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ジュラ紀の新種の滑空哺乳類化石

2017/08/18 00:00
 これは8月18日分の記事として掲載しておきます。中国で発見された1億6000万年前頃のジュラ紀の新種となる滑空哺乳類化石に関する二つの研究が公表されました。中生代に恐竜類とほぼ同時期を生きた哺乳類の祖先は、哺乳類の歴史の最初期における解剖学的進化と生態的多様化に関するひじょうに重要な証拠と言えます。一方、初期哺乳類は、現生哺乳類の数多くのありふれた特徴も発達させました。滑空行動の発達は、陸上の生息地から大きく異なる空中の生息地への重要な移行と言えます。

 一方の研究(Mengs et al., 2017)は、中国でジュラ紀の髫髻山(Tiaojishan)累層から発掘された新種の滑空哺乳類2種(Maiopatagium furculiferum、およびVilevolodon diplomylos)に由来する骨格と飛膜の化石について報告しています。いずれも、中生代に存在した、最古の草食哺乳類で哺乳類の進化上最も原始的な滑空動物として知られるハラミヤ類と分類され、既知の最古の滑空哺乳類より約1億年早く進化したとされています。Maiopatagium furculiferumの飛膜の化石と融合した叉骨の化石は鳥類のものに似ていますが、肩帯は哺乳類や有袋類よりも卵を産むカモノハシの現生種のものに近い、と指摘されています。Maiopatagium furculiferumはムササビの現生種に外観がひじょうによく似ており、樹上生活し、生仔を出産する特定の有袋類と哺乳類に似た進化的適応が見られます。

 もう一方の研究(Luo et al., 2017)は、Vilevolodon diplomylosについて詳細に説明しています。Vilevolodon diplomylosの歯の生え変わりのパターンは、他の初期哺乳類の大部分に特有なものです。上下の2本の臼歯は臼と杵の形に似ており、柔らかい植物の組織と種子を砕いてすりつぶすためのものだった可能性がひじょうに高い、と指摘されています。これらの化石は、被子植物以前の植物(花をつけない植物)と関連性を有する最初期の滑空するステム群草食哺乳形類とされています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【古生物学】ジュラ紀の新種の滑空哺乳類の化石

このほど中国で発見された化石が、これまでに同定されたことのない2種類の哺乳類のものであり、1億6000万年前のものと推定され、高度に特殊化した性質(例えば滑空への適応)が混在する独特な状態だったことが明らかになった。この新知見は、今週掲載される2編の論文によって報告され、これまで古代の哺乳類に見られなかった独特な性質の組み合わせが示されている。

中生代に恐竜類とほぼ同時期を生きた哺乳類の祖先は、哺乳類の歴史の最初期における解剖学的進化と生態的多様化に関する非常に重要な証拠と言える。一方、初期哺乳類は、現生哺乳類の数多くのありふれた特徴も発達させた。滑空行動の発達は、進化における陸上の生息地から大きく異なる空中の生息地への重要な移行と言える。

今回、Zhe-Xi Luo、Qing-Jin Mengたちの研究グループは、中国でジュラ紀の髫髻山(Tiaojishan)累層から発掘された新種の滑空哺乳類2種(Maiopatagium furculiferumとVilevolodon diplomylosと命名)に由来する骨格と飛膜の化石について記述した論文を発表した。MaiopatagiumとVilevolodon は、いずれもハラミヤ類(最古の草食哺乳類で、哺乳類の進化上最も原始的な滑空動物として知られる)に分類され、知られるうちで最古の滑空哺乳類より約1億年早く進化したとされる。Maiopatagiumの飛膜の化石と融合した叉骨の化石は、鳥類のものに似ているが、肩帯は、哺乳類や有袋類よりも卵を産むカモノハシの現生種のものに近い。Maiopatagium furculiferumは、ムササビの現生種に外観が非常によく似ており、樹上生活し、生仔を出産する特定の有袋類と哺乳類に似た進化的適応が見られる。

Luoたちのもう1つの論文では、Vilevolodon diplomylosについての詳細な説明がある。その歯の生え変わりのパターンは、他の初期哺乳類の大部分に特有なもので、上下の2本の臼歯は臼と杵の形に似ており、柔らかい植物の組織と種子を砕いてすりつぶすためのものだった可能性が非常に高い。従って、これらの化石は、被子植物以前の植物(花をつけない植物)と関連性を有する最も初期の滑空するステム群草食哺乳形類とされる。


進化学:ジュラ紀の新たな滑空性哺乳形類

進化学:ジュラ紀生態系における哺乳形類の耳の進化および摂餌適応に関する新証拠

進化学:滑空するジュラ紀の哺乳形類

 恐竜の影に隠れるように生きていた哺乳形類の化石記録はわずかだが、ここ数年で発見が相次いでおり、哺乳形類が実に多様な動物群であったことが明らかになってきている。ハラミヤ類は中生代に存在した哺乳形類の一群で、まだ謎が多い。Z Luoたちは今回、中国の髫髻山(Tiaojishan)累層(約1億6000年前のジュラ紀)に由来するハラミヤ類の新属新種Maiopatagium furculiferumについて報告している。Maiopatagiumは滑空に特化しており、飛膜や、鳥類の融合した叉骨に似た鎖骨構造などの適応が見られる。またその肩帯は、有胎盤哺乳類や有袋類よりも、現生の卵生哺乳類であるカモノハシの肩帯によく似ている。こうした解剖学的特徴は、滑空性哺乳類やコウモリ類が出現する1億年も前に、すでに哺乳形類が飛行生活を可能にしていたことを示している。また、Luoたちは別の論文で、同じ地域に由来するまた別のハラミヤ類の新種Vilevolodon diplomylosについても報告している。この標本からは、下顎中耳や歯の交換パターン、歯の咬合などの特徴が明らかになり、食性に関する手掛かりが得られた。



参考文献:
Luo ZX. et al.(2017): New evidence for mammaliaform ear evolution and feeding adaptation in a Jurassic ecosystem. Nature, 548, 7667, 326–329.
http://dx.doi.org/10.1038/nature23483

Meng QJ. et al.(2017): New gliding mammaliaforms from the Jurassic. Nature, 548, 7667, 291–296.
http://dx.doi.org/10.1038/nature23476
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完新世における西南極氷床の後退

2017/08/17 00:00
 完新世における西南極氷床の後退に関する研究(Hillenbrand et al., 2017)が公表されました。風によって生じる周極深層水(CDW)の湧昇は、特にアムンゼン海に接する海域において、南極の棚氷を不安定化している可能性があります。しかし、こうした氷と海洋の相互作用が、氷床に大きな変化を生じるのに充分なほど長く持続し得ることを示す確かな証拠は得られていませんでした。この研究は、海底の古気候の証拠を提示し、完新世の初期の大半にわたって、また1940年代以降において、南半球における西風の変動がCDWの湧昇を強めたことを示しています。これは、この海域における広範囲にわたる退氷と、おそらく大規模な棚氷の崩壊にさえつながったようです。この結果から、長い間さまざまなモデルで見られてきた過程が、過去に実際に起こっていたことが確かめられました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古気候学:完新世における暖水の流入によって生じた西南極氷床の後退

古気候学:暖水の上昇によって生じる氷床の後退

 風によって生じる周極深層水(CDW)の湧昇は、特にアムンゼン海に接する海域において、南極の棚氷を不安定化している可能性がある。しかし、こうした氷と海洋の相互作用が、氷床に大きな変化を生じるのに十分なほど長く持続し得ることを示す確かな証拠はない。今回、C Hillenbrand たちは、海底の古気候の証拠を提示し、完新世の初期の大半にわたって、また1940年代以降において、南半球における西風の変動がCDWの湧昇を強めたことを示している。これは、この海域における広範囲にわたる退氷と、おそらく大規模な棚氷の崩壊にさえつながったようである。今回の結果から、長い間さまざまなモデルで見られてきた過程が、過去に実際に起こっていたことが確かめられた。



参考文献:
Hillenbrand CD. et al.(2017): West Antarctic Ice Sheet retreat driven by Holocene warm water incursions. Nature, 547, 7661, 43–48.
http://dx.doi.org/10.1038/nature22995
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リアンブア洞窟におけるラットの身体サイズの変化

2017/08/16 00:00
 これは8月16日分の記事として掲載しておきます。2017年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)において、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡のラットの身体サイズの変化について(Veatch et al., 2017)報告されました。PDFファイルのP393に掲載されています。フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡では後期更新世の人骨群が発見されており、発見当初は、新種なのか、それとも病変の現生人類(Homo sapiens)なのか、という激論が展開されました。しかし現在では、この人骨群をホモ属の新種フロレシエンシス(Homo floresiensis)と区分する見解がおおむね受け入れられているように思われます。当初、フロレシエンシスの下限年代は17000年前頃もしくは13000〜11000年前頃と推定されましたが、昨年(2016年)、人骨の下限年代は6万年前頃、フロレシエンシスの所産と考えられる石器群の下限年代は5万年前頃と見直されました(関連記事)。

 リアンブア洞窟では、過去19万年間分の多くの脊椎動物遺骸が発見されており、そのなかには、ラットなどネズミの少なくとも5属に属する23万個以上の遺骸も含まれています。これらのネズミの体重は72g〜1500gとかなり変異幅があります。この研究は、これらのネズミがフローレス島における過去19万年間の気候や生態系の変化を反映しているのではないか、と推測して分析しました。測定されたのはラットの大腿骨10212個・上腕骨1474個・踵骨372個で、現存する東南アジアのネズミと比較されました。

 その結果、6万年前頃に起きた火山噴火の前後にラットの身体サイズの分散に大きな変化が生じていた、と明らかになりました。この研究は、ラットの身体サイズの大きな変化には、フロレシエンシスや他のフローレス島固有の生物群を絶滅に追いやった過程が反映されているのではないか、と示唆しています。またこの研究は、人類遺跡の古環境・古生態系の解釈にさいして、小型哺乳類群の重要性を指摘しており、今後、広範な地域で同様の研究がさらに進展することを期待しています。


参考文献:
Veatch EGH. et al.(2017): Shifts in the distribution of rat body sizes through time at Liang Bua: New paleoecological insights into the extinction of Homo floresiensis and other endemic taxa. The 86th Annual Meeting of the AAPA.
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大河ドラマ『おんな城主 直虎』第32回「復活の火」

2017/08/15 00:00
 これは8月15日分の記事として掲載しておきます。小野政次(鶴丸)は虎松(井伊直政)の偽首を今川に差し出すことで、今川の信頼を得て井伊谷の城主となります。政次の真意を悟った直虎(次郎法師)は徳川家康に書状を送り、徳川の遠江侵攻に協力する代わりに井伊家を再興させてもらいたい、と願い出ます。直虎からの書状が家康に届く前に武田から家康に書状が届き、10日後には武田は今川領に攻め込む、と分かります。家康は酒井忠次を気賀に派遣していましたが、今川方の国衆に襲われて退却します。

 井伊は今川に取り潰され、井伊谷は井伊の家老だった小野政次(鶴丸)が治めている、と徳川家中に情報が伝わります。瀬名(築山殿)は母との因縁もあり小野家を快く思っていません。家康は井伊谷三人衆の菅沼忠久を調略しようとします。そこへ直虎からの書状が届き、家康は直虎の申し出を受け入れることにします。政次の真意が自分と同じなのか、なおも確信が持てない直虎は南渓和尚に頼んで政次の真意を確認してもらおうとしますが、そこへ政次が訪ねてきます。政次は、関口氏経は駿府へと戻ったが、それは関口が武田に寝返ったためだろう、と推測します。直虎は弱気になり、望むなら政次が城主でもかまわない、と言いますが、商人・百姓・盗賊に慕われる直虎が城主の座を降りることはできない、と政次は直虎を諭します。

 ついに武田が今川領に侵攻してきて、武田軍は破竹の勢いで今川の本拠に迫ります。情勢が不利なことから、今川方の国衆は相次いで武田に寝返ります。その中には、政次が推測した通り、関口氏経もいました。徳川軍が迫ってきたことを知った政次は、徳川に就き城を明け渡して井伊家を再興すると宣言し、真意を打ち明けます。井伊谷三人衆は徳川に通じますが、近藤康用は井伊谷を切り取ることができず、道案内をするだけなのに不満でした。近藤康用は、政次は信用できないと家康に訴え、自分が先に様子を確かめる、と訴えます。直虎は城門の前で家康と会うつもりでしたが、そこに現れたのは近藤康用でした。徳川方は政次に城門を開くよう伝え、政次が城門を開くと、徳川方は政次に矢を射かけます。

 今回は、おそらくは本作最大の山場になるだろう政次の最期に向けて、盛り上げてきた感があります。今回はずっと、直虎と政次の思惑通りに話が進み、どのように政次の最期を描くのだろう、と思っていたところ、井伊谷三人衆の一人である近藤康用が重要な役割を果たしました。直虎はもちろん、家康も悪役とせずに政次の悲劇的な最期を描こうという意図が窺えます。ここで、かつて近藤康用が井伊に煮え湯を飲まされたことと、政次の表面的な言動がいかにも奸臣に見えることが活用されているわけで、なかなか話を上手く作ってきたな、と思います。直虎も含めて井伊家中が政次の真意を悟るのは政次の死後の方がよいのではないか、と今でも思うのですが、次回の展開次第では、この考えを改めることになるかもしれず、その意味でも次回には大いに注目しています。
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海岸沿いだったアメリカ大陸最初の人類の移住経路

2017/08/14 00:00
 これは8月14日分の記事として掲載しておきます。アメリカ大陸への人類最初の移住経路に関する解説(Wade., 2017)が公表されました。この問題に関する近年の研究成果がまとめられており、有益な解説になっていると思います。アメリカ大陸への人類最初の移住について、20世紀後半には、クローヴィス(Clovis)文化の担い手が最初の移住者だとするクローヴィス最古説が主流でした。しかし20世紀末以降、アメリカ大陸におけるクローヴィス文化以前の人類の痕跡が相次いで報告されていることから、クローヴィス最古説を否定する研究者が増えつつあり、クローヴィス最古説はもはや否定された過去の仮説と言ってよいでしょう。

 しかし、だからといってこの問題に関して新たな共通認識が形成されたとも言い難い状況であり、その年代や拡散の速度・経路などをめぐって、議論が続いています。数少ない共通認識の一つは、アメリカ大陸に移住した人類は現生人類(Homo sapiens)のみだった、というものです。しかし、今年(2017年)になって、アメリカ大陸における13万年前頃の人類の痕跡が確認された、との見解が提示され、現生人類ではない系統の人類がアメリカ大陸に進出した可能性も議論されています(関連記事)。ただ、これはあまりにも異例の発見であり、まだ広く認められているとは言い難く、将来撤回される可能性もじゅうぶんあると思います。

 20世紀後半には有力だったクローヴィス最古説は、アメリカ大陸最初の人類は更新世末期に内陸部の無氷回廊を通過してアメリカ大陸に拡散した、と想定していました。しかし近年では、ベーリンジア(ベーリング陸橋)からアメリカ大陸西岸を南下したのではないか、との見解(沿岸仮説)が有力になっています。しかし、内陸部の無氷回廊を通過した後に海岸へと到達した、との見解も根強くあるようです。更新世末期以降の温暖化により、沿岸仮説で想定される経路は今では大半が海面下にあると考えられるので、直接的証拠を確認するのが困難になっています。しかし、海中での調査など沿岸仮説証明のための努力が続けられており、今後の研究の進展が大いに期待されます。

