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青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のmtDNA解析の続報

2018/11/18 18:45
 鳥取市の青谷上寺地遺跡で出土した、弥生時代後期となる紀元後1〜2世紀の人骨のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析については、以前当ブログで取り上げました(関連記事)。昨日(2018年11月17日)、その中間報告会が鳥取市の青谷町総合支所で開かれた、と報道されました。報道だけでは詳細は不明ですが、とりあえず備忘録として取り上げます。

 青谷上寺地遺跡ではこれまでに約5300点の人骨が発見されており、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取ってDNAを解析し、32点の人骨でDNAの抽出に成功したそうです。このうち、「縄文系」は1人、「渡来系」は31人で、DNAの型(ハプログループのことでしょうか)は29種類に分かれ、血縁関係はほとんどないと明らかになった、とのことです。九州北部の弥生時代前期の遺跡で発見された人骨の分析では、在来の「縄文系」と「渡来系」の遺伝子が見つかったそうで、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両系統の遺伝子が検出されると予想されていただけに、意外な結果だったようです。

 青谷上寺地遺跡は、発掘調査から大陸などとの交易拠点だったと考えられており、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたのではないか、と指摘されています。ただ、青谷上寺地遺跡の後期弥生人集団において、「縄文系」との融合が進んでいたのか否か、また融合が進んでいたとしてどの程度だったのかは、核DNAを解析しないことには不明です。今後は、mtDNAで判明する母系だけではなく、父系についても分析が進められるとのことで、今後の研究の進展が期待されます。
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大河ドラマ『西郷どん』第43回「さらば、東京」

2018/11/18 18:44
 ほぼ内定していた西郷隆盛(吉之助)の朝鮮使節派遣に大久保利通(正助、一蔵)は反対します。今は朝鮮を相手にせず、富国強兵に邁進すべきだ、と利通は力説します。隆盛と利通の議論は激化し、岩倉具視は仕方なく隆盛の朝鮮使節派遣を認めますが、岩倉の態度に激怒した利通だけではなく、岩倉も政府を去ると言い出し、三条実美は心労のあまり倒れます。岩倉はこれを利用して閣議を延期し、利通と謀って天皇に上奏し、朝鮮使節派遣中止の決断が下ります。隆盛は下野する決断をくだし、憤激して岩倉を問い詰めようとする桐野利秋(中村半次郎)たちを抑えます。留守政府の要人だった江藤新平・後藤象二郎・板垣退助も、隆盛に続いて政府を去ります。

 今回は隆盛と利通の激突が描かれました。利通と隆盛の対立過程はもっと丁寧に描かれるべきだったとは思いますが、隆盛と利通だけではなく、他の要人たちも含めて、演技はよかったと思います。隆盛と木戸孝允(桂小五郎)のお互いを尊重し理解しあったような会話は、薩摩と長州の提携のさいの絆があったものの、やや唐突な感を受けました。これも演技で説得力をもたせた感があり、何とも演者頼みの強引な回でした。全体的に隆盛を美化するような展開でしたが、大河ドラマの主人公だけに、仕方のないところかな、とも思います。
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さかのぼるオーストラリア内陸部への人類の拡散

2018/11/18 09:09
 オーストラリア内陸部の西部乾燥地帯への人類の拡散に関する研究(McDonald et al., 2018)が報道されました。オーストラリアの人類史関連の記事については、今年(2018年)4月にまとめました(関連記事)。更新世の寒冷期には、オーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました。サフルランドにおける現生人類(Homo sapiens)の痕跡については、昨年(2017年)、65000年前頃までさかのぼるとする研究が公表されました(関連記事)。しかしその後、この年代には疑問が呈され、・サフルランドにおいて、5万年前を大きく超える現生人類の早期拡散説を証明するような、確実な現生人類の痕跡は遺骸でも人工物でもない、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、オーストラリア大陸内陸部の西部砂漠に位置するカルナツクル(Karnatukul)遺跡について報告しています。カルナツクル遺跡では25000点以上の石器が発見されており、その大半は燧石製です。カルナツクル遺跡の年代は、放射性炭素年代測定法と光刺激ルミネッセンス法(OSL)とが組み合わされましたが、その上限年代は放射性炭素年代測定法の限界値である5万年前頃に近く50101〜45190年前(中央値は47830年前)となり、じゅうらいは25000年前以前と考えられていましたから、上限年代が大きく繰り上がることになります。これは現時点では、オーストラリア大陸内陸部の西部砂漠地帯では最古の人類の痕跡となります。オーストラリア大陸への人類の最初の拡散が5万年前頃だとすると、最初期のオーストラリア人は急速に、内陸部の乾燥地域も含めて広い範囲に拡散していったと推測されますが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果と整合的です(関連記事)。本論文は、最初期のオーストラリア人が多様な環境に急速に適応していった、と指摘しています。

 カルナツクル遺跡は、大別すると、更新世・中期完新世・過去1000年間の3回にわたり人類の活動痕跡の増加が見られます。更新世に関しては、43000年前頃と推定されている背部のある細石刃発見されており、早期からの技術革新が窺えます。この細石刃は、オーストラリアの他の遺跡のものより15000年ほど古くなります。こうした細石刃は槍の「さかとげ」として、また木材や他の有機素材の加工のために用いられた、と推測されています。このような技術革新が、最初期のオーストラリア人の急速な拡散と多様な環境への適応に役立ったのでしょう。また、更新世の石器の場合、54.7%が燧石製で、しかも良質な燧石を選好した様子が窺えます。このような認知能力は、現生人類特有ではないかもしれませんが、新たな環境への適応に役立ったでしょう。

 カルナツクル遺跡の石器に関しては、大半が完新世でも過去1000年間のものです(78.4%)。他の遺跡の石器との比較から、オーストラリア先住民の祖先集団は環境変動や異なる環境に適応していた、と推測されます。カルナツクル遺跡では顔料を用いた芸術作品も発見されており、中期完新世までさかのぼりますが、多くは過去1000年間のもので、石器の数から推測しても、更新世・中期完新世と比較して、過去1000年間には人口が増加し、社会が複雑化していったのかもしれません。本論文により改めて、最初期オーストラリア人の柔軟性と認知能力が確認された、と言えるでしょう。最初期オーストラリア人の潜在的能力は基本的に現代人と変わらなかったのではないか、と思います。問題となるのは、そうした潜在的能力が現生人類にいつ揃ったのか、ということですが、これは遺伝子と「能力」の関係がかなりの程度解明されるまでは推測困難だと思います。


参考文献:
McDonald J, Reynen W, Petchey F, Ditchfield K, Byrne C, Vannieuwenhuyse D, et al. (2018) Karnatukul (Serpent’s Glen): A new chronology for the oldest site in Australia’s Western Desert. PLoS ONE 13(9): e0202511.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0202511
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美川圭『公卿会議 論戦する宮廷貴族たち』

2018/11/18 09:06
 中公新書の一冊として、中央公論社より2018年10月に刊行されました。本書は律令制成立の頃から室町幕府第三代将軍の足利義満の頃までの朝廷貴族(宮廷貴族)の会議の変遷を、おもに公卿を対象として検証・解説しています。一般向け書籍としてはなかなか詳しい制度史の解説となっているので、正直なところ、宮廷貴族の会議および朝廷の制度の変遷について、一読しただけではとても全容を把握できなかったので、今後時間を作って何度か再読したいものです。

 本書では色々と興味深い知見が提示されています。律令制における政治的決裁の規定に関しては、律令制導入前の作法も取り入れられているようです。日本における律令制の導入が、唐の規定をそのまま採用したのではなく、日本の実情も反映したものであることは以前より指摘されているでしょうが、政治的決裁の作法もその一例なのでしょう。本書は律令制成立の頃も対象としていますが、おもに取り上げているのは、いわゆる摂関政治の頃から鎌倉時代です。

 この間、宮廷貴族の会議は、参加者や位置づけに関して多様で、伝統への拘りも見せつつ、変容していきます。宮廷貴族は、先例に拘って現実の政治への対応力を失っていく一方ではなく、政治と社会の変容に対応していこき、それは一定以上の成果があったのだ、と了解されます。本書は、皇位継承権すら幕府に実質的に掌握された鎌倉時代においても、朝廷の政治機能が有効だったことを詳しく解説しています。しかし、南北朝時代に入り、足利義満の頃になると、朝廷独自の政治機能はほぼ喪失しました。
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オーストラリアへの現生人類の到達年代

2018/11/17 12:22
 取り上げるのが遅れてしまいましたが、オーストラリアへの現生人類(Homo sapiens)の到達年代に関する研究(O’Connell et al., 2018)が報道されました。オーストラリアの人類史関連の記事については、今年(2018年)4月にまとめました(関連記事)。本論文は、東アジア南部と東南アジアからニューギニアとオーストラリアにいたる広範な地域を対象に、いつ現生人類が最初に拡散してきたのか、既知の諸研究を検証しています。更新世の寒冷期には、ジャワ島・スマトラ島・ボルネオ島などはユーラシア大陸南東部と陸続きでスンダランドを形成し、オーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました。

 東南アジアやオーストラリア大陸への人類最初の移住年代は、現生人類の出アフリカの回数・時期・経路(関連記事)とも関わっており、たいへん注目されます。昨年(2017年)、オーストラリアにおける人類の痕跡は65000年前頃までさかのぼるとする研究(関連記事)と、スマトラ島の現生人類の歯は73000〜63000年前頃までさかのぼるとする研究(関連記事)が相次いで公表され、スンダランドとサフルランドへの現生人類の早期(5万年以上前)の拡散を想定する見解の有力な根拠とされました。

 しかし本論文は、これらの年代が、東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおける他の確実な現生人類の痕跡と比較するとかなり早い、と指摘します。本論文はまず、オーストラリアにおける65000年以上前の人類の痕跡とされたマジェドベベ(Madjedbebe)遺跡については、石器そのものの年代ではなく、周囲の砂層が年代測定されていることに疑問を呈します。つまり、人工物が下の層に沈んでいけば、それだけ実際よりも年代が古くなる、というわけです。人工物が下の層に沈むような要因として、シロアリの穴掘りや豪雨があります。73000〜63000年前頃と推定された、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された現生人類の歯に関しては、その発見位置は1世紀以上前のデュボワ(Eugène Dubois)のノートに基づいており、歯の変色の欠如からも、その年代には疑問が残る、と指摘されています。東アジア南部では、中国の湖南省で12万〜8万年前頃の現生人類的な歯が発見されていますが(関連記事)、本論文は、歯と年代測定された堆積物との関係に疑問がある、と指摘しています。本論文は、東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおいて、5万年前を大きく超える現生人類の早期拡散説を証明するような、確実な現生人類の痕跡は遺骸でも人工物でもない、と指摘します。

 本論文は、近年急速に進展した遺伝学的研究成果も取り上げています。非アフリカ系現代人は全員、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からわずかながら遺伝的影響を受けており、非アフリカ系現代人の祖先集団が各地域集団系統に分岐する前に、ネアンデルタール人と交雑した、と考えられます。非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人の交雑の推定年代は54000〜49000年前頃で(関連記事)、その場所は西アジアである可能性が高いでしょうから、オーストラリアの現代人の主要な祖先集団がオーストラリアへと拡散してきたのは、5万年前前後である可能性が高そうです。じっさい、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果からは、オーストラリア先住民の祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されています(関連記事)。つまり、マジェドベベ人はその推定年代が65000年前頃だとすると、オーストラリア先住民集団の(少なくとも主要な)祖先ではない、というわけです。本論文は、現代人の(主要な)祖先集団が5万年以上前に東アジア南部・スンダランド・サフルランドに到達した確実な証拠がないことを、遺伝学の研究成果からも指摘します。

 このように現時点では、本論文が主張するように、現生人類が東アジア南部・スンダランド・サフルランドに5万年以上前に到達したことを示す確実な証拠はない、と言えるかもしれません。また、遺伝学的諸研究からも、東アジア南部・スンダランド・サフルランドの現代人の主要な祖先集団の到来は5万年前頃前後で、5万年前を大きくさかのぼることはない、と言えそうです。本論文は、オーストラリアへの植民の成功には、総計100〜400人以上の集団による筏での4〜7日程度の航海が想定され、高度な計画と技術を必要とする、と指摘しています。本論文は、ユーラシア西部でも、5万年前頃を少し過ぎたあたりで現生人類の拡散が始まり、その後に人口密度の増加と複雑な社会および文化が始まる、と指摘します。つまり、5万年前頃の前後に人類進化史において何か重要なことが起きたのではないか、というわけです。

 東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおける5万年以上前の現生人類の痕跡(早期拡散説)は、確定的とは言えない、との本論文の見解はたいへん興味深く、注目されます。しかし、今後の研究の進展と新たな発見により、早期拡散説が証明される可能性は低くないというか、むしろ高いと私は考えています。また、5万年前頃に現生人類において何か重要なことが起きたのではないか、との指摘も注目されます。ただ、アフリカにおいて「現代的な」行動は7万年以上前に散発的に見られ(関連記事)、それらの少なくとも一部はネアンデルタール人にも見られますから(関連記事)、そうした重要な変化の基盤は遺伝的ではなく、人口密度の増加とそれに伴う接触機会の増加など、社会的なものだった可能性が高い、と私は考えています。


参考文献:
O’Connell JF. et al.(2018): When did Homo sapiens first reach Southeast Asia and Sahul? PNAS, 115, 34, 8482–8490.
https://doi.org/10.1073/pnas.1808385115
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大型動物の長距離移動を可能にする効率的な筋肉

2018/11/17 12:20
 大型動物の長距離移動を可能にする効率的な筋肉についての研究(Curtin et al., 2018)が公表されました。乾燥環境や砂漠環境に生息する大型哺乳類は、長距離を移動することによって降雨・食物・気候の季節的・地域的な変動に対処できますが、そうした移動では多くの場合、途中で水や食物を確実に得られません。このような長距離移動を行なう動物個体の能力はエネルギー利用率に大きく依存し、移動運動行動中の熱発生(移動コスト)に左右されます。陸上での移動コストは他の移動手段よりはるかに大きく、飛行の移動コストの7.5倍、遊泳の移動コストの20倍となります。移動コストはサイズおよび四肢長が大きいほど小さくなるため、陸上移動動物は一般に大型で、効率的な移動運動行動を行なうのに特化した体を有しています。しかし、生きた筋繊維を直接調べるのは、小型動物の場合であっても難しく、ウサギより大きな動物で調べられたことはありません。

 この研究は、運動センサーおよび環境センサーを搭載した追跡用GPS首輪を用いて、ボツワナ北部の高温乾燥環境に生息するオグロヌー(Connochaetes taurinus;体重220 kg)が、水を飲まずに5日間にわたって最長80 km歩いたことを報告しています。首輪を装着したオグロヌーはおもに日中に移動し、若干の行動的体温調節は明らかだったものの、移動運動行動は温度および湿度には影響されないように見受けられました。この研究は、オグロヌーと、オグロヌーに似ているものの、比較的定住性の反芻類である体重約760 kgの家畜ウシ(Bos taurus)の前肢の尺側手根屈筋に由来する無損傷の筋生検検体において、周期的な収縮中の仕事生成のパワーおよび効率(機械的仕事および熱発生)を測定しました。

 その結果、オグロヌーおよびウシの等尺性収縮のエネルギーコスト(活性化および力の発生)は、より小型の哺乳類で報告されている値と同等でした。オグロヌーの筋肉の効率(62.6%)は、はるかに大型であるウシの同じ筋肉の効率(41.8%)、また、より小型の哺乳類から得られている同種の測定値(マウスで34%、およびウサギで27%)を大きく上回りました。この研究は、無損傷の筋繊維で直接的なエネルギーを測定し、これを用いて、オグロヌーの筋肉の高い仕事効率が、高温乾燥条件下での長距離移動における体温調節の課題を最小にするのに貢献していることを示しています。オグロヌーは筋肉の効率がよいため熱産生量が最小限に抑えられていることから、頻繁に息を吐いても失われる水分量が少なく、そのために水を飲む頻度が低いのではないか、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【動物学】ヌーが遠くまで移動できるのは効率的に働く筋肉のおかげ

 ヌーは、効率の良い筋繊維のおかげで、オーバーヒートを起こさずに長距離移動ができることを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、大型哺乳類の筋繊維のエネルギーを初めて直接測定した結果であり、砂漠環境に生息する動物が、降水量や食料、気候の季節変動と局地的変動にどのように対処しているかを示唆している。

 動物の長距離移動能力は、移動中のエネルギー利用と熱産生量に依存している。大型動物は小型動物よりも効率よく陸上で長距離を移動するが、個々の筋繊維の効率についての研究は進んでいない。マウスの場合、エネルギーの3分の1が運動に変換され、残りの3分の2が熱として消費されることが知られている。生きた筋繊維を直接調べるのは、小型動物の場合であっても難しく、ウサギより大きな動物で調べられたことはない。

 今回、Alan Wilsonたちの研究グループは、移動性のヌーの筋繊維の効率を調べた。Wilsonたちは、動作センサーと環境センサーの付いたGPS追跡首輪を用いて、ボツワナ北部の高温乾燥環境に生息するオグロヌー(Connochaetes taurinus)が、5日間水を飲まずに80キロメートル移動したことを明らかにした。オグロヌーの筋繊維は、エネルギーの3分の2を仕事量に変換し、熱として消費されたのは残りの3分の1のみであり、同じような大きさの動物(ウシなど)や小型動物(ウサギなど)よりも相当に効率が良いことが報告されている。このように、オグロヌーは筋肉の効率が良いため熱産生量が最小限に抑えられており、このことから、頻繁に息を吐いても失われる水分量が少なく、そのために水を飲む頻度が低いことが示唆される。


バイオメカニクス:砂漠に生息するヌーの優れた筋肉と優れたロコモーション

バイオメカニクス:効率的な筋肉が大型動物の長距離移動を可能にする

 体重に対して補正すると、マウスの移動コストはウマの移動コストの20倍にもなる。陸上を長距離移動する動物に大型のものが多いのはそのためで、そうした長距離移動動物には他にも長い四肢や大きなストライド長といった省エネルギー装置が備わっている。では、個々の筋繊維レベルでは何が起こっているのか。マウスの筋繊維は、効率が約3分の1、つまりエネルギーの3分の1が運動へと変換され、残りの3分の2は熱として直接消費されることが知られている。生きた状態の筋繊維を直接調べることは小型の動物でも非常に困難であり、ウサギより大型の動物で試みられたことはない。今回A Wilsonたちは、移動性動物であるヌーの筋繊維を生きた状態で調べた(ヌーは、小さな個体でもマウスよりはるかに大きい)。その結果、ヌーの筋繊維がエネルギーの3分の2を仕事に変換し、熱として消えるのは3分の1にすぎないことが明らかになった。こうした効率の高さによって、ヌーは余剰な熱発生を最小にしながら移動コストを低く抑えることができる。これは、息を吐く回数が少なくて済むことを意味しており、従って息を吐くたびに失われてしまう水分量も少なくて済む。こうした理由により、ヌーは、日中の焼け付くような暑さの中を移動するにもかかわらず、3〜4日に1回しか水を飲む必要がないのである。



参考文献:
Curtin NA. et al.(2018): Remarkable muscles, remarkable locomotion in desert-dwelling wildebeest. Nature, 563, 7731, 393–396.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0602-4
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腸内細菌によって調節されているショウジョウバエの移動運動

2018/11/17 12:19
 ショウジョウバエの移動における腸内細菌の影響に関する研究(Schretter et al., 2018)が公表されました。動物行動の生物学的性質の研究はおもに中枢神経系を中心に行なわれてきた一方で、末梢組織や環境からの合図は脳の発達や機能と関連づけられてきました。腸と脳の間の双方向性のコミュニケーションが、不安・認知・痛覚・社会的相互作用などの行動に影響を及ぼすことを示す新たな証拠があります。協調的な移動運動行動は動物の生存と繁殖に不可欠で、内因性および外因性の感覚入力によって調節されています。しかし、腸内細菌叢が宿主の移動運動行動にどのような影響を及ぼすのか、また、それに関与する分子機構や細胞機構についてはほとんど分かっていません。

 この研究は、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)において、無菌状態あるいは抗生物質投与が、過活動性の移動運動行動につながることを報告しています。腸内細菌叢の欠如による歩行速度および1日当たりの活動量の増大は、ショウジョウバエの共生細菌であるラクトバチルス属乳酸菌(Lactobacillus brevis)など、特定の細菌による単一細菌定着によって救済されました。腸内に細菌叢を持たない雌のショウジョウバエは、通常の方法で飼育されたショウジョウバエと比較して、平均歩行速度が速く、1回の歩行運動の平均所要時間が長い、というわけです。1回の歩行運動から次の歩行運動までの間隔の平均時間が短いこの乳酸菌由来の細菌酵素キシロースイソメラーゼは、ショウジョウバエの糖代謝を調節することで微生物定着のロコモーションへの影響を再現しました。

