南部のアフリカヌスとロブストスの間に共通点も見られることから、頑丈型猿人がアフリカの東部と南部で別々に進化した可能性(関連記事)も完全には否定されていません。

 頑丈型猿人で最も後まで存在したと考えられるのはボイセイで、ボイセイで最新の化石はコンソで発見されており、年代は140万年前頃です。これは猿人化石全体でも最も新しい年代で、ボイセイは最後の猿人と言えそうです。アフリカ東部では140万~100まの化石産地があまり存在しないので、遅くとも100万年前頃までに猿人は絶滅したことになのそうです。ボイセイは230万年前頃かそれ以前から存在が確認されており、少なくとも100万年近く存続したことになります。コンソで発見された化石から、ボイセイのある程度の種内変異が示唆されるものの、100万年間に起き得る進化としてはさほど大きくなく、かなり安定した種と言えそうです。同年代にホモ属も存在しており、ボイセイは種間競争に敗れて最終的に絶滅したかもしれませんが、100万年続いてからの絶滅なので、惨めな敗者というよりは、随分長く頑張った種と言えそうです。


●ホモ属の起源と関連しているかもしれない猿人

 猿人の次に現代人も含まれるホモ属が(一定期間共存しつつ)登場しますが、猿人のうちどの種がホモ属の直接的祖先となったのか、明確ではありません。ホモ属とつながりがあると報告された猿人には、アウストラロピテクス・ガルヒ(Australopithecus garhi)とアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)があります。ガルヒの化石はエチオピアのミドル・アワシュで発見され、年代は250万年前頃です。ガルヒの頭骨は頑丈型猿人には似ていないため、同年代のエチオピクスとは別種で、四肢の長さの比率が猿人よりも現代人に近いことと、同じ遺跡から石器による傷のついた動物化石が発見されたことから、ホモ属の祖先と主張されています。ガルヒは、エチオピクスとは別種でありながら、歯が全体的に大きく、この時代に咀嚼器官の頑丈化が複数系統で起きた可能性も指摘されています。

 セディバは南アフリカ共和国のマラパ(Malapa)遺跡でのみ発見されており(関連記事)、年代は200万年前頃です。セディバは同年代のロブストスと違って歯が小さくホモ属的ではあるものの、ホモ属にしては頭骨が小さく、脳の発達の気配がまったく見られないため、アウストラロピテクス属の新種と判断されたようです。セディバは2個体分の部分骨格化石が発見されており、腰骨などには現代人に近い特徴が見られますが、足部の骨には祖先的特徴も見られます。バーガー(Lee Rogers Berger)氏などセディバを報告した研究者は、セディバが猿人の中で最もホモ属に近い種と主張しますが、200万年前頃ではホモ属の祖先となるには遅すぎるので、あまり説得力はありません。セディバについては、アフリカヌスの生き残りという見解や、ホモ属に分類すべきといった、さまざまな見解が提示されています。

 ホモ属の起源について最古の証拠は、エチオピアのハダールで発見された233万年前頃の上顎骨とされてきました。しかし、同じアファール地域のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域で発見された、5個の歯の残っている左側下顎が、最古のホモ属ではないか、と主張されています(関連記事)。この化石の年代は280万年前頃で、ホモ属の起源が一気にさかのぼった、とも評価されましたが、脳容量は不明で、歯や顎の化石でホモ属と判断するのは難しく、ホモ属出現の年代や場所の絞り込みは容易ではありません。また、「ホモ属の直前」といった特徴を示す猿人化石が発見されない限り、特定の猿人とホモ属との系統関係を確実に示すのは困難です。仮に「ホモ属の直前」の化石が発見されても、それがホモ属なのか猿人なのか判断するのは難しそうで、系統関係や分岐年代については、ある程度の解像度以上には明らかにできないかもしれません。


●猿人の特徴

 アファレンシスやアフリカヌスといった狭義のアウストラロピテクスの特徴は、直立二足歩行と犬歯サイズはヒト的であるものの、脳容量と四肢の比率は類人猿的で、ヒト的でも類人猿的でもない独自の特徴は、咀嚼器官が発達していたことです。猿人の直立二足歩行について、現代人との比較では見解が一致していないものの、直立二足歩行していたことは疑われていません。直立二足歩行への適応を示す特徴は、腰や大腿や膝や足部の骨の形状などに広く認められます。幅広で低い骨盤は類人猿よりもヒト的で直立姿勢を示唆し、大腿骨も股関節から膝にかけて傾くことにより直立姿勢で体の重心を体のましたに近づけるという、ヒト的特徴が認められます。

 類人猿の足は、手と同じように親指が他の指と向き合って物を掴める、すなわち把握性がありますが、ヒトでは足の親指は他の4本の指と並列しており横にはほとんど向かないため、上手く物を掴めません。猿人の足はこの点でヒト的です(例外が上述のブルテレ標本)。さらに、ヒトの足は縦方向にアーチを形成する点で類人猿と異なっていますが、猿人の足にも同様のアーチ構造が認められ、このアーチが歩行時の着地から蹴り出しにかけて効果的に体重移動をすると同時に、体重を支えるクッションのように機能していた、と考えられます。猿人の直立二足歩行の直接的証拠としては、タンザニアで発見された366万年前頃の足跡があります(関連記事)。

 このように猿人の直立二足歩行は確実と考えられますが、身体比率では猿人は類人猿的だったようです。類人猿は基本的に下肢に対して相対的に腕(上肢)が長いのに対して、現代人では相対的に下肢が長く、歩幅をかせいでいます。猿人は上肢が下肢に対して相対的に長く、この点ではヒトより類人猿に近かったようです。とくに、肘から先の前腕と手が相対的に長くなっています。猿人は現代人と比較して、身長が低かったようです。こうした身体比や全身像の検討には同一個体の化石が必要なので、多くの見解がアファレンシスの全身骨格(A.L. 288-1標本)の研究に基づいています。しかし、化石はなかなかまとまって見つからないので、難しい面もあります。

 一方、頭部については、全体的にヒトより類人猿的な特徴が多く見られます。まず、頭蓋内腔容量(脳サイズ)は375~550㎤と小さく、現生類人猿と本質的に違わない、と言えます。顔面についても、眼窩の上の出っ張り(眼窩上隆起)が発達しており、上顎部分が前方へ突出しているなど、明らかに現代人より類人猿に似ています。ただ、上述の大後頭孔が類人猿と比較して頭蓋底のより前方にあり、首を動かす筋肉が付着する項平面が下方を向いている点などはヒト的で、これらも直立二足歩行と関連する特徴と理解されています。

 猿人の咀嚼器官については、頭蓋の咀嚼筋付着部が全体的によく発達しており、咀嚼力が強かった、と推測されます。上顎も下顎もがっしりとしており、とくに下顎骨の歯の生えている部分である下顎体は分厚く、下顎枝と呼ばれる工法の垂直部分は高くなっています。歯については、臼歯列、とくに大臼歯が大きく、歯冠表面のエナメル質も厚くなっています。一方、歯の中でも犬歯は咀嚼とは別の観点で重要です。類人猿の犬歯は三角錐型で尖っており、上下の犬歯の三角の一辺同士が擦れあって研がれるように減っていきますが、ヒトの犬歯は切歯とあまり違わない形で、他の歯と同じように先端からすり減ります。また類人猿は雌の犬歯もヒトより大きいものの、雄の犬歯はずば抜けて大きく、性差が著しいことも特徴です。類人猿の雄の犬歯が大きいことは、雄同士の競争が激しいことと関連していると考えられるので、犬歯サイズと性差の程度には社会の在り方が反映されている、と予測されます。

 猿人の犬歯は現代人と比較して大きく、個体によっては類人猿的に上顎歯列に下顎犬歯が収まるための隙間(歯隙)が認められます。しかし、類人猿と比較して猿人の犬歯はずっと小さく、目立ったサイズの性差も見られません。歯冠の形も三角錐というよりは先の尖ったヘラ状に近く、ヘラの先端から擦り減っていく点でもヒト的です。こうした犬歯の特徴から、猿人社会は類人猿と比較して雄間競争が激しくなかった、と想定されます。猿人では、犬歯サイズの性差は小さいものの、身体サイズの性差は大きかった、との指摘もあり、確かに現代人よりは性差があったにしても、類人猿ほどではなかった、との分析結果もあります。現代人でも同性内の個体差はそれなりに大きく、限られた点数しか見つからない化石の比較で個体差と性差をどこまで正確に評価できるのかは、難しい問題です。

 こうした特徴一式を仮に猿人の「典型」と考えると、初期の猿人と頑丈型猿人の違いも見えてきます。初期猿人では、犬歯がもう少し大きくて小型化の程度がもう少し前の段階にあったことと、咀嚼器官の発達が進んでいなかったことと、直立二足歩行をしていたものの足に拇指対向性が見られるなど樹上も生活空間として利用されていただろう、といったことが挙げられます。一方、「後期猿人」とも言うべき頑丈型猿人では、咀嚼器官のさらなる発達が独自の特徴で、咀嚼筋の一つである側頭筋の付着面積をかせぐための骨稜がよく発達しており。皿状の顔面も強大な咀嚼筋の付着領域や咀嚼力に対する強度の確保と関連して発達した、と考えられます。大臼歯はさらに大きくなり、小臼歯も「大臼歯化」するなど、咀嚼の必要性がひじょうに大きかった、と推測されます。頑丈型猿人の身体サイズはアファレンシスやアフリカヌスと本質的には違わなかった、と推測されています。ボイセイやロブストスは初期ホモ属と共存していたので、四肢骨化石が見つかっても、どちらなのか明瞭に区別することは難しく、逆に「頑丈」なのは咀嚼器官だけだったようです。


●猿人の進化の背景

 猿人の進化の背景としても二つの観点が着目されます。まず、人類の最大の特徴とも言うべき直立二足歩行の起源についてです。これについては古くからさまざまな理由が提案されてきました。たとえば、物の運搬、草原で見晴らしがよくなる、エネルギー効率がよい、といったものです。とくに、草原に生活域が移ったことで直立したとする「サバンナ仮説」や、その発展形で、大地溝帯の隆起によりアフリカの東西で環境が異なるようになったからとする「イーストサイドストーリー」が一時は有力でした。しかし、初期猿人化石が発見されていくにつれて、人類の起源がさかのぼり、初期猿人化石の発見地の古環境が必ずしも乾燥した草原とは言えないと明らかになり、これらの仮説の論拠は弱まりました。現在では、ラブジョイ(Claude Owen Lovejoy)氏の「食料供給仮説(プレゼント仮説)」が一定の説得力を有するようになっています。

 食料供給仮説では、直立二足歩行の起源と犬歯の小型化が同時に説明されます。現生チンパンジーにおいて雄間の競争が激しいのは、複雄複雌の群れにおいて性皮が膨張した発情中の雌をめぐってのことですが、ヒトの女性では発情中も周囲にはそうだと分からず、本人にも分かりません。発情中か否かが明示的でないと、なるべく多くの雌と発情の時期を狙って交尾するという雄の繁殖戦略が成り立たず、数は少なくなっても特定の相手を常時確保する方が戦略として有効となり得るため、雌雄ペアのつがい型、一夫一妻型社会が生じ得ます。雄同士の競争が不要になると巨大な犬歯の必要がなくなるので、犬歯が小型化します。一方、複雄複雌の群れからつがい型に移行することで、雄にとって自身の子であるかどうか判断できるようになり、小に食料を持ってくる行動が適応的に有利となり、食料運搬に適した移動様式として直立二足歩行が適応的に有利になった、というわけです。アルディピテクス・ラミダス化石などの研究により、初期猿人が本格的に草原に出る前に二足歩行を始めていたらしいことや、犬歯の小型化も同時に早くから進行していたことが明らかとなり、かなりの説得力があるように思われる食料供給仮説には批判も多いようで、広く合意が得られているとは言えないようです。

 次に、咀嚼器官の発達についてです。まず、アウストラロピテクス属全体として咀嚼器官が発達したのは、初期猿人の段階からアウストラロピテクスへの移行が、樹上空間と決別して本格的に草原、つまりサバンナへ進出し、地上での直立二足歩行に特化していくことを意味していると考えれば、サバンナで得られる食料に対して有利だったから、と解釈できます。頑丈型猿人においてさらに咀嚼器官の発達度合いが強化されたことも、ある意味ではその延長として理解できます。頑丈型猿人が出現した300万~250万年前頃は、地球規模の寒冷化が進行し、アフリカにおいても乾燥化が進み、一段と草原が広がった時期とされています。このような環境変化により食料が乏しくなる中、咀嚼器官の発達によりしのいだのが頑丈型猿人だろう、というわけです。一方、同じ状況下で咀嚼器官の発達の代わりに道具製作・作用行動を進化させた系統があり、これがホモ属の祖先になったと考えられます。道具使用の証拠としては、エチオピアのゴナ(Gona)で発見された260万年前頃の石器群が最古とされており、ホモ属出現の時期にも合致します。しかし最近になって、330万年前頃の石器が発見されたとの報告もあるので(関連記事)、石器=ホモ属とは断定できません。

 この点に関して、アルディピテクス・ラミダスを含む視野で見れば、アウストラロピテクス属自体がホモ属への移行の準備段階で、形態的には祖先的なアウストラロピテクス属自体において、ホモ属を特徴づける道具使用行動や社会性や認知的行動の複雑化が萌芽的に存在していたに違いない、との指摘もあります。この指摘に基づけば、アウストラロピテクス属とホモ属との間には大きな段差があるのではなく、ある程度連続的な変化であって問題ないわけで、最古の石器の証拠が少々古くさかのぼっても、とくに不思議ではないかもしれません。


参考文献:
河野礼子(2021)「猿人とはどんな人類だったのか 最古の人類」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第2章P23-40

大河ドラマ『青天を衝け』第31回「栄一、最後の変身」

 今回は栄一の銀行立ち上げを中心に、喜作(成一郎)との再会や富岡製糸場の操業や栄一の浮気発覚などが描かれ、最後に栄一は大蔵省を辞めると決断し、民間での道を歩み始めることにします。栄一と喜作の再開は、両者の想いのぶつかり合いと和解という王道的な描写になっていましたが、悪くはなかったように思います。銀行の立ち上げは、癖の強い豪商との駆け引きもあってなかなか見ごたえがありました。明治初期の近代化は多様で複雑なので、その全貌を大河ドラマで描くことはもちろん無理としても、本作は栄一視点でなかなか丁寧な作りになっており、よいと思います。

 幕末から近代初期の大河ドラマらしい政治劇の描写は少なめですが、主人公の栄一が西郷隆盛や大久保利通や大隈重信ほどの政治的地位にあるわけではないので、栄一視点の作品と考えると、とくに不満はありません。栄一が大蔵省を辞めると決断したことに西郷隆盛との会話が大きく影響したことも、西郷のこの時点での立場と心情を踏まえて、なかなか上手く構成されていたように思います。民間人としての栄一の功績を描くには残りが10回と少ないのは残念ですが、今後も期待できそうと予感させる内容でした。

シベリアにおけるイヌの進化

 シベリアにおけるイヌの進化に関する研究(Feuerborn et al., 2021)が公表されました。北極圏シベリアのジョホフ(Zhokhov)島の早期の考古学およびゲノムの証拠から、異なる系統に分類されるイヌが9500年以上にわたって北極圏の生活では不可欠な構成要素だった、と示唆されます。人々とイヌとの間のこの緊密なつながりは、コリャーク人(Koryaks)やイテリメン人(Itel’mens)やチュクチ人(Chukchi)やネネツ人(Nenets)などシベリアの共同体では続いており、イヌが狩猟や牧畜の追込みやソリなどに使われていました。ネネツ人やセリクプ人(Selkups)などサモエード(Samoyedic)語派話者から得られた最近のゲノムデータでは、完新世にサモエード語派話者がユーラシア草原地帯牧畜民など近隣集団から限定的な遺伝子流動を受けた、と示唆されます。ヒトとイヌが並行して移動し、相互作用することが多いことを考えると(関連記事)、シベリアのイヌも他の集団から限定的な遺伝子流動を受けた可能性があります。

 ヒトゲノムの証拠とは対照的に、言語学および民族誌のデータはより動的な過程を示唆します。具体的にこれらのデータが示唆するのは、シベリア北西部のサモエード語派話者がシベリア南部もしくはヨーロッパ南東部の近隣地域から北極圏へと4000~3000年前頃に移住してきた、ということです。さらに、シベリア北西部のウスチ・ポルイ(Ust’-Polui)遺跡などは、鉄と青銅の冶金の証拠と、ガラス製ビーズなど、草原地帯か黒海か近東からもたらされた可能性が高い孤立した発見物を示します。この物質文化の存在は、これらの共同体が広範な交易ネットワークに参加したことを示唆します。提案された移住と物質および慣行の交換にはイヌも含まれていた可能性があり、混合や改良、最終的にはサモエド(Samoyed)品種など現代のシベリアのイヌ系統の確立につながったかもしれません。

 シベリア北西部北極圏のイヌ集団が継続的だったのか、それとも代わりに混合(おそらくはユーラシア他地域からの物質文化の流入との関連で)により示されるのか評価するために、11000~60年前頃となる20匹の古代および歴史時代のシベリアとユーラシア草原地帯のイヌのゲノムが配列されました(網羅率は0.1~11.1倍)。次に、これらのゲノムが利用可能な古代(29匹)および現代(120匹)のイヌ科動物とともに分析されました(図1A)。以下は本論文の図1です。
画像


●シベリアのイヌにおける広範な祖先系統の評価

 まず、主成分分析と系統分析(図1B)の両方を用いて、シベリアのイヌが類似の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有するのかどうか、評価されました。これらの分析は、現代および古代のイヌは広く3主要集団(ユーラシア西部とアジア東部と北極圏/アメリカ大陸)に分類される、と示唆する以前の研究の調査結果を再現します(関連記事1および関連記事2)。ユーラシア西部系統は、古代の近東およびレヴァント、現代のアフリカ、古代および現代のヨーロッパ、新たに配列された青銅器時代草原地帯のイヌを含みます。アジア東部系統は、中国とベトナムとアジア南東部島嶼部のイヌ、ディンゴ、ニューギニア・シンギング・ドッグ(NGSD)を含みます。北極圏/アメリカ大陸系統は、グリーンランドそりイヌ(GSD)、シベリアンハスキー、古代のアメリカ大陸のイヌ、バイカル湖の中期完新世のイヌ、シベリア東部のジョホフ(Zhokhov)島の9500年前頃のイヌ1匹、イアマル・ネネツ(Iamal-Nenets)地域のイヌ、新たに配列されたシベリア全域の歴史時代のイヌなど、現代の北極圏の品種を含みます(図1B)。これは、新たに配列されたシベリアのイヌが少なくとも9500年にわたって継続的だった遺伝的祖先系統を有している、と示唆します。

 次にTreeMixを用いて、これらの系統間の混合が評価されました。これらの分析は21匹の古代のイヌと14匹の現代のイヌのゲノムに基づいており、ほぼ本論文の近隣結合系統樹を再現し(図1B)、ヨーロッパのイヌの祖先系統は近東と北極圏のイヌ系統間の早くも10900年前頃の混合に由来する、と示す以前の研究の結果(関連記事1および関連記事2)を裏づけます。本論文の拡張データセットでは、ジョホフ島の9500年前頃の1標本は、古代北アメリカ大陸のイヌよりもむしろ、バイカル湖の6000年前頃の1標本と最も近い、と示唆されます(関連記事)。

 この結果から、全ての配列された他の現代および古代(中石器時代以後)のヨーロッパのイヌと類似して、ヨーロッパの中石器時代のイヌはすでに北極圏とユーラシア西部両方の祖先系統を有していた、と示唆されます。しかし、ヴェレティエ(Veretye)遺跡(図1)のイヌから約1000年後となるジョホフ島の古代シベリアのイヌがユーラシア西部祖先系統を有しているという事実は、ユーラシア西部のイヌの祖先系統がシベリア北極圏に9500年前頃までには到達していたことを示唆します。


●青銅器時代草原地帯のイヌの祖先系統の確立

 ジョホフ島のイヌにおけるユーラシア西部祖先系統の欠如は、ヨーロッパや近東や草原地帯など近隣地域からシベリア北極圏へのイヌの後の流入の可能性を排除するわけではありません。この仮説を検証するため、まず5000~3000年前頃となる青銅器時代の草原地帯のイヌの祖先系統が確立されました。それは、草原地帯のイヌの祖先系統が特徴づけられておらず、シベリアのイヌにおける混合の潜在的な供給源を表しているからです。

 青銅器時代草原地帯のイヌ(図1A)のうち、ロシア西部のサマラ1(Samara1)遺跡で発見された既知の利用可能な1匹(網羅率0.7倍)と、新たに配列されたイシュキニノ(Ishkinino)遺跡の1匹(網羅率1.4倍)の分析により、青銅器時代草原地帯のイヌはユーラシア西部のイヌと最も密接な遺伝的に均質な集団を形成する、と明らかになりました。じっさい、TreeMix分析では、これらのイヌが古代近東のイヌと強い類似性を示すと示唆され、混合図モデル化では、草原地帯のイヌが古代ヨーロッパのイヌよりも追加の近東祖先系統を多く有している、と示唆されました(図2)。さらにD統計では、草原地帯の2匹のイヌのどちらでも、3800年前頃以前の最終共通祖先以降、北極圏のイヌを含む他の集団からの混合の証拠が検出されません。

 F4比を用いた追加のモデル化では、草原地帯のイヌの祖先系統が、ジョホフ島のイヌに代表される北極圏のイヌ(40%)と、イランおよびレヴァントの古代のイヌに代表される近東のイヌ(60%)との混合としてモデル化できます。古代人のゲノムに関する以前の研究では、銅器時代イラン人と関連する人口集団が青銅器時代草原地帯人口集団の祖先系統に40%寄与し、それは近東から草原地帯への農耕拡大の結果の可能性がある、と示唆されています(関連記事)。

 草原地帯のイヌがヨーロッパから導入された、という仮説を否定できませんが、本論文の分析では、ヨーロッパのように、近東から草原地帯への新石器時代の農耕拡大はイヌの拡散も伴っていた、と示唆されます。より新しい700年前頃となる草原地帯のタタールスタン共和国(ロシア)の中世都市ボルガー(Bolgar)に位置するボルガー1遺跡(図1A)で発見されたイヌのゲノム分析から、近東祖先系統は少なくとも中世まで草原地帯のイヌで維持されていた可能性が高い、と示唆されます。


●シベリアのイヌにおける混合の検証

 青銅器時代の草原地帯のイヌとは対照的に、本論文の分析では、古代および現代のシベリアのイヌでは、D統計により示されるように、近東(ユーラシア西部)および古代北極圏の祖先系統とのさまざまな程度の類似性がある、と明らかになりました。じっさい、本論文の主成分分析では、この研究で配列された全てのシベリアのイヌはユーラシア西部のイヌと北極圏のイヌとの間の勾配に沿って位置しており、シベリアのイヌはユーラシア西部祖先系統をさまざまな水準で有している、と示唆されます。シベリアのイヌへの非北極圏祖先系統の流入は、近東/草原地帯祖先系統か、ヨーロッパ祖先系統か、あるいはその両方を有するイヌの導入の結果だった可能性があります。これらの想定の検証は困難です。それは、以前の研究で、「ヨーロッパ」祖先系統自身が北極圏祖先系統とユーラシア西部(近東)祖先系統との間の混合から生じた、と示されてきたからです(関連記事)。

 10900~60年前頃のシベリアのイヌと混合したイヌのさまざまな祖先系統構成要素を確認するため、Admixture Graph R パッケージを用いて、9通りの分離モデル(そのうち4通りは図2Aで示されています)が定義されました。このパッケージでは、近東とヨーロッパと北極圏のイヌの代表が用いられ、22匹のシベリアのイヌのゲノムに各モデル化がどの程度合致するのか、繰り返し検証されました。二つの理由で、この分析にはアジア東部のイヌが含まれません。まず、考古学的証拠から、シベリア北西部の共同体はおもに草原地帯や黒海や近東の共同体と相互作用したからです。次に、本論文の分析結果と以前の研究から、ジョホフ島の古代のイヌに代表される北極圏のイヌはアジア東部のイヌの祖先系統に寄与したものの、逆方向では遺伝子流動の証拠がほとんどないからです。

 モデルで3つの祖先的系統をそれぞれ表すため、近東からテペゲーラ(TepeGhela)遺跡(図1A)の5800年前頃のイヌと2300年前頃のASHQ01遺跡のイヌ、ヨーロッパからアイルランド東岸のニューグランジ(Newgrange)遺跡の4800年前頃のイヌとHXH遺跡(図1A)の7000年前頃のイヌ、北極圏からはジョホフ島の9500年前頃の1匹のイヌが代表に選ばれました。次に、各系統のいずれかに由来するものとして、シベリアのイヌの各祖先系統を特徴づける一連のモデルが特定されました。その各系統とは、(1)完全に北極圏のイヌの系統、(2)北極圏とヨーロッパのイヌ両系統、(3)北極圏と近東の両系統。(4)ヨーロッパと近東のイヌ系統のみです(図2)。全てのモデルで、ヨーロッパの祖先系統は近東と北極圏の混合としてモデル化されました。次に、代表するゲノムの4通り全ての可能性のある組み合わせが適用され、各シベリア/草原地帯のイヌとの適合度が検証されました。以下は本論文の図2です。
画像


●古代バイカル湖のイヌにおける限定的なユーラシア西部祖先系統

 まずこの手法を適用して、古代バイカル湖の3匹(7400年前頃と7000年前頃と6900年前頃)が非北極圏祖先系統を有するのかどうか、評価されました。本論文の分析では、4モデルのうち3通りが低網羅率(0.3倍)の古い方の2匹(バイカル2および3)のデータに等しく適合します(図2)。しかし、最も新しく(6900年前頃)より高い網羅率(2.2倍)の個体(バイカル1)では、ヨーロッパからの混合を含むモデルの方がわずかに適合している、と明らかになりました(図2)。これらの結果を7400~6900年前頃に非北極圏祖先系統を有するイヌの到来の証拠として解釈することは魅力的ですが、この発見は古い方の2個体のゲノムの網羅率がより低いことに起因するかもしれません。

 これらのイヌが遺伝子流動の歴史を有するのかどうか、さらに調べるため、qpBruteを用いて徹底的なモデル検索が実行され、古代バイカル湖の3匹は全て、単一集団として分析されました。その結果、2万回以上の検証されたシナリオのうち3%だけがデータに適合し、これらのうち大半(60%)は、ジョホフ島のイヌとの分岐以降、バイカル湖のイヌのどれにもユーラシア西部供給源からの混合を含まない、と示唆されました。

 バイカル湖とジョホフ島のイヌの共通祖先後のユーラシア西部供給源からの混合を有するより複雑なモデルはデータに適合しますが(最も新しい6900年前頃のバイカル3のみを考慮した場合でも明らかです)、F4比検定では、この寄与がわずかだった(バイカル湖のイヌでは9%)、と示唆されます。さらに、アカギツネ(Vulpes vulpes)の参照ゲノム(VulVul2.2)への配置に基づくD統計分析は、canFam3.1アセンブリ(ヨーロッパのボクサー犬)と比較した場合、わずかな参照の偏りを示唆します。しかし、参照ゲノムに関係なく、バイカル1のD統計はユーラシア西部のイヌからの遺伝子流動の統計的に有意な兆候を示します。ただ、この兆候はより古いバイカル湖のイヌでは見られません。

 まとめると、本論文の結果は、バイカル湖のイヌが6900年前頃にユーラシア西部のイヌからの祖先系統の限定的な流入を受けたかもしれない、と示唆します。このシナリオをより確信的に評価するには、これらの標本のより深い網羅率が必要です。しかし、このシナリオが正しければ、西方地域と南方地域からのシベリア北極圏へのイヌの拡大は9500~6900年前頃に始まった、と示唆されます。


●過去2000年のシベリアのイヌにおけるユーラシア西部祖先系統の水準の増加

 次に本論文の混合図に基づく手法を適用して、ユーラシア西部供給源から後のシベリアのイヌへの混合が、2000年前頃~現在の文脈で評価されました。この期間は、6000~4300年前頃のシベリアにおける直接的に年代測定されたイヌ遺骸が明らかに欠如した期間に続きます。それ以前のバイカル湖のイヌとは対照的に、これらのイヌに最適なモデルの全てが、ユーラシア西部供給源からの混合を含んでおり(図2)、ヨーロッパもしくは近東的な祖先系統のシベリアへの6900年前頃以後の追加の流入を示唆します。

 ほとんどの場合、ヨーロッパ供給源からの混合を含むモデルは最適ですが、シベリア北西部のイアマル・ネネツ地域(図1A)で発見された一部の鉄器時代(2000年前頃)と中世(1100~850年前頃)のイヌは、近東のイヌと関連する追加の祖先系統を有している可能性があります。近東から中世イアマル・ネネツ地域のイヌへの追加の寄与の兆候は、イヌの参照ゲノムの代わりにアカギツネのゲノムに配置するとわずかに弱くなりましたが、依然として存在します。

 qpBruteを用いての徹底的なモデル検索を通じてこのシナリオがさらに調べられ、鉄器時代と中世のイアマル・ネネツ地域のイヌは2つの集団として扱われました。適合モデルの数と接続形態はさまざまな実行全体でわずかに異なりましたが、全てのモデルはヨーロッパおよび/もしくは近東のイヌから中世および鉄器時代のイアマル・ネネツ地域のイヌへの異なる独立した混合を示しました。同じ遺跡で回収されたガラス製ビーズやさまざまな金属製品と一致して、本論文の結果から、鉄器時代と中世のイアマル・ネネツ地域の共同体はより大きな交易ネットワークとつながっており、その交易で非北極圏祖先系統を有するイヌを獲得した、と示唆されます。


