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ブリーダーズカップ結果

2009/11/09 00:00
 日本時間では昨日と一昨日に、米国のサンタアニタパークでブリーダーズカップ(BC)が行なわれました。注目していたのはターフとクラシックですが、ターフではコンデュイットが連覇を達成しました。今年、コンデュイットはエクリプスステークスと凱旋門賞でシーザスターズに完敗しており、そのコンデュイットがキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスとBCターフを勝ったことで、シーザスターズの評価がますます上がることでしょう。コンデュイットは来年から日本で種牡馬生活を送ることが決定しており、ジャパンカップに予備登録しているそうですから、ジャパンカップに出走する可能性が高そうです。日本の馬場への適性はあまりなさそうですが、現在の日本の芝路線は低調なので、出走すれば地力の違いで圧勝する可能性もあるでしょう。

 クラシックはゼニヤッタが勝ち、無傷の14連勝を達成しましたが、これは米国の牝馬としては新記録となります。また、牝馬がBCクラシックを勝ったのもはじめてで、さらには無敗でのBCクラシック制覇もはじめてのことで、たいへん価値のある勝利だと言えるでしょう。ゼニヤッタは、昨年も勝っているBCレディーズクラシック(旧称BCディスタフ)とBCクラシックのどちらを選択するか、注目されていたのですが、直前になってクラシックを選択し、見事に勝利しました。現在の北米のダート路線の牡馬陣は手薄だと陣営が判断したのでしょうが、それを考慮に入れたとしても、快挙と言うべきでしょう。今年の米国の牝馬陣には、もう1頭3歳のレイチェルアレクサンドラという強い馬がいて、同世代の牡馬だけではなく、古馬の牡馬相手にもGIを勝ったレイチェルアレクサンドラの年度代表馬は確定と言われていたのですが、BCクラシックでの勝利により、ゼニヤッタのほうが有力になったかもしれません。ゼニヤッタはオールウェザー馬場を主戦場としていることから、実現性は低そうですが、 もし今後この2頭の名牝が対戦することになれば、たいへん盛り上がることでしょう。
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ドイツをめぐる国家と民族の問題

2009/11/08 06:44
 国家と民族というたいへん難しい問題を提示しましたが、もちろん私に深い考察ができるわけではありません。そもそも、民族の定義が難しいという問題もありますが、近代における一民族一国家という原則・理想像にしても、現実にはほとんど無理なのであって、一つの民族が複数の国家にまたがったり、一つの国家に複数の民族が存在したりするのが世界の現状となっています。「ドイツ民族」をめぐる問題をみていくと、とくにその思いを強くします。

 ドイツ民族とは、ドイツ語を母語とするゲルマン系の人々のことを指すそうですが、現代では珍しく、ドイツ民族は複数の国家(ドイツ・オーストリア・リヒテンシュタイン・スイス)において多数派となっています。冷戦期には東ドイツが存在しましたから、もう一カ国増えることになります。ドイツ民族は東欧・ロシアにも少なからず居住し、近代における戦争や、その結果としての新国境線の確定のさいには問題が生じました。ドイツ民族がこのように一つの国家にまとまらないのは、ドイツ民族を統合する国家が存在しなかったという歴史的経緯によるものなのでしょう。

 ドイツ民族を統合する国家が存在しなかったという歴史的経緯から、どうもほとんどの「ドイツ人」は、ドイツが統一されていない状況を不思議には思っていなかったようなのですが、こうした状況を変えたのはフランス革命とその後につづいたナポレオン帝政だったようです。ナポレオン帝政下のフランスはドイツを蹂躙し、形骸化して久しいとはいえ、850年近く続いた神聖ローマ帝国はついに崩壊することになりました。こうした中、フランスに何度も敗北したプロイセンにおいて、ドイツ民族主義とドイツ統一への機運が高まっていったようです。

