大河ドラマ『麒麟がくる』第30回「朝倉義景を討て」

 1569年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)夏、明智光秀(十兵衛)は美濃へと向かい、織田信長を訪ねます。光秀は木下藤吉郎(豊臣秀吉)から、松永久秀や三淵藤英も信長に呼ばれており、朝倉との戦になるのではないか、と聞かされます。光秀は岐阜城で、帰蝶・奇妙丸(織田信忠)と再会し、信長が朝倉との戦を迷っている、と帰蝶から聞かされます。帰蝶は、斎藤龍興が朝倉を唆して美濃への帰還を画策していることから、信長に朝倉攻めを進言していました。織田単独で朝倉を倒すのは難しいと考える信長は光秀との会話から、天皇を動かそうと考えます。1570年2月、信長は上洛して正親町天皇に拝謁し、畿内静謐のための軍事行動の勅命を得ることに成功します。摂津晴門から信長が朝倉討伐を計画していると聞かされた朝倉義景は織田との全面的な戦いを決意します。しかし、摂津晴門も三淵藤英も織田の朝倉攻めに反対し、多くの大名から幕府は支えられるべきと主張します。

 今回は、信長が朝倉を攻める大義名分として天皇を動かすところが描かれました。本作では、近衛前久の出番も多く、二条晴良も重要人物のようなので、これまでの信長が重要人物だった大河ドラマと比較して、朝廷が重要な役割を果たすようです。正親町天皇がどのような人物なのか、まだよく描かれていませんが、大物を起用しているだけに、今後信長との関係で重要な役割を果たすのではないか、と期待されます。本能寺の変には朝廷が関わっていた、という話になるのでしょうか。帰蝶は久々の登場となりますが、実質的には架空人物なので、いつ退場しても不思議ではありません。帰蝶も本能寺の変と関わってくるのか、注目されます。

川田稔『木戸幸一 内大臣の太平洋戦争』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、表題にあるように、おもに太平洋戦争期とそこへ至るまでの木戸幸一を満洲事変の頃から取り上げており、前半生は簡潔に言及されています。木戸は戦前・戦中期の昭和天皇の側近の代表格的人物で、昭和天皇の補佐を誤ったとして、一般的にはきわめて評判が悪いように思います。その代表例が、近衛文麿の後継首相として東条英機を昭和天皇に推挙したことです。本書はそこへと至る木戸の決断、さらには太平洋戦争中の木戸の言動を検証します。

 木戸は学習院初等科で近衛文麿・原田熊雄と知り合い親しくなり、この三人の関係は後々まで続きます。木戸は商工省に勤めつつ貴族院議員となり、欧米に出張もしています。1930年、木戸は近衛から打診を受けて内大臣秘書官長に就任します。当時の内務大臣は、昭和天皇の側近の初期の代表格だった牧野伸顕でした。内大臣秘書官長時代の木戸にとってまず大事件となったのは、満洲事変でした。首相の若槻礼次郎は関東軍を抑えるために宮中工作に乗り出しますが、木戸は、内閣が対応すべきと言って拒否します。他の天皇側近の働きかけによる天皇の不拡大発言にも、木戸は否定的でした。木戸は鈴木貞一など一部軍人とも親しく、そのため軍部の情報をいち早く入手できましたが、一方で軍部への配慮から、宮中から陸軍への抑制的働きかけを警戒していました。木戸は、軍部には明確な「国策」があるが内閣にはない、と考えて「軍部善導論」を支持していました。政治家は平和を維持に専念し、不拡大主義を採っているが、それは「計画」とは言えず、「国策」ではない、というわけです。木戸は平和維持・不拡大主義に否定的でした。政治家は不況など日本の苦境に有効な対策をとれていない、というわけです。こうした木戸の認識は、近衛とも共通するところがありました。

 内大臣秘書官長時代の木戸にとって、満洲事変と共に重大だったのは二・二六事件でした。木戸は直後からクーデター鎮圧を主張し、それが採用され、昭和天皇は暫定内閣も認めない厳しい姿勢を示し、クーデターは失敗します。木戸は二・二六事件における功績を高く評価され、後に内大臣に就任する一因となりました。1936年6月、木戸は内大臣秘書官長を辞任します。これは、二・二六事件での対応を筆頭に精神的疲労が蓄積されていたからでした。木戸は一時的に政界から離れますが、広田内閣末期に、西園寺公望の要請により、首相推薦の制度変更に関わります。すでに唯一の元老となって久しく、高齢の西園寺は、軍部の意向が組閣を左右する状況に、後継首相の下問にさいして自らの信念に従って奉答はできないと考えました。木戸は、次期首相の下問にさいして、内大臣が元老と協議のうえ奉答し、そのさい「重臣その他」との協議は制限されない、との案を提示し、西園寺と昭和天皇に了解されました。これにより、後継首相選定の主導的役割を内大臣が担うことになりました。

 1937年10月、木戸は近衛内閣の文部大臣に就任し、政界に復帰します。近衛内閣の重要案件だった日中戦争と講和交渉に、木戸は否定的でした。しかし、日中戦争の早期解決の目処が立たず、近衛内閣も講和交渉に傾き、内閣改造などにより対応しようとしますが、結局挫折し、気力を失った近衛は辞職します。この間、木戸は注目すべき昭和天皇評を原田に漏らしています。昭和天皇は「科学者としての素質が多すぎる」ので右翼への同情がなく困る、というのです。これは、日独伊三国軍事同盟を巡る交渉にも表れており、米英との対立を懸念して同盟締結に慎重な昭和天皇に対して、木戸は同盟締結推進派でした。しかし、独ソ不可侵条約の締結により、日本では日独伊三国軍事同盟への動きが一旦頓挫します。1940年6月、木戸は内大臣に就任します。上述のように木戸は陸軍に親和的でしたから、陸軍は木戸の内大臣就任を歓迎しました。また、近い次期の再組閣を構想していた近衛は、親しい木戸が内大臣に就任することで宮中に拠点ができることから、木戸の内大臣就任を後押ししたようです。

 1940年、ドイツ軍のヨーロッパ西方での快進撃を見た日本陸軍は、アジア南東部のイギリス植民地の奪取を本格的に計画し始めます。その中心となった武藤章は、イギリスがドイツに敗れればアメリカ合衆国は介入してこないだろう、と予測しました。武藤は日本とアメリカ合衆国との国力差を認識しており、対米戦は避けようとしていました。独ソ不可侵条約の締結により、一旦は挫折した日独伊三国軍事同盟構想ですが、南進の前提としてソ連との条約締結も含めて、再び推進の機運が高まりました。日独伊三国軍事同盟に否定的な米内内閣は陸軍の圧力に崩壊確実となり、この時点で木戸は、近衛の再組閣を前提に新たな首相選出法を昭和天皇に上奏して採可されます。これは、まず天皇より内大臣に対して、枢密院議長・首相経験者の意見を徴し、元老と相談のうえで奉答するよう命じ、内大臣がこれらの人々と宮中で一同に会して協議し、そのうえで内大臣は元老と相談して奉答する、というものです。これにより、首相選出において元老の役割が大きく低下しました。唯一の元老の西園寺は近衛の再登板に否定的でしたが、近衛が再度首相に就任することになりました。近衛内閣で日独伊三国軍事同盟が締結されます。木戸は戦後、日独伊三国軍事同盟に反対だった、と述べていますが、本書は疑問を呈します。

 1941年6月22日、独ソ戦が始まります。これは、木戸も近衛も容認して積極的に推進していた、独伊と結合し、ソ連と提携して米国を牽制しつつ、南方に武力侵出する、という基本的構想の破綻を意味しました。じっさい、日ソ中立条約により、対独戦のさいに日本の参戦を警戒する米国は、日本との妥協もある程度考慮していましたが、独ソ戦が始まる直前にドイツのソ連侵攻が確実と判断すると、対日方針が大きく変わっていきます。木戸は、独ソ戦が始まる直前に独ソ間の緊張関係を知ると、日独伊三国軍事同盟とはしばらく距離を置き、独伊との友好関係を維持しつつ、米国との軍事的対立を避け、日米諒解案を基本的に受け入れたうえで、じょじょに蘭印に非軍事的な方法で勢力を浸透させるか、南部仏印に進駐して将来の南方武力行使に備える、と考えるようになりました。

 独ソ戦が始まった翌月に南部仏印進駐が実行されると、米国は対日全面禁輸を実施しますが、木戸も含めて日本の指導層はこれを全く予想していませんでした。米国政府内でも、ルーズヴェルト大統領をはじめとして対日戦を決定づけかねない対日全面禁輸に慎重な意見はありましたが、独ソ戦初期にソ連軍はドイツ軍に圧倒され、ソ連軍の崩壊を恐れた米国は、対日戦も覚悟のうえで、日本を南方に向かわせてソ連攻撃を回避させようとしていました。木戸はこの情勢変化を踏まえて、日米国交調整と対独友好関係維持は両立できる、との見解を変え、米国との関係改善に大きく方向転換し、それは近衛も同様でした。木戸も近衛も、対米全面譲歩を考え、近衛は日米首脳会談に臨もうとします。しかし、日米首脳会談は実現せず、開戦決定の期日を定められ追い詰められた近衛は辞任します。

 木戸は近衛が辞職に傾いていることを知りつつ、まだ近衛内閣での事態打開を模索していましたが、1941年10月16日、木戸にとって唐突に近衛内閣は総辞職します。この前後、皇族内閣案も出ていましたが、木戸は反対していました。もし日米交渉が妥結せず対米戦となり敗れれば、皇室が国民の恨みを買って皇室の存続が問われるかもしれない、と木戸は恐れていました。木戸は重臣会議で近衛の後継首相として東条を推薦し、東条が首相に就任しますが、そのさいに9月6日の御前会議決定の白紙還元を東条に求めました。東条もこの木戸の考えに同調していたため、木戸は東条を首相に推薦したわけです。木戸は、海軍が開戦への不同意姿勢継続を示すことによる、戦争回避を考え、開戦か避戦か内心では迷っていた東条も同様でした。しかし、東条内閣で嶋田海相が開戦容認の姿勢を示したため、木戸の構想は破綻します。

 結局、1941年12月8日、日本は米英と開戦しました。木戸は、東条内閣成立に責任があると感じていたこともあり、東条内閣を基本的には支えました。しかし、日本もドイツも戦況が不利となり、イタリアが降伏すると、東条内閣が講和に動こうとしないため、ソ連の仲介による講和を考えるようになります。それでも東条内閣を支え続けた木戸ですが、1944年4月頃には反東条内閣に立場を変えていました。1944年7月、東条内閣は倒れ、小磯内閣が成立しますが、陸軍では統制派が実権を掌握しており、講和への動きは進みませんでした。講和への動きが実質的に進まないまま小磯内閣は総辞職し、1945年4月、鈴木内閣が成立します。

 終戦へと至る過程での木戸の果たした役割は、昭和天皇への助言など小さくはありませんでしたが、後世から見ると、危機感というか切迫感に欠けるところがあります。しかし、当時の日本の指導層の大半から逸脱しているほどでもなく、結局のところ、原爆とソ連参戦という強力な外圧がなければ、日本が降伏することは難しかったかもしれません。本書は最後に、木戸は「貴族」だった、という評価を取り上げていますが、それが最も簡潔で的確な木戸への評価なのかもしれません。木戸の皇室への忠誠、さらには皇室存続のために国民の安寧幸福を願う心情は本物だったのでしょうが、敗戦へと至る道を回避できませんでした。本書からは、木戸の見通しの甘さや胆力のなさのようなものも感じますが、木戸が国家の指導層として特別無能だったわけでも卑怯だったわけでもなく、優秀な人でもこのような誤りは犯しやすいものだと思います。素朴な常識論になってしまいますが、大日本帝国の敗戦のような大きな出来事を個人の器量で語ってはならず、制度・社会構造の中での組織・個人の選択という観点で考えていかねばならないのでしょう。

横浜市の称名寺貝塚遺跡の人類遺骸のmtDNA解析

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、横浜市の称名寺貝塚遺跡の人類遺骸のmtDNA解析に関する研究(Takahashi et al., 2020)が公表されました。称名寺貝塚遺跡は、縄文時代後期初頭の考古学的指標とされる称名寺式土器で有名です。2017年の発掘では、人類遺骸を伴う25の土坑墓が発見されました。これらの人類遺骸には、年代の指標となる副葬品が共伴していなかったので、全標本で放射性炭素年代測定法が用いられました。ほとんどの人類遺骸の年代は、縄文時代後期初頭となる4000年前頃(以下、紀元後1950年を基準と下較正年代)です。縄文時代遺骸の上で発見された2個体の年代は、それぞれ平安時代と古墳時代開始期(ほぼ弥生時代終末期)でした。

 最近の研究では、「縄文人(縄文文化の遺跡で発見された人々)」は現代日本人(おもに本州・四国・九州とその近隣の島々から構成される「本土」個体群)を含むどの既知の古代および現代人集団とも遺伝的にかなり異なる、と明らかにされつつあります(関連記事)。これは、日本「本土」の人類集団において、いつ遺伝的構成の劇的な変化が起きたのか、という問題を提起します。縄文時代と古墳時代と平安時代の人類遺骸が発見されている称名寺貝塚遺跡は、この問題の解明に寄与する手がかりを提供できるかもしれません。そこで本論文は、称名寺貝塚遺跡の人類遺骸の放射性炭素年代測定とミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果を報告します。

 土坑墓13基のうち11基は、4417~3712年前と、縄文時代後期(4420~3400年前頃)の範囲に収まりました。土坑墓1は965~823年前の平安時代(紀元後11世紀初頭)、土坑墓2は1694~1544年前の古墳時代(紀元後3~4世紀後半)と推定されました。mtDNA解析は、土坑墓13基のうち9基で発掘された人類遺骸において成功し、mtDNAハプログループ(mtHg)が決定されました。mtHgは、平安時代個体(土坑墓1)がB5b3a、古墳時代個体(土坑墓2)がB4fです。縄文時代の7個体のmtHgは、土坑墓9がD4b2、土坑墓13がM7a1、土坑墓14がM7a2、土坑墓15がM7a2、土坑墓17がN9b、土坑墓21がN9b、土坑墓23がM7a1です。

 古墳時代以前の関東地方の人類のmtDNAデータはまだひじょうに限定的なので、これらのデータは有益です。称名寺貝塚の縄文人のmtHgは、D4b2とM7a1とM7a2とN9bです。土坑墓13と23、土坑墓14と15、土坑墓17と21は同じmtHgなので、共通の母系に属していたかもしれませんが、現時点でのデータからはより詳細な親族関係を推測できません。これら称名寺貝塚の縄文人のmtHgは、すでに他の縄文人でも確認されています。

 しかし、称名寺貝塚の平安時代個体(土坑墓1)で確認されたmtHg-B5b3aと、古墳時代個体(土坑墓2)で確認されたmtHg-B4fは、これまで縄文人では確認されていません。少なくとも称名寺貝塚の人類遺骸でmtHgが決定された個体に関しては、縄文時代と古墳時代および平安時代とで、母系ではつながっていないことになります。これは、少なくとも称名寺貝塚遺跡では、古墳時代もしくはその前に、本土日本人の遺伝的移行が起きたことを示唆します。ただ、mtHg-B5b3aおよびB4fは、弥生時代および古墳時代の他遺跡の個体でもまだ確認されていません。そのため、称名寺貝塚遺跡の人類遺骸で確認されたmtHg-B5b3aおよびB4fは、現時点ではそれぞれ日本最古の事例となります。mtHg-B5b3aおよびB4fは現代本土日本人では頻度で、それぞれ0.08%と0.03%です。

 本論文の知見は、mtHg-B5b3aおよびB4fが、日本列島の人類集団のmtHgの代表ではないことを示唆します。さらに、これらのmtHgは、縄文時代以来日本列島集団において低頻度で存在している可能性もあります。それは、遺伝的に分析された縄文人の個体数が、稀なmtHgを検出するには充分ではないからです。日本列島でmtHg-B5b3aおよびB4fが出現する時期を明らかにするには、より古い人類遺骸を分析する必要があります。さらに、縄文時代と現代との間の遺伝的移行の可能性を確認するために、称名寺貝塚遺跡個体群の核ゲノム解析も行なう必要があります。

 本論文は、同じ遺跡の縄文時代と古墳時代と平安時代の人類遺骸のmtDNA解析結果を報告している点で、たいへん注目されます。本論文が指摘するように、称名寺貝塚遺跡において、縄文時代の7個体と古墳時代および平安時代のそれぞれ1個体とがmtHgでは異なることから、縄文時代と現代との間に起きた、日本列島本土における人類集団の大きな遺伝的構成の変化が、関東地方では古墳時代もしくはその前の弥生時代におきた、と示唆されます。一方で、本論文が指摘するように、mtHg-B5b3aおよびB4fは縄文時代の後に日本列島にアジア東部大陸部から到来した系統ではなく、縄文時代から低頻度で存在し続けた可能性も考えられます。称名寺貝塚遺跡の個体群の核ゲノム解析ではどのような結果が得られるのか、たいへん注目されます。


参考文献:
Takahashi R. et al.(2019): Mitochondrial DNA analysis of the human skeletons excavated from the Shomyoji shell midden site, Kanagawa, Japan. Anthropological Science, 127, 1, 65–72.
https://doi.org/10.1537/ase.190307

神経堤細胞の多様化を促進したエンドセリン経路の進化

 エンドセリン経路の進化と神経堤細胞の多様化に関する研究(Square et al., 2020)が報道されました。魚は最初の脊椎動物で、そこからヒトを含む他のすべての脊椎動物が進化しました。しかし、最初の魚が進化した直後の化石記録にはギャップがあり、それは小さく柔らかい骨格のために化石記録に保存されていなかったからです。そこで、化石ではなく、分子生物学や遺伝学などを使用して、遺伝子古生物学のように、進化がどのように起こったのか、解明されるようになりました。

 この研究で取り上げられた神経堤細胞(NCC)は移動性の多能性胚細胞であり、脊椎動物に固有で、クレード(単系統群)を特徴付ける成体の特徴の数々を形成します。NCCの進化は、新たな遺伝子調節ネットワークの進化、遺伝子のde novo進化、ゲノム規模の重複事象におけるパラログ遺伝子の増幅など、さまざまなゲノム事象と関連づけられてきました。しかし、新規遺伝子や重複遺伝子とNCCの進化とを結びつける決定的な機能的証拠はまだありません。エンドセリンリガンド(Edn)とエンドセリン受容体(Ednr)は脊椎動物に固有で、有顎類(顎口類)のNCC発生の複数の局面を調節します。

 この研究は、Ednシグナル伝達の進化がNCC進化の駆動要因だったかどうか調べるため、ヤツメウナギ類のウミヤツメ(Petromyzon marinus)のednとednrとdlx遺伝子を、CRISPR–Cas9による変異誘発を用いて破壊しました。ヤツメウナギ類は無顎魚類で、約5億年前に現生の有顎類と最終共通祖先を共有していました。したがって、ヤツメウナギ類と有顎類の比較から、脊椎動物発生の高度に保存されており、進化的に柔軟な特性を明らかにできます。これらの遺伝子を取り除くと、幼生の発育中にウミヤツメがより無脊椎動物のようなワームに戻り、進化の祖先になるだろう、というわけです。

 この研究は、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)を用いて有顎類の系統発生学的表現を拡張するとともに、並行解析を容易にすることで、Ednシグナル伝達の古代の役割と系統特異的な役割を特定しました。これらの知見は、脊椎動物ゲノムの重複が起こる前から、Ednシグナル伝達がNCCで活性化されていたことを示唆しています。また、脊椎動物の基部で1回以上のゲノム規模重複が起きた後、パラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)のEdn経路は機能的に分岐し、その結果、Ednシグナル伝達の異なる必要条件を持つNCC亜集団が生じました。

 この発生の新たなモジュール性が、ステム群脊椎動物におけるNCC派生細胞の独立した進化を促したと、この研究は推測します。この見解と一致して、Edn経路の標的の違いは、ヤツメウナギ類と現生有顎類の、口腔咽頭骨格と自律神経系に見られる違いと関連づけられました。まとめると、これらの知見は、新たな脊椎動物遺伝子の起源や重複と、特徴的な脊椎動物の新規性の段階的な進化とを結びつける機能的な遺伝学的証拠を提供しています。


参考文献:
Square TA. et al.(2020): Evolution of the endothelin pathway drove neural crest cell diversification. Nature, 585, 7826, 563–568.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2720-z

アフリカ東部の環境変化と中期石器時代への移行

 アフリカ東部の環境変化と中期石器時代への移行に関する研究(Potts et al., 2020)が報道されました。環境変化と人類の進化を結びつける仮説は、地球規模もしくは地域規模の気候変化と主要な進化基準との間の時間的相関に焦点を当ててきました。アフリカにおける人類の進化に関しては、軌道周期による乾燥化や湿潤化や気候変動の増加が、どのように人類の適応や種分化の出現と一致し、それが始まるのか、特定することが一つの手法です。

 しかし、これらの一般的な古気候仮説のいずれかが、人類進化における重要な移行を説明するのか、まだ明らかではありません。今も続く課題は、気候と環境の記録を、エネルギー獲得に不可欠でありながら、生物の既存の適応戦略を損なうかもしれない変化の影響を受けやすい、水の利用可能性や食料や他の生態資源と結びつけることです。本論文では、南ケニア地溝帯において、高解像度の掘削コアデータを近隣の盆地からの露頭記録と統合し、この地域の基本的な考古学的および古生物学的変化の期間に、景観規模の生態資源の変化がどのように人類の適応に影響を及ぼしたのか、調べられます。

 ケニア南部のクーラ(Koora)盆地のオロルゲサイリー(Olorgesailie)掘削計画では堆積物が回収され、水利用可能性や植生や全体的な資源景観の変化の証拠が提供されます。これらの変化は、近隣のオロルゲサイリー盆地で記録されている、アシューリアンの消滅および中期石器時代技術によるその置換と関連しています。オロルゲサイリー盆地では、既知のアフリカ東部の証拠では最古となる、アシューリアン(握斧や他の大型切削石器により定義されます)の永久的な喪失と、中期石器時代の行動革新の出現が示されます(関連記事)。この移行には、新たな技術、相互接続された社会的集団間の資源交換を示唆する長距離の黒曜石移動、強化された象徴的能力と関連するかもしれない着色材の使用が含まれていました。

 ケニア南部の地溝帯におけるこれら行動革新の始まりは、50万~32万年前頃に起きました。現生人類(Homo sapiens)の最も深い分岐の年代は35万~26万年前頃と推定されており(関連記事)、最古の現生人類化石と広く認められているのは、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された32万~30万年前頃の個体で(関連記事)、オロルゲサイリー盆地におけるアフリカ東部では最古の中期石器時代の証拠と一致します。この時点でアフリカには、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)的な人類やホモ・ナレディ(Homo naledi)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)が存在しましたが、どちらも中期石器時代の人工物とは関連づけられていない一方で、現生人類は中期石器時代の人工物と広く関連づけられています。397000~334000年前頃となるケニア南部のレイニャモク(Lainyamok)遺跡の人類遺骸(保存状態の悪い歯と大腿骨骨幹部)は、早期現生人類と計量的に一致しているものの、他には古代型ホモ属と現生人類との区別ができません。アフリカ東部の中期更新世後期の他のホモ属頭蓋は、通常現生人類と古代型ホモ属の特徴の混在を示しますが、その年代は曖昧です。

 本論文は、中期石器時代もしくは現生人類の起源がケニア南部地溝帯にあるとは想定していません。しかしケニア南部は、中期石器時代の行動革新がアシューリアン(アシュール文化)と永久的に置換したことを示し、正確な年代を有する地域としては最古の記録を提供します。ケニア南部の地溝帯では、394000~320000年前頃となるアシューリアンから中期石器時代への移行期には、哺乳類において大規模な85%もの置換が起きました。この置換では、以前は優勢だった大型草食動物(体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物であるグレーザー)が消滅する一方で、より小型で水に依存しない、グレーザーや低木の葉・果実を食べるブラウザーのような草食動物が増加しました。

 オロルゲサイリー盆地の露頭記録で50万~32万年前頃に侵食が中断し、この期間に上述の行動と動物相の移行が起きます。そこで、この重要な空白期間のデータを得るため、オロルゲサイリー盆地に隣接し、そのすぐ下流(南へ約24km)にあるクーラ盆地の掘削コアにより、高解像度の環境データを保存している堆積物が回収されました。139mのコアは、アルゴン-アルゴン法に基づき、1084000±4000~83000±3000年前と推定されました。これから得られたデータは、広範な地域の植生や岩質や水文を反映しています。

 オロルゲサイリー盆地の人類が用いた石材は、オロルゲサイリー盆地よりもずっと広範な資源獲得を示します。中期石器時代技術で使用される黒曜石は、オロルゲサイリー盆地から25km~95kmの範囲の複数の方向の地点に位置する火山露頭源から輸送されていますが、対照的に、アシューリアン石器群に典型的な石材の輸送は5km以内です。これらのデータを地域の地殻変動および景観区画の証拠と統合することにより、高い地質年代学的解像度で、変化する資源景観の連続を人類の行動および動物相の重要な移行と結びつける枠組みが提供されます。

 民族誌的観察では、食性や狩猟採集範囲や集団移動性や規模は、適応的特徴の中で、環境条件と体系的に関連している、と示されます。また狩猟採集民は、資源の予測不可能性と危険が高まる状況において、技術への投資を増やし、資源獲得の範囲を拡大し、遠方の社会的同盟と交換ネットワークに依存する傾向にある、と報告されています。現代の狩猟採集民におけるこうした反応が、オロルゲサイリー盆地の中期石器時代の考古学的革新と相似していることを考慮すると、資源の予測可能性の低下が、ケニア南部地溝帯における中期石器時代の適応の早期出現における要因だったかもしれない、との仮説を検証するため、コアの記録が調査されます。具体的には、現生人類の狩猟採集民の観察された適応的反応の出現をより広く形成したかもしれない生態学的要因である、資源の変動性が増加している期間に、この地域で中期石器時代の行動がアシューリアンを置換したのかどうかです。

 クーラ盆地の掘削コアデータは、100万~40万年前頃の安定した期間の後に、気候と生態の変動が大きくなったことを示します。たとえば、乾燥期は40万年以上前にも起き、78万~59万年前頃に集中していますが、47万年前頃までの約53万年前間のうち5%ほどの長さにすぎず、47万年前頃まで淡水の利用可能性は高かった、と推測されます。47万年前頃以降、乾燥期が増加し、50万~30万年前頃には8回の乾燥期があり、そのうち5回は5000年程度続いたと推測されます。30万年前頃以降も乾燥期は頻繁に訪れますが、各期間は50万~30万年前頃よりも短くなります。

 こうしたクーラ盆地における変化をまとめると、47万年前頃から始まるものの、40万年前頃から大きく変わっていき、30万年前頃に次の大きな変化があります。まず湖の水深は、47万年前頃までほぼ一貫して中間の深さですが、47万~40万年前頃に浅くなり、40万年前頃には変動するようになり、30万年前頃以降は浅いか変動を示すようになります。水質は、47万年前頃まではおもに淡水ですが、47万~40万年前頃は塩水となり、40万年前頃以降は淡水と塩水の間で変動するようになります。景観は、40万年前頃までは草原地帯に森林が散在するサバンナ的なものでしたが、40万年前頃以降、森林と草原の混在から森林地帯へと変化し、25万年前頃以降は森林と草原の間で変動するようになります。草は、40万年前頃までは短いものが優占しましたが、40万年前頃以降は高い草へと移行していき、25万年前頃以降は高い草が優占します。資源は、47万年前頃までは比較的利用可能性が高いものの、それ以降は利用可能性が急速に変化し、時として乏しくなります。15万年前頃以降も、資源の利用可能性は変動を示します。また、40万年前頃以降に火山構造活動が活発化したことも指摘されています。

 オロルゲサイリー盆地では、上述のように50万~32万年前頃のデータが欠けているので、その前後の変化となりますが、動物相でも人類の行動でも大きな違いが見られます。動物相では、大型動物が減少し、以前には確認されなかった23kg未満の小型動物の割合が一気に増加します。水に依存しない動物も増え、食性では、おもに草本を採食する動物であるグレーザーが減り、多様化します。動物は全体的に、環境および資源利用可能性・予測性の変動劇化に対応して、小型化して食性が多様となり、水に依存しない割合が増えました。動物相全体では、この間に85%ほどの置換があった、と推測されます。一方、近隣のマガディ(Magadi)盆地に関しては、35万年前頃以降、現在へと続く比較的持続した乾燥気候が推測されており(関連記事)、本論文は、近隣でありながら、オロルゲサイリー盆地とマガディ盆地との景観の対照性を指摘します。

 オロルゲサイリー盆地の人類の行動も、前期石器時代となるアシューリアンの120万~499000年前頃と、中期石器時代となる32万~295000年前頃とでは、大きく変わりました。石器は、大型のもの、とくに大型切削石器が優占していたアシューリアンから、より小さく多様な中期石器時代技術へと変わりました。石材は、ほぼ全て(98%)地元の火山岩だったのが、地元産だけではなく、25km~95kmの範囲の複数の方向の地点の黒曜石や燵岩(チャート)も使用されるようになりました。顔料の使用は、アシューリアン期では証拠がなく、中期石器時代には確認されています。

 本論文は、こうした景観と動物相の変化に伴う、資源利用可能性・予測性の変動劇化が、前期石器時代から中期石器時代への人類の行動変化をもたらしたかもしれない、と指摘します。動物相は全体的に小型化し、中期石器時代のより小型化した石器はそれに対応しているのではないか、と本論文は推測します。また、環境と資源利用可能性・予測性の変動劇化は、危険性減少のため、顔料の使用といった象徴的な意思伝達により支えられた、広範囲のネットワーク構築につながったかもしれない、と本論文は指摘します。石材の調達は、前期石器時代には5km未満でしたが、中期石器時代には25km~95kmまで拡大しており、これが広範囲のネットワーク構築を反映しているかもしれない、というわけです。

 本論文は、広範な社会的つながりや技術革新といった「現代的行動」をもたらしたものが、環境と資源利用可能性・予測性の変動劇化への適応だったのではないか、との見通しを提示しています。こうした変動性の激しい環境への適応が、現生人類への進化の選択圧になった可能性はあると思います。ただ、現生人類はとくに環境変動劇化への適応力が高かったかもしれませんが、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他の人類も、一定以上環境変化に適応できていた可能性は高いでしょう。ネアンデルタール人はおそらく、ヨーロッパで40万年以上存続したわけで、これは環境変化に一定以上適応できなければあり得なかったでしょう。じっさいネアンデルタール人社会でも、異なる文化間での長距離の石材移動が行なわれた可能性は高いと指摘されており(関連記事)、ある程度は広範な社会的ネットワークが存在した、と推測されます。現在まで生き残ったことから、現生人類の適応力が他の人類との比較で過大評価されているようにも思います。


参考文献:
Potts R. et al.(2020): Increased ecological resource variability during a critical transition in hominin evolution. Science Advances, 6, 43, eabc8975.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abc8975

高齢の野生チンパンジーの社会行動

 高齢の野生チンパンジーの社会行動に関する研究(Rosati et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。社会情動的選択性理論(SST)は、年を取るにつれて人は老い先短いという感覚ゆえに確立されたポジティブな関係を優先させるようになり、新しい友達を作るより最も親密で最も古くからの最も大切な友達と過ごす方を選ぶ、という理論です。こうした傾向は、未来について独自の複雑な論理的思考を行なうと考えられているヒト全体に広く見られますが、この行動が自分の未来の時間に関する明確な感覚により引き起こされているのかどうか、判断は容易ではありません。一部の最近の証拠では、加齢に伴う社会情動的目標の変化は、未来時間展望とは無関係という可能性も示されています。

 この研究は、ヒトとヒト以外の社会性動物の比較研究により、ヒトの社会的行動とその起源が分かるという方法を利用して、ヒトの社会的高齢化の主要要素が野生チンパンジーと共通するのかどうか、調査しました。この研究は、ウガンダのキバレ国立公園で20年間にわたって実施した調査を用いて、15~58歳の野生の雄チンパンジー21頭の社会的交流について報告しました。その結果、若いチンパンジー同士の関係は一方的で敵対しており、高齢のオスのチンパンジーの交友関係は若いチンパンジーのそれより相互的でポジティブだ、と明らかになりました。また、高齢のチンパンジーは単独になりがちではあるものの、大切な社会的パートナーとの交流も多めと明らかになりました。この結果は、社会的選択性の強化は未来時間展望が充分ではない状態で起こり得ることを示しています。このような行動様式は、ヒトという種を超えて一般的だと考えられ、よく発達した時間概念や寿命についての自覚には依存しない可能性がある、というわけです。


参考文献:
Rosati A. et al.(2020): Social selectivity in aging wild chimpanzees. Science, 370, 6515, 473–476.
https://doi.org/10.1126/science.aaz9129

クローヴィス文化の年代

 クローヴィス(Clovis)文化の年代に関する研究(Waters et al., 2020)が報道されました。本論文はクローヴィス文化の各遺跡の信頼性が高い年代を提示していてたいへん意義深く、今後の研究で長く参照されるでしょう。長い間、アメリカ大陸における最古の文化はクローヴィスで、クローヴィス文化からその後の南北アメリカ大陸の技術が派生した、と考えられてきました(クローヴィス最古説)。クローヴィス文化は、両面石器や披針形縦溝彫り尖頭器(lanceolate fluted projectile point)や石刃石核や石刃や骨器により特徴づけられます。しかし、クローヴィス文化以前の文化が南北アメリカ大陸で見つかったため、クローヴィス最古説は今では否定されています(関連記事)。

 しかし、クローヴィス文化の年代測定は、クローヴィス文化集団と後期更新世のアメリカ大陸における人類の移動および大型動物の絶滅との関わりの解明に重要です。2007年に、クローヴィス文化は13000前頃(以下、基本的に放射性炭素年代測定法による較正年代)からわずか200年しか続かなかったかもしれない、との研究が公表され(関連記事)、議論となりました。その後の諸研究ではクローヴィス文化の年代について、たとえば13390年前頃と推定されるなど(関連記事)、始まりが繰り上がる傾向にあります。また一部の研究では、クローヴィス文化の期間が1500年以上の可能性も指摘され、そうならばクローヴィス文化が14000年以上前に出現した可能性も考えられます。

 本論文は、放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線IntCal20(関連記事)を用いて、クローヴィス文化の諸遺跡の新たな年代を提示します。「信頼できる」標本は、地質学的に攪乱されていな状態で発見された骨・象牙・歯・枝角・木と炭と定義されました。堆積物や土壌(攪乱があるため)・貝殻(現代の地下水の影響や海洋リザーバー効果のため)・炭化有機物(標本分類の困難さや地下水の影響のため)は、短い間隔の放射性炭素年代測定には適さない、と本論文は指摘します。クローヴィス文化の正確な年代測定にはまず、遺跡がクローヴィス文化なのか、判断する必要があり、その指標はクローヴィス尖頭器とされました。信頼できる放射性炭素年代測定結果が得られたクローヴィス文化遺跡は以下の通りで、図1の赤丸となります(曖昧な年代の遺跡は青三角)。遺跡の()数字は図1と対応します。以下、本論文の図1です。
画像


●サウスダコタ州ランゲ・ファーガソン(Lange-Ferguson)遺跡(5)
 13095~12990年前

●コロラド州デント(Dent)遺跡(9)
 12970~12845年前

●オクラホマ州ドメボ(Domebo)遺跡(7)
 12905~12820年前

●ペンシルベニア州ショーニー・ミニシンク(Shawnee-Minisink)遺跡(6)
 12885~12770年前

●オハイオ州シェリデン洞窟(Sheriden Cave)遺跡(4)
 12830~12770年前

●ワイオミング州ラプレレ(La Prele)遺跡(10)
 12915~12835年前

●ワイオミング州コルビー(Colby)遺跡(3)
 12820~12800年前

●オクラホマ州ジェイクブラフ(Jake Bluff)遺跡(1)
 12755~12745年前

●モンタナ州アンジック(Anzick)遺跡(8)
 12905~12840年前。以前の研究では、埋葬された男児(Anzick-1)と骨角器の年代が12900~12725年前頃と推定されていました(関連記事)。この男児のDNAも解析されています(関連記事)。

●バージニア州サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(2)
 12820~12745年前。サボテン丘遺跡では、クローヴィス文化以前の人類の痕跡(20585~18970年前頃)の可能性が指摘されています(関連記事)。


 これら10遺跡が、クローヴィス文化の信頼できる年代となります。これらの年代から、クローヴィス文化はアレレード(Allerød)期末の13050年前頃に最初に出現した、と示唆されます。テキサス州のオーブリー(Aubrey)遺跡とメキシコのエルフィンデルムンド(El Fin del Mundo)遺跡の年代からは、クローヴィス文化が13400~13300年前に出現したと示唆されますが、地質学的および生物地球化学的問題のために、その年代は曖昧です。

 13050年前という最初のクローヴィス文化遺跡の年代は、北アメリカ大陸西部および南アメリカ大陸における非クローヴィス文化石器複合と同年代です。アメリカ合衆国山間西部では、基底部有茎を伴う披針形尖頭器により特徴づけられる西部有茎伝統が少なくとも、オレゴン州ペイズリー洞窟群(Paisley Caves)で13000年前(関連記事)、アイダホ州クーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡で13400年前(関連記事)にさかのぼります。南アメリカ大陸の南回帰線以南では、特徴的な有茎魚尾尖頭器の年代が12900年前となります。これらのデータは、更新世末にアメリカ大陸では少なくとも三つの同年代の石器複合が存在し、クローヴィス文化はその一つだった、という証拠となります。オーブリー遺跡やエルフィンデルムンド遺跡で示唆されるように、クローヴィス文化が13400年前頃に始まったとしても、クローヴィス文化は北アメリカ大陸の有茎尖頭器と同年代となります。

 クローヴィス技術の起源は依然として明ですが、証拠からは、クローヴィス文化きょくたんな気候と生物の変化期に北アメリカ大陸の氷床の南で発達した、と示唆されます。現在の遺伝的モデルからは、後期更新世にアメリカ大陸へと単一の早期の移住があった、と示唆されます。多くの遺跡の考古学的証拠からは、16000~15000年前頃までにアメリカ大陸には人類が存在した、と示唆されます。これは、クローヴィス文化の起源が、北アメリカ大陸における最初の遺跡群の両面石器や石刃や骨器技術にあることを示唆します。

 クローヴィス文化は12750年前頃に突然終了します。これは年代的にヤンガードライアスの寒冷事象と、古生物学的にゾウ目の絶滅と一致します。考古学的には、クローヴィス文化は、アメリカ合衆国の大平原のフォルサム(Folsom)技術および東部の縦溝彫り尖頭器伝統の出現直前に消滅します。対照的に、アメリカ合衆国西部での有茎尖頭器の製作は、クローヴィス文化終焉後も継続します。クローヴィス文化の起源とその広がりについて調べるには、さらに多くの遺跡での、厳格な基準の年代測定が必要です。


参考文献:
Waters MR, Stafford TW, and Carlson DL.(2020): The age of Clovis—13,050 to 12,750 cal yr B.P.. Science Advances, 6, 43, eaaz0455.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0455

エジプト第25王朝のミイラのmtDNA解析

 エジプト第25王朝のミイラのミトコンドリアDNA(mtDNA)結果を報告した研究(Drosou et al., 2020)が公表されました。タカブチ(Takabuti)は、紀元前660年頃エジプト第25王朝下のテーベに住んでいた女性で、そのミイラ化した遺骸と棺は、1834年に北アイルランドのベルファストに運ばれ、現在はアルスター博物館で展示されています。タカブチは、棺の碑文から、テーベのアメン神の司祭であるネスパーレ(Nespare)とその妻であるタセニレット(Taseniret)の娘と明らかになっています。

 1834年の最初の形態学的調査では、身長が155cmで、歯列がよく保存されていることから、25~30歳と推定されました。遺骸は全身が包帯で覆われていました。1987年にはX線画像、2006年にはCTスキャンにより包括的な研究が行なわれ、死亡時の年齢が25~30歳で、小児疾患の証拠がない健康体と明らかになりました。エジプトの気候から、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析は困難と考えられていましたが、次世代シーケンサーなど解析技術の革新により、タカブチのmtDNAの解析に成功しました(平均網羅率9.8倍)。

 タカブチのmtDNAハプログループ(mtHg)はH4a1に分類されました。mtHg-Hはヨーロッパで最も一般的で、現在ではアフリカとアジア西部でも見られ、エネルギー効率の高いmtHgと推測されています(関連記事)。このうちmtHg-H4a1は現代では比較的稀で、イベリア半島南部集団では2%、レバノン集団で1%、複数のカナリア諸島集団で1.5%ほどです。これまで、古代エジプトではmtHg-H4a1が確認されておらず、タカブチが最初の個体となります。mtHg-H4a1が確認されたその他の古代人としては、紀元後6~14世紀のカナリア諸島の個体群と、ドイツのザクセン=アンハルト州のクヴェードリンブルク(Quedlinburg)とオイラウ(Eulau)の鐘状ビーカー(Bell Beaker)およびウーネチチェ(Unetice)文化(紀元前2500~紀元前1575年頃)の2個体と、早期青銅器時代のブルガリアの1個体で、mtHg-H4a1の稀で散在的な分布を示します。

 古代エジプト(紀元前2000~紀元後200年頃)の97個体のmtHgは、U・M1a1・J2・T・H・Iなど多様で、移住により形成された複雑な社会だった、と示唆されます。エジプトがアフリカと中東の間の唯一の陸の玄関口に位置することを考えると、これはとくに意外ではありません。年代別に古代エジプトのmtHgを見ると、紀元前二千年紀と紀元前千年紀はUとM1a1により代表され、紀元前千年紀にJ2a・R0・T1・T2・HV・Iの拡大が見られます。タカブチはこうした多様な古代エジプトのmtHgの中で、初めて確認されたH4a1となります。

 本論文は、ヨーロッパで優勢なmtHg-H4a1が、ローマはもちろんギリシア勢力の支配(マケドニアによる紀元前332年のエジプト征服)の前に、エジプト南部で見つかったことに注目しています。現在の遺伝的証拠からは、エジプト南部は移住から高度に隔離されていた、と示唆されるものの、タカブチのmtHg-H4a1はそれに異議を唱え、古代エジプト南部の遺伝的構成をよりよく理解するための調査も可能ではないか、と本論文は指摘します。これまでも古代DNA研究によって、古代エジプトの特定のmtHgの最初の出現年代がさかのぼることはあり、タカブチはその新たな事例となりました。

 タカブチはそのmtHg-H4a1から、母系ではヨーロッパ起源である可能性を本論文は指摘します。当時の地中海のつながりから、ヨーロッパよりエジプトに到来する人がいてもとくに不思議ではないでしょう。エジプト史に詳しくないので断定できませんが、タカブチの父はアメン神の司祭なので、エジプト土着の出自である可能性が高そうです。仮にタカブチのmtHg-H4a1がヨーロッパ起源だとしても、その母系祖先がエジプトにいつどのような経緯で到来したのか、不明です。タカブチの母系祖先がかなり前にヨーロッパからエジプトに到来したとすると、タカブチの核ゲノムは当時のエジプト人とさほど変わらないでしょうが、数代前ならばヨーロッパ系の痕跡が明確に検出できそうです。タカブチの核ゲノム解析が望まれますが、mtDNA解析としては網羅率が低めなので、核ゲノムの解析は困難でしょうか。


参考文献:
Drosou K. et al.(2020): The first reported case of the rare mitochondrial haplotype H4a1 in ancient Egypt. Scientific Reports, 10, 17037.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-74114-9

大河ドラマ『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」

 織田信長は新将軍足利義昭の御座所として二条城の建築を急ぎ、近隣の寺社から調度品などを調達します。摂津晴門は、そうした寺社からの苦情を義昭に取り次ぎますが、義昭は信長に配慮し、信長が岐阜に戻った後、少しずつ寺社に返却していく、と返答します。摂津晴門は畿内の寺社と深く結びついており、寺社から金銭を受け取っていました。明智光秀(十兵衛)は伊呂波太夫に呼び出され、三好三人衆の失脚とともに京都から離れて身を隠していた近衛前久と会います。前久は摂津晴門と対立しており、光秀に、幕府を変えられるのは信長だと伝えます。伊呂波太夫は光秀に、都には天皇もいると語り、その重要性を示唆します。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、光秀が前久と密会していたことを知っており、公家に注意するよう、警告します。光秀は信長と面会し、信長が父の信秀から帝のことを教えられた、と聞かされます。光秀は東寺から、義昭より与えられた八幡宮領を横領したと訴えられます。光秀は摂津晴門に、詳細を調べるよう抗議に行きますが、摂津晴門は惚けます。二条城は完成し、信長は光秀に、朝倉の件で相談したいと伝えます。

 今回は、一筋縄ではいかない京都情勢が描かれました。摂津晴門は典型的な小物の悪役といった感じですが、寺社の側が信長から強引に徴発されたことも描かれていますから、摂津晴門の事情も描かれている、とも言えるでしょう。京都の情勢が詳しく描かれていることも本作の特徴になっています。光秀と密会した近衛前久は、意外と本作では扱いが大きく、あるいは本能寺の変で重要な役割を担うのでしょうか。京都の情勢が詳しく描かれていることと合わせて注目されます。また、光秀と藤吉郎とが競合する関係になっていくことも示唆され、光秀は藤吉郎とはあまり合わないようですが、両者の関係が今後どう描かれていくのか、注目されます。

廣部泉『黄禍論 百年の系譜』

 講談社選書メチエの一冊として、2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。近年、中華人民共和国の経済力・軍事力の拡大により、アメリカ合衆国で黄禍論が再燃しつつあるかのように思えたところ、今年(2020年)になって、新型コロナウイルスの流行により、アメリカ合衆国だけではなくヨーロッパでも黄禍論が復活するのではないか、とさえ私は懸念しています。私も日本人の一人として、黄禍論的な言説には警戒せざるを得ません。しかし、黄禍論の歴史的位置づけと詳しい内容をよく理解しているわけではないので、本書を読むことにしました。

 黄禍論は19世紀後半にヨーロッパで主張されるようになりました。それは、日本の軍拡を重要な契機としつつ、「黄色人種」の人口の多さに基づく潜在力を警戒したもので、とくに問題とされたのは、日中の提携でした。これに対して日本側からも「同人種同盟論」が提唱され、近衛篤麿の主張はとくにヨーロッパで警戒されました。アメリカ合衆国にもヨーロッパ、つまり東方から黄禍論が流入しましたが、一方で、アメリカ合衆国西岸にはやや異なる黄禍論が存在しました。それは、「中国」から来た労働者により「白人」労働者の雇用が脅かされることに起因しました。日露戦争後、黄禍論はさらに潜在的影響力を拡大した感もあり、日本政府は黄禍論の抑制に躍起になっていました。

 アメリカ合衆国においては、国際社会における日本の台頭と、低賃金の日本人移民労働者により黄禍論は根強く浸透し、第一次世界大戦後に「反日移民法」が成立します。これに日本の世論が大きく反発し、アメリカ合衆国やヨーロッパがそれに対して日本と中国やインドとの大団結(アジア主義など)を警戒するなど、黄禍論を巡って「人種」対立構造が強化されている様相さえ見られるようになります。しかし、第一次世界大戦後の軍縮と国際協調の情勢のなか、日本もアメリカ合衆国も、政府は「人種」対立に陥らないよう、努めていました。日本政府主流派は、あくまでも列強との協調による日本の権益維持・拡大を構想していました。また「白人」世界でも、アジアの大団結はあり得ないだろう、との冷静な見解もありました。中国にとって、日本が最大の加害者だと認識されていたからです。じっさい、中国の報道では、日本のアジア主義的動向が、日本による中国支配の道具にすぎない、との論調が多く見られました。

 こうしたアジア主義的動向は、1920年代後半から1930年代初頭には落ち着きを見せましたが、日本における黄禍論への反感は根強く潜伏しており、満州事変後に本格的に顕在化していき、1920年代とは異なり、各界の有力者がじっさいに深く関わるようになります。これは、世界恐慌後の世界的なブロック化と国際連盟からの脱退といった情勢変化によるところが大きいのでしょう。太平洋戦争が始まると、アメリカ合衆国では人種差別的意思表示が以前よりも激しくなり、その文脈で日系人の収容が実行されます。指導層も日本との戦いが人種戦争であることをさらに強く意識するようになりますが、一方で、「有色人種」の連合を警戒し、日本との戦いを「白人種」対「黄色人種」という構図で把握する認識が顕在化しないよう、注意を払っていました。

 第二次世界大戦は日本の敗北に終わり、戦後秩序の構築が問題となります。アメリカ合衆国では日本脅威論が衰え、政府は中華民国を軸にアジア東部地域に対処しようと構想していました。第二次世界大戦後、アジア主義の旗手として台頭したのは独立したばかりのインドでした。インドはアジア会議を開催し、「白人」を排除するものではないと主張しましたが、欧米諸国、とくにヨーロッパから遠くアジアと隣接していながら、「白人」主導国家のオーストラリアやニュージーランドはこの動きを警戒しました。第二次世界大戦後、日本の立場を大きく変えたのが、中国における共産主義政権の成立(中華人民共和国)でした。これにより、冷戦構造における前線として、日本は西側世界に組み込まれていき、経済復興の道が開かれました。

 アメリカ合衆国は、サンフランシスコ講和条約後も、日本がアジアの一員としての自覚を強め、中国とインドの人口大国と共に反「白人」連合に加わることを警戒していました。当時、中華人民共和国と台湾に封じ込められた中華民国とが、「中国」の正統性を争い、冷戦構造の中で中華民国と国交を維持している西側諸国が多かったという事情もあったとはいえ、アメリカ合衆国は、その人種・文化的近縁性から、日本と中華人民共和国との提携強化を日本とソ連との国交正常化も含めた接近よりも警戒していました。そのためアメリカ合衆国は、1960年の安保騒動後に対日関係改善を重視し、国内の残業界の保護主義的要請を抑えることもありました。それでもアメリカ合衆国は、日本と中華人民共和国との接近を、相変わらず警戒していました。このように、アメリカ合衆国では黄禍論は潜在的に強い影響力を有していたものの、社会全体では第二次世界大戦後、人種的偏見の表出が減少していきました。これは、ドイツによるナチス政権下でのユダヤ人大虐殺が広く知られるようになったことと、第二次世界大戦に出征したことで、「黒人」の社会的地位向上を求める動きが強くなったことに起因していました。

 ところが、日本が目覚ましい経済成長を遂げると、アメリカ合衆国において黄禍論的言説が再度表面化しました。1990年代以降、日本経済が長期の停滞に入ると、今度は、目覚ましい経済成長を続け、第二次世界大戦後は軍事的野心を示さなかった日本に対して、軍事的にも拡張路線を取り続ける中華人民共和国が、アメリカ合衆国で黄禍論の対象とされました。黄禍論的思考は今でもアメリカ合衆国やヨーロッパにおいて根強く残っており、それを大前提として、日本は「白人」社会と付き合っていかねばならないのでしょう。当然、だからといって近い将来世界最大の経済力を有するだろう、「同じアジア」の中国に従属して「白人」世界と対峙すべきだ、と安易に考えるわけにもいきませんが。

ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像

 ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像に関する研究(Tang et al., 2020)が公表されました。ヒトの全細胞は固有の体細胞変異セットを持っていますが、個々の細胞の遺伝型を包括的に決定することは困難です。この研究は、正常なヒト皮膚において、この障害を克服する方法について報告します。これにより、ヒト皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像を垣間見ることができるようになりました。

 予想通り、日光を遮断したメラノサイトは、日光に曝露されたメラノサイトよりも変異が少ない、と明らかになりました。しかし、顔など慢性的に日光に曝露されている皮膚のメラノサイトは、背中など間欠的に日光に曝露される皮膚のメラノサイトよりも変異量が少ない、と明らかになりました。皮膚癌に隣接して位置するメラノサイトは、皮膚癌のないドナー由来のメラノサイトよりも変異量が多いことから、正常な皮膚の変異量を用いて、日光による累積的な損傷および皮膚癌のリスクを測定できる、と考えられます。さらに、健康な皮膚由来のメラノサイトは病原性変異を含むことが多いと知られていますが、これらの変異は発癌性が弱い傾向があり、おそらくこれが認識可能な病変を生じなかった理由だろう、と推測されます。

 系統発生学的解析から、関連するメラノサイトのグループが複数特定され、メラノサイトが肉眼では分からない、クローン関係がある細胞の領域として皮膚全体に広がっている、と示唆されました。まとめると、これらの知見は個々のメラノサイトのゲノムの全体像を明らかにしており、黒色腫の原因と起源についての重要な手掛かりを提供します。また、メラノサイトのゲノムには地域差もあり、それらがどのような進化を経てきたのか、という点も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


腫瘍生物学:ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像

腫瘍生物学:メラノサイトの体細胞変異

 これまでの研究では、多くの正常な非がん組織で体細胞変異が研究されてきた。加齢に伴って体細胞変異が蓄積し、そうした変異には発がん性変化が含まれることが分かっている。J Tangたちは今回、正常な皮膚のメラノサイトの塩基配列を解読した。日光に曝露されたメラノサイトは、日光から保護された体の部位のメラノサイトよりも多くの変異を持っていることが分かった。しかし、意外にも、慢性的に日光に曝露されている皮膚(顔など)のメラノサイトは、時折日光に曝露される部位のメラノサイトよりも変異が少なかった。また、一部のメラノサイトがクローン増殖することも分かった。発見された変異には、黒色腫の形成に関係するとされている病原性変化が含まれていた。



参考文献:
Tang J. et al.(2020): The genomic landscapes of individual melanocytes from human skin. Nature, 586, 7830, 600–605.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2785-8

非生殖細胞におけるY染色体遺伝子の効果

 非生殖細胞におけるY染色体遺伝子の効果に関する研究(Deschepper., 2020)が報道されました。哺乳類は1対の性染色体と多数の常染色体を有します(ヒトでは22対の常染色体)。雌は2本のX性染色体を有していますが、雄はX染色体とY染色体を1本ずつ持っています。Y染色体には雌に欠けている遺伝子があります。これらの雄特有の遺伝子は体のすべての細胞で発現していますが、これまでに確認された唯一の役割は、本質的に性器の機能に限定されています。

 この研究では、マウスのY染色体上の2つの雄特有の遺伝子を不活性化する遺伝子操作が実行され、性器以外の細胞の特定の機能で重要な役割を果たす、いくつかのシグナル伝達経路が変更されました。たとえばストレス下では、影響を受けるメカニズムのいくつかは、心臓の細胞が虚血(血液供給の低下)や機械的ストレスなどの攻撃性から身を守る方法に影響を与える可能性があります。この研究はさらに、これら雄特有の遺伝子が、常染色体上の他のほとんどの遺伝子により一般的に使用されるメカニズムと比較して、異常な方法でそれらの調節機能を実行する、と示しました。

 つまり、Y染色体は、ゲノムレベルでの直接作用により特定の遺伝子を特異的に活性化する代わりに、タンパク質産生に作用することにより細胞機能に影響を与えているのではないか、というわけです。これらの機能の違いの発見は、雄のY染色体遺伝子の機能がこれまで充分に理解されていなかった理由の一部を説明するかもしれません。ヒトの場合、男性は、ほとんどの病気の症状・重症度・結果において女性とは異なります。この性差の最近の事例例は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で、男性の死亡率は女性の2倍です。

 Y染色体は、現代日本では皇位継承問題との関連で注目が高まっているようで、それまで生物学や人類進化やY染色体の解析・比較による人類集団の移動といった問題に関心がなかったような人々も、皇位継承の根拠としてY染色体を持ち出すことが多くなっているように思います。それに対する批判・反発として、Y染色体には性を決定する機能しかない、といった揶揄が少なくないように思いますが、この研究は、Y染色体がタンパク質産生に作用することにより細胞機能に影響を与えている可能性を提示しており、今後、性決定以外のY染色体の機能がさらに明らかにされていくかもしれない、と期待されます。