●現代のシベリアのイヌの系統の出現

 次に、イアマル半島のネネツ人共同体で標本抽出された100年前頃(紀元後1927年)のイヌ2匹のゲノムが、中世および鉄器時代のイアマル地域のイヌと関連しているのかどうか、評価されました。同祖対立遺伝子(Identity-by-descent)の対での距離から、歴史時代のネネツの2匹のイヌと最も密接な関係にある古代のイヌは、ウスチ・ヴォイカール(Ust’-Voikar)遺跡の中世のイヌだった、と示唆されます。同祖対立遺伝子とは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、同祖対立遺伝子領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。これは、中世から20世紀初期を通じてのある程度の集団継続性を示唆します。

 興味深いことに、この分析から、これら100年前頃の2匹のネネツのイヌはサモエド品種とも密接に関連していた、と示唆されます。サモエド品種は現在のスピッツで、シベリアからイギリスに紀元後19世紀に導入され、スコット(Robert Falcon Scott)やシャクルトン(Ernest Henry Shackleton)など極地探検家の間で人気となりました。この結果から、シベリア北西部のイヌの複数回の混合事象があったものの、その北極圏祖先系統構成要素は現代のサモエド品種にも生き残っている、と示唆されます。同様に、シベリアンハスキーは歴史時代のシベリア東部のイヌおよび古代バイカル湖のイヌと類似性を共有している、と明らかになりました。まとめると、これらの結果から、いくつかの人気のある現代の北極圏品種が、シベリアで9500年以上前に確立した系統からの祖先系統を有意な水準で維持している、と示唆されます。重要なことに、シベリアのイヌの品種の非シベリア祖先系統は現代の事象ではありませんが、少なくとも過去2000年間継続的な過程でした。


●まとめ

 本論文の結果から、北極圏のイヌは少なくとも中期完新世(7000年前頃)まで他のイヌ集団からほぼ孤立して進化した可能性が高い、と示唆されます。古代北極圏のイヌは、ノヴォシビルスク諸島(New Siberian Islands)からバイカル湖までのシベリアの広範な地域に生息していた可能性が高そうです。しかし、過去7000年間、シベリアのイヌの進化史はユーラシア草原地帯およびユーラシア西部からのイヌの複数回の導入に影響を受け、アジア東部のイヌからの遺伝子流動はほとんどありませんでした。これらの導入の一部は、北極圏への冶金の導入、2000年前頃となる輸送のためのトナカイ使用の出現、800年前頃となるトナカイの牧畜の出現など、シベリア北西部社会的内の大きな変革期と一致します。

 まとめると、こうした知見から、シベリア北西部におけるこれらの重大な変化が、大規模な交易ネットワークの確立を通じての、近隣地域からのイヌを含む物質文化の輸入とつながっていた、と示唆されます。農耕(ヨーロッパ)および牧畜(草原地帯)に適応したイヌ系統と関連した遺伝的変動性の流入は、北極圏のイヌに行動および形態の変化をもたらし、北極圏のイヌはシベリア北極圏における狩猟採集民から牧畜への移行を促進したかもしれません。考古学的文脈内における追加の古代イヌのゲノムの生成と分析と解釈は、イヌが長期のヒトの北極圏居住に果たした役割と関連する問題に取り組むのに役立つでしょう。そうした役割には、より一般的な新たな生存戦略の出現、より具体的には、トナカイの家畜化と大規模なトナカイ牧畜への移行が含まれます。


参考文献:
Feuerborn TR. et al.(2021): Modern Siberian dog ancestry was shaped by several thousand years of Eurasian-wide trade and human dispersal. PNAS, 118, 39, e2100338118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2100338118

佐藤弘夫『日本人と神』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の以前の一般向け著書『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』にたいへん感銘を受けたので(関連記事)、本書はまず、日本列島におけるあらゆる宗教現象を神と仏の二要素に還元する「神仏習合」で読み解くことはできず、それは近代的思考の偏りである、と指摘します。本書はこの視点に基づいて、日本列島における信仰の変容を検証していきます。


●先史時代

 日本列島における信仰について本書はまず、現代日本社会において一般的な認識と思われる、山のように自然そのものを崇拝することが日本列島における信仰の最古層になっている、というような太古からの信仰が今でも「神道」など一部で続いている、といった言説に疑問を呈します。山麓から山を遥拝する形態や、一木一草に神が宿るという発想は室町時代以降に一般化し、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しい、というわけです。

 たとえば神祭りの「原初」形態を示すとされる三輪山では、山麓に点在する祭礼の痕跡は紀元後4世紀にさかのぼり、祭祀の形跡の多くは山を仰ぎ見る場所に設定されていることから、三輪山の信仰は当初から山を神聖視し、神の居場所である社殿はありませんでした。しかし、三輪山信仰の原初的形態が山を遥拝する形だったわけではない、と本書は指摘します。本書が重視するのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点です。山そのものを崇拝対象とするならば、現在の拝殿のように最適な地を祭祀の場と定めて定期的な祭りを行なえばすむだろう、というわけです。

 そこで本書は、三輪山信仰の原初的形態の手がかりとして、三輪山遺跡と同時代(弥生時代後期~古墳時代)の日本列島における神信仰を見ていきます。信仰の側面から見た弥生時代の最も顕著な特色は、神が姿を消すことです。縄文時代には信仰の遺物として、人間を超えた存在=カミ(人間を超える存在、聖なるもの)の表象として土偶がありましたが、弥生時代には聖なるものを可視的に表現した広義の神像が欠けています。弥生時代には、カミは直接的にではなく、シンボルもしくはイメージを通じて間接的に描写されるようになります。銅鐸などカミを祀るための道具は多数出土しているものの、カミを象ったと推測される像はほとんどない、というわけです。

 カミが不可視の存在へと転換した弥生時代には、カミと人々とを媒介するシャーマンの役割が重視されるようになり、『三国志』に見える卑弥呼も三輪山遺跡もそうした文脈で解されます。古墳時代以前の社会では、カミは遠くから拝礼する対象ではなく、互いの声が届く範囲にカミを勧請して人々はその託宣を聞き、カミに語りかけました。これが弥生時代から古墳時代の基本的な祭祀形態だった、と本書は指摘します。記紀や風土記など古代の文献からも、山は神の棲む場所であっても神ではなく、人々が山を聖地として礼拝した事例はないので、現在の三輪山信仰は神祭りの最古形態ではなかった、と本書は指摘します。

 では、日本列島における最古のカミのイメージとその儀礼はいかなるものだったのかが問題となります。人類の宗教の最も原基的な形態は、自然の森羅万象の中に精霊の動きを見出すアニミズムだった、との見解は現代日本社会において広く浸透しているようです。一方で20世紀後半以降、カミの存在を感知する心的能力は6万年前頃に現生人類で起きた認知構造の革命的変化に由来する、との仮説も提示されています。これが芸術など複雑で象徴的な行動も含めて現生人類(Homo sapiens)の文化を飛躍的に発展させた(創造の爆発説、神経学仮説)、というわけです(関連記事)。

 本書はこうした認知考古学の成果も参照しつつ、日本の神の原型は不可視の「精霊」ではないと指摘し、「アニミズム」の範疇で把握することに疑問を呈します。本書が推測する人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

 こうした最初期のカミに対して、人はひたすら畏敬の念を抱くだけで、ある定まった形式で崇拝することはなく、祭祀が開始されるには、無数に存在してイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実態として一旦同定する必要がありました。日本列島でそれが始まったのは縄文時代でした。縄文時代にカミのイメージを象徴的に表現したものとして土偶がありましたが、それを超える高次のカミは想定されていなかった、と本書は推測します。ただ、こうしたイメージが集団に共有され、定期的な祭祀が行なわれるようになるのは、縄文時代中期以降でした。これにより、霊威を引き起こす不可視の存在としてカミを想定する段階へと転換していきます。カミの抽象化が進行していった、というわけです。死者への認識も変容していき、死者を生前と同様の交流可能な空間に留めておく段階から、死者だけの独立した空間が生まれ、膨張していきます。不可視の存在により構成されるもう一つの世界(他界)が人々に共有されるようになります。

 上述のように、弥生時代にはカミそのものが殆ど表現されなくなります。カミの居場所はおおよその見当がつけられても、一ヶ所に定住することはなく、弥生時代から古墳時代のカミ祭りの形態は、カミを祭祀場に勧請し、終了後に帰っていただく、という形式でした。上述の三輪山祭祀遺跡はこの段階のものでした。超常現象は不可視のカミが起こすもの、との観念が共有されるようになった弥生時代以降には、自然災害や疫病など理解の及ばない事態にさいして、カミの意思の確認が喫緊の課題となりました。カミの意図を察知し、カミが求めるものを提供することでその怒りを和らげ、災禍の沈静化を図ったわけです。カミの言葉はシャーマンを介して人々に伝えられ、共同体共通の記憶としてのカミの言葉は次第に整序化された形で特定の語り部により伝承され、物語としての体系化と洗練化が進みます。カミの人格化と個性化の進展により、各集団の守護神もしくは祖先神としてのカミが特定されるようになると、太古のカミの仕業として世界や文化の起源が語られるようになりました。つまり、神話の誕生です。

 古代日本の神は生活に伴う汚染を徹底して嫌い、共同体における神の重要な機能が集団内の清浄性の確保にあったことを示します。こうした観念は定住生活への移行により強化されていきましたが、これにより、排泄物や死骸に単なる物理的な汚染以上の、より抽象的・精神的な位置づけが与えられるようになっていきます。まず神の祟りがあり、汚染感知警告の役割を果たし、穢れが神に及んでいる、と察知されます。この過程で、国家形成とともに、不浄→祟り→秩序回復のシステムを国家が独占し、「穢れ」の内容を詳細に規定することで、神への影響を最小限に食い止めようとします。カミが嫌うものとの規定により、日常生活に伴う汚染と共同体に違背する行為が、カミの保持する秩序に対する反逆=ケガレと位置づけられ、罪と穢れはしばしば等質として把握されます。ケガレの概念は多様化し、対処するための宗教儀礼も複雑化していきます。本来は生存のための道具だったはずのカミが人の言動を規定し、人を支配する時代が到来したわけです。カミが人の思惑を超えて清浄性をどこまでも追求し始めると、カミが嫌う個別具体的な「穢れ」も本来の意味を超えて一人歩きを開始し、人の意識と行動を縛るようになります。日本でその運動が本格的に開始されたのは9世紀で、物忌みや方違えなどの禁忌が急速に発展し、人々の日常生活を規制するようになります。


●古代

 弥生時代から奈良時代までカミは常態として可視的な姿を持ちませんでしたが、そのイメージは次第に変化し、とくに重要なのは人格化の進展です。その主因として考えられるのは、死者がカミとして祀られることの定着です。それには、傑出した人物の出現が必要となります。これは、首長の墓が集団墓地から分離して巨大化し、平地から山上や山腹などより高い土地に築かれるようになったことと関連しています。特定の人物を超人的な存在(カミ)と把握するヒトガミ信仰の画期は3世紀で、その象徴が前方後円墳でした。前方後円墳では祭祀が行なわれましたが、長く継続して実施された痕跡は見当たらない、と考古学では指摘されています。本書は、当時の信仰形態から推測して、カミの棲む山としての後円部を仰ぎ見ることができ、山にいるカミを呼び寄せる場所に祭祀の痕跡があるのではないか、と推測します。じっさい、仙台市の遠見塚古墳では、後円部の周辺で長期にわたる祭祀継続の痕跡が見つかっています。本書は、前方後円墳がカミの棲む場所として造られた人工の山で、そこにカミとなった首長の霊魂を定着させようした試みだった、と推測します。ヒトガミ信仰の次の画期は天武朝で、天皇自身が神(アキツミカミ)と強調されました。この律令国家草創期に、天皇陵と認定された古墳は国家による奉仕の対象となりました。巨大古墳の意義は、大伽藍の出現や律令制による神祇祭祀制度の整備により失われ、天皇の地位は諸仏諸神により守護される特権的存在となりました。カミの棲む清浄な地としての山には、清浄性を求めて修行者が入るようになります。

 カミのイメージ変遷で人格化とともに重要なのは、特定の地への神の定着です。弥生時代から古墳時代には、カミが特定の山にいたとしても、どこなのかは不明でした。そうした住所不定で祭祀の時にだけ来訪するカミから、定住するカミへの転換が進みます。これにより、7世紀末以降、神社の造営が本格化します。社殿の造営により、信仰形態は祭祀のたびに神を勧請することから、人が神のもとに出向いて礼拝することへと変わりました。これは寺院参詣と共通する形式で、神と仏(仏像)との機能面での接近を示します。神は一方的に祭祀を受ける存在となり、公的な儀礼の場から神と人との対話が消えていきます。

 上述のように神をめぐる禁忌が増幅され、神は人が安易に接近してはならないものへと変貌していきます。神と仏(仏像)との機能面での接近は、神像を生み出しました。長く身体性を失っていた神が、再び具象的な姿をとることになったわけです。こうした神の変貌により、人と神との仲介者としてのシャーマンが姿を消します。これは、俗権を掌握する王の地位強化と対応しており、古墳時代中期には支配層の父系化が進みます(関連記事)。カミの言葉の解釈権を王が手中に収めるようになり、8世紀後半の宇佐八幡宮神託事件はその象徴でした。

 カミの人格化と定住化の進展とともに、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていきます。この過程で、善神と悪神の機能分化が進みます。祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となりました。平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになり、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。中世的な社会システムが整ってくる12世紀は、古代における「祟り」から中世の「罰」へとカミの機能が変化した時期でした。中世には、「賞罰」が組み合わされて頻出するようになります。カミは罰を下すだけの存在ではなく、人々の行為に応じて厳正な賞罰の権限を行使しました。カミは突然予期せぬ祟りを起こす存在から、予め人がなすべき明確な行動基準を示し、それに厳格に対応する存在と把握されるようになります。古代のカミは、目前に存在する生々しさと、人知の及ばない強い験力の保持を特徴とし、その力の源泉が「清浄」性でした。


●古代から中世へ

 人が神・仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、紀元後10世紀後半(以下、紀元後の場合は省略します)以降次第に変容していきます。人の世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していきます。こうして、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成されます。人の認知できないもう一つの空間イメージが、人々の意識において急速に膨張していったわけです。古代では、カミの居場所は遠くてもせいぜい山頂でしたが、中世では、この世とは次元を異にする他界が実在する、との観念が広く社会に流通しました。曖昧だったカミと死者との関係も、救済者・彼救済者として位置づけ直されました。彼岸=浄土はもはや普通の人が気軽に行ける場所ではなくなったわけです。

 12世紀には、救済者のいる彼岸世界(浄土)こそが真実の世界とされ、この世(此岸)は浄土に到達するための仮の世(穢土)との認識が一般化しました。浄土については、浄土教のように浄土の客観的実在性を強調するものから、ありのままの現実世界の背後に真実の世界を見ようとする密教に至るまで、この世とあの世の距離の取り方は宗派によりさまざまでしたが、身分階層を超えて人々を平等に包み込む普遍的世界が実在する、という理念が広く社会で共有されるようになります。この古代から中世への移行期に起きた世界観の大きな転換はかつて、浄土思想の受容と定着の結果と主張されました。しかし本書は、最初にこの世界観を理論化しようとしたのは浄土教の系譜に連なる人々だったものの、それは世界観の変容の原因ではなく結果だった、と指摘します。中世ヨーロッパのように、不可視の他界の膨張は、人類史がある段階で体験する一般的な現象だろう、と本書は指摘します。日本列島では、それに適合的な思想として彼岸の理想世界の実在を説く浄土信仰が受け入れられ、新たな世界観の体系化が促進された、というわけです。

 しかし中世には、全てのカミがその住所を彼岸に移したわけではなく、人と共生する神仏の方がはるかに多かった、と本書は指摘します。中世の仏には、人々を、生死を超えた救済に導く姿形のない普遍的な存在(民族や国籍は意味を持ちません)と、具体的な外観を与えられた仏像の二種類が存在しました。後者は日本の神と同様に日本の人々を特別扱いし、無条件に守護する存在で、「この世のカミ」としての仏です。中世の世界観は、究極の救済者が住む不可視の理想世界と、人が日常生活を送るこの世から構成される二重構造でした。

 この10~12世紀における世界観の転換は、古代においてカミに宿るとされた特殊な力の源となった、仏像・神像に宿る「聖霊」と呼ばれるような霊魂のごとき存在に対する思弁が展開し、さまざまなイメージが付加されていく延長線上にありました。この大きな転換のもう一つの要因として、疫病や天変地異や騒乱などによる不安定な社会があります。中世は近世と比較してはるかに流動性の高い時代で、人と土地との結びつきは弱く、大半の階層は先祖から子孫へと受け継がれる「家」を形成できず、死者を長期にわたって弔い続ける社会環境は未熟でした。不安定な生活で継続的な供養を期待できないため、人は短期間での完全な救済実現を望みました。

 中世人にとって大きな課題となったのは、当然のことながら浄土を実際に見た人がおらず、その実在を信じることが容易ではなかったことでした。そこで、浄土の仏たちは自分の分身をこの世に派遣し、人々を励ました、と考えられました。それが「垂迹」で、あの世の仏がこの世に具体的な姿で出現することを意味します。不可視の本地仏の顕現こそが、中世の本地垂迹の骨子となる概念でした。垂迹を代表する存在が、菩薩像や明王像・天部の像を含む広義の仏像(この世の仏)でした。11~14世紀に大量の阿弥陀像が造立され、人々が仏像に向かって浄土往生を願ったのは、阿弥陀像が浄土にいる本地仏(あの世の仏)の化身=垂迹だったからです。

 この世の仏で仏像より重要な役割を担うと信じられたのは、往生を願う者の祈りに応えてその場に随時化現する垂迹(生身)でした。これは、彼岸の仏がある人物のためだけに特別に姿を現す現象なので、祈願成就を意味すると解釈され、とくに尊重されました。仏像や生身仏とともに垂迹を代表するのが、日本の伝統的な神々でした。中世の本地垂迹は、彼岸世界の根源神と現世のカミを垂直に結びつける論理でした。それをインドの仏と日本の神との同一地平上の平行関係として、現世内部で完結する論理として理解しようとする立場は、彼岸世界が縮小し、人々が不可視の浄土のイメージを共有できなくなった近世以降の発想でした。

 垂迹として把握されていたのは、仏像と日本の神だけではなく、聖徳太子や伝教大師や弘法大師などの聖人・祖師たちでした。垂迹としての聖人の代表が聖徳太子で、古代には南岳慧思の生まれ変わりと考えられていましたが、中世には、極楽浄土の阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩の垂迹との説が主流となりました。古代における日中という水平の位置関係から、中世における極楽浄土と此土という垂直の位置関係で把握されたわけです。親鸞も若いころに真実の救済を求めて聖徳太子の廟所を訪れました。インドに生まれた釈迦も垂迹とされ、その意味では聖徳太子と同水準の存在とみなされました。

 中世人に共有されていた根源的存在のイメージは、それと結びつくことにより、日常的なものや卑俗なものを聖なる高みに引き上げる役割を果たすことも多くありました。差別の眼差しに晒された遊女の長者が、普賢菩薩の化身とされたり、身分の低い牛飼い童が生身の地蔵菩薩とされたりしました。日頃差別される人々を聖なる存在の化身とする発想は非人でも見られ、文殊菩薩が非人の姿で出現する、と広く信じられていました。社会的弱者や底辺層の人々であっても、他界の根源神と結びつくことにより、現世の序列を超えて一挙に聖性を帯びた存在に上昇することがある、と考えられていたわけです。

 垂迹の使命は末法の衆生救済なので、その所在が聖地=彼岸世界の通路とみなされることはよくありました。善光寺や春日社や賀茂社などは、霊場として人々を惹きつけていきました。他界への通路と考えられた霊験の地は多くの場合、見晴らしのよい山頂や高台に設けられました。寺院では、垂迹の鎮座する「奥の院」は、高野山や室生寺や醍醐寺に典型的なように、寺内の最も高い場所に置かれました。これは、山こそがこの世で最も清浄な地であるという、古代以来の観念を背景としたものでした。山を不可欠の舞台装置として、周囲の自然景観を取り入れた中世の来迎図は、自然の風景が登場しない敦煌壁画の浄土変相図などとは異なり、日本の浄土信仰が大陸とは異なった方向に発展したことを端的に示す事例でした。

 こうした中世の世界観は、仏教者により占有されたとも言えます。これに違和感を抱いたり反発したりしたのが、神祇信仰に関わる人々でした。平安時代後期から「神道五部書」などの教理書が作成されるようになり、「中世神道」と呼ばれる壮大な思想世界が構築されていきました。その中心的課題は、人が感知できない根源者の存在証明とその救済機能でした。13世紀後半、伊勢において新たな神祇思想の流れが起き、度会行忠たち外宮の神官たちにより伊勢神道が形成されました。伊勢神道の聖典である神道五部書では、仏教や道教の思想的影響下で、この世を創生し主宰する唯一神の観念が成長していきます。国常立神や天照大神は超越性が格段に強化され、伊勢神道は仏教界が「本地」という概念で自らに取り込んだ根源的存在を、仏教から切り離して神祇信仰側に引き入れようとしました。伊勢神道の影響を受けた慈遍は、南北朝時代に国常立神を永遠不滅の究極的存在にまで高め、仏教が独占してきた究極的存在=本地仏の地位を神に与えました。こうして中世には、仏教・道教・神祇信仰といった枠組みを超えてカミの形而上学的考察が進み、不可視の究極者に対する接近が思想の基調となりました。人種や身分の相違を超えて、全ての人が等しく巨大な超越者の懐に包まれている、というイメージが中世人の皮膚感覚となります。

 救済者としてのカミに対する思弁の深化は、一方で被救済者としての人の存在について考察の深まりをもたらしました。救済を追求していくと、平凡な人が生死を超越できるのか、という疑問に正面から向き合わざるを得なくなるからです。人が救済されるための条件を思索するうちに、万人の持つ内なる聖性が発見されていきます。カミが徹底して外部の存在とされた古代に対して、中世では人に内在するカミが発見されていきます。人の肉体を霊魂の宿る場と考え、霊魂が体から離れて帰れなくなる事態を死とみなす発想は古代から存在しました。「タマ」と呼ばれた霊は、容易に身体を離れる存在でした。

 中世には、仏教の内在する「仏性」の観念と結びつき、その聖性と超越性が高まっていきます。仏教、とくにアジア東部に伝播した大乗仏教では、全ての人が仏性を持つことは共通の大前提でした(一切衆生、悉有仏性)。全ての人は等しく聖なる種子を持っており、修行を通じてその種子を発芽させて育てていくことにより、誰もが仏になれる、というわけです。こうした理念は古代日本にもたらされていましたが、超越的存在が霊威を持つ外在者のイメージで把握されていた古代社会では、内在する聖性という理念が大衆に受容され、定着することはできませんでした。聖なる存在への接近は、首長や天皇など選ばれた人が特別の儀式を経て上昇するか、修行者が超人的な努力の積み重ねにより到達できる地位でした。

 一方、万人に内在する仏性が発見された中世では、カミへの上昇は特別な身分や能力の人に限定されず、誰もが仏になれました。根源的存在は、絶対的な救済者であると同時に森羅万象に偏財しており、人は心の中の内なる仏性を発見し、発現することにより自らを聖なる高みに上昇させられる、との理念が人々に共有されるようになります。人と超越的存在を一体的に把握する発想は神祇信仰でも受容され、その基調となりました。一方的に託宣を下して祟りをもたらした古代の神が、宇宙の根源神へと上昇していくと同時に、個々人の心の中にまで入り込み、神は究極の絶対的存在故にあらゆる存在に内在する、と考えられました。こうした理念は、「神は正直の頭に宿る」、「心は神明の舎なり」といった平易な表現の俗諺として、衆庶に浸透していきます。

 いわゆる鎌倉仏教は、戦後日本の仏教研究の花形で、鎌倉時代に他に例のないほど仏教改革運動が盛り上がり、その大衆化が進んだのはなぜか、と研究が進みました。その後、鎌倉仏教を特別視するような見解は相対化されてきましたが(関連記事)、鎌倉時代における仏教の盛り上がり自体はほとんど否定されていません。鎌倉仏教に共通するのは、方法論の違いはあっても、身分や地位や学識などの相違に関わらず万人が漏れなく救済される、という強い確信です。悉有仏性の理念はインドの大乗仏教にすでに備わっていましたが、日本では上述のように古代には開花せず、絶対的な救済者と俗世を超える彼岸世界の現実感が人々に共有され、万人が聖性を内在しているという理念が社会に浸透した中世に初めて、生死を超えた救済の追求が可能となる客観的条件が整い、その延長線上に鎌倉仏教が誕生します。

 古代から中世への移行に伴うこうした世界観の変容は、王権の在り様にも重大な転換をもたらしました。古代の天皇は、アキツミカミとしての自身の宗教的権威により正当化されるだけではなく、律令制、皇祖神や天神地祇や仏教の諸尊など外部のカミにより、守護されていました。中世に彼岸世界のイメージが膨張すると、現世的存在である天皇は、もはや他界の根源神の仲間に加わることはできませんでした。天皇は一次的な権威になり得ない、というわけです。天皇は、古代のように同格のカミとの連携ではなく、より本源的な権威に支えられる必要性が生じます。

 12世紀に、伝統仏教で「仏法」と「王法」の協力関係の重要性が主張されるようになり、「仏法王法相依論」として定式化されます。これは、世俗権力の存続には宗教的権威による支援が不可欠とする、中世的な王権と仏教との関係を端的に表現していました。これは伝統仏教側から主張されましたが、同じ世界観を共有する王権も強く規定しました。王権の側は、仏法により外側から守護してもらうだけではなく、根源的存在との間に直接的通路を設けようとしました。古代では、原則として天皇が仏教と接触することは禁忌とされていましたが、12世紀以降、即位式の前に仏教的儀式が行なわれるようになり、天皇が大日如来に変身する即位灌頂などがあります。しかし、中世において天皇を神秘化する言説も散見されるものの、天皇が地獄や魔道に堕ちる話はずっと多く、王権側の試みは必ずしも奏功しませんでした。この世の根底に存在する人知を超えたカミの意思に反した場合、神孫である天皇でさえ失脚や滅亡から逃れられない、との理念が中世社会では共有されていました。中世人は、自身と天皇との間に、隔絶する聖性の壁を認めませんでした。天皇もあの世のカミの前では一人の救済対象にすぎなかった、というわけです。

 天皇の即位儀礼として最重視されていた大嘗祭が、応仁の乱の前年から200年以上にわたって中断された背景は、政治的混乱や経済的困窮だけではなく、皇祖神の天照大神の「この世のカミ」としての位置づけ=二次的権威化に伴い、大嘗祭が天皇神秘化の作法としてほとんど意味を喪失したことにもありました。こうした中世固有の世界観を前提として、他界の根源神の権威を現世の王権の相対化の論理として用いることにより、天皇家から北条への「国王」の地位の移動=革命を明言する日蓮のような宗教者も出現します。


●中世から近世へ

 中世前期に確立する、人の内面に超越的存在(カミ)を見出だそうとする立場は、中世後期にいっそう深化し、宗派の別を超えて共有されるとともに、芸能・文芸・美術などの分野に広範な影響を与えました。人のありのままの振る舞いが仏であり神の姿そのものとされたわけです。こうした思潮に掉さして発展し、浸透していくのが本覚思想(天台本覚思想)です。本覚思想では、ごく普通の人が如来=仏そのものと説かれています。人は努力と修行を重ねて仏という高みに到達するわけではなく、生まれながらにして仏であり、仏になるのではなく、自分が仏と気づきさえすればよい、というわけです。こうした思想に基づく文献が、最澄や良源や源信といった天台宗の高僧の名で大量に偽作され、流通していきました。

 カミ=救済者を人と対峙する他者として設定するキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教の特質は、人が到達すべき究極の目標を救済者と同水準に設定するところにありました。釈迦がたどり着いた仏の境地は釈迦だけの特権ではなく、万人に開かれたものであり、真実の法に目覚め、胸中の仏性(仏の種)を開花させることにより、誰もが仏になれる、というわけです。しかし、成仏に至る過程は、時代と地域により異なります。大まかな傾向として、人と仏との距離は、時代が下るにつれて、東方に伝播するにつれて短くなります。

 大乗仏教では「一切衆生、悉有仏性(聖性の遍在)」が強調されましたが、とりわけ日本では、人と仏は接近して把握される傾向が強く、その延長線上に生まれたのが本覚思想でした。本覚思想は二元的世界観とそれを前提とする浄土信仰が主流だった中世前期には、まだ教団教学の世界に留まっていましたが、中世後期には広く社会に受容されていきます。成仏を目指した特別の修行を不要とするような極端な主張は、日本以外の仏教ではほとんど見られません。絶対者を追求し続けた中世の思想家たちは、万物へのカミの内在の発見を契機に、その視点を外部から人の内面へと一気に転じました。カミはその超越性ゆえにあらゆる事物に遍在する、というわけです。超越性の追求が、キリスト教やイスラム教で見られるような人とカミの隔絶という方向ではなく、万物への聖性の内在という方向に進むところに、日本の神観念の特色がありました。

 こうした傾向の延長線上として、法然や日蓮など中世前期の思想に見られるような、救済者と彼救済者、浄土と此土といった厳しい二元的対立が解消されていきます。法然や日蓮においては、救済者は人と対峙する存在として超越性が強調されていましたが、その後継者たちは、救済者の外圧的・絶対的性格が薄められ、宇宙と人への内在が強調されるようになります。仏に手を引かれて向かうべき他界浄土のイメージがしだいに希薄化し、救済者と彼救済者、他界と現世の境界が曖昧となり、彼岸が現世に溶け込んでいきます。

