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歴史認識において本当に相性の悪い井沢元彦氏

2018/02/22 00:00
 これは2月22日分の記事として掲載しておきます。先日、少しだけ本棚を整理しました。古人類学や日本古代史や古代ローマ史関連本を新たに置く余裕がなくなったので、読み返す可能性の低い本をダンボールに詰めて押し入れで保管することにしました。その結果、本を新たに置いておく余裕が少しできたのですが、ダンボールに入れた本のなかには、井沢元彦氏の著書がそれなりの数あります。井沢氏の著書を根拠に色々と歴史話をしてくる人が身近にもネットにもいたので、その対策で1990年代後半以降、井沢氏の著書をそれなりの冊数購入して読んだのですが、正直なところ、批判のための読書になってしまい、苦痛でした。

 しかも、同じく私が批判のために読んでおり、井沢氏とは異なり(後述するように、高評価している井沢氏の小説もあり、井沢氏への嫌悪感はさほど強くありません)、心底嫌っている小島毅氏(関連記事)の著書と比較すると、学べることがはるかに少ないので(そもそも、井沢氏と同列に扱うのは小島氏に失礼極まりないのでしょうが)、もう読み返すこともほとんどないかな、と考えて押し入れで保管することにしました。まあ、井沢氏の著書を批判するとなると、一定以上は調べないといけませんから、批判目的で読むとしても、勉強にはなると思います。しかし、時間は有限なのですから、それならば、まともな専門家の著書を読むのに時間を使う方がよいと考えて、近年では井沢氏の著書を読み返すことはほとんどありませんでした。

 上述したように、1990年代後半以降、井沢氏の著書を購入して読み始め、井沢氏の代表作と言ってよいだろう『逆説の日本史』も、11巻までは購入しました。しかし、『逆説の日本史』冒頭の石高の話から始まって、古代史〜中世史〜近世史最初期まで、歴史認識において井沢氏と私はかみ合わないことが本当に多く、驚いた記憶があります。もちろん、「逆説」を売りにしている以上、通説・有力説に反するようなことを書いていかねばならない、という(歴史評論)作家としての立場もあるのかもしれませんが、私が読んだ限りでは、井沢氏は本当は違うと考えているのに、あえて立場上「逆説的な」見解を述べているのだ、とは思えませんでした。

 そのような前提で、井沢氏の歴史認識への主だった違和感を簡潔に述べていきますが、まずは『逆説の日本史』冒頭の石高の話です。これに関して、私がヤフー掲示板のもう存在しないトピで井沢氏の見解を批判するために、12年近く前(2006年6月26日)にネット上で該当箇所の引用文を掲載したことがあるのですが、それがまとめ記事にて井沢氏の見解への肯定的文脈で言及され、大いに困惑したことがあります。その時にヤフー掲示板でどのようなことを述べたのか、保存していなかったので正確には覚えていませんが、石高制での米の偏在(都市への米の集積)とその結果としての米消費量の偏り(井沢氏が主張するような、農民も米を食べていたはずだ、といった単純な話ではなさそうです)や、石高=米の生産量ではないことや、江戸時代には米1石=1人の図式は成立しないだろう、といったことなどを述べたと記憶しています。そもそも、その引用文を掲載する4年近く前(2002年8月24日)に、井沢氏の石高に関する見解を強く意識し、批判を目的とした雑文を掲載していました。

 天智と天武の関係についても、18年近く前(2000年9月9日)やや長めの文章を掲載したことがありますが、そこでも、井沢氏の見解を基本的には否定する内容になってしまいました。その後、この問題については勉強が進んでおらず、当ブログでもほとんど言及していないのですが、天智の娘と天武の婚姻関係についての井沢氏の見解(関連記事)と、天武の年齢が『日本書紀』では不明なことに関する井沢氏の見解(関連記事)に疑問を呈したことがあります。

 その他に井沢氏の見解への疑問で強く印象に残っているのは武士の起源についてです。井沢氏の著書を読めば、「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺え、井沢氏は日本の歴史学研究者が「左翼的」であることを批判というか罵倒するわけですが、武士の起源に関する井沢氏の見解は、在地領主制論に基づく、悪い意味で古臭く左翼的なもので、1970年代以降に大きく進展した武士論がほとんどまったくと言ってよいほど反映されていない、と思います。また、侍所は鎌倉幕府が発明した、との認識にも驚かされました。

 戦国時代、とくに織田信長についての井沢氏の歴史認識にも、強く違和感が残りました。当ブログでも織田信長についてはそれなりに述べており、まとめたこともありますが(関連記事)、それらの記事での私の見解は、井沢氏の見解とは大きく異なるものになっています。武士の起源をめぐる問題についてもそうでしたが、井沢氏の歴史認識には近年の研究が反映されていないことが多いように思います。江戸時代以降の井沢氏の歴史認識については、該当する『逆説の日本史』を読んでいないので断定はできませんが、松平定信に関するまとめ記事などを読むと、井沢氏の江戸時代認識も、それ以前の時代と同様にかなり怪しいのではないか、と思います。

 上述したように、井沢氏の著書には「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺えますが、もう一つ特徴となるのが、儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感です。この点で井沢氏は、「進歩的」というか、近代的価値観を規範としているように思います。さらに言えば、井沢氏は同じく前近代において朱子学を体制教義とした国々でも、とくに韓国への嫌悪感が強いように思います。これは、オリンピック招致で井沢氏の出身地である名古屋がソウルに負けたからだ、と考えるとあまりにも邪推にすぎるでしょうか。

 井沢氏は朱子学を、近代化を阻み差別主義の温床になっているとして、激しく批判します。最近では、(少なくとも表向きは)専門家ではない人による儒教批判本が話題になっていますが、そうした儒教批判への反論として、日本の近代化で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割を重視する見解も提示されています。確かに、日本の近代化の過程で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割は大きく、江戸時代に儒教が浸透していなければ、近代のさまざまな概念の理解がもっと困難になった可能性は高いでしょう。これは、儒教には一定以上の普遍性があるからだと思います。

 しかし、幕末から近代前期にかけての「不平等条約」の理解を儒教が阻んでいたように(関連記事)、身分秩序を前提として現状追認的傾向のある儒教の大きな弊害は否定できず、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と思います。近年、中国では総合的国力の増大とともに、国民が自信をつけてきたためか、伝統文化たる儒教に肯定的な傾向が見られます。しかし、毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っておらず、その意義は現在でも大きいと思います。中国は「文化強国」を目指しているそうですが(関連記事)、率直に言って、現代世界において儒教や孔子を打ち出しても、中国の「文化強国」化にはほとんど貢献しないどころか、逆効果ではないか、とさえ思えます。

 このように、井沢氏の歴史認識の特徴は、「左翼」というか「進歩的」言説、および儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感で、中国にたいしてもさることながら、韓国への嫌悪感がとくに印象に残ります。もちろん、「嫌悪感」と表現したのは私の主観であり、井沢氏の主観では「冷静で的確な批判」となるのでしょう。しかし、「唯物史観」の「左翼(進歩的知識人)」は怨霊などといった「非科学的」要素を無視している、などといった井沢氏の「左翼的」歴史学にたいする批判は、井沢氏の言論活動の始まるずっと前に、一般向け概説書でも桓武天皇の遷都が怨霊への怖れという視点から解説されていることや、江戸時代の石高と米消費量の解説などからも、的外れなものが多いと思います。また、武士の起源に関する議論でもそうであったように、井沢氏自身が、おそらくは自覚なしに時として「左翼的」史観を前提にしている、といった問題もあります。儒教、とくに朱子学にたいする井沢氏の「批判」にしても、確かに儒教の問題は大きいものの、近代化における儒教の役割が過小評価されているというか、あまりにも儒教が悪魔化されているように思います。

 井沢氏に批判的な人々のなかには、小説家としての才能はないので見切りをつけて「反左翼」歴史評論作家に転身し、冷戦崩壊という時流に乗って売れっ子作家になり、さらにその後には、以前からの韓国にたいする嫌悪感の強い論調が21世紀初頭以降の「嫌韓」という時流に乗ったために、作家寿命を保っているのだ、といった悪意のある見方をしている人も少なくないかもしれません。そうした認識には妥当なところもあるのかもしれませんが、個人的には、井沢氏の小説のなかで『銀魔伝』は面白いと思います。まあ、叙述・修辞には特筆すべきものがないかもしれませんが、私が伝奇ものや謎解き要素のある話を好んでいることもあり、物語の筋はなかなか面白いと思います。掲載誌が廃刊(建前としては休刊?)になったため、幕末編の途中で止まっているのは残念ですが、オチが気になるので、何とか完結させてもらいたいものです。羽柴秀吉が即座に気づき、石田三成や小西行長も斬首される直前に気づくような日本の「闇の勢力」とは何者なのか、設定が難しそうですから、しっかりとネタを明かしたうえで完結したら、評価が微妙になるかもしれませんが、それでも、織豊政権〜江戸時代初期編と田沼時代編と幕末編の途中までは楽しく読み進められた、との評価は変わらないと思います。
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大河ドラマ『西郷どん』第7回「背中の母」

2018/02/21 00:00
 これは2月21日分の記事として掲載しておきます。今回は西郷吉之助(隆盛)の結婚話を軸に、西郷家の事情を中心に話が展開しました。吉之助の結婚相手は須賀で、結婚まではあっさりと進みましたが、後に離婚し、作中ではヒロインという位置づけではなさそうですから、仕方のないところでしょう。須賀は喜怒哀楽に乏しく無口で、能面のようだと言われるほどで、有村俊斎(海江田信義)など吉之助の仲間からの評判は芳しくありません。

 吉之助と須賀の結婚の直前、吉之助の祖父である龍右衛門が亡くなり、母である満佐は結核を患います。さらに、吉之助と須賀の結婚直後、吉之助の父である吉兵衛があっさりと亡くなり、満佐の病状は悪化します。陰気な感じの新妻が西郷家に不幸をもたらしたといった感じで、ついには満佐も亡くなります。この苦境で須賀が覚醒し、吉之助とともに西郷家を盛り立てていく、という流れも王道的で悪くはありませんが、吉之助と須賀との早期の離婚は史実通りに描かれるようなので、なかなかきつい展開です。

 まあそれでも、主人公の吉之助は大らかな人物として描かれるので、陰鬱とまでは言えませんが。今回は歴史ドラマというよりはホームドラマとしての性格が濃厚でしたが、薩摩藩上層の様相も少し描かれ、於一(篤姫、天璋院)が島津斉彬の養女となりました。配役から予想していましたが、幕末編では於一の出番はかなり多そうで、今のところ懸念していたほど演技は悪くありませんが、長い場面ではどうかな、とまだ心配ではあります。
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異なる石器伝統と共存していたスペイン北西部の中期更新世のアシューリアン

2018/02/20 00:00
 これは2月20日分の記事として掲載しておきます。スペイン北西部の中期更新世のアシューリアン(Acheulean)石器群に関する研究(Méndez-Quintas et al., 2018)が報道されました。ヨーロッパにおけるアシューリアンの起源に関しては、スペイン南東部の90万年前頃の事例(関連記事)など、前期更新世までさかのぼる、との見解も提示されています。しかし本論文は、中期更新世となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)12以前のヨーロッパにおけるアシューリアンと主張されている事例に関しては、年代もしくは石器群の同定に疑問がある、と指摘しています。

 本論文が分析対象にした石器群は、スペイン北西部のガリシア州のポルトマイオール(Porto Maior)遺跡で発見されました。ポルトマイオール遺跡のすぐ近くを流れるミーニョ川(Miño River)の対岸はポルトガル領となります。本論文は、ここで発見された合計3698点の石器を分析しました。アシューリアン石器の密集がポルトマイオール遺跡の特徴ですが、10cm 以上の長さとなる両面もしくは片面を調整した大型の石器(large cutting tools、略してLCT)の高密度の集積は、これまでアフリカと西アジアでしか確認されておらず、ヨーロッパではポルトマイオール遺跡の石器群が確認された初めての例だ、と指摘されています。

 ヨーロッパのアシューリアンについてはアフリカ起源説が有力ですが、アフリカとは直接的には関係なく、ヨーロッパで技術が再開発された、との見解も提示されています。本論文は、アフリカのアシューリアンとの類似性から、ポルトマイオール遺跡のアシューリアンはアフリカ起源だろう、と推測しています。ポルトマイオール遺跡では、LCTの他に、剥片や石核などが確認されています。石器の材料の91.8%は珪岩です。石器の使用痕分析から、材木や骨や動物死骸に用いられたのではないか、と推測されています。

 ポルトマイオール遺跡のアシューリアン石器群の年代は、電子スピン共鳴法(ESR)や光刺激ルミネッセンス法(OSL)などから、293000〜205000年前頃と推定されています。この年代の南西ヨーロッパには、ポルトマイオール遺跡のアシューリアンとは技術的に異なる初期中部旧石器も確認されます。本論文は、ポルトマイオール遺跡のアシューリアンが「侵入者」たる集団によりもたらされた可能性を提示し、技術的に異なる石器群の共存から、中期更新世の南西ヨーロッパでは異なる複数のホモ属集団が共存していたのではないか、と示唆しています。

 本論文のこうした見解は、ホモ属遺骸の分析から、中期更新世のヨーロッパ南西部では複数のホモ属系統が共存していた、と想定する見解と整合的です。たとえば、スペイン北部で発見されたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)的特徴を有する43万年前頃の人骨群(関連記事)、40万年前頃のポルトガルの人類頭蓋(関連記事)、ネアンデルタール人的特徴と祖先的特徴を有する中期更新世のフランスの下顎(関連記事)といったホモ属遺骸の分析・比較から、中期更新世ヨーロッパにおけるホモ属の多様性が指摘されています。後期更新世になると、ヨーロッパではネアンデルタール人以外のホモ属が確認されていませんが、それ以前は、ネアンデルタール人の(複数の)祖先集団だけではなく、ネアンデルタール人とは近縁関係にはなく、後期更新世に子孫の存在していない(もしくは、ヨーロッパのネアンデルタール人にはほとんど遺伝的影響を与えていない)系統のホモ属も存在した可能性が高そうです。


参考文献:
Méndez-Quintas E. et al.(2018): First evidence of an extensive Acheulean large cutting tool accumulation in Europe from Porto Maior (Galicia, Spain). Scientific Reports, 8, 3082.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-21320-1
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主要な河川から離れた地域でも繁栄したインダス文明

2018/02/19 00:00
 これは2月19日分の記事として掲載しておきます。インダス文明の繁栄と河川との関係についての研究(Singh et al., 2017)が公表されました。初期の都市社会の居住地の位置は、河川の移動に影響されてきたと考えられています。しかし、青銅器時代のインダス文明(4600〜3900年前頃)の人々の居住地が最も集中していたのは、インドとパキスタンのガンジス川-ヤムナー川水系とインダス川水系に挟まれた地域で、主要な現河川から遠く離れていました。このように河川から離れていた居住地がどのようにして繁栄したのかという点は、まだ解明されていません。

 この研究は、これらの居住地において主要な古河川(古い川の名残)の証拠を発見しました。この古河川は、サトレジ川の旧流路にあたります。この古河川の堆積物の年代測定の結果、8000年前頃にサトレジ川の流路が変わった、と明らかになりました。また、居住地は、これまで一般的に考えられていたようにヒマラヤ山脈を水源とする大きな現河川に隣接して発達しておらず、むしろ古い川の名残に沿って繁栄し、発達し続けたことも明らかになりました。この研究は、サトレジ川の流路が変わったことで洪水が減り、季節的降雨により上流の渓谷が水源になったことがともに寄与し、この環境でのインダス文明の成功につながった、との見解を提示しています。すでに、インダス文明は大河文明ではない、との見解も提示されており(関連記事)、世界各地の初期都市文化の成立要因は多様だったのではないか、と改めて思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】消えた河川とインダス文明の繁栄

