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映画『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』

2019/03/26 03:07
 NHK・BS4Kで4Kデジタルリマスター版が放送されたので視聴しました。NHK・BS4Kでは4Kデジタルリマスター版の映画が放送されており、最近では『アラビアのロレンス』と『太陽がいっぱい』を視聴しました。率直に言って、本作を『アラビアのロレンス』や『太陽がいっぱい』のよう映画史における名作と考えている人は少ないでしょうし、私も同感なので、本作がNHK・BS4Kの4Kデジタルリマスター版映画作品に選ばれたことにはかなり驚きました。とはいえ、本作の興行成績はかなり良かったようですから、NHK は話題性も考慮して作品を選んでいるのかもしれません。

 本作の初視聴は20年近く前で、その後テレビ放送で1回視聴したと記憶していますが、相変わらず楽しめました。やはり、本作は娯楽作品として優れているな、と改めて思ったものです。まあ、改めて視聴すると、災厄をもたらしたのが主人公側なので、多数の犠牲者が出てしまったことを考えると、その点はやや引っかかるところではありますが。初視聴は確かDVD版だったと記憶していますが、さすがに画質までは印象に残っていないので、4Kデジタルリマスター版の画質がどこまで向上したのか、判断できませんでした。まあ、過去との比較はさておき、今回の画質に不満はありませんが。

 次作の『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』も4Kデジタルリマスター版が放送されるとのことで、録画して視聴する予定です。第3作『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』は当ブログで以前取り上げましたが(関連記事)、レイチェル・ワイズ氏の降板もあり、第1作・第2作にはやや及ばないかな、といった感じです。やはり、続編が前作の衝撃・印象度を超えることはあまりないのでしょう。とはいえ、それなりに楽しめたので、第3作もいつかは4Kデジタルリマスター版で放送してもらいたいものです。
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』42話〜45話

2019/03/25 03:55
42話「知らない街で・・・」9
 ゴリさんは不審な男性を見かけて追いかけ、知らない街で事件に巻き込まれていきます。その街では黒岩という暴力団の組長である男性が大きな力を有していました。黒岩は古山という定年間近のベテラン刑事と親しく、古山の上司である新谷係長は、古山が黒岩と癒着しているとして、暴力団に厳格に対処しようとしますが、古山は現実的な対応で無難に定年を迎えようとします。そんな古山は、縁のない土地で奮闘するゴリさんの熱意を見て、黒岩と決着をつけようと決意します。ベテラン刑事の覚醒と覚悟が描かれ、なかなか楽しめました。犯人を前に醜態を晒してしまった古山と新谷係長の共通点や、古山の娘と、古山とは折り合いの悪い上司である新谷係長との交際も、物語の背景として話を面白くしていたように思います。


43話「きれいな花にはトゲがある」7
 連日ゴリさんに西田とも子と名乗る女性から花が送られてきます。ゴリさんは身に覚えがないと怒りますが、一係の面々は軽く受け取り、ゴリさんをからかいます。西田はゴリさんが七曲署から出た隙を狙ったかのように一係を訪ねます。ゴリさんはボスとともに、西田の務める店に行き、西田に婚約者とか金を貸したとか言われて激昂し、暴行と結婚詐欺で訴えられます。西田の謎めいた行動の目的は途中で明らかとなりますが、不気味さとゴリさんが追い詰められていく様子はなかなか上手く描かれていたように思います。一係の固い結束がこの頃にはすっかり確立していたことも窺え、放送開始から10ヶ月近く経過し、だんだんと作風が落ち着いてきたのかな、とも思います。今回、ゴリさんの本籍が長崎県とされていましたが、最終的には熊本県で落ち着いたように記憶しています。


44話「闇に向かって撃て」8
 長きにわたって度々登場した鮫島勘五郎ですが、今回が初登場となります。鮫島は最初から破天荒な人物として描かれており、これは最後まで変わりませんでした。鮫島は偶然殺人事件を目撃し、追いかけていた犯人に殴られて視力を失います。鮫島は手術を受けることになりますが、失明するかもしれないので、いつまで刑事でいられるか分からないということで、ボスに捜査の助手として一人貸してほしい、と頼みます。ボスは殿下を選びますが、殿下は破天荒な鮫島に反感を抱いており、一方で鮫島は殿下が頼りないことに不満を抱き、衝突し続けます。しかし、共に捜査を続けて犯人に襲われるなど苦労を共にするうちに、次第にお互いを認め合っていくようになります。対照的な二人が反発し合い、やがてお互いを認め合っていく、という展開は王道的です。鮫島のキャラは最初からしっかり立っていますし、なかなか楽しめました。鮫島勘五郎がこの後度々登場して、シリーズ化したのも納得できます。鮫島が殿下を信頼している様子はこの後度々描かれましたが、今回を視聴していれば、納得がいきます。


45話「怒れ!マカロニ」5
 暴力団の幹部が殺され、若い男性が身代わりに出頭します。その男性はマカロニの中学の同級生でした。身代わりの出頭は本作で度々描かれており、狭い世界での立身出世に命をかける若者は、本作の定番とも言えます。若者らしい思慮に欠けた視野の狭さで、その若者と若手刑事が絡み、若手刑事が暴走することも本作の定番です。本作は若手のマカロニ主演の青春ドラマとして始まったとも言えるので、初期はこういった話が多いように思います。今回は、話が二転三転したのでそこそこ楽しめましたが、王道的ということは陳腐でもあるわけで、新鮮さに欠けたところがあるのは否定できません。
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後期ホモ属の系統樹

2019/03/24 17:44
 昨年(2018年3月)、後期ホモ属について系統・交雑関係をまとめました(関連記事)。しかし、上手く図を作成できなかったので、当ブログで取り上げた論文の図を掲載することにします。まずは、現生人類(Homo sapiens)と古代型ホモ属との交雑の論点を整理した論文(Wolf, and Akey., 2018)です(関連記事)。同論文は、おもに現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など古代型ホモ属との交雑を取り上げており、重要な論点が的確に整理されており、参考文献が多数引用されているので、この問題を調べるのにたいへん役立ちます。以下、同論文の図1です。
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 次は、中期更新世〜青銅器時代までのヨーロッパの人類史を遺伝学的観点から検証した論文(Lazaridis., 2018)です(関連記事)。こちらはヨーロッパを対象としているので、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸について図で詳しく取り上げられているわけではありませんが、古代DNA研究はヨーロッパを中心としてユーラシア西部において他地域よりもずっと進展しているので、現時点での詳細な系統樹はどうしても、ヨーロッパを中心としたユーラシア西部に偏ってしまいます。同論文では、ネアンデルタール人滅亡後のヨーロッパにおける現生人類の各地域集団の関係も簡潔に整理されており、たいへん有益だと思います。以下、同論文の図です。
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参考文献:
Lazaridis I.(2018): The evolutionary history of human populations in Europe. Current Opinion in Genetics & Development, 53, 21-27.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2018.06.007

Wolf AB, Akey JM (2018) Outstanding questions in the study of archaic hominin admixture. PLoS Genet 14(5): e1007349.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1007349
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『ウイニングポスト9』ベンチマークデモ

2019/03/24 17:41
 『ウイニングポスト9』のベンチマークデモが公開されたので、試してみました。グラフィック測定は高低どちらでも約30fpsで、ネット上の情報ではこれが最高らしいので、とりあえずレースシーンは満足に動きそうです。動作環境は、CPUがCorei5 2400以上、ビデオカードはDirectX 11 に完全対応してVRAMは1GB以上とのことでしたから、CPU がCore i7-2600Kで、ビデオカードはRadeon HD 6950の私の環境では快適な動作は厳しいのかな、と覚悟していたのですが(関連記事)、予想していたよりもずっと低スペック環境に優しいようです。ただ、レースシーンは『ウイニングポスト8 2016』と比較してさほど良いとは思えませんでしたので(劣化しているとも思いませんでしたが)、レースシーンの負荷はさほど高くなく、日常画面の方で処理が重くなっているのかもしれません。

 『ウイニングポスト9』の発売が迫ってきましたが、正直なところ、まだ購入を迷っています。私が現在使用しているデスクトップパソコンでもそれなりに快適に動作しそうなのはよいとしても、未読の本・論文が増えてきたので、『ウイニングポスト9』に割ける時間はほとんどなさそうだからです。もちろん、本当に楽しめるのなら、本・論文よりも『ウイニングポスト9』を優先するわけですが、『ウイニングポスト8 2016』もまともにプレイしていないくらいで、以前よりも『ウイニングポスト』の優先度はかなり低くなりましたし、魅力的な新規要素もあまりなさそうですから(関連記事)、購入したとしても、史実期間で挫折しそうです。
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大相撲春場所千秋楽

2019/03/24 17:38
 今場所は貴景勝関の大関昇進が注目されましたが、10勝5敗で大関昇進を確定的としました。まだ若いだけに、貴景勝関には横綱昇進まで期待したいところですが、押し相撲ですから、横綱として安定した成績を残せるのかというと、疑問が残ります。ただ、横綱・大関陣は高安関を除いて全員30代で、その高安関も29歳ですから、若手力士が伸び悩んでいるなか、貴景勝関が横綱に昇進する可能性は低くないでしょう。押し相撲としては安定感がありますし、時に固さも見られるとしても、精神的にもわりと安定しているようなので、他の若手力士との力関係からいっても、弱い横綱として批判される可能性は低いと思います。ただ、圧倒的な強さを発揮する横綱として認められるようになる可能性も低そうですが。

 貴景勝関が大関に昇進する一方で、栃ノ心関は7勝8敗と負け越し、大関から陥落となりました。しかも、千秋楽に貴景勝関に負けての陥落で、勝った貴景勝関が大関昇進を決めた一方で、負けた栃ノ心関が大関から陥落することになったわけで、大きく明暗を分けた一番でした。栃ノ心関は今場所も負傷からじゅうぶんに回復しておらず、勝ち越すのは厳しいかな、と覚悟はしていたのですが、何とも残念です。負傷から回復すれば、来場所10勝以上もじゅうぶん可能だと思いますので、何とか大関に復帰してもらいたいものです。大関の豪栄道関は12勝3敗、高安関は10勝5敗で、ともに一桁が珍しくなく、負け越しさえあるだけに、なかなかの成績だったと言えるでしょう。ともに、当分は大関の地位を維持できるくらいの力は残っていますが、横綱昇進は難しそうです。

 優勝したのは白鵬関で、実に42回目となり、しかも全勝です。もちろん、今場所も危ない相撲があったように、白鵬関は全盛期と比較すると力は落ちていますし、もう毎場所出場して優勝争いに絡むことも無理でしょう。しかし、稀勢の里関の長期の休場が許されたわけですから、白鵬関が休場を挟みつつ現役を続けても、年に2回ほど優勝していれば、相撲協会も横綱審議委員会も批判すべきではないでしょう。白鵬関は鶴竜関との結びの一番で負傷したかもしれませんが、もし重傷ならば、来場所は休場でもまったく問題ないと思います。鶴竜関は10勝5敗で、満身創痍といった感じですが、白鵬関が休場するか不調ならば、もう1回か2回優勝できるくらいの力は残っていると思います。

 今場所白鵬関と終盤まで優勝を争ったのは逸ノ城関で、14勝1敗でした。相撲内容は、はたき込みも多くてあまり良くはなかったのですが、体格を活かした力強さが目につきました。ついに覚醒したのか、と期待したいところですが、これまで何度か裏切られてきたので、来場所の相撲内容を見ないことには半信半疑です。ともかく、4年半前の新入幕以来の12勝以上だったのですから、今場所を足掛かりに三役に定着し、年内には大関に昇進してもらいたいものです。
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レヴァントオーリナシアン特有の象徴的な遺物

2019/03/24 09:53
 取り上げるのが遅れてしまいましたが、レヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)の象徴的な遺物に関する研究(Tejero et al., 2018)が公表されました。オーリナシアン(Aurignacian)はユーラシアにおける現生人類(Homo sapiens)の拡散の指標とされる文化であり、高い関心が寄せられてきました。オーリナシアンは、ヨーロッパにおいては、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)、早期オーリナシアン(Early Aurignacian)、発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)などと分類されています。

 レヴァントオーリナシアンは、少なくとも部分的には、ヨーロッパの発展オーリナシアンと年代が重なっている、と推測されています。ヨーロッパの複数段階のオーリナシアンとレヴァントオーリナシアンとの関係は議論になっています。それは、中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行期において、ヨーロッパの早期上部旧石器文化はレヴァントなどアジア南西部に起源があると考えられるものの、レヴァントオーリナシアンの年代は、ヨーロッパのプロトオーリナシアンよりも遅いからです。またレヴァントオーリナシアンは、前後の時代のレヴァントの文化よりも、ヨーロッパ西部の古典的オーリナシアンの方と類似している、とも指摘されています。そのため、上部旧石器時代早期において、ヨーロッパのプロトオーリナシアンの担い手の一部がレヴァントに「戻り」、レヴァントオーリナシアンの出現に影響を及ぼした、との見解も提示されています(関連記事)。

 本論文は、イスラエルの低地ガリラヤ地域のハヨニム洞窟(Hayonim Cave)の、レヴァントオーリナシアン期となるD層で発見された刻み目のある骨について報告しています。これはガゼルの肩甲骨8点と舌骨1点で、顕微鏡分析から、単なる解体痕(cut marks)ではなく、むしろ意図的な人為的刻印と推測されています。本論文はこれを、象徴的遺物と解釈しています。線刻のある象徴的遺物は中期石器時代のアフリカやレヴァントも含むユーラシアの上部旧石器時代において発見されていますが、レヴァントでは発見事例が少ない、と本論文は指摘しています。また、線刻のある象徴的遺物の中には、現生人類だけではなくネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)所産のものもあることも、本論文は指摘しています(関連記事)。

 本論文はハヨニム洞窟で発見された刻み目のある骨に関して、集団内および集団間の特定の情報の伝達に用いられた可能性を提示しています。紋章のようなものだったのではないか、というわけです。顕微鏡分析では、個人的装飾品として用いられたような摩耗痕が見られないからです。また、こうした線刻に関しては、月相の記録とする見解もあります。しかし、本論文で分析対象とした骨はおそらく一度に同じ石器で刻まれており、この見解は成立しないだろう、と本論文は指摘しています。

 広く中期石器時代のアフリカや上部旧石器時代のユーラシア(ネアンデルタール人の遺物に関しては中部旧石器時代ですが)に見られる線刻のある遺物ですが、地域的特徴もそれぞれ見られます。ヨーロッパの早期オーリナシアンでは、刻み目のある遺物の素材は、トナカイやアカシカやウシやマンモスの骨・枝角・牙など多様です。一方、レヴァントオーリナシアンの刻み目のある遺物はガゼルのみで、しかも、ほぼ肩甲骨に限定されています。この点で、ヨーロッパの早期オーリナシアンの多様性と、レヴァントオーリナシアンの均一性は対照的です。

 ガゼルはレヴァントのハヨニム洞窟やマノット洞窟(Manot Cave)遺跡で最も広範に狩られていた動物であり、その肩甲骨と舌骨は薄くて脆いので刻みやすいので、ガゼルの肩甲骨と舌骨が線刻の対象として選ばれたことは不思議ではない、と本論文は指摘します。しかし、ハヨニム洞窟のレヴァントオーリナシアン層では、アカシカやキツネやウマなどの歯で作られたペンダントが発見されており、線刻の対象としてガゼルの骨が選ばれたのには意味があり、それは集団内および集団間の特定の情報の伝達に用いられたからではないか、と本論文は推測しています。

 本論文は、ヨーロッパのオーリナシアンと比較して、レヴァントオーリナシアンにおいて線刻対象の素材の対象範囲が狭かったのは、レヴァントオーリナシアンの存続期間がより短く、またその地理的範囲もずっと狭かったからではないか、と推測しています。本論文は、ヨーロッパのオーリナシアンの多様性にたいして、レヴァントオーリナシアンの均質性と共同体間の強い結びつきの可能性を指摘しています。なかなか興味深い見解で、さらに対象となる地域・時代を拡大しての比較研究の進展が期待されます。


参考文献:
Tejero JM. et al.(2018): Symbolic emblems of the Levantine Aurignacians as a regional entity identifier (Hayonim Cave, Lower Galilee, Israel). PNAS, 115, 20, 5145–5150.
https://doi.org/10.1073/pnas.1717145115
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第12回「太陽がいっぱい」

2019/03/24 09:48
 ついにオリンピック・ストックホルム大会のマラソンが始まります。まともに歩けないほど状態の悪い大森兵蔵をともにスタート地点となる会場まで連れて行くため、迷いかけた金栗四三ですが、何とかスタートに間に合います。四三は出遅れたものの、次第に順位を上げていきます。しかし、四三は高温と雲の切れ間からの強い日差しの中、消耗していきます。嘉納治五郎や大森や三島弥彦は競技場で四三の帰りを待ちますが、最後の選手がゴールした後も四三は現れず、しかも棄権者名簿にも載っていませんでした。四三は朦朧とする意識の中、コースから外れて日射病で倒れて意識を失い、宿舎に連れ戻されていたのでした。国内予選大会では、時として晴れたものの、ほとんどの時間は雨だったので、ずっと強い日差しの中でのマラソンを四三は体験したことがありませんでした。これが仇となったわけで、史実なのでしょうが、ドラマとしてなかなか上手い構成になっていました。

 日本選手団はもちろんのこと、四三の郷里や東京高等師範学校など、多くの人々の応援と期待が描かれたことは、今後の展開との落差を際立たせるという意味で、陳腐ではありますが、効果的だと思います。ただ、古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面は相変わらず本編と上手く接続されていないかな、とは思います。ただ、これも今後につながっていくのではないか、と期待しています。まあこれでは、今後視聴率が上向くことは期待できそうになく、またマスメディアに興味本位で取り上げられるのかと思うと、残念ではありますが。

 最近、BS4Kで放送された映画『太陽がいっぱい』を視聴しましたが、今回の内容はとくに映画と関連していたわけではない、と思います。ただ、厳しい日差しの中、四三が次第に消耗していく様子を上手く表現した表題で、その意味では成功だったかな、と思います。あるいは、四三がトムに、三島弥彦がフィリップに擬えられているのかな、とも思ったのですが、三島が資産家で四三はそうではないということだけが共通点にすぎず、両者は対等な戦友として描かれているので、的外れな思いつきなのでしょう。
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李相僖、尹信榮『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』

2019/03/23 06:43
 イ・サンヒ(Sang-Hee Lee、李相僖)、ユン・シンヨン(Shin-Young Yoon、尹信榮)著、松井信彦訳で、早川書房より2018年12月に刊行されました。原書の刊行は2015年です。本書は人類進化史を時系列に沿って体系的に解説するのではなく、一般層で関心の高そうな話題を各章で扱う、という構成になっています(付録2は簡略な人類進化史概説になっていますが)。本書は韓国の一般向け科学雑誌『科学東亜』での2012〜2013年にかけての連載を加筆修正したとのことで、この構成であることも納得できます。本書の元となっている連載は、今となってはやや古い時期となるので、最新の知見を得ることには適していないかもしれませんが、人類進化について一般層が高い関心を抱いたり誤解しそうだったりする問題を中心に解説されており、有益な一冊になっていると思います。ただ、以下に何度か述べていきますが、著者は現生人類(Homo sapiens)多地域進化説を支持しており、その立場からの偏向が目立つように見えて、この点は一般向け書籍として問題だと思います。

