アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性の検証

 アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性に関する研究(Guarino-Vignon et al., 2022)が公表されました。アジア中央部は、西方のカスピ海から東方のバイカル湖にかけての、現在のタジキスタンとカザフスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンとキルギスとアフガニスタン北部を含む広範な地域です。アジア中央部は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカから拡散して以降、移住経路の岐路に立っており、ヒトの長期の存在と豊かな歴史と高い文化的多様性をもたらしています。

 実例として、紀元前6000年頃のジェイトウン(Djeitun)文化以来の農牧共同体は、銅器時代(紀元前4800~紀元前3000年頃)により密集した村落の出現と感慨農耕の敷地に置換されました。中期青銅器時代には、バクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)文化がアジア中央部南方において繁栄し、特徴的な都会的都市の雛型や強力な感慨技術や顕著な社会的階層を伴いました。

 牧畜遊牧民の生活様式は、後にアジア中央部北方で紀元前3000年頃に出現し、後期青銅器時代(紀元前2400~紀元前2000年頃)にはアジア中央部南方で重要性を増しました。紀元前1800年頃となる青銅器時代末に、オクサス(Oxus)文化はその最終段階において次のような重要な変化を経ました。同じ伝統を維持しながら、物質文化は貧しくなり、一部の土器形態や工芸品は消滅しました。一部の居住地は放棄され、記念碑的建築物は消滅し、技術発展の水準は低下したようです。以前の最盛期には盛んだった「国際」交易は、アジア中央部北方の草原地帯との接触を除いて、大きく減速するか、停止さえしました。葬儀の慣行は、観念形態(イデオロギー)の発展と関連しているかもしれない、前期鉄器時代における埋葬の完全な消滅前に、新たな埋葬様式の出現とともに変わりました。

 その後、紀元前1800~紀元前1500年頃に、アンドロノヴォ(Andronovo)的文化に継承され、それはヤズ(Yaz)文化の台頭まで続きました。その後アジア中央部では、シルクロードに沿って交易の中心地になる前後に、ハカーマニシュ朝やギリシアやパルティアやサーサーン朝やアラブの人々の東方への征服と、フン人や匈奴やモンゴルなどさまざまなアジアの人々の西方への移動があり、とくにサーサーン朝期とイスラム教勢力の侵略の後には移動と征服が盛んでした。

 現在、アジア中央部の複雑な人口史は混合の遺伝的多様性をもたらし、現代のアジア中央部人口集団は二つの文化的に異なる集団に区分されます。一方の集団は、キルギス人やカザフ人などテュルク語族とモンゴル語族話者の半遊牧民の人口集団で、アジア東部およびシベリアの人口集団と遺伝的類似性を示します。もう一方の集団はアジア中央部南方に居住するタジク人とヤグノブ人により構成され、インド・イラン語派の言語を話し、農耕を行なって定住しており、遺伝的には現代のユーラシア西部人口集団とイラン人により類似しておりヤグノブ人は長期にわたって最近の混合の証拠がなく孤立してきた、と知られていいます(関連記事)。

 現代人のDNA研究では、インド・イラン語派集団はテュルク・モンゴル集団の前に、おそらくは早くも新石器時代にはアジア中央部に存在していた、と示唆されます。テュルク・モンゴル集団は、在来のインド・イラン集団およびシベリア南部集団もしくはモンゴル集団と関連する集団間の混合の後で出現し、アジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を約60%有する、と現代人のDNA研究では示唆されています(関連記事)。しかし、トルクメン人は、インド・イラン集団と中間的である点で遺伝的に際立っており、おそらくはほぼ支配層の主導による言語置換を通じての、最近の言語と文化の変化を示唆します。

 古遺伝学的研究で確証されたのは、草原地帯人口集団が重要な役割を果たした、複数の移住の波と混合事象が、過去1万年にユーラシアで起きた、ということです(関連記事)。ヨーロッパの定住は広く研究されていますが(関連記事)、アジア中央部の人口史を調べた研究はわずかしかなく、アジア中央部南方に焦点を当てた研究はさらに少なくなります。アジア中央部北方(カザフスタンとロシア南部)については、遺伝学的研究が後期新石器時代以来の東方と西方への移動を明らかにしており(関連記事1および関連記事2)、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的祖先系統の勾配が生じました。古代のゲノムデータのほとんどが後期新石器時代から青銅器時代にさかのぼるアジア中央部南方では、BMAC人口集団がイラン南部の古代人口集団と強く関連しており、一部の個体は追加の草原地帯祖先系統を有する、と示されました(関連記事)。

 しかし、現代のインド・イラン語派話者人口集団と、アジア中央部南方の古代の人口集団との間の関係は依然として不明です。現代のインド・イラン語派話者の遺伝的起源は何ですか?人口集団の特定の言語集団では一つもしくは幾つかの異なる人口史がありますか?この物語におけるトルクメン人の役割は何ですか?古遺伝学的研究は、これら人口集団の起源調査のための手段をもたらしました。現代のインド・イラン語派話者の起源をそのテュルク語族とモンゴル語族の近隣集団との関連において調べるため、現代の16人口集団(ヤグノブ人1集団、タジク人4集団、テュルク語族とモンゴル語族のアジア中央部とモンゴル西部とシベリア南部の11民族集団)およびユーラシアとアフリカの現代人1501個体のゲノムと、ユーラシアの既知の3109個体の古代人のゲノム(そのうち126個体はアジア中央部南方で発見されました)が共同で分析されました(図1a)。以下は本論文の図1です。
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●現代のインド・イラン語派話者の古代人標本との遺伝的類似性

 現在のアジア中央部個体群とユーラシアの古代人および現代人のゲノム多様性との間の関係を調べるため、まず1915個体の現代人のゲノムで主成分分析(Principal Component Analysis、略してPCA)が実行され、3102個体の古代人のゲノム規模データがそれに投影されました(図1b)。ユーラシア現代人の多様性について、上位3主成分(PC)はおもに現代人集団の地理的再分割に似ています。主成分1(分散の3%)はユーラシア東西間の個体群を、主成分2はアジア南部と現代ヨーロッパの個体群を、主成分3はアジア東部人のまとまりからバイカル湖集団を区別します。

 アジア中央部の現代のインド・イラン語派話者は最初の3主成分でまとまりますが、テュルク・モンゴル個体群は主成分3でインド・イラン個体群のまとまり(クラスタ)からバイカル湖標本群への勾配を形成し、地理ではなく文化的分類と一致します。しかし、下位構造がインド・イラン語派集団内でユーラシア西部のまとまりに密接に収まるヤグノブ人(TJY)とともに出現する一方で、タジク人集団(TJAとTHEとTAB)はバイカル湖のまとまりに向かって伸びており、幾分の追加となるアジア東部もしくはバイカル湖狩猟採集民(BHG)との近接性を示唆します。

 青銅器時代(BA)と鉄器時代(IA)と歴史時代の古代の個体群は、ヨーロッパからアジア東部の集団へと伸びる勾配上に位置します。ユーラシア西部草原地帯個体群は、ヨーロッパ人のまとまりの底と、ユーラシア西部草原地帯のまとまりからバイカル湖およびシベリアの現代人に近いオクネヴォ(Okunevo)文化青銅器時代個体群のまとまりへと広がる、ユーラシア中央部草原地帯個体群とでまとまっています。アジア中央部南方の古代の個体群(新石器時代と青銅器時代と鉄器時代)は、新石器時代(N)イラン個体群(イランN)から現代のイラン人およびヤグノブ人へと延びる勾配をたどります。

 対照的に、トルクメニスタンIAとクシロフ・クシャン(Ksirov_Kushan)遺跡個体群から構成される鉄器時代標本群は、現代インド・イラン語派人口集団の近くに位置しますが、第1軸でのわずかに負の値と第3軸の正の値は、インド・イラン語派現代人におけるバイカル湖祖先系統の追加を示唆します。この主成分分析(図1c)から、古代と現代のアジア中央部のインド・イラン語派人口集団は、新石器時代イラン農耕民とアジア中央部青銅器時代個体群との間で勾配を形成しているように見え、以前の研究で観察されたように(関連記事)、青銅器時代と鉄器時代との間での草原地帯へと向かう祖先系統の明確な変化と、鉄器時代と現代との間でのアジア東部祖先系統へのより小さな変化があります。この変化は、ヤグノブ人よりもタジク人の方でより顕著です。

 本論文の最初の観察結果を確認し、遺伝的構造を識別するため、主成分分析と同じデータセットでADMIXTUREを用いて教師なしクラスタ化分析が実行されました(図2)。主成分分析と一致して、全てのインド・イラン語派話者現代人で、イラン新石器時代農耕民で最大化される遺伝的構成要素(イランN、図2の濃緑色、平均値はヤグノブ人で37%、タジク人で25%)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)とスカンジナビア半島西部狩猟採集民(WSHG)で最大化される構成要素(図2の薄緑色、平均値はヤグノブ人で13%、タジク人で10%)、本論文のデータセットのどの人口集団でも完全には最大化されないものの、ヨーロッパ現代人とアナトリア半島新石器時代農耕民(アナトリアN)で見られる全ての第三の構成要素(図2の濃青色、平均値はヤグノブ人で36%、タジク人で29%)の存在が証明されます。

 さらに、シベリアのシャマンカ(Shamanka)遺跡の前期新石器時代(EN)個体に代表されるバイカル湖狩猟採集民(BHG)で最大化され、全ての現代のテュルク・モンゴル人口集団にほとんど存在する第四の構成要素(図2の赤色、平均50%)も、現代のインド・イラン語派人口集団により低い程度で存在すると推測され、タジク人(平均値14%)よりもヤグノブ人(平均値7%)で顕著に低い割合となっています。最後に、タジク人は、アジア中央部のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団の全てで存在するアジア東部現代人祖先系統(図2の桃色構成要素、漢人集団で最大化されます)の小さな割合(4%)と、現代のアジア南部人口集団で最大化される構成要素(図2の橙色、約8%)を示し、両方の祖先系統はヤグノブ人では欠けています。以下は本論文の図2です。
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 ADMIXTURE分析も、古代人集団に関する主成分分析と一致します。じっさい、鉄器時代のアジア中央部南方個体群はヤグノブ人と顕著に類似した特性を示します。たとえば、トルクメニスタンIAと分類された1個体は、WSHG/EEHG構成要素を約25%、イランN構成要素を30%、アナトリア半島農耕民祖先系統構成要素を35%の割合で有していますが、BHG祖先系統は欠けています(図2)。青銅器時代ユーラシア中央部草原地帯牧畜民は、イラン祖先系統での顕著な増加を除いて同様の特性を示し、ユーラシア西部草原地帯牧畜民は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)で最大化される薄茶色(ベージュ)構成要素を有しており、これは現代のインド・イラン語派人口集団では欠けています。したがって、現代のインド・イラン語派話者人口集団は、トルクメニスタン鉄器時代個体群とひじょうによく似ており、アジア東部および南部集団からの流入は限定的で、ユーラシア中央部草原地帯とアジア中央部南方の青銅器時代人口集団間の中間として現れます。


●インド・イラン語派話者内の人口集団の連続性

 インド・イラン語派話者人口集団の遺伝的供給源における鉄器時代アジア中央部南方個体群との遺伝的継続性およびバイカル湖関連人口集団との限定的な混合を検証するため、D統計とf3統計とqpAdmモデル化が、主成分分析およびADMIXTUREで用いられた同じデータセットと、ヤグノブ人3個体(TJY)とタジク人19個体(TJE)とトルクメン人24個体(TUR)のショットガン配列で形成されたデータセットと、70万ヶ所の一塩基多型の最終セットの古代ゲノムで形成されたデータセットで実行されました。

 その結果、本論文のデータセットの全ての古代の人口集団について、D統計(ムブティ人、古代人集団;トルクメニスタンIA、インド・イラン語派現代人)の計算により、鉄器時代以降に起きた遺伝子流動が特定され、特徴づけられました(図3)。これらの統計は、遺伝子流動が古代の人口集団からインド・イラン語派現代人へと起きた場合、正になると予測されます。ヤグノブ人の場合、アジア東部人口集団に遺伝的に近いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)遺跡の鉄器時代の1個体(2700年前頃)のみが、有意に正のD統計を示します。

 タジク人個体群(TJE)はD統計が正のより多い数の古代の人口集団(41個体)を示し、これら古代の人口集団の共通の特徴は大量のBHG祖先系統を示すことで、ADMIXTURE分析と一致します(図2)。ただ、タジク人は、アジア南部とのつながりの可能性を示すインドの歴史時代の1個体(大アンダマン人)と正のD統計を示すことにも要注意です(図3)。したがって、現代のインド・イラン語派人口集団は、早くも鉄器時代のトルクメンに存在した集団と関連する集団の子孫で、BHG祖先系統と、ヤグノブ人を除いてのアジア南部人口集団からの寄与と、別のアジア東部人口集団からの寄与がありました。以下は本論文の図3です。
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 次に、D統計で検出された寄与が鉄器時代以降に起きた混合事象に起因するのかどうか、検証されました。まず、f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;供給源1、供給源2)が計算され、インド・イラン語派人口集団が2供給源間の混合としてモデル化できるならば、負の値が予測されます。匈奴のようなアジア東部祖先系統からの人口集団と、イランNやアナトリア半島農耕民や草原地帯の祖先系統などADMIXTURE分析(図2)で見られる構成要素を表すより西方の人口集団を示唆する組み合わせのみが有意でした。これらの統計は、おそらくはイランNとBMACとアナトリア半島初期農耕民と青銅器時代草原地帯の祖先系統を示す人口集団と、BHG祖先系統との強い類似性を有する人口集団との間の、じっさいの混合存在を証明します。

 ヤグノブ人集団はタジク人集団よりも負のf3統計を有する組み合わせが有意に少なく、それは恐らく長期の孤立に起因します。f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)でも具体的に計算され、インド・イラン語派話者が鉄器時代トルクメニスタン人口集団とBHG関連人口集団の混合としてモデル化に成功できると示す、正のD統計で示唆された同じ古代の人口集団とともに、いくつかのf3統計は常に得られました。

 次に、qpAdmを用いてヤグノブ人集団とタジク人集団がモデル化され、混合の割合が推定されました。どの代理の人口集団が本論文のモデルで最適なのか検証するために回転法が用いられ、p値が0.01以下の全ての組み合わせが除外されました。ヤグノブ人の場合、維持された唯一のモデルは、トルクメニスタンIA(88~93%)と匈奴祖先系統(7~12%)の混合でした。3方向モデル化では、TJYについて異なるモデルを却下できませんでした。それは、トルクメニスタンIA関連祖先系統(90%)と匈奴関連祖先系統(7%)とヨーロッパENもしくはウクライナのスキタイ人の祖先系統(3%)の混合です。

 トルクメニスタンIAの起源でより古い混合を推測する、ウクライナのスキタイ人とBMACと匈奴のモデルも得られました。より多くの混合供給源について検証すると、2通りの4方向モデルと1通りの5方向モデルが得られました。興味深い一つのモデルは4方向モデルで、ウクライナのスキタイ人(17%)とトルクメニスタンIA(60%)とBMAC(14%)と匈奴(8%)の混合となり、つまり、このモデルはユーラシア西部草原地帯的な人口集団とのヤグノブ人の密接な類似性を示します。

 タジク人をモデル化するために、全ての2方向混合モデルが除外され、匈奴関連祖先系統(約17%)と、トルクメニスタンIA関連祖先系統(約75%)と、アジア南部における深い祖先系統を表す100年前頃のインドの大アンダマン人1個体に代表されるアジア南部個体(8%)の混合を示唆する、1通りの3方向混合モデルが得られました。

 したがって、qpAdmモデル化が示すのは、現在のインド・イラン語派話者の祖先系統の少なくとも90%は、BMACとの類似性を有するアジア中央部南方の鉄器時代個体群から継承されたとしてモデル化される、ということです。その結果、インド・イラン語派話者は、BHG祖先系統関連個体群との偶発的混合を伴う、鉄器時代以降の強い遺伝的連続性を示し、タジク人の場合、おそらくは鉄器時代後のアジア南部祖先系統関連人口集団との混合を示します。

 最後に、DATESを用いて混合事象以降の世代数が推定されました。ヤグノブ人の起源におけるトルクメニスタンIAと匈奴的人口集団との間の混合については、35±15世代前との推定が得られました。1世代29年とすると、この混合事象は1019±447年前にさかのぼります。タジク人(THEとTABとTJA)の場合、ユーラシア東西の混合について、546±138年前(18.8±4.7世代前)から907±617年前(31.2±21.3世代前)の推定年代が得られました。タジク人のアジア南部人口集団との混合については、944±300年前との推定年代も得られました。


●鉄器時代トルクメニスタン人の祖先系統

 以前の研究(関連記事)ですでに、トルクメニスタンIAはBMACといくつかの草原地帯人口集団との間の混合としてモデル化できる、と示されており、主成分分析(図1c)ではじっさい、トルクメニスタンIAは草原地帯勾配に位置します。しかし、草原地帯はアジア東部祖先系統の量に応じて、西部と中央部と東部というように、いくつかの集団に分割されます。ADMIXTURE分析は、赤色と薄紫色の構成要素(それぞれ、シベリア東部人口集団とアジア東部人口集団で最大化されます)の存在により草原地帯を西部と中央部の祖先系統に識別し、薄紫色の構成要素はトルクメニスタンIAでは欠けており、西部草原地帯との類似性を示唆します。

 それにも関わらず要注意なのは、アンドロノヴォ(Andronovo)文化もしくはシンタシュタ(Sintashta)文化の個体群も、中央部草原地帯として分類される一方で、この構成要素を欠いていることです。したがって、中央部草原地帯集団では、ひじょうに不均質で、カラスク(Karasuk)もしくはサカ中央部のようなアジア東部祖先系統や、アンドロノヴォ文化およびシンタシュタ文化個体のような他のより多くの西部草原地帯的祖先系統を有する人口集団が集まっています。