 現在の北西インドとパキスタンに当たる地域に存在した初期文明が河川水源なしにどのようにして繁栄したのかという謎を解明されたとする論文が、今週掲載される。この新知見は、初期文明の発達の仕方に関する現在の考え方に疑問を呈している。

 初期の都市社会の居住地の位置は、河川の移動に影響されてきたと考えられている。しかし、青銅器時代のインダス文明(約4600〜3900年前)の人々の居住地が最も集中していたのがインドとパキスタンのガンジス川-ヤムナー川水系とインダス川水系に挟まれた地域で、主要な現河川から遠く離れていた。このように河川から離れていた居住地がどのようにして繁栄したのかという点は解明されていない。

 今回、Sanjeev Guptaたちの研究グループは、これらの居住地において主要な古河川(古い川の名残)の証拠を発見した。この古河川は、サトレジ川の旧流路にあたる。Guptaたちは、この古河川の堆積物の年代測定を行い、約8000年前にサトレジ川の流路が変わったことを明らかにした。また、居住地は、これまで一般的に考えられていたようにヒマラヤ山脈を水源とする大きな現河川に隣接して発達しておらず、むしろ古い川の名残に沿って繁栄し、発達し続けたことも今回の研究で明らかになった。Guptaたちは、サトレジ川の流路が変わったことで洪水が減り、季節的降雨によって上流の渓谷が水源になったことがともに寄与して、この環境でのインダス文明の成功につながったと考えている。



参考文献:
Singh A. et al.(2017): Counter-intuitive influence of Himalayan river morphodynamics on Indus Civilisation urban settlements. Nature Communications, 8, 1617.
http://dx.doi.org/10.1038/s41467-017-01643-9
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佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』

2018/02/18 00:00
 これは2月18日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年1月に刊行されました。日本古代史の勉強も停滞しているので、最新の研究成果を把握するために読みました。本書はたいへん有益でしたが、もちろん、古代史の論点は多岐にわたり、新書一冊で網羅することはできませんので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。


●吉松大志「邪馬台国から古墳の時代へ」P13〜29
 本論考は弥生時代末期から古墳時代への移行を、文献と考古学から展望しています。いわゆる邪馬台国論争については、考古学的成果を安易な文献解釈と結びつけることのないよう、注意が喚起されています。邪馬台国の基本文献となるのは『三国志』ですが、誤認識や古典からの引用などもあり、正確に当時の倭国の様相を伝えているとは限らない、と指摘されています。また、考古学からは、北部九州や畿内だけではなく出雲など、複数の中心地から構成される多極的なネットワークがあったと推測されています。古墳時代には、こうした弥生時代的な体制から畿内主導の体制へと変容していった、との見通しを本論考は提示しています。


●須原祥二「倭の大王と地方豪族」P31〜52
 本論考はヤマト王権の展開と地方豪族との関係を検証しています。4世紀後半〜5世紀前半の古墳の巨大化は王権の強化を示すものだ、との見解が提示されています。この時期、本州・四国・九州の大半で前方後円墳が築造されるようになり、ヤマト王権を中心とする政治体制が形成されていき、王権は強化された、と評価されています。一方で本論考は、5世紀後半以降の古墳の数と規模の縮小に関しては、王権の衰退ではなく古墳築造の規制であり、制度の強化・安定だと評価しています。古墳の規模から王権の構造を直接把握するのには慎重でなければならないとは思いますが、現時点では有力な解釈として認められていることも否定できないでしょう。『日本書紀』に見える5世紀後半〜6世紀前半の王位継承の不安定性については、王権の強化と矛盾するものではなく、奈良時代のように、王権の強化がかえって王位継承の不安定さを惹起する場合もある、と指摘されています。


●鈴木正信「蘇我氏とヤマト王権」P53〜71
 本論考は、蘇我氏本宗家と言われる稲目・馬子・蝦夷・入鹿の4代をヤマト王権に位置づけて解説しています。古代史本となると、非専門家の私はつい無責任に「刺激的な」見解を求めてしまうのですが、簡潔で穏当な本論考は一般向け書籍にふさわしいと思います。蘇我氏本宗家が滅亡した乙巳の変の要因については、外交方針・王位継承争い・蘇我氏の内部抗争という側面が重視されています。


●中村順昭「飛鳥・藤原の時代と東アジア」P73〜86
 本論考は乙巳の変から平城京への遷都の前までの国制整備の進展を概観しています。表題には東アジアとありますが、東アジア情勢への言及は予想していたよりも少なく、白村江の戦いの後の、新羅と唐の対立および唐の朝鮮半島における直接的支配の破綻の背景などへの言及はありませんでした。表題にあるように、東アジアという視点をもっと前面に出してもよかったように思います。ただ、7世紀後半〜8世紀初頭の国制整備史としては短くも的確な内容になっていると思います。


●馬場基「平城京の実像」P87〜104
 本論考は平城京について多角的に検証しています。平城京への遷都の前提として、8世紀初頭の遣唐使があるようです。この時に唐(というか、正確には当時の国号は周でしたが)の都である長安を訪れた遣唐使一行は、当時の日本の都だった藤原京が儀礼空間として不充分であることに気づいたのではないか、というわけです。また、平城京の地は遷都まで閑散としていたわけではなく、それなりに開発が進み、交通の要衝だった、とも指摘されています。


●佐々田悠「奈良時代の争乱」P105〜122
 本論考は奈良時代の争乱、具体的には長屋王事件・藤原広嗣の乱・橘奈良麻呂の変・藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱について、その背景と経緯を解説しています。「過激な」見解が提示されているわけではなく、穏当な奈良時代争乱史になっており、簡潔な奈良時代政治史としても有益だと思います。奈良時代に武力を用いた上層部間の争乱が相次いだ理由として、天皇という仕組みが個人的資質と血統に左右され、平安時代のように安定的制度として整っていなかったことが指摘されています。


●佐藤信「地方官衙と地方豪族」P123〜144
 本論考はおもに奈良時代における地方支配の実態を、郡司・郡家(群衙)に着目して検証しています。本論考は、郡司が律令制よりも前の時代の地方支配層から採用され、そうした支配層の政治力を活用することで律令制下当初の地方支配が可能だったことを強調しています。また、郡には郡司を担える複数の家柄が存在したこともあった、とも指摘されています。律令制では文書主義が徹底され、地方でも郡司の下の層まで文字が浸透しつつあったことが窺えます。


●飯田剛彦「遣唐使と天平文化」P145〜162
 本論考は天平文化の性格と遣唐使の役割について検証しています。天平文化については、その「国際性」が強調されることもありますが、天平文化の「国際性」の象徴たる正倉院の宝物も、薬物を除けば舶載品は最大でも5%に満たないだろう、との推定が提示されています。そのうえで本論考は、天平文化の「国際性」の真の意味とは、外来要素を受容し、自国でのさまざまな物の制作に活かしたことだろう、と指摘しています。このような「国際性」のある天平文化が開花するうえで、唐から直接国際色の豊かな文化を持ち帰った遣唐使の役割は大きかったようです。


●吉野武「平安遷都と対蝦夷戦争」P163〜182
 本論考は桓武天皇の二大事業である軍事(対蝦夷戦争)と造作(平城京から長岡京、さらには平安京への遷都)を検証しています。桓武天皇がこの二大事業を推し進めた要因として、皇位継承者としては血統的に弱点があり、権威を確立する必要があった、と指摘されています。長岡京から平安京への遷都に関しては、怨霊を恐れたからというよりも、洪水による都市機能への打撃が懸念されたためではないか、と推測されています。桓武天皇が怨霊を恐れたのは平安京への遷都後ではないか、というわけです。桓武天皇は晩年に、徳政相論によりこの二大事業を停止しますが、桓武天皇自身も民の疲弊から二大事業の継続に無理があることを認識しており、有徳の英明な君主としての姿を示すために徳政相論をさせたのではないか、と本論考は推測しています。


●仁藤智子「平安京の成熟と都市王権の展開」P183〜198
 本論考は、平安時代前期の政治史と平安京が都として確立していく過程を解説しています。平安時代初期の平城朝に関しては、その治世が4年と短かったことと、平城天皇(上皇)が政治的敗者となり、その子孫が皇統とはならなかったこともあり、低く評価されているようにも思われますが、本論考は、国制改革を積極的に推進した時期として重視しています。この平城上皇が政変(薬子の変)で敗れたことにより、平安京は都として定着していくことになり、支配層の間で平安京を中心とした世界観が形成されていきます。


●榎本淳一「摂関政治の実像」P199〜213
 本論考は摂関の地位・権能がどのように成立してきたのか、摂関は国制においてどのような役割を果たしたのか、検証しています。本論考は、摂政・関白とともに内覧の権能を重視しており、摂政・関白・内覧の解説となっています。摂関の地位が10世紀後半に大きく変わったこと(太政大臣の地位との分離、律令官職の超越)や、藤原道長政権期を中心とした摂関政治全盛期においても、摂関が恣意的に政治を運営することはできず、以前からの朝廷の枠組みでの政治運営だったことが指摘されています。摂関は誰が天皇であっても安定的な国政運営が可能となるような制度として形成されていったのであり、天皇親政と対立的に把握されるべきではない、との指摘は、今でも天皇と摂関を対立的に把握する通俗的見解が根強いように思われるだけに、重要だと思います。


●河内春人「国風文化と唐物の世界」P215〜232
 本論考は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という見解の見直しを提示しています。遣唐使の「廃止」については、すでに近年では一般向け書籍でも取り上げられているように、廃止ではなく延期だったことが指摘されています。「国風文化」については、唐が滅亡してからも、中華地域からの「唐物」が日本の文化に必要であり、規範にもなっていたことが指摘されています。この前提として、遣唐使のような国家間の通交は衰退しても、商人による東アジア交易が盛んになっていったことがあります。また、「国風文化」の対象はおもに貴族層に限定されており、圧倒的多数を占める庶民の文化も考慮に入れられなければならない、とも提言されています。


●三谷芳幸「受領と地方社会」P233〜249
 本論考は平安時代に地方制度が変容していったことを解説しています。9世紀に律令制以前からの郡司層が没落していき、中央政府(朝廷)は受領(国司の首席で通常は守)に権限を集中させる新たな制度を構築していきます。受領は大きな権限を把握しますが、在地の有力者と受領が都から引き連れてきた郎等の間で対立が生じ、それが「尾張国郡司百姓等解文」に代表される国司苛政上訴の頻発を招来しますが、院政期には受領と在地勢力との関係は安定し、在地勢力を取り入れた体制が確立していきます。大きな権限を得た受領の任命と評価について、摂関などの有力者による恣意的人事もあったものの、全体的には朝廷支配層(公卿)による真剣な検証・討議が行なわれた、と指摘されています。朝廷は地方政治への高い関心を有していた、というわけです。本論考は奈良時代〜平安時代の地方制度について、「神話」の8世紀から「道徳」の9世紀を経て「経済」の10世紀へと転換していき、それは古代日本における「文明化」であった、と評価しています。


●宮瀧交二「平将門・藤原純友の乱の再検討」P251〜264
 本論考は平将門の乱と藤原純友の乱を、考古学や古環境学の研究成果も取り入れて検証しています。平安時代には温暖化が進んだことから、平将門の乱に関しては、増大した富の奪い合いが背景にあるのではないか、と推測されています。また、平将門の乱の頃のものではありませんが、近い年代の関東の集落では焼き討ちの痕跡が確認されており、平将門の乱に関する文献は今後考古学的にも裏づけられるのではないか、と指摘されています。藤原純友の乱に関しては、9世紀後半に瀬戸内海の海上交通圏を掌握していた伴(大伴)氏・紀氏が中央政界で没落したことにより、その配下の交易に関わっていた海上輸送集団が海賊として取り締まられ、海上交通の利権が再編されるなかで生じた利権争いとしての側面があるのではないか、と指摘されています。なお、本論考は1976年放送の大河ドラマ『風と雲と虹と』に言及していますが、「豪華なキャスティング」のなかに藤原秀郷(田原藤太)役の露口茂氏の名前がなかったのは残念でした。


●大平聡「平泉と奥州藤原氏」P265〜281
 本論考は奥州藤原氏について、考古学的研究成果を大きく取り入れて解説しています。奥州藤原氏は、都(平安京)とのつながりを強く有しつつも、北東ユーラシアともつながり、単なる都の模倣ではなく、独自性を有していた、と本論考は評価しています。奥州藤原氏の拠点となった平泉に関する考古学的研究の進展には目覚ましいものがあるようで、奥州藤原氏の富強が強く印象づけられます。ただ、奥州藤原氏がどのような支配体制を築いていたのか、なぜ源頼朝の侵攻にあっさりと支配体制が崩壊したのか、という問題には言及されていないのは残念でした。
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現生人類の自己家畜化

2018/02/17 00:00
 これは2月17日分の記事として掲載しておきます。現生人類(Homo sapiens)の自己家畜化に関する研究(Theofanopoulou et al., 2017)が報道されました。現生人類は自己家畜化した種だ、との見解はそれなりに浸透しているように思います。この研究は、ゲノム比較により、現生人類自己家畜化仮説を検証しています。対象となったのは、イヌ(Canis familiaris)やネコ(Felis catus)やウマ(Equus caballus)やウシ(Bos taurus)といった家畜化された動物と、現代人およびその近縁のホモ属分類群である、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のデニソワ人(Denisovan)です。

 現生人類の自己家畜化は、イヌ・ネコ・ウマ・ウシなどの家畜との類似性から指摘されています。それは、家畜がその近縁野生種との比較でより華奢な骨格を有しているように、現生人類はネアンデルタール人などの近縁ホモ属種と比較して、骨格がより華奢である、という事実から主張されています。さらに、家畜は近縁野生種との比較でより従順(我慢強い、寛容、低い攻撃性)であるという特徴を有しており、現生人類も近縁種と比較してそうなのではないか、と予想されています。

 この研究は、家畜と現生人類との間で、従順さや華奢な骨格と関連している遺伝子多様体の集団への定着(選択的一掃)が、家畜と現生人類との間で顕著に重なっていることを明らかにしました。一方で、それぞれの家畜と近縁な野生種では、そうした顕著な重なりは見られませんでした。これは、現生人類自己家畜化仮説の証拠になるだろう、と指摘されています。また、この研究は、家畜化には複数の経路があり得ただろうことから、種間で異なる家畜化過程があった可能性を指摘しつつ、家畜と現生人類において結果として類似した家畜化が進行した可能性を提示しています。

 このような、家畜化された動物と現生人類との家畜化関連遺伝子の選択の重なりが、偶然生じたことを否定するために、現代人と近縁な現生種である大型類人猿であるチンパンジー(Pan troglodytes)やゴリラ(Gorilla)やオランウータン(Pongo)のゲノムも比較されました。これら大型類人猿では、正の選択下での家畜化を伴うような遺伝子の顕著な重なりは見られず、現生人類の自己家畜化仮説が改めて支持されました。現生人類の自己家畜化に関しては、協力的行動や向社会的行動の強化も想定されており、現生人類がアフリカから世界中に拡散して(個体数の増加という観点では)大繁栄したのにたいして、ネアンデルタール人やデニソワ人など現生人類とは近縁のホモ属が(その遺伝子はわずかに現生人類の一部集団に継承されたとはいえ)絶滅したのは、協力的行動や向社会的行動が要因かもしれません。


