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さかのぼるヨーロッパにおけるペストの起源

2018/12/09 18:47
 ヨーロッパにおけるペストの起源に関する研究(Rascovan et al., 2018)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパにおける農耕は、アナトリア半島からヨーロッパへの農耕民の移住により拡大・定着していった、と考えられています(関連記事)。こうしてヨーロッパでも新石器時代が始まり、新石器時代末期にかけて人口が増大していきました。また、土器や畜力や車輪や金属器の開発・利用といった技術革新も人口増加を促進する要因となりました。

 現在のモルドバやウクライナといったヨーロッパ東部では、6100〜5400年前頃に巨大集落が出現し、1万〜2万人もの人口を擁しました。トリポリエ文化(Trypillia Culture)として知られているこうした集落では、考古学的記録から、分業化の進展と人口密度の増加および多数の家畜と人間との高密な接触が指摘されています。これらは感染症出現の好条件です。大規模居住地は通常短命で、150年ほどで放棄されて焼かれ、すぐに再建されました。

 しかし、新石器時代末期となる5400年前頃以降しばらくは、そうした大規模集落が再建されることはなくなり、その理由はよく分かっていません。想定されている理由として有力なのは、森林の縮小または消滅といった環境破壊で、それは草原の拡大を促しました。それとも関連してポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの遊牧民集団のヨーロッパへの拡散も、新石器時代末期のヨーロッパ東部における大規模集落衰退の一因と推測されています。また、人口密度の増加から、感染症も有力な要因と考えられており、大規模集落の急速な放棄と焼却はその根拠とされます。こうした新石器時代末期のヨーロッパにおける集落の衰退は西部と北部でも続き、スカンジナビア半島では5300年前頃に始まった、と推測されています。

 本論文は、スウェーデン西部のファルビグデン(Falbygden)地域にあるゲクヘム(Gökhem)教区のフレールセガーデン(Frälsegården)羨道墓で発見された個体(Gökhem2)において、明確なペスト菌を確認しました。その個体は20歳の女性で、年代は5040〜4867年前頃と推定されています。当時のこの地域は、漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker culture)に区分されています。同じ墓地の推定年代の近い(5040〜4839年前頃)20歳くらいの男性(Gökhem4)でもペスト菌が確認されました。他の近隣の同時代の狩猟採集民集団では、ペスト菌は確認されませんでした。この狩猟採集民集団は円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture)に区分されています。農耕牧畜民集団は狩猟採集民集団よりも人口密度や動物との接触密度が高いので、古代の農村における感染症の出現は、考古学から推測されていました。

 Gökhem2のペスト菌のゲノム解析の結果、これは新たな系統「Gok2」と命名されました。Gok2系統は、青銅器時代にユーラシア大陸で流行した系統や現代まで続く系統といった既知の系統とは遠い関係にあります。ペスト菌に関しては、軽度の胃腸障害を引き起こす仮性結核菌がペスト菌に進化したのは過去1万年の間のことだった、と以前の研究で推測されています(関連記事)。本論文は、まずGok2系統と既知の他系統が6364〜5250年前頃(5700年前頃)に分岐し、次に青銅器時代のヨーロッパで流行した系統と現代に続く系統が5625〜4678年前頃(5100年前頃)に分岐した、と推測しています。Gok2系統と青銅器時代系統は、現代では確認されていません。ほとんどの現代的な系統は、中国に由来する可能性が高い、と推測されています。

 大きな遺伝的影響力を残したポントス-カスピ海草原遊牧民集団のヨーロッパへの拡大(関連記事)の前に、ペスト菌の主要な3系統(Gok2と青銅器時代と現代)が分岐したことなります。ヨーロッパ東部のトリポリエ文化のような新石器時代末期の大規模集落においてペスト菌は発生し、車輪の開発など技術革新による交易ネットワークの拡大にともない、ペスト菌はヨーロッパ北部も含むユーラシア各地に拡大したのではないか、と本論文は推測しています。ヨーロッパ東部がペスト菌の起源地で、交易により各地に拡散する過程で分岐していったのではないか、というわけです。Gok2系統の病原性の実験的証拠は得られていませんが、肺ペストの発症と関連する遺伝子が確認されているので、致死的だった可能性が高い、と本論文は推測しています。

 本論文の見解は、後期新石器時代と初期青銅器時代のペスト菌のゲノム解析に基づく、ヨーロッパにおけるペストの最初の出現は、ポントス-カスピ海草原遊牧民集団のヨーロッパ中央部・西部への拡大に伴っていた、という見解と一致しません。しかし、本論文の弱点も指摘されています。最も大きいのは、ペストの起源地と本論文が推測しているヨーロッパ東部において、新石器時代の人類遺骸からペスト菌が発見されていないことです。この研究に関わっていないクローゼ(Johannes Krause)氏は、ポントス-カスピ海草原遊牧民集団のヨーロッパ中央部・西部への拡散によりペスト菌はヨーロッパに拡大した、との見解は依然として有効だ、と指摘します。

 次に、ペスト菌が長距離交易ネットワークで伝染するのは難しいのではないか、とこの研究に関わっていないストックハマー(Philipp Stockhammer)氏は指摘しています。ペストを発症して数百kmも移動できないだろう、というわけです。ただ、当時の長距離交易が中継的なものだとすると、ペストの潜伏期間は2〜7日程度とされていますから、新石器時代末期に交易を通じてペストが広範に拡散しても不思議ではないかな、とも思います。本論文の見解は魅力的ですが、やはりヨーロッパ東部で新石器時代末期の人類遺骸からペスト菌が確認されていないことは弱点ですから、それを埋めるような発見を期待しています。


参考文献:
Rascovan N. et al.(2018B): Emergence and Spread of Basal Lineages of Yersinia pestis during the Neolithic Decline. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2018.11.005
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大河ドラマ『西郷どん』第46回「西南戦争」

2018/12/09 18:45
 西郷隆盛(吉之助)は政府に不平を抱く旧薩摩藩士族たちと東京へと向かい、大久保利通(正助、一蔵)は西郷討伐を決意します。熊本城の鎮台から攻撃を受け、政府から自分たちが賊軍とされたことを知った桐野利秋(中村半次郎)たちは憤激し、あくまでも政府に訴えることを目的としていた隆盛も政府との戦いを決意します。西郷軍は物量に勝る政府軍にたいして劣勢となっていき、隆盛の息子の菊次郎は負傷し、弟の小兵衛は戦死します。東京に行くという目的達成が困難だと悟った隆盛は、生きるのも死ぬのも自由だと宣言し、共に死ぬと言い張る菊次郎にも生きるよう諭します。

 今回は西南戦争の勃発が描かれました。もう仕方のないことですが、やはり西南戦争の勃発が最終回の前回というのは、西郷隆盛を主人公とする大河ドラマとして明らかに時間配分を間違えたように思います。相変わらず隆盛を美化する描写になっていましたが、本作らしいな、と思います。この点に関してはもう諦めていたので、大きな不満はありません。隆盛と糸との戦場での再会も、本作ならばまあこんなものかな、と思います。とくに驚いたとか、不満だったとかいうことはありませんでした。

 今回もとても満足できた内容ではありませんでしたが、島津久光に見せ場があったのはよかったと思います。大山綱良(格之助)と利通のやり取りは、制作者側の意図としては視聴者に感動させる場面だったのかもしれませんが、明治編での大山の描写が不足していたため、浮いたものになってしまった感があり、残念でした。次回は最終回なので、明治編では出番のなかった、愛加那(とぅま)や徳川(一橋)慶喜や天璋院(於一、篤姫)や勝海舟(麟太郎、安房守)には再登場してもらいたいものです。
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山極寿一『家族進化論』第4刷

2018/12/09 05:57
 東京大学出版会より2016年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2012年6月です。著者は碩学だけに、本書は平易な解説ながらも情報密度が濃く、たいへん奥深い内容になっていると思います。本書は霊長類について、研究史も踏まえてどのような仮説が妥当なのか、何がまだ不明なのか、ということを分かりやすく解説しており、私が霊長類について不勉強ということもあって、一読しただけではとても情報密度の濃い本書の内容を的確に把握できたとは言えないので、今後何度か再読していこうと思います。

 本書から分かるのは、霊長類、とくに現代人(Homo sapiens)も含む類人猿系統の柔軟さです。たとえば、霊長類において繁殖行動と社会構造は比較的短期間に頻繁に変わるのではないか、と本書は推測しています。具体的には、雌の発情徴候の明確化に関しては、同じ系統でも異なります。たとえば、複雄複雌社会を構成するマカク属においても、発情徴候の明確な系統とそうではない系統が混在しています。類人猿系統においても、現代人と最も近縁なのは発情徴候の明確なチンパンジーですが、現代人はチンパンジーよりも遠い関係にあるゴリラの方とずっと類似しており、発情徴候は明確ではありません。したがって、霊長類の進化史において、異なる系統でも類似した繁殖行動や社会構造が見られることもある、というわけです。現代人は類人猿系統のなかでもとくに柔軟だと言えそうで、それが、中期中新世以降、衰退の続く霊長類系統において、例外的に(少なくとも個体数と生息域という観点からは)大繁栄した一因になっているのだと思います。

 霊長類の繁殖行動と社会構造を規定する要因は複数あり、それらの要因もまた相互に関連しているので、たいへん複雑です。本書の解説は分かりやすいのですが、全体像を細部まで的確に理解するのは、私の現在の見識・能力では一読しただけではとても無理なので、今後も勉強を続けていく必要があります。それでも、とりあえず備忘録として現時点でまとめておくと、食性と食資源の分布・捕食圧・生活史・子殺し対策が重要となりそうです。もちろん、霊長類は進化的制約も受けているわけで、食資源の分布や捕食圧の変化にたいして、自在に対応できるというわけでもなく、それは人類系統も同様です。

 食性に関しては、形態が食性を規定するわけではない、と指摘されています。これは重要なことで、たとえばゴリラは近縁の現生系統であるチンパンジーや現代人と比較して葉を食べることに適していますが、チンパンジーや現代人と同様に、果実を好みます。本書は、食性と関連した類人猿の表現型の選択圧になったのは、最も好む食べ物ではなく、主要な補助食物ではないか、と指摘しています。ゴリラは栄養価が高く消化しやすくて美味しい果実を優先して食べるものの、果実をいつも食べられるわけではないので、容易に入手できる葉を主要な補助食物としており、その表現型は葉を食べることに適応しているのではないか、というわけです。これは、高度に派生した形態が特化した食性を反映している必要はなく、動物は他の食資源を見つけられるとき、その形態に適したものを食べることを避けるかもしれない、とするリームの逆説とも関連しており、たとえば人類系統では、その大きく厚いエナメル質の歯と頑丈な頭蓋骨・下顎骨から、食性は堅果や塊茎など固いものに特化していた、と考えられてきたパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)は、死の数日前には固いものではなく果物を食べていた、と推測されています(関連記事)。

 上述したように、こうした食性と食資源の分布以外の、捕食圧や子殺し対策などといった要因も影響を及ぼしている霊長類の繁殖行動と社会構造には多様で、本書の霊長類社会の進化に関する解説は、読み物としても面白くなっています。その中でもやはり、現代人の一員として気になるのは、現代人も属する類人猿系統の繁殖行動や社会構造と、それを規定する要因です。本書は、現生の非類人猿系統霊長類においては母系的な社会も父系的な社会も見られるものの、現生類人猿系統の社会においては、父系もしくは非母系傾向が見られる、と指摘します。もちろん、類人猿系統は柔軟で、繁殖行動や社会構造は比較的短期間に変わり得るものでしょうから、絶滅系統も含めて類人猿の各系統で、かつては母系だった場合もあるかもしれません。しかし、現生類人猿系統において父系もしくは非母系傾向が見られることは、やはり重視すべきではないか、と思います。

 本書は、類人猿系統が父系的であることを前提として、人類も含めて各系統の繁殖行動と社会構造の進化を考察しています。上述したように、発情徴候の明確化という点に関して現代人にずっと近いのは、系統的により近縁なチンパンジーではなくてゴリラです。本書は、系統樹に沿って社会構造と発情徴候を分析した研究に基づき、人類系統は、わずかな発情徴候を示す単雄複雌型社会から、ペアを基本とする社会へと移行したのではないか、と推測しています。つまり、人類はチンパンジーではなくゴリラと近いような社会から出発したのではないか、というわけです。しかし、現代人男性の造精能力はゴリラよりずっと高くなっています。

 これは、人類も乱交的な傾向が見られることと関連しているものの、どの社会や文化もチンパンジーほどには乱交や精子競争志向を高めなかったのは明らかで、人類系統が複数の家族を内包した共同体という、他の類人猿系統には存在しない社会を築いてきたことと関連するのではないか、と本書は推測しています。家族の成立はペアの配偶関係の確立を保証して発情徴候や造精能力の発達を抑え、複数の家族を含む共同体の成立は、配偶者以外の相手との性交渉の可能性を高めて精子競争を引き起こした、というわけです。

 家族の成立と関連して重要なのは近親相姦の禁忌(インセスト・タブー)です。「原始乱婚説」では、人類社会は親子やきょうだいの血縁関係を認知しない乱婚的なものだったとされ、唯物史観において採用されたことで大きな影響力を有しました。しかし、近親相姦を回避する仕組みは哺乳類に広く見られるもので、人類にも生得的に備わっているものと考えられます。しかし、霊長類においても近親相姦を回避する傾向は見られるものの、現代人と近縁なチンパンジーやゴリラでも親子間の近親相姦はしばしば見られます。これまでの観察・研究からは、多くの霊長類系統において交尾を回避する要因になっているのは育児や共に育った経験で、同様のことは現代人社会に関しても報告されています。人類社会における近親相姦の禁止には進化的背景があるわけですが、それが制度化された理由として、複数の家族を共同体に組み込む過程で、性交渉の保証される男女と禁止される男女を区別する必要が生じたからではないか、と本書は推測しています。

 では、複数の家族が共同体に組み込まれている、独特な人類社会はどのような要因で成立したのか、という問題になるわけですが、本書は生活史を重視しています。人類にとって、森林から草原への進出は捕食圧の高まりという問題をもたらしました。その解決策の一つは出産間隔の短縮化なのですが、これは男が積極的に育児に参加し、子供の離乳時期を早めたためではないか、と本書は推測しています。また人類系統では、直立二足歩行が確立してから数百万年以上経過し、ホモ属が出現する頃になって脳が巨大化していき、狭い骨盤と大きな脳のため出産が困難になります。この解決策の一つは、小さな脳で生まれてから脳が大型化し、成熟するまでの期間が長くなることなのですが、これによりさらに、男が育児に関わるようになります。

 上述したように、人類はチンパンジーよりもゴリラと近いような社会から出発したと考えられ、ゴリラ社会においては父親が育児に深く関わり、父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持する事例も確認されています。ゴリラは男(ゴリラ社会では多くの場合が父親)が子供に直接的な報酬を求めず相手に共感して世話をするという、家族的な集団を築いています。集団人類は、こうした家族的な集団を有する社会から、それを組み込んだ大規模な社会たる共同体を構成しました。それを可能としたのは、音楽により高い意思伝達能力を有するようになったからでした。人類系統の高い音楽能力は、より多くの人々との間の意思伝達・共感を可能としました。より大規模な社会を構成する選択圧となったのは、捕食圧により促進された多産傾向で、子供たちを共同で育てることが適応度を高めたのではないか、と思います。

 本書は人類社会のこうした傾向を概観し、それを促進・変容させた大きな契機として、現生人類(Homo sapiens)になって出現した言語と、農耕・牧畜の開始を挙げています。言語の出現により、人類はそれまでよりもはるかに大きな規模の集団を築くことができるようになりました。また、農耕・牧畜の開始により土地や資源への管理意識が強くなり、分業化も進展して社会は複雑化・階層化していき、戦争が起きるようになります。このように、現生人類社会では言語の出現と農耕・牧畜の開始により、社会は大規模化・階層化・複雑化しましたが、それでも家族という社会単位は大きく変わらなかった、と本書は指摘します。本書はその理由として、現生人類が繁殖と育児の基本単位としてまだ家族に大きく依存しており、それが現生人類の繁殖における平等を保証する最良の組織とみなされているからではないか、と推測しています。

 しかし本書は、そのように強固だった組織である家族が、産業社会の発展と情報伝達技術の飛躍的発展による意思伝達および生活様式の変化により、大きな影響を受けている、と指摘します。人類系統において言葉が出現したのは現生人類系統のみで、その歴史は浅く、音楽など言葉以外の意思伝達が集団の維持に大きな役割を果たしてきました。しかし、共感を向ける特別な相手を失っていけば、社会は分裂して収拾がつかなくなるのではないか、と本書は懸念します。人類がこれほど大きな社会を築けたのは、家族に生まれて共感にあふれた人々の輪の中で育った記憶を多くの人が有しているからで、繁殖における平等と共同の子育てこそが人間の心に平穏をもたらした、と本書は懸念し、家族が崩壊した時、我々はもはや人間ではない、と警告しています。

 本書は情報密度が濃く、私の現在の見識・能力ではとても的確にまとめられませんでした。今後何度か再読し、よりよく理解していこう、と考えています。本書の理解には、著者の昨年(2017)の論文も有益だと思います(関連記事)。本書を読んで改めて、人類社会は元々母系だった、との仮説には大きな無理がある、と思いました。この問題については当ブログでも何度か取り上げましたが(関連記事)、更新世の人類社会に関して、父系的だったことを示唆する証拠が得られています。また、それとも関連しますが、唯物史観により大きな影響力を有した「原始乱婚説」は、20世紀以降の哺乳類の研究を踏まえると、今では、少なくともそのまま採用するのには無理がありすぎると思います。というか、全体的な構想にも大きな無理があり、基本的に現代では通用しないと思いますが。まあ、唯物史観で提唱された「原始乱婚説」を、そっくりそのまま現在でも支持している人は、きわめて少ないのでしょうが。

