アジア人のゲノム

 アジア人のゲノムに関する研究(GenomeAsia100K Consortium., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトの遺伝学的研究ではこれまでのところ、非ヨーロッパ人のデータ不足によってゲノムデータセットにおける個体間多様性が制限されており、そのために全球的なヒト集団の大部分におけるその医学的意義も限定的なものになっています。この問題に取り組むためには、集団特異的な参照ゲノムデータセットに加え、多様な集団におけるゲノム規模関連解析が必要です。

 そこで本論文は、ゲノムアジア10万人計画の試験段階について報告しています。これには、アジア64ヶ国219集団の1739人の全ゲノム参照データセットが含まれています。本論文はこのデータセットを用いて、遺伝的変動・集団構造・疾患との関連・創始者効果についてのカタログを作成しました。また、アジアにはかなり大きな創始者集団が存在し、そうした集団から移住によって新たな集団が複数生じた、と明らかになり、これらの集団についてのさらなる研究が、稀な疾患に関連する遺伝子の特定に役立つ可能性が示唆されました。

 具体的には、検出されたゲノム変異のうち、非同義置換では23%が公的データベースに登録されていない新たな変異で、0.1%以上の頻度で検出された変異はおよそ195000個になりました。これらはアジアの特定の集団では比較的高い頻度で存在すると考えられ、今後はその医学的な意義の解明が期待されます。また、遺伝病の原因となる変異として公的データベースに登録されている変異の中には、ヨーロッパ系集団では稀である一方で、アジア系集団では高頻度である例も見つかり、これらは実際には遺伝病とは無関係である、と考えられました。さらに、各種の薬剤による副作用との関連が報告されている遺伝子変異の分布も調べられ、アジア諸集団の中でも顕著な集団差がある、と明らかになっています。これらのデータを基に、今後より大規模なアジア集団の全ゲノム塩基配列の解析が進み、ゲノム医学研究の推進に貢献する、と期待されます。

 人類進化との関連でも、興味深い知見が得られました。現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やその近縁系統の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑は、今ではよく知られています。ネアンデルタール人の遺伝的影響が出アフリカ系現代人の各地域集団においておおむね類似した割合で見られるのに対して、デニソワ人の遺伝的影響は、出アフリカ系現代人の各地域集団において顕著な差があり、ユーラシア西部集団では基本的に見られず、オセアニア系集団で顕著に高く、アジア南部・南東部・東部集団で低いながらも確認される、と報告されています(関連記事)。

 本論文でも、こうした以前からの知見と整合的な結果が得られました。本論文で対象とされた集団のうち、デニソワ人の遺伝的影響は、メラネシア集団とフィリピンのアエタ(Aeta)人で最も高く、中間的なのがフローレス島のアティ(Ati)人で、アジア南部・南東部・東部のほとんどの集団では低くなります(とはいえ、明らかに遺伝的影響を受けています)。アエタ人に関しては、追加のデニソワ人との交雑が推測されています。これは、今年(2019年)公表された研究(関連記事)と整合的です。

 アジア南部集団は、言語ではインド・ヨーロッパ語族と非インド・ヨーロッパ語族に、社会的もしくは文化的には、部族集団・低カースト集団・高カースト集団・パキスタン集団(インド・ヨーロッパ語族のみ)に分類され、デニソワ人の遺伝的影響に明らかな差が見られました。これは、デニソワ人の遺伝的影響を受けていないインド・ヨーロッパ語族がアジア南部に到来し、デニソワ人の遺伝的影響を受けている在来集団とさまざまな割合で混合したことを示唆し、現在の有力説と整合的です。

 インド・マレーシア・フィリピンのネグリート集団については、それぞれ他のネグリート集団よりも近隣集団の方と遺伝的に近縁で、濃い肌の色はおそらく環境適応で、共通祖先からの遺伝的継承ではない、と推測されています。ネグリート集団におけるデニソワ人の遺伝的影響の明らかな違いも、ネグリート集団を単系統群的に把握できないことを示している、と言えるでしょう。表現型から人類集団の系統関係・遺伝的近縁性を推測することには難しさもあり、ゲノム解析によりずっと正確な推測が可能になりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ゲノミクス:ゲノムアジア100Kプロジェクトによりアジアでの遺伝学的発見が可能になる

Cover Story:アジア人のゲノム:ゲノムアジア100Kプロジェクトで得られた最初の参照データセット

 これまで、ヒトの遺伝学研究は主にヨーロッパ人に重点が置かれていて、そうした遺伝学的データセットに含まれる個体間多様性が制限されてきた。ゲノムアジア100Kプロジェクトは、そうしたギャップを埋めるのに大きな役割を果たすことを目的に、10万人のアジア人のゲノムの塩基配列解読と解析を計画している。今回ゲノムアジア100Kコンソーシアムは、このプロジェクトの試験段階で得られたデータ、すなわち、アジア全域の64か国の219のヒト集団に属する1739人から得られた全ゲノム参照データセットを報告している。著者たちは、このデータを用いて、遺伝的変動、集団構造、疾病関連性のカタログを作っている。また、アジアにはかなり大きな創始者集団が存在し、そうした集団から移住によって新たな集団が複数生じたことが明らかになり、これらの集団についてのさらなる研究が、まれな疾患に関連する遺伝子の特定に役立つ可能性が示唆された。



参考文献:
GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z

『卑弥呼』第30話「人柱」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年12月20日号掲載分の感想です。前回は、那のホスセリ校尉と兵士たちが、トメ将軍への支持を表明したところで終了しました。今回は、五瀬の邑の老翁(ヲジ)がヤノハに生贄をどのように送り出しているのか、説明する場面から始まります。五瀬から玄武の方角、つまり北方へ石の柱の道が始まるところより、鬼八荒神(キハチコウジン)の支配地となります。石柱の手前の広場まで8人の生贄は輿で運ばれ、邑の男たちは毎年、輿を広場に置くと、生贄と「送り人」を残して立ち去ります。「送り人」は、生贄である8人の娘を奥の祭祀の場に導き、柱にくくりつけます。代々の「送り人」は鬼八を見たことがないのか、とヤノハに問われた邑長と老翁は、見てはいるだろうが、その途端に黄泉の国へ送られる、つまり殺されるだろう、と答えます。「送り人」は腰布以外身に着けない決まりなので、どんなに屈強な男でも鬼八に襲われたら殺されるだろう、というわけです。

 ヤノハに策を問われたミマト将軍とテヅチ将軍は、生贄を捧げず怒った鬼八の襲撃を待つか、こちらから討って出るのかどちらかだ、と答えます。今晩、人柱になる娘たちに会いたい、とヤノハに言われた邑長は、もったいないことだ、と断ろうとしますが、気高い女性たちを勇気づけずに何が日見子(ヒミコ)だ、と言います。ヤノハは生贄とされる女性たちに、戦いを学んだことがあるか、と尋ねます。すると、5人が挙手します。さらにヤノハが、鬼と戦う覚悟があるのか尋ねたところ、4人が挙手します。ヤノハは、ミマト将軍・テヅチ将軍・ミマアキ・イクメ・邑長と対策を練ります。ヤノハは、人柱の中に兵を潜ませてはどうか、と提案します。ミマアキは化粧をせずとも美しい女性に擬装できる、というわけです。クラトもいけるだろう、と言うミマアキに、化粧で黥を隠すようクラトに伝えよ、とヤノハは命じます。自分も参戦したいと言うイクメを、父のミマト将軍は制止しようとしますが、自分は幼い頃より父に言われて武芸に励んでおり、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)でも戦女(イクサメ)希望で、そこらの男性よりずっと戦える、と言います。それでも娘の参戦に反対するミマト将軍ですが、女子も武人たれという自身の言葉を持ち出されてしぶしぶ娘の参戦を認め、ただし死ぬな、と言います。イクメは気丈に、天照大御神は自分を見捨てない、と言います。テヅチ将軍は、兵士200人が千穂を囲み、50人の精兵を人柱付近に潜ませるよう、提案します。ミマト将軍は、「送り人」には副官のオオヒコを任せます。オオヒコならば、たとえ素手でも敵の10人や20人は造作ない、というわけです。

 邑長は日見子たるヤノハに、自分たちの勝利と鬼八の滅亡の祈願を願い出て、ヤノハは楼観に籠ります。しかし、ヤノハは天照大御神の正式な祈り方も知らず、よくばれないものだと自嘲し、戦の間は祈るふりをして楼観で高みの見物も悪くないか、と呟きます。するとヤノハは、モモソの幻覚?を見ます。モモソはヤノハに、イクメとミマアキを人柱に潜ませて終わりなのか、と問いかけます。焦った様子で、よい作戦だと思わないか、と答えるヤノハに、二人が心配ではないのか、とモモソは尋ねます。もちろん心配だが、自分は総大将なので心を鬼にした、と答えるヤノハを、嘘だ、とモモソは一喝します。戦に勝ちたいが、自分だけは誰を犠牲にしても生き残りたいのだ、とモモソに指摘されたヤノハは返答に窮し、何をしろと言うのか、とモモソに問いかけます。するとモモソはヤノハに、本当は何をすべきか分かっているだろう、そなたは歴代の日見子の中で最も血塗られた女王だ、と告げます。

 夜中に生贄8人は石柱の前の広場に連れていかれ、オオヒコはイクメやミマアキなどたち生贄を柱に縛りつけていきます。オオヒコはミマアキに、お前が女なら惚れるところだ、と声をかけます。8人全員が縛りつけられると、いつ敵が来るか分からないので、すぐに紐を切れるよう、刀を準備せよ、とイクメは呼びかけます。恋仲のミマアキとクラトは、互いの美貌を誉めあいます。生贄に選ばれた五瀬邑の娘の一人が沈んでいる様子を見て、この世に鬼は存在しない、正体は人に決まっている、とクラトとミマアキは励まします。しかし、五瀬の邑の娘たちは悪臭に精神的打撃を受けていました。夜が明けると、串刺しにされた腐りかけの複数の死体と、多数の頭蓋骨が見えてきて、五瀬の邑の娘たちは錯乱します。オオヒコはイクメに、紐を切ってこちらから討って出よう、と提案しますが、ヤノハが反対します。ヤノハも生贄の一人として紛れ込んでいたのでした。イクメは総大将のヤノハが現場にいることに反対しますが、だから来たのだ、とヤノハは落ち着いた様子で答え、合図は自分が出す、まずは化け物の数と正体を見極めよう、と言います。ヤノハたちに「何か」が迫ってくるところで、今回は終了です。


 今回は、鬼八荒神との接触との直前までが描かれました。多数の人々を殺害し、その遺骸を積み上げる鬼八荒神の正体と意図は、鬼八荒神が鬼道に通じているとされ、『三国志』によると卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とありますから、かなり重要になってくると思います。おそらく、ヤノハは鬼八荒神も配下に組み入れることになるのでしょう。千穂(高千穂)の謎は、序盤の山場になるかもしれません。ヤノハがどのような策で鬼八荒神を迎え撃つのか、楽しみです。また、今回は描かれず、次回も描かれないかもしれませんが、那国情勢も気になるところで、トメ将軍がどのように事態を解決させようとするのか、楽しみです。

現生哺乳類と異なる聴覚器官を持つ初期哺乳類

 現生哺乳類と異なる聴覚器官を持つ初期哺乳類に関する研究(Wang et al., 2019)が公表されました。発生生物学および古生物学の双方から蓄積されたデータからは、哺乳類では、顎の歯骨後方の骨の、頭蓋の耳小骨への変化が、少なくとも3回独立に起きた、と示唆されています。また、保存状態の良好な化石からは、哺乳類中耳の進化における移行段階がいくつも明らかになっています。しかし、哺乳型類の異なる複数のクレード(単系統群)で、これらの歯骨後方の骨がなぜ、どのように歯骨から完全に分離したのかなど、中耳の進化に関してはまだ疑問が残されています。

 この研究は、中華人民共和国遼寧省の九仏堂層で発見された多丘歯目哺乳類(齧歯類様哺乳類の分類群)エオバータル科の新種(Jeholbaatar kielanae)の化石について報告しています。多丘歯類は、おそらくこれまでで最も繁栄した哺乳類の一群であったと考えられています。この新種化石は約1億2000万年前のもので、この哺乳類動物の体重は約50グラムと推定されています。左中耳骨の保存状態が良好だったため、以前に報告された白亜紀の多丘歯目哺乳類よりも独自の構造が明らかになり、その構成要素もより完全な形を保持しています。この標本からは、顎の上角骨が独立した骨要素から中耳の槌骨の一部へと変化し、耳小柱状の鐙骨と平たい砧骨の間に限定的な接触が存在した、と示されました。

 この研究は、哺乳型類において、こうした槌骨–砧骨間の関節の接続様式には2つの骨が隣り合う配置と互いにかみ合う配置の2通りがあり、それは歯骨–鱗状骨関節の進化的分岐を反映している、との見解を提示しています。系統発生学的解析から、この標本のような異獣類における最終哺乳類中耳の獲得は、単孔類や真獣類での哺乳類中耳の獲得とは独立したものであった、と明らかになりました。この新種化石により得られた証拠は、多丘歯目哺乳類の中耳の発達が、摂食に必要な条件によって誘発されたことを示唆しています。この研究は、下頬部の形状から判断して、この新種多丘歯目哺乳類が雑食性で、蠕虫・節足動物・植物を餌として、咀嚼時の顎の動きが特徴的だった、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【古生物学】現生哺乳類と異なる聴覚器官を持つ初期哺乳類の新種

 中国で発見された白亜紀の齧歯類様哺乳類の新種が、その近縁種と異なる耳を持っていたことを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、この哺乳類動物の聴覚器官の進化が、摂食のための特殊化によって推進された可能性を示唆している。

 哺乳類の耳の進化、つまり、顎の構成要素が徐々に頭蓋骨内に移動して、中耳の耳小骨になった過程が、少なくとも3回独立に起こったことが、化石証拠から示唆されている。しかし、この過程が異なる哺乳類群でどのように起こったのか、そしてなぜ起こったのかは解明されていない。

 今回、Yuanqing Wangたちは、中国遼寧省の九仏堂層で発見された多丘歯目哺乳類(齧歯類様哺乳類の分類群)の新種Jeholbaatar kielanaeの化石について記述している。Wangたちは、この化石が約1億2000万年前のものであり、この哺乳類動物の体重を約50グラムと推定している。左中耳骨の保存状態が良好だったため、以前に報告された白亜紀の多丘歯目哺乳類よりも独自の構造が明らかになり、その構成要素もより完全な形を保持している。Jeholbaatar kielanaeの化石によって得られた証拠は、多丘歯目哺乳類の中耳の発達が、摂食に必要な条件によって誘発されたことを示唆している。Wangたちは、下頬部の形状から判断して、Jeholbaatar kielanaeが雑食性で、蠕虫、節足動物、植物を餌として、咀嚼時の顎の動きが特徴的だったという見解を示している。


進化学:白亜紀の化石から明らかになった哺乳類中耳の新たな進化パターン

進化学:中耳進化の異なる道筋

 多丘歯類は、おそらくこれまでで最も繁栄した哺乳類の一群であったと考えられる。中生代の前半に進化を遂げた多丘歯類は白亜紀末の大量絶滅を乗り越え、始新世まで生き延びた。その名称が示すように特徴的な歯を有していた多丘歯類は、多くの点で齧歯類の先駆けとも言える存在だった。今回Y Wangたちが新たに発見したJeholbaatar kielanaeは、現在の中国で約1億2000万年前に生息していた多丘歯類であり、その標本には多くの構造、中でも中耳が極めて詳細に保存されている。哺乳類の進化は、祖先的爬虫類の下顎から多くの骨要素が頭蓋へとゆっくり移動して中耳の小骨を形成したことを特徴とする。これまで、この進化は独立して複数回起こったと考えられてきたが、それはJ. kielanaeにも当てはまるようである。著者たちは、哺乳類進化における顎の歯骨後方の骨の耳小骨への変化は、多丘歯類などの哺乳類系統において咀嚼機構が複雑さを増していったことと関係している可能性があると示唆している。



参考文献:
Wang H, Meng J, and Wang Y.(2019): Cretaceous fossil reveals a new pattern in mammalian middle ear evolution. Nature, 576, 7785, 102–105.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1792-0

都市部の河川におけるリチウム濃度

 都市部の河川におけるリチウム濃度に関する研究(Choi et al., 2019)が公表されました。携帯電話と電気自動車が普及し、需要が生まれているため、リチウムの使用量が増加しています。また、今後もリチウムの需要増加が予想されていますが、廃棄されたリチウムの処理ガイドラインはひじょうに少なく、リチウムの製造と廃棄が環境と人間の健康に及ぼす悪影響についての知識も、ほとんど得られていません。

 この研究は、韓国最大の都市ソウルの主たる水道水源である漢江流域でサンプリング調査を実施し、漢江上流のリチウム濃度が世界の他の河川より低いことを見いだしました。しかし、漢江が都市部に入り、流域の人口密度が上昇すると、リチウム濃度は上流域の最大600%に達した、と明らかになりました。この研究は、こうした濃度の変化の原因が人為的活動だと推測しており、水道水試料のリチウム濃度についても、流域の人口密度の上昇に伴って同じ傾向が観察されました。また、水道水試料のリチウム同位体組成を分析した結果、漢江に流入したリチウムが、リチウムイオン電池・治療薬・食品廃棄物に由来するものである、と明らかになりました。

 この研究は、リチウムに関連した生態系と人間の健康に対する影響について、モニタリングの質を高め、リスクの高い地域を特定し、影響全体を最小限に抑えることが必要だと明らかになった、と主張しています。また、これらの知見は、水路のリチウム濃度が人口密度と相関し、汚水処理施設がリチウムの除去に効果がないと考えられることを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】韓国のソウルを流れる水路で測定されたリチウムの濃度

 電子機器やバッテリーに由来するリチウムが、ソウル(韓国)の河川に流入し、水道水を汚染している可能性のあることを示唆する論文が今週掲載される。今回の研究結果は、水路のリチウム濃度が人口密度と相関し、汚水処理施設がリチウムの除去に効果がないと考えられることを示唆している。

 携帯電話と電気自動車が普及し、需要が生まれているため、リチウムの使用量が増加している。また、今後もリチウムの需要が増加することが予想されているが、廃棄されたリチウムの処理ガイドラインは非常に少なく、リチウムの製造と廃棄が環境と人間の健康に及ぼす悪影響についての知識もほとんど得られていない。

 今回、Jong-Sik Ryuたちの研究グループは、韓国最大の都市ソウルの主たる水道水源である漢江流域でサンプリング調査を実施し、漢江上流のリチウム濃度が世界の他の河川より低いことを見いだした。しかし、漢江が都市部に入り、流域の人口密度が上昇すると、リチウム濃度は上流域の最大600%に達したことが判明した。Ryuたちは、この濃度の変化の原因が人為的活動だと考えており、水道水試料のリチウム濃度についても流域の人口密度の上昇に伴って同じ傾向が観察された。また、水道水試料のリチウム同位体組成を分析した結果、漢江に流入したリチウムが、リチウムイオン電池、治療薬、食品廃棄物に由来するものであることが判明した。

 Ryuたちは、リチウムに関連した生態系と人間の健康に対する影響について、モニタリングの質を高め、リスクの高い地域を特定し、影響全体を最小限に抑えることが必要であることが今回の研究で明らかになったと主張している。



参考文献:
Choi HB. et al.(2019): The impact of anthropogenic inputs on lithium content in river and tap water. Nature Communications, 10, 5371.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-13376-y

絶滅したシカ似の種の「再発見」

 絶滅したシカ似の種を「再発見」したと報告する研究(Nguyen et al., 2019)が報道されました。ベトナムとラオスの大アンナマイトエコリージョン(Greater Annamites Ecoregion)は、世界有数の生態学的多様性を有する地域でする。1910年、silver-backed chevrotainと呼ばれるシカに似た有蹄類のマメジカの一種(Tragulus versicolor)が、ベトナムのニャチャン市近郊で得られた標本に基づいて初めて記載されました。しかし、1990年以降は科学的に確かな目撃例が確認されておらず、この地域で盛んに行なわれている罠猟がこの種を絶滅の瀬戸際に追い込んだのではないか、と懸念されていました。

 この研究は、ベトナムの3省の住民から聞き取りを行ない、このマメジカ種を捜し出す取り組みの中で、マメジカの目撃例がその種の記載と一致する、と明らかにしました。この研究は地元の情報を利用して、動きに反応するカメラトラップを近隣の森林生息地に30台以上設置しました。6ヶ月にわたるカメラトラップ調査の結果、このマメジカ種は200回以上検知されていた、と確認されました。ただ、写っている個体が何頭なのかは不明です。この種は科学的には「再発見」されたと考えられますが、現地の調査から、地元住民の間では絶滅したとは考えられていなかった、と指摘されています。この研究は、個体群のサイズを明らかにし、この種の保全に資する取り組みの強化を図るためには、さらに徹底的な調査と地元社会の関与が必要ではないか、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】絶滅したシカ似の種が「再発見」された

 科学的には絶滅したものと考えられていた、シカに似た有蹄類種がベトナムにおいて野生で生きているのが発見されたことを報告する論文が掲載される。これまで、マメジカの1種Tragulus versicolorのものとして知られる最後の記録は、1990年に狩猟で殺された標本であったが、このほど、その種の生きている姿が30年ぶりに撮影された。

 ベトナムとラオスの大アンナマイトエコリージョン(Greater Annamites Ecoregion)は、世界有数の生態学的多様性を有する地域である。1910年、silver-backed chevrotainと呼ばれるマメジカの一種T. versicolorが、ベトナム・ニャチャン市近郊で得られた標本に基づいて初めて記載された。しかし、1990年以降は科学的に確かな目撃例が確認されておらず、この地域で盛んに行われているわな猟がこの種を絶滅の瀬戸際に追い込んだのではないかと懸念されていた。

 An Nguyenたちは、ベトナムの3つの省の住民から聞き取りを行い、T. versicolorを捜し出す取り組みの中で、マメジカの目撃例がその種の記載と一致することを明らかにした。そして、この地元の情報を利用して、動きに反応するカメラトラップを近隣の森林生息地に30台以上設置した。

 6か月にわたるカメラトラップ調査の結果、T. versicolorは200回以上検知されていたことが確認された。ただし、写っている個体が何頭なのかは不明である。この種は科学的には「再発見」されたものと考えることができるが、現地の調査から、地元住民の間では絶滅したとは考えられていなかったことが指摘された、というのが研究チームの結論である。

 個体群のサイズを明らかにし、この種の保全に資する取り組みの強化を図るためには、さらに徹底的な調査と地元社会の関与が必要なのではないか、と研究チームは示唆している。



参考文献:
Nguyen A. et al.(2019): Camera-trap evidence that the silver-backed chevrotain Tragulus versicolor remains in the wild in Vietnam. Nature Ecology & Evolution, 3, 12, 1650–1654.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-1027-7

『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷

 クリストファー・ライアン(Christopher Ryan)、カシルダ・ジェタ(Cacilda Jetha)著、山本規雄訳で、2017年9月に作品社より刊行されました。第1刷の刊行は2014年7月です。原書の刊行は2010年です。今年(2019年)1月に掲載したさいには、当時の字数制限2万文字を超えたので前編後編に分割したのですが、その後も参照する機会があり、分割されていては不便なので、1記事の字数制限が約13万文字に増えたこともあり、一つの記事にまとめます。本書は、人類社会が長期にわたって一夫一妻的傾向にあった、と想定する通説を批判し、現代人系統は過去にチンパンジー(Pan troglodytes)やボノボ(Pan paniscus)のような「乱婚」社会を経験し、その証拠が生殖器官をはじめとして現代人の表現型に見られる、と主張します。


 本書の見解には、参考にすべきところが少なくない、と思います。たとえば、通説の根拠とされている各種調査には、調査しやすい人々を対象としたものが少なくなく、人類全体の傾向の代表として妥当なのか疑わしい、といった指摘です。これはもっともですが、たとえば「孤立」集団の調査が倫理的にも安全上もいかに困難か、最近のインド洋での事例(関連記事)からも明らかで、いかに妥当な調査をするのかは、たいへん難しい問題だと思います。また、ダーウィン(Charles Robert Darwin)をはじめとして、研究者たちの観察・考察が同時代の社会的規範や個人的体験、とくに性嫌悪により歪められることは珍しくない、といった本書の指摘もたいへん重要だと思います。本書がとくに言及しているのは、セクシュアリティにまつわる社会的規範と個人的体験が観察・考察を歪める可能性ですが、これは、時代・社会の異なる外部者ができるだけ多く参加して検証していくしかないでしょう。


 このように、本書の指摘には有益なところが少なくありませんし、著者二人は博学で、この点の面白さもあります。何よりも、通説が決定的な根拠に基づいているのではない、との指摘は重要です。ただ、著者二人も認識しているに違いありませんが、本書の主題である過去(おもに更新世)の配偶行動に関して、「確定的な」証拠を提示することは不可能です。したがって、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。しかし、セクシュアリティを中心とする本書の提示する先史時代の人類社会像は説得力に欠け、とても最有力の仮説にはなりそうにない、というのが私の率直な感想です。


 私がそのように思うのは、本書が不誠実だと考えているからでもあります。それは、本書が二分法の罠的な技巧を少なからず用いていることもありますが、何よりも、戯画化が度を越している、と考えているためです。まず本書は、「単婚すなわち一夫一妻という結婚が、われわれ人類の本質であり、ここから逸脱する者は、人類の品位を汚すといった偽りの物語が大手を振っている」と主張します(P16)。しかし、最近数十年間に、まともな研究者でそのような倫理的・道徳的観念に依拠した見解を主張している人がいるのか、はなはだ疑問です。現代世界の多くの地域の通俗的観念では、近代化(すなわち西洋化)の進展もあり、確かに一夫一妻が大前提とされていますが、一夫一妻が人類の本質とまで本気で考えている人が非専門家層に多くいるのかも、疑問です。率直に言って、本書のこの認識は多分に藁人形論法だと思います。冒頭からこんな調子なので、この時点で本書には疑問と不信感を抱いてしまったのですが、読み進めても、それらは解消されていくどころか、ますます深まっていきました。


 配偶子へのコストに基づく雌雄の繁殖戦略の違いと競合を指摘する進化心理学的知見は、文化的偏見に起因する性嫌悪に基づいている、と本書は主張しますが(P39~41)、これも藁人形論法だと思います。有性生殖の生物において、雌雄の繁殖戦略に競合的・軍拡競争的側面が多分にあるのはとても否定できないでしょう。何よりも問題なのは、社会生物学論争に関する認識です。社会生物学論争の結果、人間の行動は遺伝子により決定されるとする立場と、社会により決定されるとする立場に落ち着いた、と本書は評価しています。この認識は、いかに読者を説得するための技巧だとしても、もはや誇張どころではなく、捏造と言うべきでしょう。学界にそうした絵に描いたような遺伝子決定論者が存在するのか、はなはだ疑問です。本書は、真実はその両極端の立場の間にある、と指摘しています。本書こそ冷静な科学的知見を披露しているのだ、と読者に印象づけようとして、あえて読者に誤認させようとしているのではないか、と疑いたくなります。一応本書は、単純化しすぎているように見えるかもしれない、と弁明してはいますが、本書の社会生物学論争に関する認識は、本書への私の不信感を決定的なものとしました。本書に垣間見られる進化心理学への敵意も、社会生物学論争に関するこの認識に由来しているように思います。


 また、女性の性衝動は弱いとする進化心理学の通説には問題がある、と本書はたびたび指摘します。進化心理学の知見が不足している私には、本書の指摘が妥当なのか、的確な判断はできませんが、進化心理学の知見を戯画化しているのではないか、との疑念は拭えません。そもそも、女性の性欲が一般的に?言われているほど弱くはないとしても、それが人類社会乱婚説を証明するものではないと思います。以下でも述べていきますが、本書が引用している数々の知見は、人類社会乱婚説と決定的に矛盾するわけではない、というだけで、その確たる証明になっているわけではない、と思います。一夫一妻的な傾向の強い社会を想定する仮説でも、本書の引用した知見は基本的に、決定的に矛盾するわけでもないと思います。このように、本書にたいしては疑問・不信感が拭えませんが、まずは本書の大まかな見解について述べ、その後に本書の主張する具体的な根拠を見ていきます。なお本書では、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義されています。



  • 本書の見解の概要

 本書は、現代人系統が、戦いに勝ち残った1頭のアルファ雄がハーレムを形成するゴリラ型の配偶システムから乱婚社会へと移行し、遅くともホモ・エレクトス(Homo erectus)の時点では乱婚社会だった、と想定しているようです。その根拠は雌雄の体格差です。霊長類社会では、これが大きいと(性的二形)、単雄複雌のハーレム型の配偶システムを形成する傾向にあるからです。本書は、アウストラロピテクス属よりも前に存在したアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)では雌雄の体格差が小さかった、との見解(関連記事)が400万年以上にわたる一夫一妻を想定する仮説の根拠とされていることから、ラミダスでは雌雄の体格差が小さかった、との見解に慎重です。本書のこの認識はとくに問題ないと思いますし、そもそもラミダスは現代人系統ではない可能性が高い、と私は考えています。


 ラミダスの人類系統樹における位置づけはさておき、本書は、アウストラロピテクス属における雌雄の体格差は大きかった、との有力説を採用しています。アウストラロピテクス属の性的二形については異論も提示されているのですが(関連記事)、最初期の広義のエレクトスにおいても、性的二形はアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)と大差がなく、チンパンジーよりも大きかった、との見解さえ提示されています(関連記事)。おそらくアウストラロピテクス属においても、性的二形は顕著だった可能性が高いでしょう。本書は、数百万年前に現代人系統はハーレム型社会を脱した(P23)、との認識を示しているのですが、雌雄の体格差という観点からは、その時期は150万年前以降である可能性も想定されます。


