彭宇潔「熱帯湿潤地域の狩猟採集民集団における民族誌的研究―カメルーンのバカ・ピグミーにみられる移住と道具利用に関して」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P31-34)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、カメルーン東南部の狩猟採集民バカ(Baka)を事例に、狩猟採集民をはじめとする小規模居住集団の居住形態(少人数で居住していた民族集団は、変化した社会的環境の中で居住の様式はどうなったのか)、狩猟採集民に見られる道具利用(ヒトが道具を利用する際に、身体の動作とその時の活動の進行がどのように構成され、何に影響されるのか)、それと関連する資源獲得の活動について検証します。

 バカについては、2010年以降に合計15ヶ月フィールドワークが実施されました。長期滞在した主要地域はブンバベック国立公園とンキ国立公園北側のソン村で、それ以外に、広域調査でソン村周辺地域と、西のジャ動物保護区近くのロミエ地域でも調査が行なわれました。ソン村およびその周辺地域には、狩猟採集民のバカとバンツー系焼畑農耕民のコナンベンベも、昔から居住しています。西側のロミエおよび周辺地域は都会や大きい街への交通が便利なところで、バカの他に人口が多いのはバンツー系焼畑農耕民ンジメです。ロミエはカメルーン東南部の物流中心地で、その二つの民族集団以外に、商人や国際協力機関関係者、伐採事業者などの外部からの人がひじょうに多くいます。

 バカ・ピグミーは実は数百年前から農耕民集団との接触が始まった、と言われています。著者の調査地のバカは100年前頃に奴隷貿易から逃げるために、中央アフリカからカメルーンにやってきた、と報告されています。昔のバカはその地域に住む焼畑農耕民集団とともに、ある場所に大人数で集まって定住するのではなく、少人数で構成する集落が森の中で分散していました。1935 年頃、当時のフランス植民地政府により、森林部の住民に対する定住化政策が始まりました。その後カメルーンが独立しても、そのような政策が続いています。

 1950 年代に、農耕民の方は先に幹線道路沿いへの定住に定着しましたが、バカはまだ森での遊動生活を続けていました。しかし、その時に森林地域に出入りする他の民族集団も増え、バカたちとの接触の機会は以前より増えました。カメルーン独立後の1960 年代に、国内反乱軍に対する制圧が厳しくなり、森に住む人は全員反乱軍とみなされて刑罰を与えられることになりました。それを恐れてバカは森の奥地から出て、幹線道路沿いの定住村に居住していきます。その後、1990 年代にまた政府の強制的な政策により、バカでは農耕と貨幣の利用が始まりました。2000 年代前後に世界的にカカオブームとなり、それに乗ってバカでも自家消費用の農作物だけではなく、カカオなどの換金作物の耕作も始まりました

 筆者のフィールドワークはこのような定住化過程の後に始まり、定住化後のバカの居住形態についてまとめることができました。これまで収集した事例数は16 個です。バカの移住は婚姻状態の変化からの影響が一番多く、移動の距離は3 km程度も100 km程度と比較的長距離もありますが、移住先はどれも当事者たちと近い親族関係を持つ人々の居住地です。したがって、定住化後のバカの移住には、婚姻制度や親族関係などの集団内の社会的規範は強く機能している、と考えられます。しかし、図2で示されるように、点線が表示する外部との関係による移住も目立ちます。それは、近年その地域に出入りする他民族の増加により、バカに新たな民族間関係ができており、それに基づいて長距離で中短期の移住が顕在化されたからです。また、それに伴い、女性の結婚相手が集団外の者でも認められるようになり、バカ社会における通婚圏が拡大したことにより、バカ自身の集団内規範も変化した、と明らかになりました。

 道具利用時の行動は、映像4点(2010 年に2回と2014 年と2017 年のフィールドワークにおいて同じ村で撮影)に基づいて部化石されました。個人で作業する活動と集団で作業する活動が二つずつあります。個人の事例は木を切る男子(図3)と、刀の部品およびその取手を作る中年男性(図4)の映像が観察されました。彼らが道具(斧と山刀)を振る動作のペース、つまりテンポを、beat per minuteで測ってみた結果、彼らは単一な動作を繰り返す時には切るペースが安定しているものの、複合的な動作や動作の調整と修正が必要となる時には切るペースが頻繁に変化する、と明らかになりました。また、作業が進行する中で、次に適切な動作を取るために、その時の動作を一時的に中断して、しばらく観察したり考えたり、あるいは周りの人の介入・指摘を受けたりしました。そのような中断の頻度は、作業自体の複雑さによって変わります。中断の頻度も中断する時間の長さも、作業者自身の熟練度とそうした作業に関する経験の多さにより異なる、と考えられます。

 集団の事例では、ナイフを持って一緒に木を叩きながら歌う5 歳の子どもたちの事例(図5)と、採集した野生果実を山刀で加工する女性たちの事例(図6)の映像が観察されました。まず分かったのは、音声的同調における相違です。参加者たちが道具を使って出した音声は、子供の遊びのような音楽性を求める場合には完全な同調、またはポリフォニーが必要とされています。それに対して、果実の作業のような場合では、音声的な同調がみられなくて、互いの出した音を無視し、回避していることが必要になる、と考えられます。音声的な同調とは別で、作業の進行における各個人の行動の同調、つまり休憩を取ることや作業を再開することなどについては、音楽性を求める活動の場合は音楽の構成に従って、参加者たちは担当するパートに応じて休止・再開・進行・テンポとテンションの調整などをしている、と観察されました。一方で、果実の加工活動にはそのような行動の同調が見られませんが、個々の参加者は自分のペースで作業を進めながら、誰かの休憩に合わせて少し止めて雑談するというような、周りの人の行動と部分的にオーバーラップすることが見られました。したがって、完全な同調もなくて完全な隔離もなく、自分のペースと他人のペースを自律的に合わせています。このように、一人で道具利用する場合でも、互いの協力が必要な集団活動でも、それぞれできるだけ作業自体に関与しない集団活動でも、周りの人々の行為によって作業時身体動作のリズム、作業進行のペースが影響される、と明らかになりました。

 「道具利用」、「居住形態」、「民族誌データベース」に関するこれまでの研究も踏まえると、第一の成果は、現代の狩猟採集民集団における道具利用の多様性とそれに影響する要素についての考察です。道具の多様さは確かに自然環境への適応をある程度反映しますが、道具の複雑度と用途に関しては、個々の集団の内部における制度および彼らが接触する集団との関係により影響されることも考慮すべき要素である、と明らかになりました。第二の成果として、集団の居住形態は遊動的で小規模から、大規模で定住型への移行につれて、集団内の社会制度が他集団との相互作用により変化します。したがって、ある人類集団の居住形態の変化は他の集団との接触も考慮すべきものと明らかなりました。記述スタイルの多様な民族誌資料を利用したデータベースの構築は、狩猟活動を事例にデータベースのデザインが初歩的に完成し、今後においてはレコードを充実させて、量的分析を通した新たな人類学モデルの構築が期待されます。


参考文献:
彭宇潔(2021)「熱帯湿潤地域の狩猟採集民集団における民族誌的研究―カメルーンのバカ・ピグミーにみられる移住と道具利用に関して」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P31-34

意思決定における不確実性の解消

 意思決定における不確実性の解消に関する研究(Mukherjee et al., 2021)が公表されました。視床背内側核と前頭前野の間の相互作用は、認知にきわめて重要です。ヒトでの研究から、これらの相互作用が意思決定において不確実性を解消している可能性が示されていますが、前頭前野に投射する視床領域には複数の細胞タイプがあり、これらの異なる細胞タイプが意思決定において別々の役割を担っているのかどうか、その正確な機構は分かっていません。この研究は、視床背内側核から前頭前野への2つの投射が、不確実な状況での意思決定において相補的な機構的役割を持つ、と突き止めました。

 具体的には、ドーパミン受容体(D2)を発現する投射は、課題からの入力が少ない場合に前頭前野の信号を増幅し、カイニン酸受容体(GRIK4)を発現する投射は、課題入力が密にあるものの整合的でない場合に、前頭前野の雑音(ノイズ)を抑制します。総合すると、これらのデータは微弱信号による不確実性と高雑音による不確実性を処理する別個の脳機構の存在を示唆しており、前頭前野要因の強い障害で見られる異常な意思決定を是正するための、機構的な突破口を提供しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:前頭前野の信号と雑音をそれぞれ独立に制御する視床回路

神経科学:意思決定における不確実性を解消する

 前頭前野とそこへの視床からの入力は、さまざまな形の意思決定に重要なことが知られている。しかし、前頭前野に投射する視床領域には複数の細胞タイプがあり、これらの異なる細胞タイプが意思決定において別々の役割を担っているかどうかは判明していない。今回M Halassaたちは、2つの異なる細胞タイプが、前頭前野の活動を増幅または抑制していることを見いだした。これらの細胞タイプはさらに、課題の不確実性に応じて、前頭前野の活動を上昇させたり下降させたり切り替えていることも分かった。



参考文献:
Mukherjee A. et al.(2021): Thalamic circuits for independent control of prefrontal signal and noise. Nature, 600, 7887, 100–104.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04056-3

中国南部で発見された現生人類遺骸の年代をめぐる議論

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、以前当ブログで取り上げた(関連記事)、中国南部における複数の遺跡の7万年以上前とされる初期現生人類の年代を見直した研究(Sun et al., 2021、以下Sun論文)に対する、二つの反論と再反論が公表されました。

 まず、一方の反論(Higham, and Douka., 2021、以下反論1)は、Sun論文の年代測定に疑問を呈しています。Sun論文で、中国南部への現生人類(Homo sapiens)の遅い到来を裏づけるために用いられた放射性炭素年代測定の信頼性には懸念があります。加速器質量分析(AMS)の年代を導き出すために用いられた前処理化学法は報告されておらず、年代測定された物質の性質を定義できず、限定的な分析データはほぼ完全に受容パラメータの範囲外で、精度に疑問が生じます。

 Sun論文は、参考文献で概説されているコラーゲン抽出法に従った、と述べていますが、参考文献とは手順が二つ異なります。反論1は、Sun論文が限外濾過ではなく基礎的コラーゲン法を参照したのではないか、と推測します。基礎的コラーゲン法は、腐植質を結集するための基礎洗浄も、より小さな汚染されている可能性がある分子を除去するための分子限外濾過も含まれていないことに、要注意です。フミン酸塩が存在する場合、汚染は除去されていない可能性が高そうです。次に、Sun論文は「TOC(total organic carbon、全有機炭素)」と呼ばれる手法を適用しましたが、ここでもこの手法の言及はありません。反論1は、これが参考文献で用いられた手法で、本質的にはゼラチン化を伴う酸-アルカリ-酸処理だと推測します。そうした前処理技術は、過去20年間にわたって、旧石器時代の物質の放射性炭素年代を顕著に過小評価する、と示されてきており、コラーゲン生産量の少ない骨ではより深刻な問題になります。

 適度に保存された骨コラーゲンの炭素と窒素の原子比率は2.9~3.5となり、炭素は40~45%、窒素は11~16%の範囲に収まるはずです。Sun論文の表S3のデータはこれらのパラメータの範囲外です。実際のコラーゲン収量は、選択された標本以外では報告されていませんが、これらはひじょうに低く、推奨される限界値1%を下回っていました。窒素の値は一様に1%未満で、ほとんどが0.01%未満でした。炭素の割合も極端に低くなっています。炭素と窒素の比率は全て最大許容範囲外で、しばしば40~50を超える一連の値を示します。これは、TOCにおけるコラーゲンもしくはコラーゲンの割合が実質的にゼロで、年代がおもに外因性(堆積物由来?)の炭素かもしれない物質で得られたことを示します。オックスフォード大学における中華人民共和国湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)の動物の骨からのコラーゲン抽出の以前の試みは、全て失敗しました。

 コラーゲンもしくはTOC手法のどちらかで処理された同じ標本の重複した骨の年代の分析は、問題の程度を確認します。16点の年代のうち、75%は統計的に異なる結果を示し、信頼性についてのさらなる疑問を提起します。炭の年代測定も同様に問題があります。Sun論文の図S2の炭の単一の斑点など、区画から採取された資料は、ヒトの居住に厳密には関連づけられず、自然事象に由来する可能性があります。しかし、重要なのは、古い炭に適した高度な酸化に基づく前処理手順の欠如です。放射性炭素年代は本質的に信頼性が低く、その結果は下限年代とみなされるべきです。Sun論文で取り上げられた遺跡群の年代の問題を解決するには、より高い基準に従って、より多くの研究が必要です。それまでSun論文のデータは、中国南部における現生人類の遅い出現についての結論とともに、片隅に置かれておくべきです。


 もう一方の反論(Martinón-Torres et al., 2021、以下反論2)は、Sun論文の放射性炭素年代測定と古代DNA分析に疑問を呈します。Sun論文は、47点の現生人類の歯が発見されている福岩洞窟など、中国南部の5ヶ所の人類遺跡が後期更新世の年代であることに疑問を呈し、それらが完新世のものだと提案します。反論2は、福岩洞窟の2点の「ヒト」標本(FY-HT-1およびFY-HT-2)の不確実な由来および分類学的識別と、その古代DNAおよび放射性炭素年代分析の品質基準に基づいて、Sun論文の確実性に疑問を呈します。

 (1)FY-HT-1およびFY-HT-2は、2019年に孫(Xue-feng Sun)氏と同僚により回収されましたが、福岩洞窟の発掘を率いる主要な研究者の監督はありませんでした。孫氏たちは、両標本が、反論2の著者たちの以前の研究(関連記事)と同じ標本に属する、と主張します。その根拠は、両標本が「明確に解剖学的現代人で、福岩洞窟遺跡のより早期の発見物の範囲内で計測的および形態的に合致している」からです。しかし両標本は、この主張を維持するような形態計測データも、歯の発見場所の主張について正確な情報も提供しません。重要なことに、反論2は、FY-HT-2がヒトではなく草食動物に属していることを確証します(図1)。摩耗はおもに歯の切端ではなく舌側にあります。歯の切端と舌側の摩耗の程度に関わらず、目に見える隣接摩耗面はありません。歯冠は高くて狭くなっています。歯根に対する歯冠の傾きは、シカなど一部の草食動物に典型的です。ひどいことに、その非ヒト的性質にも関わらず、Sun論文は「ユーラシア現代人系統の変異内に収まる」ヒト古代DNAが得られた、と主張します。明らかに、これらの結果はSun論文の厳密さと品質に疑問を呈します。以下は反論2の図1です。
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 (2)Sun論文では、AMS放射性炭素年代測定について、参考文献に記載されている手順の適用前に、TOC測定の前処理があるのかどうか、不明です。なぜならば、堆積後の炭酸塩は、通常の酸-アルカリ-酸処理手法での除去が困難だからです。コラーゲン以外のどの種類の成分がTOCに含まれていたのかも不明です。なぜならば、その炭素と窒素の比率が、たとえばFY-HT-2では、放射性炭素年代測定に適切なコラーゲン(2.9~3.6もしくは3.1~3.5)よりもずっと高いからです(46.2)。FY-HT-1における炭素の割合は約2.3%で、現代のエナメル質(0.1~0.8%)よりもずっと高くなっています。全体的に、Sun論文のこれらの標本は、堆積後の変質および/もしくは汚染を受けており、その放射性炭素年代は疑わしいように見えます。さらにSun論文は、後期更新世の動物相も、反論2の著者たちが得た43000年以上AMS放射性炭素年代測定結果も議論していません。

 (3)FY-HT-1については、反論2の著者たちの以前の研究における標本の深刻な歯根変質とは対照的に、歯根端のひじょうに良好な保存状態が浮き彫りになります。二つの異なる分類学的来歴の可能性は、全ての歯を同じ標本に関連づけることに、疑問を呈します。

 文脈化されておらず、汚染されている可能性が高い標本の、疑わしい古代DNAと放射性炭素年代分析を除いて、二次生成物のウラン-トリウム法年代測定と、化石を覆っている堆積物の光刺激ルミネセンス(optically stimulated luminescence、略してOSL)法は、福岩洞窟標本の後期更新世の年代を確証します。非ヒト動物の歯からヒトの古代DNAを得たことは、Sun論文の信頼性に深刻な疑問を投げかけます。中国における現生人類の早期の存在との反論2の著者たちの提案は、依然として揺るぎありません。


 これに対して再反論(Curnoe et al., 2021、以下再反論)は、反論2がSun論文を誤って再解釈しており、訂正が必要だと主張します。FY-HT-1およびFY-HT-2は2011~2013年の発掘調査の区画壁から収集され、その出所の詳細はSun論文で報告されています。FY-HT-2のエナメル質の舌側面の全ておよび咬合側と近心側表面のほとんどは失われています(図1A)。したがって、反論2で主張されている、「シカのような」摩耗の復元は、単純に歯の保存の現実とは似ていません。さまざまなシカの切歯の画像とFY-HT-2との比較にも、困惑させられます(反論2の図1A)。確証の偏り(確証バイアス)はさておき、適切な比較は、Sun論文において古代DNA分析により確証されたように、最近のヒトとの類似性を示唆しています(図1A)。FY-HT-1に関しては、その保存状態は既存の標本と視覚的に区別できません。しかし、動的な堆積史の文脈内の不均一な化石生成過程を考えると、Sun論文で示されたように、標本内では変異は明確であり、予測されます。

 反論1および2は、Sun論文のAMS放射性炭素年代測定にも異議を唱えます。Sun論文では、AMS放射性炭素年代測定の手順について説明し、これには以前に反論2の著者たちの研究(関連記事)で用いられた類似の手順が含まれていました。コラーゲンの保存が乏しいと示される、ほとんどの標本についてはSun論文で明らかです。しかし、コラーゲンと炭酸カルシウムとTOC(象牙質とエナメル質が含まれます)の結果の間の年代の不一致は一般的に小さく、少ない汚染が示唆されます。Sun論文では、FY3-1およびFY3-5の動物相標本も注目されました。重要なことに、反論2の著者たちの以前の研究におけるBA140121の炭素と窒素の比率も、最適な埋葬条件を示唆しており、信頼できる年代は8万年前頃よりずっと新しくなっています(たとえば、放射性炭素年代では39150±270年前)。北京大学研究室のAMSとTOCの歴史は、この放射性炭素年代をはるかに超えているはずです。反論2とは対照的に、BA140121の年代測定はその歴史に及ばず、じっさいにはSun論文の結果を独立して確証します。重要なのは、Sun論文の目的が、「真の」年代を得ることではなく、福岩洞窟が65000年前よりも古いヒト遺骸を含んでいるのかどうか、ということです。

 反論1は、以前に刊行された基準を「信頼できる」骨の放射性炭素年代測定に適用し、Sun論文の結果は解剖学的現代人(現生人類)の65000年前頃以降の到来を裏づけない、と主張します。これらの基準は化石におけるコラーゲンの分解(もしくは保存)の指標ですが、原則として、外因性炭素が存在しない場合、コラーゲンの分解は放射性炭素年代に影響を与えないはずです。化石における分解されたコラーゲンは汚染されているかもしれませんが、これらの基準は量を推定できません。真の年代から500~1000年の偏差は、一般的に考古学的資料では受け入れられないと考えられていますが、反論1で議論されているように、不確かな放射性炭素年代は単純に、8万年以上前から完新世への放射性炭素年代における変化の結果と想定できません。

 Sun論文は以前の研究に従って、現代のウシ属の骨や、考古学的資料の放射性炭素年代測定の前に年代が知られている歴史的遺跡のヒトの骨や歯について、検証を実施しました。Sun論文では、限外濾過について、ゼラチン状の骨溶液がホワットマンガラス微小繊維濾過器を用いて濾過されました。分子限外濾過を用いることができなかったのは、標本が小さすぎたからです。それにも関わらず、Sun論文の結果は、その手法が正確な年代を提供した、と示します(表1)。Sun論文で検証された人骨について、反論1はその結果を先験的に却下しました。しかし、歯のコラーゲンとTOC放射性炭素年代は、コラーゲンの分解により窒素と炭素の割合のほぼ半分が失われたにも関わらず、既知の年代とよく一致します(表1)。さらに、Sun論文における同じヒトの歯のAMS放射性炭素年代と、それとは独立したDNA先端年代の両方が一致します。通常、タンパク質配列は顕著な安定性を示し、DNAよりも古い過酷な環境で存在する可能性があります。したがって、真のDNA(古代DNA)の存在は、元々のコラーゲン(もしくは炭素)が存在したはずと示唆します。さらに、信頼できる炭素と窒素の比率を有するコラーゲンとTOCの年代の(たとえば、FY 3-5やYJP-1054やYJP-2936)の組み合わせは、これらの化石が65000年前よりずっと新しい、と示します。

 反論2も、FY-HT-2からの信頼性に疑問を呈しますが、Sun論文のデータは明確に、そうではないと示します(図1)。各部位の網羅率と、各部位のコンセンサス塩基と一致する読み取りの割合は、図1Bで示されます。各部位における多数派の塩基の平均頻度は99.92%でした。一部の部位における低いコンセンサス裏づけ(50%)は、挿入/欠失もしくはCストレッチ(シトシンが連続する配列パターン)に起因していました。汚染されてない標本で予測されるように、配列の大半は明らかに単一個体に由来します。読み取りの5′末端におけるシトシンとチミンの脱アミノ化は、古代DNAでは典型的です。全てのマッピングされた読み取りの平均的な脱アミノ化パターンは、図1Cに示されます。FY-HT-2ライブラリは、最後のヌクレオチドで損傷を保持しており、それは「二本鎖部分ウラシル・DNA・グリコシラーゼ」手順で提案された閾値(3%)よりずっと大きいものでした(図1B)。以下は再反論の図1です。
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 Sun論文では、流華石と堆積物と炭と哺乳類およびヒト化石から絶対年代を得ることにより、遺跡の形成過程と歴史が解明され、ウラン-トリウム法年代は福岩洞窟における古人類学的資料の埋葬年代を表せない、と強調されます。堆積物のOSL年代測定もできません。既存の47点のヒトの歯の一部の直接的な放射性炭素年代測定と古代DNA分析だけが、真の年代を理解できます。再反論は反論2対して、Sun論文の知見を誤って説明するのではなく、緊急の課題として扱うよう、強く求めます。

 再反論は、広範な年代測定技術と古代DNA技術を用いての、中国南部における解剖学的現代人の到来年代のさらなる研究を歓迎します。じっさい、これはSun論文の推進力でした。複数の手法と資料を用いて生成され、5ヶ所の遺跡にまたがる膨大な地質年代学的データとDNAデータを、予備検査の基準が不充分だったと主張することにより議論しようと試みることは、再反論者たちの意見では、(1)自分勝手であり、(2)中国南部における亜熱帯の古人類学的洞窟の複雑な堆積と化石生成と続成作用の現実を否定するものです。

 再反論は、Sun論文の放射性炭素年代測定結果は下限年代とみなせるはずである、との見解には同意しますが、これが二次生成物のトリウム230/ウラン年代測定の使用により解剖学的現代人の年代を表すことも、以前の研究で主張されたように、それらの年代が中国南部における初期解剖学的現代人の早期定住を確証することもできません。中国南部における解剖学的現代人の出現が50000~45000年前頃であることは、分子水準の結果と一致しており、まだ反証されていません。


 以上、Sun論文に対する反論と再反論についてざっと見てきました。現時点では、中国南部における6万年以上前の解剖学的現代人(現生人類)の存在が確定したとは言えないように思います。8万年前頃かそれ以前と主張された中国南部の現生人類遺骸の中に、Sun論文で主張されたように完新世のものが多い可能性も、現時点では高いように思います。ただ、ギリシアで20万年以上前となる広義の現生人類系統の遺骸が発見されていること(関連記事)などから、アフリカやレヴァントを越えて広義の現生人類が10万年以上前にユーラシアに広く拡散していたとしても不思議ではない、と私は考えています。その意味で、今後10万年以上前の現生人類遺骸が中国南部で確認される可能性もあるとは思います。


参考文献:
Curnoe D. et al.(2021): Reply to Martinón-Torres et al. and Higham and Douka: Refusal to acknowledge dating complexities of Fuyan Cave strengthens our case. PNAS, 118, 22, e2104818118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2104818118

Higham TFG, and Douka K.(2021): The reliability of late radiocarbon dates from the Paleolithic of southern China. PNAS, 118, 22, e2103798118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2103798118

Martinón-Torres M. et al.(2021): On the misidentification and unreliable context of the new “human teeth” from Fuyan Cave (China). PNAS, 118, 22, e2102961118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2102961118

Sun X. et al.(2021): Ancient DNA and multimethod dating confirm the late arrival of anatomically modern humans in southern China. PNAS, 118, 8, e2019158118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2019158118

大河ドラマ『青天を衝け』第38回「栄一の嫡男」

 今回は、栄一の家庭での話の比重が高く、嫡男の篤二に焦点当てた構成になっていました。偉大な父の存在に悩む不肖の息子という話は、大河ドラマに限らず創作ものの定番で、普遍的な話です。篤二の場合は、母の千代を亡くしてすぐに父がそれまで縁のなかった女性(兼子)と再婚したことでも、父への複雑な想いがあるようにも思います。もしそうならば、篤二が母を亡くしたのは満年齢で10歳に達する前でしたし、今回の時点でまだ10代でしたから、仕方のないところもあるでしょうか。篤二は血洗島に行き謹慎し、久々に血洗島の様子が描かれましたが、江戸時代と大きくは変わっていないようで、農村部の近代化が都市よりも遅れていることを示していたように思います。

 今回は、旧幕臣が集まり江戸時代を懐かしみ、久々の登場人物も少なからずおり、1年近く続いてきた本作の長さを改めて思うとともに、残り少なくなったことを考えると、寂しくもあります。憲法が公布されるなど、大きく世が変わっても旧幕臣は集まってきましたが、すっかり世捨て人状態の慶喜を栄一は気にかけており、慶喜に伝記執筆の許可を要請します。栄一と慶喜の交流は慶喜の死まで続くわけで、栄一にとって慶喜は生涯の大恩人だったのでしょう。今回は議会開設から日清戦争の終結と1897年の慶喜の東京帰還まで一気に話が進み、残り3回も駆け足になりそうですが、どこに焦点が当てられるのか、注目しています。

ヒト遺骸から周囲の石へのDNAの拡散

 ヒト遺骸から周囲の石へのDNAの拡散を報告した研究(Sarhan et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代DNAは、人類だけではなく、他の動物や植物や微生物の祖先の歴史の研究にとって強力な手法になりました。骨格およびミイラ化した遺骸に加えて、最近では堆積物も古代DNAの有望な供給源として特定されており、その中には更新世のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のミトコンドリアDNA(mtDNA)や核DNAも含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。そうした堆積物の古代DNAの供給源については、大型化石や小骨片や排泄物や腐敗した軟組織など、さまざまな仮定がありました。しかし、ヒトの堆積物古代DNAとその供給源との間の直接的つながりがある事例は、まだ見逃されています。

 本論文は、後期青銅器時代となる紀元前1306~紀元前1017年頃の骨壺墓地(Urnfield)文化のヒト骨格遺骸について報告します。このヒト遺骸はドイツ南西部のハイインゲン(Hayingen)の近くに位置するヴィムゼナー洞窟(Wimsener Höhle)もしくはフリードリヒ洞窟(Friedrichshöhle)と呼ばれる地下水河川洞窟内で発見されました(図1)。洞窟の入口の湖における同時代の土器および他のヒト骨片の発見から、儀式の場所だった可能性が示唆されています。シュヴァーベン山地(Swabian Alb)の他の洞窟の類似の発見物は、後期青銅器時代の宗教的現象、つまり洞窟における埋葬もしくは儀式行為を示しています。以下は本論文の図1です。
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 混ざり合った骨格遺骸は、洞窟天井からの継続的な水滴の結果として、重力の方向に向かって膨らみを形成した、方解石堆積物の重い層で覆われた状態で発見されました(図2AおよびB)。骨格の大半は方解石堆積物でかなり覆われていたので、より入手しやすい脛骨の標本だけが採取されました(図1D)。この考古学的発見物を分子的にさらに調べるため、周囲の方解石層とともに脛骨標本の断片が用いられました。骨と石のさまざまな部分が二次標本抽出され、メタゲノム配列されました。これらの遺骸について、骨格からの古代のヒトと微生物のDNAが周囲の環境に拡散した、と示せました。以下は本論文の図2です。
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●骨と石には同じ古代人のDNAが含まれています

 ヴィムゼナー洞窟で発見された後期青銅器時代のヒトDNAの分析をヒト参照ゲノムhg19と比較することにより、骨の標本だけではなく全ての石の標本でもヒトDNAの読み取りが明らかになりました。石のヒトDNAは骨の標本で見つかったヒトDNAの約1%を占めていました(図2C)。一般的に、石の標本のヒトDNA断片長は骨の標本より長く(図2D)、同等のDNA損傷水準、つまりチミンへの末端のシトシンの脱アミノ化の割合がありました。さらに、石と骨における古代人のDNAは、同じ分子的性別(男性、性染色体がXY)を示し、これは古典的な人類学的調査では不可能だったでしょう。

 石のヒトDNAが骨格遺骸のものなのかさらに確認するため、混成捕獲分析評価(hybridization capture assay)を用いてmtDNAが濃縮されました。これにより、骨の標本からのミトコンドリアゲノムの再構築が7倍以上の網羅率で可能となり、骨の標本の同一のミトコンドリアハプロタイプが明らかになりました(J1C1)。さらに、この個体の起源への片鱗を得るため、選択されたユーラシア現代人および他の青銅器時代個体群(関連記事)に対して、主成分分析が実行されました。その結果、ヴィムゼナー洞窟個体は同地域の他の青銅器時代個体群と同様にヨーロッパ人の多様性内に収まる、と示されました。全体として、ヒトDNAが骨から石へと拡散し、何千年も方解石に保存されていた、と確信的に論証できます。


●骨と石から再構築された微生物ゲノム

 ヒトDNAの結果に基づき、そうした方解石堆積物はタイムカプセルを表し、ヒトDNA以外の古代の分子情報をまだ含んでいる可能性がある、と仮定されました。したがって、一般的な微生物特性分析と、より長い連結断片への短いメタゲノム読み取りの新規解析を実行し、メタゲノム集合ゲノム(MAG)を再構築するとこにより、分析は骨と石の両標本の微生物群に拡張されました。一般的に、骨と石の標本の微生物特性は類似しており、洞窟環境に典型的な古細菌と放線菌門が豊富に存在しました。

 次に、骨と石の標本を別々に新規に解析すると、両標本から3点の高品質および4点の中間品質の原核生物MAGが得られました(骨から3点、石から4点のゲノム)。骨の標本からの1点のMAGを除いて、全ての再構築されたMAGはDNA損傷を示しました。ヒトDNAで観察されたものと同様に、骨と石の両方におけるMAGの存在は、微生物のDNAの拡散を示唆します。読み取り長が一般的に骨と比較して石でより長かったことも、観察されました(図2F)。

 これらのゲノムは、死後最初の分解と二次鍾乳石:以来の開始に関わったかもしれない微生物を表しています。たとえば、クロストリジウム属(Clostridium)とストレプトスポランギウム(Streptosporangium)属の構成員は、最も豊富な死後の骨分解生物の中で報告されています。さらに、ストレプトスポランギウム属は浸水した環境での骨の孔化にも関わってきました。ステノトロホモナス(Stentrophomonas)属やロドコッカス(Rhodococcus)属など他の微生物は、洞窟環境で炭酸カルシウムを結晶化すると示されてきましたが、これは方解石形成における潜在的な役割を示唆しているかもしれません。


●考察

 この事例研究では、青銅器時代のヒト骨格遺骸から骨と方解石が取り出され、そのDNA分析が行なわれました。よく保存された古代のヒトDNAと微生物DNAが石と骨から回収され、個体の性別決定およびヒトのmtDNAと微生物のゲノムの再構築には充分でした。骨と石の両標本で同じヒトDNAが特定され、それにより骨から周囲の環境へのヒトDNAの直接的拡散が論証されました。これは、洞窟堆積物における古代のヒトDNAの報告に、追加の説明モデルを提示します(関連記事1および関連記事2)。

 2003年の研究では、ニュージーランドのモアの骨の内部から収集された砂の標本で、沿岸モア(Euryapteryx curtus)のDNAの存在が報告されました、2007年の研究では、堆積物層全体で古代DNAの堆積後の垂直移動の可能性も示されました。しかし、鍾乳石堆積物がどのように過去からの古代DNA断片をよりよく保存できているのか、まだ確定していません。一般的に、DNAはその負の電荷のため、さまざまな鉱物要素に付着できます。さらに、洞窟環境は一定の温度と湿度と無光地帯を維持しており、通常のDNA損傷への暴露が少なくなります。タンパク質など有機物の含有量により骨が継続的に分類されるという事実のため、浸出したDNAが死後の微生物分解に曝されることが少なくなる可能性もあります。

 本論文は、洞窟環境の考古学的発見物に付随して発見された、こうした貴重な鉱物堆積物に注目することを目指しています。それらが鉱物堆積物を表すだけではなく、考古学的発見への拡張であり、古代DNAの形態で歴史的情報を保持して保存している、と本論文では示されました。現在、これらの堆積物はおもに、放射性炭素年代測定の限界(5万年前頃)を超えた、考古学的発見物の年代測定の代理として用いられています(たとえば、ウラン-トリウム法)。

 本論文の知見を考慮すると、これらの堆積物は同様の考古学的遺物の将来の破壊的標本抽出を回避するのに役立つ可能性があり、古代のヒトゲノムと微生物群の再構築に用いることのできる、古遺伝学的記録保管所を提供します。そうした堆積物が、タンパク質や脂質など他の古代の生体分子をどこまで保存できるかは、今後の課題です。最後に、考古学者と人類学者の共同体への伝達事項は、破壊的手順を伴うことが多い分子分析ではとくに、発掘における堆積物や鉱物堆積物や水など革新的な標本抽出の供給源を考慮することです。以下は本論文の要約図です。
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●この研究の限界

 この研究の主要な限界は、単一遺跡の単一個体に基づいており、そうした方解石堆積物で覆われた古代の骨格標本を見つけるのは稀でもあることです。さらに、方解石堆積物から得られたヒトDNAの合計読み取り量は、骨よりも2桁少なくなっています。これは、同様の標本からのDNAライブラリの準備に伴い、その後でヒトの核DNAとmtDNAの捕獲手法を適用するよう、示唆しているかもしれません。本論文からは、古代DNA研究のさらなる飛躍の可能性が窺え、今後の古代DNA研究への応用が大いに期待されます。


参考文献:
Sarhan MS. et al.(2021): Ancient DNA diffuses from human bones to cave stones. iScience.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2021.103397

森安孝夫『シルクロード世界史』

 講談社選書メチエの一冊として、2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「陸のシルクロード」と「前近代ユーラシア世界」を同一視する著書の立場からの「前近代ユーラシア世界史」です。冒頭の歴史学と歴史教育に関する提言には、教えられるところが少なくありません。本書で重点的に取り上げられる「中央ユーラシア」は、東西は旧満州西部からハンガリーまで、南北はチベット高原からシベリア南返までとなる乾燥地帯です。また本書の前近代史の主要な舞台はユーラシアとアフリカ北部だけで、それは他地域の文明がヨーロッパ人の侵略により破壊され、その後のグローバル世界史につながらなかったから、とされています。これについては異論が多いかもしれません。

 経済力と軍事力と情報伝達能力を重視した本書の8段階の時代区分はなかなか興味深いものです。それは、11000年前頃以降の農業革命(第一次農業革命)、5500年前頃以降の四大文明の登場(第二次農業革命)、4000年前頃以降の鉄器革命(第三次農業革命)、3000年前頃以降の騎馬遊牧民集団の登場、1000年前頃以降の中央ユーラシア型国家優勢時代、500年前頃以降の火薬革命と海路によるグローバル化、200年前頃以降の産業革命と鉄道・蒸気船(外燃機関)の登場、100年前頃以降の自動車・航空機(内燃機関)と電信の登場です。本書は疑問が呈されていることを認識しながら、あえて「四大文明」という概念を提示しますが、やはりその有効性には疑問が残ります。ただ、全体的にはなかなか適切な時代区分だと思います。もちろん本書も指摘するように、世界史の時代区分は他にもあり得ます。

 本書は、この時代区分にしたがって農業開始からの世界史を概観した後、世界史における中央ユーラシアの重要な役割を解説していきます。これは、馬の家畜化、とくに騎乗技術の開発が大きく、移動力の飛躍的発展をもたらした騎乗技術の拡散により各地で大規模な国家(帝国)が成立します。遊牧国家の発展・維持に不可欠だったのが「国際」商業、つまりシルクロードを通じた貿易で、遊牧民の日常生活の維持に必要だったのが、境界地帯での農耕民との交易でした。この北方の遊牧民勢力と南方の農耕民勢力との相克は、ユーラシアにおいて東(匈奴と漢など)から西(スキタイとギリシア・ローマなど)まで広範に見られる、と本書は指摘します。また本書は、シルクロード貿易の本質が奢侈品だったことを強調します。

『卑弥呼』第76話「真の王」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年12月20日号掲載分の感想です。前回は、暈(クマ)の国の5人のタケル王が、田油津日女(タブラツヒメ)を新たな日見子(ヒミコ)として擁立しよう、と画策しているところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)国の千穂(現在の高千穂でしょうか)の産処(ウミドコロ)にて、ヌカデが産婆に学んでいる場面から始まります。産処は出産のための場で、男子禁制です。山社の国の高官が出産の手伝いをすることに、産婆は恐縮します。自分も小屋の中に入りたい、と言うヌカデに産婆は難色を示しますが、自分は民を救うのが使命の祈祷女(イノリメ)なので、産婆の術も心得ておきたい、と説明します。いよいよ女性の出産が近づき、ヌカデは強引に小屋の中に入ります。ヤノハが出産するさいに役立てよう、とヌカデは考えているのでしょう。

 暈(クマ)の国の鞠智(ククチ)の里(現在の熊本県菊池市でしょうか)では、鞠智彦(ククチヒコ)が、要請に応じて10日間も里の民の前で舞った田油津日女(タブラツヒメ)を労っていました。田油津日女は配下の男性に、人と人の交わりを避ければ、1年で厲鬼(レイキ)、つまり疫病は消えるだろうと言って、暇乞いをします。鞠智の里を去る田油津日女の一行を、鞠智彦の配下の志能備(シノビ)が監視していました。鞠智彦は志能備の長を呼び、手分けして5人のタケル王に文を届けるよう、命じます。その文には、厲鬼を封じ込める術が書かれていました。すると志能備の長は、姶羅(アイラ、現在の鹿児島県姶良市でしょうか)と囎唹(ソオ、現在の鹿児島県曽於市でしょうか)と串岐(クシギ、現在の鹿児島県いちき串木野市でしょうか)と出水(イズミ、現在の鹿児島県出水市でしょうか)と浮土(ウド、現在の熊本県宇土市でしょうか)の5人のタケル王全員が姿を消したので、謀叛の兆しではないか、と鞠智彦に進言します。すると鞠智彦は、5人のタケル王にはそもそも謀叛の手立てがないから案ずるな、と楽観的な表情で言います。

 千穂では、天照大神が籠った窟(イワヤ)で祈るヤノハを、チカラオ(ナツハ)が警護していました。ヤノハはモモソから、妊娠中の子に殺される運命だ、と告げられたことを回想していました。ヤノハは悟りきったように、自分はモモソを含めて鬼畜のように人を殺したので、自分が誰かに殺されることなど覚悟の上だから、子を産んだらチカラオとともに山社から消える、とモモソに告げます。天照大神が籠った窟で祈るヤノハは、もはや日見子(ヒミコ)を続けるのは限界で、自分の子に殺されるとは自分らしい、と自嘲します。

 鞠智の里を去った田油津日女の一行は、予定通り玉杵名邑(タマキナノムラ、現在の熊本県玉名市でしょうか)に赴き、民の前で厲鬼退散のために舞います。田油津日女は配下の男性に、人が多すぎるので距離を空け、相互に近づかず、この舞いを最後に人と人の交流を避けて1年間外出しないよう、民に命じます。いずれこの地のタケル王より田油津日女と同じ触れが回るだろうが、全員それに従うように、と言う男性に、自分たちは田油津日女様のお言葉にのみ従う、と民は口々に言い、田油津日女こそ真の王だと崇めます。すると田油津日女の配下の男性は、今度の厲鬼は言の葉から感染するので声を出さないよう、民に命じます。玉杵名邑を去った田油津日女の一行は、暈の国から山社へと向かいます。そこへ5人のタケル王が現れ、田油津日女と面会したい、と申し出ます。籠から出てきた田油津日女に、5人のタケル王が暈の国の日見子になるよう、要請するところで今回は終了です。


 今回もヤノハの出番は少なく、田油津日女をめぐる動向が中心に描かれました。しかし、ヤノハの出番は少なかったものの、モモソから妊娠中の子に殺される運命だと聞かされたヤノハの反応が描かれ、ヤノハの思惑を推測する重要な手がかりになっていると思います。ヤノハから暈を除く筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)諸国へと送られた書簡を入手したことからも、田油津日女がヤノハの意向で動いていることは確実だと思います。その思惑については前回いくつか推測しましたが、今回のヤノハの発言からは、田油津日女を日見子とする意向のように思えます。ただそうならば、ヤノハは妊娠中であることを田油津日女には伝えていないでしょうから、天照大神の神意だと言って、田油津日女に日見子となるよう、命じたのでしょうか。ヤノハは本作の主人公ですから、ヤノハが今後も日見子(卑弥呼)であり続けると考えられ、どのように話が展開するのか、予想しにくいところがあり、楽しみです。また、田油津日女の正体はまだ明かされておらず、この点も気になります。田油津日女はヤノハに信頼されているようですから、すでに登場している人物ならばある程度は限定されますが、その中に日見子になることを了承しそうな者はいないようにも思います。ヤノハの真意も含めて、今後の展開が注目されます。暈では、5人のタケル王が田油津日女に日見子となるよう要請し、鞠智彦の配下の志能備はこうした事態を警戒していましたが、鞠智彦は楽観的です。これは、鞠智彦が配下にも容易に真意を明かさないからとも、疫病で暈が苦境にあるとはいえ、それまで順調に暈の権力を掌握してきたので油断している、とも考えられます。鞠智彦の動向も気になるところですが、その他には、トメ将軍とミマアキの帰還も描かれるでしょうし、今後の展開もひじょうに楽しみです。

『卑弥呼』第8集発売

 待望の第8集が発売されました。第8集には、

口伝55「天命」
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_27.html

口伝56「祈り」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_5.html

口伝57「事代主」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_23.html

口伝58「埃国にて」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_5.html

口伝59「厲鬼」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_20.html

口伝60「油津の怪」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_6.html

口伝61「日下」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_22.html

口伝62「遭逢」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_7.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第8集では、これまでほぼ九州が舞台だったのに対して、ついに本州が本格的に描かれるようになり、ますます壮大な話になりそうなことともに、当分は疫病の流行とその対応および諸勢力の思惑と駆け引きが中心になりそうなことを予感させます。

 第8集では聖地である出雲の主である事代主(コトシロヌシ)が登場し、これまで作中で何度も言及されていた、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が築いた日下(ヒノモト)の国もついに描かれました。日下の都は纏向遺跡と思われ、人の姿が見当たりませんが、そこで登場した女性はモモソと名乗ります。ヤノハに殺された山社(ヤマト)のモモソが後世に倭迹迹日百襲姫命として伝えられたのかな、と予想していましたが、日下のモモソはフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)の娘と名乗っており、こちらの方が後世の伝承に近い設定のようです。ヤノハが日下とどのような関係を築くのか、まだ連載でも明らかになっておらず、作中の山場になりそうなので、注目されます。なお、第1集~第7集までの記事は以下の通りです。

第1集
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_49.html

第2集
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_60.html

第3集
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_1.html

第4集
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_5.html

第5集
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_37.html

第6集
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_5.html

第7集
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_3.html

新疆ウイグル自治区で発見された新たな恐竜

 中華人民共和国新疆ウイグル自治区で発見された新たな恐竜に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究は、以前に新疆ウイグル自治区のトルファン-ハミ盆地で発見され、白亜紀前期(1億3000万~1億2000万年前頃)と推定された3点の化石断片(脊椎骨と胸郭)を分析し、この遺骸化石の特定の特徴(脊椎胸郭構造)を他の竜脚類恐竜と比較しました。この研究は、そのうち第一標本を新種と特定し、絲路巨龍(Silutitan sinensis)と命名しました。その頸椎骨のいくつかの特徴から、絲路巨龍はエウヘロプス(Euhelopodidae)科に属する、と推測されました。この研究は絲路巨龍標本を、その近縁と判断したエウヘロプス属と比較して、20メートル上の長さだった、と推定しました。

 この研究は、第二標本も新種と判断し、新疆哈密巨龍(Hamititytan xinjiangensis)と命名しました。第二標本には7点の尾椎骨が含まれており、この研究は第4脊椎から第10脊椎だと推測しています。この研究は、椎骨に沿った形状と隆起から、これが竜脚類ティタノサウリア科に属する、と示唆しています。されたと結論付けている。ティタノサウリア科恐竜は、アジアと南アメリカ大陸に数多く生息していました。この研究は第二標本を、近縁と判断したラペトサウルス属およびオピストコエリカウディア属と比較して、全長が17メートルと推定しています。

 第三標本は、4点の椎骨と肋骨の断片のみによって構成されています。この研究は、第三標本が竜脚類のソンフォスポンディリ(Somphospondyli)クレード(単系統群)という恐竜分類群に属し、ジュラ紀後期(1億6030万年前頃)から白亜紀後期(6600万年前頃)まで生息していた、と示唆しています。これらの化石標本は、トルファン-ハミ盆地で初めて発見されたことが報告された恐竜化石に含まれており、これによって、この地域でこれまでに知られている中生代の爬虫類の多様性が増加したことになります。これらの知見は、どの竜脚類恐竜が中国に生息していたのかを知る手がかりになります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:中国に生息していた恐竜の解明に役立つ3点の化石

 中国北西部で発見された3点の恐竜化石は、新種2種の化石であり、同地域で初めて発見された脊椎動物種に含まれることを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、中国の竜脚類に関する新たな手掛かりとなる。

 今回、Xiaolin Wangたちは、以前にトルファン-ハミ盆地(新疆ウイグル自治区)で発見され、白亜紀前期(約1億3000万~1億2000万年前)と年代決定された化石断片(脊椎骨と胸郭)を分析し、この遺骸化石の特定の特徴(脊椎胸郭構造)を中国やその他の地域の他の竜脚類恐竜と比較した。

 Wangたちは、第1の化石標本を新種と特定し、Silutitan sinensisと命名した。その頸椎骨のいくつかの特徴から、竜脚類Euhelopodidae科に属することが見いだされた。Euhelopodidae科恐竜は、これまで東アジアでしか発見されていなかった。Wangたちは、この化石標本を、それと近縁だと彼らが考える恐竜の分類群、つまり属(エウヘロプス属)と比較して、この化石標本がもともと20メートル以上の長さだったと推定した。

 Wangたちは、第2の化石標本も新種であることを突き止め、Hamititytan xinjiangensisと命名した。この化石標本には、7点の尾椎骨が含まれており、Wangたちは、第4脊椎から第10脊椎だと考えている。そして、Wangたちは、椎骨に沿った形状と隆起から、これが竜脚類ティタノサウリア科に属することが示唆されたと結論付けている。ティタノサウリア科恐竜は、アジアと南米に数多く生息していた。Wangたちは、この化石標本を、彼らがそれと近縁と考えるラペトサウルス属とオピストコエリカウディア属と比較して、化石標本の全長を17メートルと推定している。

 第3の化石標本は、4点の椎骨と肋骨の断片のみによって構成されている。Wangたちの分析では、これが竜脚類のSomphospondyliクレードという恐竜分類群に属し、ジュラ紀後期(1億6030万年前)から白亜紀後期(6600万年前)まで生息していたことが示唆されている。

 これらの化石標本は、トルファン-ハミ盆地で初めて発見されたことが報告された恐竜化石に含まれており、これによって、この地域でこれまでに知られている中生代の爬虫類の多様性が増加したことになる。以上の知見は、どの竜脚類恐竜が中国に生息していたのかを知る手掛かりになる。



参考文献:
Wang X. et al.(2021): The first dinosaurs from the Early Cretaceous Hami Pterosaur Fauna, China. Scientific Reports, 11, 14962.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94273-7

最古のデニソワ人のmtDNA分析とその文化的適応

 種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の最古となる遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析と関連する石器群についての研究(Brown et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。更新世人類遺骸の同定と分析は、ヒトの進化と相互作用と適応の支配的過程の解明の基礎を形成していますが、新たなヒト化石の発見が大きな困難を提示し続けています。発掘調査と考古学における最近の発展は、ヒト遺骸が、とくに儀礼的な埋葬が観察されない先史時代の文脈では稀にしか同定されない、という避けられない問題を覆すことができません。

 これはとくにデニソワ人について当てはまります。デニソワ人はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の姉妹集団で、その発見は後期更新世のユーラシアにおける人類の多様性の理解を根本的に変えました。デニソワ人個体(デニソワ3号)の高網羅率の核ゲノム(関連記事)から、デニソワ人は44万~39万年前頃にネアンデルタール人との共通祖先から分岐した、と示されました(関連記事)。オーストラリア先住民とパプアニューギニア人、およびアジア東部と南東部の現代人におけるデニソワ人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の特定により、現生人類(Homo sapiens)は少なくとも2つの異なるデニソワ人集団と遭遇して混合した、と推測されました(関連記事1および関連記事2)。これは、デニソワ人がアジア大陸とアジア南東部島嶼部と近オセアニア(ニアオセアニア)に広がっていた可能性を高めます。

 これまで、DNA分析に基づいてデニソワ人と同定されたのは、小さくひじょうに断片化された化石5点だけで、その全てはシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されました(関連記事)。それは、摩耗して不完全な大臼歯(デニソワ2・4・8号)と、部分的な指骨(デニソワ3号)と小さな骨片(デニソワ11号)です。デニソワ3号のみで全ゲノム配列に充分なDNAが得られています。したがって、乏しいDNA保存と現代の汚染により、これまで他の標本の核ゲノム分析が妨げられてきました。デニソワ洞窟外では、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の下顎骨が、プロテオーム(タンパク質の総体)解析により暫定的にデニソワ人に分類され(関連記事)、さらに堆積物DNAにより、白石崖溶洞におけるデニソワ人の存在が確認されました(関連記事)。

 プロテオーム研究、とくにペプチドフィンガープリント法もしくはZooMS(Zooarchaeology by Mass Spectrometry、質量分光測定による動物考古学)の一般的な応用の増加における発展は、コラーゲンの特性分析に基づく骨の分類学的特定を通じて、遺跡における人類の存在の判断にとって効率的な方法である、と示されてきました(関連記事)。脊椎動物では、プロテオーム解析は属もしくは科の水準での識別に一般的に用いられており、場合によっては、種間の決定にも適用可能です。ZooMSは、その時間的にも費用的にもひじょうに効率的な性質、DNAを含む他の生体分子と比較してのコラーゲンの再現性と長期保存により、断片的で形態学的に診断できない骨の識別ではひじょうに貴重な判別検査となります。ZooMSはデニソワ11号を含む大規模な骨の集合において人類遺骸を特定するのに用いられてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。デニソワ11号は、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親との間の娘です(関連記事)。

 本論文は、デニソワ洞窟の同定されていない骨への、ペプチド質量フィンガープリント法の高処理適用を提示します。アルタイ山脈北西部に位置するデニソワ洞窟は、中期更新世から完新世までとなるユーラシア北部で最長の考古学的系列を保存しています(関連記事)。デニソワ洞窟には豊富な層序記録があり、中期および後期更新世の文化と動物相と化石遺骸でひじょうに有名です。デニソワ洞窟は、系列全体のいくつかの層において、デニソワ人とネアンデルタール人の存在が化石と洞窟堆積物(関連記事)の両方から回収されたDNAに基づいて確定された唯一の遺跡です。さらにデニソワ洞窟では、堆積物から回収されたミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づいて、初期現生人類(Homo sapiens)の存在も確証されました。良好な生体分子の保存と、豊富な考古学的遺物と、複数の人類集団の存在の組み合わせにより、デニソワ洞窟は更新世ユーラシアにとって最も多くの情報をもたらす遺跡の一つになっています。

 診断できない骨片は、ヒト化石の可能性を有する重要ではあるもののまだ利用されていない供給源で、デニソワ洞窟において発掘された骨の95%を占めています。デニソワ洞窟の3ヶ所の探索された回廊のうち1ヶ所である東空洞の3791点の骨片に、ZooMSが適用されました。骨片は、巨視的識別を妨げる診断できる特徴が欠けているものが、とくに選ばれました。分析された骨は、東空洞の第9・11・12・13・14・15層で発見されました。第17層の少ない骨の集合も分析され、その中には人類居住の考古学的証拠が含まれません(第10・16層は文化的痕跡のない堆積物で構成されています)。分析された骨の大半は、以前には人類の骨が見つかっていなかった第14・15層で発掘されましたが、東空洞で考古学的に最下層となる第15層では、以前に堆積物からデニソワ人のDNAが得られています(関連記事)。それぞれの骨は約20mg削られ、確立したZooMS実施要綱にしたがって、マトリックス支援レーザー脱離/電離時間型飛行(MALDI-TOF)質量分光計を用いて、分類学的識別が実行されました。分析された骨の大半は大型草食動物(ウシ属/バイソン属やウマ科やシカ科)と肉食動物で、形態学的分析を通じてデニソワ洞窟で以前に識別された動物相と妥当に一致します。


●ZooMS

 5点の骨片(図1a)から、ヒト科(大型類人猿)と一致する特徴的な標識を有するペプチド質量フィンガープリントが生成されました(図1b)。その内訳は、第15層からが4点(DC7277とDC7795とDC8591とDC8846)、第12層からが1点(DC4969)です。アルタイ山脈では大型類人猿が知られていないことを考えると、これらの骨はほぼ確実にヒトに分類されます。ZooMSを用いて特定されたヒト化石は現在、デニソワ洞窟で発見された人類(ヒト亜科)の骨の多く(17点の化石のうち9点)を占めます。以下は本論文の図1です。
画像


●microCT分析

 骨片の形態をデジタルで保存するため、5点の標本のうち4点が、microCTシステム(Bruker SkyScan 2211 X-ray Nanotomograph)でスキャンされました。古代DNAへのX線照射の劣化効果を避けるため、以前の研究の推奨に従って、0.020~0.023mmの破壊で画像空間解像度が用いられました。化石骨の3D表面は、microCTスキャンから抽出されました。


