同位体分析から推測される初期人類の食性

 同位体分析から初期人類の食性を推測した研究(Martin et al., 2020)が公表されました。安定同位体分析により、過去の生物の生態・生理・食性を推定できます。初期人類の食性は、骨・歯の分析や同位体分析などに依存しています。しかし、同位体分析においては、栄養価の指標になるコラーゲンと窒素の同位体は、たとえば100万年以上前ではめったに保存されていません。初期人類の食性は多くの場合炭素同位体に依存しており、骨や歯のような化石ではあまり保存されていません。炭素同位体組成は、最終的な植物源の光合成経路を反映しており、過去の植生進化の復元と、人類も含めてアフリカの動物の食性調査に役立ちました。

 アフリカの人類の炭素同位体分析は、C3およびC4植物全体を反映します。たとえばアフリカ東部では、初期アウストラロピテクス属の食性はほぼC3植物に由来しますが、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などもっと新しい人類は、その食性をほぼC4植物に依存しています(関連記事)。しかし、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)もしくはケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)のように、初期アウストラロピテクス属もしくは同年代の人類でも、食性でC4植物の顕著な割合を示す系統も存在します。アフリカ中央部では、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)がC4植物環境で食料を調達していた初期人類の別の事例となります。

 炭素同位体分析の重要な結果として、大きな歯を有するアウストラロピテクス属の分類群間の炭素13値の顕著な違いがあり、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とアフリカ東部のパラントロプス・ボイセイが異なる資源を利用していた、と示されます。こうした結果は歯の微視的使用痕でも裏づけられています(関連記事)。本論文は、カルシウムと炭素の同位体を利用して、ケニアのトゥルカナ(Turkana)盆地の初期人類や共存していた霊長類の食性を調べます。脊椎動物におけるカルシウム同位体の研究から、カルシウム同位体44/42の比率の減少が栄養価の増加と関連している、と明らかになっています。

 まず、現生ゴリラの調査により、カルシウム同位体値と食性との関係が改めて確認されました。次に、トゥルカナ盆地の初期人類も含む霊長類(69個体)のカルシウム安定同位体が分析され、−0.69‰~−1.88‰の範囲と明らかになりました。初期人類との食性の類似が指摘されることもあるヒヒ属は、カルシウム同位体値が低く、化石ヒヒ属(Parapapio)はそれよりもずっと高い値を示します。これは摂食選好の違いを反映しているかもしれませんが、アフリカの現生種であるアヌビスヒヒ(Papio anubis、オリーブヒヒ)は広範に分布しているので、本論文のデータでは地理的多様性を反映できていない可能性もあります。

 現生種のゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)はC3草本植物に強く依存していると以前から推測されており、本論文のカルシウム同位体値でも、草本に依存しているとの結果が得られました。化石ゲラダヒヒ属2種(Theropithecus brumpti、Theropithecus oswaldi)のカルシウム同位体値は、現生ゲラダヒヒからさほど逸脱していません。しかし、ゲラダヒヒ属でもオズワルディと比較して大型のブランプティの一部個体は大型肉食動物と同じ値の範囲内にあり、ブランプティのカルシウム同位体値の範囲が広いことから、ブランプティは雑食と推測されます。

 化石人類のカルシウム同位体値では、共にアフリカ東部に生息していたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とケニアントロプス・プラティオプスは、区別できませんでした。プラティオプスの炭素同位体値がC3植物とC4植物の混合環境での摂食を明確に示したのに対して、アナメンシスの方は、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と同様のほぼ純粋なC3植物食性を示唆します。以前の頭蓋形態に関する研究では、アナメンシスは硬いものを接触していた可能性が示唆されていましたが、歯の微視的使用痕と炭素同位体分析に基づくその後の研究では、C3植物環境の柔らかいものを食べていた、と推測されています。アナメンシスのカルシウム同位体値は、アフリカ東部の現代および化石の木の葉食動物とほとんど重なっており、果物や草など様々なC3植物を摂食していた、と示唆されます。ただ、アナメンシスの一部個体は、酸素同位体値に基づくとより開放的な環境でも過ごした可能性があり、食料を獲得する場所と生息する場所とが分離されていたかもしれません。

 初期ホモ属のカルシウム同位体値は分散しており、雑食もしくは肉食選好が示唆されます。ただ、これはトゥルカナ盆地における初期ホモ属、たとえばハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)やエレクトス(Homo erectus)の分類が明確ではないことを反映しているかもしれず、その場合、初期ホモ属内では植生が不均質だったかもしれません。また、初期ホモ属はゲラダヒヒ属のオズワルディと類似したカルシウム同位体値を示しますが、炭素同位体値は異なります。

 パラントロプス・ボイセイは、初期ホモ属やゲラダヒヒ属のオズワルディやトゥルカナ盆地の草の葉食哺乳類とも異なるカルシウム同位体値を示します。炭素13値とカルシウム同位体値を同時に比較した分析でも、ボイセイは他の人類および非人類草の葉食哺乳類の範囲とは重ならず、形態や歯の微視的使用痕や炭素同位体分析で強調されていたように、独自性を示します。ボイセイは、果物のような柔らかいものを食べていた、と推測されています(関連記事)。ボイセイの食性はかなり特異で、そのカルシウム同位体値は、トゥルカナ盆地の他の人類だけではなく、より低いカルシウム同位体値を示すアフリカ南部の同じパラントロプス属のロブストスとも明らかに異なります。

 興味深いことに、共にアフリカ南部に生息していたパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)では、炭素13値にもカルシウム同位体値にも違いがありません。ロブストスの食性に関しては、アフリカ南部の同時代の初期ホモ属とともに柔軟だった、と以前の研究では推測されていました。本論文の分析と炭素13値もしくは歯の微視的使用痕からは、アフリカ東部のボイセイが特殊な食性だったのに対して、アフリカ南部のロブストスは柔軟な食性だった、と示されます。これらの結果は、ロブストスとボイセイという明らかに咀嚼機能を共有する分類群間の食性の不一致を示し、歯と顎の特徴のみに基づくパラントロプス属の単系統性という主張に疑問を投げかけます。

 パラントロプス属の分類に関しては、以前取り上げました(関連記事)。日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)およびボイセイと南部のロブストスの3種に分類されています。パラントロプス属の系統関係については、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります。もしそうならば、これら3種はクレード(単系統群)を形成せず、パラントロプス属という区分も成立しません。

 本論文は、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌスの食性の類似を示しており、パラントロプス属とされてきた3種がクレード(単系統群)を形成しない、という見解と整合的です。ただ、食性の違いは、霊長類全般に見られる柔軟性に基づく、異なる環境への適応とも解釈できます。最近の研究では、230万~200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があり、広義のホモ・エレクトスもこの期間にアフリカの他地域、おそらくは東部から南部に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。もしそうならば、ロブストスがエチオピクスから派生した一部系統で、東部から南部に拡散してきた、とも考えられます。そうすると、パラントロプス属という区分も成立することになりますが、この問題は今後の研究の進展を俟つしかなさそうです。


参考文献:
Martin JE. et al.(2020): Calcium isotopic ecology of Turkana Basin hominins. Nature Communications, 11, 3587.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17427-7

大津透『律令国家と隋唐文明』第2刷

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2020年2月です。本書は、律令の導入を中心に、古代日本が隋と唐から文化・制度をどのように受容していったのか、概説します。碩学の著者らしく、その射程は律令に留まらず仏教や儒教にも及んで、広くまた深く掘り下げられており、新書とはいえ、たいへん密度が高くなっています。いつか、時間を作って再読しなければなりませんし、本書で提示された天皇号推古朝採用説についても、今後調べ続けていかねばならない問題だと思います。

 本書は日本における律令制導入の契機として、対外的緊張関係を指摘します。アジア東部において、紀元後6世紀後半以降、隋、続いて唐という巨大勢力が出現し、朝鮮半島諸国でも高句麗や百済で集権化が進みます。日本における乙巳の変もその文脈で解されます。とくに、唐が朝鮮半島に軍事的に介入し、百済と高句麗が滅ぼされる過程で、日本が唐に白村江の戦いで惨敗したことは、日本の支配層に危機感を抱かせ、西日本で百済式の山城が築かれるとともに、律令制への導入が進みました。本書は、日本における律令制導入の画期を天武朝としており、その延長線上に大宝律令がある、と指摘します。

 また本書は、隋や唐と当時の日本では社会構造に大きな違いがあり、律令をそのまま導入したわけではなく、かなり変更されていることも指摘します。とくに違いが大きいのは君主(天皇)関連で、天皇は律令制前の君主(大王)像を多分に継承していました。しかしこれも、桓武天皇よりもさらにさかのぼって聖武天皇以降の君主権強化の流れの中で、天皇も儀礼などにおいて中華皇帝に近接していき、平安時代前期には天皇の「中華皇帝化」が一定以上進行します。これにより、天皇は制度化されていき、君主権強化という当初の目的からは遠ざかった感は否めませんが、一方で、天皇という枠組みが安定したことも間違いなく、これが現在まで千数百年以上天皇が続いた要因なのでしょう。

ブリテン島における鳥類個体群の多様性に関係する道路への曝露

 ブリテン島における鳥類個体群の多様性と道路への曝露との関係についての研究(Cooke et al., 2020)が公表されました。イギリスの道路網は、世界で最も密に張り巡らされた道路網の一つで、国土の80%が道路から1km以内にあります。道路建設は、各地域で生息地の分断化や変化をもたらし、野生生物の地域個体群に影響を及ぼしています。しかし、野生生物の個体群に対する道路の影響を全国水準で調べる研究は、ほとんど進んでいません。

 この研究は、イギリス鳥類繁殖調査(UK Breeding Bird Survey)のデータを使って、ブリテン島内の道路と関連づけ、同島内に生息する鳥類75種の個体数を評価しました。その結果、58種の個体数と道路曝露との間に有意な関連が認められ、そのうち33種が負の影響を受けている、と明らかになりました。道路への曝露が増えると、イギリス国内で個体数の少ない鳥類種の個体数が減り、ミヤマガラスやクロウタドリやコマドリなどありふれた鳥類種の個体数が増えていました。たとえば、道路曝露を考慮に入れると、マキバタヒバリの個体数は31%減少し、ウソの個体数は28%増加していました。また、幹線道路と補助道路を別々に分析したところ、幹線道路近くで発見された鳥類種の81%が負の影響を受けている、と明らかになりました。

 この研究は、ブリテン島において、道路網がありふれた鳥類種には恩恵をもたらす一方で、その他の鳥類種には不利になる環境条件を生み出しており、鳥類群集の単純化がもたらされている可能性を示唆しています。この研究は、脆弱な鳥類種が道路密度の低い地域へ追いやられていることが、将来的には道路密度の高い国々での鳥類の個体数減少と絶滅につながると考えられる、と主張しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:英国本土における鳥類個体群の多様性に道路への曝露が関係している

 英国のグレートブリテン島とその周辺の小島に生息する比較的希少な小型の鳥類種や渡り鳥種(マキバタヒバリ、タゲリなど)が、道路への曝露と負の関連を示していることを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、同島内の道路網が、ありふれた鳥類種(ミヤマガラス、クロウタドリ、コマドリなど)に恩恵をもたらす一方で、その他の鳥類種の不利になる環境条件を生み出しており、鳥類群集の単純化をもたらしている可能性を示唆している。

 英国の道路網は、世界で最も密に張り巡らされた道路網の1つで、国土の80%が道路から1キロメートル以内にある。道路建設は、それぞれの地域で生息地の分断化や変化をもたらし、野生生物の地域個体群に影響を及ぼしている。しかし、野生生物の個体群に対する道路の影響を全国レベルで調べる研究は、ほとんど進んでいない。

 今回、Sophia Cookeたちの研究チームは、英国鳥類繁殖調査(UK Breeding Bird Survey)のデータを使って、グレートブリテン島内の道路と関連付けて、同島内に生息する鳥類75種の個体数評価を行った。その結果、58種の個体数と道路曝露との間に有意な関連が認められ、そのうち33種が負の影響を受けていることが明らかになった。道路への曝露が増えると、英国内で個体数の少ない鳥類種の個体数が減り、ありふれた鳥類種の個体数が増えていた。例えば、道路曝露を考慮に入れると、マキバタヒバリの個体数は31%減少し、ウソの個体数は28%増加していた。また、幹線道路と補助道路を別々に分析したところ、幹線道路近くで発見された鳥類種の81%が負の影響を受けていることが判明した。

 Cookeたちは、脆弱な鳥類種が道路密度の低い地域へ追いやられており、このことが将来的には道路密度の高い国々での鳥類の個体数減少と絶滅につながると考えられると主張している。



参考文献:
Cooke SC. et al.(2020): Roads as a contributor to landscape-scale variation in bird communities. Nature Communications, 11, 3125.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16899-x

アメリカ大陸のクロコダイルの起源

 アメリカ大陸のクロコダイルの起源に関する研究(Delfino et al., 2020)が公表されました。これまで、クロコダイルが大西洋を横断してアフリカ大陸からアメリカ大陸に到達したのか、あるいはその逆なのか、不明でした。この研究は、1939年にリビアのアズサービ(As Sahabi)で発見され、ローマ大学ラサピエンツァ校の地球科学博物館(MUST)に保管されている、絶滅したアフリカのクロコダイル種(Crocodylus checchiai)の頭蓋骨を、コンピューター断層撮影画像を用いて再調査しました。

 その結果、いくつかの新しい頭蓋構造が明らかになりました。その一つは、C.checchiaiの口吻の中央部が突出していることで、これは他のアフリカのクロコダイル種に見られない構造ですが、アメリカ大陸のクロコダイルの現生種である、オリノコワニ(Crocodylus intermedius)やモレレットワニ(Crocodylus moreleti)やアメリカワニ(Crocodylus acutus)やキューバワニ(Crocodylus rhombifer)の頭蓋骨には見られます。このように骨格構造が共通しているということは、C.checchiaiとアメリカに生息するクロコダイルとの間の密接な進化的関係を示しています。

 クロコダイル種間の進化的関係のさらなる解析の結果、C.checchiaiが、南北アメリカ大陸に現生するクロコダイル種(4種)と同じ進化系統の一部である、と示唆されました。C.checchiaiの化石は、年代測定により約700万年前と推定されました。これに対して、アメリカのクロコダイルの化石として最古のC.falconensisの年代は、約500万年前と推定されています。この研究は、以上の知見に基づいて、クロコダイルがオーストラリアからアフリカを経て西へ移動して、中新世後期(約1100万年~500万年前)にアメリカに到達した、との見解を提起しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代アフリカのクロコダイルの頭蓋骨がアメリカのクロコダイルの起源を解明する手掛かりに

 絶滅したアフリカのクロコダイル種Crocodylus checchiaiが、アメリカのクロコダイルの現生種と近縁関係にあるとした解析結果を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、クロコダイルが中新世後期(1100万年〜500万年前)にアフリカからアメリカに移動した可能性を示唆している。

 今回の発見までは、クロコダイルが大西洋を横断してアフリカ大陸からアメリカ大陸に到達したのか、あるいはその逆なのかが不明だった。今回、Massimo Delfino、Dawid Iurinoたちの研究チームは、1939年にリビアのAs Sahabiで発見され、ローマ大学ラサピエンツァ校の地球科学博物館(MUST)に保管されているC.checchiaiの頭蓋骨を、コンピューター断層撮影画像を用いて再調査した。彼らは、いくつかの新しい頭蓋構造を明らかにした。その1つがC.checchiaiの口吻の中央部が突出していることであり、これは他のアフリカのクロコダイル種に見られない構造だが、アメリカのクロコダイルの現生種[オリノコワニ(C. intermedius)、モレレットワニ(, C. moreleti)、アメリカワニ(C. acutus)、キューバワニ(C. rhombifer)]の頭蓋骨には見られる。このように骨格構造が共通しているということは、C.checchiaiとアメリカに生息するクロコダイルの間に密接な進化的関係のあることを示している。

 そして、クロコダイル種間の進化的関係のさらなる解析が行われ、C.checchiaiが、北米と南米に現生するクロコダイル種(4種)と同じ進化系統の一部であることが示唆された。C.checchiaiの化石は、年代測定によって約700万年前のものとされた。これに対して、アメリカのクロコダイルの化石として最古のC.falconensisは約500万年前のものとされている。Delfinoたちは、以上の知見に基づいて、クロコダイルがオーストラリアからアフリカを経て西へ移動してアメリカに到達したという見解を提起している。



参考文献:
Delfino M. et al.(2020): Old African fossils provide new evidence for the origin of the American crocodiles. Scientific Reports, 10, 11127.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-68482-5

アメリカ大陸最古の人類の痕跡(追記有)

 アメリカ大陸最古の人類の痕跡に関する二つの研究が報道(Gruhn., 2020)されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Ardelean et al., 2020)は、アメリカ大陸における最古級の人類の痕跡を報告しています。アメリカ大陸における人類最初の到達はひじょうに注目されており、激しい議論が続いていますが、メキシコの人類最初期の痕跡はほとんど知られておらず、研究が遅れていました。そこで本論文は、メキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)の調査結果を報告しています。

 チキウイテ洞窟はメキシコのサカテカス (Zacatecas)にあり、海抜2740m、渓谷からは約1000mの地点に位置します。放射性炭素年代測定法に基づく骨・炭・堆積物46点と、光刺激ルミネッセンス法(OSL)に基づく標本6点から年代が得られました。チキウイテ洞窟の層位は1223層から1201層へと新しくなり、古い方からC→B→Aと区分されています。C層は1223層~1212層までで、1212層は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に堆積した、と推測されています。1210層はC層とB層の境界となり、LGMの末期となります。B 層はその上で1210層から1203層まで、A層は1201層で、ほぼ歴史時代です。C層は放射性炭素年代測定法による較正年代(以下、基本的には紀元後1950年を基準と下較正年代です)で33150~31405年前に始まり、B層は16605~15615年前と13705~12200年前の間となり、12900~11700年前頃のヤンガードライアス期に近接しています。これらチキウイテ洞窟の年代値は、層序とよく一致します。

 石器1930点が全ての層で発見されましたが、B層が87.2%(1684個)と圧倒的に多く、C層は12.3%(239個)です。これは、発掘堆積物量の少なさに起因すると考えられます。C最下層でも石器が発見されています。剥片石器は未知の技術伝統を反映しており、年代による変化はほとんど見られません。石器はほぼ(90%以上)緑色か黒味がかかっており、意図的に選択されたようです。主要な石器製作技術は直接的打撃で、石核・剥片・石刃・小型石刃(bladelet)・掻器・尖頭器などに分類されます。総合的に、チキウイテ洞窟の石器群は、アメリカ大陸の更新世もしくは前期完新世の既知の文化のどれとも明確な類似性を示しません。

 環境DNA研究の応用により、更新世の堆積物のDNA解析が試みられました。LGM前からLGM末期までとなる1223層~1210層では、セイヨウネズやモミやマツやトウヒなど森林性植物と、ドクムギ属やイチゴツナギ亜科やオオムギ属やバラ類といった草本植物との混在を示すDNA証拠が得られました。LGM前からLGM期までの1223層~1212層では、後の期間よりも森林性の環境を示す証拠が得られ、樹木と広葉草本が豊富でした。植物相の明確な変化はLGM後からヤンガードライアス期(1207A層~1204層)前に起きました。この変化でマツやセイヨウネズはほぼ消滅し、キジカクシ科やマツの亜集団のストローブマツやモロコシ属などが優占するようになります。

 プラントオパールと花粉も分析され、環境DNAと類似した分類群だけではなく、異なる分類群も特定されました。注目されるのは、LGMも含めて全標本で検出されたヤシ科のプラントオパールで、現在チキウイテ洞窟一帯では海抜2000m以下に1種(Brahea berlandieri)しか自生しておらず、LGMは今よりもずっと寒冷だったので、人類が食資源などとして持ち込んだ、と考えられます。プラントオパールの中には加熱されたものもあり、これも人類が持ち込んだ傍証となりそうです。

 動物相では、コウモリが全ての層で見つかっており、クビワコウモリ属とホオヒゲコウモリ属とヒナコウモリ属が1204層までは優占しており、その後はヘラコウモリ科や新たなコウモリ亜目種に置換されました。クマのDNAはLGMに確認されますが、最も豊富に存在するのは末期で、考古学的記録と一致します。齧歯類の存在はずっと確認されますが、いくつかの層でより高頻度です。ヤギやヒツジや鳥類のDNAも確認されました。更新世の堆積物における人類(ホモ属)のDNAの検出も1204・1210・1212・1218の各層で試みられましたが、その証拠は見つかりませんでした。当然これは、チキウイテ洞窟における人類の存在を否定する証拠にはなりません。

 チキウイテ洞窟の堆積物におけるDNA浸透の検証には、ウマ属が用いられました。現代のウマ属(ほぼロバ)のDNAは1201層に限定され、古代のウマ属のDNAは1204C層以下で確認されました。また、DNAの損傷は同じ層の他の動物と類似していました。これらの知見から、DNAの浸透は大きな影響を及ぼさない、と考えられます。骨の分析では、全体的には小型動物が多いものの、LGMには大型動物がより多く見られます。

 本論文は、チキウイテ洞窟における少なくともLGM末期からヤンガードライアス期の始まりまでの人類の存在を示します。LGMとLGMよりも前における人類の存在は、1212層より下のC層の人工物で示されます。この段階の文化的証拠は後代よりも少なく、訪問・居住が短くて低頻度だったことを反映していると考えられますが、以前の想定よりずっと早いアメリカ大陸への人類の到来を示唆します。チキウイテ洞窟における各層の長さから、人類はチキウイテ洞窟を一貫した基準で利用し、おそらくは大きな移住周期の一部として季節単位で再利用していた、と考えられます。

 更新世のアメリカ大陸において、人類がチキウイテ洞窟のような高地を利用したことは異例ですが、13000年前頃以降となると、アンデス高地において海抜4480m地点まで人類が拡散していた証拠も得られています(関連記事)。チキウイテ洞窟の石器群はアメリカ大陸において類似のものが見つかっておらず、その定量的特徴は発達した技術を示唆し、おそらくはLGMよりも前にどこかから持ち込まれました。チキウイテ洞窟住民の起源、他のクローヴィス(Clovis)文化集団よりも古い集団との生物文化的関係、その祖先がアメリカ大陸へと到来した経路をよりよく解明するには、さらなる考古学および環境DNA研究が必要です。


 もう一方の研究(Becerra-Valdivia, and Higham., 2020)は、北アメリカ大陸とベーリンジア(ベーリング陸橋)の更新遺跡群の年代を報告しています。最近まで、人類のアメリカ大陸への最初の拡散に関する有力説は、13000年前頃にアジア(シベリア)北東部からベーリンジアを経由して初めて人類はアメリカ大陸に入り、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊を通って南方へ移動した、というものでした。このアメリカ大陸最初の人類集団は、北緯48度以南に移動すると、北アメリカ大陸全域に広がった較正年代(紀元後1950年基準)で13250~12800年頃のクローヴィス文化を開発しました。この「クローヴィス最古説」は、アメリカ大陸への人類拡散の時期・理由・経路に関わる問題のほとんどに上手く答えられたため、20世紀の大半で広く受け入れられました。しかし、クローヴィス最古説は、アメリカ大陸におけるそれ以前の年代の遺跡の報告例が蓄積されてきたことにより、今では有力説の地位を失った、と言えるでしょう(関連記事)。その結果、アメリカ大陸における最初の人類集団は太平洋沿岸を南下した、という見解が有力になりつつありますが、まだ確定したとまでは言えない状況です。

 本論文は、アメリカ大陸における初期人類の拡散パターンをより洗練された方法で理解するため、ベイジアン統計手法を用いて、北アメリカ大陸とベーリンジアの42ヶ所の遺跡から得られた考古学的および年代測定データを分析しました。これにより、放射性炭素年代とルミネッセンス年代を、層序学的および他の相対的年代情報と結合できます。本論文の分析対象の遺跡は、考古学的には、クローヴィスか西方有茎かベーリンジアン(Beringian)の3技術伝統、もしくは先クローヴィスと「クローヴィスと同年代」に区分されます。またグリーンランド氷床年代が用いられ、とくにグリーンランド亜間氷期1(GI-1)とグリーンランド間氷期1 (GS-1)が重要な期間となり、紀元後2000年を基準として、14700~11700年前頃となります。

 先クローヴィス遺跡群の始まりは、上述のメキシコ北部に位置するチキウイテ洞窟C層の文化遺物が最古となり、26500~19000年前頃となるLGMよりも古い33150~31405年前頃となります。いくつかの遺跡の年代は、もっと後のLGMの期間内もしくはLGM後すぐのようです。たとえば、アメリカ合衆国の、テキサス州のゴールト(Gault)遺跡(26435~17385年前頃)や、ペンシルベニア州のメドウクラフト岩陰(Meadowcroft Rockshelter)遺跡(24335~18620年前頃)や、サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(20585~18970年前頃)です。ベーリンジア東部では、カナダのユーコン準州北部のブルーフィッシュ洞窟群(Bluefish Caves)遺跡において、人為的に加工された骨からLGM期間の年代(24035~23310年前頃)が得られています。

 チキウイテ洞窟B層の始まりは16560~15285年前頃で、アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper's Ferry)遺跡(16315~14660年前頃)やテキサス州のデブラ・L・フリードキン(Debra L. Friedkin)遺跡(16315~14660年前頃)とともに、突然の短期間の気候変動の温暖な時期である、GI-1に近いLGM後の始まりにこれらの遺跡で人類の居住が始まったことを示唆します。これらの遺跡に続いて、オレゴン州のペイズリー洞窟群(Paisley Caves)遺跡(14755~13780年前頃)などがGI-1期間もしくはその近い年だとなります。これら14ヶ所の先クローヴィス遺跡の年代測定データ(171点)は、14250年前頃を中心に分布しています。もっと後の石器伝統であるベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスの始まりはそれぞれ、14955~13895年前頃、14860~13065年前頃、14210~13495年前頃と示唆されます。

 なお、本論文では南アメリカ大陸は対象外ですが、チリのモンテヴェルデ2(Monte Verde II)遺跡の較正年代は、18500~14500年前頃と推定されています(関連記事)。ブラジルの6遺跡は2万年以上前となり、そのうち5か所は北東部のピアウイ(Piauí)州に存在し、もう1ヶ所は中西部のマットグロッソ(Mato Grosso)州にあるサンタエリナ(Santa Elina)岩陰遺跡です。しかし、これらの遺跡の年代は古すぎるため、ほとんどの考古学者は疑問を呈したり無視したりしています。これら疑わしい遺跡群を除いても、南アメリカ大陸における13000年前頃以前となりそうな初期人類の痕跡は、太平洋沿岸、アンデス山脈北部および中央部、アルゼンチンのパタゴニア草原などで報告されており、南アメリカ大陸の主要な環境地帯すべてに人類は13000年以上前から居住し、多様な生態系適応と技術を有していた、と示唆されます。以下、アメリカ大陸における先クローヴィス期候補の遺跡の位置と年代を示した上記報道の図1です。
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 本論文の分析からは、現時点ではチキウイテ洞窟C層に限定されるLGM以前の証拠を除くと、ブルーフィッシュ洞窟群など北アメリカ大陸のいくつかの遺跡では、人類の痕跡がLGMもしくはその直後に始まり、北緯48度の南側東部に集中する、と示されます。LGMには地球の気候は一般的に寒冷で乾燥していましたが、北アメリカ大陸氷床の南部は比較的開けており温暖で、生態系の変動が高かった証拠もあります。北アメリカ大陸の初期の中緯度遺跡の分布から、北アメリカ大陸最初の人類はLGMにヨーロッパ南西部から大西洋氷床経由で到来した、というソリュートレアン(Solutrean)仮説も提示されていました。その根拠は、北アメリカ大陸中緯度の早期遺跡群の石器技術がソリュートレアンと類似していたこと、およびアメリカ大陸先住民とユーラシア西部集団との間の遺伝的混合の証拠でした。しかし、ソリュートレアン仮説は、技術と遺伝(関連記事)の両方から否定されました。

 アメリカ大陸最初の人類について、大西洋横断説はさておき、アジア起源を想定する場合、早期遺跡群の古さと分布から、北緯48度の最初の横断に関しては、以下のような可能性が示唆されます。(1)57000~29000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)3の後半に起き、その時には推定される氷床と海水準から、ベーリンジアを通過しての陸路は可能性が低いか遮られ、ローレンタイド氷床とコルディエラ氷床との間の無氷回廊はおそらく存在した、と推定されます。(2)LGM末期に起き、その時にはベーリンジアが存在していたものの、無氷回廊は利用できませんでした。

 どちらの可能性も、北アメリカ大陸への最初の到着にはある程度の沿岸適応があった、と示唆されます。(2)では、おそらくコルディエラ氷床が最大だった時期(20000~17000年前頃)の前に、太平洋沿岸での移動が必要となるでしょう。これは現在の遺伝的知見とも適合的で、アメリカ大陸先住民の祖先集団は、LGMにベーリンジア東部で遺伝的孤立を経ており、古代ベーリンジア人とは22000~18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。これは、ゴールトやメドウクラフト岩陰やサボテン丘といった先クローヴィス期遺跡の住民がアメリカ大陸先住民系統だった、と想定します。チキウイテ洞窟C層の証拠からは、より早期の人類集団の存在が示唆されますが、上述のもう一方の研究で示されるように、その遺伝的系統はまだ不明です。北アメリカ大陸中緯度地帯では先クローヴィス期の証拠が少なく、その分布と特徴から、この時期の人類集団は独特の適応行動を有し、広く拡散していた、と示唆されます。たとえば、チキウイテ洞窟とゴールトとメドウクラフト岩陰の石器インダストリーは、完全にではないとしても、大半は無関係です。

 ベイジアン年代モデリングでは、ベーリンジアンと西方有茎とクローヴィスという3文化の始まりは統計的に区別できず、おおむねGI-1と一致してほぼ同時に始まった、と示されます。これは、この時点での人口密度増加の可能性を示唆します。この16000~15000年前頃の人口密度増加は、ミトコンドリア(関連記事)やY染色体(関連記事)や常染色体(関連記事)で支持されます。さらに、この推定年代は、アメリカ大陸先住民系統の南北の分岐とも一致し(関連記事)、それはおそらく17500~14600年前頃にベーリンジア東部外と北アメリカ大陸氷床の南側で起きた(関連記事)、と推測されます。

 技術的には、先クローヴィス期文化とクローヴィス文化との間の関係は不確かですが、西方有茎文化は以前に、有茎尖頭器技術の類似性から、いくつかの先クローヴィス期や環太平洋地域遺跡との関連が指摘されています(関連記事)。しかし最近の研究では、有茎尖頭器からクローヴィス文化の有溝尖頭石器技術への発展が主張されています。遺伝的には、先クローヴィス期集団とクローヴィス文化および西方有茎文化集団との間のつながりに関しては、今後の研究が必要です。これは、クローヴィス文化と同時期の他文化もしくは先クローヴィス期の遺跡からの遺伝的情報がまだ得られていないためです。例外はペイズリー洞窟群で発見された人類の糞石から得られたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。また、クローヴィス文化のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児からゲノムデータが得られており、アメリカ大陸先住民系統に収まります(関連記事)。

 これらの集団とアメリカ大陸最初の人類集団との間には何らかの関係があったか、さもなければ更新世における最低2回の移動が予想されます。本論文の知見からは、アメリカ大陸への後の拡散事象があった場合、GI-1に先行した可能性が最も高く、無氷回廊の最初の生物学的利用能の推定年代は13000年前頃で、おそらくは17000年前頃までの北太平洋沿岸における生産的な生態系確立と同様に、18000~17000年前頃となるコルディエラ氷床の西方の後退と、17000年前頃のアラスカ半島氷河後複合の後退後に起きました。

 北アメリカ大陸における人類の到達は、以前には動物37属の絶滅と関連づけられており、大虐殺説として知られます。近年の研究では、これを支持するものも(関連記事)、気候や生態系などの要因を重視するもの(関連記事)もあります。本論文の知見からは、人類の存在が、ラクダやウマやマストドンやマンモスなど北アメリカ大陸の絶滅動物の最後の確認年代の大半に先行する、と示されます。これを確率密度分布にまとめると、ピークはGI-1とGS-1の間の境界で発生し、クローヴィス文化と西方有茎文化の始まりの境界と重なります。これは、人類の集団規模および地理的拡大が、大型陸生動物絶滅の主因だった可能性を提示します。この時期の人類到来と動物絶滅と気候変化の間の関係をよりよく理解するには、各絶滅動物の集団史の改善と、ベイジアンモデルを改良するためのより堅牢な年代測定データが必要です。

 ベーリンジアと北アメリカ大陸への最初の人類拡散の時期に関する本論文の知見からは、GI-1に人類集団がより広範に拡散して人口が増加する前に、LGMよりも前とLGMとその直後に人々が異なる環境にいた、と示唆されます。LGMよりも前の証拠は、現時点ではチキウイテ洞窟遺跡に限定されます。集団の連続性を想定する場合、このパターンは人類の探索および植民の段階、およびGI-1までに北アメリカ大陸存在した遺伝的構造の程度と一致します。しかし、先クローヴィス期遺跡群とその後の北アメリカ大陸およびベーリンジアの文化の人々の間の生物文化的関係はほとんど分かっていません。環境DNA研究の古代DNA研究への応用により、堆積物から古代人のDNA解析が可能になっているので(関連記事)、上記研究では失敗したものの、これが問題解明に役立つかもしれません。本論文の対象はベーリンジアと北アメリカ大陸に焦点を当てていますが、後期更新世のデータが比較的限定されている中央および南アメリカ大陸の継続的調査により、年代推定と大陸規模の時空間的モデルの開発が可能となるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ヒトが早くから北米大陸に到達していたことを示す証拠

 ヒトが3万年前から北米に住んでいたことを明らかにした2編の論文が、今週、Nature に掲載される。これら2つの研究は、アメリカ大陸への居住というかなり議論のある論点を解明するための手掛かりをもたらしており、アメリカ大陸でのヒトの歴史が、これまで考えられていたよりもずっと以前までさかのぼることを暗示している。

 ヒトがアメリカ大陸に到達したことは、地球上でヒトの居住域が大きく広がったことを意味する。従来の学説では、ヒトが初めてアメリカ大陸に到達したのは約1万3000年前で、特徴的な石器で知られるクローヴィス文化に関連していたとされる。しかし、アメリカ大陸への移住の時期とパターンは、議論の的になっている。

 Ciprian Ardeleanたちの論文では、メキシコ中部のサカテカスの洞窟での石器、植物遺物、環境DNAなどの発掘結果が記述されている。これらの発掘知見は、年代を示す証拠と合わせて、この高地の洞窟に約3万~1万3000年前にヒトが居住していたことを示唆している。Lorena Becerra-ValdiviaとThomas Highamの論文では、北米とベーリンジア(過去にロシアと米国をつないでいた地域)の遺跡42か所の放射性炭素年代測定とルミネセンス年代測定の結果を用いて、ヒトの分散パターンが決定された。彼らが作成した統計モデルから、クローヴィス文化以前にヒトが存在していたことを示すロバストなシグナルが明らかになり、その年代が、遅くとも最終氷期極大期(約2万6000~1万9000年前)とその直後であることが分かった。

 以上の研究結果は、北米には、これまで考えられていたよりもずっと早い時期(最終氷期極大期よりも前の可能性もある)から、少なくともわずかな移住者がいたことを暗示している。この知見は、ヒトがアジアからベーリンジア経由で初めて北米に入り、南に向かって移動して、クローヴィス文化を発展させたというシナリオとは整合性がない。新たに年代決定されたのはクローヴィス文化以前であり、これはヒトが初めてアメリカ大陸に入ったのが太平洋岸沿いの経路だったことを示唆している。



参考文献:
Ardelean CF. et al.(2020): Evidence of human occupation in Mexico around the Last Glacial Maximum. Nature, 584, 7819, 87–92.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2509-0

Becerra-Valdivia L, and Higham T.(2020): The timing and effect of the earliest human arrivals in North America. Nature, 584, 7819, 93–97.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2491-6

Gruhn R.(2020): Evidence grows that peopling of the Americas began more than 20,000 years ago. Nature, 584, 7819, 47–48.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-02137-3


追記(2020年7月30日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2020年8月6日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します(引用1および引用2)。



考古学:最終氷期極大期の頃にメキシコに人類が居住していたことを示す証拠

考古学:3万年前までさかのぼるメキシコでの人類の居住年代

 クローヴィス伝統以前、つまり約1万5000~1万3000年前以前に、人類がローレンタイド氷床より南の南米アメリカ大陸に居住していたことを示す証拠が増えているが、これについては激しい議論が交わされることも多い。今回C Ardeleanたちは、メキシコ・サカテカス州の高地の洞窟で発見された、約3万〜1万年前にこの地域に人類が居住していたことを示す証拠を提示している。これらの証拠には、石器、環境DNA、タンパク質、植物遺物、放射性炭素年代およびルミネッセンス年代が含まれる。メキシコにおける更新世の記録はほとんど知られていないことから、今回の研究によって、クローヴィス以前の南北アメリカ大陸に人類が居住していたことを示す証拠がさらに明らかになる可能性がある。


考古学:北米大陸への最初の人類到達の時期と影響

考古学:人類は2万6500年前には北米大陸に定着していた

 人類が南北アメリカ大陸に定着した年代については、大いに議論が続いている。今回L Becerra-ValdiviaとT Highamは、新たな統計解析によって、北米大陸での人類の広範な居住が1万4700~1万2700年前に始まったとする以前の見方を裏付けている。しかし今回の解析ではさらに、北米およびベーリンジアの42の考古学的遺跡の年代の解析から、小規模ではあるものの、2万6500~1万9000年前にはすでに人類が北米大陸に定着していたことも明らかになった。

ネアンデルタール人の絶滅における気候変化の役割

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅における気候変化の役割を検証した研究(Columbu et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパにおいて中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期(MUPT)に、現生人類(Homo sapiens)によるネアンデルタール人の置換が起きました。ネアンデルタール人の絶滅に関しては多くの仮説が提示されており(関連記事)、まだ激しい議論が続いています。その中で、気候変動説は有力と考えられてきました。寒冷化・乾燥化によりネアンデルタール人の生息環境が悪化し、分断化されて人口(集団規模)が減少し、絶滅していった、というわけです。

 この気候変動の要因として、ハインリッヒイベント(HE)が注目されてきました。とくに、HE6~4(63000~40500年前頃)は、ネアンデルタール人集団に不可逆的な影響を及ぼし、HE4の結果ネアンデルタール人は最終的に絶滅した、と推測されています。しかし、HEが地中海で同じ影響を及ぼしたとする証拠はなく、HEの気候への影響は地域全体にわたって一様ではなかったかもしれません。さらに、ネアンデルタール人の絶滅はHE4の前だった可能性もあります。また、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との2600~5400年の共存は地理的に不均一だったため(関連記事)、気候仮説はネアンデルタール人と現生人類が実際に共存した地域の古気候記録に基づくべきですが、そうした記録は不足しています。

 そこで注目されるのは、ネアンデルタール人と現生人類がじっさいに共存したイタリア半島です。イタリア半島では北部から南部にかけて両者の遺骸が発見されていますが、本論文が対象としたのは南東部のプッリャ(Apulia)州です。この地域では、ネアンデルタール人は少なくとも海洋酸素同位体ステージ(MIS)5eから42000年前頃まで存在しており、最古の現生人類が45000年前頃には存在していた、と推測されます。したがってプッリャ州は、ネアンデルタール人の絶滅と現生人類への置換に気候が重要な役割を果たしたのか、検証するのに好適な地域です。

 本論文は過去50万年間のイタリア半島の石筍の年代を分析し、とくにプッリャ州のムルジェ(Murge)カルスト台地のポッツォ・クク洞窟(Pozzo Cucù Cave)の石筍に焦点を当てています。石筍は雨水の雫により形成され、炭素と酸素の同位体を含む方解石で構成されているので、放射性炭素年代測定法と組み合わせて、当時の気候を復元するのに適しています。ポッツォ・クク洞窟の石筍は、106000~26600年前頃まで途切れることなく成長し、MISでは5~3に相当します。また、高解像度の炭素18と酸素13の分析により、詳細な気候パターンが明らかになりました。これにより、プッリャ州ではHEのように北方地域に大きな気候変動をもたらした証拠があまり見られないことも明らかになりました。

 氷期の地中海は一般的に乾燥しており、植生はまばらだったので、連続的な二次生成物の成長は稀でした。たとえばイタリア半島では、氷期に石筍が連続して堆積した証拠がありません。イベリア半島では洞窟の形成も断続的で、トルコと地中海南東部側の洞窟でのみ連続的な堆積が知られています。たとえばイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)では、最終氷期にイスラエル北部で水不足が起きなかったことを示唆する証拠が得られています。継続的な洞窟堆積が、降雨と高水準の土壌生物活性によりもたらされることを考えると、プッリャ州の氷期の気候は地中海西部および中央部よりもおそらく穏やかでした。

 とくに重要なのは、ポッツォ・クク洞窟の炭素18と酸素13の分析から、MUPTも含む55000~26600年前頃に、プッリャ州の降水量と土壌の生産性が安定していた、と推測されることです。全体的もしくは部分的な土壌侵食を起こしたかもしれない深刻な旱魃がなかったため、気候悪化の一般的傾向にも関わらず、土壌形成の継続が可能になってのかもしれません。もっとも、これはまだ仮説段階なので、今後の研究での検証が必要です。

 ネアンデルタール人はMIS3(59000~29000年前頃)のずっと前にプッリャ州に居住していたので、この地域はネアンデルタール人の退避所とは考えられません。イタリア半島南東部のプッリャ州とは対照的に、イタリア半島北部では、洞窟堆積物の分析から、利用可能な淡水と植生が不足していた、と推測されます。このプッリャ州の安定的な環境条件は、現生人類の到来および現生人類とネアンデルタール人との共存を促進したかもしれません。

 プッリャ州におけるネアンデルタール人の消滅は42000年前頃で、比較的安定した環境条件が始まったから13000年以上経過しています。48000年前頃のHE5は、プッリャ州では明らかに強い影響を及ぼしませんでした。これは、プッリャ州の近くのモンティッキオ湖(Monticchio Lake)の樹木花粉記録でも確認されます。対照的に、ギリシアの花粉やティレニア海の浮遊性有孔虫やイベリア半島とトルコの二次生成物の記録からは、HE5の気候悪化が推定され、プッリャ州が近隣他地域と比較してMIS3において好適環境だったことを、さらに示唆します。

 最近では、古気候記録からモロッコとより北方の地域との不一致の可能性が指摘されており、北方の寒冷で乾燥した時期にも、モロッコでは比較的湿潤だったかもしれない、と報告されています。地中海全域での寒冷化・乾燥化における、北方地域の役割の再評価が必要かもしれません。イタリア半島南部の後期ネアンデルタール人の存在、たとえば42000年前頃以後を想定しても、プッリャ州における40500年前頃のHE4の影響が無視できるという事実から、MUPTにおけるネアンデルタール人から現生人類への置換の主因としての気候は除外されます

 ポッツォ・クク洞窟の記録は、ネアンデルタール人から現生人類への置換が起きたMUPTにおけるプッリャ州の環境安定性への強い証拠となるので、高緯度地帯の急速な気候変化は、プッリャ州におけるネアンデルタール人消滅の主因ではなかった、と考えられます。MUPTにおけるプッリャ州の気候環境条件は、ヨーロッパ中緯度地帯とは異なります。プッリャ州および同様の環境では、ネアンデルタール人から現生人類への置換が両者にとって好適な気候・環境条件で起きた、という観点からの研究が必要です。これは、MUPTにおいて水不足がなかったものの、二次生成物の炭素13分析により、森林からより開けた植生への変化があったレヴァント地域の状況とは異なります。プッリャ州に似た環境では、ヨーロッパに移住して以来となる、ネアンデルタール人と比較しての現生人類集団の発達した狩猟技術が、両者の3000年以内の共存後のネアンデルタール人の絶滅をもたらした、と考えるのが節約的な説明です。

 本論文はこのように、イタリア半島南部におけるネアンデルタール人の消滅に気候は重要な役割を果たさなかった、との見解を提示しています。もちろん、本論文ではMUPTにおけるプッリャ州と他地域、とくにより北方のヨーロッパ地域との気候・環境の違いが指摘されており、気候変化がネアンデルタール人の消滅に重要な役割を果たした可能性も考えられます。おそらくほとんどのネアンデルタール人の地域的集団の絶滅要因は複合的で、それぞれ異なった組み合わせだったと思います。

 そもそも、ネアンデルタール人も気候変動に応じて拡大・撤退・縮小を繰り返していたことから(関連記事)、気候説はネアンデルタール人絶滅の単独要因というか究極的な要因にはならないと思います。もちろん、現生人類との接触がなく、気候変動などにより絶滅した地域的なネアンデルタール人集団も存在するでしょうが、種(分類群)としてネアンデルタール人が絶滅したのは、現生人類が拡散してある程度の期間の共存の後だったことから、やはり現生人類との競合が究極的な要因だったと考えるのがだとうでしょう。もっとも、現代人はネアンデルタール人からわずかに遺伝的影響を受けているので(関連記事)、ネアンデルタール人の絶滅とはいっても、より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません。


参考文献:
Columbu A. et al.(2020): Speleothem record attests to stable environmental conditions during Neanderthal–modern human turnover in southern Italy. Nature Ecology & Evolution, 4, 9, 1188–1195.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1243-1

ヴァイキング時代のヨーロッパ北部で拡散していた天然痘

 ヴァイキング時代のヨーロッパ北部における天然痘の拡散を報告した研究(Mühlemann et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。天然痘ウイルス(VARV)により引き起こされる天然痘は、毒性がひじょうに強く、壊滅的な影響を及ぼすヒト疾患で、20世紀だけでも5億人もの死亡原因となっている可能性があり、人類においてこの数世紀で多くの死者をもたらした疾患の一つです。天然痘は40年前に根絶宣言が出され、これは人類と深く関わっていたウイルスとしては初めてのことで、また現時点では唯一の事例です。天然痘の根絶は、公衆衛生上の最大の勝利の一つですが、再興の可能性や、天然痘に類似するウイルスの意図的な放出をめぐる懸念が依然として存在します。

