古代ゲノムデータに基づくエトルリア人の起源と後世への影響

 エトルリア人の起源と後世への影響に関する研究(Posth et al., 2021)が公表されました。エトルリア文化(本論文では「civilization」が用いられていますが、以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」を用いないことにしていますので、以下訳語は「文化」で統一します)は鉄器時代にイタリア半島中央部の広範な地域を占めており、トスカーナやラツィオやウンブリアが含まれ、その存続期間にはイタリア半島の近隣地域にも局所的に拡大しました(図1A)。エトルリア文化は、冶金学における卓越した技術や、その洗練された文化的表現や、まだ完全には理解されていない非インド・ヨーロッパ語族の消滅言語により有名です。

 エトルリア文化を同時代の近隣地域の文化と区別する独自性のため、エトルリア文化と関連する人口集団の地理的起源については、二つの主要な競合する仮説とともに、古代にまでさかのぼる激しい議論が長く続いてきました。一方の仮説は、古代ギリシアの作家であるヘロドトスとレスボス島のヘラニコスにより示唆されたように、アナトリア半島/エーゲ海地域起源説を提案しています。この仮説は、紀元前8~紀元前6世紀のいわゆる東方化期の、エトルリアにおける古代ギリシア文化要素の存在により裏づけられます。

 もう一方の仮説は、ハリカルナッソスの歴史家ディオニュシオスにより紀元前1世紀に記述されたように、在地発展が主張されています。この仮説によると、エトルリア集団は紀元前900年頃となる後期青銅器時代の(祖型)ヴィッラノーヴァ文化(Villanovan culture)と関連する人々から地元で生まれました。考古学者間の現在の合意は後者の仮説を支持しますが、ラテン人などインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派話者集団に囲まれて孤立した非インド・ヨーロッパ語族の持続可能性は興味深く、依然として未解明の現象で、さらなる考古学と歴史学と言語学と遺伝学の調査が必要です。

 4世紀以上にわたる広範な地域開発の後、エトルリア文化は紀元前4世紀に、紀元前264年に終わった一連のローマ・エトルリア戦争を通じて共和政ローマに同化され始めました。この変化期間にも関わらず、エトルリア文化とその宗教的伝統はその後の数世紀にわたって、紀元前27年以後にローマ帝国の第七行政区にエトルリアが編入された後でさえ存続しました。いわゆる大移動期と紀元後5世紀の西ローマ帝国崩壊後に、この地域は短期間東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に組み込まれました。その後イタリア半島の大半は、中世初期にランゴバルドとして知られるゲルマン関連集団により征服されました。紀元後6世紀後半に設立されたランゴバルド王国および諸公国は、2世紀以上にわたってイタリア半島を支配しました。ランゴバルド王国は紀元後774年にカロリング帝国(フランク王国)に継承され、フランク王国は後に神聖ローマ帝国へと発展しました。

 上述の期間の個体の古代DNA分析は、これらの歴史的に記録された事象が、移住もしくは高い移動率に起因する人口集団水準の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)パターンの変化と関連しているのかどうか、これらの変化がイタリア人の現代の遺伝的景観にどの程度の影響を与えたのか、調べる直接的方法を提供できます。エトルリア史研究の遺伝的分析の寄与の可能性は、過去10年間、議論され調査されてきました。

 トスカーナ現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、現在のアナトリア半島人口集団との関係を示し、これはエトルリア人の最近の近東起源の証拠として解釈されてきました。対照的に、エトルリア関連個体群のmtDNAに関する初期の研究では、エトルリア人と同地域の現代人との間の遺伝的連続性の証拠が見つからず、例外はトスカーナのいくつかの孤立した場所でした。イタリア半島の古代ゲノム研究は非常に限られており、イタリア半島全体で、新石器時代からローマ共和政期の利用可能なデータは僅かしかありません(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 鉄器時代とローマ共和政期(紀元前900~紀元前27年)におけるローマおよびその周辺の古代都市の個体群は、青銅器時代以降のほとんどのヨーロッパ人を特徴づける、顕著なゲノム構成要素を有しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。さらに、そのうち3個体はアフリカと近東からの最近の遺伝的影響を有すると明らかになり、鉄器時代にまでさかのぼる地中海全域でのローマの広範なつながりをさらに示します。意外なことに、ローマ帝国の首都の近くでは、後の帝政期の個体はほぼ全て、地中海東部祖先系統の大きな割合を有しており、この祖先系統は後に古代末期と中世初期において減少しました(関連記事)。しかし、これらの変化がイタリア半島の他地域全体で起きた過程を表している程度は、大都市のローマおよびその古代都市圏以外の個体群では明らかにされていません。