●mtDNA分析

 ペプチド質量フィンガープリント法はヒト科における下位の具体的な分類学的割り当てには使えないので、mtDNAに基づいて、これら5点の人類の骨の分類が特定されました。それぞれの骨からの古代人のDNAの抽出と配列決定と証明は、公開されている手順に従いました。mtDNA濃縮手法を用いて、古代人の充分なDNAが分離され、5点の標本のうち4点のミトコンドリアゲノムが復元されました。それは、デニソワ17号(DC4969)と19号(DC8846)と20号(DC7795)と21号(DC8591)です。これらはそれぞれ、2698倍、15倍、31倍、28倍の平均網羅率で配列されました。ペアワイズ差異および系統発生分析により、デニソワ17号のmtDNAはネアンデルタール人のmtDNAの多様性内に収まったものの、デニソワ19・20・21号はデニソワ人のmtDNAの多様性内に収まりました(図2)。デニソワ18号(DC7277)の古代DNA断片は、人類集団と確実に関連づけるには少なすぎました。以下は本論文の図2です。
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●考察

 アルタイ山脈におけるネアンデルタール人の存在は元々、mtDNAの証拠に基づいて、デニソワ洞窟の北方50kmに位置するオクラドニコフ洞窟(Okladnikov Cave)で特定されました(関連記事)。さらなる考古学および遺伝学のデータから、ネアンデルタール人はシベリアにおいて何回か別々の時期に存在した、と示唆されました(関連記事1および関連記事2)。ネアンデルタール人はデニソワ洞窟において、遅くとも15万~13万年前頃には出現しました(関連記事)。これまでデニソワ洞窟東空洞ではネアンデルタール人の化石が5点発見されたことになり、そのうち第12層が3点(デニソワ9・11・17号)、第11.4層が2点(デニソワ5・15号)です(図3a)。東空洞の第14層の単一の堆積物標本からはネアンデルタール人のDNAが得られていますが(関連記事)、この兆候を再現して確証するには、さらなる研究が必要です。

 本論文では、新たに特定されたネアンデルタール人(デニソワ17号)のmtDNAの分子年代が、BEAST v.1.10.4に実装されたベイズ年代測定と、較正点としての放射性炭素年代測定されたネアンデルタール人12個体のmtDNAを用いて、最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で177000~94000年前(134000年前頃)と推定されました。系統発生推論から、デニソワ17号のmtDNAは、相互により密接に関連しているデニソワ洞窟の他のネアンデルタール人2個体(デニソワ5・15号)と、より遠くに関連していると示されます(図2a)。対照的に、デニソワ11号のmtDNAは、ユーラシア西部、およびオクラドニコフ洞窟とチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人のmtDNAとより密接に関連しています(図2a)。
 
 ネアンデルタール人とデニソワ人との間の遺伝子流動は、両者のより早期の相互作用の追加の間接的証拠を提供します。たとえば、デニソワ人女性(デニソワ2号)のゲノム分析により、デニソワ2号はその1500年前頃となる遺伝子移入に由来するネアンデルタール人の祖先系統を有しており、その年代は早ければ25万~20万年前頃になる、と明らかになりました(関連記事)。より上の層序系列で回収された他のデニソワ人2個体(デニソワ8・3号)も、異なるネアンデルタール人2集団からの遺伝子移入を示します(関連記事)。これらの交雑事象は、どこで起きたのか識別することはできませんが、20万年以上前のネアンデルタール人とデニソワ人両集団からアルタイ山脈における両者の消滅の5万年前頃までの、共存と頻繁な相互作用の可能性の証拠を提供します。

 ネアンデルタール人の存在は、デニソワ洞窟における最終間氷期、つまり海洋酸素同位体ステージ(MIS)5ではより顕著ですが、アルタイ山脈では不連続であり(関連記事)、ユーラシアの広範な地域にまたがるネアンデルタール人集団の時折の東方への移動を反映しているかもしれません。デニソワ人からヨーロッパの後期ネアンデルタール人への遺伝子流動はこれまで特定されていないので、これらの相互作用はユーラシア北東部で起きた可能性が最も高そうです。とくにアルタイ山脈は、デニソワ人集団とネアンデルタール人集団の両方が15万年以上重複していた地帯のようで、この長期にわたる集団混合と異なる人口集団の維持があり、おそらくは促進されました。以下は本論文の図3です。
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 デニソワ人型のmtDNAを有する3標本(デニソワ19・20・21号)は全て、東空洞の第15層に由来します。デニソワ19号とデニソワ21号のミトコンドリア配列は同一なので、同じ個体か母系の親族である可能性が示唆されます。デニソワ19・21号は、4ヶ所の置換によりデニソワ20号とは異なります。系統樹では、新たに特定されたデニソワ人のmtDNAは、デニソワ2号(主空洞の第22.1層)およびデニソワ8号(東空洞の第11.4層)とクレード(単系統群)を形成し、それぞれ20ヶ所と30ヶ所の置換により異なります(図2b)。節約分析は一貫して、デニソワ19・20・21号がデニソワ2号と類似もしくはやや古い年代で、デニソワ8号とデニソワ3号(東空洞の第11.2層)とデニソワ4号(南空洞の第11.1層)よりもかなり古いことと一致します。

 新たに特定された化石のmtDNAの年代推定値と、デニソワ2号との関係は、全体的な層序状況および、絶対年代と考古学的系列と人類集団に基づいてデニソワ洞窟の3ヶ所の空洞を相互に相関させようとした以前の試みと一致します。その以前の研究(関連記事)では、最初のデニソワ人(デニソワ2号)の年代が、光学と遺伝学と層序学の年代測定を組み込んだベイズ手法により194000~122000年前頃、もしくは光学的年代測定のみに基づいて早ければ28万年前頃と推定されました。デニソワ2号は1984年に主空洞で発見され、その状況の確実性には疑問が呈されてきましたが、本論文で報告された新たな化石は2012~2013年に確実な状況で発掘されました。

 第15層は東空洞の最古の考古学的層位で、既知の光学的年代のベイズモデル化に基づいて、20万年前頃(信頼区間68.2%で205000~192000年前、信頼区間95.4%で217000~187000年前)と推定されています(図3a)。これらの年代推定値をベイズ統計枠組みの較正点として用いて、新たなデニソワ人3個体と既知のデニソワ人4個体の分岐年代は、間氷期となるMIS7の229000年前頃(HPD95%で252000~206000年前)と推定されました。mtDNAの年代と、第15層の確立した年代は、デニソワ19・20・21号もしくはその母系親族が、現在記録されている最古のデニソワ人と示します。

 東空洞の考古学的に最下層となる第15層におけるデニソワ人型のmtDNAを有する個体群の存在は、この人類集団のより広範な考古学的および生計の状況の検討機会を提供します。これまでそうした検討は、デニソワ人化石が、考古学的物質の乏しい層か、ネアンデルタール人との共存の可能性を除外できない層に由来するため、不可能でした。デニソワ19・20・21号の年代はMIS7となる第二間氷期となり(図3b)、この時期は現代に匹敵する条件の温暖な気候で、アルタイ山脈は人類の拡大と居住強化に適した場になったでしょう。

 この期間にデニソワ洞窟付近では、広葉樹林と開けた草原景観を含む、斑状の景観を検出できます。伝統的な動物考古学分析とZooMS分析の両方により明らかにされたのは、デニソワ洞窟の居住者がこうした環境に生息するさまざまな分類群を標的としていた、ということです。そうした獲物には間氷期森林地帯や森林と草原の混在地帯の種が含まれ、たとえばシベリアノロジカ(Capreolus pygargus)やシベリアアカシカ(Cervus elaphus)やギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)です。より開けた地域に典型的な種では、ユーラシア絶滅シマウマ(Equus ovodovi)や野生ウマ(Equus ferus)やステップバイソン(Bison priscus)やケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)やモンゴルガゼル(Gazella guttursza)です。

 切断や燃焼や屠殺の解体痕など動物の骨の頻繁な人為的影響は、これらの種が定期的にヒトにより獲得されていたことを確証します。しかし、ヒトはデニソワ洞窟にはこの期間の唯一の居住者ではなかったようです。第15層の巨視的に識別された動物相群の約1/4は、肉食動物、おもにハイイロオオカミ(Canis lupus)とアカオオカミ(Cuon alpinus)で構成されていました。肉食動物分類群のこの高い割合から、ヒトはこれらの捕食者と、資源および恐らくは洞窟自体を巡って積極的に競争していたかもしれない、と示唆されます。

 考古学的に、東空洞の第15層(および第14層)にはデニソワ洞窟の全系列で最高頻度の石器が含まれており、1m²あたり3000点以上となります。石器群は、円盤状、ルヴァロワ(Levallois)式、平行石核で構成され、一次縮小技術を用いて剥片が製作されます(図4)。スクレイパーが主要な石器様式となり、急勾配のキーナ(Quina)型再加工により形成されたものや、突出的で鋸歯緑的で刻み目のある形態などが含まれます。大型の側部が薄くなり、基底部が切断された剥片、もしくは切断され面を刻んだ剥片が典型的な断片です。縦方向の背部の痕跡パターンを有する石刃も、少数存在しています。第15層の再加工された剥片から収集された有機残留物の分析により、飽和および不飽和脂肪酸が明らかになり、骨と植物の微小残留物の欠如とともに提案された使用は、擦り落としと切断および/もしくは鋸切断など、動物の皮膚の処理でした。以下は本論文の図4です。
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 それら石器群の技術分類的特徴と年代層序学的位置に基づいて、東空洞の第14・15層の石器群は、アジア北部および中央部には直接的対応物がない中部旧石器インダストリーに分類されました。さらに遠方に目を向けるならば、最も近い平行石器群は近東のアシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)文化複合(AYCC)です。AYCCは、40万/35万~25万年前頃となる、タブン(Tabun)やケセム(Qesem)やハヨニム(Hayonim)やミスリヤ(Misliya)などいくつかの洞窟(おもに)と、開地遺跡で同定されてきました。これは、前期旧石器時代から中期旧石器時代への移行期で、人類の適応および認知能力における大きな変化、および大きな技術的および生計の革新と関連しています。これらには、とりわけ火の習慣的使用(関連記事)と、ダマジカなど中型の有蹄類の体系的な狩りと屠殺が含まれます。

 デニソワ洞窟東空洞の第14層と第15層のAYCC間の技術分類的類似性は、側部が薄くなり、基底部が切断された剥片の同等の形態と、鋸歯緑的で刻み目のある石器であるキーナ式スクレイパーの存在を含みます。デニソワ洞窟の石器群には両面石器がありません。両面石器はAYCCのアシューリアン(Acheulean)変異型の典型的要素ですが、第14層と第15層では稀か欠けています。しかし、レヴァントとアルタイ山脈との間の類似の石器技術伝統の中間の存在はなく、アルタイ山脈とチベット高原以外ではデニソワ人と直接的に関連するかもしれない人類遺骸がないので、デニソワ人の文化的適応と革新をめぐる問題の解決には、将来の研究が必要です。最初のデニソワ人の層の石器構成要素を特徴づける注目される試みが現在進行中で、将来は経時的なデニソワ人の道具一式の進化をさらに理解できるでしょう。

 現代人におけるデニソワ人由来のDNAの分布から、デニソワ人は広範に拡散しており、更新世アジアの広い地域に居住し、その人口集団には時空間的な構造があった、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。シベリアとアジア東部の現代人およびアメリカ大陸先住民において遺伝子移入されたデニソワ人のDNAは、デニソワ3号の高品質なゲノムと最高の類似性を共有します。しかし、本論文で特定されたより古いデニソワ人3個体(デニソワ19・20・21号)のmtDNAは、デニソワ3号とは異なる系統に分類されます。これら初期デニソワ人が、アジア南東部島嶼部およびニューギニア島に居住している現代人の祖先と混合したデニソワ人(関連記事)とより密接に関連しているのかどうか確定するには、これらデニソワ人個体の核DNAの特性評価が必要です。


参考文献:
Brown S. et al.(2021): The earliest Denisovans and their cultural adaptation. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01581-2

大河ドラマ『青天を衝け』第37回「栄一、あがく」

 今回は栄一が共同運輸会社を設立し、岩崎弥太郎率いる三菱に再度海運業で挑み、激しい争いとなりますが、妻の千代が亡くなり憔悴していた栄一を周囲の人々は案じます。栄一の活躍が妻の千代に支えられてのものだったことは、これまでよく描かれていたので、自然な流れになっていました。栄一は、平岡円四郎の未亡人の「やす」の勧めもあり、没落した豪商の娘の伊藤兼子と再婚します。随分あっさりとした再婚でしたが、栄一が半ば自棄になっているようにも見えました。それだけ千代を失った栄一の精神的打撃は大きかった、ということを描いているのでしょう。

 栄一と岩崎弥太郎の海運業での争いが激化するなかで、さすがの岩崎弥太郎も心労のためか体調不良に陥りますが、それでも勝負を諦めず、共同運輸会社の株を購入します。両者の争いを五代友厚は仲裁しようと試みますが、岩崎弥太郎とは経営理念が異なると言って、栄一もあくまでも戦おうとします。栄一は旧知の伊藤博文に、政府が三菱を制裁するよう頼み込みますが、伊藤に大きな目で日本を見るよう諭されます。激しい争いのなか、岩崎弥太郎が没したと聞かされた栄一は、五代友厚の死期が近いことも知り、五代の仲裁を受け入れて三菱と和解して合併します。今回で岩崎弥太郎と五代友厚は退場となり、ともに出番は少なかったものの、存在感を示したように思います。

大相撲九州場所千秋楽

 2年振りの福岡国際センターでの開催となりました。白鵬関が引退し、照ノ富士関が新横綱だった先場所に続いて一人横綱を務めることになりました。優勝争いは、一人横綱の照ノ富士関を中心に展開し、全勝の照ノ富士関を1敗で貴景勝関と阿炎関が追いかける展開になり、13日目に阿炎関が貴景勝関を破って14日目に照ノ富士関と対戦することになりました。照ノ富士関は阿炎関に押し込まれながら勝ち、14日目に6回目の優勝を決めました。照ノ富士関は千秋楽結びの一番で貴景勝関と対戦して押し出して勝ち、初の全勝優勝となりました。

 照ノ富士関は14勝以上での優勝も初めてとなり、横綱昇進後の連続優勝は大鵬関以来ですから、横綱として確たる地位を築いた、と言えそうです。もちろん、照ノ富士関の膝の状態は悪く、近いうちに引退しても不思議ではないでしょうが、照ノ富士関は膝に負担のかからない相撲を心掛けていることが窺えますし、現時点での力は図抜けているので、しばらくは優勝争いの中心となり、優勝回数が二桁にまで届く可能性は高そうです。12勝3敗で場所を終えた貴景勝関は終盤まで優勝争いに絡み、照ノ富士関が引退すれば2場所連続優勝で横綱に昇進する可能性も考えられなくはありませんが、押し相撲で不安定なところがあり、横綱昇進は難しそうですし、横綱に昇進できても横綱に相応しい成績は残せないでしょう。

 阿炎関は2年前には小結で3場所連続勝ち越していたくらいですから、平幕下位では12勝3敗と大勝ちしても不思議ではありません。阿炎関は、大関まで昇進するのは難しそうですが、小結に復帰して勝ち越し、関脇まで昇進する可能性は高そうです。御嶽海関は、相変わらず期待を集めては裏切っていますが、11勝4敗と二桁勝利で場所を終え、数字上では大関昇進の起点になったとも言えますが、相撲内容は相変わらず不安定なので、大関昇進は難しそうです。

 逸ノ城関は5勝10敗と大きく負け越しましたが、全体的な相撲内容はそこまで悪くなかったように思うので、来場所での巻き返しに期待しています。次の横綱の最有力候補と私が考えている豊昇龍関も7勝8敗と負け越しましたが、まだ線の細さはあるものの、来年のうちに一気に大関まで駆け上がっても不思議ではないように思います。正代関は9勝6敗と勝ち越し、強さと脆さを見せるいつもの感じでした。照ノ富士関が引退したとしても、正代関が横綱に昇進することはないでしょうが、現在の力関係から考えて、大関の座を今後数年維持できる可能性は高いように思います。

イベリア半島南部における銅器時代から青銅器時代の人類集団の遺伝的変化

 イベリア半島南部の銅器時代から青銅器時代の人類集団の大規模なゲノムデータを報告した研究(Villalba-Mouco et al., 2021)が公表されました。紀元前三千年紀の最後の世紀に、ヨーロッパと近東とエジプトの社会は大規模な社会的および政治的激変を経ました。アッカド帝国とエジプト古王国の末における、集落の放棄、人口減少、交通網の消滅、大きな政治的混乱は、4200年前頃の事象として知られる、気候危機の観点でよく解釈されてきました。

 最近、紀元前三千年紀における社会的不安を引き起こす、かなりの人口移動の可能性が、ヨーロッパ中央部および西部における銅器時代末に観察された変化のさらなる説明として提案されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。社会および経済の置換の兆候は、イベリア半島南部においてとくに顕著で、銅器時代は並外れた人口増加、記念碑的な集落と葬儀の構造の多様性、広範な銅の冶金、とりわけ象徴的な商品の、洗練されて大規模な生産および交換と関連しています。

 さらにこの期間は集落様式の多様性により特徴づけられ、要塞化したり、堀で囲まれたり、いわゆる大規模集落だったりし、そのうち一部の規模は、バレンシナ・デ・ラ・コンセプシオン(Valencina de la Concepción)やマロキエス・バホス(Marroquíes Bajos)のように100ヘクタールになり、その全ては紀元前3300~紀元前2800年頃に形成されたので、鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化層位に先行します。この期間は、相互のつながりおよび移動性の大きな増加とも関連しています。利用可能な放射性同位体(ストロンチウム)の研究に基づき、イベリア半島南部の個体が育った場所以外で埋葬されていた割合は、8~74%でした。アフリカや近東の象牙、シチリア島の琥珀、アフリカのダチョウの卵殻は、地域を越えたつながりを示します。しかし、強い政治的中央集権化と経済的不平等の証拠は、分かりにくいか結論が出ないままです。

 考古遺伝学では、イベリア半島(南部)青銅器時代における顕著な発展は、新石器時代以降の証明された強い人口連続性と結びついている、と示唆されてきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、後期銅器時代のイベリア半島北部および中央部の人類学および考古学的記録は、鐘状ビーカー関連人工物とよくつながってはいるものの、独占的につながっているわけではない、紀元前2400年頃までの「草原地帯関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)」を有する5個体を示しており、同時にアフリカ人祖先系統も1個体で観察され、人々の別々の移動(性)を示唆します(関連記事1および関連記事2)。

 イベリア半島における前期青銅器時代(紀元前2200~紀元前1550年頃)の始まりには明確な人口置換が示され、紀元前2200年頃以後の全個体における草原地帯関連祖先系統の遍在により示唆されます。男性のY染色体ハプログループ(YHg)の頻度ではさらに顕著な変化が観察でき、イベリア半島には紀元前2400年頃以前には完全に存在しなかった、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がほぼ独占的となります(関連記事)。

 紀元前三千年紀末の後期銅器時代から前期青銅器時代(EBA)の転換では、イベリア半島南部において、ロス・ミリャレス(Los Millares)のような要塞化された集落や、バレンシナとペルディゲース(Perdigões)のような堀で囲まれた大規模集落が消滅した一方で、イベリア半島南東部では、より小さな規模(0.5ヘクタール未満)の新たな丘の頂上の居住が同時に出現します。かなりの密集した丘の頂上の集落は、特有の建物内埋葬儀式と特徴的な土器および金属の種類により区別され、紀元前2200年頃に、イベリア半島南東部沿岸と並行する山脈に囲まれた肥沃な第三期盆地に出現します。

 約3500km²のこの地域は、エルアルガル(El Argar)「文化」の中核と考えられています。エルアルガル「文化」は、ヨーロッパ先史時代における初期の複雑な社会の最も顕著な事例の一つで、社会的階層化の証拠があります。エルアルガルの起源は依然として不明で、それは、エルアガル要素が後期銅器時代に出現するか、その逆の混成の文脈がないからです。初期エルアルガルの記録は、V型の穴開きボタンや、パルメラ(Palmela)型尖頭器や、いわゆる「射手の手首防護」である穴開き石刃など、鐘状ビーカー複合といくつかの特徴を共有していますが、特徴的な鐘状ビーカー土器は欠けています。

 紀元前2200年頃となる、ラ・バスティダ(La Bastida)の丘の頂上の5ヘクタールの記念碑的要塞の発見に基づき、地中海東部の寄与の可能性が再考されました。大型貯蔵器(ピトス)の建物内埋葬、銀の指輪と腕輪の流通、特徴的な足のアルガル杯も、エーゲ海もしくは近東との接触の兆候として解釈されてきましたが、これら全ての特徴は、エルアルガルの後期段階に出現しました。後陣の建物、建物内埋葬、金属鋳造技術、著名な武器としての矛槍など、初期エルアルガルのさまざまな特徴的な物質的形質の系譜は、ヨーロッパの南東部と中央部と西部におけるいくつかの社会的発展を想起させ、まだ不明な起源のつながりの可能性があります。

 紀元前2000~紀元前1800/1750年頃に、エルアルガルはイベリア半島南東部のより広範な地域に拡大し、メセタ(イベリア半島中央部の広大な乾燥地帯の高原)に進出しました。矛槍など特徴的なエルアルガルの道具も、この領域を越えて存在します。エルアルガル社会内の指導的人物は、矛槍と短剣で武装した戦士階級だったようです。これらの武器は、時には金の腕輪と関連づけられ、紀元前2000~紀元前1800年頃にはヨーロッパ中央部の男性エリートの埋葬において、政治的支配の勲章にもなりました。同時に、人口の増加部分、とくに子供はエルアルガルの独特な集落内の、窯や人口的洞窟や土器の船や穴に埋葬されました。

 エルアルガルの最終段階(紀元前1800/1750~紀元前1550年頃)には、経済的および社会的発展は顕著な水準に達しました。より大きな丘の頂上の集落(1~6ヘクタール)で見つかった大量の研磨器具や大規模な作業場や貯蔵施設から、特定の集団がより広範な地域の資源と労働力の流れを管理していた、と示唆されます。支配的で遺伝的な階級の確立は、増加する社会的非対称性とともに、建物内埋葬、記念碑的建築物、および両者の間の空間的関係で認識できるようになります。

 以前の研究では、森林伐採と大規模な乾地農業に起因する社会的紛争と環境悪化が、紀元前1550年頃のエルアガルの放棄もしくは破壊につながる、と主張されました。しかし、他の研究者により強調されたように、内陸部アリカンテ(Alicante)における類似の経済組織と建築と葬儀の記録の出現から、エルアルガル最盛期には、少なくとも一部の集団は、イベリア半島南東部に位置する隣接した「文化的集団」である、バレンシアの青銅器時代文化に影響を受けた領域で自身を確立できていた、と示唆されます。

 本論文の目的は、ひじょうに動的なイベリア半島銅器時代世界の崩壊における人口動態の重要性、エルアルガルの台頭と発展、ヨーロッパ西部およびバレアレス後期青銅器時代(LBA)における隣接した青銅器時代集団間の関係の理解です。本論文は、イベリア半島およびバレアレス諸島の青銅器時代集団の遺伝的構成を、サルデーニャ島やシチリア島など他の地中海西部および中央部の集団との関係において調べます。合計で、エルアルガルおよび同時代の社会と関連する青銅器時代(BA)96個体、銅器時代34個体、後期青銅器時代6個体のゲノム特性が特徴づけられます。


●標本

 本論文は、後期新石器時代(紀元前3300年頃)から後期青銅器時代(紀元前1200/1000年頃)までの2000年にわたるイベリア半島南部の136個体の、124万ヶ所の情報をもたらす一塩基多型の型式で、ゲノム規模データをを報告します。これらのうち5個体は、将来の研究でユーラシア西部古代人の増加する記録に追加するため、1.5~5.2倍のショットガン配列により完全なゲノムが再構築されました。

 本論文の新たなデータセットには、後期新石器時代(LN)/銅器時代(CA)では、埋葬洞窟のコヴァ・デン・バルド(Cova d’en Pardo)遺跡7個体とフクロウ洞窟(Cueva de las Lechuzas)10個体、鐘状ビーカー前の銅器時代の巨大遺跡であるバレンシナのPP4モンテリリオ(PP4-Montelirio)では11個体、後期銅器時代の集合地下墓であるカミノ・デル・モリノ(Camino del Molino)遺跡の6個体、前期青銅器時代の土坑墓であるモリノス・デ・パペル(Molinos de Papel)遺跡の3個体など、さまざまな集団と種類の遺跡が含まれ、この研究の中心であるアルガル社会の多様な比較データセットを提供します。

 アルガル社会については、ほぼ完全な考古学的によく定義されたラ・アルモロヤ(La Almoloya)遺跡67個体とラ・バスティダ(La Bastida)遺跡10個体に、セッロ・デル・モッロン(Cerro del Morrón)遺跡の3個体、ロルカ(Lorca)町では、マドレス・メルセダリアス教会(Madres Mercedarias Church)遺跡が1個体、ロス・ティンテス(Los Tintes)遺跡が1個体、ザパテリア(Zapatería)遺跡が1個体です。いわゆるバレンシナ青銅器時代の個体も分析され、その内訳は、カベゾ・レドンド(Cabezo Redondo)遺跡が1個体、ペノン・デ・ラ・ゾッラ(Peñón de la Zorra)遺跡が1個体、プンタル・デ・ロス・カルニセロス(Puntal de los Carniceros)遺跡が4個体、ラ・ホルナ(La Horna)遺跡が3個体です。カタルーニャの青銅器時代個体ではミケル・ヴィヴェス(Miquel Vives)遺跡1個体、バレアレス諸島のメノルカ(Menorca)島のエス・フォラト・デ・セス・アリトゲス(Es Forat de ses Aritges)6個体も分析されました(図1)。

 遺伝的性別決定では、性染色体がXXY(クラインフェルター症候群)の1個体とトリプルX症候群の1個体が観察されました。集団遺伝学的分析では、124万パネルで4万ヶ所以上の一塩基多型データが得られた個体に限定されましたが、下流分析では低網羅率の18個体は除外されます。また親族分析で1親等の個体のうち網羅率の低い方の個体も除外されました。これらの122個体の新たなゲノム規模データは、既知の古代人および現代人のデータと統合されました。以下は本論文の図1です。
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●イベリア半島銅器時代の遺伝的構造

 まず、ヒト起源(Human Origins)一塩基多型パネルで遺伝子型決定された現代ユーラシア西部人口集団一式から計算された主成分に投影された、関連する古代人との主成分分析の実行により、新たに決定された銅器時代個体群の遺伝的類似性が調べられました(図2A)。イベリア半島南部の新たな銅器時代個体群は、それ以前の中期新石器時代(MN)と中期/後期新石器時代(MLN)と銅器時代(非草原地帯)のイベリア半島集団と重なる位置に収まりますが、PC1軸では既知の前期新石器時代(EN)イベリア半島集団およびサルデーニャ島銅器時代の後の集団の方へとわずかに動いており、イベリア半島南部の銅器時代個体群における等しく小さな狩猟採集民(HG)祖先系統の寄与を示唆します。これらの結果は、バレンシナの物質文化の1要素における提案された型式の類似性に基づく、前期銅器時代におけるイベリア半島南部への草原地帯関連祖先系統の拡散に関する以前の提案に反しています。

 ヨーロッパ新石器時代農耕民における主要な狩猟採集民、つまり農耕前のヨーロッパ西部における祖先系統の支配的形態を表すいわゆるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の異なる寄与を検証するため、f4統計(イベリア半島南東部および南西部CA、イベリア半島北部および北東部および中央部CA;WHG、ムブティ人)が計算され、イベリア半島北部CAとイベリア半島中央部CAで有意に負の値が得られました(図2B)。これは、イベリア半島北部および中央部CA個体群におけるより高いWHG祖先系統を示唆しており、f4統計(イベリア半島南東部および南西部MLN、イベリア半島北部MLN;WHG、ムブティ人)で示されるように、MLNに先行する期間においても存在した兆候です。

 ヨーロッパ西部における異なる狩猟採集民の遺産に関する以前の研究の洞察(関連記事1および関連記事2)を活用して、さまざまな方法で地理的に多様な銅器時代イベリア半島人の狩猟採集民祖先系統が調べられました。まず、f4統計(ゴイエットQ2、WHG;検証対象、ムブティ人)が計算され、検証対象は全てのMLNおよびCA集団を表します(図2C)。f4値の結果は全ての検証対象集団で有意に負となるにも関わらず(WHGとの混合を示唆します)、より低い負の値を示すMLNおよびCAのイベリア半島南部集団との地理的に関連する勾配が観察され、マドレーヌ文化(Magdalenian)関連祖先系統の代理として機能する、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2個体とのさまざまな関係を示唆します(図2C)。

 qpAdmの外群に基づくアナトリア半島新石器時代集団、ルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の8100年前頃となる中石器時代個体に代表されるWHG、ヨーロッパ東部の農耕開始前の主要な祖先系統であるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、遠位供給源としてのゴイエットQ2との祖先系統モデル化を用いて、この微妙な兆候が確証されます。イベリア半島南部の銅器時代集団は、狩猟採集民祖先系統の全体的な量に関しては異なりますが、後者も質的に異なる、と明らかになりました。イベリア半島南部銅器時代個体群におけるマドレーヌ文化(マグダレニアン)関連狩猟採集民祖先系統の割合推定値は6.1±1.3~7.2±1.3%で、局所的な狩猟採集民集団の地理的構造を反映し、新石器時代以降のある程度の遺伝的連続性を示唆します(図2D)。

 イベリア半島南東部銅器時代個体群の事例では、第三の供給源としてゴイエットQ2を追加することで、モデルはわずかに向上します。イラン新石器時代(N)もしくはヨルダン先土器新石器時代B期(PPNB)を第四の供給源として追加すると、イベリア半島南東部銅器時代個体群では1桁のモデル適合性の改善が見られます。次に、第四の供給源として他の人口集団を追加しても、モデル適合性の改善は見られませんでした。イベリア半島南東部銅器時代集団に寄与する未知の供給源は、遠位供給源のアナトリア半島新石器時代と比較して、レヴァントおよび/もしくはイランN的な祖先系統を過剰に有していた可能性が高く、それは、これらがまとめてアナトリア半島およびレヴァント銅器時代集団において混合した(紀元前6000~紀元前5000年頃)、と明らかになってきたからです(関連記事)。

 この知見は、地中海沿いに初期に拡大した微妙な寄与、あるいは、本論文で用いられたアナトリア半島N集団と比較した場合に、レヴァントおよび/もしくはイランN的な構成要素をさまざまな割合で有する、新石器時代移行期における初期農耕民のさまざまな供給源を示唆します。外群からアナトリア半島狩猟採集民(AHG)を除外してもモデル適合性は改善し、新石器時代祖先系統は遠位代理としてアナトリア半島N集団を用いることによりよく表せず、アナトリア半島N集団よりもAHGに類似した別の農耕民集団に由来しているかもしれません。地中海全域の新石器時代および銅器時代のより多くの個体が、この寄与をより確実に追跡するのに必要でしょう。以下は本論文の図2です。
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 マドレーヌ文化関連祖先系統は、他の同時代の地中海人口集団、たとえばサルデーニャ島の新石器時代と銅器時代と前期青銅器時代の集団やシチリア島の前期青銅器時代集団やイタリア半島の銅器時代集団では検出れず、イベリア半島南部から地中海中央部への方向での遺伝子流動はありそうにない、と示します。しかし、qpAdmモデルを適用すると、サルデーニャ島の地中海中央部集団におけるイランN的祖先系統の以前には報告されていない量が検出され、それはサルデーニャ島銅器時代集団の2.8±1.2%からサルデーニャ島ヌラーゲ文化期青銅器時代集団の5.8±1%の範囲です。

 シチリア島EBA集団をモデル化するのに供給源としてイランN集団を追加すると、モデル適合性は改善しますが、P値が0.05以上に達することはなく、シチリア島からよりも、イタリア半島からサルデーニャ島への遺伝子流動の方が可能性は高そうで、イタリア半島CA集団もイランN的祖先系統を示します。とくに、シチリア島EBA集団をモデル化すると、3供給源モデル(アナトリア半島N、WHG、ヤムナヤ文化サマラ集団)で外群からAHGを除外するか、4供給源モデル(アナトリア半島N、WHG、ヤムナヤ文化サマラ集団、イランN)でモロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)狩猟採集民を除外すると、P値が0.05以上となり、草原地帯関連祖先系統の到来前の地中海における遺伝的下位構造が示されます。しかし、この知見は、他の地中海人口集団からイベリア半島南東部CA個体群への限定的な遺伝的流入を除外しません。


●イベリア半島南東部青銅器時代における遺伝的置換とエルアルガルの台頭

 先行する銅器時代(CA)集団と比較すると、エルアルガル青銅器時代(BA)およびイベリア半島南東部BAと関連する個体群は主成分空間では密接な群を形成し、ヨーロッパ中央部の草原地帯関連祖先系統を有する人口集団の方へと動いており、イベリア半島CA個体群とイベリア半島北部BA個体群との間に位置します(図3A)。類似の遺伝的変化はADMIXTUREの結果において顕著で、イベリア半島BA個体群は先行するCA個体群と比較すると追加の構成要素を示し、これはf4検定(アナトリア半島N、検証集団;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)によりさらに裏づけられ、検証集団は新たに報告されたCAおよびBA個体群で繰り返されます(図3B)。EBA個体群における負のf4値への変化は、ヤムナヤ文化サマラ個体群と共有される浮動を示唆し、これは以前のCA個体群では欠けています。

 この観察結果は、エルアルガルBA個体群におけるかなりの量の草原地帯関連祖先系統を示唆し、f4統計(アルガルイベリア半島BA/イベリア半島南東部BA、イベリア半島南東部CA;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)で直接的に検定されました。有意に正のf4値は、全てのBA個体群における草原地帯関連祖先系統の存在を確証します。次にf4(イベリア半島北部・北東部・中央部BA、アルガルイベリア半島BA/イベリア半島南東部BA;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)を用いて、南北のBA個体群を対比することにより、草原地帯関連祖先系統との類似性の違いが検証されました。その結果得られたf4値で、ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡の個体群は、Y染色体記録で見られるYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)へのほぼ完全な置換(例外はラ・バスティダ遺跡の亜成人1個体)にも関わらず、イベリア半島の他のBA集団、とくに北部集団と比較して、草原地帯関連祖先系統の量が少ない、と確証されました。しかし、遺跡内の水準では、主成分分析およびf4統計に基づくと、ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡で前期と後期との間の草原地帯関連祖先系統の量に関して有意な違いは観察されず、草原地帯関連祖先系統の寄与は人口集団全体で均質化している、と示唆されます。

 バレアレス諸島の新たに分析された後期青銅器時代個体群(アリトゲスLBA)は、マヨルカ(Mallorca)島の既知の後期銅器時代個体(以前にはマヨルカEBAと呼ばれていました)よりも草原地帯関連祖先系統の割合が少なく、経時的に草原地帯関連祖先系統が減少した、と確証されます。マヨルカ島の銅器時代の草原地帯関連祖先系統を有する個体における草原地帯関連祖先系統の量は、イベリア半島における最初の銅器時代集団(イベリア半島中央部CA_Stpおよびイベリア半島北西部CA_Stp)と類似しており、同時に到来した可能性があります。それは、この草原地帯関連祖先系統を有する集団の到来前に、バレアレス諸島にはヒトの居住の明確な証拠がないからです。

 以前の研究では、イベリア半島について、草原地帯関連祖先系統の最初の寄与は青銅器時代において在来の銅器時代集団の子孫との混合により希釈されたものの、第二波の後期青銅器時代から鉄器時代にかけて再度増加した、と提案されました(関連記事)。本論文では、バレアレス諸島におけるこの第二波は検出されず、メノルカ(Menorca)島の後期青銅器時代1個体の存在にも関わらず、別の研究(関連記事)の知見と一致します。

 イベリア半島南部で観察された状況は、紀元前2200年頃となる銅器時代社会から前期青銅器時代社会への移行期における人口動態変化の具体例を提供します。バレンシナの前期銅器時代(紀元前2900~紀元前2800年頃)および、鐘状ビーカー層準と同時代となる(鐘状ビーカー土器は欠けています)後期銅器時代の集合墓洞窟であるカミノ・デル・モリノ遺跡からの、本論文で新たに提示された個体群における草原地帯関連祖先系統の欠如と、カミノ・デル・モリノ遺跡からわずか約400m離れて位置するモリノス・デ・パペル遺跡の鐘状ビーカー関連遺物を有する二重墓被葬者における草原地帯関連祖先系統の最初の出現は、イベリア半島南部における草原地帯関連祖先系統の到来に関する時間的枠組みを提供します。

 基準点としてカミノ・デル・モリノ遺跡の最新の年代(非較正で3830±40年前)と、モリノス・デ・パペル遺跡の最古の年代(非較正で3780±30年前)を考えると、両方の放射性炭素年代は95%水準で重なり、イベリア半島南部における草原地帯関連祖先系統の到来は紀元前2200年頃までとなります。地域を越えた規模では、分析されたイベリア半島南部銅器時代個体群はどれも現時点で草原地帯関連祖先系統を示せませんが、ラ・バスティダ遺跡のの2個体(BAS024とBAS025)とラ・アルモロヤの1個体(ALM019)のエルアガル遺跡では最古となる個体群は、そうした祖先系統の明確な証拠を示します。したがって、人口集団の混合は遅くともそれから過去150年間に起きたに違いありません。

 プログラムDATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals)を用いて、推測される供給源の混合年代を推定すると、全ての新たに提示された青銅器時代集団における混合年代は、紀元前2550±189年から紀元前1642±133年となります。これは、紀元前2350年頃となるバレンシナのような一部の集合大規模遺跡や、他では紀元前2300/2200年頃となるロス・ミリャレス遺跡などその前後の年代の遺跡の、銅器時代社会体系の崩壊後に起きた可能性があります。紀元前2350~紀元前2200年頃となる銅器時代文化の消滅は、いわゆる4200年前の気候事象と関連しており、それは、イベリア半島について直接的で決定的な古気候証拠は疎らなままであるものの、この事象と巨大遺跡の崩壊との間の時間的重複があるからです。青銅器時代へとつながる社会的および経済的変化は、新たな遺伝的祖先系統の到来と同様に、イベリア半島北部から人部へと拡大したようなので、関連している可能性があります。しかし、この拡大が日和見的だった(つまり、潜在的な気候悪化の結果に続きました)のか、考古学で観察された実際の変化の原因だったのかどうか、不明なままです。

 注目すべきは、新たな遺伝的祖先系統の到来が、イベリア半島の全地域で同じ社会的変化と並行しているわけではない、ということです。イベリア半島南東部沿岸地域では、集落内の単葬もしくは二重埋葬の慣行への変化が紀元前2200年頃までに起き、エルアルガルの始まりと一致します。しかし、イベリア半島内陸部では、関連する副葬品と集落の土器は、初期エルアガルの「中核」領域の物質文化よりも、後期鐘状ビーカー銅器時代と関連しています(葉の形の有舌尖頭器、V型の穴開きボタン、刻文ビーカー土器)。スペイン中央高原の南部であるラ・マンチャ(La Mancha)では、確認された草原地帯関連祖先系統構成要素を有する最初の個体である、紀元前2100年頃のカスティリェホ・デル・ボネテ(Castillejo del Bonete)遺跡の4号墓の男性が、ラス・モティージャス(Las Motillas)要塞など記念碑的集落の創設と一致しています。

 これは、イベリア半島への草原地帯関連祖先系統の遺伝的寄与が紀元前2400年頃にイベリア半島北部および中央部地域で始まる長期の過程だった一方で、そこから約300年で南方へと拡大したことを示します。局所的規模では、この変化はより速く起きた可能性があります。類似の状況はポルトガル中央部にも存在した可能性があり、紀元前2300~紀元前2200年頃となる、ガレリア・ダ・システルマ(Galería da Cisterna)遺跡やコヴァ・ダ・モウラ(Cova da Moura)遺跡など集合銅器時代埋葬において、草原地帯関連祖先系統を有さない個体が依然として見つかります。しかし、紀元前2100年頃以後は、全ての遺跡の全ての個体は草原地帯関連祖先系統を有しており、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、エルアルガルだけではなく青銅器時代イベリア半島の他地域にも存在する、主要なY染色体系統になることと一致します。


●イベリア半島青銅器時代集団における地中海とヨーロッパ中央部の遺伝的影響

 イベリア半島における遺伝的置換と新たに形成された青銅器時代(BA)の遺伝的特性への在来集団の寄与を調べるため、一連のqpAdmモデルが体系的に検証されました。遠位祖先系統供給源である、アナトリア半島新石器時代(N)集団、WHG、ゴイエットQ2、ヤムナヤ文化サマラ集団、イランN集団を用いて、イベリア半島BA集団の遺伝的祖先系統構成要素をモデル化することから始められました。その結果、イベリア半島南部の銅器時代(CA)個体群の、特徴的ではあるものの変動的な構成要素であるゴイエットQ2の局所的痕跡はもはや検出できず、狩猟採集民祖先系統に関して、イベリア半島青銅器時代における地理的下位構造の消滅が示唆されます。これは、イベリア半島北部から南部への草原地帯関連祖先系統の拡大により説明され、イベリア半島南部にイベリア半島北部および中央部の祖先系統をもたらし、検出限界を超える水準にまで微妙なゴイエットQ2の兆候を希釈しました。

 同じqpAdmモデルを用いることで、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル後期、イベリア半島南東部カベゾ・レドンド遺跡BA、ラ・バスティダ遺跡エルアルガル期の個体群は、単一の供給源としてヤムナヤ文化サマラ集団でモデル化できず、イランNとヤムナヤ文化サマラ集団の組み合わせでよりよい裏づけが見つかりますが、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とカベゾ・レドンド遺跡BA個体群では、P値は0.05以上に達しません。これらエルアルガル集団(ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡)もPC1軸では、イランN的祖先系統を有するものの草原地帯関連祖先系統を有さない「ミノア人」、もしくは両者の混合を有する「ミケーネ人」など(関連記事)、過剰なイランN的祖先系統を有する地中海BA集団の方向にわずかに右側に動き、それはシチリア島MBAの同じBA個体群とサルデーニャ島人(関連記事)についても示されます(図3A)。以下は本論文の図3です。
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 イベリア半島南東部BA集団で観察されるモデル却下の理由を調べるため、いくつかのqpAdmモデルが検証されました。2方向および3方向の競合qpAdmモデルを用いて、イランN的祖先系統を有する第三の供給源が必要なのかどうか、調べられました。2方向モデルでは、鐘状ビーカー個体群では最大数となるドイツの鐘状ビーカー(BB)が固定近位祖先系統供給源として、在来の銅器時代供給源(イベリア半島BAの北部か中央部か南東部)とともに用いられました。

 これら2供給源が却下された標的集団について、第三の供給源として地中海中央部および東部人口集団が繰り返し検証されました。それは、これらのうち一部がイランN的祖先系統を有すると知られているからです。祖先系統の在来供給源としてイベリア半島中央部CA、草原地帯祖先系統の代理としてドイツBBを用いると、標的としてラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とのモデルのみが却下され、第三の構成要素がこれらイベリア半島BA集団に必要と示唆されました。

 第三の供給源として地中海人口集団を追加すると、P値が0.05を超えることはないものの、モデル適合性が改善します。しかし、第三の供給源としてイラン銅器時代を用いるとP値が0.05を超え、イランN的祖先系統のより高い割合が必要と示唆されます。注目すべきことに、イベリア半島中央部CAを在来のイベリア半島南部CAに交換すると、モデルはより多くのイベリア半島BA集団(イベリア半島の北部および南東部BA、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期、中央部CA_Stp)では裏づけが見つからず、この一群に第三の供給源を追加しても、モデルの適合性はどちらでも改善されませんでした(図4A)。以下は本論文の図4です。
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 ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期におけるドイツBB+イベリア半島中央部CAを含むモデルの却下が、イベリア半島における草原地帯関連祖先系統の供給源に存在しなかったドイツBBにおける特定のヨーロッパ北部/中央部LNの混合に起因することを除外するため、直接的な草原地帯関連祖先系統の供給源がヤムナヤ文化サマラ集団に固定されました。それは、全てのイベリア半島集団に寄与する同じ遠位草原地帯供給源が予測され、これらのモデルがCA(つまり新石器時代農耕民)祖先系統の100%に寄与する、近位在来CA供給源を通じて繰り返されるからです。必要な場合のみ、第三の供給源として遠位イランN(他の区別できない銅器時代祖先系統に寄与したかもしれないイランCAの代わりに)が追加されました。

 2方向モデルでイベリア半島中央部CAとヤムナヤ文化サマラ集団を用いることにより、全てのイベリア半島BA集団のモデル化に成功しましたが、再び、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とカベゾ・レドンド遺跡BA集団は除外されました。注目すべきことに、ラ・バスティダ遺跡エルアルガル期も遠位モデル2で失敗しました。しかし、イランNを第三の供給源として追加すると、これら3集団は近位在来CA基層モデルではP値が0.05以上となりました。

 次に、イベリア半島中央部CAを在来のイベリア半島南東部CA供給源と交換すると、モデルのほとんどが却下され、イベリア半島CA集団における遺伝的下位構造が確証されます。イベリア半島南東部CAを基層として用いる場合のみ、イベリア半島南東部集団のモデル適合性が改善し、イベリア半島に草原地帯関連祖先系統をもたらした最初の個体群はさまざまなCA集団と局所的に混合した、と示唆されます。注目すべきことに、イベリア半島南東部CAは、バレアレス諸島のCA_StpとBAとLBAの集団にとって、充分に裏づけられた在来の代理です。マヨルカ島CA_Stpおよびメノルカ島LBAはそれぞれ1個体により表されるので、この兆候は注意深く解釈されます。しかし、この兆候は、6個体で構成される新たに配列されたメノルカ島のアリトゲスLBA集団でよく裏づけられます。

 次に、これらを区別するための解像度の能力に影響を与えることなく、近位供給源のさらなる特定が試みられました。草原地帯関連祖先系統を有する最も近位の在来供給源としてヤムナヤ文化サマラ集団をイベリア半島中央部CA_Stpを交換し、これらを2方向モデルでさまざまなイベリア半島CA供給源と組み合わせ、必要な場合は第三の供給源としてイランNのみが追加されました。草原地帯関連祖先系統にとってより高い可能性のある近位供給源を用いることで、遠位モデルの結果を再現できました。しかし、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期、バスティダ遺跡エルアルガル期、カベゾ・レドンドBA、アリトゲス遺跡LBAは依然として、イベリア半島中央部CAおよびCA_Stpとの全てのモデルにおいて、第三の供給源としてイランNが必要になる、と示せます。対照的に、イベリア半島南東部CAを在来の基層として用いると、イランNは必要ではありませんが、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期は依然としてP値が0.05以下で却下されます。

 この知見はラ・アルモロヤ遺跡個体群の未解決の祖先系統か、あるいは、より単純なモデルを却下する統計的能力を提供する、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期の事例で見られるように、より多い個体で構成される集団でのみ微妙な兆候を検出する能力により、最適に説明されます。イベリア半島南東部CAをイベリア半島中央部CAの代わりに用いてラ・バスティダ遺跡集団をモデル化すると、このモデルは却下されなくなり、イベリア半島南東部BAへの在来CA集団の直接的寄与を示唆します。まとめると、分析結果は微妙ではあるものの追加のイランNに富む祖先系統を示唆しており、この祖先系統はイベリア半島南東部CAに存在するので、エルアルガルBAに先行する可能性があります。

 ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期が、イランNを地理的により近い地中海中央部や東部の人口集団などイランNの豊富な供給源に交換し、イランNを外群に移動させる場合にモデル化できるのかどうかも、検証されました。しかし、これは裏づけのあるモデルが得られませんでした。近位の地中海供給源は見つけられませんでしたが、地中海中央部人口集団を外群に追加すると(シチリア島EBAかギリシアEBAかギリシアMBA)、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期について、モデルの裏づけ(P値)は減少し、間接的に地中海中央部BAの重要性を証明します。しかし、他の地中海集団を外群に追加しても、P値に変化は観察されませんでした。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の派生系統であるR1b1a1b1a1a2a1(Z195)への完全な置換は、ラ・アルモロヤ遺跡の男性29個体全員とラ・バスティダ遺跡の6個体(例外は紀元前2134~紀元前1947年頃の1個体のYHg-E1b)で観察され、おもに銅器時代から青銅器時代の移行期における遺伝子流動の証拠の別の独りした供給源です。とくに、イベリア半島BAで最も一般的なYHg-R1b-Z195は、究極的にはヨーロッパ中央部の共通祖先であるYHg-R1b-P312に由来しますが、ヨーロッパ中央部およびブリテン諸島で報告された他の派生的な鐘状ビーカー個体群のYHg-R1b多様体とはすでに異なっています。YHg-R1b-Z195はシチリア島CA_Stp(以前にはEBAに分類されていたので、外れ値とみなされていました)とシチリア島EBAで見られます(関連記事)。しかし、他のYHg-R1b多様体との系統学的および地理的つながりは、依然として不明です。エルアルガルにおけるイランN的祖先系統の微妙な存在と、シチリア島におけるYHg-R1b-Z195の存在は、イベリア半島からシチリア島だけではなく、その逆方向の遺伝子流動の可能性を開き、青銅器時代における地中海西部と中央部との相互接触を示唆しますが、直接的な接触は考古学的記録ではほとんど目立ちません。

 まとめると、これらの結果は、在来の銅器時代の遺伝的基層に加えて、イベリア半島南東部人の青銅器時代の遺伝的特性の形成への、二重の遺伝的寄与を示唆します。主要な追加の祖先系統供給源は、ヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー集団と類似しており、まずイベリア半島北部に祖先系統を寄与し、続いてイベリア半島中央部CA_Stpの形態で南方へと拡大しました。第二のより影響の小さな祖先系統構成要素はイランNの豊富な供給源/地中海中央部供給源で、BAエルアルガル状況の個体群に限定されます。この構成要素寄与の年代は不明なままで、在来のCA銅器時代もしくは島嶼部地中海中央部BA集団とのつながりの微妙な痕跡を通じて持続した、新石器時代の遺産を示します。


●アフリカ北部および地中海中央部とつながるエルアルガルの遺伝的外れ値

 主成分分析も、新たに配列された個体群における遺伝的外れ値を明らかにしました(図3A)。後期エルアルガルのロルカ・ザパテリア(Lorca-Zapatería)遺跡の男性個体(ZAP002)は主成分分析ではイベリア半島BAの範囲外に位置し、地中海中央部に向かって明確に動いています。地中海東部と近東とアフリカの集団への特定の誘引について、f4混合検定(ZAP002、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期;地中海東部/アフリカ、チンパンジー)で検証されました(図5A)。その結果、f4値はゼロと一致し、ZAP002とラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期(エルアルガル集団では最大の個体数)は地中海東部およびアフリカ集団と対称的に関連している、と示されます。しかし、モロッコのイベロモーラシアンについては、Z得点=2.4のほぼ有意な正のf4値だと示されました。類似のf4検定におけるムブティ人への誘引は、アフリカ人祖先系統もしくはモロッコのイベロモーラシアン集団およびナトゥーフィアン(Natufian)人と共有される高水準の基底部ユーラシア人(関連記事)祖先系統を示唆します。

 f4(検証集団、EHG;コーカサス狩猟採集民、ムブティ人)でゼロからの負の偏差も確認され、アフリカ人もしくは基底部ユーラシア人祖先系統が示唆されます。この検定では、EHG集団とコーカサス狩猟採集民(関連記事)集団の分岐は、あらゆる検証集団で負の値になるほど深く分岐している、と仮定されます。この理論的根拠に従って、負の値の発見は、ムブティ人との共有される深い祖先系統の多さを示唆し、他のエルアルガル個体と比較した場合の図3BにおけるZAP002の異なるf4値も説明します。ZAP002の負の値(Z得点=-2.14)は、モロッコのイベロモーラシアンおよびナトゥーフィアン個体群でも観察され、この主張の追加の裏づけを提供します(図5B)。

 qpAdmを用いて、イベリア半島CAやドイツBBなど異なる祖先系統の供給源候補と、サルデーニャ島およびシチリア島の地中海中央部供給源の候補一覧がさらに調べられました。主要なイベリア半島南東部BA集団の外群の同じ一式を用いると、ZAP002にとって統計的によく裏づけられたモデルは見つかりませんでした。しかし、モロッコのイベロモーラシアン個体群を外群から供給源に移すと、地中海中央部人口集団が供給源として含まれる場合、モデルが適合します。

 ZAP002は、在来のイベリア半島CA供給源を必要とせず、ドイツBBとモロッコのイベロモーラシアン個体群とシチリア島EBAもしくはサルデーニャ島EBAもしくはサルデーニャ島ヌラーゲ文化BAの3方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図5C)。これらqpAdmの結果は、シチリア島EBA個体群とまとまるという、主成分空間におけるZAP002の位置と一致します(図3A)。同じモデルでイベリア半島CA供給源を外群に替えても、モデル適合性は依然として維持され(図5C)、ZAP002はエルアルガルの他個体と同じ埋葬(ピトスの埋葬とアルガル土器)の扱いを認められているにも関わらず、その起源は完全に外来と示唆されます(図5C)。以下は本論文の図5です。
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●銅器時代および青銅器時代のエルアルガル社会の表現型の変異と人口統計と社会的相関

 保存状態良好な全てのイベリア半島銅器時代および青銅器時代個体(40万ヶ所以上の一塩基多型)で、124万一塩基多型パネルに含まれる表現型の多様体が調べられました。乳糖とアルコールの消化能力、脂肪酸代謝の適応、セリアック病体質、感染症耐性と関連する14個の多様体に加えて、肌/髪および目の色素沈着をコードする41ヶ所の一塩基多型も調べられました。その結果、銅器時代と青銅器時代との間で、派生的アレル(対立遺伝子)の頻度で有意な増加もしくは減少は見つかりませんでした。

 銅器時代および青銅器時代における有効人口規模への洞察を得るため、hapROHを適用してROH(runs of homozygosity)が特定されました。ROHは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せます(関連記事)。2センチモルガン(cM)未満となる短いROHパターンでは、銅器時代と青銅器時代との間で顕著な違いは見られず、本論文で分析対象とされた全個体は、比較的充分に大きな有効人口規模の人口集団から抽出された、と示唆されます。青銅器時代前となる銅器時代人口集団の減少についての証拠も見つかりませんでした。両集団で、長いROH断片(20~300 cM)で表される、近親交配の兆候は検出されませんでした(図6A)。

 以前に仮定された(関連記事)草原地帯関連祖先系統の寄与における性的偏りの可能性を評価するため、X染色体と常染色体に遠位および近位qpAdmモデルが適用されました(図6B)。男性の寄与は平均して次世代にはX染色体の1/3しかないので、常染色体よりもX染色体で祖先的構成要素の割合が低い場合は、各構成要素に関して男性の偏りが示唆されます(関連記事1および関連記事2)。同様に、祖先的構成要素が統計的にX染色体でより高ければ、女性の偏りが示唆されます。