 いわゆる鎌倉仏教において、その転換点に位置するのが一遍でした。一遍は浄土教の系譜に位置づけられますが、その救済論は、救済者としての阿弥陀仏と彼救済者としての衆生との間の厳しい葛藤と緊張を想定した法然の対極に位置し、仏は何の抵抗もなく彼救済者の体内に入っています。浄土は死後に到達すべき遠い他界ではなく、信心が確立した時、その人は阿弥陀仏の命を譲り受けている、というわけです。こうした発想は一遍に留まらず、中世後期の浄土信仰の主流となっていきます。救済者と彼救済者の境の曖昧化という方向性は、宗派を超えて中世後期の思想界の一大潮流となります。

 中世から近世への転換期において、外在する他界のカミが存在感を失っていくもう一つの原因は、政治権力に対する宗教勢力の屈伏でした。浄土真宗と法華宗(日蓮宗)ではとりわけ一揆が盛んで、両派は中世でもとりわけ他界の仏の超越的性格を強調しました。日本史上、外在する絶対的存在としてのカミのイメージが最も高揚したのは戦国時代の宗教一揆で、異次元世界にある万物の創造主を想定するキリスト教の思想も、そうした時代思潮を背景に受け入れられていきました。一向一揆が平定され、島原の乱が鎮圧されると、その背景にあった強大な超越者もその力を喪失し、カミの内在化という時代趨勢に呑み込まれ、現実世界に溶け込んでいきました。

 こうした過程を経て宗教的な理想世界のイメージが内在化・後景化した近世では、政治権力の正当性は他界のカミとの関係性ではなく、純然たる現実社会の力学から生み出されることになりました。人間関係の非対称性が、現世内部だけの要因により再生産される時代が到来したわけです。この新たに誕生した幕藩制国家に国制の枠組みと政治的権威を提供したのが天皇でした。天皇を頂点とする身分序列と天皇が授与する官位の体系は、国家水準での秩序を支える最上位の制度として、中世と比較して飛躍的に重みを増すことになりました。

 中世後期には、人の内側だけではなく、自然界にもカミとその働きを見ようとする指向性が強まりました。その思潮を理論的に裏づけたのが本覚思想で、草木から岩石に至るこの世の一切の存在に仏性を見出し、眼前の現実をそのまま真理の現れとして受け入れていこうとする立場は、「草木国土悉皆成仏」という言葉で概念化されて広く流通しました。人以外の生物や「非情(心を持たない)」という分類で把握される草木が人と同じように成仏できるのかという問題は、仏教発祥地のインドでは主要な問題とはならず、初期仏教で最大の関心事は、人はいかに生きるべきか、という問題でした。「草木国土」のような人を取り巻く存在に視線が向けられ、その救済が議論されるようになったのは、アジア東部に定着した大乗仏教においてでした。

 隋代の天台智顗は「一念三千」という法門を説き、この世界のあらゆる存在に仏性が遍く行き渡っていると論じ、草木や国土の成仏を肯定するための理論的基盤が確立されました。これを万物の成仏という方向に展開したのが平安時代前期の天台僧安然で、初めて「草木国土悉皆成仏」という言葉が生み出され、その延長線上に仏国土=浄土とする本覚思想が開花します。本覚思想では、理想世界は認知不可能な異次元空間に存在したり、現実の背後に隠れたりしているわけではなく、眼前の光景が浄土でした。室町時代には、古い道具が妖怪に変身する付喪神が絵画として表現されるようになりますが、これもそうした時代思潮を背景としていました。

 上述のように、古代において山に神が棲むという観念は一般化していても、山そのものを神とする見方はまだなく、山をまるごと御神体として遥拝する信仰形態の普及は、自然にカミを見出す「草木国土悉皆成仏」の理念が浸透する中世後期になって初めて可能となる現象でした。日本的な自然観の典型とされる山を神とみなす思想は、太古以来の「アニミズム」の伝統ではありませんでした。記紀神話における山の人格化は、人と自然を同次元の存在として、対称性・連続性の関係で把握する発想に基づいていました。人々が山に畏敬の念を抱いても、タマ(霊)が宿っているから山を拝むという発想は、古代には存在しませんでした。一方、神体山の信仰は、カミの自然への内在化という過程を経て出現する、高度に抽象化された中世の思想を背景としていました。「草木国土悉皆成仏」の思想は室町時代の芸術諸分野に広く浸透しました。

 内在するカミという概念は、中世前期には抽象的な理念の段階に留まっており、万人をカミに引き上げる論理として現実に機能することは殆どありませんでした。人のカミへの上昇(ヒトガミ)は、中世前期には聖徳太子など選ばれた人に限られており、それも本地垂迹の論理により彼岸の本地仏との関係で説明され、一般人はまだ救済の対象でした。しかし、中世後期には現実の光景と超越的存在との境目が次第に曖昧化し、現実の人がありのままの姿で仏だと強調され、そうした認識が思想界の主流を占めるようになります。これは、彼岸の超越的存在に媒介されない、新たなヒトガミの誕生を意味します。人は救済者の光を浴びてカミに上昇するのではなく、自らに内在する聖性によりカミになる、というわけです。これは仏教の世界に留まらず、中世後期にはまだ権力者や神官など特殊な人物に限定されているものの、古代の天皇霊とは異なり、人が自らの意志により生きたまま神に上昇できるようになります。神は誰もがじっさいに到達可能な地位とされ、神と人との距離は接近します。こうした思潮を神祇信仰で理論化したのが、吉田神道の祖とされる吉田兼倶でした。

 世俗社会の普通の人が実は神仏の姿そのものとの認識は、聖性発現によりカミへの上昇を目指す宗教的実践の軽視に結びつきました。これにより大きな問題となったのが、信仰の世界への世俗的要素の侵入です。中世において、寺社勢力の組織化と広大な荘園領有といった世俗化が進展した一方で、信仰世界から世俗的要素を締め出そうとする傾向も強くありました。しかし、中世後期における聖俗の緊張関係の弛緩は、信仰の世界への世俗的要素侵入の道を開きました。

 こうした理想世界と現世との一体化は、現実社会を相対化して批判する視点の喪失をもたらしました。中世前期に見られた信仰至上主義と信心の純粋化を目指す運動は、俗権に対する教権の優位を主張するとともに、信仰世界に向けられた権力の干渉の排除を指向しました。支配権力の意義は正しい宗教を庇護することにあり、その任務を放棄すれば、支配権力は正統性を失い、死後には悪道に堕ちることさえ覚悟しなければなりません。中世の文献に多数出現する天皇の堕地獄譚は、そうした思想状況を背景としていました。しかし、根源神が眼前の自然に溶け込んでしまうと、宗教者がカミの権威を後ろ盾としてこの世界の権力を相対化するような戦略は取れなくなりました。浄土が現世と重なりあったため、理想の浄土に照らして現状を批判するという視座も取れませんでした。この世に残ったカミからは、その聖性の水源が枯れてしまったことを意味するわけです。

 彼岸の根源神を背後に持たない日本の神仏には、もはや人々を悟りに導いたり、遠い世界に送り出したりする力はなく、神も仏も人々のこまごまとした現世の願いに丹念に応えていくことに、新たな生業の道を見出していきます。誰もがカミになれるので、より強大な権力を握る人物が、より巨大なカミになる道が開けました。中世前期のように他界の絶対者の光に照らされたカミになるわけではなく、中世後期には自らの内なる光源によりヒトガミが発生しました。その光源には、身分や地位や権力といった世俗的要素が入り込み、やがて主要な地位を占めるに至ります。

 聖俗の境界の曖昧化は、差別の固定化にもつながりました。とくに問題となったのは「穢れ」で、中世には社会の隅々にまで穢れ観念が浸透します。中世前期には、神が垂迹することは万人をはぐくみ助けるためで、本地の慈悲の心が垂迹にまとわりついた習俗としての忌に優先する、と考えられました。平安時代中期以降、女性は穢れた存在との見方が広まり、清浄な山への立ち入りが制限されていきましたが(女人結界)、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちは、法然や親鸞のように女人罪障の問題にほとんど論及せず、弥陀の本願による平等の救済を強調するか、道元のように女性固有の罪障や女人結界そのものを否定しました。

 日本における穢れの禁忌は、その対極にある神仏との関係において肥大化し、中世において穢れ意識を増幅させるこの世の神仏とは、彼岸の仏の垂迹に他なりませんでした。禁忌に拘束されない事例は、いずれも垂迹の背後の本地仏=根源的存在の意思が働いたためでした。穢れ意識が拡大し、差別の網の目が社会に張り巡らされるかのように見える中世において、彼岸の根源的存在との間に直結した回路を設けることで、差別を一気に無化していく道筋が承認されていたわけです。しかし、不可視の彼岸世界と絶対的な救済者の現実感が褪色していくにつれて、本地仏の力により差別を瞬時に克服する方途は次第に縮小していき、社会において特定の身分と結びついた穢れと差別意識の固定化につながりました。その延長線上に、社会の穢れを一手に負わされた被差別民が特定の地区に封じ込められ、その刻印を消し去る道がほぼ完全に封じられた、近世社会が到来します。

 中世後期に進展する本源的存在の現実感の希薄化(彼岸の縮小と救済者としての本地仏に対する現実感の喪失)は、人々の関心を再び現世に向かわせます。彼岸の浄土は、もはや人々に共有されることはなく、人々を惹きつけてきた吸引力が失われていきます。近世にも浄土信仰はありましたが、仏の来訪はほとんど問題とされず、超越者からの夢告も重視されなくなり、個人的体験としての来迎仏=生身仏との遭遇が信仰上の価値を失い、仏像などの定型化した形像の役割が再浮上してきます。

 中世前期には、大半の人にとって現世での生活よりも死後の救済の方が切実な意味を持ち、来世での安楽が保証されるなら、この世の生を多少早めに切り上げてもよい、と考えられていました。不安定で流動的な生活と、死の危険に満ちた社会が、現世を相対化する認識の背景にありました。こうした世界観が中世後期に大きく転換する背景として、惣と呼ばれる地縁共同体が各地に生まれ、全構成員により村落運営が決定されるようになったことがあり、人々の土地への定着と、先祖から子孫へと継承される「家」の形成が庶民層まで下降しました。こうして、突然落命する危険性は中世と比較して大きく減少し、この世の生活自体がかけがえのない価値を有している、との見方が広く定着しました。浮世での生活を精一杯楽しみ、死後のことは死期が近づいたら考えればよい、という近代まで継続する新たな世界観と価値観が形成されたわけです。

 この中世後期に起きた世界観の旋回は、人生観だけではなく、死後世界のイメージも大きく転換させました。他界浄土の現実感が失われた結果、死者は遠い世界に旅立たなくなり、死後も懐かしい国土に留まり、生者と交流を継続することが理想と考えられるようになりました。カミだけではなく死者の世界でもこの世への回帰が開始され、冥界が俗世の延長として把握されるようになり、現世的要素が死後世界に入り込んでくるようになります。こうした転換を承けて神や仏が新たな任務として見出したのが、この世に共生する人と死者の多彩な欲求に応えていくことでした。とげ抜き地蔵や縛り地蔵などさまざまな機能を持ったカミが次々と誕生し、「流行神」が生まれては消えていきました。他界への飛翔を実現すべく、垂迹との邂逅を渇望して一直線的に目的地を目指した中世前期の霊場参詣とは異なり、平穏で満ち足りた生活を祈りながら、娯楽を兼ねて複数の神仏を拝む巡礼が、中世後期以降の霊場信仰の主流となります。

 中世前期には、彼岸の浄土とこの世の悪道の二者択一を死者は求められましたが、死後世界のイメージの大きな転換に伴い、そのどちらにも属さない中間領域が出現し、中世後期には急速にその存在感を増していきます。救済がまだ成就しない者たちは山で試練を受けている、といった話が語られるようになります。こうした中間領域など死後世界の世俗化が進み、死後の理想の在り様が生者の願望に引きつけて解釈されるようになり、人がこの世において生死を繰り返すだけで、どこか別の世界に行くことはない、との語りも登場します。仏はもはや人を他界に誘うことも、生死を超えた悟りへと導くこともなく、人が生死どちらの状態でも平穏な生活を送れるよう、見守り続けることが役割となります。

 近世人は、他界浄土の現実感を共有できず、遠い浄土への往生を真剣に願うことがなくなります。近世人にとって、人から人への循環を踏み外すことが最大の恐怖となり、その文脈で地獄など悪道への転落が忌避されました。ただ、いかに彼岸の現世化が進んだとはいえ、檀家制度が機能して仏教が圧倒的な影響力を有していた近世には、死者は仏がいて蓮の花の咲く浄土で最終的な解脱を目指して修行している、という中世以来のイメージが完全に消え去ることはありませんでした。しかし、幕末に向かうにつれて他界としての浄土のイメージがさらに希薄化すると、死後世界の表象そのものが大きく変わり、死者の命運をつかさどる仏の存在がさらに後景化し、ついには死後の世界から仏の姿が消え去ります。こうした世俗化の中で、近世には妖怪文化が開花し、妖怪は現実世界内部の手を伸ばせば触れられるような場所に、具体的な姿形で居住する、と描かれました。

 死者がこの世に滞在し、俗世と同じような生活を送ると考えられるようになると、死者救済の観念も変わっていきます。死者がこの世に留まるのは、遠い理想世界の観念が焼失したからで、死者を瞬時に救ってくれる絶対的な救済者のイメージが退潮していきます。仏はもはや人を高みに導く役割を果たさず、死者を世話するのはその親族でした。中世後期から近世にかけて、死者供養に果たす人の役割が相対的に浮上し、それは「家」が成立する過程と深く連動していました。この動向は支配階層から始まり、江戸時代には庶民層にまで拡大していき、江戸時代後期には裕福な商人層や上層農民からより下層へと降りていきます。死後の生活のイメージも変化し、生者が解脱を求めなくなるのと同様に、死者も悟りの成就を願わなくなり、世俗的な衣食住に満ち足りた生活を理想とするようになります。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、現実世界のどこかしかるべき地点になりました。「草葉の陰で眠る」というような死者のイメージが、近世には定着していきます。

 親族が死者の供養を継続するには、死者を記憶し続けることが不可欠でした。これにより、死者は次第に生前の生々しい欲望や怨念を振り捨てて、安定した先祖にまで上昇できる、と信じられました。中世には墓地に埋葬者の名が刻まれることはなく、直接記憶する人がいなくなると匿名化しました。死者は、その命運を彼岸の仏に委ねた瞬間に救済が確定するので、遺族が死者の行く末を気にする必要はありませんでした。しかし、遺族が供養を担当するようになると、死者が墓で心地よく眠り続けるために、生者の側がそのための客観的条件を整えねばならなくなります。墓は、朝夕にありがたい読経の声が聞こえる、寺院の境内に建てられる必要がありました。近世初頭には、墓地を守るための多数の寺院が新たに造営されました。さらに、縁者は死者が寂しい思いをしないですむよう、定期的に墓を訪問したり、時には死者を自宅に招いたりしなければなりませんでした。こうした交流を通じて、死者は徐々に神の段階=「ご先祖さま」にまで上昇する、と信じられました。死者は、中世には救済者の力により瞬時にカミに変身しましたが、近世には生者との長い交渉の末にカミの地位に到達しました。

 ただ、全ての死者が幸福な生活を送ったわけではなく、近世でも冷酷な殺人や死体遺棄や供養の放棄など、生者側の一方的な契約不履行は後を絶ちませんでした。そのため、恨みを含んで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数になった、と考えられました。こうした恨みを残した人々は、幽霊となって現世に復讐に現れる、と考えられました。中世にも未練を伸してこの世をさまよう死霊はいましたが、大半は権力者のような特別な人物で、その結末は復讐の完結ではなく、仏の力による救済でした。近世には、誰でも幽霊になる可能性があり、その目的は宗教的な次元での救済ではなく、復讐の完遂でした。


●近世から近代へ

 上述のように、近世には誰もが自らの内なる光源によりカミとなれ、それは俗世の身分や権力を強く反映するものでした。近世初頭にまずカミとなったのが最高権力者である豊臣秀吉や徳川家康といった天下人だったことには、そうした背景がありました。天下人に続いて近世において神として祀られたのは、大名や武士でした。近世後期になると、カミになる人々の階層が下降するとともに、下からの運動で特定の人物が神にまで上昇する事例も見られ、その一例が天皇信仰です。以前よりも下層の人物がカミと崇められるようになった事例としては、治水工事などで人柱となった者がいます。人柱は古代にもありましたが、それは多くの場合、神からの供犠の要求でした。一方、近世の人柱は、神に要求されたからではなく、同じ村落などの他者への献身のためでした。また、こうした覚悟の死ではなく、日常の些細な問題を解決してくれた人が、神に祭り上げられることもあり、頭痛や虫歯など多彩な効能を持つヒトガミが各地に出現しました。近世後期には、誰もが状況によりカミとなれる時代で、世俗社会に先駆けて、神々の世界で身分という社会的縛りが意味を失い始めていました。

 幕末には世俗ではとくに他界身分ではない人々がイキガミとされ、そのイキガミを教祖としてさまざまな「民衆宗教」が誕生しました。それは黒住教や天理教や金光教などで、教祖は自ら神と認めていたものの、神としての権威を教祖が独占することはなく、広く信徒や庶民に霊性を見出だそうとしました。こうした理念が直ちに身分制撤廃といった先鋭的な主張に結びつくわけではなく、それぞれの分に応じて勤勉に励むことでより裕福になれる、という論理が展開されました。しかし、神人同体観な基づく人としての平等が主張され、その認識が社会に根づき始めていたことは重要で、富士講に身分を超えた参加者がいることに、幕府は警戒するようになります。

 これと関連して、近世には石田梅岩などにより通俗道徳が庶民層にも流通します。これを封建社会の支配イデオロギーと見ることもできるかもしれませんが、近代社会形成期に特有の広範な人々の主体形成過程を読みとる見解もあります。こうした石門心学などの思想には、人に内在する可能性を認めて社会での発現を是とする、民衆宗教と共通する人間観があり、近世に広く受容された、善としての本性を回復すれば全ての人間が聖人になれると説く朱子学や、人が持つ本源的可能性を肯定し、その回復のための実践を強調する陽明学とも共通していました。自分の職分の遂行により自らを輝かすことが肯定されるような新しい思潮は、近世後期の社会に着実に広がり始めていました。

 一方、誰もが自らの内なる光源でカミに上昇できる、との観念が広く定着した近世後期には、まったく異なる文脈で人をカミに上昇させようとする論理が次第に影響力を増していきました。それは、山崎闇斎に始まる垂加神道と、それに影響を与えた吉田神道が主張する、天皇への奉仕により死後神の座に列なることができる、という思想です。吉田神道や垂加神道では、特定の人物の霊魂に「霊神」・「霊社」号を付与して祀ることが行なわれていました。その系譜から、天皇との関係において人を神に祭り上げる論理が生み出され、実践されていきます。この場合の天皇の聖性は、上述の下からの運動による天皇信仰とは似て非なるものでした。庶民が心を寄せる小さな神々の一つだった天皇とは異なり、垂加神道における天皇は人をカミに上昇させる媒体として位置づけられ、通常の神々を凌ぐ強い威力の存在とみなされました。垂加神道では、肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅で、生前の功績により人は神の世界に加わることができ、霊界でも現実世界と同様の天皇中心の身分秩序が形成されていました。天皇に対する献身の度合いによっては、現世の序列を一気に飛び越えることも可能になったわけです。垂加神道は、死後の安心を天皇信仰との関わりにおいて提起した点で、画期的意味を持ちました。

 幕末に向けての、こうしたヒトガミもしくはイキガミ観念の高揚も、民衆宗教と同様に、人の主体性と可能性を積極的に肯定しようとする時代思潮の指標とみなせます。垂加神道では天皇、民衆宗教では土着の神という相違点はありましたが、仏教やキリスト教など外来宗教のカミではなく、日本固有の(と考えられていた)カミが再発見されていくわけです。人々の肯定的な自己認識と上昇指向は、19世紀には幕藩体制下での固定化された身分秩序を負の制約と感じる段階にまで到達していました。現実の秩序を一気に超越しようとする願望は、民衆の深層意識の反映でした。

 こうした時代思潮を背景にした幕末維新の動乱は、単なる政治闘争ではなく、長期間の熟成を経た新たな人間観のうねりが既存の硬直化した身分制度に突き当たり、突き破ろうとする大規模な地殻変動でした。明治維新の原動力として、ペリー来航を契機となる日本の国際秩序への組み入れや、下級武士の役割は重要ではあっても副次的要因にすぎず、幕末維新期の動乱の根底には、多様な階層の人々が抱いていた差別と不平等への不満と、そこからの解放欲求がありました。それは明治時代に、自由民権運動などの民衆運動に継承されていきます。

 幕藩体制崩壊後、ヒトガミ指向が内包していた民衆の能動性を国家側に取り込み、国民国家を自発的に支える均質な「国民」を創出するとことが、新たに誕生した天皇制国家の最重要課題となりました。維新政府の政策は、ヒトガミに祀られることを希望するという形で噴出していた人々の平等への欲求と、新国家の精神的な機軸とされたてんのうに対する忠誠とを結びつけることでした。維新政府は、身分を超えた常備軍=国民軍を創出し、その任務を全うして天皇に命を捧げた者は神として再生し、永遠に人々の記憶に留められる、という招魂社の論理を採用しました。招魂社の源流は長州藩にあり、多様な階層の人々が同じく慰霊されました。これが靖国神社へとつながります。人々の上昇と平等化への欲求が、天皇に対する帰依に結びつけられたわけです。

 上述のように、近世には死者が祖霊となるまで供養を続けることが、慰霊の必須要件でしたが、幕末になっても独自の「家」を形成できない身分・階層は多く、そうした人々が、近代国家では天皇のために死ぬことにより、国家の手で神として検証されるわけです。靖国神社は、近世以来のヒトガミ信仰の系譜を継承しながら、近代天皇制国家に相応しい装いで誕生しました。近代天皇制国家において、天皇は民衆を神に変える唯一の媒体である必要があり、近世の国学で提唱され広がった、身分を超えて人々を包摂する特別の地としての「皇国」観念が、そうした方向を裏打ちしました。そのため、元首や統治機構の世俗化を伴う近代国民国家形成の一般的傾向とは対照的に、日本において君主たる天皇の地位が色濃い宗教性を帯びることになりました。近代天皇制国家の宗教性の背景として、日本社会の後進性(成熟した市民社会の不在)に原因を求める見解もありましたが、日本でもヨーロッパでも近代国家成立期の時代背景にあったのは、身分制に対する大衆水準での強い厭悪感情であり、発展段階の差異というよりは、国民国家に向けての二つの異なる道筋と把握できます。

 近代天皇制国家は、人をヒトガミへと引き上げるもう一つの装置である民衆宗教を、淫祠邪教として排撃することで、民衆聖別の権限を独占しようとしました。とくに、大本教や金光教など、天照大神を中核とする天皇制の世界観とは異なる神々の体系を持つ教団に対する圧迫は徹底していました。近代日本ではその当初より、ヒトガミ信仰に現出する民衆の主体性を根こそぎ国家側に搦め捕ろうとする政府と、国家によるヒトガミ創出の占有に抵抗する民衆宗教など在野勢力との激しい綱引きが続きました。

 近代西欧において、世俗権力相対化の役割を果たしたのがキリスト教で、中世から近代の移行に伴って宗教は政治の表舞台から姿を消し、私的領域を活動の場とするようになりました。しかし、その機能は近代社会において「国家権力の犯しえぬ前国家的な個人の基本権」として継承され、発展させられていきました。個々人が最も深い領域で超越的価値(レヒト)とつながっており、それはいかなる権力者にとっても不可侵の聖域でした。近代日本では、現人神たる天皇を何らかの形で相対化できる独立した権威は存在しませんでした。当時、天皇を本当に神とは思っていなかった、との証言は多いものの、表向きには天皇は現人神として神秘化され、その名を用いれば誰も異論を挟めないような客観的状況がありました。天皇の命と言われれば、生命を惜しむことさえ許されませんでしたし、どの宗教団体も、天皇の御稜威を傷つけることは許されず、その権威の風下に立たざるを得ませんでした。

 この背景には、上述のように中世から近世の移行期に起きた宗教勢力の徹底した解体と、宗教的権威の政治権力に対する屈伏がありました。日本は、神や教会の権威そのものが根底から否定されたわけではないヨーロッパとは異なる、というわけです。江戸時代後期から幕末には、幕府などが分担していた政治的権力と権威の一切を天皇に集中するよう、国学者などは目指しました。支配秩序の頂点に立つ天皇を正当化するうえで最も重要とされたのは、外在する超越的存在ではなく、神代以来の系譜を汲む神孫としての天皇自身が見に帯びた聖性でした。こうして、現人神たる天皇が聖俗の権威を独占して君臨する「神国」日本の誕生は準備されました。「神国」の概念はすでに中世で用いられていましたが、それは、仏が遠い世界の日本では神の姿で現れたから、という論理でした。同じ「神国」でありながら、近代のそれは彼岸の超越的存在の前に天皇の機能が相対化されていた中世のそれとは、まったく構造を異にするものでした。

 上述のように、中世にはこの世から分離していた他界が、再びこの世に戻ってきます。この点で古代と近世は同じですが、曖昧な境界のまま死者と生者が混在していた古代に対して、近世では死者と生者の世界が明確に区分され、両者の交渉儀式が事細かに定められました。上述のように、子孫による死者の供養は死者が「ご先祖さま」になるために必須で、祖先の近代天皇制国家も近世以来のこの死者供養を抑圧できず、「ヤスクニの思想」に全面的に吸収しようと試みます。

 中世から近世にかけて世俗社会への転換をもたらしたのは幕府や諸藩で導入された儒学だった、との見解もありますが、因果関係は逆で、現世一元論的な世界観が定着する過程で、それに適合的な生の哲学としての儒学が注目されていった、と考えるべきでしょう。その儒学の大きな問題は、当時の大半の日本人が納得できる死後世界のイメージを提示できなかったことです。日本儒学で大きな影響力を有した朱子学では、人の体は宇宙を構成する「気」の集合により構成され、死ぬとその「気」は離散してその人物の痕跡はやがて完全に消滅し、死後も霊魂は残るものの、遠からず先祖の霊の集合体と一体化する、と考えられました。これは、一部の知識人に受け入れられることはあっても、大衆に広く重用されることは不可能でした。儒学者たちもこの致命的な弱点に気づき、教理の修正を図るものの、仏教が圧倒的に大きな影響力を有する近世において、習俗の水準で大衆の葬送文化に入り込むことは容易ではありませんでした。

 近世の現世主義に対応する体系的な死生観は、仏教以外では国学の系譜から生まれました。とくに大きな役割を果たしたのは平田篤胤で、平田は死後の世界として大国主神が支配する「幽冥」界を想定し、「幽冥」は極楽浄土のように遠い場所にあるのではなく、湖のイ(顕世)と重なるように存在しており、この世から幽冥界を認知できなくとも、暗い場所から明るいところはよく見えるように、幽冥界からこの世はよく見える、と説明しました。平田の想定する幽冥界は、宗教色がきわめて薄く、この世の延長のような場所でした。


●神のゆくえ

 本書はまとめとして、こうした日本におけるカミ観念の変化の原因として、個別的事件や国家の方針転換や外来文化の導入などもあるものの、最も根源的なものは、日本の精神世界の深層で進行した、人々が共有する世界観(コスモロジー)の旋回だった、と指摘します。また本書は、社会構造の変動に伴う世界観の変容が日本列島固有ではなく、さまざまな違いがありつつも、世界の多くの地域で共通する現象であることを指摘します。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響がカミの変貌を生み出すのではなく、社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとする、というわけです。

 「仏教」や「神道」の思想は、基本ソフトとしての世界観によりそのあり方を規定される応用ソフトのような存在だった、と本書は指摘します。これまで、日本列島の思想と文化変容の背景として、仏教の受容が現世否定の思潮を生み出した、中世神話形成の背景に道教があった、ヒトガミ信仰を生み出したのは吉田神道だった、などといった見解が提示されてきました。しかし本書は、この説明の仕方を逆だと指摘します。初めに基本ソフトとしての世界観の変容があり、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開の在り方を規定する、というわけです。たとえば、日本における初期の仏教受容では、仏教の霊威は全て超人的な力(霊験)で、その威力の源は神と同じく「清浄」性の確保で、悟りへの到達=生死を超えた救いという概念がまったく見られず、この世と次元を異にする他界を想定できない、古代の一元的世界に規定されていました。仏教の因果の理法も人の生死も、この世界の内部で完結し、真理の覚醒といった概念が入り込む余地はありません。

 また本書は、仏教受容が現世否定の思潮を生み出し、浄土信仰を高揚させたわけではない、と指摘します。世界観の展開が大乗仏教の本来の形での受容を可能として、伝統的な神のあり方を変化させた、というわけです。日本の神を日本列島固有の存在と主張しても、それ自体は無意味な議論ではないとしても、そこに神をより広い舞台に引き出すための契機を見出すことはできず、方法としての「神仏習合」も同様です。日本の神を世界とつなげるためには、神を読み解くためのより汎用性の高いフォーマットが求められます。本書は、そうしたフォーマットを追求しています。

 より広く世界を見ていくと、街の中心を占めているのは、神仏や死者のための施設です。それは日本列島も同様で、縄文時代には死者が集落中央の広場に埋葬され、有史時代にも寺社が都市の公共空間の枢要に長く位置していました。現代日本は日常の生活空間から人以外の存在を放逐してしまいましたが、前近代には、人々は不可視の存在や自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していました。上述のように、超越的存在と人との距離は時代と地域により異なりましたが、人々はそれらの超越的存在(カミ)の眼差しを感じ、その声に耳を傾けながら暮らしていました。カミは社会システムが円滑に機能するうえで不可欠の役割を担っており、定期的な法会や祭礼は、参加者の人間関係と社会的役割を再確認し、構成員のつながりの強化機能を果たしました。