参考文献:
Deschepper CF.(2020): Regulatory effects of the Uty/Ddx3y locus on neighboring chromosome Y genes and autosomal mRNA transcripts in adult mouse non-reproductive cells. Scientific Reports, 10, 14900.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71447-3

『卑弥呼』第49話「かりもがり」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年11月5日号掲載分の感想です。前回は、クラトがヤノハの命により殺され、それを知らないミマアキが呑気にクラトを呼んでいるところで終了しました。今回は、ミマアキが棺に納められたクラトの遺骸を前に嘆き悲しんでいる場面から始まります。クラトに刺さっていた矢は暈(クマ)のものなので、クラトは暈の物見(モノミ、間者)と遭遇して殺されたのではないか、とヌカデは推測します。報復として暈を攻めろということか、とヤノハに問われたヌカデは、クラトは忠臣だったので、間髪を入れず暈に宣戦布告せねば、山社(ヤマト)の顔が立たない、と言います。ヤノハに意見を問われたテヅチ将軍は、戦人ゆえに政治には進言しない、と断ったうえで、今なら勝機はある、と答えます。タケル王が死に、その父親のイサオ王まで死んだ今、鞠智彦(ククチヒコ)をはじめとして暈の軍閥が覇を唱えて内乱状態に陥るのは必至なので、それに乗じて攻め込めば、暈の領土の半分は手に入る、というわけです。一方イクメは、弩が暈のものだとしても、暈の者がクラトを殺したとは限らず、大義のない戦いをすれば人心は離れる、と戦に反対します。殯は今日で最後となり、ミマアキはその後で清めの沐浴をして明日には楼観に参じるだろう、とイクメから聞いたヤノハは、ミマアキの意見も聞いてみる、と言います。

 暈の以夫須岐(イフスキ)では、鞠智彦が円墳状の墓に参っていました。そこへタケル王の兄が現れ、この墓にはイサオ王とともに、トンカラリンで殉死した者も葬られていると聞いたが、なぜだ、と問いかけます。鞠智彦はタケル王の兄を兄(ニ)タケル様と呼んでいます。暈の諸王がイサオ王の葬儀に参列したのに、長男が来ないので心配していた、と鞠智彦は笑顔で言います。すると兄タケルは、父のイサオ王が自分ではなく弟(タケル王)を世継ぎに選んだ時から折り合いが悪い、と言います。鞠智彦と兄タケルはイサオ王の館で酒を飲みます。この館に住むつもりではないだろうな、と兄タケルに問われた鞠智彦は、兄タケルの帰還まで留守を預かっていただけだ、と笑顔で否定します。自分がイサオ王となることはどう思うか、と兄タケルに問われた鞠智彦は、返答に詰まります。まさかイサオ王を名乗るつもりか、と兄タケルに問われた鞠智彦は即座に否定し、鞠智彦の一族は丞相(大夫)の身分で、代々のイサオ王に仕える定めだ、と笑顔で答えます。では、今より自分に仕えよ、と兄タケルに命じられた鞠智彦は真顔になり、暈には兄タケルのカワカミ家の他に、イ・ヤ・サジキ・カマの四家それぞれにタケル王がいるので、これら五家が集まって話し合い、選ばれた方こそ真のイサオ王ではないか、と鞠智彦は指摘します。どの家も元は同じ取石(トロシ)の一族で、取石最古の家はカワカミなので、その宗主がイサオ王になって何が悪い、と兄タケルは鞠智彦に言います。さらに兄タケルは、父のイサオ王は病死と聞くが本当の死因は何だ、と鞠智彦に問いかけます。すでに、鞠智彦が謀反を起こしたとか、山社の志能備(シノビ)の仕業とかいった噂が流れていました。どちらが正しいか答えよ、と兄タケルが鞠智彦に迫ると、イサオ王は賊に襲われた、と鞠智彦は答えます。その賊は山社の者か、と兄タケルに問われた鞠智彦は、その可能性はある、と答えます。では、山社を攻めろ、と兄タケルに命じられた鞠智彦は、即座に断ります。山社は那(ナ)・伊都(イト)・穂波(ホミ)・都萬(トマ)と同盟を結んだので、この国々に戦を仕掛けるのは愚か者の所業だ、というわけです。山社が同盟を結んだ国として末盧(マツロ)が挙げられていませんが、小国なので無視されたのでしょうか。鞠智彦の返答を聞いた兄タケルは激昂し、酒杯を鞠智彦に投げつけ、鞠智彦の顔に当たります。兄タケルは家臣を呼び、生きたまま生皮を剥いで鞠智彦を殺そうとします。すると、鞠智彦の配下の志能備が現れ、兄タケルを警固していた者たちは、出された酒を飲んで血を吐き全員死んだ、と兄タケルに告げます。鞠智彦は即座に兄タケルを斬殺し、その死体を前に、四家のタケル王は、獰猛な兄タケルの殺害を条件に全員自分を支持した、自分は新たな日見彦(ヒミヒコ)が現れるまで暈の統治を任されている、と言います。鞠智彦は配下の志能備に、イサオ王は長男の兄タケルの謀反により落命し、丞相の鞠智彦が仇を討ったと国内に触れて回るよう、指示します。

 山社ではミマアキが楼観に参じ、ヤノハはミマアキを慰めます。ヤノハはミマアキに、最愛の友で、ヤノハの忠臣であるクラトを殺した暈との戦を望むか、と尋ねます。那国王の加勢は間違いなく、今戦えば勝機はある、とテヅチ将軍は言いますが、ミマアキは反対します。確かに勝機はあるものの、暈の兵を根絶やしにするほどの大勝はありえず、反撃を受けることになるので、今度は山社が多くの犠牲を出す、とミマアキは説明します。ではどうするのか、とヤノハに問われたミマアキは、国境で戦わず睨み合う、と答えます。束の間の平和でも何百年ぶりのことだ、というわけです。その返答を聞いたヤノハは満足そうな表情で、自分も同じ考えだと言います。楼観でヤノハと二人きりになったミマアキは、ヤノハに残酷な人だ、と言います。自分が悲嘆に暮れていても、怒りに駆られて戦を選ばないような冷静な判断ができるかどうか、ヤノハは試したのではないか、というわけです。ミマアキがヤノハに、自分が昼の政治を司るのに適した人物なのか、知りたかったのだろう、と指摘し、ヤノハが満足そうな表情を浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、暈の情勢と、ヤノハに試されるミマアキの器量が描かれました。暈は分割統治体制ではないか、と以前から予想していましたが、やはり、五家が王を名乗り、その上にイサオ王が君臨する、という連合体制のようです。兄タケルは、外見ではさほど小物感がありませんでしたが、言動がいかにも小物なので、初登場回での退場はもっともといった感じです。鞠智彦と兄タケルが酒を飲み始めたので、イサオ王の時のように毒殺するのかと思ったら、斬殺だったのでやや意外でしたが、イサオ王殺害の仇討ちによる斬殺という辻褄合わせだったので、納得しました。鞠智彦は、新たな日見彦が現れるまで暈を統治する、と言っていますが、暈は『三国志』の狗奴国と思われ、卑弥弓呼(日見彦)がいると見えるので、この後で誰かが日見彦に擁立されるのかもしれません。それが誰なのか、鞠智彦との関係がどう描かれるのか、注目されます。

 山社では、ミマアキがヤノハの期待通りの返答で、今後「昼の王」に就任することが確実になった、と言えそうです。ただ、『三国志』では、卑弥呼(日見子)を補佐したのは弟だとされており、ミマアキ(彌馬獲支)の地位は姉のイクメ(伊支馬)や父のミマト(彌馬升)よりも低いので、あるいはヤノハの弟のチカラオと思われるナツハが、ヤノハを政治面で補佐するのかもしれません。ただ現時点では、ナツハは志能備として優れているものの、政治的手腕はまだ発揮していません。ナツハがヤノハの弟なのか、ということも含めて、山社(邪馬台国)の政治体制が今後どう確立していくのか、という点も楽しみです。

ホモテリウム属個体のゲノム解析

 ホモテリウム属個体のゲノム解析結果を報告した研究(Barnett et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、ネコ科の剣歯虎(マカイロドゥス亜科)のホモテリウム族の1種(Homotherium latidens)のゲノムデータを報告します。この記事では仮に「三日月刀歯虎」と訳しておきます。この1個体は、カナダのユーコン準州ドーソン(Dawson)市近郊の永久凍土堆積物から回収されました。核ゲノムの網羅率は約7倍で、エクソームの網羅率は約38倍です。この核データセットには、分析に利用できる独立した遺伝子座の大幅な増加を表しており、ホモテリウムの系統をよりよく理解し、進化的推論が可能となります。したがって、結果が系統全体を表すと解釈できる場合は、種名(Homotherium latidens)ではなく属名で記されます。このデータセットに基づくホモテリウムの系統は、以前の化石およびミトコンドリアのデータセットに基づく研究と一致しており、ホモテリウムは全ての現生ネコ科種の姉妹系統に位置づけられます。以下、ホモテリウム属と他のネコ科種との系統関係を示した本論文の図1です。
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 4点の化石による較正も用いて、ホモテリウムと現生ネコ科種の分岐年代は、2250万年前(95%確信区間で2780万~1740万年前)と推定され、これは2300万年前頃となる漸新世と中新世の境界に近い年代となります。この年代は、ホモテリウム属の潜在的祖先としての、後期プロアイルルス属(Proailurus)もしくは早期プセウダエルルス属(Pseudaelurus)と一致します。この推定年代は、ミトコンドリアゲノムに基づく以前の研究で提示された2000万年前と近くなっています。この深い分岐により、ホモテリウムは全ての現生ネコ科種とは異なるクレード(単系統群)に属している、と確認され、ネコ亜科とは異なる亜科としてのマカイロドゥスが裏づけられます。

 ただ、こうした明確な系統関係は、ホモテリウムと現生ネコ科との完全な進化的関係を表していない可能性があります。たとえば、同じネコ科のライオン(関連記事)やネコ科と近縁なハイエナ科(関連記事)では種間交雑が指摘されており、それは食肉目(ネコ目)で以前に考えられていたよりもずっと一般的だった、と示されてきたからです。そこで、ホモテリウムと他系統との間に遺伝子流動があったのか、調べられました。ホモテリウムはアフリカ南部からユーラシア全域、さらには南北アメリカ大陸まで分布しており、剣歯虎(マカイロドゥス亜科)では最も広範に分布していたと考えられますが、同時期にこれら全地域に存在したのか、不明です。またホモテリウムは、密集した植生のジャワ島から全北区の開けたステップ・ツンドラ地帯まで、さまざまな異なる生息地に分布しました。さらに化石証拠から、ホモテリウムが他の同所性の大型ネコ科との潜在的競争にも関わらず、その分布を拡大した、と示唆されます。たとえば、ライオン(Panthera leo)や絶滅したホラアナライオン(Panthera spelaea)やヒョウ(Panthera pardus)や絶滅したメガンテレオン属種(Megantereon cultridens)とはユーラシアやアフリカ全域で、トラ(Panthera tigris)とはアジア南東部で、ジャガー(Panthera onca)やアメリカライオン(Panthera atrox)や他の絶滅したスミロドン属(Smilodon)とはアメリカ大陸で共存していました。

 ホモテリウムと現生ネコ科種との間で遺伝子流動が起きたかどうか調べるため、系統樹において矛盾する系統発生の兆候が検証されました。しかし、他のネコ科では遺伝子流動の痕跡が見つかりましたが、ホモテリウムと現生ネコ科種との間では見つかりませんでした。ただ、現生ネコ科種の全系統の祖先とホモテリウム系統との間の遺伝子流動が検出されていない可能性は排除されません。ホモテリウムと現生ネコ科種との間における遺伝子流動の欠如の最も妥当な説明は、ホモテリウムと現生ネコ科種との間の深い分岐です。

 現在のデータセットで検出できる遺伝子流動の最古の兆候は、1400万年前頃となるネコ亜科の分岐後に検出されます。これは、マカイロドゥス亜科とネコ亜科の間で、800万年以上にわたる遺伝子流動が検出できないことを意味します。対照的に、現生ネコ科の主要な系統の放散は過去500万年以内に起きました。この急速な放散は、繁殖能力のある交雑個体が生まれなくなるほど遺伝的に分岐する前に、これらの系統間の遺伝子流動を可能としたかもしれません。

 遺伝子流動の明らかな欠如には代替的な説明も可能かもしれませんが、その可能性はずっと低そうです。一つの可能性は、ホモテリウムが、生態地理的障壁や競合相手の排除や低い集団密度のいずれかのために、単純に他のネコ科種と相互作用できなかった、というものです。しかし、生態地理的障壁は、ホモテリウムの広範な分布と異なる生態系への適応を考えると、可能性は低そうです。ホモテリウムの化石はヒョウ属化石とも同じ場所で発見されるため、競合相手の排除も起きそうにありません。ホモテリウムの化石記録は、スミロドン族やヒョウ属を含む他の同年代の大型ネコ科よりもずっと断片的なので、集団密度が低い、との解釈が示唆されています。しかし、集団密度が低くとも、同所性の他種との時折の接触が妨げられることはありません。

 別の代替的な説明は、行動的および/もしくは他の生態学的メカニズムが交雑を妨げた、というものです。これは、現生のライオンとヒョウの間で見られます。両者はしばしば同じ地域に存在しますが、ヒョウは積極的にライオンを避けます。ホモテリウムと他の同所性ネコ科との間で、同様の行動的および/もしくは生態学的な回避メカニズムが起きかもしれません。遺伝子流動欠如のさらなる証拠となるのは、人類(関連記事)やボノボ(関連記事)で明らかになった、現生哺乳類種と未知のまだ標本抽出されていない系統との間の交雑を検出した手法でも、現生ネコ科種とホモテリウムと同じくらい前に分岐した未知の系統との間の古代の混合の兆候が、以前の研究では検出されなかったことです。

 したがって、この相違は、これらの系統が相互に分岐した時にどのような遺伝的適応が起きたのか、という問題につながります。どのゲノム基盤がホモテリウム固有の特徴をもたらしたのか解明するために、比較ゲノム分析が行なわれ、ゲノム全域でいくつかのタンパク質コード領域における正の選択の兆候が明らかになりました。2191ヶ所の1:1で対応する相同的な遺伝子座(orthologous loci)のうち230個の遺伝子で正の選択の証拠が見つかりました。これら230個の遺伝子のうち、31個はひじょうに重要とみなされ、推定機能と表現型の役割についてさらに調べられました。いくつかのひじょうに重要な正の選択を受けた遺伝子は、ホモテリウムの推定される昼行性行動と一致していました。網膜変性や網膜色素変性症や水晶体タンパク質の加水分解や視角処理を含む既知の表現型を有する、視覚に関連する遺伝子(B3GALNT2や AGBL5やCAPNS2やSLC1A7)で、強い正の選択が検証されました。また、概日時計リズムの同調とマスター調節と関連する遺伝子(SFPQとPer1)における正の選択の証拠も見つかりました。とくに同じ遺伝子ありませんが、以前の研究では、概日時計調節遺伝子の多型が昼行性の選好と関連している、と示されており、概日遺伝子と昼行性の行動との関連が強化されます。推測となりますが、これらの結果は、薄明もしくは夜行性の多くの現生ネコ科種とは異なり、ホモテリウムが日中に狩猟した、という見解を支持します。この仮説は、拡大した眼球や大きくて複雑な視覚野を含む、いくつかの解剖学的特徴によりさらに裏づけられます。

 正の選択の兆候は、ホモテリウムの走行狩猟様式の持久力増大に役立つ適応と関連している、と考えられる遺伝子でも推測されました。これらには、呼吸器系や低酸素症(TMEM45A)、循環器系(F5およびMMP12)、血管新生(ECSCR)、 脂肪生成(TAF8)、呼吸・循環系(MMP12)、ミトコンドリア呼吸(AK3、ISCU、SURF)への大きな影響を有する遺伝子が含まれます。これらの遺伝子における新たな適応は、より開けた生息地における狩猟や、疲労するまで獲物を追いかけるのに必要な持続的走行を可能としました。これら様々な機能強化の相乗的相互作用は、骨石灰化(PGD遺伝子)の改善により支援されたかもしれません。改善された骨石灰化は、推定される走行性狩猟様式に必要な堅固な骨格枠組みと力強い前肢を発達させて維持するのにひじょうに貴重でした。さらに、とくにPGD遺伝子ではありませんが、骨の発達と修復に関わる2個の遺伝子(DMP1とPTN)が、多くの肉食動物のゲノムで正の選択下にある、と明らかになってきており、堅固な骨が捕食行動の適応に重要かもしれない、と示唆されます。これらの遺伝子の選択の特徴は、頭蓋後方骨格形態データにより示唆される、走行性狩猟様式への証拠を追加します。これにはより収縮性の低い爪が含まれ、それにより長距離の中間速度の追跡が改善される、と考えられています。同じことはイヌ科やハイエナ科にも当てはまり、より高い上腕指数(上腕骨に対する橈骨の比)を有しています。

 社会的行動はひじょうに複雑なので、特定の遺伝的特性と直接的に結びつけることは困難ですが、認知・行動(阻害されたシナプス可塑性および社会的行動と関連するSCTR)および神経系(神経成長因子と関わるNTF3)に関わると推定される遺伝子において、正の選択の証拠が見つかりました。これらの遺伝子は、ホモテリウムが大型の獲物を狩るのに必要と示唆される協調的な社会的相互作用において役割を果たしている、と推測されますが、その確証には追加のデータが必要です。本論文の結果は、正の選択とその生態学的結果との間の決定的なつながりを提供するわけではありませんが、絶滅した超肉食動物であるホモテリウムの遺伝子と生態との間の関係に、機能的研究への出発点を提供します。本論文の調査で多くの正の選択を受けた遺伝子が見つかり、それらの既知の機能は古生物学的データを補完し、走行性狩猟戦略および昼行性行動と密接に関連しているように見えるホモテリウムの、いくつかの特有の適応の推定上の遺伝的基盤を表しています。

 上述のように、ホモテリウムの化石記録はスミロドン族やヒョウ属を含む他の同年代の大型ネコ科よりもかなり断片的で、ホモテリウムの集団密度がより低かったことを示唆します。これは、ホモテリウムの断片的な化石記録が本当に低い集団密度を反映しているのか、あるいは生息地もしくは行動に起因する保存可能性に基づく確率論的な結果なのか、という疑問につながります。現生ネコ科種と比較して三日月刀歯虎(Homotherium latidens)の相対的な数を調べるため、有効集団規模と相関する遺伝的多様性が比較されました。比較は、異型接合性の程度で、15種の現生ネコ科それぞれの単一個体に対する三日月刀歯虎個体のゲノムで行なわれました。異型接合性の推定のため、常染色体全体とエクソーム全の2通りの手法が用いられました。ただ、この比較は各種の単一個体に基づいているので、各種の全体的な傾向を表していない可能性があります。比較の結果、三日月刀歯虎(Homotherium latidens)のゲノムは、他の大型ネコ科種に対して、中~高水準の遺伝的多様性を示します。以下、異型接合性の程度の比較を示した本論文の図3です。
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 これは、常染色体全体でもエクソーム全体でも当てはまりました。ゲノム規模の異型接合性、有効集団規模、個体数調査規模の間の関係を考えると、この知見から、三日月刀歯虎は、他の大型ネコ科と比較してミトコンドリアの遺伝的多様性が低いことに基づいて低い集団密度を想定した以前の研究とは対照的に、比較的個体数が多かった、と示唆されます。しかし、以前の研究では3個体の単一の遺伝子座のミトコンドリアゲノムに基づいていたので、多様性に関する推論は限定されていました。三日月刀歯虎における推定上の個体数の多さの発見は、アフリカ南部からユーラシア全域と南北アメリカ大陸まで、ホモテリウムがマカイロドゥス亜科で最大の地理的範囲を有する、という事実により強化されます。

 遺伝的多様性はしばしば集団規模を反映しますが、集団・種の人口史および生活史の特性も役割を果たすかもしれません。(亜)北極圏も占めるホモテリウムの遺伝的多様性のより高い水準をもたらした要因の注目すべき一つは、構造化された集団間の長距離移動でしょう。一般的に、劇的な季節変動を有するか、もしくは一次生産性の低い地域に分布する走行性捕食者を含む種は、より安定して生産性の高い地域の種よりも長距離を移動します。したがってホモテリウムは、生産性の低い(亜)北極圏に分布する走行性捕食者として、広範囲を移動し、離れた集団間の遺伝子流動の増加につながった可能性があります。しかし、ホモテリウムの広範な地理的分布と、異なる生息地に分布する明らかな能力から、ホモテリウムはひじょうに成功した分類群で、比較的個体数が多かったかもしれないという本論文の推論に適合する、と示唆されます。

 ホモテリウムの明らかな成功は、なぜ現在まで存続せず絶滅したのか、という問題につながります。確かなことは不明ですが、ホモテリウムの成功につながった正確な適応・特殊化が、ホモテリウムの絶滅につながったかもしれません。後期更新世末に向かって、大型の獲物の捕獲可能性の減少は、生き残ったより小さな獲物の狩りにおいてより効率的だった可能性が高い、他のネコ科種とのより多くの直接的競合を引き起こしたかもしれません。ホモテリウムが獲得した特定の適応は突然不利になり、絶滅へとつながったのではないか、というわけです。

 三日月刀歯虎(Homotherium latidens)のゲノム配列は、他の現生ネコ科種との進化的関係、およびその特有の適応の遺伝的基盤に関する理解を深めます。本論文の結果は、ホモテリウムが全ての現生ネコ科種とはひじょうに深く分岐しており(2250万年前頃)、現生ネコ科種の最初の放散(1400万年前頃)の後で現生ネコ科種との検出可能な遺伝子流動を受けなかった、と示します。これは、マカイロドゥス亜科をネコ科内の別の亜科として位置づける認識を支持します。さらに、視覚や認知機能やエネルギー消費に関わるいくつかの遺伝子において、正の選択の証拠が見つかり、これはホモテリウム系統の昼行性および狩猟・社会的行動と一致する可能性があります。三日月刀歯虎個体の遺伝的多様性は比較的高水準と明らかになり、成功した系統だっただけではなく、むしろ他の現生ネコ科種と比較して個体数が多かった、と示唆されます。本論文は、どのようにして、化石記録と古ゲノミクスを相乗的に利用し、比較のために近縁な現生分類群が存在しない絶滅種の進化と生態をよりよく理解するのか、示します。


参考文献:
Barnett R. et al.(2020): Genomic Adaptations and Evolutionary History of the Extinct Scimitar-Toothed Cat, Homotherium latidens. Current Biology, 30, 24, 5018–5025.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.051

アジア南東部における人類も含む大型動物絶滅の環境要因

 アジア南東部における人類も含む大型動物絶滅の環境要因に関する研究(Louys, and Roberts., 2020)が報道されました。アジア南東部は北部のインドシナ地域と南部のスンダ地域で構成されており、広大なフタバガキ科熱帯雨林により特徴づけられ、世界で最も種が豊富な生態系を有します。アジア南東部では、寒冷期に海面が低下するとスンダランドが形成され、とくにインドシナからジャワ島にかけての生物地理地域で深刻な環境変化が起きた、と主張されています。アジア南東部の大半で降水量をかなり減少させた熱帯収束帯の変化に伴い、より乾燥した草原環境の拡大により、アジア南東部本土と島嶼部の大半でホモ属の早期種と大型グレーザー(おもに草本を採食する動物)が拡散してきた、と主張されています。

 その後のサバンナ回廊の消失と熱帯雨林の再拡大により、これらホモ属の早期種と大型グレーザーの多くは絶滅もしくは生息範囲が縮小した、と考えられています。これらの変化はボルネオ島のオランウータンやアジアゴールデンキャットのような熱帯雨林種の拡大とも関連しています。更新世アジア南東部が開かれた地域だったことを考慮すると、これらの仮説の検証は、人類がどのように異なる生態学的耐性もしくは能力を有していたのかということや、大型動物絶滅における気候変化の役割に関する世界的な理解に大きく貢献するでしょう。

 アジア南東部において、より開放的な環境が更新世に存在したことを示唆する証拠にも関わらず、サバンナ回廊の程度、さらには存在さえ、激しく議論されてきました。それは、いくつかのモデリングと長距離花粉データから、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の最寒冷期にさえ、熱帯雨林が存在したと示唆されているからです。こうした仮説の検証は、限定的な古環境データと、広範囲にわたる古生態学的評価の欠如により妨げられてきました。安定同位体の炭素13および酸素18の分析は、地域・大陸・地球規模での主要な環境事象の復元に長く用いられてきました。植物は光合成経路に応じて異なる炭素13値を有し、酸素18値は環境の水により変わります。これに基づく研究では、人類遺跡と関連する中型から大型の哺乳類の環境では、C3植物の優占する湿潤な森林と、C4植物により特徴づけられるより開放的で乾燥したサバンナの生物群系とが、どの程度存在したのか、という証拠が示されます。アジア南東部における同位体分析の適用はこれまで限定的でしたが、最近の研究では、古環境の指標として化石哺乳類の分析が始まっています。しかし、化石記録を適切に解釈し、地球生物学の記録を現代の文脈に位置づけるのに必要な現代の基準データは、ほとんど完全に欠落しています。

 本論文はこの問題に対処するため、アジア南東部で見つかった哺乳類63種の、269点の現代および歴史的標本の炭素13および酸素18データを報告します。これらは、前期更新世から現代に至る化石から得られた、644点の既知の炭素13および酸素18値と比較されます。一貫性と比較可能性のため、全事例で標本から得られた炭素13値は哺乳類の食性の炭素13値の推定に修正されました。本論文で組み合わされたデータセットは、アジアにおける哺乳類からの炭素13および酸素18値の最大の収集で、通時的な動物相および人類と関連したC3およびC4植物の分布の広範な傾向の検証が可能となります。以下、地域区分とサバンナの範囲と各標本の場所とを示した本論文の図1です。
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 本論文の結果から、前期更新世にはC3およびC4植物両方の消費者(草食動物を捕食する肉食動物も含めて)がアジア南東部に存在した、と示されます。しかし、これらの哺乳類は地域全体では不均一に分布していました。C3植物の消費者はおもにインドシナ地域に、C4植物の消費者はおもにスンダランドに存在します。草食動物と雑食動物の分布は、C3もしくはC4植物の優占する生態系全体で、有意な違いはありませんでした。中期更新世までに、スンダランドの記録ではC3植物の消費者がほとんどいなくなります。ほとんどの種は、C4植物の摂取と関連した範囲内に収まるか、程度は少ないものの、C3およびC4植物の混合摂食と関連する範囲に分類されます。中期更新世の始まりの頃に、炭素13食性の頂点が見られ、インドシナ地域では、より高い炭素13値へと向かうC3植物を消費する草食動物の変化と対応しています。これは雑食動物に影響を及ぼしていないようで、インドシナとスンダランド両地域全体の分布は、前期更新世の分布と類似しています。肉食動物はこの期間、C4植物を消費するグレーザーを好みます。後期更新世までに、ほとんどのスンダとインドシナの草食動物および雑食動物は、おもにC3植物を消費していました。これは肉食動物とは著しく対照的で、肉食動物のほとんどは、食性スペクトラムのC4末端で見つかりました。完新世までに、アジア南東部の哺乳類はおもにC3植物を消費するようになりました。

 C3植物とC4植物の間の顕著な違いを超えて、C3植物が優占する生態系内における、炭素13および酸素18のかなりの変動も見られます。最も低い炭素13食性値は、閉鎖的な林冠および亜林冠生息地に対応します。逆に、より高い炭素13値は、開けた林冠もしくは森林地帯で見られます。高い酸素18値は、林冠上部で採食する草葉食動物にも見られますが、下層を好む草葉食動物はより低い酸素18値を有します。アジア南東部では、ブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)の炭素13および酸素18値の分布は、全期間で有意に異なります。事後分析からは、環境構造における有意な違いが通時的に存在する、と示唆されます。前期更新世のインドシナの遺跡では、炭素13値に基づくと、下層で摂食していたブラウザーが何種類かいます。中期更新世までに、下層のブラウザーは記録から消え、5個体のみが閉鎖的林冠と一致する値を有します。後期更新世には、インドシナ北部の遺跡で、層序化された閉鎖的林冠森の最初の明確な証拠が記録に現れ始めます。完新世には、インドシナとスンダランド両方のブラウザーが閉鎖的な林冠森を占めており、両地域ではひじょうに高い負の歪んだ分布を示します。時間の経過に伴って増加する森林階層は、完新世における林冠専門分類群の出現により支持されます。これは、下層・中層・上層の林冠で採食する種間における、漸進的にかつ有意に高くなる酸素18値により支持されます。

 全分類群におけるC3およびC4植物消費の地域的変化と、ブラウザー集団内の炭素13および酸素18値の変化は、共通の状況を明らかにします。大気中二酸化炭素の分圧の微妙な変動が、時間の経過とともに起きたかもしれず、これは森林被覆と正確に同等であるとして炭素13値の解釈に影響しますが、C3およびC4植物の相対的な存在量、もしくはC3植物が優占する環境内における変化に関して観察された程度を曖昧にするのに充分ではありません。本論文のデータからは、閉鎖的な林冠森との混合が前期更新世のインドシナに存在しており、その頃スンダランドは開けたサバンナ草原だった、と示されます。中期更新世の始まりまでには、スンダランドとインドシナの両地域では開けたサバンナが優占しますが、インドシナのサバンナはスンダランドよりも森林が多く、いくつかの開けた森林が持続しました。閉鎖的な林冠はインドシナで後期更新世に出現しましたが、スンダランドではおもに開けた林冠森が優占していました。完新世までに、インドシナとスンダランドの両地域では閉鎖的な林冠森が優占しました。

 これらの観察は全球気候モデルと一致しており、中期更新世移行期におけるかなりの変化を示唆します。125万~70万年前頃の、41000年周期から高振幅の10万年周期への変化は、海面温度のかなりの低下、氷床の増加、アジアの乾燥化とモンスーン強度の高まりと一致します。底生酸素同位体記録に見られる氷期周期の変化は、アジア南東部の哺乳類における炭素13および酸素18値で観察された頂点と一致します。乾燥状態が低下するにつれて、サバンナは森林へと変わっていきました。この過程は、スンダ大陸棚の沈下により、40万年前頃にさらに影響を受けました。この事象は、土地を著しく減少させて反射率を低下させたことで、大気の対流と地域の降雨量の増加につながりました。本論文のデータは、この時点での炭素13および酸素18値の減少の加速を示しており、森林に好適な条件への継続的傾向が示唆されます。

 遺跡の分布から、最大時にサバンナはインドシナからスンダランドへと広がり、この広大な地域全体で大型グレーザーの拡散を可能にした、と示唆されます。これらの生態系の拡大は、この地域における最大の人類多様性の時期と一致します(関連記事)。中期更新世と後期更新世の始まりの間、C4植物の優占する生息地の顕著な衰退が起き、この時期はアジア南東部におけるほぼ全ての人類系統が絶滅しました。これらの人類集団は、アジア南東部において優先するようになる、拡大する熱帯雨林生息地に柔軟に移行できなかったようで、サバンナと森林の混合環境に依存するこれらの種の地位を浮き彫りにします。対照的に、72000~45000年前頃のこの地域における現生人類(Homo sapiens)の到来は、熱帯低地常緑熱帯雨林の存在が拡大した時に起きています。サバンナ環境はいくつか断片的に持続し、ほぼ確実に現生人類により利用されましたが、現生人類はその生態的地位をアジア南東部で拡大し、豊富な熱帯雨林と海洋生息地を利用しました。このような環境に特殊化する能力は、末期更新世と完新世においてますます明らかになっています(関連記事)。

 これらの環境変化は、人類のみならず広く哺乳類の置換にも重要な役割を果たしました。前期更新世には、ほとんどの哺乳類は開けた森林の広範な生態空間を占めていました。唯一の例外は、閉鎖林冠森に限定されていた奇蹄類です。前期および中期更新世のC4植物が優占する環境の拡大と閉鎖林冠森の生物群系の衰退により、哺乳類は、開けた森林もしくはサバンナという二つの生態空間を占めるようになりました。齧歯類や霊長類や奇蹄類は開けた森林へと後退し、一方で肉食動物や偶蹄類やゾウ目はサバンナを利用しました。森林の喪失はおそらく、これまでに存在した最大の類人猿であるギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)の絶滅に影響を及ぼしました。安定同位体データや関連する動物相および歯の形態に基づくと、ギガントピテクス・ブラッキーはインドシナ北部の熱帯雨林環境に特化していたようで、中期更新世におけるその絶滅は、おそらく好適な生息地の喪失により起きました。またこれらの変化は、武陵山熊猫(Ailuropoda wulingshanensis)や中国で発見された絶滅イノシシ(Sus peii)のような、他の前期更新世ブラウザーの絶滅にも影響を及ぼしました。現在のアジア南東部の島々のほとんどが直接大陸とつながっていた中期更新世のサバンナの大規模な分布により、インドシナと在来の固有種の交換を通じて、スンダランド全域で新たな動物相群が形成されました。以下、中期更新世のアジア南東部に広がっていたサバンナの風景の想像図です。
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 中期更新世後期以降のより高密度の熱帯林冠への再帰は、この時点までに広範に拡散していた、草原に特化した種の絶滅に影響を及ぼしました。偶蹄目は開けた林冠森環境に移行し、この期間にはウシ族種(Bubalus palaeokerabau)やウシ亜科種(Duboisia santeng)のようなグレーザーの最後の記録が残っています。この生態空間には、霊長類や齧歯類もいました。しかし、この変化は、ゾウ目に示される食性の大幅な変化との比較で見劣りします。それは、ゾウ目種(Elephas hysudrindicus)やステゴドン種(Stegodon trigonocephalus)を含むグレーザー分類群の消滅と対応しています。この時点以降、ゾウとその近縁種は閉鎖的な林冠森に限定されるようになりました。サイとバクは後期更新世までに閉鎖的な林冠森に戻りましたが、LGMにおいて熱帯雨林の明らかな減少の影響を受けました。たとえば、スマトラサイはこの期間に対応する集団減少を示します。後期更新世には、開けた環境に適応していた、肉食動物の森林生態系への著しい移動と、ハイエナの主要な絶滅事象が見られます。完新世には、開放的および閉鎖的な林冠森という、主要な森林生態系の拡大が見られます。霊長類もこの時点で、より閉鎖的な林冠を伴う森への移行を示します。

 アジア南東部の哺乳類では、炭素13および酸素18値の両方で、保全と絶滅との間の有意な正の相関があり、より乾燥して開けた環境の喪失が絶滅のより高い危険性と関連している、と示唆されます。この相関は、たとえ現生種のみを考慮しても有意なままです。本論文のデータからは、前期~中期更新世における大型動物の絶滅は、おもにC4植物に適応していた分類群を含んでいた、と示されます。これらの分類群は、後期更新世に森林再拡大とサバンナ縮小に伴って拡散します。熱帯雨林種は現在、最大の絶滅危機にあります。これは、大型哺乳類の運命における環境変化の支配的役割を浮き彫りにします。アジア南東部の現代の熱帯雨林には、世界で最も絶滅の危機に瀕している動物がいます。これらの絶滅危惧種は、乱獲と森林伐採による生息地喪失の危機に曝されており、これら熱帯雨林分類群がとくに存在しなかった草原生態系への、人為的影響による回帰を表しています。したがって、本論文の長期的視点は、現在の保全優先事項に関連する重要な洞察を提供します。たとえば、オランウータンの食性は全期間で有意に異なっており、完新世では最低の平均炭素13値が見られます。これらの変化は、おそらく中期~後期完新世における人類による搾取および土地開発の増加と関連しており、それによりオランウータンはより深い熱帯雨林に追いやられ、孤立して脆弱になっています。

 第四紀における人類や他の大型動物の変化する適応を理解するには、堅牢な古生態学的データセットが不可欠です。そのような記録はアフリカでは長く利用可能でしたが、アジア南東部では最近まで存在しませんでした。本論文の結果から、広範なサバンナ環境の往来が人類と他の哺乳類の生物地理に大きな影響を有しており、サバンナと森林の混合環境に適応した動物相は、熱帯雨林適応種によって、中期更新世後期と後期更新世に生息地を奪われていきました。アジア南東部ではかつて多様な人類が存在していましたが、現在では変化する環境によく適応した現生人類のみとなりました。現在、人類の開発・大農場開拓・人口増加を主要な動因とする、より開けた草原環境への回帰は、アジア南東部および熱帯全体の人類集団の長期的持続可能性と同様に、熱帯世界で最も絶滅の危機に瀕している哺乳類の最大の脅威となっています。本論文は、これらの脅威を長期的文脈に位置づけるのに役立ち、現生人類の運命が典型的な固有の熱帯雨林群系の到来に伴ってより良い方向に変化した一方で、我々がこれらの生態系を永久に破壊する危機にいる、と示します。


 以上、本論文をざっと見てきました。本論文は、アジア南東部における第四紀(更新世および完新世)の環境の変遷と、それに大型動物の拡大と絶滅が相関していることを示しており、今後も参照され続ける有益な結果を提示している、と思います。本論文では、アジア南東部にはかつて多様なホモ属が存在したものの、後期更新世にサバンナが後退すると非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)は絶滅し、適応能力の高い現生人類のみが存続した、と主張されます。本論文では、アジア南東部には少なくとも5系統のホモ属が存在した、と指摘されています。これは、ジャワ島のエレクトス(Homo erectus)、フローレス島のフロレシエンシス(Homo floresiensis)、ルソン島のルゾネンシス(Homo luzonensis)、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)、現生人類です。このうちデニソワ人に関しては、ゲノムデータからアジア南東部にも存在した可能性が高いと推測されていますが(関連記事)、遺骸はまだ確認されていません。

 また本論文では、アジア南東部の古代型ホモ属の絶滅要因として、中期更新世後期以降のサバンナの縮小を挙げます。ホモ属でも多様な環境に適応できたのは現生人類だけで、古代型ホモ属はサバンナもしくはサバンナ的環境(草原と疎林の混在)にしか適応していなかった、との見解は根強いように思います(関連記事)。しかし、初期ホモ属は遅くとも250万年前頃にはアフリカからユーラシアへと拡散し、210万年前頃までに現在の中国陝西省にも拡散していますから、サバンナもしくはサバンナ的環境以外の環境や環境変化にも一定以上適応できた可能性は高いように思います。おそらく古代型ホモ属の絶滅で最も多かった要因は、現生人類との競合なのでしょう。デニソワ人とフロレシエンシスとルゾネンシスは、その可能性が高いように思います。一方、エレクトスに関しては、ジャワ島における最後の痕跡が117000~108000年前頃なので(関連記事)、現生人類との競合ではなく、サバンナから熱帯雨林への移行が要因かもしれません。しかし、スンダランド、さらにはアジア南東部全域にまで範囲を拡大すると、現生人類との競合が絶滅要因だった、という可能性も充分考えられます。あるいは、エレクトスの競合相手はデニソワ人だったかもしれませんが、アジア南東部でデニソワ人遺骸が確認されるまでは強く主張できず、憶測に留めておきます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:東南アジアにおけるヒト族の進化を取り巻く環境的状況

 東南アジアへ移動した後のヒト族の進化は、中期更新世にサバンナだった地域が完新世までに密な熱帯雨林に置き換わるという気候変動を背景にして起こったことを明らかにした論文が、今週、Nature に掲載される。今回の分析から、東南アジアでのヒト族の進化を取り巻く環境的状況と、動物の絶滅との関連が明確になった。

 東南アジアはヒト族と哺乳類の移動と絶滅を解明する上で重要な地域である。以前の注目すべき発見によって、東南アジアにはヒト属の種が少なくとも5種生息していたことが明らかになっている。炭素同位体と酸素同位体の違いから過去の植物や利用可能な水量に関する手掛かりを得ることのできる安定同位体試験は、アフリカでのこうしたヒト族の進化的変化を取り巻く環境的状況を明らかにするために長い間用いられてきたが、東南アジアに関してはほとんど調べられていなかった。

 Julien LouysとPatrick Robertsは今回の論文で、第四紀(260万年前~現在)を通じた東南アジアの哺乳類の安定同位体データの大規模データセットを示した。このデータから、前期更新世(約260万~77万4000年前)に森林だった地域が、中期更新世(約77万4000年前~)までにサバンナへと変化し、これが、草食動物の分布拡大とブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)の絶滅につながったことが明らかになった。サバンナは、後期更新世(約12万9000年前~)に後退し、完新世(1万1700年前)までに完全に消失して、林冠の閉鎖した熱帯雨林に取って代わられた。この変化により、サバンナや森林が生息地だったホモ・エレクトス(Homo erectus)やその他の動物が犠牲になり、熱帯雨林に適応した動物種と適応能力の高いホモ・サピエンス(Homo sapiens)が優勢になった。


生態学:東南アジアにおける大型動物相とヒト族の絶滅の環境的駆動要因

生態学:ヒト族進化における東南アジアの環境

 アフリカでは、気候変動に伴い、閉鎖林が疎林や開けた土地からなるより多様性の高い環境へと移り変わったことを背景に、ヒト族が進化した。今回J LouysとP Robertsが東南アジアで行った炭素と酸素の安定同位体データの大規模収集から、この地域でのヒト族進化の背景がアフリカとは逆であったことが示された。後期更新世の東南アジアでは、西方へとつながるサバンナの「回廊」は残ったものの、アフリカとは対照的に、草原がより森林の多い環境に取って代わられていたのである。



参考文献:
Louys J, and Roberts P.(2020): Environmental drivers of megafauna and hominin extinction in Southeast Asia. Nature, 586, 7829, 402–406.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2810-y

都道府県単位の日本人の遺伝的構造

 都道府県単位の日本人の遺伝的構造に関する研究(Watanabe et al., 2020)が報道され、話題になっているようです。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文では、日本人の遺伝的構造を解明するため、47都道府県単位と、さらに大きな9地域区分(北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州・沖縄)単位で遺伝的データが分析されました。この区分は、以下の本論文の図1で示されます。
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 日本列島には、アイヌと主に沖縄の琉球人という二つの小集団と、その他の大多数を占める「本土」日本人という大集団が存在します。日本人の人口史については、変容・置換・交雑という3モデルが提示されており、現在有力なのは、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」です。このモデルでは、現代日本人は先住民である「縄文人(縄文文化関連個体群)」とアジア東部大陸部からの移民との混合により形成された、と想定されます。頭蓋形態に関する以前の研究では、アイヌと琉球人が「本土」日本人より「縄文人」に近く、東北地方の人々は形態的にアイヌに近い、と示唆されています。遺伝学的にも、アイヌと琉球人は「本土」日本人よりも「縄文人」の遺伝的影響を強く受けており、とくにアイヌではその影響がひじょうに高い、と推測されています(関連記事)。

 これまでの遺伝学的研究で、「本土」日本人と沖縄県民との間の遺伝的差異は示されていますが、「本土」日本人の都道府県間の遺伝的差異はよく理解されていません。以前の研究で、主成分分析から東北地方の人々が沖縄県民に近く、「縄文人」の遺伝的影響が強い、と示唆されています。しかし、東北地方の全県の人々が遺伝的に沖縄県民に近いのか不明で、さらに四国・中国地方の人々は対象とされていませんでした。本論文では、47都道府県全ての11069人のゲノム規模一塩基多型データが分析され、都道府県水準での日本人の遺伝的構造が明らかにされます。これは、ヤフー株式会社が提供するゲノム解析サービス「HealthData Lab」の顧客11069名の138688ヶ所の常染色体一塩基多型遺伝子型データに基づいています。その地域的内訳は、本論文の表1で示されています。

 まず、個体水準で主成分分析が行なわれ、琉球人(おもに沖縄県民)と「本土」日本人(おもに沖縄県以外の46都道府県民)が遺伝的に明瞭に分かれる、と確認されました。なお、本論文で用いられたデータにアイヌは含まれていないと考えられます。常染色体上の138688ヶ所の一塩基多型遺伝子型データから各個体の主成分得点が求められ、プロットされました。次に、47都道府県のそれぞれから50名ずつ無作為抽出されて各一塩基多型のアレル(対立遺伝子)頻度が計算され、中華人民共和国の北京の漢人も含めてペアワイズにf2統計量(2集団間の遺伝距離を測る尺度の一つで、一塩基多型データに対するf2統計量は、一塩基多型ごとにあれる頻度の集団間差の2乗を計算し、それらの平均値として与えられます)を求めてクラスタ分析(多数の変数、つまり多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、グループ分けが階層的になされる階層的手法と、特定のクラスター数に分類する非階層的手法があり、本論文では階層的手法の一つであるウォード法が用いられました)が行なわれました。

 日本人11069人と103人の漢人を対象とした主成分分析では、漢人に近い個体を除くと、日本人は沖縄県民を中心とする「琉球クラスタ」と本土日本人を中心とする「本土日本クラスタ」に大きく二分されました(図1)。本土日本クラスタ内では、東北の個体群が沖縄県民と、近畿および四国の個体群が漢人と比較的近い、と明らかになりました。以下、日本人と漢人を対象とした主成分分析結果を示した本論文の図2です。
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 ADMIXTURE分析(K=2からK=5まで)では、系統の割合が沖縄県民と他の都道府県民との間でかなり異なっていました。K=2では(図3)、青色成分が沖縄県民の系統の大半を占めています。沖縄県を除く都道府県では、青色成分の割合が近畿と四国で比較的低く、東北・関東・九州で比較的高い、と明らかになりました。以下、K=2の場合のADMIXTURE分析結果を示した本論文の図3です。
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 都道府県単位のクラスタ分析では、沖縄県民が他の全都道府県民と大きく異なり、沖縄県民を除く都道府県民は大きく3クレード(単系統群)に区分されました。クレード1は東北の全県、クレード2は四国と近畿の全府県、クレード3は中国と九州の全県を含みます。したがって、これら5地域(東北・四国・近畿・中国・九州)は比較的遺伝的には均質と考えられます。f2統計に基づくと、九州、とくに鹿児島県民が遺伝的には沖縄県民に最も近い、と明らかになりました。

 47都道府県単位での主成分分析では、同じ地域の都道府県が近くに位置づけられました(図5)。PC1軸では、沖縄県が他の都道府県から離れており、東北と九州の諸県は沖縄県と比較的近くに位置します。沖縄から最も遠いのは、近畿と四国の諸府県です。PC2軸は緯度および軽度と強く相関しており、各都道府県の地理的位置が反映されていることを示します。以下、47都道府県単位での主成分分析結果を示した本論文の図5です。
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 主成分分析結果を示す上記の図2は、近畿と四国の人々が他の都道県民よりも遺伝的に漢人に近いことを示唆します。これを確認するためf2統計が行なわれ、近畿と四国の人々が他のほとんどの都道県民よりもかなり漢人に近い、と明らかになりました。本論文の分析では、47都道府県民のうち、漢人と遺伝的に最も近いのは奈良県民です。

 これらの分析結果を踏まえると、以前の研究と同様に、日本列島の現代人集団は遺伝的に沖縄と本土日本に区分される、と改めて確認されました。ただ、上述のように本論文ではアイヌは含まれないと考えられるので、アイヌを含めると二分ではなく三分されるでしょう。上述のように、以前の研究で本土日本人よりも琉球人の方が遺伝的には縄文人と近い、と示されていました。つまり、本土日本人は琉球人よりも、アジア東部大陸部からの(おそらくは弥生時代以降の)移民に遺伝的に近いことになります。これは、上記の図3で示されたK=2のADMIXTUREにおいて、青を縄文人由来、橙を弥生時代以降の移民に由来すると仮定した場合に確認されます。

 アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民は、遺伝的に漢人に近いと予測されます。上記の図5で示された主成分分析のPC1軸で沖縄から最も遠い近畿と四国の府県は、他のほとんどの都道県よりも漢人に近い、と明らかになりました。図5のPC1軸は、縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民という二つの祖先集団との遺伝的類似性を反映しているようです。遺伝的に、東北と九州の個体群は他地方よりも縄文人に近く、一方で近畿と四国の個体群はアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民に近いようです。アイヌは北海道の在来集団ですが、現代の北海道民のほとんどは明治時代以降の本土日本からの移民の子孫です。したがって、アイヌは遺伝的に本土日本人よりも琉球人の方と類似していますが、現代の北海道民は琉球人と類似していません。縄文人系統の地域差が、現代日本人集団の遺伝的構造の主因かもしれません。

 主成分分析では、地理的位置が本土日本人の遺伝的構造に関わる主因の一つであることも明らかになりました。上記の図5のPC2軸と緯度もしくは経度との有意な相関は、隣接する都道府県間の移動によるものと考えられます。この結果は予測できましたが、ゲノム規模の一塩基多型遺伝子型データを用いて都道府県水準で大規模な分析を行なった本論で初めて示されました。

 本論文は、四国の住民が本土日本人の中では比較的漢人に近いことを始めて示しました。上記の図2では、四国の人々はわずかしか漢人クラスタと本土日本人クラスタとの間に位置づけられないので、四国の現代人は、中国人や朝鮮人とあまり混合していない可能性があります。したがって、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の遺伝的構成は四国でよく保存されている、と考えられます。アジア東部大陸部からの移民により導入された水稲耕作は九州北部で始まったので、この移民はまず九州北部に到来した可能性が高そうです。もしそうならば、アジア東部大陸部から四国への移住には、中国や九州を経由して瀬戸内海を渡る必要があります。それにも関わらず、四国は中国や九州よりも遺伝的に漢人に近く、弥生時代以降の渡来系統の程度がアジア東部大陸部からの移民の移動経路と必ずしも一致しない、と示唆されます。四国の人々のゲノムに関する将来の研究では、弥生時代以降におけるアジア東部大陸部からの移民の遺伝的背景が解明されるかもしれません。しかし、近畿の現代人と漢人との遺伝的類似性に関しては、図2の2集団間で位置づけられた個体群のように、最近の混合に由来するかもしれません。

 上記の図5で示される主成分分析では、東北だけではなく九州も沖縄県に近くなっています。これは図2の主成分分析により支持され、九州の一部個体が本土日本クラスタと沖縄クラスタの間に位置づけられます。その一因は、九州と沖縄の地理的近さで、最近になって九州に沖縄県から移住した人々や、沖縄県出身の両親がいるからです。九州の各県では鹿児島県が沖縄県に最も近くなっています。これは、鹿児島県に属する奄美群島が、かつて沖縄本島に存在した琉球王国の支配下にあったからと考えられます。九州と沖縄の遺伝的近縁性は、上述のように地理的近さが一因と考えられますが、九州北部の3県(福岡・佐賀・長崎)も沖縄に遺伝的に近くなっています。上述のように、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民は九州北部にまず到来したと考えられますが、九州北部の現代人よりも四国や近畿の現代人の方が遺伝的には漢人と近くなっています。この結果は、アジア東部大陸部からの移民が、弥生時代に九州北部に存在した縄文人とあまり混合しなかったことを示唆しますが、これは将来解決されるべき問題です。

 また、日本人のさまざまな疾患に関連する多型を特定するため、遺伝的関連研究が行なわれてきました。偽陽性を回避するため、症例と対照の遺伝的背景はできるだけ一貫している必要があります。ゲノム規模関連研究では、ゲノム拡張係数もしくは主成分分析スコアの使用により、集団階層化による偽陽性は回避できるかもしれません。しかし、原因となる一塩基多型が被験者の遺伝的不均質に寄与している場合、こうした調整が偽陰性を引き起こすかもしれません。これらの問題に完全に対処することは困難ですが、本論文の結果は、患者と対照群は、上述の各クレード(クレード1~3および沖縄)内の都道府県から募集する必要がある、と示唆します。

 まとめると、本土日本人は遺伝的に不均一で、これは、各地域で縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民との間の混合の程度と、近隣の都道府県間の限定的な移住によりもたらされた可能性があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は都道府県単位での日本人の遺伝的構造を示しており、ひじょうに有益だと思います。ただ、日本列島の現代人集団の遺伝的構造の地域差がどのように形成されてきたのか解明するには、やはり日本列島全域での通時的な古代ゲノムデータが必要となります。その意味で、現代日本人、さらにはその地域差の形成過程を、本論文から過剰に読み取ってはならない、とは思います。あくまでも、本論文はそうした問題に関して重要な基礎的情報を提供した、と考えるべきでしょう。

 本論文が提示する現代日本人の遺伝的構造の地域差は興味深く、今後の研究でより詳細に解明されていく、と期待されます。本論文では、日本列島の現代人のうち本土集団と琉球集団が取り上げられています。どちらも、日本人起源論で以前から提示されている「二重構造モデル」で説明されます。上述のように、縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民との混合により、日本列島の現代人集団は形成された、というわけです。ただ、本論文で取り上げられていないアイヌ集団に関しては、上述のように縄文人の遺伝的影響が本土集団および琉球集団よりもずっと高く、本土集団との混合が前近代より進行していたとはいえ(関連記事)、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の遺伝的影響は本土集団および琉球集団よりもはるかに低いでしょう。

 このアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民と遺伝的構成が最も類似していると推測されるのは、現時点で確認されている古代人では新石器時代黄河流域集団となります(関連記事)。このモデルでは、新石器時代黄河流域集団は出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団の中で位置づけられます。出アフリカ現生人類は、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。一方、ユーラシア東部北方系統からはアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア東部北方系統は新石器時代黄河流域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団(祖型オーストロネシア語族集団)です(関連記事)。

 現代において、日本列島本土集団や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、それはアジア東部北方系統とアジア東部南方系統との混合により形成された、と推測されます。チベット人はアジア東部北方系統とユーラシア東部南方系統との、日本列島本土集団はアジア東部北方系統と縄文人との混合により形成されましたが、いずれもアジア東部北方系統の遺伝的影響の方がずっと高くなっています(80%以上)。縄文人は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されています。

 本論文では、日本列島の現代人集団のうち本土集団と琉球集団は、先住の縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の混合と指摘されていますが、後者は基本的に新石器時代黄河流域集団に代表されるアジア東部北方系統と考えられます。ただ、稲作の北上に伴って黄河流域でも後期新石器時代にはアジア東部南方系統の割合の増加が指摘されているように(関連記事)、アジア東部大陸部から日本列島への弥生時代以降の移民も、アジア東部北方系統を基本としつつ、アジア東部南方系統の遺伝的影響を受けている、と推測されます。

 本論文の結果を踏まえると、沖縄県民ではアジア東部北方系統の遺伝的影響が他の都道府県民(本土集団)よりも低く、本土集団でも地域差がある、と言えそうです。本論文が指摘するように、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民はまず九州北部に到来したと考えられるのに、その遺伝的影響は九州よりも近畿と四国で高くなっています。本論文はこれに関して、アジア東部大陸部からの移民が、弥生時代に九州北部に存在した縄文人とあまり混合しなかった可能性を示唆します。ただ、ヤマト政権成立後に、アジア東部北方系統の遺伝的構成の人々が朝鮮半島から日本列島に到来し(いわゆる渡来人)、畿内に優先的に居住したことを反映している可能性も考えられます。弥生時代だけではなく、古墳時代以降の混合も地域差を形成したかもしれない、というわけです。四国に関しては、近畿との歴史的なつながりを反映しているかもしれません。また関東の現代人がクレードを形成しなかったことについては、近代以降の各地からの移住の影響が大きいかもしれません。これらの問題の解明には、やはり広範囲で通時的な古代ゲノムデータが必要で、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2020): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0