 重要なことに、キシロースイソメラーゼがショウジョウバエの移動運動行動に及ぼす影響は、オクトパミン作動性ニューロンの熱遺伝学的活性化あるいはオクトパミンの外因的投与により解消されました(オクトパミンは無脊椎動物の神経伝達物質で、脊椎動物のノルアドレナリンに相当します)。これらの知見は、これまで正当に評価されていなかった腸内細菌叢の移動運動行動調節における役割を明らかにするとともに、オクトパミン作動性ニューロンが末梢の微生物からの合図の調節因子で、これが動物の運動行動を調節する、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【微生物学】ショウジョウバエの移動運動は腸内細菌によって調節されている

 腸内細菌が雌のショウジョウバエの移動運動を調節しているという研究結果を報告する論文が、今週掲載される。腸内マイクロバイオームを持たないショウジョウバエは、腸内に微生物群集を持つショウジョウバエと比べて歩行速度が速く、1回の歩行運動の所要時間が長かった。また、このような移動運動に対する細菌の効果には、キシロースイソメラーゼという酵素が重要であることが明らかになった。

 最近の研究で、動物モデルの神経系の発生学的特徴と機能的特徴が腸内マイクロバイオームによって調節されていることが示唆された。しかし、移動運動に関係する神経調節物質と神経回路に対する腸内細菌の影響については、ほとんど分かっていない。

 今回、Catherine Schretterたちの研究グループは、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を用いて、移動運動行動に寄与する宿主-マイクロバイオーム間の相互作用を調べた。腸内細菌(飼育または抗生物質処理によって作製した)を持つ個体と持たない個体の両方において、移動運動が調べられた。その結果、腸内に微生物相を持たない雌のショウジョウバエは、通常の方法で飼育されたショウジョウバエと比べて平均歩行速度が速く、1回の歩行運動の平均所要時間が長く、1回の歩行運動から次の歩行運動までの間隔の平均時間が短いことが分かった。

 また、Schretterたちは、個体の移動運動能が、腸内に存在する細菌種の違いによって異なる影響を受けるかを調べた。その結果、歩行速度が遅かったりと1日の活動量が不足したりしている場合には、ラクトバチルス属細菌(Lactobacillus brevis:ショウジョウバエのマイクロバイオームに通常含まれる)などの特定の細菌を定着させれば十分に修正できることが判明した。Schretterたちは、L. brevisが保有するキシロースイソメラーゼという酵素が運動行動の制御に重要であることを特定し、この酵素による制御が、トレハロースなどの重要な炭水化物の調節を介して行われる可能性があると示唆している。

 Schretterたちは、このような作用に関係するニューロンと神経機構を正確に特定するためにはさらなる研究が必要なことを指摘し、また、こうした移動運動に対する微生物の影響の性別特異的な側面を明確にすることが重要だと主張している。


微生物学:ショウジョウバエでは腸内微生物的な要因が移動運動行動を調節する

微生物学:ショウジョウバエでは腸内微生物相が運動を調節する

 動物の生存と繁殖にはロコモーションが不可欠であり、これは内因性および外因性の感覚入力によって調節されている。C Schretterたちは今回、腸内微生物相が存在しない状態で飼育された、あるいは抗生物質を投与されたキイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)が過活動性の移動運動行動を示すことを報告している。腸内微生物相の欠如による歩行速度や1日当たりの活動量の増大は、ショウジョウバエの共生細菌である乳酸菌Lactobacillus brevisなど、特定の細菌による単一細菌定着によって救済された。L. brevis由来の酵素キシロースイソメラーゼは、ショウジョウバエの糖代謝を調節することで微生物定着がロコモーションに及ぼす影響を再現した。キシロースイソメラーゼがショウジョウバエのロコモーションに及ぼす影響は、オクトパミン作動性ニューロンの活性化あるいはオクトパミンの外因的投与で解消された(オクトパミンは無脊椎動物の神経伝達物質で、脊椎動物のノルアドレナリンに相当する)。これらの知見は、腸内マイクロバイオームが宿主のロコモーション調節において果たしている役割を明らかにするとともに、オクトパミン作動性ニューロンが末梢の微生物からの合図の調節因子であり、動物の運動行動を調節することを示している。



参考文献:
Schretter CE. et al.(2018): A gut microbial factor modulates locomotor behaviour in Drosophila. Nature, 563, 7731, 402–406.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0634-9
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苦味の知覚と飲料の好み

2018/11/16 16:45
 苦味の知覚と飲料の好みに関する研究(Ong et al., 2018)が公表されました。各個人が苦みのある物質をどう知覚するのかは、特定の遺伝子群を有していることと関連している、と明らかになっています。この研究は、カフェインの苦味に対する感受性の高さ(特定の遺伝子の存在によって判定)がコーヒー消費量の多さと関連している一方、プロピルチオウラシル(PROP)とキニーネの苦味に対する感受性の高さはコーヒー消費量の少なさと関連していることを明らかにしました。また、カフェインの苦味に対する感受性が高いほど、コーヒーを大量に消費する可能性がより高いことも明らかになりました。

 紅茶に関しては逆の関係が成り立っており、PROPとキニーネの苦味に対する感受性の高さは紅茶摂取量の多さと関連していたのに対して、カフェインの苦味に対する感受性の高さは、摂取量の少なさと関連していました。アルコールに関しては、PROPの苦味を強く知覚する被験者はアルコール消費量が少なかったのに対して、キニーネとカフェインの苦味を強く知覚することに明白な影響は認められませんでした。これらの知見から、遺伝的差異によって生じる苦味の知覚の差は、世の中にコーヒー好きと紅茶好きがいることを説明するのに役立つ可能性がある、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝学】コーヒー好きは苦味の知覚に影響されているかもしれない

 一人一人が苦みのある物質をどう知覚するのかは、特定の遺伝子群を有していることと関連していることが分かっている。このほど、こうした苦味の知覚の仕組みがコーヒー、紅茶またはアルコール飲料の好き嫌いに影響を与えることが、今週掲載の論文で明らかになった。

 一人一人が苦みのある物質をどう知覚するのかは、特定の遺伝子群を有していることと関連していることが分かっている。このほど、こうした苦味の知覚の仕組みがコーヒー、紅茶またはアルコール飲料の好き嫌いに影響を与えることが、今週掲載の論文で明らかになった。

 その結果、カフェインの苦味に対する感受性の高さ(特定の遺伝子の存在によって判定)がコーヒー消費量の多さと関連している一方、PROPとキニーネの苦味に対する感受性の高さはコーヒー消費量の少なさと関連していることが判明した。また、カフェインの苦味に対する感受性が高いほど、コーヒーを大量に消費する可能性がより高いことも分かった。紅茶に関しては、逆の関係が成り立っていて、PROPとキニーネの苦味に対する感受性の高さは紅茶摂取量の多さと関連していたのに対し、カフェインの苦味に対する感受性の高さは、摂取量の少なさと関連していた。アルコールに関しては、PROPの苦味を強く知覚する被験者はアルコール消費量が少なかったのに対し、キニーネとカフェインの苦味を強く知覚することに明白な影響は認められなかった。

 これらの知見から、遺伝的差異によって生じる苦味の知覚の差は、世の中にコーヒー好きと紅茶好きがいることを説明するのに役立つ可能性があると示唆される。



参考文献:
Ong JS. et al.(2018): Understanding the role of bitter taste perception in coffee, tea and alcohol consumption through Mendelian randomization. Scientific Reports, 8, 16414.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-34713-z
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ネアンデルタール人と現生人類の頭蓋外傷受傷率

2018/11/15 18:51
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の頭蓋外傷受傷率を比較した研究(Beier et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ネアンデルタール人は一般的に、現生人類よりも危険な生活を送っていた、と考えられています。その要因として、暴力的社会行動、雪と氷に覆われていた環境における高度に遊動性の狩猟採集生活様式、肉食獣の攻撃、接近戦による大型獣の狩猟などが想定されていました。しかし、その根拠は、おもに記述的で各事例に基づいた証拠に依拠しています。また、ネアンデルタール人が現生人類と比較して危険な生活を送っていたとはいうものの、その根拠となった比較対象として、同時代もしくは近い年代の現生人類である必要があります。たとえば、現代の産業社会の現生人類との比較は適切ではありません。

 本論文は、ユーラシア西部の8万〜2万年前頃のネアンデルタール人(114標本から295点の頭蓋要素)と上部旧石器時代の初期現生人類(90標本から541点の頭蓋要素)の頭蓋外傷受傷率を定量的に比較しました。ネアンデルタール人と同じく、遊動性の狩猟採集生活を送っていただろう現生人類が比較対象となったわけです。比較の結果、ネアンデルタール人と上部旧石器時代の初期現生人類との間で、頭蓋外傷の受傷率は類似している、と明らかになりました。また、ネアンデルタール人でも上部旧石器時代の初期現生人類でも、男性の方が女性よりも受傷率が高い、と明らかになりました。これは、もっと後の現生人類においても見られる傾向で、両分類群で共通する役割の性差を示唆しているのかもしれません。

 ただ、年齢別の区分では、ネアンデルタール人と上部旧石器時代の初期現生人類との間で有意な違いが見られました。ネアンデルタール人では、受傷率は高齢層より若年層の方が高かったのですが、上部旧石器時代の初期現生人類ではそこまでの違いは見られませんでした。これは、加齢による受傷リスクの差と、受傷後の生存率の差を反映している可能性があります。ネアンデルタール人社会では狩猟に参加するのは若年層が主体で、現生人類社会では高齢層も狩猟に参加していたのかもしれません。あるいは、現生人類社会ではネアンデルタール人社会よりも、負傷者の生存率が高く、若い時に負傷しても高齢層まで生き続ける個体が多かったのかもしれません。これは、現生人類社会において、負傷者の治療・世話がネアンデルタール人社会よりも手厚かったためかもしれません。

 本論文は今後の課題として、頭蓋以外の検証の必要性を挙げています。また本論文は、骨格残存率により偏りが生じている可能性も指摘しています。頭蓋残存率により受傷率は異なっていて、25%以下→25〜50%→50〜75%の順で受傷率が高くなりますが、75〜100%では、25〜50%より高いものの、50〜75%よりは低くなります。これは、残存率が低いとそれだけ受傷個所が失われやすい、ということなのでしょう。また、頭蓋を負傷するような場合、頭蓋も失われやすい、という点も考慮しないといけないでしょう。残存率75〜100%では50〜75%より低くなるのは、残存率の高い個体の負傷率が低かったことを反映しているのでしょう。

 具体的にどの文献だったか忘れましたが、確か日本語文献(翻訳本だったかもしれません)で、ネアンデルタール人は受傷率が高く、性別・年齢による違いがないので、現生人類と比較して、女性も若年個体もより危険な狩猟に従事していた、との見解を読んだ記憶があります。現生人類社会ではネアンデルタール人社会よりも性別・年齢別の分業が進んでおり、それがネアンデルタール人絶滅と現生人類繁栄の要因になった、というわけです。しかし本論文は、頭蓋受傷率に関して、定量的研究により、ネアンデルタール人と上部旧石器時代の初期現生人類との間の類似性を示したわけで、たいへん意義深く、教えられるところが多々ありました。今後、頭蓋以外での研究も進展するよう、期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】ネアンデルタール人はケガの多い生活を送っていたわけではなかった

 8万〜2万年前に生きていたネアンデルタール人と後期旧石器時代の現生人類は、同じような割合で頭部外傷を受けていたことを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、ネアンデルタール人の方が暴力的な生活を送っていたという既成概念に疑問を投げ掛けている。

 ネアンデルタール人は、同時代の現生人類より危険な生活を送っていたと一般的に描かれているが、その証拠のほとんどは裏付けに乏しく、定量的な集団レベルの研究ではなく、ケガをしたネアンデルタール人の骨格化石の事例研究に基づいている。また、これらの事例は、同時代の現生人類ではなく、現代人におけるケガと比較されることが多かった。

 今回、Katerina Harvatiたちの研究グループは、現在利用可能な最大の化石データセット(約8万〜2万年前のものと年代決定された)の試料800点以上を用いて、ネアンデルタール人と後期旧石器時代の現生人類の頭部外傷を集団レベルで比較した。Harvatiたちは、それぞれの事例について、頭蓋外傷の存否、性別、死亡年齢、骨格の保存状態、および発掘地点を記録し、集団間で頭蓋外傷の受傷率の違いを評価した。その結果、ネアンデルタール人と後期旧石器時代の現生人類の間に頭蓋外傷受傷率の差はないが、いずれの集団においても男性の方が女性より受傷率が高いことが明らかになった。Harvatiたちによれば、このような差は、性特異的な行動と活動によって説明可能だとしている。

 また、ネアンデルタール人の骨格化石では頭蓋外傷の受傷率は若年者の方が高かったが、後期旧石器時代の現生人類では受傷率に年齢群による差はなかった。このことは、この2つの集団における加齢関連の受傷リスクの差と受傷後の生存率の差を反映している可能性があると、Harvatiたちは考えている。



参考文献:
Beier J. et al.(2018): Similar cranial trauma prevalence among Neanderthals and Upper Palaeolithic modern humans. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0696-8
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百田尚樹『日本国紀』(後編)

2018/11/15 05:26
 前編の続きです。


第7章 幕末〜明治維新(P233)

●ペリー来航(P233)
 ペリー来航時の幕府の対応が腰抜けと糾弾されていますが、彼我の力関係を冷静に判断した妥当な判断だと思います。まあ、対外関係では、実力以上に強硬な姿勢を示すことも時として必要でしょうし、個人単位であれ戦闘であれ、幕末の攘夷が欧米列強に日本侵略を阻止させた、という側面もあるとは思いますが。もっとも、幕末日本が列強の植民地にならなかった理由としては、やはり近隣の「中国」と比較して経済的魅力に乏しかったことも大きかった、とは思います。

●不平等条約(P234〜237)
 不平等条約など、幕末の幕府の対応が厳しく批判されていますが、当時の知識層のほとんどにとって夷華秩序的枠組みこそが常識であり、「不平等性」が理解されにくかった、という事情がありました(関連記事)。その中で幕府は、本書のような通俗的見解で想定されているほど情けない対外交渉を行なっていたわけではない、との見解が近年では有力だと思います(関連記事)。

●坂本龍馬(P262〜268)
 幕末政局では、坂本龍馬が「武力討幕」に反対していた、とありますが、桐野作人『龍馬暗殺』(吉川弘文館、2018年)は、龍馬の最後の上京は武力挙兵のためのものであり、龍馬は大政奉還にほとんど貢献しておらず、小松帯刀の貢献が大きかった、と指摘します。同書は、大政奉還前後の政治情勢の対立軸は、「武力倒幕派」と「公議政体派」ではなく、「廃幕派」と「保幕派」だと指摘します(関連記事)。

●赤報隊(P274〜275)
 赤報隊も取り上げられており、予想していたよりもずっと、新政府に批判的な記述となっています。


第8章 明治の夜明け

●明治初期の近代化(P286〜294)
 明治初期の近代化は急激だった、と強調・称賛されています。しかし、後発国の優位性という観点が欠落していると思います。後発国は、先行国の試行錯誤の結果を効率よく学べる可能性が高くなります。もちろん、後発国固有の条件があるので、急速な成功を収められるとは限りませんが。また、日本人は変化や改革を嫌うが、明治初期は例外だった、とも主張されていますが、基本的に人間は変化や改革を嫌う傾向にあるものだと思います。


第9章 世界に打って出る日本

●議会開設(P301)
 大政奉還までは、「農民や町人は、殿様が行なう政道に何一つ口を差し挟むことはできなかった」とありますが、P203で日本史上初の画期的システムと評価されている目安箱は何だったのでしょうか。一応は政治に関しても庶民の声を聞く、という建前だったはずですが。なお、本書では言及されていませんが、明治時代の議会開設への熱望には、幕末に根強く主張された「公議(公論、衆議など)」の観念があると思います(関連記事)。

●大韓帝国の対外政策(P312〜315)
 三国干渉後に日本からロシアへと傾いた大韓帝国にたいして、独立の精神が見られない、と批判的ですが、力関係を考慮に入れた慎重な方針とも解釈できるように思います。率直に言って本書は、古代における朝鮮半島から日本への影響にほとんど言及していないことも含めて、朝鮮を過小評価しているように思います。

●韓国併合(P326〜328)
 韓国併合について、武力を用いておらず合法的だ、と主張されています。しかし、軍事力を背景とする日本の圧力に大韓帝国が屈した、という側面はとても否定できないでしょう。また、人口増加・平均寿命の向上・社会資本整備などから、日本の朝鮮半島統治は収奪ではなかった、と本書は主張します。「日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に貢献した、と主張されていますが、じっさいには日本は朝鮮を比較的低コストで統治しており、財政面での日本政府の負担は小さく、収奪ではないとしても、身長を指標とすると、日本統治下の朝鮮では一般人の生活水準は大きくは変わらなかっただろう、と推測されています(関連記事)。また、朝鮮は植民地ではない、と力説されていますが、「内地」と完全に同一の法体系が適用されているわけではないので、植民地と規定するのが妥当でしょう。


第10章 大正から昭和へ

●第一次世界大戦後の世界(P338〜340)
 ロシア革命では内戦により夥しい死者が出た、と述べられていますが、日本軍のシベリア出兵をはじめとして列強の干渉に言及しないのは、さすがに日本の通史として著しく偏っていると思います。

●張作霖爆殺事件(P355)
 「事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない」と述べられています。具体的にコミンテルンを出さないだけ、まだましと言うべきでしょうか。

 第10章は全体的に、日本人が中国でいかに被害にあったか、ということが強調されていますが、そもそも日本人が中国に「進出」して利権を得ているような状況が前提としてあるわけで、中国でナショナリズムが高まるのは当然と言うべきでしょう。逆に、中国人が日本で同様の行動を取っていたら、日本人は「法に従って行儀よく」すべきなのか、と問うと、本書の根本的な問題が見えてきます。


第11章 大東亜戦争

●東南アジアでの日本軍(P391〜392)
 「日本はアジアの人々と戦争はしていない」とありますが、たとえばフィリピンではゲリラ戦が行われていますし、ベトナムとではなくフランスと戦ったとされていますが、この時のフランスはヴィシー政府で、P381ではヴィシー政府と条約を結んで北部仏印進駐が行なわれた、とあります。日本がベトナムで戦ったのは「(東南)アジアの人々」に他ならないと思います。この矛盾もそうですが、本書には、本当に同一人物が執筆したのか、と疑いたくなるような記述が散見されます。本書は、日本が植民地宗主国と(東南)アジアで戦ったことにより、植民地だった地域が戦後独立したのだ、と「大東亜共栄圏」の意義を強調します。しかし、日本には「大東亜共栄圏」の盟主としての実力が欠け、できたことは帝国のもっとも古代的な形態としての戦利品の略奪だった、との指摘が妥当でしょう(関連記事)。


第12章 敗戦と占領

●WGIP(P421〜425)
 GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)により日本人は洗脳された、と強調されています。しかし、WGIPで重視された捕虜虐待の罪を日本人が理解したとは言い難い、との指摘もあります。


第13章 日本の復興

●朝日新聞の報道(P465〜470)
 朝日新聞の報道が批判されていますが、正直なところ、500ページ程の日本通史で5ページも使うことなのか、はなはだ疑問です。しかも、他のページでも執拗に朝日新聞が批判されています。まあ、それが「売り」の通史ということなのでしょうが、もっと「日本の復興」を取り上げるべきではなかったか、と私は思います。なお、朝日新聞の報道により日本人の多くが「南京大虐殺」をあっさりと信じた、とありますが、朝日新聞が取り上げ始めた当時もその後もずっと、日本人の多くは「南京大虐殺」について知らないか、関心がきわめて低いと思います。


終章 平成

●現代日本社会の課題(P497〜498)
 大災害・経済の低迷・少子高齢化など、現代日本の問題点が取り上げられています。しかし、冷戦構造とソ連の崩壊、中国や北朝鮮の動向などと比較すると、明らかに分量が少ないと思います。まあ、「左翼批判」が本書の売りというか骨格なので、仕方のないところでしょうか。
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百田尚樹『日本国紀』(前編)

2018/11/15 05:25
 幻冬舎から2018年11月に刊行されました。字数制限2万文字を超過してしまったので、この前編と後編に分割します。多くの日本人は日本が大好きで、先祖が紡いできた文化伝統を凄いと思っています。しかし、GHQの洗脳工作により、戦後日本の歴史教育は自国を貶めるものに堕してしまいました。戦後生まれの日本人は学校では教えてもらえなかった正しい日本の歴史をもっと知りたいのに、それを教えてくれる歴史教科書はありませんでした。そんな中、満を持して刊行されたのが本書です。日本は悪い国だと教育を受け、大東亜戦争がどんな戦争だったかを習うことも無い戦後生まれの日本人にとって、本書が本当の歴史教科書になり、本当の日本を取り戻す契機になると思います。日本人のアイデンティティとして、日本の歴史を流れる映像として語るのに、本書は最適でしょう。生きているうちのこのような本に出会えたことを心より感謝申し上げます。