 人の集団はいかに小さくとも、内部に感情的な軋轢や利害対立が起きます。共同体の構成員は、宗教儀礼を通じてカミという他者への眼差しを共有することで、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとしました。中世の起請文のように、誰かを裁くさいに、人々がその役割を超越的存在に委ねることにより、処罰することに伴う罪悪感と、罰した側の人への怨念の循環を断ち切ろうとしました。カミは人同士の直接的衝突回避のための緩衝材の役割を果たしていました。これは個人間だけではなく、集団間でも同様です。人間中心主義を土台とする近代社会は、カミと人との関係を切断し、人同士が直接対峙するようになります。近代の人間中心主義は人権の拡大と定着に大きく貢献しましたが、個人間や集団間や国家間の隙間を埋めていた緩衝材の喪失も意味します。それは、少しの身動きがすぐに他者を傷つけるように時代の開幕でもありました。

 カミの実在を前提とする前近代の世界観は、人々の死生観も規定していました。現代では、生と死の間に一線を引ける、と考えられています。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行する、というわけです。しかし、こうした死生観は、人類史では近現代だけの特殊な感覚でした。前近代では、生と死の間に、時空間的にある幅の中間領域が存在する、と信じられていました。呼吸が停止してもその人は亡くなったわけではなく、生死の境界をさまよっている、と考えられたわけです。その期間の周囲の人々の言動は、背景にある世界観と死生観に強く規定されました。日本列島では、身体から離れた魂が戻れない状態になると死が確定すると考えられており、遊離魂を体内に呼び戻すことにより死者(呼吸の停止した者)を蘇生しようとしました。中世には不可視の理想世界(浄土)が人々に共有され、死者を確実に他界に送り出す目的で追善儀礼が行なわれました。近世には、死者が遠くに去ることなく、いつまでも墓場に住むという感覚が強まり、死者が現世で身にまとった怒りや怨念を振り捨て、穏やかな祖霊へと上昇することを後押しするための供養が中心となりました。

 前近代には、生者と死者は交流を続けながら同じ空間を共有しており、生と死が本質的に異なる状態とは考えられていませんでした。死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会の隅々まで行き渡ることにより、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました、死は全ての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、生者と死者との新たな関係の始まりでした。しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、人はこの世だけで完結することになり、死後世界は誰も入ったことのない闇の風景と化しました。近代人にとって、死とは現世と切断された孤独と暗黒の世界です。現代日本社会において、生の質を問うことがない、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があります。

 これまでに存在したあらゆる民族と共同体にはカミが存在し、不可視のものに対する強い現実感が共同体のあり方を規定していたので、前近代の国家や社会の考察には、その構成要素として人を視野に入れるだけでは不充分です。人を主役とする近代欧米中心の「公共圏」に関わる議論を超えて、人と人を超える存在とが、いかなる関係を保ちながら公共空間を作り上げているのか、明らかにできるかが重要です。これまでの歴史学で主流だった、人による「神仏の利用」という視点を超えて、人とカミが密接に関わりあって共存する前近代の世界観の奥深くに錘鉛を下し、その構造に光を当てていくことが必要です。

 現在、日本列島も含めて世界各地で、現実社会の中に再度カミを引き戻し、実際に機能させようとする試みが始まっているようです。北京の万明病院では、「往生堂」という一室が設けられ、重篤な状態に陥った患者が運ばれ、親族の介護を受けながら念仏の声に送られるというシステムが作り上げられており、敷地内の別の一室では、遺体を前に僧侶を導師として多くの人々が念仏を称え、その儀式は数日間続けられます。一方現代日本の多くの病院では、霊安室と死者の退出口を人目のつかない場所に設けることで、生と死の空間が截然と区別されていますが、臨床宗教師の育成が多くの大学で進められています。

 息詰まるような人間関係の緩衝材として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んです。1990年代以降の精神世界探求ブームはそうでしたし、ペットブームもその無意識の反映と考えられます。現代日本で多く見られるゆるキャラも、現代社会の息詰まるような人間関係の緩衝材で、心の癒しと考えられます。現代日本社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みかもしれません。欧米諸国と比較すると、日本は今でも自然とカミとの連続性・対称性を強く保持する社会です。現代人は、近代草創期に思想家たちが思い描いたような、直線的な進化の果てに生み出された理想社会にいるわけではありません。近代化は人類にかつてない物質的な繁栄をもたらした一方で、昔の人が想像できなかったような無機質な領域を創り出しました。現在の危機が近代化の深まりの中で顕在化したのならば、人間中心の近代を相対化できる長い間隔のなかで、文化のあり方を再考していく必要があります。

 これは、前近代に帰るべきとか、過去に理想社会が存在したとかいうことではありません。どの時代にも苦悩と怨嗟はありましたが、現代社会を見直すために、近代をはるかに超える長い射程の中で、現代社会の歪みを照射していくことが重要になる、というわけです。これまでの歴史で、カミは人にとって肯定的な役割だけを果たしてきたわけではなく、カミが人を支配する時代が長く続き、特定の人々に拭い難い「ケガレ」のレッテルを貼って差別を助長したのもカミでした。カミの名のもとに憎悪が煽られ、無数の人々が惨殺される愚行も繰り返されてきました。人類が直面している危機を直視しながら、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化により失われたものも含めて発掘していくことこそ、現代人に与えられている大切な課題かもしれません。


参考文献:
佐藤弘夫(2021)『日本人と神』(講談社)

同性間の性行動の進化的要因

 同性間の性行動の進化的要因に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。この研究は、イギリスとアメリカ合衆国の477522人を対象としたゲノムワイド関連解析(GWAS)において、同性間性行動に関する遺伝効果を、過去に同性との性行為の経験のない場合と比較して解析しました。またこの研究は、これら2ヶ国の358426人を対象としたGWASで、過去に異性の性的パートナーしか持たず、生涯におけるパートナー数を明らかにした人の、異性間性行動に対する遺伝効果を推定しました。

 その結果、同性間の性行動に関連する遺伝効果は、過去に異性の性的パートナーしか持たなかった集団では、より多くの異性の性的パートナーがいることとも関連する、と明らかになりました。この研究は、異性の性的パートナーの数は交配成功の指標の一つであり、進化の過程において、子を多く儲けることにつながった可能性がある、と指摘しています。この研究で明らかとなった遺伝効果は、同性間の性行動が、種としてのヒトの進化の過程で続いてきた理由を説明する手がかりとなるかもしれません。つまり、そうした遺伝効果が儲ける子の多さと関連することから、進化の過程で有利に作用してきた可能性がある、というわけです。

 ただ、この研究は、今回調べた遺伝子の違いは小さく、ヒトDNA塩基配列の全体に見られるもので、同性間性行動の遺伝率のごく一部しか捉えていない、と注意を促しています。これらの知見がより広いヒト集団に当てはまるかを確かめるためには、さらに研究を進展させる必要がある、というわけです。ヒトに限らず、今後の研究の進展が期待される分野です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:同性間の性行動が進化の過程で保たれてきたことに関する洞察

 米国と英国の集団を対象とした研究から、同性間の性行動に関連する遺伝効果は、異性間の性行動のみを行う人々の交配上の優位性にも関連していることが明らかとなった。このことを報告する論文が、Nature Human Behaviour に掲載される。一方で、著者たちは、今回調べた遺伝子の違いは小さく、ヒトDNA塩基配列の全体に見られるもので、同性間性行動の遺伝率のごく一部しか捉えていないと注意を促している。これらの知見がより広いヒト集団に当てはまるかを確かめるためには、さらに研究を進展させる必要がある。

 今回、Brendan Zietschたちは、英国と米国の47万7522人を対象としたゲノムワイド関連解析(GWAS)において、同性間性行動に関する遺伝効果を、過去に同性との性行為の経験のない場合と比較して解析した。またZietschたちは、これら2つの国の35万8426人を対象としたGWASでは、過去に異性の性的パートナーしか持たず、生涯におけるパートナー数を明らかにした人の、異性間性行動に対する遺伝効果を推定した。その結果、同性間の性行動に関連する遺伝効果は、過去に異性の性的パートナーしか持たなかった集団では、より多くの異性の性的パートナーがいることとも関連することが判明した。Zietschたちは、異性の性的パートナーの数は交配成功の指標の1つであり、進化の過程において、子を多くもうけることにつながった可能性があるのではないかと述べている。今回明らかとなった遺伝効果は、同性間の性行動が、種としてのヒトの進化の過程で続いてきた理由を説明する手掛かりとなるかもしれない。つまりそうした遺伝効果が、もうける子の多さと関連することから、進化の過程で有利に作用してきた可能性がある。

 Zietschたちは、今回の研究にはいくつかの限界があり、得られた知見は慎重に解釈されるべきであると述べている。第1に、今回用いられたデータは、英国と米国のヨーロッパ系の個人のみに由来するものであり、そのためヒトの遺伝的多様性や行動的多様性の一部を捉えたものにすぎない。同性間の性行動と異性の性的パートナーの数が、いずれも社会的に強く規制される行動であることを考えれば、この点は結果に影響を及ぼす可能性がある。第2に、今日のヒト集団において報告された異性の性的パートナーの数は、過去のヒト進化の過程においては生殖上の優位性と関連していない可能性がある。



参考文献:
Zietsch BP. et al.(2021): Genomic evidence consistent with antagonistic pleiotropy may help explain the evolutionary maintenance of same-sex sexual behaviour in humans. Nature Human Behaviour, 5, 9, 1251–1258.
https://doi.org/10.1038/s41562-021-01168-8

ニュージーランドにおける人類の移住の影響

 ニュージーランドにおける人類の移住の影響エピに関する研究(McConnell et al., 2021)が公表されました。ニュージーランドは、人類が定着した地球上の最後の居住可能な場所の一つとされており、人類の定住が始まった年代は13世紀後半と推測されています(関連記事)。木炭記録は、人類の定着前には山火事がほとんどなく、13~14世紀のマオリ人の定住後に広範に見られるようになったことを示していますが、関連したバイオマスの燃焼による炭素排出の正確な時期や規模はよく分かっておらず、清浄な南大洋と南極大陸における光を吸収する黒色炭素エアロゾル濃度への影響もよく分かっていません。

 本論文は、年代がよく決定されている一連の南極氷床コア記録を用いて、南極の大陸部における黒色炭素の堆積速度が過去2000年にわたって安定していたものの、南極半島北部ではそれらが過去700年の間に約3倍高かったことを示します。エアロゾルモデルは、観測された黒色炭素の堆積が、タスマニアやニュージーランドやパタゴニアにおける火事を示唆する南緯40度以南での排出の増加のみに起因する可能性を示していますが、同時に増加したことを示しているのはニュージーランドの古代の火事記録のみです。南極半島北部では1297年(±30標準偏差)に急速な堆積の増加が始まっており、これは、13世紀後半のマオリ人の定住と、16世紀の堆積が最大になった時期における36(±21 2標準偏差)Gg y−1というニュージーランドの黒色炭素排出と一致しています。

 木炭記録と花粉記録は、より早い時期にタスマニアとパタゴニア南部で気候に調節された燃焼があったことを示唆していますが、南極大陸における堆積記録は、ニュージーランドにおける燃焼による黒色炭素の排出が、過去2000年間のこれらの地域での他の産業革命以前の排出をはるかに上回っていた、と示しており、これにより、南半球の遠く離れた地域における初期の人間活動と関連づけられる大規模な環境への影響を示す明らかな証拠が得られました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:ニュージーランドへの13世紀のマオリ人の到達後に増加した半球の黒色炭素

気候科学:ニュージーランドにおけるマオリ人の定住によって急激に増加した南半球の大気中黒色炭素

 産業革命以前の人類文明は、広範にわたって景観を大きく変えたが、これには燃焼によるものも含まれていた。今回J McConnellたちは、南極氷床コアのネットワークと大気輸送モデルを用いて、ニュージーランドにおける13世紀のマオリ文化の繁栄によって、大気中の黒色炭素が3倍に増加したことを示している。



参考文献:
McConnell JR. et al.(2021): Hemispheric black carbon increase after the 13th-century Māori arrival in New Zealand. Nature, 598, 7879, 82–85.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03858-9

ネコの毛皮の模様の遺伝的基盤

 ネコの毛皮の模様の遺伝的基盤に関する研究(Kaelin et al., 2021)が報道されました。これまでの研究から、しま模様のタビーなどイエネコの毛色のパターンは、体毛の成長期に隣接する毛包から構成される毛包群よりそれぞれ異なるタイプのメラニン色素が産生されて出現する、と明らかになっています。しかし、毛包から産生されるのが黒色メラニンなのか黄色メラニンなのかを決める発生過程は、明らかになっていません。

 この研究は、異なる発生段階にある生存不能なネコ胚から採取された皮膚試料を調べて、単一細胞レベルでの遺伝子発現解析と、組織切片に含まれるタンパク質の解析を行いました。これらの解析から、その後の体毛の成長期に出現する毛色パターンの形状は、胚の遺伝子発現の差異により決まる、と明らかになりました。この研究は、こうした過程で中心的役割を果たすのが、Dickkopf 4(Dkk 4)遺伝子にコードされるシグナル伝達分子だと示し、ティックドパターンのネコ(たとえば、アビシニアンやサーバリンサバンナ)においてDkk 4遺伝子が変異している、と示しました。これらの知見は、同じ皮膚細胞が異なる遺伝的シグネチャーを獲得して、それが毛色の複雑なパターンを生み出し、ネコやその他数多くの哺乳動物の多様性を決定づける特徴となる仕組みを解明するための手がかりになります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ネコの毛皮の模様が決まる仕組み

 イエネコの毛皮の模様(例えば、しま模様のタビー)の形成は、発生中の胚に生じる特定の分子によって決まることを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の知見は、同じ皮膚細胞が異なる遺伝的シグネチャーを獲得して、それが毛色の複雑なパターンを生み出し、ネコやその他数多くの哺乳動物の多様性を決定付ける特徴となる仕組みを解明するための手掛かりになる。

 これまでの研究から、イエネコの毛色のパターンは、体毛の成長期に、隣接する毛包からなる毛包群からそれぞれ異なるタイプのメラニン色素が産生されて出現することが明らかになっている。しかし、毛包から産生されるのが黒色メラニンなのか黄色メラニンなのかを決める発生過程は明らかになっていない。

 今回、Gregory Barshたちは、異なる発生段階にある生存不能なネコ胚から採取された皮膚試料を調べて、単一細胞レベルでの遺伝子発現解析と組織切片に含まれるタンパク質の解析を行った。これらの解析から、その後の体毛の成長期に出現する毛色パターンの形状は、胚の遺伝子発現の差異によって決まることが明らかになった。Barshたちは、この過程で中心的役割を果たすのが、Dickkopf 4(Dkk 4)遺伝子にコードされるシグナル伝達分子だとする考えを示し、ティックドパターンのネコ(例えば、アビシニアンやサーバリンサバンナ)においてDkk 4遺伝子が変異していることを示した。

 今回はイエネコの研究だが、Barshたちは、この研究で得られた知見をヒョウ、トラやその他の哺乳類における毛色パターンの形成にも適用できる可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Kaelin CB, McGowan KA, and Barsh MG.(2021): Developmental genetics of color pattern establishment in cats. Nature Communications, 12, 5127.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25348-2

言語と遺伝子の関係

 言語と遺伝子の関係についての見解(Greenhill., 2021)が公表されました。ダーウィン(Charles Robert Darwin)の『種の起源』以来、言語学者と遺伝学者は暗にもしくは明示的に言語を遺伝学と結びつけてきました。最近の研究(以下、松前論文)は、さまざまな一連の証拠が、過去について同様の物語を一貫して示すのかどうか評価する新たな手法を提供し、この手法をアジア北東部の14人口集団の遺伝学と言語学と音楽のデータに適用しました(関連記事)。

 言語と遺伝子により語られる歴史が類似しているのかどうか見出すのは容易であるように見えるかもしれませんが、そうではないので、この研究は重要です。人口集団がどのように進化してきたのか正確に把握するには、複数の水準で課題があります。どのような理論的枠組みが有効なのか、分野を超えてどのような研究するのか、どの手法が堅牢な回答を提供するのか、といった問題です。松前論文はこれらの問題に取り組み、さまざまな情報源から得られるものを比較する洗練された手法を提供します。

 世界中の人口集団の起源と関係を明らかにするため、遺伝学者は母系のミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系のY染色体という片親性遺伝標識を、言語学者は同根語や文法的特徴といった言語標識を用います。重要な問題は、これらのさまざまな標識から導かれた推論が一貫しているのかどうか、ということです。それらは全て同じことを語っているのか、それともヒトの先史時代のさまざまな側面について異なることを語っているのか、ということです。これらの標識の解釈は多くの場合分野間で証拠が得られるため、一貫性が重要です。たとえば、遺伝学者はしばしば、文化的もしくは言語学的分類の観点から結果を解釈し、逆もまた同様です。しかし、言語と遺伝子が同じ進化史を共有していなければ、共にその歴史を解釈することには問題があります。

 なぜ言語と遺伝子は先史時代について同じ話を語るのでしょうか?世界中の遺伝子と言語の変異を生み出した、共有された歴史だけがあります。先史時代にヒト集団が分裂し分岐する過程と事象は、それら人口集団の遺伝子と言語に同時に影響を及ぼすだろう、と予測できるかもしれません。たとえば、人々の集団が新たな地域に定住し、新たな共同体を形成した場合、距離の過酷さだけであっても、故郷の集団と話すことや混合を止めるかもしれません。したがって経時的に、彼らの言語と遺伝子は出自集団との固有の違いを蓄積します。さらに、言語は障壁として機能する可能性があり、人々の間の接触や相互作用を妨げます。これらの障壁は、遺伝的変異を言語史の境界へと本質的に押し込めるでしょう。

 しかし、言語と遺伝子との間の強い一致に懐疑的である正当な理由もあります。個人の遺伝的構成は誕生時に両親から継承されますが、人々が同時に複数の言語を話すことはよくあり、その生涯にわたった言語を変えることができます。共同体は容易に言語を変えることができ、より政治的もしくは社会的に支配的かもしれない他の言語へと移行します。たとえば、現在のメキシコシティであるテノチティトラン(Tenōchtitlan)の人々は、今ではスペインの征服後に話されていたナワトル語(Nahuatl)よりもメキシコスペイン語を話す傾向にありますが、依然として強い在来の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を示します。

 言語は遺伝子よりも急速に進化する傾向もあります。太平洋全域で台湾からハワイへと5500年前頃に広がり始めたオーストロネシア語族の大拡大により、1200以上のひじょうに異なる言語が生じました(関連記事)。この急速な変化率は、言語変化がより深い兆候を迅速に上書きして削除する、と意味します。したがって、遺伝子と言語は大きく異なる時間規模で進化しているかもしれず、あらゆる重複は単なる偶然かもしれません。

 1980年代後半、一連の著名な論文の刊行後、言語学者と遺伝学者がこれらの問題を議論しました。カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)氏たちは、世界中の遺伝的人口集団系統樹標識を世界中の言語系統樹と比較しました。カヴァッリ=スフォルツァ氏たちは、遺伝学的分類と言語学的分類が有意に重なることを提案し、これらの集団は共通起源を共有しているに違いない、と主張しました。その後、論争が続きました。ある長々しい批評は、カヴァッリ=スフォルツァ氏たちの結論が、不適切な手法およびその後の解釈におけるいくつかの概念上の欠陥による不充分なデータベースの分析により台無しになった、と主張しました。当然、この批判はカヴァッリ=スフォルツァ氏たちにより激しく否定され、この分野の第一人者たちにより議論されました。

 なぜこうした議論が収束しないのでしょうか?まず、学際的に研究することによる現実的な困難があります。言語集団を遺伝的集団に対応づけることはひじょうに困難です。たとえば、アメリカ大陸先住民集団を含む100の遺伝学的研究の調査では、そのうち80%が大規模な「アメリンド」分類を引用しているか、その影響を受けている、と明らかになりました。しかし、この分類はひじょうに問題が多き、ほぼ全ての言語学者により却下されています。これは、こうした遺伝学的研究で報告された結果の解釈には欠陥があり、存在しない架空の実態を議論している、と意味します。

 技術的な問題もあります。以前の研究の多くは、問題のある統計手法であるマンテル検定に依拠していました。これはとくに、地理のような他の要因を一定にしたまま、遺伝子と言語の影響を分離するために使用された場合、ひじょうに低い検出力と高い偽陽性率で有名な手法です。これは、言語と遺伝子との間の刊行された調査結果が間違っている可能性を意味します。これが松前論文の論点となります。松前論文はアジア北東部の14の文化に焦点を当て、これらの文化から新たな武器と素晴らしい一連の弾薬を持ち込みました。それは、遺伝学的データ、文法音韻論と語彙を含む言語学的データ、音楽の伝統です(図1)。以下は本論文の図1です。
画像

 松前論文はネットワーク手法と冗長性分析を用いて、これらのデータを分析します。興味深いことに、松前論文が明らかにしたのは、各データ型のクラスタ化分析がヒトの先史時代のひじょうに異なる兆候を示すことです。たとえば、隣接する韓国と日本は、文法と遺伝子と音楽ではともにクラスタ化しますが、語彙もしくは音韻ではクラスタ化しません。対照的に、ウラル語族のセルクプ人とガナサン人集団は、遺伝子と語彙と文法に基づいて分類されますが、音韻および音楽伝統には基づいていません。

 しかし、二つのデータ型は顕著な関係を示します。それは文法と遺伝的標識で、相互に強く創刊します。その理由は三つ考えられます。共有パターンは、これら人口集団間の最近の接触、もしくは語族内で最近の歴史を共有している人口集団の一部により起きたか、あるいは語族間の深い歴史的兆候を反映しています。松前論文は、地理と最近の歴史を制御することにより、共有されたパターンは深い歴史的関係とより一致する、と主張します。

 松前論文には多くの意味があります。まず、ヒトの先史時代に関してです。アジア北部は、深い言語関係について進行中で誤りのある論争の場です。朝鮮語と日本語は関連していますか?この地域の語族の多くをアルタイ諸語のように超語族につなげられますか?おそらく松前論文は、これらの議論を解決するのが難しい理由を的確に指摘しました。つまり、検証データに依存する、ということです。

 次に、言語構造を遺伝的歴史に単純に関連させる場合(およびその逆の場合)、ひじょうに注意すべきです。さまざまな時間規模を調査するためのデータ選択はひじょうに重要です。おそらく、より深い時間規模に文法と遺伝子を用いる一方で、最近の時間規模では語彙データを使用できるでしょうか?しかし、各データセットに適した状況と場所の解明には、さらに多くの研究が必要でしょう。

 最後に、最も大きな意味を有するのは、言語と遺伝子が同じ話を語るのかどうか、明らかにすることと関わる複雑さです。代わりに、特定の歴史が結びついた過程と理由と時期、言語と遺伝子が独立した時期が、問題となります。松前論文により採用された手法は、将来に向けた有望な方法を提供しますが、解決すべき問題は、人類の歴史のこれらの側面を形成するメカニズムの特定です。松前論文は潜在的なメカニズムについて言及していませんが、いくつかの手がかりは人口史から得られるかもしれません。人口史では、これらの側面の緊密な結合が、人口集団が急速に拡大した時に起きた一方で、結合の解除は人口集団間の長期的な相互作用で起きる、と予測されます。さらなる手がかりは、データ型自体の特徴から得られます。遺伝子と文法など一部の側面は人々にとってほぼ不可視なので、比較的遅く中立的に変化するかもしれません。しかし、音韻や音楽や語彙など、他の側面は人々にとってひじょうに目立ち、社会的集団の範囲を定めるのに容易に採用される可能性があります。それらは、変化率を速めるか、安定した文化的構成要素として自身を固定します。

 明らかなのは、現生人類(Homo sapiens)の文化的進化の全貌を垣間見ることができるような、豊かで多面的なレンズを提供するように時空間で整合させることのできる、文化と言語と遺伝子のデータより多くの豊富なデータセットが必要なことです。


参考文献:
Greenhill SJ.(2021): Do languages and genes share cultural evolutionary history? Science Advances, 7, 41, eabm2472.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abm2472

大河ドラマ『青天を衝け』第30回「渋沢栄一の父」

 今回で栄一の父である市郎右衛門が退場となります。市郎右衛門は無鉄砲な息子を時として厳しくも暖かく見守りつつ栄一を導き、栄一のような野心の強い個性的な人物にとって理想的な父親として造形されていたように思います。市郎右衛門の実像と本作の人物造形との間にどれだけの違いがあるのか知りませんので、渋沢家に詳しい視聴者にとっては不満があるかもしれませんが、私は市郎右衛門の描写には満足しています。大河ドラマで時として登場する主人公にとって理想的な父親だった、と言うべきでしょうか。

 初期明治政府の混乱しつつも活気ある改革も描かれましたが、栄一をはじめとして三条実美や大隈重信や井上馨や伊藤博文など江藤新平などはまだ20代後半から30代で、岩倉具視や西郷隆盛や大久保利通でも40代と、初期明治政府の若さを改めて思い知らされます。まあ、当時は平均寿命が短く、今よりもずっと若く隠居することも多かったでしょうが。今回は廃藩置県へと至る流れが描かれ、政策面の具体的過程に重点を置いた明治維新を扱った大河ドラマとして、本作はなかなかよいと思います。やや気になるのは、大久保利通が単純な小物悪役として描かれているように見えることですが、今後大久保の真意が描かれることもあるのではないか、と期待しています。

ヨーロッパ南東部前期青銅器時代における親族構造と社会的地位の相続

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ南東部前期青銅器時代における親族構造と社会的地位の相続に関する研究(Žegarac et al., 2021)が公表されました。最近当ブログで取り上げた、新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造に関する研究(関連記事)に本論文が引用されており、興味深い内容のように思われたので、読んでみました。近年では、ユーラシア東部における古代ゲノム研究も飛躍的に発展していますが、親族構造と社会的地位の相続に関しては、ヨーロッパと比較してまだ古代ゲノム研究がかなり遅れているように思われるので、日本列島も含めてユーラシア東部圏におけるそうした観点の研究の進展が期待されます。


●先史時代の社会構造の再構築における親族関係研究

 過去の社会の組織を理解することは、最近のヒトの進化を理解するのに重要であり、考古学者と人類学者は数世代にわたって、考古学的記録における社会的状態を検出するための、科学的および概念的な一連の手法の開発に取り組んできました。これらの手法が用いられて、社会的不平等を含む社会的複雑さが最初に出現した時期、社会的階層化の初期形態の性質と機能、これらの出現した構造が時空間的にどのように永続されたのか、ということが調べられました。

 文字記録がない場合、先史時代の社会構造はおもに埋葬遺骸の証拠から再構築されます。考古学的親族関係の研究は、埋葬の証拠を用いて社会組織形成における家族構造の特有の役割を理解しており、家族的関係が社会的複雑性の出現と持続的な不平等の進化にどのように影響を及ぼしたのか、判断するのに重要です。

 親族関係の人類学的理解には、生物学的近縁性だけではなく、広範な非生物学的社会関係も含まれます。最近、古代DNA研究が先史時代の親族関係の結びつきの補足的な証拠として開発されました。親族関係はひじょうに変動しやすい概念で、社会における個体間の複雑な相互作用を伴い、古代DNA研究は生物学的近縁性という一側面しか引き出せません。一連の複数の生物考古学および考古学的証拠と組み合わせてのみ、古遺伝学的データは家族概念と社会組織の包括的な調査に貢献できます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。


●前期青銅器時代における垂直的分化の発達

 更新世末以前の顕著な社会的階層化の証拠は、ほとんどありません。定住と動物の家畜化および植物の栽培家の採用を可能にしたのは完新世の安定した気候条件で、大きな人口増加を促進しました。次にこの人口増加は先史時代の社会の経済構造に影響を及ぼし、最終的にはより大きな人口圧と社会組織の変化にさえつながりました。新石器時代以降、社会的不平等化増加の一般的傾向が見られ(関連記事)、これは銅器時代および前期青銅器時代(EBA)に再度顕著に激化し、物質文化および埋葬慣習で視覚的に表現されるようになりました(関連記事)。しかし注意すべきは、継承的エリートにより支配された階層的な首長制としての青銅器時代共同体との伝統的見解には一部から異議が唱えられており、青銅器時代における社会的不平等性の程度と性質は依然として議論されている、ということです。

 貴重な資源の差異的管理とともに、思想や知識や「外来」商品の長距離交換など経済的革新は物質的な富の顕著に多い蓄積を可能にした、との合意があります。この社会的および経済的複雑さの増加は、エリートの個人の出現を支えた可能性がひじょうに高そうです。EBAの社会的複雑さは、生物学的関連があったかもしれません。階級化された社会では、社会的地位は資源入手や権力の地位に影響を及ぼし、個人の健康と富にはひじょうに重要かもしれません。

 ヨーロッパ南東部では、後期新石器時代共同体における社会的不平等の存在の証拠があり、この不比等は増加したか、少なくともEBAまで持続したようです。地位と富を永続させる仕組みに関して議論があり、青銅器時代の首長制のような複雑な社会では、親族関係ネットワークや姻戚関係の結びつきが、指導者による富の分配と労働力管理と自身の地位強化の経路として機能した、との仮説が提示されています。人類学的研究では、富の血統に基づく世代間継承が、富の不平等を持続させる主要な仕組みだった、と示唆されています。


●EBAの社会組織を理解するうえでのモクリンの役割

 本論文は、セルビアのバナト(Banat)北部のキキンダ(Kikinda)町近くに位置する、モクリン(Mokrin)のEBAネクロポリス(大規模共同墓地)の親族関係分析を行なうため、古ゲノミクスと生物考古学と人類学の証拠を組み合わせた研究の調査結果を報告します。このネクロポリスは、ハンガリー南東部とルーマニア西部とセルビア北部に及ぶ一連の共同体を含む、紀元前2700~紀元前1500年頃となるマロス(Maros)文化に分類される人口集団により用いられました(図1)。放射性炭素年代測定から、モクリンのネクロポリスは紀元前2100~紀元前1800年頃の300年間使われた、と示唆されています。

 巨大でよく保存された墓地はマロス文化の集落の典型で、合計300基以上の墓があるモクリンは最大級のマロス文化集落の一つです。モクリンの規範的な埋葬パターンは、単一の土葬で構成されます。遺骸の体は東を向いて曲がっていますが、北もしくは南の体の向きは性別により異なりました。女性はその頭が南側を向いて右側に置かれているのに対して、男性は北側に頭を向けて左側に置かれています。本論文では、生物学的性別がモクリンの社会的性別と完全には切り離されていない、という完全には根拠のない仮定に依拠し、さらに詳しく以前の研究を参照します。

 川沿いのマロス文化村落群の位置と明確に外来の副葬品の存在から、マロス文化共同体は、製造された商品や資源の交換を含む外部集団との頻繁な相互作用に関わっていた、と示唆されます。モクリン遺跡の社会的組織の生物考古学的および物質文化的相関は、量と質と空間分布の観点で、副葬品の詳細な古人口統計学的情報をもたらす分析によりすでによく特徴づけられています。さらなる研究では、骨格から識別される身体活動のパターンにより反映された、富や地位や社会政治的要因の慣行が調べられました。これら一連の研究によって、より高い社会的地位の標識として機能した副葬品が特定されました。同時にこうした一連の研究により、これらの標識と増加する男性の身体活動の増加との間の正の相関が検出されました。

 間違いなく、副葬品は社会的領域の完全な反映ではなく、複数の意味を有する可能性があります。さらに、副葬品の一覧は決して完全ではありません。それはとくに、腐敗しやすい物質で作られたものは回収できないからです。それにも関わらず、モクリンのネクロポリスに関する以前の研究では、回収された副葬品は重要な社会的側面を反映しており、少なくとも社会的地位の大まかな代理として機能できる、と示唆されています。副葬品が、直線的ではないとしても、定期的に個人の社会的存在と関連している、との論証は、モクリンにおける社会的地位の継承への以下の調査の明確な基礎的過程を形成します。以下は本論文の図1です。
画像

この研究は、モクリンのネクロポリスの24個体の骨格標本について古ゲノム分析を行ない、個体間の生物学的関連の明確な特定を提供します。次に、特定された生物学的関連が社会的地位の考古学的標識とともに用いられ、EBAマロス社会内の埋葬習慣の特徴や家族構造や地位の継承が推定され、より広く、青銅器時代社会の発展の側面が追跡されます。本論文は以下の4点の問題に対処します。

 (1)モクリンの埋葬遺跡により提供された共同体における親族関係体系はどのようなものだったのか、ということです。家族は氏族か家柄かより大きな血縁で組織されていましたか?居住と結婚のパターンを再構築できますか?(2)富と地位はモクリンの埋葬地により表される社会において継承されましたか?(3)モクリン標本における遺伝的変動性は単一の人口集団に対応していますか?近親交配の証拠はありますか?(4)モクリンの埋葬地は銅器時代から青銅器時代の移行期における遺伝的多様性を表していますか?