 本論文は、エトルリアにおけるエトルリア文化関連個体群およびその後の集団の遺伝的歴史を、時代区分された70個体の古代ゲノムを通じて調べます。これらの個体は12ヶ所の遺跡に由来し、そのうち46個体では紀元前800~紀元後1000年とほぼ2000年にわたる直接的な放射性炭素年代が得られています(図1B)。さらに、バジリカータ(Basilicata)州にある「ヴェノーザ(Venosa)の公衆浴場」遺跡の紀元後8世紀と放射性炭素年代が得られている16個体のゲノム規模データが生成され、イタリア半島の中央部および南部の中世初期の個体群の遺伝的構成が比較されました(図1)。

 これらのデータはともに、エトルリア文化関連集団の遺伝的起源とその同時代および後世の人口集団との関係に関する重要な問題を解決します。さらに、エトルリアにおけるローマ帝国の成立などの重要な歴史的事象の遺伝的影響が評価され、イタリア半島の中央部および南部全域の中世初期個体群の遺伝的構成が特徴づけられ、これら過去の文化と現代の人口集団間の遺伝的連続性の水準が明らかにされます。以下は本論文の図1です。
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●分析結果

 86個体の側頭骨の錐体部と歯からDNAが抽出されました。側頭骨の錐体部はDNAの保存状態が良好とされています(関連記事)。品質管理により、三つの時代区分にまとめられた82個体の最終標本セットが得られました。内訳は、紀元前800~紀元前1年(鉄器時代およびローマ共和政期)が48個体、紀元後1~紀元後500年(ローマ帝政期)が6個体、紀元後500~1000年が28個体(イタリア半島の中央部が12個体で南部が16個体)です(図2B)。

 鉄器時代およびローマ共和政期と関連する個体のうち、大半(48個体のうち40個体)は「イタリア中央部エトルリア文化(C.Italy_Etruscan)」という名前の遺伝的まとまり(以下、CIE)を形成し、ヒト起源データセット(Human Origins dataset)のユーラシア西部人口集団で構築された主成分分析では、現代のスペイン人と重なります(図2A)。紀元前800~紀元前1年となる鉄器時代およびローマ共和政期全体では、主成分分析の外れ値の3集団が特定されます。つまり、アフリカ北部人口集団へと動く4個体(CIE.Afr、以下CIEA)と、ヨーロッパ中央部人口集団へと動く3個体(CIE. Ceu、以下CIEC)、近東人口集団へと動く1個体(C.Italy_Etruscan_MAS001、以下CIEM)です。

 イタリア半島中央部および南部人口集団の遺伝的まとまりをさらに詳しく調べるため、遺伝的に関連する個体群を除外した後、71個体で教師なしADMIXTUREが実行されました(図2BおよびC)。CIE個体群は、アナトリア半島新石器時代農耕民とヨーロッパ狩猟採集民とポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と関連した、3つの遺伝的祖先系統を有しています。CIECは「草原地帯関連祖先系統」をより高い割合で有していますが、CIEMはイラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素を示します。イラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素は、前期新石器時代モロッコ集団で特定された祖先系統構成要素に沿って、CIEA個体群にも存在します。以下は本論文の図2です。
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 後期新石器時代と前期青銅器時代における草原地帯関連祖先系統の拡大はインド・ヨーロッパ語族の拡散と関連づけられてきており(関連記事)、「草原地帯」故地の言語学的証拠と一致しているので、非インド・ヨーロッパ語族のエトルリア語と関連すると推定されるエトルリア文化個体群における、草原地帯関連祖先系統の割合が推定されました。まず、CIEクラスタから年代測定され遺伝的に無関係な21個体がまとめられ、ロシア西部のサマラ(Samara)地域の青銅器時代牧畜民(ヤムナヤ文化)により表される草原地帯関連祖先系統と、イタリア半島の新石器時代もしくは銅器時代人口集団との混合として、qpAdmでモデル化されました。この分析は、そうした遠方の草原地帯関連祖先系統供給源からの約25%の祖先系統を示し、比較対象の人口集団をヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも時空間的にイタリア半島により密接な人口集団、たとえばヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団に帰ると、約50%に達しました(図3B)。