 さらに、BMAC もしくはユーラシア西部の古代の人口集団について、f3型式(ムブティ人;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)のより高い外群f3統計が得られ、二重起源と西部との類似性が浮き彫りになります。この類似性はさらに、D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;西部草原地帯、中央部草原地帯)で確証され、西部草原地帯人口集団が、サカ中央部やカラスクのようなアジア東部祖先系統を有する中央部草原地帯人口集団と対する場合、有意に負となります。

 D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;狩猟採集民1、狩猟採集民2)では(狩猟採集民1と狩猟採集民2はWEHGかEEHGかWSHGかBHG)、BMACと混合した草原地帯人口集団はアジア東部もしくはバイカル湖構成要素が欠けている、と証明されました(図4)。じっさい、BHGが他の狩猟採集民集団と比較される場合のみ、有意なD統計が観察されました(図4)。狩猟採集民人口集団を用いると、最近の混合からの推論を回避できます。それにも関わらず、この水準でこの期間のさまざまな草原地帯集団のほとんどを区別できませんでした。これは、トルクメニスタンIAが、早ければ青銅器時代にいくつかの中央部草原地帯集団で観察されるアジア東部祖先系統を欠いている、と示唆します。以下は本論文の図4です。
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 最後に、qpAdmでトルクメニスタンIAをモデル化するために、BMACと混合したさまざまな草原地帯人口集団が検証されました。まず、西部草原地帯となるポルタフカ(Poltavka)文化およびスルブナヤ(Srubnaya)文化個体と、中央部草原地帯となるアンドロノヴォ文化と分類されたロシアの4個体で一式が構成され、D統計とf3統計で以前に浮き彫りにされたヨーロッパおよび西部草原地帯との類似性が推定されました。その結果、除外できなかった2供給源を有する1モデルだけが得られ、BMAC個体群(43%)とアンドロノヴォ文化個体群(57%)の混合が示唆され、アンドロノヴォ文化個体群は、BMAC個体群と混合して鉄器時代アジア中央部南方集団を形成した草原地帯人口集団にとって、最良の代理と提案されます。

 アジアとの類似性を推定するために、アンドロノヴォ文化個体群とカラスク文化個体群(アジア東部構成要素を有する中央部草原地帯個体群)との間で最良のモデルについて検証すると、単一の適合/関連モデルが得られ、ほぼ同じ割合を有するアンドロノヴォ文化個体群が示唆されます。さらなる検証で、遺伝的に近い2人口集団であるアンドロノヴォ文化個体群とシンタシュタ文化個体群との間の最良のモデルが調べられ、唯一の有意な結果は、同じ割合でのアンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。

 最終的に、アンドロノヴォ文化と分類された個体群と、アンドロノヴォ複合に分類される2つの人口集団、つまりフゥドロヴォ・ショインディコ(Fedorovo Shoindykol)とアラクル・リサコスフスキー(Alakul Lisakovskiy)との間のモデルが検証されました。再度、唯一の有効なモデルは、アンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。全体的に言えるのは、アジア中央部南方の鉄器時代人口集団は、BMAC個体群と、アジア東部との類似性を有する中央部草原地帯よりも西部草原地帯の方と類似性を有する特性を示す、アンドロノヴォ文化個体群に近い(カラスク文化個体群のような)青銅器時代人口集団との混合から生じた、ということです。


●トルクメン人の歴史

 テュルク語族言語を話し、他のテュルク・モンゴル民族集団と同じ文化的習慣を有しているにも関わらず、トルクメン人は遺伝的にテュルク語族話者やモンゴル語族話者よりもインド・イラン語派話者人口集団の方と近い、と示されています。じっさい、トルクメン人(TUR)は、主成分分析ではタジク人のまとまりに収まり、テュルク語族話者やモンゴル語族話者の勾配には収まらず(図1)、ADMIXTURE分析(図2)では、トルクメン人を除いてアジア中央部の全てのテュルク語族およびモンゴル語族人口集団は、バイカル湖祖先系統(図2の赤色構成要素、平均50%)とアジア東部祖先系統(図2の桃色、漢人集団で最大化されます)の有意な高い量を示します。一方、トルクメン人は完全に異なるパターンを示し、タジク人の割合(平均15%)と近いバイカル湖構成要素(平均22%)を有していますが、アジア東部構成要素はほとんどありません。トルクメン人は、タジク人ほどには多くのアジア南部関連祖先系統を示さず、アジア南部人口集団との混合が、インド・イラン語派集団の残りからタジク人が分岐した後に起きたか、継続したことを示唆します。

 外群f3統計(ムブティ人;古代の人口集団、現在の人口集団)に基づいて、最初のデータセットのトルクメン人を含むすべてのアジア中央部人口集団について、古代の人口集団との遺伝的類似性の特性が確立されました(図5)。あらゆる古代の人口集団とトルクメン人を比較する外群f3統計値は、あらゆる古代の人口集団とタジク人を比較するそれと相関します(図5A)。一方、東部草原地帯集団およびバイカル湖集団をテュルク語族およびモンゴル語族人口集団(カザフ人)と比較する外群f3統計値は、古代の人口集団とトルクメン人を比較する場合よりも高くなります(図5B)。トルクメン人は、共有されているシベリア/アジア東部祖先系統の量について、テュルク語族およびモンゴル語族人口集団よりもインド・イラン語派人口集団の方と類似しています。以下は本論文の図5です。
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 最後に、トルクメン人がヤグノブ人に代表されるアジア中央部基底部祖先系統とアジア東部祖先系統の混合としてモデル化されました。トルクメン人のqpAdmモデル化では、却下されない唯一のモデルが得られ、ジョチ・ウルスのアジア人6%とタジク人(TAB)94%の混合が示唆されました。この混合事象について、DATESで687±100年前(23.7±3.4世代前)の年代が推定されました。これらの結果は、トルクメン人が比較的最近までインド・イラン語派的人口集団であり、人口集団における実質的な遺伝的変化なしに最近になって言語と文化が変わった、と明らかにします。


●考察

 本論文は、アジア中央部南方で現代の人口集団が鉄器時代へとさかのぼる証拠を用いて、インド・イラン語派話者の歴史への洞察を提起します。以前の遺伝学的研究で提案され、歴史学的および考古学的証拠により裏づけられるように、インド・イラン語派話者はテュルク語族話者とモンゴル語族話者のずっと前にアジア中央部に定住した、と明らかになりました。アジア中央部南方におけるインド・イラン語派祖先系統の最下部での主要事象は、青銅器時代末と鉄器時代に在来のBMAC集団およびオクサス文化の終焉とおそらくはつながっていたアンドロノヴォ文化関連人口集団との間の混合を通じて起きました。要注意なのは、BMACと混合した草原地帯集団がアジア東部祖先系統を示さないことで、アジア東部祖先系統は中央部草原地帯中核地域に鉄器時代末になってやっと到来した、という考古学および遺伝学(関連記事)の知見と一致します。

 アンドロノヴォ文化に分類される人口集団は、複雑な集団を形成します。じっさい、本論文のデータセットでアンドロノヴォと分類されて用いられている個体群を一斉検査すると、全てキトマノヴォ(Kytmanovo)という1ヶ所の遺跡に由来し、遺伝的には、東方へと移動しているものの、カスピ海の近くに拡大したシンタシュタ文化の関連個体群とひじょうに近い特性を示すことに要注意です。アンドロノヴォ複合に分類される他の文化の個体群が配列決定されましたが、全体的には中程度に不均質な遺伝的集団を形成します。

 さらにいくつかの研究は、草原地帯集団が同様に分類できるかもしれないものの、遺伝的に異なるかもしれず、たとえば、スルブナヤ・アラクルスカヤ(Srubnaya Alakulskaya)文化個体群はサマラ(Samara)地域のスルブナヤ文化個体群よりもアンドロノヴォ文化個体群の方と密接です(関連記事)。青銅器時代末と鉄器時代の遊牧民人口集団は遺伝的にひじょうに不均質で、鉄器時代アジア中央部南方で見つかる西部草原地帯祖先系統はまだ標本抽出されていないかもしれない、と思われます。

 草原地帯とアジア中央部南方との間の遺伝子流動が双方向だったことに注目するのは、興味深いことです(関連記事)。最近の研究では、BMACからの遺伝子流動がスキタイ人の遺伝的形成に寄与した、と強調されています(関連記事)。これらの研究と組み合わせた本論文の知見は、BMACと西部草原地帯文化以降のアジア中央部南方文化は強い文化的つながりを有していた、という考古学的証拠に基づいた仮説を強く裏づけます。

 全体として本論文は、青銅器時代以来の人口移動の熱狂にも関わらず、アジア中央部南方のインド・イラン語派人口集団における鉄器時代以降の遺伝的連続性の顕著な事例を論証します。以前の研究と同様に本論文は、タジク人の言語の変化につながる最初の拡大にも関わらず、インド・イラン語派話者の遺伝的多様性について、アジア中央部におけるアラブ文化拡大の影響を示しません。タジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への言語変化につながったペルシア文化拡大にも関わらず、イランからの遺伝子流動も見られず、ヤグノブ人は東部イラン語群言語を維持しました。

 ヤグノブ人はその組み合わせについて、経時的に強い遺伝的安定性により特徴づけられ(負の混合f3統計の少ない量、より少ない有意なD統計)、長期の孤立と関連しているかもしれません。ヤグノブ人はじっさい孤立した民族言語人口集団で、ひじょうに近づきにくいヤグノブ川流域に歴史的に存在しました。証拠から示唆されるのは、ヤグノブ人とタジク人との間の分離は遅くとも1000年前頃に起きており、それは以前の研究で観察されたインド・イラン語派話者の高い遺伝的分化を説明します。興味深いことに、ヤグノブ人は、強い遺伝的浮動にも関わらず現在の遺伝的多様性につながった移住の波の前の、アジア中央部に存在した祖先系統の好適な代理を表せるかもしれない、と示唆されます。

 現代のテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との混合に起因するアジア東部祖先系統の量はタジク人でさえ低いままで、アジア中央部においてインド・イラン語派話者集団への東方から西方への侵略(フン人やモンゴル人)の小さな遺伝的影響を観察した、以前の研究の知見と一致します。一方、本論文はヤグノブ人とタジク人とトルクメン人について、1000年前頃にさかのぼるBHG祖先系統からの少量の遺伝子流動を浮き彫りにし、鉄器時代後のアルタイ山脈からの西方への移住の最近の波が示唆されます。

 最近の移住の波は、以前の研究でアルタイ地域からのテュルク語族話者の祖先的集団に由来すると論証されてきた、アジア中央部南方におけるテュルク語族話者とモンゴル語族話者の起源と関連しているかもしれません。本論文で提示された混合のごく最近の年代は、以前の研究で推定された、タジク人では8000年前頃、キルギス人では2300年前頃との推定年代と顕著に異なります。ヤグノブ人と比較してのタジク人のより最近の推定混合年代は、タジク人が、ヤグノブ人の遺伝的構成を形成した最初の混合事象後に起きた、東進してくる供給源からより多くの継続的な遺伝子流動を受けた、という事実により説明できるかもしれません。じっさい、qpAdm手法はこの文脈で予測できる継続的な混合を検出できません。さらに、その祖先系統の調査は、文化的、とくに言語的違いにも関わらず、タジク人とトルクメン人における遺伝子流動のさまざまなパターンが現れる一部の遺伝的違いを伴いつつ、ヤグノブ人とタジク人とトルクメン人の内部における遺伝的均質性を確証します。

 とくに、イランのトルクメン人における証拠にも関わらず、以前には記録されていなかった、タジク人集団に限定されるアジア南部からの混合事象が証明されました。以前の考古学的研究によると、アジア南部との多方向の文化交流が早くも銅器時代には起きていた、と知られています。とくに、シアルク(Sialk)文化や他のイランの文化からバローチスターン(Balochistan)文化もしくはジオクジュール(Geoksjur)文化にかけてのアフガニスタン南部への文化交流が知られています。

 反対方向、つまり南方から北方へは、ムンディガクIII(Mundigak III)様式土器がアフガニスタン北部のバダフシャーン(Badakhshan)まで並行しており、アラビア海からの首飾りや腕輪に用いられた貝殻は、タジキスタンのサラズム(Sarazm)遺跡で見つかっており、長距離の商取引を示します。これら古代の人口集団は、鉄器時代も含めて人口集団間のおそらくは高頻度の交流と文化的融合を伴う移動中でした。興味深いことに、アジア中央部南方とアジア南部の集団間の遺伝的近接性は、すでにBMAC標本群で示唆されており(関連記事)、この遺伝子流動の時期に関する問題を提起します。

 この問題について、二つのモデルが考えられます。一方のモデルは、ヤグノブ人で現在観察されるように均質な基底部インド・イラン語派集団の背景の形成と、アジア南部人口集団からの最近の遺伝子流動を仮定します。もう一方のモデルは、一部の青銅器時代BMAC標本におけるアジア南部祖先系統の存在を認識し、タジク人とヤグノブ人は異なるBMAC人口集団に由来し、アジア南部祖先系統との混合が、タジク人ではあり、ヤグノブ人ではなく、共にアンドロノヴォ文化集団的な草原地帯人口集団と鉄器時代に別々に混合し、その後でBHG祖先系統を有する東部遊牧民集団と混合したかもしれない、と提案されます。

 タジク人のゲノムにおけるアジア南部人口集団からの遺伝子流動の年代が比較的最近なので、データは前者の仮説を支持しますが、混合(1回なのか複数回なのか)のモデルについていの不確実性は、青銅器時代以降の継続的な遺伝子流動と一致するかもしれません。さらに、本論文における最近の推定混合年代は、1500年前頃のペルシアの拡大と関連したタジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への変化と同じように、アジア南部祖先系統の到来と一致します。

 最後に、トルクメン人は、遺伝的祖先系統の実質的な変化なしに言語と文化的慣行が変化した人口集団の顕著な事例です。じっさい、ユーラシア全体で見つかるテュルク語族話者は、いくつかの遊牧民の移住の結果で、アジア中央部を通ってシベリアからヨーロッパ東部と中東まで広がり、紀元後5~16世紀と広範な期間に起きました。アジア中央部以外の地域では、いくつかの研究において、テュルク語族話者は遺伝的に地理的近隣集団と類似しており、両者を区別する遺伝的兆候はない、と示されています。これは、テュルク語族の拡大に伴う言語置換について、人口拡散ではなく、支配層の優位によるモデルを裏づけます。

 トルクメン人はこの世界的モデルに当てはまりますが、この地域では例外的です。じっさい、キルギス人もしくはカザフ人など他のテュルク語族話者人口集団は、明確に支配的なアジア東部およびバイカル湖構成要素があるさまざまな遺伝的特性を示し、紀元後10~14世紀頃となる、シベリア南部とモンゴルからの遊牧民とのより顕著な混合を証明します。トルクメン人におけるアジア東部祖先系統の少ない量は、紀元後15世紀頃の混合と関連しており、アジア中央部における最初の混合よりもわずかに後で、これらテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との遺伝子流動に由来するかもしれません。

 インド・ヨーロッパ語族の拡散の問題は、近年では白熱した話題になっています(関連記事)。言語学的分析は、インド・ヨーロッパ語族の起源地として、アナトリア半島もしくはポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)を示します。ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連人口集団の、後期新石器時代における西方への拡大と青銅器時代における東方への拡大は、アンドロノヴォ文化集団の移住を通じて、ヤムナヤ文化関連集団がインド・ヨーロッパ語族話者だった、と提案します。

 興味深いことに、アジア中央部のインド・ヨーロッパ語族話者で見つかる祖先系統パターンは、他のインド・ヨーロッパ語族話者人口集団、つまりイランのペルシア人では見つかりません。この民族集団は、青銅器時代以来のイランの古代人との遺伝的連続性を示し、中央部もしくは東部草原地帯からの遺伝子流動は限定的です。さらに、トルクメン人集団についての本論文の知見は、言語学と遺伝学が一致しない別の事例を提示し、人口移動を用いて言語置換を推測する見解に疑問を呈します。以前の研究で見られた現代のユーラシア西部人口集団へのトルクメン人集団の遺伝的帰属は、共通の草原地帯祖先系統に起因します。


●まとめ

 本論文の結果は、インド・イラン語派話者について、遺伝的および言語的な連続性と非連続性のさまざまなパターンが経時的に共存していた、と明らかにしました。アジア中央部南方では、じっさいのインド・イラン語派話者は、他のユーラシア集団からの最近の移住の波はごくわずかで、鉄器時代以降の長期の連続性の結果だった、と示されます。本論文の結果は、アジア中央部南方の人口動態が複雑で、完全に理解するには、本論文のような小規模な研究が必要になる、というさらなる証拠を提供します。

 この観点から、これら移動の波の正確な時期は、草原地帯文化複合に分類されない鉄器時代と歴史時代の標本から、より多くのデータが得られるまで解決できません。言語と遺伝子の関係は複雑で(関連記事)、トルクメン人の事例とは逆にバヌアツでは、遺伝的に大きな変化が起きたにも関わらず、言語は変わらなかった可能性が示唆されています(関連記事)。言語と遺伝子の関係は、古代DNA研究の進展により、今後より深く解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2022): Genetic continuity of Indo-Iranian speakers since the Iron Age in southern Central Asia. Scientific Reports, 12, 733.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-04144-4

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第2回「佐殿の腹」

 今回も源頼朝をめぐっての伊豆の騒動が描かれました。頼朝の身柄をめぐって北条と伊東との間で武力衝突寸前までいきますが、大庭景親の仲裁により、頼朝の身柄を北条が預かり、頼朝が八重と手を切るところで和解となります。まだ全国的な動乱状態に陥る前ですが、自力救済社会の坂東がよく表現されているように思います。当分は伊豆を中心に坂東が主要な舞台となりそうで、都の様子は平清盛と後白河法皇を中心に少なめになるようです。