 人類史における天然痘の起源および進化については、大部分が未解明です。現在の有力説では、天然痘に類似したアフリカ由来のウイルスの祖先が数千年前に齧歯類からヒトに伝播し、病原性の高い現代の天然痘ウイルスへと進化した、と示唆されています。しかし、天然痘ウイルスの最初期の存在の証拠は、せいぜい17世紀半ばにさかのぼるだけです。可能性のある感染症を記述している曖昧な文書記録や、古代エジプトの王ラムセス5世のミイラに認められる感染を示唆する皮膚病変を別にすれば、古代における天然痘の具体例は見つかっていません。

 この研究は、ハイスループットショットガン法を用いて、31000年前頃から150年前頃の間に生存していた1867人の復元された考古学的遺骸の中に古代の天然痘の証拠を探索したところ、13人の遺骸からウイルス配列が再現され、そのうち11人は全てヴァイキング時代(紀元後600~1050年頃)のヨーロッパ北部由来でした。この研究は、天然痘の最初期の証拠の存在を約1000年早めたことに加えて、新たに発見されたヴァイキング時代の天然痘ウイルス株が、現代の天然痘ウイルスに対して多様で新しい明確な姉妹クレード(単系統群)であることを発見しました。この株は現代の病原性が高く致死的なウイルス株へと進化する前の数世紀にわたって、ヨーロッパ北部で拡散していた可能性があります。


参考文献:
Mühlemann B. et al.(2020): Diverse variola virus (smallpox) strains were widespread in northern Europe in the Viking Age. Science, 369, 6502, eaaw8977.
https://doi.org/10.1126/science.aaw8977

現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人由来の遺伝子

 現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の遺伝子に関する研究(Zeberg et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統と現生人類(Homo sapiens)系統との推定分岐年代については、かなりの幅がありますが(関連記事)、大まかには80万~50万年前頃に収まりそうです。その後、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と交雑し、現代人にはネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝的多様体が存在します(関連記事)。また、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が3個体分利用可能となったため(関連記事)、多くのもしくはほとんどのネアンデルタール人の遺伝的変異を特定し、その生理的影響を調査し、現代人での影響を評価することが可能となりました。

 本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の遺伝的差異のうち、SCN9A遺伝子を取り上げます。SCN9A遺伝子はNav1.7タンパク質をコードします。Nav1.7タンパク質は電位依存性ナトリウムチャネルで、脊髄と脳に痛覚を伝え、ネアンデルタール人のゲノムでは現代人と比較して、ミスセンス置換(アミノ酸置換をもたらす変異)が3ヶ所(M932L、V991L、D1908G)で確認されます。これらの置換はタンパク質の形状を変えます。SCN9Aの機能喪失型変異は無痛症の原因となり、機能獲得型変異では痛みに敏感となり、慢性的な痛みにかかりやすくする可能性があります。

 ネアンデルタール人に見られるこの3置換の電気生理学的影響を調べるため、Nav1.7の現代人とネアンデルタール人の多様体をエンコードする遺伝子が合成され、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)の卵母細胞にmRNAが注入されました。ネアンデルタール人型では、現代人型と比較して、イオンチャネルの不活性化曲線が小さい方に移動します。これは、活性化のためのナトリウムチャネルの利用可能性の増加をもたらし、ナトリウムチャネルが一旦活性化されると、より長く開いたままである可能性を高め、活動電位生成の閾値を下げると予測されます。

 どのアミノ酸置換が不活性化曲線の変化を媒介するのか調べるために、この3つのアミノ酸置換をコードするmRNAがそれぞれ1つずつ合成されて注入されました。その結果、単一のアミノ酸置換はイオンチャネルの不活性化に影響を与えない、と明らかになりました。次に、2つのアミノ酸置換を組み合わせたところ、3通りのうちM932L・D1908GとM932L・V991Lは不活性化に影響を与えませんでした。しかし、V991L・D1908Gの組み合わせは、3つとも置換された場合と同様に、不活性化に影響を与えました。

 ネアンデルタール人3個体いずれも、これら3置換をホモ接合型で有しますが、デニソワ人はD1908Gのみホモ接合型で有しているものの、M932LとV991Lの置換型を有していません。これは、D1908Gの置換型がネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先で生じたものの、その機能的影響を受けるのは、V991Lの置換型も有するネアンデルタール人だけであることを示唆します。SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型多様体の影響が哺乳類でも見られるのか調べるため、ヒト胚腎細胞に、ネアンデルタール人型の多様体をコードするmRNAが注入されました。その結果、ヒトでも影響がある、と明らかになりました。

 次に、SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型の3多様体が現代人に存在するのか、調べられました。1000ゲノム計画のデータセットのうち、3多様体全てを有する個体は、アフリカ(507人)とヨーロッパ(505人)では見つからなかったものの、M932LとV991Lを有する個体は、アジアの各集団では0.9~7.8%、アメリカ大陸の各集団では0.5~23.8%ほど確認されました。さらに、D1908Gはアジアの各集団では0~17.1%、アメリカ大陸の各集団では0.5~52.9%ほど確認され、M932L・V991Lと連鎖不平衡になる傾向があります。

 これらの多様体は、ネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から継承したか、6万~4万年前頃のネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との交雑により、現代人にもたらされた可能性があります。後者の場合、ネアンデルタール人型の多様体の存在するDNA領域は、ネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から継承した場合よりも組換えの時間が短いため、大きくなると予想されます。これらの領域の大きさを推定するため、1000ゲノム計画のデータセットでヨルバ人個体群には存在せず、ネアンデルタール人および・もしくはデニソワ人のゲノムにホモ接合型で存在し、非アフリカ系現代人の祖先集団へと遺伝子移入された可能性の高いアレル(対立遺伝子)が特定されました。M932LとV991Lの周辺のそうしたDNA領域で 14のアレルが特定され、その比較から、SCN9A遺伝子のネアンデルタール人型の3多様体は、ネアンデルタール人から現生人類へと交雑により浸透した、と結論づけられました。ただ、また、これらの結果は高品質なゲノム配列が得られているネアンデルタール人3個体のみに基づいている、と本論文は注意を喚起します。

 M932LおよびV991Lの置換は、実験および臨床的研究において、以前から疼痛感受性の増加や小径線維神経障害と関連づけられていました。イギリスのバイオバンクのデータでは、362944人のうちホモ接合型でネアンデルタール人型多様体を有する人はいませんでしたが、1327人(約0.4%)はヘテロ接合型で3多様体全てを有していました。19の痛みに関する質問への回答に基づくと、ネアンデルタール人型多様体全てを有する人々は、持たない人よりも痛みをより多く訴える傾向にありました。ネアンデルタール人型多様体を1個もしくは2個有する人も、持たない人よりも痛みをより多く訴える傾向にありましたが、有意に異なる水準でありません。

 たた、Nav1.7は嗅覚神経細胞など他の細胞でも発現しているので、ネアンデルタール人型の置換が痛みの調節を超える追加の影響をもたらしてきた可能性もある、と本論文は注意を喚起します。しかし、このネアンデルタール人型の置換の電気生理学的影響からは、有害な刺激に対する末梢神経から中枢神経系への電気信号の入力は、現生人類よりもネアンデルタール人の方で強かった可能性が高そうです。痛みの意識的認識へのそうした入力変化は、脊髄と脳の両方の水準で調節されます。主観的な痛みはこの調節で処理され修正されるので、ネアンデルタール人が現生人類よりも多くの痛みを経験した、と結論づけることはできません。しかし、上述のイギリス人の事例から推測されるように、ネアンデルタール人の末梢神経からの入力は、ネアンデルタール人が刺激に対して現生人類よりも敏感にさせた可能性が高そうです。

 この研究に関わっていない神経科学者のルーウィン(Gary Lewin)氏は、ネアンデルタール人の多様体がNaV1.7の機能に与える影響はごくわずかで、慢性疼痛に関連する他の変異よりもずっと少ない、と指摘します。また、これらの変異が有益だったので進化したのかどうか、不明です。ネアンデルタール人の人口は少なく、遺伝的多様性は低いので、現生人類との比較で、自然選択により有害な変異を効果的に除去できなかった可能性が指摘されています(関連記事)。しかし、痛みは適応的でもあり、自然淘汰の産物だったかもしれません。


参考文献:
Zeberg H. et al.(2020): A Neanderthal Sodium Channel Increases Pain Sensitivity in Present-Day Humans. Current Biology, 30, 17, 3465–3469.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.06.045

虎ノ門ニュースでの有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り

 Twitterで検索していたら、以下のような発言を見つけました。

有本香「先住民である縄文系の日本人を北方から来た人達が侵略し、男達を中心に殺戮し女を残して混血していったのであれば、当然アイヌの人達には縄文のDNAが多く残っている」
小野寺まさる「この(縄文の)DNAは後天的に獲得したDNAであるのは間違いないと道庁も答えている」


 検索してみると、これは虎ノ門ニュースの今月(2020年7月)16日放送分で、まだ公式動画を閲覧できます(今回取り上げるのは1時間9分00秒~1時間11分40秒あたり)。じっさいに視聴したところ、このやり取りは、まず有本香氏が、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された「縄文人」のDNA解析に関する研究(関連記事)を取り上げた北海道新聞の記事に、以下のように言及したことで始まります。

日本人の中に縄文人のDNAを持っている人と持っていない人がいますが、普通は10%くらいです。北海道と沖縄はやや異なり、アイヌと言われる人々は70%、沖縄の人々は30%ほど縄文人のDNAを持っているそうです。縄文人は日本において最古の民族なので、アイヌも先住民族という印象操作になっています。

これを受けて小野寺まさる(秀)氏が

鎌倉時代後期に北海道に南下してきた好戦的な民族が、縄文時代から北海道にいた人々を征服しましたが、このアイヌの人々は女性と子供は殺さず、女性たちに自分たちの子供を産ませた結果、アイヌに縄文人のDNAが継承された、という可能性がひじょうに高く、学術的にも、この(縄文人の)DNAは後天的に獲得したのは間違いない、と道庁は答えています。

という趣旨の発言をしており、有本氏が

そうならば、アイヌと言われる人々に縄文人のDNAが多く残っていても不思議ではありません。

とまとめています。まず問題となるのが、船泊遺跡の「縄文人」の研究についての有本氏の理解です。このやり取りからは、(北海道と沖縄を除く)日本人のうち、「縄文人」のDNAを有しているのは10%程度、と有本氏が理解しているように思います。もちろんそうではなく、(北海道と沖縄を除く)日本人のゲノムには、平均して10%(論文では9~15%とされています)ほど「縄文人」由来の領域があると推定される、ということです。

 次に小野寺氏の発言ですが、鎌倉時代後期に北海道に南下してきた好戦的な民族が、縄文時代以来北海道に居住し続けてきた人々を征服し、女性と子供たちは殺さず、女性たちに子供を産ませたとすると、確かに「縄文人」のDNAが現代アイヌに継承されます。しかし、そもそもこのような見解を提示している専門家は、現在ではまず間違いなくいないでしょう。それに、小野寺氏の想定では、現代アイヌ集団に「縄文人」由来のY染色体ハプログループ(YHg)を継承している人はほとんどいないことになります。しかし、「縄文人」由来と考えられるYHg-D(関連記事)の割合は現代アイヌ集団では81.3%と高く(関連記事)、小野寺氏の想定とは矛盾します。これに対しては、アイヌが(琉球列島を除く本州以南の)日本人(「本土」集団)から婿養子を迎えたためだ、といった「反論」もあるかもしれませんが、そうならば、現代「本土」集団で55.1%(関連記事)と多く見られるYHg-Oの割合が、現代アイヌ集団でもっと多くなるはずです。

 また、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究からも、小野寺氏の想定とは逆だった可能性が高い、と考えられます。「本土」では江戸時代(近世)のアイヌ集団のmtDNAが解析されており、近世アイヌ集団のmtDNAハプログループ(mtHg)では、北海道「縄文人」型が30.9%に対して、オホーツク型が35.1%、「本土」型が28.1%、シベリア型が7.3%と推定されています(関連記事)。これらの知見からは、縄文時代以来の北海道在来の集団が前近代において外部集団からかなり女性を迎え入れつつ、縄文時代以来の父系(YHg)を維持していた、と示唆されます。

 人類史において、交雑しつつ父系を維持・拡大していくような場合、その集団が外部集団に対して優勢であることが多いと考えられます(関連記事)。その意味で、前近代アイヌ集団は、YHg-Dが一定以上の割合で存在する「本土」集団はさておき、オホーツク文化集団や、オホーツク文化消滅後にもアイヌ集団と関係を持っていたと考えられるシベリア集団に対して、優位に立っていた可能性が高そうです。じっさい考古学では、北海道において縄文文化と続縄文文化を継承した擦文文化集団が、10世紀になってオホーツク文化集団に対して優位に立ったのではないか、と示唆されています(関連記事)。

 現代アイヌ集団のゲノムに「縄文人」以外の要素があることは、上述の船泊遺跡「縄文人」の研究でも改めて示されており(約34%)、近世アイヌ集団のmtDNA研究でも確認された、と言えるでしょう。しかし、YHgおよびmtHgの分析と考古学的記録を併せて考えると、アイヌ集団が「本土」の鎌倉時代に南下してきた集団に征服され、本質的には「外来」集団であるというような見解は的外れで、むしろ逆に、縄文時代からの北海道在来集団が、オホーツク文化集団など外部集団に対して優位に立つ傾向にあり、そうした外部集団からの遺伝的・文化的影響を受けつつ、アイヌ集団が形成されていった、と考える方が妥当だと思われます。

 では、現代アイヌ集団が縄文人DNAを後天的に獲得したのは間違いない、と道庁が答えた、との小野寺氏の発言はどう考えるべきでしょうか。検索してみたところ、これは2012年の北海道議会第4回予算特別委員会第1分科会でのやり取り(12月18日)に基づいているようです(会議録、P102~108)。まず小野寺議員(当時)が、

縄文文化とアイヌ文化についてお聞きをしたいと思います。

と質問し、文化・スポーツ担当局長(当時)の山田享氏が、

縄文文化とアイヌ文化についてでございますが、縄文文化は、一般的に、1万5000年前から3000年前に日本列島に展開したと言われており、一方、アイヌ文化は、12世紀から13世紀ごろに、北海道を中心とした地域において成立した文化でございまして、両者には、およそ2000年の時間差が存在しております。
その間、北海道に居住している人々と、大陸から北海道に移住してきた北方民族との間に交流があったことが明らかとなっているところでございます。
北海道の縄文文化とアイヌ文化は、北海道という同じ風土の中で、自然と調和しながら、成立、展開したものでございまして、その精神性に共通する要素もあると考えられておりますが、委員が御指摘の見解につきましては、アイヌ文化の成り立ちについていろいろな議論があり、道といたしましては、先ほど申し上げましたとおり、他の民族集団からの影響も考えられるものと認識をしているところでございます。


と答えています。この山田氏の返答に対して小野寺氏が

縄文時代に北海道に居住していた人々が、そのまま世代を重ねてアイヌの人々になったのではないという理解でよろしいか、確認させてください。

と質問し、文化・スポーツ担当局長(当時)の山田享氏が、

縄文の人々とアイヌの人々についてでございますが、DNA分析などの最近の科学的知見によりますと、アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力であり、大陸から北海道に移住してきた北方民族に特徴的な遺伝子なども多く受け継いでいることが判明してきているところでございます。

と答えています。これに対して小野寺氏は、

単純な子孫ではないということで、関係ないということだと思います。

と発言しています。さらに小野寺氏はこの質問の意図に関して、

アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて、この質問をしたということを皆さんには御理解いただきたいと思います。

と発言しています。山田氏は「アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力」と述べていますが、上述の複数の遺伝学的研究からも、これは妥当と言えるでしょう。これに対して、「単純な子孫ではない」から「関係ない」と小野寺氏は述べていますが、あまりにも的外れで呆れてしまいます。山田氏は現代アイヌ集団が北海道「縄文人」の「単純な子孫」ではない、と述べているだけで、「関係ない」とは言っていません。さらに言えば、山田氏の答弁からは、現代アイヌ集団は北海道「縄文人」と関係がある、と解釈するのが妥当でしょう。小野寺氏はTwitterでも以前、

アイヌの縄文のDNAは後天的なDNAと北海道が議会答弁で明らかにしていますよ?

発言していますが、山田氏の答弁からは、むしろ北海道「縄文人」が外部集団と交雑していったと解釈するのが妥当で、現代アイヌ集団の「縄文のDNA」は、逆に「先天的」にあった、と言うべきでしょう。もっとも、山田氏の答弁にも問題はあり、まず縄文時代を15000~3000年前頃としたことは地域差を無視しており、そもそも弥生時代が九州北部で紀元前10世紀に始まるとの見解も、まだ確定したとはとても言えないでしょう(関連記事)。また、北海道では縄文文化の後に続縄文文化と擦文文化が続き、その後がアイヌ文化期となります。続縄文文化と擦文文化の期間を、「北海道に居住している人々と、大陸から北海道に移住してきた北方民族との間に交流があった」とまとめ、「本土」、それも九州北部というごく一部地域で終わったかもしれない縄文時代の年代(上述のように、これも議論があるわけですが)を根拠に、縄文文化からアイヌ文化まで「およそ2000年の時間差」があると述べたことは、「アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて」質問をした小野寺氏に付け入る隙を与えてしまったかもしれないという意味で、やや問題だったと思います。

 このように、上述の虎ノ門ニュースでの小野寺氏の発言は的外れですが、有本氏は小野寺氏の発言に肯定的なように見えますし、ネットでも、「アイヌの縄文のDNAは後天的なDNA」との上述の小野寺氏の発言には、65も「いいね」がついています。まあ、「いいね」が賛同を表すとは限りませんし、アカウント数は人数の上限を示しているだけとも言えますが。しかし、小野寺氏のようなアイヌ認識は、現代日本社会では無視できないくらいの影響力があるように思います(定量的調査をする気力も能力もとてもありませんが)。小野寺氏の上記のような発言を真に受けた人々は、自分の情報判断力が自己評価よりずっと低いことを自覚し、今後は慎重になってもらいたものです。とはいっても、そのように自省できる人ならば、そもそも小野寺氏の与太話に引っかかる可能性は低いでしょうから、残念ながら今後も、小野寺氏は一定以上の影響力を及ぼし続けるのでしょう。

 今年(2020年)3月、とくに後半がひじょうに多忙だったため、もう与太話をわざわざブログやTwitterで取り上げるのは止めておこうと考え、またその気力もほとんど失ってしまったのですが、たまには無視できない影響力のある与太話を取り上げるべきかな、と思って執筆した次第です。しかし、やはり徒労感は否めず、今後も人類進化に関する研究を中心にブログ記事を執筆していくつもりです。Twitterの方は、今でも自分から情報を発信したり、何かやり取りしたりする気力はなく、今後も情報収集専門になりそうです。

韓国人のゲノムデータ

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、韓国人のゲノムデータを報告した研究(Jeon et al., 2020)が公表されました。韓国人(というかもっと広く朝鮮民族)は、遺伝的にひじょうに均質で、過去には大規模な混合事象が少なかった、と考えられてきましたが、公式な調査はほとんど行なわれていません。世界中の現代人の遺伝的多様性を特徴づける目的で進められている1000ゲノム計画でも、近隣の中国(南北の漢人など)や日本の人々のゲノムデータが報告されているのに、韓国からの標本はまだ含まれていません。そこで、韓国人を対象としたゲノム計画が進められており(将来的には、もっと広く朝鮮民族全体を対象とするのでしょう)、本論文は韓国人1094人のゲノムデータを報告します。これにより、韓国人の遺伝的構造が以前よりも明らかになり、医療のような「実用性」だけではなく、韓国人(朝鮮民族)の形成過程の解明にも役立つのではないか、と期待されます。

 このゲノムデータに基づき、韓国人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)も報告されています。mtHgでは、D(34.19%)やB(13.89%)やM(13.80%)が一般的で、YHgではO(73.49%)が圧倒的に多く、C(16.9%)とN(6.58%)が続きます。YHg-Oはアジア東部および南東部に広く分布しますが、YHg-Cはおもにアジア東部および北東部に分布します。なお、日本やチベットやアンダマン諸島など、世界では珍しいYHg-Dも確認されています(1.42%)。またmtHgでは、アジア東部において一般的なA・G・Fも確認されました。

 主成分分析により、韓国人と他集団とが比較されました。図2Aは世界中の集団を対象としており、韓国人が中国人と日本人という同じアジア東部集団と遺伝的にひじょうに近縁である、と改めて確認されました。図2Bはアジア東部集団を対象としており、韓国人と中国人と日本人がそれぞれ明確にクラスタ化し、区別できることが確認されました。これは、3ソース集団によるADMIXTURE分析でも確認されますが、中国人に関しては、漢人の南北間でも明確な違いがあり、傣(Dai)人は漢人との間にさらに大きな違いを示し、北部漢人よりも南部漢人の方と近縁です。以下、本論文の図2です。
画像

 本論文の分析では、韓国人が中国人や日本人といった他のアジア東部集団と比較して遺伝的に均一である、と改めて示されました。本論文は、これが過去数千年の地政学的孤立に起因する、と推測しています。上述のように、中国人は漢人と傣人との間の遺伝的違いが大きく、漢人の南北間でもやや違いが目立ちます。中国人と比較すると、日本人も遺伝的に均一と言えるでしょうが、韓国人は日本人よりもさらに遺伝的に均一というわけです。韓国人はさらに、本論文のデータセットで中国人としてまとめられている北部漢人や南部漢人や傣人との比較でも、遺伝的に均一です。

 本論文は今後の課題として、韓国人標本のほとんどが蔚山(Ulsan)広域市で得られているため、朝鮮半島全体が反映されていないことを挙げています。蔚山広域市の人口は100万人以上で、急速な工業化により居住者は朝鮮半島全体から集まっていますが、ほぼ蔚山広域市の1000人ほどの標本規模では、韓国人集団を表したり、潜在的なゲノム構造多様性を解明したりするのに充分ではない、と本論文は指摘します。

 本論文は、朝鮮民族の形成過程の解明に役立つ基本的情報になりそうなので、注目されます。最近、朝鮮民族の起源に関する研究が公表されましたが(関連記事)、古代ゲノムデータは他地域から得られており、朝鮮半島からのものは参照されていませんでした。韓国でも古代DNA研究は進められているのでしょうが、まだ日本や中国との比較でも遅れているのでしょうか。日本人の起源の解明に寄与するという意味でも、今後、朝鮮半島の古代DNA研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Jeon S. et al.(2020): Korean Genome Project: 1094 Korean personal genomes with clinical information. Science Advances, 6, 22, eaaz7835.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz7835

檀上寛『シリーズ中国の歴史4 陸海の交錯 明朝の興亡』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年5月に刊行されました。一般向けの中国通史で、10巻以上の構成ならばともかく、本シリーズは5巻構成にも関わらず明に1巻を割いており、かなり大胆だと思います。本書は、明初の体制が、大元ウルス治下の14世紀前半における、気候変動に伴う大きな社会的不安定化への対処によりもたらされた統治の厳格化の結果であり、社会経済の発展とその結果としての銀流通の活発化によって明初体制が弛緩していき、ついには明が崩壊する、という見通しを提示しています。

 本書はこの見通しに基づき、明初代皇帝の洪武帝と第三代皇帝の永楽帝との間の断絶は大きくなかった、と指摘します。南京から北京への実質的な遷都、対外姿勢が消極的なものから積極的なものへと変わったことなど、洪武帝と永楽帝との間の違いは大きいように見えますが、永楽帝は洪武帝の路線を基本的には継承していた、というのが本書の見解です。この明初体制は、「国内」というか中華世界の一体化への志向が根底にあり、洪武帝の大規模な官僚弾圧も、その文脈で解されます。一方、「対外」関係についても、一元化が志向され、厳格な朝貢体制が一時は実現しますが、けっきょく弛緩していき、北方草原地帯勢力に対しても、一時的に優位に立っても、皇帝が捕虜になるといったように、北方草原地帯勢力は明にとって脅威であり続けました。

 16世紀になって社会経済の発展・変容に伴う明初体制の弛緩が明らかになり、厳格な朝貢体制も国内支配も維持できなくなります。その結果として、一条鞭法の導入などがあるわけですが、本書は、明朝廷の統制志向が変わったわけではない、と指摘します。社会経済の発展・変容は上下関係と各階層の「分際」を重視する明初体制を弛緩させ、下位の上位に対する反抗など、社会を不安定化させますが、それに対する統制志向も厳然として存在し続けた、というわけです。明代後期における社会の爛熟はある意味で面白くもあるのですが、現代中国につながるような「中国」としての一体感の基盤は決定的には壊されなかった、ということなのかもしれません。

過去500年と比較した現代ヨーロッパの河川洪水頻度(追記有)

 過去500年と比較した現代ヨーロッパの河川洪水頻度に関する研究(Blöschl et al., 2020)が公表されました。最近の気候変動により、河川洪水の頻度と規模が前例のない形で変わりつつある、と懸念されています。歴史研究では、ヨーロッパのさまざまな地域で過去500年間に起きた複数の洪水多発期が特定されています。しかし、既存のデータセットの時間分解能が低く、洪水系列の数が比較的少ないため、長期的な観点からヨーロッパが現在洪水多発期にあるのかどうか、まだ明らかになっていません。

 この研究は、ヨーロッパの主要な地域を全て覆う文書証拠に基づく、高分解能(1年未満)の100以上の歴史的洪水系列から構成される新しいデータベースを用いて、ヨーロッパの最近の数十年間の洪水の発生状況が洪水の歴史と比べてどうなのか、分析しました。その結果、この30年間がヨーロッパにおいて過去500年間で最も洪水の多かった時期で、この期間はその範囲・気温・洪水の季節性の点で他の洪水多発期とは異なっている、と明らかになりました。

 この研究は、9つの洪水多発期とそれらに関連する地域を特定しました。最も洪水の多かった期間は、1560~1580年(ヨーロッパ西部と中央部)、1760~1800年(ヨーロッパの大半)、1840~1870年(ヨーロッパ西部と南部)、1990~2016年(ヨーロッパ西部と中央部)した。ヨーロッパの大半の地域では、以前の洪水多発期は通常より気温の低い時期に生じていましたが、現在の洪水多発期は気温がはるかに高い時期に起きている、と明らかになりました。

 また洪水の季節性も、最近の洪水多発期でより顕著でした。たとえば、ヨーロッパ中央部の以前の洪水は、洪水多発期ではその41%が、洪水の少なかった期間ではその42%が、それぞれ夏季に起こっていたのに対して、最近の洪水多発期では洪水の55%が夏季に起こっていました。現在の洪水多発期の例外的な性質は、関連する物理機構を把握できるプロセスベースの洪水リスク評価ツールと、リスクの最近の変化を組み込める管理戦略を必要としています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


歴史気候学:ヨーロッパの洪水の歴史

歴史気候学:ヨーロッパの河川洪水の異常なパターンの出現

 河川洪水は最も被害の大きい水文災害の1つだが、一貫した観測記録がないために、より遠い過去と比較した最近の洪水活動の状況の理解が一般に妨げられている。今回G Blöschlたちは、過去500年にわたるヨーロッパの大半の洪水の文書記録を収集し、空間的な広がりと強度がそれぞれ異なる、9つの洪水多発期を明らかにしている。現在の洪水多発期は、寒冷な気候ではなく温暖な気候で生じている点で以前の洪水多発期とは異なっており、夏季の洪水が比較的多い。今回の分析は、現在の洪水の特徴が以前の数百年間の洪水とは異なっていることを示している。



参考文献:
Blöschl G. et al.(2020): Current European flood-rich period exceptional compared with past 500 years. Nature, 583, 7817, 560–566.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2478-3


追記(2020年7月27日)
 以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



環境:最近の数十年間に増加したヨーロッパの洪水

 過去500年間のヨーロッパにおける洪水事象の分析が行われ、ここ30年間がヨーロッパで最も洪水の多い期間だったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この論文では、この30年間が、洪水に関連する季節性、被災域、気温の点で過去の洪水事象と異なることが示唆されている。この知見は、洪水リスクの評価と管理戦略の向上に役立つ可能性がある。

 ヨーロッパでは、ここ数十年間に洪水による多額の経済的損失が生じており、以前の研究では、ヨーロッパの一部地域で洪水事象が増加していることが示されている。しかし、現在の傾向は、通常より洪水の発生頻度が高く、規模が大きいと言えるのか、過去の洪水の多かった期間と異なるのかどうかといった点は解明されていない。

 今回、Gunter Bloschlたちの研究チームは、歴史的記録(法定記録、新聞、公的・私的な通信文書)を用いて、1500~2016年にヨーロッパ全土の103の河川で発生した9576件の洪水事象のデータベースを構築し、ヨーロッパの歴史上、一定の時間間隔で洪水が多くなった9つの期間を特定した。これまでに洪水が多かった期間は、その前後の各年よりも低温になる傾向があったが、季節的洪水のリスクは変化しなかった。ところが、今回の研究で直近の洪水の多い時期である1990~2016年を分析したところ、この期間中の気温が、その前後の各年よりもおよそ摂氏1.4度高かったことが分かった。また、この期間中の季節的洪水のリスクが、特に夏季に上昇したことも明らかになった。

 Bloschlたちは、データが2016年までしかないものの、その後も洪水の多い時期が続いていた可能性があると指摘し、こうした変化を説明できる洪水リスク管理・評価ツールの必要性を明確に示している。

『週刊文春』の五島勉氏の記事

 五島勉氏が先月(2020年6月)16日に亡くなっていた、と報道されましたが(関連記事)、『週刊文春』の今週号(7月30日号)に、五島氏夫人へのやや詳しいインタビュー記事が掲載されていました。五島氏は著書で家族について触れることは少なかったと思いますが、『第三の黙示録』(祥伝社、1983年)では妻・息子・娘がいると明かされており、息子との会話が謎解きの手がかりになった、とされています。まあ五島氏のことなので、どこまで本当なのか、不明ですが。五島氏の息子さんに関しては、醜聞雑誌で取り上げられたこともありました。なお、同書に推薦文を寄せた2人のうちの1人は早見優氏です。まあ、実際に書いたのはマネージャーか編集者かもしれませんが。夫人によると、五島氏の子供たちは、「鉛筆1本で育ててくれた」と父に感謝しているそうで、五島氏が著書で明かした息子さんと娘さんのことなのでしょう。

 私が知らなかったのは、家族関係では、五島氏夫人が五島氏とは遠縁の親戚ということと、五島氏の実家が火事で3回も焼けて生活が苦しく、夫人の実家から食料を送ってもらっていたことです。五島氏の実家がロシア正教の敬虔な信者であることは、何度か著書で触れられていた、と記憶しています。また、五島氏がヘビースモーカーであることも知りませんでした。五島氏の著書でも、本人の喫煙場面の描写は記憶にありません。もちろん、私の見落としがあるかもしれませんが。五島氏の年代だと、男性の喫煙率がひじょうに高かったので、五島氏がヘビースモーカーだとしても不思議ではありません。

 大ベストセラーとなった『ノストラダムスの大予言』に関して、夫人は1999年7月と日付を決めて刊行することが不安で、祥伝社の編集者には電話で何度か、「何とかならないか」と言ったそうです。もちろん、実話なのか、部外者の私には断定できませんが、これまで知らなかった貴重な証言でした。家庭での五島氏は、趣味がなく、明るくはないものの優しい人だったそうです。『第三の黙示録』での家族とのやり取り(P82~84)からは、家族との良好な関係が窺えたので(もちろん、実際にどうだったのか、部外者の私には断定できませんが)、夫人の証言には説得力がありました。五島氏が亡くなって何とも寂しい限りですが、今後は時間を作って五島氏の著書を再読するとともに、五島氏関連の新規記事をできるだけ追いかけていくつもりです。

五島勉氏死去

 五島勉氏が先月(2020年6月)16日に亡くなっていた、と報道されました。ご冥福をお祈りいたします。当ブログでも何度か述べてきましたが、私は五島勉氏のファンであり、単独のブログテーマを設定しているくらいです。それだけに、五島氏が亡くなったのは残念ですが、もう五島氏も90歳ですから、天命と言うべきでしょうか。いつか五島氏のまとめサイトを開設しようと考えてきましたが、怠惰なこともありますし、優先順位のより高い趣味が他にもあるので、ほとんど進んでいません。まあ、本気で五島氏の思想・言説を検証しようとしたら、現代フランス語のみならず中世フランス語(「方言」も含めて)やラテン語も習得しなければならないでしょうから、さすがに自分の能力では無理そうだな、と思って尻込みしているということもあります。五島氏の存命中に何とかある程度は形にしたかったのですが、公開できる目途は全く立っていません。

 五島氏は、近年ではもうすっかり「あの人は今」といった扱いを受けていましたが、時々マスコミでも取り上げられており、昨年6月にはデイリー新潮が五島氏へのインタビュー記事を公開しました(関連記事)。その時には、インタビューに応じられるくらい元気そうだったので、やや安心していたのですが、今年になって難病の膿疱性の湿疹が再発したそうで、先月上旬に体調が悪化して入院し、やがて食事が摂れなくなり、そのまま先月16日に亡くなったそうです。

 五島氏には黙示録を題材にした新作の構想があったそうですから(関連記事)、もう以前とは大きく異なる見解を提示するのは難しいでしょうし、過去作の使いまわし的性格が強くなりそうとはいえ、楽しみにしていました。何とか五島氏の新著をもう一冊読みたかったので、その点でも先月亡くなったのは残念です。まあ、こんなことを述べると、日本社会に害悪をまき散らした五島氏のファンとは意識が低すぎる、と罵倒・嘲笑されそうですが、五島氏の読ませる力は本物で、私も魅了されました。20年近く前(2000年8月4日)に述べましたが(関連記事)、とくに擬態語や擬声語の使い方が上手いと思います。五島氏の文章力に少しでも近づきたい、と若い頃から考えてきましたが、今でもほとんど近づけていない、と痛感します。

 なお、五島氏の日本社会への悪影響というと、(ノストラダムスの詩集などの根拠薄弱な解釈に基づく)終末論で不安を煽ったとか、それがオウム真理教にも影響を与えて暴走させてしまった、とか批判されることが多いように思いますが、もっと問題なのは、反ユダヤ主義との関わりかもしれません。日本社会において反ユダヤ主義が浸透するにあたって、最も大きな影響力を及ぼしたのは宇野正美氏の1980年代の一連の著作でしょうが、同じく1980年代に刊行された五島勉氏の一連の著作の一部も、大きな影響力を及ぼしたのではないか、と思います(関連記事)。

『卑弥呼』第43話「冷戦」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年8月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが鞠智彦(ククチヒコ)に、山社(ヤマト)に呼んだのは暈(クマ)との戦を布告したかったからだ、と言い放つところで終了しました。今回は、日見子(ヒミコ)たるヤノハが鞠智彦と交渉する中、テヅチ将軍が山社の外を警戒している場面から始まります。ミマアキから何をしているのか尋ねられたテヅチ将軍は、今朝届くはずの麓の邑からの米と稗の供物が届かない、と答えます。盗賊の仕業だろうか、とミマアキが案じると、山社に向かって3人が慌てて走りこもうとしていました。3人の後ろから狼と犬が多数追いかけてきており、山社へ供物を届けようとした奴婢の3人は、途中で狼と犬に襲われて主人たちが殺されたなか、逃げてきた自分たちを助けてほしい、と訴えます。テヅチ将軍の命により、警固の兵士たちは3人を山社に入れてすぐに門を閉じますが、山社は狼と犬に包囲されてしまいます。山社は裏門も狼と犬に囲まれてしまい、ミマト将軍は鞠智彦の計略と考え、狼と犬を自在に操れる志能備(シノビ)を連れてきたのだ、と考えます。わずか10名の手勢で鞠智彦が山社に来たことを不審に思っていたテヅチ将軍も、その理由を悟ります。イクメはこの事態をヤノハに報告しようとします。

 楼観では、暈に宣戦布告をする、とヤノハに言われた鞠智彦が、もう少し分別があると思ったが、がっかりした、と冷静に答えていました。山社ごとき脆弱な戦力で、暈を本気で倒せると思うのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、那(ナ)のトメ将軍に暈軍はいとも簡単に敗れた、と答えます。すると鞠智彦は、余裕の表情で笑いながら、あれはタケル王の失策だった、タケル王亡き後、暈軍の総大将は自分だ、と言います。するとヤノハは、わざとらしく驚いた表情を浮かべ、タケル王はお隠れになったのか、誰かに殺されでもしたのか、と鞠智彦に問いかけます。鞠智彦は、自分がタケル王を殺したことは自分とイサオ王しか知らないのに、うっかり手がかりを与えてしまったことに気づき、気を引き締めます。自分の望みは平和なので、戦好きな暈とはもとより講和しない、とヤノハに言われた鞠智彦は、平和を望むのは自分も同じだが、そのために武力による統一は不可欠で、謀反人のそなたたちを皆殺ししなければ、韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)や豊秋津島(トヨアキツシマ、本州でしょうか)の侵略から筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)を守り切れない、と明言します。これに対してヤノハは、むろん山社一国で大国の暈に勝てるとは思っていないが、那や末盧(マツロ)や伊都(イト)や都萬(トマ)と足並みをそろえばどうだろうか、と鞠智彦に問いかけます。すると鞠智彦は、所詮は田舎での小娘だ、敵将をまえに作戦を暴露してしまうとは、と言ってヤノハを小馬鹿にしたように笑います。自分が日向(ヒムカ)の小さな邑の出身であることを知っているのか、とヤノハに問われた鞠智彦は、確か名前はヤノハで、そなたのことは何もかも調べているので、暈に屈する以外、生き残る道はないぞ、と改めてヤノハを脅迫します。山社の外では、ナツハが狼と犬を操る様子を、アカメが樹上から監視していました。アカメは、手練れゆえ実に惜しいが、今の自分には容易に倒せる相手だ、と言ってナツハに弩を向けます。

 そこへイクメが現れ、山社が狼と犬に包囲されていることを伝えます。苦い表情を浮かべるヤノハに、鞠智彦はわざとらしく、山社に一大事でも起きたのか、と尋ねます。ヤノハは狼と犬の件には触れず、犬鞠智彦に提案を持ちかけます。まずヤノハは鞠智彦に、平和とは何か、尋ねます。無論、戦のない世だ、と即答する鞠智彦に対して、人の性とは何か、とヤノハはさらに問いかけます。戸惑う鞠智彦に対して、人とは平和を望む以上に無類の戦好きだ、と言います。ヤノハは、子供の頃の自分を鞠智彦に語ります。ヤノハは日向の小さな邑に生まれ、近所には漢人の集落があり、結界が張られていた、と結界がなければ、自分の邑と漢人との間に殺し合いが始まるからだ、と説明します。漢人どもを殺してしまえばよかったではないか、と問いかける鞠智彦に対して、漢人は虎という巨大な生き物を飼っており、戦えば双方が全滅する、とヤノハは答えます。何を言いたいのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、平和の秘訣だ、と答えます。ヤノハが育った邑は、海からの賊に襲われるまで、漢人との争いは一度もなく、それはお互いが相手を恐れたからだ、と説明し、鞠智彦は悟ったような表情を浮かべます。すぐそこに脅威があることこそ、平和を保つ秘訣だ、とヤノハ断言します。暈と山社が互いににらみ合っていれば、筑紫島の諸国はずっと安泰でいられるのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、冷たい戦の下の平和とでも言うだろうか、と答えます。冷戦状態だな、と言う鞠智彦に対して、裏で和議が交わされ、絶対に戦わないとの密約は、自分と鞠智彦が生きている限り黙っていなければならない、とヤノハは説明します。すると鞠智彦は、日見子にしておくのはもったいない逸材だ、と感心したように言います。

 では、秘密の和議を承諾していただけるのか、とヤノハに問われた鞠智彦は、承諾してもよいが、そなたを信じてよいという証が欲しい、と言います。日見子・日見彦(ヒミヒコ)の力の源は鏡で、鏡を武器に時として衆を惑わし、魅了する、と言う鞠智彦に、自分の鏡を望むのか、とヤノハは問いかけます。ヤノハの後ろにある大鏡や普段まじないにつかう鏡までとは言わないが、山社にあるそれら以外の鏡をすべて望む、と要求する鞠智彦に、さすがにヤノハも一瞬返答に詰まりますが、鞠智彦の提案を受け入れる、と答えます。しかしヤノハも、証が欲しい、と鞠智彦に要求します。すると鞠智彦は、10人の手勢と前付人(マエツキビト)の老人(ウガヤのことでしょうか)を伴って来ただけなので、授けるものは何もない、と答えます。武器を置いていくのか、それとも10名の兵を預けるのか、と鞠智彦に問われたヤノハは、もう一人の者を欲しい、と答えます。とぼける鞠智彦に対してヤノハは、狼と犬を自在に操る志能備だ、と言います。すると鞠智彦は、自分が去った後、その志能備にそなたを殺すよう命じているかもしれないぞ、と言います。しかしヤノハは動じず、それならば自分もそれまで運命だ、と泰然としています。その志能備は世にも醜い小童だが、と言う鞠智彦に、それでも見えるところに置いておく、とヤノハは言います。そなたの剛毅を気に入った、秘密の和議を結ぼうではないか、と言う鞠智彦に対して、ではお待ちしている、とヤノハは返答します。不審に思った鞠智彦は、何を待つのか、とヤノハに問いかけます。するとヤノハは、鞠智彦と今和議を結んでも、暈と山社に真の平和は訪れない、と答えます。なぜならば、鞠智彦は所詮大夫で、暈の二番目にすぎないからだ、とヤノハは鞠智彦に説明します。鞠智彦が早く一番になってくれなければ、和議の証にはならない、と言うヤノハに対して、何が言いたいのだ、と鞠智彦は焦って問いかけます。自分が待ち望んでいるのは、タケル王に続いてイサオ王が隠れることだ、と平然と答えるヤノハに、さすがに鞠智彦も返答に詰まります。大陸の帝は天が定めるものと言うが、はたして暈のイサオ王はそなた以上の逸材だろうか、とヤノハが鞠智彦に問いかけるところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハと鞠智彦の駆け引きが描かれました。鞠智彦は作中でも有数の大物として描かれてきただけに、さすがにヤノハとの駆け引きには見ごたえがありました。暈国はおそらく『三国志』の狗奴国でしょうから、けっきょく山社(邪馬台国)連合と暈とは敵対的関係を続けるのでしょうが、ヤノハの提案通りに事態が進むと、少なくともある時期までは「冷戦」的な状態が続くのかもしれません。しかし、『三国志』によると山社(邪馬台国)連合と狗奴国は戦っていますから、ある時点で状況が変わり、直接戦うようになったのでしょうか。もっとも、ヤノハの思惑通り事態が進むとは限らず、イサオ王殺害さえ示唆するヤノハに対して、鞠智彦がどう対応するのか、注目されます。鞠智彦はイサオ王を畏れているようですし、イサオ王が鞠智彦よりも大物であることを予感させる描写もありましたから(35話)、さすがに、鞠智彦がイサオ王を殺して暈の王になることは容易ではなさそうです。ヤノハがイサオ王をどこまで知っているのか分かりませんが、今後イサオ王との駆け引きも描かれるかもしれず、楽しみです。

 今回のもう一つの注目点は、ヤノハがナツハを山社に預けるよう、鞠智彦に要求したことです。おそらくナツハはヤノハの弟のチカラオでしょうから、再会時に二人がどのような反応を見せるのか、楽しみです。ナツハが、ヤノハを深く憎悪するイクメを慕い、その指示を受けてヤノハに何か酷いことをしようと企んでいることは、さすがにヤノハも気づいていないでしょうから、ヤノハがこの危機をどう切り抜けるのか、注目されます。また、ナツハがヤノハの弟だとして、現在ヤノハをどう思っているのか、ということも気になります。ヒルメがヤノハの名前を出しても、ナツハは動揺する様子を見せませんでした。ナツハは姉の名前を忘れたか、賊に襲われたさい、ヤノハが義母と自分を見捨てたと考えており、ヤノハを深く恨んでいるのかもしれません。そうすると、ヤノハに危害を加えようとするナツハにヤノハがどう対処するのか、注目されます。もっとも、ナツハとチカラオが同一人物とはまだ確定していないので、読者に誤認させるような描写にしているだけかもしれませんが。ともかく、次回もたいへん楽しみです。

アフリカ外最古となるスリランカの弓矢

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アフリカ外最古となるスリランカの弓矢に関する研究(Langley et al., 2020)が報道されました。アジア南部、より具体的にはスリランカは、現生人類(Homo sapiens)が気候変動と人類間の接触において多様な環境にどう移住していったのか、理解するのに重要な地域として浮上してきました。1980年代には、スリランカではヨーロッパよりも早く骨器技術やオーカーの使用を伴う細石器技術が出現した、と提案されました。しかし、人類進化の研究における重要性が認識されたにも関わらず、スリランカの最古級遺跡で発見された物質文化の詳細な研究は、とくに個人的装飾品、投射技術、後期更新世のアジア南部の熱帯環境に対処した方法を示す物質文化に関して欠けています。しかし、長期にわたる信頼性の高い年代が得られた洞窟や岩陰の系列の学際的発掘により、最近になって現生人類の拡散に関する問題を調査し、検証できるようになりました。