●標本抽出と人類学的分析

 錐体骨が保存され、隣接する墓が存在し、成人の近くに埋葬されたより若い個体が存在しており(地位の継承を追跡できる家族集団)、物質文化の標識で多様な、一連の基準に従った分析のため、22基の墓に埋葬された24個体が選択されました(成人14個体と子供10個体)。その内訳は、単葬墓の20個体と二重墓(257号墓)および三重墓(122号墓、第三の個体は保存状態が悪く分析できませんでした)の2個体ずつです。観察された古病理学的および生理学的ストレスマーカーは、この地域と期間の先史時代人口集団に典型的です。以前の副葬品分析結果に基づいて、これらの遺骸は副葬品の豊富さに応じて2区分されました。「名声」型は高い社会的地位を示唆する副葬品の存在と数により特徴づけられ、「簡素」型は、数個もしくは簡素な副葬品を有するか、副葬品がありません。


●DNAの保存と汚染と死後損傷と性別の評価

 錐体骨からDNAが抽出され、全ゲノムショットガン配列により、常染色体で平均深度0.85±0.25倍(0.33~1.41倍)に達しました。調査対象の24標本における内在性ヒトDNAの割合は8~70%であり、20%未満は2個体のみで、これらの標本のひじょうに優れた分子保存状態を反映しています。優れた保存状態は標本で検出された低い汚染水準でも示唆され、ミトコンドリアの平均汚染水準は1%未満でした。USERで処理されていないライブラリでは、脱アミノ化率の範囲はリードの5'末端の最初の塩基で0.13~0.26で、古代DNAデータの確実性を裏づけます。

 分枝的性別により14個体の女性と10個体の男性が識別され(表1)、遺骸の人類学的な性別決定が確認されました。211号墓の個体の遺伝的性別は、当初以前の研究では決定されませんでしたが、X染色体とY染色体の量はそれぞれXY核型を示唆し、形態学的調査と一致する結果でした。これは、以前の研究で報告された手法の適用によりさらに確認されました。分子的性別決定と考古学的性別決定との間で3件の不一致が観察され、その全ては、当初の性別決定が標準的なモクリンの葬儀のみの仮定に基づいていました(122Sと220と257B)。この3個体のうち2個体(257Bと122S)は、それぞれ二重墓と三重墓に由来し、考古学的観点からは標準外なので、体の向きも影響を受けた可能性があります。


●片親性遺伝標識とゲノム多様性の推定

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、モクリン標本はY染色体の非組換え領域とミトコンドリアDNA(mtDNA)の両方で比較的高い多様性を示します。少なくとも14のmtDNAハプロタイプが識別され、先史時代ヨーロッパ中央部採集民でよく見つかるmtDNAハプログループ(mtHg)Uや、H・T2・K1・J1が含まれます。10個体のY染色体は少なくとも5つの異なるハプロタイプに分類でき、そのうち3個体は現代ヨーロッパ人口集団で共通するY染色体ハプログループ(YHg)R1bです。

 有意な人口集団の遺伝的構造の証拠は見つかりませんでした。以前の研究で報告された手法に基づいて、近交係数F(人口集団のアレル頻度が与えられた場合のヘテロ接合体遺伝子型の欠損と定義されます)は0と推定されました。さらに、いくつかの仮説を立てて標本が分割されましたが、どの場合でも有意な人口集団分化は観察されませんでした。


●祖先系統分析

 ヨーロッパ人口集団の主成分分析に投影すると、全モクリン標本は現代ヨーロッパ人の遺伝的変異の範囲内に収まり、ヨーロッパ北部と東部と南部の現代人の中間でまとまります。ヨーロッパ青銅器時代人口集団の構成要素は3つでじゅうぶんにモデル化できる、との仮定で個々の混合割合が推定されました。それは、鉄門(Iron Gates)狩猟採集民とエーゲ海新石器時代農耕民とヨーロッパ東部草原地帯的人口集団です。個体186号は例外かもしれませんが、個体間でヨーロッパ東部草原地帯的構成要素の有意な変動は観察されませんでした。個体群を共同計算すると、混合割合は、12.5±1.8%の鉄門狩猟採集民と、53.7%±2.5%のエーゲ海新石器時代農耕民と、33.8±2.3%のヨーロッパ東部草原地帯的人口集団と推定されます。


●生物学的関連性分析

 モクリンのネクロポリスの分析された24個体の同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)のゲノム規模パターンから、15個体を含む9つの家族関係が明らかになりました(表2)。3組の親子関係と2組のキョウダイ関係に加えて、3組の2親等程度の関係(両親のどちらかが同じ半キョウダイ、オジ・オバとオイ・メイ、祖父母と孫)と1組の3親等程度の関係(イトコ)が再構築されました。

 推定された親族関係は、関連個体が密接にまとまる外群f3分析で裏づけられました。関連する個体は、2件の例外を除いて、近接して埋葬される傾向がありました(図2)。24個体のうち9個体(186・122S・223・224・237・246・247・287・302)は他のどの個体とも密接な関係を有しておらず、全員女性でした(若い少女3個体と成人6個体)。これらの女性は、標本抽出領域全体に均等に分布しています。以下は本論文の図2です。
画像


●表現型遺伝標識

 ATLASに実装されたベイジアン手法を用いて個体の遺伝子型尤度を計算することにより、モクリン標本における色素沈着と関連する一連の遺伝子標識の頻度が推定されました。SLC45A2遺伝子のrs16891982*Gの派生的アレル(対立遺伝子)頻度は0.7098で、SLC24A5遺伝子のrs1426654*Aの頻度は1です。両者はヨーロッパ人の皮膚の色素沈着と関連しています。同等の頻度はスペインの現代人集団で見られます。虹彩の色素脱失と強く関連するHERC2遺伝子のrs12913832における派生的なGアレルは、頻度が0.4498で、トスカーナの現代人集団と類似しています。


●モクリンの人口集団の祖先系統と構造と遺伝的多様性

 個々のモクリン遺跡人類遺骸のゲノムは、鉄門狩猟採集民とエーゲ海新石器時代農耕民とヨーロッパ東部草原地帯的人口集団からの影響の混合としてよくモデル化されています。本論文の標本ではエーゲ海/地中海祖先系統(祖先系譜、ancestry)構成要素が優勢で(53.6±2.5%)、狩猟採集民構成要素は比較的低く(12.5±1.8%)、じっさい5個体では統計的に裏づけられていません。

 推定近交係数(F)はひじょうに低く、モクリンのネクロポリスには多様な祖先系統を有する人々が居住している一方で、任意交配人口集団を表している、と示唆されます。ミトコンドリア系統数はかなり多い、と明らかになりました(24個体で14ハプロタイプ)。高いmtDNA多様性は、考古学的および同位体的証拠と組み合わされ、女性の族外婚を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。モクリンでは、遺伝的下位構造がなく、Y染色体とミトコンドリアの多様性が中程度から高いという事実を考えると、最も節約的な説明は、この共同墓地が単一の巨大で隣接した人口集団に使われた、というものです。


●生物学的関連性とモクリンの親族関係体系への示唆

 遺伝的親族関係分析は、分析された被葬者24個体のうち15個体を含む密接な遺伝的関係を明らかにし、モクリン遺跡における埋葬慣行への洞察を提供しました。本論文の親族関係分析では、父や娘は特定されなかったので、母と父と子の組み合わせはありませんでした。ドイツ南部の青銅器時代社会に関する親族関係研究(関連記事)とは対照的に、本論文の標本ではより大きな血族関係や拡大家族や氏族や家柄の遺伝的証拠は見つかりませんでした。これは、分析された標本数が限定的だったこと(被葬者312個体のうち24個体)、もしくは3親等を超えた遺伝的親族関係を確実に検出する能力が不充分なことに起因するかもしれません。したがって、より大きな家族単位が共同墓地で散らばって埋葬された可能性は否定できません。

 いずれにしても、モクリン遺跡の埋葬儀式は、子供が父母両方とともに埋葬されたドイツ南部の青銅器時代標本の報告例とはかなり異なっていたようです。一般的に本論文の標本では、相互に近くに埋葬された個体は遺伝的にも関連している傾向があります。この発見が標本抽出戦略により部分的に影響を受けたとしても、近親者(母と息子)が相互により離れた距離で埋葬されたのは1例だけです(260号と228号)。

 モクリン遺跡被葬者で、遺伝的親族関係のない標本の9個体(186・122S・223・224・237・246・247・287・302)は女性でした。そのうち7個体は、家族との結びつきのある個体の近くで発見されており、彼女たちが地域共同体で完全には社会的に孤立していなかった可能性を示唆します。モクリンのネクロポリスのより大きな親族関係ネットワークにおける彼女たちの位置を、ある程度確実に推測することは困難です。彼女たちの少なくとも一部は共同体の新参者だったかもしれませんが、その親族関係は共同墓地の他の標本抽出されていない個体で見つかる可能性が高そうです。

 夫婦関係は、親族関係が特定されなかった女性9個体のうち2個体について議論の余地があります。成人女性個体224号は成人男性個体225号の隣に埋葬されており、両者とも副葬品はありませんでした。同様の事例は若い女性302号でも見られ、熟年男性個体163号の近くに埋葬されていました。熟年男性個体163号と若い女性302号は、おそらく163号の母親だった成人女性181号の近くに埋葬されました。この3個体には全て名声型の副葬品がありました。

 まとめると、互いに近くに埋葬された個体は遺伝的に関連している傾向が観察されますが、同時に生物学的近親者のいない女性も近くに存在します。この知見から、ネクロポリスにおける埋葬の配置が、生物学的関連性や社会的親族関係の結びつきや死亡時期や社会的集団もしくは社会的役割など、いくつかのメカニズムにより影響を受けた、と示唆されます。この結論は、一般的傾向に反して同じ墓の亜成体122E号と遺伝的に関連しない、三重墓に埋葬された女性122S号の事例から追加の裏づけを得ます。

 生物学的な娘の欠如と近接した親族のいないさまざまな地位の女性の存在は、本論文の標本における高いmtDNAの多様性と合わせて考えると、女性族外婚がモクリン集団で行なわれていたかもしれない、と示唆されます。女性族外婚は最近、ドイツ南部とスイスの同様の年代の地域で示されており(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、中世前期などずっと最近でも明らかに役割を果たしていました(関連記事)。

 上述の観察結果は厳密な母方居住の推論を裏づけませんが、モクリン社会が父系的および/もしくは父方居住的だった、と最終的に結論づけることはできません。モクリンのネクロポリスが単一の構造化されていない人口集団により用いられていた、という観察結果は、中程度から高いY染色体ハプロタイプの多様性とともに、厳密な父方居住に反するものであり、厳密な父方居住社会では、Y染色体多様性は相対的により低いと予測されます(関連記事1および関連記事2)。


●モクリンにおける地位の継承パターン

 本論文の標本抽出戦略は、モクリン遺跡内で相互に近くにある被葬者を対象としており、これらは遺伝的に関連する個体を含んでいる可能性が高い、と仮定されました。親族関係分析を通じてこれらの生物学的結びつきを解明することで、モクリン墓地に代表されるマロス社会において、(副葬品により示唆される)富と社会的地位が継承されていたのか、それとも獲得されたのか、調べることが可能となります。社会的名声が世代間で伝わる場合、これが地位の標識に反映される、と予測されます。同様の期間の他地域の古ゲノムおよび同位体に関する以前の研究(関連記事1および関連記事2)と、モクリン遺跡に関する以前の人類学的および考古学的研究に基づくと、社会的地位は父系で継承され、女性はその地位を結婚により獲得する、と仮定されます。

 モクリンのネクロポリス内の地位の違いは極端ではありませんでしたが、名声型と簡素型との間の違いを区別するには充分で、既存の範囲内では、生物学的親族により示される副葬品の大きな変動性さえありました。親族がその副葬品を通じて類似の社会的地位を示すのは2例だけで、それは220号(15~25歳)と225号(25~35歳)の男性2人です。この2人は二親等の親族で、ともに副葬品なしで埋葬されていますが、注意すべきは、生物学的男性の220号は女性で一般的な南北向きの体の位置だったことです。地位の連続体の対極には、181号墓に埋葬された女性がおり、163号墓の男性の母親である可能性がひじょうに高く、両者にはより高い社会的地位を示唆する副葬品が共伴していました。男性個体は死亡時に成人だったので、男性がその地位を継承したのか、それとも獲得したのか、不明です。

 モクリンでの他の観察は、社会的地位が男性に世代間で伝えられた、との推論を裏づけません。たとえば、228号墓の女性は260号墓の亜成体男性(15~18歳)の母親ですが、母親には比較的豊富な副葬品があるのに対して、息子の方には副葬品が全くありません。この息子は母親の社会的地位を継承しなかったか、その短い生涯において社会的地位を獲得しなかった、と推測されます。同様に、243号墓に埋葬された20~35歳の男性の母親と特定された女性257A号の副葬品から、この女性の地位はより低いと示唆される一方で、その息子の副葬品には母親より高い地位を示す斧が含まれていました。この地位の不一致から、息子はその生涯においてより豊かな埋葬を命じられる地位を獲得した、と示唆されます。さらに注意すべきは、この4組の被葬者で観察された副葬品の豊富さの対比は、母系での地位継承と一致していないことです。

 他の埋葬の組み合わせの証拠から、亜成体の個体は、少女の場合、豊富な副葬品を有する可能性がある、と示されます。9~11歳の少女である161号には、ネックレスや青銅製頭部装飾品や骨製針や青銅製指輪など、より高い地位のさまざまな標識が含まれていました。死亡時に15~20歳だったその兄(295号)の側には、小さくて簡素な土器しかありませんでした。このキョウダイが墓で異なる地位を示す事実は、男性ではなく女性が社会的地位を継承できる体系とより一致します。この事例はとくに、女性のみが地位を継承できる説得力のある証拠です。なぜならば、少女はほぼ確実に、地位獲得の機会を有するには若すぎて、その豊富な装飾品を、おそらくは持参金/婚資の一部として継承したに違いないからです。

 しかし、代替的な説明では、ティーンエージャー/思春期ではなくひじょうに若い子供たちが墓では地位を継承した、というものです。さらに、より地位の高い成人女性(288号)とより地位の低い学童期(juvenile)男性(282号)との間で、イトコの関係が観察されました。このイトコ間の相違は、男性が地位を継承しないという見解と一致するものの、男児が特定の年齢もしくは一定の功績を立てると、その父の地位を与えられる、というシステムを除外しません。

 合計では、標本の10人の男性で生物学的親族関係が推定されました。地位と年齢の分布を考えると、本論文の標本では、男性の社会的地位の高低の二分が年齢の違いにのみ起因することを除外できます。1親等の関係のみを考えると、男性6個体のうち3個体では、地位が継承された可能性は低そうです(20~25歳の243号、15~18歳の260号、15~20歳の295号)。なぜならば、その直接的な女性親族(母親もしくは姉妹)は男性たちと副葬品の地位が異なっていたからです。他の男性2個体(44~55歳の163号、50~55歳の211号)については、地位が継承されたのか、それとも獲得されたのか、不明です。本論文の解釈で最も問題となる事例は、より高い地位の標識で埋葬された6~9歳の122E号で、継承された地位の明確な証拠のようです。しかし、122E号は非定形の三重埋葬の一部で、122E号への副葬品の分類は完全に堅牢ではありません。

 まとめると、これらの観察は、男性の社会的地位の継承との推論を裏づけません。男性の地位は獲得されるもののようで、例外は決定的ではない122号墓の少年の事例です。しかし、本論文の標本には埋葬された男性と少年の父親は含まれていません。したがって、本論文の主張については、本論文の標本の息子たちは母親から社会的地位を継承しなかった、と仮定することに限定しなければなりません。


●モクリンの社会組織の年代的背景での再構築

 モクリンのネクロポリスで発見された24個体の古代ゲノムの分析は、とくに地位の継承に関して、前期青銅器時代の社会組織の重要な特徴を示しました。上述のように、モクリン遺跡の骨格標本は遺伝的に構造化されていない人口集団を表しているようです。これは社会的階層の存在を排除しませんが、社会的集団間の婚姻に厳密な障壁がなかったことを示唆します。

 高いmtDNA変動性、親族関係が特定されなかった女性の一定数の存在、娘の不在といった本論文における一連の複数の証拠から、女性族外婚がモクリン遺跡と他の集落では行なわれていた、と示唆されます。親族関係が特定されなかった女性たちは、簡素型から名声型まで、副葬品の豊かさがさまざまです。興味深いことに、成人の娘の不在と親族関係が特定されなかった女性の存在は、バイエルンの青銅器時代農場でも報告されており、そこではほぼ全ての親族関係が特定されなかった外来女性が、よく整備された墓に埋葬されていました(関連記事)。

 モクリンのネクロポリスでは、親族は小さな親族集団でともに近くに埋葬されていました。興味深いことに、本論文の標本ではこれら小集団には生物学的な父親が含まれていませんでした。本論文の標本におけるより大きな血族関係の不在と比較的高いY染色体ハプロタイプ多様性は、モクリン人口集団における厳密な父方居住への反証です。同時に、これらの観察は、ドイツ南部のレヒ川渓谷の青銅器時代農場とは異なる形態の社会組織を示唆します。

 ドイツ南部の青銅器時代農場では、近親者もともに埋葬されていますが、父方居住の明確な兆候があります(関連記事1および関連記事2)。モクリン集団はドイツ南部の鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してBB)集団とも明確な違いがあり、BB集団では、高いmtDNA変動性と単一のY染色体系統が見られますが、低いY染色体の変動性はこの時点での地域全体に典型的で、社会的意味をまったく有さない可能性があります(関連記事)。モクリン遺跡の状況は、スイスの後期新石器時代家族とも完全に異なり、そこでは男性親族がともに埋葬されることが多かった、と明らかになっています(関連記事)。

 モクリンにおける地位の継承も、他のEBA文化とは異なっていたようです。本論文の親族関係分析は、母親3個体と姉(妹)1個体と親族関係が特定されなかった女性9個体を特定しましたが、娘は特定されず、女性では地位が継承されたのか、それとも獲得されたのか、推測が複雑になりました。息子はその生物学的母親から社会的地位を継承しなかったものの、生涯を通じて地位を獲得する機会があったようです。また、息子がその父親から地位を継承した可能性もあります。代替的な説明は、モクリンでは長子の法則が有効で(関連記事)、本論文の標本では出生後の息子だけが存在する、というものです。いずれにしても、モクリンの状況は、(男性の)地位継承の明確な兆候が存在したように見えるバイエルンの末期新石器時代およびEBAとは確かに異なります。

 地位継承に関する数少ない既存の古ゲノム研究から、後期/末期新石器時代とEBAの社会的構造および地位の継承パターンに、顕著な時空間的変動性があることは明らかですが、調査対象となったさまざまな社会で共通しているのは、女性族外婚の慣行のようです。垂直分化と継承体系の発達を解明することにより、モクリンのようなより大きな墓地の完全な分析は、EBA社会の進化を追跡するのに役立てます。以上、本論文についてざっと見てきましたが、EBAヨーロッパでさまざまな配偶体系が見られるものの、そうした慣行の異なる少なくとも複数の地域で女性族外婚が共通していることは、他の類人猿との共通祖先にまでさかのぼる、人類進化史における非母系社会の名残を反映しているのかもしれません(関連記事)。


参考文献:
Žegarac A. et al.(2021): Ancient genomes provide insights into family structure and the heredity of social status in the early Bronze Age of southeastern Europe. Scientific Reports, 11, 10072.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-89090-x

本村凌二、高山博『衝突と共存の地中海世界』

 放送大学叢書の一冊として、左右社から2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、地中海の形成と農耕開始に簡潔に言及しつつ、おもに都市の出現から近世の始まりの頃までの地中海世界の概説となっています。かつて、地中海世界の一体性を強調する見解が広く受け入れられましたが、近年では、地中海世界の多様性が指摘されています。地中海世界の生態系は地域により大きく異なり、外界から隔絶され独自の環境と生態系を有する多くの小地域から構成されている、というわけです。じっさい、地中海世界を統一的な支配下に置いたのはローマ帝国だけで、むしろ地中海世界の特徴は、多様な文化的背景の人間集団が接触し、交流と対立を繰り返しながら刻んできた、異文化の併存状態と重層性です。

 本書は、地中海世界の初期都市文化に影響を与えた存在として、メソポタミア文化とエジプト文化にも言及します。確かに、地中海世界、とくにヨーロッパとされるギリシアのポリスへのエジプトとメソポタミアからの影響は、とても軽視できません。ローマ帝国以前の地中海史で注目される本書の見解は、エジプトは鉄資源が不足しており、鉄器時代になるとかつてほど(周辺諸国との相対的比較という意味で)繁栄しなかった、というものです。ローマ帝国の衰退要因に関しては古くから多数の説が提示されており、本書はその一部を紹介しつつ、ローマ帝国もしくは地中海「文明」は老衰し、その個体としての寿命を全うした、と評価します。

 本書が地中海世界における古代から中世への移行として重視するのは、南側のアラブ語とイスラム教圏、北側のキリスト教圏が成立した7世紀で、さらにキリスト教圏は東側のギリシア語および東方正教会と、西側のラテン語およびローマ・カトリック教会とに分かれます。こうして、地中海世界では東方正教会とカトリック教会とイスラム教圏の三大文化圏が成立し、これは現在にも続きます。これら三大文化圏は相互に接触して影響し合いながらも、それぞれが基本的に自律的な一つの政治世界となります。

 本書は、この三大文化圏の接点に成立したノルマン・シチリア王国を重視し、そこでは複数の文化圏間で文化移転が生じ、12世紀ルネサンスもその一部だった、と指摘します。また、本書は、ノルマン・シチリア王国における異文化共存が微妙な均衡の上に成り立つ危ういもので、けっきょくはイスラム教徒が追放されたことも指摘します。十字軍は、経済的影響も、東方世界からローマ・カトリック教会(ヨーロッパ西部)圏への文化移入の影響も小さかったものの、三大文化圏の対立の構図を明確にした点で、歴史上の意義は大きかった、と指摘されています。

縄文時代の人類のゲノム解析まとめ

 縄文時代の人類の核ゲノム解析数も次第に増えてきたため、私が把握している分を以下の図で一度まとめます。年代は基本的に直接的な放射性炭素年代測定法による較正年代です。mtHgはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ、YHgはY染色体ハプログループです。なお、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文時代個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2017)については、標本2点の塩基配列を合体して分析していることもあり、今回は省略します。縄文時代の人類遺骸は多数発見されているので、そのうち怠惰な私がこうしたまとめ記事を執筆する気にならないくらい、縄文時代の人類のゲノム解析数が蓄積されることを期待しています。以下は、参考として佐賀県唐津市の大友遺跡の弥生時代早期個体(大友8号)も含めた、核ゲノムが解析されている縄文時代の人類の一覧図です。
画像

 これらの縄文時代の個体は全て、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成します。以下は、東名貝塚標本012とF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002を対象としたAdachi et al., 2021の主成分分析結果を示した図4です。
画像

 大友8号はF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002といった既知の縄文時代個体群と主成分分析では一まとまりを形成し(神澤他., 2021図3)、弥生時代にも遺伝的に縄文時代の個体群と一まとめにできる集団が西北九州に存在したことを強く示唆します。さらに、まだ査読前の論文(Robbeets et al., 2021)で遺伝子型が公表されていないため上記の一覧図には掲載しませんでしたが、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、六通貝塚の個体群とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。さらに、朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と六通貝塚の個体群との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。

 縄文時代の人類は時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質で、そうした遺伝的構成の集団は大きく異なる物質文化の担い手になっていった、と示唆されます。もっとも、言語も含めて精神文化では重要な共通性があったと想定できなくもありませんが、それを否定することはできないとしても、証明することもほぼ無理ではないか、と思います。縄文時代の人類集団がどのように形成されたのか、まだ明らかではなく、今後の研究の進展をできるだけ追いかけていき、考えていくつもりです。新たな縄文時代の人類の核ゲノム解析結果が公表されれば、上記の一覧図も更新する予定です。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132
関連記事

Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2017): A partial nuclear genome of the Jomons who lived 3000 years ago in Fukushima, Japan. Journal of Human Genetics, 62, 2, 213–221.
https://doi.org/10.1038/jhg.2016.110
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1
関連記事

Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
関連記事

ハンガリーのアールパード朝のベーラ3世のDNA解析

 ハンガリーのアールパード(Árpád)朝のベーラ(Bela)3世のDNA解析に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現代ヨーロッパ人の大半はインド・ヨーロッパ語族の言語を話していますが、その起源と拡散はひじょうによく議論されてきた主題です。インド・ヨーロッパ語族の根源を年代測定するために適用されたベイズ法は、紀元前6000年頃の推定年代を提供し、アナトリア半島をインド・ヨーロッパ語族祖語の故地として示唆します。

 代替的な仮説では、インド・ヨーロッパ語族祖語話者はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の遊牧民で、車輪付き乗り物の発明後にその言語がヨーロッパに拡大した、と提案されます。新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ全域の古代人遺骸の遺伝学的データは、紀元前3000年頃に始まるヨーロッパ東部草原地帯からの牧畜民の拡大により媒介された、大規模な人口集団置換を明らかにしました(関連記事)。報告された人口移動は、元々の言語の置換と、「草原地帯」遺伝的構成要素の寄与につながったかもしれません。「草原地帯」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)は、「狩猟採集民」祖先系統および「農耕」祖先系統とともに、ほとんどの現代ヨーロッパ人の遺伝的構成要素を占めます。

 この草原地帯とインド・ヨーロッパ語族との相関には例外が知られており、たとえば、草原地帯関連祖先系統を有するにも関わらず、非インド・ヨーロッパ語族言語を話すバスク人です。遺伝学的研究では、バスク人はイベリア半島の新石器時代および鉄器時代の個体群と最も密接な現代人集団で(関連記事1および関連記事2)、新石器時代以降の在来言語存続の可能性が示唆されます。バスク人については、最近その遺伝的構造の包括的な研究が公表されました(関連記事)。ヨーロッパにおいて二番目によく話されている非インド・ヨーロッパ語族言語は、いわゆるフィン・ウゴル語派で、現在ではフィンランドとエストニアとロシア西部とハンガリーに分布しています。フィン・ウゴル語派はフィン諸語とハンガリー語に区別され、両者ともユーラシア北東部にまで広がっているより大きなウラル語族の一部です。

