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普通に生活している人なら家に岩波講座日本歴史ぐらいはあるだろう

2018/05/22 18:08
 表題の発言に考えさせられることがありました。以下に全文(とはいっても、Twitterの1投稿分ですが)を引用します。

呉座先生の「陰謀論に危機感」はちょっと大げさじゃないかと思う。普通に生活している人なら家に岩波講座日本歴史ぐらいはあるだろう。歴史言説で怪しい記載に出会ったら対応箇所を確認し職業研究者がコンセンサスを置く事実を調べるはず。異説奇説はそうやって排除され盲目的に信じる人は少ない。

 おそらくこれは、『「この国に陰謀論が蔓延する理由」歴史学者・呉座勇一に訊く』という記事への感想でしょう。私もそうでしたが、おそらく少なからぬ人は、「普通に生活している人なら家に岩波講座日本歴史ぐらいはあるだろう」との発言に疑問を抱くでしょう。『岩波講座 日本歴史』の発行部数は知りませんが、少なくとも、「普通に生活している人なら」家庭で持っている、というほど発行部数が多いとはとても思えません。

 正直なところ、どう解釈してよいのか、迷うところですが、まず考えられるのは、「普通に生活している人」との発言で想定されている「普通」の水準がきわめて高いことです。その場合、一般的な用法での「普通」とは意味合いが大きく異なっていることになります。しかし、上記の記事は現代日本社会における陰謀論の蔓延を懸念しており、大衆が対象と言ってよいでしょうから、「普通」の水準がきわめて高いとすると、上記の発言は的外れとなります。

 次に考えられるのは、一般的な意味合いで「普通」を用いたうえで、「普通に生活している人なら家に岩波講座日本歴史ぐらいはあるだろう」と発言者が本気で思っていることです。ある程度以上の熱意を有している歴史愛好者に限っても、『岩波講座 日本歴史』を私的に購入した人は少なそうですし、読んだことのない人も多いでしょう。そもそも、『岩波講座 日本歴史』の存在すら知らない歴史愛好者もある程度いるかもしれません。こちらの解釈でも、上記の発言は的外れだと思います。

 発言主の他の投稿も少し読んだ印象論にすぎませんが、後者の解釈の方がより妥当なのかな、と思います。そうだとすると、発言主が弁護士であることから推測して、日頃の人間関係は知的(生活水準でも)上層が中心で、自身の経験・能力もあり、「普通に生活している人なら家に岩波講座日本歴史ぐらいはあるだろう」と考えてしまったのかもしれません。しかし、何か歴史に関する言説を読み、さらに調べようと思って『岩波講座 日本歴史』の(1本でも複数でも)該当論文に当たることができる、もしくはそうした意欲を有するのは、かなり裾野の広いと言ってよいだろう歴史愛好者のなかでも、かなり限定されるのではないか、と思います。

 私は別に上記発言を強く批判したいわけではなく、階層差が可視化された事例として解釈できそうなので興味深い、と思っただけです。このような階層差は、高度経済成長期前、さらには戦前の方がさらに大きかったのでしょうが、インターネットが普及して可視化されやすくなったように思います。とはいっても、インターネット全般に当てはまるわけではなく、Twitterのように、かなり広範な階層が参加する場において、より明確に現れるものなのでしょう。

 もちろん、Twitterには広範な階層が参加しているとはいっても、フォロー・ブロック機能などもあることから、情報収集・交流という点で偏る傾向にあることも否定できず、私もできるだけ幅広く情報を収集するよう努めています。上記の発言も、万人に開かれているとはいっても、やはりインターネットにおける偏向は避けられない、という背景があるのでしょう。また、Twitterで発信できない、もしくは存在すら知らない、というような階層もある程度以上は存在するだろう、ということも念頭に置いておかねばならないでしょう。
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忘れ去られた?藤波孝生氏

2018/05/22 18:06
 『ネット右翼は自民党ではなく、結局「この組織」を支持していた』と題する記事が公開されました。論旨に大きく影響はしない、些細なことかもしれませんが、その記事には基礎的な事実に間違いがあり、微妙な印象を受けました。まず、「国会に於いては1970年代からの自民・社会党の議席の伯仲」との記述ですが、社会党は1960年代と比較して1970年代には議席が低迷し、与野党伯仲と言うべきでしょう。この間に党勢を拡大したのは公明党と共産党です。あるいは、「55年体制」下ということで「社会党」に野党を象徴させた、と弁明できるかもしれませんが・・・。

 次に、中曽根内閣についての、「官房長官には全期間を通じて田中派の重鎮である後藤田正晴を起用」との記述です。中曽根内閣の官房長官は、後藤田正晴氏→藤波孝生氏→後藤田正晴氏となります。藤波氏は1988年発覚のリクルート事件で失脚しましたから、1982年生まれの執筆者にとって、印象の薄い政治家なのかもしれません。一方、後藤田氏は、「切れ者」として、また「右傾化」する日本社会においてかつては存在感を示した「良心的保守派」として、今でも知名度・評価ともになかなか高いように思われます。

 しかし、1980年代半ばには、要職を歴任した藤波氏はかなり存在感のある政治家だったと記憶しています。中曽根内閣では、「ニューリーダー」の安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一の三氏ほどではないとしても、注目の政治家でした。少なくとも、当時は後藤田氏より知名度が大きく劣っていたとは思いません。しかし現代では、とくに若い層で、伝説の切れ者として語り継がれている後藤田氏よりも知名度はかなり低そうで、かつて中曽根内閣で官房長官を務めていたことが忘れ去られていても不思議ではないかな、とも思います。かつては将来を嘱望されながら、リクルート事件発覚後は不遇のまま政治生活と生涯を終えた藤波氏のことは、わりと強く印象に残っていたので、上記の記事を読んで残念だったというか、寂しく思ったものです。
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人類の眉弓の機能

2018/05/22 04:03
 人類の眉弓の機能に関する研究(Godinho et al., 2018)が報道されました。現生人類(Homo sapiens)は、平滑で垂直な前頭部と、意思伝達に用いる眉を有しています。一方、他系統の人類の眉弓は顕著に太く、骨張っています。以前の研究では、眉弓は咬合や咀嚼の応力を防いでいるのではないか、あるいは眼窩と脳頭蓋という頭蓋の二つの異なる要素が合わさって生じたのではないか、と示唆されていました。本論文は、ザンビアで発見された300000〜125000年前頃のホモ属頭蓋カブウェ1(Kabwe 1)をデジタル再現し、眉弓の大きさを変化させ、頭蓋に異なる咬合圧を与える実験を実施しました。

 その結果、化石の眉弓は眼窩と頭蓋との分離を説明するのに必要なサイズよりもはるかに大きく、この大きな眉弓は摂食時の頭蓋の保護にほとんど役に立っていない、と明らかになりました。本論文は、眉弓には物理的な役割ではなく社会的な役割があったのではないか、と推測しています。他の霊長類でも、同様の頭蓋の発達が情報伝達に利用されており、たとえば、ヒヒに似たマンドリルは骨張ったカラフルな鼻口部を有し、これにより雄は優位性を、雌は生殖状態を表しています。

 本論文は、初期人類の眉弓は社会的優位性や攻撃性を示す不変のシグナルとして、マンドリルの鼻口部と同様の役割を果たしていた可能性を指摘しています。人類の社会性が強まるにつれて眉弓は平板化し、代わりに、視認性と可動性に優れて感情をさらに細かく柔軟に示すことができる眉の発達が可能になりました。現生人類は、平滑で垂直な前頭部により、他系統の人類よりも眉毛を微妙な感情表現に用いることができるようになり、これが社会統合などに役立った可能性も想定されます。なお、ホモ属化石カブウェ1はハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)と分類されることもありますが、ハイデルベルゲンシスという種区分には問題があると指摘されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人類の顔の進化で眉ができあがった

 初期人類の眉の下の突出した隆起部は社会的地位や攻撃性を示しており、それらがさらに、変化が大きく表情豊かな現生人類の眉に取って代わられたのではないかとする仮説を示した論文が、今週掲載される。これは、眉弓が頭蓋内で構造的な役割を果たしていたとする従来の仮説からの大転換である。

 現生人類は、平滑で垂直な前頭部と、コミュニケーションに用いる眉を有している。一方、初期人類は眉弓が顕著に太く、骨張っている。過去の研究では、眉弓は咬合や咀嚼の応力を防いでいるのではないか、あるいは頭蓋の2つの異なる要素(眼窩と脳頭蓋)が合わさって生じたのではないか、と示唆されていた。

 Ricardo Godhinoたちは、現在のザンビアで出土したホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis;30万〜12万5000年前のものと推定)の化石頭蓋をデジタル再現し、眉弓の大きさを変化させて、頭蓋に異なる咬合圧を与える実験を行った。その結果、化石の眉弓は眼窩と頭蓋との分離を説明するのに必要なサイズよりもはるかに大きく、この大きな眉弓は摂食時の頭蓋の保護にほとんど役に立っていないことが分かった。

 Godhinoたちは、眉弓には物理的な役割ではなく社会的な役割があったのではないかと考えている。他の霊長類でも、同様の頭蓋の発達が情報伝達に利用されており、例えば、ヒヒに似たマンドリルは骨張ったカラフルな鼻口部を有し、これによって雄は優位性を、雌は生殖状態を表す。Godhinoたちは、初期人類の眉弓は、もしかすると社会的優位性や攻撃性を示す不変のシグナルとして、マンドリルの鼻口部と同様の役割を果たしていたのではないかと論じている。人類の社会性が強まるにつれて眉弓は平板化し、代わりに、視認性と可動性に優れて感情をさらに細かく柔軟に示すことができる眉の発達が可能になった。



参考文献:
Godinho RM, Spikins P, and O’Higgins P.(2018): Supraorbital morphology and social dynamics in human evolution. Nature Human Behaviour, 2, 956–961.
https://dx.doi.org/10.1038/s41559-018-0528-0
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各省庁のシステムは西暦で統一へ

2018/05/21 16:56
 日本政府はシステム連携を西暦で統一していくよう指示した、と報道されました。来年(2019年)5月1日に現在の皇太子が即位し、改元となることに備えて、システムやカレンダーなどでの対応が懸念されています。すでに、各省庁が管理する個別の行政システムは、年月日を西暦で管理している例が多い、とのことです。私は天皇制にはどうも否定的になってしまうところがあり、元号の使用にもかなりうんざりしています。これは、多感な十代半ばに、昭和天皇が入院してから崩御までの期間の「自粛」を経験したことに起因します。当時、昭和天皇が闘病中だからと「自粛」を強要する風潮に、内心では激しく反発したものでした。私は「リベラル」にはとてもなれないと自覚していますが、天皇制関連では保守にも反「リベラル」にも徹することができず、何とも中途半端な存在です。しかし、大半の人はそうした中途半端な存在ではないか、と開き直っています。

 それはともかく、度々変更される(現在では一世一元なので、天皇の代替わりごと)元号の不便性は明らかで、私は昔から、西暦に統一してもらいたいと考えていましたし、じっさいに自分はできるだけ西暦を使うようにしています。しかし、現在の西暦とはグレゴリオ暦のことであり、正直なところ、子供の頃からキリスト教への根強い反感を抱き続けてきた私にとって、西暦を使うのはたいへん不愉快です。ただ、利便性・通用性を考えると、事実上西暦を使うしかないかな、と諦めています。また、最近では、現代日本社会にとって、もはや保守すべきものは「西洋近代」であり、元号は保守に値するものではない、との考えからも元号の使用にいっそう否定的になりました。

 現実問題として、元号は天皇制と密接に関わっており、天皇制の廃止とまではいかず、元号だけの廃止でもかなりの反発があるだろう、と容易に予想されます。その意味で、元号の廃止は「現実的」ではないかもしれません。もっとも、「現実主義者」はしばしば「現実追認主義者」なので、安易に「現実主義者」になるべきではない、とも思いますが。それはさておき、言語の廃止が「現実的」ではないとしたら、公文書は原則として西暦とし、私文書も西暦の使用が推進されて定着し、元号は公的には使われ続けるものの、実使用としては現在の六曜程度の頻度・重要性となるのが、私にとっては理想的です。まあこれも、まだとても「現実的」とは言えないかもしれませんが。
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大河ドラマ『西郷どん』第19回「愛加那」

2018/05/20 18:58
 西郷吉之助(隆盛)は流人「菊池源吾」として大島(奄美大島)での生活にも慣れていき、「とぅま(愛加那)」とも親しくなり、気力も取り戻しつつありました。大島では薩摩藩による搾取が続いており、吉之助が世話になっている龍佐民は、砂糖を隠しているとの嫌疑がかけられて拷問を受けます。「とぅま」は龍佐民と兄を取り戻すべく代官所に押し寄せ、吉之助の静止を振り切って代官所の中に入り込みます。代官に現地妻(アンゴ)になるよう強要された「とぅま」が自害しようとしたところを吉之助は助け、代官を一喝し、龍佐民と「とぅま」の兄は解放されます。憤る代官ですが、大久保正助(利通)からの書状により、「菊池源吾」が西郷吉之助と知り、代官所襲撃の件を薩摩に知らせることを思いとどまります。

 吉之助が命がけで島民を守ったのを見た「とぅま」は、吉之助の「アンゴ」になる決意を固めますが、吉之助は「とぅま」を「アンゴ」ではなく「妻」として迎え入れる、と伝えます。「とぅま」は吉之助と結婚し、「愛加那」と改名します。吉之助は、「菊池源吾」として大島で生きていく決意を愛加那に伝えます。今回は吉之助と「とぅま(愛加那)」の関係が深く描かれました。吉之助も愛加那も情の深い人物なので、この後の別れと、その後の関係がどう描かれるのか、ということは注目されます。本作は良くも悪くも大河ドラマらしく主人公を美化する傾向にあるので、吉之助は帰国しても愛加那を想い続け、愛加那は自分の立場を「弁える」ひたすら「耐えていた」、と描くのでしょうか。そうだとすると、一部の人には猛反発されそうですが、一般的には受けやすい話になるでしょう。
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太田博樹『遺伝人類学入門 チンギス・ハンのDNAは何を語るか』

2018/05/20 11:59
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房から2018年5月に刊行されました。「入門」と題するように、遺伝の仕組み、さらには集団遺伝学の基礎について解説されています。「あとがき」にあるように、必ずしも「最新の知識」・「科学の最前線」を伝えているわけではありませんが、系統樹作成の方法など、「最新の知識」・「科学の最前線」を理解するのに必要な基礎的知識が解説されており、たいへん有益だと思います。今後、再読するだけの価値の高い一冊になっています。

 本書は遺伝人類学に関する基礎的な解説書となっていますが、人類史における移動の性差という著者の以前の研究に焦点を当て、大きく取り上げています。私はこの問題に強い関心を抱いているので、その点でも本書を興味深く読み進められました。本書は、妻方居住や夫方居住といった社会的要因により、人類集団の遺伝子頻度に性差が見られる可能性を指摘しています。最近の研究では、昨年(2017年)、後期新石器時代〜初期青銅器時代の中央ヨーロッパにおいては、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。

 上述したように、本書は必ずしも「最新の知識」・「科学の最前線」を伝えているわけではなく、著者の専門外とも言える化石からの人類進化史については、やや問題のある解説も見られます。ただ、そうした解説が本書の価値を大きく下げているわけではない、と思います。本書では、人類の出アフリカはホモ属のなかでもエレクトス(Homo erectus)以降で、ジャワ島のエレクトスの年代が100万〜50万年前頃とされています。しかし、ジャワ島のエレクトスの年代は150万年以上前までさかのぼる可能性が高そうです(関連記事)。

 また、エレクトスと類似するエルガスター(Homo ergaster)もアフリカに留まったとされますが、エルガスターという種区分を認めるならば、現時点でアフリカ外最古の人類となるジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)人をエレクトスに区分するのは難しいように思います。ドマニシ人を「広義の」エレクトスに区分する見解は珍しくないと思いますが、アフリカの「本格的な」ホモ属の最初期の系統をエルガスターと認めるならば、最初期のホモ属たるドマニシ人は、エルガスター内の小柄な分類群、ハビリス(Homo habilis)、新種ゲオルギクス(Homo georgicus)のいずれかに分類するのが現時点では妥当でしょう(関連記事)。


参考文献:
太田博樹(2018) 『遺伝人類学入門 チンギス・ハンのDNAは何を語るか』(筑摩書房)
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!PART2』5話〜8話

2018/05/19 07:48
5話「長さんの長い午後」6
 マミーは母親と店にいたところ、不審な様子の男性に気づき、職務質問すると、男性は銃を持っており、もみ合いとなります。そこへ男性の仲間が入ってきて、マミーを撃って客6人を人質にとり、店に立てこもります。男性2人は銀行強盗を計画していました。トシさんは犯人と交渉し、犯人は人質解放の条件として3000万円を要求します。マイコンは自分が代わりに人質になると申し出ますが、篁係長は許可せず、長さんに人質になるよう頼み、長さんは迷うことなく承諾します。長さんが人質となり、重傷のマミーは無事病院に搬送されますが、膠着状態が続きます。オサムさんは強行突入を主張しますが、ドックは長さんを信じて反対します。トシさんは、もう2時間待っても長さんが説得できなかったら突入しよう、と判断します。ここは、長さんとの付き合いの長いドックの長さんへの信頼が見られて、よかったと思います。

 長さんの説得は続きますが、期限が迫ります。しかし、長さんはギリギリの段階で説得に成功します。まずまず緊張感のある展開で、長さんのキャラが活かされた話になっていました。ただ、長さんはロッキーの殉職に強く責任感じていましたから、重傷のマミーを見て、絶対に死なせない、と決意するような描写があってもよかったのではないか、と思います。長さんが娘と息子の話をしたのは、本作の長い歴史を感じさせました。長さんの娘にはすでに子供が2人いるとのことで、そう言えば、今回よりも6年以上前に放送された434話にて、長さんの娘の妊娠が語られていました。


6話「心満たされず・・・・・・」7
 スタンガンを用いた誘拐事件が発生しますが、誘拐された課長の男性もすぐに発見されますが、課長は、書類を盗まれただけだと証言します。被害者の様子が不審だったことから、書類よりも書類を入れていたボストンバッグの方が問題で、賄賂の金が入っていたのではないか、と一係は推理します。被害者の証言から、一係は女性が犯人と推理し、オサムさんは課長の会社の外資部の女性に目をつけます。同僚の証言から、女性が犯行計画を同僚に喋っていたことが明らかになります。しかし、女性は実家が裕福で、一係は犯行動機を掴めません。オサムさんは女性を執拗に調べますが、なかなか決定的な証拠を得られません。

 しかし、オサムさんが、女性は同じ会社の年上の人事課長の男性と不倫関係にある、という情報を掴んでから、話が動き出します。けっきょく、犯人は男性の人事課長で、女性が真剣になったのが重くなってきたので、女性の犯行計画を偶然盗聴器で聞き、それを利用して警察には女性を犯人と思わせておいて、最後は女性を自殺に見せかけて殺そう、と計画していたのでした。なかなかひねった展開にしてきましたし、オサムさんと女性のやり取りは、大人のドラマといった感じでした。昔ならばスコッチが、スコッチ退場後はドックかデュークが相応しいような役回りです。オサムさんは飄々とした感じで、軽さはあってもドックとは異なっており、本作では新鮮な人物造形になっていると思います。個人的にはなかなかお気に入りのキャラになっています。


7話「逃げる」7
 ドックを医学生時代の旧友が訪ねてきます。松平という旧友は何者かに追われていて、脅えていました。松平はドックに、カプセルに入った新薬らしきものと重要情報を写したマイクロフィルムのことを話します。ドックが怪しげな男を追っている隙に松平は殺され、ドックも拉致されます。ドックは自分を拉致した男から、松平がまだワクチンの完成していない新型ウイルスを持ち出した、と知らされます。ドックは、ウイルスとマイクロフィルムを飲んだ、と言って男たちから逃げ出します。カプセルが溶けてウイルスが効き始めるまで数時間と予想されるなか、警察上層部も焦り始めます。けっきょく、ドックはウイルスを飲んでおらず、犯人たちも無事逮捕されます。アクションシーン主体でしたが、喜劇調でもあり、ドックのキャラをよく活かした話になっており、まずまず楽しめました。残念なのは、松橋登氏が演じた松平が序盤で殺されたことです。もっと活躍してくれるのではないかと、期待していたのですが。


8話「ビッグ・ショット」6
 麻薬中毒者による事件が相次ぎます。その麻薬がクラックで、水谷という男性がクラックを盗んだと分かり、一係は捜査を進めますが、ブルースは飄々として我が道を行くオサムさんに反発し、自分のやり方で捜査を進めます。ブルースの態度はますます大きくなった感があり、正直なところ、悪い印象を抱く視聴者は多かったのではないか、と思います。まあ私は、こういうキャラの刑事がいてもよいと思いますし、やはりブルースのアクションシーンは魅力的なので、さほど悪い印象を抱いてはいませんが。ブルースは捜査の過程で水谷の彼女にたどり着きますが、その前にオサムさんは水谷の彼女の存在を掴んでいました。自分にそのことを知らせなかったオサムさんに、ブルースはますます反発します。終始飄々としているオサムさんにたいして、すぐ熱くなる若いブルースという対照的な両刑事の対比で話が進み、本作の定番の一つと言えるでしょう。個人的には二人ともわりとお気に入りのキャラなので、ブルースとオサムさんの和解過程の描写が不足していたかな、とも思いましたが、まずまず楽しめました。しかし、どちらか一方でも気に入らない視聴者にとっては、楽しめない話だったかもしれません。
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東南アジアの古代ゲノム解析

2018/05/18 05:21
 東南アジアの古代ゲノム解析に関する研究(Lipson et al., 2018B)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。東南アジアの現代人は遺伝的・言語的に多様ですが、どのように形成されたのか、詳細はよく分かっていません。東南アジアは一般的に高温多湿なので、より寒冷なヨーロッパと比較すると、DNAの保存には適していないため古代DNA研究も遅れています。本論文は、貴重な事例となる東南アジアの古代ゲノム解析結果を報告し、東南アジアにおける人口構造の形成史を検証しました。

 本論文は、東南アジアの146人の遺骸でDNA抽出を試み、そのうちベトナム・ミャンマー・タイ・カンボジアの18人でじゅうぶんな遺伝的情報を得ることに成功しました。年代は、新石器時代〜鉄器時代となる4100〜1700年前頃です。このうち最古の人類遺骸は、ベトナムのマンバク(Man Bac)遺跡で発見されました。マンバク遺跡で発見された、装飾陶器・複雑な翡翠装飾品などの遺物は、マンバク遺跡よりも古い中国南部の稲作農耕遺跡のものと類似しています。そのため、マンバク遺跡には、先住の狩猟採集民系統と、中国南部から新たに南下してきて稲作など新技術をもたらした農耕民系統とが居住していた、と考古学者たちは推測していました。マンバク遺跡の住民のゲノム解析からは、在来の狩猟採集民と中国南部からの移住民との混合が推測され、考古学の通説と合致しました。

 これらの中国南部から移住してきた初期農耕民は、オーストロアジア語族の祖語を東南アジアにもたらしたかもしれません。オーストロアジア語族は、現在では東南アジアに拡散しています。カンボジアのクメール人(Khmer)・インドのニコバル諸島のニコバル人・タイとラオスの国境のムラブリ人(Mlabri)といったオーストロアジア語族話者の人々のゲノムも、マンバク遺跡で見られたような、異なる祖先集団の混合を示しています。中国南部から東南アジアに南下してきた初期農耕民は、東南アジア全域に遺伝子と文化を広めたのではないか、と推測されています。

 さらに、ベトナム・カンボジア・ミャンマー・タイのもっと後の遺跡では、2000年前頃となる中国南部からの別の移住の波の痕跡も確認されました。この新たな移住者もまた農耕民で、おそらくは青銅器加工技術をもたらし、東南アジアは青銅器時代に入りました。この新たな移住の波を経て、東南アジアの各地域集団は、現在の各地域の住民と遺伝的に類似するようになりました。

 先住の狩猟採集民・初期農耕民・もっと後の移住民の波という3系統の混合により東南アジアの現代人の遺伝的構造が形成されたことは、古代DNA研究の進展により明らかになってきた、ヨーロッパ先史時代の集団形成史と類似しています。ヨーロッパでは、7000年前頃に近東からの移住民が農耕をもたらし、先住の狩猟採集民と混合して、もっと後の青銅器時代に中央アジア草原地帯からの移住の波があり、現在のような各地域集団の遺伝的構造が確立しました。ユーラシアの両端にあるヨーロッパと東南アジアで同じような時期に類似の移住・集団形成史が見られるのは、興味深いと思います。日本列島に関しても古代DNA研究が進むことを期待しています。


参考文献:
Lipson M. et al.(2018B): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science.
https://dx.doi.org/10.1126/science.aat3188
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ユーラシア草原地帯の人類集団史とB型肝炎ウイルス感染の痕跡

2018/05/17 17:01
 ユーラシア草原地帯における人類集団史に関する二つの研究が報道されました。一方の研究(Damgaard et al., 2018B)は、約8000 kmに及ぶハンガリーから中国北東部までの広大なユーラシア草原地帯における、青銅器時代以降の約4000年間に及ぶ137人の古代人のDNA解析結果(平均網羅率は約1倍)を報告しています。さらにこの研究は、502人の現代人に自分の祖先の出身地(中央アジア・アルタイ・シベリア・コーカサス)を自己申告させ、そのゲノムデータを解析しました。こうして得られた知見から、ユーラシア草原地帯の人類集団の歴史が明らかになりました。

 鉄器時代を通してユーラシア草原地帯で優勢だったスキタイ人集団は、遺伝的には後期青銅器時代の牧畜民・ヨーロッパの農耕民・シベリア南部の狩猟採集民から構成される多様な起源を有していた、と明らかになりました。その後、スキタイ人は匈奴連合体を形成したステップ東部の遊牧民と混合し、紀元前3世紀もしくは紀元前2世紀頃に西方へ移動し、4〜5世紀にはフン族の伝統を築くとともに、「ユスティニアヌスの疫病」の根源となるペストを持ち込んだ、と推測されています。これらの遊牧民はさらに、中世の複数の短い汗国の時代に東アジアの集団と混合しました。こうした歴史的事象により、ユーラシア草原地帯は、ユーラシア西部の系統が大部分であるインド・ヨーロッパ語族の居住地から、東アジア系統の、現在のおもにチュルク語を話す集団の居住地へと変遷を遂げました。

 もう一方の研究(Mühlemann et al., 2018)は、ユーラシア中央部および西部の、7000〜200年前頃の304人のDNA解析結果を報告しています。注目されるのは、このうち25人がB型肝炎ウイルス(HBV)に感染していたと推測されることです。現在、約2億5700万人がHBVに慢性的に感染しており、2015年には約887000人が合併症を引き起こして死亡しています。HBVには少なくとも9タイプ存在しますが、どのように進化してきたのは不明でした。これら二つの研究は、ユーラシアの古代人合計304人中25人のゲノムにHBVの証拠が見つかった、と報告しています。古代のウイルスの塩基配列が今後新たに発見されれば、HBVの正確な起源と初期の歴史が明確になり、B型肝炎の負荷と死亡率に対する自然の変化および文化的変化の寄与の解明に役立つ可能性があります。

 この研究は、青銅器時代から中世にわたる、4500〜800年前頃の完全あるいは部分的な古代HBVゲノム12例(現存しない遺伝子型を含みます)について報告し、ヒトHBVと非ヒト霊長類HBVの現生種と共に解析しました。れらの古代ゲノム塩基配列は、現生人類のHBVクレードまたは他の類人猿のHBVクレードの内部に、あるいはそれらの姉妹系統として位置していました。HBV系統樹の根の年代は20900〜8600年前頃と推定されています。これらゲノムの特徴はおおむね、現代のHBVのものと一致しました。

 複数の例で、古代の遺伝子型の地理的位置と現在の分布とが一致しませんでした。現在のアフリカおよびアジアに典型的な遺伝子型と、インドに由来する亜型(subgenotype)は、初期にユーラシアに存在していたことが明らかになりました。古代HBVと現代HBVの遺伝子型に認められる地理的パターンおよび時間的パターンは、すでに立証されている青銅器時代および鉄器時代の人類移動のパターンと一致します。この研究は、HBVの遺伝子型Aが組換えによって生じ、さらに現代HBVの遺伝子型が長期にわたりヒトと関連してきた、と明らかにしています。また、現在は存在しないかつてのヒトの遺伝子型も発見されました。こうしたデータは、現代の塩基配列のみの検討では解明できないような、HBV進化の複雑さを明らかにします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【ゲノミクス】古代ゲノムで見つかった人類史と肝炎に関する手掛かり

 約1500〜4500年前に生きていた137人のヒトのゲノム塩基配列について報告する論文と、これらのゲノムと共に青銅器時代の167人のヒトのゲノムを解析し、合計304人中25人のゲノムにB型肝炎ウイルス(HBV)の証拠が見つかったことを報告する論文が、今週掲載される。これらの新知見は、数千年間にわたって、ユーラシア全土でヒトのHBV感染があったことを示唆している。

 Eske Willerslevたちは、第1の論文で、ハンガリーから中国北東部までの約8000 kmに及ぶ広大なユーラシア・ステップで生活していた137人の古代人のゲノム塩基配列を解読した結果を報告している。これらのゲノムは約4000年間を網羅している。Willerslevたちは、502人の現代人に自分の祖先の出身地(中央アジア、アルタイ、シベリア、コーカサス)を自己申告させて、そのゲノムデータを解析した。こうして得られた知見から、ユーラシア・ステップのヒト集団の歴史が明らかになり、青銅器時代のユーラシア出身の牧畜民から主に東アジア出身の騎馬兵士への移行がゆっくりと進んだことが示唆された。

 また、Willerslevたちは第2の論文で、約200〜7000年前に生きていた304人の中央ユーラシアと西ユーラシアの人々のDNA塩基配列を解析し、うち25人がHBVに感染しており、約4000年にわたってHBV感染があったことを示す証拠を報告している。Willerslevたちは、合計12点のHBVの完全ゲノムまたは部分ゲノム(現存しない遺伝子型を含む)を分離し、ヒトHBVと非ヒト霊長類HBVの現生種と共に解析した。その結果、現在の分布と一致しない領域に古代HBVゲノムが存在していたことと、少なくとも1つ以上の現存しない遺伝子型が明らかになった。

 全世界で約2億5700万人が慢性HBV感染に苦しんでおり、2015年にはその合併症で約88万7000人が命を落としているが、HBVの起源と進化は解明されていない。古代のウイルスのゲノム塩基配列が今後新たに発見されれば、HBVの正確な起源と初期の歴史が明確になり、B型肝炎の負荷と死亡率に対する自然の変化および文化的変化の寄与の解明に役立つ可能性がある。


集団遺伝学:ユーラシアのステップ全域に由来する137例のヒト古代ゲノム

社会人類学:青銅器時代から中世の古代B型肝炎ウイルス

集団遺伝学:古代ゲノムから明らかになった人類史とヒト肝炎の手掛かり

 今週号の2報の論文でE Willerslevたちは、ヒトの古代ゲノム解析により得られた、人類史と肝炎についての手掛かりについて報告している。1報目の論文では、過去4000年間にわたるユーラシアのステップ全域に由来する137例のヒト古代ゲノムについて、塩基配列の解読結果が示されている。自己申告に基づく系統が中央アジア、アルタイ、シベリア、およびコーカサスである現代人502人に関する遺伝子型を用いた解析からは、ユーラシアステップ中央部の集団史のモデルが示され、これは、例えば青銅器時代におけるユーラシア西部系統の牧畜民から東アジア系統の多い騎兵馬への漸進的な移行など、この地域についてのこれまでの歴史言語学的研究の結果と一致していた。2報目の論文では、前期青銅器時代から中世にわたるユーラシア中央部および西部のヒト骨格304体に由来する古代DNAの塩基配列を解析し、その中にB型肝炎ウイルス(HBV)の塩基配列を探索した結果が報告されている。完全または部分的に復元したHBVゲノム12例について、現代人HBVおよび非ヒト霊長類HBVの塩基配列と共に解析したところ、ユーラシア全域の人類が数千年にわたってHBVに感染していたことが示唆された。



