雑記帳

アクセスカウンタ

zoom RSS 佐藤信弥『周―理想化された古代王朝』

<<   作成日時 : 2016/10/04 00:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 これは10月4日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2016年9月に刊行されました。本書の特徴は、金文・甲骨文・竹簡のような出土文献を重視した周代史となっていることです。子供向けの現代語訳『史記』などを読んで育った私のような門外漢にとっては、『史記』のような伝世文献に依拠した物語的な概説の方が馴染みやすいので、その意味では、やや難解というかとっつきにくいところがありました。もちろん本書は、出土文献を重視するとはいっても、伝世文献を軽視しているわけではなく、考古学的な研究成果も踏まえつつ、両者を照合してより妥当な周代史を提示しようとしています。派手なところがなく、新書としては地味と言えるかもしれませんが、堅実であり、長く一般向けの標準的な周代史として読まれ続けるのではないか、と思います。

 本書は、周を特徴づけるのは、定住農耕民と非定住民という両義的な自己認識と、「祀」および「戎」だと指摘します。「祀」は軍事、「戎」は祭祀で、当時の祭祀は政治と一体化していました。周(西周)の前半期には、王自らが軍を率いて遠征し、勢力圏を拡大しており、軍事的性格が強かったようです。しかし、昭王の南征失敗後、周の勢力圏拡大は止まり、逆に守勢に回るようになって、王自らの軍事遠征も長く途絶えます。この後、周では殷(商)の影響がなお強く残っていた礼制の改革が進んで独自の性格が強まっていき、「祀」が重視されようになり、それに依拠した秩序の安定化が模索されていったようです。また、西周初期に目立った王族・有力貴族出身の権臣による執政から、集団指導体制へと移行していった、と指摘されています。

 西周後半〜末期にかけて、再び王自らの軍事遠征が見られるようになります。かつての威光を取り戻し、王権の強化・安定が模索されたのでしょう。しかし、集団指導体制から再び権臣が登場するような体制へと転換してもいき、王権強化志向への反発とあわせて、周の支配体制は動揺していきます。西周の滅亡と東周への移行は、こうした文脈で解されるようです。周の直接的影響が強く及ぶ地域の有力家臣が重要な役割を果たす時代から、周の直接的影響が及びにくい、諸侯のようなより自立的な勢力が時代の主導者となる時代へと移行していきます。

 それでも、春秋時代と呼ばれる東周前期には、なおも周の権威は強く残っており、晋のような有力勢力が周を奉じて覇者として君臨していました。しかし、春秋時代以降に、孔子をはじめとする知識層(支配層とかなり重なります)により、時代状況に応じて、西周期を理想とする礼制の再編・文献の普及が進められていき、そこでは周が主導権を発揮できませんでした。本書は、儒教をはじめとして当時のさまざまな学派・政治家が、理想的な西周期の礼制を「復活」させたというよりは、「創造」していったことを指摘しています。

 こうして周の権威はさらに低下していき、やがて戦国時代後半に秦により滅ぼされます。本書は、秦末漢初の混乱期に、もはや周の後裔を擁立する勢力がいないほどに、周王室の存在感が低下していたことを指摘しています。しかし、漢の武帝期以降、儒教の影響力が強くなっていくと、周の後裔が再び注目されるようになり、武帝の時代には姫嘉という人物が周子南君に封じられます。しかし、姫嘉の系譜については伝えられていません。本書は王莽の挫折までを扱っており、王莽による「復古」が「創造」と呼ぶべきものだったことが指摘されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
佐藤信弥『周―理想化された古代王朝』 雑記帳/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる