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デニソワ洞窟の新たな人骨

2018/09/25 16:54
 ロシアの南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で新たに確認された人類の骨に関する研究(Brown et al., 2018)が報道されました。この研究は今月(2018年9月)13日〜15日にかけてポルトガルのファロで開催された人間進化研究ヨーロッパ協会の第8回総会で報告されており、まだ論文としては刊行されていません。この研究の要約は、PDFファイルで読めます(P31)。

 更新世の人類化石は稀ですが、その一因として、動物の骨は少なからず発見されているものの、あまりにも断片的なので、どの種なのか形態学的には同定できない、という事情があります。そこで、断片的な骨でも種を同定できるような手法が開発され、すでに成果を挙げつつあります。たとえば、デニソワ洞窟で発見された2000個以上の小さく断片的な骨の中から、重量1.68g・長さ24.7mm・幅8.89mの骨(DC1227)がデニソワ人のものと同定でき、デニソワ11(Denisova 11)と命名されました(関連記事)。具体的には、DNAやペプチドの特異的配列パターンから物質を同定するコラーゲンフィンガープリント法により、小さく断片的な骨の種が同定されています。骨に含まれるコラーゲンのペプチド配列が動物種間でわずかに異なることを利用し、既知の基準配列と比較して種を同定する、というわけです。

 この方法を用いて、デニソワ洞窟で発見された数百個もの断片的な骨から新たに4個、人類のものが確認されました。これは「FINDER」計画の一環で、ユーラシアの20ヶ所の遺跡の4万個の断片的な動物の骨から人類のものを同定する、という目的で進められています。今後、デニソワ洞窟で新たに確認された4個の人骨のDNAが解析される予定です。デニソワ洞窟ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の存在が確認されています(関連記事)。これら新たに確認された4個の人骨のDNA解析に成功したら、どの人類系統に分類されるのか、たいへん注目されます。

 デニソワ人はこれまで4個体しか確認されておらず(関連記事)、いずれもデニソワ洞窟で発見されています。「FINDER」計画で期待されるのは、やはり、デニソワ人が他の地域でも確認されることです。デニソワ洞窟で発見された人骨デニソワ11は最近、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代と確認されました(関連記事)。交雑第一世代の発見には本当に驚かされましたが、新たに確認されたデニソワ洞窟の人骨4個に関しても、DNA解析に成功したらたいへん興味深い知見が得られるのではないか、と大いに期待されます。


参考文献:
Brown S. et al.(2018): The FINDERproject: Identifying hominin bones in the Altai Mountains using collagen finger printing. The 8th Annual ESHE Meeting.
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ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代に関する補足

2018/09/24 17:21
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の交雑第一世代個体に関する研究(Slon et al., 2018)は、この分野としては大きな話題となり、当ブログでも取り上げました(関連記事)。この記事では、補足として、以前のブログ記事で取り上げていなかったことを中心に、この研究をやや詳しく見ていくことにします。

 デニソワ人はロシアの南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)でしか確認されておらず(関連記事)、デニソワ洞窟ではネアンデルタール人の遺骸も発見されています。デニソワ人の形態についてはほとんど知られていませんが、その臼歯にはネアンデルタール人に典型的な派生的特徴が見られません。デニソワ人に分類されている遺骸では、唯一高品質なゲノム配列が得られているデニソワ3(Denisova 3)のみで、ネアンデルタール人との交雑の痕跡が確認されています(関連記事)。また、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類(Homo sapiens)の共通祖先系統と400万〜100万年前頃に分岐したと推定される、遺伝学的に未知の人類系統とデニソワ人との交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。

 デニソワ洞窟では小さく断片的な骨が2000個以上発見されており、その多くは形態からの種の同定が難しいため、研究の進展の妨げになっています。しかし、DNAやペプチドの特異的配列パターンから物質を同定するコラーゲンフィンガープリント法を用いて、これら小さく断片的な骨の種を同定することができ、2000個以上の小さく断片的な骨の中から、重量1.68g・長さ24.7mm・幅8.89mの骨(DC1227)がデニソワ人のものと同定でき、デニソワ11(Denisova 11)と命名されたその骨は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果、ネアンデルタール人と分類されました(関連記事)。デニソワ11は「デニー(Denny)」と呼ばれています。本論文はデニソワ11のゲノム解析に成功し、平均網羅率が2.6倍(高品質のゲノム配列とは言えません)で、X染色体と常染色体の網羅率が類似しているため、デニソワ11は女性と推定されています。また、デニソワ11は13歳以上で、年代は9万年前頃と推定されています。高網羅率の信頼性の高いゲノム配列は、デニソワ洞窟のデニソワ人(デニソワ3)およびネアンデルタール人(デニソワ5)と、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見されたネアンデルタール人(Vindija 33.19)から得られています。

 本論文は、デニソワ11がゲノム配列ではどの系統に分類されるのか決定するために、アフリカ系現代人・デニソワ5(ネアンデルタール人)・デニソワ3(デニソワ人)と比較しました。その結果、デニソワ11のゲノムのうち、ネアンデルタール人は38.6%、デニソワ人は42.3%、アフリカ系現代人は1.2%一致しました。デニソワ11のゲノムのごくわずかなアフリカ系現代人要素は、ユーラシア東西のネアンデルタール人で確認されている現生人類との交雑を反映していると考えられます(関連記事)。デニソワ11のゲノムにおけるデニソワ人とネアンデルタール人の要素はほぼ同等で、ともに40%前後と50%近くになっています。これは、デニソワ11がネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代であることを示唆しています。

 ただ、デニソワ11の両親自体が、デニソワ人とネアンデルタール人の交雑集団に属していた可能性もあります。本論文はこの問題の検証のため、デニソワ11のアレル(対立遺伝子)において、ネアンデルタール人由来のものとデニソワ人由来のものとがどのような比率で存在するのか、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代、および交雑第一世代同士の子である交雑第二世代で予想されるパターンと比較しました。その結果、デニソワ11は交雑第二世代より交雑第一世代のパターンの方にずっと近い、と明らかになりました。デニソワ11はmtDNAではネアンデルタール人に分類されますから、父親がデニソワ人で母親がネアンデルタール人となります。デニソワ11のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域とデニソワ人の由来の領域が50%ずつにならないのは、比較対象となったネアンデルタール人個体(デニソワ5)とデニソワ人個体(デニソワ3)が直接の両親ではなく、それぞれ近縁ではあるものの、やや異なった系統の個体二人が両親となったからです。

 上述したように、デニソワ人のデニソワ3には、ネアンデルタール人の遺伝的影響が見られます。デニソワ11のゲノム解析でも、デニソワ人の父親は300〜600世代前にネアンデルタール人の遺伝的影響を受けた、と推定されました。異型接合性の比較から、デニソワ11の父親(デニソワ人)の系統に遺伝的影響を及ぼしたネアンデルタール人は、デニソワ11の母親であるネアンデルタール人とは異なる系統に由来した、と推測されています。

 本論文は次に、デニソワ11の母親であるネアンデルタール人が、東方系(デニソワ5)と西方系(Vindija 33.19)のどちらに近縁なのか、検証するために東方系と西方系の派生的アレルと合致する、デニソワ11のアレルの割合が評価されました。その結果、デニソワ11が共有する派生的アレルの割合は、東方系とは12.4%、西方系とは19.6%です。デニソワ11の母親は、娘が東方系と同じ地域に居住していたにも関わらず、遠く離れた西方系の方と遺伝的に近縁だったわけです。デニソワ11の母親のネアンデルタール人系統は、東方系とはデニソワ5の存在した2万年前頃、西方系とは西方系個体(Vindija 33.19)の存在した4万年前頃に分岐した、と推定されています。デニソワ11の父親のデニソワ人系統とデニソワ3のデニソワ人系統との推定分岐年代は、デニソワ3の存在した7000年前頃です。ただ、これらの推定年代については、追加の交雑の影響を受けた可能性も考えられる、と指摘されています。そのため、今後これらの推定分岐年代が修正される可能性もありますが、現時点では、東方系ネアンデルタール人が9万年前頃以降にヨーロッパ西部へと拡散したか、西方系ネアンデルタール人が9万年前頃までにシベリア到達して、地域的なネアンデルタール人集団を部分的に置換した、と示唆されます。この問題の検証には、ヨーロッパ西部の早期ネアンデルタール人のゲノム解析が必要となります。

 デニソワ11は、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との少なくとも2回の交雑の直接的証拠を提示します。デニソワ11の父親の300〜600世代前の交雑と、デニソワ11の両親の交雑です。デニソワ11の存在は、異なる系統の人類間の交雑が高頻度で起きていたことを示唆します。しかし、デニソワ人の分布範囲にはまだ不明な点が多いものの、大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部に居住しており、この地理的分布の違いが、両系統の高頻度の交雑にも関わらず、遺伝的に両系統が異なったまま存続した理由かもしれません。また、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑個体の適応度が、両系統の個体よりも低かった可能性があり、それも両系統が異なったまま存続した一因かもしれません。


参考文献:
Slon V. et al.(2018): The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father. Nature, 561, 7721, 113–116.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0455-x
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ショーヴェ洞窟壁画を描いたのはまず間違いなくネアンデルタール人ではない

2018/09/24 07:06
 フランス南部のショーヴェ洞窟(Chauvet-Pont d'Arc Cave)の壁画を描いたのはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)らしい、との発言がそれなりに話題になっています。32000年前頃の壁画なので、年代的にネアンデルタール人が描いたらしい、というわけです。近年の研究では、ショーヴェ洞窟の壁画の年代は、放射性炭素年代測定法による較正年代で、37000〜33500年前頃と31000〜28000年前頃の2期に区分されています(関連記事)。32000年前頃どころか、37000年前頃までさかのぼる、というわけです。

 では、ショーヴェ洞窟の壁画を描いたのがネアンデルタール人である可能性はもっと高くなるのかというと、そうではありません。この十数年間、ヨーロッパの旧石器時代の年代の見直しが続いており(関連記事)、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の痕跡はおおむね4万年前頃までには途絶える、との見解が有力です(関連記事)。そのなかで例外的な地域だった可能性が高いのはイベリア半島南部で、37000年前頃までネアンデルタール人が存在していた、と推測されています(関連記事)。

 上限年代が37000年前頃のショーヴェ洞窟の壁画を、ネアンデルタール人が描いた可能性はきわめて低いと考えるべきでしょう。ヨーロッパにおいては、これよりも古い洞窟壁画として、イベリア半島北部のエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟(関連記事)がありますが、こちらは現生人類(Homo sapiens)の所産と考えられています(関連記事)。ショーヴェ洞窟の壁画を描いたのも、現生人類である可能性がきわめて高い、と言えるでしょう。もっとも、描いたのがネアンデルタール人であれ現生人類であれ、ショーヴェ洞窟の壁画が素晴らしいことに変わりはありません。
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角のない雄ジカはオオカミに狙われやすい

2018/09/24 07:04
 雄のアメリカアカシカの角の機能に関する研究(Metz et al., 2018)が公表されました。雄のアメリカアカシカは、交尾期間が過ぎた後2〜3ヶ月で角を落とします。新しい角はすぐに成長し始め、次の交尾期に競合相手の雄に対する武器として使えるようになります。大きな角は競合相手に対する優位性につながり、交尾の機会を増やせるので、早く角を落とせば次の交尾期までにより大きな角を生やすことができるにも関わらず、雄ジカが角を落とすタイミングはさまざまです。

 この研究は、アメリカ合衆国イエローストーン国立公園で雄のアカシカを13年にわたって観察し、角を早く落とすことに未知のコストがあるのか、調べました。その結果、雄ジカの群れは、角のない個体が1頭でもいるとオオカミの襲撃を10倍受けやすくなる、と明らかになりました。オオカミが狙いやすいのは圧倒的に角のない個体の方であるため、アカシカ個体群内の角のない個体は健康状態が良いにもかかわらず、落命するリスクが高くなっていました。

 この知見から、角は、配偶者を巡る競争で武器として使われる他に、捕食者に対する抑止という第二の機能を果たしている、と示唆されます。しかし、角を生え替わらせる必要性により、この二つの機能の間にトレードオフが生じ、これがアカシカの進化に影響を与えた、と考えられます。こうしたトレードオフの問題は、進化史において一般的と言え、雄のアメリカアカシカの角もその一例というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


落角期はシカにとって死活問題

 角のない雄ジカがオオカミに狙われやすいことを明らかにした論文が、今週掲載される。このことはシカにとって問題となる。早く角を落としたシカは、再び角が生えると次の交尾の可能性が高まる一方で、捕食者に対する防御力を失っているのである。

 雄のアメリカアカシカ(北米のシカの1種)は、交尾期間が過ぎた後2〜3カ月で角を落とす。新しい角はすぐに成長し始め、次の交尾期にライバルの雄に対する武器として使えるようになる。早く角を落とせば次の交尾期までにより大きな角を生やすことができるにもかかわらず、雄ジカが角を落とすタイミングはさまざまである。大きな角はライバルに対する優位性につながり、交尾の機会を増やせるのに、である。

 Matthew Metzたちは、米国イエローストーン国立公園で雄のアカシカを13年にわたって観察し、角を早く落とすことに未知のコストがあるのかを調べた。その結果、雄ジカの群れは、角のない個体が1頭でもいるとオオカミの襲撃を10倍受けやすくなることが明らかになった。オオカミが狙うのは断然、角のない個体であるため、アカシカ個体群内の角のない個体は健康状態が良いにもかかわらず、落命するリスクが高くなっていた。

 この知見から、角は、配偶者を巡る競争で武器として使われる他に、捕食者に対する抑止という第2の機能を果たしていることが示唆された。しかし、角を生え替わらせる必要性によってこの2つの機能の間にトレードオフが生じ、これがアカシカの進化に影響を与えたと考えられる。



参考文献:
Metz MC. et al.(2018): Predation shapes the evolutionary traits of cervid weapons. Nature Ecology & Evolution, 2, 1619–1625.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0657-5
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中世初期の日本仏教

2018/09/23 18:56
 中世初期の日本仏教について、複数の記事で言及してきたので、一度まとめることにします。参考文献は、『週刊新発見!日本の歴史』第17号「平安時代5 院政期を彩った人々」(関連記事)および第21号「鎌倉時代4 鎌倉仏教の主役は誰か」(関連記事)と『岩波講座 日本歴史  第6巻 中世1』上島享「鎌倉時代の仏教」(関連記事)です。

 中世初期の日本仏教に関しては、近代になって提唱された、いわゆる鎌倉新仏教を中心に把握する通俗的見解の影響力が今でも強いかもしれません。鎌倉新仏教をヨーロッパの宗教改革に擬する見解も一定以上浸透しているように思われます。しかし、こうした鎌倉新仏教中心史観は、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論により、大きく見直されることになりました。鎌倉時代、さらには中世前半においてなお、日本社会で大きな影響力を有していたのは、鎌倉新仏教ではなく、平安時代以来国家権力と密接に結びついた顕教と密教で、比叡山延暦寺はその代表と言えるでしょう。

 しかし近年では、この顕密体制論も、二項対立的な把握という点では鎌倉新仏教中心史観と変わらない、と指摘されています。鎌倉新仏教中心史観では、延暦寺のような旧体制の枠内にある仏教勢力にたいして、新たな社会情勢(中世)に対応した新興の諸宗派が主役になっていった、と想定されていました。一方、顕密体制論では、「正統」たる顕密仏教と「改革運動」としての「異端」たる鎌倉新仏教という枠組みが提示されています。どちらが鎌倉時代、さらには中世前半の「主役」だったかは異なるものの、平安時代以来の伝統仏教と鎌倉時代(もしくは平安時代末)以降の新興仏教という枠組みでの把握は本質的には変わらないわけです。

 顕密体制論の二項対立的な把握の問題点として、遁世僧の評価が指摘されています。顕密体制論では、遁世僧は「改革運動」としての「異端」と把握されますが、その後、むしろ「正統」に近い存在だと把握されるようになりました。しかし、こうした遁世僧の評価も、二項対立的な把握に基づいている点で問題だと指摘されるようになっており、新たな視点が提示されています。その新たな視点について述べる前に、まずは中世最初期となる院政期の仏教の様相について述べます。

 院政期には仏事の遂行が増加しました。寺院の建立・造営過程での人的編成・鎮護国家の祈祷などは、それ自体が新たな権力を生み出し、その正統性を社会に認知させる政治であり、それは貴族社会のみならず「万民」を視野に入れるものでした。寺院の造営の財源として、成功という院と受領との私的主従関係で完結するものだけではなく、各国の荘園・公領にたいして一律に課税された一国平均役も充てられました。一国平均役は「新御願壇築役」などの名目で徴収されるため、負担する民衆には都での寺院造営事業が強く印象づけられました。受領をはじめとして、京と地方を往復する人々は、こうした寺院など京の景観・文化を地方に伝えるとともに、地方から京へとさまざまなものをもたらす役割も果たしました。

 このように、院政期に寺院建立や仏事の増加など中央権力とより緊密に結びついたことにより既成の寺院勢力が腐敗・堕落し、荘園領主として民衆を搾取したので、それに代わっていわゆる鎌倉新仏教が出現した、というのが通俗的な鎌倉新仏教中心史観です。しかし、王権護持・国家鎮護と民衆の救済とはけっして対立・矛盾するものではなく、両者が一体として機能していたことから、国家仏教と民衆仏教との対立という図式の根本的見直しが提示されています。

 そうした図式に代わる新たな視点を設定するさいに重要となるのは、10世紀末頃より、日本の仏教界において妻帯など戒律の弛緩が見られることです。また、皇族・貴族の子弟の入寺により、本来は無縁だったはずの世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれるようになりました。こうして「顕密体制」側とも言える権門寺院では、戒律が軽視されていきますが、一方で教学が強調されるようになります。このように、仏教の特定の要素を軽視する一方で、特定の要素をきょくたんに重視するようになっていったことが、新たな視点では重視されます。

 それは具体的には、仏教の基本となる三要素をどの程度重視するのか、という観点からの中世前半の仏教の見直しです。そもそも仏教においては、戒律・修行・教学の三学一致が基本でした。戒律を守る持戒、座禅などによって精神を統一させる禅定(修行)、解脱(悟り)につながる智慧(教学)というわけです。本来仏教では、この三学はどれも欠けてはなりません。しかし、持戒→禅定→智慧という段階性があるので、持戒・禅定が軽視され、智慧のみが重んじられる傾向が平安時代後期の顕密仏教界にはありました。上述したように、世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれたことも、こうした傾向を促進したのでしょう。一方で、持戒・禅定のような実践的修行は、一部の下級僧侶が重視するにすぎなくなりました。

 しかし、そうした動向を本来あるべき姿の三学一致に戻そうという動きも生じ、遁世僧もその一例です。この仏教の基本三要素をそれぞれ重視するのか軽視するのか、という観点からは、旧勢力と新勢力という二項対立的な把握ではなく、各要素の重視・軽視の振幅が大きかった、ということが中世前半の仏教の特徴とされています。中世前半の仏教界では、破戒や学の重視など極端な方向へ大きく振れるようになり、各僧侶が自らを見つめ直し、仏教とは何かを深く問いかける契機となって、仏教が最も生き生きとした時代だった、とも評価されています。

 こうした環境下で成長した法然や親鸞の、諸行の価値を否定する専修念仏や、妻帯を公言して「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば救われる、という教えもまた、極端な方向性の一部として把握されます。鎌倉新仏教の代表的人物とされる法然も親鸞も、平安時代後期以降の仏教思潮から生まれた、というわけです。一方、「旧仏教」たる興福寺の立場から、三学一致より大きく外れているとして法然を批判した貞慶もまた、中世前半の仏教思潮の一方の極に位置していた、ということになります。ただ、法然は延暦寺や一部の学僧から敵視されたものの、朝廷や他宗から広く尊敬を集めており、問題視されたのは法然の弟子や支持者たちの「暴走」だった、とも指摘されています。こうした中世前半の仏教思潮は、大きく二つの方向性に区分されます。一つは、末法の世だからこそ、三学全体を盛んにしていこう、という考えです。もう一つは、末法の世で三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という考えです。前者を牽引したのは栄西や俊芿などといった入宋僧で、後者を牽引したのが念仏系の法然・親鸞・一遍らと法華系の日蓮でした。

 三学全体を盛んにしていこうとする傾向は、南宋の仏教界と深く関わっていました。当時、南宋の仏教界では、各僧侶がいずれに重点を置くかによって区分されていたとはいえ、三学全体が重んじられていました。また、坐禅や朝昼の集団での食事など、日常的な集団生活の場として僧堂が設けられていました。栄西や俊芿といった入宋僧は、こうした集団生活を日本の禅院で再現し、毎日の規則正しい修行生活を実現しようとしました。栄西や俊芿の後も宋に渡る僧侶が続き、禅院を拠点に戒律を守り、共通の作法に則って、仏教本来の平等性原理で集団生活を送る禅僧の集団(禅家)が日本全体で形成されていきました。こうした動きは南都にも影響を及ぼしました。俊芿の建立した泉涌寺で再現された南宋仏教の動向を、南都の僧侶たちが取り入れていきました。この結果として、律法興行という改革が始まり、律院を拠点とする律僧集団(律家)が日本全体で形成されていきました。戒律を守ることで人々から信頼を集めた律僧たちは、寺社造営や架橋などの勧進活動でも力を発揮しました。