 また、著者が碩学であることも改めて思い知らされました。人類系統における犬歯の縮小に関して、雄同士の争い(同性内淘汰)が穏やかになったことの表れとの見解には疑問があり、直立二足歩行が確立して以降は石を投げたり木で殴ったりしたのではないか、と以前述べました(関連記事)。しかし本書では、直立二足歩行の人類では、雄が犬歯によって戦うことを止めて犬歯が縮小し、手を使って石や枝を投げて外敵を追い払った、と推測されており、さすがに碩学は門外漢の発想などとっくにお見通しだな、と改めて思ったものです。

 本書には多くのことを教えられましたが、疑問もあります。戦争の起源については昔から議論が絶えませんが、本書の見解とは異なり、人口密度が低いとはいえ、更新世からそれなりの頻度で起きており、また更新世の人類社会は、完新世、とくに国家成立以降と比較すると、かなり暴力的だったのではないか、と私は考えています(関連記事)。また、人類系統において言語は現生人類系統のみで出現し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)には芸術や装飾品など象徴的思考は見られない、との本書の見解は、今では訂正されるべきではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
山極寿一(2016)『家族進化論』第4刷(東京大学出版会)
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デニソワ洞窟の新たな装飾品

2018/12/08 20:30
 更新世の人類遺骸が発見されていることで有名な、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で新たに装飾品が発見された、と報道されました。デニソワ洞窟では、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸が発見されており、そのDNA解析は大きな注目を集めました。デニソワ人については、以前当ブログでまとめました(関連記事)。

 デニソワ洞窟では今年(2018年)の夏に装飾品が発見されました。研究者はこれをティアラと呼んでいるようです。このティアラはマンモスの牙製で、摩耗していることから、毛髪が目にかからないようにするなど実際に使用され、またそのサイズから女性ではなく男性が使用していた、と推測されています。ティアラの丸い端には穴があり、紐のようなものが通されていたのではないか、と推測されています。このティアラは、まず水に浸けられて亀裂を生じずに延性が増し、それから曲げられた、と推測されています。デニソワ洞窟では以前に、マンモスの牙製のティアラ(と思われる装飾品)の前方部分が発見されていました。またデニソワ洞窟では、リングやブレスレットのような装飾品も発見されています。

 上記報道では、この新たに発見されたティアラがどの層から発見されたのか、よく分からなかったのですが、おそらく暫定的な年代として、50000〜45000年前頃という推定値が挙げられているので、デニソワ人の遺骸でも新しい方のデニソワ4(Denisova 4)やデニソワ3の発見された層の近くではないか、と思います。デニソワ3とデニソワ4は近い年代(3700〜6900年の違い)と推定されています(関連記事)。これらの新しい方のデニソワ人遺骸と同じ層では、上述したブレスレットなど装飾品と思われる遺物が発見されています。問題となるのは、新たに発見されたティアラも含めて、これらの装飾品の正確な年代です。ティアラについては、マンモスの牙製なので、その直接的な年代はマンモスの死亡時のものであり、ティアラに加工された年代はずっと後だった可能性があります。上記報道では、発見された層の年代を正確に測定することが必要だ、と指摘されています。

 ただ、デニソワ洞窟で発見されたこれらの装飾品のより正確な年代がいつであれ、興味深い問題を提起することになりそうです。シベリアのサハ共和国のヤナ川流域ではマンモスの牙製のティアラが発見されていますが、これは現生人類(Homo sapiens)の所産で、年代は28000〜20000年前頃と推定されています。デニソワ洞窟のティアラの年代が50000〜45000年前頃だとすると、製作者が現生人類である可能性はじゅうぶん想定されます。デニソワ洞窟では多数のマンモスの牙の断片が発見されているので、ティアラはデニソワ洞窟で製作された、と考えられます。そうすると、現生人類がデニソワ洞窟を訪れてティアラを製作し、デニソワ人と一時的に共存していた可能性すら想定されます。もちろん、旧石器時代考古学的にはほぼ同年代としても、じっさいにはデニソワ人と現生人類が数十年単位で相互に利用しただけで、デニソワ洞窟での両者の接触はなかったのかもしれません。

 ただ、デニソワ洞窟でデニソワ人が発見された層では現生人類の遺骸が発見されておらず、デニソワ洞窟の研究に関わっているフェドルチェンコ(Alexander Fedorchenko)氏は、現生人類ではない人類によるティアラ製作の可能性を指摘しています。そうすると、発見された層からも、デニソワ人がティアラを含む装飾品を製作した、と考えるのが節約的です。しかし、この仮説は新たな問題を提起します。ティアラ製作に用いられた技法は現生人類特有と考えられてきましたし、デニソワ洞窟では針と思われる遺物さえ発見されています。これらが現生人類ではなくデニソワ人の製作だとすると、人類史を大きく書き換えることになります。

 デニソワ3については、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列との比較から、72000年前頃と推定されています(関連記事)。そうだとすると、デニソワ洞窟の装飾品の年代は72000〜65000年前頃となりそうで、現生人類の関与を想定するにはやや古いようにも思えます。しかし、これはあくまでも遺伝学的な推定年代ですし、仮にこの年代が妥当だとしても、すでにアルタイ山脈にまで現生人類が拡散していた可能性は、それなりにあるように思います。これらの装飾品が後世の嵌入である可能性は、デニソワ洞窟の装飾品を報告した論文(Derevianko et al., 2008)をざっと読んだ限りでは、低そうに思います。デニソワ洞窟の更新世の装飾品については、年代がいつであれ、議論を呼ぶことになりそうです。


参考文献:
Derevianko AP, Shunkov MV, and Volkov PV.(2008): A PALEOLITHIC BRACELET FROM DENISOVA CAVE. Archaeology, Ethnology and Anthropology of Eurasia, 34, 2, 13–25.
https://doi.org/10.1016/j.aeae.2008.07.002
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』10話〜14話

2018/12/08 06:37
 ファミリー劇場でHDリマスター版『太陽にほえろ!』の再放送が1話から始まりましたので、まだ当ブログで取り上げていなかった話の感想を掲載していきます。


10話「ハマッ子刑事の心意気」9
 山さんとゴリさんは横浜に行き、強烈な個性の若手刑事と共に捜査に当たります。この若手刑事を演じるのは沖雅也氏なのですが、後のスコッチ刑事とは別人です。この頃はまだ始まったばかりで、5年くらいは当初のレギュラーメンバーで続ける予定だった、とどこかで読んだ記憶があるので、もちろん今回のゲストの沖雅也氏はテスト出演ではありません。本作において後のレギュラーが別人役で出演した事例としては、テスト出演を除けば、他に久美ちゃんとトシさんがありますが、今回とは異なりいずれも犯人役です。話の方は、当初の敵対的関係から最後の信頼関係へと至る過程が描かれ、王道的です。何よりも、沖雅也氏演じる若手刑事のキャラが立っていて、楽しめました。改めて、沖雅也氏が若くして亡くなったのは残念だと思ったものです。


11話「愛すればこそ」8
 この後4年近くたびたび登場することになる山さんの妻が、初めて登場します。山さんの設定が初期の時点でどの程度固まっていたのか、知りませんが、妻が心臓の持病持ちで、愛妻家であることは初期から変わりません。山さんは、出所してきた男性を尾行します。男性はかつて、妻の浮気相手を刺し、妻も殺そうとしました。山さんは、男の様子を不審に思い、妻が病院に運ばれて危険な手術を受けるような状態にも関わらず、尾行を続けます。話の方はかなり忘れており、太地喜和子氏がゲストで出演していたことも覚えていなかったくらいですが、マカロニが山さんの妻に想いを寄せるような描写があったことは鮮明に記憶に残っていました。出所した夫とその夫に狙われる妻、刑事であることを優先する山さんとその妻という、二組の夫婦(山さん夫婦とちがってもう一組は法的には離婚していますが)を対比的に描きつつ、夫婦の在り様という普遍的な話題を扱っており、大人向けの話になっていると思います。若者向けの青春ものといった感じで始まった本作ですが、こうした話も取り入れていったことが、長寿ドラマとなった一因でしょうか。


12話「彼は立派な刑事だった」7
 暴力団の組長候補だった幹部が殺されます。ボスに偶然助けられたチンピラの、不動産屋が怪しいとのタレコミを受けて一係は不動産屋を捜査しますが、証拠は出てきません。一係は、警察内部に情報をもらした人物がいるのではないか、と疑います。その人物とは、捜査二係の係長でした。この係長を演じたのは平田昭彦氏で、後に長く七曲署の署長を演じることになります。久美ちゃんやトシさんと同じく、犯罪者で別人役を演じていながら、後に(セミ)レギュラーになったわけです。話の方は、ボスとチンピラの偶然の出会いが上手く取り入られ、まずまず面白くなっていました。


13話「殺したいあいつ」9
 シンコのパトロールに付き合っていたマカロニは、意識が朦朧としていた女性を保護し、女性はめし屋の宗吉で働くことになります。女性の夫と名乗る男性が現れ、謎めいた展開になっていて、まずまず面白い話でした。もっとも、今回の主題は謎解きではなく、若手刑事としてのマカロニの苦悩で、若者の焦燥・迷走・暴走を描いた普遍的な話になっています。このマカロニの苦悩と宗吉の過去を絡めて話が展開し、なかなか工夫されていると思います。かつて、犯人を追っていて本気で殺そうとしてしまった宗吉は、刑事を辞めます。マカロニが自分のようにならずにすんだことで、宗吉は心から安堵します。この宗吉の過去は、この後、宗吉の出番が減ったことでほとんど活かされず、残念でした。ただ、ジーパン殉職回ではこの設定が重要な役割を果たしており、それだけでも宗吉の過去の設定には大きな意味があったかな、とも思います。


14話「そして拳銃に弾をこめた」6
 拳銃に弾丸を込めないというゴリさんの設定が初めて本格的に描かれましたが、これはさすがに無理のある設定だなあ、と初視聴時には思ったものです。この設定は後にも何度か描かれましたが、もう忘れられているのではないか、と思うような描写も後に度々あったと記憶しています。ゴリさんが拳銃の名手で短気という設定と関連しているわけですが、率直に言って、この設定は失敗だったかな、と思います。話の方は、ゴリさんと殺された女性との親密なところも描かれ、ほろ苦い話になっています。最初期のゴリさんは、マカロニ・殿下とともに若手組といった感じの位置づけでしたから、後に本作の定番となる若手刑事の悲恋ものとしての性格もあるように思います。
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イングランド北西部におけるウシ結核の流行

2018/12/07 15:58
 イングランド北西部におけるウシ結核の流行に関する研究(Barron et al., 2018)が公表されました。本論文は、2014〜2015年にイングランド北西部のチェシャー州で交通事故死したアナグマの死体を、地元の農業従事者・獣医師・野生生物保護グループ・政府機関のネットワークを通じて収集し、調べました。その結果、アナグマの死体の21%(94体のうちの20体)からウシ型結核菌が検出されました。これに対して、1972〜1990年にチェシャー州で実施された、路上死したアナグマの調査でウシ型結核菌を保有していたのは、研究サンプル計389体のうち1体(0.26%)のみでした。チェシャー州は、イギリス内でウシ結核が流行する地域の外縁に位置すると考えられていましたが、2010年以降、ウシ結核の発生率が上昇していました。

 この研究では、チェシャー州でウシ型結核菌を保有するアナグマの割合が、ウスターシャー州(18%)とグロスターシャー州(20%)に近いことも明らかになりました。両州は、ウシがウシ型結核菌に感染するリスクの高い州と考えられており、イギリス南西部以外の地域に流行が拡大している、と示唆されます。これらの知見は、アナグマとウシの両方が、地理的に同じように拡大しているウシ結核の流行の担い手である可能性を示唆していますが、この研究は、ウシ型結核菌の異種間感染伝播の方向性(アナグマからウシへの感染伝播か、またはその逆か)を解明できなかった、と強調しています。チェシャー州などの地域におけるウシ型結核菌の感染伝播を詳しく解明するためには、さらなる研究が必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【感染症】交通事故死したアナグマの研究が英国におけるウシ結核の流行に新たな光を当てる

 2014〜2015年に英国チェシャー州で路上死して回収された94体のアナグマのサンプルの約5分の1から、ウシ結核の原因菌であるウシ型結核菌(Mycobacterium bovis)が検出されたことを報告する論文が、今週掲載される。チェシャー州は、英国内でウシ結核が流行する地域の外縁に位置すると考えられていたが、2010年以降、ウシ結核の発生率が上昇していた。著者たちは、今回の研究で流行拡大の原因を突き止められなかった点も指摘している。

 今回Elsa Sandoval、Malcolm Bennettたちの研究グループは、2014〜2015年にチェシャー州で交通事故死したアナグマの死体を地元の農業従事者、獣医師、野生生物保護グループ、および政府機関のネットワークを通じて収集して調べた。その結果、アナグマの死体の21%(94体のうちの20体)からウシ型結核菌が検出された。これに対して1972〜1990年にチェシャー州で実施された路上死したアナグマの調査でウシ型結核菌を保有していたのは、研究サンプル計389体のうち1体(0.26%)のみだった。

 今回の研究では、チェシャー州でウシ型結核菌を保有するアナグマの割合が、ウスターシャー州(18%)とグロスターシャー州(20%)に近いことも判明した。両州は、ウシがウシ型結核菌に感染するリスクの高い州と考えられており、英国南西部以外の地域に流行が拡大していることが示唆されている。

 今回の研究結果は、アナグマとウシの両方が、地理的に同じように拡大しているウシ結核の流行を担っている可能性を示唆しているが、著者たちは、ウシ型結核菌の異種間感染伝播の方向性(アナグマからウシへの感染伝播か、その逆か)を解明できなかった点を強調している。チェシャー州などの地域におけるウシ型結核菌の感染伝播を詳しく解明するためには、さらなる研究が必要となっている。



参考文献:
Barron ES. et al.(2018): A study of tuberculosis in road traffic-killed badgers on the edge of the British bovine TB epidemic area. Scientific Reports, 8, 17206.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35652-5
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『ウイニングポスト9』2019年3月発売

2018/12/06 17:18
 『ウイニングポスト9』が来年(2019年)3月に発売される、と公表されました。私は『ウイニングポスト』シリーズの信者で、98DOS版だった初代から7マキシマム2008まで、PKも含めてパソコン版をすべて購入してきました(関連記事)。しかし、『ウイニングポスト7 2010』以降は、購入しない作品もあり、『ウイニングポスト8』も2017年版と2018年版は購入しませんでした。近年ではお布施も怠るようになり、信者ではなくなりつつあったのですが、これは、代わり映えがしないことと、現実の競馬への関心が以前よりも低下したことと、加齢により系統確立のような作業がきつくなってきたこと、以前よりも古人類学への時間を割くようになったことが要因です。

 そのため、『ウイニングポスト8』の年度版が続くようなら、購入するつもりはなかったのですが、2014年以来久しぶりの新作ということで、購入する予定です。新要素については、さほど魅力的ではありませんが、『ウイニングポスト8 2018』でサブパラが16段階になったようですし、『ウイニングポスト8 2016』とはそれなりに仕様が変わっているようですから、楽しみではあります。芝とダートの適正は区別されているようで、『ウイニングポスト4』の仕様に戻ったのかもしれません。この点は、『ウイニングポスト9』への要望でもあったので(関連記事)、歓迎要素です。

 最近では論文や本の方を優先しているので、録画しても視聴していない番組が増えてきましたし、『ウイニングポスト9』にもどれだけ時間を割けるのか、分かりませんが、購入したら少しずつ進めていく予定です。最強馬生産のための系統確立や支配率操作などをやり始めたら、単なる作業になってしまいそうなので、少なくとも1周目は最強馬生産を目標にせずにやろうかな、と考えています。後は、藤田菜七子騎手が騎手大賞を取れるくらいまで成長するよう、優先して起用することくらいしか、現時点では目標が思い浮かびません。藤田菜七子騎手は今年になって準オープンを勝ちました。そのレースをたまたまテレビで視聴していましたが、なかなか上手くなったように思いますので、近いうちに重賞を勝ってもらいたいものです。

 レースシーンが強化されているということで、Windows版の推奨動作環境は気になるところです。検索してみたところ、『信長の野望』の最新作ではCore i5 3.0GHz以上推奨となっていたので、同じ程度なら、現在使用しているデスクトップパソコン(関連記事)では何とか推奨環境を満たしそうです。ただ、レースシーンが強化されているので、現在使用しているデスクトップパソコンではグラフィックの推奨環境を満たしていないかもしれません。現在使用しているデスクトップパソコンでは『ウイニングポスト9』の推奨環境を満たせない場合、ここ数年ずっと検討し続けていたことでもありますから、デスクトップパソコンの買い替えも考えていますが、できれば、第3世代Ryzen(Zen2アーキテクチャ)の評価を見てから購入したいものです。最近、SSDの価格はかなり下がってきましたし、メモリの価格も一時よりは下がっているので、デスクトップパソコンを買い替える頃には、さらにメモリの価格が下がっているとよいのですが。
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アミノ酸の非生物的形成と生命の起源

2018/12/06 16:31
 アミノ酸の非生物的形成に関する研究(Ménez et al., 2018)が公表されました。非生物的な炭化水素およびカルボン酸は地球上で形成されると知られており、その顕著な例にマントル岩石の熱水変質作用過程があります。非生物的なアミノ酸の形成は、実験研究および熱力学計算の両方で予測されてきましたが、地球環境での非生物的なアミノ酸形成が実証された例はまだありません。この研究は、高解像度の画像化技術を複数組み合わせた多モード手法を用いて、大西洋中央海嶺アトランティス岩体(Atlantis Massif)の下の深部において、芳香族アミノ酸(具体的にはトリプトファン)が非生物的に形成され、保存されていたことを示す証拠を得た。

