アラビア半島内陸部におけるMIS5の現生人類の足跡

 アラビア半島内陸部における海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の現生人類(Homo sapiens)の足跡に関する研究(Stewart et al., 2020)が報道されました。アジア南西部はアフリカとユーラシアの間の重要な生物地理学的出入口なので、アフリカとユーラシア全域における人類と動物相の拡散および進化の理解に重要です。アフリカ外の現生人類(Homo sapiens)化石の年代は、ギリシアで21万年前頃(関連記事)、レヴァントで18万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類はアラビア半島内陸部に遅くとも85000年前頃には到来していた、と示されています(関連記事)。しかし、早期現生人類の出アフリカの性質を理解することは、最初の非アフリカ現生人類遺骸と直接的に関連する古環境および古生態系のデータの解像度が低いため、困難なままです。

 本論文は、サウジアラビアのネフド砂漠西部のアルアトハル(Alathar)湖堆積物で発見された、人類および非人類哺乳類の足跡と化石を報告します。本論文の主張は、それらの足跡の年代は最終氷期で、アフリカ外の初期現生人類と同年代なので、アラビア半島における現生人類の最初の証拠を表している可能性が高い、というものです。足跡の長期保存に影響を与える特有の環境と化石生成論的要因は、足跡の集団、とくに保存状態が類似しているものは、ひじょうに短い時間、通常は数時間か数日以内に形成されたと想定できる、と意味します。干潟における現生人類の足跡の実験的研究により、2日以内に細部が失われ、足跡は4日以内に認識できなくなり、類似の観察は他の非人類哺乳類の足跡でも見られる、と明らかになりました。したがって、本論文の調査結果は、現生人類がユーラシアに拡散し始めた時、後期更新世の現生人類と動物とその環境の間の密接な生態学的相互作用を調べる特有の機会を提供します。

 古アルアトハル湖は、ネフド砂漠南西部の砂丘の窪み内に位置します。堆積物の厚さは約1.8mです。光刺激ルミネッセンス法(OSL)では、足跡や化石の下層は121000±11000年前、上層は112000±10000年前と推定されています。珪藻の古生態学と堆積物分析から、アルアトハルはその大半の期間において貧栄養環境で浅い淡水湖だった、と示唆されます。これはMIS5となる近隣の淡水古湖堆積物の年代と一致しており、レヴァントとアフリカ北東部をつなぐ「淡水回廊」の南部に位置しています。ネフド砂漠西部の淡水湖の存在は、人類と動物にとって重要な資源と生息可能な景観を提供しました。

 人類・ゾウ・ウマ・ウシの足跡や化石に示されるように、アルアトハル淡水湖にはさまざまな大型哺乳類が集まりました。湖面は踏みつけられており、水不足から草食動物が集まる乾季を反映しているようで、その時点で湖が干上がっていた、という堆積物の証拠と一致します。足跡は376個が報告され、7個が人類のものと特定されました。MIS5のレヴァントとアラビア半島における現生人類拡大の化石および考古学的証拠と、この頃のレヴァントにはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在しないこと(と本論文は主張しますが、これはまだ断定できないように思います)から、アルアトハル湖の足跡を残したのは現生人類と考えられます。さらに、アルアトハル湖の人類の足跡のサイズは、ネアンデルタール人よりも早期現生人類の方と一致します。

 人類の足跡のうち4個は、アルアトハル湖の南西端に沿って互いに隣接していました。その類似した方向と相互の距離とサイズの違いから、2~3人の足跡と推測されます。人類の足跡は僅かですが、足跡と化石から3点の重要な観察ができます。まず、足跡は古アルアトハル湖全体に散在しており、方向はさまざまなので、単純に方向性の決まった湖を横断する移動ではなかった、ということです。次に、とはいえ、人類の足跡は多くの非人類動物と同様に、ほぼ南方への移動を示唆していることです。最後に、古アルアトハル湖では、動物化石に屠殺の証拠が見られず、石器も発見されていませんが、屠殺の証拠の欠如に関しては、化石表面の保存状態が悪いためかもしれません。これは、後期更新世人類による湖畔生息地の集中的かつ繰り返しの使用が記録されている、ネフド砂漠西部の他の古湖堆積物とは対照的です。これらの観察から、現生人類はアルアトハル湖を一時的に訪れただけと推測されます。それは、おそらく乾季の到来と水資源の減少により始まった、長距離移動中の飲料水と狩猟採集のための一時的な滞在場所として使われたかもしれません。

 足跡ではゾウ(7個)とラクダ(107個)が多く、成体と仔がいる群だった、と推測されます。非人類動物の足跡は全体的に方向性がなく、湖近くの移動が地理的もしくは地質的に制約されていないことを示唆し、おそらくは開けた景観だったことを反映しています。一部の足跡は湖岸への出入りを示します。足跡の北から南への傾向はおそらく、水資源獲得とは対照的に、降水量の季節的な変化と関連する移動とより一致しており、これは草食動物間の湖岸への垂直的な移動を伴います。これは南方へと向かうゾウの足跡でとくに明白で、類似の北から南への季節性の移動がアフリカ東部の現代ゾウ集団で観察されてきました。ゾウはとくに、淡水資源とかなりの植物バイオマスの地域的存在を示唆しますが、足跡のサイズは他のあらゆる現生分類群よりも大きな種であることを示唆します。ゾウは近隣のレヴァントでは40万年前頃以降存在せず、更新世人類の食性における重要性を考慮すると、アラビア半島におけるゾウの存在は拡散する現生人類にとってとくに魅力的だったかもしれません。有蹄類の足跡の一部は、巨大なウシ、おそらくはMISに近くの遺跡で確認されているアフリカスイギュウ属の形態およびサイズと一致します。1個の小さなウマの足跡は、後期更新世のアジア南西部で一般的だった野生ロバを表しているかもしれませんが、有蹄類の足跡の一組は、おそらく中間サイズのウシのものです。

 足跡に加えて233個の化石が発見され、オリックスとゾウが含まれています。足跡のある堆積物から侵食される化石の発見と、足跡および化石全体の類似の分類群から、足跡の形成と骨の堆積が同年代だったと示唆されます。しかし、いくつかの歯の化石の直接的なウラン系列法分析は、化石標本における予期せぬもっと複雑な化石生成史を示しているようです。歯の跡のある骨から肉食動物の存在が推測され、現代のアフリカのサバンナ生態系のように、肉食動物は草食動物の集中によりアルアトハル湖に近づいた可能性が高そうです。化石の歯のエナメル質の炭素13分析から、草食動物の植生におけるC4草本のかなりの割合が示唆されますが、近隣の中期更新世遺跡よりも青草の消費は少ないようです。ゾウの歯のエナメル質の連続同位体分析からは、季節性移動により説明できるかもしれない水と植生の持続的な供給源が示唆され、類似の結果は近隣の中期更新世遺跡でも報告されています。

 まとめると、アルアトハル湖の堆積物と足跡のデータは、乾季における水資源の充分な半乾燥環境と一致します。湖や川は大型哺乳類にとって景観の中心として機能します。資源が不足し、草食動物が小さな水飲み場の周りに集まる乾季には、湖や川は狩猟採集民にとっても魅力的です。また湖や川は、季節性の移動にさいして効果的な回廊として機能するかもしれず、考古学的データからは、後期更新世のアラビア半島のホモ属はひじょうに遊動的で、中期更新世のホモ属よりもアラビア半島内陸部へと深く拡散しました。本論文は、後期更新世の現生人類と中型および大型草食動物との間の直接的な時空間の関連を示し、アラビア半島における現生人類と非人類哺乳類による移動と景観利用は強く関連していた、と示唆されます。考古学的証拠の欠如から、現生人類はアルアトハル湖を短期間訪れただけだった、と示唆されます。これらの知見から、最終間氷期の乾季における現生人類の一時的な湖畔の利用は、おもに飲料水の必要性と結びついていた、と示唆されます。また、これらの足跡を残した現生人類と現代人との関係は不明で、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない集団だった可能性もじゅうぶん考えられます。


参考文献:
Stewart M. et al.(2020): Human footprints provide snapshot of last interglacial ecology in the Arabian interior. Science Advances, 6, 38, eaba8940.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aba8940

日本語とオーストロネシア語族との関係

 日本語とオーストロネシア語族との関係を指摘した研究(崎山., 2001)を読みました。もう20年近く前(2001年)の論文となるので、あるいは近年の言語学の知見を踏まえてかなりの修正が必要になるかもしれませんが、近年大きく発展した古代DNA研究、とくに、今年(2020年)になって飛躍的に進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)の観点からもと興味深い内容なので、取り上げます。


 複数の言語が接触すると、接触したそれぞれの言語の文法部分に変化が現われる場合もあれば、各言語の文法部分が提供され、新たな一つの言語が生みだされる場合もあります。後者は混合語と呼ばれ、ピジンあるいはクリオール(母語となったピジン)はその一例です。混合のため文法のどの部分が提供されるかは、接触した各言語ごとに異なりますが、あらゆる部分からの供出が起こるこ、と明らかになっています。また、接触する言語の特徴により、ピジン化や混合の仕方も一様ではありません。したがって、言語混合は先住民に匹敵する量の外来者がないと不可能とか、文法と単語が別の系統から来るのは難しいとかいった見解は成立しない、と本論文は指摘します。

 ピジンは言語混合の一つのあり方で、言語混合と同義で論じるべきではありません。ピジンには横浜ピジンのような一世代的(片言的)な形態からオセアニアのメラネシア・ピジンのように約300万人により使用される国家語まで多様です。元の言語の話し手にとって、ピジン化した新しい言語は、元の言語が単純化した(舌足らずの)ように聞こえます。ピジンは元の言語の非体系的部分の合理化を行なっている場合も少なくありません。ピジンは表現可能な内容が限定された不完全な言語である、との見解は言語学でも根強く存在します。これまで比較言語学では、一言語における歴史的な混合という現象が原則として認められてきませんでした。混合言語を認めることは、比較言語学の依拠する「語族」という概念の成立基盤を揺るがしかねない危険思想でもあるからです。したがって言語学では今でも、混合の事実は認めるとしても、「混合はピジン英語や隠語にみられる程度」との見解もあります。

 本論文は、日本語とオーストロネシア語族など他言語との比較から、日本語は混合言語として形成された、と主張します。そのさいに重要な影響を与えたのがオーストロネシア語族で、そのうち、語彙面では西部マレー・ポリネシア語派の要素が多く残る一方で、文法面ではオセアニア語派の特徴が顕著である、と本書は指摘します。本論文はこれに関して、縄文時代中期から古墳時代までの3000年間、オーストロネシア語族が波状的に渡来したことに起因する、と推測します。

 日本語の形成に関与したもう一方の言語として本論文が想定するのは、ツングース語族です。古代日本語は動詞・形容詞の活用語尾の多くをツングース語族に負っている、と本論文は指摘します。上代および現代日本語では連体修飾に二つの語順が存在しますが、これは言語混合の可能性がある、と本論文は指摘します。日本語において、原オーストロネシア語の人称代名詞一人称複数の包括・排除の区別が失われたのは言語接触に基づき、これは日本語の形成における深い混合の跡を反映している、と本論文は推測します。ただ本論文は、民族学的にツングース民族は、紀元前千年紀にアジア東部に拡散した、いわゆるアルタイ化の担い手で、日本列島が本格的にアルタイ化するのは弥生時代からと推定されているので、縄文後晩期とは約3000年の間隙があり、言語混合の開始の時期など今後解明すべき問題はまだ残っている、と指摘します。


 本論文はこのように主張しますが、近年の古代DNA研究の進展を踏まえると、日本語とオーストロネシア語族との関係はたいへん注目されます。日本列島の現代人集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。このうち、日本語と琉球語は、方言なのか同じ語族の別言語なのか、まだ決定的になっていませんが、同一系統の言語であることは間違いないでしょう。以下、まとめて日本語として扱います。一方アイヌ語は、日本語とは大きく異なる系統の言語です。日本語とオーストロネシア語族との関係で注目される古代DNA研究に関しては、アジア東部現代人集団がどのように形成されてきたのか、現時点で最も優れていると私が考えているモデルの概要を以下に述べます(関連記事)。

 非アフリカ系現代人の主要な遺伝的祖先となった出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団はまず、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。一方、ユーラシア東部北方系統からはアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア南東部北方系統は新石器時代黄河地域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団(祖型オーストロネシア語族集団)です(関連記事)。現代において、日本列島「本土集団」や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、チベット人はユーラシア東部南方系統との、日本列島「本土集団」は「縄文人(縄文文化関連個体群)」との混合により形成されました。「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されています。

 これらの古代DNA研究の成果を踏まえると、縄文人はアジア東部南方系統の共有という点で、祖型オーストロネシア語族集団と遺伝的に近い関係にある、と言えます。つまり、縄文人の言語が祖型オーストロネシア語族と近縁だった、あるいは一定以上の影響を受けた可能性があるわけです。縄文人がどのように形成されたのか不明ですが、縄文人の大まかな形態は、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、地域では北海道から九州まで、年代は早期から晩期前半までほとんど同一で、縄文人と同じ形態の人類集団は日本列島以外に存在しないことから、日本列島における独自の混合により形成された可能性が高そうです(関連記事)。

 そこで問題となるのが、日本列島現代人において最も縄文人の遺伝的影響が強く残っていると推定されているアイヌ集団(関連記事)の言語(アイヌ語)とオーストロネシア語族との関係です。これについて、近年の言語学の知見をまったく知らないので、的外れな発言になるかもしれませんが、2005年の論文(橋尾., 2005)でも、アイヌ語とオーストロネシア語族が同系かもしれないと指摘されていることから、アイヌ語がオーストロネシア語族と近縁な関係にあるというか、祖型オーストロネシア語族の影響を一定以上残している、とも考えられます。その意味でも、縄文人の言語が祖型オーストロネシア語族と近縁だった、あるいは一定以上の影響を受けた可能性は、真剣に検証すべきではないか、と思います。

 日本語とアイヌ語が大きく異なることに関しては、日本語もアイヌ語も祖型オーストロネシア語族と別系統の言語との混合により形成され、分岐してから長い時間が経ったことにより説明できるように思いますが、言語学の知見は皆無に近いので、的外れなことを言っているかもしれません。さらに、アジア東部南方系統でも、アイヌ集団の主要な祖先と祖型オーストロネシア語族集団の主要な祖先との分岐が更新世だとしたら、言語学で指摘されているアイヌ語とオーストロネシア語族の共通性が検出されるには古すぎるかもしれない、という問題もあります。ただ、言語学でも議論が分かれるくらいの共通性となると、更新世の分岐でも不思議ではないかもしれませんが、門外漢の思いつきにすぎません。

 上述のように、日本語がオーストロネシア語族とツングース語族との混合により形成されたとすると、その融合がいつだったのかが問題となりますが、日本列島にツングース語族をもたらしたのは、弥生時代以降に日本列島にアジア東部北方系統をもたらした集団である可能性が高いように思います。しかし、シナ・チベット語族はアジア東部北方系統集団に由来する可能性が高い、と指摘されています(関連記事)。この問題をどう説明すべきか、以前にも一度試みたものの(関連記事)、とても確信は持てません。それでも、以下で改めて私見を述べます。

 この問題で参考になりそうなのは、バヌアツの事例です(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。アジア東部北方系統集団は、拡散の過程で朝鮮半島や日本列島などにおいて大きな遺伝的影響を現代人集団に残しましたが、その過程で先住民の言語が置換されず、基本的には継承されたかもしれない、というわけです。この想定が妥当だとすると、アジア東部北方系統集団はアジア北東部への拡散の過程で、ツングース語族集団と混合し、その言語を継承して日本列島へと到来した、と考えられます。日本列島でも、先住の縄文人よりもこのツングース語族集団の方が現代「本土集団」には大きな遺伝的影響を残していますが、だからといって遺伝的に優勢な集団の言語により置換されたのではなく、独自の混合言語が成立した、というわけです。これを基盤に、漢字文化の導入にともなって漢語の影響も受けつつ、日本語が成立していった、と考えられます。

 あるいは、アジア東部北方系統集団の言語は、後にはシナ・チベット語族におおむね一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、とも考えられます。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)による分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語や朝鮮語に影響を与えた諸言語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系統集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 別の可能性として考えられるのは、日本語の形成にさいしてオーストロネシア語族の影響をもたらしたのは、弥生時代以降に日本列島に到来した稲作農耕民集団だった、という想定です。黄河中下流域集団では、中期~後期新石器時代に、稲作農耕の痕跡顕著な増加とともに、遺伝的にはアジア東部南方系統の割合の上昇が指摘されています(関連記事)。黄河中下流域への稲作の導入が、長江流域など中国南部のアジア東部南方系統集団の一定以上の移住を伴っていたとすると、日本列島に稲作をもたらした集団の言語に祖型オーストロネシア語族の影響が残り、それが弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も考えられます。縄文人の言語とは別の経路で、日本語に祖型オーストロネシア語族の影響が伝わっている、というわけです。

 ここまで色々と憶測してきましたが、言語学の知見が皆無に近いので、最近の研究を踏まえておらず、的外れな見解になってしまったかもしれません。ただ、今となってはやや古いとはいえ、言語学の見解と最近の古代DNA研究とが符合するところもあるのではないかと考え、一度私見を述べておこうと思い立った次第です。縄文人の言語に祖型オーストロネシア語族の影響があるとして、では縄文人のもう一方の主要な祖先であるユーラシア東部南方系統の言語はどのようなもので、縄文時代、あるいは現代に影響を残しているのかなど、調べねばならないことはまだ多いものの、それは今後の課題とします。


参考文献:
崎山理(2001)「オーストロネシア語族と日本語の系統関係」『国立民族学博物館研究報告誌』第25巻第4号P465-485
https://doi.org/10.15021/00004071

橋尾直和 (2005)「琉球語・アイヌ語・日本語諸方言とオーストロネシア語の若干の比較」『高知女子大学文化論叢』第7号P39-51
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006541555

ヴァイキングのゲノム解析

 ヴァイキングのゲノム解析に関する研究(Margaryan et al., 2020)が報道されました。ヴァイキング(Viking)は、襲撃・探検・略奪などを意味する「víking」という古ノルド語(古北欧語)に由来します。紀元後750~1050年頃となるヴァイキング時代の事象は、ヨーロッパの政治・文化・人口地図を変えました。スカンジナビア半島からのヴァイキングの拡散は、アメリカ大陸からアジアの草原地帯へと広がる交易と植民を確立しました。ヴァイキングは着想・技術・言語・信念・慣行をこれらの地域に輸出し、新たな社会経済的構造を発展させ、文化的影響を同化させました。

 本論文では、ヴァイキング時代のゲノムの歴史を調べるため、紀元前2400年頃の青銅器時代から紀元後1600年頃の近世までの遺跡で発見された442人の遺骸から抽出されたDNAのショットガン配列が提示されます。これらの古代DNAデータは、3855人の現代人および1118人の古代人の既知のデータとともに分析されました。以下、本論文で取り上げられた標本の位置と年代を示した本論文の図1です。
画像


●スカンジナビア人の系統とヴァイキング時代の起源

 ヴァイキング時代のスカンジナビア人集団は共通の文化的背景を有していましたが、この時点ではスカンジナビア人の自己認識を表す共通の言葉はありませんでした。単一の「ヴァイキング世界」が存在するというよりはむしろ、スカンジナビア半島とバルト海周辺地域の沿岸部集団間での遠洋航海の採用に続く、急速に成長する海洋探検・交易・戦争・植民から、一連の相互に関連するヴァイキング世界が出現しました。したがって、ヴァイキング現象が、最近になって共有された遺伝的背景を有する人々にどの程度当てはまるのか、あるいはスカンジナビア半島において集団変化が鉄器時代(紀元前500~紀元後700年頃)からヴァイキング時代の移行とどの程度つながっているのか、不明です。

 本論文で取り上げられたヴァイキング時代のスカンジナビア半島の個体群は大まかには、青銅器時代以降の古代ヨーロッパ個体群の多様性内に収まりますが、複雑な微細構造を示唆する集団間の微妙な違いもあります。たとえば、ゴットランド島の多くのヴァイキング時代個体群は、バルト海地域の青銅器時代個体群とクラスタ化し、バルト海全域の移動性を示唆します。f4統計を用いて草原地帯牧畜民および新石器時代農耕民と対比させると、ノルウェーのヴァイキング時代の個体群がそれ以前となる鉄器時代個体群と類似した分布を示すのに対して、スウェーデンとデンマークのヴァイキング時代個体群は、アナトリア半島の新石器時代農耕民へのより強い類似性を示します。

 qpAdmを用いると、集団の大半は、狩猟採集民・農耕民・草原地帯関連系統の3者混合としてモデル化できる、と明らかになります。3者モデルは、スウェーデンとノルウェーとバルト海地域の一部集団では却下され、コーカサス狩猟採集民もしくはアジア東部人関連系統を含む4者モデルで適合できます。アジア東部人関連系統は、以前に報告されたシベリアからの遺伝子流動と一致します(関連記事1および関連記事2)。

 ヴァイキング時代のスカンジナビア集団と年代的に最も近い鉄器時代集団との遺伝的連続性を調べると、ほとんどのヴァイキング時代集団は、単一の鉄器時代系統を起源として用いると適合でき、大まかにはさらに2区分される、と明らかになりました。一方はイングランドの鉄器時代系統で、ブリテン諸島とデンマークのヴァイキング時代個体群のほとんどとなり、もう一方はスカンジナビア半島の鉄器時代系統で、ノルウェーとスウェーデンとバルト海地域に由来します。

 注目すべき例外はスウェーデン南部に位置するケルダ(Kärda)の個体群で、中世前期となるハンガリーのロンゴバルド個体群のみが、単一の祖先集団として適合します。一方の適合性の低い集団は、追加の北東部系統、たとえばラドガ(Ladoga)のヴァイキング時代個体群か、あるいは追加の南東部系統、たとえばユトランド半島のヴァイキング時代個体群を含めると、モデル化できます。本論文の分析からは全体的に、ヴァイキング時代スカンジナビア半島集団の遺伝的構成はおもに、先行する鉄器時代集団の系統に由来するものの、系統の微妙な違いと、南と東の両方からの遺伝子流動も明らかになる、と示唆されます。これらの観察は考古学的知見とほぼ一致します。


●スカンジナビア半島におけるヴァイキング時代の遺伝的構造

 ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の精細な集団構造を解明するため、網羅率0.5倍以上となる298人(新たな289人と既知の9人)の遺伝子型補完が行なわれ、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)により現代ヨーロッパ人個体群の参照パネルと共有されるゲノム断片が推定されました。

 多次元尺度構成法とUMAP(機械学習による非線形次元削減手法)を用いての遺伝的クラスタ化から、ヴァイキング時代のスカンジナビア半島個体群は、地理的起源により3集団にクラスタ化し、それぞれ現代の同地域集団と密接な類似性を有する、と示されます。一部の個体、とくにゴットランド島とスウェーデン東部の個体群は、ヨーロッパ東部人との強い類似性を有しています。これはおそらく、バルト海系統を有する個体群を反映しており、バルト海地域の青銅器時代個体群とのクラスタ化は、UMAP分析とf4統計で明らかです。

 ChromoPainterと参照パネルの使用により、長くて共有されたハプロタイプが識別され、微妙な集団構造が検出されます。現代人集団との類似性を有するスカンジナビア半島の系統構成が明らかになり、本論文ではこれらが「デンマーク的」・「スウェーデン的」・「ノルウェー的」・「北大西洋的」と呼ばれます。つまり、ブリテン諸島からスカンジナビア半島に及ぶ可能性がある個体群です。

 ノルウェー的およびスウェーデン的構成はそれぞれ、ノルウェーとスウェーデンでクラスタ化しますが、デンマーク的および北大西洋的構成は広く見られます。意外なことに、ユトランド半島(デンマーク)のヴァイキング時代個体群には、スウェーデン的およびノルウェー的遺伝的構成が欠けています。また、スカンジナビア半島内の遺伝子流動は、大まかには南から北の方向で、デンマークからノルウェーおよびスウェーデンへの移動が支配的だった、と明らかになります。

 ノルウェーとスウェーデンの現代サーミ人集団との類似性を有する、ノルウェー北部の古代人2個体(VK518およびVK519)が特定されました。VK519はおそらく、ノルウェー的祖先も有しており、サーミ人集団と他のスカンジナビア半島集団との間の遺伝的接触を示唆します。

 遺伝的データは、現代の国境よりもむしろ、地形的境界により構造化されています。したがって、ヴァイキング時代のスウェーデン南西部は遺伝的に、スウェーデン本土中央部よりもデンマークのヴァイキング時代集団とより類似しており、おそらくは遺伝子流動を妨げた地理的障壁に起因します。

 遺伝的多様性は、条件付きヌクレオチド多様性と、ChromoPainterの結果に基づく推定系統の多様性により定量化されました。この多様性は、以下に示す本論文の図3で視覚化されました(図3b)。
画像

 遺伝的多様性は、均質なスカンジナビア半島の内陸部および北部から、多様なカテガット海峡地域(デンマーク東部およびスウェーデン西部)およびバルト海地域まで顕著に異なっており、ヴァイキング時代の相互作用と交易におけるこれらの海域の重要な役割を示唆します。ゴットランド島では、スウェーデン的構成よりも、多くのデンマーク的および北大西洋的、さらに追加の「フィンランド的」系統の遺伝的構成があり、ヴァイキング時代のゴットランド島への広範な海上接触が示唆されます。

 ゴットランド島とエーランド島に関する本論文の結果は、これらがローマ期(紀元後1~400年)から続く重要な海洋共同体だった、と指摘する考古学的知見と一致します。類似のパターンはランゲラン島のようなデンマーク諸島中央部でも見られますが、より低水準です。本論文のデータからは、これらの島々における遺伝的多様性がヴァイキング時代の前期(紀元後8世紀頃)から後期(紀元後9~11世紀頃)にかけて増加し、それは経時的な地域間の相互作用の増加を反映している、と示唆されます。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島内の遺伝的構造の証拠は、スカラ(Skara)のような「国際的」中心地の多様性と、ゴットランド島のような交易志向の島々を伴っており、この時期の海路の重要性を強調します。


●ヴァイキングの移住

 本論文のゲノムデータの精細な系統分析は、歴史学と考古学で報告されてきたパターンと一致します。それは、東方への移動がおもにスウェーデン的系統を含む一方で、ノルウェー的系統を有する個体群はアイスランドやグリーンランドやアイルランドやマン島に移動した、というものです。アイスランドとグリーンランドにおける最初の入植も、北大西洋的系統を有する個体群を含んでいました(関連記事)。デンマーク的系統はイングランド現代人で見られ、歴史的記録・地名・姓・現代人の遺伝的構成と一致しますが、ブリテン諸島におけるヴァイキング時代のデンマーク的系統は、ユトランド半島およびドイツ北部から紀元後5~6世紀にかけて移住してきたアングロサクソン系統とは区別できません。

 イングランドのドーセットとオクスフォードのヴァイキング時代遺跡個体群では、デンマーク的およびノルウェー的系統とともに北大西洋的系統も含まれます。これらの遺跡が敗れて捕虜となったヴァイキング時代の襲撃隊を表しているならば、これらの襲撃は異なる起源の個体群から構成されていたことになります。このパターンは、デンマークのトレルボルグ(Trelleborg)の戦士墓地の同位体データからも示唆されます。同様に、現在のロシアにあるグニェズドヴォ(Gnezdovo)の古代人標本におけるデンマーク的系統の存在は、東方への移住がスウェーデンからのヴァイキング個体群で完全には構成されていなかったことを示唆します。

 本論文の結果は、「ヴァイキング」の自己認識がスカンジナビア半島の遺伝的系統の個体群に限定されていなかったことを示します。スカンジナビア半島様式で埋葬されたオークニー諸島の2個体は、遺伝的に現代のアイルランドおよびスコットランド集団と類似しており、おそらくは最初に刊行されたことになるピクト人のゲノムです。オークニー諸島の他の1個体は50%のスカンジナビア半島人系統を有しており、そのような5個体がスカンジナビア半島で発見されました。これは、ピクト人集団がヴァイキング時代までにスカンジナビア半島の文化へと統合された可能性を示唆します。


●スカンジナビア半島へのヴァイキング時代の遺伝子流動

 デンマークとノルウェーとスウェーデンの標本における非スカンジナビア半島系統は、既知の交易経路と一致します。たとえば、フィンランドおよびバルト海系統は現代のスウェーデンに達しましたが、デンマークとノルウェーのほとんどの個体には見られません。対照的に、スカンジナビア半島西部集団はブリテン諸島集団からの系統を受け継いでいます。スカンジナビア半島におけるヨーロッパ南部系統(50%以上)の最初の証拠はデンマークとスウェーデン南部のヴァイキング時代で見られます。


●グリーンランドからの消滅

 グリーンランド南西部では紀元後980~1440年に、おそらくはアイルランドから到来したスカンジナビア半島系統を有する人々が定住していました。グリーンランドにおけるこれらの集団の運命については議論されていますが、その消滅の原因はおそらく、ヨーロッパにおける社会的もしくは経済的過程(たとえばスカンジナビア半島内の政治的関係や交易体系の変化)と気候変動を含む自然的過程でした。

 データに基づくと、グリーンランドのヴァイキング集団は、スカンジナビア半島人(ほぼノルウェー起源)とブリテン諸島の個体群との間の混合で、アイスランドの最初の定住者と類似していました。グリーンランドのヴァイキング個体群のゲノムにおける長期の近親交配の証拠は見つかっていませんが、グリーンランドにおける居住の後期の高網羅率ゲノムの1個体で確認されています。この結果は、比較的短期の人口減少説を支持するかもしれず、以前の人口統計学的モデルおよび考古学的知見と一致します。また、グリーンランドのヴァイキングのゲノムにおける古エスキモーやイヌイットやアメリカ大陸先住民といった他集団からの系統の証拠の欠如は、骨格遺骸と一致します。これは、グリーンランドのヴァイキング集団と他の集団間の性的接触がなかったか、ひじょうに小規模でのみ起きたことを示唆します。


●最初のヴァイキング航海集団の遺伝的構成

 海上襲撃は数千年にわたる航海文化で普遍でしたが、ヴァイキング時代はとくにこの活動により部分的に定義されています。しかし、ヴァイキングの戦争の正確な性質と構成は不明です。襲撃もしくは外征の1例が直接的な考古学的痕跡を残しました。エストニアのサルメ(Salme)では、スウェーデンからの41人の暴行死の男性が2隻の船に埋葬され、高い社会的地位を与えられていた武器が共伴していました。重要なことに、サルメ遺跡の船の埋葬は、最初に文献に見える襲撃(イングランドでの紀元後793年の事例)よりも半世紀近く先行します。

 サルメ遺跡の被葬者のうち34人のゲノムの親族分析により、並んで埋葬された4兄弟と、4兄弟のうち1人の3親等程度の親戚が明らかになりました。サルメ遺跡個体群の系統は、ヴァイキング時代の他の被葬者と比較して相互に類似しており、親族も含む高位の人々の比較的遺伝的に均質な集団が示唆されます。サルメ遺跡の5人の親族は、本論文のデータセットにおける唯一の親族ではありません。その他にこの親族2組が特定され、相互に数百km離れた場所で発見されており、ヴァイキング時代の個体群の移動性を明確に示します。


●ヨーロッパ北部における正の選択

 系統だけの経時的変化で説明できる以上の、過去1万年に顕著に変化したアレル(対立遺伝子)頻度を有する一塩基多型が調べられました。予想されたように、選択の最有力候補はラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子領域近くの一塩基多型で、その頻度は青銅器時代の後に増加しました(関連記事)。本論文のデータセットでは、乳糖分解酵素活性持続(LP)アレル(rs4988235)の頻度と青銅器時代以降の進化が調べられました。ヴァイキング時代集団はLCTのLP一塩基多型において、現代のヨーロッパ北部集団とひじょうに類似した頻度を有しています。逆に、青銅器時代スカンジナビア半島個体群では、紀元前2700~紀元前2200年頃の縄目文土器(Corded Ware)文化や紀元前2500~紀元前1900年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化と関連するヨーロッパ中央部個体群と同様に、乳消費の証拠にも関わらず、この一塩基多型は低頻度でした。本論文の鉄器時代標本ではその中間の頻度で、この時期に乳糖分解酵素活性持続の頻度が上昇した、と示唆されます。乳糖分解酵素活性持続の頻度は、青銅器時代ではスカンジナビア半島よりもバルト海地域の方で高く、スカンジナビア半島における乳糖分解酵素活性持続の頻度増加を説明する、2地域間の遺伝子流動と一致します。

 以前に特定された他の選択候補領域としては、先天性免疫に関わるToll様受容体のうち3つ(TLR6・TLR1・TLR10)の関連遺伝子や、ヒト白血球抗原(HLA)領域や、色素沈着と関連するSLC45A2およびSLC22A4遺伝子があります。本論文で明らかになった、ヴァイキング時代の前に始まる選択の追加の候補も明らかになりました。これは、古代のヴァイキングと現代のスカンジナビア半島集団の間で共有されている表現型を示唆します。これらの領域には、癌抑制遺伝子DCCと重なるものや、結腸直腸との関連が示唆されるものや、免疫応答のAKNAタンパク質関連遺伝子と重なるものや、二次免疫反応と関連するものが含まれます。


●スカンジナビア半島における複雑な形質の進化

 複雑な形質と関連する一塩基多型指標における最近の集団分化の痕跡を調べるため、ヴァイキング時代の個体群の遺伝子型とデンマーク現代人の遺伝子型が比較されました。ヴァイキング時代の多因子遺伝スコアは3つの形質で異なっていました。それは、黒髪と直毛と統合失調症です。ただ、直毛と統合失調症は、検査数を考慮した後では有意ではありませんでした。現時点では、アレル頻度で観察された違いが、ヴァイキング時代と現代との間のこれらアレルに作用する選択と、ヴァイキング時代標本の民族的多様性が高いといったような他の要因のどちらに起因するのか、決定できません。ヴァイキング時代と現代の標本における高頻度の黒髪関連アレルの数の二項検定も有意で、この痕跡がいくつかの大きな効果の遺伝子座により完全に駆動されているわけではない、と示唆されます。


●現代の集団におけるヴァイキングの遺伝的遺産

 現代スカンジナビア半島集団がヴァイキング時代の該当地域個体群と増加した系統を共有しているのかどうか検証するため、D統計が実行され、古代の個体が現代の2集団のどちらとより多くのアレルを共有するのか、検証されました。ヴァイキング時代の個体群は、スカンジナビア半島系統から微妙に現代の該当地域集団に移動しています。

 さらに、fineSTRUCTUREを用いて、現代人集団における古代系統が調べられました。スカンジナビア半島内では、ほとんどの現代人集団はヴァイキング時代の該当地域個体群と類似しています。例外はスウェーデン的系統で、現代のスウェーデン人内では15~30%しか存在しません。スウェーデンの一方のクラスタは古代フィンランド集団とより密接で、もう一方のクラスタはデンマークおよびノルウェー集団とより密接に関連しています。デンマーク的系統は今では、地域全体で高くなっています。

 スカンジナビア半島外では、ヴァイキング時代集団の遺伝的遺産は一貫して限定的です。小さなスカンジナビア半島系統構成はポーランドに存在します(最大5%)。ブリテン諸島内では、デンマーク的系統がどの程度、先行するアングロサクソン系統に起因するのか、評価は困難ですが、ヴァイキング時代の寄与はイングランドでは6%を超えません。遺伝的効果は他の方向でより強くなります。オークニー諸島の一部の北大西洋的個体群は文化的にスカンジナビア半島人になりましたが、アイスランドやノルウェーや他地域でも発見され、現代にも遺伝的影響を残しています。現代ノルウェーの個体群では、北大西洋的系統が12~15%で、この系統はスウェーデンではより均一で10%程度です。


●まとめ

 本論文のゲノム分析は、ヴァイキング時代の歴史記録と考古学的証拠により提起された長年の問題に光を当てます。大まかには、スカンジナビア半島外のヴァイキングの長く議論されてきた移動が確認されました。ヴァイキングは現代のデンマークとノルウェーとスウェーデンからブリテンと北大西洋諸島へと向かい、またバルト海地域を越えて東方へと航海していきました。しかし、ヨーロッパの西端で古代のスウェーデン的およびフィンランド的系統が、東方ではデンマーク的系統が見られ、現代の歴史的集団とは異なります。そうした個体群の多くは、文化と大陸をまたがる複雑な交易・襲撃・植民ネットワークとともに形成された混合系統を有する共同体の出身である可能性が高そうです。

 ヴァイキング時代には、スカンジナビア半島の異なる地域が均一にはつながっておらず、この地域の明確な遺伝的構造が形成されました。スカンジナビア半島はおそらく、限定的な数の輸送地帯と海上の飛び地から構成され、活発な外部との接触と、スカンジナビア半島の残りの陸地への限定的な遺伝子流動を伴っていました。ヴァイキング時代のスカンジナビア半島の一部地域は、とくにノルウェー中央部とユトランド半島と大西洋の集落で、比較的均一でした。これは、ゴットランド島やエーランド島のような、人口が多い南部の交易共同体の強い遺伝的多様性とは対照的です。沿岸部共同体の高い遺伝的異質性は集団規模の増大を示唆し、後期ヴァイキング時代の町であるシグトゥーナ(Sigtuna)に関して以前に提案された都市化モデルを、時空間的に拡張します。シグトゥーナは、ヨーロッパ北部のヴァイキング時代の終わりにすでに存在していた、「国際的」交易中心地と示唆されています。人々と商品と戦争を広げる大規模な交易と文化のネットワーク形成は、スカンジナビア半島の中心地に影響を与えるのに時間がかかり、それは中世へと既存の遺伝的差異を保持しました。

 本論文の知見から、ヴァイキング時代は単純にスカンジナビア半島鉄器時代集団の直接的な継続だったわけではない、と示されます。代わりに、南方と東方からスカンジナビア半島への遺伝子流動が観察され、それは鉄器時代に始まり、ヴァイキング時代を通じて継続し、起源集団は増加し続けました。スカンジナビア半島の内外を問わず、多くのヴァイキング個体は非スカンジナビア半島系統を高水準で有しており、それはヨーロッパ全域で継続する遺伝子流動を示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ヨーロッパでのバイキングの海外遠征に関する遺伝学的知見

 このほど行われた古代人のゲノムの解析で、ヨーロッパ各地の住民の遺伝的構成にそれぞれ特定のバイキングの集団が影響を与えていたことが明らかになったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。

 バイキング時代(西暦750~1050年頃)のスカンジナビア人集団の海外遠征によって、ヨーロッパの政治的、文化的、人口統計学的な地図が塗り変わった。今回、Eske Willerslevたちの研究チームは、その時代のゲノム史を突き止めるため、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近代初期(西暦1600年頃)までのヨーロッパとグリーンランドの古代人類442人のゲノムの塩基配列を解読した。

 今回の研究で、Willerslevたちは、バイキング時代における南方と東方からスカンジナビアへの外来遺伝子の流動を観察し、またバイキングがスカンジナビアから外の世界に確かに移動していたことの証拠を得た。つまり、デンマークのバイキングが英国に向かい、スウェーデンのバイキングが東方のバルト海へと航行し、ノルウェーのバイキングがアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ渡ったのだ。その一方で、今回の解析では、現代のスウェーデン人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの西端域で、また現代のデンマーク人集団との類似性が認められる祖先の実例がヨーロッパの東部で見つかった。Willerslevたちは、これらの祖先が、さまざまな文化と大陸を結ぶ複雑な取引、襲撃、定住のネットワークによって集まった、祖先が混在する地域集団の出身者だと考えている。

 今回の解析の一環として、Willerslevたちは、エストニアのサルメにある埋葬地で採取したバイキング34個体のゲノム塩基配列を解析し、海外遠征に近親者が同行していたことを示す証拠を得た。4人の兄弟が並んで埋葬されていることが確認されたのだ。また、今回の研究で得られたデータセットには、この家族の近親者がさらに2人含まれており、それぞれ数百キロメートル離れた場所で見つかった。このことはバイキング時代における個人の移動性を示していると、Willerslevたちは指摘している。


集団遺伝学:バイキング世界の集団ゲノミクス

Cover Story:バイキングの旅路:ゲノム塩基配列から描き出された大昔の船旅の地図

 表紙は、世界最大級のバイキング復元船『シー・スタリオン号』である。バイキング時代(紀元750~1050年頃)におけるスカンジナビア人集団の海洋進出は、ヨーロッパの政治地図、文化地図、人口地図を一変させた。今回E Willerslevたちは、この期間のゲノム史を調べている。彼らは、ヨーロッパおよびグリーンランド各地の考古学的遺跡に由来する、青銅器時代(紀元前2400年頃)から近世(紀元1600年頃)までの442個体のゲノム塩基配列を解読した。その結果、スカンジナビアでは南方と東方からかなりの遺伝子流動があったことが見いだされた。また、大陸各地でのバイキングの異なる移動の様子も明らかになった。すなわち、デンマークのバイキングはイングランドへ向かい、スウェーデンのバイキングは東へ進んでバルト地域へ行き、ノルウェーのバイキングはアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ移動し、その一方でスカンジナビアへも新たな人々が西方から流入していたのである。さらに著者たちは、エストニアのサルメにあるバイキングの墓地遺跡から出土した34個体のゲノム塩基配列を解読し、4人の兄弟が並んで埋葬されているのを発見した。数百キロメートル離れた場所ではこの家族の近縁者も発見されており、バイキング時代を特徴付ける集団の移動性が浮き彫りになった。



参考文献:
Margaryan A. et al.(2020): Population genomics of the Viking world. Nature, 585, 7825, 390–396.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2688-8

『卑弥呼』第47話「凶手」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年10月5日号掲載分の感想です。前回は、クラトが穂波(ホミ)の重臣であるトモに、恋仲のミマアキの殺害を依頼したところで終了しました。今回は、伊都(イト)に講和の使者として赴いていたミマアキが、山社(ヤマト)に帰還する場面から始まります。伊都のイトデ王から山社へは王冠も含めて豪華な献上品が送られ、イクメもヌカデも目を見張ります。ヌカデが見たことのない石だと思ったのは、瑠璃(今回はガラスを指します)でした。ミマアキは、瑠璃が漢からもたらされた工芸品で、熱を用いて作られ、天竺(インド)より西方で生まれたものだ、と説明します。ミマアキとイクメとヌカデの報告から、山社と伊都・那(ナ)・末盧(マツロ)との同盟が確定したことを把握したヤノハは、3人に休みを与えます。姉のイクメから、穂波(ホミ)に派遣されたクラトの帰還にはもう数日かかるだろう、と聞かされたミマアキは嘆息します。

 夜、楼観で休んでいるヤノハはアカメから報告を受けます。ヤノハの予想通りだった、とアカメは報告し、ヤノハは顔をしかめます。これが何を指すのか、今回は明かされませんでしたが、クラトが裏切り者であることをヤノハは疑っているのでしょうか。ヤノハはアカメとともに楼観から降り、警備兵の注意をそらし、ナツハがいる(軟禁されている、と言うべきでしょうか)小屋を訪ねます。ヤノハは、ナツハがミマアキの報告通り喋れないと判断します。ナツハの顔を初めて間近で見たヤノハは、何か気づいたようですが、それを追求しようとはしません。ナツハが弟のチカラオかもしれない、とヤノハは気づいたのでしょう。ナツハが心から自分の配下になったのか、まだ鞠智彦(ククチヒコ)の僕なのか分からないが、一つ頼みを聞いてほしい、とヤノハは言い、ナツハに回収していた狼や犬を自在に操る土笛を渡します。

 穂波では、ヲカ王がクラトに、山社に献上する特産の米や器類を託していました。これら献上品を運ぶ奴婢の1人が腰を痛め(おそらく穂波の重臣であるトモの指示なのでしょう)、トモ自分の奴婢に代わりを命じます。その奴婢はアチという名の巨漢でした。穂波から山社への帰還の道中、夜になり休憩しているところで、クラトはアチに、どの武器を使うのか、尋ねます。アチが使うのは、紐の先に金属製の鏃のようなものを装着した縄鏢(ジョウヒョウ)という武器でした。アチは一撃で鹿を倒し、縄鏢の威力をクラトに見せつけます。アチに昼の王となるべき人物の殺害の具体的な計画を問われたクラトは、聖地の山社には特別な許可がなければ、参拝目的以外で余所者は立ち入れないので、帰るふりをして一刻ほど森で待機し、穂波の特別な土産を渡し、内々の話があるといって、自分が昼の王となるべき友人を砦の外に呼び出す、と答えます。親友を殺すとはさぞ気が重いだろう、とアチに言われたクラトは沈んだ表情を浮かべます。アチに昼の王となるべき友人の名を問われたクラトが、葛藤しているような表情を浮かべつつ、ミマアキと答えるところで今回は終了です。


 今回注目されるのは、まずクラトによるミマアキ暗殺計画です。これはおそらく失敗するのでしょうが、ヤノハがアカメに調べさせていたこととの関連が気になります。ヤノハはミマアキとクラトが恋仲であることをヌカデに聞かされるまで知りませんでしたから、そこでクラトに何らかの疑念を抱き、アカメに調べさせていた、ということでしょうか。あるいは、クラトとは無関係のことをアカメに調べさせていたのかもしれませんが、ヤノハがナツハに狼や犬を自在に操る土笛を返却したことから考えて、クラトのミマアキ暗殺計画を阻止するよう依頼した可能性が高いように思います。クラトとミマアキの運命が気になります。おそらく、ミマアキはこの危機を切り抜けるでしょうから、クラトが死に追いやられるか亡命することになりそうです。ただ、ヤノハは大胆ですから、クラトを改心させて今後も使い続け、クラトが通じているトモとも接触し、日下(ヒノモト)にいるとされるサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔の動向を探るのかもしれません。また、ナツハの顔を初めて間近で見たヤノハの心境も注目されます。おそらくヤノハは、ナツハが弟のチカラオだと気づいたのでしょうが、それを追求せず、重要な依頼をするところは、これまでに描かれてきた冷徹な判断ができる人物像と合致します。ヤノハとナツハの今後の関係も、本作の見どころの一つとなりそうで楽しみです。

チンパンジーの行動多様性と環境

 チンパンジーの行動多様性と環境に関する研究(Kalan et al., 2020)が公表されました。生物種や生物個体群において発達する行動特性と文化特性は、その生物種や生物個体群が生息する環境によって形成される場合もあります。たとえば、行動の種類が多ければ、長期間にわたって環境の変動性に対処する上で役立つ可能性があります。この研究は、個体群レベルでの31のチンパンジーの行動(洞穴の使用や水浴びから、採餌戦略、道具の使用まで)に関するデータベースを用いて、この関係を検証しました。この研究は、144のチンパンジーの群れによる特定の行動の使用が、いろいろな時間スケールで、(1)降水量の変動性、(2)サバンナ生息地と森林生息地の使用状況、(3)氷河期の避難地であった森林からの距離という3つの環境変動性の尺度に関連しているのか、分析しました。