 本書は、現代人とチンパンジーおよびボノボ(チンパンジー属)、とくにボノボとの類似性を強調し、現代人系統が過去にボノボと類似した乱婚社会を経験した、と主張しています。したがって、本書では明示されていないように思いますが、アウストラロピテクス属の時点では雌雄の体格差が依然として大きかったとの認識からは、現代人系統の雌雄の体格差がゴリラよりもチンパンジーおよびボノボにずっと近づいたのは、現代人系統とチンパンジー属系統とが分岐してかなり経過してから、という見解が導かれます。本書は、チンパンジー属系統の雌雄の体格差がどのように進化してきたのか、明示していませんが、現代人系統が過去にはゴリラと類似していたと認識しているわけですから、チンパンジー属系統もかつては雌雄の体格差が大きかった(性的二形)と想定している可能性が高そうです。つまり、現代人系統とチンパンジー属系統とで、雌雄の体格差の縮小および乱婚社会への移行が並行して起きた、というわけです。もちろん、収斂進化は生物史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、本書の論理では、現代人系統とチンパンジー属系統の社会構造・配偶システムの類似性をもたらした重要な遺伝子発現の変化には共通性がない、ということになります。したがって、チンパンジー属系統が現生種では現代人と最近縁とはいっても、そのこと自体は、チンパンジー属系統と現代人系統とが類似の社会を形成した、との仮説の状況証拠にはなりません。


 なお、本書では、現代人系統とチンパンジー属系統との分岐年代は500万年前にすぎない、とされていますが(P15)、原書刊行後の研究では約1345万~678万年前とも推定されています(関連記事)。チャドで発見された、704±18万年前と推定されている(関連記事)サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)が、現代人の直系祖先ではないとしても(その可能性は高いと思います)、チンパンジー属の祖先系統と分岐した後の人類系統に区分される可能性は高そうですから、現代人の祖先系統とチンパンジー属の祖先系統の分岐は700万年以上前だった可能性が高いと思います。もっとも、本書が指摘するように、この分岐の後もしばらくは、両系統間で交雑があったかもしれません(関連記事)。


 最初期の(広義の)エレクトスの頃なのか、150万年前頃以降なのかはともかく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の祖先集団もしくはそのきわめて近縁な集団と考えられる、43万年前頃のイベリア半島北部の人類集団の性差は現代人と大きく変わらなかったので(関連記事)、遅くとも100万年前頃には、現代人系統の性差は現代人とさほど変わらなかった、と推測されます。もちろん、当時は狩猟採集社会だったわけで(地域により異なったでしょうが、狩猟への依存度は後期更新世より低かったかもしれません)、現代の狩猟採集社会の研究から、性差が縮小して以降の狩猟採集社会では厳格な平等主義が貫かれており、それは食料の分配だけではなく性に関しても同様だった、と本書は主張します。さらに本書は、この小規模の親密な血縁集団(バンド)で形成される狩猟採集社会において、ほとんどの成体が任意の一定期間、複数の性的関係を結び、それは農耕と私有財産の発生まで続いた、との見通しを提示します。


 これが大きく変わるのが農耕開始以降で、そこで乱婚社会を形成して以降初めて、父性の確認が重要課題になった、と本書は主張します。現代人系統において農耕開始まで父性の確認が重要課題ではなかったとの想定は、本書の乱婚社会説の鍵となります。通説では、父性の確認は人類にとって最大の重要性を有しており、それは進化心理学においても同様です。しかし本書は、現代人のセクシュアリティの起源に関する通説は、農耕開始以降の劇的な変化への人類の柔軟な適応行動の誤認に由来し、本質は異なる、と主張します。本書はその根拠として、世界各地の狩猟採集社会の事例や、現代人の生殖器官および性行動と近縁種との比較を挙げます。以下、多岐にわたるそれらの根拠のうちいくつかを見ていきますが、疑問は少なくありません。



  • 現代人とボノボとの類似性

 本書は、通説においては、男性は嘘つきのゲス野郎に、女性は嘘つきの二股をかける金目当ての男たらしに進化したと想定されている、というように要約し、通説を批判しています(P71)。しかしこれも、自説の妥当性を読者に印象づけるための技巧で、戯画化を通り越して捏造に近いのではないか、と思います。また本書は、排卵の隠蔽は人間だけの例外として重要との認識を前提として通説は組み立てられている、と説明します(P89~92)。しかし、現代人も含めて現生類人猿系統は、排卵の隠蔽というか発情徴候が明確ではないことが一般的です。むしろこの点では、現生類人猿系統においてチンパンジー属が例外的です(関連記事)。つまり、類人猿系統においてチンパンジー属系統のみが特異的に発情徴候を明確化するような進化を経てきただろう、というわけです。ここでも、本書が通説を意図的に戯画化しているのではないか、と疑問を抱いてしまいます。


 類人猿系統の中で現代人とは遠い関係にあるテナガザルは単婚だと指摘されていますが(P97~98)、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから(関連記事)、人類系統が単婚ではなかったことを系統関係から証明するのは難しいと思います。何よりも、上述したように本書の論理では、類人猿系統における近縁性は、現代人系統が乱婚社会であることの証明にはなりません。また、テナガザルを人類のセクシュアリティのモデルとみなす通説的見解が否定されていますが、そうした見解が主流と言えるのか、疑問があります。現代人の特徴は、単婚を基礎とする家族が複数集合した共同体にあり、それはテナガザルとは大きく異なるからです。単婚というだけで、テナガザルが人類社会のモデルになる、との見解は果たして主流なのでしょうか。テナガザルは単雄単雌(単婚)で暮らし、大きな社会を形成しません。本書は、大きな社会集団を形成して生活する霊長類に、単婚社会の種は存在しない、とたびたび強調します。しかし、単婚の家族と共同体を両立させたところに人間社会独自の特徴と(あくまでも個体数と生息範囲の観点からの)大繁栄の要因がある、という見解の方がずっと説得的だと思います(関連記事)。


 本書は、ボノボでは雌の社会的地位が高く、母と息子の絆が強いと指摘しており(P100、107~114)、それは妥当だと思います。また、ボノボの雄の地位は母親に由来する、とも本書では指摘されています。しかし、これはボノボが母系社会であることを意味しません。多様な社会構造を示す現代人を除いて、現生類人猿系統はいずれも父系もしくは非母系社会を示しており(関連記事)、現代人社会も多くは父系的です。本書では説明されていませんが、ボノボも雌が群れを出ていく非母系社会です。もっとも、本書はボノボが母系社会だと明確に主張しているわけではありませんが。本書はボノボと現代人との性行動の類似性を強調しますが、ボノボのように挨拶代わりといった感じで性交渉を行なうような現代人社会は存在しないと思いますし、何よりも、発情徴候の明確化という重要な違いが軽視されていることは問題です。この観点からは、チンパンジー属の乱交的な社会は、人類系統と分岐した後に生じた、と考えるのが最も節約的だと思います。チンパンジーが複数の地域集団(亜種)に分岐していることから推測すると(関連記事)、ボノボ系統の平和的な社会も、チンパンジー系統との分岐後に生じた可能性が高いでしょう。


 また本書は、チンパンジーとボノボの雌雄の体格差は現代人と「まったく同じ範囲に収まっている」とたびたび強調していますが、これは身長と体重とを都合よく合わせて評価した「体格差」だと思います。体重の雌雄差(雄の体重÷雌の体重)では、チンパンジーが1.3倍なのにたいして現代人は1.1倍で、有意な差があります(関連記事)。一般的にも、確かに現代人の性差はゴリラよりもチンパンジー属の方にずっと近いのですが、チンパンジー属よりも小さく、一夫一妻型のテナガザルと乱交型のチンパンジーとの中間である、といった見解が有力だと思います。本書は、おそらく意図的なのでしょうが、現代人とチンパンジー属との類似性を誇張しているように思われます。


 なお本書は、現代人の傑出した特徴として、社会的であることと過剰なセクシュアリティを挙げており(P124~128)、どうも、身体能力の点で現代人には傑出したものがない、と言いたいようです。しかし、現代人の長距離走行能力はなかなかのものですし、何よりも、投擲能力は現生種においては傑出しており、これは現代人とその祖先および近縁系統の生態的地位の確立に、たいへん重要な役割を果たしたのではないか、と思います。また本書では、セクシュアリティに関して、いつでも性行動のできる現代人とチンパンジー属の特異性が強調されていますが、ゴリラの雄は常に交尾可能ですし、オランウータンの雌も、雄に求められれば大抵は交尾を許可します。チンパンジー属ではない類人猿系統と、現代人との性行動は、本書が強調するよりもずっと類似しているのではないか、と思います。



  • 現代人の暴力性の起源

 本書は現代人系統が更新世というか農耕開始前にはそれ以降と比較してより平和的な社会を構築していた、と強調します。本書は、人間やその近縁系統が本質的には攻撃(暴力)的か平和(協調)的か、とたびたび問いかけますが(P101~104)、これは二分法の罠と言うべきで、環境に応じて攻撃(暴力)的でも平和(協調)的でもあるのが人間やその近縁系統の本質で、とくに人間は柔軟なのだ、と考えるのが妥当であるように思います。また本書は、多くの科学者が、人類の持つ攻撃性の根源を霊長類としての過去に位置づけようとしているのに、人類の持つ肯定的な衝動が霊長類から連続していることは認めたがらない、と通説側を批判しています(P107)。しかしこれも、通説側がかなり戯画化されているのではないか、との疑念は拭えません。また本書は、チンパンジーの「暴力性」は人為的活動の結果かもしれない、と指摘しています(P281~284)。つまり、人間の「暴力性」の起源をチンパンジーとの最終共通祖先の段階までさかのぼらせる見解は誤りではないか、というわけです。しかし原書刊行後、チンパンジーの同士の攻撃には人間の存在の有無は関係していない、との見解が提示されています(関連記事)。



  • 父性の確認と多様な現代人社会

 第6章は、父親が一人ではない社会は珍しくないと強調し、父性の確認が人類進化史において重要ではなかった、と示唆します。民族誌的研究は私の大きな弱点なので、本書の見解の妥当性の判断については、今後の課題となります。ただ、狩猟採集社会とはいっても、現代と過去とでは条件が異なります。現代の狩猟採集社会は、農耕社会に、さらに後には工業社会にたいして劣勢に立った結果として存在しています。本書は、厳格な平等主義がほぼ普遍的な狩猟採集社会の環境は、現代人系統というか現生人類(Homo sapiens)が5万年前、さらには10万年前に直面していた環境に酷似している、と主張します(P148~149)。しかし、更新世の気候は完新世よりも不安定でしたし、何よりも、農耕社会の存在は更新世と完新世の大きな違いです。またユーラシア大陸やアメリカ大陸においては、狩猟対象となった大型動物が更新世後期には現在よりも豊富に存在していました。これらの違いを無視して、現在の狩猟採集社会と更新世の狩猟採集社会の類似性を強調することは妥当ではないでしょう。


 こうした「分割父性」という考え方の採用は、集団全体で父親としての感情を共有することだ、と主張されています(P159~162)。しかし、尾上正人氏の指摘にあるように、伝統社会において、DVや殺人の原因の大半が不貞(に対する男の嫉妬感情)に由来することをどう説明するのか、という重要な疑問が残ります。また、中国南西部のモソ族社会では、父性の確認が重要とは思われていないので、男性が自分の姉妹の子を自分の子として育てている、と本書は主張します(P186~194)。しかしこれについては、包括適応の理解が根本的に欠落しており、父性が重要と思われていないのではなく重要だからこそ、姉妹の子のみ信用するのだ、との尾上氏の指摘が妥当でしょう。


 そもそも、『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P180~185)、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません。雄ゴリラにとって父性の確認は重要で、それをある一定以上の精度で判断して子殺しをするか否か決めている、というわけです。現代人系統も、農耕社会への移行にともなう価値観・世界観の変動により父性に拘るようになったというよりも、ずっと父性の確認に拘り続けた、と想定する方が節約的であるように思います。本書は、現代の狩猟採集社会では父性の確認を軽視もしくは無視するかのような認識が見られる、と強調しますが、それは、現生人類(系統だけではないかもしれませんが)の高度な象徴的思考能力と、入れ子構造を持つシナリオを心のなかで生み出す際限のない能力(関連記事)と、高い好奇心の産物と解釈するのが妥当なように思います。


 インドネシアの西スマトラ州のミナンカバウ族社会は母権制的だ、と本書は主張します(P195~199)。だからといって、それは更新世の人類社会が父権制もしくは父系性的だったことを否定する根拠にはならないと思います。けっきょくのところ、こうした多様な現代人社会が証明するのは、現生人類はきわめて柔軟に社会を構築する、ということだと思います。さらに言えば、霊長類にもそうした柔軟性が見られますし、現代人も含まれる類人猿系統はより柔軟なのだと思います。


 また本書は、農耕開始以降に女性の社会的地位が低下したと主張しますが、そうだとしても、それが農耕開始前の母権制の存在を証明するものではない、と思います。本書は、農耕開始以降、女性の生存能力は根本的変化を被り、狩猟採集時代とは異なり、生存に不可欠な資源と保護を入手するために、自身の生殖能力を引き換えになければならなくなった、と主張します(P18~22)。しかし、ホモ・エレクトス以降に出産がさらに困難になっていったことを考えると、ホモ属では遅くとも180万年前頃には、女性が「生殖能力と引き換え」に生存に不可欠な資源と保護(夫に限らず、夫の親族もしばしば参加したことでしょう)を入手するようになっていたのが一般的だった、と考えるのが妥当だと思います。



  • 先史時代の現代人系統の社会

 先史時代の人間は、孤独で、貧しく、意地が悪く、残忍で、短命だった、という誤った考え方はいまだに普遍的に受容されている、と本書は指摘します(P226)。しかし、他はともかく、「孤独」だったというような主張が主流なのか、きわめて疑わしいと思います。通説の側の先史時代の主流的認識は、家族を基礎単位としつつ、ある程度の規模の共同体(というかバンド)を形成して生活していた、というものだと思います。通説の側で「孤独」が主張されるとしたら、人口密度の低さに起因する、他集団との接触機会の少なさという意味合いだと思います。


 現代人の祖先は、農耕開始前には広範な慢性的食糧難を経験しなかった、と本書は主張します(P267~268)。しかし、現代人系統はアフリカで進化した可能性が高く、そのように断定できるだけの遺骸がそろっているとは思えません。一方、現代人の遺伝子プールにはほとんど寄与していないでしょうが、ヨーロッパのイベリア半島のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に関しては、飢餓は日常的だった、と指摘されています(関連記事)。また、フランス南東部のネアンデルタール人に関しても、飢餓が珍しくなかった、と示唆されています(関連記事)。


 もちろん、これらはおそらく現代人系統とはほとんど無関係のネアンデルタール人系統で、場所もアフリカとヨーロッパとでは異なります。しかし、更新世の現生人類社会が本書で強調されるほど豊かだったのか、疑問は残ります。おそらく、遊動的な狩猟採集社会では授乳期間が長く、その分出産間隔が長いことと、本書でも指摘されているように、体脂肪率の低さから繁殖可能年齢が現代よりも高かったために人口密度が低いままだったので、定住的で人口増加率の高い農耕社会よりも、個体の健康度は高い傾向にあった、ということなのでしょう。


 しかし、だから平和的だったのかというと、疑問の残るところです。人口密度が低く、人類も他の類人猿系統と同様に女性が出生集団から離れていくような社会だったとすると、繁殖相手をめぐる闘争はかなり厳しかった可能性もあります。じっさい、更新世の人類社会において、女性が出生集団を離れていく傾向にあったことを示唆する証拠はありますが、母系的だったことを示唆する証拠は現時点ではないと思います(関連記事)。確かに、前近代農耕社会と比較すると、更新世の狩猟採集社会の方が個体の健康度は高かったかもしれません。しかし、本書はそれを過大評価しているのではないか、との疑念は拭えません。また本書ではたびたび、人類は絶滅しかけたと主張され、その一例として74000年前頃のトバ噴火が挙げられます。しかし、トバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)には複数の研究で疑問が呈されています(関連記事)。もっとも、原書刊行後の研究も多いので、仕方のないところもあるとは思いますが。


 本書は現代人系統の狩猟採集社会において厳格な平等主義が貫かれている、と強調します。それが、全構成員に繁殖機会を与える乱婚社会ともつながっている、というのが本書の見通しです。しかし、そもそも、なぜ狩猟採集社会で厳格な平等主義が貫かれているかというと、人類にはそれに反する生得的性質があるからでしょう。他の動物とも共通するところが多分にありますが、人類には公平さへの要求と自己利益増大への要求や優位・劣位関係の把握に囚われていること(関連記事)など、相反する生得的性質が備わっています。一方の性質により他方の性質を抑圧するのが狩猟採集社会の厳格な平等主義の本質で、それは殺害も含む懲罰を伴うものだと思います。本書が指摘する、繁殖の共有が現代人系統における過去の一定期間の「本性」だとする見解は、少なくとも半面は間違っているように思います。


 平等主義とも密接に関連しているだろう利他的傾向は、身内贔屓よりも脆弱なので、身内贔屓を抑え込むための厳格な平等主義が集団の構成員に与えた抑圧・ストレスは、小さくないと思います。狩猟採集社会から農耕社会への移行に関しても、そうした観点からの評価も必要でしょう。父性への拘りとも密接に関連するだろう身内贔屓が、農耕開始以降の世界観・価値観の大きな変化に伴い出現したと想定するよりは、他の霊長類の事例からも、身内贔屓は人類史を貫く本性の一側面だった、と考える方がはるかに説得的だと思います。


 かりに本書が主張するように、農耕開始前の現代人系統社会がそれ以降より平和的だったとしても(かなり疑わしい、と私は考えていますが)、それは集団規模の小ささのために厳格な平等主義という統制が有効だったからで、潜在的には農耕開始以降の社会と変わらない残酷さを抱えていただろう、と私は考えています。食や性において一定以上平等が保たれるような平穏な状況ならともかく、飢餓などの緊急時には厳格な平等主義が崩壊し、むき出しの暴力的状況が出現した可能性は高かったように思います。そうした緊急事態は、完新世よりも気候が不安定だった更新世には、さほど珍しくなかったのではないか、と私は推測しています。



  • 現代人系統の配偶システム

 人類の祖先の配偶システムとして古くから一夫一妻があり、一夫多妻から一夫一妻へと移行したという通説は、人類の祖先に複雄複雌という配偶システムが存在しなかったことを前提としている、と本書は指摘します(P327~328)。そこから本書は、雄間競争の緩和には一夫一妻だけではなく複雄複雌も有効で、現代人の最近縁系統であるチンパンジーおよびボノボの事例が参考になる、と主張します。つまり、人類の祖先が乱交的だった、との本書の主張につながるわけですが、これも、多分に二分法の罠的な詐術であるように思います。


 「プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか」(関連記事)で指摘されているように、マウンテンゴリラでは、血縁関係(親子や兄弟)にある複数の雄が交尾相手を重複させずに共存しています。霊長類は繁殖様式も含めて社会構造を柔軟に変えていく系統であり、現生類人猿系統が基本的に父系もしくは非母系であることを考えると、人類系統は、マウンテンゴリラのように複数の雄が複数の雌と共存して交尾相手を重複させない父系的な社会から、そうした家族的要素を解体せずにより大規模な共同体を形成していった、と考える方が、ずっと説得的だと思います。


 第16章は、現代人の男性器サイズや精子の特徴から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と論じます。確かに、この点で現代人はゴリラよりチンパンジーおよびボノボの方に近いと言えるかもしれません。しかしこれも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P143~144)、人類が精子競争を高めるような繁殖戦略を採用したのは、チンパンジーおよびボノボほどには乱交的な社会を経験せずとも、社会・文化により、ペアの永続的な結合を強めるような方向にも、乱交を許容して精子競争を高めるような方向への変異幅を持っていたから、とも考えられます。この柔軟性こそ現代人系統の重要な特徴で、故に家族を解体せずにそれらを統合してより大規模な社会を形成できたのでしょう。また、その柔軟性が、母権制的とも言えるような社会も含めて多様な社会を生み出したのだと思います。


 第17章では男性器の形状から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と主張されていますが、これも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。現代人の大きな男性器は、乱婚的社会を経験したからではなく、単に一夫一妻的社会の配偶者選択で重要だったから、とも解釈できます。第19章で主張される、女性のオルガスムと乱婚的社会の経験とを結びつける見解や、男性はセクシュアリティに新規性を求める、と主張する第21章の見解も同様に、乱婚的社会説を証明するものではないでしょう。本書が指摘する、現代人における乱婚的社会を経験した痕跡は、基本的に一夫一妻仮説でも説明のつくことだと思います。さらに言えば、本書が主張する乱婚的社会を経験した痕跡のいくつかは、とくに選択圧を受けたわけではなく、遺伝的浮動だったか、関連する遺伝子が別の表現型にも関わっており、その表現型で選択圧を受けた結果である可能性も考えられます。


 配偶システムと関連して子育てについて通説は、人類社会において古くより、一人の女性が一人の男性に頼って子育てしてきたと想定している、と本書は主張します(P458)。しかし、人類学の教科書(関連記事)でも指摘されているように、人類の子育てには両親だけではなく親族も関わっている、との見解は一般的であるように思います。まあ、私は学説史をしっかりと把握できているわけではないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。上述してきたように、こうした本書の戯画化は珍しくありません。進化心理学などの学問領域では、「愛」と「性欲」が交換可能な用語だと考えられている、と本書は批判します(P167~169)。この批判もまた、戯画化されているのではないか、との疑念を拭えません。ただ、本書において、結婚という用語の多義性・曖昧さや、研究者も社会の規範に影響を受けることが強調されているのは(P167~182)、基本的には意義があると思います。



  • まとめ

 本書は冒頭において、「人類のセクシュアリティの本質」が、類人猿と共通の祖先に由来することを論証する、と目的を明かしています(P16)。現代人のセクシュアリティが祖先に由来するものであることは確かですが、率直に言って、その「本質」が乱婚社会だという論証に本書は失敗していると思います。上述したように、本書の論理構造にしたがえば、現代人系統のセクシュアリティの「本質」が乱婚社会にあるとしても、それはチンパンジー属系統とは独立して獲得されたことになるからです。ただ、現代人系統が乱婚社会を経験した、という可能性自体は、上述したように、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから、じゅうぶん検証に値すると思います。しかし、上述したように、それを直接検証することは不可能ですから、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。


 その意味で、現代人系統が乱婚社会を経験し、それは農耕開始まで続いた現代人の「セクシュアリティの本質」なのだ、という本書の主張は、他の可能性よりもずっと説得力に欠け、とても最有力説たり得ない、と私は考えています。本書は多数の根拠を挙げていますが、上述したように、それは乱婚社会説と決定的に矛盾するものではない、というだけで、その多くは通説とも決定的に矛盾するものではない、と思います。何よりも、上述したモソ族社会の事例もそうですが、本書が自説の根拠とする事例の解釈のいくつかには疑問も残ります。専門家であれば、私よりもはるかに多く、不備を的確に指摘できるでしょう。


 じっさい、訳者あとがきでは、本書を痛烈に批判した本が刊行されている、と紹介されています。その批判本は、本書の原題『Sex at Dawn: How We Mate, Why We Stray, and What It Means for Modern Relationships』をもじった、『Sex at Dusk: Lifting the Shiny Wrapping from Sex at Dawn』と題されています。訳者あとがきでは、本書がAmazonで高い評価を受けている一方、批判本のインターネット上での評価は高くない、と指摘されています。確かにAmazonでは、批判本の評価は本書よりも低くなっています。しかし、ざっと読んだ限りですが、批判本に対する評価の高い書評は、批判本にたいしておおむね肯定的であるように思います。この批判本もいつかは読まねばならない、とは思うのですが、怠惰なので結局読まずに終わりそうです。ともかく、徹底的な批判本が刊行され、一定以上の評価であることからも、本書の見解は基本的に疑ってかかるのが妥当だろう、と思います。では、本書の見解よりも妥当な見解は何なのかとなると、私の現時点での知見・能力では的確に答えられないのですが、やはり、本書が批判する通説の方がより妥当なのではないか、と考えています。もっとも、私の見解は本書の想定する通説とはかなり異なるかもしれませんが、以下に簡略に述べていきます。


 まず大前提となるのは、現生類人猿系統において、多様な社会を構築している現代人を除いて、すべて父系もしくは非母系社会を構築している、ということです。これは、現代人も含めて現生類人猿系統の最終共通祖先も父系もしくは非母系社会だった可能性が高いことを示唆します。次に、現生類人猿系統において発情徴候が明確なのはチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)だけということが前提となります。現生類人猿系統の最終共通祖先から、テナガザル→オランウータン→ゴリラ→チンパンジーおよび現代人という順に系統が分岐していったことから、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先も、発情徴候は明確ではなかった可能性が高そうです。また、上述したように、アウストラロピテクス属のみならず、初期ホモ属でも性的二形が顕著だったかもしれないことから、現代人系統とチンパンジー属の最終共通祖先も、200万~150万年前頃までの現代人系統も、性的二形が現生ゴリラ並だった可能性は低くありません。


 つまり、チンパンジー属のセクシュアリティの重要な構成要素たる穏やかな性差(ゴリラより小さいとはいっても、現代人よりは大きいわけですが)も、明確な発情徴候も、人類系統と分岐した後に獲得された可能性が高い、というわけです。上述したように、かりに現代人系統が過去にチンパンジー属系統と類似した乱婚社会を経験したとしても、それは共通の祖先的特徴に由来するのではなく、両系統で独自に獲得された可能性が高いでしょう。もちろん、収斂進化は進化史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、もっと節約的な仮説が立てられるならば、そちらを採用すべきだと思います。


 その仮説の前提となるのは、現生類人猿系統において、明確な発情徴候はチンパンジー属系統でのみ進化した可能性が高い、という推測です。現代人系統のセクシュアリティについて推測する場合、この違いは大きな意味を有すると思います。おそらく現代人系統は、マウンテンゴリラのような、親子・兄弟といった父系の血縁関係にある複数の雄が複数の雌と交尾相手を重複させずに共存する、家族に近い小規模な共同体から出発し、利他的傾向とコミュニケーション能力が強化されるような選択圧を受けた結果、一夫一妻傾向の家族を内包する大規模な共同体という、独特な社会を形成したのではないか、と思います(関連記事)。さらに現生人類系統において、象徴的思考能力など高度な認知能力を獲得したことで柔軟性が飛躍的に発展し、父系・単婚傾向に限定されない多様な社会を形成したのではないか、と推測しています。もっとも、柔軟性とも深く関わるだろうこの高度な認知能力は、現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先の時点で、すでに潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性もあると思います(関連記事)。


 ただ、現代人の体格の性差がチンパンジーとテナガザルの中間であることから、人類社会には一夫一妻傾向があるとはいっても、それが徹底されているわけではない、ということも以前からよく指摘されていたように思います。現代人系統は、強制された平等主義に基づいて一夫一妻傾向が見られるものの、それと反するような生得的性質も有しており、一夫多妻や乱交的な社会への志向も見られ、それが本書の指摘する、乱交社会に適しているとも解釈できるような、現代人の生殖器官や性行動の選択圧になったのではないか、と思います。


 本書を読む契機となったのは、当ブログにおいて、本書が唯物史観的な人類社会集団婚説や母系制説を主張している、と指摘を受けたからでした(関連記事)。しかし、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義する本書の見解は、人類の「原始社会」を親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定する、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。じっさい、霊長類の広範な系統において近親婚を避ける仕組みが備わっている、と明らかになった現在の水準では、唯物史観的な原始乱婚説はとてもそのまま通用するものではありません。本書の意図は、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な原始乱婚説にも改めて採るべきところがある、といったものだと思います。


 また、農耕開始前の現代人系統社会における女性の地位の高さを強調する本書からすると、唯物史観的な原始社会母系説も採るべきところがある、ということなのかもしれません。しかし本書は、母権的と解釈できそうな現代人社会(この解釈の是非については、本書の信頼性からしてとても直ちに肯定できませんが)の存在を指摘し、現代人系統社会がかつて母権的だったことを示唆しているものの、はっきりと母系制だと主張しているわけではないように思います。上述したように、本書は現代人とボノボとの類似性を強調し、ボノボにおいて母親と息子との関係がずっと密接で、母親の地位が息子に継承される、と指摘しています。しかし、本書では言及されていませんが、ボノボは母系制社会ではなく(現代人を除く現生類人猿系統はすべて同様ですが)、その地位が母系を通じてずっと継承されるわけではありません。


 何よりも、現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とネアンデルタール人について、前者は男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることから(関連記事)、人類系統の社会は他の現生類人猿系統と同様にずっと父系的だった、と考えるのが節約的だと思います。現代人に見られる、父系的とは限らない多様な社会は、高度な認知能力に基づく現生人類の柔軟な行動を示している、ということだと思います。もっとも、上述したように、ネアンデルタール人系統にも、こうした柔軟性は潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性も考えられます。


 率直に言って、本書を読んで疑問と不信感が強くなる一方だったのですが、改めて調べたり情報を整理したりする機会になりましたし、著者二人が博学であることは間違いないので、勉強になりました。ただ、最初から本書の批判本を読むだけでよかったのではないか、と後悔もしています。年末年始の貴重な時間のかなりの部分を本書に割いてしまいましたが、かなりの本数になってしまった録画番組の視聴を優先すべきだったかな、とも思います。とはいえ、録画番組を視聴するよりは、本書を読んだ方がずっと勉強になるでしょうから、深く後悔しているわけではありませんが。



参考文献:

Ryan C, and Jetha C.著(2017)、山本規雄訳『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(作品社、第1刷の刊行は2014年、原書の刊行は2010年)

母系制で平和的なボノボ社会

 検索していたら、表題の発言を見つけました。リンク箇所を除いて全文を引用すると、
母系制で平和的なボノボ社会と、男性優位で争いの絶えないチンパンジー社会。生まれ変わるならどっちがいい?