 アジア南部の現生人類として最古の化石が発見された、スリランカ南西部のファヒエン・レナ(Fa-Hien Lena)洞窟は、現生人類がアジアの多様な環境を通って移動してきた時に要求される、適応的能力や文化的柔軟性の理解に重要な地域です。ファヒエン・レナ洞窟遺跡の継続的分析により、アジア南部で最初の細石器群であることと、若い半樹上性および樹上性のサルおよびオオリス類が狩猟の標的だった、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、スリランカにおける弓矢技術の最初の使用に関する証拠を提示します。これは、革新的な骨鏃を使用した特有の伝統でした。また本論文は、骨や歯を用いた多様な道具一式を報告します。これらは植物や皮を用いた道具で、複雑な象徴的人工物とともに、熱帯環境における最初の衣服もしくは網を表しているかもしれません。この記録は48000~4000年前頃(以下、基本的に較正年代)まで存在します。

 ファヒエン・レナ洞窟では、層序と年代測定に基づいて4段階が確認されました。後期更新世となるD層は48000~34000年前頃で、いくつかのそれぞれ比較的短い居住期が含まれます。末期更新世となるC層は13000~12000年前頃で、前期完新世となるB層は8700~8000年前頃、中期完新世となるA層は6000~4000年前頃です。放射性炭素年代測定結果のうち1点はこれらの時期区分の範囲外となる29120~27870年前頃で、ファヒエン・レナ洞窟における短期のヒトの存在を表しているかもしれません。

 ファヒエン・レナ洞窟では4層それぞれで、原形・未完成の道具・廃棄物が発見され、完成品の壊れた断片や修繕作業を示唆する解体痕なども確認されており、武器の補修も定期的に行なわれていた、と推測されます。骨で作られた人工物のうち130点は、投射物としての使用と、サイズ・形態・重量・使用痕が一致しています。これらの骨器には、製作と衝撃破壊の両方の痕跡が見られます。毒を塗ったと思われる溝も1点で確認されました。これら全ての骨製尖頭器は、オナガザル科の長骨で製作されています。これらの骨製尖頭器は、槍の穂先としては大きさや重さが足りず、吹き矢としては重すぎて鈍すぎるので、弓矢の鏃として用いられた、と考えられます。

 これらは、釣りにも使用された可能性があり、ファヒエン・レナ洞窟では全ての時期でナマズ科とコイ科の遺骸が確認されています。民族学的研究では、スリランカにおいてこれらの魚が毒や槍、また網や籠を使った釣りで捕獲されていた、と報告されています。また、網の製作や修繕に用いる糸を通す道具として用いられた可能性が指摘されている骨製尖頭器もあります。D層からA層にかけて、骨製投射尖頭器は次第に長くなっている、と示唆されます。これは、より大きな哺乳類、とくにイノシシ科とシカ科とウシ科の利用増加と相関しており、発達する狩猟技術の流動性を示します。

 29点の骨器には、動物の皮や植物繊維の加工に用いられる、突き錐や止め釘や楔やリスワー(艶出し用のコテ)としての使用と一致する形態および使用痕が見られます。人類史における衣服の起源と発達は、寒さへの適応と関連づけられてきましたが、スリランカの証拠は、衣服が状況に応じて別の目的(虫や草木による怪我から肌を守るためなど)に応じて製作された可能性を示唆します。これらにより製作された網が、漁撈で用いられた可能性も考えられます。

 象徴的および・もしくは社会的行動の証拠としては、D層からB層で3点の海洋性貝殻のビーズが発見されており、そのうち2点はイモガイ属、1点はムシロガイ科のものです。食用とされた海洋動物遺骸は、サメの歯数点以外には見つっておらず、ファヒエン・レナ洞窟の人々が海岸に行って貝殻を収集したか、沿岸部集団と接触して入手した、と考えられます。スリランカの他の熱帯雨林狩猟採集民の炭素および酸素同位体分析では、狩猟採集民は一年中熱帯雨林で食料を得ていたと示唆されるので、異なる生態系の集団間の交易の可能性が高そうです。

 ファヒエン・レナ洞窟遺跡に完全に特有なのは、赤色オーカー塊で完全に作られた3点の大きなビーズで、そのうち2点の出所は不明ですが、1点は8700~8000年前頃のB層で発見されました。この3点には3mm程の穴が開けられており、その端では糸が通されていた痕跡を確認できます。各オーカーの表面は広範囲の丸みと光沢を示し、皮などで表面がこすられたことを示します。他地域では、更新世~前期完新世のオーカー製ビーズは報告されていません。他地域のビーズの材料はおもに貝殻や骨で、顔料で着色されたものもあります。ただ、この着色は意図的とは限らず、身体や衣類から付着したかもしれません。ファヒエン・レナ洞窟では、貝殻製のビーズでは着色の痕跡は観察されませんでした。これは、湿式ふるい分けで回収され、後で洗浄されたからと考えられます。

 ヨーロッパ上部旧石器時代の技術的複雑さの変化に伴う壁画や携帯芸術の急増は、ヒトの文化的発展における「至適基準」として支持されてきました。ヨーロッパ西部と中央部では、寒冷気候と増加する人口への対処として、縫製技術や骨技術や形象的芸術が議論されてきました。アフリカ南部や北部では、さらにさかのぼる投射技術や象徴的思考の証拠が発見されています(関連記事)。アフリカ南部やヨーロッパにおける発掘の伝統は長いため、発掘成果のより劣るアフリカの他地域やアジアやオーストラリアやアメリカ大陸が軽視されたまま、現生人類特有の物質文化の起源と適応的背景が議論されています。この傾向は、後期更新世末までに、現生人類集団がアフリカ南部とオーストラリアの乾燥地帯や、シベリアの古北極環境(関連記事)や、チベット高原の高地環境(関連記事)や、アフリカ(関連記事)とアジア南東部とメラネシア(関連記事)の熱帯雨林環境に進出していた、と知られるようになっても、依然として主流です。現生人類は、こうした極限環境にも適応できる、「万能家-専門家(generalist specialist)」としての生態的地位を確立した、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、スリランカのファヒエン・レナ洞窟遺跡において、陸生動物の狩猟に用いたと思われる鏃や、釣りに使われたかもしれない尖頭器といった骨器を報告しました。また、骨器を用いて繊維で作った網による漁撈の可能性も指摘されています。ただ、こうした骨器技術の大半が、半樹上性や樹上性の小さな獲物を対象にしていたことは明らかです。ファヒエン・レナ洞窟におけるこれらの発見は48000年前頃までさかのぼり、熱帯雨林における投射技術使用の最初の決定的証拠であるとともに、アフリカ外における弓矢技術の最初の証拠という点でも注目されます。ボルネオ島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州にあるニア洞窟群(Niah Caves)における、32000年前頃の高速投射技術使用の可能性も指摘されていますが、アジア南東部におけるより確実な証拠は、末期更新世と完新世、とくにその移行期付近に集中しています。

 ファヒエン・レナ洞窟の骨器技術は、約3000km離れた似た年代のニア洞窟群のそれと多くの共通点があります。とくに、投射尖頭器の優越で示されるように、細かい研磨と骨幹部をそのまま残す長骨の使用は共通します。また、歯もファヒエン・レナ洞窟とニア洞窟群で道具として使用されていました。しかし、両者の違いも明らかで、ファヒエン・レナ洞窟の骨器がおもにオナガザル科の骨で作られていたのに対して、ニア洞窟群の骨器はおもに大型もしくは中型哺乳類の骨で作られていました。

 本論文は、ファヒエン・レナ洞窟における後期更新世の象徴的な物質文化の詳細な分析も提示します。ファヒエン・レナ洞窟の後期更新世現生人類集団は、同じ頃のアフリカやユーラシアの現生人類集団と同様に、社会的標識伝達のために鉱物性着色剤や海洋性貝殻のビーズを使用していました。ファヒエン・レナ洞窟の現生人類集団に特有なのは、明るい赤色と黄色の顔料に加えて、銀色(雲母)の顔料も多用していることです。銀色顔料の収集と使用は、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡など、アジアとオーストラリアの早期現生人類遺跡で注目されていますが、オーカー塊から作られたビーズは、ファヒエン・レナ洞窟が最初の事例となります。

 装飾用のオーカーと海洋性貝殻の使用は、アフリカの中期石器時代と後期石器時代では10万年前頃、ユーラシアでは45000年前頃、アジア南東部内陸部では45000年前頃の事例が報告されています。後期更新世の湿地帯熱帯雨林地域の現生人類が森林資源に依存していた、という安定同位体証拠を考慮すると、熱帯雨林地域の遺跡で見られる海洋性貝殻は、スリランカの異なる地域の集団間の交換ネットワークの重要性も強調します。ファヒエン・レナ洞窟では末期更新世にサメの歯と海洋性貝殻ビーズが見つかっており、内陸部熱帯雨林地域集団と海岸部集団との間の長距離交易ネットワークの発展が示唆されます。

 アフリカ内外に拡大する現生人類に伴う、技術・象徴的物質文化の発展・社会的背景・適応戦略を理解するには、アフリカ南部やヨーロッパといった古人類学と考古学の伝統的な中心研究地域を越えての研究が重要である、とますます明らになっています。とくに、衣類や繊維や投射技術や象徴的ネットワークという要素は、かつて早期現生人類ではヨーロッパとアフリカに特徴的と考えられていましたが、本論文でも示されたように、アジア南部の熱帯雨林環境の早期現生人類集団にも存在します。

 最近の研究では、現生人類の間で想定された「行動の現代性」の特徴における、非線形で多様な方法を強調します。しかし、「現代性」という本質主義的考えから「変異性」の理解へと移行するならば、多様な環境背景の決定が不可欠で、そうした多様な環境では、個人的装飾品や投射技術や長距離経済ネットワークが、更新世においてアフリカだけではなく他地域でも出現します。そうして初めて、現生人類が完新世の始まりまでに拡散した独特の多様な環境における、これらの行動の適応的背景と、その適用の性質を理解できるでしょう。


参考文献:
Langley MC. et al.(2020): Bows and arrows and complex symbolic displays 48,000 years ago in the South Asian tropics. Science Advances, 6, 24, eaba3831.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aba3831

インダス文化に関するまとめ

 当ブログのインダス文化に関する記事を短くまとめます。インダス文化はメソポタミアやエジプトといった年代の重なる他地域の古代文字文化と比較して、謎めいた印象を持たれているように思いますが、それはインダス文字(インダス文化の印章記号)がまだ解明されていないからなのでしょう。インダス文字で書かれた文書の文字配列の統計的構造を、シュメール語や古代タミル語やリグ・ヴェーダのサンスクリット語といった他の言語体系、人間のDNAや細菌の蛋白質配列といった非言語体系、人工の言語体系と比較した研究では、インダス文字は言語体系と酷似しており、非言語体系とは似ていない、と指摘されています(関連記事)。ただ、この研究により文字の意味的理解が進んだわけではなく、インダス文字の解読には、インダス文字と他の解読済の文字の併記された文書の発見が必要となるでしょう。

 インダス文化は、メソポタミア・エジプト・黄河・長江といった他の古代文化とともに、大河文化と定義されてきました。しかし近年では、インダス文化は他の大河文化とは大きく異なる性格を有する、との認識が浸透しつつあるように思います。従来の通俗的なインダス文化像の見直しを強く主張するのが、長田俊樹『インダス文明の謎 古代文明神話を見直す』です(関連記事)。同書は、メソポタミア文化やエジプト文化をモデルに構築された古典的なインダス文化像を徹底的に批判します。つまり、王のような専制権力の存在・活発な軍事活動・大河に依存した灌漑農耕・奴隷制社会を特徴とする文化像です。また同書は、モヘンジョダロとハラッパーに偏ったインダス文化像の構築も批判します。

 さらに同書は、インダス文化は大河文化ではない、と指摘します。現在は乾燥地帯にある遺跡の側をかつて大河が流れていた、という説は今では否定されているそうです。また同書は、植物遺存体の分析から、インダス文化において大河に依存した灌漑農耕の比重は必ずしも高くなく、多様な作物が栽培されていた、と指摘します。同書が提示する新たなインダス文化像は、牧畜民も含む流動性の高い人々により各都市が密接に結びつき、ヒトだけではなくモノも活発に動いた多民族・多言語共生社会だった、というものです。また同書は、インダス文化期には現代よりも海水面が高かったので、南部の都市は海に面しており、オマーンやバーレーンやメソポタミア方面とも交易していた、とも強調します。同書刊行後の研究でも、インダス文化の多くの都市が、大河から離れて反映していた、と指摘されています(関連記事)。

 インダス文化の担い手については確定していませんが、ドラヴィダ系住民との見解が有力だと思います。しかし、アジア中央部考古学専攻の研究者の中には、インダス文化の担い手を「アーリア系」と考える人もいます(関連記事)。この問題は、アジア南部における古代DNA研究の進展(関連記事)により明らかになりつつあります。インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された1個体(I6113)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2b2で、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は核DNA解析では、紀元前2500~紀元前2000年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化遺跡と紀元前3300~紀元前2000年頃のイラン東部遺跡で確認された11人と類似しており、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。これはインダス川流域集団と呼ばれており、その遺伝的構成は、イラン関連系統およびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)関連系統の混合系統(50~89%)と、アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統(11~50%)の混合です。イラン関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400~紀元前3700年頃に起きたと推定されていることからも、インダス川流域集団はインダス文化の担い手と考えられます。インダス川流域集団にはアナトリア新石器時代農耕民関連系統が検出されず、イランからアジア南部への人類集団の移住は、イランにおける農耕開始前だったと推測されます。

 アジア南部のインド・ヨーロッパ語族はユーラシア中央草原地帯、より具体的にはポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源と考えられますが、インダス川流域集団のゲノムにはユーラシア中央草原地帯関連系統が見られないので、インダス文化の担い手はインド・ヨーロッパ語族ではなかった、と推測されます。インダス川流域集団と古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が紀元前2000年以後に混合して祖型南インド人(ASI)が形成され、紀元前2000~紀元前1000年の間に、ユーラシア中央草原地帯系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合して祖型北インド人(ANI)が形成されました。アジア南部現代人は遺伝的に、ASIとANIの地理的勾配として表されます(関連記事)。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と推測されます。これは、インダス文字がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定されます。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。これらの知見から、インダス文化の担い手の言語は先ドラヴィダ語と考えられます。ただ、インダス文化は広範な地域に分布しており、その担い手の遺伝的構成は多様だった可能性が高そうです。とはいえ、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたと考えられ、アジア南部現代人のゲノムに大きな影響を残しているユーラシア中央草原地帯関連系統は、基本的に欠けていたでしょう。おそらくインダス文化の担い手の多くの遺伝的構成は、イラン関連系統とAHG関連系統の割合が多様だったのではないか、と推測されます。

複数集団の混合により形成された現代チベット人

 現代チベット人の起源に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文はやや長いので、まず要約を述べます。考古学的研究では、チベット高原における人類の存在は16万年前頃までさかのぼり、これは非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)です。現生人類(Homo sapiens)では4万~3万年前頃までさかのぼります。しかし、チベット高原の過去の人類の移動は、現代人および古代人のDNA研究において初期段階に留まっています。

 本論文は、3017人の旧石器時代から現代のユーラシア東部人のゲノムで、最初となる古代および現代のゲノムメタ分析を実行しました。3017人の内訳は、チベット高原のウー・ツァン(Ü-Tsang)地域とアムド(Ando)地域とカム(Kham)地域の98人のチベット人を含む183集団2444人の現代人と、573人の古代人です。分析の結果、古代および現代の高地チベット人と、低地島嶼部および沿岸部の新石器時代アジア東部北方人との間の、より密接な遺伝的つながりが特定されました。これは、高地チベット・ビルマ語族の主要な系統の起源が、黄河中流および下流域の後李(Houli)文化と仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化関連集団にあることを反映しており、シナ・チベット語族の共通する中国北部起源および雑穀農耕民の拡散パターンと一致します。

 チベット人と低地アジア東部人との間の共有されたアジア東部北方系統はありますが、チベット高原高地人と低地アジア東部北方人との間の遺伝的分化も識別され、前者はより深く分岐したホアビン文化(Hòabìnhian)およびアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人関連系統を有しており、後者はより多くの新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人関連系統を有しています。これは、現代および新石器時代のアジア東部高地人における、旧石器時代と新石器時代の両系統の共存を示唆します。

 ウー・ツァンとアムドとカム地域のチベット人は、その文化的背景および地形(人類の移動にとって障壁となります)と一致する、強い集団階層化を示します。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより強いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)文化集団との類似性と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部系統と、カム地域チベット人におけるより大きな新石器時代アジア東部南方人系統です。また、チベット高原の過去における人類移住の複数の波も明らかになりました。斉家(Qijia)文化農耕民と混合した在来の狩猟採集民の第1層から、チョクホパニ文化集団関連の先チベット・ビルマ語族が派生し、ユーラシア西部草原地帯と黄河と長江からの追加の遺伝子流動により、それぞれ現代のアムド地域とウー・ツァン地域とカム地域のチベット人が形成されました。


●先行研究

 チベット高原は平均標高が海抜4000mを超え、通年の低温・極度の乾燥・低酸素など、人類にとって最も厳しい環境の一つです。しかしチベット高原には、現生人類が拡散してくるずっと前の16万年以上前に、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が存在していました(関連記事)。その後、4万~3万年前頃までには現生人類がチベット高原に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。また、言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。現在、700万人以上の先住チベット人がチベット高原に居住しており、低酸素環境に適応しています。低酸素環境である高地へのチベット人の適応には遺伝的基盤があり(関連記事)、その中にはデニソワ人由来のものがある、と推測されています(関連記事)。チベット高原の人類史研究の問題点は、アジア東部の他地域と比較して発掘された遺跡が少ないことです。

 現在まで続く問題として、初期人類がチベット高原へどこからどのように移住してきたのか、現代チベット人の祖先は誰なのか、といったことが挙げられますが、考古学・古人類学・遺伝学はまだこの問題に対して充分に答えられません。上述のように、考古学的証拠から、デニソワ人が16万年以上前に、現生人類が、4万~3万年前頃までにチベット高原に存在していた、と示されています。ゲノム解析からは、現生人類が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にチベット高原に存在した、と提案されており、現代チベット人における上部旧石器時代住民の遺伝的痕跡は、チベット高原における最初の住民と現代チベット人との間のある程度の遺伝的継続性を示唆します。先史時代ヒマラヤ集団の遺伝的研究からは、ヒマラヤ最初の住民は高地アジア東部人起源との証拠が得られており、チベット高原における新石器時代よりも前の人類の活動が間接的に示唆されます。

 チベット高原における人類の居住に関して、後期更新世の狩猟採集民の場合とは対照的に、永続的な居住の時期と様相に関しては議論が続いています。考古学およびゲノム解析からは、チベット高原における永続的な定住は、農耕・牧畜の確立と一致する比較的最近の事象と推測されています。チベット高原でも標高2500m以上で農耕が始まったのは、耐寒性のオオムギが導入された3600年前頃以降と推定されており(関連記事)、永続的な定住はそれ以降ではないか、というわけです。チベットの羊の包括的なゲノム調査では、唐柏(Tang-Bo)古道を通じてのヒトの段階的な居住パターンが明らかになり、3100年前頃には中国北部からチベット高原北東部へ、1300年前頃にはチベット高原北東部からチベット高原南西部へと拡大した、と推測されています。しかし、耐寒性のオオムギと家畜を誰がチベット高原に導入したのか、また在来の狩猟採集民は拡散してきた農耕民とどのように相互作用したのか、まだ不明です。

 考古学では、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民を置換したわけではなく、2集団が長期間共存した、と示されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析と放射性炭素年代からは、雑穀農耕民が3600~3300年前頃にチベット高原へとオオムギ農耕を採用して導入し、同時代のチベット人はその胃全摘痕跡を新石器時代雑穀農耕民にたどれる、と推測されています。他の高地集団とのゲノム比較からは、チベット人は複数祖先の遺伝子プールの混合で、旧石器時代と新石器時代の系統が共存している、と結論づけられています。

 まとめると、チベット高原の人類集団に関する先行研究では、中期更新世の到来と旧石器時代における居住、新石器時代の永続的な定住の理解が深められつつあります。しかし、以前の考古学的調査のほとんどは、海抜4000m以上となるチベット高原北東部におもに焦点を当てており、チベット高原の古代標本の欠如とアジア東部の古代人の包括的分析がなされていなかったことは、時空間的に分散したアジア東部古代人と現代チベット人の接続を妨げました。したがって本論文は、チベット高原の現代および古代人と周辺の低地ユーラシア東部人の遺伝的多様性をメタ分析し、アジア東部高地人と参照される世界規模集団との間の系統的関係を調査します。アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体群と現代チベット人のゲノム規模データを分析することにより、チベット高地住民の遺伝的移行・置換もしくは継続性・祖先の構成・人口史に焦点が当てられます。


●古代および現代チベット人とアジア東部北方集団との遺伝的類似性

 チベット高原の11地域から現代人98人のゲノム規模データが収集されました。地理的内訳は、チベット自治区5ヶ所、青海省(Qinghai)が2ヶ所、甘粛省(Gansu)が1ヶ所、四川省(Sichuan)が2ヶ所、雲南省(Yunnan)が1ヶ所です。さらに、他のアジア東部の古代人および現代人のデータが統合されました。現代人では、アルタイ諸語、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族です。古代人では、ネパールからは、3150~2400年前頃のチョクホパニ(Chokhopani)、2400~1850年前頃のメブラク(Mebrak)、1750~1250年前頃のサムヅォング(Samdzong)という異なる3文化期の8人(関連記事)、黄河とアムール川と西遼河流域の48人、曇石山(Tanshishan)文化など中国沿岸南東部や台湾の58人です。これらのゲノムデータは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)で提示されました。また、新石器時代から青銅器時代もしくは鉄器時代のアジア南西部とシベリア集団も、包括的な分析のいくつかで用いられました。

 現代チベット人と新石器時代から歴史時代のアジア東部人は全員、ユーラシア人の主成分分析では第2構成に沿った遺伝的勾配で集団化されます。アジア東部人の遺伝的多様性に焦点を当てて、アジア東部とアジア南東部島嶼部および大陸部の現代人106集団の遺伝的多様性に基づき、アジア東部人の主成分分析が構築されました(図1B)。アジア東部現代人は、4つの遺伝的勾配もしくはクラスタに集団化されます。それは、アジア北東部集団で構成されるモンゴル・ツングース遺伝的勾配、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族とタイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族から構成される中国南部・アジア南東部遺伝的クラスタ、中国関連の北部から南部への遺伝的勾配、チベット・ビルマ語族クラスタで、言語区分および地理的領域と一致します。

 チベット人は集団化され、中国北部のモンゴル語族およびツングース語族のいくつか、北部漢人、他の低地チベット・ビルマ語族と比較的密接な関係を示します。チベット人の下部構造に焦点を当てると、標本抽出場所の地理的位置と一致する、異なる3下位クラスタが観察されます。本論文では、高地適応チベット人もしくはウー・ツァン(Ü-Tsang)チベット人クラスタ、チベット高地北東部の甘青(Gan-Qing)もしくはアムド(Ando)遺伝的クラスタ、低地南東部遺伝的クラスタもしくはカム(Kham)チベット人と呼びます。ウー・ツァン地域クラスタはラサ(Lhasa)とナクチュ(Nagqu)と山南(Shannan)とシガツェ(Shigatse)、アムド地域クラスタは循化(Xunhua)と剛察(Gangcha)と甘南(Gannan)、カム地域クラスタはチャムド(Chamdo)と新竜(Xinlong)と雅江(Yajiang)と雲南(Yunnan)で構成されます。

 次に、古代人集団とアジア東部現代人との間の遺伝的類似性パターンが調べられ、243人の古代ユーラシア東部人が上述の現代人集団の遺伝的関係のパターンに投影されました。これは、アジア東部の現代人および古代人のゲノムに関する、最初の包括的なメタ分析となります。その結果、古代人4集団の遺伝的クラスタが明らかになりました。まず、台湾と福建省の後期新石器時代個体群を含む新石器時代から歴史時代のアジア南部人で、現代人ではタイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族とクラスタ化します。

 第二に、新石器時代から青銅器・鉄器時代のアジア東部北方人で、後李)文化・仰韶文化・龍山文化・斉家(Qijia)文化と、沿岸部および内陸部の個体群を含み、アジア東部の主要な3遺伝的系統と漢人の最北端との接点近くで集団化します。このクラスタは、主要な生存戦略が狩猟採集と関連する前期新石器時代の山東省の後李文化集団と、河南省に近い中期~後期新石器時代の仰韶および龍山文化農耕民との間で密接な遺伝的関係が観察され、前期新石器時代の中国北部における狩猟採集から雑穀農耕への移行の遺伝的継続性が示唆されます。また、これらの中国北部の新石器時代から鉄器時代の個体群の微妙な遺伝的違いも識別されました。山東省の後李文化集団は、現代モンゴル語族のバオアン(Baoan、保安)人やツー(Tu)人やユグル(Yugur)人やドンシャン(Dongxiang)人と近い一方で、前期新石器時代の河南省の小高(Xiaogao)個体群は、現代ツングース語族のホジェン(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)人やシーボー(Xibo)人の近くに位置づけられます。山東省新石器時代の全集団は、山東省の現代漢人からは離れて位置し、現代中国北部少数民族の方へと移動しています。これは、現代の北方漢人が、アジア東部南方の祖先系統から追加の遺伝子流動を受けたか、新石器時代の後李文化個体群がより多くのシベリア関連祖先系統を有していたことを示唆します。河南省の、後期新石器時代の龍山文化集団と、青銅器時代・鉄器時代個体群は集団化し、漢人の遺伝的勾配の方へと移動しており、部分的に山西省と山東省の漢人と重なりました。これは、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)のアジア東部北方人の遺伝的類似性を示し、中国文化の各地域における遺伝的安定性を示唆します。中期新石器時代となる河南省の仰韶文化集団は、陝西省楡林市靖辺県五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団の何人かと集団化し、より北方の現代少数民族へと移動します。山西省や内モンゴル自治区や黄河上流のより内陸に位置する中期~後期新石器時代のアジア東部北方人はクラスタ化し、現代チベット人およびネパールの高地に適応した祖先系統へと移動して、部分的に現代の地理的に近いチベット人と重なり、ネパールの古代人と密接な遺伝的類似性を示します。

 第三に、西遼河の古代集団です。この西遼河古代集団では、遺伝的類似性の異なる3パターンが識別できます。北方クラスタは、シベリアのシャマンカ(Shamanka)とモンゴルの新石器時代個体群と遺伝的類似性を示します。中期紅山(Hongshan)文化クラスタは、モンゴルの少数民族と剛察の現代チベット人との間に位置します。夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体など北方クラスタに関しては、草原地帯牧畜民と関連するモンゴル高原北部新石器時代個体群と、黄河流域雑穀農耕民の両方が、西遼河流域における後期新石器時代とその後の集団形成に加わった、と示唆されます。南方クラスタの後期新石器時代個体群は、アジア東部北方の沿岸部前期新石器時代個体群と、内陸部の新石器時代仰韶文化および龍山文化個体群との間に位置し、黄河中流および下流域(河南省と山東省)の雑穀農耕民が、内陸部および沿岸部両方の北方への集団移住により、紅山文化集団もしくはその子孫の形成に重要な役割を果たした、と示唆されます。

 第四に、モンゴル高原とロシア極東とバイカル湖地域とアムール川流域の古代集団です。これらには新石器時代から青銅器時代までの46人が含まれ現代ホジェン人およびウリチ(Ulchi)人と、モンゴル語族の一部との近くでクラスタ化します。日本列島の「縄文人」は集団化し、現代日本人からはずっと離れており、ロシア極東沿岸部新石器時代個体群と台湾の漢本および新石器時代アジア東部南方(現在の福建省)沿岸部個体群との中間に位置します。

 主成分分析では、現代チベット人と古代ネパール人集団と現代・古代のアジア東部人とシベリア人との間のゲノム類似性が明らかになりました。遺伝的構造と対応する集団関係をさらに調べるため、系統構成とクラスタパターンが推定され、アジア東部の主要な2系統が観察されました(図1C)。沿岸部アジア東部北方系統は、新石器時代シベリア人と現代ツングース語族で最大化されました。また沿岸部アジア東部北方系統(黄緑色)は、高い割合を有する山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人と同様に、中国北東部とロシア極東の青銅器時代から現代の集団にも存在します。他の沿岸部アジア東部北方系統は、現代高地チベット人と後期新石器時代の斉家文化関連集団において多く見られ、ネパールの青銅器時代から歴史時代の個体群および古代アジア東部北方人でも最大化し、それは現代低地シナ・チベット語族、内陸部のミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族でも同様です。本論文はこのチベット人関連系統を内陸部アジア東部北方系統と呼び、これはチベット人と現代および古代のアジア東部北方人との間の密接な遺伝的類似性の直接的指標です。

 沿岸部前期新石器時代のアジア東部南方人、鉄器時代の台湾の漢本(Hanben)人、現代のオーストロネシア語族の台湾先住民であるアミ(Ami)人とタイヤル(Atayal)人で多く見られる系統は、本論文では沿岸部アジア東部南方系統(濃緑色)と呼ばれます。青色系統はミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族に広く分布する沿岸系統の対応としてラチ(LaChi)人で最大化され、この内陸部アジア東部南方系統は、雲南と雅江・新竜と甘南のチベット人を含む低地チベット人に、比較的高い割合で存在します。さらに、チベット高原北東部のチベット人は、より多くの沿岸部アジア東部北方系統を有している、と明らかになりました。タイとラオスの国境のムラブリ(Mlabri)人で最大化されるいくつかのオーストロアジア語族関連系統は四川省と雲南省のカム地域チベット人で、青銅器時代のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化とヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で最大化される系統(赤色)は青海省および甘粛省のアムドチベット人でそれぞれ識別されました。古代ネパール人集団は、シベリア北東部の鉄器時代エクヴェン(Ekven)人と関連した共通系統を有していました。以下、チベットチベット高原の11地域、主成分分析、系統構成を示した本論文の図1です。
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●アジア東部人の集団分化とチベット人における下部構造

 11地区の現代チベット人と現代もしくは古代の参照集団との間の遺伝的差異をさらに調べるため、まず現代人82集団と現代および古代の32集団の遺伝的距離が計算されました。チベット自治区において、高地のウー・ツァン地域チベット人の南(シガツェと山南)と中央(ラサ)と北(ナクチュ)、北東となるカム地域のチャムドのチベット人は、近隣地域と最小のFst遺伝距離を有しており、チベット高原北東部の低地アムド地域(青海省と甘粛省)のチベット人と、チベット高原南東部のカム地域(四川省と雲南省)のチベット人と、ツー人など他のチベット・ビルマ語族集団がそれに続きます。これらの遺伝的関係の観察パターンは、低地集団とは顕著に異なっており、ミャオ・ヤオ語族のシェ(She)人は低地アジア東部人とほとんどの系統を共有しています。

 青海省と甘粛省のアムド地域のチベット人では、剛察チベット人が北部もしくは北東部チベット人(チャムドとナクチュ)と最小のFst遺伝距離で密接な遺伝的類似性を有し、チアン(Qiang)人とツー人もしくは他の地理的に近いチベット人がそれに続きます。剛察と循化のチベット人では異なるパターンが観察され、相互に最も密接な関係を示し、その次がツー人とユグル人になります。また、甘南および循化のチベット人とテュルク語族のカザフ集団との間の比較的小さい遺伝的距離も明らかになり、チベット高原において、中央部のチベット人と比較して、北東部のチベット人のユーラシア西部人との遺伝的類似性が示されます。

 四川省と茂県地区(Ganqing Region)の雅江と新竜のチベット人は、四川省のチベット・ビルマ語族(ツー人やユグル人やチアン人)と密接な遺伝的類似性を有します。雲南省のチベット人は、剛察とチャムドのチベット人と最小の遺伝的距離を有し、チアン人とイー(Yi)人とツー人がそれに続きます。チベット人と新石器時代から鉄器時代のアジア東部人の間で、各現代チベット人と最小のFst値を有する遺伝的に最も密接な集団は、他の現代チベット人により証明され、台湾の漢本集団は他の古代アジア東部人と比較して、現代チベット人と最も密接な関係を示します。

 TreeMixに基づく分析により、ユーラシアの現代人集団とユーラシア東部古代人の遺伝的多様性の下で、さらに系統関係が推定されました。現代チベット人と他のユーラシア人の遺伝的多様性に基づく図2Aの系統樹は、移住事象なしと想定されていますが、類似した語族集団が1集団にクラスタ化する傾向を示します。アルタイ諸語(テュルク語族とモンゴル語族)集団は、ウラル語族とクラスタ化しました。オーストロネシア語族のアジア東部人は、まずタイ・カダイ語族と、次にミャオ・ヤオ語族およびオーストロアジア語族とクラスタ化しました。チベット人はまず相互に、とくに高地適応のウー・ツァン地域でクラスタ化し、次に低地アジア東部人とクラスタ化しました。この観察された地理的孤立は、高地チベット人と低地アジア東部人との間の遺伝的差異を示し、共有された共通起源系統があるものの、識別されます。

 さらに、事前に定義された3回の交雑事象で、近東からのアナトリア半島新石器時代農耕民系統を除き、現代チベット人とユーラシア東部の26人の古代人との間の集団分岐と遺伝子流動が分析されました。甘南と新竜を除く現代チベット人は、まずネパールの高地古代人と、次に低地アジア東部北方新石器時代人および新石器時代から青銅器時代の南シベリア人とクラスタ化し、高地現代チベット人と低地アジア東部北方古代人との間の遺伝的区分が示されました(図2B)。このクラスタパターンはまた、高地の現代および古代チベット人と低地アジア東部南方人と同様に、アジア東部の北方人と南方人との間の遠い関係を示しました。これは、チベット人とアジア東部北方人との間の特別なつながり、もしくはより密接な遺伝的関係の証拠をさらに提供します。以下、この系統関係を示した本論文の図2です。
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 外群f3統計(現代チベット人、ユーラシア古代人および現代人、エチオピアのムブティ人)で、遺伝的類似性がさらに評価されました。現代人184集団の中で、各地域のチベット人にとって最も類似性が共有されるのは、地理的に近い別地域のチベット人です。山南チベット人はラサとシガツェとナクチュのチベット人と最もアレル(対立遺伝子)を共有しており、集団の類似したパターンは、ウー・ツァン地域において南方に位置するシガツェと中央に位置するラサのチベット人で特定されました。しかし、ウー・ツァン地域でも北東に位置するナクチュのチベット人は、そこからさらに北東に位置するカム地域のチャムドのチベット人と最もアレルを共有し、四川省のチベット・ビルマ語族のチアン人と、他のチベット人およびシェルパ(Sherpa)人が続きます。これらのパターンは、チャムドのチベット人における集団の特徴と一致します。

 現代チベット人内のゲノム類似性に続いて、5地域のチベット人が低地漢人と最も強い遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。これは、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。四川省と雲南省の低地カム地域では、新竜チベット人が、上海や重慶や湖北省や江蘇省の漢人および他の低地チベット・ビルマ語族のチアン人やトゥチャ(Tujia)人と最も遺伝的浮動を共有しています。新竜チベット人とは異なり、地理的に近い雅江と雲南省のチベット人は、チアン人および地理的に近いチャムドおよび新竜のチベット人と最も遺伝的浮動を共有しており、それら漢人と他のチベット人が続きます。これら低地漢人もしくはアジア東部南方人は、中国南西部に位置する低地のカム地域チベット人が、先史時代と歴史時代において集団移住と混合により、アジア東部南方人と系統の変化を有していた、と示唆します。アムド地域の剛察チベット人は、漢人およびチベット・ビルマ語族と遺伝的類似性を共有しているだけではなく、テュルク語族集団との類似性の兆候も示します。甘南と循化のチベット人におけるアレル共有は、漢人集団が甘南および循化のチベット人と最も系統を共有している、と示します。

 外群f3統計から推測される、現代チベット人と旧石器時代から歴史時代のユーラシア古代人106集団(ロシアが33、中国が41、モンゴルが29、ネパールが3)との間の共有されるアレルの水準は、現代チベット人が新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人と最も明確なつながりを有すると示し、これは主成分分析・Fst・ADMIXTURE・現代人集団に基づく類似性推定と一致します。中程度の高度となるチャムドのチベット人は、新石器時代の陝西省五庄果墚遺跡個体群および後期新石器時代となる斉家文化の黄河上流域農耕民と最も遺伝的浮動を共有しており、鉄器時代の雲南省の大槽子(Dacaozi)人と陝西省の石峁(Shimao)人、中国北部の紅山文化関連の中期新石器時代の半拉山(Banlashan)人、黄河中流および下流域の他のアジア東部北方人が続きます。

 ロシアとモンゴルの新石器時代人および歴史時代ネパールの青銅器時代人は、チャムドの現代チベット人とは比較的遠い遺伝的関係を示します。チャムドのチベット人のパターンとは異なり、ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人は、ネパール古代人と関連する系統の増加を示し、ウー・ツァン地域北部のナクチュのチベット人は、2700年前頃のチョクホパニ人と集団類似性の中間的傾向を示します。中国南西部および北東部の低地チベット人は、アジア東部北方古代人と似た集団類似性を示します。新竜チベット人を除くチベット人は、相互に他のチベット人と最も遺伝的浮動を共有してクラスタ化し、次にネパール古代人と集団化し、高地クラスタを形成します。前期新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人がまずクラスタ化し、次に高地クラスタと集団化します。アムール川および西遼河流域の古代クラスタも、高地チベット人とより密接な関係を示し、新疆の石人子溝(Shirenzigou)遺跡人とアジア東部南方人は、低地アジア東部北方人および高地チベット人クラスタと、比較的異なる関係を保ちます。


●チベット高原における現代チベット人と古代人集団との混合の痕跡

 最近の遺伝的混合の証拠があるのか検証し、対応する祖先集団(もしくは現代集団で代理とされる仮定的祖先集団)を決定するため混合f3統計が実行され、各地域のチベット人集団が祖先集団と派生的アレルをどの程度共有しているのか、評価されました。また、3集団比較と古代人および現代人の包括的な参照データベースにより、ネパールの古代人9人および青海省の後期新石器時代から鉄器時代の11人の混合の痕跡が再評価されました。その結果、高地と低地の現代および古代チベット人における、混合の兆候と祖先集団の異なるパターンが見つかりました。さらに、1地域もしくは類似した文化のチベット人の間で、小さいものの有意な違いが識別できました。

 ウー・ツァン地域では、南部の山南とシガツェにおいて4万組以上の検証で混合の兆候が観察されず、中央部のラサに関しては、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群と、カム地域のチベット人とチアン人、もしくは新石器時代アジア東部北方人とチベット南部人との混合集団、もしくはバイカル湖地域古代人という4集団が祖先集団候補として検出されました。検証された188集団では、一方はチベット・ビルマ語族と、もう一方はユーラシア西部人と有意な値を示します。古代アジア東部北方人および南方人ではなく、低地アジア東部現代人と組み合わされた南部および中央部チベット人も、ナクチュのチベット人と有意な混合の兆候を示します。ウー・ツァン地域とカム地域のチベット人の間の接合領域に位置するチャムドのチベット人は、潜在的な文化的およびヒト集団の移動と混合を有していますが、一つの混合兆候のみが観察されます。茂県地域の3人のチベット人は数千以上の集団の組み合わせから混合の兆候を有しており、一方はアジア東部の現代人もしくは古代人、もう一方はユーラシア西部人です。

 f3統計の結果、北方系統の祖先としての新石器時代内陸部アジア東部北方人である、内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡の前期新石器時代個体が、南方系統の祖先としてのオーストロアジア語族およびタイ・カダイ語族と組み合わされ、有意なf3値を示します。四川省のチベット人は、アジア東部北方人と南方人との間の混合、もしくは高地チベット・ビルマ語族と低地アジア東部人との間の混合の結果としてのみ、有意な兆候を示します。南部チベット人の結果と同様に、雲南省チベット人では混合の兆候は観察されず、遺伝的孤立もしくは最近起きた明らかな遺伝的浮動が原因だったかもしれません。チベット高原の古代人集団に焦点を当てた検証では、青海省の鉄器時代の大槽子遺跡集団からの混合の兆候が示され、これはアジア東部北方古代人とアジア東部南方現代人の祖先集団との混合、もしくはチャムドのチベット人関連集団と台湾の鉄器時代漢本個体のような集団との混合の結果です。


●f4統計から推定される高地および低地チベット人の集団内分化

 現代チベット人の間の下部構造を調べるため、f4統計が実施されました。チャムドのチベット人は、他のチベット人との比較で、ナクチュおよび雲南省のチベット人とクレード(単系統群)を形成します。アムド地域の剛察と甘南と循化のチベット人と比較して、他のチベット人はチャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。雅江と新竜の低地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地チベット人(ラサ、ナクチュ、シガツェ、山南)関連系統をより多く有していますが、甘南のチベット人はチャムドのチベット人と比較して、新竜のチベット人とより多くのアレルを共有します。高地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は比較的低地の他のチベット人とより多くのアレルを共有します。

 ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人の間では、明確な遺伝的均一性が示され、アムド地域のチベット人と比較して、南部チベット人とより多くのアレルが共有されます。しかし、ウー・ツァン地域の北部チベット人はチャムドおよび雲南省のチベット人とクレードを形成し、四川省のチベット人と比較して、より多くの高地チベット人関連派生的アレルを有します。低地チベット人では、中国北西部となるアムド地域の剛察と循化のチベット人がクレードを形成します。同じくアムド地域の甘南チベット人と比較して、青海省チベット人はチベット自治区のチベット人とより多くの系統を共有します。甘南チベット人をf4統計の対象とすると、他のチベット人と比較して、甘南チベット人とより多くのアレルを共有するチベット人集団は見つかりません。中国南西部の雲南省チベット人はチャムド・新竜および雅江チベット人とクレードを形成し、全てはカム地域チベット人に属します。低地の四川省と雲南省のチベット人は、茂県チベット人と比較してチベット人関連系統を、また他の高地チベット人と比較して高地チベット人関連系統をより多く有しています。

 さらに、f4統計により、古代ユーラシア集団(おもに中国とモンゴルとシベリア東部とユーラシア西部の草原地帯牧畜民)を用いて、高地および低地チベット人の間の観察された遺伝的類似性と集団下部構造が調べられました。ウー・ツァン地域のチベット人内のゲノム類似性パターンが確認され、またアムド地域とカム地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のチベット人におけるネパール古代人との明らかなより多くの類似性が特定できました。山南チベット人と比較して、ナクチュのチベット人は、中国南部の南東部沿岸地域における新石器時代から歴史時代のアジア東部南方の低地古代人集団と関連する系統の増加を示し、この系統はバイカル湖地域後期新石器時代個体でも見られます。アムド地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のナクチュのチベット人は、ネパール古代人関連系統の増加と、循化チベット人と関連する後期新石器時代の青海省の喇家(Lajia)遺跡個体関連系統の増加を示します。またナクチュのチベット人は、福建省のアジア東部南方沿岸部後期新石器時代集団と、黄河中流域の新石器時代から鉄器時代集団と、夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団と、内陸部新石器時代アジア東部北方集団と、他の黄河上流域新石器時代および鉄器時代集団と関連する系統の増加を示します。

 黄河上流域古代人集団では、地理的に近い剛察チベット人ではなく、ナクチュのチベット人との間でより密接な類似性が見つかり、喇家遺跡などの古代人集団が、ナクチュの現代チベット人の直接的祖先だったかもしれません。アムド地域のチベット人に関しては、ロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化など中期~後期青銅器時代のユーラシア草原地帯牧畜民関連系統の増加が示されます。また、アムド地域のチベット人の間の強い遺伝的類似性が、確認されています。アムド地域の甘南チベット人は、現代オーストロネシア語族や福建省・台湾などアジア東部南方前期新石器時代集団に代表される、アジア東部南方人関連系統の増加を示します。甘南チベット人の同じアジア東部南方人の類似性は、ウー・ツァン地域のチベット人との比較でも識別されます。

 ナクチュのチベット人とチャムドのチベット人とユーラシア東部古代人とエチオピアのムブティ(Mbuti)の現代人によるf4統計では、ナクチュのチベット人とがチャムドのチベット人とクレードを形成し、チャムドのチベット人におけるアジア東部北方の中期新石器時代の半拉山関連系統の増加を示し、半拉山遺跡の人々は紅山文化と関連している、と証明されました。またラサのチベット人と比較してチャムドのチベット人では、悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)個体群のようなロシアもしくはモンゴル関連新石器時代系統、中期新石器時代の紅山文化関連系統、後期新石器時代にかけての黄河中流域もしくは龍山文化農耕民関連系統、黄河上流域後期新石器時代の斉家文化関連系統の増加が示唆されます。遺伝的類似性は、前期新石器時代におけるチベット高原とアジア東部北方の古代人集団間のつながりを示します。

 ウー・ツァン地域南部の山南チベット人と比較して、カム地域のより北方に位置するチャムドのチベット人は、低地アジア東部の異なる古代集団と関連する系統の増加を示します。まず、沿岸部アジア東部南方の後期新石器時代の曇石山遺跡、台湾の鉄器時代の漢本遺跡、歴史時代となる福建省の伝云(Chuanyun)遺跡の人々は、山南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くの遺伝的浮動を共有しています。第二に、山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、チャムドのチベット人とより多くの遺伝的浮動を共有します。第三に、河南省の中期新石器時代から後期青銅器時代および鉄器時代の古代人集団は、チャムドのチベット人とより多くの派生的アレルを共有します。第四に、黄河中流域の新石器時代集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第五に、黄河上流域の後期新石器時代と鉄器時代の個体群は、甘南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くのアレルを共有します。第六に、西遼河流域の新石器時代3集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第七に、新石器時代から現代のモンゴルおよびロシアと関連する祖先集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。ウー・ツァン地域南西部のシガツェのチベット人と比較して、共有派生的アレルの類似のパターンが観察されます。アムド地域のチベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地および低地の古代人集団と関連する系統の増加を共有します。四川省のチベット人と比較して、チャムドのチベット人はネパールの2125年前頃のメブラク文化および1500年前頃のサムヅォング文化集団とより多くのアレルを共有します。チャムドのチベット人で観察された遺伝的類似性のパターンと似て、カム地域の他の3地区のチベット人も、アジア東部南北両系統の増加を示します。