 この理論的根拠に基づいて遠位もしくは近位供給源を用いると、草原地帯関連祖先系統における有意な男性の偏りは観察されませんでした(図6B)。男性の偏りが検出されないという事実は、以前の研究(関連記事)で反映されているように、両性におけるすでに均衡のとれた祖先の構成要素を示唆しているかもしれません。その研究では、草原地帯構成要素における男性の偏りは縄目文土器(Corded Ware)文化だけで検出され、鐘状ビーカーもしくはBA人口集団ではもはや検出されませんでした。また最近の大規模な発掘が利用され、ラ・アルモロヤ遺跡の適切な形態学的保存状態の86個体全てが標本抽出された結果、67個体で高品質なゲノム規模データが得られ、エルアルガル共同体への洞察が可能となりました。

 3つの手法の組み合わせを用いて、遺伝的関連性が推定されました。それは、1000以上の共有一塩基多型を有する個体群の組み合わせについての、ペアワイズミスマッチ率(PWMR)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA)、lcMLkinです。再構築されたすべての家系は、人類学的および考古学的文脈に完全に統合された、付属論文で刊行される予定です。したがって本論文は、高次水準での生物学的関連性の主要な観察結果を報告します。分析された30個体の成人女性間では、1親等の関係は見つかりませんでした。成人間の全ての1親等の関係は、少なくとも成人男性1人を含みます(3組の1親等の関係)。成人女性間では2親等の関係も見つかりませんでした。成人を含むいくつかの2親等の関係は、全て男性間でした(分析された成人男性18人のうち4人)。

 次に、ラ・アルモロヤ遺跡の男性には、同遺跡で女性よりも多くの親族がいるのかどうか、検証されました。f3(女性、女性;ムブティ人)とf3(男性、男性、ムブティ人)の形式の1親等および2親等の組み合わせを削除した後に、f3出力統計が計算され、女性:女性と男性:男性の比較における類似の平均値(図6C)にも関わらず、男性は女性よりもf3分布が偏っており、他の女性との女性との場合よりも、他の男性との男性および他の女性との男性との間のより密接な遺伝的関係(たとえば、3親等から4親等)を示唆します。

 READから抽出されたPWMRを用いて、父方居住を示唆する兆候について具体的に検証され、完全な集団への各成人個体の生物学的関連性を計算する行列が構築されました(図6D)。その結果、同遺跡において親族を有する一部の成人女性も存在するにも関わらず、男性は平均して女性よりも同遺跡の他個体と密接に関連している傾向が明らかになり、父方居住の検定は有意ではない、と示されました。遺跡内の水準では、この結果はより高い繁殖率の男性系統からの創始者効果も示唆しているかもしれません。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文はイベリア半島南東部に焦点を当て、ヨーロッパにおけるより大規模な人口動態に照らして、地域的な水準での遺伝的分析の可能性を浮き彫りにします。全体として、銅器時代人口集団の構造は、新石器時代以来の遺伝的安定性と連続性を示す、と明らかにできました。これは、イベリア半島南東部銅器時代人口集団と地中海人口集団との間の初期接触の可能性に加えて、イベリア半島南部におけるさまざまな狩猟採集民祖先系統と結びついていました。

 紀元前2200年頃までのイベリア半島南東部における草原地帯関連祖先系統の微妙な証拠が提供され、この頃に、広範な社会的および文化的変化がイベリア半島南部の大半で起き、堀で囲まれた集落体系の終焉と、青銅器時代集団の出現が含まれます。イベリア半島南東部では、全ての標本抽出された青銅器時代集団が草原地帯関連祖先系統を有する、と示せますが、より広範に標本抽出されたエルアルガル集団はイランN的祖先系統も過剰に有しており、これは他の銅器時代および青銅器時代の地中海集団でも観察されてきました。エルアルガルの外れ値1個体の分析により、追加のアフリカ北部祖先系統を有する地中海中央部移民個体が明らかになりました。

 全体として、エルアルガルは、イベリア半島北部および中央部から到来した、すでにヨーロッパ中央部の草原地帯関連祖先系統(および優勢なY染色体系統であるYHg-R1b)を有していた新たな集団と、地中海東部および/もしくは中央部集団と類似したイランN的祖先系統を過剰に有していた点でイベリア半島の他地域とは異なっていた、イベリア半島南東部在来の銅器時代集団との混合から形成された可能性が高そうです。さらに、前期および後期エルアルガル集団の大きな標本規模から、在来の銅器時代基層におけるイランN的祖先系統の寄与は、祖先系統のこの種類をよく説明するのに十分ではなく、次に、遅くともエルアルガル期末までの、地中海青銅器時代との連続したつながりおよびそこからの遺伝的影響が主張されます。本論文は、遺跡内水準での青銅器時代前期エルアルガル社会の人口構造に光を当てることができました。ラ・アルモロヤ遺跡では、男性間のより密接な遺伝的関係が、父系性の強力な指標です。


Villalba-Mouco V. et al.(2021): Genomic transformation and social organization during the Copper Age–Bronze Age transition in southern Iberia. Science Advances, 7, 47, eabi7038.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi7038

伊藤俊一『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、理解が難しいと言われる荘園の通史で、私も荘園についてよく理解していなかったので、たいへん勉強になりました。本書は、荘園に焦点を当てることで日本史の大きな流れを分かりやすく解説できているように思います。本書は長く荘園史の入門書として読まれ続けるでしょうし、荘園が日本史理解の中核的問題の一つであることも、改めて示しているように思います。また本書は、政府の規模もしくは管轄範囲の大小を問う、現代の政治的課題への示唆にもなっているように思います。荘園の歴史から、「民間」の自由な競争が経済的活力を生むことは否定できないものの、一方でそれが激しい競争や自然利用につながり、社会を荒廃させることにもなる、と窺えます。ただ、過度に現代の政治的課題を投影して読むと、かつての唯物史観のように実態を誤認することもあるでしょうから、そこは要注意だとは思いますが。

 荘園とは、建物(荘)と土地(園)を指し、私有農園のことです。日本の荘園研究は1950年代から1970年代まで盛んでしたが、マルクス主義の影響を強く受けており、在地領主である武家を革命勢力と位置づけ、武家勢力が貴族や寺社の領有する荘園を侵略して封建制社会を形成した、という歴史像が提示されました。マルクス主義歴史学の発展段階説によると、中世は農奴制社会のはずなので、中世日本に土地に縛られた西欧的な農奴が探されました。さらに、鎌倉幕府で成立した土地を媒介とした主従関係が西欧封建制と類似していることから、日本の荘園史が西欧史の枠組みで理解されようとしました。しかし、マルクス主義歴史学のこの把握は実態とは異なり、在地領主は12世紀の領域型荘園成立当初から荘官として荘園を支え、15世紀にも荘園は存在していました。また日本の荘園の百姓には移動の自由があり、その自由がない下人の割合は低かった、という違いもあります。本書はこうしたかつての研究状況を踏まえつつ、荘園史を解説していきます。

 日本の荘園は律令国家において出現し、743年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の墾田永年私財法が最初の画期となります。律令国家では公地公民が建前でしたが、730年代の天然痘の流行により大打撃を受けた社会の復興策として、新たに開発した田地の永代所有が認められました(初期荘園)。初期荘園は基本的には荘園に専属する農民を持たず、周辺農民が出作して収穫の2~3割を収める賃租により収益を得ました。当時の農民にとって、荘園は自分の口分田に加えて新たに増えた耕作先でした。

 平安時代となり、気候変動などによる災害のため社会は不安定化します。9世紀前半には乾燥気味で安定していたものの、9世紀後半には湿潤になり、洪水と旱魃が交互に起きました。10世紀には一転して乾燥化が進み、この時期にはヨーロッパでも中世温暖期を迎えて農業生産力が向上した、と言われていますが、日本列島では気温が上昇すると降水量は減る傾向にあり、ヨーロッパの麦作と日本の水稲耕作では、同じ温暖化でも農業生産力への影響は異なります。考古学でも、9世紀後半には古代村落が危機に陥り、廃棄された村落が少なくなかった、と示されています。文献でも、914年に三善清行が提出した意見十二箇条から、当時の農村の荒廃が窺えます。これは古墳時代以来の伝統的な在地支配層だった郡司の没落とも関連しており、古代村落の崩壊によって、調・庸・雑徭の徴収は困難になっていきました。郡司により動員される農民に労働力を頼っていた初期荘園は、大半が荒廃してしまいました。

 こうした混乱のなかで、納税できずに村落から逃亡し、戸籍から離れて浪人となる農民が増えており、その中に「富豪の輩」や「力田の輩」や「富豪浪人」などと呼ばれる、才覚を活かして富裕になり、貧しい浪人を集めて田地を開発したり、農民の口分田を強引に借り受けて高利(利稲)を取ったりした農民が現れ、貧富の差は拡大していきます。富豪層は国司や郡司が派遣した徴税使には武力で抵抗し、中央貴族や中央官庁と結んでその従者となり、開発した田地を寄進したり、貴族や官庁が設けた荘園の経営に携わったりました。その結果、9世紀には富豪層と結んだ荘園の設立が急増し、口分田を耕作する一般の農民が圧迫されました。洪水や旱魃により農業経営が困難になり税収が減っていたところに荘園の設立が進み、国家財政は危機に陥りました。

 こうした危機に対処するため、富豪層による一般農民の搾取の禁止と、富豪層と中央貴族の結託による荘園設立の拡大の歯止めを目的とした荘園整理令が902年に発布されましたが、班田はこの時が最後となりました。その後の10世紀半ばの改革は、税制では人頭税から地税への転換、地方行政では国司の権限拡大(国司の徴税請負人化)、耕作方式では有力農民である田堵による請負制の採用、土地制度では免田と国免荘の認定が要点となりました。これらの改革は中央政府主導ではなく、現場で危機に対処した国司が律令制の運用を現実に合わせて改変し、それを中央政府が追認することで進められました。こうして当初の律令制から大きく変容した体制が形成されていきました。

 摂関期に地税への比重が高まると、受領国司は任国内の耕地を名と呼ばれる単位に分割し、各名の耕作と納税を負名と呼ばれた農民に請け負わせました(負名制)。負名になった有力農民は、農業経営者としては田堵と呼ばれました。名は田堵の所有物ではなく、年単位の契約で耕作を任されるだけでした。班田収授で農民に与えられた口分田も次第に名に組み込まれ、田堵になれなければ、田堵の従者になるか、田堵に雇われて耕す立場になりました。自由ではあるものの、農民間の競争は激しいものでした。

 摂関期の国司は土地所有の認定と課税額の決定について権限を中央政府から移譲され、さまざまな意図で私領に対する税の減免が行なわれました。摂関期の荘園は税の減免を受けた私領(免田)が集まったもので、荘園領主が招き寄せた田堵たちにより耕作され、荘園領主と国司の両方に納税しました(免田型荘園もしくは免田型寄人荘園)。摂関期には、私有が認められた田畠は私領と呼ばれ、墾田永年私財法で認められた墾田も含まれますが、荒廃田の再開発地や、公田の耕作者から納税を請け負うことで成立した地主権も私領と呼ばれました。国司の裁量で認可された荘園(国免荘)は、国司が4年任期であることから不安定で、田堵も短期契約だったので、地方は不安定な競争社会となり、住民が集団で上京して、過大な課税や接待など朝廷に国司の悪政を訴えることも珍しくありませんでした(国司苛政上訴)。

 荘園に大きく関わってくるのが武士です。律令制下では農民から徴募した兵士が要所に配置されましたが、国際的緊張が緩和すると兵役は停止され、国の軍団も事実上廃止されました。しかし、東国では9世紀末から盗賊団(僦馬の党)が跋扈し、治安が崩壊しました。僦馬とは馬を借りるという意味で、馬や船を用いて調庸物の運搬を請け負っていました。これに携わっていたのは富豪層や没落した旧郡司層で、国衙からの厳しい徴税に反抗し、馬や船を巧みに操って調庸物の輸送隊を襲撃するようになり、この状況は群盗蜂起と呼ばれました。群盗案圧のため、東国の国司は蝦夷から乗馬術を学んで軍団を再建・強化するとともに、群盗化した富豪層の一部を懐柔して軍団に取り込みました。

 そのうち国司の任期を終えても帰京せず、大勢の従者を抱えて関東の未開の荒野を田畠に開発し、土着する貴族が現れます。その代表が桓武平氏の平高望で、東国の有力者の妻を娶り、その息子たちが各地に拠点を築きました。こうした有力者は私営田領主として広大な荒野を開発して富を築くとともに、他の有力者や国衙による侵略から守るために、武装して武士団となりました。こうした状況で10世紀半ばには平将門の乱と藤原純友の乱が相次いで勃発し、朝廷はその対策として軍事を家職とする貴族を設け、清和源氏と桓武平氏と秀郷流藤原氏という有力な郡司貴族が成立します。当時、特定の家柄による特定の職務の世襲(家職化)が進んでおり、これは官僚制の理念に反するものの、世襲により職務の知識と人材が蓄積される李典もありました。ただ、10~11世紀の軍事貴族は四位~五位の中流貴族にとどまり、まだ摂関家の番犬のような存在でした。

 上述のように10世紀の乾燥化により多くの古代集落が消滅したと考えられ、10世紀末に降水量は回復したものの洪水が起き、11世紀初頭には再び高温・乾燥に転じ、旱魃と洪水が交互に襲いました。しかし、1050年代になると降水量は適度な水準で落ち着き、年ごとの変動幅も小さくなり、洪水と旱魃の記録も顕著に減りました。11世紀半ばからの比較的安定した気候下で、それまでと異なり開発した農地を安定的に維持できるようになり、農業経営も好転したようです。考古学的研究によると、地域差はあるものの、11世紀半ば頃から新たな集落が出現した、と明らかになっています。

 上述の国司苛政上訴は各国で盛んとなり、記録に残っているだけでも2~4年おきに発生していますが、1040年に2件起きた後は1052年に1件あっただけで収束しています。この安定化は、集中しすぎた国司の権力を制限し、苛政上訴の首謀者だった地方有力者に新たな利権を与えて、農地の開発と国衙の運営に参加させる、という改革により達成されました。具体的には、公田官物率法の制定や、国免荘を整理した荘園整理令や、新たな開発促進策である別名制の導入や、その結果としての郡郷制の改編などです。また、10世紀後半から進んできた在庁官人の成長や、役職と土地の権利の世襲権である「職(所職)」の形成もあり、11世紀半ばには次代を担う新たな地方豪族である在地領主(開発領主)が出現します。「職」には、果たすべき役割と収入(得分)がありましたが、職の所有者が果たすべき役割を怠ると、没収されて別人に与えられることもありました。

 11世紀半ばに朝廷は、国司苛政上訴の原因となった国司の課税についての裁量権を弱め、官物の税率を勝手に変更できないようにしました(公田官物率法)。この税率は国ごとに決められ、税目と品目も単純化されて、律令制の残滓が消え、中世的な年貢・公事が出現しました。11世紀半ばの荘園整理令は、内裏再建費用など一国単位の負担(国宛)が命じられたさい、官物や臨時雑役を減免された荘園が多いほど公領の負担が重くなることへの対策でした。そこで、新規の国免荘を停止するとともに、荘園が増加しても国宛の費用が調達できるような仕組み(一国平均役)も導入されました。

 10世紀後半以降、在庁官人と呼ばれる国衙の実務の担い手が台頭します。摂関期に受領国司に権限が集中とるなか、それを補佐する専門部署(所)が形成されました。たとえば、税の徴収・出納・管理をになう税所や調所などです。国司によりこうした「所」を運営する役人として採用された現地の有力者が在庁官人です。受領は当初、引き連れてきた従者に徴税などの業務を担当させましたが、地元との摩擦が多く、地元に根付いた有力に国務を任せるようになります。在庁官人による国衙の運営が定着すると、国司は任国に赴く必要がなくなり、内裏の目代を派遣して自身は都で暮らすようになります(遥任)。国司が不在の国衙は留守所と呼ばれ、国司は庁宣と呼ばれる命令書を目代に送って留守所を指揮しましたが、国衙行政は実質的に在庁官人により運営されるようになります。

 11世紀半ばには、公領を再開発した有力者に対して、国衙がその土地の管理権・徴税権を与え、郡郷を経由せずに国衙に直接納税させるようになります(別名制)。別名とは、国衙の特別の命令である別符を与えられた名という意味です。別名の領主には国衙が文書を発行して特権を認め、以前よりも私領の権利が強くなるととみに、別名では雑公事が免除され、官物は3年間の免除の後に減免されました。その代償として、別名の領主には、古代には郡司や古代村落の役割で、摂関期には国司や田堵に継承された観農の責任があり、以前よりも権利が安定した別名の領主は、より長期的展望で勧農を行なえるようになりました。別名などの設立により、国内の支配形態は律令制下の国→郡→里(郷)から、公領において郡や郷や別名や保や院などさまざまな徴税単位が国衙に直属する体制へと変わり、郡は徴税単位の一つとなります。摂関期は、荒廃地の開発を優遇した結果、田堵や私領主が耕地をわざと荒廃させるなど、不安定な競争社会でしたが、別名制の導入により、過度な競争の弊害が是正されていきます。

 こうした在庁官人の形成や別名制の導入や「職」の形成といった制度と社会の変化から、11世紀半ばの地方社会に新たな有力者(在地領主)が出現しました。在地領主は、在庁官人を中核に、別名の領主や荘官などで構成されていました。在庁官人の多くは受領に伴って都から来た中下級貴族の末裔で、在地領主として地方豪族の地位を確立してからも、中央での拠点を捨てたわけではなく、中央官人に復帰したり、中央貴族と主従関係を結んだりしており、これが西欧などとは違った日本中世社会の特徴となります。ただ、摂関期には、在庁官人が国衙行政を実質的に担ったとはいっても、決定権は国司にありました。

 1068年に即位した後三条天皇は、翌年に荘園整理令を出します。それまでの荘園整理令は、実施が人事権を貴族に掌握されている国司に委ねられており、貴族の荘園に不利益な判断をしにくいため、あまり効果的ではない、という問題を後三条天皇は克服するため、国司ではなく中央政府が直接的に荘園整理の実務を担うこととして、太政官に記録荘園券契所を設置し、荘園領主から証拠文書を提出させ、国司からも事情を聴取し、天皇の名のもとで荘園の存廃を判断しました(延久の荘園整理令)。延久の荘園整理令の内容は以前のものと大きく変わりませんが、徹底的な実施が特色で、摂関期には常に揺れ動いていた荘園と公領の境界が明確になり、荘園の存廃は4年任期の国司との面倒な折衝ではなく、記録荘園券契所が事務的に判断するものとなりました。しかし、延久の荘園整理令は、天皇・上皇や摂関といった太政官よりも上位の権力の明確な意思で回避できました。これにより、当初の政策意図とは逆に、太政官を超越した上皇や摂関からに特権を与えられた領域型荘園が成立していくことになります。

 院政は、白河天皇が父である後三条天皇の遺言(白河天皇の弟の輔仁を後継者とすること)に反して息子に皇位を継承させたいという個人的事情から始まりましたが、近年では院政の開始以降を中世とする見解が有力です。院政期に、山野も含めた領域内の開発・経営を一括して在地領主に任せて自由に手腕を発揮させる、領域型荘園が出現します。院政期には、上皇や天皇やその后が願主となって設立された寺院(御願寺)など、建設が相次ぎ、その所領として新たに荘園が設立されていきました。摂関期の免田型荘園は、免田の集まりと東西南北の境界を示す四至で区切った開発予定地から構成されることが多く、開発予定地に新田を開けば、私有権は認められても公領並みに課税され、それを防ぐには太政官から簡単には下りない不入の権の認可を受ける必要があったのに対して、白河上皇が設立した荘園は、上皇の世話をする役所である院庁の命令で設立され、最初から四至内の不輸・不入が認められました。四至の意味が、開発予定地から支配領域へと変わったわけです。摂関家も、院政の開始により政治力を削がれつつも、天皇家と並んで領域型荘園を設立していきました。

 領域型荘園は、在地領主の成長を促しました。在地領主を上皇や摂関に仲介し、荘園設立の実務を担ったのは、院近臣や后妃の女房や摂関家の家司といった中央貴族で、領域型荘園では、上皇や摂関家→中央の中級~下級貴族→在地領主という三階層の領主権が成立しました(職の体系)。白河上皇の次の「治天の君」となった鳥羽上皇の治世下で巨大な天皇家領荘園群が形成され、競うように摂関家も荘園を拡大し、日本の国土の半分強が荘園となりました。国衙の管理下にある公領は依然として国土の半分弱を占めていたものの、国衙の支配権を皇族・貴族が所有する知行国制と相まって、荘園は社会制度の基幹を占めるようになります。

 荘園史の解説でよく使われてきた「寄進地系荘園」という用語は、免田型荘園と領域型荘園のどちらを指すのか曖昧で、院政期における領域型荘園の設立という荘園史上の重大な画期が埋没します。免田型荘園での寄進は、貴族の権威を借りて、荘園を国司の干渉・収公から守ることを目的としていましたが、領域型荘園での免田の寄進は、上皇や摂関家の権力により広大な領域を囲い込む種としての寄進です。また、免田型荘園が免田と開発予定地から構成されるのに対して、領域型荘園は山野も含めた領域全体が荘園となり、国司の使節の立ち入り拒否できる不入権が刑事権と裁判権にまで拡大し、一種の治外法権的な領域となりました。さらに、免田型荘園は寄進者と被寄進者の二階層で成立しているのに対して、領域型荘園は本家と領家と荘官の三階層から構成されるピラミッド型の支配体制を成立させました。免田型荘園と領域型荘園との間にははっきりとした変革があります。

 源頼朝の挙兵から鎌倉幕府成立までの政治過程は、荘園史に重要な影響を及ぼしました。敵方の職(所職)が軍功の恩賞となり、それが朝廷から追認されたことで、荘園・公領に形成された所職は実質的に土地支配権であるため、土地を媒介した主従性という西欧封建制と似た体制が日本でも成立しました。次に、領域型荘園に成立した本家と領家と荘官の三層の領主権のうち、在地領主が務める荘官の地位が向上し、荘園制の上位優位の構造が変化したことです。鎌倉幕府の成立により地頭職の任免権を幕府が握り、荘園領主・知行から解任されることはなくなり、地頭職を持たない御家人でも、荘園領主・知行国主から不当な扱いを受ければ、幕府に訴え出られました。その結果、本家と領家の荘官に対する支配権は弱まり、中世荘園制の「職の体系」に、荘官層を対象とした主従性の楔が撃ち込まれたわけです。さらに、関東と東北が鎌倉幕府の直轄地域となり、朝廷の支配からある程度独立した地域となって、その独立性は中世を通じて維持されました。

 しかし、鎌倉幕府の発足により荘園制が破壊されたわけではなく、むしろ安定化した側面もありました。寿永2年10月宣旨で頼朝が東国の支配権を認められたのは、東国からの年貢進上を回復するためで、鎌倉幕府の権力の正統性は、荘園・公領の所職に伴う義務を遂行するところにあり、領家に対する年貢の未進を繰り返したとして、鎌倉幕府から解任された地頭は珍しくなく、鎌倉幕府は在地領主の離反による荘園制の崩壊を押しとどめる役割も果たしました。また鎌倉幕府は、武力と裁判により荘園の紛争を抑止する役割も果たしました。頼朝は中世貴族社会の秩序に組み込まれ、その権力構造の一翼を担い、頼朝直系の将軍が絶えた後も、鎌倉幕府は天皇家や摂関家と並ぶ権門として中世国家の一翼を担いました。

 院政期から平家政権期における領域型荘園の多数の設立にも関わらず、日本全土が荘園になったわけではなく、鎌倉幕府の成立により院政の権力は衰え、上皇や摂関家による新たな領域型荘園の設立は稀になりました。在地領主の側も、鎌倉幕府の御家人になることで権益を守ることが可能となり、中央貴族に所領を寄進する必要もなくなりました。荘園と公領の比率は全国ではおおむね6対4でしたが、立地条件の違いを考慮すると、生産力では同等だったかもしれません。ただ、国衙は知行国制に組み込まれ、院近臣や摂関家の家司に公領の郡郷や保が給分として与えられ、在地領主の郡郷司や保司が現地を管理するという点で、公領は本家→領家→荘官という荘園と似た構造をしていました。中世の荘園制を、荘園や郡郷保などの独立的領域を単位として、天皇家や摂関家を頂点として権門が緩やかな主従制により支配した体制と考えると、公領の支配構造も荘園制の一環として把握できます。

 こうして成立した中世の領域型荘園は独立した小世界で、不入権は警察権全般にまでおよび、守護の管轄となる殺人と謀叛を除いて、荘園の領域内の犯人を逮捕し、財産を没収して処罰する処断権を有していたのは荘官でした。荘園での大きな身分区別として、特定の主人がいて移動を制限された下人(実際には、逃亡が頻繁に起きていました)と、主人を持たず移動は自由だった百姓がいました。この身分差は経済的な上下と一致しているわけではありません。中世の荘園を特徴づける土地制度の単位が名で、摂関期の負名が1年~数年単位の請負だったのに対して、中世では名の保有権が名主職と呼ばれて、子孫への相続も可能な家産となりました。ただ、名主職の任免権は荘園領主にあり、領主の交代などで荘園の体制が大きく変わると、それまでの名主職が無効になることもありました。名主は名に属する田畠を自由に耕作できましたが、一部を名主の家族と下人による直営で耕作し、残りを小百姓に請作に出すことが多く、その場合は小百姓から年貢の1~2倍となる地代(加地子)を徴収しました。名が耕作と徴税の単位だったのに対して、荘園の中の地域的まとまりは村や郷と呼ばれ、近世には村が行政単位となりましたが、荘園制では村に制度上の位置づけは与えられませんでした。しかし村では、各名や下地中分の領域を越えて、村に居住する人々の助け合いが行なわれ、村の鎮守社が祀られていました。

 中世の荘園では名や在家を単位にさまざまな税が課され、主には年貢です。年貢は基本的に米で計算されましたが、地域によっては絹布や麻布のような現物貨幣としても用いられる産品や塩や鉄や紙などが納められました。年貢以外の雑税は公事と呼ばれ、荘園領主や荘官が必要とする細々とした物品や労務です。荘園に課された年貢や公事は、領主が年間に消費する物品を計画的に割り当てたもので、各地の特産物もありました。すでに摂関期には受領が徴発した官物や臨時雑役を都に送る官製の流通機構が発達しており、中世には商業的な請負業者が成長しました。問や問丸は、瀬戸内海や北陸地方などの海運路の重要港津や都市や宿場町などに居住し、荘園の年貢・公事の保管・運送・中継・売買などに従事した倉庫・運搬業者で、荘園領主から問職に任命され、一種の荘官として年貢の運送に関わりました。荘園には、交通の要衝に市場が開かれ、荘園内と周辺の住民や都方面から訪れた商人との間で取引が行なわれました。市場は常設ではなく、鎌倉時代前半には月に3回(三斎市)の場合が多かったものの、鎌倉時代後半には月に6回開かれるようになりました(六斎市)。

 13世紀後半以降、荘園制には大きな変化がありました。鎌倉幕府は公領の郡郷司職や荘園の下司職を、上位領主の任免権を無視して、地頭職として御家人に与えましたが、知行国主・国司や本家・領家の領主権は否定せず、地頭は年貢・公事納入の義務を引き継ぎました。しかし、荘官の任免権を失った本家・領家の立場は弱くなり、荘園支配をめぐって地頭と領家の紛争が頻発するようになりました。この問題の解決方法は大別すると二つあり、一方は領家が地頭に荘郷支配の全権を委任し、地頭に一定額の年貢・公事の納入を義務づける地頭請で、もう一方は、領家と地頭で支配領域を分割し、相互に干渉せずそれぞれの領域を支配する下地中分です。本家と領家との間でも領主権をめぐる争いが起き、領家と地頭との間と同じく、多くは下位の領家優位で決着しました。鎌倉時代の本家には、院政期のような強大な権力はなく、鎌倉幕府に倣って整備された公家の裁判制度も、領家の権利を保護する方向に作用し、地頭職の設置により領家が人事権を失ったように、本家も領家の人事権を失っていきました。本家は他者に補任されたり義務を負ったりする立場ではないので、職ではありませんでしたが、本家から領家や荘官が自立していくと、本家が領主権を維持するには荘務を直接掌握することを迫られ、領家とやることは変わらなくなり、本家職と呼ぶようになります。荘務権をめぐる争いに勝ち、荘園を実質的に支配した荘園領主は本所と呼ばれます。こうして鎌倉時代後期には、荘官が領家から、領家が本家から自立していき、また本家が領家を排除し、荘園における三層の領主権状態が崩れ、一つの荘園領域を一つの領主が支配するようになりました(職の一円化)。これにより、天皇家・摂関家の本家を頂点とする、「職の体系」は崩れていきました。こうして成立した一円領を誰が支配しているのかは、荘園と公領の区別よりも重要となり、鎌倉時代後期からの荘園制は「寺社本所一円領・武家領体制」とも呼ばれます。

 13世紀後半には宋銭の流通が拡大し、まず現物貨幣として用いられてきた麻布や絹布で代銭納化が進みました。13世紀後半に江南も支配した大元ウルスが銅銭の使用を禁じると、大量の銅銭が日本にもたらされ、米をはじめとして年貢品目全般の銭納化が進みました。年貢の代銭納化は、荘園領主にとっては都市生活での貨幣需要、問・問丸にとっては年貢物運送の効率化と商品化の利益、荘官にとっては年貢物送進の利便性と監禁利益、百姓にとっては雑多な公事物の調達や人夫役からの解放という利益があったので、進展したと考えられます。しかし、年貢の代銭納化は荘園領主と住民との間に、情緒的な人的つながりの減少という、少なからぬ心理的変化をもたらしました。また年貢の代銭納化により、港湾都市などを拠点都市、年貢の収納や年貢物の売買により莫大な富を蓄える人々(有徳人)が現れました。

 鎌倉時代後期に進んだ職の一円化や貨幣流通の進展に伴い、悪党と呼ばれる人々が出現します。悪党が関わる紛争は、大きく4通りに区別できます。それは、(1)職の一円化の動きに乗じて中小の在地領主が勢力を拡大しようとした紛争、(2)年貢代銭納の普及により実入りがよい職になった荘園代官の地位をめぐる紛争、(3)貨幣流通の進展に伴って成長した港湾都市の利権をめぐる紛争、(4)紛争当事者に雇われて武力を提供した「ならず者」集団の乱行です。鎌倉時代後期には、荘園の支配や年貢収納を代行する代官が増えました。代官は、貴族や寺社に限られる領家職や御家人に限られる地頭職など所職の領有物から職権の代行を委託され、身分上の制約はありませんでした。代官に世襲権はなく、年貢・公事の納入が滞ると契約を切られましたが、その場合も代官は簡単には引き下がらず、武力も行使して荘園に居座り、略奪などを行ない、これは(2)の事例となります。鎌倉時代後期には、執権北条氏による幕府政治の独裁化が進むなど、政治的にも不安定要素が現れました。北条氏は多くの御家人を滅ぼし、所領を奪ってきただけに、御家人の間で北条氏への不満が高まっていきました。

 鎌倉時代から室町時代への移行期では、短期間に終わった建武政権期において、御家人制が廃止されたため、御家人が務める地頭という制度もなくなり、地頭職は単なる職の名称にすぎなくなりました。本家が天皇家・摂関家という制約もなくなり、寺社や貴族が地頭職や本家職を所有することも普通になって、これら所職は互いに上下関係を持たない土地の支配権として同質化し、鎌倉時代後期から進んだ「職の一円化」が完成しました。建武政権は短期間で崩壊し、朝廷が二分される南北朝時代が到来して源平の争乱よりもずっと長期にわたり、室町幕府は前線の守護の権限を拡大し、より多くの軍勢を集めて、兵粮など補給物資を確保するよう、便宜を図りました。御家人制は廃止されており、守護の管国内に所領を有する全ての武家は、守護が課した軍役に従わねばなりませんでした。こうした武家は国人と呼ばれ、要求された軍勢を提供できないと、守護に対する敵対行為とみなされ、所領が没収されることもありました。

 兵粮確保のため、守護とその配下の武士は貴族や寺社の所領を不法に占拠して兵粮を調達し、室町幕府は南朝相手に苦戦した1352年に、半済令により守護が寺社本所領の年貢の半分を兵粮として徴収することを認めました。守護はこの権限を配下の武士に分け与え(半済給人)、兵粮米の徴収という権限を越えて、その土地の支配権まで奪うこともありました。守護は兵粮米の他にも、馬の飼料や材木や人夫などを寺社本所領から徴発しました(守護役)。町幕府は土地紛争の実力行使による解決を禁じ、守護に取り締まるよう命じました。守護は室町幕府の決定の強制執行も担当し、時には武力も用いました(使節遵行)。守護は国衙機構も吸収しました。鎌倉時代には在庁官人の大半が御家人となりましたが、国衙の機能自体は依然として知行国主の指揮下にありました。しかし、南北朝時代になると、国衙の機能も守護権力に吸収されました。荘園・公領の所職や半済地や闕所地や守護請所などから構成される守護領は守護の経済基盤となり、配下に与える給所にもなりました。国人の一部は守護から給所を与えられ、主従関係を結んで被官となり、守護の軍事力の中核となりました。

 守護が管国の支配権を強めた結果、領主のいる場所から遠くにある荘園の支配は困難になりました。鎌倉時代までは、所職を所有していれば、遠隔地からも荘園領主に年貢が送られてきました。東国武士も承久の乱後に西国に地頭職を獲得し、一族を移住させたり代官を派遣したりして、支配していました。しかし、内乱が激化すると、領主が現地に不在の荘郷は、当地の守護やその配下の国人により占拠され、武力を有さない寺社本所領や、兵力を充分に提供できない武家領の押領が多発しました。このように南北朝時代に権限を拡大し、管国の支配力を強めた守護は守護大名と呼ばれますが、地方を独立国家のように治める権力はなく、守護の任免権は将軍にあり、将軍の意向による交代も多くありました。守護が国人を動員できるのは守護職にあるからで、一部の被官を除く国人は守護家の家臣になったわけではなく、守護が交代すれば、大半の国人は新任守護に従いました。

 寺社本所領の押領や半済が行なわれたので、荘園制は南北朝時代に滅びた、との理解が以前はありました。戦後歴史学では、王朝貴族と宗教勢力が地方を支配する荘園制は、在地領主層を束ねた封建領主制により克服される、と想定されました。南北朝時代には、荘園を押領した国人が守護と主従関係を結ぶことで、守護が一国を排他的に支配する地域的封建制を確立し、室町幕府はそうした守護大名の連合政権と把握されたわけです。しかし、1360年代に長期にわたる戦乱が終息へと向かい始めると、室町幕府は寺社本所領を回復し、貴族や寺社が担っていた儀式や学問や修法などの機能の再興を図りました。1368年、室町幕府は応安の半済令を発布し、寺社領と禁裏御領(天皇家領)と殿下渡領(摂関家当主の所領)を特別に保護し、半済を禁じて全体を変化することと、今後は新たな半済を行なわない、と定め、各国の守護代を京都に招集して遵行の徹底を命じました。守護大名は一国を排他的に支配する権力ではなく、守護在京制により守護大名が京都の領主社会に組み入れられ、「職の体系」とは別の形ではあるものの、京都に集住する諸領主層が地方の所領を支配する体制が再建され、室町時代にも荘園制は存続しました。

 しかし、荘園制の内実はしだいに変わっていきました。13~14世紀の農村では集村化が進み、それは、農地の量的拡大が限界に達したので、集落内の土地を高度に利用するためだった、と考えられています。水田や畑地にできる場所はできる限り水田や畠として、残った場所で居住に適した地に家屋を集中させた、というわけです。当時の住居の場所の多くには現在でも家屋が建っており、めったに発掘調査が行なわれないので、西日本では14世紀以降の集落遺跡が発掘でほとんど検出されなくなります。一方関東では、14世紀に栄えた集落が廃絶した後、違う場所に集落ができることも多かったようです。また、地形条件などにより、全ての場所で集村化が進んだわけではありませんでした。しかし、耕地や山野の高度利用は、15世紀前半から表面化した荘園荒廃の一因になった可能性が高く、各荘園が野放図に自然を利用するのではなく、過剰利用に至らないよう管理する仕組みが次の時代には求められました。

 集村化前には名ごとに屋敷地があり、多くの場合その周囲に名の田畠が付属していましたが、集村化すると名の田畠は複雑に入り組むようになります。その結果、農作業は名単位ではなく村落として取り組むようになり、農民同士の結びつきは強くなった、と考えられます。名の制度は依然として続きましたが、経営の実態から離れ、所有と徴税の単位としての役割に限定されていきました。村落の成長は百姓の農業経営の安定にも役立ち、百姓の経営は領主から自立していき、領主や荘官の仕事は、村落を越えた問題の処理や、外部からの侵入に対する防衛や、役を課してくる守護権力との折衝や、徴税に限られるようになります。横の連対により力を強めた百姓は、名主職の所有権への侵害、水害・旱害による年貢の減免、代官の非法、新たな課役賦課などに対して、集団で領主と交渉するようになりました。

 南北朝時代には年貢の代銭納が普及し、大量の商品が地方から京都へと送られました。その構造を利用して銭を運ばず送金する仕組みが割符で、京都の他に堺や兵庫や坂本などの港湾都市の商人が発行しました。割符は、商人が銭を持参しなくても地方での仕入れが可能で、地方から年貢を納めるのに銭を送らなくてすみました。仕入れた荷を京都で売ると利益が出るので、送金手数料も不要でした。割符は高額なので、扱えるのは信用のある商人に限られていました。割符は京都と地方の間を頻繁に往還している商人の存在を前提とした、商人の信用に基づく仕組みでした。

 南北朝・室町時代の荘園支配には代官請負がよく用いられ、代官は所職の権限を領主に代わって代行し、荘郷の経営を請け負い、契約した額の年貢銭を納めました。荘園代官に登用される人員は大きく三区分され、領主の組織内の人員(寺社本所領では寺院の下級僧侶、貴族の家司、武家領では惣領の庶子や被官など)、僧侶や商人、武家代官(荘園近隣の国人、守護や守護代、守護被官、幕府奉行人など)で、代官が別の代官(又代官)に再委託することも珍しくありませんでした。領主の組織内の人員を採用すると、未進や押領の危険性は小さいものの、代官兼任により組織内での本業が疎かになり、荘園経営の専門家ではないので業務に必要な財力や人脈に欠けるところがありました。僧侶や商人は財力と人脈があるものの、未進の危険性がありました。武家代官は、武力と人脈を頼りにできたものの、未進と押領の危険性がありました。代官の権限には、領主の監査を受ける場合と、遠隔地の所領に多い、定額の年貢納入の義務の代わりに荘務を全面的に委任する場合がありました。

 室町時代の荘園では、現地で守護や国人が支配を拡大しようとしていたものの、禅僧や土倉・酒屋による代官請負も広く行なわれ、複雑な代官契約の連鎖により荘園支配が行なわれていました。荘園領主にとって、組織外の人員を代官に起用することは荘園経営の「外注」で、外注化は担い手の集約でもあり、五山派禅寺の東班衆のような荘園経営専門のコンサルタント集団が生まれ、金融業と荘園経営の相乗効果で、土倉・酒屋は巨額の利益を上げました。しかし、禅僧や土倉・酒屋が代官として活躍できたのは、室町幕府により取引の秩序が維持され、守護権力により地域の治安が維持されていたからでした。また、代官や荘官が指示や援助をしなくても、村落での助け合いで農業生産を維持していたことも一因でした。室町時代にはこうした社会基盤において、年貢徴収権を与える所職が、あたかも利得を生む証券のようにやり取りされていました。代官請負制は中世荘園制の最終段階に現れた支配形態で、それ自体は合理的な面があり、室町時代の経済は反映しましたが、荘園経営の外注化による領主権の空洞化と弱体化を招き、社会を不安定にしていきました。

 室町時代には百姓の農業経営の安定と村落の発達により、百姓の力は強まりましたが、一方で守護権力の拡大により守護からの役が課され、代官が強引に年貢・公事物を取り立てました。こうした課税の強化に対して百姓は、代官や荘官を訴えて一揆逃散し(集団で荘園から逃れ、近隣に潜んで田畠の耕作を拒否)、代官や荘官を解任に追い込み、意に沿わぬ代官の就任を阻止しました(荘家の一揆)。気候では、南北朝・室町時代は気温と降水量ともに変動が激しく、その激しい時期と南北朝内乱の最も劇化した時期が重なります。15世紀初頭は少雨傾向になり、飢饉や用水をめぐる争いが起きました。1423年頃からは一転して多雨傾向になり、各地で洪水が頻発しました。また気温がこの頃より急上昇し、高温化により降水量が減少する傾向にある日本列島では珍しく、高温と多雨が重なり、洪水が起きました。こうした水旱害の被害を大きくした一因として、室町時代における建築の隆盛による山林の破壊があったかもしれません。こうした不安定な気候により農業生産も打撃を受けて物価が上がり、土一揆の原因となりました。

 相次ぐ災害により荘園も荒廃し、荘園領主は新たな用水路を引くなど対策を立てますが、近隣の荘園の利害に抵触することもあり復興は順調にいかず、地域社会を領域型荘園という独立した小世界で区切る荘園制の限界が露呈し始めます。室町時代の秩序を維持していた幕府の政治も嘉吉の乱以降は迷走し、将軍による統制の弱体化により、管国を排他的に支配しようとする守護による荘園の押領が再度本格化します。諸大名の後継者をめぐる争いの激化に端を発した応仁の乱が1467年に始まり、荘園制の核だった京都が主戦場となったので、京都に結集していた諸領主と商人の活動は深刻な打撃を受けました。応仁の乱により室町時代の荘園制を支えていた守護在京制は瓦解し、守護は五山領荘園や幕府御料所や幕府直臣領も押領していきました。1493年の明応の政変により室町幕府の権威は決定的な打撃を受け、政変の首謀者である細川政元が1507年に殺害されると、諸勢力が京都の争奪戦を繰り返し、相次ぐ戦乱により京都の人口は元和章氏、政治・経済的重要性も低下しました。これにより、荘園制の求心的な経済構造、地方から京都へと向かう物流、京都と地方を往還する商人のネットワークも致命的な打撃を受けました。

 応仁の乱の後、守護の下国により荘園制はほとんど崩壊しましたが、何百年も続いた制度なので、すぐにはなくならず、武家代官や守護請により少額の年貢が納入され続けた荘園は少なくありませんでした。地方の荘園支配が成り立たず、困窮した荘園領主の中には、摂家の当主である九条政基のように荘園の現地に下る者も現れました。中世荘園制では田畠・屋敷地などが名に分割され、有力百姓は名主に任じられ、その経営と納税を請け負っていました。荘民は名主と小百姓から構成され、名主は名田畠を自ら耕作するとともに、小百姓にも耕作させて加地子を徴収しました。しかし室町時代には、名の枠組みが有名無実化し、名田畠の耕作を請け負う名主の役割も形骸化して、個々の田畠を耕作する農民が、荘園領主に年貢・公事を、名主には加地子を納入するようになり、加地子も年貢の一種との観念が生まれました。南北・室町朝時代には名田畠に対する名主の所有権が確立し、名田畠の売買も盛んに行なわれるようになり、15世紀には、広く田畠を買い集め、耕作する小百姓から加地子を収取する小領主が出現しました(土豪、地侍)。江戸時代以降の地主とは異なり、土豪は経済的実力に加えて地域社会での侍身分と認められ、名字を持ったり、権守といった官途(官職)を名乗ったりしました。荘園領主から任命される名主とは違い、土豪は室町時代の地域社会が生み出した独自の支配身分でした。

 集村化とともに村が農業経営や相互扶助に果たす役割は大きくなっていき、土豪の成長と並行して村落結合もいっそう強まり、畿内近国を中心に「惣」と名乗る村落が出現します(惣村)。惣村では土豪・平百姓を問わず村の全住人が構成員とされ、住人の自治による強い集団規制が布かれました。惣村出現の背景として、飢饉など災害による田畠の荒廃に直面し、村民自らが耕地・用水などの農業基盤を整備し、周辺の山野も含めた環境の管理と、政治的混乱による治安悪化に対する集団自営の必要に迫られたからと考えられます。この危機的状況に対応できない荘園領主は百姓から見放されました。惣村の結成にあたって結集の核となったのは村落の鎮守社寺で、その祭祀を執行する村人の組織(宮座)での寄合にて祭祀の段取りとともに、農事や村人同士の争いも話し合われました。成人して宮座に入った村人は加齢とともに昇進していき、宮座は村が自衛する時には軍隊組織ともなりました。15世紀の荘園にはこうした新たな村落が成長し、かつての荘官の業務の大半は村落が担うようになり、荘園によっては村落が年貢の徴収を請け負いました(百姓請、地下請)。荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失い、荘園の名称も地域から消え、村や村の連合である郷が地域の枠組みとなって近世に継承され、村が年貢の納入を請け負うことになります(村請制)。

 国人領主は15世紀半ばには、荘園を越えた広範な領域の支配者である国衆へと変わりました。国人領主は本拠地に荘園所職を集積し、個々の所職を越えた支配領域を形成したものの、荘園の代官職や守護からの給地を含む不安定なものでした。しかし、15世紀半ばに室町幕府の統制力が衰えると、国人は代官職や給地として与えられた土地も実力で支配し、周辺の国人と抗争しつつ勢力を拡大し、郡の水準の領域を支配するようになりました。こうした領主は国衆と呼ばれます。この過程で荘園の名称は消滅して支配の枠組みとしての実態を失い、地域社会から消えました。国衆は戦国大名に束ねられ、その重臣層を形成します(関連記事)。こうして院政期に始まった中世荘園制の400年の歴史は終わりました。

 日本の荘園、とくに院政期以降の中世荘園(領域型荘園)の歴史は、小さな地域の自治権を最大に、国家や地方政府の役割を最小にした場合、何が起きるのか、という400年にわたる社会実験と言えるかもしれません。中世後期には耕地が安定し、後代に引き継がれたため、近世以降に新田が開発された地域を除くと、半世紀ほど前までは中世荘園の痕跡が各地に残っていました。しかし、1963年から農業機械化のために圃場整備事業が始まり、日本の農村の耕地は大きく変わり、中世から引き継いだと思われる田地の形やその地名や用水系統が改変され、中世荘園研究の手がかりを消してしまうことになりました。しかし、この問題は当時から認識されており、圃場整備前に耕地の形状や地名や用排水の状況を記録して保存する事業が行なわれ、また従来の景観がおおむね維持された場所もあります。

エキソーム塩基配列の解読および解析

 エキソーム塩基配列の解読および解析に関する研究(Backman et al., 2021)が公表されました。ヒトの遺伝学の大きな目標は、自然に生じた変動を用いて、ゲノムの各タンパク質コード遺伝子の変化が表現型に及ぼす影響を理解することです。2017年にイギリスバイオバンクは約50万人のイギリス人の一塩基多型遺伝子型決定データを発表し、多くの形質や疾患について、ありふれた多様体との遺伝的関連解析に用いられてきました。

 この研究は、イギリスバイオバンク研究の参加者454787人について、全エキソーム塩基配列解読(WES)を行ない、タンパク質を変化させる多様体およびその影響を調べました。その結果、約1200万のコード多様体が特定され、そのうち約100万が機能喪失多様体、約180万が有害なミスセンス(アミノ酸が変わるような変異)多様体である、と明らかになりました。これらの多様体について、3994の健康関連形質との関連を検討したところ、564の遺伝子が形質と関連する、と示されました。

 稀な多様体の関連は、ゲノム規模関連研究(GWAS)で明らかになった座位に多く存在しましたが、大半(91%)はありふれた多様体のシグナルとは無関係でした。また、肝疾患や眼疾患や癌などに関連する形質の危険性を高めるいくつかの関連に加えて、高血圧(SLC9A3R2遺伝子)、糖尿病(MAP3K15およびFAM234A遺伝子)、喘息(SLC27A3遺伝子)の危険性を低下させる関連も見つかりました。6つの遺伝子が脳画像表現型に関連しており、そのうち2つは神経発生に関わる遺伝子(GBE1およびPLD1遺伝子)でした。

 別のコホートでの利用可能で再現性に充分な検出力のあるシグナルのうち81%が確認され、さらにこれらの関連シグナルは、ヨーロッパ系とアジア系とアフリカ系の人々の間でおおむね一致していました。この研究は、遺伝子と形質の関連を特定し、遺伝子機能を解明し、GWASシグナルの根底にあるエフェクター遺伝子をより大規模に明らかにする上での、エキソーム塩基配列解読の能力を示しています。人類の進化や拡散の歴史に関する研究でも大いに活用できそうで、注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:英国バイオバンク参加者45万4787人のエキソーム塩基配列の解読および解析

遺伝学:50万人近くのエキソームの遺伝的関連解析

 4年前、英国バイオバンクは50万人の英国人のSNPジェノタイピングデータを発表した。このデータは以降、数え切れないほど多くの形質や疾患について、ありふれたバリアントとの遺伝的関連解析に用いられている。M Ferreiraたちは今回、同じコホートの45万4787人について全エキソーム塩基配列解読(WES)を行い、タンパク質コードバリアントと3998の健康関連形質との関連を調べ、564の遺伝子と492の形質が関わる、計8865の関連(2283の冗長性のない関連)を特定している。これらの関連の多くは、近傍にある既知のありふれたバリアントとは無関係で、これによってWESデータの作成がさらなる価値をもたらすことが実証された。研究チームはさらに、シングルトンバリアントとの関連、疾患との防御的な関連、量的形質との関連、血液中の体細胞変異との関連など、特定の関連についてより詳細に調べている。今回の研究には、祖先系統に特異的な関連解析や、このような大規模なデータセットでまれなバリアントのインピューテーションを行う能力を評価する解析も含まれている。



参考文献:
Backman JD. et al.(2021): Exome sequencing and analysis of 454,787 UK Biobank participants. Nature, 599, 7886, 628–634.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04103-z

近現代イギリスにおける世代間社会移動

 近現代イギリスにおける世代間社会移動についての研究(Longley et al., 2021)が公表されました。世代間社会移動とは、世代間で起こり得る社会的地位の変化のことで、親の収入や職業など社会移動に影響を及ぼす数々の要因が知られていますが、社会移動の影響を評価する研究は、最近の1世代のみを調べるのが通例であるため、限定的なものにとどまっています。

 この研究は、ビクトリア朝時代の全人口の家族集団のデータと現在の全人口の消費者登録データを結びつけることで、1851~2016年のイギリスにおける13000以上の家族集団の社会移動を図示しました。この研究は、それぞれの家族集団について、現代イギリスにおける各周辺地区の相対的剥奪の尺度に基づく評点をつけ、この家族集団の評点が1851年の国勢調査に記載されたそれぞれの祖先に起因する、と考えたまし。1851年の国勢調査の各行政区における祖先の評点の平均値が、それぞれの行政区の住民が現代を生きる子孫に残した「未来の多重剥奪指数」とされました。

 その結果、現在のイングランドとスコットランドの住民に残された将来見通しに関しては、明瞭で永続的な地域格差が存在する、と明らかになりました。この研究は、イングランドのデボン州を西端とし、セバーン河口とウォッシュ湾の間を北東に延びる線を境に南北格差が存在し、家族の起源が北部の工業都市にあると現代における結果が思わしくない、という見解を示しています。また、スコットランドにも東西格差があり、東部はリバプールやマンチェスターなど19世紀の工業の中心地と同様の高水準の困窮状態にある、と明らかになりました。

 移住はこうした不平等を部分的に軽減する、と明らかになっていますが、この研究は、大部分の家族集団が祖先の本拠地に集まって居住し続けているため、地理的位置によりもたらされる不利益を長期にわたって受け続けている、と指摘しています。近現代イギリスのようにこうした研究に適した記録のある地域は少ないかもしれませんが、他の国もしくは地域ではどのような結果が得られるのか、注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


社会科学:英国における社会移動に見られる浮き沈み

 1851~2016年の英国の家族集団の世代間社会移動を評価する研究が行われ、英国における社会移動は、地理的要因の影響を強く受けていることが示唆された。この研究結果を報告する論文が、Nature Communications に掲載される。この論文には、イングランドとスコットランドにおいて明瞭で永続的な地域格差が存在することも示されている。

 世代間社会移動とは、世代間で起こり得る社会的地位の変化のことで、社会移動に影響を及ぼす数々の要因(例えば、親の収入や職業など)が知られているが、社会移動の影響を評価する研究は、最近の1世代のみを調べるのが通例であるため、限定的なものにとどまっている。

 今回、Paul Longley、Justin van Dijk、Tian Lanは、ビクトリア朝時代の全人口の家族集団のデータと現在の全人口の消費者登録データを結び付けることで、1851~2016年の英国の1万3000以上の家族集団の社会移動を図示した。Longleyたちは、それぞれの家族集団について、現代の英国の各周辺地区の相対的剥奪の尺度に基づく評点をつけ、この家族集団の評点が1851年の国勢調査に記載されたそれぞれの祖先に起因すると考えた。1851年の国勢調査の各行政区における祖先の評点の平均値が、それぞれの行政区の住民が、現代を生きる子孫に残した「未来の多重剥奪指数」とされた。

 Longleyたちは、このように現在のイングランドとスコットランドの住民に残された将来見通しに関しては、明瞭で永続的な地域格差が存在すること明らかにした。Longleyたちは、イングランドのデボン州を西端とし、セバーン河口とウォッシュ湾の間を北東に延びる線を境に南北格差が存在し、家族のルーツが北部の工業都市にあると現代における結果が思わしくないという見解を示している。また、Longleyたちは、スコットランドにも東西格差があり、東部は、19世紀の工業の中心地(リバプールやマンチェスター)と同様の高レベルの困窮状態にあることを明らかにした。

 移住は、こうした不平等を部分的に軽減することが明らかになっているが、Longleyたちは、大部分の家族集団が、祖先の本拠地に集まって居住し続けているため、地理的位置によってもたらされる不利益を長期にわたって受け続けていると述べている。



参考文献:
Longley PA, van Dijk J, and Lan T.(2021): The geography of intergenerational social mobility in Britain. Nature Communications, 12, 6050.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-26185-z

リモートセンシングによる古代メソアメリカ遺跡の配置

 リモートセンシングによる古代メソアメリカ遺跡の配置に関する研究(Inomata et al., 2021)が公表されました。これまでの研究から、オルメカやマヤとして知られるメソアメリカの文化は、紀元前1400年から紀元後1000年の間に現在のメキシコとグアテマラの広い地域に広がっていた、と明らかになっています。こうした都市は、宇宙論的なパターンと関連づけて設計されていた、と知られています。しかし、これまで広範囲の遺跡を対象とした系統的な研究が不足していたため、こうした都市の空間的な配置を評価して、この地域の初期文明をよりよく理解することは困難でした。

 この研究は、航空レーザーマッピング(ライダー)として知られるリモートセンシング技術を用いて、メキシコ南部の84516km²の範囲にまたがる463ヶ所のメソアメリカの建造物と遺跡の配置を可視化しました。ライダーによる解析の結果、鬱蒼としたジャングルの中であっても、古代建造物の構造が明らかとなりました。得られた知見から、紀元前二千年紀に作られたオルメカ文化の中心地であるサン・ロレンソ(San Lorenzo)には、古代メソアメリカの暦に基づく設計上の特徴がある、と示唆されました。これらは、後の時代の他の遺跡の配置にも見つかったことから、サン・ロレンソがこの地域全体に永続的な影響を及ぼした、と示唆されました。