 以上のような称賛とともに、本書への批判・嘲笑もネットでは目立ちます。それらのいくつかも参考にしつつ、以下に私の雑感を述べていきます。まず意外だったのは、基本的には淡々とした感じの文章であることです。著者の他作品を読んだことはありませんが、当代でも有数の売れっ子作家だけに、もっと文学的技巧を多用した、物語色の強い叙述になっている、と予想していました。おそらく、これは意図的なもので、通史ということで、あえて教科書的な記述にしたのでしょう。文章は読みやすく、一般向けであることが強く意識されていると思います。

 内容については、率直に言って全体的に理解の古さが目立ちます。著者の勉強不足は明らかで、とても日本通史を執筆できるだけの準備が整っていたとは思えません。まあ、そうであるからこそ、通史を執筆しようと思い立ったのでしょう。歴史学を専攻していなくとも、多少は歴史関連の本を読んでいけば、通史を執筆するのがどれだけ恐ろしいことなのか、よく理解できると思います。一部?では「右寄り」とみなされている著者の日本通史だけに、西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を想起する人も少なくないと思います。しかし、『国民の歴史』は(執筆時点での)一般層にはあまり知られていないだろう最新の知見も取り込んだ内容で、西尾氏と比較して著者の勉強不足は明らかというか、比較対象にすると西尾氏に失礼でしょうか。『国民の歴史』の歴史観には基本的に同意できないのですが(関連記事)、(当時の)大御所・第一線の歴史学研究者が反論本を出すだけの内容はあると思います。しかし本書にはそれだけの価値はなく、歴史学研究者が本書を無視してもまったくかまわないでしょう。その気になった歴史愛好家が、それぞれ関心のある分野で本書に疑問を呈していけばよいと思います。

 全体的に最新の知見を抑えていないこと以上に問題なのが、整合性のなさが散見されることです。後述しますが、日本における虐殺や仏印進駐などで、前のページにあることと整合的ではない記述が後のページで見られます。執筆者が複数いるのではないか、と邪推したくなるほどですが、そうではないと思います。本書は王朝交替説に肯定的で、妥当性がきわめて低い九州王朝説にも否定的ではありません。『朝まで生テレビ!』出演時の発言から推測すると、おそらく著者は天皇、とくに前近代の天皇への思い入れはとくに強くなく、反「左翼」・中国・南北朝鮮感情が根底的な動機としてあるように思われます。その意味で本書は、共通要素はあるとしても、皇国史観とはとても言えないでしょう。著者は、「左翼」的言説を否定したい、という思い入れで執筆しているため、妥当性の低い見解も採用するなど、その場しのぎ的な反応をしてしまい、結果的に整合的ではない記述になってしまっているように思われます。これは、王朝交替説に肯定的など、「反左翼」が喜ばないだろう記述も散見されることと関連しています。

 率直に言って、本書は日本通史としてはきわめて低水準で、高校用日本史教科書を読む方がはるかに有意義です。本書の方が面白い、との評価は多そうですが、上述したように本書は基本的には淡々とした叙述になっているので、「面白さ」という点で教科書を大きく上回っているとは思えません。読みやすさという点でも同様です。ならば、内容がはるかにまともな教科書を読む方がずっと有意義です。以下、本書の具体的な内容について雑感を述べていきます。本当は全時代満遍なく雑感を述べていくべきなのでしょうが、私の関心および所有参考文献の偏りと、途中から疲れてきたため、近世以降は薄くなってしまいました。問題のある個所で、読み過ごしてしまったところもあるでしょうし、南京事件のように、私が勉強不足なので取り上げなかった記述もあります。こうした点は、今後の私の課題です。雑感のより詳しい説明と参考文献については、基本的にリンク先で言及されています。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


第1章 古代〜大和政権誕生

●縄文時代(P10〜12)
 縄文「文明」よりも優れた「文明」が同時代のユーラシアに存在した、と率直に認められています。縄文時代の分量は少なく、歴史時代ではないので著者の関心が低い、ということなのでしょう。縄文人がさまざまな人々の融合により成立し、弥生時代以降に朝鮮半島から日本列島に人々が渡来してきたことも認められており、日本人起源論については、周辺諸国のDNA解析が進めばかなりのことが分かるだろう、とさえ指摘されています。近年の「愛国的」見解では、縄文時代から一貫した「日本」の存在を措定して賛美することが多いように思われるので、本書の記述はかなり意外でした。著者は縄文時代には興味がなく、そのため冷ややかな記述になっているのでしょう。その分、本書の中ではまともな記述になっています。

●弥生時代(P13)
 弥生時代については、水稲耕作や金属器が朝鮮半島から伝わってきたことと、現在の中国に相当する地域には、同時代に日本列島より圧倒的に高度な「文明」が存在したことが、率直に認められています。想定される主要な読者層を刺激しそうな叙述になっていますが、意外とまともとも言えます。良心的とも解釈できるかもしれませんが、「日本」という国制が成立する(と著者が考えている)時期までのことには関心がないというか、重視していないため、単に参考文献を短くまとめただけなのだと思います。

●邪馬台国(P15〜22)
 邪馬台国と「大和朝廷」との関係が否定されています。記紀には卑弥呼も邪馬台国も登場せず、宝物を授かったことも含めて魏との通交も記載されていないから、というわけです。しかし、『日本書紀』巻九(神功皇后紀)では、卑弥呼との表記こそないものの、魏と倭との通交が注で言及されています。邪馬台国を都とする倭国と『日本書紀』編纂時の日本国の中枢が政治的に連続的だとしても、その頃には卑弥呼が自分たちの伝承では誰のことなのか、分からなくなっていた可能性もあると思います。近年では邪馬台国畿内説で決まりとの論調が支配的に思われますが、本書が推測するように、邪馬台国は九州にあり、後の「大和朝廷」とは関係していない、という可能性も無視できないくらいにはあると思います(関連記事)。もっとも、邪馬台国と「大和朝廷」との関係を否定する論者の全員ではないとしても、「日本」が「中国」に冊封されることはあってはならない、という後の皇国史観と通ずるような動機があるように思われ、後述のいわゆる倭の五王に関する本書の記述からも、著者にもそうした動機があるように思えます。

●朝鮮半島の前方後円墳(P23)
 「百済があった地では、日本式の前方後円墳に近い古墳がいくつも発見されている」とありますが、「日本式の前方後円墳に近い古墳」が築かれた時期の朝鮮半島南西部は百済領ではなかったでしょうから、やや問題のある記述だと思います。

●任那(P24)
 本書では日本(倭)の「任那」支配が事実とされています。日本(倭)の「任那」支配をめぐる議論は「支配」の定義次第でもあると思うのですが、一般的な意味合いでの「支配」だったと考えるのは難しいように思います。しかし、日本(倭)が「任那」に何らかの影響力を有していた可能性は高いでしょう。

●神功皇后と応神天皇は新王朝の創始者(P26〜27)
 その根拠として漢風諡号に「神」が入っているから、とされていますが、漢風諡号の制定は『日本書紀』の編纂よりも後のことです。著者がそのことを知っているのか否か、本文を読んだ限りでは微妙ですが。なお、遠山美都男『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)では、『日本書紀』は万世一系を証明しようとした歴史書とは一概に言えず、王朝交替説論者は、「中国」と同様に「日本」でも王朝交替のような歴史があったとする『日本書紀』の構想に引きずられているだけだ、と指摘されています。

●倭の五王(P27〜28)
 いわゆる倭の五王について、記紀には中国(宋王朝)へ朝貢した記述がないとして、記紀に見える「天皇」に比定することに本書は否定的です。しかし、『日本書紀』編纂時の日本の支配層にとって、対等なはずの「中国」に冊封されていた過去は都合が悪かったので言及されなかった、と考える方が妥当だと思います。本書は倭の五王に関して、通説の対抗説として九州王朝説に言及していますが、論外だと思います。本書は、「日本」が「中国」に冊封されたことを否定したいあまり、九州王朝説に言及したように思われますが、その結果として、皇室を貶めていることに気づいていないようです。なぜならば、九州王朝説は、現在の皇室は九州王朝の分家にすぎず、日本列島を代表していた王権は、7世紀後半まで九州王朝だった、と主張しているからです。もちろん、まともな見解ならば、本書の歴史観に都合が悪くとも言及するのは良心的と言えるでしょうが、与太話にすぎない九州王朝説に飛びついてしまうあたりに、著者の不勉強が見えてしまいます。

●騎馬民族征服王朝説(P30)
 騎馬民族征服王朝説について、「一時期受け入れられた背景には、戦前の皇国史観への反動と朝鮮人に対する贖罪意識という側面があるが、歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚われることは避けなければならない」とあります。これは、「進歩的勢力」、とくに朝日新聞批判に執着する著者自身への戒めなのか、と深読みしたくなります。

●新王朝の祖である継体天皇(P30〜32)
 継体「天皇」は新王朝の祖とされ、王朝交代説が採用されていますが、この頃にはすでに天皇(大王)は万世一系であるべきだとの不文律があったとの想定は、かなり苦しいように思われます。

●男系での皇位継承(P33〜34)
 ネットでも話題になりましたが、男系での皇位継承の条件とは、「父親が天皇」であることではなく、ここは著者の認識が間違っているように思います。もっとも、その前の記述から推測すると、「父親」ではなく「父方・父系」と言いたかったのかもしれませんが。なお、過去8人の女性天皇のうち、4人は既婚者(未亡人)で、彼女たちの子は天皇になっている、とありますが、この4人のうち推古と持統の子は天皇になっていません。

 第1章では縄文時代〜飛鳥時代の前までが扱われています。日本人が日本列島に渡来してきたさまざまな人々の融合により成立したことや、水稲耕作・金属器といった弥生時代の要素が朝鮮半島からもたらされたことや、縄文時代〜弥生時代にかけて、「中国」も含めてユーラシアには日本列島よりも高度な「文明」が存在したことや、王朝交替の可能性が高いと想定されていること(私は以前述べたように否定的ですが)などもありますが、何よりも、縄文時代から現代まで継続する一貫した「日本」が措定されていないことは、本書のまともなところだと思います。これは、本書の主要な読者層の歴史観とは相容れないでしょうから、不満に思う読者は少なくないと思います。まあ、第1章に関しては、著者が良心的というよりは、単に関心が低くて不勉強なだけで、それ故に九州王朝説のような与太話にも言及してしまったのだと思いますが。


第2章 飛鳥時代〜平城京

●神道(P37)
 仏教伝来前の日本には神道があったとされていますが、「太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の神道」との見解は大いに疑問です(関連記事)。

●遣隋使(P39〜41)
 聖徳太子が遣隋使の主体者とされていますが、『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていません(関連記事)。また、天皇称号の使用は遣隋使に始まるとされていますが、これは議論のあるところだと思います。現時点では、天皇称号の使用は天武朝に始まるとの見解が有力でしょう。

●憲法十七条(P42〜43)
 「憲法十七条」の先進性が強調され、とくに第一条が高く評価されていますが、「憲法十七条」が広く特別視されるようになったのは近代以降で、第一条こそが聖徳太子の思想の中心で日本文化の伝統だった、との考えが広まったのは昭和になってからでした(関連記事)。

●白村江の戦い(P45〜47)
 白村江の戦いへといたる日本(倭)の百済救援策について、当時としては大事業で、そこまで百済に肩入れしたのは、百済が日本の植民地に近い存在だったからだ、と主張されています。確かに、日本(倭)が百済にたいして政治的に優位に立つ局面は多かったでしょうが、「植民地に近い存在」とまで言えるのか、はなはだ疑問です。著者とは政治的立場が大きく異なるだろう論者の中には、逆に日本が百済の植民地もしくは「分家」だったから「異様なまでに」百済復興に肩入れしたのだ、と主張する人さえいます。しかし、そうした日本(倭)と百済の「特別な」関係を想定する必要はなく、百済救援は当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様です(関連記事)。

●遣唐使(P48〜50)
 「遣唐使はすべて朝鮮半島を経由しない海路」とありますが、初期には朝鮮半島沿岸経由だったと推測されているので(この経路が用いられなくなったのは、新羅との関係が悪化したからだと思われます)、やや問題のある表現だと思います。遣唐使が「命懸け」だった理由として、造船技術と航海術の未熟さが指摘されていますが、朝貢使・朝賀使という外交的条件に制約され、出発・帰国の時期を自由に選ぶことが許されなかったことに、より大きな原因があったと考えられます(関連記事)。なお、唐の周辺国は唐の冊封を受けていたのに日本だけは違った、とありますが、唐とトゥプト(吐蕃)との関係は安定的ではありませんでしたし、そもそも冊封体制という枠組みは一般層では過大評価されているようにも思います。

●万葉集(P51〜52)
 『万葉集』には一般庶民の詠んだ歌も多数採録されており、豊かな文化を示す、と主張されていますが、ある程度以上の知識層の仮託が多く含まれている可能性も想定すべきではないか、と思います。

●仁徳天皇および皇祖神(P54〜55)
 日本国号の素晴らしさが力説されていますが、日本という国号の表記の発信源は中華世界にあり、百済や新羅、とくに百済の知識人が倭の別称として用いたのが直接の起源との見解も取り上げてもらいたかったものです(関連記事)。なお、本書では皇祖神は天照大神とされていますが、タカミムスヒが本来の皇祖神だった、という仮説もかなり有力だと思います(関連記事)。

●天智と天武(P55〜56)
 天智天皇と天武天皇が兄弟ではなかった、との仮説が否定的ではない文脈で言及されていますが、与太話にすぎないと思います(関連記事)。

●奴隷制(P57〜58)
 「中国」やヨーロッパ社会における奴隷制度に相当するものは日本には存在しなかった、とありますが、下人は世界史的観点では奴隷と定義できるかもしれず、本書の見解も議論の対象となるでしょう。

●日本の清潔さ(P63)
 「幕末に日本を訪れた西洋人が一様に驚いた日本の街の清潔さは、実は千二百年以上前が実現していたのだ」とありますが、江戸の清潔さについては過大評価されているところがあります(関連記事)。ゴミ処理においては不法投棄が後を絶たず、肥料となる生ゴミが恒常的に発生していたことも窺えます。上水井戸と共同便所やゴミ捨て場とは近接することも少なくなく、幕末のコレラの流行には、そうした生活環境も影響した可能性が指摘されています。

●日本史上の虐殺(P64)
 ヨーロッパや「中国」では当然だった民衆の大虐殺が日本ではまったくないとのことですが、戦国時代の長島や越前の一向一揆、さらには江戸時代の島原の乱は、民衆の大虐殺との評価も的外れではないように思います。もちろん、そうした虐殺を語る史料に誇張もあるのでしょうが。これは読み進めていた時のメモなのですが、本書では織田信長についての記述で、虐殺が肯定されており(P139〜143)、この問題は後述します。


第3章 平安時代

●「中国」の影響(P66)
 平安時代には中国大陸の影響を受けなくなったとされますが、仏教をはじめとして相変わらず多方面で影響を受け続けます。『枕草子』からも窺えるように、「中国」文化への憧憬も強いものでした。なお、日本史上、「中国文化」への傾倒が頂点に達したのは江戸時代でした(西嶋定生『邪馬台国と倭国』P198)。ずっと先の江戸時代はさておき、平安時代に話を戻すと、何よりも、江南の経済発展に起因する「日中」交易の本格化により、むしろほぼ遣唐使に限定されていた平安時代初期までよりもそれ以降の方が、「中国」の影響が強くなった、と考えるのが常識的だと思います。

●遣唐使の「廃止」(P68〜70)
 遣唐使が廃止されたとありますが、実際には延期です。まあ、廃止にしても延期にしても、平安時代になって日本が遣唐使に消極的になっていったことは確かでしょうが、それは本書が主張するような、「中国」の文化はもう不要との自信に由来するのではなく、国家としての唐が衰退して「中国」情勢が不安定たからでした。また、唐が滅亡してからも、「中国」からの「唐物」は日本の文化に必要とされ、規範にもなっており、商人による東アジア交易を通じて導入され続けました(関連記事)。遣唐使の延期も、東アジア交易が盛んになり、「国家」間の使節往来に頼らずとも、「中国」の文物の導入や僧侶の留学が可能だった、という前提があります。

●武士の起源(P71〜73)
 武士の起源については議論の蓄積があり、私も含めて門外漢にとって理解はなかなか困難と思います。本書は荘園の拡大および土地をめぐる紛争が要因としていますが、荘園が本格的に拡大していくのは院政期で、平安時代初期の、国衙支配への反抗としての群盗蜂起とその対抗としての僦馬の党の出現といった、武装輸送・強盗手段の台頭による治安の悪化がより大きな要因だったのではないか、と思います。

●摂政と関白の権能(P73〜74)
 「藤原氏の当主は摂政や関白として天皇の代わりに政治を執り行なった」とありますが、摂政は天皇大権を代行するものの、関白はあくまでも天皇を補佐する官職です。

●菅原道真と怨霊思想(P75〜76)
 菅原道真の失脚は藤原氏の謀略とされていますが、当時より醍醐天皇に責任があると考えられていたようです(関連記事)。なお、「死者が祟るというこの考え方は日本人特有である」とありますが、ヨーロッパでも、とくにキリスト教の浸透以前には、非業の死を遂げた者が怨念を抱いて有害な存在となる、といった観念は珍しくなく、類似の観念は他地域でも珍しくないだろう、と思います。

●摂関就任の条件(P77〜78)
 「いつの頃からか摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていた」とありますが、そもそも摂政と関白という官職が成立した当初より、藤原氏しか就任していません(後世には豊臣秀吉・秀次という例外があり、近代には皇族摂政制となりますが)。聖徳太子は「摂政」ではなく、「皇太子」として政治を委ねられたわけです(あくまでも『日本書紀』の説明では)。

●平安時代の死刑(P79〜81)
 平安時代になって死刑は廃止されたとありますが、天皇が死刑を忌避し、死刑減免の判断を続けていた、との解釈が妥当でしょう(関連記事)。ただ、平安時代にも地方では死刑が不通に行なわれてた、とも本書は指摘しており、ここは的外れな日本称賛になっておらず、よいと思います。

●院政(P81〜82)
 院政は上皇と天皇の権限が同等という律令の規定を白河上皇が利用して始まった、とされていますが、イエ社会への移行に伴い、官職のような公的地位よりも、家長であるか否かの方が重要になった、ということを重視すべきと思います。ここは、著者が強調したいだろう、日本と「中国」や朝鮮との大きな社会的違いになるので、本書でも大きく取り上げればよかったのに、と思います。

●保元・平治の乱(P82〜87)
 保元の乱の遠因として、崇徳上皇が鳥羽法皇の実子ではなく、白河法皇の実子だという噂を事実と断定していますが、これは議論の分かれるところだと思います。平治の乱については、平清盛が主役であるかのような解説となっていますが、これは清盛が結果的に最大の利益を得たと言ってもよいような史実経過からの逆算にすぎず、清盛の過大評価だと思います(関連記事)。

●平家の栄華と没落(P88〜91)
 1179年のクーデタにより院政は終わったとされていますが、院政自体は鎌倉時代にも続いていきます。本書は、上皇が日本の最高権力者である時代は終わった、と言いたいのでしょうが、承久の乱の前までの鎌倉幕府の権力はその後よりも限定的で、後鳥羽院政にはかなりの実質的権力があったのではないか、と思います。なお、「源平合戦」は武士のみで行なわれ、一般民衆はまったく巻き添えになっていない、とありますが、すでに20年以上前に、一般向けの川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社、1996年)にて、「源平合戦」における多数の民衆の動因が指摘されています。また、「源平合戦」において度々戦術としての放火が行なわれていたことを考えると、本書の「源平合戦」に関する見解は的外れだと思います。


第4章 鎌倉幕府〜応仁の乱

●北条政子(P94)
 当時は結婚しても女性は出身家の姓を名乗っていて(これは間違いではありません)、源頼朝の妻は北条政子と呼ばれる、とありますが、「北条政子」は姓(ウジナ)と苗字(名字)が混同されるようになった後世(中世後期〜近世以降)の俗称で、「平政子」が正解です。そもそも、「政子」は晩年に位階を授けられたさいの命名で、それ以前の名前は不明です。

●鎌倉時代の経済発展(P97)
 「貨幣経済が一層進展した」とありますが、それが「中国」由来であることや、「日中」交易の発展によるものであることには触れられておらず、かなり問題だと思います。まあ、平安時代以降は中国大陸の影響を受けなくなった、との本書の史観からして無視するのが当然かもしれませんが。また、鎌倉時代の農業の発展も指摘されていますが、鎌倉時代は気候変動や環境の変化の大きい不安定な時代であり、耕作面積が減少して農業生産は後退した、との指摘もあります(関連記事)。それと関連して、近年の農業史では、古代における到達点の高さと中世(とくに前期)の停滞という把握が主流的見解になっています(関連記事)。

●モンゴル帝国(P97〜98)
 モンゴル帝国インドを手中に収めたとありますが、インドのほとんどを支配できていないと思います。文永の役でモンゴル軍は1274年10月20日に引き上げたとありますが、実際にはその後も戦いは行なわれています。弘安の役で台風が到来しなくともモンゴル軍が日本軍に勝てたか疑問とありますが、この見解は妥当だと思います。