参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018B): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.
https://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2

Mühlemann B. et al.(2018): Ancient hepatitis B viruses from the Bronze Age to the Medieval period. Nature, 557, 7705, 418–423.
https://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0097-z
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レヴァントの早期上部旧石器時代の年代

2018/05/16 18:48
 取り上げるのが遅れましたが、レヴァントの早期上部旧石器時代の年代についての研究(Alex et al., 2018)が公表されました。本論文は、55000年前頃の現生人類(Homo sapiens)化石が発見されたことで注目されている(関連記事)、イスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)遺跡の早期上部旧石器時代の信頼性の高い年代を新たに報告し、既知のレヴァントやヨーロッパの各遺跡の早期上部旧石器時代の年代を参照・検証することで、レヴァントとヨーロッパの早期上部旧石器時代の各インダストリーがどのような関係にあるのか、論じています。なお、以下の年代はすべて、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 レヴァントの早期上部旧石器文化としては、前期アハマリアン(Early Ahmarian)とレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)が知られています。前期アハマリアンはヨーロッパのプロトオーリナシアン(Protoaurignacian)の起源となり、ヨーロッパでオーリナシアン(Aurignacian)へと発展し、その担い手の一部はレヴァントに「戻り」、レヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)が出現した、との見解も提示されています。しかし、レヴァントの早期上部旧石器時代の年代にはまだ曖昧なところが多分にあり、レヴァントのさまざまな早期上部旧石器文化とヨーロッパの早期上部旧石器文化との関係には不明なところが多く残っています。

 本論文は、マノット遺跡の早期上部旧石器時代の各層の新たな年代測定結果を報告しています。マノット遺跡では、古い(下の)層から順にアハマリアン→レヴァントオーリナシアン→ポスト-レヴァントオーリナシアンと移行していきます。アハマリアン層の下には、最初期上部旧石器文化や中部旧石器文化の人工物もわずかながらありますが、はっきりとしません。信頼性68%の年代では、ポストレヴァントオーリナシアンが34030〜33050年前、レヴァントオーリナシアンが38260〜34050年前、アハマリアンが49440〜41560年前となります。レヴァントオーリナシアンの年代に関しては、37000〜35000年前頃まで絞り込めそうだ、と指摘されています。

 イスラエルのケバラ(Kebara)遺跡では、47000年前頃にはアハマリアンが始まります。これは、マノット遺跡の年代と整合的と言えるでしょう。ケバラ遺跡やマノット遺跡よりも北方に位置する、トルコのウチュアズリ(Üçağızlı)遺跡とレバノンのクサールアキル(Ksâr ‘Akil)遺跡にも、マノット遺跡やケバラ遺跡のアハマリアンと共に、「北部前期アハマリアン」として区分できるインダストリーが存在する、と本論文は指摘します。しかし、既知の報告によると、ウチュアズリ遺跡とクサールアキル遺跡では、アハマリアンの開始年代は43000もしくは40000年前頃です。この3000〜7000年の相違は、単に北方でアハマリアンの出現が遅れた可能性も、石器区分自体に何らかの問題がある可能性も、年代測定結果に問題がある可能性も考えられます。

 本論文は、クサールアキル遺跡とウチュアズリ遺跡の前期アハマリアンの年代はおもに試料汚染の除去の難しい貝殻に基づいており、マノットとケバラではおもに試料汚染除去の方法の開発された炭に基づいているので、これが年代の相違の一因かもしれない、と指摘しています。また、一般的に、特定の事象の放射性炭素年代に不一致が生じた場合、古い年代は、試料汚染を反映しているかもしれない新しい年代よりも信頼性が高い、と考えられます。そのため本論文は、アハマリアンはレヴァントにおいて遅くとも46000年前頃には出現した、との見解を提示しています。

 レヴァントにおける46000年以上前のアハマリアンの出現を前提とすると、ヨーロッパのプロトオーリナシアンとの関係が注目されます。上述したように、ヨーロッパのプロトオーリナシアンはレヴァントのアハマリアン起源との仮説も提示されています。しかし、ヨーロッパのプロトオーリナシアンが類似しているのは、レヴァントの前期アハマリアンでも北部ではなく南部で、その他にはレヴァント北部のクサールアキル段階4群(クサールアキル遺跡10層〜9層)と類似しており、南部の前期アハマリアンもクサールアキル段階4群もヨーロッパのプロトオーリナシアンに遅れて出現することから、ヨーロッパのプロトオーリナシアンからレヴァント南部の前期アハマリアンおよびレヴァント北部のクサールアキル段階4群へと、文化的拡散が生じた可能性も指摘されています(関連記事)。

 しかし本論文は、アハマリアンとプロトオーリナシアンの体系的比較にまだ欠けているところがあることを認めつつも、骨や木などソフトハンマーの使用による長くまっすぐな石刃製作や貝の装飾品などといった共通点から、「北部前期アハマリアン」がヨーロッパのプロトオーリナシアンの起源になった可能性を指摘します。レヴァントのアハマリアンは遅くとも46000年前に出現しているのにたいして、ヨーロッパのプロトオーリナシアンは44000〜41000年前頃で、在来のインダストリーの発展ではなく外来と考えられることから、レヴァントのアハマリアンがヨーロッパに拡散してプロトオーリナシアンに発展したのだろう、というわけです。

 逆に、ヨーロッパの早期オーリナシアンが43500〜40000年前で、マノット洞窟におけるレヴァントオーリナシアンの年代が38000〜34000年前頃、おそらくは37000〜35000年前頃になることから、レヴァントオーリナシアンの起源はヨーロッパのオーリナシアンにある、との見解が提示されています。レヴァントからヨーロッパに拡散したアハマリアン集団が、ヨーロッパでプロトオーリナシアン、さらにはオーリナシアンを発展させ、その担い手の一部がレヴァントに「戻り」、レヴァントオーリナシアンを発展させたのではないか、との見解が提示されています。初期現生人類の文化の拡散は、アフリカもしくはレヴァントのようなアフリカに近接した地域から、ヨーロッパのようなアフリカから遠い地域への一方通行ではなく、その逆もあり得たのではないか、というわけです。

 本論文の見解は興味深いのですが、前期アハマリアンの年代に関して、クサールアキル遺跡およびとウチュアズリ遺跡と、マノット遺跡およびケバラ遺跡の不一致など、レヴァントの早期上部旧石器時代の年代には、まだ不確定なところが多分にあるのは否定できません。また、レヴァント南部乾燥地帯の遺跡に関しては年代測定結果が少なく、さらに1980年代以前の報告と古いため信頼性が劣ることも指摘されています。現時点では、レヴァントの早期上部旧石器時代の年代はおもにより沿岸の地域に基づいており、地域の変異幅を反映していないかもしれない、というわけです。

 アハマリアンは、レヴァント南部の乾燥地帯において、より沿岸部のマノット遺跡やケバラ遺跡よりも新しく、沿岸で始まったアハマリアンが乾燥地帯に拡散した可能性も考えられます。しかし、現時点では、年代の信頼性が低いこともあり、沿岸地帯と乾燥地帯の諸インダストリーの関係には不明なところが多分にあり、この問題の改善には、信頼性の高い年代測定結果を蓄積していくしかないのでしょう。レヴァントの早期上部旧石器時代は、非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となった出アフリカ集団の拡散と強く関係している可能性があるので、今後の研究の進展が注目されます。


参考文献:
Alex B. et al.(2017): Radiocarbon chronology of Manot Cave, Israel and Upper Paleolithic dispersals. Science Advances, 3, 11, e1701450.
http://dx.doi.org/10.1126/sciadv.1701450
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ナレディの頭蓋形態

2018/05/15 18:51
 アフリカ南部で発見されたホモ属の新種ナレディ(Homo naledi)の頭蓋形態に関する研究(Holloway et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。南アフリカ共和国のライジングスター洞窟(Rising Star Cave)にあるディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で発見された人類化石群は、ホモ属の新種ナレディと分類されました(関連記事)。その後、ライジングスター洞窟のレセディ空洞(Lesedi Chamber)においてナレディの新たな人類化石群が発見され、ナレディの年代は335000〜236000年前頃と推定されています(関連記事)。ナレディの足と手には現代人的(派生的)特徴と祖先的特徴との混在が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、ナレディの頭蓋内鋳型形態を、アウストラロピテクス属や他のホモ属や(人類系統を除く)類人猿のそれと比較しました。用いられたナレディの頭蓋はディナレディ空洞で発見されており、少なくとも5個体分となります。以前から指摘されていたように、ナレディの脳はホモ属としては小さく、それは本論文における推定でも改めて確認されました。ディナレディ空洞で発見された人類化石DH1とDH2に基づく推定脳容量は560mL、DH3とDH4に基づく推定脳容量は465mLです。大きな脳が重要な特徴とされるホモ属と分類するのが躊躇われるくらいで、現生人類(Homo sapiens)の1/3程度の脳サイズとなります。

 脳の小さなホモ属としては、インドネシア領フローレス島で発見されたフロレシエンシス(Homo floresiensis)が知られており、約426ccと推定されています(関連記事)。ナレディとフロレシエンシスの脳容量は、アウストラロピテクス属の範囲内に収まるか、少し多いだけ、ということになります。その他のホモ属の推定脳容量は、ハビリス(Homo habilis)が500〜700mL、ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)が752〜830mL、エレクトス(Homo erectus)は、ドマニシ(Dmanisi)人とンガンドン(Ngandong)人を含めると550〜1200mlとなります。

 このように、ホモ属内の脳容量には大きな違いがあります。しかし本論文は、ホモ属内で頭蓋形態に共通点があることを明らかにしました。前頭葉、とくに下前頭回および外側眼窩回において、ナレディと他のホモ属種には共通点が見られます。こうした特徴は、(人類系統を除く)類人猿はもちろん、アウストラロピテクス属とも異なります。具体的には、アウストラロピテクス属ではアフリカヌス(Australopithecus africanus)とセディバ(Australopithecus sediba)です。ただ、ホモ属の特徴も有するとされるセディバ(関連記事)に関しては、アウストラロピテクス属とホモ属の中間的な形態だった可能性も指摘されています。左右非対称の脳という点でも、ナレディと他のホモ属との類似性が指摘されています。

 前頭葉は、言語などの認知能力と関わっている、と推測されています。ナレディが存在した年代には、アフリカでは最初期現生人類もしくは現代人的な特徴の強い人類集団がすでに存在していました(関連記事)。この頃のアフリカには、一定以上の認知能力が必要と考えられる、中期石器時代的な石器技術が確認されます。これまで、中期石器文化の担い手は現生人類もしくはその祖先系統と考えられる傾向にありました。しかし、ナレディの派生的な手と手首の形態、および下肢と足の形態は、現生人類やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)にも共有されている一方で、その多くは既知のエレクトス化石には見られません。ナレディはかなり手先が器用だったかもしれず、前頭葉の類似性からも、ナレディが中期石器文化の一部の担い手だった可能性も指摘されています。

 他のホモ属との類似性から、こうしたナレディの前頭葉の形態は、ホモ属の最終共通祖先にまでさかのぼるのではないか、と本論文は推測しています。そのため本論文は、ナレディの前頭葉の形態は他のホモ属との近縁関係の推定の証拠にはならないだろう、と指摘しています。認知能力と関連しそうな脳の構造は、脳サイズの増大とは関係していない可能性がある、というわけです。したがって、ナレディの系統において祖先からずっと小さな脳サイズが維持されてきたのか、それとも一度は増大した脳容量が減少したのか、まだ判断は困難です。ナレディをホモ属進化の系統樹に的確に位置づけるには、さらなる分析と新たな化石証拠が必要となり、同様の問題はフロレシエンシスについても当てはまります。

 これまで、ホモ属においては、脳容量の増大と道具の「発達(洗練化、効率化)」および高カロリー食への依存度の高まりとの相関が想定されてきました。脳は高カロリーを必要とするので、高い認知能力が必要となる道具の発達、およびそれにより可能となる高カロリー食は、脳容量の増大と正の相関関係にあったのではないか、というわけです。しかし本論文は、脳サイズと形態は人類進化史において系統学的に相関していなかった、と指摘します。脳サイズの増加はホモ属の一つもしくは複数の系統で起き、ホモ属系統の適応的パターンの特定の側面を反映しており、脳サイズの進化はホモ属の進化史において普遍的ではなく、もっと複雑だったかもしれない、というわけです。ナレディはフロレシエンシスとともに、ホモ属の進化史において脳容量を増加させるような選択圧が一般的傾向だった、という見解に再考を迫る存在と言えるでしょう。


参考文献:
Holloway RL. et al.(2018): Endocast morphology of Homo naledi from the Dinaledi Chamber, South Africa. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1720842115
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NHKスペシャル『人類誕生』第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」

2018/05/14 17:27
 第1集は当ブログで取り上げました(関連記事)。今回は第2集で、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との関係が取り上げられました。50分弱の一般向け番組でネアンデルタール人と現生人類との関係を扱うということで、単純化・簡略化されたところがあったのは仕方のないところでしょうが、時間的制約があるなかで、近年の知見が多く盛り込まれており、なかなかよかったと思います。著名な研究者や遺跡の取材もあり、映像の点でも見どころがありました。とくに、南西フランスのブルニケル洞窟(Bruniquel Cave)で発見された、切り取られた石筍で作られた環状の建築物(関連記事)の映像が見られたのはよかったと思います。

 疑問点もありますが、上述したように、仕方のないところだと思います。それでも、やや気になった点を述べていくと、ネアンデルタール人が厳しい氷期に耐えていた、と強調されていた点はやや偏っていたかな、とは思います。確かに、中期〜後期更新世にかけて、現生人類の起源地・主要な生息地であろうアフリカよりも、ネアンデルタール人の起源地・主要な生息地であろうヨーロッパの方が、一般的には寒冷だったでしょうし、ネアンデルタール人の形態には寒冷適応的なところもあるとは思います。しかし、寒冷期には、ネアンデルタール人も高緯度地帯での生存が厳しく、ヨーロッパでも低緯度地帯に分布していたと考えられます(関連記事)。また、寒冷適応と関連しますが、ネアンデルタール人の子供を「白人」のように描いたのには疑問が残ります。確かに、ネアンデルタール人の肌の色が薄かった可能性は低くなさそうですが(関連記事)、ネアンデルタール人全員がそうだったわけではなく、ネアンデルタール人の肌の色は現代人と同じく多様だったのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。

 現生人類はネアンデルタール人とは異なり投槍器を開発・使用し、これにより現生人類はネアンデルタール人にたいして優位に立った、との見解については、ネアンデルタール人の絶滅前に投槍器が用いられていたのか、まだ確証が得られていないと思いますので(関連記事)、確定したとは言えないでしょう。確かに、狩猟法に関してネアンデルタール人と現生人類に違いはあり、ネアンデルタール人の方がより危険な狩猟をしていた可能性は高そうですが、両者が遭遇した時点で大きな違いがあったのか、まだ断定できる段階ではないと思います。狩猟に関しては、現生人類が小型動物も対象としており、大型動物を対象としたネアンデルタール人と対照的だったとされていましたが、ネアンデルタール人の狩猟効率と食性の範囲は現生人類よりも劣るものではなかった、との見解も提示されています(関連記事)。

 投槍器と関連して、現生人類の石器技術革新は速かったのにたいして、ネアンデルタール人のそれは停滞していた、と紹介されていましたが、現時点ではこうした見解には慎重になるべきだと思います(関連記事)。このような見解は、ネアンデルタール人絶滅後の現生人類の技術革新の速さが比較対象になっているのではないか、と思われるところがあり、比較対象が不適切ではないでしょうか。科学革命以降の革新の速さと更新世の現生人類の革新の速さを比較するのが、妥当ではないことと同様だと思います。

 ネアンデルタール人の象徴的行動の証拠は色々と取り上げられており、よく調べられていると思います。ただ、ジブラルタルのゴーラム洞窟(Gorham's Cave)の線刻(関連記事)が、絶滅寸前のネアンデルタール人の所産であるかのような説明は疑問です。この線刻の上層でもネアンデルタール人のものと思われる痕跡が確認されているからです。ネアンデルタール人の洞窟壁画(関連記事)について言及されなかったのは、公表が今年(2018年)2月で、制作に間に合わなかったからでしょうか。