 一方、三学の修業は困難なので異なる救済を創造しようとする動きもあり、法然がその先駆者的存在でした。この動向は、法然や親鸞や一遍のように念仏系が目立つのですが、日蓮のように法華系の立場の僧もいました。念仏系・法華系を問わず、三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革の特徴は、信心をよりどころとした新たな救済思想だった、ということです。出家者が三学の修業により悟りを目指す本来の仏教から逸脱し、キリスト教やイスラム教とも通ずる、信心が救済に直結する宗教が成立したわけです。この場合、出家者と在家者との境界は曖昧となり、浄土宗の念仏者は禅僧・律僧のように真の僧侶とはみなされませんでした。しかし、在家者中心の救済体系は、出家・在家を問わず、全衆生の成仏を目指す大乗仏教の志向に沿ったものと言えます。三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革は室町時代後期になって勢いを増し、一向宗・法華宗と呼ばれる新たな社会集団が形成されました。

 こうした二つの方向での宗教改革の一方で、旧仏教とされる顕密仏教が多くの人々の支援を受けていたことも確かでした。修学を重んじた顕密仏教では僧侶が尊重され、法会・修法の勤修を託されました。しかし上述したように、顕密仏教の内部で世俗の身分秩序が受容され、破戒が常態化していたことも否定できません。こうした仏教界の在り様への反発として、中世前半におけるさまざまな改革運動が生じたわけです。このように、仏教の根本たる仏宝(釈迦などの如来)・法宝(如来の説いた教え)・僧宝(僧侶の集団)のうち、法宝を担った顕密仏教、僧宝としての禅僧・律僧集団、在家者を取り込んだ念仏系・法華系がそろった鎌倉時代は、日本宗教史における黄金期だった、との評価も提示されています。

 中世前半の仏教において注目されるのは、古代よりも影響力がずっと強くなった武士階層の新興です。中世前半において、武士の信仰心は生業への罪悪感と父祖への意識の克服とともに強まった、と指摘されています。武士が禅宗や律宗を保護したのは政治的見地からのみではなく、精神的安定を求めるという目的も大きかった、というわけです。おそらくそれは平安時代後期の公家も同様で、極楽往生が人生において重要な位置を占めていました。どうすれば極楽往生が可能なのか、平安時代後期以降に模索されるなかで、法然や親鸞も登場した、と把握すべきなのでしょう。
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大河ドラマ『西郷どん』第36回「慶喜の首」

2018/09/23 18:54
 鳥羽伏見の戦いで政府軍は旧幕府軍相手に苦戦しましたが、岩倉具視の策により錦の御旗を掲げたことが功を奏して旧幕府軍を破ります。西郷信吾(従道)は重傷を負いますが、西郷吉之助(隆盛)は弟を見舞うことなく軍を指揮し続けます。朝敵になりたくない徳川(一橋)慶喜は、松平容保・松平定敬・板倉勝静とともに大坂城から逃亡します。江戸城に無事逃げ帰った慶喜を勝安房守(麟太郎、海舟)は徳川の恥と罵倒します。

 慶喜を追って東進し、駿府にまで進んだ新政府軍に、静寛院宮(和宮)たちから慶喜助命の嘆願が届きますが、吉之助はあくまでも進軍を主張し、江戸城総攻撃は1868年3月15日と決定します。勝は、謹慎している慶喜に、フランスの援助を受けて戦えば勝てると進言しますが、それでは日本は終わりだ、戦うつもりはない、と慶喜は答えます。勝は慶喜の返答に満足し、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)を駿府に派遣します。吉之助は、慶喜を信じられないとして、頑なに和睦を拒みます。しかし、山岡の決死の説得によって、吉之助は江戸に入り勝と会談することにします。江戸に入った吉之助を幾島が訪ねてきて、幾島の案内で吉之助は天璋院(於一、篤姫)と再会します。

 今回は鳥羽伏見の戦いから吉之助と勝の会談の直前までが描かれました。吉之助は慶喜を討つと固く誓っており、次回、どのような経緯で慶喜の降伏を受け入れるにいたるのか、気になります。吉之助と勝とはすでに面識がありますし、相互に敬意を抱いているような描写もありましたが、吉之助が勝への敬意だけで慶喜の降伏を受け入れる、という展開には無理がありそうです。やはり、吉之助と再会した天璋院が、吉之助を翻意させるうえで重要な役割を担うのでしょうか。吉之助と勝との関係はさほど描かれていませんでしたが、吉之助と天璋院との関係は前半で深く描かれていたので、次回それがどう活かされるのか、注目しています。
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大相撲秋場所千秋楽

2018/09/23 17:32
 今場所は、御嶽海関の大関昇進もありましたが、やはり注目されたのは、引退の危機を迎えた稀勢の里関でした。その稀勢の里関は、危ない相撲を続けながらも何とか勝ち越し、10勝5敗までもっていきました。勝ち越して二桁まで勝ち星を伸ばしたことで何とか引退は回避できたものの、相撲勘が戻ったとしても、今場所の内容からは以前の力を取り戻せるとはとても思えず、このまま優勝できずに引退することになりそうです。それでも、今場所のように何とか10勝できていれば、「唯一の日本人横綱」ということで、相撲協会がなかなか引退させないかもしれませんが。

 優勝したのは白鵬関で、途中までは全勝で並走していた鶴竜関が後半になって失速したため、14日目に優勝を決め、千秋楽の鶴竜関との結びの一番にも勝ち、全勝で5場所振りとなる41回目の優勝を果たしました。やはり、全盛期よりかなり衰えたとはいえ、まだ現役最強であることは間違いなく、若手が伸び悩んでいるというか、横綱・大関陣の壁をなかなか崩せないなか、少なくとも今後1〜2年は、休場を挟みつつ横綱の地位を保ってもらいたいものです。鶴竜関は後半になって失速しましたが、この状況では、白鵬関とともにもう1〜2年は横綱の地位を保ってもらいたいものです。

 角番の栃ノ心関は、やはり負傷から回復していなかったようで、負け越すのではないか、と心配しましたが、何とか勝ち越して9勝6敗としました。早く状態を立て直して、来場所以降は優勝争いに加わるよう、期待しています。先輩大関の豪栄道関は12勝3敗、高安関は11勝4敗で、ともにしばらくは大関の地位を維持できそうですし、栃ノ心関の負傷がなかなか癒えず、白鵬関と鶴竜関が不調ならば、優勝も可能でしょうが、豪栄道関は年齢から、高安関は不安定さから横綱昇進は難しそうです。

 大関昇進のかかった御嶽海関は途中から崩れ、何とか勝ち越したものの9勝6敗に終わりました。まだ横綱・大関陣との差は大きいと思っていましたが、それにしても、8日目から見せた脆さは残念でした。大関昇進が完全に白紙に戻ったとまでは言いませんが、来場所の大関昇進は、少なくとも12勝以上で終盤まで優勝争いに絡むことが必要となるでしょう。逸ノ城関は、白鵬関との取り組みで「気合を入れられた」からなのか、後半にやる気を見せて8勝7敗と何とか勝ち越しました。相変わらず、内容に差が大きいのですが、何とか15日間気力を維持し、大関、さらには横綱を目指してもらいたいものです。現在、横綱・大関陣は高安関を除いて全員30代で、照ノ富士関が以前のような強さを取り戻すことには期待できそうにありませんから、逸ノ城関には大いに期待しています。
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中公新書編集部編『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』

2018/09/23 08:27
 中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年8月に刊行されました。本書は古代・中世・近世・近代・現代の5部構成で、それぞれ複数の論点が取り上げられています。古代と近世には簡略な概説もあります。古代は倉本一宏氏、中世は今谷明、近世は大石学氏、近代は清水唯一朗氏、現代は宮城大蔵氏の担当です。以下、各論点を備忘録的に述べていきます。



◎古代

●論点1「邪馬台国はどこにあったのか」
 この20年ほどは、邪馬台国は畿内にあった、もっと具体的には纏向遺跡だった、との見解が一般でもすっかり有力になった感があります。しかし本論考は、邪馬台国が当時の日本列島における最有力の権力だったという前提を疑うべきだ、と指摘します。この指摘は、以前からの私の見解とも通ずるので、同意します。本論考は、文献に見える邪馬台国は環濠集落で纏向遺跡とは異なるとして、邪馬台国は九州北部の倭国連合で、畿内には別の勢力(倭王権)が存在した、との見解を提示しています。この倭国連合において、邪馬台国は聖権力、伊都国が俗権力を代表していた、と本論考は推測しています。邪馬台国の具体的な所在地については、現在の福岡県久留米市・八女市・みやま市の一帯と推測されています。

●論点2「大王はどこまでたどれるか」
 倭王権成立の指標として、箸墓古墳と相似形で規模のより小さな古墳が日本列島各地で築造されたことが挙げられています。倭王権盟主墳と考えられる前方後円墳は、大和盆地南東部→大和盆地北部→河内の古市古墳群および和泉の百舌鳥古墳群と移りますが、本論考は、盟主墳の場所と権力の中心は別のもので、盟主墳は外国使節を意識して場所が選定された、と推測しています。これら初期倭王権盟主墳の被葬者については、安易に記紀の「天皇」に比定してはならない、と本論考は注意を喚起しています。「皇統譜」の成立はおそらく7世紀になってからで、大王位の血縁的世襲も6世紀になってからだろう、と本論考は指摘しています。

●論点3「大化改新はあったのか、なかったのか」
 本論考は、改新詔が大宝令の修飾を受けていることは明らかであるものの、原詔があったのは確かだろう、との見解を提示しています。ただ本論考は、改新詔が原詔をどこまで伝えているか、判断は難しい、とも指摘しています。それでも本論考は、乙巳の変に続いて一連の改革が進められたことは確実と指摘しています。本論考は乙巳の変の背景として、国際情勢の変動を挙げています。隋と唐という巨大な王朝の成立にどう対応すべきなのか、方針に違いがあったのではないか、というわけです。本論考は、乙巳の変を、大臣が独裁権力を握る高句麗方式を目指した蘇我入鹿と、女王を立てて、有力王族に権力を振るわせたうえで、地位の低い権臣が背後で権力を握るという新羅方式を目指した中臣鎌足(鎌子)との対立という図式で把握しています。乙巳の変で主導権を握っていたのは、父も祖父も即位したわけではない軽(孝徳)ではなく、中大兄と中臣鎌足だろう、と本書は推測しています。ただ、それならば中大兄の母である大王の皇極が弟の軽に位を譲る必要はあったのか、との疑問は残ります。

●論点4「女帝と道鏡は何を目指していたのか」
 道鏡を天皇に即位させよ、との宇佐八幡神の神託がくだった、とされる事件は、皇族ではない人物が天皇に即位したかもしれないということで、特異な事例として注目されます。じゅうらい、この事件は道鏡主導だった、と語られていたのですが、近年では、称徳天皇の主導である、との見解が有力です。本論考は、奈良時代の天皇は天武皇統というより持統皇統で、それに拘った結果として即位した未婚の孝謙天皇の後継者をめぐる争いが、政治を混乱させていった、との見通しを提示しています。孝謙天皇は天皇大権を把握できないまま譲位し、藤原仲麻呂を打倒して重祚します(称徳天皇)。称徳天皇の治世でも、皇位継承が不安定な状況に変わりはなく、称徳天皇は、自身の主導する専制体制下で、仏教と天皇との共同統治体制を構想した、と本論考は推測しています。仏教と神祇思想が混淆した「天」により定められた人物であれば天皇に即位できると考え、道鏡を天皇に即位させようとした、というわけです。しかし、この構想は貴族層に受け入れられず、称徳天皇は後継者を決定しないまま死去します。

●論点5「墾田永年私財法で律令制は崩れていったのか」
 墾田永年私財法により律令制は崩壊していった、との見解がかつては有力でしたが、本論考は、墾田永年私財法により律令国家の土地所有体制が後退したのではなく、むしろじゅうらいは充分に把握できていなかった未墾地と新墾田を土地支配体制のなかに組み込めた、と指摘しています。これにより、日本全体の水田の面積が増大していきました。そもそも、律令制は唐に倣ったもので、当時の日本社会の実情とは異なっており、平安時代中期に成立した王朝国家こそ、日本的な古代国家と評価されています。

●論点6「武士はなぜ、どのように台頭したのか」
 武士の起源について、都との関わりも深く、初期の「武家の棟梁」とされる人物が、中央貴族の血筋で、地方に勢力を有しつつも完全には土着せず、官職や邸宅など都にも基盤を置いていた、と指摘されています。こうした平安時代の軍事貴族は、在地に大きな基盤を有していたわけではなく、軍事行動にさいてしても、朝廷から公認されなければ大規模な兵力を動員することも困難でした。平安時代末期の戦乱(いわゆる源平合戦)においてさえ、有力者たちの兵力のほとんどは国衙の指揮下にありました。平安時代の武士は、強訴を行なう寺社勢力への対策や、地方の紛争の解決に武士は不可欠な存在となっていき、やがて中央の政治に大きな影響力を有するようになります。本論考は、こうして「武士的なもの」が中世以降に日本史の主流となり、武士を善、貴族を悪とする価値観や、草深い東国の大地を善、腐敗した都を悪とする地域観が現代日本社会にも生き続けている、と指摘します。もちろん本論考も、「古代的・都的・貴族的なもの」がよいことばかりではないことも認めていますが、降伏してきた女性や子供も皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ず、そうした古代的価値観は中世以降には京都の没落貴族にしかなかった、と指摘しています。本論考は近世以降についてとくに言及していませんが、そうした価値観に武士勢力が気づく(再発見する)のが近世という見通しを提示することも、可能かもしれません。


◎中世

●論点1「中世はいつ始まったか」
 日本史において中世がいつ始まったのかという議論は、明治時代における近代史学の導入により始まりました。当初は、まず封建制が日本に存在したのか、議論になり、続いて、中世・近世といった呼称が登場しました。こうした議論は南北朝正閏問題を機に下火となり、再び盛んになったのは第二次世界大戦後でした。戦後、封建制の担い手は武士との認識が主流となり、中世は鎌倉時代から始まる、とされました。その後、権門体制論の提唱とそれをめぐる議論など研究が進展し、現在では、後三条天皇の即位と院政の始まりが時代の画期として認識されるようになっています。本論考は、寺社の強訴や地方の争乱など、天皇と摂関による統治体制では対応できない状況の出現が、院政を定着させたのだ、と論じています。

●論点2「鎌倉幕府はどのように成立したか」
 鎌倉幕府の成立時期に関しては、大別すると、1180年の南関東における軍事政権の成立から1192年の源頼朝の征夷大将軍就任までの6説あり、東国国家論的立場と権門体制論的立場のどちらを支持するかで異なってくる、と本論考は指摘します。現在有力なのは、守護・地頭の任命権などを獲得した1185年の文治勅許を画期とする説です。御家人制は鎌倉幕府の基礎となりましたが、これとヨーロッパの封建制との類似性が、明治時代より注目されてきました。

●論点3「元寇勝利の理由は神風なのか」
 文永の役と弘安の役で、日本は暴風雨により何とかモンゴルを退けることができ、戦闘では圧倒されていた、との見解が戦後歴史学では主流でしたが、本論考は、文永の役の戦闘は1日だけではなく日本軍は善戦しており、弘安の役ではモンゴル軍が日本軍の防衛線を前に本格的に上陸することすらできなかった、と指摘しています。このように、日本側の奮戦を過小評価した理由として、信頼性の低い史料に依拠していたことが指摘されています。

●論点4「南朝はなぜすぐに滅びなかったのか」
 本論考は、鎌倉幕府滅亡後、南北朝合一までの期間も室町幕府の形成期として把握する見解に、違和感を示しています。確かにこの期間の大半は北朝が南朝よりも圧倒的に優勢で、地方政権にすぎないとも言えるかもしれない南朝を全国政権と並べるのはおかしいとしても、南北朝の動乱を無視することにも違和感がある、というわけです。劣勢な南朝が50年以上命脈を保った理由として、幕府側が分裂の危機を内包していたことが大きかっただろう、と指摘されています。

●論点5「応仁の乱は画期だったか」
 応仁の乱は日本史上における画期だったと内藤湖南は主張しましたが、権門体制や五山の崩壊など、確かにそうした側面が認められる、と本論考は指摘します。しかし一方で、大きく変容しつつも室町幕府は存続するなど、応仁の乱は画期といえども、その在り様は多角的・多面的だと本論考は指摘します。戦国時代の始まりについては、応仁の乱よりも明応の政変を画期とする見解が近年では有力で、戦国時代の終わりについては、まだ見解が集約されていない、と本論考は指摘します。

●論点6「戦国時代の戦争はどのようだったのか」
 戦国大名の研究について、室町時代の守護との連続性を強調する傾向が見られる、と指摘しています。鎌倉時代と室町時代に得た権限をさらに発展させ、室町時代には不充分だった家臣団統制を強化していった、というわけです。本論考は、戦国大名の出自としては守護代が多かったことを指摘しています。戦国時代の戦争については、攻城戦が長引いていったように、兵農分離が進み、鉄砲の普及により変わっていった、と指摘されています。この論点6については、本書の解説がどこまで妥当なのか、今後時間のある時に検証していこうと考えています。


◎近世

●論点1「大名や旗本は封建領主か、それとも官僚か」
 江戸時代の武士が封建領主というよりは官僚的性格の強い存在になっていたことが、給米取りが主流になっていったことや、大名の江戸在住が一般的になっていたことや、とくに初期には改易が珍しくなかったことなどから主張されています。また、家は身分役割に応じて厳然と存在したものの、個人の水準では比較的身分地域間の流動性が高かった、と指摘されています。

●論点2「江戸時代の首都は京都か、江戸か」
 首都は君主(天皇)の所在地ではなく、内政外交の中心地なのだから、江戸時代の首都は京都ではなく江戸である、と主張されています。また、近現代の東京一極集中は江戸時代の有り様を継承しており、明治政府の最大派閥は薩摩でも長州でもなく旧幕府官僚だった、指摘されています。

●論点3「日本は鎖国によって閉ざされていた、は本当か」
 近年では一般にも知られるようになったと思いますが、江戸時代には完全に国が鎖されていたわけではなく、長崎・薩摩・対馬・松前経由で「外国」と通じており、人々が「外国」の情報に接していたことが指摘されています。さらに本論考では、幕末の「開国」とはいっても、新たに開かれた4港は幕府の直轄領で、「鎖国」の延長だった、と指摘されています。

●論点4「江戸は「大きな政府」か、「小さな政府」か」
 江戸幕府は基本的に「大きな政府」ではあったものの、5代将軍綱吉期や田沼意次が主導した時期のように、「小さな政府」を志向することもあった、と指摘されています。幕府は「大きな政府」と「小さな政府」の間を揺れ動いていた、というわけです。諸藩においても同様でしたが、「名君」と称されるような藩主の多くは「大きな政府」を志向した、と指摘されています。

●論点5「江戸の社会は家柄重視か、実力主義か」
 8代将軍吉宗期が江戸時代の転機だったと指摘されています。じゅうらい、家ごとに職務遂行上の規定が継承されていたのですが、吉宗期に公文書システムが整備され、業務がずっと効率的になった、と指摘されています。本論考はこれを、近代官僚制の前提と評価しています。

●論点6「「平和」の土台は武力か、教育か」
 江戸時代には教育が普及していき、識字率も向上したことで広範な階層での意思疎通が可能になるとともに、近代における義務教育の前提にもなった、と指摘されています。江戸時代の識字率向上の前提として、織田信長による兵農分離の進展が挙げられていますが、この評価については今後も時間を作って少しずつ調べていくつもりです。

●論点7「明治維新は江戸の否定か、江戸の達成か」
 明治維新の要因としては、国内の矛盾・対立の激化よりも、対外圧力の方が重要だっただろう、と指摘されています。本論考では江戸時代と明治時代との連続性が強調されており、その前提として、江戸時代を通じて日本では均質化が進行し、ナショナリズム的観念が形成されていたからと指摘されています。


◎近代

●論点1「明治維新は革命だったのか」
 幕末の攘夷については、全国的に共通した意思で、より長期的な視点の「大攘夷」とより短期的視点の「小攘夷」があり、「小攘夷」の立場の諸勢力が「大攘夷」へと変わっていった、と指摘されています。幕末の政治的功績については見直しが進められており、たとえば薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通だけではなく、小松帯刀の功績が大きかった、と指摘されています。幕府でも、開国を進めたのは井伊直弼の強権ではなく、その配下の現実的な若手幕臣で、井伊直弼は配下に押し切られた、と指摘されています。江戸時代と近代の連続性の問題については、地域秩序の面では非連続性が見られるものの、社会全体では高い連続性があった、と指摘されています。本論考はとくに、江戸時代における広範な知的ネットワークを重視し、それが近代化の前提となったことを指摘しています。ものであったとされていたもの

●論点2「なぜ官僚主導の近代国家が生まれたのか」
 近代日本はプロイセンを模範に国家建設を進めたとされていましたが、議会制度におけるイギリスなど、各分野で広範な国々が模範とされた、と指摘されています。また、近代日本の法体系は政治的紛争を極小化する柔軟な構造を有し、行政の裁量権が大きかったので、議会を中心とした民主主義が育ちにくくなった、とも指摘されています。大日本帝国憲法下の統治体制についても柔軟性が指摘されており、権力が分立していましたが、それは属人的な調整に大きく依存しており、元老が減少していった後に問題となってきます。

●論点3「大正デモクラシーとは何だったのか」
 「大正デモクラシー」は第二次世界大戦後に「発見」されました。大正デモクラシーでは政治参加の拡充、具体的には選挙権の拡大が目指され、普通選挙(とはいっても、女性の参政権はないわけですが)が実現しますが、これは第二次護憲運動の直接的成果というよりは、すでに政府内において広範に普通選挙の実現は必然視されていた、と指摘されています。大正デモクラシーの限界としては、普通選挙実現後の大きな目標と理想を描くにまではいたらなかったことが指摘されています。

●論点4「戦争は日本に何をもたらしたか」
 近代日本は多くの戦争を経験しました。西南戦争では近代国民軍の成功が強く印象づけられました。日清戦争では国民意識の高揚が見られました。日露戦争では、メディアの役割が増大するとともに、戦傷者の増大が獲得した利益への固執をもたらしました。第一次世界大戦で、日本はイギリスをはじめとして他国から中国への野心を疑われ、これは国際政治における失敗でした。太平洋戦争に関しては、行政権の拡大と戦後への継承が指摘されています。

●論点5「大日本帝国とは何だったのか」
 大日本帝国の拡大原理は安全保障にあったものの、権益の拡大という経済目的と結びついたことで、無限の膨張を引き起こした、と指摘されています。大日本帝国統合の中心とされた天皇は、大日本帝国憲法の権力分立構造に抱合され、天皇親政の建前と天皇不親政の実態との間で、天皇も制御できない国家が形成されました。


◎現代

●論点1「いつまでが「戦後」なのか」
 「もはや戦後ではない」という1956年度『経済白書』の一節は、戦災からの復興という需要が一段落した日本にとって、今後どのようにして経済成長が可能なのか、という危機感の発露であった、と指摘されています。また、「戦後」の終焉に関して、高度経済成長期までに見られたような、成長や近代化を無批判に肯定する時代精神が終わった、1970年代を重視する見解も取り上げられています。

●論点2「吉田路線は日本に何を残したか」
 日米安保により安全保障を達成し、軽武装・経済重視で高度経済成長の基礎を築いた、と吉田茂の路線は高く評価されています。しかし、吉田が首相の座を退き、鳩山一郎や岸信介といった戦前の実力者が復権して首相に就任した頃には、吉田の時代は終わった、とみなされていました。しかし、岸の次の首相の池田勇人は吉田直系で、池田とその次の首相の佐藤栄作の時期に高度経済成長期を迎えたことで、戦後の基礎を築いた大政治家としての吉田の評価は定まりました。

●論点3「田中角栄は名宰相なのか」
 近年の意識調査では、田中角栄は戦後日本を象徴する政治家として認識されています。本論考は、田中が日中国交「正常化」といった功績を残した一方で、ロッキード事件に代表される金権政治が批判され、竹下派にも引き継がれた金権政治による二重支配といった「田中的政治」の克服が1990年代以降に強く主張され、田中派の流れをくむ派閥も小泉内閣以降に影響力が低下していった、と指摘しています。「田中的」政治で批判された金権政治については、公共事業が再分配的役割を果たした側面もあるものの、恣意的だったことも指摘されています。

●論点4「戦後日本はなぜ高度成長できたのか」
 高度経済成長の前提として、財閥解体や農地改革などといった戦後の諸改革が指摘されています。一方で、こうした戦後の諸改革について、一般的には被占領国となったことが契機とされていますが、戦中の総力戦体制との連続性を指摘する見解も取り上げられています。また、対外的には、自由貿易体制の恩恵を受けたことが指摘されています。また近年では、人口ボーナスという観点も重視されています。高度経済成長期の内需と外需の貢献度に関しては、貿易立国という一般的な日本像とは異なり、他の主要国との比較でも、輸出よりも国内需要が大きかった、と指摘されています。

●論点5「象徴天皇制はなぜ続いているのか」
 戦後の天皇は日本国・日本国民統合の象徴で、その地位は日本国憲法に規定されているように、日本国民の総意に基づいていることが指摘されています。それと関連して、国民統合は絶え間ない努力により初めて持続的・安定的となることが指摘されています。また、天皇の地位は日本国民の総意に基づいているので、旧皇族の復帰・即位により国民の支持が失われれば、そこで天皇制が終わるかもしれない、との懸念が取り上げられていることも注目されます。
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山極寿一「自然と文化の間にあるジェンダー」

2018/09/22 20:07
 本論文は碩学による分かりやすい解説となっており、たいへん有益だと思います。以下、本論文の見解について備忘録的にまとめます。家族は現代人の社会において普遍的に見られ、社会の基本的な組織ですが、他の霊長類には見られません。それは、家族が単独では存在できず、複数の家族が集まって共同体を作るという性質を持っているからです。「家族的」な集団や、「共同体的」な集団を作る霊長類は存在し、現代人と系統的に近い現生種のうち、ゴリラは前者、チンパンジーは後者の集団で暮らしています。しかし、「家族的」な集団と「共同体的」な集団を合わせた集団は、現生種では現代人にしか見られません。

 本論文はその理由として、家族と共同体が互いに相反する原理を持っているからだ、と指摘します。家族は基本的に繁殖を目的とし、子供の育成を主眼として、見返りを求めずに助け合う論理を共有しているのに対して、共同体は集団全体の利益保全を目的とし、そのために対等な関係を保ったり、階層性を作ったりしながら、義務や権利を付与し、利益を配分することに努力を注ぐので、相容れないことがある、というわけです。誰もがその役割に応じて対等に義務を負う共同体の中で、家族のように依怙贔屓の論理がまかり通れば争いが生じます。これを避ける工夫として、ゴリラは繁殖単位として雄と雌のつながりを重視したまとまりのよい小集団を、チンパンジーは雄同士の連合重視の離合集散性の高い大集団を形成します。ゴリラの小集団どうしが集まって共同体を形成することはありませんし、チンパンジーの大集団の中に家族的な小集団が分節することはありません。

 では、なぜ人間だけが、家族と共同体という相反する論理を持った社会を作れたのか、と本論文は問題提起し、文化ではなく、人類が類人猿との共通祖先から分岐し、独自な進化の道を歩んできた生物学上の理由が潜んでおり、それをさらに、制度という社会的な枠組みで強化したのが人間としての新たな出発点だった、という見通しを提示します。本論文は、ジェンダーという自然と文化をつなぐ概念が登場したのも、この頃だったに違いない、と推測しています。本論文はその理由を、ジェンダーは生物学的な性差に立脚しつつ、それを「人間にふさわしい社会性」という観点から乗り超えようとする試みだからと説明しています。では、その出発点がどのような進化の背景と必要性に基づいていたのか、という問題を本論文は検証しています。

 人間は霊長類の一系統です。霊長類は大きく原猿類と真猿類に、真猿類はサルと類人猿に分かれますが、人間も類人猿の一系統と言え、他の類人猿と共通する多くの生物学的な特徴を有しています。人間と他の類人猿との類似性は社会の特徴にも現れています。サルの多くの種では、雌が生涯生まれ育った群れを離れない母系的な社会が形成されます。しかし、類人猿では各系統で社会構造こそ異なるものの、雌が思春期になると親元を離れ、血縁関係にない雄との間に子供を儲けます。オランウータンは雄も雌も単独で暮らし、それぞれ縄張りをもって接していますが、雄は複数の雌の行動域を含む大きな縄張りを持っています。子供は母親だけに育てられ、思春期になると雄も雌も両親の行動域から分散していきます。ゴリラは1頭の雄が複数の雌とまとまりのよい小集団を作り、縄張りを持たずに他集団と接触しています。雄も雌も親の集団を出ていきますが、雌だけが他集団や単独で暮らしている雄に加入します。雄はしばらく単独で遊動した後、雌を誘い出して新しい集団を作りますが、親元を離れずに複雄群を作る地域もあります。チンパンジーは複数の雄と雌から構成される大集団を作り、雌だけが親元を離れて他集団へ移籍していきます。類人猿は、集合性では違いがあるものの、雌が親元を離れて繁殖するという点では共通の特徴を持っており、初期人類もこの特徴を持っていた、と示唆されます。

 この雌が移籍するという特徴は、繁殖や子供の成長に大きな影響をもたらしている、と明らかになってきました。霊長類は哺乳類の中でも、雌の体重を基準にした妊娠期間・出産間隔・授乳期間・成長期間が長いという、ゆっくりした生活史の特徴を有しています。類人猿の生活史はサルと比較するとさらにゆっくりしています。サルの中でも、雌が親元を離れて繁殖する種ではゆっくりした生活史を持つと明らかになっているので、これは雌が自分と子供の双方の生存を図る生活史戦略と考えられます。一般的に生活史はトレードオフ(交換)の関係にある特徴から成り立っています。子供の死亡率が高ければ多くの子供を産み、寿命が短ければ成長の早い子供を産みます。しかし、霊長類は親を長く生かすことにより、子供の生存率を高めるという方策をとったので、少子高齢という道を進みました。類人猿はまさにその典型です。

 しかし、そのゆっくりした生活史戦略により、類人猿は中期中新世以降に衰退していきます。もともと胃腸を特殊化せずに完熟した果実を好んで採食していた類人猿系統では、2000万年前にはサルの10倍以上の種が生息していました。しかし、中新世の後半に地球規模の寒冷・乾燥化が進んで熱帯雨林が縮小すると、葉や未熟果を効率的に消化でき、早く成長し繁殖できるサルたちのほうが優勢になりました。アフリカ大陸では現在、50種を超えるサルが生息しているのに対して、類人猿はわずか4種しか生き残っていません。人類の祖先は、この類人猿のゆっくりした生活史戦略を踏襲しつつ、多産という特徴を獲得したことにより、類人猿の進出できなかった草原へと生息域を拡大することができました。それが家族と共同体からなる人間独自の社会組織を作り、アフリカ大陸から全大陸へと拡散し、ついには70億以上の人口を抱えるまでに発展する素地を築きました。

 人類の祖先が草原へ進出できたのは、採食様式を変え、多産になったからだ、と本論文は指摘します。一年中豊かな食物が得られる熱帯雨林と違って、サバンナでは食物の種類も少なく分散している、というわけです。ただ、人類にとって熱帯雨林は、高温多湿で資源の不足している極限環境とも指摘されています(関連記事)。もっとも、初期人類とホモ属とでは、極限環境の条件もある程度違うでしょうが。その問題はさておき、本論文は直立二足歩行について、広く歩き回って食物を集め、それを安全な場所に持ち帰って仲間と食べることが選択圧になった可能性を指摘しています。食物を分配する行動は、類人猿にも南米に生息するマーモセット類にも見られます。もともとは育児に手がかかる子供に養育者が食物を与えることから始まり、それが成体の間に普及したのではないか、と本論文は推測しています。類人猿は子供の成長に時間がかかり、マーモセット類は双子や三つ子を産んで母親に負担がかかるので、雄や年長の子供が共同で育児をします。人間は、子供の成長が遅く、多産という二つの特徴を併せ持っています。そのため、食物分配が不可欠になり、成体の間に普及して日常的に社会関係を調整する手段になった、と本論文は推測しています。

 人類が多産になった理由として、草原で肉食獣による高い捕食圧を経験したからではないか、と本論文は指摘しています。熱帯雨林では木に登れば安全ですが、木のない草原では安全な避難場所は限られています。そのため、食物をその場で食べるのではなく、運んで安全な場所で食べることが直立二足歩行の選択圧となったわけですが、死亡率の増加を防ぐことは困難でした。捕食圧の効果を軽減するには多産が効率的です。その方法は、一度にたくさんの子供を産むか、出産間隔を縮めるかですが、類人猿に近縁な人類は後者の方向へと進みます。それには、幼児を早く離乳させて排卵を回復させることが必要です。類人猿の授乳期間は長く、オランウータンは7年、ゴリラは4年、チンパンジーは5年授乳します。これらの類人猿では離乳した時すでに永久歯が生えており、成体と同じものが食べられます。しかし、人間の幼児はせいぜい2年そこそこで離乳するもののが、永久歯は6歳にならないと生えてきません。その間、華奢な乳歯で、成体とは違う柔らかいものを食べねばなりません。もっとも、離乳時期も人類史において変わっていった可能性が高いとは思いますが。

 さらに、ホモ属系統では200万年前かその少し前から脳が大きくなり始めて、人間の子供の成長はさらに遅れることになりました。直立二足歩行により皿状に変形した骨盤は産道を広げられず、頭の小さな子供を産んで生後に脳を急速に成長させることが必要になりました。身体の成長に用いるエネルギーを脳に回したため、ますます身体の成長が遅れることになったわけです。ホモ属では、頭が大きく成長の遅い子供を多数抱えることになって母親の育児負担が高まり、共同育児が必要となりました。本論文は、人間の幼児が生まれた直後から大声で泣くのは、母親が幼児を手から離してしまうためで、幼児が天使のような微笑を浮かべるのは、誰にでも愛されるような選択圧のためではないか、と推測しています。一方、類人猿の幼児は生後1年間、母親の腕の中で育ち、めったに泣きません。人間の幼児は共同保育をされるように生まれてくるといっても過言ではないだろう、と本論文は指摘しています。

 この共同保育が、子供の成長に大きな影響を与えます。霊長類社会における親は、生物学的関係ではなく、養育関係で決まり、近親相姦回避の現象となって現れます。かつて、人間の家族は原始乱婚の時代から、親子や兄弟姉妹の間に近親相姦が禁止されるようになった、と考えられていました。しかし、この説が登場した19世紀には、まだ人間以外の霊長類の性行動はまったく調べられておらず、乱交社会だと勝手に想像されていたにすぎない、と本論文は指摘します。20世紀後半になって野生や飼育群で研究が進むと、霊長類では一般的に母系的血縁関係にある異性は交尾をしない、と明らかになってきました。乱交どころか、見事に近親相姦が避けられていたわけです。

 しかし、父系的な血縁関係については確証が得られないため、近親相姦の回避が生まれつきの血縁認識によるのか、生後何らかの経験を経て生まれるのか、よく分かっていませんでした。1980〜1990年代にDNAを用いての親子判別法が発達し、血液や毛髪や糞などの試料から血縁が解析されるようになりました。血縁を判別したうえで性交渉を調査すると、母系制のサル社会では、父系的血縁にある異性の間では近親相姦が普通に起こっている、と明らかになりました。しかし、血縁関係になくても、幼児期に親密な関係にあった異性の間には交尾が起こらないことも明らかになりました。雄が乳児や幼児の世話をよく焼くバーバリマカクでは、雄が一日に6分以上毛づくろいなどの親和的な接触を6ヶ月続ければ、その幼児が大人の雌となっても性交渉が避けられます。また、アカゲザルの幼児を生後すぐに別の雌に育てさせると、両者の間にも交尾が起きない、と明らかになってきました。つまり、近親相姦の回避は産みの親ではなく育ての親との間に起きるわけです。

 類人猿の雌たちは、この近親相姦回避傾向のために、生まれ育った集団を離れ、血縁関係のない雄を最初の繁殖相手として選びます。近親相姦の回避は、非母系社会においては雌の移動を促進します。近親相姦を禁止する制度により、人間の家族には性交渉が許される異性と禁止される異性が共存します。しかし、この制度がなくても、霊長類では一般的に、子育てを介して近親相姦は回避されています。人間社会にこれが制度として必要だったのは、複数の家族が集まって共同体を作り、子育てを家族間の共同作業としたからではないか、と本論文は推測しています。レヴィ・ストロースの指摘するように、女性を交換のシステムに乗せるため、制度によって配偶者の不足を作り出す必要が生じたからだ、というわけです。

 本論文は、育児における性別役割は生物学的な特徴の上に作られてはいるものの、代替可能なものであるということが重要だ、と指摘します。そこで必要なのは、育児を通した関係に性的衝動が生じないようにすることです。それが、生物学的な血縁関係ではなく、生後の育児という交渉を介して経験的に作られるというところに、人間家族が多様になる萌芽が潜んでいる、と本論文は指摘します。19世紀の終わりに、エドワード・ウェスターマークは、幼児期に親密な関係にあった男女は思春期を迎えても性衝動を覚えない、という説を提唱しました。しかし、同時期にエディプスコンプレックス(幼児はまず異性の親に性衝動を覚え、それを同性の親に禁止されます)を提唱したフロイトに黙殺されました。ウェスターマーク説は、20世紀後半になってエリック・ウルフの台湾の幼児婚の研究によって復活し、ウェスターマーク効果という用語を与えられました。幼児期の異性との親和的な接触は、幼児の性的な成長に大きな影響を及ぼす、というわけです。

 人間の家族と共同体は、類人猿から引き継いだゆっくりした子供の成長と、危険な環境に暮らして獲得した多産を成り立たせるための社会組織です。そこでは外婚制を維持するために近親相姦を制度化し、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要がありました。しかし、もともと生後の子育てを介した経験によって後天的に作られるこの性向は、育ての親を重視した代替可能な家族を人間にもたらしました。そこには性的な衝動を排した擬制の親子関係が成り立つ、と示唆されます。血縁関係のない親でも、片親でも、同性婚の親でも、家族と共同体という共同子育ての仕組みがあれば、子供は性的な衝動を向けられることのない環境で思春期を迎えられるわけです。生命科学の発展やジェンダーフリーの社会により、今後はますます生物学的血縁のつながりのない家族が増えていくでしょう。しかし、家族と共同体が人間に独特な繁殖と成長の特徴によって生み出されたという進化の歴史を忘れなければ、子供の成長に支障は起こらない、と本論文は指摘します。人間の自然と文化をつなぐ社会を構想するところに、現代のジェンダーを考える意義はある、というわけです。

 以上、本論文の内容について備忘録的に取り上げてきました。さすがに碩学の論文だけに、広く深い解説になっていると思います。多岐にわたって重要な論点が提示されていますが、それらをさらに掘り下げていくような見識と気力は今の私にはなく、矮小化してしまいますが、近年の関心の一つを取り上げることにします。本論文は、類人猿系統における共通の特徴として、雌が親元を離れて繁殖することを挙げています。私は以前から、人類社会はもともと母系制的だった、との見解に疑問を抱いていましたが、それは、更新世以前の人類社会に関して、母系制的だったことを示唆する直接的証拠がない一方で、父系的だったことを示唆する直接的証拠は、まだ検証の余地はあるにしても複数提示されているからです(関連記事)。「本来の」人類社会が母系制的だったという説を前提として、原始的な母系社会が「発展」して父系社会が到来した、というような唯物史観的見解を常識とするのは、もう止めるべきだと思います。

 こうした唯物史観的な母系制社会説は、遅れた母系制と進んだ父系性というような差別観念を助長してきたのではないか、と私は考えています。もちろん、人類社会が元々は母系制的だったとすれば、それは広く知られるべきではありますが、父系性への移行は社会の「発展」の結果なのか、そもそも「発展」とは何なのか、といった根源的な問いかけを常に伴うべきでしょう。まあ、人類社会は元々母系制的だったという前提自体が高い確率で間違いでしょうから、間違った認識を前提とした見解に大きな問題があると言うべきなのでしょう。また、唯物史観的な「原始社会」乱婚説も、間違いである可能性が高いと思います(関連記事)。この問題に関しては、気になる参考文献をいくつか読み、まとめるつもりなのですが、人類進化に関する問題のなかで優先度が最上位というわけではないので、目途がまったく立っていません。まあ、私の能力・見識・性分の問題も大きいのですが。


参考文献:
山極寿一(2017)「自然と文化の間にあるジェンダー」『学術の動向』第22巻11号P18-23
https://doi.org/10.5363/tits.22.11_18
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6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直し

2018/09/22 10:47
 6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代を検証した研究(Slimak et al., 2018)が公表されました。今年(2018年)2月に、イベリア半島の洞窟壁画の年代が6万年以上前までさかのぼると公表され、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産である可能性が高いということで、が大きな話題を呼びました(関連記事)。もっとも、これが現生人類(Homo sapiens)の所産である可能性も一部で指摘されていましたし(関連記事)、そもそも年代に疑問が呈されていることも当ブログで取り上げました(関連記事)。

 本論文は、6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代を具体的に検証しています。対象となったのは、スペイン北部となるカンタブリア(Cantabria)州のラパシエガ(La Pasiega)洞窟、ポルトガルとの国境に近くスペイン西部となるエストレマドゥーラ(Extremadura)州のマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟、スペイン南部となるアンダルシア(Andalucía)州のアルダレス(Ardales)洞窟の壁画です。これらの壁画のなかには6万年以上前までさかのぼるものもあり、そうだとすると、5万年以上前のヨーロッパにおいて現生人類の存在は確認されていませんから、ネアンデルタール人の所産である可能性が高くなります。もしそうならば、確認されたネアンデルタール人の洞窟壁画の事例としては初となります。