 その結果、250万~1万年前となる更新世の氷河期に避難地であった森林から遠く離れた場所で生活していたチンパンジー個体群の方が、行動レパートリーの多様性が高い、と明らかになりました。この研究は、長い期間をかけて避難地の森林から離れていった個体群の方が、森林の近くから動かなかった個体群よりも新しいタイプの文化的行動を採用する可能性が高かった、と推測しています。また、チンパンジーの行動多様性は、サバンナで生活したチンパンジー個体群の方が森林生息地で生活した個体群よりも高く、大きな降雨の季節性を経験した個体群においても高い、と明らかになりました。これは、行動多様性が現在の環境変動性によっても形成されることを示唆しています。環境の変動性が、大型類人猿の行動と文化の多様化を促進する要因だったことを示唆する結果で、チンパンジーに限らずゴリラや人類の進化史においても注目される観点です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:変動性の高い環境で生活するチンパンジーの群れの方が行動の多様性が高い

 過去と現在に変動性の高い環境で生活したチンパンジーの群れの方が、より安定した環境で生活したチンパンジーの群れよりも行動のレパートリーの多様性が高いことを明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。144の野生のチンパンジー群集のデータを使った今回の研究から、環境の変動性が、大型類人猿の行動と文化の多様化を促進する要因であったことが示唆された。

 生物種や生物個体群において発達する行動特性と文化特性は、その生物種や生物個体群が生息する環境によって形作られることがある。例えば、行動の種類が多ければ、長期間にわたって環境の変動性に対処する上で役立つ可能性がある。今回、Ammie Kalanたちの研究チームは、個体群レベルでの31のチンパンジーの行動(洞穴の使用や水浴びから、採餌戦略、道具の使用まで)に関するデータベースを用いて、この関係を検証した。Kalanたちは、144のチンパンジーの群れによる特定の行動の使用が、いろいろな時間スケールで、(1)降水量の変動性、(2)サバンナ生息地と森林生息地の使用状況、(3)氷河期の避難地であった森林からの距離という3つの環境変動性の尺度に関連しているかを分析した。

 この分析結果によれば、更新世(約250万~1万年前)の氷河期に避難地であった森林から遠く離れた場所で生活していたチンパンジー個体群の方が、行動レパートリーの多様性が高かった。Kalanたちは、長い期間をかけて避難地の森林から離れていった個体群の方が、森林の近くから動かなかった個体群よりも新しいタイプの文化的行動を採用する可能性が高かったと考えている。また、チンパンジーの行動多様性は、サバンナで生活したチンパンジー個体群の方が森林生息地で生活した個体群よりも高く、大きな降雨の季節性を経験した個体群においても高かった。このことは、行動の多様性が、現在の環境変動性によっても形作られることを示唆している。



参考文献:
Kalan AK.. et al.(2020): Environmental variability supports chimpanzee behavioural diversity. Nature Communications, 11, 4451.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-18176-3

大河ドラマ『麒麟がくる』第24回「将軍の器」

 1565年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、将軍の足利義輝は松永久秀の息子である久通を含む三好勢に襲撃されて殺害されます(永禄の変)。次の将軍の有力候補と目される、義輝の弟の覚慶(足利義昭)は興福寺一条院に幽閉されます。義輝を殺すつもりがなかった久秀は覚慶を訪ね、覚悟を問い質します。久秀の意を受けた細川藤孝は、覚慶を甲賀へ脱出させます。永禄の変を知った明智光秀(十兵衛)は、久秀を訪ねて義輝殺害について問い質し、見通しが甘かった、と久秀は答えます。久秀は激昂する光秀に銃を渡して自分を撃てと言いますが、光秀は何とか思いとどまります。久秀は、幕府を擁護すべきなのか、迷っていました。朝倉義景は光秀に覚慶が将軍の器なのか確かめさせようとしており、久秀からそれを聞かされた光秀は甲賀の覚慶を訪ねます。率直に死にたくないと打ち明ける覚慶が将軍の器に相応しいのか、光秀は不安に思いますが、それを知りつつ、三淵藤英と細川藤孝は覚慶を擁立しようとします。光秀は朝倉義景に問われて、覚慶は将軍の器ではない、と答えます。この間に朝廷では、足利義栄が将軍に推挙されました。

 今回は、義輝の殺害とその後の将軍位をめぐる政争が描かれました。光秀が義昭の擁立により出世していったことを考えると、光秀が覚慶の将軍としての器量に疑問を抱き、擁立に消極的である、という話になったことは意外でした。もっとも、後に光秀は将軍に就任した義昭を見限っているわけで、今回の光秀と覚慶の出会いは、その伏線なのかもしれません。これまでの義輝との関係や実直な人物像からは、光秀が覚慶の将軍としての器量に不安を抱くことは、自然なように思います。今後、光秀がどのような心境の変化で覚慶を擁立していこうとするのか、注目されます。

家畜ウマのアナトリア半島起源説の検証

 家畜ウマのアナトリア半島起源説を検証した研究(Guimaraes et al., 2020)が公表されました。5500年前頃となるウマの家畜化は、古代世界で最重要の技術革新の一つです。馬力の利用により、ウマは輸送に革命を起こし、交易・戦争・移住のパターンに影響を及ぼしたので、古代世界の政治・経済・社会関係は変化しました(関連記事)。考古学と有機残留物と遺伝的分析からは、家畜ウマはアジア中央部草原地帯に起源があり、その後でヨーロッパ東部、さらに遅れてアジア南西部に拡大した、と示唆されます。とくに、カザフスタンのボタイ狩猟採集文化のデータからは、紀元前四千年紀中期~後期までに、ウマは銜を装着させられ、搾乳され、TRPM1遺伝子座の関わる毛色で選択がなされ、囲いに入れられて集中管理されていた、と示唆されます。

 しかし、最近の古代ゲノム研究では、現代の家畜ウマがアジア中央部に由来する、との見解に疑問が呈されており、それは、ボタイ文化のウマは野生馬とされてきたモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)の祖先で、古代もしくは現代の家畜ウマの主要な祖先ではない、と明らかになったからでした(関連記事)。家畜ウマの起源地として第二の有力候補はイベリア半島でしたが、最近の別の研究では、その可能性が除外されました。イベリア半島の野生ウマは絶滅し、現代のウマのゲノムには顕著な痕跡を残していない、と示されたからです。ウマの家畜化の有力な起源地として今も残るのは、ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)とアナトリア半島です。ただ、ポントス・カスピ海草原は以前から有力な候補地でしたが、アナトリア半島は、野生ウマの利用の長い歴史と古典古代におけるウマの繁殖への高い評価にも関わらず、ウマの家畜化の過程における役割に関して充分には調査されてきませんでした。


●先行研究

 アナトリア半島、より一般的にアジア南西部における家畜ウマの起源は、複雑な考古学的難問であり続けています。文献・図像学・考古学的データの組み合わせからは、紀元前三千年紀の半ばから後期までに、家畜ウマが近隣の山岳地域からメソポタミア(現代のイラクおよびシリア北東部)に導入された、と推測されており、メソポタミアでは楔型文字で「山のロバ」と呼ばれています。当初は少なかったウマですが、紀元前二千年紀の技術革新である戦車(チャリオット)の拡大と関連して、アジア南西部では数世紀以内に増加しました。「ウマの文化」で歴史的に知られているユーラシア草原地帯におけるウマの家畜化は、紀元前四千年紀、もしくは紀元前五千年紀に始まった可能性が高いので、アジア南西部のウマはこれら早期の家畜ウマの子孫と長く主張されてきました。アジア南西部のウマは、ポントス・カスピ海草原との相互作用圏とのよく理解されていない過程、もしくは人類集団の移動によりもたらされた、と想定されています。

 他の仮説は、アナトリア半島がシリア・メソポタミアへの家畜ウマの伝播に中心的役割を果たした、というもので、初期家畜ウマへのアナトリア半島の寄与が示唆されてきました。考古学的データでは、前期および中期完新世のアナトリア半島において普段から利用されていた野生ウマ(Equus ferus)とアジアの野生ロバの亜種であるヨーロッパ野生ロバ(Equus hemionus hydruntinus)の広範な存在が示唆されます。考古学的証拠で示される紀元前九千年紀から紀元前二千年紀にかけての人類とウマの相互作用の継続から、アナトリア半島の野生ウマが家畜ウマの起源集団だった、という仮説が導かれます。しかし、野生ウマと家畜ウマの骨格遺骸を区別する信頼できる形態学的基準がないため、野生在来ウマの家畜化という仮説の検証が妨げられてきました。したがって、紀元前三千年紀後半の家畜ウマの後半な出現をもたらした文化的過程とメカニズムは理解しにくいままです。本論文は、アナトリア半島中央高原の豊富なウマ遺骸の利用により、古遺伝学を用いたアナトリア半島ウマ家畜化仮説の最初の厳密な検証を提示します。

 完全な現代のミトコンドリアゲノムは18の主要なハプログループ(AからR)を明らかにしました。その分岐年代はほぼ新石器時代とその後の期間です。対照的に、古代のウマのミトコンドリアの超可変領域の研究では、ウシやヒツジやブタと比較して、ミトコンドリア系統におけるずっと高い遺伝的多様性が示されました。さらに、家畜ウマで観察されたほとんどのミトコンドリア系統は、すでに家畜化前に存在しました。古代のウマに関するこれらの分析からは、ウマの家畜化の起源を時空間的に特定できる明確な系統地理的構造が得られませんでした。これらの知見は、ユーラシア北部の野生ウマの移動性が一貫した集団再編を可能とし、野生の在来雌ウマを繰り返し取り入れ、系統地理的構造の確率を妨げたと示唆している、と解釈されました。

 対照的に、現生家畜ウマは顕著に少ない雄でのみ伝わるY染色体系統を示し、現代の家畜ウマで特定されるハプロタイプは1つだけなので、ウマの単一の家畜化事象が主張されました。しかし、古代標本のゲノム分析では、家畜化前の先史時代集団における追加の雄系統を示し、遺伝的に多様な雄の創始者が初期の家畜化に関わっている、と明らかにしました。この多様性はその後、おそらくは鉄器時代に始まりローマ期へ、さらに紀元後7世紀~9世紀にかけての、ビザンツ帝国とサーサーン朝(エーラーン帝国)の戦争およびイスラム教勢力の征服期に続く、より直接的な人類の選択の結果として減少しました。ウマの毛色と関連する遺伝子座からの古遺伝学的証拠から、毛色の多様化は青銅器時代に始まり、家畜化過程の初期段階と関連している、と主張されました。新たな毛色の出現は野生の対応種と比較して家畜分類群で一般的なので、家畜ウマ特定の有用な指標を提供します。

 現在まで、アナトリア半島における家畜ウマの起源は理解しにくいままですが、よく層序化された考古学的文脈からのウマ遺骸の注意深い回収により、古遺伝学的手法の進歩とともに、今ではアナトリア半島における家畜ウマの起源の過程に取り組むことも可能になります。この研究では、解剖学的形態および/もしくは生物測定的基準の欠如により妨げられる可能性のあるウマ遺骸の形態的特定と、ミトコンドリアDNA(mtDNA)・Y染色体DNA・毛色と関連する常染色体DNA指標の古遺伝学的分析を組み合わせ、アナトリア半島における家畜ウマ出現の時空間的動態を追跡します。毛色は、基本的なものが鹿毛(bay)・青毛(black)・栗毛(chestnut)・葦毛(gray)、希釈された表現型としてシルバー様(silver)・佐目毛(cream)、斑模様としてオベロ(overo)・トビアノ(tobiano)・サビノ(sabino)、ヒョウ状の斑点です。この研究では、アナトリア半島中央部8ヶ所とコーカサス6ヶ所の計14ヶ所の先史時代遺跡で発見された100頭以上のウマ遺骸が分析されます。これらのウマ遺骸は完新世の大半にわたり(紀元前9000~紀元後1000年)、近東の歴史における重要な問題となる、アナトリア半島における家畜ウマの起源への洞察が得られます。


●形態およびDNA分析

 111頭のウマ遺骸が分析され、そのうち77頭で古代DNAが得られました。現代のウマで以前に定義された14のmtDNAハプログループ(mtHg)と、以前には特定されていなかったmtHgが1つ確認されてXと命名され、これはO・P・Qの亜系統となります。また、10頭からロバ(Equus asinus)に特徴的なmtHgが得られました。7頭では以前の研究においてヨーロッパ野生ロバ(Equus hemionus hydruntinus)に分類されたアジアノロバ(Equus hemionus)のクレード(単系統群)H1に属するmtHgが得られ、本論文ではヨーロッパ野生ロバのmtHgとして扱われます。

 57頭のうち48頭で遺伝子型決定と形態学的分析が一致しました。形態学的に野生ウマもしくは家畜ウマに分類された40頭のうち38頭は対応するmtDNAを示します。ヨーロッパ野生ロバ6頭のうち3頭とロバ11頭のうち7頭でも一致が得られました。形態学的に種区分できなかった20頭は、mtDNA解析により、16頭のウマと2頭のロバと2頭のヨーロッパ野生ロバに識別されました。形態学的に曖昧な4頭でのみ、遺伝子型と形態学が一致しませんでした。形態的にヨーロッパ野生ロバに分類された2頭ではウマのmtDNAが、形態的にウマと分類された2頭はロバとヨーロッパ野生ロバのmtDNAを有していました。分類されなかった1頭は、遺伝的に交雑個体、より正確にはラバと決定されました。この個体はウマのmtDNAとロバのY染色体DNAを有していたからです。


●母系の通時的パターン

 紀元前4500年以前のアナトリア半島の12頭のmtHgはPもしくは以前には特定されていなかったXです。PもXも同時代もしくはそれ以前の標本においてはアナトリア半島以外では確認されていません。これは、mtHg-PおよびXがアナトリア高原在来の野生ウマに固有であることを示唆します。紀元前2200年以降、アナトリア半島におけるこのパターンは大きく変わり、13の新たなmtHgが青銅器時代と鉄器時代に出現しました。青銅器時代よりも前にアナトリア半島で主流だったmtHg-Pは、青銅器時代以降は6%(33頭のうち2頭)にすぎず、その2頭の年代も青銅器時代初期の紀元前2000年頃です。さらに、紀元前3300年前頃以降、mtHg-Xはもはや検出されなくなります。

 青銅器時代以降の標本で新たに検出されたmtHgは、おもに11頭のQと5頭のGと5頭のNです。これらの結果は、紀元前三千年紀後半から続くほぼ完全な集団置換を示唆し、アナトリア半島およびメソポタミアにおけるウマ管理の出現と拡散に関する図像学や文献の証拠とよく一致します。コーカサスでは、最古の標本は紀元前三千年紀にさかのぼり、mtHgはQです。残りの13頭のうち11頭は、mtHg-A・B・C・E・FG・G・Qに分類されます。まとめると、アナトリア半島とコーカサスにおけるこのmtHgの変化は、統計的にひじょうに有意です。13頭のうち2頭はmtHg-Pに分類され、おそらくはアナトリア半島在来の母系が後期青銅器時代にコーカサスでも存続していたことを示します。


●父系と雑種

 本論文の標本でY染色体DNAデータは少なく、青銅器時代よりも古い遺骸からは得られませんでしたが、青銅器時代以降の19頭ではY染色体DNA配列が得られました。このうち12頭はウマ(Equus caballus)、6頭はロバ(Equus asinus)、1頭はより一般的にはロバとして識別されるタイプに分類されます。12頭のウマのうち5頭のY染色体ハプログループ(YHg)は、以前に報告されている4タイプのうち2タイプに由来します。そのうち5頭が現代のウマでは主流のHT-1で、4頭はすでに消滅したHT-3で、3頭は網羅率が低いため決定できませんでした。1頭はY染色体ではロバに分類されますが、mtDNAではウマに分類され、交雑種のラバが鉄器時代にさかのぼることを反映しています。この個体のmtHgはLで、青銅器時代以前にはアジア南西部には存在しませんでした。


●毛色

 毛色の多様性と関連する一塩基多型が決定されました。25頭のウマ、8頭のロバ、1頭のヨーロッパ野生ロバ、1頭のラバで関連する一塩基多型が得られました。本論文の標本で欠けている毛色関連のアレル(対立遺伝子)はオベロと佐目毛だけです。したがって、古代ユーラシア北部ですでに観察されている毛色関連の変異の多様性の大半は、青銅器時代のアジア南西部に存在したことになります。青銅器時代以降の25頭で毛色が決定されました。7頭は野生型の鹿毛で、1頭はサビノを有す目鹿毛、8頭は栗毛のシルバー様、栗毛のトビアノと栗毛のシルバー様とヒョウ状の斑点と青毛が2頭ずつ、1頭がトビアノの鹿毛です。1頭はDNAの保存が充分ではなかったので、栗毛か鹿毛か決定できませんでした。

 予測通り、6頭のロバとヨーロッパ野生ロバには、人類が家畜ウマで選択した一塩基多型の変異はありませんでした。ラバと特定された1標本はASIPおよびMC1R遺伝子の両方で変異を有しており、母であるウマに由来する可能性が高く、ウマでは鹿毛のトビアノと関連しています。前期青銅器時代の1標本は、栗毛でmtHgがPなので、アナトリア半島在来の母系と推測されます。この組み合わせは、アナトリア半島在来の雌ウマが前期青銅器時代に家畜ウマの群に組み込まれたことを示唆します。


●アナトリア半島の野生および家畜ウマ

 以上の結果から、家畜ウマはおそらくユーラシア草原地帯からコーカサスとアナトリア半島に遅くとも紀元前2000年までには導入された、と結論づけられます。この結論は、アナトリア半島において、在来ウマ集団では紀元前4500年以前にはmtHg-P・Xしか存在せず、mtHg-Xは以前には報告されていなかったmtHg-O-P-Q系統と近縁な系統である、という事実に基づいています。今まで、これらのmtHgは同時代もしくはそれ以前のユーラシアの他地域では見つかっていません。さらに、mtHg-Xは完新世のアナトリア半島でのみ確認され、おそらくは紀元前5500年頃以後に消滅しました。これらの知見は、mtHg-P・Xが、前期および中期完新世にアナトリア半島で人類に狩られていた野生ウマの在来系統を反映している、という本論文の結論を支持します。

 mtHg-P・Xはアナトリア半島で後期更新世および前期完新世に独立して進化し、近隣の野生ウマ集団との遺伝子流動は殆ど若しくは全くなく、それはアナトリア半島とユーラシア北部を分離する地理的障壁、つまりコーカサス山脈やザグロス山脈やボスポラス海峡に起因する、と本論文は提案します。アナトリア半島は野生ウマの遺伝的に異なる集団の故地で、動物考古学的知見に基づくと、そうした野生ウマが新石器時代と銅器時代に消費されていた、と示す最初の証拠を本論文は提示します。新石器時代や銅器時代や前期青銅器時代のウマ遺骸は、これらアナトリア半島在来の野生ウマを表しています。紀元前2000年頃に、この在来野生ウマのmtHg頻度が有意に減少し、Pは稀になり、Xは完全に消滅します。おそらく、青銅器時代前のウマ遺骸におけるmtHg-Xの低頻度は、アナトリア半島ではなぜ歴史時代にmtHg-Xが残らなかったのか、説明します。

 アナトリア半島におけるこの在来mtHgの衰退と並行して、コーカサスとアナトリア半島ではmtHgが2から14と顕著に増加します。そのmtHgの全ては、ヨーロッパ南東部とカザフスタンにおいて、銅器時代や前期青銅器時代と同様に現代のウマで特定されていました。これらの研究では、mtHgはユーラシアにおける系統地理的構造を示さず、広範なユーラシア草原地帯全域の顕著な物理的障壁の欠如と一致します。これは、ユーラシア草原地帯におけるウマ集団が任意交配だったことを示唆しており、現代の家畜ウマ集団の高い多様性を説明できる可能性が高そうです。これは、コーカサスとアナトリア半島における家畜ウマの導入時に本論文のデータセットで観察された、急速な多様化も説明するでしょう。この外来系統の突然の出現は、紀元前三千年紀末におけるウマと騎乗の文献および図像学的証拠の出現と一致し、家畜形態のかなりの輸入を主張し、それ故に独立した在来の家畜化過程に反対します。

 毛色関連アレルの分析からも、この見解が支持されます。青銅器時代のアナトリア半島とコーカサスのウマは、ユーラシア草原地帯における家畜化で選択されてきたと考えられる毛色多様体と対応する変異を有していたからです。毛色の希釈もしく斑模様に関連する変異は、本論文のデータセットでは紀元前1200年頃以後と遅く出現しました。本論文の遺伝的データからは、青銅器時代にアナトリア半島に導入された家畜ウマはユーラシア北部でそれ以前に見られる変異を有しているので、おもに広範なユーラシア北部から輸入された血統に由来する、という結論が導かれます。この外来集団の究極的な地理的起源は現時点でのデータでは定義できませんが、黒海北部のユーラシア草原地帯が最も有力な候補のようです。

 アナトリア半島在来のmtHg-Pは、現代のウマと同様にアナトリア半島とコーカサスの青銅器時代の家畜ウマにも低頻度(約8%)ながら存続しており、アナトリア半島の野生雌ウマが家畜の群に組み込まれ、それはおそらくアナトリア半島における家畜ウマ導入の直後で、野生の在来系統が絶滅する前だった、と明らかになりました。この可能性は、青銅器時代の4頭のうち少なくとも2頭がmtHg-Pを有している、という分析結果と一致します。これらmtHg-Pを有する個体は毛色関連アレルの変異も有しており、母系祖先がアナトリア半島在来集団に由来する、という可能性が最も高そうです。これは他地域でも観察されたパターンで、在来の雌ウマが家畜の群に組み込まれ、高いミトコンドリアゲノム多様性が生じました。本論文の結果は、前期青銅器時代に家畜ウマが導入された後の狩猟から牧畜への急速な移行を示唆し、それは動物相遺骸の低頻度により示唆される、アナトリア半島とコーカサスにおける野生ウマ集団の衰退と相関している可能性が高い、と推測されます。

 アナトリア半島とコーカサスにおける2つのYHg(HT-1およびHT-3)の通時的パターンは、ユーラシア北部での記録と類似した集団動態の可能性を示唆します。ユーラシア北部では、現代のウマで優勢なYHgであるHT-1が、家畜化開始の直後に顕著に増加し、中世までに家畜ウマの遺伝子プールに固定されましたが、HT-3はその消滅まで経時的に衰退しました。アナトリア半島のデータセットでは、HT-1およびHT-3は紀元前2000年頃には同等の頻度ですが、HT-3は経時的に衰退し、コーカサスにおいて最後に確認されているHT-3の個体の年代は紀元前1300年頃です。このY染色体多様性の減少は、おそらく種牡馬の強い選択の結果です。

 ユーラシア北部、とくにポントス・カスピ海草原は、現時点ではアナトリア半島へと導入された家畜ウマの最有力起源地候補なので、導入経路はヨーロッパ南東部とコーカサスの2通りが考えられます。ボスポラス海峡横断経路は、前期青銅器時代となる紀元前2600~紀元前2300年頃のバルカン半島南部における、家畜ウマの最初の動物考古学的証拠に基づいています。この遺跡では、10頭のウマの毛色が推定され、ひじょうに偏った分布が明らかになりました。それは、10頭のうち6頭のホモ接合性青毛で、そのうち4頭はヒョウ状の斑点を有し、2頭の鹿毛ウマもヒョウ状の斑点を有していますが、栗毛は検出されませんでした。このパターンは、栗毛が最初の毛色多様体だったのに対して、青毛とヒョウ状の斑点に関連する変異がひじょうに稀だった(25頭のうち2頭)、アナトリア半島とコーカサスにおける本論文の結果とひじょうに対照的です。これらの違いは、バルカン半島南部からアナトリア半島への家畜ウマ集団の導入という仮定と整合的ではありません。さらに、紀元前三千年紀のアナトリア半島西部においてウマを管理した考古学的証拠はなく、ボスポラス海峡経路説は支持する追加の証拠はほとんどありません。

 対照的に、南コーカサスとアナトリア半島中央部で広範に同時代に出現するいくつかの外来mtHgと毛色変異の特定から、コーカサス経由での拡散経路が主張されます。北コーカサスにおける紀元前3300年頃のマイコープ(Maikop)文化の集落と埋葬におけるウマの骨と図像の豊富さから、騎乗はマイコープ文化期に始まった、と示唆されます。さらに、最近の古代人のゲノム研究から、銅器時代の草原地帯とコーカサスの人々の間の継続的な遺伝子流動が示されており(関連記事)、青銅器時代には、メソポタミアとアナトリア半島とコーカサス南北と草原地帯間での人類集団の遺伝子流動が明らかになっています。

 人類集団間のこの交換は、4200年前頃の事象として知られる、寒冷化と乾燥化の1世紀にわたる期間に強化されるようです。この期間は、草原地帯の生計戦略と社会的ネットワークに影響を及ぼしたかもしれません。現在の証拠では、この気候事象はコーカサスとアナトリア半島における非在来ウマのmtHgおよび毛色の到来とほぼ同時期で、ウマの飼育とおそらくはインド・ヨーロッパ語族の拡大と関連しているようです。コーカサスの南側のウマ飼育の拡散が始まった文化的過程は、現時点で扱うのは困難ですが、紀元前三千年紀後半に始まる、コーカサスとそれに続くアナトリア半島への人類集団の移動と関連しているかもしれません。


●その他のウマ類

 本論文では、アナトリア半島中央部の前期鉄器時代(紀元前1100~紀元前800年頃)の遺跡で、雌ウマと雄ロバの間に生まれたラバが特定されました。ラバは形態に基づいて特定され、最近ではゲノムデータに基づいてヨーロッパの鉄器時代とローマ期で確認されています。いくつかの標本がアジア南西部において青銅器時代と鉄器時代の遺跡でラバとして仮定的に特定されてきましたが、本論文で示された個体は、アジア南西部におけるラバの最古となるゲノム証拠です。

 野生ロバはアナトリア半島原産ではないので、雄ロバは家畜だったに違いありません。アナトリア半島中央部の前期鉄器時代のラバの母親である雌ウマは、外来のmtHgで、その仔には2つの毛色変異を伝えたので、家畜でした。鉄器時代のアナトリア半島におけるラバの存在は、アジア南西部へと移動してきた家畜ウマの新たな役割を反映しています。アジア南西部では、家畜ロバは紀元前四千年紀以降用いられており、ウマ類の交雑(ロバとアジアノロバ)の伝統は紀元前三千年紀に出現しました。この状況は、ウマのアジア南西部のウマ類経済への真の統合を反映しており、意図的な家畜技術の初期の事例です。紀元前1600~紀元前1178年頃となるヒッタイト期の家畜の価格表に記載されている最も高価な種であるラバは、明らかにひじょうに高く評価されていました。

 ウマに加えて、本論文の結果は、新石器時代と銅器時代と青銅器時代のアナトリア半島の人々が、かつてはアナトリア半島の大半に生息していたヨーロッパ野生ロバも狩っていた、という明確な証拠を提示します。これは些細な結果ではありません。なぜならば、ヨーロッパ野生ロバの形態学的識別が明白ではなく、本論文で確定した結果は、性別における遺伝子型決定と形態学的決定との間の不一致を示すからです。同時に、これはこの研究チームの以前の結果も確証しました。それは、アジアノロバの他の亜種がアナトリア高原に生息していなかったことを示します。

 本論文で示されたアナトリア半島におけるヨーロッパ野生ロバの最も新しい証拠は紀元前2200年頃で、以前の報告と一致します。したがって、統合されたデータからは、ヨーロッパ野生ロバはアナトリア半島において野生在来ウマと同じ頃となる後期青銅器時代に絶滅し、それはおそらく、4200年前頃の事象と関連した乾燥化や、増加する家畜との牧草地資源をめぐる競争や、おそらくはエリート層の狩猟慣行と関連した狩猟圧力を含む、複数の要因の同じ組み合わせに起因します。


●まとめ

 完新世の9000年にわたるアナトリア半島と南コーカサスの古代ウマ類遺骸の研究により、ミトコンドリア系統の経時的動態が分析され、アナトリア半島が家畜ウマの起源地であるという仮説が検証されました。本論文では、前期および中期完新世に普段から利用されていたアナトリア半島在来の野生ウマのmtHgが特定されました。しかしその遺伝的変化のパターンは、在来ウマ集団を含む漸進的な過程を反映しておらず、むしろ現在の家畜ウマにも存在する外来系統の紀元前2000年頃の突然の出現を示します。これらの輸入されたウマは、家畜化前には野生在来ウマに欠けていた毛色を有する、と示されました。さらに、青銅器時代へのアナトリア半島のmtHg-Pの持続は、家畜の群への在来雌ウマの限定的な取り込みを示唆します。

 これらの変化パターンは、家畜ウマがおそらくコーカサス地域経由でアナトリア半島へ青銅器時代に導入されたことを示唆し、アナトリア半島と南コーカサスにおける家畜ウマの利用開始の年代を提供します。また本論文の結果は、アナトリア半島におけるウマの独立した家畜化という仮説にも反対します。本論文の結果から、アナトリア半島は家畜ウマ系統の主要な起源ではなかったものの、他地域で観察されたように、在来母系は輸入された家畜ウマの群に取り込まれ、在来のロバとも交雑してラバが生まれた、と示唆されます。輸入された家畜ウマの究極的な起源はまだ決められませんが、ウマの家畜化の起源地としてアナトリア半島が除外されることで、黒海隣接地域へとさらなる関心が向けられます。


参考文献:
Guimaraes S. et al.(2020): Ancient DNA shows domestic horses were introduced in the southern Caucasus and Anatolia during the Bronze Age. Science Advances, 6, 38, eabb0030.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abb0030

森恒二『創世のタイガ』第7巻(講談社)

 本書は2020年9月に刊行されました。第7巻は、タイガたちのいる現生人類(Homo sapiens)の集落がネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に襲撃され、リカとユカなど拉致された女性たちをタイガたちが奪回に行く場面から始まります。タイガにより飼われている狼のウルフが敵であるネアンデルタール人の気配を察知し、タイガたちはネアンデルタール人を発見して攻撃しますが、ネアンデルタール人は少なく、逃げるばかりでした。またしてもネアンデルタール人たちの囮に引っかかった、とタイガたちは悟ります。

 奪回部隊を率いるナクムの指示により、アキルという男性が捕虜になったネアンデルタール人男性に拉致された女性たちの行方を尋問します。アキルは現生人類とネアンデルタール人との間に生まれ、ネアンデルタール人社会で育ったこともあるか、以前は現生人類とネアンデルタール人との間の穏やかな交流もあり、その時にネアンデルタール人の言語を習得したのでしょうか。或いは、捕虜にしたネアンデルタール人から言語を習得したのかもしれません。女性たちはもう遠くに連れ去られた、と聞いたナクムたちは愕然とします。アラタは、ネアンデルタール人が陽動作戦をとったことに衝撃を受けていました。ネアンデルタール人は、タイガたちが狼を使うと想定して囮部隊を用意していた、というわけです。

 集落の守りもあるため、奪回部隊の半数は集落に戻ることになります。タイガはティアリに集落に戻るよう促しますが、ティアリは奪回部隊に戻ります。二十数人となった奪回部隊は、2~3倍はいると思われるネアンデルタール人相手に強い不安を抱きつつも立ち向かおうとします。タイガたちのいる集落を襲撃したネアンデルタール人たちは、一時的な野営地と思われる場所に集まり、宴会を開いていました。現生人類の女性たちはネアンデルタール人男性に次々と犯されていき、ユカも犯されますが、その間もユカは呆然としたままでした。

 夜、奪回部隊は休憩していましたが、ティアリは休んでいる暇はない、と焦り、兄のナクムに抗議します。タイガはティアリから、ネアンデルタール人が現生人類の女性を奴隷とするために拉致したのではない、と聞かされます。以前のネアンデルタール人は、現生人類の女性たちを拉致しても殺さず、子供を産ませて奴隷にしていましたが、今は現生人類の女性たちを拉致して奴隷にしてもすぐに殺し、子供を産ませてもその子供さえ殺すようになりました。史実では、現生人類が勢力を拡大して北のネアンデルタール人が滅ぶはずなのに、現在勢力を拡大しているのは軍隊のように組織的な行動をとるネアンデルタール人であることに、アラタは強い疑問と不安を抱きます。このままでは、滅ぶのは現生人類の方だ、というわけです。タイガは、そうさせないために自分たちは来た、リカコもユカも殺させない、と強く誓います。そもそも、自分がオーストラリアへの旅行で洞窟を見ようと提案したことで、過去に行ってしまったことを思い出したアラタは、強く後悔します。

 偵察に出ていた男から、ネアンデルタール人が「熊の岩山」と呼ばれる拠点にいる、との報告が奪回部隊に入ります。昔そこには現生人類が住んでいたそうですが、南下してきたネアンデルタール人に奪われたようです。ネアンデルタール人たちは拠点で宴会を開いており、女たちを連れて帰って奴隷にしたい、と言ってきた男たちに、指揮官らしきドゥクスは要請を却下します。自分たちの新たな王は「色つき」を認めない、「色つき混じり者」を全て殺す、北の民(ネアンデルタール人)だけが人間なのだ、と言います。

 ネアンデルタール人の砦を見つけた奪回部隊は、ナクムの方針により、ネアンデルタール人たちの一部が狩猟に出かけた隙を襲撃することにしました。20~30人のネアンデルタール人が狩猟に出たことを確認した奪回部隊は、20人程度しかいないのに、70人のネアンデルタール人たちを襲撃しようとしていました。ナクムは、まず投槍で敵をできるだけ減らし、敵に武装させる隙を与えないよう、指示を出します。ついに奪回部隊はネアンデルタール人に襲いかかり、最初の投槍で12~13人を倒しますが、依然として人数で不利な状況は変わりません。しかし、狼のウルフも襲撃に加わり、奇襲効果もあってネアンデルタール人たちを退却させます。しかし、ドゥクスが支持を出すと、狼狽していたネアンデルタール人たちは奪回部隊を包囲するように陣形を組みます。包囲された奪回部隊は、ナクムの攻撃により包囲網に穴を開け、そこから突破しようとします。格闘技を学んでいたタイガはそれを剣術に応用し、剣術を知らないネアンデルタール人に対して優位に立ちます。タイガには、戦いの中でも冷静さを保つ精神力があり、「戦士」として成長していました。

 包囲を破った奪回部隊は、捕虜となっていた女性たちを発見し、アラタが女性たちを解放します。奪回部隊も半数を失ったものの、ネアンデルタール人も少なくなり、まだウルフもナクムも健在であることから、タイガは勝利を確信します。ところが、ネアンデルタール人が狼煙を上げているのを見たタイガは、狩猟に行ったネアンデルタール人たちが戻って来ると悟り、早く脱出するよう、ナクムに促します。しかし間に合わず、30~40人のネアンデルタール人たちが襲撃してきます。絶望的な状況の中、タイガは諦めず強い戦意を示しますが、ドゥクスは冷静で、配下のネアンデルタール人たちに槍を投げるよう、指示を出します。絶体絶命の状況に奪回部隊の戦意が喪失しかける中、突如として大きな鳴き声とともに、マンモスが現れます。それがかつて命を救ったアフリカだと気づいたタイガは、アフリカに乗ってネアンデルタール人たちに反撃します。突然のマンモスの出現に狼狽したネアンデルタール人たちは敗走し、ドゥクスはこの信じがたい状況を見て、タイガも自分たちの王と同じ神なのか、と驚きます。私も含めて、アフリカが登場した時からこのような展開を予想していた人は少なくなかったでしょうから、もう少しひねってもよかったのではないか、とも思います。

 こうしてネアンデルタール人に拉致されていた現生人類の女性たちも解放されますが、ユカはタイガを知らない人のように呆然と眺めるだけでした。アラタは、ネアンデルタール人が軍隊のような組織を持っていることに強い疑問を抱いていました。カシンは現生人類の言葉を少し話せるネアンデルタール人の捕虜を尋問し、その呻き声に気づいたタイガとアラタも向かいます。なぜ自分たちを殺そうとするのか、とカシンに問われたネアンデルタール人の捕虜は、「王」の命令だからだ、と答えます。しかし、カシンもナクムも「王」とは何なのか、知りません。「王」とは何者なのか、ナクムに問われたネアンデルタール人の捕虜は、嘲笑するように、お前たちには分からない、と答えます。お前たち「色つき」は人ではない、「王」は「神」の子供でこの世界を統べる者だ、この世界は「王」と血を分けた我々「白き者」の世界だ、とネアンデルタール人の捕虜は言い、アラタは愕然としますが、ナクムは「神」とは何か知りません。ネアンデルタール人の捕虜はナクムたちを、お前たち不浄の者・「色つき」の者は滅びる、我々「白き者」だけが唯一の「人」だ、王はお前たち「色つき」を滅ぼし、清浄な(正常な?)大地を取り戻す、お前たちは我々により滅ぼされる、と言って嘲笑します。これは重要な情報ですが、ナクムたちの部族の言葉で「王」や「神」をネアンデルタール人がどう表現したのか、それをタイガやアラタがどうやって理解できたのか、ということは気になります。まあ、これは創作ものですから、気にせず受け入れるべきなのかもしれませんが。

 奪回部隊が集落に戻ると、マンモスを見て最初は驚いた人々も、仲間を見て歓喜します。タイガから、「王」とは一族や他の部族や土地も支配する「大きな力を持つ者」という意味で、人々の上に立つと言われており、人々を滅ぼそうとする危険な王もいる、と聞かされた賢者ムジャンジャは、先代や先々代の賢者からも聞かされていなかった事態だと悟ります。これまで、ネアンデルタール人と現生人類の間に争いはあっても、互いを滅ぼそうとはしませんでしたが、ネアンデルタール人は拉致した現生人類を殺し、拉致した女性に産ませた子供も殺すようになりました。ムジャンジャはナクムに、見て感じたことを信じ、決断するよう促します。一族を率いて生きる道を探し、滅んではならない、というわけです。ネアンデルタール人が自分たちを滅ぼすつもりだと知ったナクムは戦いを決断し、タイガに共闘を要請し、タイガは即座に快諾します。あくまでも戦いを避けようとして現実逃避するレンをリカコは叱責し、アラタはレンに、共に戦うか女性や子供たちと隠れるか、選択するよう迫ります。タイガは、ここが自分たちの知る歴史ではないと考え、傍観者ではいられないので、命懸けで「今」を生きるしかない、と決意します。

 ホラアナグマの狩猟などで現生人類の結束はますます高まりますが、ナクムは、カシンたちが何度か見たネアンデルタール人の大群が気がかりでした。ネアンデルタール人の方はバラバラだった者たちを統一した王がいるのに、現生人類の方は部族がバラバラであることを懸念するナクムは、自分たちにも王が必要だと考え、タイガに自分たちの王となるよう、要請します。しかしタイガは、ナクムこそが王だ、と言います。自分たちが何のためにここに来たのか、ずっと考えていたタイガは、王になる男を助けるためだ、との結論に至りました。皆を率いて現生人類を救う男こそが王たるべきナクムなのだ、とタイガがナクムに力説するところで第7巻は終了です。


 第7巻は、ひじょうに重要な情報が明かされ、たいへん楽しめました。そもそも、タイガたち21世紀(で間違いないと思います)の大学生が更新世にタイムスリップするという点で非現実的な設定ですから、これまでは当時の状況が比較的忠実に描かれてきたとはいえ、実際とは何かの点で大きく異なる世界だったとしても不思議ではありません。本作の世界は、神のような超越的な存在、あるいはタイムスリップが可能となった未来世界の人々による実験で、タイガたち人類学のゼミ生が選ばれた、ということでしょうか。

 この謎の核心に迫りそうな情報が、ネアンデルタール人の捕虜から語られました。ネアンデルタール人には新たな「王」がおり、この「王」は神の子供で、「王」と血を分けた「白き者」たるネアンデルタール人が「色つき」の者たる現生人類を滅ぼすよう命じた、というわけです。この「王」は組織化に長けており、軍隊の訓練も指示しているようです。そうすると、ネアンデルタール人の「王」も未来からタイムスリップしてきた、ということでしょうか。「白き者」が「色つき」を滅ぼすよう命じていることから、この「王」からは白人至上主義的な思想が窺えます。とはいえ、ネアンデルタール人と現生人類は異なりますから、白人至上主義者がネアンデルタール人の「王」となり、ネアンデルタール人に肩入れするのも変だとは思います。

 ただ、ネアンデルタール人がまだあまり知られていなかった、というか人類進化史において正確には位置づけられていなかった19世紀後半の白人至上主義的な人物ならば、あるいはアフリカ起源の肌の色の濃い現生人類に対して、肌の色が薄かっただろうネアンデルタール人に肩入れして、現生人類を滅ぼそうと考えることもあり得るかな、とは思います。あるいは、ネアンデルタール人に強い思い入れを抱いている狂信的な人物なのでしょうか。もっとも、単に当時のネアンデルタール人と現生人類に未来人が知恵を授けてどの程度のことができるのか、また史実とどう変わるのか、と思いついた気まぐれで冷酷な未来人もしくは神のような超越的存在によるゲームのようなものなのかもしれません。まあ、ネアンデルタール人の肌の色については議論があり、ネアンデルタール人の肌と髪の色も、現代人と同じく多様だったのではないか、と推測する研究もあります(関連記事)。なお、第1巻~第6巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

第6巻
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_41.html

『アナザーストーリーズ』「偽りの“神の手” 旧石器発掘ねつ造事件」

 BSプレミアムで放送されたので視聴しました。そろそろ旧石器捏造事件の発覚(2000年11月5日)から20年が経過します。もう旧石器捏造事件が一般向けメディアで取り上げられることもひじょうに少なくなったように思いますが、発覚から20年ということで、これから11月にかけて旧石器捏造事件を取り上げる雑誌や新聞もあるのでしょうか。内容に関しては、とくに目新しいものはなかったように思いますが、旧石器捏造事件に翻弄された地元の人々への取材は知らないものも多く、ひじょうに居たたまれないものでもありました。ただ、地元の人々の逞しさも感じさせられる内容になっていました。

 番組では、旧石器捏造事件を起こした藤村新一氏(現在は再婚して苗字を変えているそうです)は「F」と呼ばれ、映像にはモザイクがかけられていました。今回、NHKが藤村氏に取材を申し込んだそうですが、心身の不調を理由に断られたそうです。もっとも、おそらくは2011年の取材でも、藤村氏は本題の直接旧石器捏造事件に関わりのないことや、本題からやや外れた話題については饒舌に語るものの、本題になると「記憶にない」と言って、詳しく答えようとしなかったそうですから(上原善広「石の虚塔(15)藤村新一、かく語りき」)、仮に今回NHKの取材に応じていたとしても、新たに注目すべき情報は得られなかったでしょう。なお、旧石器捏造事件に関する当ブログの記事は以下の通りです。

旧石器捏造事件と多地域進化説
https://sicambre.at.webry.info/200806/article_9.html

ケネス=フィーダ『幻想の古代史』上・下
http://sicambre.at.webry.info/201003/article_2.html

旧石器捏造事件の発覚から10年
https://sicambre.at.webry.info/201011/article_5.html

角張淳一『旧石器掘捏造事件の研究』
https://sicambre.at.webry.info/201011/article_23.html

松藤和人『検証「前期旧石器遺跡発掘捏造事件」』
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_3.html

岡村道雄『旧石器遺跡「捏造事件」』
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_7.html

竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_17.html

原田実『つくられる古代史』
http://sicambre.at.webry.info/201205/article_26.html

上原善広「石の虚塔(15)藤村新一、かく語りき」
https://sicambre.at.webry.info/201302/article_26.html

小野昭「日本における旧石器時代研究の枠組みと現状」
http://sicambre.at.webry.info/201311/article_13.html

仲田大人「日本列島で交替劇は起きたか?」
http://sicambre.at.webry.info/201312/article_4.html

『週刊新発見!日本の歴史』第49号「旧石器・縄文 日本人はどこから来たか」
http://sicambre.at.webry.info/201406/article_12.html

竹岡俊樹『考古学崩壊 前期旧石器捏造事件の深層』
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_31.html

上原善広『石の虚塔』
https://sicambre.at.webry.info/201410/article_4.html

日本列島にはいつから人類が存在したのか
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_4.html

コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータ

 人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で、コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータに関するPDFファイル(Gelabert et al., 2020)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P49)。近年では、環境DNA研究の古代DNA研究の応用により、遺跡の堆積物から、後期および中期更新世のさまざまなホモ属系統や他の哺乳類の複数のミトコンドリアゲノムが解析されました(関連記事)。この手法は、人類遺骸の古代ゲノム研究への補完的もしくは代替的手法として、人類の進化と交雑史と拡散の研究に、新たな地平を開きます。この手法はまた、過去の環境と人類の生計および行動についての新たな情報を提供する可能性を有します。

 この研究は、ジョージア(グルジア)西部のイメレティ(Imereti)地域に位置するサツルブリア(Satsurblia)洞窟の、25000年前頃となる上部旧石器時代層から得られたゲノムデータを報告します。サツルブリア洞窟遺跡では、33000~14000年前にまたがる、上部旧石器時代の豊富な考古学的記録が得られています。上部旧石器時代後期(較正年代で13380~13132年前)となる、サツルブリア洞窟遺跡で発見された人類の右側頭骨の完全なゲノムに関する以前の研究では、この地域に居住していた最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の集団は「コーカサス狩猟採集民(CHG)」で、いくつかのユーラシア集団の主要な祖先集団でした(関連記事)。しかし、この地域のLGM前の集団の遺伝的構成は、ユーラシア西部のこの期間のゲノムデータがないため、不明なままです。

 サツルブリア洞窟の25000年前頃の人類のミトコンドリアゲノムは、45000年前頃となるブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された個体(関連記事)との明確な類似性を示します。核ゲノムデータの分析では、この25000年前頃の人類は、同じくサツルブリア洞窟で発見された13000年前頃の人類とはクラスタ化せず、対照的に現在のレヴァント集団に近いようです。これは、南コーカサス地域の人類集団におけるLGM前後での遺伝的不連続性を示唆します。さらに、サツルブリア洞窟の25000年前頃の層では、他の哺乳類3種の存在が特定されました。それは、タイリクオオカミ(Canis lupus)とウシ(Bos taurus)とヒツジ属の種です。

 遺跡の堆積物のDNA解析により、人類遺骸のない遺跡でも遺伝的データを得ることが可能となりましたから、更新世の人類遺骸がひじょうに少ない日本列島のような地域への適用により、研究が大いに進展するのではないか、と期待されます。中国や朝鮮半島でもこうした研究が進めば、日本人の形成過程もより詳細に解明されるでしょう。また、この研究で非ヒト動物の遺伝的データが得られたように、当時の動物相のより詳細な解明も進むのではないか、と期待されます。


参考文献:
Gelabert P. et al.(2020): Metagenomes and ancient human lineages from a pre-LGM layer of Satsurblia cave in the Caucasus. The 10th Annual ESHE Meeting.