となります。さらに検索してみると、ボノボ(Pan paniscus)が母系社会だという認識はそれなりに浸透しているようです。たとえば、

ボノボの喩え、私も良く使います。
チンパンジーとの比較で。
生存戦略として、チンパンジーは強い雄を中心に、戦って群を作る。
ボノボは母系の集団を作り(数年前まではセックスを手段とする、などと身も蓋もない言い方されてましたが)平和的に争いを避ける。
でも人間はそれ以下だと。


との発言や、

ボノボは母系社会で雌は誰とどのようにしてもOKだし、雄も雄同士でまぁ色々したり、雌も雌同士としたり、ほぼバイセクシャルばっかりで、生まれた子供は群れの中で育てるので特に区別しないっていう、なんかもうおおらかをそのまま生き様にしたような生き方してて水龍敬ランドはボノボなのかって思った

との発言や、

哺乳類であれば同じ行為をする事によって、子が産まれ命が続いていくって事に気付いた後に、年がら年中発情期ってのは人間だけかいな?ってな疑問も浮かんでのも小学生の最後の頃だった。ボノボってのが、母系社会で若手の性処理をおばさん系が行い群の平安を保ってたりするっての知ったのはかなり後。

との発言や、

チンパンジーはオスが優位な社会で、他集団との争いも多く、子殺しやレイプなども行ないます。一方のボノボは母系社会ですが、オスとメスはほぼ対等で、力ではなく「性」でコミュニケーションを図って相手との緊張を取り除き、喧嘩が起きないようにしています。

との発言です。最後の発言はnoteの記事なのですが、Twitter上で、

ボノボは母系社会というのはガセで、他のヒト科の動物同様、メスが育った集団を出て嫁に行く父系社会である。

批判されているように、ボノボは最近縁の現生種であるチンパンジー(Pan troglodytes)と同様に父系社会を形成しています。ボノボ社会が母系だと誤解されるのは、おそらくチンパンジーと比較して雌の社会的地位が高いからなのでしょう(関連記事)。それを反映して、ボノボの雌はしばしば、息子を発情期の雌に接近できるような場所へと連れて行き、他の雄による干渉から息子の交配を保護し、息子が高い支配的地位を獲得して維持するのを助ける、と報告されています(関連記事)。一方、ボノボ社会でも稀に雌が出生集団に留まりますが、その母親は娘を息子ほどには熱心に支援しないようです。これは、ボノボ社会が父系であることをよく反映している、と言えるでしょう。

 現代人(Homo sapiens)も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)では、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。これは、人類社会が、少なくとも現生類人猿との最終共通祖先の段階では、非母系社会を形成していた、と強く示唆します。さらに、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に傾きつつも、所属集団を変えても出生集団への帰属意識を持ち続けるような双系的社会がじょじょに形成され、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系社会の形成は父系社会よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。

アジア東部集団の形成過程

 アジア東部も含めてユーラシア東部集団の形成過程の解明は、ユーラシア西部集団と比較して大きく遅れています。これは、ユーラシアにおいては東部よりも西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究がはるかに進展しているためです。これは、近代以降にヨーロッパおよびその派生的文化圏である北アメリカから構成される西洋が覇権を掌握していたことに起因します。近代以降、学術も西洋が主導し、20世紀後半になってアジア(東洋)系の台頭が著しいとはいえ、西洋が確立してきた知の構造は依然として堅牢です。そのため、現代人集団の形成過程についても、まず自分たちの起源であるヨーロッパ、さらに範囲を拡大してユーラシア西部に関心が集中するのは仕方のないところでしょう。さらに、近代化で先行した西洋社会では、開発が進んでおり、それに伴う遺跡発掘の機会が多かったことも挙げられます。また、近代化で先行した西洋社会の方が、治安や政治および社会的安定と統合の点でも東洋社会より恵まれていた、という社会・政治環境も一因となったでしょう。

 こうした人為的要因とともに、自然環境の問題もあります。DNAがどれだけ残存しているかは、年代もさることながら(当然、一般的には新しい年代の方がより多く残る傾向にあります)、環境も重要となり、寒冷で乾燥した気候の方がより多く残りやすくなります。逆に、高温多湿環境ではDNAの分解が進みやすくなります。アジア東部では、たとえば北京は北に位置しており、じっさい冬はかなり寒いのですが、これはシベリア寒気団の影響によるもので、北京の緯度はローマよりも低く、夏の気温はローマより北京の方が高くなっています。当然、たとえばパリはローマよりもさらに気温が低くなります。ヨーロッパ、とくに西部はおおむね、北大西洋海流のため冬は北京よりも暖かいのですが、夏は北京よりも涼しく、この点で北京というかもっと広範囲の華北よりも古代DNA研究に適しています。当然、たとえば上海や広州は北京よりもずっと暑いわけで、この点でもアジア東部はヨーロッパよりも古代DNA研究で不利と言えるでしょう。日本列島も例外ではなく、たとえば札幌でさえ、ローマよりも緯度は高いものの、パリよりは低く、さらに日本列島はおおむね酸性土壌なので、そもそも人類遺骸の長期の残存に適していません。日本列島は非西洋社会としてはかなり早い時期に近代化が進展し、開発とそれに伴う遺跡の発掘が進んだ地域ですが、土壌と気候の点から古代DNA研究に適しているとは言い難いでしょう。

 このように、ユーラシア東部、とくにアジア東部は人為的および自然環境的問題のため、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して古代DNA研究が大きく遅れているのですが、それでも着実に進展しつつあり、とくに中国においては、経済発展とともに今後飛躍的な発展が期待されます。じっさい、アジア東部よりもさらに古代DNA研究に適していない自然環境のアジア南東部でも、4100~1700年前頃(関連記事)や8000~200年前頃(関連記事)の古代DNAが解析されています。また、アジア東部の古代DNA研究はまだ遅れているとしても、アジア東部系と遺伝的に近縁なアメリカ大陸先住民集団の古代DNA研究はかなり進展しているので、アジア南東部やアメリカ大陸、さらにはユーラシア西部の古代DNA研究を参照していけば、アジア東部集団の形成過程についても、ある程度は見通しが立てられるのではないか、と思います。以下、アジア東部集団の形成過程について、現時点での情報を整理します。

 出アフリカ系現代人の主要な祖先となった現生人類(Homo sapiens)集団は、出アフリカ後に各系統に分岐していきます。まず大きくはユーラシア西部系とユーラシア東部系に分岐し、後者はパプア人などオセアニア系とアジア東部・南東部・南部系に分岐していきます。現代東南アジア人の形成過程を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(McColl et al., 2018)の図で示されているコステンキ(Kostenki)個体(関連記事)がユーラシア西部系を表します(図1)。
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 ヨーロッパ人の形成過程については、中期更新世~青銅器時代までを概観した(関連記事)以下に引用する研究(Lazaridis., 2018)の図にまとめられています(図2)。
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 アメリカ大陸先住民集団の形成過程とも関連してくる、シベリア北東部における後期更新世~完新世にかけての現生人類集団の変容を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(Sikora et al., 2019)の図も参考になります(図3)。
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 分岐していった出アフリカ現生人類系統で注目されるのが、古代シベリア北部集団です。図3で示されているように、古代シベリア北部集団はユーラシア東部系統よりも西部系統の方と近縁ですが、アジア東部集団からも一定の遺伝的影響を受けている、と推定されています。古代シベリア北部集団は、シベリア東部北端に位置する31600年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の31600年前頃の個体に代表されます。古代シベリア北部集団は、ユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していた、と考えられます。

 シベリア東部において30000年前頃以後、アジア東部集団が拡散してきて、古代シベリア北部集団と融合して新たな集団が形成され、24000年前頃には古代旧シベリア集団とベーリンジア(ベーリング陸橋)集団に分岐します。ベーリンジア集団からアメリカ大陸先住民集団が派生します。古代旧シベリア集団もベーリンジア集団も、アジア東部系統の遺伝的影響力の方がずっと強くなっています(63~75%)。アメリカ大陸先住民集団は、後に漢人など現代アジア東部集団を形成する系統と30000年前頃に分岐したアジア東部系統を基盤に、古代シベリア北部集団の遺伝的影響も一定以上受けて成立したわけです。

 図2で示されているように、古代シベリア北部集団はヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)経由で現代ヨーロッパ人の形成にも一定以上の影響を残しています。つまり、アメリカ大陸先住民集団は、アジア東部集団と遺伝的に強い関連を有しつつも、現代ヨーロッパ集団とも3万年前頃以降となる共通の遺伝的起源を有しているわけです。ユーラシア西部で見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Xが、現代アジア東部集団では基本的に存在せず、アメリカ大陸先住民集団で一定以上確認されていることから、かつては更新世におけるヨーロッパからアメリカ大陸への人類集団の渡来も想定されました。しかし、ヨーロッパ集団にもアメリカ大陸先住民集団にも遺伝的影響を残した古代シベリア北部集団の存在が明らかになり、アメリカ大陸先住民集団のmtHg-Xは古代シベリア北部集団由来と考えると、人類集団の移動を整合的に解釈できると思います。

 アジア東部集団の形成過程に関する議論において問題となるのは、アジア東部集団においては、mtHg-Xが基本的には見られないように、古代シベリア北部集団の遺伝的影響がほとんど見られない、ということです。もちろん、たとえば中国のフェイ人(Hui)が父系(Y染色体DNA)でユーラシア西部系の遺伝的影響を受けていることからも(関連記事)、現代アジア東部集団にも古代シベリア北部集団の遺伝的影響は存在するでしょう。しかし、フェイ人(回族)におけるユーラシア西部系統の遺伝的影響は父系でも30%程度で、母系(mtDNA)でも常染色体でも、フェイ人は基本的にアジア東部集団に位置づけられます。アジア東部集団は近縁なアメリカ大陸先住民集団よりもずっと、古代シベリア北部集団の遺伝的影響が低い、と言えるでしょう。

 では、31600年前頃にはユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していたと考えられる古代シベリア北部集団にたいして、アジア東部集団はどのような経路でいつアジア東部に拡散してきたのかが問題となります。図1で示した研究(関連記事)を参考にすると、アフリカから東進してきた現生人類集団のうち、アジア南部まで拡散してきた集団が、アジア東部集団の起源だった、と考えられます。ここから、アジア南部もしくはさらに東進して南東部から北上した集団(北方系統)と、南方に留まった集団(南方系統)に分岐します。南方系統は、アジア南東部集団の主要な祖先集団の一部です。現時点で北方系統を表していると考えられるのは、北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性です(関連記事)。ただ、田园男性の集団は現代人にほとんど遺伝的影響を残していない、と推測されています。田园集団と近縁な北方系統の集団は、北上してきた一部の南方系統集団と融合して、アジア東部集団の主要な祖先集団(祖型アジア東部集団)を形成した、と推測されます。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 ここで問題となるのは、アジア東部には、大きな分類ではユーラシア東部系ではあるものの、祖型アジア東部集団とは遺伝的にかなり異なる集団がかつて存在し、現代の各地域集団の遺伝的相違にも影響を及ぼしている、ということです。まず、4万年前頃の田园男性がその代表格で、上述のようにその近縁集団が祖型アジア東部集団の形成に関わったと推測されますが、図1で示されているように、系統樹ではアジア東部の他集団と大きく異なる位置づけとされています。類似した位置づけなのが「縄文人」で、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した(関連記事)、以下に引用する研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)の図では、船泊遺跡縄文人(F23)は田园男性ほどではないにしても、他のアジア東部集団とは遺伝的にやや遠い関係にあります(図4)。
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 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な現代人集団は、日本人をはじめとしてウリチ人(Ulchi)や朝鮮人などアジア東部沿岸圏に分布しています。これは、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」でも同様なので(関連記事)、少なくとも東日本の「縄文人」の遺伝的特徴だったと考えられます。これと関連して注目されるのは、頭蓋形態の研究から、ユーラシア東部には南方系の「第1層」と北方系の「第2層」が存在し、更新世のアジア東部および南東部には日本列島の「縄文人」も含めて「第1層」が広範に分布していたのに対して、農耕開始以降、「第2層」が拡大していった、とする見解です(関連記事)。

 遺伝学と形態学を安易に結びつけてはなりませんが、アジア東部にまず拡散してきた現代人の主要な祖先集団は、アフリカからアジア南東部までユーラシア南岸沿いに拡散し、そこから北上していった、と考えられます。これが「第1層」とおおむね対応しているのでしょう。「縄文人」もその1系統で、おそらくはこの最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成されたのではないか、と思います。アジア東部ではおもに日本列島とチベットでしか見られないY染色体ハプログループ(YHg)Dは、この最初期アジア東部集団に由来するのでしょう。ただ、日本のYHg-Dのうちかなりの割合は、「縄文人」に由来しない可能性もあると思います(関連記事)。農耕拡大に伴い、アジア東部ではおおむね「第2層」と対応する祖型アジア東部集団が拡大して遺伝的影響を高めていき、日本列島でも、本州・四国・九州を中心とする「本土」集団では、遺伝的に「縄文人」の影響が弱くなり、祖型アジア東部集団の影響がずっと強くなっていった、と考えられます。

 では、祖型アジア東部集団の農耕開始前の分布範囲はどこだったのか、という問題が生じるわけですが、これはまだ不明です。おそらく、アジア東部でも北方の内陸部に存在していたのではないか、と思います。祖型アジア東部集団に近い古代集団として、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡の2人が挙げられます(関連記事)。しかし、7700年前頃と推定されている悪魔の門遺跡の2人は現代人ではウリチ人に最も近く、漢人よりも朝鮮人および日本人の方と近縁です。おそら悪魔の門遺跡集団も、最初期アジア東部集団を基盤として、後に拡散してきた祖型アジア東部集団との融合により形成されたのでしょう。祖型アジア東部集団の形成過程と分布範囲については、今後明らかになっていく、と期待されます。


 まとめると、現代アジア東部人の主要な遺伝子源となった集団のうち、アジア東部へ最初に拡散してきたのは、アフリカからアジア南東部へと東進し、そこから4万年前頃以前に北上した最初期アジア東部集団でした。最初期アジア東部集団はアジア東部に広範に存在したと考えられます。「縄文人」は、最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成された、と推測されます。一方、最初期アジア東部集団とは別に、アジア南東部もしくは南部から北上してアジア東部内陸部北方に拡散してきた集団(北方系統)が存在し、その集団と、後にアジア南東部から北上してきた集団(南方系統)の融合により、祖型アジア東部集団が形成されました。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 祖型アジア東部集団の分布範囲は、アジア東部でも内陸部の比較的北方だったものの北部集団の遺伝的影響をほとんど受けていないと考えられることから、その北限はシベリアよりも南だった可能性が高そうです。祖型アジア東部集団はアジア東部において農耕の拡大にともなって拡散し、遺伝的影響を強めていきました。日本列島もその例外ではなく、弥生時代以降に到来した祖型アジア東部集団系統の遺伝的影響が在来の「縄文人」を上回っていきます。アジア南東部においても、祖型アジア東部集団系統が完新世に2回にわたって南下してきて、一定以上の遺伝的影響を残しました(関連記事)。最初期アジア東部集団の中には、4万年前頃の田园集団のように、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない集団も少なからずあった、と予想されます。

 私はアジア東部集団の形成過程を現時点ではこのように把握しているのですが、上述のように、アジア東部における古代DNA研究がヨーロッパとの比較で大きく遅れていることは否定できません。アジア東部においては、歴史時代においても、魏晋南北朝時代や五代十国時代~ダイチン・グルン(大清帝国)拡大期などにおいて、ある程度以上の遺伝的構成の変容があった、と考えられます。現時点では、在来集団も拡大集団もともにアジア東部系としてまとめられるかもしれませんが、将来は、アジア東部系もさらに細分化されていくだろう、と予想しています。現時点でのヨーロッパ人の形成に関する研究のように、アジア東部A系統とアジア東部B系統がどのような割合で混合したのか、というような詳しいモデル化も可能になるのではないか、というわけです。ヨーロッパと比較して古代DNA研究の遅れているアジア東部集団の形成過程について、確実な見解を提示できる段階ではまだありませんが、自分が現時点での見解を整理したかったので、まとめてみた次第です。勉強不足のため、今回は考古学の研究成果と組み合わせてまとめることができなかったので、今後はそれも課題となります。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第45回「火の鳥」

 田畑政治は、東京オリンピック組織委員会事務総長を解任され、岩田幸彰も辞任を考えていましたが、田畑に慰留されます。田畑を嫌う人は少なくありませんでしたが、田畑を慕う人も少なくはなく、岩田たちは田畑邸を頻繁に訪れます。また、田畑を信頼していた黒澤明は、記録映画監督から降ります。失意の田畑は、それでもオリンピックへの情熱を失わず、岩田たちとオリンピックをどう盛り上げるか、自宅で議論します。

 今回は、失脚した田畑をどう描くのか、注目していたのですが、岩田たち田畑を慕う仲間もおり、田畑が意気消沈したままではなく、安心しました。田畑と目標を見失って迷走していた女子バレーチームの大松博文監督とのやり取りもよかったのですが、何よりも、金栗四三の事績と聖火リレーの新たな経路をつなげたところは上手かったと思います。いかにも大河ドラマの終盤といった感じで、これまでの積み重ねが活かされていくのは感慨深くもありました。いよいよ残り2回となり、やはり寂しさはあります。

梅津和夫『DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』

 講談社ブルーバックスの一冊として、講談社から2019年9月に刊行されました。本書はDNA鑑定の原理をその問題点・限界点とともに分かりやすく解説しており、DNA鑑定の具体例も示されていますから、入門書としてなかなか工夫されており、楽しめると思います。また、環境DNAなど最新の研究動向も抑えられており、この点もよいと思います。著者はDNA鑑定以前の、血液型などを用いた遺伝的情報の鑑定の時代から専門家として活躍しており、DNA鑑定の黎明期から現在の隆盛までを経験してきたため、本書は簡潔なDNA鑑定史としても興味深い一冊になっていると思います。

 このように、本書は全体的には良書だと思うのですが、日本人の起源と古代DNA研究に関する見解には疑問も残りました。まず、本書は全体的に「縄文人」の影響をやや過大に評価しているように思います。もちろん本書は、現代(本州・四国・九州とその近隣の島々を中心とする「本土」)日本人における「縄文人」の遺伝的影響が10~30%程度で、この数値は今後変動する可能性が高い、という近年の知見を踏まえてはいます。また、近隣の漢人・朝鮮人との比較で、日本人の遺伝的独自性の最大の要因が「縄文人」に由来する可能性は高いでしょうから、その意味で、日本人起源論で「縄文人」に注目するのは当然だとは思います。

 しかし、「大陸の言葉ではなく縄文語から連なる日本語」との見解は、現時点ではとても断定的に語ることはできず、他の可能性もじゅうぶん想定されるでしょう(関連記事)。本書は、「縄文人」の祖先集団が長江下流域から南西諸島に少数で到来し、その後日本列島を北上していった、との見解を提示しています。その根拠は、沖縄県民において「縄文人」型一塩基多型の割合が他の都道府県よりも顕著に高いことです。しかし、これは単に「縄文人」の遺伝的影響が、「本土」集団よりも琉球集団において高いこと、つまり弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団の遺伝的影響が、琉球集団よりも「本土」集団の方において高いことを反映しているにすぎない、との解釈もじゅうぶん成立するように思います。

 また本書は、「縄文人」の祖先集団の流入経路として、氷河時代に北方経路からの人類集団の到来は考えにくいと指摘していますが、北海道においては、後期旧石器時代後半にマンモスがシベリアから到来し、細石刃の出現から、人類集団も同様だったと考えられています(関連記事)。また、更新世もずっと寒冷期だったわけではなく、日本列島に現生人類(Homo sapiens)が拡散してき時期は、最終氷期極大期(LGM)よりもずっと温暖だった海洋酸素同位体ステージ(MIS)3と考えられています。「縄文人」の起源は、アジア東部のどこか特定の地域の小集団ではなく、アジア東部の複数地域の集団が日本列島に到来し、融合した結果である可能性の方が高い、と私は考えています。

 日本人起源論と関連して本書の見解で気になるのは、古代DNA研究への懐疑的な視線です。確かに、本書が指摘するように、分子時計はまだとても確定的な精度とは言えませんし、古代DNA研究において試料汚染は今でもひじょうに重要な問題です。本書がとくに懐疑的なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のような古い年代のDNAでは、確かに深刻な問題と言えるでしょう。しかし、5年前(日本語版は4年前)に刊行された著書(関連記事)でも、試料汚染を防ぐための方法が詳しく解説されていますし、その後も試料から本来のDNAを抽出する方法論は改善されており、近年の論文でも試料汚染解決のための方法論は重点的に解説されることが多いように思います(関連記事)。また、そうした試料汚染除去とともに、より多くの内在性DNAを抽出する方法論も改善されてきています(関連記事)。古代DNA研究に関して、ヨーロッパやアメリカ合衆国のいくつかの研究所の資金力は豊富で、大規模かつ革新的です。正直なところ本書は、ヨーロッパやアメリカ合衆国の大規模な研究所の古代DNA研究を過小評価しているのではないか、と思います。

 本書はネアンデルタール人のDNA解析に懐疑的なことから、ネアンデルタール人と現生人類との交雑との見解にも懐疑的なのですが、その根拠として、ミトコンドリアDNA(mtDNA)でもY染色体DNAでも、ネアンデルタール人由来の領域が現代人では見つかっていない、ということが挙げられています。しかし、母系のmtDNAも父系のY染色体DNAも単系統遺伝なので失われやすい、と考えると別に強く疑問を抱くほどではないと思います。また、ネアンデルタール人のY染色体を有する個体は、ネアンデルタール人と現生人類との交雑集団において繁殖能力が低下し、排除された可能性が指摘されています(関連記事)。もしそうなら、ネアンデルタール人と現生人類との交雑において、ネアンデルタール人男性と現生人類女性という組み合わせが多かったというか一般的だったとすると、(出アフリカ系)現代人の常染色体DNAにネアンデルタール人由来の領域が認められるのに、ネアンデルタール人由来のmtDNAもY染色体DNAも確認されていない理由を上手く説明できそうです。もちろん、これ以外の想定もじゅうぶん可能ですが。


参考文献:
梅津和夫(2019)『DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』(講談社)

髙橋昌明氏による『中世の罪と罰』の書評

 網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』(東京大学出版会、1983年、私が所有している第9刷の刊行は1993年)が講談社学術文庫で再刊された、との呟きをTwitterで見かけました。新たに解説が所収されたのは魅力ですが、以前よりも日本中世史の優先順位が下がっているので、親本を所有しているのに新たに購入すべきか否か、迷っています。上記の呟きでは、『日本読書新聞』1984年5月21日号1面に掲載された、髙橋昌明氏による『中世の罪と罰』の書評が紹介されています。この書評は髙橋昌明『中世史の理論と方法 日本封建社会・身分制・社会史』(校倉書房、1997年)に所収されており、同書は一部の書店でまだ入手可能なようです。髙橋氏は、『中世の罪と罰』において4人の著者の間でほぼ共通の了解事項となっている論点を、以下のように整理しています。

(1)罪と罰の対応関係を現代風に割り切ることはできません。中世では、古代に淵源する罪と穢と禍を同一視する観念が強固に存続しており、そこでは穢と禍の除去=祓こそが問題でした。犯人にたいする刑罰の意識は希薄か、もしくは祓の観念を基底に中世的な刑罰が形成されました。

(2)統治者の側と在地では質的に異なった罪と罰の体系があり、ほとんどの中世人にとって現実に効力を有していたのは在地側の方でした。

(3)村落の秩序保持者たる在地領主と荘園領主の罪観念は異質なもので、後者の罪にたいする消極的な対応とは異なり、前者は積極的で厳しい処罰を強行しました。

(4)中世では路・辻・山・海などとそれ以外、あるいは夜と昼の世界など、場の性格と世界の違いにより、同一の好意が民事訴訟に基づく自力救済になったり、犯罪になったりしました。また、早い時代には正当な行為とされていたことが、時代が降ると罪になる場合もありました。

(5)物と人の本来的な一体性が損なわれた状態は不自然・不吉で、あってはならないこと、という呪術的な観念が広範に存在しました。

 髙橋氏は『中世の罪と罰』をこのように整理し、同書に代表される現在(1984年時点)の「社会史ブーム」は、高度に管理化された現代社会の重圧、あるいは高度経済成長以後のさまざまな精神的荒廃にたいする反発や、失われた人と人の絆、人と物、人と自然の結びつき、自立的・主体的労働の回復などといった人間的な願望に深く根差したものだろう、と指摘します。そのうえで髙橋氏は、こうした願望は、未来への展望が困難な中で、前近代社会、とくに最も非管理的で個人の実力がものをいう中世社会への興味・関心となって現れたのではないか、との見解を提示しています。

 髙橋氏はこのように1984年時点での「社会史ブーム」を解説したうえで、それが、こうした現代人の内面の不満とはかなりずれたところで、仲間内にしか通用しない「隠語」で高度な議論の遊戯にふけっているかに見える、マルクス主義史学も含めた戦後歴史学にたいする不信・鋭い批判にもなっている、と指摘します。髙橋氏は、歴史学の一部に見られる、「社会史には課題意識がない」とか「一種の知的遊戯」とかいった、生真面目ではあるものの高慢な論難は、天に唾する行為に他ならない、と指摘します。社会史には「課題意識がない」のではなく、違った視角からの、違ったスタイルの「課題意識」がある、というわけです。当時、髙橋氏をアンチ「四人組(『中世の罪と罰』の著者4人)」とみなす人もいたようですが、髙橋氏は『中世の罪と罰』を高く評価し、戦後歴史学「主流」側の奮起を促しています。髙橋氏はとくに、笠松氏と勝俣氏について、法制史の伝統的見地を十二分に踏まえた正統派の知的営為で、両氏に比肩するほどの後継者は容易に現れないだろう、と高く評価しています。

 また髙橋氏は、「四人組」との評価は不適切で、4人の立場や現代的な関心も相当に異なる、と指摘します。髙橋氏は、笠松・勝俣両氏と網野・石井両氏の違いとして、網野・石井両氏が笠松・勝俣両氏と多くの点で意見・認識を共有しながら、主題を戦後歴史学と直接切り結ぶところに設定している、と指摘します。髙橋氏は、おそらく4人のうちで笠松氏と網野氏がその両極をなすだろう、と評価しています。髙橋氏はそこから、驚くべき密度を誇る笠松氏の所論にもしアキレス腱があるとすれば、案外それは笠松氏の現代法にたいする理解ではないだろうか、と指摘します。髙橋氏は、「課題意識」とその根底にある現代にたいする認識において、我々は自他ともにもう少し厳しい問いかけをすべきだ、と締めくくっています。

 髙橋氏の書評は、当時の学界の雰囲気が窺えるという点でも興味深いものになっています。『中世史の理論と方法』の後書きを読むと、大学紛争以後の学問をとりまく環境と若者の生態・価値観・政治意識が急速に変わりつつあり、そうした背景で社会史が劇的に台頭した、との髙橋氏の認識が窺えます。同書からは、階級闘争や国家論を主題とした戦後歴史学で育った髙橋氏がこの急速な変化にどう対応すべきか、苦悩していたことが窺えます。髙橋氏は学部生だった1960年代半ばに、出張講義に来た黒田俊雄氏にたいして、「もっと階級的にやってください」と注文をつけたそうです。1960年代半ばには、学部生(とはいっても、「意識の高い」一部だったのでしょうが)が研究者にたいしてこのように発言する雰囲気もあったのでしょう。それが、1980年代半ばには大きく変わっていたようです。

 私の実体験は1990年代前半ですが、ある研究者(日本中世史専攻ではありません)は、1970年代と比較して現在(1990年代前半)の学生の気質は大きく変わった、「反左翼的な」見解を述べても強く反発する学生はほぼいなくなった、と発言していました。1970年代から1980年代前半にかけて日本社会の若者をとりまく知的状況は大きく変わり、それは冷戦終了とソ連崩壊により決定的になったのかもしれません(髙橋氏の書評から窺えるように、上の世代の研究者ではまた様相が異なるのでしょうが)。これを堕落と考えるような人も日本社会にはまだ少ないながら存在するのかもしれませんが、マルクス主義が絶対的な権威から転落したこと自体は、たいへん歓迎すべきではないか、と私は考えています。

中曽根康弘元首相死去

 中曽根康弘元首相が今日(2019年11月29日)101歳で亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。中曽根氏は私が小中学生の頃の首相で、政治に関心を抱き始めて間もなくの頃に首相に就任したため、私にとっては強く印象に残っている政治家でした。各報道ではアメリカ合衆国のレーガン大統領(当時)との蜜月関係が指摘されていますが、中曽根政権期は、その前後も含めて日米貿易摩擦がたいへん深刻だった、との個人的印象を抱いています。中曽根政権は基本的に従米路線を強化したように思いますが、この選択は、少なくとも最悪の選択ではなく、むしろましな部類に入るのではないか、と私は考えています。当時の日本に、アメリカ合衆国から「自立」するだけの条件は整っておらず、無理に「自立」しようとすれば、史実よりも早く日本は(他国との相対的比較において)衰退していた可能性が高いように思います。また従米路線とも関連しますが、日本における「新自由主義」の始まりは中曽根政権だろうとも思います。それが現在の日本社会にどのような影響を及ぼしたのかというと、私の政治的信条からは否定的な評価になってしまうのですが、率直なところ、私の見識で的確な判断ができるはずもなく、今後、専門家の見解を少しずつでも学んでいくつもりです。

 中曽根政権は当初、田中曽根内閣とも揶揄されましたが、首相として実権を掌握していき、ついには後継者を指名して無投票で自民党総裁が選出されるような事態を作り上げた中曽根氏の政治手腕は見事だったと思います。正直なところ、中学生の頃の私は、中曽根氏の復古的な側面が気に入らず、かなり嫌っていましたが、権力者として優れていたことは否定できないでしょう。もっとも、権力者として優れていることが政策の良さを保証するわけではないので、政治的功績の評価はまた別問題ですが。また、中曽根氏は教養の点でも、宮澤喜一元首相などとともに政治家の中ではかなり優れていた方だと思います。旧制高校が廃止されて長年経過した現在、中曽根氏のような教養のある政治家が頭角を現すことはなかなか期待しづらいように思います。

