古市晃『倭国 古代国家への道』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は5~6世紀を中心に、日本列島における国家形成の過程を検討します。本書はこの問題について王宮を重視し、まず歴代遷宮論が成り立たないことを指摘します。『日本書紀』からは、7世紀に天皇ごとに異なる宮が設けられたようにも読めますが、たとえば舒明と皇極と斉明と天武の宮は名称こそ異なっても同じ場所に営まれた、というわけです。本書は、5~6世紀の王宮も簡単に廃絶することはなかった、と指摘します。それは、7世紀後半~8世紀初頭にかけて、天皇が5~6世紀の王宮と考えられる宮を訪問しているからです。

 本書は、大王だけではなく王族も王宮を営んだと指摘し、王名から王宮の実態を考えるという新たな方法論により、国家形成の問題を検証します。5~6世紀の王宮の分布で注目されるのは、奈良盆地南部だけではなく、京都盆地南部や大阪湾岸まで範囲が広いことです。これら広範に分布した王宮のうち、繰り返し利用されるものは奈良盆地南部に多いことが特徴です。本書は奈良盆地南部の重要性を指摘し、そこの王宮群を中枢部、それ以外の王宮群を周縁部と呼びます。5~6世紀の王宮で本書が重視するのは、狭い丘陵地や谷中に造られているという立地から推測される、その軍事機能です。本書は記紀の伝承から、周縁部王宮群が王族間の争いに対応して造られた軍事拠点だった可能性を指摘します。

 本書は、古墳造営地や『宋書』の記事などから、5世紀には倭王と王族との間に著しい違いはなかっただろう、と推測します。また本書は『宋書』の記事などから、5世紀には倭王を輩出できる複数の王統が存在した可能性を指摘します。さらに本書は、それを記紀から推測される仁徳系と允恭系の対立と関連づけています。5世紀の王の条件として本書が重視するのは、朝鮮半島や南朝との通交と、巨大前方後円墳の築造もしくはそこでの葬送儀礼という、内外の承認です。ただ、対外通交の具体的な外洋航海技術を保持していたのは、海人集団を配下とする周縁部王宮群の王族なので、渡来人の招致や鉄などの調達も周縁部王族の協力なしには不可能で、倭王と周縁部王族はともに王権を構成しつつ、対立的性格も内包されていた、と本書は指摘します。倭王がまだ同輩中の第一人者にすぎなかったこのような5世紀の王権の状況は不安定で流動的だった、と本書は指摘します。

 本書は、こうした状況が変わり、倭王による専制権力が確立したのは6世紀で、継体の即位が画期となった、と指摘します。また本書は、これにより、政権の地域への影響力が5世紀には有力者に限定されていたのに対して、6世紀には村のようなより小さい社会にも及ぶようになった、との見通しを提示します。通説では、5世紀後半の雄略朝に倭王権が強化された、と評価されており、本書も、雄略朝における葛城や吉備といった対外関係にかかわってきた大勢力が王権の攻撃により衰退したことを指摘しています。しかし本書は、雄略が有力王族や豪族を排除していった結果、後継者不足により王統が断絶するなど、不安定な政治状況だったことを指摘します。

 この状況で即位した継体は、すでに即位前から大和に拠点を有しており、近江と北陸と東海と播磨にも支持勢力を得た新王統だった、と本書は指摘します。継体の跡を継いだのは息子の3人で、安閑→宣化→欽明の順に即位します。本書は継体に始まる6世紀の新王統において、王宮が5世紀的な軍事的観点で防御に適した土地から平地へと移動していったことを指摘します。本書はこれを、王族や有力豪族間の対立危機の減少を表している、と解釈しています。これと関連して本書は、この時期に王陵の規模が縮小していくことを指摘しています。この政治的安定に貢献したのが蘇我氏で、王宮の財産を権益化していき、王権とより密着してその権威と権力を利用することで興隆していきました。さらに6世紀前半には中央権力と地域社会との間の支配・従属関係が制度化されていきました。

 この変革において本書が重視する支配制度が、国造とミヤケです。さらに本書は、こうした6世紀前半の変革の重要な契機として、朝鮮半島における倭の利権喪失を指摘します。こうして倭王の専権が確立していき、倭王は同輩中の第一人者から専制君主へと変貌を遂げた、というのが本書の見通しです。この過程で、継体に始まる新王統は前の王統と婚姻を通じて結びつき、倭王の地位は血縁による世襲となります。またこの過程で導入された仏教が、君主と臣下の統合を促進したことも本書は指摘します。