●鎌倉時代の仏教(P108〜109)
 鎌倉時代の仏教について、いわゆる鎌倉新仏教のみを取り上げているのは、日本史上、仏教が最も生き生きとした時代だった、との評価もあるくらいなので(関連記事)、さすがに今となっては古臭いかな、と思います。また、禅宗が「中国」から強い影響を受けたことに言及していないのも問題でしょう。これも、平安時代以降は中国大陸の影響を受けなくなった、という史観(というか願望)が本書の根底にはあるようなので、仕方のないことかもしれません。

●鎌倉時代の天皇(P109)
 鎌倉時代の天皇に政治的実権はなかったとされますが、鎌倉時代には承久の乱後もまだ朝廷の政治的支配力は残っており、亀山や伏見のように親政を行なった天皇もいましたから、かなり問題のある表現だと思います。

●建武政権(P113〜115)
 建武政権の恩賞は実際に戦った武士には薄く、たいした働きのなかった公家には厚かったので、武士の間で不満が高まった、とされています。しかし、官位昇進や所領などの点で武士たちが冷遇されたわけではなく、建武政権は武士の権益を保護しようとしていました。建武政権の短期間での崩壊は恩賞給付が進まなかったためなのですが、それは、公家が優先され武士が冷遇されていたからではなく、鎌倉幕府滅亡直前もしくは直後に幕府側から後醍醐天皇側に鞍替えした武士が多いこともあり、勲功認定が難航したからでした(関連記事)。

●南朝正統論(P116)
 室町時代には南朝が正統とみなされていた、とありますが、さすがに無理がある解釈だと思います。まあ、南朝関係者はそう考えていたとしても、社会の主流は明らかに違うでしょう。

●正平一統(P117)
 南朝との講和のため足利尊氏は征夷大将軍の解任も受け入れた、とあります。正平一統で尊氏は征夷大将軍を解任されたようですが、尊氏にとって幕府存続は譲れない一線だったでしょうから、将軍解任を受け入れた可能性は低いように思います。

●足利義満(P119〜121)
 足利義満は皇位簒奪を計画していた、との説が採用されていますが、現在では否定されています(関連記事)。また、義満暗殺説を採用する研究者は少なくない、ともされていますが、暗殺説に肯定的な研究者はおそらくいないだろう、と思います。

●足利家における出家(P124)
 足利家には長男以外は出家して僧になるしきたりがあった、とされていますが、義満の四男の義嗣はそうではなく、本書でも、義満は義嗣を天皇とするつもりだった、と主張されています。これに限りませんが、前後で整合的ではない記述が散見されるのは、著者はもちろんのこと、編集者の問題でもあるでしょう。もっとも、義嗣は兄である将軍の義持と対立して失脚した後に出家させられていますが。

●応仁の乱(P128〜131)
 応仁の乱の契機は、息子(足利義尚)を将軍にしたいという日野富子のわがままな思いだった、とされていますが、日野富子を応仁の乱の原因とする説には確たる根拠がない、と指摘されています(関連記事)。応仁の乱以前の有力武将は全員、天皇の血統に連なる者が尊ばれた、とありますが、秀郷流を中心に、藤原氏の武士も少なからず有力武将として尊ばれました。


第5章 戦国時代

●織田信長(P139〜143)
 本書の織田信長に関する認識は、楽市楽座により座を廃止したとか、兵隊を金で雇うようになったとか、古臭いものです。信長の流通政策の基調は、特定の特権商人を指定したり座組織の既得権を保障したりすることによる統制にあり(関連記事)、信長軍が他大名の軍と異質な構成だったわけではありません(関連記事)。仏罰を信じないなど信長は現代的な感覚の持ち主だった、とも主張されていますが、近年の研究は、信長が「中世的かつ保守的」だったことを明らかにしつつあります(関連記事)。なお、信長の延暦寺焼き討ちや長島一向一揆鎮圧は日本史上かつてない大虐殺とされています。上述したように、P64では、ヨーロッパや「中国」では当然だった民衆の大虐殺が日本ではまったくない、と主張されているわけで、その場の気分で書きなぐっているのではないか、と疑われても仕方のないところでしょう。著者は「文学的修辞」と釈明していますが、ひじょうに苦しいと思います。なお、信長は戦国大名との戦いでは勝利後に相手の兵隊や住民を殺害することはなかった、とされていますが、荒木村重との戦いのさいには、戦勝後に大量処刑が行なわれました。まあ、村重は信長の元家臣の謀反人であって「戦国大名」ではない、ということなのかもしれませんが。

●豊臣政権(P151〜153)
 豊臣政権の評価では、太閤検地の画期性が強調されています。確かに、多分に虚構的なところもあるとはいえ、曲がりなりにも「全国」規模で統一的な賦課基準が成立したのは画期的ですが、豊臣政権が直接検地した土地は限定的だったことと、貫高など石高以外の土地価値の表示が採用されていた事例も少なくありませんでした。刀狩についての本書の理解も古く、刀狩により民衆が武装解除されたわけではなく、その企図は身分規制にあったのではないか、との見解が現在では通説になりつつあります(関連記事)。

●文禄・慶長の役(P155〜159)
 文禄の役における日明講和交渉は、明が秀吉を日本国王に任命しようとしたため決裂したとありますが、じっさいは、日本軍が確保する(予定の)朝鮮半島南部を朝鮮の王子に「宛行う」ことにより、日本軍は朝鮮半島から撤退するものの、日本が朝鮮に勝利した、という体裁を取り繕いたかったのに、明が(当然朝鮮も)その条件を拒否したからでした(関連記事)。なお、本書は慶長の役で日本軍が明・朝鮮軍を圧倒していたとしますが、確かに、籠城する日本軍に攻め寄せてきた明・朝鮮軍は何度か撃退されているものの、たとえば、明軍に圧勝したとされる島津軍にしても、包囲されている状況まで解消できたわけではなく、けっきょくは明軍と交渉せざるを得ませんでした。本書の慶長の役における日本軍への評価はやや過大だと思います。


第6章 江戸時代

●石高と米の消費(P165)
 当時は1人が1年間で食べる米の量はおよそ1石で、1万石の藩は1万人を養える国力があったとされていますが、生存に必要な1人の年間米消費量は他の食料の摂取量とも関わってくるので、1人が1年間で食べる米の量はおよそ1石との推定は基本的に意味がないと思います。

●豊臣秀吉の征夷大将軍就任計画(P168)
 豊臣秀吉は征夷大将軍への就任を画策して足利義昭の養子になろうとしたが断られた、とありますが、これは俗説だと思います(関連記事)。

●参勤交代(P168〜169)
 参勤交代は江戸幕府が諸藩を疲弊させるために始めた、とありますが、大名の「首都」在住は(応仁の乱以前の)室町時代の慣例でしたし(京都から遠い大名には在京義務はありませんでしたが)、大名の妻子が「首都」に居住するのも豊臣政権で見られました。参勤交代は基本的には、将軍と大名との主従関係の可視化を目的としたものでしょう。

●鎖国政策(P170〜173)
 江戸幕府が鎖国政策を採用しなかったら、日本が東南アジアと朝鮮半島と「中国」を制圧し、インドではイギリスと、東アジア北東部ではマンジュ(ジュシェン)族の後金(ダイチン・グルン)と決戦に至り、その勝敗は定かではない、と想定されています。そもそも、文禄・慶長の役で日本軍が明・朝鮮軍を圧倒した、と本書は強調しますが、それは最初の頃だけで明軍の介入後は戦線膠着状態でしたし、慶長の役では朝鮮半島南部の保持が目的になったのは、明が介入しては朝鮮半島全体の制圧も困難だ、と豊臣秀吉が判断していたからでしょう。本書は当時の日本の軍事力を過大評価していると思います。何よりも、当時の日本の造船技術と外洋航海能力の低さから考えて、日本がスペインやオランダに勝って東南アジアを制圧するのはほぼ不可能だと思います。

●江戸時代の身分制(P173〜176)
 江戸時代の身分制はきわめて柔軟だった、と評価されています。「きわめて」は言い過ぎかもしれませんが、通俗的に言われていたよりも、江戸時代の身分制が柔軟だったことは確かでしょう。ただ、賤民とされた人々は、平人と比較して、著しく流動性が限定されていたようです(関連記事)。

●江戸時代の米の消費(P197〜200)
 江戸時代には、人口の多数を占める農民も米を食べていたはずだ、と主張されていますが、石高制では米が都市に遍在するので、庶民の間でも個人の米消費量には大きな違いがあった、と考えるのが妥当だと思います。また、米を食べられないから貧しい、との観念は、江戸時代の都市民に根強いもので、近代になって徴兵制により国民の多くが軍隊での経験を有するようになって、全国的に定着したのではないか、と私は考えています。

●目安箱(P203)
 8代将軍の吉宗が設置した目安箱は日本史上初の画期的システムとされていますが、戦国時代から見られるものです。

●田沼意次(P205〜209)
 田沼意次の政治は、商人から税を徴収するなど、画期的で先進的だったと評価されていますが、「商人から税を徴収」したとの評価も含めて、実態以上に賛美されているのではないか、と思います(関連記事)。逆に、理想主義のため失敗したとされる松平定信については、過小評価されているように思います(関連記事)。

●ヨーロッパ勢力による植民地化(P213)
 18世紀までにヨーロッパは世界のほとんどを植民地化していたとありますが、さすがにこれはヨーロッパ勢力の過大評価でしょう。たとえば、アフリカの植民地化が進んだのは19世紀後半以降です。

●対応が鈍かった江戸幕府の対外政策(P224〜228)
 欧米列強の日本浸出が予想できたいたはずにも関わらず、江戸幕府が有効な対策を取れなかった理由は「言霊主義」のためだとされていますが、予想される困難な事態を前に、現実逃避的に無為に過ごすことは人類の普遍的な心理・行動と言うべきでしょう。
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低グルテン食の腸内微生物叢への影響

2018/11/14 16:59
 低グルテン食の腸内微生物叢への影響に関する研究(Hansen et al., 2018)が公表されました。グルテンはコムギ・ライムギ・オオムギの主成分で、体内では消化されにくい部分のあるタンパク質によって構成されています。グルテンは、セリアック病などの特定の疾患の患者に害を及ぼすことがあります。しかし、健常者がグルテンの摂取量を減らすことでどのような影響を受けるのかについては、解明が進んでいません。

 この研究は、既知の疾患にかかっていない中年のデンマーク人60人を対象として、無作為化クロスオーバー比較試験を実施しました。この試験は、低グルテン食(グルテン含有量が1日当たり2g)と高グルテン食(グルテン含有量が1日当たり18g)を比較する8週間(2ターム:2グループが低グルテン食と高グルテン食をそれぞれ1タームずつ経験します)と、その間の6週間以上の中断期間からなります。こうして低グルテン食と高グルテン食の影響を比較したところ、低グルテン食は高グルテン食と比較して、ビフィズス菌(Bifidobacterium)種の数が減ったことなど、腸内微生物叢に生じる変化と特定の尿中代謝物に生じる変化がそれほど大きくなく、腹部膨満感(自己申告による)が改善しました。

 低グルテン食と高グルテン食は、グルテン含有量だけでなく、食物繊維の組成も異なっています。そのため、この研究で観察された影響は、グルテンの摂取量自体の減少によるものではなく、グルテンを豊富に含む食品の摂取量の減少に起因する、食物繊維の質的な変化が原因かもしれません。この研究はまた、これらの結果が別の年齢・民族的背景または生活様式の集団にどのように一般化され得るかは、今後の研究課題だと結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【微生物学】低グルテン食が腸内微生物相に与える影響はそれほど大きくない

 60人の健常者を対象とした研究から、低グルテン食が腸内微生物相と腸の生理に与える影響がそれほど大きくないことを明らかにした論文が、今週掲載される。この論文の著者は、そうした影響の大半について、グルテンを豊富に含む食品の摂取量が減り、食物繊維が質的に変化したことが原因である可能性を示唆している。

 グルテンは、コムギ、ライムギ、オオムギの主成分であり、体内で消化されにくい部分のあるタンパク質によって構成されている。グルテンは、セリアック病などの特定の疾患の患者に害を及ぼすことがある。しかし、健常者がグルテンの摂取量を減らすことでどのような影響を受けるのかについては、解明が進んでいない。

 今回、Oluf Pedersenたちの研究グループは、既知の疾患にかかっていない中年のデンマーク人60人を対象として、無作為化クロスオーバー比較試験を実施した。この試験は、低グルテン食(グルテン含有量が1日当たり2グラム)と高グルテン食(グルテン含有量が1日当たり18グラム)を比較する8週間(2ターム;2つに分けたグループが低グルテン食と高グルテン食をそれぞれ1タームずつ経験する)と、その間の6週間以上の中断期間からなる。こうして低グルテン食と高グルテン食の影響を比較したところ、低グルテン食は高グルテン食と比べて、腸内マイクロバイオームに生じる変化[ビフィズス菌(Bifidobacterium)種の数が減ったことなど]と特定の尿中代謝物に生じる変化がそれほど大きくなく、腹部膨満感(自己申告による)が改善した。

 低グルテン食と高グルテン食は、グルテン含有量だけでなく、食物繊維の組成も異なっている。そのため、今回の研究で観察された影響は、グルテンの摂取量自体の減少によるものではなく、グルテンを豊富に含む食品の摂取量の減少に起因する食物繊維の質的な変化が原因である可能性がある。Pedersenたちはまた、今回の結果が別の年齢、民族的背景、または生活様式の集団にどのように一般化され得るかは、今後の研究課題だと結論付けている。



参考文献:
Hansen LBS. et al.(2018B): A low-gluten diet induces changes in the intestinal microbiome of healthy Danish adults. Nature Communications, 9, 4630.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-07019-x
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出穂雅実「北東アジアにおける現生人類の居住年代と行動の特徴に関する研究(2017年度)」

2018/11/13 17:24
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2017年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 11)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P6-11)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 北東アジア地域の上部旧石器時代初期石器群はルヴァロワ技法の要素を伴う石刃技術によるプライマリ・リダクションによって定義され、年代は5万〜4万年前頃です。広範な地域で石器リダクションの基本的な特徴が一致するものの、各地域の石器群の具体的な特徴と相異がどの程度あるのかについては、不明なことが多いと指摘されています。また、広範な地域で同様の石器群が展開した後、どのように独特な上部旧石器時代前期石器群が各地で生じていったのか、またその理由についてもよく分かっていません。北東アジアの大半の上部旧石器時代初期・上部旧石器時代前期遺跡群は、緩斜面のシートウォッシュ堆積物や洞窟充填堆積物に埋没し、長年にわたる多種多様な埋没後擾乱を被っているので、地質編年と遺跡内行動の復元が困難です。モンゴルの上部旧石器時代初期遺跡群にも同様の問題があるので、信頼できる地質編年と遺跡コンテクストの提示が重要と指摘されています。

 本論文が具体的に取り上げている遺跡は、まずトルボル17遺跡です。同遺跡はトルボル川流域のトルボル遺跡群の一つで、トルボル川の河谷西岸の自然草原に立地しています。トルボル17遺跡では、地表面で複数の掻器・削器・錐形石器などが採集されています。トルボル17遺跡はモンゴルの厳冬期の北風を防ぐ山麓に位置し、現在の牧民の選地にも重要とされています。また、緩斜面の先端部ではなく中央部西側に、堆積物がより安定して堆積しているという可能性を確認できたことから、これまであまり確認されてこなかった、上部旧石器時代初期・上部旧石器時代前期の冬期レジデンシャル・ベースだった可能性が指摘されています。トルボル17遺跡では複数の遺物産出層準が確認されており、多数のダチョウ卵殻製ビーズと錐形石器が出土したことは、「現代的行動」の拡散の観点から注目されます。

 タルバガタインアム遺跡は、モンゴル・ロシア国境を流れるセレンゲ川水系ツフ川(ロシア側名称はチコイ川)の一支流である、フデル川西岸の小河谷(タルバガタイ川)南岸の緩斜面上に立地しており、現在はオートミール畑地となっています。上部旧石器時代初期もしくは前期的特徴を有する石刃素材のサイドスクレーパーが地表で採集されています。また、試掘坑からはウシ科の骨が発見されています。2017年度の調査では、珪質凝灰岩製のデボルダント石刃削器や石刃削器などが発見され、石器の特徴からこれまでの遺跡の推定年代と矛盾しない、と考えられています。タルバガタインアム遺跡の動物遺骸の多くは小破片となっており、人為的と推測される痕跡が確認されているので、おそらくは現生人類(Homo sapiens)が解体して食べていたのではないか、と考えられます。


参考文献:
出穂雅実(2018)「北東アジアにおける現生人類の居住年代と行動の特徴に関する研究(2017年度)」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2017年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 11)』P6-11
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土壌炭素の貯蔵に影響を及ぼしたマヤ低地の森林伐採

2018/11/12 16:59
 マヤ低地の森林伐採と土壌炭素の貯蔵に関する研究(Douglas et al., 2018)が公表されました。土壌は大量の有機炭素を保持しており、それらを大気から何千年以上にわたり隔離できます。そうした土壌を覆う植生に対する攪乱は全て、炭素貯蔵に影響を及ぼすと考えられていますが、その影響は土壌の種類と干渉の性質によって変化し得ます。この研究は、マヤ低地の土壌中の有機炭素の残存期間の過去3500年にわたる変化を、「ろう(植物の葉が産生し、湖の堆積物に保存されていたもの)」の年代に基づいて調べました。その結果、「ろう」の土壌中の残存期間は、土地利用が集中的に行われていた時期に減少し、マヤ文化の人口密度が低下していくつかの地域で土壌管理の実践を始めるにつれて回復し始めた、と明らかになりました。

 しかし、炭素の残存は森林伐採が始まる前のレベルにまで回復することはなく、このような土壌は、そこを覆う植生が回復した後も炭素をあまり隔離できない、と示唆されています。さらに、この研究は、過去150年間にわたる森林伐採が、調査した一部の地域においては土壌中の炭素残存量をさらに減少させている、と明らかにしました。本論文は、マヤ低地と同じような熱帯地域における森林伐採により、そこに横たわっている土壌が炭素を隔離する能力に影響を及ぼす可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古代マヤ文明による森林伐採が土壌炭素の貯蔵に影響を及ぼした

 グアテマラとユカタン半島の土壌中に炭素が貯蔵された期間は、古代マヤ文明による森林伐採のために短くなったことを報告する論文が、今週発表される。この知見から、同じような熱帯地域における森林伐採は、そこに横たわっている土壌が炭素を隔離する能力に影響を及ぼす可能性があると考えられる。

 土壌は大量の有機炭素を保持しており、それらを大気から何千年以上にわたり隔離することができる。そうした土壌を覆う植生に対するかく乱は全て、炭素貯蔵に影響を及ぼすと考えられているが、その影響は土壌の種類と干渉の性質によって変化し得る。

 Peter Douglasたちは、マヤ低地の土壌中の有機炭素の残存期間の過去3500年にわたる変化を、ろう(植物の葉が産生し、湖の堆積物に保存されていたもの)の年代を基に調べた。その結果、ろうの土壌中の残存期間は、土地利用が集中的に行われていた時期に減少し、マヤ文明の人口密度が低下していくつかの地域で土壌管理の実践を始めるにつれて回復し始めたことが見いだされた。しかし、炭素の残存は森林伐採が始まる前のレベルにまで回復することはなく、このような土壌は、そこを覆う植生が回復した後も炭素をあまり隔離できないことが示唆される。

 さらに、Douglasたちは、過去150年間にわたる森林伐採が、調査した一部の地域においては土壌中の炭素残存量をさらに減少させていることを見いだしている。



参考文献:
Douglas PMJ. et al.(2018): A long-term decrease in the persistence of soil carbon caused by ancient Maya land use. Nature Geoscience, 11, 9, 645–649.
https://doi.org/10.1038/s41561-018-0192-7
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更新世ホモ属の発達異常の多さ

2018/11/11 18:50
 更新世ホモ属の発達「異常」の多さに関する研究(Trinkaus., 2018)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、複数の種もしくは分類群から構成される更新世ホモ属遺骸66個体を分析し、発達「異常」や「奇形」が多かった、と報告しています。対象となるのはおもに20万年前移行の若い成人個体ですが、150万年前頃の個体や子供も含んでいます。これらの「異常」は、頭蓋・歯・脊椎・手根骨・腕・脚など多様な部位で見られ、たとえば上腕部の湾曲や水頭症などですが、稀ではあるものの全身性「障害」も確認されます。本論文は、66個体から75ヶ所の「異常」もしくは「障害」を報告しています。これらの「障害」のうち約2/3は現代人では1%未満で現れます。残りの約1/3は、現代人ではひじょうに低いか、既知の「障害」では説明できません。

 本論文は、現代人と比較して更新世ホモ属には骨格「異常」が多く、その理由を有効に説明できる単一の要因は存在しない、と指摘します。以前の研究では、何らかの「障害者」はシャーマンとみなされて注意深く埋葬されたので、保存されて後に発見されやすくなった可能性が指摘されています。しかし本論文は、更新世の「障害者」には埋葬にさいしての特別な儀式の痕跡は見られない、と指摘します。また以前の研究では、妊娠した女性がじゅうぶんな栄養を摂取できなかったため、「障害者」が生まれた可能性も指摘されています。しかし本論文は、たとえば、おもに栄養不足に起因する「くる病」のような骨格障害は全身に影響を及ぼすのにたいして、更新世の「障害者」骨格の多くは体の一部にのみ「異常」が見られる、と指摘します。たとえば、右上腕が湾曲していた男性の左上腕には「異常」は見られませんでした。