大河ドラマ『麒麟がくる』第28回「新しき幕府」

 1568年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、松永久秀も信長に面会に行きますが、自分が三好三人衆と通じていると疑われているのではないか、と懸念していました。じっさい、諸勢力の処遇を論じる評定にて、足利義輝の殺害に久秀が加担していたので処分すべきと三淵藤英は主張しますが、信長家臣の柴田勝家は、久秀の功績を主張して激論となります。義昭は、信長の主張通り久秀を受け入れるよう、藤英を説得します。久秀は信長に茶器を献上して歓心を買い、筒井順慶など大和の豪族と戦うつもりだ、と明智光秀(十兵衛)に言い、さらに朝倉義景の動きが怪しい、と光秀に伝えます。義昭は、幕府再興のために摂津晴門を政所で起用するよう信長に打診し、信長も受け入れますが、義輝を補佐できなかった晴門の起用に、細川藤孝も明智光秀(十兵衛)も不安に思います。1569年1月、義昭が拠点としていた本圀寺を三好三人衆が襲撃しますが、義昭には援軍が到来し、三好三人衆は撤退します。光秀は、幕府の中に三好と通じている者がいる、と推測します。信長は義昭の新たな居城の建築に取り掛かりますが、光秀は石仏が用いられていることに気づきます。信長は、子供の頃に仏像を粗末に扱い、母親に罰が当たると叱られたものの、何も起きなかった、と無邪気に言います。そんな信長に光秀は違和感を抱いていたようです。

 今回から摂津晴門が登場となります。晴門はいかにも守旧的な典型的悪役といった感じですが、これまでの作風からして、単純な悪役にはならず、晴門なりの主義主張も描かれるのではないか、と思います。今回は、今後の展開で重要となるやり取りも描かれました。松永久秀は筒井順慶を討つと意気込んでいましたが、義昭は順慶を赦免して優遇し、そのために久秀は義昭と対立します。また、久秀は光秀に、義昭に投降したり命乞いに来たりした者を見苦しいと言っており、これは久秀の最期とも関連しそうです。まあ久秀もこの後、一度は信長に投降して赦されていますが。石仏の件は、光秀が信長に対して明確な違和感を抱く契機になったという点で、たいへん注目されます。光秀は信長に重用されますが、最終的には本能寺の変に至ります。今回のような信長への違和感というか不安感の蓄積により、光秀は信長に叛いた、という流れになるのでしょうか。本作も後半に入り、そろそろ本能寺の変の原因も気になっていたところなので、今回の描写はとくに印象に残りました。

岡本隆司『腐敗と格差の中国史』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2019年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現在、中華人民共和国の習近平政権で進められている「反腐敗」運動の歴史的起源を探ります。なぜ中国では最高権力者今が大々的に腐敗撲滅に力を入れているのか、単に共産党の一党独裁体制による腐敗、つまり権力、それも独裁的な権力は必ず腐敗する、という一般論で説明するだけでよいのか、という問題提起でもあります。

 本書の見通しは、この問題の根源に、中国史における皇帝制の出現と官僚制の成立、およびその千年後に確立した皇帝独裁制と官僚制がある、というものです。戦国時代に中央集権体制と比較的平準化が進み、いわば一君万民的な体制の出現が要請される中で皇帝制が出現し、官僚制が成立しました。県を最少単位とするこの中央集権的体制は、皇帝制と共にこの後2000年以上続きます。官僚制は、身分・階級に格差が小さい社会に適合的でした。秦王朝は、在地勢力に強権的に臨んで強い反発を招来して滅亡し、これを踏まえた漢王朝は、在地勢力を取り込んでいき、儒教が次第に社会に浸透して有力層を統合していき、皇帝を頂点とする官僚制は、在地社会の自治を包摂していく形で展開します。

 しかし、漢代を通じて次第に特定の家柄が権勢を独占するようになり、格差が拡大していきます。官僚選抜の基準は儒教的な評判となり、ますます有力な家柄(豪族)が高位を占めるようになります。こうして、後漢ともなると何代にもわたって高官を輩出する家柄も出現し、貴族が成立します。貴族制を成立させて支えたのが九品官人法で、魏晋南北朝時代に貴賤の区別の確立に大きな役割を果たしました。家格により貴賤が決まり、それにより社会的存否が定まる貴族制は、とくに発達南朝で発達しました。南朝の貴族たちは皇帝になるわけではなく、武力・権力を握るものの、出自が「卑賤」な皇室をしばしば公然と見下しました。貴族層自らを「士」と称しました。その対立概念は社会の大多数を占める「庶」です。「士」と「庶」の間には転置ほどの隔たりがある、とされました。この風潮の中で、官吏になれるのは高貴な士だけとなりました。こうして、戦国時代~漢代初めの頃の身分・階級差の少ない社会とは大きく異なる格差会が形成されました。

 一方北朝というか華北では、諸勢力の相克が南朝よりも激しく、南朝政権のような継続性・連続性もしくは正統性が欠如していました。それもあって北朝では、南朝よりも実用主義・賢才主義的傾向が強くなります。「統一」王朝である隋も唐も、北朝の系譜に由来します。隋・唐では、官吏採用基準を門地ではなく個人の才徳に置き、科挙が始まります。しかし、社会の意識はそう簡単に変わりません。唐皇室の李氏でさえ、名門貴族よりも下に見られていました。社会通念上も旧来の門地ではなく個人の才徳が重視されるようになったのは、唐宋変革を経た後のことでした。

 宋代には、近代的な官僚制により近づいた制度が確立します。それ以前には、皇帝をも見下すような名門意識の強い貴族層が官吏の主要な供給源となり、時として皇帝に逆らいました。それが宋代には、皇帝に忠誠を尽くす官僚組織が形成されます。この官僚は士大夫と呼ばれ、その地位の源泉は皇帝と科挙に依存していました。ここに、官吏が皇帝に忠誠を尽くすような君主(皇帝)独裁制成立の基盤がありました。新たな支配層たる士大夫には、経典の教義を身につけて実践することが要求されました。士大夫は「読書人」とも呼ばれましたが、それは書を読むことが第一義的には儒教の経典だったからです。

 科挙はその「読書人」の学力を測定するためのもので、政治手腕・行政能力・専門知識ではなく、経書をどれだけ諳んじられるかが試されました。つまりは暗記力が要求されたわけです。基本文献となる四書五経だけでも40万文字以上で、散文・韻文・論説・詩詞も作れねばなりません。科挙に合格するにはたいへんな勉強が必要で、試験という一見合理的で平等な手段に基づくものだけに、「士」の「庶」に対する優越意識を決定づけ、貴族制の時代以来の社会の差別・隔絶を助長する役割を担った、と本書は指摘します。人々が「士」を目指すのは、単に社会的名誉からだけではなく、実利的な側面も多分にありました。科挙に合格さえすれば、本人の富貴が保証されるだけではなく、一族にもその余沢が及びました。

 科挙は原則として誰でも受験できましたが、本気で合格を目指すとなると、たいへんな勉強量が必要となりました。そこで、一族に優秀な子弟がいると、一族はこぞって支援しました。その子弟が合格して士大夫になると、次には既得の資格・権益を守るため、自分の子弟が科挙に合格するよう、指導教育します。こうして特権を目指した何世代にもわたる循環により、科挙は社会に定着します。本書は、「庶」の側も、一族の有望な子弟への支援など、この儒教理念の体制でいかに上手く立ち回るかに専念し、科挙を消極的に支えていった、と指摘します。科挙が存続するなか、差別機能も再生産を繰り返し、「士」と「庶」の階層分断と格差は固定化していき、世襲的な身分制は存在しないものの、二元的な社会構成となります。中国の官僚制は、こうした社会構造に立脚したという点で、世襲的な身分制を有しながら実質的な身分の隔たりが小さかった近世社会を基盤に成立した近代日本の官僚制とは異なる、と指摘します。

 この官僚制の歴史を大きくまとめると、一君万民的な比較的平準な社会構造下の未熟な体制で、個々の官僚が皇帝の代理として大きな権限を振るった法家的な時代から、貴族制の発展とともに皇帝権力を制度的に制約する時代を経て、皇帝権力と貴族制のせめぎ合いの中で、宋代に皇帝独裁制が確立した、となります。本書は、皇帝も含めて君主権力と貴族制のせめぎ合いの中から民主主義を独力で達成したのはイギリスとフランスだけだった、と指摘します。中国史の展開が特異的だったとは言えない、というわけです。

 こうして宋代に成立した皇帝独裁制は、その前代の五代十国時代の社会を踏まえたものでした。五代十国時代には諸勢力が割拠しましたが、それは各地の経済開発が進んでいたからでした。そうした在地の意向を無視した画一的統治は困難ですが、それをそのまま追認・黙認するだけでは、全体の秩序が成り立たず、宋代の皇帝独裁制には、そうした弊害の矯正への要望があった、と本書は指摘します。皇帝(君主)独裁制の本質は、皇帝が専制的支配を確立することではなく、地方に応じた在地主義を前提に、一元化を目指したものだった、というのが本書の見解です。単純なトップダウンの統治ではなく、ボトムアップの社会趨勢と適合的な統治を模索した結果成立したのが皇帝独裁制だった、というわけです。各地の産業と貨幣経済が発展した社会では、法律一辺倒ではない臨機応変な対応が官僚に求められました。

 権力・官僚によるトップダウン的な秩序維持と、民間・社会によるボトムアップ的な経済活動が噛み合って機能すれば、上下一体の社会と官民一体の政治が可能になり、西欧では議会政治と国民経済という形で実現しました。しかし中国では、上下および官民が必ずしも一体にならず、逆に「士」と「庶」に分かれた二元社会となります。本書は、世界ではむしろ西欧のような事例が特殊だと指摘します。本書が注目するのは、「官吏」という言葉です。現代日本ではほぼ同じ意味ですが、中国ではある時期以降、「官」と「吏」は異なる意味を有するようになります。共に役所に勤めて公務を担いますが、「官」は中央政府が任命して派遣する正式な官僚なのに対して、「吏」は必ずしも中央政府が任命せず、臨時的に執務する人員を指すようになります。「官」は「官員」・「官人」、「吏」は「吏員」・「書吏」・「胥吏」とも呼ばれます。本書は「官」と「吏」の分離を、分業化の一端と把握します。

 在地主義の台頭に伴い実地に即した行政が必要になるものの、転勤が大前提の官員だけでは対応できないので、胥吏が必要とされました。元々、在地の行政は地元民が労力を出しあって進め、課税しないのが理想とされました。しかし、唐宋変革に伴い行政機構も複雑・拡大化し、専門家でなければ対応できなくなりました。こうして地方官庁の事務員は専業化し、これが胥吏です。胥吏はその起源からして 、国家から報酬は出ません。官員は転勤が大前提で任地の行政には通じないのに社会的地位と報酬を得たのに対して、胥吏は実務を一手に担ったのに、地位も給与も与えられませんでした。少数の正規の「官」と圧倒的多数の非公式の「吏」という、この倒錯した二元構造が宋代以降の官界の重要な特徴となります。ただ、宋代はそうした二元化の進展時期で、まだ後代ほど固定化したわけではないので、王安石の改革のように、まだ一元化しようとの動きもありました。しかし、貴族制の時代以来の貴賤の差別意識は根強く、王安石の時代にはそれが再生産され固定化されつつあり、王安石の改革は挫折し、二元的な伝統中国社会が確立します。

 胥吏は叩き上げで、指導層の胥吏が見習いの部下を一種の徒弟制度により要請し、隠退するさいには自分の後継者として推薦しましたが、それは血縁・地縁による引き立てで、胥吏の地位は一種の権利株となっていき、盛んに取引されます。それだけ胥吏になりたい人々がいたわけですが、上述のように胥吏には中央政府からの給与は支払われません。それにも関わらず胥吏の希望者が絶えなかったのは、庶民からの手数料もしくは賄賂により充分生活できるだけの収入が得られたからでした。本書は、正規の官僚や地元の知識人・士大夫から蔑みと賎しめを受けていた胥吏の鬱屈・不満の捌け口が、同じ身分の庶民に向けられた、と指摘します。ただ本書は、こうした胥吏の弊害を伝える史料には士大夫の差別意識が反映されており、誇張されているかもしれない、と注意を喚起します。それでも、胥吏の弊害は否定できません。知識階層たる官僚は在地の行政に疎く胥吏頼みで、庶民は胥吏を経由しないと官僚とは接触できず、何かと胥吏に搾取されます。これが伝統中国社会の根源的問題の一つとなりました。本書はこのような伝統中国社会を、君主独裁・トップダウン的な官僚政治の外貌をとりながら、実質的には「封建」・ボトムアップ的な胥吏政治で、こうした二面性こそが特徴だった、と評価します。

 汚職は胥吏だけの問題ではありません。官僚の年俸は、多くの一族を養うと考えると、とても足りませんでした。「清官(清廉潔白な官僚)」であろうとすれば清貧にならざるを得ず、官僚では奇特な部類でした。清官であろうとすれば、例えば上司への礼物が簡素だったために不興を買って弾劾される危険性もありました。大多数の官僚にとって、清貧は耐えられるようなものではなく、官僚においても不正・汚職はありふれていました。皇帝独裁制下では、そもそも支出の範囲がきわめて狭く、地方税・地方財政はまったく考慮されていなかったことなど、これは構造的な問題でもありました。こうした状況に対して、清代には雍正帝が改革に乗り出しますが、官僚の俸給の方では一定以上の効果があったものの、胥吏の俸給は事実上支払われないままで対症療法におわり、構造的な改革とはなりませんでした。19世紀末の政府財政の規模は1億両弱でしたが、民間社会の実質負担は2億両という推計もあります。中央の「小さな政府」志向は、民間への負担に転化され、人口急増もあり、中央政府の支配力が末端まで浸透せず、賄賂・汚職構造は清代を通じてけっきょく解決されませんでした。

 この伝統社会構造を問題視した知識人もいました。たとえば、明清交代期を生きた顧炎武です。顧炎武は、庶民・社会と接して政務にあたる「小官」が少なく、官吏の父性・非違を糾す「大官」の監視・観察ばかりが増えている現状を批判しました。清朝はこの疲弊した制度・体系を立て直しましたが、それは対症療法にすぎず、18世紀後半の人口増加と社会の肥大化は官僚制の矮小化・統治の無力化と重なり、政治・社会は破綻に瀕していました。これが内憂外患の中国近現代史の根源にありました。

 中国近現代は、この状況を変えようとした革命の時代でした。若くして西洋的教育を受けた孫文のように、中国伝統社会の問題点を認識し、それを改めようとした人々は少なくありません。しかし本書は、孫文も含めて、20世紀に入るまで、革命を旧体制の変革・是正と位置づける観念・感覚がどの程度知識層に存在・定着していたのか、疑問を呈します。19世紀まで、大多数の知識人は漢語で思考・表現しており、「革命」も例外ではありませんでした。革命を伝統的な王朝交代ではなく、体制全体の大変革と考えるようになったのは、日本語を経由して西洋流の新概念が入ってきたからでした。つまり、中国近代史における革命とは、西洋外来の史実・概念の輸入・獲得なくして自覚できない観念だった、というわけです。

 そのため、革命運動も国民国家への目標も、対外的な配慮が勝っており、中国滅亡に至る「瓜分」が最も恐れられたため、国内社会の在り様よりも政治・外交が重視されました。それは孫文の三民主義(民族・民権・民生)にもよく表れており、圧倒的に重要だったのは民族主義です。孫文は清朝最後の宣統帝の退位後、明の太祖(朱元璋)の陵墓に参拝しています。朱元璋は「漢人政権を復活させた人物」とみなされており、孫文の意図は、明朝の復仇と再現・漢人政権の奪回を示すことでした。このように辛亥革命・中華民国は、西洋的な意味での革命・変革には至りませんでした。

 1920年代になると、革命は進展します。国民革命・国民党は社会変革をも射程に入れたため、支持を得ました。しかし、国共合作で共産党の勢力が伸張して乗っ取られることを恐れた蒋介石は、反共クーデタを敢行し、列強の英米との妥協を図ります。しかし蒋介石は、社会改革と均質な国民国家の形成を達成できませんでした。蒋介石にはその意思があり、じっさい幣制改革などに乗り出しましたが、英米に妥協し、その資本主義・企業と深くつながる中国の富裕層と一体化したため、南京国民政府の製作は資本家・富裕層を庇護するものにしかなり得ず、三民主義の民生主義が軽視されてしまいました。

 また、独裁制志向はついに変わらず、21世紀の現在も中国共産党により続いています。本書はこの要因としてカリスマ的指導者・独裁制をもたらす社会構造がある、と指摘します。清朝末期の1905年に科挙は廃止されますが、その身分意識と社会構成は容易に改まるものではありませんでした。エリート層選別機能を代わりに担ったのは外国への留学で、王朝の官僚制はなくなっても、軍閥勢力と政党国家が替わりを務めました。本書は、胥吏のような存在も、公式・表向きには見えにくくなっても、実質的には続いていた、と推測します。本書は、上下が乖離した二元的な伝統社会の構成自体にあまり変化はなかった、と指摘します。

 1937年、日中間の本格的な戦争が始まり、国民党と共産党は日本を共通の敵として再度提携します。日中戦争は総力戦の様相を呈し、国民政府も共産党も総動員体制を余儀なくされます。ここで、久しく民間社会を直接的に掌握してこなかった中国の権力が、半ば強制的に基層社会へと浸透し、上下の乖離した二元構造も動揺し始めます。中国が日本との戦争に「惨勝」すると、国民党と共産党の間で内戦が始まります。この国共内戦の帰趨を決したのは、日本軍が占拠していた宴会の都市部・経済先進地域の向背でした。国民党は、とくにハイパーインフレを招来した拙劣な通貨管理・経済政策により、その掌握に失敗しました。また、戦時物資の接収・分配、あるいは徴税や司法をめぐって、国民政府の綱紀弛緩・腐敗蔓延が、国民党を支持したアメリカ合衆国当局も呆れるほど、目に余りました。ただ、国共内戦に勝利した時点で、共産党がどれだけ民間社会を掌握していたかは未知数である、とも本書は指摘します。

 1949年に成立した中華人民共和国の課題は、国民政府も免れなかった政権・国家の腐敗と社会との隔絶、それを生み出す社会構成の変革でした。冷戦構造が確立していくなか、共産党政権の中華人民共和国は西側諸国との経済関係が極度に制限され、厳しい対外的環境の中での建国となりました。共産党政権は西側との激しい対立のなか、国内経済を資本主義世界経済と切り離し、統制管理下に起きます。「計画経済」体制下で、農村での農業集団化や都市部での商工業企業の国営化が進められ、いずれも中央の意思を現場へ徹底させようとの意図でした。各地でバラバラだった通過は、人民元により統一され、これは国民政府もなしえなかった事業でした。国民経済の統合と「計画経済」の実子は、民族主義・社会主義の達成で、共産党政権の目標でしたが、本書はその実質を問いかけます。むしろ、外圧に対抗する政治的・軍事的な動機によるもので、嶮しい国際情勢に応じた戦時統制とみなすべきで、必ずしも社会経済的な合理性に合致していない、というわけです。基層社会への権力浸透は、日中戦争以来の総動員体制から進展しており、その余勢を駆った戦時統制による上下の一体化だったので、精度の急速な変化とは裏腹に、人々の意識はあまり変わらなくても不思議ではない、と本書は指摘します。

 日中戦争までの中国社会は、官吏の腐敗・犯罪の多発・匪賊の横行が状態でしたが、中華人民共和国において、少なくとも外部からは、官吏は清廉質素となり、盗賊・犯罪が姿を消したように見えました。これは毛沢東政権の成果に違いはなく、1950・1960年代の日本の知識人は共産党政権を礼賛しましたが、中国が以前とはまったく異なった理想郷に見えたのも一面の事実である、と本書は指摘します。しかし、中華人民共和国の実情は、建国以来少なからず混迷していました。共産党幹部・官僚の汚職・浪費・官僚主義を告発する三反運動では、重大案件で約29万人が摘発されました。共産党にもそれだけ「腐敗」が広がっていたわけです。これは、公式・法的な手続きを経ない、民衆を動員してのものでした。官僚の自制や相互監視あるいは制度改革では効果が期待できない、と考えられたわけです。本書は、この時点でも官僚・党員と庶民・大衆とは戴然と分かれており、上下乖離した二元社会構造だったことを指摘します。1957年の百花斉放・百家争鳴でも、共産党幹部と農民との所得格差が厳しく指摘され、共産党は慌てて批判者たちを「右派」として弾圧しました。文化大革命でも、毛沢東と「四人組」を中心とした政権の一部支配層の呼びかけに応じて、多数の「紅衛兵」が出現し、凶行の限りを尽くしました。本書は、文革時点でも中国社会が上下隔絶する二元構造だったことと、毛沢東たちが下層を動員し、上層を撃滅させることで社会の一元化を目指した、と推測します。

 文革の結果は惨憺たるもので、その復興を優先して「改革開放」政策が進められ、現在の「社会主義市場経済」体制へとつながります。一見すると矛盾している概念・制度の組み合わせのように見えますが、中国の実情には適合していた、と本書は指摘します。政治は「社会主義」の共産党政権が独裁的に引き受け、経済は民間が自由な「市場経済」を取り入れるという方針は、上下乖離の二元構造社会に適しており、「改革開放」が目覚ましい成果を収めたのもそのためでした。「社会主義市場経済」が中国の伝統社会構成に応じた体制だとすると、それに根差す弊害も免れません。それは「腐敗」の蔓延と犯罪の多発です。国有企業の肥大と民間企業の縮小を指す「国進民退」という用語は、国家と民間の乖離と対立関係を示す表現で、二元構造の上下乖離が改めて拡大した所産です。上層を占めて富裕化したのは、共産党員とその縁類もしくは関連企業でした。

 共産党要人も、さすがにこの状況に危機感を抱き、胡錦濤前国家主席は、「腐敗」問題が解決できなければ、共産党は致命傷を受けて「亡党亡国」になる、と述べました。習近平国家主席も同様で、習近平政権は強権的手法も辞さず、「腐敗」を摘発していきました。「亡党亡国」とは共産党が亡んで中国が亡ぶという意味で、顧炎武の「亡国亡天下」を踏まえているようです。しかし、そこに現代中国の矛盾と苦悩も垣間見える、と本書は指摘します。そもそも「亡国亡天下」とは、「国」=政権と「天下」=中国世界とを別個に分かつところに要諦がありました。政権が亡んでも必ずしも中国の滅亡ではなく、政権と一般庶民はほとんど関係がありません。一方、習近平政権では、「党」=政権と「国」=中国とは同一視されています。これは中国革命の理想だったかもしれませんが、本当に実現してきたのか、理想が現実の前に挫折を続けてきたのが20世紀中国の革命史で、顧炎武の現状認識は現代中国にも当てはまっているのではないか、と本書は問題提起します。著者の著書をそれなりに読んできたこともあって、本書をすんなりと読み進められ、また新たに整理できた論点もあり、私にとってはたいへん有益な一冊となりました。

下側頭葉皮質のリサイクルがもたらしたヒトの読書能力

 ヒトの読書能力と下側頭葉皮質のリサイクルの奸計についての研究(Rajalingham et al., 2020)が報道されました。ヒトが読み書きのシステムを開発し始めたのは、過去数千年以内のことです。ヒトの読書能力は他の動物種と一線を画すものですが、数千年はヒトの脳が特に読書に専念する新しい領域を進化させるにはあまりにも短い時間枠です。読書能力の発達を説明するために、一部の科学者は、元々他の目的のために進化した脳の部分が読書のために「リサイクル」された、と仮定しました。たとえばオブジェクト認識の実行に特化した視覚システムの一部が、正字法と呼ばれる読書の主要なコンポーネント、つまり書かれた文字や単語を認識する機能に転用された、と示唆されています。この研究は、その仮説の証拠を提供します。この研究では、読む方法を知らない非ヒト霊長類であっても、下側頭葉皮質(inferotemporal cortex)と呼ばれる脳の一部が、意味のない単語と単語を区別したり、単語から特定の文字を取り出したりするなどのタスクを実行できる、と示唆しています。

 読むことは複雑な過程で、単語を認識し、それらの単語に意味を割り当て、対応する音に単語を関連づける必要があります。 これらの機能は、ヒトの脳のさまざまな部分に広がっている、と考えられています。機能的磁気共鳴画像法(fMRI)の研究により、脳が書かれた単語を処理するときに点灯する、視覚的単語形式領域(VWFA)と呼ばれる領域が特定されました。この領域は正字法の段階に関与し、乱雑な文字列や未知のアルファベットの単語から単語を区別します。VWFAは視覚皮質の一部で、オブジェクトの識別も行なう下側頭葉皮質にあります。

 2012年の研究では、ヒヒが単語と非単語の区別を学べる、と報告され、その後、単語認識の背後にある神経メカニズムに関心が抱かれました。以前の研究では、fMRIを使用して、オブジェクトや顔に反応する下側頭葉皮質の一部が、ヒトが読むことを学ぶと、書かれた単語を認識するのに非常に特化する、と明らかになっています。しかし、ヒトのイメージング手法の制限を考えると、これらの表現を個々のニューロンの解像度で特徴づけ、これらの表現が正射投影処理をサポートするために再利用できるのかどうか、またどのように再利用できるかを定量的に検証することは困難でした。

 この研究らは、霊長類の脳の一部がテキストを処理する素因がある場合、単語を見るだけで非ヒト霊長類の神経活動にそのパターンを見つけることができるかもしれない、と仮定しました。この仮説を検証するため、マカクの下側頭葉皮質全体の約500の神経部位からの神経活動が記録されました。その中には約2000の文字列があり、その一部は英語の単語で、一部は無意味な文字列でした。この方法論は、何かをするために動物を訓練する必要がない点で効率的です。

 その後、神経データは線形分類子と呼ばれる単純なコンピューターモデルに送られました。このモデルは、500の各神経部位からの入力を組み合わせて、その活動パターンを引き起こした文字列が単語か否か、予測することを学習します。動物自体はこのタスクを実行していませんが、神経データを使用して行動を生成する「代替手段」としてモデルが機能します。そのニューラルデータを使用して、このモデルは、単語と非単語を区別したり、特定の文字が単語の文字列に存在するのかどうか判断したりするなど、多くの正射投影タスクの正確な予測を生成できました。単語と非単語を区別するさい、このモデルの正確さは約70%でした。これは、2012年のヒヒに関する研究で報告された割合とひじょうによく似ています。さらに、このモデルにより作成されたエラーのパターンは、動物によって作成されたものと同様でした。

 また、視覚皮質の一部であるV4である下側頭葉皮質にも供給される、異なる脳領域からの神経活動も記録されました。V4活動パターンを線形分類子モデルに供給した場合、モデルは正射投影処理タスクでのヒトまたはヒヒのパフォーマンスを、下側頭葉皮質と比較して充分に予測できませんでした。この調査結果は、下側頭葉皮質が読書に必要なスキルに転用されるのに特に適していることを示唆しており、読書のメカニズムの一部はオブジェクト認識の高度に進化したメカニズムに基づいている、という仮説を支持しています。今後の計画として、正射投影のタスクを実行するために動物を訓練し、動物がタスクを学ぶにつれてその神経活動がどのように変化するのか、測定することが計画されています。


参考文献:
Rajalingham R. et al.(2020): The inferior temporal cortex is a potential cortical precursor of orthographic processing in untrained monkeys. Nature Communications, 11, 3886.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17714-3

旱魃期に繁殖活動を減らす鳴禽類

 鳴禽類では旱魃期に繁殖活動が減ることを報告した研究(Martin, and Mouton., 2020)が公表されました。旱魃の頻度と強度を含む気候変動性は今後の温暖化とともに激化する、と予測されています。一般に寿命の長い種ほど繁殖率が低いため、気候変動による個体の死滅から立ち直る能力が低い、と考えられています。しかし、生存と繁殖はトレードオフ(交換)の関係にあり、過酷な事象が発生している時に繁殖活動を減らすことは、成体の生存を高める方法となる可能性があります。

 この研究は、ユーラシア大陸とアメリカ大陸に生息する生活史の異なる熱帯性鳴禽類(長命種と短命種)が、繁殖活動を減らすことで死を回避しているのか、調べました。この研究では、ベネズエラとマレーシアで38種の鳥類(ハイムネモリミソサザイ、エンビシキチョウなど)を対象とした野外個体数調査が複数年にわたって実施され、この調査対象期間中に、それぞれの調査地点で旱魃の年が1度ありました。この研究は、3つの異なる気候変動シナリオ下における将来の個体数動態をモデル化しました。

 その結果、旱魃期には、マレーシアに生息する20種で平均36%、ベネズエラに生息する18種で平均52%、繁殖活動が減った、と明らかになりました。繁殖活動を減らした長命種の大部分で、生存率が旱魃のない年より上昇しましたが、繁殖活動を減らさなかった種、繁殖活動をあまり減らさなかった種、多雨な生息地に大きく依存している種は、生存率が低下しました。また、気候変動下では、モデル化された個体数増加に対する旱魃の負の影響は、長命種の方が短命種よりも小さい、と明らかになりました。これは、長命種が、気候変動下における環境変動性での生存のために繁殖行動を調整できる可能性を示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:干ばつ期に繁殖活動を減らす鳴禽類

 ベネズエラとマレーシアに生息する熱帯性鳴禽類は、干ばつ期に繁殖活動を減らし、そうした繁殖活動の減少は平均長期生存率の高い種ほど大きいことを報告する論文が、Nature Climate Change に掲載される。この知見から、寿命の長い種は、ストレスの多い気候事象が発生している時に繁殖活動を減らすことで、影響を軽減できる可能性があることが示唆された。

 気候変動性(干ばつの頻度と強度を含む)は、今後の温暖化とともに激化すると予測されている。一般に寿命の長い種ほど繁殖率が低いため、気候変動による個体の死滅から立ち直る能力が低い。ところが、生存と繁殖はトレードオフの関係にあり、過酷な事象が発生している時に繁殖活動を減らすことは、成体の生存を高める方法となる可能性がある。

 今回、Thomas MartinとJames Moutonは、新世界と旧世界に生息する生活史の異なる熱帯性鳴禽類(長命種と短命種)が、繁殖活動を減らすことで死を回避しているかを調べた。今回の研究では、ベネズエラとマレーシアで38種の鳥類(ハイムネモリミソサザイ、エンビシキチョウなど)を対象とした野外個体数調査が複数年にわたって実施され、この調査対象期間中に、それぞれの調査地点で干ばつの年が1度あった。Martinたちは、3つの異なる気候変動シナリオの下での将来の個体数動態をモデル化した。

 その結果、干ばつ期には、マレーシアに生息する20種で平均36%、ベネズエラに生息する18種で平均52%、繁殖活動が減ったことが判明した。繁殖活動を減らした長命種の大部分で、生存率が干ばつのない年より上昇したが、繁殖活動を減らさなかった種、繁殖活動をあまり減らさなかった種、多雨な生息地に大きく依存している種は、生存率が低下した。また、気候変動下では、モデル化された個体数増加に対する干ばつの負の影響は、長命種の方が短命種よりも小さかった。このことは、長命種が、気候変動下の環境変動性を生き延びるために繁殖行動を調整できる可能性を示している。

 関連するNews & Viewsでは、Gonçalo Ferrazが、今回の研究によって種の脆弱性が特定され、保全管理にとって貴重な情報がもたらされたと指摘しているが、「それでも、生息地として利用可能な環境が種の生存にとって極めて重要なことは変わらない」と述べている。



参考文献:
Martin TE, and Mouton JC.(2020): Longer-lived tropical songbirds reduce breeding activity as they buffer impacts of drought. Nature Climate Change, 10, 10, 953–958.
https://doi.org/10.1038/s41558-020-0864-3

フランスの博物館のチンギス・カン展をめぐる騒動

 フランス西部ナント(Nantes)の歴史博物館でチンギス・カンに関する展覧会が計画されていたものの、中国当局が検閲を試みたので延期された、と報道されました。ナントの歴史博物館は、中華人民共和国内モンゴル自治区フフホト(Hohhot)にある内モンゴル博物館の協力を得てこの企画展を準備してきたものの、中国の国家文物局が当初の案に変更を求めてきたために問題が生じた、とのことです。ナントの歴史博物館によると、要求された変更点には「新たな国家観にとって有利となる、モンゴル文化に関する偏った書き換えが顕著な要素が含まれていた」そうです。具体的には「チンギスハン」・「帝国」・「モンゴル」といった言葉を展覧会から削除するよう要求され、さらに同展に関するテキスト・地図・パンフレットおよび宣伝に対する監督権も求められたそうです。ナントの歴史博物館は、人間的・科学的・倫理的価値観に基づき、この企画展の開催を3年以上は見送ると決定し、今年(2020年)夏に「中国政府がモンゴル民族への態度を硬化させたこと」を一因として挙げています。フランスの戦略研究財団のアジア専門家であるバレリー・ニケ(Valerie Niquet)氏は、「中国政府は、公式の国家観と一致しない歴史観を禁止しており、国外でも同じことをしようとする」と解説しています。

 まず一般論として、チンギス・カン(テムジン)の行動範囲は広く、少なからぬ中華人民共和国領も含まれるので、中国当局の機関が関わっていることからも、間違いがあれば中国側が訂正要求を出すのは当然だと言えます。「監督権」が具体的に何を指すのか、上記報道だけでは不明ですが、間違いのある展示ならば展覧を許可しない、ということであれば、それ自体は正当と言えるでしょう。また、この問題を今夏以降の内モンゴル自治区の問題と結びつけ、「中国の横暴」を示すものと解釈する見解は多そうですが、上記報道だけでは短絡的に結びつけることはできない、と思います。

 上記報道によると、具体的には、中国側は「チンギスハン」・「帝国」・「モンゴル」といった言葉を展覧会から削除するよう要求したそうです。詳細は不明ですが、このうち、「チンギスハン」と「帝国」に関してはある程度想像できます。杉山正明『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(関連記事)で簡潔に説明されていますが(P31~32)、ユーラシア中央域に展開した遊牧民を中心とする国家(人間集団)が「ウルス」で、その長は「カン」と呼ばれました。この多数いる君長である「カン」の上に立つ至高の存在は、「カガン」もしくは「カアン」と呼ばれました。チンギス・カンは「カン」とのみ名乗り、「カアン」と名乗るようになったのは、その息子のオゴデイの代からです。「チンギスハン」という言葉を削除するよう中国側が要求したのだとしたら、それはフランス語で「チンギス・カアン」とされていたか、フランス語で「カン」と「カアン」の区別が曖昧だったことを理由としているかもしれません。「帝国」の削除要求に関しても、チンギス・カンの時代にはまだ「カアン」と名乗っていないので「帝国」は相応しくない、という論理なのかもしれません。また、「モンゴル」の削除要求にしても、モンゴルという言葉を問題にしているというよりは、行動範囲の広いチンギス・カンをあまりにもモンゴルと結びつけている展示・解説になっていることにあるのだとしたら、単純に「中国の横暴」とは言えないでしょう。

 以上、少なからぬ日本人に「ネトウヨ」と認定されるだろう私(関連記事)が、できるだけ「中国に寄り添った視点」でこの問題を取り上げてみました。もちろん、これは私の憶測にすぎず、実際のやり取りとその意味合いが大きく違っている可能性は低くなく、その意味でまるっきり的外れになっているかもしれません。じっさいには、ナントの歴史博物館の展示に私の推測以上の問題点がある可能性も、中国側の要求があまりにも無理筋である可能性も考えられます。とくに、「モンゴル」という言葉の削除を要求したことは気になりますが、さすがに中国側も、チンギス・カンの展示でモンゴルという言葉を削除せよ、と要求する可能性は低いように思います。ただ、最近改めて述べましたが(関連記事)、中国が自国の認識およびその前提となる方法論を他国に押しつけてくる可能性は、今から念頭に置いて警戒していたほうがよいように思います。

 現在ヨーロッパや北アメリカでは中国への否定的印象が強くなっており(関連記事)、それは韓国でも同様です(日本は「高止まり」と言うべきでしょう)。おそらく、まだ「先進国」との意識を有する国民が多いだろう日本では、こうした傾向を歓迎する人は少なくないでしょう。ただ、日本の世界における相対的経済力が今よりもずっと高かった時代に、「日本異質論」が喧伝されたことを考えると、一人の日本人として、現在の「中国異質論」に安易に与することはできない、とも思います。それは、日本人も中国人も、「先進国」の大半を占めるヨーロッパや北アメリカの国々の大半の国民からは、今でも同じ「黄色人種」と認識されているだろう、と私が考えているためです。この問題に関しては、今後当ブログで廣部泉『黄禍論 百年の系譜』(講談社、2020年)を取り上げる予定です。

 また、中国において圧倒的な優位を誇る漢字文化という点でも、日中には共通点があります。その意味でも、現在「先進国」で盛んな「中国異質論」には安易に加担できない、と思いますが、日中の文化と政治と社会構造に大きな違いがあることも否定できません。さらに、やや古いデータですが、日本人の「東アジア人」意識も低いものの、中国人は日本人よりずっと低い、という調査結果もあります(関連記事)。日本人側が中国人を同じ「(東)アジア人」と考えても、中国人がどれだけ本気でそれに応えるのか、はなはだ疑問です。中国人というか漢人の大半からすると、日本人を「同胞」と考えるのは、せいぜい日本人が中国に完全に従属した時くらいかもしれません。また私自身も中国の行動・認識にはかなり懐疑的で、中国への好感度がきわめて低いことも確かなので、日本は「先進国」側ではなく中国側に加担すればよい、とはまったく考えていません。日本が中国と、経済および学術も含めた文化面で密接に交流しつつ、政治・軍事的には、激しく対立せず、従属したりとくに親密な関係を築いたりもしない、というのが個人的には理想ですが、そう上手くいくはずもなく、対中関係において今後の日本に待っているのは茨の道かもしれません。まあこうした私見を、「ネトウヨ」故の極端な偏りだ、と指弾する人も少なくなさそうですが。

ヒトの空間記憶における高カロリー食品の優先

 ヒトの空間記憶における高カロリー食品の優先を報告した研究(de Vries et al., 2020)が公表されました。この研究は、食品の位置記憶を測定するための実験を行ない、512人の参加者に対して、食品サンプルまたは食品の香りがする脱脂綿の入った瓶(合計8点)がそれぞれ別々に配置された部屋の中を、決められた順路に従って進むように指示しました。食品サンプルなどの置かれた場所で、参加者は、試食するか、脱脂綿のにおいを嗅いで、その食品がどれだけ好きかを評価しました。食品サンプル(食品のにおいのサンプル)には、リンゴやポテトチップやキュウリやチョコレートブラウニーなどが含まれていました。次に、参加者は部屋の見取り図を見せられ、それぞれの食品サンプル(食品のにおいのサンプル)の位置を示すように求められました。

 この実験で、参加者が正しい位置を示す確率は、低カロリー食品よりも高カロリー食品の方が高く、食品サンプルを試食した参加者で1.27倍高く、食品のにおいを嗅いだ参加者で1.28倍高い、という結果が得られました。空間記憶は、食品に甘味やうま味があるかどうか、参加者がどれだけ食品が好きなのかということに影響されませんでした。全ての食品について参加者が正しい位置を示す確率は、食品サンプルを試食した場合の方が、食品のにおいを嗅いだ場合より2.43倍高い、という結果も得られました。

 これらの知見は、ヒトの空間記憶が高カロリー食品の位置に偏っていることを示しています。この研究は、こうした偏りによりカロリーの高い食品を効率的に探し出すことが可能になり、食料の入手可能性の変動する環境で人類の祖先が生き延びることを助けた、という可能性を指摘しています。おそらくこうした偏りの遺伝的基盤は古く、類人猿(ヒト上科)、さらには霊長類全般にまでさかのぼる可能性も考えられ、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


心理学:ヒトの空間記憶では高カロリー食品が優先される

 ヒトは、低カロリー食品よりも高カロリー食品の位置をより正確に想起することを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。ヒトは、空間記憶によって物体の位置関係を記憶しているが、今回の研究で得られた知見は、ヒトの進化の過程で、空間記憶において高カロリー食品の所在が優先されるようになったことを示唆している。

 今回、Rachelle de Vriesらの研究チームは、食品の位置記憶を測定するための実験を行い、512人の参加者に対して、食品サンプルまたは食品の香りがする脱脂綿の入った瓶(合計8点)がそれぞれ別々に配置された部屋の中を決められた順路に従って進むように指示した。食品サンプルなどの置かれた場所で、参加者は、試食するか、脱脂綿のにおいを嗅いで、その食品がどれだけ好きかを評価した。食品サンプル(食品のにおいのサンプル)には、リンゴ、ポテトチップ、キュウリ、チョコレートブラウニーなどが含まれていた。次に、参加者は、部屋の見取り図を見せられ、それぞれの食品サンプル(食品のにおいのサンプル)の位置を示すように求められた。

 この実験で、参加者が正しい位置を示す確率は、低カロリー食品よりも高カロリー食品の方が高く、食品サンプルを試食した参加者で1.27倍高く、食品のにおいを嗅いだ参加者で1.28倍高かった。空間記憶は、食品に甘味やうま味があるかどうか、参加者がどれだけ食品が好きなのかということに影響されなかった。全ての食品について参加者が正しい位置を示す確率は、食品サンプルを試食した場合の方が、食品のにおいを嗅いだ場合より2.43倍高かった。

 以上の知見は、ヒトの空間記憶が高カロリー食品の位置に偏っていることを示している。de Vriesらは、この偏りは、カロリーの高い食品を効率的に探し出すことを可能にし、食料の入手可能性が変動する環境で人類の祖先が生き延びることを助けた可能性があると考えている。



参考文献:
de Vries R. et al.(2020): Human spatial memory implicitly prioritizes high-calorie foods. Scientific Reports, 10, 15174.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72570-x

ユダヤ砂漠南部の上部旧石器時代

 ユダヤ砂漠南部の上部旧石器時代に関する研究(Barzilai et al., 2020)が公表されました。ユダヤ砂漠地域の上部旧石器時代は、いくつかの洞窟および岩陰遺跡で知られています。20世紀前半の発掘では、アータバン(Taban)遺跡B層やエルクエルアフマール(Erq el-Ahmar)遺跡F~B層やエルハイム(el-Khiam)遺跡F~E層における上部旧石器時代の痕跡が明らかになりました。これらの遺跡の層序組成と石器群の研究では、ユダヤ砂漠上部旧石器時代の年代文化的6段階が定義されました。

 1970年代から1980年代におけるネゲヴおよびシナイ地域の新たな上部旧石器時代遺跡の発見により、レヴァントの上部旧石器時代の地理的分布と文化的用語は再定義されました。したがってレヴァントの上部旧石器時代は、エミリアン(Emirian)やアハマリアン(Ahmarian)やオーリナシアン(Aurignacian)などいくつかの伝統を含んでおり、それらの中には、アハマリアン(関連記事)とオーリナシアンのように同時代のものもあります。

 新用語は、ユダヤ砂漠の上部旧石器時代遺跡を新たな文化的分類に組み込み、割り当て直しました。それにも関わらず、ユダヤ砂漠の遺跡の分類された遺物群の中には、いくつかの上部旧石器時代文化に特徴的な技術類型論的要素を含んでいるので、混合されているように見えます。たとえば、オーリナシアンとして提案されたエルクエルアフマールD~B層は、アハマリアンに特徴的な直線石刃を含みます。これは、当時の発掘が詳細に記録されていなかったので、意外ではありません。堆積物は篩にかけられず、計画は一般的で、回収された人工物全てが保管されたわけではありません。さらに、暦年代の欠如と古環境の性質に関する情報不足により、ユダヤ砂漠の遺跡と近隣地域の遺跡との比較、および上部旧石器時代の年代文化系列内にそれらを正確に統合することが困難でした。

 ネゲヴとシナイとヨルダン南部の乾燥地域における上部旧石器時代の調査から、エミリアンとアハマリアンの遺跡群の存在が示唆されました。また一部の研究者は石器の特徴に基づいて、この地域におけるアハマリアンの存在も示唆しました。しかし、それらの遺跡には、地中海森林地域のオーリナシアンを特徴づける骨角器や貝殻製ビーズや人工物が欠如していました。その後の包括的な石器研究により、竜骨型掻器(carinated endscraper)や彫器や湾曲石刃や小型石刃など、砂漠の遺跡群におけるオーリナシアン的特徴の存在が確証されました。それでも、技術と年代の違いにより、ネゲヴ地域の遺跡群は、最初「竜骨型インダストリー」と定義され、後には「アルコヴディヴション(Arqov-Divshon)」文化と呼ばれた異なる相に分けられました。アルコヴディヴションは、おもにネゲヴ砂漠に限定された地域的異形と理解されていますが、地溝帯を越えてヨルダン南部まで広がっています。その暦年代は明確ではなく、現在では、ネゲヴ砂漠においてアハマリアンよりも新しいと推定されています。このアルコヴディヴション文化はまだ、ネゲヴ砂漠に地理的に近いにも関わらず、ユダヤ砂漠では特定されていません。

 2017年に発見されたナハルラハフ2(Nahal Rahaf 2)は、エルハイム台地から南方に約50kmの、ユダヤ砂漠南部に位置する岩陰遺跡です。ナハルラハフ2遺跡では、上部旧石器時代の燧石製の石器や骨器や木炭が発見され、保存状態は優れています。ナハルラハフ2遺跡の中央発掘区では、8堆積層が確認されました。1~2層は現代、3層は立坑、4層は河川洪水堆積物に覆われた落石、5~8層は上部旧石器時代石器群や動物遺骸や木炭や貝殻を含む考古学的層です。5~8層の石器群は、側面竜骨型からの湾曲石刃の製作により特徴づけられ、掻器や彫器や再加工された小型石刃が一般的です。突き錐やおそらくは角で作られた尖頭器や穿孔された貝殻を含む骨角器は、石器の側で見つかりました、動物遺骸には、この地域に現存しているヤギとガゼルを含まれますが、そうではないウマやシカやレイヨウも含まれます。ヤギは通常、岩の多い崖のような場所に生息しますが、シカは稀ではあるものの、現在では少なくとも25km離れている地中海植生地理地帯に比較的近いことを示します。他の分類群は草原に典型的で、遺跡が使用された少なくとも季節ごとにおそらくは砂漠の高地に存在し、住民により狩猟対象とされました。

 上部旧石器時代の遺跡は、おもにユダヤ砂漠北部で知られています。現在まで、ユダヤ砂漠南部の上部旧石器時代遺跡は、エルクエルアフマール遺跡F~E層のようなアハマリアン、およびエルクエルアフマール遺跡D・B層やエルハイム遺跡F層のようなレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)伝統と結びついています。本論文の予備的分析からは、ナハルラハフ2遺跡の物質文化は、アインアケヴ(Ein Aqev)やハーホーレシャー(Har Horesha)遺跡のようなネゲヴ砂漠中央部のアルコヴディヴション文化と特徴を共有しており、おもに側面竜骨型や湾曲小型石刃の存在により証明されます。しかし、ナハルラハフ2遺跡の骨と貝殻の遺物群は、マノット(Manot)洞窟やケバラ(Kebara)洞窟のようなレヴァントオーリナシアン期の地中海性森林地域との関連を示します。将来の発掘では、ユダヤ砂漠の上部旧石器時代と、最終氷期のネゲヴ砂漠中央部および地中海地域との関係をより詳細に定義することが期待されます。


参考文献:
Barzilai O. et al.(2020): The Early Upper Palaeolithic in the south Judean Desert, Israel: preliminary excavation results from Nahal Rahaf 2 rockshelter. Antiquity, 94, 377, e27.
https://doi.org/10.15184/aqy.2020.160

マレー半島西部の7万年前頃の石器

 マレー半島西部の7万年前頃の石器に関する研究(Goh et al., 2020)が公表されました。コタタンパン(Kota Tampan)は、マレー半島北部西方のレンゴン渓谷(Lenggong Valley)に位置する開地遺跡(北緯5度63分318秒、東経100度88分424秒)です。レンゴン渓谷はアジア太平洋地域の考古学にとってひじょうに重要で、それはアフリカ外において、単一の場所における初期人類の最長の考古学的記録を示しており、過去180万年に及んでいるからです。コタタンパン遺跡における1954年の考古学的調査により、トバ噴火による新しい凝灰岩堆積物のすぐ下で、膨大な石器群が見つかりました。74000年前頃のトバ大噴火は「火山の冬」を引き起こし、地球の気温を3~5℃急激に低下させ、当時のアジア南東部の人類集団の生存に影響を与えたに違いない、と推測されています。

 コタタンパン遺跡の石器群は、トバ大噴火の前か、あるいは少なくとも同年代と推測されています。しかし、この仮説はレンゴン渓谷の堆積物の性質や放射性炭素年代から疑問が呈されており、マレー半島南部西方のアンパン(Ampang)の火山灰直下の泥炭堆積物から収集された木炭の放射性炭素年代は35000年前頃でした。この非考古学的堆積物は、約280km離れているにも関わらず、文献ではコタタンパン遺跡と誤って関連づけられています。また、コタタンパン遺跡の堆積物は河川の再堆積の影響を受けたとの主張がある一方で、コタタンパン遺跡の石器群は元々の場所で発見された、との主張もあります。その後、光刺激ルミネッセンス法(OSL)により、コタタンパン遺跡の石器群が発見された層の年代は7万年前頃と推定されました。

 このように、コタタンパン遺跡の年代は不確実なままです。本論文では、打撃や角度や剥片の痕跡などを調べる、技術的手法を用いた石器群の再検証に焦点が当てられます。こうした手法は、変動の理解を制限し、技術的属性と削減技術の理解を制約するとして、批判されてきました。しかし、アジア南東部本土の最重要となる旧石器時代遺跡群の一つとしてのコタタンパンの重要性を考えると、アジア南東部全域で用いられている手法を利用する技術に基づくモデルの開発が重要です。

 本論文では、1954年にコタタンパン遺跡で発見された69個の石器の再調査結果が取り上げられます。石器は234個確認されていますが、そのうち165個の出土地点は不明で、残りの69個が再分析されました。この69個の石器は、おもに60~78mmの小剥片から構成され(44個)、両極石器(14個)と石核(9個)が続きます。フリーハンド打撃(53個)と両極打撃(16個)が、主要な二つの剥離技術です。9個の石核のうち、縮小の最も一般的な方法は複数面(5個)で、単一面(2個)、放射状(1個)、両方向(1個)が続きます。全ての石核は60~14mmと小さく、石核の大半が5~6回除去されている場合には大きく縮小していません。剥片石器44個は、ほぼ完全に(43個)初期段階の縮小の結果です。剥片石器44個のうち半数近く(20個)は、初期縮小剥片に一方向で再加工されていましたが、他の8個の剥片石器は、裁断手法を用いてさらに修正されていました。12個の両極剥片と求心的に剥離された1個の両面礫器も特定されました。69個の石器の大半(65個)は、在地の利用可能な珪岩と石英の礫で作られており、残りの4個は粘板岩と細粒の花崗岩で作られました。

 これらの知見から、コタタンパン遺跡の初期人類は石の剥離にフリーハンドおよび両極打撃技術を用いた、と示唆されます。石器のほとんどは、縮小の初期段階で単面的に再加工されて作られました。標本の数は少ないものの、最も一般的に用いられた手法は複数面の石核縮小だったようです。1980年代以降、コタタンパン遺跡石器群は、現生人類(Homo sapiens)の所産とされてきました。本論文の分析は、この主張をさらに強化します。コタタンパン遺跡石器群は、コタタンパン遺跡から数百m離れた場所に位置する石器作業場であるブキットブヌー(Bukit Bunuh)遺跡で発見された、4万年前頃の石器群ともひじょうに類似しています。コタタンパン遺跡のOSL年代が示された石器群と、アジア南東部全域の他の早期人類遺跡の石器群との間の類似性から、現生人類はスンダランド内陸部に7万年前頃に到達し、利用し始めた、と示唆されます。

 本論文はアジア南東部における現生人類の早期(6万年以上前)拡散説を支持しますが、コタタンパン遺跡ではこの時期の人類遺骸が見つかっておらず、確定的とは言えません。アジア南東部からオセアニアにかけて、現生人類の早期拡散を示唆する証拠が得られていますが、疑問も呈されており(関連記事)、今後も議論が続くことになりそうです。また、仮に6万年以上前に現生人類がアジア南東部に到達していたとしても、現代人の主要な祖先集団だったのか、定かではありません。

 非アフリカ系現代人集団は基本的に主要な1回の出アフリカ集団の子孫であるものの、現代パプア人のゲノムの少なくとも2%は、その主要な出アフリカ以前にアフリカ系現生人類集団と分岐し、出アフリカを果たした現生人類集団に由来する、と推測されています(関連記事)。本論文で取り上げられたコタタンパン遺跡の石器群の年代が7万年前頃で、現生人類の所産だとしても、その現生人類集団の現代人への遺伝的影響は、皆無もしくはごく僅かかもしれません。


参考文献:
Goh HM. et al.(2020): The Palaeolithic stone assemblage of Kota Tampan, West Malaysia. Antiquity, 94, 377, e25.
https://doi.org/10.15184/aqy.2020.158

アルタイ地域の前期上部旧石器時代の骨角器

 アルタイ地域の前期上部旧石器時代(Early Upper Palaeolithic)の骨角器に関する研究(Belousova et al., 2020)が公表されました。骨角器と個人的装飾品は、文化的独自性の要素で、アジア北部と中央部における最初の上部旧石器時代社会の年代的指標でもあります。アジア北部および中央部における最古の骨角器群は、アルタイ地域の初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic)および前期上部旧石器時代の遺物で記録されており、そのほとんどはカルスト洞窟から得られ、その微小気候は有機物遺骸の優れた保存に貢献しています。これらの遺物のほとんどはデニソワ洞窟(Denisova Cave)に由来し、最近直接的および間接的な年代測定結果が得られました(関連記事)。デニソワ洞窟以外ではそうした遺物はずっと少ない、と確認されています。本論文では、カラボム(Kara-Bom)開地遺跡の前期上部旧石器時代遺物群の直接的な放射性炭素年代を伴う、シカの枝角の尖頭器の分析結果が提示されます。

 カラボム遺跡はロシアの中央アルタイ地域の山間盆地に位置します(北緯50度43分23秒、東経85度34分27秒)。カラボム遺跡は、初期上部旧石器時代の中央アルタイ地域で起きた技術的・適応的・文化的過程に関する優れた情報源です。カラボム遺跡の上部旧石器時代の文化的層序系列には、二つの考古学的遺物群が含まれており、同じカラボム伝統とされていますが、発展の異なる段階と関連づけられています。IntCal13による較正年代は、48000~34000年前頃(以下、較正年代)です。

 本論文で取り上げられるのは、2017年に行なわれた動物相遺物群の再分析で特定された尖頭器です。これは1991年にM-8区画の1~2層で発見され、考古学的区分では38500~34000年前頃の上部旧石器時代1と相関しています。上部旧石器時代1の石器インダストリーは双方向のプリズム式および狭面石核からの石刃と小型石刃の製作により特徴づけられます。石器一式には、再加工された石刃や尖頭器や掻器や収斂型削器が含まれます。使用痕分析からは、アカシカ(Cervus elaphus)の枝角の表面の大半は、乾燥化や腐食や他の堆積効果に覆われている、と示唆されます。この観察結果は、その層序的背景に関する情報と一致しています。機能的には、このアカシカ製の枝角は、複合狩猟兵器の要素として解釈されます。カラボム遺跡の前期上部旧石器時代層では、以前にはシカ遺骸が確認されていませんでした。そのため、旧石器時代の住民が遺跡から離れた場所で道具を製作した可能性が示唆されます。この枝角の段階的な割れ目からは、この枝角が動物遺骸とともに遺跡に運ばれ、その解体後に廃棄された、と示唆されます。この枝角の直接的な放射性炭素年代は、34000~32450年前頃です。