参考文献:
Theofanopoulou C, Gastaldon S, O’Rourke T, Samuels BD, Messner A, Martins PT, et al. (2017) Self-domestication in Homo sapiens: Insights from comparative genomics. PLoS ONE 12(10): e0185306.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0185306
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トカゲ類の二足歩行の起源

2018/02/16 17:55
 トカゲ類の二足歩行の起源に関する研究(Lee et al., 2018)が公表されました。多くの現生トカゲ類は陸上で二足走行できますが、後足だけで走る能力が進化上のどの時点で発達したのかは不明です。この研究は、トカゲ類の二足走行の初めての直接的証拠となる化石を報告しています。この研究が分析したのは、韓国のアプチアン期からアルビアン期初期(1億2500万〜1億年前頃)のHasandong層で発見された4点のトカゲ類の足跡化石です。この研究は、これらは世界最古のクラウン群トカゲ類の足跡と考えていますが、具体的にどのトカゲ種の足跡なのかは不明で、絶滅したイグアナ類の足跡ではないか、と推測しています。

 足跡化石の保存状態は非常に良好で、トカゲの足の解剖学的特徴を詳しく調べることができました。これらの化石から、足の跡(25ヶ所)とそれらより短い手の跡(4ヶ所)が見つかっていますが、足の跡は典型的なトカゲの足の形態を示し、湾曲した指は足の内側から外側に向かって順に長くなっていました。また、手の跡は、第3指が他の4本の指より長いことを示していました。二足走行が通常生じるのは、前肢より後肢の方が長いトカゲが加速して走行速度に達し、四足歩行から二足歩行に変わる時です。これらの足跡化石に残されていたのは、ほとんどが足の跡であり、四足歩行パターンよりも二足歩行パターンと一致しています。

 また、これらの足の跡には、歩幅が大きくなっていることの証拠と指先歩きの跡が示されており、この足跡を残したトカゲがつま先で走っていたことが示唆されています。これらに加えて、足跡の幅が狭いこと(トカゲが二足歩行の姿勢をとるようになった時に後足がまっすぐになり、2本の後足の間が狭くなったことを示す証拠)を合わせて考えると、この足跡が2本の後足で走るトカゲのものであると示されており、トカゲの二足歩行は、その進化史の初期に起こったことが示唆されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】約1億年前に二足走行していたトカゲ

 早くも1億1000万年前には二足走行していたと考えられるトカゲについて明らかにした論文が、今週掲載される。

 多くの現生トカゲ類は陸上で二足走行できるが、後足だけで走る能力が進化上のどの時点で発達したのかは分かっていない。この論文で、Hang-Jae Leeたちは、トカゲの二足走行の初めての直接的証拠となる化石について説明している。アプチアン期からアルビアン期初期(1億2500万〜1億年前)と年代決定されたHasandong層(韓国)で発見された4点のトカゲの足跡(足跡化石)だ。Leeたちは、これをSauripes hadongensisの足跡と同定した。この一連の足跡化石は、世界で最古のクラウン群トカゲ類のものだが、具体的にどのトカゲ種の足跡なのかは分かっておらず、Leeたちは、絶滅したイグアナ類の足跡だとする仮説を示している。

 足跡化石の保存状態は非常に良好で、今回の研究でトカゲの足の解剖学的特徴を詳しく調べることができた。これらの化石から、足の跡(25か所)とそれより短い手の跡(4か所)が見つかっており、足の跡は、典型的なトカゲの足の形態を示しており、湾曲した指は、足の内側から外側に向かって順に長くなっていた。また、手の跡は、第3指が他の4本の指より長いことを示していた。

 二足走行が通常生じるのは、前肢より後肢の方が長いトカゲが加速して走行速度に達し、四足歩行から二足歩行に変わる時である。今回の足跡化石に残されていたのは、ほとんどが足の跡であり、四足歩行パターンよりも二足歩行パターンと一致している。また、この足の跡には、歩幅が大きくなっていることの証拠と指先歩きの跡が示されており、この足跡を残したトカゲがつま先で走っていたことが示唆されている。これらの点に加えて、足跡の幅が狭いこと(トカゲが二足歩行の姿勢をとるようになった時に後足がまっすぐになり、2本の後足の間が狭くなったことを示す証拠)を合わせて考えると、この足跡が2本の後足で走るトカゲのものであることが示されており、トカゲの二足歩行は、その進化史の初期に起こったことが示唆されている。



参考文献:
Lee HJ. et al.(2018): Lizards ran bipedally 110 million years ago. Scientific Reports, 8, 2617.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-20809-z
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無性生殖で増えるザリガニ

2018/02/16 17:54
 無性生殖で増えるザリガニに関する研究(Gutekunst et al., 2018)が報道されました。1990年代に初めて同定された、「Marmorkrebs」とも呼ばれるザリガニであるミステリークレイフィッシュ(Procambarus virginalis)は、ドイツの水槽でペットとして飼育されていた北アメリカ大陸の近縁種スラウクレイフィッシュ(Procambarus fallax)の個体が、多くの有性生殖動物のように両親から1セットずつ受け継いだ計2セットの染色体に加えて、新たに第3の完全な染色体セットを獲得して生まれたと考えられています。それ以来、飼育されていたミステリークレイフィッシュは世界中の淡水生態系に広がり、マダガスカルには特によく適応したようです。

 この研究は、自然界およびペット流通の両方に由来するミステリークレイフィッシュの11個体とともに、スラウクレイフィッシュおよびもう1つの近縁種の個体に関して、ゲノムの塩基配列を解読しました。その結果、ミステリークレイフィッシュの全個体は遺伝的にほぼ同一であり、種が出現してからの変化はごくわずかである、と確認されました。また、1組の染色体セットは残りの2組とはかなり異なっていることも明らかになり、この種が遠縁の2個体のスラウクレイフィッシュから生じたことが示唆されました。

 この研究は、マダガスカルの自然界で捕獲された個体を利用することにより、現地の個体群が過去10年間で分布域を100倍に広げたことを明らかにし、そこに数百万匹が存在すると推定しています。この研究は、十脚類の甲殻類(カニ・ロブスター・・エビ類を含む分類群)で最初となるゲノム塩基配列解読の結果を示しています。また、いかにして新種が急速に出現し得るのか、さらに、各個体内の遺伝的多様性のため、全個体が遺伝的にほぼ同一であってもいかにして各個体が生存できるのか、という問題についての手掛かりも得られました。また、この侵入種はマダガスカルで急速に広がっており、それらが在来種および淡水生態系に害を与える可能性がある、と強調されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ペットのザリガニが有害生物に進化した

 ミステリークレイフィッシュ(別名マーブルクレイフィッシュ)というザリガニのゲノム塩基配列について報告する論文が、今週掲載される。この新種の無性生殖甲殻類はドイツで出回っていたペットからわずか20年前に生まれた。今回得られたゲノムによって、このザリガニがいかにしてマダガスカルの強力な侵入種となったのかが説明される。

 1990年代に初めて同定されたミステリークレイフィッシュ(Procambarus virginalis、Marmorkrebsとも呼ばれる)は、ドイツの水槽でペットとして飼育されていた北米の近縁種スラウクレイフィッシュ(Procambarus fallax)の個体が、多くの有性生殖動物のように両親から1セットずつ受け継いだ計2セットの染色体に加えて、新たに第3の完全な染色体セットを獲得して生まれたと考えられている。それ以来、飼育されていたミステリークレイフィッシュは世界中の淡水生態系に広がり、マダガスカルには特によく適応したとみられる。

 Frank Lykoたちは、自然界およびペット流通の両方に由来するミステリークレイフィッシュの11個体と共に、P. fallaxおよびもう1つの近縁種の個体に関して、ゲノムの塩基配列解読を行った。その結果、ミステリークレイフィッシュの全個体は遺伝的にほぼ同一であり、種が出現してからの変化はごくわずかであることが確認された。また、1組の染色体セットは残りの2組とはかなり異なっていることも分かり、この種が遠縁の2個体のP. fallaxから生じたことが示唆された。研究チームは、マダガスカルの自然界で捕獲された個体を利用することにより、現地の個体群が過去10年間で分布域を100倍に広げたことを明らかにし、そこに数百万匹が存在すると推定している。

 今回の結果は、十脚類の甲殻類(カニ、ロブスター、およびエビ類を含む分類群)で最初となるゲノム塩基配列解読の結果を示している。また、いかにして新種が急速に出現し得るのか、そして、各個体内の遺伝的多様性のため、全個体が遺伝的にほぼ同一であってもいかにして各個体が生存できるのか、についての手掛かりももたらした。さらに、この侵入種がマダガスカルで急速に広がっており、それらが在来種および淡水生態系に害を与える可能性があることを強調している。



参考文献:
Gutekunst J. et al.(2018): Clonal genome evolution and rapid invasive spread of the marbled crayfish. Nature Ecology & Evolution, 2, 567–573.
http://dx.doi.org/10.1038/s41559-018-0467-9
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中国の東西で被子植物の進化史が異なっている

2018/02/16 17:53
 予備として書き溜めておいた記事がかなりの本数になってしまったので、今後何回かにわけて、ある程度まとめて掲載していくことにします。中国の東西での被子植物の進化史の違いに関する研究(Lu et al., 2018)が公表されました。中国では全世界の被子植物種の10%近くが生育しており、起源の古い植物種にとっての隠れ家・博物館であると同時に、最近の地形変化や気候変化(青海チベット高原の形成やモンスーンの発達など)により新たな生息地が生じ、顕著な放散が促進されたことにより多くの系統が発生したために揺り籠でもある、と長く考えられてきました。しかし、中国の被子植物相の主要な構成要素が集合して現在の植生になった時期と過程を詳しく調べる系統発生学的研究はこれまでありませんでした。

 この研究は、中国の被子植物相の92%に関する年代が明らかな系統発生データ、2万6978種からなるほぼ完全な種レベルの系統樹、詳細な空間分布のデータを用いて、中国の植物相の時空間的な分岐パターンを調べました。その結果、中国の被子植物の属の66%は、その起源が中新世の初期(約2300万年前)以降であると判明しました。

 中国東部(中部と南部の一部の地域を含みます)の植物相には、より古い分岐(平均分岐年代は2539万〜2204万年前頃)、系統発生学的な過大分散(遠縁種の空間的共存)、系統発生学的に高い多様性を示す特徴が見られました。一方、中国西部(乾燥した北西部と青海チベット高原を含みます)の植物相には、より新しい分岐(平均分岐年代は1886万〜1529万年前頃)、顕著な系統発生学的クラスタリング(近縁種の共存)、および系統発生学的に低い多様性が認められました。シミュレーションした枝の長さを用いた種レベルの系統発生学的多様性の分析からは、属レベルのパターンと類似の結果が得られました。

 この分析結果は、草本性の属に関しては、中国東部が植物相の博物館で中国西部が進化の揺り籠なのにたいして、木本性の属に関しては、中国東部が博物館と揺り籠の両方の役割を果たしていることを示しているます。これらの知見は、種が豊富で系統発生学的多様性が高い地域を明らかにするとともに、中国で保全活動を取り組む上での基盤を提供するものだと指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】中国の東部と西部では被子植物の進化史が異なっている

 中国の東部と西部にはそれぞれ独自の進化史を有する被子植物種が生育していることを報告する論文が、今週掲載される。中国東部は起源の古い植物種が数多く存在する植物相の「博物館」であり、中国西部は最近になって分岐した植物種にとっての進化的「揺り籠」と考えられることが、この論文に示されている。

 中国は全世界の被子植物の約10%が生育しており、起源の古い植物種にとっての隠れ家であると同時に、最近進化した植物種が急激に出現するための揺り籠でもあると考えられている。ところが、中国の被子植物相の主要な構成要素が集合して現在の植生になった時期と過程を詳しく調べる研究は行われていなかった。

 今回、Zhi-Duan Chenたちの研究グループは、中国の被子植物相の92%について時空間的な分岐パターンを調べた。その結果、中国の被子植物の属の66%は、その起源が中新世の初期(約230万年前)以降であることが判明した。また、中国東部(中部と南部の一部の地域を含む)には、西部と比べて古い系統の植物種が生育する傾向があり、中国西部(乾燥した北西部と青海チベット高原を含む)には、それよりも最近になって分岐した被子植物種が生育していることが明らかになった。



参考文献:
Lu LM. et al.(2018): Evolutionary history of the angiosperm flora of China. Nature, 554, 7691, 234–238.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25485
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70万年前頃の人類の足跡と生活

2018/02/16 00:00
 これは2月16日分の記事として掲載しておきます。70万年前頃の人類の足跡に関する研究(Altamura et al., 2018)が報道されました。この研究は、エチオピアのアワッシュ川上流のメルカクンチュレ(Melka Kunture)層のゴンボレII-2(Gombore II-2)遺跡で発見された足跡を分析しています。ゴンボレII-2遺跡では、この足跡の層よりも下層でホモ属遺骸が発見されており、アフリカにおけるエルガスター(Homo ergaster)からハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)への移行的な分類群ではないか、と推測されていますが、ハイデルベルゲンシスという種区分とその進化系統樹における位置づけには、議論の余地が大いにあると思います(関連記事)。

 ゴンボレII-2遺跡では、ほぼ間違いなくホモ属だろう複数個体の足跡が確認されましたが、ガゼルやカバや鳥や不明種の足跡も確認されています。この足跡は上下の火山灰層に挟まれており、アルゴン-アルゴン法により年代は875000±10000年前〜709000±13000年前と推定されています。足跡は通常すぐ消え去るので、正確な年代は不明ですが、足跡がつけられた(地質学的時間では)直後に火山灰に覆われたと考えられます。そのため、これらの足跡の年代は70万年前頃に近いと推測されます。ホモ属の足跡で注目されるのは、成人だけではなく、とひじょうに幼いと思われる子供もいた、ということです。ただ、当時のアフリカ東部のホモ属と現代人との性的二型・成長速度・栄養事情の違いなどを考慮しなければならないので、年齢の推定は難しくなっています。この研究は、子供が1歳程度である可能性を指摘しています。

 次に注目されるのは、他の主要な更新世以前の人類の足跡遺跡とは異なり、多数の石器やその製作の痕跡、さらには多くの動物遺骸と人類による屠殺の痕跡といった、生活の痕跡が確認されていることです。石器群は、剥片を主体とする中期アシューリアン(Acheulean)で、おもに黒曜石製です。当時の人類はカバを解体して食べていたようですが、カバの遺骸の痕跡から、人類がカバの遺骸を放棄した後に、ハイエナなどの肉食動物がさらにカバの遺骸を食べた、と推測されています。

 この研究は、70万年前頃のアフリカ東部のホモ属集団は、子供が成人に同行し、幼い頃から石器などの道具製作や狩りや屠殺を学習していったのではないか、と推測しています。一方、同じくアフリカ東部でも、ケニアのイレレット(Ileret)遺跡で発見された150万年前頃の人類の足跡群からは、全員が男性の狩猟採集民集団と、女性や子供から構成される集団とに分かれていた可能性も想定されています(関連記事)。これは、成人男性の狩猟採集がおそらくは標準的で、労働作業の性別・年代別分担があったことを示唆しています。一方、イレレット(Ileret)遺跡よりずっと年代の下るゴンボレII-2遺跡では、混合年齢集団による狩猟採集活動が窺われます。ただ、足跡から人類の社会構造の違いを推測することには、足跡を残した個体の年齢・性別をどの程度まで正確に推測できるのか、という問題があるので、確証は難しいと思います。