 現代人集団に関する遺伝学的研究では、ヨーロッパでは人口集団間の遺伝的距離が地理的距離と相関している、と示されています。しかし、これは現在のフィンランド人には当てはまらず、フィンランド人はユーラシア東部人口集団に向かってヨーロッパ人の遺伝的まとまりからずれています。フェノスカンジアの人類遺骸の最近の古代DNA研究は、遅くとも紀元前3500年頃までにはフェノスカンジアに到達した、究極的にはガナサン人(Nganasan)のようなアジア北東部人口集団と関連する、追加の遺伝的寄与を特定しました(関連記事)。この遺伝的構成要素は、フィンランド北部の現代サーミ人個体群により低い割合で存在し、ヨーロッパ中央部祖先系統と大半が混合したフィンランド人にはさらに低い割合で存在します。

 注目すべきは、推定されるシベリア人関連祖先系統の分布が、ほとんどのウラル語族話者人口集団には存在するものの、現代ハンガリー人では欠けていることです。フィンランド人とは対照的にハンガリー人は、わずかしかアジア東部人構成要素を有さないヨーロッパ現代人の遺伝的多様性内にほぼ完全に収まります。ハンガリーの古代人遺骸のゲノム分析は、前期新石器時代における「農耕」祖先系統の到来に伴う大規模な遺伝的置換と、ヨーロッパの他地域で観察されるように、その後の中期新石器時代における在来「狩猟採集民」祖先系統の復興の過程を明らかにしてきました(関連記事)。さらに、後期新石器時代から前期青銅器時代の移行において、「草原地帯」祖先系統がハンガリー全域に拡大し、ほとんどのヨーロッパ現代人に存在する第三の遺伝的構成要素をもたらしました(関連記事)。

 ハンガリーの遺伝的歴史の次の期間は、あまりよく特徴づけられていません。じっさい、鉄器時代後の個体群に関するほぼ全ての古代DNA研究は、Y染色体内の遺伝子型もしくは多型の配列や、ミトコンドリアDNA(mtDNA)配列や、表現型の一塩基多型に依存しており、経時的なハンガリーの人口集団の詳細なゲノム規模の特徴づけはできません。鉄器時代後の紀元前35年から紀元後9世紀前半までハンガリーはローマ帝国の一部で、紀元後4~6世紀のフン人や、紀元後6世紀のランゴバルド人や、それに続く紀元後6世紀後半~紀元後9世紀前半のアヴァール人など、いくつかの「蛮族の移住」を経てました。これまでゲノムデータはパンノニアのランゴバルド関連墓地の遺骸でのみ利用可能で、遺伝的に異質な個体群と明らかになっているので、この集団は以前もしくは現在のハンガリーの人口集団と似ていないさまざまな起源の人々の集合だった、と示唆されます(関連記事)。

 利用可能な文献記録によると、紀元後530年(以下、紀元後の場合は省略します)に「マジャール」という名前と関連づけられてきた「ムゲリウス(Muageris)」王が、黒海北側のクトゥリグール(Kutrigur)フン人の支配者でした。数世紀後、ハンガリーの大王子であるアールモシュ(Álmos)1世は、同じ地域で850年頃に君主制国家を組織化しましたが、以前の人口集団との関連は完全には解明されていません。アヴァール可汗国(Avar Khaganate)の崩壊(紀元後822年頃)から数十年後、アールモシュとその息子のアールパード(Árpád)が862~895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。この征服期間に、ハンガリーの征服者はテュルク語族話者のカバル人(Kabars)とともに、アヴァール人およびスラブ人集団を同化した、と示唆されています。

 興味深いことに、いわゆるアールパード朝(この用語は18世紀にハンガリー最初の王家として提唱され、その名称はハンガリー征服を完了したアルモスの息子のアールパードに由来します)の復元された系図は、大王子アールモシュ(862年頃に最初の征服を主導しました)からハンガリーのアンドリュー3世(1301年に死に、これが王朝終焉を意味します)まで、父方継承が常に続いてきた、と示します。この父系継承で最も著名な王の一人であるベーラ(Bela)3世(在位は1172~1196年)は、ハンガリー王国の象徴として「二重十字架」を採用した最初の王です。ベーラ3世はゲーザ(Geza)2世の息子で、フランスのアンティオキアのアンナと結婚し、第一子の息子は後にイムレ(Emeric)王となりました。ベーラ3世は最初に妻のアンナおよび恐らくはアールパード朝の他の特定されていない構成員とともにセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvá)の王立大聖堂に埋葬されましたが、後にブタペストのマティアス(Matthias)教会に再埋葬されました。

 2012年に、王室と関連する骨格の発掘の一部として、ベーラ3世とアンティオキアのアンナの解剖学的要素が収集されました。以前の研究では、ベーラ3世のY染色体縦列型反復配列(STR)ハプロタイプが遺伝子型決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)R1aと予測されました。別の研究では、ベーラ3世のY染色体配列が報告され、4500年前頃にアフガニスタン北部付近を中心とする地域にたどれる系統と明らかになり、現在のバシキール人(Bashkirs)が2000年前頃に分離した最も密接な父系親族でした。本論文は、ベーラ3世のゲノムがアジア中央部人と現在のハンガリー人のどちらの遺伝子プール内でまとまるのか解明するため、ベーラ3世の遺骸のゲノム規模の特徴づけを試みました。ベーラ3世と関連する墓から4点の骨片が収集されました。ヒトゲノム全体で39万~124万ヶ所の一塩基多型を標的として、対象となる一塩基多型の網羅率は6.154倍となりました。常染色体と性染色体の比率から、標本の個体は男性と判断されました。


●片親性遺伝標識

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、ベーラ3世のmtDNAハプログループ(mtHg)はH1bで、mtHg-Hは現代ヨーロッパでは最も一般的です。ベーラ3世のmtDNAでは、改定ケンブリッジ参照配列(rCRS)に対する多型の一覧が見つかりました。本論文のベーラ3世のmtDNA分析結果は、以前の研究と一致します。mtDNA集団データベースプロジェクト(EMPOP)でベーラ3世のミトコンドリアゲノムのハプロタイプを探すと、おもにヨーロッパで報告されているものの、アジア中央部でも見られるmtHg-H1bの211標本が見つかりましたが、ベーラ3世と正確に一致するハプロタイプは見つかりませんでした。ベーラ3世のYHgはR1a1a1b2a2a1(Z2123)で、アジア中央部でとくに高頻度となるYHg-R1a の主要な下位系統であるYHg-R1a1a1b2(Z93)の下位系統となり、以前の研究の結果と一致します。


●ゲノム規模常染色体遺伝標識データ分析

 さらに、ゲノム起源データを用いて、ベーラ3世の祖先系統が調べられました。まず主成分分析が実行され、ユーラシア西部現代人のデータにベーラ3世の常染色体データが投影されました(図1)。ベーラ3世のゲノムはクロアチアとハンガリーの現代人集団に近接しています。同じようなパターンは、ADMIXTUREに実装されたクラスタ化アルゴリズムから得られ、ベーラ3世はヨーロッパ東部現代人集団と類似の遺伝的特性を共有します。以下は本論文の図1です。
画像

 次にf3外群統計を用いてユーラシア西部現代人集団とのベーラ3世のゲノムの類似性が検証され、共通の外群であるアフリカのムブティ人集団と比較して、共有される遺伝的類似性が計測されました。主成分分析の結果と一致して、ベーラ3世のゲノムはヨーロッパ現代人の多様性内にまとまり、ほとんどの他のヨーロッパ人口集団とは区別できません(図2)。以下は本論文の図2です。
画像

 クロアチア人およびハンガリー人と比較した、ベーラ3世との他の現代人集団のあらゆる類似性の違いを評価するため、f4統計(X、ムブティ人;クロアチア人およびハンガリー人、ベーラ3世)が検証されました。Xは世界規模の現代人集団の一覧です。検証された比較のいずれも、0からの優位な偏差を報告せず、ベーラ3世の遺伝的祖先系統のほとんどがクロアチアおよびハンガリーの現代人と共有されている、と確認されます。しかし、パプア人やアミ人や漢人などユーラシア東部およびオセアニア人口集団を用いた検定では、ベーラ3世にわずかに有意な誘引がありました。これは、ベーラ3世のゲノムと現代アジア人との間には、主成分分析空間ではベーラ3世と最も密接に位置するヨーロッパ人口集団とよりもわずかに高いアレル(対立遺伝子)共有があることを示唆します。


●表現型分析

 表現型関連の一塩基多型を詳しく調べて、ベーラ3世の外見と代謝の特徴が推測されました。歴史的表現で報告されているように、ベーラ3世は明るい肌と青色もしくは緑色の目をしており、それはSLC45A2とSLC24A5とHERC2の各遺伝子について定義された遺伝子座における派生的アレルが存在するからです。さらに、ベーラ3世は乳糖耐性だった可能性が高く、成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するLCT遺伝子の一塩基多型(rs4988235)の派生的アレルを示し、一方でほとんどの現代ヨーロッパ人のように、毛髪の厚さと関連するEDAR遺伝子の祖先的多様体を有していました。


●考察

 822年頃のアヴァール可汗国の崩壊から数十年後、アールモシュとその息子のアールパードは862~895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。カルパチア盆地に拠点を置く三つの草原地帯帝国は、ローマ帝国後の統治モデルの代替を提供しました。征服期間に、ハンガリー人の侵略者はテュルク語族話者のカバル人とともに、アヴァール人とスラブ人の集団を同化させました。さらに、ハンガリーの征服者は、テュルク語族話者のカバル人とともに移動し、オノグル人(Onoghurs)や祖型ハンガリー人などを含む「アヴァール」人領域へと侵入し、統合したことも示唆されます。

 ハンガリー人を征服した人々のmtDNAとY染色体と常染色体の遺伝標識の研究は、ユーラシア東西両方の遺伝的構成要素により特徴づけられる混合祖先系統を明らかにしてきました。しかしハンガリーでは、複数の中世初期のヒトの移住がローマ帝国崩壊後に起きました。したがって、アールパード朝樹立までのハンガリーで起きた人口動態の再構築は、この中間期の考古遺伝学的データが必要となるでしょう。じっさい、フンおよびアヴァールと関連する個体群のmtHgとYHgは、ハンガリー征服期の集団よりもさらに強いユーラシア東部の遺伝的影響を示唆します。

 本論文は、アールパード朝の最も著名な王の一人のゲノム特性を直接的に調べることにより、歴史時代のハンガリーの個体の最初のゲノム規模分析を提示します。歴史的証拠から、895年のハンガリーの部族連合によるカルパチア盆地の最初の征服から12世紀後半のベーラ3世まで父系継承が常に行なわれた、と明らかにされています。1170年にベーラ3世は、戦略的外交関係の構築もしくは維持のためヨーロッパの他の高貴な家系の構成員と結婚するという一般的な伝統にしたがって、ルノー・ド・シャティヨン(Raynald Châtillon)の娘であるアンティオキアのアンナと結婚しました。ベーラ3世から120万ヶ所以上の一塩基多型のゲノム規模データが再構築され、その平均深度は6倍となります。

 ベーラ3世の常染色体DNA特性は、クロアチア人やハンガリー人のようなヨーロッパ東部現代人集団の変異内に収まります。これは、ベーラ3世がヨーロッパで最も一般的な母系であるmtHg-Hであることにより、さらに裏づけられます。さらに、ベーラ3世は以前に、より詳細な系統地理再構築に基づいて、アジア中央部にたどれるYHg-R1aだと明らかになっています。確立された系図に基づくと、このY染色体系統はベーラ3世とその祖先であるアールパード朝の開祖アールパード(845~907年)との間の直接的つながりを提供しますが、それはこの間に系図と生物学的な父子関係が一致しない場合(ペア外父性)がなければ、という条件付です。したがって、大王子アールパードとその後の(ベーラ3世の前の)アールパード朝の構成員は、ベーラ3世よりもユーラシア東部祖先系統の割合を多く有している可能性があります。しかし、これはベーラ3世の代には失われていたかもしれません。それは、アールパードとベーラ3世との間には18世代約300年が経過しており、ヨーロッパ系の貴族との結婚が繰り返し行なわれていたからです。

 それにも関わらず、ベーラ3世とアールモシュとの間の父系関係は、ハンガリーにおけるこのユーラシア東部型のYHgの存在を、少なくとも9世紀末まで拡張する可能性があります。しかし、そうしたユーラシア東部関連のY染色体は、ハンガリーでも獲得できたかもしれません。それは、フンや初期アヴァール期のエリート軍人3個体が、同じYHg-R1a1a1b2(Z93)だと最近明らかになったからです。あるいは、このユーラシア東部の遺産は、東方からの追加の人口移動を通じてハンガリーの部族の征服とともに、ハンガリーに到来した可能性があります。

 注目すべきことに、当時の地元の人口集団の遺伝的構成は、支配王朝の構成員で観察されるものとは異なっていた可能性があります。したがって、征服する部族がハンガリーに現在の言語をもたらしたと考えられるので、ハンガリーのエリートのさらに早い代表者のゲノムを遺伝的に特徴づけることが重要でしょう。これは、ベーラ3世のY染色体で報告されたユーラシア東部祖先系統がハンガリーで獲得されたのか、それとも東方から西方への移住を通じて到来したのか、決定するでしょうし、大王子アールパードと後のアールパード朝構成員が、さらにその後のベーラ3世よりも、常染色体でユーラシア東部祖先系統をずっと多い割合で有しているのかどうか、検証するでしょう。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genome-wide autosomal, mtDNA, and Y chromosome analysis of King Bela III of the Hungarian Arpad dynasty. Scientific Reports, 11, 19210.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-98796-x

『卑弥呼』第72話「生命の選択」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年10月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが難民に疫病対策を伝え、難民がヤノハを日見子(ヒミコ)として崇めるところを見て、ヌカデがヤノハは真の日見子になった、とナツハ(ヤノハの弟のチカラオ)に伝えるところで終了しました。今回は、ヤノハの一行が日鷹(ヒタカ)に到着した場面から始まります。美しい土地だな、と言うヌカデに、オオヒコが地名の由来を説明します。かつてこの盆地全体が巨大な湖で、ある時、大鷹が東寄り飛来し、湖水に羽を浸し、再び朝日の中を去って行ったところ、湖の水が地面に消え、干潟と丘が現れたので、日鷹と呼ぶようになった、というわけです。ヤノハの一行が向かうのは、北にある止羽(トバ)の邑です。ヤノハは、祈祷(というか実質的な目的は出産ですが)のためには極力人がいるところを避けるよう命じていましたが、止羽邑にはどうしても寄りたい、と言います。ヤノハはヌカデだけを呼び、モモソの故郷が日鷹で、邑長の止羽殿の娘(第36話)なのでモモソの塚がここにある、と打ち明けます。今さらモモソに許しを請うて何になるのか、と疑問を呈すヌカデは、やめるようヤノハに忠告します。するとヤノハは、許しを請うつもりはなく、ただ話がしたいだけだ、と言います。ヤノハはヌカデに、止羽殿に塚に詣でる許可をもらってくるうよう、命じます。

 日下(ヒノモト)の国の當麻(タイマ)では、トメ将軍とミマアキの一行が長のクジラに呼ばれていました。その途中で立派な土俵に感心するトメ将軍に、當麻一族にとって手乞(テゴイ)、つまり相撲は神聖な儀式だ、と説明します。警戒して緊張した様子のトメ将軍とミマアキに、そう畏まるな、客人を獲って食べることはない、と言ってクジラは豪快に笑います。クジラから訪問の目的を問われたトメ将軍は、我々は日下に害をなす者ではないが、日下の王、つまりフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)に追われている、と答えます。フトニ王は猜疑心が強い男で、まだ筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)への野心を持ち続けている、と言うクジラは、トメ将軍に何が望みなのか、尋ねます。筑紫島に帰りたいが、帰路を封じられている、とトメ将軍が答えると、當麻の山を越えて河内湖(カワチノウミ)に抜けたいのか、とクジラは悟り、一瞬意味深な表情を浮かべますが、すぐに豪快に笑い、容易なことだ、道中案内をつけよう、と約束します。しかしクジラは、今日くらいはゆっくりとしていくよう、トメ将軍に言います。さらにクジラは、今日は手乞が行なわれるので、力士(チカラビト)の仕合を見てもらいたい、と言います。當麻の手乞、つまり筑紫島の捔力(スモウ)とはどのようなものなのか、とトメ将軍に問われたクジラは、筑紫島とさして変わらないだろう、今晩は選りすぐりの力士たちが蹴速(ケハヤ)の座を賭けて戦う、答えます。蹴速とは一番強い力士の称号だ、と説明するクジラは、トメ将軍とミマアキの一行も歴戦の戦人なので、腕に覚えのある者があれば、ぜひ名乗りをあげてもらいたい、とトメ将軍に言います。トメ将軍が困惑しながら、日下の力士には及びもしないだろうから、と断ると、當麻は力のある者にのみ信を置く習わしだ、とクジラは言います。手乞が始まり、組み方は筑紫島と同じでした。ところが、相手を倒した男は倒れた男を蹴り続け、驚いたミマアキは死んでしまうと思って止めるよう言いますが、これが當麻の捔力だ、とクジラは平然と答えます。相手が死ぬまで戦いは終わらないのか、と剛毅なトメ将軍も驚きます。するとクジラは、力人(チカラビト)力士の命が消えることで大地は浄化され、厲鬼(レイキ)、つまり疫病は消える、當麻の仕合では筑紫島の力人にも生死を賭けてもらう、と言います。

 日鷹では、ヌカデが止羽殿からモモソの墓参りの許可を得て、ヤノハの一行はモモソの塚へと向かいます。モモソは今では日佐津日女(ヒサツヒメ)と呼ばれているそうです。ヒサツヒメ(比佐津媛)という名前と盆地であることから、日鷹は現在の大分県日田市でしょうか。モモソの塚のある山に到着すると、ヤノハは一人で登るといいます。オオヒコは止めますが、モモソと二人だけで話したい、朝日が昇るまでには帰る、と言ってヤノハはモモソの塚へと向かいます。ヤノハはモモソの塚の前で、モモソのような真の日見子(ヒミコ)にはなれなかった、宿してはいけない子を妊娠しているので、自分には日見子を名乗る資格がなく、早々に辞めるつもりだ、と打ち明けます。倭を平らかにする望みも捨てるが、せめて筑紫島に広がる厲鬼だけは何とかしたいので策があったら教えてくれ、とヤノハはモモソに懇願します。しかしモモソは現れず、この体たらくに呆れて現れる気はないか、とヤノハ自嘲します。ヤノハが倒れて寝ているところにモモソが現れ、ヤノハほど天照様を愚弄した日見子はいない、と言います。これからもヤノハのせいで大勢の民が死ぬ、と言うモモソに、だから日見子を辞める、とヤノハは答えます。するとモモソは、辞めても無駄だ、ヤノハの生む子のせいで多くの民が死ぬからだ、とヤノハに告げます。腹の子を殺せというのか、とヤノハに問われたモモソは、その子を殺せばもっと大勢の人が死ぬ、と答えます。ではどうしろというのだ、とヤノハがモモソに問いかけるところで今回は終了です。


 今回も、ヤノハとトメ将軍およびミマアキの動向が描かれました。トメ将軍とミマアキは、やはり當麻の長であるクジラから、命がけで手乞(相撲)で戦うよう、要求されました。これは予想通りでしたが、トメ将軍とミマアキの一行で誰が戦うのか、注目されます。負けるようだとトメ将軍とミマアキの一行は皆殺しになりそうですから、物語の盛り上がりという観点からも負けることはなさそうですが、トメ将軍とミマアキのどちらかが出るのでしょうか。しかし両者とも、相撲に勝っても相手を殺そうとはしないでしょうから、そこでクジラが激昂し、トメ将軍とミマアキの一行がさらに窮地に陥るかもしれません。それでも、最終的にはクジラがトメ将軍とミマアキを認め、両者は無事筑紫島に帰還できるとは思いますが。

 ヤノハがモモソから告げられた内容は、今後の話において重要な役割を担いそうです。しかし、自分が祈祷女(イノリメ)になる前に死ぬことまでは予知できても、楼観からヤノハに突き落とされて殺されるところまでは予知できなかったように、モモソにも漠然とした未来しか見えてなさそうですから、より具体的な内容は当分よく分からないままでしょうか。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、ヤノハの子供は単に台与の親であるだけではなく、作中でひじょうに重要な役割を果たしそうで、どこでどのような人物に成長するのか、注目されます。

過去10年の古代ゲノム研究

 過去10年の古代ゲノム研究の総説(Liu et al., 2021)が公表されました。本論文は、ひじょうに進展の速いこの分野の過去10年の主要な研究を簡潔に紹介しており、近年の古代ゲノム研究を把握するのにたいへん有益だと思います。2001年にヒトゲノムの概要配列が公開され、分子の観点からのヒト生物学と進化理解向上が約束されました。2000年代半ば以降、高出力配列(HTS)技術の進歩とその後の広範な応用により、迅速で費用効果の高い真核生物のゲノムの配列が可能になり、古代DNAの分野でゲノム時代への道が開かれました。年代の得られた遺伝的データの提供により、古代DNAは現生人類(Homo sapiens)と以前には知られていなかった古代型人口集団との混合を明らかにし(関連記事)、重要な適応的変異の出現を解明し、現生人類の最近の進化的過去に関する長く続いてきた議論に光を当て、継続的に新たな証拠の断片を追加し、過去数万年における過去と現在の人口集団の遺伝的歴史を明らかにしました。

 本論文は、古代DNA研究により明らかにされた世界的な人口集団の移動と、中期更新世から歴史時代の現生人類と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の混合および置換を議論し、古代DNAの証拠から得られた洞察に焦点を当てます。本論文は現生人類に加えて、現生人類と最も密接な古代の近縁ホモ属であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)についての現在の知識も議論します。ネアンデルタール人(関連記事)もデニソワ人(関連記事)も、ゲノム規模の情報が得られています。本論文で検討された仮説のほとんどは古代人のひじょうに限定的な標本抽出に由来しており、それは、保存状態の良好なヒト半化石(完全に化石化されておらず、内在性の有機分子を含む遺骸)が不足しているからです。

 1980年代後半までに、DNAは生物の死後も長く生き残れるものの、本質的には高度に分解され、化学的に変化する、と示されました。古代DNAを特徴づける初期の試みは、短いDNA断片に限定されていましたが、DNA分解の詳細な理解とともに古代人へのHTS技術の適用により、2010年には3点の概要古代ゲノムの刊行に至りました。それは、ネアンデルタール人とデニソワ人とグリーンランドの4000年前頃の現生人類です。デニソワ人は、古代DNAデータのみを用いることで特定された新たな古代型系統を表します(関連記事)。

 実験室と計算実施要綱の改良により、極端に短い古代DNA断片の回収および識別と、現代の汚染DNA除去の手法が可能となったので、配列された古代人ゲノムの数は指数関数的に増加しました(図1)。これら古代ゲノムにより、古代系統、古代型ホモ属(非現生人類ホモ属)と現生人類、現代の人口集団の遺伝的構成と適応の調査が可能となり、過去数千年にわたる世界中のヒトの遺伝的歴史を垣間見ることができます。以下は本論文の図1です。
画像



第1部:非現生人類ホモ属と現生人類の相互作用

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムは2010年に再構築されました。常染色体の分析から、両者は相互に現生人類よりも密接に関連している、と示唆されました。共有された遺伝的多様体の水準から、非現生人類ホモ属は現生人類と55万年前頃に分離し、ネアンデルタール人とデニソワ人は相互に40万年前頃に分岐した(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、と推定されました(図2)。

 現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との遺伝的混合は、広く非アフリカ系現代人で検出されてきましたが、混合の割合と地理的分布は大きく異なります。ネアンデルタール人由来の混合は全ての非アフリカ系現代人で検出されており、アジア東部現代人のゲノム(2.3~2.6%)にはユーラシア西部現代人のゲノム(1.8~2.4%)よりも多いネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)が含まれますが(関連記事)、最近の研究では、アフリカ人口集団へのユーラシアからの「逆移住」の修正後は、ネアンデルタール人祖先系統の水準の地域差がより小さくなる、と推定されています(関連記事)。

 加えて、一部のアフリカ人口集団は、ネアンデルタール人および現生人類の共通祖先と分岐したより古い古代型系統からの祖先系統を有している、と仮定されました(関連記事)。さらに、ネアンデルタール人とデニソワ人から出アフリカ現生人類への遺伝子移入の複数回の波として、絶滅した古代系統と交配した古代の現生人類(関連記事)が提案されてきました(図2)。これは、現生人類への、デニソワ人からの最大4回の混合の波と、ネアンデルタール人からの最大3回の混合の波推定によって裏づけられており、現代人集団における、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)など適応的ないくつかの遺伝子移入を含む、非現生人類ホモ属に由来するDNAの存在を説明します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 現生人類系統と非現生人類ホモ属系統との間の混合は、双方向で起きたようです。ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は初期現生人類系統に置換され、37万~22万年前頃の現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入の結果(関連記事1および関連記事2)である可能性が高そうです(図2)。ネアンデルタール人と現生人類の混合は最近では4万年前頃まで起きたと特定されていますが、これらの系統は明らかに現代まで存続していません(関連記事1および関連記事2)。

 また、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性個体(デニソワ11号)は、母親がネアンデルタール人で、父親がデニソワ人です(関連記事)。最近の古代型祖先系統と特定された古代の個体数の増加を考えると、過去の人類は頻繁に混合した可能性があり、非現生人類ホモ属と現生人類を異なる系統とみなすべきなのか、むしろ現代人集団の多様性と類似した過去50万年の遺伝的につながった遺伝的多様性の連続体から取られた点とみなすべきなのか、という問題が提起されます(関連記事)。以下は本論文の図2です。
画像



第2部:現生人類の人口動態


第1章:初期現生人類集団の多様性

第1節:アフリカ

 遺伝的データは現生人類のアフリカ起源を強く裏づけており、初期現生人類集団の形態は更新世アフリカにおける地理的に分散した集団を示唆します。しかし、アフリカの祖先系統の起源を特徴づける単一のモデルを決定することは依然として困難です(関連記事1および関連記事2)。起源地として、アフリカの南部(関連記事)や西部や東部および中央部(関連記事)など、多くの場所が遺伝的多様性と分岐年代の推定から提案されてきました。部分的な現生人類の形態の最初の証拠は現在のモロッコで発見されており、その年代は315000年前頃です(関連記事)。現生人類は相互につながったアフリカ全域の人口集団から出現した、と仮定されていますが(関連記事)、このモデルの検証にはさらなる証拠が必要です。

 25万~20万年前頃の間に、初期現生人類の祖先系統へと寄与する5つの主要な分枝が短い間に分岐し始めました。第一は、おもにアフリカ南部狩猟採集民に祖先系統をもたらした人口集団です(関連記事)。第二は、おもにアフリカ中央部狩猟採集民に祖先系統をもたらした別の人口集団です(関連記事)。第三は、アフリカ西部人と非アフリカ人とアガウ人(Agaw)などアフリカ東部農耕牧畜民を含む他の人口集団です。第四は、アフリカ西部人およびエチオピア高地のモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性1個体(関連記事)に祖先系統をもたらした、標本抽出されていない人口集団です。第五は、東西アフリカ人に等しく関連する古代アフリカ北部人口集団で、モロッコのタフォラルト(Taforalt)の更新世遺跡で発見された、現時点で利用可能な最古のアフリカ人のゲノムの祖先系統の約半分に寄与しました(関連記事)。

 あるいは、現生人類の祖先系統の分岐年代は、合着(合祖)に基づく手法を用いると、35万~26万年前頃と推定されました(関連記事)。8万~6万年前頃に、非アフリカ人とアフリカ東部人(アフリカ東部の狩猟採集民と農耕牧畜民が含まれます)とアフリカ西部人を表す祖先的人口集団と関わる一連の分岐が、アフリカ東部で起きた可能性があります(関連記事)。非アフリカ人全員の祖先系統の大半は、6万年前頃に始まった世界規模の出アフリカ拡大に由来します(関連記事)。いくつかの遺跡および化石はより早期の拡大を示唆しますが(関連記事)、その年代と現生人類との分類は議論されています。


第2節:ユーラシア

 ゲノムデータが得られているユーラシアの初期現生人類の年代は、45000年前頃までさかのぼります。ユーラシア全域の化石記録は疎らで断片化されたままですが、遺伝的データはいくつかの初期現生人類系統(関連記事)を特定しました(図2)。これらの系統のいくつかは、後の人口集団への検出可能な遺伝的連続性を示しませんが、他の系統は現代の人口集団と遺伝的につながっている可能性があります。現在のロシア(関連記事)とルーマニア(関連記事)とチェコ共和国(関連記事)の4万年以上前の3系統は、現時点では最基底部で最古の現生人類ゲノムを表し、現代の人口集団には遺伝的に寄与しませんでした。なお、本論文ではこのように位置づけられていますが、ルーマニアの4万年以上前の現生人類については、出アフリカ現生人類の最基底部を表すのではなく、ブルガリアの4万年以上前の現生人類集団(関連記事)の(きわめて近縁な集団の)子孫で、現代人ではヨーロッパよりもアジア東部の方と類似している、との見解も提示されています(関連記事)。

 40000~24000年前頃の他の初期現生人類系統は、遺伝的に現代の人口集団とつながっています。ユーラシア西部現代人で見られる祖先系統のヨーロッパ古代人は、37000~35000年前頃の個体群に代表されます(関連記事1および関連記事2)。加えて、人口統計学的モデル化では、古代シベリア北部人(ANS)がユーラシア西部人から39000年前頃に分岐したと明らかになり、初期ユーラシア西部人および初期アジア東部人の両方との類似性を示す、と提案されています(関連記事)。さらに、ANSの子孫である古代ユーラシア北部人(ANE)は、ロシアで発見された24000年前頃の1個体で示されるように、アメリカ大陸先住民と密接に関連しています。(関連記事1および関連記事2)。アジア東部では、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(田園個体)が、アジア東部現代人と関連する人口集団(田園洞集団)を表します(関連記事)。これら初期現生人類に関する現時点での知識は乏しいにも関わらず、ユーラシア全域で経時的に、人口構造が増加し、人口集団の相互作用が大きくなり、より高頻度で移動が起きたことは明らかです。

