デニソワ洞窟の堆積物のmtDNA解析

 シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Zavala et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。シベリア南部のデニソワ洞窟は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)だと初めて確認された遺骸が発見された有名な遺跡です(関連記事)。デニソワ洞窟ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸や、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の間に生まれた娘の遺骸も発見されています(関連記事)。

 デニソワ洞窟は、中期更新世から完新世にかけての層序系列の堆積物を含む、3ヶ所の空間で構成されています(主空間と東空間と南空間)。デニソワ洞窟の更新世堆積物では、骨と歯と炭の放射性炭素年代(5万年前頃以降)と堆積物の光学的年代(光ルミネッセンス年代測定法、30万年以上前)が得られています。主空間と東空間の光学的年代(図1a~c)は共通の時間枠で調整できますが、南空間では発掘が進行中で、層が暫定的にしか認識されていません。以下は本論文の図1です。
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 mtDNAと核DNAが8点の人類化石から回収されており、デニソワ人4個体(デニソワ2・3・4・8号)、ネアンデルタール人3個体(デニソワ5・9・15号)、上述のネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の間に生まれた娘(デニソワ11号)に分類できます。しかし、化石が少なすぎるので、人類居住の年代と順序の詳細な復元と、デニソワ洞窟で識別された早期中部旧石器時代(以下、eMP)と中期中部旧石器時代(以下、mMP)と初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の石器群と、特定の人類集団との関連づけができません。さらに、IUP層では2点のデニソワ人化石(デニソワ3・4号)が発見されているものの、現生人類遺骸は発見されていないので、IUPに関しては、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)と現生人類のどちらがIUP関連の装飾品や骨器を製作したのか、議論されています。

 デニソワ洞窟の堆積物のDNA保存に関する以前の予備的研究では、52点の標本のうち12点で非現生人類ホモ属のmtDNAが特定されました(関連記事)。本論文は、デニソワ洞窟の3空間の堆積物から、10~15cmの碁盤目状パターンで収集された728点の標本の分析結果を報告します。29万年以上前のものを含む全ての標本抽出された層の685点の標本で、古代の哺乳類のmtDNAが識別されました。これらのmtDNAには、古代DNAの特徴である脱アミノ化による置換が確認されました。この置換は年代がさかのぼるとともに著しく増加し、他の層への浸透がなかったことを示唆します。また、年代がさかのぼるにつれて、平均的なDNA断片長とmtDNAの数が大幅に減少することも確認されましたが、層間のバラツキは脱アミノ化の場合よりも大きく、環境の局所的違いに起因すると考えられます。


●古代の人類のmtDNA

 3空間ほぼ全ての層にわたる175点の標本で古代の人類のmtDNAが検出されました(図1a~c)。4点の標本はおもに1つのハプロタイプが存在する証拠を示し、80%以上の完全なmtDNAコンセンサス配列を復元するのに充分なmtDNA断片が得られました。東空間第11.4および第11.4/12.1層の標本E202・E213と主空間第19層の標本M65は、既知のmtDNAで構築された系統樹のネアンデルタール人とまとまり、具体的には、デニソワ5号および15号とメズマイスカヤ1号(Mezmaiskaya)とスクラディナI-4A(Scladina I-4A)です(図1d)。主空間第20層の標本M71のmtDNAはデニソワ人型で、デニソワ2号および8号の基底部に位置します。主空間のネアンデルタール人の最も完全なmtDNA配列(M65、再構築されたミトコンドリアゲノムの99%以上)は、遺伝的推定年代が14万年前頃(95.4%最高事後密度区間で181000~98000年前)で、第19層の堆積年代(151000±17000~128000±13000年前)と一致します。

 残りの171点の標本も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人に分類されました。その結果、ネアンデルタール人のmtDNAは3系統が区別されました。まず、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下 、SHと省略)の43万年前頃のネアンデルタール人系統で、デニソワ人と最も密接に関連しています。次に、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HST洞窟と省略)の12万年前頃のネアンデルタール人系統で、他の全てのネアンデルタール人のmtDNAの基底部に位置します。最後に、「典型的な」ネアンデルタール人のmtDNAで、他の全てのネアンデルタール人はこれに区分されます。

 古代の現生人類のmtDNAの存在は、現代人のDNA汚染の影響を軽減するため、脱アミノ化断片に分析を限定することにより評価されました。デニソワ人と典型的なネアンデルタール人のmtDNAはそれぞれ79点と47点の標本で、現生人類のmtDNAは35点の標本で識別されました。10点の標本で人類2集団のDNAが検出され、それは単一のライブラリ内の場合か、独立した下位標本から準備されたライブラリ全体にわたっている場合です。

 さらに、HSTと典型的なネアンデルタール人のmtDNAに共有されている分枝を裏づける人類のmtDNA断片を含む1標本(主空間第20層のM76の)が特定されましたが、どちらの分枝もそれらの系統を定義していません(図1d)。この兆候は、ネアンデルタール人とデニソワ人と古代もしくは現代の現生人類からのmtDNA断片の混合により作成できません。祖先化したネアンデルタール人のmtDNAとのシミュレーションに基づくと、この標本のmtDNAはこれまで知られていなかったネアンデルタール人のmtDNA系統の存在と一致しており、典型的なネアンデルタール人のmtDNA系統とは255000~230000年前頃に分岐し、それはHSTと典型的なネアンデルタール人のmtDNA系統の分岐の20000~45000年後になる、と推定されます。

 回収された最古の人類のmtDNAはデニソワ人に分類され、250000±44000年前に堆積が始まった主空間第21層に由来します。これは、デニソワ洞窟における人類の居住に関する最初期の遺伝的証拠を提供します。デニソワ2号はその下層となる第22.1層で発見されましたが、おそらく上層からの嵌入で、推定年代は194400~122700年前頃です(関連記事)。主空間と東空間のeMP層の標本223点のうち、50点はデニソワ人のmtDNAを含んでおり、ネアンデルタール人のmtDNAを含むのは3点だけで、それは全て主空間の第20層に由来します。この標本3点のうち2点(M174とM235)は典型的なネアンデルタール人のmtDNAを含んでおり、上の堆積物との小規模な混合が起きた可能性のある区画に由来します。もう1点の標本M76は第20層の中間に由来し、上述の未知のネアンデルタール人のmtDNA系統を有しています。

 これらの結果は、eMP石器群の最初の主要な製作者がデニソワ人で、170000±19000年以上前だったことを示します。この解釈と一致して、以前の予備的研究(関連記事)では、東空間のeMP第14層の堆積物標本でネアンデルタール人のmtDNAが検出されましたが、これは不正確な分類に起因しており、後に東空間の第11.4層のmMPに修正されました。本論文の結果も、ネアンデルタール人がeMPの末にデニソワ洞窟に初めて居住し、それ故にその後の段階でこれら石器群の製作に寄与した可能性がある、と示唆します。

 主空間と東空間のmMP 層(16万~6万年前頃)の173点の標本のうち40点で、ネアンデルタール人および/もしくはデニソワ人のmtDNAが検出され、6点の標本で両者が存在しました(図1a~c)。ネアンデルタール人およびデニソワ人両集団のmtDNAは、南空間の変形したMP層にも含まれています。注目されるのは、主空間と東空間の120000±11000~97000±11000年前の堆積物ではデニソワ人のmtDNAが検出されなかったものの、12点の標本にはネアンデルタール人のmtDNAが含まれていることです。これは、この期間にデニソワ洞窟に居住したのがネアンデルタール人だけで、おそらくは海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の大半にわたっていたことを示唆します。

 44000±5000~21000±8000年前となる主空間の第11.4層以上のIUPおよび上部旧石器時代(UP)層では、ネアンデルタール人のmtDNAが検出された第11.2層のIUP期の標本1点を除いて、古代の現生人類のmtDNAのみが検出されました。IUP石器群と現生人類の出現との間の関連は、47000±8000年前以後に堆積された、IUPとなる南空間第11層の標本1点の現生人類のmtDNAの回収により、さらに裏づけられます。東空間のこの状況はより複雑です。デニソワ人とネアンデルタール人と古代の現生人類のmtDNAがIUPとなる第11.2層で、ネアンデルタール人と古代の現生人類のmtDNAがIUPとなる第11.1層で回収されました(図1a)。これらの結果と、IUP石器群と関連する層からの2点のデニソワ人化石(デニソワ3号および4号)を考えると、現生人類に加えて、デニソワ人とネアンデルタール人がIUP石器群の製作期にデニソワ洞窟に存在した可能性を無視できません。

 100以上の脱アミノ化された人類のmtDNA断片が検出された37点の標本のうち34点で、特定のネアンデルタール人およびデニソワ人のミトコンドリアゲノムとの類似性が特定されました(図1a~cの円以外の記号)。この分析により、250000±44000年前となる主空間と東空間のeMP層、および146000±11000年前となる東空間の最初のmMP層は、デニソワ2号およびデニソワ8号的なmtDNA断片を含みます。これは、80000±9000年前以後に堆積したmMP層で回収されたデニソワ人のmtDNAと対照的で、それらは南空間の標本群と同様にデニソワ3号および4号的な配列が検出されました。

 これらの結果は、146000~80000年前頃のある時期に、デニソワ人のmtDNA配列に変化が起きたことを示唆し、おそらくは異なるデニソワ人集団を反映しています。本論文の結果は、デニソワ2号・3号・4号のモデル化された年代や、分子年代測定から推定されたデニソワ8号の相対的年代ともよく一致します(関連記事)。MIS5において、13万~10万年前頃(その後の2万年の時間差を考えると、恐らくはそれ以上)の堆積物には、ネアンデルタール人のmtDNAと化石の証拠のみが含まれており、デニソワ11号的なmtDNA配列は、8万年前頃以後の堆積物でのみ検出されます。


●非ヒト動物のmtDNA

 現時点では主空間と東空間でのみ利用可能なデニソワ洞窟の古生物学的記録に存在する全ての大型哺乳類も、堆積物のDNAで特定されました。さらに、東空間第12層の標本1点でラクダ類の古代DNAが見つかり、デニソワ洞窟一帯におけるラクダ種(Camelus knoblochi)の更新世の存在と一致します。大型哺乳類とは対照的に、メクラネズミ類やウサギ科やリス科など小型哺乳類は、生物量が少ないか、捕獲調査の提示不足のため、遺伝的データがほとんど含まれていません。主空間の第22.1層と第21/20層の間のように、隣接する層の一部における動物相mtDNA構成間には鋭い境界があり、DNAの堆積後の浸出があったとしても限定的だった追加の証拠を提供します。

 デニソワ洞窟における化石のひじょうに断片的な性質と、さまざまな種により堆積したかもしれないDNAの可変的な量にも関わらず、経時的な哺乳類のDNAの相対的存在量の変化は、ウシ科やハイエナ科やクマ科やイヌ科などの系統の骨格記録の変化とほぼ一致します。遺伝的データも、ゾウ科やクマ科やハイエナ科のように包括的参照データが利用可能な場合、種もしくは集団水準での動物相多様性の調査機会を提供します。ゾウ科のmtDNAは全ての層でおもにケナガマンモスに分類されましたが、クマ科種の相対的存在量は、187000±14000年前以前に堆積した層で検出されたおもにホラアナグマから、112000±12000年前以後に堆積した層で検出されたヒグマのみに変わりました。

 また、以前に報告されたブチハイエナ属(ブチハイエナとドウクツハイエナ)のmtDNAハプログループ3系統(関連記事)の存在も検出されました。20万年前頃以前および12万~8万年前頃以後に堆積した層ではほとんど、アフリカのブチハイエナとヨーロッパのドウクツハイエナで見られるmtHg-Aが検出されましたが、中間の年代の層では、アジア東部のドウクツハイエナ(mtHg-D)とヨーロッパのドウクツハイエナの一部(mtHg-B)のmtDNAがおもに検出されました。したがってアルタイ山脈は、哺乳類骨格遺骸の研究で以前に示唆されたように、人類とハイエナや他の動物の異なる系統の接触地帯だったかもしれません。

 堆積物のDNAから、大型哺乳類の少なくとも2回の大きな交代が明らかです(図2)。まず、ウシ科とイヌ科とウマ科とクマ科のmtDNA断片の相対的な割合の著しい変化と、ブチハイエナ属のmtHgの交代と、ホラアナグマからヒグマへの変化が19万年前頃に起き、これは間氷期のMIS7から氷期のMIS6への気候変化とほぼ同年代です。ネアンデルタール人のmtDNAの最初の痕跡もこの頃に出現します。次の交代は13万~10万もしくは8万年前頃に起き、MIS6~MIS5の気候変化の期間およびその後です。ウシ科とイヌ科とネコ科とクマ科のmtDNAの割合が減少した一方で、シカ科とウマ科の割合は増加し、ホラアナグマとブチハイエナ属の2系統のmtHgが消滅しました。この期間は、デニソワ洞窟の堆積物でデニソワ人のmtDNAが存在しないことでも注目されます。これらの変化は、人類と非ヒト動物の集団の交代がつながっており、生態学要因と関連していたかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図2です。
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●考察

 175点の標本における古代の人類のmtDNAの識別は、デニソワ洞窟の堆積物から回収された人類化石の数を桁違いに上回り、更新世層のほぼ全てで人類の存在の遺伝的特性を提供します。これらのデータは685点の標本からの非ヒト動物のmtDNA配列により補完され、それは他の大型哺乳類の多様性とその相対的存在量の変化についての情報を提供します。しかし、人類と非ヒト動物の洞窟利用の推定された順序は、いくつかの要因により制約されることに注意が必要です。層序記録には2つの大きな間隙があること(170000~156000年前頃と97000~80000年前頃)、各堆積層の蓄積に固有の平均時間、穴掘り動物もしくは小規模な混合に起因する一部の層の堆積後の攪乱、年代推定に使用される光学的年代の精度です。

 本論文の結果は、人類によるデニソワ洞窟利用の歴史を復元するだけではなく、人類の過去の理解へのより広範な示唆になります。まず、8万年前頃以後に堆積したデニソワ洞窟のmMP層で回収されたデニソワ人のmtDNA断片は一貫して、デニソワ3号および4号と最高の類似性を示し、ほぼ同年代(70000~45000年前頃)となる、チベット高原の北東面に位置する中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の堆積物で回収されたmtDNA断片と同様です(関連記事)。このパターンは、デニソワ3号および4号のmtDNA系統が8万年前頃以後にはデニソワ人では最も豊富だったことを示唆します。

 古生物学的研究では、更新世の哺乳類はアジア南東部からヒマラヤ山脈の東方山麓に沿ってアルタイ地域北西部に移住した、と示唆されています。これらの動物相の移動は、デニソワ人のアルタイ山脈への拡散を駆り立てたかもしれません。次に、17万年前頃以後のネアンデルタール人のmtDNAの存在は、ネアンデルタール人の歴史における初期の事象の年代をさらに制約します。43万年前頃となるSHの初期ネアンデルタール人で見つかったmtDNA系統は、43万~17万年前頃に現生人類により近い集団からの遺伝子移入により置換された、と推測されます(関連記事)。したがって、堆積物のDNAの高解像度鑑定は、骨格遺骸の発見とは関係なく、人類の進化史と古生態学の知識における間隙を埋める、効果的な手段を提供できます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。洞窟堆積物のDNA解析の進展は目覚ましく、最近もスペイン北部の洞窟の堆積物のネアンデルタール人の核DNA分析結果が報告されました(関連記事)。その研究は、アルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の堆積物のDNA解析結果も報告しています。更新世の人類遺骸はきわめて少ないだけに、今後は洞窟の堆積物のDNA解析が更新世人類の研究において大きな役割を果たすのではないか、と予想されます。日本人の私としては、更新世の人類遺骸がきわめて少ない日本列島での洞窟堆積物のDNA解析の進展に期待しています。

 本論文の知見からは、デニソワ洞窟を最初に利用した人類はデニソワ人で、その後にネアンデルタール人が到来し、ネアンデルタール人のみが利用していた期間を経た後にデニソワ人が再度利用するようになり、45000年前頃以降はほぼ現生人類のみが利用していた、と考えられます。ただ、こうした動向がアルタイ山脈全域にも当てはまるのか、今後の研究の進展が期待されます。本論文が示唆するように、アルタイ山脈は人類に限らず複数の動物にとって異なる分類群の接触地帯だったかもしれません。遺骸から分布範囲がある程度推測できるネアンデルタール人は、ヨーロッパからアルタイ山脈へと東進してきた、と推測されます。一方デニソワ人に関しては、遺伝的データと形態学的データの照合が困難なので(関連記事)、洞窟堆積物のDNA解析により、分布範囲の推定が進むと期待されます。現時点での化石証拠と合わせて考えると、デニソワ人の主要な分布範囲はアジア東部で、時としてアルタイ山脈へと西進してきたのかもしれません。

 また本論文は、デニソワ洞窟ではIUP期に現生人類だけではなくネアンデルタール人とデニソワ人も存在した可能性を指摘します。古代ゲノムデータと考古学的データとを組み合わせた最近の研究では、出アフリカ現生人類で遺伝的にユーラシア東部系統に分類される集団とIUPの拡大が関連づけられています(関連記事)。その研究からは、ヨーロッパにおけるIUP現生人類集団とネアンデルタール人との共存が示唆されます。その意味で、アルタイ山脈においてもIUP現生人類集団とネアンデルタール人やデニソワ人との共存があったとも考えられ、そこで遺伝的な側面とともに石器技術など文化面でも相互作用が起きたかもしれません。近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、考古学や形態学や古気候学など関連分野との関連づけも進んでいくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:デニソワ洞窟に居住していたのは誰?

 ロシアのデニソワ洞窟では、デニソワ人がネアンデルタール人よりも前から居住していた可能性のあることを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究で、最終氷期にユーラシアに住んでいたヒト集団の理解を深める重要な考古学的遺跡であるデニソワ洞窟での居住に関する年表が明らかになった。

 デニソワ洞窟で発見された化石から抽出された古DNAについて、これまでに実施された解析からは、この洞窟にネアンデルタール人、デニソワ人、両者の混血の子孫が居住していたことが明らかになっていた。しかし、遺骸化石の数が少ないため、居住の時期と順序は不明のままだった。今回、Elena Zavalaたちの研究チームは、この問題を解決するために、30万~2万年前の700点以上の堆積物試料を収集し、堆積物中の有機物(例えば、ヒトや動物の遺骸の微細な断片)に由来すると考えられるDNAを抽出した。これらの試料のうちの175点からヒト族のミトコンドリアDNAが回収された。25万~17万年前のものとされた旧石器時代の石器との関連性を有する最古のヒト族DNAはデニソワ人のDNAで、最古のネアンデルタール人のDNAは旧石器時代の終わり頃のものだった。

 685点の堆積物試料からは動物のミトコンドリアDNAが検出され、さらなる状況が明らかになった。ヒト族のミトコンドリアDNAには複数回のターンオーバーが見られ、それに加えて、動物(例えば、イヌ科、クマ科、ウマ科の動物)のミトコンドリアDNAの組成にも変化が認められた。Zavalaたちは、気候の変化に応じて、さまざまなヒト族と動物が現れて、洞窟内で居住し、去っていったという考えを示している。また、Zavalaたちは、約4万5000年前の堆積物試料から現生人類のミトコンドリアDNAを初めて検出したことから、デニソワ人とネアンデルタール人が、この洞窟に繰り返し居住し、それが4万5000年前頃まで続いたと考えている。デニソワ洞窟で現生人類の化石が発見されていないため、今回の研究では、ヒトの進化史を解明するのに役立つ堆積物分析の価値についても強調されている。



参考文献:
Zavala EI. et al.(2021): Pleistocene sediment DNA reveals hominin and faunal turnovers at Denisova Cave. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03675-0

ハチを殺虫剤から守れるかもしれない微小粒子

 ハチを殺虫剤から守れるかもしれない微小粒子に関する研究(Chen et al., 2021)が公表されました。花粉媒介生物は、世界の食料生産のために生態系機能を維持する上で不可欠です。しかし、殺虫剤への曝露は、全世界で花粉媒介生物が減少する主要な原因の一つになっています。有機リン化合物は殺虫剤として広く使用されており、ミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示します(関連記事)。これまでの研究では、酵素の一種であるホスホトリエステラーゼ(OPT)が有機リン系殺虫剤への曝露に対する治療法になり得る、と示唆されています。しかし、ハチにOPTを投与する現行の方法は有効性が低い、と示されています。

 この研究は、花粉から着想した使い捨て型の均一な微小粒子(PIM)を開発しました。PIMは炭酸カルシウムで構成される微小粒子で、この内部にOPTが封入され、OPTが消化の過程で分解されないようになっています。この研究は、マルハナバチの微小コロニーに、マラチオン(有機リン系殺虫剤)で汚染された花粉パティを投与しました。OPTが封入されたPIMを与えられたハチは、マラチオンに曝露された後でも、観察期間中(10日間)の生存率は100%でした。これに対して、OPTのみ、またはショ糖のみを与えられたハチは、マラチオン曝露の5日後と4日後の生存率がそれぞれ0%でした。

 この研究は、こうした低コストでスケーラブルな生体材料を用いる方法は、今後、コロニー規模の検証が必要ではあるものの、有機リン系殺虫剤が使用されている地域では、飼育下の花粉媒介生物のための予防措置または治療手段として利用できる可能性がある、と指摘しています。このハチの解毒戦略は、飼育下のハチ個体群が有機リン殺虫剤に曝露されるリスクを低減する上で重要な意味を持つと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生物工学:花粉から着想した微小粒子でハチを殺虫剤から守れるかもしれない

 有機リン系殺虫剤に曝露されたハチの解毒に使える可能性のある、花粉から着想を得た微小粒子について報告する論文が、Nature Food に掲載される。このハチの解毒戦略は、飼育下のハチ個体群が有機リン殺虫剤に曝露されるリスクを低減する上で重要な意味を持つと考えられる。

 花粉媒介生物は、世界の食料生産のために生態系機能を維持する上で不可欠である。しかし、殺虫剤への曝露は、全世界で花粉媒介生物が減少する主要な原因の1つになっている。有機リン化合物は殺虫剤として広く使用されており、ミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示す。これまでの研究では、酵素の一種であるホスホトリエステラーゼ(OPT)が有機リン系殺虫剤への曝露に対する治療法になり得ることが示唆されている。しかし、ハチにOPTを投与する現行の方法は有効性が低い。

 今回、Minglin Maたちの研究チームは、花粉から着想した使い捨て型の均一な微小粒子(PIM)を開発した。PIMは、炭酸カルシウムでできた微小粒子で、この内部にOPTが封入され、OPTが消化の過程で分解されないようになっている。Maたちは、マルハナバチの微小コロニーにマラチオン(有機リン系殺虫剤)で汚染された花粉パティを投与する実験を行った。OPTが封入されたPIMを与えられたハチは、マラチオンに曝露された後でも、観察期間中(10日間)の生存率は100%であった。これに対して、OPTのみ、またはショ糖のみを与えられたハチは、マラチオン曝露の5日後と4日後の生存率がそれぞれ0%だった。

 Maたちは、このような低コストでスケーラブルな生体材料を用いる方法は、今後、コロニー規模の検証が必要だが、有機リン系殺虫剤が使用されている地域では、飼育下の花粉媒介生物のための予防措置または治療手段として利用できる可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Chen J. et al.(2021): Pollen-inspired enzymatic microparticles to reduce organophosphate toxicity in managed pollinators. Nature Food, 2, 5, 339–347.
https://doi.org/10.1038/s43016-021-00282-0

イラン大統領選結果

 今月(2021年6月)18日に投票が行なわれたイラン大統領選挙で、検事総長や司法府長官などを歴任したエブラヒム・ライシ氏(60歳)が当選しました。得票率は約62%と圧勝でしたが、護憲評議会による事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となり、少なからぬ国民が冷めていたためか、投票率は1979年のイスラム教体制成立後の大統領選挙では最低となる約48.8%でした。ライシ氏は前回(2017年)の大統領選挙にも立候補し、得票率は38.5%でロハニ大統領に敗れています。穏健派とされるロハニ大統領でも経済制裁解除で目立った成果は挙げられず(アメリカ合衆国では最近まで4年間トランプ政権だったこともありますが)、有力者が失格にならずとも、ライシ氏が勝っていたかもしれません。

 ライシ氏は「反米・保守強硬派」と言われており、以前より有力候補とされていましたが、大統領としての政治手腕はどうでしょうか。ライシ氏は次のイラン最高指導者の有力候補とも言われており、大統領就任はライシ氏に箔をつけるために現最高指導者のハメネイ氏が画策した、との憶測もあります。ライシ氏の勝利を確実にするため、事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となったのでしょうが、それで少なからぬ国民が冷めたのだとしたら、長期的には体制維持にとって悪影響となるかもしれません。とくに独自の知見を提示できるわけではありませんし、イラン政治を日頃から熱心に追いかけているわけでもありませんが、当ブログを開設してからイラン大統領選を毎回取り上げてきたので、今回も言及しました。なお、過去のイラン大統領選に関する記事は以下の通りです。

2009年
https://sicambre.at.webry.info/200906/article_14.html

2013年
https://sicambre.at.webry.info/201306/article_18.html

2017年
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_23.html

アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性

 最近、人類集団の地域的連続性に言及しましたが(関連記事)、その記事で予告したように、近年大きく研究が進展したアジア東部に関してこの問題を整理します。なお、今回はおおむねアムール川流域以南を対象とし、シベリアやロシア極東北東部は限定的にしか言及しません。初期現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究は近年飛躍的に進展しており、その概要を把握するには、現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021、関連記事)や、現生人類に限らずアジア東部のホモ属を概観した総説(澤藤他., 2021、関連記事)や、上部旧石器時代のユーラシア北部の人々の古代ゲノム研究に関する概説(高畑., 2021、関連記事)が有益です。最近の総説的論文からは、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021、関連記事)。これらの総説を踏まえつつ、アジア東部における人類集団、とくに初期現生人類の拡散と地域的連続性の問題を自分なりに整理します。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。これは、現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、関連記事)。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに整合的です。中国では現在(少なくとも2008年頃まで)でも、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、関連記事)。ただ、中国人研究者が関わった最近の研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、人類アフリカ起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの(Gokcumen., 2020、関連記事)、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては学術的にほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相は、先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、関連記事)。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、関連記事)。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000~45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、関連記事)、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。一昨年(2019年)の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、関連記事)、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、関連記事)。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、アジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、関連記事)の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、以下に掲載する上述のVallini et al., 2021の図1のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係でさえ複雑なものと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。
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 特定の地域における過去と現代の人類集団の連続性に関しては、上述のように最近の総説的論文から、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021)。具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は、ヨーロッパ最古級(45000年以上前)の現生人類集団を表しますが、現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、関連記事)。ズラティクンは、出アフリカ系現代人の各地域集団が遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 その他には、チェコのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640~42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響は小さかった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。Vallini et al., 2021では、ウスチイシム個体とOase 1はユーラシア東部系統に位置づけられ、Oase 1はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640~42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、関連記事)。


●アジア東部における人類集団の遺伝的連続性

 このようにヨーロッパにおいては、初期現生人類が現代人と遺伝的につながっていない事例は珍しくありません。アジア東部においても、最近では同様の事例が明らかになりつつあります。アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、関連記事)で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2021、関連記事)です。最近になって、そのサルキート個体に次いで古い、34324~32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、関連記事)。

 Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似していることを示します。アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統(祖先系譜、ancestry)は、まずユーラシア東部と西部に分岐します。その後、ユーラシア東部系統は沿岸部と内陸部に分岐します。ユーラシア東部沿岸部(EEC)祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部の後期更新世~完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このユーラシア東部内陸部祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang et al., 2021の図2です。
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 田園個体とサルキート個体とAR33Kはおもに、南北に分岐する前のEEI祖先系統で構成されますが、サルキート個体には、別の祖先系統も重要な構成要素(25%)となっています(Mao et al., 2021)。それは、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される祖先系統です(Sikora et al., 2019、関連記事)。この祖先系統は、24500~24100年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年個体(MA-1)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先とされ、Sikora et al., 2019では古代北シベリア人(ANS)と分類されています。MA-1はアメリカ大陸先住民との強い遺伝的類似性が指摘されており(Raghavan et al., 2014、関連記事)、MA-1に代表されるANEは、おもにユーラシア西部祖先系統で構成されるものの、EEI祖先系統の影響も一定以上(27%)受けている、と推測されます(Mao et al., 2021)。今回は、ANSをANEに区分します。ANE関連祖先系統は、現代のアメリカ大陸先住民やシベリア人やヨーロッパ人などに遺伝的影響を残しています。

 重要なのは、田園個体とサルキート個体とAR33Kの年代がいずれも、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも前で、現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されていることです(Mao et al., 2021)。南北に分岐する前のEEI関連祖先系統でおもに構成されるこれらの個体に代表される集団は、アムール川流域からモンゴル北東部まで、LGM前にはアジア東部北方において広範に存在した、と推測されます。つまり、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高く、アジア東部でもヨーロッパと同様に初期現生人類集団の広範な絶滅・置換が起きた可能性は高い、というわけです。もちろん、古代ゲノム研究では標本数がきわめて限定的なので、田園個体などに代表される絶滅集団とアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団が隣接して共存していた、とも想定できるわけですが、その可能性は低いでしょう。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れているので、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がいつアジア東部に到来したのか、ほとんど明らかになっていません。アムール川流域はその解明が比較的進んでいる地域と言えそうで、LGM末期の19000年前頃には、AR33Kよりもアジア東部現代人と遺伝的にずっと近い個体(AR19K)が存在し、14000年前頃にはより直接的に現代人と遺伝的に関連する集団(AR14K)が存在したことから、アムール川流域では現代にまで至る14000年以上の人類集団の遺伝的連続性が指摘されています(Mao et al., 2021)。AR19KはEEIでも南方系(EEIS)よりも北方系(EEIN)に近縁で、19000年前頃までにはEEIの南北の分岐が起きていた、と考えられます。以下、これらの系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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●アジア東部現代人の形成過程

 かつてアジア東部北方に、4万年前頃の田園個体と類似した遺伝的構成の集団が広範に存在し、現代人には遺伝的影響を(全く若しくは殆ど)残していない、つまり絶滅したとなると、上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高くなります。では、これらの集団がいつどのような経路でアジア東部に拡散してきたのか、という問題が生じます。初期現生人類のゲノムデータと考古学を統合して初期現生人類の拡散を検証したVallini et al., 2021は、ウスチイシム個体や田園個体やバチョキロ洞窟の4万年以上前の個体群に代表される初期のEEI集団が、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の担い手だった可能性を指摘します。IUPは、ルヴァロワ(Levallois)手法も用いる石刃製作として広範に定義され(仲田., 2019、関連記事)、レヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。(仲田., 2020、関連記事)。

 Vallini et al., 2021は、その後、ユーラシア西部のどこかに存在した出アフリカ後の人口集団の「接続地」から、石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられ、装飾品や骨器をよく伴う上部旧石器(UP)の担い手であるユーラシア西部祖先系統でおもに構成される集団がユーラシア規模で拡大し、ユーラシア東部では、在来のEEI関連祖先系統を主体とする集団との混合により、31600年前頃となるヤナRHSの2個体に代表されるANE(もしくはANS)集団が形成された、と推測されます。上述のように、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体はANE集団から一定以上の遺伝的影響を受けています。しかし、アジア東部でも漢人の主要な地域(近現代日本社会で一般的に「中国」と認識されるような地域)や朝鮮半島およびその周辺のユーラシア東部沿岸地域や日本列島では、古代人でも現代人でもユーラシア西部関連祖先系統の顕著な影響は検出されていません。Vallini et al., 2021は、これらの地域において、侵入してくるUP人口集団の移動に対するIUPの担い手だったEEI集団の抵抗、もしくはEEI集団の再拡大が起きた可能性を指摘します。

 EEI集団がどのようにアジア東部に拡散してきたのか不明ですが、文化面ではIUPと関連しているとしたら、ユーラシア中緯度地帯を東進してきた可能性が高そうで(ユーラシア南岸を東進してアジア南部か南東部で北上した可能性も考えられますが)、その東進の過程で遺伝的に分化して、田園個体やAR33Kに代表される集団と、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団とに分岐したのでしょう。もちろん、実際の人口史はこのように系統樹で単純に表せないでしょうから、あくまでも大まかに(低解像度で)示した動向にすぎませんが。アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がLGMの前後にどこにいたのか、現時点では直接的な遺伝的手がかりはなく、アジア東部では更新世の現生人類遺骸が少ないので、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(澤藤他., 2021)に依拠するしかなさそうです。

 ただ、EEIの南北の分岐(EEISとEEIN)が19000年前頃までに起きたことと、シャベル型切歯の頻度から、ある程度の推測は可能かもしれません。シャベル型切歯は、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られ、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達しますが、アジア南東部やオセアニアでは低頻度です。シャベル型切歯はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異との関連が明らかになっており(Kataoka et al., 2021、関連記事)、この変異は派生的で、出現は3万年前頃と推測されています(Harris.,2016,P242、関連記事)。Mao et al., 2021は、この派生的変異がアジア東部北方では、LGM前の田園個体とAR33Kには見られないものの、19000年前頃となるAR19Kを含むそれ以降のアジア東部北方の個体で見られることから、LGMの低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択だった、との見解(Hlusko et al., 2018、関連記事)を支持しています。

 これらの知見から、現代のアジア東部人やアメリカ大陸先住民において高頻度で見られるシャベル型切歯は、EEIN集団においてEEIS集団との分岐後に出現した、と推測されます。上述のように、EEISとEEINの分岐は19000年前よりもさかのぼりますから、シャベル型切歯の出現年代の下限は2万年前頃となりそうです。さらに、上掲のMao et al., 2021の図3で示されるように、アメリカ大陸先住民と遺伝的にきわめて近縁な、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された1個体(USR1)は古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人を表し、ANE関連祖先系統(42%)とEEIN関連祖先系統(58%)の混合としてモデル化できます。古代ベーリンジア人の一方の主要な祖先であるEEIN関連集団は他のEEIN集団と36000±15000年前頃に分岐したものの、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(Moreno-Mayar et al., 2018、関連記事)。

 そうすると、25000年前頃までにはシャベル型切歯が出現していたことになりそうです。EEINとEEISは4万年前頃までには分岐し、シャベル型切歯をもたらす変異はEEINにおいて3万年前頃までには出現し、LGMにおいて選択され、アジア東部現代人とアメリカ大陸先住民の祖先集団において高頻度で定着した、と考えられます。この推測が妥当ならば、EEIN集団は、EEIS集団と遺伝的に分化した後、アムール川流域やモンゴルよりも北方に分布し、2万年前頃までにはアムール川流域に南下していた、と考えられます。一方、EEIS集団は、長江流域など現在の中国南部にLGM前に到達していたのかもしれません。私の知見では、この推測を考古学と組み合わせて論じることはできないので、今後の課題となります。またシャベル型切歯に関するこれら近年の知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)はほぼ完全に否定された、と言えるでしょう。


●日本列島の人口史

 日本列島では4万年頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。4万年以上前となる日本列島における人類の痕跡としては、たとえば12万年前頃とされる島根県出雲市の砂原遺跡の石器がありますが、これが本当に石器なのか、強く疑問が呈されています(関連記事)。おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。現代日本人の形成という観点からは、日本列島では4万年前以降の遺跡のみが対象となるでしょう。

 日本列島の更新世人類遺骸のDNA解析は、最近報告された2万年前頃の港川人のmtDNAが最初の事例となり(Mizuno et al., 2021、関連記事)、ほとんど解明されていません。日本列島で古代ゲノムデータが得られている人類遺骸は完新世に限定されており、縄文時代以降となります。愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる縄文時代個体の核ゲノム解析結果を報告した研究では、「縄文人(縄文文化関連個体)」は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解が支持されています(Gakuhari et al., 2020、関連記事)。しかし、港川人のmtDNAは、少なくとも現時点では現代人で見つかっておらず、ヨーロッパやアジア東部大陸部と同様に、日本列島でも更新世に到来した初期現生人類の中に絶滅した集団が存在した可能性は高いように思います。この問題の解明には、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析が大きく貢献できるかもしれません。

 「縄文人」のゲノムデータは、上述の愛知県で発見された遺骸のみならず、北海道(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)や千葉県(Wang et al., 2021)や佐賀県(Adachi et al., 2021、関連記事)の遺骸でも得られています。これら縄文時代の後期北海道の個体から早期九州の個体まで、これまでにゲノムデータが得られている縄文人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、縄文人が文化的にはともかく遺伝的には長期にわたってきわめて均質だったことを示唆します。しかし、現代日本人の形成において重要となるだろう西日本の縄文時代後期~晩期の個体のゲノムデータが蓄積されないうちは、縄文人が長期にわたって遺伝的に均質だったとは、とても断定できません。

 縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。これらは、シャベル型切歯に関する上述の推測と整合的です。

 縄文人はYHgでも注目されています。現代日本人(「本土」集団)ではYHg-D1a2aが35.34%と大きな割合を占めており、(Watanabe et al., 2021、関連記事)北海道など上述の縄文人でもYHgが確認されている個体は全てD1a2aで、日本列島外では低頻度であることから、YHg-D1a2aは日本列島固有との認識が一般的なようです。しかし、カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)はYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、悪魔の門遺跡個体群はAR14Kと遺伝的にきわめて密接です。また、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)は、YHg-DEです。アムール川流域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415~4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。ほぼEEC関連祖先系統で構成されるアンダマン諸島現代人のYHgがほぼD1で、YHg-D1の割合が高い現代チベット人はEEC関連祖先系統の割合が20%近くと推定されます(Wang et al., 2021)。また、縄文人と悪魔の門遺跡個体群などアジア東部沿岸部集団との遺伝的類似性も指摘されています(Gakuhari et al., 2020)。EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。

 これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。カザフスタンの紀元後3~4世紀の個体(KNT004)がYHg-D1a2a2aで、悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高いことからも、YHg-D1a2aは日本列島固有ではなく、アジア東部沿岸部を中心にかつては広範にアジア東部に存在し、縄文時代の始まる前に日本列島に到来した、と推測されます。現代日本人で見られるYHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐も、日本列島ではなくアジア東部大陸部で起きていたかもしれません。そうすると、4万年前頃までさかのぼる日本列島の最初期現生人類のYHgはD1a2aではなかったかもしれません。また、KNT004の事例からは、現代日本人のYHg-D1a2a2aの中には、弥生時代以降に到来したものもあったかもしれない、と考えられます。

 日本列島の最初期現生人類が縄文人の直接的祖先なのか否か、縄文人がどのような過程で形成されたのか、現時点では不明ですが、日本列島も含めてユーラシア東部の洞窟の土壌DNA解析により、この問題の解明が進むと期待されます。一方、おもにEEI関連祖先系統で構成される集団のYHgに関しては、田園個体が(高畑., 2021)K2bで、アムール川流域の19000年前頃以降の個体がおもにCもしくはC2であることから、CとK2の混在だったかもしれません。YHg-K2から日本人も含めてアジア東部現代人で多数派のOが派生するので、この点も核ゲノムではアジア東部現代人がおもにEEI関連祖先系統で構成されることと整合的です。



●まとめ

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。

 具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、関連記事)。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、関連記事)。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、関連記事)。

 こうしたヨーロッパにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、関連記事)。さらにいえば、ホモ属(関連記事)や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険でしょう。その意味で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万~130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、関連記事)、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。

 その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、関連記事)。今回はユーラシア東部内陸部に関してほとんど言及できませんでしたが、バイカル湖地域では更新世から完新世にかけて現生人類集団の大きな遺伝的変容や置換があった、と推測されています(Yu et al., 2020、関連記事)。またモンゴルに関しては、完新世において最初に牧畜文化をもたらした集団の遺伝的構成は比較的短期間で失われた、と推測されています(Jeong et al., 2020、関連記事)。

 これらは上述したオーストラリアの事例でも当てはまるかもしれず、65000年前頃の人類の痕跡が本当だとしても、それが現代のオーストラリア先住民と連続しているかどうかは不明で、mtDNAで推測される5万年近くにわたるオーストラリアの人類の連続性との見解も、古代DNAデータが得られなければ確定は難しいでしょう(オーストラリアで更新世の人類遺骸や堆積物からDNAを解析するのは難しそうですが)。日本列島も同様で、4万年以上前とされる不確かな遺跡はもちろん、4万年前以降の人類、とくに最初期の人類に関しては、縄文人などその後の日本列島の人類と遺伝的につながっているのか、まだ判断が難しいところです。日本列島の人口史に関しては、人類遺骸からのDNA解析とともに、更新世堆積物のDNA解析が飛躍的に研究を進展させるのではないか、と期待しています。

 もちろん、上記の私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(Wang et al., 2020、関連記事)。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。


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大河ドラマ『青天を衝け』第19回「勘定組頭渋沢篤太夫」

 栄一(篤太夫)は一橋家の財政の充実に奮闘し、一橋家の勘定組頭に抜擢されます。栄一が藍の商売で培った才覚と経験を活かしていくものの、それが順調に進むわけではなく、抵抗も描かれるところは、ドラマとして単調ではなく、なかなかよいと思います。今回は、財政の充実による富国強兵を図る人物として、幕府の小栗忠順(上野介)と薩摩の五代才助(友厚)も描かれました。五代は顔見世程度だった初登場時とさほど出演時間は変わらなかったかもしれませんが、幕末政治に本格的に関わってきた感があり、初登場時よりも見せ場があったように思います。小栗と五代は栄一との対比で描かれることになりそうで、楽しみです。まあ現時点では、小栗・五代と栄一とでは身分に大きな違いがありますが。

 これまで見せ場のなかった大久保一蔵(利通)も、松平春嶽を訪ねて説得し、今回初めて見せ場がありました。大久保は明治時代になって栄一と関わりますし、幕末政局でも重要人物だけに、今後も見せ場がありそうです。本作の準主人公とも言うべき一橋慶喜は政界に復帰後、中央政局の描写が多く、今回も見せ場がありました。慶喜の勤皇は今回もこれまでもよく描かれており、孝明天皇からの厚い信任も改めて明示されました。そのため孝明天皇の突然の崩御は将軍に就任していた慶喜にとって打撃だった、という話になりそうです。鳥羽伏見の戦いでの慶喜の逃走は、勤皇という観点から描かれるのでしょうか。

アルタイ山脈のネアンデルタール人の新たなゲノムデータ

 シベリア南部のアルタイ山脈のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の新たなゲノムデータに関する研究が報道されました。この研究は、今月(2021年6月)1~4日にかけてオンラインで開催された第9回生体分子考古学国際研究討論会で報告されたそうです。この研究が論文として公表されるのはしばらく後かもしれませんが、たいへん興味深いので取り上げます。

 49000年以上前、ネアンデルタール人がシベリアのアルタイ山脈に存在した時、バイソンやアカシカや野生ウマが存在しました。洞窟の主空間で、10代の少女が、父親もしくはその親族が広大な草原で狩ってきたバイソンをかじっているさいに歯を失いました。現在、研究者たちはこの父と娘およびその親族12個体のゲノムを分析しています。これらの個体の多くは100年以内に同じ洞窟で暮らしていました。これらの新たなゲノムが得られた個体数は、ゲノムデータが得られている既知のネアンデルタール人個体数(19個体)と近く、ネアンデルタール人の分布範囲の東端における、絶滅の危機に瀕していた頃のネアンデルタール人集団およびその社会構造の手がかりを提供します。これら新たな古代ゲノムデータから、ネアンデルタール人における最初の父親と娘の組み合わせが特定され、多くの現代人社会のように、男性たちが成人として家族集団に留まっていたことが示唆されます。この新たなゲノムデータの意義の一つは、既知のゲノムデータが得られているネアンデルタール人は女性が多かったのに対して、男性が多いことです。

 この研究は、アルタイ山脈のチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟とオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟で発見された歯・骨片・顎骨などのネアンデルタール人遺骸から、DNAを抽出して解析しました。ネアンデルタール人遺骸の周囲の堆積物の光刺激ルミネッセンス法(OSL)によると、これらネアンデルタール人遺骸の年代は59000~49000年前頃と推定されます。チャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が発見されたデニソワ洞窟(Denisova Cave)の近くに位置し、27万~5万年前頃にかけてデニソワ人とネアンデルタール人の双方が断続的にデニソワ洞窟を利用しました(関連記事)。

 この研究は、チャギルスカヤ洞窟の男性7個体と女性5個体、オクラドニコフ洞窟の男女1個体ずつのゲノムの、70万ヶ所以上の部位を分析しました。その結果、家族関係が明らかになり、チャギルスカヤ洞窟の1点の骨片は父親で、歯はその10代の娘でした。一部の個体は、2種類のミトコンドリアDNA(mtDNA)を共有していました。これらのゲノムはまだ相互に区別されないので、同じ世紀に生きていたに違いありません。

 ゲノムデータからはネアンデルタール人の社会構造も推測されました。チャギルスカヤ洞窟の男性数人は、同じ最近の祖先からの同一の核DNAの長い塊を有していました。彼らのY染色体も同じで、既知のネアンデルタール人男性と同様に(関連記事)、(広義の)現生人類(Homo sapiens)系統に由来します(デニソワ人よりも現生人類の方と近いことになります)。また核DNA解析では、これらのネアンデルタール人が同じアルタイ山脈のデニソワ洞窟で発見されたそれ以前のネアンデルタール人個体(関連記事)よりも、スペインで発見されたそれ以降のネアンデルタール人の方に近いことも明らかになり、移住が示唆されます。

 新たにゲノムデータが得られたアルタイ山脈のネアンデルタール人個体群で見られる男性間の遺伝的類似性は、これらのネアンデルタール人が子供のいる男性数百人程度の1人口集団に属していたことを示唆します。これは、絶滅危惧種である現代のマウンテンゴリラ(Gorilla beringei beringei)の繁殖年齢の男性とほぼ同じ数です。この推定が妥当ならば、この時期のアルタイ山脈のネアンデルタール人は絶滅の危機に瀕していたことになるでしょう。Y染色体と核DNAとは対照的に、これら新たにゲノムデータが得られたアルタイ山脈のネアンデルタール人のmtDNAは比較的多様で、男性よりも女性の祖先の方が人口集団の遺伝的多様性に寄与したことを示唆します。これは創始者効果の可能性があり、最初の集団では女性よりも男性の方が子孫を残す個体数は少なかったかもしれません。あるいは、これはネアンデルタール人社会の性質を反映している可能性があります。子孫を残すのは女性よりも男性の方が少なかったか、女性が頻繁に集団間を移動していた、というわけです。

 この研究は後者の可能性を示唆します。モデル化研究では、ヨーロッパからシベリアへ拡大する移民の小集団が、ほとんど女性で男性が少ない可能性は低い、と示します。代わりに、これらのネアンデルタール人は30~110個体の繁殖可能な成人で構成されるひじょうに小さな集団で暮らしており、若い女性は出生集団を去って配偶相手の家族と暮らす、と考えられます。ほとんどの現代人の文化も父方居住で、ネアンデルタール人と現生人類の類似性を示すもう一つの慣行です。ただ、この研究は、14個体のゲノムでは全てのネアンデルタール人の社会生活を明らかにできない、と注意を喚起します。また、この研究は、男性の低い遺伝的多様性に不吉な兆候を見出します。ネアンデルタール人は絶滅に近づいており、この新たにゲノムデータが得られた個体群から5000~10000年後にネアンデルタール人は絶滅しました。


 以上、この研究に関する報道についてざっと見てきました。この研究は、ネアンデルタール人14個体のゲノムデータを一気に報告し、その中にこれまでゲノムデータの少なかった男性が多く含まれる点で、画期的と言えるでしょう。とくに注目されるのはネアンデルタール人の社会構造で、イベリア半島北部のネアンデルタール人に関する以前の研究で示唆されていたように(関連記事)、59000~49000年前頃のアルタイ山脈のネアンデルタール人集団も父方居住である可能性が示唆されました。もちろん、この研究が指摘するように、これがネアンデルタール人社会全体に当てはまるとは断定できませんが、同じ頃の遠く離れたネアンデルタール人社会において類似の社会行動が見られるわけですから、ネアンデルタール人社会の全てではないとしても、広範囲に父方居住が行なわれていた可能性は高いように思います。

 現代人およびネアンデルタール人の直接的祖先ではないだろうアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)では、男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、現代人も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)は、オランウータンに関してはやや母系に傾いていると言えるかもしれないものの、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 これらの知見を踏まえると、現代人(ホモ属)とチンパンジー属とゴリラ属の最終共通祖先の段階では、非母系社会もしくは時として父系に傾いた社会が見られ、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先の段階では、かなり父系に傾いた社会が形成されていたのではないか、と推測されます。人類はチンパンジー属との分岐後も長く父系的な社会を維持していたものの、現代人につながる進化系統のどこかの時点で、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようになり、そうした特徴が人類社会を重層的に組織化した(関連記事)、と考えられます。これは、現代人が多くの場合複数の自己認識・帰属意識を有することと関連しているのでしょう。私は、こうした現代人社会の基本的な特徴を双系的と考えています(関連記事)。それ故に、現代人は父系に偏った社会から母系に偏った社会まで、さまざまな形態の社会が存在するのだろう、というわけです。現代人社会に父方居住が多いのは、単に農耕開始以降の社会構造の変化(国家形成など)が原因ではなく、元々進化史において長期にわたって父系的な社会が維持されていたからだろう、と私は考えています。

 これまでの知見からは、ネアンデルタール人社会で強く示唆される父方居住は、現生人類との類似性というよりは、チンパンジー属との最終共通祖先までさかのぼるかもしれない行動に進化的起源がある、と評価する方が妥当なように思います。ネアンデルタール人社会には、現生人類社会で見られるような、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようなことがあった、ということを示す強力な証拠はまだないように思います。しかし、ネアンデルタール人社会でも黒曜石の長距離移動の事例が報告されており、ある程度以上の広域的な社会的ネットワークが存在した可能性は高そうですから(関連記事)、現生人類との違いがあるとしても、ネアンデルタール人社会においても、出生集団から離れて他の集団に移っても元の集団への帰属意識を持ち続けるようなことはあったかもしれません。

坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』

 PHP新書の一冊として、2020年12月にPHP研究所より刊行されました。本書は鎌倉幕府の初代から三代目までの源氏将軍を取り上げ、なぜ源氏将軍が三代で途絶えたのか、そもそも源氏将軍とは何だったのか、検証します。初代の源頼朝についてまず言えるのは、源氏における頼朝の卓越した地位は当初から確立していたのではなく、内乱を勝ち抜いた結果だった、ということです。とくに、奥州藤原氏を攻め滅ぼしたことは、源氏嫡流・武家の棟梁としての頼朝という意識の定着に大きな影響を及ぼしたようです。頼朝が征夷大将軍を熱望したものの後白河はそれを許さず、後白河没後に実現した、との以前の有力説は現在では否定されており、四通りの大将軍候補が朝廷で検証され、消極的に征夷大将軍が選ばれた、と指摘されています。

 こうして頼朝の権威は確立していきましたが、その地位が息子の頼家に継承されることは自明視されていなかったので、頼朝は巻狩などで頼家の権威を確立しようと試みた、と本書は指摘します。頼朝が弟の範頼や源氏の有力者などを粛清していったのも、そうした文脈で解されます。晩年の頼朝は娘の入内工作など朝廷とのさらなる関係強化に乗り出しますが、老獪な源通親に翻弄されます。本書はこれを、頼朝が頼家の地位を確たるものにしようと考えたからだろう、と指摘します。

 二代将軍の頼家は暗君と長く評価されてきましたが、20世紀後半以降、再評価されるようになりました。本書も、北条を賞揚する『吾妻鏡』の記事の偏向を指摘し、頼家暗君説の見直しを提言しています。頼家から実朝への継承に関して、本書は通俗的な歴史像とは異なる見解を提示しています。当時、北条は比企よりも勢力が劣っており、この一連の経緯は北条側のクーデタだった、というわけです。優勢だった比企が滅亡したのは油断があったからだろう、と本書は推測します。また本書はこの一連の経緯で、頼家が急に重篤になることと、そこから亡くならずに回復することを当時の要人は予測できなかった 、ということを重視しています。

 三代将軍の実朝は、武士の棟梁でありながら朝廷文化に傾倒した文弱な人物で、政治への意欲に欠けて政務も怠っており、ついには宋への逃亡も図ったが失敗した、というのが長く一般的な評価だったように思います。兄の頼家のような粗暴なところはないものの、暗君だった、というわけです。こうした実朝の評価は随分前から見直しが進んでおり、本書も、実朝の政務への関与と、叔父でもある配下の北条義時などの補佐があり、将軍と幕臣との協調的な政治が進められたことを指摘します。その実朝の短い生涯の晩年に問題となったのが、子のいない実朝の後継者でした。その解決策は、後鳥羽の皇子を将軍に迎え入れることでした。この構想は実朝が発案し、幕臣の北条義時も後鳥羽も強く指示していた、と本書は指摘します。

 この状況で、当時の要人のほとんどが予想できなかっただろう、実朝の殺害事件が起きます。実朝を殺害したのはその甥(頼家の息子)である公暁で、実朝に子供が生まれないなか、本来は頼家の嫡男のはずだった自分が将軍になろうとして、実朝を調伏していたのだろう、と本書は推測します。しかし、親王将軍と実朝の後見という構想を知った公暁は焦り、実朝を殺害したのではないか、というわけです。この実朝殺害事件に関しては、以前から黒幕をめぐる議論がありますが、本書は公暁の単独犯行と指摘します。

 実朝死後も幕府首脳は源氏の地に拘り、新たに将軍に迎えられたのは、両親がともに頼朝と血縁関係にある九条頼経で、妻には頼家の娘(竹御所)が迎えられました。しかし、両者の間に子供は生まれず、頼朝の子孫による源氏将軍の可能性は消滅します。ただ、その後も源氏将軍観は根強く生き続け、幕府第7代将軍の惟康親王は臣籍降下して源姓を賜与されます。本書は、「源氏将軍断絶」とは実朝殺害により起きた自明の事柄ではなく、実朝が生き続けて後鳥羽の皇子が将軍となることこそ、正真正銘の「源氏将軍断絶」だった、と指摘します。

『卑弥呼』第65話「苦難」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年7月5日号掲載分の感想です。前回は、日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)の館で、日下の日見子(ヒミコ)と思われるモモソがトメ将軍とミマアキに、自分の父のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に厲鬼(レイキ)を送りこみ、今頃筑紫島では多くの人が死に瀕しているだろうから、3年後の日下とその配下の国々による筑紫島への侵攻が絵空事ではないと理解していただけたか、と不敵に問いかけるところで終了しました。今回は、その2日前に日下(ヒノモト)の都を、ともにサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)に仕えた五支族の末裔である、トモとワニが訪ねている場面から始まります。穂波 (ホミ)の大夫でもあるトモは、ヤノハが日見子(ヒミコ)と名乗り、サヌ王の領地で不可侵とされていた日向(ヒムカ)に山社(ヤマト)国を建てたことに、強い反感と敵意を抱いています。

 トモとワニを出迎えたのは、伊香(イカガ)のシコオと名乗る男性でした。シコオはフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)から、トモとワニが古の支族であることを確認し、二人を信頼したようです。トモとワニは、シコオが厲鬼で半分以上の従者を失いながら無事だったことに安堵し、我々が慕うサヌ王の導きだ、と言います。遠路はるばる訪ねてきたのは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に一大事が起きたからなのか、とトモとワニに訊いたシコオは、フトニ王は多忙なので自分が代わりに話を聞く、と言います。ワニはシコオに、古の支族に伊香という家はないが、シコオはどのような立場なのか、と尋ねます。シコオによると、伊香一族は河内湖(カワチノウミ)の沿岸と胆駒山(イコマヤマ)を住まいとした長髄日子(ナガスネヒコ)の末裔で、長髄日子とは勇猛果敢な戦人の通称であり、現在の日下では物部(モノノフ)と呼んでいるそうです。シコオの妹はフトニ王の子息に嫁いだので、シコオは王家の親戚筋となります。それを聞いたトモとワニは、シコオに敬意を払います。

 トモはシコオに本題を切り出し、暈(クマ)の国に偽りの日見子(ヤノハ)が顕れ、こともあろうにサヌ王の聖地を侵して山社国を名乗っている、と伝えます。その不届き者(ヤノハ)は日下への侵攻も考えているのか、とシコオに問われたトモは、そこまでは分からない、と答えます。シコオがトモにこう尋ねたのは、筑紫島から来たと思われる2艘の舟が河内湖に現れたからでした。トモは、日下に立つさいに偽りの日見子に兇手(キョウシュ)を放ったので、その者が仕損じていれば日見子(ヤノハ)は自分の命を狙うはずだ、と答えます。するとシコオは、いずれにしてもおとなしく返すわけにはいかないので、筑紫島から来た者たち(トメ将軍とミマアキの一行)を日見子様(日下のモモソ)の屋敷に招いて気の緩みを突いて殺すか、と思案します。日下にも日見子がいることに驚いたトモとワニは、日下の日見子の身を案じます。するとシコオは、筑紫島の日見子と日下の日見子では立場が違うようだ、日下の日見子は人と神の真ん中に位置し、その役目は人柱だ、とトモとワニに説明します。

 舞台は現代に戻り、ヤノハと事代主(コトシロヌシ)が面会している弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)です。ヤノハから薬草の知識の伝授を要請された事代主は、身体に入った厲鬼は熱を発して人を殺すので、熱冷ましにはイヌホオズキやアヂサイやヨモギなどが有効だが、厲鬼から民を守る最善の策は国と邑と家を閉ざすことだ、と答えます。人と人との接触を断ち、会う場合は布で口を覆い、何かに触れた指は水で洗うことなのか、とヤノハは悟ります。事代主は、歴代の事代主に伝わる木簡をヤノハに見せます。そこには166の薬草とその効能が記されていますが、出雲文字(神代文字の一種という設定でしょうか)という変わった文字が用いられていました。筑紫島に読める方がいるならこの木簡を進呈しよう、と申し出る事代主に対して、イクメという者が読めるはずなので、いただけるならありがたい、とヤノハは答えます。民のことを本当に考えている、と事代主に言われたヤノハは一瞬照れます。

 筑紫島では日見子が身罷った場合、次の日見子をどう選ぶのか、と事代主に問われたヤノハは、筑紫島の暈の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)では女性だけが学び、巫女になりたい者や素質のありそうな者が預けら、その中から選ばれる、と答えます。日見子に相応しい者が顕れない場合はどうなるのか、と事代主に問われたヤノハは、それは筑紫島の不幸なのでじっと耐えねばならない、と答えます。事代主は、出雲の場合、事代主の息子の中から後継者が選ばれる、とヤノハに説明します。血筋が重んじられる、というわけです。事代主は、自分には3人の妻がおり、息子は3人、娘が2人ですが、相応しい者がいなければ、新しい妻を娶り、また子を儲けねばならない、とヤノハに説明し、日見子という立場で子を孕むことは禁忌なのか、と尋ねます。ヤノハは、日見子たる者は生涯男を遠ざけねばならない、と答えます。

 すると事代主は一瞬考えこみ、そろそろ決めましょうか、とヤノハに言います。事代主は、出雲と山社が連合を組むことにお互い異議はないので、どちらが主導権を取るのか決めねばならないが、日見子殿(ヤノハ)は最初から自分にそれを託すつもりだったのだろう、と笑顔で問いかけます。ヤノハは、自分は間違って日見子に選ばれたので、人の上に立てる器ではない、と答えます。すると事代主は真顔になり、どのようにして大役を任されたのかは問題ではない、大切なのは任された後に何をするかだ、そなたにはその資格が充分ある、と指摘します。事代主はヤノハに、すでに気づいているだろうが、自分には「知」はあるが「政(マツリゴト)」を成し遂げる力はない、と率直に打ち明けます。事代主はヤノハに、出雲がある金砂国(カナスナノクニ)の王は小人ゆえに簡単に日下に取り込まれるだろうし、それを自分は見ているだけでどうすることもできないが、日見子殿は違う、「聖」から「政」を見おろして支配できる方なので、自分と日見子殿ならば、どちらが主導権を取るべきなのか、火を見るよりも明らかだ、と指摘します。それでも、自分の望みは違う、と言いかけるヤノハを、倭国のためなのでその望みは諦めるよう、事代主は諭します。しかし、自分の目が節穴でなければ、ヤノハには大役を担ってもらうには大きな苦難が立ちはだかっている、と事代主は指摘しますが、ヤノハはその意味を理解できません。

 日下では、トメ将軍とミマアキの一行がモモソと面会した館から立ち去ろうとしていました。モモソはトメ将軍に、日下の戦人はトメ将軍に危害を加える意図はないと伝えましたが、油断は禁物と考えるトメ将軍は、日没前には船着き場まで戻るつもりでした。ミマアキはトメ将軍に、自分たちを包囲していた戦人の一団が気配を消した、と指摘します。トメ将軍もそれには気づいており、新たな都に帰還したか、自分たちを見届けるのかもしれない、と考えます。自分たちを見届けるのが目的ならば、包囲したまま観察を続けるだろうし、攻めるつもりなら、包囲を解いて船着き場で待ち伏せるはずだ、とミマアキはトメ将軍に指摘します。するとトメ将軍は、自分たちは日下の日見子たるモモソの言葉を筑紫島に伝えねばならないので、何としても生きて戻る必要がある、と力強く言います。では、攻撃があると考えて日下の戦人の裏をかくべきでは、とミマアキはトメ将軍に進言します。舟を諦めて徒歩で胆駒山を越えれば、河内湖沿岸の邑々は無人なので、舟を調達できると思う、と構想を打ち明けるミマアキに対して、問題は、胆駒山にはナガスネと言われる戦人の邑があることだ、とトメ将軍は言います。サヌ王でさえ打ち破った勇者たちの邑だ、と言うミマアキに対して、ふいを突けば、船着き場で自分たちを待ち構える敵よりは勝機がある、とトメ将軍は明るい表情で答えます。震える兵士のフキオを卒長がからかい、一瞬緊張が解けた一行覚悟を決めます。場面が弁都留島に戻り、自分の苦難とは何か、とヤノハに問われた事代主が、妊娠しているのではないか、とヤノハに問いかけるところで、今回は終了です。


 今回は、日下に向かってからの動向が不明だったトモとワニが再登場し、トメ将軍とミマアキの器の大きさが描かれ、事代主がヤノハの妊娠の可能性を指摘するなど、見どころが多く、楽しめました。トモはサヌ王の末裔のフトニ王の重臣と思われ、親戚筋ともなるシコオ(後の物部氏という設定のようです)と会い、ヤノハへの敵意がさらに強化されたように思います。ヤノハが率いる山社国とって、トモのような筑紫島内部のサヌ王一族の一派は今後も脅威となりそうです。ヤノハはトメ将軍に、トモを殺害するよう命じていますが、トモは日下の戦人の支援を受けているでしょうし、トメ将軍もトモも筑紫島に戻るとしても、トメ将軍が広大な瀬戸内海でトモを見つけるのは困難でしょう。トモが穂波に帰還した場合、ヤノハは穂波のヲカ王にトモの粛清を指示するのでしょうか。トメ将軍とミマアキがどう苦難を乗り越えるのか、という点も注目されます。かつてサヌ王と長きにわたって戦った長髄日子(ナガスネヒコ)の末裔で、現在の日下では物部(モノノフ)と呼ばれている戦人との関係がどのように描かれるのか、楽しみです。

 今回最大の注目点は、ヤノハの妊娠の可能性を事代主が指摘したことです。ただ、ヤノハは自身の妊娠に気づいていなかったようです。ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に強姦された時点で、ヤノハは妊娠し、そのため『三国志』に見えるように卑弥呼(日見子)はほとんど人と会わなくなったのではないか、と予想していましたが(第54話)、やはりヤノハは妊娠しているようです。事代主がヤノハに、日見子という立場で子を孕むことは禁忌なのか、と尋ねた時、事代主がヤノハを新たに妻に迎えて子を儲けるつもりなのか、と一瞬考えましたが、すぐに、ヤノハの妊娠に気づいたのかな、と考えなおしました。医術に長けている事代主はヤノハの妊娠に気づいた、ということなのでしょう。問題は今後で、ヤノハが事代主に堕胎を要請することも考えられますが、事代主が出産までヤノハを匿い、ヤノハとチカラオとの間の子供を引き取るのかもしれません。その子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、どうなるでしょうか。事代主はなかなかの人格者のようで、山社国と出雲との提携は上手くいきそうですが、妊娠したヤノハが日見子としての権威をどう維持するのか、という新たな難問が生じ、山社国を盟主とする連合国家の安定にはまだ大きな山場がいくつもありそうです。その分、物語を楽しめそうでもあり、今後の展開も大いに期待されます。