 従米路線との関連で、今日たまたま見かけた呟きで気になったのは、

文政権というのは鳩山小沢政権2.0というシミュレーション的なところがあってね、小沢という人間が本当に危ういのは保守からリベラル、護憲から自主防衛、ネオコンからソーシャリズムまでその時その場で主張は幾らでも変わるくせに対米自立と親中だけは決してブレないところ。なあ怖いだろ。

というものです。しかし小沢氏は、石原慎太郎氏と野中広務氏という、自民党のなかでも対極の立ち位置だっただろう二人から行き過ぎた対米従属を批判された人物でした。もちろん、石原氏と野中氏の認識が妥当なのか、という問題はありますし、「普通の国」を目指した小沢氏は、短期的には対米従属を強化するように見えて、長期的には対米自立を目標としていたのだ、との評価も可能かもしれません。しかし、小沢氏が一貫して「親中」との評価にはかなり疑問が残ります。民主党への合流前の自由党時代の小沢一郎氏は、中国から警戒される政治家でした。それが、小泉政権で日中の政権間の関係が悪化し、自民党でも野中氏たち対中利権を掌握していた経世会の影響力が低下すると、中国に接近していったような印象があります。率直に言って、自由党時代の小沢氏の対中姿勢は、自民党在籍時に経世会での権力闘争に敗れたさい、中国利権の大半を掌握できなかったために「反中」となり、日中の政府関係の悪化や経世会の影響力低下などにより、対中利権に食い込めそうになったので「親中」に転向しただけで、とくに一貫した政治姿勢はないようにも思います。まあ、私は約30年にわたってずっと強烈な「アンチ小沢」なので、悪意に満ちた歪んだ小沢氏認識を抱いているのかもしれませんが。

血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的要因

 血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的要因に関する研究(Thompson et al., 2019)が公表されました。循環白血球におけるY染色体喪失のモザイク(LOY)は、細胞のクローン性増殖によるモザイク現象の最も一般的な形態ですが、その原因や結果についての知見は限られています。この研究は、新たな計算手法を用いて、イギリスのバイオバンク研究に登録されている男性集団(205011人)の20%が検出可能なLOYを有すると推定される、と示しています。

 この研究では、常染色体上の156のLOY遺伝的関連座位が特定され、これらはヨーロッパ系および日本系の男性757114人において再現性が確認されました。これらの座位からは、細胞周期の調節やがんの感受性に関わる遺伝子に加え、腫瘍増殖の体細胞性ドライバー変異や癌治療の標的に関与する遺伝子が明らかになりました。LOYの遺伝的感受性は、男性および女性の両方において、健康に及ぼす非血液学的影響に関連している、と実証されました。これは、クローン性造血が他の組織のゲノム不安定性のバイオマーカーである、という仮説を裏づけています。

 この研究では、単一細胞RNA塩基配列解読から、LOYの見られる白血球には複数の常染色体遺伝子の発現に調節異常がある、と明らかになり、このような細胞のクローン性増殖が起こる理由についての手掛かりが示されました。総合すると、これらのデータは、癌やその他の加齢関連疾患の根底にある基本的な機構を明らかにするために、クローン性モザイク現象を調べる価値がある、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的素因

遺伝学:Y染色体喪失のモザイク

 J Perryたちは今回、英国バイオバンクに登録されている男性の循環白血球において、細胞のクローン性増殖によるモザイク現象の一般的な形態であるY染色体喪失モザイク(LOY)について、ゲノム規模関連解析を行った結果を報告している。LOYを検出する新たな手法によって、この男性集団の約20%が検出可能なLOYを持つという推定が得られた。また、常染色体上の156のLOY遺伝的関連座位が特定され、これらは別のヨーロッパ系男性集団および日系男性集団で再現性が確認された。さらに、白血球LOYへの遺伝的感受性が、広範な非血液がんと相関することも分かった。



参考文献:
Thompson DJ. et al.(2019): Genetic predisposition to mosaic Y chromosome loss in blood. Nature, 575, 7784, 652–657.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1765-3

記憶の再固定化阻害によるアルコール摂取量の減少

 記憶の再固定化阻害によるアルコール摂取量の減少に関する研究(Das et al., 2019)が公表されました。再固定化は記憶を維持するプロセスで、再活性化した長期記憶が一時的に不安定化して、新しい情報を取り込みます。不安定化した記憶は、N-メチルD-アスパラギン酸受容体(NMDAR)経路により、新しい形の記憶として安定化します。この記憶の再固定化が進行している間に(ケタミンなどのNMDAR拮抗薬の投与による)薬理学的介入を実施すれば、不適応報酬記憶(たとえば、有害な薬物使用行動に関連する記憶)を弱められる可能性がある、と考えられています。

 この研究は、ケタミンが過度のアルコール使用行動に関連する記憶を弱めて、飲酒量を減らせるかどうか、検証しました。この研究に集められたのは、有害な飲酒パターンを示しているものの、アルコール使用障害と正式には診断されておらず、治療を求めていなかった参加者90人(男性55人と女性35人、平均年齢約28歳)でした。そのうちの60人に、一連のビールの画像を見せて、アルコールに関連する不適応報酬記憶を想起させてから、ケタミン(30人)または生理食塩水(30人)を注射しました。残りの30人には、記憶の想起をさせずにケタミンを注射しました。

 次に、いくつかの追跡調査時点を設定し、参加者が飲酒行動(飲酒量・楽しさ・欲求)の変化に気づいた場合に、その変化を報告させました。その結果、記憶の想起があった後にケタミンを投与した場合、その後の最大9ヶ月間に1週間の飲酒日数が減り、アルコール摂取量も減少した、と明らかになりました。ケタミンと記憶の想起の組み合わせは、ケタミンの単独投与よりも飲酒を大きく減らすことができました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】記憶の再固定化を阻害すればアルコール摂取量を減らせるかもしれない

 アルコール報酬記憶を想起した直後にケタミンを単回投与すると、この記憶の再固定化が阻害されて、アルコール摂取量の減少につながった。この研究結果を報告する論文が今週掲載される。今回の研究には90人が参加した。

 再固定化は、記憶を維持するプロセスであり、再活性化した長期記憶が一時的に不安定化して、新しい情報を取り込む。そして、不安定化した記憶は、N-メチルD-アスパラギン酸受容体(NMDAR)経路によって新しい形の記憶として安定化する。この記憶の再固定化が進行している間に(ケタミンなどのNMDAR拮抗薬の投与による)薬理学的介入を実施すれば、不適応報酬記憶(例えば、有害な薬物使用行動に関連する記憶)を弱められる可能性があると考えられている。

 今回の研究で、Ravi Dasたちは、ケタミンが過度のアルコール使用行動に関連する記憶を弱めて、飲酒量を減らせるかどうかを明らかにしようとした。この研究に集められたのは、有害な飲酒パターンを示しているが、アルコール使用障害と正式に診断されておらず、治療を求めていなかった参加者90人(男性55人と女性35人、平均年齢約28歳)だった。そのうちの60人に、一連のビールの画像を見せて、アルコールに関連する不適応報酬記憶を想起させてから、ケタミン(30人)または生理食塩水(30人)を注射した。残りの30人には、記憶の想起をさせずにケタミンを注射した。次に、いくつかの追跡調査時点を設定し、参加者が飲酒行動(飲酒量、楽しさ、欲求)の変化に気づいた場合に、その変化を報告させた。その結果、記憶の想起があった後にケタミンを投与した場合、その後の最大9か月間に、1週間の飲酒日数が減り、アルコール摂取量も減少したことが判明した。ケタミンと記憶の想起の組み合わせは、ケタミンの単独投与よりも飲酒を大きく減らすことができた。



参考文献:
Das RK. et al.(2019): Ketamine can reduce harmful drinking by pharmacologically rewriting drinking memories. Nature Communications, 10, 5187.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-13162-w

メンフクロウの白い羽衣は獲物を捕らえやすくしている

 メンフクロウの白い羽衣と獲物の捕獲に関する研究(San-Jose et al., 2019)が公表されました。月光は、個体の食餌発見能力を変えたり、動物が身を隠したままにしたりするなど、動物の模様の働きを変化させています。また月は、夜の世界をさまざまな光にさらしており、それが夜行性動物の配色の進化を促進している可能性もあります。この研究はGPSトラッカーを利用し、異なる月齢のもとでの赤色および白色のメンフクロウの狩猟成功率をモニタリングしました。その結果、白いフクロウは、月のある夜には獲物からの視認性が高いにも関わらず、赤みが最も強くて目につきにくいと考えられるフクロウよりも、齧歯類の狩猟に成功する確率が高い、と明らかになりました。

 この研究は、白いフクロウの成功率が高かった理由を明らかにするため、ジップワイヤーで剥製のフクロウを飛ばし、メンフクロウの主要な獲物であるハタネズミの驚愕反応を評価しました。すると、白いフクロウの羽毛は光を反射しており、ハタネズミの生来的な明るい光への嫌悪を利用している現象が観察されました。ハタネズミは立ちすくんでしまうため、フクロウはハタネズミの捕獲が容易になると考えられます。メンフクロウで白と赤の両方のタイプの羽衣が維持されていることはこの現象によって説明されるかもしれない、とこの研究は推測しています。白いメンフクロウが有利になるのは、満月のもとなど、特定の条件でのみです。それ以外の状況では、白い羽衣はハシボソガラスなどの厄介な競争相手から容易に発見される原因となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物行動学】白い羽衣は目くらまし

 満月のもとで、メンフクロウの白い羽衣は、獲物が立ちすくむ時間を長くし、それによって獲物を捕らえやすくしていることを明らかにした論文が掲載される。

 月光は、個体の食餌を発見する能力を変えたり、動物が身を隠したままにしたりするなど、動物の模様の働きを変化させている。また月は、夜の世界をさまざまな光にさらしており、それが夜行性動物の配色の進化を促進している可能性もある。

 今回、Alexandre Roulin、Luis San Joseたちは、GPSトラッカーを利用して、異なる月齢のもとでの赤色および白色のメンフクロウの狩猟成功率をモニタリングした。その結果、白いフクロウは、月のある夜には獲物からの視認性が高いにもかかわらず、赤みが最も強くて目につきにくいと考えられるフクロウよりも、齧歯類の狩猟に成功する確率が高いことが分かった。

 研究チームは、白いフクロウの成功率が高かった理由を明らかにするため、ジップワイヤーで剥製のフクロウを飛ばし、メンフクロウの主要な獲物であるハタネズミの驚愕反応を評価した。すると、白いフクロウの羽毛は光を反射しており、ハタネズミの生来的な明るい光への嫌悪を利用している現象が観察された。ハタネズミは立ちすくんでしまうため、フクロウはハタネズミの捕獲が容易になると考えられる。

 メンフクロウで白と赤の両方のタイプの羽衣が維持されていることはこの現象によって説明されるかもしれないと、研究チームは考えている。白いメンフクロウが有利になるのは、満月のもとなど、特定の条件でのみである。それ以外の状況では、白い羽衣は、ハシボソガラスなどの厄介な競争相手から容易に発見される原因となる。



参考文献:
San-Jose LM. et al.(2019): Differential fitness effects of moonlight on plumage colour morphs in barn owls. Nature Ecology & Evolution, 3, 9, 1331–1340.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0967-2

スコットランド人の遺伝的構造

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、スコットランド人の遺伝的構造に関する研究(Gilbert et al., 2019)が報道されました。ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々では、移住と侵略により現代人集団が形成されてきました。ブリテン島に人類が移住してきたのは更新世で、完新世になると、紀元前4000~紀元前3000年頃に農耕民が移住してきて、銅器時代~青銅器時代には鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡散により大規模な人口置換があった、と推測されています(関連記事)。

 ブリテン諸島集団の遺伝的構造はここでほぼ確立し、その後の移住も遺伝的影響を及ぼしたものの、置換は起きませんでした。青銅器時代以後の遺伝的影響として、400~650年頃のアングロサクソンの侵攻が、イングランド南部におけるより高いゲルマン関連系統と関連していることや、8~11世紀のヴァイキングの侵略が、オークニー諸島とアイルランドにおけるノルウェー人関連系統の増加と関連していることなどが挙げられます。さらに、アイルランド北東部では、おもに17世紀においてスコットランドとイングランド起源の集団との混合がありました。

 ブリテン島とアイルランド島の集団遺伝学の以前のゲノム規模調査では、イングランド・ウェールズ・アイルランドと比較して、スコットランドとその近隣地域のデータが少ない、という問題がありました。本論文はこの問題に対処するため、既知のデータとシェトランド諸島・マン島・スコットランド西岸の遺伝的データを組み合わせて、ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々の計2544人のゲノムデータセットを作成し、包括的に分析しました。さらに本論文は、2225人のスカンジナビアの人々のデータセットも比較しました。本論文はこの統合されたデータを用いて、スコットランドとその周辺の島々における、遺伝子構造、ヴァイキングの遺伝的影響、古代アイスランドの創始者集団の遺伝的起源を検証しました。

 これらのデータセットに基づく地理的集団の系統樹では、まずシェトランド諸島およびオークニー諸島集団とその他の他集団に分岐します。後者では、イングランドおよびウェールズ集団とその他の集団が分岐します。さらに後者では、アイルランド集団とスコットランド集団が分岐します。スコットランド集団は、ヘブリディーズ諸島集団とスコットランド北東部および南西部集団が分岐します。ブリテン島およびアイルランド島とその周辺の島々では、遺伝地理的構造がかなりの程度明確に示されています。

 これらの集団の遺伝的構成は、イングランド・ウェールズ・スコットランド・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの6系統の混合モデルでも分析されました。このうち、ウェールズはケルト、イングランドはサクソン、ノルウェーはノースという古代集団をほぼ表しています。ノルウェー系統はヘブリディーズ諸島集団で約7%と低く、スコットランド北部および南西部(アーガイル)とマン島でも約4%と低くなっています。アイルランドでもノルウェー系統の割合は平均7%と低くなっています。スコットランド東部とマン島では、イングランド系統の割合が比較的高くなっています。

 これらのゲノムデータは古代集団とも比較されました。アイスランド古代集団は遺伝的にはゲール人系統とノース人系統とに二分されます。ゲール人系古代アイスランド集団は、スコットランドとアイルランドのゲール人系集団と最大の類似性を示します。ノース人系統古代アイスランド集団と最も低い遺伝的類似性を示すのは、ドニゴールとヘブリディーズ諸島とアーガイルで、これらは、ヴァイキングの激しい活動があったブリテン諸島北西部地域とアイルランド島です。こうした現代人集団の遺伝子的構造は、アイスランドの創始者集団が、ブリテン島北西部もしくはアイルランド起源だったことを示唆します。

 本論文は、ブリテン諸島において、北部ではノース人系統が、南東部および西部ではサクソン人およびケルト人系統が強いことを明らかにしています。とくにオークニー諸島とシェトランド諸島集団は、スカンジナビア外ではノルウェー系統を最高水準で有しています。本論文が示す現代のスコットランドの地域的な遺伝的構造は、明らかな自然障壁がないにも関わらず、暗黒時代(西ローマ帝国が崩壊した476年~1000年頃)の王国の分布と地理的によく一致します。産業革命以後の流動性の増加にも関わらず、過去1000年ほど、スコットランドでは人類集団の大きな移住・遺伝子流動がなかったことを表しているのでしょう。

 また、ヘブリディーズ諸島とスコットランド高地とアーガイル地方とアイルランドのドニゴール州とマン島の集団は、他の地域集団と比較して遺伝的孤立の特徴を示します。ヨーロッパ北部からのヴァイキングの影響は、アイルランドでは以前の推定よりずっと低くなりました。本論文は、この新たな推定が、ヨーロッパ北部系がほとんど見られないアイルランドのY染色体データともよく一致している、と指摘します。また本論文は、これらの遺伝的知見がブリテン島とアイルランド島における地理的に異なる病気発生率の解明にも役立可能性も指摘しています。


参考文献:
Gilbert E. et al.(2019): The genetic landscape of Scotland and the Isles. PNAS, 116, 39, 19064–19070.
https://doi.org/10.1073/pnas.1904761116

山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」

 言語系統やその起源については明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。本論文は、現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説を大前提として、言語系統について考察しています。言語学において現生人類アフリカ単一起源説の影響はまださほどないものの、その意味は小さくなく、しばしば珍説とされてきた「人類言語単一起源説」の可能性も浮上する、と本論文は指摘します。本論文は2013年の講演会の文書化なので、2019年11月時点では情報はやや古くなっています。その点にも言及しつつ、以下に本論文の内容を備忘録的に述べていきます。

 まず、本題とはほとんど関わらないのですが、本論文では180万年前頃以降とされている人類の出アフリカは、現在では200万年以上前までさかのぼる、とされています(関連記事)。「Y染色体アダム」、つまり現代人のY染色体DNA系統の合着年代について、本論文では6万~8万年前頃との見解が採用されていますが、その後、338000年前(95%の信頼性で581000~237000年前の間)という研究(関連記事)と、239000年前頃(95.4%の信頼性で321000~174000年前の間)という研究(関連記事)が提示されています。本論文は、「ミトコンドリア・イヴ」、つまり25万~15万年前頃と推定されている(関連記事)現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統の合着年代の方が「Y染色体アダム」より古いので、人類言語単一起源説の考察ではY染色体の方は考慮しない、と述べていますが、現時点では「ミトコンドリア・イヴ」よりも「Y染色体アダム」の方が古くなります。

 本論文の認識で何よりも問題となるのは、「ミトコンドリア・イヴ」以前の現生人類の系譜をひく人類は現存しないので、「ミトコンドリア・イヴ」の時点で言語があれば、「彼女」の言語こそ「世界祖語」と言える可能性が高い、としていることです。しかし、「ミトコンドリア・イヴ」は現代人のmtDNA系統における合着年代を示しているにすぎず、「Y染色体アダム」がそうであるように、他のDNA領域、つまり核DNAに注目すると、また異なる合着年代が示されます。当時存在した「ミトコンドリア・イヴ」以外の人々でも、もちろん核DNAは現代人にまで継承されているわけで、そうした人々のmtDNA系統は現代人に継承されていないとしても、言語が現代人に継承されている可能性は高いでしょう。逆に、「ミトコンドリア・イヴ」の帰属する集団の言語が、大きく異なる他集団の言語に駆逐・置換された可能性も低くありません。

 このように本論文の認識には疑問が残りますが、伝統的な比較言語学による系統証明方法の限界のために、言語学では現生人類アフリカ単一起源説への注目が高まらない、との本論文の指摘は興味深いと思います。本論文は、語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘します。これは、単なる偶然の一致を越えて基礎語彙が共有される期間がこの程度だからです。そうした限界を超えようとした研究もあり、ノストラ語族という大語族を提示した研究もあるものの、その手法には多くの批判が寄せられ、とても通説とはなっていません。ただ本論文は、手法の誤りもしくは稚拙さが結論の誤りを証明しているとは限らない、と注意を喚起しています。

 本論文は、現代人の言語系統の問題に関して、まず人類がいつ言語を獲得したのか、考察しています。本論文は、現生人類に言語があったことは多くの研究者の間で前提とされているようだ、と指摘します。そこで言語の獲得時期について焦点となったのは、現生人類の近縁系統であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でした。ネアンデルタール人については、現代人のような言語を話せなかっただろう、との見解が以前には有力でしたが、その後、舌骨の研究や舌下神経管から、ネアンデルタール人も現代人とほぼ同様に音声言語を使えたのではないか、との見解が提示されています。これは、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の段階で、現代人にかなり近い音声言語能力があったことを示唆します。本論文は、現生人類も最初から言語を有していただろう、と指摘します。

 本論文が言語単一起源説との関連で注目したのは、5万年前頃に現生人類の文化に飛躍的な発展があったとする見解(創造の爆発論)です(関連記事)。創造の爆発論では、5万年前頃の現生人類における飛躍的な文化発展は神経系の遺伝的変異を基盤としており、現代人のような複雑な言語活動もここで初めて可能になった、と想定されます。本論文は、現代人の主要な祖先集団が6万年前頃にアフリカからユーラシアに拡散したとすると、現代人のような複雑な言語は現生人類の出アフリカ後に獲得されたことになるので、言語単一起源説は必ずしも成立しない、と指摘します。それでも本論文は、不用意に文化的な発達と言語の発達を関連づけることには慎重でなければならない、と指摘します。ただ、本論文は創造の爆発論を誤読しているところがあり、創造の爆発論では、飛躍的な文化発展の基盤となった神経系の遺伝的変異は現代人の主要な祖先集団の出アフリカ前とされており(そうでなければ、各地で複雑な言語活動を可能とする遺伝的変異が独自に起きたことになります)、言語単一起源説と創造の爆発論は矛盾しないと思います。創造の爆発論の5万年前頃という年代も、6万年前頃という現代人の主要な祖先集団の出アフリカの年代もあくまでも幅のある推定値であり、それぞれ確定的ではありません。

 本論文がもう一つ注目したのは、発話能力との関連が指摘されているFOXP2遺伝子に関する研究です。本論文は、現代人型のFOXP2遺伝子の出現時期について、10万~1万年前頃の可能性が最も高く、20万年以上前にさかのぼることはない、という研究を紹介していますが、FOXP2遺伝子が言語能力にのみ関与しているのか不明で、言語能力の獲得には複数の遺伝子が関与している可能性もあるので、FOXP2遺伝子は言語獲得時期の推定の決定的根拠にはならないかもしれない、と指摘します。この本論文の指摘は妥当だと思います。本論文では言及されていませんが、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子も現代人型です(関連記事)。また、本論文の後の研究では、FOXP2遺伝子の発現に影響を及ぼすFOXP2遺伝子の周辺領域において、ネアンデルタール人と現代人とで違いがある、と指摘されています(関連記事)。ただ、これが言語能力とどう関わっているのかは、まだ不明です。

 本論文はまとめとして、遺伝学的研究の進展により現生人類アフリカ単一起源はほぼ確 実となったものの、それにより直ちに言語単一起源説が成立するかというと、以前と比較してその可能性が高くなったとは言えても、現段階では一つの仮説に留まり、結論は保留せざるを得ない、との見解を提示しています。この見解は妥当なところだと思いますが、現生人類の起源に関しては、もはや単純なアフリカ単一起源説では通用しなくなりつつあることも重要だと思います。一つには、現生人類とネアンデルタール人との交雑が明らかになったことですが、より重要なのは、アフリカ全体の異なる集団間の複雑な相互作用により現生人類は形成された、との見解(関連記事)が有力になりつつあるように思われることです。この見解では、現生人類アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、と想定されます。そうすると、現代につながるような言語は、単一起源というよりは、潜在的に言語能力を有する各集団が独自に発展させ、その相互交流・融合・置換の複雑な過程で形成されていった、とも考えられます。まあそれでも、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の段階の最初期言語を「世界祖語」と言えなくもありませんが、それは本論文の想定する「世界祖語」とは大きく異なるものだと思います。


参考文献:
山本秀樹(2013)「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会

大相撲九州場所千秋楽

 今場所は休場が多く、何とも寂しい限りでした。これは、以前よりも八百長が減っていることを反映しているのかもしれませんが、そうだとすると、やはり1場所15日・年間6場所は、力士への負担を考えるとあまりにも多すぎるのでしょう。とはいえ、本場所や巡業の日数を減らせば、それだけ力士をはじめとして相撲関係者の収入も減るわけで、これは相撲の存続という観点から好ましいことではありません。これも人間社会の問題に多いトレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくものなので、解決策は容易ではありません。

 休場した力士としてまず挙げねばならないのが横綱の鶴竜関で、すでに初日の取り組みも決まっていたにも関わらず、初日からの休場となりました。鶴竜関は、前師匠の井筒親方(坂鉾関)が亡くなったことで、精神的にかなり落ち込んでいるのかもしれず、来場所での引退も懸念されます。鶴竜関は肉体的にも満身創痍といった感じですから、状況は厳しいのですが、何とか復活してもらいたいものです。3人の大関陣のうち、豪栄道関は初日に負けて負傷し2日目から、高安関は3勝4敗で迎えた8日目から休場しました。高安関は大関から陥落し、来場所での復帰に挑むことになります。大関復帰をかけた関脇の栃ノ心関は、2連敗から2連勝して相撲勘が戻ってきたかな、と思ったところ、4日目の取り組みで負傷して5日目から休場となり、大関には復帰できませんでした。何とも残念ですが、大怪我から復帰してよく大関まで昇進したと思います。新入幕の頃から応援し続けてきただけに、優勝したことも含めて栃ノ心関には感謝しています。栃ノ心関とともに期待していた逸ノ城関は全休で、来場所は十両に陥落となります。何とか、早く幕内上位に戻ってきてもらいたいものです。

 優勝争いは、白鵬関が途中から単独首位に立ち、14日目に優勝を決め、千秋楽の貴景勝関との結びの一番にも勝ち、14勝1敗で43回目の優勝を果たしました。全盛期からかなり衰えた感のある白鵬関ですが、まだ現役最強であることは間違いないでしょう。というか、本来ならばすでに白鵬関も鶴竜関も引退に追い込まれ、世代交代となっていなければならないのですが、若手の伸び悩みにより、白鵬関と鶴竜関の両横綱は現役を続け、豪栄道関も大関の地位を保っています(来場所陥落しそうですが)。確かに白鵬関は相撲史に残る大横綱ですが、やはり、大相撲全体の水準が低下していることもあるのでしょう。日本社会全体の少子高齢化が進む中、旧悪と指弾されそうな要素の多い大相撲界に進みたいと考える少年も、息子を力士にさせたいと考える保護者も少ないでしょうから、全体的な力士の水準は以前よりも低下している可能性が高いと思います。いかにモンゴルやヨーロッパなどから有望な少年を入門させても、入門者で圧倒的に多いのは日本人ですから、日本社会の少子高齢化が進めば、力士全体の水準が低下しても仕方ないとは思います。これは容易に解決できる問題ではないので、大相撲も指導法などで大きな改善が必要なのでしょう。

 大関に復帰した貴景勝関は、先場所の優勝決定戦での大怪我が心配されましたが、9勝6敗と勝ち越しました。基本的には押し相撲で不安定なところがありますし、研究されてきて容易に勝てなくなっている感もありますが、次の横綱に最も近いとは思います。再度大怪我せず、早いうちにもう二段階くらい強くなって横綱に昇進してもらいたいものです。伸び悩んでいる若手力士の代表格とも言える御嶽海関(もう若手とは言いづらい年齢ですが)は先場所優勝し、今場所は、大関昇進、少なくとも足固めの場所として期待されましたが、6勝9敗と負け越してしまいました。御嶽海関は、白鵬関と鶴竜関が引退すれば、大関にまでは昇進できるかもしれませんが、稽古量の少なさも指摘されており、横綱昇進は難しそうです。一方、同じくすでに優勝経験のある朝乃山関は14日目まで優勝争いに加わり、11勝4敗として大関昇進への道を開きました。朝乃山関には成長も感じられ、あるいは貴景勝関よりも先に横綱に昇進するかもしれません。若手が伸び悩むなか、白鵬関と鶴竜関が引退したらどうなるのかと思うと恐ろしいくらいなので、貴景勝関と朝乃山関には早く横綱に昇進してもらいたいものです。

松本克己「日本語の系統とその遺伝子的背景」

 日本語の系統やその起源については以前当ブログで取り上げましたが(関連記事)、明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。日本語は系統的孤立言語の一つとされていますが、ユーラシア大陸圏における10近い系統的孤立言語の半数近くが日本列島とその周辺に集中している、と本論文は指摘します。日本語以外では、アイヌ語・アムール下流域と樺太のギリヤーク(ニヴフ)語・朝鮮語です。本論文は、こうした系統的孤立言語の系統関係を明らかにするには、伝統的な歴史・比較言語とは別の手法が必要になる、と指摘します。歴史言語学で用いられる、おもに形態素や語彙レベルの類似性に基づいて言語間の同系性を明らかにしようとする手法では、たどれる言語史の年代幅が5000~6000年程度だからです。つまり、たとえば日本語とアイヌ語の共通祖語があったとしても、少なくとも6000年以上はさかのぼる、というわけです。

 本論文は、伝統的な歴史言語学の手法では推定の難しい言語間の系統関係を推定する手法として、「言語類型地理論」を提唱しています。これは、各言語の最も基本的な骨格を形作ると見られるような言語の内奥に潜む特質、通常は「類型的特徴」と呼ばれる言語特質を選び出し、それらの地理的な分布を通して、世界言語の全体を視野に入れた巨視的な立場から、各言語または言語群の位置づけを見極めようとするものです。本論文は、ユーラシア大陸圏の言語をまず内陸言語圏と太平洋沿岸言語圏に分類し、さらに太平洋沿岸圏を南方群(オーストリック大語族)と北方群(環日本海諸語)に分類します。系統的孤立言語とされる日本語・アイヌ語・ギリヤーク語・朝鮮語は北方群に分類されています。本論文の見解で興味深いのは、内陸言語圏と太平洋沿岸圏にまたがると分類されている漢語を、チベット・ビルマ系の言語と太平洋沿岸系の言語が4000年前頃に黄河中流域で接触した結果生まれた一種の混合語(クレオール)と位置づけていることです。また本論文は、太平洋沿岸言語圏がアメリカ大陸にまで分布している、と把握しています。

 本論文は、言語学的分類を遺伝学的研究成果と結びつけ、その系統関係を推定しようと試みている点で、伝統的な言語学とは異なると言えるでしょう。遺伝学的研究成果とは、具体的にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の分類と、地理的分布および各地域集団における頻度で、本論文ではおもにYHgが取り上げられています。太平洋沿岸言語圏で本論文が注目しているYHgは、D・C・Oです。YHg-DとCは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団において、比較的早く分岐した系統です。YHg-Dの地理的分布は特異的で、おもにアンダマン諸島・チベット・日本列島と離れた地域に孤立的に存在します。本論文はこれを、言語地理学用語の「周辺残存分布」の典型と指摘しています。本論文はYHg-Cについても、Dよりも広範に分布しているとはいえ、周辺残存分布的と評価しています。本論文は、日本列島に最初に到来した現生人類のYHgはCとDだっただろう、と推測しています。しかし、本論文は地理的分布から、太平洋沿岸系言語と密接に関連するのはYHg-C・Dではなく、YHg-O1b(本論文公開時の分類はO2、以下、現在の分類名を採用します)と指摘します。YHg-Dが日本列島にもたらした言語は、人称代名詞による区分では出アフリカ古層系だろう、と本論文は推測しています。太平洋沿岸系言語と関連するYHg-O1bのサブグループでは、O1b1a1aが南方群、O1b2が日本語も含む北方群の分布とおおむね一致します。本論文は、アジア東部でもかつてはこうした太平洋沿岸系言語が存在したものの、漢語系のYHg-O2、とくにO2a2b1の拡散により消滅した、と推測しています。