 さらにCIEは、イタリア半島北部のより早期の鐘状ビーカー集団やヨーロッパ南部の鉄器時代人口集団(イベリア半島やクロアチアやギリシア)のような他のヨーロッパ人口集団に完全な祖先系統が由来するものとして、モデル化に成功できます。主成分分析は、ローマの古代都市を含めてトスカーナとラツィオの鉄器時代とローマ共和政期の個体群間の完全な重なりを明らかにし、草原地帯関連祖先系統のかなりの水準が、鉄器時代までにイタリア半島中央部全域でインド・ヨーロッパ語族話者と非インド・ヨーロッパ語族話者両方を含むと知られている複数の文脈において、広範に拡大して均質化されていた、と示唆されます。

 本論文で特定された他の同時代の祖先系統集団が、小数の個体により表されているものの、この全体像に詳細さと複雑さを追加しています。CIECの無関係な2個体(VET005とCAM002)は、ヤムナヤ関連祖先系統のより高い割合(40%)により特徴づけられ、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有するヨーロッパ中央部および南部両方の銅器時代もしくは青銅器時代人口集団に由来することと一致します(図3AおよびB)。この兆候は、f4統計(オンゲ人、検証集団;CIEC、CIE)により確認され、検証集団がヤムナヤ関連祖先系統の約半分を表すヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)で構成される場合、有意に負の値となります。これは、主要なCIEクラスタよりもCIECとのEHGの高い類似性を示唆しますが、検証集団が草原地帯関連祖先系統を有さないヨーロッパ南部新石器時代集団に限定されると、逆の結果が観察されます。

 次にCIECが在来の祖先系統との混合兆候を有するのかどうか、検証されました。f3(CIE、検証集団;CIEC)統計では、CIECがCIEと本論文のデータセットにおける255のあらゆる古代人検証集団との間の混合から派生した、という証拠は明らかになりません。さらに、qpAdmにおいてCIECをエトルリア文化関連個体群とヨーロッパの鐘状ビーカー個体群との間の混合としてモデル化することは可能ですが(図3B)、CIECを参照セットに移動させて新石器時代集団に置換すると、そのモデルは依然として維持され、局所的に混合しなかった北方祖先系統の流入と一致します(関連記事)。

 ソフトウェアDATESを用いて、CIEC個体群の混合年代が推定されました。VET005は実行不能な年代(負の値)をもたらしましたが、CAM002は19.7±8.6世代前の混合年代を提供し、CAM002の年代(紀元前7世紀)の572±249年前に相当します。これらの結果は、検証されたCIECの2個体が、最近の在来の混合の結果ではない、流入してくる祖先系統を表している、と示唆します。この2個体は2ヶ所の遺跡に由来し、放射性炭素年代はCAM002が紀元前7世紀、VET005が紀元前3世紀です。したがって、この明確な祖先系統特性は、数世紀にわたる持続ではなく、北方地域からイタリア半島中央部へ複数の時期に独立して到来したかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 遺伝的外れ値1個体を除外してCIEAでまとめられた3個体は、新石器時代関連ヨーロッパ祖先系統と青銅器時代関連ヨーロッパ祖先系統との間の混合としてモデル化できません。この3個体の年代は紀元前300年頃で、100km以上離れた2ヶ所の遺跡、つまりタルクイーニア(Tarquinia)とウェツロニア(Vetulonia)で発掘されました。f3統計(CIE、X;CIEA)とf4統計(オンゲ人、X、CIE、CIEA)は、CIEAが、エトルリア文化集団と、アフリカ北部もしくはサハラ砂漠以南の祖先系統をより高い割合で有する古代もしくは現代(代理として)の個体群との混合である証拠を示します。qpAdmを用いると、供給源の一つとしてCIEを含む全ての混合モデル化は却下されました。しかし、同年代のアフリカ北部の個体のゲノムの限定的な利用可能性を考えると(関連記事)、この地域の追加のデータが利用可能になれば、祖先系統の割合がより正確に推定される可能性に要注意です。

