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zoom RSS 現生人類拡散の様相

<<   作成日時 : 2007/11/02 00:00   >>

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 このブログにて、現生人類の起源と拡散の様相が描かれた、『人類の足跡10万年全史』『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』といった書籍や、「現代人の起源―研究の現状と将来の展望―」といった論文を紹介してきましたが、この問題について、最近の研究動向を把握するためにも、ポール=メラーズ博士の論文を取り上げることにします。一年数ヶ月前の論文ですし、あくまでもポール=メラーズ博士個人の見解ですが、現生人類の起源と拡散の様相について、包括的に述べられた論文としては最新のものの一つでしょうから、詳しくみていくことにします。


 近年の研究成果から、解剖学的・遺伝学的現代人(現生人類)の起源が20〜15万年前頃のアフリカの小地域にあり、8〜6万年前頃にアフリカの現生人類集団に急速な人口増加があった、との見解が有力になっていますが、まだ少なからぬ疑問が残されています。それは、
(1)現生人類の正確な起源地と登場年代。
(2)現生人類はなぜ、そしてどのように拡散したのか?
(3)現生人類は、その登場からアフリカ外への拡散まで、なぜ10万年以上要したのか?
(4)行動学的現代性を可能とする現代人と変らないような認識能力を、現生人類はいつ獲得したのか?
(5)アフリカ外に進出した人類が、ネアンデルタール人のような先住人類と置き換わっていった理由は何か?
などです。この論文では、最近の遺伝学と考古学の研究成果から、こうした疑問にたいする見解が述べられています。

 ミトコンドリアDNAの複数の分析が示しているのは、8〜6万年前頃にアフリカにいた我々現代人の祖先集団に急速な人口拡大があり、おそらくは紅海を通って、およそ65000〜60000年前頃までの間に、現生人類が南アジアの隣接地域に達していたであろう、ということです。

 では、考古学的成果はどうなのかというと、南アフリカから豊富な証拠が得られています。その代表的な遺跡は、ブロンボス洞窟とクラシーズ川河口の洞窟遺跡群です。これらは25万〜4万年前にかけてのアフリカの中期石器時代に属し、大まかには欧州と西アジアの中部旧石器文化の時代と一致します。

 しかし、75000〜55000年前頃の、ブロンボス洞窟のスティル=ベイ層や、クラシーズ川河口の洞窟遺跡群のハウイソンズ=プールト層の遺物のなかには、石刃技術の新しいパターンや貝製ビーズのような装飾品などがあり、むしろ後の時代の後期石器文化(欧州と西アジアでは上部旧石器文化)的な様相を示しているものがあります。後期石器文化や上部旧石器文化は、完全に現代的な行動の反映とされます。

 スティル=ベイ期とハウイソンズ=プールト期においては、その他にも、生産性を高めたであろう「効率的な武器」の使用や、低木地の草木を計画的に焼くことによって根菜類の収穫量を5〜10倍増加させた可能性や、海産物の利用や、石材や貝製の装飾品の遠距離移動(交易の可能性)が指摘されています。

 こうした75000年前以降の南アフリカの考古学的証拠は、大きな行動的変化であり、それが全体的に生産性を向上させ、社会の複雑化をもたらしたと考えれば、我々の祖先集団の8〜6万年前頃の急速な人口拡大、さらには65000〜60000年前頃の南アジアへの進出というDNAの研究とも、整合的と言えます。大きな行動学的変化は、8〜7万年前頃起きたのでしょう。

 しかし、こうした行動学的変化の起源地を南アフリカだと特定するのは早計で、南アフリカについての研究が、他地域よりも進んでいることを反映しているにすぎません。ハウイソンズ=プールト期と似た文化は、タンザニアのムンバ遺跡やケニアのノリキウシャン遺跡にも認められますから、こうした行動学的な大変化は、サハラ砂漠以南のアフリカという巨大な枠組みでとらえなければなりません。この地域の遺跡の正確な年代が確定していないことから、行動学的変化の起源地は、南アフリカではなくアフリカ東部または中央である可能性も残されています。