 ユーラシアの初期現生人類のゲノムの利用可能性の増加に伴い、ユーラシアの更新世人口史がつなぎ合わされ始めつつあります。たとえば、田園洞集団とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)に代表される人口集団(ゴイエットQ116-1集団)がどのように遺伝的につながっているのか、不明でした(関連記事)。両人口集団間の物理的距離を考えると、直接的な遺伝子流動の可能性は低そうです。興味深いことに、田園個体とQ116-1の両方とつながる人口集団が、最近ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された46000~43000年前頃の個体群のゲノム分析を通じて明らかにされました(関連記事)。

 遺伝学的および考古学的証拠両方の複素を考えると、直接的に裏づける証拠を得ることは依然としてひじょうに困難ですが、田園洞個体とQ116-1とバチョキロ洞窟個体群に表されるような人口動態は、オーリナシアン(Aurignacian)複合など、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)文化の同時代の拡大と移行に関連していた可能性が高そうです(関連記事)。なお、本論文はこのように指摘しますが、IUPとオーリナシアンは区別すべきかもしれません(関連記事)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)となる、少なくとも一部の初期上部旧石器ユーラシア人口集団は、高い遺伝的多様性と低い変異荷重(人口集団における有害な変異の負荷)を示しますが、多様性減少と関連するボトルネック(瓶首効果)がLGMに伴って北方で起きました(関連記事)。



第2章:LGMにおける人口動態

 本論文は、LGMと一致する人口変化を議論します。LGMは、ヨーロッパとアジア東部とシベリアにおいて過酷な環境条件の期間でした。ヨーロッパでは、ベルギーで発見された35000年前頃の1個体に表される初期人口集団の一つがこの地域から撤退したものの、LGM後の19000年前頃にこの祖先系統を有しているイベリア半島の19000年前頃の個体が、ヨーロッパ南西部で特定されました(関連記事)。LGMの後、さまざまなヨーロッパの退避地の狩猟採集民間で混合が観察されました(関連記事)。

 アジア東部では、田園個体および33000年前頃となるアムール川地域の1個体と関連する祖先系統が、LGMの前にはアジア東部北方全域に広く分布していました(関連記事)。LGM末には、アムール川地域の19000年前頃の1個体と関連して、人口集団の変化が起きたかもしれません。これは、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異の出現を伴っており、この変異はより太い毛幹やより多くの汗腺やシャベル型切歯などと関連しています(関連記事)。

 ヨーロッパやアジア東部と同様に、更新世のシベリアでも人口集団の変化が起き、シベリアには遅くとも45000年前頃には現生人類が居住していましたが(関連記事)、LGM後には、ANS(およびその子孫のANE)祖先系統を有する人口集団が、古代旧シベリア人(APS)に置換されました。APSはアジア東部古代人とANEとの間の混合により形成され、シベリア北東部からバイカル湖のすぐ南まで分布していました(関連記事1および関連記事2)。



第3章:LGM後の人口動態

 LGM後により温暖化して安定した気候が出現し、この期間の人口動態は一連の急速な拡大と移住と相互作用と置換により特徴づけられます。人口移動のパターンは地域によって異なっており、長期的な人口継続性と内部の相互作用にほぼ限定されるものもあれば(アジア東部本土やオーストラリア)、繰り返し起きる人口集団の混合と置換が支配的なものもあります(ヨーロッパやユーラシア草原地帯)。以下、ほぼ時系列に沿って、主要な人口統計学的事象が地理的に要約されます。しかし、人口史の理解は完全にはほど遠く、将来的にはまだ多くの間隙を埋める必要があります。


第1節:アフリカ

 アフリカ人は現代の人口集団において最も高い遺伝的多様性を有しています。しかし、アフリカの古代DNAの保存状態が悪いため、古代アフリカの人口構造と移動パターンの解明は始まったばかりです(図3)。古代ゲノムから、一部の初期アフリカ人は遺伝的に近東の人口集団とつながっている、と明らかになっており、それはモロッコで発見された15000~5000年前頃の個体群(関連記事1および関連記事2)と、アフリカ東部および南部の3000~1000年前頃の個体群(関連記事)により裏づけられます(図3)。5000~1000年前頃には、サハラ砂漠以南のアフリカにおける牧畜民と農耕民との間の複数の混合事象により、現代のアフリカ東部人口集団が生じました(関連記事1および関連記事2)。

 おそらく、最近のアフリカの人口史における最重要事象は、アフリカ西部関連のバンツー語族話者の拡散でした(図3)。それは世界で起きたと考えられている農耕集団の最大となる既知の拡大事象で(関連記事)、サハラ砂漠以南のアフリカの大半に農耕とアフリカ西部関連祖先系統を拡大させました(関連記事)。さらに、遺伝学的および考古学的証拠は、アフリカの東部から南部への2000年前頃となる牧畜民の拡大(関連記事)を裏づけます(図3)。アフリカの古代ゲノムの利用可能性が限定されており、完新世アフリカ集団間で複雑な遺伝子流動があったため、アフリカ内の人口構造と移動は議論され続けています。以下は本論文の図3です。
画像


第2節:ヨーロッパ

 古代DNA研究は、ヨーロッパへの農耕拡大と、インド・ヨーロッパ語族(445以上の現存言語と30億人以上の母語話者)など言語を伴う拡大の両方に関する理解を深めました。考古学的証拠から、農耕はヨーロッパ大陸で8500年前頃に始まる新石器時代に拡大した、と示唆されています。しかし、農耕拡大が移民によるのか、それとも着想や文化の横断的伝播だったのか、議論されてきました。古代DNA分析では、近東(アナトリア半島)からの新石器時代農耕集団がヨーロッパ全域に広く拡大し、その後の数千年に中石器時代からのヨーロッパ在来の狩猟採集民と混合した、と示されます。つまり、農耕拡大は着想の伝播よりもむしろ人々の移住による結果だったわけです。近東現代人とのつながりは、すでに早くも14000年前頃にはわずかに観察され、ヨーロッパ現代人の明るい目の色と関連する、HERC2遺伝子(HECTおよびRLDドメイン含有E3ユビキチンタンパク質連結酵素2)の派生アレルの出現と一致します(関連記事)。

 4900年前頃、現在のロシアで確認されたヨーロッパ東部狩猟採集民と、コーカサス狩猟採集民(関連記事)の祖先系統の、少なくとも2つの狩猟採集民祖先系統の混合である、草原地帯関連祖先系統が東西に向かって拡大しました(関連記事)。草原地帯関連祖先系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連する個体群と最も密接に関連しており、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)全域に拡大した文化複合です(図3)。この祖先系統はヨーロッパ中央部に出現し、縄目文土器(Corded Ware)文化と関連する人口集団を4900年前頃に形成しました(関連記事)。

 4600年前頃には、草原地帯関連祖先系統を有する個体群がブリテン諸島に到来し、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡大と一致し、在来の遺伝子プールの90%を数百年以内に置換しました(関連記事)。遺伝学的証拠から、この過程はほぼ男性により推進された、と示唆されています(関連記事)。なぜならば、ブリテン諸島とイベリア半島では、ほぼ全ての後期新石器時代のY染色体がヨーロッパ東部草原地帯関連のY染色体に置換されたからです(関連記事)。したがって古代ゲノムは、ヨーロッパ現代人の祖先系統が3つの主要な遺伝的構成要素から構成されることを明らかにしました。それは、ヨーロッパ狩猟採集民祖先系統と、初期農耕民祖先系統と、草原地帯祖先系統で、ヨーロッパ全域でこれらの祖先系統はさまざまな割合を示します(関連記事)。


第3節:草原地帯とアジア中央部および南部

 上述の草原地帯集団は、ユーラシアの人口動態に重要な役割を果たしました。4900年前頃、草原地帯集団は現在のヨーロッパだけではなく東方にも拡大し、アルタイ山脈の紀元前3300~紀元前2500年頃となるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連する個体群にも遺伝的影響を残しました(関連記事)。この草原地帯関連祖先系統は現在のモンゴル中央部の東方草原地帯に拡大しましたが、それ以上東方には拡大しませんでした(関連記事)。青銅器時代のアジア中央部では、現在のウズベキスタンとトルクメニスタンで見つかっているバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)の祖先系統は、イラン農耕民(60~65%)とアファナシェヴォ文化農耕民(20~25%)の混合で、わずかにシベリア西部狩猟採集民(10%)とアンダマン諸島狩猟採集民(2~5%)の寄与があります(関連記事)。

 アジア南部では、古代世界で初期の大規模な都市社会となるインダス文化の5000年前頃の個体が、アジア南部現代人にとって最大の祖先系統供給源である人口集団を表します(関連記事)。後に、インダス文化関連人口集団は草原地帯関連祖先系統を有する北西集団および南西部集団と混合し、それぞれ祖型北インド人(Ancestral North Indians、略してANI)と祖型南インド人(Ancestral South Indians、略してASI)が形成されました。ANIとASIの混合は、現在のアジア南部における主要な遺伝的勾配につながりました(関連記事)。アジア南部における草原地帯関連祖先系統は、アジア南部現代人集団の祖先系統に最大30%ほど寄与し、草原地帯の拡大を通じての祖型インド・ヨーロッパ語族拡大の追加の証拠を提供します(関連記事)。


第4節:アジア東部および南東部

 上述のようにモンゴルでは、大きな遺伝的置換がアファナシェヴォ文化牧畜民など草原地帯牧畜民と、匈奴やモンゴルなど酪農牧畜民の拡大および移住と関連しています(関連記事1および関連記事2)。とくに、8000~6500年前頃の新石器時代人口集団はほぼ完全なアジア東部祖先系統を有しており、草原地帯関連祖先系統は5000年前頃に牧畜民の拡大と共にもたらされました(関連記事1および関連記事2)。その後、モンゴルの人口集団は3400年前頃にヤムナヤ文化およびヨーロッパの農耕民と関連する個体群に由来する祖先系統の混合を示します(関連記事)。東方草原地帯の遊牧民連合である匈奴と関連する個体群は2000年前頃に確立し、モンゴルおよびその周辺地域の人口集団の遺伝子を有していましたが、歴史時代のモンゴル人は、現在のモンゴル語族人口集団と類似した高水準のユーラシア東部祖先系統を有しています(関連記事)。

 アジア東部本土と列島では、新石器時代に多様な遺伝的系統が存在し、アジア東部北方祖先系統や、ホアビン(Hòabìnhian)文化と関連するアジア南東部の古代狩猟採集民祖先や、少なくとも二つの異なるアジア東部南方系統や、日本列島に存在する縄文文化と関連する個体群により最良に示される祖先系統を有する個体群が含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。アジア東部現代人の最初の分枝となるアジア東部北方人と南方人との間の遺伝的分化は、早くも19000年前頃までさかのぼります(関連記事)。

 新石器時代の後、アジア東部北方祖先系統はアジア東部南方全域に拡大し、アジア東部南方人におけるアジア東部北方人との遺伝的類似性が経時的に増加していきました。南方から北方への遺伝子流動も、北方の漢人集団と一部のアジア東部北方人で特定された、アジア東部南方祖先系統(関連記事1および関連記事2および関連記事3)で見られます(図3)。アジア東部北方では、アムール川流域の14000年前頃の1個体が、シベリアのAPSに寄与したと明らかになっているアジア東部供給源と最も密接に関連しています。アムール川流域では140000年前頃から現在まで、遺伝的連続が維持されています(関連記事)。

 アジア東部南方人とアジア南東部人との間のつながりは複雑です。最近の遺伝学的証拠は、複雑なモデルを示唆します。そのモデルでは、アジア南東部の在来の狩猟採集民がアジア東部農耕民の複数の波と混合し(関連記事)、アジア南東部とアジア東部南方の狩猟採集民間の混合がアジア東部本土の南部地域で検出されており、それは農耕の拡大よりずっと前の9000~6000年前頃(関連記事)とされています(図3)。アジア東部本土と台湾海峡諸島の人々は、新石器時代オーストロネシア人(11500~4200年前頃)の祖先と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。これら海洋オーストロネシア人は、南東諸島から近オセアニア(ニアオセアニア)へと急速に拡大しました。


第5節:オセアニア

 考古学的証拠では、アジア南東部からの人口集団が5万年前頃以前に最初にサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)に居住した、と示唆されています。オーストラリア大陸では、東西沿岸の49000~45000年前頃となる単一の急速な移住に続いて人口集団が継続的に存在し、ミトコンドリアゲノム(関連記事)もY染色体(関連記事)も、オーストラリアへのより最近の遺伝子流動を示唆しません(図3)。

 オセアニアの島々では、在来のパプア人が、台湾海峡諸島およびその近隣から拡大した可能性の高そうなオーストロネシア人と遭遇し、移住および混合事象の複数の波が過去数千年以内に起きました(図3)。3200年前頃、ラピタ(Lapita)文化は遠オセアニア(リモートオセアニア)へと拡大し、おもにオーストロネシア人関連祖先系統を有していました(関連記事)。しかし、この祖先系統は2700~2300年前頃に、現在のバヌアツなどオセアニアの最西端諸島でパプア人関連祖先系統によりほぼ完全に置換され、おそらくはビスマルク諸島やニューギニア北東部からの継続的な遺伝子流動に起因します(関連記事)。

 現在のフィリピンからミクロネシアのマリアナ諸島への追加の移住が提案されており(関連記事)、オセアニアの移住の複雑さを浮き彫りにします(図3)。過去千年、ポリネシア人関連祖先系統の流入がバヌアツの人々で検出されました(関連記事)。ポリネシア人がアメリカ大陸先住民と混合したのかどうかは、依然として議論の余地があります。現代人のゲノム分析では、ポリネシア人は南アメリカ大陸先住民と800年前頃に接触した、と示唆されますが(関連記事)、別の研究はこの仮説を支持していません(関連記事)。


第6節:シベリア

 上述のようにシベリアでは、APS系統がシベリア東部のコリマ川(Kolyma River)遺跡の9800年前頃の1個体(関連記事)と、バイカル湖の14000年前頃の1個体(関連記事)により最もよく表されます(図3)。APSに加えて、アジア東部人と、ANE系統と関連する人口集団との間の混合を通じて形成された他の系統が、基底部アメリカ大陸先住民分枝を形成し、その子孫はベーリンジア(ベーリング陸橋)を渡って最終的にはアメリカ大陸に到達しました(関連記事)。APS祖先系統を有する個体群は、チュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)などシベリア北東部の現代人集団の祖先で、アメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民の最も近縁な集団を表します(関連記事)。

 前期~中期完新世のシベリア東部では、APS関連人口集団が新シベリア人に置換されました。新シベリア人はおもにアジア東部祖先系統を有しており、さまざまな割合のユーラシア西部草原地帯関連祖先系統が伴います。前期新石器時代から青銅器時代まで、バイカル湖では遺伝的移行が起こり、アムール川流域からのアジア東部祖先系統とANE関連祖先系統との間の長い遺伝子流動と関連しています(関連記事)。


第7節:アメリカ大陸

 シベリアで基底部アメリカ大陸先住民分枝が形成された後、ベーリンジアの最初の移住は停止しました(関連記事)。北アメリカ大陸先住民(NNA)と南アメリカ大陸先住民(SNA)の共通祖先は、アラスカで発見された11500年前頃の個体により最もよく表される古代ベーリンジア人と分岐しました(関連記事)。アメリカ合衆国モンタナ州のアンジック(Anzick)遺跡で発見された12800年前頃の子供1個体(関連記事)により示唆されるように(関連記事)、17500~14600年前頃、NNAとSNAはおそらく北アメリカ大陸の氷床の南側で相互に分岐した可能性が高そうです。アンジック遺跡は、北アメリカ大陸で定義された最古の広範な考古学的複合であるクローヴィス(Clovis)複合と関連しています。このアメリカ大陸の南北系統の分岐後、NNA祖先系統は北アメリカ大陸北部に限定されました。北アメリカ大陸では9000年前頃以前に、NNA集団とSNA集団との間の混合により、9000年前頃のケネウィック(Kennewick)人(関連記事)と古代アルゴンキン人(Algonquians)が生まれました。

 SNAはアメリカ大陸全域に広範かつ急速に拡大し、これは13000~10000年前頃となる南北アメリカ大陸の古代ゲノム間の遺伝的類似性(関連記事)により裏づけられます(図3)。アンジック遺跡個体がアルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とさまざまな水準の類似性を有していることから、南アメリカ大陸へのSNAの拡散は少なくとも2回の波で起きたかもしれません。5000年前頃、アメリカ大陸北極圏の大半に居住していたのは旧イヌイットで(図3)、旧イヌイットは800年前頃に現在のイヌイットおよびユピク(Yup’ik)の祖先である「新イヌイット」系統によりほぼ置換されました(関連記事)。



第3部:今後の展望

 最初のヒトゲノムのアセンブリは技術的進歩を促進し、古代DNAを用いて人類史の理解を深めることが可能となりました。6000点以上の古代ゲノムがこれまでに再構築されましたが、まだ人類史の表面をひっかいただけであり、多くの間隙が埋められていないままです。利用可能性と保存に違いがあるため、古代ゲノムの大半、とくに3万年以上前のものはユーラシア北部に由来し、アフリカとアジアとアメリカ大陸とオセアニアの標本抽出は限定的です。したがって、これらの地域から古代ゲノムを得ることに注力すべきです。技術的および計算上の改善も、古代ゲノム利用の能力を拡張する、と期待されます。欠落情報の補完は、断片的な遺伝的データを補完する強力な手段で、堆積物からの古代DNAの捕獲により、半化石に依存しない古代DNAの回収が可能となり、古代DNA研究の資料の利用可能性を大きく向上させます。

 研究者は、古代人からプロテオーム解析(プロテオミクス)や同位体や微生物叢やエピジェネティクスのデータを回収することに取り組んでおり、古代DNA分野の範囲をさらに補完します。最近、100万年以上前の大型動物からDNAを得ることに成功しており(関連記事)、近い将来、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人だけではなく、まだゲノム情報が得られていない絶滅ホモ属のより深い進化の道筋を再構築できる可能性が高まっています。これらゲノムのあり得る供給源には、中国で発見され新たに報告された、種区分について議論が続いている化石(関連記事)も含まれます。

 人類史についての知識の増加とは別に、過去10年の古代DNA研究は、ヒト生物学の理解への洞察も明らかにしてきました。たとえば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)重症化の主要な遺伝的危険要因は、ネアンデルタール人から継承されました(関連記事)。遺伝子編集技術の進歩により、今や古代ゲノムから特定された適応的多様体を特徴づける準備が整っており、進化が現代人のゲノム構造をどのように形成したのか、よりよく理解できるようになりつつあります。

 最後に、我々の過去は、我々が新たな課題にどのように向き合うべきか導き、気候変動と世界的流行病の教訓を提供します。遺伝学的および考古学的証拠では、ヒトがひじょうに過酷な北極圏の条件を含むさまざまな環境を、探索し、生き残り、居住していった、と示唆されます。過去、とくにLGMに遭遇したような困難な状況の詳細な再構築は、極限環境へのヒトの適応を解明するのに役立つでしょう。本論文はヒトの進化に焦点を当てていますが、ヒトの病原体の古代DNA研究は、経時的な病原体の進化および宿主と病原体の相互作用について情報を提供し、感染性病原体へのヒトの適応をよりよく理解する見込みを示します。毎年分析されている古代ゲノム数の増加はヒトの過去の多くの物語を明らかにし、その知識はヒトの未来を受け入れるための指針にもなるでしょう。


参考文献:
Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202

大河ドラマ『青天を衝け』第29回「栄一、改正する」

 栄一は明治政府に出仕することになり、伊藤博文と大隈重信の同意を得て、各省の垣根を超えた改正掛を設置し、前島密たちを呼んで改革に努めます。何を改革すべきか、優先順位をどうするのか、議論百出で容易にはまとまりませんが、栄一はこの状況を歓迎し、楽しんでいました。栄一は製糸業も担当することになり、これは後に尾高惇忠も深く関わることになるので、重要な描写だったかもしれません。惇忠も血洗島で養蚕の改善に励んでおり、弟が死んだことで負った深い精神的打撃から立ち直りつつあるようですが、明治政府への蟠りはまだ強いようです。それでも惇忠は栄一の誘いを受け入れ、政府の関わる製糸業に従事する決断をします。

 今回は、明治政府での栄一の活躍が描かれました。明治初期の混沌としていながらも活気のある様子と、何よりも郵便事業など近代化進展の様相が具体的に描かれているのはよいと思います。栄一はすぐに政府から去りますが、政府役人時代の経験が後の諸事業に活かされているでしょうから、役人時代の描写は重要だと思います。その意味で残念なのは、恐らくは当初の予定より回数が減り、明治編が短くなっただろうことです。やや気になるのは、大久保利通が陳腐な悪役として描かれているように見えることです。ただ、これまでの作風からして、大久保の意図も今後描かれ、単純な悪役に終わるわけではないだろう、と期待しています。

古代ゲノムデータに基づくエトルリア人の起源と後世への影響

 エトルリア人の起源と後世への影響に関する研究(Posth et al., 2021)が公表されました。エトルリア文化(本論文では「civilization」が用いられていますが、以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」を用いないことにしていますので、以下訳語は「文化」で統一します)は鉄器時代にイタリア半島中央部の広範な地域を占めており、トスカーナやラツィオやウンブリアが含まれ、その存続期間にはイタリア半島の近隣地域にも局所的に拡大しました(図1A)。エトルリア文化は、冶金学における卓越した技術や、その洗練された文化的表現や、まだ完全には理解されていない非インド・ヨーロッパ語族の消滅言語により有名です。

 エトルリア文化を同時代の近隣地域の文化と区別する独自性のため、エトルリア文化と関連する人口集団の地理的起源については、二つの主要な競合する仮説とともに、古代にまでさかのぼる激しい議論が長く続いてきました。一方の仮説は、古代ギリシアの作家であるヘロドトスとレスボス島のヘラニコスにより示唆されたように、アナトリア半島/エーゲ海地域起源説を提案しています。この仮説は、紀元前8~紀元前6世紀のいわゆる東方化期の、エトルリアにおける古代ギリシア文化要素の存在により裏づけられます。

 もう一方の仮説は、ハリカルナッソスの歴史家ディオニュシオスにより紀元前1世紀に記述されたように、在地発展が主張されています。この仮説によると、エトルリア集団は紀元前900年頃となる後期青銅器時代の(祖型)ヴィッラノーヴァ文化(Villanovan culture)と関連する人々から地元で生まれました。考古学者間の現在の合意は後者の仮説を支持しますが、ラテン人などインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派話者集団に囲まれて孤立した非インド・ヨーロッパ語族の持続可能性は興味深く、依然として未解明の現象で、さらなる考古学と歴史学と言語学と遺伝学の調査が必要です。

 4世紀以上にわたる広範な地域開発の後、エトルリア文化は紀元前4世紀に、紀元前264年に終わった一連のローマ・エトルリア戦争を通じて共和政ローマに同化され始めました。この変化期間にも関わらず、エトルリア文化とその宗教的伝統はその後の数世紀にわたって、紀元前27年以後にローマ帝国の第七行政区にエトルリアが編入された後でさえ存続しました。いわゆる大移動期と紀元後5世紀の西ローマ帝国崩壊後に、この地域は短期間東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に組み込まれました。その後イタリア半島の大半は、中世初期にランゴバルドとして知られるゲルマン関連集団により征服されました。紀元後6世紀後半に設立されたランゴバルド王国および諸公国は、2世紀以上にわたってイタリア半島を支配しました。ランゴバルド王国は紀元後774年にカロリング帝国(フランク王国)に継承され、フランク王国は後に神聖ローマ帝国へと発展しました。

 上述の期間の個体の古代DNA分析は、これらの歴史的に記録された事象が、移住もしくは高い移動率に起因する人口集団水準の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)パターンの変化と関連しているのかどうか、これらの変化がイタリア人の現代の遺伝的景観にどの程度の影響を与えたのか、調べる直接的方法を提供できます。エトルリア史研究の遺伝的分析の寄与の可能性は、過去10年間、議論され調査されてきました。

 トスカーナ現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、現在のアナトリア半島人口集団との関係を示し、これはエトルリア人の最近の近東起源の証拠として解釈されてきました。対照的に、エトルリア関連個体群のmtDNAに関する初期の研究では、エトルリア人と同地域の現代人との間の遺伝的連続性の証拠が見つからず、例外はトスカーナのいくつかの孤立した場所でした。イタリア半島の古代ゲノム研究は非常に限られており、イタリア半島全体で、新石器時代からローマ共和政期の利用可能なデータは僅かしかありません(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 鉄器時代とローマ共和政期(紀元前900~紀元前27年)におけるローマおよびその周辺の古代都市の個体群は、青銅器時代以降のほとんどのヨーロッパ人を特徴づける、顕著なゲノム構成要素を有しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。さらに、そのうち3個体はアフリカと近東からの最近の遺伝的影響を有すると明らかになり、鉄器時代にまでさかのぼる地中海全域でのローマの広範なつながりをさらに示します。意外なことに、ローマ帝国の首都の近くでは、後の帝政期の個体はほぼ全て、地中海東部祖先系統の大きな割合を有しており、この祖先系統は後に古代末期と中世初期において減少しました(関連記事)。しかし、これらの変化がイタリア半島の他地域全体で起きた過程を表している程度は、大都市のローマおよびその古代都市圏以外の個体群では明らかにされていません。

 本論文は、エトルリアにおけるエトルリア文化関連個体群およびその後の集団の遺伝的歴史を、時代区分された70個体の古代ゲノムを通じて調べます。これらの個体は12ヶ所の遺跡に由来し、そのうち46個体では紀元前800~紀元後1000年とほぼ2000年にわたる直接的な放射性炭素年代が得られています(図1B)。さらに、バジリカータ(Basilicata)州にある「ヴェノーザ(Venosa)の公衆浴場」遺跡の紀元後8世紀と放射性炭素年代が得られている16個体のゲノム規模データが生成され、イタリア半島の中央部および南部の中世初期の個体群の遺伝的構成が比較されました(図1)。

 これらのデータはともに、エトルリア文化関連集団の遺伝的起源とその同時代および後世の人口集団との関係に関する重要な問題を解決します。さらに、エトルリアにおけるローマ帝国の成立などの重要な歴史的事象の遺伝的影響が評価され、イタリア半島の中央部および南部全域の中世初期個体群の遺伝的構成が特徴づけられ、これら過去の文化と現代の人口集団間の遺伝的連続性の水準が明らかにされます。以下は本論文の図1です。
画像


●分析結果

 86個体の側頭骨の錐体部と歯からDNAが抽出されました。側頭骨の錐体部はDNAの保存状態が良好とされています(関連記事)。品質管理により、三つの時代区分にまとめられた82個体の最終標本セットが得られました。内訳は、紀元前800~紀元前1年(鉄器時代およびローマ共和政期)が48個体、紀元後1~紀元後500年(ローマ帝政期)が6個体、紀元後500~1000年が28個体(イタリア半島の中央部が12個体で南部が16個体)です(図2B)。

 鉄器時代およびローマ共和政期と関連する個体のうち、大半(48個体のうち40個体)は「イタリア中央部エトルリア文化(C.Italy_Etruscan)」という名前の遺伝的まとまり(以下、CIE)を形成し、ヒト起源データセット(Human Origins dataset)のユーラシア西部人口集団で構築された主成分分析では、現代のスペイン人と重なります(図2A)。紀元前800~紀元前1年となる鉄器時代およびローマ共和政期全体では、主成分分析の外れ値の3集団が特定されます。つまり、アフリカ北部人口集団へと動く4個体(CIE.Afr、以下CIEA)と、ヨーロッパ中央部人口集団へと動く3個体(CIE. Ceu、以下CIEC)、近東人口集団へと動く1個体(C.Italy_Etruscan_MAS001、以下CIEM)です。

 イタリア半島中央部および南部人口集団の遺伝的まとまりをさらに詳しく調べるため、遺伝的に関連する個体群を除外した後、71個体で教師なしADMIXTUREが実行されました(図2BおよびC)。CIE個体群は、アナトリア半島新石器時代農耕民とヨーロッパ狩猟採集民とポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と関連した、3つの遺伝的祖先系統を有しています。CIECは「草原地帯関連祖先系統」をより高い割合で有していますが、CIEMはイラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素を示します。イラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素は、前期新石器時代モロッコ集団で特定された祖先系統構成要素に沿って、CIEA個体群にも存在します。以下は本論文の図2です。
画像

 後期新石器時代と前期青銅器時代における草原地帯関連祖先系統の拡大はインド・ヨーロッパ語族の拡散と関連づけられてきており(関連記事)、「草原地帯」故地の言語学的証拠と一致しているので、非インド・ヨーロッパ語族のエトルリア語と関連すると推定されるエトルリア文化個体群における、草原地帯関連祖先系統の割合が推定されました。まず、CIEクラスタから年代測定され遺伝的に無関係な21個体がまとめられ、ロシア西部のサマラ(Samara)地域の青銅器時代牧畜民(ヤムナヤ文化)により表される草原地帯関連祖先系統と、イタリア半島の新石器時代もしくは銅器時代人口集団との混合として、qpAdmでモデル化されました。この分析は、そうした遠方の草原地帯関連祖先系統供給源からの約25%の祖先系統を示し、比較対象の人口集団をヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも時空間的にイタリア半島により密接な人口集団、たとえばヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団に帰ると、約50%に達しました(図3B)。