東アジアの考古学は国の歴史以外のなにものでもない

 検索して見つけた報告(吉田.,2017)で、表題の興味深い指摘を知りました。この報告によると、「東アジア」諸国の考古学は以下の3種類に区分されているそうです。それは、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国と朝鮮民主主義人民共和国で顕著な「土着発展(The indigenous development model)」型、日本国で顕著な「同一性連続(The continuity with assimilation model)」型、大韓民国で顕著な「単一始祖系譜(The single ancestral antecedent model)」型です。

 おそらく現在では、各国において程度の差はあれども、こうした現代の国家を前提とした考古学研究は相対化されつつあるでしょうが、歴史教育などを通じて一般層には強い影響力を及ぼし続けているかもしれません。「東アジア」とあるように、これらの国々は漢字文化圏だった地域が主体となって成立し、今ではベトナム社会主義共和国は完全に漢字文化圏から離脱し、朝鮮民主主義人民共和国はかなりの程度、大韓民国は一定程度離脱した、と言えるかもしれません。まだ漢字文化圏と言える中華人民共和国と日本国に関しても、前者は簡体字、後者は常用漢字の使用が一般的となり、前近代の漢字文化とはかなり異なっている、とも評価できるでしょう。こうした「一国的」考古学の在り様は前近代の漢字文化に由来する、とも考えたくなりますが、近代化における一般的な反応と評価する方が妥当かもしれません。また「土着発展」型に関しては、社会主義との関連も想定すべきかもしれません。

 ベトナム社会主義共和国と朝鮮民主主義人民共和国の事情はよく知りませんが、大韓民国に関しては、20世紀末の高校の歴史教科書『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』において、

 どの国の歴史でもすべての種族は近隣の種族と交流して文化を発展させ、民族を形成してきた。
 東アジアでは先史時代に諸民族が文化の花を開かせたが、そのなかでもわが民族は独特の文化を作りあげていた。人種上では黄色人種に属し、言語学上ではアルタイ語系に属するわが民訴は、久しい以前から一つの民族単位を形成し、農耕生活を基礎にして独自な文化を築きあげた。
 われわれの祖先はだいたい、遼西、満州、韓半島を中心にした東北アジアに広く分布していた。わが国に人が住みはじめたのは旧石器時代からであり、新石器時代から青銅器時代を経る過程で民族の基礎が築きあげられるようになった。


と述べられており(P30)、「一国的」考古学が窺えます。日本国に関しては、本報告において、「左右」両方の政治的立場で、同質的な日本を前提とし、それが縄文時代にまでさかのぼるという認識がある、と指摘されています。

 中華人民共和国における「土着発展」型考古学との認識は、中華人民共和国がかつては現生人類(Homo sapiens)多地域進化説の主要拠点の一つだったこと(関連記事)を考えると、説得力があるように思います。「土着発展」型考古学は、長期にわたる地域的発展の連続性を前提として、現生人類多地域進化説ときわめて親和的です。アジア東部における現生人類多地域進化説の根拠としてよく言われていたのがシャベル型切歯で、貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』など一般向けの歴史書でも取り上げられたことから(P44~45)、現在でも日本ではアジア東部におけるホモ・エレクトス(Homo erectus)から現代人への連続性の根拠と考える人が一定以上いるかもしれません。しかし、シャベル型切歯の遺伝的基盤となる変異は派生的で、3万年前頃(分子時計は確定的ではないので、この年代は前後する可能性があります)と現生人類の進化史でもかなり最近になって出現したと推測されており、「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化、あるいは「北京原人」から(他の絶滅ホモ属を経由して)の遺伝子流動による表現型と考えることは無理筋と言うべきでしょう(関連記事)。

 問題となるのは、今ではほぼ否定された「北京原人」など非現生人類ホモ属から現代人に至る地域的連続性だけではなく、現生人類の地域的連続性です。これは古代DNA研究の進展に伴ってますます明らかになりつつあり、ヨーロッパ(関連記事)でもアジア東部北方(関連記事)でも、最初期の現生人類集団は同地域の現代人にほとんど遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されています。しかし近年(2019年)でも、地域的連続性を前提として現生人類の起源を論ずる研究が有力誌に掲載され、強く批判された事例があるように(関連記事)、人類集団の地域的連続性を前提とする認識は今でも根強いのかもしれません。今後、アジア東部に関して、この問題を取り上げる予定です。


参考文献:
貝塚茂樹、伊藤道治(2000)『古代中国』(講談社)

申奎燮、大槻健、君島和彦訳『新版 韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』(明石書店、2000年)

吉田泰幸(2017)「縄文と現代日本のイデオロギー」『文化資源学セミナー「考古学と現代社会」2013-2016』P264-270
https://doi.org/10.24517/00049063

暁新世後期の哺乳類の足跡化石

 暁新世後期(6600万~5600万年前頃)の哺乳類の足跡化石に関する研究(Wroblewski, and Gulas-Wroblewski., 2021)が公表されました。この研究は、植物と花粉の化石を用いた年代測定により5800万年前頃と決定された区域で1000m以上にわたる足跡化石を調査して撮影し、複数種の行跡を特定しました。1つの行跡は現代のヒグマの足のサイズに匹敵する比較的大きな5本指の足跡で、もう1つの行跡は中型の4本指の足跡でした。この研究は、5本指の足跡が、カバに似た半陸半水生の汎歯目哺乳類の一種であるコリフォドンの足跡と考えています。4本指の足跡は、古新世後期の既知の哺乳類の骨格証拠と一致しませんでしたが、偶蹄目哺乳類およびバク上科哺乳類(有蹄哺乳類)と類似点がありました。ただし、これらの哺乳類が古新世に存在していたことは、まだ立証されていません。

 これらの行跡化石は、先史時代の海生軟体動物や海生環形動物だけでなく、イソギンチャクも生息していた痕跡のある区域まで続き、その区域を横切っていました。これは、その区域が、かつては浅い潟湖か湾であったことを示しています。この研究は、先史時代の哺乳類が海岸近くに集まった理由は、この区域を横切る渡り、捕食者や刺咬昆虫からの防護、先史時代の北米熱帯林では限られていたナトリウム鉱物の入手など、現生哺乳類と同様である、と推測しています。この知見は、哺乳類が海洋生息地を最初に使用したのが、これまで考えられていたより少なくとも940万年早く、始新世(5600万~3390万年前)ではなく暁新世後期であったことを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:先史時代の哺乳類は海岸近くを好んだことを示唆する足跡化石

 米国ワイオミング州のハンナ累層で最近発見された、5800万年前のものとされる行跡化石は、哺乳類が海岸近くに集まっていたことを示す最古の証拠と考えられることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、哺乳類が海洋生息地を最初に使用したのが、これまで考えられていたより少なくとも940万年早く、始新世(5600万~3390万年前)ではなく暁新世後期(6600万~5600万年前)であったことを示唆している。

 今回、Anton WroblewskiとBonnie Gulas-Wroblewskiは、植物と花粉の化石を用いた年代測定によって5800万年前と決定された区域で1000メートル以上にわたる足跡化石を調査し、撮影した。Wroblewskiたちは、複数種の行跡を特定した。1つの行跡は、現代のヒグマの足のサイズに匹敵する比較的大きな5本指の足跡であり、もう1つの行跡は、中型の4本指の足跡だった。Wroblewskiたちは、5本指の足跡が、カバに似た半陸半水生の汎歯目哺乳類の一種であるコリフォドンの足跡だと考えている。4本指の足跡は、古新世後期の既知の哺乳類の骨格証拠と一致しなかったが、偶蹄目哺乳類とバク上科哺乳類(有蹄哺乳類)と類似点があった。ただし、これらの哺乳類が古新世に存在していたことは、まだ立証されていない。

 これらの行跡化石は、先史時代の海生軟体動物や海生環形動物だけでなく、イソギンチャクも生息していた痕跡のある区域まで続き、その区域を横切っていた。これは、その区域が、かつては浅い潟湖か湾であったことを示している。Wroblewskiたちは、先史時代の哺乳類が海岸近くに集まった理由は、この区域を横切る渡り、捕食者や刺咬昆虫からの防護、先史時代の北米熱帯林では限られていたナトリウム鉱物の入手など、現生哺乳類と同様であると推測している。



参考文献:
Wroblewski AFJ, and Gulas-Wroblewski BE.(2021): Earliest evidence of marine habitat use by mammals. Scientific Reports, 11, 8846.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-88412-3

港川人のミトコンドリアDNA解析

 港川人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Mizuno et al., 2021)が報道されました。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸と太平洋とフィリピン海プレートの境界に位置する日本列島は、1500万年前頃までにアジア大陸から分離して形成されました。考古学的証拠からは、4万~3万年前頃に日本列島に最初の人々が出現した、と示唆されます(関連記事)。旧石器時代後の日本列島の先史時代は、一般的に対照的な時代である縄文時代と弥生時代に区分されます。縄文時代は1万年以上続き、狩猟採集民の生計により特徴づけられます。

 一方、弥生時代は水田稲作農耕により特徴づけられます。稲作はアジア本土からの移民により日本列島にもたらされた、農耕移民は日本列島に弥生時代以降に到来した、と考えられています。19世紀半ば以降、現代日本人の人口史に関していくつかの仮説が提案されてきましたが、現在一般的に受け入れられている見解は、現代日本人が少なくとも2つの祖先系統(祖先系譜、ancestry)から構成され、一方はアジア南東部起源の「縄文人」、もう一方はアジア北東部起源の「弥生人」である、というものですが、旧石器時代人に関してはほとんど知られていません(関連記事)。

 日本列島は火山灰の酸性土壌に広く覆われており、古代DNA研究は困難です。本論文は、日本列島における旧石器時代人のミトコンドリアゲノム配列を初めて報告し、旧石器時代と縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々の完全なミトコンドリアゲノム配列を用いて日本列島の人口動態を調べ、ハプログループ多様性の観点から、母系遺伝子プールにおける連続性を明らかにします。日本列島の2000個体以上を用いての人口統計分析を通じて、狩猟採集から農耕への文化的変化における劇的な人口爆発が観察されます。これは、温度が短期間で急激に変化したことで知られている時期です。最終氷期(LGP)から完新世の移行期において、ヤンガードライアスとして知られる氷期への一時的な揺り戻しもありました。この急速な気候変化は、大型動物の広範な絶滅と強く関連していることが示されています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Mは、現代のアジア人口集団において高頻度で観察されますが、現代のヨーロッパ人口集団では見られません。しかし、最終氷期前となる後期更新世のヨーロッパの人類遺骸では、複数の個体がmtHg-Mに分類されています(関連記事)。これは、母系遺伝子プールにおける劇的な変化を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。完全なミトコンドリアゲノム配列を得ることにより、旧石器時代とその後の狩猟採集の縄文時代および農耕の弥生時代の人々における遺伝的関係が調べられ、さらには現代日本人集団の過去の人口史が明らかになります。現代アジアの人口集団では見られないmtHgが見つかった場合、ヨーロッパで観察されたように、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性があります。しかし、現代アジアの人口集団で見られるmtDNAと密接に関連する配列のmtDNAが見つかった場合、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性は低くなり、つまりは人口集団の連続性が示されます。


●旧石器時代の人類遺骸のミトコンドリアゲノム

 本論文は、おそらく日本列島最初の人類の直接的子孫であろう、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号の完全なミトコンドリアゲノム配列結果を報告します。港川1号の発見場所は、以下の本論文の図1で示されています(図1の1)。
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 港川1号のミトコンドリアゲノム配列の平均深度は52倍で、mtHg-Mに分類されましたが、既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換は見つかりませんでした。mtHg-Mは、現代のアジア人とオーストラリア先住民とアメリカ大陸先住民で高頻度です。港川1号で見られるmtHg-Mの祖先型の配列は、本論文で新たに決定された現代日本人2062標本、既知の現代日本人672標本、中国の漢人21668標本(関連記事)では見つかりませんでした。以下の図2では、日本列島の古代人18個体と現代人171個体のミトコンドリアゲノムのベイズ系統樹が示されています。
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 以下の図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
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 これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。同様の事例はアジア本土で報告されており、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)は、4ヶ所のシングルトン(固有変異)を有する祖先型のmtHg-Bと報告されています。つまり、現代人のmtHg-Bの共通祖先というわけです。

 地球規模の気候変動のため、旧石器時代の最終氷期は生存困難な時期と考えられており、遺伝子プールの変化は世界中のさまざまな人口集団で起きる、と予測されています。しかし、港川1号と田園個体を含む系統発生ネットワークの結果(図4a・b)から示唆されるのは、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、ということです。なぜならば、港川1号と田園個体が母系ではアジア東部現代人の祖先集団に属するからです。以下、本論文の図4aおよび図4bです。
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●縄文時代狩猟採集民のミトコンドリアゲノム

 さらに、8300~3700年前頃の縄文時代6遺跡の10個体(図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は11~1577倍)。縄文時代の個体は全て、系統発生ネットワークと系統樹とMDSプロットにおいて現代日本人と同じクラスタに収まりました(図2・3・4)。これは、日本列島における縄文時代から現代までの人口集団の継続性を示し、旧石器時代から新石器時代の日本列島の人類集団における母系遺伝子プールでは劇的な変化がなかったことを意味します。この結果は、本論文の縄文時代個体のほとんどがmtHg-MもしくはNに分類され、その多くは下位区分ではmtHg-M7aもしくはN9bとなることも示します。これは、PCRに基づく以前の結果と一致します。mtHg-M7aとN9bはともに現代日本人でも見られ、その割合は、mtHg-M7aが7.9%、mtHg-N9bが1.3%です。


●弥生時代農耕民のミトコンドリアゲノム

 弥生時代の人類遺骸4個体(佐賀県神埼町の花浦遺跡と山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡から2個体ずつ、図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は13~5891倍)。弥生時代は、移民が日本列島にもたらした水田稲作農耕生活様式により始まりました。弥生時代の4個体はmtHg-D4に分類されました。mtHg-D4は現代日本人では最も一般的で(34.3%)、アジア東部全域でも一般的です(関連記事)。

 縄文時代の個体群と同様に、弥生時代の個体は全員、系統発生ネットワークとMDSとベイズおよび近隣結合系統樹のクラスタのいずれかに収まり、そのクラスタは現代日本人とともに構築されますが、縄文時代と弥生時代の個体群はそれぞれに特徴的なmtHgの下位区分を有します(図2・3・4)。港川1号と縄文時代の標本群の結果を組み合わせると、日本列島では後期更新世から現代の人口集団で少なくともある程度の連続性がある、と示されます。


●過去の人口動態傾向の推定

 本論文の結果は、旧石器時代に始まり狩猟採集の縄文時代と農耕の弥生時代を通じて1万年以上にわたり、日本列島の人々の遺伝的多様性の全てを飲み込み、現代日本人の遺伝子プールが確立されてきたことを示します。現代日本人2062個体を用いてのベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析では、45000~35000年前頃と15000~12000年前頃と3000年前頃となる、3回の大きな人口増加が明らかになりました(図5)。これらはそれぞれ、後期更新世における気温上昇、アジア東部における農耕の始まり、弥生時代の開始と対応しています。

 アジア東部に関する最近の研究(関連記事)では、現代中国の漢人21668個体のミトコンドリアゲノム配列から人口史が推測され、最終氷期末に向かって45000~35000年前頃に人口が増加し、その後、別のより急速な人口増加が15000~12000年前頃に起きた、と推測されています。本論文の分析で示された最初の2回の人口増加は、現代の日本と中国(漢人)の人口集団で共通していますが、3番目の人口増加は現代日本人に特有です。この3番目の人口増加は弥生時代開始後に起きており、現代日本人の人口規模に大きく寄与しました。

 この知見と組み合わせると、現代日本の人口集団で見られる最初の2回の人口増加は、おもに弥生時代以降に農耕民が日本列島へと移住してくる前に起きた人口増加を反映しているはずです。容易に予測できますが、水田稲作農耕を日本列島にもたらした弥生時代以降の移民は、日本列島における人口およびその構造に大きな影響を及ぼしたはずです。2800年前頃もしくは4200年前頃に起きた完新世の気候変動が朝鮮半島の人口集団に影響を及ぼし、日本列島への移住を促進した、と示唆されています。

 その後のさらなる人口増加は、日本列島への鉄器導入と関連している可能性があり、鉄器導入はより効率的な水田稲作農耕とより安定した食料供給を可能としました。得られた全ての知見を踏まえると、本論文の結果から、現代日本の人口集団の遺伝的構成は、弥生時代の農耕民の移住事象と、その後のアジア本土からの複数の移住により作られた、と示されます。しかし、現代日本の人口構造への縄文時代の人々の寄与は無視できません。

 本論文が示すのは、mtHg多様性の観点から、旧石器時代の日本列島への最初の移住の波以来、母系遺伝子プールにおける連続性があったことと、現代日本人の祖先は3回の大きな人口増加を経たものの、最初の2回はおもにアジア本土で起きた、ということです。3番目の人口増加は比較的短期間で起きた急激なもので、縄文時代狩猟採集民の遺伝子プールは、弥生時代に農耕をもたらした移民の到来と、それに続く人口爆発の後でさえ生き残ってきました。以下は本論文の図5です。
画像

 弥生時代の移住後の各段階で、縄文時代からの在来狩猟採集民と日本列島に移住してきた農耕民が混合したのかどうか、もしそうならば、どのようなものだったのか、といったヨーロッパでは明らかになりつつあるような(関連記事1および関連記事2)重要問題は未解決です。本論文にはミトコンドリアゲノムのみが含まれており、その標本数は限定的です。したがって、より明確な結論に到達するには、古代人のより多くのゲノム情報を明らかにする必要があり、そうすれば、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代の農耕民との間の友好的関係の存在に関するより明確な証拠を得られます。他の旧石器時代の人類遺骸のさらなるミトコンドリアゲノム調査と港川1号の核ゲノム分析は、日本列島の人口史解明のためのより多くの手がかりと詳細を与えてくれるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、日本列島の旧石器時代の人類遺骸では初となるDNA解析結果を報告しており、たいへん意義深いと思います。港川1号はmtHg-Mで、Mの基底部近くに位置します。mtHg-Mはユーラシア西部現代人には基本的に見られず、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸(先住民)の現代人にのみ存在します。本論文は、この新たな知見から、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、と指摘します。確かに、更新世には存在したmtHg-Mがその後消滅したヨーロッパと比較すると、日本列島、さらにはアジア東部では母系遺伝子プールにおける劇的な変化は起きなかった、と評価できるかもしれません。

 しかし、本論文が示すように、港川1号のmtHg-Mは本論文で取り上げられた古代人および現代人のmtHgとは直接的に関連しておらず、消滅したようです(今後現代人で見つかる可能性は皆無ではありませんが)。さらに、43000年以上前のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類のmtHgでは、Nの基底部近くに位置したり、Nの下位区分であるRに区分されるものも確認されています(関連記事)。また、44000年前頃と推定されるチェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された現生人類女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のmtHgはNで、基底部近くに位置します(関連記事)。

 確かに、ヨーロッパでは後期更新世の最初期現生人類に存在したmtHg-Mがその後消滅しましたが、一方で最初期現生人類においてmtHg-Nも確認されています。本論文の基準に従えば、ヨーロッパでも後期更新世からの母系遺伝子プールの連続性が確認される、と評価できるのではないか、との疑問が残ります。ヨーロッパの最初期現生人類ではmtHg-Mしか確認されていないのだとしたら、ヨーロッパの現生人類における母系遺伝子プールの劇的な変化との評価も妥当だとは思いますが。

 そもそも、本論文も指摘するように、遺伝的連続性の評価も含めて人口史の解明には、核ゲノムデータが必要になると思います。本論文は、田園個体もアジア東部における母系遺伝子プールの連続性の証拠としますが、田園個体的な遺伝的構成の集団は、北京近郊だけではなくアムール川地域からモンゴルまで4万~3万年前頃にはアジア東部において広範に存在した可能性があるものの、現代人には遺伝的影響を残しておらず、3万~2万年前頃に異なる遺伝的構成の集団に置換された、と指摘されています(関連記事)。

 ヨーロッパでも、ズラティクン的な遺伝的構成は、どの現代人集団とも近縁ではなく、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています。バチョキロ洞窟個体群は、ヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に近縁ですが、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています(関連記事)。mtHg-L3から派生した、MやNといった大きな基準では、母系遺伝子プールに限定したとしても、遺伝的連続性を評価するのはあまり適切ではないように思います。

 これら最近の古代ゲノム研究から示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散した後、アフリカ外の各地域で初期に出現した集団がそのまま同地域の現代人集団の祖先になったとは限らない、ということです(関連記事)。これは現時点では、ヨーロッパとアジア東部大陸部だけで明確に示されていると言えるかもしれませんが、他地域にも当てはまる可能性は低くないように思います。日本列島も例外ではなく、後期更新世の最初期現生人類集団が、縄文時代、さらには現代まで遺伝的影響を残しているとは、現時点ではとても断定できません。本論文も指摘するように、日本列島は動物遺骸の保存に適していないので、更新世の人類遺骸はほとんど見つかっておらず、古代DNA研究での解明は絶望的かもしれませんが、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(関連記事)が進めば、日本列島における人口史の解明は劇的に進展するかもしれない、と期待しています。

 現時点では、港川1号の日本列島、さらにはアジア東部の人口史における位置づけは困難ですが、本論文とアジア東部の古代ゲノム研究の進展(関連記事)を踏まえてあえて推測すると、港川1号も含まれる港川フィッシャー遺跡集団は、古代人ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団、現代人ではアンダマン諸島人と遺伝的に近いかもしれません。これらの集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されています。これに対して、アジア東部現代人はおもにユーラシア東部内陸部祖先系統で構成されています。ユーラシア東部内陸部祖先系統は北方系統と南方系統に分岐し、アジア東部でより強い影響を有するのは北方系統で、オーストロネシア語族集団では南方系統の影響が強い、とモデル化されています。

 縄文時代個体群は、ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)とユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)の混合とモデル化されています。港川フィッシャー遺跡集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されているか、ユーラシア東部内陸部南方祖先系統との混合集団で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないものの、縄文時代個体群の直接的祖先とは遺伝的に近縁かもしれません。もちろん、これは特定の研究のモデル化に依拠した推測にすぎないので、今後の研究の進展により、さらに実際の人口史に近いモデル化が可能になるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2

大河ドラマ『青天を衝け』第18回「一橋の懐」

 今回は、栄一(篤太夫)の一橋家での奉公とともに、天狗党の乱が描かれました。兵の募集ではなかなか上手くいなかった栄一ですが、交流を深めて次第に信頼関係を築き、応募する者も出てきます。栄一はそれを利用して代官を脅迫し、多くの者が志願してきます。この功績を一橋慶喜に認められた栄一は、兵を維持するために一橋家の財政の充実を慶喜に強く訴えます。具体的な方策を主張する栄一に感心したのか、慶喜は栄一の提言を採用します。今回、慶喜と栄一の間に強い信頼関係が築かれたようです。

 主人公の具体的な業績があまり描かれないのに、なぜか周囲の人物が主人公を持ち上げたり、主人公と対比される重要人物を貶めることで主人公を相対的に高く評価したりする作品もありますが、本作は血洗島時代も一橋家臣時代も栄一の業績をしっかりと描いており、栄一が周囲の人物に高く評価されるようになった経緯に関しては、なかなか説得力があるのではないか、と思います。これならば、栄一が歴史上の重要人物として活躍する明治時代以降の描写もかなり期待できそうです。ただ、まだ栄一が外遊にも出ていないので、明治時代以降の描写は駆け足というか薄くなるかもしれませんが。

 天狗党の乱は、慶喜が重要人物だけに、なかなか詳しく描かれました。栄一は関東から連れてきた兵を率いて従軍し、喜作(成一郎)は天狗党首脳に慶喜からの密書を届け、武田耕雲斎は慶喜に降伏します。幕府は慶喜が天狗党残党を取り込んで幕府に害をなすと警戒し、天狗党の者たちは全員斬首されました。今回は小栗忠順(上野介)と栗本鋤雲が初登場となります。小栗忠順は幕末大河ドラマで登場することが少ないように思いますが、今回はなかなか目立っており、今後重要な役割を担うのでしょうか。

藤本透子、菊田悠、吉田世津子「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P15-23)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部は現生人類(Homo sapiens)がユーラシアに拡散した重要な経路上に位置すると考えられますが、近接するアジア南西部およびシベリアと比較して人類遺骸の残存が限定的で、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と現生人類との関係、あるいは初期現生人類とその後に拡散した現生人類との関係について不明な点がひじょうに多くなっています。その中で、考古学分野では旧石器時代に関する現地調査が進められ、既知の遺跡の再発掘や、新たな遺跡の発掘が行なわれてきました。旧石器時代より後の時代の方で証拠が多く見つかっているため、集団間の接触に関してモデル化しやすく、そのモデルは旧石器時代に応用する上でも意義深いので、新石器時代に関する研究も同時に進められています。一方、遺伝学でも、現生人類がアジア中央部に拡散した後の移動や集団間の関係について次々と明らかにされつつあります(関連記事)。文化人類学が直接の観察対象とする現代の社会は旧石器時代とは大きく異なりますが、農耕牧畜が開始された新石器時代以降に関する近年の研究結果を間に挟むことで、旧石器時代に関する考古学的証拠と現代の人類学から導き出されるモデルとの相互関係が考えやすくなります。

 このため、本論文は、アジア中央部に関する遺伝学の近年の成果もふまえて、文化人類学調査の結果の位置づけを試みます。とくに、生態環境への適応と集団間接触の影響について、居住形態、生活用品の製作と利用、象徴的意味をもつ墓地と墓碑に着目して検討します。これまでアジア中央部のウズベキスタンとクルグズスタン(キルギス)とカザフスタンを対象に、著者3 名は人類学調査を行なってきましたが、2020 年度は新型コロナウイルス感染症の拡大により現地調査を行なえず、昨年度までに収集したフィールドデータを整理してまとめる作業に注力しました。2020 年8 月にカザフスタンで開催された国際会議(大草原地帯の歴史と文化)に著者の一人(藤本氏)がオンライン参加し、考古学と人類学と遺伝学と歴史学の知見を総合してアジア中央部草原地帯の歴史と文化を解明しようとするこの会議はで得られた知見も、本論文で報告されます。


●アジア中央部における移動と集団間の接触

 ユーラシアの中央部に位置するアジア中央部は、人の移動が繰り返し生じてきた地域です。旧石器時代にアジア中央部に暮らしていた人々の姿やアジア中央部現代人との関係について、遺伝学的知見が蓄積されつつあります。それによると、アフリカを出て中東に到達した現生人類は、47000年前頃(この年代は確定していません)にユーラシア集団が東西に分岐しました。その後、ユーラシア西部集団の一部は、いわゆる北方経路でアジア東方に拡散し、ユーラシア東部集団は南方経路でアジア東方に拡散しました(この南方経路が確定したとは言えないように思います)。その後、シベリアではユーラシア西部集団とユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団が混合しました(関連記事)。

 アジア中央部でも、シベリアとやや事情は異なりますが、ユーラシア西部集団とアジア東部集団との混合が、近年明らかになりました。まず、ユーラシア西部集団に関しては、アジア中央部とヨーロッパとアジア南部という広域に関わる研究結果が報告されています(関連記事)。その研究によると、アジア中央部および南部の357個体の古代DNA解析の結果、インド・ヨーロッパ語族の広がりに関して新たな発見がありました。具体的には、アジア中央部に紀元前3000 年頃に現れたヤムナヤ(Yamnaya)文化の牧畜民が、ヨーロッパとアジア南部に拡散して遺伝的に大きな影響を残しており、インド・ヨーロッパ語族祖語を話していた可能性が高そうです。

 これ以後の時代に関する研究(関連記事)では、青銅器時代(紀元前2500年頃以降)から中世(紀元後1500年頃まで)に至る137 個体のゲノムが解析されました。その結果、ユーラシア草原地帯の住民の多くは、大部分がユーラシア西部集団祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有するインド・ヨーロッパ語族集団から、ユーラシア東部集団の一部であるアジア東部集団祖先系統を有する現代のテュルク系集団へと変化した、と示されました。鉄器時代を通じてユーラシア草原地帯で優勢だったスキタイは、共通する遊牧文化と動物文様で知られますが、後期青銅器時代の牧畜民とヨーロッパ農耕民とシベリア南部狩猟採集民という異なる起源をもつ人々から形成されていました。スキタイは後に、匈奴連合を形成した草原地帯東部の遊牧民と混合して西方に移動し、紀元後4~5 世紀にフンとしてヨーロッパに現れました。これらの遊牧民は、中世にいくつかの短期間のハン国が形成されたさいに、さらにアジア東部集団と混淆しました。スキタイに関しては、最近包括的な古代ゲノム研究が公表されました(関連記事)。

 10 世紀ころまでに東方からテュルク系の人々が到来し、それまでイラン系だったアジア中央部の住民が「テュルク化」したことは、歴史学では広く知られた事実です。しかし、人口比が不明だったため、それが言語の変化だったのか、それとも住民自体の大きな変化を伴うものだったのかは、よく分かっていませんでした。ゲノム研究により、アジア中央部のテュルク化とは、ユーラシアライブ集団に由来するイラン系の人々が、ユーラシア東部集団に由来するテュルク系の人々と混合した結果だった、とが示されたことになります。ただ、イラン系の人々はテュルク系と比較して人口は減ったものの、その後もアジア中央部の歴史で重要な役割を果たして現在に至っています。以前の研究(関連記事)では、ウズベキスタンとタジキスタンとキルギスとカザフスタンの現代人のゲノムも解析され、集団混合によりアジア中央部現代人が形成されてきたこと、またその混合には地域的偏りが見られ、イラン系住民が多い地域とテュルク系住民が多い地域では祖先集団の比率が異なることも示されています。

 カザフスタンでは現代人(テュルク系)1956個体、古代人(おもに青銅器時代から中世初期まで)117個体のゲノムが解析され、古代人のY染色体ハプログループ(YHg)はR1が54.8%、Q1が19.4%、J2aが6.5%で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHが19.6%、D4eが15.7%、Aが11.8%、Uが11.8%、C4が7.8%、Jが7.8%でした(5%以下のグループは省略)。一方、現代カザフ人の特徴は古代人とは異なっており、YHgではC2が47.6%、Rが14.5%、O2が7.6%、Jが5.6%、Gが5.6%、mtHgではZが20.6%、Dが17.0%、Uが12.2%、Cが9.7%、Aが5.1%、Bが5.1%です。YHgの分岐形態から類推された世界への拡散の様子(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P58)を参照すると、古代人YHgで最多のRはヨーロッパに多い系統で、現代カザフ人で最も多いCは南方経路でアジアに達した系統とされています。また、mtHg間の系統関係(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』P 76)を参照すると、古代人にヨーロッパ集団、現代カザフ人にアジア集団にみられるmtHgの割合が高い、と示されます。この現在のカザフスタンにおける古代人と現代人のゲノム分析結果の差異は、北方経路のユーラシア西部集団に、南方経路のアジア東部集団の人々が入っていったことを示している、と考えられます。YHgの方がmtHgより偏りは大きいことも同時に注目され、「集団の混じり合いにおける性的バイアス」(David Reich『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』P331~334)に相当します。また、カザフ人に関しては、父系の外婚制の規範があることの影響も大きいと考えられます。
 
このように、遺伝子に反映された過去の集団の移動や通婚について詳細に明らかにされつつありますが、集団間の関係は遺伝子水準に反映されるものばかりではありません。8 世紀における中東からアジア中央部へのアラブの侵出、13世紀におけるモンゴルの中央アジア侵出などは、遺伝子に痕跡が残されている以上に文化・社会的影響が大きかった可能性もあります。さらに、18 世紀頃から20 世紀にかけては、イラン系およびテュルク系の人々が主に暮らしていたアジア中央部にスラヴ系の人々(とくにロシア人)が北方から侵出しました。その際、通婚は一部のみでしたが、集団間の接触による文化・社会的影響は広範な地域に及びました。現代を対象とする文化人類学研究において実際に観察できるのは、このイラン系およびテュルク系、スラヴ系の人々との直接的・間接的接触です。以下では、これまでの調査結果をまとめながら、集団の接触にともなう居住形態とその変化、生活用品(とくに器)の製作と利用、象徴的意味を持つものの製作と利用(とくに墓制と関連する墓碑)について検討されます。なお、言語系統が同一であっても生態環境への適応によって生業が変化し、別の集団を形成する場合があるため、言語系統と生業による集団の区分とその変化に留意することが必要です。


●居住形態とその変化

 旧石器時代には、アジア中央部に居住した現生人類は狩猟採集民として移動する生活を送っていた、と考えられています。新石器時代には、アジア南西部で開始された農耕牧畜が伝播し、定住生活が営まれるようになり、さらに紀元前1000年頃の気候の乾燥化に伴って、牧畜に特化して季節移動する遊牧民と、河川や泉などを中心とするオアシスで農耕を行なって定住する人々が生まれました。遊牧民と定住農耕民という2集団間の交渉は、20 世紀初頭まで形を変えながらも続きました。こうした生業と居住形態の変化の結果、現在ではアジア中央部に狩猟採集民は存在しません。この点で、狩猟採集の生活が形を変えながらも20世紀まで続いたシベリアとは異なっています。ただ、アジア中央部でもとくにシベリアに近い地域では、狩猟や植物採集が一部で行なわれています。たとえば、草原地帯に居住するテュルク系のカザフ人は牧畜を主な生業としていますが、狩猟や採集も行ないます。狩猟対象はキツネやウサギで、その毛皮で外套や帽子を作ります。また、野イチゴやラズベリーなどのベリー類の採集が現在も行なわれており、ベリー採集を生業の重要な一部とするシベリアと共通性があります。

 現在では狩猟採集をおもな生業とする人々が存在しない地域についても、民族考古学の手法を用いて季節移動という側面から分析する試みが行なわれており、温帯草原に暮らす人々の移動パターンは全体的に採集民(collector)に近いものの、夏季は頻繁に居住地を移動すること(forager的)が指摘されています。これまで草原地帯で発掘されている旧石器時代の遺跡は、おもに山麓で水源に近いところに点在しており、19世紀から20世紀初頭までの遊牧民の冬営地と立地条件が類似しています。つまり、山麓や岩山のかげで風を遮ることができ、なおかつ川や泉などの水源に近い場所にあります。20 世紀初頭までのカザフ遊牧民の移動パターンを、現地での聞き取りにもとづいて整理すると次の通りです。(1)温帯草原での居住と移動には季節による顕著な差があり、厳寒となる冬季には一地点に居住する傾向が強く、夏季には頻繁に移動します。(2)このため、居住の痕跡は夏営地には残りづらく、冬営地に残りやすくなります。後述の埋葬地も、冬営地のそばにまとまりやすくなります。(3)遺物は長期間滞在する冬営地に集中しますが、人々の交流は移動が容易な夏にむしろ活発です。肉の共食が、家族を超える集団の交流に重要な役割を果たしており、動物骨がその痕跡として意味をもつと考えられます(関連記事)。

 草原地帯におもに居住するカザフ人はテュルク系諸民族の一つですが、同じテュルク系でもウズベク人のようにより早く定住化した人々もいます。生業に基づく集団区分と、言語系統に基づく集団区分とが、一致しないことに要注意です。テュルクは遊牧民としてモンゴル高原からアジア中央部に到来しましたが、アジア中央部東方(東トルキスタン)では定住化し、西方(西トルキスタン)では定住した人々と遊牧を継続した人々に分かれました。これは、アジア中央部西方ではオアシスの間に草原が広がっている、という生態学的な条件の差異によるものと指摘されています。13 世紀にはモンゴル系の人々が支配階層として到来しましたが、次第にテュルク系に吸収され、草原のテュルク系遊牧民とオアシスのイラン系・テュルク系定住民の両方の社会上層に入ることになりました。

 生態環境への適応は、社会組織にも影響を与えました。父系出自で夫方居住である点は、アジア中央部のテュルク系・イラン系諸民族に共通しますが、遊牧民は外婚制の規範をもつ点で定住民と異なります。たとえばカザフ人の間には、父系7 世代をさかのぼって共通の祖先がいる場合は結婚しない、という規範があります。この外婚制の規範は、父系親族集団の認識とも部分的に重なり合います。遊牧民の間でこうした血縁にもとづく集団認識があったのに対して、定住民は居住する町とその内部の居住区が生活の単位で、地縁に基づく集団認識を有していました。同じテュルク系に属する諸民族の間でも、居住形態や結婚に関する規範が、自他を区別する際の指標となってきました。

 こうした状況をさらに複雑にしたのが、スラヴ系集団(おもに定住農耕に従事)のアジア中央部侵出により、居住形態に変化が生じたことです。カザフスタンにおける居住形態の変化に加えて、ウズベキスタンとキルギスの事例を検討すると、(1)イラン系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、(2)イラン系定住民・テュルク系定住民の居住地域にスラヴ系が定住、(3)テュルク系遊牧民の居住地域にスラヴ系定住民が進出して定住、(4)スラヴ系定住民の居住地域にテュルク系遊牧民が定住、という4パターンがあります。このうち、カザフスタンの事例は(3)と(4)に含まれます。季節的移動性の高い集団(遊牧民)と低い集団(定住農耕民)は、通常は自然環境によって住み分けますが、(3)のパターンでは、定住的な生活をする集団が草原に進出したことで季節的移動性の高い集団を圧迫しました。そのさい、草原に点在する湖や森林など、限定的ではあるものの周囲と異なる環境が進出の足掛かりとなった点は注目されます。ミクロな環境への適応が、集団間の新たな接触と居住形態の変化に結びついた、と考えられます。


●器に注目した生活用品の製作と利用

 居住形態とその変化および集団間の接触は、生活用品の製作と利用にも影響を与えてきました。本論文は、生活用品のなかでもとくに器(容器や食器)に着目します。アジア中央部の乾燥した気候条件では、河川の流域や山岳地帯をのぞけば植物は限られています。このため、とくに草原地帯では、動物資源の利用が相対的に重要です。現在も骨製品がごく一部とはいえ使われ続けている他に(関連記事)、毛皮やなめし皮の利用がさかんです。毛皮は防寒着に使われ、なめし皮は衣服の他に馬乳酒を入れる革袋に加工され、容器としても用いられます。動物の胃や腸などの内臓も、容器として活用されます。たとえば、ヒツジの胃袋を洗って表面をナイフでなめらかに整えた後で干して匂いをとり、それを水でもどしてから油脂(バター)を詰めて保存します。ウシの盲腸も同様に、油脂を保存するために利用します。胃や腸を加工した容器を使うと空気が入らず、油脂の品質が長期間保たれるためです。また食器に関しては、定住化以前は木製の大皿が肉料理用として、椀が馬乳酒用として用いられていました。移動する生活では、土器や陶器など壊れやすい材質のものは好まれず、このように動物資源を活用した容器や、木製品と金属製品が多く使われていました。

 一方オアシスでは、定住民により土器や陶器が製作され使用されてきました。土器や陶器は旧石器時代にはアジア中央部には存在しませんでしたが、人の行動パターン、とくに製品や技術の変化に関するモデルを抽出する上で参考になると考えられます。こうした観点からの陶工の調査では、アジア中央部オアシス地帯では8 世紀頃まで土器と金属器がおもに使われていたものの、アラブの侵攻により生活全般に及ぶ規範であるイスラム教が新たに伝えられ、次第に浸透したことを契機として、陶器の製作と利用が盛んになりました。陶器は用途に合った共通様式の確立後、その形が数世紀にわたりほとんど変化しませんでした。その一方で、陶土や釉薬は製作地近くから調達され、各オアシスで異なる特徴を生み出すことになりました。オアシスごとに陶器の色彩や文様に特徴があることは、オアシスごとの帰属意識が強いこととも重なり合います。

 遊牧民との接触の影響については、13 世紀にモンゴル系遊牧民がアジア中央部を支配した時期に、一時的に陶器の質は低下したものの、復興すると同じ形態の陶器が作られるようになりました。これは、陶器を製作する集団にあまり変化がなかったためと推測されます。一方、テュルク系遊牧民との接触を示すものとして、文様や色の特徴が挙げられます。たとえば、草原地帯とオアシス地帯の境界線上に位置するチャーチュ(現タシケント)で見られる動物文様は、草原地帯の衣服の動物文様とも共通性があります。また、陶器の青い色合いは、テングリと呼ばれる天の神を信仰したテュルク系遊牧民の好みの影響と言われています。

 技術変化に関しては、陶器製作の事例から、(1)革新的技法の導入と(2)秘儀の継承を指摘できます。革新的技法の導入については、軟質磁器の技法(カオリンを含まない陶土を磁器に近づけます)と、後述の20世紀における磁器製作の導入の例があります。ウズベキスタンの陶土にはカオリンが含まれないため、磁器を製作できません。しかし、磁器に似せて高温で硬く焼きしめた陶器、つまり「軟質磁器」を製作する技法が14~16世紀のティムール朝時代にサマルカンドで開発されました。その後、19 世紀にフェルガナ盆地のリシトンで、軟質磁器は盛んに生産されるようになりました。リシトンの陶工が、他のオアシス都市に赴いて技術を学んで持ち帰ったとされます。つまり、個人が先進地域に行って革新的技法を身に着け、周囲にそれを伝えるという形態です。この他、5~6代前の祖先がサマルカンドから移り住んできたという伝承を持つ住民が1948~1950 年の調査で確認されており、彼らがサマルカンドから軟質磁器の製法をもたらした可能性もあります。この場合は、革新的技法を持つ小集団が別の地域に移住してそれを伝える、という形態になります。

 復興を経て現在も秘儀として継承される技術としては、陶器の植物灰釉イシコールの事例が挙げられます。イシコールの原義はアルカリで、植物の灰を燃やしてガラス質を取り出して釉薬とします。ろくろ成形や複雑な顔料や釉薬の配合といった一種の秘儀については、親方たちは息子や甥といった、身近な親族にのみ伝えようとするのが一般的です。イシコール技法は基本的に男系で世襲され、娘が継ぐ場合はまだありません。息子や甥が陶工としての資質を欠いている場合は伝承されないか、親族関係のない弟子に伝えられます。

 陶器製作に関して高度で秘儀的な技術があるのに対して、開始されてまだ数十年の磁器製作に関しては、秘儀的な技術の継承は観察されていません。磁器は、スラヴ系(ロシア人)との接触を契機として19世紀以降のアジアで中央部広く使われるようになりました。ウズベキスタンでは、20世紀にタシケントに磁器製作が導入され、そこに行って技法を学んだ者によって、リシトンに磁器製作が導入されました。陶器製作技術をもとに磁器製作技術を導入するのは、比較的容易だったと考えられます。陶土が地元で産出するのに対して、カオリンを含んだ磁器用の土は他地域から運搬します。つまり、運搬が可能になったことで磁器を生産できるようになりました。磁器に変わっても、製作される食器の形状は陶器の場合と基本的に変わらず、アジア中央部の生活に則した共通様式が継承されており、文様には地域的特徴が表れています。


●墓制と墓碑など象徴的意味を有するものの製作と利用

 象徴的行為が窺われる遺物として、旧石器時代を対象とした考古学研究では、装身具や墓などが注目されてきました。墓をめぐる社会的な制度を、本論文は墓制と呼びます。葬送が行なわれ、墓地を造るのは、集団意識の芽生えや世代を超えた連続性の意識を示すものでしょう。旧石器時代における葬送と埋葬の展開についての詳細な研究によると、中部旧石器時代に死者を置く場所が次第に定められ、やがて遺体を埋葬するという行為が発展しました。上部旧石器時代には複数の遺体を埋葬する場所が明確となり、副葬品の事例も増加します。しかし、複数の人々が同じ場所に恒常的に埋葬されて明確な「墓地」が形成されるようになるのは上部旧石器時代末以降で、農耕が開始されたこととも関連していると考えられます。

 アジア中央部では、旧石器時代の葬送や埋葬に関しては明らかになっていないことが多いものの、青銅器時代以降は人類遺骸の出土が増えます。草原地帯では、スキタイの墳墓など、遊牧民の首長の墳墓がよく知られています。時代を下って、アラブとの接触によりイスラム教がアジア中央部にもたらされると、8世紀にはオアシス都市の定住民に浸透し、次第に草原地帯の遊牧民にも広まりました。モンゴル帝国のアジア中央部侵出時には、モンゴル君主が埋葬品や殉死者と共に埋葬されましたが、やがてイスラム教を受容したことにより埋葬方法も改められました。イスラム教を受容した後の埋葬形態は、定住民も遊牧民も基本的にはメッカの方角に向けて土葬し副葬品はない、という点で共通します。しかし、地上の建造物や埋葬地や埋葬される集団の範囲には、地域と時代により多様性が見られます。このため、(1)どこに死者を埋葬するのか(埋葬地)、(2)誰を同じ墓地に埋葬するのか(埋葬する集団の範囲)、(3)地上に何を残すのか(墓の形状)について調査されました。(1)は居住形態、(2)は社会関係、(3)は象徴的行為に関連します。

 (1)埋葬地と、(2)埋葬する集団の範囲に関しては、オアシスと草原および山岳地帯とで、異なる結果が得られました。オアシスにおける居住地の一例として、イラン系住民(タジク人)とテュルク系住民(ウズベク人)は混住しており、マハッラと呼ばれる居住区にもとづいて墓地が形成されています。AマハッラとBマハッラの共同墓地、CマハッラとDマハッラの共同墓地というようにまとめられており、イラン系住民とテュルク系住民の墓地は区別されていません。一方、19世紀頃以降に移住してきたスラヴ系住民は、スラヴ系住民の居住区を別個に形成し、従来のイラン系・テュルク系住民の墓地に近接して、別個の墓地を形成しました。これは、イラン系住民とテュルク系住民が1000年以上に及ぶ接触の歴史のなかで信仰(イスラム教)を共有し、次第に同じ居住区に暮らす住民として地縁にも基づく集団の意識が醸成されたのに対して、スラヴ系住民は接触の歴史が100~200年程度と比較的短く、キリスト教徒としてイラン系・テュルク系住民とは信仰を共有していない、という集団間接触の差異によるものと考えられます。

 一方、山岳地帯および草原地帯での調査によると、20世紀初頭まで季節移動していたテュルク系の人々(カザフ人とクルグズ人)は、季節移動の経路に沿って冬営地付近に埋葬地を設ける場合が多かった、と明らかになりました。厳しい寒さを避けられる冬営地は、草原においては岩山陰など立地条件が限定されており、夏営地よりも一ヶ所に滞在する期間が長かったため、そこに埋葬地も設けられた、と考えられます。埋葬される集団の範囲が、血縁(とくに父系の親族関係)に基づいていたことは、オアシス地帯とは異なる特徴です。

 19世紀から20世紀にかけて、スラヴ系住民の到来の直接的・間接的影響により定住化が進展すると、埋葬地や埋葬される集団の範囲は変化しました。この変化は山岳地帯においては、埋葬地が山麓から平原に変更されるという垂直移動として現れました。集団の範囲は拡大し、複数の父系親族集団が共同墓地に埋葬されるようになりました。一方、草原地帯では、点在していた埋葬地が定住化に伴ってより大きな共同墓地へと集約されるという、水平方向の変化が生じました。埋葬される範囲が、小規模な父系親族集団から複数の父系親族集団の合同へと拡大されたことは、山岳地帯と同様でした。このように、オアシス地帯と草原・山岳地帯とでは、生態学的条件により、埋葬地と埋葬される集団の範囲、およびその変化の過程に違いが見られました。その一方で、スラヴ系住民がテュルク系住民とは別に墓地を形成した点は中央アジア全体に共通しており、両者の接触期間が比較的短いことと、信仰の差異が集団としての意識に影響している、と示されます。

 (3)墓の形状については、山岳地帯では盛土の上に天然の石や木片を置いただけのものから泥土を固めた墓標に移行し、次いで日干レンガや御影石やコンクリートなどが墓に使われるようになったそうです。また、肖像写真プレートや造花なども見られるようになりました。このうちとくに肖像写真プレートの製作技術の導入に関しての詳細な調査によると、写真焼付はロシアで始まり、ロシアから移住した男性がキルギスに導入した技術と判明しました。首都ビシュケクで普及した肖像写真プレートは、やがて村落部のキルギス人によって、「見て真似る」ことを通して取り入れられました。導入の先駆けとなったキルギス人たちは一定の社会的地位を有しており、自分の居住地から他の居住地へと行って帰ってきた(あるいは往来する)人物でした。肖像写真プレートが多くキルギス人に受容されるに至ったのは、誰のために死後の平安と冥福を祈るのか、明確にする必要があると考えられているためでした。こうして、肖像写真プレートという革新的技法は、観察から模倣へと進むことを通して点から面に広がり、間接的接触をとおして積極的に採用されました。

 草原地帯に居住するカザフ人の墓の形状も、おおよそキルギス人の場合と同様の過程を経ています。ただ、スラヴ系との直接的な接触が早い時期から生じていた点で異なります。たとえば、19世紀に墓碑を建設されたカザフ人男性は、生前にロシアとの間を行き来していた有力者でした。墓碑導入の先駆けと言えますが、すぐには模倣されなかったのは、資材が不充分だったためと考えられます。墓碑が一般化するのは20世紀になってからで、その後にロシア人の間で広まった肖像写真プレートがカザフ人の間でも用いられるようになりました。肖像写真プレートが積極的に受容されたのは、特定の故人(とくに父系の祖先)のために子孫が祈ることを重視しているためと考えられます。つまり、テュルク系の人々の文化的・社会的文脈にそった形で、新たな技術が受容されました。また、碑文に故人の父系クラン名が刻まれることも、スラヴ系とは異なる特徴です。

 このように新しい技術を他地域から導入しつつ、地域によって独自の墓の形状が発展してきたことも改めて示されます。たとえばカザフスタン北東部では、緑がかった層状の石を積みあげて、1~2mの高さの囲いを設け、さらにドーム状の飾りをつける形態が見られます。カザフスタン東部の様式としては、天幕の形状に似た木製の囲いが挙げられます。またフェルガナ盆地のリシトンでは、陶器で飾った囲いを陶工が設置した事例もあり、陶器製作に携わる住民が多い地域ならではの独自の様式と言えそうです。まとめると、埋葬地の変化は、集団間の接触による居住形態と居住地の変化を反映しています。埋葬される集団の範囲は、居住集団の範囲と対応関係にあります。墓の形状には、死後の世界に関する観念だけでなく、祈りの対象を明確にするという語りに見られたように、死者と生者の関係性についての観念が反映されます。新たな技術が導入される場合も、こうした観念に適合したものの製作技術が積極的に取り入れられています。


●まとめ

 本論文は、山岳とオアシスと草原という異なる環境での調査を統合し、アジア中央部社会のより全体的な把握を試みました。ユーラシアの西部集団と東部集団(とくにアジア東部集団)の混合が示すように、アジア中央部では西方からの移動の後に東方からの移動が生じており、集団の形成過程がひじょうに複雑です。集団間の接触が繰り返されてきた結果、アジア中央部に居住していた旧石器時代の集団と現代の集団は、ゲノムにみられる特徴が異なります。また、狩猟採集をおもな生業とする人々は現存しません。しかし、現在では狩猟採集民がいない地域についても、民族考古学で季節移動などの側面からの分析を参照し、草原地帯の事例から動物資源の利用や移動形態と居住の痕跡の関係などが示されました。さらに、異なる生業を基盤とする集団の接触の事例として、遊動的牧畜の集団と定住農耕の集団との関係が取り上げられ、ものの製作と技術に着目しながら、接触にともなう変化の過程が示されました。

 文化人類学の調査結果と遺伝学や考古学の議論を接続していく際、集団をどのように把握するのかは重要な点です。本論文は、アジア中央部の歴史的動態をふまえて、生業に基づく集団と言語系統に基づく集団が、必ずしも一致していないことを示しました。言語系統が異なっても遊牧という同じ生業に従事した事例や、言語系統が同じでも定住と遊牧に分かれた事例が見られたことは、草原やオアシスなどの特定の生態環境への適応の結果でした。さらに、人類学調査に基づくと、居住集団の規模や性質は生業により異なり、居住形態は婚姻形態にも影響を及ぼしてきました。居住形態や婚姻形態の差異は、同じ言語系統であっても自他の集団の区別として機能します。集団を一義的に把握するのではなく、生業や言語系統や居住形態や婚姻形態など、複数の基準を組み合わせてきめ細かに把握する必要があります。

 人の集団とものの変化の関係に着目すると、遺伝子に強く反映された集団間接触がある一方で、遺伝子には強く反映されなくとも社会的・文化的影響の大きい接触もあることが、本論文の事例からは見えてきました。歴史をさかのぼると、オアシス地帯で生じたアラブ人との接触は、中央アジア全域にイスラム教という生活全般に及ぶ規範が次第に普及する契機となり、ものの変化にもつながりました。こうした事例では、直接的接触と間接的接触を区別することが有効と考えられます。人類学調査から観察可能な範囲で考えると、ロシア人との接触は、直接的接触ではなく間接的接触の場合であっても、物質文化に大きな影響をもたらしました。集団間の接触を考える時、直接的な接触だけが重要なわけではなく、間接的接触も新たな技術の導入や新たなものの積極的な受容に結びつきます。また、社会的地位があり外部との接点をもつ人物が他集団で新たな技術を学んで導入するというパターンが、生活用品としての陶器に関しても、象徴性をおびた墓碑に関しても見られたことは注目されます。新たな技術や観念の普及に基づくものの変化は間接的接触をとおしてもあり得ますが、直接的接触が進むにしたがって通婚関係も生じていく、と考えられます。旧石器時代の人の行動の洞察につながり得るモデルを人類学調査から抽出することがB01班の研究の役割ですが、それだけに留まらず、逆に考古学や遺伝学の成果をふまえて人類学のデータの意味を考えることは、現代人自身についての洞察につながります。


参考文献:
Reich D.著(2018)、日向やよい訳『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版、原書の刊行は2018年)
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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藤本透子、菊田悠、吉田世津子(2021)「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P15-23

義江明子『女帝の古代王権史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。6世紀末~8世紀後半の日本においては女性君主(大王、天皇)が普遍的で、その背景には双系的親族結合と長老原理があった、と本書は指摘します。それが、律令など「中国」の漢字文化を導入して国家形成を進めていく過程で、父系原理・男系継承「中国」社会で長年かけて形成された法体系が導入されることになり、官人の支族意識・家意識・王位継承観など社会全般に大きな影響を及ぼし、古代の女性君主(女帝)の終焉をもたらした、というのが本書の見通しです。一方で本書は、双系的血統を尊重する観念がその後の貴族社会にも残り、庶民の間では公的父系原理のもとで双系的親族結合が現実に意味を持ち続けた、とも指摘します。ただ、全体的には日本は父系社会になっていった、と本書は評価します。

 双系社会で指導者となったのは男女の長老で、6~7世紀の大王(天皇)は男女ともにほぼ40歳以上で即位した、と推測されています。一方、父系直系継承は幼年での即位にもつながります。本書は、未熟な国家体制では、経験を積んだ熟年の王の人格的指導力が統治の必須要件だった、と指摘します。7世紀末に軽皇子が15歳(数え年)で即位し(文武天皇)、祖母の持統太上天皇の後見による「共治」体制が敷かれました。長老女性が退位後も太上天皇として年少男性の天皇を支える体制は、双系社会の長老原理を土台に、新たに導入された直系的継承への軟着陸だった、と本書は評価しています。以前は、古代の女帝父系直系継承を支える「中つぎ」とみなされてきました。女帝は、通常の皇位継承に困難がある場合の緊急避難的な擁立だった、というわけです。しかし、皇位継承の困難は必ずしも女帝の擁立に結びつかない、と本書は指摘します。「中つぎ」説は、高位の男系男子継承が法制化された明治時代に提唱され、1960年代に学説として確立しました。しかし現在では、そもそも世襲王権の成立自体、6世紀前半の継体~欽明期以降と考えるのが通説となっています。

 本書は卑弥呼までさかのぼって「女帝」出現の背景を解説します。卑弥呼や台与の事例から、弥生時代後期~古墳時代前期の王は世襲ではなく、選ばれる地位だったことが窺えます。この頃の日本列島の記述に関して、本書は政治的意味を有する「会同」の場に男女が参加していたことに注目します。また本書は、同時代の朝鮮半島と比較して、日本列島では身分差が大きくなかったことも指摘します。男女の区別なく政治に参加する慣行は8世紀半ばにも見られ、大事な農耕神事後の村の集会には男女が集まっていました。本書は、卑弥呼や台与が例外的な「女王」だったのではなく、考古学では古墳時代前期には日本列島各地に女性首長がおり、その割合は3~5割だった、と指摘します(関連記事)。

 またこの時代の婚姻は基本的に妻問婚と呼ばれる別居訪問婚で、8世紀頃まで男女の結びつきは緩やかだった、と本書は指摘します。男が複数の女と、女が複数の男と結びついていた、というわけです。ただ、夫婦の絆は弱かったものの、兄弟姉妹、とくに同母の場合は結びつきが強く、生涯を通じて互いに助け合い支え合ったようです。同一の墳墓の成人男女は、以前は夫婦と考えられがちでしたが、兄弟姉妹であることが弥生時代終末期から古墳時代を通じて一般的だったようです。

 いわゆる倭の五王の時代についても、『宋書』など「中国」史書の分析から、史書に親子関係とあってもじっさいにそうとは限らず、王は豪族連合の盟主であって血縁による世襲ではなく、政治的実力のある者が王に擁立されていた、と本書は指摘します。本書は、この時代に宋など中華王朝から任官されたのが男性に限定されていたことに注目します。男性首長が政治的優位を占めるようになりつつあった、というわけです。古墳被葬者の性別に関しては、副葬品から推測されており、刀剣類は女性首長でも副葬品とされますが、鏃と甲冑はおもに男性首長の副葬品だったようです。この推測に基づくと、古墳時代中期には首長の数において軍事統率者たる男性が女性を圧倒していたようです。ただ、対外軍事活動を契機に首長の軍事編成が進み、男性首長の数的優位がもたらされても、女性首長が消えたわけではなかった、と本書は指摘します。また本書は、卑弥呼に関してよく指摘される、宮殿に籠る「見えない」神秘的な王は、倭の五王の一人とされる軍事王ワカタケルも含めて倭国王としての強固な伝統だった、と指摘します。さらに本書は、5世紀後半までの倭王は基本的に連合政権で、王が首長たちに「共立」されて有力首長に「佐治」されるあり方は、男性の倭の五王も卑弥呼も同様だった、と指摘します。

 その後、6世紀に世襲王権が成立しますが、それは、欽明の後に4人続けて欽明の子供が即位したという事実の積み重ねの結果で、これ以降血統が王位継承の要件になった、と本書は指摘します。世襲王権成立後の重要な特徴は、双系社会を前提とした、権威と財の分散防止を防ぐ目的の王族の濃密な近親婚です。しかし本書は、濃密な近親婚は単に世襲王権の血統的権威・神聖性の高まりを意味しているだけではなく、有力氏族でも7世紀後半から8世紀にかけて近親婚を繰り返す現象が見られる、と指摘します。律令国家が形成されていく過程で、上層官人(貴族)に勢威と財が集積され始めており、貴族も一族内部で近親婚により政治的権威結集の核を生み出そうとしました。

 上述のように、古代においてはおおむね40歳以上が大王(天皇)即位の条件とされており、同世代の実力者間で王位が継承されてから次の世代に王位が移る「世代内継承」が行なわれていた、と考えられています。古代の村落でも40歳以上を長老とみなす慣行があった、と指摘されています。また、群臣が王を選ぶ仕組みは世襲王権が成立しても変わらず、双系的親族構造と合わせて、女性の大王(天皇)即位は排除されませんでした。本書は、こうした女帝輩出の基盤となった双系的親族構造や妻問婚からも窺える同母子単位の生活実態は、律令国家形成期に父系帰属原理が好適に導入されたことにより変容していき、日本は次第に父系社会になっていく、との見通しを提示しています。

 世襲王権成立後最初の女性君主(大王、天皇)となったのは推古でした。推古即位の根拠は敏達の「皇后」だったことに求められてきましたが、用明のキサキ(皇后)だった間人に政治的活動の痕跡がないことから、単に敏達のキサキだったからではなく、王権中枢での長年のキサキ経験と卓越した本人の資質も重要だった、と本書は指摘します。用明没後直ちに推古が即位しなかった要因は、いわゆる倭の五王に代表される軍事王の歴史があったからだ、と本書は推測します。なお、『隋書』に倭王の名が多利思比孤(タリシヒコ)見えることから、これを男性(具体的には聖徳太子)とみなす見解もありますが、「ヒコ」が男性名接尾辞として固定されるようになったのは早くても7世紀後半以降だろう、と本書は指摘します。推古の在位期間は30年以上に及び、その権威により群臣は次の君主(大王、天皇)の決定にさいして前君主の意向を尊重しないわけにはいかなくなりました。

 この延長線上に推古の次の「女帝」である皇極の「譲位」があります。大王(天皇)位が、群臣による選出ではなく姉から弟(孝徳)への「譲られ」、王権主導の権力集中が進みます。皇極は「譲位」後に「皇祖母尊」と号されました(難波宮跡で出土した木簡には「王母前」とあります)。本書はこれを、退位した王と新たに即位した王との「共治」という後の政治体制の原型と評価します。しかし、ともに後継候補者の子供がいる姉と弟の「共治」は破綻し、皇極は再び「即位」します(重祚して斉明天皇)。本書は、皇極の「譲位」を強制退位とする有力説に対して、「譲位」から「重祚」までの皇極の主導性は否定できない、と指摘します。「重祚」後の斉明は後飛鳥岡本宮の造営・遷居や長大な渠の掘削など、「宮都」構想を進めていきます。

 皇極以降、王位(皇位)継承も変わっていきます。すでに推古が没した時点で変化が見え始めていましたが、それまでの「世代内継承」から、現君主の遺志および現君主との血縁的近さが最重要となっていきます。皇極(斉明)の息子で斉明の次に即位した天智は、双系的血統と世代内年長者重視という継承理念からの転換を模索し、有力者で年齢も問題ない弟の大海人(天武天皇)よりも、まだ20代前半の息子である大友の将来の即位を構想していたのではないか、と本書は推測します。しかし、そうした構想があったとしても、壬申の乱により破綻します。また本書は、八角墳の導入など、皇極が夫である舒明とともに新たな王統を創出していき、両者の近い祖先が「皇祖」と称されていったことも指摘します。

 天武朝において男女の制度的区別が官人組織の編成として顕著に現れ、氏族に関しては父系の継承原則が定められますが、実際に氏が父系出自集団として明確に現れるのは9世紀以降でした。天武朝では皇位(王位)継承候補者たる御子(皇子)の序列化も吉野盟約などで進みました。しかし、それは容易ではなく、天武の息子の草壁が皇太子に立てられたと『日本書紀』にはありますが、草壁と大津や高市との違いはわずかで、天武最晩年の封戸加増でも3人は同額でした。この3人の地位はほぼ同等だったものの、天武の複数のキサキの中では、吉野盟約を機に鸕野讚良(持統天皇)が特別な地位を示し始めた、と本書は指摘します。本書はこれを、壬申の乱で顕著な活躍を示せなかった鸕野讚良による「記憶の簒奪」だった、と評価しています。

 鸕野讚良は天武没後に有力な皇子で甥でもある大津を謀反の罪で自害に追い込み、強力な統率者としての資質を群臣に示します。鸕野讚良は息子の草壁の死後に即位しますが、この即位儀は画期的だった、と本書は指摘します。かつて、新たな君主へのレガリア奉呈は、即位以前の継承者決定の儀式で、「群臣推戴」の象徴でしたが、鸕野讚良の即位式では、それが即位後の儀礼の一部に組み込まれました。本書はこの転換を可能に下背景として、天孫降臨神話を挙げます。天武が獲得した「神性」は天武個人の人格と結びついた一代限りのものでしたが、持統はそれを神話に基づいて普遍化・体系化した、というわけです。これにより、君主と群臣との一代ごとの相互依存的君臣関係に代わって、制度に支えられた新たな君臣関係が成立していきます。持統の後継者決定のさいには、かつての群臣会議とは異なり、継承候補者を自任する皇子たちも出席しました。それでも、後継者決定を群臣に諮る必要があったことに、前代からの慣習の根強さが窺えます。