 ネアンデルタール人と現生人類の運命を分けた要因としては、集団規模と他集団との交流の違いが挙げられていました。現生人類の方がネアンデルタール人よりも集団規模が大きく、他集団との交流も高頻度だった、というわけです。現生人類よりもネアンデルタール人の方が必要摂取カロリーは高かったでしょうし、更新世の技術ではヨーロッパの人口収容力はアフリカより低かった可能性が高そうですから、ヨーロッパのネアンデルタール人の人口密度はおそらくアフリカの現生人類よりも低かったでしょう。そうだとすると、現生人類の方がネアンデルタール人よりも集団規模が大きく、他集団との交流も高頻度だった、という見解は有力だと思います。

 では、現生人類が西アジア、さらにはヨーロッパへ拡散した時はどうだったのかというと、ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と遭遇した頃に人口が増加し、集落規模もネアンデルタール人より大きかった、と推測されています(関連記事)。5万年前頃?以降の現生人類は、西アジアやヨーロッパへ拡散したさい、アフリカで築いてきた社会的ネットワークや技術などを維持・発展させつつ、その規模においてネアンデルタール人よりも優位に立った可能性が高そうです。

 ネアンデルタール人の集団規模の問題と関連して、イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)洞窟のネアンデルタール人は全員血縁関係にあった、との説明には疑問が残ります。エルシドロン洞窟で確認されているのは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、3人の成人男性が同じ系統に区分されるのにたいして、3人の成人女性はそれぞれ異なる系統に区分されることから、ネアンデルタール人集団における夫居制的婚姻行動が示唆される、ということだと思います(関連記事)。まあ、私がその後の研究の進展を見落としているのかもしれませんが。

 最終的にネアンデルタール人は絶滅したのにたいして(もっとも、ネアンデルタール人のDNAは現代人にわずかながら継承されているわけで、より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)、現生人類は現在も生存しており、まず間違いなく人類史上最も繁栄した系統となりました。現生人類の早期の出アフリカと、ある時期まではネアンデルタール人が現生人類の拡散、とくにヨーロッパ方面への拡散の言わば障壁になっていた可能性にも言及されていると、ネアンデルタール人と現生人類との類似性を強調する今回の趣旨にも合っていたのではないか、と思います。

 これまで、NHKスペシャルはそれなりに人類進化を取り上げてきました。しかし、ネアンデルタール人と現生人類との交雑がほぼ確実と考えられるようになった2010年以降でも、たとえば現生人類の出アフリカと世界中への拡散を取り上げた放送(関連記事)や、「知性の誕生」を取り上げて現生人類とネアンデルタール人に言及した放送(関連記事)でも、ネアンデルタール人と現生人類との交雑についてはまったく言及されませんでした。正直なところ、これはかなり偏っているというか、頑なな態度だという印象を私は受けたのですが、さすがに今回は、ネアンデルタール人と現生人類との交雑がしっかり取り上げられました。はぐれたネアンデルタール人の少女を現生人類集団が迎え入れた、との描写は演出の範囲でしょうが、あるいはそのようなこともあったのかもしれません。また、両者の交雑が時として暴力的なものだった可能性もあると思います。
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とくに面白かった本(3)

2018/05/13 18:54
 以前、ネットで取り上げた本のなかで、とくに面白かったものについて、2010年4月までの分(関連記事)と、2010年5月〜2013年12月までの分(関連記事)をまとめました。今回は、2014年1月〜2018年4月までの分を以下にまとめます。


廣瀬憲雄『古代日本外交史』
http://sicambre.at.webry.info/201404/article_26.html

右田裕規『天皇制と進化論』
http://sicambre.at.webry.info/201405/article_20.html

本村凌二『愛欲のローマ史』
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_2.html

Azar Gat『文明と戦争』上・下(再版)
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_10.html

Steven Pinker『暴力の人類史』上・下
http://sicambre.at.webry.info/201502/article_12.html

飯田洋介『ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術』
http://sicambre.at.webry.info/201502/article_14.html

Christopher Boehm『モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』
http://sicambre.at.webry.info/201505/article_7.html

スヴァンテ=ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』
http://sicambre.at.webry.info/201507/article_5.html

青木健『マニ教』
http://sicambre.at.webry.info/201509/article_18.html

Daniel E. Lieberman『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』上・下
http://sicambre.at.webry.info/201510/article_29.html

ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷
http://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html

Eugene E. Harris『ゲノム革命 ヒト起源の真実』
http://sicambre.at.webry.info/201604/article_24.html

Robin Dunbar『人類進化の謎を解き明かす』
http://sicambre.at.webry.info/201611/article_9.html

小原嘉明『入門!進化生物学 ダーウィンからDNAが拓く新世界へ』
http://sicambre.at.webry.info/201701/article_12.html

亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』
http://sicambre.at.webry.info/201708/article_6.html

平井上総『兵農分離はあったのか』
http://sicambre.at.webry.info/201710/article_29.html

川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』
http://sicambre.at.webry.info/201712/article_24.html

更科功『絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか』
http://sicambre.at.webry.info/201801/article_21.html

河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』
http://sicambre.at.webry.info/201802/article_32.html

飯山陽『イスラム教の論理』
http://sicambre.at.webry.info/201803/article_37.html

呉座勇一『陰謀の日本中世史』
http://sicambre.at.webry.info/201804/article_1.html


 これらのなかでもとくにお勧めなのは、『暴力の人類史』上・下、『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷、『ゲノム革命 ヒト起源の真実』、『入門!進化生物学 ダーウィンからDNAが拓く新世界へ』、『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』、『イスラム教の論理』、『陰謀の日本中世史』です。
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大河ドラマ『西郷どん』第18回「流人 菊池源吾」

2018/05/13 18:53
 西郷吉之助(隆盛)は月照とともに入水しますが、月照は死に、吉之助だけが生き残ります。吉之助は「菊池源吾」という名前で大島(奄美大島)へ流罪となります。忠誠を誓っていたというか、崇拝していた感のある主君の島津斉彬が急死し、追い詰められて月照と入水したものの、自分だけ助かったということで、吉之助は絶望し、自暴自棄になっていました。この最初の流罪の時、吉之助はわりと自由だったそうですが、今回、吉之助はとくに行動が制約されていたわけではなく、ここは史実に近いのかもしれません。目的を見失い、すっかり無気力になった吉之助は、大島の人たちと打ち解けようとはしません。

 無気力な吉之助が動いたのは、薩摩藩の代官の横暴を目にした時でした。これは、困窮している民を救おうとしていた以前の吉之助が戻ってきたというよりは、自暴自棄のあまり、死んでもよい、という衝動に突き動かされてのことでしょう。しかし、これを機に吉之助には気力が戻ってくるのではないか、と予感させる場面でした。斉彬のせいで島民は苦しんでいる、と「とぅま(愛加那)」に言われた吉之助が激昂する場面は、王道的な構成になっていたと思います。本作を批判する声の大きな大河ドラマ愛好者は少なくなさそうですが、このように見どころもあるので、私はわりと楽しみに視聴を続けています。「とぅま」と吉之助の関係の接近は、もう少し長く描いてもよかったかもしれませんが、1年間をかけての西郷隆盛の一代記ですから、そこにあまり時間をかけても仕方ないかな、とも思います。「とぅま」が吉之助に反感を抱き、神にその死を願い、吉之助が重体に陥って回復する過程で両者の距離が縮まるという構成は、短い中でなかなかよく描けていたと思います。

 今回は、舞台が大島に移り、これまではがらりと雰囲気が違っていました。主要人物の多くも新登場となり、新章に突入した感じです。薩摩藩の過酷な大島支配もしっかりと描かれ、今回は歴史ドラマとしても普遍的な物語としてもなかなか楽しめました。大島編が何回描かれるのか分かりませんが、期待できそうです。「とぅま」役の二階堂ふみ氏も好演していたと思います。気がかりなのは、言葉を割と?忠実に再現して字幕をつけていることで、かつて1990年放送の大河ドラマ『翔ぶが如く』ではこれが不評だったと記憶しているので、本作もその点で批判が寄せられるのではないか、と懸念されます。
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小林和幸編『明治史講義 【テーマ篇】』

2018/05/13 07:38
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年3月に刊行されました。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。


第1講●久住真也「開国と尊王攘夷─国是の模索」P11〜28
 日米和親条約は天保の薪水給与令の拡張的な性格も有しており、これにより「鎖国」が放棄されたわけではない、との解釈も可能だと指摘されています。「鎖国」体制の決定的な崩壊は日米修好通商条約とのことです。日米修好通商条約にさいして、幕府が事前に勅許を得ようとしたことは、同条約がじゅうらいの枠組みでは説明できないとの認識を幕府が有していたことを示すとともに、天皇・朝廷・諸藩の政治的役割の増大の契機にもなったようです。なお、尊王攘夷と公武合体運動を対立的に把握するのは妥当ではない、とも指摘されています。文久政変に関しては、薩摩藩と会津藩が主導したというより、孝明天皇が主役だった、との見解も提示されているそうです。


第2講●池田勇太「幕末雄藩と公議政体論─「公議」の運動からみる幕末政治」P29〜43
 「公議」という観点から幕末史が概観されています。「公議(公論、衆議など)」は、日本全体に関わる政治について、当局者以外の意見を聞くべきだ、との主張を正当化する言葉として用いられました。江戸時代には国政が基本的には徳川家直臣に独占されていましたが、大身の外様大名や親藩などから広く意見を集めよう、というわけです。「公議」の思想は根強く、薩摩藩への警戒からこれに反対した一橋(徳川)慶喜、さらには「一桑会」の有力諸藩軽視の方針が、一時的に幕府の権威を高めつつも、最終的には幕府を崩壊させ、「公議」は明治時代の基本方針にもなった、との見通しが提示されています。


第3講●友田昌宏「王政復古と維新政府─せめぎあう維新官僚と諸藩」P45〜60
 大政奉還から武力討幕を経て廃藩置県にいたるまでが概観されています。「公議政体派」と「武力討幕派」とは、共通の目標を有しつつも、その思惑に違いがあったと指摘されています。王政復古を経ても、薩摩藩の武力行使路線は広く支持を得ていたわけではなく、劣勢でしたが、鳥羽伏見の戦いが状況を大きく変えたようです。おもに薩摩藩と長州藩の藩士から構成された維新官僚にとって、京都の朝廷の伝統的身分制度は大きな壁となり、それ故に遷都が実行された、という側面もあるようです。廃藩置県については、諸藩が率先して廃藩を願い出ることで、政権に参入して薩長に対抗しようという意図もあった、と指摘されています。


第4講●落合弘樹「廃藩置県・秩禄処分─分権から集権へ」P61〜74
 廃藩置県・秩禄処分の過程が解説されています。いかに中央集権化と旧来の特権の廃止を進めていくのかが、明治政府にとって難問でした。士族の家禄の廃止が、反発、さらには反乱への危惧から慎重に進められていき、政府内部でも具体的な過程・内容については意見が一致していなかった、と了解されます。このようにして「近世」を克服して近代国家への道を歩んでいった日本ですが、旧支配層の身分がほとんど無血で解体され、特権を政府が買い取る形で完全に解消された事例は、世界史でも稀有だと評価されています。


第5講●大島朋子「陸海軍の創設─徴兵制の選択と統帥権の独立」P75〜94
 明治の陸海軍の創設過程が解説されています。幕藩体制を動揺させたのは海防問題だったので、海軍の近代化を優先すべきとの認識は広く共有されていたものの、長州戦争以降の内戦は陸戦主体となったため、海軍の近代化は遅れた、と指摘されています。兵農分離で士族が軍事を専門的に担う体制から、徴兵制により国民が軍に動員される体制へと移行していき、軍と政治との関わりも試行錯誤を経て整備されていきました。その結果として出された軍人勅諭は、死は鴻毛より軽いと覚悟せよ、と訴え、有事における勇ましい奉公を謳った教育勅語と併せて、むしろ江戸時代の武士の忠誠の方が個を重んじていたのではないか、と評価されています。


第6講●山口輝臣「明治前期の国家と神社・宗教─神社が宗教ではなかったのはなぜか」P95〜108
 戦前、政府は伊勢神社・出雲大社のような大神社から町・村の小さな祠まで、神社を宗教ではないとしていました。その理由は、政府が神社は宗教ではないというまやかしの論理を用いて優遇したことにあり、それこそが国家神道の正体だ、との見解が長く定説とされてきました。しかし、そうした見解は現在では有力説ではないそうです。宗教は明治時代に訳語として定着していき、日本の思想風土の中で宗教とそうでないものとが選別されていきました。三教とされた神・仏・儒のうち、当事者たちの意向が大きく影響して、まず仏教が宗教として認知され、儒教は学問とされました。神道のうち、教派神道は宗教として認知されましたが、神社は宗教ではない、とされました。これは、宗教とはキリスト教と仏教に共通する教義・教会(寺院)組織などを備えているものとの認識が定着し、それらが曖昧な神社が宗教ではないと考えられたのは、当時にあっては自然なことでした。福沢諭吉や井上毅など当時の一線級の知識人はそう考えており、政府はそうした見解に基づいて仕組みを作ったにすぎない、というわけです。また本論文は、維新当時の計画がそのままの方向性で進められたのではなく、大きな軌道修正があったことも強調しています。大日本帝国憲法制定時には、先進諸国では国教を定めつつも信教の自由を認めるのが基準となっていましたが、日本には国教を定められるような実態がないとの認識から、皇室を基軸とした国家運営が主張された、との指摘も注目されます。


第7講●小野聡子「万国公法と台湾出兵─新しい国際秩序への一階梯」P109〜124
 台湾出兵により、日本が万国公法(国際法)の理解を深めていった過程が解説されています。前近代の日本は華夷秩序的価値観にあり、明治維新後、近代化にともない、欧米列強により形成されていった新たな「国際秩序」への理解・参入が必須とされました。本論文は、台湾出兵の過程での駐日イギリス公使パークスの日本政府にたいする「厳しい」姿勢が、日本政府の万国公法理解を促した、と指摘しています。また、そうした万国公法理解の進展にともない、「無主地」たる小笠原諸島を「先占」するにいたったことも指摘されています。


第8講●中元崇智「自由民権運動と藩閥政府─板垣遭難と民権運動の展開」P125〜141
 板垣退助が西郷隆盛とともに下野し、民撰議員設立建白書を提出してから自由党の解党までの自由民権運動が概観されています。自由民権運動の展開のなかで最初の転機になったのは西南戦争で、板垣は西郷軍に呼応しての決起も想定していたようですが、戦局は政府軍に有利となり、板垣はけっきょく挙兵せず、結果として自由民権運動の活動家の温存につながりました。自由民権運動は板垣殺害未遂事件により盛り上がりましたが、政府側の弾圧もあり、凋落も早かったという印象を受けます。近年では、自由民権運動について、身分制社会に替わる社会の建設を目指したとの評価もあるそうです。


第9講●鈴木淳「西南戦争と新技術─海軍・汽船・熊本城籠城」P143〜158
 西南戦争前の各地の士族反乱から西南戦争にかけての推移が、おもに新技術の導入・対応という観点から解説されています。西南戦争の一般的な印象と言えば、新兵器も含めて物量に優る政府軍が勇敢ではあるものの旧式装備で物量の劣る西郷軍を圧倒した、というものでしょうが、本論考は、西郷軍が幕末以来の薩摩の先進的軍事技術を活用できた、と指摘しています。また、熊本城が早期に陥落していれば、各地の不平士族の決起を招来して戦争は長期化し、政府軍が勝ったとしても、その後の歴史は大きく変わっただろう、とも指摘されています。


第10講●真辺将之「明治一四年の政変─大隈重信はなぜ追放されたか」P159〜178
 大隈重信が失脚した明治14年の政変について解説されています。大隈の直接的な失脚要因は、急進的な憲法意見書を提出したことと、開拓使官有物払下げ問題で福沢諭吉や民権派と結託したみなされたことでした。本書はその他に、大隈が西南戦争後のインフレ進行と正貨流出に対処できず、大隈の財政運営能力への不信感が醸成されていたことも指摘しています。ただ、大隈の憲法意見書は急進的とはいっても、それは民権運動に迎合したのではなく、むしろ対抗したものだったことが指摘されています。それと関連して、開拓使官有物払下げ問題で民権派と結託したわけではなかったことも指摘されています。本論文は、大隈の失脚はその後の歴史に大きな影響を与えた、との見解を提示しています。イギリス流の議院内閣制が排されてドイツ流の行政権の強い憲法が制定されることになり、財政面では松方正義主導に替わり、デフレが進行して農村は大打撃を受けました。


第11講●西川誠「内閣制度の創設と皇室制度─伊藤博文のプランニングの再検討」P179〜195
 内閣制度の導入に関しては、憲法公布を見据えての予定に沿ってのものというよりは、地方経営をめぐる深刻な対立から、省の統廃合や卿の変更、さらには政治力に欠ける三条実美の更迭が必要だった、との意図が論じられています。皇室制度を規定した皇室典範に関しては、家法と位置づけられて国法とは分離したことと、譲位と女帝の禁止など、前近代の慣習とは一致しない場合もあったことが指摘されています。


第12講●前田亮介「大日本帝国憲法─政治制度の設計とその自律」P197〜218
 大日本帝国憲法の制定過程について解説されています。憲法草案の作成において伊藤博文と井上毅はしばしば対立しました。しかし、これを進歩的な伊藤と保守的な井上という通俗的印象で単純に把握することは妥当ではない、と指摘されています。井上は一貫して議会の権限を守ろうとしたのに対して、伊藤は議会にたいして冷淡もしくは無頓着だったそうです。君主と内閣の関係をめぐっても伊藤と井上は対立し、井上は天皇大権を曖昧な表現にとどめて天皇の神聖性を保とうとしたのに対して、伊藤は大臣輔弼制を明文化しようとし、けっきょくこの問題は伊藤が勝利します。大日本帝国憲法では当初は想定されていなかった海外領土の拡大といった事態への対応といった展望が提示されているのも興味深いと思います。


第13講●村瀬信一「帝国議会の開幕─衆議院の「民党」と「吏党」」P219〜233
 初期議会の動向が解説されています。初期議会は、政府が「超然主義」の方針をとったこともあり、与党と野党ではなく、民党と吏党という枠組みで把握されました。しかし、有権者も立候補者も地主階層が多いなか、民党も吏党も違いを示すのに苦労したところがあるようです。また、初期議会の政党は組織化が進んでおらず、おもに地主階層の地域の名士が議員だったので、個人の力で当選した側面が強く、政党への帰属意識は弱かったようです。このような議会が、政府への対応などで経験を積んでいき、やがてもっと本格的な政党が形成されていく、ということなのでしょう。


第14講●小林和幸「貴族院の華族と勅任議員─創設の理念と初期の政治会派」P235〜253
 特権階級の代表で藩閥政治に忠実であり、立憲政治の疎外者として認識されてきた貴族院の見直し傾向が取り上げられています。貴族院は社会上層の代表者として、派閥的利害に囚われず、に欠けると懸念された「公議」・「学識」をもって国家的見地から衆議院の横暴を牽制し、政党からも政府からも独立した存在となるよう、期待されました。しかし、衆議院での民党と藩閥政府との対立が激化すると、藩閥政府は貴族院を取り込もうとします。しかし、初期議会では公認されずとも実質的に会派が誕生していき、各会派と政府との距離は様々でした。こうした貴族院の性格は、自分たちは皇室の藩屏であって政府の擁護者ではない、との認識にも由来するようです。


第15講●小宮一夫「条約改正問題─不平等条約の改正と国家の独立」P255〜274
 幕末に江戸幕府が日本を代表して西洋諸国と締結した条約は不平等だとの認識が社会に定着したのは明治時代になってからでした。条約締結当初の日本社会の認識では、片務的最恵国待遇が不平等であるとの認識はありませんでした。明治時代になり、これら幕末に締結された西洋諸国との条約が不平等との認識が、政府内で急速に広がります。しかし、民間では同様の認識はなかなか定着せず、不平等条約との認識が急速に広まった契機となったのは、1886年のノルマントン号事件でした。


第16講●佐々木雄一「日清戦争─日本と東アジアの転機」P275〜294
 日清戦争は日本政府の長期的計画に基づく必然だった、との見解は今では否定されており、朝鮮出兵以降の動向に左右されて開戦した、との見解が今では有力なようです。ただ、朝鮮を独立国として扱おうとする日本と、朝鮮での影響力を保持したい清との間の対立の解決は容易ではなかったようです。この過程で、外相の陸奥宗光の役割が大きく評価されてきましたが、当時の内政と外政を掌握していたのは伊藤博文で、朝鮮出兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだった、と指摘されています。


第17講●千葉功「日英同盟と日露戦争─最初の帝国主義戦争」P295〜309
 本論考はおもに、日露戦争へといたる過程もさらには日露戦争が勃発して終結するまでを、外交面から解説しています。本論考では日露戦争が帝国主義戦争だったと指摘されていますが、日本側の「満韓交換」というロシア側への提案は、確かに露骨な帝国主義だとは思います。日露戦争前は、日本にとって重要な外交問題は韓国の確保でしたが、日露開戦にともない韓国を制圧して支配を強化していくと、日本にとって韓国は主要な外交問題ではなくなり、ロシアとの戦争の舞台となった満洲をめぐる攻防が、日本にとって新たな外交問題として浮上します。


第18講●日向玲理「植民地経営の開始─統治形態の模索と立憲主義」P311〜330
 日清戦争後、日本は憲法で想定されていなかった新たな領土を獲得することになります。新たな領土をどう統治するのか、政府で議論となりましたが、本国の法律・制度を適用するフランス型の「内地延長主義」ではなく、植民地は本国とは別とするイギリス型の「特別統治主義」が採用されました。ただ、台湾では、後者を原則としつつも前者の要素も取り入れられました。日露戦争後、日本は樺太・満洲・朝鮮も支配するようになりますが、ここでも「内地延長主義」と「特別統治主義」の間で多様かつ複雑な統治が進行しました、南樺太は、日本との近接性・日本人移住者の多数性といった事情から、早期に内地化が進みました。


第19講●原口大輔「桂園時代─議会政治の定着と「妥協」」P331〜344
 いわゆる桂園時代は相対的安定期と評価されています。本論考は、桂園時代における妥協的政治が、大日本帝国憲法に規定された議会政治の枠組みにおける工夫だった、と指摘しています。しかし一方で、本会議での議論の減少や、議会審議を経ることで少数派の多様な意見を取り入れる余地は少なくなった、とも指摘されています。その結果として、桂園の妥協や議会での審議に参加できない人々にとって、政治的主張の場は議会外に求めざるを得ず、外交問題から突破口が見いだされるような傾向も生じました。


第20講●櫻井良樹「大正政変─政界再編成における内外要因」P345〜360
 大正政変は、藩閥・陸軍の横暴にたいする民衆の勝利で、大正デモクラシーの出発を象徴する事件だったとされますが、近年では、その背景の諸政治勢力間の激しい利害対立や、対外方針の対立が注目されているそうです。陸軍2個師団増設問題から西園寺内閣は退陣に追い込まれ、後継首相となった桂太郎は、陸軍・藩閥(長州藩)出身のため大きな反発を招来し、第一次護憲運動によりわずか50日ほどで退陣に追い込まれます。本論考は、桂がじゅうらいの有力政党(政友会)と妥協した藩閥的政治を維持・強化しようとしたのではなく、台頭する都市民衆や辛亥革命など内外の新たな情勢に対応すべく、新党を結成してこれまでとは異なる政治運営を目指したのではないか、と推測しています。
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初期人類の多様性と気候の関係

2018/05/12 07:22
 初期人類の多様性と気候の関係についての研究(Maxwell et al., 2018)が公表されました。気候が種分化・種の多様性といった人類進化の要因だった、との見解は一般的と言えるでしょう。たとえば、ホモ属出現の背景として、不安定な気候が指摘されています(関連記事)。また、290万〜240万年前頃と、190万〜160万年前頃に気候が大きく変動し、人類の進化にも大きな動きが見られた、との見解も提示されています(関連記事)。

 本論考は、700万〜100万年前頃の、初期人類の多様性と気候との関係を検証しました。現時点での証拠からは、人類進化史における種分化の大きな波は、360万年前頃、270万〜250万年前頃、190万年前頃に見られます。これは気候変動の激しい時期と一致しているように見えます。人類の多様性の増大は、不安定な気候への適応に起因していたのではないか、というわけです。これは、一般的というか根強い見解のように思います。

 しかし、本論文は、こうした人類の多様性の増大が、人類の化石収集数とも相関していることを指摘しています。これまで、「常識的」ということもあり、人類進化と気候変動との関係は自明視されてきた感もありますが、本論文は、人類進化と気候変動とを関連づける前に、人類化石記録の質の大きな改善が必要ではないか、と指摘しています。そのためには、本論文も指摘するように、さらに多くの人類化石を発見する必要があります。

 もっとも、初期人類の化石の新たな発見は容易ではないので、この問題の根本的な解決は難しいのでしょうが、より信頼性の高い推定のためには、ともかく、もっと多くの人類化石が発見されねばならないでしょう。そもそも現時点では、初期人類の多様性とはいっても、種内の多様性なのか、異なる種なのか、判断の難しいところが多分にあります。ただ、初期人類の化石が少ないのは、単に年代が古いからというだけではなく、現生人類(Homo sapiens)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とは異なり、遺骸を埋葬していなかったからでもあると思われるので、初期人類の化石は、今後も僅かずつしか増加していかないのでしょう。


参考文献:
Maxwell SJ. et al.(2018): Sporadic sampling, not climatic forcing, drives observed early hominin diversity. PNAS, 115, 19, 4891–4896.
https://doi.org/10.1073/pnas.1721538115
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インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し

2018/05/11 18:38
 おもに5500〜3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期〜後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で2500〜2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711
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アフリカ東部における中期石器時代〜後期石器時代への移行

2018/05/10 19:06
 アフリカ東部における中期石器時代〜後期石器時代への移行に関する研究(Shipton et al., 2018)が報道されました。アフリカにおける中期石器時代から後期石器時代への移行は、人間の技術的・文化的・認知的進化における重要な変化との観点から激しく議論されてきました。6万〜5万年前頃にアフリカ(の一部地域)で始まる中期石器時代から後期石器時代への移行は、現生人類における認知能力の進化を伴う革命だった、との見解は根強くありますが、21世紀以降に批判が強くなり(関連記事)、近年ではあまり支持されていないように思われます。

 中期石器時代〜後期石器時代への移行に関する研究については、アフリカ大陸の大半において長期にわたる層序化された遺跡が欠如していることから、対象地域がアフリカ南部に偏在しています。本論文は、アフリカ東部では貴重な事例となる、中期石器時代〜鉄器時代にいたる78000年間の信頼できる層序化された考古学的記録を報告しています。本論文が調査対象としたのは、ケニアの湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡です。パンガヤサイディ洞窟遺跡では、1〜19層まで確認されており(1層から順に古くなります)、17個のオーカー断片や88個のダチョウの卵殻製ビーズや27個の海洋性貝のビーズや8個の骨器や3万個以上の石器など、多くの人工物が発見されました。

 パンガヤサイディ洞窟遺跡で得られた古生態学的データからは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)4〜1の大半で、熱帯林と草原から構成される環境は安定していたようです。これはアフリカ東部の他地域で得られた記録と一致し、海洋が極端な気候変動を緩和している側面があるようです。このことは、アフリカの他地域で気候が悪化した時でも、パンガヤサイディ洞窟遺跡の周辺地域が待避所として機能していた可能性を示唆します。現生人類(Homo sapiens)はこのような熱帯地域から乾燥地域・寒冷地域まで多様な環境に適応し、そうした柔軟性こそが現生人類の特徴で、地上のほぼ大半の場所に拡散(して他系統の人類を絶滅に追いやることが)できた要因でもあるのでしょう。

 パンガヤサイディ洞窟遺跡における人類の占拠の痕跡の密度は、78000〜73000年前頃となる19層・18層と17層下部では低くなっています。67000年前頃以降となる16層では技術革新が確認されます。石器技術の点では、小型化が進み、主要な石材が微結晶性石灰岩から潜晶質の石英と燵岩へと変わります。石器の小型化については、狩猟の変化を反映している可能性が指摘されています。象徴的思考の指標とされる人工物では、貝製ビーズが出現するのも16層です。このような技術革新を経て、6万年前頃から遺跡の占拠密度が増大し、それは人口増加を示唆します。

 しかし、これは急激な変化を示すような「革命」ではない、とも指摘されています。象徴的思考の考古学的指標となるような遺物では、貝製ビーズは16層と早期に出現したものの、オーカー断片やダチョウの卵殻製ビーズや骨器などが同時に出現したわけではありません。また、中期石器時代の指標とされるルヴァロワ(Levallois)技法と、後期石器時代の指標とされるプリズム石刃技法や背付き石刃に関しても、前者から後者へとある時期に一斉に移行するのではなく、後者の出現後も前者が見られる、と指摘されています。「後期石器時代革命説」で想定されるような、ある時期に「革新的要素」が一括して出現して移行した、との想定は成立しない、というわけです。

 パンガヤサイディ洞窟遺跡の事例は、中期石器時代〜後期石器時代への移行が急激なものではなく、人類が継続して漸進的に変容していったことを示唆します。また、アフリカの環境が悪化したなかで、アフリカ南部が現生人類にとって待避所となった可能性はすでに指摘されていましたが(関連記事)、パンガヤサイディ洞窟遺跡の事例からは、アフリカ東部においても同様の地域が存在した可能性はかなり高そうです。また、アフリカ南部が現生人類にとって待避所になったとの仮説では、海洋資源が重要だったと想定されていますが、パンガヤサイディ洞窟遺跡では、海洋性の貝をビーズとしても、海洋資源を恒常的に食べていた証拠はない、とのことです。植物や陸上動物が豊富に存在した、ということでしょうか。なお、パンガヤサイディ洞窟遺跡の住人が、ある時期(4万年前頃?)まで現生人類とは異なる系統の人類である可能性は、たいへん低そうではあるものの、無視してよいほどではないだろう、と思います(関連記事)。


参考文献:
Shipton S. et al.(2018): 78,000-year-old record of Middle and Later stone age innovation in an East African tropical forest. Nature Communications, 9, 1832.
https://dx.doi.org/10.1038/s41467-018-04057-3
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意図的ではない人為的要因により局地的に絶滅したチョウ

2018/05/10 19:05
 人為的要因により局地的に絶滅したチョウに関する研究(Singer, and Parmesan., 2018)が公表されました。人間による生物の全球的な輸送は野生種に新たな資源を提供しますが、そうした資源への野生種の応答は不適応である場合が多いとされています。在来の植食性昆虫が有毒な外来植物を摂食して死ぬ例が複数あり、こうした例では外来植物は「生態学的罠(エコロジカルトラップ)」として作用します。逆に、外来資源に対する適応を欠くにも関わらず、そうした資源への適応度が高いという効果から生じる、新規な「生態・進化学的罠」も存在します。

 ヘラオオバコ(Plantago lanceolata)は、畜牛牧場の経営によりアメリカ合衆国西部のネバダ州カーソンシティに導入されました。この外来植物を摂食することで、在来チョウ類エディタヒョウモンモドキ(Euphydryas editha)の大きな隔離個体群は、長年続いてきた雌の繁殖能力と子の致死率との間のトレードオフから解放されました。エディタヒョウモンモドキがヘラオオバコを摂食すると、従来の寄主である在来のオオバコ科(Collinsia parviflora)よりも幼虫の生存率が速やかに上昇しました。

 1980年代の先行研究では、産卵成虫がヘラオオバコへの選好性を進化させたことが実証されました。エディタヒョウモンモドキにとってのヘラオオバコの利用可能性は人間によって制御されており、また、人間はエディタヒョウモンモドキの進化を上回る速さで土地管理を変化させることから、こうした傾向が続けば、エディタヒョウモンモドキが自らを危険にさらす可能性がある、と予測されました。エディタヒョウモンモドキは在来のオオバコ科を利用しなくなり、ヘラオオバコへの完全な依存性を進化させました。