 さらにCIEは、イタリア半島北部のより早期の鐘状ビーカー集団やヨーロッパ南部の鉄器時代人口集団(イベリア半島やクロアチアやギリシア)のような他のヨーロッパ人口集団に完全な祖先系統が由来するものとして、モデル化に成功できます。主成分分析は、ローマの古代都市を含めてトスカーナとラツィオの鉄器時代とローマ共和政期の個体群間の完全な重なりを明らかにし、草原地帯関連祖先系統のかなりの水準が、鉄器時代までにイタリア半島中央部全域でインド・ヨーロッパ語族話者と非インド・ヨーロッパ語族話者両方を含むと知られている複数の文脈において、広範に拡大して均質化されていた、と示唆されます。

 本論文で特定された他の同時代の祖先系統集団が、小数の個体により表されているものの、この全体像に詳細さと複雑さを追加しています。CIECの無関係な2個体(VET005とCAM002)は、ヤムナヤ関連祖先系統のより高い割合(40%)により特徴づけられ、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有するヨーロッパ中央部および南部両方の銅器時代もしくは青銅器時代人口集団に由来することと一致します(図3AおよびB)。この兆候は、f4統計(オンゲ人、検証集団;CIEC、CIE)により確認され、検証集団がヤムナヤ関連祖先系統の約半分を表すヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)で構成される場合、有意に負の値となります。これは、主要なCIEクラスタよりもCIECとのEHGの高い類似性を示唆しますが、検証集団が草原地帯関連祖先系統を有さないヨーロッパ南部新石器時代集団に限定されると、逆の結果が観察されます。

 次にCIECが在来の祖先系統との混合兆候を有するのかどうか、検証されました。f3(CIE、検証集団;CIEC)統計では、CIECがCIEと本論文のデータセットにおける255のあらゆる古代人検証集団との間の混合から派生した、という証拠は明らかになりません。さらに、qpAdmにおいてCIECをエトルリア文化関連個体群とヨーロッパの鐘状ビーカー個体群との間の混合としてモデル化することは可能ですが(図3B)、CIECを参照セットに移動させて新石器時代集団に置換すると、そのモデルは依然として維持され、局所的に混合しなかった北方祖先系統の流入と一致します(関連記事)。

 ソフトウェアDATESを用いて、CIEC個体群の混合年代が推定されました。VET005は実行不能な年代(負の値)をもたらしましたが、CAM002は19.7±8.6世代前の混合年代を提供し、CAM002の年代(紀元前7世紀)の572±249年前に相当します。これらの結果は、検証されたCIECの2個体が、最近の在来の混合の結果ではない、流入してくる祖先系統を表している、と示唆します。この2個体は2ヶ所の遺跡に由来し、放射性炭素年代はCAM002が紀元前7世紀、VET005が紀元前3世紀です。したがって、この明確な祖先系統特性は、数世紀にわたる持続ではなく、北方地域からイタリア半島中央部へ複数の時期に独立して到来したかもしれません。以下は本論文の図3です。
画像

 遺伝的外れ値1個体を除外してCIEAでまとめられた3個体は、新石器時代関連ヨーロッパ祖先系統と青銅器時代関連ヨーロッパ祖先系統との間の混合としてモデル化できません。この3個体の年代は紀元前300年頃で、100km以上離れた2ヶ所の遺跡、つまりタルクイーニア(Tarquinia)とウェツロニア(Vetulonia)で発掘されました。f3統計(CIE、X;CIEA)とf4統計(オンゲ人、X、CIE、CIEA)は、CIEAが、エトルリア文化集団と、アフリカ北部もしくはサハラ砂漠以南の祖先系統をより高い割合で有する古代もしくは現代(代理として)の個体群との混合である証拠を示します。qpAdmを用いると、供給源の一つとしてCIEを含む全ての混合モデル化は却下されました。しかし、同年代のアフリカ北部の個体のゲノムの限定的な利用可能性を考えると(関連記事)、この地域の追加のデータが利用可能になれば、祖先系統の割合がより正確に推定される可能性に要注意です。

 青銅器時代シチリア島と鉄器時代サルデーニャ島の以前に報告された知見(関連記事1および関連記事2)とは異なり、2000年以上前のイタリア半島中央部の個体群ではイラン関連祖先系統の証拠は見つかりません。新石器時代イラン個体群をqpAdm の参照セットに入れた場合でも、CIEとCIECを遠方の3供給源、つまりアナトリア半島新石器時代農耕民、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、ヤムナヤ文化サマラ個体群の混合としてモデル化できます。これは、考古学的記録で観察される相互作用の特徴的な範囲により確認されるように、青銅器時代と鉄器時代におけるシチリア島民とサルデーニャ島民の遺伝的歴史が、イタリア半島本土の人口集団とはかなり異なっていたことを示唆します。

 CIEM個体(MAS001)は本論文のデータセットで単一の例外を表し、主成分分析空間では紀元前200年頃の近東人口集団への移動を示します(図4A)。f統計はCIEクラスタとの祖先系統の連続性を有意には却下しませんが、新石器時代関連祖先系統と草原地帯関連祖先系統との間の混合モデルは、MAS001の遺伝的特性に合致しません。代わりに、CIEMはCIEクラスタと青銅器時代アルメニア人のようなコーカサス人口集団との間の混合としてモデル化でき(図4B)、少なくとも紀元前2世紀までのエトルリアにおけるイラン関連祖先系統の散発的存在を示唆します。

 紀元後千年紀前半には、分析対象の全個体の近東勾配に向かっての主成分分析空間における顕著な移動が観察され、現代のヨーロッパ南東部人口集団に占められる遺伝的空間全域に分布します(図4A)。紀元後1~500年の外れ値ではない個体は「C.Italy_Imperial」クラスタとまとめられます(以下、CII)。f4検定では、イランやアフリカや近東の古代人集団との比較で、CIIはCIEよりも高い類似性を示す、と明らかになりました。

 次にqpAdmを用いてこの集団の祖先系統構成要素が定量化され、CIIはCIEと既知のヨーロッパおよび近東の青銅器時代および鉄器時代の158個体の混合としてモデル化されました。結果として、データに最適だと分かったモデルは、レヴァントもしくはアナトリア半島人口集団から、在来の/既存のCIE遺伝子プールへの38~59%の寄与でした(図4B)。地中海東部からのかなりの遺伝子流動も、帝政期ローマの古代人で報告されています(関連記事)。紀元後1~5世紀のデータポイント数が限定的であるにも関わらず、本論文の結果から、ローマにおける外来祖先系統の寄与はエトルリアよりも大きかった、と示唆されます(図4A)。しかし、ローマ帝政期における流入集団のこの大規模な遺伝的影響は、ローマ周辺の大都市圏だけではなく、本論文で検討された近隣およびより遠方の地域にも拡大していました。以下は本論文の図4です。
画像

 本論文の古代ゲノム時代区分の最終期間となる紀元後500~1000年に関しては、「C.Italy_Early.Medieval」クラスタ(以下、CIEM)にまとめられる個体群が、CIEと比較してヨーロッパ中央部集団に向かって遺伝的に動いており、ほぼイタリア半島中央部の現代人集団と重なります(図5A)。f4検定を用いると、この移行がCII と比較して地中海東部人口集団へのCIEMの類似性減少により確認される、と示されます。

 さらに、CIEMクラスタはqpAdmでは、先行するCII集団(60~90%)とヨーロッパ北部および東部の古代末期もしくは中世集団(10~40%)との混合として、モデル化に成功できます。とくに、最も支持されるモデルには、ハンガリーのランゴバルド墓地と関連する個体群とイタリア北部個体群を特徴とするものがあります(関連記事)。具体的に、それら混合されていないヨーロッパ北部遺伝的祖先系統を有するランゴバルド関連個体群(Piedmont_N.Longobard)に分析を限定すると、CIEMクラスタへの20%程度の寄与が得られます(図5B)。この知見は、ランゴバルド王国期のイタリア半島中央部におけるヨーロッパ北部祖先系統の遺伝的流入と一致します。しかし、東ゴートのようなイタリア半島における他のゲルマン部族の影響も、観察されたゲノム変化を強化したかもしれません。

 イタリア半島中央部の現代人は主成分分析空間ではCIEM個体群と重なっているので(図5A)、CIEM個体群に由来するイタリア半島中央部の現代人の一貫性が検証されました。解像度を高めるため、qpAdmは参照セットの現代の世界規模の人口集団で実装されました。現代のイタリア半島人口集団はCIEMクラスタからの派生と一致しませんが、トスカーナの高網羅率のゲノム配列の個体群(Tuscan.DG)は、遺伝的連続性の強い却下の根拠を示しませんでした。これは、現代のイタリア半島中央部人口集団の遺伝的構成が、紀元後1000年までにほぼ形成されたことを示唆します。

 類似の全体像がイタリア半島南部の同時代の個体群で観察されるのかどうか調べるため、バジリカータの中世初期ヴェノーザ遺跡のデータが同様に分析されました。VEN002個体を除いて、ヴェノーザ遺跡個体群(S.Italy_Venosa)は主成分分析空間では現代のイタリア半島南部人口集団と広く重なっており、qpAdmでは祖先系統の同じ流れに由来するものとして共同でモデル化できます(図5AおよびC)。主成分分析空間では、ローマのほとんどの中世および近世個体群は、トスカーナとバジリカータの中世初期集団間の中間に位置します(図5A)。したがって、この分布は地理を反映する現在の南北勾配と一致しており、イタリア半島はヨーロッパと地中海東部との間の遺伝的間隙を架橋します。以下は本論文の図5です。
画像

 これらのゲノム変化における性的偏りの影響の可能性を調べるため、経時的な片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の頻度が計算されました。mtDNAの多様性は、紀元後1年の前後で実質的に変化していないようです。対照的に、紀元前800~紀元前1年の新たに報告されたイタリア半島中央部個体群は、Y染色体ハプログループ(YHg)R1bが75%の頻度を示し、ほぼYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)とその派生のR1b1a1b1a1a2b1(L2)に表され、これは鐘状ビーカー複合との関連で草原地帯関連祖先系統に沿ってヨーロッパ全域に拡散しました。これは、YHg-R1b系統が青銅器時代に草原地帯関連集団の移動とともにイタリア半島に拡大したことを示唆します。紀元後千年紀には、YHg-R1bの頻度は40%程度と減少し、YHg-Jのような近東関連Y染色体系統がより高頻度となります。かなりの女性の移動の可能性を除外できませんが、YHg頻度における顕著な変化は、ローマ帝政期移行に観察された遺伝的置換において男性の移動が重要な役割を果たした、と示唆します。


●考察

 トスカーナとラツィオとバジリカータの2000年にわたるイタリア史の古代人82個体のゲノム分析は、遺伝的変容の大きな事象を明らかにしてきました。本論文のイタリア半島中央部の時代区分の第一期(紀元前800~紀元前1年)全体では、ほとんどの個体は均質な遺伝的まとまりを形成し(CIE)、他地域にたどれる祖先系統を有する個体の孤立的存在は実質的な地域的遺伝的影響を残さなかった、と示唆されます。とくに、以前の提案とは逆に、エトルリア人関連の遺伝子プールは近東からの最近の人口移動に起源があったわけではないようです。

 エトルリア人とラテン人との間の文化および言語の違いにも関わらず、エトルリア人はローマやその周囲のラテン人など他の近隣人口集団と共有される地域的な遺伝的特性を持っています。CIEの遺伝的特性の大部分は草原地帯関連祖先系統に由来する可能性があり、ほとんどの他のヨーロッパ地域で観察される傾向を確認します。この遺伝的構成要素は青銅器時代にイタリア半島中央部にも到達していましたが(関連記事)、それはサルデーニャ島よりも早かったと推測されています(関連記事1および関連記事2)。

 イタリック祖語とその派生語(ラテン語やオスク語やウンブリア語)との間の分岐は紀元前二千年紀に起きたと推定されているので、イタリア半島におけるイタリック祖語の存在は、草原地帯からのヤムナヤ文化関連集団の少なくともそれより千年早い移動と直接的に相関することはあり得ません。代わりに、流入してくる草原地帯関連集団がヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の最初の到来をもたらしたと仮定すると、イタリック語派を含むインド・ヨーロッパ語族のより派生的な形態が、イタリア半島全域で後の段階に拡大したかもしれません。

 これまでにゲノムデータが得られている紀元前2000年頃のイタリア半島北部の鐘状ビーカー複合関連遺骸は3個体だけで、草原地帯関連祖先系統の非遍在的存在を明らかにしており(関連記事)、混合過程が進行中であることを示唆します。エトルリアにおける非インド・ヨーロッパ語族であるエトルリア語の歴史的記録の持続から、エトルリア語話者共同体が大規模な混合にも関わらず維持された、と示唆され、この状況は、非インド・ヨーロッパ語族が現在でも持続しているイベリア半島のバスク地域と類似した状況です(関連記事)。

 この言語の持続性は、遺伝的置換と相まって、「遺伝子=言語」という過度に単純化された仮定に疑問を提起し、おそらくは紀元前二千年紀の長期的な混合期間にエトルリア語話者共同体による(初期)イタリック語派の同化を伴ったかもしれない、というより複雑な想定を示唆します。この想定は、イタリア半島中央部における早くも紀元前1650年頃の草原地帯関連祖先系統の最近の発見と、その後のこの構成要素の経時的な増加により(関連記事)、さらに妥当なものとなりました。

 エトルリア語はローマ帝政期までイタリア半島中央部で存続した消滅言語とみなされていますが、孤立していませんでした。代わりにエトルリア語は、アルプス東部で記録されており、古代の歴史家がポー川流域から移住してきたと主張している人口集団の言語であるラエティア語と、エーゲ海の古代リムノス島で話されていたと推定されているレムニア語の両方と関連しているようです。これにより、これらの謎めいた「ティルセニア(Tyrsenian)」語族が地中海東部からの海路での拡大と何らかの関係があるのかどうか、という疑問が残ります。しかし、CIEにおけるイラン関連祖先系統の欠如は、地中海全域の密接な言語の類似性がイタリア半島からの人口移動を表している、という可能性も示唆しているかもしれません。

 本論文のデータセットで外来の遺伝的兆候を有する最初の個体(CAM002)は、放射性炭素年代で紀元前7世紀となり、ヨーロッパ中央部の遺伝的特性を示します。前期鉄器時代には、ケルト関連集団と関連するハルシュタット(Hallstatt)文化がアルプスの北部地域に存在しました。エトルリア文化と紀元前8世紀の北方文化集団との間の商品や技術の交換の考古学的証拠はありますが、広範な直接的接触が後になってやっとラ・テーヌ(La Tène)文化期に報告されており、この頃にはケルト関連集団がエトルリア人との境界となるイタリア半島北部へと拡大していました。本論文で提示されたデータセットでは、放射性炭素年代で400年の違いにも関わらず、CAM002個体と重なる遺伝的特性を有する、放射性炭素年代で紀元前3世紀の別の個体(VET005)が見つかりました。これは、ハルシュタット文化期からラ・テーヌ文化期のエトルリアで見つかる、ヨーロッパ中央部の遺伝的祖先系統の供給源における継続性を示唆します。

 紀元前4~紀元前1世紀には、それ以前の4世紀間よりも、近東およびアフリカ北部個体との最大の類似性を示す、外来の遺伝的祖先系統を有する個体群の割合が高いと特定されます。これは、エトルリアと他地域との間の相互作用の増加により説明できますが、港と関連する社会だけではなく、後背地の社会にも当てはまります。そうした大陸間接続の象徴的事例は、ウェツロニアのサン・ジェルマーノ(San Germano)遺跡で観察され、同じ墓の内部でさえ、紀元前8~紀元前6世紀の在来の遺伝的特性から紀元前4~紀元前3世紀のヨーロッパ中央部およびアフリカ北部関連祖先系統への明確な遺伝的移行があります。紀元前4~紀元前3世紀には、類似のアフリカ北部の遺伝的兆候が、遠く離れたタルクイーニア遺跡の別の2個体で観察されます。これらの発見が一般的な現象を表しているのかどうか決定するには、この時期のより多くのデータが必要ですが、この祖先系統が地中海全域のカルタゴ帝国の拡大により影響を受けた可能性はあります。

 しかし、紀元前千年紀の個体群の大半は、ヴィッラノーヴァ文化期間からローマ共和政期末までの800年以上、高水準の遺伝的継続性を示します。エトルリアではヨーロッパ中央部祖先系統への類似性増加は検出されませんが、混合がラテン人関連集団など類似の遺伝的特性の人口集団間で近隣地域全体において起きた可能性を除外できません。しかし、エトルリアにおけるほぼ千年にわたる顕著な遺伝的安定性は歴史的記録と一致しており、エトルリアの共和政ローマへの同化は人口統計学的過程というよりもむしろ政治的だった、と記述されており、それは何世紀もこの地域でエトルリアの文化と言語が維持されたことによりさらに証明されます。

 対照的に、ローマ帝政期と古代末期(紀元後1~500年)の全ての分析された個体は、地中海東部の人口集団に向かって祖先系統で顕著な動きを示します。この変化の強さは集団間の火葬や土葬などさまざまな埋葬習慣の経時的頻度変化に影響を受けた可能性がありますが、上向きもしくは下向きの社会経済的および地理的移動性の増加期において、人々の大規模移動にさいしてのローマ帝国の役割を明確に示します。

 ローマ周辺を含むイタリア半島中央部では(関連記事)、これまでに検出された流入してくる祖先系統はおもに、ローマ帝国の他地域よりもむしろ近東由来でした。先行するエトルリア人関連遺伝子プールの最大50%の遺伝的置換は、奴隷と兵士の移動により影響を受けた可能性が高く、地中海東部からイタリア半島へのヒトの移動のより大きなパターンに沿っています。ローマ帝国での市民権は、212年に全自由民に付与することとしたカラカラ帝の勅令が出るまでに、より多くの自由民階級に次第に拡大され、拡大された市民権は、在来集団と他の集団との間の混合を促進した可能性が高そうです。エトルリアからの本論文の新たなデータは、近東祖先系統の流入がより大きな首都圏自身を超えて拡大した、と示しており、人口移動のこのより広範なパターンがイタリア半島の大半に影響を与えたかもしれない、と示唆します。

 中世初期(紀元後500~1000年)へのゲノム時代区分へと続くと、ヨーロッパ北部関連祖先系統の拡大を通じて、以前のエトルリア地域の一部における追加の遺伝的移行が観察されます。混合モデルは、ランゴバルド文化と関連する既知の個体群からもたらされたこの遺伝的構成要素と一致しますが、他の文化集団が同様に寄与した可能性もあります。したがって、西ローマ帝国の崩壊とランゴバルド王国成立後のイタリア半島の大半に拡大した移民は、イタリア半島中央部の遺伝的景観に追跡可能な影響を残したかもしれません。最後に、本論文の分析は、トスカーナとラツィオとバジリカータにおける中世初期と現在との間の広範な人口集団連続性を特定しており、イタリア半島中央部および南部の現代人の主要な遺伝子プールが少なくとも1000年前頃にはほぼ形成されていた、と示唆されます。

 結論として、本論文はイタリア半島の人口史の五つの主要な側面に光を当てています。第一に、エトルリア文化と関連する個体群は、非インド・ヨーロッパ語族言語を話しているにも関わらず、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有していました。エトルリア語がじっさいに青銅器時代の拡大に先行する残存言語だったならば、広範な遺伝的不連続性にも関わらず言語が継続した稀な事例の一つを表していることになるでしょう。エトルリア人の草原地帯関連祖先系統は青銅器時代イタリック語派話者、おそらくは部分的な言語的移行をもたらした長い混合過程を通じて媒介された可能性があります。第二に、青銅器時代の混合後、エトルリア人関連の遺伝子プールはほぼ800年にわたって、近東とアフリカ北部とヨーロッパ中央部起源の可能性が高い個体の散発的な存在にも関わらず、一般的に均一なままでした。第三に、地中海東部祖先系統が、ローマ帝政期にエトルリア人関連の遺伝的特性の大部分を置換しました。第四に、ヨーロッパ北部祖先系統からのかなりの遺伝的流入が、中世初期におそらくはゲルマン部族のイタリア半島への拡大を通じてもたらされました。第五に、イタリア半島中央部および南部の現代の人口集団の遺伝的構成は、紀元後千年紀の末までにほぼ形成されました。

 上記の結論を立証するには、イタリア半島全域の古代DNAのより広範な地理的分析が必要となりますが、トスカーナとラツィオ北部では、ローマおよびその周辺市で報告された祖先系統の変化とひじょうに類似した祖先系統の移行が観察されており、紀元後千年紀の歴史的事象がイタリア半島の広範囲で大規模な遺伝的変化を決定した、と示唆されます。イベリア半島では、鉄器時代と現代の人口集団間で類似の置換が観察されています(関連記事)。これは、ローマ帝国がヨーロッパ南部の人々の遺伝的特性に長期の人口統計学的寄与を残した、と示唆しており、ユーラシア西部の遺伝子地図におけるヨーロッパと近東の人口集団間の間隙を架橋します。ローマ帝国の他の領域からの追加の考古遺伝学的データセットが、流入集団の遺伝的起源をより正確に特定し、混合の地域的に固有のパターンを識別するうえで重要です。


参考文献:
Posth C. et al.(2021): The origin and legacy of the Etruscans through a 2000-year archeogenomic time transect. Science Advances, 7, 39, eabi7673.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi7673

満田剛『新説 「三国志」の虚構と真実』

 パンダ・パブリッシングより2015年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。『三国志』の時代の勉強も長期間停滞しているので、新たな知見を得るために読みました。本書は、『三国志』の時代の主要人物について、『三国志演義』に基づく人物像と、「史実」に基づく人物像とを対比させる、という構成になっています。人物評価(統率力と個人武力と知力と政治・外交と魅力・人望と門地と人脈と見せ場)がレーダーチャートで示されており、一般向け書籍ですから、こうした試みは悪くないと思います。

 私にとって意外な人物評価は、まず曹操です。本書は曹操を、袁紹の真似をしており、長期的視点に欠けた人物と評価しています。そもそも、曹操は献帝を迎え入れて袁紹と対立するまで袁紹の部下と考えるほうがよい、と本書は指摘します。全体的に、魏の人物は『三国志演義』よりも「史実(歴史書)」の方が高く評価される傾向にあります。代表的なのは韓浩(変換候補に出てくるあたり、昔の辞書よりも今の辞書の方が人物名にはずっと強いな、と改めて思います)で、全ての評価で『三国志演義』よりも「史実(歴史書)」の方がずっと高くなっています。「史実」での事績が知られるようになったためか、韓浩は、ゲームでも最近では以前よりも能力値が高く設定されているようです。

 魏とは対照的に蜀の人物は、『三国志演義』よりも「史実(歴史書)」の方が低く評価される傾向にあります。猛将とされる馬超にしても、反逆を繰り返して敗れ続け、身内をほぼ失い、劉備に仕えてから活躍はない、と冷ややかな評価です。趙雲も、『三国志演義』よりも「史実(歴史書)」の方が低く評価されていますが、そもそも劉備の生前は将軍というよりも劉備の「護衛隊長」だった、と評価されています。ただ、蜀でも一般的な評価が低いだろう劉封や孟達や糜芳は、「史実」の方が高く評価されています。なお、孟獲に関しては、「漢人」だったとの見解もあるそうです。

 呉に関しては、当主の孫氏が、元々は袁術の配下だった、と指摘されています。孫堅は袁術配下の将軍にすぎず、孫策も父の威光により勢力を拡大したのではなく、袁術が皇帝を自称するまで袁術の配下として行動しており、この過程で陸氏を弾圧したことが、後に孫呉政権の問題の一つになった、と本書は指摘します。孫権に関しては、家臣を統制して国を維持したものの、長期的戦略はなかった、と評価されています。また、袁術の配下だったのは孫氏だけではなく、名門の周氏は同じく名門の袁氏と関係が深く、周瑜も袁術が皇帝を自称するまで孫策ではなく袁術の配下として行動していた、と本書は指摘します。

 袁紹の死後、息子の袁譚と袁尚が後継者争いを起こし、袁氏は没落します。本書はこの背景として、『三国志演義』では描かれなかった、家臣団の対立を指摘します。具体的には、河北派の田豊・沮授・沮鴻・審配と河南派の辛評・郭図です。袁紹没後の後継者争いのさいに存命だった家臣のうち、河北派の沮鴻・審配は袁尚を、河南派の辛評・郭図は袁譚を擁立しています。黄巾の乱に関しては、単なる農民反乱ではなく、宮中クーデタや多方面でのゲリラ戦もしくはテロという側面もあった、と指摘されています。

鱗竜類の起源

 鱗竜類の起源に関する研究(Martínez et al., 2021)が公表されました。双弓類爬虫類の初期進化については、主竜形類(ワニ類や鳥類や非鳥類恐竜類)と鱗竜形類の間で、起源および初期進化に関する理解に顕著な差異が存在する、という特徴があります。鱗竜類は有鱗爬虫類で、有鱗目(トカゲ類とヘビ類)とニュージーランドで見られる爬虫類のトゥアタラなどのムカシトカゲ目が含まれます。主竜形類には三畳紀の多様な系統にわたって数百もの化石種が存在するのに対して、11000種以上から構成され、最も多様な現生陸生脊椎動物の分類群となる鱗竜形類には、わずかな断片的化石からなる極めてまばらな初期の化石記録しかなく、そのほとんどは系統発生学的な類縁関係が不確かで、分布もヨーロッパに限定されています。そのため、鱗竜類の姉妹系統群(ワニ類を含む主竜様類、鳥類型恐竜、非鳥類型恐竜)と比較して、初期進化についてはほとんど分かっていません。

 本論文は、アルゼンチンで発見された後期三畳紀の新属新種の爬虫類(Taytalura alcoberi)の三次元的に保存された頭蓋について報告します。この標本は、さまざまなデータタイプおよび最適性基準を用いて、系統発生学的に進化の最初期の鱗竜形類であることが強く推定され、既知の最古の鱗竜類の化石となる可能性があります。頭蓋のマイクロCTスキャンによって、この新種鱗竜類の頭蓋が初期の双弓類からどのように生じたかが詳細に明らかになり、従来はムカシトカゲ類と関連づけられていた複数の形質が実は鱗竜形類進化のはるかに早い時期に生じていた、と示唆されました。この新種鱗竜類は、ムカシトカゲ類の進化的によく保存された頭蓋構造が全ての鱗竜類の原始形質状態であること、三畳紀にはステム群とクラウン群の鱗竜類が少なくとも1000万年にわたり同時に存在していたこと、初期の鱗竜形類が従来考えられていたよりもはるかに広範な地理的分布を有していたことを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:鱗竜類の起源

 三畳紀のアルゼンチンに生息していたトカゲ似の爬虫類の頭蓋骨化石について記述された論文が、今週、Nature に掲載される。この化石の年代測定が行われて、約2億3100万年前のものとされ、ヘビ、トカゲ、ムカシトカゲの進化へとつながる分類群の起源を解明するための手掛かりが得られた。

 鱗竜類は、有鱗爬虫類で、有鱗目(トカゲ類とヘビ類)とムカシトカゲ目[トゥアタラ(ニュージーランドで見られる爬虫類)など]が含まれる。鱗竜類は、1万1000種以上からなり、最も多様な現生陸生脊椎動物の分類群だが、断片的な化石記録しかないため、その姉妹系統群(ワニ類を含む主竜様類、鳥類型恐竜、非鳥類型恐竜)と比べて、初期進化についてはほとんど分かっていない。

 今回Ricardo Martínezたちが記載したのは、保存状態の良い爬虫類の頭蓋骨化石で、有鱗目とムカシトカゲ目の分岐が起こる前のものとされ、鱗竜類の出現に近い時期のものであり、これまでで最も古い鱗竜類の1つとなる可能性がある。この頭蓋骨には、現生種のトゥアタラと共通の特徴があり、ムカシトカゲ目に特有と考えられるいくつかの解剖学的特徴が鱗竜類進化の初期に出現したことが示唆されている。この化石は、ヨーロッパで最古の鱗竜類よりも約1100万年後のもので、南米で最古の鱗竜類とほぼ同時代のものだ。今回の知見は、鱗竜類のステム群とクラウン群が、三畳紀の少なくとも1000万年間にわたって共存しており、初期の鱗竜類の地理的分布が、以前考えられていたよりもかなり広いことを示している。


進化学:三畳紀のステム群鱗竜類が明らかにするトカゲ様爬虫類の起源

Cover Story:ギャップを埋める:爬虫類の進化における大きな遷移に光を当てるTaytaluraの頭蓋化石

 表紙は、新たに発見され、Taytalura alcoberiと名付けられた三畳紀のトカゲに似た動物の想像図である。爬虫類の進化を示す化石記録は、鱗竜類、すなわち有鱗類(トカゲ類とヘビ類)およびムカシトカゲ類を包含する分類群に関してはいささかまばらである。今回R Martínezたちは、アルゼンチンで発見され、年代が約2億3000万年前と推定されたT. alcoberiの頭蓋化石を用いて、このギャップを埋めるのに寄与している。この保存状態の良い頭蓋は、有鱗類とムカシトカゲ類が分岐する前に進化した系統を代表するもので、従って既知で最古の鱗竜類の一種となる。著者たちは、Taytaluraと現代のムカシトカゲの頭蓋には共通した特徴があると指摘し、ムカシトカゲ類にのみ見られると推測されてきたいくつかの解剖学的特徴は、鱗竜類の進化の初期に生じたはずであると示唆している。



参考文献:
Martínez RN. et al.(2021): A Triassic stem lepidosaur illuminates the origin of lizard-like reptiles. Nature, 597, 7875, 235–238.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03834-3