 青銅器時代シチリア島と鉄器時代サルデーニャ島の以前に報告された知見(関連記事1および関連記事2)とは異なり、2000年以上前のイタリア半島中央部の個体群ではイラン関連祖先系統の証拠は見つかりません。新石器時代イラン個体群をqpAdm の参照セットに入れた場合でも、CIEとCIECを遠方の3供給源、つまりアナトリア半島新石器時代農耕民、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、ヤムナヤ文化サマラ個体群の混合としてモデル化できます。これは、考古学的記録で観察される相互作用の特徴的な範囲により確認されるように、青銅器時代と鉄器時代におけるシチリア島民とサルデーニャ島民の遺伝的歴史が、イタリア半島本土の人口集団とはかなり異なっていたことを示唆します。

 CIEM個体(MAS001)は本論文のデータセットで単一の例外を表し、主成分分析空間では紀元前200年頃の近東人口集団への移動を示します(図4A)。f統計はCIEクラスタとの祖先系統の連続性を有意には却下しませんが、新石器時代関連祖先系統と草原地帯関連祖先系統との間の混合モデルは、MAS001の遺伝的特性に合致しません。代わりに、CIEMはCIEクラスタと青銅器時代アルメニア人のようなコーカサス人口集団との間の混合としてモデル化でき(図4B)、少なくとも紀元前2世紀までのエトルリアにおけるイラン関連祖先系統の散発的存在を示唆します。

 紀元後千年紀前半には、分析対象の全個体の近東勾配に向かっての主成分分析空間における顕著な移動が観察され、現代のヨーロッパ南東部人口集団に占められる遺伝的空間全域に分布します(図4A)。紀元後1~500年の外れ値ではない個体は「C.Italy_Imperial」クラスタとまとめられます(以下、CII)。f4検定では、イランやアフリカや近東の古代人集団との比較で、CIIはCIEよりも高い類似性を示す、と明らかになりました。

 次にqpAdmを用いてこの集団の祖先系統構成要素が定量化され、CIIはCIEと既知のヨーロッパおよび近東の青銅器時代および鉄器時代の158個体の混合としてモデル化されました。結果として、データに最適だと分かったモデルは、レヴァントもしくはアナトリア半島人口集団から、在来の/既存のCIE遺伝子プールへの38~59%の寄与でした(図4B)。地中海東部からのかなりの遺伝子流動も、帝政期ローマの古代人で報告されています(関連記事)。紀元後1~5世紀のデータポイント数が限定的であるにも関わらず、本論文の結果から、ローマにおける外来祖先系統の寄与はエトルリアよりも大きかった、と示唆されます(図4A)。しかし、ローマ帝政期における流入集団のこの大規模な遺伝的影響は、ローマ周辺の大都市圏だけではなく、本論文で検討された近隣およびより遠方の地域にも拡大していました。以下は本論文の図4です。
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 本論文の古代ゲノム時代区分の最終期間となる紀元後500~1000年に関しては、「C.Italy_Early.Medieval」クラスタ(以下、CIEM)にまとめられる個体群が、CIEと比較してヨーロッパ中央部集団に向かって遺伝的に動いており、ほぼイタリア半島中央部の現代人集団と重なります(図5A)。f4検定を用いると、この移行がCII と比較して地中海東部人口集団へのCIEMの類似性減少により確認される、と示されます。

 さらに、CIEMクラスタはqpAdmでは、先行するCII集団(60~90%)とヨーロッパ北部および東部の古代末期もしくは中世集団(10~40%)との混合として、モデル化に成功できます。とくに、最も支持されるモデルには、ハンガリーのランゴバルド墓地と関連する個体群とイタリア北部個体群を特徴とするものがあります(関連記事)。具体的に、それら混合されていないヨーロッパ北部遺伝的祖先系統を有するランゴバルド関連個体群(Piedmont_N.Longobard)に分析を限定すると、CIEMクラスタへの20%程度の寄与が得られます(図5B)。この知見は、ランゴバルド王国期のイタリア半島中央部におけるヨーロッパ北部祖先系統の遺伝的流入と一致します。しかし、東ゴートのようなイタリア半島における他のゲルマン部族の影響も、観察されたゲノム変化を強化したかもしれません。

 イタリア半島中央部の現代人は主成分分析空間ではCIEM個体群と重なっているので(図5A)、CIEM個体群に由来するイタリア半島中央部の現代人の一貫性が検証されました。解像度を高めるため、qpAdmは参照セットの現代の世界規模の人口集団で実装されました。現代のイタリア半島人口集団はCIEMクラスタからの派生と一致しませんが、トスカーナの高網羅率のゲノム配列の個体群(Tuscan.DG)は、遺伝的連続性の強い却下の根拠を示しませんでした。これは、現代のイタリア半島中央部人口集団の遺伝的構成が、紀元後1000年までにほぼ形成されたことを示唆します。