 沿岸仮説の直接的証拠を提示するのはなかなか難しいのですが、間接的証拠は提示されています。アメリカ大陸北西部の氷河は16000年前頃まで陸路を覆っており、アラスカのバイソンとアメリカ大陸本土のバイソンが混じり合うようになったのは13000年前頃と推測されているので、アメリカ大陸西岸は最初のアメリカ人の唯一の移住経路だったかもしれない、というわけです。これまでの沿岸部の遺跡の証拠から、最初期のアメリカ人は、植物・動物に限らず海洋資源をよく活用していたようです。これも、決定的ではないとしても、沿岸仮説の証拠となるでしょう。おそらく今後、沿岸仮説の証拠はさらに蓄積されていくことでしょう。


参考文献:
Wade L.(2017): On the trail of ancient mariners. Science, 357, 6351, 542-545.
http://dx.doi.org/10.1126/science.357.6351.542
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大石泰史編『今川氏研究の最前線 ここまでわかった「東海の大大名」の実像』

2017/08/13 00:00
 これは8月13日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2017年6月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、今川氏についてはよく知らなかったので、多くの知見を得られました思います。今川氏についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です



●大石泰史「はじめに 具体的な今川氏像≠目指して」P3〜17
 鎌倉時代から南北朝時代・室町時代を経て戦国時代へといたる今川氏の歴史を簡潔に解説するとともに、今川氏研究を概観し、本書の各論考を簡潔に紹介しています。本論考によると、今川氏研究は検地など一部の分野で進展したものの、城郭研究などまだあまり解明されていない分野も少なからずある、とのことです。簡潔かつ的確な導入部になっていてよいと思います。



第1部 今川領国の領主たち


●清水敏之「今川本家と今川一門 駿河今川氏の「天下一名字」は史実か」P26〜49
 多数いた今川氏の一門について、鎌倉時代から戦国時代まで概観されています。これら多数の今川一門のなかには、戦国時代まで存続した家系もあれば、その前に史料から見えなくなり、没落したと思われる家系もあります。永享の乱での功績により、駿河今川氏の当主のみが今川と称すことを室町幕府第6代将軍の足利義教から許された、との記録もありますが、その後も今川一門のなかには今川と称した家系もあったことが指摘されています。しかし、それらの今川一門も戦国時代には今川を称さなくなったようで、それは駿河今川氏の圧力のためではないか、と本論考は推測しています。


●遠藤英弥「今川氏の主従関係 今川氏の被官と「駿遠三」の国衆」P50〜67
 今川氏の主従関係が検証されています。今川氏は武田氏と徳川氏から攻撃を受けて没落しましたが、そのさいに多くの国衆が今川氏から離反しており、大名の動向が国衆に規定されていることを示している、と指摘されています。寄親寄子制成立については、検地の実子・知行制の実施・不入権の否定が画期として挙げられています。また、寄親寄子制には、従属度の高いものと低いものがあったことも指摘されています。主従関係にはない他大名の家臣に知行を与える事例も紹介されています。


●糟谷幸裕「外様国衆・井伊氏と今川氏 今川氏の「徳」が問われた「井伊谷徳政」とは?」P68〜90
 今年(2017年)放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも大きく取り上げられた「井伊谷徳政」について解説されています。「井伊谷徳政」は、1566年の今川氏の徳政令が銭主方の反発により反故にされたことに起因しますが、この時、徳政令を望んだ百姓は今川氏に失望し、それが翌年から翌々年にかけての「井伊谷徳政」のさいの百姓の消極的な態度につながった、とされています。百姓は、徳政令を実施できない今川氏に失望し、その直後の徳川氏の侵攻にも強く抵抗しなかったのではないか、というわけです。なお、昨年公表されて話題になった、井伊直虎は男性(関口氏経の息子)だったとの説について本論考は、確証はないものの、その蓋然性は高い、と評価しています。



第2部 今川氏の外交


●大石泰史「今川氏と京都 公家・将軍家との「外交関係」を支えた今川家の側近たち」P92〜116
 今川氏と京都の幕府・朝廷との関係について検証されています。戦国大名には京都駐在の家臣(在京雑掌)がおり、今川氏でも確認されていますが、詳しくは解明されていないようです。上杉氏の事例からは、幕府・朝廷との交渉や援助、政治工作、情報収集などを任務としていたことが窺えるようです。今川氏の場合、在京雑掌は基本的に法体の人物だったようです。また、今川氏では義元の代になって、京都との交渉に重臣が関わってくるようになることも指摘されています。


●丸島和洋「武田・北条氏と今川氏 今川氏の栄枯盛衰と連動した「甲駿相三国同盟」」P117〜142
 15世紀末から氏真の代での没落までの今川氏の外交について、北条氏・武田氏との関係を中心に解説されています。この間、当初は今川氏・北条氏と武田氏・上杉氏(扇谷・山内)との対立という構造だったのが、義元の代になって、今川氏は武田氏と結び、北条氏と対立するようになります。武田氏は北条氏とも結び、武田氏の仲介もあって今川氏は北条氏と和解し、時期は異なるものの、三氏は婚姻関係を重ねていき、今川・北条・武田の「三国同盟」が成立します。しかし、桶狭間の戦いで義元が戦死した後、武田氏が織田氏との関係を深めていくなかで、武田氏と今川氏との関係が悪化していきます。苦境に立った氏真が上杉氏(長尾氏)と結ぶと、これを大義名分として武田氏は今川氏との盟約を破棄し、今川氏は武田氏と徳川氏に攻められて没落するにいたります。


●柴裕之「三河・尾張方面の情勢 織田氏との対立、松平氏の離叛はなぜ起きたか」P143〜164
 おもに三河における今川氏の動向と、織田氏・松平(徳川)氏との関係が解説されています。今川氏と織田氏との対立は、三河における勢力圏争いに起因し、三河の国衆がどちらに従属するかで優勢が決まります。今川氏の三河への勢力浸透は順調には進まず、国衆を従属させるのに時間を要し、敵対する国衆は尾張の織田氏を頼みとします。松平氏も、今川氏と織田氏との間で揺れ動いた一族で、竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは、今川氏の人質になるところを誘拐されたからではなく、松平氏が織田氏に服属したからだ、と指摘されています。その後、松平氏は今川氏へと服属しますが、桶狭間の戦いの後、今川氏は西三河の国衆を保護するだけの力を失い、松平氏は今川氏から離反することになります。



第3部 桶狭間合戦前後の今川氏と周辺状況


●木下聡「桶狭間合戦と義元上洛説 「三河守任官」と尾張乱入は関係があるのか」P166〜183
 桶狭間の戦い直前の義元の三河守任官が検証されています。桶狭間の戦いにおける義元の目的は上洛だったとの古典的な説は、現在では否定されており、尾張を領する意図や、そうだとしてどの範囲だったのか、という観点からおもに議論されているようです。義元の三河守任官については、事実ではあるものの、義元の側からの要請ではなく、今川氏の世話になった公家が自発的に手続きをしたのではないか、と推測されています。また武家社会において、三河守は今川氏当主がよく用いた上総介よりもかなり格下に位置づけられていた、とも指摘されています。


●小笠原春香「今川義元と太原崇孚 臨済宗寺院の興隆と今川氏の領国拡大」P184〜203
 義元を幼少期から支えた太原崇孚の動向を中心に、今川領国内における臨済宗寺院の興隆と今川氏の勢力圏の拡大が解説されています。太原崇孚は臨済宗でも妙心寺派に転じます。現在静岡県の寺院では臨済宗の割合が21%で、そのなかでも妙心寺派が圧倒的に多いのですが、これは太原崇孚の影響とされてます。義元は北条氏・武田氏と結んで三河から尾張へと西方に侵攻していきますが、武田氏が長尾(上杉)氏との対立の結果、東美濃の掌握が不充分になったため、三河平定が遅れるなど、武田氏の動向に今川氏が影響を受けたことも指摘されています。義元が武田氏と長尾氏の仲介を担ったのは、今川氏の三河平定を進めるためでもありました。


●小川雄「南信濃・東美濃と三河 桶狭間敗戦以降の三河情勢と「今川・武田同盟」」P204〜222
 桶狭間の戦い以降の三河情勢が解説されています。桶狭間の戦い以降、三河では今川氏と松平(徳川)氏との対立を中心に情勢が展開します。ただ、松平氏は桶狭間の戦い直後に今川氏から離反したのではなく、当初は織田氏勢力と戦っており、今川氏に従属する国衆として活動していたようです。しかし、今川氏が三河を安定化させられないことから、松平氏は今川氏を見限って、織田氏と結びます。桶狭間の戦い以降の三河情勢には武田氏も関わっており、これは、三河と隣接する自国領の安定化のためでもありました。しかし、武田氏はそのために織田氏と結び、それが今川氏との関係悪化を招来します。しかし、1568年までは、緊張関係を内包しつつ、今川氏と武田氏の盟約は継続しました。



第4部 今後期待される研究テーマ


●望月保宏「考古学からみた今川氏 今川氏時代の城館跡の特徴を検証する」P224〜242
 考古学の研究成果から、今川氏領国のおもに戦国時代の城館の特徴が検証されています。平地城館については、一辺約100mの方形居館を基調とする館城ではないか、と推定されています。こうした特徴は、甲斐武田氏のような守護大名の系譜の戦国大名と同様で、「室町殿体制」を踏襲していたのではないか、と指摘されています。山上や丘陵上の城については、自然地形を利用した連郭式の縄張で、おもに堀切で遮断する構造が一般的だったのではないか、と推定されています。


●鈴木将典「今川氏と検地 「検地」の実像は、どこまでわかっているのか」P243〜260
 本論考は、戦国時代の検地の研究史にも触れつつ、戦国時代の今川氏の検地を検証しています。今川氏の検地に関する研究は、検地帳や検地書出が現存しないため、北条氏や武田氏ほどには進んでいないようです。そうした制約があるなか、本論考は現存する史料から今川氏の検地を検証していますが、今川氏は訴訟を受けて検地を実施し、「増分」を確定して直轄領とすることもありました。しかし、今川氏のこうした検地は武田氏では「改」とされており、今川氏が北条氏や武田氏や豊臣政権のような検地を実施したのか、まだ確証は得られていないようです。


●小川剛生「今川氏と和歌 文学活動に長い伝統と実績を持つ家柄」P261〜283
 戦国時代の今川氏を中心に、中世における和歌の在り様が解説されています。南北朝時代にはすでに、和歌は上級武家の教養として必須とされていましたが、今川氏もその頃には歌道をとくに重んじるようになっていきます。中世の地方の武家の和歌については、歌会や歌合が行なわれたことは諸史料によりに明らかですが、和歌そのものはあまり伝わっていないそうです。今川氏でも、義元の真作についてはほとんど知られていなかったのですが、研究の進展により、義元の和歌も確認されつつあるようです。氏真の和歌は多くが確認されており、題詠を巧みに処理する点では水準以上であるものの、素人臭は抜けず、真率な述懐が見られる点に特色がある、と本論考では評価されています。氏真が晩年に父である義元の戦死を想起した和歌を残していたことは、印象に残りました。
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スマトラ島における73000〜63000年前の現生人類の存在(追記有)

2017/08/12 00:00
 これは8月12日分の記事として掲載しておきます。スマトラ島の現生人類(Homo sapiens)化石の年代に関する研究(Westaway et al., 2017)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。現生人類の出アフリカの年代・回数・経路についてはさまざまな見解が提示されており、現生人類は東南アジア島嶼部へ遅くとも7万〜6万年前頃までに進出していた、とする早期拡散説も提唱されていますが、後期拡散説も無視することはとてもできません(関連記事)。早期拡散説の弱点は、確実な証拠のないことです。早期拡散説を示唆する人類化石もありますが、年代測定や分類に曖昧なところが残り、決定的な証拠になっていません。

 この研究が取り上げている、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された人類の歯の化石も、分類・年代ともに曖昧なため、東南アジアへの現生人類の進出年代に関する議論で参照されることは稀でした。この研究は、リダアジャー遺跡の人類の歯の形態と年代を再検証しています。エナメル質の厚さや他の人類の歯との比較から、リダアジャー遺跡の人類の歯は明確に現生人類のものだと位置づけられました。年代に関しては、骨に付着している堆積物と二次生成物がルミネッセンス法とウラン系列法で、共伴した哺乳類の歯がウラン系列法と電子スピン共鳴法で測定され、73000〜63000年前頃と推定されています。また、この年代は層序・古気候・当時の海水準に基づく見解とも一致する、と指摘されています。

 この年代は、現生人類の東南アジアへの早期拡散説と整合的ですが、73000〜63000年前頃という年代に関して、オーストラリア大陸には同じ頃に現生人類が存在していたとの見解も提示されているので(関連記事)、さほど驚くことではない、と本論文の著者の一人であるバーグ(Gert van den Berg)博士は指摘しています。この研究が強調しているのは、現生人類の熱帯雨林環境への進出がこれまでの想定よりもはるかにさかのぼる、ということです。これまで、現生人類の熱帯雨林環境への進出は完新世になってからだとされていました。熱帯雨林では食資源の多くが樹冠にあるので、現生人類が入手するのは容易ではないからです。近年になって、その年代が2万年前頃までさかのぼりましたが、さらにさかのぼる可能性も示唆されていました(関連記事)。

 この研究により、東南アジア島嶼部への現生人類の進出は、7万年以上前までさかのぼる可能性が高くなりましたが、こうした早期に東南アジアまで進出した現生人類が現代の東南アジアやオーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニアと陸続きでサフルランドを形成してい ました)の人類集団の祖先だったのかというと、まだ議論の余地はあると思います。これら東南アジアやサフルランドの初期現生人類は、絶滅したか、その後に到来した現生人類集団に交雑の結果吸収された可能性もあると思いますので、今後の新発見と研究の進展が期待されます。


参考文献:
Westaway KE. et al.(2017): An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago. Nature, 548, 7667, 322–325.
http://dx.doi.org/10.1038/nature23452


追記(2017年8月15日)
 本論文の要約が『ネイチャー』の日本語サイトに掲載されたので引用します。



【考古学】現生人類のインドネシア到達の歴史を書き換える化石の発見

 現生人類がインドネシアのスマトラ島に到達したのは、トバ山の壊滅的噴火より早い73,000〜63,000年前だったことを示唆する新たな化石証拠について報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。今から60,000年以上前に現生人類が東南アジアに存在していたことを示す遺伝学研究が報告されているが、実際の化石証拠は極めて少なく、間接的なものだった。