イスラエルの旧石器時代遺跡の堆積物のDNA解析

 人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で、イスラエルの旧石器時代遺跡の堆積物のDNA解析に関する研究(Slon et al., 2020)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P110)。古代DNA研究の進展により、ユーラシアにおいて更新世人類のDNA解析に成功したため、中部旧石器時代と上部旧石器時代の人類集団の関係も明らかになってきました。DNAが解析された人類は、現時点ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と古代の現生人類(Homo sapiens)です。

 しかし、レヴァントの温暖な気候はDNAをより急速に分解するため、これまでネアンデルタール人やデニソワ人が存在した年代の人類遺骸のDNA解析には成功していません。現時点で、レヴァントで解析された最古のDNAは14000~12000年前頃の個体群に由来します。この研究は、ユーラシア全域の考古学的堆積物におけるDNA解析を目的とした大規模な研究の一環として、遺伝的分析のため、イスラエルのセフニム洞窟(Sefunim Cave)から33標本を収集しました。この33標本は新たに発掘された地区から採取され、取り扱いによりもたらされる汚染を最小限に抑えるための予防策が講じられ、セフニム洞窟遺跡の旧石器時代の5層(AH7~3)にまたがっています。

 古代の堆積物からDNAを解析する方法は、環境DNA研究の古代DNA研究への応用により、近年盛んになりつつあり、すでにユーラシアの遺跡でネアンデルタール人とデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。各標本で特定された分類群ごとに、現代の汚染から真の古代DNA断片を区別するために、回収されたmtDNA断片は、時間の経過に伴い蓄積する傾向があるヌクレオチド置換の存在で評価されました。

 古代人類のmtDNAがどの標本でも検出されなかった一方で、4点の標本から古代の非ヒト動物のmtDNA断片が回収されました。このうち2点の標本(標本1および2)は、中部旧石器時代となるムステリアン(Mousterian)の層(AH7)から収集され、シカ科とハイエナ科のミトコンドリアゲノムに分類されるわずかなDNA断片から構成されます。標本3はシカ科のmtDNA断片を含んでおり、中部旧石器時代から上部旧石器時代の移行にまたがる層(AH6)で収集されました。AH7および6のの光刺激ルミネッセンス法 (OSL)年代測定はまだ保留中ですが、現在の推定では70000~45000年前頃の間です。

 標本4は上部旧石器時代となるレヴァントオーリナシアン(Levantine Aurignacian)の人工物により特徴づけられる層(AH5)に由来し、その放射性炭素年代は40000~30000年前頃です。この標本は、ミトコンドリアゲノム配列の約1/4を復元するのに充分なDNA断片を生成し、シカ科のmtDNAの多様性内に位置づけることができるようになりました。堆積物におけるシカ科とハイエナ科の特定は、これらの層の考古学的記録と一致しており、シカ科は骨と枝角で、ハイエナ科は骨と糞石により表されます。

 興味深いことに、4標本すべては洞窟内の同じ区域(ユニットG/H 48/49)から採取されており、局所的条件がDNAの長期保存にとくに貢献している、と示唆されます。何千年もその区域を覆い、標本抽出の直前に取り除かれた大きな岩石が、堆積物内の酸化と生物活性を制限することにより、堆積下でのDNAの損失を減少させた、と推測されます。セフニム洞窟の堆積物のDNAの回収は、レヴァントにおけるDNA保存の現在の限界を15000年以上さかのぼらせます。これは、レヴァントにおける上部旧石器時代、さらには中部旧石器時代集団のDNA分析の実現可能性を示しており、今後の研究の進展がたいへん期待されます。


参考文献:
Slon V. et al.(2020): DNA from Paleolithic sediments at Sefunim Cave, Israel. The 10th Annual ESHE Meeting.

ウマ遺骸の性比の変化

 ウマ遺骸の性比の変化に関する研究(Fages et al., 2020)が公表されました。5500年前頃のウマの家畜化は人類史の転機となりました。最古となる馬の家畜化の確実な証拠はカザフスタン北部のボタイ(Botai)文化で得られており、年代は5500年前頃です(関連記事)。ウマの家畜化により高速輸送が可能となり、青銅器時代となる4000年前頃の戦車(チャリオット)開発と、その1200年後となる鉄器時代の騎兵の出現は、戦争に革命をもたらしました。鉄器時代の前にはウマの形態に明確な変化がないことから、古典的な動物考古学的手法によるウマの家畜化過程の初期段階の復元に関しては、議論となってきました。また、ウマの遺骸はしばしば断片的なので、雑種と性別の決定は困難です。

 近年飛躍的に進展した古代DNA研究の適用により、ウマの家畜化過程の理解に関する理解は大きく進展しました。その結果、遅くとも紀元前三千年紀には、イベリア半島とシベリアで異なる家畜ウマの系統が存在したものの、現生家畜ウマの遺伝的構成には大きな影響を及ぼしていない、と明らかになりました。とくに、ボタイ文化の家畜ウマは、現代の家畜ウマとは異なる系統で野生種とされていたモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)の祖先で、現生家畜ウマにほとんど遺伝的影響をおよぼしていない(2.7%程度)、と明らかになりました(関連記事)。現時点での古代ゲノムデータからは、家畜ウマは紀元前三千年紀に異なる系統に由来するか、あるいは別の独立した家畜化もしくは遺伝子移入を通じて形成されていった、と推測されます。遺伝子移入を通じて、本来の遺伝的構成は希釈されていった、というわけです。また最近の研究は、特定の種牡馬の系統、とくに東洋種が好まれて選択されてきたことを指摘します(関連記事)。

 しかし、古代DNA研究でも性比に関しては軽視されてきました。家畜化の過程で、たとえばウシでは、雄の仔の大半が殺されるなど、性により異なる生存パターンも想定され、スキタイ文化の儀式では、雄ウマが優先的に犠牲とされました。本論文は、ウマの群における性比を経時的に検証しました。そのため、ヨーロッパの上部旧石器時代の19頭のDNAデータが新たに生成され、既知のデータと統合されました。これにより、合計249頭の古代ウマのDNAデータが得られました。これらのデータに基づいて、性比(雄:雌)が推定されました。性別の推定は、X染色体の網羅率に基づいています。これが常染色体の網羅率とほぼ同じであれば雌、その半分程度であれば雄というわけです。

 上部旧石器時代の性比は0.92で、シベリア北部のタイミル半島の上部旧石器時代遺跡で報告された性比0.43よりも均衡しています。シベリア南西部の上部旧石器時代遺跡では、性比が0.71です。これらから、家畜化前となる上部旧石器時代のウマ遺骸において性差はない、と示唆されます。新石器時代と銅器時代においては、最初期のウマの家畜化の証拠が得られているボタイ文化でも、性比は1.15となり、偏りは見られません。ロシアとイランの新石器時代および銅器時代の遺跡群でも、性比は1.17と偏りはありませんでした。4700年前頃までは、ウマ遺骸(62頭)の性比に大きな偏りはないようです。この状況は過去4600年(187頭)では大きく変わり、性比は3.48となります。とくに、3900年前頃が大きな転機と推定されます。この性比が偏った状況は3900年前頃以後も経時的に大きくは変わらず、地理的な違いも確認されませんでした。

 上部旧石器時代から3900年前頃まで、ウマ遺骸の性比に大きな偏りはなく、この期間には、ウマが狩猟対象とされ、家畜化されてもいた銅器時代も含まれます。これは、狩猟でも飼育でも一方の性が選好されていなかったことを示唆します。また、バイソンやケナガマンモスの遺骸が雄に偏っていたことと対照的です。こうした不均衡な性比は、狩猟における危険性低下の意図、および/もしくは雄の分散率の増加との関連が指摘されています。これらの遺骸が雄に偏っている種では、性的に成熟した雄が分散する一方で、雌は出生集団に留まっているため、狩猟でも雄が選好されたのではないか、というわけです。一方、1頭の種牡馬が優先的地位を占めるウマの社会構造は、遺骸の性比に影響を及ぼさなかった、と示唆されます。

 ウマの家畜化としては最初期となるボタイ文化では、輸送および搾乳と、肉や皮の利用との混合としてウマが飼育されていた、と推測されています。しかし、上述のようにボタイ文化ではウマ遺骸の性比に大きな偏りはなく、搾乳があったにも関わらず、雄の仔が屠殺されていたわけではない、と示唆されます。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析では、銅器時代に家畜ウマが減少している、と示唆されました。これは、ウマの飼育に必要な資源の獲得を維持するため、ウマが管理され始めた可能性を示唆します。ボタイ文化のウマ遺骸における性比の偏りの欠如は、性に関係なく飼育されていたウマが消費されていたことを示唆します。

 3900年前以後のウマ遺骸における雄への偏りは、儀式的埋葬地を除外しても変わりません。これは、青銅器時代にウマに関して雌雄の扱いが劇的に変化したことを示唆します。ヴォルガ・ウラル地域の後期青銅器時代の遺跡では、埋葬で雄の比率が高くなっています。このパターンは人類の状況を反映しているかもしれません。埋葬や衣服や装飾品などで、新石器時代には見られなかった明確な性差が、新石器時代から青銅器時代の移行期に観察されるようになります。

 さらに、過去3000年の埋葬における雄ウマの優勢は、種牡馬もしくは去勢馬が犠牲的儀式で高い価値を与えられた、と示唆します。これは、力・保護・強さといった男らしさや騎士と関連づけられていた象徴的属性に起因するかもしれません。とくに、二輪により特徴づけられる車両と関連する彫刻画像は、紀元前三千年紀後半から紀元前二千年紀前半にかけて典型的になりました。それらは一般的に、男性戦士および機動戦の出現、もしくはとくに埋葬における儀式の必要性、と関連づけられています。

 これは、種牡馬の本質的なイデオロギー的役割と、エリートの戦争および儀式的行為における種牡馬の使用を示唆します。これらの知見は、青銅器時代に人類社会で拡大した性差が、家畜にまで及んだ可能性を示唆します。青銅器時代における人類社会の性差の拡大は、アジア東部でも指摘されています(関連記事)。こうした雄ウマ(種牡馬)の特権的地位が、卓越した名声を与えられた動物としてウマにのみ適用されるのか、あるいはイヌやブタやウシなど他の家畜にも適用されるのか、まだ明確ではなく、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Fages A. et al.(2020): Horse males became over-represented in archaeological assemblages during the Bronze Age. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, 102364.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102364

日本人のゲノムにおけるヒトヘルペスウイルス6由来の領域

 現代日本人のゲノムにおけるヒトヘルペスウイルス6(HHV-6)に関する研究(Liu et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトゲノムの約8%は「内在性ウイルス配列」と呼ばれる古代のウイルス由来の配列で占められており、その多くは数百万年前にヒトの祖先のゲノムに入り込んだ、と考えられています。当初、ゲノム中の内在性ウイルス配列は機能を持たない、いわゆる「ジャンクDNA」だと考えられていました。しかし最近の研究により、内在性ウイルス配列の一部が、胎盤形成や神経伝達に関与することや、病原性ウイルスの感染を防御する因子として働く場合がある、と明らかになってきました。

 内在性ウイルス配列のほとんどは、生活環の中で宿主ゲノムに組み込まれる性質を持つレトロウイルス(逆転写酵素をもつ1本鎖RNAウイルスで、複製の過程において、逆転写酵素によりウイルスゲノムRNAをDNAに変換し、宿主のゲノムに入り込むという特徴を有します)に由来しています。ヒトゲノムに存在する非レトロウイルス型の内在性ウイルス配列としては、RNAウイルスであるボルナ病ウイルスに関連するウイルス配列が知られていました。この研究は、一部のヒトゲノムから非レトロウイルス型の内在性ウイルス配列である内在性HHV-6を見つけました。内在性HHV-6は、突発性発疹の原因ウイルスであるHHV-6に由来するDNA配列です。HHV-6は、免疫抑制などにより再活性化すると知られており、さまざまな神経疾患との関連が指摘されています。

 この研究は、日本で最大級の全ゲノムプロジェクトであるバイオバンク・ジャパンにより集められた日本人7485人の全ゲノム配列を解析し、約200人に1人のゲノム中にHHV-6のゲノム全長に類似したDNA(内在性HHV-6)の配列を発見しました。この研究は次に、内在性HHV-6配列と現存のHHV-6配列がどのように関連するのか、解析しました。その結果、内在性HHV-6配列の一つが、現代の中国人と日本人のゲノムにおいて、同じ染色体ゲノム上の位置に組み込まれている、と明らかになりました。HHV-6は、アジア東部大陸部と日本列島が陸続きだった3万年前頃に、中国人と日本人の共通祖先のゲノムに組み込まれ、その後、16500~11500年前頃に始まり、3220~2350年前頃に終了する(関連記事)縄文時代(当然、地域差があります)に、内在性HHV-6をゲノムに持つ人々が日本に到来した、と考えられます。これは、数万年間、内在性HHV-6がヒト染色体と共進化してきたことを示しています。

 また、これらの古代ウイルスの配列は、ヒトゲノムのテロメア領域に挿入されている、と明らかになりました。テロメアとは染色体の末端部にある塩基配列で、その長さはゲノムの複製やヒトの老化に関係していると考えられています。テロメアはおもに6塩基の繰り返し配列から構成され、繰り返しの多い配列は従来のシーケンス法による決定が難しいため、この研究は、長鎖DNAの解析を得意とするナノポアシーケンス技術(膜にナノポアと呼ばれるナノサイズの穴が埋め込まれており、ナノポアをDNA分子が通り抜けるときに生じる電流の変化によって、塩基配列を解析できます)を用いて、内在性HHV-6のヒトゲノム上の位置を同定しました。

 HHV-6は、塩基配列や抗原性、細胞指向性(ウイルスがどの細胞に効率良く感染するかという標的細胞への親和性)の違いから2種類(HHV-6A、HHV-6B)に分類されますが、興味深いことに、HHV-6AとHHV-6Bはどちらも、同じ22番染色体の長腕のテロメア領域に挿入されていました。このゲノム挿入部位の選択性についてはまだ詳しく分かっていませんが、HHV-6配列がこの領域に挿入されることでテロメアの長さが維持され、DNA損傷が回避されるなど、宿主であるヒトにとって有利に働いている可能性が考えられます。

 また、一部のヒトゲノムに、内在性HHV-6が過去に組換えを起こして再活性化した痕跡が残されていることも明らかになりました。先行研究では、試験管内(in vitro)で内在性HHV-6が再活性化し、その痕跡として細胞のゲノムにウイルスゲノムの一部が残されている、と報告されていました。しかし、ヒトゲノムに内在性HHV-6再活性化の痕跡が直接見いだされたのは、この研究が初めてです。ヒトゲノムに入り込んだHHV-6がヒト染色体内部で組換えを起こし、感染性を回復し得る可能性が示されたことから、今後、内在性HHV-6再活性化のリスクをより詳しく調べる必要がある、と考えられます。

 この研究は、HHV-6が3万年前頃にアジア東部現代人の共通祖先のゲノムに組み込まれ、縄文時代に内在性HHV-6をゲノムに持つ人々が日本列島に到来した、と推測しています。これが妥当だとすると、「縄文人(縄文文化関連個体群)」の形成との関連でも注目されます。中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)のモデルでは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団はまず、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。

 ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア南東部北方系統は新石器時代黄河地域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団です(関連記事)。現代において、日本人の「本土集団(本州・四国・九州とその近くの島々の人々)」や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、チベット人はユーラシア東部南方系統との、日本人「本土集団」は「縄文人」との混合により形成されました。「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されており、HHV-6は、アジア東部北方系統ではなく、アジア東部南方系統人のゲノムに3万年前頃組み込まれたのかもしれません。アジア東部南方系統集団が当時どこにいたのか、まだ不明なので、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Liu X, Kosugi S, Koide R, Kawamura Y, Ito J, Miura H, et al. (2020) Endogenization and excision of human herpesvirus 6 in human genomes. PLoS Genet 16(8): e1008915.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008915

人類最初の出アフリカ

 人類最初の出アフリカに関する研究(Scardia et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。以前の人類進化史では、最初にジャワ島で報告されたホモ・エレクトス(Homo erectus)が、アフリカからユーラシアへと拡散した最初の人類とされていました。この想定は、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の証拠に大きく依存しています(関連記事)。ドマニシ遺跡では180万年前頃の5個の頭蓋といくつかの頭蓋以外の遺骸が発見されており(関連記事)、ホモ・エレクトスに分類されています。この仮説では、アジアにおけるエレクトスの最初の出現は、200万年前頃となるアフリカでの最初の出現のすぐ後とされます(関連記事)。

 しかし、ヨルダン(関連記事)と中国(関連記事)でそれぞれ250万年前頃と210万年前頃の石器が発見され、じゅうらいの有力説は大きな修正を迫られています。純粋にこの年代に基づくと、最初の出アフリカはじゅうらいの有力説よりも70万年さかのぼることになり、エレクトス以前の人類がこの拡大に関わっていたに違いない、と強く示唆します。本論文は、ヨルダンと中国での発見を簡潔にまとめ、これらの発見が古人類学における二つの広く議論されている問題に新たな光をどのように当てるのか、議論します。つまり、ドマニシ遺跡の5個の頭蓋間の顕著な多様性と、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の祖先です。


●ヨルダンと中国における初期人類の証拠

 1980年代初頭以来、ヨルダン渓谷の東側にあるザルカ渓谷(Zarqa Valley)のダウカラ層(Dawqara Formation)では河川堆積物内の石核と剥片が発見されてきました。初期の発見は1990年代の調査で確認され、メリジオナリスゾウ(Mammuthus meridionalis)やウマ(Equus cf. tabeti)やオーロックス(Bos primigenius)もダウカラ上層の一部発見されています。ザルカ渓谷は2013~2016年にブラジルとイタリアの研究チームにより再検証され、いくつかの遺跡の年代層序の堅牢な枠組みが提示されました。

 大型動物相遺骸は連続して見つかりますが、石器はダウカラ層内の玄武岩層の上でのみ発見されました。石器はいくつかの層序で見つかり、ダウカラ層の堆積中におけるザルカ渓谷での人類のほぼ継続的な居住を示唆します。技術類型論的には、ダウカラ層の石器群は礫の石核と剥片で構成されています。ダウカラ層の推定年代は252万~195万年前頃で、石器を含む層の推定年代は、それぞれ248万年前頃、224万年前頃、216万年前頃、206万年前頃、195万年前頃です。

 中国の黄土高原は、過去260万年に冬の季節風により堆積し、黄土はほとんど細粒堆積物なので、礫サイズの石器が容易に特定されます。黄土高原に位置する陝西省の藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)では、212万~126万年前頃の石器群が発見されました。同じく中国の重慶市巫山県竜骨坡洞窟(Longgupo Cave)遺跡の石器群は220万年前頃と主張されており、尚晨の石器群は竜骨坡遺跡石器群の年代を支持するものと言えます。ダウカラ層石器群と同様に、黄土高原の前期更新世石器群も、礫石核と剥片で構成されています。

 近年、ヨルダンと中国で確認されたこれらの証拠は、大きな標本規模で構成されており、とくにヨルダンの事例では人為的起源が確実で、自然起源(偽石器)はありそうもない、と指摘されています。したがって、これらの石器から、アフリカからユーラシアへの人類最初の拡散は250万年前頃に起き、210万年前頃までに現在の中国に存在していた、と言えます。ヨルダンでも中国でも、これら200万年以上前の石器群と共伴する人類遺骸は見つかっておらず、ドマニシ遺跡の頭蓋は依然として、アフリカ外最古の人類遺骸です。


●ドマニシ遺跡の人類化石

 ドマニシ遺跡の年代は185万~178万年前頃で、5個の人類頭蓋と、礫石核と剥片から構成される石器インダストリーはオルドワン(Oldowan)と分類されています。これら5個の頭蓋は形態がかなり異なるので、その種名も違うかもしれません。とくに、2005年に発見された頭蓋5はひじょうに特徴的なので、状況はさらに複雑になりました。2013年の研究では、これらドマニシ遺跡の5個体は単一集団で、ホモ属でもエレクトス(Homo erectus)もしくはエルガスター(Homo ergaster)やハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)も同じ系統と主張されました(関連記事)。この見解には批判が多く、より祖先的な人類、もしくは2属ではないとしても2種で構成されている可能性が高い、とし指摘されています。ドマニシ遺跡の頭蓋5個を単一の多様な系統と位置づける見解では、ドマニシ人類のきょくたんな形態学的多様性は、年齢差、性的二形、歯の喪失や他の歯の病気に起因する顔面の変化のひじょうに珍しい組み合わせにより説明されます。

 ドマニシ人類を単一系統と主張する見解では、5個の頭蓋はホモ・ハビリスのような祖先的特徴とホモ・エレクトスのような派生的特徴の組み合わせとして解釈されます。つまり、ドマニシ人類はアフリカのホモ・ハビリスと特徴を共有し、後のホモ・エレクトスの特徴一式を有しているわけではありません。たとえば、ドマニシ人類の脳容量は546~730㎤で、ホモ・エレクトスとされる標本群の平均904㎤をかなり下回ります。ドマニシ人類における祖先的特徴と派生的特徴の混在としては、わずかに厚くなった眉弓や、最小限ではあるものの、ひじょうに顕著な眼窩後狭窄と関連する眼窩上溝が含まれます。後頭部は曲がっていますが、横隆起は均一に存在していません。一方、顔面中部は比較的大きくなっています。

 また、頭蓋以外の形態でも、祖先的特徴と派生的特徴の混在が指摘されています(関連記事)。祖先的特徴は小さな身体サイズや上腕骨後捻角の欠如、派生的特徴は現代人と類似した身体比率や完全な二足歩行を示唆する下肢構造です。頭蓋以外の形態に関する研究では全体的に、ドマニシ人類はアフリカのホモ・エレクトスやその後の人類に明らかな派生的な移動の特徴一式を有していなかった、と指摘されています。

 大きな問題は、アフリカの既知の人類遺骸では、ジャワ島のホモ・エレクトスの正基準標本の定義となるような、頭蓋の子孫形質を有するアフリカの既知の個体が存在しないことです。類似の問題はアフリカのホモ・ハビリスにも当てはまり、ハビリスは形態学的用語で適切に定義されたことがありません。じっさい、ハビリスは本質的に分類学的屑籠で、そこでは250万~180万年前頃の人類化石の雑多な分類が不注意に投げつけられているので、より非公式な「初期ホモ属」がこの集団の好ましい用語かもしれません。

 この無駄な複雑化にも関わらず、ヨルダンおよび中国の証拠と一致して、アフリカからユーラシアに拡散した最初の人類、またドマニシ人類の祖先集団として「初期ホモ属」の構成員を用いるならば、ドマニシ人類における不均質性はずっと容易に解釈できます。ドマニシ人類の頭蓋5は、その下顎がホモ・ゲオルギクス(Homo georgicus)の正基準標本ともされますが、ドマニシ遺跡の他の全人類標本と完全に区別されることから、本論文は残りの4頭蓋を、ホモ・エレクトスではない、他の種に分類するのが適切と主張します。それは、ドマニシ遺跡の4頭蓋がジャワ島のホモ・エレクトスの正基準標本の子孫形質をまったく有さないからです。同様の理由で、残りの4頭蓋がホモ・エルガスターに適切に参照されるのかどうかも、明らかではありません。じっさい、これら4頭蓋が複数種に分類されるのかどうかも、未解決の問題です。


●ホモ・フロレシエンシス

 インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見された6万年以上前の人類遺骸(関連すると考えられる石器群の下限年代は5万年前頃)に関しては、今でも議論が続いています。この人類遺骸の代表的な個体はLB1で、合計で5~7人の遺骸が発見されました。これらの人類遺骸の特徴は、低身長(106cm)、小さな頭蓋(426㎤)、アウストラロピテクス属とホモ属の両方で見られる特徴の混在で、新種のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)に分類されました(関連記事)。

 フロレシエンシスに関しては、ひじょうに複雑で多くの未解決の問題があります。たとえば、フローレス島は更新世において近隣の大陸と陸続きになったことがないので、何らかの方法で渡海したことになります。また、その石器が複雑なことから、脳容量の小さいフロレシエンシスの認知能力も注目されました。LB1の頭蓋内鋳型の分析からは、フロレシエンシスが比較的高い認知能力を有していたかもしれない、と示唆されました。

 最も議論になったのは、派生的特徴と祖先的特徴とが混在している形態でした。これに関して、フロレシエンシスがどの系統の人類なのかをめぐって、公表(2004年)当初から激しい議論が展開されてきました。それらの見解は、大きく3通りに区分されます。まず、遺伝的もしくは代謝障害を有する現生人類(Homo sapiens)との見解です。次に、アジア(具体的にはジャワ島)のホモ・エレクトスが島嶼化により小型化した、という見解です。最後に、ホモ属の早期系統、たとえばホモ・ハビリスのような分類群の子孫という見解です。

 障害を有する現生人類との見解では、小頭症やダウン症候群などが原因とされましたが、その後すべて否定されています。さらに、フローレス島のソア盆地のマタメンゲ(Mata Menge)遺跡で発見された70万年前頃の人類遺骸に、リアンブア洞窟の人類遺骸との類似性が見られることから、ホモ・フロレシエンシスという分類群の有効性が最終的に確認されました(関連記事)。これらの知見から、遅くとも70万年前頃以降のフローレス島の複雑な人類進化史と、5万年前頃のフロレシエンシス(的な人類)の絶滅が示唆されます。なお、石器の証拠から、フローレス島には100万年前頃に人類が存在したことも確認されています(関連記事)。

 しかし、現在でも最大の問題が未解決です。それは、ホモ・フロレシエンシスがホモ・エレクトスから島嶼化による小型化を通じて進化したのか、あるいはより祖先的で小さな身体の人類から進化したのか、という問題です。LB1の形態の詳細な分析(関連記事)やフロレシエンシスの歯(関連記事)や頭蓋内鋳型(関連記事)や頭蓋冠(関連記事)や下顎断片と歯(関連記事)の分析では、ホモ・フロレシエンシスはホモ・エレクトスの子孫と主張されています。

 しかし、エレクトスよりも祖先的とされる特徴はほぼ頭蓋から下の遺骸に由来します。LB1の頭蓋や後頭部の形態に関する研究では、エレクトスとフロレシエンシスは共通祖先を有するものの、LB1はエレクトスよりもハビリスの形態により類似している、と示唆されました(関連記事)。もっと包括的な系統学的分析では、フロレシエンシスはハビリスとのみ、もしくはハビリスとエレクトスとエルガスターと現生人類を含むクレード(単系統群)との姉妹系統である可能性が高い、と指摘されています(関連記事)。

 フロレシエンシスがエレクトスよりも祖先的な人類から進化した、という見解の問題点は、エレクトス以前の人類のアフリカからの拡散の考古学的証拠が欠如していたことでした。しかし、上述のように、ヨルダンで250万年前頃、中国で210万年前頃の石器が発見されており、この問題を解決できるかもしれません。より適切な用語がなく、形態学的に一貫した定義が欠如している場合、「初期ホモ属」として説明できる分類群がアフリカからユーラシアへとじっさいに拡散した最初の人類であるならば、低身長や祖先的身体比率(比較的長い腕と短い脚)を含む、フロレシエンシスのより祖先的でアウストラロピテクス属的な特徴を説明できるでしょう。じっさい、フロレシエンシスと関連する石器インダストリーのオルドワン(Oldowan)的特徴が指摘されています(関連記事)。


●まとめ

 本論文は最近の知見に基づき、アフリカ外で見つかった絶滅人類の多様性を説明するために、仮説を提示します。現在の分類学的枠組みが不充分であるために「初期ホモ属」と呼ばなければならない分類群は、おそらくアフリカで早くも280万年前頃に分岐しました(関連記事)。その後、この集団の一部が地中海周辺に到達し(関連記事)、250万年前頃にアフリカから拡散しました。この出アフリカ人類集団がアジアでの拡大に成功した後、少なくともその一部(ドマニシ遺跡の前期更新世人類遺骸の多様性を認める見解ならばもっと多く)は180万年前頃までにコーカサスに到達して新たな種となり、90万年前頃までにはヨーロッパに到達し、その一部はおそらくアフリカに「戻り」ました。

 小柄で祖先的な身体比率の人類のアジアにおける東方への拡大もしくは居住は、おそらく複数の波で継続しました。80万年前頃までには、この集団の一部がアジア南東部島嶼部まで到達し、そこでホモ・フロレシエンシスは穏やかな「島嶼化」の結果として進化しました。ホモ・エレクトスもおそらくはアジア東方で分岐しましたが、それはフロレシエンシスを生み出した「初期ホモ属」のアジアへの拡大とは別の話です。以下、この「初期ホモ属」の拡散経路と年代を示した本論文の図2です。
画像


 以上、ざっと本論文の内容を見てきました。アフリカ東部では280万年前頃にホモ属的な特徴を有する人類が存在し、ヨルダンでは250万年前頃、中国では210万年前頃の石器が見つかっていることを踏まえて、本論文は仮説を提示しています。この仮説は間違いなく検証に値するもので、今後の研究の進展が期待されます。人類の出アフリカはほぼ間違いなく200万年以上前までさかのぼりますから、人類の初期の出アフリカは、以前の想定よりもかなり複雑なものだったと考えられます。

 本論文は、ホモ・フロレシエンシスがホモ・エレクトスの子孫ではなく、200万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した「初期ホモ属」の子孫だと主張しますが、私はまだ、ジャワ島(スンダランド)のエレクトスの子孫という見解の方が妥当ではないか、と考えています。頭蓋から下でとくに見られる祖先的特徴は、エレクトスが島嶼化により小型化したことに起因する収斂進化ではないか、というわけです。ただ、確信しているほどでもないので、フロレシエンシスの起源に関しては今後の研究の進展を俟つしかありません。フロレシエンシスのDNA解析はおそらく無理でしょうが、タンパク質解析ならば可能かもしれないので(関連記事)、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)のタンパク質解析が進展し、フロレシエンシスのタンパク質解析にも成功すれば、フロレシエンシスの人類進化系統樹における位置づけが明らかになるだろう、と期待しています。


参考文献:
Scardia G. et al.(2020): What kind of hominin first left Africa? Evolutionary Anthropology.
https://doi.org/10.1002/evan.21863

成長の早い高木ほど寿命が短い

 成長の早い高木ほど寿命が短く、炭素貯蔵量と関連することを報告した研究(Brienen et al., 2020)が公表されました。成長速度が大きくなると寿命が短くなるという関係性は、一部の高木、とりわけ低温に適応した針葉樹で示されていますが、これが、さまざまな樹種や気候に幅広く当てはまるのか、議論の余地があります。このようなトレードオフ(交換)は、樹木の成長速度を炭素貯蔵量の代用指標に用いることと両立しないと考えられ、地球システムモデルを用いた全球森林炭素貯蔵量の予測に疑問が生じています。

 この研究は、アフリカと南極以外の各大陸に生育する樹種110種の年輪データの大規模なデータセットを解析しました。この研究は、同種内でも異種間でも高木の成長速度の大きさが寿命の短さと関連することを報告し、これが気候変数や土壌変数との共変性によるものではないことを示しました。また、この研究は、クロトウヒ(Picea mariana)に関するデータに基づいたモデル森林シミュレーションを用いて、このトレードオフが、今後、全球的な森林による炭素吸収を鈍化させ、あるいは減少に転じさせる可能性があることを明らかにしました。

 これらの知見は、成熟した森林における将来の炭素貯蔵量の予測の大部分に異論を唱えるもので、今後数十年間の全球的な森林の炭素吸収源の存続を疑問視しています。この研究は、樹木の成長速度と寿命のトレードオフをプロセスベースの森林炭素動態モデルに組み込む必要がある、と主張しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:成長の早い高木は寿命が短いために炭素貯蔵が影響を受ける可能性がある

 成長の早い高木ほど寿命が短いことを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、気候変動下での森林の炭素貯蔵量を予測する上で重要な意味を持つ可能性がある。

 成長速度が大きくなると寿命が短くなるという関係性は、一部の高木、とりわけ低温に適応した針葉樹に示されているが、これが、さまざまな樹種や気候に幅広く当てはまるかは議論の余地がある。このようなトレードオフは、樹木の成長速度を炭素貯蔵量の代用指標に用いることと両立しないと考えられ、地球システムモデルを用いた全球森林炭素貯蔵量の予測に疑問が生じている。

 今回、Roel Brienenたちの研究チームは、アフリカと南極以外の各大陸に生育する樹種110種の年輪データの大規模なデータセットを解析した。Brienenたちは、同種内でも異種間でも高木の成長速度の大きさが寿命の短さと関連することを報告し、これが気候変数や土壌変数との共変性によるものでないことを示した。また、Brienenたちは、クロトウヒ(Picea mariana)に関するデータに基づいたモデル森林シミュレーションを用いて、このトレードオフが、今後、全球的な森林による炭素吸収を鈍化させ、あるいは減少に転じさせる可能性のあることを明らかにした。

 以上の知見は、成熟した森林における将来の炭素貯蔵量の予測の大部分に異論を唱えるものであり、今後数十年間の全球的な森林の炭素吸収源の存続を疑問視している。Brienenたちは、樹木の成長速度と寿命のトレードオフをプロセスベースの森林炭素動態モデルに組み込む必要があると訴えている。



参考文献:
Brienen RJW. et al.(2020): Forest carbon sink neutralized by pervasive growth-lifespan trade-offs. Nature Communications, 11, 4241.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17966-z

岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』

 祥伝社新書の一冊として、祥伝社より2019年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。最近5年くらい、以前よりも日本近現代史関連の本を多く読むようになりましたが、それらの本で永田鉄山に言及されることが多かったので、一度評伝的な本を読もう、と考えた次第です。本書で初めて知りましたが(以前他の本で読んで忘れてしまっただけかもしれませんが)、永田の父は医者で、その遺言により永田は軍人を志しました。これには、永田の異母兄がすでに軍人だったことも影響しているようです。

 永田が優れた頭脳の持ち主だったことは、同時代に永田と接した人も、後世の研究者も作家も記者も、ほぼ全員が認めるところでしょう。本書は、たとえば石原莞爾との比較で、永田が「常識的な」人物だった、と指摘します。永田は、石原のような傲岸不遜な人物ではなく、比較的人当たりがよかったようです。この点が、石原とは異なり、永田が「天才」とあまり言われない理由になっているかもしれない、と本書は指摘します。永田は、天才には奇矯なところがある、という根強そうな通俗的印象から外れた人物と言えそうです。

 永田の軍事思想の形成に大きな影響を与えたのは第一次世界大戦で、永田は今後の戦争が総力戦になると確信し、日本がそれに耐えられるような体制を築くことに努めていきます。その「同志」として、同期の小畑敏四郎たち中堅将校がいましたが、長州閥に対して、永田は小畑とは異なり明確な敵意を抱いておらず、そもそも当時の陸軍において長州閥の力は衰えていた、と本書は指摘します。永田と小畑は後に対立し、現代では「統制派」と「皇道派」という枠組みで把握されますが、軍事思想の面では、ソ連の軍備が整う前に短期決戦でソ連を攻撃しようと考える小畑に対して、対ソ連戦は短期では終わらず、日本の現時点での国力では耐えられないので、当面は精鋭主義を取るとしても、総力戦体制を構築していかねばならず、そのためには満洲が必要である、と永田が構想していたことにありました。

 1931年の三月事件では、永田はクーデタに批判的だった、と本書は指摘します。永田は小磯国昭に求められて「小説」の如きクーデタ計画を提出しますが、明確にクーデタには否定的でした。永田は、規律の弛緩した陸軍を再建しようとしており、後に「統制派」として把握されるだけのことはあり、統制を重視していました。同年9月の満洲事変では、永田が現地の関東軍と共謀していた、との見解もありますが、本書は、石原から永田に送った書簡などから、永田は関東軍を統制しようとしており、満洲事変のような急進策には否定的だった、と推測します。その永田が満洲事変勃発後に現地軍を支援したのは、いずれ日本は総力戦体制構築のため満洲で覇権を確立しなければならないなので、一度始まった武力衝突を停止し、後にもう一度武力に訴えるよりは、一度動き出した流れに乗り、計画を前倒しした方がよいと考えたからだろう、と本書は推測します。永田は武藤章から「合理適正居士」と呼ばれていました。

 永田殺害事件は、相沢三郎の一人の狂気に帰せられる問題ではなく、現代では「統制派」と「皇道派」として認識されている陸軍内の激しい派閥対立の中で起きました。相沢は永田と事件の1ヶ月前に面会していますが、思い込みが強く「情」の人である相沢と、「理」の人である永田とでは、会話が噛み合わなかった、と指摘します。永田殺害事件の直接的契機として重要なのは、「皇道派」の将校に慕われていた真崎甚三郎が教育総監を罷免されたことです。相沢は自分の行為が罪だとは全く考えていなかったようで、現役の要職にある少将を直接殺害したという手段はともかく、相沢に共感を寄せる人は少なくなかったようです。永田殺害事件は、この半年後に二・二六事件を起こす人々を勇気づけ、奮起させた、と言えそうです。

 本書は、永田が殺されなければどうなったのか、という問題も取り上げています。上述のように、永田は「常識的な」人物で、人当たりもよく、軍部以外にも広い人脈を築き、また軍人以外にも永田を高く評価する人は少なくありませんでした。まず、二・二六事件の首謀者たちが永田殺害事件に奮起させられたことを考えると、二・二六事件は防がれたか、史実よりも小規模だった可能性があります。永田が殺されなければ、太平洋戦争は防がれたのではないか、との見解は一部で根強いようですが、一方で、永田とは同志から敵対的関係に変わった小畑は、永田こそが太平洋戦争の道を開いた、と指弾します。

 本書は、永田が次の世界大戦は避けられないと考えていたことから、永田が殺されなくても戦争は避けられなかっただろう、と指摘します。ただ本書は、永田が後に陸軍の代表として首相に就任した東条英機と比較して、頭脳明晰で人間関係の構築もずっと上だったことから、史実よりも上手く戦争指導を行ない、戦争になっても史実とは異なる展開になった可能性を指摘します。一方で本書は、永田の基本構想が総力戦体制確立のための満洲における日本の覇権確立で、日本にとって陸軍を中心にとても受け入れられなかった中国からの撤兵が日米開戦につながったことに、永田の存在により対米戦は避けられた、との見解(願望)の根本的な弱点があることを指摘します。

 私は、永田が殺害されず、1945年まで軍務が可能なくらい健康だったとしても、日中戦争から太平洋戦争への流れを止めることはできず、最後は史実に近い破局を迎えたかな、と思います。ただ、史実よりも対米戦で健闘した可能性はあり、その場合、ソ連の参戦により北海道あるいは東北地方までがソ連に占領され、日本が分断されたかもしれません。とはいえ、本書で永田の優秀な頭脳と幅広い人脈を知ると、どこかで史実よりもましな敗戦を迎えられたのではないか、と妄想したくもなります。

 また、永田が日独伊三国同盟締結の流れにどう対応したのか、気になるところです。「合理適正居士」である永田が満洲事変で見せた機会主義者的な側面からは、ドイツの快進撃を見て日独伊三国同盟締結を強く推進し、仏印進駐に踏み切ったのかな、とも思いますが、優秀な永田ですから、ドイツの快進撃は長く続かないと見て、ドイツとの連携強化に慎重な姿勢を示したかもしれません。このように後世の人間の妄想力を掻き立てるところも、永田の優秀さを示しているのかもしれません。

ポーランドのネアンデルタール人遺跡のmtDNA解析と石器分析

 ポーランドのスタイニヤ洞窟(Stajnia Cave)のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析と石器群の分析に関する研究(Nyakatura et al., 2020)が報道されました。過去10年間の研究の進展により、人類の移動・交雑・絶滅の複雑なシナリオが明らかになりました(関連記事)。更新世には、気候悪化と北半球のスカンジナビア氷床の拡大により、ヨーロッパの中緯度地域全体で人口減少が起きました。

 現時点で広く合意されているのは、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)が、南方へと好適な生息地を求めて移動するよりもむしろ過酷な氷期に消滅し、平均気温が上昇した後でのみ、待避所地帯から新たな集団が北方地域に再移住した、ということです。このモデルは、イベリア半島・イタリア半島・バルカン半島・アジア西部からの氷期後の定着を示唆する、いくつかの植物相および動物相の系統地理学的研究と密接に一致します。しかし、これらの氷期待避所のうちどれが更新世における人類集団の再移住に主要な役割を果たしたのか、どの経路が北方地域の再定住に用いられたのか、依然としてほとんど分かっていません。

 海洋酸素同位体ステージ(MIS)9以降、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は気候変動の影響を最も受けた西部地域に居住し、氷期のヨーロッパ北部および中央部で記録されている居住の中断は、再移住が繰り返し行なわれたことを示唆します(関連記事)。北方地域のネアンデルタール人の生息地を変えた重要な気候変化は、MIS5eとなるエーミアン(Eemian)の温暖な森林環境が、ケナガマンモスやケブカサイやトナカイのような北極圏からの寒冷適応動物相の移住に適した、より開けたステップ/タイガ環境へと移行した後の、最終氷期(MIS5d~MIS3)に起きました。

 気温の急激な低下と乾燥化の進展により、ヨーロッパ中央部および東部では人口減少が起き、間氷期の気候改善の頃(MIS 5c・5a・3)にのみ、ネアンデルタール人は北緯48度以上の地域に戻ってきました。新たな生態環境と移住種の領域拡大は、ネアンデルタール人に乾草地での資源獲得に対処する新たな戦略の開発を促しました。ヨーロッパ中央部および東部の平原では、ネアンデルタール人が一般的な剥片に基づく道具一式を強化し、それらは非対称的な両面石器や木の葉形石器や両面加工早期といった異なる種類のものでした。この新たな技術複合はミコッキアン(Micoquian)として知られており、ドイツの文献ではカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)とされていますが、フランス東部のソーヌ川からカスピ海西岸まで広範な地域で記録されています。

 一般的に、ハンガリーとフランス北部および東部の周辺を伴うドイツからポーランドの石器群はヨーロッパ中央部ミコッキアンと呼ばれている一方で、東カルパティア山脈とヴォルガ川下流の事例(石器群)は東部ミコッキアンと分類されています。これらの地域の定住は気候悪化の繰り返しに起因して断続的でしたが、ミコッキアン石器群の製作はMIS5c/5aから中部旧石器時代の終わりまで続きました。この技術的継続性は、マンモス・ケサイバイオーム(Mammuthus-Coelodonta biome)に限定されており、地中海に面した地域では欠けていることから、この新たな技術的行動により北方環境の低いバイオマスと極端な季節性へのより柔軟な適応が可能になった、と示唆されます。

 古代DNA研究では、アルタイ地域のネアンデルタール人は西方のネアンデルタール人に9万年前頃に置換された、と推測されています(関連記事)。この拡散はヨーロッパ中央部および東部におけるミコッキアンの両面石器の出現と同時で、アルタイ地域における拡大は、チャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の石器群で確認されており(関連記事)、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人では高品質なゲノム配列が得られています(関連記事)。

 MIS4の後、コーカサスでは第二の集団置換が起き、メズマイスカヤ洞窟(Mezmaiskaya Cave)遺跡では、MIS3の個体(Mezmaiskaya 2)が、その前のMIS4の個体(Mezmaiskaya 1)よりも、他の後期西方ネアンデルタール人と有意により多くの派生的アレル(対立遺伝子)を有しています(関連記事)。しかし、この置換は技術的変化に続いたわけではなく、ミコッキアン技術複合はコーカサス地域において、MIS5後期から中部旧石器時代の終わりまで持続しました。

 これらの遺伝学的知見は、ネアンデルタール人の進化史における2つの主要な集団置換事象が、ミコッキアン文化伝統と関連していることを浮き彫りにします。ミコッキアン技術複合と関連する化石群からの新たな考古学的および遺伝学的データを追加することは、ネアンデルタール人の適応的柔軟性と移動性のより深い理解に重要です。この観点から、現在のポーランドはきわめて重要です。それは、ポーランドがヨーロッパ西部平原とウラル、およびヨーロッパ中央部と南東部との間の交差点に位置するからです。これまで、ミコッキアンと関連するネアンデルタール人遺骸はたいへん少なく、遺伝的情報はドイツのフェルトホーファー洞窟(Feldhofer Cave)とコーカサスのメズマイスカヤ洞窟とドイツ南西部のホーレンシュタイン・シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(関連記事)の遺骸からしか得られていません。

 本論文は、ポーランドのスタイニヤ洞窟(Stajnia Cave)の考古学的記録と、ネアンデルタール人の大臼歯(S5000)のミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果を報告します。スタイニヤ洞窟の1.5mの層序は過去の攪乱により複雑ですが、MIS5c~1の間の15層に区分されています。動物相は寒冷適応種が優勢で、ユニットEとDの石器群はヨーロッパ中央部ミコッキアンの特徴を示します。スタイニヤ洞窟では3個のネアンデルタール人の歯が発見されており、クラクフ(Krakow)近くのキエムナ洞窟(Ciemna Cave)で発見された下顎切歯の断片を別とすると、スタイニヤ洞窟の歯のみがポーランドにおける中部旧石器時代の人類遺骸となります。以下、ミコッキアンとルヴァロワ・ムステリアン(Levallois-Mousterian)の各遺跡の場所を示した本論文の図1です。
画像


●スタイニヤ洞窟の遺伝学および考古学的分析

 スタイニヤ洞窟の動物の骨5点の放射性炭素年代により、E1・D3・D2層は49000年以上前と明らかになりました。これらの新たな年代は、ウラン・トリウム法年代によるD2b層のマンモスの歯の52900年前、およびMIS4のE1層とMIS3前期のD3およびD2層の以前の研究と一致します。D1層の年代は、68.2%の確率で47610~46130年前です。

 スタイニヤ洞窟で発見されたネアンデルタール人の大臼歯(S5000)のmtDNAが解析され、平均網羅率は363倍です。S5000のミトコンドリアゲノムは、ネアンデルタール人の既知の変異内に収まります。mtDNA系統樹では、S5000はMIS4となるコーカサスのメズマイスカヤ1と近縁で、後のヨーロッパのネアンデルタール人とは離れた関係にあります。S5000は、信頼区間の間隔が152515~83101年前と大きいものの、mtDNA系統樹の分枝の長さに基づくと、116000年前頃と推定されます。以下、ネアンデルタール人のmtDNA系統樹を示した本論文の図3です。
画像

 スタイニヤ洞窟のユニットE~Aでは合計13500点の脊椎動物の化石が発見されました。この動物相では、トナカイやステップバイソンやケナガマンモスやケブカサイのような寒冷適応種が優勢でしたが、ホラアナグマやアカギツネやオオカミやホッキョクギツネのような肉食動物も見られます。化石生成論および考古学的分析はまだ行なわれていませんが、大きな動物の骨の少なくとも一部は、人類の活動の結果と考えられます。

 スタイニヤ洞窟のユニットDとEの石器群は、近隣の露頭から集められたジュラ紀の燧石で製作されています。石器群で剥片は少ないため、洞窟内での製作は限定的で、ほとんどは洞窟に道具一式の一部として持ち込まれた、と示唆されます。剥片製作は石核の求心利用に基づいています。石器群では、消耗した円盤状石核内では、階層化された求心石核が一般的ですが、ルヴァロワ反復求心法がD2層で1例のみ確認されています。D1およびD2層ではルヴァロワ剥片がいくつか検出されています。再加工石器群はおもに掻器と抉入石器で構成されており、両面石器は剥片もしくは断塊で製作されています。スタイニヤ洞窟の石器群はひじょうに細分化されており、両面ナイフ型(カイルメッサー)はありませんが、両面石器や葉型尖頭器の存在は、ヨーロッパ中央部のミコッキアンとの関連を支持します。


●考察

 スタイニヤ洞窟の年代学・古遺伝学・形態学・考古学の分析の組み合わせにより、ミコッキアンにおけるネアンデルタール人への新たな洞察が明らかになります。ネアンデルタール人1個体の大臼歯(S5000)のmtDNA分析から、S5000系統が南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されたネアンデルタール人2個体(デニソワ5およびデニソワ15)やベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)で発見されたネアンデルタール人1個体と、最高事後密度間隔(HPDI)95%で203000~138000年前(17万年前)に分岐した、と示唆されます。mtDNA配列では、S5000はメズマイスカヤ1との違いが最も少なく、その後のヨーロッパ西部のネアンデルタール人とは遠い関係を示しますが、それらのヨーロッパ西部後期ネアンデルタール人の中で、メズマイスカヤ2やフェルトホーファー個体もミコッキアンと関連しています。