 主人公の北条義時はまだ頼りなく、周囲の人物に振り回されるばかりで、頼朝と信頼関係を築けていないというか、そもそも義時は頼朝を信用しておらず、迷惑な存在と考えています。これは、頼朝がごく親しい者以外には本音を見せず、つかみどころのない人物として描かれているからでもありますが、今回の最後に頼朝が義時に本音?を語り、義時も兄と同様に頼朝に賭ける気になったようです。まあ、頼朝は他の見込みのありそうな坂東武者にもおそらく「本音」を言っており、そうして忠誠心を獲得していくところが頼朝の優れた政治家としての所以、という設定なのでしょうか。しかし、頼朝にとって義時が他の坂東武者とは異なる位置づけになりそうなことも確かで、頼朝は政子と結びつくことで北条を信頼できる身内とし、政子の弟の義時を忠実な家人にしよう、と考えているのでしょう。今回は比企一族が初登場となり、時政の後妻となる「りく」も北条の館に来て、じょじょに主要人物がそろってきており、話が盛り上がっていくのではないか、と期待されます。

ダチョウの卵殻製ビーズから推測される過去5万年間のアフリカにおける社会的つながり

 ダチョウの卵殻製ビーズから過去5万年間のアフリカ東部と南部とのつながりを推測した研究(Miller, and Wang., 2022)が公表されました。ヒトは、アフリカ各地の多様な集団が緩やかにつながった状況で進化してきました(関連記事1および関連記事2)。そのため、現在の人類の生物学的および文化的な多様性を説明するには、そうした集団がいつどのようにつながっていたのか、理解することが不可欠です。遺伝学的解析から、現代人のアフリカの東部と南部の系統が、更新世の35万~7万年前頃のどこかの時点で分岐した、と明らかになっていますが(関連記事1および関連記事2)、それらの相互作用があった正確な時期、そうした交流の文化的背景、系統間の分離を促進した機構に関しては、ほとんど知られていません。

 本論文は、アフリカの東部と南部のダチョウの卵殻のビーズに見られる違いを比較し、過去5万年にわたる集団の動態を調べました。その結果、ダチョウの卵殻のビーズの技術の起源はおそらくアフリカ東部にあり、50000~33000年前頃に地域的なネットワークを介して南方へ広がったと、と分かりました。このつながりは33000頃年前に断絶し、各集団は2000年前頃以降に牧畜民がアフリカ南部に移動するまで隔離されたままでした。この断絶の時期は、ザンベジ川流域(アフリカの東部と南部をつなぐ地域)に周期的な洪水を引き起こした熱帯収束帯の南下の時期とおおむね一致します。これは、ヒトの社会的接触を形成するのに、気候が何らかの影響をもたらした、と示唆しています。この研究は、地域的分岐の時期が遺伝学的解析からの推測より遅かったことを示すとともに、約3000 kmにわたる様式的なつながりを明らかにし、古代の相互作用の社会的次元に関して重要な新知見をもたらしています。


 ヒトの進化における未解決の問題は、アフリカ全域での現生人類(Homo sapiens)の古代の分布と多様化に関するものです。メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルでは、解剖学的な現代性と行動的な複雑さは、おそらく環境状況への対応において(関連記事)、つながりと孤立の波を経た人口集団のアフリカ全域の継ぎ接ぎ内で出現しました(関連記事)。

 これらの変化するつながりの研究は、DNAと古代DNAの解析からますます得られており、現在のアフリカの狩猟採集民人口集団が更新世のある時点で地域的系統に分岐し、それには35万~7万年前頃の南部集団と東部集団との分岐が含まれる、と明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。古代DNAは生物学的変化についての情報を得る強力な手法ですが、古代の相互作用の文化的背景を扱えません。これら古代の相互作用について多くの問題が残っており、たとえば、古代の人口集団がいつどこでつながったのか、どのような社会的交換が起きたのか、どのような機構がその最終的な分離を引き起こしたのか、などです。

 海洋酸素同位体ステージ(MIS)3に始まって(57000年前頃)、アフリカの人口集団はかなりの社会的再編を経ました(関連記事)。ビーズの体系的製作はかなりの労力投資であり、MIS3における社会的相互作用の規模と重要性の増大性を特徴づけ、おそらくはこの頃に明らかな人口規模と社会体系の増加に関連しています。これらの社会変革は、アフリカの後期更新世が複雑な社会的ネットワーク発展の理解に重要な期間であることを表します。

 ダチョウの卵殻(OES)製ビーズは、最古の完全に製造されたビーズで、アフリカにおける後期更新世の社会的同体の解明に重要となる可能性があります。OESはアフリカ東部では52000年前頃までに、アフリカ南部では42000年前頃までに(関連記事)出現し、現在でも一部地域では製作されています。アフリカにおける現代の民族誌的研究では、OESビーズ細工の完成品(たとえば、ビーズの裾)が象徴的意味を有している、と示唆されます。しかし、個々のビーズは社会的情報も保存しており、それは、ビーズ製作の各段階が形態的違いを強める意図的な選択だからです。

 これらのビーズの製作上の決定は、近隣集団間で一般的に共有される文化的規範ですが、長距離では伝達機会が減少し、文化的変化もしくは傾向につながります。したがって、OESビーズの特徴は、人口集団の相互作用の再構築の手段として使用できます。以前の研究は、2000年前頃となるアフリカ南部への牧畜の導入を、より大きな直径のOESビーズの出現と関連づけ、考古学および遺伝学の証拠により裏づけられるように(関連記事)、アフリカ東部人口集団とのつながりの可能性を示唆しました。最近のいくつかの研究は、後期更新世遺跡群内の様式の差異を報告しましたが、本論文が把握する限りでは、更新世における人口集団接触を調べるために類似の差異を用いる試みはありません。

 人口集団のつながりと孤立の出来事は環境変化と関連づけられてきており、過去5万年、気候事象が気温変動と水文気候の再編成を引き起こしました。これらの変化は居住可能地域を断片化し、次に地域的人口集団が相互作用できる場所と時期に影響を及ぼします。したがって、集団間のつながりが後期更新世の気候および環境変化に対応している可能性を調べることが重要です。

 本論文は過去5万年のOESビーズの特徴を分析し、人口集団のつながりと、アフリカにおける水文気候変化との関連のパターンを探しました。本論文は、アフリカ東部(東経22.5~40度、北緯9~南緯9度)とアフリカ南部(東経8~35度、南緯20~35度)の31ヶ所の遺跡のデータを集め、ビーズは合計1516個となり、そのうち1238個は初めて完全に報告されます(図1)。可能な限り、3通りの計量変数(ビーズの直径、開口部の直径、卵殻の厚さ)が記録されました。本論文のデータベースは、利用可能なデータを備えた厳密に年代測定された更新世遺跡群と、各地域におけるよく年代測定された系列から構成され、考古学的層位もしくは一括層位で年代測定された、直接的な放射性炭素年代測定からの推定年代を伴っています。以下は本論文の図1です。
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 これらのパターンについて気候の潜在的影響を理解するために、主要な氷期および間氷期の変化に基づいて、50000~2000年前頃が4期間に区分されました。第1期は50000~33000年前頃で、MIS3から氷床成長再活性化までとなります。第2期は33000~19000年前頃で、氷床成長期から最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の終わりまでとなります。第3期は19000~11600年前頃で、最後の退氷期となります。第4期は11600~2000年前頃で、前期完新世からアフリカ南部への牧畜の拡大前となります。第5期は2000年前頃から現代までとなり、アフリカ南部への牧畜の拡大につれて現れる、以前に特定されたビーズの大きさの変化を示します。類似のビーズの特徴により示唆される人口集団のつながりが見られ、孤立期間は気候変化と並行するかもしれない、と予測されます。


●地域的および経時的なビーズ計量

 本論文の結果は、アフリカ東部と南部のOESビーズが、経時的に独特な軌跡をたどった、と明らかにします(図2a)。時期と地域は両方とも、OESビーズの特徴の差異を促進する重要な要因ですが、時期と地域との間の相互作用はOESビーズの特徴に大きく影響を及ぼしてはいないようです。以下は本論文の図2です。
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 アフリカ東部では、ビーズと開口部の直径の範囲は過去5万年間では一定で、わずかな変動しかありません。アフリカ東部のビーズは平均して、全体の直径が6.9±1.2mm、開口部の直径が2.6±0.6mmで(図2a)、広範な差異があります。対照的に、アフリカ南部のビーズの特徴は経時的に変わり、第1期ではビーズと開口部の直径がより長く、それ以降の期間には顕著に小さくなるのが特徴です(図2a)。アフリカ南部のビーズは第2期には考古学的記録から事実上消えますが、19000年前頃となる退氷の開始には再出現し、一貫して大きさはより小さくなっています。第3期以降、アフリカ南部のビーズの全体の直径と開口部の直径は、アフリカ東部の同時代のビーズよりも狭い範囲でより小さくなります(それぞれ4.5±0.9mmと1.8±0.4mm)。アフリカ南部のビーズは2000年前頃まで一貫してより小さな様式のままで、それ以後にはより大きな特徴が現れ、牧畜共同体の移動と関連しています(図2bおよび図3)。以下は本論文の図3です。
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 3通りの計量パラメータ全てが存在する標本での主成分分析を用いて、第3期から第5期(19000年前頃から現在)を通じてのさまざまな程度の重複を有する明確な地域的まとまりが見つかりました(図3a)。PC1軸とPC2軸は、アフリカ南部と東部との間の、第3期と第4期と第5期の差異について、それぞれ92%、91%、93%を説明します(図3a)。単変量分散分析(ANOVA)がMANOVA出力で実行され、3パラメータすべてが第3期から第5期の地域的違いの促進に役割を果たした、と示されました。

 さらに、最も一般的に報告されている2つの変数(ビーズ全体と開口部の直径)を用いて、これら地域的違いがさらに調べられ、標本規模が1445点とわずかに増加しました(図3b)。これら2つの変数だけを用いてのMANOVAの結果は、ビーズの特徴が第3期から第5期においてアフリカの東部と南部の間でわずかに違う、と確証します(図3b)。第3期と第4期におけるより多くの異なる地域的なビーズのまとまりと比較すると、第5期のビーズはアフリカの東部と南部の間で重複の増加を示します。この重複にも関わらず、第5期の最も南方のビーズはより小さいままで、第3期および第4期と一致します(図2bおよび図3b)。

 第1期のビーズの特徴はアフリカの東部と南部でほぼ同一であり(図3b)、ビーズ全体の直径と開口部の直径により類似性が決まります。アフリカ南部における平均的なOESビーズの直径は、第1期(6.7mm)では他の期間より2mm以上長く、アフリカ東部の大きさ(平均直径6.9mm)とより類似しています(図3b)。アフリカ南部のビーズの大半(14個のうち12個)はボーダー洞窟(Border Cave)という単一の遺跡に由来し、直径の範囲は広くなっています(4.3~8.1mm)。残りのビーズは、VR003遺跡とホワイト・ペインティングス岩陰(White Paintings Shelter)遺跡から1個ずつ発見されました。両遺跡は顕著にさらに西方へと位置していますが、各ビーズの直径は5.7mmで、ボーダー洞窟のビーズの範囲内に収まります。

 卵殻の厚さは様式の特徴でありませんが、代わりに環境とダチョウとの間の複雑な関係を反映しているかもしれません。アフリカ東部と南部は両方、過去5万年全体にわたって一貫した卵殻の厚さを維持しており、平均して、東部では1.7±0.2mm、南部では1.5±0.2mmです(図2b)。これは、卵殻の厚さが気温および湿度に応じて変化する、という以前の提案と矛盾しているようです。卵殻の厚さは経時的にアフリカ東部と南部内で変わりませんが、両地域間では有意に異なり、異なるダチョウの亜種を反映しているかもしれません。アフリカ南部の卵殻の方が東部よりも薄く、より小さなビーズの製作が促進されたかもしれず、将来の研究はこの仮説を検証すべきですが、これはアフリカ南部の第1期および第5期におけるより大きなビーズを説明しません。


●第1期における様式のつながり

 アフリカ東部と南部との間のかなりの距離(3000km以上)にも関わらず、50000~33000年前頃となる第1期の利用可能なOESビーズは様式の類似性を共有しています。これは、アフリカ東部と南部の両地域が同じビーズの直径範囲を有していた最古(で唯一)の期間で、この期間における社会的に媒介された交換を強く示唆し、これまでに記録された更新世の最も遠い様式のつながりを示します。年代と遺跡の場所とビーズの特徴に基づくと、OESビーズは技術的にアフリカ東部に起源があったようです。

 最古の直接的に年代測定されたアフリカ東部のビーズは、アフリカ南部の最古のビーズより約1万年ほど古くなります。この段階におけるほとんどのアフリカ南部のビーズはボーダー洞窟に由来し、アフリカ南部でも東方に位置します(図1aの16)。しかし、アフリカ南部の第1期の3ヶ所の遺跡では、遺跡でビーズを製作した兆候がありません。おもにボーダー洞窟の特徴から明らかなビーズ製作技術のこの拡大は、アフリカ東部の第1期における比較的湿潤な気候条件と対応します(図4)。以下は本論文の図4です。
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●切断と気候のつながり

 地域的ネットワークは第2期のある時点で崩壊したようで、社会的つながりへの気候の影響について問題を提起します(図4a)。33000年前頃までにアフリカ東部では降水量が減少し(図4b)、インド洋の冬季の季節風や海面水温の低下により変調をきたしました。これらのより乾燥した条件は16000年前頃まで持続し、気候モデル再現実験によると、過去5万年で最低の純一次生産量となりました。この純一次生産量の減少は、景観の植生と動物相の分布を変え、ヒトは遊動性と採集の戦略に順応する必要がありました。これにより景観での人々の分布は再編され、地域の人口は減少し、いくつかの以前の社会的ネットワークは持続不能になったかもしれません(関連記事1および関連記事2)。

 第1期と第2期との間の崩壊も、以前の研究で予測されたアフリカにおける最低の有効人口規模と一致し、人口規模縮小が地域的な切断につながった可能性を示唆します。対照的に、ザンベジ川流域(アフリカ東部と南部をつなぐ広範な地域)は、気候代理データによると30000~16000年前頃により湿潤になりました(図4b)。この降雨量増加は、熱帯収束帯が10~20度ほど南方へと移動したことに起因し、おもに、氷山の大規模融解が3万年前頃に起きた北大西洋におけるハインリッヒイベント(HE)3に制御されています。降水量の増加によりザンベジ川とその支流では定期的に洪水が起き、それはアフリカ東部と南部との間のつながりへの地理的障壁を形成したかもしれません(図4b)。アフリカ東部における乾燥化傾向と洪水に見舞われるザンベジ川流域は、第2期までに出現した地域的切断を起こしたかもしれず、気候に起因する行動反応が、後期更新世における文化的孤立を推進した重要な機構だった可能性を示唆します(図4c)。

 アフリカ南部のOESビーズは稀になり、33000年前頃までに消えたようで、19000年前頃後まで再出現しませんでした。アフリカ南部におけるOESビーズの欠如は、アフリカ南部における最低の純一次生産量および最も低い氷期の温度と一致し、後期更新世における人口規模を制約したかもしれません。社会的集団規模が小さければ、標準化されたビーズの大規模製作は、利益をもたらすよりも費用がかかったかもしれません。これは、OESビーズ製作が、第1期における技術の導入後でさえ、文化的目録の一部にならなかった理由を説明できるかもしれません。アフリカ南部でビーズが19000年前頃に再出現すると、排他的により小さな様式となります。この様式の地域化は長期の社会的孤立を反映しており、アフリカ南部における漸進的な降水量増加と気温上昇に対応しています(図4b)。最後に、ビーズの様式は、遊動的牧畜民がアフリカ南部に到来してきた、2000年前頃以後のつながりの別の事象を記録しています。


●ヒトの回復力と地域的適応

 ビーズの特徴の異なる軌跡は、各地域の人口集団がさまざまな社会的戦略を伴う環境変化に対応したことを示唆します。アフリカ東部のビーズ伝統は継続的で、その特徴は気候変化に関係なく安定しています。この一貫性は、過去5万年の環境の不確実性を通じてさえ維持された、回復力のある地域間の社会的ネットワークの存在を示唆します。全体的な高い純一次生産量と環境収容力のため、アフリカ東部の人口集団は、より大きな人口規模か、気候変化を軽減するための戦略としてより堅牢な社会的ネットワークを維持したかもしれません。

 対照的に、アフリカ南部のOESビーズの特徴は大きく異なり、ビーズの使用は30000~19000年前頃まで稀でした。これは、人口集団がより小規模で切断されたまとまりで暮らし、象徴的行動の必要性がより少ないような戦略を反映しているかもしれません。この期間の他の考古学的証拠はこれを裏づけているようで、アフリカ南部においては、共存しているかもしれないもの、文化的には独自の下位人口集団とともに、MIS3~2には時差のある技術的移行を示します。19000年前頃以後の一貫した大きさのビーズの急増は、気候条件改善後の象徴的行動への依存度の高まりを示唆します。これらの地域的違いは、ヒトの社会的行動の柔軟性を浮き彫りにし、後期更新世の環境変化に対処するためのさまざまな戦略を示します。


●展望

 本論文は、遺伝学的データだけでは理解が困難な、古代の人口集団間の複雑な相互作用の解明に役立つ、新たな一連の証拠を提示します。OESビーズの様式の変化は、過去5万年間のアフリカ東部と南部の人口集団間の断続的なつながりを明らかにし、その中にはこれまでに特定された最古の地域的な様式のつながりが含まれます。さらに本論文の知見は、文化的接触が、7万年前頃という遺伝的な分岐推定年代の後に長く持続したことを示唆します。これは、こうした社会的つながりが、人口集団の混合とは独立して存在したのか、それとも生物学的な遺伝子移入とともに共存したのか、という興味深い問題を提起します。こうした想定を調べるには、将来の研究が必要です。さらに、気候変動とヒトの行動応答が、人々が遭遇できる場所と時間を条件づけることにより、地域間の社会的ネットワークに影響を及ぼした、と想定することは妥当と明らかになりました。研究者は、より広範な地域間比較を洗練するために、遺跡に基づく研究から得られたOESビーズのデータを取り入れることで、この基盤を構築できます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ダチョウの卵殻のビーズから明らかになった5万年にわたるアフリカの社会ネットワーク