 骨角器技術は、カラボム伝統の本質的な部分です。カラボム遺跡のシカの枝角には、アルタイ地域の他の上部旧石器時代遺物群と対応するものもあります。デニソワ洞窟で発見された前期上部旧石器時代(50000~34000年前頃)の遺物には、研削技術を用いた骨や枝角や牙で作られた尖頭器が含まれます。デニソワ洞窟の2個の骨製尖頭器は、直接的に加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定法が適用され、48100~42600年前頃と推定されています。ストラシュナヤ洞窟(Strashnaya Cave)で発見された断片的な尖頭器の年代は、49100~45600年前頃と23200~22900年前頃です(関連記事)。45700~42000年前頃となるウシュレプ6(Ushlep-6)遺跡の前期上部旧石器時代第8層では、牙製尖頭器のある他のインダストリーが確認されています。他のずっと新しい尖頭器は、アルタイ地域北部丘陵地帯の遺跡で表面採集されており、年代は21700~14500年前頃です。アルタイ地域外では、類似の年代の最も近い類似構成の遺跡として、38200~30000年前頃となる南シベリアのクズネツクアラタウ(Kuznetsk Alatau)や、35400~33000年前頃となる中国南部の馬鞍山(Ma' anshan)洞窟や、33400~30800年前頃となるシベリア北極圏のヤナ(Yana)があります。

 アルタイ地域の旧石器時代の骨製尖頭器の年代データは、ユーラシアで最古級の骨角器であることを示します。カラボム遺跡の前期上部旧石器時代層のシカの骨角器は、直接的に年代測定されたアルタイ地域の骨製尖頭器としては最古級となり、遺跡の他の年代と一致します。上部旧石器時代1文化は、南シベリアとアジア中央部の初期上部旧石器時代文化の直接的後継者なので、アルタイ地域におけるカラボム伝統の上限年代を示します。


参考文献:
Belousova NE. et al.(2020): The Early Upper Palaeolithic bone industry of the Central Altai, Russia: new evidence from the Kara-Bom site. Antiquity, 94, 377, e26.
https://doi.org/10.15184/aqy.2020.137

レヴァントにおける30万年以上前の加熱処理による石器製作

 レヴァントにおける30万年以上前の加熱処理による石器製作を報告した研究(Agam et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。細粒の堆積岩である燧石(フリント)は、アフリカや近東やヨーロッパの遺跡の人類により石材として用いられました。実験的・考古学的・民族誌的研究から、燧石の熱処理がその破壊靱性を低下させ、打ち砕きやすくなる、と示されています。最近では、アフリカ南部において、シルクリート(珪質礫岩)の加熱処理による石器製作が、40万~20万年前頃と13万年前頃との間で起きた、と推測されています(関連記事)。

 石器製作のさいにそうした目的で燧石を意図的に加熱処理したのか特定するために、微細な裂け目や色の変化や表面の光沢や磁気特性といった視覚的識別と、電子スピン共鳴や熱ルミネッセンスや分光法といった技術が用いられてきました。しかし、燧石の不均一性のため、加熱温度の大まかな推定しかできず、意図的な処理だったのか、推測することを難しくしています。本論文では、こうした制約を克服するため、燧石の非破壊的ラマン分光分析と機械学習を組み合わせて、単一の手法にまとめました。この手法により、過去の行動を調査するための、大規模なデータセット・高解像度の温度推定モデル・堅牢性・客観性の処理が容易となります。

 石刃の体系的製作はレヴァントの後期下部旧石器時代の文化である、42万~20万年前頃となるアシュールヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)文化複合(AYCC)の特徴の一つです(関連記事)。この技術革新はAYCCに関してよく知られており、キーナ(Quina)掻器や複雑な石材調達や利用戦略を含む、革新的な石器行動と一致します。動物性タンパク質は中型で盛年の動物の集中的な狩猟と消費から得られ、主要な対象はダマジカでした。

 イスラエル中央部のケセム洞窟(Qesem Cave)は、レヴァントのAYCCの重要な遺跡の一つです。ケセム洞窟では、火の広範で習慣的な使用を含む多くの発見があり、30万年前頃の炉も確認されています(関連記事)。ケセム洞窟石器群の顕著な特徴は、連続的で集中的な石刃製作で、これは新しくて発展した打製技術と、石材の慎重な利用および選択を反映しており、石材はおもに在地のものが用いられました。ケセム洞窟では、視覚的および熱ルミネッセンス法の両方によって焼けた燧石製石器が確認されており、燧石が明らかに火に曝されたことを示します。問題は、ケセム洞窟の住民が、特定の種類の石器を製作するために、充分な程度の火の制御を行なっていたのかどうか、ということです。

 まず、ケセム洞窟から2~3km以内のものも含めて燧石が収集され、275・400・500・600・700・800℃で3時間加熱され、この結果に基づいて分光法と機械学習を組み合わせた手法が開発されました。以前の報告と同じく、火に曝された燧石の巨視的な資格評価は、熱処理されたかどうかの信頼できる指標ではない、と明らかになりました。30万年以上前となるケセム洞窟の燧石製石器群の分析結果では、石刃の加熱温度(259℃)は薄片の加熱温度(413℃)よりも低く、また同じ洞窟で見つかった壺の蓋の加熱温度はさらに高かった(447℃)、と明らかになりました。また、同様の加熱条件を再現する実験で、燧石製石器の加熱水準の制御により、石刃の製作を改善できることも明らかになりました。したがって、レヴァントのAYCCの担い手は、道具作りを効率化するために、石材をさまざまな温度で意図的に加熱していた可能性がある、と推測されます。

 火の使用は初期人類による最重要な発見の一つで、石材の加熱処理のための技術はその多くの用途のうちの一つでした。これにより、石器製作過程をより細かく制御できるようになり、適応と生存を改善するための独自の特徴を備えた石器の製作が可能となりました。ケセム洞窟石器群の分析では、とくに石刃製作の改善において、燧石の低温加熱が用いられたのではないか、と推測されます。本論文では、ケセム洞窟石器群の製作者がどの人類系統なのか、とくに言及されていませんが、ホモ属であることはまず間違いなく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統と分岐した後の広義の現生人類(Homo sapiens)系統かもしれませんが、そうだとしても、ケセム洞窟のAYCCの担い手が現代人と遺伝的に関係があるのか否か、検証するのは難しそうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:30万年前のヒトが道具の加熱温度を調節していた証拠

 イスラエルの洞窟で発見された30万年前の石器の新たな解析から、レバント地方のヒト族が、異なる道具を作る際に、火を異なる温度に制御していた可能性があることを明らかにした論文が、Nature Human Behaviour に掲載される。

 原料を処理する際に火を使うことは、初期ヒト族が成した重要な発見であった。これまでの研究では、前期旧石器時代後期(42万~20万年前)のレバント地方のヒト族によってフリント石器が組織的に作られていたことを示す証拠が報告されており、焼け跡のあるフリント石器遺物の存在から、石器が何らかの方法で火にさらされていたことが示唆されていた。しかし、火にさらされたのが偶然の出来事だったのか、ヒトが火を操って特定の道具を作っていたのかは不明であった。

 イスラエル中央部に位置するケセム洞窟は、前期旧石器時代後期の重要なレバント遺跡であり、火の広範かつ習慣的な使用や、石刃の集約的な製作など、数多くの重要な発見がなされている。Aviad Agam、Filipe Natalioたちの研究チームは今回、2つのタイプのフリント石器の調査を行い、この洞窟内で火にさらされていた証拠を得た。Agamたちは、分光法と機械学習を組み合わせることで、遺物が焼かれた温度を推定した。その結果、石刃の加熱温度(摂氏259度)は薄片の加熱温度(摂氏413度)よりも低く、また同じ洞窟で見つかった壺の蓋の加熱温度はさらに高かった(摂氏447度)ことが判明した。また、Agamたちは同様の加熱条件を再現する実験を行い、フリント石器の加熱レベルの制御によって、石刃の製作を改善できることを明らかにした。

 Agamたちは、レバント地方のヒト族が、道具作りを効率化するために、材料をさまざまな温度に意図的に加熱していた可能性があると結論付けている。



参考文献:
Agam A. et al.(2021): Estimating temperatures of heated Lower Palaeolithic flint artefacts. Nature Human Behaviour, 5, 2, 221–228.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-00955-z

大河ドラマ『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」

 1568年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)7月、足利義昭一行は織田信長が支配する美濃に到着します。明智光秀(十兵衛)も三淵藤英や細川藤孝とともに義昭に同行します。信長は義昭を歓待し、義昭は感激しますが、戦のために銭を献上したのに、貧しい民に施すと言ったり、刀に怯えたような表情を見せたりした義昭に失望します。しかし信長は、義昭を奉じて上洛する意志を変えるつもりはありませんでした。信長は光秀に、上洛して三好の兵数と、朝廷が三好から織田に乗り換えるつもりがあるのか、都にすでにいる木下藤吉郎(豊臣秀吉)とともに確認するよう指示します。

 光秀は駒とともに、三好と結んでいる堺の豪商のうち、今井宗久と面会します。宗久は、異国との交易が続けられるなら、織田と三好のどちらが勝ってもよいし、三好から離れてもかまわない、と光秀に打ち明けます。宗久が織田側に加担する条件として光秀に提示し他の歯、都を焼かないことと、堺を守ることと、鎧兜を着けずに上洛することでした。この条件に稲葉良通や柴田勝家など織田家臣は強く反発しますが、義昭はこの提案に強く賛同します。信長は、内心では家臣の意見に同意しつつ、まずは六角を攻めることにします。信長は光秀に、義昭と自分のどちらに仕えるのか、決断を迫り、光秀は義昭に仕えると即答します。織田軍は六角を一蹴し、信長は鎧兜を着けないまま上洛します。に

 今回は、信長の上洛と光秀の都での活動が描かれました。光秀と藤吉郎とのやり取りでは、藤吉郎の人物像が浮き彫りになりました。藤吉郎は貧しい生まれで、親からは約束も守ってもらえないような酷い扱いを受けて育ちましたが、信長は約束を守り、成功すれば恩賞もくれて褒めてもらえる、と信長に深く感謝しているようです。藤吉郎が信長に強い忠誠心を抱く理由とともに、かなり鬱屈したところがあることも示されました。光秀は藤吉郎に討たれるわけで、それまでの織田家中での出世争いでも、藤吉郎のこの個性と絡めてどのように描かれるのか、注目されます。

岡本隆司『近代日本の中国観 石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』

 講談社選書メチエの一冊として、2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、近代日本の中国観を、おもに知識人の言説に依拠して検証します。もちろん本書は、知識人の言説だけを取り上げるのではなく、それらが形成されて支持された背景、あるいは受け入れられなかった理由を検証します。具体的に取り上げられる知識人は、石橋湛山・矢野仁一・内藤湖南・橘樸で、最後に時代区分論争に関わった歴史学者たちです。


 まず取り上げられる石橋湛山は、小日本主義で有名です。経済的な功利的観点から、中国やシベリアへの干渉を止めるだけではなく、朝鮮半島と台湾をも放棄し、軍事よりも経済と教育を重視すべきとの主張は、1921年に公表されたことから、石橋の先見性が讃えられてきました。その後の日本は、石橋の方針に反し続けて破滅し、敗戦後まさに小日本主義的主張に沿ったかのような行動で経済的に繁栄したからです。しかし、石橋の小日本主義は、戦前には広範な支持を得られませんでした。

 本書がまず指摘するのは、小日本主義は合理的思考の末に形成されたというよりは、大帝国を築いたイギリスでも対外膨張主義一色ではなく、「小英国主義」が健全な批判を行なっていたことに倣い、日本の政治と輿論に一石を投じることが目的で、小日本主義ありきの主張だった、ということです。小日本主義は、あくまでも政策と輿論の相乗効果を牽制することにありました。本書は、小日本主義における経済的利害は多分に後付けで、その「経済的リアリズム」を手放しでは評価できない、と指摘します。

 この小日本主義の根底にあるのは、中国も近代日本と同様に「国家」・「国民」の「統一」を求めている、との認識でした。石橋は中国を日本と同一視していたわけです。これは、中国は西洋列強や日本と同等の「文明国」ではない、という当時の多くの日本人にとっては受け入れ難い認識でした。これが、小日本主義が戦前日本で受け入れられなかった主因となりました。しかし、石橋も中国を日本と同じ「文明国」・「独立国」と考えていたわけではありませんでした。石橋は、中国は日本のように実力を着けてから不平等条約改正を主張すべきだ、と考えていました。ここに石橋の矛盾がありましたが、辛うじて一貫性を保っていたのは、小日本主義による中国など「海外」利権放棄の主張でした。石橋が、中国は日本と対等の文明国ではないと認識しておきながら、中国と日本の同等性を認め続けたのは、中国の「感情」に石橋が「同情」したからで、それは中国社会の構造への深い洞察に基づいていなかった、と本書は指摘します。また本書は、石橋の経済論は情勢の分析や診断に乏しく、結論だけを述べている、と指摘します。

 昭和戦前期の石橋の中国観は、当時「支那通」と呼ばれた人々の中国観を批判するものでした。「支那通」は中国と日本との違いを強調しましたが、石橋は、中国が日本と同等の「文明国」ではないことを認めつつ、感情面から日本と中国を同一視していました。本書は、石橋の言説が中国に対する内在的考察を欠き、論理矛盾を抱えていたために説得力を持たなかったものの、中国に「同情」したことで日本の破局を的中させたので、後に高く評価された、と指摘します。

 一方、専門家として中国を見ていた「支那通」は、日中の乖離を強調し、中国に「同情」を寄せませんでした。当時はそれが日本を破滅に導いたわけですが、本書は、矛盾のある言説に先見性があり、専門の分析が国運を誤るという二重の逆説をどう解いたらよいのか、と問題提起します。まず本書が指摘するのは、かつて「日中友好」の名のもと、日本人が中国ナショナリズムを批判することには一種の禁忌があり、石橋と「小日本主義」への高い評価は、その禁忌と無関係ではない、と指摘します。近年の中国とそれを巡る状況変化は、やっと中国ナショナリズムの歴史的な特質・本質を忌憚なく議論できる場を作り出しつつある、との認識に基づいて本書は、石橋の等身大の中国観を同時代の知識人と比較するのが、その有効な補助線となり、中国認識の深まりにも資する、との見通しを提示します。


 そこで石橋とは対照的な同時代の「支那通」知識人としてまず取り上げられるのが、矢野仁一です。矢野は東洋史研究者で、日本の国策・戦争に積極的に加担し、戦後は公職追放となりました。たとえば満洲事変のさい、石橋は「満蒙」における「特殊権益」の放棄を主張しましたが、矢野は「満洲国」を正当化しました。石橋が、満洲は中国人の住地なので中国の領土であり、中国は「独立国」だから日本と同等と主張したのに対して、矢野は、満洲は本来、中国の領土ではなく「特殊」な地域であり、中国人が居住していても中国の主権は認められず、中国は日本と同様の「独立国」ではないばかりか、そもそも国ですらない、と主張しました。矢野は中国に関して、「真の国境がない」から「国家」ではない、と主張しました。この場合の「国家」とは、西洋近代国民国家です。

 一方、当時の中国において法治が確立していない、という現状認識では、石橋も矢野も一致していました。本書は両者の違いに関して、石橋にはあった中国ナショナリズムへの同情が矢野にはなかったことを指摘します。中国ナショナリズムに対して、石橋は明治維新、さらには自分たちが目指す「閥族打破」と「官僚主義」の打倒を投影しましたが、矢野は日本の「愛国心」を見いだし、いわば中国人にとっての真の利益よりも人気取りのために用いられており、中国の政治家が煽ってきた、と認識していました。

 矢野が石橋と共通の現状認識も有しながら、その主張が対照的になった背景として、士族の家柄で生涯「国士」と自認していた矢野が純粋な人物だったことを、本書は指摘します。矢野は「満洲国」建国の理念である「王道楽土」を実現する、と本気になり、それは深い学識に基づく確固たる信念に由来していたので、いっそう始末が悪かった、と本書は指摘します。日本と中国を同一視する石橋は、日本でも実現できていない「理想」を「満蒙」において実現できるわけない、と主張します。一方矢野は、「満洲国」における「理想」の「王道政治」について、西洋諸国および日本の、法治主義・物質主義・個人主義・不平等主義などに対する、徳化主義・精神主義・共同主義・平等主義など、「東洋」・「中国」独自の理想を主張します。

 しかし矢野も、そうした「王道政治」が実現したことはない、という致命的欠陥には気づいていました。しかし、その理想を「満洲国」が実現するというので、「支那通」で歴史と現実との解離を知る矢野は、それを実現するための手段も分かっているとの自負を抱き、「満洲国」に協力した、というわけです。矢野は「王道政治」を「徳治主義の政治」と定義します。「徳治」とは為政者がその仁徳で被治者を徳化して治めることで、法律による強制で治める「法治」とは対極的であり、「法治」に対する「徳治」の優位は、『論語』に明らかとされます。

 矢野は「王道政治」が実現しなかった理由として、徳化されない被治者に強制力を行使しないことを挙げます。しかし、「政治の及ばぬ範囲」に跋扈する「土匪群盗」の本質は政治以外の手段による福利組織で、「良民」との違いは「政治の及ぶ範囲」か否かにすぎない、というわけです。「徳治主義」による「政治の及ばぬ範囲」は領土にも当てはまり、その境界が曖昧なため、国境も「不明瞭」になり、厳密な意味での領土の概念も存在し得ない、と矢野は指摘します。そのため、実際に支配していない地域も領土いう観念が生じ、この帝政時代の「徳治主義」による領土観念は中華民国になってもあまり違わず、そこに列強との軋轢が生じる、というのが矢野の見通しです。

 中国では、帝政が廃されて共和政となり、帝政を支えた「礼教」も「道徳」も失われると、法律・条約を軽視する「無責任な」心理と風習のみが残り、治安を維持できず、条約を守らないため列強と安定した関係を築けない、と矢野は論じます。したがって、中国が、列強、とりわけ日本の帝国主義・侵略主義を除去すれば建国と興隆は可能、との言説は無根の「宣伝」にすぎず、それを真に受けて「排日」に勤しむ中国人には反省自責の念がなく、歴史を正確に読めない先天的欠点がある、とまで矢野は主張します。

 中国を日本と同質の社会とみなした石橋に対して、矢野はその学殖から、法治国家の社会とは異なる在り様を中国に見いだしていました。中国史は当時の日本人にとって現代よりもはるかに馴染み深く、それを論拠に「王道楽土」の建設を夢想した矢野の方が、「経済的リアリズム」で小日本主義を主張した石橋よりも輿論の支持を集めたのは当然である、というわけです。矢野の議論は、「歴史を正確に読まない」中国ナショナリズムの昂揚と真っ向から対決するもので、日本の大陸政策・侵略主義と同調していくことは避けられませんでした。

 敗戦後、公職追放となった矢野は倉敷に隠棲しますが、研究は続けました。矢野が90代半ばの1966年に著した『中国人民革命史論』では、中国共産党にきわめて高い評価が与えられました。かつて日本の大陸政策・侵略主義を支持した矢野が転向したようにも見えますが、本書は、矢野の持論が貫かれていたことを指摘します。それは、毛沢東の革命が、矢野が久しく夢見てきた「王道楽土」を実現しつつあったように見えたからです。具体的には、「官公吏の清廉勤勉」と「匪賊の絶滅」と「犯罪の非常に少なく絶無に近い」状態です。矢野には、中国共産党政権は数千年にわたる「王道政治」と「徳治主義」の現実的弊害を一掃したように見えました。矢野は、毛沢東が変える以前の、「政治の及ばぬ範囲」を無理に治めようとしなかった「王道政治」を、政治と民衆が乖離した社会と認識していました。

 矢野は国民党を「道徳的精神」・「道徳的基礎」がないと批判しましたが、これは、政治と民衆、政府権力と民間社会が近接して互いに意思疎通し、影響を及ぼし合い、一体化して国民国家となる構造のことでした。西洋列強と日本は近代にこれを確立しましたが、中華民国までの中国はその逆だった、と矢野は認識します。大多数の農民は、政治に対してひじょうに冷淡で、きょくたんに無関心だった、というわけです。矢野は伝統的な中国社会の構造を、知識階級にして治者階級である「士」と、無識階級にして被治者階級である「庶」の乖離と把握していました。いくら王朝が替わっても、政治に関係ない「庶」には何ら影響変動を及ぼさなかった、と矢野は指摘します。矢野は士を「動く支那」、庶を「動かざる支那」と呼びました。

 矢野は、このような中国の政治社会構造は唐やモンゴル時代以来のことではなく、古代から一貫していた、とその「固定性」を強調します。つまり矢野は、時代の経過に伴う中国社会の変遷もしくは歴史的発展を否定したわけで、これは中国社会停滞論に結びつく可能性を有する、と本書は指摘します。中国社会停滞論とは、中国は自力で進歩・発展する契機を持たないので、近代化には外からの衝撃・助力が必要になる、というもので、列強の中国への干渉・侵略を正当化する一つの論拠にもなっており、この点でも矢野の所論は日本の侵略主義に親和的だった、と本書は指摘します。矢野は、当時の中華民国も、13~14世紀のモンゴル時代も、4~5世紀の五胡十六国時代も同じで、中国社会は異民族であれ外国であれ、誰に支配されても差し支えなかった、と論じます。

 矢野はそこで、庶民に為政者の徳が行き届き、中国人の「真の利益幸福を図る」政治を日本が実現すべきだ、と考えました。その具体的な表現が「満洲国」だった、というわけです。このような中国伝統社会を打破したように見えたため、矢野は中国共産党政権(中華人民共和国)を高く評価しました。矢野は、中国社会における士と庶の乖離は古来変わらなかった、と主張する時、明白に「賛成し兼ねる」論敵を想定していました。それ京都帝大で矢野の同僚でもあった内藤湖南でした。矢野は内藤の唐宋変革論を真っ向から批判しましたが、それは内藤没後のことでした。内藤は生前、「満洲国」の「王道」を「空言」と批判していました。


 そこで本書は、日本帝国主義に加担した矢野の対極にあったように見える内藤の言説を検証していきます。内藤は富永仲基と山片蟠桃を高く評価しており、その評価・観点の基準は「今日唯今のこと」につながる実務的な合理精神でした。京都帝大に迎えられる前にジャーナリストとして世に出た内藤は、学問・歴史に対する同時代的関心を強く抱き続けました。内藤は、時代の全体的な進行・「発達」、あるいは「進歩」を基準とし、歴史は進歩する、という西洋起源の歴史学の観念に基づいていました。これは、現代では無意識的としても大前提とされていますが、中国の伝統歴史思想は違いましたし、日本でも、内藤の頃にはまだ定着しきったとは言えない観念でした。内藤の史観は「進歩的」だった、と本書は評価します。また内藤の基本的な視座として、日本と中国をともに東洋文化の枠組みで把握したことが挙げられます。日中間に顕著な相違があっても、それは絶対的な質的差異ではなく、むしろ同じ文化の先進と後進、あるいは多様性として内藤は認識していた、というわけです。

 内藤の中国史認識で重要となるのが、唐と宋の間に画期を認め、宋以降を「近世」とする時代区分論です。ここで内藤が重視するのは「平民発展」で、物質的にも精神的にも平民に大きな発展があった、と指摘します。物質的には「私有」と「所有権」の発達、精神的には、学問では「自由研究の精神」の勃興、絵画では専門家たる「画工」の絵画から「素人」の文人画・山水画が主流になり、工芸でも「平民相手の大量生産」となりました。一方、近世は君主独裁制が確立したと言われますが、内藤は、君主と平民がともに貴族の専有から解放された、と指摘します。内藤は、前代とはまったく異なり、現代にもつながる「平民時代」が宋代に始まった、と主張しました。

 内藤は東洋史の創始者の一人とされます。東洋史とは日本独自の区分で、西洋近代史学を受容するさい、「世界史」と言いながら実質的にはヨーロッパ史であることを不充分と考えた日本人歴史学者たちが、その不備を補うべく、まずは漢文史料を中心に、ヨーロッパ外地域の歴史を、近代歴史学の手法で構築したものでした。漢文史料では当然漢人中心の歴史となってしまいますが、那珂通世や桑原隲蔵といった東洋史の創始者たちは、近代歴史学に倣い、東洋史を諸民族の関係史として叙述しようと試みました。その観点から桑原は、東洋史における時代区分を、漢人膨張の殷周(上古)→漢人優勢の秦から唐(中古)→「蒙古人」優勢の五代十国から明(近古)→欧州人東漸の清としました。

 一方内藤は、東洋史の創始者の一人とされますが、その学問は厳密には、漢学の流れをくむ「支那学」と分類されます。内藤は西洋近代歴史学を東洋に当てはめたというよりは、多分に前近代の学問を継承しつつ、「日本」と「東洋」の文化を探求しました。内藤の時代区分は、「支那文化」の発展を基準にしており、殷から漢(上古)→六朝から五代十国(中世)→宋から清(近世)というものでした。これは、夏殷周(上世)→秦から宋(中世)→元明清(近世)という那珂の時代区分を強く意識して批判するものでした。さらに内藤は、この「支那文化」の発展が他の「民族」・「種族」を巻き込んで東アジア全体の歴史を形成する、と論じました。これにより、「民族」の優勢を基準にした桑原の時代区分とも近接し、以後の東洋史学の方向を決定づけました。

 内藤の学問は「文化史」とされますが、狭義の文化だけではなく、それを成り立たせる「社会の構造」をも含んでいました。内藤の時代区分論は、日本や西洋を基準にしたのではなく、あくまでも中国史の文脈に即したものでした。宋以後の君主独裁制では、高級官僚は科挙で選ばれ、在地で勢力を蓄えて割拠しないよう転任させられたので、行政能力の低い高級官僚が大半となり、民間では、在地の名望家である「父老」や「郷紳」が指導する「自治団体」により民政が担われました。こうして、官と民、国家と社会が乖離していきます。内藤はこうした見解を、すでに辛亥革命前に公表していました。

 内藤は、帝政終焉後に「平民」社会を主体とする共和制が確立すると予想していましたが、辛亥革命後の中国は混迷が続き、日本との関係は悪化します。こうした情勢を踏まえて1924年に内藤が発表した『新支那論』では、中国が列強に政治軍事で劣るのは文明が遅れているからではなく、逆に老成しているからで、列強の歴史は「幼稚な」段階にあり、中国は高級な学問芸術は列強に任せて一向に差し支えなく、その方が大多数の中国人にとっても幸福に違いなく、文化の遅れた日本の経済進出が中国の面目を変えつつあるが、中国史を理解しない「新人」が、ナショナリズムを根拠に排日運動を繰り返している、というものでした。この『新支那論』により、内藤の評価は定まりました。戦前は日本の立場を代弁する「支那通」、戦後は中国ナショナリズムを理解しない侵略主義者です。戦後、内藤は矢野と同様に激しく批判され、石橋が批判した「支那通」の典型と言えます。

 内藤と矢野は、中国における国家と社会の乖離を、国家と社会が一体化している同時代の日本や西洋諸国などの近代国民国家とは異質な構造と把握し、中国ナショナリズムを「普通の」ナショナリズムとみなさなかった点で共通します。しかし、唐宋変革と宋を中国の「近世」とみなす内藤の見解に、中国の現状を「説明」できないとして、矢野は批判的でした。宋代以降も、庶民は政治社会上無権力無機会で、徴税対象の被搾取階級にすぎなかったのだから、「貴族」に代わって「庶民」が「擡頭勃興」した「変革」はなかった、というわけです。上述のように、矢野は中国における国家・政治と社会の乖離は唐よりもずっと前から続いていた、と主張します。

 本書は、矢野の社会論に存在しない論点として、「文化」・「生活」を挙げます。矢野も中国文化を愛好し、造詣も深かったものの、その文化とは儒教に他ならず、歴史の考察において「王道」・「徳義」ら敷衍もしくは収斂されてしまい、政治にほぼ一元化された、というわけです。矢野は社会の内部構造には冷淡で、「大家族精度」や「土匪盗賊」の存在や機能には着眼しても、その内側まで深く検討しませんでした。「王道政治」からの一方通行の立論だった、というわけです。本書は、矢野が政治と社会の乖離を説く場合、必ず「士」と「庶」という史料そのままの原語を用いて、その概念の内実に立ち入った考察・議論は行なわれなかった、と指摘します。

 一方内藤は、「士」と「庶」という漢語で割り切るだけでは分析しきれない、中国社会の動態に踏み込んでいました。内藤が言う「平民」は「庶民」と等しいわけではなく、「士」も「庶」も含んだ概念で、「士」も一枚岩ではありませんでした。ただ、内藤は明清時代をつきつめて研究したわけではなく、「平民」・「民衆」の変遷を歴史として描いてはおらず、矢野の批判も無視できない、と本書は指摘します。本書は、「唐宋変革」を主張する内藤の「平民」と、明清時代を専門とする矢野の「庶民」について、内藤と矢野が堂々と論戦をして議論が深まっていれば、中国社会の解明に貢献したかもしれない、と指摘します。


 内藤は「満洲国」にも関わりましたが、矢野ほどではなく、その国是である「王道」は「空言」だとして、日本の行動には批判的で、溥儀の皇帝即位にも反対しました。しかし本書は、内藤が矢野のように長命を保てばどう身を処しただろうか、と問題提起します。内藤の『新支那論』での主張は上述のように、中国の政治は外国人、とりわけ日本人に任せてもかまわない、というものでした。これは、矢野と変わらない帝国主義的な言説で、これは学界で今でも尊重され継承されている「唐宋変革」論とも無関係ではありません。そこで本書は、日本人の中国観の特徴と推移を考えることに大きく重なるだろう、という見通しのもと、内藤の中国社会論がどのような評価を受け、また受け継がれたか、と問題提起します。

 そこで本書が取り上げるのは、『新支那論』の初版をいちはやく論評した橘樸です。本書は橘を、単なるジャーナリストではなく、中国の本質を究めようとした研究者的側面があり、内藤と通ずる、と指摘します。ただ、橘本人は、「支那社会を対象とする評論家」と自称し、「支那学者」ではない、と主張しました。内藤のように、「支那学者」の多くは「支那通」と称せられましたが、橘は「支那通」を露骨に嫌い、否定しました。それは、知識の内容が非科学的な「支那通」の予想が外れて世間から軽蔑されるからでした。具体的には、その「支那知識」がすべて断片的なので、聴者の側が適当に取捨および統一しない限り、ほとんど実際の役に立たない、というものでした。橘は、「支那通」のみならず「日本人一般」も、中国に対して先進者であることを無反省に自惚れ、中国人を道徳的情操のほとんどまったく欠如した民族であるかのように考えている、と批判します。日本人には中国に対する「没常識」・「誤謬」・「偏見」が蔓延しており、それは「支那通」を典型とする、「断片的」で体系を欠いた中国理解の方法から生じている、というわけです。

 そこで橘は、日本人が中国を理解するために、人種学や心理学といった諸社会科学を活用する、「科学的方法」を提唱します。それでも橘は、内藤たちの「支那学」にはそれなりに敬意を払っていました。では、橘の『新支那論』書評がいかなるものだったのかというと、賛辞が目につき、橘は内藤のファンだった、と本書は推測します。橘は、内藤の唐宋変革も見逃していませんでした。しかし本書は、橘が内藤を手放しに称賛したわけではなく、その賛辞もよく読めば、自身の見解を際立たせ、説得力を持たせるために弄した修辞ではないか、と指摘します。

 橘が『新支那論』で最も重視したのは、内藤の中国社会論、とくに「郷団自治」でした。橘は、内藤が「郷団自治」という事象を明らかにし、その功績を認めつつ、その原因と意義が明らかにされていない、と批判します。橘は「郷団自治」の「意義」を、「中産階級」の実力・自覚とその団結心の発達にある、と指摘しました。橘は、唐中期までに完成した「国民経済組織」の社会・政治的効果が、その数百年後に「郷団」という社会の根本組織の上に発現した、との見通しを提示します。橘は、「中産階級」や「国民経済組織」といった西洋的な術後概念を駆使し、「団結心の発達」や「階級闘争」といった現象に結びつけました。橘は、「階級意識に目醒める」とか「デモクラテイツクに色彩を看取」とかいった表現も用いており、そうした概念・論点から「環境の相違に関係なく」「適用せられるべき原則」に論旨を収斂させていきました。

 これが橘にとっての「科学的方法」でした。橘は、西洋社会とその歴史という「普遍的」軌道に即して、過去と未来の中国社会を考察しようとしました。それは、同じく「郷団自治」と「支那の政治」を扱っても、中国を最も「自然」、西洋を「変則」とみなす内藤とは、正反対の評価でした。橘は、政治において中国はヨーロッパより1世紀か1世紀半ほど遅れており、老成しているのではなく若すぎるのだ、と言って内藤の見解を批判します。橘にとって、「科学的」分析の必然の結果として、中国は「中世的農業国」と位置づけられます。西洋列強や日本との比較で「遅れた」中国との理解は、「支那通」も含めて当時の多くの日本人に共有されるものでした。橘が「支那通」を「非科学的」と見下したのは、西洋の学問に通じていない、あるいはその概念を用いて立論していないからでした。本書は、西洋の用語と理論を用いれば「科学的」と称する橘を、漢文をよめれば「智識の豊富」を称する凡俗な「支那通」と思考方法・精神構造でほとんど変わらない、と指摘します。

 そこで本書は、こうした橘の思考法が、同時代に占めた位置と作用を分析します。橘と内藤との間で、中国社会の現状認識に関してへだたりはありません。しかし、その方向性が逆であれば、その評価と展望、させには構想する施策も違ってきます。本書はその見通しのもと、「支那通」の内藤とは異なる、橘の「満洲国」への姿勢を検証します。橘は『新支那論』書評で、中国社会の過去と将来を、西洋思想、とりわけ「社会主義」への展望で把握しました。当時、日本社会ではさまざまな政治思想が流行し始め、その最先端が無政府主義や社会主義でした。橘もこの思想潮流の中にいた、というわけです。橘は、「郷団」と「政客」の対立という内藤の見解を、「階級闘争」と「社会主義」の概念で読み換えました。支配階級たる官僚と、被支配階級の一部たる中産階級との間の、意識的もしくは無意識的な階級闘争だった、というわけです。橘はこの「階級闘争」を中国社会の「骨子」とみなしました。

 上海に始まる1925年の5.30運動で、国民革命が大きく進展し、蒋介石による統一へと時代は動きました。「新人」を酷評した内藤は5.30運動にも否定的で、明治維新の志士にはなり得ない、と切り捨てており、新時代の萌芽を認めませんでした。一方橘は、5.30運動を「民族運動」と高く評価し、中国を完全に対等の国家として扱うべきだ、と主張しました。中国は現時点では、西洋近代政治学の観点からは「国家の諸条件」を満たしていないものの、いずれは世界標準の「近世国家を建設するに足る」、と橘は考えました。この点で橘は、同時代では内藤よりも石橋や吉野作造の方に近く、その根底には西洋思想、そこから派生した「社会主義」がありました。しかし、石橋や吉野の議論には、中国社会の全体構造から5.30運動を解明しようとする志向が見えないのに対して、橘は魯迅から、「僕たちよりも中国のことをよく知っている」と評価されたほどでした。

 橘は、「青年支那」のような一部の「青年」ではなく、中国全体の社会構造と動態から「民族運動」を説明しようとしました。近世初頭のヨーロッパ商人と同じく、中国の「中産階級」は「階級意識」に目覚めてきており、中国で近いうちに起きる「革命」は、「階級闘争」と「民族運動」を通じた「ブルジョア革命」になるはずだ、というのが橘の見通しでした。橘は、中国の「中産階級」にヨーロッパのギルドとの同質を認め、内藤の「郷団自治」論では中国社会の見通しは不充分だと考えていました。ただ、内藤の「郷団」と橘の「ギルド」は同一ではなく、「郷団」は都市も視野に入れつつ農村の郷紳や宗族を念頭に置いたものでした。一方、橘の「ギルド」には脳槽の「家族団体」は含まれず、「中世的農業国」たる中国の「商工業者の各種団体」に限定されていました。

 前代の資本主義への懐疑を基本思潮とする「大正デモクラシー」は、やがてマルクス主義の隆盛を導きます。「社会主義」を信奉していた橘らもそうした傾向はありましたが、中国をよく知っているという点で、橘は当時の多数の知識人とは異なっていました。橘がマルクス主義へ向かわなかったのはそのためだろう、と本書は推測します。橘が行き着いた先は「王道」でした。橘は、「王道」が「永久」に西洋も東洋も包摂する「人類社会」に適用できる普遍性を備えている、と主張しました。橘が依拠したのは、内藤も高く評価した三浦梅園でした。橘は、「王道」実現のための具体策も論じました。それは、地方分権による温情主義的政治でした。資本主義・帝国主義の行き詰まりは、民衆と乖離した「近代国家」の「中央集権」にあると考えた橘は、「マルクス派」や「レーニズム」の社会主義も「中央集権」では同じなので、肯定できませんでした。それは、「秦漢以来の支那」や「明治以来の日本」も例外ではありませんでした。橘は、「世界の大勢」はすでに「中央集権主義の下り坂」を示している、と認識しており、「民衆に直接」した「善政」に導く「地方分権」こそ理想と考え、それを「王道」政治と表現しました。これは橘独自の思惟で、同時代の政治経済学者とも「支那通」とも異なっていました。

 日本が昭和を迎えると、中国は国民革命の時代に入ります。しかし、同時代者としての橘は、この「革命」に絶望しました。橘は、中国において、「ギルド」を基点として「全中産階級」の「闘争」になり「革命」が起き、最終的には「社会主義」が実現する、という見通しを大正末には描いていました。しかし、現実の南京国民政府は、橘にとって資本家地主の政治的代弁者に他ならず、「その小市民性はブルジョワジーの勢力の発達と反比例して次第に凋落」しました。橘は、とくに国民政府の農民製作を憂慮しました。貧農や小作農の福利に直接もしくは確実に寄与するものが見当たらず、その全ては地主と富農の利益を計るものだったからです。橘はこの状況を、「貧農と赤色勢力との接近」と「相表裏」する「国民党及び地主富農のフアツシヨ化」とまとめました。国民革命は都市のブルジョワ革命だったかもしれないものの、農民の福利を置き去りにする既成の資本主義的「近代国家」の二の舞になるだけだ、というわけです。ここに、橘が「満洲国」を支持し、「右傾」とも言われる「方向転換」の動機が窺える、と本書は指摘します。

 上述のように、「満洲国」はその建国理念として「王道楽土」を標榜しました。中国での社会「革命」に絶望した橘は、理想実現の場として「満洲国」に惹かれました。橘はまず、国民政府が置き去りにした農民の自治を掲げました。中国社会の根幹である「ギルド」から演繹し、「職業自治」を打ち立てようとしたわけです。「農民自治」を「県自治」と「地方分権」にまで高め、やがて国自治にまで拡大されることで「王道政治」の完成に至る、というのが橘の見通しでした。史実から明らかなように、橘の見通しは実現しませんでした。

 本書は橘の構想の破綻を、「満洲国」や関東軍に自身の理想を投影したことだけではなく、もっと深いところに原因がある、と指摘します。橘の中国社会論とその「革命構想」、さらには「方向転換」に作用していた基本概念は、中国の「ギルド」とその「自治」機能でした。橘は、「ギルド」と「自治」と「地方分権」で中国社会を把握し、その変革を構想・実践しようと考えました。橘の発想の根源には「ギルド社会主義」があり、中国人より「中国のことをよく知っている」橘は、あくまでも西洋思想で自らの思考と論理を組み立てていた、と本書は評価します。

 橘の「ギルド」概念は西洋のものでしたが、橘はそれをそのまま、中国の同郷同業団体である「幇及び公所」に当てはめたわけではなく、中国社会を「ギルド」概念で考察する学術的な方法と根拠が前提になっていました。橘が典拠としたのはモースの『The Gilds of China』でした。モースは中国の「幇」や「会館・公所」を西洋「中世」の「ギルド」になぞらえました。当代一流の中国学者だったモースの著書は学術的権威になり得ました。モースに最も強い影響を受けたのが、橘でした。しかし、モース自身は、両者を同一視することに慎重だった様子も窺えます。実際モースは、西洋の「ギルド」が君主や都市政府の法律に服していたのに対して、中国の「ギルド」は法律の下に入っていなかった、と指摘していました。しかし橘は、モースが指摘した東西の「差違」を棚上げして、中国に現存する「ギルド」を西洋「中世」の「ギルド」と同一視し、当時の中国社会を「中世」と論じたわけです。

 本書は、橘の見解とモースの見解との矛盾を指摘します。中国の「ギルド」が法律外に成長した、というモースの見解は、国家と社会の乖離から生じた、という内藤の「郷団自治」論に接近し、中国を「若すぎる」社会とする橘の見解が覆りかねません。本書は、橘のような錯誤を多数の同時代の知識人・専門家が犯していた、と指摘します。中国の「ギルド」研究に関して他には、たとえば東洋史では仁井田陞がいます。本書は、橘など西洋を基準として中国の「ギルド」を考察した知識人が、内藤や矢野よりも一世代以上年下だったことを指摘します。日本における西洋式アカデミズムの確立・普及は、その裏返しとしての「支那通」離れ・軽視でもありました。石橋の中国観も、こうした知的土壌から生まれました。これは中国の社会・政治を無前提・無媒介に日本や西洋と同一視して対比する認識法で、日本人の中国観に定着した、と本書は指摘します。


 仁井田たち1930年代以降の「ギルド」研究が、内藤や矢野や橘たちの1920年代の研究と決定的に違うのは、自らの実地調査依拠していたことです。これは欧米の研究手法に倣ったものですが、1930年代に盛んになったのは、とりわけ経済で中国との関係が深まったからでした。とくに有名なのが、南満洲鉄道の調査事業です。その結果、膨大な資料・データが蓄積され、知見も増大しました。しかし本書は、これらの調査の意義を認めつつ、調査に臨む姿勢と、その成果を活かす態度を問いかけます。当時の実地調査から組み立てられた議論は厳密な帰納法ではなかった、と本書は指摘します。

 たとえば、1940~1944年にかけての「華北農村慣行調査」を巡って、中国の農村を「共同体」、つまり自然村落に見られる自治的共同機能を強調する平野義太郎の見解と、西欧や日本と比較して、著しくバラバラな個人の集まりにすぎず、とくに契約・権利の実現を支える法共同体の欠如を強調する戒能通孝の見解が提示されました。平野はアジア主義者で、自由競争・弱肉強食のため行き詰まった西洋社会に対峙し、その在り様を超克する「共同体」をアジアに見出そうとして、日本と中国の共通性を重視しました。平野はマルクス主義者から転向し、資本主義の西洋社会を超克しようとした当時の「アジア主義」の根底には、社会主義思想が濃厚に作用していました。西洋資本主義を超克すべき社会主義が、王道主義や「大アジア主義」に転化・分岐しただけだ、と本書は評価します。

 一方、戒能は、中国はヨーロッパと類似した発展過程にある日本とは異なる、という観点に立っていました。具体的には、日欧の「封建制」と深い関わりを有する村落共同体を、近代化の基礎と把握します。戒能は、華北農村には共同事業は存在しても、内面的な協同意識はごく希薄で、共同体は存在しないので近代化の可能性は欠如している、と論じました。調査団の一員だった旗田巍は、戦後この問題を改めて追求し、「看青」という農地監視の慣行などを精緻に再検証し、村落の共同事業の実態を明らかにしたうえで、村民は合理的打算に基づいて協力したにすぎず、「共同体」とは言えない、という戒能に近い結論に達しましたが、戒能の立場・観点・展望には同調せず、戒能を「脱亜主義」と批判しました。

 本書は、「華北農村慣行調査」を巡る論争に、日本人が中国社会を見て語る観点・思考・論理の癖がよく表れている、と指摘します。同一のデータに依拠しながら、平野と戒能のように結論が正反対なのは、立場と視角と方法が対象・データを見る前に決まっているからで、これが以後の日本における中国観の一方の軸線になる、と本書は指摘します。また、こうした正反対の二視角は、別個の観念に基づく二元的なものではなく、その前提とする理論が資本主義なのか、それとも社会主義なのか、という違いだけです。西欧社会を是として、その既成の資本主義に即して考えると、日欧と大きな差違を見せる中国は異質な社会と措定され、近代化した日欧とは異なり、独力では進歩できない、と位置づける傾向に陥りやすくなります。これが「停滞論」です。一方、欧米社会を非として、それを超克すべき社会主義で日本を位置づけると、欧米と異なる中国を、日本と同じ性格の社会とみなして、連帯を志す傾向となります。既存の欧米社会を超克しようとする点で、「王道」も「大アジア主義」も同様です。ここに、日本の社会主義者が少なからず「方向転換」・「転向」した理由がありました。

 「脱亜主義」と「大アジア主義」は、一見すると対極にあるように見えながら、西欧社会を基準にした思想・理論を中国社会分析の大前提にするという核心において、思考の道筋・様式は軌を一にします。「華北農村慣行調査」では、「共同体」という前提概念がその典型です。「停滞論」にしても連帯にしても、西欧基準の進歩・発展という観念がその根底に内在している、というわけです。そのため両者共通して、先進の日本が立ち後れた中国を指導する、という態度・構図・行為として現れます。それは日本人の主観的意図がどうであろうと、中国人からは等しく蔑視・侵略に他ならない、と本書は指摘します。

 しかし、日本の中国観は、「脱亜主義」と「アジア主義」という表裏一体の観念に収斂してしまうわけではありませんでした。あらゆる前提に西洋製の理論・概念を用いる方法が、中国社会に対する視座の全てではなかった、というわけです。本書はその代表として、内藤より一世代下、橘とほぼ同世代で、仁井田より一世代上の加藤繁を挙げます。加藤は橘の対極に位置する「支那通」の一人で、中国経済史研究に大きな功績を残しました。加藤の思想は徹底した忠君愛国主義だったものの、研究は全て考証学で思想の片鱗も窺えない、と旗田は評価しました。思想と学問の分離は研究自体への反省を生み出さず、現実との無責任な統合・権力への追随をもたらす、と旗田は加藤を厳しく批判しました。

 しかし本書は、「忠君愛国」が加藤の思想の全てなのか、と疑問を呈します。加藤が排除したかったものは「主観」、つまり理論・学説や政治上の主義・宗教上のドグマで、唯物史観とともに自身の「忠君愛国」も同様だったのであり、「主観」排除・「客観」尊重という「主義」こそ加藤の学問思想だった、と本書は指摘します。加藤は、まだ経済関係の漢文史料の読解が五里霧中だった時代に中国経済史の研究に打ち込み、生涯をかけて自分の主義・思想を貫いたのだから、それを「思想」と言わずに貶めたことに、旗田たちの「思想」的立場が窺える、と本書は指摘します。

 加藤の研究は唐宋時代を中心とするものの、同時代の清・民国にも言及しており、漢籍を読むだけではなく、実地調査も行なっています。その一例が「ギルド」の研究で、本書は、零細な資料を嵬集し、正確な読解に基づいて「支那ギルド」の歴史的起源を明らかにした加藤の業績を高く評価します。本書が注目するのは、加藤が「ギルド」と記すのは他説を紹介する冒頭と引用箇所のみであることです。内藤も矢野も、「ギルド」とは言いませんでした。しかし、内藤と矢野より一世代下の加藤は、明らかにモースなど欧米の研究を参照したうえで、「ギルド」という概念の使用を控えており、ここが橘とは異なる立場・視座です。加藤は、西洋の理論・思想という「主観」に容易には同調しない慎重な態度を示し、対象の個性に即して、中国社会とその由来をありのままに観察しようとした、と本書は評価します。それは、加藤の一世代下の仁井田が、中国の「ギルド」を直ちに封建制・ヨーロッパ中世と対比したこととは対蹠的でした。

 仁井田と同世代で加藤のような見方・姿勢に背を向けなかった研究者もおり、その代表として本書は二人を挙げます。一人は農業経済を専門とする柏祐賢で、中国の「経済秩序」の「個性」を「包」という慣行だと指摘しました。これを日本語に翻訳すると「請負」に近いものの、似て非なる概念で、「包」は「請負」のような偶発的・特例的・附加的・選択的行為ではなく、中国の経済・社会の秩序構造に普遍的に組み込まれており、安定した再生産の役割を不可分的に担っていました。中国経済が内包する「不確定性」という「秩序」のリスク要因を分散・軽減させる機能です。

 もう一人は中国経済学の村松祐次で、中国経済の分析において「社会態制」に着目し、西欧の歴史的発展から抽出された段階構成を離れて、中国との距離を測定しようと試みました。工業化が進んだ当時の中国経済の主軸をなす民族資本は、順調な発展を見せませんでした。企業の参入や取引は活発だったものの、持続的な事業の拡大や生産性の向上をもたらすような資本蓄積・技術革新は進みませんでした。村松はこうした状況を「安定なき停滞」と表現し、中国経済独特の「社会態制」からもたらされた、と主張しました。中国市場は規制が乏しく、きわめて開放的かつ競争的で、企業が新たな設備投資に踏み切るにはリスクが高く、多数の零細経営の激しい競争・隆替が起こる半面で、市場・社会は全体としてその「構造」を変えることがない、というわけです。村松の議論では、西洋理論の援用よりも中国の現場の個性重視が勝っていました。市場取引におけるリスクの高さを指摘する点で、柏と村松は一致します。そこが中国経済に「個性」的な事象で、安易な西洋概念の援用・西洋社会との対比を一度離れた故に示し得たものであり、ディシプリンは異なっても加藤と通じている、と本書は指摘します。

 第二次世界大戦は、日本人の中国観を大きく変えました。敗戦により、日本の帝国主義勢力はもとより、一般の日本人も中国から一掃されました。中国共産党政権の成立(中華人民共和国)と冷戦構造の継続で、中国との交通や中国人との交流も久しく遮断されました。その結果、現地調査は不可能となり、同時代の中国の情景・推移も見えづらくなって、以前の中国観を支えた環境・条件はほぼ消失しました。「支那通」概念の消滅もそれと並行した現象だろう、と本書は指摘します。

 これに拍車をかけたのが価値観の展開でした。日本帝国主義の挫折と中国革命の達成は、日本の取るべき道が誤っていた事実を具体的に実証した、というのが大方の見解というか反省でした。それが以後の時代思潮を形成する原動力になり、最も顕著だったのが、社会主義思想、とりあけマルクス主義でした。日本の少なからぬ知識人は大正時代以来、資本主義に閉塞感を募らせており、社会主義はいわば福音として受け入れられ、歴史学も例外ではありませんでした。戦前には講座派と労農派の論争(日本資本主義論争)もありましたが、日本政府はその頃から社会主義への弾圧を強め、1930年代の終わりには、講座派も労農派も壊滅し、平野のように少なくない者が「アジア主義」に転向しました。

 このような近代日本への強い反省という思潮のもと、日本史の文脈では「大アジア主義」や侵略にもつながった皇国史観が、中国関係では「停滞論」が糾弾されました。「停滞論」はアジア社会を見る西洋中心主義の発現で、人種差別と言い換えてもあながち誤りではない、と本書は指摘します。しかし、その偏見が近代科学・学問の形成された時代に、学問的な論理で武装されたため、根拠の確かな学術理論であるかのように扱われました。したがって、「停滞論」はアジアを対象とする西洋理論なら普遍的に存在し、ディシプリンや左右の区別はありませんでした。

 ヘーゲルは、中国史とは何の発展もなさない没歴史だと論じました。マルクス史観はヘーゲル哲学をいわば形而下に裏返し、社会経済に置き換えたので、アジアに対する「停滞論」も同じ図式になり、それが「アジア的生産様式」です。工業化・資本制・労働社会を実現した先進国に遅れをとっても、欧米ならば「後進」であって「停滞」ではありませんが、アジアは「後進」地域ではなく、根本的ら異質な「生産様式」を持ち、自生的な発展の契機をまったく持たない普遍の社会と主張するのが「停滞論」でした。たとえばその論拠として、社会発展が生じ得ない自給自足の経済体系を有する村落「共同体」の残存が指摘されました。このように絶対的に停滞した社会は、外からの指導や強制なくして進歩・発展はあり得ず、近代化もできない、と主張されました。

 日中戦争期に、このように西洋人の差別意識から生まれた「停滞論」を最も信奉したのは日本人で、それは西洋アカデミズム普及の落とし子でした。「停滞論」は、中国侵略を合理化できる理論として受容され、深められました。「アジア主義」の核心にもこの「停滞論」があり、アジアで唯一近代国家を形成した日本が、西洋列強の支配と圧迫から「停滞」するアジアを解放する、という方針に転化し、日本の援助・指導なくして中国の近代化は困難との論理が導かれ、中国侵略の正当化に用いられました。しかし第二次世界大戦後、中国は資本主義・帝国主義・近代国家の日本を打倒したばかりか、先に革命を成就させ、社会主義に到達した、と受け取られました。日本の学者、とりわけマルクス史学の研究者は、それまで信奉してきた中国「停滞論」に対する批判と、その克服を課題としなければなりませんでした。

 本書はその動向をたどる格好の事例として、歴史学研究会(歴研)を取り上げます。歴研は東京帝国大学文学部の若手研究者が中心になって1932年に設立され、専門の区別を超えて世界的規模で歴史を把握し、社会経済史および民衆史に関心を集めた点が特徴的です。1944年には全面的な活動停止に追い込まれたものの、戦後にマルクス主義が解禁となり、マルクス史学も「停滞論」の克服を課題として再生し、歴研はその主要な舞台となります。とくに中国史においては、上述の衝撃から、「停滞論」に代わる新たな理論の構築が強く求められました。マルクス主義において、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→社会主義と段階的に発展するという「法則」がある以上、社会主義を日本より早く達成した中国をその中に位置づけねばならなくなります。これは同時に日本の中国侵略を正当化してきた「停滞論」を打破するという意味で、日本人の反省の証明でもありました。

 歴研の具体的な成果として以後を規定したのが、元朝史を専門とする前田直典の論文「東アジアに於ける古代の終末」でした。マルクス主義では、社会主義へと至るには資本主義に達していなければならない、つまり近代化を経ている必要があり、近代化には中世封建制を経ている必要があります。そのために前田は、中世に先立つ「古代」の存在をまず発見し、それがいつ終わったのか、突き止めようとしました。前田は、上述の内藤の唐宋変革論に基づく時代区分を活用しました。内藤の中国史には「停滞論」とは対極の「発展」の論理が内在していたからです。しかし前田は、内藤説に根幹で重大な修正を加え、ほぼ換骨奪胎しました。前田は唐宋変革を認めて画期としましたが、内藤の云う紀元後3世紀における上古から中世への移行が不分明として、唐までを古代としました。内藤は均田法の崩壊を「平民」の「私有権」確立を示すとみなして唐宋変革の論拠の一つとし、これは宮崎市定にも受け継がれました。しかし前田は、加藤の研究に南北朝時代まで大官豪族の土地はおもに奴僕により耕作されたとあるのに中も増し、奴僕とは「奴隷制」だから古代だ、と主張しました。さらに前田は、唐宋変革とほぼ並行して朝鮮と日本でも社会の大変革(朝鮮では新羅から高麗、日本では貴族の世から武士の世)が起きた、と主張しました。こうして、「東アジアに於ける古代の終末」は「世界史の基本法則」にも適合しました。

 前田は夭折しましたが、その中国史理解は長命を保ちました。歴研では1950年の大会にて、唐宋の間で古代と中世を分かつ時代区分が設定されました(歴研派)。その主要な論点は、支配層の経営スカル大土地所有における生産関係を、奴隷制・農奴制などの概念で規定したことでした。中国の生産様式の発展にも、日欧の歴史と本質的に共通する原理・法則が貫徹している、と歴研派は主張しました。ただ歴研派は、中国の「古代」においてヨーロッパのような奴隷労働の普及を史料に見出せなかったので、前漢に確立した、皇帝による個人の直接支配体制を「個別人身支配」と概念規定し、それを奴隷制とみなしました。歴研派では、宋代以降の生産様式が佃戸制とされ、佃戸は農奴とみなされて、宋代以降は中世と主張されました。歴研派の時代区分は、中国共産党の歴史観とも接合し、「封建」国家の中国は1840年のアヘン戦争以降「半植民地半封建」になった、とされました。