 本書は第1章で、人類史において「食人行為」があったことは「食人種」の存在の証拠とはならない、と注意を喚起しています。本書は、普通の摂食の一環として他人を食べる集団はいない、と指摘します。ただ、儀礼の一環、また極限的な飢餓状況での食人行為の存在は認められています。

 第2章では、霊長類において成体の雄(多くの場合は父親)が子育てに関わるのはほぼ人間だけだ、と主張されています。しかし、山極寿一『家族進化論』(関連記事)が指摘するように、霊長類において成体の雄が子育てに関わることはさほど珍しくありません(P231〜259)。人類社会がアウストラロピテクス属やさらにさかのぼってアルディピテクス属の頃から一夫一婦制だった、との見解に本書は否定的です。また本書は、父性の直接的確認は不可能で、父親という役割は文化的に定まったものだ、と主張します。しかし、『家族進化論』が指摘するように、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません(P180〜185)。ある程度以上の精度で父性を確認し、それに拘っている霊長類がいる可能性はじゅうぶんあると思います。単純に、父親という役割を文化的なものとは言えないと思います。

 第3章では、最初期の人類候補として、サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、アルディピテクス属のカダバ(Ardipithecus kadabba)やラミダス(Ardipithecus ramidus)が挙げられています。本書は、これらが初期人類候補である可能性を認めつつも、人類系統が分岐する前の多様な類人猿系統だった可能性も提示しており、慎重な姿勢を示しています。本書のこの姿勢は妥当だと思います。証拠がたいへん少なく、その状況が大きく改善されることも期待しにくいだけに、最初期の人類をめぐる議論は、今後も長く続いていきそうです。

 第4章では、近代社会において出産の危険性は低下しましたが、それでも危険で困難である、と強調されています。これは、人間が直立二足歩行と脳の大型化を両立させていることに起因します。出産には他者の助けが必要で、それも親族など親しい者が適しており、人間が社会的生物であることも強調されています。こうした特徴が人類進化史において確立したのはホモ・エレクトス(Homo erectus)の頃だろう、と本書は推測しています。

 第5章では、槍が出現してからまだ3万年経っていない、とありますが、翻訳のさいに一桁間違った可能性があります。そうすると、本書ではドイツのシェーニンゲン(Schöningen)遺跡で発見された30万年前頃の槍が最古とされているのでしょうか。ただ、断片的な槍であれば、40万年前頃のものがイングランドのクラクトンオンシー(Clacton-on-Sea)で発見されていますし(関連記事)、更新世の槍は木製で現代まで残りにくいでしょうから、槍が50万年以上前から使われていても不思議ではないと思います。

 第6章では乳糖耐性について解説されています。かつてアメリカ合衆国では、乳糖不耐症は病気とされていたそうですが、現代では世界中で乳糖耐性のある人々の方が少数派だと明らかになっています。また、現代人の一部に見られる乳糖耐性の定着はこの1万年間ほどのことで、現代でも人類が進化を続けている証拠の一つとされています。また本書は、人類の品種改良により牛乳の味が家畜種と野生種とで大きく異なることも指摘しています。

 第7章では肌の色について解説されています。この問題に関しては、原書刊行後にいくつか重要な研究が公表されています。当ブログでは、現代人の肌の色およびその遺伝的基盤は多様で、薄い肌の色の遺伝的基盤の多くはアフリカ起源であり、非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となった現生人類集団の出アフリカの前に、すでにアフリカにおいて肌の色は多様だった、と推測した研究(関連記事)と、アジア東部系とアメリカ大陸先住民系の共通祖先に特有の、肌の色を明るくするような遺伝的多様体が存在することを指摘した研究(関連記事)を取り上げました。

 第8章では人類史における長寿化について解説されています。長寿化はアウストラロピテクス属よりもホモ属で、ホモ属でもエレクトスよりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)で進んでいきましたが、上部旧石器時代のヨーロッパの現生人類において画期が確認される、と本書は指摘します。ここで人類史上初めて、若年よりも年配の個体の方がずっと多くなる、というわけです。本書はこれを、上部旧石器時代における芸術の開花と関連づけています。高齢者が多いと知識の伝達に有利で、芸術が開花しやすかったのではないか、というわけです。

 第9章では、農耕開始により人類の個体の健康度が下がった、と指摘されています。最近では一般層にもそれなりに浸透しているように思われますが、農耕の開始により人類はより豊かな生活を送るようになったわけではありません。それとも関連しますが、農耕開始以降、出産間隔が短くなったことにより、人口が増加しました。本書は、農耕開始が個体の豊かさ・健康度を下げた、という負の側面だけではなく、人口増加により遺伝的多様性が増加し、進化が続いていることを指摘しています。

 第10章では、いわゆる北京原人について、寒冷地適応したエレクトの典型ではなく、温暖な時期に北上した異端のエレクトスだった、という仮説が紹介されています。本書は、この仮説が妥当なのか否か、まだ不明としており、この問題の解決には、より多くのエレクトス(的な)化石の発見が必要となります。

 第11章では、初期ホモ属がアフリカからアジアへと拡散し、アジアでエレクトスが進化し、後にアフリカへと「戻った」という仮説が紹介されています。その根拠となるのが、180万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシのホモ属化石群です。この仮説は真剣に検証するに値すると思いますが、エレクトスのアフリカ起源説の方がはるかに可能性は高い、と私は考えています。なお、アフリカの初期エレクトスについては、アジア南東部・東部のエレクトスと区別して、エルガスター(Homo ergaster)という種に分類する研究者もいます。

 第12章では、人類の利他主義は180万年前頃のジョージアのドマニシのホモ属集団までさかのぼりそうだ、と指摘されています。本書は、これが血縁関係に制約されないところに人類の特徴を見出しています。

 第13章ではギガントピテクスが取り上げられ、他の歯と比較して犬歯がたいへん小さいので、雄同士の競争は激しくなかっただろう、と指摘されています。 ただ、人類に関しては、これは当てはまらないのではないか、と私は考えています(関連記事)。ギガントピテクスの身体は巨大と推測されていますが、その理由として、強力な競合者の存在の可能性が指摘されています。本書はその競合者として、アジア東部のエレクトスを挙げています。アジア東部のエレクトスは道具の素材を石よりもむしろ竹の方に依存しており、その結果として竹林が縮小し、ギガントピテクスの生息域を奪っていった、と本書は推測しています。ただ、アジア東部のエレクトスがそれだけ環境に影響を及ぼせたのか、かなり疑問が残ります。

 第14章では、人類の重要な特徴として、脳の大型化よりも直立二足歩行の方が先行し、直立二足歩行により腰椎や骨盤への負荷が増大し、腰痛の原因になったことが指摘されています。また、人類の心臓の位置が比較的低く、大量の血液を必要とする脳にも重力に逆らって血液を送らねばならないことから、人類の心臓への負担は大きく、人類は他の動物よりも心臓関連の死亡率が高い、とも指摘されています。

 第15章では、最初期ホモ属に関する混乱した状況が解説されています。最初期のホモ属とされるハビリス(Homo habilis)については、ホモ属的な初期人類遺骸をまとめて放り込んだ雑多なもので、単一種として分類できるのか、疑問が呈されてきました(関連記事)。じっさい、同時代のホモ属としてハビリスとは異なるルドルフェンシス(Homo rudolfensis)という種区分も提示されています。本書は、ケニアで発見された人類化石(関連記事)を根拠に、初期ホモ属は少なくとも2種存在した可能性が高い、と指摘しています。

 第16章では、ホモ属の脳容量が増加した理由として、道具よりも社会関係の方が重視されています。捕食者への対応から集団規模の大きい方が有利となり、それが脳容量増加の選択圧になった、というわけです。脳の大型化と肉食との関係も解説されていますが、エレクトスが狩猟、ハビリスが腐肉漁りに適応していった、との見解には疑問が残ります。エレクトスは狩猟に特化したわけではなく、腐肉漁りにもかなりの程度依存していたのではないか、と思います。また、大人と子供では脳の発達が異なり、大人は子供と比較して新しいことを覚えるのが苦手になるものの、情報を結びつけて総合的に判断することは大人の方がずっと容易と指摘されています。

 第17章では、1990年代には、ネアンデルタール人と現生人類との間に関連があるとする立場と、直接の関連はないとする立場があり、学界ではネアンデルタール人が現生人類の直接的祖先とする立場が主流だったものの、一般社会では大半が後者を指示していた、と解説されています。しかし、これはかなり問題のある認識だと思います。1990年代前半頃までは、学界では現生人類の起源をめぐってアフリカ単一起源説と多地域進化説との間で激しい議論が展開されていたと思います。著者の李相僖氏はミシガン大学でウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏に師事したそうで、意図的かどうか分かりませんが、多地域進化説に偏った感のある、疑問の残る認識でした。ネアンデルタール人も現生人類と同じFOXP2遺伝子を有しており、同様に右利きが優勢であると明らかになったことから、本書はネアンデルタール人も現代人のように言葉を流暢に操っていた可能性はかなり高い、と指摘しています。ただ、現代人のゲノムにおいて、FOXP2遺伝子を取り囲んでいる膨大なゲノム領域では、現代人のそれにネアンデルタール人由来のそれが見られず、現生人類にはネアンデルタール人とは異なる、FOXP2遺伝子の発現に変化をもたらすような変異を有しているので(関連記事)、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子は現生人類と同程度の言語能力の証拠にはならない、と思います。また本書は、ネアンデルタール人への現代人の視線と人種差別との類似性を指摘しますが、ネアンデルタール人は現生人類とは明確に区別できる分類群なので、共通するところも多分にあるとはいえ、「人種」と同列に扱うことには慎重であるべきだ、と私は考えています。

 第18章では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分子時計がいかに当てにならないか、ということが力説されています。1980年代後半〜2000年代にかけて、現生人類多地域進化説を攻撃する有力な根拠がmtDNAだっただけに、ウォルポフ氏の弟子である著者の李相僖氏としては、念入りに批判したいのか、と憶測してしまいます。本書は、分子時計が破綻したとか、mtDNAの遺伝は中立的と考えられていたとか主張しますが、分子時計の正確さには問題があるとしても、現在でも有効な方法だと思いますし、mtDNAの多様体が病気の一因にもなることは、20世紀の時点ですでに知られていたと思います。

 第19章では、ネアンデルタール人と近縁なホモ属である種区分未定のデニソワ人(Denisovan)について解説されています。デニソワ人については当ブログで以前まとめました(関連記事)。ネアンデルタール人の石器としてはムステリアン(Mousterian)が有名です(ネアンデルタール人だけが製作していたわけではありませんが)。10万〜3万年前頃のアジア(アジア東部ということでしょうが)ではムステリアンが見つかっていない、と本書は主張しますが、原書刊行後に、47000〜37000年前頃のムステリアン様石器群が中華人民共和国内モンゴル自治区で確認される、と指摘した研究が公表されています(関連記事)。デニソワ人については原書刊行後に大きく研究が進展したので、本書は最新の情報を得ることには向いていませんが、デニソワ人の地理的範囲や現生人類との交雑の場所など、本書が指摘したデニソワ人に関する不明点の多くは今でも未解明で、今後の研究の進展が期待されます。

 第20章では、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡で発見された更新世のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が取り上げられています。本書は、フロレシエンシスが出アフリカを果たしたアウストラロピテクス属の子孫である可能性を提示し、第11章で提示したしたホモ属のアジア起源説に再度言及しています。私は、フロレシエンシスはジャワ島のエレクトスの子孫である可能性が高い、と考えていますが。なお、訳注でも言及されているように、原書刊行後、フロレシエンシスの年代は繰り上がっており、この他にも、原書刊行後にフロレシエンシスに関する重要な知見が相次いで発表されています(関連記事)。

 第21章では、人種という概念の問題点が指摘されています。人種は生物学的概念ではなく、歴史的・文化的・社会的概念というわけです。本書は現代人の起源に関して、多地域進化説を採用しています。確かに、現生人類アフリカ単一起源説でも、完全置換説はもう過去のものになったと言うべきでしょうが、だからといって多地域進化説が近年の遺伝学的研究とも矛盾しない、と主張するのも問題だと思います。近年の研究動向からは多地域進化説の「復権」とも言えそうですが(関連記事)、本書は多地域進化説もまた大きく変わったことには言及せず、多地域進化説が1984年に提唱された、と主張しています。著者の李相僖氏はウォルポフ氏に師事したそうですから、このように主張するのも分からなくはありませんが、一般読者にたいして不誠実だと思います。

 第22章では、農耕開始以降、人類は以前よりもずっと(技術なども含む広義の)文化に依存するようになり、進化は「停滞」した、との見解が有力になりました。しかし、農耕が始まってからの1万年間に進化は加速している、と本書は指摘します。その理由として、急激な人口増加による変異の増加、集団間の遺伝的交流、医療の発達により以前は生き延びられなかった人も子孫を残せるようになったことが挙げられています。進化における「有利」や「有益」が状況依存的であることも指摘されており、これは重要だと思います。

 付録1では、エピジェネティクスは将来、獲得形質の遺伝を証明するかもしれない、と指摘されています。しかし、エピジェネティクスは、よく使う器官は発達し、そうでない器官はやがて失われていく、とするラマルク説とはまったく異なると思います。「後天的」な遺伝子発現の変化という点で両者は似ているように見えるかもしれませんが、似て非なるものだと思います。

 付録2では、現生人類の起源に関する仮説として、アフリカ単一起源の完全置換説と多地域進化説とが挙げられています。しかし、これは二分法の罠と言うべきでしょう。アフリカ単一起源説にはネアンデルタール人との低頻度の交雑を認める「交配説」があり、完全置換説が主張されるようになったのは交配説が主張された後のことでした。本書は、完全置換説が主流になった後も交配説は主張され続けていたことと、多地域進化説が当初(1984年)より大きく変容したことを無視しています(関連記事)。率直に言って、この点は一般向け書籍として不誠実だと思います。なお本書は、現代のアジア東部集団(およびアメリカ大陸先住民集団)に高頻度で見られるシャベル状切歯について、中国で発見された初期人類との関連性を示唆していますが、これと関連する遺伝的多様体は3万年前頃にアジア東部集団で出現し、それは乳腺管分岐を増大させる役割を担っていることから定着したのではないか、との見解が原書刊行後に提示されています(関連記事)。この人類進化史概説でもそうですが、本書からは全体的に、異なる分類群間の交雑第一世代に繁殖能力があれば同種と言ってもよいだろう、との認識が窺えるのは気になるところです。たとえそうだとしても、交雑第一世代の適応度が下がるなど、分類群間の生殖を隔離する障壁が作用し続けるのであれば、両方の分類群を異なる種と認識しても大過はない、との見解もじゅうぶん成立すると思います(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類の交雑にしても、適応度を下げるような障壁があった可能性は高いと思います(関連記事)。


参考文献:
Lee SH, and Yoon SY.著(2018)、松井信彦訳『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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現生人類の出アフリカ直前のアフリカ南部から東部への移動

2019/03/22 18:43
 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカ直前のアフリカ南部から東部への移動の可能性を検証した研究(Huypens et al., 2019)が公表されました。現生人類の起源に関しては、現在ではアフリカ単一起源説が通説として認められている、と言えるでしょう。しかし、これは現代人にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他のホモ属系統の遺伝的影響が皆無であることを意味するわけではありません。一時期は、現生人類と他のホモ属系統との交雑を認めない完全置換説が主流でしたが、現在では、低頻度ながら現代人に他のホモ属系統の遺伝的影響を認める見解が有力です。その意味で、現在の主流的なアフリカ単一起源説とは、現生人類特有の共通する派生的特徴(およびその遺伝的基盤)はアフリカでのみ進化し、他のホモ属系統からもわずかに遺伝的影響を受けた、という内容だと考えるべきでしょう。

 現生人類アフリカ単一起源説が有力になると、現生人類の起源地がアフリカのどこなのか、という問題も議論されました。その中でも有力なのが南部と東部です。南部説の根拠は、南部のコイサン集団が遺伝的には現代人の各地域集団の中で最初に分岐した、と推定されていることです。東部説の根拠はおもにホモ属遺骸です。中央部説も提唱されており、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性とY染色体DNAハプログループの深い分岐(関連記事)が根拠となっています。また、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」が提示されています(関連記事)。

 本論文は、おもに現代人のmtDNAのハプログループの地理的系統学を改めて検証するとともに、ゲノム規模の一塩基多型データも分析し、考古学・古気候学の研究成果も参照しつつ、初期現生人類の進化を解明していきます。現代人のmtDNAのハプログループは、まず19万〜15万年前頃にL0系統とその他の系統(L1〜L6)が分岐し、150000〜135000年前頃にL1系統とL2〜6系統が分岐します。L0系統を有する人々アフリカは南部に多く存在し、L0系統の中でも、分岐が最も古いL0d系統とその次に古いL0k系統は、アフリカ南部のコイサン集団において高頻度で見られます(関連記事)。そのため、L0系統がアフリカ南部でまず分岐していった、と推測されます。本論文はこれを、気候条件が厳しかった20万〜13万年前頃の海洋酸素同位体ステージ(MIS)6に、アフリカ南部沿岸が現生人類にとって待避所となったことを示唆するのかもしれない、と解釈しています。しかし、L0系統の中には、L0a・L0b・L0f2・L0f3のように、アフリカ東部の集団に見られる亜系統も存在します。これらL0諸系統の推定分岐年代から、L0系統で東部に存在する亜系統は、7万〜6万年前頃にアフリカ南部からアフリカ東部へと移動したと推測するのが最も節約的になる、と本論文は指摘します。

 本論文はそれを支持する根拠として、考古学の研究成果を挙げています。装飾品の製作といった象徴的行動や、石器の熱処理などの技術的革新は、「現代的行動」と解釈されています。本論文は、こうした「現代的行動」が、アフリカ各地や現生人類に限らずネアンデルタール人にも一部見られることを指摘しつつ、その考古学的指標が7万年前頃まではアフリカ南部において他地域よりも高密度で確認される、と強調します。さらに本論文は、7万年前頃にアフリカ南部と東部でほぼ同時に細石器技術が出現し、この時期には、過去135000年において、サハラ砂漠以南のアフリカ全域が唯一湿潤だった時期だ、と指摘します。アフリカ南部の集団がサハラ砂漠以南のアフリカ全域で拡散の容易な時期に細石器技術を携えて北上し、東部に到達して「現代的行動」を定着させてから間もなく、東部の一部集団がアフリカからユーラシアへと拡散し、非アフリカ系現代人全員の主要な遺伝子源になった、というわけです。アフリカ東部の遺跡では、67000年前頃以降の技術革新が確認されており、本論文の見解と整合的と言えるかもしれません(関連記事)。

 本論文の見解に従えば、7万年前頃のアフリカ南部の現生人類集団の革新的な文化が、出アフリカと世界全域への拡散の基盤になった、と解釈できます。ただ本論文は、7万年前頃のアフリカ南部の集団がその他の地域の現生人類集団の主要な遺伝子源だったわけではない、とも指摘しています。上述したように、アフリカ系現代人の遺伝的分岐はもっと古いからです。また本論文は、mtDNAでは7万〜6万年前頃のアフリカ南部からアフリカ北部への移住の根拠が示されるものの、ゲノム規模の一塩基多型データではその痕跡が検出できなかった、とも指摘しています。