参考文献:
Altamura F. et al.(2018): Archaeology and ichnology at Gombore II-2, Melka Kunture, Ethiopia: everyday life of a mixed-age hominin group 700,000 years ago. Scientific Reports, 8, 2815.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-21158-7
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10万年以上前のアメリカ大陸における人類の痕跡との見解への批判

2018/02/15 00:00
 これは2月15日分の記事として掲載しておきます。昨年(2017年)、北アメリカ大陸南西部で10万年以上前の人類の痕跡が確認された、との見解が提示されましたが(関連記事)、それにたいするさまざまな批判について報道されました。10万年以上前の人類の痕跡との見解は、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部のサンディエゴ市近郊のセルティマストドン(Cerutti Mastodon)遺跡で発見された、単一のマストドン(Mammut americanum)の断片的な遺骸に基づいています。

 このマストドン遺骸には打撃の痕跡が見られ、使用による摩耗と衝撃の痕跡を示す5個の巨大な丸石(叩き石と台石)がマストドン遺骸の側にあり、マストドンの遺骸を囲む沈泥層から受ける破損の影響は小さいだろう、と推測されています。そのため、このマストドン遺骸の破損は、手先が器用で経験的知識のある人類が、マストドンの肢骨を骨髄抽出および(もしくは)道具生産のために破損させたのではないか、と推測されました。このマストドン遺骸の破損パターンは、アフリカ・ユーラシア・北アメリカの旧石器時代の人為的パターン内に収まる、とも指摘されています。

 論議を呼んだのは、セルティマストドン遺跡で発見されたマストドン遺骸の年代が、光刺激ルミネッセンス年代測定法では6万〜7万年前以上、ウラン-トリウム法では130700±9400年前と推定されたことです。これは、広く認められているアメリカ大陸への人類の最初の移住年代を10万年以上さかのぼりますし、(広義の)シベリア北東部における10万年以上前の人類の痕跡といった、有力な間接的証拠もありません。そのため、この見解には多くの疑問が寄せられています。

 この報道で取り上げられたのは、セルティマストドン遺跡のマストドン遺骸の損傷は、人類ではなく現代の建設機械によるものではないか、との批判です。また、セルティマストドン遺跡のマストドン遺骸の損傷と自然な摩耗や裂傷との類似性も指摘されています。この批判の証拠として、アメリカ合衆国テキサス州ウェーコ市にある、人類の痕跡の確認されていない場所で発見された、6万年前頃の少なくとも26個体分のマンモス遺骸のいくつかに見られる、同様の損傷が挙げられています。これらのマンモス遺骸のいくつかが発見された期間は建設工事中で、現代の建設機械と自然作用がセルティマストドン遺跡のマストドン遺骸と同様の損傷をマンモス遺骸に残した可能性がある、と指摘されています。ただ、建設機械による骨への損傷に関してはよく分かっておらず、単純に遺跡を比較することは適切ではなく、さらなる検証の必要性が提言されています。

 アメリカ大陸への人類の拡散が10万年以上前までさかのぼる、との見解はあまりにも異例で孤立しており、これが有力説と認められるには、セルティマストドン遺跡だけではなく、北アメリカ大陸やシベリア北東部で10万年以上前の人類の痕跡が複数確認されねばなりません。もちろん、今後そうした痕跡が確認される可能性はあるわけですが、かなり見込みが低いのではないか、と思います。セルティマストドン「遺跡」は、20年後には忘れられている運命にあるのではないか、と私は予想しています。
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』700話〜703話

2018/02/14 00:00
700話「ベイビーブルース」7
 今回からボスが再び長期欠場となります。下着泥棒として少年が追われていたところに、出産間近の妻とともにブルースが通りかかり、ブルースは少年を逮捕します。少年は、妻を殺したと言います。もっとも、少年は17歳なので法的な夫婦ではなく、それは少年も認識していますが。しかし、少年の「妻」の姿は見当たらず、一係は少年の「妻」である少女の行方を探します。しかし、少女は橋の下にて死体で発見されます。少女と少年には幼い頃からの悲しくも深い結びつきがあり、ブルース夫妻の子供の誕生を絡めて謎めいた話が進みます。なかなか切ない話で、ブルース夫妻の子供の誕生と上手くかみ合っていたこともよかったと思います。残念なのは、ブルース夫妻の間に子供が誕生した話にボスが不在だったことです。


701話「ヒロイン」6
 瀕死の有名芸能人の男性が女性にすがりつき、何かを伝えて死亡します。女性は目撃者として報道され、マスコミに追い回されることになります。トシさんは、女性が犯人の手がかりを被害者から聞いたのではないか、と考えて粘り強く女性から聞き出そうとします。事件の謎解きというよりは、偶然の出来事により状況が一変した平凡な女性の心理の変化が主題で、このような話も悪くはないと思います。まあ、途中で表題からオチが読めてしまったことと、事件解決の場面は残念でしたが。今回は、ボスが不在ということで、署長が一係を指揮する場面も見られました。


702話「教室」6
 マミーは友人の小学校の女性教師に電話で呼ばれ、友人の部屋を訪ねます。すると、部屋には男性の死体がありました。女性教師は、帰宅したら知らない男性が倒れていた、とマミーに証言します。被害者男性は覚醒剤を使用しており、女性教師の教え子の母親と深い関係にありました。小学生にも殺人容疑がかけられ、教育・家庭の問題も絡んで話が進みます。本作ではたまにある、重い社会問題を扱った話になっています。親が子供を、教師が教え子たちを庇い、けっきょくは教え子たちが男性を殺していた、という何ともやりきれない話でした。このような重い話もあるのが、本作の魅力の一つだと思います。残念なのは、視聴率が低迷していた末期の放送だったため、社会への訴求力が以前ほどではなかっただろう、ということです。今回も、ボスが不在ということで、署長が一係を指揮する場面も見られました。署長は徒に威張るわけではなく、なかなか好感を持てます。序盤でボギーのテーマが流れて、嬉しくも懐かしくもありました。


703話「加奈子」7
 男性の転落死から話が始まります。男性と一緒にいた森口加奈子という女性は、その男性の恋人と同居していました。森口加奈子は、男性に誘われて夜景がきれいだという工事中のビルに入り、男性は誤って転落した、と証言します。不可解な事件で、謎解き要素があり、まずまず楽しめました。若い女性の心理を読んでの複雑な真相の推理は、以前ならば殿下やスコッチが適任だったでしょうが、現在の一係ではドックかデュークが適任だと思います。今回はデュークが主演だったので、その意味では安定感があったと思います。ドックならば、もっと女性容疑者に優しい感じで接するのでしょうが、デュークは表面的な優しさを見せず、淡々と女性容疑者を追い詰めていきます。この点では、しっかりとデュークの個性を活かしていたと思います。
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大河ドラマ『西郷どん』第6回「謎の漂流者」

2018/02/13 00:00
 これは2月13日分の記事として掲載しておきます。主君である島津斉彬に相撲で勝ってしまった西郷吉之助(隆盛)は投獄されます。そこにはジョン万次郎(中浜万次郎)もいましたが、投獄された時点では吉之助はジョン万次郎のことを知りません。しかし、実は斉彬が万次郎の正体を探らせるために吉之助を牢に入れたのでした。漂流民としてアメリカ合衆国で暮らしていた万次郎は、故郷の土佐に帰るために日本に戻ってきたのですが、警戒して英語でしか話そうとしません。吉之助は大久保正助(利通)の助けも得て、万次郎の心を開かせます。

 今回は万次郎をめぐる話となりました。万次郎は斉彬にアメリカ合衆国の様子を伝え、吉之助たちに異国への目を向けさせることになります。ジョン万次郎についてはよく知らないので断定はできませんが、万次郎と吉之助たちとの関わりは創作ではないか、と思います。ただ、創作だとしても、幕末の歴史ドラマとして緊迫する情勢を伝えるような構成になっており、悪くはなかったと考えています。恋愛要素も取り入れられており、普遍的な青春群像劇にもなっていて、娯楽歴史ドラマとして工夫されているのではないか、と思います。まあ、予定調和的というか、陳腐な感もありますが。声の大きな大河ドラマ愛好者は罵倒しそうですが、今のところ、本作は懸念していたよりも面白く、私はそれなりに楽しんで視聴を続けています。
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狩猟の違いがもたらしたかもしれない現生人類とネアンデルタール人の芸術活動の違い

2018/02/12 00:00
 これは2月12日分の記事として掲載しておきます。狩猟の違いが、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の視覚表現の違いに影響した可能性を論じた研究(Coss., 2018)が報道されました。現生人類は投槍を用いて狩猟を行ない、じゅうらいより安全に大型動物を狩ることができるようになりましたが、サハラ砂漠以南のアフリカにおける投槍の起源は279000年以上前までさかのぼる可能性があります(関連記事)。投槍は投槍器を用いることでさらなに威力が増加し、(獲物からより遠方で槍を投げられるようになるので)より安全に狩猟できるようになりますが、その起源については不明なところもあり、ヨーロッパでは5万〜4万年前頃に投槍器の使用が始まった、との見解も提示されています(関連記事)。

 一方、ネアンデルタール人が投槍を用いた確実な証拠は得られていません。しかし、フランスのノルマンディー地方で発見された226000〜183000年前頃の初期ネアンデルタール人もしくはその近縁集団の1個体は、日常的に投擲を行なっていたと推測されています(関連記事)。したがって、投槍器を用いていたわけではないとしても、ネアンデルタール人が槍を投げて狩猟を行なっていた可能性は低くないと思います。ただ、上述したように確実な証拠はないので、本論文は、ネアンデルタール人が獲物に接近して槍を突きさすような狩猟を行なっていた、との見解を前提としています。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人の狩猟対象の違いを指摘します。現生人類の起源地はアフリカですが、そのアフリカでは現生人類の狩猟対象となるような動物は警戒心が強く、現生人類はそれに対応した狩猟が要求されるようになります。これは、アフリカ起源の現生人類が更新世後期〜末期にかけて世界中へと拡散する過程で、大型動物の大量絶滅に地域的違いがあったことと関連しているかもしれません。

 更新世後期よりも前には現生人類どころかそもそも人類自体存在していなかったオーストラリア大陸(更新世の寒冷期にはニューギニアやタスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)やアメリカ大陸では、現生人類が拡散してきた頃に大型動物が大量に絶滅しており、ユーラシア大陸でも、現生人類の拡散以降に大型動物が絶滅しています。こうした大型動物の絶滅は、あるいは現生人類の拡散とさほど関係ないかもしれませんが、やはり、人類への警戒心の弱かった大型動物の多い地域で、高度な狩猟技術とじゅうらいよりも高い人口密度を有する現生人類の狩猟により絶滅していった、と考えるのが妥当だと思います。

 一方、アフリカでは、人類との共存期間が長かったためか、人類への警戒心が強い動物が多く、更新世後期〜末期にかけて大型動物の大量絶滅は見られません。たとえばシマウマは、ユーラシアの野生ウマほどには人類に接近しません。本論文は、ネアンデルタール人が狩猟対象とした動物もしくはその近縁種が完新世に現生人類の家畜になっていたことからも、それらは人類への警戒心が弱く、ネアンデルタール人はそうした動物に接近して槍を突きさすような狩猟をしていたのではないか、と指摘します。ネアンデルタール人社会において投槍が(ある程度は用いられていたとしても、現生人類ほどには)発展しなかったのは、狩猟対象となる動物の性質にも起因するのではないか、というわけです。

 一方、アフリカの現生人類は、人類への警戒心の強くなった動物を狩るために、狩猟方法を発展させていきます。本論文はその一例として投槍を重視し、投槍の威力を増すには視覚イメージ(槍がどのように飛んでいくか)と運動共同作用(槍を投げるための手・腕などの複数部位の一連の動き)の統合が強化される必要があることから、そのような選択圧が作用して視覚イメージと運動共同作用を統合する頭頂葉皮質が拡大し、ネアンデルタール人など他のホモ属には見られない、現生人類特有の球状の頭蓋が形成されていったのではないか、と推測しています。現生人類の脳は漸進的に球状になっていき、現代人の変異内に収まるようになった時期は100000〜35000年前頃ではないか、との見解も提示されています(関連記事)。

 本論文は、こうした投槍を用いるさいに必要な視覚イメージと運動共同作用を統合する能力は、具象的な線画を描く能力と類似しており、警戒心の強い動物への対処としての狩猟方法の革新が、ネアンデルタール人とは異なる現生人類の芸術活動を可能にしたのではないか、との見解を提示しています。ネアンデルタール人の所産と考えられる線刻はすでに報告されているので(関連記事)、単なる線刻(原初的・素朴な芸術)と具象的な線画との間に大きな違いを見出している、ということなのでしょう。確かに、ネアンデルタール人が具象的な線画を描いていた証拠は得られていないので、本論文の見解にも説得力はあると思います。ただ、更新世の現生人類で具象的な線画を残した集団は稀であり、具象的な線画の有無が、現生人類とネアンデルタール人との生得的な能力の違いに起因するのかというと、まだ検証が必要ではないか、と考えています。


参考文献:
Coss RG.(2018): Drawings of Representational Images by Upper Paleolithic Humans and their Absence in Neanderthals Might Reflect Historical Differences in Hunting Wary Game. Evolutionary Studies in Imaginative Culture, 1, 2, 15–38.
https://doi.org/10.26613/esic/1.2.46
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Alistair Horne『ナポレオン時代 英雄は何を遺したか』

2018/02/11 00:00
 これは2月11日分の記事として掲載しておきます。アリステア=ホーン(Alistair Horne)著、大久保庸子訳で、中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年12月に刊行されました。原書の刊行は2004年です。ナポレオンの伝記を読んだのは10代の頃で、それ以降はフランス史も含めて近代ヨーロッパ史の一般向け書籍くらいでしかナポレオンについての知見を得ていなかったので、ナポレオンに関する自分の情報を更新するために、読むことにしました。

 ただ、本書はナポレオンの伝記というよりは、ナポレオン時代のパリの様相を中心に、フランス、さらにはヨーロッパにおけるナポレオンの評価・影響を論じた評論といった感じで、ナポレオンに関する基礎知識を得るのには適していません。ある程度はナポレオンやフランス革命期〜帝政期にかけて知っている読者向けとなっています。その意味で、もう一度ナポレオンの伝記を再読してから本書を読むべきだったかもしれませんが、ナポレオンの生涯についてそれなりに記憶に残っていたので、大きく戸惑うことはありませんでした。

 解題ではナポレオンについて、「フランス革命の混乱を終息させ、かつ、革命の成果を取り入れつつ近代社会の基盤を築いた」と評価されていますが、的確だと思います。とくに高く評価されているのは、ナポレオン法典とも呼ばれる民法典の制定です。本書を読むと、ナポレオンは実利志向なところが多分にあり、それは対カトリックにおいて顕著でしたが、ナポレオン自身は独裁的で身勝手な人物だったとはいえ、結果的に旧体制とフランス革命的な潮流とを融合させたと言えるのかな、とも思います。

 ナポレオン自身は明らかにフランス革命の潮流から台頭してきた傑物でしたが、パリの上流階層出身ではなく、フランスでは辺境の地となるコルシカ島(ナポレオン誕生の数ヶ月前にフランス領になりました)出身でした。本書は、ナポレオンがフランス革命のなかで初めて台頭し得た人物(旧体制では出世はできなかったでしょう)ではあったものの、とくに女性観において、コルシカ島の価値観に深く染まっており、男女平等を志向する近代化とは反していたところが多分にあったことを指摘しています。