 こうして「停滞論」は1950年代のうちに早くも過去のものとなった観がありますが、中国史の把握は歴研派の学説一色にはならず、内藤の学説を継承する京大を中心とした「京都学派」との間で時代区分論争が始まりました。京都学派は唐代を中世、宋代以降を近世と主張しました。この時代区分論争により、日本の中国史研究は世界に冠たる水準に達したものの、「論争」そのものは容易に収まらず、今も決着していない、と本書は評価します。本書はそこに、中国史学・歴史学・学問の中だけに留まらない、日本人全体に関わるもっと普遍的な問題がある、と指摘します。

 本書はこの時代区分論争の背景として、戦前の東洋史研究が「樸学」的だったことを指摘します。昔の素朴な学問という意味で、後には清代考証学、近代日本では実証史学を意味するようになります。戦前から戦後にかけての狭義の東洋史学は「樸学」的で、権力に賛同も屈服もしなかったものの、反対も抵抗もせず、当局から咎められたことは稀だった、と本書は指摘します。戦前において国策に積極的に協力したように見える矢野も、世間知らずで浮世離れしたところがあり、充分に「樸学」的でした。そのため東洋史学は戦争と深く関わらず、戦後も戦前の気分が濃厚に残っており、とくにその拠点となったのが京大でした。

 そのような「京都学派」の代表格が宮崎で、内藤があまり注意を払わなかった社会経済史を精力的に研究し、マルクス史学と同じ土俵で宋代近世説を主張して、歴研派との間で激論が展開されました。さらに宮崎は、西洋の都市国家が中国にもあることを主張し、内藤説を継承しつつも、独自の時代区分論を確立しました。ただ本書は、宮崎が歴研派を批判しつつも、その基礎には西洋の知識体系があり、社会主義・マルクス主義と発想の枠組み・根底は共通するところが多かった、と指摘します。本書は、戦後の歴研派と京都学派との時代区分論争も、「共同体」論争と同じところが多分にあり、史料の読解やデータ解析・事実解釈というよりはむしろ、中国社会・歴史に対する視角とそれを形成する思想の問題で、西洋の学問・モデルで中国社会を観察して位置づけようとするのは同じだった、と指摘します。これは、近代学問全体が西洋で成立した以上仕方ないことでしたが、問題は、どこまで西洋モデルを適用し、修正するのか、ということです。本書は、時代区分論争の当事者たちがそれを自覚していたとは思えず、それ故に論争は仁井田と宮崎の下の世代にも継続した、と指摘します。

 戦前の東洋史の論争がおもに「社会団体」を対象としていたのに対して、戦後は専ら「階級」が対象となりました。マルクス主義と科学が同一視され、人類史の発展の究極がソ連および中国とされ、歴史学でもマルクス史学の権威が確立し、そのような背景で「世界史の基本法則」が主張されました。本書は、戦前に社会の結合、とくに「共同体」に関心が集まったのは、マルクス史学がその概念を用いて「アジア式生産様式」を主張したからで、それを中国に当てはめたのが「停滞論」だった、と指摘します。一方、階級闘争は「進歩」・「発展」に直結する概念なので、中国「停滞論」に染まっていた戦前日本では有力な論点とはなりませんでした。つまり、「社会団体」と「階級論」はマルクス史学の論理に基づく限り二者択一となり、両者を同時に関連づけられないわけで、それが東洋史学における戦前と戦後の主要な論点の違いに結びつきました。内藤説を継承して歴研派に対抗したはずの京都学派の宮崎も、内藤が主張した「郷団」には言及しませんでした。時代区分論争は、こうした構造に支えられていました。

 この状況を変える新たな動向を築いていった代表的な人物として、本書は谷川道雄を挙げます。谷川は京都学派の代表格の一人とみなされていますが、当初は六朝時代を古代と考えており、また時代区分論争の当事者ではありませんでした。しかし、六朝を古代とする谷川の研究は行き詰まり、六朝を中世と考えるようになります。谷川は、内藤が提示した「貴族制」を独自の観点から深めて「豪族共同体」という説を主張し、「谷川共同体理論」と称されました。谷川は、宮崎が研究した九品官人法の成果に基づき、豪族と貴族の関係、豪族を巡る環境に着目し、社会の基層を解明しようと試みました。宮崎は、郷里の人物評価が貴族制の根底にある、と考えました。谷川はそれを踏まえて、貴族を支配者たらしめる組織を「豪族共同体」と称しました。大土地所有の豪族の周囲には、小土地所有の自作農村が少なからずいました。谷川は、自作農が存在する以上、自作農が暮らせて豪族に高い「人物評価」を与える条件があったはずで、それが豪族の有する人格・倫理だった、と考えました。豪族は余剰資産を困窮した人々に施して救済することで、高い「人物評価」を得た、というわけです。こうして、貧民と小作農と豪族が同じ場で共同して暮らせる社会、つまり「共同体」の維持が可能になり、このような「共同体」を基盤として「貴族制」が成立していた、と谷川は見通していました。

 歴研派は「谷川共同体理論」を観念的であまりにも倫理性を強調しすぎている、として厳しく批判し、それは時として特定の政治的立場からの及第の様相さえ呈しました。たとえば、階級支配の本質を曖昧にしたとか、平和と民主主義の実現を目指す現代の闘いに背を向けるとかいったものです。こうした批判に対して谷川は、倫理性もしくは精神性が再生産構造の不可欠な主体的条件だった、と反論しました。谷川も批判者たちと同じく、階級史観の洗礼を受けた研究者で、マルクス主義者としての自覚に揺るぎはありませんでした。

 しかし谷川は、「階級史観」の内容を、民衆が存在して権力者と闘い、歴史を変えた、と言うだけでは満足できませんでした。民衆は単に被支配者であるだけではなく、次第に組織化し、新たな社会秩序を形成していったはずである、と考えました。その新たな社会秩序が何なのか、谷川はなかなか把握できませんでした。権力者・勢力家が支配しながら、なお自立小農が多くを占める社会の秩序構造や階級関係を説明するのに、階級闘争だけでは不充分というわけです。谷川はその苦闘の末に「豪族共同体」の理論と、貴族の「倫理性」・精神的指導性に到達しのました。谷川は、あくまでも当時の中国の「階級関係のあり方」を突き詰めて考察した結果、「豪族共同体」理論に達したわけで、歴研派からの批判を受け入れられず、「異端審問」という比喩まで用いて反発し、戦後における「階級史観」の神聖化と批判します。

 本書は、「階級史観」を突き詰めて階級関係が「共同体」というあり方で支えられた、と論じた谷川が、階級史観か共同体論かという二者択一的な整理に不満を抱いていたことに注目します。これは、「階級史観」と「共同体」概念は二律背反である、という先入主・定見が評者にあり、そうなる理由は「階級史観」が神聖不可侵とされていたからです。「階級史観」では、「階級」が「闘争」することにより「進歩」と「発展」が生じる、とされます。中国史が「進歩」と「発展」の歴史ならば、史実は「闘争」の過程しかあり得ません。もしそうでなければ「停滞」しかなく、「闘争」しない「共同体」は「停滞」を導く故に中国史の把握において禁忌の概念とされました。「階級史観」で前提される社会の構成もしくは階級関係は、所与の前提でした。これに異を唱えたのが、「階級史観」を信奉していたはずの谷川の「共同体」論だったので、歴研派などは激怒したのだろう、と本書は推測します。階級史観の洗礼を受けた以上、「共同体」を主張すれば「転向」であり、「異端」に他ならない、というわけです。

 「異端」とされ「審問」を受けた谷川の反論は、「階級史観」を導く根源的な発想にまで及ばざるを得なくなります。タラ側が行き着いたのは、「戦後の反体制運動に内在している近代主義的発想」でした。「近代主義」はヨーロッパ史の発展過程を正常としており、「近代」とは端的には、ヨーロッパ世界が「主導権を握った」資本主義を指します。資本主義は「私有財産制の最高の段階」で、その私有財産制の「発展」こそ階級との闘争を生み出してきました。ヨーロッパ資本主義だけの「発展史」を他の世界にも「正常」なものとして当てはめ、「人類の全歴史」にすり替えることを、谷川は問題と考えました。本書は「谷川共同体理論」を、単に東洋・中国史学の一学説・理論とみなすだけでは不充分で、日本人に支配的な中国観あるいは「思想」そのものに対する抵抗だった、と谷川の先鋭な問題意識を指摘します。

 谷川は、階級闘争史観を「神聖化」する考えに陥ってしまう理由を、階級闘争史観・マルクス史学にそもそも組み込まれていた「近代主義」という西洋思想と、それと向き合う日本人全体の姿勢に求めました。その特徴は、「歴史把握の基準を私有財産制の発展においている点」にあります。そのため、「私有制」が「欠如」すれば、まったく「発展」しない「停滞」論になり、「未熟」ならヨーロッパより「発展」していない落伍した社会と「把握」せざるを得なくなります。中国史の時代区分論は、階級闘争史観か否かに関わらず、この「私有財産制の発展」史しか見ない「近代主義」を前提とするため、「停滞」論あるいは落伍論から脱却できなかった、というわけです。ヨーロッパ社会には私有財産制の発展史として把握できる特徴を有していたかもしれないとしても、それで「私有制がヨーロッパ世界ほど体制化を見なかった中国社会」を本当に理解できるのか、と谷川は問いかけます。谷川は、今後の中国史把握が、従来のヨーロッパ近代主義的歴史認識を単に排除するのではなく、ある意味では包摂しつつ、これを超えていくような視座に立たねばならない、と提言します。本書はこれを、中国史・マルクス史学に留まらない、日本人の「戦後的思想」と「歴史認識」に対する果敢な挑戦だった、と評価します。

 谷川は宮崎の門弟で、社会経済史を重視し、六朝時代を「中世」と規定し、「京都学派」とみなされたという点で宮崎と同じですが、大きな差異がある、と本書は指摘します。それは、中国しゃかいあるいは「社会」全般の在り様を突き詰めて考え、表明したかどうか、自身も含む日本人の「思想状況」まで省察したかどうかです。谷川の観点では、宮崎も疑いなく「近代主義」の範疇に入ります。それ故に谷川は孤立した、と本書は指摘します。谷川と研究活動を同じくしていた「中国中世史研究会」の研究者からも、「谷川共同体理論」に対して、「違和感を覚えた」とか「批判的に継承発展させる道を取り得なかった」とかいった評価が寄せられました。

 谷川は、時代区分問題が正面から論じられることは少なくなった1980年代以降の歴史学界全体の行く末を憂慮していました。1980年代以降、全時代を見通すような問題に関わるより、個々の歴史事象をミクロに観察して記述する傾向へと変化したからでした。谷川は、それによりもたらされた精緻な研究の価値を認めていたものの、そのような精緻な研究が、「固有の体質をもって生きて動いている中国社会」につながらない、「目標を失った」研究の「細分化」で、「研究者の問題関心が現実世界から離れて自己の個人的興味に向かった」にすぎないのではないか、と考えました。

 ただ本書は、「谷川共同体理論」の問題点も指摘します。なぜ「中世」なのか、というわけです。谷川は、「共同体」の性格が秦漢時代から変化したので、六朝時代とは区分できる、と主張しました。「谷川共同体理論」の中核的論点は貴族の「倫理」でしたが、それが「私利」を抑えて「公義」に向かう自己抑制精神ならば、六朝時代に限らない、という疑問が生じます。じっさい谷川は、六朝時代の貴族が有した高い「倫理」と、宋代以降のエリートである「士大夫」の視覚とが、「全く軌を一にする」と述べています。上述のように、歴研派でも京都学派でも、六朝時代と宋代とでは時代区分が異なります。六朝時代に「倫理」で保たれた「共同体」は、時代・段階が変わったはずの宋代以降にどうなるのか、また「全く軌を一に」したはずの「士大夫」は「共同体」を結ばなかったのか、という点についてもっと説明が必要だったのではないか、と本書は指摘します。これは、上述の矢野が内藤に投げかけた「唐宋変革」批判と通じます。つまり、「士」と「庶」の階級関係・社会構成は、中国史を通じて変わらなかったのではないか、という疑問です。本書は、「谷川共同体理論」が矢野の所論と通じる側面もあることを指摘します。

 また本書は、谷川が「共同体」という概念を使ったことに注目します。谷川が用いた「共同体」の典拠はマルクス史学の「共同体」概念でした。谷川は中国史における「共同体」の「自己展開過程」をヨーロッパの「私有財産制の発展史」に対置し、それを「包摂」すべきものとして措定しました。また谷川は、「私有制が成立している歴史段階の下での共同体とは、まさしく私有制の抑止ないし超克の意味として実在し機能する」とも述べており、そこに「谷川共同体理論」の理論的基礎がありました。谷川が用いた「共同体」は、「停滞論」の「共同体」ではありませんが、マルクス史学の述語概念には違いなく、論理としては、資本主義の「超克」を共同体の存在に求めた平野たちの「アジア主義」とも同じです。本書は、資本主義=私有制の発展史=階級闘争というテーゼに対抗するのは「共同体」であるとする図式・措定が、抜きがたく残存していた、と指摘します。谷川が「階級史観の洗礼を受け」ながら裏切った、と指摘する「異端審問」にさらされなくてはならなかった究極的理由がそこにある、というわけです。

 谷川の云う「共同体」は戦前の「停滞論」や「アジア主義」とまったく無縁とは言えない理論概念で、晩年に内藤研究に従事したことからも、谷川もそれは自覚していただろう、と本書は推測します。谷川は、内藤の「中国社会を内在的に見るという視点」と、「ヘーゲルやマルクスやウェーバーに欠けた」ものを見つめ直すよう、提言します。谷川は、内藤はその「視点」があったからこそ独自の中国史の体系・時代区分論を構築でき、自身もそれを継承して六朝時代を「中世」と説くことができた、と述べます。谷川は、「中世共同体」理論を内藤説の継承と位置づけ、中国史には独自の発展の論理がある、と繰り返しました。

 しかし本書は、そうならば、谷川は内藤説の核心たる唐宋変革、つまり「中世」と「近世」、貴族の「倫理」と士大夫の資格との違いを、自らの理論に即して明示する必要があった、と指摘します。本書は、谷川が後年こうした点に思い至った、と推測します。谷川は新たに近世の「宗族共同体」、通時代的な「国家共同体」・「家族共同体」などの概念を用いて、「中世」に留まらない把握を試みましたが、いずれも、「中世共同体」との「共通性」の強調が勝っており、時代・段階を区分する明確な理論・説明には必ずしもなっていない、と本書は評価します。


 本書は、近代日本における中国への眼差しの曇りと偏りに関して、最大の焦点となるのが「社会団体」とそれが形成する中国社会の構造だった、と指摘します。戦前に中国の「社会団体」に着眼した立場は、「支那通」やギルド社会主義者などさまざまでした。西洋思想でも社会主義とは限らず、社会主義でもマルクス主義だけではありません。「アジア主義」に「転向」する者もいれば、いずれにも飽き足らず「王道」を主張する者もいました。戦前の中国観にはそれだけの振幅があり、際立つ論点・概念が「ギルド」と「共同体」でした。

 既成の資本主義に閉塞感が高まった「大正デモクラシー」の時代に、日本の若き知識層を風靡したのは西洋の社会主義思想でした。その現象は、近代日本の西洋式アカデミズムがこの頃に確立したことと無関係ではありません。「ギルド」も「共同体」も社会主義と深く関わる概念で、いずれも西洋の社会・歴史から生まれた理論を前提とします。それが日本人の中国観にもたらしたのは、中国の政治・社会を西洋・日本と同一視したうえで、西洋を基準として対比する認識法です。それは、中国人「よりも中国のことをよく知っている」橘も、中国「のことは全く分らなかった」吉野も、「我国民の認識不足」を嘆いた石橋も、程度の差こそあれ変わりませんでした。

 戒能は資本主義・近代化の理論から共同体の存否を考え、中国には西洋・日本のような近代化の前提がない、と考えました。戒能の「脱亜主義」の結論は、マルクスが唱えた「アジア的生産様式」ら基づく「停滞論」と同じでした。一方、「共同体」ら近代・資本主義の超克を託して「アジア主義」に「転向」する平野のような人物や、橘のように「王道」主義に「方向転換」した人物もいました。いずれも西洋思想の変種で、等しく中国侵略に帰結しました。本書は、こうなってしまう日本人の思惟構造・思考様式にこそ根本的な問題がある、と指摘します。

 戦前の中国観は軍国主義の抑圧の所産だったので一新しなくてはならない、と標榜して始まったのが、戦後の「停滞論」克服の動きです。中国は「停滞」しておらず、歴史的に「発展」してきた過程を立証することが、戦前の過ちを払拭するに等しい、というわけです。その目標のため不可欠とされ、「神聖化」されたのが階級闘争論でした。その一方、戦前盛んに議論された「社会団体」・社会構造の問題は、あまり触れられなくなります。階級闘争でなければ「停滞論」という、二者択一の論理になったからです。戦前と戦後の中国観は、一見すると大きく異なるように映ります。

 谷川はこうした構造を批判するなかで、階級闘争を「神聖化」する「近代主義」を剔抉しました。戦後日本の「思想状況」の本質が、「私有制」のヨーロッパを前提・基準にして考える「近代主義」に存するならば、それは戦前の在り様とまったく変わっておらず、単に戦後日本でマルクス主義が普遍化し、それにより思想が画一化しただけだった、というわけです。上述の中国観の「振幅」とは、多元的な多様さではなく、あくまでも西洋思想という一つのものの振れ幅でした。

 近代の学問・科学がヨーロッパ近代で形成された以上、研究対象が西洋か否かに関わらず、西洋思想・「近代主義」・「私有制」を前提としない研究分野があり得ないことは、中国学・東洋史学に限らず、不可避な宿命です。しかし、その研究の実践は、西洋の理論概念を条件の異なる対象と無前提・無媒介・無批判に短絡させるような安易な手続きであってはならない、と本書は指摘します。靴に合わせて踵を切ってしまうのではなく、靴を絶えず踵に合うよう修正していかねばならない、というわけです。本書は、その逆となってしまうところに問題の核心がある、と指摘します。

 「ギルド」にせよ「共同体」にせよ階級闘争にせよ、いずれの理論概念も「近代主義」の産物で、それを安易に中国社会に短絡させている、というわけです。戦前は「ギルド」で中国落伍論、「共同体」で「停滞論」に帰結し、中国侵略に加担しました。しかし、「停滞論」の克服は当然として、それだけでよかったのか、と本書は問題提起します。この問題に気づいたのが谷川でしたが、マルクス主義者の谷川は「共同体」という概念に固執しました。谷川は短絡させたわけではありませんが、「近代主義」の概念範疇に留まったため、中国侵略の再現を恐れる「異端審問」を誘発した、と本書は指摘します。

 中国社会の構造を論ずることができない「近代主義」・「西洋思想」で中国に向き合い、心ならずも侵略に加担してしまうことこそ、近代日本の隘路でした。そうならば、そのような「近代主義」の内容と限界を知らなくては始まりませんが、谷川は内容を喝破しても限界を見極めなかったので、それが後進の責務になる、と本書は指摘します。本書は、「近代主義」そのものが問題ではなく、それを無条件に崇め奉る我々の知性・心性や、外来思想なにすべて尊重すべきと信じ、難解な概念ならすべて高尚だと考えるナイーブな感覚こそ問題である、と指摘します。学説や理論・知識は外来語(前近代は漢語、近代以降では英語を中心にヨーロッパ系言語)で表現して立論すべきで、それを知的と考える「知識人」が多い、というわけです。より具体的には、明治の「支那通」や大正のアカデミー・インテリです。これは、外来の難解な漢字・漢文で知性を作り上げてきた日本人の歴史的習癖で、かつての漢学・漢語が横文字に置き換わっただけで、知の組成・体質は今も変わっておらず、それは東洋学と中国学に留まらず、文理を問わずあらゆる分野で同断だろう、と本書は指摘します。

 そこから起こる通弊は、理論と事実、概念と対象との乖離です。理論・概念をよく咀嚼できないまま現実の対象に当てはめ、あるいは、事象をじっくり観察しないまま、概念を貼り付けて理論化してしまいます。これは戦前も戦後も変わりません。吉川幸次郎は1944年の時点で、日本人は一つのものを熟視せずにすぐ結論を下したがる、と指摘していました。フランス行政法の専門家で加藤を指導した織田萬は、中国人を「不可解の民族」だと畏怖し、「その不可解なることを了解」せずに、「単純な一片の理屈を振りかざして」はならない、と警告しました。

 中国という対象はきわめて難解で、隣人の日本人は中国とずっと付き合っていかねばならない、と本書は指摘します。「単純な一片の理屈を振りかざし」た結末は、侵略と破局でしたが、「友好」・「反日」・「嫌中」といったお題目とレッテル貼りで騒いでいるのが日本の現状です。本書は最後に、中国とその社会、さらには社会の仕組みと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじっくり、しっかり見つめていくことを提言しています。


 以上、長くなりましたが、本書をざっと見てきました。本書は、日本人の中国観や中国史をめぐる認識・論争に留まらず、日本人の前近代から続く通時的な知的態度の問題点も指摘しており、たいへん視野が広くなっています。本書には教えられるところと同時に、反省させられるところが多々ありました。私も、外来の概念をよく理解しないまま、安易にある事象に適用しないよう、自戒せねばなりませんが、怠惰な凡人には難しいことも否定できません。せめて、なるべく頭の片隅に留めておくよう、心がけるくらいしかできなさそうです。

 著者の他の著書をそれなりに読んできたことと、中国史の時代区分論争に関して多少は予備知識があったことで、本書をすんなりと読み進められました。各分野の専門家からすると、疑問点も色々とあるかもしれませんが、私にとってはひじょうに有益な一冊でした。現代における日本人の中国観で気になるのは、日本より中国が「先進的」という、近代以降の日本人における強い確信が全体的に見て実質的にはほぼ覆ってしまった状況で、日本人が中国をどう認識していくのか、という問題です。

 もちろん、本書が指摘するように、第二次世界大戦後まもなく中華人民共和国が成立したことは、日本よりも中国の方が「先を進んだ」として、当時の日本人知識層に大きな衝撃を与えました。しかし、日本に対する中国の「先進性」がほぼ幻想であった当時とは異なり、現在では、経済力・技術力・軍事力など、日本に対する中国の「先進性」がかなり可視化されてきたように思います。もちろん、まだ「民主化」や「選挙」や「自由」などの点で中国を後進的とみなす日本人は少なくありませんが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が一部都市で流行しながら全国的には抑え込みに成功したことや、さまざまな分野で可視化されてきた高い技術力などから、日本よりも中国の方が「先進的」と考える日本人は、今後増加していくでしょう。

 その場合、かつては中国の「後進性」と考えられていた事象が、実は「先進性」の表れだったとか、「先進性」の基盤になったとかいった、評価の逆転も見られるようになるかもしれません。しかしそれが、中国社会をじっくり観察したうえでの内在的考察なのか、何か借り物の思想・概念を表層的に当てはめただけではないのか、と自省することも必要になるでしょう。とはいえ、日本に対する中国の優位を多くの日本人が認めるようになれば、そのように自省的に中国社会を考察する人よりも、表層的に中国社会を「理解」する人の言説の方が、大きな支持を集めて主流になりそうではありますが。それは、かつてのように日本の針路を誤らせる可能性があるという意味で、懸念されます。

 また、すでに色々と関連の一般向け書籍も多いでしょうが、日本に対する中国の決定的優位を確信した中国人が、日本をどう理解し、それが日本にどのような影響を及ぼすのか、という点も日本人の私としては気になります。もちろん、日本における中国への関心と中国における日本への関心は非対称的で、変動はあるにしても、通時的に前者が後者よりもずっと高いのでしょうが(日本が圧倒的優位を誇った日清戦争から日中戦争の頃は今よりもずっと差は小さかったでしょうが)、中国は人口が多いだけに、割合は少なくとも、絶対数では日本に関心を抱く中国人は多いでしょうから、日本人が中国人の言説に影響を受けやすい構造は形成されやすい、と思います。

 中国は現在、建前としてマルクス主義を放棄していません。したがって、中国において今後、中国風のマルクス主義で日本の社会と歴史を理解しようとする動きが強くなり、日本に影響を及ぼす可能性も考えられます。ただ、少なくとも現時点では、中国は日本も含めて他国に対して、侵略の有無や領土問題といった直接的に関係する事象を除けば、自国の認識およびその前提となる方法論を、他国に対してその社会と歴史の認識に強制することは基本的にないようです。これは、中国が学術や文化に関して、まだ他国、とくに日本など「先進国」に対して、圧倒的優位を確立したという強い確信を抱けていないこともあるのでしょう。

 しかし、今後中国が経済・軍事力とともに学術や文化でも日本など「先進国」に対して圧倒的優位を確立したと確信すれば、あるいは自国の認識およびその前提となる方法論を他国に押しつけてくることもあるかもしれません。ただ、門外漢の思いつきにすぎませんが、現時点では、そうならない可能性の方が高いように思います。仮に、今後中国が自国の認識およびその前提となる方法論を日本に押しつけてくるか、日本人の中で「自発的に」中国の認識およびその前提となる方法論を日本の社会と歴史の分析に当てはめようとする動きが出てくるならば、それは本書で批判されたかつての日本の知識層の中国に対する姿勢と同様で、批判されるべきだと思います。たとえば、中国の「発展段階」や時代区分や民族概念・区分・形成過程を、日本の社会と歴史にも当てはめて解釈するような動きです。

 中国は現在でもマルクス主義を建前として維持していますから、中国の社会と歴史に関する公的(体制教義的)認識は、かなり偏っている可能性も考えられます。もっとも、専門家の間では、一般向けへの大々的な公表にはかなりの制約があるとしても、研究自体は一定以上の自由が認められているようにも思われますが。問題は、日本に対する中国の優位は決定的だとして、中国の専門家の議論に疎い一般の日本人が、公的(体制教義的)認識を安易に日本の社会と歴史にも安易に当てはめて解釈することで、それは日本人の自国理解を大きく歪めるのではないか、と懸念されます。たとえば、日本史を奴隷制とか封建制とかいった概念で把握しようとすることです。これは、かつての「支那通」のうちの少なからぬ人々と同様の振る舞いだと思います。現在は出版不況のなか「嫌中本」が売れているようですが、日本の情勢が変われば、「先進的な」中国の認識を崇め奉って日本を解釈するような本が、今度は持て囃されるかもしれません。これが杞憂というか私の妄想で終わることを願っています。

貧困層の人々の富裕層への課税に対する支持

 貧困層の人々の富裕層への課税に対する支持に関する研究(Sands, and de Kadt., 2020)が公表されました。心理学研究から、個人の態度形成は仲間や他者との社会的比較によって形作られる、と示されています。人々は、不平等に関する情報を提示されると行動を変え、たとえば、気前が悪くなったり、協力的でなくなったりする、と明らかになっています。そうした比較の機会は世界的な不平等の拡大とともに増えており、それは、日常的な経験が社会的階級のシグナルを介して経済格差をより顕著にし得るからです。しかし、現実世界における不平等を思い起こさせる物理的実体に対して個人がどのような応答をするのかについては、あまり分かっていません。

 この研究は、社会経済的地位の低い人々では、そうした不平等への身近な曝露により富の再分配への支持が駆動されることを示しています。この研究は、社会経済的地位の低い人々が、ランダム化された高級車の存在を通して不平等を想起させる実世界の対象に遭遇する、というプラセボ対照野外実験を設計し、南アフリカの複数の地区で実施しました。この実験では、通行人に対して、富の再分配に役立てるための富裕層への増税を求める請願書への署名を求める場合と、原子力発電を代替エネルギー源に切り替えることの請願書を見せる場合とが設定されました。その結果、実験的プラセボ効果を考慮に入れると、近くの路上に高級車を停めておくという不平等の存在下では、請願書に署名する確率が11パーセントポイント上昇する、と明らかになりました。全体的に見て、高級車が停めてあった場合に、通行人が原子力発電所の請願書に署名する確率は相当に低くなりましたが、対照群が税金に関する請願書に署名する確率とあまり変わりませんでした。

 このプラセボ効果は、個人が請願書に署名する一般的な確率を低下させ、これは、社会的な上方比較が政治的有効性を低下させることを示す証拠と一致します。経済的不平等の尺度は地域レベルで構築され、社会経済的地位の低い人々の調査結果と結びつけられました。不平等への身近な曝露は、経済格差に取り組むための富裕層への課税に対する支持と正に関連する、と明らかになりました。不平等は身近な曝露を通して富の再分配への選好性に影響を及ぼす、と推測されます。しかし、この研究の結果は不平等が参加を抑制する可能性も示しており、そのため、これらの知見がより広い地域規模または国家規模で持つ政治的な意味合いについては、まだ不確かです。こうした心理の進化的基盤という観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人間行動:不平等を目の当たりにすると富裕層への課税を支持する気持ちが増す

 南アフリカ共和国の低所得者居住地域の住民は、不平等を思い起こさせる物理的実体が存在すると、富裕層への課税を要求する確率が高くなることを示唆する研究論文が、今週、Nature に掲載される。不平等な社会では経済格差が至る所に存在するため、今回の研究は、あまり裕福ではない人々が社会的不平等に対して行動を起こすきっかけとなる状況について重要な知見をもたらしている。

 これまでの調査や実験室での研究で、人々は、不平等に関する情報を提示されると行動を変え、例えば、気前が悪くなったり、協力的でなくなったりすることが明らかになっている。しかし、現実世界における不平等を思い起こさせる物理的実体に対して個人がどのような応答をするのかについては、あまり分かっていない。

 今回、Melissa SandsとDaniel de Kadtは、高級車の存在が富裕層への課税に関する人々の意見に影響を与えたかどうかを調べた。今回の研究では、南アフリカ生まれの人が、南アフリカのソウェトの低所得者居住地域の繁華街で請願活動を行い、通行人に対して請願書への署名を募った。この調査では、富裕層への課税強化の請願書を見せる場合と原子力発電を代替エネルギー源に切り替えることの請願書を見せる場合を設定した。その結果、近くの路上に高級車を停めておいた場合には、富裕税への支持が増えたが、その一方で、請願書に署名する意欲が抑制されたことも分かった。Sandsとde Kadtは、請願書に署名する意欲が抑制される点を補正した上で、富裕層課税の請願書署名者の割合が11ポイント増えたと報告している。全体的に見て、高級車が停めてあった場合に、通行人が原子力発電所の請願書に署名する確率が相当に低くなったが、対照群が税金に関する請願書に署名する確率とあまり変わらなかった。

 同時掲載されるColin TredouxとJohn DixonによるNews & Viewでは「Sandsとde Kadtの研究は、人々が、不平等を思い起こさせる物理的実体を毎日見ていると、抵抗行動に駆り立てられることを明らかにしている」と記されている。あまり裕福ではない人々に署名を働きかけると、規範的抗議行動(例えば、政府が所管する徴税の要求)を取る傾向が強い。このことが、有意義な貢献となって、永続的な変化につながるかどうかは、いまだに分かっていない。


人間行動:不平等への身近な曝露は、貧困層の人々の富裕層への課税に対する支持を高める

人間行動:人々を不平等にさらすと富裕層への課税に対する支持が高まる

 我々は常に自分と他者を比較している。社会的比較というこの習慣を使って、不平等を緩和することは可能なのか。M SandsとD de Ladtは今回、南アフリカの社会経済的地位の低さと関連付けられている複数の地区において、高級車が存在する場合には存在しない場合よりも、人々が富の再分配のための課税を求める請願書に署名する確率が高まることを明らかにしている。地区レベルの分析結果をまとめたところ、不平等への身近な曝露が、経済格差に取り組むための富裕層への課税に対する支持と関連付けられることが示された。



参考文献:
Sands ML, and de Kadt D.(2020): Local exposure to inequality raises support of people of low wealth for taxing the wealthy. Nature, 586, 7828, 257–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2763-1

渡哲也氏・宮内淳氏・岸部四郎氏の訃報

 私の場合、訃報を取り上げるのには普段の生活とは異なる気力が必要なので、当ブログで言及しようと思いつつ、これまで触れずにきましたが、やや気力が戻ってきた機会に、今年(2020年)亡くなった渡哲也氏・宮内淳氏・岸部四郎氏について述べておきます。まず、3氏のご冥福をお祈りいたします。私が3氏を取り上げるのは『太陽にほえろ!』と関連があったからなのですが、芸能生活において『太陽にほえろ!』の比重がひじょうに高い宮内氏はともかく、渡氏と岸部氏、とくに岸部氏に関しては、『太陽にほえろ!』への出演を知らない人も多いだろう、とは思います。

 3氏のうちまず亡くなったのは渡氏で(8月10日)、大物だっただけに、大きく報道されました。渡氏は『太陽にほえろ!』に出演していましたが、視聴率の低迷した末期だっただけに、そのことはあまり知られていないように思います。渡氏の『太陽にほえろ!』への出演は、石原裕次郎氏に最終回(関連記事)で復帰してもらうまでの代役だったわけですが、当時は、オープニングが変わったことと共に、かなり違和感がありました(関連記事)。しかし今となっては、石原氏の最終回での復帰までよく代役を務めてくれた、と感謝しています。『西部警察』をほとんど視聴したことがない私にとって、『太陽にほえろ!』以外での渡氏というと、大河ドラマでは1996年放送の『秀吉』と2005年放送の『義経』、2009~2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』が印象に残っています。いずれも、大物感のある役でした。

 宮内氏が亡くなったのは8月14日ですが、公表されたのは9月になってからで、まだ70歳になったばかりで、渡氏や岸部氏とは異なり、闘病生活が伝えられていなかったので、本当に驚きました。3氏の中では、宮内氏の訃報の扱いが最も小さかったように思いますが、すでに芸能界から実質的に離れて30年以上経過していただけに、仕方のないところでしょうか。宮内氏が『太陽にほえろ!』に出演していた頃は、ひじょうに視聴率が高く、当時の宮内氏の人気は本物だったのでしょうが、殉職という形で『太陽にほえろ!』を離れてから短期間で芸能界から実質的に離れていったため、その後は「あの人は今」といった扱いだったように思います。宮内氏の出演時期が『太陽にほえろ!』の全盛期と言えそうですが、宮内氏の実質的な芸能生活が比較的短かったことから、宮内氏の出演時期の『太陽にほえろ!』、とくにロッキーとの若手コンビの時期は、本放送時よりも過小評価されているように思います(関連記事)。それでも、当時の視聴者の記憶に残っているからなのか、宮内氏の訃報はTwitterではかなり話題になったように思います。2019年には宮内氏の著書が刊行されましたが、いわゆる精神世界的な本で(関連記事)、驚かされましたが、率直に言って悲しくもありました。しかし、宮内氏の著書を読んだ当時は知りませんでしたが、すでに癌で余命宣告を受けていたかもしれないと考えると、印象がまた変わってきます。もしそうならば、精神世界への傾斜を強く責めることはできない、と思います。

 岸部氏が亡くなったのは8月28日で、公表されたのは9月になってからでした。岸部氏に関しては、随分前から闘病生活が伝えられていたので、さほど驚きはありませんでした。岸部氏が『太陽にほえろ!』に出演したのは1回だけですが、宮内氏演じるボンの姉の婚約者という役だったこともあり、強く印象に残っています(関連記事)。岸部氏は厚かましくも憎めない男性を好演しており、その後の『西遊記』と『西遊記II』での好演からも、役者としても才能があると思います。それだけに、自己破産後の転落が残念でなりません。テレビ神奈川では、現在『西遊記II』が再放送されており、今年冬から春にかけては『西遊記』が再放送されていました。『西遊記II』は週1回の再放送なので、完結はまだ先になりますが、今後も岸部氏の演技に注目して再視聴を続けます。

エイズウイルスの異種間伝播

 エイズウイルスの異種間伝播に関する研究(Nakano et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。レトロウイルス科レンチウイルス属のエイズウイルスは、後天性免疫不全症候群(エイズ)の原因となり、ヒト免疫不全ウイルス(human immunodeficiency virus、略してHIV)と呼ばれます。ウイルスが異なる種の宿主に感染する(異種間伝播)には、さまざまな障壁を乗り越える必要があります。ウイルスはまず、元の宿主から新たな宿主へと「暴露(spillover)」される必要があります。次に、ウイルスは新たな宿主で複製する中で、新しい宿主の中で複製するために有利になる変異を獲得して、新たな宿主の個体の中で伝播し、新たなウイルスとして適応進化します。

 しかし、ウイルスが異なる種の宿主に適応進化し、異種間伝播を達成するためには、「種の壁(species barrier)」を乗り越える必要があります。哺乳類は宿主の「種の壁」の一つとして、ウイルス複製を阻害する「内因性免疫(intrinsic immunity)」を進化的に獲得してきた、と知られています。内因性免疫は、哺乳類が進化する過程において、ウイルスなどの外来の病原体から生体を守るために獲得した防御機構で、レンチウイルス(レトロウイルス科レンチウイルス属に属するウイルスの総称で、ヒトではHIVが、チンパンジーではSIVcpzが、ゴリラではSIVgorが分離・同定されており、ネコやウシやウマなどでも病原性ウイルスとしてレンチウイルスが分離・同定されています)の感染を防御する因子として、APOBEC3Gやtetherinなどの細胞性タンパク質が同定されています。

 エイズウイルスはじめとするレンチウイルスの感染を阻害する内因性免疫の一つとして、細胞性シチジン脱アミノ化酵素であるAPOBEC3G(霊長類が有する内因性免疫の一つであるシチジン脱アミノ化酵素で、放出されるレンチウイルスの粒子に取り込まれ、新規感染細胞で合成されるウイルスゲノムに変異を挿入することにより、レンチウイルスの複製を強力に抑制する機能を有します)が知られています。ウイルス感染細胞に発現するAPOBEC3Gは、放出されるウイルス粒子に取り込まれ、新規感染細胞で合成されるウイルスゲノムに変異を挿入することにより、ウイルスの複製を強力に抑制します。

 一方、多くのレンチウイルスは、viral infectivity factor(Vif)(注8)というウイルスタンパク質を保有しています。Vifは、エイズウイルスをはじめとするほとんどのレンチウイルスがもつウイルスタンパク質の一つで、細胞のユビキチン・プロテアソーム系を動員することにより、感染細胞で発現するAPOBEC3Gタンパク質を分解して、APOBEC3Gによるウイルス複製阻害機能を拮抗阻害します。レンチウイルスのVifと宿主のAPOBEC3Gの相互作用は、種特異性が極めて高い、と知られています。すなわち、レンチウイルスが新たな宿主へと異種間伝播するためには、APOBEC3Gという「種の壁」を乗り越える必要があります。

 分子系統学とウイルス分離場所の地理情報の統合解析(系統地理学的解析、biogeography)から、エイズウイルスは、約100年前に中央アフリカで誕生した、と推察されています。エイズウイルスは系統学的に、グループM(major)、N(non-M-non-O)、O(outlier)、Pの4つの集団に分類されます。また、分子系統学的解析から、グループMとNのエイズウイルスはチンパンジーのレンチウイルスSIVcpzが、グループOとPのエイズウイルスはゴリラのレンチウイルスSIVgorが、それぞれヒトへと異種間伝播することで誕生した、と示唆されています。また、ゴリラのレンチウイルスSIVgorも、チンパンジーのレンチウイルスSIVcpzが、ゴリラへと異種間伝播することで誕生した、と推察されています。

 このように、ウイルスの配列情報を用いた分子系統学的解析により、エイズウイルスの誕生につながる、類人猿の中でのレンチウイルスの異種間伝播の経路については詳細が明らかとなっています。しかし、それぞれのレンチウイルスがどのようにして新しい宿主の「種の壁」を乗り越え、新しいレンチウイルス(ヒトにとってのエイズウイルス)へと適応進化したのか、その分子メカニズムについてはほとんど明らかとなっていませんでした。

 興味深いことに、チンパンジーのレンチウイルスSIVcpzのVifタンパク質は、ゴリラの内因性免疫APOBEC3Gを拮抗阻害できない、と知られていました。一方、ゴリラのレンチウイルスSIVgorのVifタンパク質は、ゴリラのAPOBEC3Gを拮抗阻害することができます。これらの事実は、ゴリラの内因性免疫APOBEC3Gが、チンパンジーからゴリラへのSIVcpzの異種間伝播を妨げる「種の壁」となっていること、また、SIVcpzのVifタンパク質は、ゴリラのAPOBEC3Gを拮抗阻害する機能を獲得することにより、SIVgorとして適応進化した、と推察されます。しかし、ウイルス種間でのvif遺伝子の配列相同性はきわめて低く、SIVcpz Vifがどのような変異を獲得することによってゴリラのAPOBEC3Gを拮抗阻害する機能を獲得したのかは明らかとなっていませんでした。

 この研究は、分子系統学情報とウイルス配列情報に基づいたさまざまなVifタンパク質変異体を作出し、ウイルス学と細胞生物学に基づく詳細な分子スクリーニング実験を行ないました。その結果、M16Eというたった一つのアミノ酸変異により、ゴリラのAPOBEC3Gを拮抗阻害する機能が獲得される、と明らかになりました。すなわち、チンパンジーのレンチウイルスSIVcpzは、Vifタンパク質のM16Eという変異を獲得することにより、ゴリラの内因性免疫APOBEC3Gという「種の壁」を乗り越え、SIVgorという新しいレンチウイルスへと適応進化した、というわけです。

 この研究は、実世界で起こったレンチウイルスの種間伝播の原理を、分子系統学と実験ウイルス学の学際融合研究により解明した初めての成果です。チンパンジーのウイルスSIVcpzを祖先とするグループMのエイズウイルスは、誕生から現在に至るまで全世界で流行し、7000万人以上の感染者を生み出しているのに対して、ゴリラのウイルスSIVgorを祖先とするグループOのエイズウイルスは、アフリカで限局的に流行し、感染者数も数十万人に留まっています。この研究の成果とこれらの事実から、レンチウイルスがゴリラを経由することにより独自の進化を遂げ、ヒトへの異種間伝播にも影響を与えた、と示唆されます。今後の研究により、レンチウイルスの異種間伝播の分子メカニズムと、「種の壁」としてのヒトの内因性免疫の解明が期待されます。


参考文献:
Nakano Y, Yamamoto K, Ueda MT, Soper A, Konno Y, Kimura I, et al. (2020) A role for gorilla APOBEC3G in shaping lentivirus evolution including transmission to humans. PLoS Pathog 16(9): e1008812.
https://doi.org/10.1371/journal.ppat.1008812

イタリア北東部の後期ネアンデルタール人の歯

 イタリア北東部の後期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の歯に関する研究(Romandini et al., 2020)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)のヨーロッパへの到来、現生人類とネアンデルタール人との潜在的な相互作用、4万年前頃のネアンデルタール人の絶滅(関連記事)の根底にある生物文化的過程に関する理解は、中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期における人類遺骸の不均質な分布により妨げられています。

 57000~29000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)3におけるイタリア半島の人類遺骸は、おもに45000~40000年前頃のネアンデルタール人と現生人類のものがわずかに発見されています。初期の人類遺骸では、イタリア北部のフマネ洞窟(Grotta di Fumane)のA11層とA9層(47600年以上前)ではネアンデルタール人の歯が、リパロタグリエント(Riparo Tagliente)では、36層で年代不明のネアンデルタール人の歯が見つかっています。より新しい人類遺骸では、カヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)において、ネアンデルタール人の上顎第一乳臼歯(45000年前頃)、ウルツィアン層の2個の現生人類の乳歯の小臼歯(関連記事)が発見されています。リパロボンブリーニ(Riparo Bombrini)岩陰遺跡とフマネ洞窟では、41000~40000年前頃となるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)と関連する現生人類の乳歯が発見されています(関連記事)。フマネ洞窟A3層では、文化的関連と形態的分類の不明な大臼歯が発見されています。

 イタリアの人類遺骸に関する最近の再評価では、ウルツィアンと関連する現生人類は、ヨーロッパ南部に遅くとも45000年前頃には存在した、と示唆されています。しかし、レヴァントのエミリアン(Levantine Emirian)との類似性を示す、ヨーロッパ中央部のボフニチアン(Bohunician)インダストリー遺跡で得られた光刺激ルミネッセンス法(OSL)による年代(48200±1900年前)や、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)インダストリーの放射性炭素年代(47000~43000年前頃)から(関連記事)、現生人類がもっと早期にヨーロッパに到来した可能性も指摘されています。現在利用可能なデータに基づくと、50000~46000年前頃は、在来のネアンデルタール人と侵入してくる現生人類との間の生物文化的相互作用を解明するためには、たいへん重要な期間かもしれません。

 イタリア北東部のヴィチェンツァ(Vicenza)のリパロブロイオン(Riparo Broion)遺跡は、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行が明確に記録されている重要な遺跡です。現生人類がこの地域に到来した可能性のある層のすぐ下に位置するムステリアン(Mousterian)層では、後期ネアンデルタール人の生存戦略と物質文化に関する詳細な証拠が得られます。カヴァッロ洞窟やフマネ洞窟と同様に、リパロブロイオンは、中部旧石器時代後期遺物と関連する人類遺骸が得られるウルツィアン層を含む完全な層序を有している点で、イタリアでは数少ない遺跡です。

 本論文では、2018年にリパロブロイオン遺跡の後期ムステリアンの11層で発見された人類の脱落乳歯犬歯(リパロブロイオン1)の分類が決定されます。分類学的同定は、形態、エナメル質の厚さの2Dおよび3D分析、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析に基づきます。また分析のために、人類の上顎乳犬歯の包括的な参照標本が生成されました。さらに、50000~46000年前頃の重要な期間とリパロブロイオン1(RB1)との関連性を確認するため、放射性炭素年代測定法が適用され、リパロブロイオン遺跡のムステリアン層やウルツィアン層の年代と比較されました。比較対象となった標本は、ネアンデルタール人12個体分と上部旧石器時代および中石器時代の現生人類91個体と、まだ公表されていないネアンデルタール人5個体、早期現生人類2個体、上部旧石器時代現生人類2個体です。

 リパロブロイオン遺跡では考古学的に11の層序ユニットが確認されています。ユニット1は1aから1gまでの7層に区分されており、1a~1b層が前期続グラヴェティアン(Early Epigravettian)、1e・1f・1g層がウルツィアンです。ムステリアンはユニット4・7・9・11で確認されています。ユニット2・3では人為的痕跡の証拠がありません。リパロブロイオン遺跡のウルツィアンは、イタリア北部における上部旧石器時代早期文化の存在を確証した、と指摘されています。2018年に、リパロブロイオン遺跡11層上部で人類の歯が発見されました。

 この11層は、MIS3となるグリーンランド亜間氷期(Greenland Interstadial)14~12(54200~43300年前頃)に形成されました。この頃は、地中海東部およびヨーロッパ中央部の洞窟二次生成物動態記録では、湿潤で穏やかな環境とされています。長いグリーンランド亜間氷期(GI)14~12は、約1500年続いたハインリッヒイベント(HE)5を含むGI13により一時的に中断します。この変化は地中海地域に深刻な乾燥化をもたらしましたが、イタリア北東部では一般的に、花粉データから地中海地域の遺跡よりも高い森林被覆率が示されます。アルプス山脈の影響により、このアルプス南東部は比較的湿度が高かったようで、それは小型哺乳類の痕跡に示されます。55000~45000年前頃には、ヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris-mugo)が優勢なトウヒや寒冷地広葉樹との混合針葉樹林の拡大(平均37%、最大で70%)が見られます。落葉性コナラ属など温帯林分類群は4%ほど見られ、シナノキ属は4万年前頃まで存続しました。この期間には、草本植物の花粉などから、開けた環境も特定されており、おそらくHEにおいて大きな植生変化を伴い、グリーンランド亜氷期(GS)に拡大しました。

 長期的にデータから示唆されるのは、寒冷混合森林相の優勢で、おそらくは亜寒帯もしくは亜寒帯と広温帯と温帯の樹木分類群の混合から構成されます。そうした生物叢からは、冬が適度に寒く(最も寒い月の平均気温が-2~-15℃)、温帯の夏の緑樹に充分な積算成長度日(1200以上)があり、亜寒帯常緑針葉樹に充分な降水量がある、と予測されます。これと関連して、リパロブロイオン遺跡ユニット11で発見された動物考古学的データの予備分析では、ヘラジカ(Alces alces)やアカシカ(Cervus elaphus)やノロジカ(Capreolus capreolus)やギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)や野生イノシシ(Sus scrofa)やオーロックス(Bos primigenius)やステップバイソン(Bison priscus)とともに、数頭のヤギとウマ、魚類や淡水二枚貝のわずかな遺骸と関連する豊富なヨーロッパビーバー(Castor fiber)など、広範な種の存在が確認されています。これらの動物遺骸群からは、開地から密集して閉鎖的な森林におよぶ環境の存在が支持されます。これには、移行的で不連続なアルプス草原もしくは炭酸塩岩の先駆性植物が伴い、弱い水路や湿潤草地や浅い湖のある湿潤な湿地環境の存在により完結します。

 RB1は、EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)など形態ではネアンデルタール人に分類されます。mtDNA分析では、RB1は既知のネアンデルタール人の変異内に収まり、最も類似しているのは、ベルギーのスピ(Spy)およびゴイエット(Goyet)遺跡で発見されたネアンデルタール人で、その年代は43000~38000年前頃です。RB1とこれらベルギーのネアンデルタール人とは、mtDNAでは47000年前頃(最高事後密度間隔で51000~43000年前)に分岐した、と推測されます。mtDNAでは、RB1の年代は39000年前頃です(最高事後密度間隔で46000~30000年前)。一方、放射性炭素年代測定法では、RB1が発見されたユニット11の下部は95%信頼区間で50000~47000年前です。以下、mtDNA系統樹を示した本論文の図7です。
画像

 ヨーロッパ東部における現生人類の存在は50000~46000年前頃までさかのぼりますが(関連記事)、ヨーロッパ南西部および地中海地域においては、RB1も含めてこの期間に見つかった人類遺骸の大半から、当時存在していた人類はおもにネアンデルタール人だった、と推測されます。ベルギーやチェコなどヨーロッパの他地域では、この期間の人類遺骸は広範な年齢の個体のものですが、イタリアの同時代の人類遺骸は乳歯のみで構成されています。このパターンは、ベリチヒルズとレッシニ山脈の岩陰遺跡群でとくに顕著です。この地域では、人類により加工された動物の骨や石器や燃焼遺骸や暖炉が高密度で、人類集団による洞窟の(季節的ではあるものの)集中的使用が指摘されます。これは、集団があらゆる年齢の個体群により構成されていた可能性を示します。リパロブロイオン遺跡11層の予備的な物質分析と動物考古学および古生態学的情報からは、ネアンデルタール人の広範な活動の証拠が得られました。たとえば、堆積物は、湿地環境・低エネルギーの水路・浅い湖により囲まれた、開けた環境から密集した寒冷混合林、移行的で不連続なアルプス草原、炭酸塩岩の先駆性植物におよぶ環境における、火の集中的使用を記録しています。

 同時期のイタリア国外では、ネアンデルタール人の人類学的発見の大半は、深さが15m以上の洞窟内部か、食人かもしれない証拠か、意図的な埋葬の可能性があるか確証された、洞窟入口もしくは岩陰と関連しています。この時期には、イタリアで収集された全ての証拠を埋葬慣行と関連づけることはできませんが、続成作用と化石生成も遺跡の異なる地質構造環境に起因して関連しているかもしれない、と示唆されています。形態学的情報と形態計測分析と古代mtDNA分析は、RB1がネアンデルタール人の子供であることを示し、ヨーロッパ南部への現生人類の到来に近い時期における、イタリア北東部のネアンデルタール人の存在に関する重要性を追加します。


参考文献:
Romandini M. et al.(2020): A late Neanderthal tooth from northeastern Italy. Journal of Human Evolution, 147, 102867.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2020.102867

『卑弥呼』第48話「暗殺」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年10月20日号掲載分の感想です。前回は穂波(ホミ)の重臣であるトモから派遣された暗殺者のアチに、殺害対象者の名を問われたクラトが、ミマアキと答えるところで終了しました。今回は、クラトが穂波(ホミ)から山社(ヤマト)への献上品を運ぶ奴婢たちを先導している場面から始まります。この奴婢の中には、ミマアキ暗殺の任務を負ったアチもいました。一行は山社に到着し、聖地の山社に入れない穂波の奴婢たちは門外で待たされます。米どころの穂波からの献上品には米があり、イクメは喜びます。他の献上品に有名な器類もあり、ヌカデも喜びます。穂波のヲカ王が山社からの和議の申し出を喜んで受け入れると言っていた、とクラトから報告を受けたヤノハは、クラトを労います。後はテヅチ将軍から都萬(トマ)のタケツヌ王の返事を待つのみで、末盧(マツロ)・伊都(イト)・那(ナ)・穂波・都萬の5ヶ国と同盟を結べば、暈(クマ)も簡単には山社に手を出せないだろう、と言うミマアキに、そなたの描く絵の通りになったな、とヤノハは褒めます。その様子に、ミマアキと恋仲のクラトは複雑そうな表情を浮かべます。重臣たちを退出させたヤノハは天井に向かって、では、よろしく、と言います。

 楼観から降りたクラトはミマアキに、見せたいものがあるので半刻後に外で会いたい、砦の中ではまずいのだ、と誘います。外でアチと会ったクラトは、ミマアキは必ずこの道を通る、自分は少し先の開けた草地にいるので、終わったら合図をしてくれ、と支持します。自分がミマアキを殺すところは見届けなくてよいのか、とアチに問われたクラトは、友の死は見たくない、と答えます。アチは、クラトの望み通り、一思いにとどめを刺す、と言います。クラトが草地に向かうと、半刻も経たないうちに、笛を持ったナツハが現れます。ナツハは配下の多数の狼と犬にアチを襲撃するよう、命じます。アチはこの犬と狼が訓練を受けた志能備獣(シノビケモノ)と気づき、紐の先に金属製の鏃のようなものを装着した縄鏢(ジョウヒョウ)という武器で応戦しますが、包囲されます。アチは縄鏢の紐で木に登り難を逃れますが、そこにいたナツハに殺害されます。草地で待っていたクラトは、犬と狼の声を不審に思いますが、その直後、アカメが弩で放った矢により落命します。アカメはヤノハに、ナツハが刺客のアチをいとも容易く仕留めたことを報告します。同じ志能備としてナツハをどう思うか、とヤノハに問われたアカメは、ナツハを甘く見ていた、今戦っても無傷で勝つことは不可能と答えます。クラトはどうなったのか、とヤノハに問われたアカメは、ヤノハの希望通り、一瞬で何も分からないまま黄泉へと旅立った、と答えます。ヤノハはアカメに、これは自分とそなただけの秘密だ、と命じます。

 50日ほど前、ヤノハは自分を襲った日向(ヒムカ)の邑長を助け、その邑長が亀の黥の入った男性と密会しているところを、ヌカデは目撃してヤノハに報告していました(38話)。この様子をアカメも目撃しており、亀の黥はウラ一族の証ではあるものの、あからさますぎる、と疑問を抱きました。亀の黥の入った男性は、穂波の重臣であるトモに拝謁し、トモの従者らしき女性に背中の黥を消させていました。黥ではなく、ボディペインティングのようなものだった、ということでしょう。男性は、叢に女性が隠れていたと報告し、トモは、これで疑いは都萬に逃れたウラに向く、と言います。このやり取りを、床の下でアカメは盗聴していました。さらに12日前、クラトがトモにミマアキ殺害を依頼する場面(46話)を、アカメは盗聴していました。クラトに会いに行ったミマアキが、クラトの死を知らず、呑気にクラトを呼んでいるところで、今回は終了です。