 じゅうらい、これらのイベリア半島の事例に次いで古い洞窟壁画は、40800年前頃以前と推定されているスペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟で発見されたもので、こちらもネアンデルタール人の所産である可能性が指摘されていました(関連記事)。しかし本論文は、この時期のカンタブリア州一帯は考古学的にはオーリナシアン(Aurignacian)期なので、現生人類の所産である可能性が高そうだと指摘していくます。

 本論文は、6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代測定に用いられた、炭酸塩標本に基づくウラン-トリウム法自体は評価の高い技術であるものの、標本の扱いと年代の解釈は再検証されねばならず、6万年以上前という古い年代に関して、不正確という証拠があるというよりは、肯定的証拠がない、と指摘しています。本論文はまず、ウラン-トリウム法に基づいて炭酸塩の信頼できる年代を得るには、「閉鎖系」であることが重要と指摘します。たとえば、再結晶があると、じっさいの年代より古くなる可能性が高くなります。次に共通の問題として、測定されたトリウム230のすべてが、形成された炭酸塩以降のウラン234の崩壊に由来するわけではない、ということが指摘されています。このいわゆる「非放射性」トリウム230は、形成時に組み込まれ、補正されなければ、標本の年代値はじっさいより古く出ます。「非放射性」トリウム230の主要な供給源は、炭酸塩形成中の原料となる水に含まれている砕屑物およびトリウム230です。

 こうした点を考慮して、6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代が再検証されました。元論文の年代で信頼性の高いものは、アルダレス洞窟の47000年前頃以降の年代です。ラパシエ洞窟とマルトラビエソ洞窟の壁画の元論文の年代の信頼性は低いのですが、それらのみが上部旧石器時代の洞窟壁画などの芸術的表現と比較できるようなものです。一方、アルダレス洞窟の壁画は単純に赤い堆積物で覆われた二次生成物で、「芸術的」表現とは言えないようなものです。アルダレス洞窟の壁面の赤い堆積物が人為的起源であることを証明するには、これら赤い堆積物の詳細な分析が必要となる、と本論文は指摘しています。

 47000年前には、イベリア半島、さらにはもっと広範にヨーロッパにおいても、現生人類の確実な存在は証明されていません。この時期のヨーロッパにおいては、ヨーロッパ中央部のボフニチアン(Bohunician)とフランス地中海沿岸のネロニアン(Neronian)という二つの「移行期インダストリー」のみが、早期の現生人類と関連しているかもしれませんが、人類遺骸が共伴していないので、確定的ではありません。いずれにしても、イベリア半島南部に現生人類が拡散してきたのは早くとも4万年前頃以降でしょうから(関連記事)、アルダレス洞窟の赤い堆積物が人為的なものだとしたら、「壁画」とは言えないかもしれないとしても、ネアンデルタール人が何らかの理由で壁面に顔料を付着させた証拠となるでしょう。

 ネアンデルタール人も洞窟壁画を描いていた、との見解は大きな話題を呼び、私も注目して興奮したものですが、やはりこれまでの有力説を否定するだけに、厳しく検証されるのは仕方のないところですし、またそれは必要でもあります。今後は、「芸術」と評価できるようなイベリア半島の洞窟壁画のうちいくつかが確実に6万年以上前で、ネアンデルタール人の所産である可能性が高い、と明らかになることを期待していますし、その可能性はきょくたんに低くはないと思います。


参考文献:
Slimak L. et al.(2018A): Comment on “U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art”. Science, 361, 6408, eaau1371.
https://doi.org/10.1126/science.aau1371
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個体の鳴き声を聞き分けるジャイアントパンダ

2018/09/21 17:03
 ジャイアントパンダ(Ailuropoda melanoleuca)は個体の鳴き声を聞き分ける、と報告した研究(Charlton et al., 2018)が公表されました。ジャイアントパンダは単独行動性の動物であるため、配偶相手の居場所を知り、攻撃的かもしれない競争相手を避けるために、実効性のある情報伝達が不可欠である可能性は高い、と考えられています。雄のジャイアントパンダは、発情期の雌に遭遇すると高い確率で鳴き声を発することが知られており、こうした鳴き声が交尾活動の調整に重要なことが示唆されています。ただし、鳴き声で明らかになる情報は、生息地である竹林環境において確実に伝達されない限り、ジャイアントパンダの役に立ちません。

 この研究は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンディエゴ動物園サファリパーク内の竹林を含む、植生密度がパンダの自然の生息地に近い混合人工林で、ジャイアントパンダの鳴き声100回分(10頭の成体のそれぞれ10回分の鳴き声)の録音を再生し、再生装置のスピーカーからそれぞれ10・20・30・40m離れた地点でその音声を再録音しました。分析の結果から、ジャイアントパンダの鳴き声の音響構造の明瞭さは、竹林環境において最大20mまで保持されるものの、10mを超えると、鳴き声を発した個体が雄なのか雌なのか分からなくなる、と明らかになりました。

 この研究は、ジャイアントパンダが交尾関連の鳴き声の中で区別できる可能性の高い範囲を明らかにすることで、その繁殖戦略に関する新たな手掛かりをもたらしています。鳴き声に含まれる発声個体の同一性と性別に関する手掛かりは、視認機会が限定的な環境となる鬱蒼とした竹林において至近距離で相互作用するパンダにとって、重要な情報となる可能性がある、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物行動学】ジャイアントパンダは別の個体の鳴き声を近くで聞けば誰の声だか分かる

 ジャイアントパンダ(Ailuropoda melanoleuca)の鳴き声は、20メートル以内の距離では、鳴いたのがどの個体かを、10メートル以内では鳴いた個体の性別を伝えていることを明らかにした論文が、今週掲載される。鳴き声に含まれる発声個体の同一性と性別に関する手掛かりは、うっそうとした竹林という視認機会が限定的な環境において至近距離で相互作用するパンダにとって重要な情報となる可能性がある。

 ジャイアントパンダは、単独行動する動物であるため、配偶相手の居場所を知り、攻撃的かもしれない競争相手を避けるために、実効性のある情報伝達が不可欠である可能性が高い。雄のジャイアントパンダは、発情期の雌に遭遇すると高い確率で鳴き声を発することが知られており、こうした鳴き声が交尾活動の調整に重要なことが示唆されている。ただし、鳴き声で明らかになる情報は、生息地である竹林環境において確実に伝達されない限り、ジャイアントパンダの役に立たない。

 今回、Benjamin Charltonたちの研究グループは、サンディエゴ動物園サファリパーク(米国カリフォルニア州)内の竹林を含む混合人工林で、ジャイアントパンダの鳴き声100回分(10頭の成体のそれぞれ10回分の鳴き声)の録音を再生して、再生装置のスピーカーからそれぞれ10、20、30、40メートル離れた地点でその音声を再録音した。この人工林における竹林の植生密度は、パンダの自然の生息地に近い。分析の結果から、ジャイアントパンダの鳴き声の音響構造の明瞭さは、竹林環境において最大20メートルまで保持されるが、10メートルを超えると鳴き声を発した個体が雄なのか雌なのかが分からなくなることが明らかになった。

 今回の研究は、ジャイアントパンダが交尾関連の鳴き声の中で区別できる可能性の高い範囲を明らかにすることで、その繁殖戦略に関する新たな手掛かりをもたらしている。



参考文献:
Charlton BD. et al.(2018): Sound transmission in a bamboo forest and its implications for information transfer in giant panda (Ailuropoda melanoleuca) bleats. Scientific Reports, 8, 12754.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-31155-5
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蠕虫に似たカンブリア紀の動物

2018/09/21 17:01
 蠕虫に似たカンブリア紀の動物に関する研究(Ou, and Mayer., 2018)が公表されました。この研究は、カンブリア紀(約5億4100万年〜4億8500万年前)の葉足動物(軟らかい脚を持つ蠕虫似の動物)の新種(Lenisambulatrix humboldti)について報告し、既知の葉足動物種(Diania cactiformis)と比較しました。その結果、これら2種はよく似た形態をしており、分節した体と長さ11.6〜18mmの太く長い脚(葉足)を有し、他の葉足動物と異なり鉤爪がない、と明らかになりました。

 D. cactiformisは、刺で厳重に装甲された胴体を有することから「歩くサボテン」とも呼ばれているのに対して、L. humboldtiには被甲が全くないように見えます。L. humboldtiは蠕虫に似た分節化した管状の胴部を持ち、それぞれの体節に一対の脚が付いています。L. humboldtiの化石には、胴体の一方の端部しか保存されておらず、頭部と認識できるような際立った特徴、たとえば、眼や口や触角はありませんでした。これに対して、D. cactiformisの頭部の端とされる部位には、ヘルメットに似た独特な構造が見られます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】カンブリア紀に「引きこもり」生活をしていた蠕虫似の動物の化石

 カンブリア紀(5億4100万年〜4億8500万年前)の葉足動物(軟らかい脚を持つ蠕虫似の動物)の新種について記述された論文が、今週掲載される。今回、Qiang OuとGeorg Mayerは、Lenisambulatrix humboldtiと命名された葉足動物の新種と過去に発表された論文に記述された葉足動物Diania cactiformisを比較し、後者に関する新たな詳細情報も明らかにしている。

 著者たちは今回の研究で、これら2種はよく似た形態をしており、分節した体と長さ11.6〜18ミリメートルの太く長い脚(葉足)を有すること、また、他の葉足動物と異なり鉤爪がないことを明らかにしている。D. cactiformisは、とげで厳重に装甲された胴体を有することから「歩くサボテン」とも呼ばれているのに対して、L. humboldtiには被甲が全くないようだった。

 この論文の記述によれば、L. humboldtiは蠕虫に似た分節化した管状の胴部を持ち、それぞれの体節に一対の脚が付いている。L. humboldtiの化石には、胴体の一方の端部しか保存されておらず、頭部と認識できるような際立った特徴、例えば、眼や口、触角はなかった。これに対して、D. cactiformisの頭部の端とされる部位には、ヘルメットに似た独特な構造が見られる。



参考文献:
Ou Q, and Mayer G.(2018): A Cambrian unarmoured lobopodian, †Lenisambulatrix humboldti gen. et sp. nov., compared with new material of †Diania cactiformis. Scientific Reports, 8, 13667.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-31499-y
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『卑弥呼』第2話「ヤノハとモモソ」

2018/09/20 18:52
 『ビッグコミックオリジナル』2018年10月5日号掲載分の感想です。初回に続いての巻頭カラーとなります。前回は、日向(ヒムカ)の国から暈の国へと移住して戦士(戦女)見習いとなったヤノハが、未来が見えると言うモモソと出会うところで終了しました。今回は、暈の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院で、ヤノハが木製の棒で剣術の訓練をしている場面から始まります。ヤノハは相手を圧倒し、戦部の女性たちはヤノハの強さに恐れと驚きを感じます。戦部の師長であるククリは、敵の小指か足の指を切ってとどめを刺すという剣技が日向にあると聞いたが、初めて見た、とヤノハを褒めます。

 そのヤノハに、前回、捔力(すもう)の訓練で殺されそうになったヌカデが近づき、早死にするぞ、戦柱(イクサバシラ)だ、と忠告します。しかし、暈に来たばかりのヤノハは、戦柱と言われても何のことか分からず、ヌカデは説明を続けます。技量抜群の戦女(イクサメ)は初陣が特別に早く、それは天照大御神に伺いを立てるためです。柱とは生贄のことで、強さに加えて天照大御神の恩寵があるのか、実戦で試される、というわけです。先陣もしくは単独での切込みを命じられる、ということでしょうか。戦柱に選ばれれば大抵は戻ってこない、とヌカデに教えられたヤノハはさすがに衝撃を受けたようです。

 そこへ、祈祷部(イノリベ)の巫女の見習いたちが現れ、見習いのくせに特別扱いで、我々より食事も早いのか、とヌカデは不満を漏らします。見習いたちの先頭を歩いていたモモソは、ヤノハに気づくと微笑みます。ヤノハはヌカデに、モモソについて尋ねます。ヌカデによると、モモソは4歳の時に「日の巫女の長」であるヒルメの後継者に選ばれ、特別な霊力を持ち、百年に一度の逸材と謳われている、とのことです。ヌカデはヤノハに、お前もモモソのような霊力があれば戦場に行かずともすむのになあ、と皮肉な様子で語りかけます。

 食事の時間となり、戦女見習いたちのいる場所とは布で仕切られた一方の部屋で、祈祷部の巫女の見習いたちも食事をとっていました。戦女見習いたちの食事は、魚や果物らしきものもあり、悪くはないと思います。まだ庶民の食事が描かれていませんが、庶民よりはかなり恵まれた食事のように思います。ヤノハが先輩らしき戦女見習いの一人に、巫女の見習いたちの食事は我々より上等なのか、と尋ねると、豊富な果物に蜜や蘇(乳製品の一種でしょうか)もある、と返答があります。しかし、先輩らしき戦女見習いによると、祈祷部の見習いたちは穢れを避けるため肉も魚も食べないそうです。先輩らしき戦女見習いたちは次々と、新人のヤノハに戦女の心得を教えます。戦女は、巫女を守るため太く短く力強く生き、結果として戦場で虫けらのように果てる身です。一方、巫女たちは天照大御神のため長生きする定めとなっています。

 守る側より守られる側になりたい、とぼやく先輩の一人に、戦部の長はどこまで偉くなれるのか、とヤノハは尋ねます。先輩たちの話によると、戦部では武勲を立てても須恵部(スエベ)や形部(オサカベ)と同じく精々5番目の冠位の赤までしか昇進できないのに、祈祷部見習いは最初から赤衣で、逆立ちしても適わない、とのことです。しかし、先輩たちによると、戦部の者は年季が明ければ男と交われるものの、祈祷部の巫女たちはそれが一生禁じられており、露見すれば死罪、口吸い(接吻)でも追放とのことです。先輩たちは、自分たちの人生の方が気楽でよいかもしれない、と言って笑います。戦部の者は祈祷部に上がれないのか、とヤノハに尋ねられた先輩たちは、天照大御神が憑依するとまではいかずとも、声が聞こえるなどすれば別だが、それを日の巫女の長が認めるのが条件で、偽りと分かれば死罪だ、と説明します。

 訓練が終わったと思われる後、ヤノハが一人で建物の屋根にいると、モモソが上がってきます。モモソは、まだヤノハの名前を知らなかったので、名前を尋ねます。モモソ様とヤノハに呼びかけられたモモソは困惑し、なぜそう呼ぶのか、とヤノハに尋ねます。祈祷部の見習いのモモソは戦部より上の冠位だからだ、とヤノハが返答すると、自分はただの見習いだ、とモモソは言います。見習いでも祈祷女で、自分とは住む世界が違う、と言うヤノハにたいして、私は住む世界も冠位も信じない、とモモソは言います。

 毎日何を学んでいるのか、とヤノハに尋ねられたモモソは、一年間ずっと、「お暈(ひがさ)さま」の動き(太陽の運行ということでしょうか)を観察し、漢字と神の言葉である阿比留(アビル)文字も学んでいる、と答えます。モモソは、倭国の形や、暈以外の国々の名称と場所がどこにあるのか、といった地理も学んでいました。山杜(ヤマト)についてヤノハに尋ねられたモモソは、山杜で祈りを捧げる方が倭国の支配者になる、と説明します。山杜の王はそんなに強いのか、とヤノハに尋ねられたモモソは、王ではなく神に選ばれた方だ、と答えます。

 今の山杜の支配者は日見彦(ヒミヒコ)様で、鞠智彦(クコチヒコ)という将軍が守っている、とモモソはヤノハに説明します。日見彦とは暈の国のタケル王のことか、とヤノハに尋ねられたモモソは、天照大御神が、男子に降れば日見彦、女子に降れば日見子(ヒミコ)と答えます。日見彦と日見子は日の巫女の長であるヒルメより偉いのか、とヤノハに尋ねられたモモソは、ヒルメは祭祀の頂点にいるがただの人で、日見彦や日見子は生き神だ、と答えます。日見彦がタケル王だとすると、日見子はどこにいるのか、とヤノハに尋ねられたモモソは、この百年顕われていない、と答えます。

 祈祷女が羨ましい、戦部に守られて長く生きられる、と言うヤノハに、そんなに死にたくないのか、とモモソは尋ねます。ヤノハは力強く、自分の一番の望みはこの世で天寿を全うすることだ、と答えます。一方、モモソは、自分は短くてもよいから人の世を楽しみたい、と言います。モモソの視線の先に男性がいることに気づいたヤノハは、種智院にいる見習いの女性にとって男性は珍しいのだろう、とモモソに指摘します。種智院には基本的に女性しかおらず、柵の外に十数名の男性がいるだけです。ヤノハは、モモソの視線の先にいた男性がホオリだと教え、話してみたいか、と尋ねます。ヤノハは動揺するモモソにたいして、お前はいずれ日の巫女の長になる身なのに、一度も男と話したことがないのはだめだ、と指摘します。するとモモソは、一度話すだけでよい、と恥じらいながら言います。その晩(だと思います)、ヤノハはホオリを誘惑し、モモソと会わせる手筈を整えます。ホオリは初めて会った時からヤノハを気に入っていたので、ヤノハの依頼をあっさりと聞き入れます。ヤノハは、自分の依頼を聞き入れてくれたら自分との交わりを許してやる、とホオリに約束していました。翌日、ホオリとモモソは密会し、二人は接吻します。その様子をヤノハは満足そうに見ていました。

 モモソはヤノハに感謝し、どう恩を返せばよいのか、と尋ねます。自分は戦部の見習いの中で最も腕が立つので戦柱として戦場に送られるが、大抵の戦柱は無残に死ぬので、自分を戦場に送らないようにヒルメ様に進言してほしい、とヤノハはモモソに頼みます。どのような理由をつけるのか、とモモソに尋ねられたヤノハは、天照大御神の声が聞こえるようだと言ってくれればよい、と答えます。本当に天照大御神の声が聞こえるのか、とモモソはヤノハに尋ねますが、ヤノハは即座に否定します。するとモモソはヤノハに謝り、それだけはできない、と言います。しかし、ヤノハはこの答えを予想していたのか、動揺することなく、モモソがホオリと接吻(口吸い)したことを黙ってやる、と交換条件を提示します。口吸いは日の巫女の長の後継者でも追放だろう、とヤノハに指摘されたモモソは怒りますが、ヤノハは冷静にモモソを諭します。この乱世で生き抜くには誰かの助けが必要で、モモソが日の巫女の長となっても、千人の巫女を一人で束ねていけるのか、というわけです。自分は役に立つので味方にしろ、二人で力を合わせて戦乱の世を乗り切ろう、とヤノハに迫られたモモソが、覚悟を決めた表情で了承し、この時点から先のヤノハが、ここまでは自分の思い通りに事が運んでいた、と回想するところで今回は終了です。


 今回は、ヤノハとモモソの関係を中心に話が進みました。ここまではヤノハ視点で話が進んでいますが、ヤノハとモモソの二人が主人公のようにも思えますから、今後もこの二人が中心となって話が進みそうです。作中世界では弥生時代に阿比留文字が使われているようで、まずい方向に行くのかな、との懸念もありますが、さほど重要でもなさそうなので気にしなくてよいかな、とやや楽観しています。今回、冒頭で「其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗」との『三国志』の一節が引用されていました。前回述べたように、現在の舞台となっている暈の国は後の熊襲と思われますが、鞠智彦という将軍が日見彦たるタケル王を守っているとなると、『三国志』の狗奴国でもあるのでしょう。狗奴国は卑弥呼の勢力圏の南に位置するとされており、卑弥呼は九州北部を勢力圏としているようです。前回述べたように、本作の邪馬台国は宮崎県にあったと設定されているように思われますが、あるいは、途中で奈良県の纏向遺跡一帯に拠点が移り、そこが新たな邪馬台国とされるのかもしれません。いずれにしても、本作の暈の国は後に卑弥呼と対立することになりそうです。

 そうだとすると、モモソが後に卑弥呼(日見子)となる、という前回の予想も修正しなければならないかもしれません。今のところ、ヤノハが洞窟もしくは地下牢で死を待つばかりというような状況からの回想が時々入っていますが、今回のヤノハの企てが後に露見するか、モモソが裏切り、ヤノハはそうした状況に陥っているのかもしれません。もしそうならば、そこからヤノハが他国に逃亡し、モモソとの関わり合いのなかで得た知識を活用して卑弥呼となるか、共に囚われていたヤノハとモモソが逃亡し、モモソが卑弥呼となりヤノハが陰から支える、という展開になるのかもしれません。前回、ヤノハには弟がいたと明かされており、死亡した可能性は高そうですが、もし生きているとすると、『三国志』の記事から推測して、ヤノハが卑弥呼となり、弟が国政を補佐することになるのかもしれません。

 まあ、現時点ではまだ世界観がじょじょに明かされているという段階で、重要人物と思われる暈の国のタケル王も登場していませんから、あまり先のことを推測しても仕方なさそうです。今回、山杜(ヤマト)で祈りを捧げる者が倭国の支配者(倭国王?)になる、と明かされました。ヤマトは古代の日本列島において一般的な地名だったようにも思われますから、現在は暈の国のヤマトを掌握していることが倭国の支配者の証とされているのかもしれませんが、今後、他国のヤマトが倭国支配者の証とされるのかもしれません。