 本論文は、日本語をもたらしたと推測されるYHg-O1b2の日本列島への到来について、アメリカ大陸における太平洋沿岸系言語の存在が重要な鍵になる、と指摘します。アメリカ大陸先住民の祖先集団は、アメリカ大陸へと拡散する前にベーリンジア(ベーリング陸橋)に留まっていた、とするベーリンジア潜伏モデルが有力です(関連記事)。このベーリンジアでの「潜伏」が最終氷期極大期(LGM)によりもたらされ、この「潜伏期」にボトルネック(瓶首効果)によりYHg-O1bが失われたとすると、日本語祖語となる太平洋沿岸系言語の担い手であるYHg-O1b2が日本列島に到来したのはLGM以前で、遅くとも25000年前頃だろう、と本論文は推測します。本論文は、この集団が石刃技法を有していた可能性も提示しています。このYHg-O1b2の到来により、日本列島の言語は、YHg-Dがもたらした出アフリカ古層系から太平洋沿岸系言語へと完全に置換された、と本論文は推測します。しかし、日本列島のYHg-Dは淘汰されず、現在でも高頻度(とくに高頻度のアイヌ集団を除くと3~4割)で足属している、と本論文は指摘します。

 本論文の見解はたいへん興味深く、今後、言語系統の研究と遺伝学的研究との融合が進んでいくだろう、と期待されます。ただ、YHg-O1b2系統における各系統への分岐が25000年前頃までに始まっていたのかというと、疑問も残ります。そうすると、日本列島へのYHg-O1b2の到来年代もずっと後になりそうです。何よりも、まだ「縄文人」においてはYHg-Oが確認されていません。YHg-O1b2はアジア東部にかつて現在よりも広範に分布しており、その中には弥生時代もしくは縄文時代晩期以降に日本列島へと農耕技術とともに到来した日本語祖語集団がいた、という想定の方が現時点では有力なように思われます。また、言語に代表される文化の変容と遺伝的継続・変容の程度との間には常に一定の相関が確認されるわけではなく、かなり多様だったと考えられるので(関連記事)、言語をはじめとして文化と遺伝的構成の関係については、固定的に把握してはならない、と私は考えています。日本語の起源と系統関係については、今後も長く議論が続いていきそうです。


参考文献:
松本克己(2012)「日本語の系統とその遺伝子的背景」千葉大学文学部公開講演会

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第44回「ぼくたちの失敗」

 1962年、ジャカルタで開催されたアジア大会において、アラブ諸国および中華人民共和国との連携を強化していたインドネシアのスカルノ政権がイスラム教徒と中華民国(台湾)を実質的に排除しようとしたため、田畑政治たち日本選手団は参加すべきか否か、苦悩します。田畑はけっきょく開会式直前に参加を決意しますが、日本ではこの決定が批判され、田畑が槍玉に挙げられます。オリンピック担当大臣の川島正次郎は、参加を決めたのは自分ではなく、東京オリンピック組織委員会の会長の津島寿一と都知事の東龍太郎と田畑だと責任転嫁を図ります。

 田畑は河野一郎から助言を受けて、正式大会から親善大会に変えようとしますが、インドネシア国民は激昂します。田畑は閉会後も国際陸連から責め立てられ、親善大会扱いにしようと画策しますが、失言によりさらに窮地に追い込まれます。川島はここぞとばかりに田畑と津島を責め立て、田畑と津島は国会に参考人として招致されます。田畑は国会で議員たちに糾弾され、自分がどこで間違ってしまったのか、考えます。田畑はかつて高橋是清と面会したさいに、政治家もオリンピックを利用すればよい、と言ったことを想起します。津島は批判に耐えられず、会長辞任を申し出ますが、田畑の辞任も条件とし、田畑は事務総長を解任されます。

 今回は田畑が解任へと追い込まれる政治劇でした。田畑が、自分の間違いの原点を探し、高橋是清との面会に思いが及ぶ場面は、長期の連続ドラマらしいつながりでよかった、と思います。ただ、今回もそれなりに長かった落語場面が、終盤になっても本筋と上手く接続しているとは言えないように思えるのは、残念です。まあ、田畑夫妻と落語の場面を重ねていたところは上手かったと思いますが。それでも、最終回では落語場面の重要な意味が浮かび上がってくるのではないか、と期待しています。

人間の歌の普遍的パターン

 人間の歌の普遍的パターンに関する研究(Mehr et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。音楽は人類共通の言語だと昔から言われてきましたが、音楽に意味のある普遍性が存在するかどうかは不明で、多くの音楽学者はこの見解にはたいへん懐疑的です。本論文は、人間の歌(ボーカル・ミュージック)の普遍性と多様性を明らかにするため、現代的なデータサイエンスと世界中の文化の音楽録音および民族学的記録とを融合させました。本論文は、315の文化における、1世紀以上に及ぶ人類学および民族音楽学の研究結果を異文化比較分析し、踊り・癒し・恋・子守の歌について、その背景に関する詳細な説明も添えた録音目録を作成しました。

 本論文は形式性・覚醒度・宗教性に基づいて各録音を比較し、音楽の普遍性が浮き彫りになった。本論文は、音楽が調査した全社会に存在し、予想通り、社会的な機能や背景(踊りや恋愛など)に関連していた、と明らかにしました。世界中のどの社会でも、歌の社会的機能は音楽的特徴から予測できる、と本論文は指摘しています。さらに本論文は、音楽の背景の多様性が文化間よりも文化内で大きいことも明らかにしました。人間の音楽には進化的背景があり、言語の進化とも関連しているかもしれないという点でも、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Mehr SA. et al.(2019): Universality and diversity in human song. Science, 366, 6468, eaax0868.
https://doi.org/10.1126/science.aax0868

森恒二『創世のタイガ』第6巻(講談社)

 本書は2019年12月に刊行されました。第6巻は、タイガたちがマンモス狩りに出かけて苦戦している場面から始まります。苦戦するタイガたちに、アラタがリクの作った槍を届け、タイガは崖からマンモスに飛び掛かり、残りの男たちがマンモスの腹を槍で突き、何とかマンモス1頭を仕留め、タイガは戦士としての名声をますます高めます。マンモスを倒した後の宴では蜂蜜酒も出されます。宴の後、タイガはウルフとともに見回り中にハイエナに襲われていた仔マンモスを思わず助けてしまいます。それを見つけたティアリは激怒しますが、人懐っこい仔マンモスをすぐに気に入り、世話をします。仔マンモスを集落に連れて行けば殺されてしまうので、タイガはじょじょにアフリカと名づけた仔マンモスを人離れさせます。

 狩猟に行ってネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との遭遇機会が増える中、リクは鉄鉱石を見つけて製鉄に取りかかります。そうした未来を先取りする行動にリクは苛立ちます。歴史を変えてしまうと、未来に影響が出てしまい、元の世界に帰れなくなるのではないか、とレンは恐れていました。そんなレンに、洞窟を調べて回ったが何の手がかりもなかったので、自分たちはもう元の世界には帰れない、何らかの目的のために自分たちは連れてこられたのだ、とタイガは諭します。旧石器時代に馴染めないレンですが、それはタイガに恋心を抱くユカも同様でした。

 タイガたちが言い争っていたところへ、集落で一番の快足のカシンが慌てた様子で現れ、これまで見たことがないほど多数のネアンデルタール人が西の森に集結している、とタイガたちに告げます。ネアンデルタール人が自分たちを襲い、集落を焼き、女子供を攫おうとしている、と考えた現生人類(Homo sapiens)集落の男性たちは、先制攻撃を仕掛けて殲滅しよう、と訴えます。ナクムも含めて集落の男性たちは、「現代人」ではタイガとアラタ、女性ではティアリを連れて、ネアンデルタール人を襲撃します。ところが、タイガやナクムやカシンたち現生人類の一団を発見したネアンデルタール人は逃げ出し、反撃しようとしません。あまりにもネアンデルタール人が少なく、逃げるだけなのを不審に思ったタイガたちは自分たちの集落に戻ります。その頃、木を伐りに行ったリクレンとチヒロのいない集落はネアンデルタール人に襲撃されていました。ネアンデルタール人たちが西の森に集結したのは陽動作戦だったわけです。集落は焼かれ、老人は殺され、若い女性たちはリカコとユカも含めてネアンデルタール人に連れ去られます。それをリクから知らされたタイガが激昂するところで第6巻は終了です。


 第6巻も、旧石器時代に適応していくタイガ・リク・アラタと、適応できず疎外感や無力感に苛まれるレンとユカという対比が描かれ、ここは普遍的な物語になっており、本作の魅力の一つだと思います。ネアンデルタール人との戦いは本格化し、ついに現生人類の集落が焼かれ、若い女性たちが連行されてしまいました。旧石器時代の戦いの主要な目的の一つは女性の獲得だった、という学説が採用されているのでしょうか。すでに作中ではネアンデルタール人と現生人類との交雑も言及されているので、タイガたちが若い女性たちの解放に成功した時にはすでに、ネアンデルタール人男性との間の子供を妊娠している女性もおり、その子供をどう扱うのか、ということを巡って現生人類の間で議論になるのかもしれません。そうだとすると、ここも普遍的な物語として描かれそうです。なお、タイガは仔マンモスをアフリカと名づけたさい、いずれこの大地はそう呼ばれると考えていますが、第1巻で、アラタは現在いる場所をアフリカ北部から中東と推測しています。ネアンデルタール人が存在することからも、現在の舞台は中東と考えるのが妥当だと思いますが、この点でも謎解きが進むことを期待しています。


 第1巻~第5巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

ヨーロッパの中期中新世類人猿の二足歩行

 ヨーロッパの中期中新世類人猿の二足歩行に関する研究(Böhme et al., 2019)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事(Kivell., 2019)が掲載されています。常習的な二足歩行は、人類系統を定義する最重要とも言える特徴です。この常習的な二足歩行の進化については、その要因・過程・時期をめぐって長く議論が続いてきました。これは、アフリカの大型類人猿(ヒト科)の化石が少ないことに起因しており、そのため現生類人猿(ヒト上科)の移動様式が人類系統の常習的な二足歩行の研究において重視されてきました。人類系統における常習的な二足歩行の起源については、足の裏全体を地面につけて歩行する現生サルに似た四足動物(掌行性/蹠行性の四肢動物)から進化したという見解や、懸垂運動を頻繁に行なう現生チンパンジー属によく似た四足動物から進化したという見解も提示されています。

 人類に最近縁の現生動物はチンパンジー属で、その次がゴリラ属ですが、どちらも移動様式はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)なので、アフリカの大型類人猿系統からまずゴリラ系統が分岐し、その後にチンパンジー系統と人類系統が分岐したことから推測すると、常習的な二足歩行は現生チンパンジー属によく似た四足動物から進化したという見解の方が妥当にも思われますが、初期人類のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動様式は現生類人猿と似ていないので、この問題は未解明のままです。

 本論文は、ドイツのバイエルン州のアルゴイ地方で発見された、中期中新世となる1162万年前頃の類人猿化石を報告しています。この類人猿化石はダヌヴィウス・ガゲンモシ(Danuvius guggenmosi)と命名されました。この類人猿化石の四肢骨はほぼ完全に保存されており、「四肢伸展型よじ登り(extended limb clambering)」という新たに特定された位置的行動の形態の証拠が得られました。ダヌヴィウスの歯の特徴は、ドリオピテクス(Dryopithecus)類などのヨーロッパで見つかっている後期中新世の類人猿に最も似ています。

 ダヌヴィウスには、常習的な二足歩行動物である人類に見られるような幅広い胸郭・長い腰椎・伸展した股関節と膝・全類人猿に共通する長くて完全に伸展した前肢という、二足歩行動物の適応と懸垂型の類人猿の適応を組み合わせたような特徴が見られ、(非人類系統の)大型類人猿と人類系統との最終共通祖先のモデルになり得る、と本論文は指摘します。ダヌヴィウスは、前肢(前腕)で枝にぶら下がれた一方で、後肢(脚)は真っすぐに保たれており、歩行に用いられた可能性がある、というわけです。またダヌヴィウスは物を掴める第1趾を持っており、細い枝の上では足で枝を掴んで体を支え、地面では足の裏全体をつけて歩行していた、と推測されています。本論文は、ダヌヴィウスの系統的位置づけを提示しているわけではありませんが、ダヌヴィウスの移動様式は、類人猿が地上に降りる前から後肢での歩行を行なっていた、と示唆しています。

 ただ、ダヌヴィウスの化石で保存されている脊椎が不充分なので、移動様式の推定は難しい、とも指摘されています。しかし、ダヌヴィウスが(非人類系統の)大型類人猿と人類系統との最終共通祖先のモデルになり得る、との本論文の見解は、近年の知見とも整合的なように思います。すでにラミダスの詳細な分析以前に、(非人類系統の)大型類人猿と人類系統とが分岐する前の類人猿系統において、二足歩行はありふれており、人類系統とチンパンジー系統の最終共通祖先も同様だった、との見解が提示されていました(関連記事)。この見解によると、チンパンジー属系統とゴリラ属系統のナックル歩行は収斂進化となります。その後の研究では、この見解を裏づけるような研究が公表されました(関連記事)。チンパンジーとゴリラの大腿骨の発生パターンは著しく異なっており、全体的に類似したように見える両系統の骨格形態は収斂進化だろう、というわけです。

 この遺伝的基盤はまだ明らかになっていませんが、おそらくゴリラ属系統・チンパンジー属系統・人類系統の最終共通祖先の移動様式はダヌヴィウスに類似しており、それはチンパンジー属系統と人類系統の最終共通祖先でも同様だった可能性が高そうです。現代人は、人類が「最も進化している」、つまり派生的と考えがちかもしれませんが、ゴリラ属とチンパンジー属も人類と同じ時間進化してきたわけですから、人類の進化に関する考察では、人類系統が常に派生的とは限らない、と常に意識しておくべきなのでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【進化学】二足歩行を始める前の類人猿

 ドイツで発見された新種の化石類人猿について報告する論文が、今週掲載される。この化石標本は、約1160万年前の中新世に生息していた類人猿のものとされ、二足歩行する前の類人猿の姿に関する手掛かりとなっている。

 ヒト族の二足歩行と大型類人猿の懸垂の起源を説明する多くの学説が提示されてきたが、化石証拠がなかった。ヒト族の二足歩行については、足の裏全体を地面につけて歩行する現生サルに似た四足動物から進化したという考え方がある一方で、懸垂運動を頻繁に行う現生チンパンジーに最もよく似た四足動物から進化したという考え方も示されている。

 今回、Madelaine Bohmeたちは、完全な四肢骨が保存された新種の化石類人猿Danuvius guggenmosiについて記述している。この化石標本については、「extended limb clambering(四肢を伸ばした姿勢でのよじ登り)」と命名された新たな位置的行動の形態を示す証拠になるとBohmeたちは考えている。D. guggenmosiは、腕で枝にぶら下がることができたと考えられているが、脚より腕を多く使って移動する他の類人猿(例えば、テナガザルやオランウータン)とは異なり、後肢が真っすぐに保たれており、歩行に用いられた可能性がある。また、D. guggenmosiは、物をつかむことのできる第1趾を持っており、足の裏全体を地面につけて歩行していたと考えられる。

 Bohmeたちは、類人猿が地上に降りる前に後肢で歩行し始めた過程がD. guggenmosiの化石によって例証されていると結論付けている。


古生物学:中新世の新たな類人猿と、大型類人猿およびヒトの共通祖先のロコモーション

古生物学:二足歩行への道の途中

 今回M Böhmeたちによって、ドイツで中新世(約1170万年前)の未知の絶滅類人猿種が発見され、二足歩行を行うようになる前の類人猿の姿に光が当てられている。この化石類人猿は、前肢で木の枝からぶら下がることができたと考えられる。一方、その後肢は、ロコモーションにおいて脚が腕と同程度の貢献しかしないテナガザルやオランウータンとは異なり、習慣的にほぼ真っすぐに保たれていて、蹠行性だった(つまり、足裏全体を着地させて歩行していた)が、母趾の物をつかむ力は強く、細い枝の上では足で枝をつかみ体を支えていたと考えられる。この類人猿が、他の化石類人猿とヒト族の「共通祖先」や「ミッシングリンク」だったと示されたわけではないが(著者たちは今回、系統発生学的な再構築は試みていない)、これらの知見は類人猿が地上に降りる前から後肢での歩行を開始していた様子を物語っている。



参考文献:
Böhme M. et al.(2019): A new Miocene ape and locomotion in the ancestor of great apes and humans. Nature, 575, 7783, 489–493.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1731-0

Kivell TL.(2019): Fossil ape hints at how walking on two feet evolved. Nature, 575, 7783, 445–446.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-03347-0

『卑弥呼』第29話「軍界線」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年12月5日号掲載分の感想です。前回は、トメ将軍が、渡河して自分たちを謀反人扱いした那国と戦う、と決断したところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、トメ将軍とその配下の500人の兵士たちが、暈(クマ)と那の国境となる大河(筑後川と思われます)を暈側より渡る場面から始まります。那側の岸に那軍はおらず、トメ将軍は上陸を命じます。トメ将軍は前進して一気に那の「首都」である那城に向かうつもりでした。ホスセリ校尉の率いる、元々はトメ将軍の配下だった9000人の兵士がどこにいるのか、副官らしき男性に問われたトメ将軍は、軍界線だろう、と答えます。そこから先は兵士が入ることは禁じられています。突破できるのか不安げな副官に対して、自分たちの道を進むのみだ、とトメ将軍は力強く答えます。

 ヤノハは新生山社(ヤマト)国の兵士たちと共に千穂を目指しており、その手前の五瀬という邑に寄ろうとしていました。ミマト将軍・テヅチ将軍・イクメ・ミマアキも同行しています。千穂の手前の集落で兵士たちを休ませたいところだが、五瀬の邑が武装集団の我々を受け入れてくれるだろうか、とミマト将軍は半信半疑ですが、ヤノハは邑との交渉を命じます。ミマト将軍とその息子であるミマアキが交渉に向かうと、邑長らしき男性が現れ、余所者は入れない、と答えます。ミマト将軍は、新たな日見子(ヒミコ)様(ヤノハ)に従って来た我々の入場を拒むのか、と入場を認めるよう迫ります。その日見子様がなぜ辺境のここに来たのか、と邑長に問われたミマト将軍は、千穂に向かっている、誰かが鬼を倒さねばならない、と答えます。その返答を聞いた邑長はヤノハたちを集落内に招き入れます。邑長は老翁(ヲジ)を連れてきます。ヤノハは自分に平伏する邑長と老翁に、自分はたまたま神の声を聞けるだけで、年長者に頭を下げられるような殿上人ではない、と声をかけます。しかし、ヤノハの顔を見た邑長と老翁は慌てて平伏します。

 何百年もの間、誰も立ち入れないという千穂に向かおうとしているヤノハは、鬼八(キハチ)と呼ばれる怪物に五瀬邑から毎年8人の処女を差し出しているのは本当なのか、と邑長に尋ねます。本当だと答えた邑長は、明日また新たな人柱を出さねばならない、と言います。生贄に出された娘はどうなるのか、とヤノハに問われた邑長は、毎年鬼に食べられ、千穂の入口に捨てられている、と答えます。なんと酷い、と言うヤノハに対して、あれは化け物だ、と邑長は強く訴えます。天照大御神の聖地である千穂になぜ鬼が棲んでいるのか、とヤノハに問われた老翁は、この一帯の歴史を語ります。この一帯は天照大御神の子孫であるサヌ王(記紀の神武と思われます)とその兄たちが治めた地域でした。サヌ王は四男で、長男はイツセといい、五瀬邑に館がありました。次男はイナイ、三男はミケイリです。サヌ王は日見彦(ヒミヒコ)で、現世の王はイツセでした。サヌ王は兄3人とともに東征に赴いたものの、鬼八荒神(キハチコウジン)の侵略に気づき、兄のミケイリ王を遠征先から派遣しました。ミケイリ王と鬼八の間で壮絶な戦いが繰り広げられましたが、その結果については、ミケイリ王が敗れたという伝説と、ミケイリ王が勝って鬼八を家来にした、という言い伝えがあり、その後何があったのかは不明で、誰も千穂に入れなくなりました。このように老翁は説明し、邑長は、日見子様の降臨でようやく倭国が平和になるかもしれないのに、鬼八の成敗など考えないでほしい、とヤノハに懇願します。するとヤノハは、五瀬邑も倭の平和のうちであり、鬼ごときを退治できなくて自分に日見子を名乗る資格はない、と答えます。

 那の軍界線では、ホスセリ校尉の率いる9000人の軍勢と、トメ将軍の率いる500人の軍勢が対峙しています。ホスセリ校尉はトメ将軍に、ここから先は兵を連れていけない、と伝えます。ホスセリ校尉は、トメ将軍を那の都に連れてくるよう、指示を受けていました。自分は潔白で一点の曇りもない、と堂々と言うトメ将軍に対して、それは廷尉(現代の検察官、律令国家の検非違使)が決めることなので、裁きの場で潔白を申すよう、ホスセリ校尉は言います。自分一人で都へ向かうことは断る、行くなら500人の兵士全員と共にだ、と言うトメ将軍に対して、怖気づいているのか、とホスセリ校尉は問いかけます。するとトメ将軍は、嫌疑が自分だけではなく兵士全員にかかっているのではないか、と反問します。そこでホスセリ校尉は、全員武器を置いて投降してもらいたい、とトメ将軍に求めます。しかしトメ将軍は、それは道理ではあるものの、受け入れられない、と答えます。そもそも武器を捨てて無事に都までたどり着けるとは思えないし、島子(シマコ)のウラの手勢は虎視眈々と自分を狙っている、というわけです。

 わずか500人の兵士で9000人の兵士を突破するつもりなのか、と驚くホスセリ校尉に対して、我々は激戦の勇士なので、9000人の兵士ごときは容易に蹴散らす、とトメ将軍は言い放ちます。トメ将軍の率いる500の兵士たちの士気は高そうですが、ホスセリ校尉の率いる9000人の兵士たちは戦いたくなさそうです。トメ将軍が兵士たちに慕われていることを示した描写なのでしょう。するとホスセリ校尉は、トメ将軍以外は武器を捨てなくとも構わない、都までの道中は9000の兵士たちが護衛する、と言います。軍界線の先にはホスセリ校尉の率いる兵士たちも進めない決まりだ、と訝るトメ将軍に対してホスセリ校尉は、自分が受けた命は、謀反の嫌疑がかけられたトメ将軍を護送せよというもので、何人でその任に当たるかは指示されていないので、9000の兵士たちがトメ将軍を護送しても咎めを受けないはず、と説明します。ホスセリ校尉が、自分はトメ将軍の補佐で、9000の兵士たちも本来はトメ将軍の手勢であり、心は同じだ、と力強く言い、トメ将軍が笑みを浮かべるところで、今回は終了です。


 複数の勢力・人物の動向が描かれている本作ですが、しばらくは、那国の内紛と千穂の謎で話が進みそうです。那国の内紛は、トメ将軍がウツヒオ王を初めとして那国首脳部に、ヤノハを日見子と認めさせることで終息するのではないか、と予想しています。その結果、以前よりトメ将軍を嫌っており、また警戒もしていたウラは失脚するかもしれません。ウラは、トメ将軍に島子の地位を奪われるのではないか、と警戒しているのでしょうし、庶民出身のトメ将軍を軽蔑もしているのでしょう。おそらくトメ将軍は、倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後も那国の王位を奪うことはない、と予想しています。トメ将軍をホスセリ校尉と兵士たちが支持したのは、これまでの描写から納得のいく展開でした。人物造形も魅力の本作ですが、トメ将軍と鞠智彦(ククチヒコ)はとくに成功しているように思います。

 千穂の話は、ヤマタノオロチ伝説と神武東征説話が組み合わされた面白いものになりそうで、謎解きの観点からも注目しています。鬼八荒神は鬼道に通じているとされ、『三国志』によると卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とありますから、千穂の謎解きは本作でもかなり重要になってくるように思います。邑長の話によると、生贄とされた五瀬邑の娘たちは、毎年バラバラにされて千穂の入口に捨てられているとのことですから、差し出された娘たちに子供を産ませている、という私の予想は外れたかもしれません。もっとも、娘たちを生贄に差し出してからバラバラにされて千穂の入口に捨てられるまでの期間は明示されていないので、鬼八荒神は娘たちに子供を産ませた後に殺害しているのかもしれません。今のところはヤノハの思惑通りに事態が進んでいるように見えますが、暈の大夫である鞠智彦と最強の権力者であるイサオ王は一筋縄ではいかないでしょうし、暈は『三国志』の狗奴国でしょうから今後もヤノハとの対立が続いていくと思われ、話がさらに膨らんでいき面白くなるのではないか、と期待しています。

家畜ウマの父系起源

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、家畜ウマの父系起源に関する研究(Wallner et al., 2017)が公表されました。Y染色体の雄特有領域(MSY)は、父親から息子へと組み換えなしに継承されるので、雄の移住および人口史を反映しています。母系継承となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と組み合わせると、単一種の雌雄の人口史を比較できます。家畜ウマ(Equus caballus)は、両性間で人口史が異なるとくに顕著な例です。ウマの場合、家畜化に明確に先行するmtDNAの多様性とは対照的に、MSYはきょくたんに低い多様性を示します。ウマの低いMSY多様性は、低い変異率では説明できません。なぜならば、現代のウマのY染色体系統は明確にモウコノウマ(Equus przewalskii)とは異なり、先史時代のウマのY染色体系統にはもっと多様性があった、と考えられるからです。なお、モウコノウマは現在では唯一の野生ウマと考えられてきましたが、古代DNA研究により、初期家畜馬の野生化した子孫で、現在の家畜ウマにはわずかしか遺伝的影響を及ぼしていない、と明らかになりました(関連記事)。

 現代のヨーロッパのウマにおける低いMSY多様性と限定的な短縦列反復変異性は、雄のきょくたんに低い有効集団規模を示唆します。これは、ウマの雄が厳しい人為的選択を受けてきたことを反映しているのでしょう。ウマのY染色体多様性の低下は、家畜化の過程における遺伝的ボトルネック(瓶首効果)を伴って5500年前頃始まり、複数の先史時代および歴史時代の移住の波によりさらに強化されました。現代のウマの各品種は、過去数百年にわたる集中的かつ組織的なウマの繁殖の結果です。この期間中に、近親交配および戻し交配の概念が一般的になり、ウマ集団全体がこれらの戦略に強く影響を受けてきました。とくに重要なのは、外国の飼育場から種牡馬を輸入して在来の群れを改善する傾向でした。ヨーロッパ中央部ではこれが16世紀に始まり、スペインとナポリの種牡馬が人気でした。

 18世紀末までに、ヨーロッパ中央部の各ウマ集団は東洋の種牡馬の導入により形成されていき、この期間には、外部からの輸入はアジア中央部草原地帯のトルコマン種とアラビア半島からのアラビアン種牡馬に制限されていました。種牡馬を介した改良は19世紀と20世紀に頂点に達し、イギリスのサラブレッドが多大な影響を及ぼしました。イギリスのサラブレッドに関しては閉鎖的な血統書が1793年以来作成され続けており、在来の牝馬と交配した東洋の種牡馬の移入により形成されました。この繁殖の歴史は、現代のウマの品種内にわずかなだけの創始者系統しか残らない状況につながり、輸入された血統の繁殖成功は、在来ウマのY染色体系統の完全な置換をもたらしたかもしれません。したがって、最近の創始者効果は、ウマにおけるMSY多様性に大きな影響を与えました。

 本論文は、高解像度MSYハプロタイプ決定により、影響力のある創始者種牡馬の起源を解明し、現代のウマ集団への遺伝的影響を推測しています。本論文は、21品種の52頭のMSYにおける146万塩基の解析により、867ヶ所の多様体を特定し、1頭の種牡馬につき平均して25頭のうち1頭に新規変異が生じると推定しています。本論文は、この解析から24のY染色体ハプロタイプ(HT)を作成するとともに、これに基づきモウコノウマとロバを外群として、家畜ウマのHT系統樹が作成しました。HT系統は、シェトランドポニーおよびノルウェーのフィヨルドホースの系統群(N)と、アイスランド種(I)と、その他の系統群に分類されます。NとIはヨーロッパ北部の品種に限定されており、その中でもアイスランド種は多様です。

 圧倒的多数はその他の4系統群となるA・L・S・Tに分類されます。Aにはアラブ種とその影響を受けたコネマラポニーおよび南ドイツのトラケナーが含まれます。LとSにはリピッツァーナとソーライアが含まれます。Tには本論文で対象となった品種の2/3以上が含まれており、フランシュ・モンターニュを除いてすべて、記録上はイギリスのサラブレッドの父系子孫です。T系統の多様性はきわめて低く、最終共通祖先の年代の新しさを示唆します。1世代平均7年とすると、A・L・S・Tの最終共通祖先の年代は647±229年前です。N・Iも含めた合着年代は1328±380年前で、これらの系統とモウコノウマ系統の合着年代は23716±1975年前です。ただ、世代ごとの推定変異率は4ヶ所の変異のみに基づいているので、それほど堅牢ではない、と本論文は注意を喚起しています。また、1世代の年代も推定なので、最終共通祖先の推定合着年代には大きな幅が生じます。本論文のデータは、現在の家畜ウマのMSY系統は家畜化後に単一の創始者から始まった、とする見解と一致します。