 今回は、クラトとミマアキの関係に決着がつきました。ミマアキがすぐに死ぬことはなさそうなので、クラトが粛清されるか、亡命するか、ヤノハに追い詰められて「改心」し、完全な忠誠を尽くすようになる、と予想していましたが、クラトは粛清されました。これで、ミマアキを「昼の王」とするヤノハの構想が実現することになりそうです。ナツハがミマアキ暗殺計画を阻止するようヤノハから命じられたのは予想通りでしたが、これでヤノハがナツハを信頼するようになるのかというと、ヤノハは用心深いので、まだミマアキに対するように信頼することはないでしょう。ヤノハは、ナツハが弟のチカラオかもしれない、と考えているようですが、今後チカラオをどう使おうとするのか、注目されます。また、ナツハは母のように慕うヒルメから、ヤノハに残酷な仕打ちをするよう、命じられています。それをヤノハがどう防ぐのか、あるいはナツハが弟だと確信を得た場合、ヤノハはナツハとどのような関係を築こうとするのか、今後の見どころになりそうです。また、日下(ヒノモト)に向かったトモの動向も気になります。日下の国は今どのような状況なのか、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔は健在なのか、そうだとして、日向に山社を建国したヤノハに対してどう動くのか、ということが、ある程度九州の情勢が落ち着きつつある中、次の山場となるかもしれません。

マウスの性決定遺伝子

 マウスの性決定遺伝子に関する研究(Miyawaki et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。哺乳類には雄と雌の性があります。どのように性が決まるのか、古代ギリシア時代より議論されており、性決定の研究分野は生物学の大きな主題の一つです。哺乳類の性は性染色体の組み合わせで決まる、と知られています。XX型は雌になり、XY型は雄になります。1991年に、Y染色体に存在するSryが性決定遺伝子である、と示されました。つまり、Y染色体を有していれば、Sryが活性化することでその個体は雄になります。Sryが発見されて以降の30年間、Sryは、単一のエキソン(真核生物の遺伝子におけるタンパク質の情報に相当する部分)で構成される遺伝子(単一エキソン遺伝子)であり、たった一種類のタンパク質SRYをコードする、と考えられてきました。これは教科書的事実として認知され、疑問は呈されませんでした。

 この研究は、マウスを使った実験で、Sryの新たなエキソンを発見しました。すでにSryが発現する細胞を選択的に集める方法が確立されており、その方法を用いて、Sryが発現する細胞の網羅的遺伝子発現解析(RNA-seq)を行なった結果、Sryの近傍に未知の転写産物が存在する、と明らかになりました。マウスのSry遺伝子座には、Sryを挟んで左右で完全に同じ配列が鏡写しに存在するパリンドローム構造があります。通常の解析方法ではパリンドローム構造に隠されて未知の転写産物は表示されません。パリンドローム構造を想定した解析方法により、はじめて未知の転写産物が描出されます。

 次に、転写開始点を網羅的に解析する手法(CAGE-seq)や、転写されたRNAを長い状態のまま網羅的に解析する手法(long-read RNA-seq)など最新の手法を用いて解析した結果、この未知の転写産物がSryの第2のエキソン(隠れエキソン)である、と明らかになりました。この発見により、マウスのSry遺伝子の転写産物には、以前から知られていた単一エキソン型Single- exon type Sry(Sry-S)と、新たに発見されたTwo-exon type Sry(Sry-T)が存在する、と明らかになりました。

 次に、Sry-Tの性決定における役割を調べるため、Sryの第2エキソンをゲノム編集により削除したSry-T欠損マウスが作製されました。Sry-T欠損マウスはSry-Sを発現しているにもかかわらず雌に性転換しました。ここからも、Sry-Tは雄への性決定に必須である、と明らかになりました。さらに、新たに発見されたSry-Tとこれまでに知られていたSry-SをXX型のマウスで活性化させると、Sry-Tを活性化させたマウスのみが雌から雄へ性転換しました。以上の実験から、生体では、これまでに知られていたSRY-Sではなく、SRY-Tが性決定因子として働いている、と明らかになりました。

 次に、Sry-Sは実験的にマウスを雄化する能力を持つにもかかわらず、生体では雄化できない原因が調べられました。SRY-SとSRY-Tのアミノ酸配列を比べると、後方のアミノ酸配列が異なります。この違いを解析した結果として、デグロン(タンパクのC末端に特定の配列が存在すると、その配列を認識してタンパク質を積極的に分解するシステムが存在し、この特定の配列がデグロン配列で、デグロン配列を持つタンパク質は速やかに分解されます)と呼ばれるタンパク質を分解する配列がSRY-Sにのみ存在する、と明らかになりました。デグロンの最後から2番目のアミノ酸をバリンからプロリンに変えると、デグロンは不活性化されます。

 そこで、SRY-Tの欠損に加えてSRY-Sの最後から2番目のアミノ酸をバリンからプロリンに置換したマウスを作製したところ、SRY-Sタンパク質の分解が抑えられ、このマウスは雄になりました。以上の実験から、SRY-Sは自身のデグロン配列によりタンパク質が不安定になり、生体でのオス化能力がないことがわかりました。Sry-Sを用いた過去の実験では、タンパク質の不安定化を補えるほど多くのSry-Sを発現させることにより、雄にすることができた、と考えられます。以上の実験から、生体では、これまでに知られていたSRY-Sではなく、新たに同定されたSRY-Tが真の性決定因子として働いている、と明らかになりました。

 これらの発見は、性決定遺伝子の進化においても、新しい知見をもたらしました。Sryが存在するY染色体は進化の過程でどんどん遺伝子を失っている、と知られています。これは、Y染色体以外の染色体は互いに修復が可能な対となる染色体を持っているものの、Y染色体は1本しか存在せず、遺伝子の修復ができないためだと考えられています。このように、哺乳類のY染色体は、さまざまな遺伝子の機能が失われていく危機に直面している、と考えられています。

 この研究で見つかったSry-Sのデグロンをコードしている配列も、遺伝子の機能が失われる危機の一つと考えられます。Sryの「隠れエキソン」は、レトロトランスポゾン(ゲノム上に多数存在するレトロウイルス由来の配列)由来の配列で構成されています。これは、レトロトランスポゾン由来の配列がエキソン化することでデグロン配列を回避させた、すなわちSryの機能消失の危機を救った、と考えられます。これはウイルスに由来する配列が宿主の遺伝子を進化させ、その種の存亡の危機を救った可能性を示しており、ウイルスと宿主生物との関係について、改めて考えさせる研究結果となりました。

 この研究成果により、生物学の大きな主題の一つである性決定において、鍵となる重要な遺伝子Sryの全体像が解明されました。この発見は、哺乳類の性決定の仕組みの解明と、性決定遺伝子の進化の理解につながると期待されます。今後、他の生物におけるSRY-Tや、SRY-Sのデグロンの存在が検証されていく予定で。また、新学術領域「性スペクトラム」では、生物の性を連続する表現型(スペクトラム)として捉え直し、性に関する様々な現象の統一的な説明に挑戦する試みがなされています(公式サイト)。

 この研究成果は、マウスの性スペクトラムを規定する因子の再定義につながりました。これまで築きあげられたSry-Sによる研究成果が見直され、今後はSry-Tをキープレイヤーとした性の仕組みの理解が進む、と期待されます。10数年ほど前、Sryを含むY染色体上の遺伝子は退化の一途を辿り、オスはやがていなくなるだろう、との見解が提示されました(関連記事)。この研究の知見は、雄化に関わる最も重要な遺伝子が現在進行形で進化していることを意味しており、そのような見解に一石を投じます。


参考文献:
Miyawaki S. et al.(2020): The mouse Sry locus harbors a cryptic exon that is essential for male sex determination. Science, 370, 6512, 121–124.
https://doi.org/10.1126/science.abb6430

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症の重症化(追記有)

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症の重症化に関する研究(Zeberg, and Pääbo., 2020)が報道されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。今年(2020年)、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の世界的大流行は、かなりの感染率と死亡率をもたらし、100万人以上の命をうばいました。SARS-CoV-2により起きる症状は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれ、無症状もしくは軽症から呼吸不全への急速な進行まで、症状が大きく異なります。SARS-CoV-2の世界的大流行の初期には、主要な危険因子として、高齢や性別(男性であること)やいくつかの併存疾患が明らかになりました。

 しかし、これらの危険因子は、無症状か軽症の感染者がいる一方、重症になる感染者がいる理由をじゅうぶんには説明しておらず、遺伝的危険因子が役割を果たしている可能性もあります。初期の研究で、COVID-19と関連する2ヶ所のゲノム領域が特定され、一方は6個の遺伝子を含む3番染色体で、もう一方はABO式血液型を決定する9番染色体上の領域です。その後、COVID-19ホストジェネティクスイニシアチブ(Host Genetics Initiative、略してHGI)から新たなデータセットが公開され、3番染色体上の領域が、ゲノム規模において重度のCOVID-19と有意に関連する唯一の領域とされました。この領域のリスク多様体は、COVID-19では人工呼吸器を必要とするリスクを最大3倍とします。

 3番染色体上の重度のCOVID-19と最も関連する遺伝子多様体は、すべて高い連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)にあります。つまり、集団内で相互に強く関連しており、49400塩基対にまたがります。「コア」ハプロタイプは、さらに弱い連鎖不平衡にあり、最大333800塩基対のより長いハプロタイプを有します。そうした長いハプロタイプの一部は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)もしくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝子流動により現生人類集団にもたらされました。現生人類は、ネアンデルタール人と6万~5万年前頃(関連記事)、デニソワ人とは54000~44000年前頃(関連記事)に交雑したと推定されていますが、ネアンデルタール人(関連記事)もデニソワ人(関連記事)も、現生人類と複数回交雑したのではないか、と推測されています。そこで、COVID-19と関連すると推測されるハプロタイプがネアンデルタール人もしくはデニソワ人に由来したのかどうか、調べられました。

 COVID-19関連研究で提示された多様体は、非アフリカ系現代人集団において高い連鎖不平衡にあります。これらの多様体のリスクアレル(対立遺伝子)は、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人女性(Vindija 33.19)のゲノム(関連記事)ではホモ接合型で存在する、と明らかになりました。「コア」ハプロタイプを構成する13ヶ所の一塩基多型のうち、Vindija 33.19では11ヶ所がホモ接合型です。一方、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された130000~90900年前頃のネアンデルタール人女性(デニソワ5)のゲノム(関連記事)と、アルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)で発見された8万~6万年前頃のネアンデルタール人女性(チャギルスカヤ8)のゲノム(関連記事)では、これらの多様体のうち3個が見られますが、デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人女性(デニソワ3)のゲノム(関連記事)では、これらの多様体が存在しません。333800塩基対のハプロタイプでは、重度のCOVID-19と関連するアレルは同様に、Vindija 33.19のゲノムと一致します。したがって、リスクハプロタイプは、クロアチアのネアンデルタール人(Vindija 33.19)の対応するゲノム領域に類似しており、南シベリアのアルタイ山脈のネアンデルタール人2個体(デニソワ5およびチャギルスカヤ8)にはあまり類似していません。

 次に、49400塩基対のコアハプロタイプが、50万年以上前に存在したネアンデルタール人と現代人の共通祖先に由来するのか、調べられました。ネアンデルタール人と共有される現代人のハプロタイプが長いほど、共通祖先起源である可能性が低くなります。それは、世代ごとの組換えによりハプロタイプはより短い断片に分割されていくからです。1世代29年、組換え率を100万塩基対あたり0.53 cM(センチモルガン)、ネアンデルタール人系統と現生人類系統との分岐年代を55万年前頃、ネアンデルタール人と現生人類との交雑を5万年前頃と仮定すると(関連記事)、このハプロタイプがネアンデルタール人と現生人類の共通祖先に由来するとの想定は除外されます。333800塩基対のネアンデルタール人的なハプロタイプでは、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先に由来する確率はさらに低くなります。したがって、COVID-19と関連するリスクハプロタイプは、ネアンデルタール人から現生人類へと交雑により受け継がれた、と推測されます。この推測は、3番染色体のこの領域におけるネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動を特定した、いくつかの以前の研究と一致します。Vindija 33.19とのこのハプロタイプの密接な関係は、現代人に遺伝的影響を残したネアンデルタール人の大半が、アルタイ山脈のネアンデルタール人2個体(デニソワ5およびチャギルスカヤ8)よりもVindija 33.19の方に近い、という推測と一致します。

 現代人のゲノムに存在するネアンデルタール人のハプロタイプは、現代人集団の他のハプロタイプよりもネアンデルタール人のゲノムに類似している、と予測されます。49400塩基対のハプロタイプとネアンデルタール人および他の現代人のハプロタイプとの関連を調べるため、このゲノム領域に関して、1000人ゲノム計画の5008のハプロタイプが分析されました。ネアンデルタール人のゲノムで見られる位置が含められ、1000人ゲノム計画において、1本の染色体だけでみつかる多様体と、1回だけ見られるハプロタイプは除外されました。これは、450ヶ所の可変位置を含む253の現代人のハプロタイプをもたらしました。10回以上見つかったそのようなハプロタイプと関連する系統の関係が調べられ、重度のCOVID-19と関連する全てのリスクハプロタイプは、高網羅率のネアンデルタール人3個体(デニソワ5、Vindija 33.19、チャギルスカヤ8)のゲノムとクレード(単系統群)を形成する、と明らかになりました。このクレード内では、そうしたリスクハプロタイプはVindija 33.19と最も密接に関連します。

 1000人ゲノム計画の個体群の中で、ネアンデルタール人由来のハプロタイプはアフリカではほぼ完全に存在せず、アフリカ人集団へのネアンデルタール人からの遺伝子流動が限定的で、おそらくは間接的だった、という知見(関連記事)と一致します。現代人の各地域集団におけるネアンデルタール人のコアハプロタイプの頻度は、アジア南部で30%、ヨーロッパで8%、先住民系とヨーロッパ系とアフリカ系など多様な地域系統の混合であるアメリカ大陸では4%、アジア東部ではそれ以下です。本文中では言及されていませんが、オセアニア(パプアニューギニアとオーストラリア)でも高頻度で、とくにパプアニューギニアではアジア南部諸国並に高くなっています。最も頻度が高い国はバングラデシュで、63%の人々がネアンデルタール人のリスクハプロタイプを少なくとも1コピー有しており、13%の人々がこのハプロタイプをホモ接合型で有しています。したがって、他のリスク要因、とくに高齢者に加えてネアンデルタール人のハプロタイプは、特定の集団においてCOVID-19リスクの実質的な要因かもしれません。これと明らかに一致して、イギリスのバングラデシュ出身者は、一般的な集団よりもCOVID-19で死ぬリスクが2倍高くなっています。

 ネアンデルタール人由来のリスクハプロタイプの頻度が、現代人集団において、アジア南部では30%なのに対して、アジア東部ではほぼ0%に近いことは意外です。アジア南部とアジア東部との間のこのアレル頻度の違いの程度は異常で、過去に選択の影響を受けてきた、と示唆されます。じっさい、以前の研究では、ネアンデルタール人のハプロタイプはバングラデシュにおいて正の選択を受けてきた、と示唆されています。現時点では、この理由について推測しかできませんが、可能性の一つは、他の病原体に対する保護です。また、ネアンデルタール人由来のリスクハプロタイプの頻度は、アジア東部において、おそらくはコロナウイルスもしくは他の病原体に起因する負の選択により減少した可能性があります。いずれにしても、3番染色体上のCOVID-19リスクハプロタイプは、特定の集団で高頻度に達した他のネアンデルタール人およびデニソワ人の遺伝子多様体と類似していますが、SARS-CoV-2の世界的大流行のため、今では負の選択下にあります。

 ネアンデルタール人由来の領域のどの特徴が、重度のCOVID-19リスクをもたらすのか、そうした特徴の影響がCOVID-19、他のコロナウイルス、あるいは他の病原体に特有なのか、現時点では不明です。機能的特徴が解明されると、関連する病原体へのネアンデルタール人の感受性について推測できるかもしれません。しかし、現在の世界的大流行に関しては、ネアンデルタール人からの遺伝子流動が悲劇的な結果をもたらすことは明らかです。


 以上、ざっと本論文について見てきました。COVID-19の程度に遺伝的要因も関わっていることは間違いなく、それが本論文で指摘された3番染色体上の領域である可能性はほぼ確実でしょう。現代人においてCOVID-19を重症化させる要因となるリスクハプロタイプが、ネアンデルタール人由来である可能性も高そうです。本論文は、このネアンデルタール人由来のリスクハプロタイプの頻度が地域により大きく異なることを示しました。これが遺伝的浮動である可能性も考えられないわけではありませんが、本論文が指摘するように、アジア南部とアジア東部において異なる選択圧が作用した、という可能性の方がずっと高そうです。アジア南部では何らかの病原体に対する正の選択が、アジア東部ではコロナウイルスもしくは他の病原体に対する負の選択が作用したのではないか、というわけです。今後、ネアンデルタール人由来のリスクハプロタイプの機能的特徴の研究が進めば、この問題も詳しく解明されるようになるのではないか、と期待されます。

 また、このネアンデルタール人由来のリスクハプロタイプが、高品質なゲノム配列の得られているネアンデルタール人3個体のうち、アルタイ山脈の2個体(デニソワ5とチャギルスカヤ8)ではなく、クロアチアの1個体(Vindija 33.19)の方とずっと類似している、との知見も注目されます。これは、非アフリカ系現代人全員の主要な祖先集団と交雑し、非アフリカ系現代人全員のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の多くをもたらしたネアンデルタール人集団が、Vindija 33.19に近かったことを示唆します。

 ネアンデルタール人は核ゲノムでは、デニソワ5(東方系統)とその他(西方系統)の大きく2系統に区別されます(関連記事)。西方系統でも、チャギルスカヤ8はVindija 33.19を含むヨーロッパの個体群とは大きく異なる系統に位置づけられます。コアハプロタイプを構成する13ヶ所の一塩基多型のうち、ネアンデルタール人においては、Vindija 33.19で11ヶ所がホモ接合型なのに対して、アルタイ山脈のデニソワ5とチャギルスカヤ8では3個が見られ、デニソワ人(デニソワ3)では見られません。これらの一塩基多型は、まずデニソワ人系統と分岐した後のネアンデルタール人系統で生じ、それが固定したのは、西方系統でもチャギルスカヤ8系統と分岐した後のヨーロッパ系統においてだったのかもしれません。

 ユーラシア西部ではデニソワ人の存在が確認されていませんが、現代アイスランド人のゲノムにはわずかながらデニソワ人由来の領域があり(関連記事)、ヨーロッパのネアンデルタール人のゲノムではデニソワ人由来の領域が殆ど或いは全く検出されなかったので(関連記事)、非アフリカ系現代人全員の祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団は、Vindija 33.19を含むヨーロッパ系統とも異なる、まだ発見されていないかゲノムデータが得られていない個体により表される、と推測されます。このネアンデルタール人集団はアジア南西部、おそらくはレヴァントに存在し、ヨーロッパ系統のネアンデルタール人集団とは異なり、そのゲノムには一定以上デニソワ人由来の領域が存在した、と考えられます。


参考文献:
Zeberg H, and Pääbo S.(2020): The major genetic risk factor for severe COVID-19 is inherited from Neanderthals. Nature, 587, 7835, 610–612.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2818-3


追記(2020年11月26日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



遺伝学:ネアンデルタール人から受け継がれたCOVID-19重症化の主要な遺伝的リスク因子

遺伝学:ネアンデルタール人から受け継いだCOVID-19の遺伝的リスクバリアント

 以前、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)宿主遺伝学イニシアチブによって、ゲノム規模関連解析から得られた要約統計量が公開され、第3染色体上のある領域とCOVID-19の重症化との間に関連性が見いだされた。今回H ZebergとS Pääboは、この座位の遺伝子バリアントが高度な連鎖不平衡状態にあり、それがネアンデルタール人ゲノムには存在するがデニソワ人ゲノムには存在しない、サイズが49.6 kbのハプロタイプであることを明らかにしている。彼らはまた、このネアンデルタール人由来のハプロタイプが、南アジア系の人の約50%とヨーロッパ系の人の約16%では保有されているが、1000ゲノムプロジェクトのデータセットのアフリカ人集団にはほぼ認められないことも示している。



追記(2020年11月29日)
 本論文を補完する内容の論文が公表されたので、当ブログで取り上げました(関連記事)。

大河ドラマ『麒麟がくる』第26回「三淵の奸計」

 朝倉義景は織田信長とともに足利義昭を奉じて上洛すると決断しますが、すでに足利義栄が14代将軍に任命されていました。しかし、義栄は病もあって上洛できず、義栄を将軍に推挙した近衛前久の立場は危うくなります。義昭は越前に入り、義景が烏帽子親となって元服します。しかし明智光秀(十兵衛)は、朝倉重臣の山崎吉家から、朝倉家中が上洛に関して一枚岩ではない、と聞かされます。じっさい、宴の場で朝倉一門の朝倉景鏡は上洛に反対します。景鏡に周辺諸大名の上洛の意思問われた光秀は、上杉も六角も動かないだろう、と返答して上洛の困難を主張し、上洛に前向きだった義景の機嫌を損ねます。伊呂波太夫に徴発されたこともあり、光秀は信長を訪ね、単独での上洛を要請し、信長は上洛を決断します。光秀の主張を受け入れ、義昭は新たに織田領となった美濃に行く決断を下します。義景は激昂し、義昭を美濃に出国させまいとしますが、三淵藤英は上洛に反対の朝倉景鏡と山崎吉家を抱き込んで義景の嫡男の阿君丸を毒殺し、義景の気力を失わせ、義昭の出国を義景に承諾させます。

 今回は、朝廷における近衛前久と二条晴良との対立にもそれなりに時間が割かれました。本作における近衛前久の扱いは意外と大きく、今後も重要な役割を果たすのかもしれません。あるいは、本能寺の変に深く関わるのでしょうか。光秀はいよいよ世に出ることになりますが、すでに残り半分以下のわけで、確実で有名な光秀の事績はこれから描かれることになります。事績が不明な時代の光秀を長く描きすぎではないか、とも思うのですが、本能寺の変へと向かう話の流れの中で、これまでの描写が活かされるのではないか、と期待しています。

デニソワ洞窟での新たな発見

 南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡での新たな発見について報道されました。地元民から熊岩(Ayu Tash)と呼ばれているデニソワ洞窟では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の存在が確認されています(関連記事)。デニソワ洞窟は、人類遺骸の重要な遺伝学的研究が相次いで公表されたことから、ひじょうに注目されています。

 デニソワ洞窟における今年(2020年)夏の発掘では、多くの発見がありました。発掘区域は、30万年前頃までさかのぼるデニソワ洞窟南空間の、人類の痕跡がある最下層でした。22層では乳歯と大臼歯が発見され、乳歯が発見されたのは、25万年前頃となる22層の最下部で、大臼歯が発見されたのは19万~17万年前頃となる22層上部でした。発掘を指揮したシュンコフ(Mikhail Shunkov)氏は、この2個の歯はデニソワ人のものと述べています。ただ、この分類が形態に基づくのか、それともミトコンドリアDNA(mtDNA)もしくは核DNAに基づくのか、報道では分かりませんでした。あるいは、まだネアンデルタール人の痕跡がアルタイ地域では確認されていない年代であることから判断されたのかもしれません。そうだとすると、別の人類である可能性もあるように思います。

 この発見により、デニソワ人が中東からアルタイ地域に30万年前頃に移動してきたことが決定的に確証された、とシュンコフ氏は指摘します。また、断片的な骨が2個、13万~12万年前頃の14層と13層で見つかりました。ネアンデルタール人遺骸が14層と13層で見つかっているので、これらの骨がネアンデルタール人とデニソワ人のどちらなのか判断するには、さらなる調査が必要です。デニソワ洞窟の13万~12万年前頃の人類遺骸ならば、DNA解析も可能でしょうから、mtDNAとともに核DNAの解析も期待されます。

 デニソワ洞窟では発掘が継続中で、新たな人類遺骸の発見もあると報告されており、今後も研究の進展が大いに期待できそうです。デニソワ洞窟ではまだ保存状態の良好な人類遺骸は発見されていませんが、断片的な遺骸でも、遺伝的情報を得ることは可能です。これまでの研究成果から、デニソワ洞窟は同年代の遺跡の中ではかなりDNAの残存状況が良いと考えられるので、断片的な人類遺骸でも、人類進化の解明に大きく寄与できそうです。今後も、デニソワ洞窟の発掘からは目が離せません。

伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の講談社選書メチエ『原敬 外交と政治の理想』をいつか読もうと思っていたのですが、分厚いので尻込みしていたところ、本書の刊行を知り、講談社選書メチエよりは気軽に読めるかな、と考えて購入しました。本書も原敬についての堅実な評伝になっていますが、より詳しく知るために、いつか講談社選書メチエ『原敬 外交と政治の理想』も読むつもりです。

 本書は原を、維新功臣たちの近代国家建設を受け継ぎ、時代の変遷に対応しつつ、政策を構想して実行していった、大政治家として描き出します。もちろん原は単なる理想主義者ではありませんでしたが、一方で既存秩序を大前提としてそこに安住して政権獲得・維持を図るだけの「現実追認主義者」でもなく、均衡のとれた先見の明がある政治家で、複雑な現実を踏まえて、シベリア出兵などで時として妥協しつつ、政策を進めていくだけの実行力があった、というわけです。

 原の先見の明として本書が指摘するのは、第一次世界大戦中に、戦後の新国際秩序をほぼ正確に予測できていたことです。原はすでに1908~1909年にかけての半年のアメリカ合衆国とヨーロッパの視察旅行で、イギリスに代わってアメリカ合衆国が世界を主導する、と予測していました。これは、当時の日本の有力政治家・経済人の中で最も早く、それ故に第一次世界大戦後のアメリカ合衆国主導のヴェルサイユ体制への対応策も的確だった、と本書は指摘します。一方、大隈重信は第一次世界大戦後にアメリカ合衆国が世界を主導するようになったことを充分には理解できず、ヴェルサイユ体制にも疑問を抱いていました。本書は、伊藤博文が大隈のように第一次世界大戦後にも存命だったとしても、この国際情勢の変化をすぐには理解できなかっただろう、と指摘します。

 また本書は、原が幼少時から優秀ではあったものの、議会対策など内政でも、列強との駆け引きなど外交でも、当初は未熟なところがあり、経験を積んでいくことで成熟していった、と指摘します。徒に美化するのではなく、成長をしっかりと描くところは、堅実な伝記としてよい、と思います。本書は、このように成熟していった原に大きな影響を及ぼした人物として、母のリツと中江兆民と陸奥宗光と伊藤博文を挙げます。とくに、母のリツは原に大きな影響を与えたというか、その生涯を規定したとも言えそうです。また陸奥宗光に対して、原はとくに強い尊敬と親愛の念を抱いていたようです。

 最後に本書は、原が暗殺されたことにより失われてしまった可能性を論じます。原は首相就任後、伊藤博文と山県有朋という例外的な人物を除いて、従来の首相が充分には統制できなかった軍部や宮中を、法律の改正ではなく、非公式な形で統制し、イギリス風の政党政治に近づけました。原の影響力が持続すれば、法改正や整備により、法の支配下での統制に変えることができ、原のような大物政治家がいなくても、より安定した政党政治が可能になったかもしれない、と本書は指摘します。また本書は、原の殺害により、政党改革が停滞し、腐敗が進んだことで、軍部の台頭を招来した、指摘します。さらに本書が重視するのは、原が昭和天皇の適切な助言者になった可能性です。昭和天皇は即位後5年間に、張作霖爆殺事件と海軍軍縮条約と満州事変で相次いで不適切な行動を選択し、軍部の不信感を買って統制の形成に失敗しました。本書はこれを、側近が未熟だったからと指摘します。原が存命ならば、これらは避けられたかもしれない、というわけです。

カンブリア紀の寄生の証拠

 カンブリア紀の寄生の証拠に関する研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。腕足動物は小さな貝殻のような海洋動物で、軟体動物の二枚貝類に似ています。現生腕足動物は約450種ですが、化石記録からは12000種以上が知られています。この研究は、中国雲南省で発見され、約5億1200万年前と推定されたカンブリア紀の腕足動物(Neobolus wulongqingensis)の化石集団を分析しました。その結果、この腕足動物化石では多くの殻の外側に、棲管の中で暮らす生物が張りつていた、と明らかになりました。生物が張りついているこの腕足動物は有意に小型で、棲管の向きはこの腕足動物の摂食流の向きと一致していた。

 これらの知見から、この棲管の中で暮らす生物が、宿主の食物を盗み取って宿主の適応度を低下させる寄生者(労働寄生として知られる)と考えられます。寄生者と宿主の相互作用は、大部分の推論が外観に基づいたものにならざるを得ないため、化石記録での検出は困難です。この研究では、寄生の外観に関してだけでなく、寄生のコストに関しての希少な証拠も集められました。約5億4100万年前のカンブリア爆発の直後に、動物が寄生者と食物を争わなければならない状況がすでに存在していたと考えられ、これは化石記録において特定された最古の寄生者と宿主の関係となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代の寄生の証拠が見つかった

 約5億4100万年前のカンブリア爆発の直後に、動物が寄生者と食物を争わなければならない状況があったことを報告する論文が、今週、Nature Communications に掲載される。今回の研究で、古代の腕足動物に寄生していた生物が、宿主の食物をかすめ取っていた可能性が非常に高いことが明らかになった。この知見は、これまでに化石記録において特定された最も古い寄生者–宿主関係になる。

 腕足動物は、小さな貝殻のような海洋動物で、軟体動物の二枚貝類に似ている。現生の腕足動物は約450種だが、化石記録からは1万2000種以上の腕足動物が知られている。

 今回、Zhifei Zhangたちの研究チームは、中国雲南省で発見され、年代測定によって約5億1200万年前のものとされたカンブリア紀の腕足動物であるNeobolus wulongqingensisの化石集団を分析した。その結果、多くのN. wulongqingensisの殻の外側には、棲管の中で暮らす生物が張り付いていることが分かった。生物が張り付いているN. wulongqingensisは有意に小型で、棲管の向きはN. wulongqingensisの摂食流の向きと一致していた。以上から、Zhangたちは、この棲管の中で暮らす生物が、宿主の食物を盗み取って宿主の適応度を低下させる寄生者(労働寄生として知られる)と考えている。

 寄生者と宿主の相互作用は、大部分の推論が外観に基づいたものにならざるを得ないため、化石記録に残すことは難しい。今回の研究で、Zhangたちは、寄生の外観に関してだけでなく、寄生のコストに関しての希少な証拠も集めた。



参考文献:
Zhang Z. et al.(2020): An encrusting kleptoparasite-host interaction from the early Cambrian. Nature Communications, 11, 2625.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16332-3

4万年前頃までさかのぼるポルトガルのオーリナシアン遺跡

 ポルトガルにおける4万年前頃までさかのぼるオーリナシアン(Aurignacian)の痕跡に関する研究(Haws et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文の見解の概要は、すでに人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で報告されていました(関連記事)。以下の年代は、基本的に放射性炭素年代測定法の結果に基づく較正年代で、最近更新されたIntCal20が用いられています(関連記事)。

 ユーラシア西部全域における上部旧石器と関連する現生人類(Homo sapiens)の拡散は、他地域と比較してよく記録されていますが、有力説を覆す可能性のある発見、とくに最初の出現年代に、依然として影響を受けやすくなっています。現時点でヨーロッパ最古(47000年前頃)となる上部旧石器と関連した現生人類遺骸は、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見されました(関連記事)。その後、現生人類は比較的短期間にドナウ川流域と地中海に沿って拡大しました。この過程は、空白地への拡散と、在来のネアンデルタール人集団との相互作用を含む、モザイク状だった可能性があります。43000~42000年前頃のある時点で、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の地域的変異形がオーリナシアン技術複合に合体し、ユーラシア西部全域で同時に出現しました。

 イベリア半島は、スペイン北部のエルカスティーヨ(El Castillo)やラルブレーダ(l’Arbreda)やアブリックロマニ(Abric Romaní)において最初の上部旧石器の出現が予想以上に早いと報告されて以来、現生人類拡散の問題において特有の立場を占めています。これらと追加の遺跡の年代測定により、スペイン北部におけるオーリナシアンの到来は43300~40500年前頃と推定されました(関連記事)。これらの年代は急速な現生人類の拡散を実証し、スペイン北部におけるネアンデルタール人と現生人類との重複期間は1000年以上となり、イベリア半島南部ではさらに長くなります。さらに、関連する人類遺骸の欠如により概要は複雑で、フランス南西部からカンタブリア山脈にかけてのフランコ・カンタブリア地域の早期オーリナシアンの担い手が現生人類とネアンデルタール人のどちらかである、という可能性も残されています。早期オーリナシアンとの直接的関連の欠如にも関わらず、この時期の現生人類遺骸がルーマニアとイタリア(関連記事)で確認されています。ネアンデルタール人遺跡では小型石刃(bladelet)製作に竜骨型技術使用の証拠が含まれないので、オーリナシアン文化複合全体の製作者は現生人類だった、と推測できます。

 この不確実性に囚われず、イベリア半島南部における上部旧石器の早期出現年代と中部旧石器時代ネアンデルタール人の後期出現年代から、この2集団を分離する明白な生物地理的境界を説明する、さまざまなモデルが復元されました。これらのモデルでは、生態学的適応によりネアンデルタール人の存続が可能となり、イベリア半島南部における現生人類の拡散は37000~30000年前頃と、イベリア半島北部への到来以降、6000~12000年妨げられた、と主張されました。

 スペイン南部沿岸のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)の年代測定結果は、おそらく45000~43000年前頃における現生人類の最初の存在を示しており、地質学的には一瞬でヨーロッパ全域に現生人類が広範に拡大した可能性を示唆します(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代により、イベリア半島南部における現生人類の最初の出現は数千年さかのぼり、イベリア半島における現生人類拡散の問題は混乱してきました。ただ、バホンディージョ洞窟の年代測定結果と石器群の分類には疑問が呈されており、議論が続いています(関連記事)。バホンディージョ洞窟の新たな年代が提示されるまで、この地域で最初の上部旧石器時代遺跡は、35000年前頃となる地中海沿岸のコヴァデレスセンドレス(Cova de les Cendres)と、36500年前頃となるスペイン南部のラボヤ(La Boja)と、34500年前頃となるポルトガル中央部のペゴドディアボ(Pego do Diabo)とされており、いずれも発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)もしくは後期オーリナシアン(Late Aurignacian)に分類されていました。

 また、ネアンデルタール人と中部旧石器の最後の出現にも疑問が呈されてきました。42000年前頃以降となる「後期」ネアンデルタール人遺跡の数は、新たな年代測定技術の適用により年代がずっと古くなったため、以前の見解よりも大幅に減少しました。スペイン中央部全域には、ネアンデルタール人遺骸もくしは42000年前頃以後の中部旧石器遺跡はありません。現時点で、イベリア半島南部において37000年前頃もしくはそれ以後の年代測定結果が得られている「後期」ネアンデルタール人の遺跡は、オリベイラ洞窟(Gruta da Oliveira)とゴーラム洞窟(Gorham's Cave)とアントン洞窟(Cueva Antón)だけです(関連記事)。

 明らかに、42000~37000年前頃の遺跡は稀なので、エブロ川流域以南のイベリア半島の大半は、現生人類が容易に拡散できなかった過疎地域だった、と示唆されます。この期間の考古学的および化石証拠の欠如は、気候と景観の不安定性が原因で、それが記録を消したか、その形成を妨げたかもしれません。これらの条件下では、蓄積過程が物質的証拠を保存しやすい場所が重要となり、その一例が、ポルトガル西部中央部のタホ川(Tagus River)流域北側のカルスト山地であるアイレ山脈(Serra de Aire)の西向き斜面に位置する、海抜570mの石灰岩洞窟であるラパドピカレイロ(Lapa do Picareiro)です。15m×15mの洞窟は、後期更新世の大半を表す泥質の厚い堆積物で満たされている大きな岩盤窪み(25m×30m)の一部です。36の更新世の層序(E~NN)の10.6mの深さの区画が発掘され、厚い上部旧石器時代系列(E~II層)から中部旧石器時代系列(JJ~NN層)へと続きます。年代は、過去25年の調査で得られた80点の放射性炭素年代に由来します。ラパドピカレイロ洞窟の層序系列には、45000~35000年前頃となる2mの堆積物があり、イベリア半島南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期間と対応します。進行中の発掘調査により、洞窟の奥にあるより深い堆積物が露出したので、これまで検出されなかった早期上部旧石器時代の証拠が明らかになりました。


 ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期の年代は、放射性炭素年代測定法により、人為的加工の痕跡のある有蹄類から得られました。JJ層では中部旧石器に典型的な円盤状の石核・剥片技術の石器群が含まれており、下部は51500~44100年前、上部は45000~43500年前です。JJ層の上部20~30cmの年代は42900~42400年前で、人類による意図的な打撃痕のある骨が含まれていますが、石器は見つかっていません。

 II層からGG層は、堆積物の分析から、短い温暖期と長期の寒冷乾燥期が推測されており、石器群が発見されています。これらの石器は、早期オーリナシアンに典型的な小型石刃と現在では石核と認識されている竜骨型掻器(carinated endscraper)から構成され、上部旧石器と分類されています。小型石刃は、イベリア半島北部の早期オーリナシアンの石器群と類似してやり、おもに燵岩から作られていますが、少数ながら石英も含まれます。加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代は、上限が41900~41100年前、下限が39400~38100年前です。したがって、ラパドピカレイロ遺跡II層からGG層の石器群は、ヨーロッパにおけるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)の大半および早期オーリナシアンの全期の範囲内に収まります。これらの石器群の堆積は、39900~38200年前のハインリッヒイベント(HE)4もしくは41400~40800年前頃のグリーンランド間氷期10 (GS-10)に起きたかもしれませんが、もっと早く、41400~40800年前頃のグリーンランド亜間氷期10(GI-10)および42200~41500年前頃のGS-11だったかもしれません。これは、イベリア半島西部におけるオーリナシアンの正確な年代としては最古となります。

 GG層の上のFF層の年代は38600~36400年前で、堆積物の分析からGI-8と関連した比較的穏やかな気候と推測されます。EE層では考古学的痕跡が見られず、その年代は36700~36100年前で、放射性炭素年代測定法ではFF層と区別できません。DD層の年代は35400~34800年前でGS-8に相当し、石器群はプリズム石核技術を用いた大型剥片の製作により特徴づけられ、石材はほぼ燵岩です。ヨーロッパ西部ではオーリナシアンの年代となりますが、これらの石器群には特定の段階に分類する特徴が欠けています。JJ・FF・DD層の石器群は、完全な剥片と剥片断片が優占しますが、GG~II層の石器群では小型石刃およびその断片が高頻度です。GG~II層では石刃も存在しますが、本論文で検証された残りの層ではほぼ完全に欠けています。全体的に、石核と再加工石器は全ての石器群でひじょうに稀です。また、層位により石器製作過程が異なります。JJ層では求心および亜求心と他のパターンが均等に見られ、ムステリアン(Mousterian)石器群に典型的ですが、その上の層では単方向戦略が優占します。

 石材も層により大きく異なり、JJ層とFF層では珪岩と石英が特徴的で、燵岩は中部旧石器時代となるムステリアンのJJ層では15%のみで、FF層ではまったく存在しません。GG~II層とDD層では石材は燵岩が最も多く(75%以上)、乳白色の水晶・岩石結晶(GG~II層)と珪岩(DD層)も用いられています。

 全ての層では豊富な動物遺骸が発見されています。まだ予備的な分析ですが、大型・小型ともに哺乳類の分類は、中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期でほとんど変化しなかったようです。全ての層に含まれる哺乳類は、アカシカと野生ヤギ(アイベックス)とウサギです。有蹄類遺骸のいくつかには、解体痕や打撃痕や骨髄除去と一致する長骨の特徴など、屠殺の証拠が見られます。ウマは中部旧石器時代後期のJJ層でも利用されていました。人類がウサギを利用していた証拠はほとんど得られていませんが、詳細に分析された標本はごくわずかです。肉食動物は、おもにDD~FF層およびJJ層のオオヤマネコです。キツネは中部旧石器時代後期にも見られます。鳥類も存在しますが、遺骸が人類により洞窟まで運ばれたのか不明で、これは小型哺乳類および爬虫類も同様です。


 ラパドピカレイロ洞窟の層序学・石器技術分析・放射性炭素年代から、GG~II層の石器群は上下の層のものとは完全に異なり、別々のものである、と示されます。GG~II層の石器群は小さいものの、早期オーリナシアンに分類されます。GG~II層の年代は41100~38100年前頃です。これは、当時イベリア半島西部に現生人類が存在した決定的証拠を提示します。この頃、ネアンデルタール人集団は存在したとしても、ひじょうに少なかった、と推測されます。ラパドピカレイロ洞窟の証拠から、ネアンデルタール人と現生人類の両集団により、イベリア半島南部は放棄されていた、という仮説を棄却でき、現生人類がイベリア半島北部に到達してすぐ、イベリア半島南部に拡大した、という仮説が確認されます。ネアンデルタール人がイベリア半島南部にかなり後期(4万年前頃もしくは35000年前頃以降)まで存在していた、という仮説に関しては、ラパドピカレイロ洞窟のデータだけでは解決できません。ラパドピカレイロ洞窟の中部旧石器時代は42500年前頃に終了しましたが、現時点での証拠に基づくと、わずか4.2km離れたオリベイラ洞窟では、中部旧石器が36000年前頃まで続きました。

 また本論文の結果は、イベリア半島ではネアンデルタール人と現生人類との間に、たとえばエブロ川で区切られるような境界が42000~37000年前頃に存在した、という見解にも疑問を投げかけます。その代わりに本論文は、エブロ川流域で拡散が促進された可能性を指摘します。現生人類は少数のネアンデルタール人集団と遭遇したかもしれませんが、エブロ川の南側のイベリア半島の大半は、すでに過疎化していたようです(関連記事)。このパターンはポルトガルにおいて明らかで、中部旧石器時代の終焉年代は45000~42000年前頃に集中し、その後、ネアンデルタール人の証拠はほぼ完全に存在しません。

 ラパドピカレイロ洞窟のデータは、イベリア半島全域での急速な現生人類の拡散を確証し、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行に関して、追加の調査と検証可能な仮説を導きます。まず、早期オーリナシアンは、上部旧石器時代前期のラパドピカレイロ洞窟の記録とこの地域の他の遺跡との間の、かなりの年代差を示唆します。これは、人口密度が低いために目立つ痕跡を残さなかったか、この地域では恒久的な居住を確立できなかった小規模な開拓集団の拡大を反映しているかもしれません。あるいは、気候による浸食のため、考古学的証拠の多くが失われたのかもしれません。どちらの場合も、初期の開拓者の検出可能性を制約します。

 別の可能性は、石器技術の分類および/もしくは放射性年代の欠けている地域の石器群の証拠が存在する、というものです。ラパドピカレイロ洞窟FF層の年代は発展オーリナシアンの時期に収まり、単純な剥片と、おもに珪岩と石英から構成される石材と、定形的ではない石器群を示します。層序学的位置と放射性炭素年代を除くと、この石器群にはオーリナシアンの分類要素はありません。FF層は低コストで便宜的な技術を表しており、これはしばしば42000~32000年前頃のイベリア半島の遺跡では中部旧石器に分類されます。このような石器群は、現生人類の拡散における先駆者段階の通常要素だったかもしれません。これらの石器群がオーリナシアン期にどのくらい広範に分布して一般的だったのか、まだ調査されていませんが、類似の石器製作技術は、ラパドピカレイロ洞窟を含む多くの遺跡で上部旧石器時代を通じて知られています。

 次に、44000~40000年前頃の連続した気候悪化は、この地域への現生人類拡散の新たな機会を生み出したかもしれません。おそらくは、大西洋沿岸を南進したか、東西に流れるドゥエロ(Duero)川もしくはタホ川流域を進んだのかもしれません。このような河川体系は、ヨーロッパにおける現生人類拡散で重要な役割を果たしました。拡散の重要な側面は、未知の景観を案内する認知地図の発展で、川は最も追跡しやすい空間的特徴です。ポルトガル北東部のドゥエロ川流域の開地遺跡であるカルディナ(Cardina)の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代は、最後の中部旧石器時代の痕跡となる42900年前頃と、発展オーリナシアンの痕跡の33600年前頃との間の、長い中断を示します。より早期のオーリナシアンの痕跡の欠如から、ドゥエロ川流域を拡散経路として除外できるかもしれませんが、この地域から最終的には裏づけとなる証拠が得られるかもしれません。むしろ、イベリア半島全域の現生人類の拡大は、イベリア半島の非生産的地域もしくはより乾燥した内陸部のような高い危険性のある地域を、避けるか迂回したような、「飛び地拡散」を表しているかもしれません。内陸部の河川流域の急速な拡散は、HEと関連する極端な旱魃期の水不足を軽減するために必要だったのかもしれず、そうだとすると、早期オーリナシアン遺跡の欠如を説明できます。あるいは、沿岸経路仮説は、イベリア半島沿岸の上部旧石器時代前期遺跡群によっても支持されます。この経路は、気候悪化期に、より予測可能な資源と、より少ない生態学的リスクを提供した可能性があります。また沿岸の地形は、開拓者集団間の意思伝達と情報伝達を促進したかもしれません。

 第三に、ネアンデルタール人と現生人類は同時代に共存し、ポルトガルのエストレマドゥーラ(Estremadura)石灰岩山塊では近接していたかもしれません。もしそうならば、ラパドピカレイロ洞窟GG~II層はオリベイラ洞窟の9層と8層の間に相当するので、両者の直接的接触の証拠はありません。しかし、特定の分類がされていないラパドピカレイロ洞窟FF層の石器群は、オリベイラ洞窟8層と同時代で、異なる集団の共存もしくは連続的な交互の存在を示しているかもしれません。ネアンデルタール人と年代的に重なる現生人類の存在は、ネアンデルタール人の絶滅に関する、競争的排除の仮説(関連記事)を支持します。一方、オリベイラ洞窟8層の現時点での年代がじっさいよりも新しすぎる場合は、42000年前頃以後にポルトガルでネアンデルタール人もしくは中部旧石器の遺跡は存在しないことになります。そうすると、この地域において、最後のネアンデルタール人と最初の現生人類との間で、年代的重複もしくは競争はなかったかもしれません。

 最後に、ラパドピカレイロ洞窟の記録は、最後のネアンデルタール人と初期現生人類との間の、人為的痕跡の空白層が、千年規模の気候周期および環境変化と関連してきた、ユーラシア西部全域のパターンを反映しているようです(関連記事)。過疎化はユーラシア西部全域で、生息域を中断・断片化させた深刻な寒冷で乾燥した亜氷期に起きたようで、ネアンデルタール人集団に悪影響を及ぼし、現生人類の拡散に新たな空間を開きました。イベリア半島では、古気候記録は、44300~43300年前頃のGS-12、42200~41500年前頃のGS-11、39900~38200年前頃のGS-9もしくはHE4と対応する、陸上の地域的変動性を示します。ラパドピカレイロ洞窟や他の遺跡からの考古学および堆積学的データの解像度は現時点では粗すぎますが、これらの連続した摂動の年代が、地域的なネアンデルタール人の過疎化と一致しているようです。ラパドピカレイロ洞窟では、最後の中部旧石器の痕跡がGS-12の始まりと対応しており、続いて明らかな人為的痕跡の中断が上部のJJ 層で20~30cmほど見られ、その後でGS-11~9の間にオーリナシアンが到来します。

 エブロ川流域以南のイベリア半島における、現生人類の最初の存在とネアンデルタール人の最後の存在を知ることはできないかもしれませんが、ラパドピカレイロ洞窟のデータは、現生人類拡散に関する知識を拡大します。中部旧石器時代および上部旧石器時代の技術的関連の現時点での理解に基づくと、ラパドピカレイロ洞窟の事例は、ユーラシア西端における現生人類の早期出現の決定的な証拠を提供し、以前のモデルを混乱させ、新たな調査の機会を生み出します。42000~37000年前頃の知識に関する大きな空白は、さらなる調査と継続的な野外研究で埋められる必要があります。


参考文献:
Haws JA. et al.(2020): The early Aurignacian dispersal of modern humans into westernmost Eurasia. PNAS, 117, 41, 25414–25422.
https://doi.org/10.1073/pnas.2016062117

鳥類の認知能力の基盤

 鳥類の認知能力の基盤に関する二つの研究が公表されました。日本語の解説記事もあります。なぜ一部の鳥類が、哺乳類とは全く異なる前脳組織を有するにもかかわらず哺乳類と同様の認知能力を有するのか、1世紀にわたり議論されてきました。哺乳類の大脳皮質に認められる特徴的な層状構造の代わりに、鳥類の脳外套には高いニューロン密度が特徴的に認められます。一方の研究(Stacho et al., 2020)は、ハトおよびフクロウの脳外套の解剖学的特徴を検討し、この領域のニューロン構造を極めて詳細に視覚化できました。この研究は、類縁性の遠い各種鳥類において脳外套の線維構造およびニューロン回路が、哺乳類の皮質の層状構造と極めて似ていることを見つけました。この構造は、鳥類の他に例をみない認知能力の背景となっている可能性があります。

 もう一方の研究(Nieder et al., 2020)は、ハシボソガラスに視覚刺激に反応するよう訓練して、そのニューロン反応を観察しました。その結果、霊長類の前頭前皮質と同様に、カラスの脳外套には、意識があることの標識と考えられる、見たものに対する哺乳類の知覚に対応するようなニューロン活動が認められた、と報告されています。これら2件の研究は、意識などの複雑な認知能力を可能にする哺乳類の皮質に類似したニューロン構造が、3億2千万年前頃の鳥類と哺乳類の最小共通祖先においてすでに存在していた可能性がある、と示唆します。あるいは、そうした構造は、きわめて異なる前脳組織を有する両種において、収斂進化の過程によりそれぞれ独立に発生したのかもしれません。


参考文献:
Nieder A, Wagener L, and Rinnert Rinnert.(2020): A neural correlate of sensory consciousness in a corvid bird. Science, 369, 6511, 1626–1629.
https://doi.org/10.1126/science.abb1447

Stacho M. et al.(2020): A cortex-like canonical circuit in the avian forebrain. Science, 369, 6511, eabc5534.
https://doi.org/10.1126/science.abc5534

現生人類の自己家畜化の遺伝的基盤

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、現生人類(Homo sapiens)の自己家畜化の遺伝的基盤に関する研究(Zanella et al., 2019)が報道されました。現生人類(Homo sapiens)は、家畜種を対応する野生種から区別する特徴を想起させる、一連の頭蓋顔面と向社会的特徴を示します(関連記事)。家畜化は、種がより友好的で、より攻撃的ではないよう育てられる時に生じる、遺伝的変化一式を含みます。たとえば家畜化されたイヌやキツネでは、より小さい歯と頭蓋、たれ耳、より短く巻いた尾です。

 これは、現生人類がその進化において家畜化過程を経て、その影響は形態や認知能力に関わっている、という仮説につながりました。現生人類は、その祖先の多くよりも攻撃的ではなく、協力的と推測されています。現生人類は、脳が大きいものの頭蓋はより小さく、眉弓が顕著ではなく、これは自己家畜化の特徴と考えられています。現生人類の自己家畜化という見解は19世紀初めのブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)の見解にまでさかのぼり、現生人類と家畜の類似性には19世紀後半にダーウィン(Charles Robert Darwin)も注目していました。しかし、管理された繁殖を重視するダーウィンは、家畜化と現生人類の自己家畜化を異なる現象として把握し、自己家畜化という見解を発展させることはありませんでした。

 しかしその後、現生人類の形態および認知行動の特徴は、非ヒト動物の家畜化とのひじょうに類似した進化過程から生じる、という可能性が指摘され、現生人類の自己家畜化説として洗練されてきました。最近の研究では、家畜化と選択的繁殖の確かな区別が提示され、自己家畜化の概念がネコやイヌやボノボにも拡張されています。この過程は現生人類の漸進的な地理的拡大のさいに、さらに進んだかもしれません。

 しかしこれまで、現生人類の自己家畜化説は、二つの要因のために決定的な証拠の提示には失敗してきました。それは、どのような発達および遺伝的メカニズムが家畜化の根底にあるのか、理論水準でさえ一貫した説明が欠けていたことと、現生人類の自己家畜化の場合にこれらのメカニズムを具体的に検証できる適切な実験体系が欠如していたことです。したがって、自己家畜化の根底にある同じメカニズムを仮定しなければなりません。現生人類の自己家畜化に関しては、穏やかな神経堤不足の結果である、との見解も提示されていますが、家畜化および現生人類への家畜化の拡張の神経堤症的基礎は、まだ実験的に検証されていません。

 ウィリアムズ(ウィリアムズ・ボイレン)症候群(WBS)とその領域重複症候群は、それぞれ、7番染色体の領域(7q11.23)の28遺伝子(ウィリアムズ症候群に重要な領域、WBSCR)の半接合欠失と半重複により起き、神経堤に関連する頭蓋顔面異形症や認知・行動的特徴、具体的には顔面縮小・退縮や過度の有効性や反応性攻撃性の減少を示します。GTF2Iやそのパラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)といったWBS遺伝子の構造的多様体は、家畜化されたイヌやキツネで典型的な超社会性の基盤にある、と示されてきました。

 本論文では、WBSCR遺伝子のうち、クロマチン制御のBAZ1B(ウィリアムズ症候群転写因子、WSTFとしても知られています)に焦点が当てられており、家畜化と関連する頭蓋顔面の特徴と関係する一連の証拠に基づいています。これらの証拠は、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)、ノックアウトマウス、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)などから得られています。

 以前の研究で、7q11.23に由来する患者の人工多能性幹細胞(iPSC)の分析から、多能性状態ですでに明らかで、分化時にさらに悪化した、主要な疾患関連転写調節不全が解明されました。本論文はこれを利用して、機能(神経堤の移動と誘導)と転写およびクロマチン調節不全の両観点において、WBSおよび同じ遺伝子領域に起因するASD(自閉スペクトラム症)の患者の神経堤におけるBAZ1B量の影響を詳細に分析し、これにより、NCを制御する依存回路であるBAZ1B量を定義します。

 次に本論文は、頭蓋顔面形態発生の基礎となるこれら実験的に決定されたBAZ1B依存回路を適用して、これまで相関性のみだった古代ゲノム分析の証拠を調べます。これにより、現生人類においてBAZ1B制御と調節変化を有する遺伝子との間の主要な収斂が明らかになります。頭蓋顔面神経堤症におけるBAZ1B発現量の定義と、家畜化関連古代ゲノム研究への適用から、現生人類の顔の形態への主要な調節因子としてBAZ1Bが特定されました。AZ1B遺伝子は、神経堤細胞の挙動を制御し、発現量が低いと神経堤移動の減少を、高いと神経堤移動の増加をもたらします。

 これにより、神経堤に基づく(自己)家畜化の説明の中心にある、予測の実験的検証が提供されます。それは、現生人類の顔が穏やかな神経堤症の事例としてその形態を獲得した、というものです。現代人集団のBAZ1B遺伝子では、現時点で利用可能なネアンデルタール人およびデニソワ人のゲノムでは見られない、かなりの数の蓄積された変異が高頻度で見られます。そのため、BAZ1B遺伝子が、ネアンデルタール人やデニソワ人といった近縁系統と比較したさい、現生人類の顔を異なるものにした要因と推測されました。これら同じ遺伝子の多くは他の家畜化された動物でも選択されてきたので、現生人類も進化史において比較的最近の家畜化過程を経験したのではないか、と考えられます。現生人類はネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と、諸説によりかなりの幅があるものの、およそ80万~50万年前頃(関連記事)に分岐した後、こうした自己家畜化を進展させていったのではないか、というわけです。

