百田尚樹『日本国紀』(前編)

 幻冬舎から2018年11月に刊行されました。字数制限2万文字を超過してしまったので、この前編と後編に分割します。多くの日本人は日本が大好きで、先祖が紡いできた文化伝統を凄いと思っています。しかし、GHQの洗脳工作により、戦後日本の歴史教育は自国を貶めるものに堕してしまいました。戦後生まれの日本人は学校では教えてもらえなかった正しい日本の歴史をもっと知りたいのに、それを教えてくれる歴史教科書はありませんでした。そんな中、満を持して刊行されたのが本書です。日本は悪い国だと教育を受け、大東亜戦争がどんな戦争だったかを習うことも無い戦後生まれの日本人にとって、本書が本当の歴史教科書になり、本当の日本を取り戻す契機になると思います。日本人のアイデンティティとして、日本の歴史を流れる映像として語るのに、本書は最適でしょう。生きているうちのこのような本に出会えたことを心より感謝申し上げます。


 以上のような称賛とともに、本書への批判・嘲笑もネットでは目立ちます。それらのいくつかも参考にしつつ、以下に私の雑感を述べていきます。まず意外だったのは、基本的には淡々とした感じの文章であることです。著者の他作品を読んだことはありませんが、当代でも有数の売れっ子作家だけに、もっと文学的技巧を多用した、物語色の強い叙述になっている、と予想していました。おそらく、これは意図的なもので、通史ということで、あえて教科書的な記述にしたのでしょう。文章は読みやすく、一般向けであることが強く意識されていると思います。

 内容については、率直に言って全体的に理解の古さが目立ちます。著者の勉強不足は明らかで、とても日本通史を執筆できるだけの準備が整っていたとは思えません。まあ、そうであるからこそ、通史を執筆しようと思い立ったのでしょう。歴史学を専攻していなくとも、多少は歴史関連の本を読んでいけば、通史を執筆するのがどれだけ恐ろしいことなのか、よく理解できると思います。一部?では「右寄り」とみなされている著者の日本通史だけに、西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を想起する人も少なくないと思います。しかし、『国民の歴史』は(執筆時点での)一般層にはあまり知られていないだろう最新の知見も取り込んだ内容で、西尾氏と比較して著者の勉強不足は明らかというか、比較対象にすると西尾氏に失礼でしょうか。『国民の歴史』の歴史観には基本的に同意できないのですが(関連記事)、(当時の)大御所・第一線の歴史学研究者が反論本を出すだけの内容はあると思います。しかし本書にはそれだけの価値はなく、歴史学研究者が本書を無視してもまったくかまわないでしょう。その気になった歴史愛好家が、それぞれ関心のある分野で本書に疑問を呈していけばよいと思います。

 全体的に最新の知見を抑えていないこと以上に問題なのが、整合性のなさが散見されることです。後述しますが、日本における虐殺や仏印進駐などで、前のページにあることと整合的ではない記述が後のページで見られます。執筆者が複数いるのではないか、と邪推したくなるほどですが、そうではないと思います。本書は王朝交替説に肯定的で、妥当性がきわめて低い九州王朝説にも否定的ではありません。『朝まで生テレビ!』出演時の発言から推測すると、おそらく著者は天皇、とくに前近代の天皇への思い入れはとくに強くなく、反「左翼」・中国・南北朝鮮感情が根底的な動機としてあるように思われます。その意味で本書は、共通要素はあるとしても、皇国史観とはとても言えないでしょう。著者は、「左翼」的言説を否定したい、という思い入れで執筆しているため、妥当性の低い見解も採用するなど、その場しのぎ的な反応をしてしまい、結果的に整合的ではない記述になってしまっているように思われます。これは、王朝交替説に肯定的など、「反左翼」が喜ばないだろう記述も散見されることと関連しています。