考古学:卵殻のビーズがつないだアフリカの古代ネットワーク

 古代DNAの研究から、アフリカ人の遺伝的系統は東部と南部とで約35万~7万年前に分岐したと示唆されている。しかし、ダチョウの卵殻(OES)のビーズの形状の経時的な変化に見て取れるように、文化的なつながりはその後も持続していた可能性がある。OESビーズは、一般に小型の円形で、中央に穴が空いており、サイズや形状はドーナツ型のシリアルとほぼ同じか、それよりやや平たい。今回、こうしたOESビーズが新たに調べられ、その起源がアフリカ東部にあることが明らかになった。この地域のビーズは、本体と穴の直径が5万年にわたってほぼ一定で、ごくわずかな変化しか見られない。こうしたビーズの製作は、約5万~3万3000年前に地域的な集団のつながりを介して南方へと広がった。アフリカ南部のビーズは東部のものより多様で、最初は東部と同様にかなり大きかったが時間とともに小型化した。その後、東部と南部のつながりは散発的になり、南部のOESビーズは3万3000年前以降に消滅したようだ。これは気候条件の悪化が原因であった可能性があり、この地域の集団は2000年前以降に牧畜民が南部に移動するまで隔離されたままだった。南部の新しいビーズは、サイズが著しく小型化しており、本体も穴も直径が小さくなっていた。今回の研究は、アフリカの地域集団が相互作用した時期および場所を条件付ける上で、気候のプッシュプル機構が重要な役目を果たしたことを示唆している。



参考文献:
Miller JM, and Wang YV.(2022): Ostrich eggshell beads reveal 50,000-year-old social network in Africa. Nature, 601, 7892, 234–239.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04227-2

菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、中国史において分権的な政治体制が生まれる可能性はなかったのか、なかったとすればその理由は何なのか、長期的視野での考察が必要との問題関心から、19世紀半ばに起きた、人類史上で有数の人的被害規模をもたらしたと言われている、太平天国の乱を取り上げます。また本書は、太平天国の乱と幕末日本との関わりにも言及しており、日本でもキリスト教への姿勢の違いにより太平天国の乱への評価が異なっていたことを指摘します。

 太平天国の主導者となった洪秀全は1814年に生まれ、客家でした。後発移民だった客家はおおむね貧しく、差別的扱いを受けていたようです。そのため客家は、そうした境遇に置かれた劣等感の裏返しとして、自分たちこそは中華発祥地の中原から来た正統な漢人の末裔である、という屈折した自己認識を有していたようです。客家のこうした認識は、「選ばれし者」との洪秀全の後年の自認につながっていきます。洪秀全が科挙に不合格だったことは比較的よく知られているでしょうが、失意の中で幻夢を見た洪秀全は、キリスト教と出会います。1843年にプロテスタントの伝道パンフレットを読んだ洪秀全は、科挙に失敗したのは偶像を拝んだ結果であり、偶像崇拝を止めて真の神を尊敬せよ、との説教に衝撃を受け、自ら洗礼の儀式を行ないます。プロテスタントの宣教師は聖書を翻訳するさいにヤハウエを「上帝」と訳しており、洪秀全はキリスト教こそ太古の中国で崇拝されていた宗教と誤解します。ヨーロッパ文化の受容にさいして、中国史に原型を探し出し、中国「起源」故に価値があるとみなす傾向は、近代中国史で繰り返されます。

 洪秀全は上帝信仰への回帰を唱え、上帝教を創始して布教活動を始めたものの、アヘン戦争後間もなくの広東では外国への反発が強く、信者が増えなかったため、広西省へと向かいます。上帝会は広西南東部と広東西部で、客家を中心に発展していきます。上帝会の布教活動は現世利益を前面に押し出したもので、世界を大家族に喩えて救済を唱え、有力移民を中心とする社会秩序から見捨てられた人々に浸透していきました。勢力を拡大していった洪秀全は偶像破壊運動を進め、これが有力移民に激しく反発されます。これ以降、上帝会は反体制的な政治的性格を強く帯びることとなりますが、既存の体制に反発する一方、民間の信仰も取り入れていき、上帝会は民衆を惹きつけていきます。これは、洪秀全がキリスト教を誤解していたことに起因します。

 上帝会では、シャーマン的役割を担うようになった楊秀清により、天父ヤハウエのお告げ(天父下凡)で洪秀全が「天下万国の真主」とされ、地上の天国を樹立する使命を受けた、と信者には認識されていきます。洪秀全は慎重に武装蜂起の準備を進め、1850年末に上帝会は地方官の派遣した軍を撃退し、1851年1月、ダイチン・グルン(大清国)政府軍との本格的な戦闘を開始します。太平天国という国名がいつ決められたのか、正確には明らかではありませんが、一般的には1851年1月とされています。太平天国とは、上帝ヤハウエの庇護下で一切の対立や不公正を解消し、中国古来の「大同」の理想を実現する地上の天国という意味です。政府は大変が危険だと認識したものの、従来の軍事力は弱体化が進み、即座に鎮圧できませんでした。

 1851年11月、洪秀全は楊秀清など5人を王に封じ、地上の支配者は皇帝を名乗れない、との主張から洪秀全も王に留まり、5人の王との関係は皇帝と臣下の関係のように絶対的ではありませんでした。体制は、皇帝以前の中国を模範とする復古主義的体制のため、分権的な性格が強くなりました。洪秀全は「真主」として多分に宗教的な権威を担い、軍事と政治は他の王たちが担うようになります。こうした太平天国の性格は、旧秩序を否定しつつ継承もするもので、参加者は、社会改革というよりは、おおむね立身出世目的だったようです。また太平天国の重要な特徴として、性に禁欲的だったことが挙げられ、これは太平天国の読書人(知識層)の影響を示します。じっさい、太平天国では科挙が実施されましたが、キリスト教の影響を受けて儒教を否定する太平天国への読書人の反感は大きかったようです。一方で、西洋列強との交渉からは、太平天国が伝統的な華夷秩序の枠組みから抜け出せていないことも窺えます。ただ、太平天国においては、「華夷」の基準は儒教ではなく、(太平天国の理解する)キリスト教でした。

 勢力を拡大する太平天国において、楊秀清は天父下凡を利用して反対者を排除していきます。本書はこの過程が、毛沢東が整風運動を進めて反対運動を排除していった、延安時代の中国共産党とよく似ている、と説明します。太平天国が勢力を拡大した背景には、18世紀の人口爆発がありました。均分相続により個人の生活水準は下がる傾向にあり、そうした貧民や、政府高官として取り立てられない地域の指導者たちが太平天国に加わっていきました。この過程で太平天国は滅満興漢を主張し、それは辮髪の拒否でよく可視化されていました。滅満興漢の主張も、太平天国における漢字文化圏知識層の影響力の大きさを示しています。太平天国は滅満興漢を主張した檄文で、「中国」を多用します。洪秀全が初めてキリスト教に接した伝道パンプレットには、ヨーロッパが「夷狄」ではなく「西方」という価値中立的概念で表現されており、「中国人」と対比されていました。太平天国はヨーロッパとの出会いを通じて、後の民族的アイデンティティである「中国人」の境界を形成する、「我々」を発見しました。太平天国が現実の中国社会を批判するための表象としたのが満洲人王朝としてのダイチン・グルン(大清国)とその担い手である旗人で、太平天国の云う「中国人」には北方民族が含まれませんでした。太平天国の滅満興漢との主張は、旗人を偶像崇拝者とみなすことで「創出された」言説でした。1853年3月、太平天国は南京を占領します。この時、旗人が多数殺害されます。ここに、排除すべき「敵」を探し出し、容赦なく高下する不寛容さが見られますが、これは近代におけるヨーロッパ・キリスト教世界のアジアとアフリカに対する眼差しとも通ずるものでした。

 太平天国が目指したのは、一種の公有制でした。しかし、充分な耕地を確保できなかかったため食糧不足を解決できず、物資の分配と管理は不公平で、富を管理・配分する者の特権化をもたらしました。また、太平天国は地方村落出身の客家者が主体となったため大都市の生活に疎く、大都市住民の反感を買うことが多かったようです。これには、客家への大都市住民の蔑視や、その裏返しとしての客家の大都市住民に対する不寛容がありました。これも、とくに北方への太平天国の勢力拡大を妨げる一因となりました。太平天国の北伐は失敗し、中国統一の可能性は失われました。

 政府は太平天国の北伐を退けたとはいえ、安徽や湖北では苦戦していました。その間、湖南では曽国藩が太平軍に対抗すべく私的軍隊(湘軍)を創設します。湘軍を支えたのは、太平天国が取り込みに失敗した読書人でした。曽国藩は、在野の漢人勢力の台頭を警戒する咸豊帝に冷遇されながら、湘軍を率いて太平軍と戦い続けます。湘軍は太平軍を徹底して殺害していき、この新興エリートの血塗られた組織運営能力が、近代中国を突き動かす原動力になっていきます。本書は、湘軍と太平軍には違いも共通点もあり、中国の次代の勢力をかけての争いだった側面もある、と指摘します。

 太平天国にとって大きな転機となったのが1856年9月の天京事変で、天父下凡を利用して、時には洪秀全すら叱責し、従わせることもあった楊秀清が粛清されました。この時、楊秀清の配下も多数殺害されました。洪秀全は楊秀清に政軍の実権を委ねていましたが、楊秀清が洪秀全の宗教的権威まで求めてくると、もはや楊秀清を許容できませんでした。太平天国は中国で長く続いてきた暴力的な専制支配から脱却できず、古典的な「文明」の論理と厳しい競争原理ゆえに分権的な政治体制を実現できない中国社会の問題点は、その後の中国近代史に大きな課題を残します。

 天京事変後も、政府軍が太平軍を圧倒したわけではなく、一進一退の激しい攻防と殺戮の応酬が続きました。天京事変後の太平天国を支えた人物が、洪秀全の従兄弟である洪仁玕でした。洪仁玕は香港で正統的なキリスト教に接し、西洋列強の間で太平天国への失望が高まることに焦り、南京の洪秀全を訪ね、西洋列強との交渉も含む太平天国の改革を提案します。これらは、後の洋務運動や日本の明治維新に先立つ近代化とも評価されています。ただ、これらの改革は時期尚早と言うべきで、おおむね結実しませんでした。太平天国の外交も、すでに第二次アヘン戦争後の条約批准に重きを置いていたヨーロッパ列強の意向もあり、思惑通りにはいきませんでした。状況が不利になるなか、洪秀全は夢に頼るなど次第に現実逃避的になり、権威保持にさらに執着するようになったため、諸王が洪秀全から自立していきます。この過程で、太平軍の規律はさらに弛緩していき、一層民衆の支持を失います。もはや劣勢が明らかな中、洪秀全は南京脱出の進言を退けて南京に留まり、1864年5月下旬、病気に倒れ、6月1日に死亡します。翌月、湘軍は南京を攻め落とし、太平天国に従っていた者は性別年齢を問わず虐殺されました。

 本書は、中国古来の「大同」の理想を掲げながら、不寛容な教義を克服できず、権力の分割により生じた厳しい緊張関係を調停できなかったことに太平天国の失敗の真因があった、と指摘します。また本書は太平天国の乱の影響として、太平天国の失敗が内部分裂に求められ、中国は常に強大な権力により統一されていなければ破滅する、との観念が根づいたことを指摘します。それが、蒋介石の国民党でも中国共産党でも、強大な権力を掌握して異論を許さない「党国体制」につながっている、というわけです。

ベネチア潟で見つかったローマ時代の道路の証拠

 ベネチア潟で見つかったローマ時代の道路の証拠を報告した研究(Madricardo et al., 2021)が公表されました。ベネチア潟は、現在その大部分が水没していますが、ローマ時代には陸路で出入りができました。潟内の複数の島や水路からローマ時代の遺物が発見されていますが、ベネチア潟に人々がどの程度居住していたのかは分かっていません。

 この研究は、ベネチア潟内のトレポルティ(Treporti)運河という地域で、ソナー(水中音波探知機)を用いて潟底のマッピングを行ない、北東方向に1140mにわたって並んだ12点の考古学的構造物を発見しました。この構造物の高さは最大2.7mで、長さは最大52.7mでした。以前のトレポルティ運河の調査では、ローマ人が道路建設に使用した敷石に似た石が発見されており、これらの構造物がローマ時代の道路沿いに並んでいた可能性を示しています。

 この研究はさらに、トレポルティ運河では高さが最大4m、長さが最大134.8mの構造物4点を発見しました。そのうち最も大きな構造物は、その寸法と他地域で発見された建造物との類似性に基づいて、ドックのような港湾構造物だと考えられています。以前に収集された地質データとモデル化データから、この道路は、ローマ時代には海面上にあった砂質の隆起部分にあった、と示唆されました。現在、この部分は水没しています。

 この知見は、ローマ時代にトレポルティ運河に人々の定住地があった可能性を示唆しています。この研究は、トレポルティ運河の道路が、ローマ時代のイタリアのベネト地域の広範な道路ネットワークにつながっており、旅行者や船乗りが現在のキオッジャ市とベネチア潟北部の間を移動するために使用していた、と推測しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ベネチア潟で見つかったローマ時代の道路の証拠

 ベネチア潟に沈んだローマ時代の道路を発見したことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。この知見は、ベネチアの建設が始まった紀元5世紀より数世紀前から、ベネチア潟には大規模な集落が存在していたと考えられることを示唆している。

 ベネチア潟は、現在はその大部分が水没しているが、ローマ時代には陸路で出入りができた。潟内の複数の島や水路からは、ローマ時代の遺物が発見されているが、ベネチア潟に人々がどの程度居住していたかは分かっていない。

 今回、Fantina Madricardoたちは、ベネチア潟内のトレポルティ運河という地域で、ソナー(水中音波探知機)を用いて潟底のマッピングを行い、北東方向に1140メートルにわたって並んだ12点の考古学的構造物を発見した。この構造物の高さは最大2.7メートルで、長さは最大52.7メートルだった。以前のトレポルティ運河の調査では、ローマ人が道路建設に使用した敷石に似た石が発見されており、これらの構造物がローマ時代の道路沿いに並んでいた可能性があることを示している。さらに、Madricardoたちは、トレポルティ運河で、高さが最大4メートル、長さが最大134.8メートルの構造物4点を発見した。そのうち最も大きな構造物は、その寸法と他の地域で発見された建造物との類似性に基づいて、ドックのような港湾構造物だと考えられている。以前に収集された地質データとモデル化データから、この道路は、ローマ時代には海面上にあった砂質の隆起部分にあったことが示唆された。現在、この部分は水没している。

 今回の知見は、ローマ時代にトレポルティ運河に人々の定住地があった可能性を示唆している。Madricardoたちは、この道路が、ローマ時代のイタリアのベネト地域の広範な道路ネットワークにつながっており、旅行者や船乗りが現在のキオッジャ市とベネチア潟北部の間を移動するために使用していたという考えを示している。



参考文献:
Madricardo F. et al.(2021): New evidence of a Roman road in the Venice Lagoon (Italy) based on high resolution seafloor reconstruction. Scientific Reports, 11, 13985.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-92939-w

ヨーロッパの葡萄酒用ブドウの起源

 ヨーロッパの葡萄酒用ブドウの起源に関する研究(Magris et al., 2021)が公表されました。ブドウの栽培は、地中海東部で4000年近く、ヨーロッパ西部で2000年近く行なわれてきました。しかし、メルロやシャルドネやソーヴィニヨン・ブランやピノ・ノワールなどの品種を含むヨーロッパの葡萄酒用ブドウの起源については論争があります。ヨーロッパの葡萄酒用ブドウは、アジア南西部での栽培化とは無関係に、ヨーロッパ独自の野生ブドウ種の栽培化から始まった、と以前の研究では示唆されています。

 この研究は、ヨーロッパ産の葡萄酒用ブドウの起源を調べるため、ヴィニフェラ種ブドウ(Vitis vinifera)のゲノム(204点)を解析しました。その結果、このブドウがアジア南西部(コーカサス南部である可能性が最も高そうです)での1回の栽培化に由来し、その後、ヨーロッパの野生ブドウ集団との複数回の交配を経た、と示されました。また、この研究は、現代の葡萄酒造りに使われるブドウを決めた栽培化と育種選択を示す遺伝的特徴を特定し、野生ブドウ種と現代のワイン造りに使用されている品種には同程度の遺伝的多様性が見られる、と明らかにしました。

 さらに、この研究で対象とされた試料に含まれていたヨーロッパ諸国の栽培ブドウ種の中で、遺伝的多様性が最も高いものはイタリアとフランスのブドウ種である、と示唆されました。ヨーロッパのブタに関しては、近東起源の家畜とヨーロッパのイノシシとの交雑により形成された、と指摘されており(関連記事)、植物の栽培化も動物の家畜化も、起源地からの単純な拡散ではなく、拡散先の在来野生種との複雑な混合により形成された、と改めて示されました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ヨーロッパのワイン用ブドウの起源

 ヨーロッパ産のワイン用ブドウは、アジア西部で栽培化された生食用ブドウと地元の野生ブドウの交配に由来する可能性を示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の知見は、ヨーロッパのワイン用ブドウの歴史と遺伝的祖先を解明する上での手掛かりになる。

 ブドウの栽培は、地中海東部で約4000年近く行われ、西ヨーロッパで2000年近く行われてきた。しかし、メルロ、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、ピノ・ノワールなどの品種を含むヨーロッパのワイン用ブドウの起源には論争がある。ヨーロッパのワイン用ブドウは、西アジアでの栽培化とは無関係に、ヨーロッパ独自の野生ブドウ種の栽培化から始まったことが以前の研究によって示唆されている。