 では、こうした行動学的変化は何に起因するのでしょうか。選択肢は二つあります。一つは、リチャード=クライン博士の指摘にあるように、この変化は神経学的突然変異によるものだ、との説明です。ただ、『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』の雑感を述べた記事でも紹介したように、クライン博士の見解ではこの変化は5万年前頃起きたことになりますが、この論文では、神経学的突然変異が起きたとしても、8万年前頃までのことだろう、とされます。

 もう一つの説明は、こうした行動学的変化を気候環境の変化に求めます。サハラ砂漠以南のアフリカにおいて、年降水量を半減させるような乾燥化と、73000年前頃のトバ山大噴火による気候悪化(これには異論もあります)が、大きな行動学的変化をもたらした、というわけです。

 この問題を考えるうえで関連していそうなのは、この行動学的変化の前にあった、現生人類による短期間の出アフリカです。現生人類は、11〜9万年前頃にレヴァントに進出していました。イスラエル北部のスフールとカフゼーでは、貝製ビーズや動物の骨や赤色オーカーといった副葬品を伴って埋葬された現生人類の人骨が発見されており、現代的な行動が認められます。

 しかし、スフールやカフゼーで発見された石器は中部旧石器文化的であり、ハウイソンズ=プールトに見られたような、上部旧石器文化的な要素が認められません。レヴァントでは、11〜9万年前頃の現生人類の一時的な進出の後、再びネアンデルタール人が居住するようになります。おそらく後世とは異なり、当時の現生人類の技術的・社会経済的組織の水準では、ネアンデルタール人との争いに耐えられなかったのでしょう。

 16万年前頃の初期現生人類にも象徴的思考の兆候が認められることを考えると、現生人類の行動面での進化はモザイク状であると言えます。明白な象徴性が、本質的に現代的な認識能力の指標として、そしてまた本質的に現代的で複雑な言語のパターンと関連して受け入れられるならば、象徴的思考能力は少なくとも15〜10万年前までに明確に存在し、解剖学的かつ遺伝学的現代人の進化と直接関連して出現したことになります。この見地では、大きな行動学的変化は、環境・人口・社会的圧力による漸進的なものとなります。

 もちろん、神経学的突然変異による認識革命という可能性もあります。“microcephalin”と“FOXP2”遺伝子の最近の研究は、現生人類の登場以降に、認識能力に関わる重要な遺伝子変化のあった可能性を示しています。行動学的変化の要因の問題は難しいのですが、ユーラシアのネアンデルタール人とアフリカの現生人類の祖先とが少なくとも30万年間分離していたとすると、この間に、神経学的突然変異による認識の能力の重要な変化が現生人類に起きた可能性は、けっして除外されないでしょう。また、こうした長期間の分離から言えるのは、ネアンデルタール人などの現生人類以外のホモ属の認識能力が、たとえ現生人類のそれよりも「劣って」いなかったとしても、明らかに異なっていただろう、ということです。

 現生人類の出アフリカについての論争の一つは、どの経路で出アフリカがなされたのか、ということです。これにかんしては、ナイル川沿いに北上してエジプトからレヴァントへと向かったという北経路説と、エチオピアから紅海を渡ったという南経路説があり、ミトコンドリアDNAの系統分析は、南経路説を強く支持しています。また、現生人類の(成功した)出アフリカは、一度だけだったと推測されます。

 これまでに述べてきたこの論文の見解をまとめると、以下のようになります。
●20〜15万年前・・・アフリカにおいて最初の解剖学的・遺伝学的現代人集団の登場。
●11〜9万年前・・・中部旧石器文化の解剖学的現代人が、明らかに象徴的表現を伴って、一時的にアフリカから南西アジアへ拡散。
●8〜7万年前・・・南部および東部アフリカにおいて、大きな技術・経済・社会変化。
●7〜6万年前・・・アフリカにおいて小地域から人口拡大。
●6万年前頃・・・アフリカからユーラシアへの現生人類集団の拡大。


 以上、ポール=メラーズ博士の論文について見てきましたが、現在の遺伝学と考古学の研究成果から、ありえたであろう現生人類拡散の様相が、特定の見解に偏ることなく提示されています。この論文は、現生人類の起源と拡散について考えるにあたって、重要な参考文献として読まれ続けることになるでしょう。以下、この論文の後に公表された研究にも触れつつ、私見を述べていくことにします。