 スマトラ島のパダン高地にある更新世の洞窟(Lida Ajer)には豊かな多雨林動物相があり、19世紀後半に初めて行われた発掘作業でヒトの歯が2点見つかった。今回、Kira Westawayたちの研究グループは、Lida Ajer洞窟を再び調査して、これらの歯が現生人類に特有なものであることを確実に同定した上で、3種類の年代測定法を用いてこれらの化石の年代を決定して確実な年表を作成した。つまり、Westawayたちは、赤色熱発光法とpost-infrared infrared-stimulated luminescence(pIRIR)法によって堆積物の年代を測定し、この洞窟に関連する洞窟生成物の包括的な年代をウラン系列年代測定によって決めることで埋没年代を決定したのだった。

 Lida Ajer洞窟は、現生人類が多雨林環境に居住していたことを示す最古の証拠だ。海洋環境がヒトの生命維持にとって好条件であったと考えられることから、アフリカを出た現生人類が海岸に沿って移動したとする仮説が長い間有力視されている。これに対して、多雨林では、各種資源が広く分散している上に季節性があり、食料の栄養価も低いため、ヒトの定住が非常に難しいと考えられていた。多雨林環境をうまく利用するには、複雑な計画立案と技術革新が必要とされるが、Westawayたちのデータは、そうしたことが70,000年前よりもかなり前から存在していたことを示している。



追記(2017年8月17日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類学:7万3000〜6万3000年前のスマトラ島に初期の現生人類が存在していた

人類学:初期の現生人類がスマトラ島に住んでいた

 遺伝学的証拠は、現生人類が6万年前以前の東南アジアに存在していたことを示しているが、実際の化石証拠は少なく、間接的である。K Westawayたちは今回、以前にヒトの歯が出土したインドネシア・スマトラ島の洞窟の固結角礫岩や鍾乳石、出土した歯の標本に対して3種類の年代測定法を用いることにより、7万3000〜6万3000年前のこの地域に現生人類が存在した証拠を示している。今回の知見は、約7万3000年前にスマトラ島で起こったトバ火山の破滅的な噴火の頃に、現生人類がこの地域に居住していたことを示唆している。
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ケニアで発見された中期中新世の類人猿化石(追記有)

2017/08/11 00:00
 これは8月11日分の記事として掲載しておきます。ケニアで発見された中期中新世の類人猿化石に関する研究(Nengo et al., 2017)が報道されました。2017年8月10日付の読売新聞朝刊でも報道されています。2300万〜530万年前頃となる中新世には30属以上の40種以上の類人猿が存在していました。しかし、完全な頭蓋の証拠から得られた知見はきわめて少なく、顔および口蓋以外の頭蓋要素から知られている種はわずかで、人類および現生類人猿の直接的な近縁種の頭蓋の状態に関する情報は限られています。こうした情報の欠如はアフリカにおいてとくに顕著で、1400万〜1000万年前頃の頭蓋標本はまったく知られていません。

 この研究は、ケニア北西部のナプデト(Napudet)遺跡で発見された中期中新世の幼児の類人猿のほぼ完全な頭蓋化石(KNM-NP 59050)を報告しています。この頭蓋はレモンと同じくらいの大きさで、年齢は1歳4ヶ月と推定されています。年代は1300万年前頃と推定されているので、アフリカの類人猿化石の空白期間を埋めるものとなります。この類人猿はニャンザピテクス属の新種アレジ(Nyanzapithecus alesi)と分類されました。アレジにはテナガザル類との類似点が若干認められるものの、こうした類似性は収斂によるものである可能性が高く、アレジは人類およびアフリカの現生類人猿の共通祖先の近縁種ではないか、と指摘されています。これは、人類・チンパンジー・ゴリラの系統がアフリカで進化したという見解の証拠になる、と言えそうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:中新世アフリカの新たな幼体頭蓋から得られた類人猿進化の手掛かり

進化学:類人猿の祖先の進化

 中新世(2300万〜530万年前)の地球は「猿の惑星」であり、30以上の属の、40以上の種の類人猿が存在していた。しかし、完全な頭蓋の証拠から得られた知見は極めて少なく、顔および口蓋以外の頭蓋要素から知られている種はわずかであり、ヒト族および現生類人猿の直接的な近縁種の頭蓋の状態に関する情報は限られている。こうした情報の欠如はアフリカで特に顕著で、1400万〜1000万年前の頭蓋標本は1つも知られていない。I Nengoたちは今回、ケニアで出土した類人猿の幼体の頭蓋について報告している。この標本は1300万年前のもので、ニャンザピテクス属(Nyanzapithecus)の新種とされた。今回の証拠からは、この類人猿にはテナガザル類との類似点が若干認められるが、こうした類似性は収斂によるものである可能性が高いこと、また、この新種が現生類人猿の共通祖先の近縁種であることが示された。



参考文献:
Nengo I. et al.(2017): New infant cranium from the African Miocene sheds light on ape evolution. Nature, 548, 7666, 169–174.
http://dx.doi.org/10.1038/nature23456


追記(2017年8月15日)
 本論文の要約が『ネイチャー』の日本語サイトに掲載されたので引用します。



【進化】類人猿の進化の謎に解明の光を当てる古代の頭蓋骨

 ケニアで1300万年前の類人猿の乳仔の頭蓋骨が発見され、類人猿の進化を洞察するための新たな手掛かりが得られたことを報告する論文が、今週掲載される。この化石標本は、ヒト上科(テナガザル、類人猿、ヒトを含む)の姉妹群であるNyanzapithecusの新種とされ、テナガザルにある程度似ているが、現生類人猿の共通祖先の近縁種であった可能性が非常に高いと論文著者は考えている。

 ヒト上科は、中新世(およそ2300〜500万年前)に広範に多様化し、40以上の種によって構成されるようになったが、頭蓋化石によって同定されているのは全体のわずか3分の1にすぎない。特にアフリカのヒト上科の化石記録には、1700〜700万年前のかなり完全な頭蓋化石が存在せず、1400〜1000万年前の頭蓋化石標本は1つも発見されていない。

 今回、Isaiah Nengo、Fred Spoorたちの研究グループは、1300万年前と年代決定された類人猿の乳仔のほぼ完全な頭蓋骨について記述した論文を発表した。この新種Nyanzapithecus alesiは、頭蓋全体の形態と歯の成長のいろいろな側面でテナガザル科の数種と類似しているが、これらの特徴はそれぞれ独立に進化していた。これに対して、Nengoたちは、N. alesiの内耳の半規管が比較的小さいため、明らかに別種であることを指摘している。半規管は、運動の知覚にとって重要な特徴だ。また、Nengoたちは、N. alesiの移動運動には現生テナガザル種の曲芸的なぶら下がり運動ほどの素早さと機敏さがなかったと推定している。
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ネアンデルタール人の人口史

2017/08/10 00:00
 これは8月10日分の記事として掲載しておきます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の人口史に関する研究(Rogers et al., 2017)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究は、これまでのホモ属の古代DNA解析を再検証することにより、ネアンデルタール人の人口史を推定してます。後期ホモ属の進化に関する現在の有力説では、まず現生人類(Homo sapiens)系統とネアンデルタール人および種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統とが分岐し、その後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統とが分岐した、と推定されています。

 この研究は、現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統との分岐が25920世代前(751690年前頃)、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との分岐が25660世代前(744000年前頃)と推定しています。ネアンデルタール人系統は、現生人類系統と分岐してさほど時間を経ずにデニソワ人系統と分岐した、というわけです。

 ヨーロッパには60万年前頃、アシューリアン(Acheulian)石器技術を有する大きな脳のホモ属が進出してきました。この大きな脳を有するホモ属は、形態と石器技術からアフリカ起源と考えられています。この大きな脳のホモ属は、ヨーロッパに進出する前にデニソワ人系統と分岐し、(その一部が)ネアンデルタール人へと進化していった、と考えられます。この見解は、スペイン北部で発見された43万年前頃のネアンデルタール人的特徴を有する人骨群が、核DNAの解析ではデニソワ人よりもネアンデルタール人に近いと指摘されていること(関連記事)と整合的だ、とこの研究では指摘されています。

 この研究は後期ホモ属の人口史に関して、現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統との分岐後、現生人類系統は人口が増加したのにたいして、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、と推測しています。

 これは、南西シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されたネアンデルタール人1個体のDNA解析に基づく、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の系統はともに100万年以上前に人口が減少し(おそらくはまだ分岐していなかったため)、現生人類の系統はその後に人口が増加していったのに対して、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統の人口規模はさらに縮小していった、とする見解(関連記事)と矛盾しているように見えます。

 この研究は両者の整合的な解釈として、ネアンデルタール人はデニソワ人系統との分岐後に複数の小規模集団に細分化されていき、集団間相互の交流は稀だった、との見解を提示しています。この研究はその証拠として、ネアンデルタール人は地域集団間で遺伝的差異が見られる、との見解(関連記事)も取り上げています。またこの研究は、ネアンデルタール人の多数の化石が広範な地域で発見されていることも、ネアンデルタール人の人口規模が小さかったとの見解と矛盾する、とも指摘しています。こうしたネアンデルタール人の人口史は、現代ユーラシア人の祖先たる出アフリカ集団が、アフリカ集団との分岐後に、人口減少を経て各地域集団に細分化されていったことと類似している、とこの研究は指摘しています。

 この研究は、現代ユーラシア人の祖先たる出アフリカ集団と交雑したネアンデルタール人集団は、系統的に離れていたアルタイ地域のネアンデルタール人集団よりも人口規模が大きかったのではないか、と推測しています。ネアンデルタール人は、ユーラシアの広範な地域で中期〜後期更新世にかけて数十万年間にわたって存続した人類系統ですから、各地域集団間の違いは大きかったはずで、現生人類との関係も多様だったのでしょう。この研究の見解はまだ確定とは言えないでしょうが、たいへん注目され、人口史も含めて後期ホモ属の進化史の今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Rogers AR. et al.(2017): Early history of Neanderthals and Denisovans. PNAS.
http://dx.doi.org/10.1073/pnas.1706426114
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』653話〜656話

2017/08/09 00:00
653話「一枚のシール」4
 一係は覚醒剤の大規模な取引が行なわれるとの情報を得て、廃工場で張り込みます。売人は廃工場を訪れたところで一係の張り込みに気づき、警官を射殺して逃走します。一係は、覚醒剤の密売人として新たな男性に目をつけますが、決定的な証拠はなかなか得られません。実は、逃走した密売人がその男性の家族を人質にとり脅迫して密売をやらせていたのでした。全体的に盛り上がりに欠けた感は否めませんが、題名に用いられたシールは『キン肉マン』で、検索してみたところ、本放送当時に日本テレビで放映中でした。ただ、シールがあまり効果的なアイテムになっていなかったように思えたのは残念でした。


654話「二度泣いた男」6
 トシさんは宿直中に電話を受け、俳優の名村浩と名乗る人物が、命を狙われている、と訴えます。トシさんとブルースが名村を訪ねると、名村は電話したことを否定します。しかし、その翌々日に名村は殺されます。聞き込みにより、名村浩は同じく俳優の息子と険悪な仲だったことが明らかになります。一係は息子が父親を殺したのではないか、と疑いますが、息子は否定します。捜査を進めると、名村浩に恨みを持つ男性が容疑者として浮上し、一係が部屋を訪ねると、あっさりと証拠が見つかります。ところが、その直後に容疑者の男性が死体で発見されます。事件はあっさりと解決したように見えましたが、トシさんは、まだ真相が明かされていないのではないか、と考えて一人で捜査を進めます。けっきょく、名村浩の息子が父親を殺し、容疑者の男性も殺していたのでした。謎解き要素があり、粘り強いトシさんのキャラも活かされていたので、まずまず楽しめました。


655話「左ききのラガー」5
 殉職前ではラガーにとって最後の主演作となります。ラガーは、息子が骨肉腫と診断された男性と会います。ラガーは良性の骨肉腫でしたが、息子は悪性の骨肉腫で、右腕を切断することになります。しかし、野球少年の息子は手術を拒みます。男性は、息子を説得するよう、ラガーに頼みます。少年は、ラガーが左腕で射撃の的を5発中2発命中させたら手術を受けると約束し、ラガーは5日間の猶予をもらい、射撃の訓練に励みます。そうしたなか、銃砲店を襲撃した男性がライフルを強奪し、街中で乱射して逃走し、さらには妹も射殺します。犯人の動機・人物像が不明で、何とも不気味な事件でしたが、けっきょく動機は曖昧なままで、犯人はラガーに射殺されます。ストレスがたまり、靴紐がほどけたのが契機になった、ということでしょうか?この点はやや残念でしたが、不気味さと不条理を強調するのには成功している、と言えるかもしれません。山さんがラガーを一人前の刑事と認めるところは、間近になったラガーの殉職を印象づけるために、ボスや先輩刑事に認められた後に殉職するという、本作の王道路線を踏襲したのかな、と思います。


656話「いじめ」5
 改造拳銃を用いた連続強盗事件が発生します。容疑者はすぐに特定されますが、一係は決定的な証拠をなかなかつかめません。少年は三人の同級生から深刻な虐めを受けており、トシさんは容疑者の少年が弱みを握られており、それは強盗事件や以前の自動車事故ではないか、と推理します。しかし、一係は捜査を進め、少年が三人の同級生に犯行の協力をさせられているのではないか、と推理して少年と三人の同級生を捜査しますが、少年は虐めを認めず、犯行の決定的証拠もなかなか得られません。捜査が行き詰まるなか、容疑者の少年から改造拳銃を入手して強盗事件を起こした中学校時代の同級生が逮捕され、自暴自棄になった少年は改造拳銃で教師を人質にとりますが、マイコンの説得に応じます。本作では時として見られる、社会問題を訴える話になっていますが、少年たちの演技が未熟なこともあり、全体的には上滑りした感が否めません。ただ、虐めの心理はなかなかよく描かれていたのではないか、と思います。
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大河ドラマ『おんな城主 直虎』第31回「虎松の首」

2017/08/08 00:00
 これは8月8日分の記事として掲載しておきます。小野政次(鶴丸)を信じる直虎(次郎法師)は、政次の指示を受け入れ、今川の命にしたがって徳政令を受け入れることにします。井伊谷が今川の直轄地になったとしても、表面上は今川に服従しつつ、徳川と結んで復興の時を待つ、と直虎と小野政次(鶴丸)は考えていました。政次の指示により井伊一族は直ちに領地を追われ、川名の隠し里に移ります。ここで直虎は、井伊がすでに徳川と通じていることを明かし、徳川が遠江に攻めてきた時に井伊は挙兵する、と告げます。直虎はここで、井伊家中で裏切り者と思われている政次が井伊のために動いていると思う、と打ち明けます。井伊家中はおおむね直虎に同意しますが、中野直之はなおも政次を疑っていました。

 今川氏真は、あっさりと徳政令を受け入れた井伊をなおも信用できず、井伊を取り潰すだけではなく、虎松(井伊直政)の首を要求します。しかし直虎は、今川が虎松の首を要求してくると懸念し、その前に虎松を三河の寺に逃がしていました。政次は龍潭寺に乗り込み、直虎を捕らえます。虎松を討ち取れない時は直虎を殺す、と政次は明言します。政次は子供を殺して虎松と偽り、直虎を連れて来て検分させます。直虎は政次の真意に気づき、その首が虎松であるかのように振舞います。今川の目付を騙すことに成功した政次は、井伊谷の城主となります。