 S5000の推定分子年代は116000年前(95% HPDIで152000~83000年前)で、MIS3のネアンデルタール人より古くなります。S5000は近い年代(12万年前頃)のネアンデルタール人であるのスクラディナ個体(95% HPDIで161000~82000年前)やフェルトホーファー個体(95% HPDIで187000~69000年前)とは、mtDNAではメズマイスカヤ1よりも遠い関係にあります。S5000とmtDNAでは最も近いメズマイスカヤ1の系統は、オクラドニコフ2(Okladnikov 2)やデニソワ11(DC1227)や後のヨーロッパのネアンデルタール人の系統と152000年前(95% HPDIで182000~69000年前)に分岐しました。

 S5000はD2層で発見されましたが、その遺伝的年代は考古学的年代より古く、堆積後の攪乱によりS5000が元の位置から動いた可能性を示唆します。しかし、12300~109000年前頃のエーミアン(Eemian)はスタイニヤ洞窟では欠けており、96000~87000年前頃となるMIS5cとなるユニットGでは考古学的痕跡が発見されていないので、最も節約的な説明は、S5000が82000~71000年前頃となるMIS5aのE2層から動いた、というものです。これは、S5000がヨーロッパ中央部および東部でこれまでに発見された最古のネアンデルタール人化石であることを示します。

 MIS5aは、ヨーロッパ中央部および東部のネアンデルタール人にとって重要な行動変化を示します。この時期のネアンデルタール人は、新たな生態学的条件に適応し、寒冷適応動物相の増加する移動範囲に対処する新たな景観利用戦略を開発しました。低バイオマス環境でカロリーを充分に摂取できるよう、ネアンデルタール人は広範囲の両面加工ナイフを道具一式に追加しました。これらの石器群は、高い移動性の文脈では効率的で柔軟だった、と証明されてきました。それは、頻繁な再研削が長い使用寿命を保証でき、原材料不足の場合には石核に変わることができるからです。

 ポーランドでは、この間氷期の段階で、ヨーロッパ中央部のミコッキアンがよく表されており、スタイニヤ洞窟の石器群は、クラクフ・チェンストホーヴァ高地(Krakow-Czestochowa Upland)やポーランドのカルパティア山脈やモラヴィアやドイツの他の重要な遺跡でも共通して見られる特徴を示します。より広い視点では、類似の技術的行動はカルパティア山脈東部とヴォルガ川下流、とくにクリミア半島と北コーカサスでも見られます。

 ヨーロッパ中央部のミコッキアンと東方のミコッキアンとチャギルスカヤ洞窟のいくつかの遺跡の技術類型論的特徴の統計的比較は、西方とコーカサスおよびアルタイ地域の石器群との間の強い類似性を示唆します(関連記事)。これらの遺跡間で共通しており、繰り返される示導動機(ライトモティーフ)は、動作連鎖(chaînes opératoires)の高度な断片化、設計された石核のその場での持ち込み、剥片と再加工された道具です。これらの特徴は、高い移動性パターンと繰り返しの短期の居住に典型的です。

 ミコッキアン開始時におけるヨーロッパ中央部および東部の周氷河と北方環境からのネアンデルタール人の移動性の増加の裏づけは、他の遺伝学研究でも確認されています。上述のように、ネアンデルタール人の核ゲノムを比較した最近の研究では、9万年前頃以後のヨーロッパ西部からアルタイ地域への集団置換が示唆されていますが、一方、過去10万年間のネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との間の継続的な遺伝子流動と、ヨーロッパのネアンデルタール人におけるほぼ完全なデニソワ人系統の欠如は、西方地域からアルタイ地域への繰り返しの拡散を示唆します(関連記事)。

 さらに、上述のようにアルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟では、ミコッキアン石器群を有するネアンデルタール人の長距離移動が指摘されているものの、ヨーロッパ中央部から他の西方地域へのミコッキアン集団の移動もまた、オランダやベルギーやフランスで報告されてきました。これらの証拠は、ステップ/タイガ環境のネアンデルタール人の狩猟採集範囲が、以前に想定されていたよりも大きい可能性を示唆します。したがって、ヨーロッパ北部と東部の平原を横断する東西の軸の高い移動パターンは、他の中部旧石器時代文化との比較において、特定のミコッキアン石器の広範囲の分散と長期の製作を説明できます。

 年代順の傾向の存在を提案する研究者もいますが、ミコッキアンの技術的行動の「核」は長期にわたって安定したままです。一部の遺跡で記録された変異性は、一般的に両面加工ナイフの寸法と形状もしくは再加工品の異なる頻度に関連しています。しかし、これらの違いは、石器製作の多様性の結果というよりはむしろ、石材の寸法や両面の最先端の繰り返しの再研削、もしくは遺跡の機能により形成されたかもしれません。この技術的安定性も、正確な年代決定の支持なしでのミコッキアン石器群の年代特定を困難にします。

 考古学的観点から、ミコッキアンにおいて技術的変化は記録されていません。しかし、ミコッキアンと関連している最古のネアンデルタール人標本となるスタイニヤ洞窟のS5000とメズマイスカヤ1の2個体も、そのミトコンドリアゲノム間では最小の違いを有しており、ミコッキアン関連のより新しい年代のネアンデルタール人で観察されたmtDNAの多様性の範囲外となります。さらに、核DNAデータは、メズマイスカヤ2が同じ地域の早期集団よりも西方ネアンデルタール人と類似している、と明らかにしました(関連記事)。

 考古学的観点からは、71000~57000年前頃となるMIS4の氷期の気候条件は、ヨーロッパ西部とコーカサスのネアンデルタール人の深刻な減少を引き起こし、それはネアンデルタール人の遺跡数のかなりの減少に記録されています。MIS4の始まりもしくは終末の遺跡は稀で、そのほとんどは北緯45度の南に位置します。低密度のミコッキアンの居住は、ドイツのガイセンクレステレ洞窟(Geißenklösterle Cave)とガルツヴァイラー(Garzweiler)開地遺跡で見つかっていますが、一般的に、人口統計学的空白はヨーロッパ北部および東部の平原全域で氷期最盛期に記録されています。類似の状況はクリミア半島でも記録されており、クリミア半島では、たとえ環境が北方生息地により特徴づけられていたとしても、カバジ2(Kabazi II)でのみミコッキアンの証拠が見つかっています。

 この観点から、ミコッキアン技術複合はヨーロッパ中央部および東部でMIS3に顕著な技術的変化なしに持続し、地中海地域(イベリア半島とイタリア半島とバルカン半島)には存在しないので、最も節約的な説明は、ミコッキアンの南方周辺(フランス東部および/もしくはハンガリー)は、気候改善期にヨーロッパ中央部の再移住に寄与した待避所だったかもしれない、というものです。北方地域への再移住後、他のネアンデルタール人集団がプルト川やドニエストル川流域を南進してコーカサスに戻ってきました。放射性測定とゲノムのデータは、まだフランス東部とハンガリーにおけるミコッキアンの証拠では欠落していますが、メズマイスカヤ2と後期の西方ネアンデルタール人との間の遺伝的類似性と、推定される氷期の待避所における両面加工ナイフの欠如は、可能な説明を限定します。


●まとめ

 ヨーロッパ中央部とコーカサスにおける中部旧石器時代後期の現在の考古学的および古遺伝学的証拠は、ネアンデルタール人の拡散と、在来集団の絶滅と、西方地域からの再移住に関して、複雑な想定を示します。スタイニヤ洞窟の考古学的記録に関する学際的調査は、MIS5aにおけるクラクフ・チェンストホーヴァ高地の狩猟採集活動を確証しており、ポーランド南部とコーカサスのネアンデルタール人間の類似性が注目されます。

 ヨーロッパ中央部のミコッキアンと東方のミコッキアンとの間の技術的類似性は、ネアンデルタール人集団の移動性増加の結果である可能性が高く、ネアンデルタール人はしばしば、寒冷適応の移住性動物を追いかけて、ヨーロッパ北部および東部の平原を横断して移動しました。この想定では、ヨーロッパ東西の平原間の交差点の位置を占めるポーランドは、西方からアジア中央部へのネアンデルタール人拡散のパターンを明らかにするのに重要な地域です。スタイニヤ洞窟の他の歯に関するさらなる研究は、これらの移動および他のミコッキアンのネアンデルタール人との社会的関係を解明するのにきわめて重要です。


参考文献:
Picin A. et al.(2020): New perspectives on Neanderthal dispersal and turnover from Stajnia Cave (Poland). Scientific Reports, 10, 14778.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71504-x

若い雄ゾウを導く高齢の雄ゾウ

 高齢の雄ゾウによる若い雄ゾウの指導を報告した研究(Allen et al., 2020)が公表されました。ゾウやクジラのように寿命の長い種の場合、高齢の個体は複雑で変化する環境に適切に対応できることが多く、同じ群れの若齢個体の役に立つと考えられますが、この分野の研究の多くは、これまで雌を対象としていました。この研究は、ボツワナのマカディカディ塩湖国立公園(MPNP)内のゾウの通り道に沿って移動してボテティ川に出入りする、1264頭の雄のアフリカゾウ(Loxodonta africana)の群れ行動とリーダーシップのパターンを調査しました。

 この研究は、ゾウの通り道で目撃されたゾウの20.8%(263頭)が単体で行動しており、青年期の雄ゾウが単体で移動する頻度は予想を著しく下回った一方で、成熟した雄の成体が単体で移動する確率は予想以上だったことを明らかにしました。これは、新たに独立し、経験の浅い若齢のゾウにとって、単体で移動することのリスクが高いことを示唆する、と考えられます。高齢の成体は、雄の群れの先頭に立って移動する確率が有意に高く、成熟した成体の雄ゾウが、生態学的知識の「宝庫」として機能し、雄のアフリカゾウの群れの集団移動において重要なリーダーになっている、と示唆されます。

 この研究は、高齢の雄ゾウが繁殖の観点から余剰と考えられ、高齢の雄ゾウのトロフィー狩猟の合法性を裏づける論拠として一般的に用いられていると指摘し、そのような高齢の雄ゾウの選択的捕獲は、雄ゾウの社会全体と世代間の生態学的知識のフローを混乱させる恐れがある、との見解を示しています。ゾウの保護に重要な知見が得られたという点でも、たいへん注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:若いゾウを導く役目に適任なのは高齢の雄ゾウ

 高齢の雄ゾウは、未知の環境や危険な環境を移動する際に、若齢の雄ゾウにとっての経験豊かなリーダーとして重要な役割を果たしているという考えを示した論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。

 ゾウやクジラのように寿命の長い種の場合、高齢の個体は、複雑で変化する環境に適切に対応できることが多く、同じ群れの若齢個体の役に立つと考えられる。ところが、この分野の研究は、雌を対象としたものがこれまで多かった。

 今回、Connie Allenらの研究チームは、ボツワナのマカディカディ塩湖国立公園(MPNP)内のゾウの通り道に沿って移動してボテティ川に出入りする1264頭の雄のアフリカゾウの群れ行動とリーダーシップのパターンを調査した。

 Allenたちは、ゾウの通り道で目撃されたゾウの20.8%(263頭)が単体で行動しており、青年期の雄ゾウが単体で移動する頻度は予想を著しく下回った一方、成熟した雄の成体が単体で移動する確率は予想以上だったことを明らかにした。これは、新たに独立し、経験の浅い若齢のゾウにとって、単体で移動することのリスクが高いことを示唆するものと考えられる。高齢の成体は、雄の群れの先頭に立って移動する確率が有意に高く、このことからは、成熟した成体の雄ゾウが、生態学的知識の「宝庫」として機能し、雄のアフリカゾウの群れの集団移動において重要なリーダーになっていると考えられることが示唆された。

 Allenたちは、高齢の雄ゾウが繁殖の観点から余剰と考えられていることが、高齢の雄ゾウのトロフィー狩猟の合法性を裏付ける論拠として一般的に用いられているとし、そのような高齢の雄ゾウの選択的捕獲は、雄ゾウの社会全体と世代間の生態学的知識のフローを混乱させる恐れがあるという考えを示している。



参考文献:
Allen CRB. et al.(2020): Importance of old bulls: leaders and followers in collective movements of all-male groups in African savannah elephants (Loxodonta africana). Scientific Reports, 10, 13996.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70682-y

ケブカサイの古代DNA解析

 絶滅したケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)のDNA解析結果を報告した研究(Lord et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ケブカサイは寒冷適応の大型草食動物で、後期更新世においてユーラシア北部全域に広範に分布しており、14000年前頃に絶滅しました。ヒトと気候変化が絶滅の潜在的要因として提案されてきましたが、ケブカサイがヒトの到来と気候変動によりどのように影響を受けたのか、知識は限られています。

 そこで、ケブカサイの絶滅に先行する遺伝的多様性の変化を調査し、北極環境へのケブカサイ(ケサイ)のゲノム適応を垣間見るために、較正年代で5万年以上前から14000年前頃のケブカサイ1頭(ND035)の核ゲノムと14頭のミトコンドリアゲノムが配列されました。核ゲノムを得られた1頭は、較正年代で18530±170年前と推定されています。平均ゲノム網羅率は13.6倍で、ゲノムの70%以上が網羅率10倍以上です。DNA断片の平均長は84塩基対で、全体では28180718ヶ所の高品質の一塩基多型が特定されました。この1頭と他の13頭から完全なミトコンドリアゲノム配列が得られ、平均深度は7.5~912.8倍です。以下、各標本の出土地とミトコンドリアゲノムに基づく系統樹を示した本論文の図1です。
画像


●集団史

 14頭のミトコンドリアゲノムで13の固有のハプロタイプが特定されました。これらは大きくクレード(単系統群)1と2に区分され、これらは最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で440000~116000年前(205000年前)に分岐し、ケブカサイの絶滅近くまで存続しました。クレード1で他の系統と154000年前(95%HPDで326000~91000年前)に分岐したウランゲリ島(Wrangel Island)の単一標本(ND030)を除いて、両クレード間もしくは各クレード内における地理的もしくは時間的構造の指標はありませんでした。ND030のみの特有系統は、草原が温暖期に森林と低木の低地へと変わったため、この場所の南方に好適生息地が少ないことによる、ウランゲリ島の孤立の結果かもしれません。ウランゲリ島の標本を含む将来の研究により、ウランゲリ島とシベリア北東部の隣接地域との間の潜在的な遺伝的構造の調査が可能になるでしょう。

 ミトコンドリア系統は、ケナガマンモス(Mammuthus primigenius)で観察されたパターンと同様に、深い分岐の3クレード(クレード1のND030系統およびその他の系統とクレード2)が存在します。マンモスにおけるこのミトコンドリアゲノム構造は、間氷期の待避所における孤立の結果かもしれない、との仮説が提示されてきました。ケブカサイとマンモスにおいて類似の構造が見つかったことから、これらの種が過去の気候温暖化に対応した、と示唆されます。ミトコンドリア系統樹のクレード1および2の内部では、短く未解決の分枝が、95%HPDで86000~20000年前と最近の多様化を示唆します(分岐点CおよびD)。人口統計学的分析では、14000年前頃の絶滅まで過去11万年のうち約10万年、雌の有効集団規模(Nef)で一定の集団規模維持のモデルが最も支持されます。しかし、さほど支持されないものの、代替的仮説ではNefの拡大が示唆され、系統樹で観察された各クレード内の系統の最近の多様化と一致します。

 ケブカサイの集団史をさらに調べるため、核ゲノムに基づいてペアワイズシーケンシャルマルコフ合体(PSMC)分析が用いられました。PSMC分析は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定するという原理とアルゴリズムに基づき、これにより1個体から過去の個体数が推測されます(関連記事)。有効集団規模(Ne)は、前期更新世において100万年前から次第に増加し、191000~130000年前となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)6の152000年前(95%信頼区間で274000~111000年前)に21000と最高に達します。その後、Neは127000年前(95%信頼区間で226000~94000年前)から29700年前(95%信頼区間で40000~26300年前)にかけて1/10に減少し、ここから急速に拡大しました。Neはその後、核ゲノムが得られた1個体(ND035)の年代(較正年代で18500年前)まで一定したままで、これはケブカサイの絶滅の約4500年前となります。

 後期更新世においてNefがNeよりも高いと推定されたことは、雄に偏った拡散と雌の定住性で説明できるかもしれません。しかし、現生サイ、たとえばクロサイ(Diceros bicornis)やシロサイ(Ceratotherium simum)では性的に偏った拡散の証拠はほとんどなく、この説明はケブカサイに当てはまらない可能性が高そうです。代わりに本論文で提示される仮説は、ケブカサイにおける相対的に高いNefは、雄の繁殖成功の分散が大きい結果であり、これはシロサイで報告されてきた事例と類似している、というものです。複数の雄と雌のケブカサイからの核ゲノムデータの将来の分析が、この問題をさらに調査し、その行動へのゲノムの洞察を提供するのに必要となるでしょう。

 MIS6に至るまでNeで観察された増加は、集団拡大を示しているかもしれませんが、代替的な説明として、集団分化とミトコンドリア分析で特定された2クレードの分岐に起因するかもしれません。この2クレードが、異所性、おそらくは間氷期に形成され、これらの集団はその後MIS6の間かその後に拡大して融合し、ミトコンドリアデータで観察された系統地理学的構造の欠如をもたらした、という可能性が高そうです。したがって、MIS6で観察されたNeのピークは、集団構造がPSMCに影響を及ぼすと知られているように、集団の増加というよりはむしろ、集団分化の効果かもしれません。MIS6に続いて、Neは130000~115000年前頃のエーミアン(Eemian)間氷期と最終氷期の始まりを通じて減少し、33000年前頃に最小となりました。

 PSMCは標本の年代より2万年前の期間におけるNeの推定では能力が低下しますが、本論文では29700年前頃の増加が観察されました。この増加はケブカサイの短いミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく以前の推定、および本論文のミトコンドリアゲノムで観察された各クレード内の多様化と一致しますが、その時期にNeの拡大が示唆されないケナガマンモスのデータとは対照的です。本論文では、観察されたケブカサイのNe増加が、気候的に不安定なMIS3からより気候が安定した寒冷化したMIS2の移行と関連しているかもしれない、との仮説が提示されます。MIS2は、寒冷適応種にとって、シベリア北東部で適した生息地が形成された期間と示唆されました。

 しかし、ケブカサイはNe増加を経ていますが、ケナガマンモスのような他の慣例適応分類群は安定したままでした。したがって、MIS2はケブカサイにとって、氷河のツンドラステップが優勢で、集団拡大を可能とするような、とくに適した生息地をもたらしたかもしれません。代替的な説明では、Ne増加は、ケブカサイのような非常に特殊化した草食獣の範囲が収縮したので、集団の融合を表している一方で、そのより広範な分布により示されるように生態学的にもっと柔軟だったかもしれないマンモスは一定のNeを維持した、とされます。

 PSMC分析の限界のため暫定的ですが、本論文の結果が示唆するのは、ケブカサイの集団規模が29700年前頃の拡大後はND035標本の死まで一定のままだったかもしれない、ということです。本論文のミトコンドリアデータはさらに、特定された2系統が推定される14000年前頃の絶滅の300年以内まで存続したことから、絶滅近くまでの集団の安定性を支持します。35000年前頃に始まるシベリア北東部へ向けての生息範囲の漸進的縮小にも関わらず、化石記録が示唆するのは、ケブカサイが依然として18500年前頃までは広範に存在していたということで、これは本論文の推定集団規模が安定したままである理由を説明するかもしれません。

 興味深いことに、いくつかの他の哺乳類からのデータは、後期氷期の待避所としてのシベリア北東部の重要性を強調します。たとえば、最近の分析では、現生オオカミ系統はシベリア北東部に起源がある、と示唆されており、北アメリカ大陸への移住の前に現生人類(Homo sapiens)集団の混合がシベリア北東部で起きた、との仮説が提示されています(関連記事)。同様に、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後にシベリア北東部に存在した、ウマやバイソンやクビワレミングのミトコンドリア系統もひじょうに分岐しており、この地域におけるいくつかの分類群の長期の集団継続性が示唆されます。以下、Neの推移を示した本論文の図2です。
画像


●ゲノム多様性と絶滅

 ケブカサイのゲノムは1000塩基対につき平均約1.7のヘテロ接合性箇所があります。これは、1000塩基対当たりのヘテロ接合性箇所では、以前に報告された、本土マンモス(1.25)や現生スマトラサイ(1.3)やキタシロサイ(1.1)やミナミシロサイ(0.9)で観察されたゲノム多様性よりも高くなります。ホモ接合連続領域(ROH ;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)に基づくと、50万塩基対以上のROH領域を考慮した場合、近親交配率(FROH)は5.9%と推定されます。さらに、ROHの96%は50万塩基対以下で、ROHの最大長は250万塩基対です。

 ケブカサイにおけるこの近親交配水準は比較的低く、たとえば、非アフリカ系現代人集団と同等です。しかし、近親交配の水準は、後期更新世の本土マンモスで観察された水準(FROHが0.83%)より高く、遠い関係にある個体群間の交配による関連性がある程度示唆され、これはマンモスと比較して、その時点でのより高い集団構造、および/もしくは、減少した在来集団規模が原因かもしれません。しかし、この結果は、長期の小集団規模と関連する近親交配の増加を示した、ウランゲリ島の4300年前頃のマンモス(FROHが23.3%)とはひじょうに対照的です。

 まとめると、ケブカサイにおける核とミトコンドリアゲノムの多様性の分析は、本論文で分析された個体群に先行する集団規模の衰退の証拠も、小集団に典型的な高い近親交配の指標も提供しません。ケブカサイの絶滅における人類の役割を排除できませんが、本論文の結果からは、シベリア北東部における現生人類の到来はケブカサイの衰退と相関していなかった、と示唆されます。しかし注意すべきなのは、シベリア北東部の最初の人類の証拠は31600年前頃で、一時的な居住を表しているかもしれないことと、現時点では、MIS3~2においてまばらな人類存在の証拠しかないので、人類はケブカサイに限定的な負の影響しか与えなかったかもしれない、ということです。

 全体として、少なくとも18500年前頃までのケブカサイの安定した集団規模を示す本論文の知見が示唆するのは、絶滅に向かう最終的な衰退は急速で、絶滅前の4500年以内(ND035標本の年代から絶滅までの期間)に始まった、ということです。放射性炭素年代測定法の証拠に基づくと14600~12800年前頃のボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期と一致した可能性が高い、この深刻で急速な集団衰退は、ケブカサイの絶滅がこの時期に特徴的な気候および植生の変化によりおもに引き起こされた、と示唆するかもしれません。ユーラシア全域で、ボーリング-アレロード間氷期は、森林と樹木の多い被覆の増加により特徴づけられました。以前の研究では、ボーリング-アレロード間氷期のシベリアにおける低木ツンドラおよび樹木の生物群系による匍匐性植生の置換は、降雪量の増加と組み合わされ、ケブカサイの絶滅につながった可能性が高い、と提案されました。絶滅への衰退の時期と速度をよりよく理解するには、絶滅事象により近い個体群の追加のDNA解析が必要です。


●寒冷環境への適応

 19556のタンパク質をコードする遺伝子全体で非同義置換(アミノ酸置換をもたらすミスセンスや機能喪失)を調べることにより、スマトラサイと比較したケブカサイにおける適応の予備的評価が行なわれました。全体として、細胞構成要素組織もしくは生合成、局在化、繁殖、生物学的調節、刺激への応答、発生過程、代謝過程を含む、生物学的過程と関連する非同義変異の1524の同定可能な遺伝子が見つかり、そのうちのいくつかは有意に過剰出現しています。他の寒冷適応大型動物種の以前の分析とは対照的に、マンモスの北極環境への適応において役割を果たしていたと考えられていた、脂肪沈着および概日リズムの変化と関連する遺伝子における非同義多様体は観察されませんでした。

 しかし、89の遺伝子では、ケナガマンモスとケブカサイの両方が、寒冷耐性への適応と関連しているTRPA1(Transient Receptor Potential subfamily A)を含む、正の選択かもしれない非同義多様体を有していました。TRPA1を含む、TRPチャネルをコードする遺伝子における正の選択を受けた多様体は、寒冷適応分類群で最近報告されました。さらに、両方の種で機能喪失変異を有する1遺伝子である、カリウムチャネル関連のKCNK17がありました。KCNK17はKCNK4のパラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)で、通常の機能ではTRPA1やTRPM8を含むTRPタンパク質発現を抑制する、と示されてきました。したがって、この遺伝子は低温の知覚に関与しており、ノックアウトされると、寒冷適応に役割を果たすかもしれません。

 ケブカサイで適応的に重要かもしれなかった遺伝子をさらに特定するため、全ての特定された17888のミスセンス変異が3指標(アミノ酸指標、実験的交換可能性、アミノ酸非類似性)に従って位置づけられ、タンパク質構造物理化学的特性への影響が評価されます。これにより、3指標全てで類似の結果が得られました。アミノ酸指標の分布は二峰性で、変異の大半はタンパク質構造でほとんど弱い変化から中程度の変化が予測されます。しかし、アミノ酸指標を有する284の多様体があり、アミノ酸の物理化学的特性の最大の変化を示唆します。これらの多様体のうち83は41の異なる嗅覚受容体遺伝子で、この遺伝子群の進化において頻繁な遺伝子の獲得および喪失が起きていたことと一致します。


●まとめ

 本論文のゲノム多様性分析は、ケブカサイの集団史および生物学の理解にいくつかの示唆を与えます。まず、ミトコンドリア系統間の深い分岐の発見は、中期更新世における動的な進化史を示唆し、おそらくは集団の分裂とその後の融合により特徴づけられます。

 次に、ミトコンドリアゲノムと核ゲノム両方の分析から、絶滅へと向かうケブカサイの最後の衰退は急速で、18500年前頃の後まで始まらなかった、と示唆されます。これは、ケブカサイのNeが、シベリア北東部における人類の到来後、約13000年経つまで縮小し始めなかったことを示唆します。しかし、これは人類が後にケブカサイの絶滅に関わった可能性を排除しません。たとえば、人類によるケブカサイの狩猟が、ケブカサイ集団の成長率を減少させた結果、絶滅を加速したかもしれません。しかし、現時点でのデータを考慮すると、ボーリング-アレロード間氷期の開始と関連する環境における変化がケブカサイ絶滅の主因だった、という可能性が高いようです。18000~14000年前頃の追加のゲノム分析により、最終的な集団衰退がボーリング-アレロード間氷期と一致する程度のさらなる調査が可能であるはずです。

 最後に、ケブカサイの適応的な遺伝的多様性の予備的評価は、温度感覚に関わる遺伝子(TRPA1)を含む、いくつかの生物学的過程と関連する遺伝子における非同義置換の範囲を特定しました。まとめると、これらの知見は、絶滅種の以前には未知の進化過程の解明におけるゲノムデータの有用性を強調し、第四紀後期における人口統計学的変化の時期と速度をよりよく理解するための、他の大型動物相の人口統計学的軌跡の調査の必要性を示します。


参考文献:
Lord E. et al.(2020): Pre-extinction Demographic Stability and Genomic Signatures of Adaptation in the Woolly Rhinoceros. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.07.046

ワシントンDCの「黒人」と「白人」との間の平均余命の格差

 アメリカ合衆国ワシントンDCの「黒人」と「白人」との間の平均余命の格差に関する研究(Roberts et al., 2020)が公表されました。この研究は、1999~2017年の死亡数データを解析して、ワシントンDCの男性と女性の平均余命を算出し、さまざまな年齢層と3つの時期(2000年、2008年、2016年)について、「黒人」と「白人」の具体的な死因と、これらの死因が「黒人」と「白人」の間の平均余命の格差にどの程度寄与しているのか、調べました。

 この研究は、直近の観察期間(2016年)において、ワシントンDCの「黒人」男性の平均余命が「白人」男性よりも平均17.23年短く、「黒人」女性の平均余命が「白人」女性よりも12.06年短いことを明らかにしました。男性の場合、平均余命の格差をもたらす主要因は心疾患・殺人・癌・不慮の傷害(偶発的な薬物中毒など)で、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは、55~69歳の年齢層では心疾患と癌、20~29歳の年齢層では殺人でした。

 女性の場合、平均余命の格差をもたらす主要因は心疾患・癌・不慮の傷害・周産期の疾患で、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは55~69歳の年齢層では心疾患と癌、50~59歳の年齢層では不慮の傷害でした。また、アメリカ合衆国全体とは異なり、ワシントンDCでは「白人」の平均余命が増加し続け、「黒人」の平均余命が減少し始めており、平均余命の格差が近年拡大していることも明らかになりました。

 この研究は、「黒人」と「白人」の間の平均余命の格差が、おもに「黒人」居住地域に影響を及ぼす基本的な社会的・経済的原因(環境中の有害物質、高い犯罪率、質の低い学校、充分な医療サービスを利用できないことなど)に起因している可能性を示唆しています。また、この研究は、効果的な教育、雇用機会、安全な居住地域と住宅、質の高い医療を平等に得られるようにすれば、ワシントンDCにおける「黒人」と「白人」との間の健康と平均余命の格差が縮小するかもしれない、と推測します。常識的な提言と言えますが、ワシントンDCにおいて「黒人」と「白人」の格差が拡大していることを示したという点で、意義のある研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


公衆衛生:米国ワシントンDCの黒人と白人の間の平均余命の格差分析

 米国ワシントンDCの黒人と白人の平均余命には著しい格差が見られ、その主たる要因が心疾患、殺人、がんであることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Max Robertsたちの研究チームは、1999~2017年の死亡数データを解析して、ワシントンDCの男性と女性の平均余命を算出し、さまざまな年齢層と3つの時期(2000年、2008年、2016年)について、黒人と白人の具体的な死因と、これらの死因が黒人と白人の間の平均余命の格差にどの程度寄与しているのかを調べた。

 Robertsたちは、直近の観察期間(2016年)において、ワシントンDCの黒人男性の平均余命が白人男性よりも平均17.23年短く、黒人女性の平均余命が白人女性よりも12.06年短いことを明らかにした。男性の場合、平均余命の格差をもたらす主たる要因は、心疾患、殺人、がん、不慮の傷害(偶発的な薬物中毒など)であり、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは、55~69歳の年齢層では心疾患とがん、20~29歳の年齢層では殺人であった。女性の場合、平均余命の格差をもたらす主たる要因は心疾患、がん、不慮の傷害、周産期の疾患であり、平均余命の格差に最も大きく寄与していたのは55~69歳の年齢層では心疾患とがん、50~59歳の年齢層では不慮の傷害であった。また、米国全体とは異なり、ワシントンDCでは、白人の平均余命が増加し続け、黒人の平均余命が減少し始めており、平均余命の格差が近年拡大していることも分かった。

 Robertsたちは、黒人と白人の間の平均余命の格差が、主に黒人居住地域に影響を及ぼす基本的な社会的・経済的原因(環境中の有害物質、高い犯罪率、質の低い学校、十分な医療サービスを利用できないことなど)によっている可能性があると示唆している。

 また、Robertsたちは、効果的な教育、雇用機会、安全な居住地域と住宅、質の高い医療を平等に得られるようにすれば、ワシントンDCにおける黒人と白人の間の健康と平均余命の格差が縮小する可能性があると考えている。



参考文献:
Roberts M, Reither EN, and Lim S.(2020): Contributors to the black-white life expectancy gap in Washington D.C.. Scientific Reports, 10, 13416.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70046-6

マストドンのミトコンドリアゲノム

 マストドンのミトコンドリアゲノム解析結果を報告した研究(Nyakatura et al., 2020)が公表されました。人為的気候変動は生態系に大きな影響を与えており、多くの種が個体数減少もしくは絶滅を経験したか、生息範囲を変えています。過去1世紀の地球温暖化の主因は人為的ですが、大規模な気候変動に伴う環境変化は、第四紀の260万年間にさまざまな時間的規模で何度も起きました。最大の変化は過去80万年に10万年周期で起きた氷期と間氷期の繰り返しです。この周期により、北アメリカ大陸の居住可能地の約50%が定期的に氷床に覆われ、年間平均気温が10度を超える変動が起きました。この氷期と間氷期の周期は、氷期における新たな陸地の出現も含めて、北アメリカ大陸の陸上生態系に大きな変化をもたらしました。こうした大きな気候変動が古代の生物集団に及ぼす系統地理学的および集団統計学的影響を調べることで、種がこの変化にどのように対応するのか、予測するのに役立ちます。

 骨や歯といった遺骸から回収された古代DNAにより、古代の種の遺伝情報を長期間にわたって調べることが可能となりました。これにより、従来の古生物学的手法では容易に解明できない、気候変化への反応(移住や絶滅など)の微妙な理解や集団史が明らかにされてきました。北アメリカ大陸の更新世の分類群に関するほとんどの系統地理学的研究は、草原地帯もしくはステップツンドラに適応した種と、人類の到来と末期更新世の温暖化への反応に焦点を当ててきました。しかし、過去の気候変動、とくに125000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)5eのような急激に温度が上昇した時期もまた、大型動物相集団にかなりの影響を及ぼした可能性が高そうです。このような気候変動圧力は、とくに森林と混合林地環境に適応した種に当てはまるでしょう。それは、これらの生物相が温暖期にはかなり拡大し、続く氷期には置換されるか近づきにくくなるからです。

 絶滅種であるアメリカ大陸のマストドン(Mammut americanum)は、更新世の北アメリカ大陸の樹木が茂った湿地環境の象徴的な動物で、中央アメリカ大陸の亜熱帯からアラスカとユーコン準州の北極圏にかけて遺骸が発見されています。安定同位体データや歯の形態および微視的使用痕分析により、食性におけるいくつかの地域的および年代的多様性もしくは柔軟性が明らかになりましたが、たとえばC3植物であるトウヒのような木の若葉が好まれていたようです。ほとんどの長鼻目と同様に、マストドンはその生息地の保全性と多様性の維持に重要な役割を果たしました。マストドンは後期更新世にアメリカ大陸に拡散してきた現生人類(Homo sapiens)の狩猟対象とされ(関連記事)、その骨で投槍の先端が作られていました(関連記事)。

 最近の古生物学的調査では、マストドンとマンモスが周期的な氷期と間氷期の気候変動に対照的な反応を示した、と明らかになりました。アメリカ大陸中部およびベーリンジア(ベーリング陸橋)東部(現在のアラスカとユーコン準州の氷河のない地域)内のマストドンの分布パターンの分析時間的分析から、アメリカのマストドンは更新世最後の間氷期(MIS5)に一時的に高緯度へと拡大したものの、最終氷期(MIS4~2)に気候がずっと寒冷化すると、地域的に絶滅し、北アメリカ大陸ではより低緯度の温帯地域でのみ生き残った、と推測されています。これらの絶滅は氷河期の始まりにおける気候変動要因の植生変化により引き起こされた可能性が高く、対照的に、マンモスなどはステップツンドラに適応しました。しかし、この議論は検証困難です。これはとくに、マストドン化石の年代がほとんど或いは全く得られていないベーリンジア東部に当てはまり、それは放射性炭素年代測定法の限界(5万年前頃)を大きく超えているからでもあります。光刺激ルミネセンス法のような他の年代測定法は有用かもしれませんが、この問題にはまだ適用されていません。

 本論文は、アメリカ大陸のマストドンのミトコンドリアゲノムの詳細な系統地理学的分析とベイジアン分子時計を用いて、氷期と間氷期の周期に起因する拡大と絶滅のモデルを検証する代替的手法を提示します。本論文の調査結果は、アメリカ大陸のマストドンが間氷期の温暖化に対応して繰り返し北方に拡大した、と示唆します。しかし、北方クレード(単系統群)は極端に遺伝的多様性が低く、類似の拡散パターンを示す現代の種の保存に関しては、重要な考慮が必要です。


●マストドンの系統地理学

 マストドンの完全なミトコンドリアゲノムが、122頭のうち33頭で得られました。この33頭は主要な5クレードに分類されました。それは、A(アラスカ)とY(ユーコン準州)とG(五大湖)とM(メキシコ)とL(アルバータ州およびミズーリ州)です。カナダ東部ノバスコシア州の1頭(NSM092GF182.011)は、年代が74900±5000年前と推定され、暫定的にクレードGと分類されました。この標本は地理的および時間的に区別され、その深い分岐から、MIS5の間氷期ら東部沿岸のマストドンから分離した集団である可能性が高そうです。

 近隣地域のマストドンは一般的により密接に関連しており、広範な系統地理学的構造の証拠となります。この傾向は、アフリカとアジアのゾウや北アメリカ大陸のマンモスでも観察されており、長鼻目の群の母系的な性質に起因します。マストドンの母系的な群構造も、性的成熟後の雌雄の牙の成長の違いと、足跡における関係に基づいて議論されてきました。雌の長鼻目の定住もまた、クレード間の深い分岐の結果で、おそらくはマストドンで観察される深い分岐の説明となります。

 長鼻目の母系内で予測される限定的な地理的拡散にも関わらず、おもにベーリンジア東部の標本群から構成される独立の遺伝的に分岐したクレードAおよびYが識別されます。クレードYはクレードG・L・Nと近縁で、クレードAとは137万~609000年前頃に分岐しました。アルバータ州の標本群は明確に定義された5クレードのうち3クレード(L・M・Y)で見つかり、古生物学的記録だけでは推測できない、複雑な生態学的および生物地理学的歴史が強調されます。アルバータ州はローレンタイド(Laurentide)氷床とコルディレラ(Cordilleran)氷床が最も集中した場所で、更新世最後の融解において氷床の南北をつなぐ最初の融解回廊が形成されました。バイソンに関する以前の研究では、この地域も最新の氷河融解事象に応じた劇的な変化があり、氷河の後退と同時に、ベーリンジアと南方地域の両方から急速な集団拡大があった、と示されています。これらの知見が他の分類群と期間にも当てはまるのかどうか決定するには、さらなる調査が必要ですが、アルバータ州のマストドンが系統学的に分岐していることは、この地域がマストドンにとっても広大な生物学的流動性の一つだった、と示唆します。以下、マストドンの各標本の場所と、ミトコンドリアゲノムの系統樹を示した本論文の図1です。
画像


●マストドンの推定年代

 最終氷期におけるベーリンジアのアメリカマストドンの絶滅を説明するために、以前の研究では古生態学的モデルが提案されました。このモデルでは、マストドンの分布は、地域的な植生で亜寒帯林と湿地帯の混合が優占したMIS5間氷期と結びつけられました。ベーリンジアのマストドンが植生タイプにより異なると仮定すると、マストドンの拡大と絶滅の繰り返しが10万年の氷期と間氷期の周期に対応していたのかどうか、という問題が生じます。この方法で古生態学的モデルを拡張する証拠は、時間(高緯度のマストドンと既知の間氷期との相関)および生物学的(高緯度集団は環境改善による南方から北方への移動の結果として、南方集団よりも遺伝的多様性が低い)指標を含まねばなりません。

 ベーリンジア東部とアルバータ州のマストドンは、放射性炭素年代測定法により5万年以上前か分析不能とされ、層序的に位置づけられないこともあります。適用可能な直接的年代測定法がない場合、分子時計分析により高緯度標本の年代が推定されました。分子年代測定は一部の放射性もしくは地質学的年代測定法よりも正確ではない傾向にありますが、その正確性はシミュレーションおよび分子データと形態学的データにより示されてきました。本論文では、年代情報のない標本の年代を推定するため、全標本の年代を同時に推定する方法(JT)と、同時に分析する前に個々の標本の年代を推定する方法(ID)が用いられました。

 ベーリンジア東部のクレードYの推定年代は、JT では13万~98000年前、IDでは91000~74000年前で、更新世における最後の主要な温暖期であるMIS5の範囲内に収まります。個々の標本群の推定年代の95%信用区間は広いものの、確率密度はMIS5に対応する期間に集中しており、各分布のモードもMIS5の範囲内にあります。さらに、JTでは一部の標本が95%信用区間でMIS7(243000~191000年前)となりますが、IDではこれらの年代が得られません。これらの知見は、ベーリンジア東部のマストドン生息地が、古生態学的モデルで予測されたように、間氷期と一致していることを強く示唆します。

 クレードAのベーリンジア東部のマストドンは、クレードYのベーリンジアのマストドンよりずっと古い、と推定されました。クレードAの2頭の推定年代は、UAMES 11095個体が、JTでは586000年前(95%信用区間で80万~329000年前)、IDでは267000年前(95%信用区間で41万~152000年前)となり、UAMES 30197がJTでは558000年前(95%信用区間で784000~292000年前)、IDでは254000年前(95%信用区間で397000~142000年前)となります。しかし、クレードAの2頭の95%信用区間の年代はクレードYよりもずっと広く、多くの氷期と間氷期にまたがっており、特定のMISと結びつけることが困難です。それにも関わらず、クレードAの2頭の年代はともに、95%信用区間でクレードYのベーリンジア東部の個体群と重なっておらず、クレードAとYが年代的に異なることを示唆します。これらの結果は、クレードAがMIS5より前の間氷期に分離して拡散した集団の一部である、という想定と一致します。

 JTでもIDでも、クレードGの2頭は新しいと推定されています。AMNH 988はJTでは28000年前(95%信用区間で000~000年前)、IDでは17000年前(95%信用区間で71000~13000年前)、UM13909はJTでは43000年前(95%信用区間で94000~13000年前)、IDでは21000年前(95%信用区間で38000~14000年前)と推定されています。しかし、全分析で、これらの標本の事後分布年代密度は新しい値への確率質量が大きく、データセット内の最新標本の年代に基づく削除期限である、13000年前頃の下限に隣接しています。クレードGの他の個体の放射性および地質学的年代を考慮すると、これらの結果はおおむね、この2頭の予測年代と一致します。それにも関わらず、事後年代分布の形状は、これらの標本がじっさいには13000年前よりも新しい可能性を示唆します。

 アルバータ州のマストドンの年代は異なり、集団置換により特徴づけられるひじょうに動的な生物地理学的景観という解釈と一致します。しかし、アルバータ州の標本数が限られており、年代の95%信用区間が広く、系統全体ではバラバラに位置づけられるので、特定の期間との関連づけが困難であることには、注意しなければなりません。アルバータ州の個体でクレードYのRAM-P94.16.1Bは、事後分布年代の中央値がJTでは208000年前、IDでは117000年前頃と、クレードYの他の個体よりも古いものの、95%信用区間では他のクレードYの個体と重なります(JTでは311000~119000年前、IDでは163000~82000年前)。95%信用区間の幅とその重複もまた、2つの分析間と、MIS5もしくは7のどちらかとの関連で異なります。しかし、この標本が最終的にMIS7と示された場合、同じもしくは類似の集団からの連続した移住事象が示唆されます。

 アルバータ州の個体でクレードLのRAM P94.5.7は、事後分布年代の中央値がクレードAの2頭と類似していますが(JTでは474000年前、IDでは221000年前)、95%信用区間では、あらゆる特定のMISと関連づけることが困難です。しかし、クレードYおよびAのベーリンジア個体群間の分離とは異なり、クレードYのRAM P94.16.1B とクレードLのRAM P94.5.7の95%信用区間はJT の37000年前とIDの35000年前で重なっており、その分離はより不確実です。アルバータ州の個体でクレードMのRAM_P97.7.1の年代の事後分布密度はMIS5の範囲内に収まりますが、その95%信用区間はたいへん広く、JTでは467000~5万年前、IDでは763000~5万年前です。クレードAおよびLの個体群のように、このパターンは、系統学的位置づけと、データセットにおける較正点の大半からの深い分岐に起因する可能性があります。


●マストドンのクレード内の遺伝的多様性

 拡大と絶滅の繰り返しのモデルでは、マストドンの北方クレードは遺伝的多様性が低い、と予想されます。このパターンは、間氷期の気候温暖化に対応しての小さな創始者母系集団の繰り返しの拡大、および北方居住の一時的性質と一致しています。この仮説の検証のため、データセット内のヌクレオチド多様性の水準が調べられました。

 クレードYでは、時空間的に異なる可能性があるアルバータ州のRAM P94.16.1B を含めると、1ヶ所につき8.79 ×10⁻⁵もしくは1.01×10⁻⁴の置換という低水準の多様性となります。クレードAでは、これが1.2410⁻⁴となります。一方、氷床南方の個体も含むクレードGでは多様性がずっと高く、1ヶ所につき1.17×10⁻³もしくは8.09×10⁻⁴の置換となります。これは、氷河の後退に対応して少数の母系のマストドンが北方へと拡大するという予測と一致し、北方マストドンが生息する環境に関する以前の古生態学的モデルを支持します。


●まとめ

 絶滅したアメリカ大陸のマストドン33頭のミトコンドリアゲノム分析により、時空間的な遺伝的多様性解釈の枠組みが提供されました。アラスカからメキシコまで、北アメリカ大陸のほぼ全域に広がるマストドンのミトコンドリアゲノムの6クレードが特定されました。ベーリンジア東部の主要な2クレードは、この地域への異なる拡大に起源があるようです。アルバータ州の個体群は複数のクレードに分類され、アメリカ大陸のマストドンの南北間の拡散という動的性質が強調されます。また、本論文でのクレードの命名は、ミトコンドリアゲノムがさらに解析され、時空間的な空白が埋まっていけば、改訂される必要が出てくるかもしれません。これはとくにクレードMに当てはまります。クレードMは、他の系統との深い分岐を示す、合着年代の古い複数系統を表しているかもしれません。

 本論文の分析は、アメリカ大陸のマストドンが、間氷期のみにカナダやアラスカのような高緯度地帯に拡散した、というモデルを改めて支持します。間氷期には、高緯度地帯でも森林や湿地が広がりました。アラスカとユーコン準州における一時的に異なるクレードの存在は、寒冷期における地域的な絶滅と南方への分布範囲縮小に続く、推定される温暖な間氷期における拡大パターンの繰り返しの可能性が高いことを示唆します。これは、ベーリンジア東部の多くの種に影響を及ぼした地球規模の氷期と間氷期の周期に対する、大きくて恐らくは広範な生物学的反応だった、と推測されます。

 ユーラシアでも同様の過程がおそらく起きており、カバやハイエナのような温暖適応種は、間氷期に以前は氷河に覆われていた北方(たとえば、ブリテン諸島やスカンジナビア半島)へと拡大しました。しかし、このパターンはさらなる疑問を投げかけます。たとえば、以前の間氷期に北アメリカ大陸の北端部へと繰り返し拡大できた種が、21000年前頃前後の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後の間氷期に、なぜ戻れなかったのか、ということです。これらの種はすでに深刻な衰退状態だったのかもしれません。さらに重要なことに、現生種でも同様の傾向が見られるかもしれません。

 現在、北アメリカ大陸北部の多くの鳥・魚・哺乳類が、気候温暖化に対応して急速な再編を行なっています。北方森林地帯の象徴的な種であるアメリカヘラジカ(ムース)やビーバーは、過去数十年だけで北に数百kmも分布範囲を拡大しています。本論文のデータから、少なくとも一部の南部の温帯集団が北方へと拡大しており、現在の温暖湿潤環境の結果である可能性が高い、と示唆されます。しかし、拡大の最前線にいる集団は、種の現在の多様性の部分集合である可能性が高く、より遺伝的に多様な南方集団が最終的に絶滅すると、脆弱になります。更新世の大型動物相の系統地理学的歴史は、現生種の生態学的反応の理解に有益な事例として役立つことができ、人為的な環境影響の結果についての検証可能な仮説を提示できます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:間氷期に生息域を北方に拡大させていたアメリカマストドン