 本論文の見解はたいへん興味深いのですが、やはり現代人の遺伝データ、それもおもにmtDNAに依拠した進化史の復元に限界があることは否定できないでしょう。とはいっても、現生人類の起源と拡散に重要な時期となるMIS6〜4のアフリカで発見されたホモ属遺骸は少なく、今後増加するとしてもDNA解析は難しそうですから、やはり現代人の遺伝データにかなり依拠せざるを得ないでしょう。しかし、完新世の現生人類遺骸ならば、サハラ砂漠以南のアフリカでも8000年前頃の人類のDNA解析に成功しているので(関連記事)、バンツー語族拡大前の人類のDNA解析を蓄積していけば、より正確な現生人類拡散の様相を解明できそうです。

 また本論文は、7万年前頃が過去135000年においてサハラ砂漠以南のアフリカ全域が唯一湿潤だった時期だ、と指摘しますが、これを直ちに確たる見解と認めるのではなく、今後の研究の進展に注目すべきだろう、とは思います。また本論文は、7万年前頃よりも前には、「現代的行動」の痕跡の密度はアフリカ東部よりもアフリカ南部の方が高い、との認識を前提としていますが、アフリカ南部、とくに南アフリカ共和国はサハラ砂漠以南のアフリカでもとくに考古学的調査・研究の進展している地域なので、今後この差が縮まっていく可能性は低くないように思います。


参考文献:
Rito T et al.(2019): A dispersal of Homo sapiens from southern to eastern Africa immediately preceded the out-of-Africa migration. Scientific Reports, 9, 4728.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-41176-3
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マレーグマは遊び仲間の顔の表情を真似る

2019/03/22 18:39
 マレーグマの模倣行動に関する研究(Taylor et al., 2019)が公表されました。この研究は、群れで飼育されているマレーグマ22頭について、自発的な社会的遊びに興じている時の顔表情の複雑性を調べ、とくに正確な表情模倣(遊び仲間の顔表情を正確に真似る能力)に着目しました。この研究は、マレーグマが遊び仲間との対面相互作用において、遊び相手が口を開いた表情をした時に同じように口を開いた表情をしてみせるのか、調べました。

 研究対象のマレーグマ22頭のうち21頭が口を開いた表情をしており、そのうちの13頭は、遊び相手と向き合った状態で遊び相手が口を開いた表情をしてから1秒以内に、自らも口を開いた表情をしてみせました。この知見は、マレーグマが、社会的パートナーから観察されている時に顔の表情を変化させる、と示唆しています。これは、マレーグマがパートナーの注意に対して感受性を持っている、と意味している可能性があります。

 ヒトとの近縁性が高い類人猿やヒトに寄り添って暮らすイヌなどのヒトに関連する生物種の場合には、複雑な社会環境に対する適応が背景にあると考えられてきましたが、野生のマレーグマはおもに単独生活のため、社会的感受性とそれに伴う顔表情の模倣の正確さを同じように説明できません。この知見は、顔表情の模倣が、これまで考えられていた以上に広く浸透しており、社会的風潮が強く働く生物種に限られない可能性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物行動学】遊び仲間の顔の表情をまねるマレーグマ

 マレーグマが遊び仲間の顔の表情を正確にまねて表出することを明らかにした初期の研究について報告する論文が、今週掲載される。こうした顔表情の模倣は、効率的で有効かつ正確なコミュニケーションを可能にすると考えられているが、家畜でない非霊長類種による顔表情模倣を観察した先行研究はなかった。

 今回、Marina Davila-Rossたちの研究グループは、群れで飼育されているマレーグマ22頭について、自発的な社会的遊びに興じている時の顔表情の複雑性を調べ、特に正確な表情模倣(遊び仲間の顔表情を正確にまねる能力)に着目した。Davila-Rossたちは、マレーグマが遊び仲間との対面相互作用において、遊び相手が口を開いた表情をした時に同じように口を開いた表情をしてみせるかを調べた。

 研究対象のマレーグマ22頭のうち21頭が口を開いた表情をしており、そのうちの13頭は、遊び相手と向き合った状態で遊び相手が口を開いた表情をしてから1秒以内に自らも口を開いた表情をしてみせた。この知見は、マレーグマが、社会的パートナーから観察されている時に顔の表情を変化させることを示唆しており、このことは、マレーグマがパートナーの注意に対して感受性を持っていることを意味している可能性がある。ヒトとの近縁性が高い類人猿やヒトに寄り添って暮らすイヌなどのヒトに関連する生物種の場合には、複雑な社会環境に対する適応が背景にあると考えられてきたが、野生のマレーグマは主に単独生活をするため、社会的感受性とそれに伴う顔表情の模倣の正確さを同じように説明できない。

 今回の知見は、顔表情の模倣が、これまで考えられていた以上に広く浸透しており、社会的風潮が強く働く生物種に限られない可能性を示唆している。



参考文献:
Taylor D et al.(2019): Facial Complexity in Sun Bears: Exact Facial Mimicry and Social Sensitivity. Scientific Reports, 9, 4961.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-39932-6
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カナリア諸島先住民の起源

2019/03/21 10:37
 カナリア諸島先住民の起源に関する研究(Fregel et al., 2019)が報道されました。カナリア諸島先住民は、考古学・人類学・言語学・遺伝学などで研究されてきており、その起源はアフリカ北部のベルベル人と密接に関連した集団である、との見解が最も有力です(関連記事)。しかし、正確な起源やカナリア諸島への人類の移住過程については、合意が確立しているわけではありません。本論文は、カナリア諸島の主要7島の25ヶ所の遺跡の先住民48人の完全なミトコンドリアDNA(mtDNA)配列を決定し、他地域の古代人・現代人と比較することで、この問題の解明に取り組みました。

 カナリア諸島は大陸と接続したことはない、と推測されています。カナリア諸島への人類最初の移住に関しては、紀元前1000年紀説が以前からありましたが、近年では紀元後との見解が有力なようで、紀元後100〜300年頃までさかのぼる可能性が提示されています。本論文でmtDNAが解析された48人の先住民の年代は約1200年にわたっています。これらのハプログループは以前の研究と一致しており、アフリカ北部系(U6)・ユーラシア系(H・J2・T2・X)・サハラ砂漠以南のアフリカ系(L1・L3)が改めて確認され、その多くは地中海系と推測されています。

 カナリア諸島の現代の18人のmtDNAも解析され、50%以上がHに属します。この中には、ヨーロッパ起源と推測される系統(H6a1・H3c2・H43)もあります。15世紀のスペイン(カスティーリャ王国)の征服後、ヨーロッパ系が多数植民してきましたし、砂糖のプランテーション栽培や奴隷貿易などにより、カナリア諸島の人類集団の遺伝的構成は大きく変わりました。しかし、先住民系統が途絶えたわけではなく、カナリア諸島の現代人には先住民系のハプログループ(J2a2d・U6b1・X3a)も見られます。カナリア諸島の現代人のmtDNAのハプログループのうち、27.8%は在来系、61.1%はヨーロッパ系と推定されています。

 カナリア諸島先住民のmtDNAハプログループには、アフリカ北部中央とカナリア諸島にしか存在しないハプログループ(H1cf・J2a2d・T2c1d3)だけではなく、アフリカ北部西方および中央と、ヨーロッパおよび近東(U6a1a1・U6a7a1・U6b・X3a・U6c1)で見られるハプログループが混在しています。カナリア諸島先住民のmtDNAには広く地中海に分布するハプログループが見られるため、ベルベル人と密接な関係にあるカナリア諸島最初の人々は、カナリア諸島への拡散の時点ですでに混合集団だった、と推測されています。

 また、以前の研究では、母系と父系での非対称的な地理的分布が指摘されていましたが、mtDNAを解析した本論文でも、より東方の島々でのみ存在するハプログループ(H1e1a9・H4a1e・L3b1a12・U6c1)が検出されており、母系での地理的分布の偏りが改めて確認されました。こうしたmtDNAハプログループの地理的分布の違いから、カナリア諸島への移住には複数の波があったのではないか、と本論文は推測しています。これらのハプログループの個体群の年代はほぼ10世紀以後で、おおむね13世紀であることも、本論文は補強材料として挙げています。

 また、考古学では、11〜12世紀にいくつかの島で、海洋資源の利用や技術など生産活動に顕著な変化があり、人口が増加した、と指摘されています。こうした変化は居住構造または埋葬の顕著な変化や新たな家畜種導入などを伴わないことから、内在的発展とみなされてきました。しかし本論文は、まだ研究中ではあるものの、グランカナリア(Gran Canaria)島で8〜13世紀の間にいくつかの居住形態に変化が見られることから、新たな移住の結果とも解釈できるだろう、と指摘しています。そうだとすると、新たな移住の波の証拠となるかもしれません。

 このように、カナリア諸島とはいっても、移住とその後の歴史を一律に論じることはできません。本論文は、島の面積や資源も含む環境条件により、各島は異なる歴史を経てきた、と指摘します。大規模な人口を維持する能力のある島々では遺伝的多様性が維持された一方で、ラゴメラ(La Gomera)やエルイエロ(El Hierro)のようなより小さな島では、強制的族外婚のような近親婚を避ける習慣が発達しました。小規模集団が外部との接触を断たれると、長期にわたって存続することは難しいのでしょう。

 上述したように、カナリア諸島最初の人類集団はアフリカ北部のベルベル人と密接に関連していた、という説が最も広く受け入れられています。しかし、カナリア諸島の葬儀や宗教的観念にはフェニキア人の影響の可能性も指摘されています。ただ、フェニキア人とカナリア諸島先住民との間でmtDNAの一致はまだ確認されておらず、確定的とは言えません。あるいは、今後カナリア諸島先住民の高品質なゲノム配列が得られたら、フェニキア人の遺伝的痕跡が確認されるかもしれません。現在まで残っているmtDNAには痕跡が残らないほどの接触があったかもしれない、というわけです。また、カナリア諸島まで到達したフェニキア人は男性主体だったので、mtDNAには痕跡を残していない、という可能性も想定されます。


参考文献:
Fregel R, Ordóñez AC, Santana-Cabrera J, Cabrera VM, Velasco-Vázquez J, Alberto V, et al. (2019) Mitogenomes illuminate the origin and migration patterns of the indigenous people of the Canary Islands. PLoS ONE 14(3): e0209125.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0209125
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『卑弥呼』第13話「思惑」

2019/03/20 20:12
 『ビッグコミックオリジナル』2019年4月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがミマト将軍に、ヤノハが四番目の提案を言おうとするところで終了しました。今回は、ミマト将軍から四番目の提案を促されたヤノハが、ミマト将軍とイクメに山社(ヤマト)とは何なのか、尋ねる場面から始まります。山社とは聖地で、各時代に顕れた日見子(ヒミコ)と日見彦(ヒミヒコ)が神々と対話する場所だ、と答えます。倭国最初の山社がどこにあったのか、ヤノハに尋ねられたミマト将軍は、困った様子で娘のイクメを見ます。詳しくは覚えていないので、娘に助けを求めた、ということでしょうか。イクメによると、最初の山社は筑紫島(ツクシノシマ)の真ん中の千穂(チホ)にあったと言われているそうです。千穂は高い山で、その上に神々のいる高天原があり、天照大御神はそこから千穂に降りて最初の山社に籠った、とイクメはヤノハに説明します。

 ミマト将軍によると、名を馳せた日見彦は天照大神から数えて6代目で、その時の山社は日向(ヒムカ)にあったそうです。6代目の日見彦はサヌという王で、政治を担当したのはイツセという兄でした。その後、8代目の日見子・日見彦が顕れ、それぞれ神託を受けた地に山社を建てました。那(ナ)の国や伊都(イト)の国が大陸(後漢)から金印を授かったのはこの時代でした。しかし、その間筑紫島どころか倭国中の戦乱は続いたままで、平和だった時代は百年前の日見子の治世のみでした。その日見子が山社として選んだのが現在の地で、暈(クマ)の国のタケル王もこの地を山社としました。

 ヤノハがこのようにミマト将軍とイクメから説明を受けているところへ、山社で最高位の祈祷女(イノリメ)であるイスズがミマト将軍との面会のため、楼観の真下に来ている、とミマト将軍の配下が報告します。ミマト将軍は、タケル王と鞠智彦(ククチヒコ)、さらには暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)のヒルメのヤノハに関する指示がそれぞれ異なっており、イスズはヒルメと同じくヤノハを捕らえるよう要求するだろうということで、悩みます。イクメはヤノハに、まだイスズと会わない方がよいだろう、と進言します。しかし、出入口は梯子しかないため、ヤノハにも妙案は浮かびません。するとミマト将軍は、天井裏に隠れるよう、勧めます。

 その頃、トンカラリンの洞窟近くでは、アカメが今後どうすべきか、悩んでいました。那の国に行こうと考えたアカメですが、お頭は自分が生きていると分かったら絶対許さないだろう、と考え直します。豊秋津島(トヨアキツシマ)の金砂(カナスナ)の国なら自分を高く買ってくれそうだ、と思案するアカメは、ヤノハがどうなったのか、ふと気になります。ヤノハは種智院に無事帰っても確実にタケル王に殺されるものの、おめおめ命を投げ出すとは思えない、とアカメは考えつつ道を歩いて行きます。すると足跡から、2人が山社に向かったのだ、とアカメは気づき、ヤノハは万にひとつだが生き残れるかもしれない、と考え直します。

 その頃、暈と那の国境では、戦柱(イクサバシラ)に選ばれたヌカデがオシクマ将軍に謁見していました。ヌカデの顔を見たオシクマ将軍は、さすが種智院一の見習い戦女(イクサメ)だ、よい面構えをしている、それに期待以上の美形だ、と言います。目の前の川(筑後川でしょうか)を泳いで渡れるか、とオシクマ将軍に問われたヌカデは、容易いと答えます。対岸には那の国の本陣があり、総大将はトメ将軍だ、とオシクマ将軍はヌカデに伝えます。トメ将軍は船と航海を好み、将軍よりも島子(航路などを司る、那の国の長官)の地位に就きたかったようだが、平民の出身では難しい、とオシクマ将軍はヌカデに説明します。トメ将軍が次に好きなのは女性なので、近くの村人になりすましてトメ将軍に近づけ、とオシクマ将軍はヌカデに命じます。側女に扮してトメ将軍を殺すのか、と尋ねるヌカデにたいして、トメ将軍に和議の思惑があれば殺すな、なければ殺せ、とオシクマ将軍は答えます。

 命令を伝えたオシクマ将軍は、ヌカデにトンカラリンの儀式を生き延びた娘がいることを伝えます。オシクマ将軍の主君であるタケル王も鞠智彦も日見子出現を認めるはずはないが、種智院も同意見なのは奇妙だ、とオシクマ将軍は愉快そうにヌカデに話します。ヌカデにその理由を問われたオシクマ将軍は、生還した娘がヒルメに最も忌み嫌われている女性だからという噂がある、と答えます。その娘が死んだのか、ヌカデに問われたオシクマ将軍は、かなりの切れ者のようで、追手から逃れたようだ、と答えます。ヌカデは平伏したまま、ヤノハなら生き延びる、と笑いを抑えながら呟きます。ヌカデもヤノハも死地にあることから、ヤノハにある種の共感を抱いているということもあるでしょうし、自分が戦柱という危険な任務を負わされることになったのはヤノハが原因なので、憎悪も込められているのでしょう。ヌカデはヤノハに、感嘆と憎悪の入り混じった感情を抱いているのでしょうか。

 山社では、ヤノハが楼観の天井裏に隠れた後、イスズがミマト将軍とイクメの親子を楼観に訪ねていました。ヒルメは日見子の偽者であるヤノハを即刻捕らえるよう伝えているのに、その命令をなぜ無視するのか、とイスズに問われたミマト将軍は、ことは単純ではない、と答えて、タケル王・鞠智彦・ヒルメの命令がそれぞれ異なる、と説明します。タケル王は、ヤノハの両手両足を大槌で砕いて荒野に晒せと命じ、鞠智彦はヤノハを拘束して鞠智の里まで連れてくるよう命じ、ヒルメはヤノハをとらえるよう命じている、というわけです。誰の命令に従えばよいのだ、とミマト将軍に問われたイスズは、ミマト将軍は山社の守り人なのだから、祈祷女であるヒルメの命令を優先すべきだ、と答えます。するとイクメが、ヒルメはあくまでも種智院の長であり、山社の長はイスズだ、と強い調子で訴えます。イクメの様子に一瞬気圧されたイスズですが、ヒルメと同様に、ヤノハを即座に捕らえるよう命じようとします。するとイクメはイスズに、ヒルメの言いなりになるのか、と挑発するように問いかけます。イスズは誰もが認める霊感の持ち主なのだから、自ら神事を行ない、ヤノハが本物の日見子なのか偽物なのか、伺いを立てるべきだ、とイクメは訴えます。するとイスズは、覚悟を決めた様子で今日中に籠る、と宣言します。

 この様子を、ヤノハは天井裏から覗いていました。イスズは興奮しやすいという点では利用価値がある、とヤノハは呟きます。そこへアカメが現れ、山社に逃げるとはさすがだ、とヤノハに話しかけます。ヤノハは驚いた様子を見せず、よくここに忍び込めたな、と言いますが、志能備(シノビ)には容易いことだ、とアカメは応じます。助けてやったのに、私の命を奪いに来たのか、とヤノハはアカメに問います。ヤノハはトンカラリンの洞窟でアカメを殺すつもりはなく、最初から気絶させるだけのつもりだったのでしょう。アカメは、行く場所がなくなったので自分をヤノハの影にしてもらいたい、と頼みます。つまり、誰にも知られず、ヤノハの指示通り動く存在というわけです。志能備のアカメには適任と言えるでしょう。ヤノハがアカメに、暈と那の境にいるヌカデという戦女に自分の言葉を伝えてほしい、と伝えるところで今回は終了です。


 今回も、情報量が多いというか密度が濃く、本作の世界観が明かされていったこともあり、たいへん楽しめました。山社については、前回で移動することもあり得ると予想していましたが、やはりそうだと明かされました。最初の山社は筑紫島(九州)の真ん中の千穂にあったとのことで、つまりは天孫降臨神話の舞台である高千穂のことなのでしょう。その上に神々のいる高天原があり、天照大御神が千穂に降りた、とのことです。本作の設定では、天孫降臨の「実行者」が天照大御神となっているようです。作中世界では、天照大御神はこの時点で少なくとも九州においては広く信仰されているようです。そうした信仰がいかなる契機で広まったのか、そもそも天照大御神はどのような人物だったのか、高天原がどこに設定されているのか、あるいはこの時点ですでに多分に神話化されており、作中世界の史実とはかなり異なって語られているのかなど、明かされていない設定は多くあります。今後、そうした謎が少しずつ明かされていくのではないか、と期待しています。

 まだ明かされていない設定についてあまり多くを語り想像しても仕方ないので、今回語られた情報を見ていくと、天照大御神から数えて6代目の日見彦は名を馳せ、その時の山社は日向にあった、との設定は大いに注目されます。その王の名はサヌで、政治を担当したのは兄のイツセとのことです。暈の国で言えば、サヌがタケル王でイツセが鞠智彦なのでしょう。『隋書』に見える、倭王は天を兄、日を弟とし、夜明け前に兄が胡坐をかいて政務をとり、日の出後は弟に任せる、という記述を参考にした設定で、それが弥生時代からあった、ということなのでしょう。