 今回、Michele Morgante、Gabriele Di Gasperoたちの研究チームは、ヨーロッパ産のワイン用ブドウの起源を調べるため、Vitis vinifera(ヴィニフェラ種ブドウ)のゲノム(204点)の解析を行った。Morganteたちは、このブドウが西アジア(南コーカサスである可能性が最も高い)での1回の栽培化に由来し、その後、ヨーロッパの野生ブドウ集団との複数回の交配を経たという見解を示している。また、Morganteたちは、現代のワイン造りに使われるブドウを決めた栽培化と育種選択を示す遺伝的特徴を特定し、野生ブドウ種と現代のワイン造りに使用されている品種には同程度の遺伝的多様性が見られることを明らかにした。さらに、今回の知見は、研究対象となった試料に含まれていたヨーロッパ諸国の栽培ブドウ種の中で遺伝的多様性が最も高いものがイタリアとフランスのブドウ種であることを示唆している。



参考文献:
Magris G. et al.(2021): The genomes of 204 Vitis vinifera accessions reveal the origin of European wine grapes. Nature Communications, 12, 7240.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-27487-y

中生代の巨大魚竜

 中生代の巨大魚竜に関する研究(Sander et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。現在、クジラは地球最大の生物ですが、5500万年というその進化史の約90%の期間をかけて、現在のような巨大海洋生物へと進化しました。最初に海を泳いだ巨大海洋生物はクジラではありませんでした。この研究は、アメリカ合衆国ネバダ州北西部の乾燥した山地で発見された保存状態良好な、約2億4400万年前となる魚竜の化石を報告しています。魚竜は中生代(約2億5000万~6600万年前)の大半に存在し、ペルム紀大絶滅後も海で繁栄した最初の脊椎動物の1種です。

 この魚竜化石は新種(Cymbospondylus youngorum)と分類されました。その頭がい骨は長さ約2メートルで、生存時の推定体長は18メートルを超え、これは一部の最大級の現代のクジラ匹敵する大きさです。この化石の年代は約2億4400万年前で、体長が1メートルにも満たない最古の魚竜種の近縁種とされている種の出現からたった250万年後、多く見積もっても800万年後には進化したことになります。これにより、中生代の海で極端な巨大化という進化が初期に急速に起きた、と示されました。これは、約2億5200万年前のペルム紀大絶滅で多数の一次生産者が絶滅したにも関わらず、三畳紀の海洋食物網はそういった巨大生物を支えられた、と示唆しています。


参考文献:
Sander PM. et al.(2021): Early giant reveals faster evolution of large body size in ichthyosaurs than in cetaceans. Science, 374, 6575, eabf5787.
https://doi.org/10.1126/science.abf5787

ジャワ島の後期更新世初期の層で発見された現生人類の歯の年代

 ジャワ島の後期更新世初期の層で発見された現生人類(Homo sapiens)の歯の年代測定結果を報告した研究(Kaifu et al., 2022)が公表されました。ユーラシア東部とオーストラレーシアへの現生人類の最初の拡散時期は、激しく議論されています。この地域への現生人類の移住を海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・4(130000~57000年前頃)にまでさかのぼらせるモデルを支持する考古学者と古人類学者が増えつつありますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5および関連記事6)、これらの地域におけるMIS5・4の現生人類を明確に証明する信頼できる遺跡が存在するのかどうか、他の研究者は懐疑的です(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 初期移住モデルは通常、2回かそれ以上の拡散の波を提案し、アジア南東部と中国南部とオーストラリアおよびニューギニアへの「南方経路」でのMIS5・4の移住が最初だった、と想定します(関連記事1および関連記事2)。対照的に、後期拡散モデルは、ヨーロッパ東部から西部への経路と同様に、アジアの南北経路(ヒマラヤ山脈の南方もしくは北方)を通っての単一の急速な爆発的な拡散事象を示唆します。多くの遺伝学的研究は、後期拡散モデルの見解と一致していますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、これらの遺伝学的研究は、現生人類の初期拡散が現代の人口集団には実質的に寄与しなかった事象だった場合、初期拡散モデルを除外するわけではありません。この論争を解決するには、既知の遺跡をさらに精査し、新たな遺跡を探す必要があります。

 プヌンはジャワ島東部の南方山脈のグヌン・セウ(Gunung Sewu)カルスト地域に位置し、ジャワ島の後期更新世初期の熱帯雨林動物相を表すプヌン動物相の模式産地です。この地域も、MIS5・4におけるジャワ島への初期現生人類の到来についての議論で中心的役割を果たしてきました。それは、この地域で発見されたいくつかの遊離したヒトの歯が、この動物相における現生人類の存在を示唆しているからですが、これらの歯の正確な由来は不確実で、現生人類への分類は決定的ではありません。

 プヌン動物相は元々、プヌンI(Punung I)の裂け目充填物とプヌンII(Punung II)の表面収集の化石標本の組み合わせに基づいて定義されました。生物層序学および地理学的考察に基づいて、この動物相には後期更新世初期の年代が提案されてきましたが、曖昧な層序学的状況と数値的年代の欠如は、プヌン化石標本についての本質的な問題でした。幸いなことに、この元々の化石収集品にほぼ相当する動物相が、別の近隣遺跡であるプヌンIII(Punung III)で2003年に発掘され、化石を含む篩洞窟堆積物が斜面に露出しています。この新たな遺跡の放射性年代測定は、石灰岩洞窟体系の形成の中期更新世中期の年代と、哺乳類化石を含む堆積物の最終氷期初期の年代を示唆しました。したがって、後期更新世初期のプヌン動物相は、少なくともプヌンIII遺跡では実証されました。しかし、この最近の進歩は、ホモ属がこの地域において後期更新世初期に存在したのかどうか、という問題をまだ解決していません。なぜならば、プヌンのヒト遺骸について、文脈的および年代順の情報が引き続き不足しているからです。

 2014年9月の短期訪問において、プヌンIII遺跡の露頭の洗浄中に、以前の研究で128000年前頃と推定された角礫岩直下の損なわれていない堆積物から、2点のヒトの歯が掘り出されました。以前の発掘の参加者から、2003年に収集された化石のほとんどは年代測定された角礫岩ではなく、ヒトの歯の発見場所を覆っていた石灰化した砂の層に由来する、との報告がありました。2015年にプヌンIII遺跡で野外発掘調査が行なわれました。本論文は、新たなヒト遺骸について、放射性年代と予備的な化石生成論的考察を報告します。これは、ジャワ島やアジア東部の他地域における現生人類の起源についての議論への洞察を提供します。本論文は、この重要なプヌンIII遺跡の哺乳類動物相について、改定された文脈情報とわずかに更新された一覧表も報告します。


●プヌンIII遺跡と層序系列

 プヌンIII古生物学遺跡は2003年に発見されました。プヌンIIIは、幅3mの東部露頭と、幅4mの西部岩陰に分かれる、小さな岩陰遺跡です(図1)。プヌンIII遺跡は、断片的ではあるものの豊富な脊椎動物化石(おもに遊離した歯で、一部のホモはヤマアラシが齧った痕跡を示します)を含む角礫岩のある、崩壊した洞窟の残骸です。2015年には、一般的な構造と主要な層序単位が報告されました(図1B)。以下は本論文の図1です。
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 西部岩陰では、古洞窟床面は巨大で密集した石灰岩です。その上を流華石が覆っており、以前の研究では「下部流華石」とされており、この層の標本のウラン系列年代は492000±38000年前です。古洞窟壁面は、直系2~4cmの多数の侵食性空洞が多数ある、巨大で密集した石灰岩で、以前の研究では「中部流華石」とされており、ウラン系列年代は424000±19000年前と443000±32000年前です。古洞窟天井は巨大な石灰岩で、小さな鍾乳石があります。

 東部露頭では、下部は直径4~6cmの風化して角状から亜角状の石灰岩砕屑物のある単量体角礫岩で、粗い砂と炭酸塩の、選別の悪い、よくまとまった母岩を有します。その上部境界は、起伏のある侵食面のある角礫岩系列の上部と接しています。その上部は、直径8~9cmの風化して角状から亜角状の石灰岩砕屑物のある単量体角礫岩で、ひじょうに粗い砂と炭酸塩の選別が悪くよく固まった母岩を有します。その角礫岩系列の上部との境界は起伏があり、一部で深い洗掘があり、角礫岩の表面侵食を示唆します。以前の報告では、角礫岩のこの層は、ルミネッセンス年代測定技術を用いて、MIS5初期(143000~115000年前もしくは128000±15000年前)と報告されました。上部は22cmの厚さの、白色から黄白色の流華石で、よく発達した方解石があります。水平な上層と曲がった下層は、角礫岩の上を直接流れた水による沈殿を示唆します。以前の研究では、この層はウラン系列年代によりMIS5・4(121000~57100年前頃)と報告されました。黄白色から褐色の石灰岩砂岩層は、最大の厚さが15cmで、下部の流華石と重なります。この層には、角礫岩に由来するものと同様に豊富な動物遺骸が含まれています。この層の大半は、2003年の発掘調査により除去されていました。これは、隣接する角礫岩に由来する二次堆積物かもしれません。他には、年代不明の土が所々で壁面や床面の空洞や穴を埋めています。


●ヒトの歯

 2014年に回収されたヒトの歯は、永久歯の右上顎中切歯(GD14-1)と左下顎第一大臼歯(GD14-2)です(図2)。以下は本論文の図2です。
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 これらは、広範な舌側(切歯)もしくは頬側(大臼歯)の小円鋸歯状が欠けている点で、オランウータンとは異なります。上顎中切歯の歯冠は近心側(MD)が9.1mm、唇舌側(LL)が7.4mmで、現代および後期更新世のボルネオ島オランウータン(Pongo pygmaeus)とは異なり、ボルネオ島オランウータンでは、40頭のMDが12.8~17.7mm、61頭のLLが10.4~15.2mmです。これらヒトの歯は、ヤマアラシ属やウシ属やイノシシ科など18点の他の哺乳類の歯とともに発見されました(図3A)。以下は本論文の図3です。
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 これらの標本は全て、西部岩陰の東隅で、128000年前頃の角礫岩と492000年前頃の下部流華石との間の狭い空洞を満たしている、緩く層になっていない土壌から発掘されました(図4A・D)。2003年の発掘中に撮影された写真は、この空洞が、発掘されて除去された厚さ約15cmの化石を含む石灰化砂岩で覆われていた、と示唆します(図4A・C)。この状態の簡単な解釈は、空洞の堆積物は覆っている角礫岩より古いものの、何らかの型で石灰化から逃れたか、あるいは歯の遺骸が角礫岩もしくは石灰化した砂から形成後にできた空洞に落下した、というものです。いずれにしても、ヒトの歯は、この遺跡の更新世動物相群に由来する可能性が高い、と考えられました。以下は本論文の図4です。
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●2015年の野外調査

 新たなヒトの歯の層序学的および化石生成論的状況を記録し、追加の動物遺骸を収集する目的で、2015年に野外調査が行なわれました。2003年の発掘調査に参加した3人も、2015年の野外調査に参加しました。この3人によると、以前に収集された化石のほとんどは、以前の研究で年代測定された角礫岩ではなく、西部岩陰の石灰化した砂岩に由来します(図4A)。2003年の発掘調査では、西部岩陰の天井に付着した角礫岩から少数の化石が収集されました。

 2015年の野外調査では、0.5および1.0mの格子方式(grid system)が用いられました(図1B)。東部露頭では、鶴嘴とノミと金槌とさまざまな大きさ(5mmと4mmと1mm)の網目の篩を用いて、角礫岩から直接的に動物相遺骸が収集されました。角礫岩下部の垂直露頭から合計1.1m²が掘られました(図1B)。上部角礫岩との不整合な接触は、発掘された化石が以前の研究で報告された上部角礫岩の年代(143000~115000年前もしくは128000±15000年前)より古いことを示唆します。バルティントン(Bartington)MS2磁化率方式を用いて、遺跡およびその周辺の一部の土壌堆積物の磁化率が測定されました。


●放射性炭素年代測定

 2点のヒトの歯の年代測定には、放射性炭素年代測定法が用いられました。加熱処理や化学的処理などといった前処理の後、加速器質量分析法(AMS)により、炭素の同位体比(炭素14と炭素12)が測定されました。同時に、いくつかの国際標準法も用いられました。較正曲線は、2020年に公開されたIntCal20(北半球)もしくはShCal20(南半球)が用いられました(関連記事)。


●化石生成論とヒトの歯の年代

 2014年に発見されたヒトの歯(図2A・B)の保存状態は、下部角礫岩から発掘された128000年前頃の化石の歯(図3B・D・E)と著しく異なっていました。角礫岩で発掘された哺乳類の歯は固まっており、その歯根およびエナメル質の亀裂に沿って褐色もしくは赤色の染みを示し、外因性鉱物による続成作用の変化を示唆します。この歯冠内の褐色の染みは、オランウータンの歯の咬合面のエナメル質を通して見られます(図3B・D・E)。対照的にヒトの歯は、虫歯の影響を受けた歯頚部を除いて、わずかに黄色の歯根と褐色もしくは赤色の染みのある歯冠を示しており、異なる化石生成論的過程を示唆します。空洞からヒトの歯とともに見つかった非ヒト動物の歯は、これら2種類の混合のように見えます(図3A)。

 西部岩陰での1週間の表面の洗浄後、石灰岩の壁面に「排水管」が見つかりました。これは天井の上から下方にヒトの歯が埋まっていた空洞へとつながっています(図4B)。これは、2点のヒトの歯の最近の嵌入を示唆します。この改定された解釈と一致して、空洞と「排水管」の土壌の磁化率は、相互および岩陰の他の点在ヶ所と類似していますが、岩陰外の現代の土壌とは異なっていました。図4Dは、2014年に発掘された角礫岩の直下と開けた空洞の横の区画を拡大しています。空洞から続く黒っぽい土壌は、この部分の石灰化した砂岩層の中に入ります。

 2点のヒトの歯の直接的な放射性炭素年代測定結果は、表1に示されます。最近の嵌入との想定の確実な裏づけとして、よく保存されたコラーゲンの年代は、IntCal20較正曲線では紀元後1951~1959年と紀元後1671~1953年に、あるいはShCal20較正曲線では紀元後1951~1959年と紀元後1695~1949年に相当します。以下は本論文の表1です。
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●動物相一覧表の更新

 東部露頭の角礫岩下部で、251点の化石化した歯と骨片が発掘されました(図1B)。角礫岩の下部と上部との間の侵食性接触は、これらの動物相化石が多かれ少なかれ、上部角礫岩の年代(128000±15000年前)より古いことを意味します。表2では、下部角礫岩の251点の化石から作成された動物相一覧表で、20世紀の研究のプヌンIおよびIIと2003年の発掘のプヌンIIIのデータもまとめられています。以下は本論文の表2です。
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 2003年と2015年の発掘調査の哺乳類動物相一覧表の一般的な類似性は、2003年に発掘された石灰化した砂岩がおもに化石を含む角礫岩からの再堆積だった、との本論文の解釈と矛盾しません。オランウータンやテナガザル属(図5B)やラングール属の複数の出現は、熱帯雨林環境との以前の見解を裏づけます。ジャワイタチアナグマ(Melogale orientalis)と思われる化石の出現は、後期更新世プヌン動物相におけるこの種の最初の報告となります。ヤマアラシの遺骸とおそらくはジャワイタチアナグマの噛んだ痕跡は一般的なので、この洞窟堆積物における骨の蓄積の主要な媒介者だった、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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●考察

 プヌンIIIの2点のヒトの歯は、発見時点では、アジア南東部における現生人類の初期拡散モデルの裏づけとなる証拠を提供した、と考えられたかもしれません。しかし、本論文の直接的な放射性炭素年代測定により、128000年前頃の角礫岩の下から回収された2点のヒトの歯は最近の嵌入だった、と確証されました。2015年の野外調査では石灰岩に形成された「排水管」が見つかり、おそらくは遊離したヒトの歯が古い洞窟堆積物と混合することを可能にしました。最近の嵌入の別の兆候として、角礫岩で発掘された化石化した哺乳類の歯と比較して、2点のヒトの歯は化石化の視覚的痕跡(たとえば、鉱物化過程の一部としての外因性鉱物吸収や変色)を示しません。

 MIS5・4となるアジア東部および南東部への現生人類の初期拡散の証拠とされる遺骸は、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された推定年代73000~63000年前頃の歯(関連記事)、湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)で発見された10万年前頃の下顎前部と歯(関連記事)、中国南東部の広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhiren Cave)で発見された10万年前頃の歯(関連記事)、中国南部の陸那洞窟(Luna Cave)や黄龍洞窟(Huanglong Cave)で発見された歯などです。

 全ての研究者が、これらの提案の一部もしくは全てを受け入れているわれではありませんが、より詳細な層序学的情報、化石生成論的考察、直接的年代測定のさらなる努力を求めています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。こうした状況では、問題となっているヒト遺骸と厳密に年代測定された動物相化石との間の保存状態の間の非破壊的比較が、有益な指針となるでしょう。そうした観察自体は、異なるもしくは同一の層序学的起源の独立した証拠ではありません。なぜならば、同じ層序学的単位に埋まっていた骨と歯は、水量や表面露出や他の物理化学的媒介の局所的変動により、かなり異なる外見を獲得する可能性があるからです。それでも、本論文で報告された事例のように、ヒト標本が同じ層序学的単位の化石の骨および歯と比較して、わずかしか、若しくは全く化石化の兆候を示さないならば、ヒト標本の最近の嵌入を疑うべきです。