●現代チベット人とアジア東部古代人の時空間的比較分析および現代チベット人の遺伝的混合と継続

 全体的なアジア東部人の遺伝的構造と人口動態を明確にし、文化的・地理的に多様なチベット人の起源への新たな洞察を得るため、f4統計により時空間的な調査が行なわれました。山東省の新石器時代沿岸部アジア東部北方人と現代チベット人との間には、類似した遺伝的関係が見られます。山東省の小荆山(Xiaojingshan)遺跡個体群では、新石器時代沿岸部アジア東部南方人関連系統の増加が識別でき、アジア東部における沿岸部集団との密接な関係が示されます。

 河南省の後期青銅器時代~鉄器時代の遺跡(Luoheguxiang)の個体群は、河南省滎陽市(Xingyang)汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体群と比較して、台湾先住民であるオーストロネシア語族の現代アミ(Ami)人と関連する系統の増加を示します。河南省の後期新石器時代の郝家台(Haojiatai)遺跡個体群は、汪溝遺跡個体群と比較して、台湾の漢本遺跡や福建省の遺跡(Xitoucun)と関連するアジア東部南方人系統をより多く有し、アミ人やタイヤル人など類似の沿岸部南方集団の類似性が、河南省の後期新石器時代の平糧台(Pingliangtai)遺跡個体群で観察されますが、後期新石器時代の瓦店(Wadian)や中期新石器時代の汪溝や前期新石器時代の小呉(Xiaowu)といった河南省の各遺跡の個体群では観察されません。

 陝西省と内モンゴル自治区の古代人に焦点を当てると、現代チベット人とアジア東部南北両方(黄河流域と中国南部)の人々は、新石器時代の陝西省の石峁遺跡集団とより多くのアレルを共有します。黄河上流域古代人の経時的分析によると、現代チベット人は全員、黄河上流域古代人との類似した関係を示しますが、鉄器時代の雲南省大槽遺跡の人々は、より多くのアジア東部南方人系統を有します。これらの結果は、中国南部からの集団移動が、少なくとも鉄器時代からチベット高原北東部集団の遺伝子プールに有意な影響を有した、と示唆します。また、年代の異なるネパール古代人集団との、アジア東部人の間の対称的な関係が示されます。

 次に、現代チベット人と全ての利用可能なアジア東部古代人の空間的比較分析により、新石器時代アジア東部北方人の共有された遺伝的構成の類似性と差異が調べられました。現代チベット人11集団および他のアジア東部古代人が、地理的に異なるアジア東部北方古代人および古代チベット人と比較されました。その結果、山東省の沿岸部新石器時代4集団と比較して、ウー・ツァン地域チベット人が最も強い高地アジア東部人との類似性を有する、と明らかになりました。さらに、沿岸部および内陸部古代人と比較すると、現代チベット人は内陸部アジア東部北方人、とくに黄河上流域の後期新石器時代の喇家遺跡個体群と強い類似性を有している、と明らかになりました。この喇家遺跡個体群もしくはアジア東部北方人との類似性は、内陸部の中期新石器時代となるモンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡を沿岸部アジア東部北方人に置換しても成立しましたが、後期新石器時代個体群を前期新石器時代アジア東部北方人と置換すると消えました。アムド地域とカム地域のチベット人は、低地アジア東部北方人との類似性を、ウー・ツァン地域のチベット人はネパール古代人との類似性を示します。

 上述の集団ゲノム研究は、現代チベット人の間の集団下部構造(ウー・ツァンとアムドとカムの各地域)と、アジア東部現代人との最も密接な関係と、アジア東部南方人およびシベリア人との類似性を明らかにしてきました。現代チベット人3集団がそれぞれアジア東部の北方人および南方人とシベリア人との類似性を示すことと一致して、追加の遺伝的混合なしにこれらのソース集団の1つの直接的子孫だった、との仮定が検証されました。まず、現代チベット人が長江流域の稲作農耕民と関連するアジア東部南方人の直接的子孫だった、と仮定されました。アジア東部北方人もしくはシベリア人を用いたf4統計からは、それら参照集団からの明らかな遺伝子流動事象と、密接な遺伝的関係が示唆されました。

 チベット人の直接的祖先が沿岸部新石器時代アジア東部北方人との仮定で、追加の遺伝子流動事象を詳細に検証するためf4統計が行なわれ、ネパール古代人のみが負の値を示し、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。仰韶および龍山文化農耕民もしくはその関連集団、陝西省古代人と他のアジア東部北方古代人と南シベリア人を、現代チベット人の直接的祖先として仮定すると、これらのパターンは確認されました。裕民遺跡個体もしくはアムール川下流域のツングース語族のウリチ(Ulchi)人を直接的祖先として仮定すると、アジア東部南方人(台湾の漢本遺跡個体)と黄河流域農耕民からの追加の祖先的遺伝子流動が識別されました。ネパール古代人を直接的祖先として仮定すると、低地アジア東部古代人からの追加の明らかな遺伝子流動事象が、カム地域チベット人で検出されました。ロシアと中国新疆ウイグル自治区の追加の事前定義された祖先的集団は、強いアジア東部との類似性を確認します。


●現代および古代チベット人の系統構成

 現代チベット人と新石器時代アジア東部北方人の密接な遺伝的つながりと、チベット人とアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人と「縄文人」の父系(Y染色体)類似性を考慮し、qpWaveを用いて現代チベット人とネパール古代人と「縄文人」の祖先集団の数が調べられ、さらにqpAdmにより、1方向~3方向の対応する系統割合が推定されました。オンゲ人と「縄文人」は、アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)の7700年前頃の個体と密接な関係がある、と示されています(関連記事)。

 qpWaveの結果から、対称となった集団における観察された遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2祖先集団が必要と示されました。まずオンゲ人と内陸部および沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人6集団の2方向モデルが採用され、内陸部の裕民遺跡個体が対象となった集団の遺伝的多様性に適合しませんでした。河南省の前期新石器時代となる小高遺跡個体とオンゲ人の2方向モデルは、甘南チベット人を除く全ての現代チベット人とよく合致します。小高遺跡個体関連系統の割合は、山南チベット人で0.846、新竜チベット人で0.906です。

 2700年前頃のネパールのチョクホパニ遺跡個体群は、地理的に近いウー・ツァン地域チベット人と類似しており、小高遺跡個体に代表されるアジア東部北方人関連系統の割合が0.861、オンゲ人関連系統の割合が0.139となります。より新しいネパール古代人は、チョクホパニ遺跡個体群よりも、オンゲ人関連系統の割合が高く、アジア東部北方人関連系統の割合が低くなります。縄文人は小高遺跡個体関連系統の割合が0.484、わずかな統計的有意性を有するオンゲ人関連系統の割合が0.516でモデル化できます。

 前期新石器時代の小高遺跡個体を、山東省の前期新石器時代となる淄博(Boshan)遺跡および變變(Bianbian)遺跡個体群と置換すると、類似した結果が得られますが、淄博遺跡個体を同じ山東省の前期新石器時代となる小荆山遺跡個体と置換すると、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群は、2方向モデルに適合しません。シベリアの前期新石器時代となるジャライノール(Zhalainuoer)遺跡個体とオンゲ人関連系統は、より高いオンゲ人関連系統を有する高地チベット人および雲南省チベット人の祖先集団として適合しましたが、他のアムド地域およびカム地域チベット人には適合しませんでした。

 中期新石器時代アジア東部人をソース集団として用いると、河南省の小呉遺跡とオンゲ人関連系統のモデルは全対象集団で適合せず、悪魔の門遺跡個体とオンゲ人関連系統のモデルは、オンゲ人関連系統のより高い割合を有する、四川省チベット人と縄文人とチョクホパニ文化個体群でのみ適合できました。ユーラシア西部人との類似性を有する集団(アムド地域チベット人とネパールのサムヅォング文化集団)以外の全ての現代人および古代人集団は、オンゲ人と中期新石器時代の各遺跡のアジア東部北方人関連系統との混合としてモデル化できます。

 アジア東部北方人関連系統の割合は、汪溝遺跡個体を用いると、チベット人では0.898~0.960、縄文人では0.518、ネパールの2400~1850年前頃のメブラク(Mebrak)文化集団では0.889、チョクホパニ文化集団では0.914です。半拉山遺跡個体を用いると、山南および新竜チベット人ではそれぞれ0.795と0.847、縄文人では0.458、チョクホパニ文化集団では0.800です。内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡個体を用いると、チベット人では0.906~0.952、縄文人では0.615、メブラク文化集団では0.906、チョクホパニ文化集団では0.933です。

 さらに、ソース集団として後期新石器時代アジア東部北方人を用いると、剛察および甘南のチベット人とサムヅォング文化集団は、剛察チベット人での、瓦店遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(割合は0.932と0.068)、郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.973と0.027)、サムヅォング文化集団での郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.908と0.092)を除いて、すべて適合しませんでした。残りの全集団は、より高い新石器時代アジア東部人系統とより小さいオンゲ人関連系統の混合として適合できます。

 さらに、南方起源集団としてホアビン文化個体をオンゲ人と置換し、前期~後期新石器時代のアジア東部北方人をもう一方の起源集団として2方向混合を実行し、サムヅォング文化集団と縄文人を除いて、剛察および甘南チベット人とネパール古代人の割合を推定しました。その結果、オンゲ人に基づく2方向モデルと比較して、わずかに異なる系統構成でも良好な適合が得られました。最後に、アムド地域の剛察および甘南チベット人とサムヅォング文化集団で遺伝的多様性に適合する3方向混合モデルにて、ファナシェヴォ文化個体群がユーラシア西部人のソース集団として採用されました。この3集団は全て、青銅器時代草原地帯牧畜民関連系統を導入すると、上手く適合ました。

 新石器時代アジア東部人と現代チベット人との間の系統関係を包括的に要約し、人口史を復元するため、qpGraphにより一連の混合モデルが構築されました。核となるモデルでは、デニソワ人、現生人類の最も深い分岐を示す集団としてアフリカ中央部のムブティ人、ユーラシア西部人の代表としてルクセンブルクの中期石器時代となるロシュブール(Loschbour)遺跡個体、アンダマン諸島の狩猟採集民である現代オンゲ人、ユーラシア東部の南北の深い系統を表す、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)個体が含まれます。

 図6Aに示されるように、アジア東部人は、ユーラシア西部人からの1%程度の遺伝子流動を有するモンゴル東部の新石器時代集団に代表される北部系統と、オンゲ人と密接な系統から35%程度の遺伝的影響を受けた、福建省連江県亮島の前期新石器時代となる粮道2(Liangdao2)遺跡個体に代表される南部系統に分けられます。後期新石器時代の斉家文化関連の喇家遺跡個体群は、アジア東部北方人関連系統84%とアジア南部オンゲ人関連系統16%の混合として、ネパールのチョクホパニ文化集団は、喇家遺跡個体群系統86%とオンゲ人関連系統14%の混合としてモデル化できます。このモデルは、チョクホパニ文化関連古代チベット人と後期新石器時代の喇家遺跡個体群における、チベット高原在来住民と関連する旧石器時代狩猟採集民系統と、新石器時代アジア東部北方人系統との共存の古代ゲノム証拠を提供します。

 次に、チベット高原の11地区全ての現代人をこのモデルに追加し、新竜チベット人を除くウー・ツァン地域とカム地域チベット人は、2700年前頃のチョクホパニ文化集団の直接的子孫として適合でき、アジア東部北方人系統1集団からの追加の遺伝子流動がある、と明らかになりました。このアジア東部北方人系統は、台湾の鉄器時代の漢本個体群に33%の追加系統をもたらしました。この遺伝子流動は、チベット高原への新石器時代の拡大の第二の波の典型とみなせます。したがって、図6の結果は、チベット人7集団が、オンゲ人関連系統、後期新石器時代の喇家遺跡個体群関連系統、アジア北東部人関連系統の第二の波という、3祖先集団によく適合できる、と示唆します。それぞれの割合は、山南では0.1235と0.8265と0.05、シガツェでは0.144と0.816と0.04、ラサでは0.1344と0.8256と0.04、ナクチュでは0.1176と0.7224と0.16、チャムドでは0.1001と0.6699と0.23、雲南省では0.1106と0.6794と0.21、雅江では0.1232と0.7568と0.12です。以下、本論文の図6です。
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 図7に示されるように、2~3%のロシュブール関連系統の割合を有する茂県のアムド地域チベット人への1回の遺伝子流動事象を考慮すると、上手く適合できます。以下、本論文の図7です。
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 アジア北東部人関連系統の第二の波の最良の祖先集団の代理をさらに調べるため、新石器時代の内陸部および沿岸部のアジア東部北方人と南方人の集団を導入した、拡張混合グラフが再構成されました。図8に示されるように、新石器時代アジア東部南方人との類似性を有する低地のカム地域チベット人への第二の波は、割合が5~11%となる台湾の漢本遺跡個体関連集団に直接的に由来する、と上手く適合できます。以下、本論文の図8です。
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 次に前期新石器時代となる後李文化の淄博遺跡個体群、中期新石器時代となる仰韶文化の小呉遺跡個体群、後期新石器時代となる瓦店遺跡個体群、青銅器時代~鉄器時代の郝家台遺跡個体群を図6の核となるモデルに追加し、全てのチベット人をそれに適合させました。雲南省のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を33%有しており、四川省雅江のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を26%有しています。ラサのウー・ツァン地域チベット人の遺伝子プールも、龍山文化集団と関連する第二の移住の波に影響を受けています。この第二の遺伝子流動事象は、龍山文化集団を他の新石器時代もしくは青銅器時代~鉄器時代集団として、受け入れ可能な系統の割合と置換しても持続し、これらの現象は中原(河南省と山東省)の主要な系統の遺伝的安定性に起因するかもしれません。以下、本論文の図9です。
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●考察

 チベット高原における先史時代の人類の活動と、高地適応の現代チベット人の起源は、遺伝学・考古学・人類学・歴史学などで注目されてきました。近年における古代DNA研究の発展は目覚ましいものの、アジア東部で遅れていることは否定できません。しかし、最近になってアジア東部の古代DNA研究は大きく進展しました(関連記事)。北京近郊の4万年前頃の田园洞窟個体からは、アジア東部の初期集団構造が、アジア東部人とアメリカ大陸先住民との分岐の前に存在した、と示されました(関連記事)。中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部における南北の遺伝的分化が前期新石器時代以来続いていた、と示されました。この研究ではまた、山東省の後李文化集団から南方への移住と、福建省の曇石山文化集団から北方への移住とともに、アジア南東部のベトナムから極東ロシアまでの、アジア東方沿岸部のつながりも示し、これは後に太平洋に拡散したオーストロネシア語族の祖型集団と推測されます。新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、生存戦略が集団の移動と混合に関連している、と報告されました。さらに、ヤムナヤ文化関連のユーラシア草原地帯関連系統が、アジア東部とユーラシア西部の間の混合をもたらし、インド・ヨーロッパ語族を中国北西部にもたらしたことも推測されています(関連記事)。これらの発展はあったものの、アジア東部の高地と低地の現代人と古代人との間の遺伝的関係と分化はまだ曖昧でした。本論文では、チベット高原に関連する新石器時代から歴史時代までの広範なゲノムデータを分析することにより、チベット高原を中心にアジア東部の人類集団の旧石器時代から現代までの歴史を検証しました。

 チベット高原の現代人と古代人のゲノムは、現代漢人および新石器時代アジア東部北方人、とくに山東省の沿岸部の後李文化と河南省の内陸部の仰韶および龍山文化、茂県地区の斉家文化個体群との明確なつながりを示し、チベット・ビルマ語族現代人集団の中国北部起源を示唆します。シナ・チベット語族の起源について、言語の多様性などに基づき、仰韶・馬家窯(Majiayao)文化と関連する中国北部起源、中国南西部の四川省起源、インド北東部起源という3仮説が提示されてきました。農耕と言語の拡散仮説、チベット高原とアジア東部とアジア中央部および南部とシベリアにおける物質文化の類似性に基づくと、現代および古代チベット人の起源は依然として曖昧です。

 本論文における古代高地人とアジア北東部低地人の諸分析は、これらの集団の密接な関係を示し、母系・父系のみで伝わるmtDNAやY染色体のハプロタイプ分析により明らかになった遺伝的類似性と一致します。本論文で直接的証拠により確認されたシナ・チベット語族の仰韶文化・馬家窯文化と関連する中国北部起源説は、系統関係の再構築により提示されました。系統学的結果に基づくTreeMixとqpGraphは、現代チベット人における主要な系統を示し、チベット高原古代人(ネパールと斉家文化の人々)は、モンゴル東部新石器時代人および中原の仰韶文化・龍山文化・後李文化個体群と関連する、共通のアジア東部北方人系統に由来します。したがって、本論文のメタゲノム分析では、チベット高原の人々の主要な系統は、雑穀農耕民の新石器時代の拡大を伴う黄河中流および下流域に起源がある、と支持されます。本論文の新石器時代から現代の常染色体ゲノムに基づく知見は、ミトコンドリアとY染色体の多様性により明らかにされてきた、現代シナ・チベット語族集団の起源と多様化と拡大を確証します。

 シナ・チベット語族の共通起源の強い証拠は提示されましたが、依然としてその系統構成の違いが識別されます。チベット高原高地と比較して、低地の後期新石器時代から現代の人々は、新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人と関連する系統をより多く有しています。茂県地区の鉄器時代となる大槽子遺跡の人々も、曇石山文化のアジア東部南方人とより密接な遺伝的類似性を示し、それは稲作農耕民の北方への拡散の遺伝的痕跡を示します。低地内陸部の仰韶文化と龍山文化もしくは沿岸部の後李文化集団と比較して、高地集団は、オンゲ人もしくはホアビン文化集団と関連する旧石器時代狩猟採集民系統を一定の割合(8~14%)で有します。したがって、本論文のメタ分析は、アジア東部高地人の遺伝子プールにおける旧石器時代系統と新石器時代系統両方の共存、チベット高原の人々の旧石器時代の居住と新石器時代の拡大に関する新たな証拠を提供します。これは以前に、現代人の全ゲノム配列とミトコンドリアとY染色体のデータで明らかにされていました。

 さらに、現代チベット人の間の明らかな集団下部構造も見つかりました。チベットの核地域であるウー・ツァンのチベット人はおもに旧石器時代系統と新石器時代系統を示し、中国北西部のアムド地域チベット人はユーラシア西部人と混合して2~3%程度の遺伝的影響を受け、四川省と雲南省のカム地域チベット人は新石器時代のアジア東部南方人とのより強い類似性を有します。したがって、現代チベット人の間で観察される集団下部構造は、地理的および文化的区分と一致します。これが示唆するのは、複雑な文化的背景と地形がある程度、集団移動と混合の障壁になっていた、ということです。qpGraphに基づく系統によく適合した集団移動と混合の第二の波は、鉄器時代のアジア東部南方人からカム地域チベット人、新石器時代アジア東部北方人からカム地域およびウー・ツァン地域チベット人、ユーラシア西部人からアムド地域チベット人への遺伝子流動を明らかにしました。これは、シベリアとアジア東部南北両方からの複数の移動の波が、チベットのアジア東部高地人の遺伝子プールを形成した、と示します。


●まとめ

 ユーラシア東部、とくに中国に焦点を当てた新石器時代から現代の包括的なゲノムメタ分析は、チベット高原の高地人と低地アジア東部人との間の関係を明確にし、チベット高原の人々を調査するために行なわれました。遺伝的調査の結果は、古代および現代チベット人と新石器時代から現代のアジア東部北方人との間の強い遺伝的類似性を示します。これが示唆するのは、チベット・ビルマ語族の主要な系統は中国北部の黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団に起源があり、漢人との共通祖先を有し、雑穀農耕民とシナ・チベット語族の拡大を伴う、ということです。

 古代チベット人と低地の仰韶文化・龍山文化・後李文化集団の間で共有された系統が存続しますが、遺伝的分化も見つかりました。高地チベット人は深く分岐したユーラシア東部オンゲ人関連狩猟採集民系統を、低地の新石器時代から現代のアジア東部人は新石器時代アジア東部南方人とシベリア人系統からより多くの系統を有します。これは、現代および古代チベット人における旧石器時代と新石器時代の系統の共存、および旧石器時代の居住と新石器時代の拡大の集団史を示唆します。

 さらに、地理的・言語学的区分と一致して、現代チベット人において3集団下部構造が識別されました。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより高いオンゲ人・ホアビン文化集団関連系統と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部人関連系統と、カム地域チベット人におけるより大きいアジア東部南方人関連系統です。要約すると、アジア東部高地現代人は、少なくとも古代人5集団に由来します。最古層としてのホアビン文化関連集団、アジア北東部の内陸部および沿岸部からの新石器時代の2回の拡大による追加の遺伝子流動、新石器時代のアジア東部南方人の北方への拡大が1回、ユーラシア西部人の東方への拡大が1回です。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、今年(2020年)になって大きく進展したアジア東部人類集団に関する古代ゲノム研究の成果を取り入れた包括的な分析になっており、たいへん注目されます。現代チベット人集団の遺伝的類似性とともに、その下部構造も明らかになっており、それが地理および文化と関連している、との推測は妥当でしょうし、興味深いものだと思います。ただ、中国領となっているチベット人の主要な居住地域では古代ゲノムデータがほとんど得られておらず、それが今後の課題となるでしょう。チベット高原の人類の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、現代チベット人の形成過程がさらに詳細に解明されるでしょうし、それはアジア東部における各現代人集団の形成過程の分析にも役立つと期待されます。

 現代チベット人と現代日本人の類似性は、現代日本社会において一部?の人々により強調される傾向にあるように思われますが、本論文からも、類似した遺伝的構成が示されます。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。この古層としての在来狩猟採集民は、出アフリカ後の現生人類がユーラシア東西系統に分岐し、さらにユーラシア東部系統が南北に分岐した後の南方系統に由来する、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られるY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくこの狩猟採集民系統に由来するのでしょう。もっとも、これも単純化はできず、現代日本人における古層としての在来集団である「縄文人」は、本論文が示すように、ユーラシア東部南方系統と、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統との混合だった、と推測されます。

 今年になって大きく進展したアジア東部の古代ゲノム研究ですが、今後の課題は、まず新石器時代アジア東部南方人を代表すると考えられる長江流域新石器時代個体群のゲノム解析で、あるいは、すでにゲノムデータが得られている福建省の新石器時代個体群とはかなり異なる遺伝的構成を示す可能性もありますが、おそらく両者は類似した遺伝的構成だと思われます。次に、アジア東部ではほとんど得られていない更新世人類のゲノムデータです。現時点では、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統がいつどのようにアジア東部に拡散してきて、南北両系統に分岐したのか、ほとんど明らかになっていません。

 ただ、中国の大半はヨーロッパと比較して古代DNAの保存に適していない自然環境なので、今後も更新世人類のゲノムデータはさほど期待できないかもしれません。上述の4万年前頃となる北京近郊の田园洞窟個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000~34000年前頃の個体(関連記事)からは、アジア東部系統はユーラシア中緯度草原地帯を西進してきたユーラシア東部北方系統から派生してアジア東部北方に4万年前頃かその少し前に到達し、その後にLGMによる各地域集団の孤立を経て南北両系統に分岐したのではないか、と現時点では考えていますが、自信はなく、今後の研究の進展を俟つしかないのでしょう。


参考文献:
Wang M. et al.(2020): Peopling of Tibet Plateau and multiple waves of admixture of Tibetans inferred from both modern and ancient genome-wide data. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.03.185884

森祇晶『責任者の條件 勝利への九つの設計図』

 青春文庫の一冊として、青春出版社から1999年3月に刊行されました。本書は、同じ題名で青春出版社から1997年4月に刊行された単行本の文庫化です。本書の刊行時期は、著者が西武の監督を退いて横浜の監督に就任する前で、著者は一般的には名将として高く評価されていたように思います。もっとも、本書刊行の前年に、著者が巨人監督に就任するという話が大きく報道され、巨人ファンの反対で立ち消えとなったので、文庫本刊行の頃には、著者への嫌悪感は単行本刊行時よりも上がっていたかもしれません。

 本書の内容ですが、全体的に抽象的となっており、単にプロ野球ファン向けではなく、一般的・普遍的になっています。おそらく著者も編集者も意識してのことでしょう。その分、プロ野球ファンの読書が期待するような具体的な話はやや少なくなっており、個人名が伏せられていることも多く、少なからぬ読者が期待していただろう醜聞めいた話に具体性が欠けているところもありますが、著者の対外向けの姿勢からは、こうしたやや「堅苦しい」内容になることには納得できます。そのため、著者は親交のあった野村克也氏よりも一般人気が低かった、とも言えるでしょう。

 もちろん、本書にはプロ野球に関する具体的な話も多くあり、興味深いものも少なくありませんでした。たとえば、石毛宏典氏を将来の指導者と見込んで、選手時代から監督・コーチ会議に呼んでいた、というような話です。今にして思うと、見込み違いも甚だしかったわけですが、私も当時は、石毛氏が監督に向いていると考えていました。達川光男(晃豊)氏もそうでしたが、現役時代に監督としての資質を見抜くのは、私のような見識のない人間には難しいものです。また、全体的に綺麗事との印象は否定できません。たとえば、清原和博氏について著者は、自律的で自主的に練習・行動のできる選手として高く評価していますが、今になってみると、著者が節穴だったか、当時はまだスター選手だった清原氏に忖度したか、自分の指導が間違っていなかったことを示したかっただけではないか、と勘ぐってしまいます。まあ、高校野球のスター選手で、オーナーのお気に入りだった清原氏を厳しく指導するのも、監督としてはなかなか難しかったかもしれませんが。

 選手の自主性と言えば、著者は、西武には自主管理のできる選手がそろっており楽だろう、と評論家やマスコミによく言われたものの、そこに持っていくまでの過程に苦労がある、と力説します。確かに、当時の西武の戦力といえども、ほぼドラフト制下の選手ばかりだったにも関わらず、監督として9年間でリーグ優勝8回、日本一6回を達成できる人はきわめて少ないでしょう。その意味で、著者の選手を使う力量は優れていると言えますが、けっきょく著者の横浜での監督時代を考えると、その前の監督だった広岡達朗氏と、広岡氏の前任で森監督時代のほとんどの期間で管理部長だった根本陸夫氏の功績が大きかったのではないか、と思います。本書のような功績を残した人の「ビジネス本」は少なくありませんが、常識論になってしまうものの、やはり鵜呑みにするものではない、と改めて思い知らされます。

羊膜類の卵の進化

 羊膜類の卵の進化に関する二つの研究が報道されました。一方の研究(Norell et al., 2020)は、モンゴルとアルゼンチンで発見された恐竜の卵について報告しています。羊膜類は、鳥類・哺乳類・爬虫類を含む分類群で、胚の乾燥を防ぐ働きをする内膜(羊膜)のある卵を産みます。羊膜類の中には、トカゲ類やカメ類のように殻の柔らかい卵を産むものもあれば、鳥類のように強く石灰化した硬い殻の卵を産むものもあり、こうした多様性は、さまざまな進化の軌跡を示しています。石灰化した卵殻は、発生中の胚を環境ストレスから保護して繁殖成功に寄与しした可能性が高いため、環境ストレスに対する防御を高める石灰化卵の進化は、羊膜類の歴史上の節目を表しています。しかし、柔らかい殻の卵が化石記録に残されることは稀なので、柔らかい殻から硬い殻への移行を研究することは困難です。

 現生のワニ類および鳥類が硬い殻の卵を産むことから、非鳥類型恐竜の卵殻もこの種のものだった、と推測されてきました。既知の恐竜の卵殻は、最内層の膜、その外側の方解石を含むタンパク質マトリックス、そして最外層のろう状のクチクラを特徴とします。方解石を含む卵殻は超微細構造を有する単一または複数の層から構成され、こうした卵殻構造は呼吸孔の配置と同様に、恐竜類の3つの主要なクレード(単系統群)間で著しく異なります。これまでに卵殻が発見されているのは、ハドロサウルス類と一部の竜脚形類とテタヌラ類のみで、化石記録の不足および中間的な種類の卵殻の欠如により、全ての恐竜にわたる卵殻構造の相同性を示そうとする試みは困難でした。

 本論文は、保存状態の極めて良好な鳥盤類プロトケラトプス(Protoceratops)および竜脚形類の基部に位置するムスサウルス(Mussaurus)の卵が、本来は生体鉱物化作用(バイオミネラリゼーション)を受けずに軟らかい殻を有していたことを示す、鉱物学的・有機化学的・超微細構造的な証拠を提示します。化石および現生の双弓類の、硬い殻の卵と軟らかい殻の卵を代表する一連の卵殻標本から得られたin situラマンスペクトルの統計学的評価から、本来は有機質だったものの、その後二次的にリン酸塩化したプロトケラトプスの卵殻とムスサウルスの有機質の卵殻が、生体鉱物化していない軟らかい卵殻に分類されました。組織学的特徴もまた、これらの軟らかい殻を有する恐竜の卵の有機質的な組成を裏づけており、カメ類の軟らかい卵殻に似た層状構造が明らかになりました。組成および超微細構造の祖先的状態を再現して、プロトケラトプスおよびムスサウルスの卵殻を他の双弓類の卵殻と比較したところ、恐竜の最初の卵は軟らかい殻を有していた、と示されました。石灰化した硬い殻の恐竜の卵は、中生代全体を通じて少なくとも3回にわたって別々に進化したと考えられ、化石記録に見られる派生的な恐竜の卵殻への偏りは、これによって説明されます。現生爬虫類の一部と同じように、柔らかい殻の卵が水分を含んだ土や砂の中に産みつけられ、植物物質の分解過程で生じる熱により孵化した可能性が高い、というわけです。


 もう一方の研究(Legendre et al., 2020)は、南極で発見された後期白亜紀の巨大な軟らかい殻の卵について報告しています。卵のサイズおよび構造は、脊椎動物の生殖や生活史の特徴に対する重要な制約を反映しています。現生の全羊膜類の2/3以上が卵生です。中生代(約2億5000万〜約6500万年前)において体サイズは極限に達したにもかかわらず、既知で最大の卵はごく最近絶滅したエピオルニス(Aepyornis)のもので、その年代は最後の非鳥類型恐竜および巨大な海生爬虫類より約6600万年新しい、と推定されています。

 本論文は、南極の後期白亜紀(約6800万年前)の沿岸海洋堆積物から発見された、新たな種類の卵について報告します。この卵は、既知の全ての非鳥類型恐竜の卵より体積が大きく、構造も異なります。エピオルニスの卵はこれと比較して規模がわずかに大きいものの、殻の厚さは約5倍あり、厚い角柱層および複雑な細孔構造が認められます。これに対して、新たに発見された卵化石は明らかにつぶれて折れ曲がっており、薄い卵殻には角柱層と明瞭な細孔を欠く層構造が認められ、現生のトカゲ類およびヘビ類(鱗竜類)の大半で見られる卵に類似しています。

 この卵を産んだ動物の正体は不明ですが、保存されている形態的特徴は、付近で発見されているモササウルス類(大型の海生鱗竜類)の骨格遺物の特徴と一致します。一方、これらの特徴は、サイズが同程度の恐竜の卵で報告されている形態的特徴とは一致しません。現生の鱗竜類259種と外群の形質に関する系統発生学的解析により、この新たに発見された卵を産んだのは全長が少なくとも7 mある個体だったと示唆され、この個体は、これまで全クレードが胎生だと考えられてきた巨大海生爬虫類と仮定されました。比較的薄い卵殻を有するこうした大型の卵は、体形に関連した派生的制約・巨大化と関連する生殖投資・鱗竜類の胎生(「痕跡的な」卵が直ちに孵化します)を反映するものと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2および引用3)です。


古生物学:柔らかい殻の卵の進化を示す「硬い」証拠

 羊膜類の卵の進化に関する新たな手掛かりをもたらした2つの研究について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。Mark Norellたちの論文では、最初の恐竜が柔らかい殻の卵を産んだという見方が示されており、この見解は、恐竜類が硬い殻の卵を産んだとする一般的な見解と相いれない。一方Julia Clarkeたちの論文では、南極大陸で初めて発見された化石卵である柔らかい殻の大型の卵について記述されている。

 羊膜類は、鳥類、哺乳類、爬虫類を含む分類群で、胚の乾燥を防ぐ働きをする内膜(羊膜)を持つ卵を産む。羊膜類の中には、トカゲ類やカメ類のように殻の柔らかい卵を産むものもあれば、鳥類のように強く石灰化した硬い殻の卵を産むものもある。こうした多様性は、さまざまな進化の軌跡を示している。石灰化卵は繁殖の成功に寄与し、その結果として羊膜類の生息地の拡大と多様化に寄与した可能性が高いため、環境ストレスに対する防御を高める石灰化卵の進化は、羊膜類の歴史上の節目を表している。しかし、柔らかい殻の卵が化石記録に残されることはまれであり、そのため柔らかい殻から硬い殻への移行を研究することは難しい。

 Norellたちは、プロトケラトプスとムスサウルスという2つの恐竜種の胚を含む化石卵を調べ、その殻が柔らかかったことを明らかにした。Norellたちは、恐竜類では、硬い殻の石灰化卵は少なくとも3回独立して進化しており、祖先種の柔らかい殻の卵から進化した可能性が非常に高いという見解を示している。現生爬虫類の一部と同じように、柔らかい殻の卵が水分を含んだ土や砂の中に産み付けられ、植物物質の分解過程で生じる熱によって孵化した可能性が高い。

 一方、Clarkeたちは、南極大陸で約6600万年前の白亜紀の堆積物からほぼ完全な形で発掘された、フットボールサイズの柔らかい殻の化石卵について記述している。この化石卵は、これまでに報告された化石卵としては最大級のもので、マダガスカルで発見された絶滅した鳥類であるエピオルニスが産んだ卵に次いで2番目に大きい。その大きさと結晶性外層のない薄い殻は、「退化した」卵が母体内で成長して産卵直後に孵化するという、卵胎生の生活様式を示唆している。この化石卵は、新しいタクソンAntarcticoolithus bradyiに属するとされたが、この卵の母親は謎に包まれたままである。この点について、Clarkeたちは、モササウルスのような巨大な海生爬虫類が産卵した可能性があるという考えを示している。別の説明として同時掲載のNews & Views論文で示されているのは、この卵は恐竜が産んだというものだ。この仮説が提起されたのは、この化石卵の推定重量が鳥類と非鳥類型恐竜の最も大きな卵の重量に近く、鳥類と非鳥類型恐竜の両方の化石が南極大陸で見つかっているからだ。


古生物学:恐竜の最初の卵は軟らかかった

古生物学:恐竜の卵は最初は軟らかかった

 これまでに調べられた恐竜の卵は全て、現在のワニ類や鳥類と同様に硬い殻を有していた。しかし、翼竜や他の一部の爬虫類では、卵殻が軟らかかったことが分かっている。今回M Norellたちは、モンゴルで発見されたプロトケラトプス(Protoceratops)とアルゼンチンで発見されたムスサウルス(Mussaurus)という、地理的にも系統発生学的にも大きく異なる2種類の恐竜の卵について調べ、それらの殻が共に軟らかかったことを示している。これによって、恐竜の硬い殻の卵は少なくとも3回にわたって別々に進化したことが示唆された。


古生物学:南極で発見された後期白亜紀の巨大な軟らかい殻の卵

古生物学:南極で見つかった白亜紀の巨大な卵

 南極の白亜紀堆積物から出土した卵の化石は、長さが20 cmを超え、体積は既知の全ての非鳥類型恐竜の卵より大きい。これよりも大きな卵はエピオルニス(Aepyornis)のものしか知られておらず、エピオルニスの卵は今回発見された謎の卵よりサイズがわずかに大きいが、殻の厚さは約5倍ある。今回L LegendreとJ Clarkeたちは、この軟らかい殻の卵が、モササウルスのような巨大な海生爬虫類のものであると示唆しているが、恐竜など他の動物のものである可能性も排除していない。



参考文献:
Legendre LJ. et al.(2020): TA giant soft-shelled egg from the Late Cretaceous of Antarctica. Nature, 583, 7816, 411–414.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2377-7

Norell MA. et al.(2020): The first dinosaur egg was soft. Nature, 583, 7816, 406–410.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2412-8

異なる地球と月の酸素同位体組成の継承

 地球と月の酸素同位体組成に関する研究(Cano et al., 2020)が公表されました。巨大衝突仮説では、月は初期地球とテイアと呼ばれる原始惑星との巨大衝突の後の残骸から形成された、と示唆されています。地球と月は地球化学的に似ており、アポロ計画により月から持ち帰られた試料は、ほぼ同一の酸素同位体組成を示しています。巨大衝突仮説は、地球と月の地球化学的類似性の多くを説明できますが、酸素同位体組成が極めて似ていることをこのシナリオと調和させることは困難でした。2つの天体は、初めから酸素同位体の同一の組成を持っていたか、衝突の直後に2つの天体の酸素同位体が完全に混合したかですが、前者の可能性は低く、後者はシミュレーションでのモデル化が困難でした。

 この研究は、一連の月の試料について、酸素同位体組成の高精度測定を行ないました。その結果、測定した石の種類により酸素同位体組成が違う、と明らかになりました。これは、衝突後に溶けた月と、蒸発してできた大気との間の混合の度合いによる可能性を示唆します。月のマントル深部から得られた試料の酸素同位体は、地球の酸素同位体と最も異なっていました。この研究は、月のマントル深部では混合が最も少なく、衝突したテイアを最も表している可能性がある、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地球科学:地球と月の酸素同位体組成は異なる

 地球と月の酸素同位体組成は、同一ではなく明確に異なっていることを示した論文が、Nature Geoscience に掲載される。今回の知見は、月の形成に関する現在の理解に疑問を投げ掛ける可能性がある。

 巨大衝突仮説は、月は、初期地球とテイアと呼ばれる原始惑星との巨大衝突の後の残骸から形成されたことを示唆している。地球と月は地球化学的に似ており、アポロ計画により月から持ち帰られた試料は、ほぼ同一の酸素同位体組成を示している。巨大衝突仮説は、地球と月の地球化学的類似性の多くを説明できるが、酸素同位体組成が極めて似ていることをこのシナリオと調和させることは難しかった。2つの天体は、初めから酸素同位体の同一の組成を持っていたか、衝突の直後に2つの天体の酸素同位体が完全に混合したとするかであるが、前者の可能性は低く、後者はシミュレーションでモデル化することが困難であった。

 今回、Erick Canoたちは、一連の月の試料について、酸素同位体組成の高精度測定を行った。その結果、測定した石の種類によって、酸素同位体組成が違うことが分かった。これは、衝突の後に溶けた月と、蒸発してできた大気との間の混合の度合いによる可能性がある。月のマントル深部から得られた試料の酸素同位体は、地球の酸素同位体と最も異なっていた。著者たちは、月のマントル深部は混合が最も少なく、衝突したテイアを最も表している可能性があると示唆している。



参考文献:
Cano EJ, Sharp ZD, and Shearer CK.(2020): Distinct oxygen isotope compositions of the Earth and Moon. Nature Geoscience, 13, 4, 270–274.
https://doi.org/10.1038/s41561-020-0550-0

イギリスにおける血液型への関心

 イギリスにおける血液型への関心について報道されました。イギリスの成人に血液型を尋ねたところ、「知らない」という回答が55%だった、とのことです。どの血液型なのか明示されていないのですが、ABO式血液型が発見された経緯に触れられているので、おそらくはABO式血液型なのでしょう。とくに若い世代で知らない割合が高く、18~24歳では81%で、25~49歳でも60%が知らなかったそうです。今では輸血前に必ず検査する、と聞いたのは随分前なので、若い世代が自分のABO式血液型を知らないのも当然で、検索してみたところ、日本では現在、子供のABO式血液型の検査はやらないそうです。私は小学1年生の時にABO式血液型の検査を受けた、と記憶しています。イギリスの事情は知りませんが、おそらく同様なのでしょう。

 ただ、随分前になりますが、ABO式血液型への関心が高いのは世界でも日本を含めて漢字文化圏の一部だけと聞いたこともあるので、イギリスでは25~49歳で40%も自分のABO式血液型を知っているのは、やや意外でもありました。かつてはイギリスでも、子供の頃にABO式血液型の検査が行なわれ、本人に通知されていたのでしょうか。おそらく今後、日本やイギリスに限らず世界全体で、自分のABO式血液型を知らない人が増えていくのでしょう。

 これは、日本に関してはたいへん歓迎すべきと思います。20世紀の頃から感じ続けてきたことですが、日本社会におけるABO式血液型への関心の高さは明らかに不健全です。血液型の種類は多くあるのに、ABO式血液型への関心が突出して高いのは、やはりABO式血液型と性格(気質)を結びつける見解が浸透しているからでしょう。ABO式血液型で*型なので**のような性格だ、といった与太話が現代日本社会ではありふれています。これは「ABO式血液型ハラスメント」と言うべきであり、現代日本社会において改善すべき欠陥・恥部の一つでしょう。今では日本社会でも子供のABO式血液型は調べられていないそうですから、日本でも今後ABO式血液型への関心が低下していくのではないか、と期待されます。

 しかし、これはあまりにも楽観的かもしれません。今でも個人紹介でABO式血液型を明示することは少なくないわけで、若い人の多い(というか殆どの)女性アイドルグループの中で、1番人気(らしい)乃木坂46の公式サイトを閲覧したら、生年月日・星座(生年月日から星座が分かるので不要なように思いますが)・身長とともに、血液型が明示されていました。個人情報の中でもとくに秘匿性を高くすべき遺伝情報を明示することは、私の感覚では、奴隷制や優生学を堂々と肯定的に主張するほどではないとしても、現代においては論外です。これでは、今後も日本でABO式血液型信仰とでも言うべきものが残っていくのではないか、と懸念されます。

 世界でもABO式血液型への関心が高いのは漢字文化圏の一部だけ、との言説の傍証になりそうなのは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型に関する研究で、現代人と近縁な絶滅ホモ属(古代型ホモ属)であるネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型関連遺伝子はほとんど注目されてこなかった、と指摘されていたことです(関連記事)。古代型ホモ属の遺伝的研究は盛んですが、その研究の中心地はヨーロッパとアメリカ合衆国で、ヨーロッパ系の研究者が多いため、ABO式血液型遺伝子はほとんど注目されてこなかったのではないか、と思います。一方、古代DNA研究でも、日本人研究者が中心だったためと言えるのか、自信はありませんが、北海道の「縄文人」のDNA研究では、ABO式血液型関連遺伝子について言及されています(関連記事)。

ジャワ島のホモ・エレクトスに関するまとめ(3)

 ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)に関しては、2014年(関連記事)と2018年(関連記事)にまとめました。その後、エレクトスに関する重要な研究が多く公表されていますが、当ブログではわずかしか取り上げられていません。しかし、少しずつまとめないと大変なので、ここで一度まとめることにします。今回は、基本的にはジャワ島のエレクトスを対象としつつ、他地域の広義のエレクトスについても少し言及します。

 ジャワ島のエレクトスに関する新たな基本的情報としては、年代の見直しがあります。ジャワ島におけるエレクトスの出現年代は、サンギラン(Sangiran)遺跡の人類遺骸に基づき、アルゴン-アルゴン法により150万年以上前と推定されていました(関連記事)。しかし、今年(2020年)公表された研究では、サンギラン遺跡における最初の人類の出現は、フィッショントラック法とウラン-鉛年代測定法により、127万年前頃もしくは145万年前頃以降、と推定されています(関連記事)。

 サンギラン遺跡のエレクトス遺骸は、形態学的にバパン(Bapang)層とその下のより古いサンギラン層で区分されます。サンギラン層の個体群はひじょうに多様で、アフリカの170万~140万年前頃のエレクトスもしくはエルガスター(Homo ergaster)と類似した比較的祖先的な特徴を示します。バパン層の個体群は比較的派生的で、アジア東部の中期更新世のエレクトスに匹敵する、より大きな神経頭蓋と縮小した歯顎を有しています。この変化は、気候変動によりジャワ島のエレクトス集団内で起きたとも、アフリカから東進してきたか、アジア東部から南下してきた(広義の)エレクトス集団の影響によるものとも考えられます。

 もっとも、これはあくまでもサンギラン遺跡のエレクトスの推定年代なので、ジャワ島の他の遺跡でもっと古いエレクトス遺骸が確認される可能性もあります。また、中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)近くの尚晨(Shangchen)で発見された石器群の年代は212万年前頃までさかのぼる、と推定されています(関連記事)。広義のホモ・エレクトスがアフリカ南部において200万年前頃までさかのぼること(関連記事)から、ジャワ島で200万年前頃に広義のホモ・エレクトス、もしくはエレクトスの祖先ときわめて近縁なホモ属が存在していたとしても不思議ではないかもしれません。

 ただ、中国北部の212万年前頃の人類が、広義のホモ・エレクトス、もしくはエレクトスの祖先ときわめて近縁なホモ属だとしても、アフリカからユーラシア南部を東進して、現在のミャンマーとラオスとベトナムを通って中国を北上したのだとすると、ジャワ島(もしくはスンダランド)には、200万年以上前には人類が存在しなかったかもしれません。また、中国北部の212万年前頃の人類が、温暖な時期のユーラシア中緯度草原地帯を東進してきた可能性も考えられ、その場合もジャワ島まで拡散しなかった可能性があります。

 ジャワ島における最後のエレクトスの年代については、以前から大きく異なる見解が提示され、議論されてきましたが、昨年公表された研究では、ンガンドン(Ngandong)遺跡の最後のエレクトス遺骸の年代が、117000~108000年前頃と推定されています(関連記事)。物相の分析から、ンガンドン一帯は13万年前頃に、エレクトスの起源地であるアフリカのサバンナと類似した、開けた森林が点在する草原地帯から、熱帯雨林へと変わっていきます。そのため、ジャワ島のエレクトスは適応できずに絶滅したかもしれません。もちろん、ジャワ島の近隣のフローレス島において、ジャワ島のエレクトスの子孫と考えられるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が5万年前頃まで存在していたこと(関連記事)や、ルソン島における67000~50000年以上前の新種ホモ属ルゾネンシス(Homo luzonensis)の存在(関連記事)からも、ジャワ島において10万年前頃もエレクトスが存在していた可能性も想定されます。