 これらの芳香族アミノ酸は、岩体の蛇紋岩の変質作用後期に、鉄に富むサポナイト粘土が触媒するフリーデル–クラフツ反応によって形成された可能性があります。海洋リソスフェアでの流体–岩石相互作用によるアミノ酸の非生物的な生成の可能性が実証されたことで、生命の起源に関する深海熱水説の信用性が高まるとともに、太古の代謝および現在の深海生物圏の機能に関する手がかりも得られる可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地球化学:海洋リソスフェアの凹部内での非生物的なアミノ酸合成

地球化学:トリプトファンの非生物的形成

 生命の起源、つまり生命がどこでどのようにして誕生したのかについては論争の的になっており、さまざまに推測されている。今回B Ménezたちは、芳香族アミノ酸(具体的にはトリプトファン)が実験室外の自然環境で非生物的に形成され得ることを示す証拠を提示している。これらのアミノ酸は、大西洋中央海嶺のアトランティス岩体(Atlantis Massif)の下の深部で形成され、保存されていたと考えられる。海洋リソスフェア内での流体–岩石相互作用による原始的なアミノ酸生成の可能性が実証されたことで、生命は深海の熱水噴出孔で誕生したとする説が支持された。



参考文献:
Ménez B. et al.(2018): Abiotic synthesis of amino acids in the recesses of the oceanic lithosphere. Nature, 564, 7734, 59–63.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0684-z
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哺乳類幹細胞の多能性を維持するローヤルゼリー

2018/12/05 16:09
 哺乳類幹細胞の多能性を維持するローヤルゼリーについての研究(Wan et al., 2018)が公表されました。ローヤルゼリーは、セイヨウミツバチ(Apis mellifera)の女王蜂になるべき幼虫に与えられる食物ですが、哺乳類にも作用して、その寿命・稔性・再生に影響を及ぼす、と知られています。MRJP1(Major Royal Jelly Protein 1、別名ロイヤラクチン)はローヤルゼリーの機能成分で、これまでの研究では、セイヨウミツバチ以外の種に対する影響を調節する、と明らかにされており、保存された経路を活性化する可能性がある、と示唆されています。しかし、こうした保存された細胞内シグナル伝達経路の特徴は未解明のままとなっています。

 この研究は、ロイヤラクチンが、胚性幹細胞(ES細胞)の多能性遺伝子ネットワークを活性化し、これらの細胞を、通常必要な他の因子がなくても培養で維持できる、と明らかにしました。また、ロイヤラクチンで培養されたES細胞をマウスの胚盤胞に注入すると、生育可能なマウスが作り出され、このES細胞がマウスの生殖細胞に組み込まれました。さらにこの研究は、ロイヤラクチンの哺乳類における構造類似体を同定して「Regina」と命名し、Reginaにはロイヤラクチンに似た機能的能力があり、Reginaが培養中のマウスES細胞のアイデンティティーを維持できる、と明らかにしました。これは、ミツバチからヒトまで進化的に保存された経路があり、それぞれの種で独自の過程を制御している可能性がある、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【幹細胞】ローヤルゼリーの成分に哺乳類幹細胞の多能性を維持する作用

 ローヤルゼリーのタンパク質成分であるロイヤラクチンが、マウスの胚性幹細胞(ES細胞)の多能性を維持することを報告する論文が、今週掲載される。また、今回の研究では、ロイヤラクチンの哺乳類における構造類似体Reginaが同定され、ReginaがES細胞の多能性に対する類似の作用を促進することが明らかになった。これらの知見は、幹細胞に本来備わっている自己複製プログラムの存在を示している。

 ローヤルゼリーは、セイヨウミツバチ(Apis mellifera)の女王蜂になるべき幼虫に与えられる食物であるが、哺乳類にも作用して、その寿命、稔性、再生に影響を及ぼすことが知られている。MRJP1(Major Royal Jelly Protein 1、別名ロイヤラクチン)はローヤルゼリーの機能成分であり、これまでの研究では、セイヨウミツバチ以外の種に対する影響を調節することが明らかにされており、保存された経路を活性化する可能性のあることが示唆されている。ところが、こうした保存された細胞内シグナル伝達経路の特徴は未解明のままとなっている。

 今回Kevin Wangたちの研究グループは、ロイヤラクチンが、マウスES細胞の多能性遺伝子ネットワークを活性化し、これらの細胞を、通常必要な他の因子がなくても、培養で維持できることを明らかにした。また、ロイヤラクチンで培養されたES細胞をマウスの胚盤胞に注入すると、生育可能なマウスが作り出され、このES細胞がマウスの生殖細胞に組み込まれた。さらに、Wangたちは、ロイヤラクチンの哺乳類における構造類似体を同定して、Reginaと命名し、Reginaにはロイヤラクチンに似た機能的能力があり、Reginaが培養中のマウスES細胞のアイデンティティーを維持できることを明らかにした。このことは、ミツバチからヒトまで進化的に保存された経路があり、それぞれの種で独自の過程を制御している可能性のあることを示唆している。今後の研究は、Reginaが哺乳類細胞において果たす役割の解明に役立つだろう。



参考文献:
Wan DC. et al.(2018B): Honey bee Royalactin unlocks conserved pluripotency pathway in mammals. Nature Communications, 9, 5078.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-06256-4
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社会正義の活動家たちによるカトリック教会的でポストモダン的な反進化学

2018/12/04 19:10
 社会正義の活動家たちによる進化学への攻撃を批判した記事が公開されました。執筆者は、昆虫の行動を研究している生物学者のライト(Colin Wright)氏で、検索してみたところ、クモの社会行動に関する論文を発見しました。この記事では、「社会正義の活動家たち(social justice activists)」と表記されていますが、「社会正義の戦士たち(Social Justice Warriors)」とほぼ同じ意味合いなのかな、と思います。まあ、私はこうした議論に詳しいわけではないので、的外れかもしれませんが。以下、この記事の内容をざっとまとめてみました。


 1990年代と2000年代には、公立学校での進化教育の禁止、またはインテリジェント・デザイン(ID)説を含む「論争」を教えるような福音主義者の試みが繰り返されました。ID説とは、生命はあまりにも複雑なので、何らかの「知的計画(インテリジェント・デザイン)」、たとえば神の助けなしには進化しなかった、というものです。しかし、ID説は、聖書創造説にすぎないと指摘されて以降、勢いと影響力を失いました(とライト氏は指摘しますが、私はこの問題に詳しくないので、ライト氏の認識が妥当なのか、自信はありません)。

 しかし、(宗教)右派的な反進化学は衰退しましたが、左派による進化学否定論はゆっくりと成長しつつあります。左派の反進化学は最初に、おもに進化心理学の分野で出現しました。動物の行動を進化学的に解明してきた知見を人間に適用し始めると、左派の信念は脅かされるようになりました。人間の行動学的性差への進化的説明に最も熱心に反対する集団は、社会正義の活動家たちです。社会正義の活動家たちによる人間の行動に関する進化的説明は、人間の男女の脳の始まりは同じで、すべての行動や性別と関連するものは、完全に社会化の違いの結果だとする、人間の心は「空白の石版」だとする説に基づいています。「空白の石版」説に否定的な進化心理学は、社会正義の活動家たちの標的となりました。

 「空白の石版」説は、性別と関連した行動の違いを進化的に説明することは生物学的本質主義だ、との信念により維持されています。しかし、「空白の石版」説は、人間には性別と関連した個性の違いがある、という証拠が圧倒的に強力なため、専門家により却下されています。ただ、専門家たちは、進化心理学的知見は生物学的本質主義ではなく、環境も役割を果たし、観察された性差は単に平均であって性別間での重なりがある、と指摘します。性別が個性を決定するわけではなく、それは身長も同様です。男性は平均して女性よりも身長が高いものの、多くの男性よりも身長の高い女性もおり、それは行動特性も同様です。ほぼすべての種において、性別と関連した個性の違いは顕著です。それは人間や人間も含まれる霊長類全般でも同様で、さらに哺乳類では一般的に、攻撃性などで性差は顕著です。人間の行動の違いが純粋に社会化によって生じるという主張は、いくらよく見たとしても疑わしいと言うべきでしょう。

 人間の進化に対する社会正義的立場は、カトリック教会のそれとよく似ています。カトリック教会における進化学への見方は、全生物への進化は受容するものの、人間の魂は特別に創造され、進化的先駆者はいない、というものです。同様に、社会正義的見解では、性別間の身体と精神の形成への進化的説明を問題視しませんが、観察される性と関連した行動の違いの形成に進化は何の役割も果たしてこなかった、という点で人間は特別だ、と力説します。生命のすべてを形成する生物学的力学が人間へはなぜ特別に保留されるのか、不明です。明確なのは、カトリック教会と善意の社会正義の活動家たちが、人間を特別なものとし、進化生物学を自分勝手に解釈していることです。

 「空白の石版」説を支持する証拠はまったくなく、反対の証拠は多数あるにも関わらず、この信念は多くの大学の人文系学部において、しばしば事実として定着しています。これは科学者に自己検閲を強いることになりました。ライト氏は志を同じくする同僚たちから私的に、ソーシャルメディアでの社会正義の活動家たちとの確執は職業上の自殺になり得るので、直ちにコメントを止めて削除すべきだ、と警告されました。ライト氏のような経験はますます深刻化しています。最近では、社会正義の活動家たちは、生物学的性のあらゆる概念もまた社会的構築物だ、と主張するようになっています。

 ライト氏はこの主張を、人類学の大学院生のFacebookで初めて見ました。ライト氏は当初、これは性別(sex)をジェンダーと間違えたのだと考えていましたが、やがて、生物学的性(sex)のことだと確信しました。さらに、この見解は個人またはごく少数の特異なものではないことも明らかになりました。さらに最近では、ネイチャー誌の論説で、人々の性を解剖学または遺伝学で分類することは放棄すべきで、研究者や医学界は性を男女よりもっと複雑なものとして見ている、と主張されています。生物学的性が現実だと認識することで、トランスジェンダーのような人々にたいする差別を減らす努力を蝕んでいる、というわけです。

 しかし、多くの生物において性の流動性への証拠があり、人間だけの事例ではありません。人間において性が曖昧な事例は稀に存在しますが、それは人間の性が機能的に二元的であるという現実を否定しません。これらの生物学的性は社会的構築物との論説は、政治的動機による科学的詭弁の一形態にすぎません。確かに、生物学的性は社会的構築物との言説が指摘するように、中間的な性は存在しますし、遺伝子やホルモンや複雑な発達過程が関わっています。しかし、だからといって、性がじっさいには何なのか、科学者たちでも理解できない、との言説は欺瞞的です。手の形成過程も複雑ですが、人間の大半は5本の指になります。何よりも、これらの言説は、人間の性的発達の最終結果の99.98%以上は明らかに男女だ、ということを無視しています。性は過度に単純化されている、との指摘は誤解を招くものですし、中間的な性は、性別が曖昧で、なおかつ(または)性的な遺伝子型と表現型が一致していない、ということであり、第三の性ではありません。さらに、性は連続体との主張も誤解を招きます。連続体とは連続的分布を意味するからです。人々を形態や遺伝子に基づいて性別に分類することに偏りがあるわけではありません。

 こうした人間における生物学的性別の疑いのない現実にも関わらず、社会正義の活動家たちは、自分たちの信念を主張し続けて、批判された時に怒ります。大規模なソーシャルメディアであるTwitterでは、今や基礎的な人間の生物学についての真実を述べることを積極的に禁止しています。もし、ライト氏のような生物学者を活動家たちが標的にしたら、研究と職を失う可能性もあります。そのため生物学者たちは、社会正義の活動家たちの主張を批判するさいも、ほぼ私的な関係の中ですませます。

 聖書創造説やID説が進化学を攻撃していた時、科学者たちはそれらを批判するさいに圧力を受けませんでした。これは、反進化学運動がほぼ、学界で権力を有さない右派の福音主義者によるものだったからです。しかし、左派の反進化学論者は学界で権力を有しているので、無視は困難です。社会正義の活動家たちは、進化学によりもたらされた科学的真理を廃棄し、相対主義的なポストモダンの戯言に置換しようとしています。今や、学究的な科学者として口を閉ざすか、満たされた知識人として生きるしかなく、その両方を満たす生き方はできません。


 以上、ざっと記事の内容を見てきました。男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった言説に私は以前から批判的だったので(関連記事)、ライト氏の見解には全面的に同意します。ただ、「社会正義の活動家たち」による、進化心理学者をはじめとして生物学者への攻撃に関するライト氏の認識については、門外漢なので確信というか実感を持てません。とくに、Twitterが生物学的知見に関する発言を積極的に禁止しようとしてる認識は、やや疑問の残るところです。まあ、日本と英語圏では違うのかもしれませんが。しかし、日本語と英語に限定されますし、多くの情報を得てきたわけではありませんが、ライト氏の認識に関して、被害者意識が強すぎるとは思いませんでした。もちろん、「右派」による学術や言論への攻撃にも強く注意すべきですが、「左派」や「リベラル」と称する勢力による攻撃もまた、大いに警戒すべきなのだと思います。まあこんなことを言うのは、私が(おそらく少なからぬ人々から見れば)「ネトウヨ」そのものだからだ(関連記事)、と糾弾されそうですが。
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アザラシの交雑

2018/12/03 16:07
 アザラシの交雑に関する研究(Savriama et al., 2018)が報道されました。哺乳類においても交雑は珍しくありませんが、古代の交雑に関しては、化石から遺伝的情報を得ることが困難にため、形態的に判断しなければならない場合が多くなります。本論文はアザラシの事例から、哺乳類において交雑個体群、とくに交雑第一世代は形態的に区分できるのか、またそれが可能として、どのような指標を区分に用いるべきなのか、といった問題を検証しています。これまで形態では、とくに歯と頭蓋が重視されていました。

 本論文が検証の対象としたアザラシは、ともに北海にも生息しているワモンアザラシ(Pusa hispida)とハイイロアザラシ(Halichoerus grypus)です。本論文は、両種の交雑第一世代個体として、1929年にスウェーデンのストックホルム動物園で発見された、仔アザラシの死体を検証しました。当時、ストックホルム動物園では2頭のハイイロアザラシの雄と1頭のワモンアザラシの雌のみが飼育されており、ゲノム解析の結果からも、この仔アザラシが両種の交雑第一世代個体と明らかになりました。

 次に本論文は、この交雑第一世代の仔アザラシの歯を、その両親であるハイイロアザラシおよびワモンアザラシと比較しました。その結果、交雑第一世代の仔アザラシの歯は、ハイイロアザラシとワモンアザラシの中間的形態を示す、と明らかになりました。この形態は推定上の交雑第一世代の変異内に収まり、交雑第一世代の形態的特徴を予想することは可能だと期待されます。

 次に問題となるのは、この交雑第一世代の仔アザラシは動物園で生まれたことで、野生でも起きるのか、ということです。本論文はその検証のため、バルト海のワモンアザラシと、フィンランド南東部のサイマー(Saimaa)湖のワモンアザラシのゲノム配列を比較しました。サイマー湖はバルト海から約9500年は孤立しています。その結果、バルト海のワモンアザラシはサイマー湖のワモンアザラシよりも顕著に、ハイイロアザラシとアレルを共有していました。バルト海では、ワモンアザラシとハイイロアザラシとの交雑はクマやウマと匹敵するくらい起きているようです。

 本論文は、アザラシにおけるこれら交雑の知見は、人類も含む哺乳類にも当てはまるのではないか、と指摘しています。ハイイロアザラシとワモンアザラシの違いは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の場合と比較して、遺伝的距離では約2.5倍、歯列形態の違いでは約2倍となります。すでにネアンデルタール人と現生人類との交雑は明らかになっていますが、交雑第一世代個体はまだ確認されていません。

 しかし、ネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑第一世代個体は発見されていますから(関連記事)、そのうちネアンデルタール人と現生人類の交雑第一世代個体が発見されても不思議ではありませんし、あるいはすでに発見されており、遺伝学的に確認されていないだけかもしれません。もっとも、ネアンデルタール人と現生人類の交雑の場所の有力候補はレヴァントなので、ネアンデルタール人とデニソワ人よりも交雑第一世代個体が遺伝学的に確認される可能性は低いかもしれません。しかし、ネアンデルタール人と現生人類はレヴァント以外でも交雑した可能性が高いので(関連記事)、レヴァントよりも高緯度の中央アジアやヨーロッパならば、交雑第一世代個体が遺伝学的に確認される可能性は高くなるでしょう。

 ただ、本論文のアザラシの事例からは、DNA解析に頼らずとも形態学的情報からも、交雑の判断がある程度は可能かもしれない、と期待されます。デニソワ人の形態についてはほとんど情報がありませんが(関連記事)、ネアンデルタール人と現生人類に関しては形態学的情報が豊富です。近年、古代DNA研究が飛躍的に発展したとはいえ、更新世の人類遺骸からDNAを解析するのは容易ではありませんし、可能な個体が交雑第一世代個体である可能性はきわめて低く、いつかは実証される可能性は低くないでしょうが、それがいつなのかは不明です。その意味で、形態学的情報の豊富なネアンデルタール人と現生人類ならば、既知の遺骸の中から、交雑第一世代ではなくとも、比較的近い祖先の代で交雑した痕跡を一定以上の信頼性で推定できるかもしれません。遺伝学と形態学は対立するものではなく、相互補完的なものであり、両者の融合した研究の進展が期待されます。


参考文献:
Savriama Y. et al.(2018): Bracketing phenogenotypic limits of mammalian hybridization. ROYAL SOCIETY OPEN SCIENCE, 5, 11, 180903.
https://doi.org/10.1098/rsos.180903
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240万年前頃までさかのぼるアフリカ北部の石器