 この研究は、得られた結果に基づいて、建造物と遺跡の配置には5つの異なるタイプがあり、それらは異なる時期に対応する可能性がある、と示唆しています。この仮説を確かめ、こうした建造物の特徴が文化的な信仰や習慣にどのように対応しているかを調べるためには、さらなる研究が必要です。他の地域や時代にも広く応用できそうな技術なので、今後の研究の進展がひじょうに期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:古代メソアメリカ遺跡の配置がリモートセンシングで明らかに

 2000年の歳月をかけて作られた約500の古代メソアメリカ遺跡の建造物の形状が、リモートセンシング技術によって明らかとなった。この成果について報告する論文が、Nature Human Behaviour に掲載される。

 これまでの研究から、オルメカやマヤとして知られるメソアメリカ文明は、紀元前1400年から紀元1000年の間に現在のメキシコとグアテマラの広い地域に広がっていたことが分かっている。こうした都市は、宇宙論的なパターンと関連付けて設計されていたことが知られている。しかし、これまで広範囲の遺跡を対象とした系統的な研究が不足していたため、こうした都市の空間的な配置を評価して、この地域の初期文明をよりよく理解することは難しかった。

 今回、猪俣健(いのまた・たけし)たちは、航空レーザーマッピング(ライダー)として知られるリモートセンシング技術を用いて、メキシコ南部の8万4516平方キロメートルをカバーする463か所のメソアメリカの建造物と遺跡の配置を可視化した。ライダーによる解析の結果、うっそうとしたジャングルの中であっても、古代建造物の構造が明らかとなった。得られた知見から、紀元前2000年紀に作られたオルメカ文明の中心地であるサン・ロレンソには、古代メソアメリカの暦に基づく設計上の特徴があることが示唆された。これらは、後の時代の他の遺跡の配置にも見つかったことから、サン・ロレンソがこの地域全体に永続的な影響を及ぼしたことが示唆された。

 猪俣たちは、得られた結果に基づいて、建造物と遺跡の配置には5つの異なるタイプがあり、それらは異なる時期に対応する可能性があると示唆している。この仮説を確かめ、こうした建造物の特徴が文化的な信仰や習慣にどのように対応しているかを調べるためには、さらなる研究が必要である。



参考文献:
Inomata T. et al.(2021): Origins and spread of formal ceremonial complexes in the Olmec and Maya regions revealed by airborne lidar. Nature Human Behaviour, 5, 11, 1487–1501.
https://doi.org/10.1038/s41562-021-01218-1

『卑弥呼』第75話「タケル会談」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年12月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが奥閼宗(オクノアソ、阿蘇山の奥深くでしょうか)にある水波能売神(ミズハノメノカミ)の御神体である巨岩に祈っているところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の国の聖地である千穂(現在の高千穂でしょうか)にたどり着いた場面から始まります。ヤノハを護衛してきたオオヒコは、日見子(ヒミコ)たるヤノハは、天照大神が籠った窟(イワヤ)で同様に籠る10ヶ月間、千穂の邑の外に駐屯し、ヤノハに変事があればすぐに駆けつけるよう、命じられます。ヌカデは鬼八(キハチ)一族の邑に留まり、ヤノハの食事の世話をするよう、命じられます。ヤノハは弟のナツハ(チカラオ)とともに窟へ向かいます。ヤノハとチカラオは険しい道を進み、何とか天照大神の窟にたどり着きました。ヤノハはチカラオに、10ヶ月間誰も入れず、万一侵入する者がいれば殺すよう、命じます。

 暈(クマ)の国の鞠智(ククチ)の里(現在の熊本県菊池市でしょうか)では、ウガヤに連れられた田油津日女(タブラツヒメ)の一行が鞠智彦(ククチヒコ)に謁見しました。鞠智の里の住人は、触れ回ったわけでもないのに田油津日女の到着を知っており、兵士たちは田油津日女が現人神だと話します。田油津日女から献上された書状を読んだ鞠智彦は、間違いなく山社の日見子(ヤノハ)からのものだと認め、その労をねぎらいます。すると田油津日女は配下の男性を通じて、厲鬼(レイキ)、つまり疫病退治の秘策はその書状にあるので、一刻も早く自分たちを待っている玉杵名邑(タマキナノムラ、現在の熊本県玉名市でしょうか)に向かいたい、と鞠智彦に願い出ます。不満な様子の鞠智彦を見て、田油津日女の一行が玉杵名邑に引き返すことを自分が承諾している、とウガヤがとりなします。すると鞠智彦は、急がないよう田油津日女に言い、まず褒美を与えると約束し、鞠智の里の民のため、厲鬼払いの舞いを披露してくれないか、と要請します。田油津日女は快諾して鞠智彦や民の前で舞いを披露しますが、鞠智彦の配下の志能備(シノビ)がそれを遠くから見ていました。

 暈の鹿屋の里(カノヤノサト、現在の鹿児島県鹿屋市でしょうか)では、カマ家とカワカミ家とヤ家とイ家とサジキ家の5人のタケル王が集まっていました。カワカミ家のタケルは25代目で、乳のイサオ王と弟(オト)タケルと兄(アニ)タケルが相次いで亡くなり、三番目の兄は病弱なので、四男の自分が宗家を継いだ、と説明します。ヤ家のタケルはこの中で最年長となり、イ家のタケルは22代目となります。カマ家のタケルと先代のイ家のタケルは昵懇の間柄でした。サジキ家のタケルが、民が次々と死ぬなか、火急の話とは何か、と尋ねます。するとカマ家のタケルが、宗家のカワカミタケル王は若いので、僭越ながら自分が招集した、と伝えます。カマ家のタケルは、昨今の鞠智彦大夫の振る舞いについて4人のタケル王に問いかけます。日見彦(ヒミヒコ)だった弟タケル王と、政を統べるイサオ王の相次ぐ死と、那(ナ)国との戦に加えて、偽日見子(ヤノハ)による突然の山社開国があった、と指摘するカマ家のタケルに対して、イ家のタケルは、この間の鞠智彦の働きは見事だった、と評価しますが、カマ家のタケルは、少々図に乗っているとは思わないか、と指摘します。するとヤ家のタケルが、それ以上に思えると言い、サジキ家のタケルは、大夫というより王のような振る舞いだ、と同意します。カマ家のタケルが、鞠智彦は我々5人の王を差し置いて好き勝手し放題だ、と言うと、サジキ家のタケルは同意し、これ以上の暴走は見逃せない、とヤ家のタケルは言います。カマ家のタケルが、鞠智彦は暈から厲鬼を退散させることに失敗した、と指摘すると、サジキ家のタケルは同意します。カマ家のタケルに鞠智彦をどう思うのか問われて困惑した宗家のカワカミタケル王は、逆に皆はどうしたいのか、と問い返します。するとカマ家のタケルは、自分たちで新たな日見彦もしくは日見子を立てるのはどうか、と提案します。そうすれば鞠智彦も5人のタケル王を無視できないわけだ、とヤ家のタケルは理解します。カマ家のタケル以外の4人のタケル王も、そこで邑々を回って厲鬼を退治している巫女の存在を思い浮かべ、賛同します。その巫女の名を問われたカマ家のタケルが、田油津日女と答えるところで今回は終了です。


 今回もヤノハの登場は少なく、田油津日女をめぐる鞠智彦と5人のタケル王の思惑が中心に描かれました。 もっとも、鞠智彦が田油津日女をどう扱うのか、まだ示されておらず、鞠智彦の配下の志能備がどこまで田油津日女を知っているのか、鞠智彦が報告を受けてどう判断するのか、予想しにくく、田油津日女の正体とともに、今後の展開が楽しみです。田油津日女は日見子(ヤノハ)以上の霊的権威を民に認められつつあるように思いますが、これがヤノハの意図なのかどうかも気になるところです。田油津日女は、ヤノハからの書状を入手したことからも、ヤノハの命で動いている可能性がきわめて高いとは思いますが、田油津日女が日見子(ヤノハ)以上の霊的権威を民に認められるのは、ヤノハにとっても危機的だとは思います。あるいは、ヤノハは場合によっては田油津日女に日見子の座を継承させる意図もあるのでしょうか。

 ただ、5人のタケル王が、鞠智彦を抑えるべく日見彦もしくは日見子を擁立しようとして田油津日女に注目していることを考えると、これこそがヤノハの意図かもしれません。山社と暈は冷戦の密約を結んでいるので、配下の田油津日女を暈に送り込んで日見子に擁立させることで、鞠智彦の野望を牽制しようとしているのでしょうか。ただ、日見子が二人同時に存在することはないとされているので、これもヤノハの日見子としての権威を脅かすことになります。もっとも、山社と暈は表面上対立しているので、両者が互いの日見子を偽者と罵り合い、実質的には日見子が二人の日見子が共存するところまでヤノハの謀略なのかもしれませんが。ただ、暈は『三国志』に見える狗奴国でしょうから、結局は男性の日見彦(卑弥弓呼)を擁立し続けるかもしれず、どのような展開となるのか、予測が難しいように思います。田油津日女という新たな重要人物も登場し、ますます今後の展開が楽しみになってきました。

大河ドラマ『青天を衝け』第36回「栄一と千代」

 今回で栄一の妻である千代が退場となります。千代は序盤から登場していただけに、寂しさはあります。千代は栄一との結婚で多少の紆余曲折があって見せ場となっており、結婚後は家を空けることの多い栄一を家庭でよく支え、栄一の活躍も千代の支えがあってのことだと、しっかり描かれていたように思います。千代は表舞台に出ることも夫を叱咤激励して積極的に導くこともほとんどありませんでしたが、その穏やかな人物造形は視聴者にも深く印象に残ったのではないか、と思います。

 今回のもう一つの見どころは、栄一が海運業で岩崎弥太郎に挑もうとしたことですが、岩崎の新聞を使った巧みな攻撃により、開業前に実質的に敗北してしまいます。ここは岩崎の大物感がよく示されており、よかったと思います。やはり、強敵をどう描くかは、作品の質を決めるうえで重要だと思います。栄一と岩崎は欲深い点で似ている、との五代友厚の評価も興味深いものでした。栄一の長女と穂積陳重とが結婚し、栄一の子供の世代の成長も描かれていますし、栄一と喜作には多少白髪が見られ、今でも若者のような情熱を前面に出している栄一ですが、こうした描写を見ると時間の経過を感じます。

最初の芸術とは何か

 最初の芸術に関する見解(McDermott., 2021)が公表されました。スラウェシ島では遅くとも45000年前頃までさかのぼるイノシシ(図1)を描いた洞窟壁画が発見され(図2)、現時点では世界最古の具象芸術とされており、世界最古の芸術との評価もあります(関連記事)。しかし、どの絵画や描画や彫刻が「最古」という言葉に値するのか、議論の余地があります。考古学者が芸術をどう定義するのかによっても、この呼び名は変わってきます。以下は本論文の図1です。
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 スラウェシ島のイノシシは、確かに最古の具象的もしくは表象的芸術です。それは実物から描くもので、平均的な観察者が一目見て、抽象作品ではなくイノシシとして認識するようなものだ、とスラウェシ島の洞窟壁画を報告したブラム(Adam Brumm)氏は説明します。表象芸術は、ギリシアのヘレニズム美術の大理石の女神から、アメリカ大陸先住民のシャチやワタリガラスの仮面まで、芸術史において一般的です。以下は本論文の図2です。
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 非具象的もしくは非表象的表現もあります。キャンバス上のロスコ(Mark Rothko)のカラーブロックからトゥルイット(Anne Truitt)の色彩豊かな最小限の柱まで、現代劇場では豊富な事例があります。最初の抽象的な模様は、スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画よりも数万年早く出現し、現生人類(Homo sapiens)や他の人類が、平行線や格子や円を貝殻や骨に刻みつけました。しかし考古学者の間では、これらが実際に芸術的表現の最初の煌めきなのかどうか、意見が分かれています。

 ドイツで最近発見された、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産と考えられている51000年前頃の骨に刻まれた線(図3)を含む、具象的および抽象的画像両方の最近の発見により、芸術はいつ本当に、どの種で誕生したのか、という問題への関心が高まっています。考古学的証拠に加えて、古代の線刻の写真を用いた現代の認知実験があります。この研究は、彫刻が元々「芸術」、つまり視覚を刺激するために意図的に作られた画像や線刻として意図されていたのかどうか、研究者が認識するのに役立ちます。以下は本論文の図3です。
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●手と火明かり

 進化認知考古学者のスタウト(Dietrich Stout)氏は、旧石器時代芸術の研究において、何が芸術なのかわからないことに大きな問題がある、と打ち明けます。スペインのアルタミラ(Altamira)で1880年に洞窟壁画が発見された時、考古学者は偽造と推測しました。数十年後、アルタミラの洞窟壁画が遅くとも13500年前頃と明らかになってさえ、研究者は芸術の定義にあまり時間を費やさなかった、とスタウト氏は指摘します。見れば分かる、というわけです。アルタミラの洞窟壁画には、技術やさまざまな素材や絵を描く時の灯りが必要です。それらは、19世紀のヨーロッパの美術館が展示するような、抽象的なものよりも具象的なものを多用した絵のようでした。

 これは初期の考古学者には、ヨーロッパの洞窟壁画を描いた人々が認知的には完全に現代的で、粗野なものから比較的洗練されたものへと急激に変わったのではないか、と考えられました。これにより、現実世界の印象を頭の中で思い浮かべ、岩の線を用いることで、それらの印象の物理的表現が可能となりました。直接的証拠がないにも関わらず、その頃の考古学者は、旧石器時代の芸術家が、言語や抽象的思考や宗教など、他の「現代的な」特徴の全てを有していたに違いない、と推測しました。初期の考古学者が想像していたような芸術は、最初期のヨーロッパの洞窟壁画と同時に創造的な革命を起こし、それはフランスの当時としては最古の洞窟壁画となるショーヴェ(Chauvet)洞窟の3万年前頃のことでした。

 しかし、これは軽率な結論と分かりました。現生人類では脳サイズが過去50万年間あまり変化しておらず、問題のある概念だ、とスタウト氏は指摘します。現代文化の多くでは、具象的芸術も抽象的芸術も作られています。したがって、ヨーロッパの具象的な芸術作品が、表象的芸術技術を有する新たな集団の到来を告げるものではなく、認知的飛躍の証拠である、と仮定する妥当な理由はありません。重要なのは、「革命」との発想がヨーロッパの考古学的記録のみを見ていた人為産物だったことです、とスタウト氏は指摘します。ヨーロッパにおける移住の兆候は、急激な革命的変化との印象を与えていましたが、他地域ではもっと緩やかな変化だった、と分かっています。現在、世界中で「芸術」表現に多様性が見られ、具象的芸術を「現代的」特徴のより広範な一括品の主要な指標としてみなす理由はもはやない、とスタウト氏は指摘します。

 スタウト氏は、現在考古学の分野にはいくつかの異なる陣営があり、それぞれが微妙に異なる定義に固執している、と考えています。それは全て、明らかに現代の難問である、芸術とは何か?の核心に迫っています。芸術とみなされるものの最も一般的な基準は、明らかな実用性のない行動です。たとえば、スラウェシ島のイノシシを描くために用いられた赤色顔料のオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)です。この顔料は具象的芸術に先行するより古い遺跡でも発見されており、顔や他の身体部位の装飾として芸術的に用いられたかもしれませんが、その証明は困難です。オーカーは、たとえば動物の皮の加工など、実用的にも用いられます。ある種の美的原理もしくは意味を伝える意図がじっさいにあった、というより強い証拠を求める考古学者もいる、とスタウト氏は指摘します。たとえば、ビーズは装飾品ですが、集団の独自性を示すこともあります。しかし、その実用性を除外することは困難です。

 それでも、合意が得られつつある分野もいくつかあります。現生人類の芸術がヨーロッパで4万年前頃に始まった、との考えは「崩れかけている」とブラム氏は指摘します。スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画は、その先駆けとなります。このイノシシの絵は表象的で、ヨーロッパにおける同等の具象画よりも5000年以上先行する、とブラム氏は指摘します。スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画は、最古の具象的芸術ではないかもしれません。インドから中国までの狩猟採集生活を描いた洞窟の風景は、もっと古い可能性があります。

 大きな課題の一つは、ほとんどの洞窟壁画の年代測定が難しいことです。たとえばインドネシアでは、1950年代にアンテドンゲ(Leang Tedongnge)の一部地域で洞窟壁画が最初に報告され、それは伸ばした手の周りに一口の顔料を吹きつけ、洞窟の壁につけたものでした。最近まで、インドネシアの高温湿潤な環境ではそれほど古くないだろう、と推測されていました。塗料はすぐに侵食されるだろう、というわけです。

 しかし2011年に、ブラム氏たちは、インドネシアの石灰岩洞窟の一部の壁画の上に形成された、ポップコーン型の成長物に気づきました。これは、絵が描かれた後しばらくして形成されたようです。この成長物は、鍾乳石に似た方解石の沈殿堆積物と明らかになりました。この成長物は、何世紀にもわたって何百もの硬化層に蓄積します。ウランとその崩壊物であるトリウムの比率を測定することにより、ポップコーン型の堆積物の最古層が年代測定されました。2014年に、手形の上のポップコーン型の堆積物は少なくとも4万年前頃だと公表されました(関連記事)。その後、インドネシアの他の洞窟で狩猟場面が発見され、最古の具象的芸術の年代は43900年前頃までさかのぼりました(関連記事)。2021年には、上述の現時点で世界最古の表象的芸術とされるイノシシの絵に関する研究が公表されました(関連記事)。スラウェシ島でのこれらの発見は、表象的芸術がアジアで始まったことを示唆している可能性がありますが、より可能性が高いのは、人類史を通じての表象的芸術の軌跡の一部にすぎないことです、とブラム氏は指摘します。最古の壁画は現生人類の出アフリカ前にさかのぼる、とブラム氏は予想しています。


●記号と意味

 「芸術」を構成するものに関する他の解釈は、異なる起源の物語を示唆しているかもしれません。つまり、現生人類で始まるとは限らない、ということです。抽象的表現の証拠は50万年前頃までさかのぼり、ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)がジグザグ形の線を貝殻に刻みました(関連記事)。ドイツのネアンデルタール人が居住していた洞窟では、51000年前頃となるシカの骨に刻まれた抽象的な三重のL字型バターンが発見され、ホラアナグマの頭蓋1点とシカの肩甲骨2点との間に置かれていました。顕微鏡検査とCT走査により、骨の三次元画像が明らかになり、骨では彫刻が正確に刻まれ、きちんとした確度で切りつけられており、それらが道具から偶然切り刻まれた跡ではなく、意図的に作成されたことを示唆します。この彫刻は骨自体の放射性炭素年代測定により51000年前頃と水位呈されており、この遺跡の道具がネアンデルタール人的な特徴を示すことともに、現生人類がヨーロッパに到来する数千年前に作られたことを示唆します。

 この線刻のある骨を報告したリーダー(Dirk Leder)氏は、この発見について収穫が二つある、と指摘します。まず、ネアンデルタール人には意図的な象徴的表現を構築する能力があった、ということで、これは過去には議論となってきました。次に、芸術の起源は45000年前頃よりもずっと長い時間枠にさかのぼる、ということです。現生人類とネアンデルタール人はともに表象的ではないとしても、表現的で伝達的な線刻や描画を行なっており、今後も議論は続くでしょうが、芸術的表現がネアンデルタール人や恐らくはそれ以前の人類によっても作られている、とますます認識されるようになるだろう、とリーダー氏は予想しています。

 リーダー氏たちの芸術の定義が主観的に見えるならば、そうです。しかし、認知科学者たちは、象徴性の起源を正確に示すことにより、さらに客観的な評価を試みています。一部の考古学者は、それぞれの落書きには何らかの意味を示している、と主張します。たとえば円は「馬」を意味するかもしれませんが、その形態は動物とはまったく似ていません。他の考古学者は、彫刻を美的には興味深いものの、それ以外には意味のない装飾と考えています。

 この問題の解決のため、認知科学者のティレン(Kristian Tylén)氏は2017年から考古学者と協力して、南アフリカ共和国のブロンボス(Blombos)洞窟や他の遺跡の10万年前頃までさかのぼる線刻を用いて研究しました。ティレン氏たちは、現代人を対象とした一連の認知実験を設計しました。たとえば、刻まれたパターンがどれほど識別可能か、といった検証です。たとえば、単純な格子から図像や単語に進化するなど。経時的にパターンが特定のものを意味するようになる何らかの適応的圧力があったならば、数覧年にわたってパターンがより記憶に残り、区別しやすくなる、と考古学者は予測するでしょう。

 実験では、被験者たちに古代の線刻、たとえば、画面上で数秒間点滅した画像が見せられ、次に記憶から見たばかりのパターンを再描画するよう指示されました(図4)。象徴性の進化と一致して、より新しい人工物は以前のものよりも思い出しやすい、と示されました。しかし、同じ研究の別の一連の実験では、参加者はできるだけ早く同じパターンに一致しました。この場合、研究者たちはより新しい若しくはより新しいパターンの識別可能性に意味のあるパターンを見つけられませんでした。これらの落書きは最初の芸術と考えるべきで、特定の意味を示す伝達標識ではなく、美しくて視覚系を刺激するように作られた、とティレン氏は指摘します。以下は本論文の図4です。
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 神経考古学者であるホジソン(Derek Hodgson)氏は、2019年に本質的な同じ結論に達する見解を公表しました。最初の意図的な模様は平行線か交差が多く、神経が水平線と垂直線にとくに敏感な視覚野の偏りに起因している、とホジソン氏は考えています。記号がより大きな象徴的意味を持てば、言語が異なるように、文化ごとに象徴的意味の間の違いがより大きくなると予測される、とホジソン氏は指摘します。しかし代わりに、最初の格子やV字型や線は、世界中で限られた数の形状で現れており、視覚的に興味深いものの、明示的に意味はない、とホジソン氏は示唆します。

 しかし、ホジソン氏の理論と反するような見解がすぐに提示されました。デリコ(Francesco d’Errico)氏は機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて、54万~3万年前頃の線刻、景観、物体、アルファベットでの意味のない単語、古代の書記体系である線文字Bの断片など、さまざまな画像と、これらすべての刺激の組み換え版により刺激された、脳領域を特定しました。デリコ氏たちは、全ての刺激の組み換え版が参加者一次視覚野で処理されことを明らかにし、これは、脳によるそれ以上の処理なしの単純な視覚認識を示唆します。しかし、線刻は脳領域を物体の認識方法と同様のパターンで活性化しており、組織化された視覚表現として処理され、象徴的意味づけのために用いられたかもしれない、と示唆されます。

 現代の研究の一つの制約は、現代人の被験者を用いることです。たとえば、デリコ氏の研究では、複雑な形態と関連する領域での現代人の脳の活動が、何千年も前の象徴的意味の証拠として解釈されています。問題は、現代人が読み書きを学んできたため、脳のその領域にひじょうに象徴的な脳力を持っていることです、とホジソン氏は指摘します。人々が文字を用いる前に脳の領域が同様に活動したのかどうか分からない、というわけです。デリコ氏は、今後刊行予定の研究で、考古学者の脳活動のパターンを非専門家のそれと比較することにより、現代人で研究する限界に対処しようと計画しています。専門家と非専門家の両方が、実際の線刻と、線刻のように見える意図的ではない自然の模様の集合を見ます。考古学者は、じっさいの線刻に必要な手の動きを覚えている脳の運動野を用いることで、意図的ではない模様をすぐに見つける必要があります。現代の専門家の脳の反応を、現代の非専門家のそれと比較することは、過去の象徴的意味を推測するために、現代の参加者の反応を用いるよりも公平である、とデリコ氏は指摘します。

 デリコ氏は芸術がひじょうに曖昧な概念であることを、注意深く指摘します。デリコ氏やティレン氏やホジソン氏たちは、芸術の曙について明確に議論しているわけではなく、むしろ象徴的な物質文化の出現と進化について議論しています。カラハリのサン人は平行線の記号を用いて、たとえば矢の所有権を示します。その模様には象徴的役割がありますが、サン人は芸術ではなく職人技とみなします。それでも、一部の考古学者が、芸術的であるには表現は象徴的であるべきだ、と主張するので、象徴性の出現時期は依然として、芸術の始まりと関連する問題です。

 デリコ氏は個人的には、そうした見解に同意しておらず、象徴性と芸術は必ずしも関連していない、と指摘します。研究者たちが象徴性の定義で何らかの合意に達したとしてさえ、芸術自体の定義について一致に達するのは難しいでしょう。そうした一致は、芸術時代の信念から逸脱する可能性があります。デリコ氏は、特定の社会が芸術家にとって独立した役割を有している、との証拠がなければ、集団が「芸術」を作った、と述べることに躊躇います。芸術は誰かが芸術家として社会的役割を得る時に社会で始まる、とデリコ氏は考えています。その場合社会は、誰かが特別な訓練と他の人にはできない経験を有すると認識している、というわけです。

 では、最初の芸術はいつだったでしょうか?答えは、考古学者がどの芸術の定義を支持し、考古学者が問うている特定の研究の問題に依存します。抽象的な芸術は原始的で、表象的芸術に進化した、との見解はますます説得力を失いつつあるようです。ティレン氏は、抽象的な芸術とスラウェシ島のイノシシの洞窟壁画など具象的な作品には独立した起源があるかもしれない、と推測しています。ヨーロッパでは、一部の旧石器時代の動物の小立像は、表象的芸術の始まりの後に出現したようで、ずっと古いパターンと類似した抽象的な線刻で装飾されています。これは、二つの表現の同時形態を示唆します。一方は、純粋に美的で抽象的であり、もう一方は、少々的で表象的であり、おそらくはより複雑な認知を必要とします。

 今後、スラウェシ島のイノシシの洞窟壁画が最古の具象的芸術ではなくなるかもしれません。ブラム氏は現在、スラウェシ島とニューギニア島のインドネシア側との間の島々の調査資金を申請中で、最初にインドネシアの島々を下り、65000年前頃にオーストラリアの北端に到達した人々の経路をたどっています。ブラム氏は、スラウェシ島の東側の未調査の島々で、スラウェシ島よりも古い壁画が見つかることを期待しています。これまで未調査の島々の絵がオーストラリアの最初の住民と同じくらい古ければ、19~20世紀の一部の考古学者が考えていたよりも少なくとも2倍の期間、この地域の最初期の旅人は芸術表現を有していた、と示唆されます。考古学者を初めとする人々の関心をそそるのは、このような大きな問題と歴史の修正です。それは考古学で最大級の問題の一つで、現代人の祖先もしくは近縁がいつ芸術の連続体である模様もしくは形態を作り始めて、その理由は何だったのか、注目されます。


参考文献:
McDermott A.(2021): News Feature: What was the first “art”? How would we know? PNAS, 118, 44, e2117561118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2117561118

高橋のぼる『劉邦』第12集(小学館)

 電子書籍での購入です。第11集では彭城の戦いで項羽が遠征先から戻って反撃を始めたところまで描かれており、第12集はその続きとなります。まず、たいへん気になっていたのが、彭城の戦いでの劉邦の敗走です。これは劉邦にとって最大の醜態とも言えそうなので(そのためか、『史記』の「高祖本紀」には見えず、夏侯嬰の伝記である「樊酈滕灌列伝」の方で述べられていた、と記憶しています)、本作での描写には注目していました。一方、夏侯嬰にとってこの敗走は、劉邦に事故のような形で斬りつけられたのを庇ったことも凌ぐ最大の見せ場となりそうですが、本作では鴻門の会で樊噲の功績がほぼ抹消されていただけに、この敗走で夏侯嬰がどう描かれるのか、という点も気になっていました。

 漢軍の敗走では、劉邦が敗走中に郷里の沛に立ち寄った時から、劉邦と呂雉(呂后)との間に生まれた魯(魯元公主)と盈(恵帝)も王陵に助けられて劉邦と行動を共にしましたが、呂雉や劉邦の父は楚軍の捕虜となり、ここは『史記』などの記述に従っていました。劉邦は負傷している王陵から、呂一族のいる下邑に向かえ、との呂雉の伝言を聞きます。沛から下邑に向かう劉邦一行を追撃してきた楚軍の将は季布でした。夏侯嬰は戚に馬車を任せて、自身は樊噲と盧綰とともに追撃してきた楚軍と戦います。いよいよ楚軍が馬車に迫るなか、夏侯嬰や王陵の覚悟を見た魯と盈は、馬車を軽くするため馬車から飛び降ります。しかし、劉邦も馬車から降りて二人の子供を助けようとします。戚は劉邦だけでも救おうとしますが、劉邦は自分の子供を見捨てればもはや自分を失ってしまう、と言って季布と戦うものの、武勇に優れた季布に圧倒され、絶体絶命の危機に陥ります。そこへ突如砂嵐が襲ってきて、去った後には劉邦も二人の子供もその場から消えていました。

 劉邦は子供たちとともに何とか下邑まで逃げ延び、紀信と再会します。紀信は張良から、黥布を楚から漢に寝返らせるよう、指示を受けており、劉邦に伝えます。劉邦は紀信とともに黥布を訪ね、項羽は命を預けられるような主君か、と紀信が言い、黥布は漢に寝返ります。劉邦は滎陽で韓信や張良などと再会し、韓信は少数の兵力で奇策により趙を攻略します。さらに韓信は配下の陳平の策略を劉邦に勧めます。それは、范増が漢に内通しているとの噂を楚に流すことで(離間の計)、猜疑心の強い項羽は范増に帰郷を勧めます。これに落胆した范増は帰郷の途中で死に、陳平の策は見事に成功して劉邦は喜びますが、猜疑心を利用する離間の計に張良は内心では批判的でした。項羽は、劉封が自分から大事なものを奪っていくものの、それは逆に自分の強さを極限まで上げるのだ、と捕虜の呂雉に言います。呂雉は、陽の力の劉邦と陰の力の項羽は真逆だと悟り、劉邦を案じます。

 韓信が修武に駐屯するなか、項羽が全力で滎陽に攻め込んできて、漢軍は包囲されます。韓信は劉邦の救援に向かおうとしますが、龍且が率いる楚軍に阻まれます。絶体絶命の危機に陥った劉邦が張良に策を求めると、張良は劉邦が逃げることだ、と答えます。項羽は劉邦への個人的感情から、斉が楚に攻め入る危険を冒してまで滎陽を攻めており、劉邦が滎陽にいなければ楚軍の攻撃は止まり、全滅は避けられる、というわけです。劉邦は皆を置いて逃げない、と張良の策を退けますが、張良の意図を理解した紀信は劉邦を気絶させ、劉邦になりすまして脱出し、項羽が紀信を追撃している間に、戚や張良や盧綰は気絶した劉邦を馬車に乗せて逃亡します。紀信は項羽により焚刑(生きたまま人間を焼き続ける処刑)とされます。紀信は焼かれるなか、劉邦には絶対勝てない、と項羽を罵倒して落命します。劉邦が、紀信たち仲間のためにも天下を獲る、と、と泣きながら誓うところで第12集は終了です。


 第12集でまず注目したのは、彭城の戦いでの劉邦の敗走でしたが、『史記』などの記述を大胆に脚色してきたように思います。夏侯嬰にとってはかなりの見せ場となるはずでしたが、途中から劉邦と離れて楚軍と戦っており、活躍場面が少なかったのは残念でした。しかし、王陵と夏侯嬰の覚悟が示されたからこそ、魯と盈が自ら馬車から飛び降りるという行動も説得的になりました。彭城の戦いでの劉邦の敗走は、『史記』などの記述とはかなり異なっており、主人公の劉邦を美化しすぎているという批判もありそうですが、これまで描かれてきた劉邦の人物像とは整合的ですし、物語としては破綻していないというか、説得的だったように思います。気になるのは、劉邦の息子の盈(恵帝)が史書で伝えられるような気力の弱い人物とはかなり異なるように見えることで、本作が劉邦の死まで描くのだとしたら、この盈の個性が劉邦の後継者争いでどのように活かされるのか、注目されます。

 夏侯嬰とは対照的に、紀信には第12集で大きな見せ場がありました。紀信はこれで退場となるのに対して、夏侯嬰は劉邦よりも後に死に、すでに劉邦に事故のような形で斬りつけられたのを庇った、という見せ場もあっただけに、第12集で紀信の活躍の方が山場となったことには、納得するところもあります。注目されるのは、陳平の離間の計の成功に劉邦が無邪気に喜んでいるようなのに対して、猜疑心を利用するとして、張良が内心では批判的なことです。こうした策略は、やがて自軍の結束も弱める、と張良は危惧しているのでしょうか。本作が劉邦の最期まで描くのかまだ分かりませんが、こうした策略の使用が劉邦の性格を変えていき、やがて功臣の粛清につながっていく、という話の構造なのかもしれません。まあ、それが描かれるとしても、かなり先のことになりそうですが。第12集も楽しめたので、今後も期待できそうです。本作の過去の記事は以下の通りです。

第1集~第10集
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_17.html

第11集
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_17.html

中華王朝の崩壊と火山噴火との関連

 中華王朝の崩壊と火山噴火との関連に関する研究(Gao et al., 2021)が公表されました。産業革命以前の時代には、火山の噴火が主因となった気候の突然変化により、農作物の生育期の気温が低下し、降水量が減少して、農業生産性の低下がよく起きました。907年の唐王朝の崩壊と1644年の明王朝の崩壊は、旱魃現象と寒冷化現象に結びついている、と以前は考えられていました。しかし、気候変動と社会変動の両方の記録が充分には年代決定されていないことが多いため、突発的かつ短期的な気候の変動が社会の崩壊に及ぼす影響を明らかにすることは困難です。

 この研究は、過去2000年間の中華地域における王朝崩壊の年代をまとめ、爆発的火山噴火の氷床コアに基づく年代と比較しました。その結果、特定された68例の王朝崩壊のうち62例について、王朝崩壊の前に少なくとも1回の火山噴火があった、と明らかになりました。しかし、この研究は、その根底にある原因の複雑さも強調しています。この研究は、継続中の戦争などによる、その当時の社会に存在していたストレスについても調べ、小規模の噴火による気候ショックが王朝崩壊のきっかけとなるのは既存の不安定性が高い場合のみであるものの、大規模な噴火は既存の不安定性が最少の場合でも王朝崩壊のきっかけとなり得る、と明らかにしました。また、この研究は、王朝崩壊に至らなかった大規模噴火が多数あったことも示し、これによって多くの王朝にある全体的な復元力が浮き彫りになった、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地球科学:中国王朝の崩壊と火山の噴火との結び付き

 過去2000年の間、火山の噴火によって急激な気候変動が起こり、それが一因となって、当時の中国を統治していた王朝が崩壊するに至った可能性があることを報告する論文が、Communications Earth & Environmentに掲載される。今回の知見は、大規模な火山噴火が不安定な地域や脆弱な地域に深刻な影響を与え得ることを示唆している。

 産業革命以前の時代には、火山の噴火が主たる原因となって気候が突然変化して、農作物の生育期の気温が低下し、降水量が減少して、農業生産性が低下することが多かった。西暦907年の唐王朝の崩壊と西暦1644年の明王朝の崩壊は、干ばつ現象と寒冷化現象に結び付いていると以前は考えられていた。しかし、気候変動と社会変動の両方の記録が十分に年代決定されていないことが多いため、突発的かつ短期的な気候の変動が社会の崩壊に及ぼす影響を明らかにすることは難しい。

 今回、Chaochao Gao、Francis Ludlowたちは、過去2000年間の中国における王朝崩壊の年代をまとめ、爆発的火山噴火の氷床コアに基づく年代と比較した。その結果、特定された68例の王朝崩壊のうち62例について、王朝崩壊の前に少なくとも1回の火山噴火があったことが判明したが、著者たちは、その根底にある原因の複雑さも強調している。著者たちは、継続中の戦争などによる、その当時の社会に存在していたストレスについても調べ、小規模の噴火による気候ショックが王朝崩壊のきっかけとなるのは既存の不安定性が高い場合のみだが、大規模な噴火は既存の不安定性が最少の場合でも王朝崩壊のきっかけとなり得ることを明らかにした。また著者たちは、王朝崩壊に至らなかった大規模噴火が多数あったことも示し、これによって多くの王朝が持つ全体的な復元力が浮き彫りになったと示唆している。



参考文献:
Gao C. et al.(2021): Volcanic climate impacts can act as ultimate and proximate causes of Chinese dynastic collapse. Communications Earth & Environment, 2, 234.
https://doi.org/10.1038/s43247-021-00284-7

最終氷期極大期以降の気温変化

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)以降の気温変化に関する研究(Osman et al., 2021)が公表されました。過去24000年にわたる気候の変化から、外部強制力に対する地球システムの応答について重要な知見が得られます。気候モデルシミュレーションと代理指標データによってそれぞれ、この重要な期間に関する研究が可能になっていますが、両者の間では時として異なる結論が得られており、最近まで時間的に変化する全球的な再構築結果を得ることは困難でした。気候モデルは多くの場合制約条件が少なすぎ、古気候の代理指標から直接推定するには解釈の難しさが伴っているからです。

 この研究は、古気候のデータ同化を用いて両方の種類の情報を活用し、最終氷期極大期から現在までの表面温度の変化について、代理指標による制約を課した初めての全領域再解析の結果を、200年の分解能で得ました。その分析の結果、過去24000年にわたる温度の変動が、氷床と温室効果ガスによる放射強制および海洋の鉛直循環と季節的日射量の変化の重ね合わせという、二つの主要な気候メカニズムに関連づけられる、と示されました。

 この結果は、これまでの代理指標に基づく再構築結果とは対照的に、9000年前頃となる前期完新世以降、全球平均温度がわずかではあるものの着実に約0.5度上昇したことを示しています。最近の温度変化と比較すると、今回の再解析結果は、産業革命が始まってからの温暖化の速度と規模がともに、過去24000年の変化に比べて異常であることを示しています。200年間隔での気候変動の解明により、現生人類(Homo sapiens)集団の移動の一因も推測できそうで、各地域の現代人集団の形成過程という観点でも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:全球規模で解像された最終氷期極大期以降の表面温度

気候科学:最終氷期極大期以降の全球表面温度の再構築

 約2万年前の最終氷期極大期以降の気候の変遷は、かねて研究されている。しかし最近まで、時間的に変化する全球的な再構築結果を得ることは困難であった。気候モデルは制約条件が少な過ぎることが多く、古気候の代理指標から直接推定するには解釈の難しさが伴っている。今回M Osmanたちは、海面温度に関連する数百の気候代理指標を集め、それらをデータ同化と呼ばれる過程を通して気候モデルに組み込んでいる。そのため、この気候モデルは広範に及ぶデータによって制約されており、全領域の気候を過去2万4000年にわたり200年間隔でシミュレートできる。この方法によって、最終氷期極大期の終わりから中期完新世までは温暖化が持続しており、その後はほぼ安定した気温が続いていたが、産業革命が始まって急激に温暖化したことが描き出された。



参考文献:
Osman MB. et al.(2021): Globally resolved surface temperatures since the Last Glacial Maximum. Nature, 599, 7884, 239–244.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03984-4

カンブリア紀前期に出現した苔虫動物

 カンブリア紀前期における苔虫動物の出現を報告する研究(Zhang et al., 2021)が公表されました。外肛動物としても知られる苔虫動物は、水生で大部分が固着性の濾過摂食する触手冠動物で、モジュール式の群体(クローン)が有機質または石灰質の外骨格を構築します。苔虫動物は海藻に似た(起立性の)群体あるいは被覆性の群体を形成し、見過ごされることが多いものの、現在も広く一般的に存在しています。

 苔虫動物のひじょうに多様な6つの主要な目が前期オルドビス紀の岩石に存在することは、触手冠動物の中で最も大きく最も多様なこの門の起源がカンブリア紀にあることを強く示唆しています。しかし、カンブリア紀にはほぼ全ての主要な動物群が出現していたものの、その唯一の注目すべき例外が苔虫動物門と考えられてきました。苔虫動物カンブリア紀の苔虫動物として説得力のある化石は欠如しており、この分類群の真の起源およびその最初期の種の形質の組み合わせの解明が妨げられてきました。

 この研究は、オーストラリアと中国南部で出土した、カンブリア紀前期の、起立性で二層性の二次的にリン酸塩化したミリメートルサイズの化石種(Protomelission gatehousei)が、ステム群苔虫動物の候補であることを示します。この化石に見られる、単一形の個虫カプセル、モジュール式の構造、有機質の組成、単純な線形の出芽成長形状は、有機質の裸喉綱(裸口綱)と生体鉱物化した狭喉綱(狭口綱)の特徴的な形質の混合となっており、系統発生解析ではこの化石種がステム群苔虫動物と特定されました。

 これにより、苔虫動物門の起源はカンブリア紀ステージ3の他の全ての有骨格動物門と同時期となり、その最初の出現時期は約3500万年さかのぼることになりました。この結果はまた、この化石記録と、苔虫動物門がカンブリア紀前期に出現し、続くオルドビス紀に炭酸塩骨格を獲得して放散したとする、分子時計による推定結果と整合的です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:苔虫動物門がカンブリア紀前期に出現したことを示す化石証拠

進化学:転がる苔虫は化石を生ぜず?

 カンブリア紀には、ほぼ全ての主要な動物群が出現していた。その唯一の注目すべき例外は、苔虫動物門である。この微小な生き物は海藻に似た(起立性の)群体あるいは被覆性の群体を形成し、見過ごされることが多いものの、現在も広く一般的に存在している。しかし、その化石記録は前期オルドビス紀以降でしか見つかっていない。苔虫動物門がこの年代すでに現代の分類群に割り当て可能な形で存在したことは、その歴史がカンブリア紀まで大きくさかのぼることを示唆しているが、これまでにカンブリア紀の苔虫動物とされた化石はいずれも激しい異論があった。今回Z Zhangたちは、新たに発見された、カンブリア紀前期の生物の非常に優れた化石標本(一部はすでに類縁関係不明の群体生物として記載されている)を調べ、この生物が原始的な苔虫動物であることを明らかにしている。



参考文献:
Zhang Z. et al.(2021): Fossil evidence unveils an early Cambrian origin for Bryozoa. Nature, 599, 7884, 251–255.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04033-w

更新世アフリカの乾燥化要因

 更新世アフリカの乾燥化要因に関する研究(van der Lubbe et al., 2021)が公表されました。現在のアフリカ東部の水文気候は、帯状の大気循環であるウォーカー循環の変動と密接に関連しています。この循環は、220万~200万年前頃に太平洋のウォーカー循環が発達した後、はるかに長い氷期–間氷期の時間規模でもインド洋領域の水文気候条件を形成した、と示す証拠が増えています。しかし、更新世を通して海洋循環の多くの要素が変化したことは知られているものの、太平洋の影響を受けたインド洋の気候遷移の時期と機構を決定するための長期にわたる連続した記録は、これまで得られていませんでした。

 この研究は、アフリカ南東部とマダガスカルの間に位置する海洋コアから得られたモザンビーク海峡通過流(MCT)の流速変動に記録された、約700万年にわたる熱帯インド洋の風成循環の記録を提示します。この研究は、MCTの流速が210万±10万年前までは比較的弱く安定していたものの、この時期に太平洋ウォーカー循環が強まったのと時を同じくして増大し始めた、と示します。氷期における強い増大は、中期更新世気候変換期(90万~64万年前頃)に極大に達し、間氷期の弱い流速によってたびたび中断されていました。

 この研究が提示するのは、MCTの流速の増大が、アフリカの乾燥化を促進したインド太平洋ウォーカーセルの、同時期の発達の反映を説明する機構です。この結果は、210万年前頃以降、乾燥化の増大が著しく湿潤な間氷期によりたびたび中断されたことを示唆しています。この記録は、人類の進化と分散を駆動した、気候–環境要因についての仮説の検証に役立つと期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古海洋学:更新世のアフリカの乾燥化を駆動したインド太平洋ウォーカー循環

古海洋学:210万年前に強化されたインド洋循環

 更新世を通して海洋循環の多くの要素が変化したことは知られているが、大西洋と比べるとインド洋では長期の連続的記録が少ない。今回J van der Lubbeたちは、アフリカ南東部とマダガスカルの間に位置する海洋コアから得られた700万年間の流速変動の記録を提示している。この地点では、インド洋循環全体の重要な構成要素であるモザンビーク海峡通過流(MCT)の変動が記録されていた。著者たちは、MCTは約210万年前まではおおむね弱く安定していたが、その後、流れが急速に速くなってその状態が約100万年前の中期更新世気候変換期まで続き、その際は氷期–間氷期サイクルの強まりと同時に振幅が増大したことを見いだしている。



参考文献:
van der Lubbe HJL. et al.(2021): Indo-Pacific Walker circulation drove Pleistocene African aridification. Nature, 598, 7882, 618–623.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03896-3

大河ドラマ『青天を衝け』第35回「栄一、もてなす」

 アメリカ合衆国前大統領のグラントが日本を訪れ、栄一は民間を代表してグラントをもてなすことになります。今回は、近代化の様相が外交の面から描かれました。女性たちのやり取りにも結構な時間が割かれ、昔からの声が大きい大河ドラマ愛好者の中には、こうした描写を毛嫌いし、大河ドラマに相応しくない、と考えている人も少なくないかもしれませんが、女性も公的な場に出るようになり、江戸時代までの習慣や考えを変えていく、という近代化の側面を女性視点で描くという意味で、少なくとも悪い試みではなかった、と思います。

 栄一たち男性同士のやり取りも描かれ、当時の日本人の近代化への焦慮がドラマの範囲でよく示されていたように思います。ただ、栄一たち民も岩倉具視たち官の側も、前大統領のグラントに過大な期待をかけていることがグラントから示唆され、日本側の上滑りも描かれていました。伊藤博文がそれを冷ややかに察していたのは、伊藤が当時の政治家でも頭一つ抜けた存在であることを示した描写でしょうか。いわゆる鹿鳴館外交も、近代化を急速に進める日本側の上滑りといった文脈でも描かれるのかもしれません。派手な動きがないとも言える回でしたが、見どころは少なくなかったように思います。

新疆ウイグル自治区の青銅器時代の人類の遺伝的起源

 中華人民共和国新疆ウイグル自治区の青銅器時代人類集団の遺伝的起源に関する研究(Zhang et al., 2021)が公表されました。アジア内陸部の中心に位置する中華人民共和国新疆ウイグル自治区の最初の居住者の正体、およびその集団が話していた言語については長年議論が続いており、今なお異論があります。本論文は、ジュンガル盆地の紀元前3000~紀元前2800年頃の5個体と、タリム盆地の紀元前2100~紀元前1700年頃の13個体のゲノムデータを提示します。これらはそれぞれ、新疆ウイグル自治区の北部と南部で出土したこれまでで最初期のヒト遺骸です。

 得られたゲノムデータから、前期青銅器時代のジュンガル盆地の個体群はおもにアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しており、さらに同地域の祖先系統の追加の寄与も受けていた一方、前期~中期青銅器時代のタリム盆地の個体群は在来祖先系統のみを含む、と明らかになりました。タリム盆地の小河(Xiaohe)墓地遺跡で発見された個体からはさらに、歯石中に乳タンパク質の存在を示す強力な証拠が得られ、この地での居住の開始当初から人々が酪農牧畜に依存していた、と示されました。

 この結果は、タリム盆地のミイラが、アファナシェヴォ文化集団を祖先とするトカラ祖語話者の牧畜民か、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)または内陸アジア山地回廊(Inner Asian Mountain Corridor)文化に由来する、とした以前のいずれの仮説も支持しません。対照的に、トカラ語は前期青銅器時代にアファナシェヴォ文化からの移住者によりジュンガル盆地にもたらされた可能性が高いものの、タリム盆地の最初期の文化は、近隣の牧畜民および農耕民の習慣を取り入れた遺伝的に隔離された集団において出現したと見られる、と分かりました。タリム盆地の人々はこうした文化により、タクラマカン砂漠の移動性の河川オアシスに沿って定住・繁栄できた、と考えられます。


 シルクロードの一部としてユーラシア東西の文化の地理的合流点に位置する新疆ウイグル自治区(以下、新疆)は、人々と文化と農耕と言語のユーラシアを貫く主要な交差点として長く機能してきました。天山山脈に二分された新疆は、ジュンガル盆地を含む北部と、タリム盆地を含む南部の、二つの地域に区分できます(図1)。新疆北部のジュンガル盆地は、遊牧民が伝統的に居住していた広大な草原に囲まれた、グルバンテュンギュト(Gurbantünggüt)砂漠で構成されています。新疆南部は、タクラマカン砂漠を形成する乾燥した内海であるタリム盆地で構成されます。タリム盆地は、ほぼ居住できませんが、小さなオアシスと河川回廊があり、氷河の融解による流出と周辺の高山からの雪により水が供給されます。

 ジュンガル盆地内およびその周辺では、牧畜民の前期青銅器時代(EBA)アファナシェヴォ文化(紀元前3000~紀元前2600年頃)とチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化(紀元前2500~紀元前1700年頃)の遺跡群が、シベリア南部のアルタイ・サヤン地域のアファナシェヴォ文化牧畜民(紀元前3150~紀元前2750年頃)とおそらくつながっており、この牧畜民は3000km西方のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と密接な遺伝的つながりがあります(関連記事)。

 言語学者の仮定では、アファナシェヴォ文化の拡散は、インド・ヨーロッパ語族において紀元前四千年紀に他の言語系統と分離した、今では消滅した分枝であるトカラ語を東方にもたらしました。しかし、アファナシェヴォ文化関連祖先系統は、鉄器時代ジュンガリア盆地人口集団(紀元前400~紀元前200年頃)で確認されており、トカラ語は紀元後500~1000年頃のタリム盆地の仏教経典で記録されていますが、それ以前の新疆の人口集団、およびそのアファナシェヴォ文化集団もしくは他の集団とのあり得る遺伝的関係については、ほとんど知られていません。

 1990年代後半以降、タリム盆地では紀元前2000~紀元後200年頃となる何百もの自然にミイラ化したヒト遺骸が発見され、そのいわゆる西洋的な身体的外見、フェルトや織物で作られた毛糸の服、ウシやヒツジ/ヤギやコムギやオオムギや雑穀やケフィアチーズを含む農耕牧畜経済のため、国際的な注目を集めてきました。そうしたミイラは今やタリム盆地全域で発見されており、そのうち最初のものは古墓溝(Gumugou)遺跡(紀元前2135~紀元前1939年頃)や小河(Xiaohe)遺跡(紀元前1884~紀元前1736年頃)や北方(Beifang)遺跡(紀元前1785~紀元前1664年頃)の墓地の最下層で見つかっています(図1)。これらおよび関連する青銅器時代遺跡群は、その共有されている物質文化に基づいて小河考古学層位内にまとめられています。以下は本論文の図1です。
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 小河考古学層位の起源と西洋要素の説明に複数の対照的な仮説が提案されてきており、たとえば、ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説や、バクトリアオアシス仮説や、内陸アジア山地回廊(IAMC)島嶼生物地理学仮説などです。ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化草原地帯仮説では、アルタイ・サヤン山脈のアファナシェヴォ文化関連EBA人口集団がジュンガル盆地を経てタリム盆地へと拡大し、その後の紀元前2000年頃に小河考古学層位を構成する農耕牧畜民共同体を形成した、と指摘されています。対照的に、バクトリアオアシス仮説では、タリム盆地に最初に移住してきた人類は、アフガニスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンの砂漠のオアシスからアジア中央部経由で到来したBMAC(紀元前2300~紀元前1800年頃)だった、と指摘されています。この仮説の裏づけはおもに、砂漠環境への適応を反映している両地域間の農耕および灌漑体系の類似性と、両地域における麻苧属の儀式的使用に基づいています。IAMC島嶼生物地理学仮説では同様に、小河創始者集団のアジア中央部山脈起源が指摘されていますが、タリム盆地の西方および北方へのIAMCにおける農耕牧畜民の移牧と関連しています。これら3移住モデルとは対照的に、ヒンドゥークシュ山脈からアルタイ山脈にまたがるより広いIAMCは、人口集団ではなく文化的着想がおもに移動した、文化的地理的領域として機能したかもしれません。

 最近の考古ゲノム研究では、シベリア南部の青銅器時代アファナシェヴォ文化とアジア中央部のIAMC/BMAC人口集団が識別可能な遺伝的特性を有しており(関連記事)、これらの特性は同様に、アジア内陸部の農耕牧畜民以前の狩猟採集民人口集団とも異なる、と示されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。このように、青銅器時代新疆人口集団の考古ゲノム調査は、ジュンガル盆地の人口史と青銅器時代小河考古学層位の起源の再構築に強力な手法を提示します。

 本論文では、青銅器時代の33個体が調べられました。内訳は、ジュンガル盆地が尼勒克(Nileke)遺跡と阿依托汗(Ayituohan)遺跡と松樹溝(Songshugou)遺跡、タリム盆地が小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡です。ジュンガル盆地のアファナシェヴォ文化に分類されるEBA(紀元前3000~紀元前2800年頃)5個体の古代ゲノム配列と、紀元前2100~紀元前1700年頃となる前期~中期青銅器時代(EMBA)の小河考古学層位に分類されるタリム盆地の13個体のゲノム規模データの回収に成功しました。さらに、タリム盆地の小河遺跡の基底層の7個体の歯石プロテオーム(タンパク質の総体)が報告されます。これらの個体は、この地域における最初期のヒト遺骸を表しています。


●青銅器時代の新疆の遺伝的多様性

 全ゲノム配列もしくは約120万ヶ所の一塩基多型のパネルのDNA濃縮により、33個体のうち18個体のゲノム規模データが得られました。全体として、内在性DNAは最小限の汚染水準でよく保存されていました。新疆の古代人口集団の遺伝的特性を調べるため、現代のユーラシア集団およびアメリカ大陸先住民集団の主成分がまず計算され、それに古代人が投影されました。古代の新疆の個体群は、PC1軸に沿って分布するいくつかの異なるまとまりを形成し(図2)、その主要な主成分はユーラシア東西の人口集団を分離します。以下は本論文の図2です。
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 アルタイ山脈近くの阿依托汗および松樹溝遺跡のEBAジュンガル盆地個体群(ジュンガル盆地EBA1)は、その北方のアルタイ・サヤン山脈のEBAアファナシェヴォ文化草原地帯牧畜民の近くに位置します。ADMIXTUREでの遺伝的クラスタ化は、この観察をさらに裏づけます(補足図3)。以下は本論文の補足図3です。
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 天山山脈近くの尼勒克遺跡の同時代の個体群(ジュンガル盆地EBA2)は、PC1軸に沿ってわずかに後のタリム盆地個体群へと移動します。EBAジュンガル盆地個体群とは対照的に、タリム盆地東部の小河遺跡および古墓溝遺跡のEMBA個体群(タリム盆地EMBA1)は、古代北ユーラシア人(ANE)祖先系統を高水準で共有する青銅器時代前のユーラシア草原地帯中央部およびシベリアの個体群、たとえばボタイ(Botai)文化銅器時代個体群と近い密集したまとまりを形成します。タリム盆地南部の北方遺跡の同時代の個体群(タリム盆地EMBA2)は、タリム盆地EMBA1からバイカル湖地域のEBA個体群に向かってわずかにずれます。