 持統の後継者となった軽皇子(文武天皇)は、即位時にまだ数え年で15歳だったので、旧来の世代原理・長老原理を否定することになり、かなり強行的な即位でした。また本書は、持統にしても文武にしても、即位時には前天皇との血縁関係を掲げての正当化がなされていないことを指摘します。皇位継承における父系嫡系の血統理念は8世紀初頭に掲げられるものの、いったんは行き詰まって挫折し、それが定着するのは9世紀前半になってからでした。それでも、持統が現天皇の「譲り」による次の天皇決定という新た制度を構築したことに、大きな意義を認めます。これ以降、日本の王権において譲位は常態化します。なお本書は、唐が新羅の女王を忌避したとの言説は、唐の玄宗朝において則天皇帝の治世を否定する風潮の中で形成されたのではない、と推測します。

 持統により確立された、譲位した天皇(太上天皇)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代には一般的となります。しかし、この「共治」の先駆とも言える皇極とその弟の孝徳との関係が破綻したように、潜在的な対立関係を含む危険性がありました。また本書は、大宝令が参考にした父系原理の唐令とは異なり、双系原理を取り入れた、と指摘します。これと関連して本書は、持統の文武への譲位から孝謙の即位までを一貫して「草壁直系継承」の実現として描く通説に疑問を呈しています。

 太上天皇(やそれに準ずる皇族長老)と現天皇とによる「共治」は、奈良時代を通じて続きます。この過程で、上述のように血縁による即位正当化の論理が出現します。しかし、その嚆矢とも言える元明の即位においても、父系直系継承の論理はまったく見られない、と本書は指摘します。それでも、文武の即位を契機として皇位には性差が現れ始めます。それは、女性がこれまで通り熟年で即位するのに対して、男性は年少でも即位します。本書はこれを、社会上層が父系原理へと移行する中での過渡的な在り方と評価しています。

 奈良時代にはまだ父系原理が貫徹していなかったことは、阿倍(孝謙・称徳天皇)内親王が「皇太女」ではなく皇太子だったことからも窺えます。唐では、皇太子が男性であることは自明だったので、安楽公主が皇太子的な地位を望んださいに、「皇太女」という地位を得ようとしました(実現しませんでしたが)。一方日本では、皇太子は男女の総称で、阿倍が皇太子となったのは想定内だった、と本書は指摘します。本書はそこからさらに、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての皇位継承は、持統→元明→元正→光明皇后と、長老女性の執政が途切れることなく続いた、と評価します。

 上述のように、太上天皇と現天皇とによる「共治」は潜在的な対立関係を含む危険性があり、それは孝謙太上天皇と淳仁天皇(というか天皇を擁する藤原仲麻呂)との対立として現実化します。この政争に勝った孝謙は重祚したと一般的には解釈されており(称徳天皇)、道鏡を共同統治者として、ついには道鏡に皇位を譲ろうとしますが、群臣の抵抗もあり、実現しませんでした。本書は、藤原仲麻呂が息子たちを親王に擬えたように、奈良時代には皇位世襲の観念は自明ではなく、道鏡の即位阻止を経てようやく、皇位の世襲が支配層の明確な規範として成立した、と指摘します。

 奈良時代末には、皇后をはじめとしてキサキの在り様も変わります。それまで独立して宮を営んでいたキサキたちが、後宮に集住するようになります。奈良時代末~平安時代には皇后の在り様も変わり、女帝即位につながりかねない「内親王皇后」が忌避され、「臣下皇后」が選択されていくようになります。この間に王権の在り様も変わり、天皇の統治を支える律令官僚制が成熟するなか、天皇の「共治者」の必要性が薄れていきました。平城上皇と嵯峨天皇の兄弟間の争い(平城上皇の変)の結果、嵯峨天皇により太上天皇の役割は大きく変わり、それまでのように譲位と同時に太上天皇と称せられるのではなく、天皇から太上天皇の宣下を受けることになり、国家の君主権は天皇一人に属することが明確化されました。仁明朝には、資質よりも血統の優先が明確化され、高位における直系継承原理が確立して奈良時代までの仕組みは理念として否定されます。

 本書は興味深い見解を提示していますが、女性皇族(王族)の「臣下」との婚姻が制約されていたこと、氷高皇女(元正天皇)や阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)が未婚だったことなどから、本書が主張するように皇位(王位)継承にさいして男系だけではなく女系も認められていたと言えるのか、本書の解説にはやや説得力が欠けていたように思えるので、疑問は残ります。ただ、本書が主張するように、当時の日本列島の社会が双系的だったことと、律令制導入を大きな契機として次第に父系制原理が浸透していったことは確かだろう、と思います。

 日本社会におけるこの移行に関しては、通俗的な唯物史観で想定されるような、母系制の「原始的な未開社会」から父系制の「文明的な社会」への移行期と把握するのではなく、そもそも現生人類(Homo sapiens)社会は本質的に双系的であり、社会状況により父系にも母系にも傾き、軍事的性格というか圧力の強い社会は父系に傾きやすい、と私は考えています(関連記事)。その意味で、飛鳥時代~平安時代にかけての日本社会における父系原理の浸透は、単に律令制の導入だけではなく、それとも大いに関連していますが、白村江の戦い後の軍事体制強化に大きな影響を受けたのではないか、と思います。そもそも律令制の導入の目的も、軍事的側面が多分にあったように思います。「未開」の母系社会が「発達」して父系社会に移行する、といった今でも日本社会では根強そうな見解は根底から見直すべきだろう、と私は考えています。

被子植物の起源

 被子植物の起源に関する研究(Shi et al., 2021)が公表されました。化石証拠から、前期白亜紀または白亜紀の中頃には花を咲かせる植物が存在した、と明らかになっていますが、独立した生物群としての被子植物(顕花植物)の祖先は、明確にそれとは認識できないまでも、そのずっと前から存在した可能性を示す手掛かりが増えつつあります。被子植物の二つの重要な特徴は、心皮(子房と柱頭と花柱から構成される雌性生殖器官)に包まれた胚珠(実質的な卵)と、胚珠を取り囲む、2層の珠皮で形成された椀状体(cupule;文字通り椀状の構造)です。外側の層(外珠皮)は種子を包み込むように心皮を内側に折りたたんでおり、種子が露出した裸子植物(文字通り「裸の種子」の意)とは異なっています。

 被子植物の胚珠の第二の珠皮(外珠皮)は種子植物の中でも独特で、その発生遺伝学的な特徴は内珠皮のものとは異なっています。そのため、外珠皮を他の種子植物の構造とどのように対比すべきか理解することは、被子植物の起源という長年の疑問を解決するうえで極めて重要です。これまでに、被子植物の基本的な二珠皮性胚珠の倒生構造を連想させる、反曲した椀状体を有するいくつかの絶滅植物が注目されてきのしたが、それらの解釈は、関連化石の情報が不充分なために妨げられてきました。

 本論文は、中華人民共和国内モンゴル自治区で新たに発見された前期白亜紀(1億2560万年前頃)の珪化泥炭から得られた、保存状態の極めて良好な多数の反曲椀状体について報告しています。これらの新たな標本と、関連する可能性のある中生代(2億5200万年~6600万年前頃)の植物化石の再評価を組み合わせることにより、複数の中生代植物群の反曲した椀状体は全て本質的に比較可能で、それらの構造は被子植物の二珠皮性倒生胚珠における外珠皮の反曲した形態および発生と一致する、と示されました。また、種子植物の大型データセットの系統発生解析(植物の系統樹をつなぎ合わせることに相当する)も行なわれ、これらの形態上の類似点と構造上の類似点が明確に示されました。これは、新たに発見された植物標本が現生被子植物にきわめて近縁なことを示唆しています。

 被子植物の起源をさらに詳しく解明するには、より多くの化石が必要となりますが、こうした被子植物の近縁植物(angiophyte)を明らかにすることは、被子植物の起源という疑問に対して部分的な答えを与えるとともに、今後の研究を種子植物の系統発生学に向けるのに役立ち、被子植物の心皮の起源に関する見解に重要な意味を持ちます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:新発見の植物化石によって被子植物の起源の解明に一歩近づく

 中国の1億2500万年前の泥炭化石から新たに発見された数百点の植物標本が、被子植物の起源に関する新たな手掛かりをもたらした。この知見を報告する論文が、Nature に掲載される。これらの化石標本は、被子植物の近縁種であり、多様に繁殖したことが、他の植物化石との比較から示唆されている。

 被子植物には2つの特徴がある。1つが心皮という雌性生殖器官で、その内部に1つ以上の胚珠が包まれている。もう1つが殻斗と呼ばれるカップ状の外部組織層で、胚珠を取り囲んでいる。この外層は、他の種子植物には見られない被子植物の特徴だ。これらの特徴が出現した過程を説明することは、被子植物の起源を明らかにする上で重要な一要素だ。

 今回、Gongle Shi、Peter Craneたちの研究チームは、中国の内モンゴル自治区で新たに発見された白亜紀前期の泥炭化石から抽出された、数百点の保存状態が極めて良好な絶滅種の種子植物の植物標本の構造を調べた。それらの近縁種である可能性のある国際的なコレクション所蔵の中生代(約2億5200万年~6600万年前)の植物化石との比較から、これらの植物標本の生殖構造には明白な被子植物様の特徴があること、特に、後方に曲がった殻斗が存在することが明らかになった。また、種子植物の大型データセットの系統発生解析(植物の系統樹をつなぎ合わせることに相当する)も行われ、これらの形態上の類似点と構造上の類似点が明確に示された。これは、今回発見された植物標本が現生被子植物に極めて近縁なことを示唆している。以上の結果は、著者たちがangiophyteと呼ぶ植物の中に明確な被子植物の祖先種が存在することを示している。この祖先種は、白亜紀前期または中期の花の出現よりもかなり早い中生代以前にさかのぼることができる。

 被子植物の起源をさらに詳しく解明するには、さらに多くの化石が必要となるが、こうした近縁種の化石を明らかにすることは、種子植物の進化や、心皮や雄ずいなど被子植物のさらなる特徴の出現に関する将来の研究に役立つだろう。


進化学:中生代の椀状体と被子植物の第二の珠皮の起源

進化学:太古の顕花植物の手掛かり

 化石証拠から、前期白亜紀または白亜紀の中頃には花を咲かせる植物が存在したことが分かっているが、独立した生物群としての被子植物(顕花植物)の祖先は、明確にそれとは認識できないまでも、はるかに古くから存在した可能性があることを示す手掛かりが増えつつある。被子植物の2つの重要な特徴は、「心皮(子房、柱頭、花柱からなる雌性生殖器官)」に包まれた胚珠(実質的な卵)と、胚珠を取り囲む、2層の珠皮で形成された椀状体(cupule;文字通り椀状の構造)である。外側の層(外珠皮)は種子を包み込むように心皮を内側に折りたたんでおり、種子が露出した裸子植物(文字通り「裸の種子」の意)とは異なっている。今回G Shiたちは、被子植物とある程度近縁な化石植物に見られるさまざまな椀状体様の器官が同等の(すなわち相同な)構造を持つことを示し、被子植物そのものが出現するはるか前のペルム紀には、その独特な祖先が存在していたことを裏付けている。これはさらに、中国内モンゴルで新たに発見された前期白亜紀の珪化泥炭に由来する、保存状態の極めて良好な多数の反曲した椀状体の報告によって強調されている。



参考文献:
Shi G. et al.(2021): Mesozoic cupules and the origin of the angiosperm second integument. Nature, 594, 7862, 223–226.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03598-w

ボノボの高品質なゲノムデータ

 ボノボ(Pan paniscus)の高品質なゲノムデータを報告した研究(Mao et al., 2021)が公表されました。ボノボとチンパンジー(Pan troglodytes)は現代人(Homo sapiens)にとって最も近縁な現生種で、両者の分岐は170万年前頃と推定されています。両者の遺伝的データにより、現代人に固有の遺伝的変化を特定することが可能となります。ボノボの最初の塩基配列はショートリード全ゲノム配列を用いて生成されましたが(関連記事)、大半の分節重複は取り込まれず、構造変異もほとんど確認されませんでした。初期の次世代シーケンサー技術の精度は低く、チンパンジーのゲノムが断片的だったので、大型類人猿のゲノムの大半を比較できず、遺伝子モデルの大半は不完全でした(関連記事1および関連記事2)。

 過去数年間で、ロングリードゲノム配列技術により、高品質なゲノム生成能力が大きく強化されました。本論文はこの手法を用いて、ボノボの完全に注釈付けされた高品質ゲノムアセンブリについて配列を報告します。ボノボは、ロングリード配列技術を用いてゲノム配列が決定された最後の大型類人猿となります。このゲノムアセンブリは、マルチプラットフォームゲノミクスの手法を適用することにより、参照ゲノムをガイドとして用いずに構築されました(網羅率74倍)。本論文のボノボゲノムアセンブリでは、遺伝子の98%以上が完全に注釈付けされ、ギャップの99%が埋められており、部分重複の約半分と完全長の可動性遺伝因子のほぼ全てが解明されています。この新たなデータに基づくチンパンジーとボノボの間の全体的なヌクレオチドの相違は、常染色体では0.421±0.086%、X染色体では0.311±0.060%です。また。22366個の完全長タンパク質コード遺伝子と、9066個の非コード遺伝子が予測され、ボノボには見られてチンパンジーには見られないエクソンなど、これまで報告されていなかったエクソンも確認されました。

 これらのデータを用いて、以前に配列決定された大型類人猿27個体の遺伝子型が決定されました。得られたボノボのゲノムと他の大型類人猿(関連記事)のゲノムの比較により、ボノボ系統とチンパンジー系統を明確に区別する5569以上の固定された構造多様体が特定されました。本論文は、ボノボ進化の過去数百万年間において、喪失・構造変化・拡大が起こった遺伝子に注目しました。不完全な系統分類(ILS)の高分解能マップの作製により、ヒトゲノムの約5.1%がチンパンジーまたはボノボに遺伝的に近縁であること、また、ゴリラやオランウータンなどのより深い系統発生を考慮した場合は、このゲノムの36.5%以上にILSが認められる、と推定されました。

 さらに、ヒトとチンパンジー、あるいはヒトとボノボの間に見られるILS部分の26%が無作為には分布しておらず、クラスタを形成した部分の遺伝子は、ゲノムの他の部分と比べてアミノ酸置換が著しく過剰であることも明らかになりました。これらの結果は、非同義置換と同義置換の割合(dN/dS値)の遺伝子がILS領域に集中しているという、より微妙な相関関係を示したゴリラに関する先行研究を支持します。以前の研究ではこの観察は、ILS以外の領域でより強い浄化選択が起きたか、有効個体数規模を減少させる背景選択の結果、およびそれに起因するILSの枯渇として説明されました。本論文のゲノム規模エクソン解析では、ILSの一部のエクソンのみがこの効果をもたらしており、れらの経路の遺伝子における緩和選択もしくは正の選択のため、これらの遺伝子は糖タンパク質やEGF様カルシウムシグナルの機能に富むようになった、と示されました。

 ボノボの高品質なゲノムデータは、ヒト科(大型類人猿)の進化史の解明に大きく寄与する、と期待されます。これまで、チンパンジーとボノボとの交雑(関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との交雑(関連記事)の可能性が指摘されてきました。この未知の類人猿は、400万~300万年前頃にチンパンジーおよびボノボの共通祖先と分岐した、と推定されています。また、チンパンジーとともに現代人にとって最近縁の現生種となるボノボの高品質なゲノムデータは、人類固有の表現型の遺伝的基盤の解明にもつながることが期待されます。


参考文献:
Mao Y. et al.(2021): A high-quality bonobo genome refines the analysis of hominid evolution. Nature, 594, 7861, 77–81.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03519-x

初期中新世のサメ類の大量絶滅

 初期中新世のサメ類の大量絶滅に関する研究(Sibert, and Rubin., 2021)が報道されました。日本語の解説記事もあります。研究データによると、今日のサメ類の多様性はかつてのサメ類の多様性のわずか一部に過ぎません。古代の海洋生態系について分かっていることの大半は、岩石と化石記録から得られたもので、そうした試料は一般的に浅瀬の堆積物に限定されており、それでは海洋全域における海洋種の歴史の一端しか見られません。

 この研究は、地球の深海底堆積物コアの中の小さな化石を用いて、海の最上位捕食者の一つであるサメ類の個体数と多様性の変化について、新たな見解を示しました。この研究は、イクチオリスと呼ばれる堆積物コアの中の微化石(海底に自然堆積したサメなどの硬骨魚の鱗と歯)を用いて、この約4000万年にわたるサメの多様性と個体数の記録を作成しました。その結果、サメ類は1900万年前頃の初期中新世に、個体数は90%以上、形態的多様性は70%以上減少し、記録から消えていなくなったのも同然だった、と明らかになりました。

 不可解なこの絶滅事象は、判明しているどの地球規模の気候事象や陸生生物の大量絶滅とも無関係に起こった、と考えられます。その原因は依然として分かっていませんが、この研究は、この絶滅事象によって外洋性捕食魚類の生態系が根本的に変わり、その結果として大型の回遊性サメ類の存続の下地ができ、現在はそれらが地球の海を支配している、と指摘しています。

 近年の保護活動の向上にも関わらず、大洋性のサメ類を対象にした規制を設ける国はほとんどなく、初期中新世の絶滅事象と現在の人為的ストレスが引き起こすサメ類の減少はひじょうに似ている、と指摘されています。外洋性のサメの群れは1900万年前頃の不可解な絶滅事象から回復することはなく、生き延びたサメ類の生態学的運命は、現在では人間の手中にある、というわけです。


参考文献:
Sibert EC, and Rubin LD.(2021): An early Miocene extinction in pelagic sharks. Science, 372, 6546, 1105–1107.
https://doi.org/10.1126/science.aaz3549

イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析

 イタリア北部の16000年前頃の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究(Bortolini et al., 2021)が公表されました。イタリアのヴェネト州のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡は、南アルプス山脈の斜面における人類居住の最初の証拠を表しますが、この地域で主要な氷河が交代し始めたのは17700~17300年前頃なので、この時期の人類の移動の影響に関する疑問を解決するのに重要です(図1A)。以下は本論文の図1です。
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 リパロ・タグリエント遺跡の標本抽出された個体の生物学的背景を評価するため、人類学的および遺伝学的分析が行なわれました。局所的なセメント質骨異形成症が見られる左側下顎骨(図2)は、その年代と、部分的に保存された埋葬から発掘された頭蓋後方の遺骸(タグリエント1号)との同時代性を独自に確認するため、直接的に年代測定されました。このタグリエント2号(Tagliente2)遺骸の左側第一大臼歯(LM1)の歯根の直接的な放射性炭素年代は16980~16510年前(以下、年代は基本的に較正されています)で、文化区分では後期続グラヴェティアン(Late Epigravettian)と確認されました。これは、タグリエント1号の16130~15560年前と近く、同じ文化背景となります。以下は本論文の図2です。
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 下顎および歯から採取された5点の標本でDNAが抽出され、X染色体と常染色体の網羅率の比率からタグリエント2号は男性と推定され、これは形態学的分析と一致します。タグリエント2号のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2'3'4'7'8'9で、他にもヨーロッパの旧石器時代の個体で見られ(図3A)、15500年前頃のリグニー1(Rigney 1)洞窟の個体および13000年前頃のパグリッチ・アクセッソ・サラ(Paglicci Accesso Sala)の個体により共有されています。タグリエント2号のY染色体ハプログループ(YHg)はI2a1b(M436)で、14000年前以前のヨーロッパにおけるYHgの多様性の大半を占めていました(図3B)。この期間の年代測定されたほんどの標本は、単一のmtHg-U5bおよびYHg-I2の系統に分類され、単一の創始者人口集団から拡大した、と推定されています。以下は本論文の図3です。
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 人口集団の観点から、外群f3距離(図4A)に基づくMDS(多次元尺度構成法)分析が実行され、タグリエント2号はより広範なヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まると明らかになり、以前に報告された14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるクラスタとの類似性が示されます。このヴィラブルナ集団は、少なくとも14000年前に以前のヨーロッパ狩猟採集民をほぼ置換した個体間の遺伝的類似性に基づいて定義されています(関連記事)。

 ヴィラブルナ集団は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)やチェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群など、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)までヨーロッパに存在していた狩猟採集民集団からの遺伝的寄与の痕跡を殆どもしくは全く示しません。ヴィラブルナ・クラスタを定義する特徴の一つは、それ以前の旧石器時代ユーラシア西部人により示される遺伝的構成要素よりも、近東集団とのより高い類似性です。

 f4検定でも、タグリエント2号がヴィラブルナ・クラスタと遺伝的特徴を共有しており、それ以前のヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的背景との不連続性が確認されました。タグリエント2号とXとYとムブティ人によるf4検定で、この観察結果がさらに調べられました。Yは対象集団、Xは14000年前頃のヴィラブルナ個体もしくは13700年前頃のビション(Bichon)遺跡個体もしくは中石器時代となる11900年前頃のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民です(図4B)。

 遺伝子型決定戦略(キャプチャ法のヴィラブルナ個体とショットガン法のビションおよびコンティネンツァ個体)による潜在的な偏りを制御するため、独立したWHGの3標本が選択され、データを比較するとじっさいに小さな不一致が見つかりました。この影響を最小限に抑えるため、ショットガンの結果の解釈に重点が置かれました。タグリエント2号と比較した場合、ヴィラブルナ個体やイベリア半島狩猟採集民など後のWHGとのコンティネンツァ個体とビション個体の遺伝的類似性は高く、これは、タグリエント2号のより古い年代により説明できるか、コンティネンツァ個体とビション個体が少なくとも14000年前頃までにヨーロッパ中央部に到達した祖先系統とより密接であることで説明できるかもしれません。

 あるいは、より新しいWHG標本群の間で現れるより高い類似性も、新たに到来したタグリエント2号に代表される個体群と、先住のドルニー・ヴェストニツェもしくはGoyet Q116-1的な遺伝的集団との間の、その後で起きた混合に起因するかもしれません。これは、ルクセンブルクの中期石器時代となる8100年前頃のロシュブール(Loschbour)遺跡個体ですでに報告されています。次に、タグリエント2号の系統樹内の位置がモデル化され、ヴィラブルナ系統内に収まると明らかになり、以前の結果が確認されます。以下は本論文の図4です。
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 本論文では、イタリア半島北部における早くも17000年前頃となるヴィラブルナ構成要素の存在が、ゲノムと片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)と年代測定の証拠により裏づけられました。17000年前頃には、この地域も含めて大きな文化移行が起きました。続グラヴェティアンの前期から後期への移行は急激ではなく、アドリア海とティレニア海の間の地域化および環境/文化的違いの出現にも関わらず、人工物の様式や石器縮小戦略の相対的頻度、原材料獲得と居住パターンの変化が、17000年前頃以降に記録されています。14000年前以後、幾何学的細石器への依存度の高まり、線刻や着色された骨、線形や幾何学模様や動物や擬人化を描いた石のより強い存在により、もっと顕著な不連続性が証明されます。

 続グラヴェティアンの前期から後期の移行は、アルプス山脈の氷河が26000~24000年前頃に最大に達した後の顕著な後退、および16500年前頃以降の海面の急速な上昇とほぼ同時です。これらの過程は、アルプス山脈の地形に大きな変化をもたらし、大アドリア海・ポー平原の広範な表面を安定させました。アルプス山麓の急速な森林再拡大は17000年前頃に始まり、それは15000~13000年前頃となるボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期の温暖化のずっと前でした。アルプス山脈の麓は、開けた植生が遠方で発達した間、カバノキとカラマツのある(開けた)松林となりました。

 LGM末には、局所的な動物の利用可能性は限定的で、ほぼ開けた環境に適応した種で構成されており、そうした環境では、アルプスの野生ヤギのアイベックス(Capra ibex)やリス科のマーモット(Marmota marmota)のように温暖化する亜間氷期により高い場所に移動するか、好適な微気候の地域に退避することにより、最適な気候条件を見つけられました。ヨーロッパ中央部のほとんどの寒冷適応の大型動物種は、LGM開始の前にスロベニア回廊を通ってイタリア半島北部へと侵入しており、これはアドリア海全域で獲物を追って居住したグラヴェティアン期狩猟採集民と同じです。

 LGMにおいては、これら大型哺乳類の新たな到来と北方への移動の両方が妨げられ、それらは局所的に消滅するか、短いLGM亜間氷期と関連して絶滅しました。たとえば、ホラアナグマは24200~23500年前頃に絶滅しました。寒冷期の森林被覆の減少は、ポー平原の中核地域とベリチ丘の両方における、アイベックスやヤギ亜科のシャモア(Rupicapra rupicapra)やマーモットの存在により確認されます。同じ地域では、考古学的記録が、現在では北半球の高緯度地域でのみ見られる旧北区の鳥の存在を示しています。

 まとめると、本論文の結果は、相互に排他的ではないものの、二つの異なるシナリオを支持します。一方は、LGMおよびその直後に地中海とヨーロッパ東部をつなぐ退避地の広範なネットワークを含みます。このネットワークは、黒海からイベリア半島に至る文化的および遺伝的情報両方の段階的な交換を通じて、長距離の伝播を促進した可能性があります。現時点では利用可能な証拠で検証できないこのシナリオは、標本の年代、その場所、比較的豊富な近東現代人と共有されるヴィラブルナ遺伝的構成要素との間の関係を予測するでしょう。文化的観点からは、ヨーロッパ南部における前期および後期続グラヴェティアン物質文化の発展は、急速で千年規模の気候事象によっては直接的には駆動されず、人口移動を伴わない収束と局所的適応と文化的融合から生じた可能性があります。この場合、遺跡間の距離も石器群の類似性を予測するでしょう。

 もう一方のシナリオは代わりに、人口移動と置換、より急速な遺伝的交替、地理的勾配では充分に予測されない遺伝的および文化的両方の類似性の分布を示唆します。この人口集団の変化はLGMに起きた可能性があります。つまり、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolni Vestonice)遺跡で発見された1個体のような遺伝的構成要素がまだイタリア南部のオストゥーニ(Ostuni)に存在した27000年前頃以後から、17000年前頃以前のことです。ヴィラブルナ系統を有する集団は、スロベニア回廊と海面の低下したアドリア海の沿岸を用いて、ポー平原までのイタリア半島アドリア海地域に居住し、その後ようやくアルプス山脈前方の渓谷に再居住したかもしれません。このモデルによると、27000年前頃以後、イタリア半島およびその後でのみ現在のフランスやスペインで見つかる遺伝的系統は、ヴィラブルナ・クラスタと、mtHg-U2'3'4'7'8'9および/もしくはYHg-I2・R1aに分類される片親性遺伝標識系統のどちらか、もしくは両方を示すはずです。このモデルによると、続グラヴェティアン全期でイタリアにおいて記録された文化的変化は、少なくとも一部は人口集団の置換と関連する過程により引き起こされた可能性があります。

 文化的観点から、利用可能な考古学的記録の偏った時空間的分布は、これら二つのモデル間の直接的識別に用いることはほとんどできず、イタリア半島全域の後期続グラヴェティアン開始の根底にある時間的動態には依然としてかなりの不確実性があります。18000~17000年前頃以降、ヨーロッパ南西部におけるソリュートレアン(Solutrean)からマグダレニアン(Magdalenian)への物質文化移行と、ローヌ川からロシア南部平原にいたる広大な地域における続グラヴェティアンの前期から後期への物質文化移行の証拠があります。環境圧力はLGMにおける大型動物の移動を条件付け、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部をつなぐ回廊への人類集団の移動を制約しました。

 この期間に、ヨーロッパ南部の人類集団はヨーロッパ中央部および北部の他地域と比較して、限定的な生態学的危険性に曝されていました。イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)出土の個体群のストロンチウム同位体組成の変動は、グラヴェティアンと前期続グラヴェティアンの狩猟採集民間の居住移動性パターンと適応的戦略の顕著な変化を示します。気候変化のあらゆる背景となる証拠が欠如していることを考えると、これらの違いは文化的要因が理由で、続グラヴェティアンの初期段階ですでに起きていたかもしれない人口集団置換と関連している可能性があります。

 他方、イタリア半島とバルカン半島との間の人工物様式の分布における類似性は、東方・スロベニア経路でのヨーロッパ中央部からの技術複合拡大の可能性を裏づけ、続グラヴェティアン狩猟採集民の長距離移動性を示唆します。しかし、同じパターンは、社会的ネットワーク仮説を支持して、この見解に異議を唱えるのに用いられてきました。バルカン半島とイタリア半島の状況の間の類似性は、グラヴェティアン期から中石器時代まで記録されており、接触には、石材や海洋性軟体類や装飾品のビーズや粘土の小立像や装飾モチーフや石器技術が含まれます。同時に、人類の移動・相互作用の代理としての、有鋌石镞(shouldered points)など一部の文化的指標の信頼性が、最近では疑問視されています。

 片親性遺伝標識は、この提案された二つのシナリオの解明に役立つ可能性があります。確かな遺伝的および年代的根拠に基づいてヴィラブルナ・クラスタに区分される標本の大半(図3)は、mtHgとYHgの限定的な数の系統を共有しています。片親性遺伝標識のヴィラブルナ系統内での多様性低下は、ネットワークを中断するボトルネック(瓶首効果)、もしくは人口集団移行のより広範なシナリオにおける創始者事象と一致します。この片親性遺伝標識は、アドリア海全域の切れ目のない文化的交換、および東方のゲノム構成要素との増加する類似性と組み合わされて、遺伝的置換を本論文の結果への最も可能性の高い説明とします。

 ヴィラブルナ母系内の18500年前頃となるパグリッチ系統の存在からは、イタリア半島南部における18500年前頃もしくはそれ以前の創始者事象と、氷河後退の始まりにおけるイタリア半島北部での後の拡大が主張されます。この観点から、タグリエント2号は南アルプス地域にほぼ居住していたと考えられ、その基底部のmtDNA系統を説明します。南方回廊を通じてのヨーロッパ東西間のより早期のつながりの可能性は、拡大LGMネットワークの形態、もしくはヨーロッパ西部におけるヴィラブルナ的個体群の早期の到来として、ゴイエット2(Goyet-2)的祖先系統とヴィラブルナ・クラスタと関連する祖先系の混合を示す、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体によっても裏づけられます(関連記事)。

 この新たな遺伝的シナリオの最も節約的な解釈からは、LGM末からヤンガードライアス末(11700年前頃)にかけてヨーロッパ南部で観察される累積的な文化的変化は、少なくとも部分的には、南東部の退避地からイタリア半島への遺伝子流動により引き起こされた、と示唆されます。この過程はその初期段階およびアルプス山脈以南では、後のボーリング-アレロード事象とは独立しており、イタリア半島全域およびそれ以外でLGM以前の祖先系統の漸進的な置換に寄与しました。しかし、この仮説を検証するには、27000~19000年前頃のヨーロッパ南部のさらなる遺伝的証拠と、イタリア半島と人口移動の推定起源地との間の文化的類似性の分析が必要となるでしょう。

 結論として、タグリエント2号は全てのヨーロッパ人の遺伝的背景に強く影響を及ぼした主要な移動が、以前に報告されていたよりもかなり早くヨーロッパ南部で始まり、LGMの最盛期後の寒冷期にはすでにヨーロッパ南部で起きていた、という証拠を提供し、それはおそらく氷河の段階的縮小とボーリング-アレロード期の急速な温暖化に先行する森林拡大により支持されます。この段階で、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部およびアジア西部は、LGMにおける潜在的退避地の同じネットワークへとすでに接続されており、遺伝的および文化的両方の情報を交換し、観察された人口集団置換の基礎を示します。この知見は、ヨーロッパ南部の同時代の物質文化の経時的変化における妥当な人口構成要素に関する以前の議論をさかのぼらせ、この過程を続グラヴェティアンの前期と後期の移行期に時間的に位置づけますが、あるいはその過程は続グラヴェティアンの最初期に位置づけられる可能性さえあります。


参考文献:
Bortolini E. et al.(2021): Early Alpine occupation backdates westward human migration in Late Glacial Europe. Current Biology, 31, 11, 2484–2493.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.078

大河ドラマ『青天を衝け』第17回「篤太夫、涙の帰京」

 今回は平岡円四郎殺害の余波とともに、禁門の変に四国艦隊下関砲撃事件に天狗党の乱と、幕末の動乱が描かれました。平岡は栄一(篤太夫)にとって大恩人だっただけに、平岡の妻とともにその波紋が描かれました。平岡殺害事件もこれら幕末の動乱の一環で、主人公周辺の描写と歴史的大事件との描写が上手くかみ合ってきたように思います。藤田小四郎と栄一との遭遇が創作なのか否か分かりませんが、創作だとしたら悪くはなかったと思います。本作の慶喜は前半の準主人公とも言うべき重要人物ですから、やはり天狗党の乱の描写は欠かせないように思います。

 四国艦隊下関砲撃事件では、明治時代になって栄一と深く関わることになる井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)も登場しました。顔見世程度ではありましたが、アーネスト・サトウ相手に食い下がるところもあり、なかなか強い印象を残しました。同じく重要人物と思われる五代才助(友厚)の初登場と比較すると、井上と伊藤の方が見せ場はあったように思います。主人公の栄一が政局の中枢とより直接的に関わるようになり、大河ドラマらしくなってきたので、今後も楽しみです。

『卑弥呼』第64話「日下の日見子」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年6月20日号掲載分の感想です。前回は、日下(ヒノモト)都でトメ将軍が、モモソと名乗る女性に、そなたこそ日下の日見子(ヒミコ)ではないのか、と問い詰めるところで終了しました。今回は、その少し前の場面から始まります。日下の都(纏向遺跡でしょうか)の館でトメ将軍とミマアキがモモソと面会している間、トメ将軍の配下の兵士たちは館の外で待機していました。見回りをしてきたフキオという兵士は、何者かに見張られているような気がする、と卒長に報告します。すると卒長は、腕を上げたな、とフキオを褒めます。見張られているどころか囲まれている、と卒長に告げられたフキオは、慌ててトメ将軍に報せようとしますが、トメ将軍はとっくに気づいているはずだ、と卒長は落ち着いて言います。屋敷にはモモソ以外に誰もいない、と報告を受けた卒長は、自分たちを囲んでいる軍が射かけてきたら一目散に屋敷に退避する、と兵士たちに指示を出します。

 屋敷ではトメ将軍がモモソに、自分たちを殺すつもりか、と問い詰めます。するとモモソは、あの者たちはたとえ自分が殺されても何もせず、黙って見ているだけだ、と答えます。では、危険を冒してまで自分たちを屋敷に招き入れた理由は何か、とトメ将軍に問われたモモソは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の客人に伝えたいことがあったからだ、と答えます。モモソは、近いうちに日下は筑紫島に攻め入る、と打ち明けます。伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)の伊予(イヨ)と五百木(イオキ)と土器(ドキ)と賛支(サヌキ)はすでに日下の支配下で、埃国(エノクニ)と吉備(キビ)と針間(ハリマ)とも輪を結び、金砂(カナスナ)国も時間の問題なので、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)最西端の宍門(アナト)国も推して知るべし、というわけです。侵攻まであと3年といったところだろうか、とモモソはトメ将軍とミマアキに告げます。

 弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)では、ヤノハと事代主(コトシロヌシ)が嵐の中、館から出て会話を続けていました。筑紫島の山社(ヤマト)を盟主とする連合国と出雲が手を組めば日下に勝てますか、とヤノハに問われた事代主は、分からない、と答えます。日下とはそれほど強大な国なのか、とヤノハに問われた事代主は、広さはむしろ小国の部類だが、戦人は倭国位置だろう、と答えます。出雲の戦人も筑紫島の戦人もいつもは米や野菜を育てる邑人だろうが、日下の戦人は戦しかしない、と事代主はヤノハに説明します。日下の戦人は戦を生業にしており、出雲の戦人が農閑期にしか戦ができないのと違って、春夏秋冬いつでも戦闘態勢にあり、戦がない時はずっと殺人の方法を考えて稽古をしている、というわけです。なんという国だ、とヤノハは嘆息します。事代主は国の興りを、民がいて国が作られ、王が生まれる、と考えています。しかし、日下は最初に王がおり、王こそが国で、王のために民がいる、と事代主はヤノハに説明します。自分はとても住めない、と言うヤノハに対して、日下にいる日見子はあくまでの王の下で、王が絶対だ、と事代主は説明します。その強国の日下に国譲りを強制されてどう耐え抜いたのか、とヤノハに問われた事代主は、時を稼いだだけで、もはや時間切れと思ったところで、なぜか日下から使者が来なくなった、と答えます。その理由は厲鬼(レイキ)、つまり疫病で、厲鬼が広まると、代々の日下の王は都を捨てて新たな都に移る、と事代主はヤノハに説明します。日下の王は新たな都を造るのに多忙なので、侵略を一時中断した、というわけです。厲鬼とのために戦い方を伝授してほしい、とヤノハに要請された事代主はどうすべきか考えたのか一瞬間を置き、自分の神である大穴牟遅命(オオアナムチノミコト)には少名毘古那命(スクナビコナノミコト)という親指ほどの小さな神である友がいる、と答えます。

 日下ではトメ将軍がモモソに、日下の日見子の役割は示斎(ジサイ)と同じなのだな、と言います。トメ将軍はかつて韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)に渡る舟で何度も示斎になりました。示斎とは舟乗り全員の運命を背負う役で、舟が災難に見舞われたり舟乗りの誰かに不幸が降りかかったりすれば、示斎は身代わりに命を差し出さねばならない、とトメ将軍はモモソに説明します。厲鬼が都を襲ったのは日見子たるモモソの力不足なので、新たな都の建造期間に一人で都に残って鬼と闘い、生き延びればそれでよいが、死ねば新たな日見子が選ばれるだけだろう、とトメ将軍はモモソに指摘します。それ故に屋敷を囲む日下の戦人はモモソの生死をただ見ているだけなのか、とミマアキに問われたモモソは肯き、ミマアキはその酷い境遇に同情します。モモソは、そのうえで自分をどうするつもりなのか、とトメ将軍とミマアキに問いかけます。

 弁都留島では、事代主がヤノハに、古くから密かに伝わる教えがある、と説明します。厲鬼とは人の目に見えない小さなものだが、親指ほどの少名毘古那命になら見え、厲鬼は人の唾や指を介して他人に移り、百骸九竅、つまり人の多数の穴から体内に入る、というのが少名毘古那命の教えでした。どうやれば厲鬼を退散させられるのか、とヤノハに問われた事代主は、厲鬼を落とすには水が一番で、綺麗な水で手や身体をこするのがよく、粘土や灰汁、つまり獣の油に灰を混ぜたものや、胡麻などの油を手につけて洗うのも有効で、布で口や鼻を覆い、素手で人に触れないことが肝心で、あとは薬草を毎日飲み、厲鬼に負けない身体を作ることだ、と答えます。事代主は、自分に跪いたヤノハに、筑紫の女王が頭を下げてはならない、と諭します。ヤノハは事代主に、筑紫島にはすでに厲鬼が上陸しており、このままでは多くの民が死ぬので、自分に薬草の知識を授けてもらいたい、と懇願します。多くの民を救うために自分に頭を下げるヤノハに事代主は驚きつつも喜び、薬草に関する知識を全て教える、と答えます。

 日下では、トメ将軍とミマアキがモモソに礼を述べ、立ち去ろうとしていました。自分を殺さないのか、とモモソに問われたミマアキは、モモソを殺せば自分たちの日見子(ヤノハ)に怒られる、と答えます。ヤノハは無駄な殺生を好まず、ただ倭の泰平を考えている人だ、とモモソに説明するミマアキに続いて、ただ、平和を阻む者には容赦のない人だ、とトメ将軍が補足します。するとモモソは、自分からも忠告がある、とトメ将軍とミマアキに伝えます。モモソはトメ将軍とミマアキに、もはや筑紫島には黄泉の使いが近づいているので、筑紫島に帰らないよう、忠告します。どういう意味なのか、ミマアキに問われたモモソは、自分の父のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)は奸智に長けており、日下の軍門に下った伊予之二名島の五百木の海賊に厲鬼を仕込んで筑紫島に送った、と答えます。今頃筑紫島には厲鬼が蔓延し、多くの人が死に瀕しているはずだ、と説明したモモソが、侵攻まで3年が絵空事ではないことを理解していただけたか、とトメ将軍とミマアキに不敵に問いかけるところで今回は終了です。


 今回も情報密度が濃いというか、とくに日下について重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。ヤノハと事代主の会見は友好的に終わりそうで、ヤノハは事代主から薬草の知識を授かることになりました。ただ、ヤノハと事代主の面会は国譲りの対決でもあるわけで、この点がどう決着するのか、まだ明示されていません。事代主は、互いに自分たちの神を尊重すればよい、という前回示されたヤノハの方針にたいへん満足していたようですし、今回は、民を救うために自分に頭を下げるヤノハの器量に深く感心したようなので、ヤノハを盟主とする山社国連合に加わると決めたようにも思われます。ただ、ヤノハは事代主に倭国を託して弟のチカラオ(ナツハ)とともに逃亡しようと考えており、これまでは友好的なヤノハと事代主の関係がどう定まるのか、なかなか見えにくいところもあります。ヤノハはヒルメに命じられたチカラオに強姦されており、妊娠している可能性があります。そのため、卑弥呼(日見子)は滅多に人々の前に姿を見せなくなったのでしょうか。

 ヤノハが事代主から疫病対策を聞き、薬草の知識を伝授されることになったのは、日下の謀略との関係でも注目されます。日下のフトニ王は疫病患者を筑紫島に送り込み、筑紫島を疲弊させたうえで侵略しようと考えています。しかし、ヤノハによる疫病対策が奏功すれば、日下の侵略も容易ではないでしょう。あるいは、ヤノハは日下やその支配下の国々にも疫病対策を伝えて、それにより西日本を政治的に広く統合することにも成功するのでしょうか。ただ、日下はたいへん野心的で残忍な国と描写されており、容易にヤノハを盟主と認めるとも思えません。ましてや、日下の始祖のサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が絶対に侵略しないよう命じた日向(ヒムカ)を、ヤノハが支配して山社建国に至ったわけですから、なおさらです。そうすると、ヤノハを日見子(卑弥呼)として盟主とする国家連合は、暈(クマ)を除く九州(対馬と壱岐も含めて)と穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)と出雲などくらいで、日下を盟主とする国家連合と対峙することになるのかもしれません。

 ただ、現在に伝わる記紀を中心とした古代神話との整合性からは、日下が倭国を統一した、という話になりそうです。とはいえ、日下の銅鐸信仰は後のヤマト王権には伝わっていないようですから、単純に日下が倭国を統一したという設定でもないようです。あるいは、筑紫島を中心とした山社国(邪馬台国)連合が後に日下の都(おそらくは纏向遺跡)に移り、より本格的な国家(王権)が成立するなかで、権威・権力が強化されたヤノハやその後継者たちは日下の神話を取り込んでいき、自らの正統性を強調するようになった、という話になるのでしょうか。

 日下がどのような国なのかもかなり明かされましたが、広さでは小国でありながら他国にとって脅威となるだけの専業兵士をどのように維持しているのか、気になるところではあります。強力な日見彦(ヒミヒコ)で、今でも筑紫島に信奉して従うものが多いサヌ王の権威により、周辺諸国からの貢納があるのでしょうか。あるいは、武力に特化することで周辺諸国からの略奪もしくは貢納を可能としているのかもしれませんが、ヤノハにとって暈以上の強敵となりそうな日下との関係が、今後の話の中心になりそうです。そうすると、山社国連合が魏に使者(おそらくは『三国志』に難升米と伝わるトメ将軍)が派遣されるのは、随分と先のことになりそうで、できるだけ長く続いてもらいたいものです。

 日下のモモソの人物像もかなり明かされました。モモソは日下の日見子のようですが、その役割は筑紫島の日見子とはかなり異なるようです。筑紫島の日見子は、政治と軍事を司る昼の王と対等というより、むしろ上の立場にいるように思われますが、日下の日見子は王よりも明確に下に位置づけられており、それどころか示斎と似た役割を担っているようです。そのため、日下の日見子は人々の犠牲になることを覚悟しなければいけないわけですが、日下の日見子はそれに相応しく胆力のある人物のようです。ただ、日下の日見子は王の娘ですから、家柄により日見子に選ばれているのだとしたら、ヤノハに殺された暈の「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)のモモソと異なり、霊力はとくに優れていないのかもしれません。ヤノハが日下のモモソの存在を知った時にどう反応し、両者がどのような関係を築くのか、また日下のモモソから筑紫島に帰らないよう忠告されたトメ将軍とミマアキがどう対応するのか、注目されます。本作は色々と見どころがあり、今後もたいへん楽しみです。

黒田基樹『羽柴家崩壊』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2017年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、豊臣氏羽柴家の崩壊過程を、関ヶ原合戦後から片桐且元の大坂城退去まで、羽柴秀頼およびその生母の茶々と片桐且元との関係の視点から取り上げます。関ヶ原合戦後、秀頼はまだ幼く、茶々が「女主人」として羽柴家を率います。本書は、茶々が片桐且元を長きにわたって深く信用していた、と指摘します。その信頼関係が破綻したことで羽柴家は崩壊したわけですが、その過程の詳細な解明が本書の主題となります。

 本書は3人の重要人物のうち茶々について、十代で親がいなくなったことを重視しています。茶々は羽柴秀吉に引き取られた当初より秀吉の妻に迎えられることが決まっており、実家の浅井家が幼少時に滅亡して父は死に、1583年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には母もなくなり、親がいなくなった茶々は秀吉を頼るしかなくなった、という事情があったようです。本書は、茶々が妹の結婚を秀吉に働きかけるなど、凡庸な人物ではなかった、と評価します。片桐且元は秀吉存命時には近臣の一人といった立場でしたが、秀吉没後に秀頼重臣の一人に任命されます。

 関ヶ原合戦後の政治情勢は微妙で、主家として羽柴家が存在している一方で、徳川家が「天下人」として政務を取り仕切っていました。そうした状況で政権財政と羽柴家の家政が明確に分離され、徳川の優位が強化されていくなか、関ヶ原合戦前から徳川家康と親しかった片桐且元は、羽柴家臣で家康と直接接触できる3人のうち1人となり、やがて唯一の人物となります。関白が五摂家に戻され、政権中心地が大坂から伏見へと移り、徳川家の政権掌握が進み、ついに家康は征夷大将軍に就任します。

 羽柴家に対する徳川家の優位が確立していく中、秀頼の将来を不安に思ったのか、茶々は精神的に不安定になることもあったようです。本書は現存する茶々と且元とのやり取りの丁寧な分析から、上述のように親がいない茶々は、今や羽柴家重臣で家康との直接的つながりを有する唯一の人物となった且元を強く頼るようになった、と指摘します。また本書の指摘で興味深いのは、茶々は物事の判断を迅速にできる人物ではなかった、ということです。ただ本書は、秀吉存命時に茶々は政治に直接的に関わらず政治的経験が浅く、実家の後見も期待できなかった、という背景も指摘します。

 羽柴家に対する優位を確立していった徳川家は、羽柴家を明確に服属させようとし、ずっと秀頼わずかに下の官位に留まっていた徳川秀忠は、1614年3月、ついに秀頼も上の位階に叙されます。本書は関ヶ原合戦から大坂の陣勃発までの羽柴家について、羽柴家は徳川家(江戸幕府)に明確に服属しておらず、単なる一大名ではなく、「公儀」の主宰者になり得る存在ではあったものの、「公儀」を構成する側でもない、政治的にはきわめて曖昧な存在だった、と評価します。本書はその曖昧さの由来は、羽柴家と諸大名との主従関係の継続だった、と指摘します。関ヶ原合戦後、諸大名は徳川家と主従関係を結んでいくようになりましたが、羽柴家との主従関係をすぐに切断したわけでもありませんでした。

 この曖昧な羽柴家と徳川家との関係が大きく動いたのは、1614年に起きた方広寺鐘銘問題でした。家康から問題解決のために提示された三ヶ条を片桐且元が秀頼と茶々に申上したところ、秀頼と茶々は不快感を示し、且元を殺害しようという動きがあり、それを知らされた且元が家康の宿老である本多正純に、この間の経緯を書状で伝えます。且元は出仕を拒否し、屋敷に引き籠ります。これが契機となって大坂の陣が勃発し、羽柴家は滅亡に至ります。

 この三条件とは、秀頼が諸大名と同じく江戸に居住するか、茶々が人質として江戸に出るか、羽柴家が大坂城を明け渡して他国に領地替えとなるか、というものでした。秀頼と茶々は、とても応じられないようなこれらの条件を提示するとは、且元は家康に寝返ったのではないかと疑います。ただ、羽柴家において且元と対抗関係にあった大野治長は且元を誅罰しようとしていたものの、秀頼がどう考えていたのか定かではない、と本書は指摘します。本書は、茶々の従兄弟の織田頼長が秀頼を追放しても幕府方と戦おうとしていたところから、秀頼は幕府との戦いに積極的ではなく、且元を誅殺しようとは考えていなかった可能性が高い、と推測します。

 出仕拒否の且元に対して、茶々と秀頼は書状を送ります。茶々と秀頼は且元に、色々と噂があるが信頼していることを書状で伝え、茶々としては精一杯の誠意を示した、と本書は評価します。ただ本書は、且元とのやり取りの中で茶々の指示は家臣に忠実に実行されていたわけではなく、そこから茶々の政治的力量が窺える、とも指摘しています。結局、双方とも相手への警戒心から兵を引かず、ついに茶々は且元の処罰を決意します。それでも、茶々は片桐家を存続させようとしており、頼りにしていた且元の処罰に消極的だったのではないか、と推測しています。

 且元の方も、茶々と秀頼に敵対する意図はなかったものの、茶々も秀頼も大野治長など且元を追い落とそうとする重臣を制御できなかったことから、ついに茶々・秀頼の母子と且元は決裂し、且元は大坂城から退去します。それでも羽柴家で絶大な影響力を有していた且元は、その力を茶々および秀頼との対決に用いるのではなく、逆に残務処理をして立ち去ります。この且元の退去に伴い、羽柴家を見限った重臣もおり、茶々と秀頼が家臣団を充分に統制できていなかった、と本書は指摘します。

 徳川家との交渉中の且元を羽柴家が大坂城から追放した形になったことは、家康を激怒させました。徳川も羽柴もすぐに戦いになると判断し、戦備を整えます。ただ、羽柴家で徳川家との戦いを主導したのは、茶々と秀頼ではなく大野治長だろう、と本書は推測します。本書はこの茶々・秀頼と且元との対立は、羽柴家の将来をめぐる違いにあった、と本書は指摘します。羽柴家は明確に江戸幕府配下の一大名になることで安定的な存続が可能になる、と考えていた且元に対して、茶々と秀頼、とくに茶々は特殊な大名としての羽柴家に拘ったのではないか、と本書は推測します。また本書は、羽柴家において且元があまりにも大きな力を有していたことに対する反感もあったのではないか、と指摘します。本書は、羽柴家には且元以外に政治能力の充分な家臣はおらず、茶々も秀頼も政治経験が浅かったことに、羽柴家滅亡の要因を見ています。

初期現生人類のアフリカからの拡散

 初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、一度まとめようと考えていた現生人類の初期のアフリカからの拡散を取り上げており、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。現生人類のアフリカからの拡大(出アフリカ)に続き、究極的にはオセアニアとユーラシア東西の大人口集団の形成に至った人口動態は、長く議論されてきました。出アフリカの年代は7万年前頃(関連記事)から65000年前頃(関連記事)で、ユーラシア東西の人口集団間の最初の分岐は現代人のDNAデータから43000年前頃以降と推定されており(関連記事)、現在の主要な問題は、遺伝的に分化する前のアフリカからの初期移住の場所に関するものです。

 ユーラシアにおける50000~35000年前頃の人口集団および技術的変化の根底にある過程を解明するには、現代の大人口集団の形成を説明し、考古学的記録に見える文化的変化が、人口集団の移動や集団間の相互作用や収束や生物文化的交換の中間的メカニズムに寄与し得たのかどうか、理解することが必要です。この期間は、以下のように分類される技術的特徴に基づく、いくつかの技術複合の出現と交替により特徴づけられます。

 (1)初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)として広範に定義される容積測定とルヴァロワ(Levallois)手法を用いる石刃製作です(関連記事)。(2)石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられる石器インダストリーで、装飾品や骨器をよく伴い、上部旧石器(UP)と包括的に定義されます。(3)中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行期に出現する非ムステリアン(Mousterian)および非IUPで、ウルツィアン(Ulzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)やセレッティアン(Szeletian)やLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)で構成されます。古代DNAが利用可能な物質文化および層序の両方と関連する人類遺骸はわずかしかなく、文化的変化と人類の移住や、特定の人類集団の内外の相互作用との関連で多くの仮定を提示できます。

 遺伝的観点からの最近の二つの研究により、45000年前頃のヨーロッパには、全ユーラシア人の基底部に位置する人口集団(関連記事)か、現代人も含めて後のヨーロッパ人よりも古代および現代のアジア東部人の方と類似している人口集団(関連記事)が存在した、と明らかになりました。これにより、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された37000年前頃の若い男性(関連記事)に見られるヨーロッパ人の遺伝的構成要素が、どこでどのようにアジア東部のそれと分離したのか、という問題が提起されます。

 本論文は、最近の研究(関連記事)で提案された単純な人口集団系統樹から始めて、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の初期現生人類個体群(関連記事)を、すでに報告されている追加のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの遺伝子移入を除いて、追加の混合事象なしにさまざまな位置に追加しようと試みます。バチョキロ洞窟個体群の祖先と混合した可能性が高いヨーロッパのネアンデルタール人を、出アフリカ直後に全ての非アフリカ系現代人の祖先と混合したネアンデルタール人集団と異なることを考慮して、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人と密接なさまざまな分岐点としてモデル化しました。両方のネアンデルタール人集団が同じならば、推定される両者の分岐点は0になるでしょう。

 さらに、本論文の結果がユーラシアとアフリカ西部との間の後の人口集団の相互作用(関連記事)、もしくは古代型ゴースト人類集団とのムブティ人の推定される混合(関連記事)により駆動されるのを避けるため、ムブティ人の代わりに南アフリカ共和国の古代の狩猟採集民4個体(関連記事1および関連記事2)が用いられ、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)の姉妹系統としてバチョキロ洞窟初期現生人類個体群は最もよく位置づけられる、と明らかになりました。

 この位置づけは最近の研究(関連記事)と異なっており、これはqpGraphモデル化の最初の段階においてネアンデルタール人の遺伝的影響がすでにあることか、出アフリカ現生人類の基底部に位置する可能性がある、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のゲノムデータが利用可能であることに起因するかもしれない、と推測されます。コステンキ14個体を重要な古代ヨーロッパの標本として追加した後、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性(関連記事)は、田園個体およびバチョキロ洞窟初期現生人類個体群につながる分枝の基底部での分岐によりよく適合する、と明らかになりました。

 こうした知見を踏まえて提案される系統樹(図1A)からの想定では、ズラティクンはユーラシア集団内における全ての後の分岐の基底部に位置する人口集団として示されます。ズラティクンの分岐後、遺伝的にアジア東部系統(赤色)となるウスチイシム個体とバチョキロ洞窟初期現生人類個体群と田園個体などの古代人標本と、遺伝的にユーラシア西部人系統(青色)のコステンキ14やロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)との分離は、ユーラシア現代人の遺伝的構成要素の最初の主要な分岐を定義します。

 重要なことにこの構造は、現在の考古学的知見によると、大陸間規模の物質文化証拠の時空間的分布と広く合致します。年代的観点からは、図1Aの右側(赤色)は45000~40000年前頃の標本を、左側(青色)の標本は37000年前頃のコステンキ14個体とスンギール遺跡個体群を表しています。遺伝的距離から現れる構造は、技術的証拠でも確認されています。赤色の分枝は一貫して、IUP技術を直接的に示すか、時空間的にIUP技術に囲まれています。青色の分枝は、UP技術の文脈でおもに特徴づけられます。基底部のズラティクン(黄色)は、ムステリアンや非ムステリアンやIUP技術を示すヨーロッパ東部の遺跡と同年代です。

 ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase1」は、以前の研究(関連記事)でユーラシア現代人とは無関係の系統とみなされてきましたが、バチョキロ洞窟の初期現生人類個体群とネアンデルタール人との間の追加の混合としてモデル化できます(図1A)。この結果は、地理的および年代的観点から一貫しており、Oase1はバチョキロ洞窟個体群の5000年後の個体で、骨の洞窟はバチョキロ洞窟から数百km離れているだけです。また、以前の研究で主張された、非アフリカ系現代人全員に共有されるネアンデルタール人からの遺伝的影響の他に、Oase1の4~6世代前の祖先で追加のネアンデルタール人との混合があったことも改めて確認されました。そうした混合事象は、Oase1の祖先とみなせる、バチョキロ洞窟個体群もしくはその近縁な集団と共有されている可能性があります。これは、「骨の洞窟」で発見された別の標本(Oase2)のアジア東部人との遺伝的類似性とも一致します。

 本論文のモデルは次に、シベリアへの初期のIUPの移動の結果としてのウスチイシム個体(関連記事)と、より広範な移住事象の一部としての、少なくとも45000年前頃からヨーロッパに存在したバチョキロ洞窟個体群的集団の存在を説明します。この広範な移住は極東には4万年前頃に到達しており(田園個体)、ズラティクン的集団との相互作用は殆ど若しくは全くないものの、ネアンデルタール人との接触は時折起きました(関連記事1および関連記事2)。

 このモデルのUP分枝は次に、45000年前頃のかなり後に推定上の出アフリカ接続地から現れます。これは、ヨーロッパにおけるUP技術複合、とくにオーリナシアン(Aurignacian)の以前に仮定された出現の裏づけを明らかにするシナリオです。これは少なくとも部分的には、既存技術の在来というよりもむしろ、移民が契機となりました。アジア北部に関する限り、UPの遺産はすでに報告されているシベリアなどユーラシア内陸部のユーラシア西部構成要素に起因するかもしれません。具体的には、34950~33900年前頃となるモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)の個体(関連記事)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)と、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体(関連記事)です。

 スンギール個体群と田園個体の姉妹集団間のさまざまな割合での混合事象は、この観察をじっさいに説明できます(図1A)。これはヤナRHSとマリタ遺跡のより新しい年代によりさらに裏づけられ、37000年前頃以前のある時点での出アフリカ接続地からのUPの拡大に続く、シベリアのユーラシア西部構成要素の段階的到来と一致します。田園個体およびその後のアジア東部個体群におけるユーラシア西部構成要素の欠如は、侵入してくるUP人口集団の移動に対するアジア東部集団の抵抗、もしくは遺伝的にIUP的な人口集団の「貯蔵所」からのその後の再拡大に関する手がかりを提供するかもしれません。

 一方、ユーラシア西部のIUP人口集団は衰退し、最終的には消滅した可能性が高く、これは、本論文の人口集団系統樹が、既存のIUP集団もしくはネアンデルタール人とのさらなる混合を経ていないUP集団のヨーロッパにおける到来と一致する、という事実によっても示唆されます。この例外は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃となる1個体(Goyet Q116-1)で、田園個体との遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。Goyet Q116-1のアジア東部構成要素は、バチョキロ洞窟個体群的な集団と、追加の田園個体的構成要素を有するヨーロッパ西部に侵入してきたUP集団との間の相互作用として説明できます。それ以外の場合、ユーラシア西部のGoyetQ116-1標本でみつかるさまざまなアジア東部の基質は、IUP人口集団の分枝内のまだ報告されていない複雑さを説明します。

 これまでに利用可能な古代DNA標本を用いての、出アフリカ後のユーラシア人口集団の移動を説明するために必要な比較的単純な人口集団系統樹と、ズラティクンの基底部の位置を考慮して、オセアニア人口集団(現代パプア人)を系統樹内でモデル化し、長く議論されてきたユーラシア東西の人口集団との系統樹における位置づけの解決が試みられました。以前の研究(関連記事1および関連記事2)にしたがって、まずパプア人が非アフリカ系現代人系統の最基底部に位置づけられ、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合(関連記事1および関連記事2)が考慮されました。人類系統でまだ特徴づけられておらず、深い分岐の系統からの牽引を除外するため、標本抽出されたデニソワ人の古代DNAを系統樹内に含めることが避けられ、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)系統の代理のゴースト分岐が選択されました。

 その結果、単純にパプア人を基底部に位置づけること(ズラティクンの分岐の前か後のどちらか)は却下され、パプア人と田園個体との間の顕著な牽引が浮き彫りにされました。次に、パプア人を田園個体の姉妹系統としてモデル化した結果(図1B)、全ての一塩基多型を考慮しても解決できる限界外れ値が2つだけ生じました。この接続形態は、出アフリカ系統樹に沿って、および超えて、その位置が深くなるほど大きさが減少する基底部系統の寄与を考慮すると、わずかに改善される可能性があります。バチョキロ洞窟個体群および田園個体の祖先として94%、もしくは最基底部IUP系統として53%、ユーラシア東西の分岐前では40%、ズラティクン系統の前では2%、出アフリカ経路および以前の研究(関連記事)で提案された絶滅出アフリカ現生人類からの2%の遺伝的寄与に沿っています。

 とくに、より広範な出アフリカ系統樹内のパプア人の位置づけに関する全ての許容可能な解決は、ズラティクンを既知のゲノムデータが得られている出アフリカ個体間の最基底部として確証します。サフルランドの最終的な居住の下限に近い年代(37000年前頃)と合わせると、オセアニア人をアジア東部系統とユーラシア東西の基底部系統との45000~37000年前頃のほぼ均等な混合としての出現、もしくは、わずかな基底部出アフリカ系統か未知の出アフリカ系統の寄与の有無に関わらず、アジア東部系統の姉妹系統として位置づけるのが妥当です。本論文では、パプア人を田園個体の単純な姉妹集団として節約的に記述しますが、5つの同じ可能性の1つにすぎないことに要注意です。以下は本論文の図1です。
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 結論として、出アフリカ後の人口集団の接続地という概念を導入することで、本論文のモデルは堅牢で簡潔で節約的な枠組みを提供し、60000~24000年前頃のユーラシア全域の、これまでに利用可能な古代DNAデータが得られている最も代表的な人類間の関係を説明します。それは、推定される出アフリカ接続地からの3回だけの拡大で構成できます。ズラティクンは初期の拡大を反映している可能性があり、その後のユーラシア人に殆ど若しくは全く遺伝的痕跡を残さず、45000年前頃以前に出現しました(図2A)。この人口集団の移動は、48000~44000年前頃にヨーロッパ中央部および東部に出現した非ムステリアンおよび非IUP石器技術複合(セレッティアンやLRJなど)と関連していたかもしれない(関連記事)、と本論文は推測します。

 ユーラシアにおけるIUPと関連するその後の拡大は、以前の研究(関連記事)で提案されているように45000年前頃の可能性があり、本論文は、IUPがそれから5000年未満で地中海東岸(関連記事)やヨーロッパ東部(関連記事)やシベリアおよびモンゴル(関連記事)やアジア東部(関連記事)まで分布するようになったより広範な現象だった、と提案します。IUPと関連した集団はオセアニアには37000年前頃以前に到達し、ヨーロッパではバチョキロ洞窟個体群やOase1に示されるように、ネアンデルタール人との繰り返しの混合の後に消滅しました(図2B)。ヨーロッパ西部では同じ時間枠で、この相互作用がシャテルペロニアン物質文化の発展の契機として提案されていますが、地中海ヨーロッパのウルツィアン(Ulzzian)技術複合は、出アフリカ接続地からの追加のまだ特徴づけられていない拡大でより適切に説明できるかもしれません(関連記事)。