 率直に言って、本書は日本通史としてはきわめて低水準で、高校用日本史教科書を読む方がはるかに有意義です。本書の方が面白い、との評価は多そうですが、上述したように本書は基本的には淡々とした叙述になっているので、「面白さ」という点で教科書を大きく上回っているとは思えません。読みやすさという点でも同様です。ならば、内容がはるかにまともな教科書を読む方がずっと有意義です。以下、本書の具体的な内容について雑感を述べていきます。本当は全時代満遍なく雑感を述べていくべきなのでしょうが、私の関心および所有参考文献の偏りと、途中から疲れてきたため、近世以降は薄くなってしまいました。問題のある個所で、読み過ごしてしまったところもあるでしょうし、南京事件のように、私が勉強不足なので取り上げなかった記述もあります。こうした点は、今後の私の課題です。雑感のより詳しい説明と参考文献については、基本的にリンク先で言及されています。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


第1章 古代~大和政権誕生

●縄文時代(P10~12)
 縄文「文明」よりも優れた「文明」が同時代のユーラシアに存在した、と率直に認められています。縄文時代の分量は少なく、歴史時代ではないので著者の関心が低い、ということなのでしょう。縄文人がさまざまな人々の融合により成立し、弥生時代以降に朝鮮半島から日本列島に人々が渡来してきたことも認められており、日本人起源論については、周辺諸国のDNA解析が進めばかなりのことが分かるだろう、とさえ指摘されています。近年の「愛国的」見解では、縄文時代から一貫した「日本」の存在を措定して賛美することが多いように思われるので、本書の記述はかなり意外でした。著者は縄文時代には興味がなく、そのため冷ややかな記述になっているのでしょう。その分、本書の中ではまともな記述になっています。

●弥生時代(P13)
 弥生時代については、水稲耕作や金属器が朝鮮半島から伝わってきたことと、現在の中国に相当する地域には、同時代に日本列島より圧倒的に高度な「文明」が存在したことが、率直に認められています。想定される主要な読者層を刺激しそうな叙述になっていますが、意外とまともとも言えます。良心的とも解釈できるかもしれませんが、「日本」という国制が成立する(と著者が考えている)時期までのことには関心がないというか、重視していないため、単に参考文献を短くまとめただけなのだと思います。

●邪馬台国(P15~22)
 邪馬台国と「大和朝廷」との関係が否定されています。記紀には卑弥呼も邪馬台国も登場せず、宝物を授かったことも含めて魏との通交も記載されていないから、というわけです。しかし、『日本書紀』巻九(神功皇后紀)では、卑弥呼との表記こそないものの、魏と倭との通交が注で言及されています。邪馬台国を都とする倭国と『日本書紀』編纂時の日本国の中枢が政治的に連続的だとしても、その頃には卑弥呼が自分たちの伝承では誰のことなのか、分からなくなっていた可能性もあると思います。近年では邪馬台国畿内説で決まりとの論調が支配的に思われますが、本書が推測するように、邪馬台国は九州にあり、後の「大和朝廷」とは関係していない、という可能性も無視できないくらいにはあると思います(関連記事)。もっとも、邪馬台国と「大和朝廷」との関係を否定する論者の全員ではないとしても、「日本」が「中国」に冊封されることはあってはならない、という後の皇国史観と通ずるような動機があるように思われ、後述のいわゆる倭の五王に関する本書の記述からも、著者にもそうした動機があるように思えます。

●朝鮮半島の前方後円墳(P23)
 「百済があった地では、日本式の前方後円墳に近い古墳がいくつも発見されている」とありますが、「日本式の前方後円墳に近い古墳」が築かれた時期の朝鮮半島南西部は百済領ではなかったでしょうから、やや問題のある記述だと思います。

●任那(P24)
 本書では日本(倭)の「任那」支配が事実とされています。日本(倭)の「任那」支配をめぐる議論は「支配」の定義次第でもあると思うのですが、一般的な意味合いでの「支配」だったと考えるのは難しいように思います。しかし、日本(倭)が「任那」に何らかの影響力を有していた可能性は高いでしょう。

●神功皇后と応神天皇は新王朝の創始者(P26~27)
 その根拠として漢風諡号に「神」が入っているから、とされていますが、漢風諡号の制定は『日本書紀』の編纂よりも後のことです。著者がそのことを知っているのか否か、本文を読んだ限りでは微妙ですが。なお、遠山美都男『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)では、『日本書紀』は万世一系を証明しようとした歴史書とは一概に言えず、王朝交替説論者は、「中国」と同様に「日本」でも王朝交替のような歴史があったとする『日本書紀』の構想に引きずられているだけだ、と指摘されています。