2018/12/02 18:50
 アフリカ北部の石器の年代が以前の見解よりもさかのぼることを報告した研究(Sahnouni et al., 2018)が報道されました。AFPでも報道されています。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。アフリカ北部における人類の痕跡は遅くとも180万年前頃にまでさかのぼり、アルジェリア北東部のアインハネヒ(Ain Hanech)研究地域のエルハーバ(El-Kherba)では、180万年前頃のオルドワン(Oldowan)石器と解体痕(cut marks)や打撃痕(percussion marks)のある動物の骨(おもにウマ)が発見されています(関連記事)。

 本論文は、同じくアインハネヒ研究地域にあるアインブーシェリ(Ain Boucherit)とその近くの地点の発掘成果を報告しています。アインブーシェリでは多数の石器と動物遺骸が発見されました。石器は、180万年前頃のエルハーバと同じくオルドワンで、アフリカ東部のオルドワン石器と類似していますが、微妙な違いも見られます。その理由としては、石材の種類と品質やその他の機能的要因が推測されています石材は石灰岩(17点)と燧石(236点)で、剥片や丸い石核が確認されています。

 アインブーシェリでは動物遺骸も発見されており、おもに中型のウシとウマです。下部では全体の5.7%となる17点の骨に解体痕が見られ、そのうち約半分は小型動物のものです。解体痕は四肢骨・肋骨・頭蓋骨に見られ、肉をそぎ落としたり内臓を摘出したり骨髄を抽出したりした、と推測されます。これは、狩猟を行なっていたか否かはともかく、当時の人類が最初に動物遺骸を食べていた、と示唆します。つまり、当時の人類は肉食獣の食べ残しを消費するだけで、もっぱら死肉漁りに依存していたわけではない、ということです。

 アインブーシェリの年代は、古地磁気年代測定法および電子スピン共鳴法(ESR)と、発見された大型哺乳類から推定されました。本論文は、アインブーシェリの上部は192万±5万年前、下部は244万±14万年前と推定しています。これは、アフリカ北部の石器の年代としてはエルハーバより50万〜60万年も古く、現時点では最古となります。アフリカ東部では260万年前頃よりオルドワン石器が製作され始めたので、アフリカ東部と北部では、最古の石器の出現年代の差が以前の想定よりもずっと近かったことになります。

 しかし、アフリカ北部では200万年以上前の人類遺骸が発見されていないので、アインブーシェリの石器群の製作者がどの人類系統なのか、定かではありません。もっとも、それを言えば、アフリカ東部においても、初期オルドワン石器と直接的に関連した人類遺骸は確認されていません。アフリカ東部においては、280万年前頃にホモ属的な特徴を有する人類遺骸が発見されており(関連記事)、240万〜230万年前頃には(ホモ属との区分に異論もあるとはいえ)ホモ属が存在していたので、オルドワン石器の製作者が初期ホモ属である可能性は高そうです。

 本論文は、アフリカ東部で石器を製作し始めた人類系統が、じゅうらいの想定とは異なり、素早く北部も含むアフリカ全域に拡散したか、アフリカ東部と北部で人類集団がそれぞれ独自に石器を開発したのではないか、と推測しています。本論文の著者の一人であるセマウ(Sileshi Semaw)氏は、300万年以上前にアフリカ北部には人類が存在し、その子孫が石器を製作していた可能性を提示しています。また、本論文に関わっていないプラマー(Thomas Plummer)氏は、アフリカ東部では240万年前頃の決定的な解体痕が発見されていないのにたいして、アインブーシェリでは240万年前頃の確実な解体痕が確認されている、と指摘しています。ただ、本論文に関わっていないシャープ(Warren Sharp)氏は、アインブーシェリの240万年前頃という年代は確定的ではない、と指摘しています。

 なお、アフリカ東部では330万年前頃の石器(関連記事)と、340万年前頃の解体痕(関連記事)も主張されていますが、これらに関しては議論が続いています。仮に人類が340万〜330万年前頃に石器を製作していたとしても、それとオルドワン石器が技術的につながっているのか、定かではありません。人類が200万年以上前より狩猟を行なっていた可能性も指摘されていますし(関連記事)、東アジア北部では212万年前頃と推定されている石器も発見されています(関連記事)。これらの見解はまだ確定的ではないのですが、アフリカ北部に250万年前頃に人類が拡散し、狩猟を行なっていたとしても、不思議ではないと思います。今後は、アフリカ北部における200万年以上前の人類遺骸の発見が期待されます。


参考文献:
Sahnouni M. et al.(2018): 1.9-million- and 2.4-million-year-old artifacts and stone tool–cutmarked bones from Ain Boucherit, Algeria. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aau0008
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大河ドラマ『西郷どん』第45回「西郷立つ」

2018/12/02 18:46
 私学校には旧薩摩藩のみならず、各地から西郷隆盛(吉之助)を慕って士族が学びに来ます。政府の実質的な最高権力者となった大久保利通(正助、一蔵)は、旧薩摩藩士の暴発を警戒し、川路利良は私学校に密偵を派遣していました。廃刀令に私学校の生徒たちは激昂しますが、桐野利秋(中村半次郎)は憤激しつつも、私学校を守るために従います。熊本など各地で士族が反乱を起こすなか、私学校の生徒たちの中にも決起しようとする者が増えます。隆盛は生徒たちを何とか抑えますが、不穏状態は解消されません。

 そんな中、川路が私学校に派遣した密偵が中原尚雄だと発覚します。激昂した私学校の生徒たちは政府の武器庫を襲撃し、慌てて駆け付けた隆盛は激昂して桐野たち私学校の幹部たちを殴りつけます。中原には、「ボウズヲシサツセヨ」との命令が出ていました。「シサツ」が「刺殺」なのか、隆盛は中原に尋ねます。隆盛は「視察」の可能性を考えていたようです。しかし、私学校の幹部・生徒たちは、中原が「自白」したことから、政府というか利通が隆盛の暗殺を命じた、と確信していました。桐野に決起を促されて、隆盛は私学校の幹部・生徒たちとともに全国の士族の不満を政府に訴える決断を下します。

 今回は私学校の決起までが描かれました。大河ドラマらしく、主人公である隆盛は強く反対していたのに、やむを得ず決起した、という展開になっていました。正直なところ、決起にいたるまでの過程が描写不足だった感は否めません。やはり、今さら言っても仕方のないことではありますが、西郷隆盛を主人公とした大河ドラマとして、時間配分を間違ったように思います。最終回も迫ってきましたが(次々回が最終回でしょうか)、この後の楽しみはといえば、隆盛と関わりのあった、徳川(一橋)慶喜や天璋院(於一、篤姫)や勝海舟(麟太郎、安房守)の再登場くらいです。せめて、このうち1人は最終回に登場してもらいたいものです。
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桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発する中世』

2018/12/02 08:09
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年11月に刊行されました。本書は武士の起源という大問題に挑んでおり、たいへん読みごたえがあります。私も以前はこの問題にたいへん高い関心を有しており、最近もこの問題の大家の新書を読みましたが(関連記事)、本書はじゅうらいの所説を批判的に継承しつつ、壮大な仮説を提示しています。もちろん、本書の諸見解・認識について、専門家からは異論も提示されるでしょうが、新書とはいえ、今後武士の起源を論ずるさいに、本書は必読の文献になっていくのではないか、と思います。また本書は、武士起源論に限らず、古代日本の統治と地方社会についての解説も新書としてはたいへん充実しているので、その点でも私のような門外漢には勉強になります。今後、時間を作って何度も再読していきたいものです。

 本書は武士成立の前提として、飛鳥時代後期以降の地方社会において、富裕層のなかに武芸に習熟した者たちが出現しつつあったことを挙げます。その武芸とは弓馬術で、後の武士社会でも騎射がその技能的な存在価値の根源とされてたことを、本書は指摘します。本書は、弓馬術の少なくとも一部は百済の騎射文化に由来するのではないか、と推測しています。本書は、弓馬術に習熟するには生活的余裕が必要なので、その担い手は百姓ではなく富裕層だとして、そうした階層を郡司富豪層、弓馬術に習熟した者たちを「有閑弓騎」と呼んでいます。郡司の出自は、おもに大化前代からの伝統的な地方社会の支配者(地方豪族)です。

 しかし、有閑弓騎が直ちに武士になったわけではありません。本書は、武士成立の背景として、地方社会の疲弊と治安悪化があった、と指摘します。その前提となるのは、「王臣子孫」による地方社会での収奪でした。増え続ける王臣子孫を、その身分に相応しく処遇できるだけの財源も官職も律令国家にはなかったことが、王臣子孫を地方社会での収奪に向かわせた、と本書は指摘します。王臣子孫の中から、国司として地方社会に赴任した後、任期が終わってもそのまま居座る者が続出しました。そうした中で、郡司や百姓でも富裕な階層と王臣子孫との対立も激化しますが、両者ともに提携することでより効率的に収奪できると考えるようになり、婚姻などで結びついていった、というわけです。

 地方社会が、まだ支配技術も経済・軍事力も未熟だっただろう畿内の「中央政権(朝廷)」の支配をなぜ受け入れていったのか、という疑問を昔から私は抱いていたのですが、律令国家の成立前より、地方社会において支配をめぐる競合があり、安定的支配のためには朝廷と結びつくのが有効だったから、と考えるのが妥当なように思います(関連記事)。もちろん、王臣子孫は朝廷支配に「反抗的」でもあるのですが、王臣子孫の出自は朝廷の貴族層で、地方社会で収奪を繰り返す王臣子孫と結びついているので、本書が指摘するように、藤原氏をはじめとして朝廷の要人は王臣子孫の横暴を本気で取り締まろうとは考えていなかったのでしょう。郡司富豪層と王臣子孫の結びつきも、律令国家成立前からの地方と「中央」の関係の延長線上にあるように思います。

 こうした地方社会における収奪と治安悪化は、平安時代になってさらに強化されていきます。本書はその要因として、王臣子孫、その中でも天皇との関係の近いより身分の高い層が激増したことを挙げます。その理由は、平安京に遷都した桓武天皇やその息子である嵯峨天皇が、多くの子供を儲けたからでした。すでに奈良時代において、騎射のできない百姓を徴兵した軍隊は実戦で有効ではないことから、有閑弓騎を武力として取り込もう、という志向はありました。平安時代になって、王臣子孫と郡司富豪層が結びついていて収奪と富をめぐる競合が激化していった結果、地方社会、さらには都の治安も悪化していく状況のなかで、都と天皇の安全をどう守るのか、という課題が重要となります。

 その一連の対策のなかで武士が形成されていった、というのが本書の見通しです。ただ、地方の有閑弓騎がそのまま武士になったわけでも、都の衛府で治安対策から武士が形成されていったわけではない、と本書は指摘します。武士の成立には、貴姓の王臣子孫・卑姓の伝統的現地豪族・坂上氏のような準貴姓の伝統的武人輩出氏族もしくは蝦夷との接触体験(蝦夷は俘囚として全国に配置されました)の融合が必要だった、と指摘します。貴姓の王臣子孫は、地方社会でネットワークを構築していた伝統的な豪族層と婚姻などで結びついていき、国府と対立しつつ、地方社会の調停者として勢力を確立していきました。調停者であることを保障するのは何と言っても武力なので、弓馬術に習熟した集団を率いていることが必要です。本書は、平将門の行動は基本的に当時としては一般的なもので、国司を殺害しなかったことはむしろ穏当でさえあるものの、その範囲が大きかったことと、何よりも「新皇」として朝廷(天皇)に替わる新たな権威を標榜したことが朝廷に大きな衝撃を与え、本格的な武力討伐に至った、と指摘します。

 本書の見解はたいへん興味深いのですが、律令国家当初からの王臣子孫の「横暴」が誇張されているのではないか、とも思います。もちろん、私の受け取り方の問題でもあるのですが、いかに地方で横暴の限りを尽くす王臣子孫が朝廷の要人と結びついており、朝廷の要人もまた王臣子孫からの収奪に依拠していたところがあるとはいえ、本書の記述からは、朝廷が今にも崩壊しそうな印象さえ受けました。もちろん、定量的な調査はきわめて困難でしょうから、客観的な解説の難しいところだとは思いますが。また、鎌倉・室町・江戸幕府がいずれも、最終的に日本国とその民の統治者になろうとしたのは、武士が調停者として出現したことに起因するから、との見解も疑問の残るところです。鎌倉幕府は「全国統治」に消極的だったように思われるからです(関連記事)。まあ本書は、「最終的に」と述べてはいますが。

 以上、本書について述べてきましたが、とても本書の内容を的確かつ充分に伝えられておらず、私の下手な要約よりも、本書の一部を引用する方が有益でしょうから、以下に引用します(P314)。

 武士は、地方社会に中央の貴姓の血が振りかけられた結果発生した創発の産物として、地方で生まれ、中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長した。しかし、その一部を召集・選抜して「滝口武士」に組織するという形で、彼らに「武士」というラベルを与え、「武士」という概念を定着させたのは朝廷であり、その場は京だ。武士の誕生に必須の血統(王臣子孫や武人輩出氏族)の出所も京だ。
 とはいえ、王臣子孫や武人輩出氏族を、「武士」を創発する融合へと駆り立てたのは、<過当競争になった京・朝廷では今まで通りに食えない>という危機感であり、その原因は、後先考えずに王臣家・王臣子孫を増やしすぎた朝廷(主に桓武とその子孫)の失敗だ。朝廷や京は、武士の内実が成立する過程を、ネガティブな面でしか後押ししていない。


また本書は、最終的な結論として、以下のように述べています(P318)。

 武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群盗に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが京の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。
 武士は、京ではない場所(地方)だからこそ生まれた。しかし、地方の土地や有力豪族の社会だけからは、「武士」という創発に結実する統合は起こらなかった。そこに、王臣子孫という貴姓の血が投入されて、初めてその統合・創発は始まるのである。


 本書は、武士を発酵食品にたとえています。地方社会という大量の牛乳(大豆)に、王臣子孫という微量の乳酸菌(納豆菌)を投入したら、ヨーグルト(納豆)という全く別種の、しかもきわめて有用な食品になった、というわけです。上述したように、疑問点もありますし、専門家からはさまざまな点で異論が提示されるかもしれませんが、本書が武士起源論を再び活性化させる契機になることを期待しています。現在では、武士起源論の優先順位はさほど高くないのですが、今後、本書のように一般向け書籍として刊行されたなら、何とか時間を作って読みたいものです。本書はおもに天慶の乱の頃までを扱っているので、できれば、古代末期から中世にかけての武士の展開に関する著者の新著を、一般向け書籍の形で読みたいものです。
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さかのぼるチベット高原への人類の拡散

2018/12/01 10:30
 チベット高原への人類の拡散に関する研究(Zhang et al., 2018)が報道されました。チベットへの人類の移住に関しては、以前まとめました(関連記事)。海抜4000m以上となるような高地は、砂漠・熱帯雨林・北極圏とともに人類にとって極限環境で、居住は容易ではないため、進出できた人類は現生人類(Homo sapiens)だけで(関連記事)、チベット高原も、低温・低い生物量(バイオマス)生産性・低酸素のため、人類にとって過酷な環境で、人類の進出した陸上環境の中でも最後の方の一つと考えられています。

 海抜4000m以上となるような高地における、ある程度は継続的な人類の居住の確実な痕跡は、これまでせいぜい更新世〜完新世移行期にまでしかさかのぼりませんでした。アンデス高地に関しては、通年の利用と断定はできないとしても、少なくとも季節的には利用していたと考えられる12800〜11500年前頃の人類の痕跡が(関連記事)、チベット高原に関しては、12670〜8200年前頃までさかのぼる人類の通年の居住が報告されています(関連記事)。

 本論文は、チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡の年代を報告しています。2013年に発見された尼阿底遺跡は、ラサ市の300km北西に位置し、東西1km、南北2kmほどの広さです。尼阿底遺跡では1ヶ所の発掘溝で3地点の層位と人工物と年代が詳細に調べられました。3地点の層位はそれぞれ3層に区分されます。10〜30cmの第1層は小石の多い沈泥と細かい砂で構成されており、表面採集分も含めて3124点の石器が発見されています。50〜80cmの第2層はよく揃った細粒砂で構成されており、砂利を含んでいて、223点の石器が発見されています。第3層はおもに砂利で、淡水貝の殻を含んでいます。深さは全体で約170cmです。石器が発見されたのは、第3層となる深さ138cmまでの地点です。これら3層の石器の間に明確な形態・技術の違いはなく、本論文は、これらが単一の石器群で、第3層で人類の痕跡が始まる、と結論づけています。

 尼阿底遺跡では放射性炭素年代測定法を用いて信頼できる年代を得られるほどの有機物は残存していなかったので、年代測定にはおもに光刺激ルミネッセンス法(OSL)が用いられ、合計24点の標本から推定年代値が得られました。これらの年代はおおむね層序と整合的です。第1層の年代は130000±1000年前と3600±300年前で、おもに完新世と考えられます。第1層最下部の淡水の貝の殻は、加速器質量分析(AMS)法による放射性炭素年代で12700〜12400年前頃となります。第2層の年代は25000〜18000年前頃と短い期間なので、最終氷期極大期の間の堆積や攪乱を反映しているかもしれません。第3層の人工物と関連した年代は45000〜30000年前頃で、貝殻のAMS法による年代と一致しています。石器と近い試料による最古級の年代は、44800±4100年前と36700±3200年前です。AMS法による年代とOSLの年代は近接しているので、OSLの年代の信頼性は高いと考えられます。OSLと放射性炭素年代測定法によると、石器の出現年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる4万〜3万年前頃と推定されます。チベット高原における更新世の人類の痕跡は、これまでその周縁部でいくつか発見されているだけでしたから、尼阿底遺跡は、海抜4000m以上となるような高地における更新世の人類の痕跡としては最古の事例となります。