 観察されたデータを説明する最後の主要な拡大はUPと関連しており、45000年前頃以降で37000年前頃以前に起き、ヨーロッパにおいては、コステンキ14個体やスンギール個体群に代表される集団の再居住、もしくはGoyetQ116-1に代表される既存の集団との相互作用をもたらし、その5000~10000年後に東進すると、シベリアではヤナRHSやマリタ、またおそらくはモンゴルのサルキート個体のように、以前の拡大の波の子孫と混合した集団が形成されました(図2C)。したがって、現代人のゲノムから推定されるユーラシア東西の出アフリカ現生人類集団間の分岐年代と、これら2大人口集団の分化は、出アフリカ接続地からのIUPの拡大の推定年代により説明でき、その後でユーラシア西部人の祖先の接続地内での分化が続き、後に継続的なユーラシア間の遺伝子流動により低減されました。以下は本論文の図2です。
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 本論文は、現在の粗い分析規模での人口移動と一致する広範な文化分類を用いしました。本論文で観察された一般的な傾向は大まかな観点から得られたもので、分岐や地域適応や文化伝播や収束の実際の過程に関する具体的な仮説を検証するには、さらなる研究が必要です。同様に、推定される人口集団の接続地の正確な場所についてもまだ分かっていません。より多くの古代ゲノムデータと、現時点では既知の物質文化が複雑な軌跡を示唆している(関連記事1および関連記事2)、アジア南部および南東部の役割をよりよく理解することが必要です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文は査読前ですが、初期現生人類の拡散について最新のデータを用いて見直しており、たいへん有益でした。最近では査読前論文をあまり取り上げないようにしていましたが、本論文を読まずに初期現生人類の拡散についての記事を執筆しなくてよかった、と考えています。本論文は、今後公表されるデータも盛り込んで査読誌に掲載されることになるかもしれず、さらに洗練された内容になっているかもしれないので、査読誌に掲載されたら改めて取り上げる予定です。

 本論文からは、パプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人などユーラシア東部沿岸部祖先系統(関連記事)でおもに構成される集団の形成が複雑だった可能性も窺えます。パプア人などの主要な祖先集団がユーラシア南岸を東進したとすると、関連する4万年以上前の個体のゲノムデータを得るのは難しそうですから、ヨーロッパ人と比較すると、その形成過程の解像度は将来も粗いままである可能性は低くなさそうです。それでも、古代DNA研究の近年の飛躍的進展からは、ユーラシア東部沿岸部祖先系統の形成過程に関しても近いうちに大きな成果が提示されるのではないか、と期待されます。またこの問題は、デニソワ人との混合の場所および年代の観点からも注目されます(関連記事)。

 ユーラシア東西系統の分岐前に出アフリカ系統から分岐したと推測されていた(関連記事)ウスチイシム個体が、ユーラシア西部系統よりもユーラシア東部系統の方と近縁とされたことや、Oase1がバチョキロ洞窟個体群と近縁な集団の子孫とされたことなど、本論文の注目点は少なくありません。もちろん、これらの混合系統樹は実際の人口史をかなり単純化したもので、今後の追加データと分析手法の改良により、さらに実際の人口史に近い図が提示されていくだろう、と期待されます。

 ユーラシア東西系統が分岐する前に出アフリカ現生人類系統から分岐したズラティクンだけではなく、大きくはユーラシア東部系統に位置づけられるウスチイシム個体もOase1もバチョキロ洞窟個体群も田園個体(関連記事)も、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようです。本論文からは、出アフリカ後の現生人類は広大な地理的範囲に拡散していき、急速に遺伝的に分化していったものの、それら多様な集団のごく一部が現代人の主要な祖先になった、と考えられます。

 今後の注目は、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残し、ネアンデルタール人と殆ど若しくは全く混合していないと推測される基底部ユーラシア人(関連記事)の位置づけです。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000~24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(関連記事)。基底部ユーラシア人は、ズラティクン系統の前に出アフリカ現生人類系統から分岐し、アフリカ北部(関連記事)かアラビア半島南部に一定以上の期間存在したのかもしれません。

 本論文の最重要の特徴は、古代ゲノムデータと考古学的知見を組み合わせて、初期現生人類の拡散を検証していることです。本論文が指摘するように、現時点では大まかな観点から得られた一般的傾向にすぎないので、今後より正確な現生人類の拡散像を描くには、古代ゲノムと考古学のさらなる研究が必要です。また、特定の石器技術を特定の生物学的人類集団と結びつける危険性もあり、現生人類の所産とされていたヌビア式ルヴァロ技術の一部がネアンデルタール人の所産だった可能性も提示されています(関連記事)。とはいえ、現生人類拡散の主要な3段階を石器技術と関連づける本論文の見解はひじょうに興味深く、検証の価値が充分にあると思います。

 本論文の主題は初期現生人類の拡散と石器技術との関連ですが、本論文ではほとんど言及されていない問題で気になったのは、現生人類拡散後のヨーロッパにおけるネアンデルタール人の石器技術です。ズラティクンやバチョキロ洞窟個体群の事例と、4万年前頃と推定されているネアンデルタール人の絶滅年代(関連記事)からは、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類が5000年以上共存したことはほぼ確実と考えられます。もちろん、両者がじっさいに遭遇した頻度はきわめて低かったでしょうし、それは、まだネアンデルタール人がヨーロッパに存在していた頃のズラティクンに、ネアンデルタール人との追加の混合の痕跡がないことからも示されます。

 しかし、バチョキロ洞窟個体群やOase1の事例からは、時としてヨーロッパで初期現生人類とネアンデルタール人とが混合したこともほぼ確実と考えられます。ヨーロッパでネアンデルタール人と現生人類が接触したことは確実で、両者の文化に影響を及ぼした可能性もあります。とくに注目されるのがシャテルペロニアンで、担い手がネアンデルタール人か現生人類なのか、ネアンデルタール人だとして現生人類からの影響はあったのか、議論が続いています(関連記事)。

 シャテルペロニアンの少なくとも一部の担い手はネアンデルタール人と考えられるので(関連記事)、全ての担い手が現生人類だった可能性はかなり低そうです。しかし、ネアンデルタール人の所産と考えられる遺跡数が減少するなか、フランス南西部~スペイン北東部にかけてシャテルペロニアンの遺跡が増加していることから、シャテルペロニアン遺跡の全てがネアンデルタール人の所産と考えると矛盾点が多く、現生人類がその形成に大きく関与していたのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。

 シャテルペロニアンに限らず、48000~40000万年前頃のヨーロッパの文化には、ネアンデルタール人と現生人類の両者もしくはその混合集団が担い手だったものもあるかもしれません。また、この時期のヨーロッパの文化に関しては、シャテルペロニアンをネアンデルタール人の所産と認めるにしても、現生人類からネアンデルタール人への文化的影響が強調される傾向にあるように思います。しかし、皮革加工用骨角器については、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の可能性が指摘されており(関連記事)、一定以上は双方向的な文化的影響を想定する方がよいように思います。

 本論文により改めて、現生人類と他の人類系統との間だけではなく、現生人類の間でも人類集団の移動や置換は珍しくなかったことが示されました。その意味で、いかに当初の想定よりも現生人類アフリカ単一起源説にずっと近づき(関連記事)、現生人類アフリカ単一起源説で単純な特定の1地域の起源を想定しなくなったとはいえ、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(関連記事)。


参考文献:
Vallini L. et al.(2021): Genetics and material culture support repeated expansions into Paleolithic Eurasia from a population hub out of Africa. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2021.05.18.444621

外来のマングースによる在来のカエルの進化

 外来のマングースによる在来のカエルの進化に関する研究(Komine et al., 2021)が公表されました。日本語のサイトからの解説記事もあります。もともと強力な捕食者がいない島の在来種は、あまり「逃げず」、新たに侵入してきた外来の捕食者に簡単に食べられてしまう、と知られています。その中でも、新たな捕食者からうまく逃げられない個体が頻繁に食べられ、少しでも上手く逃げられる個体が生き残りやすい、と考えられます。これは、高い逃げる能力という性質が世代を超えて受け継がれていく可能性を意味します。ここから、外来捕食者の強い影響を受けた島の在来種は、新たな捕食者に応じた逃避能力を発達させる、と予想されます。しかしこれまでは、新たな外来の捕食者に対して在来種がどのように応答しているのか、その詳細は知られていませんでした。

 奄美大島に1979年に導入されたマングースは、島全域には拡大しなかったものの、導入地点に近い地域では多くの在来種を減少させました。その後、環境省の駆除活動によりほとんどのマングースは駆除されましたが、もし在来種の逃避能力がマングースの捕食圧により進化したのであれば、マングースがいなくなっても、その変化が持続している、と予想されます。また、奄美大島には在来の捕食者としてヘビ類がいます。ヘビ類は待ち伏せ型の捕食者ですが、マングースは追跡型の捕食者です。ヘビ類などの待ち伏せ型の捕食者から逃げるためには瞬発的に逃げればよいものの、マングースなどの追跡型の捕食者(捕食性哺乳類)から逃げるためには、逃げ続ける能力(持久力)が必要と考えられます。

 この研究は、こうした捕食者のタイプの変化に在来種のカエルがどのように応答しているのか調べるため、2015年と 2016年の6~8月にマングースの影響が異なる地域において、逃避に関わる脚の長さや持久力の指標となるジャンプ可能回数などを計測しました。脚の長さはノギスを用いて計測し、ジャンプ可能回数は、手持ち網の中で何回までジャンプを繰り返す事ができるのか、その上限を計測しました。その結果、マングースの影響が強かった地域のカエルは、他地域と比較して相対的な脚の長さが長く、ジャンプ可能回数が多い、と明らかになりました。

 これは、マングースという追跡型の捕食者に応答し、わずか数十年の間にカエルの形態や持久力が発達した事を示しています。また、この調査を行なった時点では、環境省によりほとんどのマングースが駆除されています。ここから、マングースがいなくなっても、一度発達した形態や持久力はすぐには戻らない事が示されました。これは、マングースによりカエルの形態や持久力がわずかな時間で急速に進化し、世代を超えて受け継がれた可能性を示す結果です。外来種は、「逃避能力が低い」という島嶼生物ならではの性質を短期間のうちに変化させている、と明らかになりました。

 外来種による在来種の減少についてはとても多くの報告がありますが、形態や運動機能といった性質への影響は解明が始まったばかりです。この性質の変化という観点で外来種と在来種の関係を見ると、他の多くの生物でこれまで知られていなかった影響が明らかになるかもしれません。たとえば、外来種と問題なく共存しているように見える在来種も、実際は、本来持つ様々な性質が外来種によって変化しているかもしれません。また、外来種を駆除する事で数が回復した在来種も、その性質は本来持っていた性質とは異なるかもしれません。とりわけ、これまで多くの島嶼生物が外来種によって絶滅してきた、と知られていますが、たとえ絶滅に至っていない場合でも、本来の性質が変化している可能性も考えられます。島嶼生物の性質は、強力な捕食者がいないという特殊な環境で独自に進化してきた歴史を反映しています。進化の独自性を反映する性質への影響を評価することで、外来種による在来種への影響の実態や根深さが明らかになる、と期待されます。


参考文献:
Komine H, Iwai N, and Kaji K.(2021): Rapid responses in morphology and performance of native frogs induced by predation pressure from invasive mongooses. Biological Invasions, 23, 4, 1293–1305.
https://doi.org/10.1007/s10530-020-02440-0

アスガルド類古細菌の多様性および真核生物との関係

 アスガルド類古細菌の多様性および真核生物との関係に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。アスガルド類は最近発見された古細菌の上門で、真核生物に最も近縁な古細菌を含む、と推測されています(関連記事)。真核生物の祖先古細菌がアスガルド上門に属するのかどうか、また、その祖先が他の全ての古細菌類と姉妹群の関係にあるのかどうか(すなわち、生命系統樹が2つのドメインからなるのか、それとも3つのドメインからなるのか)については、議論が続いています。

 本論文は、アスガルド類古細菌の完全またはほぼ完全なゲノム162例について、比較解析の結果を提示します。このうち75例はメタゲノム再構築ゲノム(MAG)で、これまで未報告のものです。得られた結果は、アスガルド類の系統発生学的多様性を著しく拡大するもので、これに伴い、新たに6つの門が提案されます。これらには、暫定的に「ウーコンアーキオータ(Wukongarchaeota)」と命名された深い分岐の1系統が含まれます。

 この系統ゲノミクス解析の結果は、真核生物が古細菌内に起源を持つのか(生命系統樹の2ドメイン説)、それとも古細菌と真核生物が共通祖先らから分岐したのか生命系統樹の(3ドメイン説)、という真核生物とアスガルド類古細菌との間の進化的関係を明確に解明するものではありませんが、系統発生の構築に用いる種や保存遺伝子の選択に依存して、真核生物のアスガルド類起源(拡大されたヘイムダルアーキオータ–ウーコンアーキオータ系統の姉妹群として)、あるいは真核生物祖先の古細菌内でのより深い分岐のいずれかを支持しています(2ドメイン説)。

 アスガルド類ゲノム162例を用いた網羅的なタンパク質ドメイン解析の結果、真核生物に特徴的なタンパク質(ESP)の一群が大幅に拡大されました。アスガルド類のESPには不均一な系統分布および多様なドメイン構造が認められ、これは遺伝子の水平伝播、遺伝子喪失、遺伝子重複、ドメインシャッフリングを介した動的な進化を示唆しています。アスガルド類古細菌の系統ゲノミクスは、真核生物の祖先古細菌(アスガルド類内またはアスガルド類外)において、古細菌の可動性の「ユーカリオーム(eukaryome)」の要素が、大規模な遺伝子水平伝播を介して蓄積したことを示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アスガルド類アーキアの拡大された多様性およびその真核生物との関係

進化学:アスガルド類アーキアの新たなメタゲノム再構築ゲノム

 アスガルド類アーキアは、真核生物に特徴的なタンパク質(ESP)を多数コードしており、アーキアと真核生物の間の進化的関係を解明する試みにおいて重要な上門だと見なされている。今回E Kooninたちは、アスガルド類アーキアのメタゲノム再構築ゲノム(MAG)75例を新たに再構築し、それらを、公開されている87例のMAGと合わせて比較解析を行った結果を報告している。彼らは、アスガルド類アーキアのオルソログ遺伝子のクラスターを構築して系統発生学的解析に用いることで、新たに6つの主要なアスガルド類系統を発見した。著者たちはさらに、アスガルド類アーキアのコア遺伝子の一群を明らかにするとともに、アスガルド類ゲノムの真核生物的特徴を描写している。今回の解析結果は、真核生物がアーキア内に起源を持つのか(生命系統樹の2ドメイン説)、それともアーキアと真核生物が共通祖先らから分岐したのか(同3ドメイン説)という疑問を完全に解決するものではないが、今回示された系統ゲノミクス解析の結果は、真核生物が、アスガルド類内から生じたか、アーキア内のより深い分岐を持つ系統から生じたという筋書き(つまり2ドメイン説)と一致する。



参考文献:
Liu Y. et al.(2021): Expanded diversity of Asgard archaea and their relationships with eukaryotes. Nature, 593, 7860, 553–557.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03494-3

後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史

 後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。現生人類(Homo sapiens)は早くも4万年前頃にはアジア東部北方に存在していました(関連記事)。アジア東部北方の定義には、モンゴル高原と中国北部と日本列島と朝鮮半島とロシア極東山岳地域が含まれ、その全てはヨーロッパ中央部および南部と類似の緯度の範囲に位置します。ヨーロッパでは、人口集団の移動と規模は氷期の気候変動の影響を受け、たとえば人口規模は30000~13000年前頃に13万人~41万人の範囲で変動しました(関連記事1および関連記事2)。これらの気候変動は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000年前頃以降)と2(29000年前頃以降)におけるモンゴルでの人類居住の間隙を示唆する考古学的知見により明らかなように、アジアの高緯度地域および高地帯の人口史に同様の影響をもたらしたかもしれません。

 いくつかの研究により、9000年前頃から歴史時代にかけてのアジア東部古代人に関する理解が進展してきましたが(関連記事)、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも古い人類のゲノムデータは、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃となる人類の頭蓋冠(関連記事)の2点しか報告されていません。したがって、LGM亜氷期の前後のアジア東部北方の人口集団構造はほとんど知られておらず、アジア東部北方の40000~9000年前頃となる人類化石の欠如により、この先史時代の重要期間の理解が妨げられています。


●標本と古代DNA分析

 アジア東部北方の深い人口史を調べるため、アムール川地域の黒竜江省の松嫩平原(Songnen Plain)で発見された古代人25個体のゲノム規模データが生成されました。この25個体の放射性炭素年代は33590~3420年前です(以下、基本的に較正年代です)。この25個体は、考古学的文脈のない建設現場、もしくは夏の雨季に松花江(Songhua River)と嫩江(Nen River)の沖積堆積物に形成された、侵食された小峡谷や小さな渓谷で発見されました。これら25個体からDNAが抽出され、120万ヶ所の参照一塩基多型を用いて濃縮されたデータの網羅率は0.002~14.453倍です。1親等もしくは2親等の親族関係にある個体と、一塩基多型が25000ヶ所未満の個体を除外すると、20個体の採集データセットが得られました。一塩基多型が5万ヶ所未満の2個体には「_LowCov」という接尾辞がつきます。

 これら20個体は年代で5区分され、各集団内で類似のゲノム特性は人口集団として扱われます。その5集団とは、(1)更新世でもLGM前となるより早期(34324~32360年前頃)の1個体(AR33K)、(2)LGM末期の19587~19175年前頃となる1個体(AR19K)、(3)最終氷期末の14932~14017年前頃となる2個体(AR14.5KとAR14.1K、AR14Kと表記)、(4)12735~10302年前頃の4個体(AR13-10Kと表記)、(5)9425~3360年前頃の12個体(各表記は、AR9.2K_oが1個体、ARpost9Kが9個体、AR7.3K_LowCovが1個体、AR3.4K_LowCovが1個体)です(図1A)。以下は本論文の図1です。
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●LGM前に時空間的に広範囲に存在した田園個体関連祖先系統

 LGM亜氷期以前の更新世後期人口集団は、アジア東部では化石が限られているのでほとんど知られていません。アジア東部でもとくに北方の現生人類の初期の居住をよりよく理解するために、LGM前となる33600年前頃の女性個体AR33Kのゲノム特性が調べられました。まず、AR33K個体が他の世界の古代および現代の人口集団とどのように関連しているのか、f3外群分析を用いて調べられました。興味深いことにその結果からは、AR33Kとその7000年ほど前の田園個体が、他の全ての検証人口集団よりも相互により多くの遺伝的浮動を共有している、と示されました(図1Cおよび図2A)。D統計を用いた対称性検定でも、AR33Kと田園個体は他の全ての古代および現代の人口集団との比較でクラスタを形成する、と示されました。これは、qpGraphと最尤系統樹でも裏づけられます。さらに、これらの分析は、AR33Kと田園個体を全てのアジア東部人の基底部に位置づけ(図3A)、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入検出の分析では、AR33Kと田園個体は、以前の研究で報告されたように(関連記事)、より新しい人口集団と比較して種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)祖先系統の過剰を示す、明らかになりました。

 以前の研究で、田園個体はベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)と、他の同時代のユーラシア西部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、アマゾン地域の現代の人口集団と、他のアメリカ大陸先住民よりも多くのアレルを共有する、と示されました(関連記事)。AR33Kと田園個体との間の高い遺伝的類似性にも関わらず、AR33Kは田園個体ほどにはGoyet Q116-1と同じ遺伝的類似性を共有していない、と明らかになりました。代わりに、AR33Kは他のアジア東部古代人と類似の特性を示し、他のユーラシア西部古代人と比較してのGoyetQ116-1関連祖先系統の上昇傾向を示しますが、統計的有意性のちょうどカットオフ値かそれ以下でした。AR33Kが他のアメリカ大陸先住民よりもスルイ人(Suruí)と多くのアレルを共有している証拠は見つからないので、アジア東部北方ではLGM亜氷期前にすでに複雑な人口集団構造が存在していたかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 33600年前頃のAR33Kは34950~33900年前頃のモンゴル北部のサルキート個体(関連記事)とほぼ同年代で、AR33Kの発見場所からの距離はサルキート渓谷(1159km)も田園洞窟(1114km)も同じくらいです。サルキート個体は、田園個体関連祖先系統(75%)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)の関連祖先系統(25%)の混合と、以前の研究(関連記事)で提案されており、田園個体と同様にGoyet Q116-1とのつながりを示す、と推測されています。しかし、サルキート個体とは異なり、AR33Kは田園個体よりもヤナ関連祖先系統を多く有していません。これはおそらく、田園個体関連祖先系統が、LGM亜氷期前にアジア東部北方に、地理的にも(現在の北京近くの中国北方平原からモンゴル北東部のサルキート渓谷と中国北東部のアムール川地域まで)時間的にも(40000~33000年前頃)広範に存在していたことを示唆します。田園個体関連祖先系統を有する人々は、LGM前にアムール川地域で孤立したまま、モンゴルでヤナ関連祖先系統の人々と混合した可能性があります。以下は本論文の図3です。
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●LGM末における最初のアジア東部北方人の出現

 LGM亜氷期はヨーロッパでは先史時代の人口動態に大きな影響を及ぼしましたが(関連記事1および関連記事2)、この期間の深刻な気候変化がアジア東部北方の人口集団にどのように影響したのかについては、ほとんど知られていません。本論文は、26500~19000年前頃となるLGMのアジア東部の1個体(AR19K)の遺伝的証拠を報告し、それはこの過酷な期間の終わりにおけるアジア東部北方の人口動態の理解に重要です。

 まず、主成分分析(図1B)と外群f3分析(図1 C)を用いてAR19Kが評価され、AR19Kはそれ以前のアジア東部人と比較して後のアジア東部人とより多くの遺伝的類似性を有する、と示されました。AR33Kと田園個体は、AR19Kおよびその後のアジア東部人により共有されていない特有の遺伝的浮動を共有しており、これはqpGraphモデル化(図3A)と系統樹により支持される関係です。この特有の浮動はD統計にも反映さています。

 これらの観察から、アジア東部北方における人口集団の変化は、LGM末にはすでに起きており、レナ川中流のハイヤルガス(Khaiyrgas)洞窟(ロシアのサハ共和国)で発見された16900年前頃の未成年期女性1個体のゲノムデータに基づいて最近の研究で提案された、LGM後の人口集団の変化(関連記事)よりも早いことになります。この人口集団変化は、LGMにおいてもっと早く起きた可能性さえあります。なぜならば、22000~18000年前頃の間の遺伝的継続性が、シベリアのさらに西方のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡とアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の個体で言及されているからです(関連記事)。アムール川流域のLGM亜氷期における追加の遺伝学的および考古学的証拠が、この地域におけるAR19Kとその後の個体群により代表される系統の出現時期の解明に必要です。

 最近、遅くとも8000年前頃までに、山東省の變變(Bianbian)遺跡と淄博(Boshan)遺跡と小高(Xiaogao)遺跡と小荆山(Xiaojingshan)遺跡の個体群を含むアジア東部北方沿岸部古代人口集団(aCNEA)と、福建省の斎河(Qihe)遺跡と亮島(Liangdao)1・2遺跡と渓頭(Xitoucun)遺跡と曇石山(Tanshishan)遺跡の個体群を含むアジア東部南方沿岸部古代人口集団(aCSEA)とがすでに2つの異なる南北の遺伝的集団に分離していたかもしれない、と示されました(関連記事)。


 D統計を用いると、AR19Kは、本論文で新たに報告された14000~6000年前頃の他の個体とともに、aCSEAよりもaCNEAの方と遺伝的に近い、と明らかになりました(図2B)。小荆山遺跡と變變遺跡の個体に対するD統計が均衡しているのは、それらの個体群が他のaCNEAよりも相対的に多くのaCSEA祖先系統を有していることにより説明可能です。興味深いことに、qpGraphと Treemixを用いての混合グラフモデルでは、AR19Kは14000年前頃以降のアジア東部北方個体群の基底部に位置する、と明らかになりました(図3A)。

 これらの結果は、アジア東部系統の南北分離を指摘した研究の想定よりも1万年古い、早くも19000年前頃のアジア東部系統の南北分離の存在を明らかにします。さらに、14000年前頃よりも新しいアジア東部北方古代人は、AR14KよりもAR19Kの方との遺伝的浮動の共有が少なく、aCNEAにおけるAR19Kの基底部の位置と一致します。LGM亜氷期末となるAR19Kの分析は、AR19Kがこれまでに特定された最初のアジア東部北方人であり、アジア東部北方現代人とのある程度の継続性と、LGM以前にアジア東部北方に存在した現生人類(田園個体やAR33K)とは異なる遺伝的祖先系統を有する、と明らかにします。


●アムール川地域における遺伝的連続性とLGM後の人口集団の相互作用

 ロシア極東の沿海地方の悪魔の門(Devil’s Gate)洞窟(関連記事)と、アムール川流域(関連記事)の新石器時代の狩猟採集民・農耕民から得られた古代DNAデータにより、現代の人口集団との遺伝的連続性がアムール川地域において8000年前頃以来存在している、と明らかになりました。しかし、アムール川地域の人口動態は、8000年前頃以前に関しては不明確です。本論文のより新しい標本群は、遺伝的類似性と年代に基づいて、AR14KとAR13-10KとARpost9KとAR9.2K_oを含む 4つの下位集団に区分されます(図1B・C)。LGM亜氷期後の広範な年代からのこの標本抽出の増加により、アムール川地域およびその周辺地域における人口動態の解像度が向上します。

 全体として、主成分分析(図1B)と外群f3(図1C)とADMIXTURE分析からは、AR14KとAR13-10KとARpost9Kは遺伝的に悪魔の門新石器時代人口集団(悪魔の門N)と最も近い、と示唆されます。これは、D統計によりLGM後のアムール川地域人口集団が他のアジア東部北方古代人と比較して悪魔の門Nとより多くのアレルを共有していると示され(図4A)、qpGraphとTreemixでも裏づけられたので(図3A)、確認されました。

 さらに、14000年前頃以後の短いROH(runs of homozygosity)により測定されているように、個体間の関連性の減少が観察されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。この観察は、アムール川地域における局所的な人口規模の増加を示唆しており、それはおそらく、定住農耕への移行(新石器時代移行)に起因します。

 外れ値となる1個体はAR9.2K_oで、14000年前頃以後のアムール川地域の古代人口集団と遺伝的に密接です。興味深いことに、AR9.2K_oは古代山東省人口集団とも一部の遺伝的類似性を共有していますが、この人口集団間の相互作用の可能性は、さらなる標本抽出により確認される必要があります。本論文の結果から、アムール川流域の現代の住民と悪魔の門洞窟の人口集団との間で報告された遺伝的連続性は、おそらく早くも14000年前頃には始まり、以前の推定よりも約6000年さかのぼります。これは、アムール川地域における土器の最初の出現を示す考古学的記録と一致します。さらに、アムール川地域の大きな生物学的多様性により、人類は狩猟や漁労や畜産など多様で豊かな生存戦略を採用でき、この遺伝的連続性が支えられました(関連記事)。

 古代旧シベリア人(APS)として定義される古代の人口集団は、9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)と、バイカル湖南部のウスチキャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡の個体(UKY)により代表され、古代北ユーラシア人(ANE)の子孫で、アジア東部祖先系統を有する新たに到来した人々と混合した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。APSはアメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民集団と最も密接と示されており、細石刃技術の拡大およびマンモス・ステップ生態系の拡大と関連していました(関連記事)。

 しかし、アジア東部祖先系統を表す悪魔の門NとANE祖先系統を表す個体アフォントヴァゴラ3の2方向混合としてのAPSのモデル化は、UKYもしくはコリマでは成功せず、APSに寄与した可能性があるアジア東部人口集団はまだ特定されていない、と示唆されます。そこで、13000年以上前のアジア東部北方標本(AR19KとAR14K)とAPSとの間の関係が調べられました。qpAdmを用いると、UKY個体とコリマ個体はAR19K/AR14KとUSR1個体の混合としてモデル化できる、と示されます(図3B)。USR1は、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された、放射性炭素年代測定法により較正年代で11600~11270年前頃の個体です(関連記事)。

 qpGraphにより、AR14K関連人口集団はAPSの直接的なアジア東部起源集団である可能性も示されました(図3A)。これは、APSが他のアジア東部北方古代人よりも14000年前頃以後のアムール川地域人口集団の方と遺伝的に密接だった、と示唆するD統計とも一致します。14000年前頃以後のアムール川地域祖先系統は、APSのアジア東部構成要素にとって悪魔の門N祖先系統よりも適しているので、アムール川地域人口集団は、APS に寄与した可能性が高いANE関連人口集団との相互作用の最前線にいたかもしれない、と本論文は提案します。


●40000~6000年前頃のアジア東部北方古代人における適応的な遺伝的多様体

 古代DNAを用いてユーラシア西部人では選択が推測されていますが(関連記事)、アジア東部古代人のゲノムは限定されているので、アジア東部では同様の研究が妨げられてきました。本論文のデータを古代アジア東部人口集団の最近の研究と(関連記事)合わせると、適応的多様体の進化を理解するための、LGMの前後にまたがる40000~6000年前頃と大きな時間枠を提供できます。

 アジア東部人にとって1つの重要な適応的多様体は、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異です(関連記事)。これは、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達し、ゲノム規模関連研究では、より太い毛幹やより多くの汗腺やシャベル型切歯との関連が示されています。しかし、EDAR遺伝子のV370A変異の選択の背後にある正確なメカニズムは、現代人のゲノムのみで得られた証拠を用いて検出することは困難です。

 2つの選択メカニズムが提案されており、一方は2万年前頃の低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択(関連記事)、もう一方は3万年前頃の温暖湿潤気候期における体温調節の発汗を調節する選択です。本論文は、LGM亜氷期前の2個体となるAR33K と田園個体を除いて、V370A変異がAR19Kを含む全てのアジア東部古代人に見られることを示します。これは、V370A変異の高頻度への上昇がLGMもしくはその直後だった可能性を示唆します。

 古代DNAを用いてのこれらの直接的観察から、V370A変異は温暖湿潤環境期の選択だった、との仮説の可能性は低そうです。さらに、V370A変異の年代は、現代人のゲノムを用いて、大きな信頼区間(43700~4300年前)で11400年前頃と以前には推定されていましたが、本論文の直接的観察からは、AR19K個体で観察されるように(図4B)、このアレルは早くも19000年前頃に出現していたと示され、アレルの推定年代のより古くてより正確な上限を提供します。以下は本論文の図4です。
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 結論として、本論文の知見は、LGM亜氷期の前(33000年前頃以前)と後(19000~6000年前頃)を含む、アジア東部北方で長期にわたって起きた人口統計学的変化を明らかにします。この期間には14000年前頃以前に2つの大きな人口集団変化が起き、その後でアムール川地域における長期の遺伝的連続性が続きました。LGM以前には、田園個体関連祖先系統が広範に分布しており、アムール川地域ではヤナ関連祖先系統の証拠はありません。19000年前頃のLGM末には、田園個体関連祖先系統はアジア東部現代人祖先系統により置換された可能性が高そうです。

 また、AR19Kに代表される最初のアジア東部北方人口集団は、LGMの最終段階にアムール川地域に出現し、全てのアジア東部北方古代人の基底部に位置します。14000年前頃以後、アムール川地域の人口集団は遺伝的連続性を維持し、APSにとって既知の最も密接なアジア東部起源集団となります。APSの1系統は、アメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民集団と最も近縁となります。以前には知られていなかった人口動態を明らかにすることに加えて、本論文の分析は、EDAR遺伝子のV370A変異の出現年代を限定する古代DNAの証拠を提供し、V370A変異はLGMもしくはその直後に高頻度に上昇した、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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●本論文の限界

 本論文は後期更新世から完新世までの長期間の古代の個体群を提示しますが、詳細な人口動態の一部は、さらなる標本抽出を通じて検証される必要があります。まず、本論文で観察されたLGM後の人口集団の置換と、アジア東部北方人の環境変化への適応をさらに解明するために、LGM亜氷期を表すより多くの標本を収集しなければなりません。次に、アムール川地域と山東省沿岸部など周辺地域の古代の人口集団間の相互作用の可能性を実証するため、14000年前頃以後の追加の標本を収集しなければなりません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。田園個体(に代表される人口集団)は以前より、大きく見るとアジア東部系統に分類されるものの、現代人の直接的祖先ではない、と指摘されており(関連記事)、その後の研究でも同様の結果が提示されています(関連記事1および関連記事2)。この田園個体関連祖先系統がLGM前にはアジア東部北方において広範に存在していたことを、アムール川地域の個体AR33Kのゲノムデータにより本論文は証明しました。

 ただ本論文では、ベルギーのゴイエット遺跡の35000年前頃となる1個体(Goyet Q116-1)との遺伝的関係において田園個体とAR33Kとの違いも示されており、田園個体関連祖先系統の影響の強い人口集団でも4万~3万年前頃にはすでに遺伝的分化が進んでいた、と示唆されます。本論文でも言及された田園個体とGoyet Q116-1との遺伝的類似性については、最近重要な進展があり、45000年前頃のヨーロッパ東部にはアジア東部の古代人および現代人と遺伝的に類似した集団が存在し、Goyet Q116-1にも遺伝的影響を及ぼした可能性が指摘されました(関連記事)。

 田園個体関連祖先系統は、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようで、アムール川地域においては、田園個体関連祖先系統から現代人につながるアジア東部祖先系統への移行は、LGM末までには起きていたようです。現代人につながるアジア東部祖先系統を有する集団がいつどこからアムール川地域に移動してきたのかを解明するには、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 本論文は、アムール川地域における現代までの14000年にわたる遺伝的連続性を示した点でも注目されます。こうした更新世からの長期にわたる遺伝的連続性は、世界でも珍しいと言えるかもしれませんが、本当に珍しいのか、それとも古代DNA研究の進んでいない地域では長期の遺伝的連続性が一般的なのか、という問題に関しても、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 また本論文の注目点として、すでに先行研究で指摘されていた、完新世初期(新石器時代開始)の時点での、アジア東部における明確な南北の遺伝的分化(関連記事1および関連記事2)がすでに19000年前頃までに起きていた、と示したことも挙げられます。この遺伝的分化がどのようにして起きたのか解明するには、繰り返しになりますが、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 本論文では詳しく言及されていませんが、AR13-10K集団にまとめられている11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のY染色体ハプログループ(YHg)がDEに分類されていることも注目されます。これは、カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)のYHgがD1a2a2a(Z17175、CTS220)に分類されていることと関連しているかもしれません(関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では悪魔の門N系統構成要素の割合が高いと示されていることから、アジア東部北方にはかつてYHg-Dが現在よりも広く分布しており、そうした集団との混合により、紀元後3世紀に現在のカザフスタン南部にYHg-Dの個体が存在した、とも考えられます。この問題の解明も、時空間的により広範な古代ゲノムデータが必要になります。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較するとかなり遅れており、人口史もヨーロッパほどには詳しく解明されていませんが、それでも近年の研究の進展は目覚ましく、今後の研究もできるだけ多く追いかけていきたいものです。今後の注目は、アジア東部南方系統の主要な分布地と考えられている長江流域の新石器時代集団のゲノムデータです。現時点では、長江流域新石器時代集団は、福建省の前期新石器時代個体と遺伝的に類似していると想定されていますが(関連記事)、前期新石器時代の時点で、すでにある程度遺伝的分化が進んでいることも想定されます。


参考文献:
Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040

大河ドラマ『青天を衝け』第16回「恩人暗殺」

 一橋家臣となった栄一(篤太夫)と喜作(成一郎)は、関東で一橋家に役立つ人物を集めようとします。その二人の出立を平岡円四郎が見送ります。今回、その平岡が殺害されましたが、平岡は栄一の大恩人で理想的な上司として描かれていたので、大きな喪失感があります。西郷吉之助(隆盛)の発言など、史実を知らずとも平岡の最期を予感させる構成になっており、唐突感がないことを評価する視聴者もいるでしょうが、あざといと批判する視聴者もいるかもしれません。私は、なかなか上手く構成されていたと思います。

 今回は、栄一と喜作の関東での人材集めと並行して、池田屋事件と水戸天狗党の決起が描かれました。池田屋事件は平岡の殺害と深く関わっており、水戸天狗党の決起に血洗島の人々も巻き込まれます。幕末の重要な事件を単発的に描くのではなく、主人公およびその周辺の人々がしっかり関連しているので、ここまでは大河ドラマとしてなかなかの高水準になっていると思います。ここまで大きな存在感を示した平岡の退場は寂しいものの、今後もこれまでのような水準で話が続くのではないか、と期待しています。

バスク人の起源と遺伝的構造

 バスク人の起源と遺伝的構造に関する研究(Flores-Bello et al., 2021)が公表されました。ピレネー山脈を介してスペインとフランスの国境の西部を含むフランコ・カンタブリア地域は、ヨーロッパの人類史における役割から、いくつかの分野で注目されています。フランコ・カンタブリア地域は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)のヨーロッパにおいて最も人口密度の高い氷期退避地の一つで、重要な考古学的発見、とくに最古となる既知のヨーロッパの洞窟壁画と関連しています(関連記事)。

 フランコ・カンタブリア地域の最も興味深い特徴の一つは、バスク人の存在です。バスク人は歴史的にピレネー山脈の西端に沿って分布しており、スペインとフランスにまたがっていて、現在は7行政区分で構成されています。それは、ピレネー山脈の西側のギプスコア(Gipuzkoa)県とビスカヤ(Bizkaia)県とアラバ(Araba)県、ナファロア(Nafarroa)県、ピレネー山脈の北側のスベロア(Zuberoa)地域とラプルディ(Lapurdi)地域とナファロア・ベヘレア(Nafarroa Beherea)県です。バスク人はヨーロッパの文脈内でその特異性と孤立を定義する歴史的・人類学的・生物学的特徴のために、おそらくは際立っています。

 注目すべき特徴はバスク語で、5つの主要な方言があり(図1)、他のあらゆる現存言語と密接な関連のない孤立した非インド・ヨーロッパ語族言語です。ロマンス諸語の圧力による地理的後退の前には、現在の分布を超えて、バスク語は歴史的に7つの地方で話されていました。さらに、古代のバスク語関連言語はずっと広範に話されていた、と提案されています。この地域には、近隣のスペイン北部地域やフランスのアキテーヌ地方南部が含まれます。バスク語がバスク人の近隣人口集団との間の文化的障壁だった可能性が指摘されてきましたが、バスク語方言は内部障壁としても機能した可能性があります。バスク語方言は相互理解性の低下を示し、バスク語の標準語は1968年まで確立せず、1980年代以降にのみ広く使用されるようになりました。以下は本論文の図1です。
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 バスク人の遺伝に焦点を当てた研究は多くありますが、その人口史に関する活発な議論が続いています。そうした関心は、新生児溶血性疾患と関連する遺伝的多様体である、Rh-血液型の高頻度の注目すべき観察で始まりました。より多くの遺伝的標識を用いたその後の研究では、バスク人はヨーロッパ人の遺伝的文脈内ではとくに分化している、と明らかになりました。これらの結果は、考古学的・文化的・言語学的データとともに、この地域において孤立し続けた古代の人口集団から派生したバスク人として解釈されました。しかし、他の研究では、バスク人集団の遺伝的特異性の証拠は提供されておらず、ヨーロッパ全域の遺伝的均質性が示唆されています。

 バスク人の起源も議論になってきました。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)に基づく一部の研究では、バスク人は、LGM後に氷河の退避地からヨーロッパに再居住した後にその地に留まった、孤立した新石器時代前のヨーロッパ人集団を表している、と提案されました。逆に他の研究では、バスク地域における新石器時代の移住の影響が示され、旧石器時代以来の遺伝的継続性に反論しています(関連記事)。

 片親性遺伝標識の徹底的な分析は、バスク人における新石器時代以前からの継続性と、ローマ期の前の遺伝的構造を示しました。これを支持するのは古代DNAデータで、バスク人は共通のイベリア半島鉄器時代人口集団として実際に説明でき、新石器時代後の草原地帯牧畜民祖先系統の重要な遺伝的影響があるものの、ローマ人やアフリカ北部人のようなその後イベリア半島に侵入してきた人口集団からの混合を欠いている、と示唆されました(関連記事)。

 バスク人についての論争では、バスク人の特徴と起源だけではなく、バスク人内部の遺伝的異質性にも焦点が当てられてきました。バスク人集団のゲノム規模データは矛盾した結果を示してきており、一部の研究ではフランスのバスク人はスペインのバスク人と著しく異なり、後者は他のイベリア半島人口集団と類似している、と示唆されたのに対して、他のデータは、バスク人内部の均質性と非バスク人集団との顕著な遺伝的分化を示すものと解釈されました。

 これらの注目すべき矛盾した結果は、限定的な方法論と解像度により説明できるかもしれません。バスク人およびその近隣地域集団を表すとされた、これらの分析で用いられた標本数の少なさが、主要な制限要因と考えられてきました。さらに、そうした分析は古典的な遺伝標識のアレル(対立遺伝子)頻度か、片親性遺伝標識の系統か、標本と遺伝標識の減少した数に基づいています。以前の研究の限界を克服するため、本論文では堅牢なゲノム規模研究設計が採用され、その独自性や起源や遺伝的構造を含む、議論のあるバスク人の人口史の解明が可能となりました。

 本論文で提示される全フランコ・カンタブリア地域の独特で網羅的なデータセットは、以前の研究に影響を及ぼしたあらゆる標本抽出の偏りの可能性を制限し、小地域および大規模な水準での徹底的な分析を提供します。さらに、本論文の標本抽出で考慮された民族言語学的情報により、バスク人とその周辺人口集団の遺伝的項羽像の形成において文化的要因がどのように関連し得たのか考慮して、遺伝的データを超えて結果を解釈することが可能となりました。最後に、より正確なハプロタイプに基づく手法を活用して、精細な遺伝的構造と混合パターンが明らかになります。


●ヨーロッパ・地中海におけるバスク人の特異性

 バスク地域の標本抽出地点18ヶ所からの新たな190個体を含む、1970個体の現代人および古代人標本で、合計629000個のゲノム規模多様体が分析されました。まず、バスク人が広範な文脈で調べられ、大規模で多様な人口集団群内の遺伝的多様性が評価されました。主成分分析では、バスク人はアフリカ北部人の反対側の端に位置し、サルデーニャ島人と類似してヨーロッパの周辺に位置しており、バスク周辺集団(伝統的にガスコーニュ語とスペイン語の地域を取り囲んでいます)はその中間に位置します(図2A)。

 混合分析を用いて、これらの人口集団の広範な遺伝的祖先系統構成要素を考慮すると、バスク人で差異を示す遺伝的パターンが観察されます(図2B)。K(系統構成要素数)=6では、バスク人はおもに2つの構成要素を示します。主要な構成要素(深緑色)はヨーロッパ人にも存在しており、中東・コーカサスとアフリカ北部でも低頻度で見られます。もう一方のより割合の低い構成要素(濃赤色)は、ヨーロッパ中央部・東部において高頻度で見られます。ヨーロッパの残りの集団で見られる他の構成要素は、バスク人では存在しません(頻度1%未満)。バスク周辺地域標本群は、バスク人と類似のパターンを示すものの、バスク人では存在しない他の外部構成要素が低頻度で見られます。K=7では、新たな特定の構成要素が出現し(水色)、バスク人では最大となり、バスク周辺地域では50%以上の頻度です。この構成要素はスペインとフランスの標本群でも観察されますが、他の外部ヨーロッパ人標本群では実質的に存在しません。以下は本論文の図2です。
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 fineSTRUCTUREで実行されたハプロタイプに基づく分析を用いて、バスク人における顕著な水準の分化が検出されました(図3)。まず、バスク人集団は大規模なヨーロッパ人の分枝内でクラスタ化しますが、それは他のヨーロッパ人標本群の外部でのことです(図3A)。この結果は、バスク人クラスタと他のヨーロッパ人集団との間で共有されるハプロタイプの少なさと、バスク人の明確な内部および特有の遺伝的特性を示します。次に、バスク周辺地域集団も他の外部人口集団と分化を示しており、ヨーロッパ人の内部でクラスタ化するものの、スペイン人標本群とクラスタ化するカンタブリア地域標本(gCAN)を除いて、特定の分枝を形成します。

 fineSTRUCTURE分析では、フランコ・カンタブリア地域標本群の過剰表現による推定される不自然な結果を破棄するために、フランコ・カンタブリア地域の無作為標本抽出が実行され、類似の結果が得られました。さらに、非負制約付最小二乗法(NNLS)分析で計算された祖先系統特性は、上述の結果を反映しています(図3B)。バスク人はフランコ・カンタブリア地域の内部集団とのみハプロタイプを共有しています。バスク周辺地域人はおもに、地域内の集団とハプロタイプを共有していますが、非フランコ・カンタブリア地域のスペイン人およびフランス人集団ともハプロタイプを共有しており、バスク人とその周辺の外部人口集団との間の緩衝地帯として機能しています。

 バスク周辺地域人で観察された中間的な祖先系統特性は、フランコ・カンタブリア地域集団とその外部集団との間の遺伝子流動を示唆します。したがって、可能性のある混合事象が、GLOBETROTTERの使用によりバスク周辺地域で検証され、fineSTRUCTUREにより推定されたバスク人と全ての外部クラスタが代理として考慮されました。2つの供給源集団を含む単一の混合事象が、全ての対象とされたバスク周辺地域集団で検出され、11~16世紀頃と推定されました。類似の供給源が各対象クラスタで説明されました。主要な供給源はおもにバスク人とスペイン人の祖先系統により表され、より影響の小さい供給源はおもにスペイン人祖先系統により表されます。さらに、ブートストラップから推定された年代の信頼区間は、各バスク周辺地域の対象、とくにフランスのビゴール(Bigorre)地区で重複した幅広い範囲となりました。これは、バスク周辺地域における混合の単一ではあるものの継続的な波と、11~16世紀と最近の歴史時代においてバスク周辺地域に影響を及ぼした一般的な大規模人口統計的事象を呼び起こしたかもしれません。

 バスク人の遺伝的分化をさらに調べるため、ROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。バスク人はROHの全体的な最大総数(NROH)と全長(SROH)示し、長いROHを有しており、ヨーロッパ人の平均をわずかに上回るROH値を示すと報告されているサルデーニャ島人よりもさらに高く、バスク周辺地域集団が続きます(図3C)。中間のROH区分では、外部人口集団で表される標本群の合計割合はひじょうに小さくなっています。このことから、これらの区分がバスク人やサルデーニャ島人やバスク周辺地域集団といった孤立した集団でより一般的ではあるものの、外部集団では観察された値が不可解に近親交配の外れ値と関連している可能性があることを示します。

 これらの結果は、集団内の標本間で共有される同祖対立遺伝子(identity-by-descent。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、同祖対立遺伝子領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)の割合(PI_HAT)の調査と一致しています。さらに、経時的な有効人口規模(Ne)の推定がバスク人の低く安定した値を示す一方で、スペイン人やフランス人など外部集団は1000世代前の頃に劇的な増加を示します。これらの結果は、バスク人には近親交配を伴う孤立のパターンがあり、バスク周辺地域人にはその程度がより低いことを示唆します。そのような孤立のパターンは、他の全ての証拠によりずっと最近と推定され、周辺の人口集団における明らかな有効人口規模の旧石器時代の成長の痕跡を消すのに充分な深さだったようです。以下は本論文の図3です。
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●鉄器時代後の人口史に起因するバスク人の遺伝的独自性

 次に、バスク人の遺伝的特異性の起源を解明するため、古代の標本を含めて分析されました。古代の標本を投影した主成分分析では、バスク人は新石器時代前の狩猟採集民および新石器時代ヨーロッパ農耕民だけではなく、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団祖先系統と関連する一部の新石器時代後の草原地帯牧畜民にもより近い、と示されます。

 ADMIXTURE分析(K=4)では、他のヨーロッパ人口集団と比較して、バスク人とバスク周辺地域人はレヴァントおよびイラン関連新石器時代構成要素の割合が最低で、アナトリア半島・ヨーロッパの農耕民構成要素の割合がやや高い、と示されます。古代の標本群と共有される浮動を検証すると、外群f3統計は、バスク人とヨーロッパの3つの主要な古代構成要素(旧石器時代狩猟採集民、新石器時代農耕民、ヤムナヤ文化祖先系統と関連する新石器時代後の牧畜民)との間で共有される高い浮動を示します。

 次にqpGraphを用いて、フランコ・カンタブリア地域集団と他のヨーロッパ人口集団が古代の標本群とモデル化されました。このモデルは検証された各ヨーロッパ人口集団で適合しました。2つの古代構成要素の推定される混合割合は、これら古代構成要素の予測されるヨーロッパの南北の勾配にしたがって、一般的なヨーロッパ人と比較してバスク人の違いを示しません。さらに、フランコ・カンタブリア地域集団を個々にモデル化すると、これら古代構成要素の割合に関して内部の違いは観察されませんでした。この知見からは、バスク人の遺伝的特異性は、ローマ期とイスラム期における最近の歴史的影響のような、鉄器時代後の人口統計学的過程に依存しているかもしれない、と示唆されます。

 したがって、qpAdm分析により、バスク人の特異性を説明できるかもしれない妥当な鉄器時代後の混合モデルが検証されました。この分析では、バスク人はイベリア半島の鉄器時代標本群でほとんど説明でき(関連記事)、バスク周辺地域に隣接する一部の集団ではローマ帝国期の標本群の影響はひじょうに限定的だった(関連記事)、と示されます(図4)。これらのローマ人関連の割合増加は、対象となる人口集団がフランコ・カンタブリア地域から離れるほど増加します。さらに、フランコ・カンタブリア地域ではアフリカ北部の標本群を考慮したどのモデルでも、有意な結果は観察されませんでした(図4)。全体としてこれらの結果は、バスク人がイベリア半島において最近の歴史的事象の期間に限定的な遺伝子流動を受けたかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図4です。
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●フランコ・カンタブリア地域の地理と相関した遺伝的不均質

 バスク人に関する主要な論争の一つは内部の遺伝的異質性なので、フランコ・カンタブリア地域に焦点を当てた分析で、内部の遺伝的多様性が調べられました。主成分分析では、PC1軸は全てのフランコ・カンタブリア地域集団を遺伝的勾配で分離し、一方の極には全てのバスク人が、もう一方の極にはスペインとフランスの非フランコ・カンタブリア地域人が、その中間にはバスク周辺地域人が位置します(図5A)。PC2軸は、フランコ・カンタブリア地域を東西で分離します。主成分分析では、バスク人集団の顕著な小地理的遺伝的構造とクラスタ化を示します。

 本論文のような小地理的規模での類似の規模と標本抽出密度の外部参照を取得するため、カタルーニャ地域の標本群が本論文のデータセットと比較されました。カタルーニャ人の主成分分析では、バスク人およびバスク周辺地域人との比較であらゆる地理的構造を示さず、バスク人で観察されるクラスタ化は固有であり、標本抽出戦略とは無関係である、と示唆される可能性があります。フランコ・カンタブリア地域とカタルーニャ地域集団間の遺伝的分化を定量化して比較するため、各組み合わせのFST(遺伝的違い)距離が推定され、MDS(多次元尺度構成法)図で示されました。

 この場合でも、フランコ・カンタブリア地域人が明確な内部の分化を示したのに対して、カタルーニャ人は遺伝的構造もしくは極端な内部分化の証拠を示しませんでした。さらに、さまざまな地理的階層で分子分散分析(AMOVA)により地域内で異質性が検証されました。明らかにされた遺伝的分散は小さかったものの、全ての結果は統計的に有意で、フランコ・カンタブリア地域、とくにバスク人集団での内部分化を示します。じっさい、カタルーニャ人での同じ分析は、全ての比較で説明された分散が低くなりました。

 ADMIXTUREを用いてフランコ・カンタブリア地域で行なわれた遺伝的構成要素の分析は、上述の結果を反映しています(図5B)。K=2(交差検定誤差が最良)では、バスク人は主要な構成要素(深緑色)を示し、これはバスク周辺地域集団でもかなりの割合で存在し、外部標本群でもわずかに見られます。K=3および4では、内部の異なる構成要素がバスク人内部で出現します。K=3では、バスク人関連構成要素は西部(紫色)と東部(深緑色)の2つの特定構成要素に分かれます。これらの構成要素は非フランコ・カンタブリア地域標本群ではほとんど示されません。K=4では別の構成要素(濃赤色)が出現し、アラバ県およびその周辺集団で最大化します。したがって、これら4構成要素は、非フランコ・カンタブリア地域(橙色)と東部バスク人関連(深緑色)と中央部バスク人関連(紫色)と西部バスク人関連(濃赤色)にまとめることができます。

 標本間のこれら構成要素の分布は、フランコ・カンタブリア地域における遺伝子と地理との間の相関を証明しています。この相関を検証するため、距離による分離(IBD)分析が行なわれました。マンテル検定がFST値と地理的距離との間で適用され、正の明確な統計的に有意な結果が得られました。次に、空間的に明示的な統計手法であるEEMS(推定された有効移動面)は、バスク地域とバスク周辺地域の間およびその内部の両方で、よく定義された障壁の内部パターンを示しました。じっさい、移動率がより高い回廊のパターンは、標準偏差が重複している集団間で、ADMIXTURE分析と主成分分析で観察された関係を反映しています(図5)。カタルーニャ人標本群で同じ分析が実行され、類似の規模の地域にも関わらず、結果は、マンテル検定に対して有意ではなく負の傾向と、EEMS分析における障壁の欠如を示します。以下は本論文の図5です。
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 最後に、フランコ・カンタブリア地域内の人口集団間の関係を洗練するため、ハプロタイプに基づく手法が適用され、内部の異質性の類似のパターンが観察されました(図3および図6)。fineSTRUCTURE樹状図(図3A・B)では、バスク人クラスタの区別に加えて、フランコ・カンタブリア地域におけるいくつかの内部クラスタがおもに地理および言語と関連して定義できます。一方では、バスク人の分枝において3クラスタが示され(図6A)、その一つは、中央部バスク人クラスタに加えて東部バスク人と西部バスク人のクラスタを含みます。他方では、バスク周辺地域人の分枝で2クラスタが示され(図6A左側)、それは西部および東部バスク周辺地域人クラスタと、外部スペイン人クラスタ内に収まるカンタブリア地域標本群(gCAN)です。

 データセットを削減する分析では、類似のクラスタが観察されます。バスク人で見つかった違いも、NNLS分析で計算された祖先系統特性で示されます(図3Bおよび図6B)。バスク人クラスタはバスク人もしくはバスク周辺地域人構成要素でのみ形成されますが、バスク周辺地域人は外部の祖先系統も示します。バスク人に焦点を当てると、中央部集団がバスク人祖先系統でのみ定義されるのに対して、東部および西部バスク人はバスク周辺地域人祖先系統を25%程度示します。西部バスク人集団におけるスペイン人およびフランス人祖先系統の一部の痕跡にも関わらず、他の外部祖先系統はバスク人では存在せず、外部からの寄与なしにフランコ・カンタブリア地域内でハプロタイプが共有されていることを示唆します。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文の結果は、小さな有効人口規模、ROHの数の多さと長さ、PI_HAT値(図3C)に反映されている継続的な近親交配の証拠とともに、全ての分析においてヨーロッパ人の中でのバスク人の明確な遺伝的特異性を示します。それは、最近の歴史におけるバスク人の遺伝的孤立のパターンを示唆します。対照的に、バスク周辺地域人は、バスク人と外部のスペインおよびフランスの人口集団との間の移行を示し、開かれた人口集団と孤立した人口集団との間の中間事例となります。じっさい、バスク人は非フランコ・カンタブリア地域集団との最近の混合事象の証拠を示しませんが、バスク周辺地域人は少なくとも中世以来の遺伝子流動を示します(図3Bおよび図6B)。

 これらの集団で推測された混合事象は、フランコ・カンタブリア地域関連集団とスペイン関連集団を含む可能性がおり、おもにいわゆるレコンギスタ期とその直後の数世紀にさかのぼります。これは、イベリア半島における領土を維持するためのイスラム軍とキリスト教王国との間の紛争により特徴づけられる長い期間で、718年のコバドンガの戦いから、1492年のグラナダのナスル朝の滅亡によるイベリア半島のイスラム教勢力支配の終焉まで拡大しました。それは、イベリア半島の歴史における複雑な政治的および行政的状況をもたらしたので、これらの結果は、フランコ・カンタブリア地域と特にバスク周辺地域に沿ってこれら数世紀に繰り返された領土再編成の結果を反映しているかもしれません。

 それにも関わらず、本論文の分析は、バスク人の遺伝的独自性は他のイベリア半島人口集団と比較して異なる起源に由来するのではなく、以前の研究で示唆されたように(関連記事)、鉄器時代以降の外部からの遺伝子流動の減少と不定化に起因する可能性がある、という見解を支持します。バスク地域で観察された鉄器時代後の遺伝子流動の勾配は、バスク人特有の遺伝的特性が最近の遺伝子流動の欠如により説明できる可能性を示唆します。

 本論文の分析は、バスク人が周辺地域人口集団と類似のパターンで鉄器時代までのヨーロッパにおける主要な移住の波に影響を受けた、と確証します。当時、バスク人は現在の遺伝的景観で観察されるように、ローマ化やイスラム教勢力の支配など、イベリア半島に影響を及ぼした後の人口移動との混合がひじょうに少ないことにより特徴づけられる、孤立の仮定を経ました(図3B)。これは短いROHと小さな有効人口規模値により証明されるように、それ以前の孤立期間の可能性を排除するわけではありません。短いROHと小さな有効人口規模値はバスク地域における古代の交雑の兆候を裏づけ、それはサルデーニャ島人よりもさらに高く、新石器時代後の孤立が示唆されています。したがって、約1000世代前の外部集団でのみ観察された有効人口規模の増加は、LGMおよびその後の拡大期における氷期の退避地としてのフランコ・カンタブリア地域の役割と関連している可能性があります。

 本論文の結果は、現代バスク人のほとんどにおける鉄器時代からの遺伝的継続性を裏づけますが、バスク中核地域の周辺に位置する集団は、イベリア半島におけるローマ帝国の存在と適合する接触の兆候を示します(図4)。これらの結果は、考古学および歴史的記録と一致します。ローマ帝国の重要な存在はフランコ・カンタブリア地域全体で報告されてきましたが、学者たちは、南部の周辺地域、とくにナファロア県とアラバ県におけるずっと高い影響を示唆しています。それ以外では、アフリカ北部の影響は、イベリア半島南部および北西部の人々が含まれるモデルにのみ適合します(図4)。これは、すでに片親性遺伝標識を用いた研究と、ゲノム規模およびハプロタイプに基づく最近の研究で報告されているように、イスラム教勢力支配期におけるアフリカ北部からの流入者とのイベリア半島の東部および北部の集団との間の遺伝子流動の減少を確証します。

 言語は集団の人口統計学的過程において主要な役割を果たす可能性があり、本論文では、バスク語の驚くべき特性を考えると、バスク地域の民族・言語シナリオは分析の解釈において考慮されるべきです。本論文の結果は、鉄器時代後の大きな遺伝子流動を妨げ、バスク地域の遺伝的概観を形成する主因の一つとしてのバスク語と適合的です。他の研究で以前に示唆されているように(関連記事)、鉄器時代以来のバスク人の遺伝的継続性も、草原地帯祖先系統の拡大はヨーロッパ西部において先インド・ヨーロッパ語族完全には消し去らなかった、という仮説を裏づけます。ローマ人のイベリア半島への到来前には、バスク語はイベリア語るなど他の先インド・ヨーロッパ語族と共存していました。

 本論文の分析で確認されたように(図4)、ローマ人、したがってラテン語との接触は、イベリア半島地中海沿岸地域ではより早くてより強く、その後で大西洋沿岸へと拡大し、フランコ・カンタブリア地域にはその後に到来し、影響はより低くなりました。したがって、ラテン語はローマにより強く支配された強い地域では影響がより大きく、言語の置換が加速したのに対して、バスク語はほとんど影響を受けなかった、と予測されます。ラテン語がイベリア半島の大半で定着すると、バスク語は遺伝子流動の文化的障壁として機能し、バスク人の遺伝的分化と、バスク語における言語的ロマンス諸語基層の低い影響につながったかもしれません。

 地理との正の強い相関とともに、本論文の結果は、バスク人とバスク周辺地域人における明確な内部の異質性を確証します。この異質性では、東西の遺伝的クラスタがフランコ・カンタブリア地域に沿って明らかで、核地域から外部地域への最も密接な集団間のより高い遺伝子流動を伴う遺伝的勾配が示されます。この遺伝的下部構造は、ピレネー山脈により隔てられている、現在のスペインとフランスとの間の南北の山岳および行政的境界よりも複雑です。代わりに、ハプロタイプに基づく手法は、中央部バスク人クラスタに加えて西部および東部バスク人とバスク周辺地域人の遺伝的クラスタを正確に定義でき(図3Bと図5と図6)、古典的な遺伝的指標によるフランコ・カンタブリア地域におけるこのパターンをほとんど示唆しなかった以前の結果を明確にします。

 東部および中央部バスク人が外部供給源集団との明らかな遺伝子流動を示さなかった一方で、西部バスク人クラスタは外部集団とのわずかな遺伝子流動を示します(図3Bと図4と図5と図6)。この遺伝的下部構造は、バスク人とその近隣地域集団との間の歴史的および言語的状況を反映しています。その外部地域から最も遠い場所と関連する歴史に沿って外部供給源集団からの影響がより小さため、バスク中央部の遺伝的構造が最も分化しています。さらに、バスク中央部と東部地域の言語と政治と行政の状況は、歴史時代にはひじょうに安定していました。しかし、バスク西部地域は複雑なシナリオにより特徴づけられ、行政区分の再編成、および周辺のロマンス諸語とおもにスペイン語の強い影響に起因するバスク語の後退と関連しています。

 現代バスク人の遺伝的下部構造におけるバスク語方言の役割を評価することは、より困難です。ほとんどの言語学者は、最も密接な方言間の近い距離を伴う東西の方言の不連続性について合意しています。それらの方言の起源について最も受け入れられている仮説は、中世に出現した、というものです。しかし本論文の結果は、より早期に形成されたかもしれないバスク人内の明確に定義された遺伝的構造を明らかにします。じっさい、先ローマ期の遺伝的下部構造は、すでに片親性遺伝標識に基づいて提案されてきました。したがって、バスク人内の方言の多様化と遺伝的異質性は、共通して地理と相関している可能性があり、言語学的研究においてバスク語方言のより早期の起源を再考する価値があるかもしれません。

 本論文は、新たな観点からバスク人の遺伝的独自性に関する長年の議論を解明し、バスク人の人口史に関する議論の解決に役立つ、より精細で信頼性の高い結論を提供します。これは、ある種の祖型ヨーロッパ人としてのバスク人の立場を裏づける明確な証拠がほとんど存在しなかったとしても、ひじょうに頻繁に推測されるバスク人の遺伝的特徴を解明するのに役立ちます。さらに、いくつかの一連の新たな証拠が考古学と人類学の分野に提示され、さらに調べることができます。本論文の遺伝学的結果は、古代遺跡との人類学および年代とのつながりや、バスク語とその方言を中心とした歴史的および言語的関係を裏づけます。集団の進化と人口史を研究して、それを文脈化し、仮説を検証して結果を解釈するさいには、学際的手法の重要性を強調する必要があります。この意味で、完全かつ対照的で信頼性の高い研究を後押しするために、さまざまな知識分野の統合と共同研究を促進することが重要です。


参考文献:
Flores-Bello A. et al.(2021): Genetic origins, singularity, and heterogeneity of Basques. Current Biology, 31, 10, 2167–2177.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.010

岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』

 小学館より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎の伝記です。渡辺については、学者肌の軍人だったことと、二・二六事件で殺害されたことくらいしか知らず、愛知県出身であることも、子供の頃に母親の実家に養子に入ったことも知りませんでした。厳父と賢母に育てられて鍛えられた渡辺は、養子に入って養父には愛されたものの、養母は渡辺を歓迎しなかったようです。

 渡辺は家業の手伝いのため小学校には満足に通えなかったものの、読書には熱心だったようです。というか、渡辺は子供の頃から向学心が強く、貧しく中学に通えないなか、1894年、優秀な成績で士官学校に合格します。渡辺を見下す役人もいましたが、渡辺を支える身近な人もおり、渡辺は努力家であるだけではなく、子供の頃から人格も優れていたようです。渡辺の士官学校の同期には、林銑十郎がいました。士官学校卒業時の渡辺の成績は206人中4番で、林は15番でした。士官学校8期生ではこの2人が大将まで昇進します。