 このように、ナポレオンは単にフランス革命の潮流を象徴する人物とは言えず、複雑な個性が窺われます。しかし、改題でも指摘されているように、ナポレオンがヨーロッパにおける近代化の進展を促進していったことは間違いありません。その意味で、ナポレオンはやはりフランス革命の申し子とも言えるでしょう。改題では、近代化による国民意識の醸成・士気の高さなどが、フランス革命期〜ナポレオン時代初期のフランスの軍事的優位の基盤になっていったものの、ナポレオンがヨーロッパにおいて軍事遠征を繰り返し、ヨーロッパ諸国に近代的要素が拡散していくとともに、フランスの軍事的優位の基盤は失われていった、と指摘されています。
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濃い肌の色と青い目の1万年前頃のブリテン島の人類

2018/02/10 00:00
 これは2月10日分の記事として掲載しておきます。1万年前頃のブリテン島の人類の復元像について報道され、日本でも話題になっているようです。これは、1903年にイギリス南西部のサマーセット州チェダー渓谷(Cheddar Gorge)のゴフ洞窟(Gough's Cave)で発見された、1万年前頃の人類(男性)の男性の復元像です。1万年前頃の「イギリス(ヨーロッパ)人」が、濃い肌の色と青い目だったということで、日本では、白人至上主義者の反応に関心を示すなど、人種差別主義的な観点からこの報道に興味を抱いている人が一定以上は存在するようです。イギリスでも大騒ぎになっている、との情報もありますが、じっさいにイギリスでどこまで話題になっているのか、私は確認できていません。

 しかし、この復元像はこれまでの諸研究から予想範囲内のものであり、正直なところ、騒ぐほどのことだろうか、とかなり疑問が残ります。もちろん、研究者の間では常識になっていても、一般層にはほとんど知られていない、といった問題は珍しくないのでしょうが、更新世〜完新世初期のヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)の肌や目の色については、1回や2回どころではなく何度も報道されているはずで、当ブログでもそうした研究・報道をじゅうぶん追い切れていないのに、何度か取り上げているくらいです。

 ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。おそらくヨーロッパでは新石器時代に薄い肌の色が定着していったのでしょうが(関連記事)、その要因については、上記報道にあるように、農耕への依存度が高まり食事でのビタミンD摂取が困難になったことから、薄い色の肌の適応度が高くなった、との説明が有力視されています。肌の色は、薄い方が紫外線を通しやすくなります。人間は紫外線を浴びて体内でビタミンDを合成するので、紫外線量が少なくなる高緯度地帯では、ビタミンD合成のために肌の色が薄い方が有利となります。

 しかし、ビタミンD不足が原因のくる病がヨーロッパで顕著に見られるようになるのは19世紀以降であり、新石器時代にも魚から充分なビタミンDを摂取できたはずだから、ヨーロッパにおける薄い色の肌の定着は、寒さと凍傷への抵抗により薄い色の肌の方が適応度が高くなったからではないか、との見解も提示されています(関連記事)。ただ、他の要因も考えられ、青い目もそうですが、薄い色の肌も、ヨーロッパにおける定着にさいしては、直接的に生存率を上昇させるからというよりは、性選択的要因の方が大きかったのかもしれません。

 更新世末期までのヨーロッパにおいて、現生人類の肌の色は濃く、目は茶色だったのですが、ヨーロッパでは14000年前頃より現生人類の間で青い目が広がり始め、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)で発見された、14000〜7000年前頃の期間の現生人類男性は、復元されたチェダー男性と同じく、濃い色の肌と青い目を有していました(関連記事)。これはすでに2年前(2016年)にBBCでも報道されています。1万年前頃のチェダー男性の復元像は確かに視覚的に強い印象を人々に与えるのかもしれませんが、こうした経緯があるので、正直なところ、それほど大騒ぎするものなのだろうか、と疑問に思います。まあ、人類進化に興味を抱いてこなかった人種差別主義者にとっては、大騒ぎに値するのかもしれませんが。なお、ヨーロッパ人の明るい肌・目・髪と関連する、近隣した遺伝子HERC2とOCA2の多様体は100万年前頃にアフリカで出現した、と推定されています(関連記事)。
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トバ大噴火のアフリカ東部における影響は限定的

2018/02/09 00:00
 これは2月9日分の記事として掲載しておきます。74000年前頃のスマトラ島のトバ大噴火のアフリカ東部における影響を検証した研究(Yost et al., 2018)が報道されました。トバ大噴火による6年もの冷却効果(火山の冬)の影響は広範囲に及び甚大で、現生人類(Homo sapiens)の有効な集団規模は10000人以下にまで減少し、その後に急速に人口が増加するという、ボトルネック(瓶首効果)が生じたのではないか、とのトバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)が提示されており、一般層にも広く浸透しているようです。

 しかし、トバ大惨事仮説への批判は以前より根強く、このブログでも何度か取り上げてきました。南アジア南部では、トバ大噴火前後での人類の継続性が指摘されています(関連記事)。トバ大噴火の起きたスマトラ島でさえ、オランウータンがトバ大噴火後も生き延びていることから、トバ大噴火そのものは大型動物には大きな影響を及ぼさなかった、との見解も提示されています(関連記事)。ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析からも、トバ大噴火による現生人類のボトルネックとの仮説には否定的な見解が提示されています(関連記事)。また、スマトラ島の近隣のフローレス島でも、現生人類とは異なるホモ属種(Homo floresiensis)が、トバ大噴火の前後で継続して存続していたと考えられます(関連記事)。

 一般層にも定着した感のあるトバ大惨事仮説ですが、このように、批判は少なくないようです。この研究は、アフリカ東部のマラウイ湖(Lake Malawi)の堆積物コアを分析し、アフリカ東部においてトバ大噴火の影響がどの程度だったのか、推定しています。この研究は、マラウイ湖の100万年前までさかのぼる堆積物コアのうち、トバ大噴火の前100年〜その後200年の計300年ほどの期間のものを分析しました。堆積物コアは、3mm〜4mm(8〜9年)単位で分析されました。

 堆積物コアのプラントオパールと木炭の分析の結果、低地帯においては、より温暖な気候で成長する草もより寒冷な気候で成長する草も、トバ大噴火の前後で大きな変化は見られませんでした。山地の植物では枯死が相次いだことを示唆する証拠が得られましたが、火山の冬があったことを示すほどではない、と指摘されています。これらの分析結果は、トバ大惨事仮説の想定とは大きく異なりますが、この研究は、トバ大惨事仮説で想定されたほど二酸化硫黄の噴出量は多くなく、スマトラ島と同じく現在はインドネシア領のスンバワ島で紀元後1815年に起きたタンボラ山大噴火と同じ程度の規模だったのではないか、と推定しています。

 この研究は、これまでの遺伝学的知見と新たに得られた古環境データから、トバ大惨事仮説で想定されているような、アフリカ東部における6年の冷却効果はなく、アフリカの現生人類のボトルネックもしくは絶滅の危機は起きなかっただろう、との見解を提示しています。トバ大惨事仮説は一般層にも根強く浸透しているようですが、トバ大噴火の人類への影響は、想定されていたほどには大きくなく、現生人類のボトルネックがあったとしても、トバ大噴火が要因ではなかったのでしょう。


参考文献:
Yost CL. et al.(2018): Subdecadal phytolith and charcoal records from Lake Malawi, East Africa imply minimal effects on human evolution from the ∼74 ka Toba supereruption. Journal of Human Evolution, 116, 75–94.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2017.11.005
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イタリアで発見された中期更新世後期の木製道具

2018/02/08 00:00
 これは2月8日分の記事として掲載しておきます。中央イタリアのトスカーナ州グロッセート市のポゲッチヴェッチ(Poggetti Vecchi)で発見された木製道具に関する研究(Aranguren et al., 2018)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。ポゲッチヴェッチでは、温水プールの建設工事中の2012年に、58本の木製棒・約200点の石器・おもに絶滅した象(Palaeoloxodon antiquus)から構成されている動物化石群が発見されました。年代は、中期更新世後期となる171000年前頃と推定されており、海洋酸素同位体ステージ(MIS)6初期となります。

 材木は分解されやすいので、更新世の木製道具の発見はきわめて稀です。その意味で、17万年前頃となるポゲッチヴェッチ遺跡で発見された58本の木製棒はたいへん貴重な事例だと言えるでしょう。これらの木製棒は、ほとんどがセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)から製作されています(オーク・トネリコ・セイヨウネズ製のものもあります)。セイヨウツゲはヨーロッパで最も重くて堅い木材で、木製道具の材料として適しています。これらの木製棒は長さが1mを超えており、一端が丸みを帯びてハンドル状になっており、もう一端は尖っていました。この研究は、これらの木製棒が狩猟採集民社会で一般的に用いられている「掘棒」だと推測しています。掘棒は多目的道具で、土を掘って植物を集めたり、小さな獲物を狩ったりするのに用いられており、現在でも南アフリカやオーストラリアの狩猟採集民集団では使われています。

 これらの木製棒には直線状の細い溝があり、石器で加工されたと考えられます。注目されるのは、いくつかの木製棒には焦げた痕跡があることです。木製棒と共伴した石器や動物化石には燃焼の痕跡がなかったことから、木製棒は意図的に火で処理された、と考えられています。これは、道具製作に火を用いた証拠として最古の事例となりそうです。この研究は、火を使用して樹皮を剥ぎ取り、道具製作の労力を軽減したのではないか、と推測しています。木製道具として適切な材木を選択し、火を制御して使用して道具製作の労力を軽減したと考えられることから、これらの木製棒を製作した人類集団の認知能力はかなり高かったと考えられます。

 では、この木製棒の製作者はどの人類系統なのか、という問題なのですが、この研究は、当時のヨーロッパにおける人類分布から推測して、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)である可能性が高い、との見解を提示しています。そうだとすると、適切な材料の選択と効果的な火の使用から、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)の(少なくともある側面での)認知能力の類似性の証拠になりそうです。これまで、ネアンデルタール人が火を制御して使用した最古の証拠は13万年前頃とされていましたが、それがさかのぼることになります。

 もっとも、これはさほど意外ではないと思います。おそらく、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先は、ある程度は火を制御して使っていたと思われます(関連記事)。ただ、人類化石が共伴していないので、これらの木製棒の製作者がネアンデルタール人だと確定したわけではない、との慎重な見解も見られます。たとえば、現生人類はすでに18万年前頃にレヴァントにまで拡散していた可能性がある、というわけです(関連記事)。今後は、人類化石が共伴した類例の発見が期待されます。


参考文献:
Aranguren B. et al.(2018): Wooden tools and fire technology in the early Neanderthal site of Poggetti Vecchi (Italy). PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1716068115
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大河ドラマ『西郷どん』第5回「相撲じゃ!相撲じゃ!」

2018/02/07 00:00
 これは2月7日分の記事として掲載しておきます。島津斉彬が新たな薩摩藩主となりますが、斉彬は父の斉興に重用され、その側室のお由羅に迎合していた家臣団を処罰せず、斉興により処罰された家臣団を赦免しない、と宣言します。斉彬は現実主義者でもある、ということなのでしょう。西郷吉之助(隆盛)や、父が流罪となった大久保正助(利通)やその他斉彬派の下士層は憤慨し、代替わりの御前相撲で勝ち進み、斉彬の前で斉興に処罰された家臣団の赦免を申し出ようとします。

 今回も薩摩藩下士層の青春群像劇を中心に薩摩藩上層部の政治模様も描かれ、恋愛要素も取り入れられて長期の娯楽歴史ドラマとしてなかなか工夫されていると思います。まあ、歴史ドラマとしても普遍的な物語としても抜群に面白いわけではありませんが、最終回まで視聴を続けようと思うくらいには面白くなっています。今回は於一(篤姫、天璋院)が初登場となります。かつて、演者が主演の時代劇映画を視聴して、あまりにも大根だったので唖然としました。於一は明治編では最終回のみの登場でしょうが、幕末編では最後までそれなりに登場しそうなので、本作最大の地雷になるのではないか、と懸念していました。しかし、台詞が少なかったこともあり、今回の演技は懸念していたほどには悪くなかったと思います。ただ、台詞が多い場面はやはり心配ではありますが。
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チンパンジーとゴリラのナックル歩行は収斂進化

2018/02/06 00:00
 これは2月6日分の記事として掲載しておきます。現代人も含めた霊長類の大腿骨を比較した研究(Morimoto et al., 2018)が報道されました。日本語の解説記事もあります。現代人と最も近縁な現存生物は大型類人猿です(現代人も大型類人猿の1種と言えますが)。現生大型類人猿で現代人と近縁なのはチンパンジー属(Pan)で、その次がゴリラ属(Gorilla)、その次はオランウータン属(Pongo)です。つまり、現代人・チンパンジー・ゴリラ・オランウータンの最終共通祖先からまずオランウータン系統が、次に現代人・チンパンジーの共通祖先系統とゴリラの祖先系統が、その次に現代人の祖先系統とチンパンジーの祖先系統が分岐しました。その後、チンパンジーの系統はチンパンジー(Pan troglodytes)とボノボ(Pan paniscus)の系統に分岐しました。

 現生チンパンジーと現生ゴリラの移動様式はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)です。上記の分岐順からは、現代人・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の移動様式はナックル歩行だった、と考えるのが節約的であるように思えます(ナックル歩行仮説)。しかし、この問題に関しては議論が続いており、近年では、現代人・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の移動様式はナックル歩行ではなかった、との見解が有力になりつつあるように思います(関連記事)。現代人・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先は「普通のサルのような四足歩行」をしていたのではないか、というわけです。ただ、そうだとすると、チンパンジーとゴリラのナックル歩行は収斂進化となります。収斂進化は進化史においてきょくたんに珍しいわけではないとしても、現生チンパンジーと現生ゴリラの移動様式は一見すると類似しているので、収斂進化だという具体的証拠が提示される必要があります。

 この研究は、現代人・チンパンジー・ゴリラ・オランウータン・ニホンザル(Macaca fuscata)を対象に、ナックル歩行仮説が妥当なのか、検証しました。この研究は、運動機能の要となる骨格形態の発生パターン(新生児から成体への骨格の形成過程)に着目し、X線CT(コンピューター断層)データを用いた独自の形態解析手法により、これまでにない精度で詳細に分析しました。ナックル歩行仮説が正しいならば、現生類人猿の大腿骨の発生パターンには、共通祖先から受け継いだ共通点があると予想されます。

 しかし、分析・比較結果は、「ナックル歩行仮説」を否定するものでした。歩行様式の観察と、全体的に類似したように見える骨格形態から、チンパンジーとゴリラの大腿骨の発生パターンは似ていると予想されていましたが、じっさいは著しく異なることが明らかになりました。この結果は、直立二足歩行はチンパンジーやゴリラのようなナックル歩行者ではなく、「(たまに立ち上がって二足歩行をする)普通の四足」の類人猿から進化したのであり、チンパンジーとゴリラのナックル歩行は収斂進化だった、という仮説を支持します。