 絶滅種のアメリカマストドン35頭のミトコンドリアゲノムの解析から、アメリカマストドンが、更新世(250万年~1万1700年前)の間氷期の温暖化に対応して北米の北方緯度域に向かって繰り返し移動していたことを示した論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この知見は、研究者たちが現生種の地球温暖化に対する生態学的応答の可能性を解明する上で役立つかもしれない。

 アメリカマストドン(Mammut americanum)は、かつて北米の森林地帯や低湿地に生息しており、その遺骸が、中米の亜熱帯から米国アラスカ州やカナダ・ユーコン州の北極緯度域にかけて発見されている。過去80万年間の氷期と間氷期のサイクルのために、北米の居住可能な土地の約50%で氷床が周期的に拡大した。しかし、マストドンがこうした変動にどのように応答したのかは不明だ。

 今回、Emil Karpinskiたちの研究チームは、北米の博物施設から入手したアメリカマストドンの骨と歯の化石の試料を調べて、33点の標本の完全なミトコンドリアゲノムの塩基配列を解読した(解析にはこれ以外に、すでに公表されている2件のゲノムも含まれる)。その結果、5つの異なる分類群(クレード)のマストドンが特定され、そのうちの2種は、ベーリンジア(かつてロシアと米国の間に存在した地域)東部を起源としていた。Karpinskiたちは、ベーリンジア東部に生息していたこれらの分類群の標本の年代に重複のないことを確認し、2つのクレードが別々の時期にベーリンジア東部に生息域を拡大させた可能性が高いと考えている。こうした拡大のあった時期は、温暖な気候条件によって森林や湿地が形成された間氷期と一致していた。

 また、Karpinskiたちは、この北方のクレードの遺伝的多様性のレベルが、大陸氷床の南側で生息していた分類群より低かったことを明らかにした上で、現代の気候変動によって、生物種の一部が、同じように生息域を北方に拡大させている可能性が高いと主張している。こうした生物種は、南方で生息する遺伝的多様性の高い集団がいなくなることで、脆弱な状態に陥る可能性がある。



参考文献:
Karpinski E. et al.(2020): American mastodon mitochondrial genomes suggest multiple dispersal events in response to Pleistocene climate oscillations. Nature Communications, 11, 4048.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17893-z

ヨーロッパの人類集団における乳糖分解酵素活性持続の選択

 ヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)集団におけるラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)の選択に関する研究(Burger et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、LPがヨーロッパにおいてどのように選択されてきたのか、検証します。一般的に哺乳類の成体は乳を消化しませんが、LPでは成人期におけるラクターゼの持続的発現を可能とし、複数の人類集団における過去1万年の最も強い選択された単一遺伝子特性と考えられています。ユーラシア人においてLPをもたらす主要なアレル(対立遺伝子)であるrs4988235-Aは、人類が家畜からの乳を消費し始めたずっと後の、青銅器時代と鉄器時代にやっとかなり頻度上昇した、と仮定されてきました。この急速な上昇は、5000年前頃に始まった、ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの人々の流入が原因である、とされてきました。


●トレンゼ遺跡個体群

 本論文は、ドイツのトレンゼ(Tollense)河畔の3200年前頃となる戦地遺跡で発見された戦士と考えられる14人の遺伝的データを分析しました。トレンゼ遺跡は青銅器時代の戦いに関して最も重要であり、約4000人の戦士たちが加わり、その1/4は戦死した、と推定されています。トレンゼ遺跡の個体群の遺伝的データで分析対象となったのは、500万塩基対に及ぶ推定上の中立領域および487の表現型と関連している遺伝子座で、それらの表現型とは、代謝症候群や成人ラクターゼ(乳糖分解酵素)持続性(LP)や非感染性および感染性疾患や目・肌・神の色素沈着です。この14人では近親者は検出されず、このうち2人は女性です。本論文は、おもにLPに関して検証します。

 トレンゼ遺跡の14人は、主成分分析では、ヨーロッパ中央部および北部の個体群の多様性の範囲内に収まり、遺伝的構造がわずかしか、あるいは全くないと示唆されます。その他の検定からも、トレンゼ遺跡個体群は、単一の構造化されていない集団の標本と考えられます。トレンゼ遺跡個体群の系統は、遺伝的にはヨーロッパ中央部および北部と示唆されます。考古学的知見では、トレンゼ遺跡個体群の一部の戦士はヨーロッパ中央部南方、つまりドイツ南部東方とボヘミア出身と示唆されています。炭素とストロンチウムの同位体比からは、地元出身者と外来者との混合が示唆されています。トレンゼ遺跡個体群はこれらの知見から、同じ広範な地域に住んでいた高度な継続性を有する比較的均質な集団だった可能性があります。


●中世以前の主要なアレル頻度増加

 LP頻度を時空間的に比較するため、1遺跡につき5人以上の新石器時代後のさまざまな古代の集団標本を対象に、rs4988235-Aアレル頻度が推定されました。その結果、トレンゼ遺跡では7.1%、セルビアの青銅器時代のモクリン(Mokrin)遺跡では4.6%と推定されました。ただ、モクリン遺跡の個体群には近親関係にある者もいます。これらの推定値は、他のヨーロッパ青銅器時代集団とさほど変わりません。青銅器時代のヨーロッパでrs4988235-Aアレル頻度が最も高いのは、トレンゼ遺跡より数世紀新しいドイツのリヒテンシュタイン洞窟(Lichtenstein Cave)集団の29.4%です。

 もっと時代が下ると、顕著に高いrs4988235-Aアレル頻度が観察されており、青銅器時代との期間における強い選択が示唆されます。たとえば、ラトビアの2730~2560年前頃の個体群と、ドイツ南西部の中世となる1500年前頃の個体群では約57%で、遺伝的にはヨーロッパ北部系統の影響が強いハンガリーの中世前期の個体群(関連記事)では73%です。これらの推定値は、rs4988235-Aアレルがヨーロッパのさまざまな地域で青銅器時代の初期には検出可能な頻度に達していたものの、鉄器時代やその後の集団で観察される頻度には達していなかった、と示唆します。そのようなパターンは、rs4988235-Aアレルの選択が新石器時代に始まったことと一致しますが、とくに青銅器時代後の継続的な強い選択を示唆します。


●新石器時代後の継続的で強力な選択

 130世代にわたるアレル頻度の変化と、補完的な手法を用いて、青銅器時代以降のrs4988235-Aアレルの選択強度が定量化されました。その結果、rs4988235-Aとrs7570971-Cで、強い正の選択が特定されました。rs7570971-Cはほぼ排他的にrs4988235-Aと同じハプロタイプで見られ、血清コレステロール減少で役割を果たす、と推測されています。LPにおける機能的役割の説得的な証拠は、選択がrs7570971-C よりもむしろrs4988235-Aアレルにおいて作用している、と強く示唆します。

 3000年以内に、これらのアレルの標本数はそれぞれ、2/26から144/192、2/28から134/190へと増加しました。優性であることを考慮しても、選択係数は、rs7570971-Cが5%、rs4988235-Aが6%と推定されます。本論文で報告された青銅器時代のrs4988235-Aアレルアレル頻度の低さと一致して、これらの選択係数推定値は、最近の現代人データ(1.6%)と古代人データ(1.8%)に基づくものよりもやや高くなっています。


●LPの主因ではないヨーロッパ東部草原地帯集団

 rs4988235-Aアレルの拡大は、前期青銅器時代のポントス・カスピ海草原からの人類集団の拡散が原因だった、と考えられてきました。たとえば、青銅器時代のヨーロッパにおけるrs4988235-Aアレルの頻度が低い(5%)と報告し、LPが草原地帯起源である可能性を指摘した研究です(関連記事)。本論文は、現代の参照個体群を用いて古代の標本群におけるアレルの存在の起因とすることは、強い選択の地域では問題になる可能性があるため、ヨーロッパ東部と草原地帯の銅器時代および前期青銅器時代標本群においてPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)でrs4988235遺伝子座の遺伝子型を決定することにより、この仮説を検証しました。

 標本抽出された個体群の大半の年代は、紀元前四千年紀の終わりから紀元前二千年紀の始まりまでとなります。これら37標本でrs4988235-Aアレルが検出できなかったので、その頻度はひじょうに低いかゼロに近く、地理的・文化的・時間的に多様な「草原地帯系統」を有する標本で以前に報告された5.4%よりもほぼ確実に低い、と示唆されました。さらに、ヨーロッパ東部草原地帯の既知のデータ(5600~4300年前頃)と、ヨーロッパ中央部および北東部の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)のデータ(4900~4300年前頃)も分析され、それぞれrs4988235-Aアレルが0%および1.8%と推定されました。これらの推定値は、rs4988235-Aアレルの起源について直接的情報を提供するわけではありませんが、青銅器時代後のヨーロッパで観察された高頻度を、草原地帯関連系統の拡大におもに帰する仮説とは一致していないようです。


●選択の時間推移

 LPの遺伝的基盤となるrs4988235-Aアレルは、ユーラシア西部の広範な地域でひじょうに強い自然選択を受けてきましたが、選択の動因と時空間的な分布および人口統計学的過程に関しては、かなりの不確実性が残ります。選択の動因を考察するには、rs4988235-Aアレルの起源年代とLPに関する選択の時期(過去のある時点から一定なのか、あるいは一時的なのか)、および古代DNAデータにおける最初の観察が別で、おそらくは何千年も離れていることを認識することが重要です。

 連鎖不平衡の研究では、過去2万年、おそらくは完新世における起源が示唆されています。陶器に付着した脂肪酸分析からの乳消費の証拠と屠殺の証拠は、アナトリア半島とレヴァントとヨーロッパ南東部において前期新石器時代にまでさかのぼります。しかし、LPへの強い自然選択が前期新石器時代から作用していたとしても、S字型のアレル頻度曲線と、数千年にわたるひじょうに低くほとんど検出できない頻度が予想されます。したがって、その後の青銅器時代までの低頻度は、乳が重要な食性構成になった時かその直後に始まるLPの選択と必ずしも一致しません。

 そこで、新規ベイズ法を使用し、rs4988235-Aアレルの年代が推定されました。この推定年代は、優性係数(h)と同様に、変異の年代と青銅器時代との間の未知の有効人口規模に大きく依存します。rs4988235-Aアレルの起源年代は、h=1では、有効人口規模が100人では3550年前頃、10万人では7140年前頃となり、h=0.5では、それよりも20%ほど古くなります。トレンゼ遺跡標本群の低頻度と一致して、これらの推定年代は、以前の推定の下限に近いか、現代人のデータからの最近の推定よりも新しくなります。しかし、そうした推定はすべて、人口史・選択強度・選択されたアレルの起源に関して強い仮定に基づいていることに注意しなければなりません。

 これらの知見から、青銅器時代は、rs4988235-Aアレルが適度な規模の古代DNA標本群で検出されるのに充分なほど一般的になった重要な中間点を表している、と言えそうです。青銅器時代のデータは、その後の選択を定量化するための出発点として役立ちます。トレンゼ遺跡の標本は、短期間、おそらくは同日の戦闘で死んだ可能性が最も高い個体群から構成されており、定量化の出発点として適しています。3200年前頃のトレンゼ遺跡と現代との間の6%という推定選択係数は高く、とくに、新石器時代には乳消費の代替食料も生産されていたので、農業技術の発展と食性範囲の増加を考慮すると、そう言えます。


●選択の動因

 LPへの強い選択に関しては、乳が栄養豊富で比較的栄養バランスのとれた食品というだけではなく、さまざまな説明が提案されてきました。たとえば、高緯度でのビタミンD摂取によるカルシウム吸収の改善とか、比較的雑菌に汚染されていない水分の補給とか、パラアミノ安息香酸消費の減少によるマラリア症状の抑制とか、微生物叢を再形成するガラクトースやガラクトオリゴ糖による腸の健康改善とか、飢餓状態での下痢の回避とか、酪農のカロリー生産の経済的効率の向上とかです。これらの要因のどれか一つが、新石器時代から現代までの全期間で単独で作用してきた可能性は低そうです。

 しかし、青銅器時代から少なくとも中世まで継続しておそらくは増加してきた選択係数の推論は、病原体負荷に関するものなど、集団と定住密度の増加と関連する選好として解釈できます。この文脈で興味深いのは、本論文で調べられた400以上の機能的遺伝子座の中で、選択の観点から唯一有意性を示した他のアレルが、病原体パターン認識と自然免疫反応と関連するToll様受容体遺伝子複合体(TLR6)における、rs5743810のアレルであることです。明示的検証は困難ですが、rs4988235-Aアレルの選択は、おそらくは乳消費における流行病抵抗性と関連した多面的ネットワークを通じて、他の遺伝的要因により調節された可能性が高そうです。


●人口統計学と選択

 強い自然選択の他に、移住や集団の範囲拡大のような人口統計学的過程が、rs4988235-Aアレルの分布を形成したでしょう。ヨーロッパにおけるrs4988235-Aアレルの北西部の分布が、これらの過程の主要な結果なのか、あるいは、たとえば乳消費の異なる伝統や異なる気候と生態や紫外線量の違いにより形成された、空間的に構造化された選択強度なのか、不明確です。しかし、注目すべきは、本論文で標本抽出されたトレンゼ遺跡集団と同地域の現代人集団との間で、遺伝的置換がほとんどないのに、高い選択係数が推定されていることです。同じことはセルビアのモクリン遺跡にも当てはまり、同様に主要な集団変化はなさそうですが、過去数千年にわたる観察されたアレル頻度変化で説明されるように、自然選択が起きました。


●まとめ

 中世前期と現代とでは、さまざまな場所でrs4988235-Aアレルの推定頻度はやや類似しており、この期間の継続的選択の可能性は除外されません。それは、これが優性アレルで予想されるS字型頻度曲線の移行段階を表しているからです。LPの場合、最も急激な頻度上昇は紀元前4000~紀元前1500年前頃の間に起きた可能性が高いようです。本論文は、完新世のユーラシア西部と世界の他の多くの地域で最も強く選択された単一の遺伝子形質の進化史をよりよく理解するには、今後の研究がこの段階に焦点を当てるべきである、と主張します。


参考文献:
Burger J. et al.(2020): Low Prevalence of Lactase Persistence in Bronze Age Europe Indicates Ongoing Strong Selection over the Last 3,000 Years. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.08.033

大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」

 将軍の足利義輝に、織田信長を上洛させて義輝を支援させる、と約束した明智光秀(十兵衛)は、尾張に向かいます。しかし、信長は美濃の斎藤家相手に苦戦しており、とても上洛する余裕はありません。光秀に対応したのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)で、光秀は藤吉郎から、義輝暗殺計画があり、その黒幕が松永久秀と聞かされます。光秀は直ちに大和に向かい、多門山城にいる久秀に真意を問い質します。久秀は光秀に、義輝を支持するために上洛する大名たちもいないように、義輝は将軍の器ではなく、世が治まらないので、殺しはないが追放するつもりだ、と答えます。しかし、久秀の息子の久通などは義輝を殺害しようと考えています。久秀は光秀に、息子たちの計画を止める力は自分にはないが、息子には義輝を討つなと言っている、と伝えます。細川藤孝もこの場に呼ばれており、もう次の将軍を探していることを打ち明けます。光秀は義輝と謁見しますが、自分を支持する大名もいないことから、義輝はすっかり無気力になっており、光秀に越前に帰るよう、促します。

 今回は、近臣からも見放されている義輝の孤独が描かれました。義輝殺害の背景も描かれているところは大河ドラマらしくなっており、よいと思います。ただ、今回は駒の話が長く、やや冗長なところもあったかな、とは思います。もっとも、駒と覚慶(足利義昭)とのつながりが今後の展開で重要な役割を担うかもしれず、現時点で否定的に評価するのは時期尚早かもしれませんが。松永久秀は義輝殺害の首謀者の一人と言われてきましたが、最近の研究では否定的なようです(関連記事)。こうしたところも最近の研究動向が踏まえられているようで、よく調べられているな、と感心します。

守屋純『独ソ開戦の真実 『ジューコフ回顧録』完全版が明かす』

 パンダ・パブリッシングより2017年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約から、1941年6月22日に始まった独ソ戦までのスターリンの思考・決断を、『ジューコフ回顧録』をしばしば引用しつつ検証します。独ソ不可侵条約のドイツ側というかヒトラーの意図は、ポーランドへの侵攻にさいしての背後の抑えでした。一方、スターリンの意図は、第一次世界大戦後に失われた旧ロシア領の回復だった、と本書は推測します。本書は独ソ不可侵条約に関して、スターリンとヒトラーの両独裁者は目先の利益に目が眩んだ、と評価します。

 ドイツは独ソ不可侵条約締結後すぐの1939年9月1日、ポーランドへの侵攻を開始します。当初、スターリンは様子見するつもりだったようです。下手にソ連もポーランドへ侵攻すると、イギリスとフランスを敵に回すことになりますし、ドイツとイギリス・フランスの戦いが長期化すれば、ソ連にとって有利な状況になる、との判断がありました。しかしスターリンは、予想以上にドイツ軍の進撃が順調だったため、ポーランドへの侵攻を決意し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されてしまいます。

 ポーランドは短期間でドイツとソ連に分割占領されますが、ドイツのポーランド侵攻に伴いドイツに宣戦布告したイギリスとフランスは、ドイツに対して直接的な軍事行動に出るわけではなく、「奇妙な戦争」が続きます。この状況でスターリンは、フィンランドへの侵攻を決断します。本書は、スターリンがフィンランド全土の併合を企図していた、と推測します。スターリンがフィンランドへの侵攻を決断したのは、ドイツとイギリス・フランスがいつ講和するか分からないので、邪魔が入らないだろう戦争状態のうちに領土を拡大しようと考えたためでした。

 ところが、対フィンランド戦でソ連はスターリンも含めて当時の指導層の予想外に苦戦し、スターリンは真剣に赤軍の再建に取り組む必要に追い込まれます。対フィンランド戦での検討会にはスターリンも出席し、軍人と議論することさえありました。戦訓検討会での論点は多岐にわたりますが、装備とともに赤軍の欠陥として明らかになったのは、参謀と諜報の軽視でした。これは、スターリン自身が参謀と諜報の役割をよく理解していなかったこともありますが、将校大粛清の影響も大きく、スターリンも大粛清の失敗を内心では認めていただろう、と本書は推測します。この後、粛清された将校が一部復帰しますが、スターリンが大きな期待を寄せたのは、陸軍大学を出たばかりの若い将校でした。また本書は、対フィンランド戦の後も、スターリンが軍事的能力を無視して自分への忠誠心の強い人物を重用したことも指摘します。

 1940年春から初夏にかけて、ドイツは西方戦線で多くの人の予想をはるかに上回っただろう戦果を挙げます。ドイツはオランダとベルギーばかりかフランスも屈服させましたが、この間、スターリンはルーマニアのベッサラビアとバルト三国の併合に動きます。ドイツが西方に注力している隙をついての行動で、スターリンの意図としては、これらの地域は独ソ不可侵条約付属秘密議定書で認められていたソ連の勢力圏なので、問題はありませんでした。しかし、東方を手薄にしていたヒトラーにとって、これはソ連の脅威を実感させるのに充分な行為だっただろう、と本書は推測します。

 ヒトラーは、イギリスが講和に応じないのはソ連が健在だからと考えて、ソ連との戦いを本格的に検討するよう命ずるとともに、部隊を東方へと移動させ、軍用道路など軍事施設の整備を急がせます。ヒトラーは、1941年11月のベルリンでのソ連外相モロトフとの会談後、最終的に対ソ連戦を決断したようです。ドイツ軍が西方に注力している間にソ連が東方で勢力を拡大したことへの不信感もヒトラーにはあったでしょうが、根底にはヒトラーだけではなくドイツ軍首脳部に共有されていた赤軍への過小評価があり、モロトフとの交渉を経て、ソ連に妥協するくらいならば軍事行動でソ連を圧倒すればよいし、それは容易だ、と考えたのでしょう。

 ドイツが1941年中の対ソ連戦を決断した、との情報が1940年末~1941年初頭にかけて、スターリンにも多数報告されていました。しかし、スターリンは、情報機関からの報告もあり、これがソ連を対ドイツ戦に引き込もうとするイギリスの謀略との見解に傾いていました。これは一つには、対フィンランド戦で露呈した赤軍の弱点がまだ克服されておらず、1941年1月の兵棋演習の結果でも示されたように、戦備が整っていないので対ドイツ戦を先延ばしにしたい、とのスターリンの希望的観測もあったでしょう。また本書は、戦間期にはソ連とドイツの国境は接しておらず、とくに独ソ不可侵条約締結以前には、スターリンには確たる対ドイツ戦略がなかったのではないか、と指摘します。スターリンの側に、対ドイツ戦略をじっくり検討する時間が足りなかった、と言えるかもしれません。

 また本書の指摘で重要になるのは、猜疑心の強いスターリンが複数の情報網を構築して自分一人に直結させたことです。スターリンは軍部にも重要な情報を提供しないことがありました。スターリンは一人では的確に処理できないだけの膨大な情報を抱えてしまった、というわけです。また、ドイツの対ソ連戦決断を伝えた多くの情報でも、ドイツが対ソ連戦と対イギリス戦のどちらを優先するのか、不明としたものは少なくありませんでした。じっさい、アフリカ北部と地中海東部でのドイツ軍の行動からは、ドイツが対イギリス戦を優先している、とも解釈できました。

 これらの事情もありますが、スターリンがドイツの1941年中の対ソ連戦決断に確信を持てなかった大きな理由として、東方への多数の部隊の移動や軍事施設整備などドイツ軍の行動があまりにも露骨で、ドイツからの情報が安易に漏れてきたことを、本書は指摘します。スターリンはこれを「深読み」し、ドイツがソ連から譲歩を得るために軍事的圧力をかけていると解釈したのではないか、と本書は推測します。じっさいは、戦後に明らかになりましたが、ドイツの対ソ連戦の機密保持がお粗末なだけで、スターリンにもたらされた情報はおおむね正確でした。また、スターリンはドイツが資源(食糧・石炭・石油など)を重視していると判断し(この判断自体は間違いではありませんでしたが)、ドイツ軍は南方に重点的に部隊を配備するだろう、と予測しました。しかし、じっさいにはドイツ軍の部隊配備は北方重視でした。実は、赤軍参謀本部の当初案はドイツ軍の作戦計画をかなり正確に予測できていましたが、スターリンの判断により修正させられました。

 結局のところスターリンは、ドイツが対ソ連戦を決断し、ドイツ軍部隊がソ連との国境線に集結しつつあるとの情報を多数得ても開戦直前まで、ドイツ軍の侵攻を遅らせられるか回避できると考え、ドイツ軍の挑発に応じないよう、厳命しました。これが、緒戦での赤軍の大損害の要因となりました。また上述のように、赤軍はスターリンの判断により、当初案を変更して南方重視の部隊配置としましたが、ドイツ軍は赤軍参謀本部の当初の予想通り北方重視の配置だったので、これも緒戦での赤軍の被害を拡大させました。

 本書はスターリンが開戦直前までこうした判断を変えなかった理由として、上述のドイツ軍のあからさまな行動を「深読み」したことなどの他に、1941年5月にヒトラーからスターリンに宛てられた秘密書簡を挙げています。この秘密書簡を疑う見解も根強いようですが、本書は実在説寄りです。この秘密書簡でヒトラーはスターリンに、ソ連侵攻の意図はないことと、軍上層部にはイギリスとの和平と対ソ連戦を考えている者がいる、と伝えました。そこでスターリンは、ドイツ軍を挑発して開戦の口実を与えないよう、厳命した、というわけです。

 開戦直後のスターリンはさすがに茫然自失だったようですが、数時間後には立ち直ったようです。しかし、スターリンは直ちにドイツとの厳しい長期戦を覚悟したのではなく、駐ソ連ブルガリア大使を通じて、ドイツとの講和を模索していたようです。スターリンは広大な領土の割譲を考えており、これは降伏に近いものでした。第一次世界大戦の時の、ボルシェビキ政権とドイツとの講和(ブレスト=リトフスク条約)が、スターリンの念頭にはあったようです。それでも、1941年6月末までには、スターリンはドイツと戦い続ける決断をしたようです。ただ、その後もスターリンは、ソ連が圧倒的な優位を確立するまでは、ドイツとの講和も念頭に置いていたようです。

 本書からは、スターリンが独ソ戦の開始までに錯誤を重ねた、と了解されます。もちろん、どれほど優秀な人物であろうとも時として判断の過ちは避けられませんが、スターリンの根本的な問題は、独裁体制を構築し、その維持のため情報収集を独裁者たる自分に一元化しようとしたことにあるように思います。いかに優秀な人物でも、近代国家において単独で的確に判断可能な量を上回る情報が、スターリンに集中することになりました。さらに、独裁体制下でスターリンへの忖度が当然のように行なわれていたことも、スターリンの判断を誤らせたように思います。当時よりもさらに複雑となった現代世界において、もうスターリンのような独裁者はよほどの小国でなければ難しそうですが、あるいは人工知能の発展は、そうした独裁者の存在を可能とするのでしょうか。

 スターリンは、多大な犠牲を強いてソ連の工業化と集権化・一元化を進め、それが独ソ戦での勝利を可能としました。その意味で、スターリンの功績は大きいとも言えますが、そのための犠牲はあまりにも大きく、さらに自身の判断の誤りにより、独ソ戦では多大な損害を出してしまいました。しかも、開戦当初にドイツ軍に圧倒された(これも、上述のように、ドイツ軍の重点を読み間違え、ドイツ軍の「挑発」に乗るな、と厳命したスターリンの責任が大きいわけですが)西部方面軍司令官パブロフを処刑して、敗戦責任を取らせました。

 その後のソ連の政権は、独ソ戦での被害を引きずり、けっきょくはそれを充分には克服できず、崩壊の遠因になった、とも言えそうです。本書は、ソ連が史実以上の防御体制でドイツ軍を迎撃できる可能性は低くなかった、と指摘します。ただそれでも、実戦経験の差からも、緒戦では赤軍がドイツ軍に圧倒されただろう、と本書は推測します。しかし、史実以上に赤軍がドイツ軍に抵抗できた可能性は高く、独ソ戦が史実とは違った展開をたどった可能性も本書は指摘します。本書は独ソ不可侵条約から独ソ戦までのスターリンの思考・決断を丁寧に検証しており、たいへん興味深く読み進められました。

氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増

 氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増に関する研究(Nehrbass-Ahles et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究は、EPICA(ヨーロッパ南極氷床コア計画)のドームC南極氷床コアから得た大気中二酸化炭素濃度の新しい記録を用いて、これらの急激な二酸化炭素放出は地球の気候‐炭素結合システムでは一般的な現象で、大西洋南北熱塩循環(AMOC)の強さの変動におそらく関係している、と示しました。

 この結果は、地球温暖化により大西洋の循環に同じような影響が及べば、今後も同じように大気中二酸化炭素が急増する可能性を示唆しています。寒冷な最終氷期に百年単位で二酸化炭素が大気中に勢いよく放出されたことは、明らかになっています。こうした二酸化炭素急増は、これまでの間氷期の温暖な気候条件では起こらなかった、と考えられていますが、それを調査するのに必要な大気中の二酸化炭素変動についての千年未満単位の記録は、過去約6万年分しか存在せず、最終氷期以前には及びません。

 この研究は、古代の南極氷床に閉じ込められていた45万~33万年前頃の高解像度二酸化炭素記録を提示し、寒冷な気候の時期も温暖な気候の時期も顕著な二酸化炭素放出があったことを明らかにした。この研究は、こうした放出事象は自然な炭素循環の一般的特徴であるものの、時間分解能と精密度が不充分な二酸化炭素記録では検知されなかった可能性がある、と指摘しています。さらに、このパルス的放出事象が、氷床融解によるAMOCの崩壊に関係していることも指摘されています。人為的な気候変動による同様の氷床融解がAMOC崩壊を引き起こせば、今後も大気中二酸化炭素は急増する可能性がある、とこの研究は指摘します。こうした二酸化炭素の急増は、人類の活動にも大きな影響を及ぼしたと考えられるので、人類進化史の観点からも注目されます。


参考文献:
Nehrbass-Ahles C. et al.(2020): Abrupt CO2 release to the atmosphere under glacial and early interglacial climate conditions. Science, 369, 6506, 1000–1005.
https://doi.org/10.1126/science.aay8178

『卑弥呼』第46話「現在と未来」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年9月20日号掲載分の感想です。前回は、イサオ王を毒殺した鞠智彦(ククチヒコ)が、イサオ王の遺体を前に、自分が新たな暈(クマ)の王である、と言い放つところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の楼観で日見子(ヒミコ)たるヤノハが側近たちに、九州の諸国へ和議と同盟締結のための使者となるよう、指示する場面から始まります。その文面は木簡に書かれていますが、弥生時代の木簡はまだ出土しておらず、現時点で最古の木簡は7世紀のものだと思います。イクメは末盧(マツロ)、ミマアキは伊都(イト)、ヌカデは那(ナ)、クラトは穂波(ホミ)、テヅチ将軍は都萬(トマ)に使者として派遣されることになります。何か言いたそうだな、とヤノハに問われたミマアキは、和議は暈(クマ)への脅威を回避できる現在の安心ではあるものの、同盟を結ぶにはこれだけでは不充分だと指摘します。ではどうすればよいのか、とヤノハに問われたミマアキは、5ヶ国それぞれに未来を送るべきだ、と答えます。未来とは何か、ヤノハに問われたミマアキは、5ヶ国それぞれに恩恵や利益をもたらすという夢だ、と答えます。するとヤノハは、やはりミマアキは昼の王になるべき男だ、と感心したように言います。

 末盧では、イクメがミルカシ女王と面会していました。ミルカシ王は、海岸から見える島がイカツ王の伊岐(イキ、現在の壱岐でしょう)の国で、その先にはアビル王の津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)の国がある、とイクメに説明します。そこから大海を渡れば韓(カラ、朝鮮半島)ですね、と言うイクメに対して、末盧は草むした小国ではあるものの、倭の中では漢に最も近く、小国故に山社との和議を喜んで受ける、と笑顔で言います。するとイクメは、日見子(ヤノハ)からの提案をミルカシ王に伝えます。それは、韓より来る船団すべては今後、末盧に一旦停泊するよう配慮する、というものでした。なぜ伊都や那ではなく小国の末盧にそんな利益があるのか、驚くミルカシ王に、末盧にも未来が必要だ、とイクメは力説します。

 伊都では、ミマアキがイトデ王と面会していました。暈のイサオ王が没したという噂が流れているが、山社の女王(ヤノハ)はなかなかの強運の持ち主だな、とイトデ王はミマアキに語り掛けます。ミマアキが、伊都との和議が成立しなければ元も子もない、と言うと、暈の王が鞠智彦(ククチヒコ)となれば、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の戦乱はさらに激しさを増す、と考えたイトデ王は、山社との和議を決断します。するとミマアキは、韓からの船すべてが末盧に停泊することを認めていただきたい、とイトデ王に要請します。那との長い戦いの末にやっと手に入れた利権を手放すことにイトデ王は反発しますが、その代わりにイトデ王には一大率(イチダイソツ)に就いていただきたい、とミマアキは提案します。これは、倭の国々はもちろん、韓からの積み荷すべてを見聞する役目で、そのような大役を自国に任されることにイトデ王は驚きます。

 那では、トメ将軍と面識のあるヌカデが、トメ将軍とともにウツヒオ王と面会していました。ウツヒオ王は和議を快諾します。日見子(ヤノハ)殿のことだから、何か特別な話があるのではないか、とトメ将軍に問われたヌカデは、大陸からの全ての船を一旦末盧に停泊させることと、伊都のイトデ王を倭の一大率に任命することを認めてもらいたい、と要請します。では那国には何をくれるのか、とトメ将軍に問われたヌカデは、倭を代表して唯一遣漢使を送ることのできる国とする、と提案します。大陸に行って漢(後漢)の進んだ文明を一目見たい、と考えているトメ将軍が喜び、イトデ王に判断を伺うと、漢への使者派遣は那の昔からの夢だと言って快諾します。

 穂波では、クラトがヲカ王と面会していました。ヲカ王は、暈のイサオ王は病死したと伝えられているが、鞠智彦の謀反だろう、とクラトに伝えます。穂波と暈の和議は、元来イサオ王と自分との間に交わされた個人的なものなので、山社との和議を受け入れない理由はない、とクラトに言います。しかし、暈との絶縁は穂波にとって存亡の危機になる、とヲカ王は言います。これは交易利権のことで、那と交戦中の暈は韓との通商の未知を閉ざされているので、鉄(カネ)を含む韓からの品々は全て、穂波がまとめて購入し、それに利ざやを載せて暈に売っている、というわけです。そこでクラトは、ヤノハからの提案をヲカ王に伝えます。それは、暈に代わって韓より山社への品々も全て穂波を経由させる、というものでした。するとヲカ王は、不審に思います。韓の船は伊都か那か末盧に到着するので、山社へは暈の領土を避けつつ南下するのが最短経路ではないか、というわけです。するとクラトは、山社は倭国の聖地なので、遠方にあるべきだ、と説明します。つまり、韓よりの使者は末盧から伊都と那を通過し、穂波に向かわせ、そこから河を下って内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)に出て都萬へ向かう、というわけです。するとヲカ王は、見事な着想だ、と感心します。

 都萬では、テヅチ将軍がタケツヌ王と面会していました。韓からの通称施設の最後の停泊地を都萬とする、というヤノハからの提案に、なぜそれほど自分を評価するのか、とタケツヌ王は戸惑っていました。するとテヅチ将軍は、タケツヌ王が何より義を重んずる人と日見子(ヤノハ)様は考えているからだ、と説明します。タケツヌ王は山社からの申し出を受け入れます。テヅチ将軍から、日見子に好意的なウツヒオ王に反旗を翻して那より亡命したウラ殿が都萬にいると聞いている、と指摘されたタケツヌ王は、まさか客人を差し出せとは言わないだろうな、とテヅチ将軍に確認します。テヅチ将軍はそれを否定しつつも、ウラ殿が何も起こさないよう、注意してもらいたい、と要請し、タケツヌ王もしぶしぶ認めます。

 穂波でヲカ王との面会を終えたクラトは、穂波の重臣であるトモと船上で面会していました。日見子誅殺失敗の言い訳に来たのか、とトモに問われたクラトは否定し、たとえトモ様が古の五支族の頭だろうと、聞けないものは聞けないと伝えに来たのだ、と答えます。その理由を問われたクラトは、日見子(ヤノハ)様が日向(ヒムカ)を山社に併合したのはサヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の血族とのことだからだ、と答えます。トモは、その話が本当だと思うのか、とクラトに問い質しますが、クラトは沈黙します。その様子を見て、クラトにも確証はないと判断したトモは、自分が旅より戻るのを待つよう、伝えます。トモは数日後、日下(ヒノモト)に向かい、サヌ王の末裔に指示を仰ぐつもりでした。するとクラトは、問題は日見子様ではない、とトモに言います。サヌ王が恐れたのは新しい日見子ではなく、政治を司る昼の王の出現なので、その逸材を今のうちに処理しておかねばならない、とクラトはトモに説明します。クラトが苦しげな表情を浮かべていることをトモは不審に思い、昼の王になるべき男は、自分の最愛の友(ミマアキ)なのだ、とクラトは説明します。自分の手で友を殺せない、と打ち明けるクラトは、明日ヲカ王からの献上品をいただいて帰路に着く、とトモに説明します。その荷を運ぶ奴婢の中に友を暗殺する凶手を紛れ込ませろということか、というトモからの問いかけをクラトが肯定するところで、今回は終了です。


 今回は、山社と九州の諸国との交渉が描かれました。『三国志』の記述を取り入れた、山社から各国への提案は上手く設定されているように思います。問題となるのは、まず、クラト以外の山社指導層が、ヤノハ暗殺計画の首謀者と考えているウラの存在です。ウラは那から亡命して現在都萬にいますが、ヤノハとしては、ウラを消したいところでしょう。しかし、タケツヌ王は義理堅い人物のようで、自分を頼って亡命してきたウラを見放したくない、と考えているようです。ウラはヤノハを日見子と認めることにもトメ将軍にも否定的ですから、那と山社が同盟を結び、トメ将軍が遣漢使を率いるような事態は何としても避けたいでしょうから、色々と画策するかもしれません。ウラが、山社と都萬の間の不穏要因になるかもしれません。

 次に問題となるのは、クラトがミマアキを殺そうとしていることです。クラトが恋仲のミマアキ殺害の決断をくだせるのか、注目していましたが、クラトはトモに殺害を依頼しました。これが血族と恋仲との間で苦悩したクラトの選択でしたが、『三国志』から、当分ミマアキは死なないと考えられるので、おそらくこのミマアキ殺害計画は失敗するのでしょう。そうすると、山社と穂波の関係がどうなるのかも気になりますが、クラトの運命も注目されます。あるいは、クラトの信念を変えるような説得が、ミマアキもしくはヤノハにより行なわれるのでしょうか。トモが日下に向かってサヌ王の末裔と面会して事態がどう動くのか、今回登場しなかったナツハは今後どのような役割を果たすのか、ということも気になりますから、今後の展開もたいへん楽しみです。

放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線

 放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線に関する研究(Bard et al., 2020)が公表されました。これに関しては日本語の解説記事もあります。放射性炭素年代測定法は過去55000年の年代測定で最も広く使用されています。しかし、大気中の炭素14含有量は一定ではないため、放射性炭素年代測定法による値を暦年代に較正しなければいけません。また、海洋は炭素を大量に吸収するため、海洋面積が広い南半球の方が北半球より大気中炭素14濃度が低く、海中の炭素はより長い時間をかけて循環するため、その炭素14年代は大気中のものより数百年古いなど、事態はさらに複雑です。

 そのため、放射性炭素年代測定法では、北半球用の「IntCal」、南半球用の「SHCal」、海洋用の「Marine」と領域ごとに異なる3つの較正曲線が用意されています。最近まで、そのための較正曲線としてIntCal13が用いられていましたが、今回、IntCal20、SHCal20、Marine20に改訂されました。この改訂により、較正の適用限界は55000年前まで延長されます。ほとんどの場合、再較正により変化する年代の幅はわずかですが、事象の年代を狭い時間枠内に特定しようとする考古学者や古生態学者にとっては、微小な調整も大きな違いとなり得るので、たいへん重要な改訂となります。

 本論文では、具体的な成果として、ヨーロッパを中心としてユーラシアの48000~40000年前頃の著名な人類遺跡の年代が提示されています。この期間は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)から現生人類(Homo sapiens)への置換が起きたことから、とくに注目されています。ヨーロッパで最古の現生人類遺骸はブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で4個発見されており、その較正年代は46790~42810年前とされました(関連記事)。本論文はこの4個のIntCal20による較正年代を報告しており、最古のものが45120(45430~44640)年前、最新のものが43110(43240~42700)年前と推定されています。

 一方、ヨーロッパのネアンデルタール人遺骸で最新の年代となるのは、フランスのサンセザール(Saint-Césaire)遺跡で発見された個体で、IntCal20では41160(41860~40690)年前と推定されています。その次に新しいネアンデルタール人遺骸はベルギーのスピ(Spy)洞窟で発見されており、IntCal20では41280(41750~40930)年前と推定されています。本論文は、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間が、IntCal13では5000±860年、IntCal20では3960±710年であることを報告しており、IntCal20では両者の共存期間がより絞り込めています。ただ本論文は、両者の文化的および遺伝的交換の可能性を調べるには、両集団の隣接する遺跡が対象とされねばならない、とも指摘しています。

 その他の注目される個体では、4~6代前にネアンデルタール人がいると推定されている、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された現生人類遺骸(関連記事)が、IntCal20では39980(41180~39190)年前と推定されています。1世代20~30年とすると、サンセザール遺跡のネアンデルタール人より1000年ほど新しく、少なくともこの頃までヨーロッパにはネアンデルタール人が存在したのかもしれません。もっとも、骨の洞窟の現生人類の祖先がヨーロッパでネアンデルタール人と交雑したとは限らないので、他地域かもしれませんが。

 シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された人類遺骸は、現時点ではシベリアで最古の現生人類となり、またDNAが解析された現生人類としても最古となります(関連記事)。ウスチイシム個体は、IntCal20では44380(44970~43340)年前と推定されています。アジア東部でDNAが解析された最古の現生人類個体は北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見されましたが(関連記事)、IntCal20では39560(40330~39130)年前と推定されています。IntCal20により、ネアンデルタール人の絶滅と現生人類のユーラシアにおける拡散に関して、さらに精緻な検証が可能になるでしょうから、今後の研究が大いに期待されます。


参考文献:
Bard E. et al.(2020): Extended dilation of the radiocarbon time scale between 40,000 and 48,000 y BP and the overlap between Neanderthals and Homo sapiens. PNAS, 117, 35, 21005–21007.
https://doi.org/10.1073/pnas.2012307117

古代エジプトの動物のミイラ

 古代エジプトの動物のミイラに関する研究(Johnston et al., 2020)が公表されました。この研究は、非侵襲的なX線マイクロコンピューター断層撮影(CT)法を用いて、ネコのミイラの頭蓋骨が、外側を覆う包みのほぼ半分のサイズであることを明らかにしました。その形態からこのミイラは、エジプトのイエネコの一種である可能性が高い、と示唆されました。また、歯と骨格の画像の解析からは、このネコが生後5ヶ月未満で、死亡時あるいはミイラ製作過程で頭部を直立位置に保つために、首の骨を意図的に折られた可能性がある、と示されました。

 猛禽類のミイラについては、3次元スキャンを用いた測定結果から、チョウゲンボウ(Falco tinnunculus)とひじょうによく似ており、頸部の損傷が死因とは考えにくい、と示唆されました。固くとぐろを巻いたヘビのミイラについては、画像解析から、コブラの幼体で、死因は脊椎骨折った可能性がある、と示唆されました。これは、尾をつかんで鞭のよう打ちつける方法が、当時ヘビを殺すために一般的に用いられていたことと符合します。高分解能の画像化技術により、このヘビのミイラの口内で見つかった構造体が硬化樹脂であることと、その声門開口部における正確な位置が判明しました。これは、「口開けの儀式」に似た複雑な儀式的行動があったことの証拠となるかもしれません。

 研究用の高度な3次元X線画像撮影法により、標本を損傷することなくミイラの保存状態・複雑な製作過程・死因を明らかにすることも可能となります。このように動物のミイラの製作に関する理解が深まれば、今後の保存作業にとって貴重な情報が得られ、古代エジプトに限らず、過去の人間と動物の関係をさらに解明できるかもしれません。今後の研究の進展が期待される分野です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:X線画像で明らかになった古代の動物のミイラに関する新事実

 高度な3次元X線画像撮影法を使って、古代エジプトの3種類の動物(ネコ、鳥、ヘビ)のミイラを分析した結果を記述した論文が、Scientific Reports に掲載される。この手法を用いれば、標本を損傷することなく、これらの動物のミイラの保存状態、複雑なミイラ製作過程、考え得る死因を明らかにするための手掛かりが得られる。

 今回、Richard Johnstonたちの研究チームは、非侵襲的なX線マイクロコンピューター断層撮影(CT)法を用いて、ネコのミイラの頭蓋骨が、外側を覆う包みのほぼ半分のサイズであることを明らかにした。その形態から、このミイラは、エジプトのイエネコの一種である可能性の高いことが示唆された。また、歯と骨格の画像の解析からは、このネコが生後5か月未満であり、死亡時あるいはミイラ製作過程で頭部を直立位置に保つために、首の骨を意図的に折られた可能性のあることが示された。

 猛禽類のミイラについては、3次元スキャンを用いた測定結果から、チョウゲンボウ(Falco tinnunculus)に非常によく似ており、頸部の損傷が死因とは考えにくいことが示唆された。固くとぐろを巻いたヘビのミイラについては、画像解析から、コブラの幼体であり、脊椎骨折が死因だった可能性があることが示唆された。これは、尾をつかんでむちのよう打ちつける方法が、当時ヘビを殺すために一般的に用いられていたことと符合する。今回、Johnstonたちが高分解能の画像化技術を用いたことで、このヘビのミイラの口内で見つかった構造体が硬化樹脂であることと、その声門開口部における正確な位置が判明した。このことは、「口開けの儀式」に似た複雑な儀式的行動があったことの証拠となる可能性がある。

 研究用の画像化技術によって動物のミイラの製作に関する理解が深まれば、今後の保存作業にとって貴重な情報が得られ、過去の人間と動物の関係をさらに解明できるかもしれない。



参考文献:
Johnston R. et al.(2020): Evidence of diet, deification, and death within ancient Egyptian mummified animals. Scientific Reports, 10, 14113.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69726-0

古人類学の記事のまとめ(41)2020年5月~2020年8月

 2020年5月~2020年8月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2020年5月~2020年8月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

チンパンジーの他者行動理解
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_29.html

アルディピテクス・ラミダスの居住環境
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_28.html

オロリン・トゥゲネンシスの二足歩行
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_39.html

同位体分析から推測される初期人類の食性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_2.html

ホモ・ナレディの下顎小臼歯の分析と比較
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_31.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

アシューリアンの拡散におけるトルコの重要性
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_7.html

ジャワ島のホモ・エレクトスに関するまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_16.html

人類史における投擲能力
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_30.html


●ネアンデルタール人関連の記事

チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_8.html

古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_9.html

現代人におけるネアンデルタール人由来のプロゲステロン受容体関連遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_44.html

ミトコンドリアから予測される哺乳類における雑種の繁殖力
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_8.html

ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_21.html

ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_15.html

現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人由来の遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_31.html

ネアンデルタール人の絶滅における気候変化の役割
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_33.html

ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_6.html

古代の人類間の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_14.html


●デニソワ人関連の記事

アジア東部の早期現生人類におけるデニソワ人の遺伝的痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_13.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシスについてのまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_22.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ南部の中期石器時代における石材の加熱処理
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_7.html

オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html

多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から推測される人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

ヨーロッパの最初期現生人類
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

後期更新世のアフリカ東部の人類の足跡
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_24.html

中川和哉「朝鮮半島南部におけるMIS3の石器群」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_36.html

加藤真二「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_37.html

注意欠陥・多動性障害への選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_46.html

髙倉純「北アジアの後期旧石器時代初期・前期における玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_4.html

アフリカ外最古となるスリランカの弓矢
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_23.html

最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_28.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_10.html

中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html

チベット高原の古代人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_27.html

バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html

新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_19.html

アジア東部現生人類集団の古代DNA研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

インドネシアにおける最初の稲作
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html

複数集団の混合により形成された現代チベット人
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html

インダス文化に関するまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_22.html

韓国人のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_29.html

虎ノ門ニュースでの有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_30.html

中国のモソ人に関する本の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_11.html

人類史における集団と民族形成
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_20.html

古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_33.html

愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_34.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_6.html

アンデスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_17.html

前期完新世アマゾン地域における作物栽培
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_22.html

カリブ海諸島への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

ペルー人の低身長の遺伝的要因
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_17.html

ベーリンジアにおけるマンモスの絶滅
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_22.html

マヤ文化最古の儀式用建造物
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_33.html

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_13.html

アメリカ大陸最古の人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_12.html

南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_15.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html

中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html

鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html

ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_20.html

麻疹の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_25.html

ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html

コーカサス北部のコバン文化の母系と父系
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html

鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_9.html

ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html

ヴァイキング時代のヨーロッパ北部で拡散していた天然痘
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_32.html