 渡辺は士官学校卒業後、鯖江に4年間赴任し、その間に陸大に入学し、主席で卒業します。日清戦争が始まった年に士官学校に入学した渡辺は、日露戦争時には大尉に昇進しており、乃木希典司令官の第三軍に属する中隊長として出征します。第三軍は旅順攻防戦で多数の戦死者を出し、渡辺は1904年8月の第一回旅順要塞総攻撃で負傷し、野戦病院へ搬送されます。渡辺の部隊は第9師団に属しており、第9師団は旅順攻防戦で全滅に近い損害を受けたので、渡辺も負傷しなければその後の運命はどうなったか分からない、と本書は指摘します。渡辺は後に日本に送還され、傷が完治した後、大本営陸軍幕僚附、参謀となり、終戦を迎えます。

 日露戦争後、渡辺は山県有朋の副官となります。渡辺は山県に気に入られ、渡辺は山県を尊敬していたようです。細かい山県により、渡辺は終世勉強する習慣を身に着けたのかもしれない、と本書は評価します。軍人として渡辺にとって大きな転機となったのは第一次世界大戦でした。渡辺の最初のヨーロッパ留学先はドイツでした。日本の軍人(の一部)にも大きな衝撃を与えた第一次世界大戦の視察のため、渡辺は1917年にオランダ国公使館付後武官として派遣されます。ドイツではなくオランダなのは、日本とドイツが交戦関係にあったからです。ドイツ降伏後、渡辺は講和条約履行委員としてドイツに入国します。渡辺は1919年4月から約1年ドイツに滞在しました。

 渡辺は第一次世界大戦に大きな衝撃を受け、総力戦となった以上、負けた場合はもちろん勝っても国民は悲惨な目に遭うと考え、非(避)戦のための軍備を主張するようになります。第一次世界大戦を踏まえた渡辺の教訓は、安易な戦線拡大や精神論偏重の不可、情報通信の重視など、多岐にわたっていました。中将昇進後に陸大校長に任命された渡辺は、自身の軍事思想に基づいた教育を進めようとしますが、軍上層部には容れられず、1年も経たずに旭川の師団長に転任となります。渡辺はこの時、退役が近いと覚悟していたようです。

 航空機の重要性に早くから着目していた渡辺は、1929年3月に航空本部長に就任します。渡辺は、空襲の脅威とそれによる国民の動揺を強く懸念していました。国民の動揺は合理的な軍事および政治外交判断を制約し、戦況に悪影響を及ぼしかねない、というわけです。こうした懸念の根底にあるのが、第一次世界大戦により総力戦の時代に突入した、との認識で、それ故に渡辺は、防空には軍民一致が必要と主張します。その後、台湾軍司令官に就任した渡辺は、霧社事件の鎮圧で批判も受けましたが、昭和天皇からは労われたことにたいへん感激したそうです。

 渡辺は台湾から本土に戻った後、再度航空本部長に就任し、1931年8月、大将に昇進します。渡辺が大将に昇進した頃の陸軍には、「革新」を主張して政治的野心を隠さない軍人がおり、この後から二・二六事件にかけて、派閥争いが激化しました。渡辺は政治活動には関わろうとせず、三月事件後に橋本欣五郎からクーデタへの参加を誘われたさいにも、これを一蹴しました。このように陸軍の派閥争いから距離を置いていた渡辺ですが、皇道派の荒木貞夫と真崎甚三郎の専横を苦々しく思っていたようで、同期の林に協力する形で皇道派を陸軍中枢から追いやり、1935年7月、真崎は教育総監の座を追われます。真崎の後任は渡辺でした。こうして林を支えて粛軍に乗り出した渡辺ですが、翌月に林が頼りにしていた永田鉄山は殺害されてしまいます。これは渡辺にとっても大打撃となりましたが、渡辺は永田殺害に怯むことなく、真崎を追及し続けます。これにより、渡辺は「反皇道派」の中心的人物の一人として攻撃対象となります。

 この時期、渡辺に対する批判をさらに強めた原因になったのが、天皇機関説問題でした。渡辺の将校への訓示が、天皇機関説擁護として大問題になりました。しかし、渡辺は天皇機関説についての議論を整理し、軍人は山県有朋のように慎重な態度をとるべきで、本来の職務に専念すべきというものだった、と本書は指摘します。またこの時期、林陸軍大臣の後継として渡辺を推す動きもあり、渡辺は陸軍における権力闘争に関わっていくことになります。渡辺に身の危険を知らせる人は少なくなかったものの、渡辺はすでに死も覚悟していたようです。

 こうして皇道派の主要な標的の一人とされた渡辺は二・二六事件で殺害されましたが、殺されなければ、その後の日本の動向は変わっていた、と評価する人もいます。本書は最後に、渡辺の遺族と渡辺を殺害した遺族との間の交流も取り上げており、考えさせられるところがありました。本書は、さまざまな史料から渡辺の人物像を描写するとともに、渡辺を時代の大きな流れ・構造の中に位置づけており、たいへん興味深く読み進めることができました。本書を読み、渡辺の勤勉さと自律には倣うべきところが多々あるとは思うものの、率直に言って、怠惰な性分の私にはとてもできない、とも思います。情けない話ではありますが。

高畑尚之「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B02「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の現象数理学的モデル構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P27-44)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 現生人類(Homo sapiens)に関する古代ゲノム研究は、大まかにせよ、過去のある時点におけるある地域集団の生物学的特徴、つまり生理学的あるいは形態学的な表現型、移住率や繁殖個体数や交配様式などの人口動態、あるいは祖先の由来つまり祖先系譜(ancestry、当ブログでは最近は「祖先系統」と訳しています)を明らかにしてきました。こうした生物情報には、集団内の個体間の近縁度や社会構造(関連記事)、あるいはグループ間の遺伝的な分化や地理的勾配(関連記事)など、ヒトの行動や文化と密接に関係した情報が含まれます。さらに、完新世の狩猟採集から農耕牧畜社会への移⾏に伴う代謝、免疫および髪や皮膚や目の色に関する変異(関連記事)、酪農社会に適応した乳糖耐性に関わる変異(関連記事)、あるいはグリーンランドのような寒冷地やチベットのような高地での居住に伴う変異(関連記事)どもゲノムに刻まれています。

 しかし、こうした生物情報だけでは現生人類の歴史が語れないのは明らかであり、古代ゲノム研究とは異なる視点からアプローチすることが必要です(関連記事)。当然その主分野は考古学で、古代ゲノム研究とは相補的な関係が期待されます。ゲノムでは決してわからない(骨)考古学の力を示す分かりやすい例は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体です。田園個体の足の指骨は短いものの、それは日常的に靴かブーツを履いていたためと推測されています(関連記事)。またシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)から装飾品と共伴した縫針も同様の文化情報です(関連記事)。ただ、古代⼈の被服に関しては、アタマジラミとコロモジラミの分岐時期を利⽤したユニークなゲノム研究もあります。本論文は以上のような状況を踏まえて、古代ゲノム研究から得られたユーラシア北部の人々に関する知見を整理し、考古学的手法とのさらなる協業への寄与を意図しています。


●古代北ユーラシア人(ANE)

 現生人類の第二次出アフリカは58000年前頃で、レヴァントに長期間逗留したさいにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と交雑し、その後ユーラシアやサフルランドに拡散しました。ただ、この時期やネアンデルタール人との交雑の場所については、議論があります。ユーラシアにおける初期現生人類の代表的集団が古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasians、略してANE)です。現在、世界人口の半数以上が5%以上のANE祖先系統を有しています。中でもシベリア西部のマンシ人(Mansi)やハンティ人(Khanty)では57%にも達します。同様に、シベリア最後の狩猟採集民と呼ばれるエニセイ川流域のケット人(Ket)では、27~43%がANE祖先系統です。

 もともとANE は、ヨーロッパ⼈とアメリカ大陸先住民の共通祖先として、理論的にその存在が予測された集団でした。そのため当初はゴースト(仮定的)集団でしたが、その後すぐ、古代ゲノムから予想通りの存在が明らかになりました(関連記事)。これがバイカル湖に近いマリタ(Mal’ta)遺跡から出⼟した少年個体(MA-1)です。現時点では、MA-1 のゲノムは充分な精度(網羅率1倍以上)では解読されていません。その重要性を考えると、さらに高精度の配列データが望まれます。MA-1 に代表されるANE は、31600年前頃となるシベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の2個体(ヤナ1およびヤナ2)とともに、シベリア中央部から東部に存在していた古代北ユーラシア集団を形成します(関連記事)。

 ANE とヤナ1およびヤナ2に代表されるANS(古代北シベリア人)はクレード(単系統群)を形成し、ヨーロッパ集団(EUR)とは4万年以上前に分岐しました。45000年前頃から最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)にかけて、バイカル湖を中心とした地域にはANEが連続的に居住していました。この連続性はエニセイ川流域のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の17000年前頃の個体に基づきますが、最近の研究ではバイカル地域におけるウスチキャフタ3(Ust-Kyahta-3)遺跡などの新石器時代初期の集団でも確認されています(関連記事)。


●アジア東部集団

 MA-1は24000年前頃のANE個体ですが、アジア東部人(EAS)の祖先系統を17%ほど有しており、すでにアジア東部人系統との交雑が起きていた、と示されます。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された人類の頭蓋冠は放射性炭素年代測定法により較正年代で34950~33900年前と推定され、そのミトコンドリアDNA(mtDNA)はユーラシア現代人集団で広範に存在するハプログループ(mtHg)Nに分類される、と示されました(関連記事)。サルキート個体は、その祖先系統の約2/3がEAS、残りの約1/3がANSまたはANEです(関連記事)。このようにアジア東部には上部旧石器時代からEAS が居住しており、既知の最古の個体は4万年前頃の田園遺骸です。

 EAS のゲノムには、例外なく2種類の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)由来のゲノム領域(本論文ではD0・D2と表記)のどちらか、あるいは両⽅が合わせて0.1%以上浸透しており(関連記事)、田園個体では0.13%、サルキート個体では0.12%です。ネアンデルタール人と同様に、デニソワ人の場合も交雑の場所が現生人類の拡散経路を推測するうえで有効です。D2は45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のオビ川支流のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体(関連記事)を除き、全てのユーラシア東部集団に浸透していることから、交雑の場所はアジア南東部近辺で現生人類拡散の早期に起きた可能性が高そうです。これは、EAS がいわゆる南回り経路でアジア南東部から北上したことを強く示唆します。

 一方、D0の浸透が起きた交雑場所は推測しにくく、D0はD2やメラネシア⼈に特異的に浸透しているD1と比較してデニソワ洞窟の個体(デニソワ3)のゲノムに最も近いことから、ANE の拡散途中にアルタイ地方で交雑が起きた、と想定されました(関連記事)。しかし、MA-1 やヤナ1および2に浸透したデニソワ人のゲノム量がわずか0.04~0.06%であることや、0.2 cM (センチモルガン)以上の⻑さをもつデニソワ人ゲノム断片数が田園個体やサルキート個体では18~20 個であるのに対してMA-1 やヤナ1および2では3~6 個と少数であることは、交雑がアジア東部で起きANE には間接的に伝わった可能性が高そうです。じっさい、中華人民共和国内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、現在の中国北部にネアンデルタール人もしくはデニソワ人との交雑集団が居住していた可能性も指摘されています(関連記事)。

 チベット⼈の高地適応に関係したEPAS1 遺伝子はデニソワ人由来と考えられます(関連記事)。しかしこのデニソワ人は、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で出⼟した16万年以上前の下顎骨(関連記事)や土壌から得られた4タイプのmtDNA(関連記事)とは直接的な関係がありません。チベット人に高頻度で見られる高地適応型EPAS1遺伝子は、現在の中国となるアジア東部低地から後期更新世もしくは早期完新世に移住してきた集団に由来し、D0タイプと推測されています(関連記事)。43000 年前頃にデニソワ人との交雑が起き低い頻度で維持されていたものが、12000 年ほど前からチベット人(の祖先集団)の間で頻度を増した、というわけです。その交雑の場所は、現在でも中国人にEPAS1 遺伝子を有する⼈がいることや、農耕が黄河流域で始まりオルドス地方からチベットへ農耕民の拡散があったことなどから、現在の中国北部かもしれません。ともかく、D0 に関係した交雑場所の他に、田園個体、サルキート個体、MA-1、ヤナ1および2に、D0とD2がどのような割合で浸透しているのか、今後の研究が注目されます。

 古代のユーラシア北部で注目される不可解な知見は、中国の田園個体とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)の間でさえ、遺伝子交流の兆候があることです。4万年前以前のユーラシア大陸を横断する交流には、ANEやウスチイシム集団が何らかの中継的な役割を果たした可能性があります(この問題については本論文刊行後に重要な研究が公表されたので後述します)。さまざまなユーラシア北部集団の遺伝的な繋がりに関する主成分分析の結果(図2)では、集団の連続的な分布が見られくす。⼤半の集団は、右下のクラスタとなっているアジア東部集団からWHG(ヨーロッパ西部狩猟採集民)、マリタ/EHG(ヨーロッパ東部狩猟採集民)、FAM(最初のアメリカ人、First Americans)の3頂点に向かって分布しています。

 華北からアムール川盆地さらにヤクーツクやコルイマに至るまで、アジア東部集団の拡大は初期の拡散以降も引き続き起きたようです。その中には田園個体に近縁な集団もおり、現在はアンダマン諸島に孤⽴しているオンゲ人に近縁な集団(ユーラシア東部基層集団)もいました。それらの集団と古代ユーラシア北部集団との間で3万年前以前から平均2対1の割合で交雑が起きました。しかし上述のように、ヤナ1および2個体に代表されるANSは、この交雑に直接関与しておらず、直接関与したのはANE です。交雑集団はかなり多様で、たとえば、シベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の9800年前頃となる個体(Kolyma1)や、14000年前頃となるロシアのブリヤートの14000年前頃の個体(UKY001)もこうした交雑の結果形成された集団に属しますが、ベーリンジア(ベーリング陸橋)を渡りアメリカ大陸先住⺠とはなりませんでした(関連記事)。

 これに対して田園個体やオンゲ人由来の交雑集団は、他集団とともに「最初のアメリカ人(FAM)」となりました。この集団の特異な祖先系統はFAM の中でも際⽴っています。そのためこの集団はYと呼ばれていますが、その祖先系統はアマゾンの先住⺠であるカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)に集中しています(この問題については本論文刊行後に重要な研究が公表されたので後述します)。いずれにしてもANE 祖先系統は南北アメリカ⼤陸に拡散したので、⽂化の伝搬もあったと考えられます。たとえば、ANEの発明と思われる細⽯刃(microblade)は北アメリカ大陸にも伝わっています。ただ、その分布は現在のカナダ以南では稀です。細石刃を使用しなくなったか、そもそもFAM の⼀部集団はこの⽂化を有していなかった可能性すらあります。

 ANEとEASの交雑の年代場所、そのような集団がベーリンジアに逗留した期間、アメリカ大陸への拡散時期と移動経路など、さまざまな研究が進んでいますが、本論文では以下の3点が取り上げられます。第一に、移動経路の候補として、現在のカナダのアルバータ州を南北に縦断する無氷廻廊に関する研究があります。かつての無氷回廊の周辺地域にはアサバスカン人々が居住していますが、1500kmに及ぶこの回廊に植⽣が回復して人の移動が可能になったのは12600年前です。この推定年代は14000年前以前にさかのぼるチリのモンテヴェルデ(Monte Verde)遺跡や先クローヴィス(Clovis)文化よりはずっと後のことで、過小評価の可能性もありますが、FAMのアメリカ⼤陸における初期拡散(16000年前頃)は無氷回廊とは別の北西太平洋沿岸と考えられます。

 第二に、FAMは11500年前頃の中央アラスカのアップウォードサン川遺跡(the Upward Sun River Site)で発見された幼児個体(USR1)ではなく、集団Yを含む南アメリカ大陸先住民だったかもしれません。こうした研究では、レナ川流域やアムール川流域が交雑の候補地であり、逗留地もベーリンジア東部ではなく、シベリア北東部と推測されています。第三に、ANE祖先系統は、12000年前頃となる中華人民共和国吉林省の関鍵詞為(Houtaomuga)遺跡出⼟の個体や、現代日本人および韓国人とも近縁な7700年前頃となる朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域に位置する新石器時代の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡個体群(関連記事)には及んでいません。とくに「悪魔の門」遺跡個体群はアムール川盆地の人々とも連続性を有しており、目は褐色、シャベル状切歯、乳糖不耐などの典型的なアジア表現型を示します。それにも関わらず、細石刃はLGM期にこれらの極東地域で盛⾏しており、文化と生物的なヒトが乖離する例です。


●古代ユーラシア北部集団のLGM 後の大移動と拡大

 LGM 後には、EAS の西方への拡大、あるいはヨーロッパの氷河の後退につれて、ANE もシベリア西部(ウラル山脈とエニセイ川の間の地域)、さらにはウラル山脈を越えてヨーロッパ東部平原へと移動しました。青銅器時代以降のユーラシア草原地帯の人々に関する古代ゲノム研究では、ANEがEHGの直接の祖先とされています。11250年前頃となるロシアのセデルキーノ個体はEHGの直系です。EHGはコーカサス狩猟採集民(CHG)と交雑し、青銅器時代になって牧畜民ヤムナヤ(Yamnaya)文化を形成します(関連記事)。ヤムナヤ文化関連集団は、アナトリア半島から移住してきた農耕民と在地の狩猟採集民が居住するヨーロッパへと多数が拡散して交雑し、ヨーロッパ現代人を形成する三大祖先系統の⼀つとなりました(関連記事)。

 その後もヤムナヤ文化関連祖先系統はユーラシア草原地帯を東に南に移動・拡大し続けました(関連記事1および関連記事2)。ケット人のANE祖先系統は、この頃のアルタイ地方(オクニボ⽂化)で獲得した、と指摘されています。こうした広範な移動の結果、現在世界人口の半数以上が5%以上のANE 祖先系統を有している、と推測されています。青銅器や鉄器が最初に作られたのも、馬の家畜化が始まり戦車(チャリオット)が発明されたのもユーラシア草原地帯です。完新世には人類史に絶大な影響を及ぼした多様な集団が、この草原地帯で興亡を繰り広げましたが、その歴史は上部旧石器時代から居住したユーラシア北部の人々の生物的・文化的遺産に依拠したものでした(図3)。


●まとめ

 今後の古代ゲノム研究では、シベリアとモンゴルと中国北部が焦点になると思われます。ユーラシア草原地帯とツンドラ・タイガは、上部旧石器時代以降における東西ユーラシア集団の分化と融合の地です。集団の移動や置換が激しい地域ほどその時点に近い古代ゲノムを必要としますが、これまでの古代ゲノム研究は数千年前程度の比較的新しい標本でも、予想外の出来事を明らかにしてきました。そうした生物情報がパレオアジアの⽂化史を理解する⼀層の助けになる、と期待されます。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、近年の古代ゲノム研究を整理するとともに、7000年以上前の現生人類のゲノム一覧を掲載しており、たいへん有益だと思います。近年における古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、本論文の刊行(もしくは脱稿)後にも重要な研究が相次いで公表されています。本論文で不可解とされた、北京近郊の4万年前頃の田園個体とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)との間の遺伝子交流の兆候については、重要な進展がありました(関連記事)。その研究によると、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された44640~42700年前頃の現生人類個体群は、遺伝的にはユーラシア西部現代人集団よりも現代のアジア東部・中央部およびアメリカ大陸先住民集団の方と近縁で、Goyet Q116-1とも密接な遺伝的関係を有している、と明らかになりました。45000年前頃のヨーロッパ東部には、アジア東部現代人の直接的な集団と遺伝的に密接な関係にある集団が存在し(バチョキロ洞窟集団がアジア東部現代人の直接的な祖先集団の一部だった可能性も低いながら想定されますが)、その集団(と遺伝的に近縁な集団)が後の更新世ヨーロッパ西部集団にも一定の影響を及ぼしていた、というわけです。これにより、田園個体とGoyet Q116-1との遺伝的近縁性については、かなり解明が進んだと思います。

 アマゾン地域先住民集団における「Y集団」の遺伝的影響については、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることが示されました(関連記事)。Y集団は遺伝的にオーストラレシア人と密接に関連しており、Y集団の遺伝的影響が南アメリカ大陸太平洋沿岸先住民集団にどのようにもたらされたのか、現時点では不明です。最近のアジア東部における古代DNA研究(関連記事)では、Y集団祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、とも考えられますが、現時点ではまだ不明な点が多いので、今後の研究、とくに古代ゲノム研究の進展が期待されます。


参考文献:
高畑尚之(2021)「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)』P27-44

北アメリカ大陸における白亜紀のカメの存在

 北アメリカ大陸における白亜紀のカメの存在を報告した研究(Adrian et al., 2021)が公表されました。この研究は、アメリカ合衆国テキサス州ウッドバイン層のアーリントン化石主竜類遺跡で発見された曲頸亜目のカメの化石を報告しています。曲頸亜目のカメは、脅威を感じると、首を横に曲げて甲羅に収納します。この研究は、ギリシア語のPleuro(横)、カドー語のCha'yah(カメ)、北アメリカ大陸のアパラチア地方にちなんで、この化石を新種「Pleurochayah appalachius」と命名しました。

 この化石の年代は後期白亜紀となるセノマニアン期(1億~9400万年前頃)前期~中期で、これまで北アメリカ大陸最古の曲頸亜目のカメとされていたアメリカ合衆国ユタ州で発見されたセノマニアン期後期とされる化石(Paiutemys tibert)よりも古く、北アメリカ大陸で最古の曲頸亜目のカメとなります。本論文は、この新種の曲頸亜目のカメが海洋環境での生活に適応していた可能性を指摘し、その根拠としてさまざまな特徴を示しています。たとえば、肩関節の一部を形成している上腕骨端部の頑強な骨性突起は、遊泳時にストロークの力を高めた可能性があり、甲羅の骨の分厚い外表面は、甲羅の強度を高め、海洋環境での生息を保護していた、と推測されます。

 また、カメ種間の進化的関係も分析され、この新種の曲頸亜目のカメが、1億4500万~1億年前頃にゴンドワナ超大陸で出現した曲頸亜目であるボトレミス科の初期種だった、と示唆されました。本論文は、こうした知見との新種の曲頸亜目のカメが海洋環境に適応していたことを根拠として、ボトレミス科の初期種が、セノマニアン期あるいはそれ以前にゴンドワナ超大陸から大西洋中央部またはカリブ海を経由して北アメリカ大陸に移動した、と推測しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:米国テキサス州で発見された古代のカメの化石がもたらす進化の新知見

 最古の曲頸亜目(Pleurodira)の北米種が発見されたことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。曲頸亜目のカメは、脅威を感じると、首を横に曲げて甲羅に収納することが知られている。今回の知見は、曲頸亜目のカメがセノマニアン時代(1億~9400万年前)に北米に移動した可能性を示唆している。

 Brent Adrianたちの研究チームは、ギリシャ語のPleuro(横)、カドー語のCha'yah(カメ)、北米のアパラチア地方にちなんで、この最古の北米種をPleurochayah appalachiusと命名した。P. appalachiusの化石は、米国テキサス州のウッドバイン層のアーリントン化石主竜類遺跡で発見され、セノマニアン期前期~中期のものとされた。これは、ユタ州で発掘されたPaiutemys tibertの化石よりも古い。Paiutemys tibertは、セノマニアン期後期のものと年代測定されて、これまで最古の曲頸亜目の北米種と考えられていた。Adrianたちは、P. appalachiusが海洋環境での生活に適応していた可能性があると考えており、それを示唆する数々の特徴を報告している。例えば、肩関節の一部を形成している上腕骨端部の頑強な骨性突起は、遊泳時にストロークの力を高めた可能性があり、甲羅の骨の分厚い外表面は、甲羅の強度を高め、海洋環境に生息するP. appalachiusを保護していたと考えられる。

 また、カメ種間の進化的関係の分析も行われ、P. appalachiusが1億4500万~1億年前にゴンドワナ超大陸で出現した曲頸亜目であるボトレミス科の初期種であったことが示唆された。Adrianたちは、こうした知見とP. appalachiusが海洋環境に適応していたことを根拠として、ボトレミス科の初期種が、セノマニアン時代あるいはそれ以前にゴンドワナ超大陸から大西洋中央部またはカリブ海を経由して北米に移動したという仮説を提示している。



参考文献:
Adrian B. et al.(2021): An early bothremydid from the Arlington Archosaur Site of Texas. Scientific Reports, 11, 9555.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-88905-1

現生人類アフリカ南部起源説に対する批判

 現生人類(Homo sapiens)アフリカ南部起源説に対する批判(Schlebusch et al., 2021)が公表されました。一昨年(2019年)、現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析から、現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張した研究(Chan et al., 2019)が公表されました(以下、Chan論文)。Chan論文に対して厳しい批判があることは、当ブログで取り上げたさいにもいくつか紹介しましたが(関連記事)、いずれも短いものでした。本論文はChan論文に対する体系的批判で、学ぶところが多いため、取り上げます。

 「アフリカ南部の古湿地におけるヒトの起源と最初の移動」と題したChan論文は、198点の新規のミトコンドリアゲノムを報告し、「解剖学的現代人」の起源は20万年前頃のアフリカ南部の現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ・オカバンゴ(Makgadikgadi–Okavango)古湿地にある、と推測しました。この主張は情報量の少ないデータに依存しています。欠陥のある論理と疑わしい仮定に加えて、著者たちは驚くべきことに最近のデータ(関連記事1および関連記事2)を無視し、アフリカにおけるヒトの起源について議論しています。結果として、Chan論文の強調されており遠大な結論は正当化されません。


●情報量の少ないデータ

 Chan論文は南アフリカ共和国の198個体の完全なミトコンドリアゲノムを配列し、おもにアフリカ南部の既知の1000個体のミトコンドリアゲノムと統合しました。Chan論文は次に、mtDNA系統の系統発生構造を推測し、その系統樹のさまざまな枝の年代を推定して、現代の地理的分布を検討しました。mtDNAは特定の人口史の問題に取り組むのに有用であり、標本数の少ない人口集団に注目するのはよいことですが、mtDNAのような単一の組換えのない遺伝子座における系統樹は、人口史に弱く制約されるだけの、強く確率的な系統発生過程の一つの結果です。じっさい、これは、その人口史に関する有用ではあるものの限定的な情報が含まれることを意味します。

 とくに、現代人の標本がいかに多く含まれていても、過去を振り返ると情報は急速に減少します。Chan論文がその分析の焦点を当てた系統樹の一部である、全てのmtDNA系統がその最新の共通祖先に合着(合祖)する時点の近くでは、mtDNA系統は現代人がその時点で有している数十万人の祖先のごく一部を表しているにすぎないので、人口史の妥当なモデルを区別するための情報は殆どもしくは全く提供されません。別のよく解明された単一遺伝子座系統樹であるY染色体を検討するならば、異なる系統地理構造が明らかです(関連記事)。

 現代の集団遺伝学的手法は、数十万の独立した遺伝子系統樹(全ゲノム配列およびゲノム規模一塩基多型遺伝子型決定から得られます)を利用し、数桁の統計的出力を得ています。各系統樹は人口史により弱く制約されますが、確率論的手法と多くの系統樹の組み合わせにより、さまざまな人口統計学的シナリオの可能性を定量化できます。しかし、問題となる期間からの情報をもたらす古代DNAデータがない場合、現生人類の起源の正確な場所に関する推測は、その間のヒトの移動性についての強力でおそらくは不当な仮定が必要となるので、注意して扱う必要があります。現代および完新世のアフリカ人口集団のゲノム規模研究は、深い構造と経時的な移住率の変化など、複雑な人口統計を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。しかし、はるかに多くの情報量にも関わらず、Chan論文ほど現生人類の起源について時空間的正確性を正当化できるゲノム規模研究はありません。


●系統は人口集団ではありません

 mtDNA系統樹とその分岐点の年代を推定するのに用いられる手法は比較的議論の余地がありませんが、分枝をハプログループに割り当てる自然な水準はなく、任意に定義されたハプログループの年代に特別な意味はない、と注意することが重要です。Chan論文は系統を都合よく用いて、先史時代の実際の人口集団を表すものとして扱います。遺伝子系統樹における系統は親子の子孫の系統に対応し、系統樹における各分節点は2系統の最新の共通祖先(MRCA)に対応します。そのような系統は明らかに現在の人口集団に対応しておらず、それらが過去に存在したと仮定する理由はほとんどありません。代わりに、複数の異なる系統は通常、多くの異なる人口集団間で共有され、共有の程度は人口史により形成される無作為な仮定の結果です。mtDNA系統樹における分岐年代が人口集団水準の分岐事象に直接的に対応している、と仮定する理由もほとんどありません。代わりに、系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差があります。

 またChan論文は、ベイズスカイライン分析を任意に選択した系統に適用し、経時的な祖先の人口規模の変化を推測しました。これは、ベイズスカイライン分析の重要な仮定を破る標本抽出の偏りを課し(つまり、データはモデルで仮定された構造化されていない人口集団標本ではなく、系統標本に由来します)、経時的な人口規模の再構築を無効にします。Chan論文は2つの研究を引用して、この手法の使用を正当化します。しかし、そのうち新しい方は、この問題に関して古い方を引用しているだけで、どちらの研究も、ベイズスカイライン分析が「それにも関わらず、人口統計学的過程を示す可能性がある」と述べているだけで、この主張の理論的検証を提供していません。その結果、Chan論文は信頼できる正当な理由なく、この誤りを繰り返しています。


●人口集団は静的ではありません

 現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題は、人口史が起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」がどの程度だったのか、ということです。Chan論文は、現代の個体群の場所が過去の人口集団の場所を表している、という暗黙の仮定に基づいています。10万年以上前にわたる性的な人口集団との仮定は、考古学と古代DNA研究の両方で充分に説明されている長距離および短距離の移動、人口集団の縮小と拡大と置換の観点から問題で、こうした事象はユーラシアやアメリカ大陸やオセアニアだけではなく、上述の現代および完新世のアフリカ人口集団のゲノム規模研究でも示されているように、アフリカでも起きています。

 静的な人口集団との仮定は、考古学と化石と理想的には古代DNAの証拠により裏づけられる必要があるでしょう。現在まで、そうした証拠はアフリカのどこでも長い期間にわたって提示されていません。それどころか、原材料の輸送の研究は、更新世狩猟採集民間の高水準の移動性を示しており(関連記事)、10万年以上前の期間にわたる孤立した人口集団との見解と対立します。この問題は、たとえばmtDNAのような単一の遺伝子座データ、もしくはより強力な情報を提供する複数の遺伝子座のゲノムデータが考慮されているかどうかに関係なく、残ります。


●古人類学

 Chan論文は、「解剖学的現代人」がアフリカ南部のマカディカディ・オカバンゴ古湿地で20万年前頃に進化した、と結論づけています。しかし、アフリカ全域からの化石人類データは、現生人類に特徴的な形態が30万年以上前にアフリカ大陸の反対側(アフリカ北西部)に存在したことを示唆します(関連記事)。現生人類の形態の進化は、時空間にわたってさまざまな派生的および祖先的特徴の斑状により特徴づけられ、これらのデータは単一の起源地点を示唆していません(関連記事1および関連記事2)。Chan論文は、10万~6万年前頃のアフリカ南部の「現代人的行動」の考古学的証拠を用いて、アフリカ南部における10万年以上前の現生人類の起源との主張を裏づけます。しかし、複雑な文化の証拠はこの期間にアフリカの他地域でも見つかっています(関連記事)。まとめると、現在の古人類学的データは、アフリカの単一地域が現代人の「故郷」だった、という主張を裏づけていません。


●気候の再構築

 気候の再構築を用いて遺伝的データに基づく推論を文脈化することは、賞賛すべき目的です。しかし、Chan論文は湿地が安定的な環境だったと主張するものの、湿地が古代の人類に適した生態系を提供しているという証拠を示さず、アフリカの他の古湿地を考慮していません。これらの問題に対処せずに、どのタイプの気候再構築が現生人類の起源モデルの検証を提供できるのか、理解することは困難です。草地やサバンナや地中海性生物群系のような他の生態系は、長く現生人類が居住していたので、長期の現生人類の居住に明らかに適していました(関連記事)。

 同様に妥当な代替仮説は、半砂漠条件はヒトに適した生息地であり、それは季節・年間の時間枠で気候が大きく変動するからだった、というものです。Chan論文が採用した気候モデルは、そうした特徴をよく把握していません。現生人類の起源と関連する期間の、アフリカの古気候および古人類学的データの概要が存在します。気候と人口統計との間の関係は、アフリカ全域の他の関連データを無視する事後説明よりもむしろ、空間的に明示的なモデル化を通じて最もよく調査されます。


●まとめ

 人類進化の研究では確かに一般的ですが、Chan論文のとくに厄介な側面は、Chan論文が主張する単純なモデルや、あるいは同等に複雑ではあるものの大きく異なるモデル、たとえばアフリカの別の場所の現生人類起源や、もしくはアフリカ全域の複数地域起源よりも、単純なモデルによりデータがどのように説明できるのか、定量化する試みが行なわれていないことです。1919年の生物標識を用いた最初の研究では、単一の遺伝子座(ABO式血液型)で世界中のさまざまな人口集団が分類されました。この研究は革命的でしたが、2つの祖先の「人種」があり、それはA型とB型に対応しており、2つの異なる地理的起源は後に世界的に混合した、と結論づけました。集団遺伝学やゲノミクスや考古学や古人類学のその後の発展により、ひじょうに異なっていてより複雑な状況が明らかになりました。しかし、限定的なデータと問題のある仮定に基づいて結論を出す危険性は、現在でも同様に指摘されています。そうした研究は、メディアや科学界で注目することが予想され、単純ではあるものの疑問のある結果が発表されるので、ヒトの起源に関する科学やそのより広範な普及に貢献しません。


参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Schlebusch CM. et al.(2021): Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374

ルーマニアの34000年前頃となる現生人類女性のゲノム解析

 ルーマニアの34000年前頃となる現生人類(Homo sapiens)女性のゲノム解析結果を報告した研究(Svensson et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパでは45000年前頃以降の上部旧石器時代は劇的な気候変化により特徴づけられ、ヨーロッパにおける解剖学的現代人(Homo sapiens、現生人類)の最初の出現を示します(関連記事1および関連記事2)。ヨーロッパへの人類の移住は、地中海沿いとドナウ川回廊沿いの主要な2経路が用いられた、と一般的に考えられています。

 現在のルーマニアのカルパティア山脈はドナウ川回廊沿い経路の近くに位置し、ヨーロッパ最初期の現生人類遺骸の一部はこの地域で見つかっており、カルパティア山脈がヨーロッパの初期現生人類にとって重要な地域だったことを確証します。「骨の洞窟(Peştera cu Oase、以下PO)」や「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」やチオクロヴィナ・ウスカタ洞窟(Peștera Cioclovina Uscată、以下PCU)などルーマニア南部~西部の洞窟で発掘された人類遺骸(関連記事)は、これまでに発見されたわずかな3万年以上前のヨーロッパの現生人類個体群の一部です(図1)。

 1952年、現生人類3個体分の骨格部分がルーマニアのPMで発見されましたが、一部の要素はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)的特徴を示します(関連記事)。状況はやや不明確ですが、近くのオーリナシアン(Aurignacian)の道具から、これら人類遺骸はオーリナシアン技術伝統と関連している可能性が高そうです。前期上部旧石器時代(EUP)には、物質文化におけるいくつかの変化が報告されてきており、遺伝的証拠は人口集団変化の繰り返しを示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図1です。
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 現生人類の起源がアフリカにあり、その後のアフリカからの移住で世界の他地域に居住していったことを解明したのは分子遺伝学の重要な成果で(関連記事)、化石記録からの仮説を裏づけます。現代におけるサハラ砂漠以南のアフリカ人と非アフリカ人との間の遺伝的多様性の観察された違いは、比較的小規模の出アフリカ集団による移住と関連したボトルネック(瓶首効果)により説明されてきました(関連記事1および関連記事2)。アフリカ系現代人と比較しての非アフリカ系現代人の低い遺伝的多様性は、有害な多様体の効果的除去の低下を起こし、たとえばアフリカ系現代人と比較して現代ヨーロッパ人において「遺伝的負荷」の増加をもたらした、とも提案されてきました(関連記事)。しかし、有効人口規模の減少は遺伝的負荷の増大を引き起こすほどではなかった、との主張もあります。

 本論文は、較正年代で34000年前頃となるPMで発見された現生人類女性の頭蓋(PM1)のゲノム分析結果を報告します。いくつかの他の完全なEUP期ヨーロッパ人のゲノムデータと合わせて、EUPヨーロッパにおける比較的高い遺伝的多様性の状況が示され、この多様性は24000~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)およびその後に減少し、ヨーロッパへの遺伝的に多様な新石器時代集団の移住(および混合)後にのみ回復します。本論文はさらに、免疫系遺伝子への病原体選択圧を調べ、EUPヨーロッパ人のゲノムにおける医学的に関連する多様体の景観を報告し、現代ヨーロッパ人口集団と類似した有害な多様体負荷を示します。


●新たな手法によるDNA解析

 DNAの保存はEUPの標本では一般的に不充分なので、データからの推論を制約します。これまで、網羅率が1倍を超えるゲノムは、EUPでは4遺跡の8個体で得られています。それは、44380年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された1個体(関連記事)と、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された38700~36200年前頃となる若い男性1個体(関連記事)と、31600年前頃となるシベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の2個体(関連記事)と、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡で発見された、34000年前頃の4個体(関連記事)です。PM1は9番目となる網羅率1倍以上のEUP個体です。

 PM1の4本の歯からDNAが抽出され、内在性DNAの割合は約1~2%で(図2)、この年代およびヨーロッパの以前の観察と類似しています。これまでの手法では、予測されるゲノム網羅率は約0.5倍ですが、新たな手法(標本抽出装置の熱から標本を保護するダイヤモンドカッティングホイールなど)を用いると、これまでの手法と比較して内在性DNAの割合が増加し、最大で33倍に増加します。その結果、PM1では13.49倍のゲノム網羅率が得られました。以下は本論文の図2です。
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 PM1のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)については、U6系統の基底部に近いとの以前の研究(関連記事)が改めて確認され、PM1は先史時代ヨーロッパ人における現時点で唯一のmtHg-U6個体となります。mtHg-U6の派生ハプロタイプは先史時代および現代のアフリカ北部人口集団でおもに見られますが、現代ヨーロッパ人では見られません。完新世およびそれ以前かもしれませんが、ユーラシアからアフリカ北部への移住の証拠は充分あり(関連記事)、この観察を説明できる可能性があります。f4統計は、PM1と洗練された石の鏃や尖頭器を用いる文化であるイベロモーラシアン(Iberomaurusian)狩猟採集民(関連記事)との間でアレル(対立遺伝子)が過剰に共有される証拠を示しません。


●ネアンデルタール人との混合

 PM1は現生人類とネアンデルタール人の両方と関連する形態的特徴のモザイク状を示すと示唆されており(関連記事)、そのゲノムは同じ年代枠の他のEUP現生人類遺骸と比較してネアンデルタール人との類似した混合水準(3.1%)を示し、現代ヨーロッパ人(2.2~2.7%)と比較してわずかに高いだけです(関連記事)。さらに、PM1のゲノムにはLGM後の個体群と比較して少ないもののより長いネアンデルタール人由来の断片があり、より古いウスチイシム個体よりも多いものの短い断片がある、と明らかになりました。この観察結果は、これらの個体の祖先における単一のネアンデルタール人からの遺伝子移入事象と一致します。

 現代のルーマニアで発見されたPOの4万年前頃の下顎(個体PO1)も異なるパターンを示し、その4~6世代前にネアンデルタール人の祖先がおり、ゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は6~9%と推定されています(関連記事)。したがって、PM1とPO1は、古代型の形態的特徴を有すると示唆されてきた事実にも関わらず、明らかに異なるネアンデルタール人との混合水準および歴史を示します。PM1はEUPユーラシアの他の個体群と類似した色素沈着と関連する既知の一塩基多型祖先的多様体を有しており、皮膚の色素沈着は比較的濃く、茶色の目をしていた可能性が高そうです。


●PM1と他のEUP個体群およびヨーロッパ現代人との関係

 上述のように、EUPユーラシアでは人口集団変化の繰り返しが指摘されており、45000~30000年前頃にはいくつかの遺伝的に異なる狩猟採集民集団の共存の可能性が高く、後の石器時代集団や現代の人口集団との関係は異なっています。考古ゲノム研究により、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)や上述のロシアのスンギール遺跡(スンギール3)およびコステンキ14遺跡の個体といったヨーロッパの狩猟採集民と、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)に代表されるアジア東部の狩猟採集民とのEUPの時点での分離が明らかになってきましたが、上述のウスチイシム個体やPO1のように、ユーラシア現代人には遺伝的に直接的には寄与していない、と推測されている集団の遺伝的データも存在します。

 遺伝的に、PM1は同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが(図3)、より古いウスチイシム個体やPO1とは、とくにPO1とは地理的に近いにも関わらず、その変異内に収まりません。スンギール3やコステンキ14やPM1といったEUP個体群間の遺伝的類似性は、2000kmに及ぶ地理的範囲によたって広範な遺伝的類似性を示し、階層構造は地理よりも時間に起因する、と示唆されます。混合グラフとして関係をモデル化すると、PM1は遺伝的にヨーロッパ東西の狩猟採集民の中間に位置し、ヨーロッパ現代人に寄与した後の狩猟採集民とは遠い関係を示します(図3)。PM1は全ての現代ヨーロッパ人口集団と同様の遺伝的類似性を示しますが、かなり固有の遺伝的浮動も示しており、ヨーロッパ現代人の祖先の側枝だった集団を表している、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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●遺伝的多様性の比較

 網羅率の高い古代ゲノムが利用できるので、これらさまざまな集団と期間の遺伝的多様性の偏りのない推定が可能となります。興味深いことに、ヘテロ接合性はLGM前にはLGM後の狩猟採集民よりも有意に高い、と示されました(図4A)。LGMにおける多様性の同様の喪失は、mtHgでも見られました。現代のアフリカとアフリカ外の人口集団間のほとんどの多様性低下は、出アフリカ移住と関連する(単一もしくは複数の)ボトルネックに起因しますが、ヨーロッパにおける経時的な遺伝的多様性(図4)は、その後の気候および人口統計学的事象の影響と重要性を示します。

 まず、多様性の低下は出アフリカ移住だけが原因ではない、と結論づけられます。むしろヨーロッパで見られるように、低い多様性は人口集団の入れ替わりを伴う拡大期間におけるアフリカ外の低い人口密度に起因するようです。次に、LGM後のヨーロッパには、比較的小規模な狩猟採集民集団が1ヶ所もしくはわずか数ヶ所の氷期の退避地から再移動してきた、という可能性が高そうで、農耕と関連する後の大規模な移住によりLGM前の水準に近い遺伝的多様性の増加がもたらされました。

 ヘテロ接合性に加えて、高網羅率のゲノム配列を有する古代および現代の個体群における、ROH(runs of homozygosity)とも呼ばれるホモ接合状態の隣接するゲノム領域が評価されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 ROHは同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)の証拠とみなすことができ、個体の最近の人口史の反映に用いられます。ROHはLGM前の狩猟採集民がおそらくは親族間の配偶を回避する社会的行動をとっていた、と示すのに用いられてきました(関連記事)。

 部位ごとのヘテロ接合性と一致して、ROHはLGM後の狩猟採集民よりもLGM前の狩猟採集民の方がずっと遺伝的に多様である、と示唆されます(図4B)。とりわけ、LGM前のより新しい狩猟採集民であるスンギール3とPM1は両方の分析で中間の遺伝的多様性を示します。これは、LGMおよびその後の遺伝的多様性の喪失が、小集団から始まった再居住および人口集団の入れ替わりと相まって、過酷な気候条件により引き起こされた可能性が高いことを示します。以下は本論文の図4です。
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●疾患関連遺伝子

 PM1の完全なゲノム配列と、既知の高網羅率の古代人のゲノムとを合わせることにより、ヨーロッパの石器時代(EUPから新石器時代)個体群の間の疾患と関連する多様体の景観を調査できました。遺伝医学の方法論を用いて、潜在的な病原性変異とその頻度変化が調べられました。まず、LGM前の狩猟採集民、LGM後の狩猟採集民、新石器時代農耕民に分類される、古代の個体群のゲノムのコード領域(エクソン)における変異負荷の観点で、相互および現代の健康な個体群と比較して違いがあるのかどうか、調べられました。死後のDNA損傷の影響と配列エラー率に起因する古代人のゲノムにおける偽陽性の可能性を避けるため、コーディング領域の既知の一塩基多型のホモ接合性の置換多様体に焦点が当てられました。非同義多様体、非同義多様体と同義多様体の比率、停止多様体の類似の数により示されるように、現代人のゲノムと比較して古代人のゲノム間では、タンパク質を変えるような多様体のコーディングの負荷に有意な違いはありませんでした。

 全てのミスセンス多様体(アミノ酸置換をもたらす変異)間で損傷の可能性がある多様体の負荷を評価するため、2つの代理が用いられました。一方はヌクレオチド保存得点の分布で、もう一方はCADD(複合注釈依存枯渇)の分布です(図5)。これらの測定では、古代人のゲノムの3集団(LGMの前と後および新石器時代)は、現代人のエクソームと有意な違いを示しません。さらに、個々の古代人のエクソームは、現代人のエクソームと有意な違いを示しません。EUPの人口規模は、おそらく近親交配とボトルネックに起因する多様体損傷の発生増加をもたらした可能性がありますが、違いの欠如は、代わりにLGM前の人口集団の高い多様性と一致します。以下は本論文の図5です。
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 ほとんどの期間でエクソームの損傷多様体の数がより多いという強い兆候はありませんが、古代の個体群は現代人と比較して異なる一連の損傷多様体を有していたかもしれません。本論文は、古代人のゲノムを走査し、ヒトの病理に関わっている可能性があるいくつかの多様体を特定しました。本論文では、先史時代のヒトのエクソーム、もしくはHGMD(ヒト遺伝子変異データベース)の多様体における、稀でおそらくはホモ接合性の多様体に焦点が当てられます。

 最近の文献で重度の単一遺伝疾患と関連すると示唆された遺伝子において、2つの多様体が特定されました。一方は、ANKRD11遺伝子で特定されたホモ接合性のミスセンス多様体(Glu1413Lys)です。ANKRD11遺伝子におけるヘテロ接合型病原性多様体は、重度のKBG症候群の原因として報告されてきました。KBG症候群の患者は、巨大歯症、特徴的な頭蓋特色、低身長、骨格異常、全般的な発達遅延、発作、知的障害により特徴づけられます。しかし、さまざまな遺伝性パターン、ミスセンス多様体の未知の影響、PM1の頭蓋の特徴に基づいて、この診断は除外されました。

 もう一方は、14000年前頃のビション(Bichon)遺跡個体(図1)で特定されたAIPL1遺伝子の同じ多様体(His82Tyr)で、レーバー先天性黒内障4の網膜色素変性症の劣性型の散発的な症例における複合ヘテロ接合性状態で以前に報告されました。しかし、ビション遺跡個体の多様体は機能的ドメインにはなく、同じ多様体はホモ接合性状態でExAC(エクソーム集約コンソーシアム)において3回報告されています。これらの観察から、これがホモ接合性状態の病原性多様体である可能性はひじょうに低い、と主張できます。

 これら2例は、こうした多様体が病原性との考えに疑問を提起し、古代ゲノムの配列と詳細な分析が、現代の患者の潜在的な疾患原因変異の病原性に関する結論を導くのに役立つ、と示します。したがって、レーバー先天性黒内障4の以前の報告事例は、この特定のAIPL1変異により引き起こされた可能性は低そうです。さらにPM1で、医学的に関心がもたれそうな可能性のある、いくつかの稀でおそらくはホモ接合性の非同義多様体が特定されました。そのうち、発癌に重要な遺伝子である、IL-32のホモ接合性非同義多様体(Trp169∗)が特定されました。

 古代ゲノムの評価は、歴史時代におけるさまざまな病原体負荷による免疫応答の形成に関しても情報を提供できます。サイトカインは病原体に対する宿主防御の重要な免疫媒体です。より高いサイトカイン産生能と強く関連していると知られている、5つの遺伝子多型の存在が評価されました。興味深いことに、PM1のゲノムには、これら5ヶ所の一塩基多型のうち4ヶ所で、サイトカイン産生能の大幅な増加と関連する多様体が含まれています。それは、TLR1遺伝子のrs4833095におけるCアレルのヘテロ接合性、TLR6遺伝子のrs5743810におけるGアレルのホモ接合性、TLR10遺伝子のrs11096957におけるGアレルのヘテロ接合性、IL-10遺伝子のrs1800872におけるTアレルのヘテロ接合性です。

 さらにPM1では、平均的なサイトカイン産生と関連するIFNG遺伝子のrs2069727のヘテロ接合性保有も確認されました。全体として、これらのデータから、PM1はサイトカイン産生能の観点では高い応答性を有している、と示唆されるものの、ヨーロッパ現代人で高いサイトカイン産生の多型の組み合わせを示しているのは4%未満です。高い感染負荷の状況における高い免疫応答の保護効果を考慮すると、この遺伝的構成は、病原性微生物に対する保護をもたらす適応状態を表している可能性が高そうです。


●考察

 PM1の高い網羅率のゲノムデータにより、LGM前の人口集団における遺伝的多様性の特定が可能となり、それはヨーロッパの初期現生人類人口集団の新たな理解をもたらします。これらのデータは、アフリカからの移住後の初期現生人類集団は以前に考えられていたよりも多様であり、多様性の喪失と関連するボトルネックは北方の氷期により引き起こされた、という新たな枠組みを提案します。

 EUP個体群のゲノムで観察された高い多様性と一致して、その損傷多様体の負荷は現代人とほぼ同じでした。これは、小さな孤立した人口集団で見られる有害な多様体の高い負荷とは明らかに異なるパターンで、ヒトにおける遺伝的負荷のさまざまな見解を理解するのに役立つかもしれません。しかし、これらの高網羅率のゲノムは、ひじょうに小さな標本規模を表しており、この結果がEUPにおける人口集団全体に推定できるのかどうか、不明です。

 最後に、医学ゲノミクスで採用された新たな方法論を用いて、病原性の可能性がある多様体について、古代の個体群のゲノムが調べられました。EUP個体群のゲノムでは、医学的影響を伴ういくつかの興味深い稀な多様体が特定されました。レーバー先天性黒内障4の散発的な症例で説明されているAIPL1遺伝子の多様体(His82Tyr)など、特定された他の多様体の事例では、不充分な文献証拠に基づいて病原性である可能性は低い、と提案されます。さらに、旧石器時代には完全な盲目で生活することは困難である、と主張できます。しかし、先天的傷害もしくは負傷を有する個体への世話が、中期更新世以来考古学的記録に存在し(関連記事)、その多様体が盲目の原因として特定されたならば、初期のヒト社会において重度の障害を有する個体への世話の別の事例が追加できることにも、注意が必要です。この事例は、古代ゲノム分析が、現代の患者における稀な遺伝的多様体の病原性評価にも役立つことを示します。

 本論文は、古代ゲノム研究への新たな手法の道を開き、新たな手法では、古典的な集団遺伝学は医療ゲノミクスと組み合わせて人口統計学と疾患疫学について結論を導けます。将来の研究課題は、より大きな人口集団でこれらの医療遺伝学の観察を広げ、古代の人口集団における選択のパターンを調べて、狩猟採集民がLGM後に復興した退避地と人口集団を直接的に特定するために、拡張されるでしょう。本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、LGMにおける局所的な現生人類集団の遺伝的多様性の低下はおそらく世界中で起きており、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Svensson E. et al.(2021): Genome of Peştera Muierii skull shows high diversity and low mutational load in pre-glacial Europe. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.045

大河ドラマ『青天を衝け』第15回「篤太夫、薩摩潜入」

 一橋家の家臣となった栄一は、平岡円四郎により篤太夫という名を与えられます。栄一(篤太夫)と喜作(成一郎)は、一橋家の家臣の出自が多様で、身分に拘らない起用がされていることに感銘を受けます。栄一は平岡から、摂海防禦の要職にある薩摩藩士の折田要蔵の隠密調査を命じられます。栄一はそこで西郷吉之助(隆盛)と出会います。徳川慶喜の政治工作に負けた島津久光は、大久保一蔵(利通)の意見を受け入れ、西郷などを残して一旦薩摩に戻ります。

 栄一を警戒する薩摩藩士の三島通庸たちは、栄一を殺そうとしますが、西郷は栄一が気になったのか、会食に誘います。西郷はそこで、先の見えすぎる平岡の今後を案じます。栄一と喜作は一橋家臣を集めるため、関東への出張を平岡から命じられますが、関東の情勢も不穏で、水戸では藤田東湖の息子の小四郎が幕府に攘夷実行を迫って挙兵します。今回は、栄一が一橋家臣となって幕末政治の中心に近づいたこともあり、栄一視点と慶喜視点がますます重なってきて、さらに話にまとまりが出てきたように思います。これまでのところは、幕末大河ドラマとしてなかなか質が高くて面白くなっており、楽しく視聴できています。

大相撲夏場所千秋楽

 もうすっかり慣れてしまいましたが、今場所も横綱不在となりました。相撲協会も少なからぬ報道関係者も一般の愛好者も、横綱不在に不満を抱き、相撲人気の低下を不安に思っているかもしれませんが、私は横綱不在になれたこともあり、横綱不在に関して不満はほとんどありません。今場所大関に復帰した照ノ富士関が横綱に昇進できず引退するか、大関から再度陥落するようだと、明確に横綱制度が確立してからは前例のない、長期の横綱不在時代が到来するかもしれませんが、それでも相撲を楽しめるかな、と考えています。

 優勝争いは、ずっと照ノ富士関が先頭を走り、11日目に相撲内容では完全に勝っていたのに反則で負けても動揺することなく12日目と13日目も勝ったので、14日目に優勝を決めるのかと思ったら、優勝争いに残っていた遠藤関に際どい相撲で負けてしまいました。取り直しにすべき一番だったように思いますが、照ノ富士関にすると、膝の状態から考えて取り直しよりも負けた方がよかったかもしれません。それでも、千秋楽を迎えて照ノ富士関が2敗で3敗が貴景勝関と遠藤関と、照ノ富士関が優位な状況には変わりありませんでした。

 千秋楽は、まず遠藤関が正代関と対戦し、正代関が押し出しで勝ち、遠藤関は11勝4敗となって優勝争いから脱落しました。照ノ富士関と貴景勝関は結びの一番で対戦し、貴景勝関が立ち合いで強く当たった直後に引き落として勝ち、ともに12勝3敗で優勝決定戦となりました。優勝決定戦では、照ノ富士関が激しい突き合いからはたき込んで勝ち、4回目の優勝を果たしました。照ノ富士関は本割の内容がよくなかっただけに、膝の状態がかなり悪いのではないか、と心配しましたが、落ち着いていたと思います。

 来場所、照ノ富士関は横綱昇進に挑むことになります。照ノ富士関は最初に大関に昇進した頃と比較すると、心と技は間違いなく上でしょうが、やはり膝の状態は以前と比較すると悪いようなので、体の面ではかなり不安が残り、白鵬関の復活が難しそうな現時点では文句なしに現役最強とはいえ、来場所後の横綱昇進は楽観視できないように思います。また、照ノ富士関は横綱に昇進できたとしても、膝の状態が悪く、半年後には30歳になるだけに、長く務めるのは難しそうです。

 不甲斐ないと言われ続けてきた照ノ富士関を除く3大関では、貴景勝関は優勝決定戦にまで持ち込みました。しかし、押し相撲で不安定なところがあり、横綱昇進はかなり難しそうです。ただ、若手が伸び悩んでいるので、貴景勝関が大関の地位を長く維持できる可能性はあると思います。角番の正代関は相撲内容が全体的によくなかったものの、何とか勝ち越して9勝6敗としました。まあ、照ノ富士関や朝乃山関との対戦がなかったことなど、恵まれた感もありましたが。

 その朝乃山関は、7勝4敗となったところで12日目から休場となりました。相撲協会の指針に反して外出していたとのことで、同様の問題を起こした阿炎関が3場所の出場停止処分でしたから、大関の朝乃山関は一度疑惑を否定していたことからも、それ以上の処分となることは確実でしょう。そうなると、朝乃山関は大関から陥落となります。朝乃山関は正統派の四つ相撲を取ることから、相撲協会でも報道関係者でも一般の愛好者でも、横綱候補として期待していた人は少なくなかったでしょうから、その意味でも衝撃は大きかったと思います。ただ、拳銃密輸と比較すると糾弾するほどの問題かな、とも思いますが。

アフリカ北部の人口史

 アフリカ北部の人口史に関する研究(Lucas-Sánchez et al., 2021)が公表されました。アフリカ北部人類集団の遺伝的研究は、一般的に軽視されてきました。代わりに、人口集団の遺伝学的分析の焦点は近隣地域に当てられ、それによりアフリカ北部の関連性は影を潜めています。一方で、アフリカ大陸は人類の発祥地であることで最も注目を集めてきましたが、遺伝学的研究の焦点は、現生人類(Homo sapiens)の地理的起源として提案されたため、おもにアフリカ東部と南部に当てられてきました。主要な人口集団移動の一つと関連する、アフリカ西部からのバンツー語族話者集団の拡大も、大きな注目を集めてきました。

 したがって、アフリカ北部はアフリカ大陸の他地域と比較して、遺伝学的研究において軽視されてきました。さらに、アフリカ北部はアフリカ大陸への中東の拡張とみなされてきたので、最近まで特有の存在としての認識がほとんどありませんでした。ヒトゲノム多様性計画やサイモンズゲノム多様性計画(関連記事)のような最近の世界的なゲノムデータベースでさえ、単一の人口集団(ムザブ人)と、ムザブ人(Mozabite)2個体とサハラウィ人(Saharawi)2個体の計4個体のゲノムを扱っただけでした。幸いなことに、過去数年間で古代人および現代人の全ゲノムデータを含む遺伝的データが分析され、アフリカ北部の人口史は洗練されてきました。


●アフリカ北部の人類の遺伝的データ

 アフリカ北部の人口集団のデータは限定的ですが、ほとんどの分析では、広範な混合と、アフリカの他地域とアフリカ北部との区別により特徴づけられる、遺伝的多様性の複雑なパターンが示されてきました。古典的な遺伝的指標の研究では、アフリカ北部とアフリカ他地域との区別が明らかになりました。これは、アフリカ人の主成分分析の第一構成要素で示されており、アフリカ北部の人口史は出アフリカ(OOA)人口集団とより密接に関連している、と示唆されます。古典的な遺伝的指標による別の研究でも、他のアフリカ集団との比較におけるアフリカ北部の区別が示され、地中海とサハラ砂漠により制約された人類の動きの結果として、東西軸の遺伝的多様性の勾配が指摘されました。

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)分析も、アフリカ大陸におけるアフリカ北部の独自性と、近隣地域からの系統の混合を明らかにしました。サハラ砂漠以南のアフリカと中東もしくはヨーロッパ起源の片親性遺伝標識系統の存在は、アフリカ北部への遺伝子流動の複雑なパターンを示唆します。しかし、アフリカ北部では在来系統も報告されており、系統のさまざまな勾配を有する在来集団と外来集団の広範な混合が示されます。過去10年に、ゲノム規模一塩基多型分析により、アフリカ北部の遺伝的景観についての知識が洗練され、アフリカ大陸の他地域と区別されるような、アフリカ北部における混合と孤立の複雑な人口統計学的パターンの見解が強化されました。この見解は、古代および現代の標本の完全なゲノムに関するまだ限定的なデータの分析により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。


●アフリカ北部の遺伝的構成要素

 現代の人口集団の遺伝的データは、アフリカ北部の人々の遺伝的祖先系統の少なくとも4つの主要な起源を伴う、複雑なパターンを示唆します。以前の研究はまず、現代アフリカ北部の人口集団における、マグレブ構成要素として知られる在来の祖先的構成要素、およびヨーロッパと中東とサハラ砂漠以南のアフリカの構成要素の存在を示しました。この結果から、アフリカ北部人口集団は独自の祖先的構成要素を有し、近隣地域からの外来祖先系統の単なる混合の結果とはみなせない、と示されました。この構成要素は、12000年以上前と完新世に先行して出アフリカ集団の他系統と分岐した、初期アフリカ北部人口集団と関連しています。

 その構成要素はおそらく、アフリカへの「逆移動」でもたらされ、すでにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U6とM1(関連記事)や、核DNAデータにより示唆されています。それは、アフリカ北部全域で西から東への減少勾配で分布します。その後の研究では、現代人のゲノムをアフリカ北部のさまざまな地域で回収された古代の現生人類標本のデータと比較することで、この在来構成要素の存在が確証されました。この分析は、アフリカ北部人口集団における祖先系統の起源を精査し、コーカサス狩猟採集民・新石器時代イラン関連構成要素を追加して、モロッコの続旧石器時代および前期新石器時代標本群に多く見られることを考慮し、在来のアフリカ北部構成要素の起源の可能性を、続旧石器時代もしくは前期新石器時代に位置づけました。


●アフリカ北部における古代人のゲノム

 アルジェリア北東部のアインハネヒ(Ain Hanech)研究地域では240万年前頃の石器と解体痕のある動物の骨が発見されており(関連記事)、これがアフリカ北部における最初の人類の痕跡となります。年代測定された人類遺骸としては、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された30万年前頃のホモ属遺骸が、アフリカ北部最古となります(関連記事)。アフリカ北部では多くの化石が発見されてきましたが、ゲノムが分析されたのはごくわずかです。

 較正年代で15100~13900年前頃となるモロッコのタフォラルト(Taforalt)の近くにあるピジョン洞窟(Grotte des Pigeons)で発見された現生人類遺骸は、アフリカ北部だけではなくアフリカ大陸全体で最古のDNAが分析された人類遺骸です(関連記事)。この分析されたタフォラルト個体群は、近東人口集団、とくに続旧石器時代のナトゥーフィアン(Natufian)集団との高い類似性を示し、平均してその祖先系統の63.5%を共有しています。これらの個体群のmtHgはU6 とM1で、完新世前のアフリカへの「逆流」事象と一致します。このタフォラルト個体群にはサハラ砂漠以南のアフリカの祖先系統構成要素も存在し、ヨルバ人とナトゥーフィアン人のどの組み合わせとよりも、タフォラルト個体群と高い類似性を示します。また、旧石器時代のヨーロッパ人からの遺伝子流動は観察されていません。

 これら続旧石器時代アフリカ北部古代人のゲノムに加えて、前期新石器時代のIAM(Ifri n’Amr or Moussa)遺跡と後期新石器時代のKEB(Kelif el Boroud)遺跡の個体群が分析されました(関連記事)。7000年前頃となるIAM個体群は、タフォラルト個体群と密接なゲノム規模の類似性を示します。これは、アフリカへの「逆移動」と関連する類似のmtHg(U6とM1)でも裏づけられ、マグレブ地域における後期石器時代と前期新石器時代の人口集団間の継続性を示唆します。他方、KEB集団はゲノム分析では、IAM集団とアナトリア半島・ヨーロッパ新石器時代集団の混合としてモデル化でき、IAM集団もしくはタフォラルト集団よりもサハラ砂漠以南のアフリカの構成要素は少ない、と示唆されます。これら標本群のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)は、おもにアナトリア半島とヨーロッパの新石器時代標本群で見られます。

 リビアのタカールコリ岩陰(Takarkori Rockshelter)遺跡では7000年前頃の人類遺骸2個体のmtDNAが分析され、mtHg-Nの基底部に新たに同定されました。このハプロタイプは、レヴァントからの牧畜民の拡大におけるアフリカへの「逆移動」事象で到来したか、アフリカ内のmtHg-L3から分岐し、後にアフリカ外に拡大した可能性があります。サハラの乾燥化は、アフリカの他地域では置換された間に、タカールコリ岩陰遺跡個体のハプロタイプの孤立と存続の原因となった可能性があります。