 今回は井伊にとって大きな危機が描かれ、今川からの要求に井伊家中がどう対処するのか、緊張感のある展開になっていたと思います。やはり見どころは直虎と政次の関係で、政次を信じつつも、疑心暗鬼に陥りかけた直虎の心理は見ごたえがありました。ただ、政次の真意が井伊家中に明かされるのは政次の死後でもよかったのではないか、とも思いますが。さらに言えば、直虎が政次の真意に気づくのも、政次の死後か死の直前の方がよかったように思います。もっとも、政次の最期まで見てみないと、最終的な評価は難しいところですが。
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クリミア半島の初期現生人類の食性

2017/08/07 00:00
 これは8月7日分の記事として掲載しておきます。東ヨーロッパでは最古級となる現生人類(Homo sapiens)の食性に関する研究(Drucker et al., 2017)が報道されました。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅要因には高い関心が寄せられてきており、さまざまな仮説が提示されています(関連記事)。そうしたさまざまな仮説においては、食性など行動面において現生人類がネアンデルタール人よりも柔軟だった、と強調される傾向にあります。

 この研究は、東ヨーロッパでは最古級となる、南部クリミア半島に位置するブランカヤ3(Buran-Kaya III)遺跡の現生人類の食性を検証しています。ブランカヤ3遺跡は1990年に発見され、中部旧石器時代〜新石器時代までの痕跡が確認されており、中部旧石器時代〜上部旧石器時代の層位は大きな攪乱がなく安定的だとされています。較正年代で40400〜33500年前頃となる上部旧石器時代の層からは人間や動物の遺骸・石器・骨器・装飾品が発見されています。人類化石は較正年代で38400〜33500年前頃となります。人類化石には改変が確認されており、直接的な食人の証拠がないことから、埋葬儀式との関連が指摘されています。ブランカヤ3遺跡における現生人類の居住は季節的とされています。

 これまで、初期現生人類化石の同位体分析において、窒素15が豊富な場合、淡水資源の消費として解釈されることもありました。この研究は、最近進展した個体のアミノ酸分析を用いて、窒素15のより詳しい由来を検証しています。その結果、ブランカヤ3遺跡では、サイガ・アカシカ・ウマ・野ウサギの屠殺痕が確認されているものの、初期現生人類の推定された食性においては、それらよりもマンモスの顕著な消費が目立つ、と明らかになりました。また、初期現生人類の食性においては植物性タンパク質の明確な摂取も確認された一方で、水産資源の明確な消費は確認されませんでした。

 ネアンデルタール人とブランカヤ3遺跡の初期現生人類との食性の比較では、植物の割合はネアンデルタール人よりも初期現生人類の方が高かったものの、ともにマンモスが主要な肉の食資源である、と明らかになりました。この知見から、ネアンデルタール人と初期現生人類は食性において直接的に競合していたのではないか、とこの研究では推測されています。そうした直接的な競合がネアンデルタール人の絶滅の一因になったのではないか、というわけです。

 現生人類アフリカ単一起源説でも完全置換説が圧倒的に優勢だった時代(1997〜2010年頃)には、ネアンデルタール人の絶滅要因を説明しやすいためか、ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する傾向があったように思われます。一方、近年では、ネアンデルタール人と現生人類との交雑が確認されたこともあって、両者の類似性を強調する研究も増えつつあるように思われます。この研究は、ネアンデルタール人と現生人類との類似性と、その結果としての直接的競合との見解を提示していますが、初期現生人類の食性はあくまでもクリミア半島の一事例であり、まだ確定的な見解とは言えないでしょう。ただ、広範囲で長期間存続したネアンデルタール人の行動も、食性も含めて一時論じられていたよりも柔軟で現生人類との違いは小さかった、という可能性は高いと思います。


参考文献:
Drucker DG. et al.(2017): Isotopic analyses suggest mammoth and plant in the diet of the oldest anatomically modern humans from far southeast Europe. Scientific Reports, 7, 6833.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-017-07065-3
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亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』

2017/08/06 00:00
 これは8月6日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年7月に刊行されました。都内の某大型書店で本書を購入したのですが、入荷数が多いのに驚きました。本書は刊行前よりネットで話題になっているように見えましたが、それは私の観測範囲の狭さが原因で、知名度のあまり高くない争乱だけに、刊行当初より書店に多数入荷されるとは予想していませんでした。同じ中公新書の『応仁の乱』(関連記事)の大ヒットもありましたし、第二次?中世史ブームが起きているということでしょうか。

 それはさておき、本書についてですが、観応の擾乱は、初めて知った小学校高学年の頃より、情勢の変転が急で理解しにくい争乱だ、との印象をずっと抱いてきました。本書はまず、観応の擾乱の前提となる室町幕府初期の体制と、室町幕府内部の対立の深まりを解説した後、観応の擾乱の具体的な様相を叙述し、最後に観応の擾乱の位置づけを論じています。なかなか分かりやすい構成になっており、本書からは、おそらく一般層には理解しにくいだろう観応の擾乱を、一般向けにできるだけ平易に解説しよう、との意図が伝わってきます。

 本書は観応の擾乱を、鎌倉幕府と建武政権の影響を強く受けた体制から室町幕府独自の体制が構築される契機になった、と重視しています。後に幕府の模範とされた足利義満期の体制も、観応の擾乱を契機とする改革が基礎になっている、というわけです。本書はこうした枠組みのもと、通説・俗説とは異なる見解を多く提示しています。室町幕府初期の体制について、一般層でも日本中世史に関心のある人の多くは、足利尊氏とその弟である直義との二頭政治で、尊氏が主従制的支配権を、直義が統治権的支配権を掌握していた、との見解を知っていることでしょう。しかし本書は、初期室町幕府において、尊氏が全権限を直義に委ねたわけではないにしても、直義が「三条殿」として事実上の最高権力者だった、との見解を提示しています。また本書は、尊氏と直義の役割分担について、創造(変革)の尊氏と保全(既存の秩序維持)の直義との見解を提示しています。

 このような前提のもと、本書は観応の擾乱を検証していきます。本書は観応の擾乱の要因として、直接的には尊氏の実子で直義の養子だった直冬の処遇問題があったのではないか、と推測しています。尊氏は優秀な実子の直冬を忌み嫌っており、それが諸将の反感を招来したのではないか、というわけです。さらに、その反感は、尊氏の意向に忠実で、尊氏の嫡男である義詮を次期将軍にすべく献身していた高師直に集中したのではないか、とも指摘されています。

 本書は、直冬の処遇問題が直接的契機となった観応の擾乱が深刻化した理由として、所領問題、とくに恩賞宛行を重視しています。直義は保守的で高師直は革新的との見解もありますが、両者はともに保守的なところがあり、それが両者の急速な没落を招来したのではないか、との見通しを本書は提示しています。直義も高師直も、恩賞問題で自陣営の武将を満足させることができず、そのために急速に支持を失っていったのではないか、というわけです。直義と高師直との間に理念・政策上の大きな違いはなく、恩賞問題への不満が諸将の急速な鞍替えにつながった、との見解を本書は提示しています。本書を読んで改めて、観応の擾乱における事態の流動性の高さを思い知らされました。

 恩賞問題と関連して、本書は裁判の方法の違いを重視しています。中世の裁判として、争う双方の主張を聴いて裁定をくだす「理非糾明」と、訴えた者の主張のみを聴いて一方的に判決をくだす「一方的裁許」があります。前者が理想的・進歩的との観念が今でも強いものの、戦乱が長期化するなかで、時間を要する「理非糾明」の裁判では恩賞問題で諸将の不満を高め、高師直や直義が支持を急速に失う結果になったのではないか、と本書は推測しています。鎌倉幕府の政治を理想とする直義は、高師直と同様に新たな時代に上手く対応できず、急速に没落したのではないか、というわけです。

 一方、一般にはあまり高く評価されていない義詮は、裁判を「一方的裁許」の方へと大きく舵を切り、幕府への求心力を強めた、と高く評価されています。また、尊氏と義詮が一時的に東西を分割する体制を築いたことで、室町幕府初期の役割を分割する体制から、領域を分割する体制へと移行していったことも、観応の擾乱の大きな意義として評価されています。これにより、それぞれの領域で最高権力者が権限を一元的に掌握することになった、というわけです。

 人物論について積極的なのも本書の特徴で、観応の擾乱における直義は無気力で、それは40歳を過ぎて誕生した嫡男が夭折したことや、尊氏とは戦いたくなかったことが原因ではないか、と指摘されています。また、直冬が尊氏に負けた要因として、直義と同様に尊氏と戦いたくなかった心理があるのではないか、と指摘されています。一方で、観応の擾乱以前には直義や高師直に依存して将軍としては無気力なところのあった尊氏は、観応の擾乱勃発以降は精力的に行動し、そうした気概の差が勝敗を決したのだ、と本書は評価しています。本書は、40代半ばまで無気力だった尊氏の変貌には勇気を与えられる、と述べていますが、現在(2017年8月)、観応の擾乱勃発の頃の尊氏とほぼ同じ年齢の私も共感します。もっとも、尊氏も直義も双方との講和を最後まで模索しており、観応の擾乱が深刻化した要因として、双方の強硬派(たとえば、尊氏陣営では義詮、直義陣営では桃井直常)の存在も指摘されています。

 観応の擾乱の背景として、相次ぐ災害が指摘されていることも注目されます。パイが縮小するなか、奪い合いが激化したのではないか、というわけです。観応の擾乱の頃の14世紀半ばについては、杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)において、ユーラシア規模の気候悪化とそれに伴うモンゴル帝国の衰退との見解も提示されているので、その意味でも注目される見解だと思います。また、正平の一統で講和条件を破ったのは南朝である、と強調されていることも印象に残ります。尊氏や義詮は、直義との戦いのために仕方なく一時的に南朝と講和したのではなく、少なくとも直義よりは本気だった、とされています。本書では、観応の擾乱における直義の南朝への降伏は禁じ手と指摘されていますが、確かに、四条畷の戦いで機内およびその周辺では事実上軍事的敗北が確定していた南朝がその後もしぶとく存続し、南北朝の争乱が長期化した契機なったという意味で、禁じ手と言うべきなのでしょう。
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乳幼児の社会的視覚関与の遺伝性

2017/08/05 00:07
 乳幼児の社会的視覚関与の遺伝性に関する研究(Constantino et al., 2017)が公表されました。赤ん坊が手を伸ばしたり、ハイハイしたり、歩行したりする前の段階において情報収集の手段として用いるのが社会的視覚関与という能力です。この研究は、社会的場面を見ることの個人差を評価するために一連の視標追跡実験を実施し、顔と顔に似た視覚刺激に対する注意力や個々の眼球運動のタイミング・方向性と目標設定を調べました。この実験の対象となったのは338人の乳幼児で、そのうち166人が一卵性双生児と二卵性双生児で、88人が自閉症スペクトラム障害と診断された非双生児で、84人が単生児(対照群)でした。

 この結果、一卵性双生児は同じように応答し、91%という高い一致率を示しましたが、二卵性双生児は一致率が35%とそれほど類似しておらず、こうした行動に強い遺伝的要因のあることを示しています。また、顔の眼と口の領域への選択的注目のような遺伝性が最も高かった評価項目は、自閉症の子どもにおいて特異的に評価が低いと明らかになりました。こうした知見は、子供とその環境との相互作用が遺伝的特徴によりどのように決まるのかという点に関する知見をもたらし、社会的視覚関与は遺伝性が高く、自閉症の子どもにおいて低下していることを明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【神経科学】乳幼児は見ている

 赤ん坊が手を伸ばしたり、ハイハイしたり、歩行したりする前の段階において情報収集の手段として用いるのが社会的視覚関与という能力だが、遺伝性が高く、この能力が自閉症の子どもにおいて低下していることを示唆する研究結果について報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。今回の研究では、乳幼児が社会的行動の探究を進め、理解を深める上で社会的視覚関与が重要な一側面となっており、自閉症の子どもに限らず、より広い範囲の子どもたちにとって重要だとする学説が裏付けられている。

 今回、Warren Jonesたちの研究グループは、社会的場面を見ることの個人差を評価するために一連の視標追跡実験を実施し、顔と顔に似た視覚刺激に対する注意力や個々の眼球運動のタイミング、方向性と目標設定を調べた。この実験の対象となったのは338人の乳幼児で、そのうち166人が一卵性双生児と二卵性双生児で、88人が自閉症スペクトラム障害と診断された非双生児で、84人が単生児(対照群)だった。この実験の結果、一卵性双生児が同じように応答し、91%という高い一致率を示したが、二卵性双生児は、それほど類似しておらず、一致率が35%で、この結果は、こうした行動に強い遺伝的要因のあることを示している。また、遺伝性が最も高かった評価項目(例えば、顔の眼と口の領域への選択的注目)は、自閉症の子どもにおいて特異的に評価が低かった。

 今回の研究結果は、子どもとその環境との相互作用が遺伝的特徴によってどのように決まるのかという点に関する知見をもたらしている、とJonesたちは結論づけている。Jonesたちは、自閉症の子どもたちと同世代の子どもたちの発達を調べる実験で対照的な結果が得られた研究でも同じような考え方が模索されていたことを認めた上で、直接的に追跡可能な遺伝的影響について実証されたのは今回の研究が初めてだと主張している。


神経科学:乳児の社会的光景の見方は遺伝的に制御されており、自閉症児では非典型的である

神経科学:乳児が見る社会的光景

 乳児の発達の初期の重要な側面の1つは、顔や生物的な動きなど社会的に意味のある刺激を視覚によって探索することである。W Jonesたちは今回、通常に発達している幼児、および自閉症児について視標追跡研究を行った。その結果、顔の特徴を見る傾向などの視覚的な社会的関与のいくつかの側面や、注視の時空間的な動態は遺伝性が高いことが分かった。顔への注意など視覚的な社会的関与のいくつかの指標は特に遺伝性が高く、また通常に発達している幼児と自閉症児との間ではっきりと明確な差が見られた。著者たちは、視覚的な社会的関与は、自閉症だけでなく、より広範な集団内の差異にも関係する神経発達上の中間形質であると考えている。



参考文献:
Constantino JN. et al.(2017): Infant viewing of social scenes is under genetic control and is atypical in autism. Nature, 547, 7663, 340–344.
http://dx.doi.org/10.1038/nature22999
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青銅器時代のミノア人とミケーネ人のDNA解析(追記有)

2017/08/04 00:00
 これは8月4日分の記事として掲載しておきます。青銅器時代のミノア人とミケーネ人のDNA解析に関する研究(Lazaridis et al., 2017)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。これまでの古代DNA研究で、初期ヨーロッパ農耕民の主要な祖先は、紀元前7千年紀からギリシアと西部アナトリア半島に居住していた、複数のきわめて類似した新石器時代の集団とされています。それ以降、青銅器時代までのこれらの地域の歴史についてはさほど明確になっておらず、ギリシア本土とクレタ島の集団間の遺伝的類似性の程度と、これらの集団と他の古代ヨーロッパ人集団や現代ギリシア人との類縁関係などが曖昧なままでした。