 それはともかく、今回の描写では、日見彦たるタケル王が現在の山杜の支配者のように思われますが、前回の描写と合わせて考えると、天照大御神が降るという日見彦の条件をまだタケル王は満たしていないように思われます。モモソも、日見彦とはタケル王なのか、とのヤノハの問いに明確には答えていませんが、ヤノハはタケル王が日見彦と考えているようです。下層民には一応、タケル王が日見彦と説明されているものの、支配層はタケル王に天照大御神がまだ降っていないことを知っており、それ故に倭国は乱れていると考えている、という設定なのでしょうか。

 そもそも、天照大御神が「降る」とはどういうことなのか、それはどのように認定されるのか、「トンカラリン」という命がけの儀式であることは示唆されているものの、詳細は不明です。もっとも、ここは本作の鍵となりそうですから、すぐには全貌が明かされることはなさそうです。生に執着しているヤノハは、本当に天照大御神が降ったのか否か、といった多数の人々の信念に囚われることはなさそうですから、モモソとの交流を通じて事情を把握するようになると、謀略も用いて、モモソもしくは自分に天照大御神が降った、と人々に納得させるように事を進めていくのかもしれません。まだ始まったばかりで世界観もあまり明かされていない段階なので、推測・予想する余地が大きく、その点での楽しみもあります。まあ、例によって私の予想の多くは外れそうですが。

 上述したように、当分はヤノハとモモソの関係を中心に話が進みそうですが、この二人の個性と関係性も興味深いものです。現時点では、武勇に優れ、生への執着が強く、手段を選ばないヤノハと、まだ具体的にはほとんど示されていないものの、とてつもない才能を秘めていそうで、生には執着しておらず、世間知らずで人並の感情の持ち主のモモソという対照的な人物造形になっているように思われます。現時点では、ヤノハがモモソを思うように操って利用しているように見えますが、モモソも今後、ヤノハのような「怪物」的側面を見せるようになり、両者の関係性も変わってくるのかもしれません。本作は、後の卑弥呼と邪馬台国にどうつながっていくのか、という謎解き要素の点もさることながら、ヤノハとモモソの関係性の推移という点でも楽しめそうです。ともかく、今回も面白く読み進められたので、次回も楽しみです。
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数千年にわたる牧畜が築き上げたアフリカのサバンナ

2018/09/20 18:50
 牧畜によるアフリカのサバンナへの影響に関する研究(Marshall et al., 2018)が報道されました。草原は世界で最も広範に及ぶ陸上生物群系(バイオーム)の一つで、牧畜民・家畜・大型野生哺乳類の多様な群集の生存に重要です。アフリカでは、熱帯土壌は概して栄養が制限されていますが、草原に樹木が散生するサバンナ生態系に点在する生産力の高いパッチ状の草地は、地質学的要因・土壌要因・大型動物相・火事・シロアリにより生じた肥沃な土壌で成長します。移動性の牧畜民もまた、夜間家畜を囲いに入れることにより、周囲のサバンナでの放牧に由来する排泄物(栄養素)を集中させ、土壌肥沃度のホットスポットを生み出しています。歴史的な人為的ホットスポットはアフリカのサバンナにおいて、質の高い飼料を生産し、野生動物を誘引して、空間的不均一性を増大させています。考古学的な研究からは、この効果が少なくとも1000年前までさかのぼると示唆されていますが、1000年という規模での栄養の維持に関しては。ほとんど知られていません。

 本論文は、化学分析・同位体分析・堆積物分析を用いて、放射性炭素年代測定法による較正年代で3700〜1550年前頃となる、ケニア南西部の新石器時代の牧畜遺跡5ヶ所における遺跡内の分解された糞便堆積物には、周辺土壌よりもカルシウム・マグネシウム・リンなど栄養素が多く、高い窒素同位体(15N)濃縮が認められる、と明らかにします。これらは、放牧草食動物の排泄物の痕跡と一致します。こうした知見は、栄養ホットスポットの長い持続性と古代牧畜民の長期的な遺産を実証するとともに、こうした牧畜民の居住が3000年間にわたりアフリカのサバンナ景観を肥沃化し、多様化させてきたことを示しています。これまで草原に関しては、自由に歩き回る家畜の群れは景観破壊に関わっている、と考えられてきました。しかし、牧畜がアフリカのサバンナを豊かで多様にしてきた側面も明らかになったわけで、牧畜の拡大が環境の悪化と本質的に結びついている、という見解に疑問が呈されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】マラ-セレンゲティの「手付かずの」自然は数千年にわたる牧畜が築き上げたものだった

 マラ-セレンゲティのようなアフリカの草原は、数千年にわたって遊牧民によって支えられ、豊かになったことを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、マラ-セレンゲティを手付かずの自然のままのサバンナだとする従来の考え方に異論を唱えるものとなっている。

 草原は、大型の野生哺乳類集団に加えて、牧畜民とその家畜を支える上で重要な役割を果たしている。一方で、自由に歩き回る家畜の群れはこれまで、景観破壊に関わっていると考えられてきた。最近の研究では、家畜が一夜を過ごす囲いの中に堆積する畜産廃棄物が肥沃なホットスポットとなって植物の成長と草原の多様性を促進することで、景観を豊かなものにしていることが明らかになった。ただし、この効果がどれほど長く継続するかは、現在のところほとんど分かっていない。

 今回、Fiona Marshallたちの研究グループは、ケニア南西部のナロック郡にある3700〜1550年前の新石器時代のものとされる牧畜地(5カ所)で化学分析、同位体分析、および堆積物分析を行った。その結果、この牧畜地で見つかった分解された畜糞堆積物には、周辺の土壌に比べて栄養素(カルシウム、マグネシウム、リンなど)と重窒素同位体が多量に含まれており、またこの肥沃化が最長3000年間継続したことが判明した。この結果は、マラ-セレンゲティのようなアフリカのサバンナが、「手付かずの」ままの景観では決してなく、牧畜民の影響を数千年間受けてきたことを示唆している。

 以上の研究知見は、人間が作り上げた栄養素のホットスポットの重要性に関する生態学的研究に歴史的視点を導入するもので、牧畜の拡大が環境の悪化と本質的に結び付いているという考えに異を唱えている。



参考文献:
Marshall F. et al.(2018): Ancient herders enriched and restructured African grasslands. Nature, 561, 7723, 387–390.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0456-9
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後期更新世における氷床の後退

2018/09/20 18:49
 後期更新世における氷床の後退についての研究(Wilson et al., 2018)が公表されました。地質学的な過去の氷床の挙動解明は、気候システムにおける雪氷圏の役割を評価し、将来の温暖化シナリオにおける海水準上昇の速さと規模を予測するのに不可欠です。東南極氷床には、50 mを超える海水準上昇に相当する氷があり、過去の温暖な時期に、主要な区域のどこかが不安定化した可能性があるか否か、という問題が提起されています。地質データと氷床モデルは共に、東南極氷床の海洋を基部とする部分は、鮮新世の温暖期に不安定だったことを示していますが、後期更新世の間氷期における氷床ダイナミクスはきわめて不明確です。

 本論文は、温暖な後期更新世の間氷期において東南極のウィルクス氷底盆地の周辺の氷床外縁が後退もしくは薄化したことを示す、海洋の堆積学的記録と地球化学的記録から得られた証拠を提示しています。堆積物供給源の最も極端な変化は、氷床侵食の場所の変化を記録しており、南極の気温が2500年以上にわたって産業革命以前より2°C以上高かった、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・9・11の時期に生じていました。

 したがって、この知見から、長期にわたる南極の温暖期とウィルクス氷底盆地からの氷の損失との間の密接な関連が示され、温暖な間氷期における東南極氷床の縮小の海水準への寄与を裏づける、氷床隣接部のデータが得られました。東南極氷床の他の領域の挙動はまだ評価されていませんが、ウィルクス氷底盆地からの氷の損失に関しては、将来の穏やかな温暖化で充分な可能性がある、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:後期更新世の間氷期における東南極氷床からの氷の損失

気候科学:後期更新世における氷床の後退

 東南極氷床には、50 mを超える海水準上昇に相当する氷があり、過去の温暖な時期に、主要な区域のどこかが不安定化した可能性があるかどうかという問題が提起されている。今回D Wilsonたちは、後期更新世(この時代の気温は今後1世紀に予測されている気温と類似する)に、ウィルクス氷底盆地が後退したことを示している。今回の知見は、東南極からの大規模な氷床の減少が差し迫っていることを確証するものではないが、過去の高い気温に対する氷床の感度が高かったことを浮き彫りにしている。



参考文献:
Wilson DJ. et al.(2018): Ice loss from the East Antarctic Ice Sheet during late Pleistocene interglacials. Nature, 561, 7723, 383–386.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0501-8
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発毛促進の可能性があるビャクダン

2018/09/19 17:01
 ビャクダンが発毛を促進する可能性を報告した研究(Chéret et al., 2018)が公表されました。におい分子が鼻の特殊な細胞の表面にある嗅覚受容体により認識されると、においを感じるようになります。しかし、嗅覚受容体は体内の別の細胞にも発現しており、嗅覚以外の細胞機能を調節しています。この研究は、毛包上皮、とくに外毛根鞘に、嗅覚受容体OR2AT4が発現していることを明らかにしました。また、ヒトの頭皮組織外植片をサンダルウッド(ビャクダン)系合成香料で処理すると、毛包の角化細胞の細胞死が減り、外毛根鞘のタンパク質(インスリン様増殖因子1)の産生が増えることによって発毛が促進されることも明らかになりました。この研究は、脱毛の治療法を開発する上で、嗅覚受容体が標的となる可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【細胞生物学】ビャクダンは発毛を促進する可能性がある

 このほど実験室環境でヒトの頭皮組織を用いた実験で、サンダルウッド(ビャクダン)系合成香料によって発毛が促進されることを明らかにした論文が、今週掲載される。

 におい分子が鼻の特殊な細胞の表面にある嗅覚受容体によって認識されると、においを感じるようになる。しかし、嗅覚受容体は体内の別の細胞にも発現しており、嗅覚以外の細胞機能を調節している。

 今回、Ralf Pausたちの研究グループは、毛包上皮、特に外毛根鞘に嗅覚受容体OR2AT4が発現していることを見いだした。また、ヒトの頭皮組織外植片をサンダルウッド系合成香料で処理すると、毛包の角化細胞の細胞死が減り、外毛根鞘のタンパク質(インスリン様増殖因子1)の産生が増えることによって、発毛が促進されることを実証した。

 Pausたちは、脱毛の治療法を開発する上で、嗅覚受容体が標的となる可能性があると考えている



参考文献:
Chéret J. et al.(2018): Olfactory receptor OR2AT4 regulates human hair growth. Nature Communications, 9, 3624.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-05973-0
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妊娠中の母親のストレスによる仔への影響

2018/09/18 16:56
 妊娠中の母親のストレスによる仔への影響に関する研究(Jašarević et al., 2018)が公表されました。母体の膣液中に存在する微生物は、出生時に仔マウスの腸内に定着し、この腸内微生物叢(マイクロバイオーム)の組成が、その後に受けるストレスに対する仔の脳の応答に影響を及ぼします。マウスの場合には、出産前のストレスが母親の膣内微生物相を変化させ、雄の仔の出生後の脳機能に影響を及ぼすと知られていますが、この影響が微生物叢の変化の結果なのかどうか、明確になっていません。

 この研究は、ストレスを受けた妊娠マウスとストレスを受けていない妊娠マウスの膣液中の微生物を、帝王切開で生まれた直後の雄のマウス(出生前ストレスを受けたものと受けていないものの両方)に移植しました。その結果、子宮内でストレスにさらされた仔マウスとストレスを受けた母親の微生物相に出生時にさらされた仔マウスは、体重・腸内微生物相・ストレスホルモン濃度について、他のマウスと差がある、と明らかになりました。この研究は、これら影響の一部が、ストレスを受けていない雄の新生仔マウスに、ストレスを受けた母親の膣内微生物を移植することで再現できる、と明らかにしました。

 これに対して、ストレスを受けていない母親に由来する微生物を移植しても、子宮内でストレスにさらされた仔に生じた影響を解消できませんでした。このマウスの研究で得られた知見は、母親が妊娠中に受けたストレスが、出生前の仔に直接的に影響を及ぼすとともに、母親の膣内微生物相の変化により間接的に影響を及ぼすことも示しています。ヒトの場合、妊娠中の母親がストレスを受けることは、子の精神疾患のリスク因子ですが、このリスクが膣内微生物叢による影響なのか、明らかではありません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


妊娠中にストレスを受けた母マウスから仔に影響が及ぶ過程における母の膣内微生物の位置付け

 帝王切開で生まれた雄の新生仔マウスが、ストレスを受けた雌のマウスの膣内微生物にさらされた場合に、母親の体内でストレスを受けた雄の仔マウスに見られる生理状態の変化に一部類似した変化が観察されたことを報告する論文が、今週掲載される。この研究知見は、母体のストレスが発生に与える影響に関する理解の進展に道を開く可能性がある。

 母体の膣液中に存在する微生物は、出生時に仔マウスの腸内に定着し、この腸内マイクロバイオームの組成が、その後に受けるストレスに対する仔の脳の応答に影響を及ぼす。マウスの場合には、出産前のストレスが母親の膣内微生物相を変化させ、雄の仔の出生後の脳機能に影響を及ぼすことが知られているが、この影響が微生物叢の変化の結果なのかどうかは明確になっていない。

 今回、Tracy Baleたちの研究グループは、ストレスを受けた妊娠マウスとストレスを受けていない妊娠マウスの膣液中の微生物を、帝王切開で生まれた直後の雄のマウス(出生前ストレスを受けたものと受けていないものの両方)に移植した。その結果、子宮内でストレスにさらされた仔マウスとストレスを受けた母親の微生物相に出生時にさらされた仔マウスは、体重、腸内微生物相、ストレスホルモン濃度について、他のマウスと差があることが分かった。Baleたちは、この影響の一部が、ストレスを受けていない雄の新生仔マウスの雄にストレスを受けた母親の膣内微生物を移植することで再現できることを明らかにした。これに対して、ストレスを受けていない母親に由来する微生物を移植しても、子宮内でストレスにさらされた仔に生じた影響を解消できなかった。このマウスの研究で得られた知見は、母親が妊娠中に受けたストレスが、出生前の仔に直接的に影響を及ぼすとともに、母親の膣内微生物相の変化によって間接的に影響を及ぼすことも示している。ヒトの場合、妊娠中の母親がストレスを受けることは、子の精神疾患のリスク因子だが、このリスクが膣内微生物叢による影響なのかは明らかでない。



参考文献:
Jašarević E. et al.(2018): The maternal vaginal microbiome partially mediates the effects of prenatal stress on offspring gut and hypothalamus. Nature Neuroscience, 21, 8, 1061–1071.
https://doi.org/10.1038/s41593-018-0182-5
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人類の初期の出アフリカ

2018/09/17 11:22
 人類の出アフリカというと、現生人類(Homo sapiens)への関心が高そうですが、現生人類出現前に人類はアフリカから東南アジアにまで広範に拡散しており、人類の最初の出アフリカも注目されます。じゅうらい、人類の出アフリカは100万年前頃以降との見解が有力でしたが、その頃より、東南・東アジアにおける100万年以上前のホモ属の存在が主張されていました。この問題に関して大きな転機となったのは、ジョージア(グルジア)にあるドマニシ(Dmanisi)遺跡での、185万年前近くまでさかのぼるホモ属の痕跡だと思います(関連記事)。これにより、人類は遅くとも185万年前頃までにはアフリカからユーラシアへと拡散していたことが確定しました。

 次に問題となるのは、最初にアフリカからユーラシアへと拡散した人類はどの系統だったのか、ということです。人類の出アフリカは100万年前頃以降との見解が有力だった頃は、現代人よりも少ないとはいえ脳容量が増大し、首から下は現代人とさほど変わらなくなった、「真のホモ属」が初めてアフリカからユーラシアへと拡散した、と考えられていました。「真のホモ属」とは、広義のエレクトス(Homo erectus)およびその子孫系統の人類のことです。なお、アフリカの初期の「真のホモ属」を別種エルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。出アフリカのような「偉業」は、現代人並に長距離歩行能力が高くなり、現代人ほどではなくとも、一定以上、少なくともアウストラロピテクス属よりも「賢く」ないと無理だ、というわけです。

 しかし、ドマニシ遺跡の人類にはアウストラロピテクス属的な祖先的特徴と、ホモ属的な派生的特徴とが混在しており、その脳容量は546〜780㎤程度で、「真のホモ属」と分類するのに躊躇する見解があるのも不思議ではありません。ドマニシ人をホモ属の新種ジョルジクス(Homo georgicus)と分類する見解もあります。「真のホモ属」ではなくとも出アフリカは可能だったのではないか、というわけです。一方、「真のホモ属」が150万年以上前にアフリカから広範に拡散していた証拠も蓄積されつつあり、東南アジアではエレクトスと分類されるジャワ島の化石の年代が166万〜157万年前頃までさかのぼり(関連記事)、東アジアでは中華人民共和国陝西省藍田県で165万〜163万年前頃のエレクトスと分類される化石が発見されています(関連記事)。また、中国の河北省では、170万〜160万年前頃の石器が発見されています(関連記事)。

 これらの知見からは、「真のホモ属」やそうではない祖先的特徴の強いホモ属が、190万年前頃以降にアフリカからユーラシアへと拡散した、と考えられます。しかし今年(2018年)になって、陝西省藍田県で212万〜126万年前頃のほぼ連続した地層で石器が発見され、アフリカからユーラシアへの人類の拡散はさらにさかのぼる可能性が指摘されています(関連記事)。この212万年前頃までさかのぼる陝西省藍田県の石器群は、確実な人類の痕跡では近隣どころかユーラシアに近い年代のものがなく、現時点ではほぼ完全に孤立しています。どのような系統の人類が担い手なのか、どのようにアフリカから拡散してきたのか、不明というわけです。注目されるのは、同じ中国でもかなり離れているものの、重慶市巫山県竜骨坡(Longgupo)遺跡で、200万年以上前と推定される石器らしきものが発見されていることです(関連記事)。220万年前頃、あるいはもっと前より、アフリカからユーラシアへと人類が拡散した可能性には注目すべきでしょう。

 問題となるのは、そうだとして、どの系統の人類が最初にアフリカからユーラシアへと拡散したのか、ということです。すでに、ドマニシ遺跡の事例から、「真のホモ属」ではなくとも出アフリカが可能なことは示されていますし、220万年前頃にすでに「真のホモ属」が出現していた可能性は、無視してよいほどではないものの、かなり低いとは思います。その意味で、「真のホモ属」ではない系統が人類史上最初にアフリカからユーラシアへと拡散した可能性が高そうです。アフリカには230万年前頃にはホモ属的な人類が存在しており、一応ハビリス(Homo habilis)と分類されてはいるものの、アウストラロピテクス属と区分する見解もあるなど分類については一致せず、さらには、280万〜275万年前頃までさかのぼるホモ属的な特徴を有する化石もエチオピアで発見されました(関連記事)。

 おそらく、アフリカでは300万年前頃かそのもう少し前以降にホモ属的な特徴が出現し始め、アウストラロピテクス属的な祖先的特徴とホモ属的な派生的特徴との混在するハビリス的な人類系統が出現し、分岐・交雑などの複雑な過程を経て、200万〜190万年前頃に「真のホモ属」が出現したのだと思います。もっとも、「真のホモ属」の出現以降も、ハビリス的な人類系統は存在し続けました(関連記事)。300万〜200万年前頃、おそらくは250万年前頃以降に、すでに石器を用いていたハビリス的な人類系統(複数かもしれません)が、アフリカからユーラシアへと拡散したのでしょう。アフリカからユーラシアへと200万年以上前に拡散したハビリス的な人類系統は、現代人の主要な祖先系統ではなさそうですが、あるいはわずかに現代人に遺伝的影響を及ぼしているかもしれません。
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西アジアの没落

2018/09/17 11:19
 当ブログでは「発展」や「先進的」といった言葉を安易に用いないように心がけているつもりなのですが、以前からの思いつきを文章にするうえで便利なので、今回はあえて使います。題名を忘れましたが、以前図書館で少し読んだグローバルヒストリー系の本が、人類史においては基本的にユーラシア西部が優位で、ユーラシア東部の優位は10世紀〜16世紀の間くらいだった、と主張していました(正確には覚えていませんが)。ユーラシア東部とはいっても、実質的には東アジア、もっと限定的に言えば「中国」だったように記憶しています。

 確かに、絹や紙や火薬など、ユーラシア東部から西部への影響は少なからずありますし、ルネッサンスや近世ヨーロッパに東アジアというか「中国」が影響を与えたとの見解もあり、それはかなりの程度妥当なのでしょう。しかし結局のところ、総合的に見てそうした影響は限定的で、ユーラシア西部から東部への影響の方がその逆より圧倒的に強く、それは、人類史において基本的には、ユーラシア西部の方が東部より優位で先進的だったからなのでしょう。ユーラシア東部世界が西部世界に与えた最大の影響はおそらくモンゴル帝国の拡大で、これは人類史上では例外的と言えるかもしれません。