 さらに、現代人は、他の霊長類にはない特異的な大腿骨の発生パターンを示すことも明らかになりました。現代人においては効率的な二足歩行のために後肢が長くなっていますが、どのようにして脚を伸ばしたのか、その発生基盤についてはよく分かっていませんでした。現代人は大型類人猿と比較して成長期間が長いのですが、それに対応して、大腿骨の形が成体型へ移行する時期が他の霊長類よりも遅くなっている、と示唆されました。これは、人類の直立二足歩行の起源を明らかにするうえで、たいへん重要な知見と言えそうです。

 現代人・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の移動様式に関する今後の研究の課題として、本論文では大腿骨という骨格形態の一部のみが対象になっている、と指摘されています。また、本論文では化石資料が検証対象になっていないことも、今後の研究課題として挙げられています。化石資料は現存生物と比較してきょくたんに少なくなってしまいますが、人類も含めて大型類人猿の移動様式がどのように進化してきたのか、高い信頼性で推測するためには、少なからぬ化石資料が必要でしょう。この研究は大いに注目されるものであり、化石資料は容易に増えないものではありますが、今後の研究の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Morimoto N. et al.(2018): Femoral ontogeny in humans and great apes and its implications for their last common ancestor. Scientific Reports, 8, 1930.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-20410-4
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南アジアにおける中部旧石器文化的石器(追記有)

2018/02/05 00:00
 これは2月5日分の記事として掲載しておきます。南アジアにおける中部旧石器文化的石器についての研究(Akhilesh et al., 2018)が報道されました。これまで、南アジアにおける下部旧石器時代のアシューリアン(Acheulian)から中部旧石器時代への移行は14万〜9万年前頃に起きたと考えられており、アフリカ起源の現生人類(Homo sapiens)のユーラシアへの早期拡散と関連づけられていました。この研究は、インド南東部のチェンナイ市から60km離れたアッティラムパッカム(Attirampakkam)遺跡で発見された中部旧石器文化的な石器群を報告しています。

 アッティラムパッカム遺跡では、177万〜102万年前頃の下部旧石器文化となる握斧が発見されています。その上層で中部旧石器文化的な石器群が発見されており、年代は385000±6400〜172000±4100年前と推定されています。これは、南アジアでは最古の中部旧石器的文化となります。アッティラムパッカム遺跡では38万年前頃より、両面加工石器の段階的な不使用・小さな石器の優勢・特有で多様なルヴァロワ(Levallois)石器技術の剥片と尖頭器の出現・石刃要素などが見られ、先行するアシューリアンの大きな剥片技術からの顕著な変化が確認される、とこの研究は指摘しています。ただ、この中部旧石器文化的な石器群は、完全な中部旧石器というよりは、アシューリアンの下部旧石器から中部旧石器への移行的な石器群ではないか、との見解も提示されています。

 この研究は、南アジアにおける中部旧石器文化をアフリカ起源の現生人類の早期の拡散と関連づける見解の見直しを提言しています。しかし、この研究も認めるように、そもそもこの時期以前の南アジアの人類化石はきわめて乏しく、アッティラムパッカム遺跡の中部旧石器文化的な石器群の担い手がどの人類系統なのか、現時点では不明です。アッティラムパッカム遺跡では、下部旧石器から中部旧石器的な石器群への移行の間に、人類の痕跡の確認されていない長い中断期間(102万〜38万年前頃)があるのですが、この時期に南アジアの他地域では下部旧石器が確認されているので、理由は不明ながら、アッティラムパッカム遺跡周辺から人類が撤退したのではないか、と推測されています。

 アッティラムパッカム遺跡の38万〜17万年前頃の石器群をどう位置づけるのか、今後も議論は続きそうですが、中部旧石器文化的な石器群が38万年前頃に南アジアに存在した可能性は高そうです。この研究も認めるように、その担い手は不明で、他地域からの影響の有無・程度もまだ想像の域を出ません。ルヴァロワ技術はアフリカ南部で50万年以上前までさかのぼる可能性があり(関連記事)、コーカサスでは33万年前頃までさかのぼると確認されていますから(関連記事)、アッティラムパッカム遺跡の38万〜17万年前頃の石器群は、アフリカ起源のホモ属集団が西アジアから南アジアへと拡散し、先住のホモ属集団との融合の過程で発達していった地域的な中部旧石器的文化なのかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です(引用1および引用2)。


【考古学】人類の進化に関する重要学説の再考を促す人工遺物がインドで出土

 インドにいたヒト族が中期旧石器時代の文化を生み出したのは約38万5000年前で、これまで考えられていた年代よりかなり前だったという見解を示した研究論文が、今週掲載される。この新知見は、アフリカで誕生した初期人類が世界各地に拡散したとする従来の仮説の再検討を促すものとなる可能性がある。

 ヒト族は、少なくとも170万年前にアフリカから世界各地に移動した際、アシュール文化に特徴的な技術である握斧(ハンドアックス)を持ち出した。当時の骨格材料が極めてまれなため、ユーラシアでの人類の進化は、道具類の変遷を通じて明らかにされてきた。今回、Shanti Pappuたちの研究グループは、インド南部のアッティランパッカム遺跡から出土した7000点以上の石器を調べ、アシュール文化の技術から中期旧石器時代の技法(例えば、ルバロワ文化独自の石を砕く技術)への移行を総合的に実証した。以上の新知見から、約38万5000年前のインドで中期旧石器時代の文化が生まれたことが示唆された。中期旧石器時代の文化は、これとほぼ同時代にアフリカとヨーロッパで発達したことが知られている。

 ヨーロッパとアフリカ以外の地域で中期旧石器時代への移行を解明することは、ユーラシアにおけるヒト族の生活と時代、特にアフリカでの解剖学的な現生人類の出現とその後のアフリカからの移動に関する研究にとって極めて重要だ。今回の研究で得られた新知見は、現生人類がアフリカから移動して中期旧石器時代の技術を伝播させるはるか以前に、インドで本格的な中期旧石器時代の文化が存在していたことを示唆している。このことは、アフリカからの移動がこれまで考えられていた時期より前のことであったか、インドでの中期旧石器時代の発達に地域的な影響が関与していたのか、あるいはその両方であったことを暗示している可能性がある。


人類学:約38万5000〜17万2000年前のインドに中期旧石器時代前期の文化が存在したことによる出アフリカモデルの見直し

人類学:アフリカを出てアジアへ

 ホモ・エレクトス(Homo erectus)やその近縁種からなるヒト族は、170万年以上前にアフリカを離れた際、「アシュール文化の握斧」として知られる特徴的な石器を持ち出した。その後のユーラシアにおけるヒトの進化は、骨格標本が極めて少ないために、使用されていた石器の変化、とりわけ、アシュール文化の技術から中期旧石器時代(アフリカでは「中期石器時代」として知られる)の技術への漸進的な移行として表される場合が多い。アフリカおよびヨーロッパの外での中期旧石器時代への移行は、ユーラシアでのヒト族の生活、そして特に、解剖学的現生人類の出アフリカとそれに続く移動を理解する上で極めて重要である。インドではこれまで、限られた証拠しか発見されていなかったが、S Pappuたちは今回、インド南部のアッティランパッカム遺跡から得られた新たなデータを提示している。遺跡の年代から、インドでは中期旧石器時代が約38万5000年前に始まったことが示唆された。この年代は、ヨーロッパやアフリカで見いだされている中期旧石器時代の始まりの年代と同時期であり、インドでの中期旧石器時代への移行が、現生人類の南アジアへの広がりに関する従来の説で示唆されている年代をはるかにさかのぼることを示している。



参考文献:
Akhilesh K. et al.(2018): Early Middle Palaeolithic culture in India around 385–172 ka reframes Out of Africa models. Nature, 554, 7690, 97–101.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25444


追記(2018年2月2日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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石野裕子『物語 フィンランドの歴史 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』

2018/02/04 00:00
 これは2月4日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年10月に刊行されました。本書はフィンランドの通史で、基本的にはスウェーデンの支配下以降の時期が対象となっています。新石器時代や更新世についてもわずかに言及されており、フィンランド西部で4万年以上前のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の痕跡が1980年代に発見された、との興味深い記述もあるのですが、北緯53度よりも北方では明確なネアンデルタール人の遺跡は発見されていないので(関連記事)、本書で紹介されているフィンランドのネアンデルタール人も、広く認められているわけではないのでしょう。

 本書の特徴は、フィンランドがスウェーデンおよびロシアの支配下にあった時代の記述もそれなりに分量があることです。スウェーデンの統治期間は長かったこともあり、知識層の主要な言語はスウェーデン語で、フィンランドはスウェーデンの影響を大きく受けたようです。19世紀初めにフィンランドの支配国はスウェーデンからロシアに変わり、約100年間フィンランドはロシア帝国の一地域でした。ヨーロッパで近代化が進展するこの時期に、フィンランド人という意識が形成・確立されていきました。言語・国民意識の形成という近代国家成立のさいの各地の苦悩はフィンランドでも見られ、当然ではありますが、近代化が多大な苦労・犠牲のうえに進展したことを改めて認識させられます。

 ロシアのフィンランド統治は、19世紀後半までは比較的緩やかだったようで、フィンランド史にもロシア史にも詳しくない私にとっては、やや意外でした。しかし、19世紀後半にはロシアによるフィンランドのロシア化が進められていきます。この背景として、統一ドイツ出現への警戒がロシアにあった、と指摘されています。1914年に第一次世界大戦が勃発し、1917年にロシア革命が起き、10月革命後にフィンランドは独立を宣言し、ロシアに新たに成立したボリシェヴィキ政権はフィンランドの独立を承認します。しかし、独立後のフィンランドの歩みは苦難の連続で、独立前からの左右勢力の対立は内戦に発展しますが、外国勢力の干渉がありつつも、内戦は長期化することなく終結します。

 この内戦を経て、フィンランド社会は次第に安定していき、政党政治も確立します。しかし、ドイツとロシア(ソ連)の二大勢力に挟まれたフィンランドは大国の思惑に翻弄されていき、第二次世界大戦勃発後、ドイツと不可侵条約を締結したソ連に攻め込まれます。この冬戦争でフィンランドは圧倒的に国力が上のソ連相手に善戦するものの、けっきょくは講和します。その後、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込むと、フィンランドはドイツに協力するようになります。フィンランドでは、冬戦争から独ソ戦でのドイツとの提携によるソ連との戦いは一連の祖国防衛戦争として認識されていましたが、独ソ戦以降のソ連との戦いでは、フィンランド側に領土拡大の意図があった、と指摘されています。

 独ソ戦がドイツに不利な状況となると、フィンランドはソ連との講和を余儀なくされ、第二次世界大戦後はソ連の影響を強く受けるようになります。しかし、東ヨーロッパ諸国とは異なり、フィンランドはソ連支配下の社会主義国にはなりませんでした。ソ連に配慮しつつ、決定的な内政干渉を避けてきた、冷戦期におけるフィンランドの現実主義的で巧みな外交には感銘を受けます。冷戦崩壊以降、フィンランドは西側世界に接近してEUにも加盟し、先進国の一員としての地位を確たるものとします。本書は政治史に重点を置いており、文化史への言及は見られるものの、経済・社会問題への言及は少なく、その点はやや残念でした。しかし、気軽に読めるフィンランド通史の入門書として、文句なしにお勧めの一冊になっているのではないか、と思います。
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中石器時代〜青銅器時代の北ヨーロッパの人類の古代DNA解析

2018/02/03 00:00
 これは2月3日分の記事として掲載しておきます。中石器時代〜青銅器時代の北ヨーロッパの人類のDNA解析に関する研究(Mittnik et al., 2018)が報道されました。この研究は、北ヨーロッパにおける中石器時代〜青銅器時代の人類遺骸のDNAを解析し、バルト海地域における人類集団の移住と継続性について検証しています。対象となるのは、較正年代では紀元前7500〜紀元前500年前頃の106人の人類遺骸です。このうち、41標本のDNAの保存状態は良好で、38標本でゲノム規模の一塩基多型解析データが得られました。対象となった一塩基多型領域の網羅率は平均で0.02〜8.8倍です。

 スカンジナビア半島へと拡散した人類は、まず間違いなく現生人類(Homo sapiens)のみで、その年代は11000年前頃までさかのぼります。以前の研究でも指摘されていたように、スカンジナビア半島の最初期の人類は、ロシア北西部のカレリア(Karelia)での存在が確認されている東方狩猟採集民集団と、イベリア半島〜ハンガリーまでの西方狩猟採集民集団双方の混合だと推測されています(関連記事)。さらに、中石器時代のリトアニアの狩猟採集民は遺伝的には、地理的に近い東方狩猟採集民集団ではなく、西方狩猟採集民集団とたいへんよく類似していたので、スカンジナビア半島へは、西方狩猟採集民集団が南方から、東方狩猟採集民集団が北回りで拡散してきた、と考えられています。スカンジナビア半島への最初期の人類集団の移住経路は二通りあった、というわけです。西方狩猟採集民集団は、南方からバルト海地域東部まで拡散したことになります。

 スカンジナビア半島での農耕の始まりは南部からで、中央ヨーロッパよりも1000年ほど遅れて6000年前頃となります。バルト海地域東部では、さらに1000年ほど、狩猟採集や漁撈のみに依存した生活が続きました。最初期のスカンジナビア半島の農耕民は、中央ヨーロッパ経由のアナトリアの農耕民に起源がある、との以前からの見解が、この研究でも改めて支持されました。ヨーロッパでは、先住の狩猟採集民がアナトリア半島からヨーロッパへと移住してきた初期農耕民にゆっくりと同化されていった、との見解が提示されています(関連記事)。中央ヨーロッパでも、新石器時代中期になると、最初期農耕民と先住の狩猟採集民集団との間での交雑が進行していました。しかし、スカンジナビア半島においては、すでに初期農耕民において先住の狩猟採集民集団との交雑の痕跡が強く残っています。

 バルト海地域東部においては、紀元前2900年頃より、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯(ポントス-カスピ海草原)から遊牧民が拡散してきて、大きな遺伝的・文化的影響を及ぼします。この遊牧民集団は、ヨーロッパに初期農耕をもたらしたアナトリアの農耕民集団の遺伝的影響を受けていない、と推測されています。この遊牧民集団は中央ヨーロッパおよびスカンジナビア半島の農耕民とは大規模には交雑しませんでしたが、青銅器時代の初期より、バルト海地域東部ではこの遊牧民集団と先住の狩猟採集民集団との交雑の割合が増加していきます。この研究は、狩猟採集から農耕、さらには新石器時代から青銅器時代といった文化の移行期において、各地域で人類集団の交雑・継続・置換の様相には違いがあったことを指摘しており、なかなか興味深いと思います。


参考文献:
Mittnik A. et al.(2018): The genetic prehistory of the Baltic Sea region. Nature Communications, 9, 442.
http://dx.doi.org/10.1038/s41467-018-02825-9
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大河ドラマ『西郷どん』第4回「新しき藩主」

2018/02/02 00:00
 これは2月2日分の記事として掲載しておきます。今回は前回後半に続いて薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)が描かれました。この騒動で西郷吉之助(隆盛)たちの師である赤山靱負に切腹命令が下されます。吉之助たちは島津斉彬の異母弟である島津久光に助命を嘆願しますが、自分にはそんな力はない、と久光は拒絶します。吉之助の久光への嫌悪はこの時に芽生えた、という設定でしょうか。一方、吉之助と共に久光に嘆願した大久保正助(利通)は、後に久光の側近として台頭します。この対応の違いは、吉之助と正助の個性の差ということなのでしょう。赤山靱負は切腹し、吉之助の父である吉兵衛が介錯しました。赤山靱負の切腹後も斉彬寄りとみなされた家臣への粛清は続き、正助の父である次右衛門は島流しとなります。