●ジュンガル盆地におけるアファナシェヴォ文化集団の遺伝的影響

 外群f3統計は、ジュンガル盆地集団とタリム盆地集団との間の緊密な遺伝的つながりを裏づけます。それにも関わらず、ジュンガル盆地集団は両方、タリム盆地集団とは有意に異なり、ユーラシア西部人口集団との過剰な類似性を示し、ANE関連集団とのアレル(対立遺伝子)共有は少なくなっています。この混合された遺伝的特性を理解するためqpAdmを用いて、供給源として、タリム盆地EMBA1もしくはシベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の末期更新世個体(AG3)との混合モデルが調べられました。AG3はANE祖先系統の遠位代表で、タリム盆地EMBA1との高い類似性を示します。タリム盆地EMBA1個体群はジュンガル盆地集団よりも年代がずっと後となりますが、ジュンガル盆地集団よりも、アファナシェヴォ文化集団の遺伝的にはより遠く局所的な在来祖先系統のより高い割合を有している、と示唆されます。本論文は、より新しく到来した集団と関連しているのではなく、何千年も地域に存在してきた遺伝的特性を示すために、「在来」と定義します。

 ジュンガル盆地EBA1およびEBA2は両方、3方向混合モデルでの説明が最適と明らかになりました(図3c)。このモデルでは、両者はアファナシェヴォ文化からの主要な祖先系統(ジュンガル盆地EBA1では約70%、ジュンガル盆地EBA2では約50%)と、残りがAG3/タリム盆地EMBA1(19~36%)とバイカル湖EBA(9~21%)の混合としてモデル化されます。したがって、IAMCの寄与なしのアファナシェヴォ文化関連祖先系統は、ジュンガル盆地個体群のユーラシア西部構成要素の説明には不充分です。

 また、EBA牧畜民文化であるチェムルチェクは、ジュンガル盆地とアルタイ山脈の両方でアファナシェヴォ文化を継承し、その個体群のゲノムは、祖先系統の約2/3がジュンガル盆地EBA1で、残りはタリム盆地EBA1およびIAMC/BMAC 関連供給源に由来する、と明らかになりました(図3)。これは、以前にチェムルチェク文化個体群で指摘されたIAMC/BMAC両方の 関連祖先系統と、報告されたアファナシェヴォ文化集団との文化的および遺伝的類似性の両方を説明するのに役立ちます(関連記事)。まとめると、これらの結果から、ジュンガル盆地へのアファナシェヴォ文化牧畜民の初期拡散は、局所的な在来人口集団とのかなりの水準の遺伝的混合を伴っており、シベリア南部におけるアファナシェヴォ文化の最初の形成とは異なるパターンです。


●タリム盆地集団の遺伝的孤立

 タリム盆地EMBA1およびEMBA2集団は、地理的には600km以上の砂漠で隔てられていますが、かなりの人口ボトルネック(瓶首効果)を経てきた均質な人口集団を形成します。これは、密接な親族関係なしの高い遺伝的類似性と、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のハプログループの限定的な多様性により示唆されます(図1および図2)。qpAdmを用いて、タリム盆地個体群は2つの在来アジア遺伝的集団の混合としてモデル化されます。一方はシベリアのエニセイ川上流地域のアフォントヴァゴラ遺跡の上部旧石器時代個体(AG3)に代表されるANE(約72%)で、もう一方はバイカル湖EBAに代表される古代アジア北東部人(約28%)です(図3a)。北方遺跡のタリム盆地EMBA2も、タリム盆地EMBA1(約89%)とバイカル湖EBA(約11%)の混合としてモデル化できます。タリム盆地の両集団について、アファナシェヴォ文化集団もしくはIAMC/BMAC集団をユーラシア西部供給源として用いると、混合モデルは全て失敗するので、牧畜および/もしくは農耕経済を有する近隣集団からのユーラシア西部の遺伝的寄与は却下されます。

 タリム盆地EMBA1の遺伝的特性の深い形成年代が推定され、ユーラシア西部EBAとの混合の欠如と一致し、この遺伝子プールの起源は、標本抽出されたタリム盆地個体群の183世代前、もしくは1世代29年と仮定すると9157±986年前です(図3b)。これらの知見をまとめて考慮すると、タリム盆地個体群の遺伝的特性は、小河考古学層位の最初の個体群が古代の孤立した在来アジア人遺伝子プールに属する、と示唆します。在来のANE関連遺伝子プールは、アジア中央部およびシベリア南部の牧畜民よりも前のANE関連人口集団の遺伝的基盤を形成した可能性が高そうです(図3c)。以下は本論文の図3です。
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●タリム盆地の牧畜

 タリム盆地の過酷な環境は、この地域への遺伝子流動の強い障壁として機能した可能性がありますが、着想もしくは技術の流動の障壁ではありませんでした。それは、酪農牧畜やコムギおよび雑穀農耕など外来の革新が青銅器時代タリム盆地経済の基礎を形成したからです。小河遺跡や古墓溝遺跡の墓地の上層から、毛織物、ウシやヒツジやヤギの角や骨、家畜の糞尿、乳やケフィアのような乳製品が回収され、コムギや雑穀の種子、麻苧属の小枝の束も発見されています。紀元前1650~紀元前1450年頃のミイラの多くは、チーズの塊とともに埋葬されてさえいました。しかしこれまで、この牧畜民生活様式が小河遺跡における最初期層も特徴づけているのかどうか、明確ではありませんでした。

 最初の考古学的期間の食生活をよりよく理解するため、紀元前2000~紀元前1700年頃となる小河遺跡の7.個体の歯石のプロテオームが分析されました。7個体は全て、β-ラクトグロブリンやα-S1カゼインやα-ラクトアルブミンなど反芻動物の乳に固有のタンパク質について強く陽性で、ペプチドの回収は、ウシやヒツジやヤギの乳との分類学的診断の合致を提供するのに充分でした。これらの結果から、乳製品は小河遺跡墓地の最下層に埋葬されていた在来祖先系統の個体群(タリム盆地EMBA1)により消費されていた、と確認されます。しかし重要なことに、以前の仮説とは対照的に、タリム盆地個体群は遺伝的にはラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続ではありませんでした。むしろ、タリム盆地のミイラは、アジア内陸部および東部の先史時代酪農牧畜がラクターゼ活性持続遺伝子型とは無関係に拡大した、との証拠の増加に寄与します(関連記事1および関連記事2)。


●考察

 新疆におけるヒトの活動は4万年前頃までさかのぼれますが、タリム盆地における持続的なヒトの居住の最初の証拠は紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀初期にしかさかのぼりません。その頃には、小河遺跡と古墓溝遺跡と北方遺跡において、木製の棺内に埋葬され、豊富な有機物の副葬品群と関連づけられた、よく保存されたミイラ化したヒト遺骸が、タリム盆地の最初の既知の文化を表します。紀元後20世紀初期における最初の発見と、その後1990年代に大規模な発掘が開始されて以降、タリム盆地のミイラは、その起源、他の青銅器時代の草原地帯集団(アファナシェヴォ文化)やオアシス集団(BMAC)や山岳集団(IAMCおよびチェムルチェク)との関係、インド・ヨーロッパ語族のタリム盆地への拡大とのつながりの可能性に関する議論の中心となってきました。

 本論文で提示された古代ゲノムおよびプロテオームデータは、以前の想定とはひじょうに異なる、より複雑な人口史を提示します。IAMCは文化的および経済的要素をタリム盆地に伝播させる媒介となったかもしれませんが、IAMCの既知の遺跡群は、小河遺跡人口集団に祖先系統の直接的供給源を提供しません。代わりに、タリム盆地のミイラは、アジア起源が前期完新世にたどれる孤立した遺伝子プールに属しています。この遺伝子プールは、かつて地理的にずっと広範に分布していた可能性が高く、ジュンガル盆地とIAMC とシベリア南部のEMBA人口集団にかなりの遺伝的痕跡を残しました。タリム盆地のミイラのいわゆる西洋的な身体的外見は、おそらくANE遺伝子プールとのつながりに起因し、そのきょくたんな遺伝的孤立は、文化的つながりを反映している近隣の人口集団とのかなりの遺伝的相互作用を経た、EBAジュンガル盆地やIAMCやチェムルチェク人口集団とは異なり、ヒトの移動の障壁としての極限環境の役割を示します。

 しかし、それらの顕著な遺伝的孤立とは対照的に、小河考古学層位の人口集団は文化的に「国際的」で、はるか遠くの起源を有する多様な経済的要素と技術を取り入れていました。小河考古学層位の人口集団はケフィア的な発酵を用いて反芻動物の乳からチーズを作り、おそらくはアファナシェヴォ文化集団の子孫から製法を学びました。また小河考古学層位の人口集団はコムギやオオムギや雑穀を栽培し、その起源は近東と中国北部にあり、新疆には紀元前3500年前頃以降に、おそらくはIAMCの近隣集団経由で導入されました。小河考古学層位の人口集団はアジア中央部のBMACオアシス文化を想起させる様式の麻苧属の小枝とともに使者を埋葬し、新疆もしくは他地域の他の文化では見られない文化要素を発達させました。それは、ウシの皮で覆われ、木材の棒もしくは櫓で示される船形の木製の棺や、土器よりも織り籠を明らかに好むような要素です。これらの知見をまとめて考えると、小河考古学層位を築いた緊密な人口集団は、タリム盆地外のさまざまな技術と文化をよく知っており、タクラマカン砂漠と緑豊かで肥沃な川辺のオアシスという極端な環境に対応して、独自の文化を発展させたようです。

 この研究は、新疆のジュンガル盆地とタリム盆地の青銅器時代人口集団の起源を詳細に解明しています。とくに、本論文の結果は、青銅器時代タリム盆地のミイラの起源について、ユーラシア草原地帯もしくは山岳地帯の農耕経済からのかなりの移動を想定する仮説を支持せず、むしろ、タリム盆地のミイラは文化的には「国際的」であるものの、遺伝的には在来人口集団を表している、と明らかにしました。この知見は、IAMCが、紀元前四千年紀から紀元前二千年紀にかけて異なる人口集団をつないでいた地域的な文化的相互作用の地理的回廊および媒介として機能した、とする以前の議論と一致します。

 新疆北部のジュンガル盆地における紀元前3000年頃となるアファナシェヴォ文化人口集団の到来と混合は、この地域にインド・ヨーロッパ語族をもたらした可能性があり、紀元前2100年頃以降のタリム盆地のミイラの物質文化と遺伝的特性は、遺伝子と文化と言語との間の関連についての単純な仮定に疑問を呈し、青銅器時代タリム盆地人口集団がトカラ語祖語を話していたのかどうか、という未解決の問題を残します。その後のタリム盆地人口集団に関する将来の考古学的および古代ゲノム研究、および最重要なこととして、紀元後千年紀のトカラ語文献が回収された遺跡と期間の研究が、タリム盆地の後の人口史の理解に必要です。

 最後に、タリム盆地の古代ゲノムの特性は、かつて広範に存在した更新世ANE祖先系統特性の、いくつかの既知の完新世における遺伝的子孫集団の一つだったことを、意外にも明らかにしました。したがって、タリム盆地のミイラのゲノムは、完新世人口集団の遺伝的モデル化とアジアの人口史に重要な基準点を提供します。最近公表された、宮古島の先史時代人のゲノム解析でも示されたように(関連記事)、遺伝子と文化を安易に相関させてはならない、と改めて思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:青銅器時代のタリムミイラの起源に関する意外な知見

 中国の新疆ウイグル自治区のタリム盆地で発見された、自然に保存されてきた青銅器時代のミイラが、遺伝的に孤立した地域集団に属していたことが、DNAのゲノム規模の解析によって明らかになった。このことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、タリムミイラが現在のシベリア南部、アフガニスタン北部、中央アジアの山岳地帯から移住してきた集団の子孫だとする従来の仮説と一致しない。

 タリムミイラとこれらが属していた小河(Xiaohe)文化の起源については、ミイラが20世紀初頭に発見されて以来、議論が続いており、特にその理由となっているのが、ミイラの独特の外観とそれに関連した服飾技術と農耕技術だった。この点に関しては、3つの主要な仮説を巡って議論が続いている。つまり、現在のシベリア南部のステップ遊牧民の子孫とする仮説、中央アジアの山岳地帯出身の農民とする仮説、アフガニスタン北部の砂漠地帯のオアシスから移住してきた農民とする仮説だ。

 今回、Chuongwon Jeongたちは、新疆ウイグル自治区南部のタリム盆地で出土した紀元前2100~1700年ごろのミイラ13体と、ジュンガル盆地北部で出土した紀元前3000~2800年ごろのミイラ5体のゲノムDNAを解析した。これらのミイラは、これまで新疆ウイグル自治区で発見された最古の人骨だと考えられている。ジュンガルのミイラは、ほとんどの場合、祖先がアファナシェボ(現在のシベリア南部にあるアルタイ–サヤン山脈のステップ遊牧民)にあり、地元の遺伝的影響も一部見られた。一方、タリムのミイラは、地元の祖先しか見つからなかった。7体のタリムミイラの歯の堆積物の中から乳タンパク質が発見され、このタリムの集団が酪農に依存していた可能性が非常に高いことが示された。これらの知見をまとめると、従来の移住説とは一致せず、地元のジュンガル系集団とアファナシェボからの移民の遺伝的系統が混合した可能性があるものの、タリム盆地の文化は遺伝的に孤立した地域集団から生じた可能性が非常に高いことが示唆された。ただし、Jeongたちは、この地域集団の文化は国際的であり、近隣の牧畜民や農民と密接な関係を維持していたと示唆している。

 同時掲載のNews & Viewsでは、Paula Dupuyが、Jeongたちの論文に記述された重要な知見と、それが先史時代の内陸アジアに関する我々の知識に対して持つ意味をさらに掘り下げている。Dupuyは、結論として、Jeongたちが「小河文化の遺伝的起源という疑問に答えた。内陸アジアの青銅器時代を決めたダイナミックで多様な文化交流のパターンをさらに説明できるかどうかは、今後の学者たちの共同研究にかかっている」と述べている。


ゲノミクス:タリム盆地で出土した青銅器時代のミイラのゲノム起源

ゲノミクス:タリム盆地のミイラの意外な起源

 シルクロードの一部である中国の新疆ウイグル自治区は、ユーラシアをまたぐ交易の重要な拠点であった。新疆南部のタリム盆地からは、西洋風の衣服を身にまとい、青い眼や金髪などの表現型の特徴を持つミイラ化したヒト遺骸が発見されており、その起源については議論が交わされ、さまざまな仮説が立てられている。今回C Jeongたちは、タリム盆地の紀元前2100~1700年頃の個体および新疆北部のジュンガル盆地の紀元前3000~2800年頃の個体に由来する古代DNAを解析している。その結果、ジュンガル盆地の個体のDNAは大部分がアファナシェヴォ人系統に由来していた一方、タリム盆地の個体のDNAには同地域の系統しか見られないことが分かった。こうしたデータに基づいて、タリム盆地の人々が、アルタイ/サヤン山脈のアファナシェヴォ集団を祖先とするという「ステップ仮説」と、バクトリア・マルギアナ考古学複合の移動性農耕民を祖先とするという「オアシス仮説」の両方が否定された。著者たちはこれとは対照的に、タリム盆地のミイラがこの地域において遺伝的に隔離された集団から生じた集団に属していたと結論付けている。



参考文献:
Zhang F. et al.(2021): The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature, 599, 7884, 256–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04052-7

畑中章宏『廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、有名でありながらよく知られていない明治維新のさいの廃仏毀釈の実態と意義を解説しています。私も廃仏毀釈についてよく理解しているとはとても言えず、江戸時代の時点ですでに萌芽があり、地域差が大きかった、という程度の理解だったので、たいへん有益でした。本書はまず、廃仏毀釈の前提として古代と中世の神仏習合を解説しており、一般向けに配慮されていると思います。

 日本列島には、仏教到来以前より体系的ではなかったかもしれないとはいえ、神への信仰があり、本書では、自然神信仰、祖先神信仰、水田稲作起源信仰(農耕や土地の神)に区分されています。仏教到来後、神仏習合が進み、それは(1)神は迷える存在で仏の救済を必要としている、(2)神は仏法を守護する存在である、(3)神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れた、という論理で進みました。このうち(1)と(2)は奈良時代に、(3)は平安時代に出現しました。(1)の典型例は神社に隣接してもしくは神域に建立された神宮寺です。古代から中世にかけて神仏習合が進み、特定の神には決まった本来の姿である仏(本地仏)があるとする本地垂迹説が大きな影響を与えました。

 近世においても神仏習合状況は続き、庶民は神仏の信仰にさいして区分や拘りはありませんでしたが、知識層では神仏を分けるべきとの観念が浸透していき、神仏分離と廃仏毀釈の傾向も現れます。これは、僧侶による横暴・収奪への反感が根底にあったようです。仏教を批判したのはまず儒学者で、復古神道を主張する国学者が続きました。江戸時代の神仏分離は地域的で、水戸や岡山や会津で行なわれました。幕末には廃仏意識がさらに高まり、水戸や薩摩では過激な寺院整理が行なわれ、津和野では独自の寺社・寺院改革が行なわれました。

 本格的な廃仏毀釈は、慶応4年3月の神仏分離令で始まります。しかし、この神仏分離令は破壊を命じたものではありませんでした。それでも地域によっては廃仏毀釈が過激化し、その先駆けとも言うべき役割を担ったのが、延暦寺と深く結びついていた日吉社でした。他に激しい廃仏毀釈が起きた地域は、佐渡や富山や松本や苗木や津和野や土佐や薩摩などです。一方で本書は、こうした廃仏毀釈の言い伝えの中に誇張されたものがある可能性を指摘します。

 本書は廃仏毀釈について、上述のように過激化した地域もあったものの、神仏分離令は実行されても廃仏毀釈に至らなかった地域も多く、廃仏毀釈を免れた仏像や仏画や堂塔も少なくはなかった、と指摘します。神仏分離令の本質は神と仏を明確にする「判然令」で、明確にできない権現と牛頭天王がその矢面に立たされました。こうして、現在のような社寺の景観が形成され、それは近世までとは大きく異なるものでした。日本史における前近代と近代との大きな違いの一つが社寺の在り様で、廃仏毀釈は重要な影響を及ぼしただけに、今後も時間を作って調べていくつもりです。

アジア北東部集団の形成の学際的研究(追記有)

 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Robbeets et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793~5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166~4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373~2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024~3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300~2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500~300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761~紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0~95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期~中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀~紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるのか不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761~紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(補足図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000~1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。



参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


追記(2021年11月25日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



言語学:「三角測量」によって支持された、トランスユーラシア諸語の農耕に伴う拡散

言語学:トランスユーラシア諸語の中国起源

 トランスユーラシア諸語(アルタイ諸語)は極めて古く、東は日本、朝鮮半島、シベリア、西はトルコまで、ユーラシア各地に広がっている。この諸語の起源および拡散に関しては盛んに議論されている。今回M Robbeetsたちは、歴史言語学と古代DNAと考古学を組み合わせることで、トランスユーラシア諸語が、約9000年前の中国東北部・遼河流域の初期のキビ農耕民、そして隣接した現在の極東ロシアのアムール川流域に端を発する遺伝子プールまでさかのぼれることを示している。この諸語はその後、この地域から北のシベリア、西のステップ、東の朝鮮半島や日本へと広がったと見られる。

徳永勝士「HLAと日本人の形成」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収のコラムです。著者たちは1990年代に、日本人地域集団と近隣集団におけるHLA(ヒト白血球型抗原)遺伝子群の多型調査に基づいて、日本人の形成過程について考察しました。HLA(Human Leukocyte Antigen)は免疫系において抗原提示機能を果たし、移植の成否やさまざまな免疫疾患(自己免疫疾患やアレルギーや感染症や癌や薬剤過敏症など)と関連しています。HLAをコードする遺伝子群は、ヒトの遺伝子として最高度の多様性を示すことから、様々な集団の遺伝的特性の研究にも利用されており、集団の遺伝的近縁性を探る有用な標識になる、と指摘されています。各地域におけるHLAアレル(対立遺伝子)、ハプロタイプの頻度分布に基づいた日本人の形成モデルは以下のようなものです。

 まず、縄文時代人の祖先はアジア東部の後期旧石器時代人と考えられます。この後期旧石器時代人の一部は中南米の先住民の祖先でもあったでしょう。縄文時代人の特徴はかなりの程度アイヌに受け継がれたので、現代でもアイヌと南アメリカ大陸先住民との間に部分的な遺伝的共通性が認められます。一方、弥生時代人は縄文時代人より受け継いだ特徴を一部に残しつつ、朝鮮半島などを経由して日本列島に到来したアジア東部新石器時代人の影響を強く受けた、と推定されます。本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人は、この弥生時代人の特徴をほぼ受け継いでいる、と考えられます。さらに沖縄集団は、縄文時代人の特徴を「本土」日本人より多く受け継ぐと同時に、弥生時代以降、中国南部集団や日本列島「本土」集団からの影響を受けたため、現代の沖縄集団は「本土」日本人と近縁であるとともに、アイヌともやや近縁です。このように日本人の成立過程においては、近隣の多様な先祖集団が異なる時代にさまざまな経路で渡来した後、現代に至ってもなお混血あるいは重層化の過程にある、と推定されます。

 最近、骨髄バンク(非血縁骨髄移植のドナー候補のバンク)ドナー登録者177041人のHLAデータに基づいて、全国規模の大規模なデータの分析結果が報告されました。これにより各HLAハプロタイプが示す地域差もより明確になり、著者たちのモデルとの不整合は見られないそうです。ただ、近隣集団におけるHLA分布データは依然として豊富ではないので、今後のデータの蓄積が期待されます。以上、本論文についてざっと見てきましたが、日本人の形成過程の研究について、現在では現代人だけではなく古代人の核ゲノム解析が主流になっていると思います(関連記事)。しかし、日本人は近隣の多様な先祖集団が異なる時代にさまざまな経路で渡来して形成され、現代に至ってもなお混血あるいは重層化の過程にある、とのHLAの研究に基づく見解は、現在でも有効だと思います。


参考文献:
徳永勝士(2021)「HLAと日本人の形成」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)P92-93

大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトゲノムとは、ヒト(Homo sapiens)が持つ遺伝情報(全DNA配列)の1セットのことです。あらゆる生物の基本単位は細胞で、赤血球以外のヒトの体細胞は核膜で囲まれた球状の細胞核を持っています。細胞核の中に染色体があり、各染色体はヒストンとよばれるタンパク質にデオキシリボ核酸(DNA)が巻きついた棒状の構造をしています。DNAの最小単位(ヌクレオチド)は、塩基と糖とリン酸から構成されています。塩基にはアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)の4種類があり、ヌクレオチドにはそのうち1塩基が結合しています。ヌクレオチドはリン酸を介して鎖状につながっており、DNA鎖と呼ばれます。2本のDNA鎖の塩基同士は水素結合によりつながっており、二重螺旋構造となっています。向かい合う塩基の組み合わせは特異的で相補的な関係にあり、具体的にはAとT、GとCです。DNA鎖における4種類の塩基の組み合わせが塩基配列で、生物が正常な生命活動を維持するための遺伝情報が含まれています。ヒトゲノムは約31億塩基対により構成され、その一部(数%)はタンパク質のアミノ酸配列を規定しており、そうした部位はタンパク質コード遺伝子と呼ばれます。ヒトゲノムには、約25000個のタンパク質コード遺伝子が存在します。


●性特異的遺伝マーカー

 ヒトの細胞核には、22対の常染色体(ヒトは二倍体生物なので44本)と1対の性染色体(女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつ)が含まれています。卵子には必ずX染色体が1本含まれますが、精子にはX染色体を含むものとY染色体を含むものがあり、精子が卵子と結合すると、前者ならば女子、後者ならば男子が生まれます。Y染色体は父親から息子にのみ伝わるので、父親の系譜を反映する遺伝マーカーとしてよく利用されます。

 ミトコンドリアは細胞質に存在する細胞小器官で、エネルギー産生や呼吸代謝の役割を担っています。ミトコンドリアもDNAを含んでおり(mtDNA)、核DNAと同様に親から子供に伝わります。受精のさい、父親由来のミトコンドリアは卵子の中に入らないか、入っても破壊されるので、mtDNAは母親からのみ子供に伝わります。この母系遺伝の性質から、mtDNAは母親の系譜を反映する遺伝マーカーとして利用されています。mtDNAは男性も有しており、細胞内のDNA量が多く解析しやすいため、これまでに多くの研究があります。


●SNP

 配偶子が形成されるさい、ひじょうに低い確率ではあるものの、DNA複製エラーによる塩基配列の変化が起きることもあり、突然変異と呼ばれます。突然変異には、塩基置換、塩基の挿入や欠失、繰り返し配列における繰り返し数の増減などがあり、突然変異により生じた新たな塩基配列が、世代経過に伴って集団中で頻度が増加すると、多型として観察されるようになります。ヒトゲノム中で最も高頻度に観察される多型は、SNP(一塩基多型)です。SNPとは、着目する集団において、塩基配列上のある特定の位置に、2種類以上の塩基が存在する部位のことです。SNPの異なる塩基をアレル(対立遺伝子)と呼びます。ヒトの点突然変異(1塩基が別の塩基に置換されること)率は1世代1塩基あたり1.2×10⁻⁸と低いので、大部分のSNPには2種類の塩基しか観察されず、そのほとんどが単一起源と考えられます。単一起源とは、祖先型がGアレルで派生型がAアレルの場合、GアレルからAアレルへの突然変異は過去に1回しか起きていない、ということです。二倍体生物のヒトは両親から相同染色体を1本ずつ受け継ぐので、各SNPに対して3種類の遺伝子型が存在し、たとえばA/GのSNPでは、A/AとA/GとG/Gの3通りの遺伝子型が存在します。

 タンパク質コード遺伝子上にあるSNPのうち、塩基の違いにより異なるアミノ酸となるものを非同義SNP、同じアミノ酸となるものを同義SNPと呼びます。多くのSNPはアメリカ国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information、略してNCBI)に登録されており、rsで始まるIDが付与されています。SNPを構成する2つのアレルのうち、頻度の低い方はマイナーアレル、頻度の高い方はメジャーアレルと呼ばれます。NCBIのdbSNPデータベースには、マイナーアレル頻度が1%以上の非同義SNPが101000個以上、同義SNPが89000個以上登録されています(2020年10月27日時点)。

 日本人を含むアジア東部人に特徴的な表現型を示すSNPに、ABCC11遺伝子上の非同義SNP(rs17822931)とEDAR遺伝子上の非同義SNP(rs3827760)があります。ABCC11はABC(ATP binding Cassette)トランスポータータンパク質の一つで、乳腺やアポクリン腺などの外分泌組織で作用するタンパク質です。rs17822931はABCC11タンパク質の180番目のアミノ酸残基がグリシン(Gアレル)もしくはアルギニン(Aアレル)となるSNPで、アルギニンとなるアレル頻度がアジア東部人では高く、A/A遺伝子型だと耳垢は乾燥型に、G/AもしくはG/G遺伝子型だと耳垢は湿った型になります。EDARはエクトジスプラシンA受容体で、胚発生において重要な役割を果たすタンパク質です。rs3827760はEDAR タンパク質の370番目のアミノ酸塩基がバリン(Tアレル)もしくはアラニン(Cアレル)となるSNPで、Cアレルを持つほど毛髪が太くなり、また切歯のシャベルの度合いが強くなります。乾燥型の耳垢と関連するrs17822931のAアレルには、アジア東部人の祖先集団で強い正の自然選択が作用した可能性が高く(関連記事)、それが明瞭な地域差を生じさせた、と考えられます。


●減数分裂と組換え

 生殖細胞系列で起こる細胞分裂の様式は減数分裂と呼ばれ、細胞が通常増殖するさいの様式は有糸分裂もしくは体細胞分裂と呼ばれます。減数分裂が体細胞分裂と異なる点は、染色体の複製跡に姉妹染色分体となり、2回連続して細胞分裂(減数第一分裂と減数第二分裂)が起きることで、最終的に配偶子では染色体数が分裂前の細胞に半分になることです。減数分裂により遺伝的多様性が生み出される仕組みに、非姉妹染色分体間で染色体の一部が入れ替わる交叉(乗換)があり、各染色体あたり約2ヶ所以上(減数分裂あたり約50ヶ所)で交叉が起きます。これにより、新たな塩基配列を有する染色体(組換え体)が子供に伝わることがあります。同一染色体上の2地点間で組換えが起こる頻度が1%以上の時、その2点間の遺伝距離を1センチモルガン(cM)と呼び、ヒトの場合は1.3cMの距離が約100万塩基に相当します。


●ハプロタイプと連鎖不平衡

 ハプロタイプとは、同一染色体上に存在する複数のSNPのアレルの組み合わせです。観察されるハプロタイプの種類数は、SNP部位間で過去に起きた組換えの回数に依存しており、SNP部位が近接している(正確には、遺伝的距離が短い)と組換え率が低いため、理論上の最大種類数よりも少なくなります。観察されるハプロタイプの種類や各ハプロタイプ頻度は集団により異なりますが、遺伝的に近い集団ではよく似ているので、ヒト集団間の遺伝的近縁関係や、ヒトの移住史の推定に用いられます。


 連鎖不平衡とは、同一染色体上の2つ以上の多型間のアレルに関連がある状態のことです。SNP1(AアレルとGアレル)とSNP2(CアレルとTアレル)により規定されるハプロタイプの場合、A-CとA-TとG-CとG-Tの4種類のハプロタイプが存在し得ます。ハプロタイプの頻度がそれを構成するアレル頻度の積と等しくない場合、両アレルは連鎖不平衡の関係にあると呼ばれ、ハプロタイプ頻度の方がアレル頻度の積よりも大きければ正の連鎖不平衡、小さければ負の連鎖不平衡と呼ばれます。A-CとA-TとG-CとG-Tの各ハプロタイプ頻度をh11とh12とh21とh22とする場合、AアレルとCアレルの各頻度はh11+h12とh11+h21です。AアレルとCアレルの連鎖不平衡係数を、A-Cハプロタイプ頻度からアレル頻度の積を引いたD11=h11- (h11+h12) (h11+h21)と定義すると、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11=0ならば、AアレルとCアレルは連鎖平衡にある、と呼ばれます。AアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD12、GアレルとCアレルの連鎖不平衡係数をD21、GアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD22と定義すると、D11=-D12=-D21=D22の関係が常に成立します。


●ゲノム人類学

 全ゲノム配列決定技術が実用化されたことで、ゲノム人類学研究において飛躍的な進展がみられています。ゲノム人類学とは、ヒトゲノムの多様性情報から、人類の進化過程や表現型の多様性の基盤となる遺伝因子を明らかにし、ゲノム水準で「生物としてのヒト」の理解を目指す学問分野と言えます。多くの生物種でゲノム解析が行なわれていますが、公共ゲノムデータベースが最も充実しているのはヒトで、データ解析のフリーソフトウェアも多数公開されています。一昔前までは、実験してDNA配列を決定するという、いわゆるwet解析抜きに研究を進めることは困難でしたが、現在ではデータベースのデータを利用したいわゆるdry解析のみで優れた成果を挙げられます。若い人が参入しやすい点からも、ゲノム人類学は今後ますます発展する、と期待されます。


●アジア人の形成過程

 人の進化を包括的に理解するには、より多くのヒト集団の解析が必要なので、大規模な国際共同研究計画が盛んに行なわれています。その一つにヒトゲノム解析機構(Human Genome Organisation、略してHUGO)の汎アジアSNP共同事業体(Pan-Asian SNP Consortium、略してPASC)があります。PASCでは、アジア人の形成過程を明らかにする目的で、アジアの73集団の1808人について、54794個のSNP遺伝子型が調べられています(関連記事)。

 これまで、アジア東部現代人の祖先集団の形成について、二つの仮説が提案されてきました。一方は、アジア東部集団とアジア南東部集団がアジア大陸南部の沿岸部に沿って到達し、一つの共通祖先を有しており、アジア南東部到達後にアジア東部まで北上した、という説です(南岸経路説)。もう一方は、アジア東部に到達した二つの移住経路があり、南を経由した移住の後に、より北方を経由して到達した(アジア中央部を介してヨーロッパ集団とアジア集団をつないだ)移住があった、という説です(南北両経路説)。代表的なアジア集団と、アフリカ集団とヨーロッパ集団とオセアニア集団とアメリカ大陸先住民集団を含めた、29集団を対象とした系統樹解析により、ヨーロッパ集団とアジアやオセアニアやアメリカ大陸先住民の集団とが分岐した後、オセアニア集団とアジアおよびアメリカ大陸先住民集団とが分岐し、最後にアジア東部集団とアメリカ大陸先住民集団とが分岐した、と示唆されました。なお、本論文はこのように指摘しますが、現生人類各集団間の関係は複雑で(関連記事)、遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された集団を単純な系統樹に位置づけることには、難しさがあるように思います(関連記事)。

 SNPハプロタイプの多様度に注目すると、南の集団から北の集団にいくほど(緯度に比例して)、その多様性は減少しており、アジア集団の祖先は南から北へと移動してきた、と強く示唆されます。アジア東部集団で観察されるハプロタイプの90%のうち、50%はアジア南東部集団で観察される一方、わずか5%しかアジア中央部および南部集団では観察されませんでした。系統樹解析結果も合わせると、アジア東部集団の主要な起源はアジア南東部にあり、南岸経路説の方が有力と言えそうです。

 ネグリートは、アジア南東部からニューギニア島にかけて住む少数民族です。ネグリートは、低身長や暗い褐色の皮膚や巻毛といった特徴的な表現型を持ち、狩猟採集を営みながら孤立して存続してきたことから、その祖先集団や他のアジア集団との関係については諸説ありました。ネグリートは系統樹解析結果では、アジア東部人やアメリカ大陸先住民とともにオセアニア人から分岐しており、ネグリートの一部集団がアジア東部人やアメリカ大陸先住民と遺伝的に近いことから、ネグリートは他のアジア集団と共通祖先を有している、と考えられます。


●47都道府県の解析

 47都道府県の日本人11069個体の138688ヶ所の常染色体SNP遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた研究(関連記事)では、47各都道府県から50個体ずつ無作為抽出され、各SNPのアレル頻度が計算され、漢人(北京)も含めてペアワイズにf2統計量を求めてクラスタ分析が行なわれました。f2統計量とは、2集団間の遺伝距離を測定する尺度の一つで、SNPごとにアレル頻度の集団間差の2乗を計算し、全SNPの平均値として与えられます。クラスタ分析とは、多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、この研究では階層的手法の一つであるウォード法が用いられています。47都道府県を4クラスタに分けると、沖縄、東方および北海道、近畿および四国、九州および中国に大別されます(図5.9、図のCHBは北京漢人)。関東や中部の各都県は1クラスタ内に収まりません。これは、関東もしくは中部の都県を遺伝的に近縁な集団とはみなせず、そうした単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることは難しい、と示しています。以下は本論文の図5.9(本論文の参照文献より引用)です。
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 47都道府県を対象にした主成分分析結果(図5.10a)では、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県と示されます。主成分分析とは、多数の変数(多次元データ)から全体のバラツキをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する、多変量解析の1手法です。最も多くの情報を含む第1主成分の値から、沖縄県と鹿児島県の遺伝的近縁性が示されます。これは、単に地理的近さだけではなく、奄美群島の存在も影響していると考えられます。図5.9でクラスタを形成した地方については、九州と東北が沖縄県と遺伝的に近く、近畿と四国が遺伝的に遠い、と示されます。第2主成分は、都道府県の緯度および経度と有意に相関しています。以下は本論文の図5.10(本論文の参照文献より引用)です。
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 日本列島には3万年以上前からヒトが棲んでおり、16000年前頃から縄文時代が始まります(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)。弥生時代が始まる3000年前頃(この年代についても議論があるとは思います)に、それまで日本に住んでいた「縄文人」が、アジア大陸部から到来してきた「渡来人」と混血した、と考えられています。現代日本人の成立については、おもに北海道のアイヌと、おもに沖縄県の琉球人と、本州・四国・九州を中心とする「本土人」から構成される「二重構造モデル」が想定されています。遺伝学的研究により、「縄文人」と「渡来人」の混血集団の子孫が「本土人」で、アイヌや琉球人、とくに前者は当時の混血の影響をあまり受けていない、と示されています。

 「渡来人」の主要な祖先集団の子孫と想定される北京漢人と、各都道府県のf2統計量を計算すると、沖縄県は漢人から遺伝的に最も遠く、近畿と四国が漢民族に近い(最も近いのは奈良県)、と示されました。したがって、図5.10aにおいて、第1主成分の値が大きい都道府県は「縄文人」と遺伝的に近く、値が小さい都道府県は「渡来人」と近い、と想定されます。大部分の「渡来人」は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられますが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿や四国の人々に「渡来人」の遺伝的構成成分がより多く残っており、近畿と四国には、他地域よりも多くの割合の「渡来人」が流入したかもしれません。


●日本人に特徴的なY染色体

 Y染色体上の組換えを受けない領域の塩基配列の違いに基づいて、「縄文人」由来のY染色体を同定できる可能性があります。日本人男性345個体のY染色体の全塩基配列決定に基づく系統解析(関連記事)では、日本人のY染色体は主要な7系統に分かれました。他のアジア東部集団のY染色体データを含めての解析に基づくと、日本人で35.4%の頻度で見られる系統1は、他のアジア東部人ではほとんど観察されない、と示されました。系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析すると、系統1はYAPという特徴的な変異を有するY染色体ハプログループ(D1a2a)に対応しています。YAP変異は、形態学的に「縄文人」と近縁と考えられているアイヌにおいて、80%以上という高頻度で観察されます。「渡来人」の主要な祖先集団の子孫である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体がほとんど観察されなかったことから、系統1のY染色体は「縄文人」に由来する、と結論づけられます。なお、同一検体のmtDNAの系統解析からは、明らかに「縄文人」由来と想定されるような系統は検出されませんでした。


●今後の課題

 日本列島「本土人」の常染色体のゲノム成分の80%程度は「渡来人」由来と推定されており(関連記事)、「縄文人」と「渡来人」の混血割合は2:8程度だったと思われます。縄文時代晩期の人口は8万人程度と推定されており、その居住範囲は日本列島全域にわたっていました。混血割合から単純に考えると、32万人の「渡来人」が渡海して日本列島に流入したことになりますが、この推定値は多すぎると思われます。より少ない「渡来人」が日本列島で優勢になる可能性として、「渡来人」との戦闘により「縄文人」が激減した可能性も想定されます。しかし、「縄文人」由来の系統1のY染色体の割合が現代日本人では35%となることから、仮に大多数の「縄文人」男性が系統1のY染色体を有していても、2:8の混血割合であれば、せいぜい20%にしかならないはずです。戦闘でまず犠牲になるのは男性であることが多く、系統1のY染色体の頻度はさらに低くなるでしょう。この問題も含めて、日本人の集団史には未解明の問題が残っています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。現代日本人は先住の「縄文人」と弥生時代以降にアジア大陸部から新たに日本列島に到来してきた「渡来人」との混合により形成された、との見解は現代日本社会においてかなり定着してきたように思います。しかし、近年の古代DNA研究の進展から、その形成過程はかなり複雑だったように思われます(関連記事)。朝鮮半島において、「縄文人」的構成要素でゲノムをモデル化できる個体が8300年前頃から確認されており、2800~2500年前頃の朝鮮半島中部西岸の個体は日本列島「本土」現代人と遺伝的構成がよく似ています。これらを踏まえると、日本列島「本土」現代人の基本的な遺伝的構成は朝鮮半島において紀元前千年紀初頭には確立しており、この集団が弥生時代以降に日本列島に到来して勢力を拡大した、と考えられます。

 さらに、朝鮮半島では紀元前千年紀後期以降に人類集団の遺伝的構成に大きな変化があって現代北京漢人により近づき、そうした集団が弥生時代後期から飛鳥時代にかけて到来し、日本列島「本土」現代人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と現時点では想定しています。47都道府県単位で奈良県民が遺伝的に最も北京漢人に近いのは、古墳時代から飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した集団がおもにヤマト王権の中心地域に移住した結果だろう、と推測しています。また本論文では、「縄文人」由来と考えられる系統1のY染色体の割合が日本列島「本土」現代人で高い、と指摘されていますが、そのうち一定以上の割合は弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性が高いように思います。もちろん、こうした私見も日本列島、さらにはユーラシア東部の人口史を過度に単純化しているのでしょうし、今後の古代DNA研究の進展により大きく見直す必要が出てくるかもしれません。


参考文献:
大橋順(2021)「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第5章P78-91

『卑弥呼』第74話「田油津日女」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年11月20日号掲載分の感想です。前回は、モモソがヤノハに、今、腹の子を殺さねば、その子にお前は殺される運命だ、と告げるところで終了しました。今回は、暈(クマ)の国の鞠智(ククチ)の里(現在の熊本県菊池市でしょうか)で、鞠智彦(ククチヒコ)が暈の国各地の疫病被害の報告を受けている場面から始まります。カワカミの本拠地である鹿屋(カノヤ)のある姶羅(アイラ、現在の鹿児島県姶良市でしょうか)では、邑々の半数が死に絶え、ヤ家の統べる囎唹(ソオ、現在の鹿児島県曽於市でしょうか)ではさらにひどい状態で死体の山となっており、串岐(クシギ、現在の鹿児島県いちき串木野市でしょうか)のイ家のタケル王は厲鬼(レイキ)、つまり疫病により死に、出水(イズミ、現在の鹿児島県出水市でしょうか)のサジキ家は邑の大半を失い、海を越えて霧島に難を逃れ、カマ家では死者が相次ぎ、浮土(ウド、現在の熊本県宇土市でしょうか)の半分を焼き払っていました。

 暈の5人のタケル王はもはや厲鬼の前になす術もない、と報告する配下の志能備(シノビ)に、鞠智彦は山社(ヤマト)など6ヶ国の情勢を尋ねます。伊都(イト)と末盧(マツラ)は早々に国を閉ざして民はほぼ生き残っており、穂波(ホミ)と都萬(トマ)も同様で、那(ナ)国の対応はどの国よりも早く、死者は最初からごく少数と配下から報告を受けた鞠智彦は、山社の状況を配下に尋ねます。山社は最初に厲鬼に祟られた国なので多くの使者が出たものの、その後は邑々が日見子(ヒミコ)たるヤノハの命によく従い、被害を最小限にとどめたようだ、と配下から報告を受けた鞠智彦は、山社がどのように対策したのか、配下に尋ねます。日見子は厲鬼退散の術を出雲の事代主(コトシロヌシ)より学び、同盟を結ぶ5ヶ国(伊都と末盧と穂波と都萬と那)に文を送った、と配下は報告します。すると鞠智彦の配下のウガヤは、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の生き神が余計なことをした、と悔しがりますが、鞠智彦は冷静に軽く笑っただけでした。

 しかし、暈にとって状況は深刻で、暈の戦人はその半数が死ぬか病に伏せているので、今、山社など6ヶ国に攻められればひとたまりもない、と鞠智彦は現状を冷静に認識します。日見子(ヤノハ)の書状を入手したい鞠智彦は、どこかの王に日見子から送られた木簡を入手できないか、と配下の志能備に尋ねますが、誰も答えないので、無理だと悟ります。ここでウガヤが鞠智彦に、暈の邑々を巡り、厲鬼を退散させている祈祷女(イノリメ)について報告します。その祈祷女の名は田油津日女(タブラツヒメ)で、その神通力は山社の日見子をはるかに凌ぐと民が噂しており、鞠智の里に呼んではどうだろうか、とウガヤは鞠智彦に進言します。鞠智彦は、そうした輩をまったく信じていないが、里の民の励みになるなら呼べ、とウガヤに命じます。

 暈の浮土では、田油津日女が烏の仮面をつけて踊り、配下らしき能面のような仮面をつけた4人の演奏に合わせて歌い踊っていました。田油津日女は感謝する民に、配下らしき男性を通じて指示を伝えます。それは、邑での集まりは今日で終わりとし、全員家に籠って外出するな、というものでした。さらに、今度の厲鬼は言霊に祟るので、市でも言葉を交わさず、厲鬼に祟られた者を一ヶ所に集めて互いに接触を絶ち、1年間言霊を交わさねば、厲鬼は退散するだろう、と田油津日女の配下らしき男性は民に伝えます。すると民は感激して約束を守ると誓い、田油津日女を崇めます。

 田油津日女の一行が邑を去って玉杵名邑(タマキナノムラ、現在の熊本県玉名市でしょうか)に向かう途中、ウガヤの一行が声をかけてきます。ウガヤは田油津日女の配下らしき男性に、玉杵を越して鞠智里まで同行し、鞠智彦大夫に謁見してもらいたい、と要請します。男性が慌てた様子で輿の中の田油津日女に伝えると、鞠智彦の命とあれば従うが、江津湖(エヅノウミ、現在の熊本市にある湖)に寄りたい、と田油津日女は男性に返答させます。江津湖はこの近くにあるが遠回りになる、と訝しむウガヤですが、受け入れてともに江津湖に向かいます。江津湖で田油津日女は輿から降り、湖畔に立ちます。配下の兵から田油津日女も女官たちも仮面をつけている理由を問われたウガヤは、素顔を曝せば霊力が消えるからだ、と答えます。田油津日女が湖畔で何を待っているのか、ウガヤが訝しんでいると、湖の中の島から木箱が苦れてきます。田油津日女はその木箱を鞠智彦に渡すよう、配下の男性に伝えます。男性は、これが伊弉冉(イザナミ)の第五子である水の女神の水波能売神(ミズハノメノカミ)からの授かりものだ、とウガヤに説明します。ウガヤが木箱を開けると、事代主より伝授された厲鬼退治の極意を記した日見子の書状でした。田油津日女の神通力に感激したウガヤは、平伏して田油津日女に礼を述べます。

 奥閼宗(オクノアソ、阿蘇山の奥深くでしょうか)では、ヤノハが水波能売神命の御神体である巨岩に祈っていました。オオヒコは配下に、民に300日の人との交わりを禁じた日見子(ヤノハ)様は、その間に生命の源たる水が滞らないよう、祈っているのだろう、と説明します。この様子を見ていたナツハに、水波能売神命は水神であると同時に、安産の神でもある、と伝えるところで今回は終了です。


 今回、ヤノハの登場はわずかでした。ヤノハモモソに、腹の子を殺さねば、その子にお前は殺される運命だ、と告げられましたが、安産の神でもある水波能売神命に祈ったことから、出産の決意は揺らいでいないようです。今回は鞠智彦の思惑と田油津日女の動向が主題でしたが、ヤノハが水波能売神に祈り、その水波能売神が事代主より伝授された厲鬼退治の極意を暈に届けたとされていることや、田油津日女がヤノハと同じ疫病対策を民に説いていることからも、ヤノハが田油津日女を暈に派遣したのは間違いなさそうです。山社と暈は、表向きは対立しつつも、裏では協定を結んで戦わないことにしており、九州の疫病沈静化は暈でも疫病を抑え込まねばならないものの、山社が表立って暈を支援するわけにはいかないので、田油津日女を暈に派遣して疫病対策を支援している、ということでしょうか。田油津日女の正体は、すでに登場している人物かもしれません。田油津日女がアカメである可能性も考えられますが、アカメは暈を裏切った形になっており、暈の志能備に気づかれると命を狙われそうですから、その可能性は低そうです。また、アカメの髪が田油津日女よりも短いことからも、アカメではないかな、と思います。ただ、アカメは頭部で髪を束ねているので、伸ばすと髪は長いかもしれませんが。第37話に登場した猿女(サルメ)一族の阿禮(アレイ)である可能性も考えましたが、髪の色が違うようです。もちろん、今回が初登場の人物の可能性もあり、疫病をどう収拾して日下(ヒノモト)の国と対峙するのか、という大きな話とともに、田油津日女の正体も注目され、今後もたいへん楽しみです。

大河ドラマ『青天を衝け』第34回「栄一と伝説の商人」

 今回は栄一が岩崎弥太郎と初めて会い、その経済観をめぐって論争するところが中心に描かれました。貿易での買い控えに対する外国との駆け引きなどでも描かれてきた、栄一の合本への強い想いを前提としての、栄一と岩崎弥太郎との激しいやり取りで、ここは本作らしくしっかりとした構成になっていたように思います。岩崎は強烈な個性の持ち主として造形されており、本作終盤の重要人物に相応しい描写でした。栄一と岩崎の対立はかなり激しいものだったようなので、今回のような明確な対立と決裂の描写はよかったと思います。

 近代化初期の人々の意識の在り様の変化が描かれていたことも、歴史ドラマとしてよかったと思います。ただ、近代化初期の変化とはいっても、今回描かれたような都市部、とくに首都と農村部とでは大きな違いがあったでしょうが。本作は主人公の能動的活躍をしっかりと描きつつ、主人公の言動の背景となる当時の世相やその変化、平岡円四郎の妻の「やす」と栄一との再会など、幕末編から明治編までの継続的な流れをさらには描いており、私はこの点で歴史ドラマとして高く評価しています。ただ残念なのは、本作の残りが7回しかないことで、もっと近代化の過程での栄一の活躍を詳しく見たいものです。

ポリネシアにおける人類の移動経路と年代

 ポリネシアにおける人類の移動経路と年代に関する研究(Ioannidis et al., 2021)が公表されました。ポリネシアへのヒトの移住史は住民により長く調べられてきており、少なくともクック船長(Captain James Cook)以来の世界規模の未解決の問題でした。最近では、これらポリネシアの創始者集団に特定の健康状態が存在することに、医学遺伝学者が関心を寄せています。しかし、医学研究および歴史的理解には不可欠にも関わらず、このオセアニアの広範で地球最後の定住可能地域のヒトの遺伝的構造は、ほとんど知られていません。


●背景

 ポリネシア諸島の定住順序は、最初の拡大とその後の島嶼間の文化的交換のため、比較言語学もしくは文化的手法を用いて明らかにするのは困難なままです(関連記事)。一方、定住年代の考古学的推定は依然として議論されており、最近ではポリネシア東部全域で最大千年ほど前に修正されてきました。以前の地域規模のポリネシア人の遺伝学的研究は、グロビン遺伝子の多型のみを考慮したか、近ポリネシア(西ポリネシア)およびソシエテ諸島に限定されており、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)固有の手法が欠けていました。一方、古代DNA研究では、西ポリネシアの1島から4点の標本と、東ポリネシアの1島から3点の現代に近い標本のみが配列されており、全て遺伝子型密度が低く、標本間の遺伝子重複は低いままで、時間枠が異なります(関連記事1および関連記事2)。

 本論文では、ポリネシア全域の詳細な島内および島間の人口下部構造を調べるため、以前より2桁大きい現代人標本のデータセット(21集団430人)が用いられます。標本規模を活用して方向性およびネットワーク分析が実行され、共存個体群からの高密度重複遺伝子型を活用して、世代内の常染色体ハプロタイプ一致判定が実行され、初めてポリネシア諸島の定住経路を年代測定し、再構築することが可能となります。本論文により、過小評価された混合人口集団からのゲノムデータ分析に、新たな祖先系統特異的技術を示すことも可能となります。

 ポリネシア人はおもにオーストロネシア語族話者航海民の子孫で(関連記事)、その言語の起源は台湾にまでさかのぼります(関連記事)。その祖先の拡大は、アジア南東部島嶼部へと進み、最終的には太平洋に拡大した、と考えられています(関連記事)。西太平洋(フィジーやトンガやサモア)のオーストロネシア語族話者移民は、探検と開拓の並外れた航海を経て、広大な東方の海に散在する島々に定住していきました。これら孤立した島々に最初に到来した人々は、ヒトが生息していなかった漁獲されていない浅瀬礁、巨大な海鳥の群生、(すぐに絶滅した)飛べない鳥といった豊富な資源を原動力に、急速な初期の成長を経たと考えられます。

 これら急速に拡大する島の人口集団はその後、一部の理論によると、さらなる未開発資源探索の新たな探検航海を開始し、これは初期の口述歴史により裏づけられたモデルです。ポリネシアの交易品の、とくに手斧の地質学的分析から、遠方のポリネシア諸島は数世紀の間相互に交易接触を続けていた、と示唆されます。しかし、これらの接触は本質的に、群島間の広大な距離により必然的に頻度が制約され、二重船体の航海力により規模が制限されました。

 この歴史的モデル下では、これら孤立した太平洋諸島の少ないアレル(対立遺伝子)は、創始者ボトルネック(瓶首効果)の連続に起因する、島々の植民の順番(範囲拡大)に従って短縮するように失われていく、と予測されます。本論文は以下のようにこの仮説を確証し、次に、つまりそれぞれの遠方の群島の遺伝的構成は、急速に植民したその創始者の寄与が支配的だった、という結果を用いて、ポリネシアの定住の順序を再構築します。本論文は最後に、このモデルの自己整合性を評価して、その妥当性を検証します。


●遺伝学的分析

 遺伝的下部構造が二次元の地表面上で縦横無尽に起きる大きな歴史的住や征服や拡散により形成され、その結果として地理を反映する遺伝的分散の二次元の投影が起きる、大陸(および沿岸の島)の人口集団とは対照的に、ポリネシアの人口構造は地理を反映しない高度の次元性を示し、標準的な主成分分析(図1a)では島々が別々に分岐している、と明らかになりました。じっさい、主要なゲノム変異の最初の2つの二次元は、ポリネシア人個体群の祖先系統特異的の主成分分析(図1b)でさえ、大陸の人口集団内のように、島々を地理的に分離していません。代わりに、連続する各主成分分析は、特定の島もしくは群島の遺伝的浮動を捕捉しており(図1b・c)、これらの島々の間の遺伝的分散が、拡散勾配もしくは移動勾配ではなく、その創始者効果により支配されていることを示します。

 ゲノム次元の削減へのこうした標準的な分散に基づく手法をさらに複雑にしているのは、ポリネシア諸島が遺伝的多様性で大きく異なることです。起源地の島々ではずっと大きな多様性があるので、主成分分析で含めると最初の主成分を占めます。さらに、特定の島々からの全標本を含む多くの個体は、ヨーロッパ人やアメリカ大陸先住民やアフリカ人といった非ポリネシア人祖先系統をある程度有しています。そうした異なる祖先系統供給源からの植民地化後の大規模な混合の存在は、これら混合された標本を主成分分析に含めると、島内および島嶼間の分散のポリネシア人に焦点を当てた解釈を完全に混乱させます。