 この研究は、紀元前2900〜1700年頃のクレタ島の10人、紀元前1700〜1200年頃のミケーネ文化の4人、紀元前2800〜1800年頃の南西部アナトリア半島の3人、ミケーネ人到来後のクレタ島の1人、「文明」出現前となる紀元前5400年頃のギリシア本土の1人のゲノム規模のデータを解析しました。その結果、ミノア人とミケーネ人が遺伝的によく類似しており、遺伝子プールの3/4は西部アナトリア半島およびエーゲ海地域の最初の新石器時代農耕民に、残りの大半はコーカサスおよびイランの最初の新石器時代農耕民に由来する、と推定されています。

 しかし、ミノア人とミケーネ人の違いも明らかになっています。ミノア人とは異なってミケーネ人には、青銅器時代のユーラシア草原地帯またはアルメニアの集団からの遺伝子流動が確認されました。また、現代ギリシア人がミケーネ人と共通祖先を有しつつも、新石器時代前期の祖先からの系統がさらにある程度希釈されたことも明らかになりました。新石器時代〜青銅器時代にかけて、エーゲ海地域の人類集団は継続的だったものの、孤立してはいなかった、とこの研究では指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【ゲノミクス】ミケーネ人とミノア人

 ギリシャ本土出身のミケーネ人とクレタ島出身のミノア人を含む古代のヨーロッパ人種とアナトリア人種(合計19名)のゲノムデータを報告した論文が、今週のオンライン版に掲載される。この新知見は、青銅器時代にエーゲ海地方に出現し、ホメロスとヘロドトスに始まる古代の詩と歴史の伝統によって知られた最古の2つの著名な考古文化の起源に関する新たな手掛かりとなっている。

 これまでの古代DNA研究で、初期ヨーロッパ農耕民の主たる祖先は紀元前7千年紀からギリシャとアナトリア西部に居住していた複数の極めて類似した新石器時代の集団とされている。それ以降、青銅器時代までのこれらの地域の歴史については、それほど明確になっておらず、ギリシャ本土とクレタ島の集団間の遺伝的類似性の程度とこれらの集団と他の古代ヨーロッパ人集団や現代ギリシャ人との類縁関係など数々の疑問が残っている。

 今回、Iosif Lazaridisたちの研究グループは、合計19名の古代人(紀元前約2900〜1700年のクレタ島出身のミノア人10名、紀元前約1700〜1200年のギリシャ本土出身のミケーネ人4名、紀元前約2800〜1800年のアナトリア南西部の出身者3名を含む)のゲノム全域のデータを解析した。その結果、ミノア人とミケーネ人が遺伝的に非常によく似ており、その約4分の3がアナトリア西部とエーゲ海地方の最初の新石器時代の農耕民を共通祖先としており、残りの大部分が古代のコーカサス地方とイランの集団を祖先としていることが判明した。一方、ミケーネ人は、ミノア人とは異なり、青銅器時代にユーラシアのステップ(東ヨーロッパと北ユーラシアを含む地域)に居住していた人々を祖先とする者もいた。また、Lazaridisたちの解析では、現代ギリシャ人がミケーネ人と共通の祖先を持ちつつも、新石器時代前期の祖先からの系統がさらにある程度希釈されたことも判明した。



参考文献:
Lazaridis I. et al.(2017): Genetic origins of the Minoans and Mycenaeans. Nature, 548, 7666, 214–218.
http://dx.doi.org/10.1038/nature23310


追記(2017年8月10日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類学:ミノア人とミケーネ人の遺伝的起源

人類学:青銅器時代のヨーロッパ人の遺伝的祖先

 ヨーロッパにおいて青銅器時代に出現した最も著名な文明には、いずれもエーゲ海地域である、クレタ島のミノア文明やギリシャ本土のミケーネ文明などがある。I Lazaridis、D Reich、J Krause、G Stamatoyannopoulosたちは今回、ミノア人、ミケーネ人、およびその東部に位置する南西アナトリアに由来するの人々を含む、古代人19体の新しいゲノム規模のデータを解析することで、これら2つの考古学的文化の起源を調べた。ミノア人とミケーネ人は西アナトリア人やエーゲ海地域の人々を共通祖先としていて遺伝的に非常に類似しているが、ミケーネ人はさらに青銅器時代のユーラシアのステップ地域の居住民と類縁関係がある祖先を持つという違いがあることも分かった。
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動物の速度の限界要因

2017/08/03 00:00
 動物の速度の限界要因に関する研究(Hirt et al., 2017)が公表されました。チーターなどの中型動物は、より大きな動物と比較して筋肉が小さく筋繊維が少ないにも関わらず、陸上では最速です。ハヤブサやカジキなどの中型種がそうであるように、空中や水中でも同じ傾向が成立します。この研究は、全動物にわたって、ある動物が到達できる最高速度を最終的に制限するのは加速に要する時間である、ということを示す一般的理論モデルを構築しました。

 この研究は、加速の局面では筋肉が無酸素的に働く必要があり、そこで利用可能な蓄積エネルギー量がごく限られていることがその理由である と明らかにしました。大きな動物は小さな動物と比較して最高速度まで加速するのに長い時間を要するので、無酸素局面の加速時間が筋肉に回せるエネルギー量の限度を超えると、到達可能な最高速度は上限に達します。軟体動物からクジラまで、飛行動物も含む動物474種のデータとモデルのアウトプットを比較した結果、動物が中型の域を超えて大きくなると最高速度が急激に低下するという研究チームの予測には、良好な適合性が認められました。ただ、この研究は陸上・空中・水中いずれの動物にも同じようによく当てはまりますが、同等サイズの動物の運動能力の違いに関してはもう一段の説明が必要になる、とも指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。

動物の速度の限界が説明された

 地球上で最速の動物が最大の動物でない理由は、動物が最高速度に到達するのに要する時間の上限によって説明できるということを、今週のオンライン掲載論文が明らかにする。個体サイズを計測するだけで、その新しいモデルは、ショウジョウバエからシロナガスクジラまで、動物の速度の限界を正確に予測することができ、概して中型動物が最速である理由を説明する。

 チーターなどの中型動物は、大きな動物と比較して筋肉が小さく筋繊維が少ないにもかかわらず、陸上で最速である。ハヤブサやカジキなどの中型種にみられるように、空中や水中でも同じ傾向が成立する。

 Myriam Hirtたちは、全ての動物にわたり、ある動物が到達することができる最高速度を最終的に制限するのは加速に要する時間である、ということを示す一般的理論モデルを構築した。研究チームは、加速の局面では筋肉が無酸素的に働く必要があり、そこで利用可能な蓄積エネルギー量がごく限られていることがその理由であることを明らかにした。大きな動物は小さな動物と比較して最高速度まで加速するのに長い時間がかかるため、無酸素局面の加速時間が筋肉に回せるエネルギー量の限度を超えると、到達可能な最高速度は上限に達する。

 軟体動物からクジラまで、飛行動物も含む動物474種のデータとモデルのアウトプットを比較した結果、動物が中型の域を超えて大きくなると最高速度が急激に低下するという研究チームの予測には、良好な適合性が認められた。

 同時掲載のNews & Views記事では、Christofer ClementeとPeter Bishopが次のように述べている。「今回の発表のおもしろい点は、それが陸上、空中、水中、いずれの動物にも同じようによく当てはまることである。しかし、同等サイズの動物の運動能力の違いに関しては、もう一段の説明が必要である」。



参考文献:
Hirt MR. et al.(2017): A general scaling law reveals why the largest animals are not the fastest. Nature Ecology & Evolution, 1, 1116–1122.
http://dx.doi.org/10.1038/s41559-017-0241-4
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音楽にたいする2種類の強烈な情動反応

2017/08/02 00:00
 これは8月2日分の記事として掲載しておきます。音楽にたいする2種類の強烈な情動反応に関する研究(Mori, and Iwanaga., 2017)が公表されました。人間は時として、芸術作品に対して強烈な情動反応を経験します。これまでの研究から、音楽を聴いたときに喚起される「鳥肌感(chill;鳥肌が立ったり背筋がぞくぞくしたりする感覚)」という強烈な情動反応には、精神生理学的な覚醒や、ある種の報酬効果が関わっていることが明らかになっています。しかし、強烈な情動の多くの側面はまだ解明されていません。

 この研究は新しい観点として、「涙感(tear;涙ぐむ、胸がいっぱいになる感覚)」という強烈な情動反応を検証しています。精神生理学実験から、自己報告された鳥肌感と涙感は快感と深い呼吸を引き起こすという点では共通しているものの、鳥肌感は皮膚伝導活動と主観的覚醒を増大させ、涙感は心拍数が増大している最中に呼吸数を低下させるという異なる応答を示すことが明らかになりました。鳥肌感を喚起した歌にたいしては喜びも悲しみも感じられましたが、涙感を喚起した歌にたいしては悲しみのみが強く感じられました。さらに、涙感を喚起した歌は、鳥肌感を喚起した歌と比較してより沈静だと感じられました。

 これらの知見は、涙感には悲しみに起因する快感が含まれることや、涙感が精神生理学的に沈静をもたらすことを示しています。したがって、精神生理学的な反応から鳥肌感と涙感の区別が可能となります。涙感はカタルシス効果を持つ可能性があるので、報酬効果を示す鳥肌感と機能的意義は異なっていると考えられます。2種類の強烈な情動のこのような区別は理論的に妥当で、涙感のさらなる研究は人間の強烈な情動反応の解明を進めるために役立つ、とこの研では指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


音楽に対する2種類の強烈な情動反応:鳥肌感と涙感の精神生理学

 人は時として芸術作品に対して強烈な情動反応を経験する。これまでの研究から、音楽を聴いたときに喚起される「鳥肌感(chill;鳥肌が立ったり背筋がぞくぞくしたりする感覚)」という強烈な情動反応には、精神生理学的な覚醒や、ある種の報酬効果が関わっていることが明らかになっている。しかし、強烈な情動の多くの側面はまだ解明されていない。本研究では新しい観点として、「涙感(tear;涙ぐむ、胸がいっぱいになる感覚)」という強烈な情動反応を考える。精神生理学実験から、自己報告された鳥肌感と涙感は快感と深い呼吸を引き起こすという点では共通しているものの、鳥肌感は皮膚伝導活動と主観的覚醒を増大させ、涙感は心拍数が増大している最中に呼吸数を低下させるという異なる応答を示すことが明らかになった。鳥肌感を喚起した歌に対しては喜びも悲しみも感じられたが、涙感を喚起した歌に対しては悲しみのみが強く感じられた。さらに、涙感を喚起した歌は、鳥肌感を喚起した歌に比べてより沈静だと感じられた。これらの結果は、涙感には悲しみに起因する快感が含まれることや、涙感が精神生理学的に沈静をもたらすことを示している。したがって、精神生理学的な反応から鳥肌感と涙感の区別が可能である。涙感はカタルシス効果を持つ可能性があるので、報酬効果を示す鳥肌感と機能的意義は異なっていると考えられる。2種類の強烈な情動のこのような区別は理論的に妥当であり、涙感のさらなる研究は人の強烈な情動反応の解明を進めるために役立つと我々は考える。



参考文献:
Mori K, and Iwanaga M.(2017): Two types of peak emotional responses to music: The psychophysiology of chills and tears. Scientific Reports, 7, 46063.
http://dx.doi.org/10.1038/srep46063
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北極ツンドラにおける水銀の吸収

2017/08/01 00:00
 北極ツンドラにおける水銀の吸収に関する研究(Obrist et al., 2017)が公表されました。人為的な活動は北極域における大規模な水銀汚染をもたらしていますが、北極域の高い水銀負荷の原因が、降水を介した酸化水銀の湿性沈着なのか、あるいは海塩によって生じる水銀の化学循環なのか、まだよく分かっていません。この研究は、水銀沈着の質量収支の分析と北極ツンドラから得られた安定同位体データを提示し、水銀の主な供給源は気体の水銀元素に由来し、示唆されていた他の二つの供給源の寄与はわずかであることを明らかにしました。気体の水銀元素由来の土壌中水銀濃度は、内陸から沿岸域のトランセクトに沿って一貫して高いことから、北極ツンドラが全球的に重要な水銀シンクであるかもしれず、北極域の河川が毎年大量の水銀を北極海へ輸送していることの説明になるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生物地球化学:ツンドラによる大気中の水銀元素の吸収が北極域の水銀汚染を駆動する

生物地球化学:北極ツンドラにおける水銀の吸収

 人為的な活動は、北極域における大規模な水銀汚染をもたらしているが、北極域の高い水銀負荷の原因が、降水を介した酸化水銀の湿性沈着なのか、あるいは海塩によって生じる水銀の化学循環なのかは、まだよく分かっていない。今回、水銀沈着の質量収支の研究と北極ツンドラから得られた安定同位体データが提示され、水銀の主な供給源は、実際には気体の水銀元素に由来し、示唆されていた他の2つの供給源の寄与はわずかであることが見いだされた。気体の水銀元素由来の土壌中水銀濃度は、内陸から沿岸域のトランセクトに沿って一貫して高いことから、北極ツンドラが全球的に重要な水銀シンクである可能性があり、北極域の河川が毎年大量の水銀を北極海へ輸送していることの説明になるかもしれない。



参考文献:
Obrist D. et al.(2017): Tundra uptake of atmospheric elemental mercury drives Arctic mercury pollution. Nature, 547, 7662, 201–204.
http://dx.doi.org/10.1038/nature22997
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大河ドラマ『おんな城主 直虎』第30回「潰されざる者」

2017/07/31 00:00
 これは7月31日分の記事として掲載しておきます。武田との戦いを覚悟した今川氏真は、国衆にその準備を命じます。直虎(次郎法師)も徳川との内通を隠しつつこの命に応じます。氏真は瀬戸方久に、気賀に新しい蔵を作ることを認める代わりに、井伊家を取り潰す手助けをするよう、求めます。氏真は徳川に備えるために、要衝の地である井伊谷を今川の直轄領にしたいと考えていました。今川は寿桂尼の策に従って井伊谷に徳政令を出し、井伊を潰すそうと画策していました。小野政次(鶴丸)は、直虎が寿桂尼に呼び出されたことを気にかけていましたが、それは考えすぎだ、と直虎は楽観的です。

 今川の意向を知り、悩む瀬戸方久の不自然な動きを怪しんだ政次は気賀を訪れます。政次は龍雲丸とともに瀬戸方久を問い質し、今川の意図を把握します。ついに今川重臣の関口氏経が訪れ、直虎に徳政令をだすよう、命じます。直虎は返答を保留しますが、関口氏経は明日までに返答するよう命じます。直虎と政次は、今川が武田・徳川に劣勢であることに活路を見出し、決死の覚悟を決めます。そこへ瀬戸村と祝田村の百姓たちが関口氏経を訪ね、徳政令は望まない、と願い出ます。今回は、いよいよ井伊に大きな危機が迫り、本作最大の山場になりそうだ、と予感させます。やはり注目は、互いに信頼しながらも、他人には互いに不信感を抱いているように見せている直虎と政次の関係で、政次の最期はどのように描かれるのでしょうか。
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筒井清忠編『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』

2017/07/30 00:00
 これは7月30日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2017年7月に刊行されました。筒井清忠編『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)と筒井清忠編『昭和史講義2─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)の続編となります。両書ともに好評だったのか、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。編者による「まえがき」は、歴史研究と人物について考えさせられるところが多く、参考になります。本書もたいへん有益だったので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。