 近年、現生人類(Homo sapiens)だけではなく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のDNA研究が盛んですが、ジャワ島のエレクトスのDNA解析は、10万年以上前という年代と低緯度に位置するジャワ島の地理からして、ほぼ不可能でしょう。そこで注目されるのが、タンパク質解析から遺伝情報を得る手法です(関連記事)。これは、DNA解析よりも時空間的に適用範囲がずっと広く、人類史におけるジャワ島のエレクトスの系統的位置づけの、有力な根拠となるかもしれません。ただ、古代型ホモ属のタンパク質配列をかなり容易に推定できたのは、すでにゲノム配列の得られている現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が対象だったからで、ゲノム配列の得られていない人類に関しては、タンパク質配列は困難となります。そのため、エレクトス標本からタンパク質の配列を決定できても、現生人類や他のホモ属との関係について判断できるほどの充分な情報は得られないかもしれません。

 しかし、まだDNAが解析されていない、スペイン北部で発見された949000~772000年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)遺骸でも、タンパク質解析に成功しており、アンテセッサーは現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の最終共通祖先ときわめて近縁な姉妹系統と推測されます(関連記事)。その意味では、ジャワ島のエレクトス遺骸のタンパク質解析も期待できそうです。ただ、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の177万年前頃の人類遺骸のタンパク質も解析されたものの、平均的なペプチドの長さが短く、中程度の解像度しか得られず、特有の分離した単一アミノ酸多型が欠如しているため、アンテセッサーも含めての系統樹には明確に位置づけられず、ジャワ島のエレクトス遺骸のタンパク質解析は容易ではないかもしれません。なお、ドマニシ遺跡の177万年前頃の人類広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)とも、新種のホモ・ゲオルギクス(Homo georgicus)とも分類されています。

 もっとも、人類ではありませんが、190万±20万年前と推定されている大型類人猿(ヒト科)のギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)では、中国南部の亜熱帯地域で発見されたにも関わらず、タンパク質解析に成功しています(関連記事)。ギガントピテクス・ブラッキーよりも低緯度地域となるものの、それよりも新しいジャワ島のエレクトス遺骸に関しては、今後タンパク質解析を期待してもよいのではないか、と思います。さらに、後期更新世のアジア南東部のホモ属で、その系統関係について議論が続いている、フロレシエンシスやルゾネンシスのタンパク質解析も期待されます。フロレシエンシスとルゾネンシスがジャワ島のエレクトスの子孫なのかどうか、またジャワ島の新旧のエレクトスが祖先・子孫関係にあるのか、といった問題もタンパク質解析により解決されるかもしれません。

 エレクトスの性的二形については、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)並に大きかった、との見解もあり(関連記事)、今年公表されたアフリカ東部のエレクトスに関する研究でも、エレクトスの性的二形は顕著に大きかった、と指摘されています(関連記事)。ただ、足跡に関する昨年の研究では、エレクトスの性的二形はゴリラのように顕著に強くはないものの、現代人よりはやや強く、エレクトスの性的二形の大きさは、ドマニシ遺跡の177万年前頃の小柄なホモ属化石を含めてしまったことが原因だろう、と指摘されています(関連記事)。エレクトスの性的二形については、標本数の少なさのため評価が難しく、今後も議論が続いていきそうですが、現代人より大きかった可能性は高そうです。

ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)における儀式の進化的起源に関する研究(Nielsen et al., 2020)が公表されました。現代人の生活は、誕生日にケーキの蝋燭の火を吹き消すという世俗的な行為から、イスラム教の礼拝など明らかに宗教的な行為まで、儀式で満たされています。儀式はその遍在性と埋め込み性のため、可視的な場合と不可視的な場合があり、一過性のことも深遠なこともあります。現在、儀式はさまざまな目的を果たしており、たとえば、協力的な集団の形成、信頼機能の提供、個人もしくは集団の不安軽減、文化的知識の早期と伝達などです。現代人の儀式が遍在しているように見える一方で、ホモ属の進化史において儀式がこれらの役割を果たし始めた時期は不明です。本論文は、儀式化された行動の共通遺産の範囲を調べる第一段階として、現代人の近縁系統であるネアンデルタール人の儀式的行動の事例を再調査します。


●ネアンデルタール人の分化

 ネアンデルタール人と現生人類の推定分岐年代については、かなりの幅がありますが(関連記事)、大まかには80万~50万年前頃に収まりそうです。現代人の認知能力と行動の起源の解明について、最近縁とも言えるネアンデルタール人の研究が有用と考えられます。そこで本論文は、まずネアンデルタール人の社会的および認知的性向について現在の知見を整理します。ネアンデルタール人の起源については議論がありますが、形態学的にも遺伝学的にも、40万年以上前からヨーロッパに存在していた、と考えて大過なさそうです(関連記事)。ネアンデルタール人は中東にも拡散し、中東では5万年前頃(関連記事)、ヨーロッパでは4万年前頃(関連記事)まで存在しました。

 ネアンデルタール人はさまざまな遊動戦略を採用し、その石器技術は祖先が用いたアシューリアン(Acheulian)石器群よりも多様で、時には特定の用途に適した石器も製作しました。またネアンデルタール人は、動物の骨(関連記事)や爪(関連記事)・木材(関連記事)・貝殻(関連記事)・接着剤(関連記事)などによる、複合技術も用いていました。ネアンデルタール人の狩猟戦略も複雑で、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となるピレネー山脈のフランス側にあるモーラン(Mauran)遺跡では、ネアンデルタール人が誘導的なバイソンを自然の地理的罠に追い込み、大量に屠殺して消費していた、と推測されています。モーラン遺跡は数百年にわたって使用されており、適応的な文化的知識の伝達と、集団的意図の理解を通じての、専門的な地域固有の技術の維持が示唆されます。

 ネアンデルタール人の両面加工石器伝統では地域間変異が見られ、同様に世代間の文化的知識の伝達が示唆され、ムステリアン(Mousterian)の技術的連続性はユーラシア中部旧石器時代の特徴です。この技術的安定性は、同年代の現生人類との比較で議論となっています。最近の研究では、ネアンデルタール人の社会学習において多くの実験作業なしの高忠実度の模倣が主流であることにより、技術的安定性を説明できるかもしれない、と提案されています。ネアンデルタール人はさまざまな環境に住む専門の狩猟採集民で、何万年にもわたって文化的知識を伝達しました。しかし、現代人に見られるような儀式がネアンデルタール人にあったのか、議論が続いています。


●儀式と儀式的行動

 本論文はネアンデルタール人の儀式について検証するにあたって、「儀式」と「儀式的行動」とを区別し、現在の基準と定義を適用することの難しさを指摘します。儀式は、(1)厳格さと形式性と反復により特徴づけられ、(2)それは象徴性と意図のより大きな体系に埋め込まれており、(3)直接的に役立つ目的を欠く要素を含みます。要素2には、関連するある程度の継続性と共有される知識および規範性が必ず要求されます。「儀式的行動」はおもに要素1および3の行動構成です。これは反復的で冗長であり、しばしば厳格もしくは形式的に遂行され、因果的に不明瞭で目的が降格されます。儀式的行動は多くの場合、より大きな儀式の要素ですが、儀式とは異なり、象徴的に貧しい文脈で存在する可能性があります。

 因果的に不明瞭で目的が降格されることは、要素3と結びつきます。因果的に不明瞭な行動は、行動と結果の間の因果関係が観察者にとって識別しにくいものです。たとえば、水の温度を上げるため、火の上で水を加熱することは因果的に明白ですが、電子レンジでの加熱は(物理学的に説明可能ではあるものの、多くの人にとって直観的には)因果的に不明瞭です。現生人類の儀式は復元不可能なほど因果的に不明瞭で、儀式の因果関係は単に不明なだけではなく、じっさい知ることはできません。その典型例が執り成しの祈りで、これがどのように因果的に意思伝達の経路を促進するのか、なぜ他の行動よりも優れているのか、知られていないだけではなく、そのような答えは不可知です。目的の降格とは、行動を遂行する代理人の動機と目標を直観的に理解するうえで、単純な観察者が要求される程度です。たとえば、暗い部屋で蝋燭を灯すことの目的は明らかですが、暗くない部屋で蝋燭を灯すことは、文脈なしでは理解しにくい目的の降格です。

 本論文はさらに、個人主義的な儀式的行動と集団的な儀式的行動を区別します。前者は(ある程度)他の手段となる目的から解放された行動ですが、後者は、形式的・模範的・様式化されるように拡張されます。個人の場合、特異な個人主義的行動は誤った因果的信念を通じて発生する可能性があります。パンツの着用には有用性がありますが、幸運を願って特定の組み合わせでパンツを着用することは儀式的です。そのような信念は正しかったり、共有されたり、もしくは象徴的だったりする必要はなく、単に遂行が必要なだけです。同様に、強迫性障害に特徴的な反復性や形式性や義務的行動は、個人主義的な儀式的行動とみなされます。これらは儀式的ですが、「共有」および象徴性を欠いています。重要なのは、個人の儀式が集団の儀式から独立しているか、それと対立している必要はない、ということです。手段となる目的に役立つよう展開された個人主義的儀式は、集団的儀式および象徴主義と共存している、と考えられます。個人の儀式的行動は集団的儀式の必要な前兆と考えられます。


●ネアンデルタール人の儀式の証拠

 集団的な儀式的行動の証拠を探す場合、死に関連する行動が出発点として適しています。最近の研究では、霊長類の多様な種において、さまざまな死に関連する行動が報告されており、大きくは、死体の運搬・引きずり、個体もしくは集団としての死体の防御、「警戒」と明らかな悲嘆、に3区分されます。しかし非ヒト霊長類では、死者の扱い、悲しみ、慰め、その他の象徴的行動に関して、現生人類の基準に達しておらず、たとえば、悲嘆する集団構成員を慰めるような行動はほとんど観察されていません。全てではないにしても多くの場合、非ヒト霊長類のそうした行動は集団的な儀式的行動でなく、個人的な儀式的行動です。問題は、ネアンデルタール人の死に関連する行動はどうだったのか、ということです。

 死者を処置する儀式は現生人類の体験の重要部分で、意図的な埋葬は儀式の存在に関する最も明確な考古学的証拠を提供します。ホモ属における意図的な死者の埋葬はイベリア半島北部で40万年前頃までさかのぼるかもしれませんが(関連記事)、明確な証拠は過去15万年間でのみ得られています。議論の余地のない埋葬の最初期の事例はネアンデルタール人で見られます。これらの埋葬は通常、人類が住んでいる洞窟もしくは岩陰遺跡で見られ、死者への愛着と、死後も肉体的にも比喩的にも近くにいて安全でありたいという願望を反映している、と示唆されます。たとえば、フランス西部ドルドーニュ(Dordogne)県のラフェラシー(La Ferrassie)遺跡では、胎児と子供がおそらくは副葬品の石器とともに埋葬されていました。

 閉鎖的な場所に死者を埋葬することへの明らかな選好は、単に標本抽出の偏りを反映している可能性があります。しかし、ネアンデルタール人の遺跡では複数の収容が繰り返し行なわれ、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡などでは20人以上の場合もあることから、ネアンデルタール人の埋葬は、特定の場合、少なくとも繰り返された規範的慣行だった、と示唆されます。これらの遺跡の被葬者は他の遺跡よりもずっと多く、ネアンデルタール人にとって何らかの意味があった可能性を示唆します。クラピナ遺跡では、ネアンデルタール人の被葬者に頭蓋の異常な切開が見られ、死者を儀式的に扱った証拠になる可能性が指摘されています。さらに、ラフェラシー遺跡などネアンデルタール人の埋葬において、副葬品もしくは墓標の存在の可能性が指摘されています。ネアンデルタール人の埋葬儀式に関しては議論が続いていますが、たとえ儀式がネアンデルタール人の埋葬の特徴ではなかったとしても、なぜ死体を閉じ込めておくのかという因果的不明瞭と、同じ洞窟を繰り返し利用する規範的行動を含む、何らかの社会認知的基盤があったようです。

 ネアンデルタール人における儀式の証拠となるかもしれないのが、鉱物顔料の広範な使用記録です。ネアンデルタール人は身体に赤と黒の顔料を使用したのではないか、と長く議論されてきましたが、ネアンデルタール人の装飾の証拠は急速に増加しており、猛禽類の爪(関連記事)や貝殻(関連記事)を装飾品として用い、その貝殻が顔料で着色されていたのではないか、と指摘されています。身体の装飾は間違いなく象徴的で、儀式的行動を含んでいた可能性があります。また、まだ議論はありますが、イベリア半島の洞窟壁画がネアンデルタール人の所産である可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、ネアンデルタール人が洞窟壁画を残していたとしても、現生人類の事例とは異なり孤立的で、まだ具象的な絵は確認されていません。ネアンデルタール人における集団的な儀式的行動は、集団的儀式は回復できないほど因果的に不明瞭かもしれない、という定義を受け入れた場合は、とくに理解しにくくなります。


●文化伝達の儀式化

 ネアンデルタール人の石器技術は、先行集団より優れていて革新的なところも示しながら、数万年、あるいは数十万年、重大な要素に大きな変更はなく、物質文化が維持されました。この安定性をもたらした一方で、技術革新の欠如につながった特徴が問題となり、それはネアンデルタール人の生存戦略の一部として文化的知識の伝達に組み込まれた、儀式的行動の利用が一因だったかもしれません。新しい技術や行動を学ぶ時、長い試行錯誤を試みることができます。現代人はこれを行なわない傾向があり、むしろ他者を観察して模倣します。乳幼児は生後半年から、この方法で新たな物をどう使うのか学ぶことができます。2歳までに、他人を観察することによる学習は、子供が明らかに因果関係のない行動を模倣するまで強化され、過剰模倣として知られるようになります。

 過剰模倣の基礎については、アシューリアンの石器製作法にある、との見解も提示されています。重要なのは、アシューリアン石器の製作の多くの側面には、結果が意図した結果から隠れている、および/あるいは意図した結果に関連して結果が反直観的であるような過程が含まれる、ということです。たとえば両面加工石器の製作にさいして、原石の一方の表面から削るさいに、反対側の表面を叩く必要があります。これは、行動の意図を目的の降格とする可能性が高く、少なくともある程度は因果的に不明瞭とします。この技術的過程の普及が、個人主義的で独立した技術革新もしくは社会的学習の他の過程において達成されたことは、ほとんどあり得ません。

 過剰模倣は、現生人類の子供であれ絶滅人類であれ、心が儀式に従事するための社会的および認知的準備を示す最も説得的な方法である、とみなされつつあります。過剰模倣では、モデル化された一連の行動に、因果関係のない行動や、未知もしくは利用不可能な意図の推論が含まれます。しかし、いくつかの違いもあります。最も一般的には、過剰模倣では、焦点は外部の対象であり、実施者と単一の観察者のみが含まれますが、儀式的行動は常に対象を含むとは限らず、しばしば集団識別と集団結合の助けで遂行されますが、そうした行動は定義上、物質記録を残しません。しかし、過剰模倣では、因果的不明瞭と目的の降格が相乗的に機能して特有の指標を生成します。これは、特定の行動が儀式であり、これらの特徴を共有しない行動と比較して、著しく高い頻度で再現されるよう導かれる、と示唆します。

 じっさい、儀式的行動は模倣的な反応を生む傾向があり、現生人類の子供と成人は、行動のある側面を完全に機能的に余分だと認識してさえも、手順全体を模倣する傾向があります。ネアンデルタール人の用いたルヴァロワ(Levallois)技術は、ほとんどのアシューリアン石器系列よりも、階層的に削除された段階と連鎖を含むので、因果的不明瞭を克服する必要性がさらに顕著となります。これが示唆するのは、ネアンデルタール人はその出現時までに、文化的伝達(現代人にとって最も可視的なのは石器技術です)のいくつかの側面の過剰模倣者で、儀式的行動に従事できた、ということです。

 重要なのは、石器製作で採用された過剰模倣行動は因果的に不明瞭で、最初は未知であるものの、最終的には認識できる、ということです。つまり、大規模な関与と制作過程の忠実な繰り返しを通じて、余分な行動を特定できる可能性があります。石器技術の場合、現代の専門家は、階層構造において最終的な目標から行動の意図を明示的に示せます。この意味で、儀式的行動は回復できないほど因果的に不明瞭ではなく、ネアンデルタール人と現生人類の儀式的行動の区別の要点として役立つかもしれません。ともかく、個人主義的な儀式的行動への関与が増加するにつれて、それらを集団的な儀式的行動へと変換するための足場があります。ここで、子供たちは批判的になります。

 現生人類と比較して、ネアンデルタール人の学童期(juvenile)が相対的にも絶対的にも短かったとすると、成人生活に必要な技術と社会的技能を学ぶことは、探索的で経験に基づく学習というよりはむしろ、年長者の模倣による既存の知識を習得するような、直接的な指導的学習の採用だったかもしれません。現生人類の子供と同様に、ネアンデルタール人の新生児は脆弱な状態で生まれ、成熟するにつれて脳が著しく成長しました。全体的に、旧石器時代の学童期の現生人類は、より死亡率の高かった学童期のネアンデルタール人よりもストレスは少なかったようです。成人までの成長率について、ネアンデルタール人と現生人類とで有意な差があったのか、議論が続いていますが、ネアンデルタール人の生物学的および認知的成長のパターンは、同時代および後の現生人類と微妙に違っていたようです。

 比較的短い子供期とより速い成長率の重要性は、習得する文化的情報の「量」の少なさを示唆することです。現生人類では8歳まで子供期が続き、その後で学童期が4年ほど続きます。ちなみに、チンパンジーは7歳で学童期から思春期へと移行します。誕生してからの7年間で、チンパンジーは文化的情報を学べますが、木の実を割ったり白アリを釣ったりする技術といった、比較的単純で適応的な功利主義的行動の習得には制約があります。ネアンデルタール人と比較して現生人類の成長率が低かったとしたら、もっと多くて多様で社会的な情報を習得できます。空想的な遊びは、成人期における儀式の不明瞭な因果関係を理解するカギとなる構成要素になるかもしれません。

 また空想的な遊びは、別の重要な役割を担っているかもしれません。小脳と頭頂葉と前頭葉の間には深い神経接続があり、それは小脳が創造的思考の過程に役立つかもしれないと示唆されている相互接続性で、空想的な遊びの認知的な前提条件です。ネアンデルタール人と現生人類の脳の違いは、現生人類が比較的大きな頭頂葉と、とくに大きな小脳(関連記事)を持っていることです。この脳構造の違いのため、ネアンデルタール人が対象と行動に重点を置くことで実際的な状況の認知的管理の経験に豊富だった一方で、現生人類は細部への注意は劣っていたものの、創造的解決の発達と必要に応じて行動を可塑的に修正することにより長けていた、との見解も提示されています。対象とのより機能的な関与からより創造的な関与への移行は、象徴的思考拡大への道を開く可能性があり、成人期における儀式不明瞭な因果関係を理解するために重要になるかもしれません。

 また現生人類は種として、経験が広く共有され、時として拡散するような、巨大な社会的ネットワークを維持することにより、大規模な文化的総体を維持してきたようです。一方、ネアンデルタール人集団は、その後の上部旧石器時代の現生人類よりも小規模で、広く分散していた、と主張されています。文化的総体を維持するための考えられる一つの解決策は、因果的に不明瞭で目的の降格を伴うような儀式的行動を用いる、重要な生活技術の教授の強化だったかもしれません。それはネアンデルタール人の社会的背景において、それ自体より信頼出来る、と証明したかもしれません。儀式的行動を対応する情報とともに埋め込むことにより、個人はそれが与えられた権威に疑問を抱く可能性が低くなります。ネアンデルタール人の子供たちは、この仮定の下で、両親や他の共同体構成員により獲得された知識の忠実なコピーを受け取っていたかもしれません。現代の証拠が当てはまるならば、儀式的行動は過剰模倣反応を引き起こす傾向があり、それ自体がより忘れられないものとなり、技術革新と変化を抑制するかもしれないので、この解釈は効率的な解決を表しているでしょう。

 現代人の子供は、所属が理由であれ、規範性への努力を満たすためであれ、おもに社会的動機を満足させるために過剰模倣する、というのが一般的見解です。本論文は、ネアンデルタール人が単に技術獲得の動機を満たすために過剰模倣したかもしれない、と推測します。この理由により、認知能力と対応する行動が機能的目的に役立つよう進化したので、儀式的行動がネアンデルタール人の間で存在したかもしれません。現生人類でのみ、これらの能力と行動が社会的目的に役立つよう選択されました。儀式的行動と集団的な儀式との間のこの変化は、明らかに因果的に不明瞭なものから、回復できないほど因果的に不明瞭なものへの移行を示す可能性が高そうです。じっさい、ネアンデルタール人よりも大きな現生人類の集団規模は、集団内の結束強化のため、より強い社会的動機の発達を必要としたかもしれません。

 とくに、儀式的行動が、発達するだけではなく、検出可能な痕跡を残すような方法で維持されたならば、ここで関連する集団規模には別の側面があります。上述のように、ネアンデルタール人の集団規模は、ネアンデルタール人の分布域全体で現生人類よりも小さかったかもしれません。この人口密度の低さは、ネアンデルタール人の儀式の証拠が薄いことを説明できるかもしれません。儀式が考古学的記録で検出可能であるためには、個人的であれ集団的であれ、行動の特定の区分に従事する個体がいるじゅうぶんに大きな人口規模か、もしくは通時的に行なわれる充分に大規模な数を必要とします。歴史的文脈では推論的ですが、特定の行動に従事する個人がより多いと、その行動が伝わる可能性も高くなるかもしれません。これにより、記録を残すかもしれない事例がより多くなるだけではありません。それは損失に対する予防として機能するため、自律的です。何かを実践する共同体の構成員が多いほど、壊滅的事象に直面してその行動が失われる可能性は低くなるでしょう。ネアンデルタール人は儀式的動物であり、個人的な儀式的行動が可能でしたが、世界観の象徴性を共有するという意味で集団的ではなく、考古学的記録にそうした行動の信頼できる痕跡が残るほどには、各共同体で儀式的行動は充分ではなかった、というのが本論文の主張です。


●まとめ

 現生人類と比較的近い年代で最終共通祖先を有するネアンデルタール人は、協力的で社会的で知的で道具を使う種であり、過剰模倣の傾向を示した可能性が高く、儀式的行動と関連した認知能力を有していた、と示唆されます。しかし、象徴的行動と信念のより大きく共有された複合としての儀式が、ネアンデルタール人において特徴づけられていたという証拠は、広範にあるわけでも説得的でもありません。上述のように、ネアンデルタール人の考古学的記録における象徴的物質文化に関する儀式の証拠はありませんが、ネアンデルタール人の複雑な石器技術内における長期の継続性は、ネアンデルタール人の儀式的行動が、同時代および現代の現生人類とは代替的な方法で用いられていたことを示唆します。ネアンデルタール人の儀式および儀式的行動の利用は、比較的短い子供期と比較的小さな社会的集団という条件下で、世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化に焦点が当てられていた可能性が高そうです。

 現生人類では、儀式は最初に類似の方法で機能しましたが、認知における小脳の強化された役割に支えられ、後には広範で拡散した社会的ネットワークの強化に適していました。そのような解釈は、ホモ属における儀式が、「一つの規模で全てに当てはまる」行動ではなく、種を超えてさまざまに形成される、もしくは適用されるような社会的技術だったことを示唆します。したがって、ネアンデルタール人における文化的儀式が、心理学的および人類学的理解に対応する集団的儀式との主張は過大かもしれませんが、心理学的および人類学的定義にも対応する儀式的行動のより正確な特徴づけは、より有益で容易に弁護されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との比較から、儀式が世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化として発達してきた可能性を指摘します。さらに本論文は、ネアンデルタール人と現生人類には成長速度や脳の構造で微妙な違いがあり、それが現生人類においてのみ、そうした能力と行動が社会的目的に役立つよう選択された、と推測します。ただ、ネアンデルタール人と現生人類の成長速度に有意な違いがあったのか、まだ確定したとは言えないでしょうし、5万年以上前の儀式的行動と関連しそうな考古学的記録からは、ネアンデルタール人と現生人類とで大きな違いがあると言えるのか、疑問も残ります(関連記事)。その意味で、儀式的行動と関連しそうな考古学的記録におけるネアンデルタール人と現生人類との違いは、本論文で示唆されるような、何らかの生得的な違いではなく、人口密度など後天的な社会的背景に起因するのかもしれません。そうだとすると、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階で、現代人とさほど変わらないような、儀式を可能とする認知能力が備わっていたのかもしれません。

 ただ、ネアンデルタール人が、ネアンデルタール人と分岐した後の広義の現生人類系統と交雑し、後期ネアンデルタール人ではY染色体もミトコンドリアDNAも広義の現生人類系統に置換された、との最近有力になりつつある見解(関連記事)を踏まえると、現生人類と共通するように見えるネアンデルタール人の象徴的思考の前提となる認知能力は、あるいは広義の現生人類系統でのみ進化し、後期ネアンデルタール人にもたらされた可能性もあるように思います。じっさい、ギリシアで21万年前頃の現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。もちろん、これはまだ妄想にすぎないので、現生人類とネアンデルタール人も含めて、後期ホモ属の今後の研究の進展を注意深く追いかけていくつもりです。


参考文献:
Nielsen M. et al.(2020): Homo neanderthalensis and the evolutionary origins of ritual in Homo sapiens. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 375, 1805, 20190424.
https://doi.org/10.1098/rstb.2019.0424

ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係

 ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係についての研究(Betti et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。近東では完新世初期に、ヒトの生存戦略が狩猟採集から農耕牧畜への依存度の高い生計へと大きく変わりました。この新石器時代の新たな生活様式により、人口密度の増加や長期的な定住など社会が大きく変わりました。紀元前7000年頃、農耕はヨーロッパへと拡大し、まず近東に近い南東部で出現しました。ヨーロッパにおける農耕拡大は、おおむね南東から北西へと進み、狩猟採集民による農耕採用というよりは、近東起源の農耕民集団のヨーロッパへの急速な拡散によるものでした。新石器時代ヨーロッパにおいて、農耕民と在来の狩猟採集民とは遺伝的に大きく異なり、農耕民はアナトリア半島の初期農耕民と遺伝的によく似ています。

 また、考古学的データの蓄積とともに、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度に大きな地域差があることも明らかになってきました。放射性炭素年代測定法による結果から、とくに北海とバルト海に近づくと、農耕拡大が著しく減速する、と示唆されています。これに関しては、近東から一括して導入された作物がヨーロッパ北部の寒冷湿潤な気候では上手く育たなかった、といった説明が提示されています。また新石器時代において、アジア南西部やヨーロッパ南東部と比較して、ヨーロッパ中央部および北西部の穀類と豆類の種の多様性は顕著に低い、と報告されています。これに関しては文化的要因が指摘されていますが、気候条件も一因と考えられています。

 この減速の代替的な説明は、ヨーロッパ北部では中央部もしくは南部と比較して、狩猟採集民の人口密度が高かった、というものです。その要因として、ヨーロッパ北部沿岸環境では狩猟・漁撈・採集の信頼性が高く生産的だったから、と推測されています。在来の大規模な狩猟採集民共同体の存在は、農耕民集団の拡散を妨げたかもしれない、というわけです。また、ヨーロッパに農耕が拡大した後、南部と中央部で普及様式が変わり、在来の狩猟採集民集団が次第に重要な役割を果たようなす文化変容が伴った、との見解も提示されています。

 本論文は、ヨーロッパ全域の農耕牧畜の最初の到来年代の大規模なデータベースの作成と、古気候復元と関連する速度変化の分析により、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度を促進する気候の役割を検証します。また本論文は、観察された気候要因パターンの文脈において、早期農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用を定量化するため、古代DNAデータを合成して再分析します。

 本論文は、ヨーロッパ全域の1448ヶ所の新石器時代遺跡のデータベースを分析しました。その結果、拡大は均一ではなく、いくつかの主要軸に沿って進んだ、と明らかになりました。その主要軸とは、地中海沿岸を西進してイベリア半島へと到達する経路(地中海軸)、現在のドイツなどヨーロッパ中央部へと北西方向へ進みブリテン島へと到達する経路(中央軸)、ヨーロッパ中央部を北進してスカンジナビア半島へと到達する経路(スカンジナビア軸)、北東方向へ進みヨーロッパ東部から現在のロシア西北端へと到達する経路(北東軸)です。各軸に沿った経路では、当初は急速に拡張し、隣接地域への拡大は遅くなる傾向が見られます。当初の急速な拡大に続き、中央軸では紀元前6200年頃、スカンジナビア軸では紀元前5400年頃、北東軸では紀元前5700年頃に著しい拡大の減速が見られます。中央軸の減速は大西洋沿岸に到達する前に起きているので、イギリス海峡を渡る必要性の結果ではありません。一方、航海を含んでいただろう地中海軸では、イベリア半島大西洋沿岸に到達するまで減速は見られません。

 この農耕拡大速度データと気候データを組み合わせると、農耕拡大速度は5度に設定された有効積算温度(GDD5)と明確に対推しており、GDD5が2000未満で減速が発生しました。また夏の平均月間気温も、GDD5ほどではありませんが、減速と対応しており、16度を下回ると減速が発生します。対照的に、冬の平均気温や最も乾燥した月の降水量や年間平均気温などは、減速とは関連していませんでした。これらの知見は、減速の要因が、近東で最初に栽培化された種には不適切な気候条件の地域へと到達と関連している、という仮説を裏づけます。これは、地中海軸において減速が見られないことにも支持されます。

 次に本論文は、ヨーロッパにおいて近東起源の外来農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の関係が、両集団間での混合の増加に伴って変化したのかどうか、調べました。公開された295人のヨーロッパ新石器時代個体のゲノム規模データから、狩猟採集民系統の相対的寄与が定量化されました。新石器時代後半に起きた狩猟採集民系統の漸進的な増加を考慮しても、GDD5の減少に伴って狩猟採集民系統の顕著な増加があり、GDD5が1700未満の地域でとくに目立ちます。農耕拡大の遅い地域は、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との間のより高い遺伝的混合でも特徴づけられます。また、農耕拡大の減速とそれに伴う農耕民と狩猟採集民との混合の増加が、狩猟採集民の人口密度の高さに起因するのか、調べられました。人口密度は遺跡密度で代用され、遺跡密度と混合増加との間に明確な関連性は見られませんでしたが、標本抽出の点での偏りも想定され、じっさいの人口密度を反映していないかもしれません。

 本論文の結果は以前の諸研究と合致しており、ヨーロッパにおける農耕拡大は北部で著しく減速し、農耕拡大は連続的な過程ではなくさまざまな速度で進んでいった、と示されます。本論文はこの減速の明確な仕組みを提供し、それは気候条件、より具体的にはGDD5の低下で、つまりは新石器時代の作物の成長における夏の重要性です。その適合度が低いと農耕拡大は減速する、というわけです。ヨーロッパ北部の気候条件は近東とは大きく異なるので、近東起源の作物の栽培が制約されました。農耕がヨーロッパにおいて中央部と北部に拡大する過程で、作物の種類が減少したことも先行研究で指摘されています。好みなど文化的要因だけで、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速を説明するのは妥当ではない、というわけです。

 ブリテン諸島とスカンジナビア半島では紀元前4600~紀元前4000年頃に作物栽培が確立されましたが、その後、数世紀にわたって考古学的記録から穀類が急速に減少・消滅し、それらの穀類の収量が充分ではなかったか、予測困難なために放棄された可能性を示唆します。ブリテン諸島やスカンジナビア半島の一部では、穀類の栽培が続いても、寒さや一般的なストレスにより耐性のあるオオムギへと顕著に移行していきましたが、当初ヨーロッパに導入された近東起源の穀類には、秋に播種して翌年夏に収穫するものが含まれていました。ヨーロッパ北部のような寒冷地域では、元々は秋に播種されて翌年夏に収穫されていたオオムギが、春に播種されて秋に収穫されるようになりました。ブリテン諸島では前期青銅器時代に春に播種するオオムギ品種が導入された、という可能性も指摘されています。

 ヨーロッパにおいて、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との混合は、近東起源の穀類の栽培に適していない地域に農耕民が拡散してくると増加しました。これは、以前に指摘された、より高緯度での狩猟採集民系統の増加を説明できます。食糧生産の信頼性が低下したため、農耕民はしだいに狩猟採集に依存するようになり、在来の狩猟採集民共同体と接触して、モノや知識を交換するようになった、と考えられます。ヨーロッパにおける、農耕民と狩猟採集民との最初期かそれに近い時期の接触と考えられる事例も報告されるようになり(関連記事)、農耕民と狩猟採集民との関係の年代・地域による違いが、今後さらに解明されていくのではないか、と期待されます。

 今後の課題として本論文が重視するのは、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速に続くその後の拡大です。この後期の農耕拡大は速く、農耕技術の改善が示唆されますが、新たな農耕拡大地域では、農耕民と狩猟採集民との間の混合が高率で続きました。これは、農耕技術が改善されても、気候条件により恵まれた地域と比較すると狩猟採集に依存しており、農耕拡大速度に関係なく、農耕民が狩猟採集民と接触したためかもしれません。この問題の解明には、本論文の対象範囲を超えたより詳細な調査が必要です。本論文と以前の研究で示された、気候条件と強く関連するヨーロッパにおける農耕拡大の顕著な減速とともに、他の期間ではより緩やかな減速の地域もある、との見解も提示されています。この緩やかな減速は、人口や社会文化的条件など、気候以外の要因も想定されます。

 本論文は、遺跡・古気候復元・古代DNAに関する情報を統合することにより、気候がヨーロッパ新石器時代における農耕拡大、および農耕民と狩猟採集民との相互作用にどのような影響を与えたのか、一貫した見通しを提示できました。この見解の重要な検証が、現時点では放射性炭素年代測定結果が少ない、さらに東方の地域における農耕拡大の詳細な分析となります。たとえば、アジア東部における農耕拡大は、ヨーロッパと比較して充分には特徴づけられていませんが、最近の古代DNA研究では、より高緯度で狩猟採集民系統が増加するという、ヨーロッパと類似したパターンが示唆されています。今後の研究でとくに興味深いのは、近東の東部山脈地帯を起源とする農耕民が拡散した地域で、そうした厳しい気候条件で栽培化された作物はアナトリア半島の作物よりも耐寒性があったかもしれず、より厳しい気候条件下での農耕拡大減速を予測できる可能性があります。


参考文献:
Betti L. et al.(2020): Climate shaped how Neolithic farmers and European hunter-gatherers interacted after a major slowdown from 6,100 BCE to 4,500 BCE. Nature Human Behaviour, 4, 10, 1004–1010.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-0897-7

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触(追記有)

 先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触に関する研究(Ioannidis et al., 2020)が報道(Wallin., 2020)されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。オセアニア史研究では長年、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の先コロンブス期における接触が議論されてきました。この問題に関して遺伝学では、イースター島(Rapa Nui)が注目されてきました。イースター島はポリネシアではアメリカ大陸に最も近く、精巧な巨石文化があることから、南アメリカ大陸の人類集団との接触の可能性が高い、と考えられてきました。

 ヒト白血球抗原(HLA)アレル(対立遺伝子)の高解像度分析により、イースター島系統の現代人のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統が明らかになりました。しかしゲノム研究では、アメリカ大陸先住民との混合の証拠は、イースター島の現代人では見つかったものの、古代人では見つかりませんでした(関連記事)。これまでのゲノム規模研究では、先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民と他のポリネシア人との接触の可能性は検証されていません。


●ポリネシアにおける複数の混合事象

 本論文は、ポリネシアの17集団とアメリカ大陸沿岸部の先住民15集団の807人のゲノム規模データを、他地域集団と比較しました。系統分析の全てにおいて、ポリネシア人はポリネシア系統により特徴づけられますが、多くのポリネシア人のゲノムには、植民地時代を反映してヨーロッパ系統も見られます。注目されるのは、独立した分析で、東部ポリネシア人にアメリカ大陸先住民との混合の痕跡が検出されることです。アメリカ大陸先住民系統を2系統(中央系統と南方系統)に区別すると、イースター島などポリネシア東端ではこの2系統が見られます。アメリカ大陸先住民南方系統は、イースター島個体群においては、ヨーロッパ系統の割合に比例して増加します。これは、19世紀後半にイースター島がチリに併合された後、チリでアメリカ大陸先住民と混合したスペイン系ヨーロッパ人のイースター島への移住により、アメリカ大陸先住民南方系統がイースター島個体群にもたらされた、という見解と一致します。

 対照的に、メキシコの先住民集団であるミヘー(Mixe)に特徴的なアメリカ大陸先住民中央系統は、イースター島個体群ではポリネシア系統とのみ関連しており、ヨーロッパ系統もしくはアメリカ大陸先住民南方系統(以下、南方系統)とは関連していません。これは、アメリカ大陸先住民中央系統(以下、中央系統)が、ヨーロッパ系統とは独立してイースター島集団に到来したことを示唆します。さらに、南方系統とは対照的に、中央系統はイースター島個体群の間ではほとんど変わらず、古い混合事象に由来することを示唆します。じっさい、イースター島個体群のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統のDNA断片には、ヨーロッパ人の到来に数世紀先行する接触を示唆する集約長分布があります。興味深いことに、中央系統はマルキーズ諸島など他のポリネシア東部諸島の個体群に見られ、類似した早期の年代を示します。

 ポリネシア人におけるヨーロッパ系統を調べると、各島の個体群とヨーロッパの宗主国との対応が明らかになります。たとえば、フランスの植民地だった場合、フランス人の参照パネルとクラスタ化します。イースター島個体群では、スペイン人の参照パネルへと移動します。ヨーロッパ系統を有するものの、南方系統を有さないイースター島個体群は、おもにフランス人参照パネルとクラスタ化し、イースター島で最初のヨーロッパ人がフランス起源だったことと一致します。また本論文は、7 cM(センチモルガン)以上の共有される同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)を分析しました。ヨーロッパ系統のみのゲノム領域の分析では、IBD関係ネットワークはヨーロッパ人の定住パターンを反映しており、多くのフランス領ポリネシア諸島は、イースター島とは別の一つの接続された構成を形成します。イースター島のマンガレヴァ島への単一のヨーロッパ人のつながりは、1871年のイースター島からマンガレヴァ島へのフランスのカトリック宣教師の移動を反映しているかもしれません。


●ポリネシアにおけるアメリカ大陸先住民系統

 ポリネシア東部個体群のアメリカ大陸先住民系統は、島間のIBD共有のひじょうに異なるパターンを示し、アメリカ大陸先住民との接触の異なる歴史を示唆します。ポリネシア東部個体群のアメリカ大陸先住民系統は、現代人では、コロンビアの先住民であるゼヌ人(Zenu)もしくはその近隣の人々と遺伝的に最も近縁です。例外はヨーロッパ系統の割合が高いイースター島の個体群で、チリの先住民と遺伝的に近縁です。対照的に、ヨーロッパ系統を有さないイースター島個体群は、コロンビアのゼヌ人と近縁です。

 記録上、1888年にチリがイースター島を併合したことと、船員との散発的な相互作用とを除いて、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民とを結びつける可能性があるのは、1862~1863年のペルーによる奴隷襲撃だけです。これにより、1407人のイースター島住民を含む数千人のポリネシア人が奴隷としてペルーに連行されました。国際的な抗議の後、奴隷として連行された人々は本国に帰還することになりましたが、航海中の天然痘発生により、生還できた人はわずかでした。本論文のデータセットでは、イースター島の15人とラパ島の9人(他の島々の人々)だけです。ペルーに連行された期間が短いため、異論もあるものの、これによりアメリカ大陸先住民系統がポリネシア人にもたらされた可能性は低そうです。

 ポリネシア人のゲノムにおけるアメリカ大陸先住民系統の地理的偏りは、南アメリカ大陸北部の起源を支持する言語・歴史・地理的観察と一致します。ポリネシア東部の島々にのみ見られる一枚岩の彫像と、先コロンブス期コロンビアのそれらとの類似性は以前から指摘されており、より強い証拠は、サツマイモを意味するポリネシア語の「クマラ(kumala)」です。これは南アメリカ大陸北部の料理の名前と関連しています。この関連する名前を使用するアメリカ大陸沿岸地域の言語はペルーの北部に位置し、たとえば「cumal」です。サツマイモも先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の有力な証拠とされてきましたが、近年では人為的介在なしにサツマイモがポリネシアに到来した可能性も指摘されています(関連記事)。しかし、本論文の知見からは、自然現象による到来とともに、人為的介在もあった可能性が高い、と考えられます。

 南アメリカ大陸沿岸で舟の建造に適した木材が得られるのはペルーの北部で、先コロンブス期のメソアメリカとの交易における南アメリカ大陸の拠点は太平洋沿岸のエクアドルとコロンビアです。アメリカ大陸太平洋沿岸からの風と海流の現在のシミュレーションでは、エクアドルとコロンビアから出発するとポリネシアに到達する可能性が最も高く、ポリネシアではマルキーズ諸島南部に最も高い確率で到達し、その次はトゥアモトゥ諸島とされます。どちらも、コロンビアのアメリカ大陸先住民系統が見つかったポリネシアの島々の中心地域に位置します。またポリネシア側でも、航海によりアメリカ大陸を見つける拠点となりそうなのは、これらの島々です。


●ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の年代

 アメリカ大陸先住民系統が、イースター島やマンガレヴァ島など本論文で対象とされたポリネシアの各集団にいつ影響を与えたのか、ゲノム断片の長さの分布をモデル化して推定されました。その結果、一つの例外を除いて全ての島の集団について、最も可能性が高いモデルは、まずアメリカ大陸先住民とポリネシア人の混合事象が起き、その数世紀後にヨーロッパ人の遺伝子移入が続いた、というものだと明らかになりました。ヨーロッパ人とポリネシア人との混合年代は、マルキーズ諸島では北部が1820年で南部が1830年、マンガレヴァ島が1750年、パリサー島が1790年頃と推定され、ヨーロッパ人によるポリネシアの植民地化の期間に収まります。対照的に、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との推定混合年代はずっと早く、異なる島々でも類似しており、マンガレヴァ島とパリサー島が1230年頃、マルキーズ諸島では北部が1200年頃、南部が1150年頃です。

 このように、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との推定混合年代はおおむね一貫していますが、唯一の例外はイースター島です。植民地支配に由来するヨーロッパ系統を有さないイースター島個体群では、その祖先におけるアメリカ大陸先住民からの遺伝子移入は1380年頃と推定されます。もっとも、上述のように、この推定年代は、チリからのもっと最近のアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入により、実際の混合年代より繰り下がっている可能性があります。ヨーロッパ系統とアメリカ大陸先住民系統を高頻度で有するイースター島個体群では、後者の遺伝子移入はおもに植民地期と推定されます。最適モデルによると、これはまず、おそらくはチリで起きたヨーロッパ系統へのアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入を表し、その後、おそらくはチリ人がイースター島に移住し始めた時に、この混合系統がポリネシア人にもたらされました。後者の年代(1860年頃)はチリによるイースター島併合(1888年)の少し前ですが、この時までに、総人口約100人のうち12人のチリ人がイースター島に居住していた、と記録にあります。

 ただ、イースター島の言語は、先ポリネシア東部と呼ばれる早期言語集団から直接分岐した、と推測されており、イースター島に定住した人々はポリネシア東部の他の島々から到来し、紀元後1380年頃に混合事象が起きた可能性も考えられます。つまり、すでに他のポリネシア人により居住されていたイースター島にその頃到来したかもしれない、というわけです。放射性炭素年代測定法では、イースター島における最初の人類の定住は紀元後1200年頃です。しかし、精巧な記念碑的な石造建築は紀元後1300~1400年頃と推定され、ポリネシア東部の中央地域で起きた類似のそうした建築と比較して、早くなっています。この石造建築が文化接触の結果だった場合、南アメリカ大陸先住民との別の独立した接触がその頃にイースター島で起きた、とも考えられます。そうだとすると、イースター島の人々では遅い混合年代が推定される理由を説明できるかもしれません。イースター島はポリネシアで南アメリカ大陸に最も近く、ポリネシア東部における先史時代のアメリカ大陸先住民との接触の研究と年代推定にとって、最も複雑な地域の一つです。

 また、ポリネシア人におけるアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入の年代推定のため、連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)に基づく年代測定法(ALDER)も、新たに用いられました。この方法では、1234±90年の混合年代が推定されました。上述の推定混合年代は、この別の方法による推定混合年代の範囲内に収まります。


●まとめ

 地理的に広く分かれているポリネシア東部諸島の現代人のゲノムにおいて、現代人ではコロンビアの先住民と遺伝的に最も近縁なアメリカ大陸先住民系統の遺伝子移入の推定年代は類似しており、ポリネシア東部人とアメリカ大陸先住民との間の、先コロンブス期における単一の接触が最も節約的な説明となります。この接触の起きた島はまだ明確ではなく、おそらく本論文のデータセットには含まれておらず、ポリネシア人によるポリネシア東部の発見と定住の最初の期間に起きた可能性が高そうです。この最初の接触の子孫は、航海により新たな島々に定住していき、ポリネシア系統とアメリカ大陸先住民系統とを伝えていきましたが、島間の交易による接触も役割の一部を果たした可能性があります。イースター島の先史時代住民のアメリカ大陸先住民系統は、イースター島での接触ではなく、ポリネシアにおけるイースター島への到達以前の移住過程のどこかで起きた可能性が高そうです。

 ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の推定年代で最も早いのは、マルキーズ諸島南部のファトゥヒヴァ(Fatu Hiva)島における1150年頃です。この年代は、放射性炭素年代測定法によるファトゥヒバ島における最初のポリネシア人の居住年代に近く、ポリネシア人が到来した時、少数のすでに確立されたアメリカ大陸先住民集団と遭遇した、という興味深い可能性を提起します。赤道付近のポリネシアで最東端となるファトゥヒヴァ島に関しては、祖先が東方からやって来た、という島の伝説に基づいて、アメリカ大陸先住民とポリネシア人が相互に接触したかもしれない、との仮説をトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)氏が提示しました。マルキーズ諸島はエクアドルと同緯度に位置し、風向と潮流のシミュレーションからは、赤道の強い東から西への潮流と風により、人々が南アメリカ大陸から到達した島である可能性が最も高い、と示唆されています。

 しかし、代替的な説明も無視できません。南アメリカ大陸北部を航海したポリネシア人集団が、アメリカ大陸先住民とともに、もしくはアメリカ大陸先住民と混合してその子孫たちとともにポリネシアに帰還した、という可能性です。本論文では1200年頃の接触が推定され、先行研究では、この年代にポリネシア人がハワイからニュージーランドやイースター島まで太平洋の全ての未踏の島々を発見した、と提案されています。アメリカ大陸先住民系統が見つかったポリネシア諸島の中心に位置するトゥアモトゥ諸島は、ポリネシア人の航海の中心だったと知られており、上述のシミュレーションでは、南アメリカ大陸からの航海でマルキーズ諸島に次いで到達の可能性が高い、と推定されています。これらの代替仮説の解明には、遺伝的にまだ研究されていない島の集団の遺伝的分析が必要です。

 本論文は、先コロンブス期となる1200年頃の太平洋におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触の強い遺伝的証拠を提示し、これは太平洋東部におけるポリネシア人の最初の到来とほぼ同時期です。先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との接触に関するこれまでの研究は、イースター島に焦点を当ててきました。しかし、イースター島は最近のチリからの混合事象の影響を受けており、現代人のゲノム分析では、混合年代が実際とずれる可能性があります。初期のアメリカ大陸先住民との接触の証拠は、最近のアメリカ大陸先住民との接触の影響を受けていないポリネシア東端全域で広範に見られます。本論文の結果は、大きな標本規模により、複雑な先史時代の問題を明らかにする現代人集団の遺伝的研究の有用性と、これらの問題に答える人類学・数学・生物学的手法の組み合わせの重要性を示します。


 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。ポリネシア人の起源は新石器時代の台湾(そのさらなる起源は華南でしょうが)集団にあるとの見解が有力で、じっさい、福建省と台湾で発見された新石器時代個体群のゲノムデータにより確認されています(関連記事)。そのため、ポリネシア人の南アメリカ大陸起源を主張したヘイエルダール氏の仮説は最近ではほぼ否定されていました。しかし本論文は、ポリネシアの一部の島において、ポリネシア人よりも前にアメリカ大陸先住民が到来していた可能性も指摘しており、もしそうだとすると、ヘイエルダール氏の仮説が部分的にせよ見直される契機になるかもしれません。とはいえ、ポリネシア人がメラネシア人などとも混合しながらも、主要な起源が新石器時代台湾集団にあったことは否定できそうになく、ヘイエルダール氏の仮説は基本的には間違っていた、と言うべきなのでしょう。また、本論文の見解はかなり説得的ですが、基本的には現代人のゲノムデータに依拠しているので、今後はポリネシアの広範な地域の古代ゲノムデータでの証明が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ヒトの進化:遠く離れたポリネシアでのアメリカ先住民との接触

 先史時代のアメリカ大陸とポリネシア東部の間の航海に関する新たな証拠を示した論文が、今週、Nature で発表される。今回の研究では、現代人と古代人の遺伝的データの解析が行われ、ポリネシアの歴史を明らかにする手掛かりがもたらされた。この解析結果は、太平洋上の島々におけるヒト集団の形成においてアメリカ先住民が果たした役割に関する長年の議論に決着をつける上で役立つ。

 先史時代にポリネシア人とアメリカ先住民が接触していた可能性については、これまでのゲノム研究で得られた結論が矛盾していたため、盛んに議論が交わされている。今回、Andrés Moreno-Estrada、Alexander Ioannidisたちの研究チームは、ポリネシア人とアメリカ先住民(計800人以上)のゲノムを解析し、西暦1200年頃にアメリカ先住民とポリネシア人が交雑したと推論した。ポリネシア東部では、ポリネシア人と、現在のコロンビア沿岸部の先住民に非常に近縁なアメリカ先住民との接触が1回だけあった。しかし、これまでのいくつかの研究で示唆されてきたように、最初の接触点はイースター島ではなかった。

 これまでのゲノム研究は、イースター島での接触に着目していた。これは、イースター島がヒトが居住するポリネシア諸島の中で南米に最も近かったことによる。しかし、今回の研究は、ポリネシア東部の諸島の1つ(例えば、マルキーズ諸島)で最初の接触があったとするノルウェー人探検家の故トール・ヘイエルダールの学説を裏付けている(ヘイエルダールは、1947年に大型木製いかだのコンティキ号に乗って、ペルーからポリネシアへの漂流航海を行った)。今回の研究で得られた知見は、接触事象が、これまで考えられていた時期よりも前に起こり、ポリネシアの複数の島に広がったことを示している。このことから、アメリカ先住民は、ヨーロッパ人が到着する5世紀以上前からポリネシアに遺伝的影響と文化的影響を及ぼしていたことが示唆される。



参考文献:
Ioannidis AG. et al.(2020): Native American gene flow into Polynesia predating Easter Island settlement. Nature, 583, 7817, 572–577.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2487-2

Wallin P.(2020): Native South Americans were early inhabitants of Polynesia. Nature, 583, 7817, 524–525.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-01983-5


追記(2020年7月13日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2020年7月23日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類の移動:アメリカ先住民からポリネシア人への遺伝子流動はイースター島の人類定着より前だった

人類の移動:日の目を見たコンティキ号

 今回、ポリネシア全域の島民に由来するゲノムデータから、南北アメリカからの遺伝子流動が、リモートオセアニアの人類定着と同時期の紀元1200年頃に起きていたことを示す証拠が得られた。こうしたアメリカ先住民とポリネシア人との接触は1回限りで、ラパ・ヌイ(イースター島)の人類定着よりも前に起こった可能性がある。この結果は、先史時代の南米人とポリネシア人とが航海を介してつながっていた可能性を示すために自作のいかだ「コンティキ号」で実際に航海を行った探検家、故トール・ヘイエルダールの勝利を意味している。

野村克也『野球は頭でするもんだ!』

 朝日文庫の一冊として、朝日新聞社から1985年9月に刊行されました。本書は、同じ著者でともに朝日新聞社から刊行された、『プロ野球の男たち』(1982年)と『プロ野球・野村克也の目』(1983年)の中から、著者の考える野球とは何か、そのエッセンスを抜き出し、加筆・再構成して刊行されました。本書を古書店で購入したのは随分と前のことで、まだプロ野球への関心を失っていなかった頃に購入したと思われるので、2004年以前かもしれません。本書を購入していたことはすっかり忘れていたのですが、最近本棚を整理していて偶然見つけ、著者が今年(2020年2月11日)急逝したこともあり、読んでみました。

 本書は、短い随筆の寄せ集めといった感もありますが、野球は頭を使う球技だ、という著者の野球観が貫かれており、さほど雑多な印象は受けませんでした。著者の野球への強い想いは、本書を読んで改めて確認されました。野村家が脱税で捜査された時、ある捜査官が、夫は脱税に関わっておらず、野球にしか興味がないし、野球しか分からない、といった発言をしたと報道されたように記憶していますが、おそらくそうだったのだろうな、と思います。もうプロ野球に対する関心は失ってしまいましたが、20世紀後半のプロ野球に関する記憶はまだかなり残っているので、本書を興味深く読み進められました。

 本書では、さまざまな選手・指導者への評価や著者とのやり取りが取り上げられており、やや醜聞めいたところも含めて、面白くなっています。著者は南海監督時代、選手が女性問題で悩まされ、相談を受けたことがあった、と述べていますが、他人のことより自分の話を書いた方が面白いのに、とつい嫌味を言いたくもなります。またスパイ野球(盗み行為)について、本書では著者がほぼずっと被害者の立場にいたかのように描かれていますが、後の噂を考えると、ある意味で面白い記述になっています。まあ、本書刊行時点では、著者は南海の監督を解任されて一選手となって現役を数年続行して引退し、どこかの球団の監督に就任する話もまったくなかった時期だったでしょうから、スパイ野球の被害者としての自画像は、そこまで的外れではなかったのかもしれませんが。

 それにしても、問い詰めたら盗み行為をしぶしぶ認めた、とまで著者に本で書かれた森昌彦(森祇晶)氏が、その後もずっと著者との親交を続けたことには、ある意味で感心します。森氏も人間性について色々と言われていますが、西武監督時代には選手たちの私的な部分には寛容だった、と以前に別の本で読んだこともあり、ひじょうに器の大きいところもあるのかもしれません。なお、著者が柴田勲氏に巨人の盗み行為について問いかけたら、ニヤッとして否定しなかったそうです。また、著者は高校野球のノック技術を高く評価しており、この点でも本当に野球好きだったことが窺えます。

カンブリア紀のクラウン群環形動物

 カンブリア紀のクラウン群環形動物に関する研究(Chen et al., 2020)が公表されました。環形動物は、待ち伏せ型捕食者・懸濁物食者・陸生の貧毛類といった全く異なる動物群で構成される、最も多様な動物門の一つです。環形動物の初期進化は現在も不明で議論され続けていますが、その一因は、分子系統学的知見と化石記録との不一致にあります。

 カンブリア紀の環形動物化石の形態が表在ベントス型の生活様式を示しているのに対して、系統ゲノミクス解析の結果は、初期に分岐したグレードとして固着性の埋在性タクソン(分類群)および管住性タクソンを示しています。モロテゴカイ類とチマキゴカイ類からなる古環形動物(Palaeoannelida)は他の全ての環形動物の姉妹群ですが、生活様式および全体的形態の両面で、カンブリア紀のタクソンとは大きく異なっています。

 本論文は、カンブリア紀の前期の滄浪鋪(Canglangpu)累層で発見された新種の化石多毛類(Dannychaeta tucolus)について報告します。この標本は、もともとは有機質であった壊れやすい棲管の内部に保存されていました。この標本の頭部には明瞭なスペード形の口前葉があり、腹側側方に複数の長い副感触手が見られます。この標本の体には幅広で頑丈な胸部と長い腹部があり、薄板を伴う二枝型の疣足が複数認められます。

 こうした特徴の組み合わせは現生のモロテゴカイ類と共通しており、系統発生学的解析の結果、この新種多毛類は古環形動物の内部に位置付けられた。この多毛類はクラウン群環形動物に属することが明白な最古の多毛類で、これらの知見は、環形動物の進化速度に制約を与えるとともに、太古の環形動物の生態および形態に関して、これまで認識されていなかった多様性を明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


参考文献:
Chen H. et al.(2020): A Cambrian crown annelid reconciles phylogenomics and the fossil record. Nature, 583, 7815, 249–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2384-8

インドネシアにおける最初の稲作

 インドネシアにおける最初の稲作に関する研究(Deng et al., 2020)が公表されました。現代世界においてコメは最重要作物の一つです。インドネシア、より広義にはアジア南東部島嶼部(ISEA)は、人口が2億6700万人以上で、イネ(Oryza sativa)の栽培と消費の主要地域の一つです。長江中流および下流では9000年前頃に稲作が始まり、稲作はその後の数千年でアジア東部および南東部に拡大しました。しかし、ISEAにおける古代稲作の起源・年代・背景についての議論は、古植物分析なしでよく行なわれてきました。こうした問題はとくにインドネシアで根強く残っていますが、最近ではスラウェシ島における稲作の長期記録を報告できるようになりました。

 ISEAは湿潤な熱帯地域のため有機物の保存状態が悪く、古代のコメがほとんど残っていません。これらの事例だけでは、栽培種と野生種を明確には区別できません。ボルネオ(カリマンタン)島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州のグアシレー(Gua Sireh)では、放射性炭素年代で4807~3899年前のイネの籾殻が発見されていますが、土器製作のさいに使用された粘土に自然の過程で入った野生種と考えられています。ルソン島北部のアンダラヤン(Andarayan)では、土器内部のイネの籾殻が見つかっており、放射性炭素年代で4807~3899年前です。ルソン島北部では3000年前頃の炭化したコメが発見されており、イネのプラントオパールの証拠は、スラウェシ島のミナンガ・シパッコ(Minanga Sipakko)遺跡とその近くのカマッシ(Kamassi)遺跡で報告されています。本論文は、インドネシアにおける稲作の起源を解明するため、西スラウェシ州のカラマ川(Karama River)に隣接する沖積段丘に位置するミナンガ・シパッコ遺跡において、初期の土器が出土する層の調査結果を報告します。

 以前の調査では、ミナンガ・シパッコ遺跡の年代は3800年前頃もしくは2500年前頃と推定されていました。ミナンガ・シパッコ遺跡の最古層で発見された土器の破片は赤くて薄く、フィリピンで発見された最古の土器と類似しており、台湾起源と推測されます。そのため、ミナンガ・シパッコ遺跡の土器はインドネシアで最初期の土器と考えられます。本論文は、放射性炭素年代測定法によるミナンガ・シパッコ遺跡の新たな年代を提示しており、3500~2800年前頃までヒトの連続的な活動を推定します。

 イネの証拠は、調査対象の層全体で見つかり、最も集中していたのは、最古の土器が見つかった層でした。プラントオパール分析からは、調査対象の層の期間ずっと、イネが栽培されていた、と示されます。さらに、最古の土器が発見された層では、籾殻の痕跡が多いことから、籾殻廃棄の最終段階まで、ミナンガ・シパッコ遺跡で脱穀処理が行なわれていた、と推測されます。ミナンガ・シパッコ遺跡では、イネが栽培され、その後の処理工程まで行なわれていた、と考えられます。

 台湾では稲作の豊富な証拠が4800~4200年前頃までさかのぼりますが、ISEAでは、3000年前頃以前の稲作の痕跡はわすがで、しかも議論のあるものでした。ミナンガ・シパッコ遺跡の新たな調査結果は、インドネシアにおける稲作の最古で確実な年代を提示します。それは最初の土器の出現とほぼ同時で、3562~3400年前頃となります。インドネシアにおける赤い土器の唐突な出土は、新たな文化伝統の突然の出現を示唆します。台湾では赤く薄い土器は4800~4200年前頃までさかのぼり、関連する土器伝統はその後、フィリピン北部で4200~4000年前頃に出現します。次の数世紀にわたり、この考古学的痕跡はフィリピン中央部および南部とインドネシア東部とリモートオセアニア西部諸島に拡大します。具体的には、ミナンガ・シパッコ遺跡の早期土器は、フィリピンと台湾の初期の赤い土器と形態が最もよく似ています。

 より大きな視点では、この土器の広がりは、台湾・フィリピン・インドネシア東部・リモートオセアニア西縁のオーストロネシア語族集団の現代の地理的分布とほぼ一致します。オーストロネシア語は、前近代において世界で最も拡大した語族です。オーストロネシア語の起源地、古代の移民の動機、分散過程の性質については、1世紀にわたって議論されてきました。本論文の知見は、オーストロネシア語の農耕と関連した拡散および台湾起源を支持します。オーストロネシア語族は最終的に、マダガスカル島からイースター島までの広範な地域に拡散しました。本論文の結論は、アジア南東部の古代DNA研究(関連記事)と整合的です。またさらに新しい研究では、台湾と中国福建省の新石器時代個体群のDNAが解析され、オーストロネシア語族集団の祖型集団が中国南部起源である可能性が指摘されており(関連記事)、これも本論文と整合的です。


参考文献:
Deng Z. et al.(2020):Validating earliest rice farming in the Indonesian Archipelago. Scientific Reports, 10, 10984.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67747-3

鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析

 鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析に関する研究(Modi et al., 2020)が公表されました。先史時代の地中海地域では3回の重要な移住の波があり、現代人の遺伝的構成を形成しました。それは、旧石器時代の狩猟採集民と、東方からの新石器時代農耕民と、青銅器時代の始まりにおけるポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの牧畜民です。

 イタリア半島は、ヨーロッパ他地域と比較して現代人の遺伝的変異性が高いことから、地中海地域の人類集団の移住に重要な役割を果たした、と考えられます。これは、上部旧石器時代以来の、複数の移住の波の結果です。イタリア半島の人口史(関連記事)やローマ住民の長期的な遺伝的構成の変遷(関連記事)に関するゲノム規模研究からは、イタリア半島の人類集団の基本的な遺伝的構成はローマ以前に確立され、ローマ帝国崩壊後には大きくは変わらなかった、と示されます。

 イタリア半島の人類集団に関しては、常染色体でも単系統遺伝指標(ミトコンドリアとY染色体)でも、北部・中央部・南部を区別できる明確な遺伝的パターンの識別は困難です。南部集団はギリシアとアラブの植民化の影響を受け、北部集団にはフランス語およびドイツ語集団との混合が反映されているかもしれませんが、中央部集団は継続的な勾配を示します。イタリア半島中央部に関しては、エトルリア人とピケニ人に関して、現代人との遺伝的類似性が分析されてきましたが、もう一つの重要地域であるウンブリアはこれまで調査されてきませんでした。古代ウンブリア人の起源と民族的類似性に関しては、まだ議論が続いています。

 考古学および歴史学的データからは、紀元前9~紀元前8世紀頃となる前期鉄器時代に、ウンブリア人はエトルリア人やピケニ人とともに、よく定義された文化的属性を有する共同体をイタリア半島中央部に築いていた、と示唆されます。ウンブリア人は当初、テベレ川左岸に位置する現代のウンブリア地域東部を占拠し、すぐにウンブリア西武とトスカーナ地方に拡大しました。紀元前6世紀頃、ウンブリア文化に影響を与え始めていたエトルリア人がウンブリア西部を支配し、テベレ川はウンブリア人とエトルリア人の境界線になりました。これら古代人の間の相互作用の程度はまだ不明です。ローマ人は紀元前4世紀に初めてウンブリア人と接触し、紀元前3世紀初めにラテン植民市を建設しました。紀元前260年以後、ウンブリアはローマの完全な支配下にありましたが、エトルリア文化(および言語)が消滅したのは、紀元前90~紀元前88年の同盟市戦争の時でした。現在のウンブリアは古代よりも小さいものの、その住民の方言には大きな違いが見られます。

 ウンブリア東部の重要な墓地は、アペニン山脈の海抜760mに位置する現在のコルフィオリート(Colfiorito)にあります。ここは交通の要路ですが、鉄器時代の前には安定した人類の居住は確認されていません。しかし、資源が豊富なため、鉄器時代以降には人口が増加しました。本論文は、現在のウンブリア地域の545人のデータセットから選択された198人のミトコンドリアゲノム(このうち191人は本論文で初めて報告されます)と、現在のコルフィオリートにある鉄器時代の墓地の19人のミトコンドリアゲノムを分析し、ウンブリア地域住民の通時的な母系の遺伝的歴史を検証します。

 制御領域の分析からは、ウンブリア地域でも東部集団が遺伝的に他の亜集団と最も離れている、と示されます。これは、ウンブリア東部地域が他地域と比較して、古代もしくは最近の違いがあることを示唆します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)分析では、ほとんど(97%)の個体が典型的なユーラシア西部型に分類されます。主成分分析では、ウンブリア東部集団はヨーロッパ東部集団とクラスタ化します。これは、ヨーロッパ中央部および東部で高頻度のmtHg-U4・U5aに起因します。その中でもとくに、mtHg-U4a・U5a1は、ヨーロッパ北部および東部の中石器時代標本群と同様に、ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連標本群でも確認されています。

 鉄器時代の19人のmtHgで多いのは、J(32%)・H(26%)・U(16%)です。mtHg-Jは最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に近東で多様化し、後期氷河期にヨーロッパに拡大した、と推測されています。mtHg-Hはヨーロッパにおいて最も高頻度で見られ(40%以下)、ヨーロッパ西部から近東にかけて減少するパターンを示しますが、その起源はよく分かっていません。mtHg-UはU4を含む4系統が検出され、上述のようにこれはウンブリア東部集団をヨーロッパ東部集団へと近づけます。

 鉄器時代と現代とで、ウンブリアにおける主要なmtHgの割合が決定的に変わっているわけではありませんが、鉄器時代では32%のJが現代では12%と低下しています。しかし、ウンブリア東部では、現代でも鉄器時代とさほど変わらない割合(30%)です。ウンブリアでは、鉄器時代のmtHgが事実上すべて現代でも確認され、先ローマ期からの遺伝的連続性の可能性が示唆されます。より詳細な分析では、4万年前頃の上部旧石器時代と1万年前頃以降の新石器時代に、急激な増加を伴うヨーロッパ集団の典型的傾向が確認されます。鉄器時代標本の約半数で、より詳細なmtHg(H1e1・J1c3・J2b1・U2e2a・U8b1b・K1a4a)が現代人の標本と共有されます。

 イタリアは、地中海とアルプスに囲まれ、シチリア島とサルデーニャ島を含む、ひじょうに複雑な地理を示します。ミトコンドリアゲノム分析により、マルケ州やピエモンテ州やトスカーナ州やサルデーニャ島の特殊性が明らかになっています。しかし、他地域に関しては、詳細で網羅的な地理的特性の評価はまだ行なわれていませんでした。本論文は、ウンブリア地域のmtDNAの多様性を報告します。ウンブリア地域のmtHgのほとんど(97%)はユーラシア西部で典型的なものです。ウンブリア地域全体でこれらのmtHgの割合は比較的均一ですが、mtHg-Kが南部では高頻度(17%)であることや、mtHg-Jが東部では高頻度(30%)であることが注目される例外です。ユーラシア西部集団を対象にした主成分分析では、ウンブリア南部と東部がヨーロッパ中央部および東部集団と近くなり、上述のように、これはウンブリア南部と東部でmtHg-U4・U5aが高頻度だからです。

 より詳細なmtHg分析では、ウンブリア地域における先ローマ期の鉄器時代から現代までの遺伝的連続性が示唆されます。この遺伝的構成は、さまざまな地域の集団が異なる時代にウンブリア地域に到来したことにより形成された、と推測されます。それは、東方からの新石器時代農耕民や、青銅器時代のヤムナヤ文化関連集団などです。鉄器時代以後、中世にも、ある程度の人々の到来が考えられます。こうしたウンブリア地域の通時的な遺伝的構成の変遷は、イタリア半島全体の遺伝的データとよく適合します。既知のゲノム分析におけるイタリアのクラスタは、大まかにはサルデーニャ島・北部・南部ですが、そのうち北部と南部がイタリア半島中央部、より正確にはウンブリア地域で重複します。その意味でも、ウンブリア地域のより詳細な遺伝的構成の解明が期待されます。


参考文献:
Modi A. et al.(2020): The mitogenome portrait of Umbria in Central Italy as depicted by contemporary inhabitants and pre-Roman remains. Scientific Reports, 10, 10700.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67445-0

東京都知事選結果

 一昨日(2020年7月5日)に投開票となった東京都知事選は、大手マスコミの事前の情勢調査通り、現職の小池百合子候補が圧勝しました。選挙期間中、マスメディアに有力候補として扱われることの多かった4人の得票数は、以下の通りとなります。()は得票率です。

小池百合子候補・・・3661371票(59.7%)
宇都宮健児候補・・・844151票(13.8%)
山本太郎候補・・・657277票(10.7%)
小野泰輔候補・・・612530票(10.0%)

 首長選では2期目を目指す現職が強いとよく言われますが、その通り現職の小池候補が圧勝しました。投票率は55.00%と前回(59.73%)より低下しましたが、都内では新型コロナウイルスへの警戒が再び高まっており、現職の小池候補圧勝との報道のなか、予想以上に高く驚きました。小池候補は得票数・得票率ともに前回を大きく上回りました。予想通りだったので覚悟していたとはいえ、やはりたいへん不愉快な結果だったので、ブログでの言及のはやめておこうとも考えたのですが、当ブログを始めてからの都知事選はすべて取り上げてきたので、今回も短いながら記事を掲載します。

 それにしても、現職の小池候補圧勝もさることながら、日本維新の会推薦の小野泰輔候補が60万票以上獲得したのは私にとって大問題で、東京でも維新の会が定着しつつあるのか、と暗澹たる気持ちになります。まあそれ以上に、桜井誠候補が18万票近く獲得したことを脅威と思わねばならないかもしれませんが。都知事選での投票は今回で9回目となりますが、私が投票した候補者は全員落選したことになります。これを嘆くばかりではなく、私も一有権者として今後の行動を色々と考えねばなりません。なお、過去の都知事選に関する記事は以下の通りです。

2007年
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_9.html

2011年
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_11.html

2012年
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_19.html

2014年
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_11.html

2016年
https://sicambre.at.webry.info/201608/article_2.html

アシューリアンの拡散におけるトルコの重要性

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、アシューリアン(Acheulian)の拡散におけるトルコの重要性を指摘した研究(Taşkıran et al., 2018)が公表されました。トルコ共和国の領土は、アジア側がアナトリア、ヨーロッパ側がトラキアと呼ばれています。かつて小アジアとも呼ばれたアナトリア半島はアジアの南西端に位置し、北は黒海、西はマルマラ海とエーゲ海、南は地中海に囲まれています。アナトリア半島は、ヨーロッパ・アジア・近東・コーカサスの間に位置する戦略的地域のため、先史時代から多くの文化の発祥地となってきました。

 考古学的発掘からは、現在のトルコの多くの地域でアシューリアン(アシュール文化)人工物が確認されています。これらの遺物のほとんどは開地遺跡で発見されています。層序学的に検出されたアシューリアンの両面加工石器は、カライン洞窟(Karain Cave)とカレペテデレシ(Kaletepe Deresi)3遺跡(KD3)でのみ発見されています。トルコは7地域で構成されており、アナトリア半島南東部はアシューリアンの分布の観点では、明らかに最も豊富な地域です。アシューリアンが現在のトルコに存在したことを最初に証明した両面加工石器も、この地域で発見されました。

 アシューリアン両面加工石器は、アナトリア半島南東部、とくにユーフラテス川流域で多く発見されており、チグリス川流域でも21世紀以降に相次いで発見されています。アシューリアン両面加工石器は現在のトルコ共和国の他地域でも発見されていますが、多くの地域では発見数が少なく、孤立した事例となっています。その中で、アナトリア半島中央部は、南東部とともにアシューリアン両面加工石器が多く発見されている地域です。

 アシューリアン両面加工石器は、地中海地域でも発見されています。地中海地域東部は、近東の「レヴァント回廊」に位置しており、旧石器時代人類の移住経路の可能性があるという点で注目されます。この地域のハタイ(Hatay)県でも多くのアシューリアン両面加工石器が発見されています。このレヴァント回廊の終点とも言うべきカフラマンマラシュ(Kahramanmaraş)県のKM43地域でもアシューリアン両面加工石器が発見されています。

 KM43地域の西に位置するアンタルヤ(Antalya)県のカライン洞窟(Karain Cave)で発見されたアシューリアン両面加工石器は40万年以上前と推定されています。アシューリアン両面加工石器はハタイ県とアンタルヤ県の間の広範な地域では発見されていませんでしたが、地中海地域はアナトリア半島における両面加工石器分布の観点では重要となります。アナトリア半島東部でもアシューリアン両面加工石器が見つかっていますが、これはコーカサス地域への(広義の)ホモ・エレクトス(Homo erectus)の移住経路という点でも注目されます。一方、トルコの他地域で発見されたアシューリアン両面加工石器は少なく、黒海地域東西やボスポラス海峡地域やマルマラ海地域やエーゲ海地域やアナトリア半島中央部西方などです。エーゲ海地域では、120万年前頃のエレクトス遺骸が発見されています。

 これら現在のトルコ共和国におけるアシューリアン両面加工石器の分布状況からは、アシューリアン現在のハタイ県を通ってレヴァント回廊経由でトルコに到達した、と考えられます。しかし、トルコにおけるアシューリアン石器は、開地遺跡での発見が多いこともあり、正確な年代情報が不足しています。その数少ない年代値の得られている遺跡では、ユーフラテス川流域の河岸段丘で、後期アシューリアンとなる30万年前頃の石器や、中期アシューリアンとなる70万年前頃の石器が発見されています。イスラエル北部では、チベリアス湖畔にある ウベイディヤ(Ubeidia)遺跡やジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya'aqov)遺跡で、それぞれ140万~100万年前頃、90万~68万年前頃のアシューリアン石器が発見されており(関連記事)、レヴァント回廊経由でのトルコへのアシューリアン到来という仮説と整合的です。

 現在のトルコ共和国におけるアシューリアン両面加工石器の分布からは、レヴァントからハタイ県を経由してアナトリア半島に拡散してきたエレクトス集団が地中海沿岸を西進し、アンタルヤ県に到達した可能性が想定されます。ただ、ハタイ県とアンタルヤ県との間の地中海地域ではアシューリアン両面加工石器が発見されていません。アンタルヤ県の西北に位置するデニズリ(Denizli)県ではエレクトス遺骸が発見されており、アンタルヤ県からのエレクトス集団拡散の可能性が考えられます。一方、その逆方向の可能性も想定され、その場合、内陸部のドゥルスンル(Dursunlu)遺跡のアシューリアン石器群がアナトリア半島において最古級だとすると、エレクトス集団はハタイ県からトロス山脈の北側を西進した可能性もあります。以下、エレクトス集団の想定される拡散経路を示した本論文の図7です。
画像

 図7で示されているように、ハタイ県からトロス山脈を越えて、黒曜石の豊富なアナトリア半島中央部に到達し、ボスポラス海峡の東側に向かう北方経路も想定されます。また、アンタルヤ県を経由して北進し、ボスポラス海峡の東側に到達する経路も考えられます。しかし、現在のトルコ共和国でもトラキア地方、さらにバルカン半島全域ではアシューリアン両面加工石器の痕跡は確認されていません。したがって、ボスポラス海峡東側からトラキア地方へのアシューリアン両面加工石器を有するエレクトス集団の拡散はまだ想定できません。

 アシューリアン石器はコーカサス地域でよく発見されています。トルコ共和国におけるアシューリアン両面加工石器の発見場所に基づくと、アシューリアン両面加工石器の拡散経路は、トルコからコーカサス地域だった可能性が最も高そうです。この経路は、アナトリア半島南東部、とくにユーフラテス川流域から始まり、北東へと進んでコーカサス地域へと到達するものです。アフリカからユーラシアへと進出したエレクトスも、レヴァントからアナトリア半島へと拡散し、コーカサス地域にまで到達した可能性が高そうです。

 現在のトルコ共和国は、ユーラシアのアシューリアン拡散、つまりホモ・エレクトス集団の拡散において重要な役割を果たしたと考えられます。トルコにおけるアシューリアン両面加工石器の分布状況に基づくと、アシューリアンは近東のレヴァント回廊経由でトルコへと拡散してきた、と推測されます。コーカサス地域へのアシューリアンの拡散経路は、アナトリア半島東部を北西へと進むものだった、と考えられます。しかし、トルコからヨーロッパへのアシューリアンを伴うホモ・エレクトス集団の拡散経路に関しては、まだ不明です。このホモ・エレクトス集団のアフリカからユーラシアへの拡散経路は、現生人類(Homo sapiens)のそれともかなり類似しているかもしれず、両者の比較研究の進展も期待されます。


参考文献:
Taşkıran H.(2018): The distribution of Acheulean culture and its possible routes in Turkey. Comptes Rendus Palevol, 17, 1-2, 99-106.
https://doi.org/10.1016/j.crpv.2016.12.005

『卑弥呼』第42話「拝顔」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年7月20日号掲載分の感想です。最近、ついに電子書籍を購入するようになりましたが、当ブログで取り上げるのは『ビッグコミックオリジナル』2020年7月20日号が初めてです。置き場に困るようになったので、近年では本や雑誌の購入を以前より控えていたのですが(古人類学関連の論文を優先するようになったことも大きいわけですが)、電子書籍ならば場所を取らないため、つい安易に購入してしまわないよう厳選していかねばならない、と注意しています。

 前回は、クラトが、恋仲のミマアキを殺さねばならないことに気づき、愕然とする場面で終了しました。今回は、山社(ヤマト)へと向かう暈(クマ)の国の大夫である鞠智彦(ククチヒコ)の一行を、アカメが樹上より見張っている場面から始まります。鞠智彦が予想以上に早く到着しそうだと気付いたアカメは、日見子(ヒミコ)たるヤノハに早く知らせようとしますが、その前に狼と犬が立ちはだかり、囲まれてしまいます。狼と野犬が群を組むはずがない、と不審に思うアカメですが、ともかく窮地を脱せねばならないため、小刀同士を打ち合わせる音で狼と犬を近づけさせまいとします。狼や犬は人の作った音を嫌うからです。とはいえ、この策がいつまで通用するのか、アカメも確信を持てません。アカメは近くに非時香果(タチバナ)の気があるのに気づき、その果汁を体に塗ります。人にとってはかぐわしい香りでも、狼と犬にとっては苦手だからです。狼と犬が一瞬遠ざかった隙をついてアカメは脱出し、再び木から木へとわたって逃げます。ナツハは、狼と犬に指示を出します。

 山社では、悩んでいるミマアキに恋仲のクラトが話しかけていました。ミマアキは、漢(後漢)に使者を派遣した後、漢の帝から倭国に派遣された使者を、どのような道順で山社に招くのか、思案していました。クラトは、那(ナ)国からひたすら南下し、葦北(アシキタ)あたりで南西に向かえばよいではないか、と提案します。するとミマアキは、最短の道が不可の理由を説明します。漢からの使者の目的は、和平と同時に、戦になった場合どう侵攻するかの確認なので、都たる山社への最短の道と倭全体の地形を知らせるわけにはいかない、というわけです。漢からの使者には、倭を漢と並ぶほど広大な島であると思わせたいので、山社が遠方にあるよう見せかけたい、とミマアキはクラトに意図を説明します。まず、末盧(マツラ)に使者団の舟を停泊させ、陸路で伊都(イト)国に案内し、そこから那国と穂波(ホミ)国を経て、何艘かの小舟に分譲させ、河を下り海に出て都萬(トマ)に向かう、とミマアキは構想を打ち明けます。しかし、末盧から穂波までの距離はばれてしまうので、細工すべきは都萬への道程だ、とミマアキは考えます。川や海沿いの邑々に停泊させ、都萬までは水行20日、都萬から山社まではさらに水行10日、陸路で1ヶ月は欲しい、とミマアキは構想していました。クラトは、さすがに無理があるのではないか、と考えます。しかしミマアキは、そのくらい国土は広いという嘘が通れば倭国は安泰だ、と考えていました。お前は日見子(ヤノハ)様にとって最高の副官だな、とクラトに言われたミマアキは笑顔を浮かべます。

 鞠智彦の一行が明日にも山社に到着する、とアカメから報告を受けたヤノハは、自分の予想より3日も早いとは、さすが策士と言われた人だ、と鞠智彦に感心します。ヤノハは、元々は鞠智彦の志能備(シノビ)だったアカメが、自分に仕えていると知られれば、仕えていた志能備の棟梁に殺されるだろう、と案じます。アカメは、志能備の棟梁は今回警固の任に就いておらず、自分の知らない志能備が鞠智彦に同行している、とヤノハに報告します。その志能備は犬や狼を自在に操る、とアカメから聞いたヤノハは、虎でも飼っておけばよかった、と呟きます。ヤノハが育った日向(ヒムカ)の邑の近くでは、漢人が虎を飼っていました。虎ならば、狼も犬もひとたまりもないだろう、というわけです。

 那国の「首都」である那城(ナシロ)では、トメ将軍がウツヒオ王と面会していました。ウツヒオ王はトメ将軍に、山社に放った伺見(ウカガミ)からの報告では、残念ながら日見子(ヤノハ)が明日にも鞠智彦と会うそうだ、と知らせます。那・末盧・伊都・都萬の4人の王が連名で送った和議の申し出は後回しにされたのか、とトメ将軍に問われたウツヒオ王は、トメ将軍も日見子を見誤ったようなので、また戦の準備を進めてくれ、と命じます。しかしトメ将軍は、まだ日見子を信じている、と言います。では、日見子はなぜ鞠智彦と会うのか、とウツヒオ王に問われたトメ将軍は、ただ会ってみたいだけだろう、と答えます。確かなことは一つで、日見子はたとえ我が身に危険が及ぼうとも、誰の傀儡にもならない、とトメ将軍は確信に満ちた表情でウツヒオ王に進言します。

 翌日、鞠智彦は山社に到着します。クラトは、鞠智彦の到着が速く、少数であることに驚きます。ミマアキは、鞠智彦が聞きしに勝る策士だと、楽しんでいるかのように感心し、クラトは呆れます。ヤノハ(日見子)は、ミマト将軍・テヅチ将軍・イクメ・ヌカデが案じるなか、鞠智彦と二人だけで面会しようとします。ヤノハとの面会に臨んだ鞠智彦はまず、噂には聞いていたが実に美しい、と笑顔で言います。しかし、自分が何にも早く参上したことに対して、ヤノハがさしたる動揺も見せないことから、度胸が据わっているのか、未来が見えるのか、と鞠智彦は感心したように言い、威圧的な表情になり、暈からの和議の申し出を受けるのか、答えをもらいたい、とヤノハに要求します。和議を受け入れれば、ヤノハを新たな日見子に任ずる、と言う鞠智彦は、答えは聞くまでもない、断ればヤノハは一日たりとも生きていられない、と確信したように言います。するとヤノハは、どれほど剛毅で頭が切れるのかと、鞠智彦と会うことを楽しみにしていたが、未来も読めないし豪胆さもなく、今は失望している、と答えます。自分が鞠智彦を山社に呼んだのは、暈との戦を布告したかったからだ、とヤノハが鞠智彦に言い放つところで、今回は終了です。


 今回は、ついにヤノハと鞠智彦との面会が描かれました。ヤノハの目的は倭国の平和ですが、その過程で戦は避けられない、とも覚悟しているように思います。その意味で、まず暈との戦を考えていたとしても不思議ではありませんが、あるいは、鞠智彦に迎合して見せて時間を稼ぐのかな、とも予想していたので、いきなりの宣戦布告はやや意外でした。ただ、策士のヤノハですから、この宣戦布告にも重要な意図が隠されているのでしょう。ヤノハの真意が何なのか、次回以降に明かされていくのではないか、と期待されます。暈国はおそらく『三国志』の狗奴国でしょうから、けっきょく山社(邪馬台国)連合と暈とは和議を結ばず戦い続けるのでしょうが、その過程がどう描かれるのか、楽しみです。『三国志』からは、けっきょくヤノハ(卑弥呼)が暈(狗奴)を従属させられなかった、と推測されるので、倭国の平和を目的とするヤノハにとって何らかの誤算があった、という展開になりそうです。それは、ヤノハもまだよく知らないだろう、イサオ王の優れた器量なのかもしれません。

 また、鞠智彦からは、ヤノハが暈への従属を断った場合は殺すよう命じられ、ヒルメからはヤノハを殺害以上の惨い目に遭わせるよう命じられているナツハが、どう動くのかも注目されます。ナツハはヒルメを慕っているので、ヒルメの命に従うのでしょうが、ナツハがヤノハの弟であるチカラオだとすると、ナツハがヤノハと再会してどのような反応を示すのか、見どころとなりそうです。ただ、ナツハはヒルメからヤノハの名を聞かされても動揺した様子を見せませんでしたから、ヤノハの弟ではない可能性も、生き別れになった過程でヤノハを深く恨んでいる可能性もあるように思います。ヤノハとナツハの再会が今からたいへん楽しみです。トメ将軍は一度ヤノハと会っただけですが、ヤノハの人間性をある程度以上見抜いているようで、相変わらず大物感があります。トメ将軍は『三国志』に見える倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後もよき理解者としてヤノハを支持し続けるのだと予想しています。日下の国(後の令制の大和でしょうか)にいるだろうサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の子孫や漢、後には魏も絡んできて、壮大な物語が展開されそうなので、今後も大いに期待されます。

 史実との整合性の観点からは、ミマアキが倭を大国に見せかけようとして、正確な地理を漢(じっさいに訪れたのは後漢から禅譲を受けた魏)からの使者に把握させないように画策しているところが注目されます。本作の邪馬台国は山社で、宮崎県の内陸部に位置する、という設定になりそうですが、『三国志』の記述との矛盾は、この倭国側の意図によるもの、との設定なのでしょう。この点も歴史ものの創作として工夫されており、楽しめる一因になっています。最終的に倭国は纏向遺跡一帯に「遷都」するのではないか、と予想しているのですが、サヌ王の子孫がどう関わってくるのか、注目されます。

アジア東部現生人類集団の古代DNA研究の進展

 近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、その中でもやはり、自身のことであるため、人類の古代DNA研究が最も進んでいる、と言えるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など非現生人類(Homo sapiens)ホモ属(古代型ホモ属)のDNA研究にも高い関心が寄せられてきましたが、やはり発見されている個体数が現生人類と比較してはるかに少ないため、中心になっているのは現生人類の進化史と地域差です。その中でも、近代化の起源地であったことや、多数派の研究者の自己認識や、DNAの保存条件などから、現時点ではヨーロッパで古代DNA研究が最も進んでおり、もっと拡大してユーラシア西部での研究の進展には目覚ましいものがあります。

 ユーラシア西部と比較して現時点では、日本列島も含まれるアジア東部、さらには拡大してユーラシア東部の現生人類の古代DNA研究が大きく遅れていることは否定できません。しかし、今年(2020年)になって、中国を中心としてアジア東部の現生人類に関する重要な古代DNA研究が相次いで公表されました。それは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(Wang et al., 2020、関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(Yang et al., 2020、関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(Ning et al., 2020、関連記事)です(以下、それぞれWang論文、Yang論文、Ning論文)。

 また、一昨年に公表されたアジア南東部の完新世人類の古代DNA研究も重要で、それは先史時代の複数の移住の波を指摘した研究(Lipson et al., 2018、関連記事)と、在来の狩猟採集民の影響も指摘した研究(McColl et al., 2018、関連記事)です(以下、それぞれLipson論文、McColl論文)。日本列島に関しては、縄文時代の個体のDNA解析注目され、それは北海道の個体に関する研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)と愛知県の個体に関する研究(Gakuhari et al., 2019、関連記事)です(以下、それぞれ神澤論文、覚張論文)。これら一連の研究を詳しくまとめていく気力と見識は現時点ではないので、今回は大まかな見取り図を簡単に整理するに留めます。もちろん、今後の研究の進展により、以下の見取り図が大きく修正される可能性は低くありません。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系と西部系に分岐します。ユーラシア東部系は、北方系と南方系に分岐し、南方系はアジア南部および南東部の先住系統とオセアニア先住系統(パプア人およびオーストラリア先住民系統)に分岐します。McColl論文は、オセアニア先住系統と分岐した後のユーラシア東部南方系統が、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐したことを指摘します。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っており、この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成された、とアジア南部の人口史に関する研究(Narasimhan et al., 2019、関連記事)は指摘します。Lipson論文は、アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成された、と推測します。

 アジア東部に関しては、Wang論文が、ユーラシア東部北方系と南方系とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測します。Wang論文では、ユーラシア東部北方系がアジア東部北方系とアジア東部南方系に分岐した、と想定されます。Wang論文でもYang論文でも共通しているのは、中国は新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とする北方系と長江流域を中心とする南方系)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していった、との大まかな見通しです。ただ、新石器時代中国においてこの南北間の大きな違いがあったとはいえ、Yang論文からは、すでに新石器時代においてある程度の混合があった、と窺えます。またNing論文は、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、遺伝的構成に違いが見られることを指摘します。

 問題となるのは、アジア東部の南北両系統がどのように形成されたのか、ということです。現時点では、アジア東部の更新世人類でDNAが解析された遺骸はきわめて少ないため、アジア東部系統がユーラシア東部北方系統からどのような経路で拡散してきて形成されたのか、不明です。そもそも、ユーラシア東部北方系統自体が、どのような経路でアジア東部にまで拡散してきたのか、現時点では不明です。現生人類の拡散を考古学的観点から概観した研究(仲田., 2020、関連記事)を参照すると、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)が現生人類のユーラシアにおける拡散の指標となりそうで、ユーラシア東部北方系はユーラシア中緯度地帯を東進してきたのではないか、と考えられます。

 一方、ユーラシア東部南方系は、アジア南部やアジア南東部の狩猟採集民の主要な祖先であることから、ユーラシア南岸を東進してきた可能性が高そうです。おそらくその一部は、アジア南東部から北上し、アジア東部あるいは北東部まで拡散し、中にはアジア内陸部にまで到達した集団もいたのでしょう。Wang論文は、アジア東部南方系統が14%程度と少ないながらもユーラシア東部南方系の影響を受けた、と推測しています。このアジア東部南方系を、現代オーストロネシア語族の主要な祖先と推測している点で、Wang論文とYang論文は一致します。その意味でも、現代オーストロネシア語族の直接的な起源が中国南部(もしくはそこから人類集団が拡散してきた台湾)である可能性はきわめて高そうです。

 問題となるのは、アジア東部南方系の主要な分布地域と考えられる、長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータが、現時点では公表されていないことです。Wang論文では、アジア東部南方系を表す古代人のゲノムデータがまったく提示されていません。新石器時代アジア東部北方系集団におけるアジア東部南方系の遺伝的影響の増加を指摘するNing論文でも、アジア東部南方系を表す古代人のゲノムデータは提示されていません。Yang論文では、福建省の新石器時代個体群が、アジア東部南方系統を表す、と想定されています。これに関しては、福建省の新石器時代個体群は孤立した集団を表しており、広範な地域の集団の遺伝的構成を代表していないかもしれない、との指摘もあります。ただ、Wang論文とYang論文とNing論文はおおむね一致したアジア東部人口史を提示しており、おそらく長江流域新石器時代集団も、福建省の新石器時代個体群と類似した遺伝的構成を示す可能性が高そうです。