 本論文は、更新世ホモ属における骨格「異常」の多さの要因の一つとして可能性が高いのは、近親交配だと指摘してます。更新世のホモ属集団は小規模で孤立しがちだったので、近親交配の頻度が高くなり、発達「異常」の多さをもたらしたのではないか、というわけです。古代DNA研究では更新世ホモ属の遺伝的多様性が低いと示されていることから、バックレイ(Hallie Buckley)氏も本論文の見解を支持しています。これらの遺骸のDNA解析に成功すれば、そのうちのいくつかで近親交配が確認されるかもしれません。一方、バックレイ氏の同僚であるハルクロウ(Siân Halcrow)氏は、本論文を高く評価しつつも、これらの「異常」が現代人でどの程度一般的かという推定や、それを更新世に当てはめることについて、本論文には弱点がある、と慎重な姿勢を示しています。更新世の「障害者」の比率を、先史時代もしくは初期歴史時代の人類集団と比較するのがより適切ではあるものの、そうしたデータはまだ存在しない、とハルクロウ氏は指摘します。

 何が更新世ホモ属の「障害者」の多さの要因なのか、まだ不明ですが、子供時代を生き残った更新世ホモ属の「障害者」が一定以上存在したことは、更新世ホモ属が社会的支援と治療知識を相互に提供していたに違いないことを示唆します。たとえば、イスラエルのカフゼー(Qafzeh)洞窟で発見された初期現生人類(Homo sapiens)の子供の頭蓋には、水頭症と一致する頭蓋の膨張が見られます。水頭症は未治療のまま放置すると致命的です。しかし、この子供は3〜4歳まで生きていましたから、もちろん当時は現代のような治療はないとしても、何らかの介護はあった可能性が高いでしょう。そもそも、更新世ホモ属全体の遺骸において、「障害者」が現代人の事例から想定されるよりも高い比率で発見されるのは、「障害者」への介護が一般的だったから、と考えるのが妥当なように思います。本論文の著者は大御所だけに、更新世ホモ属の在り様について色々と考えさせられる問題提起になっていると思います。

 更新世も含めて古代の近親交配については、以前当ブログで取り上げました(関連記事)。人口密度が希薄で、交通手段の未発達やそれとも関連する1世代での活動範囲の狭さなどにより、他集団との接触機会が少なかったことから、ホモ属においては、完新世よりも更新世の方が近親交配の頻度は高かっただろう、と推測されます。じっさい、アルタイ地域のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)個体に関しては、両親が半きょうだい(片方の親のみが同じきょうだい)のような近親関係で、近い祖先でも近親交配が一般的だっただろう、と推測されています(関連記事)。ただ、だからといって、更新世のホモ属社会では近親交配が一般的だったわけではないでしょう。クロアチアのネアンデルタール人個体では近親交配の痕跡が確認されていませんし(関連記事)、上部旧石器時代の現生人類社会(の少なくとも一部)においては、近親交配が意図的に回避されていたのではないか、と推定されています(関連記事)。ホモ属に限らず人類系統においては、近親交配を避けるような認知メカニズムが生得的に備わっているものの、それはさほど強い抑制ではなく、人類の配偶行動は状況により柔軟に変わるのだと思います。


参考文献:
Trinkaus E.(2018): An abundance of developmental anomalies and abnormalities in Pleistocene people. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1814989115
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大河ドラマ『西郷どん』第42回「両雄激突」

2018/11/11 18:50
 大久保一蔵(正助、利通)や岩倉具視や木戸孝允(桂小五郎)の外遊は長引き、留守政府の実質的な責任者たる西郷隆盛(吉之助)は、国内の不満と混乱を前に動かざるを得ないと決意し、新たな政策・人事には手をつけない、という岩倉との盟約に反して、江藤新平たちを新たに参議に引き立てたり、徴兵制や地租改正や学制や太陽暦への変更などといった新たな政策を推進したりします。多忙な隆盛は疲労で倒れてしまいます。

 そんな中、利通は他の外遊に出た要人よりも早く帰国しますが、留守政府を牛耳るつもりの江藤や後藤象二郎たちは利通を排斥しようとします。利通は病床の隆盛を訪ね、江藤たちを参議から排斥するよう、要求しますが、隆盛は同意しません。利通は、欧米の強勢・先進性を見てきた自分に逆らう人間を排除する、と宣言し、隆盛は、留守政府の要人と協力していけないようなら薩摩に帰れ、と言い返して、両者は決裂します。そんな中、朝鮮との外交問題が顕在化し、軍を派遣すべきか否か、政府内で意見が対立します。隆盛は、使節を派遣して交渉すべきで、自身が朝鮮に行く、と提案します。隆盛は大久保邸を訪ね、和解を図りますが、利通は会おうとしません。その後、岩倉も帰国し、伊藤博文(俊輔)は岩倉を料亭に呼び、江藤たちから政府中枢を追われた井上馨(聞多)・山県有朋とともに利通も交えて、政府の主導権を奪還する計画を立てます。参議となった利通は、内定していた隆盛の朝鮮への派遣に反対します。

 今回は隆盛と利通の決別が描かれましたが、率直に言って、描写不足だった感は否めません。同じく西郷隆盛が主人公ということで、本作と比較対象になる『翔ぶが如く』は1990年放送で、今年(2018年)と日付・曜日が一致していますが、その『翔ぶが如く』よりも現時点で1ヶ月以上進行が遅れているので、やや駆け足になってしまったように思われます。まあ、薩摩藩の下級藩士同士だった時代と、ともに中央政府の要人となった今とでは、両者の背負うものや誇りもまた違うでしょうから、今回のやり取りで修復不能な決別となってしまったのも仕方のないところだ、と好意的に解釈できるかもしれませんが。不満の残る内容が続いていますが、演技は全体的になかなかよいと思います。
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アンデス高地住民の古代ゲノム

2018/11/11 13:11
 アンデス高地住民の古代ゲノムを報告した研究(Lindo et al., 2018B)が報道されました。日本語の報道もあります。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。アンデス高地における恒久的居住に関しては、12000年前頃までさかのぼるとの見解も提示されていますが(関連記事 )、9500〜9000年前頃に始まった、との見解もあります。本論文は、アンデス高地への人類集団の適応を、古代ゲノム解析と現代人との比較により検証しています。

 本論文は、ペルーのチチカカ湖周辺地域の7人の古代ゲノムを解析しました。内訳は、定住農耕が確立していた1800年前頃以降のリオアンカラネ(Rio Uncallane)遺跡の5人(男性3人と女性2人)、遊動性採集から農牧定住生活への移行期となる3800年前頃以降のカイラチュロ(Kaillachuro)遺跡の女性1人、遊動性狩猟採集生活だった8000〜6500年前頃のソロミカヤパジャクサ(Soro Mik’aya Patjxa)遺跡の男性1人です。この7人のうち5人は放射性炭素年代測定法により較正年代が提示されており、最古はソロミカヤパジャクサ遺跡の男性の6882年前頃、最新はリオアンカラネ遺跡の男性の1514年前頃となります。この7人のミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループは、いずれもアメリカ大陸先住民集団に見られるB・C・Dに分類され、全ゲノム解析の網羅率は0.08〜0.99倍です。この7人と主要な比較対象となった現代人は、ボリビアの高地に住むアイマラ(Aymara)人と、チリ南部の低地沿岸地域に住むウィジチェ-ペウェンチェ(Huilliche-Pehuenche)人です。

 まず明らかになったのは、アンデス高地の古代人は現代のアンデス高地住民と遺伝的に最も近縁で、高地集団と低地集団との遺伝的な推定分岐年代は9200〜8200年前頃ということです。次に、古代アンデス人の高地適応について検証されました。ユーラシア東部の高地住民であるチベット人には、血中ヘモグロビン値を減少させる遺伝的多様体があり、低酸素環境でも効率的に行動できます(関連記事)。なお、チベット人のそうした遺伝的多様体の一つは、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)との交雑により継承された、と推測されています(関連記事)。古代アンデス人のゲノムには、チベット人のような多様体は見つかりませんでしたが、心臓血管の健康と心筋の発達に関連するDSTという遺伝子の正の選択の徴候が見られました。これにより、右心室の拡大傾向が見られ、その結果として酸素摂取量が増え、肺への血流が向上します。古代アンデス人にはチベット人と異なる高地適応が見られる、というわけです。

 アンデス高地住民に関しては、デンプン消化を促進するマルターゼ・グルコアミラーゼ(MGAM)という腸内酵素関連遺伝子多様体において、さらに強い正の選択の兆候が見られました。ジャガイモはアンデス地域で遅くとも5000年前頃には始まりました。古代アンデス人にもこの遺伝子多様体が見られます。デンプン質のジャガイモはアンデス地域で栽培され、すぐに肉に代わって主食となるような食性の大きな変化があったので、強い選択が作用したのではないか、というわけです。しかし、アンデス高地住民のゲノムには、デンプン質への依存度の高い食性への移行後も、ヨーロッパの農耕民のゲノムには一般的に存在する、デンプン消化を促進するアミラーゼ関連遺伝子のコピー数の増加は見られませんでした。高地だけではなく食性への適応でも、アンデス高地住民は他地域の住民と異なる遺伝的適応を示す、というわけです。

 また、アンデス高地住民においては、病原耐性と関連する遺伝子座における正の選択の証拠も明らかになりました。これにより、ヨーロッパ人が15世紀末以降にアメリカ大陸にもたらした破壊的な病気、たとえば天然痘に、アンデス高地住民は一定水準以上対応できたのではないか、と推測されています。それとも関連しますが、ヨーロッパ人のアメリカ大陸征服活動の過程で、アンデス高地住民は低地住民と比較して、有効人口規模の推定減少率がずっと低いことも明らかになりました。ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略以降、ペルー沿岸の低地住民の祖先集団は有効人口規模の96%が減少したのにたいして、アンデス高地住民の祖先集団では27%です。これは、ヨーロッパ人にとって、アンデス高地が低酸素・寒冷・強い紫外線という厳しい環境だったことも要因なのでしょう。アメリカ大陸先住民集団系統においても、現在のペルーでは、移住の主要な方向は高地のアンデス地域から低地のアマゾン地域・沿岸地域でした(関連記事)。やはり、低地から高地への移住は、高地に先住集団が存在する場合はなかなか難しいのでしょう。

 しかし、本論文の見解に疑問を呈する遺伝学者もいます。まず、沿岸地域のウィジチェ-ペウェンチェ人はアンデス地域のずっと南方に住んでおり、古代と現代の比較に適切ではない、と指摘されています。また、高地系統と低地系統の分岐は、高地への移動の証拠ではなく、南アメリカ大陸へと移住してきた人々にすでに見られた遺伝的多様性を反映しているのではないか、とも指摘されています。そのため、高地適応関連遺伝子の判定には、古代アンデス人とペルーまたはチリ北部の近隣沿岸の古代人を比較すべきだ、と提言されています。こうした疑問はもっともで、今後の研究の進展により、さらに信頼性の高い結果が得られるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Lindo J. et al.(2018B): The genetic prehistory of the Andean highlands 7000 years BP though European contact. Science Advances, 4, 11, eaau4921.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aau4921
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吉村武彦『大化改新を考える』

2018/11/11 13:04
 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2018年10月に刊行されました。本書は大化改新の影響を、その前提となる社会・政治状況とともに解説しており、文献だけではなく考古学的研究成果も取り入れられていますから、最新の研究成果を取り入れた大化改新の入門書になっていると思います。かつて、大化改新否定論もありましたが、考古学的研究成果からも、さまざまな改革が試行されたと言って間違いないでしょう。もっとも、それぞれの改革について、実効性がどれだけあったのか、継続したのか、といった問題はあるでしょう。

 大化改新に関する議論というと、制度史と政治史が中心なのでしょうが、民衆の生活・慣習についてもかなりの分量を割いているのが本書の特徴と言えるでしょう。本書は大化改新について、天皇(という称号は当時まだ確立していなかった可能性が高そうですが)に権力を集中させようとする志向を有した改革で、乙巳の変はその起点だった、との見解を提示しています。また本書は、20世紀後半以降の研究動向を踏まえて、乙巳の変とそれに続く大化改新を、東アジア情勢の中に位置づけています。当時、隋・唐という巨大王朝の出現するなか、周辺地域はその対応を迫られていました。そうした中で大きな政変も起き、それは、国王に権力を集中させる百済型と、有力貴族が実権を掌握する高句麗型に分類され、乙巳の変とそれに続く大化改新は百済型を目指した、と把握されています。

 大化改新における地方統治改革は、考古学でもかなりの程度が裏づけられており、本書も考古学的研究成果を取り入れつつ、詳しく解説しています。大化改新の基本的な志向が国王(大王、天皇)に権力を集中させることだとしたら、国造と呼ばれた地方の支配層との利害の衝突も考えられます。しかし本書は、当時新興の地方豪族層の台頭もあり、そうした階層のより安定した地方支配のためには、中央政権(ヤマト政権)との結びつきが有効で、そのために地方支配層は中央政権に従属していったのではないか、と推測しています。しかし本書は、大化改新により中央政権が地方の民衆を個別に支配できたわけではなく、地方豪族層の支配力に依存していたことと、大化改新の前より、中央政権の地方支配の整備がある程度進行していたことも指摘しています。

 本書は、天皇中心志向の大化改新に、民衆を「教化」する傾向があったことも指摘しています。また本書は、大化改新における改革志向の関連史料から、婚姻を中心として当時の生活習慣を推測しており、これは興味深い内容でした。当時の婚姻は、大化改新における旧俗の改廃令の解釈から、嫁入婚よりも妻問婚が一般的だったようです。大化改新の頃、新羅が倭(日本)に従属的だった、との本書の見解は、「進歩的で良心的な」日本人に厳しく糾弾されるかもしれませんが、当時の新羅は厳しい「国際情勢」に置かれていたわけで、本書の見解は基本的に妥当なものだと思います。
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アメリカ大陸の大規模な古代DNA研究

2018/11/10 03:52
 アメリカ大陸への人類の拡散に関する二つの研究が報道されました(報道1および報道2および報道3)。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。これらの研究はいずれもオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Moreno-Mayar et al., 2018B)は、アラスカからパタゴニアにまでアメリカ大陸の広範な地域に及ぶ、10700〜500年前までの15人の古代ゲノムを新たに解析し、そのうち6人は1万年以上前で、網羅率は最大で18倍となります。

 この研究(サイエンス論文)が新たにゲノムを解析した個体の中には、その形態からアメリカ大陸先住民集団とは異なる系統ではないか、と推測されたものもあります。一つは、現時点では世界最古とされるミイラである、アメリカ合衆国ネバダ州の精霊洞窟(Spirit Cave)で1940年に発見された、10600年前頃と推定されている40代の男性遺骸です。もう一方は、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)で19世紀に発見された人類遺骸です。このように、アメリカ大陸の最初期の人類の中には、形態的にアメリカ大陸先住民集団と異なっている集団も存在すると主張され、アメリカ大陸の最初期の人類はアメリカ大陸先住民集団とは系統的に異なる、との見解も提示されていました。しかし本論文は、精霊洞窟とラゴアサンタの人類遺骸が、ともにアメリカ大陸先住民集団の遺伝的変異内に収まることを示しました。このように、アメリカ大陸の住民は、形態学からの仮説とは異なり、その最初期から現在の先住民集団と同一の系統に区分され得る、と明らかになりました。

 アメリカ大陸先住民集団は、暦年代で17500〜14600年前頃に、南方系統(A系統)と北方系統(B系統)に分岐したと推定されています(関連記事)。既知の研究では、たとえば、カナダ東部のオンタリオ州の古代人は北方系統に近縁で、アメリカ合衆国カリフォルニア州の古代人やアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡の男児アンジック1(Anzick-1)は南方系統に近縁とされていますが、中央および南アメリカ大陸の先住民集団は、南方系統と北方系統のどちらからも一定水準以上遺伝的影響を受けている、と推測されています(関連記事)。

 精霊洞窟とラゴアサンタの人類遺骸は共に、アンジック1系統との遺伝的近縁性が確認されました。アンジック1系統との遺伝的近縁性は、精霊洞窟とラゴアサンタの人類遺骸よりも後の南北アメリカ大陸で確認されています。さらに、メキシコのオアハカ(Oaxaca)市の先住民集団であるミヘー(Mixe)と関連する系統が、南アメリカ大陸では6000年前頃、北アメリカ大陸へと1000年前頃に確認されましたが、これらは遺伝的置換ではなく、混合だと推測されています。

 また、アマゾン地域の一部先住民集団は、オーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域がある、と指摘されていますが(関連記事)、サイエンス論文では、10400年前頃のラゴアサンタの1個体でそれが確認されました。この件はたいへん謎めいており、オーストラレシア人の遺伝的影響を受けた集団が、アメリカ大陸先住民系統の他集団と交雑することなく、アメリカ大陸へと移住した可能性も想定されますが、正確なところは不明です。そもそも、アマゾン地域の一部先住民集団がいつオーストラレシア人の遺伝的影響を受けたのかも不明だったのですが、サイエンス論文により、遅くとも1万年以上前のことだと明らかになりました。さすがに、更新世にオーストラレシア人がオーストラリア(もしくはオーストラリアも含むサフルランド)からアメリカ大陸へと渡海したとは考えにくいのですが、今後の研究の進展が注目されます。

 1949年にアラスカのスワード半島のトレイルクリーク洞窟群(Trail Creek Caves)で発見された9000年前頃の1歳半の子供は、サイエンス論文では「古代ベーリンジア人」と分類されました。古代ベーリンジア人は、22000〜18100年前頃に(既知の)古代および現代アメリカ大陸先住民の祖先集団と分岐した、と推測されています(関連記事)。古代ベーリンジア人は北方に留まり、アメリカ大陸先住民集団の祖先集団は南下してアメリカ大陸へと拡散していった、というわけです。古代ベーリンジア人は、デナリ複合(Denali Complex)として知られる、アラスカとユーコン準州で12500〜6000年前頃に拡大した文化的集団と直接的に関連している、と指摘されています。この子供の歯の分析から、摂取栄養源は完全に陸上性で、鮭のような溯河性の魚や海洋資源の利用が示唆される他の遺跡とは対照的であることも明らかになっています。

 もう一方の研究(Posth et al., 2018)は、中央および南アメリカ大陸の10900〜700年前までの49人の新たなゲノム規模の解析を行ないました。この研究(セル論文)はサイエンス論文と併せて、64人の新たなアメリカ大陸のゲノム解析結果を報告したことになります。両論文の公表前まで、6000年以上前のアメリカ大陸の古代ゲノムは6人分しか報告されていませんでしたから、飛躍的な発展と評価されています。セル論文でも、サイエンス論文と同様に、形態学的観点から提唱されていた、アメリカ大陸の最初期の人類は現在のアメリカ大陸先住民集団とは異なる系統である、という仮説が否定されています。アメリカ大陸先住民は遺伝的にも文化的にも特有の集団としてアメリカ大陸に起源があり、在住し続けてきた、というわけです。

 セル論文は、チリ・ブラジル・ベリーズの10900〜9300年前の人類遺骸とアンジック1の間に、密接な遺伝的関係を検出しました。クローヴィス(Clovis)文化末期となるアンジック1の年代は12900〜12725年前頃なので(関連記事)、比較的近い年代なのにはるか遠くにいる集団と遺伝的近縁性が見られるのは、アメリカ大陸における急速な移動を示唆しているのではないか、と指摘されています。セル論文は、クローヴィス文化がこの急速な拡大を促進した、と主張しています。しかし、クローヴィス文化は南アメリカ大陸全域には拡大しておらず、アンジック1と遺伝的に近縁な集団はクローヴィス文化の人々よりも広範に存在していた可能性があることから、クローヴィス文化が急速な拡散の要因になったのか、ボルニック(Deborah Bolnick)氏は疑問を呈しています。

 しかしセル論文は、アンジック1との遺伝的近縁性が、南アメリカ大陸の大半で9000年前頃より衰退し始めたことを明らかにしており、9000年前頃以降に、南アメリカ大陸の人類集団において大規模な置換があったのではないか、と推測しています。またセル論文は、4200年前頃より中央アンデスにおいて、南カリフォルニアのチャネル諸島の古代人と遺伝的に最も密接に関連している系統の流入が見られる、と明らかにしました。これらの大規模な移住・遺伝子流動・置換は、現代人のゲノム解析では検出できないので、古代DNAデータの威力が改めて強調されています。この主要な移住・置換の後には、アメリカ大陸ではユーラシアやアフリカと比較して、遺伝的には顕著な地域的継続性がある、とも示されました。現代人の各地域集団は移住・混合により成立していますが(関連記事)、その度合いは各地域集団により異なり、アメリカ大陸は比較的継続性が高い、ということなのでしょう。