 吉之助は斉彬に書状を送り続け、それらを読んで決意を固めた斉彬は、江戸幕府老中の阿部正弘を通じて父である斉興を隠居に追い込もうとします。斉興は抵抗しますが、斉彬の気迫に負けて隠居を決意します。今回は薩摩藩のお家騒動が藩の下層と上層を舞台に描かれ、西郷隆盛が主人公の大河ドラマの序盤として、悪くはないと思います。青春群像劇的性格もあり、普遍的な物語としての面白さもあると思います。まあ、斉興と斉彬のロシアンルーレット対決はさすがにやり過ぎた感があり、声の大きな大河ドラマ愛好者が派手に批判しそうですが。
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大相撲初場所千秋楽

2018/02/01 00:00
 これは2月1日分の記事として掲載しておきます。今場所は、三横綱のうち白鵬関と稀勢の里関が途中休場となり、3場所連続で一人横綱となってしまいました。進退のかかった鶴竜関は10日目まで全勝で、このまま独走して優勝するのかと思っていたら、11日目から4連敗し、栃ノ心関が14日目に初優勝を決めました。鶴竜関は昨年(2017年)5場所で休場し、4場所連続休場明け、しかも直近2場所は全休だっただけに、相撲勘が戻っておらず、一度歯車が狂うと修正が難しかったのでしょうか。また、長期休場の影響か、終盤に入って息切れしたのかもしれません。

 まあそれでも、鶴竜関は、今後1年は横綱としてやっていけるのではないかな、と思います。と言いますか、今場所も途中休場してしまった稀勢の里関はおそらく来場所で引退となるでしょうし、白鵬関はまだ現役最強とはいえ、もう毎場所優勝争いに絡むだけの力は残っていないでしょうから、横綱・大関陣と関脇以下との力の差がまだはっきりある現状では、鶴竜関にはもう少し横綱として頑張ってもらわねばなりません。鶴竜関は終盤の4連敗で再び自信を喪失してしまったかもしれませんが、上位陣が衰え、関脇以下との地力の差はまだあるだけに、もう1年は引退勧告を受けないくらいの成績を残せると思います。

 序盤で途中休場となった白鵬関は、先場所から続く非難で精神的に追い詰められていたのかもしれず、とくに立ち合いについて注文をつけられたことは、調子が狂う要因になったと思います。しかし、大横綱だけに、来場所以降は修正してきて、しばらくは現役最強の座を譲らないでしょう。白鵬関の立ち合いについては、張り差しは横綱として相応しくない、と私は考えていますが、これはとくに非難するほどではないと思います。問題はかち上げの方で、これは過去の横綱も用いてきたかち上げというよりは肘打ちで、反則扱いでもよいのではないか、とも思います。しかも、白鵬関はかち上げ(というより肘打ち)をする右肘をサポーターで厚く保護しており、これはかつて板井関が手に分厚くテーピングを巻いて張り手をしていたのと同様で、批判されて当然だと思います。この件に限らず、汗を拭かないことや駄目押しなど、白鵬関の土俵態度に問題が大きいことは否定できません。白鵬関への批判を、単に「人種差別」が原因と考えてはならないでしょう。ただ、過去の横綱、それも角界で絶賛されているような大横綱の所業を考えれば、貴ノ岩関への暴行の件を考慮に入れたとしても、白鵬関は過去の大横綱(や名横綱)と比較して品格に欠ける、との批判は的外れだと私は考えていますが。

 大関二人のうち、豪栄道関は大関の地位を保つので精一杯といった感もありますが、上位陣が衰え、関脇以下の若手がまだ成長していないので、今年どこかで優勝できる可能性もあると思います。高安関は大関に昇進して初めて二桁勝利に到達しましたが、横綱に昇進できるだけの実力、とくに安定性に欠けています。しかし、上位陣が衰えてきているだけに、今年初優勝を達成する可能性は低くないでしょう。稀勢の里関はおそらく来場所で引退となるでしょうから、部屋頭としての自覚をもつと、あるいは横綱に昇進するかもしれません。

 栃ノ心関が14日目に初優勝を決めたのは本当に意外でした。新入幕の頃から栃ノ心関を応援し続けてきましたが、最近では、年齢からしてもう上がり目はなさそうですし、三役で勝ち越すのも難しくなってきたのかな、とも思っていました。しかし、上位陣が不調だったとはいえ、平幕上位で14勝1敗での優勝は見事だと思います。贔屓の力士が大怪我から復帰しての優勝だけに、本当に嬉しいものです。栃ノ心関の年齢と膝の状態を考えると、大関昇進は難しそうですが、もう1回くらい優勝してもらいたいものです。栃ノ心関は速さと上手さを兼ね備えた地力のある力士を苦手としているので、今場所の優勝は、日馬富士関の引退と白鵬関の途中休場が幸いしたことは確かでしょうが、それを考慮に入れても、相撲内容はよかったと思います。

 栃ノ心関とともに応援してきた逸ノ城関は、先場所の内容から復活してきたのかな、と思っていましたが、今場所は中盤以降の相撲内容がよかったので、来場所の活躍も楽しみです。白鵬関の「威信」低下でのびのびと相撲をとれるようになったのでしょうか。またしても一人横綱の場所となってしまいましたが、栃ノ心関の初優勝と逸ノ城関の復調で、今場所の結果にはかなり満足しています。ただ、もう一人応援していた大砂嵐関に関しては、たいへん残念なことになってしまいましたが・・・。
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現生人類の脳の形状の進化

2018/01/31 00:00
 これは1月31日分の記事として掲載しておきます。現生人類(Homo sapiens)の脳の形状の進化に関する研究(Neubauer et al., 2018)が報道されました。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など絶滅した古代型ホモ属と現代人の脳の形状の重要な違いは、現代人の脳の球状性です。現代人の脳は球状というか、高さがあり額が目立つようになっている一方で、古代型ホモ属の脳は前後に長く、平坦というか低い形状になっています。このような違いは胎児期および誕生後初期に生じ、遺伝的な基盤があると考えられます。また、現代人の頭蓋は華奢なのにたいして、古代型ホモ属の頭蓋は頑丈です。

 現代人では脳が球状となり、頭頂葉と小脳が膨らんでいます。頭頂葉領域は、適応・注意・刺激の知覚・動作の変化・視空間統合・自己認識・作業記憶および長期記憶・数値処理の基礎的過程・道具の使用などに関連しています。小脳は移動とバランスの調整のような動作関連機能だけではなく、空間処理・作業記憶・言語・社会的認知・感情処理とも関連しています。脳の形状の進化は、認知能力の進化とも大きく関わっている可能性があるわけですが、そうした見解は、ネアンデルタール人や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)のようにゲノム解析されている古代型ホモ属と現代人との比較で、脳組織の形成に関連する遺伝子の違いが見られるとの遺伝学的知見と整合的と言えるかもしれません。

 では、現生人類系統においていつ球状の脳が進化していったのか、という問題をこの研究は検証しています。この研究は、現代人と古代の現生人類の頭蓋内鋳型を、広義のエレクトス(Homo erectus)やハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)やネアンデルタール人といった絶滅した古代型ホモ属のそれと比較しました。古代の現生人類は、第1段階(30万〜20万年前頃)・第2段階(13万〜10万年前頃)・第3段階(35000年前頃以降)に区分されました。

 その結果、現生人類系統の脳容量は、すでに第1段階、もっと詳しく言えば30万年以上前のアフリカ北部の現生人類的な化石(関連記事)において、現代人の変異内に収まっていました。しかし、頭蓋の形状は第3段階になって初めて現代人の変異内に収まるようになりました。脳サイズの増大と脳の形状の進化は独立していた、というわけです。現生人類系統の頭蓋の形状は、第1段階ではエレクトスやネアンデルタール人など古代型ホモ属と現代人との中間に位置していたものの、第2段階では現代人の変異内の周辺に位置し、第3段階では現代人の変異内に収まりました。この研究は、現生人類系統において100000〜35000年前頃の間に、脳の形状は現代人の変異内に収まるようになったのではないか、と推測しています。

 球状になるような現生人類の脳の形状の進化は漸進的だったと考えられ、これは認知能力の漸進的進化を示唆しており、考古学的記録から窺える行動の「現代性」の漸進的な出現とも整合的だ、との見解をこの研究は提示しています。つまり、神経学仮説(大躍進説、創造の爆発説)で想定されているような、短期間での認知能力の進化により「現代的行動」が急速に出現・拡散したのではなく、「現代的行動」の基盤となる認知能力の進化は漸進的であり、「現代的行動」も漸進的に出現していった、というわけです。なかなか興味深い見解で、今後は比較対象をさらに増やしての検証の進展が期待されます。


参考文献:
Neubauer S, Hublin JJ, and Gunz P.(2018): The evolution of modern human brain shape. Science Advances, 4, 1, eaao5961.
http://dx.doi.org/10.1126/sciadv.aao5961
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古代DNA解析に基づく更新世ユーラシアの現生人類史

2018/01/30 00:00
 これは1月30日分の記事として掲載しておきます。古代DNA解析に基づき、おもに更新世ユーラシアの現生人類史を検証した研究(Yang, and Fu., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。近年では古代DNAの解析数は着実に増加しており、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など更新世に絶滅した古代型ホモ属とは異なり、完新世も対象になることから、現生人類の古代DNAの解析数は激増していると言えるでしょう(関連記事)。この研究は、おもに更新世を対象として、アメリカ大陸やアフリカ大陸の現生人類の古代DNA解析結果も参照しつつ、45000〜7500年前頃のユーラシアにおける現生人類集団の分布と現代人との関連を検証しています。

 この研究は、対象となる時期を、45000〜35000年前頃の第1期、34000〜15000年前頃の第2期、14000〜7500年前頃の第3期に区分しています。ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された若い男性は、現代ヨーロッパ人と近縁とされていますが(関連記事)、この時期のヨーロッパ人には、後世のヨーロッパ人とは異なり「基底部ユーラシア人」集団の遺伝的影響は見られません。「基底部ユーラシア人」とは、まだ化石では確認されていない仮定的な系統で、出アフリカ後の現生人類(Homo sapiens)集団で最初に分岐してネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けず、もう一方の系統は、ネアンデルタール人の遺伝的影響を多少受けつつ、その後に現代につながる各地域集団に分岐していった、と想定されています(関連記事)。

 北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)遺跡で発見された男性は、現代および古代のヨーロッパ人よりも現代東アジア人および現代アメリカ大陸先住民の方と近縁でしたが、ベルギーで発見された現生人類との近縁性も指摘されています(関連記事)。一方、ロシアのウスチイシム(Ust'-Ishim)で発見された男性の現生人類や(関連記事)、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された現生人類「Oase 1」は(関連記事)、現代には子孫を残していない集団に属していたと考えられています。第1期のユーラシアには、現代東アジア人とより近縁な集団・現代ヨーロッパ人とより近縁な集団・現代への遺伝的影響がほとんどなさそうな集団・基底部ユーラシア人集団という、少なくとも4集団が存在していただろう、とこの研究は推測しています。

 第2期には、ヨーロッパの集団は現代ヨーロッパ人と、東アジアの集団は現代東アジア人とより類似していき、現代東アジア人系統と現代ヨーロッパ人系統との分離は4万年前頃までに起きたのではないか、とこの研究は推測しています。南中央シベリアのマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された少年(MA-1)は東アジア人よりもヨーロッパ人の方と近縁で、アメリカ大陸先住民とも密接に関連していました(関連記事)。アメリカ大陸先住民集団は、東アジアから北上した集団と、ユーラシア西部から東進してきた集団との融合により形成されたのでしょう。文化との関連も検証されており、グラヴェティアン(Gravettian)文化の34000年以上前〜26000年前の個体群は、ヨーロッパの大半に分散していたにも関わらず、相互に密接に関連していた、と指摘されています。

 14000〜7500年前頃の第3期には、西ユーラシアの集団は、それ以前のヨーロッパ人よりも多くアジア人や中東人と遺伝子を共有するようになります。第3期の西ユーラシア人は全員、中東もしくはアジア、或いは両方の遺伝的影響をある程度受けています。このことから、地理的に遠い集団間のより大きな相互作用が示唆されています。表現型に関しては、7500年前頃にはヨーロッパではまだ薄い色の肌は広範には定着していなかった、と推測されています。

 この研究は、ネアンデルタール人や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)と現生人類との交雑についても検証しています。ネアンデルタール人と現生人類との交雑については、古代の現生人類のゲノム解析から、6万〜5万年前頃に非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との間に交雑があり(関連記事)、その後に37000年以上前におそらくは西ユーラシアで再度ネアンデルタール人との交雑があった(関連記事)、と推測されています。この研究は、少なくとも2回はネアンデルタール人と現生人類との交雑があったと指摘していますが、もちろん、この2回以外にも、現代人に遺伝的影響が残っているような交雑が起きた可能性はあります(関連記事)。

 デニソワ人(関連記事)に関しては、現時点では、古代の現生人類のゲノム解析でデニソワ人との交雑の痕跡は確認されておらず、デニソワ人と現生人類との交雑がいつどこで起きたのか、まだ不明です。DNAの保存環境の条件の違いにより、古代DNA解析はある程度以上の高緯度地帯に偏っていますから(それは今後も変わらないでしょう)、デニソワ人と現生人類との交雑は低緯度地帯で起きたのかもしれません。デニソワ人と現生人類との交雑が起きた地域としては東南アジアが有力視されていますが、そうだとすると、デニソワ人は南シベリアから東南アジアまでの広範な地域に存在したことになり、この点に関しては今後も議論が続きそうです(関連記事)。


参考文献:
Yang MA, and Fu Q.(2018): Insights into Modern Human Prehistory Using Ancient Genomes. Trends in Genetics.
http://dx.doi.org/10.1016/j.tig.2017.11.008
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』696話〜699話

2018/01/29 00:00
696話「正面18度」4
 妻が妊娠中というブルースの家庭事情を描きつつ話が展開します。ブルースが寝違えたことから話は始まりますが、今回ブルースはずっと寝違えた状態だったので、演技は大変だったろう、と思います。ブルースはが自宅で苦しんでいた頃、暴力団と関連する金融ローンの男性二人が、借金をした男性の部屋を強引に訪ねます。しかし、男性は一方の借金取りを刺して逃亡します。刺された男性は死亡し、金融ローンと関連する暴力団の復讐を一係は警戒します。喜劇調ではありましたが、小心な冴えない男性が思いもかけず殺人を続けていくところは、何とも言えないやりきれなさがあります。犯人を演じたのは室田日出男氏で、さすがに存在感はありましたが、話の方は、犯人の人物像が深く描かれなかったこともあり、いまいちでした。


697話「マミーを怒らせた少年」5
 父親と息子が帰宅したところ、拳銃で狙われます。父親はサラ金会社に勤務しているので、恨みを買っているのではないか、と一係は捜査します。捜査が進む中、マミーは自分をつけてくる少年が気にかかります。この少年は生意気で、夫と離婚した母親と暮らしていたものの、母親は多忙で息子に構うことができず、愛情に飢えていました。マミーは、誘拐されかけた少年を保護するためにも、少年と一緒に行動します。謎解き要素もありましたが、母親というマミーの設定を活かした、マミーと少年との心の交流の話といった感じで、本作ではたまにある、子供の問題を扱った社会派的な内容とも言えそうです。ただ、全般的に盛り上がりに欠けた感もありましたが。