古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html


●進化心理学に関する記事

不公平な行為への反応
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_12.html

人間のネットワークの同調性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_17.html

恋愛に関連しているかもしれない遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_37.html


●その他の記事

ブチハイエナ属とホモ属の進化史の類似性
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_3.html

末期更新世のユーラシア氷床の崩壊による急速な海水準上昇
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_19.html

痛みの民族間差
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_33.html

ヒトゲノム多様体のカタログ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_42.html

アフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_23.html

ライオンの進化史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_29.html

さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_31.html

狩猟採集技能の文化および個体間の多様性
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_34.html

現代のそりイヌの祖先
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_35.html

ヒトゲノムにおける構造多様性のマッピングと特性解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_3.html

イギリスにおける血液型への関心
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_17.html

ホラアナライオンのmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_3.html

クローン造血の構造パターンと選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_9.html

実父から子への性虐待が多い理由
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_13.html

『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_16.html

分断・孤立と交雑・融合の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

形態に基づく分類の困難
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_24.html

陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_38.html

古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
https://sicambre.at.webry.info/200709/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(1)
https://sicambre.at.webry.info/200707/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(2)
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_31.html

古人類学の記事のまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(4)
https://sicambre.at.webry.info/200807/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(5)
https://sicambre.at.webry.info/200811/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(6)
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(7)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(8)
https://sicambre.at.webry.info/200909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(9)
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(10)
https://sicambre.at.webry.info/201005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(11)
https://sicambre.at.webry.info/201009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(12)
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(13)
https://sicambre.at.webry.info/201105/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(14)
https://sicambre.at.webry.info/201109/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(15)
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(16)
https://sicambre.at.webry.info/201205/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(17)
https://sicambre.at.webry.info/201209/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(18)
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(19)
https://sicambre.at.webry.info/201305/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(20)
https://sicambre.at.webry.info/201309/article_5.html

古人類学の記事のまとめ(21)
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(22)
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(23)
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(24)
https://sicambre.at.webry.info/201501/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(25)
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(26)
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(27)
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(28)
https://sicambre.at.webry.info/201605/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(29)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(30)
https://sicambre.at.webry.info/201701/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(31)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(32)
https://sicambre.at.webry.info/201709/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(33)
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(34)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(35)
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(36)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(40)
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_1.html

古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史

 古代DNAに基づく近年のユーラシア西部の現生人類(Homo sapiens)史研究を整理した概説(Olalde, and Posth., 2020)が公表されました。ユーラシア西部における現生人類の遺伝的歴史は、過去10年にたいへん注目されてきた研究分野です。これまでの研究の大半は、新石器時代と青銅器時代に起きた大規模な文化的移行をより理解するため、超地域的視点に焦点を当ててきており、おもに8500~3000年前頃の個体群が対象でした。

 最近では、そうした大規模な手法は学際的な小地域研究により補完されており、それは過去の社会の通時的な再構築を目指し、古代DNA研究の将来の主流の方向性となる可能性が高そうです。さらに、ユーラシア西部全域の刊行された人類ゲノムの時間的分布を考慮すると、一方の側は上部旧石器時代と中石器時代、もう一方の側は鉄器時代に広く対応しています。この期間の研究もひじょうに興味深いものの、固有の課題もあり、それは、狩猟採集民遺骸としばしば乏しい古代DNA保存という利用可能性の低さと、歴史時代の集団間の減少した遺伝的差異を含みます。本論文は、最近明らかになってきたような、ユーラシア西部の古代DNA研究における新たな動向を取り上げます。


●ユーラシア西部狩猟採集民

 45000年前頃以降の大半において、ヨーロッパと近東の現生人類は狩猟採集戦略に依存していました。上部旧石器時代および中石器時代と新石器時代の一部地域では、集団の生活様式は狩猟採集でした。8500年前頃以降になって初めて、農耕が近東からヨーロッパに拡大してきました。この狩猟採集に依拠していた期間が長いにも関わらず、ヨーロッパと近東の刊行された古代ゲノムのうち、狩猟採集民個体群に由来するのは10%未満です。

 ヨーロッパの狩猟採集民に関する最初の大規模なゲノム規模研究は2016年に公表され、45000~7000年前頃の50人のゲノムが分析されて、その後のいくつかの研究の基礎となりました(関連記事)。遅くとも37000年前頃以降、ヨーロッパの全個体は後のヨーロッパ人集団とある程度の遺伝的類似性を有します。しかし、その研究ではヨーロッパの現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は経時的に減少したと推定されましたが、最近の研究では、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人系統の割合はほぼ一定だった、と推定されています(関連記事)。

 後のヨーロッパ人集団に寄与した最古のゲノムは、ロシア西部のコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)です。この2個体は相互に、ひじょうに異なる2系統の初期の分岐を表しており、より新しい別々の狩猟採集民集団と関連しています。

 ヨーロッパ全域で観察された最初の明確な遺伝的クラスタは、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名され、チェコからベルギーとイタリア南部までの34000~26000年前頃のゲノムを含みます。これらの個体群はグラヴェティアン(Gravettian)技術複合と関連しており、コステンキ14個体およびその姉妹系統である34000年前頃のロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団と、高い遺伝的類似性を共有しています。さらに、クリミア半島からの提案されたグラヴェティアン個体もまた、ヴェストニツェ遺伝的クラスタのより新しい個体群との類似性を示し、グラヴェティアン関連遺伝的構成の西方から東方への拡大が支持されます。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後、Goyet Q116-1個体で特定された遺伝的系統は、考古学的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連した個体群に現れ、その年代はイベリア半島では19000年前頃、ヨーロッパ中央部では15000年前頃です。15000年前頃のヨーロッパでは温暖化が起き、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に因んで命名された新たな遺伝的系統であるヴィラブルナの存在と同時に発生し、このヴィラブルナ系統は現代および古代の近東集団と有意なつながりを示します(関連記事)。このかなり均質な遺伝的構成は、イタリア(関連記事)からブリテン島(関連記事)にまたがるヨーロッパ全域に広範に拡大しました。

 ヴィラブルナ系統の起源はまだ議論されていますが、近東の上部旧石器時代個体群の最近の分析では、ジョージア(グルジア)とアナトリア半島でそれぞれ26000年前頃と15000年前頃に混合したそのような系統存在が明らかになっています。しかし、近東からヨーロッパへの長期的拡大というよりもむしろ、ヨーロッパ南東部の気候的な待避所からの二重の集団拡散が、これら2地域の遺伝的な祖先構成の説明として提案されてきました。他の氷期の待避所としてイベリア半島が提案されており、そこではマグダレニアン関連系統が、広範囲のヴィラブルナ系統とともに、中石器時代まで高い割合で残存していました(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では遅くとも8000年前頃までには、東部狩猟採集民(EHG)と命名された他の異なる遺伝的系統を有する個体群が、西部狩猟採集民(WHG)ヴィラブルナ系統と関連する個体群とともに東西に沿って遺伝的勾配を示します。スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民は、さらに東方に位置する集団と比較してずっと高い割合のEHG関連系統を有するので、この勾配の顕著な例外を表します(関連記事)。そのため、氷期後のスカンジナビア半島の定住は、北方からEHG、南方からWHGの拡大を伴っていたという二重経路で、その後で混合が起きた、と提案されています(関連記事)。

 ヨーロッパのほとんどで、狩猟採集民系統はその後に、新石器時代の拡大の結果として、農耕関連遺伝的構成にほぼ置換されました。しかし、バルト海地域のようなヨーロッパ北部の周辺では、狩猟採集民の遺伝的構成が中期新石器時代の5500年前頃まで、ヨーロッパにおける農耕民到達後も3000年ほど維持されました。ロシア西部のサマラ(Samara)地域の個体群は、EHG関連系統の東限となり、ウラル山脈のすぐ東のシベリア狩猟採集民は、ユーラシア東部集団との遺伝的類似性を示します。


●鉄器時代から歴史時代

 過去3000年の歴史は、現代人集団の最終的な形成の理解に重要です。人類の移動性が高まっているため、この期間の人口統計学的事象は小規模でも大規模でも豊富で、そのほとんどは歴史的な情報源で描かれています。しかし、歴史的記録の解釈は決定的ではないかもしれず、古代DNA研究には、記録にある事象の人口統計学的影響をよりよく理解するのに有益な手法となる可能性があります。じっさい、この分野の焦点はより最近の歴史に移り始めており、鉄器時代から現代までのヨーロッパと近東の遺伝的歴史を扱う研究が増加しています。

 ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。

 レヴァントでは、遺伝子流動の兆候が鉄器時代とローマ期の個体群で検出されました。これらの個体群は、青銅器時代および現代の集団と全体的には遺伝的継続性を有するにも関わらず、おそらくは早期の歴史的事象と関連するヨーロッパ人関連構成をわずかに示します(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNA研究で注目を集め始めている大きな事象は、紀元前三千年紀のギリシア人とフェニキア人の拡大です。これらの文化は長距離海上ネットワークの確立を通じて地中海沿岸に交易所を設けましたが、在来集団との統合の程度や、後の集団への遺伝的寄与といった重要な問題はさほど理解されていません。スペイン北東部のギリシア植民地の24個体のゲノム規模研究では、遺伝的に異なる2集団が報告されており、一方は在来のイベリア半島集団と、もう一方は同時代のギリシア集団との遺伝的類似性が指摘され、移民の継続的到来もしくは在来集団との限定的な交雑が示唆されます(関連記事)。

 スペインのイビサ島とイタリアのサルデーニャ島のフェニキア・カルタゴ文化個体群は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析(関連記事)とゲノム規模分析(関連記事)によって、遺伝的に先住集団とは異なるところがあり、在来集団からの多様な割合の遺伝的寄与とともに、地中海東部関連系統およびアフリカ北部関連系統を有する、と明らかになっています。同様のゲノム規模データの痕跡が、イベリア半島南部で少なくともローマ期には観察されていますが、より早期の同地域のフェニキア・カルタゴ文化関連個体群にさかのぼることができるかもしれず(関連記事)、これらの文化と関連した人類の移動が、長期間持続する遺伝的影響を地中海の一部集団に残した、と示唆されます(関連記事)。

 ローマは共和政確立後、ユーラシア西部で最大かつ最強の都市となりました。最近の研究では、帝政期のローマの成長は、地中海東部からの移民の影響を受けており、西方からの遺伝的影響の証拠はほとんどなかった、と明らかになっています(関連記事)。1500~1000年前頃となる中世前期には、文献に西ローマ帝国の支配地だった地域における「蛮族」集団の拡大が見え、しばしば大移動期とされます。西ゴートやランゴバルド(関連記事)やバイエルン(関連記事)やアレマン(関連記事)関連の墓地の被葬者の遺伝的構成に関する研究で一貫して明らかなのは、大規模な集団間の不均質性で、ヨーロッパ南部起源よりもむしろ、高頻度でおもにヨーロッパ中央部および北部関連系統の個体群が示されています。同様に複雑な状況はヴァイキングの拡大と関連した集団のゲノム分析でも示されるようになっており、1200~900年前頃となるヴァイキングの時代とその前には、スカンジナビア半島における人類集団の出入が文献に見えますが、それが確証されました(関連記事)。


●小地域の研究

 人類の古代DNA研究の新しい重要な動向は遺跡固有の分析で、古代社会の構造を解明するために学際的手法が用いられています。大規模な研究では複数のゲノムが同じ遺跡から得られ、密接に関連した個体群(たとえば、2~3親等程度)がしばしば見つかっています。これまで、そうした親族関係にある個体群は一般的に、集団遺伝分析から除外されていました。この手法は統計的検定で関連性バイアスを回避するのに適していますが、これら近親者の関係を調べることで、対象集団に関して多くの追加の情報が得られます。こうした研究には学際的手法が必要で、ゲノム・同位体・放射性炭素年代・形態・物質(考古学)のデータが統合されることで、集団内の社会文化的動態の理解を最大化します。

 そうした古代DNA分析に基づいて社会的構造を検証した研究の最初の事例が、装飾品など豪華な副葬品で有名なロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡です(関連記事)。スンギール遺跡の34000年前頃の4個体は遺伝的に密接な関係にない、と明らかになりました。さらに、有効人口規模の減少にも関わらず、近親交配の水準が低いことから、多くの現代狩猟採集民集団と同様に同族婚が避けられていた、と示唆されます。

 後の時代の集団では、複数の新石器時代と青銅器時代の遺跡で、遺跡固有の古代DNA研究により徹底的な調査が行なわれました。その一例は、ポーランドの球状アンフォラ(Globular Amphora)文化関連墓地です(関連記事)。この墓地の全被葬者には暴力的な死の痕跡が見られ、墓地内の4核家族を伴う拡大家族を表しています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の高い多様性とは対照的に、Y染色体ハプログループ(YHg)の多様性が低い場合には、父方居住体系と解釈されています。

 アイルランドやイギリスやスウェーデン(関連記事)やチェコやスイス(関連記事)の新石器時代の巨石埋葬遺跡文でも、社会構造が調査されました。一般的な傾向として、女性よりも男性の方が被葬者は多く、とくにブリテン島とアイルランド島とスイスの巨石墓でその傾向が見られます。さらに、YHgは経時的に維持されており、これらの巨石墓地が父系社会と関連している、と改めて示唆されました。興味深いことに、同時代の異なる遺跡に埋葬された個体群間の密接な近縁関係の事例も明らかになっています。これは、アイルランドの2ヶ所の巨石墓、エストニアの石棺墓、イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の3ヶ所の遺跡で確認されており、これら複雑な埋葬構造が、選択された集団のために建てられた、と示唆されます。

 考古遺伝学的研究はまた、同位体分析や放射性炭素年代測定と効率的に組わせることができ、その事例として、後期新石器時代から中期青銅器時代のドイツ南部のアウグスブルクに近い地域に焦点を当てたものがあります(関連記事1および関連記事2)。中期青銅器時代のドイツ南部では、100個体以上のゲノム比較から、関連していな個体群よりも中核的家族の方が副葬品は多く、副葬品と親族関係との間に正の相関があると明らかになり、社会的不平等の証拠が提示されました。さらに、複数世帯が同じ遺跡に同じ家系で最大5世代にわたって埋葬されており、一般的には女性外婚制と父方居住により特徴づけられます。

 中世前期に関しては、上述のランゴバルドとアレマンとバイエルンという3ヶ所の小地域研究で、親族関係と社会構造が取り上げられています。ランゴバルドに関する研究(関連記事)では63個体が調査され、ハンガリーも含むパンノニアとイタリア北部のピエモンテ州の2ヶ所のランゴバルド人遺跡間および内部の比較が行なわれました。両遺跡の個体群は生物学的親族の周囲に葬られ、遺伝的にはヨーロッパ南部系統とヨーロッパ中央部および北部系統の割合はさまざまで、ヨーロッパ中央部および北部系統は墓地の豊富な副葬品と正の相関を示します。

 ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のアレマン関連墓地は、性的な偏りのある埋葬遺跡を表しており、成人も幼児も男性のみで、戦士階級集団の可能性があります(関連記事)。さらに、このうち5個体は異なる3文化の副葬品と関連しているにも関わらず、父系では関連しています。ドイツ南部のバイエルンの6ヶ所の遺跡では紀元後500年頃の36人のゲノムが分析され、男性は現代の同地域集団と類似しているのに対して、女性は遺伝的異質性が高い、と明らかになりました(関連記事)。興味深いことに、細長い頭蓋骨を有するこれらの女性は、おそらく究極的にはヨーロッパ南東部起源です。

 まとめると、既知の学際的な小地域研究は、複数の証拠を通じて、ヨーロッパの過去の社会の埋葬が、しばしば父系的体系で組織されていると示唆するものの、他の地域と期間も対象とする将来の研究は、ユーラシア西部における変化する社会文化的動態のよりよい理解を、間違いなく提供するでしょう。


●まとめ

 本論文は、現在注目を集めている3分野を強調することで、ヨーロッパと近東の人類古代DNA分野の可能な研究方向性を検討しました。この発展を可能にするためには、ひじょうに分解されたDNAの分離と配列の新たな分子生物学的手法を開発する必要があります。それにより、追加の狩猟採集民遺骸やより困難な環境からのゲノムデータを回収できます。

 一方、ユーラシア西部集団間の遺伝的分化は広範な混合のために時代が降ると顕著に減少することが観察されており(関連記事)、伝統的なアレル(対立遺伝子)頻度に基づく手法ではしばしば検出困難な、微妙な遺伝的パターンをもたらしました。これは、歴史時代における増加する集団内の遺伝的異質性とともに、古代DNAに合わせた、より大規模な標本群の使用と、より高解像度の分析手法の開発を要求します。詳細で場合によっては自動化された血統復元を通じての地域の歴史調査の後には、学際的枠組み内の世界的傾向を識別できるよう、時空間を通じて社会的構造を比較するために、再度俯瞰する必要があるでしょう。


 本論文は、近年のユーラシア西部における古代DNA研究の進展を整理するとともに、新たな研究動向と今後の方針をも提示しており、たいへん有益だと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究は他地域よりもずっと進展しているため、本論文で言及された論文のうち当ブログで取り上げたものも少なくありませんが、未読の論文も多く、既読の論文の内容を改めて整理できたとともに、新たな知見も多く得られました。古代DNA研究の進展は目覚ましいので、頻繁に本論文のような概説を読んでいく必要がある、と改めて思ったものです。

 本論文の提示した古代DNA研究の新たな動向は、小地域、場合によっては1遺跡での学際的な研究です。DNA分析と、同位体分析や放射性炭素年代測定や遺物分析(考古学)や遺骸分析(形態学)を組み合わせることにより、当時の社会構造が浮き彫りにされていきます。これは歴史時代にも有効な手法で、文献を補完できます。歴史学でも、今後は古代DNA研究がさらに重視されるようになっていくでしょう。日本人の私としては、日本列島でもそうした学際的研究が進展するよう、期待しています。また本論文は、そうした詳細な研究の蓄積の後には、改めて俯瞰していく必要があることも指摘しています。どの分野でも、専門化・蛸壺化が指摘されて久しく、専門的で詳細な研究の蓄積は基礎としてたいへん重要ではあるものの、広い視点でそれらを統合する必要があることも確かだと思います。


参考文献:
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021

古代DNAに基づくアフリカの人類史

 古代DNAに基づく近年のアフリカの人類史研究を整理した概説(Vicente, and Nielsen., 2020)が公表されました。古代DNA研究の急速な進展により、人類史はより深く理解されるようになりました。たとえば、ある物質文化の変化が、人々の移動の結果なのか、あるいは文化の拡散によるものなのか、より詳しく推測できるようになりました。古代DNA研究はアフリカでも進展していますが、熱帯地域を多く含むため、古代人標本からDNAを抽出することが困難なこともあり、アフリカにおけるゲノム規模の古代DNA研究は、たとえばヨーロッパと比較すると僅かです。本論文投稿時点でのアフリカの古代人のゲノム規模論文は、北部に関しては4本、サハラ砂漠以南に関しては5本だけです。本論文は、これまでのアフリカの古代DNA研究を、現代人の遺伝的多様性の文脈で検証します。以下、本論文で対象とされた標本の地理と主成分分析と系統構成を示した図1です。
画像


●アフリカ北部の古代DNA

 アフリカ北部では、現代人集団はおもにユーラシアおよび中東集団と関連しており、サハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的寄与の水準はひじょうに低い、と推定されています。これが旧石器時代におけるユーラシアからアフリカへの「逆流」の結果なのか、新石器時代におけるアフリカ北部への農耕の導入と関連しているのか、という議論がありました。モロッコの15000年前頃人類遺骸のDNA解析では、アフリカ北部は完新世と農耕開始の前にユーラシアから顕著な遺伝子流動を受けた、と示されました(関連記事)。

 さらに、アフリカ北部の7000年前頃となる前期新石器時代の個体群もこの15000年前頃のモロッコ個体群系統を継承していましたが、後期新石器時代となる5000年前頃の集団はイベリア半島集団の遺伝的影響を受けており、ジブラルタル海峡間の遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。これら前期および後期新石器時代の個体群の遺伝的構成の違いから、アフリカ北部における農耕拡大は文化(アイデア)と人々の移動の両方が含まれていた、と示唆されます。

 サハラ砂漠は、断続的な「緑のサハラ」の期間を除いて、人類の移動の地理的障壁でした。エジプトの現代人集団とミイラのDNAに関する研究では、サハラ砂漠を越えて南方から現代のアフリカ北部人への遺伝子流動は低水準で、最近起きたと示唆されています(関連記事)。しかし、このエジプトのミイラよりも古いモロッコの更新世や新石器時代の個体群は、サハラ砂漠以南のアフリカ人と遺伝的により類似しています。「緑のサハラ」は12000~5000年前頃なので、モロッコの15000年前頃の更新世個体群と7000年前頃の前期新石器時代個体群は、前者が「緑のサハラ」の前、後者がちょうどその期間に相当します。

 しかし、両個体群ともにサハラ砂漠以南のアフリカ人とは同じような遺伝的近縁を示しており、類似の遺伝的構造を示します。一方、アフリカ北部の現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統をわずかにしか有していません。結果として、サハラ砂漠の湿潤期と乾燥期の循環は、アフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカとの間の遺伝子流動の量に影響を与えたようですが、これらの移住の正確な動態は、理想的にはゲノム規模の古代DNA研究でさらに調査されねばなりません。


●サハラ砂漠以南のアフリカ

 サハラ砂漠以南のアフリカの現代人および古代人のDNA研究では、ひじょうに異なる2段階の歴史があった、と示唆されました。農耕開始前の狩猟採集民集団は、地理的位置が集団の遺伝的関係を密接に反映する、「距離による隔離」と関連していたようです。しかし、過去の狩猟採集民の長距離移住は除外できず、この問題に関しては古代DNA研究が重要となります。サハラ砂漠以南のアフリカの初期の歴史は、農耕開始後の比較的短い期間におけるも大規模な人口移動と対称的です。

 サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕の起源は依然として不明確ですが、作物栽培は少なくとも3地域独立して始まったと考えられており、それはサハラ・サヘル地域での7000年前頃と、エチオピア高原での7000~4000年前頃と、アフリカ西部の5000~3000年前頃です。サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕は、これらの起源地から他地域へと拡大し、アフリカ南端への家畜動物の到達は2000年前頃、作物栽培は1800年前頃です。現代人および古代人のゲノム調査から、アフリカにおける農耕集団の拡大に関する仮説が確認されました。


●サハラ砂漠以南のアフリカにおける食料生産者の移住

 サハラ砂漠以南のアフリカにおいて最初に解析された人類のゲノムは、エチオピアのモタ(Mota)の4500年前頃の個体に由来します(関連記事)。モタ個体とアフリカ東部現代人を比較すると、現代人ではモタ個体よりもユーラシア系統の割合が増加している、という明確な証拠が得られたことから、ユーラシアからアフリカ東部への「逆流」が明らかになりました。しかし、その後の研究により、アフリカ北東部の特定集団、たとえばスーダンのディンカ(Dinka)やヌエル(Nuer)集団と、アフリカ東部のサブエ(Sabue)狩猟採集民は、現代までユーラシア系統との混合がほとんどない、と示されました。

 8100年前頃までさかのぼるアフリカ東部および南部の15人のゲノム解析では、このアフリカ東部およびユーラシア系統を有する古代の牧畜民はアフリカ南部へと移動し、牧畜をもたらした、と明らかになりました。これは、常染色体やY染色体や乳糖耐性多様体に基づく以前の研究を確証し、アフリカ南部牧畜民のゲノムにおけるアフリカ東部系統の存在を示唆します。

 アフリカ東部における農耕導入は、ケニアとタンザニアの後期石器時代・牧畜新石器時代・鉄器時代と関連する41個体の研究により、さらに洗練されました(関連記事)。その研究では、牧畜民の拡大に関連する2段階の混合が推測されました。最初の混合事象は、レヴァントもしくはアフリカ北部集団と関連した非アフリカ系統を有する集団と、現代のディンカ人およびヌエル人と関連する集団との間で、アフリカ北東部において6000~5000年前頃に起きました。

 第二の混合事象は、第一の混合集団と、モタ個体やケニアの後期石器時代個体群と関連したアフリカ東部の狩猟採集民との間で、4000年前頃に起きました。この非アフリカ系統のアフリカ東部への拡散経路はまだ不明で、ナイル川渓谷もしくは「アフリカの角」経由だった、と提案されています。またこれらの知見は、牧畜新石器文化を形成した、少なくとも2回の年代的に異なるアフリカ東部への牧畜民の南進を指摘します。

 興味深いことに、遺伝的分析では、考古学的に異なる2つの牧畜新石器文化である、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器文化の集団間で差異が見つかりませんでした。これは、考古学的に異なる文化が必ずしも遺伝的に異なる集団であることを意味しない、と示唆します。その後のアフリカ東部における鉄器時代は、同様に複雑でした。現代バンツー語族と関連するアフリカ西部からの遺伝子流動に続くスーダンの関連する遺伝子流動は、この地域の鉄器時代開始と作物栽培導入を示します。

 バンツー語族の拡大はアフリカ西部で5000~3000年前頃に始まり、世界でも最大級の農耕拡大事象の一つです。アフリカ西部の考古学的記録では、増加する定住は農耕拡大とその後の鉄の使用により示されます。現在、サハラ砂漠以南のアフリカのほとんどの地域では、バンツー語族が主要な言語です。以前の遺伝学的研究では、バンツー語族集団の現在の分布は、言語と農耕(文化)のみの拡大というよりもむしろ、人々の移動の結果だった、と示唆されています。これは古代DNA研究により確認されており、アフリカの東部および南部の鉄器時代遺骸は、遺伝的に現在のアフリカ西部集団と集団化します。

 アフリカ南部の7個体のゲノムデータにより、2000年前頃となる後期石器時代の3個体は現代のコイサン狩猟採集民と関連しており、500~300年前頃となる鉄器時代の4個体はアフリカ西部現代人と関連している、と明らかになりました。これにより、アフリカ南部における大規模な集団置換が確認されました。コイサン狩猟採集民の後期石器時代の祖先は、アフリカ西部系統を有するバンツー語族農耕民の侵入により置換された、というわけです。

 アフリカ南部では、バンツー語族がコイサン狩猟採集民からかなりの量の遺伝子流動を受けました。対照的に、マラウイとモザンビークの現代人集団は、バンツー語族拡大前にこの地域に存在した狩猟採集民と僅かしか若しくは全く混合しておらず、バンツー語族の移住が複雑な過程だったことを示唆します。バンツー語族拡大期間における人口動態と移住経路をより明確にするには、さらなる古代DNA研究と、赤道付近のアフリカ現代人集団のより高い網羅率のゲノムデータが必要です。以下、アフリカにおける農耕開始前の集団分布と、牧畜および農耕の拡大経路を示した本論文の図2です。
画像

●サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口史

 アフリカ全域で農耕集団が大規模に移住する前には、狩猟採集民集団が勾配パターンで関連しており、距離と遺伝的近縁性とが比例関係にあったようです。このパターンは、アフリカ南部のコイサン狩猟採集民の研究で示されているように、現代の狩猟採集民集団間の関係にも反映されています。同様に、古代DNA研究では、農耕開始前におけるアフリカ東部と南部の狩猟採集民集団間の遺伝的勾配が明らかになっています。

 この勾配はアフリカ西部・中央部のシュムラカ(Shum Laka)岩陰の古代狩猟採集民にも当てはまるかもしれず、この古代狩猟採集民は、現在のアフリカ西部・中央部の熱帯雨林狩猟採集民と関連しています(関連記事)。シュムラカ個体群は、図1bの主成分分析のPC1軸では、アフリカ南部狩猟採集民とアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族集団との間に位置します。古代および現代の狩猟採集民のみを対象とした主成分分析と比較して、農耕民を含む主成分分析では、地理との相関が低下します。

 古代および現代の狩猟採集民の遺伝的系統は、アフリカ全域の集団間の長期的な勾配関係を示唆しているかもしれませんが、あらゆる大規模な移住がこのパターンの根底にあるのかどうか判断するには、古代DNA研究のデータが必要です。ヨーロッパの現代人および古代人のDNA研究から、距離による孤立のパターンは、とくに混合していない現代人集団が存在しない場合、遠い過去におけるいくつかの大規模な移動と置換を隠せる、との教訓が得られました。したがって、アフリカの深い歴史はまだ明らかにされていませんが、古代DNA研究はすでに推論に貢献し始めました。

 2000年前頃となるアフリカ南部の後期石器時代人の高網羅率のゲノムデータから、「Ju/'hoansi」集団を含む全ての現代コイサン集団は、アフリカ南部に牧畜をもたらしたユーラシア・アフリカ東部集団から9~22%の遺伝的影響を受けている、と明らかになりました(関連記事)。これは図1の主成分分析で示され、現代コイサン集団はアフリカ東部人の方へと近づいており、中にはバンツー語族との混合によりアフリカ西部人にも近づいている標本もあります。

 「Ju/'hoansi」集団は以前には、近隣集団との混合がほとんどなく、現生人類集団間の最初の分岐事象(変異率に基づき推定された20万~10万年前頃)を表すコイサン集団とされていました。混合していない後期石器時代個体を他のアフリカ人と比較すると、分岐年代は35万~26万年前頃にさかのぼり、これは現生人類系統が解剖学的・行動学的に現代的になっていった、中期石器時代の起源に近づきます。この見解では、コイサン集団と他の全集団との最初の分岐が322000年前頃、熱帯雨林狩猟採集民の分岐が221000年前頃、アフリカ西部と東部の分岐が137000年前頃と推定されています。階層的分岐系統樹モデルは、集団間の一般的な関連性を適切に推定しますが、これは人類史の簡略化された表現であり、遺伝子流動や移住や深い集団構造を含むもっと複雑なモデルが、将来の研究では考慮されねばなりません。

 いくつかの研究では、すでにアフリカ西部における深い合着系統の証拠が報告されており、現代ではもはや分離した集団としては存在しない、現代人とは遠い関係にある「ゴースト」集団による、深い起源の混合の可能性が示唆されています。最近の研究では、アフリカ集団におけるネアンデルタール人との混合が以前の推定よりも高かったと推定されており(関連記事)、アフリカ集団における深い人口構造が追加されました。

 また最近の別の研究では、連続分岐モデルというよりもむしろ、4祖先的集団間の放射モデルが示唆されています(関連記事)。この放射モデルには、コイサン集団とアフリカ中央部熱帯雨林狩猟採集民とアフリカ東部および西部人と「ゴースト現代」集団につながる系統が含まれています。さらに、このモデルには「ゴースト非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)」も追加され、アフリカ西部集団はゴースト古代型ホモ属系統からわずかに、ゴースト現生人類系統から多く、遺伝的影響を受けた、と推測されています。しかし、データに適合する他のモデルもあります。

 近年では、アフリカにおける現生人類の多地域起源の可能性を示唆する証拠が増えてきており(関連記事)、深いアフリカの歴史に関する将来の研究では、現実的なモデルのシミュレーションのより厳密な検証が必要です。さらに、地理および気候モデルが、古代DNA研究から得られた時系列データとともに、これらのモデルに組み込まれねばなりません。これは過酷な作業となりますが、いくつかの枠組みはすでに設定されており、古代DNAデータがアフリカ現代人集団のゲノムデータとともにより多く利用可能になると、将来の研究はアフリカにおける深い遺伝的歴史をさらに明らかにするでしょう。古代DNA研究と他分野からの補完的研究は、先史時代をさらに明らかにし続け、現生人類の過去と現在と将来を理解するのに役立つかもしれません。


 本論文は、近年進展したアフリカに関する主要な古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文でとくに重要とされている研究の多くは以前当ブログでも取り上げていましたが、見落としていたり、取り上げようと思って放置してしまったりしているものもあり、アフリカの人類史の流れを改めて確認できたとともに、新たに得た知見も多く、アフリカにおける古代DNA研究の現状を把握するのに適した論文だと思います。アフリカは熱帯地域を多く含んでおり、古代DNA研究に適していない地域と言えるでしょうが、それでも着実に進展していることが本論文で示されており、今後の研究の進展に期待しています。難しそうではありますが、サハラ砂漠以南のアフリカの更新世人類のDNAデータが得られれば、アフリカの人類史の解明に大きく貢献しそうなので、成功を願っています。なお、おそらくは本論文の投稿後に、サハラ砂漠以南のアフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用に関する研究が公表されており(関連記事)、今後もアフリカの完新世の古代DNA研究は進展していく、と期待されます。


参考文献:
Vicente M, and Schlebusch CM.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 8-15.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.008

大河ドラマ『麒麟がくる』第22回「京よりの使者」

 3ヶ月近くの中断を挟んでの放送再開となります。中断前は桶狭間の戦いまで進みましたが、再開後初回となる今回は、桶狭間の戦いから4年後となる1564年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)から始まります。明智光秀(十兵衛)は相変わらず家族とともに越前におり、貧しい生活を送っていました。当時、都では三好長慶が実権を握っており、将軍の足利義輝は傀儡となっていました。義輝は改元の申請を怠るなど(こうしたところはよく調べられているな、と思います)すっかり無気力になっており、細川藤孝は光秀を越前に訪ね、上洛して義輝の真意を探ってほしい、と光秀に依頼します。光秀は今後の自分の道を切り開くためにも、都に行くことを決断します。

 薬をめぐって望月東庵と言い争いになって診療所を出た駒は、伊呂波太夫・関白の近衛前久とともに大和を訪れ、近衛前久は大和の松永久秀を訪ね、久秀の息子の久通が義輝殺害計画に関わっているのではないか、と問い質しますが、久秀は一笑に付します。駒は大和で貧民たちに施しをしている僧侶の覚慶(足利義昭)と出会います。上洛した光秀は、三淵藤英から、義輝が三好長慶を討とうと考えていることを知らされます。義輝は光秀を三好長慶討伐の計画に加えようとしていましたが、冷静に考えて止めた、と伝えます。光秀は義輝に、織田信長を上洛させるよう、提案します。光秀は義輝に、信長を上洛させると約束しますが、改めてその困難を悟ります。その頃、病に伏せていた長慶が没します。

 久々の本放送となりましたが、これまでの人物関係描写が踏まえられており、近衛前久や覚慶という新たな重要人物も登場して楽しめ、今後の展開にも期待させる内容でした。今回は、光秀の娘の玉と藤孝との出会いが描かれ、後に藤孝の息子の忠興と玉が夫婦となる伏線なのでしょう。すでに松平元信(徳川家康)と藤吉郎(羽柴秀吉)から好意を寄せられている駒ですが、足利義昭とも面識ができ、さすがにご都合主義的になりすぎているかな、との感は否めません。もっとも、駒と家康・秀吉・義昭とのつながりが、今後の話に重要な役割を担うかもしれず、そこは大家の作だけに、期待しています。

一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。東条英機については基本的な知識が欠けているので、首相就任前の軍人としての東条英機も詳しく取り上げている本書は、私にとって大いに有益な一冊となりました。東条英機が、その父である軍人の英教から強い反長州閥意識を受け継いだことは知っていましたが、英教の経歴についてはほとんど知らなかったので、この点も勉強になりました。英教は陸大一期生で首席という優秀な人物でしたが、狷介なところがあり、処世に長けていなかったようで、それが中将での退官の要因になったようです。また、英教は兵学では優秀だったものの、実戦指揮では優秀とは言い難く、日露戦争での失態が中将で退官することになった最大の直接的要因だったようです。

 東条英機は父親から強い影響を受けたようですが、異なる点もあります。それは旧藩とのつながりで、英教は出身の盛岡藩への帰属意識をまだ強く有していたようでしたが、息子の英機は幼年学校から士官学校を経て職業軍人となる過程で、出自の盛岡藩ではなく陸軍を「お家」とし、陸軍士官としての自尊心と天皇への忠誠を内面化していったようです。これは、1855年生まれで思春期に明治維新を体験した英教と、1884年生まれで誕生時から「近代」を生きた英機との世代差を反映しているのでしょう。この東条の世界観と信念は、最期まで変わらなかったようです。

 父の英教は退官前に中将に名誉進級した後に予備役編入となり、東条英機は上流とは言えない、当時日本で勃興しつつあった中産階級で育ちました。そこが、東条英機の「平民派」的な性格を育み、首相就任後にゴミ箱を確認するような行動を取った背景になったようです。また本書は、そのように上流階級ではなかった東条家が、日露戦争後の「戦後デモクラシー」の風潮に乗っていた、という側面も指摘します。日露戦争は徴兵されて出兵した国民だけではなく、財政面で「銃後」の国民にも多大な負担を強いました。その結果、国民の側に自分たちにも立場の上下に関わらず発言する権利がある、との観念が浸透していきます。本書は、昭和期の陸軍における「下剋上」的状況は、この日露戦争後の「戦後デモクラシー」に由来するかもしれない、と指摘します。

 東条英機は第一次世界大戦後、ドイツに留学します。これが、東条の軍人としての信念に大きな影響を与えました。東条は、今後の戦争が国力に依存すると強く認識し、戦争指導は統帥権の独立を前提としつつも、国力や政治との調和に基づかねばならない、と考えるようになりました。日露戦争後、次第に軍人の相対的地位が低下し、とくに第一次世界大戦後の世界的な軍縮傾向の中、軍人の間では不遇感と危機感が強くなっており、過去の栄光を持ち出して国民や政治家や官僚に強く出るわけにはいきませんでした。また、この軍人、とくに陸軍の不遇感が、功名を求めての「下剋上」的雰囲気を醸成した側面もあるようです。

 東条はドイツから帰国後、陸大教官を務めた後、歩兵連隊長に任ぜられますが、ここでは兵士たちの食事にも気を遣う「人情連隊長」と言われました。これは、軍事と国民との調和という信念もありますが、より実際的な問題として、第一次世界大戦後に日本でも知識層を中心に左翼思想が浸透する中、徴兵された国民の扱いが疎かだと、軍部への不信感を高めて左翼勢力の伸張を許してしまう、という危機感があったようです。そのため東条は、除隊後の国民の再就職にも力を入れました。

 ドイツに留学した東条は、永田鉄山などと陸軍の中堅将校団体に加わり、総力戦体制の確立を目指し、その後、陸相就任前にはとくに航空戦力を重視するようになります。当初、東条は小畑敏四郎と懇意にしていましたが、やがて感情的に強く反発し合い、犬猿の仲となります。これは、人事問題とも大きく関わっていますが、「統制派」で総力戦体制の構築を重視する東条と、精神主義的で対ソ連戦志向の「皇道派」との対立でもありました。永田が1935年に「皇道派」に惨殺されるなど、両者の対立は激化しますが、その翌年の二・二六事件の結果、「皇道派」は決定的に没落します。東条は、後に妻を介して小畑と和解しようとしたようで、単に狭量なだけの人物ではなかったようです。もっとも、小畑は拒絶したそうですが。

 陸相就任から首相就任直後までの東条は、内心では対米開戦をかなり迷っていたのではないか、と本書は推測します。東条も、内心では日中戦争(公的には「事変」扱いですが)に深入りしすぎたことを後悔していたものの、陸軍中堅層以下と国民からの突き上げ、何よりも東条自身も含めて陸軍首脳部としての対面で、とても中国から撤兵するとは言いだせない状況でした。斎藤隆夫の衆議院での「反軍演説」に代表されるように、陸軍は日中戦争で軍事的に圧倒していると吹聴しているのに、中国から領土や賠償金などを取れないとはどういうことだ、という思いは国民の間で広く共有されていました。多くの犠牲者(中国側の被害は日本側よりもはるかに多いわけですが)を出し、多額の予算を投じながら、米国の要求通りに中国から撤兵することはとてもできない、というわけです。もしそれをやれば、国民が日比谷焼打事件のような暴動を起こすか、陸軍強硬派が二・二六事件のように決起するかもしれない、と東条は恐れていました。

 東条は1941年8月に総力戦研究所から報告を受けており、対米戦が厳しいことも内心では気づいており、海軍の方から対米戦は不可と言ってもらいたかったのではないか、と本書は推測します。しかし、海軍の方は対米戦を想定して軍備を拡充してきた、つまり予算を取ってきた、という経緯があり、今さら対米戦不可とは対面上ひじょうに言い出しにくい状況にありました。本書は、東条を代表とする陸軍側も海軍も、対米交渉妥結にせよ対米開戦にせよ、相手に責任を押しつけたかったのではないか、と指摘します。ここは、人間心理としてひじょうによく理解できるというか、共感できるところです。まあ、一国の指導層がそういうことでは困るわけですが。

 東条は、対米開戦か否か、なかなか決断を下せない状況で、思いもかけず首相に就任します。結局、海軍の側も、対米戦不可とは明言できず、対米開戦に容認的な立場を示すことにより、対米開戦が決定されます。対米英開戦後、東条は首相就任後それまで悲愴な顔をしていることが多かったのに柔和な顔になり、開戦直後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦での戦果を知り、たいへん嬉しそうな表情を見せたそうです。これは、期待以上の戦果を挙げたこともあるのでしょうが、何よりも、対米開戦か米国の要求を受け入れての「臥薪嘗胆」か、悩んでいた東条の心境は、どちらでもよいから早く決めて楽になりたい、というもので、それは天皇や他の指導者や国民も同じだったかもしれない、と本書は指摘します。これは人間心理としてよく理解できます。中国からの撤兵を伴う避戦による国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から逃れようとして、長期的にはもっと悲惨な事態に突入してしまった、ということでしょうか。対米英開戦時の日本人は狂っていた、というような言説を今でもよく目にしますが、「合理的な判断」の積み重ねという側面が多分にあるように思います。また、この決断の前提として、東条もそうですが、対米英戦は絶滅戦争にはならない、という日本の指導層の認識もあったようです。

 首相として対米英開戦を決断した東条は、緒戦の快進撃により求心力を高めたようにも見えますが、国民や右翼や皇道派などの反抗を警戒していた、と本書は指摘します。第一次世界大戦後にドイツに留学した東条は、ドイツが軍事面ではやや優勢だったにも関わらず敗北した理由として、国民が経済封鎖による飢餓に不満を抱き耐えられなかったから、ということをよく理解していました。そのため東条は、国民の間で不満が高まっていないか、強く警戒しました。その結果として、ゴミ箱を視察する首相という、現代では嘲笑されることの多い行動も見られたわけですが、本書は、東条が「人情宰相」として国民に親しまれるよう演技をしていた側面が多分にある、と指摘します。これは、東条が「平民派」として育ったことと関連しており、本書は、たとえば東条と敵対的関係にあった石原莞爾ならば、その傲岸不遜からして、東条のような総力戦体制の指導者を演じられなかっただろう、と指摘します。一方で本書は、永田鉄山ならばそうした役回りを案外器用にこなしたかもしれない、と指摘します。本書はとくに言及していませんが、こうした総力戦体制下の「平民派」として親しまれるような首相は、前任の近衛文麿にもとても務まらなかったでしょう。

 戦時指導者としての東条は、現在では精神力頼みの頑迷固陋な人物との印象も一部で根強いかもしれませんが、本書は、東条が精神力を強調したのは、陸相就任前から重視していた航空戦力の充実が日本の低い生産力では不可能である現状を認識し、ある意味で「合理的な」選択だったことを指摘します。物量を重視し、その不足を強く認識しているからこその、精神力強調だった、というわけです。本書は、当時の国民の一部にも、特攻作戦を「合理的」と認識するような風潮があった、と指摘します。

 東条はサイパン陥落後に、重臣たちに見放されたことを悟り、総辞職に追い込まれます。重臣たちに見放されては、東条が(少なくとも主観的には)忠誠を尽くしてきた天皇からの信用はもはや失われてしまう、との判断がありました。本書は、東条が帝大卒の官僚や政治家といった指導層とは関係が良好ではなく、それは「教養」の格差も一因だったことを指摘します。「平民派」として育ち、少年の頃よりずっと陸軍の世界に生きてきた東条にとって、そうした「教養」を身につけることが難しかったことは否定できないでしょう。また、政権末期の東条は、追い詰められて精神的に不安定なところがあったようです。

 敗戦後、東条は戦犯として逮捕され、死刑となります。東京裁判での東条は天皇の免責に尽力し、失言もあったものの、天皇の免責により日本を自陣営に確保しておこうと考えた米国側の意向もあり、天皇が訴追されることはありませんでした。東条は敗戦が決定すると、敵の脅威に怯えて簡単に降伏する無気力な指導層と国民とは夢にも思わなかった、そんな指導層と国民を信頼して開戦を決断した自分には指導者としての責任がある、と述べています。敗戦に対する国民への責任転嫁と言えますが、本書は、国民を総力戦の同志とみてきた東条にとって、敗戦は国民による掌返し・裏切りと感じられたのだろう、と指摘します。

 この国民への責任転嫁もそうですが、東条には器の小ささが目立ち、首相や陸相はもちろん、そもそも将官級の器でさえなかった、とも思われます。そんな東条が陸軍内で出世して首相にまで就任したのは、陸軍の利益を強引に貫く姿勢を崩さなかったからだ、と本書は指摘します。もちろん、東条が軍事官僚として優れた事務処理能力を有していたことも大きかったのでしょう。それでも、その時々で懸命に自分の立場を演じた東条には、「怪物」・「天才」ではない凡人としての生涯が見えてきて、もちろん東条は私よりもずっと優秀ではありますが、凡人の私にとっては、責任転嫁を図るようなところも含めて、歴史上の多くの有名人の中では身近な人物として感じられます。また、「平民派」的なところも、私にとって東条を身近に感じる要因となります。まあ、そうしたところが、東条が当時の指導層に嫌われたり軽蔑されたりした理由にもなったのでしょう。東条の生涯についてはよく知らなかったので、本書から得たものは多く、また興味深く読み進められました。

陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡

 陶器製調理鍋に残る食習慣の痕跡に関する研究(Miller et al., 2020)が公表されました。この研究は、1年間にわたって週1回の頻度で、素焼きの陶器製の調理鍋で同じ食材を繰り返し調理した後、最終回の調理だけレシピを変える実験を行ない、調理鍋の残渣が、最終回の調理によるものなのか、調理鍋が使用された期間中の調理の蓄積を表しているのか、を調べました。レシピには小麦・トウモロコシ・鹿肉などの食材が含まれていました。

 陶器製の調理鍋に存在した残渣は、調理された食事に由来する炭水化物・脂質・タンパク質から構成されており、この残渣の炭素同位体値と窒素同位体値の化学分析から、それぞれの調理鍋に存在する焦げた食物の残渣は最後に調理された食材のもので、毎回の調理により変化した、と示唆されました。調理鍋の内部表面に形成され、調理時に食物と最も直接的に接触していた薄い残渣層の化学組成は、それまでに調理された食事の混合物でしたが、最後に調理された食事のものに最もよく似ていました。さらなる分析から、脂質は、一定回数の調理を経て陶器の壁面に吸収され、レシピが変わってもすぐには置き換わらず、時間をかけてゆっくりと置き換わり、この調理鍋の使用期間中に調理された食材の混合物が形成される、と示唆されました。

 遺跡から出土した陶器製の調理鍋の3要素(炭化した内容物の残骸、内部表面上の残渣、陶器の壁面に吸収された脂質)を全て分析することにより、さまざまな時間規模で陶器製の調理鍋を使った調理活動を明らかにでき、古代文化で用いられたさまざまな資源を解明して、食事の支度に使用された陶器の寿命を推定できるかもしれない、というわけです。応用範囲の広そうな実験考古学的成果で、今後の研究の進展が注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:陶器製の調理鍋には食習慣の古代史が記録されている