 サイエンス論文とセル論文は、アメリカ大陸における古代ゲノムデータの量と質を大きく発展させたという点で、画期的と言えるでしょう。ただ、課題も指摘されています。チリのモンテヴェルデ(Monte Verde)遺跡のような先クローヴィス文化の担い手については、まだ証明できるようなデータが得られていません。また、北アメリカ大陸の中央部と東部には大きな欠落があり、11000〜3000年前頃の、アマゾン地域・南アメリカ大陸北部・カリブ海地域についても同様です。しかし、近年の古代DNA研究の飛躍的な発展を見ていると、近いうちにこれらの欠落もじょじょに埋められていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Moreno-Mayar JV. et al.(2018B): Early human dispersals within the Americas. Science.
https://dx.doi.org/10.1126/science.aav2621

Posth C. et al.(2018B): Reconstructing the Deep Population History of Central and South America. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2018.10.027
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医薬品に汚染されているオーストラリアの河川

2018/11/09 18:39
 オーストラリアの河川における医薬品による汚染についての研究(Richmond et al., 2018)が公表されました。人間が日常的に使用する化学物質(医薬品やパーソナルケア製品など)は、汚水処理では効果的に除去されないため、近くの河川の流域に残留します。しかし、そのような化学物質の生物活性・曝露・生態学的影響についてはほとんど明らかになっていません。

 この研究は、メルボルンの近くを流れる6ヶ所の小河川で水生昆虫と陸生クモ類を調べ、98種の医薬品(抗鬱剤・鎮痛剤・抗生物質・抗ヒスタミン剤など)の濃度を測定しました。その結果、水生昆虫とクモ類の両方で、60種以上の化学物質が検出可能な濃度に達していた、と明らかになりました。この濃度は、水生昆虫の捕食者として知られる水辺に生息するクモ類の方がかなり高かったため、これらの化学物質の「生物濃縮」が起こり、食物連鎖の上層において化学物質の濃度が上昇した、と示唆されます。

 次にこの研究は、水生昆虫の体内に含まれる化学物質の濃度に関する情報を使って、食物網に含まれるその他の昆虫捕食者であるブラウントラウトとカモノハシの医薬品への曝露を推定しました。この研究は、自らの計算結果に基づき、カモノハシが人間での推奨用量の約50%相当の抗鬱剤を摂取している可能性を示しています。ただ、これらの新たに発見された水中汚染物質の直接的効果を探究するためには、さらなる研究が必要とも指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】オーストラリアの河川食物網から医薬品が見つかった

 オーストラリアのメルボルン近くの6カ所の小河川で、水生無脊椎動物と河岸に生息するクモ類から60種以上の医薬品が検出されたことを報告する論文が、今週掲載される。著者たちは、クモが無脊椎動物を摂取した時にこうした医薬品が体内に入り込んだという考えを示している。また、予備的推定から、小河川の食物網の頂点に位置するカモノハシやブラウントラウトは食餌で特定の薬剤にさらされ、原理的にはその量が、ヒトの患者に処方される用量の最大50%に達する可能性のあることが示唆されている。

 ヒトが日常的に使用する化学物質(医薬品、パーソナルケア製品など)は、汚水処理では効果的に除去されないため、近くの河川の流域に残留する。しかし、そのような化学物質の生物活性、曝露、および生態学的影響についてはほとんど分かっていない。

 今回、Erinn Richmondたちの研究グループは、メルボルンの近くを流れる6カ所の小河川で水生昆虫と陸生クモ類を調べて、98種の医薬品(抗うつ剤、鎮痛剤、抗生物質、抗ヒスタミン剤など)の濃度を測定した。その結果、水生昆虫とクモ類の両方で、60種以上の化学物質が検出可能な濃度に達していたことが判明した。この濃度は、水生昆虫の捕食者として知られる水辺に生息するクモ類の方がかなり高かったため、これらの化学物質の「生物濃縮」が起こり、食物連鎖の上層において化学物質の濃度が上昇したことが示唆された。

 次にRichmondたちは、水生昆虫の体内に含まれる化学物質の濃度に関する情報を使って、食物網に含まれるその他の昆虫捕食者であるブラウントラウトとカモノハシの医薬品への曝露を推定した。Richmondたちは自らの計算結果を基に、カモノハシが、ヒトでの推奨用量の約50%相当の抗うつ剤を摂取している可能性のあることを示している。

 今回新たに発見された水中汚染物質の直接的効果を探究するためには、さらなる研究が必要である。



参考文献:
Richmond EK. et al.(2018B): A diverse suite of pharmaceuticals contaminates stream and riparian food webs. Nature Communications, 9, 4491.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-06822-w
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ボルネオ島の4万年以上前の洞窟壁画(追記有)

2018/11/08 17:05
 ボルネオ島の4万年以上前の洞窟壁画に関する研究(Aubert et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、ボルネオ島でインドネシア領となる東部の東カリマンタン州の洞窟群の壁画の上下の炭酸カルシウム堆積物のウラン系列法による年代測定結果を報告しています。これらの洞窟群では、数千点の壁画が確認されており、おそらくは在来の野生ウシを描いた赤燈色の動物壁画と手形の第一期、それよりも後の、暗赤紫色の手形ステンシルと複雑なモチーフと人間を描いた第二期、さらにその後の、黒色顔料の人物・舟・幾何学模様を描いた第三期に区分されていますが、これまで正確な年代は不明でした。

 本論文はおもに、東カリマンタン州のルバン・ジェリジ・サレー(Lubang Jeriji Saléh)洞窟(以下、LJS洞窟と省略)の壁画の年代を報告しています。野生ウシと思われる動物の壁画の2ヶ所での測定による下限年代は、40880±840年前と39930±570年前となります。これは、形象的な壁画としては現時点では世界最古となります。LJS洞窟の手形の一つは下限年代が38800±1600年前、別の手形は下限年代が26090±2500年前、上限年代が50280±1550年前となります。

 これら第一期に続く第二期の年代は21000〜20000年前までさかのぼり、更新世では珍しい人間を描いた壁画の下限年代は13800±270年前となります。第二期は、大型動物と手形だけではなく、複雑なモチーフと人間が描かれるようになったという点で、大きな文化的変化と指摘されています。なお、第三期の舟に人間が乗っている絵は初期オーストロネシア語族集団の絵と類似しており、オーストロネシア語族集団の東南アジアへの拡散との関連が指摘されています。

 本論文は、ボルネオ島では52000〜40000年前頃に洞窟壁画が描かれるようになり、最終氷期極大期に新たな絵画様式が出現した、との見解を提示しています。これは、環境変化に伴う社会変動が要因だったのでしょうか。スマトラ島には73000〜63000年前頃に現生人類(Homo sapiens)が存在していた、と確認されているので(関連記事)、ボルネオ島の後期更新世の洞窟壁画を描いたのが現生人類である可能性は高そうです。本論文は、ボルネオ島の洞窟壁画は現生人類の所産としては最古級で、ユーラシア西端のイベリア半島にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟の壁画(関連記事)と同等以上の古さになる、とその意義を強調しています。なお、エルカスティーヨ洞窟の壁画に関しては、当初はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産である可能性も指摘されていましたが、現在では現生人類の所産である可能性が高い、との見解が有力です(関連記事)。現生人類はユーラシア圏の東西両端で、さほど変わらない年代に洞窟壁画を描き始めたのではないか、というわけです。

 ボルネオ島の東に隣接するスラウェシ島では、4万年前頃までさかのぼる洞窟壁画が確認されています(関連記事)。本論文は、ボルネオ島からスラウェシ島やパプアニューギニアとオーストラリア(更新世の寒冷期には、タスマニア島とも陸続きとなり、サフルランドを形成していました)まで、洞窟壁画の概念・技術が伝わった可能性を指摘しています。ボルネオ島の人間を描いた洞窟壁画と似ている絵はオーストラリアでも確認されていますが、その年代不明です。本論文は、東南アジアに最初に現生人類が到達してから洞窟壁画が出現するまでやや長いことから、まだ最初期の現生人類の描いたもっと古い洞窟壁画が発見されていない可能性と、人口増加により社会が複雑化し、儀式的行動との関連も想定される洞窟壁画が描かれるようになった可能性を想定しています。ただ、東南アジアの最初期の現生人類が現代人にどの程度の遺伝的影響を残しているのか不明で、遺伝的にも文化的にも、現代への影響が皆無に近い可能性も無視できないほどある、と私は考えています。

 LJS洞窟の野生ウシを描いた壁画は、形象的なものとしては現時点で世界最古となります。ただ、洞窟壁画としては、スペインでもっと古い64800年以上前と推定されているものが報告されており、ネアンデルタール人の所産と推測されています(関連記事)。しかし、本論文の筆頭著者であるオーバート(Maxime Aubert)氏の研究チームは、スペインの64800年以上前の洞窟壁画について、意図せず壁画よりずっと古い鉱物堆積物を年代測定したかもしれない、と批判的です。じっさい、批判も提示されていますが(関連記事)、それに対する反論も提示されており(関連記事)、ネアンデルタール人が6万年以上前にイベリア半島で洞窟壁画を描いていた可能性は高いと思います。ただ、6万年以上前とされるイベリア半島の洞窟壁画に関しては、同じ洞窟に形象的な絵もあるものの、現時点ではその年代は確定しておらず、まだネアンデルタール人が描いたのか、確定していません。その意味で、形象的な絵としては現時点では最古となるLJS洞窟の野生ウシを描いた壁画の意義は大きいと思います。

 なお、6万年以上前とされるイベリア半島の洞窟壁画の研究に関わったジリャオン(João Zilhão)氏は、年代測定されたLJS洞窟の堆積物が、動物の絵と他の絵の顔料の残骸のどちらなのか、不明確ではないか、と指摘しています。その批判が妥当だとすると、LJS洞窟の形象的な壁画が世界最古とは言えないでしょう。ただ、ジリャオン氏は、東南アジアにおいて洞窟壁画が4万年前頃までに出現したことを疑っているわけではありません。ジリャオン氏も参加している研究チームと、オーバート氏の研究チームとは、壁画の年代測定に用いる鉱物堆積物をどのように収集するのか、という方法論が異なっており、こうした相互批判により、さらに信頼性の高い手法が確立されるのではないか、と期待されます。洞窟壁画は、現生人類とネアンデルタール人の比較という視点でも重要なので、今後の研究の進展が大いに注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】世界最古の形象壁画とされるボルネオ島の洞窟美術

 世界最古の形象壁画が同定されたことを報告する論文が、今週掲載される。ボルネオ島(インドネシア)で発見されたその洞窟壁画には正体不明の動物が描かれており、この壁画は少なくとも4万年前のものとされる。

 ボルネオ島の東カリマンタン州にある鍾乳洞には、数千点の岩壁画があり、(1)赤燈色の動物(主に野生のウシ)の壁画と手形ステンシル、(2)それよりも後の時代の、暗赤紫色の手形ステンシルと複雑なモチーフとヒトを描いた壁画、(3)最終段階の、黒色顔料で描かれた人物、船、幾何学模様という3つの時期に分類されている。しかし、これらの作品の正確な制作時期は明らかになっていない。

 今回Maxime Aubertたちの研究グループは、Lubang Jeriji Saleh洞窟で見つかった、正体不明の動物が描かれた赤燈色の大型壁画を調べた。Aubertたちは、ウラン系列分析を行って、この壁画の上に成長した石灰岩の塊の年代を測定した。その結果、この壁画が少なくとも4万年前のものであり、最古の形象壁画になることを明らかにした。

 また、同じ洞窟で見つかった第2、第3の赤燈色の手形ステンシルは最小年代が3万7200年前で、とりわけ第3の手形ステンシルの最大年代は、5万1800年前であることが判明した。Aubertたちは、これらの年代決定に基づいて、ボルネオ島のこの場所で岩壁画が描かれるようになったのは5万2000〜4万年前で、ヨーロッパの現生人類によるとされる最古の壁画が描かれた時期とほぼ同じだと結論付けている。Aubertたちはさらに、暗赤紫色の壁画の年代を2万1000〜2万年前と決定した。この時期は、大型動物の描写することから一貫してヒトの世界を表現するようになったという文化的変化を示す証拠となっている。



参考文献:
Aubert M. et al.(2018): Palaeolithic cave art in Borneo. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0679-9


追記(2018年11月13日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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地球最古の化石とされる岩石構造への異論

2018/11/08 17:01
 地球最古の化石とされる岩石構造を再検証した研究(Allwood et al., 2018)が公表されました。本論文は、2年前(2016年)の研究(Nutman et al., 2016)の見直しとなります。グリーンランドの古始生代の表成岩帯は地球最古の岩石を含み、地球上の生命に関する最古の証拠の探索において主要な研究対象となっています。しかし、変成作用により岩石の本来の組織および組成はほとんど失われているため、生物の痕跡の保存は困難です。

 グリーンランド南西部のイスア表成岩帯で発見された、37億年前のものとされる複数の円錐構造(それぞれ高さ1〜4センチメートル)に関する2年前の研究では、変形の少なさと閉鎖系の変成作用により初期の堆積岩としての特徴(微生物を介した堆積により形成された、円錐状およびドーム状のストロマトライトと推定される層状堆積構造物など)が保存されている、希少な帯状岩石構造が報告されています。これらの構造物の形態・成層構造・鉱物的性質・化学的性質・地質学的状況は、37億年前という地球の岩石記録の始まりの時期までに、海の浅瀬環境で微生物マットが形成されたことに起因する、と推測されました。

 本論文は、新たな調査により、これらの構造物が非生物的で、堆積後に生じたものであることを明らかにしています。これらの構造物の母岩構造状況内での形態および配向性の三次元分析と、主要元素と微量元素の化学的性質の組織特異的な分析との組み合わせから、「ストロマトライト」とされたこれらの構造は、炭酸塩が変質した変堆積岩内で埋没のはるか後に形成された、変形構造の集合体の一部だと解釈する方がより妥当である、と示されました。イスア表成岩帯の構造物に関するこの調査は、火星において生命が存在したことを示す証拠を探索するさいの教訓になるとともに、形態・岩石構造・地球化学的性質を適切なスケールで三次元的に総合分析することの重要性を浮き彫りにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【化石】地球最古の化石とされる岩石構造に異論

 これまで最古の生命の痕跡を有するとされてきた岩石構造が、非生物学的なものに由来する可能性があることを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、地球上の初期生物に関する理解を深める一方で、地球以外の、例えば火星のような環境で同じように生物を探索する上で三次元の統合解析が重要であることを明確に示している。

 グリーンランドで発見された地球で最古の岩石は、最も初期の生命の痕跡を探索する活動において最重要の調査対象である。岩石の当初の組成と組織は、変成作用の屈曲、延伸、加熱などの過程によって消失しているため、この探索活動は一筋縄ではいかない。

 2016年にNatureで発表された論文では、グリーンランド南西部で発掘された岩石から見つかった37億年前のものとされる複数の円錐構造(それぞれ高さ1〜4センチメートル)が記述されている。この論文の著者は、この構造がストロマトライト(単細胞微生物の塊によって形成された浅瀬の層状堆積物)であり、これによって最も古い化石記録がこれまで考えられていたものより2億年さかのぼることが示唆されると主張した。

 今回、Abigail Allwood、Joel Hurowitzたちの研究グループは、こうした化石の三次元形状、定位、化学組成などの統合解析を行った。その結果、この構造物はストロマトライトと異なり、内部が層状になっておらず、微生物活動の化学的特徴がなく、三次元的に観察すると、円錐形ではなく隆線形であることが判明した。彼らは、これらの特徴が生物学的なものではなく、海洋堆積物が埋没してから長期間の変成作用によって変質・変形した結果だと解釈する方が適切だと主張している。

 この論文に関連したMark van ZuilenのNews & Viewsでは、「太古代のストロマトライトに対する生物学的な見解を巡っては、長年の論争がある。今後の研究によって、この岩石の形成に至る一次過程と二次過程が正確に解明される可能性がある」という意見が示されている。


地質学:グリーンランドの37億年前の岩石に見いだされた生命の証拠の再評価

地質学:地球最古の生命の痕跡への疑義

 以前の研究でストロマトライトであるとされた構造物(黄色の矢印)。この露出には下向きの類似構造(赤色の矢印)も認められ、一連の構造物が海底からの上向きの成長を示唆するものではないことが示された。

 地球上の生命は、地球環境が生命の生存を支えるのに十分適したものになるのとほぼ同時に出現したように見受けられる。最古の微生物が34億年以上前に存在したことを示す証拠は、かつては物議を醸したものの、現在では広く受け入れられている。2016年、A Nutmanたちは、グリーンランドの岩石から37億年前の微生物由来の構造物の証拠を発見し、報告した。この年代の岩石は希少で、屈曲や伸展、褶曲、加熱などの変成作用を受けていることが多いため、その特徴の解釈は常に議論の的となっている。今回A Allwoodたちは、Nutmanたちが調べた露出を訪れてこれを再評価し、ストロマトライト(微生物群集が作り出した巨視的な層状構造物)であるとされた構造物が、有機生命体が関与する過程とは無関係の、変形の特徴であることを示している。一方、地球上の初期の生命の存在に関してはこれをさらにさかのぼる年代のものも主張されており、地球最古の生命の痕跡を探す旅、そしてそれに伴う議論は今後も続くだろう。



参考文献:
Allwood AC. et al.(2018): Reassessing evidence of life in 3,700-million-year-old rocks of Greenland. Nature, 563, 7730, 241–244.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0610-4

Nutman AP. et al.(2016): Rapid emergence of life shown by discovery of 3,700-million-year-old microbial structures. Nature, 537, 7621, 535–538.
https://doi.org/10.1038/nature19355
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文化伝播によるユーラシア東方草原地帯の牧畜の始まり

2018/11/07 18:37
 ユーラシア東方草原地帯における牧畜の起源に関する研究(Jeong et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。銅石器時代〜青銅器時代移行期に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの遊牧民の移住により、ヨーロッパと中央アジアでは人類集団に大きな遺伝的変容が見られました(関連記事)。しかし、銅石器時代〜青銅器時代において、ユーラシア西方草原地帯における大変化と比較して、ユーラシア東方草原地帯については、たとえばモンゴルの埋葬に関して、後期銅石器時代〜前期青銅器時代にかけて中央アジアで栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化との埋葬の類似性も指摘されていますが、遺伝的構成はあまり明らかになっていません。また、ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSH)の拡散の一因は、草をタンパク質と脂肪の豊富な乳製品に変換する酪農にある、と考えられており、ユーラシア東方草原地帯においては、後に匈奴やモンゴル帝国のような拡大に成功した遊牧勢力が出現しますが、酪農を伴う牧畜がいつ始まったのかは、よく分かっていません。

 本論文は、モンゴル国北部のフブスグル(Khövsgöl)県アーブラグ(Arbulag)郡の、後期青銅器時代となる鹿石キリグスール複合(Deer Stone-Khirigsuur Complex)文化の埋葬地6ヶ所から、22人を対象にゲノム規模解析とプロテオーム解析(タンパク質の構造・機能の総合的研究)を行ない、ユーラシア東方草原地帯における酪農の起源を検証しました。鹿石キリグスール複合(DSKC)は、シカや他のモチーフを伴う直立した石と、埋葬と関連する巨石塚を含む、記念碑的な建築で知られています。いくつかの場所ではこれらの構造はひじょうに目立っており、遠距離から見られます。DSKCは、モンゴルにおいて、紀元前1200年よりも前の牧畜の証拠が最も明確かつ直接的に確認されている文化です。モンゴルではヒツジ・ヤギ・ウシ・ウマなどの家畜遺骸が紀元前14世紀までさかのぼりますが、酪農の証拠となる消費の痕跡は、直接的に確認されたわけではありませんでした。

 後期青銅器時代フブスグル人(LBAK)22人の、直接的な放射性炭素年代測定による較正年代は、最古の個体が紀元前1456年頃、最新の個体が紀元前980年頃となります。22人のうち20人に関して有効なゲノムデータが得られました。ゲノム解析の標的部位の平均網羅率は0.11〜4.87倍です。また、20人中2人に関しては、全ゲノムが解析されました(網羅率は3.3倍)。また、22人中9人のプロテオーム解析(タンパク質の構造・機能の総合的研究)が行なわれました。その結果、乳製品の消費が確認されました。20人のうち男性は12人、女性は8人です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループに分類できたのは19人で、おおむねシベリアに多いタイプ(A・B・C・D・G)となっており、そのうちC4aが最も多く、1人はユーラシア西部に多いU5aに分類されていることが注目されます。Y染色体DNAハプログループもおおむねシベリアに多いタイプ(圧倒的に多いQ1aと1人だけのN1c1a)となります。