 プヌンIIIの下部角礫岩から発掘された動物遺骸は、多かれ少なかれ128000±15000年前より古く、プヌン地域における厳密な更新世の文脈化された情報を有する最初の哺乳類化石となります。本論文の哺乳類分類群と同じ地域の以前に報告された標本との一般的な類似性は、森林性生息分類群であるジャワイタチアナグマと思われる生物の新たな発見とともに、現代の熱帯雨林分類群により特徴づけられる後期更新世初期のプヌン動物相との考えを裏づけます。しかし、本論文の化石標本は251点と比較的小規模で、以前の化石標本の地質学的年代は、説得力がないか事実上不明です。将来の体系的発掘を通じたより多くの標本抽出と年代測定が、とくに、類似しているかやや古い年代で、古代の動物相要素と開けた森林環境により特徴づけられる近隣のンガンドン動物相(関連記事)との関連で、ジャワ島における後期更新世の動物相進化をさらに解明するでしょう。

 最後に、ホモ・エレクトス(Homo erectus)もしくは現生人類のような人類が、プヌン動物相遺骸に存在するのか否か、という問題は未解決です。本論文は、プヌン動物相における人類の存在を実証できませんでしたが、以前に報告された遊離した人類の歯の年代と分類学は、さらなる野外調査とともに、人類の存在の有無に関する研究の進展に必要です。


参考文献:
Kaifu Y. et al.(2022): Modern human teeth unearthed from below the ∼128,000-year-old level at Punung, Java: A case highlighting the problem of recent intrusion in cave sediments. Journal of Human Evolution, 163, 103122.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2021.103122

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第1回「大いなる小競り合い」

 いよいよ今年(2022年)の大河ドラマが始まりました。今年は北条義時が主人公で、壇ノ浦の戦い、もしくはもう少し先まで見て源義経の自害までは源平ものと言えるでしょうが、その後は鎌倉幕府の内部抗争および朝廷との駆け引きがおもに描かれることになるでしょう。本作は、1979年の大河ドラマ『草燃える』と題材がほぼ重なっており、北条義時は『草燃える』でも実質的な主人公の一人でしたから(関連記事)、『草燃える』との対比が一つの見どころになるとは思います。

 脚本が三谷幸喜氏で、配役はかなり豪華ですから、NHKは本作にかなり力を入れているようで、期待している大河ドラマ愛好者は多いだろう、と思います。ただ同じく三谷幸喜氏の脚本で、大河ドラマ愛好者の期待値が高かったと思われる2016年放送の大河ドラマ『真田丸』と比較すると、現代日本社会における一般的な人気ではかなり劣る時代(とくに源義経の自害以降は)を対象としているだけに、視聴率は『真田丸』よりも苦戦する可能性が高いように思います。

 オープニングについては、音楽悪いとは思いませんでしたが、強く印象に残るわけでもなく、CGは物足りなさを感じました。見慣れてくると印象は変わるでしょうか。初回は、平家全盛期の坂東の情勢と人間模様を、源頼朝が巻き起こした騒動を中心に上手く描いていたように思います。主人公の義時は頼りなく、頼朝や兄の宗時に振り回される一方で、軽さと呑気な雰囲気が出ていましたが、この時期の情勢を考えるととくに問題はないと思います。

 初回は全体的に喜劇調で、頼朝をめぐって騒動があったとはいえ、呑気な雰囲気と軽さが前面に出ていたように思われるので、否定的に評価する大河ドラマ愛好者は少なくないかもしれません。しかし、自力救済の坂東とはいえ、まだ大乱に突入したわけではなく、問題とは思いませんでした。今後、義時の成長と、坂東の武士団の変容、とくに頼朝との関係が描かれていくのでしょう。その意味で、初回は今後の展開の布石として悪くなかったように思います。ただ、平安時代末期から鎌倉時代初期についてとくに興味のない視聴者を惹きつけるには弱かったかもしれません。その意味で、視聴率は早々に低迷するかもしれませんが、何とかそれなりの視聴率を維持してもらいたいものです。

フェロー諸島におけるヴァイキング以前の人類の存在


 フェロー諸島におけるヴァイキング以前の人類の存在を報告した研究(Curtin et al., 2021)が公表されました。以下、年代は明記しない限り全て紀元後です。アイスランドとノルウェーとブリテン諸島の間に位置するフェロー諸島は、北大西洋を横断するヴァイキングの探検の足がかりでした。一般的な合意は、古代スカンジナビア人がフェロー諸島に定住した最初のヒトなので、フェロー諸島における最初の考古学的構造は800~900年頃になる、というものです。これは、ヴァイキング時代(800~1100年頃)におけるより広範な古代スカンジナビア人拡大の時期と一致しており、その頃に古代スカンジナビア人はフェロー諸島とグリーンランドとさらには北アメリカ大陸に新たな居住地を確立しました(関連記事)。

 9世紀におけるフェロー諸島での古代スカンジナビア人の最初の居住を示すほぼ全ての考古学的証拠にも関わらず、古代スカンジナビア人の居住の主要段階前に人々がフェロー諸島に移住したかもしれない、と示唆する間接的な証拠があります。825年、ディクイル(Dicuil)という名のアイルランドの修道士が、一部の北方の島々は少なくとも100年にわたって隠者により居住されてきた、と記録しています。さらに、フェロー諸島の多くの地名はゲルト語に由来し、ケルトの墓標がフェロー諸島では特定されてきました。

 フェロー諸島の人々の現代の人口集団の遺伝学は、父系と母系の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の間で強く非対称的で、父系はおもにスカンジナビア人ですが、母系はおもにブリテン諸島に由来します。北大西洋の他地域もこの非対称性を示しますが、フェロー諸島はブリテン諸島の母系祖先系統の割合と遺伝的非対称性の水準が最高で、おもにブリテン諸島の子孫の既存の人口集団が存在したかもしれない、と示唆されます。

 しかし、ディクイルの文献がフェロー諸島に言及しているのかどうか、議論の余地があり、地名と墓標と現代の人口集団の遺伝学的証拠は、古代スカンジナビア人が最初の移住者だった、との仮説と矛盾していません。じっさい800年までに、ヴァイキングはすでにブリテン諸島のに到達していました。ヴァイキングはすでにケルト文化の影響を受けており、ブリテン諸島からフェロー諸島へ妻を連れてきた可能性があります。フェロー諸島における初期のヒトの到来に関するほぼ全ての証拠は決定的ではなく、直接的な物理的証拠が欠けています。

 フェロー諸島の初期定住に関する議論は、サンドイ(Sandoy)島のアソンドゥム(À Sondum)遺跡で発見された、平均年代が351~543年となる、いくつかの炭化したオオムギ穀粒の発見で再燃しました。オオムギの加工は、穀粒が見つかった人為的な灰の堆積物とともに、古代スカンジナビア人の到来前にフェロー諸島に何らかの形のヒトの開拓地が存在した、と示唆します。しかし、フェロー諸島へのヒトの初期到来を裏づける追加の考古学的証拠はありませんでした。

 堆積物コアからの環境記録は、フェロー諸島へのヒトの最初の到来に関する貴重な制約を提供できます。考古学的記録の性質により、それらは一時的で断片的ですが、堆積物記録は景観の環境史の継続的記録を提供します。フェロー諸島におけるヒトの景観利用による攪乱の環境記録は、おもに湖と沼地の花粉と植物の大型化石の分析を通じて調査されてきました。花粉と大型化石の分析が示してきたのは、完新世の初期には、フェロー諸島の植生にはカバノキ属(カバノキ)やビャクシン属(セイヨウネズ)やヤナギ属(ヤナギ)など木本植生が含まれていた、ということです。木本植生被覆の減少は、地域的な寒冷化と乾燥化に起因する可能性がありますが、フェロー諸島の主要な植生変化はヒトの到来後のみに起き、そのさい放牧動物が木本植生を除去した、と考えられています。

 フェロー諸島におけるヘラオオバコ(Plantago lanceolata)の初期(4250年前頃)の出現は、元々はひじょうに初期のヒトの定住によるものだった、と考えられていました。しかし、ヘラオオバコの花粉は、アイスランドではよく確立された古代スカンジナビア人の定住期に先行し、北大西洋諸島の初期のヒトの定住を確証するのに用いることはできません。穀物花粉は、フェロー諸島では農耕開始後のみに見られ、以前の堆積物コアで特定され、年代は1500年前頃となり、フェロー諸島には古代スカンジナビア人以前に人類が存在した、と提案されました。しかし、これらの研究の手法は、ヒトの到来を制約するにはあまりにも不確実で、それは、家畜の放牧も広範な侵食をもたらしたからです。この侵食は、湖と沼地へ古い有機物を供給したので、多数の年代値なしに堆積性環境記録についての放射性炭素年代をしっかりと確立することは困難です。結果として、ヒトによりもたらされた植物の最初の到来の理解は限られています。

 本論文は、フェロー諸島でのヒトの存在の識別特性を特定できる、糞便生物標識の湖の堆積記録と堆積物の古代DNAを提示します。フェロー諸島における家畜の存在のこれら明確な標識を、広範な放射性炭素年代測定および火砕物(テフラ)年代学と組み合わせて用いることにより、フェロー諸島へのヒトと家畜到来が、古代スカンジナビア人に約300年先行していた、と確認します。本論文で調査対象地となったエストゥロイ(Eysturoy)島のエイジ湖(Eiðisvatn)は、アルギスブレッカ(Argisbrekka)と呼ばれる夏季の農耕集落である、古代スカンジナビア人の夏期放牧場の近くです(図1)。アルギスブレッカは、エイジ(Eiði)村と関連する夏期放牧場で、重要な沿岸部ヴァイキング集落遺跡でした。アルギスブレッカは、エイジ湖がダムで堰き止められ、湖の領域が拡大し、遺跡が浸水した直前の1985~1987年に発掘されました。本論文の対象遺跡が主要な遺跡とエイジ村に近接していることにより、本論文の記録は局所的な考古学的記録の文脈に位置づけられます。以下は本論文の図1です。
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 コプロスタノールやβスティグマスタノールなど糞便生物標識は、哺乳類の消化管で産生される脂質分子で、流域におけるヒトと家畜の集団の存在の特定に用いることができます。コレステロールとシトステロールのこれら分解生成物は、哺乳類の糞便での背景濃度よりも高濃度で見られます。花粉や炭や堆積物蓄積率などヒトの散在と景観利用を示すのに用いられる多くの環境追跡子は、自然景観の発生と気候変動の影響を受ける可能性があります。しかし、糞便生物標識はヒトと家畜の存在について明白な証拠を提供します。この手法は、全ての哺乳類が元々はヒトにより導入されたフェロー諸島で、とくに有効だと証明されています。

 次世代DNA配列技術の出現により、堆積物記録の網羅的解析の適用が可能になりました。堆積物古代DNAの網羅的解析により、経時的な在来の植物と哺乳類の集団構成の変化の検出が可能となります。植物の堆積物古代DNAは、過去の植物集団の再構築に用いることができますが、堆積物における哺乳類、とくに家畜のDNAの特定は、沼地におけるヒトが導入した種の存在について否定できない証拠を提供します。植物と哺乳類の堆積物DNAおよび糞便生物標識を組み合わせると、ヒトがフェロー諸島に家畜を導入したの歯、古代スカンジナビア人の定住の少なくとも300年前だった、と結論づけられます。


●年代モデルと堆積物の特性

 エイジ湖の堆積物の年代モデルの制約として、10点の放射性炭素年代と5点の地化学的に痕跡のある火砕物層が用いられました。ベイズ年代モデル化ソフトウェアパッケージ(Bacon)を用いて年代モデルが作成され、堆積物コアの各間隔の年代不確実性が計算されました。年代モデルは、完新世全体でほぼ継続的な堆積速度を示し、高い強熱減量(loss-on-ignition、略してLOI)値と異常に古い放射性炭素年代を有する間隔では、堆積速度がわずかに増加します。最初に2400年前頃と提案された攪乱間隔の開始は、1点の放射性炭素年代の追加と、大半の堆積物年代の除去と、877±1年と知られているランドナム(Landnám)火砕物の暫定的な特定に基づいて、1500年前頃と改定されました。

 堆積物の有機物含有量を表すLOIは、堆積物コア全体で10~40%の範囲です。LOIはコアの底からゆっくり増加し、深さ約53cmで急造します(図2)。これは、本論文の年代モデルによると、1514年前頃(95%信頼範囲で1670~1415年前)に相当します。LOIは深さ29cmまで20%以上のままです。この高いLOI間隔において、8点の放射性炭素標本が年代逆転をもたらします。有機物堆積増加と異常に古い放射性炭素年代の帰還は、より古い植物大型化石を含む有機物の豊富な堆積物を湖にもたらす、集水における泥炭質土壌の浸食促進の証拠として解釈されます。この解釈は、湖の堆積物における陸生由来の葉の蝋の生物標識の濃度増加、それら生物標識の炭素同位体値の増加、土壌由来のグリセロールジアルキルグリセロールテトラエーテル(GDGT)の濃度増加により裏づけられます。以下は本論文の図2です。
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●糞便生物標識

 全標本で糞便のスタノールが同定され、定量化されました。スティグマスタノールとそのエピマー(エピ異性体)であるエピスティグマスタノール、コプロスタノールとそのエピ異性体であるエピコプロスタノールを合計すると、これらは流域における哺乳類の存在を示唆します。記録が景観攪乱期間の有機物堆積の増加により影響を受けないよう、有機物量へ正規化された糞便のステロール濃度が報告されます。スティグマスタノールとコプロスタノール両方(およびそのエピ異性体)の濃度は、50cmの深さの攪乱間隔中、もしくは1433年前(95%信頼範囲で1565~1317年前)に増加し、攪乱以前の最大値を超えました(図2)。両者は主要な攪乱期以降に減少し、その後、現代の標本では最高値に増加します。


●堆積物古代DNA

 攪乱間隔にまたがる11点の深さから採取された14点の堆積物標本から、DNAが抽出されました。網羅的解析により、植物と哺乳類のDNAが増幅され、3点の標本ではヒツジのDNAが確認されました。これら3点のヒツジのDNAは全て、主要な攪乱間隔で採取され、最古のヒツジのDNAは深さ50.88cm、もしくは1458年前(95%信頼範囲で1580~1343年前)で特定されました(図2)。ヒツジのDNAが確認された3点の標本全てでシカのDNAが、1点のPCR複製ではヒトのDNAが、1点のPCR複製ではウシのDNAが含まれていました。これらの読み取り数はヒツジと比較してずっと少なく、その識別が汚染(ヒトとシカ)もしくはウシ科間の誤配列が原因である可能性を示唆します。1点の追加のヒツジのDNAが確認された標本では、1点のCR複製にヒトのDNAが含まれていました。

 14点の堆積物古代DNA標本で、40の植物分類群が特定されました。イグサとワタスゲとスゲとベントグラスを含む4種のイネ科型草本が、有機物堆積の増加開始後により高頻度で特定され、ヒツジのDNAの最初の特定と同年代です(図2)。キンポウゲ属(とキンポウゲとイトキンポウゲ)とアカバナ属(ヤナギソウとスパイクプリムローズ)も、同時により高頻度になります。同じ移行期全体で、木本植物のカバノキ属やビャクシン属(セイヨウネズ)、広葉草本のスイカズラ科やセリ科など、いくつかの属の特定頻度が低下します。


●考察

 ヒツジのDNAの最初の出現を伴う堆積物層準と、コアにおける堆積物の1cm以内の糞便生物標識の濃度増加が特定されます(約25年に相当します)。流域における家畜存在についてのこれら2つの独立した分子指標の共起は、この時点までのエイジ湖集水域におけるヒトの到来の決定的証拠を提供します。この層準の年代は、ヒツジのDNAの最初の検出と、95%信頼期間に基づく1317年前(633年)の下限年代となるスティグマスタノールの最初の増加に基づくと、1458~1433年前(492~517年)です(図3)。以下は本論文の図3です。
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 アルギスブレッカでの考古学的発掘は、これらのデータの解釈に重要な文脈を提供します。アルギスブレッカは、夏季放牧場、もしくはヒツジの放牧のための一時的な夏季集落でした。その考古学的構造の放射性炭素年代測定から、ヴァイキング期の夏季放牧場は元々9世紀半ばに作られ、活動の複数段階の後、11世紀半ばに放棄された、と示唆されます。ヒツジのDNAの最初の出現と糞便生物標識の増加は、古代スカンジナビア人によるアルギスブレッカ遺跡の最初の記録された使用に約300年に先行します。スティグマスタノールの増加の程度はコプロスタノールのそれより大きく、ヒツジの糞便はコプロスタノールよりスティグマスタノールの方を多く含んでおり(約6:1)、ブタ(約2:1)もしくはヒトなどの雑食動物と比較して高い比率で、ヒツジはヒトよりも多い可能性が高く、景観の糞便へのより重要な寄与者だった、との見解と一致します。

 フェロー諸島の現代の植物群は、草やスゲやイグサなど草本植物が優占します。しかし、完新世の花粉記録が示すのは、木本と低木の植生は、完新世の初期にはより豊富だった、ということです。低木と他の木本植生は現在、フェロー諸島全域で広範に放牧されているヒツジが容易に到達できない地域でのみ成長します。ヒトの定住前の植生は、ヤナギ属やガンコウラン属やカルーナ属の通常種やヒメカンバ(Betula nana)の小規模な生息を含んでいた、と考えられていました。ヨーロッパダケカンバ(Betula pubescens)やビャクシン属の大型化石の切り株がアルギスブレッカ遺跡で発見され、その年代は4450年前頃ですが、同遺跡の花粉分析ではこれらの種の花粉が欠けており、木本分類群の存在もしくは欠如は花粉分析により正確には表すことができない、と示唆されます。木本植生はヒトの定住まで持続した可能性が高い、と考えられます。

 本論文の堆積物古代DNAは、景観にヒツジが最初に出現した直後の、カバノキ属やビャクシン属など木本植生の消滅を示唆します(図2)。これは、近くの花粉および大型化石記録と一致し、ヒトの定住開始と同年代のこれら分類群の減少を示し、それは草の花粉と微小木炭断片の増加により特定されます。しかし、ヤナギ属のDNAはヒトの攪乱間隔全体で存続します。