 更新世においても、少なくとも現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界への拡散以降、石器技術や象徴的表現において、ユーラシア西部の方が東部よりずっと先進的だった、と評価するのは妥当なところでしょう。もちろん、数万年後に痕跡の確認できる要素だけでの評価に危ういところがあるのは否定できませんし、今後新たな発見もあるでしょうが、この評価が覆る可能性はきわめて低いと思います。さらに言えば、現生人類の拡散前においても、石器技術の点でユーラシア西部は東部よりも先進的でした。これは、道具に用いる材料の違いも指摘されていますが、人口密度の違い(東部よりも西部の方が高い)に起因するのかもしれません。

 完新世になって、農耕と牧畜も西アジアの方が東アジアよりも早く始まっているのですが、おそらく農耕と牧畜は、世界の複数の地域で独自に始まった可能性が高いと思います(関連記事)。都市・金属器・文字の使用も東アジアより西アジアの方が早く、文字は東アジアで独自に開発された可能性が高そうではあるものの、金属器は西アジアの影響を受けた可能性が高いでしょう。農耕と都市の成立以降も、コムギやヒツジやスイギュウなど、西アジアをはじめとして西方からの新たな作物・家畜が中国社会に大きな影響を与えた可能性が指摘されています(関連記事)。仏教もそうですが、中国をはじめとして東アジア世界は、より先進的な西アジアを中心としてユーラシアの西方世界から多大な影響を受けて成立した、と考えるべきでしょう。

 近年、中国では伝統文化たる儒教の復権が目立つようですが、中国の経済・軍事・政治力が増大したとしても、儒教が広範な影響力を及ぼすのは難しいでしょう。儒教はリアルな人間関係に基づく教義しか有さない中原の土俗的な論理で、仏教の広汎さ・精妙さ・深奥さには及びもつかず、ある程度以上の普遍性はあっても、キリスト教・イスラム教・仏教には遠く及ばないからです(関連記事)。普遍性では、儒教よりも中世前期日本の神国思想の方が上回っているのではないか、とさえ思えます(関連記事)。

 近世、さらには近代になって、ユーラシア西部の一地域であるヨーロッパの優位が決定的となり、ユーラシア東部は大きな影響を受けます。このように、人類史において基本的にはユーラシア西部が東部よりも優位・先進的だったのですが、その例外だったかもしれない期間が、上述したように10世紀〜16世紀です。この前後で、ユーラシア東部、もっと限定して東アジア、さらに限定して中国にたいして優位に立っていたユーラシア西部世界の地域が、西アジアからヨーロッパに変わっています。つまり、相対的に見れば、10世紀頃にかけて東アジアが台頭するとともに、西アジアが没落し、ユーラシア西部世界では、中世から近世にかけて相対的にヨーロッパが台頭したわけです。

 東アジアの台頭と西アジアの没落は、江南の経済成長といった要素も大きかったのかもしれませんが、西アジア自体の停滞・衰退といった側面もあるかもしれません。これに関してよく言われるのは、古くから栄えた西アジアでは環境破壊が進み、経済が停滞した、という見解です。ヨーロッパでも中世には開発と環境破壊が進んだものの、アメリカ大陸を征服したことで没落を免れ、東アジアでは江南などの「フロンティア」で開発が進んで経済が成長したので、古くから栄えていたので「フロンティア」がほぼ消滅していた西アジアは相対的に没落していった、というわけです。

 私は、西アジアの相対的没落はイスラム教の拡大と関連しているのではないか、と考えているのですが、思いつきにすぎないことは否定できません。イスラム教には技術革新や経済成長を妨げる要素が少なからずあるのではないか、というわけです。こんなことを言うと、イスラム教世界は先進的だったと指摘されそうですが、それはイスラム教に先進的要素があるというよりは、単にイスラム教の征服した地域が当時先進的だったにすぎないと思います。イスラム教には、技術革新や学術など広く文化の発展という点では阻害要因になる場合が多く、それは儒教にも通ずるものがあると思います。しかし、社会を維持するうえでイスラム教や儒教が有効なのは否定できません。とくに、現代の先進諸国の規範となっている「政治的正しさ」と比較すると、社会の維持においてイスラム教や儒教がずっと有効だと私は確信しています。

 前置きが長くなったというか、ほぼ前置きになってしまいましたが、以下が本題というか言いたかったことです。西アジアの没落に関しては、環境破壊の一例ともなりそうですが、青木健『アーリア人』にて興味深い見解が提示されています(関連記事)。同書では、サーサーン王朝下では、メソポタミア平原〜イラン高原の中間地帯で集中的な開墾が始まり、紀元前3000年から続くメソポタミア平原の長い歴史のなかでも、サーサーン王朝の時代が農業生産力の最盛期だった、と評価されています。しかし、6世紀からメソポタミア平原の土壌は疲弊していき、7世紀前半にサーサーン王朝がビザンティン帝国(東ローマ帝国)相手に戦争を仕掛けると、その最中の628年にティグリス河で大氾濫が発生してメソポタミア平原の灌漑設備は破壊され、農業生産力は凋落の一途をたどります。これ以降現在にいたるまで、メソポタミア平原の灌漑設備は再建されず、西アジアの経済は衰退していった、と同書は指摘しています。

 同書の評価が的確なのか、私の見識では判断の難しいところですが、西アジアの相対的没落の一因が628年のティグリス河大氾濫だったと考えると、その後の人類史の展開を整合的に解釈できるように思えます。なお同書では、サーサーン王朝は(統一時代の)ローマ帝国やビザンティン帝国や唐と並び立つ超大国ではなく、メソポタミア平原からの税収とイラン高原からの軍事力に依拠する脆弱な国家だったので、ビザンティン帝国との戦いには無理があり、ティグリス河での大氾濫による灌漑設備の破壊で実質的に滅亡した、と指摘されています。
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大河ドラマ『西郷どん』第35回「戦の鬼」

2018/09/16 20:46
 徳川(一橋)慶喜の大政奉還をめぐって、慶喜は本心では政権を返上するつもりはなく、断固として討つべし、と主張する西郷吉之助(隆盛)と、それは内戦になるとして反対する坂本龍馬とは激しく対立し、決別します。慶喜は、公家に政権を運営できるはずがないとして、依然として自分が政権を把握し続けるつもりでした。作中世界では、慶喜との関係が深い吉之助の方が慶喜の真意を見抜いていた、という話になっています。まあ、幕末に詳しい人からすると、この時期の吉之助と龍馬の間に深刻な政治構想の対立を想定することは問題なのかもしれませんが、吉之助と慶喜との関係が前半から描かれてきたことを活かした展開になっており、娯楽ドラマとしては有だと思います。吉之助は挙兵準備のため薩摩に帰り、島津久光・茂久(忠義)父子を説得した後、京都に戻ります。吉之助はそこで、坂本龍馬と中岡慎太郎が殺されたことを知ります。吉之助は龍馬の死にも自分の信念を曲げることなく、幕府を挑発して討幕に動くべく工作を指示します。

 一方で吉之助と大久保一蔵(正助、利通)は朝廷工作も進め、岩倉具視の助力も得て王政復古の大号令まで事態は進みます。続いて、小御所会議で吉之助と一蔵は岩倉の助力を得て慶喜を完全に追放しようとしますが、山内容堂や松平春嶽、さらには公家衆の多くも慶喜の完全追放には抵抗します。吉之助が御所の前に立っていることを知った松平容保と松平定敬は、吉之助を撃って殺すよう慶喜に進言しますが、自分は朝敵になりたくない、と慶喜は拒絶します。小御所会議が自分たちの思うように進んでいないことを知った吉之助は、容堂の前でわざと脅迫するようなことを一蔵に言います。容堂は沈黙し、慶喜は新政府から排除されることになります。京都から大坂へと退去した慶喜は、江戸での薩摩藩の挑発に憤る松平容保を抑え、薩摩藩の挑発に乗らないようにしますが、制御しきれず、ついに新政府軍と旧幕府軍との戦いが始まります。吉之助は薩摩藩の兵の前で、慶喜の首を取るのが目的だ、と力強く宣言します。これまで戦いを避けてきた吉之助が好戦的になったことに弟の信吾(従道)は戸惑い、吉之助を問い質しますが、吉之助は動じず、日本を異国に売り払おうとする慶喜を討つしかない、と弟に告げます。

 今回は大政奉還の直後から鳥羽伏見の戦いの直前という、幕末の大激動期が描かれ、さすがに前回と比較すると丁寧だったと思います。戦いを避けることに命をかけることさえあった吉之助が、話のうえでは短期間で戦いも謀略も厭わなくなったことに戸惑う視聴者は少なくないかもしれませんが、信吾の台詞はそれを予想・意識したものだったように思います。一応、安政の大獄以前から、吉之助と慶喜の関わりの深さや、慶喜が本質的には頼りにならない人物であることは描かれていたので、慶喜の本質を見抜いている吉之助が、日本を異国に売ろうとする慶喜を絶対に許せないと考えるのは、そこまで不自然ではないかな、と思います。少なくとも、吉之助と慶喜の関係は、娯楽歴史ドラマとしてわりとよく描けているのではないか、と思います。吉之助が、すでに多少なりとも面識のある勝安房守(麟太郎、海舟)や、もっと深い縁で結ばれている天璋院(於一、篤姫)との関わりのなかで、どう慶喜を許す(とはいっても、殺さないだけで蟄居に追い込むわけですが)のか、注目されます。
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本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』第3刷

2018/09/16 05:53
 2018年5月にPHP研究所より刊行されました。第1刷の刊行は2018年3月です。本書は王政期から滅亡へといたるローマ史を時系列で語りつつ、通史というよりは、王政期から滅亡までのローマの歴史を規定した要因を探るという、問題史としての性格を強く打ち出しています。初期ローマであれば、同じ地中海地域の都市国家として始まりながら、なぜローマとギリシアは異なる政治体制を選択したのか、といった問題です。著者の他の著書を読んでいれば、目新しい点はあまりないかもしれませんが、相変わらず読みやすく、ローマの歴史的展開の背景に関する考察は興味深いものですし、ローマ史の復習にもなります。楽しく読み進められました。

 民主政に進んだギリシア(アテネ)と、共和政に進んだローマの違いは、構成員たる市民間の格差が比較的少なく平等だったギリシア(もちろん奴隷はおり、居住民の間の格差は大きかったわけですが)と、当初より格差の存在したローマという、社会構造の違いが大きかったのではないか、と指摘されています。本書は、ギリシアを「村落社会」、ローマを「氏族社会」と呼んでいます。ローマが大国になれてギリシア(アテネ)が大国になれなかった理由としては、ギリシアが独裁・貴族政・民主政という政体の三要素のどこかに偏り過ぎたのにたいして、ローマは共和政のなかに独裁(二人の執政官、時として独裁官)・貴族政(元老院)・民主政(民会)の要素をバランスよく含んでいたからだ、と指摘されています。

 また、ローマが大国になれた要因として、「公」への意識、つまり祖国ローマへの強い帰属意識があったことも重視されています。貴族層では「父祖の遺風」、平民層では「敬虔なる信仰心」がその背景にあった、と本書は指摘します。ローマ市民は、同時代の他地域の人々からは、敬虔だと思われていました。このような意識に基づき、何度も負けては立ち上がり、他国を征服していった共和政期ローマを、「共和政ファシズム」と呼んでいます。

 500年にわたって共和政を維持してきたローマが帝政へと移行した背景として本書が重視するのは、ローマ市民の意識の変容です。支配地が増え、平民は重い軍役で没落する一方、元老院を構成する貴族層は征服地の拡大により富裕になっていき、貧富の差が拡大します。この階級闘争的な過程で、「公」よりも自己愛・身内愛といった「個」を優先する意識が強くなっていきます。それと同時に、ローマにおいて以前から存在した、有力者によるより下層の人々の保護という、保護者(パトロヌス)と被保護者(クリエンテス)との関係が拡大・強化されていきます。これが、ポエニ戦争後100年以上にわたる内乱の一世紀およびその後の帝政の基盤になった、と本書は指摘します。この保護者と被保護者の関係が、最終的には頂点に立つ一人の人物たる皇帝に収斂される、というわけです。

 帝政期も当初は暴君がたびたび出現して混乱しますが、いわゆる五賢帝の時代には安定し、ローマの領土も最大となります。本書は、プラトンが唱えた「賢者による独裁」という理想に最も近い事例として、この五賢帝を挙げています。五賢帝の時代が終焉し、セウェルス朝を経てローマは軍人皇帝時代を迎えます。しかし本書は、軍人皇帝時代は単なる混乱期ではなく、分割統治・皇帝直属の機動軍の創設といった改革が模索され、進んだ時期とも把握し、在位期間が短く多くが殺害された皇帝たちのなかで、ウァレリアヌスとガリエス父子やアウレリアヌスのように、高く評価されるべき皇帝がいたことも指摘しています。本書は軍人皇帝時代の特徴として、支配層が変容していったことも指摘しています。ローマの支配層は当初、古くから続く元老院貴族でした。内乱の一世紀〜帝政初期にかけて、イタリアの新興貴族層が台頭し、帝政の支持基盤となります。軍人皇帝時代には、それまでの文人的な元老院貴族から武人層へと政治的主導権が移っていった、というのが本書の見通しです。軍人皇帝時代の諸改革の延長戦上に、ディオクレティアヌスによる安定があったのでしょう。

 軍人皇帝時代を経て専制君主政期になると、ローマ帝国においてキリスト教が確固たる基盤を築き、やがて現在のような大宗教にまで拡大します。本書はローマ帝国においてキリスト教が普及した理由として、社会下層からじょじょに広がったというよりも、皇帝による保護の方が大きかったのではないか、と指摘しています。キリスト教が国教化されてすぐ、ローマ帝国は分割され、二度と再統一されることはありませんでした。西ローマが分割後100年も経たずに滅亡したのにたいして、東ローマが1000年以上続いた理由として、西ローマでは都市が衰退していたのにたいして、東ローマでは都市が衰退していなかったからだ、と本書は指摘します。東ローマは西ローマよりも経済状況がよかったから長期にわたって存続したのだ、というわけです。

 このように、ローマ帝国は東西に分裂したと言われますが、本書はもっと長い視点でローマ帝国の分裂を把握しています。ローマ帝国は、オリエント・ギリシア・ラテンという三つの世界を統合しました。ローマ帝国の分裂後、これらの地域は最終的に、イスラム教・ギリシア正教・カトリックに分裂していきます。ローマ帝国の統合前と分裂後の各地域はおおむね対応しているのではないか、というわけです。本書はその要因として、言語の違いを挙げています。オリエント世界のセム語系・ギリシア世界のギリシア語・ラテン世界のラテン語および後に加わったゲルマン語です。

 ローマ帝国の滅亡に関して、本書は単なる衰亡ではなく、三つの側面から把握しています。一つは伝統的な史観とも言える経済的衰退で、社会資本が劣化していきます。本書はその背景として、奴隷制社会では奴隷に面倒なことをやらせるので、技術革新・経済成長への動機が乏しくなりがちであることを挙げています。次に、こちらも伝統的な史観と親和的と言える、国家の衰退です。本書はこの過程を、皇帝権力の低下→異民族の侵入→軍隊の強化→徴税強化による皇帝権力の低下という悪循環で把握しています。最後に、文明の変質です。本書はこれを、人々の意識が共同体から個人へと変容し、弱者を切り捨てるような平等な個人間の関係から、強者による弱者の保護を前提とする社会への変容と把握しています。本書はローマ帝国の分裂・滅亡を、単なる衰退ではなく、人々が異なる価値観を受け入れて時代に対応していった、古代末期という概念で把握すべきではないか、と提言しています。
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さかのぼるマダガスカル島における人類の痕跡

2018/09/15 11:29
 マダガスカル島における人類の痕跡は有力説よりさかのぼるかもしれない、と指摘した研究(Hansford et al., 2018)が報道されました。これまで、マダガスカル島への人類の到達は後期更新世になってからで、遅くとも2500年前までにはさかのぼる、とされていました。2400年以上前のキツネザルの骨には人為的な屠殺の痕跡が見られ、北部で発見された少数の細石器は4000年以上前と推定されています。ただ、アフリカ南部および東部のものと形態が類似したこれらの細石器の年代に関しては、直接的ではないことと、光刺激ルミネッセンス法(OSL)と放射性炭素測定法との間で年代が一致しない場合もあることから、確定的ではないとされています。マダガスカル島における人類の定住の考古学的証拠は1300年前から継続し、海岸の大半の居住は900年前から確認されています。考古学・遺伝学・言語学的データはすべて、マダガスカル島の住民は基本的にオーストロネシア人とアフリカ東部の人類集団に起源がある、と示しています(関連記事)。

 マダガスカル島における後期完新世人類到達説は、大型動物の絶滅の関連でも支持されています。完新世のマダガスカル島にはかつて、巨大キツネザル・カバ・ゾウガメ・巨大鳥などの大型動物が存在していましたが、体重10kg以上の動物は絶滅しました。これら大型動物の絶滅年代はすべて、2400〜500年前頃と推定されており、人類の関与が想定されています。おそらく、マダガスカル島における大型動物の絶滅要因として、(卵の採集も含めて)狩猟など人類の活動の影響は大きかったと推測されますが、その程度について詳細は不明で、環境変動との関連も想定されます。また、湖底堆積物コアからは、マダガスカル島において後期完新世にかなりの生態系の変化が示唆されており、これも後期完新世人類到達説と整合的と言えるかもしれません。

 しかし本論文は、マダガスカル島の2ヶ所の地点で発見された、死亡前後の骨に加撃痕(chop mark)や解体痕(cut mark)や陥没骨折(depression fractures)といった人為的痕跡の見られる大型鳥の放射性炭素測定法による較正年代を報告し、後期完新世人類到達説に疑問を呈しています。対象となったのは、一方の場所で10721〜10511年前のエピオルニス(Aepyornis maximus)で、もう一方の場所では6415〜6282年前となる同じ科の別の大型鳥(Mullerornis sp.)です。マダガスカル島における人類の痕跡は、じゅうらいの有力説よりも、少なくとも6000年以上さかのぼることになります。

 本論文は、マダガスカル島における人類の到達が初期完新世となる1万年前頃までさかのぼるとすれば、人類と後に絶滅した大型動物との共存期間がじゅうらいの想定よりもずっと長くなる、と指摘します。じゅうらいは、たとえば人類の最初の到達から150年以内に絶滅したと推測されているニュージーランドのモアのように、マダガスカル島でも、人類の到達から比較的短い期間で大型動物が絶滅し、それは人類の関与が要因だった、と考えられていました。しかし、マダガスカル島における人類の居住が1万年以上前までさかのぼり、かりに居住が継続的だったとしたら、大型動物絶滅の様相は異なったものだった可能性があります。完新世のほとんどの期間で、絶滅した大型動物にたいして、人類はさほど悪影響を及ぼしていなかったことになるわけです。

 一方、マダガスカル島に1万年以上前から人類が存在したとすれば、なぜその痕跡がこれまで確認されなかったのか、また初期完新世の人類はどこから来て、マダガスカル島や他地域の現代の人々とどのような関係があるのか、またはないのか、といった新たな問題が生じます。本論文は、マダガスカル島において前期完新世の人類の痕跡が考古学的に検出されてこなかった要因として、マダガスカル島の考古学的調査が開地遺跡に比較的集中しており、前期完新世の堆積層は稀にしか検証されてこなかったので、前期完新世の人類の存在が見逃されてきた可能性を指摘しています。また本論文は、前期完新世のマダガスカル島の人類はモザンビーク海峡を横断した短期間の移住民なので、考古学的痕跡が発見されにくい、という可能性も提示しています。これらの問題の解明には、今後の発掘調査を俟たねばならないのでしょう。

 マダガスカル島の初期完新世の人類の起源も不明です。かりに、上述した短期間滞在説が妥当だとすると、アフリカ東部説が正しそうですが、人類遺骸の発見は期待できそうにないだけに、石器など遺物の発見と分析・比較が解明の手がかりになりそうです。かりに、マダガスカル島において初期完新世からかなりの期間継続的に人類の居住があったとすると、その起源はアフリカ東部である可能性が高そうではあるものの、マダガスカル島や他地域の現代の人々とどのような関係があるのか、またはないのか、といった問題も注目されます。

 現時点では、遺伝学的研究からは、マダガスカル島の住民に初期完新世に移住してきた人類の影響が残っている、との知見は得られていませんが、あるいは今後、こうした観点から検証が進めば、マダガスカル島において、初期完新世人類集団が現代人に遺伝的影響を及ぼしている可能性も、指摘されるようになるのかもしれません。もちろん、マダガスカル島の初期完新世人類集団が、ある程度の期間マダガスカル島に継続して居住したとしても、どこかの時点で絶滅したか、アフリカ東部やその他の地域に移住した可能性も考えられます。マダガスカル島の人類史は今後大きく修正されるかもしれず、研究の進展が注目されます。


参考文献:
Hansford J. et al.(2018): Early Holocene human presence in Madagascar evidenced by exploitation of avian megafauna. Science Advances, 4, 9, eaat6925.
http://doi.org/10.1126/sciadv.aat6925
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プラスチック汚染によるウミガメへの影響