 2005年に人間がこの地域での牧場経営をやめたことで、罠が作動しました。ヘラオオバコの周囲にはイネ科植物が成長し、ヘラオオバコは埋もれて環境が冷却され、この地域では、高温を好むエディタヒョウモンモドキは絶滅しました。この局地的な絶滅は、エディタヒョウモンモドキの個体群が、牧場閉鎖に影響されない乾燥性の微小環境を占有していた在来のオオバコ科の使用を部分的に維持していたなら、防げた可能性があります。

 イネ科植物の繁栄は急速に終わり、牧草地は再びエディタヒョウモンモドキがいずれの寄主を摂食するにも適した環境に戻りましたが、2008〜2012年にこのエディタヒョウモンモドキの存在は確認されませんでした。2013〜2014年、この地域には在来のオオバコ科のみを摂食するエディタヒョウモンモドキが自然に再定着し、生態系を原点に回帰させるとともに、人為的な進化サイクルの繰り返しへの準備が整えられました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【生態学】エディタヒョウモンモドキの波瀾万丈の進化史

 米国ネバダ州の草原の土地利用パターンの変化に応じて、地元に生息するエディタヒョウモンモドキ(Euphydryas editha)の個体数が増加して減少し、再び増加したことを報告する論文が、今週掲載される。この研究では、人間活動によって、図らずも動物界で適応進化が起こってしまうことが示された。この関係は、人間活動によって変化した生息地の保全を計画する際に考慮に入れる必要がある。

 25年前に発表されたMichael SingerとCamille Parmesanの論文では、米国ネバダ州カーソンシティに生息するエディタヒョウモンモドキの孤立個体群が、ウシの大規模放牧によって同地域に侵入した外来の植物種ヘラオオバコ(Plantago lanceolata)を好んで餌にし始めた過程について説明されていた。今回、同じ研究チームが発表した論文では、前回と同じエディタヒョウモンモドキの個体群が、在来種の食用植物Collinsia parvifloraを食べなくなってヘラオオバコに完全に依存するようになり、命に関わる進化的わな(evolutionary trap)ができあがったこと、そして、2005年の大規模放牧の終了によって、このわなが働いて、この地域のエディタヒョウモンモドキの個体群が大打撃を受け、絶滅したことが示されている。

 今回の研究では、自然個体群の命取りとなり得る進化的わなが人間活動によって図らずも仕込まれることが明確に示されているが、この関係の動的な性質も論文に記述されている。なお、大規模放牧が終了した後、Collinsiaを餌にするエディタヒョウモンモドキが再び出現し、この地域に自然に再定住して、進化過程全体が再び始まる環境が整った。


生態学:外来資源に対する適応進化的な応答によって生じる致死的なわな

Cover Story:バタフライ効果:外来植物を好む傾向が局所個体群を絶滅に追いやる

 1993年にNatureに掲載された論文で、米国ネバダ州カーソンシティの牧草地におけるエディタヒョウモンモドキ(Euphydryas editha)の隔離個体群が、畜牛牧場の経営によってその地域に導入された非在来植物ヘラオオバコ(Plantago lanceolata)への選好性を進化させ始めたことが明らかにされた。25年が経過し、今回M SingerとC Parmesanは、このチョウ個体群がこの外来植物に対して完全な依存性を進化させたことを報告している。2005年に牧場が閉鎖されると、周囲に繁茂したイネ科植物によってヘラオオバコは埋もれ、環境が冷却され幼虫が必要な熱を得られなくなったことで、この地域のチョウの個体群は絶滅した。その後、2013〜2014年には従来の寄主を利用するエディタヒョウモンモドキが自然に再定着し、摂食対象も原点に立ち戻った。この知見は、自然個体群に対して致死的になりかねない「進化・生態学的わな」が、人間の活動によって意図せず生み出される可能性を例証しており、人間が手を加えた生息地の保全においてこうしたわなを考慮することの重要性を明らかにしている。



参考文献:
Singer MC, and Parmesan C.(2018): Lethal trap created by adaptive evolutionary response to an exotic resource. Nature, 557, 7704, 238–241.
https://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0074-6
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日焼けと関連する遺伝的要因

2018/05/09 17:03
 日焼けと関連する遺伝的要因についての研究(Visconti et al., 2018)が公表されました。日に焼けると、皮膚が黒くなる(皮膚の色が濃くなる)のか(サンタン)、炎症を起こして赤くなるのか(サンバーン)、個人により異なります。この研究は、日光曝露に対する各人の反応が、その遺伝的構成によってどのように決まるのかという疑問を解明するため、多数の被験者における遺伝的多様性を解析しました。これらの被験者に日焼けに関して自己申告させたところ、いつもサンバーンが起こり、サンタンが起こったことはない、またはサンタンは時々しか起こらないと回答した人が46768人、いつもサンタンでサンバーンが起こったことはないと回答した人が74528人でした。

 この結果については、別の55382人の追試サンプルによって再現性が確認されました。この解析により、10の座位において、これまで日焼け反応と関連づけられていなかった新たな多様性が明らかになりました。また、日焼け能力の低さと関連づけられてきた、AGR3/AHR座位における多様体の一部が皮膚癌のリスクを高める可能性のあることも明らかになりました。このの研究は、結果が日焼けと皮膚癌の自己申告(質問票による回答)に基づいているため、報告バイアスがかかりやすい可能性も想定され、今回同定された遺伝的多様体がこれらの過程で果たし得る機能的役割を確認するためには、さらなる研究の必要がある、と指摘しています。日焼けへの対応は適応度とも関わっており、それは環境により異なると予想されるだけに、人類進化史の観点からも注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝学】日焼けに関連すると考えられる遺伝的要因

 日に焼けると、皮膚が黒くなるのか(サンタン)、炎症を起こして赤くなるのか(サンバーン)は、特定のゲノム領域(「座位」)の変異によって、少なくとも部分的に決まることを報告する論文が、今週掲載される。今回行われたゲノム規模関連解析(GWAS)は、過去の研究成果を発展させ、ヨーロッパ系の人々の皮膚の日焼け反応に関連すると考えられる遺伝的座位を新たに同定した。

 今回、Mario Falchiたちの研究グループは、日光曝露に対する個々人の反応が、その遺伝的構成によってどのように決まるのかという疑問の解明を進めるため、多数の被験者における遺伝的多様性の解析を行った。これらの被験者に日焼けに関して自己申告させたところ、いつもサンバーンが起こり、サンタンが起こったことはない、またはサンタンは時々しか起こらないと回答した者が4万6768人、いつもサンタンでサンバーンが起こったことはないと回答した者が7万4528人だった。この結果については、別の5万5382人の追試サンプルによって再現性を確認した。今回の解析によって、10の座位において、これまで日焼け反応と関連付けられていなかった新たな多様性が明らかになった。また、AGR3/AHR座位(日焼け能力の低さと関連付けられてきた)におけるバリアントの一部が皮膚がんのリスクを高める可能性のあることも明らかになった。

 Falchiたちは、今回の研究結果が日焼けと皮膚がんの自己申告(質問票による回答)に基づいているため、報告バイアスがかかりやすい可能性があり、今回同定された遺伝的バリアントがこれらの過程で果たし得る機能的役割を確認するためには、さらなる研究を行う必要のあることを指摘している。



参考文献:
Visconti A. et al.(2018): Genome-wide association study in 176,678 Europeans reveals genetic loci for tanning response to sun exposure. Nature Communications, 9, 1684.
http://dx.doi.org/10.1038/s41467-018-04086-y
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他者の笑顔への反応

2018/05/08 18:02
 他者の笑顔への反応に関する研究(Martin et al., 2018)が公表されました。スピーチをする場面など、他者の評価を受ける状況において、「よかった/よくなかった」といった言語的なフィードバックのきっかけが、視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸、人体のきわめて重要なストレス応答系)を活性化させることが知られています。しかし、HPA軸が非言語的なフィードバックのきっかけに応答するかどうかを調べた研究は多くありません。本論文は、ストレスのかかる社会的状況に置かれた人が、笑顔を評価的なフィードバックと認識した時に、さまざまな社会的機能を有する笑顔が、その社会的機能に応じてHPA軸の活性に異なった影響を及ぼすことを実証しました。

 本論文は笑顔を、(1)行動を強化する「報酬」の笑顔、(2)脅威がなく社会的な絆を促進または維持する「親和」の笑顔、(3)社会的地位に反し不承認を示唆する「優越」の笑顔のいずれかとして受け取った、被験者の唾液に含まれるコルチゾールの濃度を、HPA軸の活性の指標として用いて比較しました。その結果、笑顔を「優越」の笑顔として受け取った者は、他の2種の笑顔として受け取った者と比較して、唾液中コルチゾール濃度がより高く、心拍数が多い、と明らかになりました。また、ストレスのかかる状況が消失しコルチゾール濃度が基準値に戻るまでの時間は、「優越」の笑顔を認識する者の方が長いことも明らかになりました。これらの身体的応答は、負の言語的フィードバックに対する反応と類似しています。

 また本論文は、心拍変動(心拍間時間の変動)の大きい者の方が、種類の異なる笑顔に対する応答に微妙な差が出やすいことも明らかにしました。心拍変動は、顔認識の正確さと関連づけられています。この研究により得られた知見は、笑顔が非言語的な正のフィードバックであるとは限らないことと、笑顔を認識する者の生理的反応に作用することにより笑顔が社会的相互作用に影響を及ぼす可能性のあることを示す、新たな証拠となっています。今後の課題としては、この研究におけるサンプル数が少ない上に被験者が90名の男性だけだったため、新知見を一般化するには制限がある、と指摘されています。同じ種類の笑顔に対する応答に男女差があるのか否か、またより明白に否定的な表情に対する生理的影響を検証するためには、さらなる研究が必要となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【心理学】「感じの悪い」笑顔を見るとストレスがたまる

 他者の評価を受ける状況に置かれた人がその他者の笑顔を見た時、笑顔をどのように受け取るのかによって身体的ストレス応答が増えたり減ったりすることが、90名の男子学部学生が参加した研究で明らかになった。この研究について報告する論文が、今週掲載される。

 他者の評価を受ける状況(例えば、スピーチをする場面)において、「よかった/よくなかった」といった言語的なフィードバックのきっかけが、視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸;人体の極めて重要なストレス応答系)を活性化させることが知られている。しかし、HPA軸が非言語的なフィードバックのきっかけに応答するかどうかを調べた研究は数少ない。

 今回、Jared Martinたちの研究グループは、ストレスのかかる社会的状況に置かれた人が、笑顔を評価的なフィードバックと認識した時に、さまざまな社会的機能を有する笑顔が、その社会的機能に応じてHPA軸の活性に異なった影響を及ぼすことを実証した。今回の研究では、笑顔を、(1)行動を強化する「報酬」の笑顔、(2)脅威がなく社会的な絆を促進または維持する「親和」の笑顔、(3)社会的地位に反し不承認を示唆する「優越」の笑顔のいずれかとして受け取った被験者の唾液に含まれるコルチゾールの濃度を、HPA軸の活性の指標として用いて比較した。その結果、笑顔を「優越」の笑顔として受け取った者は、他の2種の笑顔として受け取った者に比べて、唾液中コルチゾール濃度がより高く、心拍数が多いことが明らかになった。また、ストレスのかかる状況が消失しコルチゾール濃度が基準値に戻るまでの時間は、「優越」の笑顔を認識する者の方が長かった。これらの身体的応答は、負の言語的フィードバックに対する反応と類似している。

 また、Martinたちは、心拍変動(心拍間時間の変動)の大きい者の方が、種類の異なる笑顔に対する応答に微妙な差が出やすいことも明らかにした。心拍変動は、顔認識の正確さと関連付けられている。

 今回の研究によって得られた知見は、笑顔が非言語的な正のフィードバックであるとは限らないこと、そして、笑顔を認識する者の生理的反応に作用することによって笑顔が社会的相互作用に影響を及ぼす可能性のあることを示す、新たな証拠となっている。Martinたちは、今回の研究におけるサンプル数が少ない上に被験者が男性だけだったため、新知見を一般化するには制限があることに注意する必要があると述べている。同じ種類の笑顔に対する応答に男女差があるのかどうかや、より明白に否定的な表情に対する生理的影響を検証するためには、さらなる研究が必要となる。



参考文献:
Martin JD. et al.(2018): Functionally distinct smiles elicit different physiological responses in an evaluative context. Scientific Reports, 8, 3558.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-21536-1
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近年の朝ドラ

2018/05/07 17:45
 2013年放送の『あまちゃん』(関連記事)以降、朝ドラについてはほとんど言及していなかったので、まとめてみます。現在放送中の朝ドラ『半分、青い。』は、それなりに楽しみに視聴しています。さほど期待しておらず、惰性で視聴を始めた感は否めませんが、そこそこ笑える場面もありますし、何よりも主人公と幼馴染3人との関係がよい感じです。私は主人公たちより1学年下なので、その点での懐かしさと共感もあります。主演の永野芽郁氏も好演しており、魅力的です。今後、主人公が東京に行ってどう話が動いていくのか、楽しみです。


●『ごちそうさん』(2013年〜2014年)
 前半はそれなりに視聴していましたが、後半はまったく視聴しませんでした。視聴した範囲ではそれなりに面白かったと記憶しています。

●『花子とアン』(2014年)
 全話視聴しました。最初の頃はそこそこ面白かったのですが、途中からは惰性で視聴を続けていました。主人公よりも炭鉱王の話の方が盛り上がったように、途中から主人公の話が低迷した感があります。

●『マッサン』(2014年〜2015年)
 私は酒が心底嫌いで、飲酒(文化)への偏見がきわめて強いので、視聴しませんでした。酒には本当に不愉快な思いばかりさせられてきました。これまでも酒を飲んできませんでしたが、今後も飲むことはないでしょう。最近では、同じく心底嫌いな煙草よりも、酒の方が嫌いなくらいです。

●『まれ』(2015年)
 最初の2回ほど視聴しましたが、主人公の父親があまりにも不愉快な人物造形になっていたので、あっさりと挫折しました。

●『あさが来た』(2015年〜2016年)
 全話視聴しました。朝ドラでは定番の女性の立身出世一代記です。主人公が主体的に行動していくこともあり、最初から最後までなかなか楽しめました。

●『とと姉ちゃん』(2016年)
 こちらも朝ドラでは定番の女性の立身出世一代記です。悪くはありませんでしたが、全体的に盛り上がりに欠けた感は否めません。

●『べっぴんさん』(2016年〜2017年)
 3作連続での、朝ドラでは定番の女性の立身出世一代記となります。ひじょうに退屈な作品で、途中からは完全に惰性で視聴していました。作品自体は面白くなかったのですが、主演の芳根京子氏には今後も期待しています。

●『ひよっこ』(2017年)
 朝ドラでは珍しく、立身出世ものでも一代記でもありません。高度経済成長期の無名の女性の若き日を描いた、意欲作になっていると思います。こういう作風ばかりでは飽きますが、たまにはよいと思います。話は、笑いと泣きの要素がそこそこそあり、娯楽ドラマとして王道的になっています。

●『わろてんか』(2017年〜2018年)
 朝ドラでは定番の女性の立身出世一代記です。王道的ではありますが、正直なところ、陳腐な感は否めませんでした。『べっぴんさん』よりは楽しめましたが、途中からは惰性で視聴を続けていました。


 今後の放送予定作品では、次の『まんぷく』(2018年〜2019年)は、『ゲゲゲの女房』と同じく夫の立身出世を支える妻が主人公となります。話は面白くなりそうですが、個人的には主演が魅力的ではないのが残念です。まあ、視聴したら印象が変わるかもしれませんが。その次の『なつぞら』(2019年)は、大河ドラマ『風林火山』の脚本を担当した大森寿美男氏の作ということで、期待しています。何よりも、主演が広瀬すず氏なのは楽しみです。
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木村光彦『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』

2018/05/06 18:56
 中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年4月に刊行されました。本書は経済問題に限定して、日本の朝鮮半島支配を実証的に検証しようとしています。著者はかつて、韓国の高校生向け教育番組において、朝鮮における日本の支配は世界の植民地支配のなかで最悪だった、との見解が受け入れられている様子であることに疑問を抱き、それが本書の執筆動機になっています。世界の植民地支配をすべて調べて比較したのか、そもそも最悪とはどのような意味なのか、などといった疑問です。