 サヌは、明らかに『日本書紀』で語られる神武天皇(天皇という称号は7世紀以降に使用されるようになったのでしょうが)だと思います。天照大御神から数えて6代目で、イツセという兄がいるという『日本書紀』の系譜との合致もありますし、神武の幼名は狭野尊(巻2神代下)ですから、これは間違いないでしょう。日向の王族が船に乗り東征し、東の果ての日下という小さな国を得たが(第8話)、この東征には重大な秘密があるようだ(前回)、と作中では語られており、この日向の王族がサヌ、つまりは『日本書紀』の神武だと思われます。イクメによると、8代目の日見彦と日見子は後漢から金印を授かったとされていますから、57年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)と107年のことなのでしょう。そうすると、8代目の日見彦と6代目の日見彦との間がどれくらい空いているのか分かりませんが、神武は紀元前1世紀、天照大御神は紀元前3世紀頃の人物でしょうか。

 また、後漢から金印を授かった日見子と日見彦は那国と伊都国の人物とされていますから、日見子と日見彦は血縁関係で継承されるわけではなさそうです。そうすると、サヌというか神武は天照大御神から6代目とされていますが、これはあくまでも日見子・日見彦としてであって、天照大御神の子孫とは限らないのでしょう。『日本書紀』編纂の時代までに、こうした初期の王たちが一系にまとめられた、という設定のように思われます。この間倭国はおおむね戦乱状態で、平和だったのは100年前の日見子の時代のみだった、との情報も注目されます。タケル王のように、広く権威を認められず、日見彦と自称していただけの王も多かった、ということでしょうか。

 アカメがヤノハの配下になるのは、もはや鞠智彦の配下には戻れないことからも、予想通りでした。アカメはあっさり退場したかと思いましたが、意外と長く登場するかもしれません。ヤノハにとって、暈に来た当初より縁の深いヌカデも、今後重要な役割を果たしそうです。ヤノハがヌカデに何をやらせようとしているのか、注目されます。ヌカデはヤノハがモモソを殺したさいに嘘を言って庇っており、ヤノハの決定的な弱みを握っています。そのため、ヤノハとヌカデとの関係は緊張したものになりそうで、いつかヤノハがヌカデを殺すことになりそうです。といいますか、ヤノハがヌカデに何を伝えようとしているのかも不明なわけで、ヌカデも配下にするという可能性が高そうですが、ヌカデが戦柱として確実に死ぬような謀略を仕掛けようとしているのかもしれません。

 イスズは今回が初登場となり、小物感が拭えませんが、モブ顔ではなさそうなので、今後重要な役割を果たすかもしれません。まあ、モブ顔だと思ったイクメが予想以上に活躍していますし、典型的なヒロイン顔だと思ったモモソがあっさりと殺害されて退場していますから(今後もヤノハの夢にたびたび出てくるのでしょうが)、顔で今後の活躍を判断するのは危険ですが。当分は、ヤノハがどのように日見子(卑弥呼)と認められていき、それを阻止しようとするタケル王・鞠智彦・ヒルメがヤノハに対処するのか、という話が中心になりそうですが、東征したサヌ(神武)の子孫や、さらには朝鮮半島と魏・呉との関係も描かれそうなので、ぜひ長期連載で壮大な物語が展開してもらいたいものです。
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在来の狩猟採集民により始まったアナトリア半島の農耕

2019/03/20 20:07
 アナトリア半島を中心とした農耕開始前後の人類集団の遺伝的構成に関する研究(Feldman et al., 2019)が報道されました。農耕はアジア南西部の肥沃な三日月地帯で紀元前10000〜紀元前9000年頃に始まり、その後ユーラシア西部の広範な地域へと拡大し、アナトリア半島中部には紀元前8300年頃に到達しました。農耕はアナトリア半島からヨーロッパへと拡散し、それは初期農耕民の移住によるものでした。アナトリア半島からの初期農耕民と在来の狩猟採集民とは、ヨーロッパで融合していきます(関連記事)。

 一方、肥沃な三日月地帯のレヴァント南部やザグロス地域(現在のイラク東部およびイラン西部)では、新石器時代への移行を通じて集団の遺伝的構造が持続し、在来の狩猟採集民が農耕を始めた、と推測されています(関連記事)。アナトリア半島中部は、肥沃な三日月地帯以外の地域では最も早く農耕の始まった地域なので、農耕拡散の様相を理解するための鍵となります。アナトリア半島の初期農耕民は、レヴァント南部およびザグロス地域の初期農耕民と遺伝的にはっきりと異なるので、アナトリア半島でも在来の狩猟採集民が主体となって農耕を始めた、と推測されます。

 じっさい、考古学的証拠からは、アナトリア半島中部らおける文化的継続性が指摘されていました。しかし、農耕前の人類集団の遺伝的データが欠けていたので、アナトリア半島の初期農耕の発展が移住者によりもたらされたのか、そうだとして在来の狩猟採集民との混合がどの程度だったのかは、明らかではありません。同様に、農耕開始前の近東とヨーロッパの狩猟採集民の遺伝的類似性も、アナトリア半島の狩猟採集民の遺伝的データの欠如のため、明らかではありません。

 これまでの遺伝学的研究は、近東集団がヨーロッパの狩猟採集民およびアジア東部集団と共通の外集団からの系統をかなりの程度有する、と示唆します。この非アフリカ系現代人系統における深い分岐系統はしばしば「基底部ユーラシア人」と呼ばれ、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑前に分岐した、と推測されています(関連記事)。現代人集団において、この基底部ユーラシア人の遺伝的影響がユーラシア西部では強いため、アジア東部よりもネアンデルタール人の遺伝的影響が小さくなっている、とも推測されていますが、基底部ユーラシア人による「希釈」効果は大きくなかった、との見解も提示されています(関連記事)。

 14000年前頃以降のヨーロッパの狩猟採集民は、それ以前のヨーロッパの狩猟採集民よりも、現代の近東集団との遺伝的類似性が増加する、と示されていますが、この類似性がどのように形成されたのか、よく理解されていません(関連記事)。後期更新世のヨーロッパにおいて、文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連する集団系がイベリア半島も含めて広範に存在しており、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2(Goyet Q-2)個体に代表されます。その後、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表される系統が、マグダレニアン集団(ゴイエットQ2)系統をほぼ置換した、と推測されています。しかし、イベリア半島においては、ゴイエットQ2系統も存続した、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、末期更新世〜前期完新世にかけてのアナトリア半島とレヴァント南部の人類遺骸の新たなゲノム規模データを報告しています。このうち、直接年代測定された紀元前13642〜紀元前13073年頃のアナトリア半島の狩猟採集民のゲノム規模データは、アナトリア半島の続旧石器時代のものとしては最初となります。この他に、紀元前8300〜紀元前7800年頃となる5人の新石器時代アナトリア半島農耕民、1人の紀元前8269〜紀元前8210年頃のトルコの農耕民、紀元前7700〜紀元前7600年頃および紀元前7027〜紀元前6685年頃の2人のレヴァント南部の農耕民のゲノム規模データが報告されています。本論文はこれらの新たなゲノム規模データを、既知の587人の古代人および254人の現代人と比較しました。

 その結果まず明らかになったのは、アナトリア半島の更新世の続旧石器時代の狩猟採集民の遺伝的構成は、既知の他の後期更新世集団とは異なる、ということです。次に、アナトリア半島の初期農耕民は、遺伝的にはおおむね(90%ほど)続旧石器時代の狩猟採集民の遺伝的構成を継承している、ということです。残りの10%ほどは、新石器時代イラン・コーカサス集団系統に由来する、と推測されています。アナトリア半島における農耕は、考古学的証拠が示唆しているように、レヴァント南部ややザグロス地域と同じく、在来の狩猟採集民が主体になって始められただろう、というわけです。この後、新石器時代(先土器時代)のアナトリア半島では、レヴァント南部からの遺伝的影響を受け、その比率は20%ほどと推定されていますが、末期更新世〜前期完新世にかけての7000年の長期間、アナトリア半島では狩猟採集から農耕へと移行しても、遺伝的継続性はおおむね維持された、と本論文は指摘しています。ただ、アナトリア半島における狩猟採集から農耕への移行に関しては、均一でも必然的でもなかった、とも指摘されています(関連記事)。

 14000年前頃以降のヨーロッパの狩猟採集民における、それ以前と比較しての現代近東集団との遺伝的類似性の増加に関しては、とくに中石器時代のヨーロッパ南東部狩猟採集民において、アナトリア半島狩猟採集民との強い遺伝的類似性が指摘されています。本論文は、ユーラシア基底部系統の比率に関する分析の限界を認めつつ、アナトリア半島狩猟採集民から中石器時代ヨーロッパ南東部狩猟採集民の祖先への近東遺伝子流動だけでは、この類似性の説明には充分ではないかもしれない、と示唆します。本論文は追加の要素として、中石器時代ヨーロッパ南東部狩猟採集民の祖先からアナトリア半島狩猟採集民の祖先への遺伝子流動を想定しています。ただ、この過程を推測するには遺伝的データが欠如しているので、アナトリア半島とヨーロッパ南東部のデータの増加が必要とも指摘されています。

 狩猟採集社会から農耕社会への移行については、人類集団の移動と、それをあまり伴わないような農耕技術・概念の伝播のどちらが重要だったのか、各地で様相が異なっており、世界中を一律に論じられないのではないか、と思います(関連記事)。一般的に、アジア南西部のように近隣地域よりも早期に農耕の始まった地域では、在来の狩猟採集民が主体的に農耕を始め、近隣地域よりも農耕開始の遅れた地域では、ヨーロッパや日本列島のように、農耕集団の移住が大きな役割を果たす傾向にあるように思います。ただ、近隣地域よりも農耕の始まりの早いアジア東部の黄河流域や長江流域では、更新世の狩猟採集民と新石器時代の農耕民との間に置換があった可能性も指摘されています。アジア東部というかユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部よりもずっと遅れているので、今後の研究の進展により、現在のユーラシア西部並の信頼性で農耕開始の様相を推定できるようになるのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝学】アナトリア中部での農業の起源を探る

 1万5000年前のアナトリアの狩猟採集民のゲノム規模のデータを初めて示した論文が、今週掲載される。この知見は、「肥沃な三日月地帯」以外では最古の農耕コミュニティーのいくつかが存在していたアナトリア中部での農業の起源を解明する上での手掛かりとなる。

 農業は、紀元前1万〜9000年頃に西南アジアの肥沃な三日月地帯で始まった。その後、農耕技術は西ユーラシア全土に広がり、紀元前8300年頃にアナトリア中部(現在のトルコの一部)に到達した。しかし、その原因が、当時の近隣地域の農耕民が流入したことだったのか、地元の狩猟採集民が農耕技術を取り入れたことだったのかは、これまで明らかになっていなかった。

 今回、Johannes Krauseたちの研究グループは、アナトリアの狩猟採集民1人、新石器時代前期のアナトリアの農耕民5人、新石器時代前期の南レバントの農耕民2人のゲノム規模のデータを解析して、この地域に農業が出現した時期の遺伝的記録を作成した。その結果、新石器時代のアナトリア人の祖先の大部分を占めていたのが狩猟採集民であることが明らかになり、アナトリア中部の最初の農耕民が地元民であったことが裏付けられた。また、原始イラン人/白人、レバント人、南ヨーロッパ人との遺伝的連関も検出され、古代の遺伝子交換と技術交流の複雑な歴史が示された。Krauseたちは、こうした知見に基づいて、アナトリアは肥沃な三日月地帯からヨーロッパへ移動した原始農耕民にとっての経由地であり、地元の狩猟採集民はこの地でアイデアと植物と技術を入手し、農業で生計を立てられるようになったという考えを示している。



参考文献:
Feldman M. et al.(2019): Late Pleistocene human genome suggests a local origin for the first farmers of central Anatolia. Nature Communications, 10, 1218.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-09209-7
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化石燃料インフラの段階的廃棄による気温上昇の抑制

2019/03/19 16:04

 化石燃料インフラの段階的廃棄による気温上昇の抑制に関する研究(Smith et al., 2019)が公表されました。この研究は、さまざまなシナリオの下で単一の気候モデルを用いて、2018年末から二酸化炭素の排出量の削減がほぼ線形速度で進み、40年後にほぼゼロになる場合に、全球的気温上昇に何が起こるのか、調べました。これらのシナリオでは、化石燃料を用いる発電所・自動車・航空機・船舶・産業基盤が耐用年数に達すると、炭素排出のない代替手段に置き換えることとされました。

 この検証により、既存の二酸化炭素排出型のインフラの段階的廃棄を直ちに開始すれば、温暖化による気温上昇を摂氏1.5度未満に抑えられる確率が64%となるものの、そうした行動の開始が2030年まで遅れると、達成確率が50%を下回る、という推測が示されました。ただ、この結果は、今後数十年間に、たとえば永久凍土が大量に融解するなど、気候変動の転換点を大きく超えることはない、という前提に基づいています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【気候科学】化石燃料インフラの段階的廃棄をすぐに始めれば、産業革命以降の気温上昇を摂氏1.5度未満に抑えられるかもしれない

 耐用年数に達した化石燃料インフラの段階的廃棄に直ちに着手すれば、産業革命以前との比較で全球平均気温の上昇を摂氏1.5度未満に抑制できる確率が64%となることを明らかにしたモデル研究について報告する論文が、今週掲載される。この研究では、気候変動緩和策の実施を2030年まで遅らせると、たとえ化石燃料インフラの除却率を加速度的に上昇させたとしても、気温上昇を摂氏1.5度未満に抑制できる確率は低下することが示唆されている。

 今回、Christopher Smithたちの研究グループは、さまざまなシナリオの下で単一の気候モデルを用い、2018年末から二酸化炭素の排出量の削減がほぼ線形速度で進み、40年後にほぼゼロになる場合に、全球的気温上昇に何が起こるのかを調べた。これらのシナリオでは、化石燃料を用いる発電所や自動車、航空機、船舶、産業基盤が耐用年数に達すると、炭素排出のない代替手段に置き換えることとされた。

 Smithたちは、今回の研究結果を基に、既存の二酸化炭素排出型のインフラの段階的廃棄を直ちに開始すれば、温暖化による気温上昇を摂氏1.5度未満に抑えられる確率が64%となるが、そうした行動の開始が2030年まで遅れると、達成確率が50%を下回るという考えを示している。ただし、今回の結果は、今後数十年間に、例えば永久凍土が大量に融解するなど、気候変動の転換点を大きく超えることはないという前提に基づいている。



参考文献:
Smith CJ. et al.(2019): Current fossil fuel infrastructure does not yet commit us to 1.5 °C warming. Nature Communications, 10, 101.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-07999-w
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ラッコが用いた石の摩耗痕

2019/03/18 15:55
 ラッコが用いた石の摩耗痕に関する研究(Haslam et al., 2019)が公表されました。ラッコは石を道具として使い、イガイのような獲物をこじ開けることが知られている唯一の海洋哺乳類で、海中や胸部に乗せた岩石あるいは海面ぎりぎりの高さにある巨礫に獲物を叩きつけているところが観察されています。しかし、この行動が局所環境に及ぼす物理的影響については、よく分かっていません。

 この研究は、アメリカ合衆国カリフォルニア州中部にあるエルクホーン・スラウという感潮河口域で、ラッコが岩石を使って獲物をこじ開けている様子を10年間にわたり観察しました。この研究は、エルクホーン・スラウ感潮河口域にある421個の岩石を調べ、そのうちの77個に独特な摩耗パターンがある、と発見しました。これらはラッコが獲物をこじ開けるさいに用いた岩石と判断して矛盾がない、と明らかになりました。

 また、この区域内では捨てられたイガイの殻が多数見つかり、その破損パターンが捕食者であるラッコの行為と矛盾しないことも明らかになりました。この研究は、これらの破損パターンにより、ラッコが岩石を使ってこじ開けたイガイとヒトや他の動物が壊したイガイを区別できました。岩石や貝殻に残された独特な損傷は明確な行動上の特徴を表しており、これらを用いることで過去のラッコの採餌域を特定できる、とこの研究は指摘しています。また、これらの知見は、動物界全体でも珍しく、海洋動物においては極めてまれな石の台の使用の進化を解明するさいに役立つかもしれない、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物学】ラッコは自身の考古学的記録を残している

 ラッコが殻の硬い獲物をこじ開けるために用いる岩石には独特な摩耗パターンが残っていることを報告する論文が、今週掲載される。このパターンは、考古学的手法を用いて識別できるので、すでに絶滅した個体群の生息域を追跡する上で役立つ可能性がある。

 ラッコは、石を道具として使って、イガイのような獲物をこじ開けることが知られている唯一の海洋哺乳類で、海中や胸部に乗せた岩石、あるいは海面ぎりぎりの高さにある巨礫に獲物を叩きつけているところが観察されている。しかし、この行動が局所環境に及ぼす物理的影響については、よく分かっていない。

 Jessica Fujii、Natalie Uominiたちの研究グループは、米国カリフォルニア州中部にあるエルクホーン・スラウという感潮河口域で、ラッコが岩石を使って獲物をこじ開けている様子を10年間にわたり観察した。著者たちは、この区域にある421個の岩石を調べて、そのうちの77個に独特な摩耗パターンがあることを発見し、これらはラッコが獲物をこじ開ける際に用いた岩石と判断して矛盾がないことを明らかにした。また、この区域内では捨てられたイガイの殻が多数見つかり、その破損パターンが捕食者であるラッコの行為と矛盾しないことも明らかにした。著者たちは、これらの破損パターンによって、ラッコが岩石を使ってこじ開けたイガイとヒトや他の動物が壊したイガイを区別できた。著者たちは、岩石や貝殻に残された独特な損傷は、明確な行動上の特徴を表していて、これらを用いることで過去のラッコの採餌域を特定できる、という考えを示している。また、今回の知見は、動物界全体でも珍しく、海洋動物においては極めてまれな石の台の使用の進化を解明する際に役立つかもしれない。



参考文献:
Haslam M. et al.(2019): Wild sea otter mussel pounding leaves archaeological traces. Scientific Reports, 9, 4417.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-39902-y
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天武の年齢が不明な件についての補足

2019/03/17 18:55
 もう8年半近く前(2010年9月30日)になりますが(関連記事)、天武天皇の年齢が不明であることについて、井沢元彦『逆説の日本史』文庫版2巻(小学館、1998年)を引用しました。以下、『逆説の日本史』文庫版からの引用は、「逆説*」と省略します(*が巻数)。逆説2は、『日本書紀』は天武を顕彰するための史書であり、現代にたとえるならば、創業者の作らせた御用社史のようなものだと指摘した後に、以下のように述べています(P237〜239)。

 しかし、だからこそ、天武の年齢がわからない(明記されていないし推定する材料もない)というのは極めて異常なことなのだ。
 おわかりだろうか。
 年齢というのは、人物の伝記を書く場合、最も必要な、基本的なデータである。これは誰しも異論がないだろう。
 あの人の伝記を書きました。ただし年齢はわかりません、などと言ったら現代でも笑い者である。ところが「書紀」には、年齢を推定する手がかりになる記述すらないのだ。
 何度も言っているが、「書紀」は国家事業として多くの学者が編纂に参加している。
 歴史学界の先生方が、「書紀」は信頼できると主張するのも、多くはこの理由である。
 しかし、だからこそおかしいのだ。
 多くの学者が編集・校訂に参加したということは、ケアレスミスによる「書き落とし」は、極めて可能性が少ないはずだ。
 ましてや天武は、「書紀」の主役であり、記述全体の一割強も使って持ち上げているヒーローでもある。しかも、作らせたのは天武ファミリーなのだ。それなのに年齢がわからない。
 これから下される結論は唯一つしかない。
 それは「天武の年齢は故意に書き落とされている」ということだ。
 常識に沿って合理的に考える限り、これ以外に考えようはない。
 もし、私の推理がおかしいと言うなら、なぜ「国家事業」の「史書」なのに「主役の年齢」が確定できないのか、合理的に説明して頂きたい。
 なぜ、こんなことを言うかというと、こんな常識的な推論ですら、推論に過ぎないと否定するのが、現代の歴史学界の大勢だからだ。これは本当の話である。
 その理由というのが、『日本書紀』は「正史」であり、古い資料だから信頼できるというものだ。
 これも本当の話である。
 これが天武ファミリーの手になる「御用社史」だなどとは考えてもみないのである。