2018/09/14 16:43
 プラスチック汚染によるウミガメへの影響に関する研究(Wilcox et al., 2018)が公表されました。この研究は、ウミガメの剖検246例と、座礁データベースに登録された剖検記録706件のデータを調べました。その結果、幼若個体は成体よりもプラスチック摂取量が多く、消化管に残存するプラスチックの量は死因により異なる、と明らかになりました。プラスチック摂取量は、死因不明の場合が最も少なく、それに次いで少ない死因は、プラスチック関連でなかった場合(船との衝突や溺死など)でした。一方、プラスチック摂取量が最多だったのは、プラスチック摂取が死因の場合でした。246の剖検例のうち、体内にプラスチックが見つかったのは、幼若個体で23%、孵化個体で54%なのにたいして、亜成体では15%、成体では16%でした。また、体内に見つかったプラスチックの数量は1〜329個と幅があり、重量は最大10.41グラムでした。

 以上の知見から、採餌場所と生活史の段階がウミガメの死亡リスクに影響を及ぼす可能性が示唆されています。若齢個体は海流に乗って海を漂い、沿岸海域の海面に近い所で餌を得る傾向があり、そうした場所の方が、ウミガメの消化管に蓄積したり消化管穿孔を引き起こしたりする恐れのあるプラスチック製品で汚染されている可能性が高い、というわけです。この研究は、ウミガメのプラスチック摂取量と死亡リスクの関係のモデルとして、ウミガメの甲羅の長さおよび年齢に関して、プラスチックの摂取数量を考慮に入れたモデルが最良である、と見いだしました。この研究が作成したモデルは、世界的に特に沿岸海域で減少しつつあるウミガメの個体数にたいして、プラスチック汚染がもたらすリスクの定量化に向けた第一歩と言えます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】プラスチック汚染がウミガメにもたらすリスクは若齢の個体ほど大きい

 ウミガメがプラスチックの摂取によって死亡するリスクは、成体より若齢個体(幼若個体と孵化個体)の方が大きいことを報告する論文が、今週掲載される。

 今回、Britta Denise Hardestyたちの研究グループは、ウミガメの剖検246例と座礁データベースに登録された剖検記録706件のデータを調べた。その結果、幼若個体は成体よりもプラスチック摂取量が多いこと、そして消化管に残存するプラスチックの量は死因によって異なることが明らかになった。プラスチック摂取量は、死因不明の場合が最も少なく、死因がプラスチック関連でなかった場合(船との衝突、溺死など)がそれに次いで少なかった。一方、プラスチック摂取量が最多だったのは、プラスチック摂取が死因の場合だった。246の剖検例のうち、体内にプラスチックが見つかったのは幼若個体で23%、孵化個体で54%であるのに対し、亜成体では15%、成体では16%だった。また、体内に見つかったプラスチックの数量は1〜329個と幅があり、重量は最大10.41グラムだった。以上の知見から、採餌場所と生活史の段階がウミガメの死亡リスクに影響を及ぼす可能性が示唆される。若齢個体は海流に乗って海を漂い、沿岸海域の海面に近い所で餌を得る傾向があり、そうした場所の方が、ウミガメの消化管に蓄積したり消化管穿孔を引き起こしたりする恐れのあるプラスチック製品で汚染されている可能性が高いのだ。

 Hardestyたちは、ウミガメのプラスチック摂取量と死亡リスクの関係のモデルとして、ウミガメの甲羅の長さと年齢に関してプラスチックの摂取数量を考慮に入れたモデルが最良であることを見いだした。Hardestyたちが作成したモデルは、世界的に特に沿岸海域で減少しつつあるウミガメの個体数に対してプラスチック汚染がもたらすリスクの定量化に向けた第一歩と言える。



参考文献:
Wilcox C. et al.(2018): A quantitative analysis linking sea turtle mortality and plastic debris ingestion. Scientific Reports, 8, 12536.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-30038-z
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73000年前頃の描画(追記有)

2018/09/13 17:43
 73000年前頃の描画に関する研究(Henshilwood et al., 2018)が報道されました(報道1および報道2)。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。抽象的な描画は、装飾品などと共に「現代的な」認知能力および行動の指標となります。以前は、そうした指標の出現は現生人類が4万年前頃に拡散した後のヨーロッパで始まる、と考えられていました。しかし現在では、5万年以上前のそうした指標が、アフリカを中心にユーラシアでも確認されており、さらには、現生人類(Homo sapiens)だけではなくネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)にも、そうした指標の一部が確認されています。

 本論文は、そうした指標の新たな一例となる、南アフリカ共和国のブロンボス洞窟(Blombos Cave)で発見された、73000年前頃の長さ4cmとなる珪質礫岩の剥片を報告しています。この小剥片には、赤いオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)で6本の線と3本の線による斜交平行模様が描かれていました。こうした模様は線刻でも見られ、しかも73000年以上前のものもあります。たとえば、ジャワ島の43万年以上前の貝で線刻が確認されており、ホモ属でも現生人類やネアンデルタール人ではなくエレクトス(Homo erectus)の所産と考えられています(関連記事)。73000年前よりは新しいものの、イベリア半島(関連記事)やクリミア半島(関連記事)ではネアンデルタール人の所産と考えられる線刻が確認されています。

 一般的に、線刻の場合は肉を切り落とすなど他の行為の副産物にすぎない可能性もありますが、描画はむしろ意図的であることを否定するのが難しいと言えるでしょう。ブロンボス洞窟の小剥片の9本の線も、描画微視的・化学的・摩擦学的分析により、先端の幅が約1〜3mmの尖ったオーカー片により描かれた意図的なものと判断されました。また、これらの線は小剥片の端で途切れており、大きな石(もしくは岩)の上に描かれた、もっと複雑な模様だった可能性も指摘されています。また、オーカーは顔料としてだけではなく、日焼け止めとしても用いられたと推測されています。

 これは、描画としては現時点では世界最古の事例となります。これに近い年代の描画としては、一部が66000年以上前までさかのぼりそうなイベリア半島の洞窟壁画が知られており、ネアンデルタール人の所産と考えられています( 関連記事)。ただ、上記の報道1でも指摘されているように、この年代に疑問を呈する見解も提示されており、あるいはネアンデルタール人の所産ではないかもしれません。その次に古い描画は4万年前頃以降となり、相互に遠く離れたイベリア半島(関連記事)とインドネシアのスラウェシ島(関連記事)の洞窟で発見されています。ネアンデルタール人の所産とされているイベリア半島の洞窟壁画の事例を除けば、このブロンボス洞窟の小剥片の線は、抽象的な描画としては、現時点ではそれに次ぐ古さのものより3万年以上古いことになります。

 すでにブロンボス洞窟では、この線の描かれた小剥片と同じスティルベイ(Still Bay)複合技術の石器と関連する層で、象徴的思考など「現代的な」認知能力の指標となるような遺物が発見されています。たとえば、貝製のビーズや幾何学模様の刻まれたオーカーです。こうした幾何学的な線の模様は、オーカーに刻まれたり石に描かれたりしていたわけで、さまざまな媒体にさまざまな技術で抽象的な表現が描かれていたことになり、初期現生人類の「現代的」認知能力の新たな事例になるとともに、柔軟性を示している、とも言えるかもしれません。

 問題となるのは、7万年以上前には抽象的な幾何学模様は描かれていたものの、形象的表現はまだ見られないことです。上述の6万年以上前のイベリア半島の洞窟壁画を認めるとしても、形象的な壁画の年代はまだ不明です。現時点では、年代の確実な形象的表現は4万年前頃以降にしか確認されておらず、しかも近い年代に、相互に遠く離れたヨーロッパ西部と東南アジアで出現します。現生人類はこうした形象的表現を各地で独自に開発したのか、それともアフリカにおいて、もしくはアフリカからの拡散経路のどこかで開発して広まったのか、今後の研究の進展が注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】ヒトが初めて描いたのは石器時代の「ハッシュタグ」?

 ヒトによる最古の描画とされる赤い斜交平行模様が南アフリカ共和国で出土したことを報告する論文が、今週掲載される。

 南アフリカ共和国のケープタウンの東方の南海岸沿いにあるブロンボス洞窟では、行動的現生人類の文化活動を示す最古の証拠の一部が見つかっている。この洞窟では、10万〜7万年前のものとされる初期人類の人工遺物が大量に発見されており、例えば、貝殻ビーズ、彫り込みのある黄土土器の破片、予熱されたシルクリート(砂と礫が膠結してできたきめの細かい礫岩)から作られた道具がある。

 今回、Christopher Henshilwoodたちの研究グループは、研削されて表面が滑らかになったシルクリートの薄片に6本の線と3本の線による斜交平行模様が、赤色オーカー顔料で意図的に描かれていたことを発見したと報告している。これらの線は、薄片の端で途切れており、もっと大きな薄片上に描かれた模様の一部であったことが示唆されており、模様全体は、もっと複雑なものであった可能性がある。Henshilwoodたちは、この模様を再現する実験を行い、その結果に基づいて、先端の幅が約1〜3ミリメートルというとがったオーカークレヨンを使って描かれたという結論を導き出した。

 この描画が出土したブロンボス洞窟内の73000年前の堆積層からは、これまでに彫り込みのある黄土土器の破片が発見されており、この描画は、アフリカ、ヨーロッパ、東南アジアで発見されている抽象的描画や図形的描画を少なくとも3万年さかのぼる。今回の研究で得られた知見は、アフリカ南部の初期ホモ・サピエンスがいろいろな手法でさまざまな媒体を使ったグラフィックデザインを行う能力を有していたことを実証している。



参考文献:
Henshilwood CS. et al.(2018): An abstract drawing from the 73,000-year-old levels at Blombos Cave, South Africa. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0514-3


追記(2018年9月15日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。
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段階的に発達してきた植物の根

2018/09/13 17:41
 植物の根の進化に関する研究(Hetherington, and Dolan., 2018)が公表されました。根は維管束植物の体を構成する3つの器官系の1つで、体の固着・共生・栄養や水の吸収において役割を担っています。しかし、化石記録は断片的なものしかないため、根の起源は定かではなく、現生植物の根を定義づける唯一の特徴である、分裂組織(根端部が根冠に覆われた自己複製構造体)と呼ばれる自己複製構造の存在がいつ進化したのか、特定は困難です。

 本論文は、スコットランドにある、現時点では最古の陸上生態系である約4億700万年前の堆積層ライニーチャートを調査しました。ライニーチャートには現在知られている最古の陸域生態系の化石が含まれており、その保存状態はきわめて良好です。このライニーチャートからは、植物・地衣類・さまざまな節足動物の化石が見つかっています。本論文は、ライニーチャートにおいて最古となる発根軸(rooting axis)の分裂組織を複数発見した、と報告しています。これらの分裂組織は小葉類のヒカゲノカズラ網の植物(Asteroxylon mackiei)のもので、根冠を欠くものの、代わりに分裂組織の表面を覆う連続的な表皮が発達していました。

 現生ヒカゲノカズラ網を代表する植物としては、ヒカゲノカズラや、他の真葉植物より早く分岐した系統である、維管束植物(体内で水や栄養を移動させる組織を有する植物)があります。A. mackieiの発根軸および分裂組織は、根毛も根冠もなく、表面組織の連続層で覆われており、維管束植物の中でも特殊と明らかになりました。これは、現生の維管束植物では根冠の存在により定義される根が、維管束植物系統においてより遅くに現れた新機軸だった、との仮説を支持しています。

 したがって、根は段階的な様式で獲得された形質と考えられます。小葉類における根冠を有する根の比較的遅い起源は、根が単一の起源を持つのではなく複数回にわたって進化を遂げたとする仮説と一致し、小葉類の根と真葉類の根の間に見られる広範な類似性は、収斂進化の例と言えます。移行的な発根器官を有するA. mackieiの系統発生学的な位置は、根を持たない初期に分岐した陸上植物と発達した根を持つ派生的な植物との間にあり、この重要な位置づけは、植物の進化の過程で根がどのように「組み立てられた」のか、明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】現代の植物の根の特徴は段階的に発達してきた

 現在のような植物の根になるまでに少なくとも2度の進化が起こっており、根の特徴的性質は徐々に発達してきたことを報告する論文が、今週掲載される。この結論は、現在知られている最古の陸域生態系で発見された移行期の根の化石から導き出された。

 現生植物の根を定義付ける特徴は、分裂組織(根端部が根冠に覆われた自己複製構造体)であることだが、断片的な化石記録から根の分裂組織を見つけ出すのは難しく、根の進化的起源を解明することが難題になっている。

 今回、Sandy HetheringtonとLiam Dolanは、アバディーンシャー(英国スコットランド)にある4億700万年前の堆積層ライニーチャートを調べた。ライニーチャートには、現在知られている最古の陸域生態系の化石が含まれており、その保存状態は極めて良好だ。このライニーチャートからは、植物、地衣類、およびさまざまな節足動物の化石が見つかっている。著者たちは、ライニーチャートで出土した化石試料を顕微鏡で観察し、ヒカゲノカズラ網の植物Asteroxylon mackieiの根の分裂組織を発見した。現生するヒカゲノカズラ網を代表する植物としては、ヒカゲノカズラや、他の高等植物(真葉植物)より早く分岐した系統である維管束植物(体内で水や栄養を移動させる組織を有する植物)がある。

 著者たちは、A. mackieiの分裂組織には根毛も根冠もなく、表面組織の連続層で覆われていることを明らかにしている。A. mackieiの根のこうした構造は、維管束植物の中でも独特なものだ。著者たちは、A. mackieiの根が、現代の維管束植物の根に至る移行期のものと結論付け、この根冠のない移行期の構造がヒカゲノカズラ網植物で既に出現していたことを理由として、ヒカゲノカズラ網植物と真葉植物において、根冠のある根が、根を持たない共通祖先からそれぞれ独自に進化したとする学説を支持している。



参考文献:
Hetherington AJ, and Dolan L.(2018): Stepwise and independent origins of roots among land plants. Nature, 561, 7722, 235–238.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0445-z
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ランゴバルド人のゲノム解析

2018/09/12 18:49
 ランゴバルド人のゲノム解析に関する研究(Amorim et al., 2018)が報道されました。ヨーロッパ西部は3世紀から10世紀にかけて、西ローマ帝国の崩壊と、その後の諸集団の「大移動」により、大きな社会文化的・経済的変容を経験しました。しかし、「蛮族」と呼ばれる諸集団の「大移動」やその社会的構造などに関しては、主体者の諸集団が基本的には文献を残しておらず、残された文献も、簡潔だったり、偏見に満ちていたり、時には数世紀後に書かれたりしているため、考古学的記録、おもには墓地の副葬品に依拠して研究が進められてきました。そのため、この時期のヨーロッパ西部に関しては不明な点が多く、議論が激しく続いています。

 このような「大移動」の担い手の諸集団の一つにランゴバルド人がおり、現代のハンガリーも含むパンノニアからイタリアへと侵攻し、紀元後568年にイタリアで王国を建て、イタリアの大半を支配したこの王国は774年まで継続しました。ランゴバルドは、「大移動」の担い手の諸集団のなかでは、比較的多くの文献が残っています。本論文は、考古学的にランゴバルド人との関連が指摘されている、6〜7世紀の2ヶ所の共同墓地の被葬者63人のゲノムを解析し、また同位体も分析しました。本論文が調査した墓地は、当時のパンノニアに位置するハンガリーのソラッド(Szólád)遺跡と、イタリア北西部のコレーニヨ(Collegno)遺跡です。

 ソラッドとコレーニヨの被葬者はともに、遺伝的には現代ヨーロッパ人の範囲に収まります。しかし、両墓地の被葬者は現代の特定の国の住民と深い関係にあるわけではなく、多様な遺伝的分散を示し、本論文は両墓地の被葬者の遺伝的構成を、おもにヨーロッパ北部および中央部系統(以下、北部系統と省略)とヨーロッパ南部系統とに分けています。被葬者はおもに、北部または南部系統の強い個体(70%以上)、やや北部または南部系統の強い個体(50〜70%)に分類されます。本論文のゲノムデータ解像度からは、ヨーロッパ中央部・北部系統をさらに細分化することは困難です。Y染色体のハプログループは、常染色体から推測される地域のパターンとおおむね一致します。

 ソラッドの共同墓地には45の墓があり、考古学的および同位体分析から、ランゴバルド期に遊動的な集団により20〜30年ほど使われたにすぎない、と推測されています。男女比は1:0.65です。ソラッドでは、ゲノムデータから推測される系譜関係と副葬品と墓の位置から、中核的な1家系が存在したと推測されています。この中核的な1家系は3世代にわたっており、10人中8人は男性で、完全に南部系統の女性1人を除いて全員、遺伝的には北部系統の強い影響が見られます。この女性は、おそらくは外部集団からこの中核的な家系に迎え入れられたと思われます。同位体分析から、中核的な家系は他の家系(および特定の家系には分類されなかった個体群)よりも動物性タンパク質の摂取量が多い、と推定されています。また、同位体分析から、北部系統の影響の強い個体も南部系統の影響の強い個体もソラッド以外の地域から移住してきた、と推定されています。しかし、北部系統の影響の強い個体群の出身地域はより多様で、ソラッドの被葬者は単一の地域から移住してきたわけではなさそうです。副葬品に関しては明確な差があり、北部系統の影響の強い個体群は、南部系統の影響の強い個体群よりも、副葬品が豊富で豪華です。ソラッドでは、中核的な家系における女性の少なさから、北部系統の影響の強い遊動的な男系の家系が中核となり、他の家系(本論文で確認されたのは3家系)よりも優位に立っていた、と推測されます。

 一方、57の墓があるコレーニヨでも、ゲノムデータから推測される系譜関係と副葬品と墓の位置から、中核的な1家系が存在したと推測されています(その他に、2家系が識別されています)。この中核的な家系も北部系統の影響が強く、また副葬品に関して、北部系統の影響の強い個体群において、南部系統の影響の強い個体群よりも豊富で豪華という点は、ソラッドと同様です。また、遺伝的に南部系統の影響の強い個体群は、動物性タンパク質の摂取量がより少ない、と推定されており、この点でもソラッドと類似していますいます。一方、出身地に関しては、コレーニヨにはソラッドと異なる特徴が見られました。同位体分析から、コレーニヨの南部系統の影響の強い被葬者5人は、コレーニヨ周辺地域出身と推定されています。一方、遺伝的に北部系統の影響の強い中核的な家系ともう一つの別の家系に関しては、より早期の世代ではコレーニヨ以外の地域出身で、後の世代はコレーニヨ周辺地域で育ったと推定されています。中核的な家系の女性被葬者がより後の世代と推定されることから、男性中心の有力な家系が他地域からコレーニヨに侵攻してきて定着した、と推測されます。これらの知見は、ランゴバルド人がパンノニアからイタリアへと侵攻し、王国を建てたとする文献と整合的です。また、北部系統の影響の強い個体と南部系統の影響の強い個体との交雑も確認されています。

 ソラッドでもコレーニヨでも、6〜7世紀の共同墓地の被葬者と現代の住民とでは、遺伝的傾向が異なります。すでに、ヨーロッパの大まかな遺伝的構成は青銅器時代にはおおむね形成されていた可能性が高そうですが、古代末期の「大移動」などにより、その後も地域単位では遺伝的構成の変動が起きたものと思われます。本論文の知見からは、「大移動」の時期には、北部系統の遺伝的影響の強い男性主体の集団が、他地域に移住して征服するような事例が多かったのではないか、と推測されます。「大移動」の時代に限らず一般的に、征服的な移住では男性主体の傾向が強かったのかもしれません(関連記事)。もっとも、本論文が指摘するように、「大移動」の時代をより正確に理解するには、他の遺跡の人類遺骸のゲノム解析がもっと多く必要となるでしょうし、歴史学・考古学などとの学際的研究もさらに進展させねばならないでしょう。本論文を読んで改めて、ヨーロッパにおける古代DNA研究の進展の目覚ましさを思い知らされました。日本列島も含めて東アジアでも古代DNA研究が大きく進展するよう、期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古ゲノム:ランゴバルド人の歴史を解明する手掛かりが得られた

 西暦紀元568年にパンノニア(現在のハンガリー西部)からイタリアに侵入し、その後200年以上にわたってイタリアの大部分を支配した蛮族(ランゴバルド人)の社会組織と移動を解明する手掛かりが古ゲノムDNAの解析によって得られた。この研究知見に関する論文が、今週掲載される。

 3〜10世紀の西ヨーロッパは社会文化的にも経済的にも変革期にあり、西ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ全土で蛮族集団の移動があった。しかし、こうした蛮族社会の唯一の直接証拠は考古学的遺跡で発見されたものであり、この証拠を使って蛮族集団の正体と社会構造、移動パターンに関する推論が展開されてきた。6〜7世紀のパンノニアとイタリアの考古学的墓地遺跡からは、ランゴバルド人の移動に関する史料と矛盾しないパターンが示唆されているが、ランゴバルド人の社会と移動については不明な点がかなり多い。