 類似の全体像がイタリア半島南部の同時代の個体群で観察されるのかどうか調べるため、バジリカータの中世初期ヴェノーザ遺跡のデータが同様に分析されました。VEN002個体を除いて、ヴェノーザ遺跡個体群(S.Italy_Venosa)は主成分分析空間では現代のイタリア半島南部人口集団と広く重なっており、qpAdmでは祖先系統の同じ流れに由来するものとして共同でモデル化できます(図5AおよびC)。主成分分析空間では、ローマのほとんどの中世および近世個体群は、トスカーナとバジリカータの中世初期集団間の中間に位置します(図5A)。したがって、この分布は地理を反映する現在の南北勾配と一致しており、イタリア半島はヨーロッパと地中海東部との間の遺伝的間隙を架橋します。以下は本論文の図5です。
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 これらのゲノム変化における性的偏りの影響の可能性を調べるため、経時的な片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の頻度が計算されました。mtDNAの多様性は、紀元後1年の前後で実質的に変化していないようです。対照的に、紀元前800~紀元前1年の新たに報告されたイタリア半島中央部個体群は、Y染色体ハプログループ(YHg)R1bが75%の頻度を示し、ほぼYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)とその派生のR1b1a1b1a1a2b1(L2)に表され、これは鐘状ビーカー複合との関連で草原地帯関連祖先系統に沿ってヨーロッパ全域に拡散しました。これは、YHg-R1b系統が青銅器時代に草原地帯関連集団の移動とともにイタリア半島に拡大したことを示唆します。紀元後千年紀には、YHg-R1bの頻度は40%程度と減少し、YHg-Jのような近東関連Y染色体系統がより高頻度となります。かなりの女性の移動の可能性を除外できませんが、YHg頻度における顕著な変化は、ローマ帝政期移行に観察された遺伝的置換において男性の移動が重要な役割を果たした、と示唆します。


●考察

 トスカーナとラツィオとバジリカータの2000年にわたるイタリア史の古代人82個体のゲノム分析は、遺伝的変容の大きな事象を明らかにしてきました。本論文のイタリア半島中央部の時代区分の第一期(紀元前800~紀元前1年)全体では、ほとんどの個体は均質な遺伝的まとまりを形成し(CIE)、他地域にたどれる祖先系統を有する個体の孤立的存在は実質的な地域的遺伝的影響を残さなかった、と示唆されます。とくに、以前の提案とは逆に、エトルリア人関連の遺伝子プールは近東からの最近の人口移動に起源があったわけではないようです。

 エトルリア人とラテン人との間の文化および言語の違いにも関わらず、エトルリア人はローマやその周囲のラテン人など他の近隣人口集団と共有される地域的な遺伝的特性を持っています。CIEの遺伝的特性の大部分は草原地帯関連祖先系統に由来する可能性があり、ほとんどの他のヨーロッパ地域で観察される傾向を確認します。この遺伝的構成要素は青銅器時代にイタリア半島中央部にも到達していましたが(関連記事)、それはサルデーニャ島よりも早かったと推測されています(関連記事1および関連記事2)。

 イタリック祖語とその派生語(ラテン語やオスク語やウンブリア語)との間の分岐は紀元前二千年紀に起きたと推定されているので、イタリア半島におけるイタリック祖語の存在は、草原地帯からのヤムナヤ文化関連集団の少なくともそれより千年早い移動と直接的に相関することはあり得ません。代わりに、流入してくる草原地帯関連集団がヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の最初の到来をもたらしたと仮定すると、イタリック語派を含むインド・ヨーロッパ語族のより派生的な形態が、イタリア半島全域で後の段階に拡大したかもしれません。

 これまでにゲノムデータが得られている紀元前2000年頃のイタリア半島北部の鐘状ビーカー複合関連遺骸は3個体だけで、草原地帯関連祖先系統の非遍在的存在を明らかにしており(関連記事)、混合過程が進行中であることを示唆します。エトルリアにおける非インド・ヨーロッパ語族であるエトルリア語の歴史的記録の持続から、エトルリア語話者共同体が大規模な混合にも関わらず維持された、と示唆され、この状況は、非インド・ヨーロッパ語族が現在でも持続しているイベリア半島のバスク地域と類似した状況です(関連記事)。