 この一節には、トンデモ説の典型的特徴がよく表れており、その意味でもひじょうに興味深いものの、その問題は後日改めて述べる、と書いたのですが、怠惰な性分なもので、8年半近く放置してしまいました。最近井沢氏が、宗教学者のために日本歴史学者と四半世紀にわたって戦ってきたとか(関連記事)、自分ほど東大や朝日などの権威主義に反発してきた人間はいないと言う自負があるとか(関連記事)Twitter上で述べたため、井沢氏への関心がネット上で以前より高まっているように思います。私も近年では井沢氏について言及することは少なく、井沢氏を主要な対象として取り上げた記事としては、最近の記事2本を除けば、井沢氏の歴史認識との相性の悪さについて述べたものがあるくらいですが(関連記事)、最近の井沢氏の一連の発言を読んで、井沢氏への関心がやや高まりました。この機会に、8年半近く前の課題を一応こなすとともに、井沢氏の言説の何が問題なのか、大雑把ではあるものの、述べていきます。

 上記引用文は、歴史学の研究者は「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎない『日本書紀』を、「古い資料だから信頼できる」と考え、常識的な合理的推論すら受け入れないような頭の固い無能な連中だ、と読者に印象づけるような内容となっています。「無能な」歴史学の研究者を、歴史学を専攻したことがないとはいえ、「常識的」で「合理的」な推論のできる作家たる自分(井沢氏)が痛快に批判する、という構図です。「権威」を叩くことが、今も昔も大衆受けすることに変わりはありません。しかし、ここで問われねばならないのは、日本の歴史学界という「権威」への批判が妥当なのか、ということです。「権威」を叩く類のトンデモ本は、ここに問題を抱えています。

 『日本書紀』は、「国家事業として多くの学者が編纂に参加し」た「正史」なので、「歴史学界の先生方」は『日本書紀』を信頼しており、『日本書紀』が「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎないとは考えない、と井沢氏は主張します。しかし、日本の歴史学者が『日本書紀』をそうした理由で「信頼」しているのだとしたら、神武天皇(天皇という称号は7世紀以降に使用されるようになったのでしょうが)の実在を疑うような見解が、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流もしくは優勢であるはずはないでしょう。

 神武のような昔の話ではなく、天智朝・天武朝・持統朝のことを問題にしているのだ、と井沢氏は反論するかもしれません。しかし、井沢氏が批判してやまない「左派」の研究者にしても、岩波新書の北山茂夫『壬申の内乱』(岩波書店、1989年)は、『日本書紀』「天武紀上」は勝者の立場から著しく偏向しており、天武自身が方針を直接的に支持した、と推測しています。私が所有しているのは同書の第16刷で、第1刷の刊行は1978年です。これは別に北山氏が特異なのではなく、当時の歴史学におけるありふれた主張だと思います。「国家事業として多くの学者が編纂に参加し」た「正史」なので、「歴史学界の先生方」は『日本書紀』を信頼しており、『日本書紀』が「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎないとは考えない、との井沢氏の主張は、誇張を通り越して捏造と言うべきで、明らかな誹謗中傷になっています。

 上記の引用文は、「権威」を的外れに批判して自己の優秀性・優越性・妥当性を主張するという、藁人形論法的なトンデモ言説の特徴をよく備えています。井沢氏は、「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」と日本の歴史学者が言ってきた、とも批判していますが、この発言が的外れで誹謗中傷にしかなっていない、と、最近当ブログで指摘しました(関連記事)。井沢氏が専門家の「頭の固さ」や「権威主義」を批判している時は、それが藁人形論法になっていないか、疑ってかかるべきなのでしょう。

 上記引用文で次に問題となるのは、井沢氏の主張する「常識」です。井沢氏は、歴史上の人物を評価するには、その時代の環境や特有の「常識」で判断しなければ不公平だ、と主張します(逆説10P258)。過去の事象や人物を現代の価値観や常識で判断するのは不公平だ、というわけです。井沢氏はこの論理で、織田信長による長島一向一揆の「根切」を当時にあっては仕方なかった、と擁護します(逆説10P256〜264)。では、上記引用文の「常識」はどうなのかというと、私はかなり問題のあるものだと考えています。

 まず、年齢が伝記の基本的なデータであることは、常識と言っても大過はないでしょう。しかし、その「常識」が『日本書紀』編纂時にも当てはまるのかというと、疑問が残ります。なぜならば、『日本書紀』において年齢の不明な天皇は珍しくないからです。『日本書紀』における歴代天皇の年齢に関しては、宣化以前で不明なのは、現在は天皇とされていない神功を除いて28人中8人で、欽明以降で不明なのは、重祚の斉明および即位したとの記述がない弘文を除いて11人中9人となります。古い時代の天皇の方で、かえって年齢明記の場合が多いのは変に思えますが、その理由については、この問題を調べた20年近く前も現在も上手く説明できません。ともかく、その理由が何であれ、『日本書紀』で天武の年齢が不明なのは、他の天皇の事例、とくに天武と世代が近く、直接の祖先・子孫関係のある天皇と比較すると、別に異常なことではなく、当時の常識に反していたとはとても言えないでしょう。

 むしろ、天武も含まれる欽明以降の『日本書紀』の記事で考えると、年齢が明らかな推古と天智こそ例外的と言えるのではないか、と私は考えています。しかも天智の場合、父の舒明の殯のさいに年齢が記されているだけで、皇太子時代(皇太子という制度が天智存命の頃に存在したのか、定かではないと思いますが)や自身の即位後の記事では年齢が明記されていません。その意味では、欽明以降の『日本書紀』の記事では、年齢が詳細に記されている推古のみが例外的存在だと言えそうです。なお、推古は『日本書紀』において、立后時・夫(異母兄でもあります)の敏達崩御時・即位時(前帝の崇峻崩御時)・崩御時の年齢が記されており、それぞれの年齢のなかには他の記事と矛盾を生じる場合がありますが、この問題についてはまったく考えがまとまっていないので、今回は掘り下げません。

 井沢氏は、「常識」に沿った「合理的思考」のできない研究者を批判し、自説の優秀性・優越性・妥当性を主張します。しかし上記引用文では、そもそも井沢説の前提となる「常識」自体が危ういのですから、井沢説を研究者の見解より妥当だと考えることはできません。まあそもそも、上述したように、井沢氏の主張する「研究者の見解」自体がひじょうに歪められているので、上記引用文は二重の意味で井沢氏の主張の前提に大問題がある、と言えるでしょう。井沢氏の江戸時代の農民に関する見解についても、研究者の見解を歪めているのではないか、江戸時代の石高制や流通について考慮が足りないのではないか、そもそも石高に関して誤解しているのではないか、との疑問(関連記事)が残ります。

 井沢氏の主張のこうした欠陥は、「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」と日本の歴史学者が言ってきた、との発言からも窺えるように、上記引用文だけではなく多数あるのではないか、との疑念が拭えません。それらをすべて検証することは困難ですし、私もやるつもりは全くありませんが、これまでも井沢説批判はネットでそれなりに存在したとはいえ、井沢氏がTwitter上で注目を集めたこの機会に、私よりも詳しい一般層が個々に井沢説の問題点をネットで指摘していくような大きな流れができればよいな、と思います。

 そもそも井沢氏は、歴史学の研究者に長年噛みついてきましたが、歴史学を専攻したことはありませんから、仮に歴史学の陥穽を指摘できるとしたら、出発点としての推理作家らしい推論能力・論理能力で多くの歴史学の研究者よりも優れている必要がある、と思います。しかし、井沢氏の論理的思考能力が多くの歴史学の研究者よりも優れているのかというと、私はかなり懐疑的です。たとえば、『逆説の日本史』の週刊誌連載が織田と浅井・朝倉の戦いを取り上げていた頃のネット上の反応に以下のようなものがあります。

138 :武田研究家:01/10/10 00:56
> …ちなみに領国を離れ遠征してきている朝倉軍にとっては、
>この決定は渡りに船だった。というのは、朝倉兵というのは兵農分離してい
>ない軍隊だから、農業労働力として必ず国へ戻さねばならないが、早くしな
>いと本国の越前(福井県)は雪に閉ざされてしまうからだ。ここでも信長軍
>との差が出た。

さてこの文章とこれより前に書かれている講和の話、実は論理的に破綻
しています。
ヒントは「雪」です。
つまり、雪が積もっている間は農業なんて出来やしないのです。
農業するために撤退するのであれば、雪が融けてから国に帰ればいいのです。
百歩譲って朝倉軍は後進的な農兵軍団で、織田軍だけが先進的専業兵士軍団で、
しかも朝倉軍の兵士たちは雪が積もっている中で何か農業するのだと仮定
しましょう。
それならば、信長に急いで講和する必要はありません。
朝倉軍はそのうち撤退するでしょう。二万とも言われる朝倉軍が抜ければ、
北方は万全です。
それから取って返して三好軍を撃破すれば、信長の一人勝ちです。
あるいは三好軍も農業するために本国の阿波に帰るかもしれません。
そうなると信長は何もしないで勝てることになります。
兵農分離が真実本当ならば、このような結論になります。
井沢氏は、どう考えたのでしょうか。


『逆説の日本史』を丹念に読んでいけば、同様の矛盾は多数見つかるのではないか、との疑念が拭えません。井沢説の間違いを専門家がしっかりと指摘していけばよい、との主張もあるようですが、専門家にとって、井沢説批判は時間の無駄で本業の妨げでしかなく、社会的損失になってしまうと思います。

 井沢氏の主張で気になるのは、前提となる基礎的情報の問題(上述した古代の天皇の年齢など)だけではなく、その価値観・世界観です。井沢氏は熱心にというか執拗に「左派」を批判しています。しかし、信長は世界史級の人物だと痛感した、と述べた後の、

新しい世界を築くためには、旧体制の徹底的な破壊が必要だからだ。破壊のあとには新しい世界が生まれ、その世界が古くなれば、また破壊を必要とする。

との主張(逆説10P481)は、かなり「左翼的」であるとともに、ひじょうに単純というか幼稚だと思います。もちろん、「徹底的な破壊」を伴うような大きな変化も歴史上あるでしょうが、そうではない大きな変化もまた珍しくないでしょう。たとえば、現代日本社会では顕著ですが、「先進諸国」の多くで見られる少子高齢化です。その前の大きな変化である近代化も、少なくともイギリス、もっと限定してブリテン島は、「徹底的な破壊」を伴うものではなかったと思います。まあ、清教徒革命をどう評価するのか、という問題はありますが、「徹底的な破壊」を伴わなければ「新しい世界」は到来しない、というような世界観は、単純であるだけではなく、危険でもあると思います。まあ、井沢氏は「反共」の「近代化至上主義者」と評価すべきかもしれませんが。

 「左翼」を批判する井沢氏の「左翼性」については、武士の起源に関しても当てはまるように思います。井沢氏の武士起源論は、悪い意味で古臭い「左翼的」なものだと思います。しかも、井沢氏は武士の起源をケガレの観念から説明しますが、あくまでも武士ではない人々、とくに貴族(後には貴族の武士も増えてくるわけですが)が武士を穢れた存在として見ている、ということを中心に説明し、天皇などの貴人をモノノケやケガレなどから守護する存在としての武士という視点が見られません。

 武士の起源などを扱う逆説4には1995〜1996年の週刊誌連載が収録されていますが、すでに1994年2月には、「辟邪としての武」という視点からの武士論が、一般向け雑誌の『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす8 武士とは何だろうか「源氏と平氏」再考』に掲載されています。井沢氏がその「左翼性・進歩性」を執拗に批判する朝日新聞社発行の雑誌に、通俗的な古臭い史観からの脱却を図り、宗教的側面を重視した論考が掲載されており、井沢氏にそれを参照した様子が見られないことは、皮肉というか、ある意味で痛快でもある、と思います。

 貴族と武士との対立的側面を強調する井沢説は、全体的に古臭いものだと思います。井沢氏が、侍所は鎌倉幕府の「独創(オリジナル)」と述べたことも(逆説5P209)、単なる「細かい間違い」ではなく、井沢氏の日本史像が根本的なところで歪んでいることの現れではないか、と私は考えています。井沢説井沢説の古臭さはこれに限りませんが、木ではなく森全体を描いているのだ、との自負があるようですが(関連記事)、基礎的な知識やそれに基づく前提に間違いが多ければ、描かれた「森全体」は著しく歪んだものとなるでしょう。

 武士の起源や織田信長に関する井沢氏の見解については、本来ならもっと詳しく取り上げるべきなのでしょうが、今はそれだけの気力がありませんし、今後取り上げる目途もまったく立っていません。まとまりのない文章になってしまいましたが、井沢氏に言及するのはここまでとして、今後当分は人類進化を中心に優先順位の高い問題を取り上げていくつもりです。上述したように、井沢氏がTwitter上で注目を集めたこの機会に、私よりも詳しい一般層が個々に井沢説の問題点をネットで指摘していくような大きな流れができればよいな、と思います。
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イベリア半島の人類集団の長期にわたる遺伝的歴史(追記有)

2019/03/17 13:12
 イベリア半島の人類集団の長期にわたる遺伝的歴史に関する2本の論文が報道されました。ユーラシア西部の古代DNA研究は盛んで、イベリア半島も例外ではありません。当ブログでも、イベリア半島の人類集団に関連する古代DNA研究を複数取り上げてきましたが、包括的なものとしては、新石器時代〜青銅器時代を対象とした研究があります(関連記事)。末期更新世〜青銅器時代までのイベリア半島の人類史を概観すると、アナトリア半島西部の農耕民がイベリア半島へと東進してきて新石器時代が始まり、在来の狩猟採集民集団と融合していきます。その後、銅器時代〜青銅器時代にかけて、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源の集団がヨーロッパに拡散し、イベリア半島も影響を受けました。こうした大雑把な認識を前提に、以下、2本の論文を取り上げます。


 一方の研究(Villalba-Mouco et al., 2019)は、13000〜6000年前頃のイベリア半島の人類集団の遺伝的構成とその変容を検証しており、オンライン版での先行公開となります。最終氷期の後、ヨーロッパ西部・中央部では狩猟採集民集団の置換があった、と推測されています。それまでは、文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連する集団系がイベリア半島も含めて広範に存在しており、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2(Goyet Q-2)個体に代表されます。その後、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表される系統が、マグダレニアン集団(ゴイエットQ2)系統をほぼ置換した、と推測されています。最終氷期極大期(LGM)には、ヨーロッパではイタリアとイベリア半島が待避所的な役割を担い、人類も他の動物とともに南下して寒冷期を生き延びたのではないか、と推測されています。

 本論文は、後期上部旧石器時代2人・中石器時代1人・早期新石器時代4人・中期新石器時代3人のゲノム規模データを新たに得て、既知のデータと比較しました。すると、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体には、ゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統との混合が確認されました。さらに、アナトリア半島西部からの農耕民がイベリア半島に拡散してきた後の中期新石器時代の住民にも、異なる狩猟採集民2系統の痕跡が確認されました。本論文は、イベリア半島がヨーロッパでは例外的に新石器時代までゴイエットQ2系統の残存した地域で、アナトリア半島西部起源の農耕民とイベリア半島在来の狩猟採集民集団との混合が改めて確認された、と指摘します。

 イベリア半島では、遅くとも19000年前頃までにはゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統が融合しており、本論文は両系統の早期の融合を指摘します。本論文はイベリア半島における両系統の融合に関して、ゴイエットQ2系統がイベリア半島に存在し続け、ヴィラブルナ系統がイベリア半島に拡散してきた可能性を想定しています。また本論文は、両系統ともイベリア半島外起源で、独立してイベリア半島に到達して両系統が交雑したか、すでにイベリア半島外で交雑していた可能性も指摘しています。この問題の解決には、もっと多くの更新世ヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)のゲノム解析が必要となるでしょう。


 もう一方の研究(Olalde et al., 2019)は、中石器時代から歴史時代まで、約8000年にわたるイベリア半島の住民のゲノム規模データを報告しています。内訳は中石器時代4人・新石器時代44人・銅器時代47人・青銅器時代53人・鉄器時代24人・歴史時代99人で、既知の古代人1107人および現代人2862人のゲノム規模データとともに分析・比較されました。本論文で分析対象となった個体のうち、中石器時代のイベリア半島で最古の個体は19000年前頃のエルミロン個体と類似していましたが、その後はヨーロッパ中央部の狩猟採集民との強い近縁性が見られるようになります。本論文はこれを、イベリア半島北西部には影響を及ぼしたものの、南東部には影響を及ぼさなかった遺伝子流動を反映している、と解釈しています。

 新石器時代〜銅器時代には、アナトリア半島新石器時代農耕民系統・エルミロン系統・ヨーロッパ中央部狩猟採集民系統の混合が見られます。ただ本論文は、早期新石器時代の標本数は限定的なので、アナトリア半島西部から拡散してきた農耕民と先住の狩猟採集民との相互作用の詳細な解明には、より広範な地域の多くの標本数が必要になる、と指摘しています。中期新石器時代と銅器時代には、6000年前頃以降、狩猟採集民系統の増加が改めて確認されました。農耕民と狩猟採集民との融合が進展したのでしょう。中期新石器時代〜銅器時代の狩猟採集民系統は、上部旧石器時代後期のエルミロン系統よりも、中石器時代のイベリア半島北部系統の方と類似しています。

 青銅器時代早期となる4400〜4000年前頃のイベリア半島中央部のカミノ・デ・ラス・イェセラス(Camino de las Yeseras)遺跡の男性は、後期更新世アフリカ北部系統と早期新石器時代ヨーロッパ系統の混合としてモデル化される、と本論文は指摘します。イベリア半島におけるアフリカ北部系の遺伝的影響はすでに中期新石器時代〜銅器時代にも確認されており(関連記事)、本論文の知見はじゅうらいの見解と整合的と言えるでしょう。ただ本論文は、アフリカ北部からイベリア半島への遺伝子流動は、銅器時代と青銅器時代には限定的で、アフリカ北部系の遺伝的影響がイベリア半島で増加したのは過去2000年のことだった、とも指摘しています。

 4400〜2900年前頃となる青銅器時代には、イベリア半島においてポントス-カスピ海草原地帯系統の遺伝的影響が増加します。4500〜4000年前頃の14人には草原地帯の遺伝的要素が確認されない一方で、4000年前頃以降には、草原地帯系統の遺伝的影響が増加し、ゲノムでは40%ほどになる、と推定されています。銅器時代のイベリア半島で一般的だったY染色体DNAハプログループI2・G2・Hは、ほぼ完全にR1b系統に置換されました。つまり、草原地帯系統集団はイベリア半島において、女性よりも男性の方が強い遺伝的影響を及ぼした、というわけです。これは、X染色体上の非イベリア半島在来系の低い遺伝的影響からも支持されます。青銅器時代のカスティレヨ・デル・ボネテ(Castillejo del Bonete)遺跡の墓でも、草原地帯系統の男性と銅器時代のイベリア半島集団系統の女性が発見されています。本論文は、古代DNA研究は交雑の性差を確認できるものの、その過程を理解するには、考古学および人類学的研究が必要だ、と指摘しています。