 尼阿底遺跡の合計3683点の石器の中には、石刃石核・剥片石核・石刃・剥片などが含まれています。これらの石器の特徴は石刃生産で、ルヴァロワ(Levallois)石核というよりも、プリズム石核から製作され、単方向剥離が優占しています。石刃のサイズは様々で、掻器や礫器などに再加工されています。全ての石器は黒い粘板岩で製作されており、尼阿底遺跡の東方800mの丘から調達されていた、と推測されます。廃棄物の割合が高くて精選された道具が少なく、遺跡の規模や石材調達地から近くて、動物遺骸や炉床がないことから、尼阿底遺跡は石器製作の作業場だった、と本論文は推測しています。

 尼阿底遺跡の石器群と技術的に類似した石器は、中国では北部でわずかにしか見つかっていません。尼阿底遺跡の石器群と最もよく類似しているのは、シベリアとモンゴルの早期上部旧石器時代の石器群です。そのため本論文は、チベットとシベリアで4万〜3万年前頃に相互作用があった可能性を指摘しています。これは、南シベリアのアルタイ地域で存在が確認されている、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関連(関連記事)で注目されます。デニソワ人の現代人への遺伝的影響は、東アジアにおいてわずかで、オセアニアにおいてそれよりずっと高く、チベット高原は、デニソワ人の遺伝的影響を受けた現生人類集団の南方への拡散経路の一つだったかもしれない、と本論文は指摘します。ただ、デニソワ人に関しては、北方系と南方系が存在し、それぞれ東アジア系とオセアニア系に遺伝的影響を残した、と想定する方が節約的であるように思えます(関連記事)。

 本論文は、チベット高原のような海抜4000m以上の高地への人類の進出が4万年前頃までさかのぼることを示した点で、たいへん意義深いと思います。MIS3には、チベット高原の生態学的条件は現在と同じか、もっと良かったのではないか、と推測されていますが、それでも、低温や低酸素への適応が重要となってきます。現代チベット人には高地適応関連遺伝子が確認されており(関連記事)、中にはデニソワ人から継承されたと推測されるものもあります(関連記事)。おそらく、現代チベット人の祖先集団のなかにはそうした遺伝的多様体を有した個体がおり、高地へと拡散して定着していく過程で集団内に定着していった(遺伝子頻度が上昇した)のでしょう。なお、アンデス高原の現代人も高地適応関連遺伝子を有していますが、それはチベット人とは異なっており(関連記事)、人類の遺伝的な高地適応も多様だったと考えられます。


参考文献:
Zhang XL. et al.(2018): The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago. Science, 362, 6418, 1049-1051.
https://doi.org/10.1126/science.aat8824
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アラビア半島内陸部において19万年前頃以降も続いたアシューリアン

2018/11/30 16:34
 アラビア半島における終末期に近いアシューリアンの年代に関する研究(Scerri et al., 2018B)が報道されました。アシューリアン(Acheulean)の起源はアフリカ東部において176万年前頃までさかのぼり(関連記事)、150万年以上にわたって用いられてきた文化で、人類の進化と拡大の理解に重要です。しかし、アシューリアンの時系列と地理的範囲、とくに終末期については、未解明なところが多分に残されています。本論文は、アシューリアンの終末期の手がかりとなり得る、アラビア半島内陸部に位置するサッファーカ(Saffaqah)遺跡のアシューリアンの年代を報告しています。

 サッファーカ遺跡は、ワディアルバティン(Wadi al Batin)川とワディサブハ(Wadi Sabha)川という、現在では枯れてしまったアラビア半島の当時の主要な2河川の源流近くに位置します。アシューリアンを用いた人類集団はこの河川網を利用してアラビア半島内陸部へと拡散した、と推測されます。サッファーカ遺跡は1980年代に発掘され、8395点の石器が発見されましたが、層序や人工物の分布について詳細にはなっていません。その年代はウラン-トリウム法により20万年以上前と推定されましたが、確定的ではありません。サッファーカ遺跡のアシューリアン石器群に関しては、保守的傾向が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、サッファーカ遺跡で新たに500点を超える石器を発見し、その堆積状況と年代を測定しました。剥片の分布から、サッファーカ遺跡で石器が製作されていた、と考えられています。サッファーカ遺跡ではA〜G層まで確認されています(上から順にA→Gとなります)。このうち、F・G層では人工物が確認されていません。人類の痕跡が最初に見られるE層では高密度の人工物が確認されています。その上のD層の人工物密度は低く、さらにその上のC層とB層でも人工物が確認されています。本論文は、長石の年代測定を可能とする赤外放射蛍光(infrared-radiofluorescence)測定を含むルミネッセンス法の組み合わせにより、サッファーカ遺跡の年代を測定しました。その結果、F層は25300±13000年前頃、D層は188000±11000年前頃と推定され、おおむね海洋酸素同位体ステージ(MIS)7(24万〜19万年前頃)にアシューリアン集団がサッファーカ遺跡一帯に拡散してきて、それはMIS6にも継続した、と推測されています。

 西アジアにおけるアシューリアンとしては、これは最も新しい年代となります。サッファーカ遺跡のアシューリアンは大型剥片・握斧(handaxes)・鉈状石器(cleavers)により特徴づけられます。アラビア半島では年代が未確定のアシューリアン石器群が発見されていますが、それらはサッファーカ遺跡のアシューリアン石器群との技術的類似性が指摘されており、サッファーカ遺跡のアシューリアン集団がアラビア半島に広範に拡散していた可能性を示唆します。なお、アラビア半島内陸部における人類の痕跡は50万〜30万年前頃までさかのぼる、と推測されています(関連記事)。

 一方、アラビア半島でも北部のネフド砂漠南西部で表面採集されたアシューリアン石器群は、大きな石材の利用が明らかにも関わらず、鉈状石器やあらゆる大型剥片構成が欠けており、高度に洗練された握斧が特色という点で、サッファーカ遺跡のアシューリアン石器群とは大きく異なります。こうしたネフド砂漠南西部のアシューリアン石器群の技術的特徴は、レヴァントの後期アシューリアンと類似しています。一方、サッファーカ遺跡のアシューリアン石器群、年代の近いレヴァントのアシュールヤブルディアン技術複合(Acheuleo-Yabrudian technocomplex)と異なっており、エチオピアのミエソ(Mieso)遺跡で見られるような、年代が比較的近いと推定されているアフリカ東部のアシューリアン石器群との類似性が指摘されています。そのため、MIS7にアフリカ東部からアラビア半島へと人類集団が拡散してきた可能性が指摘されています。また、西アジアのアシューリアン石器群の製作者は、異なる系統の複数の人類集団だった可能性も考えられます。

 サッファーカ遺跡では、B・C層でもD・E層と類似した石器群が発見されていることから、MIS7〜6の期間のこの地域における文化的継続性が示唆されます。乾燥期のMIS6にもアシューリアン集団が継続したことは、サッファーカ遺跡のアシューリアン集団の柔軟性と適応能力が一定水準以上だったことを示唆します。上述したように、サッファーカ遺跡のアシューリアン集団については、石器技術の継続性からその保守的傾向が指摘されていますが、「頑迷固陋」な人類集団と短絡的に考えてはならない、ということなのでしょう。

 下部旧石器時代となるアシューリアン石器群がサッファーカ遺跡で製作されていたのと同じ頃に、レヴァントのような近隣地域では中部旧石器文化も見られます。中期更新世の西アジアにおいては、異なる文化が共存していたわけですが、人類遺骸がひじょうに少ないので、その担い手および系統関係の推測は困難です。貴重な事例としては、サッファーカ遺跡でアシューリアン石器が製作されていた頃、レヴァントには現生人類(Homo sapiens)が存在していた、と報告されています(関連記事)。サッファーカ遺跡のアシューリアン石器群の製作者がどの人類系統なのか、人類遺骸が発見されていないので不明ですが、本論文は、現生人類がアフリカから拡散してきた時に、現生人類ではない系統のホモ属と遭遇した可能性があり、サッファーカ遺跡が環境も含めてそうした状況の再構築に役立つ可能性を指摘しています。中期更新世後期の西アジアの人類史はかなり複雑だったようで、石器のみからの判断にはやはり限界があるので、今後少しでも多く人類遺骸が発見されるよう、願っています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】石器の年代決定によってアラビア半島における初期ヒト族の存在を示す手掛かりが得られた

 現在のサウジアラビアにあるSaffaqah遺跡から出土した数千点の石器(大型の剥片石器、手斧、大包丁を含む)の解析が行われ、アラビア半島における「アシュール」技術の確実な年代決定が初めて実現したことを報告する論文が、今週掲載される。この成果から、アシュール人の居住地は約24万〜19万年前あるいはその後まで、河川や湖沼などの水ネットワークに沿ってアラビア半島の中心部に広がったことが示唆されている。そのため、Saffaqah遺跡は、アジア南西部においてアシュール人の遺跡と実証された中で最も新しいものということになる。

 アシュール文化は、ヒト族の進化における重要な段階の1つで、手斧のような大型の切削工具が製作されていたことを特徴とする。今回Eleanor Scerri、Michael Petragliaたちの研究グループは、Saffaqah遺跡がこれまでに実証されたアラビアの遺跡の中で最も大規模な遺跡であることを報告している。研究グループは、この遺跡での新たな発掘作業で、500点を超える石器を発見した。1980年代に行われた発掘作業では8395点の石器が回収されたが、それらは年代決定されておらず、堆積層内の分布状況も詳しく論じられていなかった。研究グループは、これらの石器が含まれている堆積層とその下層の年代測定を行って、石器が堆積した時期を決定し、それに基づいて、これらの石器を製作・利用していたヒト族が存在していた時期を特定した。この知見に基づいて、上層の堆積層に含まれていた石器が堆積したのは約18万8000年前より以降だったとする見解が示されている。また研究グループは、アシュール文化は、アジア南西部においてその後の中期旧石器時代の典型的な技術と共存しており、この地域でヒト(Homo sapiens)が存在した時期と重複していた可能性があると主張している。

 加えて、研究グループは、Saffaqah遺跡で見つかったアシュールの技術が他の発掘現場で発見されたアシュールの石器と異なっており、アシュールの伝統において大きく異なる技術的特徴が存在していたことが実証された点を指摘し、アシュール人の分散が数回にわたって起こったことがそれぞれの遺跡に反映されている可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Scerri EML. et al.(2018B): The expansion of later Acheulean hominins into the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 8, 17165.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35242-5
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氷期における北半球から南半球への気候の影響

2018/11/29 16:24
 氷期における北半球から南半球への気候の影響に関する研究(Buizert et al., 2018)が公表されました。南半球中緯度域の偏西風は、南大洋の湧昇流、深海との間の炭素交換、アガラスリーケージ(インド洋の海水の大西洋への輸送)、場合によっては南極大陸の氷床の安定性を通して、全球の気候システムに重要な役割を担っています。南半球の偏西風の南北方向の移動についてはこれまで、充分な裏づけのあるダンスガード・オシュガー(Dansgaard–Oeschger)イベン)に応答した熱帯収束帯の移動と並行して生じた、という仮説が提示されています。ダンスガード・オシュガー(DO)イベントは氷期の北大西洋における急激な温暖化で、グリーンランドから得られた氷床コアの記録に最も鮮明に見られます。水蒸気の西南極大陸への経路の変化はこの説明と矛盾しませんが、熱帯から強制された太平洋のテレコネクションのパターンに対応している可能性があります。サイクルに対する南半球の大気循環の全体的な応答と、南極大陸の気温に対するその影響は、まだよく分かっていません。

 本論文は、火山噴出物の層を指標として深さと年代を一致させた5つの氷床コアを用いて、DOサイクルに対する南極大陸の気温の応答は、次の2つのモードの重ね合わせとして理解できる、と示します。一つは北半球の気候から約200年遅延する空間的に均一な海洋の「両極シーソー」モードで、もう一つは北半球における急激な事象と同期する、空間的に不均一な大気モードです。大気モードの気温偏差は、太平洋–南米パターンではなく、現在の南半球環状モードの変動に伴う偏差と類似しています。さらに、重水素過剰の記録からは、全海盆にわたって南半球の偏西風が北半球の気候と位相を一致させて東西方向に移動する、と示唆されました。

 これらの知見から、北半球の急激な気候変動に強制された南極大陸周辺の気温変動を理解するための単純な概念的枠組みが得られました。本論文は、南半球の偏西風の急激な移動に関する観測的な証拠を提供しています。これは、全球の海洋循環と大気中の二酸化炭素に関して過去に報告されている影響です。こうした連動した変化は、単に北大西洋のみではなく全球的なDOサイクルの把握の必要性を浮き彫りにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:氷期には北極からの伝搬で南極周辺の偏西風や南極の気候が急激に変動する

気候科学:海洋と大気の経路によって南極大陸へ伝わった北半球の気候の急激な変化

 ダンスガード・オシュガーイベントは、氷期における急激な温暖化事象であり、グリーンランドから得られた氷床コアの記録に最も鮮明に見られる。この事象の影響は、海洋の「両極シーソー」を介して南半球において感知されると考えられている。今回C Buizertたちは、南極大陸の氷床コアのネットワークを用いて、ダンスガード・オシュガーイベントの痕跡が実際に空間的に均一な海洋機構を介して生じており、こうした機構では、南極大陸での影響の出現が北半球より約200年遅れることを確かめている。この解析によって、おそらく南半球の偏西風の移動に起因する、空間的に不均一で同時に生じた大気の応答も明らかになった。



参考文献:
Buizert C. et al.(2018): Abrupt ice-age shifts in southern westerly winds and Antarctic climate forced from the north. Nature, 563, 7733, 681–685.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0727-5
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フィンランドとロシア北西部の古代ゲノム

2018/11/28 16:59
 フィンランドとロシア北西部の古代ゲノムに関する研究(Lamnidis et al., 2018)が報道されました。ヨーロッパの現代人の遺伝的構成はおもに、上部旧石器時代の狩猟採集民、新石器時代初期にアナトリアからヨーロッパへと拡散してきた農耕民、新石器時代末期から青銅器時代初期にユーラシア西部草原地帯からヨーロッパへと拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)集団の混合です。考古学的研究成果より、フィンランドには9000年前より人類が居住していた、と明らかになっていますが、ヨーロッパ北東部の古代DNA研究は、ヨーロッパの他地域と比較して遅れています。

 本論文は、ロシア北西部のコラ半島の北部に位置するボリショイ・オレーニ・オストロフ(Bolshoy Oleni Ostrov)遺跡(BOO遺跡)と、コラ半島南部のチャルムニー・ヴァレ(Chalmny Varre)遺跡(CV遺跡)、フィンランド南部のレヴェンルータ(Levänluhta)遺跡(Ll遺跡)で発見された人類遺骸のゲノムを解析しました。BOO遺跡では3473±87年前頃の6人の遺骸のゲノムが解析され、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループは以前に報告されています(U4a1・Z1a1a・T2d1b1・C4b・U5a1d・D4e4)。このうち男性は2人で、Y染色体DNAハプログループはともにN1c1a1aです。CV遺跡では紀元後18〜紀元後19世紀の2人の遺骸のゲノムが解析され、1人は女性(mtDNAハプログループはU5b1b1a3)で、もう1人は男性(mtDNAハプログループはV7a1、Y染色体DNAハプログループはI2a1)です。Ll遺跡では1700〜1200年前頃の7人の遺骸が発見されており、このうち分析・比較に耐え得るゲノムデータが得られたのは女性3人で、そのmtDNAハプログループが報告されています(U5a1a1a’b’n、U5a1a1、K1a4a1b)。

 これらのデータは、他の古代ゲノムデータや現代人のゲノムデータと比較されました。本論文は、これら比較対象となったゲノムデータの構成要素を5区分しています。それは、ヨーロッパ西部狩猟採集民集団(WHG)、地理的範囲はドイツを中心とする新石器時代となる線形陶器文化(Linearbandkeramik Culture)の農耕民集団(LBK)、ヤムナヤ集団に代表されるユーラシア西部草原地帯の集団(ヤムナヤ)、ヨーロッパ東部の中石器時代の狩猟採集民集団(EHG)、ガナサン人(Nganasan)に代表されるシベリア系集団(シベリア系)です。

 BOO遺跡の6人ではシベリア系要素が多く、ヤムナヤ要素とWHG要素は見られません。上述したmtDNAハプログループでも、BOO遺跡の6人ではシベリア系のZ1・C4・D4が見られます。Ll遺跡の3人のうち、2人にはBOO遺跡の6人ほどではないとしてもシベリア人要素が多く見られますが、1人(Levänluhta_B)には見られません。現代のサーミ人には、Levänluhta_B を除くLl遺跡の2人ほどではないとしても、他のヨーロッパ人、とくに西方ヨーロッパ人より多くのシベリア系要素が見られます。フィン人には、現代のサーミ人ほどではないとしても、他のヨーロッパ人よりも多くのシベリア系要素が見られます。BOO遺跡の6人に先行するヨーロッパ北東部の人類集団では、シベリア系の要素が見られません。ヨーロッパ北東部の人類集団は、ヨーロッパ系とシベリア系との混合と推測されます。

 バルト海地域の9500〜2500年前頃となる106人の人類遺骸のゲノムデータが得られていますが(関連記事)、8300〜5000年前頃のバルト海地域集団には、シベリア系要素が見られません。これは、シベリア系要素のヨーロッパへの到来が5000年前頃以降であると示唆していますが、ヨーロッパ北東部の古代ゲノム解析はまだヨーロッパの他地域より遅れており、もっと早い年代だった可能性を排除できません。シベリア系集団がウラル語族をヨーロッパにもたらした可能性は高そうですが、ウラル語族のヨーロッパ北東部への拡大が3500年前よりもさかのぼりそうと推定されていることや、ウラル語族集団の交雑パターンは歴史的に複雑で、単一の事象ではなさそうなことから、単純化はできない、と本論文は注意を喚起しています。ヨーロッパに遠く離れたシベリア系要素が流入した要因として、古代のシベリア系集団は遊動的な生活を送っており、広大な距離を交易・移動し、他の集団との接触が広範囲及んでいたからではないか、と推測されています。