 ドイツ民族は広範な地域に居住していますから、ドイツ統一運動とはいっても、どこまでをドイツとするか、という問題が出てきます。ここで問題となったのが、オーストリア帝国の扱いでした。オーストリアは多数の非ドイツ系住民を抱えており、ドイツ民族単一の統一国家は、それらの住民の独立、すなわちオーストリア帝国の解体を意味しますから、オーストリア帝国にとってはとても容認できないことでした。これにたいしてオーストリアは、非ドイツ系住民を含む多民族国家としての中欧帝国を構想しますが、とうぜんのことながらドイツ民族からの支持はあまり得られません。

 また、このように複雑な事情を抱えるオーストリアは除外してドイツ民族の国を作ろうとする動きが出てきます。これを小ドイツ主義といい、プロイセンがその旗手となりました。一方、非ドイツ系住民を除外したオーストリアをも含めてのドイツ統一構想は、大ドイツ主義といいます。このような三つの構想の対立は、1866年の普墺戦争により最終的に決着がつき、プロイセン主導の小ドイツ主義によるドイツ帝国が成立することになりました。一方オーストリアは、この間の1848年にオーストリア=ハンガリー二重帝国を発足させ、第一次世界大戦の終結まで多民族からなる帝国を維持することになります。

 第一次世界大戦の結果、多民族帝国としてのオーストリアは解体し、ドイツ人の共和国として再出発することになりました。一方ドイツ帝国は、皇帝制度が倒され、ワイマール共和国として再出発することになりましたが、1933年、ヒトラー率いるナチスが政権を握ります。戦間期前半のオーストリアでは、ドイツとの併合を望む声が圧倒的でした。多民族からなる帝国としてのオーストリアの解体は、かつての大ドイツ主義の実現の環境を整えたわけです。しかし、オーストリアのナチスによるクーデターが1934年に失敗すると、ドイツとの併合論は一気に失速しました。それでも、潜在的なドイツ統一論への待望は根強く、ドイツの圧力によりドイツに併合されても、大規模な抵抗運動は起きませんでした。しかし、ナチス政権下のドイツでオーストリア地域の住民は二流市民として扱われ、戦争による被害も受けたため、ドイツへの反感は強まりました。

 第二次世界大戦でのドイツの敗北後、オーストリアは再びドイツから分離して一国家として再出発することになりました(独立は1955年)。ナチス政権下のドイツに併合されていた期間のひどい扱いから、ドイツとの併合を望む声はほとんどなくなり、しだいにオーストリア人としてのアイデンティティが確立されていきました。ただ今でも、東欧系住民を排斥する立場の人々は、ドイツ人という言葉にこだわる傾向があります。一方ドイツは、第二次世界大戦後に東西に分裂し、朝鮮半島やベトナムと並んで、冷戦による民族分断という悲劇の象徴となりましたが、冷戦構造の終結・東欧の社会主義諸国の崩壊という流れのなか、1990年に西ドイツによる東ドイツの併合という形での統一が実現しました。ヨーロッパ共同体から発展したヨーロッパ連合が拡大していくという時代の流れの中、オーストリアをも対象としたドイツ統一運動は、もはや過去のものになったと言えるでしょう。
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大河ドラマ『風と雲と虹と』第12回「剣の舞」

2009/11/07 00:00
 再び除目の季節が到来し、将門は右兵衛府の少志となりました。将門が任官したとの史実は確認されておらず、これは創作の可能性が高いでしょう。主人の藤原忠平の御前に呼ばれた将門は、坂東人が都にあまり慣れては使いどころがない、番犬は人に慣れすぎては使えない、と抜擢の理由を忠平から聞かされ、念願の官位を得たとはいえ、単純に喜ぶ気にはなれません。この場には、山陽道巡見使の務めを終えた藤原子高もいました。子高は忠平の家司で、忠平のお気に入りです。同じく忠平の家人である三宅清忠は、将門の任官を祝いますが、妬ましい、との本音も吐露します。官位には拘らないとの純友に共鳴していた清忠ですが、こうした人間心理の複雑さをしっかりと描いているあたりが、この作品のよさだと思います。

 将門の任官を聞いた鹿島玄明が将門を訪れ、二人は酒を酌み交わします。任官により、自分も腐った朝廷の一部分に組み込まれるのでないかと思い、不愉快なのではないか、と将門に指摘した玄明は、それは将門次第だ、と言います。そこへ貞盛が訪れ、貞盛を嫌いだという玄明は去ります。貞盛はいちだんと出世し、それは土地を献上したからだ、と語ります。汗水を流した土地を献上することに嫌悪感を示す将門ですが、それは貞盛も分かっていたことでした。

 貞盛は、貴子を訪れようと将門を誘い、二人は貴子の屋敷に向かいます。貴子の屋敷では、貴子の乳母も交えて四人で楽しい会話が続きます。貴子は相変わらず将門に好意を懐いており、それを妬んだのか、貞盛は何度か小督の存在を貴子に示唆し、貴子の気持ちを将門から遠ざけようとしているようです。そこへ、将門の弟の四郎将平が訪れます。四郎は、学問をするために上京してきたのでした。四郎も貴子に招かれ、五人は楽しい時を過ごします。

 都の博士や学生の腐敗・堕落の噂を聞いていた四郎は、大学寮に入らず、優れた学者に私的に師事しようとします。四郎が選んだのは、三蹟の一人として現在でもよく知られている小野道風でした。部屋を散らかし放題で、猫と戯れつつ将門兄弟と面会する変人ではあるものの、格式にとらわれず開放的な性格の道風に、将門は好意を持ちます。道風は四郎の弟子入りを許し、四郎は喜びます。

 その年の夏、都では疫病が流行しますが、朝廷は祈祷を命じるばかりで、相変わらずの無為無策です。都では、武蔵たちの真似をしたのか、仮面をつけた盗賊団が出没するようになりましたが、彼らは殺人を楽しんでいるようであり、それを見た武蔵は不快の念を抱きます。ある夜、巡邏を終えて右兵衛府の侍所に戻った将門は、仮面をつけた多数の盗賊が出現した、との報告を受けます。盗賊が多勢だと聞いた右兵衛府の役人たちは、盗賊を恐れてなかなか出動しようとしません。そこで、将門は単独で出動し、盗賊たちを次々と倒していきます。そこへ、ようやく他の右兵衛府の役人たちも現れ、将門は苦戦しつつも、盗賊団を退治することに成功します。倒した盗賊の仮面をとると、意外にも身分の高そうな顔立ちが現れましたが、今回は仮面の盗賊団の正体は明かされません。

 伊予に赴任した純友は、螻蛄婆の仲介を得て、伊予の海賊団の首領たちと面会することになりますが、純友の目的はまだ明かされません。今回は、将門と貞盛との違いがますます浮き彫りにされるとともに、貞盛が真剣に貴子を狙っているような描写も見られ、この時点では友情で結ばれている将門と貞盛が、後に対立することが不自然ではないように見せる話の構成になっています。また、仮面の盗賊団の正体など、相変わらず次の展開が気になる話になっており、やはり巧みな脚本だな、と思います。
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橋昌明『平家の群像 物語から史実へ』(岩波書店)

2009/11/06 00:01
 岩波新書の一冊として、2009年10月に刊行されました。武士見直し論の第一人者である橋氏の最新作ということで、さっそく読みました。清盛の孫である維盛(重盛の長男)と清盛の五男である重衡を中心に、平家一門の実像が追及されているとともに、平家が一枚岩ではなく、一門の構成員がそれぞれ時には相反するような独自の動きを見せていたことが示されています。

 維盛は重盛の嫡子ではなく、「嫡子」化してもその地位はすぐ不安定になった、との指摘も興味深いものでしたが、本書を読んでもっとも印象に残ったのは、重衡と清盛の三男である知盛についての見解です。これまで、私もばくぜんと知盛は知将・名将だとの印象をもっていたのですが、本書では、病弱だった知盛のものとされる功績は史料では裏づけのないものが少なくなく、それらの多くは、実は重衡の功績だった、とされています。