●倭の五王(P27~28)
 いわゆる倭の五王について、記紀には中国(宋王朝)へ朝貢した記述がないとして、記紀に見える「天皇」に比定することに本書は否定的です。しかし、『日本書紀』編纂時の日本の支配層にとって、対等なはずの「中国」に冊封されていた過去は都合が悪かったので言及されなかった、と考える方が妥当だと思います。本書は倭の五王に関して、通説の対抗説として九州王朝説に言及していますが、論外だと思います。本書は、「日本」が「中国」に冊封されたことを否定したいあまり、九州王朝説に言及したように思われますが、その結果として、皇室を貶めていることに気づいていないようです。なぜならば、九州王朝説は、現在の皇室は九州王朝の分家にすぎず、日本列島を代表していた王権は、7世紀後半まで九州王朝だった、と主張しているからです。もちろん、まともな見解ならば、本書の歴史観に都合が悪くとも言及するのは良心的と言えるでしょうが、与太話にすぎない九州王朝説に飛びついてしまうあたりに、著者の不勉強が見えてしまいます。

●騎馬民族征服王朝説(P30)
 騎馬民族征服王朝説について、「一時期受け入れられた背景には、戦前の皇国史観への反動と朝鮮人に対する贖罪意識という側面があるが、歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚われることは避けなければならない」とあります。これは、「進歩的勢力」、とくに朝日新聞批判に執着する著者自身への戒めなのか、と深読みしたくなります。

●新王朝の祖である継体天皇(P30~32)
 継体「天皇」は新王朝の祖とされ、王朝交代説が採用されていますが、この頃にはすでに天皇(大王)は万世一系であるべきだとの不文律があったとの想定は、かなり苦しいように思われます。

●男系での皇位継承(P33~34)
 ネットでも話題になりましたが、男系での皇位継承の条件とは、「父親が天皇」であることではなく、ここは著者の認識が間違っているように思います。もっとも、その前の記述から推測すると、「父親」ではなく「父方・父系」と言いたかったのかもしれませんが。なお、過去8人の女性天皇のうち、4人は既婚者(未亡人)で、彼女たちの子は天皇になっている、とありますが、この4人のうち推古と持統の子は天皇になっていません。

 第1章では縄文時代~飛鳥時代の前までが扱われています。日本人が日本列島に渡来してきたさまざまな人々の融合により成立したことや、水稲耕作・金属器といった弥生時代の要素が朝鮮半島からもたらされたことや、縄文時代~弥生時代にかけて、「中国」も含めてユーラシアには日本列島よりも高度な「文明」が存在したことや、王朝交替の可能性が高いと想定されていること(私は以前述べたように否定的ですが)などもありますが、何よりも、縄文時代から現代まで継続する一貫した「日本」が措定されていないことは、本書のまともなところだと思います。これは、本書の主要な読者層の歴史観とは相容れないでしょうから、不満に思う読者は少なくないと思います。まあ、第1章に関しては、著者が良心的というよりは、単に関心が低くて不勉強なだけで、それ故に九州王朝説のような与太話にも言及してしまったのだと思いますが。


第2章 飛鳥時代~平城京

●神道(P37)
 仏教伝来前の日本には神道があったとされていますが、「太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の神道」との見解は大いに疑問です(関連記事)。

●遣隋使(P39~41)
 聖徳太子が遣隋使の主体者とされていますが、『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていません(関連記事)。また、天皇称号の使用は遣隋使に始まるとされていますが、これは議論のあるところだと思います。現時点では、天皇称号の使用は天武朝に始まるとの見解が有力でしょう。

●憲法十七条(P42~43)
 「憲法十七条」の先進性が強調され、とくに第一条が高く評価されていますが、「憲法十七条」が広く特別視されるようになったのは近代以降で、第一条こそが聖徳太子の思想の中心で日本文化の伝統だった、との考えが広まったのは昭和になってからでした(関連記事)。