 レヴェンルータ遺跡の3人のうち1人(Levänluhta_B)を除く2人は、現代人集団ではサーミ人と遺伝的に最近縁でした。Ll遺跡の集団は、現代のサーミ人の直接的な祖先集団か、現代には遺伝的影響を残していないとしても、サーミ人の祖先集団ときわめて近縁な集団だったのでしょう。サーミ人は現在、おもにスカンジナビア半島北部に存在していますが、かつてはもっと広範囲に南部まで存在しており、フィンランドでは鉄器時代以降に遺伝的構成の変化が起きた可能性を示唆しています。Ll遺跡遺跡の近隣地域にはサーミ語由来と推測される地名があることからも、サーミ語はフィンランド語がフィンランドに流入する前にフィンランドで話されており、その範囲が現在よりも広範だった可能性は高そうです。ただ、フィンランドにおける移住と交雑についてさらに詳細に解明するには、もっと多くの古代DNAが必要だと本論文は指摘しています。本論文の観察パターンがフィンランド全体を反映しているのか、まだ確定できない、というわけです。


参考文献:
Lamnidis TC. et al.(2018): Ancient Fennoscandian genomes reveal origin and spread of Siberian ancestry in Europe. Nature Communications, 9, 5018.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-07483-5
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ネアンデルタール人と現生人類の複数回の交雑

2018/11/27 17:00
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の交雑回数に関する研究(Villanea, and Schraiber., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。非アフリカ系現代人は全員、ネアンデルタール人から遺伝的影響を受けています。当初は、非アフリカ系現代人の各地域集団において、ネアンデルタール人からの遺伝的影響にほとんど違いはないと推定されたことから、非アフリカ系現代人の祖先集団が、ヨーロッパ・東アジア・オセアニアなど各地域集団に分岐する前に1回、ネアンデルタール人と交雑した、と推測されていました。しかしその後、非アフリカ系現代人でも、ヨーロッパ系も含む西ユーラシア系よりも、東アジア系の方がゲノムに占めるネアンデルタール人由来と推定される領域の割合が高い、と明らかになり、その割合は最近では、西ユーラシア系は1.8〜2.4%、東アジア系は2.3〜2.6%と推定されています(関連記事)。

 この理由についてはさまざまな仮説が提示されています。たとえば、ネアンデルタール人由来の遺伝子のなかには、ヨーロッパでは有害だったものの東アジアでは中立的に作用したものがあるとか、東アジア系現代人の祖先集団はヨーロッパ系現代人の祖先集団よりも強いボトルネック(瓶首効果)を経験したので、遺伝的浮動により有害な対立遺伝子を効果的に除去する仕組みが作用しにくかったとか、東アジア系現代人の祖先集団とネアンデルタール人の間に(非アフリカ系現代人全員の祖先集団とネアンデルタール人との交雑の後の)追加の交雑があった、とかいうような仮説です(関連記事)。また、ヨーロッパ系現代人の祖先集団が、まだ化石の確認されていない仮定的な存在(ゴースト集団)で、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていなかったと推測される「基底部ユーラシア人」と交雑したからだ、との仮説(希釈仮説)も提示されています(関連記事)。

 本論文はこの理由について、ヨーロッパ系現代人と東アジア系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来と推定される領域を比較し、模擬実験と機械学習の手法を用いて、5通りの仮説を検証しました。それは、ネアンデルタール人と現生人類の間の交雑に関して、1回のみ説、東アジア系のみが複数回説、東アジア系とヨーロッパ系がともに複数回説、交雑は1回のみでヨーロッパ系に「希釈」が起きたとする説、東アジア系とヨーロッパ系がともに複数回交雑して「希釈」も起きたとする説です。その結果、最も可能性が高いと推測されたのは、ヨーロッパ系現代人および東アジア系現代人双方の祖先集団で複数回の交雑があった、とする仮説でした。また、「希釈」が起きたとしても、その影響は小さかった、とも推測されています。ただ、東アジア系現代人のゲノムのネアンデルタール人由来と推定されている領域の中には、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)由来のものがあるかもしれません。そのため、ネアンデルタール人と現生人類との追加の交雑を誤認してしまう可能性もあります。本論文は既知のデータを利用しつつこの懸念にも対処し、完全に誤分類を避けられたとは信じていないものの、ネアンデルタール人と現生人類の追加の交雑を誤認するほどの分類の間違いはないと思う、と主張しています。

 デニソワ人と現生人類との複数回の交雑が指摘されているように(関連記事)、後期ホモ属において異なる系統間の交雑は一般的でした。現生人類とネアンデルタール人の交雑に関しても、現代人への遺伝的影響はほとんど残っていないと推定されていますが、(おそらくは)ヨーロッパで追加の交雑があった、と推測されています(関連記事)。本論文の見解が妥当だとすると、ヨーロッパにおいても複数回の交雑があり、その中には現代人に影響を残しているものもあるのではないか、と考えられます。

 本論文は、ヨーロッパ系現代人と東アジア系現代人の祖先集団がそれぞれ、ネアンデルタール人と追加の交雑をした可能性が高い、と明らかにしましたが、なぜ東アジア系現代人の方がネアンデルタール人由来のゲノム領域は多いのか、という問題は解決できませんでした。本論文は、ユーラシアの現生人類と交雑したネアンデルタール人の集団は、比較的密接に関連していたに違いない、と示唆します。これは、ネアンデルタール人の長期にわたる小さな有効人口規模という有力な推論(関連記事)と整合的です。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の間の遺伝子流動は断続的かつ継続的ではあるものの、やや地理的に制限されていた可能性が高い、と推測しています。非アフリカ系現代人集団間でネアンデルタール人の遺伝的影響がわずかながら異なっている理由は、おもにそれらの祖先集団がどのくらい長く該当地域でネアンデルタール人と共存していたかを反映しているかもしれない、と本論文は指摘しています。この分野の研究の進展は目覚ましく、今後より詳細で説得力のある見解が次々と提示されていくでしょうから、できるだけ最新の動向を追いかけていきたいものです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ネアンデルタール人と初期人類との交雑が評価された

 現代の東アジア人とヨーロッパ人において、ネアンデルタール人のDNA断片の大規模な遺伝子解析が行われ、解剖学的現生人類の祖先とネアンデルタール人が複数の時点で確かに交雑していたことを明らかにした論文が、今週掲載される。

 アフリカから拡散した解剖学的現生人類は、ユーラシア西部でネアンデルタール人と遭遇した。この遭遇は、現代の非アフリカ人集団のゲノムに痕跡を残した。解剖学的現生人類のゲノムには、ネアンデルタール人の要素が約2%含まれているのである。当初、現生人類とネアンデルタール人との間の交雑事象は1回だけであったと考えられていたが、東アジア人においてネアンデルタール人祖先の割合が、ヨーロッパ人よりも12〜20%高いという知見から、遭遇は複数回であった可能性が示唆されていた。

 Fernando VillaneaとJoshua Schraiberは、現生人類ゲノムの大規模なデータセットにおいて、東アジア系の人々とヨーロッパ系の人々の、ネアンデルタール人由来DNAのパターンに見られる非対称性を分析した。そして、異なる回数の交雑事象に関して解剖学的現生人類のゲノムに対するネアンデルタール人DNAの寄与をシミュレーションし、これらのパラメーターの多い複雑なモデルを機械学習の手法を用いて検討した。その結果、現生人類ゲノムに見られたネアンデルタール人由来DNAのパターンは、ネアンデルタール人集団と、東アジア人集団とヨーロッパ人集団の両方との間の複数回の交雑事象によって最もよく説明される、と結論付けられた。

 著者たちは、現生人類とネアンデルタール人との複数回の遭遇は、異なるヒト族集団の間でたびたび複雑な相互作用が生じていたという新たな見方に符合する、と結んでいる。



参考文献:
Villanea FA, and Schraiber JG.(2018): Multiple episodes of interbreeding between Neanderthal and modern humans. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0735-8
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トリュフのゲノム解析

2018/11/26 16:39
 トリュフのゲノム解析に関する研究(Murat et al., 2018)が公表されました。トリュフは胞子が詰まった菌類の子実体で、植物の根で成長します。トリュフを作る菌種は100回以上独立して進化しており、主要な多肉質の菌類のほぼ全てに見られますが、トリュフの生活様式の進化に関しては未解明の問題も残っています。この研究は、珍重されているピエモンテ・白トリュフ(Tuber magnatum)とバーガンディー・トリュフ(Tuber aestivum)に加えて、砂漠トリュフ(Terfezia boudieri)と豚トリュフ(Choiromyces venosus)のゲノムの塩基配列を解読し、既知のペリゴール・黒トリュフ(Tuber melanosporum)やトリュフを作らない菌類のゲノムと比較しました。

 その結果、トリュフ種は分岐してから数億年にわたって別々に進化してきたにもかかわらず、種間で予想外の遺伝的類似性が見いだされました。たとえば、植物との共生や、土壌から栄養素を取り込む能力に関係する遺伝子が共通していました。また、トリュフ種では、共生する植物細胞壁の分解に他の菌類が用いている遺伝子群は限られている、とも明らかになりました。一方でトリュフ種は、香り高い揮発性有機化合物を産生する遺伝子の豊富なレパートリーを有しており、動物(ブタやトリュフ犬など)を誘引する刺激的な芳香を発してトリュフの胞子を散布させています。この研究は、「1000 Fungal Genomes Project」の一環として行なわれ、このプロジェクトは、5年以内に菌類1000種のゲノム塩基配列を解読し、系統樹上最大級の枝に関する理解の空白を埋めるのが目標とのことです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


トリュフの芳香の秘密は遺伝子に

 4種のトリュフのゲノムについて報告する論文が、今週掲載される。この知見は、世界有数のかぐわしく高価な食物の遺伝的基盤を明らかにしている。

 トリュフは、胞子が詰まった菌類の子実体であり、植物の根で成長する。トリュフを作る菌種は、100回以上独立して進化しており、主要な多肉質の菌類のほぼ全てに見られるが、トリュフの生活様式の進化に関しては重要な疑問が残されている。

 Francis Martinたちは今回、珍重されているピエモンテ・白トリュフ(Tuber magnatum)とバーガンディー・トリュフ(Tuber aestivum)に加え、砂漠トリュフ(Terfezia boudieri)と豚トリュフ(Choiromyces venosus)のゲノムの塩基配列を解読した。これらのゲノムを、既知のペリゴール・黒トリュフ(Tuber melanosporum)やトリュフを作らない菌類のゲノムと比較した結果、トリュフ種は分岐してから数億年にわたって別々に進化してきたにもかかわらず、種間で予想外の遺伝的類似性が見いだされた。例えば、植物との共生や、土壌から栄養素を取り込む能力に関係する遺伝子が共通していた。また、トリュフ種では、共生する植物細胞壁の分解に他の菌類が用いている遺伝子群が限られていることも明らかになった。一方でトリュフ種は、香り高い揮発性有機化合物を産生する遺伝子の豊富なレパートリーを有しており、動物(ブタやトリュフ犬など)を誘引する刺激的な芳香を発してトリュフの胞子を散布させている。

 この研究は、「1000 Fungal Genomes Project」の一環として行われたものであり、このプロジェクトでは、5年以内に菌類1000種のゲノム塩基配列を解読して、系統樹上最大級の枝に関する理解の空白を埋めることを目指している。



参考文献:
Murat C. et al.(2018): Pezizomycetes genomes reveal the molecular basis of ectomycorrhizal truffle lifestyle. Nature Ecology & Evolution, 2, 12, 1956–1965.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0710-4
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文化変容・継続と遺伝的構成の関係

2018/11/25 18:55

 古代DNA解析が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。この問題については、以前にも農耕の起源と拡散との関連で述べました(関連記事)。文化変容が、時には置換とも言えるような、その担い手である人類集団の遺伝的構成の大きな変化を反映している場合もあれば、文化変容はおもに文化のみの伝播で、その担い手はさほど変わらない場合もあります。逆に文化的継続は、その担い手の遺伝的構成の継続を反映している場合が多いのでしょうが、そうとは限らないかもしれません。たとえば、ユーラシア東部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代にかけての考古学的連続性は、人類集団の遺伝的連続性を反映しているのではなく、外来の人類集団による置換でも起きることかもしれません(関連記事)。まあこれは、種の水準で異なる可能性の高い人類集団間のことなので、以下に述べていく事例とは異なる、と言えるかもしれませんが。

●担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容
 ヨーロッパにおける農耕の拡散はアナトリア半島からの移住民によるものですが、全面的な置換ではなく、在来の狩猟採集民集団と外来の農耕民との交雑が進展していき、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。ヨーロッパにおいては、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団が大きな文化的・遺伝的変容をもたらした、とされていますが、その度合いは地域により異なり、イベリア半島と中央ヨーロッパでは遺伝的影響が限定的だったのにたいして、ブリテン島ではほぼ全面的な置換が生じたようです(関連記事)。レヴァント南部では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代へと至る過程で、文化の変容が住民の遺伝的構成の大きな変化を伴っている、と明らかになっています(関連記事)。

●担い手の遺伝的継続を伴う文化変容
 西アジアにおいては、少なくともレヴァント南部・ザグロス・アナトリアの3地域では、農耕社会への移行の担い手は在来の狩猟採集民集団と推測されています(関連記事)。アフリカ北西部でも、少なくとも一部の地域では、狩猟採集社会から農耕社会への移行にさいして担い手の遺伝的構成は大きく変わらなかった、と推測されています(関連記事)。ユーラシア東方草原地帯の牧畜の始まりも、おもに在来集団による文化受容と推測されています(関連記事)。現代日本人であれば、日本の近代化における大きな文化変容と遺伝的継続性の事例をすぐ想起するでしょうか。

●担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続
 想定しにくい事例ですが、担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容の事例でも、外来集団による先住民集団の文化の一部の継承は、珍しくなかったと思われます。ここでは、そうした一部の要素ではなく、最重要とも言える言語の継続性を想定しています。バヌアツの現代人の遺伝的構成ではパプア人集団の強い影響が見られますが、言語はオーストロネシア諸語です。最初期のバヌアツ人は遺伝的にはオーストロネシア諸語集団で、パプア人集団の遺伝的影響がほとんど見られません。つまり、バヌアツでは、遺伝的には全面的な置換に近いことが起きたにも関わらず、言語は最初期の住民のものである可能性が高い、というわけです(関連記事)。その理由については不明ですが、他の地域でも同様の事例は想定されます。たとえば縄文時代の日本列島の住民の遺伝的影響は、現代日本人では15%程度と大きくなく、弥生時代以降に置換に近いことが起きた、と言えるかもしれません。しかし、弥生時代以降に日本列島に渡来してきた集団は、一度に大量に移住してきたのではなく、何度かの大きな波はあったとしても、長期にわたる少数の集団で、後に人口増加率で遺伝的影響力を高めていった、と考えられますから、バヌアツの事例からも、言語も含めて縄文時代の文化が、後の時代に強く継承されていった可能性は低くないと思います(関連記事)。もちろん、現代日本語は弥生時代以降に渡来してきた集団の言語が主要な起源となっており、ユーラシア東部では日本語と近縁な言語が消失した、という可能性もじゅうぶん考えられます。文字資料が期待できない以上、この問題の重要な手がかりとなるのは古代DNA解析で、日本列島も含めてユーラシア東部における古代DNA研究の進展が期待されます。またそれにより、中国、とくに華北において、文字文化の継続性と大きな遺伝的変容が明らかになるのではないか、とも予想しています。
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大河ドラマ『西郷どん』第44回「士族たちの動乱」

2018/11/25 18:52
 下野した西郷隆盛(吉之助)は鹿児島で穏やかな日々を送っていましたが、桐野利秋(中村半次郎)たちも隆盛を追って下野します。桐野たちは隆盛に、政府に復帰するよう懇願しますが、桐野たちに政府に留まるよう伝えていた隆盛は不機嫌で、桐野たちを追い返します。その後も、薩摩藩出身者たちが隆盛を慕って次々と下野しますが、隆盛の妻の糸は、隆盛を動かそうとする桐野たちを追い返します。新政府への不満は充満しており、岩倉具視も襲撃されます。木戸孝允(桂小五郎)は、鹿児島の不平士族の決起を懸念しますが、利通は、隆盛は決起しない、と断言します。

 そんな中、佐賀の乱が勃発し、政府軍に敗れた江藤新平たちは鹿児島の西郷宅を訪ねます。江藤は隆盛に決起を促しますが、自分は鹿児島からどう政府を支えるべきか考えている、と言って江藤の要請を拒絶します。江藤が斬首されて首を晒されたことから、鹿児島では下野した士族たちの間で政府への不満が高まります。隆盛は、不平士族の暴発を抑えるため、士族の学校を設立しようとして、鹿児島県令の大山綱良(格之助)に支援を依頼します。なおも、隆盛の政府復帰を懇願する桐野でしたが、逡巡したすえ、士族たちの学校(私学校)に加わります。

 今回は、不平士族にどう対処するのか、下野した隆盛と政府の中心人物となった利通の対応を中心に、隆盛を慕っていた薩摩藩出身士族たちの異なる選択が描かれました。川路利良は政府に残る一方で、桐野や村田新八は下野して隆盛と共に歩む決断を下します。桐野と川路の親交はこれまでにも少し描かれていましたが、西南戦争へと向かう中で、活かされるのでしょうか。全体的には、大河ドラマの主人公らしく、隆盛を美化する話になっている感は否めませんが、まあ仕方のないところかな、とは思います。問題なのは、利通の描写が安っぽい悪役のようになってしまっているところでしょうか。今後、この評価が覆るような話になればよいのですが、あまり期待できそうにはありません。
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大相撲九州場所千秋楽