 本書はまず、1910年の日韓併合時点での朝鮮の経済状況を概観します。当時の朝鮮は都市商業や工業が未発達で、1870年代の日本よりも農業への依存度が高かったようです。当時の朝鮮の米作の生産性は、同じ頃の日本よりかなり低かったそうですが(半分程度)、これは技術的な問題が大きいようで、灌漑設備が少なく、肥料は自給自足といった事情がありました。前近代おいて、朝鮮の初等教育は日本より未発達だったようです。両者の大きな違いは、日本ではそれなりに女性がおり、「実用的」知識も教えられていたいのに対して、朝鮮では女子がほぼおらず、「実用的」知識は教えられず、ほぼ儒教の古典に依拠していたことです。

 日本による保護国化を経て、1910年以降、朝鮮は日本の統治下におかれます。これはオランダ領東インド諸島と同じく直接的統治で、イギリスによる間接的なインド統治とは対照的です。日本の朝鮮統治は、1919年の万歳騒擾事件(三・一独立運動)を契機に武断政治から文化政治へと大きく変わりました。警察の拡充など朝鮮における支配機構の肥大から、朝鮮総督府の財政自立が進んで1919年には全廃された補充金が、1920年以降再び、1911〜1912年以上の水準にまで増額されました。しかし、後述するように、日本財政における負担割合は低下していきました。とはいえ、朝鮮の租税負担率は「内地」の3〜4割、台湾の6〜7割程度だったので、朝鮮財政は補充金と公債金が欠かせなくなり、「内地」依存型から完全には脱却できませんでした。

 1910年以降、朝鮮の産業構造は大きく変わりました。1912年には国内総生産のうち第一次産業が7割近くを占めていましたが、1939年には4割程度に低下しています。これは第一次産業の衰退を意味するのではなく、相対的には縮小したものの、絶対的には成長しました。米の生産量は、1910年代初めには1200万石前後でしたが、1937年には2700万石まで増加します。米の生産性も1.6〜2倍程度に上昇しました。ただ、朝鮮総督府は土地改良や優良品種の普及などによる米の生産性の向上には熱心でしたが、大豆・大麦・粟など畑の作物への関心は低く、生産性は低下傾向にあったようです。なお、この間、土地調書事業で農民の多数が土地を喪失したわけではなかった、と指摘されており、じゅうらいの有力説が否定されています。

 上記の国内総生産の割合の変化から窺えるように、朝鮮は日本統治下で工業化が進展します。これは欧米の植民地にはない特異なものだった、と本書では指摘されています。「内地」にもない巨大水力発電所とそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本統治下の朝鮮と欧米の植民地との違いを際立たたせる、というわけです。産業発展の主導者は「内地人」でしたが、朝鮮人の側にも、自発的な模倣や企業者精神が明瞭に見られました。驚異的な工業化の進展は、統治側・被統治側双方の力が結合したものだった、と本書は評価しています。なお、このように朝鮮人が主体的に工業化に関わった一因として、朝鮮における華人の少なさが指摘されています。華人がいれば、朝鮮人は経済的にその家風に立たされていたのではないか、というわけです。

 このように、日本統治下の朝鮮では、農業生産が増大し、工業化が大きく進展しました。では、多数の朝鮮人の生活水準はどうだったのかというと、主観的要素も大きいので評価は難しい、と指摘されています。日本統治下で激減したと推定されている1人当たりの米消費量について、たとえば、1920〜1930年にかけて0.63石から0.45石に減少したとの推定は間違いで、減少はしたものの、その程度はさほど大きくなかった、と指摘されています。具体的には、1915〜1919年には0.589石、1930〜1933年には0.556石、1934〜1936年には0.511石、1936〜1940年には0.555石です。

 身長を指標とすると、日本統治下の朝鮮では、一般人の生活水準は大きくは変わらなかったのではないか、と推測されています。経済は大きく成長したものの、人口増加と平均寿命の向上により、生活水準自体は大きく変わらなかった、ということかもしれません。経済が成長しても生活水準が大きく変わらなかったとすると、主観的には貧しくなった、との実感が生じるかもしれません。ただ、公衆衛生や鉄道のような交通手段の発達は顕著なので、その点では生活水準の向上を実感した人もいるかもしれません。

 総合的には、日本は朝鮮を比較的低コストで統治しました。朝鮮における治安維持に成功し、経済成長も促進しました。朝鮮からの米の移入が「内地」の農家に打撃を与えたようなこともあったものの、総じて日本経済に占める朝鮮の比重は小さく、財政面でも日本政府の負担は小さくて、歳出総額に占める朝鮮統治の財政負担割合は、併合後次第に低下していきました。日本の朝鮮領有はレーニンの帝国主義理論のような経済決定論では説明できず、安全保障的観点が色濃いものでした。

 このような比較的安定した日本の朝鮮統治が大きく変わったのが、日中戦争以降、とくに太平洋戦争以降のことでした。当時の日本の国力では無理のある総力戦体制が企図され、経済統制が進展していきます。1940年代になると、農業生産は低下し、生産性も低下します。これは、朝鮮および「内地」の工業部門への労働力流出、資材・肥料の不足、過大な供出などが要因でした。一方、1940年以降、農業生産とは対照的に鉱工業生産は増大しました。これは、戦争遂行が優先されたからでした。1940年以降、とくに太平洋戦争以降、日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込みました。現在の日韓の歴史問題の多くはこの時期に根源がある、と本書は指摘します。

 朝鮮経済は戦時期に内地経済により従属するようになった、との見解がじゅうらいは有力でしたが、じっさいには逆で、大日本帝国政府は、長期戦に備えての朝鮮における「戦争経済」構築のため、本国から自立した軍事および非軍事工業の建設を企図しました。戦時期には朝鮮と満洲との経済的結びつきが強くなり、朝鮮・満洲の自立的工業の建設は、完全に達成されたわけではないとしても、敗戦までに大きく前進しました。朝鮮は米軍の爆撃対象にならなかったので、インフラ・工業設備は温存されました。

 本書は、表題とは異なり、北部(朝鮮民主主義人民共和国)と南部(大韓民国)に分断された第二次世界大戦後も検証しています。本書はまず、南北の違いを指摘していきます。日本統治下の朝鮮では、インフラ・鉱物資源・工業設備の多くは北部に存在しました。鉄道の路線距離も、面積・人口あたりのいずれでも北部の方が上でした。農業に関しても、1人当たりの食糧生産能力では、北部が南部を凌駕していました。こうした状況を前提として、本書は南北の違いを検証していきます。

 第二次世界大戦後の朝鮮に関しては、人材面では、北部の非連続性と南部の連続性が指摘されています。しかし、イデオロギーの観点からは、全体主義という点で戦前と戦後(独立後)の朝鮮北部における連続性が指摘されています。北部では、体制転換は統治の理念もしくは精神の根本的変革を必要としなかったので、大きな混乱がなかった、というわけです。一方南部では、統治理念の全面的な転換が図られ、北部と比較して大きな混乱が見られました(李承晩大統領のデモによる退陣など)。経済面に関しては、北部では日本統治時代の戦時期に続いて統制経済が採用されました。しかし南部では、市場経済が基盤となりました。

 ソ連は朝鮮北部から穀物・工業原料・製品のみならず工業設備も解体して持ち去りましたが、それは初期に留まり、規模も限定的でした。北部は軍事優先の国家体制構築を進め、日本統治時代の産業遺産は経済の根幹であり続けましたが、軍事偏重は長期にわたる経済停滞をもたらしました。一方南部では、軍事工業の解体と民需中心経済への転換が図られました。南部が日本統治時代から継承した工業設備は北部よりずっと少なかったものの、交通・通信・農業など、さらには人材面で継承した遺産は少なくはなく、朴正熙政権の優れた指導力のもと、経済が発展して北部を圧倒するに至ります。

 本書はこのように、日本統治下の朝鮮を経済に限定して検証し、さらには戦後の南北朝鮮をも視野に入れています。日本統治下の朝鮮の近代化を強調する見解は大韓民国でも主張されており、「ニューライト」と呼ばれています。こうした動向自体は、随分と前から知っていたので、本書の見解はさほど意外ではありませんでした。しかし、この問題に関しては不勉強だったので、本書のように一般向けにやや詳しく解説した書籍を読んだことがなく、本書は大いに参考になりました。本書の見解に激しく反発する人は少なくないでしょうが、議論の前提となる根拠を具体的に提示したというだけでも、一般社会における本書の意義はとても大きいと思います。
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大河ドラマ『西郷どん』第17回「西郷入水」

2018/05/06 18:54
 井伊直弼が独裁的な体制を確立した幕府から追われる身となった西郷吉之助(隆盛)と月照は、有村俊斎(海江田信義)とともに薩摩へ向かいます。3人は幕府の追求を何とか切り抜け、薩摩の自宅へとたどり着きます。島津斉彬は死の間際、異母弟である久光の息子の茂久(忠義)を後継者とし、久光が後見人となるよう、遺言を残していました。久光は江戸から戻ってきた両親と対面し、斉彬の遺志を継いで挙兵上洛するつもりだと力強く宣言しますが、父の斉興は冷ややかです。江戸では天璋院(篤姫)と14代将軍家茂が対面し、天璋院は家茂から、信頼できない、と言われます。幾島は将軍後継者争いで敗れた責任をとり、大奥から去ります。

 吉之助はすぐにも月照の庇護を藩上層に願い出ようとしますが、斉興が帰国したので、吉之助は動かない方がよい、と大久保正助(利通)は忠告します。正助は家老の山田為久を通じて吉之助と月照の助命を願い出ようとします。斉興は幕府への恭順と新式軍備の廃止を指示します。斉興は藩財政を立て直した自分の功績を主張し、重臣陣の賛同も得て実権を再度掌握します。吉之助と月照は処刑されることになり、吉之助は諦めかけますが、なおも諦めきれない正助は、久光に2人の助命を嘆願します。しかし、久光は激昂し、2人を見捨てます。正助はなおも、山田を動かして斉興に拝謁し、吉之助を助けようと斉興を説得します。

 斉興が提示した吉之助を助ける条件は、月照を斬ることでした。正助は必死に吉之助を説得し、吉之助も月照を斬る、と正助に約束します。しかし、月照とともに沖に舟で出た吉之助は、月照を斬らず、共に入水します。今回は歴史ドラマとしての側面が強かったように思いますが、それ以上に、仲間との強い絆とそれぞれの個性が描かれた人間ドラマになっていました。やはり、こうした普遍的な物語の方が一般的な受けはよいでしょうから、長期連続娯楽ドラマとして悪くはない構成のように思います。昔からの「声の大きな」大河ドラマ愛好者の多くは本作に否定的なのかもしれませんが、私は、放送開始前の期待値が低かったこともあり、そこそこ楽しみに視聴を続けています。
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Richard Bessel『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』

2018/05/06 07:05
 リチャード=ベッセル(Richard Bessel)著、大山晶訳で、中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年7月に刊行されました。原書の刊行は2004年です。本書は対象とする時代を第二次世界大戦やナチス政権期に限定せず、第一次世界大戦におけるドイツの敗北から第二次世界大戦後の冷戦構造の確立の頃までを取り上げ、「ナチスの戦争」がどのような文脈で起きたのか、またどのような影響を第二次世界大戦後に及ぼしたのか、広い視野で検証しています。

 副題にあるように、本書は「ナチスの戦争」が人種の戦いであったことを強調しています。ナチス政権中枢には強烈な人種観があり、それに基づいて戦争が遂行されたのですが、独ソ戦でドイツ軍の快進撃が止まり(本書では、ナチス政権最初の軍事的挫折とも言えそうな、いわゆるバトル・オブ・ブリテンについては言及されていません)、ついには劣勢に陥っても、「軍事的合理性」よりも「劣等人種」の殺害を優先した様相が、本書では詳細に描写されます。ある程度は知っていたこととはいえ、ひじょうに陰鬱な気分になります。ナチス政権の蛮行が、その人種感観に基づき、とくに東部戦線において激化していった様子が、強く印象に残ります。

 ナチスを利用しようとしたヴァイマル末期の保守系政治家も軍部も、けっきょくはナチスというかヒトラーに従属するか追放・処刑(私刑も含みます)されていき、ヒトラーの「非合理な」戦争指導を止めることはできませんでした。国民も、「人種の戦い」の全貌を詳細には知らないでも、前線にいた家族などからその一端を聞いてはいたものの、戦争の長期化・総力戦化にともない、外国人労働者のドイツへの強制連行が増えるにつれて、ナチスの人種観に染まっていった様子が窺えます。今になってみると、保守系政治家も軍部もナチスというかヒトラーにたいして実に見通しが甘かったわけですが、同時代にあってナチスの危険性を的確に見抜いて対処すべきだったと言うのは、結果論というか後知恵なのかもしれません。

 第二次世界大戦末期を詳しく取り上げているのも本書の特徴で、それは、この時期にこそナチスの人種観が色濃く現れてドイツ国民を制約し、もはや勝算はなかったにも関わらず、多くの戦死者を出すとともに、外国人労働者や囚人にたいする過酷な扱いが進行したからです。また、第二次世界大戦末期の経験が、多くのドイツ国民に強い被害者感情を生じさせ、第二次世界大戦後のドイツ国民の意識を規定したことも指摘されています。本書は良書ではありますが、残念なのは、日本語の解説・解題がないことです。
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ソ連崩壊後のエストニアにおける能力主義の遺伝的側面

2018/05/05 00:01
 ソ連崩壊後のエストニアにおける能力主義の遺伝的側面に関する研究(Rimfeld et al., 2018)が公表されました。人々の生活レベルや社会経済的地位は、遺伝的要因と環境的要因を組み合わせることで説明できます。この研究は、12500人のエストニア人の遺伝子を、学習および職務上の成績に関する情報と共に解析しました。被験者は、ソ連時代に育ったグループと、1991年以降、すなわちソ連崩壊後の独立したエストニアにおいて、中等教育やさらに上級の教育を受けたグループとに分けられました。国家が独立すると、教育機会や就業機会に関して能力主義が強まるような変化が見られると、一般的には考えられています。

 この研究は、能力主義の強いソ連崩壊後の資本主義社会においては、ソ連時代の共産主義社会と比較して、就学年数や職業的地位に影響を及ぼすことが知られている遺伝子の違いにより、こうした人生の達成度の差異を2倍多く説明できる、と明らかにしました。今回得られた知見から、社会構造や機会均等に生じる大きな変化が、社会的な達成が遺伝要因を反映する度合いに対してどのような影響を及ぼし得るか、示されました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ソ連崩壊後のエストニアにおける能力主義の遺伝的側面

 人々の学習および職務上の成績の多くは、ソ連崩壊後のエストニアのような能力主義の強い社会システムでは、ソ連時代と比較して、世代を越えて受け継がれる遺伝要因によって説明されることを明らかにした論文が、今週掲載される。

 人々の生活レベルや社会経済的地位は、遺伝的要因と環境的要因を組み合わせることで説明できる。Kaili RimfeldとRobert Plominの研究チームは、1万2500人のエストニア人の遺伝子を、学習および職務上の成績に関する情報と共に解析した。被験者は、ソ連時代に育ったグループと、1991年以降、すなわちソ連崩壊後の独立したエストニアにおいて、中等教育やさらに上級の教育を受けたグループとに分けられた。国家が独立すると、教育機会や就業機会に関して能力主義が強まるような変化が見られると、一般的には考えられている。

 研究チームは、能力主義の強いソ連崩壊後の資本主義社会においては、ソ連時代の共産主義社会と比較して、就学年数や職業的地位に影響を及ぼすことが知られている遺伝子の違いによって、こうした人生の達成度の差異を2倍多く説明できることを明らかにした。今回得られた知見から、社会構造や機会均等に生じる大きな変化が、社会的な達成が遺伝要因を反映する度合いに対してどのような影響を及ぼし得るかが示された。