●白村江の戦い(P45~47)
 白村江の戦いへといたる日本(倭)の百済救援策について、当時としては大事業で、そこまで百済に肩入れしたのは、百済が日本の植民地に近い存在だったからだ、と主張されています。確かに、日本(倭)が百済にたいして政治的に優位に立つ局面は多かったでしょうが、「植民地に近い存在」とまで言えるのか、はなはだ疑問です。著者とは政治的立場が大きく異なるだろう論者の中には、逆に日本が百済の植民地もしくは「分家」だったから「異様なまでに」百済復興に肩入れしたのだ、と主張する人さえいます。しかし、そうした日本(倭)と百済の「特別な」関係を想定する必要はなく、百済救援は当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様です(関連記事)。

●遣唐使(P48~50)
 「遣唐使はすべて朝鮮半島を経由しない海路」とありますが、初期には朝鮮半島沿岸経由だったと推測されているので(この経路が用いられなくなったのは、新羅との関係が悪化したからだと思われます)、やや問題のある表現だと思います。遣唐使が「命懸け」だった理由として、造船技術と航海術の未熟さが指摘されていますが、朝貢使・朝賀使という外交的条件に制約され、出発・帰国の時期を自由に選ぶことが許されなかったことに、より大きな原因があったと考えられます(関連記事)。なお、唐の周辺国は唐の冊封を受けていたのに日本だけは違った、とありますが、唐とトゥプト(吐蕃)との関係は安定的ではありませんでしたし、そもそも冊封体制という枠組みは一般層では過大評価されているようにも思います。

●万葉集(P51~52)
 『万葉集』には一般庶民の詠んだ歌も多数採録されており、豊かな文化を示す、と主張されていますが、ある程度以上の知識層の仮託が多く含まれている可能性も想定すべきではないか、と思います。

●仁徳天皇および皇祖神(P54~55)
 日本国号の素晴らしさが力説されていますが、日本という国号の表記の発信源は中華世界にあり、百済や新羅、とくに百済の知識人が倭の別称として用いたのが直接の起源との見解も取り上げてもらいたかったものです(関連記事)。なお、本書では皇祖神は天照大神とされていますが、タカミムスヒが本来の皇祖神だった、という仮説もかなり有力だと思います(関連記事)。

●天智と天武(P55~56)
 天智天皇と天武天皇が兄弟ではなかった、との仮説が否定的ではない文脈で言及されていますが、与太話にすぎないと思います(関連記事)。

●奴隷制(P57~58)
 「中国」やヨーロッパ社会における奴隷制度に相当するものは日本には存在しなかった、とありますが、下人は世界史的観点では奴隷と定義できるかもしれず、本書の見解も議論の対象となるでしょう。

●日本の清潔さ(P63)
 「幕末に日本を訪れた西洋人が一様に驚いた日本の街の清潔さは、実は千二百年以上前が実現していたのだ」とありますが、江戸の清潔さについては過大評価されているところがあります(関連記事)。ゴミ処理においては不法投棄が後を絶たず、肥料となる生ゴミが恒常的に発生していたことも窺えます。上水井戸と共同便所やゴミ捨て場とは近接することも少なくなく、幕末のコレラの流行には、そうした生活環境も影響した可能性が指摘されています。

●日本史上の虐殺(P64)
 ヨーロッパや「中国」では当然だった民衆の大虐殺が日本ではまったくないとのことですが、戦国時代の長島や越前の一向一揆、さらには江戸時代の島原の乱は、民衆の大虐殺との評価も的外れではないように思います。もちろん、そうした虐殺を語る史料に誇張もあるのでしょうが。これは読み進めていた時のメモなのですが、本書では織田信長についての記述で、虐殺が肯定されており(P139~143)、この問題は後述します。