 暗愚で臆病な人物としての宗盛(清盛の次男)と対照的な、「実現されなかった正しい方針」を主張した賢者の存在、との二項対立的な『平家物語』の構想にとって、現実には活躍の少ない知盛が後者に相応しかったのだ、との指摘は興味深いものでした。知将・名将としての知盛との認識は、『平家物語』の構想に沿ったものであり、そのような認識を現代にまでもたらしている『平家物語』の、文学作品としての完成度の高さ・奥深さを改めて思い知らされます。
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DivXバージョン7の導入による不具合

2009/11/05 06:55
 最近、パソコンのハードディスク内のavi形式の動画を再生しようとしたところ、DivXバージョン7のアップデートの案内が表示されたので、安易にアップデートしてしまったら、Windows Media Player 11でavi形式の動画を再生し、バーを操作して特定の時間から見ようとすると、エラーが発生してWindows Media Player 11が強制終了するようになりました。そこで、他の動画再生ソフトも試してみたのですが、mpg形式の動画では同様の操作をしても大丈夫ですし、Windows Media Player 11と比較すると、使い勝手が悪いということと、mpg形式の動画の再生が滑らかではないために、なんとかWindows Media Player 11でavi形式の動画を再生できるように試してみました。

 エラーメッセージを見ると、DivXバージョン7が問題だったようなのでなので、以前のバージョンを探してみたところ、DivXのホームページでは7以前のバージョンを見つけられなかったので、苦労しつつもなんとか他のサイトでDivXバージョン6.8を見つけ、まずDivXバージョン7を削除し、その後にDivXバージョン6.8をインストールしたところ、Windows Media Player 11でavi形式の動画を再生し、上記のような操作をしても、エラーが発生しなくなりました。どうも理由がよく分からないのですが、あるいは、動画処理能力や他のドライバとの競合など、私のパソコン環境の問題なのかもしれません。
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大河ドラマ『風と雲と虹と』第11回「餓狼の頭目」

2009/11/04 00:01
 今回は、将門の登場時間が少なく、実質的には純友が主役の回となりました。伊予掾に任命され、伊予へと向かった純友は、螻蛄婆の仲介により、淡路島を縄張りとする有力な海賊団の首領である藤原恒利と面会します。恒利が純友の船に使わした遊女たちの一人である千載が、恒利の館まで純友を案内したのでした。純友と恒利はお互いに相手の腹を探り合うような会話をかわし、純友の人物の大きさに感銘を受けた恒利は、純友に従うことを誓います。

 恒利と純友とは打ち解けたようにも見えますが、「海賊大将軍」の先に純友が何を目指すのか、純友が恒利に明かさなかったため、心の底から打ち解けたわけではない、とも解釈できます。もっとも、「海賊大将軍」の先に目指すものが何なのか、純友自身にもまだよく見えていないため、ないものを語るわけにはいかない、という純友の恒利への発言は嘘ではないでしょう。しかし、恒利の側にはわだかまりがあるようです。恒利を演じているのは今福正雄氏で、癖のありそうな恒利を今福氏は好演しています。千載を演じているのは五十嵐淳子氏で、やはり美しいな、と改めて思ったものです。この作品は、主要な女優の美しさ・華やかさという点では、『天地人』に匹敵するくらい質が高いと言えるでしょう。もっとも、『天地人』は、謙信役の阿部寛氏の演技以外、ほとんどそれしか見所がないのが残念ではありますが。

 恒利の館から船に戻った純友は、山陽道の巡見使で、海賊退治に励む藤原子高を見かけます。螻蛄婆から、子高の悪い噂を聞いた純友は、子高の人物を見究めようと、進物を携えて子高を訪ねます。海賊とは元々民人であり、海賊と民人との区別をつけず、厳しく対処し、一日に人数を決めて民人を海賊と決めつけて処刑していけば、民人は海賊を恨むようになって海賊の居場所を通報するようになり、自分も国司も功績を挙げられるのだ、と得意気に語る子高にたいして、純友は激しく怒りますが、表面上は子高を持ち上げます。その後、子高が千載を侍らせようとしたのを見た純友は、千載を救い、子高に一泡吹かせるため、螻蛄婆の協力を得て、老女に変装した螻蛄婆を寝所に潜り込ませ、子高は慌てふためきます。