 この三重の障害物を克服して島嶼間の関係を視覚化するため、非線形次元削減技術の新たな祖先系統特異版である、t分布型確率的近傍埋め込み(t-SNE)が適用されました。これは、本論文で標本抽出された個体群のポリネシア人祖先系統のゲノム領域にのみ適用され、行列完成段階が採用されました(図1d)。この祖先系統特異的t-SNE手法の図では(図1d)、台湾やアジア南東部の島(スマトラ島)やフィジーやトンガやサモアといった西方の祖先の島々が左側に、より最近定住された東方の島々は右側に集まります。

 クック諸島のマウケ(Mauke)島やアチウ(Atiu)島やラロトンガ(Rarotonga)島など群島の島々は、隣接するまとまり(クラスタ)を形成します。ラロトンガ島とパリサー(Palliser)諸島は東ポリネシアの島々の中心に現れ、他の東ポリネシアの島々がそこから放散します。このパターンは、遺伝的浮動投影手法と同様に、UMAP(均一多様体近似および投影)と自己組織化写像(SOM)の本論文の祖先系統特異的定式化を含む、代替的な次元削減手法全体で一貫しています。以下は本論文の図1です。
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●系統樹構築と経路の再構築

 各島の個体は、非線形の分散に基づく投影(t-SNEとUMAPとSOM)の全てで密着した別々のまとまりを形成するので、島の全個体の一塩基多型計量ベクトルを平均化することにより、各島の有意義な分散頻度ベクトルを定義できます。上述のように、本論文はポリネシア人起源のゲノム領域のみを考慮しており、それは、標準的な非祖先系統特異的分析は、その割合が低くても、ヨーロッパ人などひじょうに分化した植民地祖先系統の最近の導入により混乱するからです。全個体で平均化することによりノイズが減少し、ほぼまったくマスキングからの欠落のない合成のポリネシア人固有の頻度ベクトルが得られます。これら島固有のポリネシア人多様体頻度ベクトルを用いて、対での違いの平均数(π)と多様体内積(外群F3)と方向性指数(範囲拡大統計、ψ)を含む、島の各組み合わせの統計が計算されます。

 方向性指数ψは(図2a)は、範囲拡大の方向にしたがって、創始者事象に起因するゲノム全体で保持された稀な多様体の頻度における総増加頻度を測定します(図2b)。ψ統計は、あらゆる遺伝的距離(π、F2、MixMapper)もしくは内部産物(F3とTreeMix)に基づく手法で利用できない重要な情報をもたらします。つまり、子孫から母集団を線で描く方向性矢印です。ほとんどの人口集団の研究はそうした方向性を必要とせず、それは、現代の人口集団が一般的に近縁で、もはや現存しない古代の母集団からの遺伝的浮動を有しているからです。母集団は、古代の標本群から利用可能ならば、明確に時間の矢印により示唆されます(通常は放射性炭素年代測定)。しかし、比較的最近定住されたポリネシア諸島では、遺伝的浮動は時間ではなく創始者効果により形成されます。

 したがって、ポリネシア諸島のほとんどでは、遺伝的浮動のない(母)集団がまだほぼ現存しています。つまり、それらは起源地の島々の集団です。人口集団系統樹を構築する場合、これは本論文のデータセットが末端の(従属系統を有さない)結節点だけではなく、内部結節点も含んでいることを意味し、ψ統計からの階層が分かります。この方向性知識により、系統樹構築演算法(アルゴリズム)を用いることが可能となります。この系統樹構築演算法は、現在使用されている人口集団系統樹とは異なり、完全なデータの存在において、全てのあり得る系統樹の空間から最適な系統樹を見つけることが保証されています。このより堅牢な方向性に基づく演算法を用いて、ポリネシアの定住経路を再構築できます(図2a)以下は本論文の図2です。
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●年代測定

 推測される定住事象の年代を推定するため、さまざまな島において個体の全ての組み合わせで、共通祖先から継承されるDNA領域、つまり同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBDを検出する手法が用いられました。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。上述のように、ポリネシア人祖先系統のゲノム領域のみが考慮されます。A島とB島の各組み合わせについて、B島の個体群と組み合わされたA島の個体群間で共有されたポリネシア人IBD領域の全てが貯えられ、結果として生じる領域の長さの分布に指数曲線が当てはめられます(図2c)。この指数曲線の減衰定数から、島の組み合わせの分岐以降経過した世代の数が計算されます。

 図2aでは、植民経路により接続された島の全ての組み合わせについての、推定された分岐年代が示されます。定住後交易接触のような島嶼間の最近の移動は、少数のより長い島内IBD領域をもたらす可能性があり、推定分岐年代を現在へと向かわせるので、切り捨てられた指数が当てはめられました。それにも関わらずこれらの分岐年代は、各移住先の島の定住の終点とみなすべきでしょう。他の島々と大規模な人口集団交換がないと考えられている、ラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)など最遠方の島々の事例では、IBDに基づく年代は定住の実際の年代と密接に一致しているでしょう。

 ゲノム規模ネットワーク分析から推測される年代は、以前の包括的再分析の放射性炭素年代に基づく「短い年表」を裏づけます。これは、以前に提案された1000年ほど古い「長い年表」や、中間的な年表(マルケサス諸島には紀元後300~600年頃、東ポリネシアの他の島々には紀元後600~950年頃)とは対照的です。以前の研究で提案された紀元後12世紀後期となるマルケサス諸島の定住と、紀元後13世紀中期と推定されるクック諸島南部の定住でのみ、異なる(より古い)年代が見つかります。

 しかし、以前の研究で説明されているように、各島での初期の年代測定された遺跡の標本規模は小さく、新たな考古学的発見により以前の年代はさかのぼる可能性があります。本論文の年代は、現代のポリネシア人自身にある、島全体の祖先の歴史に由来しており、古代DNAや遺物に影響を及ぼすこれら標本抽出の問題を抱えているわけではありません。じっさい、現代人のゲノムは古代の遺物を保管します。それは、遺物に影響を及ぼす問題、つまり各島の最初の遺跡の発見、遺跡の物が人為的なのかどうか決定すること、多くの場合木か炭であるそれらの遺物が新しい木と古い木のどちらに由来するのか、といったことが、現代人のゲノムには影響を及ぼさず、逆もまた同様だからです。

 本論文のイースター島の定住年代は以前の研究と一致し、遺跡の放射性炭素年代と同様に、湖のコアと土壌侵食パターンの分析に基づいて推定された、紀元後1200年頃という年代とも密接に一致します。さらに、「長い年表(紀元前200年頃のマルケサス諸島における定住)」とは異なり、マルケサス諸島のファトゥ・ヒヴァ(Fatu Hiva)島の紀元後1140年頃もしくは紀元後1989年の28.4世代前という本論文の定住年代は、多くの太平洋諸島人自身の系図の口述歴史と一致します(紀元後1005年、もしくは紀元後1875年の29世代前)。トゥアモトゥ (Tuamotus)諸島では、本論文の定住年代は紀元後1110年頃もしくは紀元後1989年の29.3世代前で、口述歴史の紀元後1125年もしくは紀元後1965年の28世代前とさらに密接に一致します。

 北マルケサス諸島のヌク・ヒバ(Nuku Hiva)島と南方のライババエ(Raivavae)島やリマタラ(Rimatara)島など群島内の一部の島々については、本論文の推定分岐年代は紀元後1330~1360年頃とより遅く、東ポリネシアにおける最大の島嶼間交易接触の期間に収まります。以前の研究で提案されているように、長距離交易航海のこの期間に最後の島々が発見されたのか、それとも群島内で充分な移動と居住の比率がまだ存在し、IBDの分布年代に影響を及ぼしたのかもしれません。本論文の植民経路の再構築は、これらの年代推定とは無関係で、IBD分布よりも後の散発的接触に対してより堅牢であることに要注意です。


●考察

 本論文の分析は、東ポリネシアの定住について以下のような想定を示します。西ポリネシアから、航海民はフィジーやトンガの定住と共通の経路でサモア島から通過し、クック諸島のラロトンガ島に紀元後830年頃に到達しました。ラロトンガ島はクック諸島では最大で、標高が最も高くなっており、火山性土壌には山岳性の雨が降り注ぎ、明確な雲ができます。これらの雲と目立つ山により、海上で長距離にわたって島が見えるようになって、おそらくはその発見を容易にしました。これに基づいて、航海民が紀元後1190年頃にラパ・イチ(Rapa Iti)島へと南方に移動を続け(言語学的証拠から最近仮定された分枝)、別々に東方へより小さなクック諸島のマウケ島やアチウ島へと続いた、と明らかになりました。

 移民は紀元後1050年頃にラロトンガ島から北東へとソシエテ諸島にも扇形に広がり、本論文のデータセットではタヒチで表されていますが、文化的に重要なライアテア(Ra‘iātea)島も含みます。移民はそこから北東へとトゥアモトゥ諸島へと紀元後1110年頃に広がり、本論文のデータセットではパリサー諸島のマテヴァ(Mataiva)島で表されます。この時点では、オーストラル諸島のノロロトゥ(Nororotu)島など拡大経路における広く散在したトゥアモトゥ接続地と他の重要な環礁は、紀元後900年頃という最近になって海面に出現し、表土や森林が固まったばかりだったと考えられます。したがって、本論文で推測された年代と定住経路は、東ポリネシアへの拡大は紀元後千年紀から二千年紀の変わり目にそうした中間的な島々の出現により媒介された、という見解を裏づけます。

 東ポリネシア中央全域に広がるトゥアモトゥ群島は、地域的な航海接続地として機能した、と以前には仮定されており、本論文の分析では、航海民がマルケサス諸島(本論文のデータセットではヌク・ヒバ島とファトゥ・ヒヴァ島)へと北方に向かったのはこの接続地からで、本論文のデータセットではマンガレヴァ(Mangareva)島となるガンビエ(Gambier)諸島へと南方に向かったのは、紀元後12世紀半ばに始まります。マンガレヴァ島からは、その拡大がポリネシア諸島では東端となるイースター島に紀元後1210年頃に到達した、と明らかになります。この最後の行程は、マンガレヴァ語とラパ・ヌイ語との間の類似性や、伝統的な石造りの儀式台の類似性から提案されてきました。この定住順序は、祖先系統特異的のUMAPや、F統計や、主曲線分析や、多様性統計や、ADMIXTUREクラスタ化といった、本論文の遺伝標識頻度に基づく分析でも裏づけられます。

 注目すべきことに、オーストラル諸島のライババエ島の集団が、オーストラル諸島のトゥブアイ(Tubuai)島とリマタラ島経由ではなく、遠方のトゥアモトゥ島とマンガレヴァ島を経由して到来した、と明らかになりました。さらに遠方の南北マルケサス諸島とイースター島と同様に、それぞれがトゥアモトゥ島に由来すると推定される移住があったライババエ島には、石で擬人化された巨大な像を彫る古代の伝統がありました。他のオーストラル諸島にはこうした伝統がありませんでした。じっさい、そうした巨大な彫像はそれら遠方の島々でのみ見つかっており、トゥアモトゥ群島の共通の遺伝的供給源がある、と本論文では示されます(図2a)。トゥアモトゥ島経由で定住したと推測されている島々でのみ、先植民地期のアメリカ大陸先住民との遺伝的接触が特定されており(関連記事)、その年代がこの地域における本論文の推定航海年代と密接に一致していることも注目に値します。

 これは、ポリネシア人が最東端の最も長い発見の航海に出ている間に接触が起きた、という説を裏づけます。ポリネシアの現代人は、サモアで始まった範囲拡大が、紀元後11世紀と12世紀からの一連の伸縮する創始者事象を通じて、東ポリネシア全域に伝播した、という強い遺伝的証拠を有しています。この伸縮する一連のボトルネックが保持された稀な多様体の頻度を移動経路に沿って(図2b)増加させ、これらの多様体の一部がおそらくは有害だったので、個々の頻度とこれら稀な多様体の影響を特徴づけるさらなる研究が望まれます。本論文は、そうした大規模な配列と表現型の研究が、上述の定住順序における末端の島々に焦点を当てるべきである、と提案します。

 こうした一連の定住では、複合的なボトルネックが最大の頻度増加をもたらしました(図2b)。本論文では、これら特定の島々の人々も高水準のホモ接合性を有している、と示されます。高水準のホモ接合性により、形質の関連性や有意なIBDを検出する能力が高まるはずで、もう一つの有用な手法であるIBDマッピングが可能となります。注目すべきは、二つの大きな現代ポリネシア人集団、つまり北方のハワイと南方のニュージーランドがこれら連続したボトルネック連鎖の地理的末端に位置するので、そうした将来の大規模な関連研究の有力候補である、ということです。

 本論文は、混合された現代人標本内のポリネシア人の多様体頻度を詳細に特徴づけるための祖先系統特異的計算手法を導入したので、そうした多様な人口集団の将来のコホート内で混合の可能性があっても、これらの研究を計画するうえでの障壁にはなりません。これらの共同体との継続的な提携はひじょうに重要でしょう。それはこのような研究が、これら人口集団の個々の健康の理解と、現代人全員の世界的な遺伝学的理解の両方に役立つからです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:ポリネシアへの人類の定住をゲノムから明らかにする

 太平洋島嶼部の人類集団(21集団)に属する現代人(430人)のゲノムから、人類がポリネシアに定住した時期と航海経路を推定した結果を示した論文が、今週、Nature に掲載される。

 ポリネシアは、地球表面の約3分の1を占める太平洋に点在する数多くの島々によって構成されている。この広大な地域への人類の定住は、人類の探検史上の1つの驚異とされるが、人類がポリネシアへ移住した時に個々の島に定住した時期と順序については、論争がある。

 今回、Andrés Moreno-Estrada、Alexander Ioannidisたちは、現在の居住民430人から採取した試料によるデータセットを使用して、広範囲に分散した広大な太平洋諸島ネットワークの人類集団の詳細な遺伝的歴史を解明した。30~200人からなる家族集団が、二重船体のカヌーで数千キロメートルの外洋航海を敢行して、新たに見つけたポリネシア諸島群に定住していったことが、歴史家とポリネシアの言い伝えによって証明されている。今回行われたゲノム解析の結果は、人類の移住がサモア諸島から始まり、まず9世紀にラロトンガ(クック諸島)を通じて広がり、11世紀にはTōtaiete mā(ソシエテ諸島)、12世紀にはTuha'a Pae(オーストラル諸島)とツアモツ諸島に達し、最終的にはマンガレヴァを経由して、その後に巨石像の建設で知られるようになる島々、つまり北方のTe Henua ‘Enana(マルケサス諸島)、南方のライババエ島、そしてポリネシア諸島の最東端のRapa Nui(イースター島)に到達し、1200年頃に定住したことを示唆している。ポリネシアには、先史時代の巨石像の遺跡が存在する島がいくつかあるが、それぞれが孤立しており、数千マイルの外洋によって隔てられている。今回の研究で得られた新証拠は、これらの島が、遺伝的につながりがあることを明らかにしている。


人類の移動:ゲノムネットワークから推測されたポリネシアにおける人類の移動の経路とそれらの時期

人類の移動:太平洋諸島の人々のゲノム

 ポリネシアは、地球の面積の3分の1を占める海洋に点在する無数の小島によって構成される。この広大な地域での人類の定着は、人類の探検をめぐる不思議の1つだが、ポリネシアにおける人類の移動の年代および期間は議論の的となっている。今回A Moreno-Estradaたちは、そうした移動がサモアから始まり、まず9世紀にクック諸島を通って広がり、11世紀にはソシエテ諸島、12世紀にはオーストラル諸島西部およびトゥアモトゥ諸島へ、最後に、いずれも巨石像文化を持つ、北はマルケサス諸島、南はライババエ島、そしてポリネシア諸島最東端のイースター島(ラパ・ヌイ)まで広がったことを明らかにしている。イースター島への人類の定着は、1200年ごろにマンガレバ島を介した移動によってもたらされた。この研究は、考古学的な証拠に基づくものではなく、太平洋の21の主要な島嶼集団の430人の現代人に由来するゲノムから得られた証拠に基づいている。



参考文献:
Ioannidis AG. et al.(2021): Paths and timings of the peopling of Polynesia inferred from genomic networks. Nature, 597, 7877, 522–526.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03902-8

古市晃『倭国 古代国家への道』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は5~6世紀を中心に、日本列島における国家形成の過程を検討します。本書はこの問題について王宮を重視し、まず歴代遷宮論が成り立たないことを指摘します。『日本書紀』からは、7世紀に天皇ごとに異なる宮が設けられたようにも読めますが、たとえば舒明と皇極と斉明と天武の宮は名称こそ異なっても同じ場所に営まれた、というわけです。本書は、5~6世紀の王宮も簡単に廃絶することはなかった、と指摘します。それは、7世紀後半~8世紀初頭にかけて、天皇が5~6世紀の王宮と考えられる宮を訪問しているからです。

 本書は、大王だけではなく王族も王宮を営んだと指摘し、王名から王宮の実態を考えるという新たな方法論により、国家形成の問題を検証します。5~6世紀の王宮の分布で注目されるのは、奈良盆地南部だけではなく、京都盆地南部や大阪湾岸まで範囲が広いことです。これら広範に分布した王宮のうち、繰り返し利用されるものは奈良盆地南部に多いことが特徴です。本書は奈良盆地南部の重要性を指摘し、そこの王宮群を中枢部、それ以外の王宮群を周縁部と呼びます。5~6世紀の王宮で本書が重視するのは、狭い丘陵地や谷中に造られているという立地から推測される、その軍事機能です。本書は記紀の伝承から、周縁部王宮群が王族間の争いに対応して造られた軍事拠点だった可能性を指摘します。

 本書は、古墳造営地や『宋書』の記事などから、5世紀には倭王と王族との間に著しい違いはなかっただろう、と推測します。また本書は『宋書』の記事などから、5世紀には倭王を輩出できる複数の王統が存在した可能性を指摘します。さらに本書は、それを記紀から推測される仁徳系と允恭系の対立と関連づけています。5世紀の王の条件として本書が重視するのは、朝鮮半島や南朝との通交と、巨大前方後円墳の築造もしくはそこでの葬送儀礼という、内外の承認です。ただ、対外通交の具体的な外洋航海技術を保持していたのは、海人集団を配下とする周縁部王宮群の王族なので、渡来人の招致や鉄などの調達も周縁部王族の協力なしには不可能で、倭王と周縁部王族はともに王権を構成しつつ、対立的性格も内包されていた、と本書は指摘します。倭王がまだ同輩中の第一人者にすぎなかったこのような5世紀の王権の状況は不安定で流動的だった、と本書は指摘します。

 本書は、こうした状況が変わり、倭王による専制権力が確立したのは6世紀で、継体の即位が画期となった、と指摘します。また本書は、これにより、政権の地域への影響力が5世紀には有力者に限定されていたのに対して、6世紀には村のようなより小さい社会にも及ぶようになった、との見通しを提示します。通説では、5世紀後半の雄略朝に倭王権が強化された、と評価されており、本書も、雄略朝における葛城や吉備といった対外関係にかかわってきた大勢力が王権の攻撃により衰退したことを指摘しています。しかし本書は、雄略が有力王族や豪族を排除していった結果、後継者不足により王統が断絶するなど、不安定な政治状況だったことを指摘します。

 この状況で即位した継体は、すでに即位前から大和に拠点を有しており、近江と北陸と東海と播磨にも支持勢力を得た新王統だった、と本書は指摘します。継体の跡を継いだのは息子の3人で、安閑→宣化→欽明の順に即位します。本書は継体に始まる6世紀の新王統において、王宮が5世紀的な軍事的観点で防御に適した土地から平地へと移動していったことを指摘します。本書はこれを、王族や有力豪族間の対立危機の減少を表している、と解釈しています。これと関連して本書は、この時期に王陵の規模が縮小していくことを指摘しています。この政治的安定に貢献したのが蘇我氏で、王宮の財産を権益化していき、王権とより密着してその権威と権力を利用することで興隆していきました。さらに6世紀前半には中央権力と地域社会との間の支配・従属関係が制度化されていきました。

 この変革において本書が重視する支配制度が、国造とミヤケです。さらに本書は、こうした6世紀前半の変革の重要な契機として、朝鮮半島における倭の利権喪失を指摘します。こうして倭王の専権が確立していき、倭王は同輩中の第一人者から専制君主へと変貌を遂げた、というのが本書の見通しです。この過程で、継体に始まる新王統は前の王統と婚姻を通じて結びつき、倭王の地位は血縁による世襲となります。またこの過程で導入された仏教が、君主と臣下の統合を促進したことも本書は指摘します。

第49回衆院選結果

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、議席と得票数が確定したので、先月(2021年10月31日)投票が行なわれた衆院選について取り上げます。各党の確定議席数は以下の通りで、()は公示前の議席数です。

自民党:261(276)
立憲民主党:96(109)
日本維新の会:41(114)
公明党:32(29)
共産党:10(12)
国民民主党:11(8)
れいわ新選組:3(1)
社民党:1(1)
無所属・その他:10(12)

 近年の国政選挙では大手マスコミの予想に大きな違いはなく、おおむね予想通りの結果となる傾向にありましたが、今回の衆院選では大手紙の予想にかなりの違いがあり、予想の難しい国政選挙だったと言えそうです。それでも、自民党が議席を減らし、日本維新の会が躍進する、との予想はおおむね共通していたように思います。結果は、日本維新の会が大手マスコミの予想通り躍進し、読売新聞と朝日新聞で予想にかなりの違いが出た自民党は、261議席と単独絶対安定多数に達し、朝日新聞の予想に近い結果となりました。投票率は55.93%で、前回(2017年)の53.68%をわずかに上回りましたが、相変わらずの投票率の低さは深刻だと思います。

 岸田首相は、「新自由主義」からの脱却を訴えて小泉政権路線を批判し、それでも自民党総裁選を勝ちましたが、党員票では「改革派」との一般的な印象が強い河野太郎氏に完敗しており、日本国民の「改革」志向が根強いことを再認識させられたので、日本維新の会の躍進(前々回とほぼ変わらないとの指摘も見かけましたが、みんなの党の分派との合流だった前々回と、「単独」での選挙となった前回および今回は区別すべきと思います)との予想は意外ではありませんでしたし、この結果も覚悟していました。ただ、日本維新の会抜きでの政権運営が可能なのは不幸中の幸いだった、と考えています。もっとも、岸田首相は日本維新の会との部分的連携にも言及しているようで、近づきすぎないようにしてもらいたものではありますが。

 私にとって今回の衆院選の結果はたいへん残念でしたが、岸田首相が「新自由主義」からの脱却を訴えて小泉政権路線を批判したことには大きな意義があった、と考えています。ただ、岸田首相に「新自由主義」からの脱却を実現できるだけの胆力があるのか、はなはだ疑問ではあります。来年(2022年)夏の参院選でも日本維新の会が躍進し、自民党が公明党だけではなく日本維新の会とも連立するような事態に陥らないよう、岸田首相には日本維新の会との違いを示し、成果を出してもらいたいものです。何とも嫌な流れになってきましたが、それでも、今後流れが大きく変わる可能性もある、と諦めずにいることが重要だと思います。日本維新の会が関東にも浸透しつつあるとも解釈できる結果とはいえ、基本的にはまだ大阪府の地域政党的性格が強いように思えるので、日本維新の会を全国、とくに東日本に浸透させないことはまだ充分可能だろう、と認識しています。

 自民党の議席減は、弱い野党しかいないことに気が緩み、さまざまな問題が噴出したことも大きいものの、野党共闘に一定以上の効果があったことも否定できないでしょう。とはいえ、共闘した野党で図抜けて勢力の大きい立憲民主党と第二党の共産党が議席を減らしてしまったことは、以前から言われていたように野党共闘に大きな限界と無理があることも示しているように思います。とくに立憲民主党は、与党第一党が議席を減らす中で自身も議席を減らしてしまうとは、小選挙区制は第一党だけではなく第二党にも有利に作用する傾向にあることを考えると、大敗北と言えるでしょう。今回は、自民党に批判的な少なからぬ有権者が立憲民主党ではなく日本維新の会に投票したのでしょうが、立憲民主党がここから立て直せるのか、まずは来年夏の参院選が注目されます。

 私は、比例代表選での得票率にも毎回注目しています。今回、自民党は34.66%で、前回(2017年)の33.28%を上回りましたが、それでも議席が減ったことは、野党共闘に一定以上の効果があったことを示していると思います。日本維新の会は14.01%と、前回の6.07%を大きく上回りました。何とかこれを一過性のものとしなければならない、と思います。立憲民主党は20.00%と前回の19.88%をわずかに上回りましたが、民進党分裂の過程で急造だった前回に対して、今回は分裂した旧民主党系議員とかなり合流しての結果ですから、共産党も含めての共闘が忌避され、今回は自民党に投票したくない保守層が日本維新の会にかなり流れた結果ではないか、と思います。共産党の候補が、統一候補となった東京12区で公明党の候補どころか日本維新の会の候補にも負けたことは、おそらくその象徴なのでしょう。

 共産党は7.25%と前回の7.90%を下回りました。共産党にとって、野党共闘は埋没してしまうという意味で悪い結果につながっているようで(供託金の点では野党共闘が望ましいのでしょうが)、立憲民主党でも共産党でも、今後現在のような野党共闘路線の見直しを求める声が強くなるかもしれません。もっとも、その結果が、立憲民主党と国民民主党と日本維新の会の野党共闘路線では困りますが、れいわ新選組が議席を増やしたことからも、立憲民主党が日本維新の会と共闘することは当分ないかな、とやや楽観しています。 なお、過去の衆院選の記事は以下の通りです。

第45回(2009年)
https://sicambre.at.webry.info/200908/article_31.html

第46回(2012年)
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_19.html

第47回(2014年)
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_17.html

第48回(2017年)
https://sicambre.at.webry.info/201710/article_27.html

弥生時代と古墳時代の人類の核ゲノム解析まとめ

 以前、縄文時代の人類の核ゲノム解析結果をまとめたので(関連記事)、弥生時代と古墳時代についても、当ブログで取り上げた分を同様にまとめます。まず弥生時代について、現時点で核ゲノムデータが得られている最古の個体となりそうなのは、佐賀県唐津市大友遺跡の女性(大友8号)です(神澤他.,2021A、関連記事)。大友8号の年代は2730~2530年前頃(弥生時代早期)で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a6です。大友8号は、既知の古代人および現代人との比較で、東日本の「縄文人」とまとまりを形成します。詳細を把握していませんが、東北地方の弥生時代の男性も核ゲノム解析では既知の「縄文人」の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事

 弥生時代中期では、九州北部で複数の人類遺骸から核ゲノムデータが得られています。そのうち、福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人(東京)の範疇に収まる、と指摘されています(篠田他.,2020、関連記事)。大友8号は遺伝的に「縄文人」と言えるわけです。同じく弥生時代中期の形態学的に「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人(東京)の範疇に収まります(Robbeets et al., 2021、関連記事)。一方、弥生時代中期でも安徳台5号や隈・西小田遺跡個体よりも新しく、形態学的に「縄文人」と近いと指摘されている、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(下本山2号および3号)は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と「縄文人」との中間に位置づけられます(篠田他.,2019、関連記事)。以下は安徳台5号と下本山2号および3号の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した篠田他.,2020の図2です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の核ゲノムは、「縄文人」構成要素の割合が50~60%程度とモデル化されており、現代日本人(東京)よりもかなり高くなっています(Cooke et al., 2021、関連記事)。一方、現代日本人(東京)と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号ではやや高く、隈・西小田遺跡個体ではやや低くなります(Robbeets et al., 2021)。これらの事例から、弥生時代の人類の遺伝的構成は、「縄文人」そのものから現代日本人に近いものまで、地域と年代により大きな違いがあった、と推測されます。

 同一遺跡では、弥生時代前期末から古墳時代初期の鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡で、弥生時代中期~後期の人類遺骸の核ゲノムデータが得られています(神澤他.,2021B、関連記事)。核ゲノム解析結果に基づく青谷上寺遺跡個体群の遺伝的特徴は、現代日本人(東京)の範疇に収まるか、そこに近く、違いが大きいことです。これは、経時的な「渡来系」と「在来系」の混合の進展を反映しているかもしれません。つまり、青谷上寺遺跡集団は遺伝的に長期にわたって孤立していたのではなく、日本列島外もしくは日本列島内の他地域との混合があったのではないか、というわけです。青谷上寺遺跡の事例からも、弥生時代の人類の遺伝的構成には大きな違いがあった、と改めて言えそうです。

 古墳時代では、石川県金沢市の岩出横穴墓で末期となる3個体(JpIw32とJpIw31とJpIw33)の核ゲノムデータが得られています(Cooke et al., 2021)。この3個体は遺伝的に現代日本人(東京)と類似しているものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号)も、核ゲノムデータに基づくと現代日本人(東京)の範疇に収まるものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています(神澤他.,2021C、関連記事)。島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の個体でも、茶臼山3号とほぼ同様の結果が得られています(神澤他.,2021D、関連記事)。

 このように、やや「縄文人」構成要素の割合が高いとはいえ、古墳時代には遺伝的に現代日本人(東京)の範疇に収まる個体が、九州に限らず広く東日本でも確認されています。一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)の核ゲノム解析では、両者が他の古墳時代個体や現代日本人(東京)よりも弥生時代中期の下本山2号および3号に近く、「縄文人」構成要素の割合は、第1号石室1号が52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021、関連記事)。以下は、磯間岩陰遺跡の2個体の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した安達他.,2021の図1です。
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 このように、古墳時代の近畿地方(畿内ではありませんが)においてさえ、現代日本人の平均よりもずっと「縄文人」の遺伝的影響が高い、と推定される個体が確認されています。現代日本人の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。もちろん、現代(Watanabe et al., 2021、関連記事)がそうであるように、中世と近世においても地域差はあったでしょうし、さらに階層差がどの程度あったのかという点でも、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1
関連記事

Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2021): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics, 66, 4, 431–437.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0
関連記事

安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021B)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021C)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
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神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021D)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
関連記事

篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210
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甘い食物を好んだ始新世初期の霊長類

 甘い食物を好んだ始新世初期の霊長類に関する研究(Selig, and Silcox., 2021)が公表されました。この研究は、アメリカ合衆国ワイオミング州のビッグホーン盆地南部の堆積層において発見された霊長類(Microsyops latidens)の1030点の化石(歯と顎の断片)の位置を比較して、その年代を測定しました。年代測定は、その化石が発見された堆積物の地質年代に基づいて行なうことができ、5400万年前頃となる始新世初期と推定されました。

 この化石群のうち77点(7.48%)に齲蝕(虫歯)が認められました。その原因は果物の多い食事やその他の糖分の多い食物である可能性が高い、と推測されています。化石標本のうち最古のものと最新のものは他の時代のものよりも齲蝕が少なく、霊長類の食餌が糖度の高い食物と低い食物の間で変動していた、と示唆されます。これに関して、始新世初期の気候の変動が、植生の成長と食料の入手可能性に影響を与えたかもしれない、と指摘されています。また、Microsyops latidensの歯の化石における齲蝕の有病率が、これまでの研究による現生霊長類における頻度よりも高いことも明らかになり、齲蝕の有病率がMicrosyops latidensより高かったのは、オマキザル属(オマキザルなど)とタマリン属(タマリンなど)だけでした。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:甘いものが好きだった有史以前の霊長類

 先史時代の霊長類Microsyops latidensは、年代測定によって始新世初期(約5400万年前)のものとされているが、今回、M. latidensの歯の化石に哺乳類のう蝕(虫歯)を示す最古の証拠が見つかったことを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。ビッグホーン盆地南部(米国ワイオミング州)で発見された1030点の歯の化石(歯と顎の断片)のうち、77点(7.48%)にう蝕が認められた。その原因は、果物の多い食事やその他の糖分の多い食物である可能性が高いとされる。う蝕の有病率の経年変化は、霊長類の食餌が糖度の高いものと低いものの間で変動したことを示している。

 Keegan SeligとMary Silcoxは今回、ビッグホーン盆地南部の堆積層において化石が発見された位置を比較して、化石の年代を測定した。化石の年代測定は、その化石が発見された堆積物の地質年代に基づいて行うことが可能だった。化石標本のうち、最も古いものと最も新しいものは、他の化石標本よりう蝕が少なかった。このことは、霊長類の食餌が糖度の高い食物と低い食物の間で変動していたことを示唆するものとされた。彼らは、始新世初期の気候の変動が、植生の成長と食料の入手可能性に影響を与えた可能性があると主張している。

 また、著者たちは、M. latidensの歯の化石におけるう蝕の有病率が、これまでの研究報告による現生霊長類における頻度よりも高いことを明らかにした。う蝕の有病率がM. latidensより高かったのは、オマキザル属(オマキザルなど)とタマリン属(タマリンなど)だけであった。



参考文献:
Selig KR, and Silcox MT.(2021): The largest and earliest known sample of dental caries in an extinct mammal (Mammalia, Euarchonta, Microsyops latidens) and its ecological implications. Scientific Reports, 11, 15920.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-95330-x

西秋良宏「旧人と新人の文化」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収のコラムです。現生人類(Homo sapiens)は30万~20万年前頃にアフリカで生まれた後、ユーラシア各地に拡大し、先住集団だった非現生人類ホモ属を吸収もしくは絶滅に追いやり、現在では地球上で唯一の人類集団となっています。現生人類だけが生き残った理由は大きな関心を集めており、さまざまな見解が提示されています。現生人類の方が「優秀」だったとか、言語能力が優れていたとかいった見解は珍しくありませんが、まだ結論は出ていません。現生人類と非現生人類ホモ属の認知能力や身体能力が違っていたことは間違いないものの、さまざまな違いのうち両者の運命を分けたのがどの要素なのか、正確に特定することは別問題です。解釈が困難な一因は、ヒト適応に文化が大きな役割を果たしているからです。「大航海時代」や帝国主義の時代には、生物学的に同じ集団同士が競合したさい、互いの装備や技術や社会体制や政治力など、歴史や文化に由来する要因が結末を大きく左右しました。ヒトの生き方は生物学的条件だけでは決まらない、というわけです。

 非現生人類ホモ属の文化は停滞的だったのに対して、現生人類の文化は創造的だったとか、現生人類は非現生人類ホモ属にはなかった洞窟壁画や彫像など芸術を発展させたなど、両者の違いを強調する見解は多数あります。しかし、そうした見解の大半では、非現生人類ホモ属の文化は5万年前頃以前、現生人類文化はそれ以降という線引きがされていることに要注意です。江戸時代と現代の日本人のように、時代の違う集団の物質文化を比較して、互いの生物学的能力を比較するのは短絡的です。社会の総合力が違った、という説明もありますが、それでは答えにならない、との意見もあるでしょう。非現生人類ホモ属と現生人類の「交替劇」の違いを考えるさいには、文化の力に注意を払うことが必要ですが、そのさい重要なのは、30万~20万年前頃に出現した両者のその後の展開を、同時代の証拠に基づいて比較することです。それにより、現生人類がどのような存在なのか、理解が深まるでしょう。


参考文献:
西秋良宏(2021)「旧人と新人の文化」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)P75

大河ドラマ『青天を衝け』第33回「論語と算盤」

 今回は第一国立銀行の危機を中心に、経済面での近代化初期の様相が描かれました。第一国立銀行は、無担保で多額の貸付をしていた小野組の倒産により危機に陥り、これに乗じて三井が第一国立銀行を乗っ取ろうと企みますが、大隈重信の裁定により栄一はこの苦境を何とか乗り切ります。大隈の意図を岩崎弥太郎が大隈との会話の中で語る場面は、なかなか上手く構成されていたように思います。大隈も岩崎もしたたかなところがあり、大隈もそうですが、岩崎はとくに強烈な個性の個性が描かれているだけに、栄一と岩崎との対面が楽しみです。

 今回は栄一と慶喜との面会も描かれ、将軍時代の重圧から解放された慶喜ですが、旧幕臣からの恨みを一心に受けていることに、心を悩ませているようです。今後も慶喜の心境および慶喜と栄一との関係は、本作の軸の一つになりそうです。今回は、大隈との対比で大久保利通の器の大きさが描かれた感もあり、これまで小物の敵役との印象があった大久保も退場直前にやっと大政治家らしさが出てきて、よかったと思います。また、今回は幕臣時代の栄一の人脈が活かされており、福地源一郎や栗本鋤雲など久々に登場した人物もいて、本作の描写の積み重ねはしっかりしています。西郷隆盛も大久保も三野村利左衛門も退場して、本作が新たな段階に入ったことを感じさせ、残り8回と少なくなりましたが、今後も楽しみです。

ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大

 ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大に関する研究(Wilkin et al., 2021)が公表されました。考古学と歴史学において、ユーラシア草原地帯の牧畜民は長く高い関心を集めてきました。前期青銅器時代に、ユーラシア西部草原地帯の複数集団がヨーロッパからモンゴルまでユーラシア北部の広範な地域へと拡大しました。考古学と遺伝学を組み合わせた証拠は、前期青銅器時代のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの広範な人口移動を裏づけます。

 この人口移動により広大な距離にわたる遺伝子流動が生じ、スカンジナビア半島のヤムナヤ(Yamnaya)文化牧畜民と、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化として知られる、はるか東方のアルタイ山脈(関連記事1および関連記事2)およびモンゴル(関連記事)の牧畜民集団が結びつけられました。一部のモデルは、この拡大が、ウマによる牽引、荷車による大量輸送、食性の肉および乳への日常的な依存を特徴とする、新たに移動性となった牧畜経済の帰結であったことを示していますが、そうした経済的特徴を裏づける確かな証拠は得られていません。

 本論文は、ユーラシア西部草原地帯で発見されたさまざまな個体に由来する歯石のプロテオーム(タンパク質の総体)解析を利用して、青銅器時代初頭の酪農に大規模な変化があったことを示します。酪農の至る所での急速な開始が、草原地帯集団の拡散の開始と知られている時点であることは、草原地帯での移動性をもたらした重要な原因に関する重大な手がかりとなります。また、馬乳タンパク質が見いだされたことで、前期青銅器時代までのウマの家畜化が示唆され、草原地帯の拡散でのウマの役割が裏づけられます。本論文の知見は、紀元前三千年紀までにポントス・カスピ海草原地帯がウマの家畜化の中心地であった可能性を示しており、動物の二次的な産物の新規利用が、前期青銅器時代までのユーラシア草原地帯牧畜民の拡大の重要な原動力であった、という見解を強く裏づけています。

 ヤムナヤ文化の拡大はよく明らかになっていますが、その背後にある原動力は不明なままです。広く引用されている理論によると、ユーラシア全域での牧畜民の初期の拡大は、ウマの牽引と荷車による輸送の組み合わせにより可能となった、新たな移動牧畜経済により促進されました。肉と乳への一定の食性依存と相まって、草原地帯は牧畜民共同体による開拓と占有の対象となりました。しかし、このモデルは説得力があるものの、直接的な考古学もしくは生体分子データの裏づけが不充分なままです。銅器時代マイコープ(Maikop)文化と前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団による荷車輸送使用の考古学的証拠は、荷車と頭絡の形で存在しますが、このモデルの他の二つの重要な構成要素、つまり家畜化されたウマと反芻動物の酪農への依存は、考古学的には証明されていないままです。

 ユーラシアのウマの家畜化は長く議論されており(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)では、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化の銅器時代遺跡の初期のウマが、現在の家畜ウマ(Equus caballus)ではなくモウコノウマ(Equus ferus przewalskiiもしくはEquus przewalskii)と特定されました。ウマは草原地帯において前期青銅器時代に出現しますが、当時のウマに人々が騎乗していたのかどうか(関連記事)、あるいは牧畜の一部だったのか単に狩られていたのか、不明確なままです。ユーラシア東部草原地帯については証拠が蓄積されつつあり、ウマは紀元前1200年頃以前には騎乗もしくは搾乳に用いられておらず、初期牧畜民集団では一般的ではなかったかもしれない、と示唆されています。

 西部草原地帯における初期の反芻動物の酪農も充分には論証されておらず、それはこの地域のヒトの安定同位体データが、乳製品消費を示唆してはいるものの、確証できていないからですか。古プロテオミクスは、個体の(乳生産よりもむしろ)乳製品消費を示し、分類学的解決を示せる唯一の方法で、これまでは草原地帯人口集団にほとんど適用されていませんでした。ヤムナヤ文化とアファナシェヴォ文化の人口集団全体で、酪農の証拠は東部草原地帯のわずか数個体でのみ利用可能で、これらの個体は西部草原地帯集団からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)を有しています。そのうち最初の個体は、分類学的に曖昧な反芻動物(ヒツジ属かウシ属)のペプチドの結果のみをもたらしました。

 何が草原地帯全体でヤムナヤ文化の拡大を引き起こしたのか、という激しく議論されている問題に取り組むため、銅器時代から後期青銅器時代(紀元前4600~紀元前1700年頃)にわたる草原地帯の56個体の歯石のプロテオーム解析が実行されました。銅器時代(紀元前4600~紀元前3300年頃)の標本は5ヶ所の遺跡の19個体から構成されます。その内訳は、ムルジハ2(Murzikha 2)遺跡の6個体、フヴァリンスク(Khvalynsk)1および2遺跡の9個体、エカテリーノヴカ・ミス(Ekaterinovka Mys)遺跡の1個体、レビャジンカ5(Lebyazhinka 5)遺跡の1個体、フロプコヴ・ブゴール(Khlopkov Bugor)遺跡の2個体です(図1a)。

 フヴァリンスク遺跡とヴォルガ菓舗およびコーカサス北部の他の銅器時時代遺跡の古代DNA分析結果(関連記事1および関連記事2)は、ヤムナヤ文化人口集団と遺伝的に類似しているものの、後に草原地帯に到達した追加の(アナトリア半島)農耕民祖先系統が欠けている、この地域全体の銅器時自体人口集団の存在を裏づけます。ポントス地域の銅器時代人口集団に適用された既知の安定同位体および考古学的研究は、漁撈と在地植物の採集と家畜化された動物の飼育に基づく経済を示します。初期の牧畜拡大の再構築におけるウマの重要性を考えて、ボタイ文化のよく知られた遺跡の2個体の歯石も調べられました。おもにウマ遺骸で占められる動物相と、紀元前3500年頃までのその遺跡におけるウマの搾乳を示唆する土器の脂質に関する初期の研究とともに、この遺跡はユーラシア草原地帯における初期のウマの搾乳と酪農に関する議論の中心となります。

 本論文の青銅器時代の標本は、ヴォルガ・ウラル草原地帯の20ヶ所の遺跡の35個体に由来し、年代的に二分できます。一方は、ヤムナヤ文化の遊牧期となる前期青銅器時代(紀元前3300~紀元前2500年頃)です。もう一方は中期~後期青銅器時代の移行期(紀元前2500~紀元前1700年頃)で、戦車(チャリオット)と要塞化された集落と新たな西方由来の影響を受けた遺伝的祖先系統が、シンタシュタ(Sintashta)文化とともに出現しました。

 前期青銅器時代の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。クラシコフスキー1(Krasikovskyi 1)遺跡が2個体、クラスノホルム3(Krasnokholm 3)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9(Krivyanskiy 9)遺跡が2個体、クツールク1(Kutuluk 1)遺跡が2個体、レシュチェフスコエ1(Leshchevskoe 1)遺跡が1個体、ロパティノ1(Lopatino 1)遺跡が1個体、ムスタヤエヴォ5(Mustayevo 5)遺跡が2個体、ニズナヤ・パヴロフカ(Nizhnaya Pavlovka)遺跡が1個体、パニツコエ(Panitskoe)遺跡が1個体、ポドレスノエ(Podlesnoe)遺跡が1個体、ピャティレツカ(Pyatiletka)遺跡が1個体、ツルドヴォイ(Trudovoy)遺跡が1個体です(図1b)。

 中期~後期青銅器時代の移行期の墓地遺跡と個体数は以下の通りです。ボルシェカラガンスキー(Bolshekaraganskyi)遺跡が1個体、カリノフスキー1(Kalinovsky 1)遺跡が2個体、カメンニー・アンバー5(Kamennyi Ambar 5)遺跡が3個体、クラシコフスキーI(Krasikovskyi I)遺跡が1個体、クリヴャンスキー9遺跡が3個体、ロパティノ1および2遺跡が2個体、ポタポフカ1(Potapovka 1)遺跡が1個体、シュマェヴォ2(Shumayevo 2)遺跡が1個体、ウテフカ6(Utevka 6)遺跡が5個体です(図1c)。以下は本論文の図1です。
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 考古学および安定同位体の知見(関連記事)から、前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団の食性は、動物の群れ、とくにウシとヒツジとヤギが中心だった、と示唆されています。ウマ遺骸も数ヶ所の遺跡で多数見られますが、前期青銅器時代のウマの地位は、家畜でも狩猟対象でも、不明なままです。中期~後期青銅器時代の移行期には、より大規模なウマの利用と戦車使用への移行が、家畜への継続的な食性への集中の文脈の中で見られます。本論文で検証された56個体のヒトの歯石標本のうち、55標本で抽出に成功し、識別可能なタンパク質データが得られました。この55標本のうち48標本(87%)で、口腔内で一般的に見られるタンパク質の評価を通じて、保存の強い兆候がある、と判断されました。

 本論文の最初期の標本(紀元前4600~紀元前4000年頃)は、ロシア南西部に位置するか、ヴォルガ川およびその支流に近い5ヶ所の銅器時代遺跡に由来します(図1aおよび図2a)。これら19標本のうち、11標本では抽出に成功して保存状態が良好で、10標本は乳製品消費の証拠を示しません。1個体の歯石には、乳食品タンパク質であるウシ(ウシとスイギュウとbison)のα-S1カゼインに特有の2つのペプチドが含まれていました。しかし、この標本に含まれ唯一の食性ペプチドはカゼインに特異的で、最も一般的に回収される乳タンパク質であるβ-ラクトグロブリン(BLG)の証拠が欠けていたので、この個体における乳製品消費の証拠は確実ではありませんでした。

 一般的に、カゼインペプチドはBLGよりも保存性が低いようなので、それ自身だけよりも他の乳タンパク質ペプチドとともに同定されることが最も多くなります(関連記事)。さらに、2つの特定されたカゼインペプチド内では、アミノ酸の脱アミノ化は1ヶ所しかなく、これらのペプチドの古さの推定はひじょうに困難です。以前の研究では、乳タンパク質におけるアミノ酸の脱アミノ化のきょくたんな変動が実証されており、この1個体で発見されたペプチドの信憑性の確認能力を制約します。ボタイ文化の追加の2個体の歯石は充分な保存状態を示しましたが、乳製品消費の証拠が欠けていました。

 前期青銅器時代個体群(ヤムナヤ文化開始期)では、乳ペプチドが分析された16個体のうち15個体で回収されました(図1bおよび図2b)。この15個体全てで、BLGを含む反芻動物の乳タンパク質と合致する複数のペプチドが含まれ、一部の個体はα-S1カゼインかα-S2カゼイン、もしくは両方も含んでいました。乳ペプチドの多くは、偶蹄類(ウシ、ヒツジ、ヤギ、スイギュウ、ヤク、トナカイ、シカ、カモシカ)の下目である真反芻類など、より高次の分類群にのみ特異的ですが、他のものは、科か属か種を含む、より特異的な分類が可能です。

 前期青銅器時代個体群では、ヒツジ属やヤギ属やウシ属のものが見つかり、多くの標本にはいくつかの種の乳ペプチドが含まれていました。とくに、クリヴャンスキー9の南西部の遺跡(紀元前3305~紀元前2633年頃)からは、前期青銅器時代17個体のうち2個体で、BLGIタンパク質のウマ特有の乳ペプチドが特定されました。ウマ属はウマやロバやチベットノロバを含みますが、ウマ種(Equus caballus、Equus przewalskii、Equus hemionus、Equus ferus)のこが前期青銅器時代草原地帯では考古学的に証明されており、ウマとの特定を裏づけます。

 中期~後期青銅器時代の移行期では、19個体のうち15個体で歯石標本な反芻動物の乳を消費した証拠が認められました(図1cおよび図2c)。前期青銅器時代と同様に、BLGとα-S1カゼインとα-S2カゼインと乳清タンパク質のα-ラクトアルブミンが同定されました。分類学的識別は、真反芻類下目から属水準(ヒツジ属とウシ属を含みます)までの範囲でしたが、ヤギ属もしくはウマ属に特有の識別はありませんでした。以下は本論文の図2です。
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 全体的に本論文の結果は、ポントス・カスピ海草原における銅器時代と前期青銅器時代との間における、乳消費パターンの明確で顕著な変改を示します。本論文の分析対象とされた銅器時代の個体の大半(11個体のうち10個体)では、乳消費の証拠が欠けていますが、前期青銅器時代のほとんど(16個体のうち15個体)は、歯石に乳製品消費の充分なプロテオミクスの証拠を含んでいます。銅器時代のフヴァリンスク遺跡の1個体は、ウシの乳消費のやや曖昧な証拠を示し、小規模な父の使用を示唆しているかもしれませんが、この個体の識別の信頼性には疑問があります。

 本論文の調査結果から、ポントス・カスピ海草原における定期的な乳製品消費が銅器時代から前期青銅器時代の移行期に限られる、と示唆されます。ヨーロッパにおける近隣の銅器時代農耕集団は酪農を行なっていたようですが、草原地帯の辺境全域に居住している人々は搾乳慣行を採用しておらず、文化的境界の存在を示唆します。プロテオミクスデータは、ウクライナでの脂質分析とほぼ一致しています。プロテオミクスデータは、銅器時代から青銅器時代のサマラ(Samara)の個体群の同位体分析とも一致しており、サマラの個体群はこれに対応して、魚やシカや他の河川森林資源への強い依存から、陸生および草原(C3およびC4)の動物製品により大きく依存する変化を示します。

 プロテオミクスデータの重要な利点の一つは、場合にゆっては種特有のタンパク質同定を提供できることです。本論文はヒツジとヤギとウシの青銅器時代の搾乳の証拠を提示しており、これらの動物の放牧の証拠と一致します。ポントス・カスピ海草原の青草の多い河川流域は、乾燥に適応したヒツジやヤギの混合群とともに、より多く水に依存するウシに充分な飼料と水分補給を提供しました。最近の研究では、成人でも乳糖分解酵素の生産を可能とするアレル(対立遺伝子)の存在の結果である乳糖分解酵素活性持続が、前期青銅器時代の草原地帯人口集団では稀だった、と示していますが(関連記事)、本論文では、西部草原地帯共同体は、定期的に乳製品を消費しており、それには新鮮な乳および/もしくは他の加工製品(ヨーグルトやチーズや発酵乳飲料など)が含まれていたかもしれない、と明らかになりました。

 曖昧ではあるものの、脂質分析により初期のウマの搾乳が示唆された、ボタイ文化の銅器時代遺跡から東方までの個体の歯石分析では、乳タンパク質は得られませんでした。2点の標本は幅広い結論を引き出すには不充分ですが、この調査結果は遺跡での広範な乳消費を裏づけません。しかし、ポントス・カスピ海地域の前期青銅器時代個体群の歯石標本2点では、ウマの乳消費の証拠が得られました。ボタイ文化のウマは現在の家畜ウマ系統(DOM2)とは異なっていた、と推測した考古遺伝学的証拠(関連記事)と組み合わせると、本論文の調査結果は、さらなる標本抽出と分析により裏づけられるならば、ユーラシア西部草原地帯において持続的な初期のウマの家畜化の焦点を、ポントス・カスピ海地域へと確実に移行させることになるでしょう。

 現時点では、DOM2系統を有する最古のウマ標本は紀元前2074~紀元前1625年頃で、現在のロシアとルーマニアとジョージア(グルジア)で証明されています。本論文における草原地帯もしくは他地域での最初のウマの乳のタンパク質の同定は、前期青銅器時代までに西部草原地帯において家畜ウマが存在したことを明らかにしており、ウマにより牽引される戦車(チャリオット)の最初の証拠が紀元前2000年頃に出現するこの地域は、紀元前四千年紀後期もしくは紀元前三千年紀にDOM2系統の家畜化の最初の震源だったかもしれない、と示唆されます。

 全体的に本論文の調査結果は、前期青銅器時代までにユーラシア草原地帯において二次産品革命が起きた、という考えを強く支持します。人骨の安定同位体やプロテオミクスにより示唆される生計のこの変化は、銅器時代の川沿い集落遺跡の広範な放棄、川の谷間の以前には未開拓だった乾燥した大地におけるクルガン(墳丘)墓地の出現ヤムナヤ文化の墓に車輪付き乗り物とたまにウマの骨が含まれていたことを伴っていました。同時に草原地帯のヤムナヤ文化集団は、ヨーロッパへと西進し、アルタイ山脈へと東進しており、その範囲は6000kmに及びます。本論文のデータに基づいて騎乗や牽引の問題への直接的洞察を提供できませんが、搾乳されたウマの証拠は確実に、ウマの家畜化の可能性を高め、ヤムナヤ文化集団の拡大にウマが役割を果たした、と示唆します。

 動物の牽引と酪農とウマの家畜化の三要素は、ポントス・カスピ海草原の経済の変革と、前期青銅器時代までにヒトの居住地により広範な草原地帯を開放するのに役立ったようです。これらの要素の一部もしくは全てさえ青銅器時代の前に存在していたならば、多くの集団間で集中的かつ持続的に利用されるようになったのは、この後期の時代になってからです。他の要因も重要だったことは間違いないでしょうが、より高い移動性と、寒冷で乾燥した草原地帯での生存に適応した牧畜社会(ウマが他の動物に雪で覆われた牧草地を開いたかもしれず、乳がタンパク質と栄養と水分の持続的な供給源となりました)の出現は、ヤムナヤ文化集団など青銅器時代牧畜民の拡大に疑いなく重要でした。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で言及されていたウマの家畜化について最近の研究では、DOM2系統の起源地はヴォルガ川とドン川の下流域だった可能性が高く、ウマが草原地帯関連祖先系統を有する集団のヨーロッパへの最初の拡大を促進した証拠はない、と指摘されています(関連記事)。ペスト(関連記事)などにより後期新石器時代のヨーロッパで人口が減少し、草原地帯牧畜民の西方への拡大の機会が開かれたのではないか、というわけです。草原地帯牧畜民の西方への拡大は、ヨーロッパ現代人の遺伝的形成に重要な役割を果たしたと考えられており、関心の高い問題なので、すでにかなり解明されているものの、今後も研究の進展が期待されます。


参考文献:
Wilkin S. et al.(2021): Dairying enabled Early Bronze Age Yamnaya steppe expansions. Nature, 598, 7882, 629–633.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03798-4

更科功『「性」の進化論講義 生物史を変えたオスとメスの謎』

 PHP新書の一冊として、PHP研究所より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は性の起源について、繁殖と無関係だった可能性を指摘します。それは、有性生殖は無性生殖よりも増殖率において不利だからです。また本書は、有性生殖にも安定化淘汰が作用しており、無性生殖と比較して進化が速いとは限らない可能性を指摘します。本書はDNA修復システムに性の起源がある可能性も取り上げていますが、それにより有性生殖が有利な理由を説明できるわけではない、とも指摘します。そこで本書が注目するのは、有害な変異が蓄積されることです。有性生殖では、有害な変異を有していても、それを持たない他個体の遺伝子と交換できるからです。ただ本書は、そうだとしても、有性生殖が無性生殖よりも増殖率で不利になるコストを上回れるのか、疑問を呈します。本書は、これらの有性生殖進化説について、短期的利益ではなく長期的利益を追求している点に疑問を呈します。