 まとめると、中国に関しては、ユーラシア中緯度を東進してきたユーラシア東部北方系から派生したアジア東部系が現代人の主要な祖先となり、新石器時代までに、アジア東部系は北方系と南方系に明確に区分されるようになり、両者の混合で現代人が形成されていき、それが現在の地理的な遺伝的構成の違いをもたらした、と考えられます。その結果として中国では、新石器時代よりも現代の方が遺伝的にはずっと均質です。また、アジア東部南方系は、ユーラシア東部南方系の遺伝的影響も少ないながら一定以上受けていた、と推測されます。Yang論文で注目されるのは、沿岸部新石器時代アジア東部個体群では見られない古代シベリア人関連系統が、現代アジア東部では台湾や日本のような島嶼部とチベットを除いて、一定以上の影響を残していることで、漢文史料に見える匈奴や鮮卑や女真など華北よりも北方の集団が華北、さらには華南や朝鮮半島へと到来したことを反映しているのかもしれません。さらに、Wang論文が指摘するように、中国北西部はユーラシア西部系の遺伝的影響も受けています。

 中国の周辺地域では、チベットに関して、農耕の始まった3600年前頃には、在来集団とアジア東部北方系との混合が始まっていた、とWang論文は推測します。Wang論文では、チベット人はユーラシア東部南方系(15%)とアジア東部北方系(85%)との混合としてモデル化されます。日本列島に関しては、東日本の「縄文人」が、ユーラシア東部南方系(45%)とアジア東部南方系(55%)の混合として、Wang論文ではモデル化されています。日本とチベットの現代人では、世界でも珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dが高頻度で見られますが、アンダマン諸島の現代人では日本とチベットよりもさらに高頻度でYHg-Dが存在することから、YHg-Dはユーラシア東部南方系に由来する古い系統と考えられます。

 現代日本人と「縄文人」との関連では、圧倒的多数を占める本州・四国・九州を中心とする「本土」集団は、「縄文人」と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合により形成された、と考えられています。Wang論文から、後者はアジア東部北方系統を主体としつつも、アジア東部南方系統も一定以上有していた、と考えられます。Ning論文では、アジア東部北方系を主体とする新石器時代の華北個体群において、稲作農耕の考古学的痕跡の増加と一致して、アジア東部南方系統の遺伝的影響の増加が見られます。おそらく、長江流域を起源とする稲作集団が、山東省など華北に拡散し、そこから現在の遼寧省を経て朝鮮半島経由で、縄文時代晩期以降に日本列島に到来したのではないか、と推測されます。弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。

 現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9~15%、覚張論文では8%程度と推定されています。もちろん、上述の各集団における特定の系統の割合もそうですが、これらはあくまでモデル化であり、実際とは違います。そこで、これらのモデルが実際にどれだけ近いのか、問題となるわけですが、現時点では、西日本の「縄文人」のゲノムデータが得られていないことからも、現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合に関して確たることは言えない、と考えるべきでしょう。その意味で、「縄文人」系統の割合は10%とか20%とかいった数字が確定的に独り歩きすることには、注意しなければなりません。また、現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合はさほど高くなさそうですが、だからといって縄文文化がその後の日本に与えた影響はほとんどない、と判断してしまうことも時期尚早だと思います(関連記事)。文化変容・継続と遺伝的構成の関係は一様ではない、と私は考えています(関連記事)。また、考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することも容易ではないでしょう(関連記事)。


参考文献:
Gakuhari T. et al.(2019): Jomon genome sheds light on East Asian population history. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/579177
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.
https://doi.org/10.1126/science.aat3188
関連記事

McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.
https://doi.org/10.1126/science.aat3628
関連記事

Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606
関連記事

Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91
関連記事

小林道彦『近代日本と軍部 1968~1945』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年2月に刊行されました。本書は近代(1868~1945年)日本陸軍の通史です。陸軍に焦点を当てているとはいえ、日本近代の通史を一人で執筆することには多大な労力が必要だったでしょう。膨大な研究蓄積があるだけに、一人での通史執筆となると、本書の個々の見解への異論は少なくないかもしれませんが、日本近代史に疎い私にとっては、復習にもなって、たいへん有益でした

 本書の特徴は、陸軍視点の日本近代通史ながら、政党にかなりの分量を割いていることです。本書のこの構成の前提として、近代日本の軍隊も政党 も、士族という母胎から生まれた一卵性双生児だった、との認識があります。本書のこの認識はかなりのところ妥当だろう、と思います。そもそも、近代日本は士族を否定した国家でありながら、士族の価値観・心性を多分に継承しているのではないか、と思います。その意味で、江戸時代の士族は人口比で精々1割だったとして、近代日本における士族の意義や精神性の意義を軽視する見解には同意できません。

 本書はこの認識を前提として、近代日本における陸軍と政党との間には当初、徴兵制(平民的)軍隊と義勇兵(士族の軍隊)という対立軸があった、と指摘します。そうした対立軸は日清戦争の頃には解消され、その結果として、当初は準軍事組織を有する物騒な組織だった政党は、次第に「非武装化」されていきました。その結果として、日露戦争後に徐々に形成されていった政党政治において、二大政党間の対立がしばしば加熱していったにも関わらず、ヴァイマル期ドイツのような、政党間の本格的な武力対立は起きませんでした。

 本書からは色々と教えられましたが、重要なのは、日清戦争と日露戦争において共に、日本側が開戦当初の想定を遥かに超える戦果を得て、それが政界と軍部要人が進めようとしていた改革を抑制してしまい、その後の硬直的な体制の確立に結果として寄与してしまった側面が多分にある、ということです。また、統帥権の存在自体が「戦争と破滅への道」を必然化したわけではなく、文官が好戦的で軍部が慎重な場合には、統帥機関による「平和の克復」ですらあり得た、との指摘も重要だと思います。また、「統制派」に関して、本来は皇道派の専横抑制のために結集した永田鉄山を中心とする軍人集団で、永田没後、とりわけ二・二六事件後の多数派軍人集団(新統制派)と同一視すべきではない、との指摘も重要だと思います。

ヒトゲノムにおける構造多様性のマッピングと特性解析

 ヒトゲノムにおける構造多様性のマッピングと特性解析に関する研究(Abel et al., 2020)が公表されました。ヒト遺伝学研究における全ゲノム塩基配列解読の主要な目標の一つは、一塩基多様体、小さな挿入や欠損(インデル)、構造多様体をはじめとする、あらゆるタイプの多様性を調べることです。しかし、構造多様体を研究するためのツールや情報資源は、より小さな多様体のものより遅れています。

 この研究は、スケーラブルなパイプラインを用いて、高深度塩基配列解読した17795例のヒトゲノムで、構造多様体のマッピングと特性解析を行ないました。部位頻度データを公開することで、既知で最大となる、全ゲノム塩基配列解読に基づく構造多様体の情報資源が得られました。コード領域を変化させる稀な構造多様体は1人当たり平均して2.9個ある、と明らかになり、これらの多様体は4.2個の遺伝子の遺伝子量や構造に影響を及ぼしており、影響力の大きい稀なコードアレル(対立遺伝子)の4.0〜11.2%を占めていました。

 計算モデルを用いると、構造多様体がゲノム規模で稀な対立遺伝子の17.2%を占めると推定され、その有害な影響はコード対立遺伝子と同等と予測されました。また本論文は、そのような構造多様体の約90%は非コード欠失でした(ゲノム当たり平均19.1個)。この研究は、158991個のひじょうに稀な構造多様体について報告し、2%のヒトがひじょうに稀なメガ塩基規模の構造多様体を持ち、その半数近くで、均衡の取れたあるいは複雑な再配列が起きている、と示します。

 さらに本論文は、遺伝子と非コードエレメントの遺伝子量感受性を推測し、エレメントのクラスや保存に関連する傾向を明らかにします。本論文は、この一連の研究が、全ゲノム塩基配列解読時代において構造多様体の解析や解釈を導く上で役立つだろう、と指摘します。構造多様体に関する研究は、DNA解析技術の飛躍的な発展とともに大きく進み、最近も複数の研究が相次いで報告されています(関連記事)。また、構造多様体は現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑の詳細な解明にも役立つと考えられ(関連記事)、その点でも今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Abel HJ. et al.(2020): Mapping and characterization of structural variation in 17,795 human genomes. Nature, 583, 7814, 83–89.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2371-0

夜間のブルーライトと鬱病の関係

 夜間のブルーライトと鬱病の関係についての研究(An et al., 2020)が公表されました。光は、気分など哺乳類のさまざまな生理機能に影響を及ぼします。日中に行なわれる光線療法は鬱病患者に抗鬱効果をもたらすことがある一方で、光害や電子機器による夜間の光への過度の曝露が鬱症状に関連している、と明らかになっていました。しかし、このような夜間の光による影響の根底にある神経機構は、よく分かっていませんでした。

 この研究は、マウスに対して夜間にブルーライトを2時間照射し、それを3週間続けました。その結果、マウスが徐々に鬱病様行動を発現するまでに最長3週間かかる、と明らかになりました。この行動は、実験終了後少なくとも3週間持続することが観察されました。この実験では、鬱病様行動は、逃避行動の減少とショ糖嗜好性の低下という2つの尺度により測定されました。

 この研究は、網膜に含まれる特定のタイプの視細胞から2つの脳領域(背側手綱周囲核と側坐核)に至る神経経路により実験結果を説明できる、と強調しています。この2つの脳領域の結合を遮断すると、夜間の照明を浴びることで誘発される行動の変化が生じませんでした。また、この研究は、夜間の照明を浴びると、日中に光を浴びる場合と比べて、この神経経路がかなり強く活性化されることも明らかにしました。これは、日中の光曝露が行動変化を引き起こさないことの説明となるかもしれません。

 これと同じ神経経路がヒトの場合にも活性化されるのであれば、夜間に過度の照明を浴びると鬱症状が発現する理由は、この研究で得られた知見により説明できる可能性がある、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:夜間にブルーライトを浴びたマウスのうつ病様行動を説明する

 数週間にわたって夜間に青色光を2時間ずつ浴びたマウスが、うつ病様行動を示すようになったことを報告する論文が、Nature Neuroscience に掲載される。今回の研究では、この現象の原因となる神経経路が突き止められ、夜間に過度の光を浴びた人間に生じる影響を解明する手掛かりになると考えられる。

 光は、哺乳類のさまざまな生理機能(気分など)に影響を及ぼす。日中に行われる光線療法はうつ病患者に抗うつ効果をもたらすことがある一方で、夜間の光(光害や電子機器による)への過度の曝露がうつ症状に関連していることが明らかになっていた。しかし、このような夜間の光による影響の根底にある神経機構はよく分かっていなかった。

 今回、Tian Xueたちの研究チームは、マウスに対して夜間にブルーライトを2時間照射し、それを3週間続けた。その結果、マウスが徐々にうつ病様行動を発現するまでに最長3週間かかることが分かった。この行動は、実験終了後少なくとも3週間持続することが観察された。この実験では、うつ病様行動は、逃避行動の減少とショ糖嗜好性の低下という2つの尺度によって測定された。Xueたちは、網膜に含まれる特定のタイプの視細胞から2つの脳領域(背側手綱周囲核と側坐核)に至る神経経路によって実験結果を説明できると強調している。この2つの脳領域の結合を遮断すると、夜間の照明を浴びることで誘発される行動の変化が生じなかった。また、Xueたちは、夜間の照明を浴びると、日中に光を浴びる場合と比べて、この神経経路がかなり強く活性化されることも見いだした。これは、日中の光曝露が行動変化を引き起こさないことの説明となるかもしれない。

 これと同じ神経経路がヒトの場合にも活性化されるのであれば、夜間に過度の照明を浴びるとうつ症状が発現する理由を今回得られた知見によって説明できる可能性があると、Xueたちは結論付けている。



参考文献:
An K. et al.(2019): A circadian rhythm-gated subcortical pathway for nighttime-light-induced depressive-like behaviors in mice. Nature Neuroscience, 23, 7, 869–880.
https://doi.org/10.1038/s41593-020-0640-8

漸新世後期の新種有袋類

 漸新世後期の新種有袋類に関する研究(Beck et al., 2020)が公表されました。本論文は、オーストラリアの南オーストラリア州のエア湖盆地で出土した頭蓋骨と部分骨格の化石について報告しています。この化石は、2600万~2500万年前頃となる漸新世後期のもので、ウォンバット亜目の新種(Mukupirna nambensis)とされる。ウォンバット亜目は、かつて有袋類の中で最も多様な進化群の一つでしたが、現生種は、3種のウォンバットとコアラだけになりました。本論文で新たに命名されたMukupirnaは、エア湖の周辺地域で話されているディヤリ語のmuku(骨)とpirna(大きい)に由来します。この化石動物の体重は143~171kgと推定されており、現生のウォンバット種の約5倍となります。

 この骨格化石については、穴掘り行動を示す数々の解剖学的特徴が明らかになりました。その一例が、穿孔動物に一般的に見られる前肢の適応です。しかし、これまでに発見されて、より最近のものと年代決定された化石からは、この新種ウォンバット亜目が、後の時代の近縁種ほど穴掘りに適応していなかった、と示唆されます。本論文は、この点と体のサイズを考慮して、この新種ウォンバット亜目は、現生のウォンバットに見られるような真の穴掘り行動はできなかったものの、地面を引っかいて地下にある食物(根茎や塊茎など)を掘り出していた可能性がある、との見解を提示しています。現生ウォンバット種のもう一つの適応特性は、連続的に成長する特殊化した臼歯ですが、この新種ウォンバット亜目にはそれもなく、ウォンバットの進化において、骨格の穴掘り行動への解剖学的適応は歯の変化より先に起こった、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:骨太の有袋類の化石から明らかになったウォンバットの穴掘り行動の進化

 古代有袋類の新種が発見され、Mukupirna nambensisと命名されたことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。この化石標本は、これまでに発見されたオーストラリアの有袋類の化石標本の中で最も古いものの1つであり、その解剖学的特徴は、現生のウォンバットの進化とその特徴的な穴掘り行動についての理解を深める。

 Robin Beckたちは今回の論文で、南オーストラリア州のエア湖盆地で出土した頭蓋骨と部分骨格の化石について記述している。この化石は、約2500万~2600万年前の漸新世後期のもので、ウォンバット亜目の新種とされる。ウォンバット亜目は、かつて有袋類の中で最も多様な進化群の1つだったが、現生種は、3種のウォンバットとコアラだけになった。Beckたちが名付けたMukupirnaという名称は、エア湖の周辺地域で話されているディヤリ語のmuku(「骨」)とpirna(「大きい」)に由来している。この化石動物の体重は、143~171キログラムと推定されており、現生のウォンバット種の約5倍だ。

 この骨格化石については、穴掘り行動をしていたことを示す数々の解剖学的特徴が明らかになった。その一例が、穿孔動物に一般的に見られる前肢の適応だ。しかし、これまでに発見されて、より最近のものと年代決定された化石からは、Mukupirnaが、後の時代の近縁種ほど穴掘りに適応していなかったことが示唆される。Beckたちは、この点と体のサイズを考慮して、Mukupirnaは、現生のウォンバットに見られるような真の穴掘り行動はできなかったが、地面を引っかいて地下にある食物(根茎、塊茎など)を掘り出していた可能性があるという考えを示している。現生のウォンバット種のもう1つの適応特性は、連続的に成長する特殊化した臼歯だが、Mukupirnaにはそれもなく、ウォンバットの進化において、骨格の穴掘り行動への解剖学的適応は歯の変化より先に起こったことが示唆される。



参考文献:
Beck RMD. et al.(2020): A new family of diprotodontian marsupials from the latest Oligocene of Australia and the evolution of wombats, koalas, and their relatives (Vombatiformes). Scientific Reports, 10, 9741.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-66425-8

コーカサス北部のコバン文化の母系と父系

 コーカサス北部のコバン(Koban)文化の母系と父系に関する研究(Boulygina et al., 2020)が公表されました。近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、コーカサスでも銅石器時代~青銅器時代の集団で大きな成果が得られています(関連記事)。しかし、コーカサス北部集団の現代の民族的構成の形成に大きな影響を与えた文化の古代DNAは、まだ詳しく調べられていません。紀元前二千年紀末~紀元前千年紀半ば頃となる後期青銅器時代と前期鉄器時代のコバン(Koban)文化は、古代と現代を架橋するという点で、とくに興味深い存在です。ロシア連邦北オセチア共和国のコバン墓地に因んで名づけられたコバン文化は、大コーカサス山脈の両側に紀元前13/12世紀~紀元前4世紀まで広がっていました。コバン文化は、発展した冶金技術と段々畑農耕でよく知られていますが、コバン文化集団の遺伝的起源と多様性は、これまで調べられてきませんでした。

 本論文は、コバン文化個体群のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの分析結果を報告し、その遺伝的起源を検証します。具体的には、ロシア連邦カバルダ・バルカル共和国のザユコーヴォ3(Zayukovo-3)遺跡(紀元前8~紀元前5世紀)と、ロシア連邦スタヴロポリ地方(Stavropol Krai)キスロヴォツク市(Kislovodsk)のクリンヤール3(Klin-Yar 3)遺跡の個体群です。DNA分析には、サンガー法と次世代シーケンサー(イルミナ)が用いられました。クリンヤール3遺跡では5人、ザユコーヴォ3遺跡では10人のDNAが解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)は、サンガー法ではクリンヤール3遺跡の2人とザユコーヴォ3遺跡の9人で、次世代シーケンサーではクリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の3人で決定されました。また次世代シーケンサーでは、クリンヤール3遺跡の1人とザユコーヴォ3遺跡の5人でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。さらに、これら紀元前9~紀元前5世紀頃となるコーカサス北部のコバン文化期個体群との比較用として、サルマタイ(Sarmatian)文化期のザユコーヴォ3遺跡の1個体(紀元後2~3世紀)もDNAが分析されました。

 サンガー法でのmtHgは、クリンヤール3遺跡の2人がH20aとJ1c(次世代シーケンサーではJ1b1)、ザユコーヴォ3遺跡の9人がN・U5a1a1h(次世代シーケンサーではU5a1a2)・HV1(次世代シーケンサーではHV1a1a)・T1a(次世代シーケンサーではT1a1)・H1e・W5a(次世代シーケンサーではN)・R6/H1e・R6・I1です。YHgは、クリンヤール3遺跡の1人がE1a2a1b1b(CTS2361)、ザユコーヴォ3遺跡の5人がG2a1a1a1b(FGC1160)・D1a1b1a(M533)・G2a1a(FGC595/Z6553)・R1b1a1b(M269/PF6517)・R1a(L146/M420/PF6229)です。

 これらのYHgは、E1a2a(CTS246/V1119)・G2a1a・R1b(M343/PF6242)・R1aのように、鉄器時代のコーカサスとヨーロッパでは一般的で、YHg-R1a・R1bは通常、インド・ヨーロッパ語族の移住と関連づけられてきました。既知の考古学的データは、スキタイ人の侵入がコバン文化に大きな影響を与えた、と示します。これは、本論文のYHgで確認されます。YHg-R1a・R1bは、スキタイ人とサルマティア人において高頻度で報告されています。YHg-G1a(CTS11562)は通常、近東の新石器時代個体群と関連づけられていますが、ヨーロッパの新石器時代個体群でも見られます。現在、ヨーロッパ中央部においてYHg-G2a(P15/PF3112)は低頻度ですが、現代のオセチアバルカルやカラチャイでは広範に見られます。YHg-R1a・R1b・E1a2aは、バルカル(Balkar)やカラチャイ(Karachay)やダルギン(Dargin)やレズギ(Lezghin)やアブハズ(Abkhaz)といった他の現代コーカサス北部民族集団でも見られます。ザユコーヴォ3遺跡の1個体のYHgはアジア東部に見られ、ユーラシア西部ではほぼ見られないYHg-D1a1b1aで、この個体のmtHg-HV1は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後にコーカサスを通ってヨーロッパへと拡大しました。

 mtDNA解析では、サンガー法と次世代シーケンサーでmtHgの決定に違いも見られます。これは、サンガー法での配列が超可変領域1(HVR1)に限定されている一方で、次世代シーケンサーでは全配列を分析できることに起因しているかもしれません。コバン文化個体群では、ヨーロッパの旧石器時代および新石器時代文化の人々に見られるmtHgが確認されました。具体的には、mtHg-H・J・N・T・W・I・Uは古代および現代コーカサス北部集団でも確認されており、ユーラシア西部において長期にわたって存在します。本論文のデータは、古代コーカサス地域における相対的な遺伝的継続性を示しますが、時として他文化からの影響も受けました。ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたYHg-R1bは、鉄器時代におけるコーカサス北部へのスキタイ人の侵略の遺伝的痕跡かもしれません。

 注目されるのは、ザユコーヴォ3遺跡の1個体で確認されたmtHg-HV1です。mtHg-HV1は、LGM 後におそらくはコーカサスを経由して近東からヨーロッパ西部へと拡散した、と推測されています。この個体のYHgは、アジア東部で見られるD1a1b1aです。本論文で報告されたコバン文化個体群の他のYHgは、現代コーカサス北部の民族集団で一般的です。YHg-Dは現在では、おもにアンダマン諸島とチベットと日本列島とアフリカ西部というように、ひじょうに限定的にしか見られません。このYHg-D1a1b1aがどのような経路でコーカサス北部にまで到達したのか、また、この個体は核ゲノムではどのような遺伝的構成なのか、今後の研究の進展が注目されます。


参考文献:
Boulygina E. et al.(2020): Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, 102357.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102357

現代のそりイヌの祖先(追記有)

 現代のそりイヌの祖先に関する研究(Sinding et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。グリーンランド・ドッグ、アラスカン・マラミュート、ハスキーといった、北極圏に適応した犬種である現代のそり犬は、共通して古代シベリアに起源を有し、1万年前頃に最終氷期の最後の残留氷河が消滅した時に登場したと考えられ、特徴的な遺伝系統を代表する犬です。シベリア東部の考古学的証拠からは、北極圏に適応したイヌたちは少なくとも過去15000年間、北極圏の人々の暮らしに不可欠だったと考えられる、と示されています。現在のこれらの地域における犬たちの役割と同様に、古代の北極圏の犬たちもそり引きに使われ、氷に覆われた厳しい地勢を横断する長距離移動や資源の輸送に役立っていました。

 そり犬は極めて独特な犬系統の一つですが、その遺伝子および進化の古い歴史についてはほとんど知られていません。この研究は、現代のグリーンランド・ドッグ10頭、9500年前頃のシベリアのそり犬、33000年前頃のシベリアのオオカミのゲノム配列を決定し、それらを多数の他の現代のイヌのゲノムと比較して、北極圏のそり犬の遺伝的起源を調べまた。その結果、古代シベリアのイヌが現代のそりイヌたちの共通祖先である、と明らかになりました。とくにグリーンランド・ドッグについては、それらが隔離された個体群であることから、より直接的にさかのぼって、その遺伝的祖先が古代そりイヌである、と明らかになります。

 これらの知見では、他の多くの犬種とは異なり、そりイヌにはシベリアの更新世のオオカミからの遺伝子流動があった、と示唆された一方で、現代および古代のそり犬にはいずれも、アメリカ大陸北極圏オオカミとの間の重大な混合の痕跡は見つかりませんでした。これは北極圏の犬種における約9500年間におよぶ遺伝的連続性を示しています。この研究はまた、北極圏のイヌにおける収束適応についても調べ、そりイヌが、飼い主であるヒトのための高脂肪低デンプン質食を食べられるようになったことも明らかにしています。以下、本論文が調べたイヌの場所と、系統関係を示した本論文の図1です。
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 現代と古代の北極圏のイヌについてのゲノム解析から得られたこれらの知見により、そりイヌがどれほど前から存在するのか、明らかになったとともに、完新世の始まり以降、北極圏ではそりイヌが人間の生存にとって重要であった、と強調されます。後期更新世から完新世にかけてシベリア北極圏に拡散した人々にとって、これら北極圏のイヌと革新的なそり技術が生存にたいへん役立ったことは間違いないでしょう。こうした技術革新と家畜化(動物の利用)は、北極圏に限らず、現生人類(Homo sapiens)が世界中に拡散できた要因と言えるでしょう。


参考文献:
Sinding MHS. et al.(2020): Arctic-adapted dogs emerged at the Pleistocene–Holocene transition. Science, 368, 6498, 1495–1499.
https://doi.org/10.1126/science.aaz8599


追記(2020年7月2日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

狩猟採集技能の文化および個体間の多様性

 狩猟採集技能の文化および個体間の多様性に関する研究(Koster et al., 2020)が公表されました。ヒト(Homo sapiens)は類人猿(ヒト上科)の間で、長い学童期(juvenile)と思春期(adolescent)を含む遅い生活史、短い出産間隔、繁殖後の長い寿命という一連の生活史により区別されます。これらの特性の進化を説明するため、一夫一婦や祖父母による孫の世話など、複数のモデルが提示されました。このモデルは、ヒトの重要な特徴である大きな脳を説明しなければなりません。狩猟採集の複雑さと競争的な社会的課題は、大きな脳の進化要因として支持されていますが、さらに文化学習の利点が組み合わされることもあります。

 人類系統における脳容量増加の要因として、最近の研究では生態(個体vs自然)および協同(個体群vs自然)が重視されています(関連記事)。これは、狩猟採集活動が人類系統における脳容量増加に重要な役割を果たしてきた、と示唆します。そこで本論文は、技能・生産性の評価が農耕や牧畜よりも容易な狩猟を対象として、その年齢による技能の変動を推定し、ヒト生活史と文化的学習の進化のモデルを検証します。データは、アメリカ大陸(カナダおよびラテンアメリカ)とサハラ砂漠以南のアフリカとシベリア北極圏とアジア南東部とオセアニアの、計40ヶ所1800人以上の約23000の狩猟記録から得られました。

 全体の平均的な狩猟技能の最大値は33歳となります。加齢による技能曲線は、18歳時に最大値の89%に達し、33歳を過ぎるとゆっくり低下していき、56歳以後になってようやく18歳時の89%を下回ります。ただ、これはあくまでも全体的なパターンで、集団(共同体)や個体による違いも見られます。とくに、個体差はひじょうに大きくなる可能性があり、一部の個体は同じ共同体の他の成人と比較して半分程度の場合もあります。また集団間では、狩猟技能が最大値となる年齢に違いが見られ、下限では24歳頃、上限では37歳と45歳の集団が存在します。

 狩猟技能の発達に関しては、成人期の高水準平坦域に達する前に、子供期(childhood)と思春期において最も急速に成長します。また全集団で、技能は身体および性的成熟後に最大値に達します。集団間および集団内での技能のバラツキについては、外因性死亡リスクなどが考えられますが、経験・動機・社会的学習機会・狩猟の身体的および社会的要求などの変数も想定され、異文化間の狩猟技能発達過程の違いには、追加の理論が必要となります。本論文の知見は、現代だけではなく、過去の環境における狩猟技能の発達過程にも示唆を与えるものとなるでしょう。

 集団内における狩猟技能の個体間格差に関しては、体力と持久力や蓄積された知識や動機がすべて、おそらくは年齢に関連した変動に寄与しています。狩猟技能が最大値になる33歳頃は、体力と生態学的知識が頭打ちになる年齢に近くなっています。これも、現代の各運動競技で全盛期の年齢が異なるように、狩猟内容により異なってくるのかもしれません。狩猟技能の個体差に関しては、集団内では増加率よりも衰退率の方で違いが大きい、と示されます。ただ、その比率は集団間ではほぼ同等です。

 狩猟では毎日の収穫が予測不可能なので、現代人の祖先においては、小さなバンドでの相互の食料分配が必要と考えられています。しかし、これまでの研究では、個々の狩猟者の加齢による技能の変動はあまり考慮されていませんでした。本論文は、この加齢による狩猟技能の変動性がヒト狩猟採集民共同体の典型で、リスク緩和のための食料共有の効果を変える、と示唆します。狩猟者がその技能と生産性において大きく異なる場合、リスク集積分布体系への参加には非対称的な利益があります。ヒト系統における向社会性および他の特徴が、この非対称性によりもたらされる協調的課題に由来する限り、障害にわたる狩猟技能の高い変動は、さらに注目に値します。


参考文献:
Koster K. et al.(2020): The life history of human foraging: Cross-cultural and individual variation. Science Advances, 6, 26, eaax9070.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax9070

マヤ文化最古の儀式用建造物

 マヤ文化最古の儀式用建造物に関する研究(Inomata et al., 2020)が報道されました。考古学界では従来、マヤ文化はじょじょに発展したと考えられており、土器の使用および定住生活の開始とともに、小規模村落が紀元前1000~紀元前350年頃(以下、すべて較正年代です)となる中期先古典期に出現した、と想定されてきました。しかし近年、グアテマラのセイバル(Seibal)遺跡の人工的な高台のような初期の儀式用複合施設など、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、このモデルに疑問が呈されています。

 本論文は、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス(Aguada Fénix)遺跡(メキシコ合衆国タバスコ州)の、航空ライダー(LIDAR)測量および発掘調査の結果を示します。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成でき、これまでにも成果が得られています(関連記事)。アグアダ・フェニックス遺跡は、南北1413 mで東西399m、高さ10~15 mの人工の基壇を有し、それを中心に9本の堤道が広がっています。放射性炭素年代のベイズ解析により、この建造物の年代は紀元前1000~紀元前800年頃と推定されました。これはマヤ地域における既知の遺跡では最古となる大公共建造物で、スペイン人侵入以前のマヤ地域の歴史全体を通して最大のものとなります。

 アグアダ・フェニックス遺跡には、より古いオルメカ文化のサン・ロレンソ(San Lorenzo)遺跡の祭祀センターと類似する点もありますが、おそらくアグアダ・フェニックスの地域社会には、サン・ロレンソ社会に匹敵するほどの顕著な社会的不平等はなかった、と考えられます。アグアダ・フェニックスおよび同時代のその他の祭祀用建造物群は、マヤ文化の初期の発展における共同作業の重要性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:マヤ文明最古の儀式用建造物が発見される

 マヤ文明によるモニュメンタル建造物(記念碑的建造物)として最大かつ最古のものが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 マヤ文明は、先古典期中論文著者前1000~紀元前350年)に小さな村が次々と出現して以降、徐々に発展していったというモデルが考古学者によって提示されていた。しかし最近、紀元前950年頃のものとされるグアテマラ・セイバルの人工的な高台のような初期の儀式用複合施設が発見され、このモデルは再考を迫られている。

 猪俣健(いのまた・たけし)たちの研究チームは、タバスコ(メキシコ)でLIDARを用いた航空探査を行い、これまで知られていなかったマヤ遺跡を発見した。LIDARとは、レーザー光を用いたリモートセンシング法で、地表の3Dマップを作成できる。アグアダ・フェニックスと命名されたこの遺跡には、南北1413メートル、東西399メートルの高台がある。この建造物は、周りよりも10~15メートル高く、9つの土手道が周辺に伸びていた。猪俣たちは、放射性炭素年代測定法を用いて、この建造物が紀元前1000~紀元前800年に建設されたと推定しており、これまでにマヤ地域で発見された最古のモニュメンタル建造物となった。

 猪俣たちは、アグアダ・フェニックス遺跡がほぼ同時代のオルメック文化などの他の考古遺跡とは異なり、顕著な社会的不平等を明確に示す標識(例えば、地位の高い人物の彫像)がない点を指摘し、アグアダ・フェニックスなどの儀式用複合施設が、マヤ文明の初期の発展段階における共同作業の重要性を示唆していると結論付けている。


考古学:アグアダ・フェニックス遺跡の大公共建築とマヤ文明の起源

考古学:初期のマヤ人による大公共建造物

 メソアメリカのマヤ文明は一般に、徐々に発展したと考えられてきた。しかし近年、初期の祭祀用建造物群が発見されたことで、この考え方に疑問が呈されている。今回、猪俣健(米国アリゾナ大学)たちが、航空ライダー測量で、これまで知られていなかったアグアダ・フェニックス遺跡(メキシコ・タバスコ州)において長さ1400 m、高さ10~15 mの、年代が紀元前1000~紀元前800年までさかのぼる祭祀用基壇を発見したことで、従来の考え方は完全に覆されるだろう。



参考文献:
Inomata T. et al.(2020): Monumental architecture at Aguada Fénix and the rise of Maya civilization. Nature, 582, 7813, 530–533.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2343-4

大隅洋『日本人のためのイスラエル入門』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2020年3月に刊行されました。本書は現代イスラエルの多面的側面を一般層向けに分かりやすく解説しています。日本に限らないでしょうが、イスラエルへの印象は政治的信条に基づくものになりがちで、イスラエルに対してひじょうに悪い印象を抱いている人は少なくないかもしれません。それは、反ユダヤ主義的側面もあるでしょうが、やはり最大の要因は、イスラエルの統治にある、と言えるでしょう。その意味で、イスラエルに対する悪印象には、正当な側面も少なくない、とは思います。

 そうした観点の人々には、本書はイスラエルに甘すぎる、と思えるでしょう。もちろん、本書もパレスチナ問題を取り上げてはいますが、明らかに分量は少なくなく、全体的に、日本が見習うべきイスラエルの肯定的な側面を強調しています。しかし、パレスチナ問題を中心に取り上げた日本語の本は多く、イスラエルの全体像が日本社会で的確に理解されているとはとても言えそうにない現状を考えると、本書の構成に意義はあると思います。

 本書は日本がイスラエルに学ぶべきこととして、失敗をやたらとは恐れない風潮などとも関連する、技術革新力の高さや、家族と伝統・歴史を重視することとも関連する、出生率の高さや、高い安全保障意識などを挙げます。確かに、日本がイスラエルに学ぶべきことは多いと思います。もちろん本書は、日本が単純にイスラエル(に限らず外国)から学ぶべきと言っているわけではなく、社会や国際環境の違いもあり、学びは容易ではありません。その具体例は軍隊で、本書は、男女ともに徴兵対象とされる軍隊こそがイスラエル社会・国家を成立させている要である、と強調します。これは、現代日本社会では容易に真似できないでしょう。一方で本書は、イスラエルを取り巻く安全保障環境が劇的に改善された場合、軍隊が統合の要たり得なくなり、元々遠心力の強いイスラエル社会の統合が弱まる可能性も指摘します。

 さらに、出生率や軍隊と関連して、徴兵が免除され、出生率の高い超正統派が今後影響力を拡大していくだろうことに、本書は今後のイスラエルの危うさがある、と指摘します。この問題はすでに現時点でかなり顕在化しているとも言え、超正統派の徴兵免除をめぐる問題が、最近のイスラエル政治の混迷の一因になっています。米中対立の狭間でどう進路を選択していくかなど、イスラエルと日本に共通する大きな課題もあり、日本にとってイスラエルとの関係強化は重要になる、と思います。

さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子

 さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子についての研究(Kamitaki et al., 2020)が公表されました。多くの一般的な疾患では男女で異なる影響が見られますが、その理由は特定されていません。たとえば、原因不明の消耗性自己免疫疾患である全身性エリテマトーデス(SLE)やシェーグレン症候群(SjS)では、男性よりも女性の患者が9倍多いものの、統合失調症では女性よりも男性で頻度や重症度が高い、と明らかになっています。これら3疾患はすべて、主要組織適合遺伝子複合体(MHC)座位に最も強力で共通する遺伝的関連があり、SLEとSjSに見られる関連は、この座位のヒト白血球抗原(HLA)遺伝子群の対立遺伝子から生じる、と長らく考えられてきました。また、補体第4成分(C4)遺伝子もMHC座位にあり、統合失調症のリスク上昇に結びつけられています。

 この研究は、C4遺伝子のC4AおよびC4Bの多様性が、C4のありふれた遺伝型を持つ人で、SLEリスクに対しては7倍、SjSリスクに対しては16倍の変動を生じさせ、また、両疾患ではC4BよりもC4Aが強力な疾患防止効果を持つ、と示します。統合失調症のリスクを上昇させる同一の対立遺伝子は、SLEとシェーグレン症候群のリスクを大きく低下させます。これら3疾患すべてにおいて、C4対立遺伝子は女性よりも男性において強力に作用し、男性では、C4AとC4Bのありふれた組み合わせにより、SLEリスクでは14倍、シェーグレン症候群リスクでは31倍、統合失調症リスクでは1.7倍の変動が見られました(女性では、それぞれ6倍、15倍、1.26倍の変動)。

 タンパク質レベルでは、C4とそのエフェクターであるC3の両方が、20~50歳の成人において、女性よりも男性の脳脊髄液や血漿に高レベルで存在しており、これは区別の目安となる疾患への脆弱性の年齢と対応しています。補体のタンパク質レベルの性差は、男性においてC4対立遺伝子の影響がより強力なこと、SLEやSjSでは女性のリスクが高いこと、統合失調症では男性の脆弱性が大きいことの説明に役立つ可能性があります。これらの結果は、補体系がさまざまな疾患への脆弱性に見られる性的二型性の起源として関与していることを示しています。こうした性差の進化的基盤についての解明が今後進むことも期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:補体遺伝子はさまざまな疾患の、性差のある脆弱性に関与する

遺伝学:全身性エリテマトーデスとシェーグレン症候群の性特異的な影響における補体C4の役割

 全身性エリテマトーデス(SLE)とシェーグレン症候群(SjS)は原因不明の消耗性自己免疫疾患である。両疾患のリスクに及ぼす、共通した最大の遺伝的影響は、主要組織適合遺伝子複合体(MHC)座位から生じる。S McCarrollたちは今回、この影響がこれまでに考えられていたHLAの抗原特異的変動から生じるのではなく、補体第4成分(C4)遺伝子のC4AおよびC4Bのコピー数によって、よりよく説明されることを見いだしている。この結果から、SLEとSjSのリスクが、損傷した細胞由来の残屑に含まれる多くの自己抗原候補と免疫系との慢性的で持続的な相互作用から生じることが示唆された。この研究ではまた、C4遺伝子の変動に対する強力な性特異的影響のパターンが特定され、SLEやSjSの他にも、統合失調症と関連することが知られている性差について有力な説明が示されている。



参考文献:
Kamitaki N. et al.(2020): Complement genes contribute sex-biased vulnerability in diverse disorders. Nature, 582, 7813, 577–581.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2277-x

運動により若返る老齢マウスの筋肉

 運動による老齢マウスの筋肉の若返りに関する研究(Brett et al., 2020)が公表されました。加齢に伴って筋肉量は減少し、筋肉の再生能力と修復能力は低下します。こうした能力低下の原因には、筋肉幹細胞(MuSC)数の減少と加齢に伴う再生能力減退の両方の関与の可能性が高い、と考えられています。これまでの研究から、加齢しても運動により筋肉量が維持できると分かっていますが、運動が再生能力の維持に及ぼす影響については、ほとんど知られていませんでした。この研究は、若いマウスと老齢のマウスに、自由に回転する回し車を与えて、3週間自発的に使わせました。

 その結果、老齢のマウスほど、筋肉の修復が加速され、MuSCの機能が改善される、と明らかになりました。このMuSCの活性改善は、休眠状態の幹細胞のサイクリンD1(細胞周期の進行に必要なタンパク質)レベルが、若いときのレベルに回復することによります。サイクリンD1は、老化を促進するTGF-β–Smad3情報伝達経路を休眠状態のときに抑制し、最終的にMuSCの再生を促進します。このような変化は、若いマウスでは老齢マウスほど明確には起きません。この研究により、短期間の自発的運動療法は、老齢のMuSCの活性を回復させる実用的な介入方法と示されましたが、これらの知見がヒトにも通用するかを判断するには、さらに研究が必要と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


代謝:運動が老齢マウスの筋肉を若返らせる

 マウスの自発的な運動が筋肉の修復を加速し、老化した筋肉幹細胞を回復させることを示した論文が、Nature Metabolism に掲載される。

 加齢に伴って、筋肉量は減少し、筋肉の再生能力と修復能力は低下する。こうした能力低下の原因には、筋肉幹細胞(MuSC)の数の減少と加齢に伴う再生能力の減退の両方が関わっている可能性が高い。これまでの研究から、加齢しても運動することにより筋肉量が維持できることが分かっているが、運動が再生能力の維持に及ぼす影響についてはほとんど知られていなかった。

 今回、Thomas Randoたちは、若いマウスと老齢のマウスに、自由に回転する回し車を与えて、3週間自発的に使わせた。すると、老齢のマウスほど、筋肉の修復が加速され、MuSCの機能が改善されることが分かった。このMuSCの活性改善は、休眠状態の幹細胞のサイクリンD1(細胞周期の進行に必要なタンパク質)レベルが、若いときのレベルに回復することによる。サイクリンD1は、老化を促進するTGF-β–Smad3情報伝達経路を休眠状態のときに抑制し、最終的にMuSCの再生を促進する。このような変化は、若いマウスでは老齢マウスほど明確には起こらない。

 この研究によって、短期間の自発的運動療法は、老齢のMuSCの活性を回復させる実用的な介入方法であることが示されたが、これらの知見がヒトにも通用するかを判断するには、さらに研究が必要である。



参考文献:
Brett JO. et al.(2020): Exercise rejuvenates quiescent skeletal muscle stem cells in old mice through restoration of Cyclin D1. Nature Metabolism, 2, 4, 307–317.
https://doi.org/10.1038/s42255-020-0190-0

ライオンの進化史

 ライオンの進化史に関する研究(de Manue et al., 2020)が報道されました。最近まで、ライオン(Panthera leo)は最も広く分散した陸生哺乳類の一つでした。頂点捕食者として、ライオンは重要な生態的影響を有し、ヒトの図像で顕著に取り上げられてきました。更新世において、ライオンは広大な地理的範囲に存在していました。これは、ユーラシアの現代ライオン(Panthera leo leo)、ユーラシアやアラスカやユーコン準州のホラアナライオン(Panthera leo spelaea)、北アメリカ大陸のアメリカライオン(Panthera leo atrox)を含みます。

 現在、ライオンの生息範囲はサハラ砂漠以南のアフリカにほぼ限定されており、アジアライオンの小規模で孤立した1集団が、インドのグジャラート州のカーティヤーワール半島に生息しています。ライオン集団の世界的な減少は、後期更新世となる14000年前頃のホラアナライオンとアメリカライオンの絶滅から始まりました。最近では、現代ライオン集団はユーラシア南西部(紀元後19~20世紀)とアフリカ北部(紀元後20世紀)で絶滅し、それはおそらく人為的要因の結果でした。この衰退は過去150年において、アフリカ北部のバーバリーライオン、アフリカ南部のケープライオン、中東のライオン集団の絶滅という結果をもたらし、現生集団すべての断片化と衰退につながってきました。

 現生および絶滅系統間の関係を含む、ライオンの世界的な遺伝的構造が研究されてきましたが、それらの推測はミトコンドリアDNA(mtDNA)データ、もしくはミトコンドリアと常染色体遺伝標識の限定的な数に基づいていました。本論文は、現在および以前の分布の両方を表す個体も含めて、現代・歴史時代・更新世のライオンの全ゲノム配列で以前の知見を拡張します。本論文はとくに、以下のような質問への回答を目的としました。第一に、現代のライオンとホラアナライオンでどのような系統関係が見られるのか、ということです。第二に、絶滅したホラアナライオンと遺伝的に近い現代のライオン集団があるのか、ということです。第三に、現代の異なるライオン系統はいつ分岐し始めたのか、ということです。第四に、現代と比較して過去のライオンの遺伝的多様性はどうだったのか、ということです。


●ライオンのデータセットとゲノム規模系統

 古代および現代のライオン20頭の全ゲノム配列が生成されました。この中にはシベリアとユーコン準州のホラアナライオンが1頭ずつ含まれ、その放射性炭素年代は3万年前頃で、平均網羅率はそれぞれ5.3倍と0.6倍です。現代ライオンは12頭の歴史時代の標本により表され、年代は紀元後15世紀から1959年となり、ゲノム配列の網羅率は0.16~16.2倍です。これらの標本の地理的分布は、現代ライオンの歴史的範囲を覆っており、現在ではライオンが絶滅したアフリカ北部・南アフリカ共和国ケープ州・アジア西部を含みます。これらのデータと、アフリカ東部および南部4頭とインドの現生ライオン2頭と、既知のサハラ砂漠以南のアフリカの動物園で得られた2頭の全ゲノム配列により、データセットは構成されます。

 このデータセットに基づき、個体間の系統樹が作成されました(図1B)。mtDNAに基づく以前の分析と一致して、ホラアナライオンは全ての現代ライオンに対して単一系統で明確な外群を示しました。現代ライオン内では、2系統が検出されました。一方は、アジアとアフリカ北部および西部から構成される北方系統、もう一方はアフリカ中央部・東部・南部から構成される南方系統です。現代ライオン内では、この系統関係はおおむねmtDNAおよびmtDNA・常染色体の遺伝標識に基づくものと一致します。

 しかし、本論文で提示されたゲノム規模データセットでは、重要な違いと詳細が明らかになりました。まず、mtDNAではアフリカ中央部集団と北部集団とがクラスタ化します。対照的にゲノム規模データセットでは、アフリカ中央部集団はアフリカ南部系統と集団化します。さらに、ゲノム全体の局所的系統の分析でも、こうした食い違いは見られます。同様に、mtDNAデータでは、絶滅したアフリカ北部のライオンは、アフリカ西部ライオンよりもむしろ、アジアのライオンとより最近の共通祖先を共有していた、と示唆され、それはアフリカ西部ライオンとアフリカ北部ライオンとを強く関連づけるゲノム規模データと一致しません。mtDNAと核DNAのデータセット間のこうした不一致は、ネコ科では珍しくなく、mtDNAのような単一の非組換え遺伝標識の確率論的分類、および/または性的偏りの集団接続のパターンを反映しているかもしれません。以下、各標本の場所と系統関係を示した本論文の図1です。
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●ホラアナライオンと現代ライオンとの関係