 より詳しく家畜ウマのMSY系統を見ていくと、アラブ種がAoとTを有しているのに対して、イギリスのサラブレッド種はすべて、Tから派生したTbを有しており、その中でもTb-dWにほぼ独占されています。Tbおよびその派生系統のTb-dWは、イギリスのサラブレッド種の影響を受けたヨーロッパおよびアメリカの競技用ウマ品種でも優勢でした。アラブ種(Ao系統)およびイベリア種(S・L系統)の強い影響は、ドラフト種とポニー種とバロック種で、Ad系統はこの3種に限定されます。

 本論文は、イギリスのサラブレッドの父系3始祖、つまり1700年生まれのダーレーアラビアン(Darley Arabian)、1680年生まれのバイアリーターク(Byerley Turk)、1700年生まれのゴドルフィンアラビアン(Godolphin Arabian)の系統を復元しました。標本となった子孫の数は、ダーレーアラビアンが110頭、バイアリータークが22頭、ゴドルフィンアラビアンが7頭です。MSY系統樹では、Tb-dがダーレーアラビアンで、その中でも優勢なTb-dW1は1807年生まれのホエールボーン(Whalebone)と推定されました。

 ダーレーアラビアンの父系子孫(現在のサラブレッド父系で圧倒的多数派のエクリプス系を含みます)で観察された5つのDNA解析と血統書との食い違いのうち1つは、1775年生まれのキングファーガス(King Fergus)系統で発生した、と推測されます。キングファーガス系統ではTb-dが見られず、TbもしくはTb-kとなります。他の2系統の標本数は少ないのですが、バイアリーターク系統とTbの関連が確認されました。ゴドルフィンアラビアン系統ではおもにTb-g2が観察されましたが、ゴドルフィンアラビアンはTb-gもしくはTbだったかもしれません。

 キングファーガスの父系子孫がサンシモン(St. Simon)なので、これらの結果は、19世紀以降のサラブレッドにおいて最大の遺伝的影響力を有する個体とされているサンシモン(セントサイモン)が、生物学的な父系ではバイアリータークに始まるヘロド系(日本ではパーソロン系が有名です)だった可能性を示唆します。血統理論の中には、9代までさかのぼる精緻なものもありますが、昔から私は、それが「血統理論」ではなく「血統表理論」ではないか、と考えてきました。以前から、血統表と生物学的な血統との違いが指摘されていたからです。本論文はその問題を実証的に示しました。系図と生物学的な血縁関係との食い違いは、人類社会においても当てはまります(関連記事)。

 Tbの亜系統であるg・k・r・dW・dMがほぼ確実にイギリスのサラブレッド起源である一方で、フルツやリピッツァーナのように、基底部Tbはイギリスのサラブレッドの影響の記録がない品種でも見つかっています。しかし、スペイン種やバーブ種やアラブ種のような一般的に改良に用いられてきた古典的品種のどれも、Tbを有していませんでした。本論文は、Tbの起源を特定するため、絶滅したトルコマン種の近縁とされるアハルテケ種を含めて標本数を拡大し、Tbの割合は78頭のアハルテケの雄で81%になる、と明らかにしました。このように、Tbはおそらくトルコマン種起源で、イギリスのサラブレッドの種牡馬を通じて広範に拡大しました。さらに、イギリスのサラブレッド種牡馬の影響が記録されていない多くのヨーロッパの品種におけるTbの存在は、イギリスのサラブレッドとは無関係のトルコマン種の種牡馬の影響を示唆し、これに関しては政治情勢および地理との関連が指摘されています。

 現在の家畜ウマ品種におけるMSYの主要系統(A-L-S-T)は東洋起源と推測され、そのうちTbはトルコマン種起源で、Aoは「起源的アラブ種」に明確に由来します。起源的アラブ種の一部父系子孫はハプログループTに分類されます。これは、東洋の創始者集団には異なる二つの父系があった、という本論文の仮説と矛盾しているように見えますが、祖先集団における不完全な系統分類もしくは固有アレル(対立遺伝子)の過小評価により説明できるかもしれない、と本論文は指摘します。また、19世紀の東洋ウマ市場において、ヨーロッパの馬商が正確に「純粋な」アラブ種の種牡馬を識別できなかった、ということを単純に反映しているのかもしれません。

 本論文は、現代の家畜ウマの父系の大半が、少数の東洋の種牡馬からのみ過去1000年未満に確立した、と示しました。本論文は、アジアの品種MSY領域の解析の進展により、ウマの父系多様性が増加するかもしれない、と展望しています。しかし本論文は、それでも、父系の分岐は浅く、家畜化の始まりまでさかのぼらないかもしれない、とも指摘しています。また本論文は、父系の変遷に遺跡からのウマ遺骸(古代DNA研究)が必要とも指摘しています。本論文は、家畜ウマの父系多様性がきょくたんに低いことを示しました。これは、とくに近世以降の家畜ウマの繁殖において、少数の種牡馬が選択されてきた歴史を考えると、妥当な見解だと思います。これは、有性生殖において子孫を残すコストの性差が大きいことを反映しており、人類も例外ではありません。とはいえ、人類は現在まで、一夫多妻制が容認されているような社会でも、全体的には一夫一妻制が優勢だったように思われます。これは、遺伝的多様性の維持という観点からは重要となりますが、今後、技術の発展と格差の拡大により、父系の多様性が急激に失われていくような事態も生じるのではないか、と懸念されます。本論文の刊行後もウマの遺伝的研究は進展しているようなので、それらも少しずつ取り上げていくつもりです。


参考文献:
Wallner B. et al.(2017): Y Chromosome Uncovers the Recent Oriental Origin of Modern Stallions. Current Biology, 27, 13, 2029–2035.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.05.086

高齢期に始めた食餌制限では寿命は延びない

 栄養状態の記憶の影響に関する研究(Hahn et al., 2019)が公表されました。カロリー摂取量を通常の20~40%減にする食餌制限を一生にわたって行なうと、健康に良い影響があり寿命が延びる、と多くの動物でよく知られています。しかし、食餌制限を一生の比較的遅い時期に開始した場合に効果があるのかどうかは、分かっていませんでした。

 この研究は、24月齢の雌のマウス800匹で食餌制限の効果を調べました。マウスの一部は、制限しない自由食から食餌制限へと切り替え、一部はその逆を行ないました。その結果、食餌制限から制限なしに切り替えたマウスは、すぐに不健康になり、食餌制限をそのまま続けたマウスよりも早く死んだ。しかし、食餌制限なしから食餌制限に切り替えたマウスは、そのまま食餌制限なしを続けたマウスと比較して健康ではあったものの、長生きはしませんでした。この研究は、一生のほとんどの期間、制限されずに食物を摂取できていたマウスでは、食餌制限に対する脂肪組織での分子レベルの応答が違っている、と見出しました。この研究は、脂肪組織に「栄養状態の記憶」が刻まれていて、これが食餌制限の健康や生存に及ぼす効能を抑制するのだろう、と推測しています。

 この研究は、遅く始めた食餌制限の効能をマウスで詳しく調べましたが、この「栄養状態の記憶」の基盤となる分子機構がヒトにも当てはまるかどうかは、まだこれから確かめる必要がある、と強調しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【代謝】高齢マウスでは、栄養状態の記憶の影響が、食餌制限による利益を相殺する

 一生の後半になって食餌制限を行っても、マウスの寿命は延びないということを報告する論文が掲載される。この知見は、後になって健康的な食餌に適応しても、制限を加えないそれまでの食餌によって生じた損傷を元に戻せないことを示唆している。これらの知見が、ヒトにも当てはまるかどうかは、まだ分からない。

 食餌制限を一生にわたって行う(カロリー摂取量を通常の20~40%減にする)と、健康に良い影響があり、寿命が延びることが多くの動物でよく知られている。しかし、食餌制限を一生の比較的遅い時期に開始した場合に効果があるのかどうかは分かっていなかった。

 今回、Linda Partridgeたちは、24月齢の雌のマウス800匹で食餌制限の効果を調べた。マウスの一部は、制限しない自由食から食餌制限へと切り替え、一部はその逆を行った。食餌制限から制限なしに切り替えたマウスは、すぐに不健康になり、食餌制限をそのまま続けたマウスよりも早く死んだ。しかし、食餌制限なしから食餌制限に切り替えたマウスは、そのまま食餌制限なしを続けたマウスに比べて健康ではあったものの、長生きはしなかった。著者たちは、一生のほとんどの期間、制限されずに食物を摂取できていたマウスでは、食餌制限に対する脂肪組織での分子レベルの応答が違っていることを見いたした。著者たちは、脂肪組織に「栄養状態の記憶」が刻まれていて、これが食餌制限の健康や生存に及ぼす効能を抑制するのだろうと述べている。

 この研究は、遅く始めた食餌制限の効能をマウスで詳しく調べたものだが、ここで提案した「栄養状態の記憶」の基盤となる分子機構がヒトにも当てはまるかどうかは、まだこれから確かめる必要があると、著者たちは強調している。



参考文献:
Hahn O. et al.(2019): A nutritional memory effect counteracts the benefits of dietary restriction in old mice. Nature Metabolism, 1, 11, 1059–1073.
https://doi.org/10.1038/s42255-019-0121-0

超長テロメアを持つマウスは代謝老化が少なく寿命が長い

 テロメアの長さと寿命に関する研究(Muñoz-Lorente et al., 2019)が報道されました。テロメアは体内の各細胞の核で染色体の末端を形成しており、その役割は、DNAの遺伝情報の完全性を保護することです。 細胞が分裂するたびに、テロメアは少し短くなるため、老化のおもな特徴の一つは、細胞内の短いテロメアの蓄積です。テロメアの短縮は生物の老化を引き起こし、寿命を縮めます。すでに、テロメア伸長酵素であるテロメラーゼの活性化によるテロメアの短縮を回避することで、二次的な影響なしに寿命を延ばすことが、さまざまな研究ですでに示されています。しかし、これまで、テロメアの長さに関するすべての介入は、何らかの手法により遺伝子の発現を変えることに基づいていました。数年前にはテロメラーゼの合成を促進する遺伝子治療が開発され、癌や加齢に伴う他の病気を発症することなく、24%長く生きるマウスが誕生しました。

 この研究の新規性は、超長テロメアで生まれたマウスに遺伝的変化がなかったことにあります。 2009年には、多能性または完全な生物を生成する能力を与えられた成体からの細胞であるiPS細胞(人工多能性幹細胞)において、特定の回数の分化の後、通常の2倍の長さのテロメアを持つ細胞が獲得されました。同じことは、胚盤胞から除去された後の培養中に、正常な胚細胞でもiPS細胞でも発生する、と確認されました。すでにこの現象の研究における多能性の段階で、テロメラーゼ酵素による伸長を促進するテロメアのクロマチンに特定の生化学的マーク(エピジェネティックマーク)がある、と発見されていました。そのため、培養中の多能性細胞のテロメアは通常の長さの2倍に延長されました。

 問題となったのは、ひじょうに長いテロメアを持つ胚細胞が生きたマウスでも生産されるかどうかでした。数年前にはそれが可能と実証されました。しかし、これらの最初の動物はキメラであり、30%から70%の細胞の一部のみが超長テロメアの胚細胞由来です。そうしたマウスの健康は、正常なテロメアで残りの細胞が適切に機能していることに起因する可能性もあります。この研究では、マウス細胞の100%で超長テロメアを取得できたことが報告されています。これらのマウスは癌が少なく長生きで、脂肪の蓄積が少ないため、通常よりもスリムです。また、コレステロールとLDL(悪玉コレステロール)のレベルが低く、代謝老化が低く、インスリンとグルコースに対する耐性が増加しています。さらに、加齢がより少ないことも明らかになりました。

 これらの結果は、特定の種において通常のテロメアよりも長い細胞は有害ではなく、まったく逆である、と示しています。つまり、寿命が長くなり、代謝年齢が遅くなって、癌が少ない、などの有益な効果があるわけです。より具体的には、ひじょうに長いテロメアを持つマウスの平均寿命は、通常よりも13%長くなっています。テロメアの長さと代謝の間に明確な関係が見つかったのはこの研究が初めてで、観察された代謝の変化も関連しています。インスリンおよびグルコース代謝の遺伝的経路は、加齢に関連して最も重要なものの一つとして特定されています。

 この研究が注目されるのは、生物の遺伝子改変なしに寿命を延ばす道が開かれたためです。多能性期のテロメアの延長を促進するテロメアのクロマチンにおける生化学的変化は後成的で、遺伝子の働きを変更しますが、その本質を変えない化学的アノテーションとして機能します。胚細胞が多能性のままである時間を延長して、より長いテロメアを持ち、癌と肥満から保護され、寿命が長くなると、マウスがより長いテロメアを持ち、長生きするようになります。遺伝子操作なしで老化の遅れた新しいモデルマウスが提示された、というわけです。ヒトではどうなのか、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Muñoz-Lorente MA, Cano-Martin AC, and Blasco MA.(2019): Mice with hyper-long telomeres show less metabolic aging and longer lifespans. Nature Communications, 10, 4723.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12664-x

現代人アフリカ南部起源説

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0系統の詳細な分析を報告した研究(Chan et al., 2019)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。現生人類(Homo sapiens)の起源がアフリカにあることは広く認められています(現生人類アフリカ単一起源説)。本論文は、現生人類の起源地をアフリカ東部と示唆する人類遺骸もあるものの、現代人のmtDNA系統樹では、最初に分岐した系統であるmtHg-L0を代表する複数の現代人集団はアフリカ南部に存在している、と指摘します。しかし、これまで、ヨーロッパ系のmtHg-N(mtHg-L3から分岐)の詳細な分析が進展していた一方で、mtHg-L0の分析は遅れており、代人の遺伝的多様性に関する研究の制約となっていました。そこで本論文は、新たなL0系統のデータを得て、現代の地理的分布と古気候データを組み合わせることで、L0系統の起源地と、L0系統がいつどのように拡散していったのか、推測しました。

 その結果、本論文は、L0系統が現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ–オカバンゴ古湿地という残存古湿地内で20万年前頃(95%の信頼性で240000~165000年前)に出現した、と推定しています。これは、じゅうらいの推定よりもやや古くなります。当時、この地域にはマカディカディ(Makgadikgadi)湖という当時アフリカでは最大の湖(面積は現在のビクトリア湖の約2倍)があり、20万年前頃に乾燥化によりマカディカディ–オカバンゴ古湿地となって、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなりました。さらに本論文は、L0系統が約7万年にわたってこの地域に居住し続け、13万~11万年前頃に、まず北東方向、次に南西方向へと拡散していった、と推測しています。古気候データからは、湿度の上昇により最初に北東方向、次いで南西方向へと緑の回廊が開かれた、と示唆されます。その後、L0系統の故地である現在のボツワナ北部はさらに乾燥化し、推定有効集団規模からL0kが系統故地に留まった一方で、南西方向に拡散したL0d1-2系統は、アフリカ南部の湿潤化と海産資源の利用により人口が増加していった、と推測されます。現生人類の起源は現在のボツワナ北部となるアフリカ南部にあり、この最初期集団は、気候変動による拡散の前まで長期間(約7万年)故地に留まっていた、と本論文は主張します。以下、L0系統の初期の拡散を示した本論文の図2です。
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 本論文の見解には多くの批判が寄せられています。遺伝人類学者のバービエリ(Chiara Barbieri)氏は、mtHg-L0系統の詳細な分析興味深く価値があるものの、L0系統の起源地と年代について、現代人のDNAのみに基づいていることに注意を喚起しています。先史時代は長く、人々は移住する、というわけです。バービエリ氏は、L0系統の正確な起源地と年代の確定のためには、年代測定のされた化石からのDNA解析が必要になる、と指摘します。しかし、本論文は古代DNAを考慮に入れておらず、現代人のDNAのみを調べました。

 ゲノムの異なる部分では、本論文の見解と矛盾する物語が現れます、たとえば、現代人のY染色体DNA系統樹では、起源地はアフリカ西部のカメルーンと想定されています(関連記事)。ゲノム研究では、コイサン人系統が他のアフリカ人系統と35万~26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。まだ査読中の研究(Bergström et al., 2019)では、50万年前頃までさかのぼる可能性も指摘されています。進化人類学者のハーヴァティ(Katerina Harvati)氏は、本論文がこれらの研究を参照しなかったか、議論しなかったことに驚いた、と述べています。これら一見すると矛盾した結果は、アフリカにおける人類史が単純なものではなく、現生人類が長期にわたって混合・多様化し、移動していることを示唆しています。化石証拠も同様で、現生人類的な化石は、たとえばモロッコでは30万年以上前(関連記事)、レヴァントでは194000~177000年前頃のもの(関連記事)が発見されています。複雑な石器も、アフリカ北部・東部・南部で30万年前以前のものが知られています。

 こうした知見に基づき、現生人類の起源はアフリカの特定地域にある、という見解を多くの研究者は捨て、アフリカ全体が起源地と考えるようになりました(関連記事)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というような見解です(関連記事)。本論文は、化石や考古学的知見に言及しておらず、反論していない、と指摘されています。また、この研究の指導的立場にあるヘイズ(Vanessa M. Hayes)氏によるサン人のDNA解析に関しても、先住少数民族に関わる非政府組織から傲慢・無知と個人情報の取り扱いについて批判されているそうです。

 本論文は、現代人の核DNAも古代DNAも考慮せず、過去の人類の移動も軽視していることから、複数の研究者に強く批判されています。上記報道ではまだ穏やかな表現になっていますが、Twitter上では辛辣な表現で批判されています。たとえば、奇妙な論文との発言や、本論文が現在『ネイチャー』に掲載されたことに本当に驚いた、20年前からタイムワープしたようだとの発言や、1930年代のような論文との発言です。mtHg-L0系統を詳細に分析した本論文の意義は大きく、それ故に『ネイチャー』に掲載されたのでしょうが、本論文のデータは現代人アフリカ南部起源説を示唆するとか、それと整合的であるとかいった一文を挿入するのに留めておくべきだったのではないか、と思います。Twitter上での複数の研究者による本論文への辛辣な発言も、仕方のないところもあると思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アフリカ南部の古湿地における人類の起源と最初の移動

進化学:そこは「エデンの園」だったのか

 現生の全ての人々の祖先の発祥の地と考えられる場所は、ボツワナ北部の地域である。この地域は、現在は乾燥した塩生砂漠だが、約20万年前まではマカディカディ湖という当時アフリカ最大の古湖(面積は現在のビクトリア湖の2倍)があった。そして約20万年前、気候の乾燥化によってマカディカディ–オカバンゴ古湿地へと変貌し、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなった。それはちょうど、解剖学的現生人類がそこで足掛かりを得た時期であった。その後、解剖学的現生人類は7万年間にわたってこの地にとどまり、約13万年前になってようやく(より穏やかな気候を利用して)外の世界へと移動し広がっていった。その先は先史時代が示すところである。A TimmermannとV Hayesたちは今回、この成り行きを気候の再構築から組み立てたが、その根拠の大部分はミトコンドリアDNAの解析に基づいている。現生人類のミトコンドリアゲノム(ミトゲノム)で最も古く分岐したのは、現在もこの地方に居住しているコイサン族に由来するL0系統のものである。現代人のミトゲノムに関する既存の情報を、新たに得られた情報資源と合わせて用いることで、L0系統の歴史および分岐の状況が再構築され、この系統がどこで出現し、その後どこへ移動したのかが明らかになった。こうして、L0系統が約20万年前にアフリカ南部で出現したという新たな知見が得られた。この年代は、従来の推定を5万~2万5000年さかのぼるものである。



参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Bergström A. et al.(2019): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/674986

社会的な父親と生物学的な父親の不一致率と人口密度および階級との相関

 社会的な父親と生物学的な父親の不一致率と人口密度および階級との相関についての研究(Larmuseau et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。行動生態学では、長期のペア結合を有する種のペア外交尾(extra-pair copulation、EPC)の発生と適応的意義が激しく議論されてきました。進化学の理論では、両方のパートナーが他に繁殖機会を求めることにより、適応度を高められる、と指摘されてきました。EPCは雄に、父としての世話のコストを払うことなく、余分な子を儲ける機会を提供します。雌も、遺伝的に優れた雄と交尾できるか、ペア外パートナーから追加の資源を得られるような場合、EPCの追求により利益を得るかもしれません。

 EPCは同時に、性感染症・配偶者の攻撃・配偶関係解消(ヒト社会だと離婚)・雌の場合には配偶相手からの投資減少の危険性を増加させるので、有害にもなり得ます。さらに、ペア外父性(extra-pair paternity、EPP)は雌への深刻なコストを伴うペア外男性による強制交尾をもたらすかもしれず、その発生が今度は、雄側にとって、配偶者保護のような性的嫉妬により動機づけられた「反寝取られ」戦術を示す動機づけになり得ます。人口密度や資源利用可能性のような社会環境は、個体群がEPCに参加する機会をどの程度有しているかに強く影響を及ぼすかもしれず、EPCの追求と防止の両方への進化的コストと利益を調整します。したがって、(ヒトを除く)動物界とヒト社会の両方で、両性によるEPCの追求と予防の戦略は、状況に大きく依存するだろう、と示唆されてきました。

 本論文は、社会的状況がヒトのEPP発生率にどのように影響を及ぼすのか、父系で遠く関連した男性の詳細な法的家系図とY染色体DNA解析を組み合わせて、大規模な調査結果を提示します。本論文の対象期間は近世から現代で、19世紀ヨーロッパの産業革命期も含む、急速な都市化のようなヒト社会の劇的な変化の起きた時期となります。本論文は、新興の人口密度の高い都市が、EPCの機会増加により起きたEPP率増加を促進し、都市の匿名性によりもたらされる社会的管理の水準を減少させた、という仮説を検証します。さらに本論文は、婚外配偶者から追加の利益を求めるより高い動機のため、EPP発生率が低い社会経済的階級において上昇したのかどうか、強制的性交に対する保護やそうした動機を減少させたのかどうか、検証します。

 本論文は、ヨーロッパ西部の夫婦のEPP率を推定するため、家系図では父系祖先を共有する、つまり同じY染色体(厳密には、X染色体との間でわずかながら組み換えはありますが)を持つと想定される、ベルギーとオランダの513組の現代の成人男性を特定しました。この513組の家系の男性祖先の大半は、現代的な避妊導入の前に生まれました。誕生年の範囲は1315~1974年で、平均すると1840年です。大半が現代的な避妊導入前ということは、現代人集団を対象とした調査よりもじっさいのEPC率をより確実に反映している、と考えられます。本論文は、この513組の男性のY染色体における、191ヶ所の一塩基多型と38ヶ所の短縦列反復の遺伝子型を同定し、家系図で父系的に関連しているY染色体ハプロタイプの不一致が確認された場合、その父系内における1回もしくは複数回のEPP事象の証拠とししまた。

 また本論文は、歴史的な高品質な人口統計学的データと家系図記録から、歴史的なEPP率の復元だけではなく、その発生率に影響を及ぼすと予想される社会人口統計学的要因の機能としてのEPPを推定できました。具体的には、家系図内の1750~1950年生まれの法的父親である6818人の男性祖先の系譜の詳細な記録を得ました。家系図記録では、父系の各子供の誕生(市民登録の始まった1800年以後)は結婚生活の中で起き、公的に家系図の父親が父親と認定されたか、教会記録だけが利用可能だった1600~1800年に生まれた子供に関しては、洗礼を受けた時に父親が生きていた、と常に核にされました。次に本論文は、父親の職業から男性祖先の社会経済的地位を推測し、誕生年を記録もしくは推定された歴史的人口規模および密度と関連づけました。最後に本論文は、生年・人口密度・社会経済的地位の関数としてEPP率を推定しました。

 その結果、以前の研究で推定された、ネーデルラントにおける低い歴史的EPP率(1世代あたり1.6%、95%の信頼性で1.2~2.1%)が改めて確認されました。また、カトリックが主流のフランドルとプロテスタントが主流のオランダの間には宗教的に大きな違いがありますが、EPP率に顕著な違いはありませんでした。しかし、推定EPP率は人口密度および社会経済的地位と強く相関している、と明らかになりました。平均的な人口密度では、農民と中流~上流の社会経済的階級の間での平均EPP率は1.1%と低く、一方で低い社会経済的階級では4.1%とずっと高くなります。同様に、EPP率は人口密度との有意な相関を示しました。人口のまばらな農村では平均EPP率は0.6%ですが、1㎢1万人以上の地域では2.3%です。

 両方の変数効果を組み合わせると、推定EPP率は、人口密度の低い地域の農民や中流~上流階級の0.4~0.5%から、人口密度の高い都市の社会経済的に低い階級の5.9%まで1桁以上の幅があります。生年・両親の年齢・国または地域(州)をモデルに追加しても、この相関は変わりませんでした。時間的経過で見ていくと、19世紀後半にEPP率がピークに達し、これは人口密度の変化および産業革命により発生した低所得層のプロレタリアートの最初の拡大と一致します。このEPP率の観察は、未婚の母親からの子供の誕生といった非嫡出子の誕生パターンを密接に反映しています。じっさい、非嫡出子のピークは19世紀半ばに見られ、田舎では約5%、1㎢1000人以上のベルギーとドイツの都市では12%と推定され、社会経済的下流階級ではもっと高く、ブリュッセルの召使や日雇い労働者の間では36%となります。

 全体として本論文の結果は、西洋集団のEPP率は社会的状況に強く影響を受ける、と示します。この知見は、動機における状況固有の変動と、EPCの追求もしくは防止のどちらかの機会を強調する進化理論的予測と一致します。EPP率と人口密度の相関は(ヒトを除く)動物界でも支持されており、通常は、EPCへの遭遇率上昇と機会増加の結果として解釈されています。ヒトでは、この効果は人口密度の高い都市の匿名性に起因する、社会的管理の減少により増加していきます。この要因もまた、19世紀半ばのヨーロッパ都市部で観察される非嫡出子の高い割合の要因の一つと考えられます。

 社会経済的下流階級におけるEPP率上昇は、同時代のメキシコおよびアメリカ合衆国の社会経済的下流階級におけるEPP率の増加を示唆する、血液型に基づく以前の結果と一致します。これは、不利な生態的もしくは経済的環境が、ペア外の相手から追加の物質的もしくは社会的利益を得る動機を増加させるかもしれない、という仮説を支持します。こうした利益は、資源が乏しい時には、女性(および潜在的には間接的にであってもその家族)の適応度へのより強い影響を有します。じっさい資源の制約は、いくつかの伝統的な小規模社会で一妻多夫を促進すると考えられている、主要な生態要因の一つです。

 より低い社会経済的階級におけるEPP率上昇に関する、別の相互に排他的ではない説明は、社会的父親にはEPPを防ぐ動機が少なく、それは社会的父親が子供に継承される富を多く有していないからだ、というものです。社会学では、非嫡出子の同様の高い割合が、19世紀半ばのヨーロッパの下流階級で観察され、この性的危険性の増加は、性的解放もしくは社会的上昇志向として説明されてきました。しかし、この問題に関しては、劣悪な労働および生活条件に起因する、男性の性的暴力と搾取へのより大きな脆弱性も指摘されています。こうした説明は本論文で観察されたEPPパターンにも適用されますが、EPP事象における生物学的父親のアイデンティティと社会階級を知ることなしには、検証できません。ただ、EPPと人口統計学の間で観察された歴史的関連の要因は、常にある程度は曖昧なままです。それは、どの事例で夫が法的な自分の子供は生物学的に自分の子供ではないと気づいたか知ることはできないか、EPCに関連する妻の状況と意図を再構成できないからです。

 以前には、ペア外父性の比較的高い割合(5%)は、一妻多夫の非公式な形態が社会的に受け入れられ、複数の男性パートナーが同じ女性もしくはその子供に資源を提供するような、南アメリカ大陸とアフリカの少数の伝統的社会でのみ起きる、と考えられていました。ヒト社会において、こうした一妻多夫は、一妻多夫が社会的に受け入れられていない他の伝統的および西洋集団で報告されてきた、1~2%の低いEPP率と対照的です。本論文の調査対象集団におけるEPP率が平均して低いことは確証されましたが、これらの割合は決して不変ではなく、社会の一部では比較的高水準に達する可能性がある、とも示されました。特定の社会層に焦点を当てることにより、ヒト社会内のペア外父性の程度には多くの変動が観察され得る、というわけです。


 本論文の見解はたいへん興味深く、EPP率が人口密度と階層により異なるのは、おそらく多くの階層社会において当てはまるのではないか、と思います。とはいっても、該当地域固有の歴史を反映した社会的文脈があるので、その割合に関しては、14~20世紀のネーデルラントとはかなり異なる場合もあるかもしれません。この点で注目されるのは、最近日本において皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げる人が多くなってきたように思われることです(関連記事)。この問題については、「間違い」、つまりEPPの可能性こそ致命的な欠陥だろう、と私は考えてきました。この認識は今でも変わりません。

 では、じっさいに皇族においてEPP率がどの程度になるのかというと、当然日本社会とネーデルラント社会の在り様は異なりますし、皇族は上流階級とはいってもさらに特殊なので、じっさいにどの程度なのか、まったく見当もつきません。仮に、本論文で提示された人口密度の低い地域の上流階級における0.4%という割合を採用し、継体「天皇」を始祖と仮定した場合、今上天皇は北畠親房の云う「まことの継体(父系直系なので天皇ではない皇族も含みますが、この点に関しては議論もあるようです)」では54世(数え間違えているかもしれませんが)で、53回の父子継承となりますから、始祖と父系でつながっている確率は約81%です。

 もっとも、EPPが起きたとしても、たとえばその可能性が高い直仁親王の事例のように、生物学的な父親が皇族であれば(関連記事)、始祖と父系でつながっていることになります。その意味では、仮に皇族においてEPP率が0.4%だとしても、始祖と父系でつながっている確率は80%を大きく超えるかもしれません。まあ、上述のように皇族におけるEPP率を推定するデータが皆無に近い状況ですから、これは今後も変わらない可能性が高く、まったく参考にならないお遊び程度の計算でしかありませんが。