第3章 平安時代

●「中国」の影響(P66)
 平安時代には中国大陸の影響を受けなくなったとされますが、仏教をはじめとして相変わらず多方面で影響を受け続けます。『枕草子』からも窺えるように、「中国」文化への憧憬も強いものでした。なお、日本史上、「中国文化」への傾倒が頂点に達したのは江戸時代でした(西嶋定生『邪馬台国と倭国』P198)。ずっと先の江戸時代はさておき、平安時代に話を戻すと、何よりも、江南の経済発展に起因する「日中」交易の本格化により、むしろほぼ遣唐使に限定されていた平安時代初期までよりもそれ以降の方が、「中国」の影響が強くなった、と考えるのが常識的だと思います。

●遣唐使の「廃止」(P68~70)
 遣唐使が廃止されたとありますが、実際には延期です。まあ、廃止にしても延期にしても、平安時代になって日本が遣唐使に消極的になっていったことは確かでしょうが、それは本書が主張するような、「中国」の文化はもう不要との自信に由来するのではなく、国家としての唐が衰退して「中国」情勢が不安定たからでした。また、唐が滅亡してからも、「中国」からの「唐物」は日本の文化に必要とされ、規範にもなっており、商人による東アジア交易を通じて導入され続けました(関連記事)。遣唐使の延期も、東アジア交易が盛んになり、「国家」間の使節往来に頼らずとも、「中国」の文物の導入や僧侶の留学が可能だった、という前提があります。

●武士の起源(P71~73)
 武士の起源については議論の蓄積があり、私も含めて門外漢にとって理解はなかなか困難と思います。本書は荘園の拡大および土地をめぐる紛争が要因としていますが、荘園が本格的に拡大していくのは院政期で、平安時代初期の、国衙支配への反抗としての群盗蜂起とその対抗としての僦馬の党の出現といった、武装輸送・強盗手段の台頭による治安の悪化がより大きな要因だったのではないか、と思います。

●摂政と関白の権能(P73~74)
 「藤原氏の当主は摂政や関白として天皇の代わりに政治を執り行なった」とありますが、摂政は天皇大権を代行するものの、関白はあくまでも天皇を補佐する官職です。

●菅原道真と怨霊思想(P75~76)
 菅原道真の失脚は藤原氏の謀略とされていますが、当時より醍醐天皇に責任があると考えられていたようです(関連記事)。なお、「死者が祟るというこの考え方は日本人特有である」とありますが、ヨーロッパでも、とくにキリスト教の浸透以前には、非業の死を遂げた者が怨念を抱いて有害な存在となる、といった観念は珍しくなく、類似の観念は他地域でも珍しくないだろう、と思います。

●摂関就任の条件(P77~78)
 「いつの頃からか摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていた」とありますが、そもそも摂政と関白という官職が成立した当初より、藤原氏しか就任していません(後世には豊臣秀吉・秀次という例外があり、近代には皇族摂政制となりますが)。聖徳太子は「摂政」ではなく、「皇太子」として政治を委ねられたわけです(あくまでも『日本書紀』の説明では)。

●平安時代の死刑(P79~81)
 平安時代になって死刑は廃止されたとありますが、天皇が死刑を忌避し、死刑減免の判断を続けていた、との解釈が妥当でしょう(関連記事)。ただ、平安時代にも地方では死刑が不通に行なわれてた、とも本書は指摘しており、ここは的外れな日本称賛になっておらず、よいと思います。

●院政(P81~82)
 院政は上皇と天皇の権限が同等という律令の規定を白河上皇が利用して始まった、とされていますが、イエ社会への移行に伴い、官職のような公的地位よりも、家長であるか否かの方が重要になった、ということを重視すべきと思います。ここは、著者が強調したいだろう、日本と「中国」や朝鮮との大きな社会的違いになるので、本書でも大きく取り上げればよかったのに、と思います。

●保元・平治の乱(P82~87)
 保元の乱の遠因として、崇徳上皇が鳥羽法皇の実子ではなく、白河法皇の実子だという噂を事実と断定していますが、これは議論の分かれるところだと思います。平治の乱については、平清盛が主役であるかのような解説となっていますが、これは清盛が結果的に最大の利益を得たと言ってもよいような史実経過からの逆算にすぎず、清盛の過大評価だと思います(関連記事)。