参考文献:
Rimfeld K. et al.(2018): Genetic influence on social outcomes during and after the Soviet era in Estonia. Nature Human Behaviour, 2, 269–275.
http://dx.doi.org/10.1038/s41562-018-0332-5
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最終氷期極大期から完新世までの温度変動

2018/05/05 00:00
 最終氷期極大期から完新世までの温度変動に関する研究(Rehfeld et al., 2018)が公表されました。気候変動の変化は、社会が取り組む上で、平均的な気候の変化と同じくらい重要です。最終氷期極大期と完新世の温度変動の対比からは、気候の平均的な状態とその変動の関係に関する知見が得られます。しかし、氷期〜間氷期の変動の変化は、グリーンランドについては定量化されていますが、全球的な描像はまだ得られていません。この研究は、海洋と陸上の温度の代理指標のネットワークを用いて、最終氷期極大期(21000年前頃)から完新世(直近11500年間)にかけて気候が3〜8℃温暖化するにつれ、全球の温度変動が1/4に低下したことを示します。

 この変動の低下には明瞭な帯状のパターンがあり、熱帯域ではあまり変化しなかったのにたいして(1/1.6〜1/2.8)、両半球の中緯度域では変化がより大きくなりました(1/3.3〜1/14)。対照的に、グリーンランドの氷床コアの記録は、温度変動が1/73に低下したことを示しており、グリーンランドでは、局地的な温度を上回る影響があること、あるいは気温変動と全球表面の温度変動が無関係であることが示唆されます。こうした変動の低下の全体的なパターンは南北温度勾配の変化によって説明でき、この機構では、温暖化した将来において温度変動がさらに低下することが示されています。


参考文献:
Rehfeld K. et al.(2018): Global patterns of declining temperature variability from the Last Glacial Maximum to the Holocene. Nature, 554, 7692, 356–359.
https://dx.doi.org/10.1038/nature25454
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ネアンデルタール人による石の意図的な線刻

2018/05/04 10:41
 中部旧石器時代の層の石に刻まれた線を検証した研究(Majkić et al., 2018)が報道されました。本論文が検証対象としたのは、クリミアのキークコバ(Kiik-Koba)遺跡の中部旧石器時代の層で発見された、表面に線の刻まれた石です。キークコバは1924〜1926年にかけて調査された洞窟遺跡です。キークコバ遺跡の中部旧石器時代の石器群は上層と下層とで大きく異なり、本論文が検証対象とした石は4層で発見されました。4層は、石器インダストリーではミコッキアン(Micoquian)との類似性が指摘されています。キークコバ遺跡では幼児と成人のネアンデルタール人遺骸が発見されているものの、出土層位には曖昧なところがあり、成人は下部の6層、幼児は上部の4層と推測されています。キークコバ遺跡4層の暦年代は37000〜35000年前頃と推定されていますが、ヨーロッパの旧石器時代の年代の見直しが進む中(関連記事)、やや古い文献に依拠しているので、じっさいにはもっとさかのぼる可能性が高いかもしれません。

 本論文は、キークコバ遺跡4層で発見された、表面に線が刻み込まれた燧石を顕微鏡で分析し、三次元画像で復元しました。石の表面に線が刻み込まれているからといって、それが人類による意図的なものとは限りません。屠殺に用いた場合でも、石の表面に線が刻み込まれる場合もあります。石の表面に刻み込まれた線が意図的なのか否か、区別することは困難です。本論文は、石の表層における刻み込みの構造とパターンを分析し、右利きで技術的に熟練したネアンデルタール人が、より深い線を刻んでいき、対照性を作り出そうとしたものであり、明らかに意図的なものだ、と結論づけています。

 本論文は、この長さ3cm程度の石に刻まれた線について、小さな物体の表面に線を刻むという困難な作業で、優れた神経運動・制御・集中力が必要だと指摘します。また、対照性を作り出そうという意図が推測できることから、象徴的思考の証拠になる可能性も提示されています。ネアンデルタール人の線刻についてはすでに他の事例も報告されており(関連記事)、キークコバ遺跡の線刻のある石もとくに意外ではありませんが、石の表面の線が意図的なものか否かはっきりと区別できそうな方法を提示したという意味で、本論文の意義は大きいと言えるかもしれません。

 本論文は、下部および中部旧石器時代の遺跡で発見された、ヨーロッパと中東の表面に線の刻まれた石の一覧を掲載しています。ネアンデルタール人に現生人類(Homo sapiens)と共通するような一定水準以上の象徴的思考能力が存在したとすると、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の時点で、何らかの象徴的思考能力が存在した可能性は低くないでしょう。その意味で、下部旧石器時代の遺跡で発見された石の表面の線も、人類による意図的なもので、何らかの象徴的な意味が表現されていた可能性もあります。おそらくはネアンデルタール人よりも現生人類とは遠い系統関係にあると思われる人類が、意図的に貝の表面に線を刻んだと考えられる事例も報告されています(関連記事)。

 本論文の報告事例も、ネアンデルタール人と現生人類との違いはじゅうらいの(一部?の)想定よりも小さかったと主張する、ネアンデルタール人の見直しというか「復権」傾向(関連記事)をさらに推し進めるものと言えそうです。ただ、単なる線刻(原初的・素朴な芸術)と具象的な線画との間に大きな違いを認める見解も提示されています(関連記事)。後者の確実な事例がまだ確認されていないネアンデルタール人と、後者が豊富な現生人類との間には、ある種の認知能力において決定的な違いがある、というわけです。その意味で、一部のネアンデルタール人見直し論者が言うような、ネアンデルタール人と現生人類は認知能力の点で大きな違いはなかった、との見解(関連記事)は、まだ確定したとはとても言えないでしょう。もっとも、具象的な線画の有無をネアンデルタール人と現生人類との認知能力の大きな違いの根拠とする見解には疑問が残ります(関連記事)。


参考文献:
Majkić A, d’Errico F, Stepanchuk V (2018) Assessing the significance of Palaeolithic engraved cortexes. A case study from the Mousterian site of Kiik-Koba, Crimea. PLoS ONE 13(5): e0195049.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0195049
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ミトコンドリアの起源の見直し

2018/05/04 10:38
 ミトコンドリアの起源の見直しに関する研究(Martijn et al., 2018)が公表されました。ミトコンドリアはATPを産生する細胞小器官で、その内部共生的な起源は真核細胞の進化史における重要な事象でした。ミトコンドリアはアルファプロテオバクテリアを祖先とする、という強力な系統発生学的証拠があり、細胞内寄生体であるリケッチア目の細菌、またはその他のアルファプロテオバクテリアだと考えられています。しかし、最初期の化石真核生物は約20億年前までさかのぼり、分岐からは非常に長い時間が経過しているため、長枝誘引(long-branch attraction;LBA)に関する多くの問題があると示唆されています。

 採取されているアルファプロテオバクテリアの中から最も近縁な種を突き止めようとする取り組みでは矛盾する結果が得られており、ミトコンドリアの祖先の正体および性質についての詳細な推定が困難になっています。多くの研究が、ミトコンドリアは宿主が関連する複数の病原性系統および内部共生系統を含む分類群であるリケッチア目に近縁な祖先種から進化した、との見解を裏づけていますが、ミトコンドリアが自由生活性の細菌群から進化したと示唆する研究もあります。進化による形質転換は、とくに細胞内寄生体にたいしてヌクレオチド組成バイアスの変化を引き起こしたため、ミトコンドリアとリケッチア目細菌との間の類似性の一部は収斂である可能性が指摘されています。

 これまでの比較研究では、農業的あるいは医学的に重要な細菌を用いる傾向があり、まだ採取されていない膨大な数の多様な微生物の中に真の答えがある可能性は検討されていませんでした。この研究は、ミトコンドリアの系統発生学的な位置を再評価するため、海洋表層水由来のメタゲノムで探索を実施し、異なる12クレードのアルファプロテオバクテリアと、全てのアルファプロテオバクテリアにたいして姉妹群となる1クレードからなるゲノム採取データへと、既知のアルファプロテオバクテリアのゲノム試料が大幅に増えました。

 続いて、長枝誘引(long branch attraction;LBA)および組成バイアスによる人為的結果を特異的に対処できる系統ゲノミクス解析を実施したところ、ミトコンドリアはリケッチア目あるいは現在認識されている他のどのアルファプロテオバクテリア系統からも進化していない、と示唆されました。ミトコンドリアは、採取されている全てのアルファプロテオバクテリアが分岐する前に枝分かれした、別のプロテオバクテリア系統から進化したことを示しています。この新たな知見を考慮すると、ミトコンドリアの祖先の性質に関してこれまで提示された仮説はいずれも再評価されるべきだ、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:ミトコンドリアの古い起源は、採取されているアルファプロバクテリア内にはなかった

微生物学:ミトコンドリアの祖先を再検討する

 真核細胞の進化における重要な出来事は内部共生細菌の獲得であり、これが最終的にミトコンドリアになったとされている。ミトコンドリアは、細胞内寄生体であるリケッチア目の細菌、またはその他のアルファプロテオバクテリアであると考えられている。しかし、最初期の化石真核生物は約20億年前のものであり、分岐からは非常に長い時間が経過しているため、長枝誘引(long-branch attraction;LBA)に関する多くの問題があることが示唆される。また、その後の進化による形質転換は、特に細胞内寄生体に対してヌクレオチド組成バイアスの変化を引き起こした。そのため、ミトコンドリアとリケッチア目細菌との間の類似性の一部は収斂である可能性がある。しかし、これまで行われた比較研究では、農業的あるいは医学的に重要な細菌が用いられる傾向があり、まだ採取されていない膨大な数の多様な微生物の中に真の答えがある可能性は検討されていない。今回T Ettemaたちは、海洋表層水由来のメタゲノムで探索を行い、既知のアルファプロテオバクテリアのゲノム試料が大幅に増えた。モデル化からは、ミトコンドリアとリケッチア目細菌との間の近縁性が除外され、ミトコンドリアの祖先がアルファプロテオバクテリアであるとすれば、非常に初期に分岐した絶滅系統に由来することが示唆された。



参考文献:
Martijn J. et al.(2018): Deep mitochondrial origin outside the sampled alphaproteobacteria. Nature, 557, 7703, 101–105.
http://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0059-5
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祖先的鳥類の頭蓋

2018/05/04 10:37
 祖先的鳥類の頭蓋に関する研究(Field et al., 2018)が公表されました。現生鳥類の頭蓋は、祖先である恐竜類に見られる状態から大きく変化しています。鳥類の頭蓋には、歯のない拡大した前上顎の嘴と、可動性の口蓋および顎の懸垂骨(jaw suspensorium)を含む複雑な動力学系が存在します。鳥類の拡張した神経頭蓋は拡大した脳を保護しており、その両側には縮小した顎内転筋が位置しています。しかし、こうした特徴が出現した順序や、それらが最初に現れた際の状況については、まだ明らかになっていません。

 後期白亜紀の有歯鳥類イクチオルニス(Ichthyornis dispar)は、現生鳥類の外側で系統発生学的に重要な位置を占めており、現生鳥類の放散に近いものの、祖先的な形質を多数保持しています。原始的な初期鳥類とより現代的な鳥類との間という系統発生学的に重要な位置を占めている、というわけです。イクチオルニスの進化的な重要性は引き続き支持されているものの、1870年代に発見された不完全な遺骸の他に、イクチオルニスの有用な頭蓋標本の新たな報告例はなく、ジュラ紀および白亜紀の化石鉱床からは重要な鳥群化石が出土しているものの、そうした化石鳥類の頭蓋の多くはは破砕および変形しています。

 この研究は、1点のきわめて完全な頭蓋を含む、三次元的構造が保持されたイクチオルニスの新たな頭蓋化石標本4点について報告しています。またこの研究は、イクチオルニスの基準標本に、これまで見過ごされていた2つの要素を発見しました。これらの標本を用いての高分解能のコンピューター断層撮影により、イクチオルニスの頭蓋のほぼ完全な三次元復元像が得られました。その結果、イクチオルニスが、小さくて口蓋棚を欠く、顎の先端部のみに限定された過渡的な嘴を持ち、その動力学系は現生鳥類のものに似ている、と明らかになりました。現生鳥類の摂餌装置である嘴は、じゅうらいの想定よりも早い時期に進化し、その構成要素は機能的および発生学的に調整されていた、と推測されています。

 イクチオルニスの脳は比較的現代的ですが、その側頭領域は意外にも恐竜類のものに近く、大きな「adductor chamber(下顎内転筋を収める空間)」を維持しており、その背側は祖先的な爬虫類様の上側頭窓を形成する大きな骨構造に接していました。こうした特徴の組み合わせは、鳥類の脳および口蓋の重要な特性が、顎の筋肉系の縮小やくちばしの完全な変形に先行して進化したことを示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【古生物学】初期鳥類のくちばしを調べたユニークな研究

 くちばしを持つ初期鳥類の極めて良好な保存状態の化石が新たに発見され、鳥類から恐竜類への移行が予想以上に複雑な過程であったことを明らかにした論文が、今週掲載される。

 鳥類の頭蓋骨は、その祖先の恐竜類とはかなり異なっている。現生鳥類は、歯のない大きなくちばしを持ち、頭蓋が大きく、閉口筋は弱体化し、頭蓋骨の連接構造は顕著で、口蓋を動かすことができ、顎がぶら下がっている。こうした特徴が発生する過程と順序を解明することは研究課題となっているが、鳥類の頭蓋化石の保存状態が通常は良好でないために難題となっている。

 今回、Bhart-Anjan Bhullarたちの研究グループは、新たに発見された初期鳥類Ichthyornis disparの4点の化石について詳細に調べた。I. disparは、歯を持つアジサシ似の海鳥で、翼幅は60 cm、現在の北米にあたる地域で1億年〜6600万年前に生息していた。Ichthyornisは、化石記録において独特な位置付けがなされており、現生鳥類と近縁関係にある一方で、祖先種の特徴(例えば、先の曲がった鋭い歯)が数多く残っている。Ichthyornisの化石は、1870年に最初に発見されたが、この化石試料の頭部は不完全で、ひどくつぶれており、それ以降は新たな頭蓋骨が発見されていなかった。今回発見された頭蓋骨は、保存状態が良好で、三次元形状が保持されており、並外れて完全な頭蓋骨が1個含まれていた。また、Bhullarたちは、最初に発見されたIchthyornisの化石試料に関して、2つの要素が見落とされていたという予想外の報告をしている。

 Bhullarたちは、三次元スキャンによってI. disparの頭部を再現した。Ichthyornisの頭蓋骨は、恐竜のように、大きな閉口筋のための穴が開いていたが、全体的には、大部分が現生鳥類のようで、顕著な連接構造があり、顎先に小さな原始的なくちばしがついている。これらの特徴のため、腕が翼になった後でも羽繕いや物体操作ができたと考えられ、現生鳥類の摂食器官がこれまで考えられていた時期より早く進化していたことが明らかになった。


古生物学:イクチオルニスの完全な頭蓋が明らかにする鳥類頭部のモザイク状集合

古生物学:祖先的鳥類の頭蓋が明らかに

 白亜紀の海鳥イクチオルニス(Ichthyornis dispar)は、原始的な初期鳥類とより現代的な鳥類との間という系統発生学的に重要な位置を占めている。その進化的重要性が疑われたことは一度もないが、1880年代以降、イクチオルニスの頭蓋の重要な標本は新たに報告されておらず、他の化石鳥類の頭蓋は破砕および変形しているものが多い。今回B Bhullarたちは、1点の極めて完全な頭蓋を含む、三次元的構造が保持されたイクチオルニスの新たな頭蓋化石標本4点について報告している。彼らはまた、恐竜化石ハンターであるオスニエル・マーシュにより発見されイクチオルニスのホロタイプとなった標本に、これまで見過ごされていた2つの要素を見いだした。これら複数の標本のコンピューター断層撮影により得られた三次元復元像からは、イクチオルニスのくちばしが従来の想定よりもはるかに原始的なものであり、側頭部には化石鳥類の頭蓋ではほとんど知られていなかった、恐竜に似た特徴が見られることが明らかになった。



参考文献:
Field DJ. et al.(2018): Complete Ichthyornis skull illuminates mosaic assembly of the avian head. Nature, 557, 7703, 96–100.
http://dx.doi.org/10.1038/s41586-018-0053-y
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