 ゲノム解析の結果、ほとんどのLBAKは、現代人集団では、近隣のトゥバ人(Tuvinians)と類似しています。また、LBAKや他の古代シベリア人は、同地域の現代人よりも、アメリカ大陸先住民と遺伝的に近縁であることも明らかになりました。ただ、20人中2人(ARS017およびARS026)は他の後期青銅器時代フブスグル人とクレードを形成しないほど、異なる遺伝的構成になっています。ARS017は、他のほとんどの後期青銅器時代フブスグル人と比較して、「悪魔の門」遺跡の7700年前頃の住民(関連記事)や現代東アジア人と遺伝的に近縁です。ARS026は男性で、そのY染色体DNAハプログループが、ユーラシア西部に多いR1a(R1a1a1b2a2a)であることから推測できるように、WSHの遺伝的要素がやや強く見られます(10%以上)。しかし、WSH から6.1〜9.4%ほど遺伝的影響を受けているARS026を含めても、ほとんどのLBAKはWSHと遺伝的には明確に分離され、WSH からの遺伝的影響は限定的です。なお、鉄器時代になると、WSHに東アジア系の遺伝的影響が見られるようになります(関連記事)。

 現在、フブスグル(Khövsgöl)県の非都市圏の住民は、夏の摂取カロリーのうち、炭水化物の36〜40%、タンパク質の24〜31%、脂肪の39〜40%は乳製品から得ています。このように、酪農は牧畜文化圏ではひじょうに重要なのですが、モンゴルでは酪農がいつ始まったのか、定かではありません。しかし本論文は、歯石の分析により、LBAK22人中9人のプロテオーム解析に成功し、乳製品消費が確認されました。ウシ・ヒツジ・ヤギといった搾乳用家畜はモンゴル在来種の改良ではなく、WSHから導入されたようです。プロテオーム解析に成功したLBAKの最古の個体の年代から、紀元前15世紀半ばには、モンゴルでも乳製品の消費が始まっていた、と考えられます。しかし、LBAKに乳糖耐性関連遺伝子は確認されませんでした。

 これらの知見から、WSHはLBAKの近隣地域(アルタイ-サヤン地域)に拡散し、LBAKはWSHより家畜も含めて酪農文化を導入したものの、両者の遺伝子流動は限定的だった、と明らかになりました。ユーラシア西部では、銅石器時代〜青銅器時代のWSHの拡散は文化だけではなく人類集団の大規模な移住も伴っており、地域によってはほぼ全面的な置換も生じました(関連記事)。文化の変容・拡散は、各事例により様相が異なり、一律に単なる文化伝播もしくは新集団の移住とは決められない複雑なものだ、ということが改めて確認されたと思います。また、新たに拡散してきた優勢な集団が、先住の集団の文化を採用することもあっただろう、と思います。こうしたことは、現生人類(Homo sapiens)の間のことだけではなく、現生人類と他系統の人類との接触においても当てはまるのではないか、と私は考えています。ただ本論文は、ユーラシア東方草原地帯において、酪農を伴う牧畜文化の導入にさいして、LBAKの事例が一律に当てはまるのかどうか確定するには、もっと多くの文化集団の研究が必要とも指摘しています。

 また本論文は、後期青銅器時代以降、モンゴルの住民の乳製品依存度は高かったと推測されるにも関わらず、乳糖耐性関連遺伝子は、LBAKには確認されず、現代モンゴル人でも稀であることから、酪農社会の持続に遺伝的変異が不可欠とは言えず、モンゴル人の事例は、文化慣行や体内微生物叢の変化による適応ではないか、とも指摘しています。確かに、乳製品への依存度を高めた社会において、乳糖耐性関連遺伝子の定着を促進するような選択圧が生じた可能性は高いでしょうが、そうした選択圧が作用せずとも、乳製品への依存度の高い社会への適応はじゅうぶん可能である、というわけです。


参考文献:
Jeong C. et al.(2018): Bronze Age population dynamics and the rise of dairy pastoralism on the eastern Eurasian steppe. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1813608115
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ヒトパピローマウイルスの進化とホモ属内の交雑

2018/11/06 17:44
 ヒトパピローマウイルス(HPV)の進化とホモ属内の交雑に関する研究(Chen et al., 2018)が報道されました。現代人は生涯を通じて多くのパピローマウイルス群(PVs)に感染しますが、そのほとんどは無症状です。しかし、ヒトパピローマウイルス16(HPV16)による持続性感染は、とくに子宮頸部において発癌性が認められています。以前の研究では、HPV16は大きくはA・B・C・Dの4系統に区分され、そのうちA系統に関しては、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)といった古代型ホモ属との交雑により現生人類(Homo sapiens)が感染し、現代に継承されているのではないか、と推測されていました(関連記事)。

 本論文は、HPV16のうち、212の完全なゲノム配列と3582の部分的な配列を解析し、さらにはHPVのみならず霊長類のPVを対象としてPVsの大規模な系統樹を作成し、HPV16の系統的位置づけ、各系統の推定分岐年代について、より高精細な分析結果を提示しました。PVsは大きく、α・β・γの3系統に区分され、HPV16はα系統に区分されます。αの各系統の最終共通祖先の年代は3990万年前頃と推定されており、霊長類PVsは少なくとも4000万年以上、霊長類宿主と共進化し、宿主たる霊長類に適応していく過程で、宿主への発病性を獲得する系統もあったのではないか、と推測されています。

 以前の研究と同じく本論文も、HPV16を大きくはA・B・C・Dの4系統に区分しています。系統的な関係では、まずA系統とB・C・Dの共通祖先系統が、次にB系統とC・Dの共通祖先系統が、最後にC系統とD系統が分岐しました。A・B・C・Dの4系統はそれぞれ、さらに4系統に区分されます(A1〜4など)。本論文は現代人を、アジア系・ヨーロッパ系(Caucasians)・アフリカ系・ラテンアメリカ系に分類し、各地域系統間の違いがよく反映される分類として、HPV16の系統をA1-3・A4・B・C・Dに区分しています。アフリカ系は、A1-3が2.4%、A4が0%、Bが54.2%、Cが36.1%、Dが7.2%です。ヨーロッパ系は、A1-3が83.0%、A4が1.4%、Bが4.0%、Cが1.6%、Dが11.0%です。アジア系は、A1-3が62.0%、A4が29.9%、Bが0.2%、Cが1.6%、Dが6.3%です。ラテンアメリカ系は、A1-3が49.5%、A4が0%、Bが0.5%、Cが1.7%、Dが48.3%です。

 A4の約99%はアジア系で、アフリカ系ではA系統がほとんどなく、ラテンアメリカ系ではD系統が他地域よりもはるかに多くなっており、4地域の構成はかなり異なっています。B・C系統がアフリカ外ではひじょうに少ないことも注目されます。こうした地理的な構成の違いと、全体的にB・C・D系統はA系統よりゲノム多様性が高いことと、A系統とB・C・Dの共通祖先系統との推定分岐年代は、489000年前頃で、現生人類の祖先系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統との推定分岐年代に近いことから、A系統はネアンデルタール人から現生人類へと交雑によりもたらされ、B・C・D系統はアフリカ起源だろう、と本論文は推測しています。もっとも、現生人類の祖先系統とネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統との推定分岐年代については諸説あり、まだ確定したとは言えない状況で、50万年前頃よりもずっとさかのぼるのではないか、と私は考えています(関連記事)。

 A系統のうちA4系統の分布はかなり特異で、約99%はアジア系で見られます。以前の研究を当ブログで取り上げた時は、A4系統はデニソワ人に由来するのではないか、と推測しましたが(関連記事)、本論文は、とくに東アジア系現代人で高頻度のA4系統はネアンデルタール人系統で進化し、アジアにおける現生人類との交雑により現生人類へと感染したのではないか、との見解を提示しています。つまり、アジア系とヨーロッパ系が分岐した後に、アジア系はさらにネアンデルタール人と交雑した、というわけです(関連記事)。A系統は、まずA1-3系統とA4系統とで分岐し、その推定年代は173000年前頃で、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐は遅くとも45万年前頃よりもさかのぼると考えられますから、現代人に見られるA4系統がネアンデルタール人由来である可能性は高いと思います。PVは基本的に骨格には感染しないので、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムではHPVは確認されていません。したがって、本論文の見解は断定的ではないのですが、信頼性は高いと思います。

 なお、ラテンアメリカ系におけるD系統の割合の高さについては、ボトルネック(瓶首効果)の可能性も、アフリカからD系統の比率の高い遺伝学的に未知の集団がラテンアメリカへと渡った可能性も想定されていますが、確定的ではない、と指摘されています。さらに対象集団を拡大することで、この問題の手がかりが得られる可能性は高いでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。ウイルスの進化と人類の進化を関連づける研究は以前よりありましたが、解析技術の発達により、この分野は飛躍的に発展しています。何とか少しでも、最新の研究動向を追いかけて、当ブログで取り上げていきたいものです。


参考文献:
Chen Z, DeSalle R, Schiffman M, Herrero R, Wood CE, Ruiz JC, et al. (2018) Niche adaptation and viral transmission of human papillomaviruses from archaic hominins to modern humans. PLoS Pathog 14(11): e1007352.
https://doi.org/10.1371/journal.ppat.1007352
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『卑弥呼』第5話「憑依」

2018/11/05 18:09
 『ビッグコミックオリジナル』2018年11月20日号掲載分の感想です。前回は、モモソが盟神探湯の試練を切り抜け、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院の人々がモモソを日見子(ヒミコ)と認めるところで終了しました。今回は、種智院で戦部(イクサベ)の見習いたちが朝食中に噂話をしている場面から始まります。見習いの女性たちはモモソを百年ぶりに出現した日見子(ヒミコ)と賞賛します。しかしヌカデは、噂話をしている女性たちに忠告します。もしモモソが日見子なら、天照大御神は同時に二人の身体には降らないので、日見子と日見彦は同時に存在しないことになり、現在は日見彦とされている暈の国のタケル王はもう日見彦としての役割を終えたか、最初から偽っていたことになり、タケル王はモモソを殺そうとするかもしれない、とヌカデは説明します。倭国の戦いが終わらないのはタケル王のせいだ、タケル王は偽りの日見彦ではないか、と疑念を公然と口にする諸国の王も多いので、モモソが日見子と認められたなら、タケル王には自害するかモモソを殺すしか選択肢がなくなるわけですから、モモソが日見子との話を軽々しくするな、というわけです。見習いの女性がヤノハの不在に気づくと、ヤノハとは二度と会えない、たいていの場合は帰ってこない戦柱(イクサバシラ)として今日戦場に向かう、とヌカデは説明します。見習いの女性たちは、腕が立ちすぎるのも考えものだ、とヤノハに同情します。

 その頃ヤノハは、戦部の師長であるククリに戦柱として出立する挨拶をしていました。ククリは、必ず帰ってこい、とヤノハに声をかけますが、本心ではなさそうです。万一の場合は知らせる家族はいるのか、とククリはヤノハに尋ねます。こちらがククリの本心なのでしょう。ヤノハは、養母は死に、実母は死んだと聞いており、邑が賊に襲われた時に離ればなれになった弟は行方不明だが、恐らく死んだ、と答えます。そこへ祈祷部(イノリベ)の女性(年配のようなので、見習いではないのでしょう)が現れ、ヤノハを祈祷部に移すよう、命令が下され、ククリは驚きます。ククリは嘲笑とも冷笑ともとれるような表情を浮かべて、お前は天照大御神の声が聞こえるそうだが、自分にはそのように思えない、とヤノハに言います。さらにククリは、祈祷部の長であるヒルメ様は厳しいので、お前の嘘を簡単に見抜く、偽りならば即刻死罪だから、戦場よりも分が悪い賭けに出たようだな、とヤノハに冷ややかな様子で言います。ヤノハは俯いたまま一言も発さず、ほくそ笑んでいました。

 祈祷部では祈祷女(イノリメ)見習いたちへの講義が行なわれ、ヤノハも離れたところに座って静かに聴いています。講師は、我々がお暈(ヒガサ)さまと呼ぶ天照大御神は、お日さま・お天道さまなど様々な呼び名で信じられており、金砂(カナスナ)の国や鬼国(キコク)のように、天照大御神以外の神を信じる国もある、と解説します。祈祷女見習いたちは、薄黒い服を着て新たに加わってきたヤノハのことが気になり、戦部から移ってきた、と噂します。ヤノハには天照大御神の声が聞こえるらしい、と一人が言うと、他の見習いたちは、10年もお暈さまを学んできた我々にも何も聞こえないのに、阿比留(アビル)文字も読めないヤノハが我々に追いつけるのか、などと話しています。偽りならヒルメ様が見抜いてヤノハは死罪となるだろう、と見習いたちが話していると、そのうちの一人が、ヤノハは凶暴らしいので聞こえたら殴られるぞ、と忠告します。ヤノハは、このやり取りがある程度は聞こえていたようですが、静かに座ったままでした。

 その夜、ヤノハは楼観にモモソを訪ねます。講義はさっぱり分からなかった、と言うヤノハにたいして、あなたならすぐに追いつく、とモモソは励まします。食事は戦部より祈祷部の方がずっとよいが、イジメはきつそうだ、とヤノハが言うと、モモソは笑いながら、大丈夫よ、と言います。楼観にいるところを見られたらまずいから出た方がよい、とモモソに促されたヤノハは、手っ取り早く頼みを聞いてほしい、とモモソに言います。ヤノハは近いうちに、天照大御神の声が聞こえるのか、ヒルメの審査を受けることになりますが、手立てはないのでモモソに助けてほしい、と頼みます。天照大御神が降りてきたように振舞う演技を教えてほしい、とヤノハに頼まれたモモソは真顔となります。ヤノハはなおも、自分の養母がそうしていただろうように、何かが憑いているふりをするコツをモモソから聞き出そうとしますが、モモソは悲しそうな表情で、それは間違っている、と言います。モモソは、自分もヤノハの養母も芝居をしているわけではなく、本当に心がどこかに飛んで天照大御神が入ってくるのだ、とヤノハに説明します。なおも納得のいかないヤノハは、盟神探湯(クガタチ)ではなぜ自分の力を借りたのだ、とモモソに尋ねます。するとモモソは、盟神探湯に天照大御神の力は借りられない、と正直に答えます。なおもヤノハは食い下がり、包み隠さず教えろ、芝居なのだろう、と問い詰めます。するとモモソは覚悟を決めた表情で、今から天照大御神を呼ぶ、と言い、天照大御神はあなたを叱ると思う、とヤノハに忠告します。それでもヤノハは、余裕のある表情を浮かべ、それは仕方ないね、と言います。

 天照大御神を呼ぶために呟き始めたモモソの表情が、しばらくすると一変します。天照大御神は降ったのか、とヤノハが嘲笑するような表情を浮かべてモモソに尋ねると、トランス状態?のモモソは、なぜ男を使い、この者(モモソ)を襲わせた、と激昂してヤノハを問い質します。立ち上がったモモソは座っているヤノハを見下ろし、厳しい表情を浮かべて、あの男(ホオリのことでしょう)も暗闇の女(モモソ)をお前と勘違いして抱き着いただけで、そのうえ、あの男にモモソと呼ぶよう命じて、この者(モモソ)を偽った、とモモソが知らないはず(とヤノハは思っていたでしょう)の真相をヤノハに告げます。自分の企みをすっかり見通されていたことに驚愕したヤノハは、モモソに謝ります。しかしモモソ(に憑依した天照大御神?)はヤノハにたいする糾弾を止めません。お前は冷酷にも最初からあの男を犠牲にして、この者(モモソ)に恩を売るつもりだった、と告げられたヤノハはモモソの剣幕に圧倒され、戦場に行きたくなくて必死だったのだ、と言って謝ります。しかし、モモソ(に憑依した天照大御神?)の糾弾は止まず、自分がこの身(モモソの身体)より去った後も、この者(モモソ)に自分の言葉を残すので、お前は終わりだ、この者(モモソ)はお前を告発する、とヤノハに告げます。ヤノハは、勘弁してくれ、友達だろ、と言いますが、モモソ(に憑依した天照大御神?)は激昂して、自分を愚弄する者は絶対に許さない、と言って倒れます。

 モモソはすぐに正気に戻り、ヤノハは安心します。私は何か言ったのか、とモモソに問われたヤノハは、何も言わなかった、と答えて誤魔化そうとします。するとモモソは厳しい表情を浮かべて、嘘だ、あなたは友達ではない、薄汚い嘘つきの詐欺師だ、このことを公にする、とヤノハに告げます。ヤノハはなおも、お前を少しは騙したとはいえ、共に乱世を生き抜くと約束したではないか、と言ってモモソを懐柔しようとします。しかし、モモソは怒った表情を浮かべて、告発するのであなたは全部を失う、とヤノハに宣告します。するとヤノハはモモソを抱え上げ、すまないね、と言いつつ、仕方ないのだ、私はこの乱世で生き残りたい、親友のお前を犠牲にしても、と言ってモモソを楼観から投げ落とし、モモソを殺害します。この時点から先のヤノハが、真実はただ一つ、私は百年ぶりに顕われた本物の日見子を殺してしまったのだ、と回想するところで今回は終了です。


 今回は衝撃的な展開で、本当に驚きました。ヤノハとモモソのどちらかが『三国志』に見える卑弥呼になるのは確実だと考えていたので、ヤノハが卑弥呼になる場合、モモソの退場は予想していました。具体的にモモソがどう退場するのか、詳しく予想していたわけではないのですが、モモソにより殺されるような展開自体は、さほど意外ではありません。しかし、まだ序盤だろう第5話でヤノハがモモソを殺してしまうとは、まったく予想していませんでした。当分はヤノハとモモソの関係性を中心に話が展開すると確信していたので、今回の展開に驚いたのはもちろんですが、何よりも、キャラがかなり良かったモモソの序盤での退場はたいへん残念です。これまでは、ヤノハが主人公の悪漢小説といった感じですが、巫女として優れた才能を有するものの、世間知らずで純情なところもある平凡な人物のモモソとの対比があって、ヤノハの強烈な個性が和らげられて読みやすくなっていた感もあります。したがって、モモソが退場して、ヤノハの強烈な生き様がこれまで以上に強く主張されると、率直に言ってモモソは多くの読者に共感されるような人物造形になっていないので、読んで疲れそうな作風になるのではないか、と懸念しています。今後、まだ登場していない暈の国のタケル王や将軍の鞠智彦(ククチヒコ)などが、魅力的な人物として登場するよう、願っています。

 モモソがヤノハに殺されたのは残念でしたが、生に執着して手段を選ばず、天照大御神の憑依も信じていないようなヤノハの卑劣な画策を、巫女としてた優れた才能を有するものの、世間知らずで純情なところもある、社会通念に従って天照大御神を純真に信仰しているような凡人のモモソが知ってしまったとしたら、モモソが平凡な人間の感情と正義感によりヤノハを告発しようとして、ヤノハが切羽詰まってモモソを殺すような展開になっても不思議ではありません。モモソがヤノハのような「怪物性」を有していたなら、この件でヤノハを脅迫し、自分に都合のよいように操ろうとしたでしょうが、感情の赴くままにヤノハを告発しようとしたのが、いかにも世間知らずの凡人といった感じでした。まだ序盤ですが、これまでに描かれてきた両者の個性がよく活かされており、ヤノハが序盤でモモソを殺したことは、本当に残念ではあるものの、説得力のある話になっていたと思います。

 ヤノハは、養母を間近で見ていたにも関わらず、あるいは見ていたからこそなのか、天照大御神が憑依するという現象をまったく信じていませんでした。しかし今回、モモソが豹変して知らないはずの真相を語りだした様子を見て、天照大御神(に限らず神々)の憑依を信じるようになったかもしれません。ただ、ヤノハは憑依という現象にかなり懐疑的でしたから、あるいは別の説明を思いつくかもしれません。ホオリはヤノハと勘違いしてモモソを襲ったさい、最後にヤノハと呼びかけているので、モモソがそこから疑問に思っても不思議ではありません。モモソの推理力が優れていれば、ホオリが自分を襲ったのがヤノハの陰謀という結論にたどり着いても不思議ではありません。ヤノハがこのように考えれば、今後も、天照大御神の憑依はないと確信しつつも、人々の天照大御神への篤い信仰を利用して、したたかに生き抜いてこうとするのかもしれません。

 しかし、巫女としては百年に一人の逸材と言われているものの、その他の面では平凡なモモソが、ホオリの一言から真相にたどり着くと考えるのには無理があるように思います。まあ創作ものに関して、「合理的な」説明を追求することにあまり意味はないと思いますので、作中では、巫女として本当に優れた者には天照大御神が降り、人知を超えたことも人々に告げられるという、いわゆる超常現象的な設定になっているのかもしれません。あるいは、ジェインズ(Julian Jaynes)氏の「二分心」仮説が採用されているのでしょうか。ただ、あえて少しでも「合理的」に解釈しようとすると、優れた巫女は解離性同一性障害で、精神を集中すると別人格が出現する、という作中設定になっているのかもしれません。モモソの場合は、凡人としての人格の他に、冷酷で冷静な人格も同居しており、そちらはモモソの凡人としての人格も観察でき、真相を見抜けた、というわけです。まあ創作ものですから、この点で「合理的な」設定になっておらず、超常現象的な設定になっていたとしても、本作の魅力を大きく減じることはないだろう、とは思います。