 エジプトに関しては、アブシールエルメレク(Abusir-el Meleq)遺跡で発見された紀元前1388年~紀元後426年頃のミイラが分析され、信頼できる人類のDNAデータとして、mtDNAが90人分、ゲノム規模で男性3人分が得られました(関連記事)。これらの遺伝的データから、全標本では小さくひじょうに類似したハプログループ特性が示され、標本間の遺伝的距離が小さく、この地域における遺伝的継続性との見解が裏づけられます。現代エジプト人(約20%)と比較して、古代の標本群ではサハラ砂漠以南のアフリカのmtHgが欠如していることは、最近の砂漠以南のアフリカのからの遺伝子流動により説明できるかもしれません。これら古代エジプト人の核DNAデータはこれらの結果をさらに裏づけ、現代エジプト人よりも大きな新石器時代近東構成要素を明らかにし、アフリカ北部古代人の他の標本と一致します。

 アフリカ本土以外では、他の古代DNA標本群がアフリカ北部人口集団の遺伝的祖先系統の評価に役立ってきました。紀元後7~11世紀となるカナリア諸島の先住民であるグアンチェ人(Guanche)の標本群は、片親性遺伝標識データと全ゲノムデータが分析され、アフリカ北部在来のmtHg-U6とYHg-E1b1b1b1a1(M183)の存在に基づいてカナリア諸島の移民のアフリカ北部起源が示唆されました(関連記事)。また、全ゲノムデータでは続旧石器時代アフリカ北部人と共有される顕著な遺伝的構成要素が示唆されました。常染色体データは、モロッコのKEB個体群との混合特性を示しており、単一の祖先的アフリカ北部起源と一致しますが、カナリア諸島の最初の移住後に小さな遺伝子移入事象が起きた可能性もあります。さらに、イベリア半島と地中海諸島のヨーロッパ古代DNA標本群は、アフリカ北部から北方への前期青銅器時代における広範な散発的遺伝子流動を確認します(関連記事1および関連記事2)。


●人口集団置換と人口統計学的連続性

 アフリカ北部は人類の初期段階から居住されてきましたが(関連記事)、古代ゲノムデータは、アフリカ北部在来人口集団の直接的子孫かもしれないタフォラルトの続旧石器時代個体群以降でのみ利用可能です。現在までのこの在来構成要素の継続性は、近隣人口集団からのアフリカ北部への不断の遺伝子流動により挑戦を受けてきており(図1)、それは部分的にさまざまな時期(旧石器時代と新石器時代と歴史時代)にアフリカ北部の元々の人口集団を部分的に置換しました。
 
 アフリカ北部では、先史時代における中東のナトゥーフィアンからの遺伝子流動が観察されています(関連記事1および関連記事2)この遺伝子流動はアフリカ北部の最新の湿潤期と一致しており、両人口集団間のつながりを容易にした可能性があります。サハラ砂漠では後期更新世と前期完新世に強い気候変動が起きました。「完新世の気候最適条件」では、温暖化して湿潤化した環境条件が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の12000~5000年前頃に出現し、水路と動植物の増加につながり、サハラ全域の人類集団の拡大を促進しました。後の乾燥期にいくつかの人口集団は退避地で孤立し、遺伝的浮動により遺伝的系統の消滅が起きたかもしれません。

 新石器時代への移行に関しては、農耕の文化拡散仮説と、在来狩猟採集民人口集団の新石器時代集団との置換仮説との間で議論が存在します。人口拡散仮説は、アフリカ北部における新石器時代化のメカニズムとして伝統的に受け入れられてきており、移行の起源として中東人口集団が提案されていますが、後期新石器時代におけるイベリア半島人口集団との接触(関連記事)も観察されています(図1)。それにも関わらず、現代人のゲノムおよびタフォラルト個体群との比較や、タフォラルト個体群と初期新石器時代IAM個体群とのゲノム間で共有される地域特有の最近の分析から、アフリカ北部における旧石器時代構成要素の継続性が示されたものの、この在来旧石器時代構成要素は、ヨーロッパ現代人で観察される旧石器時代構成要素よりもずっと低くなっています。したがって、新石器時代の影響はアフリカ北部では劇的でしたが、在来構成要素を完全に消滅させたのではなく、人口拡散前に文化的拡散が起きたことを示唆します。以下は本論文の図1です。
画像

 新石器時代化後のユーラシアからアフリカ北部への遺伝子流動の影響は比較的少なかったようです。アフリカ北部に高い遺伝的影響をもたらした新石器時代後の移動は、まずサハラ砂漠以南のアフリカのからの遺伝子流動です。これは、おもにローマ期から(紀元前1世紀以降)アラブによる征服を通じて19世紀まで続いた、サハラ砂漠横断奴隷貿易経路に起因します。次にアラブ化で、これは7世紀に始まり、アフリカ北部全域で中東からの遺伝子流動がもたらされ、アフリカ北部現代人で見られる中東構成要素の東から西への勾配の形成に寄与しました。他の歴史的な移動は遺伝的構成にわずかな影響しか及ぼしていません。これらの移動には、フェニキア人やローマ人やヴァンダル人やビザンツ人やオスマン帝国トルコ人や他の地中海ヨーロッパ人口集団を含みます。


●アラブ人とベルベル人の文化および遺伝的分化

 文化的観点から、アフリカ北部の人口集団は伝統的にアラブ人とベルベル人に分けられてきました。とくに「ベルベル人」は、ラテン語のバルバロス(野蛮な)に由来する古典期までさかのぼる誤称で、ベルベル人はアマジグ(Amazigh、歌)・イマジゲン(Imazighen、複数形)と自称しています。この分化はアフリカ北部のアラブ人による征服に起因します。アラブ人はアフリカ北部を占拠し、新たな言語・宗教(イスラム教)・習慣を紀元後7~11世紀にかけて強いました。ほとんどのアフリカ北部の人々は新たな文化を取り入れ、新参者たるアラブ人と混合し、自身をアラブ人と認識し始めました。しかし、他の人々はこの影響から逃れ、山や離れた村に退避し、そこで以前の生活様式を維持し、アマジグ人としての自己認識とタマジーク語(Tamazight)を維持しました。イマジゲンは、アフリカ北部の在来の住民とみなされており、それは、歴史的記録がフェニキア人到来(紀元前814年)前の彼らの存在を説明しており、完新世前のアフリカ北部のカプサ(Capsian)文化との考古学的つながりが示唆されているからです。

 さまざまな研究で、古典的指標やmtHgやYHgやゲノム規模データや全ゲノムのようないくつかの遺伝子標識遺伝的観点から、アフリカ北部における文化的分化が評価されてきました。これらの研究は、アフリカ北部人口集団内の顕著な異質性、およびアラブとアマジグ人口集団間の全体としての明確な分化を明らかにしました。一部のアマジグ集団はアラブ人との違いを示しますが、他のアマジグ集団は文化的自己認識を共有する他の人々とよりも、特定のアラブ人と多くの遺伝的類似性を共有します。それにも関わらず、一部のタマジーク語話者人口集団は外れ値で、隣接するアラブ語話者人口集団もしくはタマジーク語話者人口集団とさえ、強い遺伝的違いを示します。これは、非対称のサハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的影響とともに、孤立と遺伝的浮動の過程に起因する可能性があります。したがって、アフリカ北部における文化的および遺伝的人口集団の定義は困難です。到来した人口集団とのさまざまな接触と新参者の文化の受容は、不均一な混合と局所的孤立過程につながり、アフリカ北部のさまざまな地域で文化の異なる役割を有する、遺伝的に多様な人口集団の複雑なモザイク状を形成しました。


●遺伝子流動の起源としてのアフリカ北部

 歴史を通じて多様な人口移動の到着地だったアフリカ北部は、受け手だっただけではなく、周辺地域(地中海ヨーロッパやカナリア諸島や一部のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団)への遺伝子流動の起源地でもありました(図1)。近隣地域へのアフリカ北部の影響については歴史的および考古学的証拠が存在し、現代および古代の標本を用いた最近の遺伝学的研究はこれを裏づけます。その近隣性と比較的最近の歴史事象のため、イベリア半島はアフリカ北部からの遺伝子流動の主要な受容地域の一つです(図1)。アラブ人の拡大はおもにアマジグの人々をイベリア半島へともたらし、イベリア半島に700年以上留まりました。

 それにも関わらず、考古学および人類学的知見は、地中海西部の両岸間のずっと古い接触を報告しており、新石器時代あるいはずっと古く旧石器時代後期を示します(図1)。イベリア半島におけるアフリカ北部起源のmtDNAとY染色体の配列の存在、およびゲノム規模データで明らかにされた混合の証拠は、この地中海横断の遺伝子流動を裏づけます。現代の標本で推測される年代は、アラブ人による征服にイベリア半島の混合の波を置き、おそらくはより古い混合事象を隠します。

 しかし古代DNA研究は、地中海西部両岸間の以前に報告された先史時代の接触の遺伝的証拠を提供します(関連記事)。イタリアやフランス南部のようなヨーロッパ南部の他地域も、アフリカ北部からの遺伝子流動の到着地でしたが、イベリア半島よりもその程度は小さくなっています。そうした地域におけるアフリカ北部構成要素の年代は、少なくとも5~7世代前に移住事象があったとされますが、最近の研究では、イタリアにおける混合の波はずっと古いと推定されており、アフリカ北部からの移動は紀元後4世紀頃のローマ帝国の崩壊と一致する、と示唆されます。

 カナリア諸島は、アフリカ西部沿岸から近いことと一致して、アフリカ大陸からの移住の痕跡も示しており(図1)、現代および古代のゲノムにおける強い証拠は、最初の居住民のアフリカ北部起源を裏づけます(関連記事)。ゲノム規模データにより、混合の起源の地理的位置はカナリア諸島とヨーロッパ南部の間で異なっており、前者は大西洋沿岸、後者は地中海側と明らかになりました。

 アフリカ北部からサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団への南に向かう遺伝子流動は、牧畜の拡大と関連してきました(図1)。ウシの家畜化は新石器時代にアフリカ北部で出現し、南方の人口集団との接触はアフリカ北部起源のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続アレル(対立遺伝子)をもたらしました。このアレルは現代の一部のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団で検出できます。アフリカ東部からアフリカ北部への牧畜民の移住は4500~3300年前頃ですが、アフリカ北部とアフリカ西部との間の接触は2000年前頃とそれよりも新しいようで、アフリカ西部における牧畜の最初の痕跡とほぼ同時代でもあります。


●まとめ

 アフリカ北部の遺伝的景観の研究についての一つの主要な課題は、利用可能なデータの不足です。最近まで個体の完全なゲノムデータは存在せず、人口集団水準での全ゲノムは依然として不足しています。最近の努力にも関わらず、古代ゲノムデータも限定的です。アフリカ北部におけるゲノムデータの収集・解明は急務です。それは、人口史に関連する問題の解明だけではなく、健康と病気の状態に関わる遺伝的多様体やゲノム領域の理解のためでもあります。アフリカ北部とその周辺地域との間の広範で双方向のつながりを考えると、遺伝的多様性や人口集団の疾患危険性パターンの研究は、アフリカ北部外のヨーロッパや中東やサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団にも影響を及ぼす可能性があります。


参考文献:
Lucas-Sánchez M, Serradell JM, and Comas D.(2021): Population history of North Africa based on modern and ancient genomes. Human Molecular Genetics, 30, R1, R17–R23.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddaa261

黒田基樹『戦国北条家の判子行政』

 平凡社新書の一冊として、平凡社より2020年10月に刊行されました。本書は、戦国大名である北条家の領国統治の仕組みが、その後の近世大名と基本的に変わらなかった、とその意義を高く評価します。江戸時代につながる統治権力による領民統治の基本的な仕組みは、織田信長と羽柴秀吉ではなく、すでに戦国大名により作り出されていた、というわけです。本書は、近世大名と比較できるだけの統治政策の具体的内容が分かるのは北条家だけである、と指摘します。さらに本書は、北条家の統治が現代の統治制度の原点に位置する、と指摘します。表題にもなっている判子はその象徴と言えるでしょう。

 本書は、現代につながる判子文化の源流としても北条家を重視します。北条家の印判使用には、領域権力としての戦国大名が領国内の村落を等しく統治しなければならなくなり、一方で中世において根強く浸透していた身分差の障壁を克服できる、といった理由があり、同時に大量に文書を発給することが可能となりました。北条家が用いた虎朱印は、当主が交替しても使用され続け、当主の個人印ではなく、戦国大名北条家の公印でした。これは、当主の交替に左右されない継続性のある組織の成立を意味します。北条家による印判状の文化は周辺大名にも影響を拡大していき、戦国大名北条家の初代当主だった伊勢宗瑞が日本の判子文化に果たした役割は、ひじょうに大きかったようです。なお、印判状が東国の戦国大名で発達したのに対して、西日本の戦国大名ではほとんど発達しなかったことを、官僚的・機構的な前者と、人格的関係に基づく後者との違いとする見解が提唱されましたが、現在では明確に否定されているそうです。

 公権力の裁判も戦国時代に変容していきます。それまで、村や町の納税主体は室町幕府に直接訴訟できず、訴訟の主体になれるのは幕府や朝廷の構成員だけでした。実質的な訴訟主体は村や町としても、名目的な訴訟者は領主でした。しかし江戸時代には、村や町が江戸幕府や大名家に訴訟できるようになります。その転機となったのが戦国時代で、村や町が直接大名に訴状(目安)を差し出す仕組みが整備されていきます。これは、徴税における不正の抑制・処罰を主目的としていましたが、当時目立った村落間の争いでも機能しました。北条家は目安制の最古の事例ではないとしても、その全体像を把握できる唯一の大名です。また本書は、この過程で大名が又家来の処罰を行なうようになったことを重視します。家来への処罰は主人の専管事項でしたが、それがさらに上の権力により制約されるようになります。これも、領域権力として成立した戦国大名が、権力維持のために領国内の争いを防ごうとしたからでした。北条家において目安制は給人領にも拡大していきます。これは、江戸時代における、地方知行の形骸化(実際の支配は領主ではなく幕府・大名が一元的に行ない、個々の領主には年貢・公事分を支給)と、領地支配の失態を理由とした減封・改易へとつながります。目安制は江戸時代半ば以降には、村や町だけではなく個人も訴訟主体と認められるようになります。

 租税の在り様も戦国時代に変わっていきます。戦国時代よりも前には、統治権力による民衆への直接課税はなく、基本的には個別的でした。戦国時代には、領国内の全村落に等しく賦課される租税としての「国役」が成立していきます。国役の徴収を通じて、戦国大名は領国内全ての村落と結びついていきます。北条家ではこの過程で、全領国規模で統一的税制が確立されていき、他の戦国大名と比較してきわめて統一性の高い領国支配体系が形成されます。これは、深刻な領国危機に対応したものでした。徴税方法も、戦国時代よりも前の、徴収者が納税者より税を取り立てる制度から、納税者が納付する制度へと変わり、近世・近代へと継承されます。北条家に関しては、その変化を具体的に見ていくことができます。この過程で村役人制が成立していきます。また本書は、戦国時代に納税が貨幣から現物へと変わる傾向にあり、その要因は撰銭対策で、北条家においてその変容をよく把握できる、と指摘します。本書は撰銭問題を飢饉との関連で把握します。

 こうした領域支配を前提として、北条家は武田や羽柴との全面戦争のような存亡のかかった非常事態に、「御国」のためとの論理で、領国の民衆を軍事動員しました。この論理の前提となったのは、北条が外敵からの侵略を防ぎ、領国内の村落同士の争いを調停しており、村落の平和を維持している、との認識でした。本書はこのような戦国大名の在り様に、近代国家の要素の源流の一端を見いだしています。同様に、領域支配と「村の成り立ち」の保証を前提として災害対応という非常事態から行なわれるようになったのが、現代にもつながるような「公共工事」でした。北条家をはじめとして戦国時代には、そうした普請役たる「公共工事」は城郭建築・整備など軍事的性格の強い事業が少なからずありましたが、戦争が抑止された江戸時代になると、治水工事など社会資本整備に振り向けられていきます。本書は、近代国民国家の基点として戦国大名権力による日本史上初の領域国家を重視します。そうした特徴がよく研究されている北条家は、戦国時代の意義を一般向けに解説するうえで最適の事例と言えるかもしれません。

真正な自己表現と主観的幸福感

 真正な自己表現と主観的幸福感に関する研究(Bailey et al., 2020)が公表されました。アメリカ合衆国の人々の約80%は何らかのソーシャルメディアを利用しており、そのようなユーザーの3/4が自身のアカウントを毎日チェックしています。しかし、これらのソーシャルメディア上で理想化された自己像を追求すると、ユーザー個人の幸福に悪影響が及ぶ場合もある、という見解が提示されています。

 この研究は、2007~2012年に収集された10560人のフェイスブックユーザーのデータを分析することで、ソーシャルメディア上での自己理想化と真正性が幸福に与える影響を調べました。まず、フェイスブックユーザーは、ビッグファイブ性格特性(同調性や外向性などの諸特性を測定する確立された性格モデル)の測定を含む一連の心理試験を受けました。この研究は次に、ソーシャルメディア上での真正性を推定するために、個々のユーザーが自らの性格について自己申告した内容(心理試験に基づいた結果)とユーザーのソーシャルメディア上の性格(フェイスブック上での「いいね!」と投稿の言葉遣いに基づくコンピューターモデルによる予測結果)を比較しました。

 その結果、真正な自己表現が、高水準の生活満足度(全体的な幸福感の尺度)の自己申告と相関していました。この相関関係は、さまざまな性格タイプで一貫して見られると考えられます。また別の研究では、平均年齢23歳の参加者90人が対象とされ、ソーシャルメディア上で真正な投稿をするよう求められた参加者が申告した主観的幸福感のレベルは、他の参加者より高かった、と明らかになりました。こうした認知メカニズムの進化的基盤という観点も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


心理学:フェイスブックで自分に正直になることが幸福につながる

 フェイスブックで真正な自己表現をする人は、主観的幸福感を高く申告するという傾向を明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この知見は、ユーザーがソーシャルメディア上で自己表現をする場合、自分に正直になることが心理的利益をもたらす可能性を示唆している。

 米国人の約80%は何らかのソーシャルメディアを利用しており、そのようなユーザーの4分の3が自身のアカウントを毎日チェックしている。しかし、これらのソーシャルメディア上で理想化された自己像を追求すると、ユーザー個人の幸福に悪影響が及ぶことがあるという見解が示されている。

 今回、Erica Baileyたちの研究チームは、2007~2012年に収集された1万560人のフェイスブックユーザーのデータを分析することで、ソーシャルメディア上での自己理想化と真正性が幸福に与える影響を調べた。最初に、フェイスブックユーザーは、ビッグファイブ性格特性(同調性や外向性などの諸特性を測定する確立された性格モデル)の測定を含む一連の心理試験を受けた。次に、Baileyたちは、ソーシャルメディア上での真正性を推定するために、個々のユーザーが自らの性格について自己申告した内容(心理試験に基づいた結果)とユーザーのソーシャルメディア上の性格(フェイスブック上での「いいね!」と投稿の言葉遣いに基づくコンピューターモデルによる予測結果)を比較した。その結果、真正な自己表現が、高レベルの生活満足度(全体的な幸福感の尺度)の自己申告と相関していた。この相関関係は、さまざまな性格タイプで一貫して見られると考えられる。

 また、Baileyたちは、平均年齢23歳の参加者90人を対象とした別の研究で、ソーシャルメディア上で真正な投稿をするよう求められた参加者が申告した主観的幸福感のレベルは、他の参加者より高かったことを明らかにした。



参考文献:
Bailey ER. et al.(2020): Authentic self-expression on social media is associated with greater subjective well-being. Nature Communications, 11, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18539-w

『卑弥呼』第63話「別の神話」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年6月5日号掲載分の感想です。前回は、弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)ら到着したヤノハとチカラオを、事代主(コトシロヌシ)が出迎えるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)でトメ将軍とミマアキがモモソと名乗る女性と面会している場面から始まります。モモソがトメ将軍とミマアキの長旅を労うと、山社の繁栄に感嘆した、とトメ将軍は言います。モモソは、現在都には自分しかおらず、疫病神(エヤミノカミ)に負けた、と打ち明けます。王や豪族や民がどこにいるのか、トメ将軍に尋ねられたモモソは、難を逃れた北に移った、と答えます。一人で残って何をしているのか、ミマアキに尋ねられたモモソは、鬼と戦っており、木々に吊るした金(カネ)の楽器(銅鐸と思われます)は鬼を追い払う道具と説明します。桃の園と地面に盛られた大量の桃の種についてトメ将軍に尋ねられたモモソは、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の方々なら知っているだろうが、伊弉諾(イザナギ)様が黄泉の国でお使いになった鬼返しの禁厭(マジナイ)だ、と答えます。ミマアキは、黄泉比良坂(ヨモノヒラサカ)で桃の実を鬼に向かって投げた、という話をすぐに想起します。

 サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の子孫なのか、ミマアキに問われたモモソは、自分の父であるフトニ王はサヌ王から数えて8代目と答えます。フトニ王とは、『日本書紀』の大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)、つまり第7代孝霊天皇のことと思われ、その娘に倭迹迹日百襲姫命がいますが、本作ではサヌ王から数えて8代目とされています。トメ将軍は、自分たちの旅の目的が、日下の王は代々、いつか筑紫島に戻り征服したいと考えていると言い伝えられており、筑紫島の人々はそれを信じて恐れていることについて、サヌ王の末裔に真相を尋ねることにある、とモモソに説明します。するとモモソは微笑を浮かべ、3代前のカエシネ王まではそのような野心があったと聞いているが、今の我々はひたすら倭国泰平を望むのみだ、と答えます。モモソの返答を聞いて、ミマアキは安心して感心したような表情を浮かべますが、トメ将軍はモモソの真意を探るような表情をしています。カエシネ王とは、『日本書紀』の観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)、つまり第5代孝昭天皇のことと思われます。筑紫島のどこから来たのか、とモモソに尋ねられたトメ将軍とミマアキは、それぞれ那(ナ)国と山社(ヤマト)国だと答えます。その返答を聞いて頷くモモソを、トメ将軍は注意深く観察しているようです。山社を国としたことにサヌ王の末裔であるモモソがどう考えているのか、気になっているのでしょうか。

 弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)では、事代主(コトシロヌシ)とヤノハが嵐のなか、館で面会していました。部屋には熊の皮と思われる敷物が二つ用意されており、どちらに座ればよいのか、ヤノハに問われた事代主は、出雲の神は西方にいるので自分は東に座ると答え、ヤノハは西側に座ります。天照様はお日様の化身ゆえ東にいるが、大穴牟遅神(オオアナムチノカミ)はなぜ西にいるのか、とヤノハに問われた事代主は、日の沈む場所にある深い穴、黄泉の国にいるからだ、と答えます。大穴牟遅は「死」を起点に人を統べる神で、「生」を起点に人を治める天照とは正反対の存在なので、両者はまったく別の神話だ、と事代主はヤノハに説明します。筑紫島では、出雲は伊弉冉命(イザナミノミコト)が身罷った地で、その後、母を慕って須佐之男命(スサノオノミコト)が黄泉の国に降ってその地を支配した、と伝えられています。しかし、出雲の言い伝えには伊弉諾や伊弉冉や須佐之男という神はいない、と事代主は説明します。それを聞いたヤノハは、面白い、と言います。すると事代主は、同じ神を信奉しているのに、筑紫島の日見子(ヒミコ)、つまりヤノハと日下の日見子では随分反応が違う、と言います。日下にも日見子がいることに驚くヤノハに、山社の日見子は自分に、大穴牟遅命を須佐之男命の娘婿という設定に変えるよう命じてきた、と事代主は説明します。それは、須佐之男の姉である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が最高神ということで、神の地位を譲れとは当然国も譲れということだ、と事代主はヤノハに説明したうえで、筑紫島の日見子殿(ヤノハ)は大穴牟遅命をどうしたいのか、と尋ねます。

 事代主はヤノハに、日下は戦好きで残虐な国だ、と言います。倭には八百万の神がおり、神々は互いに何の関係もないのに、日下はそれらの神を全て天照大御神の下に統合するよう強制する、というわけです。各土地に伝わる神々の言い伝えを意図的に歪めているのですかね、というヤノハに事代主は、そればかりか、他国の王や民を土蜘蛛(ツチグモ)と呼びさげすんでいる、と説明します。日下にはかつて鳥見という国があり、鳥見一族は饒速日という神を奉っていたが、サヌ王はこの神を天照様より下位の神と認めさせ、謀反の代償として鳥見の戦人100名の供御を要求した、と事代主はヤノハに説明します。ヤノハも、やはり饒速日のことを知りませんでした。事代主はヤノハに、自分たちの神(大穴牟遅)をどうしたいのか、と再度尋ねます。するとヤノハは、互いが互いの神を敬えばよいこと、と答え、事代主は笑顔を浮かべます。

 日下の都では、トメ将軍がモモソに、倭から全ての戦をなくそうとしているのは我々の日見子様も同じ考えだ、とモモソに説明し、それならば和議も夢ではない、とミマアキは言います。サヌ王は日下の地をどのように手に入れたのか、トメ将軍に問われたモモソは、日下の説明から始めます。日下は河内湖(カワチノウミ)の広大な干潟で、胆駒山(イコマヤマ)の麓の邑で、サヌ王はその地を所望したが、そこは鳥見国(トミノクニ)の領地で、鳥見には猛々しい戦人がおり、「屈強な足腰の男」を意味する「長脛(ナガスネ)」と呼ばれる人たちがいて、サヌ王は鳥見を落とせず30年の年月が流れました。トメ将軍は、「長い脛」が勇者の代名詞か、と得心したように言います。これが後に長髄彦と伝えられたのでしょうか。鳥見の民はどのような神を信仰していたのか、と問われたモモソは、良い問いだ、と言います。鳥見は饒速日(ニギハヤヒ)なる神を敬っていた、とモモソは答えますが、トメ将軍もミマアキも饒速日を知りません。饒速日は天照様と同じくお日様の化身だ、と説明するモモソに、なんたる偶然、とトメ将軍は言います。長い戦で双方疲れ果てた時、鳥見の巫女である鳥見屋媛(トミヤヒメ)は、饒速日が元々は天孫に付き従って降臨した神だったのではないか、と気づきました。つまり、同じお日様の化身ではあるものの、天照様より下位の神だったはずで、ならば、鳥見国は天照様の直系であるサヌ王に従わねばならない、というわけです。サヌ王は鳥見屋媛と和議を結んだわけですね、とミマアキに問われたモモソは、鳥見屋媛は無条件でサヌ王に降伏した、と答えます。そう答えるモモソを、トメ将軍は注意深く観察しているようです。

 トメ将軍はモモソに、自分たちが戦人であることをお忘れか、と問いかけます。何を言いたいのか、とモモソに問われたトメ将軍は、先ほど都には自分しかいないとモモソは言ったが、何者かがこの屋敷を囲んでいることに儂がきづかないと思うのか、と問い返します。さらにトメ将軍は、モモソの話にはいくつかの偽りが混じっている、と指摘します。トメ将軍がそれに気づいたのは、ミマアキが山社国から来たと言った時でした。サヌ王の時代、山社は国ではなく「聖地」でした。モモソが何も知らないならそのことに疑問を呈したはずなので、そうしなかったのは、すでに何者かに自分たちのことを聞かされていたのだ、とトメ将軍はモモソに指摘します。それが誰なのか、モモソに問われたトメ将軍は、日見子様を敵視する古の一族の一人であるトモ殿だ、と答えます。するとモモソは、自分がトメ将軍とミマアキを見くびっていた、と打ち明けます。さらにトメ将軍が、モモソこそ日下の日見子ではないのか、とモモソに問い詰めるところで、今回は終了です。


 今回は作中の重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。事代主は、互いの神を尊重する、というヤノハの考えに満足したようで、ヤノハと協力して疫病対策と倭の泰平に力を尽くす考えではないか、と推測されます。しかし、ヤノハは事代主に倭国のことを託して姿を消すつもりですから、今後具体的に山社国を中心とした筑紫島の勢力が出雲とどう協力関係を築いていくのか、まだ山場を超えていないようにも思います。日下とモモソについては、今回かなり作中設定が明かされました。ミマアキは山社のモモソを、穏やかで理知的な人物で信頼できると考え始めていたようですが、トメ将軍は途中からかなり警戒していたようで、ここは、若く未熟なミマアキと、経験豊富なトメ将軍との対比がよく描かれていたように思います。事代主の話と合わせて考えると、日下は今でも倭国統一を志向する野心的で好戦的な国のようです。それが、疫病の流行により逼塞せざるを得なくなったのでしょうが、その潜在的な危険性は変わっていないのでしょう。山社国と日下との関係が、今後の話の中心となりそうです。記紀神話からは、かつてサヌ王が筑紫島の王たちに、お前たちの歴史を全て我々勝者の歴史に塗り替えると宣言したように(第37話)、日下に都合よく歴史・神話が書き換えられたようです。しかし、日下の重要な祭祀具である銅鐸はその後伝えられておらず、記紀の頃にはすっかり忘れ去られていたようですから、単に日下の勢力が後に倭国を統一した、という設定でもないようです。これまで、記紀説話を上手く取り入れた話が展開しているので、今後どのように記紀説話と整合的な話が語られていくのか、たいへん楽しみです。

澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇「アジア東部のホモ属に関するレビュー」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P101-112)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 近年、遺跡の発掘とともに遺伝学の知見も増え、中期更新世以降の人類史がかなり多様であった、と明らかになってきました。たとえば、遺伝学により初めて見つかった種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、ルソン島から発見された新たな種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)などが、相次いで報告されています。また、新たな年代測定値が報告され、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・エレクトス(Homo erectus)の年代観も更新されました。本論文は、ユーラシア東部(現在の中国とアジア南東部)において、さまざまな人類、とくに現生人類(Homo sapiens)以外のホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)が、どの地域にいつ生息していたのかに焦点を当て、化石の出土している遺跡について、現時点で最新の知見を外観するとともに、現生人類の拡散時期に関しても概説して現時点での情報を整理し、今後ホモ属の系統推定や分類群同定に使われるだろう新たな手法を解説します。


●ホモ・エレクトス

 ホモ・エレクトスはアフリカとヨーロッパと中国とジャワ島で見つかっており、200万年前頃から10万年前頃までと生息年代はひじょうに幅広いとされています。エレクトスの分類に関しては、アフリカのエレクトスをホモ・エルガスター(Homo ergaster)という別種にするなど様々な説がありますが、本論文はアフリカの化石群も同じエレクトスとして、エレクトスを「広義」のもの(Homo erectus s.l.)として扱う。エレクトスの最古の化石は、南アフリカ共和国のドリモレン(Drimolen)で発見された204万年前頃の頭蓋(DNH134)です(関連記事)。ヨーロッパで最初期の化石としては、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)で180万年前頃の、5個体分の頭蓋と4個体分の下顎骨が発見されています(関連記事)。

 中国では上陳(Shangchen)から212万年前頃までさかのぼる石器が出土し、この頃から人類が生息していた可能性が報告されています(関連記事)。この石器を用いたのはエレクトスと考えられている。中国では他にも、泥河湾盆地(the Nihewan basin)の馬圏溝III(Majuangou III)で166万年前頃の石器、上砂嘴(Shangshazui)から170万~160万年前頃の石器が出土しています(関連記事)。化石としては、前期更新世に関しては上陳の近くに位置する陝西省の藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)で165万~163万年前頃の頭蓋が発見されています(関連記事)。また、中国南部の雲南省楚雄イ族自治州元謀(Yuanmou)で170万年前頃の切歯2本が見つかっていますが(関連記事)、化石の年代に関しては批判もあります。湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州建始(Jianshi)県竜骨洞(Longgudong)では、214万年前より古い地層から4本の歯が発見されています。現時点では、石器の証拠と合わせて考えると、中国では170万~160万年前頃にはホモ・エレクトスが進出していた、というのが確からしい推定と考えられます。

 中期更新世に関しては、周口店(Zhoukoudian)から77万年前頃の6個体分の完全な頭蓋と100本以上の歯などが出土しており、最小個体数は40という大規模な化石群が発見されています(関連記事)。これがいわゆる北京原人ですが、周口店の化石は第二次世界大戦の際に消失しており、実物は残っていません。他にも64万年前頃の山東省沂源(Yiyuan)県など複数の遺跡から化石が出土しています。周口店の化石は、その年代の下限について様々な報告がありますが、40万年前頃と考えられています。また同時期に、中国南部の安徽省馬鞍山市和県(Hexian)で41万年前頃の化石も出土していますが、和県の化石に関しては、中国北部のエレクトスとは形態が異なり、異なる系統との指摘もあります。現時点で、中国においては40万年前頃にエレクトスが消滅したと考えられます。

 ジャワ島のホモ・エレクトスの年代はひじょうに幅広く、おもな遺跡は前期(130万~80万年前頃)のサンギラン(Sangiran)やトリニール(Trinil)、中期(30万年前頃)のサンブンマチャン(Sambungmacan)、後期(10万年前頃)のンガンドン(Ngandong)です。サンギラン遺跡のエレクトスの上限年代は127万年前頃もしくは145万年前頃で、少なくとも150万年前よりは新しい、と示されました(関連記事)。一方で、サンギラン遺跡のエレクトスの下限年代は79万年前頃です(関連記事)。最も新しいンガンドン遺跡のエレクトスの年代は7万~4万年前頃と推定されていましたが(関連記事)、近年では117000~108000年前頃と推定されています(関連記事)。


●ホモ・ルゾネンシス

 ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)の2003年の発掘では25000年前頃の地層で終了していましたが、2004年のホモ・フロレシエンシスの報告を受けて2007年から発掘が再会され、ホモ属の中足骨が発見されました。その後、他の部位の骨も発見され(歯7個、手の中節骨1個、手の末節骨1個、足の基節骨1個、足の中節骨1個、大腿骨1個)、少なくとも3個体分あると明らかになりました。このホモ属化石には、大臼歯のサイズがひじょうに小さいことや、指の骨には木登りに適応したと考えられる屈曲や関節面があることなど、エレクトスやフロレシエンシスとは異なる特徴が見られることから、ホモ・ルゾネンシスと新たに種として報告されました(関連記事)。この化石の年代は67000~50000年以上前と推測されています。ルソン島ではほかに70万年前頃と推定されている人類活動の痕跡(石器と解体痕のある動物骨)が見つかっており、この頃から既に人類が生息していたと考えられます(関連記事)。


●デニソワ人

 デニソワ人は2010年に報告された、遺伝学的に定義されたホモ属の分類群です(関連記事)。デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見され、遺伝的には現生人類よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方と近縁です。デニソワ人から現代人への遺伝的寄与は、フィリピンやメラネシアでとくに高い、と明らかになりました(関連記事)。これらの集団は、デニソワ洞窟から遠く離れたウォレス線(Wallace-Huxley line)の東側に居住しているので、意外な結果でした。デニソワ人と現生人類との交雑は少なくとも3回起こっていたと推定され、そのうち1回はウォレス線の東側で、約3万年前に起こったと考えられています(関連記事)。おそらくは本論文脱稿後に公表された最近の研究でも、デニソワ人と現生人類との複数回の混合の可能性が示されており、そのうちパプア人関連集団固有のデニソワ人からの遺伝子移入は25000年前頃に起き、その場所はスンダランドもしくはさらに東方だった、と推測されています(関連記事)。これらの知見から、デニソワ人はユーラシア東部に広く生息していた可能性も指摘されています。

 デニソワ人の化石は、デニソワ洞窟で指骨と歯など断片的なものが、甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で下顎骨が見つかっているだけです(関連記事)。デニソワ人は古代DNA分析を通じて存在が明らかになったホモ属の分類群なので、既知の化石の中にデニソワ人に分類されるものが含まれている可能性もあります。たとえば、後述する台湾沖で発見された19万~1万年前頃の澎湖1号(Penghu 1)化石や、37万~10万年前頃(諸説ある年代のうち最大幅)の河北省張家口(Zhangjiakou)市の陽原(Yangyuan)県の侯家窰(Xujiayao)遺跡で発見されたホモ属化石(関連記事)です。

 デニソワ人の年代に関して、デニソワ洞窟では、古い個体が195000年前頃から、最も新しい個体は76000~52000年前頃と推定されています(関連記事)。白石崖溶洞の下顎の年代は16万年以上前で、土壌DNA分析では10万~6万年前頃の地層からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が検出されています(関連記事)。デニソワ人がどのくらいの年代幅で、またどのくらいの広さの範囲に生息していたのかは、現在の人類学の重要課題で、さらなる化石資料の発見や分析が待たれます。


●澎湖人

 上述の澎湖1号は、台湾沖の海底から発見されたホモ属の下顎骨です(関連記事)。その年代19万~13万年前頃または7万~1万年前頃と推定されています。この下顎骨はかなり頑健で大きく、臼歯の大きさは前期のジャワのエレクトス(サンギラン遺跡)と同程度に大きい、と報告されています。澎湖1号の形態は、安徽省馬鞍山市(Ma'anshan)の和県(Hexian)で発見された40万年前頃のホモ属化石(下顎骨・頭蓋・遊離歯など)と類似しています。この「和県人」はエレクトスとされていますが、近年見直されています。下顎骨と歯の分析からは、周口店などの中国北部やヨーロッパのエレクトスとは異なる形態をしており、アフリカのエレクトスに近い、と指摘されています。澎湖1号が他の人類とどのような系統関係にあるのかまだ不明ですが、白石崖溶洞のデニソワ人の下顎と類似しているとの報告もあるため、今後の研究が期待されます。


●後期古代型ホモ属

 中国などアジア東部のユーラシア大陸においては、エレクトスが進出した後の中期~後期更新世に、分類について議論のあるホモ属が出現する。アジアに出現したこの古代型ホモ属は、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)、あるいは古代型サピエンス(archaic Homo sapiens)、あるいは後期古代型ホモ属(late archaic human)と呼ばれますが、年代幅や系統関係が不明である点も考慮し、本論文では後期古代型ホモ属が用いられます。この時代のホモ属化石として、河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された125000~105000年前頃のホモ属頭蓋があります(関連記事)。他にも陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡、遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡、上述の河北省張家口市陽原県の侯家窰遺跡、吉林省延辺(Yanbian)朝鮮族自治州の巣県(Chaoxian)遺跡、湖北省宜昌市長陽(Changyang)トゥチャ族自治県の遺跡、中国南部では広東省韶関市(Shaoguan)曲江区(Qujiang)馬壩(Maba)町の洞窟などが挙げられます。

 これらの後期古代型ホモ属化石は地理的に広範に分布しており、その系統を形態から推定するのは難しく、現地のエレクトスから進化したのか、アフリカやヨーロッパなどから古代型ホモ属が拡散してきたのか、あるいはそれらが交雑したのかなど、さまざまな状況が考えられますが、詳細は不明です(関連記事)。中には祖先的な特徴と派生的な特徴を併せ持つものもあり、これら後期古代型ホモ属化石のうち、デニソワ人に分類されるもの、もしくは交雑したものは存在するのか、またこれらの系統関係など疑問点は多く、今後の進展が期待されます。


●現生人類

 現生人類の出アフリカの最も早い証拠は、ギリシア南部のアピディマ洞窟(Apidima Cave)で見つかった、21万年以上前の現生人類的特徴を有する頭蓋です(関連記事)。レヴァントからは複数の現生人類的な化石が見つかっており、イスラエルのミスリヤ洞窟(Misliya Cave)では194000~177000年前頃の上顎骨(関連記事)、イスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)洞窟では12万~9万年前頃の複数の頭蓋などが見つかっています。このように、21万~6万年前頃までの間に、1回あるいは複数回の現生人類による出アフリカがありました。本論文は、6万年前頃までの現生人類の出アフリカをまとめて第1次出アフリカ、6万年前頃以降の現生人類の出アフリカを第2次出アフリカと定義します。

 現生人類の第一次出アフリカが、現在の中国やアジア南東部まで広がっていたのか、まだ不明な点が多いものの、中国に関しては、おもに南部で12万~6万年前頃のホモ属遺骸が発見されています。広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)では10万年前頃のホモ属下顎と数本の歯が見つかっており(関連記事)、湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞(Fuyan Cave)では12万~8万年前頃の47本の歯が発見されています(関連記事)。この他にも、広西壮族(チワン族)自治区の陸那(Luna)洞窟や、広西壮族(チワン族)自治区の柳江(Liujiang)や、江西省万年(Pytel)県の仙人洞(Xianren Cave)遺跡や、湖南省張家界市の黄龍洞(Huanglong)などがあります。ただ、これらの遺跡については、年代が疑わしいなど、疑問視する意見もあります(関連記事)。じっさい、最近の研究では、福岩洞など中国南部の6万年、さらには10万年以上前と主張されていた初期現生人類遺骸の実際の年代は35000年前頃以降で、完新世の遺骸も少なくない、と明らかになりました(関連記事)。中国に近いラオス北部のタンパリン(Tam Pa Ling)遺跡(関連記事)では現生人類的な頭蓋や下顎など5個体分の人骨が出土しており、後にこれらホモ属遺骸の一部の年代は7万年前頃と修正されましたが、この新たな年代についても批判があります。

 その他アジア南東部における初期現生人類の証拠としては、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟で発見された73000~63000年前頃と推定される現生人類の歯(関連記事)や、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された65000年前頃の磨製石器(関連記事)などがあります。しかし、これらに関しても確実な証拠なのかどうか、議論があります。リダアジャー洞窟の歯に関しては、博物館の収集品から見つかったもので、確実に古い地層由来なのか疑われており、マジェドベデ岩陰遺跡に関しても、年代が疑問視されています(関連記事)。ジャワ島のプヌン(Punung)で発見された、143000~118000年前頃の歯は、当初現生人類と報告されたものの、後にエレクトスと指摘されています。また、マレーシア西部のコタタンパン(Kota Tampan)遺跡で発見された、現生人類の所産とされる73000年前頃の石器に関しても、後に現生人類の所産ではない、と指摘されています。ただ、昨年(2020年)公表された研究では、コタタンパン遺跡の石器群は現生人類の所産と改めて主張されています(関連記事)。

 このように、アジア南東部における6万年前頃までの現生人類の決定的な証拠はまだ提示されていません。また、遺伝学における証拠からも、第1次出アフリカの人々の痕跡の確たる証拠はありません。以前、パプア人のゲノムに第1次出アフリカ現生人類集団の痕跡があると報告されましたが(関連記事)、その後の研究ではそうした証拠は見つかっていません(関連記事)。これらの知見を考慮すると、現時点では、現生人類は6万年前までにアジア南東部までは到達していない、あるいは到達していたとしても、それらの初期現生人類は絶滅し、第2次出アフリカの人々により置換された、と想定されます。

 6万年前頃以降の現生人類の第2次出アフリカに関する早期の証拠としては、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見されたものをここで挙げておく。中国北部では田園洞(Tianyuan cave)から4万年前頃の下顎や大腿骨があり、その核DNA解析から、現代のアジア東部やアメリカ大陸先住民集団に近縁で(関連記事)、すでにネアンデルタールやデニソワ人からの遺伝子流動が起きていた(関連記事)、と明らかになりました。また、中国南部では広西壮族(チワン族)自治区来賓(Lanbin)市麒麟山(Qilinshan)遺跡で44000~38500年前頃のホモ属遺骸が発見されています。

 アジア南東部では、大陸側のラオス北部のタンパリン(Tam Pa Ling)遺跡で、上述のように46000年以上前とされる現生人類の頭蓋や下顎などが出土していますが、上述のようにその年代に関しては議論があります。ボルネオのニア洞窟(Niah cave)ではからはと呼ばれる頭蓋が出土しており、その年代は45000~39000年前頃と推定されています。この頃の現生人類が他系統の人類と共存していたのか、まだ不明な点が多く残っています。メラネシア現代人に関しては、上述のように3万年前頃以降の(おそらくは)アジア南東部におけるデニソワ人との交雑の証拠が指摘されているので、その推定年代が妥当ならば、少なくともデニソワ人とは共存していた時期があると考えられます。


●新たな手法

 今後、アジア東部では新たな人類遺骸の発掘とともに、既知の人類遺骸の年代測定・系統解析が行なわれると期待されます。とくに系統解析に関しては、古代DNA解析がこれまでよく用いられてきましたが、アジア東部・南東部は温暖・湿潤な地域で人類遺骸のDNAが保存されにくく、新たな手法が必要とされます。そこで近年注目されているのが、古代プロテオミクス分析です。これは2012年に本格的な応用が始まった比較的新しい研究分野で、古代DNAが残存しない標本や100万年以上前の標本にも適用可能です。380万年前頃のダチョウの卵殻(関連記事)や、190万±20万年前のギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)の歯のエナメル質(関連記事)など、近年ではさまざまな標本に適用されています。

 人類遺骸に関しては、スペイン北部で発見された949000~772000年前頃と推定されているホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)の歯エナメル質のプロテオミクス解析により、現生人類やネアンデルタールやデニソワ人と姉妹群である、と明らかにされました(関連記事)。ただ、ドマニシ遺跡の180万年前頃のホモ属のプロテオミクス分析では、系統関係を調べられるほど充分なデータは得られませんでした。チベットの白石崖溶洞で発見された16万年以上前の下顎骨き、古代プロテオミクス分析によりデニソワ人と同定されました(関連記事)。150万年以上前の古代プロテオミクス解析においては、骨や象牙質よりもエナメル質の方でタンパク質の残りがよい可能性も示唆されました。ただし、古代プロテオミクス分析も万能ではなく、DNAによる系統解析と比較すると解像度が悪く、詳細な系統解析が難しい場合も多くなります。また、タンパク質の種類や、ペプチドのアミノ酸の組成により残存しやすさが変化する、とも指摘されています。

 近年海水や土壌などからの環境DNA解析が増えてきています。デニソワ洞窟の土壌から、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する配列をもつDNAが確認されました(関連記事)。また、上述の16万年以上前のデニソワ人の下顎骨が発見された白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)では、洞窟の土壌DNA解析も報告されており、デニソワ人由来のmtDNAが検出され、継続的なのか断続的なのかはまだ不明ですが、10万~6万年前頃にデニソワ人がこの白石崖溶洞に存在していた、と明らかになりました(関連記事)。ジョージア西部のイメレティ(Imereti)地域のサツルブリア(Satsurblia)洞窟の上部旧石器時代層堆積物(25000年前頃)のDNA解析では、オオカミやバイソンと共に、現生人類のミトコンドリアゲノムと核ゲノムが分析されました(関連記事)。今後、堆積物のDNA解析はさまざまな遺跡に適用されていく、と期待されます。

 成長途中の小児骨も形態分析の対象になる可能性があり、ネアンデルタール人の胸郭は0~3歳からすでに現生人類と異なる形態的特徴を示す、と指摘されています。ネアンデルタール人は現生人類より多くのエネルギーを必要とし、成人では大きな肺を格納するために胸郭は大きい、と示されています。そのため、ネアンデルタール人の胸郭は頭蓋方向に短く前後に深くなっており、腰側の胸郭は左右に広がっています。このような、成人のネアンデルタール人に特有の特徴を小児も有しており、この知見から、小児骨の形態分析によっても、どの人類集団かを同定できる可能性がある、と示されました。


参考文献:
澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇(2021)「アジア東部のホモ属に関するレビュー」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P101-112

エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析

 エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析に関する研究(Clemente et al., 2021)が公表されました。本論文は、最近公表されたイタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(関連記事)とともに注目されます。ユーラシアの青銅器時代(BA)は、社会的・政治的・経済的水準の重要な変化より特徴づけられ、最初の大規模都市センターや記念碑的宮殿の出現に明らかです。ギリシア本土とアナトリア半島西部とクレタ島に囲まれた地中海の湾であるエーゲ海(図1A)は、とくに最初の記念碑的都市センターの一部がエーゲ海沿岸に形成されたため、これらの革新の形成に重要な役割を果たしました。

 エーゲ海文化とよく呼ばれるエーゲ海の青銅器時代文化は、クレタ島のミノア文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、ギリシア本土のヘラディック文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、エーゲ海中央部のキクラデス諸島のキクラデス文化(紀元前3200/3000~紀元前1100年頃)、アナトリア半島西部文化(紀元前3000~紀元前1200年頃)を含みます。ヘラディック文化の最終段階がミケーネ文化(紀元前1600~紀元前1100年頃)です。これらの文化化は土器様式や埋葬習慣や建築や芸術において異なる特徴を示します。しかし、これらの文化は手工業や農業(果実酒や油)の専門化、大規模な貯蔵施設や再流通体系の構築、宮殿、集約的交易、金属の広範な使用に関連する共通の革新を共有しています。

 青銅器時代エーゲ海で発展した経済的および文化的交流の増加は、資本主義や長距離政治条約や世界貿易経済など現代の経済体系の基礎を築きました。後期青銅器時代(LBA)には、線文字A(ミノア文化)と線文字B(ミケーネ文化)というエーゲ海地域最初の文字が出現しました。線文字Aはまだ解読されていませんが、紀元前1450年頃の線文字Bはギリシア語の最古の形態で、インド・ヨーロッパ語族内では最長の歴史が記録されている現存言語の一つです。これらの新規性は、都市化の初期形態を定義しており、伝統的に都市革命と「文明」の出現として記述されており、ヨーロッパ史の重要な事件を構成します。

 広範な考古学的データに基づいて、これらの文化の起源と発展に関するいくつかの仮説が提案されてきました。第一に、局所的革新を想定する見解で、変化は在来新石器時代集団の遺伝的および文化的継続に基づいていた、とされます。第二に、アナトリア半島とコーカサスからの前期青銅器時代(EBA)における新たな人口集団の移住を想定する見解です。第三に、前期青銅器時代の始まりにポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から到来したかもしれないインド・ヨーロッパ語族話者の影響を想定する見解です。

 ヨーロッパ中央部・北部・西部では、ほとんどの青銅器時代個体のゲノムは、在来の農耕民と在来の狩猟採集民(HG)の混合です(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。古代DNAデータは東方からの大規模な人口集団移動を明らかにし、コーカサス狩猟採集民構成要素とヨーロッパ東部狩猟採集民構成要素とを類似の割合でもたらしました(関連記事1および関連記事2)。これらの構成要素は、後期新石器時代および前期青銅器時代(紀元前2800年頃まで)におけるポントス・カスピ海草原人口集団の移住の波に起因するかもしれません(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最近、草原地帯関連祖先系統が青銅器時代のバルカン半島北部(ブルガリア)やバレアレス諸島やシチリア島(関連記事)で報告されましたが、サルデーニャ島では報告されませんでした(関連記事)。しかし、この草原地帯関連祖先系統が時間的もしくは地理的にヨーロッパ南東部にどれだけ拡大したのか、不明なままです。

 西洋「文明」台頭とインド・ヨーロッパ語族の拡大を理解するための重要性にも関わらず、エーゲ海の青銅器時代個体群の全ゲノムはまだ配列されていません。したがって、新石器時代から青銅器時代の移行の背後にある人々の遺伝的起源とギリシア現代人口集団への寄与については議論が続いています。現在のギリシアとアナトリア半島西部の新石器時代個体群の全ゲノム配列データはほとんど区別できず、エーゲ海全域に拡大した共通のエーゲ海新石器時代人口集団を裏づけます。

 コーカサス狩猟採集民関連祖先系統は後期新石器時代エーゲ海個体群と後期青銅器時代ミケーネ文化個体群と前期~中期青銅器時代(EMBA)ミノア文化個体群の一部に存在し(関連記事)、東方からの遺伝子流動の可能性を提起します。後期青銅器時代ミケーネ文化個体群も、ポントス・カスピ海草原もしくはアルメニアからの遺伝子流動に起因する祖先系統の証拠を示します(関連記事)。現代ギリシア人は、これら以前に報告されたミノア人およびミケーネ人とは遺伝的にかなり異なっている、と明らかになりましたが、この違いの原因は調査されていません。

 エーゲ海における新石器時代から青銅器時代の移行期のゲノムデータの不足により、ヨーロッパにおける青銅器時代の特定の側面を理解するための重要な問題が部分的に未解決となっています。そこで本論文は、以下の問題を検証します。第一に、青銅器時代への移行の契機となったエーゲ海人は同じ地域の新石器時代集団と関連しているのか、という問題です。第二に、ヘラディック・キクラデス・ミノアの青銅器時代文化間の遺伝的類似性はどのようなものだったのか、つまり、それらの文化の違いは人口集団構造を伴っていたのか、ミケーネ人のような後期青銅器時代人口集団とどのように関連していたのか、という問題です。第三に、一部の新石器時代および銅器時代アナトリア半島人で観察された東方(コーカサスもしくはイラン)祖先系統はエーゲ海人において青銅器時代まで存続したのか、そのような遺伝子流動の時期はいつだったのか、という問題です。第四に、ポントス・カスピ海草原からヨーロッパ中央部への大規模な移住はエーゲ海青銅器時代人口集団に影響を及ぼしたのか、もしそうならば、この遺伝子流動の時期はいつで、どの程度だったのか、という問題です。第五に、青銅器時代全体のエーゲ海個体群は同じ地域の現代ギリシア人とどのように関連しているのか、という問題です。

 これらの問題に答えて、エーゲ海青銅器時代の洗練された宮殿と都市センターの背後にある人口集団を特徴づけるため、前期青銅器時代4個体とキラディック文化期の2個体を含む、青銅器時代エーゲ海人の全ゲノムが生成されました(図1)。表現型予測に既存の手法を用いて、標準的な人口集団ゲノム手法を適用し、古代と現代の人口集団間の関係が特徴づけられます。新石器時代および銅器時代から現代までのエーゲ海の人口統計を推測するため、全ゲノムデータが活用され、古代ゲノムに特徴的な典型的な網羅率の低さと損傷と現代人の汚染を考慮して拡張した、ABC-DLと呼ばれる深層学習と組み合わせた近似ベイズ計算の手法(関連記事)が利用されました。以下は本論文の図1です。
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●資料

 新たに青銅器時代エーゲ海の6個体分のゲノムデータが得られ、網羅率は2.6~4.9倍(平均3.7倍)でした。内訳は、ユービア(Euboea)島(エヴィア島、エウボイア島)のマニカ(Manika)遺跡の前期青銅器時代ヘラディック文化期の1個体(Mik15)、クレタ島のケファラ・ペトラス(Kephala Petras)埋葬岩陰遺跡の前期青銅器時代ミノア文化期の1個体(Pta08)、コウフォニッシ(Koufonisi)島の前期青銅器時代キクラデス文化期2個体(Kou01とKou03)、ギリシア本土北部のエラティ・ログカス(Elati-Logkas)遺跡の中期青銅器時代2個体(Log02とLog04)です。

 これらの個体は、ヘラディックマニカEBA(Mik15)、ミノアペトラスEBA(Pta08)、キクラデスコウフォニッシEBA(Kou01とKou03)、ヘラディックログカスMBA(Log02とLog04)と呼ばれます。さらに、4個体(Mik15とPta08とKou01とKou03)はまとめてEBAエーゲ海人、2個体(Log02とLog04)はMBAエーゲ海人と区別されます。同様に既知の個体群も分類されます(表1)。さらに、11個体のミトコンドリアゲノムも得られました。


●異なる文化的背景のEBAエーゲ海全域におけるゲノムの均一性

 エーゲ海の青銅器時代個体群の全体的なゲノム規模の遺伝的関係は、古代および現代のユーラシア人口集団の文脈で調べられました。EBAのヘラディック・キクラデス・ミノアは、それぞれ異なる文化にも関わらず、全ての分析で個体群のゲノムは類似しています。外群f3統計(ヨルバ人、Y、X)では、Xが現代の人口集団、Yが本論文の古代人で、ヘラディックマニカEBA(個体Mik15)とミノアペトラスEBA(個体Pta08)とキクラデスコウフォニッシEBA(個体Kou01とKou03)は類似の特性を有すると示され、ヘラディックログカスMBA(個体Log02とLog04)とは対照的です。

 EBAエーゲ海人(個体Mik15とPta08とKou01とKou03)はヨーロッパ南部現代人、とくにサルデーニャ島現代人とより高い遺伝的類似性を示します。古典的なMDS(多次元尺度構成法)分析では、個体間の遺伝的非類似性は、EBAエーゲ海個体群(Mik15とPta08とKou01とKou03)とMBA個体群(個体Log02とLog04)がf3特性と一致して2集団を形成します(図2)。これらの結果と一致して、ADMIXTUREにより推定された祖先系統の割合(K>2)からは、EBAエーゲ海人は遺伝的に相互に類似しており、MBAエーゲ海人とは異なる、と示唆されます(図3)。以下は本論文の図2です。
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 他の古代ユーラシア人口集団と比較して、EBAエーゲ海人は他のエーゲ海BAおよびアナトリア半島人口集団と類似していますが、全てのバルカン半島人口集団とはかなり異なります。たとえばMDS分析では、EBAエーゲ海人はミノア文化ラシティ(Lasithi)遺跡MBA人口集団やミケーネ文化ペロポネソスLBA人口集団やアナトリア半島のテペシク・シフトリク(Tepecik_Ciftlik)遺跡のようなアナトリア半島人口集団の範囲内に収まるか、その近くに位置します(図2)。同様に、ADMIXTURE分析では、EBAエーゲ海人は、ミノアEMBAやアナトリア半島クムテペ遺跡集団やアナトリア半島の銅器時代からEMBAの人口集団など、他のエーゲ海人口集団と類似の祖先系統割合を示します(図3)。

 エーゲ海と一部のアナトリア半島の文化全体におけるEBA集団のゲノム均一性から、エーゲ海人口集団は文化的だけではなく遺伝的にも相互作用する海上1経路を用いた、と示唆されるかもしれません。これは、考古学的水準ではよく報告されており、「エーゲ海の国際精神」と呼ばれてきた、エーゲ海の通交の強力なネットワークの結果だったかもしれません。さらに、ミノアペトラスEBA(個体Pta08)とキクラデスコウフォニッシEBA(個体Kou01とKou03)との間の高い遺伝的類似性を考えると、ゲノムデータとキクラデス諸島からクレタ島への居住地の形成と関連する議論に情報を提供します。以下は本論文の図3です。
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●EBAエーゲ海人の祖先系統構成要素

 ADMIXTUREの結果は、EBAエーゲ海人口集団がおおむね新石器時代エーゲ海人と共有される祖先系統で構成されている(65%超)一方、残りの祖先系統のほとんどはイラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民関連人口集団に割り当てることができる(17~27%)、と示唆します(図3)。これらの結果は、qpWave/qpAdmで再現されました。初期新石器時代人口集団と狩猟採集民人口集団を起源とみなすと、EBA個体群は一般的に、アナトリア半島新石器時代関連人口集団に由来する祖先系統が大半であること(69~84%)と一致する、と明らかになりました。これは、新石器時代から青銅器時代の移行期の人々が、おもに先行するエーゲ海農耕民の子孫だったことを示唆しており、EBA変容の考古学的理論と一致します。qpWave/qpAdmにおける第二の構成要素は、イラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民関連人口集団に割り当てることができます(16~31%)。この結果と一致して、MDS分析(図2)では、エーゲ海EBA個体群は新石器時代エーゲ海人とイラン新石器時代・コーカサス狩猟採集民(CHG)を結ぶ軸(コーカサス軸)に位置します。

 エーゲ海の外部からの遺伝子流動事象をさらに検証するため、D統計が計算されました。とくに、H3人口集団、たとえばADMIXTUREでは青色の構成要素のイラン新石器時代もしくはCHG(図3)が、H1(アナトリア半島新石器時代人口集団)と、もしくはさまざまな期間のエーゲ海・アナトリア半島人口集団(ギリシア新石器時代やエーゲ海・アナトリア半島青銅器時代やギリシアとキプロスの現代人=H2)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有するのか、古代エチオピアのモタ(Mota)個体(関連記事)を外群Dとして用いて、検証されました。

 その結果、EBAエーゲ海人は相互に類似している、と明らかになりました。EBAエーゲ海人は、他の分析(図3)では「イラン新石器時代・CHG的」構成要素を有していますが、イラン新石器時代もしくはCHGからの遺伝子流動の統計的に有意な証拠は検出されませんでした。しかし、明らかな傾向からは、紀元前4000年以後のエーゲ海人(アナトリア半島銅器時代からミケーネ文化期)は、アナトリア半島新石器時代集団とよりも、イラン新石器時代・CHGの方とより多くのアレルを共有します。

 この傾向はADMIXTUREの結果(図3)で再現され、CHG的構成要素の低い割合が新石器時代以降に、バルカン半島ではなく、エーゲ海とアナトリア半島の両側の個体群で観察されました。このCHG的構成要素は、たとえばボンクル(Boncuklu)やテペシク・シフトリク遺跡などアナトリア半島の初期新石器時代や、エーゲ海の後期新石器時代や、アナトリア半島青銅器時代において頻度が増加していきます。これはバルカン半島では見られず、新石器時代から青銅器時代への移行は、「ヨーロッパ狩猟採集民的」祖先系統の増加とほぼ関連しています(図3)。

 競合するシナリオを比較し、新石器時代と青銅器時代と現代のギリシアの人口史をともに説明しながらエーゲ海への起こり得た遺伝子流動事象の状態と速度を推測するため、ABC-DLが実行されました。狩猟採集民とエーゲ海新石器時代集団との間の関係を確定するため、まずこれら3祖先人口集団(CHG、ヨーロッパ狩猟採集民、エーゲ海新石器時代集団)の3葉モデル(図4A)が対比されました。この分析では、ヨーロッパ狩猟採集民(EHG)・CHG・エーゲ海新石器時代集団の3葉モデルの事後確率が最高でした(図4A1)。この結果は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とよりも、CHGとドイツのシュトゥットガルトの「初期農耕民」との間の密接な関係を明らかにした以前の研究と一致します。

 この系統樹はより複雑な7葉モデル(図4B)に用いられました。上記の全結果と一致して、CHG的な遺伝子流動の波がない7葉モデル(図4 B1~3)は、より低い事後確率と関連していました。対照的に、CHG的な遺伝子流動を含むモデル化は、紀元前5700年頃の推定16%の遺伝子流動モデルで、ずっと高い裏づけが得られました(図4 B4)。まとめると、これらの結果から、CHGと関連する人口集団が移住を通じてエーゲ海人に直接的に影響を及ぼしたか、CHG的構成要素が新石器時代集団のアナトリア半島人口集団との遺伝的交換を通じて間接的にもたらされた、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●エーゲ海EBA集団においてほとんど見られないEHGの遺伝的影響

 青銅器時代のヨーロッパ中央部・西部・北部では、CHG構成要素は一般的にEHG構成要素を伴い、これは、草原地帯関連人口集団を介して伝わった場合、同様の割合で現れると予測されます。対照的に、EBAエーゲ海人はEHG祖先系統をほとんど若しくは全く有していません。D統計分析に基づくと、ほとんどのEBAエーゲ海人とアナトリア半島新石器時代集団のゲノムはEHGに等しく近くなることを却下できません。さらに、qpWave/qpAdmにおける潜在的な3起源集団を検討すると、EBA個体群の祖先系統の割合は、EHGがわずか1~8%に対して、CHGは24~25%です。

 これは、ADMIXTUREの結果(図3)によりさらに裏づけられ、新石器時代からEBAへの変化が、エーゲ海およびアナトリア半島におけるイラン新石器時代・CHG的祖先系統の増加とほぼ関連している一方で、バルカン半島とヨーロッパの残りの地域はEHG的祖先系統の増加とほぼ関連している、と示唆されます(図3)。EBAエーゲ海人の祖先へのEHGの遺伝子流動を含む全てのABC-DLモデル(図4B5・6)は、無視できる事後確率でした。まとめると、これらの結果は、エーゲ海のEBAにおいてEHGと関連する人口集団の影響がほとんどなく、コーカサス構成要素が独立してエーゲ海に到来したことを示唆します。