●平家の栄華と没落(P88~91)
 1179年のクーデタにより院政は終わったとされていますが、院政自体は鎌倉時代にも続いていきます。本書は、上皇が日本の最高権力者である時代は終わった、と言いたいのでしょうが、承久の乱の前までの鎌倉幕府の権力はその後よりも限定的で、後鳥羽院政にはかなりの実質的権力があったのではないか、と思います。なお、「源平合戦」は武士のみで行なわれ、一般民衆はまったく巻き添えになっていない、とありますが、すでに20年以上前に、一般向けの川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社、1996年)にて、「源平合戦」における多数の民衆の動因が指摘されています。また、「源平合戦」において度々戦術としての放火が行なわれていたことを考えると、本書の「源平合戦」に関する見解は的外れだと思います。


第4章 鎌倉幕府~応仁の乱

●北条政子(P94)
 当時は結婚しても女性は出身家の姓を名乗っていて(これは間違いではありません)、源頼朝の妻は北条政子と呼ばれる、とありますが、「北条政子」は姓(ウジナ)と苗字(名字)が混同されるようになった後世(中世後期~近世以降)の俗称で、「平政子」が正解です。そもそも、「政子」は晩年に位階を授けられたさいの命名で、それ以前の名前は不明です。

●鎌倉時代の経済発展(P97)
 「貨幣経済が一層進展した」とありますが、それが「中国」由来であることや、「日中」交易の発展によるものであることには触れられておらず、かなり問題だと思います。まあ、平安時代以降は中国大陸の影響を受けなくなった、との本書の史観からして無視するのが当然かもしれませんが。また、鎌倉時代の農業の発展も指摘されていますが、鎌倉時代は気候変動や環境の変化の大きい不安定な時代であり、耕作面積が減少して農業生産は後退した、との指摘もあります(関連記事)。それと関連して、近年の農業史では、古代における到達点の高さと中世(とくに前期)の停滞という把握が主流的見解になっています(関連記事)。

●モンゴル帝国(P97~98)
 モンゴル帝国インドを手中に収めたとありますが、インドのほとんどを支配できていないと思います。文永の役でモンゴル軍は1274年10月20日に引き上げたとありますが、実際にはその後も戦いは行なわれています。弘安の役で台風が到来しなくともモンゴル軍が日本軍に勝てたか疑問とありますが、この見解は妥当だと思います。

●鎌倉時代の仏教(P108~109)
 鎌倉時代の仏教について、いわゆる鎌倉新仏教のみを取り上げているのは、日本史上、仏教が最も生き生きとした時代だった、との評価もあるくらいなので(関連記事)、さすがに今となっては古臭いかな、と思います。また、禅宗が「中国」から強い影響を受けたことに言及していないのも問題でしょう。これも、平安時代以降は中国大陸の影響を受けなくなった、という史観(というか願望)が本書の根底にはあるようなので、仕方のないことかもしれません。

●鎌倉時代の天皇(P109)
 鎌倉時代の天皇に政治的実権はなかったとされますが、鎌倉時代には承久の乱後もまだ朝廷の政治的支配力は残っており、亀山や伏見のように親政を行なった天皇もいましたから、かなり問題のある表現だと思います。

●建武政権(P113~115)
 建武政権の恩賞は実際に戦った武士には薄く、たいした働きのなかった公家には厚かったので、武士の間で不満が高まった、とされています。しかし、官位昇進や所領などの点で武士たちが冷遇されたわけではなく、建武政権は武士の権益を保護しようとしていました。建武政権の短期間での崩壊は恩賞給付が進まなかったためなのですが、それは、公家が優先され武士が冷遇されていたからではなく、鎌倉幕府滅亡直前もしくは直後に幕府側から後醍醐天皇側に鞍替えした武士が多いこともあり、勲功認定が難航したからでした(関連記事)。

●南朝正統論(P116)
 室町時代には南朝が正統とみなされていた、とありますが、さすがに無理がある解釈だと思います。まあ、南朝関係者はそう考えていたとしても、社会の主流は明らかに違うでしょう。