 伊予国府に到着した純友は、守の平維久と、介の藤原正経と面会します。純友が進物を携えてきたことに、維久は素直に喜びます。維久はいかにも好々爺といった感じですが、正経は癖のありそうな複雑な人物といった感じで、演じているのが寺田農氏だけに、今後の動向が楽しみです。純友は一旦国府を辞し、故郷に帰って息子と再会します。息子との再会を喜ぶ様子からは、冷徹でありながら感情豊かだという純友の複雑な個性が読み取れます。

 一方、都にいる将門と三宅清忠は、大学寮の学生であり、純友と通じている紀豊之や他の学生から、腐敗した現在の朝廷を倒す自分たちの試みに同心するよう誘われます。儀式に明け暮れ、民人の生活を顧みない腐った朝廷が倒れないのは、民人の側に朝廷への信仰があるからだ、と力説する豊之は、その信仰を崩してやるのだ、と興奮して主張します。しかし、将門と清忠は彼らの言動に危うさを感じ、同調しませんでした。その後、内裏に動物の死骸を捨て去るなど、朝廷の禁忌に触れるような挑発を繰り返した学生たちですが、ついに捕らえられ、連行される姿を将門が見つめる、というところで今回は終了です。正義感の強さと感情の激しさを前面に出した豊之を演じた綿引洪氏(後に綿引勝彦と改名)の表現は見事で、この作品の配役は本当に素晴らしい、と改めて思ったものです。
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中国の初期現生人類?

2009/11/03 00:07
 中国の広西壮族(チワン族)自治区で、10万年以上前と推定されるホモ=サピエンス(現生人類)の人骨(下顎骨と歯)が発見された、と『サイエンス』で報道(Stone., 2009)されました。まだ一部しか読めていませんが、なかなか興味深い発見です。この報道によると、この発見は、現代人の祖先は5万年前頃にアフリカから世界各地へと進出していった、とする現在では通説となっている現生人類アフリカ単一起源説(年代については、もう少しさかのぼる見解も提示されています)に見直しを迫るものだ、と中国の研究者は主張しているそうです。

 しかし、上記報道でも紹介されているように、人骨は断片的であり、現生人類と区分するのは時期尚早との見解もあります。また、この人骨が現生人類のもので、年代が10万年以上前で確実だとしても、現生人類のアフリカ単一起源説を否定する根拠にはならない、というのが私の見解です。アフリカには、20万年近くまでさかのぼると考えられる現生人類人骨がありますし、父系・母系(Y染色体・ミトコンドリア)では現代人に痕跡を残していない現生人類が、10万年前頃に現在の広西チワン族自治区に進出していた可能性も考えられます(関連記事)。十数万年前までさかのぼる現生人類人骨が、今後中国領内でさらに発見される可能性はあり、その場合、今回のように、現生人類アフリカ単一起源説を否定する根拠だ、と中国の研究者から主張されることになるでしょうが、もっと強力な証拠、たとえば30万年前近くまでさかのぼる現生人類人骨が中国で発見されるようなことでもないかぎり、中国の少なからぬ人類学者・考古学者が望んでいるような現生人類中国起源説は、他国ではまともに取り上げられないでしょう。

 かりに、中国で30万年前頃の現生人類人骨が発見された場合でも、現代の非アフリカ系人類の主要な遺伝子源が10〜5万年前頃のアフリカの人類集団にあったことは否定できません。そうすると、現在の中国領内に起源のある現生人類は、一部がそこからアフリカへと移住して遺伝的変異を蓄積した後、アフリカから再度世界各地へと進出し、現在の中国領内にいた「本家」の現生人類集団は、絶滅したか、アフリカから移住してきた集団に遺伝的に吸収された、というきわめて可能性の低い想定をしなければいけません。その意味でも、現生人類「中国」起源説の成立する可能性はほとんどまったくと言ってよいほどないだろう、と思います。



参考文献:
Stone R.(2009): Signs of Early Homo sapiens in China? Science, 326, 5953, 655.
http://dx.doi.org/10.1126/science.326_655a
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