 遺跡から出土した陶器製の調理鍋の3つの要素(炭化した内容物の残骸、内部表面上の残渣、陶器の壁面に吸収された脂質)を分析することは、考古学者たちが、古代文明で用いられた料理の習慣を時系列で詳しく明らかにするのに役立つ可能性がある。この知見は、1年間の調理実験によって得られたもので、今週、Scientific Reports で発表される。

 Melanie Miller、Helen Whelton、Jillian Swiftが率いる7人の考古学者チームは、1年間にわたって週1回の頻度で、素焼きの陶器製の調理鍋で同じ食材を繰り返し調理した後、最終回の調理だけレシピを変える実験を行い、調理鍋の残渣が、最終回の調理によるものなのか、調理鍋が使用された期間中の調理の蓄積を表しているのかを調べた。レシピには小麦、トウモロコシ、鹿肉などの食材が含まれていた。

 陶器製の調理鍋に存在した残渣は、調理された食事に由来する炭水化物、脂質、タンパク質からなっており、この残渣の炭素同位体値と窒素同位体値の化学分析から、それぞれの調理鍋に存在する焦げた食物の残渣は最後に調理された食材のものであり、毎回の調理によって変化したことが示唆された。調理鍋の内部表面に形成され、調理時に食物と最も直接的に接触していた薄い残渣層の化学組成は、それまでに調理された食事の混合物だったが、最後に調理された食事のものに最もよく似ていた。さらなる分析から、脂質は、一定回数の調理を経て陶器の壁面に吸収され、レシピが変わってもすぐには置き換わらず、時間をかけてゆっくりと置き換わり、この調理鍋の使用期間中に調理された食材の混合物が形成されることが示唆された。

 考古学者たちは、3種類の残渣を全て分析することで、さまざまな時間スケールで陶器製の調理鍋を使った調理活動を明らかにでき、古代文化で用いられたさまざまな資源を解明して、食事の支度に使用された陶器の寿命を推定できる可能性がある。



参考文献:
Miller MJ. et al.(2020): Interpreting ancient food practices: stable isotope and molecular analyses of visible and absorbed residues from a year-long cooking experiment. Scientific Reports, 10, 13704.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-70109-8

恋愛に関連しているかもしれない遺伝子

 恋愛に関連しているかもしれない遺伝子についての研究(Sadikaj et al., 2020)が公表されました。この研究は、親密な関係にある男女111組(計222人)に対して、20日間にわたり、本人たちの社会的行動(他者とほほ笑み合ったり笑い合ったりすること、皮肉なコメントをすること、他者に何かを頼んだり譲歩したりすることなど)、パートナーの行動の知覚、パートナーとの交流時の感情について自己申告してもらい、そのデータを調べました。222人中118人(女性65人、男性53人)からは、遺伝情報も得られました。

 その結果、CD38遺伝子の一塩基多型であるCD38.rs3796863が、恋愛パートナーとの日常的な相互作用における伝達行動(愛情表現など)に関連している、と明らかになりました。CD38.rs3796863には、AとCの2種類の多様体があります。そのためCD38遺伝子は、AA・CC・ACの3通りの組み合わせ、つまり遺伝型が存在します。この研究は、CC型の参加者では、AA型やAC型の参加者よりも伝達行動が活発なことを明らかにしました。CC型の参加者は、AA型やAC型の参加者よりもパートナーの伝達行動が活発だと感じており、否定的な感情(心配・欲求不満・怒りなど)を持つことが少ないことも明らかになりました。また、CC型の参加者は、パートナーとの関係の調整(関係の質や支援の知覚など)がより高い水準で行なわれた、と自己申告しました。

 この研究に参加したカップルには、1つのパターンが認められました。参加者自身の行動、パートナーの行動の知覚、否定的な感情と関係調整の経験が、参加者自身の遺伝型ともパートナーの遺伝型とも同じように関連していました。これらの知見からは、非ヒト動物の愛着行動に関連するCD38遺伝子の多様性が、ヒトとヒトの絆を支える行動や知覚において重要な役割を果たしている可能性が示唆されます。非ヒト動物の愛着行動とヒトの恋愛行動には共通の遺伝的基盤があるわけで、人類進化の観点からも注目される研究です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ヒトは恋愛関係のダイナミクスに関連する遺伝子を持っているかもしれない

 ヒト以外の動物の愛着行動に関与するCD38遺伝子の多様性が、ヒトの日常生活における恋愛関係のダイナミクスに関連している可能性があることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Jennifer Bartz、Gentina Sadikajたちの研究チームは、親密な関係にある男女111組(計222人)に対し、20日間にわたって、本人たちの社会的行動(他者とほほ笑み合ったり笑い合ったりすること、皮肉なコメントをすること、他者に何かを頼んだり、譲歩したりすることなど)、パートナーの行動の知覚、パートナーとの交流時の感情について自己申告してもらいそのデータを調べた。222人中118人(女性65人、男性53人)からは、遺伝情報も得た。

 今回の研究から、CD38遺伝子のSNP(一塩基多型)であるCD38.rs3796863が、恋愛パートナーとの日常的な相互作用における伝達行動(愛情表現など)に関連していることが明らかになった。CD38.rs3796863には、AとCの2種類のバリアント(対立遺伝子)がある。そのためCD38遺伝子は、AA、CC、ACの3つの組み合わせ、つまり遺伝型が存在する。Bartzたちは、CC型の参加者が、AA型やAC型の参加者よりも伝達行動が活発なことを明らかにした。CC型の参加者は、AA型やAC型の参加者よりもパートナーの伝達行動が活発だと感じており、否定的な感情(心配、欲求不満、怒りなど)を持つことが少なかった。また、CC型の参加者は、パートナーとの関係の調整(関係の質や支援の知覚など)がより高いレベルで行われたと自己申告した。

 今回の研究に参加したカップルには、1つのパターンが認められた。参加者自身の行動、パートナーの行動の知覚、否定的な感情と関係調整の経験が、参加者自身の遺伝型ともパートナーの遺伝型とも同じように関連していたのだ。

 以上の知見は、CD38遺伝子の多様性が、ヒトとヒトの絆を支える行動や知覚において重要な役割を果たしている可能性を示唆している。



参考文献:
Sadikaj G. et al.(2020): CD38 is associated with communal behavior, partner perceptions, affect and relationship adjustment in romantic relationships. Scientific Reports, 10, 12926.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69520-y

バッタが群れになる原因となるフェロモン

 バッタが群れになる原因となるフェロモンに関する研究(Guo et al., 2020)が公表されました。ワタリバッタ類の大発生が、世界各地で農業および環境の安全を脅かしています。その中で、最も危険なバッタ種の一つであるトノサマバッタ(Locustia migratoria)は、全世界の農業に対する深刻な脅威になっています。ワタリバッタの孤独相から破壊的な群生相への相変異、および大群の形成では、集合フェロモンがきわめて重要な役割を担っています。しかし、既知の候補化合物で、ワタリバッタの集合フェロモンの基準を全て満たすものは存在しません。

 この研究は、行動アッセイ、電気生理学的記録、嗅覚受容体の特性評価、野外実験を用いて、4-ビニルアニソール(4VA;別名4-メトキシスチレン)がトノサマバッタの集合フェロモンであることを明らかにしています。群生相と孤独相の個体はいずれも、齢や性に関係なく4VAに強く誘引されました。4VAは群生相の個体から特異的に放出されますが、その産生は孤独相の個体でも4~5匹集まると誘発される、と明らかになりました。

 4VAは、トノサマバッタの触角の特定の感覚細胞(鐘状感覚子)の応答を特異的に誘発しました。また、4VAの特異的な嗅覚受容体としてOR35が特定されました。CRISPR–Cas9を用いてOR35をノックアウトすると、触角の電気生理学的応答が顕著に低下し、4VAの行動誘引性が損なわれました。さらに、野外での捕獲実験により、4VAの実験個体群および野生個体群に対する誘引性が確認されました。これらの知見は、トノサマバッタの集合フェロモンを特定したもので、ワタリバッタ類の新たな防除戦略を編み出すための洞察をもたらします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


動物行動学:トノサマバッタを敵の大群に変えるフェロモン

 バッタが群れになる原因のフェロモンが明らかになったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。この知見は、バッタの大量発生を制御する新しい方法の開発に役立つかもしれない。

 最も広範囲に分布し、最も危険なバッタ種の1つであるトノサマバッタ(Locustia migratoria)は、全世界の農業に対する深刻な脅威になっている。今回の研究で、Le Kangらの研究チームは、群生するトノサマバッタが放出する4-ビニルアニソール(4VA)という低分子有機化合物を特定した。この分子は、年齢や性別を問わず、全てのトノサマバッタに対して強力な誘引物質として作用する。孤独相のトノサマバッタ4~5匹を同じ場所に収容したところ、これらのトノサマバッタもこのフェロモンを産生し、放出し始めた。また、4VAは、野外実験でもトノサマバッタを誘引した。

 このフェロモンは、バッタの触角にある特定の感覚細胞(鐘状感覚子)によって検出され、この分子が嗅覚受容体OR35と特異的に結合する。Le Kangたちは、遺伝子操作でOR35を欠損させたトノサマバッタが、4VAに誘引されにくくなると報告している。

 Le Kangたちは、以上の知見に基づいて、今後の研究の有望なシナリオ候補をいくつか明示している。例えば、合成した4VAを屋外で使用し、トノサマバッタを罠におびき寄せて駆除できる可能性がある。また、4VA分子の活性を阻害する化学物質を放出することで、トノサマバッタが大群になって移動するのを防止できる可能性もある。こうしたシナリオやその他の関連戦略の実行可能性を検証するためには、さらなる研究が必要となる。


昆虫行動学:4-ビニルアニソールはトノサマバッタの集合フェロモンである

昆虫行動学:ワタリバッタを集合させるもの

 孤独相のワタリバッタは無害だが、集合して大群を形成すると農業および生態系に害が及ぶ。ワタリバッタ類の集合を促進する化合物の正体はこれまで不明であった。今回L Kangたちは、4-ビニルアニソール(4VA)と呼ばれる低分子有機化合物がトノサマバッタ(Locusta migratoria)の集合フェロモンであることを明らかにしている。4VAは群生相の個体によって特異的に放出され、雌雄両方の個体を誘引する。著者たちは、4VAの嗅覚受容体としてOR35を特定し、これが欠損するとトノサマバッタが集合しなくなることを示した。



参考文献:
Guo X. et al.(2020): 4-Vinylanisole is an aggregation pheromone in locusts. Nature, 584, 7822, 584–588.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2610-4

ムカシトカゲのゲノム

 ムカシトカゲのゲノムに関する研究(Gemmell et al., 2020)が公表されました。ムカシトカゲ(Sphenodon punctatus)は、かつてゴンドワナ大陸全域に広く存在したムカシトカゲ目爬虫類に属する唯一の現生種で、ニュージーランドに固有の象徴的な種です。絶滅したステム群爬虫類からは恐竜類・現生爬虫類・鳥類・哺乳類が進化しましたが、このステム群爬虫類との重要な接点であるムカシトカゲは、祖先的な羊膜類に関して重要な手掛かりをもたらします。

 この研究は、ムカシトカゲのゲノムを解析しました。ムカシトカゲのゲノムは約5 0億塩基対で、これまでに解読・構築された脊椎動物ゲノムの中で最大級となります。このゲノム解析と、他の脊椎動物ゲノムとの比較からは、ムカシトカゲの特異性を強める結果が得られました。系統発生学的解析からは、ムカシトカゲの系統が約2億5000万年前にヘビ類およびトカゲ類の系統から分岐した、と示されました。また、ムカシトカゲ系統の分子進化速度は速くはなく、断続的な進化が起きていたことも明らかになりました。

 このゲノム塩基配列解析からは、タンパク質・ノンコーディングRNAファミリー・反復エレメントの拡大が明らかになり、反復エレメントについては爬虫類の特徴と哺乳類の特徴との混合が示されました。これにより、ムカシトカゲの極めて低い活動時の体温・きわめて長い寿命・感染症に対する抵抗性を説明する、候補遺伝子群が明らかになりました。ムカシトカゲゲノムの塩基配列解読結果は、ムカシトカゲの生物学的研究や保全のみならず、四肢類の詳細な比較解析を行なうための価値ある情報資源となります。この研究はまた、ゲノム塩基配列解読に関連する技術的課題と文化的責務の両方に関する重要な洞察を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ゲノミクス:ムカシトカゲのゲノムから明らかになった羊膜類進化の古い特徴

ゲノミクス:象徴的な爬虫類のゲノムアセンブリ

 ムカシトカゲ(Sphenodon punctatus)は、他の全ての爬虫類との共通祖先を約2億5000万年前に有する爬虫類系統の最後の生き残りである。今回N Gemmellたちは、ムカシトカゲ1個体のゲノムを解読・構築することで、約5 Gbpというゲノムサイズを示し、注釈付けによって遺伝子1万7448個を明らかにするとともに、ゲノム全体に多くの反復配列が見られることを報告している。また、その進化速度はかなり遅いこと、さらには、ムカシトカゲの極めて低い活動時の体温、極めて長い寿命、感染症に対する抵抗性を説明する候補遺伝子群が明らかになった。



参考文献:
Gemmell NJ. et al.(2020): The tuatara genome reveals ancient features of amniote evolution. Nature, 584, 7821, 403–409.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2561-9

愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析

 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の人骨(IK002)のゲノム解析に関する研究(Gakuhari et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、すでに昨年(2019年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は昨年の記事で言及していなかったことや、査読前の論文公開後の関連研究などを中心に簡単に取り上げます。

 昨年の記事では省略しましたが、下書きを読み返して思い出したのが、伊川津貝塚遺跡だけではなく、同じく愛知県田原市の保美町貝塚遺跡と、大分県中津市本邪馬渓町の枌洞穴遺跡の、縄文時代の合計12人からのDNA抽出が試みられた、ということです。このうちIK002と枌洞穴遺跡の1個体(HG02)のみ、内因性DNA含量が1.0%以上でしたが、典型的な古代DNA損傷パターンを示したのはIK002だけでした。昨年、査読前論文を読んだ時にはとくに意識しませんでしたが、大分県の縄文時代遺跡の人類遺骸からの古代DNA解析に成功していたら、西日本では最初になるだろう「縄文人(縄文文化関連個体)」のゲノムデータが得られていたわけで、残念です。おそらく、西日本の「縄文人」のDNA解析の試みは続けられているでしょうから、今後の研究の進展に期待しています。また、昨年の記事では言及していませんが、性染色体の比率に基づく方法では、IK002は女性と推定されています。

 本論文は、IK002も含めて東日本の縄文人の密接な遺伝的近縁性を示すとともに、縄文人の祖先集団の拡散経路を検証しています。縄文人以外でIK002と遺伝的に比較的近縁なのは、現代人ではアイヌ集団で、古代人ではラオスの8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民個体(La368)です(関連記事)。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(MA-1)は、遺伝的にはユーラシア西部系と近縁ながら、アメリカ大陸先住民とのつながりも指摘されています(関連記事)。このMA-1の系統は、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)の子孫と推測されています(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。

 IK002には、MA-1系統からの遺伝子流動の痕跡はほとんど検出されず、これはアジア東部および南東部の現代人も同様です。そのため本論文は、IK002にはユーラシア大陸を北方経路(ヒマラヤ山脈の北側)で東進してきた現生人類(Homo sapiens)の遺伝的影響は見られず、南方経路で東進してきた集団の子孫だろう、と推測します。ただ本論文は、他の縄文人個体では北方経路集団の遺伝的痕跡が見つかる可能性も指摘しています。本論文は、縄文人がユーラシア東部でもひじょうに古い系統で、南方経路で拡散してきた可能性を指摘し、現代人でもアメリカ大陸先住民やアジア東部および北東部集団は、おもに南方経路で東進してきた現生人類集団の子孫だろう、と推測しています。以下、昨年の記事でも掲載しましたが、より高画質なので、改めてIK002の系統関係を示した本論文の図4を掲載します。
画像


 以上、本論文についてごく簡単に見てきましたが、今年になって大きく進展した中国の古代DNA研究を踏まえると(関連記事)、本論文とはやや異なる想定も可能ではないか、と思います。とくに重要だと思われるのは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(Wang et al., 2020)です(関連記事)。この研究では、出アフリカ現生人類集団は、まずユーラシア東西両系統に分岐します。ユーラシア西部系の影響を強く受けたのがANSで、アメリカ大陸先住民にも一定以上の影響を残し、アジア北東部(シベリア東部)の現代人も同様ですが、縄文人も含めてアジア東部集団は基本的にユーラシア東部系統に位置づけられます。

 ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部南方系統に分類されるのは、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人、古代人ではホアビン文化個体のLa368です。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに北方系統と南方系統に分岐します。北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体(関連記事)は、本論文ではユーラシア東部系統で最も早く分岐した系統と位置づけられていますが、Wang論文では、ユーラシア東部北方系統から早期に分岐した系統と位置づけられます。Wang論文で注目されるのは、縄文人がユーラシア東部南方系統(45%)とユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部南方系統(55%)の混合とモデル化されていることです。

 一方、本論文では、IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本州・四国・九州を中心とする「本土日本人集団」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定されています。しかし、台湾先住民のアミ人(Ami)へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人集団」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。しかし、Wang論文のモデル化を踏まえると、これは台湾先住民であるアミ人と縄文人がともに、アジア東部南方系統から強い遺伝的影響を受けたのに対して、「本土日本人集団」ではアジア東部北方系統からの影響が強い(84~87%)ことを反映している、と整合的に解釈できそうです。もちろん、Wang論文のゲノムデータも充分とはとても言えないでしょうから、今後のゲノムデータの蓄積により、さらに改良されたモデルが提示され、縄文人、さらには現代日本人の起源もより正確に理解できるのではないか、と期待されます。以下、これらの系統関係を示したWang論文の図5です。
画像

 また本論文は、アジア東部および北東部(シベリア東部)やアメリカ大陸先住民の主要な祖先が南方経路で東進してきた、と推測していますが、Wang論文を踏まえると、これも異なる可能性が考えられます。これらの地域の現代人の主要な祖先はアジア東部北方系統と推測されますが、これはユーラシア東部北方系統から派生しており、北京近郊の4万年前頃の田园個体の系統もこれに分類されます。ユーラシア東部北方系統は4万年前頃までにはアジア東部沿岸地域まで到達していた可能性が高く、ANS集団のシベリア北東部への到達がそれより遅れたと考えると、アジア東部北方系統も北方経路で拡散してきた可能性が考えられます。ANSはユーラシア西部系統とアジア東部人関連系統との混合により形成されており、これはアジア東部北方系統の南方経路東進説とも矛盾しませんが、北方経路説とも矛盾しません。アジア東部北方系統、さらにはその祖先系統であるユーラシア東部北方系統がどの経路で東進してきたのか、現時点では確定できませんが、初期上部旧石器群(Initial Upper Paleolithic)の分布がユーラシア北方における現生人類拡散の指標だとすると、北方経路説の方が妥当だろう、と私は考えています。


参考文献:
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2

Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606

中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果

 中国陝西省の石峁(Shimao)遺跡の発掘成果について報道されました。紀元前2300~紀元前1800年頃の石峁遺跡では、高台にある長方形の20段のピラミッド状建築物(ギザの大ピラミッドと比較して、高さは半分ですが、底面積は4倍とのことです)やその周囲を取り囲む全長10km以上の防壁、壁画や翡翠といった工芸品、生贄の証拠が見つかっているそうです。高台の最上部には、専用の貯水槽や工房、儀式用の神殿と見られる建造物を備えた複合施設もあったそうです。翡翠の産地は、石峁遺跡から最も近くても1600km離れているそうです。石には70個の浮き彫り細工(レリーフ)も見つかり、大蛇や怪物や半人半獣などの図像があり、中華地域における後の青銅器時代のものに似ているそうです。

 陝西省北部では、石峁遺跡と同じ時代の石造りの町が、70以上も発掘されているそうで、そのうち10の町は石峁遺跡と同じく禿尾河流域にあり、こうした衛星都市が強固な社会基盤となり、初期の石峁を形成していた可能性が指摘されています。石垣の内側では革新的な技術が見つかりました。それは、補強に使われた木の梁で、年代測定の結果、紀元前2300年の木と明らかになりましたが、こうした工法は以前には、後の漢王朝の時代に考案されたと考えられてきました。

 東壁の下では、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていましたが、体の骨は見つかりませんでした。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設するさいの儀式で首を切られた、と示唆されています。これは、中国史上最古の人身御供の事例となりそうです。犠牲者のほぼ全員が少女で、おそらくは敵対勢力に属していた捕虜だろう、と推測されています。これが、後の殷(商)王朝による大規模な人の生贄につながっていったのかもしれません。

 この記事は、僻地とも思える場所に紀元前2300年~紀元前1800年頃にこうした大規模な都市が栄えていたことは意外であるかのように示唆しますが、これは近世以降の関中の状況を当てはめた偏見のように思います。古代から中世にかけて、現代の陝西省一帯にはたびたび王朝の都が置かれましたし、先史時代においては、西方世界に近いその位置は、「先進的な」文化の導入に有利だった、とも考えられます。この記事でも、石峁が、東方の黄海沿岸地域だけではなく、西方のアルタイ地域も負決めてさまざまな地域との文化・技術・物資の交換していた、と指摘されています。ウシ・ヒツジなどの家畜や冶金技術など、中華地域は西方世界から「先進的な」文化を多く取り入れ、「発展」していった、と考えられます。

 石峁遺跡が紀元前1800年頃に放棄された理由については、地震・洪水・疫病ではなく、気候変動だった、と推測されています。紀元前2300年頃には、気候が比較的温暖・湿潤で、黄土高原に人口が流入していましたが、紀元前2000年から紀元前1700年にかけて急激な気候変動が起こり、乾燥した寒冷な気候になって、湖は干上がり、森は消え、砂漠が広がった、と推測されています。石峁遺跡については、経済がどう機能していたのか、その他の同時代文化とどのように交流していたのか、文字はあったのか、といった問題があり、今後の研究の進展が期待されます。

 後期新石器時代となる石峁遺跡については、最近注目していたので、この報道を取り上げました。それは、石峁遺跡の人類遺骸からゲノムデータが得られているためです(関連記事)。石峁遺跡の後期新石器時代個体群は、遺伝的には黄河中流域の中期新石器時代個体群と類似しています。この黄河流域新石器時代個体群と類似した遺伝的構成の集団が、現代のチベット人および日本人の主要な遺伝的祖先と推測されています(関連記事)。チベット人の形成過程については、最近より詳しく検証した研究が公表されています(関連記事)。

 黄河流域新石器時代集団がどのように形成されたのか、アジア東部の更新世人類のゲノムデータがほとんど得られていないため、不明です。日本列島やチベットと黄河流域の農耕開始の年代差から考えると、まず黄河流域で農耕集団が確立し、日本列島やチベットへと拡散していった、と想定するのが妥当でしょう。これら古代ゲノム研究により、シナ・チベット語族の起源は黄河流域新石器時代集団にある、と推測されています。

 一方、日本語はシナ・チベット語族とは大きく異なり、系統関係を追うことができません。同じく黄河流域新石器時代集団の遺伝的影響を強く受けているのに、日本列島の言語がシナ・チベット語族とは大きく異なる日本語である理由は、最近取り上げてみたものの(関連記事)、私の知見・能力ではよく分かりませんでした。この問題は、永久に確証が得られないかもしれませんが、古代ゲノム研究の進展に伴いより妥当な推測が可能かもしれず、その点でも今後の古代ゲノム研究に注目しています。

古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史

 古代DNAに基づく近年のユーラシア東部の人類史研究を整理した概説(Zhang, and Fu., 2020)が公表されました。古代DNA研究により、人類の歴史と進化に関する知識が増えました。ユーラシア西部での研究により、人類集団の移動と混合に関する既存の仮説を比較して評価し、以前には考慮されていなかった新たな仮説の提唱が可能となりました。古代DNA研究はまだ揺籃期にあり、ユーラシア東部での研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れており、ユーラシア東部に関するほとんどの大規模な古代DNA研究は、ユーラシア草原地帯を対象としていました。多くの問題が未解決ですが、古代DNA研究は前進しており、ユーラシア東部の人類集団史に新たな知見を提供しつつあります。本論文は、ユーラシア東部集団に関する最近のさまざまな古代DNA研究を検証し、異なる系統と移住を論じ、現代人の遺伝的歴史への影響を強調します。


●後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)以前に、現生人類(Homo sapiens)はシベリア北東部からイベリア半島までユーラシア全域に拡散しました。しかし、ユーラシア東部の後期更新世のゲノム規模データはほとんどなく、ユーラシア東部南方(アジア東部南方とアジア南東部)からはまだ得られていません。本論文はまず、ユーラシア東部北方の後期更新世ゲノム規模データにより明らかになった、ユーラシア東部の現生人類の異なる系統をまとめます。

 ユーラシア東部の後期更新世においては主要な3人類集団が報告されています。まず、現代人への遺伝的寄与は実質的になかったと考えられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の個体(関連記事)に代表される集団です。このウスチイシム個体のY染色体ハプログループ(YHg)はユーラシア東部で典型的なNOで、ゲノム規模データからは、ユーラシア西部の古代狩猟採集民とアジア東部の古代人および現代人の双方から同じ遺伝的距離にある、と示されています。これは、ウスチイシム個体がユーラシア東西の現代人の祖先の前、もしくは同時に分岐した集団に区分されることを示唆します。

 次に、アジア東部現代人と関連する現生人類集団で、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体に代表されます(関連記事)。この田园個体は、ヨーロッパの古代人もしくは現代人よりも、アジア東部現代人・ほとんどのアジア南東部現代人・アメリカ大陸先住民の方と遺伝的に密接で、東方アジア人集団とヨーロッパ人集団が遅くとも4万年前頃までに分岐していたことを明らかにしました。この田园個体は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)との遺伝的つながりを示しており、早期ヨーロッパ人と早期東方アジア人との間の分離は、単一集団の分岐ではなかった、と示唆されます。

 最後に、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)です(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(関連記事)と、17000年前頃のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の2個体は、他のユーラシア西部狩猟採集民よりもANSと密接に関連しており、ANS系統の子孫としてモデル化できます。これらの研究から、ANS関連系統は古代シベリア人においてかつて広範に拡散していた、と示唆されます。25000±1100年前頃には、ANS関連系統とアジア東部人関連系統の混合により、アメリカ大陸先住民祖型集団(38%程度がマリタ個体関連系統)が形成されました(関連記事)。これらの異なる系統は、後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団の多様性を強調します。

 現生人類の地域的な遺伝的違いと適応を形成するうえで、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑が重要な役割を果たしてきました(関連記事)。ユーラシア東部では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)という、2つの異なる分類群の古代型ホモ属が確認されています。非アフリカ系現代人のゲノムに残るネアンデルタール人由来の領域は、おもに6万~5万年前頃の出アフリカ現生人類とネアンデルタール人との間の交雑によりもたらされた、と推測されています。デニソワ人は南シベリアとチベット高原で確認されており(関連記事)、アジア東部現代人もわずかにデニソワ人からDNAを継承している、と推定されています(関連記事)。今後、上部旧石器時代の人類のDNA解析が蓄積されていけば、現代人に見られる古代型ホモ属系統の多様性と、いつどこで交雑が起きたのか、ということもより解明されていくでしょう。


●ユーラシア東部における前期新石器時代の人口構造

 ユーラシア東部の前期新石器時代集団は、遺伝的に異なっていました。本論文はその中で主要な集団として、古代シベリア人(APS)と古代アジア東部北方人(ANEA)と古代アジア東部南方人(ASEA)と異なる基底部アジア人2集団(BA1およびBA2)を取り上げます。

 APSは9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)に代表されます(関連記事)。APSは遺伝的にはおもにアジア東部人関連系統で構成され、ANS関連系統からも多少(16.6%程度)遺伝的影響を受けており、アメリカ大陸先住民と類似した遺伝的構成を示します(アメリカ大陸先住民よりもアジア東部系統の影響をやや強く受けています)。シベリアでは完新世に、現代シベリア人につながる新シベリア集団(NS)が拡散していき、おおむねAPSを置換しましたが、APSの遺伝的影響を強く残している集団も存在します。

 ANEAには、極東ロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体群(関連記事)や、淄博(Boshan)遺跡など中国山東省の新石器時代個体群(関連記事)、南シベリアのバイカル湖地域の7100~6300年前頃の15個体(関連記事)が含まれます。これら前期新石器時代個体群はクレード(単系統群)を形成し、アジア東部南方の古代人および現代人集団も含めてアジア他の全人類よりも、東部北方の現代人集団と近縁です。しかし、APS関連系統も淄博遺跡や悪魔の門遺跡やバイカル湖地域の個体群で攪乱されており、APS関連が遅くとも8000年前頃までにはANEAとつながりを有していた、と示唆されます。大規模な集団置換のない完新世に、悪魔の門遺跡地域では高水準の遺伝的連続性が観察されています。対照的にバイカル湖地域では、集団置換的事象があり、上部旧石器時代のAPS関連系統が前期新石器時代にはANEA関連系統を有する集団におおむね置換されましたが、APS、さらには一部がその母体となったANS関連系統が、青銅器時代集団でもわずかに確認されています(関連記事)。これらのパターンは、アジア東部北方全域におけるアジア東部北方系統の共有と、シベリアへの北上を示唆します。

 ASEA系統は、福建省の前期新石器時代個体群に代表されます(関連記事)。ASEA系統はANEAと大きく異なり、4600~4200年前頃の福建省の個体群でも確認されます。ASEA関連系統集団は、アジア南東部のいくつかの集団とオーストロネシア語族集団の主要な祖先となりました。ASEA関連系統の拡大の詳細は後述されます。

 BA1はおもに、8000~4300年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)個体群に代表されます(関連記事)。BA1は現代人ではアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人とクラスタ化します。オンゲ人はアジア南部集団の系統の「第1層」となります。BA1は他のユーラシア東部集団と古くに分岐し、おそらくは田园個体に代表される系統と同じ頃で、ほとんどのアジア東部現代人には外群となります。BA2は日本列島の縄文文化の後半期(3800~2500年前頃)の集団と関連しており(関連記事)、アジア東部現代人および古代人の系統とはひじょうに早く分岐した、と推測されます。これら縄文文化関連個体群(縄文人)は、田园個体やホアビン文化狩猟採集民よりもアジア東部の南北の両個体群とより密接な関係にありますが、アメリカ大陸先住民の主要な祖先となった集団より早く、アジア東部の南北両系統と分岐した可能性が高い、と推測されます。

 チベット人系統は、チベット高原の古代人(関連記事)および現代チベット人により表されます。現代チベット人はアジア東部現代人と密接に関連しています。しかし、古代ユーラシア東部人との比較では、チベット人はアジア東部北方人とより密接に関連している、と明らかになります。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、現代チベット人において5200年前頃から部分的な母系継続性がある、と推測されており(関連記事)、まだ検出されていないチベット高原のより古い系統が示唆されます。現時点での証拠から、古代チベット人は以前の想定よりも複雑で多様だった、と示唆されますが、チベット高原の古代DNAはまだ不足しており、さらなる研究が必要です。以下、これらの系統の関係を示した本論文の図1です。
画像


●完新世のユーラシア東部における南方への移動

 完新世の人類集団の移住も、ユーラシア東部現代人の人口構造の形成に大きな役割を果たしました。完新世において、ユーラシア東部では少なくとも3つの主要な南方への移動があり、アジア東部南方におけるアジア東部北方関連系統の増加、アジア南東部のBA1と現在の中国からのアジア東部系統との混合、中国南部の古代人のゲノムに見られるオーストロネシア語族と密接に関連した系統により証明されます。

 アジア東部南方では、アジア東部北方人関連系統が増加していきました(関連記事)。アジア東部南方の後期新石器時代個体群では、ANEA関連系統の増加が見られます。さらに、アジア東部大陸部の全現代人は、ASEA関連系統よりもANEA関連系統の方と多くの類似性を示します。混合モデルでは、ANEA関連系統がアジア東部南方大陸部現代人に強い影響を与えたものの、ASEA関連系統は依然としてある程度存続している、と示されます。アジア東部北方の前期新石器時代集団では、黄河下流域の山東省集団が、アジア東部現代人全員に見られるANEA系統と最も密接に関連しています。一方、いくつかのアジア東部北方集団では、ASEA関連系統がわずかに見られます。

 アジア東部人関連系統のアジア南東部への拡大は4000年前頃に始まり、アジア東部南方からの遺伝子流動がアジア南東部現代人の遺伝的構成大きな影響を与えた、と示されています(関連記事)。しかし、アジア南東部の狩猟採集民に代表されるBA1の痕跡は、アジア南東部現代人において依然として見られ、アジア東部関連系統集団の複数回の移住とアジア南東部先住民集団との混合により特徴づけられる、複雑な移行が示唆されます。古代DNA研究からは、「第1層」としてのBA1と後に到来した「第2層」のアジア東部南方系の農耕民との混合により、アジア南東部現代人の遺伝的多様性が形成されたと推測され、これは以前の仮説と一致します。

 ASEA関連系統はオーストロネシア語族現代人と最大のつながりを示し、オーストロネシア語族の起源が中国本土南東部沿岸にある、という仮説と一致します。祖型オーストロネシア語族の子孫は台湾へと拡散したかもしれず、台湾先住民系統と漢人系統との最初の分岐は10000~8000年前頃と推定されています。バヌアツの3000年前頃の個体群は、アジア東部南方古代人でも前期新石器時代(8400~7500年前頃)よりも後期新石器時代(4600~4200年前頃)個体群の方と密接に関連しています。

 1900年前頃以降のフィリピンの個体群は、インドネシアの現代人および2300~1800年前頃の個体群とクラスタ化し、オーストロネシア語族関連系統とオーストロアジア語族関連系統の混合としてモデル化できます。これは、アジア南東部へのオーストロネシア語族の拡大が遅くとも、インドネシアでは2100年前頃までに、フィリピンでは1800年前頃までに起きたことを示唆します。全体的に、中国南部とオセアニアの古代DNAデータは、アジア東部南方からアジア南東部と太平洋南西部の島々への南下の波を示唆します。こうした南方への移動はユーラシア東部現代人集団の形成に大きな役割を果たし、遺伝子流動がユーラシア東部集団の歴史に大きな影響を与えた、と強調します。以下、これらの集団移動を示した本論文の図2です。
画像


●まとめ

 ユーラシア東部の古代DNA研究は進展していますが、アジア東部大陸部の研究はまだ不足しています。最近では、上述のようにアジア南東部やオセアニアの古代DNA研究も進展しており、高温多湿地域での古代DNA解析がますます期待されます。高温多湿地域での更新世遺骸のDNA解析は困難ですが、中国広西チワン族自治区で発見された22000年前頃のジャイアントパンダ(Ailuropoda melanoleuca)の遺骸のmtDNAが解析されており(関連記事)、人類遺骸への応用も可能でしょう。

 将来の研究は多くの未解決の問題に対処し、アジア東部におけるより高密度の標本抽出によって、集団変化と相互作用をより詳細に調べられます。たとえば、狩猟採集から農耕への移行はどのように進んだのか、遺伝的にはかなりの置換があったのか、それとも在来集団が農耕を採用したのか、といった問題です。よく研究されていない地域のデータは、過去の集団拡大への新たな洞察を提供し、現生人類の歴史をより深く解明するのに役立ちます。たとえば、チベット高原の古代DNAデータは、いつどのように農耕集団がチベット高原に拡大してきたのか、証拠を提供するでしょう。古代DNAデータは、古代型ホモ属からの自然選択と適応、たとえば高地適応が、どのように現生人類に影響を及ぼしたのか、解明するのに役立ちます。今後の古代DNA研究はユーラシア東部集団の複雑な歴史の解明に役立つでしょう。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、近年のユーラシア東部の古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文を読めば、後期更新世から完新世にかけてのユーラシア東部の現生人類史に関する、現時点での概略を把握できるでしょう。ただ、おそらく本論文の投稿までに間に合わなかったために、本論文では研究されていない論文が査読前のものも含めてあり、ユーラシア東部関連でも古代DNA研究が急速に進展していることを示しています。

 査読前論文では、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究があります(関連記事)。本論文では、「縄文人」はBA2とされましたが、この研究では、本論文の表記を用いると、「縄文人」はBA1関連系統(45%)とASEA関連系統(55%)の混合と推定されています。近縁な分類群間の関係を系統樹で表現することには限界がある、という問題とも言えるでしょう。もちろん、「縄文人」がBA1とASEAの混合という推定もモデル化にすぎず、単純化されているわけで、どこまで妥当なのか、よりよいモデル化があり得るのではないか、といった問題は今後の研究の進展を俟つしかありません。

 新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部北方の黄河地域集団において、新石器時代に稲作農耕の北上に伴ってASEA関連系統が増加する、と示されています。本論文でも指摘された、アジア東部における人類集団の移動は、北方から南方だけではなくその逆もあった、というわけです。チベット人の形成過程に関しても、査読前論文が公開されており(関連記事)、本論文で指摘されたチベット高原のより古い系統がBA1関連系統と推測されています。最近、ヨーロッパと比較すると大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究が飛躍的に発展したので、今後の研究の進展にたいへん期待しています。


参考文献:
Zhang M, and Fu Q.(2020): Human evolutionary history in Eastern Eurasia using insights from ancient DNA. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 78-84.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.06.009

ホモ・ナレディの下顎小臼歯の分析と比較

 ホモ・ナレディ(Homo naledi)の下顎小臼歯の分析と比較に関する研究(Davies et al., 2020)が公表されました。ホモ・ナレディは南アフリカ共和国のライジングスター洞窟群(Rising Star Cave)で発見され、2015年に公表されたホモ属の新種です。ライジングスター洞窟においては、ディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で新生児から高齢個体まで少なくとも15個体分の化石が発見され、レセディ空洞(Lesedi Chamber)では成体と未成体を含む少なくとも3個体分の化石が確認されており、その年代は、中期更新世後期となる335000~226000年前頃と推定されています(関連記事)。

 ナレディは、個々の形態では他の人類系統と類似したものを示しますが、その組み合わせが独特なので、系統学的位置づけは困難です。ナレディは平均身長が約150cm(男性)、体重は約40kg~56kg、脳容量は推定465ml~560mlと推定されています(関連記事)。ナレディの脳容量はほとんどのホモ属の下限を下回りますが、頭蓋形態に関しては他のホモ属との類似性が指摘されています(関連記事)。ナレディの足と手に関しては、現代人的(派生的)特徴と祖先的特徴との混在が指摘されており(関連記事)、指や四肢や骨盤ではアウストラロピテクス属的な祖先的特徴が指摘されています。

 ナレディの歯も独特な組み合わせを示し、犬歯よりも後列の永久歯ではアフリカの他の人類のような特徴がない一方で、乳歯ではパラントロプス属のような特徴を示し、大臼歯の歯根ではホモ・ハビリス(Homo habilis)との類似性が見られます。下顎小臼歯の形態は人類の分類で有用とされており、ナレディの第1小臼歯(P3)はひじょうに特徴的と示唆されています。下顎小臼歯に関して、最近ではEDJ(象牙質とエナメル質の接合部)の形態が人類の分類にひじょうに有効かもしれない、と示されています。

 そこで本論文は、ナレディの小臼歯のEDJとCEJ(セメント-エナメル境)の形態を、アウストラロピテクス属・パラントロプス属・ホモ属と比較します。アウストラロピテクス属はアフリカ南部のアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属はアフリカ南部のロブストス(Paranthropus robustus)、ホモ属は、ハビリスやエレクトス(Homo erectus)などアフリカ南部および東部の初期ホモ属と、ヨーロッパのネアンデルタール人と、さまざまな地域の現生人類(Homo sapiens)で、その他に分類の曖昧な人類遺骸が比較対象となります。この曖昧な分類の人類遺骸は、いずれも南アフリカ共和国で発見された、Stw 151とSK 96(通常はパラントロプス属に分類されます)と炉床洞窟(Cave of Hearths)個体です。

 EDJとCEJの形態の主成分分析により、ナレディのP3は他の人類系統分類群とは異なる、と明らかになりました。PC1軸では、ナレディはネアンデルタール人および現生人類と明確に区別され、PC2軸ではアウストラロピテクス・アフリカヌスやホモ・エレクトスと明確に区別されます。ナレディに最も近いのはパラントロプス・ロブストスで、非対称的な歯冠や高い近心側辺縁隆線(mesial marginal ridge)などの共有に起因します。しかし、PC3軸ではナレディとパラントロプス・ロブストスは明確に区別されます。

 第2小臼歯(P4)の主成分分析では、P3の主成分分析と同様にPC1軸で現生人類およびネアンデルタール人が他の分類群と明確に異なり、PC2軸でネアンデルタール人と現生人類が区別されます。ナレディはPC1軸ではネアンデルタール人および現生人類と他の分類群との中間に位置します。PC2軸ではアウストラロピテクス・アフリカヌスとパラントロプス・ボイセイが区別されず、ナレディはエレクトスなど他の早期ホモ属と区別されます。

 小臼歯のサイズに関しては、P3・P4ともに、ナレディは現生人類よりもかなり大きく、ネアンデルタール人とほぼ同じです。本論文の検証対象となった人類系統において、ナレディはP3よりもP4の方が平均して小さい唯一の分類群で、しかもその違いは著しく、これは特異的です。ただ、ホモ属標本の中には、ナレディに近いパターンを示すものもあります。アフリカ東部のKNM-ER 992およびKNM-ER 1507はP3よりもP4の方がやや小さく、これらはエレクトスに分類されます。Stw 151はP3よりもP4の方がやや大きく、STW 80はナレディのようにP3よりもP4の方が著しく小さくなっています。ネアンデルタール人と現生人類の個体でも、P3とP4のサイズが重なる場合もあります。

 本論文はこれらの分析から、ナレディの食性の生態的地位は他の人類集団とは異なるものだったもと推測します。以前の研究では、他の人類系統分類群と比較して、ナレディは内部の変異水準が低い、と指摘されています。小臼歯のEDJ形態は、ディナレディ空洞個体群内でもレセディ空洞個体群内でも均一です。歯の形態は遺伝性が高いと考えられており、ナレディの遺伝的多様性の低さを反映しているかもしれません。これは、既知のナレディ個体が、単一集団において相互に関連している可能性を示唆します。ただ、標本数の増加によりナレディの小臼歯の多様性が増加する可能性もあります。

 ナレディの小臼歯は先行する人類よりもおおむね小さく、ネアンデルタール人の変異幅と重なります。P3とP4のサイズに関して、P4よりもP3の方が著しく大きいという点で、上述のようにナレディは特異なパターンを示しますが、STW 80は初期ホモ属として唯一、ナレディと類似しています。ただ、P3とP4の両方を保持している個体は比較的少ないので、個体群内でのこのパターンの一貫性を調べるには、さらなる調査が必要になる、と本論文は指摘します。

 上述のように、ナレディの形態には祖先的特徴も強く見られますが、小臼歯に関しては初期ホモ属標本の大半といくつかの明確な違いを示します。一方、ホモ属としては祖先的特徴の強さが指摘されるハビリスは、主成分分析のPC2軸では中間的で、アウストラロピテクス属とより類似しています。これらの結果から、ナレディとエレクトスに表される派生的な小臼歯の形態は、より一般化されたハビリスのような祖先とは別に進化した可能性が示唆されます。

 南アフリカ共和国のスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟で発見されたStw 80は初期ホモ属と分類されており、南アフリカ共和国のスワートクランズ(Swartkrans)洞窟標本(SK 15)との強い類似性が指摘されてきました。上述のように、P3とP4のサイズに関してStw 80はナレディとの類似性を示します。これは、Stw 80とナレディとの系統関係を示唆しているかもしれませんが、それを確定するにはさらなる調査が必要です。

 P3の主成分分析において、PC1軸およびPC2軸でナレディに最も近い分類群は、上述のようにパラントロプス・ロブストスです。しかし、PC3軸では両者は明確に異なり、サイズにも明確な違いが見られます。そのため、両者の類似は成因的相同(相似)かもしれません。しかし、通常はパラントロプス属に分類されるSK 96(本論文では曖昧な分類とされます)を検証すると、問題は複雑になります。SK 96はP3形態では他のどの標本よりもナレディと類似していますが、上述のようにStw 80はP3とP4のサイズに関してナレディとの類似性を示し、さらにP4形態ではナレディと最も類似しています。

 SK 96などスワートクランズ洞窟の人類はナレディと系統的に関連しているかもしれませんが、Stw 80とナレディとの類似性からも同様の関連を想定できるかもしれません。スワートクランズ洞窟とスタークフォンテン洞窟の人類はナレディよりも100万年以上前と推定されており、ナレディは他のホモ属と早期に分岐した、と推測されています。炉床洞窟個体はナレディよりも数十万年古いと推定されていますが、その形態はネアンデルタール人や現生人類の方と類似しており、この点もナレディがホモ属系統において早期に分岐したことを示唆します。ただ、スワートクランズ洞窟とスタークフォンテン洞窟の人類とナレディとの類似性は、上述のように成因的相同で系統関係を意味しないかもしれません。

 ナレディの小臼歯の形態は、本論文で取り上げられた他の標本と比較すると、P3とP4の両方でよく発達した近心舌側咬頭や、強く発達した近心側辺縁隆線など、ひじょうに一貫しており均質です。これらの特徴的形態は、将来断片的な遺骸をナレディと分類するさいに役立つ可能性があります。以前にはパラントロプス・ロブストスに分類されていたSK 96は、P3のEDJ形態では異なっており、ホモ属に分類できるかもしれませんが、その詳細な関係についてはさらなる調査が必要です。

 本論文はナレディの小臼歯の形態を他の人類集団と比較し、まだ不明なところが分にあるナレディの系統関係にも言及しています。本論文の指摘のように歯は遺伝性が高いので、系統関係の分析には適した形態と言えるでしょう。しかし、標本数の少なさと個々の標本の不完全さにより、本論文でも明確な結論は提示されていません。これまでパラントロプス・ロブストスに分類されてきたSK 96が、ナレディとの類似性を示し、初期ホモ属に分類できるかもしれない、との見解は興味深く、ナレディがアフリカ南部の初期ホモ属から進化した可能性を示唆します。

 しかし、ナレディの派生的特徴を考えると、エレクトス系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後に、ナレディが後者と分岐した、と推測する頭蓋データに基づく研究(関連記事)の方が妥当ではないか、とも思います。上述のように、ナレディはアウストラロピテクス属的な祖先的特徴を有する、と指摘されていますが、それは本論文でも可能性が指摘されている成因的相同で、創始者効果などにより特異な形態が進化し、祖先的に見えるような形態も出現した、というわけです。インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)のように(関連記事)、孤立した集団の特異的な進化の結果として、祖先的に見えるような形態が出現することもあり得たのではないか、と思います。


参考文献:
Davies TW. et al.(2020): Distinct mandibular premolar crown morphology in Homo naledi and its implications for the evolution of Homo species in southern Africa. Scientific Reports, 10, 13196.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-69993-x

人類史における投擲能力

 人類史において、投擲能力はひじょうに大きな意味を有したのではないか、と思います。人類は一見すると、狩猟に相応しくない特徴を有している、と言えるかもしれません。人類は、狩りを行なう動物の多くよりも素早い動きと力強さの点で劣りますし、狩りを行なう動物のように鋭い牙や鉤爪を有しているわけでもありません。しかし、優れた認知能力・道具を作るのに必要な器用な手・長距離走に適した体形・投擲に適した腕と肩の構造などにより、人類は長期に亘って陸上で最強の狩猟者として君臨してきました(関連記事)。