 ミトコンドリアゲノムの一部に基づく以前の研究では、化石記録を用いて、ホラアナライオンと現代ライオンとは50万年前頃に分岐した、と推定されました。最近では、mtDNAの完全な配列と複数の化石記録を用いて、両系統の分岐は189万年前頃と推定されています。この不一致を調べ、系統関係をより正確に解明するため、全ゲノム配列を活用して、派生的アレル(対立遺伝子)と雄X染色体とミスマッチ率から、化石記録に依拠せずに分岐年代が推定されました。本論文の推定するホラアナライオンと現代ライオンとの間の分岐年代は50万年前頃で、ヨーロッパの化石記録においてライオンが中期更新世早期に出現することと一致します。

 ホラアナライオンと現代ライオンの祖先集団とは、ユーラシア南西部で接触した可能性があるので、両者の間の遺伝子流動について調べられました。ホラアナライオンでもシベリアの個体が他の全ての現代ライオンと対称的に関連している一方で、ユーコン準州の個体は他の現代ライオンよりもアフリカ南部の現代ライオンとより多くのアレルを共有している、と示唆されました。しかし、シベリアのホラアナライオン個体のゲノム網羅率をユーコン準州個体と同程度にすると、同じ結果が得られました。そのため、ユーコン準州のホラアナライオンとアフリカ南部の現代ライオンとの共有アレルの多さは、ユーコン準州個体の網羅率が0.6倍と低いこと、および/もしくは一塩基多型の収集における偏りに起因する歪みと考えられます。したがって、ホラアナライオンと現代ライオンとの間の遺伝子流動について、確たる証拠はない、と結論づけられます。

 この観察は、大型ネコ間の種間交雑の増加しつつある証拠とは著しく対照的です。全ての現代ライオンの祖先とホラアナライオンとの遺伝子流動の可能性は除外できませんが、混合の欠如にはもっともな理由があるかもしれません。たとえば、ホラアナライオンと現代ライオンの祖先集団は同じ場所にいなかったかもしれません。また、仮に同じ場所にいたとしても、行動学的もしくは生態学的に適合しなかったかもしれません。たとえば、ホラアナライオンの雄には、現代ライオンの雄に特徴的な鬣がなかった、と示唆されています。これが生殖隔離を誘発もしくは強化したかもしれません。その他にも、集団生活など他の行動と生態の違いが、生殖隔離をもたらしたかもしれません。mtDNAの分析では、アメリカライオンとホラアナライオンは生殖隔離の程度で一致しており、両者の間で何らかの競合が存在した可能性が示唆されます。


●現代ライオンの集団史

 主成分分析および集団クラスタ化分析により、現代ライオンの集団史が調べられました。両分析ともに、ゲノム規模系統で観察された地理的な集団分岐と同様に、南北系統の特徴を強調します。ホラアナライオンと同様に現代ライオン集団間の分岐年代が推定され、最も深い分岐は南北間の7万年前頃(98000~52000年前頃)です。これは、常染色体遺伝標識に基づく以前の推定よりはやや新しいものの、mtDNAに基づく以前の推定とは一致します。また、この7万年前頃の分岐とほぼ同時に、北方系統の有効集団規模が突然減少した、と推定されます。北方系統におけるこの深刻なボトルネック(瓶首効果)は、後期更新世に南方系統のわずかな個体群のみがサハラ砂漠北部地域へと拡散したことを示唆します。

 しかし、現代ライオンの分岐の詳細を調べると、上記の図1のような系統樹では複雑な進化史を完全には把握できていない、と明らかになりました。たとえば、アフリカ中央部ライオンは南方系統に分類されますが、一貫して他の南方集団よりも北方集団の方と近い分岐を示します。これは、常染色体およびmtDNA系統における、アフリカ中央部ライオンの混合起源と一致しており、アフリカ中央部ライオンが南北両系統をかなり有する、と強く示唆します。じっさい、全ゲノムデータを用いた最近の研究では、アフリカ中央部ライオンが北方クレード(単系統群)に分類されると示唆されています。

 混合の検証では、アフリカ中央部ライオンがアフリカ東部および南部ライオンよりも有意に、アジアライオンとアレルを多く共有し、北方関連系統を23%程度有する、との仮説が支持されます。さらに、アフリカ西部ライオンはアフリカ北部ライオンよりもアフリカ南部系統とより多くのアレルを共有しており、そのゲノムの11.4%程度は南部関連系統に由来する、と推定されます。この集団間の遺伝子流動は、セネガルのライオン1個体により示され、かなりの「南方アレル」を有することから、近い世代での混合が推測されます。まとめると、アフリカ西部および中央部はライオン系統の「坩堝」で、南北両系統が7万年前頃に分岐した後、重複し、混合した地域だと考えられます。

 興味深いことに、アフリカ北部ライオンと比較して、アジアライオンと南方系統との間でアレルの共有が多い、と検出されました。これは、両者の現在の長大な地理的距離を考えると、驚くべきことです。しかし、サハラ砂漠以南のアフリカと近東の間の移住回廊は、過去、たとえば完新世初期のナイル川流域で開けていた可能性があります。この仮説では、アトラス山脈とサハラ砂漠に代表される地理的障壁により、アフリカ北部ライオンは南方系統との二次的接触から隔離された、と想定されます。アジアライオンと南方系統との間の遺伝子流動に関する非排他的な代替的仮説は、アフリカ北部ライオンと絶滅した「ゴースト(仮定的)」ライオン集団との間の混合を反映している、というものです。この仮説を包括的に検証するには、アフリカ北部ライオンのさらなる標本抽出が必要となります。以下、この混合を示した本論文の図3です。
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●ライオンの近親交配

 ライオンの遺伝的多様性の時空間的変化を調べるため、ホモ接合連続領域(ROH;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)が検証されました。シベリアのホラアナライオンの平均的な常染色体ヘテロ接合性は、現代ライオン内で観察された範囲内に収まり、ROHのゲノム配列の割合は本論文のデータセットでは最低でした。mtDNAに基づく以前の研究では、ホラアナライオンにおいて47000~18000年前頃に強い集団ボトルネックがあった、と推定されており、本論文で分析されたシベリアのホラアナライオン個体の年代が30870±240年前頃であることから、意外な結果です。しかし、本論文で分析されたシベリアのホラアナライオンは、強いボトルネックを経なかった集団に属しており、以前の研究ではホラアナライオンの多様性が過小評価されていたかもしれません。

 現代ライオンでは、南方系統の平均的な塩基対あたりの常染色体ヘテロ接合性は、セネガルの混合個体を除いて、北方系統よりも高い、と明らかになりました。同様に、北方集団は平均して、南方集団よりも長いROHを有していますが、飼育下のライオンは例外で、最近の近親交配の痕跡を示します。まとめると、これは北方系統の連続的なボトルネックの集団史と一致します。北方系統の祖先はサハラ砂漠以南のアフリカから拡散し、より孤立して小さな集団で存続した、と考えられます。

 これに加えて非排他的な要因として、北方系統のより小さな集団規模は、人為的圧力に起因している可能性もあります。それは、近親交配の水準と大規模な人類文化の範囲との間の相関の可能性があるからで、たとえばアジアのインダス文化やメソポタミア文化、アフリカ北部の古代エジプトやギリシアやローマです。さらに、マイクロサテライト(DNAの塩基配列中にある、数塩基の単位配列の繰り返しからなる反復配列)データからは、アフリカ南部のいくつかの国々におけるライオンの遺伝的多様性が、20世紀にかけて大きく減少し、ヨーロッパ勢力の植民地拡大と一致する、と示唆されます。本論文のゲノム規模データでも、南方系統における近親交配率の最近の増加が示唆されます。現在の野生4頭は、歴史時代の3頭と比較して、ホモ接合性のゲノムの割合が平均して49%増加しています。しかし、本論文で標本抽出された歴史時代の個体群は、現在の個体群の直接的祖先ではないかもしれず、また標本抽出された個体はあまりにも少ないので、標本数の増加が観察に影響を与える可能性も否定できません。

 以前の研究で予測されたように、ゲノム多様性の最も極端な減少は現在のインドライオンで見られ、アフリカ南部ライオンと比較してヘテロ接合性が16倍減少しました。対照的に、アフリカ北部ライオンは、絶滅前の100年間でも、現在のアフリカ南部ライオンに匹敵するヘテロ接合性を維持していたようです。インドライオンのゲノムの約90%がROHに収まります。さらに、インドライオン2頭は遺伝的にほぼ同一で、1万塩基対あたり3ヶ所未満しか異なりません。インドライオンのゲノム多様性は顕著に低く、農耕発展・銃器使用の増加などに起因する、18世紀以後の強い衰退の記録と一致します。

 これらの要因により、インドライオン集団はほぼ絶滅に陥り、20世紀初頭にはカーティヤーワール半島において20頭まで減少しました。興味深いことに、歴史時代のアジアライオンはヘテロ接合性が高く、ROHは現在のライオンより短い傾向があり、より古い集団ボトルネックが1000~1400年前頃との推定と一致します。本論文の標本群が、20世紀初頭までのアジアライオンにおける極端なボトルネックに先行する、との見解は魅力的です。しかし、博物館の標本に関して正確な地理情報はないので、アジアライオンの個体数減少の年代とは場所に関してより正確に解明するには、さらに標本抽出が必要です。

 類似した広範な近親交配の痕跡が、孤立した肉食動物集団で報告されてきました。近親交配は、ホモ接合性における強く有害な変異の増加を通じて、集団の生存可能性を損なう可能性があります。小さな集団規模と近親交配がインドライオンの有害な変異の蓄積につながったのか、検証したところ、インドライオンはホモ接合性において有害な変異を平均して12.7%多く有していると明らかになり、有害な変異が劣性(潜性)である場合、かなりの遺伝的負荷が示唆されます。これらの知見は、インドライオンにおける、精子の移動能力やテストステロン水準の低下および頭蓋欠損の報告と一致します。さらに、選択の有効性をより直接的に評価するため、ミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)有害変異と同義変異との間のホモ接合性の比率が調べられました。強い浮動と弱い選択の下で有害なアレルが増加するかもしれないので、この比率は小集団で上昇する、と予測されています。じっさい、この比率はアフリカライオンよりもインドライオンの方でずっと高いと明らかになり、選択の緩和された有効性と一致します。


●保護への影響

 歴史的に、現代ライオンは最大11亜種が認識されてきました。2017年には、分子研究により、アジアとアフリカ西部および中央部の亜種(Panthera leo)とアフリカ東部および南部の亜種(Panthera leo melanochaita)の計2亜種に減りました。本論文では、アフリカ中央部ライオンがmtDNAに基づく系統樹ではユーラシアおよびアフリカ北部の現代ライオン(Panthera leo leo)とクラスタ化するものの、ゲノム規模分析ではアフリカ東部および南部系統(Panthera leo melanochaita)とのより高い類似性を示す、と明らかにされました。したがって、アフリカ中央部ライオンの分類学的位置は修正される必要がある、と示唆されます。

 しかし、本論文のゲノム規模データは、アフリカ中央部の野生ライオン1頭に基づいており、全ゲノムおよびマイクロサテライトデータを用いた最近の研究では、コンゴ民主共和国とカメルーンのアフリカ中央部ライオンはユーラシアおよびアフリカ北部の現代ライオン(Panthera leo leo)と優先的にクラスタ化します。さらに、アフリカ中央部と西部のライオンにおける遺伝子流動が過去には一般的だったかもしれません。両系統はおそらく長期にわたって同じ場所に生息しており、その遺伝的分岐は深くありません。どの場合でも、この問題の完全な解明には、アフリカ西部および中央部のライオンの標本抽出を増やす必要があります。

 本論文の結果は、現代では絶滅したケープライオンとバーバリーライオン集団への洞察を提供します。雄の大きく黒い鬣に基づいて、ケープライオンは南アフリカ共和国南部にのみ生息する特有の集団あるいは亜種とみなされました。しかし、mtDNAに基づく証拠では、ケープライオンは系統的に特有ではなかったかもしれない、と示唆されました。本論文のゲノム規模データはこの知見を支持し、ケープライオンをアフリカ南部ライオンで見られる遺伝的多様性内に位置づけます。

 さらに、絶滅したアフリカ北部のバーバリーライオンの復活は、アフリカ北部内外で保護主義者の注目を集めました。状況証拠は、アフリカ北部ライオンが飼育下で生き残った可能性を示唆しますが、モロッコ王立動物園の野生バーバリーライオンの最も可能性の高い子孫は、アフリカ中央部ライオンの母系子孫のようです。mtDNAに基づく研究は、アフリカ北部ライオンがその最も密接に関連した現生集団であるインドライオンを用いて復活できる、と主張します。しかし、本論文で示されたように、インドライオンとアフリカ北部ライオンがmtDNAでは密接に関連している一方で、ゲノム規模データは、アフリカ西部ライオンがアフリカ北部ライオンと最も密接に関連する系統である、と明らかにしました。したがって本論文では、アフリカ北部ライオン復活の機会においては、よりよい「ドナー」集団としてインドライオンよりもアフリカ西部ライオンの方を考慮すべきだ、と結論づけられます。

 本論文の結果は、現生野生ライオンの保護の観点で有益かもしれません。たとえばアフリカでは、将来の研究が本論文のデータに基づいて、多様性が経時的に集団においてどのように変化したのか、ゲノム侵食の定量化などを通じて調べられるかもしれません。さらに、インド亜大陸との関連では、インドにおいて現在、ライオンはグジャラート州のカーティヤーワール半島ギル森林周辺でのみ見られます。まず、以前の研究と一致して、本論文では、インドライオン集団はインド在来ではなく、インド外から導入された、という最近の主張を支持する証拠が見つかりませんでした。インドライオンは明確に、他の標本抽出集団と遺伝的に異なります。次に、インドライオン保護の取り組みは数世紀にわたる衰退後の集団規模の増加に寄与していますが、ゲノム多様性の顕著な欠如は、インドライオンが近交弱勢や遺伝的侵食や将来の病原体発生の影響をひじょうに受けやすい、と示唆します。本論文のデータが、インドライオンと他の北方現生クレードとの分岐を3万年前頃と推定していることを考えると、考慮すべき将来の活動は、近縁のライオンとの異型交配によりインドライオンの遺伝的多様性を高めることです。しかし、これに関しては、この戦略が政治的に困難で、アイル・ロイヤル国立公園のオオカミにおける遺伝的導入の効果に関する最近の観察に照らして、有益とは保証されていないため、そのような決定は軽く選択されるべきではありません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ライオンについては子供の頃からずっと、とくに思い入れがなかったこともあり、これまでほとんど調べてきませんでした。しかし、大型哺乳類、頂点捕食者、アフリカ起源、世界規模での拡大、深刻なボトルネック経験、複雑な交雑史などといった点で、ライオンは、ホモ属、とくに現生人類(Homo sapiens)との類似性が見られます(関連記事)。何とも単純ではありますが、本論文を読んでライオンへの親近感と関心が強くなったので、今後、ライオンに関する遺伝学的研究もできるだけ追いかけていくつもりです。


参考文献:
de Manuel M. et al.(2020): The evolutionary history of extinct and living lions. PNAS, 117, 20, 10927–10934.
https://doi.org/10.1073/pnas.1919423117

海底下の火山岩の微生物

 海底下の火山岩の微生物に関する研究(Suzuki et al., 2020)が報道されました。地球の上部海洋地殻は過去38億年間、中央海嶺での玄武岩質溶岩噴火により形成されてきました。形成後350万~800万年以内の海嶺系には、無機エネルギー源に依存して生きる細菌とその他の微生物が存在している、と先行研究により明らかになっています。しかし、地球の海洋地殻の90%以上は1000万年以上前に形成されたもので、それよりも古い玄武岩質溶岩中の微生物については、ほとんど分かっていません。

 この研究は、1億400万~3300万年前頃の玄武岩質溶岩試料中の微生物を分析しました。その結果、溶岩中の鉄に富んだ粘土脈に微生物が集中し、その密度が1㎤当たり100億細胞以上と明らかになりました。この密度は、これより新しい玄武岩溶岩中の微生物細胞の密度の100万倍を超えています。この研究は、粘土中の鉄に結合した有機物がこのような高密度群集の生存を支えていると推測し、古い玄武岩に棲みつく微生物の大部分が、有機エネルギー源を利用する細菌と近縁な関係にあることも明らかにしました。この知見は、火星のような地球と地下環境が類似した他の惑星に微生物が存在する可能性を意味している、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:海底下の火山岩に棲みつく微生物

 海底下100メートル以上の地中に存在する火山岩に微生物群集が高密度に定着していることを報告する論文が、Communications Biology に掲載される。この新知見は、地球と地下環境が類似した他の惑星(例えば火星)に微生物が存在する可能性のあることを意味していると考えられている。

 地球の上部海洋地殻は、過去38億年間、中央海嶺での玄武岩質溶岩噴火によって形成されてきた。形成後350万~800万年以内の海嶺系には、無機エネルギー源に依存して生きる細菌とその他の微生物が存在していることが、先行研究によって明らかになっている。しかし、地球の海洋地殻の90%以上は1000万年以上前に形成されたものであり、それよりも古い玄武岩質溶岩中の微生物については、ほとんど分かっていない。

 今回、東京大学大学院の鈴木庸平(すずき・ようへい)たちの研究チームは、3300万~1億400万年前の玄武岩質溶岩試料中の微生物を分析した。その結果、溶岩中の鉄に富んだ粘土脈に微生物が集中し、その密度が1立方センチメートル当たり100億細胞以上であることが分かった。この密度は、これより新しい玄武岩溶岩中の微生物細胞の密度の100万倍を超えている。鈴木たちは、粘土中の鉄に結合した有機物がこのような高密度群集の生存を支えているという考えを示し、古い玄武岩に棲みつく微生物の大部分が、有機エネルギー源を利用する細菌と近縁な関係にあることも明らかにした。



参考文献:
Suzuki Y. et al.(2020): Deep microbial proliferation at the basalt interface in 33.5–104 million-year-old oceanic crust. Communications Biology, 3, 136.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-0860-1

『卑弥呼』第41話「答え」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年7月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが義母からの忠告を回想する場面で終了しました。今回は、未明の山社(ヤマト)でミマアキとクラトが語り合う場面から始まります。ミマアキは夜通し、山社が名実ともに倭の宗主国になるための最良最短の道について考えていました。仮に山社が那(ナ)や伊都(イト)や末盧(マツロ)と和議を結び、この三国が日見子(ヒミコ)たるヤノハを擁立しても、山社は所詮、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の大国にすぎない、と説明するミマアキに、それで充分ではないか、とクラトは言います。しかし、日見子(ヤノハ)の望みは倭国泰平なので、倭全体の宗主国にならなければ目的は達せられない、とミマアキは説明します。まず筑紫島を統一し、次に大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキツシマ)伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)まで侵攻しない限りそれは無理だ、とクラトは言います。するとミマアキは、漢に使者を送る、という良策を思いついた、と言います。漢の帝から金印をいただき、「倭国王」の称号を授かれば、戦わずしていかなる国も従わざるを得ないだろう、というわけです。するとクラトは、日見子様にはそこまでの大志はない、と言います。クラトは明朝、ヌカデの警固で、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に向かい、山社の祈祷女(イノリメ)長であるイスズに、ヤノハの言伝を届けることになっていました。ヤノハは、和議を申し出てきた暈の大夫である鞠智彦(ククチヒコ)と面会するつもりです。つまり、ヤノハは那や伊都ではなく、暈を選んだ、とクラトは解釈していました。するとミマアキは、日見子様は一筋縄ではいかず、思いもよらぬ回答を鞠智彦に突きつけるかもしれない、と言います。山社の独立により、種智院までの道中には山賊がはびこって危険であるため、ミマアキはヤノハに直談判してクラトを外すよう頼んでみる、と提案します。するとクラトは、種智院の南にある実家に寄って両親に会う暇を日見子様からいただいたので、それには及ばない、と返答します。ヤノハに謁見したミマアキは、漢に遣いを送り、山社が倭の宗主国であると天下に喧伝するよう、進言します。ミマアキの姉のイクメも以前に、同様のことをヤノハに言っていましたが、ミマアキほど自信のある様子ではありませんでした。しかし、漢への道は遠く、容易な旅ではありません。それを叶えてくれるのは誰か、とヤノハに問われたミマアキは、那のトメ将軍しかいない、と即答します。

 葦北(アシキタ)では、鞠智彦に配下のウガヤが、日見子(ヤノハ)からの返事を待たずに出立する理由を尋ねていました。日見子は奸智に長けた女子なので、鞠智彦と会い、暈との和議を受け入れる以外に生きる道がないことをよく承知しているはず、と鞠智彦は答えます。するとウガヤは、ならば山社よりの色よい返事を待ち、ゆっくり旅支度を整え、日見子をじらしてやればよかった、と言います。鞠智彦は、それでは日見子に思案する隙を与えてしまう、と答えます。日見子の言伝は明日の昼には種智院のイスズに届けられ、イスズの書状が鞠智の里に着くのがその4日後なので、日見子は9日か10日後に自分と会うつもりのはずだが、それよりも3日早く自分が現れたら、いかに肝の座った女でも泡を食うだろう、というわけです。鞠智彦の思考に感心するウガヤですが、10人兵士を同行させるだけでは手薄すぎる、と懸念します。すると鞠智彦は、とっておきの隠し玉があるだろう、と笑います。つまり、狼を率いるナツハのことですが、ウガヤは醜怪な子供であるナツハの技量に懐疑的です。ナツハは鞠智彦たちを樹上で見守っていましたが、そこへ手裏剣を投げつけられます。ヤノハは直ちに狼たちを操り、攻撃者の男を突き止めてその喉元に刀を突きつけます。その男は、暈の志能備(シノビ)で、棟梁の命でナツハの技量を確かめたのでした。ナツハの技量を認めた男は、棟梁に報告するためにその場を去ります。

 翌日、種智院では、ヌカデがイスズと面会し、鞠智彦との面会にいつでも応じる、とのヤノハの意思を伝えました。イスズはこれに不満ですが、日見子(ヤノハ)の命に従うのみ、と言います。イスズは、鞠智彦と面会しては暈の軍門に下るだけで、先代の日見彦(ヒミヒコ)、つまり暈のタケル王と同じく、日見子は鞠智彦の操り人形になるつもりなのか、と疑問を抱いていました。つまり、再び那と戦になるのではないか、というわけです。クラトは種智院の近くらしき川で魚を獲っていた父親と再会します。クラトは父に、古の支族、おそらくは穂波(ホミ)のトモより、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の聖地である日向(ヒムカ)を侵した日見子を殺せ、という指顧があった、と打ち明けます。クラトはヤノハを本物の日見子と考えており、その現人神を自分が殺さねばならないのか、と躊躇っていました。するとクラトの父親は、自分たち一族はサヌ王の子孫の命にさえ従えばよい、と息子を諭します。トモ・イム・ヒカネ・アズミ・ワニという古の五支族はサヌ王の側近にすぎず、自分たちは国之闇戸神(クニノクラトノカミ)の末裔で、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を奉じるトモ家よりも古い家柄なので、五支族には数えられずとも、トモ家の臣下ではないので、日見子を殺さずともよい、というわけです。クラトの一族が服従すべきは五支族ではなく、日下(ヒノモト)にいるサヌ王の子孫のみだ、と父は息子に説明します。サヌ王の子孫の望みを息子から尋ねられた父は、遠方にいるので今のサヌ王一族の考えは分からないものの、サヌ王の望みは倭国統一で、サヌ王は日見子と日見彦ではなく、政治の才能のある側近の存在を恐れていた、と答えます。その側近とは、どうやれば倭国の宗主になれるのか、その答えに気づく者で、その答えとは、どの国よりも古く大陸に遣いを送ることです。もしその方法に気づく者が日見子の近くにいれば、迷うことなく殺せ、と父に命じられたクラトが、それが恋仲のミマアキであることに気づき、愕然とするところで今回は終了です。


 今回は、クラトと鞠智彦の思惑が描かれました。クラトはヤノハを本物の日見子と考えており、そのため本心では殺したくなかったようです。しかし、一族の使命では恋仲のミマアキを殺さねばならないと気づき、衝撃を受けていました。クラトが一族の使命と恋仲のミマアキとの間でどのような決断を選択するのか、今後の見どころになりそうです。ミマアキは漢への使者としてトメ将軍を推薦しましたが、トメ将軍は『三国志』に見える倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、現在が紀元後207年頃だとすると、30年以上経って実現するのでしょう(後漢はすでに滅亡していますが)。ただ本作では、その前に山社と後漢、あるいは遼東の公孫氏政権との交渉にトメ将軍が関わってくるのかもしれません。鞠智彦とヤノハとの対面も大いに注目されますが、ヤノハの弟のチカラオと思われるナツハがヤノハと再会するのか、再会した時に姉弟はどのような反応を見せるのかも注目されます。日下の国(後の令制の大和でしょうか)にいると思われるサヌ王の子孫だけではなく、日本列島を超えて大陸情勢も絡んできそうで、たいへん壮大な話が予想されるので、今後もたいへん楽しみです。

ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造

 ゲノムおよび安定同位体分析からアイルランド島における新石器時代の社会構造を推測した研究(Cassidy et al., 2020)が報道(Sheridan., 2020)されました。古代ゲノムの以前の分析では、新石器時代大西洋沿岸社会間の共通系統が示されてきましたが(関連記事)、放射性炭素年代測定法による最近の研究では、フランス北西部からの巨石建造物の繰り返しの拡大が指摘されており、この地域の航海技術は以前の推定よりも発展していた、と示唆されています(関連記事)。これは、他の明確な巨石伝統とともにアイルランドに農耕が到来した、紀元前四千年紀の大西洋沿岸の羨道墳の拡大を含みます。これらの構造物はアイルランド島に関して、ヨーロッパでは既知の最高の密度と多様性に達しました。しかし、在来の中石器時代狩猟採集民からの遺伝的影響と同様に、これらの社会の土台となっている政治体制は曖昧なままです。

 これらの問題を調査するため、本論文はアイルランドの中石器時代2人と新石器時代42人のゲノムデータを提示します(平均網羅率は1.14倍)。この44人のうち43人を関連する古代ゲノムに帰属させ、これには追加の20人のブリテン島とアイルランドの個体が含まれます。本論文は次に、これらの個体群を既知の古代遺伝子型のデータセットと組み合わせ、集団構造の精細なハプロタイプおよび近親交配の推定を可能にしました。その後、主要な4人がより高い網羅率(13~20倍)で配列されました。

 本論文は、紀元前4000年頃に始まるアイルランドにおける新石器時代の主要な葬祭伝統から遺骸を標本抽出しました。それは、宮廷墓(分割された玄室と前庭がある建造物)と支石墓(巨大な岩石と高い入口のある1部屋の建造物)と羨道墳とリンカーズタウン(Linkardstown)型埋葬と自然遺跡です。このデータセット内で、アイルランド最初の新石器時代人類遺骸はプルナブロン(Poulnabrone)の支石墓に埋葬されており、おもに「早期農耕民」系統で構成され、近親交配の証拠は見られません。これは、農耕がその当初から大規模な海上植民を伴っていた、と示唆します。ADMIXTUREおよびChromoPainter分析は、アイルランドとブリテン島の新石器時代集団を区別しません。両分析はまた、スペインの前期新石器時代標本群が、アイルランドの早期農耕民の最良の代理起源である、という以前の報告を確認し、それは祖先の拡大において大西洋と地中海の海路の重要性を強調します。ヨーロッパ大陸部やブリテン島と同様に、アイルランドでも農耕をもたらしたのは外来農耕民集団(その起源はアナトリア半島)だった、というわけです。

 全体的に、新石器時代アイルランドでは近親交配の増加は経時的には見られず、それは共同体が充分な規模と、5親等もしくはそれより近い親族間の配偶を避ける意思伝達を維持していた、と示唆します。しかし本論文は、ブルーナボーニャ(Brú na Bóinne)遺跡群のニューグレンジ羨道墳における、単一の極端な外れ値を報告します。20万トンを超えるつとと石を組み合わせたこの巨石墳墓は、ヨーロッパの類似した既知の墳墓の中で、最も壮観なものの一つです。外面的には公共消費用に設計されていますが、墓地の内部単一の狭い通路で構成され、特別な儀式的目的を有しており、冬至には選ばれた数人のみが太陽を見られました。この支配層は、太陽の動きを「制御」することにより、神の力を有していると主張した、と推測されています。火葬されず、関節の外れた人類の骨が、最奥の十字形玄室最も精巧に装飾された奥まった場所内で集中して見つかり、成人男性の頭蓋(NG10)を含みます。NG10はホモ接合性の複数の長い領域を有しており、それぞれが個々の染色体の大規模な断片を構成し、合計でゲノムの1/4になります(近交係数=0.25)。この結果は、NG10が1親等(英語では親子だけではなくキョウダイ関係も含みます)の近親相姦による子だと示します。近親相姦は、生物学的および文化的理由が絡んでいるため、ほぼ普遍的な禁忌です。しかし、埋葬の性質を考えると、この男性が社会的に認められた可能性はひじょうに高そうです。

 シミュレーションでは、この男性の両親が全キョウダイ(両親が同じキョウダイ)なのか親子関係なのか区別できませんが、そうした配偶の唯一の既知の容認は、「王室」または「王朝」近親相姦として知られる稀に観察される現象として、とくに一夫多妻のエリート内で起きます。たとえばヨーロッパ勢力との接触前のハワイやインカ帝国や古代エジプトなど、これらの記録された事例では、近親婚は政治指導者の神格化と同時に発生し、通常はその神性から社会習慣を免除される支配者家族に限定されます。全キョウダイおよび半キョウダイ(両親のどちらか一方のみを共有するキョウダイ)間の結婚は、複雑な首長制および初期国家で最も一般的に見られます。研究者たちは一般的に、より発展した官僚制度の欠如における、豪壮な記念碑的建築や公的儀式などの方策とともに、近親婚を階層強化および権力正当化の手段とみなしてきました。本論文は、比較可能な一連の社会的動態が中期新石器時代までにアイルランドで運用されており、ニューグレンジと類似した夏至もしくは冬至に沿った羨道墳がウェールズやオークニー諸島やブルターニュで建造されていたことを考えると、この社会的動態はアイルランド外でも同様に起きていたかもしれない、と提案します。とくに親族関係の水準は、本論文の古代ゲノムのより広範なデータセット全体で、一貫して低く、経時的に減少します。検出された近親交配の他の1事例は、スウェーデンの巨石で発見された2親等もしくは3親等の親族間の子供です。

 ブルーナボーニャ羨道墳は中世の神話で現れ、神話の部族による太陽周期の魔法操作の解釈と関連しており、数千年にわたる口承伝統の持続性に関する未解決の推測につながってきました。そのような長期の持続はなさそうですが、本論文の結果は、紀元後11世紀に最初に記録された、建築者の王が妹との性交により日々の太陽周期を再開する、という神話と強く共鳴します。ファータエ・チャイル(Fertae Chuile)というニューグレンジに隣接するドウス(Dowth)羨道墳のアイルランド中央部の地名は、この伝承に基づいており、「罪の丘」もしくは「近親相姦の丘」と訳されます。

 羨道墳の第二の中心はニューグレンジの西方150kmの、大西洋沿岸近くに位置します。この中心はスライゴ(Sligo)州のキャロウモア(Carrowmore)遺跡とキャロウキール(Carrowkeel)遺跡の巨大墓地で構成され、ニューグレンジの羨道墳に数世紀先行します。キャロウキールでの堆積は少なくとも新石器時代末まで続きました。一塩基多型とハプロタイプに基づく分析では、これらの遺跡群とニューグレンジ遺跡および北東部沿岸の非定形的なミリンベイ(Millin Bay)遺跡の巨石をつなぐ、関連性の網が明かされました。それは以前には、手工芸品と形態的特徴に基づき、より広範な羨道墳伝統の一部として認識されてきました。

 まず、lcMLkinにより、キャロウモアで埋葬された、データセットの最初の羨道墳ゲノムで、NG10と遠い親族関係が検出され、これはキャロウキールとミリンベイの後の個体群でも同様でした。NG10とキャロウキールの他の個体との間でも、類似の親族関係(6親等以上)が見られ、いくつかの家族関係が示されます。次に、主要な早期農耕民系統の大西洋沿岸のゲノム分析で、ニューグレンジとキャロウキールとミリンベイの標本群は、より大きなブリテン島およびアイルランドの分類と分岐する異なるクラスタを形成します。古代ゲノムのより大きなデータセットにより、このクラスタの堅牢性が確認されました。本論文のChromoPainter分析でも、過剰な相互ハプロタイプが、とくにニューグレンジ遺跡のNG10個体とキャロウキール遺跡のCAK532との間で特定され、その親族関係が確認されます。より遠い親族関係の証拠が、キャロウモア遺跡のcar004個体の推定される親族間で見つかり、相互に長いハプロタイプを共有しています。これは最近の共有された系統の痕跡で、キャロウキール遺跡のCAK530個体と同遺跡のCAK533個体およびニューグレンジ遺跡のNG10個体とのつながりが示されます。

 car004個体の以前のゲノム配列は低網羅率(0.04倍)なので、本論文のChromoPainter分析では除外されました。しかしD統計では、car004個体が、より大きなブリテン島およびアイルランドのクラスタの標本群の大半と年代的に近いにも関わらず、羨道墳クラスタと優先的にクレード(単系統群)を形成する、と示します。これは、上述の親族関係によってのみ駆動されます。より大きなデータセットのダウンサンプリング(標本数を減らして再度標本抽出すること)検定では、car004個体のD統計結果がひじょうに有意だと示されます。

 まとめると、本論文のデータセット内のハプロタイプ構造の分析は、羨道墳標本群間の過剰な同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に起因し、それはアイルランド島の広範な領域での非ランダムな配偶を示唆する、との解釈が支持されます。NG10の血統により予測されるように、高度な社会的複雑さにはこれが要求されます。しかし、本論文における非羨道墳被葬者のゲノムは、大半がより早い年代で、精細な構造クラスタ化への時間的浮動の寄与を評価するには、後期新石器時代の多様な遺跡からのより高密度な標本抽出が必要です。安定同位体値も、羨道墳被葬者を他のアイルランドおよびブリテン島の新石器時代標本群とは区別します。羨道墳遺骸における高い窒素15値と低い炭素13値は、特権に関連づけられる肉および動物由来の食品で最もよく説明できますが、これがこの期間のより広範な食性変化とどのように関連しているのか、まだ不明です。

 単純な宮廷墓および支石墓には、羨道墳の手工芸品や権威を示す副葬品が欠けており、おそらくはより小規模で血統に基づく社会の現れです。これらの建物は通常、例外もあるとはいえ羨道墳の墓地内では見られず、遺跡間の親族関係の事例として報告された、キャロウモアの近くで建設された宮廷墓を含みます。プルナブロン遺跡の支石墓とパークナビニア遺跡の宮廷墓という、異なるものの10kmほど離れた別の組み合わせの間の、両方の遠い親族関係証拠と社会的構造の証拠が見つかりました。その標本群は、Y染色体ハプログループ(YHg)の頻度における有意な違いが、食性の違いと同様に示されます。どちらの墓にも親族関係が欠如していることを考えると、単独所有者としての小さな家族集団は除外され、父系に重点を置いたより広範な社会的分化の結果として解釈されます。アイルランド南東部リンカーズタウン遺跡の男性被葬者間で稀なYHg-H2aが二重に出現することは、これらの社会における父系の重要性のさらなる証拠を提供し、それはアイルランドとブリテン島の新石器時代集団において単一のYHg-I2a1b1a1a(M284)が支配的であることでも示されます。

 ブリテン島およびアイルランドへの農耕拡大は、地中海で発展した既存の海上のつながりにより進展した、と以前には仮定されていました。しかし、本論文の結果は、アイリッシュ海が新石器時代前には遺伝子流動への大きな障壁だったことを示唆します。アイルランドの狩猟採集民のゲノムデータは、北西部のリムリック(Limerick)州のキルラ洞窟(Killuragh Cave)で発見された紀元前4700年頃の個体と、西部のゴールウェイ(Galway)州のスラモア洞窟(Sramore Cave)で発見された紀元前4100年頃の個体から得られました。アイルランドの狩猟採集民は、ヨーロッパ北西部の中石器時代狩猟採集民のより広範な分類内で異なるクラスタを形成し、500年以上の分離にも関わらず、相互に過剰な水準の浮動を共有します。対照的に、ブリテン島の狩猟採集民はヨーロッパ大陸部どの同時代の狩猟採集民との違いを示しません(関連記事)。これは、中石器時代のほとんどの期間において、ブリテン島とヨーロッパ大陸部との間のドッガーランド(Doggerland)陸橋を想定する古地理モデルと一致しますが、完新世の前にアイルラン島は分離していました。

 またアイルランドの狩猟採集民は、報告されている古代人もしくは現代人と比較して、ホモ接合性の短い連続の最大程度を示し、これはアイルランド島の長い孤立期間を支持する祖先の収縮の痕跡です。これにより、ヨーロッパ大陸部とブリテン島の狩猟採集民には、アイルランド島との頻繁な接触維持を要求される技術もしくは刺激が欠如しており、中石器時代におけるアイルランド島の比較的遅い海上植民(8000年前頃)とその後の石器群の急激な分岐を反映している、と示唆されます。それにも関わらず、アイルランドの狩猟採集民は近い世代での近親交配の痕跡を示さず、3000~10000人のみと推定される人口にも関わらず、島内だけで異系交配ネットワークを維持できていたようです。一部の考古学者の見解とは異なり、アイルランドの人々がブリテン島やヨーロッパ大陸部に渡って配偶者を得てアイルランドに戻ることはなかったか少なかった、というわけです。したがって、中石器時代集団が新石器時代農耕生活様式をアイルランドに導入した、という一部の考古学者の見解を支持する証拠はありません。

 究極的には、アイルランドの狩猟採集民の起源はイタリア半島の上部旧石器時代の個体群と関連する集団にあり、イベリア半島で存続したより早期の西部系統、つまりベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)からの遺伝的寄与の証拠は示されません(関連記事)。しかし、アイルランドとブリテン島の狩猟採集民と比較して、ルクセンブルクの中石器時代狩猟採集民においてゴイエットQ2系統の有意な過剰が検出され、イベリア半島外のこの系統の存続が示されます。イベリア半島外のゴイエットQ2系統は、フランスの新石器時代個体群でも確認されています(関連記事)。

 また、アイルランド狩猟採集民の遺伝的影響が新石器時代アイルランド集団にも残されているのか調べられ、直接的な痕跡が見つかりました。在来狩猟採集民集団に対するヨーロッパ農耕民間の高いハプロタイプ類似性のより広範なパターン内で、パークナビニア遺跡の宮廷墓個体(PB675)が、不均衡、具体的にはアイルランド狩猟採集民系統を示す外れ値である、と明らかになりました。PB675における、ゲノム全体の狩猟採集民系統の高い分散と、長いアイルランド狩猟採集民ハプロタイプの過剰は、4世代以内と推定される最近の遺伝子移入を支持します。

 この知見は、スコットランドの新石器時代集団への在来の狩猟採集民からの遺伝子流動の証拠と組み合わされ、ブリテン島とアイルランドにおける侵入してくる農耕民と在来集団との間で繰り返される相互作用を示唆します。とくに、PB675個体の4親等程度の親族が同じ墓に埋葬されたことは、この遺伝的外れ値個体が共同体内に統合されたことを示唆します。巨石被葬者に選ばれた個体群の多様性の代替的事例は、プルナブロン遺跡の男児個体(PN07)で見られ、母乳育児の食性痕跡を示します。PN07は明確な21番染色体トリソミーを有しており、紀元後5~6世紀の個体で見つかっていたダウン症候群の事例より大きくさかのぼり、最古の事例となります。

 全体的に、本論文の結果は、集団移動だけではなく、記録が存在しない政治体制や社会的価値にも光を当てる、古代ゲノムの能力を示します。これはとくに、帰属およびハプロタイプ分析の使用時に当てはまり、古代の集団構造の解決において、一塩基多型に基づく一般的な手法よりも優れていることを確認します。近親交配と親族の推定とともに、これらの手法は、小さな首長制から文明までの農耕社会の発展を研究できる範囲を広げます。具体的には、本論文の知見は、大西洋沿岸の巨石文化における社会的階層化と政治的統合の再評価を支持し、アイルランドの羨道墳を建てる社会は、初期国家とその先駆者内で見られるいくつかの属性を有している、と示唆します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は最近では珍しく、紀元前をBCE(Before Common Era)ではなくBC(Before Christ)、紀元後をCE(Common Era)ではなくAD(Anno Domini)と表記しています。おそらく著者たちの意図とは違うでしょうが、私はこの使用を強く支持します(関連記事)。BCEやCEと言い換えたところで、しょせんキリスト教起源であることは否定できず、むしろ、「Common」と言い換えること自体がたいへん傲慢であるように思えるからです。

 本論文は、ゲノムと安定同位体の分析から新石器時代の社会構造を推測しており、たいへん興味深い結果です。ただ、上記報道では、ブルーナボーニャ遺跡の巨大な羨道墳から、初期国家社会およびその先駆者に見られる属性を認めることには疑問も呈されている、と指摘されています。また本論文では、新石器時代のアイルランドとブリテン島やイベリア半島との間の遺伝的類似性が強調され、アイルランド初期農耕民がイベリア半島から渡海してきた、と示唆する内容になっていますが、その考古学的証拠はない、と上記報道では指摘されています。その代わりに、考古学ではフランス北部起源でブリテン島を経由してアイルランドに初期農耕民が到来した、と想定されており、フランスの中石器時代と新石器時代に関する最近の研究(関連記事)でも支持されています。しかし、多くはまだ解明されておらず、アイルランド最初の農耕民の起源に関しては、フランスの新石器時代個体群の分析がさらに必要になる、と上記報道は指摘します。

 本論文で注目されるのは、支配層に属すると思われる男性の両親が1親等と推定されることです。人類史における近親交配については以前まとめました(関連記事)。本論文が指摘するように、こうした近親交配は人類社会において普遍的に禁忌とされているものの、エジプトやハワイやインカなど広範な地域の一部の支配層でよく見られます。近親交配の忌避は、人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。

 つまり、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だった、と想定する通俗的な唯物史観的見解は的外れで、現代ではとても通用しない、というわけです。現代人と他の霊長類種とで共通する近親交配の回避は、人類系統において独自に起きた生得的な認知的仕組みの収斂進化ではなく、近親交配の弊害に気づいた文化的(後天的)禁忌のみで説明できる可能性も、無視してまったく問題ないと思います。人類社会に見られる近親交配の禁忌は、ひじょうに古い進化的基盤に由来し、人類史をずっと制約してきたのでしょう。

 しかし、本論文でも示されたアイルランドのニューグレンジ遺跡の男性のように、人類史における近親交配の証拠は文献記録でも遺伝学でも提示されています。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配が推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、本論文でも示されている、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありません。もっとも、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えるのがより妥当だと思われます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類(Homo sapiens)においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古代DNA:新石器時代の墳墓建造社会における王家支配層

Cover Story:家族の絆:新石器時代のアイルランドの王家支配層の近親交配

 表紙は、冬至の後にアイルランド・ミース州にあるニューグレンジ羨道墳に差し込む太陽光である。今回D Bradleyたちは、この遺跡や他の巨石遺跡から得られた遺骸のゲノムを調べた結果を報告している。この結果は、5000年以上前のアイルランドの社会組織に新たな光を当てている。著者たちは、44人の全ゲノムを採取して、ニューグレンジ羨道墳の地位の高い成人男性の遺骸が、親子か兄弟姉妹間の近親交配の所産であることを発見した。さらに、他の2か所の主要な遺跡ではこの男性の遠い親類も見つかった。羨道墳で得られたゲノムと他のゲノムの間には食餌と遺伝子に大きな差異が見られた。これは、この男性たちがおそらく支配階級に属しており、その指導者は王家内で近親交配を行うことで他の住民との違いを維持していたことを示している。



参考文献:
Cassidy LM. et al.(2020): A dynastic elite in monumental Neolithic society. Nature, 582, 7812, 384–388.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2378-6

Sheridan A.(2020): Incest uncovered at the elite prehistoric Newgrange monument in Ireland. Nature, 582, 7812, 347–349.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-01655-4

麻疹の起源

 麻疹の起源に関する研究(Düx et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。麻疹ウイルスは人類最古の病原体の一つと考えられており、保健機関と科学者たちは、麻疹ウイルスを主要標的に一般的なヒト病原体の進化経路の解明に努めてきました。研究者たちは、麻疹ウイルスが出現したのは、今は根絶された牛疫ウイルスの家畜から人へのスピルオーバーが起きた時だと推測しています。

 一般的に麻疹の出現は紀元後9世紀末頃と考えられていますが、疑問も呈されています。この研究は、麻疹の起源をより正確に突き止めるべく、1912年の麻疹症例から採取した肺の試料を用いて、麻疹ウイルスゲノムを再構築しました。この研究は次に、配列データを1960年の麻疹ゲノム、127の現代の麻疹ゲノム、牛疫ウイルスおよびPPRV(小反芻獣疫ウイルス)と呼ばれる別の家畜ウイルスのゲノムと比較しました。この研究はさらに、一連の進化の分子時計モデルを使って、紀元前1174年から紀元後165年、推定平均紀元前528年のヒトにおける麻疹の出現を追跡しました。

 その結果、数千年間牛ウイルスの祖先が家畜間で循環し、その後、ヒトへと感染して定着し、紀元前千年紀末に拡大し始めたという経過を裏づけている、と推測されました。この研究で提示された麻疹ウイルスの出現は、以前の有力説より1400年ほど早く、この時期にはユーラシアの広範な地域(西部・南部・東部)で大規模な都市が出現しました。全体的な人口増加と畜産発展とともに、人口過密な都市の広範な出現が、麻疹ウイルス出現の背景にあったようです。


参考文献:
Düx A. et al.(2020): Measles virus and rinderpest virus divergence dated to the sixth century BCE. Science, 368, 6497, 1367–1370.
https://doi.org/10.1126/science.aba9411