 鉄器時代には、ヨーロッパ北部および中央部集団と関連する系統の増加傾向が見られます。この傾向は、後期青銅器時代もしくは早期鉄器時代におけるイベリア半島への遺伝子流動を反映しており、おそらくは骨壺墓地(Urnfield)文化の導入と関連している、と本論文は推測しています。また本論文は、草原地帯系統がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたヨーロッパ中央部または北部とは異なり、イベリア半島では、草原地帯系統の遺伝的影響の増加がインド・ヨーロッパ語族への転換を常に伴ったわけではない、と示唆します。これは、現在ヨーロッパ西部で唯一の非インド・ヨーロッパ語族であるバスク人には、かなりの水準の草原地帯系統の影響が見られるからです。本論文は、バスク人は草原地帯系統の遺伝的影響を強く受けたものの、言語はインド・ヨーロッパ語族に置換されなかった、と指摘します。バスク人に関しては以前、新石器時代になってアナトリア半島西部からイベリア半島に進出してきた初期農耕民の子孫ではないか、との見解が提示されていました(関連記事)。本論文の見解はそれと矛盾するわけではありませんが、草原地帯系統の強い遺伝的影響が指摘されています。バスク人に関しては、旧石器時代や中石器時代からイベリア半島で継続してきた集団で、比較的孤立していたのではないか、と長い間考えられてきましたが、そうした見解は現時点では支持しにくいように思います。ただ、草原地帯系統の強い遺伝的影響を受けた後、バスク人系統は比較的孤立していたようです。

 歴史時代では、紀元前5世紀から紀元後6世紀の24人のデータにより、地中海中央部・東部やアフリカ北部からの遺伝的影響があった、と推測されています。これに関しては、ローマの拡大による強い影響が想定されますが、それよりも前のギリシアや、さらにその前のフェニキアの植民活動の影響も指摘されています。系と鉄器時代イベリア半島系に大きく二分され、多民族的な状況の町があった、と指摘されています。フェニキアの影響は、Y染色体DNAハプログループJ2の存在からも支持されます。こうした地中海中央部・東部の遺伝的影響はイベリア半島全域に及びましたが、バスク地方は例外だったようで、上述したようにバスク地方の孤立性が想定されます。また、ユダヤ系を反映しているだろうレヴァント関連系統も確認されました。ローマ帝国衰退期には、古典期とは対照的に、大きな長期的影響は小さかった、と推測されています。ただ、ユーラシア東部系のmtDNAハプログループC4a1aも見られ、東方からのローマ帝国への侵略を反映しているかもしれません。

 アフリカ北部からイベリア半島への遺伝子流動はイスラム期にも継続し、イスラム期前には見られない遺伝的痕跡と、アフリカ北部およびサハラ砂漠以南のアフリカ系統の増加が確認されます。イベリア半島南部の現代人はイベリア半島のイスラム期のムスリムの埋葬者よりもアフリカ北部系要素が少なく、ムスリムの追放とイベリア半島北部からの再移住の結果と推測されます。歴史学では長く通説だったというか、おそらくヨーロッパでは一般常識だろう、イベリア半島におけるイスラム教勢力の支配とその後のイスラム教勢力追放(レコンキスタ)が、古代ゲノム研究でも改めて確認されたのは、予想されたこととはいえ、興味深いものです。


参考文献:
Olalde I. et al.(2019): The genomic history of the Iberian Peninsula over the past 8000 years. Science, 363, 6432, 1230-1234.
https://doi.org/10.1126/science.aav4040

Villalba-Mouco V. et al.(2019): Survival of Late Pleistocene Hunter-Gatherer Ancestry in the Iberian Peninsula. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.02.006


追記(2019年3月19日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第11回「百年の孤独」

2019/03/17 13:07
 いよいよストックホルムでオリンピックが始まります。しかし日本選手団はその前に、開会式のプラカードの日本表記をどうするかでもめます。金栗四三は「日本」にすべきと主張しますが、それでは参加各国には分からないから「JAPAN」とすべきだ、と大森兵蔵は主張します。嘉納治五郎は妥協案として「NIPPON」を提示し、それが採用されます。開会式は本格的なロケで、映像の美しさと迫力を堪能できました。話の方はもちろんですが、4K放送ということで映像美にも満足しています。

 競技は100m競争から始まります。三島弥彦は西洋人との圧倒的な体格差・能力差に一時は意気消沈しており、恐怖を拭えたわけではありませんが、覚悟を決めて予選に臨みます。しかし現実は残酷で、まったく通用しませんでした。それでも、初めて11秒台を出したことで、大森は三島の健闘を称え、三島も満足な様子を見せます。三島は今後の日本陸上界を見据えて前向きな様子を見せます。たとえ大敗しても、自分が先駆けとなれば後続もあるだろう、ということでしょうか。

 今回は、1912年の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面もそれなりに描かれました。これが現時点では、本作の主題であるオリンピックとあまり上手く接続しているように見えないことも、本作の視聴率低迷の一因でしょうか。しかし、古今亭志ん生の弟子である五りんと、四三と深い関係にある播磨屋との縁も示唆されていますし、今後上手く接続していくのではないか、と期待しています。まあその頃には、視聴率はさらに低迷しているかもしれませんが。本作出演者の醜聞が大々的に報道され、本作への風当たりはさらに強くなった感もありますが、私は本作を楽しんで視聴していますし、この作風を強く支持します。
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リアンブア洞窟のネズミの身体サイズの変化とフロレシエンシスの消滅

2019/03/16 10:56
 インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡のネズミの身体サイズの変化に関する研究(Veatch et al., 2019)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。リアンブア洞窟では後期更新世の人骨群が発見されており、発見当初は、新種なのか、それとも病変の現生人類(Homo sapiens)なのか、という激論が展開されました。しかし現在では、この人骨群をホモ属の新種フロレシエンシス(Homo floresiensis)と区分する見解がおおむね受け入れられているように思われます。フロレシエンシスに関しては2016年に研究の大きな進展がありました(関連記事)。

 本論文は、ネズミの身体サイズの変化から、リアンブア洞窟一帯の環境変動を推定しており、2年前(2017年4月)の2017年度アメリカ自然人類学会総会での報告が元になっています(関連記事)。リアンブア洞窟における動物相の変化に関する研究もありますが(関連記事)、フロレシエンシスの遺骸も含めてリアンブア洞窟の脊椎動物遺骸の約80%はネズミに属します。本論文はネズミの身体サイズの詳細な分析により、過去19万年にわたる経時的変化から古環境を推定しています。

 フローレス島のネズミの各種は、その身体サイズにより5段階に区分されました。100g未満の「Rattus hainaldi」、100〜300gの「Paulamys naso」と「Komodomys rintjanus」、300〜600gの「Hooijeromys nusatenggara」、600〜1600gの「Spelaeomys florensis」と「Papagomys theodorverhoeveni」、1200〜2500gの「Papagomys armandvillei」です。一般的に中型のネズミが森の散在する開けた草原地帯を好むのに対して、小型や大型のネズミはより閉鎖的もしくは半閉鎖的な森林地帯を好みます。そのため、ネズミの身体サイズの相対的比率の経時的変化(以下に本論文の図を引用します)から、リアンブア洞窟一帯の古環境の変遷を推定できる、と期待されます。
画像

 リアンブア洞窟における大きな変化の一つは、3000年前頃に起きました。これは、現生人類集団による農耕と関連した人為的な景観変化と推測されています。もう一つの、より大きな変化は6万年前頃に起きました。中型ネズミの相対的比率が激減し、C4植生の突然の減少を示す他の記録などからも、62000年前頃以降、じゅうらいの開けた草原地帯からより閉鎖的な森林環境への移行が始まり、火山砕屑物による動物記録の空白期間(50000〜47000年前頃)を挟んで、森林環境へと移行した、と推測されます。これは、フロレシエンシスをはじめとして、小型のステゴドン(Stegodon florensis insularis)や巨大なコウノトリ(Leptoptilos robustus)やハゲワシ(Trigonoceps sp.)の考古学的記録がリアンブア洞窟から消滅していく過程と一致しています。

 しかし本論文は、リアンブア洞窟から大型動物の考古学的記録が消滅したからといって、それが絶滅を意味するとは限らない、と指摘します。これら大型動物が、フローレス島のより好ましい地域へと移動した可能性もあるからです。本論文は、これら大型動物の正確な絶滅年代に関しては、リアンブア洞窟またはフローレス島のまだ発掘されていない遺跡の新たな発見を待たねばならない、と指摘しています。注目されるのは、現生人類がフローレス島に46000年前頃までには到達していた可能性が指摘されていることで(関連記事)、フロレシエンシスが5万年前頃以降も存在していたとしたら、現生人類と接触した可能性は高いと思います。

 また本論文の筆頭著者であるヴィーチ(E. GraceVeatch)氏は、フロレシエンシスが小型動物を獲物としていたのか、という問題も提起しています。ホモ属の進化史において獲物としてずっと重要だったのは一定以上の大きさの動物で、小型動物に関しては、ホモ属の初期進化史において獲物として重要だった、という明確な証拠は得られていません。小型のフロレシエンシスがステゴドンのような大型動物とネズミのような小型動物の両方を狩っていたのか、検証するための理想的な機会をリアンブア洞窟は提供している、とヴィーチ氏は指摘します。現在、野外のネズミの捕獲がどの程度困難なのか、検証するための野外実験が行なわれているそうです。


参考文献:
Veatch EG. et al.(2019): Temporal shifts in the distribution of murine rodent body size classes at Liang Bua (Flores, Indonesia) reveal new insights into the paleoecology of Homo floresiensis and associated fauna. Journal of Human Evolution, 130, 45–60.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2019.02.002
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野村啓介『ナポレオン四代 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち』

2019/03/16 10:53
 中公新書の一冊として、中央公論社より2019年2月に刊行されました。本書はボナパルト家の「ナポレオン四代」の視点からの近代フランス・ヨーロッパ史になっています。「ナポレオン四代」とは、初代が1804年に即位した有名な皇帝、二代目がその嫡男たるライヒシュタット公(ローマ王)、三代目が初代の甥である皇帝、四代目が三代目の嫡男です。新書一冊で「ナポレオン四代」を扱うので、個々の解説はやや薄くなっていますが、ナポレオンの威光がフランス政治において長く重要な動因だったことが了解されます。

 フランスを中心にヨーロッパで長く続いたボナパルト家の威光の源泉は、もちろんナポレオン一世の業績にあります。本書は、「ナポレオン伝説」が根づいた要因として、ナポレオンの軍事・政治的業績だけではなく、「百日天下」も大きかった、と指摘しています。ナポレオン一世がフランスにとって異邦人であったことはよく知られているでしょうが、本書は、「ナポレオン四代」全員にそうした特徴が認められる、と指摘します。二世も三世も四世も一世や三世の没落によりフランスからの亡命を余儀なくされたからです。本書はまた、二世と三世と四世の共通点として、自身が「ナポレオン」の後継者たることを強く意識し、「異国」で研鑽に励み、功績を挙げようとしたことを挙げています。

 この四人のうち、一世の知名度が群を抜いているでしょうが、一世には遠く及ばないとしても、三世の知名度は二世と四世よりもずっと上で、ヨーロッパ近代史に多少なりとも関心のある人々には、一世とともに歴史上の重要人物として記憶されていると思います。本書は、悪辣で無能な独裁者という通俗的な三世像にたいして、パリの整備など功績が大きく、プロイセンとの戦争にしても三世は乗り気ではなく、世論に抗しきれずに開戦したのであり、プロイセン軍に対するフランス軍の不利を認識していた、と指摘します。

 三世の評価が一世よりも大きく劣るのは、王政派を否定する共和派が、一世をフランス革命とともに栄光の歴史として語ったのにたいして、三世を基本的には否定する立場にあり、普仏戦争での敗戦の責任を三世に押しつけたからだ、と本書は指摘します。また本書は、第二帝政崩壊後の帝政復帰の現実的な可能性を認めており、三世が病死せず健康であれば、少なくとも第三共和政は史実よりも不安定になっただろう、と推測しています。これはフランス近代史に疎い私にはなかなか興味深い見解でした。
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ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人と初期現生人類の食性と移動性

2019/03/15 18:24
 ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と初期現生人類(Homo sapiens)の食性と移動性に関する研究(Wißing et al., 2019)が報道されました。4万年前頃のヨーロッパにおけるネアンデルタール人から現生人類への「交替劇」は、高い関心を集め続けてきた問題です。ネアンデルタール人の絶滅要因に関してはさまざまな仮説が提示されており(関連記事)、ネアンデルタール人の行動が現生人類よりも柔軟ではなかったから、との見解は有力説の一つと言えるでしょう。たとえば、ネアンデルタール人の食性の範囲は現生人類よりも狭く、現生人類はネアンデルタール人とは異なり水産資源を積極的に消費していた、というわけです。しかし、ネアンデルタール人と現生人類との食性の類似性を指摘する見解(関連記事)もあれば、気候変動にたいして現生人類よりもネアンデルタール人の方が食性の変化が大きかった、と指摘する見解(関連記事)もあります。

 本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との食性を比較するこれまでの研究において、同じ遺跡の両者の遺骸が対象になっておらず、同位体データに基づく古環境の復元が欠けていることを指摘します。同じ生態系を対象としなければ、両者の食性の比較として適切ではない、というわけです。本論文は、ベルギーのゴイエット(Goyet)の「第三洞窟(Troisième caverne)」遺跡で発見されたネアンデルタール人と初期現生人類の遺骸の同位体を分析しています。上記報道によると、ゴイエットは後期ネアンデルタール人と初期現生人類の両方の遺骸が発見されているヨーロッパで唯一の遺跡です。本論文は、ベルギーのスピ(Spy)の洞窟遺跡のネアンデルタール人の同位体を分析するとともに、ベルギーのスクラディナ(Scladina)遺跡とドイツのオーリナシアン(Aurignacian)期のロメルスム(Lommersum)開地遺跡も対象として、これらの遺跡のヒトではない動物遺骸の同位体も分析しました。放射性炭素年代測定法によるホモ属遺骸の年代(非較正)は、スピ遺跡のネアンデルタール人が36300〜31800年前頃、ゴイエット遺跡では、ネアンデルタール人が41200〜36600年前頃、初期現生人類が30000年前頃と推定されています。

 同位体分析の結果、ゴイエットのネアンデルタール人と初期現生人類は類似しており、どちらも陸生草食動物を選好していた、と推測されています。初期現生人類の方がネアンデルタール人よりも食性の範囲が広いという証拠は得られなかった、というわけです。また、初期ネアンデルタール人が水産資源を食べていた証拠も得られませんでした。ゴイエット遺跡の同位体分析からは、当時のホモ属がマンモスを主要な狩猟対象にしていたことが示唆されます。さらに、マンモスでも若い個体と、おそらくはその母親がとくに狩猟対象とされていたのではないか、と推測されています。他地域の研究に基づくと、ネアンデルタール人であれ現生人類であれ、マンモスは50000〜30000年前頃のフランス南西部からクリミア半島にかけてのホモ属の主要なタンパク源だったようです。スピ遺跡のネアンデルタール人も例外ではないのですが、植物からも一定以上のタンパク質を得ていた、と推測されています。後期ネアンデルタール人の食性は以前の推定よりもかなり幅広いものだったようです。同位体が分析されたベルギーのネアンデルタール人の標本は多いのですが、その食性の範囲がベルギーのゴイエット遺跡の初期現生人類よりも狭い、という証拠は得られませんでした。ただ本論文は、食性の相対的な比率がネアンデルタール人と初期現生人類とで同じだとしても、人口は初期現生人類の方が多かった(最大で10倍)と推測されているので、ヨーロッパのマンモスに対する捕食圧は現生人類の拡散により高まったのではないか、と推測しています。

 移動性に関しては、硫黄同位体データから推測できます。スピ遺跡のネアンデルタール人は、成人も子供スピ遺跡一帯の地域で生活していた、と推測されています。しかし、ゴイエット遺跡のネアンデルタール人は他地域起源と推測されました。その場所がどこなのか、既知のデータでは該当する地域が見当たらず、本論文は突き止められませんでした。ゴイエット遺跡のネアンデルタール人遺骸には、肉を取ったり砕いたりした痕跡が見られ、食人の証拠と解釈されています。一方、スピ遺跡のネアンデルタール人には食人の証拠が見られません。そのため、ゴイエット遺跡のネアンデルタール人は、他のネアンデルタール人もしくは未知のより古い初期現生人類に解体された、と考えられます。本論文は、ゴイエットのネアンデルタール人がどこか他の場所で殺され、遺骸がゴイエット遺跡に持ち込まれた可能性を指摘しています。ゴイエット遺跡のネアンデルタール人と同年代の現生人類遺跡はヨーロッパ西部で発見されていますが、ベルギーでは同じ年代の現生人類(の所産と思われる)遺跡はまだ確認されていない、と本論文は指摘します。現時点では、ゴイエット遺跡のネアンデルタール人は、他集団のネアンデルタール人に殺された可能性が高いように思います。

 初期現生人類の移動性に関しては、Q116-1とQ376-3というゴイエット遺跡の2個体の同位体が分析されました。Q376-3はゴイエット遺跡一帯で生活していたのにたいして、Q116-1は他地域での生活を示唆する同位体分析結果が得られ、それはゴイエット遺跡のネアンデルタール人の範囲内に収まりました。本論文は、確定できないと慎重な姿勢を示しつつも、ゴイエット遺跡の初期現生人類の個体の移動性がネアンデルタール人よりも広範だった可能性を提示しています。その場合、土地や資源の利用だけではなく、アイデアや人々も交換するような、ネアンデルタール人よりも多様で広範な地域間の交流が初期現生人類にはあり、それがヨーロッパの後期ネアンデルタール人にたいする初期現生人類の優位性になったかもしれない、と本論文は指摘します。本論文の用いた方法はたいへん興味深く、同様の方法でヨーロッパ、さらには世界全体の更新世人類の食性や移動性の研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Wißing C et al.(2019): Stable isotopes reveal patterns of diet and mobility in the last Neandertals and first modern humans in Europe. Scientific Reports, 9, 4433.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-41033-3
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私ほど東大や朝日などの権威主義に反発してきた人間はいないと言う自負があります

2019/03/14 14:35
 井沢元彦氏が亀田俊和氏の

私は、あなたが呉座さんへの批判に梅原猛氏のお名前を出したことを完全な蛇足であると考えました。そして、それはあなたの権威主義が原因であると解釈しています。

との指摘を受けて(この経緯についてはまとめ記事があります)、以下のように発言しています。

私ほど東大や朝日などの権威主義に反発してきた人間はいないと言う自負があります。どなたか信頼できる恩師なり先輩なりに聞いてもらえばわかります。経歴を調べていただいても結構。梅原さんの件についてはご説明したつもりですが、あえて分かろうとしないあなたの姿勢には失望を覚えました。

 率直に言って、これでは亀田氏への反論にはまったくなっていません。ある権威を批判した経験が、別の権威に依存する権威主義者ではないことを証明するわけではないからです。これが井沢氏の本気の反論なのか、論点ずらしの技術なのか、私には分かりませんが。それにしても、井沢氏が呉座勇一氏だけではなく亀田氏にも絡んでいったことにより、歴史愛好者の間での井沢氏の評価が垣間見えてきたのは興味深いことです。たとえば、