 次に本書が取り上げるのは、寄生者への抵抗です(赤の女王仮説)。免疫にかかわる主要組織適合遺伝子複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)は、種全体では多様性があるものの、個体では限界があります。進化の速い寄生者に対抗するには、有性生殖で異なるMHCパターンを獲得するのが有利になる、というわけです。本書は赤の女王仮説の根拠になり得る事例として、非アフリカ系現代人において、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来のMHC遺伝子の変異の割合が地域により高いことを挙げています。出アフリカ現生人類(Homo sapiens)にとって、現生人類には存在しなかったネアンデルタール人MHC遺伝子の変異を交雑により獲得したことが有利に作用したのだろう、というわけです。

 本書は性の進化として、同性同士の競合・対立とともに、異性間の競合・対立(性的対立)も指摘します。性的対立は生物において珍しくなく、「軍拡競争」的側面が強いことを本書は指摘します。「軍拡競争」的側面は、上述の宿主と寄生者との関係でも強く現れています。本書は性的対立の「軍拡競争」的側面について、人類を具体的に取り上げているわけではありませんが、人類でも恐らくそうした側面があることは否定できないでしょう。人類の社会制度設計も、そうした進化的側面を考慮しなければ、設計者の予期せぬ弊害が生じることは少なくないように思います。その意味で、進化学は現代社会において必須とも言えるでしょう。


参考文献:
更科功(2021)『「性」の進化論講義 生物史を変えたオスとメスの謎』(PHP研究所)

家畜ウマの起源

 家畜ウマの起源に関する研究(Librado et al., 2021)が報道されました。ウマの家畜化は、長距離移動と戦争を根本的に変容させました。しかし、現代の家畜品種は、紀元前3500年頃となるアジア中央部のボタイ(Botai)文化における頭絡使用や搾乳や囲い飼育の考古学的証拠と関連づけられている、最初期の家畜ウマ系統の子孫ではありません(関連記事1および関連記事2)。イベリア半島やアナトリア半島(関連記事)など、以前よりウマの家畜化の候補地とされてきた別の地域に関しても、近年では異議が唱えられています。そのため、現代の家畜ウマの遺伝的・地理的・時間的起源は不明のままです。

 この研究では、家畜ウマの起源地を特定するため、イベリア半島とアナトリア半島とユーラシア西部およびアジア中央部の草原地帯を含む、全ての家畜化中心候補地のウマ遺骸が収集されました(図1a)。標本抽出の対象は以前には過小評価されていた期間で、放射性炭素年代で紀元前44426~紀元前202年頃の201頭と、紀元前50250~紀元前47950年以前の5頭です。

 DNAの品質により、264頭では平均網羅率が0.10~25.76倍のショットガン配列が可能となり(239頭は網羅率1倍以上)、その中には以前に報告されたデータに追加された配列の16頭が含まれます。死後のDNA損傷の酵素および計算による除去により、変異が経時的に蓄積するならば予測されるように、標本の年代に伴って減少する派生的変異を有する高品質のデータが得られました。広範囲の高品質のウマのゲノム時系列を得るため、一貫した技術もしくは関連する時空間で特徴づけられる、既知の10頭の現代の馬と9頭の古代のウマが追加されました。以下は本論文の図1です。
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●家畜化以前の集団構造

 近隣結合系統ゲノム推論により、地理的に定義された4単系統集団が明らかになりました(図1b)。これらは、構造体f4手法の拡張を用いて特定されたクラスタ(まとまり)を密接に反映しており(図1d・e・f)、例外は新石器時代アナトリア半島集団(NEO-ANA)で、系統樹とデータの適合度から、系統発生の誤配置が示唆されました(図1c)。

 最基底部クラスタには、後期更新世から紀元前四千年紀にかけてシベリア北東部で特定された系統である、レナウマ(Equus lenensis)が含まれます。第二のクラスタは、後期更新世のルーマニアとベルギーとフランスとブリテン島、および紀元前六千年紀~紀元前三千年紀のスペインからスカンジナビア半島とハンガリーとチェコとポーランドの地域を含む、ヨーロッパが対象です。第三のクラスタは、以前に報告されたように(関連記事)、ボタイ文化の最初の家畜ウマとモウコノウマ(Equus ferus przewalskii)から構成され、紀元前五千年紀から紀元前三千年紀にアルタイ山脈とウラル南部に拡大しました。

 第四のクラスタとなる現代の家畜ウマは、紀元前2200年頃以降および紀元前二千年紀に地理的に広範に拡大して顕著になった集団内にまとまります(DOM2)。このクラスタ(DOM2)は、ユーラシア西部草原地帯(WE)で暮らしていたものの、カルパチア盆地の南側となるルーマニアのドナウ川下流よりも西方には、紀元前三千年紀以前には存在しなかったウマと遺伝的に密接なようです。遺伝的距離と地理的距離との間の有意な相関と、推定有効移動面(EEMS)との限られた長距離接続の推論により、紀元前3000年頃以前のウマ集団の強い地理的分化が確認されます(図2a)。

 ボタイ文化を含む新石器時代アナトリア半島および銅器時代アジア中央部におけるウマの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)特性は、後期更新世および紀元前四千年紀もしくは紀元前三千年紀にヨーロッパ中央部および東部でもかなり存在した(図1eおよび図3a)、遺伝的構成要素(緑色)を最大化します(図1e・f)。しかし、この遺伝的構成要素は、紀元前六千年紀から紀元前三千年紀におけるルーマニアのドナウ川下流(ENEO-ROM)集団とドニエプル川草原地帯(Ukr11_Ukr_m4185)集団とヴォルガ・ドン川西部下流(C-PONT)集団では、存在しないか中程度でした。これは、ユーラシア西部草原地帯には到達しなかったものの、ヨーロッパ中央部および東部とアジア中央部地域両方へのアナトリア半島のウマの拡大の可能性を示唆します。典型的な新石器時代アナトリア半島集団(NEO-ANA)祖先系統の欠如は、コーカサス山脈横断でのアナトリア半島からアジア中央部へのウマの拡大を除外しますが、紀元前3500年頃以前のカスピ海の南側の接続を裏づけます。


●DOM2の起源

 ヴォルガ・ドン川西部下流(C-PONT)集団は中程度のNEO-ANA祖先系統を有していただけではなく、典型的なDOM2祖先系統構成要素(橙色、図1e・f)が紀元前六千年紀に支配的になった最初の地域でした。多次元尺度構成法(Multi-dimensional scaling)ではさらに、C-PONTの3頭のウマが、紀元前3500~紀元前2600年頃までの、草原地帯のマイコープ(Maykop)文化のアユグルスキー(Aygurskii)遺跡、ヤムナヤ(Yamnaya)文化のレーピン(Repin)遺跡、ポルタフカ(Poltavka)文化のソスノフカ(Sosnovka)遺跡と関連して、DOM2と遺伝的に最も密接と特定されました(図2a・bおよび図3a)。さらに、DOM2との遺伝的連続性は、紀元前2200年頃以前の全てのウマ、とくにNEO-ANA集団のウマで却下され、例外は、紀元前2900~紀元前2600年頃となる後期ヤムナヤ文化のテュルガニック(Turganik)遺跡(TURG)の2標本で、この遺跡はC-PONTよりもさらに東方に位置します(図2a・bおよび図3a)。したがってこれらは、DOM2ウマの直接的祖先の一部を提供したかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 qpADM でのDOM2集団のモデル化は、2~4集団全ての組み合わせの循環により、NEO-ANA集団からの寄与の可能性を排除しましたが、C-PONTとTURGのウマからの約95%の遺伝的寄与を含む、ユーラシア西部草原地帯(WE)内での形成の可能性を示唆しています。これは主要な祖先系統の組み合わせを表す9系統のOrientAGraphモデル化と一致しており、DOM2におけるNEO-ANA遺伝的祖先系統の欠如と、C-PONTのウマの姉妹集団としてのDOM2を確証しました(図3b)。以下は本論文の図3です。
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 しかし、別々の集団を特定し、単一の一方向性の波として混合をモデル化することは、空間的な遺伝的連続性の範囲を考慮すると、ひじょうに困難でした。じっさい、典型的なDOM2祖先系統構成要素はC-PONT集団で最大化されますが、NEO-ANA祖先系統の割合が増加するにつれて、紀元前三千年紀には東方に向かって(TURGとアジア中央部)急激に減少しました。これは、ユーラシア西部草原地帯とアジア中央部の東側の遺伝的連続性の勾配を示唆しており、C-PONTとTURG よりも東側でのDOM2祖先を除外します。

 類似の遺伝的勾配はC-PONTの西側に位置する地域を特徴づけており、そこではDOM2祖先系統構成要素が、ドニエプル川草原地帯やポーランドや東トラキアやハンガリーにおいて、紀元前五千年紀から紀元前三千年紀に着実に減少しました。これは、DOM2の祖先がC-PONTとドニエプル川草原地帯よりもさらに西方だった可能性を除外します。さらに、遺伝的データの空間的な自己相関パターンは、DOM2祖先の最も可能性の高い場所としてユーラシア西部草原地帯を示唆します(図3c)。まとめると、本論文の結果が示すのは、DOM2祖先は、アナトリア半島ではなく、ユーラシア西部草原地帯、とくにヴォルガ・ドン川下流に、紀元前四千年紀後期と紀元前三千年紀初期に生息していた、ということです。


●草原地帯関連の牧畜の拡大

 古代人のゲノム分析により、ヤムナヤ文化と関連した、紀元前三千年紀におけるユーラシア西部草原地帯からヨーロッパ中央部および東部への大規模な拡大が明らかになりました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。この拡大は、紀元前2900~紀元前2300年頃に、縄目文土器複合(Corded Ware complex、略してCWC)集団に草原地帯関連祖先系統の少なくとも2/3をもたらしました(関連記事)。雄牛がヤムナヤ文化の重くて頑丈な車輪付き貨車を牽引した可能性があるので、この拡大におけるウマの役割は不明なままです。しかし、CWC文脈のウマの遺伝的特性は、DOM2とヤムナヤ文化のウマ(TURGとレーピン)で最大化される祖先系統をほぼ完全に欠いており(図1e・fおよび図2a・b)、OrientAGraphモデル化では、C-PONTおよびTURG両方を含むユーラシア西部草原地帯(WE)集団との直接的つながりを示しません(図3b)。

 典型的なDOM2祖先系統は、漏斗状ビーカー(Funnel Beaker)文化および初期円洞尖底陶(Pitted Ware)と関連した、デンマーク(FB/PWC)やポーランド(FB/POL)やチェコ(ENEO-CZE)のCWCよりも前のウマでも限定的でした。DOM2祖先系統は紀元前三千年紀半ばのソモギヴァー・ヴィンコフチ(Somogyvár-Vinkovci)文化と関連したハンガリーの1頭のウマ(CAR05_Hun_m2458)で最大12.5%に達しました。qpAdmモデル化では、DOM2祖先系統は、ドニエプル川草原地帯(Ukr11_Ukr_m4185)ではなく、トラキア南部(Kan22_Tur_m2386)からの遺伝子流動に続いて獲得されました。紀元前三千年紀初期におけるウマ拡散増加の欠如と組み合わせると(図2b)、これらの結果が示唆するのは、DOM2のウマはカルパチア盆地の北側では草原地帯牧畜民の拡大を伴っていなかった、ということです。

 紀元前2200~紀元前2000年頃までに、典型的なDOM2祖先系統特性が、ユーラシア西部草原地帯外に出現し、それはボヘミアのホルビッチェ(Holubice)遺跡、ドナウ川下流のゴルディネシュティ2(Gordinesti II)遺跡、アナトリア半島中央部のアセムヒュユック(Acemhöyük)遺跡で、その後すぐにユーラシア全域に広がり、最終的に全ての既存系統を置換しました(図2c)。ユーラシアのウマは高い遺伝的連続性により特徴づけられるようになり、紀元前三千年紀後期および紀元前二千年紀初期までの大規模なウマの拡散を裏づけます。この過程は、常染色体とX染色体の変異により示唆されるように、種牡馬と牝馬を含んでおり、ミトコンドリアとY染色体両方の変異で明らかな、爆発的な個体群統計により維持されました。全体的に、本論文のゲノムデータはウマ集団の大きな置換を明らかにしており、過去のウマ飼育者はDOM2ウマを大量に生産し、紀元前2200年頃からのウマの移動性への増加する需要を供給しました。

 注目すべきことに、DOM2の遺伝的特性は、紀元前2000~紀元前1800年頃の、最初の輻のある車輪の戦車(チャリオット)とともにシンタシュタ(Sintashta)文化のクルガン(墳丘墓)に埋葬されたウマに遍在していました。典型的なDOM2特性は、アナトリア半島中央部にも存在し(AC9016_Tur_m1900)、紀元前1900年頃からの二輪車の図像と同時でした。しかし、戦車の最初の証拠の前となるホルビッチェ遺跡やゴルディネシュティ2遺跡やアセムヒュユック遺跡のウマにおけるそうした特性の台頭は、DOM2ウマの核地域外への最初の拡散を促進する騎乗を裏づけており、紀元前三千年紀後期および紀元前二千年紀初期のメソポタミアの図像と一致します。したがって、戦車と馬術の組み合わせが、都市国家から分散型社会までのさまざまな社会的状況で、DOM2を拡散させた可能性が高そうです。


●DOM2の生物学的適応

 ヒトによるDOM2ウマの拡散は、おそらく騎乗および戦車と関連する表現型の特徴の選択を含んでいました。そこで、紀元前三千年紀後期のDOM2ウマで過剰に表れている遺伝的多様体のデータが調べられました。最初の顕著な遺伝子座は、GSDMC遺伝子のすぐ上流でピークに達し、DOM2を除く全系統の2ヶ所のL1転移因子で配列網羅率が低下しました。他の哺乳類における追加のエクソンの存在は、独立したL1挿入がDOM2の遺伝子構造を再構築した、と示唆します。ヒトでは、GSDMCは慢性腰痛と脊柱管狭窄症の遺伝的指標で、これは椎間板硬化と歩行時の痛みを引き起こす症候群です。

 第二の識別された遺伝子座は3番染色体上の約1600万塩基対に広がっており、ZFPM1遺伝子が選択のピークに最も近くなっています。ZFPM1遺伝子は、気分調節および攻撃的行動と関わる背側縫線セロトニン作動性神経細胞の発達に不可欠です。マウスにおけるZFPM1遺伝子の不活性化は、不安障害と文脈恐怖記憶を引き起こします。まとめると、GSDMC遺伝子とZFPM1遺伝子における初期の選択は、より従順で、ストレスへの回復性がより高く、長距離走や荷重耐性および/もしくは戦いを含む新たな歩行運動に関わっている、ウマへの使用変化を示唆します。


●ターパンの進化史と起源

 本論文の分析は、DOM2ウマの地理的・時間的・生物学的起源を解明します。本論文は多様な古代ウマのゲノムデータセットを特徴としており、非DOM2ウマにおける深いミトコンドリアおよび/もしくはY染色体ハプロタイプの存在を明らかにします。これは、まだ標本抽出されていない分岐した集団が、DOM2を除くいくつかの系統の形成に寄与した、と示唆します。これは、予測されるロバへの遺伝的距離が減少するイベリア集団(IBE)でとくに当てはまり、OrientAGraphモデル化ではNEO-ANAにも当てはまります。そうした標本抽出されていない系統の正確な分岐と祖先系統の寄与を解明することは、現在利用可能なデータでは困難です。しかし、イベリア半島とアナトリア半島はよく知られた2ヶ所の退避地で、個体群は氷期に退避地で生き残り、混合したかもしれない、と強調できます。

 本論文の分析は、20世紀前半に絶滅した野生ウマとされるターパンの不思議な起源を解明しました。ターパンはヨーロッパ在来ウマ(CWCウマの祖先系統の割合は、OrientAGraphでは28.8~34.2%、qpAdmで32.2~33.2%)とDOM2に密接に関連するウマとの混合に続いて誕生しました。これは、ウクライナ西部の祖先を予測するLOCATORと一致しており(図3c)、ターパンを野生の祖先かDOM2の野生化かモウコノウマとの交雑種とした以前の仮説に異議を唱えます。


●考察

 本論文は、家畜ウマの起源と拡大についての長年の議論を解決します。紀元前四千年紀後期と紀元前三千年紀前期にユーラシア西部草原地帯に生息していたウマがDOM2ウマの祖先でしたが、以前に仮定されていたような、それらのウマがヒトの草原地帯関連祖先系統のヨーロッパへの拡大(関連記事)を促進した、という証拠はありません。したがって、騎乗での戦争の代わりに、後期新石器時代のヨーロッパでの人口減少が、草原地帯牧畜民の西方への拡大の機会を開いたかもしれません。

 レーピン遺跡とテュルガニック遺跡のヤムナヤ文化のウマは、おそらく紀元前六千年紀の狩猟採集民遺跡の野生ウマ(NEO-NCAS、紀元前5500~紀元前5200年頃)よりも多くのDOM2ウマとの遺伝的類似性を有しており、初期のウマの管理と放牧慣行を示唆しているかもしれません。ともかく、ヤムナヤ文化の牧畜民はその原産地から遠くまでウマを広めることはなく、この点ではボタイ文化のウマの家畜化と同様に、定住型集落体系内での局所的慣行に留まっていました。

 世界化の段階は後になって始まり、DOM2ウマはその核地域外に拡散し、まずは紀元前2200~紀元前2000年頃までにアナトリア半島とドナウ川下流とボヘミアとアジア中央部にまで、次にその後すぐヨーロッパ西部とモンゴルに到達し、最終的には全ての在来集団を紀元前1500~紀元前1000年頃までに置換しました。この過程はまず騎乗を伴っており、輻のある車輪の戦車は後の技術革新を表し、トランスウラル地域のシンタシュタ文化で紀元前2000~紀元前1800年頃に出現しました。シンタシュタ文化と関連する武器と戦士と要塞化された集落は、乾燥化と重要な放牧地をめぐる乾燥化と競争の激化に対応して出現し、土地所有と階層化を強化したたかもしれません。これはアジア中央部草原地帯におけるヒトとウマのほぼ完全な遺伝的置換をもたらした、その後数世紀にわたる征服の基礎を提供したかもしれません(関連記事1および関連記事2)。

 カルパチア盆地と、おそらくはアナトリア半島およびレヴァントへの拡大は異なる歴史的過程を伴っており、専門化したウマの調教師と戦車製作者が、ウマの交易と乗馬で広がりました。どちらの場合も、背部の病状が減少し、従順性が増したウマは、青銅器時代のエリートの長距離交易需要を促進し、ひじょうに価値のある商品および地位の象徴となり、急速な拡散をもたらしました。しかし、本論文の分析対象はかなりの時空間的流動性とエリートの活動への証拠の偏りがあるので、ウマの拡散における追加の証拠が得られにくい要因は無視されるわけではありません。

 本論文の結果には、二つの主要な言語拡散を支える重要な示唆もあります。ユーラシア西部草原地帯からのインド・ヨーロッパ語族の拡大は伝統的に、騎乗牧畜と関連しており、CWCがヨーロッパにおける主要な足がかりとして機能した、とされてきました。しかし、ウマの家畜化には圧倒的な語彙の証拠がありますが、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派におけるウマが牽引する戦車と派生的神話や、より深いインド・ヨーロッパ語族祖語の水準でのウマの飼育慣行の言語学的兆候は、じっさいには曖昧です。CWCにおけるウマの限定的存在と、CWCのウマの在来の遺伝的構成は、ウマがヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の最初の拡大の背後にある主要な原動力だった、とする想定を却下します。

 対照的に、紀元前二千年紀初期から中期のアジアにおけるDOM2ウマの拡散は、戦車およびインド・イラン語派の拡大と同時で、その最初の話者はシンタシュタ文化に直接的に先行する人口集団と関連しています。したがって、言語学と遺伝学の両方で記録されている栗毛色を含むウマの改良品種と戦車の新たな一式が、紀元前2000年頃以後の数世紀内に大きくユーラシア青銅器時代社会を変えた、と結論づけられます。この新たな制度の採用は、戦争か威信かその両方のためか、おそらくはヨーロッパの分散した首長制国家とアジア西部の都市国家との間で異なっていました。したがって、本論文の結果はこれら異なる社会的軌跡の歴史的発展について、新たな研究の道を開きます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ウマの故郷を突き止める

 現代の家畜ウマの起源は、今から4200年以上前の西ユーラシアのステップだったとする論文が、Nature に掲載される。この研究では、乗馬に使用する現生のウマにとって望ましい適応に関連する2つのゲノム領域候補が特定され、それらが選択されたことが、西ユーラシアのステップからのウマの普及に役立ったと考えられている。

 ウマの家畜化は、長距離移動と戦争の様相を一変させたが、現代の家畜ウマの遺伝的起源と地理的起源は不明のままだ。現在のところ、紀元前3500年頃の中央アジアのボタイ入植地に関連する家畜ウマの系統に関する証拠が存在しているが、こうした古代のウマは現代の家畜ウマと近縁でないことが知られている。

 今回、Ludovic Orlandoたちは、現代の家畜ウマの「故郷」を特定するために、イベリア、アナトリア、西ユーラシアと中央アジアのステップなど、馬の家畜化が可能であると以前から考えられていた地域から273頭の古代のウマの遺骸を収集した。そして、Orlandoたちは、これらの遺骸から単離されたDNAの解析を通じて、現在のロシアに位置する下部ボルガ-ドン地域にあった家畜化の拠点を特定し、そこから4200年前にウマが世界中に普及したことを明らかにした。また、Orlandoたちは、乗馬と関連性のある重要な運動適応と行動適応(持久力、荷重耐性、従順性、ストレスへのレジリエンスなど)を、2つの遺伝子(GSDMCとZFPM1)の正の選択と関連付けた。

 Orlandoたちは、乗馬とスポーク車輪の戦車の使用が、新たに家畜化されたウマの普及を下支えし、家畜化によって生まれた新しいウマの品種によって最初の家畜化から約500年以内にユーラシア全域で全ての従来種が置き換わったという考えを示している。


進化学:家畜ウマは西ユーラシアのステップで生じ、そこから広がった

Cover Story:ウマのルーツ:現代の家畜ウマの遺伝的起源

 表紙は、フランスのソルド・ラベイにあるDuruthy岩陰遺跡で発見された、約1万7000年前のマドレーヌ文化中期にさかのぼる3体の馬の彫刻の1つである。家畜化されたウマの遺伝系統は明らかになっておらず、現代の家畜ウマのウマ科の祖先は分かっていない。今回L Orlandoたちは、ユーラシア各地の古代ウマ273頭のDNA解析の結果を提示している。彼らは、この情報を用いて、紀元前2700年頃以降のヴォルガ川とドン川の下流域(現在のロシア)が、ウマの家畜化の中心地であると特定している。今回のデータは、乗馬と戦車の使用が新たに家畜化されたウマの広がりを支え、このウマの系統が、家畜化から約500年以内にユーラシア全域でそれまでの地域個体群の全てと入れ替わったことを示唆している。



参考文献:
Librado P. et al.(2021): The origins and spread of domestic horses from the Western Eurasian steppes. Nature, 598, 7882, 634–640.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04018-9

近藤修「旧人ネアンデルタールの盛衰 現生人類との交代劇」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。人類史においてさまざまな化石集団が知られていますが、その中でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はとくに有名です。ネアンデルタール人の研究史は19世紀半ばにまでさかのぼり、有名なのは1856年に現在ではドイツ領となっているデュッセルドルフ近郊のネアンデル渓谷のフェルトホーファー洞窟(Feldhofer Cave)で発見された部分骨格で、当時はヨーロッパ「人種」の祖先と考えられ、ホモ・ネアンデルターレンシスと命名されました。当時、すでにネアンデルタール人の化石がベルギーとジブラルタルで発見されていましたが、その意義が理解されるようになったのは、このネアンデル渓谷での発見以降でした。これを契機に、現生人類(Homo sapiens)とは異なる人類集団が(化石人類)がかつて存在していた、と認められるようになり、現在に至るまで、ネアンデルタール人の生物学的および解剖学的側面や生活といった側面まで、多くのことが研究されています。しかし、ネアンデルタール人について依然として謎は多く、とくに現生人類との関係も含めてその終焉については、現在でもさまざまな研究が進行中で、議論百出といった感があります。


●ネアンデルタール人の進化的位置

 人類史においてネアンデルタール人は、現代人にとって「最も近縁な親戚(イトコ)」とよく言われます。つまり、ネアンデルタール人はさまざまな化石人類の中で、現代人に最も近い集団であるものの、直接的祖先ではない(イトコ)、というわけです。ネアンデルタール人化石は多数発見されており、この解釈はおおむね正しいようです。つまりネアンデルタール人は、アフリカからユーラシアへと拡散したホモ属集団が、おもにヨーロッパで固有の進化を遂げた結果生まれた、と考えられています。種分化の具体的な年代や要因は不明ですが、氷期と間氷期の振幅の増加や、集団の孤立による遺伝的浮動などにより、ネアンデルタール人に特有の形質が獲得されていった、と考えられています。もしそうならば、ネアンデルタール人は30万年前頃までにヨーロッパを中心として形成されたようです。この時期にアフリカ(の少なくとも一部地域)では、解剖学的現代人が出現していたようです。つまり、ネアンデルタール人は現生人類の直接的祖先ではありません。一方、ネアンデルタール人は絶滅したと考えられますが、ネアンデルタール人の遺伝子はわずかながら現代人に残っています。つまり、アフリカでは解剖学的現代人が、ヨーロッパではネアンデルタール人がそれぞれ誕生して進化し、後に両者が一部地域で交雑した、と考えられます。


●現生人類の進化仮説

 ネアンデルタール人の消滅と現生人類の拡散は、現生人類の進化仮説と深く関わっています。ネアンデルタール人から一部の現生人類(ヨーロッパ現代人)進化した、との見解(多地域進化説)に対して、現生人類の起源は単一で、ネアンデルタール人などは移住してきた現生人類と交替した、との見解が提示されており(単一起源説)、後に遺伝学的研究やアフリカでの初期現生人類化石の発見やレヴァントの初期現生人類化石の年代の見直しなどから、現生人類の唯一の起源地はアフリカで、その後でユーラシアへと拡散していった、との現生人類アフリカ単一起源説が有力となり、現在では共通認識となっています。この現生人類アフリカ単一起源説に基づくと、ネアンデルタール人は絶滅し、アフリカ起源の現生人類と「(一部交雑しながら)交替」したことになります。そこで、なぜネアンデルタール人が絶滅し、現生人類が拡散(繁栄)したのか、という点に関心が寄せられてきました。


●「交替」の時代背景

 ヨーロッパとアジア南西部の中部旧石器および上部旧石器文化の遺跡からは、ネアンデルタール人と解剖学的現代人が見つかっています。おもに、中部旧石器遺跡からはネアンデルタール人が、上部旧石器遺跡からは現生人類が見つかっていますが、人類化石のない遺跡も当然多くあります。ロシアからスペインにかけてのネアンデルタール人遺跡の年代再検討により、ネアンデルタール人は4万年前頃に消滅し、最も早い解剖学的現代人のヨーロッパ拡散は45000年前頃と推定されています(関連記事)。当時ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と解剖学的現代人がほぼ同地域に混在し、同じ環境を共有していたわけです。

 一方、イスラエルなどアジア南西部の一部地域では、より古い10万年前頃に、中部旧石器文化を伴う解剖学的現代人化石が見つかっており、アフリカ起源の現生人類が一時的にアジア南西部に到達したものの、本格的なヨーロッパへの侵入はそのずっと後だと考えられています。解剖学的現代人がアジア南西部経由でヨーロッパに拡散していくにつれて、ネアンデルタール人は西へと追いやられたようです。この時期の気候は氷期・間氷期周期の最中で、北方は氷床に覆われており、ヒトは住めませんでした。この時期の気候変動は、グリーンランド氷床コアから得られた酸素同位体比の変化により推定できます。ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」は酸素同位体ステージ3に相当します。この時期に温暖から寒冷へと気温が変化したことに伴い氷床が発達し、ネアンデルタール人の生息域も移動もしくは縮小しました。45000年前頃以降、ヨーロッパには現生人類が到来しますが、ヨーロッパ北部地域への到達は遅れ、寒冷化が進むにつれて生息域は限定的になっていきます。こうした生息域の変遷パターンはネアンデルタール人と解剖学的現代人とで類似しており、寒冷化は「交替劇」の直接的要因ではないとされていますが、ネアンデルタール人集団の縮小を招いた根本的要因として重視されています。


●「交替劇」に関する仮説

 ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」に関するおもな仮説には、(1)解剖学的現代人は複雑で抽象的な意思疎通ができ、完全な構文言語を有した、(2)ネアンデルタール人は革新(発明)の能力が弱かった、(3)ネアンデルタール人は狩猟の効率が悪かった、(4)ネアンデルタール人の狩猟具は解剖学的現代人のそれ(投槍器)より劣っていた、(5)ネアンデルタール人は食性の幅が解剖学的現代人より狭く、競争に敗れた、(6)解剖学的現代人は罠(トラップ)を用いて狩猟した、(7)解剖学的現代人の石器の固定方法は複雑で高度な認知を必要とするが、ネアンデルタール人のそれは簡素だった、(8)解剖学的現代人はネアンデルタール人より大きな社会的ネットワークを有していた、(9)ネアンデルタール人の領域に侵襲した初期解剖学的現代人は、ネアンデルタール人集団よりも人口が多かった、(10)4万年前頃の寒冷化がネアンデルタール人の人口減少の一要因だった、(11)75000年前頃のトバ火山の爆発が間接的にネアンデルタール人の絶滅を引き起こした、といったものがあります。

 (10)と(11)を除いて、これらの仮説はネアンデルタール人に対する現生人類の優位を根拠としています。これは元々、ヨーロッパとアジア南西部のネアンデルタール人と解剖学的現代人の文化水準の比較から提唱されました。つまり、ネアンデルタール人の中部旧石器文化と解剖学的現代人の上部旧石器文化を比較し、後者には新たな技術や抽象的意思疎通や装飾品と芸術(洞窟壁画など)の創造を伴い、解剖学的現代人は日常活動(生業)水準でネアンデルタール人と違いがあった、と考えられました。こうした解剖学的現代人の「優位性」が環境への適応力を上げ、同時代に同地域に住んでいたネアンデルタール人よりも高い生存可能性を生み出した、というわけです。出アフリカ以前の解剖学的現代人にも、この「現代人的行動」の「優位性」の証拠が、ヨーロッパの中部旧石器時代と匹敵する古い年代(7万年以上前)から見つかっています。つまり、現生人類の「優位性」は出アフリカ以前に芽生えつつあり、その後ヨーロッパでネアンデルタール人と遭遇した時には、その「優位性」により生き残り、ネアンデルタール人は絶滅した、というわけです。しかし、最近になって、この見解に疑問を嘆かれる証拠が報告されるようになっており、「現代人的行動」の特徴と考えられた考古学的証拠が、ネアンデルタール人遺跡からも発見されています(関連記事)。

〇言語と抽象的概念(仮説1)

 化石人骨から言語や抽象的概念の起源を探る試みは、これまで何度も行なわれてきましたが、たとえば、頭蓋底の屈曲程度と咬頭・咽頭の関係や、舌骨の形態や舌下神経管の形態や、脳鋳型が、直接的な因果関係を導くことは依然として困難です。そこで、やはり直接的証拠ではないものの、考古学的証拠が注目されます。出アフリカ以前の解剖学的現代人の文化は、ヨーロッパやアジア南西部の中部旧石器時代と同じ頃の中期石器時代に比定されます。中期石器時代の遺跡から、線刻オーカーや貝製ビーズや火工技術を利用した石器など、言語の起源や抽象的概念を想起させるいくつかの証拠が見つかっています。これは、アフリカにおいてすでに中期石器時代に、抽象的思考や個人間の情報伝達がそれなりの発展段階にあったことをしみします。しかし、これらの証拠がヒトの特徴である「完全な構文構造を有する言語」とどこまで結びつくのかは不明です。

 一方で、アフリカの中期石器時代の解剖学的現代人が示す「抽象的表現」に匹敵する事例は、ネアンデルタール人の中部旧石器時代遺跡でも見つかっています。たとえば、オーカーやマンガンによる彩色(関連記事)、貝(関連記事)やワシの爪(関連記事)や鳥の羽根を利用した装飾品や、洞窟深部の精巧な円形構築物(関連記事)です。これらの「抽象的表現」は、ネアンデルタール人にある程度の高度な思考能力があつたことを示します。考古学的証拠のみで比較すると、ネアンデルタール人と解剖学的現代人との間に大きな差があるようには見えません。ネアンデルタール人と現生人類の抽象的思考能力の比較には、事例の観察だけではなく、それを生み出す行動や技術内容に踏み込むひとが必要でしょう。

〇革新(発明)能力(仮説2)

 考古学的証拠から、「革新(発明)」能力が評価されてきました。つまり、上部旧石器時代(解剖学的現代人)では、中部旧石器時代(ネアンデルタール人)と比較して、石器型式の変化が速く、短期間に多様化することから、解剖学的現代人は「革新(発明)」能力が高く、ネアンデルタール人はその能力が欠けている、というわけです。一方、ヨーロッパの中部旧石器の形式細分の検証から、石器型式の変化速度は、中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてそれほど違いはない、といった見解もあります。これらの見解の相違は、各石器型式の存続年代の精度にも問題がある、と考えられます。

〇狩猟方法と製作技術と食性の幅(仮説3~7)

 仮説3~7では、ネアンデルタール人と解剖学的現代人との間には、狩猟方法や狩猟道具の効率性に違いがあり、あるいはこれと関連して、食料資源の多様性に違いが生じ、両者の生存確率に差が生じた、と想定されます。ネアンデルタール人はすでに火を制御しており(関連記事)、複雑な工程の石器を製作し、加工して槍先として木の棒に装着し、道具として大型動物を狩っていました。生息地域によっては得られる資源が異なり、たとえばアジア南西部のレヴァントでは、狩猟の標的はヤギやヒツジなど中型草食獣で、陸生カメなども食用とされていたようですが、石器製作や狩猟技術や日常生活様式はヨーロッパのネアンデルタール人と変わらない、と考えられます。ネアンデルタール人の狩猟はおそらく、少人数で獣を追い込み、接近して槍で突くか槍を投げる、といったものと考えられ、そのために肉体的負荷が大きく、骨折などの負傷も多かったようです(と本論文は指摘しますが、2万年前頃までネアンデルタール人と現生人類の頭蓋外傷受傷率に違いはない、との見解もあります)。一方45000年前頃にヨーロッパに進出した解剖学的現代人は、より複雑な石器製作技術でより小型の尖頭器や石刃を作成しました。その後、解剖学的現代人はこれら小型石器を槍先に装着し、投槍器や弓矢で射る狩猟技術を用いるようになります。これにより、獲物から離れた狩猟が可能となりますが、ヨーロッパの上部旧石器時代でこれらの技術がどこまでさかのぼるのか、これまで不明でした。

 最近の石器使用痕の研究は、45000~40000年前頃というネアンデルタール人と解剖学的現代人が共存した時代に、こうした遠距離狩猟技術がさかのぼる可能性を指摘します(関連記事)。この研究では、イタリア半島南部のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)遺跡のウルツィアン(Uluzzian)層で発見された三日月型の小型石刃の使用剥離痕と柄への装着方法の詳細な分析の結果、この剥離痕が強い衝撃速度によるもので、柄との積極に複雑な工程を要した、と結論づけられました。つまり、当時すでに投槍器や弓に匹敵する機械的発射技術があり、複雑な石器装着技術は高度な認知能力を必要としたかもしれない、というわけです。カヴァッロ洞窟の人類の乳歯は解剖学的現代人のものとされており(関連記事)、アフリカ起源の解剖学的現代人は、すでに行動な狩猟技術を有していたことになります。同時期のネアンデルタール人では、まだこうした狩猟技術の証拠は見つかっていません。この狩猟技術の差が明らかならば、環境への適応能力の差として「交替劇」を説明できるかもしれません。

 狩猟技術と関連して、食性の多様性も議論されています。直接的証拠として、遺跡で見つかる動植物化石から食性が復元され、ネアンデルタール人が利用した食料資源については、大型~中型の草食獣が中心なのに対して、解剖学的現代人の食性はより多様で、水産資源(魚介類)や小型動物(鳥やウサギ)に加えて、植物も食べられていた、と考えられてきました。より間接的な証拠としては、人骨のコラーゲンから炭素と窒素それぞれの安定同位体比を計測する方法が確立しています。ネアンデルタール人では、炭素と窒素の安定同位体比は食物連鎖の最上位となる食肉類の位置を占め、ネアンデルタール人はウシ科やウマ科など大型草食動物を主要なタンパク資源としていた、と考えられてきました。

 一方、量は多くないかもしれないものの、ネアンデルタール人がウサギなどの小型動物を食べていた証拠(解体痕)や、上述のように鳥の羽根やワシの爪を装飾品として利用した可能性が指摘されるなど反論もあり、さらには淡水魚や植物資源の利用も示唆されています(関連記事)。ネアンデルタール人の植物利用の証拠として、歯石からデンプン粒や植物珪酸体を同定した研究では、ネアンデルタール人は大型獣の狩猟が主だったとしても、植物資源も広く利用されていただろう、と結論づけられています(関連記事)。人骨のコラーゲンから炭素と窒素の安定同位体比を得て推定される食性は、タンパク質源となる主要な食材を示していると考えられ、一方で歯石のデータが示す植物資源の利用は、食性の幅を定性的に見ているにすぎません。「交替劇」に結びつく議論としては、環境への適応能力という観点で比較すべきですが、どちらを重視すべきか、難しい問題かもしれません(なお、本論文では言及されていませんが、排泄物の研究でも、ネアンデルタール人がおもに肉食に依存しつつも、植物も食資源としていた、と指摘されています)。


●ネアンデルタール人の解剖学

 環境への適応能力として石器など道具製作技術に注目するなら、手の器用さは重要となるかもしれません。手の器用さには脳と神経伝達という神経系も関わりますが、手の骨に残る解剖学的特徴を比較すると、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属までは全体的に筋肉が発達し、拳全体を強く握るような「power grip(パワーグリップ)」が主と考えられてきました。さらに、指骨の長さや関節面の湾曲程度の比較から、現代人が指先でつまむような「precision grip(精密グリップ)」は、非現生人類ホモ属では解剖学的に可能でもその頻度は少ないだろう、と考えられてきました。しかし、最近の研究では、指を動かす筋の付着面積が三次元的に測定され、比較基準となる現代人が職業別に「精密グリップ」群と「パワーグリップ」群に分けられ、ネアンデルタール人と現代人とが比較された結果、ネアンデルタール人の筋付着面パターンは「精密グリップ」に属し、とくに親指で高得点であることが特徴でした(関連記事)。これを素直に解釈すると、ネアンデルタール人には指先を用いた精密グリップに特徴的な筋配置があったことになります。一方、現代人は精密グリップ群からパワーグリップ群まで広く分布し、まとまりを示しません。これは分業が進んでいたためではないか、と推測されています。フランスのネアンデルタール人遺跡の証拠から、ネアンデルタール人は淡水魚や鳥やウサギを捕獲し、石器表面に付着した繊維から糸を紡いでいたのではないか、と推測されています。

〇ネアンデルタール人の脳解剖

 ネアンデルタール人と解剖学的現代人の能力差を考えるさいには、脳の働きも検証対象となります。古人類学では、化石頭蓋の内腔の鋳型をとり(頭蓋内鋳型)、この形が比較されてきました。最も直接的に計測される指標は頭蓋内鋳型の要領で、これを脳容量と変換してさまざまな種間や集団間が比較されてきました。脳容量の飛躍的増大はホモ属出現以降の特徴で、その中で、ネアンデルタール人は現生人類と遜色ない(平均値はやや大きい)脳容量を有していた、と明らかになっていすます。頭蓋内鋳型だけではなく、形や比率の比較、脳の溝や皺の痕跡などから、脳の部位(前頭葉や側頭葉など)や言語野(ブローカ野やウェルニッケ野)や視覚野の位置と大きさと発達過程などが調べられてきました。しかし、頭蓋内鋳型は脳の入れ物であり、脳そのものではないので、MRI(磁気共鳴画像)を使った脳機能研究による成果などと直接的に比較することは困難です。

 脳機能研究で用いられている統計的計算解剖学の手法を用いて、この問題に取り組んでいる研究もあります。脳機能研究では、さまざまな被験者の脳機能画像を標準化して重ね合わせ、実験による脳活動部位を表示する手法が用いられます。これは、個人間でバラツキのある三次元画像を一つの基準化した脳(平均脳)にそれぞれ個別の関数により変換することで達成されます。化石人類の頭蓋内鋳型はそれぞれ少しずつ形が異なりますが、ヒト平均脳を化石人類の頭蓋内鋳型に当てはめることで得られた、ネアンデルタール人と解剖学的現代人(この場合は初期現生人類)とヒト平均脳の表面形態を比較すると、ネアンデルタール人の脳は後頭葉が大きくて小脳が小さく、解剖学的現代人ののうは後頭葉が小さくて小脳が大きい、と示されました。現生人類の小脳が相対的に大きいことはすでに知られていましたが、その特徴が「交替劇」の時期にまでさかのぼる、と示されたわけです。小脳の神経ネットワークは、均質な神経モジュールの集合体として構成されています。小脳は、大脳それぞれ機能部位との連絡により、運動機能だけではなく、さまざまな高次の脳機能(言語や作業記憶や社会性や認知)との関連も重視されており、小脳の(相対的)サイズと高次機能との関係が今後の課題となります。

〇種間交雑と同化

 このように、考古学的情報と人骨形態の解剖学的情報から、「交替劇」の要因となりそうな仮説が提示されてきましたが、少なくとも単独の仮説が支持される状況ではありません。解剖学的現代人がネアンデルタール人よりも「優れて」いた可能性は残っているものの、否定的な証拠も増えつつあります。また両者の関係として、交配も注目されています。多地域進化説では、ネアンデルタール人とヨーロッパの現生人類との連続性が想定されており、いくつかの人類化石が両者の中間段階と位置付けられてきました。現生人類アフリカ単一起源説が有力になって以降は、後期ネアンデルタール人やヨーロッパの初期現生人類に見られる中間的形質が、両集団の交雑の証拠と主張されたこともありました。

 ネアンデルタール人と現生人類の交雑がより直接的に示されるようになったのは、ネアンデルタール人の核ゲノムが解析され、現生人類と比較できるようになってからです。その結果、アフリカから拡散した解剖学的現代人がネアンデルタール人と5万年前頃に遭遇して交雑したことにより、非アフリカ系現代人は1~3%とわずかながらネアンデルタール人由来のゲノム領域を有している、と推測されています(関連記事)。現代人のゲノムに残るネアンデルタール人由来の遺伝子の中には、適応度を高めるものも含まれていた可能性があり、じっさい、免疫系(関連記事)や紫外線への適応で有利に作用した(あるいは、有利に作用する遺伝子の近傍にあり、ともに伝わった)、と推測されています。

 そこで、交雑が確認されているネアンデルタール人と現生人類は、現在一般的には別種として扱われているものの、同種ではないか、との疑問も呈されます。多地域進化説では、現生人類とネアンデルタール人は同種(Homo sapiens)で、亜種の水準で異なっていた、と想定されています。生物学的な「種」の定義では「交配可能性」が重視されるので、現時点での知見から、厳密な「生物種」の立場ではネアンデルタール人と現生人類は同種となります。今でも一般的にネアンデルタール人が現生人類とは別種と扱われるのは、生物学的「種」の定義をそのまま進化史に当てはめるのは矛盾をはらんでおり、現生野生動物種においても隣接する別種間で中間種が見つかることもあり、厳密な「生物種」と「化石種」を同一視しなくてもよい、という立場によります。

〇感染症(疫病)仮説

 ネアンデルタール人と現生人類が交配可能で、じっさいに直接的接触があったならば、両者間で病気の伝播が起きた可能性も考えられます(関連記事)。じっさい、ネアンデルタール人由来のゲノム配列には、多くの感染症や免疫系と関連する遺伝子が含まれています。感染症への抵抗性の違いが、ネアンデルタール人と現生人類の命運を分けた可能性も考えられ、感染症の動態と交雑による影響をモデル化することで「交替劇」を説明する研究もあります。異なる病原群を有する2集団は、感染性の病気の存在により集団間の人口動態を安定化させることができ、交雑による遺伝子流動後には、道の病原菌の減少により集団間の往来の障壁はなくなります。各集団がもともと有していた病原群に違いがあり、未知の病気の数が異なることにより、障壁の取り払われる時期と、その後の集団規模の変化も異なることが示されたわけです。

 このモデルにより、アジア南西部のレヴァント地域におけるネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」は、以下のように説明されました。アフリカ起源の現生人類は熱帯性、ヨーロッパ起源のネアンデルタール人温帯性の病原群を有しており、互いに未知の病気を持っていました。18万~12万年前頃、現生人類の出アフリカの最前線だったレヴァントでは、現生人類とネアンデルタール人が長期にわたってレヴァントという狭い地域で接触していましたが、その間に徐々に遺伝子流動が起きました。5万年前頃以降のある時点で両者の障壁が低くなり、接触範囲が広がりましたが、この時点で両者にとっての未知の病気の深刻度が異なり、現生人類が集団規模を拡大した一方で、ネアンデルタール人では集団規模が縮小した、というわけです。具体的な感染症や病因を特定できていませんが、現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の配列の分析から、自然選択に有利に作用している部分を調べることにより、こうした病因関連配列の候補が見つかるかもしれません。


●環境への対応能力と偶然

 ネアンデルタール人と現生人類の「交替劇」の要因に関して、決定的な解答はまだ見つかっていません。これら関して、「偶然」の重なりを指摘する見解もあります(関連記事)。人類進化の過程は直接的ではなく、複数の人類集団が生まれては消えていきました。アウストラロピテクス属の頃から現生人類の出現に至るまで、複数の人類集団が地球上で共存したことは明らかで、各集団はそれぞれの地域環境に適応していました。ネアンデルタール人と現生人類も同様で、「交替劇」の環境で遭遇した両集団のうち、現生人類が生き残り、ネアンデルタール人が絶滅した理由は、「偶然」の積み重ねでした。適切な時に適切な場所にいたのが、偶然にも現代人の祖先だった、というわけです。一方ネアンデルタール人は、不適切な時に不適切な場所にいました。

 この仮説では、ネアンデルタール人と現生人類の「能力差」に見える事象も偶然の産物のようです。同時代を生きた両者は地域環境の変化にあわせてそれぞれ革新を起こした、というわけです。イベリア半島の端に追いやられたネアンデルタール人が4万年前頃以降も生き延びたのは、その地の海産資源を食べたからでした。一方でアジア中央部に拡散した現生人類は、ツンドラステップという寒冷・乾燥した大平原への適応を可能にしました。それぞれの環境への適応を果たした点で、両者間に能力差はなかったものの、その後の気候変動(や何らかの環境変化)が偶然にも現生人類に有利に作用した、というわけです。偶然上手くいったものが残り、そうでなかった者は個体数を減らして絶滅へ向かうという進化の考え方は、ダーウィン(Charles Robert Darwin)の主張した「適者生存」と、木村資生の「分子進化の中立説」を統合する現代的な進化の考え方と適合します。偶然の事象が重なった結果、「交替劇」が起きたのかもしれません。


参考文献:
近藤修(2021)「旧人ネアンデルタールの盛衰 現生人類との交代劇」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第4章P59-74

ゾウにとって強力な選択圧となる象牙の密猟

 ゾウにとって密猟が強力な選択圧になることを報告した研究(Campbell-Staton et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この現象は以前から報道されていました。この研究は、モザンビーク内戦(1977~1992年)中とその後、モザンビークのゴロンゴーザ(Gorongosa)国立公園に生息するアフリカゾウの進化に対する象牙目当ての狩りの影響を調査しました。この内戦中、両軍は戦費調達のために象牙取引に大きく依存し、それによってゾウの個体数は90%以上も激減しました。

 この研究は過去の現場データと個体数モデリングを使って、内戦中の激しい密猟によりこの地域で完全に牙のない雌のゾウの割合が増加したことを示しました。これは密猟という脅威下ではるかに高い確率で生き延びることができる表現型の出現だと指摘されています。食料や安全や営利のどれが目的であれ、種の選択的殺傷は人口の増加と技術の進歩につれて増え、激化したにすぎません。したがってそれは、人間による野生生物の搾取が標的種の進化を促す強力な選択圧になることを示しています。この研究結果は、人間による捕獲が野生動物群に対して及ぼす可能性のある強力な人為的選択圧を明確にする上での新たなヒントになる。

 この研究は、牙のない雄が全く観察されなかった性差の原因として、牙の遺伝パターンには伴性の遺伝的原因があることを示唆している、と指摘しています。全ゲノム解析により、哺乳類の歯の発生における役割が判明している遺伝子座であるAMELXを含む、一対の候補遺伝子が明らかになりました。ヒトの場合、これらの遺伝子はゾウの牙に相当する側切歯の成長を阻害する雄にとっては致死的なX連鎖性優性症候群と関係があります。この研究の単純明快な手法は、選択的捕獲に対する遺伝的反応を記録した希少な研究の一つで、これにより選択的捕獲が進化的応答につながる可能性を議論するさいの知識を得られる、と評価されています。


参考文献:
Campbell-Staton SC. et al.(2021): Ivory poaching and the rapid evolution of tusklessness in African elephants. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abe7389

海部陽介「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。国連推計では2019年の世界人口は約77億人で、増加率は鈍化してきているとは、今後も増加し、2050年には約97億人に達すると予測されています。人類がこうした「繁栄」を示すようになった理由と時期、その過程で身体と社会はどう変わってきたのか、といった答えは全て人類進化史にあります。本論文は、広域分布と均一性という、現生人類(Homo sapiens)のきわだつ二つの特質に注目しながら、ホモ属の人類史を概観します。

 現生人類は人類の1種で世界中に分布しており、これは完新世最初期から同様です。しかし、他の生物は異なります。現生人類のように、異なる気候帯や植生帯、広大な海をまたいで地球上のほぼ全ての陸地に分布している動物は、他にはいません。さらに、これだけ広域分布しながら1種であることも、現生人類の不思議な側面です。広域分布する哺乳類として、たとえばタイリクオオカミ(Canis lupus)はかつてユーラシアと北アメリカ大陸の大半に生息していましたが、基本的には北半球の動物で、北半球でもアジア南東部の熱帯雨林やアフリカ大陸には存在しませんでした。動物たち通常、広域分布するようになると多様な種に分化していきます。移動性の低い小型種ほどその傾向は顕著で、たとえば南極を除く全世界に分布するネズミ目の種数は2000から3000と推測されています。ヒトを宿主とする病原体ならば爆発的に広がる機会があるでしょうが、現生動物種では、自力で地球全体へと広がることがいかに困難なのか、了解されます。

 霊長類(霊長目)では、これがより明確になります、現生人類霊長類は200~500種と推測されていますが、基本的には亜熱帯の森林を生活域にしています。霊長類の中には草原に適応した分類群もいますが、砂漠や高緯度地域には進出できませんでした。しかし、現生人類の分布域は、1種だけでこれら200種以上よりもはるかに広くなります。人類が、いつからどのようにして世界へ広がったのか、その過程で何が起こったのか、本論文は概観します。


●ホモ属の出現

 700万~350万年前頃の「初期の猿人」や420万~140万年前頃の「狭義のアウストラロピテクス属」および「頑丈型の猿人」では、直立二足歩行が進化して地上への進出が強化され、330万年前頃には初歩的な石器が使い始められていた、と考えられています(関連記事)。しかし、これらの人類の脳サイズは現生大型類人猿並で、顔面や体系などの各所に(非ヒト)類人猿的要素が色濃く残っており、その長い歴史において最後まで故郷のアフリカを出ることはありませんでした。

 そうした人類進化史に大きな変化が現れ始めたのは300万~200万年前頃で、アフリカ東部のこの時期の地層からは、歯や顎がやや小型化し、脳サイズは「猿人」よりも明らかに大きい人類化石が発見されています。このように頭骨と歯に「ヒトらしさ」が現れた人類はホモ属と分類され、「猿人」とは区別されています。日本では、このホモ属の祖先的集団をまとめて「原人」と呼ぶことが慣例となっています。「原人」はアフリカ東部に生息していた「猿人」から派生したと考えられますが、現時点では300万~200万年前頃の人類化石の発見例が少なく、その出現期の詳細について不明点が多いものの、以下の3点が重要です。

 まず、この時期は地球史における第四紀氷河時代の始まりに相当し、アフリカでは古土壌の安定同位体や哺乳類の種構成などに、森林が減少し、草原が広がった痕跡を読み取れます。つまり、気候の乾燥化と植生の変化の中で、そこに暮らしていた人類は食性など生存戦略の変化を迫られたはずで、その新たな選択圧下でホモ属が出現したようです。

 次に、石器の増加が注目されます。当時の主要な石器は、拳大の円礫の一部を打ち割って刃をつけた単純なもので、その石器製作伝統はオルドワン(Oldowan)、その特徴的石器はオルドヴァイ型石器と呼ばれますが、それがアフリカ東部の260万年前頃以降の地層から散発的に見つかるようになります。同時に、動物骨に石器で切りつけた解体痕(cut marks)の発見例が増えることから、「原人」たちは石器で動物を解体し、肉食の頻度を増やしていたようです。おそらく石器の使用と肉食への移行と脳の増大と歯の小型化には相互関連性があり、たとえば肉食による消化器官の負担軽減がエネルギーコスト面での脳の増大化への道を開いた、とする仮説が有力視されています。

 最後に、この時期に生存していた人類が「原人」だけではなかったことです。ホモ属の登場と時期を同じくして、アフリカ東部には臼歯と顎が極端に大型化した、「頑丈型猿人(パラントロプス属)」が出現します。「頑丈型猿人」では脳サイズの変化は微増程度に留まっており、ホモ属とは別の道を歩んだ人類だった、と示されます。しかし、「頑丈型猿人」は当時のアフリカにおいて弱小なそんざいではなく、アフリカでは東部から南部まで化石が多数見つかっており、140万年前頃に化石記録が途絶えるまでは、一つの勢力としてホモ属と長期にわたって共存していました。

 初期「原人」については、分類をめぐって長く論争が続いています。一部の研究者は、1964年に提唱されたホモ・ハビリス(Homo habilis)以外に、アフリカ東部には複数の初期ホモ属種が共存し、複雑な進化を遂げたと主張していますが、他の研究者は、それは種内の個体変異を過大評価しているにすぎない、と考えています。こうした論争を決着させる新たな化石の発見他のため、アフリカでは各国の研究者が調査を続けています。