 そもそも、皇位の男系継承は、社会的合意(前近代において、その社会の範囲は限定的だったわけですが)が積み重ねられてきた伝統により主張されるだけでよく、仮に「初代天皇」の父系が途中で途切れて大きく異なる父系に置換されていたとしても、その後の天皇の正統性は失われず、仮に今後旧宮家の男系男子が皇族に復帰するとしても、DNA検査を受ける必要はない、と私は考えています。皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げる言説は、皇室の権威を傷つけかねない危険なものなので、皇室維持派なのにこれを本気で主張する人は大間抜けだと思います。


参考文献:
Larmuseau MHD. et al.(2019): A Historical-Genetic Reconstruction of Human Extra-Pair Paternity. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.09.075

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第43回「ヘルプ!」

 1962年、2年後に夏季オリンピック大会が開催されることから、東京では高速道路や新幹線の建設が急速に進められていましたが、国民の間ではさっぱり盛り上がっていないので、田畑政治は国民の間での東京オリンピックへの関心を高めようと考え、その一環で五りんも起用されます。しかし、なかなか国民の間では東京オリンピックへの関心は盛り上がりません。そんな中、田畑は川島正次郎により次第に追い詰められていき、1962年にジャカルタで開催されたアジア大会で窮地に陥ります。インドネシアが中華民国(台湾)とイスラエルを締め出すと報道され、一方でそれと反する報道もあり、日本でもアジア大会への参加について意見が分かれ、田畑も苦悩します。

 今回は政治とオリンピックの関係が描かれました。田畑は、東京オリンピックに対する執念と自分の理念との間で板挟みになり、川島に翻弄されてしまいます。そんな田畑が最後に川島に反撃したのは痛快で、娯楽ドラマとして王道的な構造になっていました。ただ、川島も単なる悪役として描かれているわけではなく、深みのある大物政治家として描かれています。本作で主人公と深く関わった大物政治家としては高橋是清と犬養毅がいますが、この二人が田畑に好意的だったのに対して、川島と田畑の関係は大きく異なります。これは、若手だった頃の田畑との立場の違いをよく表しているように思います。

中国に拘束されていた北海道大学の岩谷将教授が解放される(追記有)

 中国に拘束されていた北海道大学の岩谷将教授が解放され帰国した、と報道されました。この件は気になっていたので、ひとまず安心しました。この件については先日取り上げましたが(関連記事)、中国研究者の懸念が杞憂ではなかったことを示唆する報道になっています。中国外務省の耿爽副報道局長によると、今年(2019年)9月8日、岩谷氏は宿泊先のホテルで機密資料を所持しているのが当局に見つかり拘束され、取り調べに対して、以前から大量の機密資料を収集・取得していた違法な状況を供述し、容疑を認めて後悔の念を示していることから釈放した、とのことです。

 ネットでは掲載されていませんが、読売新聞紙面によると、岩谷氏が拘束されたのは、中国大陸から台湾に逃れた国民党関連の文書を古本屋で購入して所持していたためで、岩谷氏はスパイ法違反などの容疑で取り調べを受けていた、とのことです。耿爽副報道局長の定例記者会見と読売新聞の記事がどこまで真相を伝えているのか、門外漢には分からないのですが、仮におおむね記事の通りだとすると、外国の中国研究者にも中国共産党の統制が及びつつある、という中国研究者の懸念を裏づけるもので、憂慮されます。

 私は十数年前より、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、今よりもずっと中国に「配慮した」言説を日本でも強いられるようになるのではないか、と警戒していましたが、こうした問題は日本に限らないのでしょう。まあそれでも、日本をはじめとして各国には、中国との付き合いで利益を得ていたり、中国に傾倒したりしている人がいるでしょうから、中国に配慮せよ、といった感じで中国に多少なりとも批判的な言説を糾弾する人々が世界で増えていくかもしれません。

 「嫌中感情」がすっかり定着したように見える近年の日本では、それは被害妄想だと笑う人も多いでしょうが、中国が世界全体ではなくともアジア東部・南東部で覇権を確立し、日本も中国に政治・軍事的に従属するようになれば、それまで「反中的な」言説を声高に語っていた輩の中に、「現実主義」と称して「米帝」や「西側」を罵倒して中国共産党に迎合する者が現れ、現在の「ネトウヨ」よりも多数を占めるようになり、「親中的」で「反米(もしくは西側)的」」な本がベストセラーになるのかもしれません。


追記(2019年11月16日)
 「ネットでは掲載されていません」と本文では述べてしまいましたが、Twitterで該当する記事も掲載されていたことを知りました。まあ私が間抜けだったのですが、紙面では1記事のような扱いだったので、ネットでもできれば1記事にまとめておいてもらいたかったものです。

考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい

 文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係については、1年近く前(2018年11月25日)にも述べました(関連記事)。その時からこの問題に関していくつか新たな知見を得ることができましたが、私の見解はほとんど変わっておらず、両者の関係は実に多様なので、考古学的研究成果から担い手の人類集団の変容と継続の程度を一概には判断できない、とさらに確信を強めています。そのため、この問題を現時点で再度取り上げる必要はほとんどないのですが、最近のやり取りで、アイヌは「縄文人」の末裔ではない、という言説の根拠として考古資料が持ち出されたので、改めてこの問題について短く触れておきます。

 古代DNA研究が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。これについては以前の記事で、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、の3通りに区分して具体例を挙げました。もっとも、これは単純化しすぎた分類だと今では反省しています。とはいっても、これらを的確に再整理して提示できるだけの準備は整っていないのですが、とりあえず、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、という区分を追加で提示しておきます。具体的には、紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200~紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(関連記事)。また、鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(関連記事)。

 以前の記事の後に当ブログで取り上げた関連事例では、ヒマラヤ地域が(2)によく当てはまりそうです(関連記事)。一方、中国のフェイ人(Hui)の事例(関連記事)は分類が難しく、(1)と(2)の混合と考えています。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系ではユーラシア西部系の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、全体的にアジア東部系の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部に由来する父系の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、父系では一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 このように、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は多様なので、ある地域の文化変容を単純に集団の遺伝的構成の変容、さらには置換と判断することはできません。これを踏まえて「考古資料から集団置換が起きたか否かを判断するのは容易ではないというかほぼ無理で、古代DNA研究に依拠するしかない」と述べたら、「遺伝子研究では縄文人とアイヌ民族を結びつけることは出来ないということで大変参考になりました」と返信されて、あまりの読解力の低さにうんざりさせられました。

 北海道の時代区分は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ(ニブタニ)文化期と変遷していき、続縄文時代後期~擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。この間の文化変容と「遺伝的証拠」から、アイヌは「(北海道)縄文人」の子孫ではなく、12世紀頃に北海道に到来した、というような言説(関連記事)もネットの一部?では浸透しているようです(アイヌ中世到来説)。もっとも、こうしたアイヌ中世到来説やそれに類する言説を主張する人は、上述のやり取りから窺えるように読解力が低すぎるのではないか、との疑念がますます深まっています。

 それはさておくとして、考古学的には、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期、さらには近現代のアイヌにわたる人類集団の連続性を指摘する見解が主流で、アイヌ中世到来説はまともな議論の対象になっていない、と言えるでしょう(関連記事)。また考古資料から、縄文および続縄文文化を継承した擦文文化の側が主体となってオホーツク文化を吸収し、アイヌ(ニブタニ)文化が形成された、との見解も提示されています(関連記事)。アイヌ中世到来説論者に言わせると、こうした評価は適切ではない、ということになるのでしょうが、上述のように文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではありませんから、置換があったと断定することはとてもできません。もちろん、考古資料だけを根拠に、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を断定することもまたできません。もっとも、考古資料も縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を示唆している、と私は考えていますが。

 古代DNA研究も含めて現時点での遺伝学の研究成果からは(関連記事)、アイヌが「(北海道)縄文人」の強い遺伝的影響を受けている可能性はきわめて高い、と言えそうですが、この問題の解決には古代DNA研究の進展を俟つしかないと思います。ただ、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究はヨーロッパを中心とする西部よりもずっと遅れているので、現時点でのヨーロッパと同水準にまで追いつくのには時間がかかりそうです。ただ、古代DNA研究には「帝国主義・植民地主義的性格」が指摘されており、日本でもこの問題が解決されたとはとても言えないでしょう(関連記事)。古代DNA研究の大御所と言えるだろうウィラースレヴ(Eske Willerslev)氏が中心となってのアメリカ大陸先住民集団との信頼関係構築は、日本においても大いに参考になるでしょうが、歴史的経緯が同じというわけではないので、単純に真似ることは難しいかもしれません。古代DNA研究は倫理面でも大きな問題を抱えていますが、それらを克服しての進展が期待されます。

更科功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2019年10月に刊行されました。本書は、第1部が「ヒトは進化の頂点ではない」とあるように、進化に関する一般的な誤解を強く意識した構成になっています。進化に完成型が存在するとか、ヒトが最も進化していて高性能であるとかいった観念は、今でも根強くあるかもしれません。進化否定論でよく言われているような(今ではそうでもないかもしれませんが)、進化が正しいならばなぜ動物園のサル(あるいはチンパンジー)はヒトに進化しないのか、などといった「疑問」も、ヒトが最も進化している、という通俗的な誤解に起因するのでしょう。

 本書はそうした認識の誤りを、心臓・肺・腎臓・眼といった具体的な器官を事例に解説していきます。身近な器官を身近な動物のものと比較して、ヒトの器官が最も優れているわけでも進化しているわけでもない、と具体的に解説しているのは、一般向けの新書という形式に相応しいと思います。たとえば、チンパンジーの手はヒトよりも派生的、つまりより進化しています(ヒトの手はより祖先的)。また本書を読めば、ある形質が「優れている」とはいっても、それが環境次第である、と了解されます。この点は進化に関する一般向け解説でとくに重要になると思います。これと関連して、特定の形質がある点では有利であるものの、別の点では不利になることは一般的で、あちらを立てればこちらが立たず、ということが進化において一般的であることも了解されます。進化においてトレードオフ(交換)は大変重要な視点となります。

 本書は、人類の進化において重要だったのは一夫一妻的な社会への移行だと想定しています。これにより、直立二足歩行と犬歯の縮小を説明できる、というわけです。ただ、著者の以前の著書を取り上げた時にも述べましたが(関連記事)、犬歯の縮小を雄間の闘争緩和と結びつける著者の見解には私は否定的で(関連記事)、その見解は今でも変わりません。また本書は、雄が子育てに参加するのは一夫一妻と推測していますが、一夫多妻の多いゴリラも父親が子育てに深く関わります(関連記事)。種系統樹ではゴリラよりもチンパンジーの方がヒトと近縁ですが、繁殖に関しては、むしろチンパンジーよりもゴリラの方がヒトの進化を推測するうえで参考になるかもしれません。


参考文献:
更科功(2019B)『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』(NHK出版)

新種の鳥類化石

 新種の鳥類化石に関する研究(Imai et al., 2019)が公表されました。ドイツで発見されたジュラ紀後期(約1億6000万年~1億4000万年前)の始祖鳥は、最初の鳥類だと一般的には考えられていますが、現生鳥類に関連する特徴は、白亜紀まで出現しませんでした。最古となる既知の白亜紀の鳥類化石は、中国北東部で発見された2次元化石標本で、この化石鳥類には尾端骨がありません。尾端骨は現生鳥類の基本的な特徴で、脊柱の末端にあり、尾羽を支えています。

 この研究は、白亜紀前期となる約1億2000万年前の、3次元的に保存されたハトほどのサイズの鳥類の化石について報告しています。この化石標本は、中国以外で初めて発見された白亜紀の祖先的鳥類種の化石で、Fukuipteryx primaと命名されました。この祖先的鳥類種は、始祖鳥といくつかの特徴(頑丈な叉骨・融合していない骨盤・前肢)を共有しているものの、充分に形成された尾端骨も有していた、とこの研究は指摘しています。以前の研究では、尾端骨が鳥類の初期進化における重要な飛翔適応の一つと示唆されていました。一方この研究は、この祖先的鳥類種に尾端骨があることから、尾端骨は単に尾の縮小の副産物にすぎず、飛翔適応とは関係がないとする最近提起された理論を裏づけるものだ、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】尾羽を振っていた白亜紀前期の新種のダイノバード

 日本で発見された新種の鳥類の化石について報告する論文が掲載される。これは、約1億2000万年前の白亜紀前期に生息していた鳥類の化石標本とされ、初期鳥類の進化の解明が進むと考えられている。

 ドイツで発見されたジュラ紀後期(およそ1億6000万年~1億4000万年前)の始祖鳥は、最初の鳥類だと一般に考えられているが、現生鳥類に関連する特徴は、白亜紀まで現れなかった。現在知られている最古の白亜紀の鳥類化石は、中国北東部で見つかった2次元化石標本であり、この化石鳥類には尾端骨がない。尾端骨は、現生鳥類の基本的な特徴で、脊柱の末端にあり、尾羽を支えている。

 この論文で、福井県立大学の今井拓哉(いまい・たくや)たちは、3次元的に保存されたハトほどのサイズの鳥類の化石について記述している。この化石標本は、中国以外で初めて発見された白亜紀の原始的鳥類種の化石で、Fukuipteryx primaと命名された。今井たちは、F. primaと始祖鳥には、いくつかの共通の特徴(頑丈な叉骨、融合していない骨盤、前肢)があるが、F. primaには十分に形成された尾端骨もあったという見解を示している。以前の研究では、尾端骨が、鳥類の初期進化における重要な飛翔適応の1つであることが示唆されていた。これに対して、今井たちは、F. primaに尾端骨があるということは、尾端骨が単に尾の縮小の副産物に過ぎず、飛翔適応とは関係がないとする最近提起された理論を裏付けるものだという考えを提起している。



参考文献:
Imai T. et al.(2019): An unusual bird (Theropoda, Avialae) from the Early Cretaceous of Japan suggests complex evolutionary history of basal birds. Communications Biology, 2, 399.
https://doi.org/10.1038/s42003-019-0639-4

銀行員文化と不誠実さ

 銀行員文化と不誠実さに関する研究(Rahwan et al., 2019)が公表されました。現在、社会科学はいわゆる「再現性の危機」に曝されています。研究室やクラウドソースのワーカープラットフォームのような利用しやすい集団からきわめて影響力のある知見が得られても、それらは必ずしも再現可能ではありません。利用しづらい集団から得られた知見の再現にはあまり注意が向けられておらず、注目度の高い最近の再現の取り組みでは、はっきりとそうした集団が排除されています。

 先駆的な実験研究から、銀行員文化を垣間見る稀な機会が得られており、銀行員は、他の職業とは違って、自分の仕事について考えるときに不誠実さが増す、と示されました。銀行業界の重要性を考えれば、研究者や政策立案者が銀行文化の正確な診断としてこうした知見を信頼する前に、それらの一般化可能性を探査することは正当です。この研究は、3大陸の異なる5集団に属する銀行員および非銀行員を対象に、同一の報奨金付き課題を行ないました(参加者数計1282人)。

 中東およびアジア太平洋地域での銀行員研究(それぞれ148人と620人)では、ある程度の不誠実さが観察されましたが、元になった研究とは対照的に、仕事について考えるよう促した銀行員の場合は、それを促さなかった銀行員と比較して、不誠実さに有意な高まりは見られませんでした。また、非銀行員に自分の仕事について考えるよう促しても、誠実さに有意な影響が生じないことも明らかになりました。

 この研究は、銀行員に関する知見の違いを説明するために、サンプリングおよび方法論の相違を検討したところ、重要な2つのポイントを特定しました。第一に、銀行員の行動に関する一般集団の期待が地域ごとに異なっており、元になった研究が行われた地域の銀行文化は世界的に不変なものではない、という可能性が示唆されました。第二に、金融機関27社に声を掛けたところ、それらの多くが不都合な知見に関する懸念を表明したことから、健全な文化を有する銀行のみが今回の研究に参加した、と予想されます。

 この第二の点は、あらゆる同様の実地研究の一般化可能性を損ねると考えられる、潜在的な選択バイアスを示しています。さらに広い意味では、この研究は、組織の障壁や地理的な障壁が原因で利用困難な集団において広く報道された扱いに注意を要する実地研究を、きわめて忠実に再現しようとするさいの複雑性を明確に示しています。この研究は政策立案者にとって、元となった研究の知見を他の集団で一般化するさいには注意を払う必要がある、と示唆しています。


参考文献:
Rahwan Z, Yoeli E, and Fasolo B.(2019): Heterogeneity in banker culture and its influence on dishonesty. Nature, 575, 7782, 345–349.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1741-y

国立公園のメンタルヘルスへの影響

 国立公園のメンタルヘルスへの影響に関する研究(Buckley et al., 2019)が公表されました。メンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストには、治療・ケア・職場の生産性低下などがある。一方、自然の中で時間を過ごすことによって得られる健康に関連した恩恵としては、注意力・認知力・睡眠の向上、ストレスからの回復などがあると考えられていますが、国立公園が訪問者のメンタルヘルスに与える影響の経済的価値は明らかになっていません。

 この研究は、国立公園がもたらす健康増進サービスの価値を算定しました。この研究は、人間が苦痛や精神障害なしに日常生活動作を行なう能力を測定する「質調整生存年」という概念を用いて、オーストラリアのクイーンズランド州とビクトリア州の代表サンプル集団(19674人)から収集したデータを使って、国立公園の経済的価値を推定し、そのデータからオーストラリア全体と世界全体での経済的価値も推定しました。

 その結果、保護区を訪問することと訪問者のメンタルヘルスとの間に直接的な関連がある、と明らかになりました。オーストラリアの場合、国立公園の健康増進サービスの価値が年間約1000億ドル(約11兆円)と推定されました。さらに、オーストラリアでメンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストは、現在GDPの約10%に相当しており、保護区がない場合には、この経済的コストが7.5%増える可能性がある、と推定されています。ただ、この推定値は予備的研究での計算に基づいたものなので、精緻化するにはより詳細な分析が必要になる、とも指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】国立公園がメンタルヘルスに与える影響の価値評価

 国立公園によって訪問者のメンタルヘルスが改善されることの経済的価値が、世界全体で年間約6兆ドル(約660兆円)に達するという推定結果を報告するPerspectiveが、Nature Communicationsで掲載される。この知見は、予備的研究での計算に基づいたものであり、この推定値を精緻化するには、より詳細な分析が必要となる。

 メンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストには、治療、ケア、職場の生産性低下などがある。一方、自然の中で時間を過ごすことによって得られる健康に関連した恩恵としては、注意力、認知力と睡眠の向上、ストレスからの回復などがあると考えられているが、国立公園が訪問者のメンタルヘルスに与える影響の経済的価値は明らかになっていない。

 今回、Ralf Buckleyたちの研究グループは、国立公園がもたらす健康増進サービスの価値算定に取り組んだ。Buckleyたちは、人間が苦痛や精神障害なしに日常生活動作を行う能力を測定する「質調整生存年」という概念を用いて、オーストラリアのクイーンズランド州とビクトリア州の代表サンプル集団(1万9674人)から収集したデータを使って、国立公園の経済的価値を推定し、このデータを用いて、オーストラリア全体と世界全体での経済的価値も推定した。その結果、保護区を訪問することと訪問者のメンタルヘルスとの間に直接的な関連があることが判明した。オーストラリアの場合、国立公園の健康増進サービスの価値が年間約1000億ドル(約11兆円)と推定された。そして、オーストラリアでメンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストは現在、GDPの約10%に相当しており、保護区がない場合には、この経済的コストが7.5%増える可能性があると推定している。



参考文献:
Buckley R. et al.(2019): Economic value of protected areas via visitor mental health. Nature Communications, 10, 5005.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12631-6

酵母の交雑

 違う種類の酵母の交雑により、醸造環境への適応と異なるビールスタイルの出現が促進された、と報告する2編の論文が公表されました。これらの論文は、雑種形成が醸造環境での酵母の適応と多様化をどのように促進したのか示すとともに、産業に関連する他の雑種酵母を開発する上で有益となる情報をもたらしています。人類は、数千年前からサッカロミケス(Saccharomyces)属の酵母を使って、ビールやワインなどさまざまな発酵製品を製造してきており、培養化の過程でそれぞれの製造環境に適応した酵母種を多数作り出してきました。こうした酵母は、異なる種の親から固有の特性を組み合わせてできた雑種です。

 一方の研究(Gallone et al., 2019)は、醸造などの産業活動に用いられている酵母200種類のゲノム塩基配列を解読しました。その結果、解析した酵母の1/4は4種の親の雑種と明らかになり、交雑は、醸造工程を改善する形質(低温への耐性や糖の発酵など)を組み合わせるのに役立っている、と示唆されました。また、現代のラガー酵母は遺伝的多様性が低いと明らかになり、これは19世紀後半に培養・低温貯蔵され、広まった酵母株がわずかであったことで説明されます。しかし、ベルギーの醸造所は、伝統的な醸造法を守り続け、現在に至るまで多種多様な酵母株を用いてビール醸造を行なっています。

 もう一方の研究(Langdon et al., 2019)は、サッカロミケス属の雑種122種類のゲノムを解析しています。そのゲノムから、野生株と産業株が関わる複雑な交雑の歴史が明らかになりました。サッカロミケス属の一種(Saccharomyces cerevisiae)が寄与した雑種は、培養化された3つの親系統のこの種から生じた、と明らかになりました。対照的に、それ以外の3つの親系統は、全て野生の系統でした。スタウトビールとヴァイツェンビールの酵母には、起源の多くをラガー酵母と共有するものが複数あることが明らかになりました。この研究でも、低温耐性形質の遺伝ルートが明らかにされています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】酵母がビールをつくる

 違う種類の酵母の交雑によって、醸造環境への適応と異なるビールスタイルの出現が促進されたと報告する2編の論文が掲載される。

 人類は、数千年前からサッカロミケス(Saccharomyces)属の酵母を使って、ビールやワインなどさまざまな発酵製品を製造してきており、培養化の過程でそれぞれの製造環境に適応した酵母種を多数作り出してきた。こうした酵母は、異なる種の親から固有の特性を組み合わせてできた雑種である。

 今回、Kevin Verstrepenたちは、醸造などの産業活動に用いられている酵母200種類のゲノム塩基配列を解読した。その結果、解析した酵母の4分の1は4種の親の雑種であることが明らかになり、交雑は、醸造工程を改善する形質(低温への耐性や糖の発酵など)を組み合わせるのに役立っていると示唆された。また、現代のラガー酵母は遺伝的多様性が低いことが明らかになり、これは19世紀後半に培養、低温貯蔵され、広まった酵母株がわずかであったことで説明される。しかし、ベルギーの醸造所は、伝統的な醸造法を守り続け、今日に至るまで多種多様な酵母株を用いてビール醸造を行っている。

 別の論文では、Chris Hittingerたちが、サッカロミケス属の雑種122種類のゲノムを解析している。そのゲノムから、野生株と産業株が関わる複雑な交雑の歴史が明らかになった。Saccharomyces cerevisiaeが寄与した雑種は、培養化された3つの親系統のS. cerevisiaeから生じたことが分かった。対照的に、それ以外の3つの親系統は、全て野生の系統であった。スタウトビールとヴァイツェンビールの酵母には、起源の多くをラガー酵母と共有するものが複数あることが明らかになった。Verstrepenたちと同様に、Hittingerたちも低温耐性形質の遺伝ルートを明らかにしている。

 総合すると、今回の2編の論文は、雑種形成が醸造環境での酵母の適応と多様化をどのように促進したのかを示すとともに、産業に関連する他の雑種酵母を開発する上で有益となる情報をもたらしている。



参考文献:
Gallone B. et al.(2019): Interspecific hybridization facilitates niche adaptation in beer yeast. Nature Ecology & Evolution, 3, 11, 1562–1575.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0997-9

Langdon QK. et al.(2019): Fermentation innovation through complex hybridization of wild and domesticated yeasts. Nature Ecology & Evolution, 3, 11, 1576–1586.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0998-8

中国「教授拘束事件」の意味…内外の研究者に及ぶ管理・統制(追記有)

 表題の記事が公開されました。先々月(2019年9月)、中国で日本の国立大学教授が拘束された事件については当ブログでも言及しましたが(関連記事)、川島真氏の表題の記事は、この事件が深刻な意味を有するものである可能性を指摘しており、たいへん注目されます。この事件が「衝撃」だった理由として、川島氏は経緯・専門・準公務員とも言うべき国立大教授という立場を挙げています。拘束の理由は不明なので、この事件のみから中国政府の意図を推測するのは困難なのですが、川島氏が指摘するように、こうした拘束事件は日本人のみを対象としているのではなく、他の外国人相手にも起きており、この点は大いに気になります。

 川島氏は、外国人をめぐる管理・統制の強化は、むしろ中国内の中国人向けの制度が外国人にも適用されつつあることを意味しており、中国内で出版される書籍や論文について、中国人と外国人には別の基準があったものの、習近平政権期になって両者の基準はほぼ同じになり、外国人の書いた文章の中国内での出版は内容によりきわめて難しくなった、と指摘しています。それは政治的性格を仮託されやすい歴史学において、とくに問題となりやすいのでしょう。川島氏は、習近平政権期になって歴史学への統制は強化され、とくに近現代史であれば、国家の歴史よりも共産党の「党史」重視の傾向が強まった、と指摘します。それが中国内の研究者のみならず、外国の研究者にも及びつつあるのではないか、と川島氏は指摘します。

 拘束されたと言われている日本の国立大学教授は日中戦争期を専攻し、中華民国・国民党文書・蔣介石日記・当時の政治家や軍人の個人史料を用いて、きわめて精緻に明らかにしている、と川島氏は評価します。川島氏が実名を挙げていないので私も控えますが、当ブログでも拘束されたと言われている大学教授の論考を取り上げたことがあります。その論考は門外漢には有益で、とくに問題になるようなものとも思えなかったのですが、中国政府の評価は異なるものなのかもしれません。川島氏によると、この十数年で中華民国の歴史研究は大いに進展してきたものの、それは中国共産党の歴史観とは相容れないとして、中国内では強く批判されているそうです。

 中国におけるこうした動向は近現代史だけではなく、ダイチン・グルン(大清帝国)研究にも及んでいるそうです(関連記事)。外国人のダイチン・グルン研究者は新たな衣をまとった帝国主義者と揶揄され、他の帝国と比較することで中華王朝としてのダイチン・グルンの独自性をおとしめた、と非難されたそうです。中国の学術誌『歴史研究』の論説は、多くの中国の歴史家が外国のニヒリストの軍門に下り、「党と人民の要求に応えているとは到底言い難い」と叱責したそうです。もはや前近代の研究においても中国政府の統制が強化されつつあるのかもしれません。

 私が十数年以上前から警戒しているのは、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、今よりもずっと中国に「配慮した」言説を日本でも強いられることなのですが(関連記事)、残念ながらこれは杞憂に終わらないかもしれません。中国に「批判的」というより、中国共産党の歴史観に多少なりとも反するような見解は、「保守反動」として糾弾されるようになる時代も到来するかもしれません。まあ今なら、「保守反動」よりも「ネトウヨ」の方が通用しやすいでしょうか。おそらく中国は、直接的にではなく、「進歩的で良心的な」日本人を通じて日本の言論を統制するのでしょう。まあ、そうした日本人はごく少数でしょうが、マスメディアやネットを通じて大きな声を出すにはじゅうぶんなくらい存在すると思います。

 もっとも、中国が世界全体ではなくともアジア東部・南東部で覇権を確立し、日本も中国に従属するようになれば、それまで「反中的な」言説を声高に語っていた輩の中に、「米帝」や「西側」を罵倒して中国共産党に迎合する者が現れ、現在の「ネトウヨ」よりも多数を占めるようになり、「親中的」で「反米(もしくは西側)的」」な本がベストセラーになるのかもしれません。それもまた人間らしい振る舞いと言ってしまえばそれまでですが、情報通信技術の発展とともに統制を強める中国政府を見ていると、とても冷笑しているような余裕はなく、中国が覇権を確立して日本が従属するような事態は何としても避けたい、というのが私の本音です。


追記(2019年11月16日)
 中国に拘束されていた北海道大学教授が解放されて帰国したので、当ブログに記事を掲載しました。トラックバック機能が廃止になっていなければ、こうした追記は必要なかっただけに、たいへん残念です。

大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。

 本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。

 北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。

 北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。

 上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。

 擦文文化は、紀元後700~1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。

 オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600~1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。

 擦文文化とオホーツク文化は、700~900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。

 こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。

 本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。

 こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。


参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16

中世カトリック教会による西洋工業化社会への心理的影響

 中世カトリック教会による西洋工業化社会への心理的影響に関する研究(Schulz et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。世界の人々の間には、心理的な信念や行動に大きなばらつきがあります。特に、西洋の工業国における個人主義は独特です。これまでの研究により、最近では「Western, Educated, Industrialized, Rich and Democratic(WEIRD、西洋の、教育された、工業化された、裕福な、民主的な)」と表現されるこうした社会は、個人主義で、分析重視で、他人を信じやすい一方で、同調性や服従性や結束力は弱いことが示されていました。こうした特性を後押ししているのが、たとえば政治制度なのか、それとも他のものなのかは、これまで不明でした。

 本論文は、西洋カトリック教会の結婚や家族に関する計画により、強固に結束した親族のネットワークが断ち切られ、その結果、心理にも影響が出た、と仮定しました。その検証のため、この研究は人類学と心理学と歴史学のデータを組み合わせました。人類学では、人間の最も基本的な制度である親族関係が社会の基盤になっている、と指摘されています。心理学では、人間の動機・感情・認識は成長中に遭遇する社会的規範により形成される、と示されています。本論文は人間の心理を把握するため、調査データや行動データや生態学関連の観測データ(自発的献血の有無など)を含む、非常に幅広いデータも利用しました。歴史学では、カトリック教会が中世においてヨーロッパの親族に基づく制度を体系的に弱体化させた、と示唆されています。この研究は、ローマ教皇庁に残こるいとこ婚の割合を示す記録を分析し、親族関係の強さを評価ました。