2018/11/25 17:45
 今場所は横綱の白鵬関と鶴竜関が初日から休場となり、大関の栃ノ心関と関脇の逸ノ城関に期待していたのですが、両者ともに序盤から負けが込み、逸ノ城関は6勝9敗と負け越し、栃ノ心関は8勝7敗と勝ち越すのがやっとでした。逸ノ城関は、白鵬関が休場なのでのびのびと相撲をとれるのかと思っていたら、のびのびしすぎて気合が入らなかったのか、初日からずっと内容が悪く、先場所同様、終盤に持ち直して大きく負け越すことは避けられましたが、千秋楽の内容は、とくに立ち合いがたいへん悪く、本当に残念な結果に終わりました。白鵬関と鶴竜関も、もう毎場所出場して優勝争いに絡むだけの力はなさそうですから、逸ノ城関には大関、さらには横綱を目指してもらいたいものですが、現状に満足しているのでしょうか。まあ、そうだとしても個人の選択なので仕方のないところですが、せっかく素晴らしい才能を有しているのに、もったいないと思います。栃ノ心関は、場所前の状態は悪くなかったと思うのですが、白鵬関と鶴竜関が休場し、優勝の好機ということで空回りしてしまった感もあり、来場所の巻き返しを期待しています。今場所は、逸ノ城関と栃ノ心関の不振で個人的には不愉快な場所となり、9日目から14日目までは、より大きな画面のパソコン用モニターではなく、スマホで視聴を続けました。

 白鵬関と鶴竜関が初日から休場となり、大関陣営も序盤から星を落としていったので、大混戦が予想されましたが、千秋楽まで優勝争いに残ったのは、2敗の高安関と貴景勝関でした。どちらが優勝しても初優勝となるわけですが、まず貴景勝関が錦木関と対戦し、押し込まれる場面も一瞬あったものの、すぐに押し返してはたき込みで勝ち、2敗を守りました。次に高安関が御嶽海関と対戦し、押し込まれて残したものの、苦しい体勢が続き、それでもじょじょに立て直して出たのですが、掬い投げで敗れて、貴景勝関が初優勝を果たしました。高安関は、もう少し我慢すべきだったのでしょうが、貴景勝関がすでに勝っていたので、焦ったのでしょうか。御嶽海関は今場所不振で負け越し、大関昇進は完全に白紙に戻ったのですが、千秋楽結びの一番で意地を見せました。貴景勝関は来場所大関昇進に挑むことになりますが、現在の横綱・大関陣6人のうち5人が30代ですから、まだ22歳の貴景勝関にかかる期待は大きいと思います。何とか、毎場所優勝争いに絡むまで成長し、やがては横綱に昇進してこれからの大相撲を支えてもらいたいものです。

 稀勢の里関は初日から4連敗で、5日目から休場となりました。稀勢の里関は、場所前には先場所より好調だと伝えられ、優勝を狙うと宣言していましたが、なんとも悲惨な結果に終わりました。確かに、場所前の調子は先場所よりずっとよかったのでしょうし、先場所はそれでも10勝5敗でしたから、白鵬関と鶴竜関が不在ならば優勝も狙える、と稀勢の里関は本気で考えていたのでしょう。しかし、稀勢の里関の先場所の相撲内容はあまりにも悪く、それでも必死の相撲で何とか勝ち続けましたが、今場所は先場所よりも好調ということで、油断もあったのだと思います。稀勢の里関によると、初日の貴景勝関との取り組みで右膝を負傷し、力を出せなかったとのことですが、本当にそうならば、いかに一人横綱の場所になったとはいえ、2日目から休場すべきだったと思います。じゅうぶん回復していないまま出場し、途中休場を繰り返したことから学ばなかったのでしょうか。稀勢の里関は器が小さく意固地になっているのかもしれませんが、そうした点も含めて、本当に横綱に相応しくない、と思います。早くも稀勢の里関は来場所(初場所)休場するのではないか、とも言われていますが、初場所にせよ春場所にせよ、次に出場した場所では進退がかかることになります。まあ、相撲協会は稀勢の里関に甘いので、次に出場した場所で勝ち越せば、もう1場所様子を見る、ということになりそうですが。
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第38回ジャパンカップ結果

2018/11/25 16:15
 東京競馬場ではジャパンカップが行なわれ、圧倒的な1番人気となった三冠牝馬のアーモンドアイが2着のキセキに1馬身3/4差をつけて完勝しました。しかも、2分20秒6のレコード勝ちで、快挙だと思います。この強さならば、来年はアーモンドアイの凱旋門賞挑戦に期待する競馬愛好者も少なくないかもしれませんが、今回は恵まれた感もあります。まず、古馬牡馬では最強と思われるレイデオロが出走していませんでした。率直に言って、ルメール騎手に合わせたレース選択といった感じで、好ましい状況ではないと思います。さらに、展開に恵まれた感もあり、馬場状態を考えたらやや遅い流れの中で、アーモンドアイは4番手〜3番手につけて直線で楽に抜け出し、逃げたキセキも3着のスワーヴリチャードに3馬身半差をつけて2着に粘りました。また、アーモンドアイへのマークもきつくはなかったと思います。アーモンドアイは3歳牝馬ということで斤量でも恵まれていました。

 ただ、こうした恵まれた点を考慮に入れても、たいへん強い勝ち方だったことは間違いなく、アーモンドアイはおそらく現役最強馬なのでしょう。とはいえ、アーモンドアイが凱旋門賞で勝てるかとなると、もちろん相手関係もありますが、凱旋門賞はジャパンカップよりもずっと時計のかかる馬場なることが多いだけに、かなり疑問です。アーモンドアイが海外の大レースに出走するととしても、時計の出やすい中距離が望ましいと思います。私も含めて競馬愛好者の中には凱旋門賞幻想に囚われている人が少なくないでしょうし、私も早く日本馬に凱旋門賞を勝ってもらいたい、とは思っています。競馬関係者の中にも、凱旋門賞幻想に囚われている人はいるかもしれませんが、アーモンドアイのレース選択に関しては、そうした声に惑わされることなく、適性を考慮してもらいたいものです。
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日本と韓国におけるイネの遺伝的多様性の減少

2018/11/25 12:58
 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、日本と韓国におけるイネの遺伝的多様性の減少に関する研究(Kumagai et al., 2016)が報道されました。栽培イネ(Oryza sativa)は、コムギやトウモロコシとともに、現代世界における最重要作物です。しかし、イネの品種のうち90%を占めるジャポニカとインディカの起源と栽培化の歴史は、長年の研究にも関わらず、未解明なところが多分にあります。一般的には、ジャポニカ種は日本列島・朝鮮半島・中国北部から構成される東アジア北部で独占的に栽培されてきました。東アジア北部でのコメの生産・消費のほとんどはジャポニカ種で、インディカ種は例外的です。

 ジャポニカ種とインディカ種は野生種(Oryza rufipogon)から栽培化された、と考えられています。ジャポニカ種とインディカ種に関しては、その栽培化が単一起源なのか、複数起源なのか、議論されてきました。複数起源説では、ジャポニカ種とインディカ種は野生種の異なる系統から独自に栽培化され、栽培化の地理的中心は異なる、と想定されています。単一起源説では、ジャポニカ種またはインディカ種が最初に栽培化され、他方が野生種と交雑した、と想定されます。じゅうらいのゲノム規模の解析では、相互に矛盾しているように思える異なる結論が提示され、イネの栽培化に関する議論はまだ続いています。

 こうした状況でイネの栽培化の歴史の解明に重要なのは、古代の炭化したイネの遺骸です。炭化したイネ遺骸におけるジャポニカ種とインディカ種の区分は、両者を区分する形態的特徴(長さや幅など)が連続的であることや、未成熟の種子は成熟した種子と形態が異なることや、炭化したイネは収縮することがあることから、困難です。そのため、古代のジャポニカ種とインディカ種の区分には、DNA解析が重要となります。

 本論文はまず、現代のイネのDNA解析から、ジャポニカ種とインディカ種の系統関係を提示しています。本論文の解析結果でも、野生種は栽培種よりも遺伝的多様性が高い、と改めて確認されました。また栽培種では、インディカ種の多様性はジャポニカ種よりも10倍高い、と明らかになりました。ジャポニカ種に関しては、以前の研究でボトルネック(瓶首効果)による遺伝的多様性の低下が指摘されています。ジャポニカ種とインディカ種の起源については、それぞれ異なる地域の野生種(Oryza rufipogon)と遺伝的に近縁と明らかになりました。ジャポニカ種は東アジアの野生種、インディカ種は東南アジア(大陸部および島嶼部)と南アジアの野生種です。つまり、複数起源説の方が妥当だろう、というわけです。ジャポニカ種とインディカ種の原種は異なっていることになり、その異なる原種間の推定分岐年代は440000〜86000年前です。また、温帯種と熱帯種も含めてジャポニカ種が単一の野生種起源と推測されるのにたいして、インディカ種には少なくとも3系統の野生種起源が想定されています。

 イネの古代DNA解析では、日本と韓国の遺跡で発見された炭化米が標本として用いられました。日本では奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡(2400〜2100年前頃)と福島県河沼郡会津坂下町の陣が峯城遺跡(950〜910年前頃)、韓国では朝鮮半島中部東岸のサチョンリ(Sacheonri)遺跡(2800〜2700年前頃)と朝鮮半島中部西岸の楽浪(Lelang)遺跡(2200〜2000年前頃)です。

 古代のイネのDNA解析の結果、日本列島と朝鮮半島では、ジャポニカ種だけではなく、インディカ種もしくは非ジャポニカ種も栽培されていた、と明らかになりました。サチョンリ遺跡で報告されている1標本はジャポニカ種ですが、楽浪遺跡の3標本のうち1標本はインディカ種で残り2標本は非ジャポニカ種です。これは、2200〜2000年前頃の朝鮮半島中部西岸では、インディカ種が一般的に栽培されていたか、当時は漢帝国の支配下だったので中国からもたらされた可能性を示唆しています。日本の2ヶ所の遺跡では、いずれも標本の多くはジャポニカ種でしたが、非ジャポニカ種も確認されています。日本においてインディカ種は14世紀から現在まで利用されてきた、との見解も提示されていますが、それは本論文における平安時代の陣が峯城遺跡の炭化米のDNA解析と整合的です。

 今後の課題は、日本のインディカ種や非ジャポニカ種がどのような品種だったのか、またどのようにもたらされたのか、ということです。そのためには、中国も含めて、東アジアや東南アジアの古代のイネのDNA解析がさらに必要となるでしょう。本論文は、東アジアでは2000年前頃以降、イネの品種・遺伝的多様性は減少しており、これは人為的ボトルネックだと指摘しています。上記報道では、近代化と市場価値の高い品種の選択を関連づけていますが、前近代において、冷害耐性などの観点から品種選択が続けられ、それが人為的ボトルネックとなった可能性も考えられます。本論文の成果はたいへん重要とはいえ、DNA解析された古代のイネはまだわずかなので、今後の課題は、年代と地域の範囲を拡大することです。それにより、東アジアにおけるイネの多様性の減少過程、さらには特定の品種がどのように朝鮮半島や日本列島へと伝わったのか、ということもより詳しく解明されていくでしょう。

 ネットでは、稲作は長江流域から日本列島へと直接伝わり、その後に日本列島から朝鮮半島へと伝わったことがDNA解析により確定した、というような見解が目につきます。そうした見解の前提の一つとして、韓国のイネは遺伝的多様性に乏しい、といった認識があるようです。しかし、2000年以上前には朝鮮半島や日本列島のイネの遺伝的多様性は現代よりもずっと高かったわけで、広範な年代・地域のイネの古代DNAを解析していく必要があるのだと思います。DNA解析技術、とくに古代DNAの解析はこの10年間で質・量ともに飛躍的に発展しており、10年以上前の古代DNA解析に基づいた知見を利用することには慎重でなければならない、と思います。まあ私も、稲作の起源と伝播についてはあまりにも不勉強なので、今後少しずつ知見を蓄積していかねばなりません。


参考文献:
Kumagai M. et al.(2016): Rice Varieties in Archaic East Asia: Reduction of Its Diversity from Past to Present Times. Molecular Biology and Evolution, 33, 10, 2496-2505.
https://doi.org/10.1093/molbev/msw142
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馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』

2018/11/25 07:05
 平凡社新書の一冊として、平凡社より2018年9月に刊行されました。文化大革命(文革)は一般的には、中国の国内の出来事として語られることが多いでしょう。文革は中国指導部の路線・権力闘争であり、それに大衆が動員された、というのが現代日本社会における一般的な文革像だと思います。しかし本書は、文革が世界に及ぼした影響と、文革の国際的契機を強調します。とくに本書が重視しているのは1965年の9.30事件で、その前後のインドネシア情勢が、中国との関係を中心に詳しく描写されています。9.30事件の余波についてはほとんど知らなかったの、勉強になりました。

 文革の国際的契機の前提となるのが、中国が当時国際的に孤立していたことがあります。中国は冷戦構造のなかで、アメリカ合衆国をはじめとして日本や西ヨーロッパ諸国など西側と対立していたばかりではなく、1950年代後半以降はソ連との対立も激化していき、当時の全主要国と対立関係にあった、とも言えるような状況でした。そんな中で、容共的なスカルノ大統領のインドネシアは、中国と親密な関係を築いていました。それが、現在でも未解明なところが多分に残っている9.30事件により、インドネシアは強硬な反共路線に進み、中国との外交関係が停止するに至ります。

 また本書は、文革の国際的契機として、1966年前半における中国共産党と日本共産党との決裂も重視しています。中国共産党は日本共産党を反ソ連同盟に組み込もうとしましたが、ソ連共産党との友好関係も維持しようとした日本共産党はその提案を拒否し、この後長く、中国共産党と日本共産党の敵対的関係が続くことになります。インドネシアと日本共産党との関係悪化により、毛沢東をはじめとして後に文革を推進した勢力は、国家・政党という既存の組織に頼らない権力闘争を選択したのかもしれません。毛沢東は文革の前に長く北京を離れていたのですが、日本共産党に妥協的な北京の(当時の)主流派たちの態度を見て、最終的に奪権闘争の決断を下したようです。

 また、毛沢東が奪権闘争にさいして大衆動員方式を採用したことについても、9.30事件という国際的契機があったようです。9.30事件の失敗は、インドネシア共産党や軍内部の共産主義勢力による「宮廷クーデター」的な側面が多分にあり、広範な支持を背景にしたものではなかった、という毛沢東たちの分析があり、それを踏まえての文革の方式だったようです。本書は、文革が中国のみならず、中国が革命を「輸出した」先でも、破壊と混乱をもたらしただけだった、と厳しい評価を提示しつつ、さまざまな問題を抱える現代社会において、「革命の亡霊」はまだ過ぎ去っていない、と指摘しています。本書は、私もほとんど意識してこなかった文革の世界史的意義について考えさせられる契機になり、私が不勉強ということもありますが、収穫の多い一冊となりました。
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現生人類の初期の拡散

2018/11/24 08:12
 取り上げるのが遅れてしまいましたが、現生人類(Homo sapiens)の初期の拡散に関する研究(Rabett., 2018)が公表されました。現生人類の出アフリカに関しては、回数・年代・経路などをめぐって議論が続いています(関連記事)。現時点での遺伝学的証拠からは、非アフリカ系現代人の主要な祖先は比較的小規模な単一の集団で、出アフリカの回数は1回のみで、その年代は6万〜5万年前頃との見解が有力だと思います。非アフリカ系現代人は全員、わずかながらネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から遺伝的影響を受けていますが、その交雑の年代は54000〜49000年前頃と推定されているので(関連記事)、その頃までにアフリカからユーラシアへと拡散した出アフリカ現生人類集団が、レヴァントかその周辺でネアンデルタール人と交雑し、後にアフリカ外の各地域集団へと分岐していった、と考えられます。また、現代の東南アジア人とオーストラリア先住民の遺伝的系統はアフリカ系現代人と比較して同程度の近縁性なので、考古学的証拠からも、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(59000〜29000年前)前半に、アフリカからユーラシア南岸沿いにアラビア半島と南アジアを経て、急速に東南アジアとオーストラリアへと現生人類は拡散した、という南岸拡散仮説が有力と考えられるようになってきました。

 しかし、この非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類集団が存在することは、1980年代後半から指摘されていました。その有名な事例がイスラエルで発見されたスフール(Skhūl)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡で、10万年前頃の現生人類遺骸が発見されています。こうした現生人類の初期の出アフリカは、長らく「失敗した」とみなされてきました。温暖期に北上してレヴァントまで拡散したものの、近隣のネアンデルタール人に阻まれてレヴァントより先には拡散できず、寒冷期に絶滅したかアフリカに「撤退」した、というわけです。

 しかし近年では、この非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前となるだろうMIS5(126000〜74000年前頃)に、レヴァントからさらに東方への現生人類拡散を示す証拠が、アラビア半島・南アジア・東南アジア・東アジア南部・オーストラリア(更新世の寒冷期には、タスマニア島・ニューギニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)で蓄積されつつあります。アラビア半島では、現生人類の所産と考えられている10万年以上前の石器が発見されており(関連記事)、本論文刊行後には、8万年前頃の現生人類遺骸に関する論文が公表されました(関連記事)。南アジアでもMIS5の現生人類と関連するかもしれない石器が指摘されています(関連記事)。