 現生人類のアフリカ起源説と、技術・食資源・人口などの面での総合的な社会的変化としての行動学的変化により、現生人類の世界中への拡散がなされたという解釈については、異論はないだろうと思います。また、そうした変化の起源地がアフリカだろうという見解についても、異論はないだろうと思います。

 問題は、その要因は何かということなのですが、これについては上述したように、認識能力の向上をもたらすような神経学的突然変異が直接反映され、革命的な行動学的変化が生じたという見解と、「高度な」認識能力はそれ以前に存在し、気候変動とそれに伴う社会的圧力により漸進的な行動学的変化が生じた、という見解が対立しています。もっとも、かりに前者が妥当だとしても、クライン博士が想定しているような5万年前頃の変化ではなく、この論文で指摘されているように、8〜7万年前頃の変化とするのが妥当でしょう。

 しかし、上述のように、10万年前頃のはっきりとした象徴的思考の証拠や、16万年前頃の象徴的思考の兆候も指摘されていますから、「高度な」認識能力は現生人類の登場時点ですでに存在し、気候変動などのさまざまな要因により漸進的に社会が「発展」していった、と考えるのがよさそうです。10万年前頃の現生人類にも、現代人と同様の認識能力はあったのでしょうが、この論文で指摘されているように、その頃の現生人類社会は、ネアンデルタール人社会を圧倒するような水準にはなく、その後の社会的蓄積により、4万年前以降はネアンデルタール人社会を圧倒したということなのでしょう。

 現生人類の出アフリカは1回だけだっただろうというこの論文の見解は、『人類の足跡10万年全史』と同じですが、前者がその年代を6万年前頃としているのにたいして、後者は85000年前頃としています。今年7月7日分の記事で紹介したように、トバ山の大噴火の前にも後にも、インド南部に人類は存在していました。人骨が出土していないので、8〜7万年前頃にインドの南部にいたのがどの人類種なのか、確定していないのですが、現生人類である可能性が高いように思われます。そうすると、人類の出アフリカの年代については、『人類の足跡10万年全史』のほうが妥当ということになりそうです。

 ただ、そもそも現生人類の出アフリカが1回だけだったか、私は疑問に思っています。この論文でも『人類の足跡10万年全史』でも、現生人類のレヴァントへの10万年前頃の進出は短期間のことだったとされていますが、人骨が発見されていないだけのことで、現生人類は中部旧石器時代の間ずっと、レヴァント南部に居住し続けた可能性は低くないと思います。

 現生人類のオーストラリアやインドへの進出は、この論文の指摘のように、エチオピアから紅海を渡ってアラビア半島を経由した可能性が高いでしょうから、現生人類の出アフリカは、少なくとも二つの経路があったように思われます。また、紅海を渡った南経路にしても、1回だけではなく何度かあった可能性が高いのではないでしょうか。出アフリカの先発組の多様なミトコンドリアDNA系統は、社会的蓄積が増加し人口の増えた後発組のミトコンドリアDNA系統に飲み込まれ、現在は後発組のミトコンドリアDNA系統しか残っていない、という可能性が高いように思われます。

 以上の点を踏まえて、上述した5項目の質問にたいする私見を述べると、
(1)進化は連続的なので、どの時点で現生人類が誕生したか特定するのは難しいのですが、あえて特定すると、25〜20万年前頃のサハラ砂漠以南のアフリカのどこかで、そのなかでもアフリカ東部の可能性が高そうです。
(2)・(5)気候変動などに対応して新天地へと進出していき、社会的蓄積の増加による社会水準の「向上」により、先住の人類集団との競争において優位に立ったので、世界中への拡散が可能となりました。
(3)10万年も要さなかったかもしれませんが、欧州など少なからぬ地域への進出に10万年かそれ以上要したのは間違いないでしょう。これは、社会的蓄積が充分ではなく、先住の人類集団にたいして必ずしも優位に立てなかったからでしょう。
(4)現生人類の誕生の少し前あたりでしょう。

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2009/12/23 00:03

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