そうですよね、自分への批判に対して死者を盾に使う人は権威主義者じゃなくて単なる卑劣主義者ですもんね。
別の言い方をすれば外道ともいいますが。


との発言や、

正直言うと『逆説の日本史』は興味もないし読んだこともなく読む予定もない。今回「『日本国紀』からの流れ弾が被弾(ぷw)」くらいにしか思ってなかったけど、これがまあまあ反響あるあたり、井沢元彦って日本史クラスタから相当嫌われてるんだな、ということはよくわかりました!わかったわかった…

との発言です。私のように歴史学を専攻したことのない歴史愛好者の間でも、井沢氏への不満・批判・嫌悪感はかなり蓄積されており、井沢氏が呉座氏や亀田氏に絡んでいったことにより、それが可視化されたのではないか、と思います。井沢氏が週刊誌や著書で愛読者相手に吹きまくっている分には、視界に入りにくいこともあってわざわざ取り上げる気にはならなくても、双方向のやり取りが基本設定に組み込まれていて利用者の多いTwitterのような場だと、これまでの苛立ちをつい気軽に呟いてしまう、ということなのかもしれません。

 なぜ井沢氏が歴史愛好者に嫌われているのかというと、まとめ記事のコメント欄にある、

井沢元彦氏の最大の欠点は「通説への異議申立を気取ってるが、氏の主張より、最新の『通説』の方が発想も柔軟で遥かに面白い」と云う点だと思う

との指摘が根本的要因としてあるのだと思います。もちろん、それだけでは井沢氏への不満・批判・嫌悪感が蓄積されないわけで、井沢氏の歴史学への傲慢で的外れな攻撃も要因なのでしょう。井沢氏は、自分を嫌っているのは「専門馬鹿」で「頭の固い」歴史学者(やかつて歴史学を専攻した人々)や、時代錯誤の「左翼思想」に囚われている一部の歴史愛好者のみだ、と考えているのかもしれません。そのため、一般向けの歴史書で多くの読者を得た呉座氏と亀田氏に絡んでいけば新規の読者を獲得できる、と井沢氏は目論んだのかもしれません。まあ、これは私の邪推でもあるので、証明できるわけではありませんが。しかし、上述した理由で歴史愛好者の間で広範に井沢氏への不満・批判・嫌悪感が蓄積されていたことから、呉座氏と亀田氏に絡んでいった井沢氏の行動は、少なからぬ歴史愛好者に井沢氏の見解がどのようなものなのか結果的に周知させてしまうという意味で、逆効果になってしまう可能性が高いように思います。

 かつて、確か『朝まで生テレビ』だったと記憶していますが、井沢氏は小田実氏に絡んでいき、今はネットであなたの昔の間違った言説を簡単に知ることができるのだ、というようなことを得意気に言い放っていました。小田氏の言説の問題点を批判することは重要でしょうし、それは対象が朝日新聞などでも同様です。井沢氏は「進歩的」な言説の「欺瞞」を批判してきたことに強い自負を抱いているようですが、仮に「進歩派」にたいする井沢氏の批判が一定以上妥当だとしても、それが歴史学にたいする井沢氏の「批判」の妥当性を証明するわけではありません。と言いますか、井沢氏の歴史学への批判の少なくとも一部は藁人形論法そのもので、誹謗中傷でしかない、と私は考えていますが、昨日(2019年3月13日)述べたので(関連記事)ここでは繰り返しません。

 井沢氏は作家としては公式のインターネットサイトの開設時期が早かったと記憶していますし、小田実氏のような言説がネットで広く周知されるのはよいことだと思います。その意味で、テレビでの小田氏への井沢氏の啖呵は、ある意味で痛快なものとも言えるでしょう。しかし、そのインターネットで井沢氏の評価が下がっていくのは皮肉なもので、自業自得でしかありませんから、私はまったく同情できません。井沢氏のような売れっ子作家への批判は、かつてはマスメディア内部にいなければなかなか難しかったでしょうが、今ではインターネットの普及により一般人でも気軽にできます。その意味で、井沢氏が呉座氏と亀田氏に絡んでいったことを契機に、井沢氏への一般層の不満・批判・嫌悪感が以前よりも可視化されていっているように見えることは、たいへん痛快でもあります。
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「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」という日本歴史学者

2019/03/13 16:34
 井沢元彦氏が以下のように発言しています。

私はあなた方宗教学者のために「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」という日本歴史学者に対して「それは違いますよ」と四半世紀にわたって戦ってきました。私の愛読者のみならず宗教学会の先輩なら誰でも知っている事実です。それにあなたの批判には事実誤認があります。

 率直に言って、これは藁人形論法としか言いようがありません。仮に「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」というような趣旨の発言をした日本の歴史学者がいたとしても、きわめて例外的で、とても日本の歴史学において主流もしくは常識だったとは思えません。第二次世界大戦後の日本通史の代表格である中公版『日本の歴史』で、第5巻の土田直鎮『王朝の貴族』は1章を立てて怨霊について解説しています。同書は、当時の人々が怨霊を恐れて信じ、それが上流社会における陰惨な流血事件を減らしたのかもしれない、と指摘しています。同書の刊行は井沢氏の言論活動が始まるずっと前の1965年で、私が所有しているのは1990年刊行の文庫版第22版です。

 土田氏は「バリバリの左翼」ではない、との「反論」もあるかもしれないので、「バリバリの左翼」の歴史学者の著書を挙げると、同じく中公版『日本の歴史』で、第4巻の北山茂夫『平安京』は、桓武天皇が怨霊への恐怖に囚われており、それが平安京遷都へと天皇を動かした、と論じています。同書の刊行は1965年で、私が所有しているのは1986年刊行の文庫版第17版です。『石母田正著作集』第12巻には『日本史概説』が所収されていますが、平城天皇が怨霊に悩まされていた、と指摘しています(P103)。また同書は、平安時代末期には末法思想が広範な階層で受け入れられたことを論じています(P202〜204)。『石母田正著作集』第12巻の刊行は1990年(私が所有しているのは2001年発行の第2刷)、同書に所収されている『日本史概説』は1980年の改版で、初版は1955年刊行です。

 日本の歴史学者、とくに「左翼寄り」の人々の歴史における宗教の意義への認識は甘いとか、社会背景の解説に偏っている、というような批判なら、あるいは成り立つかもしれません。まあ、そうと言えるのか、私はやや懐疑的ですし、井沢氏がこの件で的確に批判できる可能性は低いとも思いますが。しかし、「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」という趣旨の発言をした日本の歴史学者がいたとは思えませんし、仮にいたとしても、主流だったとはとても言えないでしょう。

 人間は生きていくうえで、虚勢を張らねばならない時もあるとは思います。しかし、正当防衛や緊急避難の範疇を超えてしまうような虚勢は、批判・嘲笑されても仕方ないでしょう。井沢氏が、「専門馬鹿」の歴史学者を「常識的な観点」から「鋭く」批判し続けてきた歴史作家、というような立ち位置(自己認識)にあるのだとしたら、歴史学者からの批判は作家生命に関わるので「正当防衛」の範囲として反撃せざるを得ない、ということなのかもしれませんが、あまりにも的外れなので、批判や「正当な」反撃ではなく、誹謗中傷にしかなっていません。このような誹謗中傷が日本の歴史学者によりおおむね見過ごされてきたのは、単に井沢氏の発言の多くが日本の歴史学者にとって、わざわざ相手にする価値のないものだったからにすぎないのでしょう。井沢氏にはそれが、「常識的な観点」からの「鋭い」批判にたいして「黙殺」せざるを得ず、「こっそり」自説を取り入れる「卑劣な」行為に見えているのかもしれませんが。

 まあ、私は井沢氏の歴史認識とはひじょうに相性が悪いので(関連記事)、井沢氏にたいしてかなり厳しい見方になってしまったかもしれません。井沢氏には、歴史学の研究者に無謀な喧嘩を売るより、なかなか私好みの設定だった小説『銀魔伝』の続きを執筆してもらいたいものです。もっとも、井沢氏の一連の発言をまとめ記事のコメント欄では、著書の宣伝ではないか、との憶測もあります。そうだとすると、私も井沢氏に上手く踊らされてしまった一人なのでしょう。
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ニューロンへの睡眠の影響

2019/03/12 03:22
 ニューロンへの睡眠の影響に関する研究(Zada et al., 2019)が公表されました。睡眠をとれない状態が長く続くと、命を落とすことがあり、睡眠障害はさまざまな脳機能の低下と関連しています。しかし、睡眠がひじょうに重要なことは知られているものの、細胞レベルでの睡眠の影響は明確になっていません。その理由として、睡眠に依存する細胞過程は顕微鏡下で調べることができなかったため、睡眠はこれまで行動基準によって定義づけられてきたことが挙げられます。

 この研究は、生きているゼブラフィッシュの個々のニューロンにおける染色体動態(染色体の運動)を微速度撮影するという、新しい方法について報告しています。この研究は、睡眠はとくにニューロンにおいて染色体動態を倍増させるものの、ニューロンの活動は逆に染色体動態を減少させると実証し、睡眠による染色体動態の増加がDNA二本鎖切断の修復に必須である、と明らかにしました。

 この知見は、睡眠が重要な役割を果たし、ニューロンの核が維持されているという因果関係の証拠を示す一方で、DNA損傷の蓄積が覚醒と細胞活動のコストであることを例証しています。染色体動態がニューロンの眠りを示す進化上保存されてきたマーカーになり得ると判断するには、さらに他の脊椎動物と無脊椎動物を対象とした研究が必要と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】ニューロンに対する睡眠の影響に関する新しい知見

 生きているゼブラフィッシュの個々のニューロンに対する睡眠の影響について報告する論文が、今週掲載される。今回の研究では、睡眠によって染色体の運動(染色体動態)が増え、これによって染色体の構造が変化して、DNA損傷が減少することが明らかになった。また、染色体動態が、個々のニューロンが眠っているかどうかを示すマーカーとなり得ることが示唆されている。

 睡眠をとれない状態が長く続くと、命を落とすことがあり、睡眠障害は、さまざまな脳機能の低下と関連している。睡眠が非常に重要なことは知られているが、細胞レベルでの睡眠の影響は明確になっていない。その理由として、睡眠に依存する細胞過程は顕微鏡下で調べることができなかったため、睡眠はこれまで行動基準によって定義付けられてきたことが挙げられる。

 今回Lior Appelbaumたちは、生きているゼブラフィッシュの個々のニューロンにおける染色体動態を微速度撮影するという新しい方法について報告している。Appelbaumたちはこの方法を用いて、睡眠は特にニューロンにおいて染色体動態を倍増させるが、ニューロンの活動は逆に染色体動態を減少させることを実証し、睡眠による染色体動態の増加がDNA二本鎖切断の修復に必須であることを明らかにした。

 今回の研究は、睡眠が重要な役割を果たしてニューロンの核が維持されているという因果関係を示す証拠をもたらす一方で、DNA損傷の蓄積が覚醒と細胞活動のコストであることを例証している。染色体動態がニューロンの眠りを示す進化上保存されてきたマーカーになり得ると判断するには、さらに他の脊椎動物と無脊椎動物を対象とした研究が必要だ。



参考文献:
Zada D. et al.(2019): Sleep increases chromosome dynamics to enable reduction of accumulating DNA damage in single neurons. Nature Communications, 10, 895.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-08806-w
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アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した

2019/03/11 18:13
 表題の呟きがTwitter上で流れてきました。全文引用すると、

DNA解析により、アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来したのが判明!
北海道の縄文人には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNAのハプログループYがない。
よって、アイヌ民族は北海道先住民族ではない と北海道庁ご認定していた:そよ風


となります。その根拠として、「アイヌ民族は北海道先住民族ではない」と題するブログ記事が挙げられています。では、その根拠が何なのかというと、遺伝学的には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループY(Y1)が北海道の「縄文人」にはない、ということです。上記ブログは、「北海道の縄文人とアイヌは全く関係ないと言える」と断定しています。以下、基本的には近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)に依拠して述べていきます(関連記事)。

 確かに、現代アイヌ人のmtDNAハプログループに占めるY1の比率は19.6%で、比較的高いと言えそうです。また、北海道の縄文人ではY1は確認されていません。上記ブログは、江戸時代以降の日本人にもmtDNAハプログループY1が見られるので、江戸時代以前に倭人が北海道に多数いた、と推測しています。しかし、Y1が現代の「本土日本人」に占める割合は0.5%程度で、Y1はオホーツク集団由来と推測されています(オホーツク集団では43.2%)。

 また、現代アイヌ人にも近世アイヌ人にもN9bやG1bといった北海道縄文人のmtDNAハプログループは継承されており、現代アイヌ人では25%以上、近世アイヌ人では30%弱となります(M7a2も含めると30.9%)。もちろん、これは基本的には母系遺伝となるmtDNAのハプログループなので、核DNA解析ではまた違った割合になるでしょうが、少なくとも母系において、現代および近世アイヌ人は遺伝的に北海道縄文人と一定以上のつながりがある、と言えるでしょう。

 そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではない、という観点が上記ブログには欠けています。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。アイヌ人を遺伝的に云々といった見解の多くでは、論理の倒錯が見られるように思います。

 前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能です。

 そうした前近代の「民族的集団」の中には、民族は遺伝的に定義できる、といった単純素朴な観念が通用しない事例も報告されています。たとえばスキタイ人は遺伝的に、東方系がヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と、西方系が中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です(関連記事)。青銅器時代のコーカサス地域のマイコープ(Maykop)文化集団は、山麓地域と草原地域とで遺伝的構成が明確に異なっており、遺伝的に異なる在来集団による共通の文化の形成・受容が想定されます(関連記事)。

 もちろん、スキタイ人のようなユーラシア内陸部の遊牧民集団と、遊牧民が存在しなかったと言っても大過はないだろう日本列島の人類集団とを単純に比較できませんが、民族を遺伝的に定義することは基本的に間違っていると思います。民族はあくまでも文化的に定義された集団であり、任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、必然的に遺伝的構成が異なる、というだけのことです。これを倒錯させて、遺伝的構成の違いから民族集団を定義することはできません。

 本題に戻すと、上記ブログでは、アイヌ民族が12世紀頃に樺太から北海道に南下してきてオホーツク集団を滅ぼした、と主張されています。その根拠となる、アイヌ民族は北海道縄文人と(遺伝的に)まったく関係ない、との見解が間違いであることは上述したので、それ話は終わりです。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していた可能性も指摘されていますので、これを過大評価というか歪めて解釈して、アイヌ人が12世紀頃に北海道に侵略してきた、との与太話が今後拡散されるかもしれません。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後のシベリア先住民集団の北海道集団への遺伝的影響は、母系ではせいぜい6.4%程度で、大きな影響があった可能性はきわめて低そうです。

 なお、上記ブログでは、平取町からは正倉院御物と同じ組成の奈良時代の青銅器が発見されており、奈良時代にすでに天皇の力が北海道にも及んでいた、と主張されています。平取町の青銅器の話についてはよく知りませんが、仮にそうだとして、アイヌが北海道の先住民族だという前提は物的証拠によって完全に覆されている、との評価は的外れでしょう。確かに、正倉院御物と同じ組成の青銅器が北海道にあることを、天皇の「力が及んでいた」と解釈することは、定義次第ではあるものの、できなくもありませんが(かなり無理筋ではありますが)、それを言うなら、弥生時代や古墳時代の「日本」には、もっと強く「中国」の「力が及んでいた」と解釈すべきでしょう。平安時代の日本の知識層の領域観念(関連記事)からも、奈良時代の日本人には、北海道を「日本」に含めるような概念はなかっただろう、と思います。

 それにしても、与太話にすぎない上記の呟きがリツイート1300以上・いいね1600以上とは残念です。もちろん、リツイートやいいねが賛同を意味するとは限りませんが、多くの場合は賛同だと思います。これを呟いた城之内みな氏のフォロワーは約26000アカウントで、フォローは1674アカウントですから、相互フォローでフォロワーを増やしていったのではなく、呟きの内容でフォロワーを獲得したのでしょう。その意味で、かなり影響力の強いアカウントなのでしょうが、こんな与太話にすぎない呟きにも多数のリツイートやいいねが集まるとは、残念というだけではなく、脅威と考えねばならないようです。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338
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チャビスタ劣化コピー、ベネズエラ人に自説を批判されるとレイシズム丸出し

2019/03/11 18:10
 Twitterは私にとって備忘録には向かないので、ブログで簡潔に取り上げます。表題の記事をTwitterで知りました。まとめ主の第一の目的はmko氏(に象徴される「左翼」)を愚弄することなのでしょうが、もちろん、これは「娯楽」として消費するだけではすまない、普遍的な問題になると思います(「娯楽」として消費されることを否定するわけではありませんが)。mko氏の呟きはTwitter上で流れてくることもあったので、mko氏のこうした反応にはまったく驚きませんでした。この記事のコメント欄には、だから「左翼」は、といった感じでmko氏の一連の発言を「左翼」批判の根拠とする人も散見されますが、そのような雑な括りを提示することには、やはり慎重でありたいものです。凡人の私もつい雑な分類を提示してしまうこともあるので、自戒せねばなりません。最近のベネズエラ情勢への反応をめぐる「左翼」の多様性については、以下に引用するコメント欄の見解が参考になると思います。

日本の左翼は、日本共産党がマドゥロ政権に見切りを付けたのが大きく、ベネズエラへの態度は割れています。しかしマドゥロ派(チャベス氏のいうボリバル革命派というべきか)が『週刊金曜日』『世界』『東京新聞』などに影響力を持っているので、むしろ非共産左翼が影響を受けている模様。何といっても、米帝は宿敵なので。

グアイド氏のVoluntad Popular(大衆意志党)、社会主義インターナショナル所属(2014年加盟)なので、少なくとも極右や右翼ではありません。社会主義インターは、西欧社民主義政党が中心になっていて、反共色も強い。とはいえ、日本の社会民主党が加盟している程度には幅がある団体です。

もちろん、私もベネズエラには素人ですが、グアイド氏を極右と呼ぶ根拠は、たとえば伊高浩昭氏の記事でしょうと推測は出来ます。伊高氏が『週刊金曜日』(2/15号)で、注釈なしに極右と呼んでますから。未確認ですが、今月発売の『世界』でも恐らくそう。ついでに、伊高氏に取材した『東京新聞』(2/24号)は安藤恭子氏の署名記事ですが、これも注釈なしに大衆意志党を極右と呼んでました。

もっとも、社会主義インターには、チリのピノチェトクーデターを支持した日本の民社党(当時)もおりましたが。しかし、単に米帝を当てにしていると云うだけでは、民社党程度のウヨかどうかを判断する材料にもならないでしょう。

安倍内閣は、ベネズエラに対してはむしろ米帝追従を抑えてます。2月5日にグアイド氏への支持を表明しましたが、今のところマドゥロ政権の任命した大使を追放には踏み切っていません。

グアイド氏を支持し、「なるべく早期に正統な大統領選挙を行っていただくよう期待をする」(つまりマドゥロ氏は「正統では無い」と言外に云っている)が、国家元首としては「承認」はしていないのがミソです。この点に関して云えば、日本共産党の態度と大差ありません。


 私も、「敵」と考えたり気に入らなかったりする属性・分類を安易に悪魔化することのないよう、気をつけねばなりません。なお、当ブログにおける最近のベネズエラ情勢に関する記事は以下の通りです。