 さらに東方でも、現生人類の初期の拡散を示す証拠が蓄積されつつあります。ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタムパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡の初期現生人類頭蓋に関しては、6万年前頃との年代測定結果も得られていますが、不確実性は否定できません(関連記事)。スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡では73000〜63000年前頃の現生人類の歯が(関連記事)、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では65000年前頃の現生人類の所産と思われる人工物が発見されています(関連記事)。東アジア南部では、中華人民共和国湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)で12万〜8万年前頃の現生人類的な歯が発見されています(関連記事)。

 ただ、これらの現生人類の痕跡については、その出土位置や年代測定された試料との関連などに疑問が呈されており、もっと年代が下るかもしれません(関連記事)。その意味では、これらの現生人類の痕跡は、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカを反映している可能性もあるでしょう。しかし、これらの現生人類の初期の拡散の証拠が(ほぼ完全に)否定されたわけでもなく、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカよりも前となるMIS5の、現生人類の南アジア・東南アジア・東アジア・オーストラリア大陸への拡散を反映している可能性も低くはありません。

 本論文も、その可能性が高いことを示唆し、そのうえで、「進化的成功」を現代へと続く遺伝学的・人口統計学的継続性のみで判断すべきなのか、と問題提起しています。安易に初期現生人類の「失敗した」出アフリカと考えるべきではない、というわけです。また本論文は、ネアンデルタール人や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)と現生人類との複雑な交雑が明らかになってきたように、じゅうらいは「失敗」とみなされてきた出アフリカ初期現生人類集団が、非アフリカ系現代人に遺伝的影響を及ぼしている可能性も指摘しています(関連記事)。

 非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、現代人への遺伝的影響は小さいか皆無に近い現生人類集団が東南アジアやオーストラリア大陸にまで拡散していたのか否かはともかく、現生人類の東南アジアやオーストラリア大陸への拡散が、ユーラシア南岸沿いだった可能性は高いでしょう。しかし本論文は、更新世のアラビア半島・南アジア・東南アジア・オーストラリア大陸の現生人類のものと思われる遺跡において、食性には海洋資源利用の証拠がほとんど見られない、と指摘します。これは、更新世寒冷期には現在より海水準が低かったことも影響しているかもしれません。これらの地域の最初期の遺跡、とくに現生人類(と思われる)遺骸を含む遺跡は、かなり内陸部に位置します。民族誌的証拠からは、熱帯地域の採集民の食料採集はおおむね30kmまでの範囲内なので、沿岸からそれ以上の距離が離れている東南アジアの更新世の遺跡で、海洋資源を食べていた証拠が見られないことは、当然なのかもしれません。この問題の解明は、海中考古学の発展を俟つ必要があるかもしれません。なお、更新世の東南アジアにおいても沿岸の集団と内陸部の集団との間に交流はあったようで、当時も今も海岸線から100km以上離れているような遺跡で、タカラガイの殻が発見されています。こうした貝殻は装飾品に用いられたのかもしれません。

 また本論文は、アラビア半島・南アジア・東南アジア・オーストラリア大陸における初期現生人類の拡散と現代人との関係について、DNAの保存条件に適していない低緯度の熱帯〜亜熱帯地帯であることから、古代DNA研究が中〜高緯度地帯よりもずっと遅れていることも指摘しています。そもそも条件面で不利なので、この問題の解決は困難なのですが、近年の古代DNA研究の目覚ましい進展を考えると、期待してしまいます。じっさい、更新世ではないとはいえ、メラネシアでは完新世の古代DNA研究が成功しつつあり(関連記事)、近いうちに低緯度の熱帯〜亜熱帯地帯でのDNA解析が成功する可能性は低くないかもしれません。


参考文献:
Rabett RJ.(2018): The success of failed Homo sapiens dispersals out of Africa and into Asia. Nature Ecology & Evolution, 2, 2, 212–219.
https://doi.org/10.1038/s41559-017-0436-8
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鮮新世〜更新世におけるアフリカ東部の大型草食動物の絶滅要因

2018/11/23 10:53
 鮮新世〜更新世におけるアフリカ東部の大型草食動物の絶滅要因に関する研究(Faith et al., 2018)が報道されました。アフリカの多様な草食大型哺乳類(体重1000kg以上)の絶滅に関しては、人類の影響が指摘されてきました。たとえば、世界規模で後期更新世以降の大型動物の絶滅を検証した研究は、5万年前頃以降のアフリカからの現生人類(Homo sapiens)の拡散にともない大型動物が絶滅していった、と推測していますが、アフリカではすでに125000年前の時点で、生態系から予想されるよりも大型動物は少なく、人類による長期的な影響の結果ではないか、と指摘しています(関連記事)。

 しかし本論文は、鮮新世〜更新世におけるアフリカの大型草食動物の絶滅を人為的要因で説明する見解は、まだ厳密に検証されたことはない、と指摘し、アフリカ東部における過去700万年間の大型草食動物の多様性の低下を調べました。これは、最初期の人類(候補)化石が発見された年代(関連記事)も含んでおり、アフリカ東部における大型草食動物の多様性の低下への人類の影響を検証するのに適した時間的範囲と言えるでしょう。

 分析の結果明らかになったのは、アフリカ東部における大型草食動物の多様性低下は、中新世には顕著ではなく、鮮新世の460万年前頃から始まる、ということです。しかも、大型草食動物の多様性の低下率は、460万年前頃以降、特定の時期に増大するのではなく、長期にわたって安定的でした。この低下率は、より洗練された道具を使い、狩猟も行なっていたのではないか、と言われるホモ・エレクトス(Homo erectus)の出現(190万年前頃)以降も変わりませんでした。アフリカ東部における大型草食動物の多様性低下は、人類の持続的な肉食と道具使用の少なくとも100万年以上前に始まり、その低下率は長期にわたって安定的だったことから、人為的影響が要因ではないだろう、との見解を本論文は提示しています。

 本論文は、アフリカ東部における大型草食動物の多様性低下の要因として、C4植物の拡大を挙げています。本論文は古気候データも調査し、大気中の二酸化炭素濃度の低下によりC4植物が増大した結果として、多くの大型草食動物が食資源として依存していた樹木環境が衰退し、逆に草原が拡大したことで、大型草食動物の多様性は低下していったのではないか、と推測しています。人類ではなく気候変動が、アフリカ東部における大型草食動物絶滅の要因だった、というわけです。

 また本論文は、アフリカにおける肉食獣の多様性低下の要因として、ホモ属が肉食の競合相手として加わったこともあるものの、大型草食動物の絶滅も要因だったのではないか、と推測しています。たとえば、現代には近縁種の存在しない剣歯虎のような更新世の肉食獣のいくつかの系統の食性は若い大型草食動物に特化しており、大型草食動物の絶滅は自らの絶滅の直接的要因になったのではないか、というわけです。もっとも本論文は、更新世以前のアフリカの生態系に人類が影響を及ぼさなかった、と主張しているわけではなく、過去30万年間の現生人類の行動に注目する必要性も指摘しています。

 人類の狩猟は200万年以上前までさかのぼるかもしれませんが、その対象は小型動物で、中型動物に関しては死肉漁りだった可能性が指摘されています(関連記事)。200万年以上前の人類の肉食については、評価の難しさも指摘されていますが(関連記事)、200万年前頃以降に人類というかホモ属が肉食への依存度を高めた可能性は、低くないと思います。ただ、人類が大型動物を恒常的に解体処理していた証拠は、現時点では50万年前頃以降となるでしょうから(関連記事)、少なくとも現生人類の出現する前のアフリカ東部においては、460万年前頃以降に始まる大型草食動物の絶滅に人類が及ぼした影響はかなり小さかったのではないか、と思います。人類出現以降の動物相の変化については、さらに対象となる地域・年代を拡大した、より詳細な研究の進展が期待されます。


参考文献:
Faith JT. et al.(2018): Plio-Pleistocene decline of African megaherbivores: No evidence for ancient hominin impacts. Science, 362, 6417, 938-941.
https://doi.org/10.1126/science.aau2728
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アフリカ南部の初期人類の化石記録の偏り

2018/11/22 18:31
 アフリカ南部の初期人類の化石記録の偏りに関する研究(Pickering et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。南アフリカ共和国ヨハネスブルグ市の北西にある洞窟群「人類のゆりかご」では、豊富な初期人類化石が発見されています。しかし、洞窟内の化石が保存されていた堆積層は崩落しており、層の秩序が乱れているため、これらの化石の正確な年代測定とその進化史の評価は困難です。また、アフリカ南部に関しては、アフリカ東部とは異なり、火山灰層による年代測定ができないことも、年代測定を困難としています。

 本論文は、ウラン・鉛年代測定法を用いて、「人類のゆりかご」の8ヶ所の洞窟にある、人類化石の出土した堆積層を取り囲む分厚い28のフローストーン(流華石)層の年代を提示しています。鍾乳石や石筍などの流華石は、洞窟内を流れる水に溶けていた鉱物が沈殿して形成され、おもに流水の多い湿潤期に成長します。ウラン・鉛年代測定法により、「人類のゆりかご」の流華石は、320万〜130万年前の6期間に成長した、と明らかになりました。具体的には、319万〜308万年前頃、283万〜262万年前頃、228万〜217万年前頃、212万〜200万年前頃、182万〜163万年前頃、141万〜132万年前頃と推定されています。これらの期間の気候は湿潤と推測されますから、その間の時期、たとえば307万〜283万年前頃は乾燥期と推測されます。

 本論文は、湿潤期には洞窟への流水が多くなって洞窟が少なくとも部分的には閉鎖状態になり、外部からの堆積物や人類遺骸が流入できなくなって、流華石の形成が途切れなく続いた一方で、化石記録に空白が生じた、と推測しています。一方、乾燥期には、植生被覆が少なくなり、表面侵食が進み、洞窟に外部の堆積物が流入して人類遺骸が洞窟内で保存された、と考えられます。つまり、「人類のゆりかご」の化石記録は乾燥期に偏っており、生息地と摂食行動の解明にも影響が及んでいるかもしれない、というわけです。

 「人類のゆりかご」のスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟で発見されたアウストラロピテクス属化石「リトルフット(StW 573)」は、本論文の提示する流華石の年代期間外の367万±16万年前と推定されており(関連記事)、これは宇宙線に曝されて初めて生成されるアルミニウム26-ベリリウム10に基づいています。しかし本論文は、リトルフットの年代は280万年前頃かもっと新しいのではないか、と指摘しています。また本論文は、アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)を乾燥期に位置づけていますが、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)やパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)や初期ホモ属は、湿潤期と乾燥期に存在年代がまたがっている、と指摘します。そのため本論文は、これらの初期人類種は、生態学的「万能家」だったか、湿潤期には「人類の揺り籠」地域から離れ、もっと後の乾燥期に戻ってきた、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】南アフリカのヒト族の化石記録が乾燥期に限定されることを示唆するフローストーン

 南アフリカ共和国の初期ヒト族の化石記録は、乾燥気候の時期に偏っていることを示唆する洞窟内堆積物の研究について報告する論文が、今週掲載される。今回の知見から、この化石記録には空白期間があり、そのためにこの地域の初期ヒト族に関する進化パターンが不明瞭になり、生息地と摂食行動の解明にも影響が及んでいる可能性のあることが示唆される。

 南アフリカでは、ヨハネスブルグの北西に位置する一連の洞窟(いわゆる「人類のゆりかご」)から、初期ヒト族の化石が最も大量に出土している。しかし、洞窟内の化石が保存されていた堆積層が崩落して層の秩序が乱れているため、これらの化石の年代測定を正確に行い、その進化史を評価することは困難なことが判明している。

 今回Robyn Pickeringたちの研究グループが解析対象にしたのは、化石が出土した堆積層を取り囲む分厚いフローストーン(流華石)で、そこから採取した微量の放射性同位元素を測定することで年代を決定できる。鍾乳石や石筍などのフローストーンは、洞窟内を流れる水に溶けていた鉱物が沈殿して形成される。Pickeringたちは、320万〜130万年前の6つの期間中にフローストーンが形成されたことを明らかにした。また、Pickeringたちは、これらの期間が湿潤期であり、フローストーンの形成をもたらす流水が多くなって洞窟が閉鎖状態になり、外部からの堆積物やヒト族の遺骸が流入できなくなったために、フローストーンの形成が途切れなく続いた一方で、化石記録に空白が生じたという考えを示している。

 これに対して、乾燥期に入ると、植生被覆が少なくなり、表面侵食が進み、洞窟に外部の堆積物が流入し、ヒト族の遺骸が洞窟内で保存されたと考えられる。Pickeringたちは、湿潤期には化石記録の空白が生じているものの、フローストーンから過去の気候変化に関する貴重な知見が得られると指摘している。



参考文献:
Pickering R. et al.(2018): U–Pb-dated flowstones restrict South African early hominin record to dry climate phases. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0711-0
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恐竜から始まった色付き卵

2018/11/22 18:29
 現生鳥類の色付き卵の起源に関する研究(Wiemann et al., 2018)が報道されました。現生の卵生有羊膜類(鳥類・爬虫類・卵生哺乳類)のうち、色付き卵を産むのは鳥類だけで、たとえば現生ワニ類は無地で白い卵を産みます。有色卵は鳥類の新機軸だと長年考えられてきましたが、最近の研究では、鳥類の色付き卵に用いられているプロトポルフィリン(赤褐色)とビリベルジン(青緑色)の色素と同じものが、特定の恐竜の卵殻化石において同定されました。しかし、鳥類が卵の着色法を祖先の恐竜から受け継いだのか、卵殻の着色法を独立して進化させたのかは明らかになっていません。

 この研究は、恐竜の全ての主要分類群の代表例が含まれる一連の卵殻化石をラマン分光法により分析し、鳥類の卵に色をもたらす2種類の色素の証拠を探しました。その結果、全てのマニラプトル類(羽毛恐竜であることが多い小型の二足歩行恐竜)の卵殻に保存されていた色素の痕跡が発見され、さらにその精密なマップの作製によって、点状や斑状のパターンがあり、卵の色模様の多様性は現生鳥類のそれに匹敵する、と明らかになりました。この研究は、これらの色素が現生鳥類の卵の色素と同じように恐竜の卵に沈着していた、と特定しました。

 これに対して、鳥類の近縁種の中では遠い関係にある鳥盤類(トリケラトプスなど)と竜脚類(ディプロドクスなど)の卵殻には色素沈着が見られず、これらの恐竜の卵は卵殻が化石化する過程で退色したわけではなく、もともと無地だったと確認されました。以上の知見を考え合わせると、色付き卵は、鳥に似た獣脚類においてたった一度の進化で生じ、これらの色素が現代まで続いている、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【進化】色付き卵は恐竜から始まった

 色付き卵はたった一度の進化によって生じたものであり、現生鳥類の卵殻の色素沈着法は、その祖先の恐竜の時にすでに成立していたことを報告する論文が、今週掲載される。

 現生有羊膜類(鳥類、爬虫類、卵生哺乳類)のうち、色付き卵を産むのは鳥類だけである。最近の研究で、鳥類の色付き卵に用いられている赤褐色と青緑色の色素と同じものが、特定の恐竜の卵殻化石において同定された。しかし、鳥類が卵の着色法を祖先の恐竜から受け継いだのか、卵殻の着色法を独立して進化させたのかは明らかになっていない。

 今回、Jasmina Wiemannたちの研究グループはこの問題に取り組むため、恐竜の全ての主要分類群の代表例が含まれる一連の卵殻化石をラマン分光法を用いて分析し、色素沈着の証拠を探した。その結果、全てのマニラプトル類(小型の二足歩行恐竜で、羽毛恐竜であることが多い)の卵殻に保存されていた色素の痕跡が発見され、さらにその精密なマップの作製によって点状や斑状のパターンがあることが判明した。Wiemannたちは、これらの色素が現生鳥類の卵の色素と同じように恐竜の卵に沈着していたことを特定している。

 これに対して、鳥類の近縁種の中では遠い関係にある鳥盤類(トリケラトプスなど)と竜脚類(ディプロドクスなど)の卵殻には色素沈着が見られず、これらの恐竜の卵は卵殻が化石化する過程で退色したわけではなく、もともと無地だったことが確認された。以上の知見を考え合わせると、色付き卵は、鳥に似た獣脚類においてたった一度の進化で生じ、これらの色素が現代まで続いていることが示唆される。


古生物学:恐竜の卵の色は単一の進化的起源を持つ

古生物学:恐竜の卵の色と模様

 マニラプトル類恐竜(羽毛をまとっていることの多い小型の二足歩行恐竜類で、鳥類を含む)の多くは、斑点模様のある卵を産んでいた。一方、鳥類との類縁関係がより遠い恐竜類(竜脚類や鳥盤類など)では卵にこうした模様の形成は認められず、また、現生ワニ類の卵は無地で白い。一部の恐竜の卵には色があったことを示したこれまでの研究結果を基に、今回J Wiemannたちは対象とする種数および解析技術の幅を広げ、卵殻の断片をラマン分光法によりマッピングすることで、鳥類の卵に色をもたらす2種類の色素であるプロトポルフィリン(赤褐色)とビリベルジン(青緑色)の分解生成物の存在を示している。現生の全ての卵生四肢類のうち、有色卵を産むのは鳥類のみである。この研究によって、卵の着色の起源がはるか昔にさかのぼることが明らかになった。今回用いられた技術は、化石証拠から恐竜の生活習性に関してさらに多くの情報を引き出す上で、極めて有用である可能性がある。

 鮮やかな色と斑点模様を有するクロウタドリの卵。今回、有色卵を産むという鳥類の特徴が、祖先である非鳥類型恐竜から受け継いだものであることが示された。



参考文献:
Wiemann J, Yang TR, and Norell MA.(2018): Dinosaur egg colour had a single evolutionary origin. Nature, 563, 7732, 555–558.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0646-5
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