●正平一統(P117)
 南朝との講和のため足利尊氏は征夷大将軍の解任も受け入れた、とあります。正平一統で尊氏は征夷大将軍を解任されたようですが、尊氏にとって幕府存続は譲れない一線だったでしょうから、将軍解任を受け入れた可能性は低いように思います。

●足利義満(P119~121)
 足利義満は皇位簒奪を計画していた、との説が採用されていますが、現在では否定されています(関連記事)。また、義満暗殺説を採用する研究者は少なくない、ともされていますが、暗殺説に肯定的な研究者はおそらくいないだろう、と思います。

●足利家における出家(P124)
 足利家には長男以外は出家して僧になるしきたりがあった、とされていますが、義満の四男の義嗣はそうではなく、本書でも、義満は義嗣を天皇とするつもりだった、と主張されています。これに限りませんが、前後で整合的ではない記述が散見されるのは、著者はもちろんのこと、編集者の問題でもあるでしょう。もっとも、義嗣は兄である将軍の義持と対立して失脚した後に出家させられていますが。

●応仁の乱(P128~131)
 応仁の乱の契機は、息子(足利義尚)を将軍にしたいという日野富子のわがままな思いだった、とされていますが、日野富子を応仁の乱の原因とする説には確たる根拠がない、と指摘されています(関連記事)。応仁の乱以前の有力武将は全員、天皇の血統に連なる者が尊ばれた、とありますが、秀郷流を中心に、藤原氏の武士も少なからず有力武将として尊ばれました。


第5章 戦国時代

●織田信長(P139~143)
 本書の織田信長に関する認識は、楽市楽座により座を廃止したとか、兵隊を金で雇うようになったとか、古臭いものです。信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保障したりすることによる統制にあり(関連記事)、信長軍が他大名の軍と異質な構成だったわけではありません(関連記事)。仏罰を信じないなど信長は現代的な感覚の持ち主だった、とも主張されていますが、近年の研究は、信長が「中世的かつ保守的」だったことを明らかにしつつあります(関連記事)。なお、信長の延暦寺焼き討ちや長島一向一揆鎮圧は日本史上かつてない大虐殺とされています。上述したように、P64では、ヨーロッパや「中国」では当然だった民衆の大虐殺が日本ではまったくない、と主張されているわけで、その場の気分で書きなぐっているのではないか、と疑われても仕方のないところでしょう。著者は「文学的修辞」と釈明していますが、ひじょうに苦しいと思います。なお、信長は戦国大名との戦いでは勝利後に相手の兵隊や住民を殺害することはなかった、とされていますが、荒木村重との戦いのさいには、戦勝後に大量処刑が行なわれました。まあ、村重は信長の元家臣の謀反人であって「戦国大名」ではない、ということなのかもしれませんが。

●豊臣政権(P151~153)
 豊臣政権の評価では、太閤検地の画期性が強調されています。確かに、多分に虚構的なところもあるとはいえ、曲がりなりにも「全国」規模で統一的な賦課基準が成立したのは画期的ですが、豊臣政権が直接検地した土地は限定的だったことと、貫高など石高以外の土地価値の表示が採用されていた事例も少なくありませんでした。刀狩についての本書の理解も古く、刀狩により民衆が武装解除されたわけではなく、その企図は身分規制にあったのではないか、との見解が現在では通説になりつつあります(関連記事)。

●文禄・慶長の役(P155~159)
 文禄の役における日明講和交渉は、明が秀吉を日本国王に任命しようとしたため決裂したとありますが、じっさいは、日本軍が確保する(予定の)朝鮮半島南部を朝鮮の王子に「宛行う」ことにより、日本軍は朝鮮半島から撤退するものの、日本が朝鮮に勝利した、という体裁を取り繕いたかったのに、明が(当然朝鮮も)その条件を拒否したからでした(関連記事)。なお、本書は慶長の役で日本軍が明・朝鮮軍を圧倒していたとしますが、確かに、籠城する日本軍に攻め寄せてきた明・朝鮮軍は何度か撃退されているものの、たとえば、明軍に圧勝したとされる島津軍にしても、包囲されている状況まで解消できたわけではなく、けっきょくは明軍と交渉せざるを得ませんでした。本書の慶長の役における日本軍への評価はやや過大だと思います。