 最初のヒトの到来に関する本論文の証拠は、サンドイのアソンドゥム遺跡で回収された炭化したオオムギ穀粒と一致しており、古代スカンジナビア人の到来以前にヒトがフェロー諸島に到来し、少なくとも一時的に居住していた、と確証します。これはヴァイキング期間の考古学よりも早いものの、ヒトの定住に関するいくつかの他の刊行された古植物学とよく一致します。エイジ湿原に最も近いハイマヴァトゥン(Heimavatn)では、570年頃となるオオムギ属の花粉が大型野生イネ科の花粉および大きな炭の断片とともに見つかっています。フェロー諸島の他の場所では、穀物の花粉が600年頃に記録されています。しかし、以前に刊行された古生態学的記録は、ほとんど年代測定されていない系列に由来し、花粉再構築と本論文のデータと考古学的データとの間の比較を妨げます。

 ランドナムの火砕物は877年に北大西洋全域で広く堆積しており、ヴァイキングの植民期の有用な層序標識となります。本論文は深さ33cmでエイジ湖の堆積物におけるランドナムの火砕物を暫定的に特定し、それは層序学的にフェロー諸島におけるヒトの存在の最初の証拠の17cm上です。本論文におけるランドナムの火砕物標本の地球科学は、フェロー諸島の他の場所の標本で以前に報告された値の範囲と一致しますが、本論文の標本の酸化チタン値は以前に刊行された標本の酸化チタンの平均から外れます。ランドナムの火砕物を本論文の年代モデルから除外するならば、この灰の堆積物の発生は875年(95%信頼区間で871~879年)となり、ヒトの存在に関する本論文の証拠の年代は大きく変化するわけではありません。


●まとめ

 本論文は糞便生物標識と堆積物古代DNAの組み合わせを用いて、考古学的記録で広く報告されているヴァイキング期の古代スカンジナビア人の植民期の3~4世紀前に、ヒトがフェロー諸島に家畜を導入した、という決定的な証拠を示します。ヒトはエイジ湖の集水域に500年頃までに到来した可能性が最も高く、これはヴァイキングのフェロー諸島への植民の約350年前となります。本論文のベイズ年代モデルの95%信頼区間で許容される到来の下限は630年頃で、最初に記録されている古代スカンジナビア人の活動がフェロー諸島で始まる約200年前です。

 歴史の記録は、ヴァイキング時代以前のフェロー諸島にケルト人修道士が存在した、と示唆しますが、この期間からのヒトの活動の考古学的証拠は、炭化したオオムギ穀粒がいくつかあるだけで、本論文の証拠は、これら初期の植民者が誰なのか、直接的には語れません。しかし、古代スカンジナビア人は航海技術の後期の採用者で、750~820年頃という、航海技術採用の一般的に受け入れられている年代の前に古代スカンジナビア人がフェロー諸島に到達することは難しかった、と考えられます。これは、初期のフェロー諸島の入植者が古代スカンジナビア人ではなかったことを示唆しますが、これら初期北大西洋の探検家の正体は未解決の問題です。

 また本論文は、脆弱な低木の広範な侵食が、フェロー諸島における後期完新世植生の発展の年代の理解に影響を及ぼし、低木から草やスゲ主体の泥炭地への移行は、後期完新世の気候変化ではなく、人為的及び家畜の活動により起きた可能性が高い、と示します。堆積物の古代DNA研究は近年ますます盛んになっており、今後は適用される地域や年代が拡大していくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人類学:フェロー諸島に初めて定住した人類の証拠

 人類がフェロー諸島に定住したのは西暦500年ごろと考えられ、これまで考えられていたよりも約300年早かったことを示唆する論文が、Communications Earth & Environment に掲載される。フェロー諸島での家畜の飼育は、ノルウェーのバイキングが上陸した頃に行われていたとする報告があるが、今回の研究では、それよりも前に行われていたことが示された。

 西暦800~900年にバイキングがフェロー諸島に上陸したことは、人類がフェロー諸島に定住したことを示す最古の直接的証拠となっている。しかし、それよりも前に定住者(おそらくブリテン諸島からやって来たケルト人)がおり、バイキングより前にすでに上陸していたことが示唆されている。しかし、それを裏付ける証拠は、ほとんどなかった。

 今回、Lorelei Curtinたちは、フェロー湖の湖底の1500年前の堆積層に堆積したDNAを調べた。その結果、西暦500年ごろのヒツジのDNAと糞便の痕跡が発見され、同じ頃にさまざまな草のDNAが増えて、木本植物のDNAが消失したことが判明した。これらはいずれも、放牧が行われていたことの徴候とされる。今回の知見は、バイキングより前に定住した人類が、島内で家畜を放牧していたことを示唆しており、フェロー諸島の初期の定住についての我々の理解を変えるものになるかもしれない。



参考文献:
Curtin L. et al.(2021): Sedimentary DNA and molecular evidence for early human occupation of the Faroe Islands. Communications Earth & Environment, 2, 253.
https://doi.org/10.1038/s43247-021-00318-0

藤尾慎一郎『日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、移行期という視点からの日本列島の先史時代(旧石器時代から縄文時代と弥生時代を経て古墳時代まで)の通史です。本書はまず、時代の意味について検証します。日本語の時代に相当する用語として、英語ではAgeやEraやPeriodなどがあります。Ageはある大きな特色、もしくは権力者(統治機構)に代表される歴史時代を、Eraは根本的な変化や重要な事件などで特徴づけられる時代、Periodは長短に関係なく期間を表します。江戸時代はAge、旧石器時代はEraもしくはPeriodで表さねばなりません。

 歴史時代については、設定の経緯や開始が文献記録に残っており分かりやすいものの、統治機構が存在しない先史時代については、時代の及ぶ範囲=その時代の特徴(文化)がおよび範囲と読み替えられます。たとえば、縄文時代は日本列島に限定されます。一方、旧石器時代や青銅器時代のように、斧や工具など利器の材質を指標とする時代は、全世界に適用できます。縄文時代は、現在の日本領と完全に一致するとは限らず、南限については種子島・屋久島地方との見解と、沖縄諸島とする見解があります。弥生時代や古墳時代も、現在の日本領と完全に一致するわけではありません。ただ、弥生時代については、九州北部で水田稲作が開始された時点で、九州の他地域も本州も四国も弥生時代とされます。九州北部以外は縄文時代的な生活が続き、遺伝的にも新たに日本列島に到来した人々と異なるとしても、弥生時代の縄文文化と位置づけられます。

 日本列島の先史時代の区分については、各時代の開始の指標は、縄文時代が土器、弥生時代が水田稲作、古墳時代が前方後円墳と一般的に考えられています。しかし、時代の始まりについて、その指標が初めて出現した時点なのか、それともある程度広がった時点なのかについては、議論が続いています。時代区分の指標の定義については、その時代の最も特徴的で、重要で、普遍化していく考古資料との定義があります。本書はこうした議論と定義を踏まえて、時代を特徴づける最重要指標がある程度広まり定着するまでの一定期間、つまり移行期に注目します。移行期には多くの場合、やがて終わることになる前代の要素と、出現し始めた次代の要素の両方が見られ、どちらの要素も圧倒的ではありません。本書は、本州と四国と九州を中心とする(よく日本列島「本土」と呼ばれます)地域を中心に、移行期に着目して日本列島の先史時代を検証します。


●旧石器時代から縄文時代

 20世紀半ばから20世紀末にかけては、日本列島では更新世が旧石器時代、完新世が縄文時代以降と考えられていましたが、更新世における土器の出現が明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行時期について議論になっています。旧石器時代は前期(下部)・中期(中部)・後期(上部)に三区分されていますが(これはおもにヨーロッパとアジア南西部を基準とした時代区分で、サハラ砂漠以南のアフリカは異なります)、日本列島では後期旧石器時代から始まる、と一般的には考えられています。旧石器時代は現在より寒冷な期間が長く(現在より温暖な時期もあります)、年平均気温が現在より6~7度ほど低かったような時期には、日本列島の地形は現在とは大きく異なっており、北海道はユーラシア大陸と陸続きになっていました。当時の日本列島は地理的には、古北海道半島、古本州島、古琉球諸島に区分されます。当時、北海道は現在のシベリア北部のようにツンドラ草原と疎林に覆われていた、と考えられています。津軽海峡は冬季には氷橋になったかもしれませんが、ユーラシア大陸部から古北海道半島に到来したマンモスなど大型動物は、古本州島には渡れなかったようです。古本州島は、西部が現在の道東と同じ温帯針広混合林に、南岸が現在の本州から九州と同じく暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。奄美以南の古琉球諸島は、古本州島南岸同様に暖温帯落葉広葉樹・常緑広葉樹林に覆われていました。人口遺物は沖縄のサキタリ遺跡で見つかっている貝製釣針くらいで、石器は基本的に見つかっていませんが、人類化石も含めて多くの化石が発見されています。

 他地域ではあまり見られない日本列島の旧石器時代の人工遺物の一つが磨製石器で、古本州島やオーストラリア北部やアムール川流域では、打製石器の刃部だけを磨いた斧(局部磨製石斧)が発見されています。局部磨製石斧は、古本州島では森林地帯に特化しており、樹木の伐採や加工に使われた、と考えられていますが、26500~19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には消滅したようです。旧石器時代の日本列島の人工遺物のもう一つの大きな特徴は、移動生活に適さない重量の大きな石器です。種子島の立切遺跡では、3万年前頃の石皿や局部磨製石斧や集落遺構が見つかっています。集落遺構では同じぱじょでの複数回の調理の痕跡が確認されており、一定期間の定着の証拠と考えられています。重い石器は、石皿として使ったと考えられ、具体的な用途としては堅果類などのすり潰しが想定されています。

 旧石器時代における大きな考古学的変化は、16000年前頃の土器の出現です。11700年前頃移行を縄文時代とすることはほぼ合意されているので、本書では16000~11700年前頃が旧石器時代から縄文時代への移行期と把握されます。旧石器時代にはなく縄文時代に出現した、つまり縄文時代の重要指標としてまず挙げられるのが、土器です。ただ、土器の発見と年代も含めてその位置づけをめぐる議論で、日本列島最古級の隆線文土器が旧石器時代の土器なのか、縄文土器なのか、議論が決着しないまま、最古の縄文土器とする見解が主流になった、との問題があります。

 縄文文化の始まりについては、寒冷期が終わり温暖化した環境への適応(土器や弓矢や竪穴住居など)を重視する見解もあります(後氷期技術革新論)。この場合、地質的な画期と考古学的指標の出現が一致する12000年前頃に縄文時代が始まった、とされます。縄文文化の起源については、ユーラシア大陸部由来とする見解(伝播論)や、旧石器時代からの変化の連続性で把握する見解(主体者論)や、寒冷化に伴い南下したサケ・マス類を追った北方系集団が関東地方へ進出し、地域の生業や社会体系が変わり、旧石器時代人が主体的に定住化という縄文的な居住に転換した、との見解(生態適応論)があります。

 こうした議論には、縄文時代の開始が後氷期の開始と一致する、との前提がありました。しかし、加速器質量分析法(AMS)の導入による放射性炭素年代測定法の改良により、たとえば青森県の大平山元I遺跡土器の年代が後氷期開始の15500年前頃までさかのぼりました。大平山元I遺跡の石器は、局部磨製石斧や打製石斧や石刃や彫器や掻器など、旧石器時代に一般的だった剥片石器や、石鏃などに似た石刃製の石器で、縄文時代に一般的な矢尻や、植物質食料の加工・調理のための石皿や磨石などの石器はなく、旧石器時代的な器種構成の石器群でした。日本列島を含むアジア北東部は、世界で最も早く土器が出現した地域で、22000~16000年前頃の寒冷期(中国東部および南部)、16000~14800年前頃の温暖期に向かう直前(東北地方北部や九州北部)、14800~13000年前頃の温暖期(バイカル湖沿岸やアムール川流域や北海道)、13000~11700年前頃の寒冷期(中国北部および北東部)の4段階に区分されます。アジア北東部における土器は、温暖化する環境変動に対応し、水産資源を効率よく利用するために出現し、その起源は一元的ではなく多元的だった、と考えられています。

 日本列島において土器が出現した時期には、古北海道半島や古本州島の植生は堅果類を期待できない針葉樹のため、森林性の植物質食料の調理・加工のために土器が使われたとは考えにくく、住居状遺構からのサケの出土と、土器内面に付着していた炭化物質の同位体比分析から、サケなど水産資源の利用のためだった、と考えられています。旧石器時代から縄文時代への移行期(もしくは縄文時代草創期)の最初期の土器は、1ヶ所の遺跡から1~数個程度しか出土せず、日常的に大量の土器を使っていたとは考えられず、より限定的な目的や季節的にも散られていた、と推測されています。次の隆線文土器の段階では、1ヶ所の遺跡から出土する土器の数は急増し、九州南部では、その植生から、本格的に堅果類を食料対象とするようになったので、土器の使用量が急増した、と考えられています。隆線文土器の寒冷期となるヤンガードライアスには、土器の使用量は低水準に戻るものの、後氷期となり縄文時代早期移行には、土器の使用量が再度増加します。

 こうして日本列島における土器の出現が早ければ16000年前頃までさかのぼると明らかになり、旧石器時代から縄文時代への移行がいつなのか、問題となりますが、本書は、16000年前頃となる土器の最初の出現ではなく、九州南部における隆線文土器の出現時期である15000~14000年前頃の方が相応しい、と指摘します。ただ、ヤンガードライアス期には再度土器の出土量がきょくたんに低下します。その意味では、縄文時代の開始を12000年前頃とする方が合意を得やすいだろう、と本書は指摘します。

 縄文時代の重要な指標とされる竪穴住居には、遊動的な旧石器時代と対比されています。ただ、旧石器時代でも、神奈川県の田名向原遺跡では、柱穴と思われるピット(穴)が円形に回り、石器がそれに囲まれた内部から集中して見つかったことから、旧石器時代の住居跡と理解されています。ただ、これらはテント状の住居と考えられています。九州南部で隆線文土器が出現する15000年前頃には、地面を数十cm掘り下げた竪穴住居状のものが見られるようになります。年代が確実な最古の竪穴住居は鹿児島県の三角山遺跡や栃木県の野沢遺跡などで発見されており、年代は14000~13400年前頃です。竪穴住居の定型化の背景には家族形態の確立があった、との見解もあります。

 縄文時代の重要な指標として、石鏃と土偶もあります。石鏃は、晩氷期から後氷期への温暖化に伴う動物相変化への対応で、中型や小型の動物に対して弓矢が使用されるようになったここと対応している、と考えられます。土偶の出現は、後氷期直前の13000~12000年前頃と推測されています。最初期の土偶は三重県などで見つかっており、関東南部では後氷期以降に土偶の数が増え、同じ頃に竪穴住居も増加します。本書は、土偶が祭りに用いられ、それは定住化に伴う軋轢解消のためではないか、と推測します。

 こうした縄文時代の指標とされる土器と竪穴住居と石鏃と土偶の出現は、日本列島において時空間的にかなりの違いがあります。たとえば、北海道の土器は東北に3000年遅れて13000年前頃に出現しますが、土器を使っていた人々の遺跡は小さく、土器を使う人と使わない人々が住み分けていたのではないか、と考えられています。北海道で土器が安定的かつ大量に使われるようになったのは8000年前頃で、北海道の「縄文化」は縄文時代早期になってから始まった、と考えられます。九州の最古の土器の年代は、現時点では14500年前頃です。九州南部では、一般的に考えられている縄文時代的な生活は13000年前頃には確立していたようで、九州南部の縄文化は15000~14500年前頃に始まったと考えられます。沖縄では旧石器時代の人工遺物がほとんど見つかっておらず、堅果類などの加工用石器は6000年前頃、黒曜石製の石鏃が5000年前頃に出現します。沖縄の先史時代で採集・狩猟段階は貝塚時代と呼ばれます。沖縄の先史時代については、森林性の縄文文化に対して、サンゴ礁環境の変化に伴って生業の重臣が森から海へ移行していく、と指摘されています。貝塚時代は、サンゴ礁環境に大きく依存する後期とそれ以前の前期に区分され、前期は5期、後期は2期な細分されます。沖縄の貝塚時代前期は縄文的要素の出現過程が他地域とは異なっており、縄文文化の「亜熱帯型」とも言えます。

 本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代の開始時期を検討します。まず、土器の出現を縄文時代開始の指標とする見解は、最初期の土器が魚油の採取目的で、縄文時代の主流である植物質食料の加工ではないことなどから、現在では賛同者が少ないようです。15000年前頃の隆線文土器の出現を縄文時代の開始とする見解は、縄文的要素の出現時期を画期とします。11000年前頃以降を縄文時代とする見解は、縄文的要素の普及・定着を画期とします。本書は、九州南部で「縄文化」が始まり、隆線文土器が出現した15000~14500年前頃を、旧石器時代から縄文時代への画期とします。本書は、九州南部で始まった「縄文化」の波が2000年かけて東進・北上したと推測し、この期間を移行期と把握します。「縄文化」は、11000年前頃の撚糸文土器段階になり、本州・四国・九州の各地にほぼ定着し、それ以前には、「縄文化」の始まった地域と、始まっていない旧石器文化の地域が併存していたわけです。ただ、北海道における「縄文化」は8000年前頃で、沖縄では独自の貝塚時代前期が約1万年続きます。本書は縄文文化を、「森林性新石器文化東アジア類型」の一環として把握しています。本書の見解は、縄文時代の人々の起源を考察するうえで大いに参考になりそうですが、現時点ではまだ私の知見が不足してまとまった見解を述べられそうにないので、今後の課題となります。