●エーゲ海MBAにおけるゲノムの不均質性

 EBAと比較してMBAには、エーゲ海でかなりの多くの人口集団構造が観察されます。ギリシア北部のMBA個体群は、全ての分析で見られるように、EBAエーゲ海人とはかなり異なります。たとえばf3分析では、EBAエーゲ海人とは異なり、MBA個体群はヨーロッパ全域のずっと多くの人口集団と遺伝的に等しく離れています。MDS分析(図2)とADMIXTURE分析(図3)では、MBA個体群はEBAエーゲ海人と異なる分離集団を形成し、現代ギリシア人と同じ構成要素を共有します。対照的に、ミノア文化ラシティMBAは、EBAエーゲ海人口集団とひじょうによく似ています(図2・図3)。

 ヘラディックログカスMBAを同時代のミノアラシティMBAと区別する主要な特徴は、「ヨーロッパ狩猟採集民的」祖先系統のより高い割合です。たとえばADMIXTURE分析では、全体的なヘラディックログカスMBAの祖先系統の26~34%が「ヨーロッパ狩猟採集民的」構成要素で、エーゲ海のEBA個体群で見られる2~6%の4倍以上です(図3)。同様にqpWave/qpAdmでは、ヘラディックログカスMBA個体(Log04)は3方向混合モデルと一致し、その祖先系統の58%がエーゲ海新石器時代人口集団で、残りはCHG的集団(16%)とEHG的集団(27%)です。これは、EBAエーゲ海人と比較すると、EHGからの寄与がずっと大きくなっています。

 EHGとCHGは草原地帯関連人口集団の主要な構成要素で、草原地帯EMBAはEHG的集団(66%)とイラン新石器時代・CHG的集団(34%)としてモデル化され、以前の研究と一致しているので、ポントス・カスピ海草原からの人口集団がヘラディックログカスMBA個体群の祖先系統に寄与した、という仮説が裏づけられます。この組み合わされた祖先系統は、青銅器時代のヨーロッパ中央部・西部・北部の個体群で観察され、「大規模な」草原地帯からの移住の結果として解釈されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文のADMIXTURE分析の推定値は、バルカン半島を含むヨーロッパのほとんどの地域で、後期新石器時代とEBAにおけるEHG構成要素の増加と一致します。しかしアナトリア半島では、EHG的祖先系統の増加は誤差で、エーゲ海では後のMBA(ヘラディックログカスMBA)でやっと見られるようになり、エーゲ海における草原地帯関連祖先系統のより遅い到来が示唆されます。

 このような草原地帯からの遺伝的寄与の証拠は、たとえばMDS分析(図2)で見られ、ヘラディックログカスMBAは、新石器時代エーゲ海人と草原地帯人口集団を結ぶ「草原地帯軸」上に位置しています。ADMIXTURE分析(図3)では、ヘラディックログカスMBAは、草原地帯EMBAと類似した相対量の「イラン新石器時代・CHG的」構成要素(1/3)と「EHG的」構成要素(2/3)を有しています。また、新石器時代とEBAのエーゲ海人およびアナトリア半島人やミノアラシティMBAとは異なり、ヘラディックログカスMBAはアナトリア半島新石器時代集団と比較して、CHGや EHGや草原地帯EMBAと顕著により多くのアレルを共有します。さらに、ヘラディックログカスMBAの個体Log04は、アナトリア半島新石器時代集団(53%)と草原地帯EMBA (47%)もしくはアナトリア半島新石器時代集団(38%)と草原地帯MLBA (62%)の2方向混合(近似起源)として直接的にモデル化でき、草原地帯からの強い遺伝的寄与と一致します。

 人口統計モデル化では、MBAの分岐前の、草原地帯EMBAと関連するゴースト人口集団からの遺伝子流動(8~45%)が、データへのモデルの適合性を大きく改善します(図4B1・4)。ヘラディックログカスMBAの祖先へのそうした遺伝子流動の時期は、ログカス遺跡個体群の放射性炭素年代に基づくと紀元前1900年頃までに起きたはずで、ABC-DL分析では紀元前2300年頃と推定されます。これは、草原地帯的集団の移住の波がMBAまでにエーゲ海に到達した可能性を示唆します。サルデーニャ島には草原地帯関連祖先系統が本質的に欠けており(関連記事1および関連記事2)、ミノア人で草原地帯的もしくはEHG的祖先系統の証拠はないので、草原地帯関連人口集団が青銅器時代には渡海しなかったことを示唆しているかもしれません。この仮説の裏づけとして、考古学的記録では、ポントス・カスピ海草原からの青銅器時代人口集団が航海民だったことを示唆していません。

 しかし、ログカス遺跡個体群で観察された草原地帯的祖先系統は、ポントス・カスピ海草原起源の人口集団の移住により直接的に、もしくはかなりの草原地帯的集団からの遺伝子流動を有する人口集団により間接的にもたらされたかもしれないことに、注意が必要です。あるいは、草原地帯的構成要素は、標本抽出されていない、遺伝的に類似の人口集団(たとえば、MBAバルカン半島人)によりもたらされた可能性があります。間接的寄与は、エーゲ海よりもバルカン半島で草原地帯関連祖先系統のより早期の影響を示唆するADMIXTURE分析の推定値と、バルカン半島LBA 個体群を含む2方向混合としてのMBA個体 Log04のqpWave/qpAdmモデル化により裏づけられます。この知見は、青銅器時代におけるバルカン半島と草原地帯の人口集団間の断続的な遺伝的接触の示唆(関連記事)、および紀元前2500年頃のヨーロッパ南東部とポントス・カスピ海草原間の文化的接触の考古学的証拠と一致します。さらにこれは、草原地帯的祖先系統を有する人口集団がヘラディック文化の形成に寄与した、という考古学と言語学両方の証拠に基づく以前の仮説と関連しているかもしれません。


●性的に偏った遺伝子流動とEBAおよびMBAにおける交雑

 青銅器時代エーゲ海人の間の性的に偏った遺伝子流動を評価するため、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体とX染色体が分析されました。17個体の推定mtDNAハプログループ(mtHg)と2個体のY染色体ハプログループ(YHg)はヨーロッパ新石器時代個体群で一般的であり、エーゲ海の外部からの性的に偏った遺伝子流動の明確な証拠を示しません。YHgが決定されたのはペトラス遺跡のEBA個体Pta08とコウフォニッシ島のEBA個体Kou01で、Pta08がYHg-G2(L156)、Kou01がYHg-J2a(M410)です。

 性的に偏った遺伝子流動をさらに調べるため、X染色体と常染色体上の祖先系統が教師有ADMIXTURE分析と比較されました。EBAエーゲ海人では性的に偏った遺伝子流動の証拠は見つからず、イラン新石器時代・CHG的祖先系統の点推定値は常染色体上のそれと重なっていました(図5A)。対照的に、MBAエーゲ海人では、個体Log04はX染色体と常染色体上で草原地帯的祖先系統の類似した量を有していますが、個体Log02は草原地帯的祖先系統を、X染色体上では有さないのに対して、常染色体上では25~52%有します(図5B)。

 さらに、mtDNAでは、ギリシア北部のEBAとMBAのエーゲ海人の間で有意な人口集団構造が見つかりませんでした。まとめると、X染色体とmtDNAにおけるこれらのパターンは、草原地帯的祖先系統からエーゲ海への男性に偏った遺伝子流動により説明できます。同様に、以前の研究(関連記事1および関連記事2)では、ヨーロッパの後期新石器時代とEBAにおけるポントス・カスピ海草原人口集団の移住では、女性よりも男性の方がずっと多かったかもしれない、と示唆されています。以下は本論文の図5です。
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 EBAおよびMBAにおける結婚慣行に関する遺伝的手がかりをさらに得るため、現代ギリシア人と本論文で新たに提示された青銅器時代エーゲ海6個体の全ゲノムにおける、ROH(runs of homozygosity)とも呼ばれるホモ接合状態の隣接するゲノム領域が推測されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。個体Log04は、他の古代の個体群より多くて(最大で29対7)長いROH(500万塩基対以上のROHが2ヶ所)を有しています。最近の近親交配を含むさまざまな進化的・人口統計学的過程が、Log04のデータを説明できます。いずれにせよ、Log02は同様に長いROHを有しておらず、Log04のデータの根本的な原因はヘラディックログカスMBAを一般的に特徴づけるものではない可能性がある、と示唆されます。


●LBAミケーネ人の遺伝的構成

 青銅器時代最後の段階は、後期ヘラディック文化であるミケーネ文化です。紀元前1200年頃、ミケーネ文化は衰退し始め、宮殿は破壊され、線文字Bは放棄され、その芸術や工芸品は滅びました。その衰退の原因については議論が続いており(気候変化や侵略など)、LBAから鉄器時代にかけて地中海東部地域で起きた広範な諸文化・勢力の崩壊・衰退には複雑な要因があった、とも指摘されています(関連記事)。以前の研究(関連記事)では、ミケーネ人は現代の人口集団とはかなり異なっていると示されましたが、ミケーネ人とEBA人口集団との関係は不明なままです。

 ヘラディックログカスMBA個体群との文化的類似性にも関わらず、分析結果からは、ミケーネとペロポネソスのLBA集団は遺伝的にかなり異なっており、MDS分析(図2)ではログカスMBA個体群とEBAエーゲ海人およびミノアラシティMBAとの中間に位置する、と示されます。ログカスMBA個体群とは異なり、ミケーネとペロポネソスのLBA集団はADMIXTURE分析(図3)ではEHG的構成要素の割合がより低く、D統計においては、アナトリア半島新石器時代個体群と比較して、イラン新石器時代・CHGもしくはEHGと有意により多くのアレルを共有しているわけではありません。

 しかし、ヘラディックログカスMBAのように、ミケーネとペロポネソスのLBA集団は草原地帯EMBAとより多くのアレルを共有します。ミケーネとペロポネソスのLBA集団は、青銅器時代草原地帯もしくはアルメニア関連人口集団のどちらかを含むqpWave/qpAdmモデルと一致する、と以前に示されました(関連記事)。本論文はこの結果を再現し、さらに、ミケーネとペロポネソスのLBA集団も、起源人口集団としてEBAエーゲ海人とアナトリア半島新石器時代集団を含むモデルと一致する、と明らかにしました。対照的に、ヘラディックログカスMBAは草原地帯的起源集団を必要とし、アルメニア的起源集団を含む単純なモデルで説明できません。

 データと一致するさらなる代替的説明もあります。まず、ミケーネとペロポネソスのLBA集団はMBAログカス人口集団およびEBAエーゲ海人口集団と密接に関連した人口集団の子孫で、ヘラディックログカスMBA(21~36%)とミノアオディギトリア(Odigitria)EMBA およびミノアラシティMBA(64~79%)の2方向混合だった、というものです。同様に、ヘラディックログカスMBA個体Log04(34~36%)とEBAエーゲ海人(64~66%)の2方向混合も却下できません。次に、アルメニア青銅器時代集団と関連する人口集団が、LBAもしくはその前に地理的に局所的にエーゲ海人に寄与したかもしれません。この想定は考古学の文献で提案されており、ミケーネ人は後の世代の個体群に多くの遺伝的痕跡を残さなかった、と示唆されます。


●現代ギリシア人とMBAログカス集団との類似性

 以前の研究(関連記事)では、ギリシアの現代人口集団はエーゲ海の青銅器時代の後期集団とはかなり異なる、と明らかになりました。対照的に、本論文の結果からは、ギリシアの現代の個体群(ギリシア北部のテッサロニキとクレタ島)は、ギリシア北部のヘラディックログカスMBA個体群と密接に関連しており、MDS分析(図2)では現代ギリシア人の近くに位置し、ADMIXTURE分析(図3)では同じ祖先系統構成要素を共有し、ひじょうに類似したD統計を有します。

 さらに、qpWave/qpAdm分析では、テッサロニキ(Thessaloniki)個体群はログカスMBA個体群関連祖先系統(93~96%)と、EHGもしくはヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の38700~36200年前頃となる若い男性個体(関連記事)のようなユーラシア上部旧石器時代人口集団といった、第二構成要素(4~11%)の小さな割合でモデル化できます。後者はエーゲ海人のゲノムから離れた外群を構成する基底部人口集団で、本論文の全検証で互換性があるようです。これは、ギリシア北部とクレタ島の現代人口集団がエーゲ海EBA人口集団の子孫かもしれず、ポントス・カスピ海草原EMBAと関連する人口集団とのその後の混合を伴う、と示唆します。興味深いことに、キプロス島現代人は分析全体で草原地帯的な遺伝子流動の証拠を示しません(図2・3)。


●色素沈着と乳糖耐性

 遺伝子型データを用いると、個体Pta08・Kou01・Log02は茶色の目と暗褐色から黒色の髪と濃い色の肌を有している、と予測されます。これらの予測は、髪と目については、ミノア文化期クレタ島の壁画の男性個体群の視覚表現と一致します。目と髪の色の予測は、青銅器時代エーゲ海の後期段階集団と類似しています。これら3個体(Pta08・Kou01・Log02)全ての全体的な予測は濃い肌の色ですが、この3個体にはより薄い肌の色と強く関連するアレル(SLC24A5遺伝子のrs1426654とSLC45A2遺伝子のrs16891982)もあります。後者に関しては、ヨーロッパ南部の新石器時代以来、皮膚の色素脱失が分離している、という観察結果と一致します。

 成人期の乳糖不耐症は、2ヶ所の強く関連する多様体、つまり古代および現代のヨーロッパ人で選択下にあるrs4988235のTアレル(13910T)と、rs182549のAアレル(22018A)で検証されました。これら3個体(Pta08・Kou01・Log02)全員とログカスMBA個体は、13910T と22018Aの両方でホモ接合型の祖先的状態を有していました。これは、新石器時代ヨーロッパ人およびエーゲ海人に関する以前の研究(関連記事)と一致し、酪農がすでによく行なわれていたものの、当時の人々は乳糖不耐症だった、と示唆されます。この観察は、種や表現型全体で広く観察されているように、変異限定適応のモデルを裏づけます。最近の研究では、ヨーロッパにおける乳糖耐性(ラクターゼ活性持続)の急激な頻度上昇は紀元前4000~紀元前1500年前頃の間に起きた可能性が高い、と推測されています(関連記事)。


●まとめ

 EBAにおいて、エーゲ海では交易・手工業の専門化・社会構造・都市化で重要な革新が起きました。新石器時代の終わりを示すこれらの変化は、ヨーロッパに消えない痕跡を残し、都市革命の始まりを示します。この文化的変化の始まりにおいて、エーゲ海世界はおもに、3つの象徴的な宮殿文化であるヘラディックとキクラデスとミノアに分かれていき、それぞれ手工芸品や土器様式や埋葬習慣や建築により区別されます。

 この変化の背後にある人々の起源をよりよく理解するため、エーゲ海青銅器時代の3文化(ヘラディックとキクラデスとミノア)全てを網羅するEBA個体群のゲノムと、ギリシア北部のMBAの2個体と、EBAエーゲ海人11個体のミトコンドリアゲノムが配列されました。青銅器時代エーゲ海人の後の期間の以前の一塩基多型データと比較して、本論文の全ゲノムデータによる多様体の数の増加と、全ゲノムを特徴づける固有の無作為多様体選択により、人口統計学的推論と人口史の統計的対比が行なわれました。さらに、本論文で新たに提示された全ゲノムデータは、どのゲノムデータとも容易に組み合わせられ、人口史の将来の研究における多様体の損失は限定的です。エーゲ海人の分析されたゲノムが青銅器時代のキクラデス文化とミノア文化とヘラディック文化を全体としてどの程度表しているのか確定するには、今後の研究が必要なことに注意しなければなりません。

 要約すると、青銅器時代のキクラデス文化とミノア文化とヘラディック文化(ミケーネ文化)の個体群のゲノムからは、これら文化的に異なる人口集団が、青銅器時代の始まりにはエーゲ海とアナトリア半島西部全域で遺伝的に均質だった、と示唆します。EBA個体群のゲノムから、その祖先系統は在来のエーゲ海農耕民が主で、CHGと関連する人口集団にも由来する、と示されます。これらの知見は、新石器時代から青銅器時代の変化に関する長年の考古学的理論、つまりアナトリア半島とコーカサスからの新たな移住と一致します。しかし、在来の新石器時代人口集団の寄与は顕著なので、在来要素と外来要素の両方がEBAの革新に貢献したようです。

 対照的に、MBAエーゲ海人口集団はかなり構造化されていました。こうした構造の考えられる一因は、エーゲ海人への追加のポントス・カスピ海草原関連の遺伝子流動で、その証拠は新たに配列されたMBAログカス個体群のゲノムに見られます。草原地帯関連祖先系統も有する現代ギリシア人は、その祖先系統の90%をMBAエーゲ海北部人と共有しており、現代とMBAとの間の継続性が示唆されます。対照的に、LBAエーゲ海人(ミケーネ人)は、希釈された草原地帯もしくはアルメニア関連祖先系統を有しています。この相対的な不連続性は、考古学的文献で以前に提案されたように、ミケーネ文化の一般的な衰退により説明できます。

 推測された移住の波は全て、線文字Bの出現(紀元前1450年頃)に先行します。結果として、ゲノムデータは祖型ギリシア語の出現とインド・ヨーロッパ語族の進化を説明する主要な両方の言語学理論を裏づけます。つまり、これらの言語はアナトリア半島に起源があるか(アナトリア半島およびコーカサス的遺伝的祖先系統と相関します)、ポントス・カスピ海草原地域に起源があります(草原地帯的祖先系統と相関します)。アルメニアおよびコーカサス地域の中石器時代から青銅器時代の将来のゲノムデータは一般的に、エーゲ海への遺伝子流動の起源と様相をさらに正確に示し、ゲノムデータを既存の考古学および言語学的証拠とよりよく統合するのに役立つ可能性があるでしょう。


参考文献:
Clemente F. et al.(2021): The genomic history of the Aegean palatial civilizations. Cell, 184, 10, 2565–2586.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.03.039

大河ドラマ『青天を衝け』第14回「栄一と運命の主君」

 平岡円四郎から一橋家への士官を誘われた栄一と喜作は、返答を保留します。喜作は徳川方への士官となるので反対しますが、栄一はこのままむざむざ死ぬよりは仕えた方がよい、と主張します。栄一は士官にさいして徳川慶喜への建白書提出と直答を要求します。この頃、慶喜は横浜鎖港問題などで多忙のため、さすがに栄一や喜作と面会する時間もなく、平岡は慶喜の外出時に姿を見せるよう、栄一と喜作に提案します。こうして、栄一と喜作は慶喜と出会い、拝謁を許されます。

 数日後、栄一と喜作は屋敷で慶喜に拝謁し、栄一は志士を広く集めるよう、提言します。しかし、栄一は熱く語るものの、慶喜は冷ややかです。平岡は栄一と喜作に慶喜の置かれた立場と人となりを説き、喜作は慶喜に興味を持ち、栄一はこれまでの世界観が揺らいだことに衝撃を受けます。一橋家に出仕するようになった栄一と喜作は、慣れない仕事と金欠に苦しみつつ、日々を懸命に過ごします。慶喜は参預会議で島津久光たちと対立し、幕府を守る決意を松平慶永に伝えます。栄一との出会いが慶喜を後押しした、というわけでもないのでしょうが、慶喜の本格的な政治行動が描かれるようになり、栄一が慶喜に仕えて、話が大きく動き始めました。今回も幕末の複雑な政治情勢が描かれましたが、徳川家康の解説もあり、なかなか分かりやすくなっていたように思います。

イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化

 イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化に関する研究(Saupe et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。イタリアの銅器時代(紀元前3600~紀元前2200年頃)は新石器時代(紀元前7000~紀元前3600年頃)と青銅器時代(紀元前2200~紀元前900年頃)の間となり、さまざまな金属資源の新たな道具の開発により特徴づけられ、集団的から個人的なものへの移行、個人的な威信を示す副葬品といった埋葬慣行など、大きな文化的変化に続きました。

 古代DNA研究は、狩猟採集から農耕など、物質文化の変化と一致する人口集団の遺伝的特性における大きな変化の発生を浮き彫りにしてきました(関連記事1および関連記事2)。銅器時代(CA)から青銅器時代(BA)の移行期の初めとなる5000年前頃、ユーラシア草原地帯の人々がヨーロッパに到来し、在来人口集団とさらに混合しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これらの事象はヨーロッパのほとんどで広く研究されてきており(関連記事1および関連記事2)、イタリア半島(関連記事)やサルデーニャ島(関連記事)やシチリア島(関連記事)の古代ゲノムに関しては多くの研究がありますが、イタリア半島における銅器時代と前期青銅器時代の人口動態はまだよく特徴づけられていません。

 以前の研究では、紀元前2300年頃以後にイタリア北部とシチリア島に草原地帯関連祖先系統構成要素が到来した、と示されていますが、紀元前1900~紀元前900年頃の年代的間隙が存在し、イタリア中央部における草原地帯関連祖先系統の到来についてはほとんど知られていません。さらに、利用可能なデータは、紀元前900年以後のサルデーニャ島で検出されたイラン新石器時代関連構成要素を示しますが(関連記事1および関連記事2)、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイラン新石器時代農耕民との類似性が、イタリア中央部新石器時代個体群(関連記事)と中期青銅器時代シチリア島個体群(関連記事)に存在し、その割合は現代イタリア人より低くいと示されています(関連記事)。

 しかし、シチリア島における青銅器時代個体群のCHGとの類似性はf4統計により裏づけられるものの、新石器時代個体群のCHG流入の証拠はさほど堅牢ではありません。さらに、いくつかの例外を除いて(関連記事1および関連記事2)、以前の調査は、これらの事象と関連する社会動態(たとえば、先史時代社会における親族関係構造の評価)に焦点を当てる問題を犠牲にして、おもに祖先的関係の説明もしくは人口集団の移動と混合の推測に焦点を当ててきました。

 古代DNAは、過去の社会的構造と繁殖行動の推測に役立ちます。ヨーロッパの新石器時代(N)では、いくつかの研究で父系社会組織の広範な文化的つながり(関連記事)が、また青銅器時代への移行期には、大規模で性的に偏った移住(関連記事)や、父方居住と女性族外婚(関連記事1および関連記事2)や、文化拡散と移住の影響が検出されています(関連記事)。これらの変化の社会的影響はまだ議論されていますが、文化的変化は適応に影響を及ぼす可能性があり、たとえば、技術の変化は食性の変化につながり、代謝遺伝子への選択圧につながります。

 これまで、銅器時代から青銅器時代の移行期におけるイタリア中央部の社会的構造や、文化的慣行の変化(親族関係や父方居住や族外婚)の変化が草原地帯関連祖先系統到来と相関しているのかどうか、まだ調べられていません。これは、イタリア銅器時代には多種多様な埋葬慣行が存在するものの、それらが多くの場合、混合された遺骸の集団埋葬により特徴づけられる、という事実に部分的に起因するかもしれません。これにより、埋葬集団の人類学的分析および親族関係と社会的構造に関する解釈が困難になりました。しかし、高処理能力古代DNA配列により、多数の骨格遺骸の遺伝的検査と、関節離断した遺骸からの個体の復元が可能になりました。

 ヨーロッパ大陸部の人口史理解の再形成に加えて、ヨーロッパの古代ゲノムの分析は、ヨーロッパにける表現型形質の選択の時間的深さに関する仮説に疑問を呈しています。たとえば、古代DNA研究では、ヨーロッパの中石器時代狩猟採集民は濃い肌の色と青い目の色を有していた(現在では稀な組み合わせです)可能性があり(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、肌の色素沈着の選択が過去5000年に起きた、と明らかにしてきました。他の最近の研究では、脂肪酸代謝およびデンプン消化と関連する遺伝子内の選択は、農耕移行期に起きたのではなく、ヨーロッパへの草原地帯関連祖先系統の到来に続く紀元前2000年頃に始まり、草原地帯関連祖先系統構成要素自体が動因だったかもしれない、と示唆されています。

 もう一つの未解決の問題は、ヒトゲノムの形成における病原体の役割で、古代DNAを用いて調査が始まりつつあります。一つの特定の病原体であるハンセン病は、青銅器時代の地中海で古病理学的証拠が最初に見られ、紀元前300年頃までにイタリア中央部および北東部での症例が指摘されています。ハンセン病は後にローマの軍事行動により拡大し、ヨーロッパでは中世前期に増加した可能性がありますが、紀元後15世紀までには減少し、この減少におけるヒトの遺伝的適応の役割は不明です。最近古代DNA研究で発見されたものも含めて(関連記事)、感染の発現と進行に関連する遺伝子座は多く存在します。本論文は古代DNAを用いて、イタリア北東部および中央部の銅器時代と青銅器時代の移行以前およびその期間を通じての祖先系統構成要素の多様性と、草原地帯関連祖先系統の変化が推定される社会的構造および/もしくは表現型特性の変化と相関しているのかどうか、調査します。


●資料

 新たに得られたイタリアの古代DNAデータは、ネクロポリス(巨大墓地)のガットリーノ(Necropoli di Gattolino)と、3ヶ所の洞窟から得られました。3ヶ所の洞窟とは、北東部のブロイオン洞窟(Grottina dei Covoloni del Broion)、中央部のラサッサ洞窟(Grotta La Sassa)とマルゲリータ洞窟(Grotta Regina Margherita)です(図1A)。合計で22個体の古代DNAデータが得られました。内訳は、ブロイオン洞窟が銅器時代(CA)4個体と前期青銅器時代(EBA)2個体と青銅器時代(BA)5個体の計11個体、ガットリーノ洞窟が銅器時代4個体、マルゲリータ洞窟が青銅器時代3個体、ラサッサ洞窟が銅器時代4個体です。これらの平均網羅率は0.0016~1.24倍です。

 これら22個体の年代は、ヒト遺骸と共伴した土器破片や金属器などの考古学的証拠と、22個体のうち12個体の直接的な放射性炭素年代に基づいています(図1B)。直接的な放射性炭素年代のない10個体のうち、個体BRC013の年代は、1親等(おそらくは兄弟)の直接的に放射性炭素年代測定された個体(BRC022)に、女性の平均的な繁殖期間(30年)を組み合わせて推測できます。しかし、他の9個体に関しては、考古学的情報と遺伝学的情報の両方を考慮して、最も節約的な区分に割り当てられました。以下は本論文の図1です。
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●新石器時代から鉄器時代のイタリアの遺伝的構造

 イタリアの銅器時代と青銅器時代の個体群を他の古代および現代のヨーロッパ人口集団と比較するため、主成分分析が実行され、古代の標本群がユーラシア現代人1471個体の遺伝的多様性に投影されました(図2A)。新たに生成された標本は、2つの主要なクラスタに分散しています。それは、青い円のヨーロッパ新石器時代(EN)と、赤い円の新石器時代後(PN)です、前者は、ラサッサCA(銅器時代)とガットリーノCAとブロイオンCAを含み、後者はマルゲリータとブロイオンの前期青銅器時代(EBA)および青銅器時代(BA)標本を含みます。

 興味深いことに、文献から利用可能な新石器時代と銅器時代と青銅器時代のイタリアの標本のほとんどはENクラスタ内に収まりますが、PNクラスタはほぼ鉄器時代(IA)標本群が中心で、既知の何点かのBA個体を含みます。これは、現時点で利用可能なイタリアBA標本群のほとんどがサルデーニャ島とシチリア島に由来し、この2島では草原地帯関連祖先系統構成要素の減少が報告されてきた、という事実と一致します(関連記事1および関連記事2)。これはDyStruct分析により確認され(図2B)、銅器時代から青銅器時代のサルデーニャ島とシチリア島の個体群における高いアナトリア半島新石器時代(N)構成要素も示します。

 ENクラスタ内の分離(図2A)は明確に、アナトリア半島およびヨーロッパ東部新石器時代個体群(右側)をヨーロッパ西部新石器時代個体群と区別し、それはドイツ西部の標本群(左側に位置し、ヨーロッパ西部狩猟採集民により近く位置します)として定義されます。類似の分離はすでにこれの標本群におけるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の割合の違いとして報告されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ただ、本論文で新たに提示される銅器時代個体群のほとんどは、両クラスタの右側(アナトリア半島およびヨーロッパ東部)に位置することに注意が必要です。

 f4統計(ムブティ人、イタリア中石器時代、サルデーニャ島新石器時代、X)により、イタリアの銅器時代標本群とWHGとの間の類似性がさらに調べられました。XはイタリアN(新石器時代)、ラサッサCA、がCA、ブロイオンCAのいずれかです。負のZ得点は、イタリア中央部中石器時代標本が、イタリア半島銅器時代標本よりもサルデーニャ島Nとより多く共有することを示唆します。同時に、f4統計(ムブティ人、アナトリアN、サルデーニャ島N、X)では、ガットリーノCAとの比較のみで有意な負の値が得られ、ENクラスタの両方の間もしくはEN構成要素内の構造間のWHGとアナトリアNの構成要素における不均衡が、本論文の結果を説明できるかもしれない、と示唆されます。

 しかし、f3(ムブティ人、イタリアCA、Y)では、イタリアCAは全てイタリア半島の銅器時代標本で、YはENクラスタとなりますが、主成分分析の観察を識別する能力がないかもしれないことに、注意が必要です。いくつかの研究では、新石器時代に始まるジョージア(グルジア)およびイランの狩猟採集民と関連する集団からの影響が検出されてきましたが(関連記事)、f4(ムブティ人、ジョージアKotias、サルデーニャ島N、X)は、青銅器時代前のイタリア集団のどれとも有意ではありません。

 qpWaveとqpAdmの枠組みを用いて、新石器時代・銅器時代と青銅器時代との間の境界における連続性の可能性が評価されました。2つの推定起源集団を用いると、本論文におけるイタリア北部および中央部の全ての対象とされた青銅器時代集団は、銅器時代的個体群が草原地帯関連祖先系統からの遺伝的寄与を受け、それはおそらく、ドイツの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団、フランスの中期新石器時代集団、イタリアの銅器時代集団など、北方の後期新石器時代・銅器時代集団を通じてだった、というシナリオが支持されます。選択されたユーラシアの中石器時代から鉄器時代にいたる古代人と現代人のモデルベースクラスタ化分析(DyStruct、図2B)とADMIXTURE分析は、サルデーニャ島およびシチリア島個体群との主要な違いとして、イタリア半島の青銅器時代個体群における草原地帯関連祖先系統構成要素の存在を示し、主成分分析におけるPNとEN間の個体群の分布を説明します(図2A)。以下は本論文の図2です。
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 これがf4(ムブティ人、ヤムナヤKalmykia、X、アナトリアN)で検証されました(図2C)。Xはイタリアの中石器時代後の標本(少なくとも5000ヶ所の一塩基多型が利用可能な標本のみ)で、検証の結果、草原地帯関連祖先系統構成要素の有意な濃縮のある個体群のみが、本論文で新たに生成されたEBAおよびBA個体群内と、既知の鐘状ビーカーもしくはイタリア鉄器時代個体群に含まれます。ヨーロッパにおける他の銅器時代から青銅器時代への移行について以前に報告された研究とは対照的に、外群f3検定(イタリアCA・EBA・BA、古代人、ムブティ人)では、草原地帯関連祖先系統を有する人口集団はイタリアでは男性に偏った兆候を残さず、仮にその偏りがあったとしても、代わりに在来の新石器時代集団の寄与を通じて見られます。

 コピー類似性に基づく2つの直行性手法であるChromopainter/NNLSとSOURCEFINDを使用し、複数のf4の組み合わせの比較に基づいて、新たな状況が要約されました(図3)。新規標本に関しては、両方の手法はDyStruct(図2B)との全体的な一貫性を示し、ヨーロッパ狩猟採集民関連構成要素の新石器時代後の増加と、草原地帯関連祖先系統の到来を浮き彫りにし、例外は前期青銅器時代のサルデーニャ島です。さらに、イタリアN・CAについて報告されたアナトリアNとWHGの割合は、主成分分析で識別されたENクラスタ内の位置に関係なく類似しています。以下は本論文の図3です。
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 新たに生成された全標本でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)は、Y染色体の網羅率が0.01倍以上の男性10個体で決定されました。以前に報告された草原地帯関連祖先系統とYHg-Rの同時拡大と一致して、イタリアBA男性4個体のうち3個体がYHg-R1で、そのうち2個体はYHg-R1bに分類できました。YHg-R1bは銅器時代の標本では見られません。イタリアのYHg-R1bの2個体はヨーロッパ西部現代人と、鐘状ビーカー文化の被葬者で一般的なYHg-R1b1a1b1a1a(L11)で、ロシアの草原地帯の古代人のゲノムで見られるYHg-R1b1a1b1b(Z2105)ではありませんでした。


●銅器時代と青銅器時代における構造と移動性

 本論文で新たに生成された標本が出土した遺跡は、単一埋葬のネクロポリスがガットリーノ洞窟(紀元前2874~紀元前2704年頃)のみの1ヶ所で、残りのブロイオンとラサッサとマルゲリータは混合埋葬洞窟です。本論文におけるラサッサ洞窟の標本は銅器時代(紀元前2850~紀元前2499年頃)のみで、マルゲリータ洞窟の標本は青銅器時代(紀元前1609~紀元前1515年頃)のみです。ブロイオン洞窟は、銅器時代(紀元前3335~紀元前2936年頃)と青銅器時代(紀元前1609~紀元前1515年頃)の両方の時代にまたがる唯一の遺跡です。

 遺跡の利用と違いが洞窟と墓地の埋葬の間にあるのかどうか、埋葬行動の変化は遺伝的祖先系統の変化と同時に起きたのかどうか、よりよく理解するために、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体で、母系と父系の系統多様性と移動性の情報が得られます)と遺伝的親族関係(家族構造の移動性の情報が得られます)とROH(runs of homozygosity)が分析されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 合計で銅器時代(12標本)と青銅器時代(10標本)の標本規模はほぼ等しく、男性と女性の総数は予測と異なりません。しかし、銅器時代の洞窟内における男女比は7:1で予測とは異なるものの、ブロイオン遺跡とマルゲリータ遺跡の青銅器時代層もしくはガットリーノ遺跡の銅器時代ネクロポリスにおける男女比は異なりません。これらの結果は、銅器時代の洞窟埋葬における男性へのわずかな偏りを示唆します。

 1親等および/もしくは2親等の遺伝的親族関係がこれら4遺跡内もしくは4遺跡間の個体群、あるいは新たに生成されたゲノムと既知の古代ゲノムデータセットとの間に存在するのかどうか識別するため、2つの手法が用いられました。まず、親族関係度の最初の決定のため、擬似半数体データのペアワイズミスマッチ推定が用いられました(READ)。新たに報告された古代ゲノムの全てを1集団として、遺跡および/もしくは年代(新石器時代および銅器時代と、青銅器時代)ごとに分けて解析すると、まとめ方に関わらず一貫した結果が得られました。

 親族の程度(たとえば1親等では、両親が同じキョウダイと親子関係)の関係タイプを区別するため、遺伝子型についてのPlink-1.959に実装されているIBD解析が用いられました。IBDとは同祖対立遺伝子(identity-by-descent)で、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存しており、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。遺伝子型はパイプラインを用いて決定され、親族関係が近い場合(1親等から2親等)には、両方の手法が一貫した結果を提供しました。なお英語圏では、キョウダイが1親等(日本語では2親等)、イトコが3親等(日本語では4親等)となります。

 検証された青銅器時代の7個体では、新たにゲノムが生成された遺跡間、もしくは既知のデータとも、親族関係が見つかりませんでした。しかし、標本規模が小さいので、これらの個体から一般的確実性のパターンを推測するさいには注意が喚起されます。銅器時代の12個体については、密接な親族関係がラサッサとブロイオンの両洞窟遺跡で検出され、全ての親族関係は男性間でした。ラサッサ遺跡では、男性2個体(LSC002/004とLSC011)が同じY染色体ハプロタイプを有しており、LSC011はYHg-J2a(M410)、LSC002/004はJ2a1a1b1(Z2397)に分類されます。一方、mtHgは異なっており、LSC002/004がH1bv1、LSC011がJ1c1です。両者は1親等の関係と推定され、IBD値の割合は親子関係と一致し、父子関係と示唆されます。放射性炭素年代測定の較正曲線の性質により、どちらが父親なのか、正確に推定することはできません。しかし、放射性炭素年代測定は、古代DNAから推測される両者の関連性を却下しません。ひじょうに低い網羅率のLSC007はLSC002/004と1親等の関係にあるようで、両者は同じmtHg-H1bv1を有しています。LSC007は、YHgの分類には網羅率が低すぎました。

 これらの個体と同年代の女性LSC005/013(mtHg-H1e5a)は、検出可能な密接な遺伝的親族関係を有さず、主成分分析では男性と離れてクラスタ化し、ラサッサ遺跡の標本抽出された歯では、他の歯の範囲外に位置するストロンチウム同位体値を示します。LSC005/013が遺伝的に他のラサッサ遺跡個体群よりも別の人口集団の方と類似しているのかどうか検証するため、f4(ムブティ人、LSC005/013、ラサッサCA、他の標本・人口集団)が実行されました。いくつかの同時代人口集団では0ではない正のZ得点がありますが、有意な閾値を超えるものはありません。証拠の要約から、LSC005/013は他のラサッサ遺跡個体群と同じ地域で育ったわけではないかもしれないものの、その遺伝的類似性の確定にはより高い網羅率のゲノムデータとより多くの包括的な標本が必要になる、と示唆されます。

 ブロイオン遺跡では、銅器時代と直接的に年代測定された全個体(BRC001とBRC013とBRC022)および/もしくはヨーロッパ新石器時代(EN)クラスタに分類される(図2A)個体(BRC011)は男性で、直接的に年代測定された3個体は全て1親等および2親等の関係を示します。直接的に年代測定された3個体はYHg-G2a(P15)を共有しており、下位区分もYHg-G2a2b2b1a1(F2291)で同じです。しかし、網羅率の違いのため、末端の分枝の遺伝子標識は3個体全てで得られませんでした。BRC013とBRC022はmtHg-H5a1を共有しており、1親等の関係ですが、mtHg-J2a1a1のBRC001/023はBRC013と2親等の関係にあるものの、BRC022との親族関係はありません。PI_HAT値はBRC013とBRC022の間の全兄弟(両親が同じ兄弟)としての1親等の関係と、BRC013とBRC022とBRC001/023の間の異なる2親等の関係を裏づけます。これらの値を考えると、最も節約的な想定は、BRC013とBRC022が兄弟で、BRC013はBRC001/023の祖父である、というもので、放射性炭素年代はこの想定を却下しません。

 新たにゲノムデータが得られた22個体のうち、N・N1・H・J・Kと多様なmtHgのうち、一致するのは2例のみでした。これは、ミトコンドリア水準での検出可能な構造の欠如を示唆しており、銅器時代と青銅器時代における、より大きな母系人口規模・族外婚および/もしくは父方居住親族構造と一致する可能性があります。この想定をさらに調べるため、古代および現代の人口集団におけるROHが分析されました(図4A~C)。これは、ハプロタイプ参照パネルを用いて、低網羅率ゲノムでROH断片を検出する方法です。網羅率の違いが統計的に偏らせてないことと(図4D)、帰属や配列のエラーがないことを確認しました。ゲノム断片の数と長さが、1.6 cM(センチモルガン)未満、1.6~4 cM 、4~8 cM 、8 cM 超の4区分で計算されました。本論文は1.6 cM以上の区分(4 cMや8 cMの区分も含まれます)に焦点を当てました。それは最近の親族関係に関する情報をもたらし、最も確実に推測できます。

 中石器時代後の古代人標本について1.6 cM超のROHの推定値は、現代イタリア人で得られた値の範囲内にあり、同水準の族内婚を示唆します(図4A・B)。しかし、イタリア新石器時代個体群と本論文で新たに報告されたイタリア青銅器時代個体群の1.6 cM超の断片の長さと1.6 cM超の断片の数との間には有意な違いがあり、青銅器時代のより大きな有効人口規模、もしくは在来の銅器時代人口集団との混合事象に続く追加の多様性の結果と一致します。ラサッサ遺跡内では、個体LSC002/4において1.6 cM超断片の合計の長さが最高となり、唯一8cM超の断片が検出されました。以下は本論文の図4です。
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●イタリア古代人の表現型特徴の変化

 経時的な祖先系統構成要素の変化が表現型の変化に対応しているのかどうか確定するため、本論文および以前の研究で提示された古代人標本における、代謝・免疫・色素沈着と関連する115個の表現型と関連する遺伝的標識が分類されました(関連記事1および関連記事2)。本論文で新たに提示された16個体と文献からの316個体の計332個体が分析されました。これらは、イタリア中石器時代3個体、イタリア新石器時代および銅器時代52個体、イタリア青銅器時代60個体、イタリア鉄器時代および現代133個体、近東新石器時代および銅器時代41個体、近東青銅器時代18個体、ヤムナヤ(Yamnaya)文化18個体に分類されます。

 3個体以上の標本規模の集団について、各人口集団におけるそれぞれの表現型多様体の有効アレル(対立遺伝子)の頻度が計算された後、アレル頻度における変化を分析するためANOVA検定が実行されました。異なる期間のイタリアおよび非イタリア集団両方の間と、イタリア内の集団間が比較され、イタリアの個体群は期間と地理的位置に基づいて12コホートに分類されました。両方の検定で、ボンフェローニ補正の適用により有意な閾値が設定され、テューキー検定を用いて有意な組み合わせが決定されました。

 イタリア集団を近東およびヤムナヤ文化人口集団と比較すると11個の多様体が有意で、イタリア内検定では8個が、両方の検定では4個が有意でした。標本規模が小さいため、これらの結果は注意して解釈する必要がありますが、いくつかの潜在的に興味深い結果が出現します。両方の検定で有意な多様体、つまりTLR1(rs5743618)、TNF(rs1800629)、HLA(rs3135388)、SLC45A2(rs16891982)については、兆候はほぼ完全に、ローマ共和政期イタリア中央部集団(Cen_postRep)により駆動されており、ローマ期と古代末期と中世の個体群を含みます。追加の草原地帯関連祖先系統にも関わらず、本論文のイタリア青銅器時代標本群とイタリア新石器時代・銅器時代集団との間に検出可能な違いはありません。

 本論文で浮き彫りになった4多様体のうち3個は、ハンセン病に対する保護と感受性に関連しています。HLA(ヒト白血球型抗原)関連多様体(rs3135388)は、デンマーク中世人口集団においてハンセン病の身体症状に対する感受性が示唆されており、青銅器時代後のイタリア人と新石器時代・銅器時代の近東人と青銅器時代イタリア人とヤムナヤ文化個体との間で有意に異なっていました。この検定におけるrs3135388の統計的有意性は、おそらくは鉄器時代以後のイタリア中央部人における保護的アレルの低頻度に起因します。腫瘍壊死因子関連のTNF遺伝子の多様体(rs1800629)も、保護的アレルの頻度が減少しているようです。両方の結果は、ヨーロッパの歴史的および考古学的記録におけるハンセン病の頻度上昇と一致しています。先天性免疫に関わるToll様受容体であるTLR1の多様体(rs5743618)は、アジア人口集団におけるハンセン病に対する保護と結核への感受性増加の両方と関連しており、他の方向での有意な結果を示し、ローマ共和政期イタリア中央部集団でのみより高頻度で引き起こされます。

 両方の検定で重要な4番目の多様体(SLC45A2遺伝子のrs16891982)は、髪と目の色素沈着に関係しています。身体的外見では、銅器時代および青銅器時代のイタリア集団は、イタリアと近東のより早期の集団よりも、鉄器時代および後のローマ期の集団と類似した表現型を有しています。イタリアの既知の中石器時代3個体は、肌と髪の色が濃く、目は青色と予測されていますが、他の標本のほとんどは、中間的な肌の色と茶色の髪と青い目が予測されています。しかし、濃い色もしくは茶色の髪と青い目の組み合わせの個体群も、イタリア中央部の新石器時代個体群を除く全ての期間で予測されます。より濃い色の目と髪に関連する多様体(rs16891982)は、青銅器時代後のイタリア集団とそれ以前のイタリア集団との間で有意な違いを示し、イタリア中央部における頻度低下は本論文で新たに報告された銅器時代個体群で始まり、同じく本論文で新たに報告された青銅器時代個体群と、ローマ共和政期後のイタリア中央部集団で最低の値が観察されます。この違いは、青銅器時代前の新石器時代イタリア中央部集団およびサルデーニャ島集団と比較してとくに顕著です。


●考察

 本論文で新たに報告されたゲノムは、ヨーロッパにおけるイタリア先史時代後期の人口動態のより詳細な説明を提供します。主成分分析で観察され、以前の研究(関連記事)で報告されている、ヨーロッパ前期新石器時代個体群の2集団への区分は、イタリア本土個体群からサルデーニャ島新石器時代個体群を分離し、サルデーニャ島新石器時代個体群がアナトリア半島新石器時代個体群およびWHGとより高い類似性を示しており、ヨーロッパ新石器時代構成要素内の人口集団構造の可能性を提起しますが、祖先系統における微妙な違いを解明するには、高網羅率の古代ゲノムを含むより詳細な分析が必要です。

 本論文の分析は、イタリア全域における草原地帯関連人口集団からの青銅器時代の頃および青銅器時代後の予測される兆候を示します。草原地帯関連祖先系統は、新石器時代および銅器時代のイタリア個体群には欠けており、イタリア前期青銅器時代の、鐘状ビーカー文化期の個体I2478(紀元前2195~紀元前1940年頃)と、レメデッロ(Remedello)遺跡の個体RISE486(紀元前2134~紀元前1773年頃)と、ブロイオン遺跡の個体BRC010(紀元前1952~紀元前1752年頃)に出現し、ブロイオン遺跡個体からマルゲリータ遺跡個体GCP003(紀元前1626~紀元前1497年頃)にかけて増加します。これらの標本群は、草原地帯関連祖先系統が、少なくとも紀元前2000年頃までにイタリア北部に到来したことと、その4世紀後までにイタリア中央部に存在したことを確認しますが、この拡大の動態を評価するには、より高密度の標本抽出戦略が必要です。

 本論文のqpAdmの結果から、草原地帯関連祖先系統構成要素はヨーロッパ中央部から後期新石器時代および鐘状ビーカー文化集団を通じてイタリアに到来した、と示唆されますが、標本規模が小さく、時空間的分布が限定的なので、不明な点として、複数の草原地帯人口集団が供給源となったのかどうかと、イタリア半島全域の草原地帯関連祖先系統の正確な年代と拡散が残ります。青銅器時代ブロイオン遺跡個体に見られるYHg-R1bの下位区分は、古代シチリア島標本群およびイタリアの鐘状ビーカー文化個体群で見られます。イタリア北部および中央部青銅器時代集団と後期新石器時代ドイツ集団との常染色体の類似性と合わせて、Y染色体データは、イタリアの草原地帯関連祖先系統の、おそらくは北部とアルプス横断地域と鐘状ビーカー文化関連の起源を示します。

 銅器時代と青銅器時代の境界における男性親族構造の重要性も、本論文の常染色体データを用いて調べられました。銅器時代の混合洞窟埋葬は何らかの親族構造を含む、と長く仮定されてきましたが、古代DNA研究の出現前にそれを直接的に明らかにすることはできませんでした。本論文は、銅器時代において混合洞窟埋葬が密接に関連した男性の埋葬に優先的に用いられた、というパターンを確認しましたが、この事実の社会的重要性は明らかではありません。イタリアの銅器時代人口集団は、より早期の大西洋沿岸で見られる巨石記念碑の建築よりも、自然の埋葬室空間や横穴墓や溝墓を利用していましたが、関連する男性をともに埋葬する重要性は共有される特徴です。

 本論文の遺伝的証拠は、ラサッサ遺跡とブロイオン遺跡両方の人口集団がこれら埋葬儀式について父系子孫と父方居住を強調したことと一致しており、この強調は青銅器時代には消滅するものの、ガットリーノ遺跡の単一埋葬様式銅器時代墓地にも存在しません(おそらくは標本規模が小さいため)。これらの遺跡は在来人口集団の無作為で偏りのない標本抽出ではなく、むしろこれらの社会の一つの特定の儀式的側面の断片を表している、と注意することが重要です。したがって、父方居住と父系が一般的に行なわれていたのかどうか、もしくはこれらのパターンが経時的に変化したのかどうか、推測することはできません。一般的な人口集団構造と共同体間の関係を復元するには、遺伝子と同位体の標本抽出を増やす必要があります。

 草原地帯関連祖先系統の到来は、本論文で評価された表現型のどの頻度パターンにも影響を与えていないようです。むしろ、最大の変化はローマ帝国期もしくはその後に起きたようです。鉄器時代後のハンセン病に対する保護と関連するアレルの減少は、紀元前三千年紀と紀元前四千年紀から紀元後千年紀の頃の衰退までのヨーロッパの生物考古学および歴史的記録におけるハンセン病の症状の増加を考えると、興味深い問題です。これらの多様体がハンセン病および他の病原性マイコバクテリア感染症とどのように相互作用するのか、まだ正確には明らかではありません。したがって、完全な進化史を確定する前に、臨床面でのより多くの研究が必要です。本論文は全ての可能性のある表現型ではなく小規模な部分集合を検証したので、本論文の結果は、表現型の違いだけではない可能性があり、進化のメカニズムとヒトの遺伝子との間の複雑な関係を完全に理解するには、より多くの研究を行なう必要があります。幸いなことに、この研究で生成されたような全ゲノムは、生物学と遺伝学の全領域で進歩の観点から再考できる貴重な情報源を提供します。


参考文献:
Saupe T. et al.(2021): Ancient genomes reveal structural shifts after the arrival of Steppe-related ancestry in the Italian Peninsula. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.04.022

黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2017年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、織田信長と羽柴秀吉による天下一統路線を大前提とする通俗的な結果論的戦国時代認識に対して、関東における「関東の副将軍」たる上杉と「日本の副将軍たる」北条(後北条)との55年にわたる抗争に着目し、戦国時代の変化を把握します。信長や秀吉が台頭したのは戦国時代の最終盤なので、戦国時代の変化を把握するには他の事例が適している、というわけです。上杉は室町時代に関東管領を世襲し、戦国時代初期には、関東管領の山内上杉と、その一族で新たに台頭してきた扇谷上杉が有力でした。戦国時代前期の関東は、この両上杉を新興の北条が攻略していく過程として把握できます。

 1524年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)1月、北条氏綱は扇谷上杉の領国への本格的な侵攻を始めます。これ以降55年間、関東では上杉と北条という大きな枠組みで、講和期間を挟みつつ争乱が続きます。すでに北条はそれ以前に、相模や武蔵の両上杉の重臣を一部従属させていました。両上杉は3年ほど争っていましたが、この北条の侵攻の直前に講和します。扇谷上杉は、武田と結んで北条に対抗します。これに対して北条氏綱は、それまで敵対関係にあった古河公方と提携しようと試みますが上手くいかず、両上杉および武田と講和します。

 北条は両上杉や武田や小弓公方を敵に回してしまい、いわば北条包囲網が形成された状況となりました。北条は不利な条件での和睦などでこの苦境に対処します。その後、北条包囲網を担っていた山内上杉家や古河公方家で内乱が起き、さらに里見家起きた内乱に乗じることなどで北条は勢力を拡大していき、1535年には、しばらく劣勢だった扇谷上杉に対して攻勢に出ます。今川は1536年の内乱後、北条に断りなく武田と同盟を締結し、激怒した氏綱は今川との戦いに注力し、関東では劣勢になる局面も出てきました。

 しかし1538年、北条は第一次国府台合戦に勝ち、主要人物が揃って討ち死にした小弓公方家は事実上滅亡します。これにより関東足利唯一の正嫡となった古河公方家は北条氏綱を「関東管領職」に補任し、関東では山内上杉と北条が関東管領家として併存することになりました。北条の家格は大きく上昇し、関東の諸勢力からよそ者と非難されることもなくなりました。1541年、北条氏綱が死去し、氏康が家督を継承した時点で、北条は関東最大の大名となっていました。氏康は山内上杉を共通の敵としていた武田と、さらには両上杉対策で今川とも和睦し、駿河から撤退します。1546年、北条は河越合戦で両上杉に勝ち、扇谷上杉は事実上滅亡します。山内上杉も北条の攻勢に耐えられず、1552年、当主の憲政は長尾を頼って越後へと落ち延びます。氏康は甥(義氏)に古河公方の家督を継承させ、古河公方を源氏将軍、北条を執権に擬すことで、関東における政治的正統性の確立に務めます。また氏康は、武田・今川と婚姻関係の構築により攻守軍事同盟を締結します。

 こうして背後を固めた北条は上野に侵攻し、ほぼ領国化しますが、1560年、山内上杉を保護していた越後長尾の当主景虎(上杉謙信)が上野に侵攻してきて、これ以降の関東における北条と上杉との抗争は、北条氏康・氏政父子と謙信との戦いとして展開します。すでに関東に北条と対抗できる勢力はなく、関東の反北条勢力は外部勢力(越後長尾)を頼った、というわけです。本書は越後長尾の関東侵攻の背景として、東日本の広範な飢饉を指摘します。1561年、長尾景虎は山内上杉の名跡を継承し、関東では有力な関東管領が併存することになります。上杉も北条も、共に相手を旧名字で呼び(伊勢と長尾)、自身の正統性を主張しました。1567年まで、上杉は毎年関東に侵攻してきて、北条は同盟国の武田とともに上杉に対抗しました。このように、関東では北条・武田・上杉と有力大名間の抗争が続き、それが飢饉を悪化させた側面もあるようです。ただ本書は、こうした抗争が、大名の直接的支配領域の拡大ではなく、多分に国衆の動向をめぐるものだったことも指摘します。北条は上杉との戦いで苦境に立つ場面もありましたが、1567年には、その前年の関東における上杉の敗北から、関東の国衆の多くは北条に従属します。

 しかし、ここで関東の政治的枠組みに大きな変化が起きます。武田が東美濃で衝突した織田と、対斎藤目的で和睦し、これに今川氏真の妹を妻としていた武田信玄嫡男の義信が反発しました。信玄と義信の対立は、義信の廃嫡と自害に至り、これに反発した氏真は義信の妻だった妹を引き取り、北条にも内密に上杉と同盟を締結し、信濃への侵攻を要請します。こうして、北条と武田と今川の同盟は崩壊しました。この情勢激変に、北条は武田から支援を求められますが、北条は今川を支援し、武田と戦うことにします。氏康は強敵の武田と戦うに際して、上杉との同盟を画策します。この同盟交渉は国衆を通じて行なわれ、また国衆の帰属が交渉を難しくしました。本書は、戦国時代の戦いも和睦も、国衆の動向が大きな役割を果たした、と指摘します。北条は関東管領職の譲渡など大きく譲歩し、1569年、上杉と同盟を締結します。この北条の懸念は杞憂ではなく、武田軍は小田原まで侵攻してきました。北条と武田との戦いにおいて、上杉は北条が期待したような援軍を出さず、北条家中では上杉との同盟に疑問を抱く者が増え、氏康の死後、北条は武田との同盟を復活させ、上杉との同盟を破棄します。

 北条が武田と再度同盟し、上杉との同盟を解消したことで、関東では再び北条と上杉との抗争が始まります。上杉は謙信自身が出陣し、北条に対抗しますが、1560年代と比較して、関東での勢力は衰えていきました。一方北条は、長年敵対関係にあった里見を事実上降伏させるなど、じょじょに勢力を拡大していきます。1578年3月、謙信が急死し、上杉は内乱(越後御館の乱)が勃発したこともあり、以後は関東の政治秩序に介入することはありませんでした。こうして、55年の長きにわたった関東における北条と上杉の抗争は幕を閉じました。この後の関東では、諸勢力が織田や豊臣のような「中央政権」の介入を要請するようになり、新たな争乱の段階を迎えます。

最終氷期極大期における広範な陸域の寒冷化

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)における広範な陸域の寒冷化に関する研究(Seltzer et al., 2021)が公表されました。最終氷期極大期(最終氷期の最も寒冷だった数千年間)における全球の寒冷化の規模は、地球の気候感度の見積もりを評価するさいの重要な制約条件です。高緯度域の氷床コアから信頼性の高いLGMの気温が得られていますが、陸域の低地での定量的な記録が少ない低緯度域では、代理指標記録の間に大きな相違があります。

 こうしたデータの空白を埋めるものとして、太古の地下水に含まれる希ガスは、水への溶解度の温度依存性に起因する直接的な物理的関係を通して、過去の地表温度を記録しています。溶存希ガスは、生物学的過程や化学的過程の影響を全く受けず、LGMの年代の地下水が世界中に遍在するため、LGM温度の適したトレーサーです。しかし、独立した複数の希ガス研究により、LGMにおいて熱帯域がかなり寒冷化したと示されているものの、それらは異なる方法論を用いており、空間範囲も限られています。

 この研究は、地下水に含まれる希ガスを用いて、LGMに低中緯度域(南緯45度から北緯35度)の標高の低い地表が5.8 ± 0.6℃(平均± 95%信頼区間)寒冷化したことを示します。この分析には、熱帯域の新しい記録に加えて、6大陸から得られた40年にわたる地下水の希ガスデータが含まれており、それら全てが同一の物理的枠組みを用いて解釈されました。この陸域ベースの結果は、気候感度が以前の見積もりよりも大きかったことを示唆する、海洋の代理指標データの同化に基づく最近の再構築結果をおおむね支持しています。

 LGMは、現生人類(Homo sapiens)の人口史において重要な期間だと考えられます(関連記事)。出アフリカ現生人類集団は末期更新世までに遺伝的に多様化していきましたが、完新世にはユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展します。これは、LGMによりユーラシア各地域の現生人類集団が分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなったから、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000~15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、との見解(関連記事)が妥当だとすると、現代人の言語の分岐の多くがLGMに起きた可能性も想定されます。現生人類の遺伝的分化・文化的相違の形成過程を解明するためにも、LGMにおけるさらに詳細な気候変化の解明が期待されます。


参考文献:
Seltzer AM. et al.(2021): Widespread six degrees Celsius cooling on land during the Last Glacial Maximum. Nature, 593, 7858, 228–232.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03467-6

池谷和信「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P1-4)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 初期現生人類(Homo sapiens)の象徴行動(symbolic behavior)のうち、顔料の使用や副葬品による埋葬などとともに、ビーズの存在が一つの指標として注目されてきました。これまで、アジア・アフリカにおける更新世の各地の遺跡から様々な素材のビーズが報告されています。イスラエルの海岸部のスフール(Skhul)洞窟では巻貝やムシロガイ、内陸部のカフゼー(Qafzeh)洞窟では二枚貝、アフリカ東部の内陸部の遺跡ではダチョウの卵殻、インドネシアのスラウェシ島ではバビルサの骨などです。中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点で現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていない、との指摘もあります(関連記事)。

 しかし、数万年前の先史狩猟採集民を対象にした考古学的ビーズ研究では、その年代やビーズの素材は明らかになりますが、誰が身に着けたのか、どのように入手し、どのような役割があったのか、把握することは困難です。本論文は、現存する狩猟採集民のなかでビーズの素材や製作技術や利用と役割についての基礎資料を提示します。著者はこれまで、ボツワナのカラハリ砂漠のサン人およびタイ南部のマニ人という二つの狩猟採集民社会で、人類のビーズ利用に関して民族考古学やエスノヒストリー調査を実施してきました。本論文では、マレー半島に位置するタイ南部のマニ人集落の調査結果が報告されます。マニ人はオラン・アスリ(マレー半島の先住少数民族)の北部集団に分類されます。現在マニ人は、定住化した集団と半定住化した集団と遊動している集団に分類され、調査地は遊動している集団の事例です。

 キャンプAでは、5事例が報告されています。事例1では、成人女性は細長い黄色の筒と3 個と黒の玉を半分にしたもの2 個を組み合わせていました。黄色の筒は動物(ジャコウネコ)の骨、黒色の球形は植物の実です。彼女がなぜそれらを選んだのか、不明です。また、なぜ複数の素材を組み合わせたのも不明です。ただ、動物の骨は同じキャンプの狩猟者からもらい、植物は自分が採集した、との情報が得られました。事例2では、成人女性が3 種類の異なる素材を使っています。上述と同じ木の実が1 個、木の根が3 個、アルマジロの甲羅の破片が1 個です。部材の合計の数は5 個で、素材は事例1 と比較してさらに多様になっています。事例3では、子供男性が2 個の黄色の骨に1 個の木の根を組み合わせています。事例4では、子供男性が2 個の木の根のみを身に着けています。事例5では、1 個の木の根と2 個のプラスティク製のものを身に着けています。キャンプBでは、1事例が報告されています。事例6では、成人女性が15 個の部材を身に着けていました。12 個が上述と同じ木の実で、2 個がアナグマ(Hog badger)の歯から構成されています。キャンプ内では肉が食用にされて、犬歯の部分が装身具に使われています。この二つのキャンプの事例から、この地域のビーズの素材として、植物の実や根や骨や歯が利用されている、と明らかになりました。

 これらの事例では、ビーズを身に着けていたのは成人女性と子供で。成人男性の事例は見いだせませんでした。これは、著者が現地で観察したカラハリの狩猟採集民の事例ともよく類似しています。成人女性は、ダチョウの卵殻や木の実やガラスなどの素材のビーズを、首のみならず頭飾りとしても利用していました。子供の場合は、誕生後に手首などに着けられます。一方で、キャンプのなかのすべての女性がビーズを見に着けているわけではありません。両キャンプのビーズを比較すると、数の違いはありますが、木の実の利用が広く共通して見られました。同時に、誰一人として同じ素材を組み合わせる人はいなかった点が注目されます。ここから、ビーズは人々の美しさのためだけではなく、自らの個性を示すものであり、よい匂いなどの目的のために身に着けている、と分かりました。

 素材は、植物の実や根や動物の骨でした。これに、貝類の素材を加えることからビーズの製作技術について考えてみると、まず、貝類のなかでは人の手を加えることなしに穴があくものもあります。また動物の骨は、なかに空洞が見られるので、その中に糸を通すことが可能である。一方、木の実や根茎は穴を開けるための道具が必要です。それに使用されたのは、動物の角や石器などの可能性が高そうですい。これに対して、ダチョウの卵殻には、これらの素材との比較ではあるものの、かなりの労力が必要になってくると推定されます。

 他地域の事例として、カメルーン南東部の森林地域で暮らすピグミーの場合には、森の産物を用いたビーズを身に着けています。子供が産まれると、親は「赤子が早く歩き出すように」、「災難から守ってくれるように」と願いを込めて、森で見つけた木の実や枝、野生動物の骨や角に穴を開け、首やお腹や手首に巻きつけます。また、ピグミーが重い病気の時のみ、呪術が込められたお守りとしてのビーズが知られています。

 以上のようなことから、以下のようにまとめられます。ビーズを身に着ける目的に関して、当初は、自らの美しさのため、よい匂い、魔除け(ピグミーの事例、呪術的意味)などのために、植物や動物の素材をビーズに使用していた段階(マニの事例)があった、と推測されます。続いて、ダチョウの卵殻や貝の首飾りのように製作や交易に労力を費やすものが生まれ、集団間の社会関係や集団のアイデンティティのために用いられるようになった段階(サンの事例)に変化した、と推定されます。

 考古資料と民族誌資料との関係について、民族誌の事例では、素材の組み合わせにより作られた首飾りが知られていますが、初期人類の考古資料からは見つかっていません。これには、植物製の素材が残りにくいことも関与しているかもしれません。本論文の報告では、個々のビーズが他地域から伝播したものなのか、個々に独立発生したものであるのか、充分十分に区別できていません。ビーズの民族誌は、どのような点で考古資料の解釈に有効であるのか否か、今後の課題として残されています。


参考文献:
池谷和信(2021)「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P1-4

恐竜の鳥類に似た特徴の起源

 恐竜の鳥類に似た特徴の起源を指摘した二つの研究が報道されました。日本語の解説記事もあります。一方の研究(Hanson et al., 2021)は、非鳥類型恐竜・ワニ類・鳥類を含む主竜類群の絶滅種と生存種を対象にその内耳構造を調査し、半規管と蝸牛の形が二足歩行・四足歩行・飛行といった運動能力と高周波音を聞く聴力に関係する、明確なパターンを発見しました。この研究は、これらの分析により恐竜の飛行能力を示す最古の例が示されたとともに、最古いと考えられる親子間の口頭伝達も明らかになった、と指摘します。