 この研究に関わっていない生物人類学者のランガム(Richard Wrangham)氏は、多くの異なる遺伝子が家畜化に役割を果たしている可能性が高いので、BAZ1Bの進化的重要性を読み取りすぎてはならない、と注意を喚起しています。BAZ1Bはひじょうに重要な遺伝子の一つではあるものの、他に候補遺伝子が複数存在することは明らかだ、というわけです。一方、同じくこの研究に関わっておらず、進化生物学と認知科学を専攻するフィッチ(William Tecumseh Fitch III)氏は、ヒトの自己家畜化と動物の家畜化との間の「正確な類似」に懐疑的です。これらは類似点と相違点の両方を備えた過程で、一つもしくはいくつかの遺伝子の変異が、家畜化に関わる多くの遺伝子の良いモデルにはならないだろう、というわけです。現生人類の家畜化については、仮説が多数あります。ランガム氏は、初期人類が協力的な社会を形成するさいに、進化的圧力により「アルファ」もしくは攻撃ではない特徴の仲間が選択された、との見解を支持します。攻撃性を好む遺伝子に対して、最初期に選択が作用したのではないか、というわけです。現在まで、現生人類は自身を管理している唯一の種とされます。


参考文献:
Zanella M. et al.(2019): Dosage analysis of the 7q11.23 Williams region identifies BAZ1B as a major human gene patterning the modern human face and underlying self-domestication. Science Advances, 5, 12, eaaw7908.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw7908

信頼性を伝える顔の特徴

 信頼性を伝える顔の特徴に関する研究(Safra et al., 2020)が公表されました。社会的信頼は、積極的な社会的成果(経済実績の向上や犯罪率の低下など)に関連しています。しかし、信頼が何によって生じるのか、明確になっていません。その理由の一つは、社会的信頼の変化を長期間にわたって定量的に記録することが困難であるためです。この研究は、信頼性の歴史的変遷をたどるため、肖像画の信頼性評価を生成するアルゴリズムを設計しました。このアルゴリズムの妥当性は、最初に、人間の参加者が格付け評価した顔の写真を用いて検証されました。続いて行なわれた検証で、このアルゴリズムは、表示された顔画像の年齢・性別・感情により信頼性の知覚が異なる、という科学文献に示された結果を再現しました。

 この研究は、ロンドンの国立肖像画美術館所蔵の1505~2016年のイギリス人の肖像画のコレクション1962点を分析し、信頼性を伝える特徴が年を追うごとに有意に増加したことを見いだしました。この結果は、Web Gallery of Artに登録されているヨーロッパ西部19ヶ国の1360~1918年の肖像画4106点でも再現されました。肖像画における信頼性を伝える特徴の増加が、社会的信頼の変化を反映しているとする仮説にしたがって、このアルゴリズムは、ソーシャルメディアに投稿された6都市で撮影された2277枚の自撮り写真に適用されました。その結果、ヨーロッパ価値観調査と世界価値観調査で個人間の信頼と協力が高いと評価された都市で撮影された画像には、信頼性を伝える特徴が多い、と明らかになりました。この研究は、16~20世紀に信頼性を伝える特徴の増加に影響を与えた可能性のある要因を検討し、この増加が、より民主的な制度の台頭など制度的変化よりも、1人当たりGDPの増加と強く関連していることを明らかにしました。生活水準の改善と関連しているのではないか、というわけです。進化的な観点からも注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


心理学:肖像画は「信頼性」の歴史的変遷をたどるのに役立つ

 ヨーロッパ人の肖像画において信頼性を伝える顔の特徴が西暦1500~2000年の間に増加し、こうした顔の特徴が社会的信頼の変化を示唆していることを明らかにした論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、顔画像処理アルゴリズムを用いて得られたもので、顔面筋の収縮の分析によって判明した信頼性を伝える顔の特徴の増加が、この期間中に生活水準が改善したことと関連していることも示唆している。

 社会的信頼は、積極的な社会的成果(経済実績の向上や犯罪率の低下など)に関連している。しかし、信頼が何によって生じるのかは明確になっていない。その理由の1つは、社会的信頼の変化を長期間にわたって定量的に記録することが困難なことにある。

 今回、Nicolas Baumardたちの研究チームは、信頼性の歴史的変遷をたどるため、肖像画の信頼性評価を生成するアルゴリズムを設計した。このアルゴリズムの妥当性は、最初に、人間の参加者が格付け評価した顔の写真を用いて検証された。続いて行われた検証で、このアルゴリズムは、表示された顔画像の年齢、性別、感情によって信頼性の知覚が異なるという科学文献に示された結果を再現した。

 Baumardたちは、国立肖像画美術館(英国ロンドン)所蔵の1505~2016年のイギリス人の肖像画のコレクション1962点を分析し、信頼性を伝える特徴が年を追うごとに有意に増加したことを見いだした。この結果は、Web Gallery of Artに登録されている西ヨーロッパ19か国の1360~1918年の肖像画4106点でも再現された。

 肖像画における信頼性を伝える特徴の増加が社会的信頼の変化を反映しているとする仮説に従って、このアルゴリズムは、ソーシャルメディアに投稿された6都市で撮影された2277枚の自撮り写真に適用された。その結果、ヨーロッパ価値観調査と世界価値観調査で個人間の信頼と協力が高いと評価された都市で撮影された画像には、信頼性を伝える特徴が多いことが判明した。

 Baumardたちは、この期間中に信頼性を伝える特徴の増加に影響を与えた可能性のある要因を検討し、この増加が、制度的変化(より民主的な制度の台頭など)よりも1人当たりGDPの増加と強く関連していることを明らかにした。



参考文献:
Safra L. et al.(2020): Tracking historical changes in trustworthiness using machine learning analyses of facial cues in paintings. Nature Communications, 11, 4728.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18566-7

大相撲秋場所千秋楽

 今場所は初日から白鵬関と鶴竜関の両横綱が休場となり、混戦が予想されましたが、じっさい、8日目の時点で全勝力士どころか1敗力士もおらず、4敗での優勝や4力士以上での優勝決定戦も想定されました。しかし、優勝争いは4敗までは下がらず、14日目を終えた時点で、2敗の正代関と3敗の貴景勝関・翔猿関に絞られました。まず、正代関と翔猿関が対戦し、翔猿関は健闘しましたが、やはり地力の違いが出たのか、正代関が土俵際で突き落として勝ち、13勝2敗で初優勝を果たしました。翔猿関が勝っていれば巴戦の可能性も残っていたので残念ですが、この結果は当然とも言えます。

 正代関は場所後に大関に昇進することになりそうですが、直近3場所がいずれも関脇で、8勝→11勝→13勝の合計32勝となります。大関昇進の目安とされる33勝には1勝だけ足りませんが、関脇で3場所連続の勝ち越しとなり、過去には北の湖関や千代大海関が合計32勝ながら優勝して大関に昇進しており、妥当なところでしょう。最近は横綱不在が多いので、やや甘い昇進基準とも言えるかもしれませんが、横綱の休場は正代関の責任ではないので、問題ないと思います。正代関は今場所の内容から横綱昇進も期待されますが、できれば白鵬関に力勝負で勝って横綱に昇進してもらいたいものです。翔猿関は新入幕で大健闘し、貴景勝関には完敗でしたが、正代関には健闘し、来場所番付が上がっても勝ち越せるかもしれません。

 大関への足固めが期待された関脇3人は明暗がはっきり分かれて、正代関が強い相撲を続けて優勝を果たしたのに対して、御嶽海関は勝ち越すのがやっとで8勝7敗、大栄翔関は大きく負け越して5勝10敗でした。御嶽海関は強さとともに脆さも見られ、2回優勝してはいますが、大関昇進は難しいかもしれません。大栄翔関は、まだ力不足でしょうか。横綱昇進の足固めの場所になると期待された朝乃山関は初日から3連敗で、その後の10連勝で立て直したものの、千秋楽の貴景勝関との結びの一番でも敗れ、10勝5敗に終わりました。まだ精神的な脆さがありますが、「正統派」的なところがあるので、相撲協会やマスコミの期待は大きいようです。

 今場所は、初日から両横綱が休場しましたが、途中休場も目立ちました。新型コロナウイルスの流行により出稽古禁止となり、調整が難しくなっていることも大きいでしょうが、以前よりも八百長が減っているという推測が妥当なのだとしたら、1場所15日で年6場所(先々場所は中止になりましたが)という現行体制に根本的な問題がある、と言うべきでしょう。両横綱のうち、鶴竜関はいよいよ追い詰められたという感じで、来場所引退しても不思議ではありません。白鵬関は、ある程度体調が整えば、まだ最強だとは思いますが、それでも5回以上優勝するとはとても思えず、来年前半で引退しても不思議ではありません。

 正代関は覚醒した感があり、横綱に最も近いとさえ言えそうですが、来場所前に29歳になるので、横綱として長く務めることは難しそうです。朝乃山関も26歳でそこまで若いわけではなく、24歳と横綱・大関陣で最も若い貴景勝関は押し相撲で安定感に欠けますから、かなり危機的な人材不足の状況にあることは間違いありません。日本社会全体の少子高齢化が進む中、旧悪と指弾されそうな要素の多い大相撲界に進みたいと考える少年も、息子を力士にさせたいと考える保護者も少ないでしょうから、大相撲の水準低下も仕方ないところでしょうか。

ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体での系統関係

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析に関する研究(Petr et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文はすでに今年(2020年)3月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようですが、多少の変更点や私の見落としおよび間違い(平均網羅率など)があるので、それらを訂正しつつ以前の記事を基本的には流用し、以前は掲載しなかった図も取り上げるとともに、その後のネアンデルタール人やデニソワ人に関する知見も取り入れます。


 古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000~550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000~360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡とエルシドロン遺跡(エルシドロン1253)のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100~55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400~105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000~38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000~43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000~46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対(エルシドロン1253のみは56万塩基対)が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が3.5倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核(というか常染色体)ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。

 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と非アフリカ系現代人系統では249000(293000~213000)年前頃です。非アフリカ系現代人とデニソワ人とでは、デニソワ8が707000(835000~607000)年前頃、デニソワ4が708000(932000~550000)年前頃です。非アフリカ系現代人とネアンデルタール人とでは、スピ94aが353000(450000~287000)年前頃、メズマイスカヤ2が370000(420000~326000)年前頃、エルシドロン1253が339000(408000~275000)年前頃です。父系となるY染色体の推定分岐年代は、現生人類およびネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人の祖先系統とが70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統とが35万年前頃、ネアンデルタール人3個体では10万年前頃です。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体と現生人類のY染色体系統樹(図2A)と合着年代(図2B)を示した本論文の図2です。
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 Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の(広義の)現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した(父系においての)絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されており(関連記事)、最近の研究ではこの遺伝子流動は30万~20万年前頃に起き、割合は3~7%と推定されています(関連記事)。ギリシアでは21万年以上前のおそらくは広義の現生人類遺骸が発見されており、ヨーロッパにおける20万年以上前のネアンデルタール人広義の現生人類系統との交雑はじゅうぶん考えられるでしょう(関連記事)。

 他系統からの3~7%程度の遺伝子流動という条件において、他系統のmtDNAとY染色体への置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており(関連記事)、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。

 具体的には、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動を5%と仮定した場合、5万年後の置換率は、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低いと25%に増加し、2%低いと50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。以下、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の核(常染色体)ゲノムとmtDNAとY染色体の系統関係(図3A)と、Y染色体系統の置換率(図3B)を示した本論文の図3です。
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 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万~10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全な置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 本論文はひじょうに興味深い結果を提示しており、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


 以上、ほぼ以前の記事からの流用ですが、本論文の内容をざっと見てきました。査読前の論文を取り上げた後も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係について、興味深い研究が複数提示されています。たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑を指摘した研究や(関連記事)、ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(関連記事)です。デニソワ人に関しては、アジア東部の早期現生人類においてデニソワ人の遺伝的影響が指摘されており、これは現代パプア人やオーストラリア先住民の祖先集団の事例とは異なるデニソワ人との交雑事象を反映している、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑も指摘されており、アルタイ地域ではデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったと推測されていますが、12万~4万年前頃となるユーラシア西部のネアンデルタール人8個体のゲノムでは、デニソワ人系統は殆ど或いは全く検出されませんでした(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムには、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人と関連する古代型ホモ属に由来する領域が2%ほどある、と推定されています(関連記事)。ユーラシア西部ではデニソワ人は確認されていないため、ユーラシア西部現代人集団のゲノムには、基本的にデニソワ人由来の領域はない、と考えられますが、アイスランド現代人のゲノムには、わずかながらデニソワ人由来の領域が確認されています(関連記事)。

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列からは、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)に代表される東方系のネアンデルタール人よりもヴィンディヤ洞窟個体(Vindija 33.19)に近いものの、チャギルスカヤ洞窟個体とも同等に密接な関係にある、と示唆されています(関連記事)。つまり、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団を表す個体は、まだ発見されていないかゲノムデータが得られていない、と考えられます。この未知の個体のゲノムには、デニソワ人由来の領域がわずかながら存在する、と推測されます。

 このように、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係は複雑で、相互に複数回の交雑があった、と考えられます。mtDNAの違いから哺乳類における雑種の繁殖力を予測した研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人は、繁殖力のある子孫の誕生に重要な生物学的障害を予測できるほど、相互にじゅうぶんには分岐していない、と指摘されています(関連記事)。さらに、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先と分岐した未知の人類系統が、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統(関連記事)や、アフリカの現生人類(関連記事)と交雑した、との見解も提示されています。今後、新たな手法の開発により、後期ホモ属間の複雑な関係がさらに解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460

大河ドラマ『麒麟がくる』第25回「羽運を運ぶ蟻」

 1566年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、覚慶(足利義昭)は還俗しますが、越前には入れません。足利義栄が将軍に任ぜられるのではないか、と焦る細川藤孝は朝倉義景に面会に行きますが、会えませんでした。1567年、織田信長は美濃を平定し、藤田伝吾からの手紙により、光秀たちも安心して美濃に帰れると分かり、光秀は母とともに美濃に一時的に帰国しますが、まだ流浪の身である自分に忸怩たる思いがあることを母に打ち明けます。

 光秀は稲葉山(岐阜)城で稲葉良通(一鉄)と再会します。信長と面会した光秀は、信長から自分に仕官するよう誘われたものの断り、足利義輝殺害後どうすればよいか悩んでいる、と答えます。信長も、自分が今後どうすべきか悩んでいる、と光秀に打ち明けますが、同時に、戦は嫌いではない、皆に喜ばれるのが好きなので、そのような戦をしたいが、周囲には敵も多く、どこを攻めればよいのか悩んでいると光秀に尋ね、光秀は信長に上洛して大きな国を作るよう勧めます。しかし、次の将軍に擁立すべき義昭の器量を問われた光秀は返答に窮します。光秀が越前に戻ると、細川藤孝と足利義昭が光秀邸を訪れていました。義昭は、助けがあれば将軍を務められ、一人の僧侶としてよりも貧しい人々を救える、と光秀に打ち明け、義景への助力働きかけを光秀に依頼します。光秀は義昭の器量を見直し、義景に義昭を推戴するよう、進言します。松永久秀からも義昭支援を依頼されていた義景は、義昭を受け入れると決断します。しかし、光秀は息子が飼っていた鼠を探すために大事な話を中断する義景を見て、改めて義景の器量に不安を抱いたようです。

 今回は、今後の展開、さらには本能寺の変へと至る光秀と信長との関係で、ひじょうに重要と思われるやり取りが描かれました。本作の信長は、子供の頃に母親から愛されず、愛情を求める人物として描かれてきました。その意味で、皆に喜ばれるために戦をする、という信長の行動原理はよく分かります。さらに、斎藤道三から光秀への遺言とも考えられる「大きな国」を伝えられた信長は、まだ漠然としているとはいえ、遠い将来の目標を見つけたようにも思います。あるいは、信長の征服戦争がいつまでも続きそうだと悟った光秀が、それを阻止するため本能寺の変を起こした、という話になるのかもしれません(非道阻止説)。

青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析に関する研究(Agranat-Tamir et al., 2020)が報道されました。紀元前3500~紀元前1150年頃となる青銅器時代は、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンとパレスチナ自治政府とシリア南西部を含むレヴァント南部の形成期でした。この時期には、レヴァント南部全域の大規模な文化崩壊が起き(関連記事)、人口および文化的に後の時代が形成されていきました。

 紀元前1150~紀元前586年頃となる鉄器時代には、フェニキアの都市国家と同様に、聖書に見えるイスラエルやユダヤやアモンやアラム・ダマスカスのような領域的王国が台頭しました。後期青銅器時代の大半において、レヴァント南部はエジプト帝国により支配されていましたが、鉄器時代後半には、メソポタミアを中心とするアッシリアやバビロニアといった帝国に支配されていました。考古学的および歴史学的研究では、青銅器時代と鉄器時代の間の大きな変化が指摘されています。それは、前期青銅器時代のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)伝統と関連した北方(コーカサス)集団の文化的影響や、鉄器時代の始まりに西方から到来したペリシテ人のような「海の民」の影響です。

 青銅器時代のレヴァント南部の住民は一般的に「カナン人」、つまりカナンの地の住民と呼ばれています。カナン人という用語は、アマルナ(Amarna)やアララハ(Alalakh)やウガリット(Ugarit)の粘土板といった紀元前二千年紀のいくつかの記録や、紀元前8~紀元前7世紀やそれ以降の聖書に見えます。聖書では、カナン人はイスラエルよりも前のカナンの地の住民とされています。紀元前二千年紀のカナンは都市国家の体系で組織化されており、支配層は都市中心から農村(と一部の牧畜民)を支配しました。これらの都市国家の物質文化は比較的均一でしたが、この均一性が遺伝的系統にまで及ぶのか、不明です。遺伝的系統と物質文化が完全に一致する可能性は低そうですが、過去の古代DNA分析では、時として強く関連すると示されています。他の事例では、遺伝子と文化の間の直接的一致は確立できません。本論文ではいくつかの事例が議論されます。

 以前の古代DNA研究では、レヴァント南部の4ヶ所の青銅器時代遺跡の13人のゲノム規模データが報告されています。紀元前2300年頃(移行期青銅器時代)となるヨルダンのアインガザル(‘Ain Ghazal)遺跡の3人、紀元前1750年頃(中期青銅器時代)となるレバノンのシドン(Sidon)遺跡の5人、紀元前1250年頃(後期青銅器時代)となるイスラエルのテルシャドゥド(Tel Shadud)遺跡の2人、紀元前1650~紀元前1200年頃(中期および後期青銅器時代)となるイスラエルのアシュケロン(Ashkelon)遺跡の3人です。

 これらの個体群の系統は、それ以前の在来集団およびザグロス山脈の銅器時代の人々(以前はイランChLとされていました)と関連する集団との混合としてモデル化できます。青銅器時代シドン集団は、現代の同地域集団の主要な祖先集団(93±2%)としてモデル化できます。イスラエルのガリラヤのペキイン(Peqi'in)洞窟の銅器時代個体群の研究では、この在来集団の系統は、早期アナトリア半島農耕民と関連する追加の構成を含んでいた、と示されています(関連記事)。このアナトリア半島農耕民系統は、レヴァント南部の後の青銅器時代集団では見られませんが、シドンやアシュケロンの沿岸部集団は例外です。これらの観察は、銅器時代から青銅器時代の移行期における集団置換の程度を示しており、銅器時代文化と前期青銅器時代文化との間の中断を指摘する考古学的証拠と一致します。

 本論文は三つの問題を検証します。まず、カナン人の物質文化と関連した遺跡間の遺伝的均質性の程度の決定です。次に、ザグロスおよびコーカサス関連系統を青銅器時代レヴァント南部にもたらした遺伝子流動の、年代・程度・起源を解明するためのデータ分析です。最後に、追加の遺伝子流動事象が青銅器時代以降にどの程度影響を与えたのか、という評価です。これらの問題の解明のため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで約1500年にまたがる、青銅器時代71人と鉄器時代2人のゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。これらのデータがレヴァント南部における青銅器時代および鉄器時代の既知のデータと組み合わされ、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンにまたがる、すべてカナン人の物質文化を示す9遺跡93人のデータセットが生成されました。

 異なる遺跡から標本抽出された個体群は、とくにシドンやアシュケロンのような沿岸部地域住民において、いくつかの事例では微妙ではあるものの有意な違いがあるにも関わらず、一般に遺伝的に類似しています。ほぼ全ての個体が、この時期以前の在来新石器時代集団と近東北東部集団との混合としてモデル化できます。しかし、混合の割合は経時的に変化し、青銅器時代におけるレヴァント南部の人口動態を明らかにします。現代のユダヤ人集団とレヴァントのアラブ語話者集団を含む、青銅器時代のレヴァントと地理的および歴史的に関連する現代人集団のゲノムは、青銅器時代のレヴァントと銅器時代のザグロス地域の集団と関連する人々から50%もしくはそれ以上の系統を有している、と示されます。またこれらの現代人集団は、利用可能な古代DNAデータではモデル化できない系統も示しており、青銅器時代以降のレヴァント南部への追加の大きな遺伝的影響の重要性が強調されます。


●データセット

 レヴァント南部の5遺跡から計73人のDNAが抽出されました。イスラエル北部のテルメギド(Tel Megiddo)遺跡からは35人で、その大半は中期~後期青銅器時代ですが、1人は移行期青銅器時代、1人は前期鉄器時代です。ヨルダン中央部のバクア(Baq‛ah)遺跡からは21人で、その大半は後期青銅器時代です。イスラエル中央部のイェハド(Yehud)遺跡からは13人で、年代は移行期青銅器時代です。イスラエル北部のテルハツォル(Tel Hazor)遺跡からは3人で、年代は中期~後期青銅器時代です。イスラエル北部のテルアベルベトマアカ(Tel Abel Beth Maacah)遺跡からは1人で、年代は鉄器時代です。1人を除く全個体のDNAは錐体骨から抽出されました。これらの新たなデータは、上述のレヴァント南部の青銅器時代の13人と、アシュケロン遺跡の鉄器時代の7人の既知のデータと組み合わされました。

 主成分分析では、777人のユーラシア西部現代人も対象とされました。ただ、常染色体で少なくとも3万ヶ所の一塩基多型(系統推定が堅牢となる閾値)が得られていない個体は除外され、古代人では68個体が分析対象とされました(図1B)。青銅器時代~鉄器時代のレヴァント南部の個体群(青色および緑色)は密集したクラスタを形成しますが、イスラエル北部のメギド(Megiddo)遺跡のうち3人と、以前に外れ値として特定されたアシュケロン遺跡集団IA1(鉄器時代1)は例外です。現代人および古代人計1633人を対象にADMIXTUREを実行すると、主成分分析と定性的に一致しており、外れ値であるメギド遺跡とアシュケロン遺跡IA1集団以外の全個体は類似の系統を有する、と示唆されます(図1C)。以下、本論文で分析対象となった標本の場所(A)と主成分分析(B)と系統構成(C)を示した本論文の図1です。
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 データセット内の親族関係では、1~3親等の関係にある17人が特定されました。この17人は7家族に分類され、テルメギド遺跡で5家族、バクア遺跡で2家族です。ほとんどの家族では、高い一塩基多型網羅率を有する構成員のみが分析に用いられました。メギド遺跡の外れ値3人のうち2人は、兄妹もしくは姉弟でした(家族4、I2189およびI2200)。低網羅率の個体群と密接な関係にある親族を除く62人が、さらなる分析に用いられました。


●複数遺跡間の高度の遺伝的類似性

 テルメギド遺跡の高網羅率の26人は、地理と考古学的期間と主成分分析に基づいて、移行期青銅器時代(メギドIBA、1人)、中期~後期青銅器時代(メギドMLBA、22人)、鉄器時代(メギドIA、1人)、外れ値2人(メギドI2200およびメギドI10100)に区分されました。これらの集団と本論文のデータセットにおける他の集団が、より広範な地域とより古い年代を含む他の遺跡の既知のデータと比較されました。それは、前期青銅器時代コーカサス(アルメニアEBA)、中期~後期青銅器時代コーカサス(アルメニアMLBA)、銅器時代ザグロス山脈(イランChL)、銅器時代コーカサス(アルメニアChL)、新石器時代レヴァント南部(レヴァントN)、新石器時代ザグロス山脈(イランN)、新石器時代アナトリア半島(アナトリアN)です。

 レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の集団間の系統の割合における多様性を検証するため、qpWaveが用いられました。qpWaveは、潜在的な集団の組み合わせごとに、共通の祖先集団の子孫、つまりクレード(単系統群)と一致するのか、検証します。qpWaveはf4形式(Testi、Testj;Outgroupk、Outgroupl)の対称性検証統計の計算により機能し、検証対象(Testi、Testj)が外群に関してクレードを形成するならば、期待値はゼロです。遠い関係の一連の外群を用いると、メギドとアシュケロンIA1とシドンの外れ値を除いて、レヴァント南部の青銅器時代および鉄器時代の全個体は、外群に関して相互に対のクレードである、と明らかになりました。

 続いてqpWaveで集団の下部構造が調べられました。メギド遺跡の外れ値2人は、他集団とクレードを形成しませんでしたが、相互とはクレードを形成します。アシュケロンIA1はヨーロッパ系統を有している、と以前の研究では推定されており(関連記事)、同時代の集団と遺伝的に異なる事例は、とくに意外ではありません。qpWaveにおけるシドン遺跡個体群の有意な違いは、主成分分析において他のレヴァント南部青銅器時代集団と大まかにはクラスタを形成するという事実にも関わらず、注目に値します。それはとくに、シドン個体群がとヨーロッパ人関連の混合を有さない沿岸部のアシュケロン遺跡の2集団(青銅器時代と鉄器時代のアシュケロンLBAとアシュケロンIA2)とクレードを形成する、と明らかになったからです。

 この観察は、シドンとアシュケロンの両遺跡がレヴァント南部外の他の地中海沿岸集団とつながりのある港町だった、という事実と関連しているかもしれません。そのため、レヴァントの内陸部青銅器時代集団では欠けている系統構成がもたらされた、というわけですが、この仮説の検証は、地中海東方周縁部の高解像度の古代DNA標本抽出が欠けているので、困難です。シドン個体群の遺伝的特徴は、ペキイン洞窟の銅器時代レヴァント個体群が、シドン個体群へと一部の系統を伝えたものの、アインガザル個体群には伝えなかった、という以前の知見とも一致します。シドン個体群内の下部構造の証拠は見つかりましたが、一部はレヴァント南部内陸部集団とクレードを形成しており、シドン遺跡のかなりの「国際的」性質を反映しているかもしれません。

 より微妙な集団構造を明らかにするため、アルメニアMLBAやナトゥーフィアン(Natufian)のような遺伝的に検証集団とより密接な外群を追加して、qpWave分析が繰り返されました。このより強力な外群セットにより、バクアおよびメギドIBAも、残りの集団と対でのクレードになっていない、という証拠が提供されます。したがって、これらの遺跡間の遺伝的類似性の広範な観察を超えて、青銅器時代のレヴァント南部では、微妙な系統不均質も観察されます。


●青銅器時代のレヴァント南部における遺伝子流動

 以前の研究では、アインガザル遺跡とシドン遺跡の青銅器時代個体群は、それ以前の在来集団(レヴァントN)と銅器時代ザグロス山脈の人々と関連する集団(イランChL)の混合としてモデル化されています。レヴァントN関連系統を、アインガザル個体群は56±3%、シドン個体群は48±4%有している、と推定されています。qpAdmを用いると、レヴァントN関連系統の割合は、アシュケロンLBAが54±5%、アシュケロンIA2が42±5%と推定されます。次に、qpAdmを用いて本論文で報告されたデータの同じモデルを検証すると、ほとんどの中期~後期青銅器時代集団は、レヴァントN関連系統を48~57%有する、というモデルと適合しました。これらの系統の割合は統計的に区別できず、qpWaveで対でのクレードを形成することと一致する、という事実を確証します。広範な外群集団を用いた時でさえ、バクア集団だけはこのモデルに適合しませんでした。これは、バクア個体群全体の系統の不均質性の結果かもしれません。

 ザグロス関連系統構成を検証するため、起源と年代に焦点が当てられました。銅器時代ザグロスの人々は、現時点でこの系統構成の最良の代理集団ですが、青銅器時代におけるザグロスからレヴァント南部への直接的な文化拡大の考古学的証拠はありません。対照的に、青銅器時代のレヴァント南部集団とコーカサス(現代のコーカサスおよびアナトリア半島東部のような近隣地域)との間のつながりは考古学的に支持されています。これらの事象の年代に関して考古学では、紀元前三千年紀前半におけるコーカサスのクラ・アラクセス文化とレヴァント南部のヒルベットケラク(Khirbet Kerak)文化との間の類似性が指摘されており、文字記録の証拠では、たとえば紀元前14世紀のアマルナ文書のように、紀元前二千年紀における多くの非セム人や古代近東北東部のフリル語の個人名が記載されています。したがって、銅器時代ザグロス構成は、コーカサス、さらにはもっと直接的に古代近東の北東部地域を通ってレヴァント南部に到来したかもしれない、と推測されます。しかし、古代近東の北東部地域からの古代DNA標本はありません。この移動は、短期の波に限定されておらず、青銅器時代を通じて複数回の波があったかもしれません。

 遺伝子流動の起源が直接的にザグロス地域からというよりはむしろコーカサスからなのかどうか検証するため、qpAdmが実行され、イランChLが前期青銅器時代コーカサス集団(アルメニアEBA)と置換されました。その結果、コーカサスモデルはザグロスモデルと類似の支持を受ける、と明らかになりました。次に、アルメニアEBAをより古いコーカサス集団(アルメニアChL)およびイランChLの混合としてモデル化すると、アルメニアEBAはこのモデルに適合しました。まとめると、本論文のデータは、レヴァント南部におけるザグロス関連系統のレヴァント南部への到来経路が、コーカサス、もしくは直接的にザグロス地域あるいは中間地を経由してのものだった、というモデルと適合します。

 レヴァント南部におけるザグロス関連系統の混合の年代を検証するため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで、本論文のデータセットにおける広範な年代の個体群が用いられました。個体群それぞれのqpAdmに基づく系統推定を用いると、ほぼ全ての個体は新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスと関連する集団の混合モデルと適合しました。例外の一つはメギドMLBA個体で、このモデルとの適合が弱くなっています。もう一つの例外はバクア遺跡の3人で、新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスとの混合としてのモデル化が困難であることは、系統の不均質性を反映しているかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、外より多くの群集団を用いても定性的に変わりませんでした。本論文のデータセットで最古級となる移行期青銅器時代の個体群は、すでに有意なザグロス関連系統を有している、と明らかになり、この遺伝子流動が紀元前2400年前頃以前に始まった、と示唆されます。これは、紀元前三千年紀のクラ・アラクセス複合の人々が、レヴァント南部へと文化的にだけではなく、ある程度の人々の移動でも影響を与えたかもしれない、という仮説と一致します。本論文のデータも、移行期青銅器時代後のザグロス関連系統の割合の増加を示唆します。しかし、ザグロス関連系統の増加が中期~後期青銅器時代に継続して起きたのか、複数回の異なる移住事象があったのか決定するには、個体数と期間が不充分である、と本論文は注意を喚起します。

 メギド遺跡の2つの外れ値(兄妹もしくは姉弟の組み合わせを含む3個体)は、レヴァント南部への遺伝子流動の年代と起源に関する追加の証拠を提供します。この3人はK10層で相互に近接して発見され、放射性炭素年代測定法で紀元前1581~紀元前1545年(家畜)と紀元前1578~紀元前1421年(埋葬)と推定されていますが、3人のうち1人(I10100)の骨の直接的な年代は紀元前1688~紀元前1535年です。この3人が他の個体と異なっている理由は、コーカサスもしくはザグロス関連の遺伝的構成がずっと高く、北東からレヴァント南部への進行中の遺伝子流動を反映しているからです。3人のうち2人の新石器時代レヴァント構成は、I2200では22~27%、I10100では9~26%です。

 外れ値の兄妹もしくは姉弟(I2189とI2200)のストロンチウム同位体分析では、2人がメギド遺跡付近で育ったと示唆されているので、この外れ値3人が移民第一世代だった可能性は低そうです。これは、メギド遺跡の外れ値3人の直近の祖先がメギド遺跡に到来した可能性を示唆します。この仮説の直接的支持は、密接に関連する集団を含む敏感なqpAdmモデル化では、この2人のレヴァント南部の北東方向地域の起源集団として唯一機能するのが、アルメニアMLBAである一方で、イランChLおよびアルメニアEBAではない、という事実に由来します。外群にイランChLを追加しても、この結果は変わらないか、モデル化に失敗しません。他のレヴァント集団はどれも類似の混合パターンを示しません。これは、レヴァントへのある程度の遺伝子流動が青銅器時代後半に起きたことを示し、この遺伝子流動の起源がコーカサスだったことを示唆します。

 まとめると、本論文の分析は、コーカサスもしくはザグロス集団と関連する人々からレヴァントへの遺伝子流動が、すでに移行期青銅器時代には起きつつあり、それが一時的もしくは継続的に、中期~後期青銅器時代において少なくとも内陸部の遺跡では持続した、と示します。


●青銅器時代以降のレヴァント集団のさらなる変化

 青銅器時代以降のレヴァントにおける集団変化を検証するため、さまざまな古代起源集団の混合としてのレヴァント地域アラブ語話者と、レヴァントにおける古代の人々の子孫(ユダヤ人)の伝統を有する集団がモデル化されました。qpAdmでは、外群と関連する集団と起源集団との間での混合は推測されませんが、ほぼ全てのレヴァント現代人および地中海集団は、古代集団が有していない、有意なサハラ砂漠以南アフリカ関連混合を有しています。

 これによりqpAdmの多くの主要な外群が除去され、この文脈での手法の有用性が減少します。とくに、qpAdmを適用して、ユーラシア西部現代人集団の大半への単一の機能するモデルを得ることはできませんでした。代わりに、LINADMIXと呼ばれる手法が開発されました。これはADMIXTUREの出力に依存し、制約付きの最小二乗法を用いて、対象となる集団への想定される起源集団の寄与を推定します。補足的な手法として、擬似ハプロタイプChromoPainter(PHCP)と呼ばれる手法が開発されました。これは、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterの、古代ゲノムへの適用です。

 まず、これらの手法は、qpAdmでモデル化できた系統の割合の再計算により、本論文の文脈において系統の有意義な推定を提供する、と確証されました。LINADMIXとPHCPは両方とも、qpAdmと定性的に類似した推定を生成します。これらの手法をさらに確証するため、本論文と類似の設定で現代人集団の系統の割合を推定する能力を検証するよう設計された、シミュレーションが実行されました。そのために、第三のより遠い関係にある集団を有する場合とそうでない場合とで、2つの密接に関連した古代人集団の混合として、現代人集団が生成されました。

 どちらの手法でも、遠い関係の起源集団の系統の割合は最大4%のエラーで、密接に関連した起源集団の割合は最大10%のエラーで推定されました。したがって、LINADMIX の基礎であるADMIXTUREは、系統の割合を定量化する手法としてある程度の危険性があると知られているものの、本論文で分析された集団と類似した系統起源を有する個体群の事例では、本論文の結果から、LINADMIXとPHCPは両方ともひじょうに有益である、と示唆されます。

 現代人集団のLINADMIX分析では、一塩基多型で遺伝子型決定された293集団1663人の現代人および古代人のデータセットが用いられ、対照として用いられた現代のイングランド人・トスカーナ人・モロッコ人集団とともに、14の現代ユダヤ人およびレバノン人集団に焦点が当てられました。LINADMIXを用いて、現代人17集団のそれぞれが、4起源集団の混合としてモデル化されました。それは、(1)中期~後期青銅器時代構成の代表としてのメギドMLBA(最大集団となります)、(2)ザグロスおよびコーカサスの代表としてのイランChL、(3)アフリカ東部起源集団の代表としての現代ソマリア人(この地域の古代人集団の遺伝的データが欠如しているため)、(4)後期新石器時代から前期青銅器時代の古代ヨーロッパ人の代表としてのヨーロッパLNBAです。

 また、17の現代人集団にPHCPが適用されました。PHCPとLINADMIXを比較すると、ソマリアとヨーロッパLNBAの構成に関して、またイランChLとメギドMLBAの組み合わされた寄与でも、よく一致する、示されます。しかし、イランChLとメギドMLBAのそれぞれの寄与に関して、おそらくはメギドMLBAとイランChLがすでにひじょうに類似した集団であるという事実のため、逸脱します。堅牢でLINADMIXとPHCPにより共有される結果のみを考慮するため、メギドMLBAとイランChLが、本論文の主要な結果として中東を表す単一の起源集団に組み合わされました。起源集団として青銅器時代レヴァント集団の異なる代表を用い、ADMIXTUREパラメータへの摂動を使用して、推定の堅牢性とこれらの結論が実証されました。これらの組み合わせによる結果から、レヴァントと関連する現代人集団は、青銅器時代レヴァント南部および銅器時代ザグロス地域からかなりの系統構成を有する、と示唆されます。それにも関わらず、他の潜在的な系統起源があり得るので、より多くの古代標本が洗練された人口史を可能とするかもしれません。

 また分析の結果、青銅器時代以降レヴァント南部に、ヨーロッパ関連系統(ヨーロッパ関連構成を41%有するアシュケナージ系ユダヤ人を除くと平均8.7%)と同様に、追加のアフリカ東部関連構成(アフリカ東部構成を80%有するエチオピアのユダヤ人を除くと平均10.6%)があった、と示されます。アフリカ東部関連構成は、エチオピアのユダヤ人とアフリカ北部人(モロッコ人とエジプト人)で最高となり、ドゥルーズ派を除く全てのアラブ語集団に存在します。ヨーロッパ関連構成は、ともにヨーロッパに居住した歴史を有するアシュケナージとモロッコのユダヤ人と同様に、ヨーロッパの参照集団(イングランド人とトスカナ人)で最高でした。この構成は、ベドウィンとエチオピアのユダヤ人を除く全ての他集団に、わずかながら存在します。

 予想通り、イングランドおよびトスカーナ集団には、中東関連系統はわずかしかありません。LINADMIXとPHCPでは、メギドMLBAとイランChLの相対的寄与の推定に不確実性がありますが、それにも関わらず、結果とシミュレーションからは、追加のザグロス関連系統が青銅器時代以降、レヴァント南部に浸透してきた、と示唆されます。最高のザグロス関連構成を有する集団を除いて、PHCPではザグロス関連構成のより低い程度が推定されているので、ザグロス関連系統のPHCPによる検出は、この構成の存在の指標である可能性が高そうです。じっさい、4起源集団全てのLINADMIXとPHCPの結果の検証では、多くのアラビア語集団における比較的大きなザグロス関連構成が観察され、ザグロスおよびコーカサスと関連する集団(必ずしも、これらの特定地域に由来するとは限りませんが)からの遺伝子流動は、鉄器時代後も継続した、と示唆されます。

 まとめると、現代人集団のパターンは、青銅器時代後に起き、おそらく歴史的文献で知られている過程と関連している、人口統計学的過程を反映しています。これらは、アラブ語集団に存在するものの、エチオピアではないユダヤ人集団にはより低い割合で存在するアフリカ東部関連構成を含んでおり、それはレヴァント集団へのザグロス関連の寄与と同様です。このザグロス関連構成は、検証されたうちでは北端の集団で最高となり、青銅器時代と鉄器時代の後でさえ、ザグロス関連集団の寄与があった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文の結果は、歴史的記録や「カナン人」としての物質文化の共有に基づいて知られていた、紀元前二千年紀のレヴァント南部のおもな住民の包括的な遺伝的状況を提供します。本論文では、三つの基本的な問題に答えるため、詳細な分析が行なわれました。それは、これらの人々はどの程度遺伝的に均質だったのか、それ以前の人々との比較で可能性の高い起源は何なのか、青銅器時代以降、この地域ではどの程度系統に変化があったのか、ということです。

 以前の遺伝的分析では、レヴァント南部の中期~後期青銅器時代の人々が、それ以前の在来集団(レヴァントN)と、銅器時代ザグロス関連集団とのほぼ等しい共有としてモデル化され、北東地域からレヴァント南部への移動が示唆されました。本論文はこの過程に関して、考古学と時空間的に多様な遺伝的データの両方を考慮に入れて、より詳細な分析を提供しました。この期間に、レヴァント南部とザグロス地域との間で直接的な文化的つながりの証拠はほとんどないので、コーカサスがこの系統の起源である可能性が高そうです。本論文はこれらのデータを用いて、これら2つの想定を比較し、遺伝的データが両方と適合する、と結論づけました。

 メギド遺跡の外れ値個体は、直近の祖先が移民第一世代だったと推測されますが、遺伝子流動が青銅器時代を通じて継続したことと、遺伝子流動の少なくとも一部はザグロスよりもむしろコーカサスに由来する可能性が高い、と示した点でとくに重要です。この外れ値2個体は、本論文のデータセットにおいて、ザグロスもしくはコーカサス関連系統の最高の割合を示します。この外れ値の分析は、ザグロスと比較してコーカサス起源の有意により強い証拠をもたらしますが、この結論は、ザグロス地域の中期~後期青銅器時代の古代DNAデータが利用可能になれば、修正されるかもしれません。

 次に新石器時代レヴァント構成の低い2個体(兄弟のI10769とI10770)は、メギド遺跡の宮殿と関連している可能性が高い巨大墓の近くで発見されており、2人が支配的な社会的地位(カースト)と関連していた可能性を提示します。じっさい、遺跡で発見された紀元前15世紀の楔形文字の粘土板に記されているメギド遺跡のすぐ南に位置する町であるタアナク(Taanach)の支配者と、エジプトで発見された紀元前14世紀のアマルナ文書に記されたメギドとタアナクの支配者たちは、フルリ語(古代近東の北東部で話された言語で、コーカサスも含まれるかもしれません)の名前を有しています。これは、今まで示唆的ではあったものの、これらの都市の支配者集団の少なくとも一部は、古代近東の北東部に起源がある、といういくつかの証拠を提供します。

 本論文では、コーカサスは現在のアルメニアの古代集団により代表されますが、レヴァント南部と文化的つながりがあったと知られている地域は、もっと広範です。レヴァント南部への文化的影響の証拠は、おもに前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化(考古学)と、中期~後期青銅器時代のフリル語(言語的証明)に焦点が当てられます。これら二つの複合はコーカサスおよびアナトリア半島東部とその近隣地域に拡大しました。本論文で分析されたアルメニアの遺跡は、これらの文化のこれまでで最高の代表です。アルメニアの前期青銅器時代個体群(アルメニアEBA)は、前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化墓地で、その後の中期~後期青銅器時代個体群(アルメニアMLBA)は、アルメニア北西部のアラガツォトゥン(Aragatsotn)州で発見されました。本論文で分析された新石器時代および銅器時代のアナトリア半島個体群は、アナトリア半島北西部で発見されており、コーカサスの一部ではないことが重要です。銅器時代ザグロス個体群はイランのカンガーヴァル(Kangavar)渓谷で発見されており、クラ・アラクセス文化の影響の境界に位置します。

 「カナン人」という用語は大まかに定義されており、青銅器時代に都市国家で組織化されていた集団の集合を指しているので、原則として遺伝的一貫性に欠ける可能性があります。本論文で調査された個体群は、現在のレバノンとイスラエルとヨルダンの9遺跡に由来し、広範な地域にわたります。本論文の分析で明らかになったのは、シドン遺跡(およびバクア遺跡のより少ない個体)を除いて、これらの個体群が他の同時代および近隣の集団よりも、相互に密接であるという意味で均質である、ということです。これは、「カナン人」の考古学的および歴史学的分類が共有された系統と相関している、と示唆します。

 これは、紀元前二千年紀にエーゲ海地域観察されたパターンと類似しています。当時のエーゲ海地域では、ミノアやミケーネという文化的分類が、これら集団内の潜在的に微妙な系統の違いにも関わらず、複数の遺跡にわたって遺伝的同質性を示しました。別の事例は、ユーラシア西部草原地帯における紀元前三千年紀後期と紀元前二千年紀前期の「ヤムナヤ(Yamnaya)」牧畜民です。こちらは、紀元前二千年紀の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化複合で、類似の文化的慣行を共有する人々が広く異なる系統を有するように、他の場所で見られるパターンとは対照的です。いずれにせよ、本論文でも示されたそのような関連の検出だけでは、過去の集団的自己認識が遺伝学と関連していたことを証明できません。

 本論文で調べられた集団で、他集団とわずかに異なるのはシドンだけです。本論文は、この観察が誤差である可能性に対する証拠を提供します。むしろ、本論文の結果からは、シドン集団の相対的な遠隔は、シドン集団が遺伝的に不均質で、異なるレヴァント南部集団との類似を示す異なる個体群を有しているという事実に由来する、と示唆されます。紀元前二千年紀に、シドンは主要な港湾都市で、地中海東部とは交易関係でつながっていたので、顕著な遺伝子流動がもたらされ、内陸部の都市よりも集団が不均質になったかもしれません。これは、シドン集団に最も類似しているのが、同じく沿岸都市のアシュケロン集団である理由かもしれません。シドン集団と類似している唯一の内陸部集団がアベルベトマアカで、おそらくは沿岸部との地理的近接のためです。シドン集団以外ではバクア集団も、外群集団を多くすると、他の集団からやや逸脱します。バクア遺跡はシリア砂漠の端に位置しているので、この集団は、まだ遺伝的に標本抽出されていないより東方の集団と混合したかもしれません。これは、バクア遺跡の個体群がその系統パターンにある程度の変動性を示す、という事実に反映されている可能性があります。

 本論文は青銅器時代に焦点を当てていますが、鉄器時代の新たな2標本も報告しており、一方はメギド遺跡、もう一方はアベルベトマアカ遺跡で発見されました。この2人は、中期~後期青銅器時代個体群で観察されたものと類似した系統パターンを示し、この地域の青銅器時代末の破壊が、各遺跡での遺伝的不連続につながったとは限らないことを示唆します。とくに、アベルベトマアカ遺跡とメギド遺跡はともに内陸部の都市で、青銅器時代から鉄器時代の移行期を通じての遺伝的連続性は、レヴァント南部の他の遺跡の典型ではなかったかもしれません。たとえば、ペリシテ人の沿岸部都市であるアシュケロン遺跡の鉄器時代2集団の一方(ASH_IA1)は、青銅器時代から鉄器時代の移行期に、ヨーロッパ南部関連集団の移動の証拠を示しました(関連記事)。

 かなりのサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有する現代中東集団における系統の割合の推定は、地中海の異なる地域の混合の複数起源と同様に困難です。本論文ではこの問題が、二つの統計的手法の開発と、これらの手法間の比較、シミュレーション、入力の摂動に基づく推論の堅牢性の検証により対処されました。歴史的もしくは遺伝的にレヴァント南部と関連する14の現代人集団が調べられ、レヴァント南部集団系統へのアフリカ東部とヨーロッパと中東(レヴァント南部青銅器時代集団およびザグロス関連銅器時代集団の組み合わせ)の寄与が検証されました。アラビア語集団およびユダヤ人集団はともに、中東関連系統を50%以上有する、というモデルと適合します。これは、あらゆるこれらの現代人集団が、中期~後期青銅器時代のレヴァントもしくは銅器時代ザグロスに居住していた人々からの直接的な系統を有することを意味するのではなく、むしろ、古代の代理が中東と関連し得る集団からの系統を有する、と示唆されます。

 ザグロスもしくはコーカサス関連系統のレヴァント南部への流入は、青銅器時代後も続いたようです。また、アフリカ東部関連系統が青銅器時代後に、ほぼ南から北への勾配でレヴァント南部に入ってきたことも明らかになりました。さらに、反対方向の勾配(北から南)を有するヨーロッパ関連系統も観察されました。レヴァント南部とザグロスから到来する系統構成の分離が困難であることを考慮すると、将来の研究の重要な方向性は、各現代人集団の系統の軌跡を高解像度で再構築し、レヴァント南部青銅器時代に由来する人々が、後の時代の他の人々とどのように混合したのか、過去3000年の豊富な考古学的および歴史的記録で知られている過程の文脈において理解することです。


参考文献:
Agranat-Tamir L. et al.(2020): The Genomic History of the Bronze Age Southern Levant. Cell, 181, 5, 1146–1157.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044

青木健『ペルシア帝国』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。まず、「ペルシア」の語源はシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」で、紀元前三千年紀にアッシリア語の「パルスアシュ」となり、イラン高原西北部を指す言葉として定着しました。後の「ペルシア」であるイラン高原西南部は、紀元前三千年紀後半以降、シュメール語やアッカド語で「アンシャン」と呼ばれており、後にエラム語で「アンザン」と呼ばれるようになりました。紀元前9世紀、中央アジアもしくはコーカサスから移動してきたイラン系アーリア民族の一派がイラン高原西北部の「パルスアシュ」に定着し、「パルスア人」と呼ばれるようになります。パルスア人は後続のイラン系アーリア民族の南下・西進により「パルスアシュ」から押し出され、イラン高原西南部の「アンシャン」付近にまで進出しました。この時、集団名ではなく地名の方が変わって「パルスアシュ」となり、紀元前6世紀後半には、古代ペルシア語「パールサ」と呼ばれるようになります。

 本書はこのように「ペルシア」の前提を把握したうえで、最初の「ペルシア帝国」であるハカーマニシュ王朝の興亡を解説します。日本でも知られるようになってきたと思いますが、最初の「ペルシア帝国」は初期に王家簒奪が起きています。最初の王家はチシュピシュ家で、「帝国」の開祖はクールシュ2世でした。チシュピシュ王朝は紀元前7世紀後半、宗主国をエラムから新アッシリアに変更し、新アッシリア滅亡後は、イラン高原西北部を支配するメディア王国に服属しました。クールシュ2世は父のカンブージヤ1世とメディア王の娘との間に生まれます。本書は、クールシュ2世が西アジアを征服できた理由について、判然としないものの、母親を通じてのメディア王国とのつながりが大きかったのではないか、と推測しています。

 クールシュ2世は中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイとの戦いで奇襲を受けて落命し、後を継いだのはその長男のカンブージヤ2世でした。カンブージヤ2世は、エジプトを征服しましたが、紀元前522年、急死します。その後の混乱を収めて巨大勢力の君主として君臨したのがダーラヤワウシュ1世です。カンブージヤ2世は暗殺されたのか、そうだとして弟なのか別人なのか、この間の事情は定かではありませんが、ともかく最終的にダーラヤワウシュ1世がチシュピシュ王家に対する簒奪者として君主の地位に就いたことは間違いありません。ダーラヤワウシュ1世は、チシュピシュ王家とは4世代前の父系祖先を同じくする、という系図を喧伝しましたが、おそらく多くの研究者はこれに懐疑的で、本書も同様です。

 ダーラヤワウシュ1世は即位時にまだ祖父も存命だったようで、若かったのでしょう。そのため、統治機構を整備するだけの時間的余裕があり、それは連邦的性格を有していた、と本書は指摘します。ダーラヤワウシュ1世は比較的短期間で反対勢力を鎮圧し、ハカーマニシュ王朝の「帝国」が成立します。ダーラヤワウシュ1世はチシュピシュ王家の娘であるウタウサを正妻とし、その間の息子クシャヤールシャン1世が後継者となります。チシュピシュ王家もそうでしちが、ハカーマニシュ王家も近親婚が盛んでした。クシャヤールシャン1世の治世に起きたのがギリシアとの戦いで、西洋史では大きく扱われてきましたが、「ペルシア帝国」にとってこれは辺境の出来事で、重要だったのは中枢のバビロンで起きた叛乱だった、と本書は指摘します。3回にわたる叛乱の結果、バビロンは徹底的に破壊されます。

 クシャヤールシャン1世の後継者となったアルタクシャサ1世は、ハーレムに閉じ籠った暗君との評価が一般的なようですが、本書は、「帝国」の行政機構がよく機能しており、軍事遠征など「余計なことをしなかった」ことなどから、名君と言えるかもしれない、と指摘します。ダーラヤワシュ2世の頃から、「帝国」では西部諸州の叛乱が頻発するようになります。これは、経済的な先進地域である西部から政治的中心地である東部へと徴収された富が、勢力拡大の限界に伴う軍事的停滞により、軍隊への支払いという形での社会還元を阻害したからでした。この動向の中、エジプトが「帝国」の支配下から脱し、アルタクシュサ2世の時代には、西部諸州が「中央政府」から独立していきます。アルタクシュサ2世の後継者となった息子のアルタクシュサ3世は、異母兄弟を100人以上、従兄弟たちや女性王族も多数殺害し、王位は安定しましたが、その息子の代でハカーマニシュ王家が断絶する原因ともなりました。アルタクシュサ3世は在位中武断的方針を貫き、西部諸州を再度支配下に置くとともに、エジプトも奪還しました。しかし、「帝国」の根本的問題の解決には遠かった、と本書は指摘します。

 アルタクシュサ3世の死後、息子のアルタクシュサ4世が即位しますが、宦官の傀儡で、その宦官を討とうとして逆に殺されます。その後、大王位に擁立されたのは明らかに王族ではなかったアルタシヤータ将軍で、ダーラヤワシュ2世の父系曾孫という系図が作られました(ダーラヤワシュ3世)。ダーラヤワシュ3世は自身を擁立した宦官の殺害には成功したものの、これにより「中央政府」の統制力はさらに低下したようです。ハカーマニシュ王家の出身ではないダーラヤワシュ3世が各属州に権威を承認されたとは言い難い状況で、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)のマケドニアが「帝国」に侵攻してきます。本書は、アレクサンドロス3世による「帝国」の征服は、西洋史の観点ではその軍事的才能を示したとされるものの、イラン史の観点では解体傾向に歯止めのかからない「帝国」へ絶好の機会に侵攻してきた、と指摘します。3回の会戦に敗れたダーラヤワシュ3世は紀元前330年に逃亡中に殺害され、後継者争いを繰り返しながらも長期にわたって大勢力を維持した「帝国」は滅亡します。アレクサンドロス3世はハカーマニシュ王家の生き残りの王女2人を自身の側室としますが、アレクサンドロス3世の死後、2人はアレクサンドロス3世の正妻に殺され、ハカーマニシュ王家は断絶します。

 この後、イラン高原を含む西アジアを支配した大勢力は、ギリシア系のセレウコス朝とパルティア系のアルシャク朝でした。この間ペルシア州では、地方政権としてフラタラカー朝とペルシス朝が存在しました。アルシャク朝は、ハカーマニシュ王家のアルタクシュサ2世の末裔と称していました。遊牧民であるアルシャク朝は、度々拠点を移しつつ、勢力を拡大しました。アルシャク朝の統治体制はハカーマニシュ朝とは大きく異なっていたようで、しばしば土着の王国をそのまま温存しました。

 この地方政権時代を経て、ペルシア州からサーサーン朝という政治勢力が勃興し、大勢力を築きます。サーサーン朝の始祖はサーサーン・フワダーイ(サーサーン卿)という人物とされます。サーサーン卿の息子パーバグは紀元後208年頃、アルシャク朝に叛きます。222年、パーバグが没して長男のシャーブフルが跡を継ぎますが、直後に事故死し、弟のアルダフシール1世が即位します。アルダフシール1世は224年にアルシャク朝最後の王を討ち取り「エーラン・シャフル=アーリア民族の帝国」の「シャーハーン・シャー=皇帝」と名乗ります。本書はサーサーン王朝の国名を、他称の「ペルシア帝国」ではなく、「エーラーン帝国」と表記し、君主の称号を日本語では馴染みにくい「諸王の王」ではなく、「皇帝」で統一します。エーラーン帝国で本書が注目しているのは海軍力の増強で、帝国全体としては大陸国家であるものの、サーサーン家の直轄領に限れば多分に海洋国家としての性質を備えており、インド洋貿易の観点からもペルシア湾海軍の存在は有意だった、と本書は指摘します。

 初期のエーラーン帝国では、パルティア系大貴族の存在感が無視できないものだったようで、これはアルシャク朝末期にパルティア系大貴族が相次いでサーサーン朝に帰順したことを反映しているようです。本書は初期エーラーン帝国を、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と指摘しています。経済的には、エーラーン帝国の基盤はメソポタミア平原にあり、メソポタミア平原とペルシア州を結ぶ地域の都市がサーサーン朝の直轄領を形成しました。支配層はあたかも「アーリア民族の帝国」であるかのように装っているものの、「メソポタミア=ペルシア二重経済帝国」としての性格も有する、と本書は指摘します。また、直轄領以外の地域ではサーサーン朝の支配力は急激に低下し、きわめて封建的な要素を残したパルティア系大貴族が君臨していました。ここが上述の「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」的側面となります。