 こうした分析の結果、結婚に関する教会の宗教令が広がったことにより、血縁に基づく大きな家族のネットワークが、家族の結びつきが弱い、小さくて独立した核家族に体系的に置き換わった、と示唆されました。本論文は、こうした結果を説明できる別の仮説を排除するために、地理的要素や所得・財産・教育などの変数を調整しました。長年教会に接してきた人々に、強い個人主義や低い同調性や見知らぬ人を信じる行動がよく見られるのは、少なくとも部分的には中世カトリック教会の方針が影響している、と本論文は指摘します。個人的には、こうした変化に遺伝的基盤があるのか、文化規範による選択圧がどの程度作用するのか、といったことに興味があります。また、こうした定量的な歴史研究が他地域でも進展することを期待しています。


参考文献:
Schulz JF. et al.(2019): The Church, intensive kinship, and global psychological variation. Science, 366, 6466, eaau5141.
https://doi.org/10.1126/science.aau5141

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第42回「東京流れ者」

 選手村の場所は朝霞にほぼ決まりかけていましたが、田畑政治は会場にずっと近い代々木に拘ります。平沢和重はアメリカ合衆国の日本大使ライシャワーに、代々木の米軍基地の返還を訴えます。日本に米軍基地を返還すれば、日本国民の反米感情も緩和される、というわけです。しかし、米軍側は日本側に60億円を要求し、田畑の責任問題になりかけます。田畑は池田勇人首相と面会し、代々木に選手村を持ってくるよう訴えますが、巨額の返還費が必要となるため、池田首相はまったく相手にしません。しかし田畑は諦めず、米軍が代々木を返還した後、NHKの放送局を移設させ、国民の間でカラーテレビの購入意欲を高めて経済成長に寄与させればよい、と説得し、選手村は代々木と決定します。

 田畑が池田首相と直談判して選手村が代々木と決定したところは、高橋是清や犬養毅と直談判してきた経験が活かされており、長期ドラマらしさが出ていてよかったと思います。長期ドラマらしさといえば、五りんと金栗四三との再会も、五りんの母方祖母からの因縁がありますから、感慨深いものでした。今回も女子バレーチームと大松博文監督が冒頭でしっかりと描かれていました。最終章では女子バレーチームが重要な役割を担うようで、下手に編集せず、当初の予定通り大松監督を登場させ続けてほしい、というのが私の率直な気持ちです。川島正次郎はここまで悪役として描かれていますが、すでに人間的に深いところも描かれており、本作のこれまでの描写からすると、さらに深い側面も出てくるのではないか、と期待しています。円谷幸吉も短時間登場しましたが、前半の主人公が金栗四三だっただけに、やはりマラソン選手ということで重要な役割を担うのでしょうか。悲劇的な最期までは描かれないかもしれませんが。

長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷

 長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。

 本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4~4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代~銅器時代農耕民、鉄器時代~現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。

 より詳細な時代区分では、紀元前10000~紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000~紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500~紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900~紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年~紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300~紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700~紀元後1800年頃となる中世~近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300~紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。

 歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000~紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。

 ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000~紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。

 ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900~紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。

 紀元前900~紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代~鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30~40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。

 国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24~38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。

 これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。

 紀元前509~紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年~紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264~紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万~9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。

 帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。

 帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240~630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30~50%有するとモデル化できます。

 平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。

 一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。

 ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。

 本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38~41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。

 こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。

 帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。

 中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。

 この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は、以下の本論文の図2に示されています。
画像

 イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代~鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。


参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826

北條芳隆編『考古学講義』第2刷

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15~35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000~36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37~58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59~84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85~102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期~擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。



II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105~122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123~145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147~164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165~192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部~中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193~218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末~中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。



III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221~245
 弥生時代~古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代~魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀~4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247~269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271~290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1~3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291~314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315~346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。

北極海の海氷減少による海生哺乳類の疾患の蔓延(追記有)

 北極海の海氷減少による海生哺乳類の疾患の蔓延に関する研究(VanWormer et al., 2019)が公表されました。アザラシジステンパーウイルス(PDV)は、1988年と2002年に北大西洋のゼニガタアザラシの大量死を引き起こし、2004年には北太平洋で確認されました。この研究は、北太平洋へのPDVの侵入時期、PDVの出現に関連するリスク因子、PDVの伝播パターンを調査しました。この研究は、2001~2016年に収集された海生哺乳類の移動データに加えて、アザラシ・トド・キタオットセイ・ラッコのPDVへの曝露と感染に関するデータを用いました。

 この研究は、2003年と2004年に、北太平洋における海生哺乳類のPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、PDV陽性の海生哺乳類が30%を超えていた、と明らかにしました。その後、PDVの有病率は低下しましたが、2009年に再びピークに達しました。2004年と2009年に試料採取された海生哺乳類のPDV感染率は、その他の年の9.2倍でした。これと関連して、2002年・2005年・2008年に北大西洋から北太平洋に至る水路が開いていた、と衛星画像によって検出されました。

 これらの知見は、2002年以降に北太平洋全域でPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、数々の海生哺乳類にPDVが伝播し、海氷減少があった後にPDVへの曝露と感染がピークに達したことを示す証拠となっています。海氷減少のような環境の変化は、動物の行動を変化させ、それまで別々の海域に生息していた動物個体群が相互に接触できる水路を開いて、新たな病原体への曝露を生じさせる可能性がある。北極海の海氷減少が続けば、病原体が北太平洋と北大西洋の間を移動する機会が増えるかもしれない、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生物学】北極海の海氷減少は海生哺乳類の疾患の蔓延を助長するかもしれない

 気候変動を原因とする北極海の海氷減少により、海生哺乳類に感染する病原体が北大西洋と北太平洋の間で蔓延する頻度が高まる可能性のあることを報告する論文が、今週掲載される。海氷減少のような環境の変化は、動物の行動を変化させ、それまで別々の海域に生息していた動物個体群が相互に接触できる水路を開いて、新たな病原体への曝露を生じさせる可能性がある。

 アザラシジステンパーウイルス(PDV)は、1988年と2002年に北大西洋のゼニガタアザラシの大量死を引き起こし、2004年には北太平洋で確認された。今回、Tracey Goldsteinたちの研究グループは、北太平洋へのPDVの侵入時期、PDVの出現に関連するリスク因子、PDVの伝播パターンを調査した。Goldsteinたちは、2001~2016年に収集された海生哺乳類の移動データに加えて、アザラシ、トド、キタオットセイ、ラッコのPDVへの曝露と感染に関するデータを用いた。

 Goldsteinたちは、2003年と2004年に北太平洋における海生哺乳類のPDVへの曝露と感染が広範囲に及んでいたことを明らかにした。PDV陽性の海生哺乳類が30%を超えていたのだ。その後、PDVの有病率は低下したが、2009年に再びピークに達した。2004年と2009年に試料採取された海生哺乳類のPDV感染率は、その他の年の9.2倍だった。このことと関連して、2002年、2005年、2008年に北大西洋から北太平洋に至る水路が開いていたことが、衛星画像によって検出された。

 以上の知見は、2002年以降に北太平洋全域でPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、数々の海生哺乳類にPDVが伝播し、海氷減少があった後にPDVへの曝露と感染がピークに達したことを示す証拠となっている。北極海の海氷減少が続けば、病原体が北太平洋と北大西洋の間を移動する機会が増える可能性がある。



参考文献:
VanWormer E. et al.(2019): Viral emergence in marine mammals in the North Pacific may be linked to Arctic sea ice reduction. Scientific Reports, 9, 15569.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-51699-4


追記(2019年11月12日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

後天性細菌間防御系を含むヒトの腸内細菌

 ヒトの腸内細菌の後天性細菌間防御系に関する研究(Ross et al., 2019)が公表されました。ヒトの消化管は、密で多様な微生物群集によって構成されており、その組成は健康と密接に結びついています。この群集の構成要素を説明するには、食餌や宿主免疫などの外因性の要因だけでは不充分で、共存する微生物間の直接的な相互作用が腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、 マイクロバイオーム)組成の重要な駆動要因として関与している、とされています。腸内微生物叢由来の細菌のゲノムには、接触依存的な細菌間拮抗作用を仲介するいくつかの経路が含まれています。バクテロイデス目のグラム陰性菌の多くはVI型分泌装置(T6SS)をコードしており、T6SSは毒性のあるエフェクタータンパク質の隣接する細胞内への送達を促進します。

 この研究は、ヒトの腸内微生物叢に存在するバクテロイデス目の種において、後天性細菌間防御(AID)遺伝子クラスターが存在する、と報告しています。これらのクラスターは、T6SSを介した種内および種間の細菌の拮抗作用を防ぐ一連の免疫遺伝子の配列をコードしています。さらに、これらのクラスターは可動性エレメントに存在して、それらの移動が試験管内やノトバイオートマウスにおいて毒素に対する抵抗性の付与に充分である、と明らかになりました。また、バクテロイデス目のゲノムに広く存在するリコンビナーゼ関連AIDサブタイプ(rAID-1)の防御能も特定・確認されました。これらのrAID-1遺伝子クラスターは、活発な遺伝子獲得を示唆する構造を持ち、多様な生物に由来する毒素の予測免疫因子を含んでいます。この研究は、AID系による接触依存的な細菌間拮抗作用の中和が、ヒトの腸内微生物叢の生態環境形成を助けている、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:ヒトの腸内細菌は後天性細菌間防御系を含む

微生物学:腸内微生物群を免疫で武装

 微生物が高密度で存在する腸内環境では、細菌は隣接する細菌からの攻撃を防ぐ必要がある。J Mougousたちは今回、同じ種あるいは異なる種のVI型分泌装置(T6SS)が分泌する毒素に対して作用する、免疫遺伝子のクラスターが関与する新しい防御戦略を特定した。この細菌間防御系は、バクテロイデス属(Bacteroides)の種の間で広く見られると考えられ、この系が種間を移動できることによって、in vitroおよびマウスで毒素に対する抵抗性の移動が起こる。これらの後天性細菌間防御(AID)遺伝子クラスターは、腸内微生物相の生態学的相互作用を形作るのに重要であると予測される。



参考文献:
Ross BD. et al.(2019): Human gut bacteria contain acquired interbacterial defence systems. Nature, 575, 7781, 224–228.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1708-z

学習に最適な難易度

 学習に最適な難易度に関する研究(Wilson et al., 2019)が公表されました。教育のための最適条件をめぐる論点については、何年も前から研究者の間で議論が続けられています。しかし、学習に有益な特定の難易度が存在している理由とその最適レベルが具体的に何なのかは、まだ分かっていません。この研究は、トレーニングの難易度が学習速度に影響するかどうかを調べました。この研究は、一連の2値分類タスクに用いるアルゴリズムセットのための最適学習条件を導出しました。この場合、学習ベースのアルゴリズムは、明確でない刺激(たとえば、ランダムパターンをとる少数のコヒーレントドットの移動方向)を2つのグループのいずれかに分類できることが求められました。

 その結果、最適なエラー率は約15.87%で、逆の言い方をすれば、アルゴリズムの学習精度が約85%の時にトレーニングが最も速く進行する、と明らかになりました。また、最適精度でのトレーニングの方が、特定の難易度に固定されたトレーニングよりも速く進行することも分かりました。さらにこの研究は、こうした手法を人工知能に使われる人工ネットワークと、人間や動物の知覚学習を記述すると考えられている計算論的神経科学モデルに適用したところ、最適な学習率が「85%ルール」に従っている、と明らかにしました。この新知見は、学習速度を最大化するための最適設定を明らかにするための理論の構築に役立つかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【計算論的科学】学習に最適な難易度とは

 このほど行われた計算論的研究で、学習者の正答率を約85%に保つようにトレーニングの難易度を調整すると、学習が最も急速に生じるという結果が得られたことを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、学習速度を最大化するための最適設定を明らかにするための理論の構築に役立つかもしれない。

 教育のための最適条件をめぐる論点については、何年も前から研究者の間で議論が続けられている。しかし、学習に有益な特定の難易度が存在している理由とその最適レベルが具体的に何なのかは分かっていない。

 今回、Robert Wilsonたちの研究グループは、トレーニングの難易度が学習速度に影響するかどうかを調べた。Wilsonたちは、一連の2値分類タスクに用いるアルゴリズムセットのための最適学習条件を導出した。この場合、学習ベースのアルゴリズムは、明確でない刺激(例えば、ランダムパターンをとる少数のコヒーレントドットの移動方向)を2つのグループのいずれかに分類できることが求められた。その結果、最適なエラー率は約15.87%で、逆の言い方をすれば、アルゴリズムの学習精度が約85%の時にトレーニングが最も速く進行することが分かった。また、最適精度でのトレーニングの方が、特定の難易度に固定されたトレーニングよりも速く進行することも分かった。

 さらにWilsonたちが、この研究アプローチを人工知能に使われる人工ネットワークと人間や動物の知覚学習を記述すると考えられている計算論的神経科学モデルに適用したところ、最適な学習率が「85%ルール」に従っていることが明らかになった。



参考文献:
Wilson RC. et al.(2019): The Eighty Five Percent Rule for optimal learning. Nature Communications, 10, 4646.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12552-4

『卑弥呼』第28話「賽は投げられた」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年11月20日号掲載分の感想です。前回は、新生「山社国」のためにヤノハとミマト将軍とテヅチ将軍が日向(ヒムカ)侵攻を決意したところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の楼観にて、ヤノハがモモソの夢を見ている場面から始まります。モモソはまず、ヤノハがまた間違った、と伝えます。日向(ヒムカ)への遠征だと思ったヤノハは、もちろん多くの血が流れるだろうが、日向を平定するのが日の守(ヒノモリ)だった自分の義母願いだ、と言ってモモソに理解を求めます。しかし、モモソの意図は違いました。山社を国にするため日向の地を得るのは分かるが、最小限ですみ、そこを取れば誰にも文句を言わせず、ヤノハが真の日見子(ヒミコ)と喧伝できる場所にまず行くべきだ、というわけです。

 山社では、夜明けとともに500人の兵が東の日向に向かうはずだったのに、まだ出陣していないことを、クラトが不審に思っていました。ミマアキは、真夜中に日見子(ヤノハ)に新たな神託が下ったが、テヅチ将軍とミマアキの父であるミマト将軍が難色を示している、と説明します。理由の一つは、日見子自身が同行すると言ったからでした。もう一つは、日見子が遠征先を変えると言ったからですが、ミマアキもその行き先までは知りません。

 ヤノハは楼観で、テヅチ将軍とミマト将軍に自分の考えを明かします。ヤノハは日向のある東へ直ちに向かうのではなく、まず北の閼宗(アソ)山(阿蘇山)を目指し、その手前で東進しようと考えていました。イクメは、ヤノハが天照大御神のいる永遠の聖地たる千穂に参詣するつもりだ、と悟ります。千穂に詣でればヤノハが真の日見子と知らしめることができる、というわけです。それでも躊躇うテヅチ将軍とミマト将軍に対してヤノハは、まず千穂に入場すれば都萬(トマ)も他の諸国も戦おうとはしないだろう、と説得します。ヤノハの望みは倭を平和にすることで、戦をせずにすむ道を選ぶ、というわけです。テヅチ将軍とミマト将軍は、都萬はもちろん、少なくとも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)のどの国も見ないふりをするだろう、と言います。それは、千穂には「何か」がいるからだ、がテヅチ将軍は説明します。イクメは、それは大昔の言い伝えだろう、と疑問を呈しますが、ミマト将軍は、都萬が百年前にその「何か」を成敗するため派兵したものの、全員帰還できなかった、と説明します。ミマト将軍によると、千穂に近い邑人たちは数百年間、荒ぶる「何か」を鎮めるため、今も毎年、8人の生娘を生贄として捧げているそうです。ヤノハに「何か」を問われたテヅチ将軍は、鬼と答えます。ミマト将軍は、人か魔物か分からないものの、その「何か」が鬼道に通じていることは確かだろう、と推測します。さらにテヅチ将軍は、その「何か」は昔から鬼八荒神(キハチコウジン)と呼ばれている、と補足します。鬼がずっと千穂を支配しているため、百年以上倭人は誰も聖地を訪れられないとは面白い話だ、とヤノハは言います。ヤノハはテヅチ将軍とミマト将軍に対して、鬼八なる者が鬼道に通じているなら、自分も同じ術を用いる、と宣言します。自分は鬼も魔物も一度も見たことはないが、その者の正体を確かめたくはないか、とヤノハに問われたテヅチ将軍とミマト将軍は苦笑し、日見子(ヤノハ)に従うだけだ、と覚悟を決めます。

 暈(クマ)と那(ナ)の国境近くでは、那のトメ将軍が配下から報告を受けていました。那の都では、トメ将軍は謀反人で、新王になるため攻め寄せてきた、と大騒ぎになっていました。大河(筑後川と思われます)の対岸に控えるトメ将軍の配下であるホスセリ校尉も9000人の兵を率いてトメ将軍を迎え撃とうとしていました。その後トメ将軍は伺見(ウカガミ)から、ヤノハの預言通り、那では自分が謀反人と断定され、都への入場が止められようとしている、と報告を受けます。那の島子(シマコ)のウラは、トメ将軍を狙って手勢を差し向けたらしい、と言うトメ将軍に対して、どうするつもりなのか、ヌカデは尋ねます。答えが出ないというトメ将軍に対して、兵法を駆使してはどうか、とヌカデは進言します。するとトメ将軍は、かつてヌカデに話した、ヤノハに似ている兵法家の韓信について語ります。韓信は賽を発明した人物でともありました。賽自体は秦の始皇帝の時代よりあったものの、正六面対の賽を発明したのは韓信と言われています。賽についてヌカデに訊かれたトメ将軍は、各面に壱から六までの漢字か穴が彫られており、放り投げて地に落ちた時に出た数で運命を決める、と答えます。兵法家は情報分析のみを重んじ、天命や運を信じないのでは、とヌカデに問われたトメ将軍は、大兵法家の韓信ですら、時には天命にすがりたくなり、賽を発明したのだろう、と答えます。トメ将軍は兵士たちを集め、祖国である那のために暈を蹴散らしたにも関わらず、謀反人呼ばわりされている、大河を越えれば那国の悲惨、越えねば我々の破滅だが、迷うことなく進もう、我々に疑惑の目を向けた敵どもに一泡吹かせる、とうったえ、兵士たちの士気は高まります。トメ将軍に別れを告げられたヌカデは、今ここに韓信の賽があればどうするのか、と問いかけます。これに対してトメ将軍が、もちろん投げるが、どんな数字が出ようが答えは決まっている、我が道を進むのみ、と答えるところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍が自分たちを謀反人扱いした祖国である那の要人相手に戦う、と決断したところまでが描かれました。那の富は倭国一とされており(第1話)、ヤノハは、倭国安定のためにはまず最も豊かな国を自陣営に引き入れねばならない、と計算しているのでしょうか。トメ将軍は大物感のある魅力的な人物として描かれており、人物造形に成功しているように思います。トメ将軍はヤノハを霊感の持ち主としてよりは、情報分析と決断力に優れた兵法家と認識しています。おそらくトメ将軍は、倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後も、そうした観点からヤノハを支えていくことになりそうです。

 今回、謎解き要素という点で注目されるのは、天照大御神のいる永遠の聖地たる千穂(おそらく高千穂でしょう)に関する話です。千穂にいる「何か」である「鬼八荒神」は鬼道に通じている、とされています。『三国志』には、卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とあります。この鬼道が何なのか、諸説あるようですが、本作ではどう設定されるのか、楽しみです。ヤマタノオロチ伝説も絡められ、なかなか面白い設定になりそうですが、鬼八荒神とは、儒教的な枠組みに収まらないさまざまな術を用いる集団で、古くから天照大御神の聖地を守っているのではないか、と予想しています。娘を生贄にするとは、鬼八荒神集団は父系継承で、外部である近隣集落から若い女性を差し出さて子供を産ませていることを意味しているのかもしれません。暈にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長であるヒルメは、四肢を砕かれて野原に放置され、そこへ狼を率いる人物が現れましたが(第23話)、この人物こそヤノハの弟であるチカラオで、種智院に身を寄せた姉にたいして、鬼八荒神集団に養われ、狼を操る術も習得したのではないか、と予想しているのですが、どうなるでしょうか。ヤノハは、弟は死んだと考えていますが、おそらく、『三国志』に見える卑弥呼を支える「男弟」がチカラオだと思います。次回は巻頭カラーとのことで、たいへん楽しみです。

何故欧州の科学者はネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNAを公表しないのだろう?

 Twitterで検索していたら、表題の発言を発見しました。これは引用で、元の発言

最近は「ネアンデルタール人は最も古いグループの現生人類であり、現代人と同じ民族である」と考えられる様になり、となると「デニソワ人やクロマニヨン人も当然、現生人類である」となる。何故欧州の科学者はネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNAを公表しないのだろう?現生人類ならば、当然ある筈

となります。こう呟いた「ニコイの水芭蕉」氏の発言にはこのように出鱈目なものが多く、しかも呟きが多く検索の邪魔になるので、以前からミュートしていました。取り上げるべきではないのでしょうが、せっかくミュートしていたのに視界に入ってきてイラっとしてしまったので、苛立ちを解消するために言及します。そもそも、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が「現代人と同じ民族」とはあまりにも常軌を逸した発言で、そもそも民族は遺伝的に定義できるものではありません。おそらく、現生人類(Homo sapiens)を「Homo sapiens sapiens」、ネアンデルタール人を「Homo sapiens neanderthalensis」とする種区分のことを念頭に置いているのでしょうが、これは両者が種ではなく亜種レベルで区分される、と言っているにすぎず、「民族」区分を意味しているのではありません。あまりにも常識的なことなので、わざわざ述べていて恥ずかしいくらいですが。

 次に、ヨーロッパの研究者がネアンデルタール人やデニソワ人のY染色体DNAを公表していない、との認識ですが、こちらも出鱈目です。確かに、デニソワ人のY染色体DNAはまだ公表されていないと思いますが、これはデニソワ人男性ではY染色体DNAに基づく系統樹を推定できるだけの品質のデータが得られていないというだけで、ネアンデルタール人に関しては、以前にも取り上げましたが(関連記事)、イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)と、ベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)の個体のものが公表されています。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人に関する論文(Mendez et al., 2016)の図3は以下のようになっています。
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スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡のネアンデルタール人に関する論文(Hajdinjak et al., 2018)の図2は以下のようになっています。
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 このようにネアンデルタール人のY染色体DNAに関してはすでに3年半以上前(2016年4月)から公表されています。それを知らなかったのは仕方ないとしても、「ネアンデルタール人 Y染色体」で検索すればすぐに分かることなのに、その手間さえかけず、あたかもヨーロッパの研究者がわざとこうひょうしないかのように仄めかすのは、本当に悪質だと思います。まあ、こうした愚劣な陰謀論的発言は多くの場合、ちょっとした検索もしないような横着と傲慢さに基づいているのでしょう。


参考文献:
Hajdinjak M. et al.(2018): Reconstructing the genetic history of late Neanderthals. Nature, 555, 7698, 652–656.
http://dx.doi.org/10.1038/nature26151

Mendez FL, Poznik GD, Castellano S, and Bustamante CD.(2016): The Divergence of Neandertal and Modern Human Y Chromosomes. The American Journal of Human Genetics, 98, 4, 728-734.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2016.02.023

森林の枯死の予測

 森林の枯死の予測に関する研究(Liu et al., 2019)が公表されました。森林枯死の発生頻度が高まっていることは全世界で観測されており、その結果としての土地被覆の変化が、生態系と在来種に影響を及ぼしています。また、この数十年間にわたって、気候変動による気温と降水量のパターンの変化が、森林にとってストレスになっています。森林枯死を予測できることは、発生を未然に食い止める上で重要ですが、森林枯死の基盤となる機構が解明されていないため、難題となっています。

 この研究は、植生動態のリモートセンシングデータを用いて、森林枯死を予測するための新しい観測的手法を開発しました。この手法は、森林の回復力の変化という早期予兆信号を観測することに基づいています。回復力の変化は、森林が、潅木地のような別の種類の生態系に変化する可能性が生じる転換点に近づくと起きますが、これは一定期間にわたる衛星観測による植生データの解析によって検出でき、撹乱が起こった後の樹木の葉の回復の遅さを示している可能性があります。

 この研究は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の森林でこの観測的手法を検証し、森林枯死の6~19ヶ月前に森林の回復力の変化を検出できる、と発見しました。この早期予兆信号は、緑色植物の密度の低下のような他の森林衰退の兆候よりも早く検出されました。この研究は、こうしたシステムによって、森林枯死の予測をこれまでよりも正確かつ早期に行なえるようになり、森林管理者が脅威を緩和し、森林の健康を回復させて森林枯死を防止するための時間的余裕が得られる、と考えています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】森林の死を予測するための新たな手掛かり

 森林の回復力(撹乱からの回復速度)の低下は、衛星観測による植生データから検出でき、森林の枯死を予測するための早期予兆信号となる可能性があるという考えを示す論文が掲載される。

 森林枯死の発生頻度が高まっていることは全世界で観測されており、その結果としての土地被覆の変化が、生態系と在来種に影響を及ぼしている。また、この数十年間にわたって、気候変動による気温と降水量のパターンの変化が、森林にとってストレスになっている。森林枯死を予測できることは、発生を未然に食い止める上で重要だが、森林枯死の基盤となる機構が解明されていないために難題となっている。

 今回、Yanlan Liu、Mukesh Kumarたちの研究グループは、植生動態のリモートセンシングデータを用いて森林枯死を予測するための新しい観測的手法を開発した。この手法は、森林の回復力の変化という早期予兆信号を観測することに基づいている。回復力の変化は、森林が、別の種類の生態系(例えば、潅木地)に変化する可能性が生じる転換点に近づくと起こるのだが、一定期間にわたる衛星観測による植生データの解析によって検出でき、撹乱が起こった後の樹木の葉の回復が遅いことを示している可能性がある。Liuたちは、カリフォルニア州の森林でこの観測的手法を検証し、森林枯死の6~19か月前に森林の回復力の変化を検出できることを発見した。この早期予兆信号は、他の森林衰退の兆候(例えば、緑色植物の密度の低下)よりも早く検出された。

 Liuたちは、このシステムによって、森林枯死の予測をこれまでよりも正確かつ早期に行えるようになり、森林管理者が脅威を緩和し、森林の健康を回復させて森林枯死を防止するための時間的余裕が得られると考えている。



参考文献:
Liu Y. et al.(2019): Reduced resilience as an early warning signal of forest mortality. Nature Climate Change, 9, 11, 880–885.
https://doi.org/10.1038/s41558-019-0583-9

注目が高まるY染色体(追記有)

 皇位継承をめぐる議論でY染色体への関心が高まっているように思いますが、それ以前より、皇位継承とは関係なく、現代日本人の遺伝的構成の特異性を強調する観点から、Y染色体は注目されていたように思います。そうした言説では、現代日本人男性において3~4割を占めるY染色体ハプログループ(YHg)Dが韓国人や漢人ではほとんど見られないことから、日本人は韓国人や漢人といった近隣地域の人類集団とは遺伝的にはっきりと異なる、と強調されます。これはかなり偏った見解で、父系遺伝となるY染色体限定ではなくはるかに情報量の多いゲノム規模データでは、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。また、Y染色体DNAと同様に情報量はゲノム規模データよりずっと少ないものの、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)でも、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。DNA解析技術が飛躍的に進展したこともあり、近年では、ゲノム規模データによる人類集団間の比較が主流になっています。

 しかし、これはY染色体DNAやmtDNAの解析が無意味になったことを意味しません。どちらも、ある集団の社会構造や形成史を推測するうえで重要な手がかりになります。人類史において移住・配偶の性的非対称は珍しくなく(関連記事)、それがY染色体DNAとmtDNAにはっきりと反映されている場合もあります。たとえばラテンアメリカでは、父系ではユーラシア西部系が、母系ではアメリカ大陸先住民系が多数派を占める傾向にあり、15世紀末以降、ヨーロッパ系の男性が主体となったアメリカ大陸の侵略を反映しています。こうした偏りは、常染色体だけでは解明しにくいと言えるでしょう。また、中国のフェイ人(Hui)の事例は、外来の少数男性がフェイ人(回族)の文化形成に重要な役割を果たした、と示唆します(関連記事)。父系社会の多い現代人において、情報量の多い常染色体DNAデータだけでは分からない歴史をY染色体が提供することも珍しくないだろう、と期待されます。

 とはいっても、当然Y染色体だけで文化や民族を解明できるわけではなく、そもそも民族を遺伝的に定義できるわけではありません。最近では、古代DNA研究の飛躍的な進展とともに、ある文化集団を遺伝的に均一と考える傾向について、懸念が呈されています(関連記事)。この点には注意が必要で、ある地域集団における文化変容・継続と遺伝的構成の関係はかなり複雑なものだった、と考えられます(関連記事)。同じ文化集団だから遺伝的に類似しているはずだ、という見解は問題ですが、一方で、遺伝的継続性が低いから先住集団の文化はほとんど継承されていないはずだ、との見解もまた問題で、たとえば日本列島における縄文時代から弥生時代への移行についても、慎重に検証していかねばならないでしょう。

 具体的には、「縄文人」の遺伝的影響が本州・四国・九州を中心とする現代日本の「本土」集団では低そうなので、縄文文化はその後の「本土」文化にほとんど影響を与えていないとか、「縄文人」や「弥生人」、とくに後者について、均一な遺伝的構成を想定する(関連記事)とかいった主張です。縄文時代から弥生時代への移行の解明に関しても、古代DNA研究が大きく貢献すると期待されますが、そのためには、日本列島だけではなく、広くユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展が必要となるでしょう。


追記(2019年12月1日)
 Y染色体DNA解析の重要性を示す地域として、コーカサスがあります。現在のコーカサス地域では、常染色体やmtDNAが比較的均質なのに対して、Y染色体では民族に応じた大きな違いが見られます(関連記事)。フェイ人と同様に、父系の違いが文化の違いに大きな影響を及ぼした事例と言えそうです。