●奈良岡聰智「加藤高明─二大政党政治の扉」P17〜34
 短期間とはいえ、大日本帝国憲法下で二大政党による政権担当が「憲政の常道」とされるようになったことについて、加藤高明の功績が大きかった、と評価されています。加藤高明が粘り強く、政権を担える政党にまで憲政党(後の立憲民政党)を成長させたことが、「憲政の常道」の確立に大きく寄与した、というわけです。加藤内閣の最大の実績として普通選挙の実現が挙げられており、通俗的には「ムチ」たる治安維持法との引き換えとされていますが、加藤内閣は治安維持法の制定に消極的で、各政治勢力との妥協の結果だったことが指摘されています。加藤内閣の実績として、腐敗防止のために政党による恣意的な官僚人事を制限したた統治機構改革や、幣原喜重郎を外相に起用しての国際協調外交も挙げられています。第一次世界大戦時の大隈内閣での強硬外交路線により、加藤高明は国内外から警戒されていましたが、内閣発足前にすでに穏健路線に転換していた、と指摘されています。


●今津敏晃「若槻礼次郎─世論を説得しようとした政治家の悲劇」P35〜52
 首相時代を中心に解説されています。若槻礼次郎が「先を読む」政治家として把握されています。若槻が読み通そうとしたのは日本とその国民でした。しかし、若槻は国民を扇動するのではなく、説得しようとしたものの、専門家による「秘密外交」の時代から第一次世界大戦を経て「国民外交」の時代になると、世論は若槻の説得に飽き足らず、それがけっきょくは大日本帝国を破綻に追い込んだ、と示唆されています。押しが弱いと言われる若槻ですが、本論考を読んで、確かにそう受け取られても仕方ないな、と思うところが多分にあります。胆力に欠ける、と言ってしまえばそれまでですが、聡明で先を読みすぎてしまった、というところも多分にあるのでしょう。


●小山俊樹「田中義一─政党内閣期の軍人宰相」P53〜72
 本書で取り上げられている15人のうち、宇垣一成・松岡洋右・重光葵を除いて全員首相経験者なのですが(幣原喜重郎のみは第二次世界大戦後に首相就任)、本論考は首相就任前の解説が多めなのが特徴となっています。田中は駐在武官としてロシアで4年ほど過ごした経験があり、これが革命および軍隊と国民との乖離への警戒を醸成していったようです。田中は、総力戦への対応など、確固たる信念を抱きつつも、機会主義的なところが多分にあり、それが反発を買うこともあったようです。政友会を基盤とする田中内閣は、憲政会政権とは大きく異なる内外の政策を進めていき、二大政党制の時代が強く印象づけられます。首相就任当初は順調に見えた田中内閣の政権運営ですが、初の普通選挙となる1928年2月の選挙が野党と1議席しか違わない結果に終わると、求心力を失っていき、張作霖爆殺事件が決定打となって天皇・宮中の不信を招き、ついには総辞職となります。


●西田敏宏「幣原喜重郎─戦前期日本の国際協調外交の象徴」P73〜89
 国際協調的とされる幣原外交がおもに取り上げられています。幣原喜重郎の外務官僚時代にもかなりの分量が割かれており、幣原外交がどのような文脈で登場したのか、個人的・国際的背景から解説されています。英米を中心とする列強と協調し、中国におけるナショナリズムの高揚を強く意識して配慮した幣原外交の路線は、二大政党制下での田中内閣への政権交代により、否定されたというか後退したところもありましたが、田中内閣の総辞職により、幣原喜重郎は次の浜口雄幸内閣で外相に再任されます。しかし、浜口内閣での幣原外交は、世界恐慌下の新情勢で挫折し、満州事変では軍の一部の独断専行を阻止できませんでした。第二次世界大戦後の首相時代の解説は少ないのですが、敗戦国日本を平和国家という新たな方向に導き、国際社会に復帰させるうえで、幣原外交の国際協調路線が大きな資産となったことが指摘されています。


●井上敬介「浜口雄幸─調整型指導者と立憲民政党」P91〜106
 おもに浜口内閣について解説されていますが、首相就任までの浜口雄幸の経歴についても簡潔に取り上げられています。浜口内閣では緊縮財政が掲げられましたが、浜口は若槻内閣での北海道拓殖計画調査会の会長時代に、健全財政の観点からすでに合意のあった公債発行に反対し、地域全体の開発を停滞させたことが指摘されています。民政党政権の浜口内閣については、党人派と幣原喜重郎・井上準之助に代表される「外部」勢力との対立関係が前提としてあり、調整型指導者としての浜口が両者の緊張関係を緩和していた、と指摘されています。そのため、浜口は狙撃されて完治していない状態で、両派の対立緩和のために衆院本会議に出席せざるを得ませんでしたし、浜口の死後に民政党は内紛により下野することになります。浜口の調整能力の高さにより、民政党は二大政党の一翼を担えた、と評価されています。浜口内閣の政策については、内政では世界恐慌下での金解禁による不況の深刻化と、英米との協調維持との信念からロンドン海軍軍縮条約の締結に成功したことが挙げられています。ただ、不況下において、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約の締結に、野党の政友会が浜口内閣打倒に邁進した結果、地方の窮状は置き去りにされ、国民の二大政党にたいする不信は高まり、ついには政党内閣が崩壊するにいたった、とも指摘されています。


●五百旗頭薫「犬養毅─野党指導者の奇遇」P107〜126
 上述したように、本書で取り上げられている15人のうち12人は首相経験者なのですが、本論考で取り上げられている犬養毅は、幣原喜重郎のように第二次世界大戦後に首相に就任したわけではないのに、大半が首相就任前の解説となっています。犬養は政党政治の確立に尽力し、高い人気を得たものの、豹変することも珍しくなく、非難の対象にもなりました。犬養は満州事変後に首相に就任したものの、対中関係を改善させることはできませんでした。本論考では、犬養は事態の急変にも悠長であり、それは犬養が野党指導者として慢性的な逆境のなかで生きてきたからではないか、と指摘されています。


●村井良太「岡田啓介─「国を思う狸」の功罪」P127〜144
 首相就任前の海相時代や、ロンドン海軍軍縮条約での役割についてもかなりの分量が割かれています。五・一五事件により戦前日本の政党政治は終焉したとされていますが、犬養内閣の後の斎藤内閣とその後の岡田内閣でも、政党政治への復帰が模索されているというか、それが既定路線であるかのように思われてもいました。本論考では、岡田啓介の海相・首相としての評価は低く、全体主義の流れに抗しながらも議会主義的ではない良心的な権威主義国家を招来し、軍国主義国家への道を開いた、と指摘されています。ただ、首相退任後の岡田は重臣として成長し、終戦工作などで重要な役割を果たした、と評価されています。


●渡邉公太「広田弘毅─「協和外交」の破綻から日中戦争へ」P145〜162
 本論考はおもに、広田弘毅が斎藤内閣の外相だった頃から首相時代を経て第一次近衛内閣の外相だった頃までを取り上げています。この間、広田は欧米列強との協調と中国との安定した関係を目指しましたが、じっさいには英米中との関係が悪化していきました。この一因として、広田の対中外交が日本の主張を押しつける強硬なものだったことが指摘されています。この広田外交の背景として、軍部や世論の強硬路線があったのではないか、と指摘されています。


●杉洋平「宇垣一成─「大正デモクラシー」が生んだ軍人」P163〜182
 広田内閣の後に宇垣内閣が実現していたら、その後の日本の進路は史実と大きく異なっていたのではないか、との見解は一部で根強くあるようです。その根拠となるのは、宇垣一成が陸軍大臣として政党内閣に協力し、陸軍の反対を押し切って軍縮を成し遂げ、大命降下まで行きながら陸軍の反対で組閣が阻まれた、との評価です。宇垣は民主主義・政党政治に理解があり、陸軍の反対を押し切るだけの強い指導力のあった人物だった、というわけです。しかし本論考は、こうした評価には疑問も残る、と指摘しています。軍縮は宇垣の強い指導力で成し遂げられたものの、そもそも参謀本部の提案であり、宇垣の政党内閣への協力にしても、統帥権の独立という陸軍の組織的利益と自身の政治的影響力の確保にあった、というわけです。また、この軍縮により、陸軍では世界的な軍縮の時代のなか、自らが不当な評価をされた、との不満が高まっていったようです。さらに、浜口内閣での宇垣の軍縮策は陸軍の反対にあって受け入れられず、宇垣の指導力を過大に評価することに注意が喚起されています。五・一五事件後の政局のなかで、提携を期待された二大政党が反目するようになると、宇垣は政党との距離を置き、組閣を図るようになります。しかし、宇垣と政党との密接な関係との印象は陸軍において根強く、そのために大命降下がありながら宇垣は組閣に失敗しました。政党政治の擁護者としての強い印象が宇垣を首相の有力候補者とした一方で、宇垣内閣の実現を阻んだ、というわけです。このように、本論考は宇垣の限界を強調しているように見えますが、宇垣が戦前にあって民主主義・政党政治への理解の深い軍人であったことも指摘されています。


●庄司潤一郎「近衛文麿─アメリカという「幻」に賭けた政治家」P183〜202
 近衛文麿の対米認識という観点から政治家としての近衛が解説されています。近衛は訪米経験から終生アメリカ合衆国にたいして期待と憧れを抱いており、対米交渉と終戦工作に尽力したにも関わらず、GHQから逮捕命令が出されたことで、アメリカ合衆国に裏切られたとの思いを強くし、自殺の一因になったのではないか、と本論考では推測されています。近衛は歴代の首相のなかでも評価は低く、最低とする人も少なくないでしょうが、本論考では、首相辞任後の近衛について、東条内閣打倒と終戦は近衛なくしてあり得なかっただろう、と高く評価されています。


●畑野勇「米内光政─天皇の絶対的な信頼を得た海軍軍人」P203〜222
 米内光政に関して、海軍兵学校での成績がさほど優秀ではなく、軍政経験もほぼ皆無だったのに、なぜ林銑十郎内閣で海相に起用されたのか、日中戦争に突入し、不拡大・交渉重視の方針から上海派兵という強硬路線に転換したのはなぜか、首相時代の米内は何を追求したのか、という観点から検証されています。まず、米内が海相に、さらにその二ヶ月前に連合艦隊司令長官に就任した理由について、異例のことであり、理由は定かではない、とされています。日中戦争初期における方針転換については、米内は昭和天皇への忠誠心がきわめて高く、昭和天皇の意向を反映させようとしたことと、そもそも盧溝橋事件の解決策として交渉と武力行使を対立的に把握していなかったことが指摘されています。海相・首相時代の米内に関しては、国務と統帥の峻別および海軍部内の統制堅持という昭和天皇の方針に忠実だったことが指摘されています。首相時代には、第二次世界大戦当初のドイツの快進撃により、ドイツ・イタリアとの関係の強化を主張する機運が高まり、昭和天皇の意向である対米関係改善が難しくなったことから辞職を決意し、陸軍に責任を転嫁して内閣総辞職を実行した、というのが本書の見解です。陸相の畑俊六が陸軍の意向により辞表を提出し、陸軍が後任者を推薦しなかったことから米内内閣が崩壊したのではなく、米内は畑陸相に辞表提出を求めて、内閣崩壊を陸軍の責任にした、というわけです。


●森山優「松岡洋右─ポピュリストの誤算」P223〜239
 本論考は、解釈の難しい松岡洋右の外交方針を検証しています。松岡の言動をどれだけ集積しても、松岡の考えを抽出するのは難しい、と指摘する本論考は、先行研究を参照しつつ、松岡の意図を検証しています。松岡は、軍部よりも過激な意見を主張することで統制力を発揮する「先手論」を好んだ、と本論考は指摘します。過激策の主張により軍部から慎重な言質をとり、曖昧な「両論併記的国策」が決定されていった、というわけです。対米戦への大きな分水嶺となった南部仏印進駐にしても、このような松岡の手法が一因になったことを本論考は指摘しています。軍部は松岡への対抗策として、本心では消極的ながら過激策を主張していった、というわけです。対米交渉への松岡の抵抗に関しては、アメリカ合衆国のヨーロッパ参戦を阻止するための引き延ばし工作だった、との見解も提示されているそうです。


●戸部良一「東条英機─ヴィジョンなき戦争指導者」P241〜258
 本論考は生真面目ではあるものの、総力戦時代の強力な指導者ではなかった、との東条英機像を提示しています。東条は、生真面目に政治と軍事とを、さらには軍政と統帥とを分離しようとしました。東条は首相と陸相を兼ね、後には参謀総長も兼務しましたが、生真面目にそれぞれの立場を使い分けただけだ、と指摘されています。連合国のルーズヴェルトやチャーチルが、戦争の理念とヴィジョンを語り、強大な権力を握って政治・軍事統合の機能的制度を創出した、総力戦の時代にふさわしい指導者になったのにたいして、東条はその水準に達しなかった、というわけです。東条の昭和天皇にたいする忠誠心は昭和天皇も認めていましたが、本論考は、戦争指導の重圧を天皇に依存することで耐えようとした側面も多分にあるのではないか、と推測しています。


●波多野澄雄「鈴木貫太郎─選択としての「聖断」」P259〜277
 鈴木貫太郎の首相としての在任期間は短かったのですが、敗色が決定的となった戦争を、昭和天皇の意向にしたがって終結させる任を果たしました。本論考はおもに鈴木の首相時代を検証していますが、首相就任の前提となった侍従長時代など鈴木と昭和天皇の関係についても解説しています。首相としての鈴木は一撃講和論に拘り、沖縄戦後も、本土決戦の可能性を排除していなかったようです。ポツダム宣言にたいして、鈴木は意思表示をしないつもりでしたが、陸軍の拒絶論を抑えきれず、黙殺と表明してしまいます。鈴木は、これが原爆投下とソ連参戦の口実になったと後悔していたようですが、本論考は、両方とも既定路線であり、鈴木の黙殺は直接の理由ではなかった、と指摘しています。本論考は、鈴木が戦争終結に聖断を利用したことについて、輔弼制度の崩壊であり、明治憲法体制の事実上の崩壊ではあったものの、政治が国民と天皇の手に取り戻されることになった、と評価しています。


●武田知己「重光葵─対中外交の可能性とその限界」P279〜298
 本論考はおもに、1930年に対中外交の現地最高責任者になってから、太平洋戦争が始まる前までの重光葵の外交方針を検証しています。重光の外交方針は現状打破にも見えますが、一方で、中国におけるナショナリズムの高揚への配慮や、列強との協調路線を志向していたことも指摘されています。重光は、防共という概念で列強との協調を模索していたようです。しかし、ドイツ・イタリアとの提携路線の強化により、英米との協調路線は破綻します。重光が列強との協調路線において防共を重要な共通目的にしようとした理由は、重光が駐ソ大使時代にソ連の強さを再認識したことだったようです。
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初期の四肢類の形態的多様性