 この言語の持続性は、遺伝的置換と相まって、「遺伝子=言語」という過度に単純化された仮定に疑問を提起し、おそらくは紀元前二千年紀の長期的な混合期間にエトルリア語話者共同体による(初期)イタリック語派の同化を伴ったかもしれない、というより複雑な想定を示唆します。この想定は、イタリア半島中央部における早くも紀元前1650年頃の草原地帯関連祖先系統の最近の発見と、その後のこの構成要素の経時的な増加により(関連記事)、さらに妥当なものとなりました。

 エトルリア語はローマ帝政期までイタリア半島中央部で存続した消滅言語とみなされていますが、孤立していませんでした。代わりにエトルリア語は、アルプス東部で記録されており、古代の歴史家がポー川流域から移住してきたと主張している人口集団の言語であるラエティア語と、エーゲ海の古代リムノス島で話されていたと推定されているレムニア語の両方と関連しているようです。これにより、これらの謎めいた「ティルセニア(Tyrsenian)」語族が地中海東部からの海路での拡大と何らかの関係があるのかどうか、という疑問が残ります。しかし、CIEにおけるイラン関連祖先系統の欠如は、地中海全域の密接な言語の類似性がイタリア半島からの人口移動を表している、という可能性も示唆しているかもしれません。

 本論文のデータセットで外来の遺伝的兆候を有する最初の個体(CAM002)は、放射性炭素年代で紀元前7世紀となり、ヨーロッパ中央部の遺伝的特性を示します。前期鉄器時代には、ケルト関連集団と関連するハルシュタット(Hallstatt)文化がアルプスの北部地域に存在しました。エトルリア文化と紀元前8世紀の北方文化集団との間の商品や技術の交換の考古学的証拠はありますが、広範な直接的接触が後になってやっとラ・テーヌ(La Tène)文化期に報告されており、この頃にはケルト関連集団がエトルリア人との境界となるイタリア半島北部へと拡大していました。本論文で提示されたデータセットでは、放射性炭素年代で400年の違いにも関わらず、CAM002個体と重なる遺伝的特性を有する、放射性炭素年代で紀元前3世紀の別の個体(VET005)が見つかりました。これは、ハルシュタット文化期からラ・テーヌ文化期のエトルリアで見つかる、ヨーロッパ中央部の遺伝的祖先系統の供給源における継続性を示唆します。

 紀元前4~紀元前1世紀には、それ以前の4世紀間よりも、近東およびアフリカ北部個体との最大の類似性を示す、外来の遺伝的祖先系統を有する個体群の割合が高いと特定されます。これは、エトルリアと他地域との間の相互作用の増加により説明できますが、港と関連する社会だけではなく、後背地の社会にも当てはまります。そうした大陸間接続の象徴的事例は、ウェツロニアのサン・ジェルマーノ(San Germano)遺跡で観察され、同じ墓の内部でさえ、紀元前8~紀元前6世紀の在来の遺伝的特性から紀元前4~紀元前3世紀のヨーロッパ中央部およびアフリカ北部関連祖先系統への明確な遺伝的移行があります。紀元前4~紀元前3世紀には、類似のアフリカ北部の遺伝的兆候が、遠く離れたタルクイーニア遺跡の別の2個体で観察されます。これらの発見が一般的な現象を表しているのかどうか決定するには、この時期のより多くのデータが必要ですが、この祖先系統が地中海全域のカルタゴ帝国の拡大により影響を受けた可能性はあります。

 しかし、紀元前千年紀の個体群の大半は、ヴィッラノーヴァ文化期間からローマ共和政期末までの800年以上、高水準の遺伝的継続性を示します。エトルリアではヨーロッパ中央部祖先系統への類似性増加は検出されませんが、混合がラテン人関連集団など類似の遺伝的特性の人口集団間で近隣地域全体において起きた可能性を除外できません。しかし、エトルリアにおけるほぼ千年にわたる顕著な遺伝的安定性は歴史的記録と一致しており、エトルリアの共和政ローマへの同化は人口統計学的過程というよりもむしろ政治的だった、と記述されており、それは何世紀もこの地域でエトルリアの文化と言語が維持されたことによりさらに証明されます。

 対照的に、ローマ帝政期と古代末期(紀元後1~500年)の全ての分析された個体は、地中海東部の人口集団に向かって祖先系統で顕著な動きを示します。この変化の強さは集団間の火葬や土葬などさまざまな埋葬習慣の経時的頻度変化に影響を受けた可能性がありますが、上向きもしくは下向きの社会経済的および地理的移動性の増加期において、人々の大規模移動にさいしてのローマ帝国の役割を明確に示します。