 サーサーン朝の軍事拡大路線は、270年のシャーブフル1世の死でいったんは終了します。シャーブフル1世の死後、次第にマズダー教(ゾロアスター教)がサーサーン朝において勢力を拡大し、ついには宗教界で覇権を握るに至ります。ただ本書は、アルダシフール1世からシャーブフル2世までのマズダー教は、9世紀以降のゾロアスター教では認められないような要素を含んでおり、ザラスシュトラ・スピターマ(ゾロアスター)の名称も見えないことなどから、「ゾロアスター教」と呼べるのか、疑問を呈しています。

 4世紀になると、サーサーン王家の内紛や若年・幼年皇帝の出現もあり、パルティア系大貴族が復権します。周辺では唯一の大国であるローマ帝国との戦いでも、軍を指揮するのは皇帝自身ではなく、旧パルティア系大貴族でした。ローマ帝国がキリスト教迫害から公認へと方針を転換すると、キリスト教徒はエーラーン帝国の潜在的味方ではなく敵とみなされるようになり、大規模な迫害が始まります。これと関連して、エーラーン帝国では「神々の末裔」との皇帝観念が消え、新たな帝国イデオロギーの創出をマズダー教神官団が担いました。

 このように、4世紀はエーラーン帝国の変容期として重要ですが、この期間の大半で皇帝だったのは誕生前に「即位」したシャーブフル2世で、ナルセフ1世時代に失った北メソポタミアとアルメニア王国を奪回した、帝国興隆の時代とも言えます。本書はこの時期を、官僚制の成熟と国制の安定とも、対ローマ戦で旧パルティア系大貴族が軍を率いていたように、皇帝権力が失墜したとも評価できる、と指摘します。旧パルティア系大貴族に圧迫されていったサーサーン皇室の財政を支えたものとして本書が注目するのは「国際」貿易で、上述のペルシア湾海軍はこの点で重要な役割を果たしたようです。

 皇帝権力が失墜傾向にある中、4世紀末から5世紀前半にかけて帝位にあったヤザドギルド1世は、大貴族を多数殺害したり、強大化しすぎたマズダー教神官団を牽制すべくキリスト教を保護したりと、皇権強化を企図したものの、それが反感を買って大貴族たちにより殺害されたようです。キリスト教を保護したヤザドギルド1世でしたが、キリスト教徒からマズダー教神官への攻撃が過激化していくと、治世晩期に方針を変え、パルティア系大貴族でマズダー教の熱心な信仰者であるミフル・ナルセフ・スーレーンを大宰相に任命します。それまで、エーラーン帝国には大宰相という役職はありませんでした。ミフル・ナルセフはその後5代の皇帝で大宰相を務め、エーラーン帝国の政策に影響を及ぼしました。ヤザドギルド1世の後、しばらくは皇帝暗殺がないので、大宰相にパルティア系大貴族が就任する慣行は、サーサーン朝皇帝とパルティア系大貴族との妥協の結果ではないか、と本書は推測します。

 ミフル・ナルセフはマズダー教を帝国内で熱心に広めましたが、その中核教義は現在ゾロアスター教の正統教義として認識されている二元論ではなく、時間の神ズルヴァーンの下で、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)が闘争を繰り広げる、というものでした。ここでも、ゾロアスター教の教祖とされるザラスシュトラ・スピターマに関する伝説は欠落しています。本書はこの競技を、マズダー教の最終教義となる「マズダー教ズルヴァーン主義」と定義しています。ただ本書は、これを帝国イデオロギー混乱期の最終段階の象徴にすぎない、と指摘します。ヤザドギルド2世の時代に、サーサーン朝皇帝は「神々の末裔」たる現人神からゾロアスター教の守護者たるカウィ王朝の末裔としての立場へと変わります。本書は、ヤザドギルド2世が中央アジアに長期対陣する中で、中央アジア系のゾロアスター教伝承に触れ、揺れ動いていた帝国イデオロギー問題の最終的決着を図ったのではないか、と推測します。

 ヤザドギルド2世没後の兄との内乱を制したのはペーローズ1世でした。この内乱で兄を支持したらしいミフル・ナルセフは、この内乱を生き延びるものの、ローマ帝国との交渉に赴いたところで消息不明となります。その長男のズルヴァーン・ダードはペーローズ1世時代に「犯罪者」として失脚します。こうしてスーレーン家は没落し、それと共にエーラーン帝国イデオロギー混迷期の最終段階を担った「マズダ教ズルヴァーン主義」の痕跡も消え去った、と本書は指摘します。スーレーン家に代わってエーラーン帝国の実権を握ったのはミフラーン家でした。

 ペーローズ1世は父のヤザドギルド2世に倣って、東方から新規導入したゾロアスター教の整備を進めます。また、従来のサーサーン朝皇帝が対ローマ帝国の西部戦線に注力したのに対して、ヤザドギルド2世からホスロー1世までは、東部戦線を重視する傾向にありました。ペーローズ1世は首尾よく東方でキダーラを破りますが、これはさらに東方で台頭してきた遊牧民エフタルとの共同作戦の成果だろう、と本書は推測します。ところが、そのエフタルがバクトリアを制圧したため、ペーローズ1世は481年にエフタルを攻めたものの敗れ、しかも捕虜となってしまいます。皇太子を人質として貢納金を支払うことでエフタルと講和したペーローズ1世ですが、貢納金の支払いを完了し、皇太子が帰還した484年に、側近の制止を振り切り、再度大軍でエフタルを攻めます。ペーローズ1世はまたしても大敗し、30人の息子とともに玉砕し、ゾロアスター教神官たちと共に捕虜となったペーローズ1世の娘はエフタル王の妻とされました。

 このエーラーン帝国始まって以来の大惨事が、エーラーン帝国の転機だった、と指摘します。エーラーン帝国では、遊牧民と定住民という構図で遊牧民側が政治権力を掌握する、というイスラム・イラン史の大前提が、ペーローズ1世の時代前には当てはまらず、都市住民が政治権力と経済力を掌握していた、というわけです。しかし、エフタルの台頭により、都市住民と遊牧民の軍事バランスが逆転します。このように冴えなかったペーローズ1世の時代ですが、エーラーン帝国社会では貨幣経済が急速に浸透します。

 ペーローズ1世戦死後の大混乱を勝ち抜いて即位したのは、ぺーローズ1世の弟のヴァラーフシュ1世でした。が、実権を掌握したスフラー・カーレーンにより短期間で退位させられ、その甥のカヴァード1世が即位しました。カヴァード1世はスフラー・カーレーンの失脚後、政治改革を進めたものの、反感を買って退位させられ、幽閉先から脱出してエフタルを頼って復位します。復位後のカヴァード1世は、詳細不明ながら改革に成功し、大貴族の勢力は削減され、経済状況は好転し、息子のホスロー1世時代にはゾロアスター教の正統教義が確立します。

 母方の身分が見劣りするためか、即位後のホスロー1世は兄弟や従兄弟たちを殺害し、改革を進めます。ホスロー1世は税制を現物徴収から定額貨幣に改め、人頭税を導入しました。こうした税制改革は後にイスラム勢力にも継承されました。ホスロー1世は税収増により軍制改革を進め、ローマ帝国だけではなく、エフタルなど遊牧民勢力も脅威として台頭してきたことを受けて、4軍管区制を導入し、海軍を再建しました。これにより海上交易が盛んになったようで、陸路の交易の担い手がソグド人だったのに対して、海路の交易の担い手は多様だったようです。またホスロー1世の時代には、東ローマ(ビザンティン)帝国のユスティニアヌス帝がアカメデイアを閉鎖したため、追放されたギリシア人学者たちがエーラーン帝国に亡命してきて、エーラーン帝国の文化に影響を与えたようです。

 エーラーン帝国を立て直したホスロー1世は、540年、ユスティニアヌス帝治下のビザンティン帝国に宣戦布告します。直接的な契機というか名分は、東ゴート王国からの救援要請でした。この戦いは、エーラーン帝国優位の条件で562年に講和が締結されます。まだ講和締結前だったとはいえ、ビザンティン帝国との戦いがほぼ落ち着いた557年、ホスロー1世は突厥と結んでエフタルを攻撃し、瓦解に追い込みます。ホスロー1世は、エチオピアのアクスム王国に制圧されたイエメンにも570年に侵攻し、衛生国としています。このようにホスロー1世の軍事行動は一定以上の成果を収めましたが、軍司令官職を分割しつつも、あくまでも大貴族の勢力均衡に拘泥した点が、ホスロー1世の軍事政策の限界だった、と本書は評価します。

 本書は、ホスロー1世の改革が一定の成功を収めたことは認めつつも、ホスロー1世が579年に没してからわずか63年でエーラーン帝国が滅亡したことを重視し、ホスロー1世の軍制改革は、意図がよかったとしても、結果的にはパルティア系大貴族の叛乱を次々に誘発してしまい、アルダシフール1世が築いた「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」の基礎を根底から覆した、と指摘します。また本書は、税制改革と同時期に、少なくともサーサーン家の直轄領では人口の都市集中が見られ、貨幣経済をさらに振興させたものの、反面ではサーサーン朝初期以来帝国経済を支えてきた農業を推戴させた可能性がある、と指摘します。本書の見解は、アラブ人イスラム教徒は再度全盛期を迎えたエーラーン帝国を正面から打破したのではなく、イスラム教興隆前にエーラーン帝国は実質的に解体しつつあった、というものです。

 ホスロー1世の死後、即位したのは皇太子だったオフルマズド4世でした。当初、オフルマズド4世の治世は東方でのエフタル残党の殲滅など順調でしたが、580年代半ば以降、大貴族粛清に乗り出し、次の粛清対象とされたヴァフラーム・チョービン・ミフラーンが叛乱を起こし、その混乱の中でオフルマズド4世は処刑されます。ヴァフラーム・チョービンは、アルダシフール1世の支配はサーサーン家による簒奪なので、正しいアルシャク家の支配を回復する、という名目で591年3月9日にエーラーン皇帝に即位します。本書は、上述の軍司令官職に大貴族を起用し続けた点とともに、現人神思想からゾロアスター教の守護者という帝国のイデオロギー転換がまだ効果を挙げていなかった点を、この王朝簒奪の要因として指摘します。極論を言えば、ゾロアスター教の守護者なら誰でも支配の正統性を主張できるからです。

 オフルマズド4世の長子であるホスロー2世は、オフルマズド4世の死後即位しましたが、ヴァフラーム・チョービンに敗れてビザンティン帝国に亡命し、ビザンティン皇帝マウリキウスの娘を娶り、コーカサス諸国をビザンティン帝国に割譲するという条件で、ビザンティン帝国からの援助を得ることに成功しました。ホスロー2世は591年夏、ヴァフラーム・チョービンを破ってサーサーン朝皇帝に復辟します。ヴァフラーム・チョービンは敗走して西突厥に亡命した後、ホスロー2世の刺客により殺害されます。

 ホスロー2世は浪費家で、私生活での享楽に耽溺するだけではなく、政治でも軍事でも成功を求める野心的な人物でもあり、対外強硬策と大貴族粛清を同時に追求し始めます。本書はホスロー2世を、エーラーン帝国とビザンティン帝国の勢力が均衡し、ゾロアスター教とキリスト教が東西で教勢を分かち合っていた古代末期の世界秩序を、最終的に破滅させた重要人物と評価しています。ホスロー2世はまたしても大貴族粛清の反動で起きた叛乱を何とか乗り切り、大宰相を置かず、皇帝権力の強化には成功した、と言えるかもしれません。叛乱を何とか制圧した浪費家のホスロー2世の宮廷は爛熟を迎えます。しかし本書は、隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業が、時として拉致してきた外部の民に依存していることや、キリスト教徒人口の増加など、帝国の脆弱性を指摘します。キリスト教徒が増加したのは、職人・商人への蔑視が強いゾロアスター教に対して、それらにより容易に順応できるキリスト教の方が、当時の社会情勢に適合的だったからです。

 エーラーン帝国の命運を大きく変えた戦いは、ビザンティン帝国の内紛から始まりました。ビザンティン帝国の指揮官フォカスが叛乱を起こし、ホスロー2世にとって恩人だったマウリキウス帝が処刑され、その長子のテオドシウスがエーラーン帝国に亡命してきます。これを好機と考えたホスロー2世は602年にフォカスに宣戦布告しますが、ビザンティン帝国との戦いは長期化します。610年、フォカスを殺害して即位したヘラクレイオスからホスロー2世へと講和の使節団が派遣されますが、テオドシウスの即位に拘るホスロー2世はこれを皆殺しにし、ビザンティン帝国に全面的に攻勢に出ます。エーラーン帝国軍はコンスタンティノープルに迫りながら、海軍の不足で陥落させられず、さらに、620年代前半にティグリス川で大氾濫が起きたため、エーラーン帝国は経済的にも疲弊していました。それでも、これまでの軍事的成功により自我が肥大しきったホスロー2世は壮大な軍事作戦を実行し続け、ついには628年に宮廷内の陰謀により処刑されます。

 ホスロー2世の死後、その息子のカヴァード2世が擁立され、直ちにビザンティン帝国との間の停戦交渉が始まりますが、カヴァード2世はその最中の628年9月に疫病で死亡し、その息子のアルダシフール3世が即位します。この後、アルダシフール3世もすぐに殺害され、シャフルヴァラーズ・ミフラーンの短期間の簒奪を経て、ホスロー2世の長女でカヴァード2世の姉妹妻だったポーラーン・ドゥフトが擁立されます。数々の粛清で、サーサーン家にはもう男系相続人がいなかったのかもしれません。ここでようやくエーラーン帝国とビザンティン帝国の間に和議が締結されますが、その条件はエーラーン帝国が全占領地をビザンティン帝国に返還するというもので、この26年に及ぶ「世界大戦」はエーラーン帝国の敗北で終わります。ポーラーン・ドゥフトは短期間で廃位され、短期間の簒奪を経て、ポーラーン・ドゥフトの妹であるアードゥルミーグ・ドゥフトが擁立されます。アードゥルミーグ・ドゥフトも短期間で簒奪され、その簒奪者も短期間で失脚した後、ポーラーン・ドゥフトが再度擁立されます。しかし、ポーラーン・ドゥフトも632年に殺害されます。

 ホスロー2世の死からここまでわずか4年ほどですが、エーラーン帝国では政変が相次ぎ、数少なくなったサーサーン王家の人々も相次いで没し、まさに末期状況を呈します。この4年に及ぶ内乱後のエーラーン帝国では、各地の有力貴族が軍閥化し、ホスロー2世の浪費と無理な軍事行動と災害に対する無策により、経済は破綻していました。この混乱のなかで擁立されたのは、ホスロー2世の孫と伝わるヤザドギルド3世ですが、本当にホスロー2世の孫なのか、不明です。この状況でエーラーン帝国軍は相次いで、北上してきたイスラム教徒の軍に敗れます。これらの戦いではエーラーン帝国軍が質量ともに圧倒していたとされますが、エーラーン帝国はビザンティン帝国との長期の戦いとメソポタミア平原の災害により疲弊していたことから、本書は疑問を呈しています。

 637年、ついに帝都のテースィーフォンがイスラム教徒の軍により陥落させられます。642年、ネハーヴァンドの戦いでエーラーン帝国軍はイスラム教徒の軍に大敗し、混乱期に大宰相を務め続けたペーローズ・ホスローは戦死し、サーサーン家の直轄軍も解体しました。これにより、帝室としてのサーサーン家は実質的に消滅します。ヤザドギルド3世はこの後逃亡を続けますが、651年に殺害されます。本書は、サーサーン朝が滅亡してもエーラーン帝国が存続した可能性はある、と指摘します。本書は、サーサーン朝の凋落はホスロー1世の制度改革の運用面での失敗により確定的になった、と指摘します。貨幣経済が隆盛に向かう中で、過度に軍事力に依存するのは時代遅れだった、というわけです。

 サーサーン朝の没落をエーラーン帝国の消滅にまで拡大させたのは、帝国の経済力と軍事力を自発に極限まで消耗させたホスロー2世で、その後の4年の内乱で、サーサーン家と代替可能な大貴族も無意味に蕩尽させられた、と本書は指摘します。さらに、イスラム教徒軍との戦いで連敗したことにより、エーラーン帝国の機構自体が解体されました。イスラム教勢力の支配下で、都市部ではイスラム教への改宗が進み、逆に農村は10世紀までゾロアスター教文化の拠点でした。サーサーン朝の大貴族たちは、イスラム教勢力に順応するか徹底抗戦して滅亡し、あるいは唐王朝に亡命しました。ヤザドギルド3世の次男ペーローズは、唐王朝で将軍に任命されています。

 本書は最後に、ハカーマニシュ朝もサーサーン朝も自称したことのない「ペルシア帝国」 という概念を検証します。ハカーマニシュ朝はペルシア州を基盤に勃興し、「大王」はペルシアの一部族により占められ、イデオロギーの中心はペルシア州で、ペルシア人貴族が特権的な身分を保持したという点で、外国人がハカーマニシュ朝を「ペルシア帝国」と認識するのは当然だった、と本書は指摘します。一方、サーサーン朝の自称は「アーリア民族の帝国(エーラーン・シャフル)」でしたが、軍事力をペルシア州出身のサーサーン家とパルティア系大貴族が担っており、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と言うべき存在でした。サーサーン朝は経済的には、サーサーン家の直轄領だったメソポタミア平原からペルシア州が中核を占め、「ペルシア=メソポタミア二重経済帝国」と言うべき存在でした。その意味で、サーサーン朝も「ペルシア帝国」と呼べる、と本書は指摘します。

 イスラム期には、ペルシア人もアーリア民族も特権を保持しておらず、経済的にもペルシア州は主要な地位を占めていないので、これ以降にペルシア州に成立したイスラム国家を「ペルシア帝国」と把握するのは難しく、これ以降のペルシア史は取るに足りない地方史の連続である、と本書は指摘します。ヨーロッパでは、ビザンティン帝国の保守的な知識層の認識に由来して、東方の勢力が「ペルシア帝国」と呼ばれました。一方イランでは、サーサーン朝の領域を継承したという意味で、「ペルシア帝国」は存続している、と無理やりではあるものの主張できなくもなかった、と本書は指摘します。この観点から本書が画期としているのはサファヴィー朝で、君主は「シャー」と名乗り、オスマン帝国との対峙は、あたかもかつてのエーラーン帝国とビザンティン帝国との対立の再現でした。この「ペルシア帝国」意識は、パフラヴィー朝にも存続しましたが、1979年のイラン・イスラム革命で、「ペルシア帝国」という共同幻想を継承する国家は地上から消え、現在では復活する見込みすらありません。ハカーマニシュ朝とサーサーン朝の通史には疎かったので、本書を興味深く読み進められました。Twitterなどでは本書への批判も見られますが、それらも踏まえつつ、今後も何度か再読するつもりです。

淡水生態系の健全性にとって重要な腐肉食性のカメ

 淡水生態系の健全性にとって重要な腐肉食性のカメに関する研究(Santori et al., 2020)が公表されました。コイは、オーストラリアの多くの地域で有害生物とされ、その死骸が分解して生じる副産物であるアンモニアは、高濃度になると動物に対して毒性を示します。この研究は、ホークスビュー環礁で捕獲された雄の淡水性のカメ(Emydura macquarii)を4匹ずつ5集団に分け、コイの死骸を入れた人工湿地の水質に、腐肉食性のカメが及ぼす影響を測定しました。

 それぞれの人口湿地には、流水を満たしたタンク、カメが日光浴をするためのセメントブロック、隠れ場所としてのプラスチック製トンネルを入れ、そこに4匹のカメを入れたものと入れないものを設定しました。コイの死骸は、カメに食べ尽くされるか、完全に分解してしまうまで人工湿地に放置された。カメを入れた人工湿地では、コイの死骸が3倍速く除去され、アンモニア濃度の低下と溶存酸素濃度の回復に示されるように、水質がより早く初期の状態に戻りました。水生動物は、呼吸するために溶存酸素を必要とします。

 マレー・ダーリング集水域は、オーストラリアの農業生産の40%を支える河川系で、280万人以上の住民の主たる水源でもあります。マレー・ダーリング集水域に生息する淡水ガメはひじょうに少なく、その原因は、路上死とキツネによる巣の破壊です。コイの死骸を食べるカメが少なくなっているため、オーストラリア政府は天然のコイウイルスを導入して侵入種のコイを減らす計画を立てていますが、この研究は、そうした計画によりマレー・ダーリング集水域の水質と生態系が深刻な影響を受ける可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:淡水生態系の健全性にとって非常に重要な腐肉食性のカメ

 オーストラリアで発見された脆弱な淡水性のカメ種Emydura macquariiの研究から、このカメが、魚の死骸をあさることで河川系の水質を制御する役割を果たしている可能性のあることが示唆された。この知見を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 コイは、オーストラリアの多くの地域で有害生物とされ、その死骸が分解して生じる副産物であるアンモニアは、高濃度になると動物に対して毒性を示す。今回、Ricky-John Spencerたちの研究チームは、ホークスビュー環礁で捕獲された雄のE. macquariiを4匹ずつ5グループに分けて用い、コイの死骸を入れた人工湿地の水質に腐肉食性のカメが及ぼす影響を測定した。それぞれの人口湿地には、流水を満たしたタンク、カメが日光浴をするためのセメントブロック、隠れ場所としてのプラスチック製トンネルを入れ、そこに4匹のカメを入れたものと入れないものを設定した。コイの死骸は、カメに食べ尽くされるか、完全に分解してしまうまで人工湿地に放置された。カメを入れた人工湿地では、コイの死骸が3倍速く除去され、アンモニア濃度の低下と溶存酸素濃度の回復に示されるように、水質がより早く初期の状態に戻った。水生動物は、呼吸するために溶存酸素を必要とする。

 マレー・ダーリング集水域は、オーストラリアの農業生産の40%を支える河川系であり、280万人以上の住民の主たる水源でもある。マレー・ダーリング集水域に生息する淡水ガメは非常に少なく、その原因は、路上死とキツネによる巣の破壊にある。コイの死骸を食べるカメが少なくなっているため、オーストラリア政府は天然のコイウイルスを導入して侵入種のコイを減らす計画を立てているが、Spencerたちは、この計画によってマレー・ダーリング集水域の水質と生態系が深刻な影響を受ける可能性があるという見解を示している。



参考文献:
Santori C. et al.(2020): Scavenging by threatened turtles regulates freshwater ecosystem health during fish kills. Scientific Reports, 10, 14383.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71544-3

新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成に関する研究(Skourtanioti et al., 2020)が報道されました。農耕開始以降、近東は複雑で初期国家水準の社会の形成において影響力のある地域で、19世紀以来大きな考古学的関心を集めてきました。過去10年の古代DNA研究の発展により、近東における新石器時代開始の過程に関する問題も明らかになってきました。アナトリア半島南部・中央部やレヴァント南部やイラン北西部の近東農耕民は在来の狩猟採集民の子孫で、この地域における狩猟採集から農耕への移行は、地域間のわずかな遺伝子流動を伴う生物学的に継続的な過程だった、と示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 約2000年後、この状況は変わりました。これら前期完新世集団とは対照的に、アナトリア半島西部・中央部とレヴァント南部とイラン(ザグロス地域)とコーカサスの銅器時代および青銅器時代の集団は、相互に遺伝的差異がより少なくなっており、この期間は、より大きな地域にまたがる遺伝子流動の広範な過程により特徴づけられる、と示唆されます(関連記事)。しかし、この過程の時空間的範囲は、この広範な地域の中継地となり得るアナトリア半島中央部・東部の古代人ゲノムが不足しており、より高密度の標本抽出が必要となるため、よく理解されていません。現在まで、アナトリア半島全域にまたがる「新石器時代一式」の特徴の空間的分布からは、より広範な地域と相関する異質な複数回の事象の過程だった、と示唆されます。しかし、集団移動がアナトリア半島内のこれらの地域の形成に重要な役割を果たしたのかどうか、未解明です。

 アジア西部全域で、人々および物質および/あるいはアイデアの移動の考古学的証拠がよく記録されています。コーカサス南部では、考古学的研究から、後期新石器時代のメソポタミア北部との関係が示唆されており、アナトリア半島東部では、メソポタミア世界とほぼ関連している、いくつかの広範な事象により特徴づけられる文化的つながりのネットワークが証明されています。これらは、紀元前五千年紀における、メソポタミア南部のウバイド文化のトロス山脈まで達する、メソポタミア上流部への浸透を含みます。

 コーカサス南部では、紀元前五千年紀後半~紀元前四千年紀半ばに、メソポタミア上流部からの強い影響により、この浸透が続きました。紀元前四千年紀半ば~末にかけて、「中期および後期ウルク拡大」と呼ばれる別のメソポタミア南部の影響が、メソポタミア上流部とアナトリア半島東部のユーフラテス川とティグリス川の上流部に到達しました。同時に、一般的にはコーカサス南部起源と考えられているクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化が、紀元前3000~紀元前2900年頃にアナトリア半島東部およびレヴァント北部・南部へと拡大しました。これらの事象の証拠は多くの発掘から得られており、とくに、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の長期にわたる広範な発掘により明らかです。レヴァント北部では、メソポタミア北部との物質的つながりが紀元前四千年に出現し始め、広範な文化的接触もしくは集団移動の結果と考えられてきました。

 したがって、主要な問題は、人類集団・物質文化・アイデア・それらの組み合わせのうち、何が移動していたのか、ということです。これらの初期の発展は、中期青銅器時代(MBA)からの地中海東部における「グローバル化」の増加につながり、それは海陸の経路を通じての資源利用と管理の強化により特徴づけられます。しかし、中期および後期青銅器時代(LBA)の人類遺骸が不足しているため、人類の移動性の役割は不明確で、困難な問題になっています。この点で、トルコのアムク川流域のアララハ遺跡は、この時期の300人以上の被葬者が発見されているため、古代DNA研究の適用にとって例外的な格好の事例となります。

 この移動の性質の理解が、本論文の主題となります。本論文では、先史時代のアナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部低地の主要な遺跡の人類遺骸のゲノム規模データの、大規模な分析が提示されます。本論文の目標は、近東のこの地域のゲノム史を、新石器時代から中期および後期青銅器時代の相互につながった社会への移行にまたがって、体系的な標本抽出により復元することです。新たな古代のゲノム規模データセットは110人から構成され、アナトリア半島中央部・北部とアナトリア半島東部とコーカサス南部低地とレヴァント北部の4地域を含み、それぞれ期間は先史時代の2000~4000年にまたがっています。

 紀元前六千年紀半ばのアナトリア半島北部・中央部およびコーカサス南部低地集団は密接につながっている、と明らかになりました。これらの集団は、アナトリア半島北部から現代のイラン北部となるコーカサス南部およびザグロス地域にかけて、遺伝的勾配を形成します。この勾配は、紀元前6500年頃の両地域を生物学的に接続する混合事象の後に形成されました。アナトリア半島全域の銅器時代および青銅器時代集団も、ほぼこの遺伝的勾配の子孫です。対照的にレヴァント北部では、銅器時代と青銅器時代の間の大きな遺伝的変化が特定されました。この移行期にレヴァント北部集団では、ザグロス・コーカサス地域およびレヴァント南部の両方と関連する系統を有する、新たな集団からの遺伝子流動がありました。これは、社会的志向、おそらくはメソポタミアの都市中心部の台頭に対応における変化を示唆していますが、まだ遺伝的に標本抽出されていません。


●標本分析

 124万ヶ所の系統特定に有益な一塩基多型を対象として、アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部の4000年にわたる先史時代の110人のゲノム規模データが得られました。このうち9人の年代は紀元前六千年紀となる後期新石器時代から前期銅器時代(LN/EC)で、アナトリア半島中央部・北部のボアズキョイ・ビュユッカヤ(Boğazköy-Büyükkaya)と、アナトリア半島南部・レヴァント北部のテルクルドゥ(Tell Kurdu)と、コーカサス南部低地のアムク川流域のメンテシュテペ(Mentesh Tepe)およびポルテペ(Polutepe)で発見されました。残りの101人の年代は、紀元前四千年紀~紀元前二千年紀となる後期銅器時代から後期青銅器時代(LC-LBA)で、アナトリア半島南部・レヴァント北部では現代のテルアッチャナ(Tell Atchana)となるアララハ(Alalakh)と現代のテル・マルディフ(Tell Mardikh)となるエブラ(Ebla)、アナトリア半島中央部・北部ではキャムリベルタルラシ(Çamlıbel Tarlası)とイクジテペ(Ikiztepe)、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)とティトリスヘユク(Titriş Höyük)、コーカサス南部低地ではアルハンテペ(Alkhantepe)です。

 詳細な集団遺伝分析では、網羅率や汚染など品質要件を満たしていない16人が除外され、合計94人のゲノム規模データが分析されました。このうち77人は加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が得られました。これらは遺跡もしくは地域と年代により集団化されました。それは、ビュユッカヤEC(銅器時代)が1個体、キャムリベルタルラシLC(後期銅器時代)が12個体(近親者を除くと9個体、以下同様です)、アルスランテペEBA(前期青銅器時代)が4個体、アルスランテペLCが18個体(17個体)、ティトリスヘユクEBAが1個体、イクジテペLCが11個体、アララハ中期~後期青銅器時代(MLBA)が26個体(25個体)、アララハ中期~後期青銅器時代(MLBA)外れ値が1個体、エブラ前期~中後期青銅器時代(EMBA)が11個体、テルクルドゥ前期銅器時代(EC)が5個体、テルクルドゥ中期銅器時代(MC)が1個体、コーカサス低地LCが1個体、コーカサス低地後期新石器時代(LN)が2個体です。

 これらのデータは、約800人の既知の古代人の遺伝的データと組み合わされました。その中で、アナトリア半島の17個体が本論文のアナトリア半島集団とともに分析されました。それは、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡のテペシクN(新石器時代)、バルシン(Barcın)遺跡のバルシンC(銅器時代)、ゴンドリュレ・ヘユク(Gondürle-Höyük)遺跡のゴンドリュレヘユクEBA、トパヘユク(Topakhöyük)遺跡のトパヘユクEBA、カマン・カレヒユク(Kaman-KaleHöyük)遺跡のK.カレヒユクMLBAです。


●アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス低地におけるLN/ECの遺伝的構造

 これまで、新石器時代アナトリア半島の遺伝子プールに関する知識は、西部のバルシンおよびメンテシェ(Menteşe)遺跡(本論文ではバルシンNとされます)と、中央部コンヤ平原のボンクル(Boncuklu)遺跡と、南部のテペシク・シフトリク遺跡からしか得得られていませんでした。これらの個体群の年代は紀元前九千年紀~紀元前七千年紀で、本論文のLN/EC個体群へと継承されます。新石器時代から青銅器時代の近東の遺伝的構造を概観するため、まず現代人と古代人を対象に主成分分析が行なわれました。全体的に、バルシンN とイラン・コーカサス古代個体群との間で、LN/EC個体群はPC2軸に沿って散在しています。テルクルドゥECはPC1軸に沿って新石器時代および銅器時代レヴァント個体群へと僅かに移動します。ビュユッカヤECは、現在までに報告されているあらゆるアナトリア半島新石器時代個体からさらに離れて位置し、新石器時代および銅器時代イラン個体群へと移動します。コーカサス低地LN(ポルテペおよびメンテシュテペ遺跡)の2個体はPC2軸に沿って、ビュユッカヤECと銅器時代イラン個体群との間で上方に位置します。

 主成分分析で観察された質的差異を検証するため、f4統計によりユーラシア西部のより早期の集団と、LN/EC集団の遺伝的類似性が比較されました。ビュユッカヤECおよびコーカサス低地LNはバルシンNと、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイランNとのアレル(対立遺伝子)をより多く共有している点で異なりますが、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)やヨーロッパ東部狩猟採集民(EEF)やアナトリア半島の続旧石器時代個体やレヴァントの続旧石器時代・新石器時代個体群とは共有アレルが少なくなっています。qpAdm を用いてf4統計を要約することにより、ビュユッカヤECとコーカサス低地LNの両方を、バルシンN とイランN(24~31%)の2者混合としてモデル化できます。主成分分析でバルシンN とビュユッカヤECの間の中間に位置するテペシクNも、同じモデルに適合します(イランNが22%)。イランNをCHGと置換することにより、ビュユッカヤECは適切なモデル(CHGが24%)が得られますが、コーカサス低地LNではこのモデルは適合しません。

 主成分分析と一致して、テルクルドゥECはバルシンN とイランNの混合の勾配には収まりませんが、古代レヴァント集団とのさらなる類似性を示します。f4統計では、テルクルドゥECは、同じ地域のほぼ1000年後の個体(テルクルドゥMC)を含む他のあらゆる新石器時代~前期銅器時代のアナトリア半島集団よりも、先土器新石器時代レヴァント個体群(レヴァントN)とより多くの類似性を有します。バルシンNと比較すると、テルクルドゥECはヨーロッパ西部・東部・南東部の中石器時代狩猟採集民との類似性が有意に低くなっています。上述のバルシンN とイランN/CHGの混合モデルは、テルクルドゥECでは支持されません。代わりに、テルクルドゥECは、バルシンN とイランN(15.5±3.7%)もしくはCHGとレヴァントN(36.6±7.1%)の3者混合としてよくモデル化できます。


●新石器時代の混合と銅器時代および青銅器時代集団の共通の遺伝的構成

 LN/EC個体群とは対照的に、LC-LBA個体群はユーラシア西部人の主成分分析では密集し、イランとコーカサスとレヴァントとアナトリア半島西部の古代人集団により区分されるLN-EC勾配にほぼ収まります。本論文の仮説は、アナトリア半島中央部・北部および東部のLC-LBA集団がこのより古い遺伝的構造の子孫で、同じ系統構成を共有しているかもしれない、というものです。

 主成分分析と一致して、外群f3およびf4統計では、LN-EC勾配と類似しているLC-LBA集団の共通の遺伝的構成が示唆されます。まず、外群f3統計(ムブティ、LC-LBA、検証集団)では、共通の外群であるムブティからのLC-LBAと検証集団との間の平均的な共有された遺伝的浮動が測定され、検証集団がバルシンNやテルクルドゥECやビュユッカヤECのようなヨーロッパとアナトリア半島とレヴァント北部の新石器時代および銅器時代集団の時に、最高値に達しました。次に、バルシンNとテルクルドゥECを追加すると、f4統計(ムブティ、検証集団、バルシンN/テルクルドゥEC 、X)では、ユーラシア西部の一連の古代検証集団に関して、バルシンNもしくはテルクルドゥECとLC-LBA集団(X)との間の違いが特徴づけられます。イランNおよび/もしくはCHGは一貫して、テルクルドゥEC およびバルシンNと比較すると、LC-LBAとの過剰な類似性を示します。イランおよびコーカサスの銅器時代および青銅器時代集団は、年代的にLC-LBAにより近く、主成分分析ではイランN/CHGとLC-LBAの間に位置しますが、バルシンと比較すると、一部のLC-LBA集団とのみより多くのアレルを共有します。

 LC-LBA集団の共有された混合構成の時間的側面をさらに調べるため、最近開発された手法であるDATESを用いて混合年代が推定されました。上述のように、LN-EC勾配はバルシンNとイランN/CHGの割合の変化であり、両方が起源集団として選択されました。しかし、イランNおよびCHG両方の標本規模は小さく、イランNでは多くの一塩基多型が欠けているため、第二起源集団の代理としてコーカサス現代人(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、アブハズ、イングーシ)が用いられました。

 標本規模がじゅうぶんに大きく、LC-LBA集団で年代の古いLC(後期銅器時代)3集団(キャムリベルタルラシLCが9個体、イクジテペLCが11個体、アルスランテペLCが17個体)に焦点が当てられました。これら全個体の推定をまとめると、バルシンNとコーカサス現代人を遺伝子プールの代理として用いたさいに、105±19世代前という堅牢な混合年代が得られました。1世代28年と仮定すると、この推定はLC-LBA個体群の年代の3000年前頃の混合事象と等しく、紀元前6500年頃に相当します。ブレはあるものの類似の推定年代は、キャムリベルタルラシLCとイクジテペLCとアルスランテペLCという個々の銅器時代集団で観察されます。混合年代は別の2手法(ALDERおよびrolloffp)でも推定されましたが、全体的にはDATESと一致しました。

 さらに、コーカサス低地LN とビュユッカヤEC、コーカサスの既知のEBA個体群、イランC(銅器時代) を含む、EC(前期銅器時代)勾配上の他の古代集団にも分析が拡大されました。紀元前3100年頃のコーカサスEBA個体群はアナトリア半島LC個体群と類似しており、121±35世代前という類似の混合年代が得られました。重要なことに、より古いコーカサス低地LN2個体とビュユッカヤEC1個体(紀元前5600年頃)は、34±15世代前というもっと最近の混合年代が推定されました。これは暦年代で紀元前6500年頃となり、LC個体群から推定される混合事象の年代と一致します。


●銅器時代と青銅器時代集団の混合モデル化

 LC-LBA集団の系統構成を説明するには、バルシンNおよびイランNの両関連系統が必要だと示されましたが、時空間的にLC-LBA集団により近い古代集団の代替的組み合わせも、同様に適合モデルを提供できるかもしれません。真の人口史をより反映している可能性が高い妥当な混合モデルを得るには、密接に関連した候補起源集団間を正確に区別することが重要です。qpAdmを用いて、全LC-LBA集団が、一方は新石器時代アナトリア半島系統、もう一方はイランおよびコーカサス集団関連系統という2起源集団の混合として、モデル化されました。新石器時代アナトリア半島系統では、新石器時代もしくは前期青銅器時代の3集団(バルシンN、テルクルドゥEC、ビュユッカヤEC)が用いられました。イランおよびコーカサス集団関連系統では、イランNおよびCHGと、同じ地域のより新しい銅器時代および青銅器時代集団が用いられました。LC-LBA集団の混合兆候は、イランおよびコーカサス集団よりも古いものの、代理として用いられました。それはLC-LBA集団が、LC-LBA個体群に寄与したまだ標本抽出されていない遺伝子プールを表しているかもしれないからです。

 バルシンNとイランNの混合は多くのLC-LBA集団を適切に説明しますが、アララハMLBAとエブラEMBAとアルスランテペLCとバルシンCとコーカサス低地LCでは失敗しました。イランN関連系統の寄与は、21±9%~38±6%です。バルシンNとCHGの代替モデルでは、CHG関連系統の推定寄与がわずかに高く、27±13%~41±7%ですが、12集団のうち8集団はCHGとモデル化できません。銅器時代および青銅器時代集団では、イランCがイランNと類似の結果を示しますが、推定寄与の割合はより高くなります(34~53%)。イランC自体は、イランNとバルシンN(37±3%)の混合としてモデル化でき、LC-LBAのモデル化の結果とよく一致します。対照的に、コーカサス集団、とくに銅器時代から青銅器時代(En/BA)集団は、ほとんどLC-LBに適合しません。

 バルシンNをテルクルドゥECと置換して、混合モデル化が繰り返されました。一般的にテルクルドゥECとのモデルは、LC-LBA集団とよく適合しますが、それはバルシンN(22個体)と比較してテルクルドゥEC(5個体)の標本規模がずっと小さいことに起因する、モデルと実際の対象集団との間の不一致を検出する統計的能力の低下の不自然な結果かもしれないので、注意が必要です。古代イラン集団とのモデルが複数のLC-LBA集団で適合しない一方で、テルクルドゥECとCHGの混合は、CHGの割合が13±19%から40±9%まで多様ではあるものの、バルシンCを除く全LC-LBA集団でモデル化できます。

 CHGを後のコーカサス集団と置換すると、同じくバルシンCを除いて、より高いコーカサス関連系統の寄与(40~67%)を有する同じパターンが示されます。バルシンNを外群セットに追加後に分析を繰り返しても、ほとんどの結果は同じままでした。しかし、テルクルドゥECを有する同じ地域のLC-LBA2集団、つまりエブラEMBAとアララハMLBAはこのモデルから逸脱し、テルクルドゥECは単純な2者混合モデルでは適切な代理ではないかもしれない、と示唆されます。したがって、古代イラン集団は全体的に、コーカサス集団よりも代理として敵辣に機能するようですが、さらに比較するにはより高解像度のデータが必要です。

 ビュユッカヤECは、本論文のデータセットにおいては、アナトリア半島内でLC-LBA集団と類似の遺伝的構成を有する最初の個体です。したがって、後のLC-LBA集団がさらなる外部からの寄与なしに同じ遺伝子プールから派生した、という想定も検証されました。F4(ムブティ、X、ビュユッカヤEC、LC-LBA)統計からは、ビュユッカヤECがLC-LBA集団よりも、バルシンNのようなヨーロッパ・アナトリア半島農耕民とより多くのアレルを共有している、と示唆されます。同様に、バルシンNが外群に含まれる場合、ほとんどのLC-LBA集団はqpAdmでビュユッカヤECと姉妹集団としてモデル化できません。ほとんどのLC-LBA集団は、古代イラン/コーカサス集団の第二系統への追加により適切にモデル化されますが、アララハMLBAとエブラEMBAは、古代レヴァント南部集団からのかなりの寄与を必要とします。

 全体的に、qpAdm分析と組み合わせた、後期新石器時代および後期銅器時代集団の両方から得られた同じ混合年代の推定に基づくと、LC-LBA集団も新石器時代の遺伝的勾配から派生したものの、先行集団よりもかなり均質化していた、と示唆されます。イランの古代集団はコーカサス集団よりも東方の起源のより適切な代理となりますが、メソポタミア内からのまだ標本抽出されていない代理が、このイラン/コーカサス関連系統の真の歴史的起源集団を表しているかもしれないので、本論文の結果の字面通りの解釈は要注意です。


●青銅器時代レヴァント北部の遺伝的置換

 テルクルドゥとエブラとアララハの各遺跡により代表されるレヴァント北部は、4区分で最も顕著な遺伝的置換を示します。最後となる中期銅器時代テルクルドゥ1個体(テルクルドゥMC)の後の2000年以内に、アムク川流域内および周辺の集団(アララハMLBAとエブラEMBA)の遺伝的構成は、同時代のアナトリア半島人とほぼ同じに変化しました。しかし、ビュユッカヤEC とのqpAdmモデル化では、アララハMLBAとエブラEMBAは依然として、古代レヴァント南部集団とのつながりに関して、他のアナトリア半島集団と異なっている、と示唆されます。それらの違いはまた、エブラEMBA とアララハMLBA が、バルシンNやコーカサス集団のようなより古い集団との関係について他のLC-LBA集団とは異なっている、と示されるf4統計でも確認されます。

 さらに、バルシンN/テルクルドゥECおよび/もしくは古代コーカサス集団は、qpAdmではエブラEMBAおよびアララハMLBAを充分にモデル化できず、その仮定起源集団は真の祖先の適切な代理を表していない、と示唆されます。基底系統としてより古いテルクルドゥECと、地理的に近いアルスランテペLCとで、潜在的な代理起源集団として代替的なモデルを用いると、どちらも適合は改善されませんでした。しかし、混合モデルは、第三の起源集団としてレヴァント南部集団の追加により適切になり、この場合の各系統の割合は、テルクルドゥECが27~34%、後のコーカサス集団が36~38%、レヴァントEBAが28~38%となります。

 テルクルドゥECの後の追加の遺伝子流動と一致して、アナトリア半島集団もしくはコーカサス集団の遺伝子プールを起源集団として用いると、アララハMLBAで他のLC-LBA集団よりも新しい推定混合年代が得られ、アナトリア半島LCとは78±27世代前(紀元前3880±746年前)、コーカサスEBAとは44±8世代前(紀元前3060±224年前)です。アナトリア半島LCもしくはコーカサスEBAのどちらかを一方、レヴァントCをもう一方の起源集団として用いると、指数関数的減衰は適合できませんでした。


●アララハにおける個体の移動性の証拠

 レヴァント北部のアララハMLBA全員の遺伝的分析は、主成分分析における外れ値のため、女性1個体(ALA019)を除いて行なわれました。ALA019は井戸の底で発見され、考古学的および人類学では、放射性炭素年代が紀元前1568~紀元前1511年で、いくつかの治癒した外傷の証拠がある異常な埋葬を表している、と指摘されています。ユーラシア人の主成分分析では、ALA019は遺伝的に、古代イランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)の銅器時代および青銅器時代個体群とより密接でした。これらの集団は西から東の遺伝的勾配を表しており、バルシンNおよびイランNおよびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する系統のさまざまな割合を有しています。

 主成分分析で観察されたALA019の遺伝的類似性は、外群f3統計で確認されました。コーカサスおよび西方草原地帯の他の古代集団も高い類似性を示しますが、f4統計(ムブティ、X、トゥーラン、ALA019)からは、ALA019が他のトゥーラン個体群とは、多かれ少なかれイランNもしくはWSHGと時としてアレルを共有することにより区別されると示唆され、この地域における遺伝的勾配の存在と一致します。メソポタミア南部のような近隣地域からの古代ゲノムの欠如を前提にすると、ALA019の起源として最も他可能性が高いのは、イラン東部もしくはアジア中央部のどこかです。


●青銅器時代前のアナトリア半島とコーカサス南部全域の遺伝的均質化

 本論文は、年代では紀元前六千年紀以降を対象とし、シリア(レヴァント北部)とアナトリア半島は4000年、コーカサス南部は2000年に及びます。さらに、混合年代の推定により、新石器時代へと1000年さかのぼることが可能となりました。アナトリア半島西部(マルマラ海周辺地域)とコーカサス南部低地への後期新石器時代/前期銅器時代(紀元前六千年紀)の遺伝的勾配が明らかになり、この遺伝的勾配は後期新石器時代の開始(紀元前6500年頃)以降の混合過程により形成されました。この勾配の東端はアナトリア半島(西部の)系統をわずかに伴うザグロス山脈を超えて、銅器時代と青銅器時代のアジア中央部にまで達しました(関連記事)。南方では、アナトリア半島系統はレヴァント南部の新石器時代集団に存在し、北方でコーカサス(のおもに山岳地帯)の銅器時代および青銅器時代集団に存在し、これは後期新石器時代の混合の結果である可能性が最も高そうです。

 広範な地域の遺伝的均質化の証拠は、父系でのみ継承されるY染色体系統からも得られます。この地域の全ての時空間的集団では、Y染色体ハプログループ(YHg)はほぼ共通してJ1a・J2a・J2b・G2aです。低頻度のYHg-H2・T1aも加えて、これらは新石器時代までさかのぼるか、すでに上部旧石器時代に存在していた(関連記事)遺伝的遺産の一部を形成します。いくつかの注目すべき例外は裏づけに乏しいものの、それにも関わらず、長距離移動と拡張されたYHg多様性の重要な証拠を提供します。たとえば、YHg-R1b1a2(V1636)・R1b1a1b1b(Z2103)は17000年以上前に分岐したと推定されているので、アルスランテペ遺跡の主要な期間にポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの早期の侵入の直接的証拠はありません。アララハ遺跡のALA084個体で見つかったYHg-L2(L595)は、以前には銅器時代イラン北部の1個体と、コーカサス北部のマイコープ(Maykop)文化後期の3人で報告されていました。このYHg-L2の3人は、本論文で示された共通のアナトリア半島/イラン関連系統の勾配に由来する系統を有しており、コーカサス山脈北側の草原地帯の南端にも達する、広範な分布を示唆します。

 紀元前七千年紀の西から東への遺伝的勾配の形成の年代推定により、常染色体と父系・母系の単系統という両方の指標で観察されたこれらの遺伝的標識の文脈化が、人類の移動性と社会経済的慣行の変化という考古学的証拠を伴って可能となりました。紀元前6500~紀元前6400年頃は、アナトリア半島新石器時代の重要な分岐点でした。なぜならば、以前には食糧生産共同体が皆無かほとんどなかった地域に、定住共同体の突然で大量の拡大が見られたからです。その後、コーカサス南部では、新石器時代生活様式が突如出現し、紀元前6000年頃となる外来の家畜動物と栽培種の導入は、近隣地域の新石器時代集団とのある種の相互作用と、最終的には侵入を示唆しており、その中でザグロス地域とカスピ海地域に沿ったアナトリア半島南西部は、新石器時代文化導入の最も適した候補地の一つでした。

 これらの事象に関連して、近東内の家畜化されたヤギ集団の遺伝的構造が崩壊し始め、銅器時代までには近東全域のヤギの群が、新石器時代東西両集団からの系統を有する、と明らかになりました。この混合の正確な年代は不明ですが、人類と家畜との間の類似から、家畜は交易ネットワークを通じてのみ移動したのではなく、人々と共にも移動し、それは物質文化やアイデアや慣行も同様だった、と示唆されます。これは、たとえばコーカサス南部の円形新石器時代建造物により示唆されており、メソポタミア北部でとティグリス川およびユーフラテス川流域のアナトリア半島側で紀元前六千年紀に発展しつつあった、ハラフ伝統を想起させます。

 後期青銅器時代までの続く数千年に、遺伝的連続性はアナトリア半島北部・中央部と東部で持続し、これは後の集団との遺伝的類似性と、新石器時代後の新たな系統の欠如により支持されます。これは、この時期の激しい文化的相互作用の考古学的証拠に基づく集団変化に関する、以前の仮説とは矛盾します。たとえば、トルコの黒海沿岸のイクジテペ遺跡には、強いバルカンとの類似性を有する物質文化が含まれており、これは黒海全域の集団との直接的接触を示す、と議論されてきましたが、これらの接触は遺伝子流動を伴わないようです。

 アルスランテペ遺跡は別の代表的事例を提供します。前期銅器時代の始まりにおいて、アルスランテペ遺跡の考古学的証拠は、コーカサスとのつながりを有する牧畜民集団によるアルスランテペの占拠につながった、破壊的な社会政治的紛争の存在を強く示唆します。主成分分析とf4統計では、この期間の2個体は、コーカサスとポントス・カスピ海草原からの集団との過剰な類似性を示しますが、後のアルスランテペEBA個体群は、このコーカサスとの類似性を共有していません。これは、仮定された人口の相互作用が一時的で小規模だったに違いないものの、アルスランテペEBAの小さな標本規模(4個体)が検出に充分ではなかったかもしれない、と示唆します。微妙な遺伝子流動はアルスランテペ遺跡の最近の知見と一致しており、アルスランテペ遺跡を占拠したEBA牧畜民は、コーカサスからの侵入集団というよりはむしろ、ザグロス山脈周辺を移動するよく確立された在来集団だった可能性の方が高い、と示唆されます。

 アルスランテペ遺跡の遺伝的景観は、メソポタミア世界との相互作用に関して重要な示唆も有します。考古学的証拠では、紀元前四千年紀にメソポタミア集団はアナトリア半島南東部とシリア北部に植民地を確立し、これはウルク拡大と呼ばれる期間です。しかし、ウルクの拡大は、在来エリート層の経済・政治・文化的関心をメソポタミア南部へと新たに向ける、社会文化的変化の複雑で深い過程でもありました。アルスランテペ遺跡の人工物はこの複雑さを反映しており、本論文で示された遺伝的継続性は、遺伝子伝達なしに、在来集団がこれらより広範なウルクの特徴とアイデアを採用した、という考えを支持します。


●レヴァント北部における集団と領域国家の動態

 アナトリア半島の他地域とは対照的に、レヴァント北部は遺伝的構造で新石器時代後の変化を追跡できる近東の地域として際立っています。エブラ遺跡とアララハ遺跡の人類の遺伝子プールは、コーカサスとレヴァント南部の両方からの追加の遺伝的寄与を必要とするより複雑なモデルによってのみ説明できる、と明らかになりました。本論文で提案されたモデルにおいてコーカサスと関連する起源集団の包含は、この置換がレヴァントへのコーカサス南部のクラ・アラクセス文化の拡大と関連しているのかどうか、という問題を提起します。この拡大はレヴァントで紀元前2800年頃に記録されており、アナトリア半島東部およびコーカサス南部高地からの移動/移住と関連しているかもしれません。しかし、本論文の結果はいくつかの理由でこの想定を支持しません。まず、アナトリア半島東部のようなクラ・アラクセス文化のおもな拡大地域において、コーカサス関連系統の実質的な増加は見つかりません。次に、コーカサス南部高地からの集団は、クラ・アラクセス文化関連個体群も含めて、第二起源集団としても適合しませんでした。最後に、コーカサス南部からレヴァント北部への提案されている拡大経路の中間に位置する集団である、アナトリア半島東部のアルスランテペ遺跡個体群とのモデルも同様です。

 その結果、これらの解釈上の警告は、テルクルドゥ集団と青銅器時代エブラおよびアララハ集団との間の2000年に起きたかもしれない、複数の遺伝子流動事象を含む、代替的な歴史的想定の検討を必要とします。しかし、文字記録や考古学的および古気候学的証拠からは、より短い期間、つまり前期銅器時代の終わりが、政治的緊張と集団移動に関してひじょうに重要だった、と示唆されます。たとえば、この期間には、中期青銅器時代の始まりにエブラ遺跡は2回破壊され、再建されました。前期銅器時代の終わりから後期青銅器時代まで、アムク川流域へと侵入する人類集団に言及する文字記録は広範に存在します。これらの集団はアモリ人やフルリ人などと呼ばれましたが、その(文化的)自己認識の形成背景や地理的起源に関しては、まだ議論が続いています。最近の仮説では、これらの集団の到来が4200年前頃の大旱魃における気候変動による集団移動と関連づけられており、この大旱魃はメソポタミア北部のハブール川前流域の放棄と、近隣の居住可能地域の探索へとつながった、と指摘されています。

 これを考慮すると、アララハとエブラで推定された系統は、まだ標本抽出されていないメソポタミア北部のEBA集団遺伝的構成を最もよく表しているかもしれない、と示唆されます。次の中期~後期青銅器時代には、王国/帝国間の領土支配の動態の変化がエブラおよびアララハの社会文化的発展に影響を及ぼしたとしても、遺伝的混乱の証拠は見つかりません。それにも関わらず、アジア中央部起源の可能性があるアララハ遺跡の1個体の事例は、中期および後期青銅器時代の地中海東部社会の「国際主義」の文脈内で解釈できるかもしれない知見です(関連記事)。この現象のさまざまな社会的特徴と、これらが個人の生活史にどのように反映されているのか、ということに関して、今後の研究が必要です。


●まとめ

 全体的に、本論文の大規模なゲノム分析は、2つの主要な遺伝的事象を明らかにします。まず、後期新石器時代に、アナトリア半島とコーカサス南部にまたがる遺伝子プールが混ざり、混合勾配が生じました。次に、前期銅器時代に、レヴァント北部集団が、メソポタミアからのまだ標本抽出されていない近隣集団を含む可能性が高い過程で、遺伝子流動を受けました。アルスランテペ遺跡において微妙で一時的な遺伝子流動を検出できるとしても、均質な銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島集団の遺伝子プール内の地域規模の集団動態と関連する問題の解明は、現在の分析手法では解決できないかもしれない、と本論文は認識しています。

 さらに、本論文の標本抽出は数と地理的範囲において以前の研究との比較で拡大していますが、メソポタミアの人類遺骸の重要な地域ではまだ標本抽出されていません。したがって、本論文で提示された近東の遺伝的景観は示唆的ですが、まだ不完全です。それにも関わらず、前期~後期青銅器時代間のアナトリア半島とコーカサス南部とレヴァント北部の累積的な遺伝的データセットからは、後期新石器時代と前期青銅器時代の遺伝的事象に続いて、この地域では遺伝的に異なる集団の侵入はなかった、と示唆されます。この結論は、複雑な青銅器時代の社会政治的実体の形成についての我々の理解に関して、ひじょうに重要です。


参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2020): Genomic History of Neolithic to Bronze Age Anatolia, Northern Levant, and Southern Caucasus. Cell, 181, 5, 1158–1175.E28.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044