 もう一方の研究(Choiniere et al., 2021)は、獣脚竜の生存種と絶滅種を対象に内耳と視覚系の状態を調査し、フクロウのような夜間の捕食に必要な聴覚と視覚の適応は、とりわけ後期白亜紀のアルヴァレスサウルスでは、早い時期に進化したことを発見しました。この発見は、夜間活動のための恐竜の感覚適応は現代の鳥類の登場のかなり前に個々に進化したことを示唆しているとともに、これらの特徴が非鳥類型恐竜・鳥類・哺乳類の間で何百万年もの時間をかけて収斂したことを実証しています。

 絶滅種124種と生存種91種を対象とした内耳構造と眼球を支える強膜輪に関するこれら二つの研究により、恐竜の感覚器官の生態と、飛ぶ・夜間に狩りをする・子供の甲高い鳴き声を聞くといった能力を含む行動の進化について、新たな知見が得られました。これら二つの研究では最先端の画像技術と高度な統計分析が活用されており、これまで調査の届かない部分だった、器官内部の構造の多くの特徴と子育てや日常の活動パターンといった習慣との確かな関連性が示されました。


参考文献:
Choiniere JN. et al.(2021): Evolution of vision and hearing modalities in theropod dinosaurs. Science, 372, 6542, 610–613.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667

Hanson M. et al.(2021): The early origin of a birdlike inner ear and the evolution of dinosaurian movement and vocalization. Science, 372, 6542, 601–609.
https://doi.org/10.1126/science.abe7941

アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動

 アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動に関する研究(Wilkins et al., 2021)が公表されました。アフリカ南部沿岸地域における考古学的発見は、現生人類(Homo sapiens)を特徴づける複雑な象徴的および技術的行動の出現に関する知識を変えました。特定の種類の象徴的物資の製作と使用は10万年前頃までさかのぼり、南アフリカ共和国のブロンボス洞窟(Blombos Cave)における顔料処理道具一式と線刻のあるオーカー小瘤を含みます。同じ頃、南アフリカ共和国のピナクルポイント(Pinnacle Point)洞窟13B層とクラシーズ川(Klasies River)主遺跡のヒトは、斬新で非実用的な物(非食用海洋性貝)を集めており、おそらくは象徴的慣行の構成要素でした。

 南アフリカ共和国西ケープ州のディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡(関連記事)では、装飾されたダチョウの卵殻(OES)の廃棄された断片が、ハウイソンズ・プールト(Howiesons-Poort)様式の人工物と関連して発見され、最初期の装飾されていないダチョウの卵殻の根名題は105000年前頃です。現在、アフリカ南部のこれらの遺跡は全て沿岸にありますが、過去には異なっていたでしょう。しかし、過去12万年間の最も極端な氷期においてさえ、海岸はこれらの遺跡から100km以上離れていませんでした。アフリカ南部の内陸部では、保存状態が良好で堅牢な年代の得られている層状遺跡は稀で、その結果、内陸部人口集団の役割を軽視する、沿岸部遺跡への強い偏りが生じます。


●GHN遺跡

 ガモハナ丘(Ga-Mohana Hill)はカラハリ盆地南部にあり、南アフリカ共和国のクルマン(Kuruman)の北西12km、最も近い現代の海岸から665kmに位置します(図1b)。GHN(Ga-Mohana Hill North Rockshelter)遺跡は、2ヶ所の主要な岩陰といくつかの小さな張り出しのうち最大のもので、古原生代にさかのぼる苦灰石のガモハーン層(Gamohaan Formation)内に位置します。合計4.75㎡の3ヶ所の岩陰が発掘され、最大深度1.7mにまで達し、中期石器時代と後期石器時代の一連の層状堆積物が明らかになりました。

 約10cmの緩い表面堆積物の下に、「暗褐色の砂利沈泥(シルト)」、「橙色の灰質沈泥」、「暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)」と呼ばれる3つの層序学的集合体が見つかりました。ルーフスポール(roofspall)とは、洞窟や岩陰の屋根や壁からの破片です。報告された出土品(2128個)の傾きと方向性は、これらの人工物がほぼ主要な文脈にあったことを示唆します。これら3層それぞれの石英単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定の結果、暗褐色の砂利沈泥層は14800±800年前、橙色の灰質沈泥層は30900±1800年前、暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)は105300±3700年前との結果が得られました。

 本論文は、これまでの発掘で最も深い堆積物となる、A地区のDBSRに焦点を当てます。DBSR表面から1.6m下の標本の追加のOSL年代は105600±6700年前で、これは以前の推定と一致しており、DBSRの年代の新たな加重平均は105200±3300年前です。DBSRの剥片石器群は中期石器時代石器群の典型で、石刃や尖頭器や調整石核により特徴づけられます。これらの石器群は、地元で入手可能な燵岩(42%)と凝灰岩(28%)と縞状鉄鉱石(26%)で製作されました。DBSRでは赤色オーカーの大きな断片も回収されました。これには2つの平らな表面の形で使用の証拠があり、そのうち一方には、浅い平行の条線がありました。以下は本論文の図1です。
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●方解石結晶

 DBSRでは22個の未加工の方解石結晶が発見されました。結晶は半透明の白い菱面体で、規則的で整った小面を有し、最大長は0.8~3.2cmです(図1a)。結晶は自然の過程により外部から堆積物にもたらされたわけではありません。DBSRの人工物は水平に積み重なった堆積物内に平らに置かれており、方向性はありません。石膏など続成作用のカルシウム鉱物は、骨の保存を破壊する微結晶集合体として考古学的堆積物に形成されますが、これらはDBSRの方解石結晶(大結晶であり、骨の保存を破壊しません)とは異なります。

 DBSRの方解石結晶は岩陰の壁や天井には由来しません。刀身のある方解石結晶はガモハーン層では鉱脈として自然に発生しますが、それらは小さすぎて(最大長寸法0.5cm未満)形が不規則なので、考古学的結晶の供給源にはなりません。岩陰の壁もしくは天井、あるいはこの研究で集中的に調査されたガモハナ丘の地域内には、形の整った白い半透明の結晶は自然には存在しません。方解石結晶の供給源として可能性があるのはGHN遺跡の南東2.5kmに位置する低地の苦灰石の丘で、大きな菱面体の方解石結晶の形成と豊富な石英結晶が観察されました。これは結晶には地元の供給源があることを意味しますが、その自然的発生は稀です。

 DBSRの方解石結晶はいずれも、意図的な加工の兆候を示しません。方解石はモース硬度3と柔らかく、貝殻様には割れないので、これらの結晶が石器の原料としてGHN遺跡に運ばれた可能性は低そうです。結晶の分布は限られており、大半は2ヶ所の区画(0.5㎡)で回収され、垂直方向の分布は15cm未満だったので、別々の貯蔵物として堆積された、と示唆されます。結晶のサイズは、上層の中期石器時代および後期石器時代層のものと類似しています。したがって、DBSRで発見された方解石結晶は、意図的に収集された非実用的な物体の小さな貯蔵物を表している、と考えられます。

 結晶は中期石器時代アフリカ南部を含む世界中の多くの期間で、精神的信念や儀式と関連づけられてきました。結晶は、アフリカ南部の完新世および更新世の文脈で知られていますが、確実に8万年以上前の堆積物からの結晶群はまだ報告されていません。したがって、105000年前頃となるGHN遺跡における非実用的な物の収集は、アフリカ南部沿岸における非食用海産貝の収集慣行と同年代です。


●ヒトが収集したダチョウの卵殻

 DBSRで42個のダチョウの卵殻(OES)が発見されました。OESを構成する断片は細かく、平均最大断片長は11.3mmです(5.3mm~25.7mm)。いくつかの証拠はOESの起源が人為的であることを裏づけます。第一に、断片は保存状態良好な岩陰遺跡内で発見され、他の多くのヒトの活動の痕跡と直接的に関連しています。第二に、OES断片は燃やされた証拠を示します。OES断片の80%以上に赤色が着いており、これは300~350℃の温度に曝されたことを反映しています。第三に、GHN遺跡における動物相遺骸の蓄積の主因はヒトで、ダチョウの卵を食べるハイエナや他の動物が存在した証拠はありません。

 DBSRの動物考古学的資料の識別可能な断片は、有蹄類とカメの遺骸が優占します。化石生成論的分析は、人為的打撃痕と解体痕の高頻度を示し、動物標本のほとんどには中程度の燃焼の証拠があります。民族誌的観察では、OESは効率的な貯蔵容器の製作に用いることができる、と示唆されており、それは初期のヒトにとって重要な革新を表しています。なぜならば、そうした容器は水や他の資源の輸送と貯蔵に仕えるからです。OES容器の証拠は後期石器時代では一般的で、この技術はアフリカ南部沿岸の遺跡では長い年代を経ており、中期石器時代となる105000年前頃までさかのぼります。ヒトが収集したOES群はカラハリ砂漠の比較可能な文脈で報告されており(図2)、GHN遺跡におけるヒトが収集したOESの出現は沿岸部と同年代である、と示されます。以下は本論文の図2です。
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●古環境的背景

 ガモハナ丘の証拠は、本論文の調査結果の古環境的背景への重要な洞察を提供します。ガモハナ丘には石灰華の蓄積や水溜りや小滝や堰や角礫岩の堆積物が豊富にあり、過去には浅い水溜りや水の流れがあったことを示しています。小滝形成のいくつかの段階は、苦灰石に対してはその場、崩壊した塊としては外側と、GHN遺跡の両側で起きました(図3)。外側のコアからは5点のウラン・トリウム年代値が得られ、その年代範囲は113600~99700年前頃でした。この半連続的石灰華形成は、丘の中腹を流れる豊富な水を示唆します。これはカラハリ盆地の他の古気候記録と一致しており、マカディカディ(Makgadikgadi)盆地の巨大湖の高台の年代はOSLでは104600±3100年前で、カサパン6 (Kathu Pan 6)の堆積物は湿地環境と関連していると解釈されており、OSLでは100000±6000年前となります。以下は本論文の図3です。
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 現代の気候データは、気候変化の過去の潜在的推進要因について情報を提供します。現在、南方振動指数はガモハナ丘周辺の11月と5月の降水量と有意な正の相関を示しますが、それ以外の時期は異なります。インド洋の海面水温は、11月の降水量との有意な負の相関を除けば、ガモハナ丘周辺の降水量と有意には相関していません。インド洋の海洋コア堆積物に基づく海面水温の復元は、11万~10万年前頃の一対の二重極を示唆しており、これがアフリカ南部の対流性隆起に有利に作用したでしょう。しかし、二重極の程度は、降水量増加の唯一の原因となるほど極端ではないようです。したがって、降水量増加は単一の気候要因ではなく、インド洋南西部の海面水温の上昇と、強烈な負の南方振動指数の組み合わせにより降雨量が増加し、苦灰石岩盤の貯蔵能力とともに、景観上で恒久的な水がもたらされた、と考えられます。


●考察

 現代的行動の現生人類の進化に関する単一起源沿岸モデルは、アフリカ内陸部の人口集団が主要な文化的革新の出現に殆どもしくは全く役割を果たさなかった、と仮定します。しかし、カラハリ盆地南部のGHN遺跡における堅牢な年代測定値のある中期石器時代堆積物の発掘により、そうした沿岸モデルと矛盾する証拠がもたらされました。沿岸部から離れた後期更新世遺跡が稀であることを考えると、このモデルは常に問題を抱えています。GHN遺跡での本論文の調査結果は、カラハリ砂漠における非実用的な物体の収集の証拠が105000年前頃までさかのぼるひとを示し、これは沿岸部の証拠と同年代です。GHN遺跡で新たに明らかになった行動的革新の記録は、カラハリ砂漠における降水量増加の期間と同年代で、空白で乾燥した内陸部という長年の見解と矛盾します。水の利用可能性の向上は、一次生産性の向上および人口密度増加と相関しており、それが革新的行動の起源と拡大に影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。

 本論文で用いられた考古学的・年代測定的・古環境的手法は、カラハリ盆地および他の研究されていない地域でのさらなる調査の基礎を築きました。GHN遺跡の証拠は、現生人類特有の行動の出現が沿岸部の資源に依存していた、との仮定に疑問を提起します。代わりに、これらの現代的行動は、多様で離れた環境で共有されていたようで、技術的収斂もしくはアフリカ全域での相互接続された人口集団の拡大を通じての急速な社会的伝達を反映しているかもしれません。したがって、本論文の結果は、沿岸部環境に限定されず、カラハリ盆地南部を含む、現生人類出現の多極起源(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)への裏づけを追加します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


ヒトの進化:初期人類の行動を示す証拠が内陸部で見つかった

 初期現生人類が複雑な行動を取っていたことを示す証拠が、アフリカ南部の内陸部で見つかったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、ヒト(Homo sapiens)の複雑な行動が沿岸環境で出現したとする最も有力な見解に異議を唱えるものだ。

 現生人類が黄土色の顔料、非食用貝の貝殻、装飾された人工遺物などの象徴的資源を使用していたことを示す証拠としてこれまでで最古のものは、アフリカのさまざまな沿岸域で出土し、12万5000~7万年前のものとされる。

 今回、Jayne Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の南アフリカ共和国内の海岸線から約600キロメートル内陸に位置するGa-Mohana Hill North岩窟住居遺跡で発見された約10万5000年前の考古学的遺物について報告している。出土した人工遺物の中には、意図的に収集されて持ち込まれたと考えられる方解石結晶が含まれていた。しかし、方解石結晶の実用上のはっきりとした目的は分からなかった。これに加えて、ダチョウの卵殻の破片も発見され、これは、水を貯蔵するために使われた容器の残骸である可能性がある。

 カラハリ砂漠の数々の古代遺跡に関するこれまでの研究では、初期人類の存在が示されてきたが、実用的でない物の収集や容器の使用といった複雑なヒトの行動を示す証拠で、なおかつ年代がはっきり決定されているものについての報告はない。Wilkinsたちは、アフリカ南部の内陸部における現生人類の行動革新は、沿岸付近の人類集団の行動革新に後れを取っていなかったという考えを示している。


考古学:10万5000年前のホモ・サピエンスの、より湿潤だったカラハリ盆地における革新的な行動

考古学:初期の人類の行動を示す内陸部の証拠

 現生人類に特徴的な行動に関する最初期の証拠は、アフリカの最南部の海岸洞窟から得られており、その年代は12万5000~7万年前と推定されている。しかし、アフリカ南部では内陸部の考古学的標本が極めて少ない。今回J Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の岩窟住居(海岸から約600 km内陸に位置する)で発見された、約10万5000年前の考古学的資料について報告している。これらの資料には、別の場所から運ばれたに違いない方解石の結晶やダチョウの卵殻の破片が含まれていた。これは、他では海岸部の遺跡としか関連付けられていない人類の行動が、はるか内陸部でも存在したことを示している。



参考文献:
Wilkins J. et al.(2021): Innovative Homo sapiens behaviours 105,000 years ago in a wetter Kalahari. Nature, 592, 7853, 248–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03419-0

大河ドラマ『青天を衝け』第13回「栄一、京の都へ」

 これまで、栄一視点の農村部の話と、徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話が、一瞬交わることはあったものの、栄一と喜作は京都に行くことになり、今回からはいよいよ融合していくことになります。ただ、農村部の話もそれなりに描かれそうで、農村部の視点からの幕末の描かれ方も注目されます。京都への途中で栄一と喜作は初登場となる五代才助(友厚)と遭遇しますが、両者はともに相手を強く意識したわけではなく、今回の五代は顔見世程度の出番でした。五代は本作でかなり重要な役割を担いそうで、配役からしても本作の目玉なのでしょう。

 京都に到着した栄一と喜作は、その華やかな様子に圧倒されますが、そこに新撰組が取り締まりに現れ、栄一と喜作は土方歳三と遭遇します。大久保利通も登場しましたが、こちらも土方や五代と同じく顔見世程度の出番でした。栄一と喜作は長七郎を京都に呼びますが、京都へ向かう途中、幻覚を見るなど精神状態が不安定な長七郎は間違って飛脚を斬って捕まってしまいます。そのため、栄一と喜作が長七郎に出した文も役人に入手され、栄一と喜作は窮地に陥ったところ、平岡円四郎に呼び出されます。新章に入り、五代や大久保のような本作では重要な役割を担うだろう人物も顔見世程度とはいえ登場し、いよいよ物語が大きく動き始めました。なお、今回徳川家康の登場はありませんでした。

更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響

 更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響を検証した研究(Louys et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)が最初にニュージーランドの島々に到達した時、モアの9種を含む多様で豊かな生態系が存在しました。現生人類の到達後200年以内に、それらは少なくとも25種の他の脊椎動物とともに全て絶滅しました。後期完新世に、この一連の出来事は太平洋の40以上の島で発生し、平均して太平洋の島嶼部の鳥のほぼ50%が現生人類の定住後に絶滅し、これらの絶滅の大半はヨーロッパ人との接触前に起きました。これらのパターンは、マスカリン諸島やマダガスカル島を含むインド洋の島々の絶滅記録を反映しており、現生人類の定住直後の島嶼部の世界的な絶滅パターンを示唆します。

 島は大陸と比較して、生物相の広範な絶滅が生じやすい傾向にあります。それは、生息する動物相と個体数が少なく、遺伝的多様性が低くて、確率的過程に影響されやすく、再定着の可能性が少なくて、固有性がより高水準だからです。太平洋とインド洋の島々の驚くような絶滅は、現生人類の活動、とくに乱獲と生息地改変と侵入種の導入に起因します。島嶼部動物の絶滅と現生人類の定住の年表は、大陸における大型動物絶滅を理解するための魅力的な類似を提供してきました。以前の研究では、マダガスカル島とニュージーランドにおける人為的絶滅の明示的参照による過剰殺戮仮説が提示され、アフリカと南北アメリカ大陸の大型動物絶滅を説明するのに同様のメカニズムが適用できる、と主張されました。

 島と大陸の生態系間に存在する重要な違いが認められているにも関わらず、島嶼部の記録はその後、更新世の絶滅が大陸でどのように展開したのか理解する理想的なモデルとよくみなされてきました。現在、島嶼部の動物の絶滅は、5万年以上前に現生人類により開始された世界的な絶滅事象の継続と解釈する見解が圧倒的に優勢です。現生人類の到来と大型動物絶滅との間の密接な関連がしっかりと確立されている島嶼部のよく知られている記録は、他の大陸における人為的絶滅仮説の裏づけとして広く引用されています。したがって、島嶼部の大型動物絶滅は、大型動物現象の原因に関する議論において重要な構成要素です。

 現生人類が島嶼部の動物絶滅の主因との仮説は、現生人類が「未開の生態系(過去に現生人類との接触がない生態系)」に到来したことが動物絶滅と密接に関連していることを示唆する、ほぼ同時代の記録に依拠しています。しかし、世界的絶滅仮説の評価において多くの島が考慮されてきましたが、それらの考慮はほぼ完全に完新世の現生人類の存在に焦点が当てられてきました。この枠組みでは更新世島嶼部の重要性と、第四紀における島嶼部の定住事象の増加している考古学的記録にも関わらず、更新世の記録を有する島が、第四紀の絶滅の世界的評価に明示的に含まれることはほとんどありません。技術と行動と、人類種さえ、島嶼部で均一ではないので、これは重要です。人類は少なくとも前期更新世以来、海洋の島々を訪れたか、そこで居住し(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、現生人類は少なくとも5万年前頃には島嶼部に存在しており、この期間に多くの顕著な進化的・行動的・文化的変化が起きました。人類の到来と絶滅との間の関連が更新世に人類が存在した島々に当てはまるのかどうか再調査することは、この研究の不足への対処における重要な第一段階です。

 本論文は、更新世における人類の島嶼部への到達が、島嶼部の動物分類群の消滅と一致している、との仮説をデータが裏づけるのかどうか、調べます。本論文は、更新世における人類存在の記録があり、動物絶滅のいくつかの記録がある全ての島の考古学および古生物学的記録を調べます。本論文は、海洋の島々、つまり第四紀に大陸と陸続きになったことのない島々と、大陸部の島々、つまり最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)やそれ以前に大陸と陸続きになっていたものの、現在では島となっている地域を別々に扱います。また、火山活動など大規模な地質学的事象と、島の生態系へのさまざまな人類の明らかな生態学的影響に関連するデータも調べられます。

 本論文は、動物分類群絶滅と人類の到来との間に時間的重複が存在するのかどうか確立するため、評価を限定しました。本論文は、これが人類の到来と動物絶滅との間の因果関係を意味するとは主張せず、むしろ、そのような関係が存在した可能性を示す最初の兆候とみなします。これにより、人類がそれまで人類の存在しなかった生態系に常に悪影響を及ぼした、との提案を評価できます。この長期的視点は、現代の生態系への現生人類の影響を理解し、島の保全活動に情報を提供するうえで必要な段階です。


●非現生人類ホモ属の島々

 海洋の島における人類最古級の記録(図1および図2)は、フローレス島で100万年以上前の単純な石器(関連記事)、スラウェシ島で194000~118000年前頃の単純な石器(関連記事)、ルソン島で709000年前頃の石器や解体痕のあるサイの骨など(関連記事)が見つかっています。ルソン島における動物種(Nesorhinus philippinensis)とイノシシ科動物(Celebochoerus cagayanensis)の絶滅は、最初の人類の到来とほぼ同時かもしれませんが、現時点では、証拠は単一の年代測定された地点にのみ基づいており、人類と絶滅動物の共存期間に関する確たる洞察は提供されていません。フィリピンの大型動物の多くは6万~5万年前頃に絶滅した可能性があり、その頃までにルソン島に存在していたかもしれない(関連記事)ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)との明確な関連はないようです。大型ラット(Batomys sp.)や小型スイギュウ(Bubalus sp.)は、ホモ・ルゾネンシスと同じ層で見つかっています。それらは、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)の後の堆積層、もしくはルソン島のこれまで発掘された他の遺跡には存在せず、更新世末の前に絶滅した可能性が示唆されます。以下は本論文の図1です。
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 フローレス島では、最初の人類の出現と密接に関連する既知の絶滅はありません。スラウェシ島では、まだ特定されていない人類種の到来と動物の消滅との間で、明確な時間的関連性は示されていませんが、ステゴドン(Stegodon sp.)およびスイギュウ(Bubalus grovesi)の絶滅は、その下限年代が真の絶滅年代に近いとしたら、人類の到来と関連しているかもしれません。ギリシアのナクソス島(Naxos)で記録されている唯一の絶滅したゾウ種(Paleoloxodon lomolinoi)は、人類到来からかなり後のことです。サルデーニャ島では、人類の出現は同様に動物の消滅と関連していません。しかしクレタ島では、フクロウ(Athene cretensis)とイヌワシ(Aquila chrysaetos simurgh)とイタチ(Lutrogale cretensis)の絶滅が、人類の到来と関連しているかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 大陸部の島では、人類最初の記録はジャワ島の130万年前頃のホモ・エレクトス(Homo erectus)となり(関連記事)、ブリテン島では100万年前頃までさかのぼり、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)かもしれない足跡が確認されています(関連記事)。台湾では、分類未定の人類種の存在が45万年前頃までさかのぼる可能性があります(関連記事)。これらの人類の到来と同時の絶滅は記録されていませんが(図3)、これらの絶滅は、島が大陸と陸続きになった時期に起きており、「未開の生態系」への人類の到来というよりもむしろ、これらの人類の範囲拡大の文脈で理解する必要があります。古生物学的および考古学的記録は明らかに限定的ですが、この証拠に基づくと、ルソン島とスラウェシ島とクレタ島では合計7種が非現生人類の到来の結果絶滅したかもしれません。以下は本論文の図3です。
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●現生人類が存在する海洋の島々

 海洋の島々における現生人類の最初の直接的証拠は、アジアにおいて5万年前頃までさかのぼります(図1)。想定される最も広い意味での現生人類最初の到来と時間的に関連している絶滅(5000年以内)は、カリフォルニアのチャネル諸島の2種の長鼻類(Mammuthus columbiaおよびMammuthus exilis)とハタネズミ(Microtus miguelensis)、アイルランドのギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)とレミング(Dicrostonyx torquatus)、スラウェシ島のゾウ(Elephas/Paleoloxodon large sp.)、ティモール島のツル(Grus sp.)です。

 フローレス島では、コウノトリ(Leptoptilos robustus)とハゲワシ(Trigonoceps sp.)と鳴鳥(Acridotheres)と小型ステゴドン(Stegodon florensis insularis)とホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が、最初の現生人類の到来と近い時期および同時期の噴火の頃に消滅しています(図2)。フィリピンでは、ホモ・ルゾネンシスが55000年前頃もしくはその直前までルソン島に存在しており、パラワン島における現生人類最初の証拠は現時点では47000年以上前です。キプロス島と久米島だけで、現生人類到来後すぐに全ての記録された動物の絶滅が起きた、という証拠があります。これらのデータに基づくと、海洋の島々におけるほとんどの既知の絶滅は、更新世人類の到来と関連づけられないか、もしくは非人為的過程との切り離しはできなさそうです。


●現生人類が存在する大陸部の島々

 大陸部の島々に関しては、現生人類最初の記録はスマトラ島(関連記事)で得られていますが(73000~63000年前頃)、この時点でスマトラ島は大陸部と陸続き(スンダランド)だったので、その観点から解釈されます(図3および図4)。ただ、スマトラ島の初期現生人類の年代には疑問が呈されています(関連記事)。ボルネオ島やスマトラ島における動物絶滅の記録は乏しく、とくにジャワ島に関してはほとんど記録がありません。現生人類が到来した時にスマトラ島に生息していたサイやトラやバクなどほとんどの大型哺乳類は、つい最近まで生存していました。

 ジャワ島における動物絶滅は、現生人類の可能性があるジャワ島における最初の人類の記録の前に起きており、氷期におけるアジア南東部本土への一時的なつながりに起因する、動物相交替事象と関連しています。これらの絶滅は、サバンナの広範な喪失と閉鎖的林冠への置換により起きた可能性があります(関連記事)。同様にブリテン島では、ほとんどの動物絶滅が現生人類の到来前に起きました。島の段階での絶滅は、おそらくブリテン島とアイルランド島の氷床拡大に起因しますが、ほとんどの動物絶滅はヨーロッパ本土と陸続きだった期間に起きた可能性が高く(図4)、ヨーロッパ本土の絶滅の文脈で理解されるべきです。これらの絶滅は一般的に、環境変化に起因しています。

 ニューギニアにおけるほぼ全ての更新世の動物絶滅は、現生人類到来後かなり経過してから起きており、動物絶滅も現生人類到来もオーストラリアと陸続き(サフルランド)だった期間のことだったようです(図4)。ウォンバット型亜目種(Hulitherium tomassetti)とヒクイドリ(Casuarius lydekkeri)の絶滅は、その下限年代が化石の実際の年代に近ければ、現生人類の到来と同時だった可能性があります。同様に、カンガルー島では有袋類3種(Procoptodon browneorum、Procoptodon gilli、Procoptodon sp.)は、その下限年代が実際の絶滅年代と近ければ、最初の現生人類の到来と同時期に絶滅した可能性があります。タスマニア島では、2種の有袋類(Protemnodon anakおよびSimosthenurus occidentalis)だけが、現生人類の最初の記録と近い年代に消滅しており、両種のどちらも考古学的記録とは関連していません。大陸部の島々が島だったのは更新世のわずかな期間で、一部の動物絶滅は島嶼化の開始と同時のようですが、ほとんどは大陸と陸続きだった期間に起きました(図4)。したがって、これらの絶滅の根底にあるメカニズムは、海洋の島々に作用するメカニズムと直接比較できる可能性は低そうです。以下は本論文の図4です。
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●動物絶滅のまとめ

 現生人類も含めて更新世人類集団が後期完新世の現生人類と同じくらい破壊的だったならば、その影響は孤立した海洋の島々でとくに明らかなはずですが、本論文のデータでは観察されませんでした。キプロス島と久米島でのみ、現生人類の到来と同時期の全ての動物絶滅の記録を裏づけるデータがあります。海洋の島々における他の全ての更新世の動物絶滅は、少なくとも現在利用可能な年代解像度の範囲内では、そうした原因とは無関係か、時期がずれているようです。

 海洋の島々や遠方の大陸部の島々の累積的動物絶滅は、数は絶対的には少なく、サルデーニャ島とフローレス島でそれぞれ最大12件が記録されています。サルデーニャ島とフローレス島は比較的大きく、とくに孤立していませんが、近くの大陸からは深い海で隔てられています。大陸棚の島々における動物絶滅は、よく表されて制約されている場合でも、時間的にずれており、おもに大陸との陸続きの期間に限定されているようです。最も近い大陸からの分離は、大陸部の島々全体で少なくとも過去50万年間には比較的稀で、間氷期の条件に大きく依存し、顕著な環境変化と関連していました。ジャワ島やブリテン島のような化石記録が豊富な大陸部の島々では、動物絶滅は多発していますが、その原因はおもに、大陸における絶滅のメカニズムの延長線上にある、と考えられるべきです。


●考察

 動物相の入れ替わりは海洋の島々では一般的で、動物絶滅は、ひじょうに大きな島であっても、生態系が平衡状態に向かうさいの自然の過程です。より小さくより孤立した島は遺伝的多様性に大きな影響を及ぼし、人類が存在しない場合でさえ絶滅を起こします。この過程は、海面上昇により強化されます。島の大きさ、したがって資源の多様性は、人類の居住成功の最重要の原因である可能性が高く、陸生タンパク質の欠如は明らかな課題です。海洋資源に特化することにより、この制約を取り除けます。その他の資源には石や竹および/もしくは木材や淡水利用可能性が含まれ、これらは、どの島がどのようにどこで利用可能な資源を有していたのか、いくらかの尺度を提供します。海洋の島々では、淡水の利用可能性が定住の最大の制約だった可能性があります。それは、海洋性タンパク質が豊富だったとしても、多くの小さな島々は、淡水の獲得戦略が利用可能になった後期完新世まで人類により居住されなかったからです。

 以前の乱獲の概念では、島嶼部における動物絶滅は本土の絶滅の加速版とみなされ、何を狩るべきかの選択がほとんどない、という追加の特徴がありました。K選択分類群は、大型動物絶滅モデルにおいて乱獲による絶滅に最も脆弱である、と考えられています。しかし、人類が関わらない海洋の島々の条件は、r選択された分類群を好む傾向にあるので、大型で繁殖が遅い種は、大陸よりも島の方で見られない可能性が高そうです。注目すべき例外にはカメと長鼻類が含まれますが、長鼻類は島では小型化し、島の条件に応じて進化を示す可能性があります。それにも関わらず、島における乱獲は更新世および完新世の動物絶滅を説明する重要な原因の一つであり続けます。

 フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)とルソン島ねホモ・ルゾネンシスのような島に存在した非現生人類ホモ属は、さまざまな陸生動物を利用していました。ジャワ島のホモ・エレクトスは海洋資源の利用が可能でしたが、陸生資源以外のものが消費された明白な証拠はありません。カラオ洞窟では、人類が茶色のシカ(Rusa marianna)やフィリピンヒゲイノシシ(Sus philippensis)を狩るか、その死肉を漁っていました。両種ともルソン島で現存しています。ボルネオ島とジャワ島の動物考古学的記録では、現生人類が陸生と水生と樹上性の脊椎動物を狩り、罠で捕獲するためのさまざまな技術を用いていた、と示唆されます。アジア南東部の広範な地域における遠隔武器(弓矢や槍など)の導入は、狩猟対象の動物相の多様性、とくにサルやジャコウネコのような樹上性分類群に影響を及ぼしたようです。しかし、カニクイザルやリーフモンキーやビントロングのように最も集中的に狩られてきた種は、現存しています。

 ワラセアの海洋の島々における現生人類と関連する更新世の記録は、海洋魚介類が優占しており、遠海漁業と複雑な漁業技術の初期の証拠が含まれます。注目すべき例外はスラウェシ島で、44000年前頃の洞窟壁画には、小型スイギュウ(Bubalus depressicornis)やセレベスヒゲイシ(Sulawesi warty pig)とともに狩猟場面の獣人が描かれており(関連記事)、最初期の考古学的堆積物はイノシシ科のバビルサ(Babyrousa babyrussa)と小型スイギュウ(アノア)が優占します。両分類群はスラウェシ島に現存します。琉球列島中央部の沖縄島では、縄文時代の人々がイノシシ(Sus scrofa)を集中的に狩っており、イノシシは6000年前頃までに小型化しました。その後、食資源は貝類に移行し、イノシシは再び大型化しました。これは、絶滅に至る乱獲を抑制する文化的および/もしくは環境的管理が存在したかもしれない、と示唆します。

 カリフォルニアのチャネル諸島では、現生人類の到来と同じ時期に3つの陸生分類群の絶滅が記録されていますが、マンモスがそれまでに狩られていた兆候はなく、生計は海洋資源に集中していました。同様に、タスマニア島の考古学的記録では、小型から中型の動物のみが狩られており、絶滅種が現生人類により利用されていた証拠、もしくは現生人類が絶滅の原因である証拠はない、と示されています。キプロス島の考古学的記録は、12000年前頃の現生人類の到来に続く大規模な動物絶滅を示唆しており、これは島嶼部の動物絶滅と最初の現生人類到来との間に説得力のある重複が存在する2つの島のうち一方の事例となります。

 絶滅は生計活動と結びついている場合、環境変化の記録から解明することは困難です。フィリピンのパラワン島のタボン洞窟(Tabon Caves)では、47000年前頃となるパラワン島で最初の現生人類の痕跡が確認されており、その頃パラワン島では森林は限定的で、開けた林地が優占していました。後期更新世の狩猟採集民共同体はおもにシカを狩っていました。パラワン島では、前期完新世に熱帯雨林が拡大し、海面上昇のため陸地の80%以上が失われました。シカの個体数は減少し、パラワンイノシシ(Sus ahoenobarbus)は現生人類にとって主要な大型哺乳類資源となりました。3000年前頃までに、シカ集団は絶滅しました。パラワン島では、現生人類の狩猟はシカの絶滅に顕著な役割を果たしましたが、気候と環境の大きな変化も集団回復力に影響を及ぼし、それはより開けた環境を維持しているカラミアン諸島の3島でシカが生存し続けていることにも示されています。

 更新世の少なくともいくつかの島では人類も絶滅し(図1)、いくつかの考古学的記録は島の放棄を表しているようです。たとえば、ワラセアの小さな島であるキサール島に現生人類が最初に居住したのは16000年前頃でした。現生人類の居住は、大規模な海上交易ネットワークの確立後にのみ成功し、前期完新世における島の放棄は、これらのネットワークの崩壊と関連していた可能性があります。カンガルー島は、放棄の最良の直接的な肯定的証拠を保存しています。カンガルー島の記録によると、オーストラリア先住民は4000年前頃までに居住を終えましたが、一時的な訪問(もしくは恐らく継続した限定的居住)がさらに2000年続いた可能性があり、ヨーロッパ人がカンガルー島に到来した時までには、人類は存在しなくなっていました。キプロス島では、小型カバの絶滅後、現生人類の存在は前期新石器時代まで制限されていました。

 島、とくに小さくて大陸から遠い島は、その小ささと孤立のため、無作為な事象が発生しやすくなります。本論文では、火山活動が恐らくは動物絶滅と同時期だった事例はほとんど見つかりませんでしたが(図2および図4)、これらの事象は島における現生人類最初の到来時期とも区別できません。大規模な噴火の第四紀の歴史は、日本列島でとくによく調査されており、噴火は哺乳類種の絶滅と同時期ではないようです。これはフローレス島の噴火記録にも当てはまります。歴史時代に島で起きた比較的よく記録された大規模噴火でさえ、局所的絶滅に対する噴火の影響を評価することは困難です。それにも関わらず、噴火の生態学的影響の研究は、哺乳類群集における短い回復時間と、長期的変化がないことを示しました。

 完新世における島嶼部への現生人類の到来は、島の固有種の大規模な絶滅と同時だった、とよく考えられています。これらの絶滅は概念的に、乱獲や生息地改変や家畜・栽培植物・共生動物の導入のようなメカニズムを通じての、人類の作用と関連しています。家畜・栽培植物・共生動物の導入は間違いなく、島の動物絶滅にずっと大きな影響を及ぼし、それはとくに小型哺乳類や鳥類に当てはまり、それだけではなく大型哺乳類も同様です。たとえば琉球列島の宮古島では、固有種のシカ(Capreolus tokunagai)は最初の現生人類到来により追いやられたのではなく、その絶滅は後期更新世もしくは前期完新世に現生人類がイノシシを導入したことと一致します。

 結果として、完新世において島嶼部で起きたことはしばしば、人々と関連する絶滅過程を理解する理論的および実践的枠組みを提供してきました。これは、現生人類が、以前には到達できなかったか、居住し続けられなかった地域へと完新世に拡大することを考えると、説得的です。それは大陸部の島々にも当てはまり、島の状態や技術変化が完新世の始まりと一致していました。しかし、更新世の記録は島の生物相の影響に関してずっと曖昧です。これは、生計戦略と密接に関連する要因、更新世を通じての技術および行動変化、島とその資源の世界的に特徴的な性質によるものです。

 本論文のデータは、現生人類を含む人類が、現代人のように島の生態系に悪影響を常に及ぼしてきたわけではない、と示します。むしろ、絶滅の加速は前期~後期完新世において始まり、それは移住機会の拡大、航海能力と拡散能力の向上、広範な土地開拓の導入、共生動物やシナントロープ(スズメなど人間社会の近くに生息してそこから食資源や生活空間を得て存続している動物)の導入、人口密度の増加、動物集団の過剰な搾取を可能とする技術の発展の後に続いた事象です。人類が常に「未開の生態系」に有害だったわけではない、との認識は、人類がより受動的な、あるいは有益でさえあった影響を及ぼしてきた事例の特定に重要です。こうした事例は、島の固有動物相の絶滅危険性を増加させる要因の特定を目的とした比較研究に重要です。このような過程を経てのみ、現在島に残る生物多様性を保全できるでしょう。


参考文献:
Louys J. et al.(2021): No evidence for widespread island extinctions after Pleistocene hominin arrival. PNAS, 118, 20, e2023005118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2023005118

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』

 日本評論社より2021年3月に刊行されました。人類進化に関してさまざまな知見が得られそうなので、読みました。社会学に関しては門外漢なので、日本の社会学における生物学嫌い(バイオフォビア)に関しては(日本に限らないかもしれませんが)、本書を読んで多少は把握できたように思いますが、深く理解できたわけではないので言及せず、本書の興味深い知見を以下に短く備忘録的に述べていきます。



第一部 遺伝子社会学の試み


1●桜井芳生、西谷篤、赤川学、尾上正人、安宅弘司、丸田直子「ツイッター遺伝子の発見?──SNP(遺伝子一塩基多型)rs53576解析による遺伝子社会学の試み」P3-20
 本論文は前提として、遺伝決定論ではなく、遺伝子・環境相互作用論を採用する、と明言します。その主題からして、本書に対する「社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)」側からの警戒は強いでしょうから、この立場表明は必要と言えそうです。本論文が取り上げたのはオキシトシン受容体OXTR遺伝子の一塩基多型(rs53576)です。ホルモンの一種であるオキシトシンは、他者への信頼・共感・養育行動のような「向社会性」との関連が指摘されています。rs53576ではGが野生型、Aが変異型とされています。本論文は、AA型のヒトのTwitter利用頻度の高さに注目していますが、同時に、試料数の少なさと、この多型がTwitter利用頻度の違いという「表現型」の違いにどう発言したのか、未解明であることから、生理的機序・心理的機序・社会環境など環境要因も考量する必要性を指摘します。また今後の展望として、ジャポニカアレイの利用による大規模分析が視野に入れられています。


2●桜井芳生、西谷篤、尾上正人「現代若者「生きにくさ」に対する、セロトニントランスポーター遺伝子多型5-HTTLPRの効果」P21-30
 本論文は、「生きにくさ(生きづらさ)」を感じる要因として、社会経済的側面だけではなく、遺伝的側面にも注目します。具体的には、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)がSS型のヒトほど、「生きにくさ」を感じやすいのではないか、と指摘されています。セロトニンは神経伝達物質のひとつで、ドーパミンやノルアドレナリンを制御し、精神を安定させます。5-HTTの反復配列領域の多型(5-HTTLPR)は一般的に、短いS型と長いL型に二分され、SS型・SL型・LL型に分類されます。本論文は、5-HTTLPRが「生きにくい」との意識に直接的効果を有すると指摘し、「発達障害(あるいは、自閉症・アスペルガー症候群)」自体が、5-HTTLPRによる影響である可能性も示唆します。また今後の展望として、発達障害などにおいて、個人の遺伝子に応じた政策の必要性が指摘されています。


3●桜井芳生、西谷篤「(補論)セロトニントランスポーター遺伝子多型におけるヘテロ二本鎖解析の検討」P31-38
 セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)は、第2論文で指摘されているように、上述のように、一般的にその反復配列の長さからSS型(短)・SL型(中間)・LL型(長)に分類されていますが、反復配列の数と並び方で複数のサブタイプが存在すると報告されており、DNA配列の決定が必要となります。本論文は、「ヘテロ二本鎖」への対応方法を検討し、最適なアニーリング温度(68度)を明らかにし、多型のサブタイプ頻度が、以前の報告とおおむね近い値となったことを示します。各多型の頻度は、SS型が76%、SL型19%、LL型が5%と報告されています。


4●桜井芳生、西谷篤、尾上正人、赤川学「日本若年層の「スマホゲーム」頻度に対する、遺伝子一塩基多型(SNP)rs4680の看過しがたい効果」P39-46
 本論文は、カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)遺伝子の一塩基多型(rs4680)に注目し、スマホゲーム頻度との関連を検証します。COMTは、ドーパミンやノルアドレナリンやアドレナリン系脳内ホルモンを不活性化させ、排せつするのに必要な酵素です。COMT遺伝子の一塩基多型(rs4680)では、Aアレル(対立遺伝子)だと前頭前皮質のドーパミンが多くなり、心理に影響を及ぼす、と指摘されています。変異型のAアレルは心配性(痛みの閾値が低く、ストレスにより脆弱ではあるものの、ほとんどの条件下で情報処理がより効率的)、野生型のGアレルは勇士(痛みの閾値が高く、ストレス回復力が向上するものの、認知能力がわずかに低下)とされています。分析結果は、Aアレルを有するヒトほどスマホゲームをせず、外向性が低くて協調性は高く、技能向上の訓練機会が多いことを重視しません。今後の課題として、スマホゲームの内容(「勇士」的なものか否か)、1日あたりのゲーム時間の調査が挙げられています。



第二部 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて


5●桜井芳生「「社会学の危機」から、「バイオダーウィニスト」の「理解」社会学へ」P49-60
 英語圏では社会学部の廃止など「社会学の危機」が論じられており、「標準社会科学的モデル(SSSM)」批判の議論がよく言及される、と本論文はまず指摘します。1990年代に、SSSMを批判し、進化心理学を基盤として自然科学と社会科学をつなぐ試みである統合因果モデル(ICM)が提唱されました。本論文は、社会学の伝統にある中核部分である理解社会学的方略が、近代科学についてのある種の思い込みにより不当に軽視されており、現代バイオダーウィニズムの援用により再評価できるのではないか、と指摘します。理解社会学的方略を理由とする社会学の科学性への懐疑には、理解社会学的方略の選択自体を必然的な理由として近代経験科学に値しないとする立場と、理解社会学的方略の選択によりほぼ必然的に学理上の難点(他我理解問題)に逢着するので、理解社会学は科学に値しない、とする立場があります。本論文は、これまで分別されてこなかった両者を分別することで、現代ダーウィニズムの進展が理解社会学の擁護に資する、との見通しを提示します。本論文が重視するのは、生得的な二つの認識能力です。一方は、外界をいわば「物」として把握するセオリーオブセオリー、もう一方は、対象をいわば「心ある者」として認識するセオリーオブマインド(心の理論)です。本論文は、理解社会学への批判は、経験科学である以上、この二種の認識のうちセオリーオブセオリーだけであるべきとの暗黙の前提があるのではないか、と指摘します。本論文は、そうした区分ではなく、反証可能性こそが科学的認識の線引きに相応しい、と提言します。他我理解の問題に関しては、各人は自分の思念する意味を内心に持っていることが前提とされているものの、心の目理論に基づくと、元々他個体の振る舞い予測の方略として意味理解が進化したので、他個体の把握における意味利用は、近代科学の仮説=テスト図式に親和的である、と本論文は指摘します。


6●赤川学「高田少子化論の進化論的基盤」P61-76
 本論文は、20世紀前半の社会学者である高田保馬の少子化論を取り上げています。少子化に関しては、(1)1人あたりGDPの高い国は出生率が低く、(2)日本やアジアの都市部は村落部と比較して出生率が低く、(3)世帯収入の低い女性の子供の数は多く(貧乏人の子だくさん)、(4)歴史的に豊かな階層の子供の数は多い(金持ちの子だくさん)という事実が知られています。本論文はこの4点の事実を説明する有効な社会学理論として、高田の見解を取り上げています。高田は、日本での出生率低下を案じる社会学者が他にいなかった1910年代中盤において、日本でも欧米のような低出生傾向がやがて起きる、とすでに懸念しており、その理論的検討を始めていました。本論文では、「金持ちの子だくさん」はヒトの遺伝子レベルに書き込まれた「進化時間」への適応、「貧乏人の子だくさん」は産業革命以降に文化的な媒体・経路を通じて個体間で学習された「歴史時間・文化時間」への適応と位置づけられます。

 本論文は現代の少子化問題として、ハイポガミー(女性下降婚)とハイパガミー(女性上昇婚)も取り上げています。女性の下降婚と上昇婚の違いは、社会における資源専有の性別の偏りに起因する、との見解もあります。富や地位の性別格差が、男性優位で大きければ女性上昇婚が多く、小さければホモガミー(同類婚)が多くなる、というわけです。女性上昇婚や同類婚が進化時間における最適な戦略とすれば、女性下降婚の割合はあらゆる社会において低くなっているはずですが、実際には女性下降婚の割合が高めの国もあり、その方が出生率は高めです。ただ、本論文は断定には慎重です。本論文は、日本など女性下降婚の少ない国の事例は、進化時間における適応の結果というよりは、歴史・文化時間における事象ではないか、と指摘しています。この問題に関して私は不勉強なので、今後も地道に調べていかねばなりません。


7●尾上正人「育ち(Nurture)の社会生物学に向けて──共進化とエピジェネティクスから見た社会構築主義」P77-110
 「生まれか、育ちか」という伝統的な対立軸において、社会学ではその草創期から、「育ち」を重視した理論やモデルが構築され、「生まれ」による影響は「生物学的」とみなされ、距離を置かれるか拒絶されてきましたが、近年の進化生物学は、一般的な社会学者の想定とはかなり異なる内容へと発展している、と本論文は指摘します。具体的には、文化的要素との共進化を説く潮流と、分子レベルでの遺伝的決定からの修正を重視するエピジェネティクスの台頭です。本論文の目的は、これら進化生物学の新たな潮流が、社会構築主義に自然科学的な裏づけを部分的に与える可能性はあるものの、同時に社会構築主義の限界も示唆していると考えられることから、社会構築主義を進化生物学もしくはより広く自然科学的に許容できる範囲内に位置づけし直し、再定式化しようとすることです。

 本論文は、社会生物学で当初想定された、文化は遺伝子により「引き綱」をつけられており、相対的に自律しているにすぎない、との見解が、その後の遺伝子と文化の共進化論により修正されていったことを指摘します。文化伝達には「不適応」をもたらす力があり、その具体例が、エベレスト登山などの危険な競争や、ポリネシアにおける高価で健康を脅かすタトゥーへの固執です。本論文が重視するもう一方のエピジェネティクスも、文化と遺伝子の共進化と同様に、急速で劇的な適応を可能にした、と本論文は指摘します。本論文がとくに重視するのは表現型可塑性で、一卵性双生児における形質の違いや、爬虫類の性別が卵の温度に左右されることなどです。

 本論文はこれらを踏まえたうえで社会構築主義を改めて位置づけようとしますが、そのさいに重要なのが、社会構築主義を二分していることです。一方は、観念・概念の出現により社会的事象が生まれるとする客観的観念論に該当する立場でブランクスレート(空白の石板)説を強く主張する傾向にあり、もう一方は、不可知論もしくは主観的観念論に該当する立場です。本論文は、客観的観念論の社会構築主義は、「知識と実在の一致」を批判するものの、それは多分に藁人形的論法で、主観的観念論の社会構築主義は、「実在の状態」からの絶縁を強調しすぎると、ブランクスレート説に近づいてしまう、と指摘します。本論文はブランクスレート説の問題点を、自然的(物理的、生物学的など)現実の影響力もしくは拘束力を軽視し過ぎていることにある、と指摘します。ヒトを、空白の石板ではなく、物理的・生物学的な制約を受けた存在としてまず把握すべきというわけです。

 本論文は社会構築主義の新たな位置づけの参考として、ニッチ構築論を挙げます。ニッチ構築論では、生命体による生物も含めた環境の改変・構築が重視され、生命体と環境の共進化が主張され、その対象範囲はヒトに限らず生物全体に及びます。近年になってこのニッチ構築論から、発声と進化における構築過程の役割を強調する「拡張版進化総合」が提唱されています。本論文は、これら新たな進化生物学の潮流では「育ちの強さ」が明らかにされつつあり、それを踏まえたうえでの社会構築主義の自己革新を提言します。一方で本論文は、エピジェネティクスや構築の「強さ」だけではなく、「弱さ」の認識の必要性も指摘しており、「育ち」の「強さ」も「弱さ」も踏まえたうえでの、総合的理解が求められているのでしょう。


8●三原武司「進化社会学的想像力──3つの進化社会学ハンドブックの検討と進化社会学的総合」P111-128
 本論文は、3冊のハンドブックを取り上げることで、進化社会学もしくは生物社会学の英語圏における動向を解説しています。これら3冊のハンドブックからは、広範囲の生命科学関連領域が社会学に導入された、と分かります。また、人類学や社会疫学や医学や犯罪学や政治学などの研究者も寄稿しており、進化社会学と隣接領域の深い共同も窺え、社会学の全領域を反映した傾向のようです。進化社会学ではすでに論争点も現れており、一方は現在の標準的な生物学であるネオ・ダーウィニズムもしくは現代的総合(MS)、もう一方は本書第7章でも取り上げられた拡張版進化総合(EES)です。EESの新たな動向として、(1)従来の血縁選択と互恵的利他主義の理論から、マルチレベル選択理論などより向社会的な利他主義の理論への変化、(2)脳を孤立したデータプロセッサのようなものと考える以前の見解から、社会脳仮説などに見られる多重接続された社会的なものとして表現するようになったこと、(3)エピジェネティクスへの注目、(4)個体の自律性と独立性から共生的プロセスの強調への変化、(5)生態学的相互作用と微生物への関心の高まり、(6)遺伝子の水平伝播やキメラ現象への関心です。また新たな動向として、エボデボ(進化発生生物学)やニッチ構築理論なども挙げられています。これらの中で、集団選択もしくはマルチレベル選択の問題では、選択の単位として遺伝子よりも集団が強調されます。これらの動向により社会学は大きく変わっていき、本論文は社会学とMSやESSをつなげていく試みについて、「進化社会学的総合」と呼んでいます。


9●高口僚太朗「「女性特有の病気だから」という理由で沈黙せざるを得ない父親たち──ターナー症候群の娘を持つ父親たちの「生きづらさ」とは何か」P129-144
 近代医療は患者が「寛解者(本論文では慢性疾患当事者も含まれます)」として長く生きることを可能にしましたが、それによる「生きづらさ」も生じます。本論文は、その具体的事例として、女性にのみ発症するターナー症候群当事者の家族、とくに父親の「生きづらさ」を取り上げます。ターナー症候群はX染色体の全体もしくは一部の欠失に起因した疾患の総称で、性腺機能不全を主病態とし、多くの当事者が不妊となります。患者数は約1000人に1人と推測されており、具体的な症候として、低身長や卵巣機能不全に伴う二次性徴への影響や月経異常などがあります。ターナー症候群と診断された当事者の多くは小学校高学年の頃から低身長が顕著となり、母親にのみ告知することが標準医療として推奨されています。本論文では、ターナー症候群当事者の父親は、妊孕性や妊娠や出産よりも、自立した生活を送れるのか、心配する傾向にあると分析されています。また、ターナー症候群が女性特有であることから、父親には娘と不本意に距離を取る苦悩があることも指摘されています。本論文は、ターナー症候群当事者の父親の「生きづらさ」は、家族との関係性の中で成立し、家族の抱える「生きづらさ」とも同一ではない、と指摘しています。


10●桜井芳生「バイオダーウィニズムによる〈文化〉理論──なんの腹の足しにもならないのに、、、」P145-164
 本論文はまず文化を、「ヒトの行動・表象のうちで、なんの腹の足しにもならないのに、望ましいもの、価値あるもの、として評価されているものの謂である」と定義します。これはバイオダーウィニズムの「性淘汰の理論」を下敷きにしており、つまり孔雀の尾やライオンの鬣のような資源の浪費に見えるような形質が選択されてきたのは、異性から選ばれたからだ、というわけです。本論文は、ヒトの「文化的なもの」のほとんどは性淘汰の産物だろう、との見通しを提示しています。ただ、進化的観点では、この性淘汰は石器時代というか更新世の環境に適応したものなので、現代社会において性淘汰における適応度指標として機能するとは限らない、と指摘されています。


11●尾上正人「「待ち時間」としてのヒトの長い長い子ども期──社会化説、アリエス、そして生活史不変則へ」P165-184
 本論文はヒトの子供期(離乳から性的成熟まで)に関する議論を検証します。近縁の現生種と比較して長いヒトの子供期は、以前から注目されてきました。ヒトの長い子供期を、一人前になっていくための道程もしくは収斂期間として理論的に緻密化したのが社会化機能説で、家族の重要性が強調されました。ここでは、社会化過程こそがヒトの子供期を長期化させた、と明言されていないものの、社会化と長い子供期を結びつける論理が伏在していた、と本論文は指摘します。その後、家族を重視する見解は批判されても、社会化仮説そのものは自明視され、現在の社会学に継承された、と本論文は評価します。その後、ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)の精神分析理論を取り入れたフェミニズムは、社会化仮説の固定観念化に貢献した、と本論文は指摘します。人類学では徒弟制仮説が提唱され、「近代社会」を念頭に置いたとも考えられる社会化仮説とは異なり、狩猟採集社会を前提にしていますが、両者とも、子供が社会化を達成するのには長い期間が必要で、この長い子供期には何らかの機能があったに違いない、という機能主義的観点は共通していました。

 一方、アリエス(Philippe Ariès)の『<子供>の誕生』では、子供は7歳頃から「大人の小さな者」として成人の大共同体の中に入っていき、近代以降のような明示的な「子供」は存在しなかった、と論じられます(関連記事)。ここでは、機能主義的論法が採用されていません。ただ本論文は、アリエスが近代における子供の位置づけの特殊性を主張したのではなく、むしろ「中世特殊性」論者だったことを指摘します。それでも本論文は、社会化されるべき期間と位置づけられた子供期を相対化したことがアリエスの功績だった、と評価しています。ヒトの長い子供期は、必ずしも機能的課題が課されないとすると、どう解釈されるのか、との問題が生じます。そこで本論文が取り上げるのは、全ての種に普遍的・横断的に当てはまる、生活史不変則です。生活史不変則では、成熟年齢に達するのが遅い、つまり子供期が長い種ほど、その後の余命が長くなる、と指摘されています。長い子供期は繁殖機会増加をもたらす意味はあるものの、それ自体は本来社会的に意味のある期間ではない、というわけです。逆に、子供の社会化が喫緊かつ長期の課題ではなかったからこそ、その期間に「学校化」を挿入でき、新たな子供観が出現し得たのだろう、と本論文は評価します。子供期は人類史において、社会・時代によりさまざまな用途に使えることができた、というわけです。

 ただ、ヒトの長い子供期は、それ自体に特定の機能はなくとも、繁殖行動や家族・集団形成に重大な影響を及ぼしたかもしれない、と本論文は指摘します。まず、雄同士の苛烈で危険な配偶者獲得競争は緩和される傾向があります。余命が長いので繁殖機会は多い、というわけです。その結果、血縁者同士だけではなく、非血縁者も含めた集団が形成されやすくなり、集団の大規模化傾向が生じます。さらに、こうした繁殖機会の多い社会では協力的行動が進化しやすくなります。一方で、中長期的には協力を基調としながらも、常に騙しや裏切りの危険性に曝されているため、「マキャヴェリ的知性」も発達します。本論文は、社会化説は因果関係を逆に把握しており、教育上の実践としては、子供を「育てる」という視点よりも、「育つ」という視点の重要性を指摘します。子供期は現代人(Homo sapiens)と近縁なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも検討されている問題で(関連記事)、私も関心を抱いてきましたが、本論文を踏まえて考え直してみる必要があります。


12●桜井芳生「ある種の両性生殖生物のオス(たとえばヒトの男)は、なぜ母子を扶養するのか──岸田秀を超えて」P185-195
 ヒトなど両性生殖生物の中には、雄が母子を「扶養」する種も存在します。これに関して岸田秀の「セックス=サービス」説がありますが、岸田説は「至近要因による問題の説明」の誤謬に陥っており間違っている、と本論文は指摘します。「究極因」の分析視点からは、セックスをサービスと感じ得ること自体を説明すべきで、セックスがサービスとして機能するからそれを代償として雄は雌とその子を扶養するとの論理は、「至近因」による説明(という誤謬)に陥っている、というわけです。一方本論文は、雄が雌とその子を扶養しないと雄の遺伝子を後世に残せないから、と主張します。より正確には、雄が母とその子を扶養しなければこの血統は維持できず、現存する雄は全て母とその子を扶養する血統に属する、となります。しかし、托卵というかペア外父性の問題があり、軍拡競争的な進化が起きやすくなります。本論文は、雄による雌およびその子の扶養と、ペア外父性との間のせめぎ合いで「均衡値」が存在しただろう、と推測します。また本論文は、同じ雄でも扶養型と托卵型の間で揺れ動くこともあっただろう、と指摘します。岸田説については、扶養している子が実子ではないかもしれない、との不安から自我を防衛すする規制として、セックスなど扶養の対価サービスを得ているという物語が需要されたのではないか、と推測されています。


13●尾上正人「高緯度化と農耕を通じた女の隷属──性分業・家父長制への新たな視座」P197-224
 本論文はまず、母権制あるいは「家母長制」が存在したことを示す経験的証拠はなく、男性優位社会の普遍性は進化史で現れた生物学的特性だった、と指摘します。母系制社会は存在したものの、そこで子供に対して強い権限・権力を有したのは父親よりも母親の兄弟(オジ)で、これは「叔権制」と呼ばれています。これは父性の不確実な母系制における男性の対応で、相対的に父性の確実な父系制では家父長制が採用されやすくなります。ただ、ヒトも含まれる霊長類では、雌が優位の、ほぼ母権制あるいは「家母長制」と言えるような社会を形成する種がいくつか存在する、と本論文は指摘します。次に本論文は、男性支配もしくは家父長制がヒトの社会に普遍的だとしても、その度合いは歴史的に大なり小なり変化して現在に至っている、と指摘します。女性の社会的地位が相対的に高い社会も存在する、というわけです。本論文はその基盤として、性(性役割)分業の可能性を指摘します。

 モーガン(Lewis Henry Morgan)の『古代社会』は独自の婚姻制度発達論を主張し、エンゲルス(Friedrich Engels)が採用したことにより大きな影響力を有しました。しかし、その原始乱婚制や家族形態の進化図式は今では支持されていません。ただ本論文は、人々の性行動に規定されて父性が不確実だと母系制になりやすいという考察に関しては妥当と認めています。母系制は人類の家族史において太古の時代に普遍的に位置づけられるものではないとしても、産業化以前の社会では父系制と母系制はほぼ3:1の比で存在した、と推測されています。モーガン説の問題点として、母系制と母権制を強く結びつけたことも指摘されています。母系制社会では、上述の叔権制が高頻度で出現します。

 霊長類では母方(妻方)居住の母系制が圧倒的に多く、家族・群れに残る雌が独自の階層を形成する種が多くなります。個体レベルの競争では頻繁に順位が入れ替わる同種の雄と比較すると、雌が作る社会的階層は保守的で流動性が小さい傾向にあります。雌の地位は継承され、そのメカニズムは遺伝的ではなく、おおむね好天的です。マカクザルにおいては、最上位の雌(アルファ雌)はアルファ雄を除く全ての雄よりも有意ですが、群れ全体の頂点はアルファ雄の方です。一方アカゲザルなどでは、母権制・「家母長制」と呼べそうな権力関係が見られます。ヒトも含まれる大型類人猿では、雌は性的に成熟すると出生集団を離れる傾向にあり、他の霊長類とは異なります。雌の社会的地位は種により異なり、かなり強い雄支配のゴリラ社会では、上述の母系制霊長類ほど厳格ではなくとも雌にも優劣関係があります。同じく父系制で近縁のチンパンジーとボノボは対照的な社会を形成し、チンパンジーでは雄は雌に対して優位で、雄同士の激しい地位争いがあります。一方ボノボでは、雌独自の強固な社会階層が見られ、交尾相手の選択権は雌にあります。雄の地位を決めるのは、チンパンジー社会では兄弟の絆で決まりますが、ボノボ社会では母親の地位です。ボノボでは雄と雌の力関係は対等か、やや母権制・「家母長制」に傾いています。本論文はこれらの霊長類の事例から、父系制・母系制と雌雄の権力関係の間に顕著な相関はない、と指摘します。

 一雄複雌のゴリラや一雄一雌のテナガザルは雄が子育てに関与しますが、霊長類の大半の種では父が子育てには関与しません。これは、一雄複雌や一雄一雌では複雄複雌(乱婚制)と比較して父性が確実になることとも関連しているようで、ヒトにも当てはまるかもしれませんが、父性の確実性が必ず父親の子育て関与につながるとは限りません。本論文は他の条件として、アロマザリング(育児の母親代行)を挙げます。ヒトは成長が遅いので、とくにアロマザリングの必要性が生じます。本論文は、人類史における父親の育児への関与は太古からの現象だった、と指摘します。

 性分業では、ヒト社会の採集における女性の役割の大きさが指摘されています。本論文は、これが後世の一部ヒト社会と比較しての女性の相対的地位の高さにつながった可能性を指摘します。本論文はこの性分業において、現生人類(Homo sapiens)による高緯度地帯への拡散を重視します。高緯度地帯ほど狩猟への依存度が高まるので、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。本論文は、女性の社会的地位低下が農耕開始により加速した可能性も指摘します。農耕は狩猟と採集で分かれていた男女の「職場」を一つにして、家畜や重い農具を扱うといった重作業の主導権は多くの場合男たちが握ったと考えられることから、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。また本論文は、農作業で夫婦の過ごす時間が狩猟採集生活よりも増加したことにより、夫の妻に対する正行動の監視(配偶者防衛)は強まっただろう、と推測します。最後に本論文は、自然主義と道徳主義の誤謬に陥らないよう、提言しており、強く同意できます。男性支配・家父長制がヒトの種特異性だからといったそれが現代社会でも望ましい(自然主義的誤謬)と考えたり、現代社会では男女平等が望ましいからかつてそうした理想社会(あるいは男女の力関係が逆転したような社会)が存在したはずと根拠なく想定したりすることも誤りだ、というわけです。


14●桜井芳生「若者の若者文化離れ仮説への、ホルモン時系列推移の状況証拠」P225-240
 文化的創造性曲線と犯罪曲線がかなり相似している(青年期=成年期をピークとして、前後で急上昇・急下降します)ことから、これがかなりの部分で性的淘汰への適応ではないか、と本論文は推測します。本書第10章の議論の「腹の足しにもならない」行為ではないか、というわけです。さらに本論文は、カブトムシやヘラジカの雄の角の突き合いから、こうした行為が進化史的に「かなり根の深い」現象である可能性を指摘します。現代の男性が第二次性徴期に見せる「悪い」行為の進化的起源は、「善悪」の感覚を獲得するかなり前だったのではないか、というわけです。一方現代日本社会において、こうした「危険」で「悪い」行為から若者が離れていっているとも解釈できそうな統計が提示されています。これに関して本論文は、内分泌攪乱物質による影響と、恋愛や結婚のコスパ悪化を要因として想定しますが、今後の調査が必要と指摘しています。


参考文献:
桜井芳生、赤川 学、尾上正人編(2021) 『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』(日本評論社)