 ローマ周辺を含むイタリア半島中央部では(関連記事)、これまでに検出された流入してくる祖先系統はおもに、ローマ帝国の他地域よりもむしろ近東由来でした。先行するエトルリア人関連遺伝子プールの最大50%の遺伝的置換は、奴隷と兵士の移動により影響を受けた可能性が高く、地中海東部からイタリア半島へのヒトの移動のより大きなパターンに沿っています。ローマ帝国での市民権は、212年に全自由民に付与することとしたカラカラ帝の勅令が出るまでに、より多くの自由民階級に次第に拡大され、拡大された市民権は、在来集団と他の集団との間の混合を促進した可能性が高そうです。エトルリアからの本論文の新たなデータは、近東祖先系統の流入がより大きな首都圏自身を超えて拡大した、と示しており、人口移動のこのより広範なパターンがイタリア半島の大半に影響を与えたかもしれない、と示唆します。

 中世初期(紀元後500~1000年)へのゲノム時代区分へと続くと、ヨーロッパ北部関連祖先系統の拡大を通じて、以前のエトルリア地域の一部における追加の遺伝的移行が観察されます。混合モデルは、ランゴバルド文化と関連する既知の個体群からもたらされたこの遺伝的構成要素と一致しますが、他の文化集団が同様に寄与した可能性もあります。したがって、西ローマ帝国の崩壊とランゴバルド王国成立後のイタリア半島の大半に拡大した移民は、イタリア半島中央部の遺伝的景観に追跡可能な影響を残したかもしれません。最後に、本論文の分析は、トスカーナとラツィオとバジリカータにおける中世初期と現在との間の広範な人口集団連続性を特定しており、イタリア半島中央部および南部の現代人の主要な遺伝子プールが少なくとも1000年前頃にはほぼ形成されていた、と示唆されます。

 結論として、本論文はイタリア半島の人口史の五つの主要な側面に光を当てています。第一に、エトルリア文化と関連する個体群は、非インド・ヨーロッパ語族言語を話しているにも関わらず、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有していました。エトルリア語がじっさいに青銅器時代の拡大に先行する残存言語だったならば、広範な遺伝的不連続性にも関わらず言語が継続した稀な事例の一つを表していることになるでしょう。エトルリア人の草原地帯関連祖先系統は青銅器時代イタリック語派話者、おそらくは部分的な言語的移行をもたらした長い混合過程を通じて媒介された可能性があります。第二に、青銅器時代の混合後、エトルリア人関連の遺伝子プールはほぼ800年にわたって、近東とアフリカ北部とヨーロッパ中央部起源の可能性が高い個体の散発的な存在にも関わらず、一般的に均一なままでした。第三に、地中海東部祖先系統が、ローマ帝政期にエトルリア人関連の遺伝的特性の大部分を置換しました。第四に、ヨーロッパ北部祖先系統からのかなりの遺伝的流入が、中世初期におそらくはゲルマン部族のイタリア半島への拡大を通じてもたらされました。第五に、イタリア半島中央部および南部の現代の人口集団の遺伝的構成は、紀元後千年紀の末までにほぼ形成されました。

 上記の結論を立証するには、イタリア半島全域の古代DNAのより広範な地理的分析が必要となりますが、トスカーナとラツィオ北部では、ローマおよびその周辺市で報告された祖先系統の変化とひじょうに類似した祖先系統の移行が観察されており、紀元後千年紀の歴史的事象がイタリア半島の広範囲で大規模な遺伝的変化を決定した、と示唆されます。イベリア半島では、鉄器時代と現代の人口集団間で類似の置換が観察されています(関連記事)。これは、ローマ帝国がヨーロッパ南部の人々の遺伝的特性に長期の人口統計学的寄与を残した、と示唆しており、ユーラシア西部の遺伝子地図におけるヨーロッパと近東の人口集団間の間隙を架橋します。ローマ帝国の他の領域からの追加の考古遺伝学的データセットが、流入集団の遺伝的起源をより正確に特定し、混合の地域的に固有のパターンを識別するうえで重要です。


参考文献:
Posth C. et al.(2021): The origin and legacy of the Etruscans through a 2000-year archeogenomic time transect. Science Advances, 7, 39, eabi7673.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi7673