2017/07/29 00:00
 これは7月29日分の記事として掲載しておきます。初期の四肢類の形態的多様性に関する研究(Pardo et al., 2017)が公表されました。欠脚類は特殊化した絶滅両生類であり、伸長した体と退化した四肢を特徴とします。欠脚類は通常、空椎類クレードという羊膜類にやや近縁な両生類の特異な分類群内に位置づけられており、こうした生物の一つにレティスクス(Lethiscus stocki)がいます。レティスクスは、デボン紀の原始的な大型の初期四肢類とその後の時代の生物とを隔てる前期石炭紀の「ローマーの空白」の後に出現したもののうち、既知で最古の四肢類です。この研究は、レティスクスの化石標本をデジタル解剖し、この動物群を進化系統樹上で四肢類の基部へと近づけるような一連の新たな特徴を明らかにしています。これにより、最初期の四肢類の形態がこれまで考えられていたよりもはるかに多様であったことが示されました。また、この知見により、羊膜類についても多少の再定義が必要と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:初期の四肢類の知られざる形態的多様性

進化学:四肢類系統樹の基部がより複雑に

 欠脚類は特殊化した絶滅両生類であり、伸長した体と退化した四肢を特徴とする。欠脚類は通常、空椎類クレードという、羊膜類にやや近縁な両生類の特異な分類群内に位置付けられており、こうした生物の1つにレティスクス(Lethiscus stocki)がいる。レティスクスは、デボン紀の原始的な大型の初期四肢類とその後の時代の生物とを隔てる前期石炭紀の「ローマーの空白」の後に出現したものの中で、既知で最古の四肢類である。今回J Andersonたちは、レティスクスの化石標本をデジタル解剖し、この動物群を進化系統樹上で四肢類の基部へと近づけるような一連の新たな特徴を明らかにしている。これにより、最初期の四肢類の形態が従来考えられていたよりはるかに多様であったことが示された。今回の知見で、羊膜類についても多少の再定義が必要とされる。



参考文献:
Pardo JJ. et al.(2017): Hidden morphological diversity among early tetrapods. Nature, 546, 7660, 642–645.
http://dx.doi.org/10.1038/nature22966
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ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けている現代人の脳と頭蓋

2017/07/28 00:00
 これは7月28日分の記事として掲載しておきます。現代人の脳と頭蓋におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響に関する研究(Gregory et al., 2017)が報道されました。ネアンデルタール人の化石記録は4万年前頃までに消滅したとされていますが(関連記事)、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)との交雑は、今では広く認められています。この研究は、健康なヨーロッパ系221人の磁気共鳴画像(MRI)検査のデータと、ネアンデルタール人由来と推定される、現代人における156ヶ所の一塩基多型の割合(ネアンデルタール人スコア)を用いて、現代人の脳と頭蓋におけるネアンデルタール人の遺伝的影響を検証しました。

 この研究は、「ネアンデルタール人スコア」とヨーロッパ系現代人との関連を明らかにしました。「ネアンデルタール人スコア」の高い現代人では、後頭部および頭頂部においてネアンデルタール人との形態的類似性が確認されます。脳では、視覚野と頭頂間溝において、同様に「ネアンデルタール人スコア」との関連性が確認されています。ただ、この研究でも指摘されているように、頭蓋や脳の形態には多数の遺伝子が関与していると考えられます。

 これらの結果から、ネアンデルタール人由来の遺伝子が現代人の神経において機能している可能性が指摘されています。たとえば、統合失調症や自閉症などの精神疾患との関連です。これまで、非アフリカ系現代人へのネアンデルタール人の遺伝的影響は、脳というか認知能力に関連する領域では排除されていたのではないか、と示唆する研究が目についていたので、この研究はかなり意外でした。もっとも、私の観測範囲というか知見はきわめて狭いので、私が無知だっただけかもしれません。

 たとえば、FOXP2遺伝子を取り囲んでいる膨大な領域(関連記事)や、脳の左右分化と言語の発達に関連していると思われる領域(関連記事)に関する研究です。自閉症・統合失調症・アルツハイマー病などの精神疾患に関わる遺伝子において、ネアンデルタール人の場合はほとんどがメチル化により遺伝子の発現が停止しており、現代人との大きな違いになっている、とも指摘されていました(関連記事)。今後は、現代人(の一部)の認知能力におけるネアンデルタール人の影響に関する研究の進展が期待されます。また、ヨーロッパ系のみではなく、より広範囲な地域を対象とした調査も期待されます。


参考文献:
Gregory MD. et al.(2017): Neanderthal-Derived Genetic Variation Shapes Modern Human Cranium and Brain. Scientific Reports, 7, 6308.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-017-06587-0
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』649話〜652話

2017/07/27 00:00
649話「ラストダンス」2
 ある夜、老人が殺人事件を目撃します。トシさんは、以前起きた強盗殺人事件と手口が似ていることから、同一犯ではないか、と推理します。トシさんとブルースの聞き込みで、容疑者の男性はあっさりと特定されます。容疑者は自暴自棄になって様々な酒場で喧嘩を売っていることが明らかになります。容疑者はミュージカルスターになろうとしたものの、夢が叶わず自暴自棄になったのではないか、と一係は推理します。容疑者は最後の挑戦と考えていたオーディションに落ちたものの、容疑者の恋人は主役に抜擢されたのでした。その後、恋人は容疑者に手切れ金を渡して別れます。けっきょく、真犯人は別におり、容疑者の元恋人の証言により逮捕されたのですが、女性は真犯人に刺されてしまいます。トシさんの打つ手がことごとく女性を追い込み、女性から夢を奪った感じで、かなり後味の悪い話でした。盛り上がりにも欠けていたので、久々にかなりの低評価としました。


650話「山村刑事左遷命令」7
 浮浪者が自動車に轢かれます。翌日、代議士の運転手が自首してきます。自動車には代議士とホステスが同乗していた、と運転手は証言します。山さんは、運転手が誰かを庇っているのではないかと考え、運転していたのは代議士本人ではないか、と一係は推理します。暴力団を用い、弁護士を通じて圧力をかけてくる政治家を相手に、山さんは粘り強く捜査を進めます。巨悪との対決は本作でもたまに見られますが、今回は山さんが主役ということで、久々に初期の頃の熱さもある山さんが見られ、なかなかよかったと思います。ただ、代議士が山さんの強引な要求に素直に応じすぎた感は否めませんでした。織本順吉氏・立川光貴(立川三貴)氏・竹井みどり氏がゲストで、なかなか豪華な配役だと思います。


651話「号泣」7
 男性から財布を盗もうとしたすり常習犯の男性が、相手の男性に気づかれて殺され、財布を盗まれます。容疑者はすぐに特定されましたが、整形している可能性が高いため、捜査は難航します。ラガーは、喫茶店の従業員の若い女性が何か知っているのではないか、と思って再び聞き込みに行くと、女性の母親がかつて今回の事件の容疑者に殺された、と明らかになります。容疑者が二転三転したことも含めて、謎解き要素が強く、なかなか楽しめました。結局は、容疑者ではないかな、とすぐに私が思い(視聴者の多くも気づいたでしょうが)、ラガーも当初容疑者と考えていた喫茶店のマスターが真犯人でした。真犯人の心理がもっと丁寧に描かれていればよかったのですが、1話でそこまで描くのは難しいでしょうか。1976年放送の大河ドラマ『風と雲と虹と』で露口茂氏が演じた田原藤太(藤原秀郷)の第一の郎党である佐野八郎役だった松村彦次郎氏が証言者として出演していましたが(関連記事)、残念ながら山さんとの絡みはありませんでした。


652話「相続ゲーム」7
 男性が釣りの最中に殺され、直後にその娘が襲撃されます。娘は男性の実子ではなく、娘の証言から、殺された男性はきょうだい達と仲が悪く、3億円ほどの資産を有していた、と明らかになります。娘は、犯人を見つけるため、ドックに自分の婚約者を装ってほしい、と言います。資産をめぐる人間心理が描かれ、謎解き要素もあってなかなか面白くなっていました。きょうだいの分担による殺人計画というオチもなかなかよかった、と思います。このように若い女性と深く関わり、謎解き要素のある話の主役ですと、以前ならば殿下が最適だったでしょうが、現在のレギュラーメンバーならば、やはりドックで正解かな、と思います。
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大河ドラマ『おんな城主 直虎』第29回「女たちの挽歌」

2017/07/26 00:00
 これは7月26日分の記事として掲載しておきます。直虎(次郎法師)は徳川家康に書状を送り、上杉と同盟を組んで武田の今川攻めの動きを封じ込む策を進言します。今川では、1568年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)3月、寿桂尼が亡くなります。駿府に弔問に赴いた小野政次(鶴丸)は、今川はもう終わりで、武田が今川領に攻め込んでくるだろう、と直虎に見通しを語ります。直虎からの策に一度は乗ろうとした家康でしたが、武田から今川攻めの誘いが来ます。家康は、井伊が今川につくのか、それとも徳川につくのか、直虎に決断を迫ります。家康は井伊が徳川につく証として、虎松(井伊直政)の母である「しの」を人質に出すよう要求します。徳川からの使者である松下常慶の一族に「しの」を嫁がせる、という形にすればよいのではないか、というわけです。

 直虎が「しの」に人質の件を伝えると、「しの」は文句を言いつつも、人質となる決意を直虎に伝えます。虎松は直虎に文句を言いますが、それは虎松に難問を考えさせて成長させよう、との「しの」の意図によるものでした。「しの」は虎松を説得し、人質として嫁ぐことになります。直虎は、武田と組んではどうか、と政次に尋ねますが、遠江が徳川領との密約があり、武田と徳川が将来対立するかもしれないなか、武田につくのは危険だ、と政次に指摘されます。直虎は松下常慶にたいして、武田との提携の可能性にも言及しつつ、徳川には逆らわないが、その後の軍役には従えない、と要求し、松下常慶もそれを受け入れます。駿府には武田から山県昌景が訪れ、遠江を譲れば今川が上杉と結んだことを不問にする、と伝えますが、今川はこれを撥ねつけ、ついに今川氏真も武田との戦いを決意します。今回は、周辺の大勢力の均衡が崩れていくなか、国衆の動揺が描かれていてなかなか面白くなっていた、と思います。井伊にとって苦難の時代が近づくなか、やはり注目されるのは政次の最期で、どのように描かれるのでしょうか。
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大相撲名古屋場所千秋楽

2017/07/25 00:00
 これは7月25日分の記事として掲載しておきます。14日目が終わった時点で、優勝争いは1敗の白鵬関と2敗の碧山関に絞られました。まず碧山関が登場して嘉風関と対戦して叩き込みで勝ち、13勝2敗として優勝決定戦進出に望みをつなぎました。白鵬関は結びの一番で日馬富士関と対戦し、寄り倒しで勝って39回目の優勝を果たしました。今場所の白鵬関は安定していたと思いますが、他の上位陣が不調なので相対的に白鵬関の安定が目立った感じで、全盛期よりも衰えたことは明らかだと思います。格下相手にたいする張り差しの多様は、後半戦に体力を温存しておくために、より楽に勝とうとするからなのでしょう。他の上位陣が不調なので、白鵬関が40回目の優勝を果たす可能性はかなり高そうです。

 その不調の上位陣の一人である稀勢の里関は5日目を終えた時点で2勝3敗となり、6日目から休場となりました。大相撲に関心のある多くの人が懸念していたであろうように、稀勢の里関は先々場所の負傷が完治しておらず、実力を出せないまま休場に追い込まれました。私は、そもそも先々場所13日目に負傷した時点で稀勢の里関は休場すべきだと考えており(関連記事)、先場所も、明らかに完治していないので休場すべきだと思っていました(関連記事)。稀勢の里関は、今場所も、場所前に不調が伝えられていたにも関わらず強行出場し、負けが込んでやっと休場を決断したといった感じで、明らかに判断を間違ったと思います。

 稀勢の里関の人気で客入りも好調なだけに、相撲協会の無言の圧力があったのかもしれませんが、稀勢の里関が相撲協会の意向を「忖度」して出場したのかな、とも思います。しかし、精神面で脆さのある器の小さな稀勢の里関が意固地になって出場を強行した、というのが真相に近いのではないかと思います。大横綱だった今は亡き九重親方(千代の富士関)は、相撲中継の解説でたびたび、休場して怪我を治療する決断をくだす勇気の必要性を主張していましたが、照ノ富士関といい稀勢の里関といい、本当に九重親方の指摘通りだと思います。稀勢の里関は横綱ですし、貴乃花関のような実績を残しているわけでもなく、横綱に昇進したばかりなのですから、ここで無理をする必要はまったくなかったと思います。

 先場所に続いての今場所の強行出場により、稀勢の里関の現役生活は大きく縮まったというか、もう優勝争いに加わるのは難しいかもしれません。他の三横綱も満身創痍ですから、先々場所12日目までは四横綱のなかで最も身体面で不安の少なそうだった稀勢の里関が負傷を悪化させたことで、今後1年で四横綱が相次いで引退に追い込まれる可能性もあると思います。とくに、先場所に続いて序盤で途中休場となった鶴竜関は、来場所で引退となっても不思議ではありません。大関の照ノ富士関も負けが込んで6日目から休場となり、来場所で大関から陥落しても不思議ではありません。上位陣が大きく崩れた今場所ですが、関脇以下とはまだ大きな実力差があることも否定できず、近いうちに悪い意味で混戦状態になるのでは、と不安になります。
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アフリカにおける現生人類と未知の人類との交雑

2017/07/24 00:00
 これは7月24日分の記事として掲載しておきます。アフリカにおける現生人類(Homo sapiens)と未知の人類との交雑の可能性を指摘した研究(Xu et al., 2017)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究は、人間の唾液豊富に含まれるタンパク質の一つであるムチン7をコードしている、繰り返し配列のコピー数の違い(5しくは6)が見られるMUC7遺伝子の変異を調べました。MUC7遺伝子は、以前には喘息への抵抗性との関連が指摘されていましたが、この研究ではそれが認められず、口腔細菌叢との関連が示されています。

 5コピー数のMUC7遺伝子のハプログループEとGのうち、Gは(サハラ砂漠以南の)アフリカに限らず世界全域で広くみられるのにたいして、Eはおもにアフリカ系でのみ見られます。注目されるのは、Gが現代人の6コピー数の他のハプログループ(ABCDFH)およびネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)・種区分未定のデニソワ人(Denisovan)のハプログループと一つの分類群を、ハプログループEがもう一方の分類群を構成していることです。ハプログループEは、現代人およびネアンデルタール人・デニソワ人に見られる他のハプログループと、数百万年以上前という早期に分岐したことになりそうです。

 そのためこの研究は、ハプログループEは遺伝学的に未知の人類系統からアフリカ系現代人の祖先にもたらされたのではないか、と推測しています。もちろん、未知とはいってもあくまでも遺伝学的にということで、既知の化石の中にこの未知の人類系統に分類され得るものがあるかもしれません。この研究は、ハプログループEを有する未知の人類系統と現代人・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統との分岐年代が200万〜150万年前頃、未知の人類系統と現生人類との交雑が15万年前頃と推定しています。