 モモソがヤノハに殺されたことで、ヤノハが『三国志』に見える卑弥呼になるのはほぼ確実だと思います。そうすると気になるのは時々挿入されるヤノハの回想で、まだ若そうなヤノハが洞窟もしくは地下牢で死を待つばかりというような状況に追い込まれているようです。しかも、現時点では生に執着しているヤノハが、回想の時点では間近に迫った死を覚悟しているようです。ヤノハはどのような経緯でそうした状況に追い込まれたのか、また心境の変化はなぜなのか、ということが本作最初の重要な謎解きになりそうです。ヤノハは後に卑弥呼となるでしょうから、その状況から脱出すると考えられます。今回までの描写からは、ヤノハがモモソを殺したと発覚する可能性は低そうなので、天照大御神の声が聞こえる、という申し立てが偽りだとヒルメに判定されて、洞窟もしくは地下牢に幽閉されるのではないか、と予想しています。幽閉されたヤノハを救うのは弟で、『三国志』に見える「男弟」となって卑弥呼たる姉のヤノハを支える、展開になるかもしれません。今回、ヤノハとククリとの会話で、弟はおそらく死んだ、とヤノハが改めて発言していますが、これは逆に生きていることの伏線だと思います。

 もっとも、私の予想は、ヤノハが『三国志』に見える卑弥呼になる、という大前提に基づいているので、この前提が成立しないと的外れになってしまうのですが、題名が「卑弥呼」で、ヤノハが主人公として描かれており、これまでのところもう一人の主人公との感もあったモモソも退場したのですから、素直にヤノハが卑弥呼になると考えてよいと思います。現在の舞台となっている暈の国は、タケルという王と鞠智彦という将軍がいますから、『三国志』に見える狗奴国で、後の熊襲だと思います。ヤノハが暈の国で囚われていて脱出し、後に卑弥呼になったとすると、狗奴国は卑弥呼と対立していた、とする『三国志』の記事と整合的です。その場合、これまでの地理的情報と『三国志』から推測すると、邪馬台国は現在の宮崎県である日向(ヒムカ)となりそうです。ヤノハは日向の出身ですから、郷里で台頭していくのか、あるいは別の地域で台頭した後、郷里を都とするのでしょう。ただ、おそらくヤノハは、モモソから得た情報を活用して成り上がっていき、卑弥呼になるでしょうが、モモソという名前は卑弥呼の人物比定において有力説だろう倭迹迹日百襲姫命に由来すると思われ、その墓は箸墓古墳とされていますから、ヤノハが存命中のある時点で、都は日向から大和へと移るのかもしれません。そうすると、神武東征説話との絡みも考えられ、かなり壮大な話になりそうです。また、卑弥呼死後の混乱は卑弥呼の「宗女」である台与が王となることで収まったとされ、かなり先の話ですが、台与の人物像も気になるところです。血縁関係になくとも、台与はモモソと瓜二つの人物として描かれそうな気もします。色々と予測を述べてきましたが、あまり先のことを予想しても仕方ないので、今回はここまでとします。重要人物で当分は登場し続けると予想していたモモソが早くも退場し、たいへん残念ではあるものの、次回はどのような展開になるのか、たいへん楽しみです。
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大河ドラマ『西郷どん』第41回「新しき国へ」

2018/11/04 18:46
 廃藩置県が断行され、島津久光は激昂します。新政府の改革は進みますが、海外使節団の派遣をめぐって対立は深まります。大久保一蔵(正助、利通)は西郷吉之助(隆盛)に、不満に思うだろう留守政府組を抑える役割を担うよう、期待していました。岩倉具視は留守政府を預かる隆盛に、海外使節団の帰国まで政策も人事も何も変えるな、と念押しします。しかし、江藤新平と後藤象二郎は岩倉・大久保・木戸たち要人の不在中に権力掌握を図り、山県有朋の汚職を追求します。隆盛は、島津久光をはじめとして新政府の方針を不満に思う人々を抑えるために、明治天皇の行幸を計画し、鹿児島もその対象となりました。久光は明治天皇に随行して鹿児島に帰ってきた隆盛に、不満をぶつけつつも叱咤します。

 今回は新政府への不満、さらには新政府内の対立も描かれましたが、おそらく本作では最後となるだろう、薩摩藩出身者たちの絆、とくに隆盛と利通の親密な関係が見どころだったでしょうか。この後には隆盛と利通の決別と薩摩藩出身者の分裂、さらには西南戦争まで行きつくわけで、予定調和的ではありますが、無難な構成になっていると思います。隆盛と久光とのやり取りは、ともに島津斉彬を慕い、反目し合ってきた二人の関係に一区切りをつけるという意味でよかったと思います。ただ、これで本作の久光の役割はほぼ終わったかな、と思うと残念ではあります。
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Louise Humphrey、Chris Stringer『サピエンス物語』

2018/11/04 05:47
 ルイーズ・ハンフリー(Louise Humphrey)、クリス・ストリンガー(Chris Stringer)著、山本大樹訳で、大英自然史博物館シリーズ2として、2018年7月にエクスナレッジより刊行されました。原書の刊行は2018年です。170ページほどですが、B5判よりやや小さい程度の大きさで文字数は少なくありませんし、ほぼ全ページカラーで索引もありますから、税抜き1800円はお買い得だと思います。近年までの知見が豊富に取り込まれており、最新の研究成果に基づく解説になっていますから、人類進化史の把握に適した一冊になっています。私にとっても、人類進化史の理解の整理にもなりましたし、新たな知見を得られて、満足できました。参考文献一覧があればもっとよかったのですが。表題には「サピエンス物語」とありますが、現生人類(Homo sapiens)に関する解説は意外と少なく、そもそもホモ属ではない人類系統の解説に半分程度の分量が割かれています。本書は遺伝学や考古学の研究成果も取り入れていますが、基本的には形態学的な解説となっており、各標本のカラー写真には迫力があります。

 初期人類の解説で注目されるのは、400万年以上前の人類としては異例なほど詳しく形態学的研究が進んでいるアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)は、性的二形が現代人とさほど変わらないくらい小さかった、ということです。では、この頃にはもう人類系統の性的二形は現代人と変わらないくらいに小さくなり、以降はそのように固定されたのかというと、そうではありません。ラミダスより後に出現したアウストラロピテク・アファレンシス(Australopithecus afarensis)では、性的二形が大きかった、と指摘されています。アファレンシスは現代人の祖先である可能性が高そうですが、ラミダスの進化系統樹における位置づけは明確ではなく、後のアウストラロピテクス属の祖先との見解もあるものの、絶滅した人類系統もしくは絶滅した非人類系統の類人猿系統である可能性も指摘されています。もちろん、発見された化石の数が少なく、適切な評価は半永久的に困難でしょうが、初期ホモ属においても、アウストラロピテクス属とほぼ同程度の性的二形の大きさが維持されていた、との見解もあることから(関連記事)、少なくとも現代人へとつながる系統は、200万年前頃まではチンパンジーよりも性的二形が大きかった可能性は高いと思います。

 ホモ属の解説でやや気になったのは、さまざまな部位の豊富な人骨が一括して発見されている中期更新世の遺跡として有名な、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の43万年前頃の人骨群についてです。本書は、SH集団を初期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と把握していますが、訳注ではたびたび、SH集団は一般的にはハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)と分類される、と指摘されています。あるいは訳注の通りなのかもしれませんが、本文の解説にあるように、形態学的にも遺伝学的にも、SH集団を初期ネアンデルタール人と分類する方が説得的だと思います(初期ネアンデルタール人ときわめて近縁な集団とも考えられますが)。じっさいSH集団は、頭蓋(関連記事)および頭蓋以外(関連記事)の形態でも、遺伝学的にも(関連記事)、現生人類や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)といったホモ属との比較で、ネアンデルタール人との近縁性が指摘されています。

 そもそもハイデルベルゲンシスについては、形態学的に多様性が大きく一つの種に収まらないほどの変異幅があるとか(関連記事)、ハイデルベルゲンシスの正基準標本とされているマウエル(Mauer)の下顎骨は現生人類とネアンデルタール人の共通祖先と考えるにはあまりにも特殊化しているとか(関連記事)指摘されており、現生人類とネアンデルタール人の共通祖先としての分類群として位置づけるのは難しいと思います。本書は、現生人類とネアンデルタール人の共通祖先としてアンテセソール(Homo antecessor)を想定していますが、アンテセソールがどこで進化したかは不明としています。つまり、アンテセソールがアフリカではなくヨーロッパも含むユーラシアで進化した可能性もある、というわけです。


参考文献:
Humphrey L, and Stringer C.著(2018)、山本大樹訳『サピエンス物語』(エクスナレッジ、原書の刊行は2018年)
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ゲノムから明らかになるサメの視覚と嗅覚

2018/11/03 05:54
 サメの視覚と嗅覚に関する研究(Hara et al., 2018)が公表されました。サメ類を含む軟骨魚類は、その他の有顎脊椎動物から約4億5000万年前に分岐し、独特な生殖形質や感覚形質を有しています。しかし、軟骨魚類のゲノム資源は乏しく、その独特の生活様式を理解する妨げとなっています。本論文は、イヌザメおよびトラザメに関してゲノムとトランスクリプトームの塩基配列解読を行ない、最大の現生魚類であるジンベエザメのゲノムアセンブリーを改善するとともに、サメのゲノムを他の脊椎動物のゲノムと比較することにより、軟骨魚類の進化が硬骨魚類よりも低速だと明らかにしました。

 調べた3種のサメのうち2種(ジンベエザメおよびトラザメ)では、光を感知するオプシンの遺伝子のレパートリーが少なく、短波長と緑青色を感知するオプシンが欠如している、と明らかになりました。本論文は、ジンベエザメとトラザメでオプシン遺伝子の数が少なくなっている理由として、青色光しか届かない深度での生活への適応であることを挙げています。また、これら3種のサメは、いずれも嗅覚受容体ファミリーの遺伝子を3個しか持っておらず、嗅覚に関して通常とは異なる分子機構に依存している、と示唆されました。本論文はまた、サメにおいて、哺乳類で食欲・消化・繁殖力・睡眠に関わるホルモンや受容体の遺伝子と類似の遺伝子も見いだしており、こうした分子機構は現生有顎脊椎動物の最終共通祖先よりも前から存在していた、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


サメの視覚と嗅覚がゲノムから明らかに

 ジンベエザメとトラザメは、青色光に合わせた視覚系を有し、嗅覚関連の遺伝子が少なくなっていることを明らかにした論文が、今週掲載される。研究チームは、サメ類と哺乳類に共通する調節遺伝子と生殖遺伝子も見いだしている。

 サメ類を含む軟骨魚類は、その他の有顎脊椎動物から約4億5000万年前に分岐しており、独特な生殖形質や感覚形質を有する。しかし、軟骨魚類のゲノム資源は乏しく、その独特の生活様式を理解する妨げとなっている。

 工樂樹洋(くらく・しげひろ)たちは今回、イヌザメおよびトラザメに関してゲノムとトランスクリプトームの塩基配列解読を行い、最大の現生魚類であるジンベエザメのゲノムアセンブリーを改善した。そして、サメのゲノムを他の脊椎動物のゲノムと比較することにより、軟骨魚類の進化が硬骨魚類よりも低速であることを明らかにした。調べた3種のサメのうち2種(ジンベエザメおよびトラザメ)では、光を感知するオプシンの遺伝子のレパートリーが少なく、短波長と緑青色を感知するオプシンが欠如していることが分かった。工樂たちは、ジンベエザメとトラザメでオプシン遺伝子の数が少なくなっている理由として、青色光しか届かない深度での生活への適応であることを挙げている。また、これら3種のサメは、いずれも嗅覚受容体ファミリーの遺伝子を3個しか持っておらず、嗅覚に関して通常とは異なる分子機構に依存していることが示唆された。

 工樂たちはまた、サメにおいて、哺乳類で食欲、消化、繁殖力、および睡眠に関わるホルモンや受容体の遺伝子と類似の遺伝子も見いだしており、こうした分子機構が現生有顎脊椎動物の最終共通祖先よりも前から存在していたことが示唆されている。



参考文献:
Hara Y. et al.(2018): Shark genomes provide insights into elasmobranch evolution and the origin of vertebrates. Nature Ecology & Evolution, 2, 1761–1771.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0673-5
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アルタイ地域の中部旧石器時代〜上部旧石器時代

2018/11/02 18:53
 アルタイ地域の中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行期に関する研究(Krivoshapkin et al., 2018)が公表されました。南シベリアのアルタイ地域は、近年になってホモ属の進化史において注目されるようになりました。それは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)という以前から知られていたホモ属系統のみならず、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)という新たなホモ属系統も存在していた、と明らかになったからです(関連記事)。デニソワ人はアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)でのみ確認されています。

 本論文は、アルタイ地域の中部旧石器時代のインダストリーを、デニソワン(Denisovan)、カラボム(Kara-Bom)、シビリャチーハ(Sibiryachikha)の三つに区分しています。このうち、デニソワンとカラボムに関しては、上部旧石器時代への地域的な連続性が指摘されています。本論文は、アルタイ地域の旧石器時代研究を長年にわたって牽引してきた、デレヴャンコ(Anatoly Panteleevich Derevianko)氏の仮説に依拠しており(関連記事)、デニソワ人から解剖学的現代人(現生人類)への進化すら想定されています。

 本論文は、アルタイ地域における中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行期に関して、デニソワ洞窟よりもやや西方にあるストラシュナヤ洞窟(Strashnaya Cave)の発掘成果を報告しています。ストラシュナヤ洞窟は第1層〜第13層まで確認されており、このうち第1層と第2層が完新世、第3層以降が更新世となります。更新世の層は、上部旧石器時代が第3層、中部旧石器時代が第4〜10層となります。第3層の最上部は層位31aで、酸素同位体ステージ(OIS)2(29000〜14000年前頃)に相当します。第3層の最下部は層位31b・33で、OIS3(57000〜29000年前頃)に相当します。第4層と第5層も放射性炭素年代測定法ではOIS3に相当しますが、第4層と第5層より新しいはずの第3層最下部との年代の逆転も見られ、齧歯類による攪乱があったのではないか、と推測されています。現在、こうした年代の不一致を解消するため、光刺激ルミネッセンス法(OSL)による年代測定の準備が進められているそうです。

 第4層〜10層では3862個の中部旧石器時代の石器群が発見されており、大きな打撃打面を伴う薄い剥片が優占しており、尖頭器と剥片の製作にはルヴァロワ技術が用いられました。これら中部旧石器時代石器群のいくつかには、石刃製作の特徴も指摘されています。尖頭器には再加工の痕跡も確認されています。

 上部旧石器時代の石器群には石刃および細石刃の角柱状石核が見られ、いくつかの放射状およびルヴァロワ石核も含まれています。道具一式は掻器や再加工された石刃や削器などが確認されています。層位31 a・31b・33では、アカシカの枝角など骨から作られた、装飾品(ペンダントやボタンのようなもの)や針や突きぎりや狩猟用武器の断片といった骨器が発見されています。また、化石軟体動物の殻の装飾品も数点発見されています。層位31aでは解剖学的現代人の歯が8個発見されており、7〜9歳の1個体のものと推測されています。この解剖学的現代人の歯は、マルタ(Malta)やリストヴェンカ(Listvenka)やアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)といったシベリアの上部旧石器時代の各遺跡の人類遺骸との類似性を示す一方で、現代のアメリカ大陸先住民との形態学的特徴も共有しています。

 本論文は、ストラシュナヤ洞窟の第3層(層位31 a・31b・33)には異なる3段階の文化が存在した、と指摘します。層位33はルヴァロワ剥片技術により示される第一段階のデニソワンで、いくつかの石刃石核や上部旧石器時代的な道具や装飾品や骨器を伴っています。中部旧石器時代のインダストリーにも関わらず、上部旧石器時代的要素が見られるというわけですが、攪乱が見られる、との指摘が気になるところです。第二段階は層位31bで、年代は47000年前(本論文では明示されていませんがおそらくは非較正)となり、カラボム遺跡で見られる早期上部旧石器時代的文化です。第三段階は層位31aで年代は22000年前となり、細石刃技術・個人的装飾品・骨器を伴う発展した上部旧石器を表します。完全に上部旧石器時代のインダストリーと言えるでしょう。これまで、アカシカの切歯のペンダントのような骨の装飾品と針は、中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行期のアルタイ地域において、デニソワ洞窟においてのみ確認されていましたが、ストラシュナヤ洞窟の遺物群が新たに加わったことになります。本論文は、ストラシュナヤ洞窟の遺物群は、アルタイ地域における「現代的行動」への新たな証拠になる、とその意義を指摘しています。

 カラボム遺跡では上部旧石器時代以降に顕著となる「現代的行動」が確認されており(関連記事)、ストラシュナヤ洞窟でも類似文化が見られます。このように南シベリアにおいて上部旧石器的文化が定着していくなかで、そのなかに中部旧石器のムステリアン様相の強い石器群が存在することも指摘されています。それはシビリャチーハ(シビリチーハ)インダストリーです。比較的狭い領域内に中部旧石器的要素の強い石器群と上部旧石器初頭の石器群が「共存」していた状況の解釈として、場の機能の違いによるとする見解と、異なる人類集団の共存を想定する見解があります。デレヴャンコ説では後者が採用されており、上部旧石器の担い手は現生人類で、シビリャチーハ・インダストリーの担い手はネアンデルタール人と想定されています(関連記事)。


参考文献:
Krivoshapkin A. et al.(2018): Between Denisovans and Neanderthals: Strashnaya Cave in the Altai Mountains. Antiquity, 96, 365, e1.
https://doi.org/10.15184/aqy.2018.221
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厳しい環境で育ったネアンデルタール人の子供(追記有)

2018/11/01 18:14
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の歯を分析した研究(Smith et al., 2018)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。本論文は、ランス南東部のローヌ渓谷のペイール(Payre)遺跡で発見された、251000年前頃のペイール336(Payre 336)と247000年前頃のペイール6(Payre 6)というネアンデルタール人2個体の歯と、ペイール1(Payre 1)という5400年前頃の現生人類の歯を分析しました。歯に関しては、エナメル質の成長線が発達状況を、バリウムが乳の消費を、酸素同位体が気候を示し、その他に鉛など化学物質への暴露も確認できます。

 気候に関しては、現生人類のペイール1の時期(中期完新世)と比較して、25万年前頃となるネアンデルタール人2個体の時期は全体的に寒冷であるとともに、気温変化も激しかった、と推測されています。25万年前頃は、比較的温暖な海洋酸素同位体ステージ(MIS)7の始まった頃かその直前で、まだ寒冷だったと推測されます。完新世の気候は更新世と比較して安定的だったと推測されており、完新世になって農耕が定着した要因かもしれません(関連記事)。

 歯のバリウムの分析からは授乳期間が推定できますが、ペイール6の授乳期間は2年半ほどだった、と推測されています。これは、現代の狩猟採集社会の授乳期間とほぼ同じです。ペイール6は春に生まれたと推測されているので、2歳半となった秋に離乳したことになります。ベルギーの10万年前頃のネアンデルタール人の授乳期間は1年2ヶ月ほど(完全な授乳期間7ヶ月と母乳と離乳食で育てられた7ヶ月)と推測されていました(関連記事)。本論文は、解析事例の少なさから慎重な姿勢を示しつつも、ペイール6の2年半という授乳期間の方が、ネアンデルタール人社会では標準的だった可能性が高い、と推測しています。

 ネアンデルタール人2個体(ペイール336および6)には、エナメル質の成長線の中断が冬に見られ、順調な成長が妨げられていた、と示唆されます。冬には病気になりやすかったことから、病気による成長遅延が示唆されていますが、冬には食料入手が他の季節より困難だった、という事情もあったのかもしれません。一方、現生人類の子供であるペイール1のエナメル質の成長線の中断は、ネアンデルタール人2個体よりも低頻度でした。25万年前頃のネアンデルタール人の子供は、5400年前頃の同じ地域の現生人類の子供よりも厳しい環境で育ったようです。これは、上述した、より寒冷な気候とより激しい気温変動が要因だと思われます。もちろん、技術・社会組織の水準の違いもあるでしょうが。

 ネアンデルタール人2個体に関しては、たびたび鉛に暴露していたことも明らかになりました。これは、人類の鉛への暴露の直接的証拠としては最古の事例となります。ペイール遺跡から25kmほどの場所に鉛鉱山が2ヶ所あるので、ネアンデルタール人は食料または水から鉛を摂取したか、火災などにより鉛を含む煙を吸入したのではないか、と推測されています。鉛は母乳からも摂取されますが、バリウムと鉛の摂取パターンの比較から、母乳は鉛の主要な摂取源ではない、と推測されています。ネアンデルタール人の遺跡では人為的な重金属汚染が指摘されており、ペイール遺跡のネアンデルタール人2個体の鉛への暴露も、火事だけではなく、火を頻繁に利用したことも一因だったかもしれません(関連記事)。なお、ネアンデルタール人の煙の有毒物質にたいする耐性は現生人類よりも優れているとされており、現生人類の煙への耐性の低さは、人類進化史において派生的形質だったと推測されています(関連記事)。


参考文献:
Smith TM. et al.(2018): Wintertime stress, nursing, and lead exposure in Neanderthal children. Science Advances, 4, 10, eaau9483.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aau9483


追記(2018年11月2日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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