独裁者マドゥロを擁護する「21世紀の社会主義」の無責任
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_43.html

ベネズエラの現状に関する言説補足
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_48.html

ベネズエラ情勢におけるグアイド氏の役割と評価
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_2.html
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』36話・38話〜40話

2019/03/11 03:48
36話「危険な約束」9
 刑事が偶然、犯人と密室空間に閉じ込められるのは本作の定番ですが、今回は一般人も巻き込まれるパターンです。今回は、マカロニが偶然閉じ込められる過程もさることながら、巻き込まれた一般人の人間模様も上手く描かれていました。このような極限状況で人間の本性を描くのは物語の定番ですが、今回はかなり工夫されており、楽しめました。マカロニが若い犯人の男性との約束を守るところは、青春ものといった側面もあると思います。刑事らしくない、というマカロニのキャラが活かされた話になっており、この頃になると、脚本家もレギュラーのキャラを把握してきて、作風が安定してきたように思います。


38話「オシンコ刑事誕生」7
 少年係所属だったシンコが一係に配属となります。とはいっても、作中では一係で仕事をしている場面が多く、少年係所属であることをつい忘れてしまいそうですが。シンコは結婚式に出席し、その帰りに将来を意識するなか、署長と遭遇し、署長から一係への配属を打診されます。シンコの父親の宗吉は大反対し、ボスも反対しますが、署長の意志は固く、シンコは山さんをはじめとして一係の刑事に鍛えられていくことになります。しかし、失態続きで、すっかり自信を失います。それでもジーパン殉職まで刑事を続けられたのは、一係と父親の支えがあったからでしょう。宗吉とボスや山さんとの縁があってシンコは元々一係と親しかったので、一係の刑事たちもシンコに親身になった、ということでしょうか。谷山美沙もこれくらい周囲に支えてもらっていたら、刑事を続けられたのではないか、と妄想してしまいます。今回はシンコの成長が主題でしたが、心中未遂から始まった事件の方もなかなか楽しめました。


39話「帰って来た裏切者」8
 白木という男の出所が近づき、かつて白木を取り調べたボスが面会に行きます。ボスは白木に九州行きを進めます。白木には母親と恋人がおり、白木は出所したら恋人と暮らすつもりでした。白木は暴力団の幹部で、身代わりに出頭してきたのですが、ボスの厳しい取り調べに自供してしまい、そのために暴力団は大打撃を受けました。白木の出所直前に、白木の恋人は殺されます。復讐を思いとどまるよう、ボスは白木を説得しますが、白木は恋人の殺害犯を単独で追い続けます。しかし、今度は白木の母親も狙われます。白木を狙い続けた黒幕が女性だったという意外なオチもあり、なかなか楽しめました。白木を演じたのは宍戸錠氏で、ボス主演作ですから、制作側は日活映画を強く意識していたのかな、と思います。白木の母親を演じたのは、昨年(2018年)8月10日に亡くなった菅井きん氏で、後にジーパンの母親を演じ、ジーパン殉職後も何度か登場しました。他にテスト出演以外のゲストで後に別人役で(セミ)レギュラーになったのは、スコッチ・久美ちゃん・トシさんです。まあ、登場回数は少ないものの、殿下の最初の婚約者とボギーの姉の演者が同じだったように、レギュラーの家族・婚約者が以前に別人で出演していたことはありますが。

40話「淋しがり屋の子猫ちゃん」7
 今回は、兄の犯罪を庇う妹と長さんとのやり取りを中心に話が展開します。兄妹の両親はすでに死亡しており、兄妹の絆は強く、そのため妹は兄を必死に庇いますが、偶然知り合った長さんの思いやりに触れていくなかで、どう行動すべきか悩みます。妹のキャラが立っており、喜劇調だったのでまずまず楽しめました。苦い結末ではありましたが、救いも描かれており、娯楽作品として王道的になっていると思います。派手なところはありませんが、こういう話も悪くはありません。初視聴時よりも楽しめたのは、私も作中の長さんと同じかそれ以上の年齢になったからでしょうか。
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アジア南東部におけるデニソワ人など後期ホモ属の複雑な交雑史

2019/03/10 09:53
 アジア南東部における後期ホモ属の複雑な交雑史に関する研究(Teixeira, and Cooper., 2019)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。後期ホモ属の進化史に関しては、昨年(2018年)一度まとめました(関連記事)。その後も重要な研究が相次いで公表されているので、そのうち改訂版を執筆しようと考えているのですが、怠惰な性分なので目途は立っていません。本論文は、おもにアジア南東部からオセアニアを対象として、後期ホモ属の複雑な交雑史を検証しています。

 現生人類(Homo sapiens)はアフリカから世界中へと拡散する過程で、複数の絶滅人類系統と遭遇し、交雑しました。現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は、おそらくユーラシア西部のどこかで54000〜49000年前頃に交雑し(関連記事)、ユーラシア西部よりも東部の方でネアンデルタール人の遺伝的影響がわずかに高いなど(関連記事)、多少の地域差もあるとはいえ、非アフリカ系現代人には約2%のネアンデルタール人のDNAが継承されています。現生人類はこの交雑の後も、各地に分岐していく過程で、複数回ネアンデルタール人と交雑したのではないか、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人と近縁なホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)でのみ確認されており、遺伝学的情報は豊富に得られているものの、形態学的情報はほとんどないので、デニソワ人の候補とされている人類遺骸は中国などで発見されていますが(関連記事)、他地域のホモ属遺骸との照合が困難です(関連記事)。上述したように、ネアンデルタール人の遺伝的影響が非アフリカ系現代人の各地域集団でさほど変わらないのにたいして、デニソワ人の非アフリカ系現代人への遺伝的影響は地域差が大きくなっています。デニソワ人の遺伝的影響はウォレス線より東方、つまりオーストラリア先住民やパプア人において顕著に高く、アジア東部・南東部・南部でもわずかに見られるものの、ユーラシア西部ではほとんど確認されていません。

 そのため本論文は、デニソワ人と現生人類との交雑の様相が、ネアンデルタール人と現生人類との交雑よりも複雑だった可能性を指摘しています。じっさい、デニソワ人と現生人類との複数回の交雑(関連記事)や、ネアンデルタール人とデニソワ人との混合系統もしくはデニソワ人と近縁な未知のホモ属系統と、アジア南部およびアンダマン諸島・アジア東部・パプアおよびオーストラリア(先住民系)現代人の共通祖先集団(EEOCA)との交雑(関連記事)の可能性が指摘されています。本論文は、EEOCAと交雑した未知のホモ属をEH1(extinct hominid 1)と分類し、ネアンデルタール人およびデニソワ人と等距離の遺伝的関係にある集団と想定しています。

 本論文は、まずネアンデルタール人と非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団との交雑の後、EEOCAとEH1の交雑がおそらくはインド北東部で起きた、と推測しています。EEOCAが各地域集団系統に分岐した後、アジア南部・東部では後続の現生人類集団(おもに完新世の農耕民集団が想定されています)の遺伝的影響を受けたため、EH1の遺伝的要素が「希釈化」されたものの、オーストラリアとニューギニアの現生人類集団は5万年前頃以降長期の孤立を経験したため、EH1の遺伝的要素が比較的よく「保護」された、と本論文は推測しています。更新世の寒冷期には、オーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました。

 次に、アルタイ地域のデニソワ人と密接に関連した系統が、パプアおよびオーストラリア(先住民系)の現代人、さらにはフィリピンやフローレス島といったアジア南東部島嶼部の初期現生人類集団の共通祖先集団(ASEOCA)と交雑した、と本論文は推測しています。ここでは、デニソワ人をめぐる興味深い見解を提示した研究(関連記事)に倣って、アルタイ地域のデニソワ人とより近縁な系統を「北方デニソワ人集団」、より疎遠な系統を「南方デニソワ人集団」と仮に呼んでおきます。南方デニソワ人集団とASEOCAとの交雑の場所は、サフルランドへの現生人類最初の拡散がボルネオ島経由だったと推測されていることから、本論文ではボルネオ島が想定されています。しかし本論文は、スラウェシ島では遅くとも12万年前頃の人類の存在が確認されていることから(関連記事)、ボルネオ島の東に位置するスラウェシ島で南方デニソワ人集団とASEOCAとの交雑が起きた可能性も提示しています。本論文は、スラウェシ島よりも東方では非現生人類のホモ属が確認されていないことから、現生人類と古代型ホモ属との交雑の候補地としてはスラウェシ島が最東端になるだろう、と指摘しています。

 南方デニソワ人集団は、パプアおよびオーストラリア(先住民系)の現代人のゲノム領域に1.6%ほどの影響を残している、と推定されています。アジア南東部大陸部の現代人集団ではデニソワ人の遺伝的影響が低いので、上述した完新世の農耕民集団との交雑による「希釈化」が想定されますが、アンダマン諸島人やマレーシアのジェハイ(Jehai)集団のような長期の孤立集団でもデニソワ人系統の遺伝的影響が低いので、現生人類を含む非デニソワ人との初期段階の交雑の可能性を本論文は指摘しています。

 アジア東部におけるデニソワ人(「北方」系の可能性も「南方系」の可能性もありそうですが)と現生人類との独自の交雑の可能性も指摘されていますが(関連記事)、EH1とEEOCAとの交雑により、アジア東部におけるデニソワ人要素と、ユーラシア西部よりも東部の現代人集団の方でネアンデルタール人の遺伝的影響がわずかに高いことを潜在的には説明できる、との見解を本論文は提示しています。この問題はさておき、EH1との最初の交雑は、EEOCAが各地域集団系統に分岐する前のことなので、アジア南部、おそらくはインド北東部で起きたのではないか、と本論文は推測しています。

 ウォレス線以東のパプアおよびオーストラリア(先住民系)の現代人に見られる南方デニソワ人の強い遺伝的影響は、両者の祖先集団系統の現代における頻度と相関しています。しかし、フィリピンの狩猟採集民集団において比較的高い南方デニソワ人の遺伝的影響が検出されており、パプアおよびオーストラリアの現代人の祖先集団から分離した後に、フィリピンの狩猟採集民集団の祖先集団と南方デニソワ人との追加の交雑が起きた可能性は高い、と本論文は推測しています。本論文は、フィリピンで南方デニソワ人と現生人類との交雑が起き、アジア南東部において南方デニソワ人が複数集団存在した可能性も指摘しています。フィリピンでは67000年前頃のホモ属遺骸が発見されており、現生人類なのか古代型ホモ属なのか確定しておらず、また70万年前頃の人類の存在が指摘されています(関連記事)。

 ウォレス線以東も含むアジア南東部における複数のホモ属集団の存在は、フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見されたフロレシエンシス(Homo floresiensis)の存在からも支持されます(関連記事)。リアンブア洞窟周辺の小柄な現代人集団ランパササ(Rampasasa)には、フロレシエンシスもしくはエレクトス(Homo erectus)のような古代型ホモ属の遺伝的痕跡は確認されなかったものの、「未知の」人類の遺伝的痕跡が検出された(関連記事)、と本論文は指摘します。この遺伝的痕跡はフローレス島でのみ検出されており、アジア南東部島嶼部やメラネシアでは検出されませんでした。これは、広範に拡大したEH1やASEOCAと交雑した南方デニソワ人の遺伝的影響ではない、と本論文は指摘します。本論文はこれを、さらなる絶滅人類系統EH2と現生人類とのフローレス島における交雑の結果と解釈しています。本論文は、フロレシエンシスがEH2である可能性を提示しつつも、EH2がどの系統なのか決定するにはさらなる研究が必要と指摘しています。

 本論文は、アジア南東部における後期ホモ属の進化と交雑の歴史が複雑であることから、多くの未解決の問題を解決するには、さらなる研究が必要と指摘します。ただ本論文は、未解明の問題も多いとはいえ、現生人類がアフリカからアジア南東部へと拡散してきたさいに、アジア南部とアジア南東部島嶼部で少なくとも2回、他の人類集団と交雑した可能性は高い、との見解を提示しています。私の見識・能力では本論文の見解を的確に伝えられないので、以下に本論文の図A・Bおよび図Cを掲載します。
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 本論文の見解はたいへん興味深く、有益なのですが、EH2に関しては問題があるように思います。本論文がEH2の存在を想定する根拠となっているのは、フローレス島のランパササ集団には「未知の」人類の遺伝的痕跡が検出された、との研究(Tucci et al., 2018)です(関連記事)。しかし、その論文ではそのようなことを主張していなかった、と記憶していたので、改めて同論文を読んでみました。同論文の主張は、ランパササ集団のゲノムには高い信頼性でネアンデルタール人とデニソワ人由来と区別できる領域があるものの(ネアンデルタール人の方がずっと長いと推定されています)、ネアンデルタール人とデニソワ人のどちらか確定できない領域も一部ある、というものだと思います。したがって、EH2の存在を想定するのは妥当ではない、と思うのですが、遺伝学の専門家ではない私が的外れな解釈をしている可能性もじゅうぶんあるでしょう。本論文が査読後に正式に掲載されたら、改めて再読するつもりです。


参考文献:
Teixeira JC, Cooper A. (2019) A ‘Denisovan’ genetic history of recent human evolution. PeerJ Preprints 7:e27526v1.
https://doi.org/10.7287/peerj.preprints.27526v1

Tucci S. et al.(2018): Evolutionary history and adaptation of a human pygmy population of Flores Island, Indonesia. Science, 361, 6401, 511-516.
https://dx.doi.org/10.1126/science.aar8486
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第10回「真夏の夜の夢」

2019/03/10 09:46
 金栗四三たち日本の選手団はストックホルムに到着します。今回は、ストックホルムでの開会までの練習期間が描かれました。オリンピック初参加となる日本の選手は四三と三島弥彦の2人だけで、四三は孤独な状況に悩んでいました。日本選手団の監督である大森兵蔵の病状は思わしくなく、四三はさらに不安に陥ります。この時代のオリンピック参加選手は基本的に「白人」で、四三も三島体格の差や文化の違いに戸惑いつつ練習に励んでいますが、三島は「白人」選手との力の違いを思い知らされ、意気消沈します。

 今回は、「世界」に挑む近代前期の日本の若者の苦悩・挫折が描かれ、これは時期・地域を問わず普遍的な物語でもあるので、その点では王道的だと思います。三島の苦悩は、前回までの地震に満ち溢れた自己陶酔的な描写と対照的で、この落差を狙っての前回までの三島の描写だったのでしょう。オリンピックが題材、それも東京オリンピックに収束するという構造は、個人的にたいへん不愉快なのですが、連続ドラマとしてはかなり楽しめています。このところ毎週、本作の視聴率低迷が面白おかしくメディアで取り上げられていますが、制作陣には、外野の無責任な声に惑わされず、今の作風を維持してもらいたいものです。
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チンパンジーの行動多様性への人間の影響

2019/03/09 09:30
 チンパンジーの行動多様性への人間の影響に関する研究(Kühl et al., 2019)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。多くの動物は集団特有の行動多様性を示しますが、チンパンジーの行動多様性はその中でもとくに高水準です。そうした行動の中には意思伝達や食料調達などがあり、チンパンジーは蜂蜜・昆虫・肉・ナッツ類などを入手するために、棒・葉・石などを道具として使用します。遺伝的に組み込まれている可能性を排除できるわけではありませんが、これらの行動の多くは、社会的に学習された文化的なものと推測されています。じっさい、チンパンジー集団では、新たな行動や多様性が定期的に発見されます。

 大型類人猿、とくにチンパンジーとオランウータンの文化的行動は、技術革新・拡散・垂直および水平伝播を含む文化的過程により維持されています。これらの行動は、環境が大きく変わった場合、社会的伝播が減少するかもしれないという点で、環境の撹乱にたいして脆弱です。「撹乱仮説」では、類人猿の行動は、集団の絶滅だけではなく、個体数減少や資源の枯渇や社会的学習機会の崩壊により消滅するかもしれない、と予測されています。人間のおもな影響としては、生息地の喪失・劣化・断片化があります。これらにより、個体数が減少し、行動伝達の頻度が低下します。人間の活動は、チンパンジーの生息域であるアフリカの熱帯雨林とサバンナの森林地帯にも大きな影響を与えており、チンパンジーは人間の人口増大・森林減少・密猟により個体数が減少し、生息域が分断化され、資源が枯渇していき、その結果として遺伝的多様性は減少していきます。

 本論文は、46のチンパンジー集団の新たな行動データと既知の集団の行動データと組み合わせ、合計144集団の行動データに基づき、「撹乱仮説」の予測を定量的に検証しました。これらチンパンジー144集団の行動は31通りに分類されており、その多くは文化的なものと考えられています。本論文は、人口密度・然資源採掘・インフラ整備などを組み合わせて、人間の全体的な影響を定量化しました。その結果、人間の影響が最も大きい地域では、最も小さい地域と比較して、チンパンジーのすべての行動にわたって平均88%多様性が減少する、と明らかになりました。これに関しては、チンパンジーの亜種区分(関連記事)や行動の分類との相関は見られません。ただこの研究は、人間の影響の弱い地域のチンパンジー集団からの長期的データがないので、暫定的な結論だと注意を喚起しています。

 人間の影響が大きくなるとチンパンジーの行動多様性が減少する理由を、本論文はいくつか挙げています。まず、人間の影響が大きい地域では、チンパンジーの個体数と密度が減少しています。森林開発などによる生息地の縮小・分断化や資源の減少などが原因なのでしょう。議論はあるものの、人間で示されているように、人口規模は文化的特徴を維持するうえで重要な役割を果たすと考えられます。個体数と密度の減少は、社会的学習機会の減少をもたらすかもしれない、というわけです。次に、チンパンジーは人間の影響が増大するにつれて、目立つ行動の頻度を減らすかもしれません。たとえば、ナッツの殻割りは人間に目立ちやすいので、密猟者に気づかれる可能性が高くなります。そのため、こうした目立つ行動の頻度が低下し、社会的学習機会が減少し、やがて消滅するかもしれないわけです。また、人間の影響だけではなく、自然環境の変動も指摘されています。ナッツの量はその年の気候の影響に大きく依存しています。そのため、ナッツの量が少ない年には、ナッツの殻割り行動は減少し、世代間の継承機会が失われ、やがて消滅する可能性があります。本論文は、こうした行動多様性を減少させる要因の組み合わせが、チンパンジーの行動多様性の全体的な喪失をもたらしているのではないか、と推測しています。

 現在、人間の影響により1年に2.5〜6.0%の割合で大型類人猿は減少しています。これまで、野生動物の保護においては、種や遺伝的多様性や生息地の減少および生態系機能の喪失といった観点が重視されてきました。しかし本論文は、行動多様性も生物多様性の一面であることを浮き彫りにしています。本論文は、チンパンジー集団の特徴的な行動が失われ、さらにはまだ発見されていない行動の多くが人間に気づかれずに失われている、と示唆します。文化的多様性の根底にある仕組みと推進力をじゅうぶん理解するには、チンパンジーを保護する大きな努力が緊急に必要だと本論文は提言しています。さらに本論文は、チンパンジーの「文化遺産」はオランウータンやクジラなど高度な文化的多様性を示す他の種にも容易に拡張できる、と指摘します。野生動物保護においてじゅうらいは重視されていなかった「文化遺産」という側面を定量的に検証したという点で、本論文は注目されるべきだと思います。


参考文献:
Kühl HS. et al.(2019): Human impact erodes chimpanzee behavioral diversity. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aau4532
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