『週刊新発見!日本の歴史』第21号「鎌倉時代4 鎌倉仏教の主役は誰か」

 これは11月17日(日)分の記事として掲載することにします(その三)。この第21号は鎌倉時代の仏教を扱っています。鎌倉時代の仏教というと、いわゆる鎌倉新仏教を中心に把握する見解がかつては有力視されていました。しかし、顕密体制論が提示されて以降は、鎌倉新仏教中心史観も見直されています。この第21号でも顕密体制論を踏まえたうえで議論が展開されていますが、鎌倉時代は宗教改革が行なわれた日本仏教の黄金期だった、と評価されています。では、鎌倉新仏教中心史観に依拠せずに提示される鎌倉時代の宗教改革とは何なのか、という問題になります。それは、第17号で提示された見解とも通ずるものです。
http://sicambre.at.webry.info/201310/article_16.html

 仏教における修行の根本要素である戒定慧を三学と言います。つまり、戒律を守る持戒・座禅などによって精神を統一させる禅定・解脱(悟り)につながる智慧です。本来、三学はどれも欠けてはなりません。しかし、持戒→禅定→智慧という段階性があるので、持戒・禅定が軽視され、智慧のみが重んじられる傾向が平安時代後期の顕密仏教界にはありました。そのため、顕密仏教では智慧につながる諸宗の学問が重視される一方で、持戒・禅定のような実践的修行は、一部の下級僧侶が重視するにすぎなくなりました。

 こうした平安時代後期の仏教界の状況を背景として、改革の気運が高まりますが、その方向性は二つに分かれていました。一つは、末法の世だからこそ、三学全体を盛んにしていこう、という考えです。もう一つは、末法の世には三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という考えです。前者を牽引したのは栄西や俊芿などといった入宋僧で、後者を牽引したのが念仏系の法然・親鸞・一遍らと法華系の日蓮でした。

 まずは三学全体を盛んにしていこうとする傾向についてです。当時、南宋の仏教界では、各僧侶がいずれに重点を置くかによって区分されていたとはいえ、三学全体が重んじられていました。また、坐禅や朝昼の集団での食事など、日常的な集団生活の場として僧堂が設けられていました。栄西や俊芿といった入宋僧は、こうした集団生活を日本の禅院で再現し、毎日の規則正しい修行生活を実現しようとしました。栄西や俊芿の後も宋に渡る僧侶が続き、禅院を拠点に戒律を守り、共通の作法に則って、仏教本来の平等性原理で集団生活を送る禅僧の集団(禅家)が日本全体で形成されていきました。

 こうした動きは南都にも影響を及ぼしました。俊芿の建立した泉涌寺で再現された南宋仏教の動向を、南都の僧侶たちが取り入れる動きが生じたのです。この結果として、律法興行という改革が始まり、律院を拠点とする律僧集団(律家)が日本全体で形成されていきました。戒律を守ることで人々から信頼を集めた律僧たちは、寺社造営や架橋などの勧進活動でも力を発揮しました。

 一方、三学の修業は困難なので異なる救済を創造しようとする動きもあり、法然がその先駆者的存在でした。この動向は、法然や親鸞や一遍のように念仏系が目立つのですが、日蓮のように法華系の立場の僧もいました。念仏系・法華系を問わず、三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革の特徴は、信心をよりどころとした新たな救済思想だった、ということです。出家者が三学の修業により悟りを目指す本来の仏教から逸脱し、キリスト教やイスラームとも通ずる、信心が救済に直結する宗教が成立したわけです。

 この場合、出家者と在家者との境界は曖昧となり、浄土宗の念仏者は禅僧・律僧のように真の僧侶とはみなされませんでした。しかし、在家者中心の救済体系は、出家・在家を問わず、全衆生の成仏を目指す大乗仏教の志向に沿ったものと言えます。三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革は室町時代後期になって勢いを増し、一向宗・法華宗と呼ばれる新たな社会集団が形成されました。

 こうした二つの方向での宗教改革の一方で、旧仏教とされる顕密仏教が多くの人々の支援を受けていたことも確かでした。修学を重んじた顕密仏教では僧侶が尊重され、法会・修法の勤修を託されました。しかし、顕密仏教の内部では世俗の身分秩序が受容され、破戒が常態化していたことも否定できません。仏教の根本たる仏宝(釈迦などの如来)・法宝(如来の説いた教え)・僧宝(僧侶の集団)のうち、法宝を担った顕密仏教、僧宝としての禅僧・律僧集団、在家者を取り込んだ念仏系・法華系がそろった鎌倉時代は、日本宗教の黄金期だった、というのがこの第21号の見解です。

 この第21号において他に強調されているのは、武士の信仰心は生業への罪悪感と父祖への意識の克服とともに強まった、という見解です。武士が禅宗や律宗を保護したのは政治的見地からのみではなく、精神的安定を求めるという目的も大きかった、と強調されています。その他には、蓮如の登場まで浄土真宗の勢力は東国の方が圧倒的に優位だったことや、法然は延暦寺や一部の学僧から敵視されたものの、朝廷や他宗から広く尊敬を集めており、問題視されたのは法然の弟子や支持者たちの「暴走」だった、といった見解が「新発見」的でしょうか。この第21号は鎌倉時代の仏教について興味深い見解を提示しており、たいへん面白く読めました。

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