 この中でもとくに重要なのは投擲能力で、人類の狩猟の効率を高め、その危険性を低下させました。また、狩猟でなくとも、襲ってきたり獲物を食べたりしている肉食動物を追い払うのにも投擲はたいへん有効です。人類の投擲能力の高さは、腰が回転すること、上腕骨のねじれが少ないこと、肩関節窩が上向きの非ヒト類人猿とは異なり横向きになっていることに由来します。現時点での化石記録によると、これら三つの特徴は短期間に一括して出現したのではなく、時間的に分散して現れたようです。腰が回転することと、上腕骨のねじれが少ないことはアウストラロピテクス属の化石で確認されており、肩関節窩が横向きになったのは、200万年前頃(~180万年前頃までの間?)に出現したホモ・エレクトス(Homo erectus)以降のようです。現時点では、高い投擲能力を可能とする派生的な解剖学的特徴が最初に一括して認められるのは200万年前頃以降のホモ・エレクトスと考えられています(関連記事)。

 人類進化史においては、投擲能力の向上と引き換えに、木登りの能力は低下してしまいましたから、投擲能力の向上をもたらすような形態学的変化には、当初から投擲が選択圧として作用したと考える方が妥当でしょう(関連記事)。この形態的な変化により、人類はより直立二足歩行に特化していき、長距離走の能力が向上しました。あるいは、ホモ属における直立二足歩行への特化に関しては、直立二足歩行よりもむしろ、投擲能力への選択圧の方が重要な役割を果たした可能性も考えられます。四肢の発生に関連する遺伝子群の特定により、この問題が解明されていくかもしれません。

 投擲能力の向上が人類史において重要な役割を果たしたかもしれないとはいっても、じっさいの投擲の証拠を提示するのはなかなか困難です。初期ホモ属が投擲を行なっていた証拠となるかもしれないのが、ジョージア(グルジア)にあるドマニシ(Dmanisi)遺跡です。ドマニシ遺跡では、185万年前頃までさかのぼるホモ属遺骸と石器が発見されていますが、峡谷の入口では大量の石が発見されており、ドマニシ人が動物に投石して逃げるか、投石により動物を狩っていた可能性が指摘されています(関連記事)。おそらく、人類はアウストラロピテクス属の頃から投擲を行なっており、捕食圧を減じるとともに、食料獲得の可能性を高め、それがホモ属になって投擲能力の向上によりさらに効率的になったのでしょう。

 更新世人類の投擲でとくに威力があったと思われるのは投槍で、やや間接的ではあるものの、投槍の証拠は28万年前頃のアフリカ東部で発見されています(関連記事)。おそらく現生人類(Homo sapiens)は、古くから槍を投げて獲物を仕留めていたのでしょう。また、現生人類は投槍器を用いますが、それはヨーロッパでは少なくとも4万年以上前までさかのぼる、と推測されています(関連記事)。現生人類は投擲能力を活かした道具を使用しており、これが、世界中へと拡散し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など先住人類を置換した(一部交雑により現代人にも遺伝子が継承されています)一因になった、と言えそうです。

 現生人類に置換されてしまったネアンデルタール人が槍を投げていた確実な証拠はまだ得られていないと思いますが、ヨーロッパでは中期更新世の槍が確認されていますから、ネアンデルタール人が投槍を用いていても不思議ではありません。ネアンデルタール人が投槍器を用いた証拠は得られていませんが、投槍器なしで槍を獲物から20m程度の距離で投げても、獲物を仕留められる、と示されています(関連記事)。ネアンデルタール人は現生人類と比較して、より危険な近接狩猟を行なっていた、との見解が一般的ですが(関連記事)、ネアンデルタール人と更新世の現生人類とでは頭蓋外傷受傷率にあまり違いはない、とも指摘されています(関連記事)。少なくとも一部のネアンデルタール人は日常的に投擲行動を繰り返していた、と推測されていますから(関連記事)、ネアンデルタール人も投擲能力を活用した人類であったことは間違いないでしょう。また、ドイツで発見された30万年前頃木製棒は投擲に用いられた可能性が高い、と指摘されており(関連記事)、これは広義のネアンデルタール人系統か、あるいは別系統のホモ属の道具だったのでしょう。人類、少なくともホモ属が生き延びてきた要因の一つとして、その高い投擲能力は必ず挙げられねばならない、と思います。

岡本隆司『シリーズ中国の歴史5 「中国」の形成 現代への展望』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年7月に刊行されました。本書はいわゆる明清交代から現代までを扱っています。本書は、17世紀の混乱期に対して、アジア東部ではダイチン・グルン(大清国)が広範な地域の安定化をもたらした一方で、ヨーロッパでは諸勢力の競合がもたらされ、これが近代における東西の違いにつながった、との見通しを提示しています。これは、オスマン帝国による広範な地域の平和がもたらされた同時代のアジア南西部とも通ずるかもしれません。

 マンジュ(満洲、元は漢字文化圏で女真と表記されたジュシェン)起源のダイチン・グルンは、人口・経済力ともに明に遠く及ばない勢力で、明の領域を支配できたのも、明が反乱で首都を陥落させられ、明の将軍による手引きがあったからで、その覇権は多分に僥倖だった、と本書は指摘します。ダイチン・グルンの支配は、基本的に在来勢力による統治の承認で、直接的に干渉しようとはしませんでした。これは藩部についてで、本部18省は直接統治だった、と一般的には認識されているかもしれませんが、本書は、漢字文化圏(漢人)の本部18省に関しても、その基層社会は明代の統治を踏襲した、と評価しています。明代の統治が集権的だったので、ダイチン・グルンの本部18省の統治も集権的・直接的に見えるというわけですが、本書は、そもそも明代の統治が集権的だったのか、疑問を呈しています。明代も、基層社会を確実に把握できていたのか、疑わしいからです。

 こうしたダイチン・グルンの支配方式は外交関係にも現れており、朝鮮は明代の冊封体制のまま属国とされましたが、東進してきたロシアとは比較的対等な関係を築いています。これは、華夷秩序に基づく一元体制を志向し続けた明との大きな違いですが、ダイチン・グルンの支配層は自らが弱小勢力だったことを強く自覚していたからなのでしょう。日本など交易のみを認める互市関係も、そうした自己認識に基づいているとともに、武装商業集団として勃興したダイチン・グルンは、交易の統制が16~17世紀のような不安定な状況をもたらす、とよく理解していたのでしょう。

 こうしたダイチン・グルンの支配は、18世紀には安定しますが、不安定要因も現れます。それは漢人社会の急速な人口増加と経済成長で、元々基層社会を把握できていなかったダイチン・グルンは、官と民との分離傾向に悩まされようになり、18世紀後半以降は反乱が続いて不安定になります。また本書は、漢人社会の経済成長が、急速な人口増加により相殺され、庶民個々の生活水準が向上しなかったことを指摘します。さらに本書は、ヨーロッパとは異なり大規模な金融の信用体制をダイチン・グルン(というかアジア東部)は構築できず、これが産業革命・近代化を達成したヨーロッパと、遅れたアジア東部との違いになった、と指摘します。

 「中国」の近代は、西洋列強(日清戦争後は日本も)の侵略と共に、官と民との分離をいかに克服していくのか、という苦闘の歴史となります。この状況で、漢人知識層の間で、モンゴルや新疆やチベットも含めて一体的な「中国」を目指す機運が高まります。しかし、とくに非漢人地域では独立への機運が高まり、この問題は現代にも尾を引いています。「中国」の一体化を目指す立場からさらに厄介だったのは、この両問題が結びつき、各地域が独自に列強との経済的結びつきを深めていったことでした。通貨制度も一元化されず、「銀銭二貨制」から「雑種幣制」へと移行します。この状況は、単に外国の侵略によるのではなく、「中国」の一体化を主張した知識層自体が、社会・経済的につながりの深い在地勢力の支持に傾いていたからでした。

 蒋介石も打開できなかったこの状況が大きく変わる契機となったのは、日本の侵略が本格化したことでした。これにより国民党側も共産党側も総力戦体制の構築を進めねばならなくなり、日本の敗戦後の国共内戦でその傾向はさらに強化されました。内戦に勝った共産党政権(中華人民共和国)下で、通貨制度も含めた社会の一元化と中央権力の基層社会への浸透が進展しました。これは、冷戦下で中国が西側世界と切り離されたことも大きかったようです。

 共産党政権下の中国は、大躍進と文化大革命の混乱の後、「社会主義市場経済」に移行しますが、これは毛沢東が克服できなかった官と民との二元構造に適合していました。そのため中国では、経済大国となった今も、格差と腐敗というこの二元構造の弊害が大きな問題となっています。また本書は、習近平政権で強調されるようになった「中国の夢」の根幹にある「中華民族の偉大な復興」に疑問を呈します。「中華民族」は「多元一体」と定義されますが、そんな「一体」の「中華民族」は存在したことがない、と本書は指摘します。存在しなかったものを回復させることはあり得ず、復興も現実ではなく「夢」である、というわけです。ずっと以前から思っていましたが、「中華民族」という概念にはやはり無理がある、と言うべきでしょう。

 本書で『シリーズ中国の歴史』は完結となります。他の巻を取り上げた記事は以下の通りです。

渡辺信一郎『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_26.html

丸橋充拓『シリーズ中国の歴史2 江南の発展 南宋まで』
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_23.html

古松崇志『シリーズ中国の歴史3 草原の制覇 大モンゴルまで』
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_43.html

檀上寛『シリーズ中国の歴史4 陸海の交錯 明朝の興亡』
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_28.html

最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生

 最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生に関する研究(Corrick et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。グリーンランドの氷床コアから得られた最終氷期(11万5000~1万1700年前頃)の気候記録により、温暖期と寒冷期を繰り返す急激な気候振動が明らかになっています。こうした振動は、ダンスガード・オシュガー(DO)イベントとも呼ばれており、急速な温暖化の時期へと急激に移行した後、徐々に、そして急激に寒冷期に戻るという特徴があります。

 振動は100年から1000年の単位で準周期的に起きます。最終氷期には北極圏以外でも同様の急激な気候変動現象が発生した、と地球上の遠く離れた場所で得られた数多くの古気候記録によって確認されています。急激な移行の原因となる過程についてはよく分かっていませんが、いくつもの過程が関連していると推測されています。しかし、同程度の精度をもつ正確な古気候の年代測定法がないため、グリーンランドのDOイベントが、他の場所で起きた急激な気候変動と同時期に発生したかどうかを判断するのは困難です。

 この研究は、正確な年代で発表された高精度の洞窟生成物記録を63件収集しました。これらの記録は、北半球の中緯度地方から南半球の亜熱帯地方におよぶ地域の、最終氷期の気候を示します。この研究はこうしたデータセットを用いて、53の大規模および小規模の急激な温暖化現象について発生時期を調べたところ、グリーンランドの氷に記録されていた現象の発生時期は、アジアのモンスーン地域、南アメリカ大陸のモンスーン地域、ヨーロッパの地中海地域で急激な気候変動が発生した時期と同じだった、と明らかになりました。この知見から、北極圏の急激な温暖化現象が地球規模の急激な気候変動を引き起こした、と示唆されます。

 これにより、地球の両半球をまたいで気候現象がほぼ同時に発生するテレコネクション(遠隔地の大気や海洋の変動が結びついて相互に有意な相関関係にある現象、遠隔相関)が明らかになりました。これは、今後世界中で発生すると予測される急激な気候変動を考えるうえで重要です。また、この時期には現生人類(Homo sapiens)の拡散と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の絶滅という人類史の重要な事象が起きているので、その関連という点でも注目されます。


参考文献:
Corrick EC. et al.(2020): Synchronous timing of abrupt climate changes during the last glacial period. Science, 369, 6506, 963–969.
https://doi.org/10.1126/science.aay5538

『卑弥呼』第45話「死と誕生」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年9月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)においてヤノハとナツハが対面したところで終了しました。今回は、暈(クマ)の国の以夫須岐(イフスキ)にて、鞠智彦(ククチヒコ)がイサオ王の館に向かう場面から始まります。鞠智彦は、新たな墓が築造中であることに注目します。本作では、この墓が奥津城(オクツキ、神道式の墓)と呼ばれています。この墓は円墳のようです。鞠智彦配下のウガヤは、これが誰の墓なのか、知りません。墓の築造を眺めていたイサオ王に、配下が鞠智彦の到着を報告し、ここに通すよう、イサオ王は命じます。誰の墓なのか、鞠智彦に尋ねられたイサオ王は、末の弟のための墓と答えます。墓の準備にはまだ若いのでは、と鞠智彦は怪訝に思います。イサオ王は、末の弟は息子のタケルと同い年で、タケルの死で自分は、人はいつ死ぬか分からないと学んだ、と鞠智彦に言います。面会したヤノハがどのような人物だったのか、イサオ王に尋ねられた鞠智彦は、奸智に長けた曲者だった、と答えます。その答えを聞いたイサオ王は、笑顔で鞠智彦に共に酒を飲もう、と提案します。息子亡き後、鞠智彦は息子同然なので、腹を割って話したい気分だ、とイサオ王は言います。すると鞠智彦は、鞠智の里の銘酒を2甕持ってきたので好都合、と応じます。

 山社(ヤマト)では、ミマアキがナツハの世話をしているようです。ナツハの食事を持ってきたミマアキは、山社に来て10日になるのに、自由に表に出られず苦労をかける、と詫びます。ミマアキはヤノハから、ナツハは客人なので最高のもてなしをするよう命じられていました。何か必要なものがあるか、ミマアキに尋ねられたナツハは、何も意思を示しませんが、ミマアキは、こちらからはお願いがあると言い、ナツハの土笛を預かりたい、と要望します。ヤノハはヌカデを呼び、ナツハの顔を近くで見ることに反対するミマト将軍とイクメを説得するよう、支持します。ヤノハがナツハのいる(軟禁されている、と言うべきでしょうか)小屋を見ていたことに気づいたヌカデは、なぜヤノハがナツハにそれほど興味を抱くのか、ヤノハに問いかけます。ヤノハはやや躊躇って恥じらいながら、遠目で見た時、皆が醜いというナツハを自分は美しいと思ったので、どちらが正しいのか間近で確認したい、と答えます。ナツハがどれほど危険かまだ分からないので、判断がつくまでもう少し待つよう、ヌカデはヤノハに進言します。そこへミマアキが現れ、ナツハには少なくとも敵意はなさそうだ、と言います。ナツハは狼や犬を自在に操る土笛をミマアキにあっさりと渡していました。

 イサオ王と鞠智彦は、イサオ王の館らしき場所で宴を始めます。盃が見事なことに感心するイサオ王に、鞠智の里の陶部(トウノベ)の作だ、と答えます。鞠智の里の酒人(サカト)が丹精込めた命の水をお召し上がりください、と鞠智彦はイサオ王に勧めますが、イサオ王の方は、まず鞠智彦から飲むよう勧めます。躊躇う鞠智彦に、宴では客人が先に酒を飲むものだ、とイサオ王は言います。鞠智彦が酒を飲んだのを確認して、イサオ王も酒を飲み、美味い、と言います。日見子(ヒミコ)と名乗る女(ヤノハ)は自分が示した和議を受け入れたのか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、拒否し、戦わない戦いを望むと言ってきた、と答えます。暈と山社が永久に睨み合っていれば、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は平和だろう、というわけです。面白いことを考える、とイサオ王は感心したように言います。どうするのか、鞠智彦に問われたイサオ王は、韓(カラ、朝鮮半島でしょうか)に行く道が閉ざされるなら論外で、那(ナ)や伊都(イト)と組もうとも叩き潰せ、と厳しく答えます。すると鞠智彦は、ヤノハの提案をイサオ王に伝えます。暈の社(ヤシロ、現在の八代市でしょうか)から速岐(ハヤキ、現在の佐世保市早岐でしょうか)に向い、庇羅島(ヒラノシマ、平戸島でしょう)より韓へ出向するなら、暈の舟を阻む理由はない、とヤノハは鞠智彦に提案していました。つまり、韓より鉄(カネ)の輸送を黙認するということか、とイサオ王に問われた鞠智彦は肯定します。タケルならどうするか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、タケル王は日見彦(ヒミヒコ)なので、自分に判断を任せるだろう、と答えます。そなたならどうするのか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、長引く戦は無益なので、日見子(ヤノハ)の提案を受け入れる、と答えます。

 イサオ王は侍女を退出させ、タケル王の館を訪問し、形見の品を取ってきた、と鞠智彦に伝えます。イサオ王はそこでトンカラリンの迷路を詳細に記した地図を見つけ、タケル王の屍を回収し、骨や腕や胸にいくつかの傷がついていたことに気づきました。鞠智彦はイサオ王に、タケル王はトンカラリンで自決したと伝えており、イサオ王はそれが嘘だと気づいていましたが(35話)、タケル王の遺骸を確認してそれを確信した、というわけです。イサオ王は鞠智彦に、今築造中の墓は息子のタケル王のもので、そこにはそなたも入る、と鞠智彦に伝えます。すると兵士2人が現れて鞠智彦を拘束します。話を聞いてほしい、と訴える鞠智彦に、息子のタケル王が日見彦の器ではなかったことを重々承知しているが、自害するよう説得せよと命じたのに、嬲り殺しにした、とイサオ王は厳しい表情で言い渡します。イサオ王はまず鞠智彦の手と脚を斬り、墓の頂に首だけ出して埋め、1日1回水を与える、と伝えます。鞠智彦は泣き叫び、後悔し、苦しみながら死んでいく、というわけです。イサオ王はその後で、鞠智彦の頭蓋骨を館に飾るつもりです。ところが、鞠智彦を拘束していた兵士2人が突如飛び道具で刺されて死亡します。鞠智彦は、館の者を全員殺したので、覚悟するよう、イサオ王に迫ります。自分を殺すのか、と愕然とするイサオ王は吐血します。イサオ王は、酒ではなく盃の縁に毒が塗られていたことに気づき、落命します。倒れたイサオ王を見ながら、自分が新たな暈の王である、と鞠智彦が言い放つところで、今回は終了です。


 今回やや意外だったのは、ヤノハがまだナツハの顔を近くで見ていなかったことです。前回の描写では、わりと近くで見ていたような感じでしたが。ヤノハは、皆が醜いと思うナツハの顔を、遠目で見た時に美しいと感じたので、どちらが正しいのか間近で確認したい、と考えています。この好奇心の強さがヤノハの強い個性となっていますが、義母が案じたように(40話)、それが身を亡ぼすことにもなりかねません。ナツハはヤノハを深く憎悪しているヒルメから、ヤノハを死よりもっと恐ろしい目に遭わせ、全てを奪い取ってやるよう、指示を受けています(39話)。ヤノハに土笛をあっさりと預けたナツハですが、どのような策でヤノハを陥れようとしているのか、注目されます。ヤノハのナツハへの好奇心は、今回の描写では単に顔の美醜だけのように思いますが、あるいは、ヤノハはナツハが弟のチカラオかもしれない、と気づいているのでしょうか。ヤノハがナツハ顔をまだよく見ていないとしたら、弟の顔を忘れてしまったようですから(17話)、弟と確信できなくても不思議ではありません。まあ、ナツハがチカラオと確定したわけではありませんが、これまでの話の流れからは、その可能性は高そうですから、ヤノハがナツハは弟だと気づいてどのような反応を示すのか、楽しみです。

 ヤノハとナツハとの関係も気になりますが、今回は鞠智彦とイサオ王の駆け引きが主題だったと言えるでしょう。ヤノハからイサオ王を殺すよう示唆された(43話)鞠智彦がどう動くのか、気になっていましたが、答えはイサオ王の殺害でした。イサオ王が鞠智彦を殺そうと考えたのは、息子のタケル王を嬲り殺しにされたからというよりは、自分の指示に叛き、嘘をついていたからのように思います。冷酷なイサオ王は、自分へのわずかな反逆も許さないのでしょう。イサオ王が毒を警戒しているのは明らかで、鞠智彦にまず酒を飲むよう勧めたところでは、さすがの鞠智彦もイサオ王には敵わないのかな、とも思いましたが、これまでの鞠智彦とイサオ王の登場回数からして、このまま鞠智彦が殺されることはないと考えたので、鞠智彦がどう切り抜けるのか、楽しみでした。その後、鞠智彦が平然と酒を飲み、それを見たイサオ王が酒を飲むところを、鞠智彦が慎重に観察しているような描写から、盃に毒を塗っているのだろうな、と予想できました。イサオ王は大物感のある人物でしたが、鞠智彦の方が一枚上だった、というわけです。イサオ王を毒殺した鞠智彦は、自分がイサオ王として暈の国に君臨するつもりなのでしょうか。鞠智彦は刺青を入れており、日見彦(卑弥弓呼)にはなれないでしょうから、自分の息子(鞠智彦に子供がいるのか、明示されていませんが)か縁者か配下の者をタケル王として、日見彦と称させるつもりでしょうか。鞠智彦が暈の王となったことで、山社連合と暈との「冷戦」も確定的になった、と言えそうです。今後は、サヌ王が建てたとされる、本州(さらに特定すると、おそらくは現在の奈良県)にあるらしい日下(ヒノモト)の国も絡んできそうですから、山社連合と暈との「冷戦」構造が確立しても、ヤノハと山社の危機はまだ続きそうで、面白い展開が続くのではないか、と期待しています。

8億年前に月に衝突した小型小惑星

 8億年前に月に衝突した小型小惑星に関する研究(Terada et al., 2020)が公表されました。地球上での侵食過程と地表更新過程は、古代の流星物質(小型小惑星)の衝突に関する研究と、その年代決定を困難にしています。これに対して、こうした流星物質衝突の影響を解明するためには、地球よりも風化と浸食の影響が大幅に少ない月のクレーターを調べるという方法もあります。この研究は、月周回衛星「かぐや」の観測データを用いて、月面にある直径20km超のクレーター59個の形成年代を推定しました。

 その結果、コペルニクスクレーターを含む8個のクレーターは、同時に形成されたものと明らかになりました。この研究は、コペルニクスクレーターから放出された物質の放射年代測定と、いくつかのアポロ計画における衝撃ガラス小球(隕石の衝突によって形成されたガラス状の玉)から得られたデータに基づいて、月では約8億年前に小惑星が降り注いだ、と結論づけました。また、この研究は、月で起こった小惑星のシャワーに似た現象が地球でも起こったに違いないと推測し、衝突クレーターのスケーリング則と衝突確率を用いて、クライオジェニアン紀(約7億2000万~6億3500万年前)の直前に、がチクシュルーブ衝突の原因となった隕石の約30~60倍に相当する、質量4京~5京kgの小惑星が地球に衝突した、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


惑星科学:8億年前の月に降り注いだ小惑星のシャワー

 月では、今から約8億年前に、流星物質(小型の小惑星)の爆撃があったことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。この論文では、この衝突確率に基づいて、地球には、クライオジェニアン紀(約7億2000万~6億3500万年前)の直前に流星物質が衝突し、その総質量がチクシュルーブ衝突の原因となった隕石の約30~60倍だったという考えが提示されている。

 地球上での侵食過程と地表更新過程は、古代の流星物質の衝突を研究してその年代を決定することを困難にしている。これに対し、こうした流星物質衝突の影響を解明するためには月のクレーターを調べるという別の方法がある。月は、地球よりも風化と浸食の影響が大幅に少ないためだ。

 今回、大阪大学の寺田健太郎(てらだ・けんたろう)教授たちの研究チームは、月周回衛星「かぐや」の観測データを用いて、月面にある直径20キロメートル超のクレーター59個の形成年代を推定した。その結果、コペルニクスクレーターを含む8個のクレーターは、同時に形成されたものであることが分かった。寺田教授たちは、コペルニクスクレーターから放出された物質の放射年代測定と、いくつかのアポロ計画における衝撃ガラス小球(隕石の衝突によって形成されたガラス状の玉)から得られたデータに基づいて、月では約8億年前に小惑星が降り注いだと結論付けた。また、寺田教授たちは、月で起こった小惑星のシャワーに似た現象が地球でも起こったに違いないと推測し、衝突クレーターのスケーリング則と衝突確率を用いて、質量が4京~5京キログラムの小惑星が地球に衝突したという見解を示している。



参考文献:
Terada K, Morota T, and Kato M.(2020): Asteroid shower on the Earth-Moon system immediately before the Cryogenian period revealed by KAGUYA. Nature Communications, 11, 3453.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17115-6

北極に形成されつつある新たな海洋生態系

 北極に新たな海洋生態系が形成されつつあることを報告した研究(Huntington et al., 2020)が公表されました。北極圏太平洋を構成するチュクチ海とベーリング海北部は、海氷の季節的影響に支配された生産性の高い海洋陸棚域です。この海域は、夏季には海洋生物や海鳥が大量に生息し、海洋哺乳類の主要な移動用の回廊になっています。チュクチ海とベーリング海北部は、2017年から2019年までのひじょうに温暖な冬の間に著しい変化を示しました。しかし、こうした変化が異常なのか、今後は普通のことになっていくのか、明らかではありません。

 この研究は、2017年から2019年までの北極圏太平洋の物理学的観測結果と生物学的観測結果を報告しています。ここには、2017年以降の生態系の変化が含まれています。海氷域の減少と海水温の上昇は、この海域の生物学的特性に連鎖的な変化をもたらしました。たとえば、この海域では、この期間中に亜寒帯種が生息していました。北極圏太平洋では生態系の変化が長い間観測されてきましたが、2017年は、種の分布や各種事象の発生時期に関する過去の観測結果とは大きく異なる1年でした。この研究は、北極圏太平洋の地域海洋生態系が変化している可能性と、この変化の影響を解明するためのさらなる研究の必要性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候変動:北極に新しい海洋生態系が形成されつつあるのか

 北極圏太平洋の物理的特性と生物学的特性の変化が、2017年から2019年まで非常に温暖になったことに関連している可能性を示唆した論文が、Nature Climate Change に掲載される。

 北極圏太平洋を構成するチュクチ海とベーリング海北部は、海氷の季節的影響に支配された生産性の高い海洋陸棚域である。この海域は、夏季には海洋生物や海鳥が大量に生息し、海洋哺乳類の主要な移動用の回廊になっている。チュクチ海とベーリング海北部は、2017年から2019年までの非常に温暖な冬の間に著しい変化を示した。しかし、こうした変化が異常なのか、今後は普通のことになっていくことを示しているのかは明らかでない。

 この論文で、Henry Huntingtonたちの研究チームは、2017年から2019年までの北極圏太平洋の物理学的観測結果と生物学的観測結果を報告している。ここには、2017年以降の生態系の変化が含まれている。海氷域の減少と海水温の上昇は、この海域の生物学的特性に連鎖的な変化をもたらした。例えば、この海域では、この期間中に亜寒帯種が生息していた。北極圏太平洋では生態系の変化が長い間観測されてきたが、2017年は、種の分布や各種事象の発生時期に関する過去の観測結果とは大きく異なる1年だった。

 Huntingtonたちは、北極圏太平洋の地域海洋生態系が変化している可能性があり、この変化の影響を解明するためにさらなる研究が必要だと結論付けている。



参考文献:
Huntington HP. et al.(2020): Evidence suggests potential transformation of the Pacific Arctic ecosystem is underway. Nature Climate Change, 10, 4, 342–348.
https://doi.org/10.1038/s41558-020-0695-2

形態に基づく分類の困難

 人類進化研究でも遺伝学の研究者の中には、形態学に不信感を抱いている人がそれなりにいるように思います。たとえばハリス(Eugene E. Harris)氏は、その著書『ゲノム革命 ヒト起源の真実』において、形態学的特徴に依拠した分類・進化系統樹の危うさを指摘します(関連記事)。ハリス氏は元々自然人類学でも形態学を専攻しており、1990年代に大学院生だった頃には、自然人類学のなかでも遺伝学にたいする形態学の優位を確信していたそうです。しかしハリス氏は、ヒヒ族の系統樹をめぐる論争に関わったことから、形態学に基づく分類・進化系統樹がいかに危ういか、痛感したそうです。現生種でさえ、形態学に基づく分類・進化系統樹が危ういのに、(多くの場合断片的でしかない)化石に基づく分類・進化系統樹はなおさら危うい、というわけです。

 古代DNA研究の開拓者的存在とも言えるペーボ(Svante Pääbo)氏も、著書『ネアンデルタール人は私たちと交配した』において、形態学への不信を明らかにしています(関連記事)。ペーボ氏は現生人類(Homo sapiens)の起源をめぐる議論について、古生物学者や考古学者が謎を解明できるとは思わなかった、と率直に打ち明けています(同書P134)。古生物学者たちは、研究している古代集団の定義ついてさえ意見が分かれており、多くの異なる種に分類しようとする「細分派(スプリッター)」と、より少ない種にまとめようとする「併合派(ランパー)」が今も激しく議論している、というわけです。

 このような遺伝学の研究者の見解には確たる理由が根底にあり、それは、形態学では遺骸に頼らざるを得ないものの、それは断片的である場合がほとんどで、1個体の遺骸がほぼ揃っている事例は稀なのに対して、遺伝学ではきわめて断片的な遺骸、たとえば手の指骨の小断片からもその個体の全遺伝情報(ゲノム)を回収可能である、という非対称性に由来します。もちろん、全ての遺骸からDNAを解析できるわけではなく、年代が古くなるほど、また発見場所が低緯度地帯(より気温が高くなる)ほど、DNA解析は困難になります。その意味で、DNA解析の不可能な遺骸ではとくに、形態学が依然として重要であることに変わりはありません。また、表現型と遺伝子との関連には未解明部分が多く、今後も形態学と遺伝学により相互補完的に研究が進展していくことでしょう。しかし、そもそも形態よりもゲノムの方がはるかに多くの情報を引き出せるうえに、断片的な遺骸からゲノム解析が可能となると、遺骸の分類において遺伝学が形態学よりも圧倒的に優位である構造は、今後も変わらないでしょう。

 また、断片的な遺骸からの分類が危険なのは、『ゲノム革命 ヒト起源の真実』で指摘されているように、種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないことにもあります。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先系統と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(関連記事)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 チンパンジー属系統と分岐した後の人類系統でも同様の問題が確認されています。後期ホモ属において遺伝的に詳細な系統関係が明らかになっているのは、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。これらが異なる種なのか否か、確定したとは言えませんが、種もしくは分類群での系統関係は、まず現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統が分岐し、その後でネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐した、と推測されています(関連記事)。つまり、デニソワ人とネアンデルタール人は現生人類よりも相互と近縁な関係にあります。

 しかし、まだ詳細な遺伝的基盤は不明ですが、手の小指の骨の形態では、デニソワ人がネアンデルタール人よりも現生人類の方と近縁です(関連記事)。これは、後期ネアンデルタール人特有の手の指の派生的特徴が、ネアンデルタール人の進化史でもかなり遅い時期に進化したためと推測されています。何らかの自然選択が作用したことによる適応なのか、それとも遺伝的浮動なのか不明ですが、ネアンデルタール人系統では10万年前頃以降に手の指の派生的特徴が急速に定着したようです。これとは対照的に、臼歯のサイズに関しては、ネアンデルタール人と現生人類が類似しており、デニソワ人は鮮新世人類に匹敵するくらい大きい、と指摘されています(関連記事)。これは、デニソワ人系統における何らかの自然選択が作用したことによる適応か、遺伝的浮動だった可能性が高いように思います。

 断片的な遺骸に基づく分類の難しさは、現生人類遺骸でも事例があります。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された人類の頭蓋冠は、年代的には現生人類である可能性が高いものの、現生人類としては異常なその形態から、ネアンデルタール人もしくはホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類される、という可能性が示唆されました。その後、このサルキート個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、ユーラシア現代人集団で広範に存在するハプログループ(mtHg)に分類される、と示されました(関連記事)。しかし、母親が現生人類で父親がネアンデルタール人もしくはエレクトス系統という可能性も想定されます。

 この問題は、核ゲノム解析により決着し、サルキート個体は北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性個体(関連記事)と類似している、と明らかになりました(関連記事)。アジア東部における包括的な古代ゲノム研究(関連記事)を踏まえると、サルキート個体は出アフリカ現生人類でもユーラシア東部北方系に位置づけられます。もっとも、田园個体とは異なりサルキート個体は、基本的にはユーラシア西部系統に位置づけられる古代シベリア北部集団(複雑なことに、アジア東部系統の遺伝的影響も一定以上受けていますが)からも一定以上の遺伝的影響を受けています。ともかく、形態ではネアンデルタール人もしくはさらに現生人類とは遠い系統関係にあるエレクトスの可能性さえ指摘されていたサルキート個体が、ゲノムデータでは出アフリカ現生人類に分類されると明確に示されたことは、断片的な遺骸に基づく分類における、形態学に対する遺伝学の明らかな優位を示す、と言えるでしょう。

 この問題は、中国南部の雲南省や広西チワン族自治区で発見された、末期更新世の祖先的特徴を有するホモ属遺骸とも関わってきます。雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見された14310±340~13590±160年前のホモ属遺骸(関連記事)も、広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)田東県(Tiandong County)林逢鎮(Linfeng Town)の独山洞窟(Dushan Cave)で発見された15850~12765年前のホモ属遺骸(関連記事)はともに、祖先的特徴が指摘されています。そこから、馬鹿洞人は未知の人類系統、独山人は非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑集団もしくは初期現生人類の頑丈型集団を表している、といった可能性が指摘されています。世界中に拡散した初期現生人類の遺骸はたいへん少なく、その形態的多様性と地域的特徴をじゅうぶん把握できていないことが、馬鹿洞人と独山人の分類を難しくしています。私は、どちらも初期現生人類の多様な形態を反映しているのではないか、との見解に傾いていますが、この問題の解明には古代DNA研究が必要でしょう。末期更新世のこの地域の古代DNA解析となると、かなり難しそうではありますが、近年のDNA解析技術の進展には目覚ましいものがあり、いつか成功するのではないか、と期待しています。

分断・孤立と交雑・融合の人類史

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期~後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万~180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万~275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万~200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万~200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万~195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万~19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万~50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01~0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万~5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000~15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000~20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万~4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世~完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

ホモ・フロレシエンシスについてのまとめ

 インドネシア領フローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)についてまとめます。フロレシエンシスについては、2008年3月(関連記事)と2014年8月(関連記事)と2016年9月(関連記事)にまとめ記事を掲載しており、それから4年近く経過したので、基本的には前回のまとめ以降の知見を簡単に列挙していきます。前回までのまとめ記事で述べましたが、フロレシエンシスの遺骸はまずフローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見され(遺骸の下限年代は6万年前頃、フロレシエンシスと関連していると考えられる石器群の下限年代は5万年前頃)、その祖先かもしれない70万年前頃の人類遺骸が、フローレス島中央のソア盆地では、マタメンゲ(Mata Menge)遺跡で発見されています。

 2009年に公表されていたものの、前回までのまとめ記事では言及できなかった研究では、リアンブア洞窟において更新世のフロレシエンシスから完新世の現生人類まで類似した石器技術が継続した、と指摘されています(関連記事)。中期更新世でも前期となる70万年前頃のマタメンゲ遺跡の石器群と、中期更新世~後期更新世にかけてのリアンブア洞窟の石器群は技術的に類似している、というわけです。アジア南東部島嶼部の石器群の変遷に関しては、更新世~完新世にかけての技術的連続性が指摘されていますが、それはリアンブア洞窟でも同様というわけです。現生人類(Homo sapiens)が存在したとはとても考えられない時代から、まず間違いなく現生人類ではない人類はすでに絶滅していただろう完新世まで、人類系統の違いにも関わらず石器製作技術が共通していることは、人類史における大きな謎と言えるでしょう。

 ただ、リアンブア洞窟の石器群は、更新世と完新世とで違いも見られます。完新世になると、更新世とは石材の選択が異なっていたり、石器が研磨されるようになったり、火で加熱処理がされたりするようになります。製作技術的により複雑さの要求される手斧も製作されるようになります。リアンブア洞窟においては、石器技術では様式1(Mode 1)のオルドワン(Oldowan)的な石器技術がずっと見られ、大きな剥片を製作して洞窟に持ち込み、小さな剥片を製作するという更新世~完新世にかけての共通点とともに、上記のような相違点も見られ、それは製作者の生物学的系統の違いを反映しているのではないか、と指摘されています。

 一方、東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)遺跡の後期更新世の石器群を分析した研究では、ジェリマライ遺跡の石器群とリアンブア洞窟の石器群とでは、再加工された有茎という類似性が認められるものの、マタメンゲ遺跡の石器群で指摘されている有茎は類型学的にはそれらと同等ではなく、偶然の産物だろう、と指摘されています(関連記事)。さらにこの研究は、ジェリマライ遺跡とリアンブア洞窟遺跡の石器群が現生人類によって製作されたか、現生人類の影響を受けて製作された可能性を提示しています。これは、スンダランドからオセアニアへといつ現生人類が到来したのか、という問題と関わっており、複数の地域から報告が提示されているものの、疑問も呈されており、確定的とはとても言えません(関連記事)。

 リアンブア洞窟では5万年前頃に動物相でも石材でも大きな変化があり、これは噴火に起因する、と推測されています(関連記事)。この研究では二つの可能性が提示されており、一方は、噴火後もフロレシエンシスがフローレス島で生き残っており、リアンブア洞窟に戻ってきた、というものです。もう一方は、フロレシエンシスは噴火後に絶滅したかフローレス島の他の場所を生活圏としたためリアンブア洞窟に戻らず、石材選好性の顕著な変化は現生人類の出現に起因する、というものです。またこの研究は、可能性は低いと指摘しつつも、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のようなフローレス島では未確認の人類が新たにリアンブア洞窟にやってきた可能性にも言及しています。

 リアンブア洞窟のネズミの身体サイズの変化を分析した研究では、リアンブア洞窟一帯は、62000年前頃以降、じゅうらいの開けた草原地帯からより閉鎖的な森林環境への移行が始まり、火山砕屑物による動物記録の空白期間(50000~47000年前頃)を挟んで、森林環境へと移行した、と推測されています(関連記事)。これは、リアンブア洞窟における動物相の変化とも一致します。ただ、リアンブア洞窟において考古学的記録から消滅した動物が絶滅したとは限らない、とも指摘されています。上述のリアンブア洞窟における動物相と石材の変化を分析した研究でも指摘されていましたが、これはフロレシエンシスに関しても当てはまるでしょう。

 フローレス島の更新世鳥類化石を分析した研究では、マタメンゲ遺跡でもリアンブア洞窟でも、鳥類化石と人類の痕跡との密接な関連が見られる、と指摘されています(関連記事)。しかし、マタメンゲ遺跡では、人類が鳥類を食べたり装飾品に利用したりするといった明確な直接的証拠は見つからず、これはリアンブア洞窟遺跡でも同様です。この研究は、死肉漁りをしている鳥類の観察により、人類が食料を見つけていた可能性を指摘しています。ただ、この研究では、直接的な比較データが不足しているので、あくまでも予備的な分析にすぎない、とも指摘されています。その意味で、フローレス島の非現生人類ホモ属(フロレシエンシス系統)が鳥類を直接的に利用していた可能性もあると考えるべきでしょう。

 フロレシエンシスの祖先がどの系統の人類なのか、議論が続いていますが、大別すると、ジャワ島というかスンダランドのホモ・エレクトス(Homo erectus)か、エレクトスよりもさらに祖先的、つまりアウストラロピテクス属的な特徴を有する分類群ではないか、という見解に二分されるように思います。後者の見解では、たとえば、分類に色々と議論はあるものの(関連記事)、ホモ・ハビリス(Homo habilis)から派生した、と想定されます。フロレシエンシスの形態の包括的な分析では、フロレシエンシスがエレクトスの子孫系統である可能性はほぼなく、ハビリスのみの姉妹群か、ハビリスやエレクトスやエルガスター(Homo ergaster)や現生人類を構成する系統群の姉妹群である、と指摘されています(関連記事)。この研究では、フロレシエンシスは175万年以上前に(後に現生人類が派生する)エレクトス系統と分岐し、まだ知られていない出アフリカによりアジア南東部にまで到達した、と示唆しています。この場合、アフリカでフロレシエンシスに進化してからフローレス島に到達したか、出アフリカの後、どこかでフロレシエンシスに進化したのではないか、と想定されています。

 頭蓋冠の分析・比較では、フロレシエンシスの正基準標本とされるLB1がエレクトスと区分すべきクレード(単系統群)に属する、との見解が提示されています(関連記事)。この研究では、ホモ属は、ルドルフェンシスやエルガスターや名称未定の新種群といった最初期の分類群が分岐した後、大きくエレクトスと現生人類の2系統に区分される、と推測されています。これは、フロレシエンシスの祖先をエレクトスとする説に区分されますが、この研究では、ジャワ島のガンドン(Ngandong)遺跡とサンブンマチャン(Sambungmacan)遺跡で発見された中期更新世以降(おそらく、後期更新世にまではくだらないでしょう)の人骨群が現生人類と分類されており、これには否定的な研究者が少なくなさそうですから、この研究によりフロレシエンシスの系統的位置が確定した、とは言えないでしょう。

 ヒト上科の現生種および化石標本の頭蓋データから、ヒト科の進化的放散による多様化を検証した研究では、フロレシエンシスは他のホモ属から最も早く分岐した、と推測されています(関連記事)。これは、フロレシエンシスがエレクトスよりもっと祖先的なホモ属系統、たとえばハビリスから進化した、とする見解と整合的です。この研究では、その後のホモ属の分岐で、ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)系統と他のホモ属系統が分岐する、と推測されており、ルドルフェンシスはフロレシエンシスよりも現生人類に近い系統となります。

 LB1とさまざまな人類の頭蓋形態を比較した研究では、LB1は健康な現代人のみならず病変の現代人とも明確に区別でき、全体的には非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と類似している、と指摘されています(関連記事)。古代型ホモ属のなかでもとくにLB1と類似しているのは、広義のエレクトス、具体的には180万~170万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシで発見された人類遺骸です。ただ、この研究は、LB1と広義のエレクトスとの類似性が、人類進化系統樹におけるフロレシエンシスの位置づけを直ちに決定するわけではない、と慎重な姿勢を示しています。

 近年の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがありますが、フロレシエンシスでは古代DNAの抽出・解析はまだ成功しておらず、その可能性はきわめて低そうです。ただ、タンパク質解析が成功する可能性は低くないかもしれず、フロレシエンシスの系統的位置づけを可能とする遺伝的情報が得られる可能性はあると思います(関連記事)。フロレシエンシスのDNA解析には成功していませんが、フローレス島の小柄な(平均身長約145cm)人類集団ランパササ(Rampasasa)のゲノム解析では、ランパササ集団の低身長にフロレシエンシスが遺伝的影響を与えた可能性は低い、と推測されています(関連記事)。ランパササ集団は、非アフリカ系現生人類系統において、ヨーロッパ系やアジア東部系との分岐後に、身長を低下させるような選択圧を受けてきた、と推測されています。フロレシエンシスに関しては、島嶼化による小型化の可能性が発見当初から指摘されていましたが、そのような島嶼化はランパササ集団でも起きた可能性が高く、人類史において少なくとも2回独立して起きた、と考えられます。

 フロレシエンシスの脳および身体サイズの進化に関する研究では、その小柄な体格は島嶼化による選択圧のためだろう、と推測されています(関連記事)。ただ、フロレシエンシスにおいて脳サイズの進化パターンが身体サイズのそれとは異なる、とも推測されています。島嶼化は脳と身体のサイズにおいて、それぞれ異なる進化パターンを引き起こすかもしれない、というわけです。この研究では、フロレシエンシスの脳サイズに関して、脳の可塑性により縮小したにも関わらず認知能力が維持されたか、複雑な脳機能の再編により認知能力がそのまま維持された、と推測されています。この研究では、フロレシエンシスの祖先がエレクトスとは断定されていないものの、フロレシエンシスの祖先として、エレクトスよりも祖先的で小柄なアフリカの人類集団を想定することは倹約的ではない、とも指摘されています。総合的に考えると、フロレシエンシスの脳および身体サイズの縮小の最も倹約的な説明は島嶼化で、フロレシエンシスの祖先はアジア南東部のエレクトスである可能性が最も高い、というわけです。

 フロレシエンシスの足に関する研究では、現代人の死体の研究に基づくと191mmと推定されていたLB1の「最大の足の長さ」が再検証されています(関連記事)。生前には筋肉や皮膚などで平均2.73%長くなるので、LB1の生前の足は196mmと推定されます。LB1の大腿骨の最大長は280mmなので、生前のLB1の足の大腿骨に対する長さの割合は0.7となります。これは、平均0.542(0.493~0.589)という現代人の割合をはるかに超えているため、フロレシエンシス固有の特徴と考えられました。しかし、この研究は、LB1に分類された人骨群が本当にすべてLB1のものなのか、再検証し、LB1の足の長さは175mm(生前は180mm)と推定しています。これは、大腿骨との長さの比率では0.64とまだ現代人の範囲を超えていますが、以前の推定値をずっと下回っています。また、この研究は、推定されたLB1の足の骨のいくつかは現代人の手の骨とひじょうによく似ていると指摘し、リアンブア洞窟で発見された人骨群の各個体への分類と復元の見直しと、LB1を病変の現生人類とする見解も考慮して、リアンブア洞窟の人骨群を再検証するよう、提案しています。LB1を含めてフローレス島の6万年前頃までの人類化石群を病変の現生人類と考えることは無理があると思いますが、個々の遺骸の各個体への分類や、その結果としてのLB1の復元が妥当だったのか、という検証は必要になってくるかもしれません。

 フロレシエンシスとの関連で注目されるのは、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された67000~50000年以上前の人類遺骸で、の歯・手・足の形態の組み合わせがひじょうに独特であることから、ホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)と分類されました(関連記事)。ルゾネンシスは、手と足の形態がアウストラロピテクス属のアファレンシス(Australopithecus afarensis)やアフリカヌス(Australopithecus africanus)と類似しており、歯はさらにさまざまな人類との類似性が指摘されています。ルゾネンシスの大臼歯はかなり小さく、歯冠の比較からも、アジアのエレクトスや南シベリアのデニソワ人(Denisovan)とは異なるものの、第一大臼歯には、インドネシアのいくつかのエレクトス化石との類似性が見られるそうです。ルゾネンシスの大臼歯の外部形態は現生人類と類似していますが、歯冠・EDJ(象牙質とエナメル質の接合部)・歯根には祖先的特徴が見られ、アウストラロピテクス属とパラントロプス属を含む早期人類と類似しています。ルゾネンシスのEDJは、フロレシエンシス以外の人類とは異なる形態を有しています。ルゾネンシスの小臼歯は他の人類と比較して大きいというか、大臼歯と小臼歯のサイズの比率が他の人類と大きく異なり、例外はパラントロプス属くらいです。

 ルゾネンシスの系統的位置づけはフロレシエンシスよりも難しそうですが、これらの形態的類似性の中には収斂進化の結果であるものも含まれている可能性が高そうで、その場合は系統的関係の根拠とはなりません。現時点では、フロレシエンシスもルゾネンシスもスンダランドのエレクトスから派生し、島嶼化により特異な形態の組み合わせが進化したのではないか、と考えています。アジア南東部には、フロレシエンシスやルゾネンシス以外にも、特異な形態の組み合わせの人類が存在したかもしれず、フロレシエンシスとルゾネンシスの系統的位置づけも含めて、今後の研究の進展が楽しみです。