 今回、Johannes Krause、Krishna Veeramah、Patrick Geary、David Caramelliたちの研究グループは、ソラッド(ハンガリー)とコレーニヨ(イタリア)という2カ所の墓地に埋葬されていた63体から採取した古ゲノムDNAの塩基配列解読と解析を行った。これまでの研究で、これらの遺体は、ランゴバルド人と関連付けられている。それぞれの墓地は、1つの大きな家系を中心にして組織されており、それぞれの墓地には、祖先と葬儀の風習を異にする集団が2つ以上埋葬されていることが明らかになった。

 ソラッドの墓地は、3代にわたる地位の高い男性中心の血縁集団を中心にして組織されており、それに加えて中央/北ヨーロッパ系という共通点があったと考えられる男性の集団の墓もあった。コレーニヨの墓地は、その地に定着してから数世代を経たコミュニティーを反映したものである可能性が高い。主に中央ヨーロッパ系と北ヨーロッパ系の家族集団の両方において、南ヨーロッパ系の人々との混血があったことを示す証拠もKrauseたちは発見した。この新知見は、ランゴバルド人がパンノニアから北イタリアまで長距離の移動をしたとする学説と矛盾しない。



参考文献:
Amorim CEG. et al.(2018): Understanding 6th-century barbarian social organization and migration through paleogenomics. Nature Communications, 9, 3547.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-06024-4
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人類進化における犬歯の縮小

2018/09/11 17:10
 現代人(Homo sapiens)も類人猿の一系統です。現代人と他の類人猿との大きな違いとして、脳容量、とくに脳重比もありますが、犬歯の縮小も指摘されます。人類進化史においては、脳容量が他の類人猿とさほど変わらない段階で犬歯の縮小が見られるので、犬歯の縮小は、直立二足歩行への特化とともに、人類系統と他の類人猿系統とを区別する重要な指標とされています。『絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか』で述べられていたように(関連記事)、人類系統における犬歯の縮小は、一夫一妻制により雄同士の争い(同性内淘汰)が穏やかになったことの表れとの見解は有力なようです。

 一方、『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』で述べられていたように(関連記事)、人類系統における犬歯の縮小を、臼歯の拡大との相関で把握する見解もあります(上巻P92〜P98)。球根のような堅いものを食べるようになり、臼歯を拡大させるような選択圧が生じ、歯を収納する空間には限界があるので、同時に犬歯が縮小するような選択圧も生じた、というわけです。しかし、『絶滅の人類史』では、初期人類において横方向の咀嚼運動が発達していた証拠はなく、武器としてより重要な上顎犬歯が下顎犬歯よりも先に縮小しているので、人類系統における犬歯の縮小は、食性の変化も多少は関係しているかもしれないとしても、雄同士の戦いが穏やかになったことの表れだろう、と指摘されています(P57〜P58)。

 そもそも、初期人類の化石が少なく、犬歯がどのように縮小していったのか、また同性内淘汰の程度とも関連するだろう性的二型がどのように変わっていったのか、まだ的確に評価できる状況ではないでしょうから(残念ながら、将来もこの状況が大きく改善されるとはとても思えません)、難しい問題ではあります。ただ、それでもあえて推測していくと、『絶滅の人類史』の感想記事でも述べたように、犬歯の縮小は雄同士の戦いが穏やかになったことの表れとの見解に、そもそも私は疑問を抱いています。

 一夫一妻制では、たとえばハーレム型社会よりも雄同士の戦いが穏やかになる可能性は高いでしょうが、だからといって、雄同士の戦いがなくなるわけではなく、大きな犬歯は依然として有効だと思います。しかも、雄同士の争いの激しさと相関している場合が多いと思われる雄と雌の体格差(性的二型)は、異論もあるとはいえ(関連記事)、現時点での有力説では、アウストラロピテクス属でも現代人より大きく、ゴリラ並だった、とされています。『ヒトはどのように進化してきたか』第5版(関連記事)では、アウストラロピテクス属でも現代人の祖先である可能性の高そうな300万年以上前のアファレンシス(Australopithecus afarensis)は、チンパンジーよりも犬歯がかなり縮小していたものの、体格でも犬歯でも雄が雌よりも大きく、性的二型は大きかった、とされています(P396〜P406)。

 現代人の祖先である可能性の高そうなアファレンシスでも性的二型が現代人より大きくゴリラ並だったとしたら、雄同士の争い(同性内淘汰)が現代人より激しかったとしても不思議ではありません。化石証拠はまだ得られていないものの、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジーとその次に近縁な現生系統のゴリラの犬歯が大きいことから、人類の祖先もチンパンジー系統と分岐するまでは犬歯がチンパンジーやゴリラのように大きかった、と考えられます。しかし、300万年以上前のアファレンシスにおいて、犬歯はかなり縮小して現代人に近づいています(それでも現代人より大きいのですが)。つまり、アファレンシスにおいては、雄同士の争いが激しかった一方で、犬歯は(現代人よりも大きいとはいえ)縮小していた可能性は高いわけで、犬歯の縮小は雄同士の争いがより穏やかになったことの指標になるとは言えないでしょう。

 では、犬歯の縮小はなぜ起きたのかというと、上述したように、食性の変化が選択圧になった可能性もありますし、犬歯を縮小させるような遺伝子発現の変化が別の表現型とも関わっていて、その表現型が適応度を向上させたことによる選択圧があったのかもしれません。また、犬歯の縮小(をもたらした遺伝子発現の変化)自体はとくに適応度の変化をもたらさず、単に遺伝的浮動により定着したのかもしれません。いずれにしても、犬歯の縮小は人類系統において適応度の大きな低下をもたらさなかった、ということになりそうです。

 雄同士の争いが依然として激しいのに、犬歯の縮小が適応度の大きな低下をもたらさなかった要因は直立二足歩行にあるのではないか、と私は考えています。闘争のさいに、直立二足歩行によりさらに効率的に可能となった、手と腕を用いての石や木などの使用が、鋭い犬歯の使用より効率的だったため、犬歯を縮小させるような遺伝的多様体の定着を妨げなかったのではないか、というわけです。巨大な犬歯は威嚇として有効ですが、それも、じっさいに使われるかもしれない、という前提(恐怖心)があってのことです。しかし、犬歯の使用には頭部を相手に密着させねばならず、奇襲攻撃ができたとしても危険です。一方、攻撃において木や石の使用は犬歯で噛みつくよりも安全です。

 とくに、石を投げることができれば、もっと安全です。現代人の投擲能力はおそらく現生種の中でも最高ですが、現代人並の投擲能力を可能とする形態が完成したのは、ホモ属でも200万年前頃以降に出現した広義のエレクトス(Homo erectus)だろう、と考えられています(関連記事)。しかし、現代人並の投擲能力を可能とする形態は短期間に一括して出現したのではなく、すでにアウストラロピテクス属の段階で一部が確認されています(関連記事)。おそらく、人類系統の投擲能力はチンパンジー系統と分岐した後に段階的にじょじょに向上していったのであり、チンパンジーも時として投擲行動を見せるように(速度・精度ともに現代人に遠くおよびませんが)、初期人類も石を投げていたとしても不思議ではない、と思います。もちろん、初期人類の投擲能力はエレクトス以降のホモ属には及ばないでしょうし、投擲行動を見せることはほとんどなかったかもしれませんが、雄同士の争いでは、石や木で殴れば犬歯の使用よりも効率的に相手を攻撃できるわけで、犬歯の縮小を妨げるような強い選択圧は生じなかった、と思います。

 では、アファレンシスにおいても雄同士の争いが激しかったとすれば、人類系統の配偶行動の変遷とはどう関連しているのか、という問題も注目されます。一般的に霊長類において、一夫一妻制のようなペア型の系統は、単雄複雌(たとえばゴリラ)や複雄複雌(たとえばチンパンジー)のような系統よりも性的二型は小さいとされ、現代人の性的二型もゴリラやチンパンジーより小さくなっています。しかし、現代人にもある程度の性的二型は見られるわけで、じっさい、歴史的にも、一夫一妻制が一般的ではあるものの、少数派(その多くは社会上層)とはいえ一夫多妻制は多くの社会で容認されてきました。もちろん、その他の配偶行動も見られますが、それは現生人類もしくはもっと拡大してホモ属の柔軟性を示すものだと思います。おそらく人類社会においては、単雄複雌から単雄単雌のようなペア型へと移行しつつも、ハーレム型のような単雄複雌も一定以上続いてきたのではないか、と思います。その移行時期の画期としては、直立二足歩行により特化し、頭脳が大型化した結果、出産と育児がじゅうらいよりも困難になり、さらに父親およびその親族側の育児への関与が要求されるようになっただろう、広義のエレクトスの出現を想定しています。

 なお、こうした人類社会の変化を、人類系統が発情期を喪失したことと関連づける見解も有力かもしれませんが、そもそも、この点に関して現代人とゴリラが類似していて、チンパンジーが異なっていることから、少なくとも現代人・ゴリラ・チンパンジーの最終共通祖先の段階では、発情徴候は明確ではなかった可能性が高いと思います(関連記事)。つまり、発情徴候の明確化に関しては、チンパンジー(およびボノボ)の進化が特異的というか、より進化していて、現代人やゴリラの方が祖先的なので、人類系統が発情期を喪失したという評価はあまり適切ではないだろう、というわけです。

 以上の私見は、少ない証拠から推測していったもので、将来大きく修正する必要が生じるかもしれません。上述したように、人類系統における性的二型の変遷は不明で、一般的には現代人の祖先と考えられているアファレンシスについても、性的二型が現代人よりも大きかったとの見解が有力な一方で、そうではない可能性も指摘されています。さらに、最初期の広義のエレクトスにおいても、性的二型はアファレンシスと大差がなく、チンパンジーよりも大きかった、との見解さえ提示されています(関連記事)。人類系統における性的二型やそれとも関連する配偶行動の変遷については、今後長く議論が続くことになりそうです。
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『人類誕生・未來編』「第1集・第2集・第3集」

2018/09/10 16:46
 今年(2018年)4・5・7月にNHKスペシャル『人類誕生』が3回にわたって放送されました(第1回および第2回および第3回)。そのリメイク版として『人類誕生・未來編』がBS1で放送されました。このリメイク版を視聴して改めて思ったのは、NHKのCGの質の高さです。詳しく比較したわけではないのですが、人類進化の解説に大きな修正はなかったと思います。大きく変わったのが、番組の案内役として未來を生きる老人「ドク」と謎の少女「eva」という2人が登場したことです。この2人は何者なのか、現代よりどれくらい先のことなのか、evaはどのような経緯で生まれたのか、という謎解きの点ではそれなりに楽しめました。人類進化の解説は、上述したように、NHKスペシャルと比較して大きく変わったわけではないと思いますが、上記の当ブログ記事で述べ忘れたことをいくつか付け加えておきます。

 第1集では、19万年前以降の寒冷化で、世界各地のホモ属のなかで、アフリカの現生人類(Homo sapiens)のみが深刻な危機に陥り、人類がそれまで食べていなかった貝を食べる好奇心の強い個体のみが生き延びた、との見解が提示されていました。確かに、人類が貝を恒常的に食していたと推定される最古の事例は、番組で紹介されていた、アフリカ南部のピナクルポイント(Pinnacle Point)遺跡で確認されており、その年代は164000年前頃までさかのぼります(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も同じ頃に貝を食べていたと推測されており(関連記事)、人類は20万年以上前より貝も食べていて、それが恒常的だった集団もいる、と考える方が妥当だと思います。50分弱の一般向け番組において最初期の人類から現生人類の出現までを扱うということで、かなり単純化・簡略化されたのは仕方のないところでしょうが、それにしても、貝を食べるような好奇心の強い現生人類個体のみが生き残った、との解説はあまりにも単純化しているというか、率直に言って間違いだと思います。

 そもそも、現生人類が東南アジアのエレクトス(Homo erectus)やヨーロッパのネアンデルタール人といった他のホモ属と比較して、19万年前以降の寒冷化でより大きな打撃を受けた、との見解自体に疑問が残ります。アフリカといっても環境は多様で、19万年前以降の寒冷化により一律に人類にとって居住が厳しくなった、というわけではないでしょう。そもそも、寒冷化は20万年以上前にも何度もあり、19万年前以降の寒冷化が特別だったはずはないと思います。また、ネアンデルタール人が寒冷気候に適応していたとはいっても、寒冷化にともない撤退・移住し、温暖化にともない拡大・移住した、ということを繰り返していた可能性は高いでしょう(関連記事)。19万年前以降の寒冷化により、他地域のホモ属への大きな影響はなかった一方で、アフリカの現生人類のみが大打撃を受けた、との想定は説得力を欠くと思います。さらに言えば、現生人類はすでに20万年以上前にアフリカからユーラシアに拡散していた可能性が高いと思います(関連記事)。もっとも、この「超早期」出アフリカ現生人類集団が、現代人にどれだけの遺伝的影響を及ぼしているのか、定かではなく、絶滅した可能性は低くないと思います。

 第2集ではネアンデルタール人が取り上げられました。はぐれたネアンデルタール人の少女を現生人類集団が迎え入れ、その少女と現生人類男性との間に子供が生まれた、という描写はリメイク版でも省略されませんでした。ネアンデルタール人と現生人類との交雑に関しては、ネアンデルタール人男性と現生人類女性の組み合わせのみだった、との見解が日本社会の一部?では浸透しているように思われるのですが、その証拠はまだ得られていないと思います(関連記事)。第2集の推定再現映像のように、ネアンデルタール人女性と現生人類男性との間にも交雑があり、その子孫が現代に存在していたとの想定は、無理筋ではないと思います。

 第3集では最後に、番組の案内役として登場した未來を生きる老人「ドク」と謎の少女「eva」の正体というか、世界観が描かれました。発達した技術のために人類はほぼ絶滅してしまい、アンドロイドのドクは罪滅ぼしとしてevaを「創り」、現生人類の記憶を伝えようとした、というわけです。ドクがevaにすべてを語り終えて動作を停止した後、evaは旅に出て物語は終わります。世界観は途中でかなりの程度見えてしまい、けっきょく予想通りだったのですが、陳腐な感が否めず、残念でした。ドクがアンドロイドなのは予想外で、これは悪くなかったと思います。このリメイク版を視聴し、『人類誕生』はなかなかの出来だった、と改めて思いました。今後も、数年に1回、こうしたシリーズがNHKスペシャルで放送されることを期待しています。
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大河ドラマ『西郷どん』第34回「将軍慶喜」

2018/09/09 18:59
 第二次長州征伐の最中に第14代将軍の徳川家茂が死亡し、長州藩との戦いで苦戦中の幕府は、勝安房守(麟太郎、海舟)を停戦交渉の使者として派遣します。幕府の苦境にさいしても、一橋(徳川)慶喜は第15代将軍に就任する素振りを見せませんでしたが、孝明帝に懇願されたことを契機として、将軍就任を決意します。慶喜との縁の深い西郷吉之助(隆盛)は、慶喜の将軍就任を予想していました。慶喜はフランスとの関係を強化し、幕府を立て直そうとします。そんな時、孝明帝が崩御し、吉之助と大久保一蔵(正助、利通)は岩倉具視に、幕府と天皇を引き離す好機だと進言します。吉之助は薩摩に帰国し、島津久光に上洛を進言します。有力諸侯を上洛させ、慶喜を牽制しよう、との意図でした。しかし、慶喜は久光以外の諸侯を懐柔しており、四侯会議は吉之助と一蔵の思惑通りにはいきませんでした。慶喜はフランスとの提携を強化しようとしますが、フランス公使ロッシュは幕府を支援する代償として、薩摩を差し出すよう、要求します。吉之助は、慶喜に見受けされた「ふき」から、慶喜が薩摩藩に対して何か画策している、と聞きます。さらに吉之助は、イギリス公使館の通訳のサトウから、慶喜が薩摩藩を差し出そうとしている、と聞かされます。しかし吉之助は、支援を申し出るサトウに対して、日本の問題は日本人が解決する、と毅然として答えます。

 慶喜が日本を異国に売ろうとしている、と知った吉之助は、武力討幕の意志を一蔵に打ち明けます。一蔵は決起を促すために長州藩をはじめとして有力諸藩に赴き、吉之助は岩倉に、討幕の勅命が出るよう朝廷工作を依頼します。薩摩藩が武力討幕に動くなか、坂本龍馬は、土佐藩重臣の後藤象二郎に倒幕の秘策を進言します。薩摩藩が武力討幕に動いていることを知った慶喜は、先手を打って大政奉還の方針を打ち出します。吉之助は大政奉還を進言した龍馬に不満で、慶喜はすぐに政権が返ってくると確信しての一時凌ぎで大政奉還を決意したにすぎない、と武力討幕の方針を変えようとはしません。一方龍馬は、幕府と諸藩とで戦争をしている場合ではない、と譲りません。

 今回は、第二次長州征伐での幕府の敗戦から、慶喜の将軍就任、孝明帝の崩御、四侯会議を経て大政奉還まで一気に進みました。ここは幕末でもとくに重要な時期なので、1話に盛り込むのは薩摩藩視点の大河ドラマとしてどうなのか、とさすがに疑問に思います。同じく西郷隆盛が主人公ということで、本作と比較対象になる『翔ぶが如く』は1990年放送で、今年(2018年)と日付・曜日が一致していますが、『翔ぶが如く』の9月9日放送分はすでに明治編で、大久保一蔵(正助、利通)は欧米視察団の一員としてすでに日本を発っています。これまでの展開が遅かったので、今回のように展開を速めるのはある程度仕方ないのかもしれないとはいっても、やり過ぎの感は否めません。まあ、本作が政治的描写に力を入れていないことは、私も含めて多くの視聴者は感じとっていたでしょうから、この展開に驚いている人は少ないだろう、とは思いますが。ただ、列強の脅威のなか、日本国内での戦いは避けねばならない、と考えていた吉之助が、強硬な武力討幕派に転じる過程は、駆け足の政治描写のなかで最低限は描かれていたと思います。まあ、この時期の政治構想に関して、吉之助と龍馬との対立を強調するような描写は、幕末に詳しい視聴者には不満が残るところでしょうが、あくまでも娯楽ドラマなので、これでもよいかな、とは思います。
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岡本隆司『世界史序説 アジア史から一望する』

2018/09/09 08:35
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年7月に刊行されました。本書は、東洋史研究者による新たな世界史構築への第一歩となる提言といった感じです。気宇壮大ではありますが、各分野の専門家からは、突っ込みが多いかもしれません。しかし、著者もそんな懸念は百も承知でしょうし、歴史学の研究が細分化され精緻になっていくなか、こうした試みは必要でしょう。また、じっさい、歴史学の研究者の間で「世界史」への意欲がなくなったわけではなく、近年では、グローバルヒストリーという概念が提唱されています。

 しかし本書は、グローバルヒストリーのような近年の「世界史」も、依然としてヨーロッパ、もっと限定すれば西ヨーロッパ中心主義で、アジア史のことをよく理解できていない、と強く批判します。ヨーロッパ史の研究の蓄積により構築されてきた概念で、アジア史をどれだけ正確に理解できるのか、と本書は疑問を呈しています。著者の他の一般向け書籍を何冊か読んできましたが、本書冒頭のヨーロッパ中心主義への批判はあまりにも攻撃的で、正直なところ困惑してしまいました。日本人のイギリス史研究者が論じるグローバルヒストリーにおいて、日本語の研究が参照されず、英語文献に依拠していることなど、著者にはグローバルヒストリーの現状に強い不満があるようです。

 そのような問題意識を前提として、本書はおもにアジア史を対象に議論を展開しています。本書のアジア史に関する見解については、本書が依拠する研究者の見解を少しは読んでいたこともあり、大きな違和感というか、意外な感はありませんでした。本書が重視するのは、モンゴル帝国の興隆とその後の崩壊をもたらした「14世紀の危機」で、「シルクロード」とも称されるユーラシア内陸部の経路から海上経路へと、経済の重心が移っていきました。こうした状況を前提として、「大航海時代」とその後のヨーロッパ勢力の覇権が到来します。本書はヨーロッパにおける近代化の条件として、官民一体の「法の支配」を挙げ、イギリスの果たした役割がきわめて大きかった、と指摘します。さらに本書は、そうした条件はヨーロッパ、とくにイギリスにおいてこそ成立したのであって、アジアでは成立し得なかったとして、ヨーロッパとアジアの違いを強調しています。

 本書は世界史とはいっても、前近代のサハラ砂漠以南のアフリカ・オセアニア・アメリカ大陸への言及は皆無といってよく、本書の意図からしてそれは当然なのかもしれませんが、世界史と銘打っている以上、やはり多少は言及があってもよかったのではないか、と思います。本書の見解で個人的に注目したのは、儒教はリアルな人間関係に基づく教義しか有さない中原の土俗的な論理で、仏教の広汎さ・精妙さ・深奥さには及びもつかない、との評価です。やはり、儒教にはある程度以上の普遍性はあっても、キリスト教・イスラム教はもちろん、仏教にも遠く及ばないのではないか、と思います。また、西欧中心主義はあらゆる学問の本質に埋め込まれている、との指摘も注目されます。前近代日本史の構造・展開は東アジア史、さらにはアジア史との共通性が少なく、むしろ西ヨーロッパと近似していた、との本書の見解については、今後も考え続けていきたいものです。
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