第6章 江戸時代

●石高と米の消費(P165)
 当時は1人が1年間で食べる米の量はおよそ1石で、1万石の藩は1万人を養える国力があったとされていますが、生存に必要な1人の年間米消費量は他の食料の摂取量とも関わってくるので、1人が1年間で食べる米の量はおよそ1石との推定は基本的に意味がないと思います。

●豊臣秀吉の征夷大将軍就任計画(P168)
 豊臣秀吉は征夷大将軍への就任を画策して足利義昭の養子になろうとしたが断られた、とありますが、これは俗説だと思います(関連記事)。

●参勤交代(P168~169)
 参勤交代は江戸幕府が諸藩を疲弊させるために始めた、とありますが、大名の「首都」在住は(応仁の乱以前の)室町時代の慣例でしたし(京都から遠い大名には在京義務はありませんでしたが)、大名の妻子が「首都」に居住するのも豊臣政権で見られました。参勤交代は基本的には、将軍と大名との主従関係の可視化を目的としたものでしょう。

●鎖国政策(P170~173)
 江戸幕府が鎖国政策を採用しなかったら、日本が東南アジアと朝鮮半島と「中国」を制圧し、インドではイギリスと、東アジア北東部ではマンジュ(ジュシェン)族の後金(ダイチン・グルン)と決戦に至り、その勝敗は定かではない、と想定されています。そもそも、文禄・慶長の役で日本軍が明・朝鮮軍を圧倒した、と本書は強調しますが、それは最初の頃だけで明軍の介入後は戦線膠着状態でしたし、慶長の役では朝鮮半島南部の保持が目的になったのは、明が介入しては朝鮮半島全体の制圧も困難だ、と豊臣秀吉が判断していたからでしょう。本書は当時の日本の軍事力を過大評価していると思います。何よりも、当時の日本の造船技術と外洋航海能力の低さから考えて、日本がスペインやオランダに勝って東南アジアを制圧するのはほぼ不可能だと思います。

●江戸時代の身分制(P173~176)
 江戸時代の身分制はきわめて柔軟だった、と評価されています。「きわめて」は言い過ぎかもしれませんが、通俗的に言われていたよりも、江戸時代の身分制が柔軟だったことは確かでしょう。ただ、賤民とされた人々は、平人と比較して、著しく流動性が限定されていたようです(関連記事)。

●江戸時代の米の消費(P197~200)
 江戸時代には、人口の多数を占める農民も米を食べていたはずだ、と主張されていますが、石高制では米が都市に遍在するので、庶民の間でも個人の米消費量には大きな違いがあった、と考えるのが妥当だと思います。また、米を食べられないから貧しい、との観念は、江戸時代の都市民に根強いもので、近代になって徴兵制により国民の多くが軍隊での経験を有するようになって、全国的に定着したのではないか、と私は考えています。

●目安箱(P203)
 8代将軍の吉宗が設置した目安箱は日本史上初の画期的システムとされていますが、戦国時代から見られるものです。

●田沼意次(P205~209)
 田沼意次の政治は、商人から税を徴収するなど、画期的で先進的だったと評価されていますが、「商人から税を徴収」したとの評価も含めて、実態以上に賛美されているのではないか、と思います(関連記事)。逆に、理想主義のため失敗したとされる松平定信については、過小評価されているように思います(関連記事)。

●ヨーロッパ勢力による植民地化(P213)
 18世紀までにヨーロッパは世界のほとんどを植民地化していたとありますが、さすがにこれはヨーロッパ勢力の過大評価でしょう。たとえば、アフリカの植民地化が進んだのは19世紀後半以降です。

●対応が鈍かった江戸幕府の対外政策(P224~228)
 欧米列強の日本浸出が予想できたいたはずにも関わらず、江戸幕府が有効な対策を取れなかった理由は「言霊主義」のためだとされていますが、予想される困難な事態を前に、現実逃避的に無為に過ごすことは人類の普遍的な心理・行動と言うべきでしょう。

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