 出アフリカ後の現生人類とネアンデルタール人・デニソワ人との交雑はすでに広く認められていますが、アフリカにおいても、現生人類と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。現生人類とは形態的に大きく異なるホモ属とされるナレディ(Homo naledi)が遅くとも335000〜236000年前頃まで(関連記事)生存していただろうことからも、アフリカにおいて現生人類とは大きく異なる人類系統が15万年前頃まで生存していたとしても、不思議ではありません。人類の進化は複雑であり、各系統の交雑が少なからぬ頻度で生じていたのかもしれません。


参考文献:
Xu D. et al.(2017): Archaic hominin introgression in Africa contributes to functional salivary MUC7 genetic variation. Molecular Biology and Evolution.
https://doi.org/10.1093/molbev/msx206
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三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』

2017/07/23 00:00
 これは7月23日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2017年3月に刊行されました。本書はおもに政治・経済的観点からの日本近代史総論となっています。具体的には、政党政治の成立・資本主義の形成・植民地帝国の形成・天皇制の確立という観点から日本近代史が考察されています。あるいは、個々の具体的な解説に関して、専門家からの異論があるのかもしれませんが、大家の著書らしく、たいへん奥深い内容になっており、日本近代史についてさまざまな観点から考えさせられる契機になると思います。今後、時間を作って何度か再読したいものです。

 本書の特徴は、近代における日本社会の大きな変容を認めつつも、とくに政治体制・思想において、江戸時代との連続性にも注意を喚起していることです。近代日本における権力分立傾向や議会制下の政党政治発展の前提として、幕末の政治状況やさらにさかのぼっての19世紀半ば以前の日本社会における政治文化が指摘されています。また、本書の主要な対象は第二次世界大戦までなのですが、第二次世界大戦後、さらには現代の国際関係も含む政治状況を強く意識し、簡潔に取り上げているとともに、今後の見通しも提示していることも、本書の特徴です。

 本書は奥深い内容となっているだけに、色々と教えられるところが多かったのですが、資本主義の形成についての解説と、天皇制をめぐる問題、とくに教育勅語をめぐる近代日本社会の葛藤は、読みごたえがありました。近代日本政府が、植民地化への危機感から当初は外債に依存しない自立的資本主義化を目指し、日清戦争などを経て国際的地位が向上してからは、国際的資本主義へと転換して、井上準之助の金解禁政策も、そうした状況において、国際的資本主義エリートの一員として井上が認められていたことが背景にあったことは、なかなか興味深い解説でした。教育勅語につていても、信教の自由・立憲君主制と近代日本社会の骨格として欧米列強のキリスト教に相当するものが必要との判断の間で、当時の支配層の間に葛藤・緊張関係のあったことが、よく伝わってきました。
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地上生活の始まりと体温調節

2017/07/22 00:00
 これは7月22日分の記事として掲載しておきます。人類の地上生活の始まりの要因に関する研究(Takemoto., 2017)が報道されました。解説記事もあります。この研究は、チンパンジーとボノボの観察を通して、森林内気温変化とその季節変化が、地上で過ごす時間を増やす要因であるこ、と明らかにしました。チンパンジーとボノボは、気温の低い雨季にはほとんど樹上で生活しているのにたいして、暑い乾季には地上で過ごす時間が大きく増える、というわけです。とくに雨期と乾期がはっきりしているギニアのチンパンジーは、地上で過ごす時間が雨期は13.5%にたいして、乾期は50.1%と4倍近くに増えました。地上は樹上に比べて気温が5〜7度低く、エネルギーを節約するため体温調節をしているのではないか、と推測されています。

 初期人類の化石は、2300万〜1800万年前頃には広くアフリカ大陸を覆っていた熱帯林の周辺部で発見されています。後期中新世となる900万〜800万年前頃以降、アフリカ熱帯林の周辺部で乾燥化が始まって乾季が目立つようになり、森林面積が断続的に減少していった、と明らかになっています。一年中温暖で湿潤な熱帯雨林の樹上で生活していた人類の祖先は、乾季の出現と長期化により、森林内での地上生活が促進されたのではないか、というわけです。また、森林が後退し、樹が点在する開けた環境に人類が適応できたのは、森林内ですでに季節的な地上生活を経験していたからではないか、と推測されています。

 直立二足歩行は人類の最も重要な定義と言えるでしょうから、その起源については大きな関心が寄せられてきました。直立二足歩行の起源は、サバンナへの進出・地上生活の開始と関連づけられてきましたが、近年では、直立二足歩行は樹上で始まったとされており(関連記事)、初期人類のラミダス(Ardipithecus ramidus)も主要な生息環境は森林と考えられています(関連記事)。この研究は、地上生活の始まりにはサバンナも直立二足歩行も必要なく、直立二足歩行の起源と地上生活の始まりを切り離してもよいのではないか、と提言しています。この研究は、森林の中での直立二足歩行の機能・利点を追求する新たな契機になるのではないか、というわけです。


参考文献:
Takemoto H.(2017): Acquisition of terrestrial life by human ancestors influenced by forest microclimate. Scientific Reports, 7, 5741.
http://dx.doi.org/10.1038/s41598-017-05942-5
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さかのぼるオーストラリアへの人類の移住

2017/07/21 00:00
 これは7月21日分の記事として掲載しておきます。オーストラリアへの人類最初の移住年代に関する研究(Clarkson et al., 2017)が報道されました。オーストラリア大陸(更新世の寒冷期には、ニューギニア島やタスマニア島とも陸続きとなり、サフルランドを形成していました)への人類最初の移住年代は、現生人類(Homo sapiens)の出アフリカの回数・時期・経路(関連記事)や、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)・種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など他系統の人類との共存期間、後期更新世のオーストラリアにおける大型動物の絶滅要因(関連記事)などといった問題と関わってくるため、注目されてきました。

 この研究は、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物の年代測定結果を提示しています。マジェドベベ遺跡では多数の人工物が発見されており、その年代は6万〜5万年前頃と推定されていましたが、人工物の年代に関しては異論も提示されていました。マジェドベベ遺跡で発見された注目される人工物としては、世界最古と思われる刃先が研削された手斧があります。また、剥片石器やオーカーなどの顔料が発見されていることや、砥石も発見されており、種子を挽き植物を処理したと思われる証拠が確認されたことも注目されます。なお、マジェドベベ遺跡では人類化石は発見されていないようですが、多数の人工物の製作者は、まず間違いなく現生人類でしょう。

 この研究は、マジェドベベ遺跡の再検証により、より確実な年代を提示しています。この研究は、マジェドベベ遺跡では層序学的な混乱が見られず、年代測定結果と人工物の実際の年代との間に大きな違いはないことを示し、人工物最下層の年代を、光刺激ルミネッセンス法(OSL)により65000年前頃と推定しました。これまで有力視されていたオーストラリアへの人類最古の移住年代は5万年前頃ですから、それが大きくさかのぼります。この新たな年代は、現生人類の出アフリカの早期説と整合的と言えそうです。また、現代オーストラリア先住民のゲノムにはネアンデルタール人およびデニソワ人由来の領域が認められますから、現生人類とネアンデルタール人・デニソワ人との接触の下限年代も設定する、とも指摘されています。ただ、マジェドベベ遺跡の65000年前頃の人類が現代のオーストラリア先住民と遺伝的につながっているのか、まだ確証はなく、マジェドベベ人は絶滅し、その後に現代オーストラリア先住民の祖先がオーストラリアに到達した可能性も考えられます。

 マジェドベベ遺跡の65000年前頃という年代は、現生人類とネアンデルタール人・デニソワ人との共存期間がかなり長かったことも示唆しますが、オーストラリアに近いインドネシア領フローレス島の5万年以上前のホモ属とされるフロレシエンシス(Homo floresiensis)との接触という点でも注目されます。フロレシエンシスに関しては、当初遅くとも18000年前頃まで生存していた、と考えられていましたが、その後の年代の見直しにより、人骨の下限年代は6万年前頃、フロレシエンシスの所産と考えられる石器群の下限年代は5万年前頃と推定されています(関連記事)。そのため、フロレシエンシスと現生人類との接触はなかっただろう、との見解も提示されていたのですが、マジェドベベ遺跡の新たな年代により、両者の接触の可能性、さらには現生人類がフロレシエンシス絶滅の要因となった可能性が改めて検証されることになりそうです。

 この研究は、オーストラリアにおける45000年以上前の大型動物の絶滅に関しても言及しており、人為的要因が主ではなかった、との見解を提示しています。ただ、マジェドベベ遺跡の65000年前頃の人類と5万年前頃以降のオーストラリアの人類との継続性はまだ確定的ではありませんし、65000年前頃以降にオーストラリアで人口が増加し、社会構造の変化や技術革新などもあり、人類による大型動物の狩猟が本格化した結果、大型動物が絶滅した、という可能性もじゅうぶん考えられると思います。この問題に関しても、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【考古学】ヒトが初めてオーストラリアに到達したのは約65,000年前だった

 ヒトがオーストラリア北部に初めて到達したのは約65,000年前だったとする新たな考古学的証拠を示した論文が、今週掲載される。これは、過去にオーストラリア北部の同じ遺跡で実施された発掘調査によって推定された年代よりも古く、オーストラリアの大型動物相が絶滅する前だったことになる。

 ヒトが初めてオーストラリアに到達した年代については論争があり、これまでに発表された推定年代は、約47,000年前から約60,000年前まで幅がある。この論争で極めて重要な意味を持っているのが、知られる限りでオーストラリア最古のヒトの居住遺跡であるMadjedbebe岩窟住居(オーストラリア北部)だ。過去に決定されたこの遺跡の年代をもとにして、現生人類がオーストラリアに出現したのが50,000〜60,000年前と推定されたが、この遺跡で見つかった人工遺物の年代決定に懸念が表明されていた。

 今回、Chris Clarksonたちの研究グループは、Madjedbebe岩窟住居での新たな発掘作業の結果、2015年の発掘で見つかった人工遺物が高密度で分布する層の最下層から約11,000点の人工遺物(剥片石器、砥石、知られる限りで最古の刃先が研削された手斧など)が出土したことを報告している。Clarksonたちは、こうした人工遺物が発見された位置を注意深く評価し、人工遺物が発見された堆積物の年代と対応するようにした上で、高度な年代決定法と用いて堆積物の年代を推定した。Clarksonたちの解析結果では、この遺跡が層序学的に正確なことが確認され、深くなるほど古くなる一般的なパターンがあることが明らかになり、これまでより正確な年代決定が行われた。発掘現場で最も深い部分の年代は、約65,000年前と推定され、この地域にヒトが初めて居住した年代が約5,000年も昔にさかのぼった。

 この結果は、現生人類がアフリカから出て南アジアに分散した年代の推定として、これまでで最も古いものとなり、オーストラリアで大型動物相が絶滅する前に現生人類がオーストラリア大陸に到達していたことを示している。オーストラリアでの大型動物相の絶滅については、ヒトがどのような役割を果たしたのかが問題となっている。


考古学:人類は6万5000年前にはオーストラリア北部に居住していた

考古学:オーストラリアへの到達年代がさらに早まった

 人類がオーストラリアに居住し始めたのはいつだったのか。今ではラガービールと「ワルチング・マチルダ」が連想されるオーストラリア大陸だが、この地に初めて人類が到達した年代に関しては、激しい論争が続いている。オーストラリア北部のMadjedbebeと呼ばれる遺跡で得られた複数の年代からは、現生人類が約6万〜5万年前にオーストラリアに存在していたことが示されたが、以降これらの結果については強く異論が唱えられてきた。今回、この遺跡の新たな発掘調査で総合的なプログラムによる年代測定が行われた結果、人類がオーストラリアに到達したのは約6万5000年前であったことが確認された。この結果は、オーストラリアの大型動物相の絶滅や、近隣のインドネシアでのフローレス原人(Homo floresiensis)の消滅のはるか以前に、人類がオーストラリアに到達していたことを示している。



参考文献:
Clarkson C. et al.(2017): Human occupation of northern Australia by 65,000 years ago. Nature, 547, 7663, 306–310.
http://dx.doi.org/10.1038/nature22968
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現代のイヌの地理的起源

2017/07/20 00:00
 これは7月20日分の記事として掲載しておきます。現代のイヌの地理的起源に関する研究(Botigué et al., 2017)が公表されました。イヌの起源に関しては多くの見解が提示されており、最近の研究動向をほとんど追えていないのですが、昨年(2016年)、イヌはユーラシアの東西で農耕開始前に独立して家畜化され、後に東アジアから西ユーラシアへとイヌが人々に連れられて移動し、ヨーロッパでは東アジア系のイヌによる旧石器時代以来の在来イヌの大規模な置換が起きたのではないか、と推測する研究が公表されています(関連記事)。

 この研究は、古代のイヌと現代のイヌとの遺伝的類縁関係を解明するため、ドイツの遺跡で発見された新石器時代となる7000年前頃と4700年前頃の2匹のイヌの骨化石と、すでに研究報告のあるアイルランドの4800年前頃のイヌの骨化石から得られた全ゲノム塩基配列を解析しました。その結果、古代のイヌと現代の主要なヨーロッパ系のイヌの遺伝的根源が共通しており、家畜化されたイヌについて、新石器時代前期から現代までの約7000年間にわたる遺伝的連続性が認められる、と明らかになりました。

 またこの研究では、イヌ科の進化の歴史の節目となった時期について、オオカミとイヌの分岐が4万年前頃、東洋犬と西洋犬の分岐が2万年前頃と推定されています。そのためこの研究では、イヌの家畜化の地理的起源は単一で、4万〜2万年前頃のことだった、との見解が提示されています。これは、イヌの家畜化がユーラシアの東西でそれぞれ独自に起きたことを示唆する上述した見解とは対照的で、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝】現代のイヌの単一の地理的起源

 古代ヨーロッパに生息していたイヌのゲノムと現代のイヌのゲノムの類似性が明らかになり、現代のイヌの地理的起源が1か所に絞り込まれることが示唆されている。この研究結果を報告する論文が、今週掲載される。

 今回、Krishna Veeramahたちの研究グループは、古代のイヌと現代のイヌとの遺伝的類縁関係を解明するため、ドイツの遺跡で発見された2匹の新石器時代のイヌ(それぞれ約7,000年前、約4,700年前のもの)の骨化石と第3の既に研究報告のあるアイルランドのイヌ(約4,800年前のもの)の骨化石から得た全ゲノム塩基配列の解析を行った。その結果、古代のイヌと現代の主要なヨーロッパ系のイヌの遺伝的根源が共通しており、家畜化されたイヌについて、新石器時代前期から現代までの約7,000年間にわたる遺伝的連続性が認められることが明らかになった。今回の研究では、イヌ科の進化の歴史の節目となった時期の推定も行われ、オオカミとイヌの分岐が約40,000年前、東洋犬と西洋犬が分岐したのが約20,000年前と推定された。

 Veeramahたちは、これらのデータに基づいて、イヌの家畜化は、地理的起源が単一で、20,000〜40,000年前に行われたとする学説を提唱している。この学説は、イヌの家畜化が東ユーラシアと西ユーラシアでそれぞれ独自に行われたことを示唆した過去の研究報告と対照的な内容になっている。



参考文献:
Botigué LR. et al.(2017): Ancient European dog genomes reveal continuity since the Early Neolithic. Nature Communications, 8, 16082.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms16082
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