●「原人」の出アフリカ

 アフリカに登場した初期「原人」のホモ・ハビリスは比較的小柄で、脳サイズも現生人類の半分程度(約640cc)でした。近年、化石骨や石器の年代整理が進んだことで、「原人」のその後の進化について、一つの傾向が浮き彫りになりつつあります。それは、175万年前頃に、「原人」の身体と石器文化に大きな変化が現れたことです。175万年前頃を境に、脳サイズが約850ccと一層大きくなり、身長も現代人並に高くなったホモ属化石が見つかるようになります。専門家はこの人類をホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類していますが、アフリカのホモ属をエルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。ホモ・エレクトスの脳は現代人の2/3程度の大きさでしたが、現代人的な脚長の体型や股関節の構造などから、長距離走や投擲が特異なヒト特有の運動機能を発達させ、さらに発汗により効果的に体温を冷却するヒト的生理機構が進化していた、と推測されています。

 ホモ・エレクトスの登場と同じ頃に、アシューリアン(Acheulian)と呼ばれる新たな石器文化が出現しました。その代表的石器はアシュール型ハンドアックス(握斧)と呼ばれる大型の打製石器で、左右や表裏に対称性があり、土掘りや動物の解体など、多様に用いられていたようです。アシューリアン(アシュール文化)の石器はその後、経時的にさらに洗練されていきました。

 「原人」の出アフリカについて、20世紀の人類進化学の教科書では100万年前頃に初めてユーラシアへと広がった、と書かれていましたが、その後の発見と研究により、出アフリカはもっと古い、と明らかになってきました。黒海とカスピ海に挟まれたジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃にさかのぼるオルドヴァイ型石器と、178万年前頃の「原人」化石が大量に発掘されています。ドマニシ遺跡の「原人」は、報告者たちによりホモ・エレクトスに分類されていますが、その頭骨は実際にはかなり祖先的で、既知のホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間的特徴を示しています。ドマニシ「原人」は人類化石として現時点ではユーラシア(非アフリカ地域)最古となり、脳が大きくないといった祖先的特徴を備えています。

 ドマニシ遺跡を越えて西方に広がるヨーロッパでは、60万年以上前となる古い人類遺跡の発見例が乏しいものの、見つかった石器はオルドヴァイ型です。現時点では、スペインで見つかった78万年前頃の子供の頭骨や、120万年前頃とされる断片的な下顎骨化石が知られていますが、これらの人類化石と既知の「原人」との関連性は明らかではあれません。

 アジア東方で最古の人類遺跡は中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)に位置し、人類化石は出土していないものの、ドマニシ遺跡より古い212万年前頃の地層でオルドヴァイ型石器が発見されており、中国北部では、その他にも170万~120万年前頃になるかもしれない石器が、いくつかの遺跡で見つかっています(関連記事)。

 中国での発見事例を考えると、より温暖なアジア南部および南東部にも、200万年前頃に「原人」が進出していたとして不思議ではありませんが、現時点ではその証拠はほぼ皆無です。インドネシアの「ジャワ原人」については、最古の年代が127万年前頃もしくは145万年前頃以降と推定されています(関連記事)。ただ、その化石にはかなり祖先的な特徴があるので、アジア南東部大陸部に200万年前頃に進出していた古い「原人」集団が、大陸部と接続したり切断されたりを繰り返していたジャワ島へ渡るのに数十万年かかった、と想定することもできます。


●アジアにおける「原人」と「旧人」の多様化

 アジアに広がった人類からその後、ホモ・エレクトスの地域集団である「ジャワ原人」や「北京原人」が派生しました。かつて、最初にアジア東方へ広がったのはこのホモ・エレクトスで、その後100万年間近く、アジア東方にはホモ・エレクトス以外の人類は存在しなかった、と考えられていました。しかし近年になってアジア東方において、これまで人類化石が確認されていなかった地域で新たに人類化石が複数発見されています。

 ジャワ島のフローレス島では、2003年に10万~5万年前頃(報告当初は18000年前頃と推定されました)の地層から新種の「原人」化石が発見され、新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名されました(関連記事)。これが大きな話題となったのは、身長が105cm程度とひじょうに小型で、脳サイズもチンパンジー並だったからです。過去200万~5万年前頃に、人類の身体および脳サイズは大きくなる傾向にありましたが、「フローレス原人」はこの傾向に明らかに反しています。フローレス「原人」の起源については激しい議論が続いていますが、本論文は「ジャワ原人」起源説を主張します。その根拠は、「フローレス原人」の諸特徴が「ジャワ原人」と酷似しており、それ以上の祖先性は認められない、という形態解析結果です。この見解が正しいならば、身長165cmで脳サイズ860cc程度の110万年前頃の「ジャワ原人」の状態から、身長105cmで脳サイズ426cc程度の「フローレス原人」の状態まで、劇的な矮小化が起きたことになります。そうした極端な進化はあり得ない、との見解もありますが、最近になってフローレス島で70万年前頃の人類化石が発見されたことにより、「ジャワ原人」起源説が改めて指示されました(関連記事)。

 過去の海水準変動でアジア大陸部と接続・文壇を繰り返したジャワ島とは異なり、フローレス島はずっと孤立した島でした。動物学では、そうした島で動物の身体サイズや脳サイズに劇的な変化が起こり得る、と知られており、島嶼効果(島嶼化)と呼ばれています。フローレス島でもそれが起こり得ることは、フローレス島のゾウ類がウシのサイズに縮小している事実からも裏付けられます。「フローレス原人」の発見は、人類といえども、島嶼化のような動物進化の法則から独立しているわけではない、と改めて研究者に突きつけました。2019年には、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された人類化石が矮小化した「原人」と判明した、と報告されました(関連記事)。この「原人」は新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と命名され、島環境における特殊な人類進化がさらに注目されました。

 台湾の西側の海底では、漁船の底引き網にかかって人類の下顎骨化石が発見され(澎湖人)、その年代は間接的証拠から45万年前頃以降で、おそらく19万年前頃よりも新しい、と推測されています(関連記事)。この下顎骨は頑丈で歯が大きい点で、より古い80万~75万年前頃の「ジャワ原人」や「北京原人」よりも祖先的に見えます。「原人」の歯と顎は経時的に小型化していく傾向にあるので、「北京原人」も「ジャワ原人」も澎湖人の祖先とは考えにくく、両者とは異なる系統の人類がアジア大陸の辺縁部に存在したことを示唆します。

 現在はロシア領となるシベリア南部のアルタイ地方は、モンゴルと中国とカザフスタンの国境が入れ乱れる地域の付近に位置します。アルタイ山脈には古い人類遺跡のある洞窟がいくつか知られており、その一部は化石とDNA解析からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と同定されました。さらに、現生人類ともネアンデルタール人とも異なる人類の存在が明らかになり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と呼ばれています(関連記事)。デニソワ人はDNAから同定された初めての人類で、その素性はまだよく分かっていません。その後、チベット高原で発見された人類化石がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と明らかになっており(関連記事)、チベット高原の洞窟堆積物ではデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人でもアルタイ山脈やチベット高原から遠く離れたオセアニアおよびアジア南東部島嶼部の一部集団でとくに高いと示されており(関連記事)、その解釈をめぐって研究が続けられています。

 このように新たな化石の発見と分析技術の進歩により、ホモ属の進化史はじゅうらいの認識よりも多様で複雑だった、と明らかになりつつあります。その状況は、「原人」よりも派生的な形態特徴を有する「旧人」が現れてからも、おそらくは変わっていません。おそらくヨーロッパでは60万年前頃以降、アジア東部では30万年前頃以降に「旧人」が出現し、ともに5万~4万年前頃まで存続していた可能性があります。しかし、その時点でアジア辺縁部にはなおも「原人」系統が存在しており、人類進化史の複雑性とともに、現生人類しか存在しない現代が特異な時代であることを示します。


●現生人類の出現

 上述のように、5万年前頃までの地球上において人類はかなり多様で、世界の異なる場所には異なる種が存続しているのは普通でした。それから状況は大きく変わり、「原人」も「旧人」もいなくなり、現在では現生人類1種だけが、かつての人類の分布域を大きく越えて世界中で暮らしています。この激変を説明する理論が、現生人類アフリカ単一起源説です。1980年代頃までの学界では、多地域進化説が一定の影響力を有していました。多地域進化説では、これは、アフリカとユーラシア各地へ広がった「原人」の子孫たちが、隣接集団間の遺伝子交換により進化の方向性を共有しつつ、基本的に各地域で「旧人」を経て現代人へと進化した、と想定されました。これに対して現生人類アフリカ単一起源説では、現生人類がアフリカの「旧人」集団から進化して世界各地へ広がった、と想定されます。

 2000年代以降、現生人類アフリカ単一起源説は遺伝学(ゲノムデータに基づく系統樹では、現代人は全員20万~10万年前頃にアフリカで派生したと示されます)や化石形態学(現代人と同様の形態特徴を有する化石頭骨は、30万~15万年前頃にアフリカで最初に出現します)や考古学(装飾品や模様などの「先進的」行動はアフリカで最初に始まります)など、さまざまな証拠により固められ、定説となりました。現生人類の起源が明らかにされたことで、現生人類の歴史を本格的に語る枠組みが得られました。これまでの歴史叙述の多くは「文明」の誕生と発展に力点を置いてきましたが、人類史は「文明」誕生以前から始まっており、地域によっては「文明」とは縁遠い暮らしを続けてきた人々もいます。そうした全ての人々を視野に含めた歴史を語るならば、現生人類自身の歴史にもめを向けるべきで、現生人類アフリカ単一起源説の確立を受けて、今はそれが可能となっています。近年脚光を浴びている「グローバルヒストリー」の背景には、こうした流れがあります。


●世界へ広がった現生人類

 「原人」や「旧人」はユーラシアへと拡散したとはいえ、その分布域は世界の陸域の半分にも満たないものでした。「原人」や「旧人」のそれ以上の拡散を何が阻んでいたのか、逆にそれを突破した現生人類の新規性がどこにあるのかを、読み取れます。遺跡証拠に基づく現生人類の拡散経路の復元地図は直接的証拠なので、遺伝学に基づくそれよりも確度が高くなります。現生人類が世界へ広がった最終氷期後半(5万~1万年前頃)は、海水面が最大で現在よりも125~130m下がっていました。

 現生人類の出アフリカの年代については、10万年前頃や7万年前頃や5万年前頃などの仮説がありますが、現代人の系譜へとつながるユーラシア全土への本格的な拡散が始まったのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代(後期旧石器時代)です。その時点で、ユーラシアの中~低緯度地域には多様な「原人」や「旧人」の先住者がいましたが、なぜかこの時期にその大多数は姿を消しました。アフリカからユーラシアへと拡散していった現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人などと部分的に混血したことが、化石人類および現代人のゲノム解析から判明しており、非アフリカ系現代人は、そうした非現生人類ホモ属由来のゲノムを数%程度継承しています。

 出アフリカ後の現生人類は、直ちに「原人」や「旧人」の分布域全体へ広がり、さらにその先の無人領域へと拡散しましたるまず、何らかの舟で西インドネシアの海に進出した現生人類集団が、ニューギニアやオーストラリアへ到達しました。そのような海洋進出は、やがて西太平洋のアジア大陸部辺縁地域に転がり、38000~35000年前頃には対馬海峡や台湾沖の海を越えて、日本列島への移住を果たした集団が現れました。島へ渡った現生人類は、海洋航海に限らず、いくつかの新規的行動の痕跡を残しています。たとえば本州や九州では、現時点で最古となる3万年以上前の狩猟用落とし穴(罠猟の証拠)が多数発見されています。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡からは、現時点で世界最古となる23000年前頃の釣り針が発見されました。世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、島が水平線の向こうに見えないほど遠い台湾から与那国島への海峡を、丸木舟で渡る実験航海では、古来の航海術で45時間かけて与那国島へたどり着けました。

 アジア大陸内陸部では、同じ頃にシベリアへの現生人類の進出が始まっていました。現生人類は45000年前頃には、バイカル湖の南側の「旧人」生息域の本源に達し、32000年前頃までには、それをはるかに超えて現在の北極海沿岸にまで進出しています。その背景には、寒さに耐えるための住居建設、裁縫による毛皮の衣服、食料や道具素材の貯蔵など新たな技術開発がありました。シベリアの奥地へ到達した現生人類集団の一部は、やがてアラスカへと進出し、さらにアメリカ大陸へと広がっていきました。

 こうして最終氷期が終わって気候の温暖化が顕著になる1万年前頃までに、南極大陸を除く全ての大陸が現生人類の分布域となりました。その後、一部地域で農耕が始まって新石器時代になると、より規模の大きい海洋進出が始まり。3500~1000年前頃には、木造の大型帆つきカヌーを有する集団が出現し、アジア南東部を起点に太平洋の中央に位置するポリネシアや、インド洋のマダガスカル島に拡散しました。

 このように現生人類は、ヨーロッパで「大航海時代」が始まるずっと前から、南極を除く地球上のほぼ全ての陸域で暮らすようになっていました。その拡散の様相をたどると、他の動物とは異なる現生人類の特異性が浮き彫りになります。他の動物が新たな環境に進出するさい、身体構造の進化を伴うのが普通ですが、現生人類は海を越えるために舟を発明し、寒さに耐えるために他の動物の毛皮を利用するというように、技術と文化でそれを解決しました。


●現代人の多様性の逆説

 20世紀後半以降に急速に発展した人類遺伝学は、現生人類アフリカ単一起源説の確立に大きく貢献しましたが、その他に重要な発見が一つあり、それは、外見から受ける印象とは異なり、現生人類の遺伝的多様性は低い、ということです。世界各地の現代人は、肌の色や体型や顔や髪質などでかなりの多様性を示すので、外見からその人の出身地を大まかに言い当てることもできます。一方でチンパンジーには、現代人の視点ではそれほど外見の多様性はありません。しかし、非ヒト類人猿と現代人のゲノムの比較では、現代人の方が遺伝的多様性は低く、これは、現生人類は誕生(より正確には現代人の遺伝的分化の開始)以降の歴史が浅い、と示します。このように、見かけと遺伝的多様性の様相が相反することを「現代人多様性の逆説」と呼びます。

 この逆説の理由は、現生人類が急速に世界へと拡散したことと関連しています。つまり、気温や日照条件などが異なる各地へ拡散した現生人類は、各地に適応するような選択圧が作用し、関連する一部の遺伝子が変異して(あるいは非現生人類ホモ属から適応的な変異を得て)外見上の多様性が生まれました。具体的には、肌の色は紫外線照射量と相関しており、身長や体型もある程度は気温と関連している、と示されています。現生人類では、一部の遺伝子が多様化して見かけの集団間の多様性が生まれましたが、ゲノム全体の種内多様性は低く、この逆説を正しく認識することは現代社会において有益です。現生人類は視覚で判断する性向を有するので、外見が異なる他者を異質と決めつけて排除してしまう危険性があります。これは無用な差別の温床になり得るので、これを避けるには、個々人が多様性の実態を理解しなければなりません。


●世界拡散以後の四つの革命

 現在、多様な現生人類の言語や文化が存在しますが、これも上部旧石器時代以降の歴史の産物です。古代「文明」以降、そうした文化の地域的多様性はさらに増し(と本論文は指摘しますが、「文明」以降、逆に均質化が進んだのではないか、と私は考えています)、やがて支配する集団と支配される集団の関係が生まれました。しかし、こうした差異を集団の優劣の反映と安直に考えるべきではありません。「グローバルヒストリー」の観点から、どの地域でどのような文化が生まれるかは、その集団の移住先の地政学的要因や歴史に強く作用される、との認識が提示されています。こうした文化や社会体制の多様化の経緯も、上述の身体形質とともに、現生人類の歴史として理解すべきです。異文化に敬意を抱き、多文化共生を目指すならば、そうした姿勢が必須となるでしょう。

 進化ではなく歴史が社会を変えてきた具体例として、人類史でよく知られたいくつかの「革命」があります。それは、認知革命や農業(食料生産)革命や産業革命や情報革命などです。千年単位の長い過程の結果である農耕の発生に革命という呼称は相応しくない、との見解もありますが、興味深いのは、革命により生じた文脈です。認知革命の定義はあいまいですが、一般的には、創造力や想像力や認識力や言語による複雑な情報伝達力や未来予見性や計画力にたけた、現生人類の認知能力の進化を指しています。農業革命と産業革命と情報革命は現生人類の世界への拡散後に生じたもので、認知能力の進化を伴うわけではありません。それは、食料生産や工業生産や情報技術のどれも、発明者から近隣集団へとすぐに伝わったことからも明らかです。

 つまり、現生人類は特別な進化なしに、過去5万年間に技術や社会体制を飛躍的に発展させました。考古学によると、そうした大変革の萌芽はすでに上部旧石器時代に存在しており、文化が地域的多様化や時代的変遷を示すことは、上部旧石器文化の特徴の一つと把握されており、たとえばヨーロッパ西部の上部旧石器文化は、オーリナシアン(Aurignacian)やグラヴェティアン(Gravettian)など細分化され、日本列島の後期旧石器時代も前半と後半と末期では様相が異なります。つまり、先代の技術や知識を継承しながら次々と発展させていく行為そのものが、現生人類の特徴と言えます。進化していく過程で新たなものを獲得する他の生物とは異なり、独自に歴史を創出して変えていくのが現生人類で、上部旧石器時代の世界規模の拡散もそうして達成されました。現生人類はこうした能力を共有していますが、各地域の歴史的経緯が異なったので、文化や暮らし方は多様になりました。


●現生人類の功罪

 このように右肩上がりの発展と多様化を遂げてきた現生人類ですが、今やその行動には、有用と判断した動植物の生育を制御し、有害と判断した生物を排除し、陸の地形を変え、気候に影響を及ぼし、海にも宇宙にも廃棄物があるなど、自然を左右するほどの影響力があります。その功罪一覧は膨大になるでしょうが、人類史の視点から二つ挙げると、大絶滅および「文明病」と呼ばれる疾患です。現生人類が世界各地へ拡散した更新世末には大絶滅が起きたとされており、ユーラシアの非現生人類ホモ属とともに、各地の大型哺乳類や地上性鳥類が次々と絶滅しました。気候変動がその絶滅の一部を説明できるかもしれませんが、現生人類に大きな責任があることは否定できないようです。絶滅の影響は、それまで無人だったオーストラリアやアメリカ大陸などでとくに大きく、日本列島でも、ナウマンゾウやケナガマンモスやステップバイソンやオオツノジカやヒョウなどが、現生人類の到来後に消滅しました。つまり、現生人類による環境破壊は上部旧石器時代から始まっていたわけです。

 「文明病」と呼ばれる一連の疾患には、高血圧や心筋梗塞や虫歯などがあり、食生活の変化に起因します。1990年代末に登場した進化(ダーウィン)医学では、これが身体と生活環境の不一致という視点で解釈されます。つまり、現生人類にとって最適な食生活とは、長期にわたる旧石器時代の狩猟採集生活に合うよう調整されてきたはずなのに、「文明」の発展に伴って環境が急激に変わり、祖先がおそらく経験しなかった、飽食や糖分の過剰摂取が容易な社会を形成してしまい、その環境に身体がついていけずに生じている新たな病的状態が一連の文明病である、というわけです。このように人類史の次元で歴史を把握し直すことにより、現代人は自身の再発見の機会を得られます。そのため、学際的な人類史のさらに詳しい復元が今後も必要となるでしょう。


参考文献:
海部陽介(2021)「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第3章P43-58

大河ドラマ『青天を衝け』第32回「栄一、銀行を作る」

 大蔵省を辞めた栄一は銀行作りに奔走し、第一国立銀行の設立に関わって総監役に就任します。官界でも民間でもそれぞれ違う苦労があるもので、それぞれの立場に応じて栄一の才覚と苦労が描かれており、よいと思います。民間に転じた栄一は癖のある人物相手に苦労が多いものの、それを楽しんでもいるように見えます。今回新たに登場した岩崎弥太郎は、ひじょうに癖のある人物として描かれるようで、まだ栄一とは会っていませんが、二人の対面というか対決は後半の見どころの一つになるのではないか、と期待しています。

 今回は栄一の家庭場面の描写が長めで、家庭場面を描くことにやたら否定的な大河ドラマ愛好者もいるようですが、世相の変化も台詞で自然に示されていましたし、何よりも栄一の母親の退場ですから、長めでよかったのではないか、と思います。史実がどうだったのか知りませんが、本作では栄一は両親に恵まれています。気になるのは、相変わらず大久保利通が悪役寄りの小物のように見えることで、今後、大物政治家としての側面が描かれるのでしょうか。

古代DNA研究の倫理的指針

 古代DNA研究の倫理的指針(Alpaslan-Roodenberg et al., 2021)が公表されました。この指針はオンライン版での先行公開となります。この指針は複数の言語に翻訳されており、日本語訳もあります。古代DNA研究の倫理的問題については以前から指摘があり(関連記事)、古代DNA研究の側でも対応が進んでいるように思われますが、この倫理的指針では、それは個別的なので世界的に適用可能な基準が必要になる、と指摘されています。さらにこの倫理的指針では、過去10年間、古代DNA研究は、他の学問分野からの情報に加えて、あらゆる集団の「純血」神話を否定し、人種差別主義者や国粋主義者の主張が間違っていることを立証してきており、遺伝情報を集団の帰属判断のための道具として誤用しようとする人がいますが、遺伝情報をアイデンティティの主要な基準として使用することは不適切である、と指摘されています(関連記事)。以下、要約の日本語訳を引用します。

 私たちは31 カ国と多様なグローバルコミュニティを代表する考古学者、人類学者、博物館学芸員、遺伝学者のグループです。その多くは2020年11月に開催された古代DNA研究における倫理をテーマにしたバーチャルワークショップに参加しました。そこでは、 世界的に通用する倫理ガイドラインが必要であるという点で広く合意が得られましたが、北米でのヒト遺骨・遺体研究に関する議論に基づいた最近の推奨事項は、世界的には普遍化できないおそれがあります。様々な状況を考慮して、私たちは以下のような世界的に適用可能なガイドラインを提案します。これらは、1)研究者は、研究を実施する場所やヒト遺骨・遺体が出土する場所における、すべての法令や規則に準拠していることを確認すること、2)研究者は、研究を始める前に詳細な計画書を作成すること、3)研究者は、ヒト遺骨・遺体の損傷を最小限に抑えること、4)研究者は、科学的知見を批判的視点から再検証できるように、論文発表後にデータを確実に公開し利用可能にすること、5)研究者は、研究の初期段階から他の利害関係者と対話を進め、利害関係者の視点を尊重し細心の注意をもって理解すること、からなります。私たちは、このガイドラインを遵守することを約束し、これにより、ヒト遺骨・遺体についてのDNA 研究における高い倫理基準が育まれることを期待しています。


●共同体との倫理的関わりは状況に応じて変わる

 その上で指摘されているのは、古代人を対象とした倫理的なDNA研究に関する文献の多くはアメリカ合衆国に焦点を当てている、ということです。開拓者による植民地主義の歴史、先住民の土地や人工物の収奪、先住民共同体の抑圧を経験した地域では、先住民の視点を中心に据えることがひじょうに重要となります。こうした状況においては、共同体との協議なしでは多くの問題が生じる危険性がある、というわけです。アメリカ合衆国では、連邦政府が出資する機関に保管されている古代のアメリカ先住民の遺骨・遺体はすべて、アメリカ先住民の墓地の保護と遺品の返還法(NAGPRA:Native American Graves Protection and Repatriation Act )の対象となります。それらの機関が先住民グループと協議し、古代人の遺体を、文化的に識別できるかどうかにかかわらず彼らに譲渡することに向けて努力することを義務づけています。

 オーストラリアでは、類似の法律により、先住民(アボリジニ)やトレス海峡諸島民の共同体から持ち出された人骨を、4 万年前ころに遡るものの含めて返還しようとしています。しかし、現代の集団との物質的・口承的なつながりがほとんどない(あるいは、あったとしてもきわめて限定的である)古代人の遺体の調査を行なう場合や、ある集団が他の集団よりも文化遺産の所有権を持っている、との考えを支持することが社会的対立の原因となる場合には、古代人の一人一人を現代の集団と関連づけることを義務づける先住民中心の倫理的枠組みは適切ではありません。


●先住民の視点の代表としての政府機関

 アメリカ大陸の多くの国では、先住民族の遺産が国家のアイデンティティに組み込まれ、政府の文化機関に包括されており、たとえばメキシコでは独立後に、大多数を占めるメスチーソ(混血の人々)は、ナワ(アステカ)やマヤやサポテカなど先住民族の遺産を国家のアイデンティティに不可欠な部分として受け入れてきました。ペルーでは、先住民の文化を広め差別と闘うことを目的とした運動であるインディヘニズモ(indigenismo)の流れの中で文化省が設立されました。こうした状況では、ヒト遺骨・遺体を分析するために政府や遺産保護団体に承認を求める手続きは、先住民遺産についての健全な対話と尊重ための方法となり得て、アメリカ合衆国の方式をそのまま適用することは逆効果になるおそれがあります。中南米の古代DNAに関する論文では、アメリカ合衆国で策定された先住民との関与に関する規準に適合していない、との査読評価を何度も受けた著者もおり、中南米出身の研究者は、このような査読評価が、よく言えば高慢、悪く言えば植民地主義的であると感じてきました。中南米の多くの国では、先住民族の遺産を受け入れ、それを政府の承認過程や文化施設に組み込むための取り組みがアメリカ合衆国よりも、はるかに進められてきました。

 しかし、アメリカ大陸諸国では、政府と先住民共同体の関係性に大きな違いがあるため、研究者は個別に追加の協議が必要か否かを判断しなければなりません。ペルーとメキシコでは、先住民族の遺産がアイデンティティの重要な要素を占める集団は、さまざまな割合で政府に参加しています。一方ブラジルでは、先住民の共同体はしばしば抑圧されており、先住民グループが彼らの祖先に関連する考古学的資料の取り扱いについて発言できる法的仕組みはありません。アルゼンチンでは、先住民族の遺産に関わる研究課題を実施するさいには、共同体の同意を得る法律上の義務がありますが、必ずしも守られていません。グアテマラでは、人口の約半分を占めるマヤをはじめとする先住民族が、依然として政治・経済的に恵まれない立場に置かれています。このような状況では、古代DNA 研究チームの構成員は、法律上義務づけられている以上に、共同体との対話を進め、先住民の視点を取り入れることが倫理的な責任となります。


●先住性 の意味における世界的な差異

 先住性(Indigeneity)の意味は世界的に様々です。アフリカでは、植民地化された集団の子孫が圧倒的に権力を握っており、「先住性」とは多くの場合、集団がその地域にどれだけ長く定着しているかという伝統よりも、アイデンティティに基づいて政治的または社会的に疎外されている状態を指します。アフリカの共同体の多くでは、植民地時代やその後の強制的な移住や社会的混乱などの歴史により、自分たちが住む土地との関わり方はひじょうに複雑なものになっています。地域によっては、過去の住民を自分たちと血族関係のあるものと認めないところもあります。この原因として、現代の宗教的・文化的な信念体系が旧来のものとは異なること、他地域からの移住に関する集団的な記憶、他集団と結びついていることによる迫害への恐れ、土地と結びついた社会政治形態を分断し、今でも暴力と望まざる移住の原因となっている、ヨーロッパ人による植民地化の間に行なわれた政策の余波が続いていることなどが挙げられます。こうした状況では、文化遺産に関する意思決定権の付与が社会的な対立を悪化させることのないように、地元集団から政府代表まで含んだ利害関係者間での慎重な協議が必要です。このような場合、先住性を古代のDNA分析を許可するための原則とすることは、望ましくないと考えられます。

 アフリカ(および他の多くの地域)における古代DNA 研究に関連するより差し迫った問題は、非倫理的に収集され、また、多くの場合海外に送られたヒト遺骨・遺体という植民地時代の遺産に対処しなければならないことです。研究者は、古代人の遺体研究の許可を得るために保全機関および由来国の研究者と協力し、その作業の一環として、出所や歴史的不正義や送還や返還に関する議論を進める必要があります。これに関連する問題として、アフリカでは、現地の人々との対話がほとんどない、不公平で多くの場合搾取的な研究が、おもに欧米の研究者によって行なわれてきた歴史があります。外国人研究者は、利害関係者が研究課題や研究計画を立案できるようにするための研修やその他の能力開発などを通して、公平な協力関係を構築することに努力しなければなりません。


●集団アイデンティティの強調が弊害をもたらす可能性

 誰が先住民族なのか議論することで、外国人への嫌悪や国粋主義的な主張を助長することにつながる地域が、世界中にいくつもあります。このような地域では、古代DNA研究許可の権利を持つ人の決定のため先住民のアイデンティティを基準とすることは、集団間の対立や差別を助長することになり、望ましい方法とは言えません。たとえばインドでは、長く集団のアイデンティティーに基づいて虐待が行われてきたので、カーストや宗教的信条に関する質問を避ける人が多く、実際にカーストを理由とした差別は違法とされています。現在、アジア南部の多くの地域では、どの集団が他の集団よりも古代の遺産に対してより多くの権利を持っているかを判断しようとすること自体が紛争の原因となっているだけでなく(関連記事)、ほとんど無意味なものとなっています。なぜならば、現代人集団の大半は、数千年前からインド亜大陸に居住していた祖先を持つ集団の混合により形成されたからです。ただ、アンダマン諸島のように、誰が先住民であるかが明確な場合もあります。アジア南部の多くの地域では、文化遺産を保護するための公的な手続きが発達しており、この枠組みの中で活動することが、共同体を被害から守るための重要な仕組みとなっています。

 ユーラシア西部では、各地域に祖先を持つと主張する集団が特別な地位にあるべきだ、との考え方が外国人排斥や大量虐殺の一因となっています。ナチス時代に「血と土」の思想を推進していた国粋主義者たちは、ヨーロッパ東部の占領を正当化するために、その地で発掘された人骨が「ゲルマン人」の形態を呈すると主張し、考古学的な研究を歪めました。ヨーロッパの考古学者たちは、特定集団による文化遺産所有権の主張が誤った考えに基づいていることを解明するため、何十年もの間努力してきました。ユーラシア西部における古代DNA研究の倫理は、差別の対象となってきた少数民族の視点を尊重しつつ、特定の土地と先祖代々のつながりがあるという自分勝手な主張を文化遺産所有権の判断に適用しない、という流れを推し進める必要があります。政府の指導者が考古学や古代DNA研究を引用して、集団のアイデンティティに関して都合のよいシナリオを主張し、排他政策を正当化するために利用する危険性は、単なる仮説ではなく、実際にハンガリーやイスラエルなどユーラシア西部の一部の国で現在起きている問題です。


●世界的に適用可能な五つの指針

 以下の古代DNA研究における健全な倫理基準を促進するための五つの指針は、上記全ての研究状況だけではなく、言及されなかったアジア中央部および東部および南東部やシベリアやオセアニアなど、他の主要地域にも適用されます。

 (1)研究者は、研究する場所やヒト遺骨・遺体が出土した土地における、すべての規則が遵守されていることを確認しなければなりません。研究者は、ヒト遺骨・遺体のサンプルを取る地域の状況を考慮したうえで、古代DNA研究を行なうことが倫理的に正しいのか、まず判断する必要があります。研究課題を進めたならば、研究者は現地のすべての規則を遵守しなければなりません。一部の共著者による経験では、古代DNA研究者が必ずしも全ての合意事項に従っているわけではありません。たとえば、生物試料の科学的分析や輸出について、研究所や地方や地域や国の各機関からという複数段階の許可を得て、合意された期限内での保全機関への報告書提出が必要になる場合もあります。現地の規則が倫理的に不充分な場合、研究者は以下の原則に従って、より高い基準を遵守しなければなりません。

 (2)研究者は研究開始前に詳細な計画書を作成する必要があります。これには、研究課題の明確化、適用される技術とヒト遺骨・遺体への予想される影響の記述(分析対象となる骨の部位と使用量を含みます)、解読されるDNAデータの種類の記述、共同研究機関との試料の共有のための計画、未使用の試料の返却と結果の共有の予定や結果を、誰がどこでどのように広めるかの計画、能力開発または訓練が有用な場合はその計画、データ公開の原則に基づく、または利害関係者の合意を得た、データの保存と共有の計画などが含まれます。このような計画書は、研究の範囲を定義し、遺伝子データ解析が予期せぬ方向に進む可能性があることを認識した上で、想定される結果を正直に伝える必要があります。こうした計画書は、後に研究が当初の計画から逸脱した場合に参照できる、もともと意図された研究の記録となります。研究計画の変更は、当初の合意に関与した人々の賛同があって初めて行なわれるべきです。研究者は、古代人の遺骨を研究する許可が与えられると、同意を得られた研究目的のための試料の管理者となりますが、試料の「所有権」は移転されないことを認識すべきです。研究者は、その計画書をヒト遺体の管理責任者や、その他の発言権を持つと考えられる集団と共有する責任があります。そのため、専門家ではない人も計画書を理解できるように書く必要があります。また、適切と考えられ、すべての関係者から合意が得られている場合は、出土地以外で保管されているヒト遺体を出土地に戻すための道筋を計画書の中で説明できます。

 (3)研究者は、ヒト遺骨・遺体の損傷を最小限に抑える必要があります。多くの場合他の部位の何倍もの遺伝子データを抽出できる側頭骨錐体部という骨部位が、近年分析の主な対象になっていることを考慮すると、研究による人類学的収集物に対する影響を最小限に抑えることは、とくに重要と言えます。研究者は他の利害関係者と協議しながら、ヒト遺骨・遺体の保護に関する懸念と科学的分析の調和のための方法を考える必要があります。研究者は、有用なデータの抽出量を最大化しつつ、ヒト遺体の損傷を最小限に抑えるために推奨される方法の習得なしに、ヒト遺体の試料を採取すべきではありません。また、科学的な疑問を解決するために必要される以上の試料を採取すべきではなく、いつ標本抽出されたのかを記述した、試料採取の記録をヒト遺体の管理責任者に提出しなければなりません。

 さらに、DNA の保存状態が悪いヒト遺体に同様の方法での分析を繰り返さないために、有用なデータを得られなかった研究についても公表する必要があります。標本抽出の前に、高解像度の写真撮影と生物考古学(形態学を中心とした出土人骨研究)的な評価に基づいて形態を記録しておく必要があります。少なくとも、ひじょうに年代の古い個体や特殊な状況で出土した遺骨・遺体については、マイクロCTスキャンによる分析やレプリカ作成のための鋳型(cast)を作製する必要があり、動物遺体(骨)や生物考古学的にさほど有用でない人骨の部位を最初に分析して、その出土地におけるDNAの保存状態を評価した方がよいのか、議論する必要があります。

 標本抽出後は、その後の研究における追加のサンプリングの必要性を減らすために、試料の他にDNA抽出物やDNAライブラリーなどの分子レベルの生成物を共有することにより、ヒト遺骨・遺体の責任ある取り扱い方を進めることができます。研究者は、研究の再現性を高めるために、このような分子レベルの生成物を保管する責任があります。また、標本抽出したヒト遺体や抽出・生成物を研究室間で共有する許可を得ることが勧められます。これにより、承認された研究計画に沿った使用であれば、最初の研究で取り上げた問題の再評価や最初の研究の範囲を超えた追加分析が容易になります。

 (4)研究者は、成果の発表後、科学的知見の批判的な再検討が可能になるようにデータを公開しなければなりません。古代DNAデータは迅速に発表されるべきであり、その後、少なくとも結果を批判的に再評価する目的で利用できるようにする必要があります。少なくとも、発表された結果の正確さを検証するためのデータ提供の保証がなければ、科学者は倫理的に研究に参加することはできません。この保証は最初の研究許可に組み込まれている必要があります。これは、誤った情報の拡散を防ぐためにも、将来同じ問題を再検討するための分析を可能にするためにも重要です。

 発表後には、データを完全に利用できるようにするのが最善の方法です。実際、ほぼ全ての古代ゲノムデータは、このように永続的な公開データリポジトリで公開されており、この分野の倫理的な強みとなっています。データの完全公開は科学的知識の進歩に貢献するだけでなく、データの再利用でさらなる標本抽出の必要性を減らすことができるという点で、ヒト遺骨・遺体の責任ある管理にも貢献します。しかし、利害関係者間の話し合いにより、古代DNAデータの再利用方法を制限することが倫理的に正しいと判断されるシナリオも想定されます。ある種の分析結果を開示することで利害関係者に不利益が生じ、データを完全公開することの利点を上回る可能性がある場合などです。こうした事例は、研究開始前の話し合いの過程で特定されるべきであり、研究結果を再評価する目的でのみデータを分析することに同意し、必要な知識・技術を持つ研究者にデータの配布を制限することは、最初の研究計画の一部であるべきです。

 データが完全に公開されない場合、結果を批判的に再検証する目的でのデータの管理と配布は、データの誤用を防ぐための専門知識を持ち、研究結果に利害関係のない組織により行なわれるべきです。これまでは、博物館や先住民集団などの関係者が、発表後のデータの研究者への配布を担当すべきとされてきました。しかし、研究結果に利害関係を持つ者が、当初の研究に関する合意で対象とされていた問題を批判的に再検討しようとする、適切な知識と技術を持つ研究者へのデータの提供を拒否できるような研究課題は、研究者の職業倫理に反します。この点に関して、完全公開されていないデータを、批判的再検討の目的での使用を申請した研究者への配布を保証する仕組みが確立されています。たとえば、研究者がデータを管理するリポジトリにデータ使用を正式に申請し、それが出版物に記載されているデータ使用の制限を満たしているとデータアクセス委員会に承認された場合のみ、データを提供するという方法を取ることができます。データ取得の過程に時間を要するという欠点がありますが、dbGaP やEGA リポジトリなどでプライバシーの問題に対処するために、現代人のゲノムデータについてこのような方法がとられることがあります。また、データの保存と普及に共同体が関与する、先住民データのバイオリポジトリが設立され始めています。研究者や共同体の代表者や博物館学芸員などの利害関係者集団は、当初の研究に関する合意で対象とされていた問題の批判的再検証を望む研究者へのデータ配布を管理すべきではありませんが、当初の研究合意に含まれていなかった目的のためにデータを保存・配布する上で、先住民データのバイオリポジトリが重要な役割を果たす可能性があります。

 (5)研究者は、研究の初期段階から他の利害関係者との話し合いを進め、利害関係者の視点を尊重し、よく理解することに務めなければなりません。古代DNAデータを新たに作成する研究課題は、地域共同体や考古学者や人類学者や遺伝学者や博物館学芸員など、さまざまな関係者によって開始されることがあり、それらのうち誰もが、学術的に貢献するなら研究チームの構成員となれます。相談を受けた他の利害関係者が名前を公表することに同意した場合は、論文の謝辞欄にその旨を記載すべきです。研究計画や研究課題や科学計画を進めるべきかどうかにの議論には、利害関係者(研究対象となるヒト遺骨・遺体が出土した地域の集団を含むことが望ましい)が積極的に関与する必要があります。研究者は、計画された研究について利害関係者の全員が一致する支持が得られない場合、否定的な意見を受け入れなければなりません。

 一旦、研究を進めるという合意が得られれば、専門家としての科学倫理では、研究者はさらなる承認を必要とせずに、発表の時点まで研究を進めることができます。出版前に、研究チームの構成員ではない利害関係者集団による原稿の承認を義務づけるべきという条件は、科学研究の独立性を犯すことになり、研究者の職業倫理的上、実現が不可能です。しかし、一度研究が始まれば研究者が科学的な独立性を保つべきだということは、データの影響についての利害関係者の視点を考慮せずに結果を公表してよい、というわけではありません。とくに、研究結果が意外なものだったり、これまでの仮定を覆すものだったりした場合には、公開前に利害関係者の視点を加えたり、批判的な反応を提供してもらったりして、研究結果に関与してもらったりすることは有意義です。特定の方法で研究成果を伝えることが何らかの問題を起こさないのか考えることは、研究者にとって職業倫理上の責任であり、研究開始後、他の利害関係者と話し合いを続けることは、この義務を果たすために効果的な方法です。このような協議の結果、利害関係者集団に重大な不利益をもたらすことなく結果を公表できないと判断された場合、研究者はその結果を発表すべきではありません。

 研究者は、利害関係者に対して定期的に研究の進捗状況を報告し、研究課題の最終段階で結果を提出するという義務を自覚しなければなりません。どのような研究成果が予想されるか、遺伝子データが他の知識体系と矛盾する解釈を示すかも知れないこと、科学的な分析結果を学術的成果として報告することが、伝統的な知識体系や深く根づいた信仰を否定したり、その価値を貶めたりするものではないことを、最初から明確にしておく必要があります。遺伝子解析の結果と他の証拠との間の不一致は、過去を理解するということの複雑さの重要な要素として報告されるべきです。

 研究者は利害関係者と協力して、研究成果を共同体にとって理解しやすい形で広げるための普及活動に取り組むべきです。これには、現地の共同研究者と協力して論文の成果を現地の言語に翻訳すること、子供向けの教育資料を作成すること、図書館やその他の共同体総合施設向けにパンフレットや小冊子を作成すること、博物館と協力して展示会を計画することなどが含まれます。また必要に応じて、利害関係者集団や地域共同体の構成員などの研修や教育に貢献し、収集物の保存状態改善の方法を検討すべきです。これには、データの生成、解釈、普及に参加するために必要な援助、たとえばヒト遺骨・遺体の標本抽出や分析技術に関する訓練、さらなる継続的訓練や学会参加のための経済的支援などが含まれます。助成機関にとっては、能力開発のための計画に適切な資金を割り当てられるようにすることが重要です。


●ヒト遺骨・遺体を対象とした倫理的な古代DNA 研究の推進

 研究者はその仕事の一環として、研究成果のイデオロギーに基づいた歪曲を正すという、社会的に影響の大きい義務も負っています。学術論文でデータが専門的に公表された後、多くの研究は科学ジャーナリストや教育者によって要約され、幅広い読者に伝えられます。ジャーナリストや政府関係者が、政治的な目的のために研究結果を誤って伝えた例がありますが、科学者には誤った解釈を正すために努力する義務があります。一般の人々への普及活動には、エッセイや書籍の執筆、ソーシャルメディアへの投稿、ドキュメンタリーへの参加などがあります。今回のワークショップの多様な参加者の間でこれらの指針が圧倒的に支持されたことから、古代DNA研究に携わるより広範な共同体もこれらの原則を支持すると期待され、今後、雑誌や専門機関や助成機関により作られる公式指針の基礎となることを望みます。


参考文献:
Alpaslan-Roodenberg S. et al.(2021): Ethics of DNA research on human remains: five globally applicable guidelines. Nature, 599, 7883, 41–46.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04008-x

平山優『戦国大名と国衆』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2018年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、甲信の戦国大名武田氏を対象として、その領国(分国)支配と軍事編成の特徴を、国衆の視点から解説します。戦国大名の領国は、大別して直轄支配地域と国衆が原則として排他的に支配する国衆領により構成されていました。直轄支配地域は、戦国大名が軍事的に制圧した地域で、敵方所領を没収し、直接支配することにより成立しました。国衆領は、戦国大名に従属した国衆が戦国大名により自治権を認められた所領で、戦国大名は原則としてその支配領域に干渉しませんでした。国衆領は戦国大名本国の縁辺部に位置していますが、戦国大名領国の拡大に伴い、混在状態になる地域もあります。この支配形態の違いが軍事編成にも反映されています。

 国衆とは、室町期の国人領主とは異なる領域権力となった、戦国期固有の地域的領主と定義されます。重要なのは、国衆が自分の居城を中心に地域的支配権を確立し、一円領として地域的・排他的な支配領域(その多くは郡規模で、「領」と呼ばれ、「国」としても把握されていました)を確立していることです。国衆は平時には基本的に大名の介入を受けず、独自に「家中」を編成し、「領」支配においては行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣団編成などを実施していました。この点で、国衆の領域支配構造は戦国大名とほとんど変わりません。国衆は大名と起請文を交換し、証人(人質)を出すことで従属関係を結びますが、独立性は維持されます。大名が国衆の「領」を安堵する代わりに、国衆は大名に奉公(軍役や国役など)します。大名と国衆との関係は双務的で、大名が援軍派遣を怠ったり、国衆の保護が充分ではなかったりした場合、国衆は大名との関係を破棄して(離叛)他大名に従属することを躊躇しません。大名は国衆統制のため重臣を「取次」として、さまざまな命令を国衆側に伝達し、国衆も「取次」を通じて大名に要望を伝えました。国衆と「取次」は戦時においては同陣(相備)として一体化し、国衆は「取次」たる重臣の軍事指揮に従います。「国衆」という用語の本来の意味は、在庁官人をはじめとして国衙領の住人でしたが、室町期に各国の守護のうち任国に居住した土着の武士を示すようになりました。つまり、地域の武士の総称という性格が濃厚というわけです。

 戦国大名の定義については今でも明確化していないところがありますが、本書は先行研究により提示された要件を挙げています。まず、室町幕府や朝廷や鎌倉府や旧守護家など伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・尊重する以外は、他の権力に従属しないことです。その上で、伝統的上位権力の命令を考慮してもそれに左右されず、政治・外交・軍事行動を独自の判断で行なうことです。次に、自己の個別領主権を超えた地域を一円支配し、「領域権力」を形成して、周辺諸領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込みます。その結果成立する戦国大名の支配領域は、おおむね一国以上が想定されるものの、数郡の場合もあります。

 南北朝から室町期の在地領主は「国人」と呼ばれます。「国人」は地頭御家人の系譜となり、本領を所領支配の中核としつつ、その拡大を指向し、荘園の横領や他氏との抗争を展開する武士とされます。ただ、地方武士を「国人」と呼ぶ事例は鎌倉時代にもあり、室町期の地方武士が「国人」と呼ばれるのには、研究上の意図があり、史料に見える「国人」と一致しているわけではありません。「国人」はかつて、守護とともに荘園を侵食して荘園制を否定する存在と考えられていましたが、その後、ともに荘園制を否定せず、荘園諸職に依拠しつつ権益を拡大していった、と見解が変わりました。本書は、史料に見える「国人」と、「国人」以下の武士を一括し、在地武士層という把握で国人と呼びます。

 室町期の国人領主は、守護や荘園領主など複数の主人に奉公することが常態で、各国は守護権力に一元化されていくわけではありませんでした。上述のように室町期にも守護と国人は荘園制を支え、その枠組みで権益を拡大していきましたが、この室町期荘園制は幕府の政治動向と密接に関連しており、嘉吉の乱を契機に動揺し、応仁・文明の乱により最終的に瓦解して、守護と国人と村社会との新たな支配関係構築をめぐる相克が始まり、戦国時代に突入します。これにより、遠隔地所領の維持が困難となって、国人領主による一円領の形成を促し、国衆が形成されていきます。従来の秩序が崩壊していくなかで、国人領主が村々を支配する主体となっていき、本領を中核に周縁部の村々を取り込んで排他的な一円領を形成し、国衆へと成長していったわけです。この国衆の「領」の本拠などに町場・市場などが成立して地域経済の軸になり、経済的にも一つの地域世界が形成されます。こうした「領」は、戦国期以前には見られず、それが室町期の国人と戦国期の国衆との明確な違いとなります。

 具体的に武田領国の国衆を見ていくと、国衆領の多くは一郡もしくは半郡程度の規模や数十ヶ村などさまざまですが、土豪層をはるかに超える規模の支配領域で、拠点となる城郭があり、鎌倉御家人の系譜であることが多く、荘園や国衙領の地頭職を任ぜられ、それを足がかりに騒乱に乗じて荘園などの押領によりその枠組みを破り、独自領域を自力で確保して一円領を形成した、といったすでに国衆に関する議論で指摘されていたことが改めて、おおむね確認されます。ただ、これら戦国期の「領」が江戸時代の「領」にそっくりそのまま移行したわけではありませんでした。上述のように、これら国衆は独自に「家中」を編成し、大名に奉公しましたが、国衆が頼りにならない大名を見限ることがあったように、国衆の「家中」の構成員が譜代被官でも他家に鞍替えすることは珍しくなかったようです。大名権力はこうした鞍替えを抑制し、「家中」の安定を維持しようとしており、武田氏は国衆の被官の逃亡を厳しく罰しようとしました。これも大名にとって国衆から期待される保護の一環でした。

 戦国大名の勢力争いに巻き込まれた「境目」の国衆では、双方からの調略により「家中」が分裂することもよくありました。また、「家中」は当主の擁立についても大きな力を有しており、当主の判断に従わず追放し、新たな当主を擁立することもありました。勢力争いに巻き込まれやすい「境目」の国衆にとって、大名の判断は存亡に直結し、大名の侵攻により国衆領が再編され、国衆の排他的・一円的支配が制約されることもありました。こうした大名の侵攻に伴い、国衆領で土豪や地下人が大名の被官となることは多くあり、大名がこうした新規の被官に諸役免除などの特権を与えると、国衆の支配に大きな影響を与えるため、国衆と国衆領内の大名被官との間に確執・争論が生じました。大名にとってこの問題は、領国の統制に深く関わっているため重要でした。じっさい、上述のように国衆が大名を見限ることは珍しくなく、武田氏の場合それが滅亡に直結しました。

 戦国期国衆的な存在は豊臣(羽柴)政権により終焉を迎え、国衆は独立大名として取り立てられるか、独立領主としての権限を否定されて大名の家臣となるか、取り潰しになりました。本書は、国衆の終焉が戦国時代の終焉だった、と指摘します。大名と国衆は、庇護と奉仕という人類社会において珍しくない人間関係の一事例として把握できるように思います。たとえば、古代ローマにおけるパトロヌスとクリエンテスの関係です。これは、一方が庇護もしくは奉仕を怠れば解消され、時には殺害に至るような双務的関係で、人類史においてこのような関係がどう形成されてきたのか、その認知的というか進化的基盤は何なのか、という観点で今後も少しずつ知見を得ていくつもりです。

霊長類の脳の進化

 霊長類の脳の進化に関する二つの研究が公表されました。一方の研究(Shibata et al., 2021A)は、レチノイン酸シグナル伝達による霊長類の脳発達推進を報告しています。前頭前野(PFC)とその視床背内側核との結合は、認知の柔軟性や作業記憶に重要であり、自閉症や統合失調症などの障害で変化している、と考えられています。齧歯類では、大脳皮質の領域的パターン形成を支配する発達機構が明らかになっていますが、霊長類で、PFC–視床背内側核間結合の発達や、顆粒細胞からなる明瞭な第4層を伴うPFCの側方拡張の基盤となる機構は解明されていません。

 この研究は、神経の発達と機能を調節するシグナル伝達分子であるレチノイン酸の、前方(前頭部)から後方(側頭部)に向かいPFCで増加する勾配の存在を報告し、ヒトおよびアカゲザルの新皮質で、胎児や胎仔の発生の初期および中期にレチノイン酸によって制御される遺伝子群を明らかにしています。霊長類では、マウスと比較してレチノイン酸合成酵素が特異的に発現して皮質中で広がっていることなど、レチノイン酸源の候補が複数観察されました。また、レチノイン酸シグナル伝達は、レチノイン酸異化酵素であるCYP26B1によるPFC予定域におおむね限局していました。CYP26B1は、運動皮質予定域で発現上昇しています。

 マウスでの遺伝子欠失実験で、レチノイン酸受容体のRXRGとRARBを介したレチノイン酸シグナル伝達とCYP26B1依存的異化作用が、前頭前野および運動野の正しい分子パターン形成やPFC–視床背内側核結合の発達、PFC内部での樹状突起スパイン形成、皮質第4層マーカーRORBの発現に関与している、と明らかになりました。これらの知見から、レチノイン酸シグナル伝達が、PFCの発達と、おそらく進化に伴うPFCの拡大に重要な役割を持っている、と明らかになりました。

 もう一方の研究(Shibata et al., 2021B)は、ヒトとアカゲザルのPFCの違いを報告しています。さまざまな動物種の神経系の間の類似と相違は、発生的な制約と特異的な適応に起因します。高次認知機能や複雑な社会的行動に関わる大脳皮質領域であるPFCの比較解析から、真にヒト特異的、あるいはヒト特異的である可能性のある構造的・分子的特殊化が明らかにされており、たとえば、肥大したPFCで増加した樹状突起スパイン密度の前後勾配などが知られています。これらの変化は、おそらく時空間的な遺伝子調節の相違によって仲介され、この相違はヒトの胎児中期の大脳皮質でとくに顕著です。

 この研究は、ヒトとアカゲザルのトランスクリプトームデータを解析し、シナプス形成開始と同時期である胎児や胎仔の発生中期に、ニューレキシン(NRXN)とグルタミン酸受容体δ(GRID/GluD)が関連するシナプスオーガナイザーであるセレベリン2(CBLN2)の、一過的にPFCで増加する層特異的な発現上昇が見られることを明らかにしました。さらに、CBLN2の発現レベルや層分布の種間の差は、少なくとも部分的には、レチノイン酸応答性CBLN2エンハンサー内のSOX5結合部位を含むヒトに特異的な欠失によることが明らかになりました。

 マウスのCbln2エンハンサーをin situで遺伝的にヒト化すると、Cbln2発現の増加や異所的な層での発現が促され、PFCの樹状突起スパイン形成が亢進しました。これらの知見は、大脳皮質の前後勾配やヒトのPFCの樹状突起スパインの不均衡な増加の遺伝的・分子的基盤、およびNRXN–GRID–CBLN2複合体の機能不全と神経精神疾患の病因とを結びつける可能性がある発生の機構を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


神経科学:レチノイン酸による前頭前野のパターン形成と神経結合形成の調節

神経科学:レチノイン酸シグナル伝達が霊長類の脳発達を推進する

 大脳皮質–視床の神経結合形成の発達機構は、齧歯類では詳しく調べられているものの、霊長類の同じ発達プログラムについてはあまり分かっていない。今回N Sestanたちは、霊長類に特異的なレチノイン酸シグナル伝達経路を発見し、これが霊長類の前頭前野の発達に重要な役割を持つことを明らかにしている。これはおそらく、霊長類の脳の進化的拡大における重要な機構上の岐路の1つであったと考えられる。


神経科学:CBLN2のヒト族特異的な調節が前頭前野のスパイン形成を増加させる

神経科学:樹状突起スパインがヒトとアカゲザルを分ける

 近縁関係にあるヒトとアカゲザルの前頭前野(PFC)の間に見られる構造的・機能的な違いの1つは、PFCニューロン上の樹状突起スパイン密度の高さである。しかし、このような明確な差異を生み出す多くの空間的・時間的な遺伝子調節機構は不明である。N Sestanたちは今回、ヒトのPFCニューロンで樹状突起スパインの不均衡な増加を促進する、レチノイン酸シグナル伝達応答性の遺伝的エレメントを特定した。おそらくこれが、アカゲザルよりもヒトの計算能力が高いことに寄与していると考えられる。



参考文献:
Shibata M. et al.(2021A): Regulation of prefrontal patterning and connectivity by retinoic acid. Nature, 598, 7881, 483–488.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03953-x

Shibata M. et al.(2021B): Hominini-specific regulation of CBLN2 increases prefrontal spinogenesis. Nature, 598, 7881, 489–494.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03952-y