698話「淋しさの向こう側」5
 サラ金強盗事件が発生し、周囲は騒然となります。デュークは偶然向かいの喫茶店におり、店内が騒然となるなか、平然としている若い女性が気にかかります。デュークは、女性が鏡で事件現場を見ていたことから、女性は共犯者ではないか、と推理します。トシさんは事件に使われた改造拳銃の製造密売者から刑務所で情報を聞き出し、犯人はすぐに特定されます。犯人は警官を射殺して逃亡し、一係は喫茶店にいた女性から手がかりを得ようとしますが、女性は犯人との関係を否定します。しかし、犯人との遭遇の後、デュークが問い質すと、女性は婚約者と別れて寂しい時に犯人と出会った、と打ち明けます。女性の行動にはいかにも裏がありそうで、謎解き要素と緊張感があったのはよかったと思います。女性がゲーム感覚で男性を殺そうと計画した、というオチは悪くありませんでしたが、全体的に盛り上がりに欠けたかな、と思います。改造拳銃の製造密売者を演じたのは江幡高志氏なのですが、出番が少なかったのは残念でした。


699話「優しさごっこ」7
 若い女性が殺害され、容疑者が浮上します。容疑者には婚約者がいますが、他の悩んでいる女性にも優しく接する男性で、殺された若い女性もその一人でした。容疑者の男性は、犯行時間には友人の若い女性と会っていた、と証言しますが、その女性は容疑者と会っていたことを否定します。ドックとマイコンの聞き込みにより、その女性にも殺人容疑がかかります。謎解き要素があり、予想しにくい話になっていたのはよかったと思います。話の方は何とも切ないオチになっていましたが、このような苦い結末も悪くはないと思います。容疑者となった若い女性の心理を読んで真相を暴いたのはドックで、殿下もスコッチもいないなか、このような役割を担うのに最適なのはドックだと思います。まあ、同じく若い女性の心理を読む展開となったこの前の698話で活躍したデュークも、若い女性の心理を読むという点では適任だと思いますが。途中でスニーカーのテーマが流れたのは懐かしく、また時間を作ってスニーカー出演期の話を見たくなりました。
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森恒二『創世のタイガ』第2巻(講談社)

2018/01/28 00:00
 これは1月28日分の記事として掲載しておきます。本書は2018年1月に刊行されました。第1巻がたいへん面白かったので、第2巻も楽しみにしていました。第2巻後半では、主人公のタイガとネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との格闘が描かれました。その分、タイガの仲間たちの出番は減り、青春群像劇的な性格は第1巻よりも弱くなっていたのですが、タイガとネアンデルタール人との格闘およびタイガのサバイバルドラマとしての性格が強くなっており、マンモスなどの大型動物はとくにそうですが、描写に迫力があって楽しめました。

 本作は、タイムスリップものとはいっても、舞台が現代から更新世(5万年以上前?)に移っているので、異世界ものとも言えるでしょう。5年前や10年くらい前の同じ地域なら、タイムスリップものとはいっても、言語・価値観などで戸惑う可能性は低いでしょうが、更新世の中東かヨーロッパ?が舞台だけに、現代日本人である主人公一行の戸惑いは半端ではありません。そうしたなか、人類学ゼミの学生として得てきた知見を活かして、主人公たちはこの時代に馴染んでいき、とくに主人公のタイガは他の仲間が驚くほど更新世の環境に適応していきます(タイガにはその自覚はないのですが)。一方で、この時代に馴染めない仲間もおり、そうした苦悩も描かれるところは、特殊な舞台とはいっても、普遍的な青春群像劇的性格が見られます。

 ネアンデルタール人と遭遇した主人公一行は、ネアンデルタール人と自分たち現生人類(Homo sapiens)とが敵対関係にあり、殺し合いをしている状況に自分たちはいるのだ、と認識します。そこで、槍などの道具を作って積極的に大型動物を狩って食料にするとともに、リクガメの甲羅を用いた盾や弓も作り、ネアンデルタール人との戦いに備えます。現時点での証拠からは、ネアンデルタール人は弓を使用していなかった可能性が高そうなので、弓を使用すればネアンデルタール人にたいして優位に立ちやすくなりそうです。

 主人公一行の懸念は的中し、タイガが一人で狩猟に出かけている間に、根拠地としている岩陰を6人ほどのネアンデルタール人集団(全員男性のようです)が襲撃してきます。タイガ以外の6人は岩陰に立て籠り、盾・槍・弓を用いてネアンデルタール人集団に抵抗しますが、体力の差もあり、劣勢は否めません。タイガは、ネアンデルタール人集団の声を聞いて慌てて岩陰に戻ってきますが、恐怖のあまり足がすくんで立ち尽くしてしまいます。

 ところが、タイガは自分でも理解できないまま飛び出して仲間を救おうと声を出し、襲撃してきたネアンデルタール人集団のうち5人はタイガを追ってきます。タイガは、ケサイを利用したり、決死の覚悟でネアンデルタール人を道連れに崖や崖下の川に飛び込んだりして、何とかネアンデルタール人を振り切ります。しかし、必死になって逃げたため、タイガは自分が根拠地からどれくらい離れているのか、分からくなりました。そこでタイガは、樹洞を見つけてそこを拠点に仲間たちを探すことにします。

 しかし、3日経っても根拠地を見つけられず、さすがにタイガは焦り始め、拠点としていた樹洞から立ち去って探索を始めます。すると、ネアンデルタール人の声と女性の声が聞こえてきます。仲間が襲撃されていると思ったタイガは急行しますが、ネアンデルタール人の男性2人に襲われていた女性はこの時代の現生人類で、第1巻にてネアンデルタール人に仲間を殺されて悲嘆に暮れていた女性でした。ネアンデルタール人への怒りからタイガはネアンデルタール人を襲撃し、結果的に現生人類の女性を助けます。

 この時、タイガは石でネアンデルタール人男性の一方を石で殴り、ネアンデルタール人男性が戦意を喪失して命乞いをしているような様子を見せたため、タイガは立ち去るよう仕草で促して見逃そうとしたのですが、現生人類の女性はそのネアンデルタール人男性に槍を投げて殺します。この場面には、現代人たるタイガとこの時代の人間として育った女性との覚悟の違いを示す、という意図があるのでしょう。女性がネアンデルタール人に突き刺さった槍を引き抜き、タイガに突きつけるところで第2巻は終了です。


 第2巻は、主人公一行、とくにタイガがまだネアンデルタール人の生存していた更新世の環境に馴染んでいき、ネアンデルタール人との戦いを経て、本作の重要人物と思われる現生人類の女性と出会うところまで描かれました。この女性は、第1巻での描写から、「ティアリ」という名前だと思われます。まあ、この女性の集団に個人名という概念がどれだけあったのか、そうだとして、一生変わらないものなのか、それとも前近代日本社会のように節目で変わっていくものなのか、まださっぱり分かりませんが、とりあえずは「ティアリ」という(現代日本社会と近い意味での個人的な)名前だとしておきます。

 第2巻は、恋愛模様(と言ってよいのか、タイガとユカもはっきりと自覚していないようですが)も含めた青春群像劇と、サバイバルドラマという普遍的性格も強く見られ、こちらの方も面白いのですが、謎解き要素のある創作の好きな私としては、やはり本作の舞台がどこでいつの年代のことなのか、現生人類とネアンデルタール人との関係がひじょうに敵対的なのはなぜなのか、といった問題が気になり、今後の展開がたいへん楽しみです。

 本作では、現生人類はもちろんのこと、ネアンデルタール人も言葉を用いていますが、現時点ではその訳語が示されていないので、何と言っているのか、明らかではありません。さすがに、単語・文法が詳細に設定されているわけではないでしょうが、ネアンデルタール人がよく言っている「ガァドロ」や「ガァデロ」は、何らかの意味が設定されているのではないか、と思います。この二つの単語は発音がよく似ているので、似たような意味なのでしょうか。ネアンデルタール人の方にも、人間らしい油断や命乞い的な描写があることから、ネアンデルタール人と現生人類はある程度以上意思疎通が可能という設定なのかもしれません。そうだとすると、ネアンデルタール人と現生人類との交雑があったとする現在の有力説からも、あるいは今後ネアンデルタール人との友好的な関係も描かれるのではないか、と楽しみです。

 ただ、現時点では、ネアンデルタール人と現生人類とは敵対的関係にあり、ネアンデルタール人の方は、単に遭遇したからというわけではなく、積極的に現生人類を探して殺そうとしているように思われます。これは、単にネアンデルタール人が暮らしてきた地域に現生人類が侵入してきたからなのかもしれませんが、あるいはそれ以外にも理由が設定されているかもしれず、今後の展開が楽しみです。一つ気になるのは、この時代の現生人類は男女ともすでに登場しているのに、ネアンデルタール人の方は男性しか描かれていないことです。今のところ、ネアンデルタール人はおもに現生人類を襲撃する場面が描かれているので、それは男性の役割だとする性別分担がネアンデルタール人社会にはある、という設定なのでしょうか。タイガと重要人物と思われるティアリとの関係がどう描かれるのか、ということも含めて第3巻もたいへん楽しみです。
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アフリカ外最古の現生人類化石(追記有)

2018/01/27 00:00
 これは1月27日分の記事として掲載しておきます。レヴァントの早期現生人類(Homo sapiens)化石に関する研究(Hershkovitz et al., 2018)が報道されました。読売新聞でも報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。現生人類アフリカ単一起源説は、今では通説として認められていますが、現生人類の出アフリカの回数・年代・経路などをめぐっては議論が続いています(関連記事)。これまで、現生人類の出アフリカは12万年前頃までさかのぼる、との見解が有力でした。これは、イスラエルの、スフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡の早期現生人類遺骸の年代が根拠となっています。しかし、遺伝学的知見からは、このレヴァントへの早期の現生人類の拡散は「失敗し」、レヴァントより東方には拡散しなかった、とされています(関連記事)。

 しかし近年では、レヴァント以外の地域でも早期現生人類の存在の可能性が提示されています。東アジアでは12万〜8万年前頃の現生人類とされる化石が発見され(関連記事)、石器の分析からは、アラビア半島では海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の期間(125000〜70000年前頃)に現生人類が拡散したかもしれない、と指摘されています(関連記事)。これらの早期現生人類の拡散と、現時点での遺伝学的知見とを整合的に解釈すると、現生人類は12万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散し、東アジアにまで到達したものの、現代人の遺伝子プールにはまったく或いはほとんど寄与していない、となるでしょう。ユーラシアに拡散した早期現生人類は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)と同様に、現代人の遺伝子プールにわずかに寄与するだけで、後続の出アフリカ現生人類集団に吸収されたか、現代に子孫を残さず絶滅した、というわけです。ただ、現代パプア人に早期現生人類の遺伝的影響が見られる、との見解も提示されています(関連記事)。

 この研究は、スフール遺跡と同じくイスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave)で2002年に発見された、ホモ属の上顎の解剖学的特徴と年代を測定しました。ミスリヤ洞窟は、イスラエルのハイファの南方12kmにあるカルメル山の西側斜面に位置します。このホモ属の上顎の左側には完全な歯列が残っており、その形態的特徴から現生人類と分類されました。ミスリヤ洞窟の上顎の犬歯と他の歯はスフールおよびカフゼー遺跡の初期現生人類のそれと類似している一方で、ネアンデルタール人に見られる特徴が欠けています。ただ、諏訪元氏は、「歯や顎は個体差が大きく、今回の化石だけで現生人類だと判断するのは難しい」と指摘しています。

 ミスリヤ洞窟では石器や動物遺骸が発見されており、焼かれたノウサギ・カメ・ダチョウの卵も確認されていますが、大型動物の遺骸がおもに発見されていることから、大型動物が主要な狩猟対象だった可能性が指摘されています(関連記事)。ミスリヤ洞窟の石器群ではルヴァロワ(Levallois)技術が確認されています。ミスリヤ洞窟の上顎の年代は、共伴した加熱された燧石製石器や歯のエナメル質や付着物から推定されました。石器の推定年代は179000±48000年前で、レヴァントの既知のルヴァロワ技術の石器群の年代範囲に収まります。歯のエナメル質は174000年前、上顎の付着物の年代は185000年前と推定されています。ただ、上顎の付着物は汚染されていて7万年ほど古く年代が出ているという可能性と、上顎が上層から嵌入した可能性が指摘されています。もっとも、複数の年代測定結果が近い年代を示しており、ミスリヤ洞窟の上顎が初期現生人類のものだとすると、これは現時点でアフリカ外では最古の現生人類遺骸となりそうです。この研究は、ミスリヤ洞窟の上顎の年代は194000〜177000年前頃ではないか、と推測しています。

 ただ、上述した諏訪元氏の指摘にあるように、上顎だけで現生人類と判断するのは難しいところがあります。それでも、18万年前頃近くまでさかのぼる現生人類的な上顎の個体がレヴァントに存在していた、という可能性は高そうです。すでに、アフリカ北部では30万年以上前の現生人類的な化石が発見されており(関連記事)、195000±5000年前と推定されている現生人類化石がアフリカ東部で発見されていますから(関連記事)、現生人類が18万年前頃までにアフリカからレヴァントへと進出していた可能性はじゅうぶん考えられます。また、上述した東アジアにおける早期現生人類の存在の可能性からすると、現生人類は20万年前頃までにレヴァントよりも東方まで拡散していた可能性もあります。

 すでにネアンデルタール人と現生人類との10万年前頃の交雑の可能性が指摘されていましたが(関連記事)、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列からは、その年代が145000〜130000年前頃よりもさかのぼりそうだとの見解が提示されており(関連記事)、ミスリヤ洞窟の上顎の年代は、近年のこうした遺伝学的知見と整合的と言えそうです。上述したように、現時点での遺伝学的知見からは、このミスリヤ洞窟の個体も含めて早期現生人類の出アフリカは「失敗」し、現代人の遺伝子プールにはほとんど寄与していないか、絶滅した可能性も考えられます。早期現生人類は気候が湿潤な244000〜190000万年前頃にアフリカからレヴァントへと拡散し、気候が再度乾燥化した時に絶滅したのかもしれない、というわけです。

 この早期現生人類の拡散を、ネアンデルタール人系統における後期のミトコンドリアDNA(mtDNA)の置換(関連記事)や、ルヴァロワ技術の拡散と結びつける見解も上記報道では見られました。早期現生人類がルヴァロワ技術を携えてアフリカからユーラシアに拡散し、ネアンデルタール人系統にmtDNAをもたらした、というわけです。しかし、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換という仮説が妥当だとして、ネアンデルタール人に新たなmtDNAをもたらした系統は40万年前頃に現代人系統と分岐して、ネアンデルタール人系統のmtDNA置換は27万年前頃までには起きたと考えられますし(関連記事)、ルヴァロワ技術は33万年前頃にはコーカサスにまで拡散していましたから(関連記事)、ネアンデルタール人系統にmtDNA置換をもたらしたのは、ネアンデルタール人よりも現生人類系統と近縁な古代型ホモ属系統と考えるのが妥当だと思われます。また、上記報道ではルヴァロワ技術の起源と現生人類を関連づけ、ルヴァロワ技術の拡散が現生人類拡散の指標になり得るとの見解も取り上げられていましたが、ルヴァロワ技術はアフリカ南部で50万年以上前までさかのぼる可能性があり(関連記事)、その起源を現生人類と結びつけるのは難しいように思われます。


参考文献:
Hershkovitz I. et al.(2018): The earliest modern humans outside Africa. Science, 359, 6374, 456-459.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aap8369


追記(2018年1月29日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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