●縄文時代から弥生時代

 弥生時代の指標は灌漑式水田稲作です。ただ、弥生時代の開始については、灌漑式水田稲作が九州北部で見られる時点もしくは西日本全体に広かった時点か、水田稲作普及の結果として成立する農耕社会が出現した時点など、諸説あります。縄文時代から弥生時代への移行期は、研究の進展に伴い1960年代には、弥生文化を構成する要素の一部が出現する縄文時代晩期末から、最古の弥生式土器が成立するまでで、弥生時代の開始は、板付I式土器が出現する弥生時代前期初頭になる、と理解されるようになりました。1978年、最古の弥生式土器である板付I式土器以前の突帯文土器しか出土しない縄文時代晩期最終末の水田が発見され、投資よより農耕具や土木技術など水田稲作に必要な一式がありました。同じく突帯文土器と水田との共伴は、菜畑や曲り田など九州北部沿岸の遺跡でも確認されました。これが縄文時代の水田稲作なのか、それとも弥生時代の水田稲作なのか、議論となりました。まず、縄文時代から弥生時代への移行の指標となるのが、土器なのかそれとも水田稲作なのか(単一指標)、あるいは両者も含めて複数なのか、という問題があります。次に、時代区分はそうした指標の出現と定着・普及のどちらに基づくべきか、という問題があります。

 さらに、21世紀初頭には水田稲作が紀元前10世紀までさかのぼるかもしれない、と報告され、縄文文化から弥生文化への移行期間が、以前の想定よりも長かった可能性が指摘されました。また、これと関連して地域差の大きさも指摘されています。九州北部の玄界灘沿岸地域である福岡平野と早良平野は、アワ・キビ栽培を行なわずに水田稲作を日本列島で最初に始めたとされる地域です。本州で最も水田稲作の開始が遅いとされるのは中部と関東南部で、水田稲作の前に500年ほどアワ・キビ栽培が行なわれており、これが弥生文化なのか縄文文化なのか、議論になっています。また、東北地方北部では、水田稲作は開始から300年ほどで終わり、その後は古代まで農耕自体が行なわれませんでした。

 九州北部では、有力者と見られる墓が水田稲作の開始から100年ほどで出現したことから、社会の階層化も早くから進んでいたようです。ただ、当初の九州北部の有力者の副葬品は朝鮮半島南部と類似していたものの、遼寧式銅剣や玉類といったさらに上位のものはまだありませんでした。さらに、墓の分析から、この格差が子供に継承されていた、と示唆されています。戦い(集団間抗争)も、人骨の分析に基づいて、水田稲作の開始から100年ほどで始まった、と推測されています。九州北部の水田稲作は当初から完成した形で始まり、縄文時代晩期には集落のない平野下流域でも行なわれていたことなどから、日本列島最初の水田稲作は縄文時代後期~晩期のアワ・キビ栽培から畑稲作を経て始まった、との見解は成立せず、弥生時代早期後半には水田稲作が普及・定着していました。なお、本書でも言及されていますが、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡の女性個体は、核DNA解析の結果、既知の古代人および現代人と比較して、東日本の縄文時代の人々とまとまりを形成する、と明らかになりました(関連記事)。

 ただ本書は、九州北部とは異なり中国・四国・近畿・東海・中部・関東では、水田稲作の前段階としてアワ・キビ栽培が行なわれており、縄文時代特有の網羅的生業構造(特定の生業に偏っていない社会、特定の生業に頼る社会は選択的生業構造)に位置づけられるので、縄文時代から弥生時代への移行期として縄文時代晩期の枠内で考えるべき、と指摘します。西日本では紀元前10世紀頃に網羅的生業構造の一環としてのアワ・キビ栽培の可能性が指摘されており、これが200年後に中部や広東に伝わったかもしれません。中部地方南部や関東南部で水田稲作が始まるのは、九州北部では弥生時代中期中頃となる紀元前3世紀半ばです。関東南部で最古級の水田稲作の村と考えられている小田原市の中里遺跡は、直前まで狩猟採集民が主要な活動の舞台としなかった所に突如として建設され、九州北部における水田稲作の出現と似ており、西方からの移住の可能性も想定されます。私が思うに、これは在来集団との軋轢を避けた結果でもあるかもしれません。中部と関東南部では、アワ・キビ栽培の開始から400年後に、土偶形容器での再葬など弥生文化の影響が見られますが、これが水田稲作とつながっている可能性は低そうだ、と本書は指摘します。一方、中国・四国・近畿・東海では、文化の伝播・拡散により農耕社会が成立した、と考えられています。

 東北地方北部では、弘前市の砂沢遺跡で紀元前4世紀の水田跡が発見されています。紀元前4世紀は、比較的降水量が少なく温暖な時期と推定されています。ただ、金沢市付近で紀元前5世紀頃の水田稲作の痕跡が確認されていますが、日本海側ではそこから地理的に連続して水田稲作が伝わったのではなく、遠賀川系土器は山形県や秋田県や青森県に点在しており、そのうちの一つが砂沢遺跡です。これら日本海側の水田稲作の特徴は、九州北部や中部や関東南部のように狩猟採集の在来集団が本拠地としていなかった所で始まったのではなく、縄文時代後期以来、狩猟採集民が主要な活動の場としていた集落域に接する低地で始まったことです。砂沢遺跡では、工具は縄文時代以来の打製剥片石器類が用いられ、大陸系磨製石器は見られません。また、石材も9割は縄文時代晩期と同じく頁岩です。祭り用の道具は、縄文文化からの伝統的なものです。砂沢遺跡での水田稲作の期間は12~13年程度と推測されており、土器などに弥生文化的要素があるものの、他は縄文文化仕様で、稲作で得られたコメは食料源の一つとして、縄文時代以来の伝統的な社会や生業構造に位置づけられていたようです。紀元前1世紀、降水量が増加し、低温化が進むと、東北地方北部では水田稲作が終了し、古代まで農耕の形跡が見られなくなり、北海道から南下した続縄文文化が広がります。本書は、東北地方北部の紀元前4~紀元前1世紀の水田稲作について、弥生文化の枠内、続縄文文化での枠内、縄文文化での枠内と、三通りの把握があり得ることを指摘し、水田稲作だけを弥生時代の指標とすることには、疑問を呈します。


●弥生時代から古墳時代へ

 古墳時代の始まりを最古の前方後円墳の出現とする見解には、あまり異論はないようです。ただ、最古の前方後円墳が、ともに奈良県にある、箸墓古墳か、それ以前の纏向型前方後円墳(明確に定型化された前方後円墳と比較して、前方部が未発達な墳丘の総称)かで、議論は分かれます。弥生時代から古墳時代への移行は、土器様式の区別をつけづらいことや、漢文史料があることなど、それまでの移行期とは異なる特徴があります。弥生時代から古墳時代への移行の重要な背景として、紀元前1世紀前半以来、平均降水量が増加しており、紀元後2世紀にはさらに増加するなど、気候の悪化があります。これが社会の不安定化にながり、地域により集落の高地化や低地化や大規模化が見られます。さらに、弥生時代から古墳時代への移行には、後漢の衰退による地域の政治情勢の変化も背景として考えられます。

 集落の大規模化が進み、「都市」と言えるかもしれないような計画的で大規模な遺跡が確認されるようになり、奈良県の纏向遺跡や福岡県の比恵・那珂遺跡などでは広範囲の土器が大量に出土します。ただ、紀元前2世紀以来の発展の延長線上にあった比恵・那珂遺跡に対して、纏向遺跡は突如として出現した、と考えられています。纏向遺跡では、九州から関東南部まで広範囲の土器が出土しており、政治的性格が指摘されています。これと関連して、九州北部勢力が掌握していたユーラシア大陸部との交易を瀬戸内海や畿内の勢力が奪取した、と考えられていましたが、現在では、少なくとも鉄素材に関しては、古墳時代前期以前に掌握権の移動はなかった、との見解が有力です。交易については、前方後円墳が完成する布留0式土器の直前の庄内3式段階で、博多湾を窓口とする「博多湾貿易」が興り、そこから海外の物資が日本列島にもたらされた、と考えられています。

 古墳時代の開始について本書は、諸説を踏まえて、紀元後2世紀中頃を起点、紀元後3世紀中頃を終点として、この間を弥生時代から古墳時代への移行期と把握します。前方後円墳は、弥生時代の各地に存在した墓の要素(大型墳丘および墳丘上の祀りが吉備や出雲、葺石が出雲、竪穴式石室が瀬戸内東部、豪華な副葬品が九州北部)を統合しながら、新たに創造された構築物と考えられています。本書は弥生時代から古墳時代への移行の画期として、(1)紀元後2世紀中頃(弥生時代後期半ば)となる長大化した墳丘墓上での祭祀の開始、(2)紀元後200年前後(庄内式古段階)の纏向遺跡の出現と庄内式土器の成立、(3)紀元後3世紀前葉(庄内式新段階)となる東方地域における中国鏡副葬の開始、(4)布留式0段階となる定型化した前方後円墳の出現を挙げます。初期前方後円墳のもしくは前方後方墳は、おおむね弥生時代に環濠集落が造られた地域とほぼ一致し、農耕社会が成立した博多湾交易の中継地となった地域に成立したようです。本書は、(3)と(4)の年代は最短で10年くらいの違いがなく、両者を考古学的には同時と考え、古墳時代前期の開始とする見解を提示しています。


●北方と南方

 本書は本州と四国と九州を主要な対象としていますが、東北地方北部から北海道と沖縄にも言及しています。まず、北方の続縄文時代については、単なる縄文時代の延長ではなく、漁撈活動の活発化、それに依存した生活形態の確立、新規漁場の開拓などが、縄文時代には見られない規模と方式にあることを重視して、別の文化だと強調する見解があることを指摘します。また、続縄文時代には縄文時代よりも多量の副葬品があることも、大きな違いとなります。続縄文時代の交易では、近隣との自由な交流ではなく、強大な支配権力との結びつきを志向した可能性も指摘されています。

 南方の薩摩半島・大隅半島と奄美・沖縄地域では、農耕への移行などで九州北部・四国・本州との違いが見られます。薩摩半島では紀元前7世紀に本格的に弥生時代へと入りますが、農耕社会成立の指標となる明らかな環濠集落はなかなか出現せず、薩摩半島よりも水田稲作の開始が遅れた大隅半島では、農耕社会の成立から前方後円墳の出現で薩摩半島に先行します。この背景として、縄文時代後期後半以降、薩摩半島が担ってきた奄美・沖縄地域との交流の仲介的役割を、大隅半島も弥生時代中期になって別の経路で担うようになったことが関係しているようです。奄美・沖縄地域の紀元前千年紀以降の考古学的証拠は少ないものの、出土人骨の分析から、食性は海産資源への依存度が高かった、と推測されています。


参考文献:
藤尾慎一郎(2021)『日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中央公論新社)

白亜紀前期の恐竜の足跡

 白亜紀前期の恐竜の足跡に関する研究(Navarro-Lorbés et al., 2021)が公表されました。この研究は、スペインのラ・リオハ州で発掘された白亜紀前期(1億4500万~1億50万年前)の2つの足跡群(La Torre 6A-14行跡とLa Torre 6B-1行跡)を解析しました。La Torre 6A-14行跡には、5つの保存された足跡が含まれており、La Torre 6B-1行跡には、7つの足跡が含まれています。これらの足跡には3本の指が見られ、足幅よりも足長の方が長くて、6A-14行跡の恐竜は6B-1行跡の恐竜よりも大きく、同じ獣脚類種(二足歩行の捕食性恐竜)の足跡である可能性が高いものの、種の特定はできませんでした。

 この研究は、これらの足跡を残した未知の恐竜種が中型で、ひじょうに機敏であり、スピノサウルス科恐竜かカルカロドントサウルス科恐竜である可能性を指摘しています。この研究は、足跡の角度と足跡間の距離に基づいて、6A-14行跡の獣脚類が時速23.4~37.1kmで走り、6B-1行跡の獣脚類は時速31.7~44.6kmでさらに速く走った、と計算しており、これは獣脚類の足跡から推定された速さの上位3位に入ります。6A-14行跡は、推定速度がスムーズかつ一貫して上昇していたことを示し、6B-1行跡は、著しい速度変化が突然起こったことを示していました。この研究はこれに関して、6B-1行跡の獣脚類が体の動きを調節しながら走っていた、と推測しています。こうした知見は、これらの恐竜がどのように動き、どのような条件下で走れたかを明らかにしました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:行跡化石から分かった走る速度が最速クラスの恐竜

 スペインのラ・リオハ州で発掘された足跡化石の解析が行われて、獣脚類種(二足歩行の捕食性恐竜)の一部は、走る速度が時速45キロメートルに達した可能性のあることが分かった。この知見について報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。今回の知見は、これまでに獣脚類の足跡化石から計算された最速クラスの走行速度を示している。

 今回、Pablo Navarro-Lorbésたちは、白亜紀前期(1億4500万~1億50万年前)の2つの足跡群(La Torre 6A-14行跡とLa Torre 6B-1行跡)を解析した。La Torre 6A-14行跡には、5つの保存された足跡が含まれており、La Torre 6B-1行跡には、7つの足跡が含まれている。これらの足跡には3本の指が見られ、足幅よりも足長の方が長く、同じ獣脚類種が残したものである可能性が高かったが、種の特定はできなかった。Navarro-Lorbésたちは、この未知の恐竜種が中型の恐竜で、非常に機敏であり、スピノサウルス科恐竜かカルカロドントサウルス科恐竜であった可能性があるとする考えを示している。6A-14行跡の恐竜は、6B-1行跡の恐竜よりも大きかった。

 Navarro-Lorbésたちは、足跡の角度と足跡間の距離に基づいて、6A-14行跡の獣脚類が時速23.4~37.1キロメートルで走り、6B-1行跡の獣脚類は時速31.7~44.6キロメートルでさらに速く走ったと計算した。これは、獣脚類の足跡から推定された速さのトップ3に入る。

 6A-14行跡は、推定速度がスムーズかつ一貫して上昇していたことを示し、6B-1行跡は、著しい速度変化が突然起こったことを示していた。この点について、Navarro-Lorbésたちは、6B-1行跡の獣脚類が体の動きを調節しながら走っていたという見方を示している。今回の知見は、これらの恐竜がどのように動き、どのような条件下で走れたかを明らかにした。



参考文献:
Navarro-Lorbés P. et al.(2021): Fast-running theropods tracks from the Early Cretaceous of La Rioja, Spain. Scientific Reports, 11, 23095.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-02557-9

ヘビ毒と哺乳類の唾液タンパク質の共通起源

 ヘビ毒と哺乳類の唾液タンパク質の共通起源に関する研究(Barua et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヘビや一部のトカゲ、さらに一部の哺乳類には、噛みついて毒液を出すものがおり、これらの系統は3億年以上前に分化した、と推測されています。以前の研究で、哺乳類の唾液腺とヘビの毒腺では制御遺伝子の一群の活性パターンが類似している、と明らかになっており、毒液の進化に必要な基盤がヘビと哺乳類の両方に存在する、と示唆されます。

 カリクレインセリンプロテアーゼはタンパク質分解酵素の一種で、血圧の調整に重要な役割を果たしています。哺乳類の唾液にはこれらのタンパク質が少量含まれていますが、その機能は現在まで明らかになっていません。しかし、毒ヘビと、トガリネズミやソレノドンなどの哺乳類では、これらのタンパク質の毒性が進化しており、大量に投与すると、血圧が急激に低下して意識を失ったり、死に至ったりする可能性もあります。カリクレインセリンプロテアーゼは、ヘビ毒に含まれるものと哺乳類の唾液に含まれるものが生化学的に類似していることは以前から指摘されていましたが、実際にこれらが関連しているかどうかは、これまで明らかになっていませんでした。

 この研究は、近年進歩したゲノム解析法により、爬虫類と両生類と魚類と哺乳類すべてのカリクレイン遺伝子を特定して比較し、進化系統樹を作成しました。その結果、ヘビ毒のカリクレインセリンプロテアーゼと哺乳類の唾液中のカリクレインが、同じ祖先遺伝子から進化した、と示されました。これとは、毒性を持つ能力を秘めた祖先の共通の遺伝子群から毒液が進化したという、以前の仮説を裏づけるたいへん強固な証拠です。ヒトやマウスに見られるような非毒性の唾液カリクレインも、同じ祖先の遺伝子から進化しました。

 実際この研究では、哺乳類の唾液に含まれる非毒性カリクレインは、哺乳類が持つ他のカリクレインよりもヘビ毒の毒素に近い、と示されました。これらの知見から、ヒトを含む哺乳類の唾液カリクレインというタンパク質も、毒性を持つように進化する能力があると考えられます。しかし毒液を持つよう進化できる要素を持っているからといって、それが実際に起こるとは限りません。毒液を作るには非常に負担がかかるので、そのように進化したのは強い生態学的圧力があったからと考えられます。毒液を持つ哺乳類と、持たない哺乳類との境界が、これまで考えられていたよりも曖昧になったわけです。


参考文献:
Barua A, Koludarov I, and Mikheyev AS.(2021): Co-option of the same ancestral gene family gave rise to mammalian and reptilian toxins. BMC Biology, 19, 268.
https://doi.org/10.1186/s12915-021-01191-1

『卑弥呼』第78話「志能備の掟」

 『ビッグコミックオリジナル』2022年1月20日号掲載分の感想です。前回は、田油津日女(タブラツヒメ)が暈(クマ)の国にあるトンカラリンの洞窟に入っていくところで終了しました。今回は、トンカラリンの洞窟の前で、田油津日女の配下や暈の5人のタケル王がその結果を見守っている場面から始まります。5人のタケル王は、田油津日女が洞窟に入ってから3日目となるのにまだ出ないことから、諦めるかどうか、話し合っていましたが、もう1日待つことに決めます。しかし、4日目になっても田油津日女は洞窟から出てこず、5人のタケル王は帰ることにします。5人のタケル王が帰った後、田油津日女の配下の男性はその他の者に仮面を取って寛ぐよう促し、後は邑人の服に着替えて山社(ヤマト)に帰るだけなので、今宵は酒盛りだ、と言います。翌朝、田油津日女が洞窟から出てくると、配下の者は全員殺されていました。そこへ現れたのは鞠智彦(ククチヒコ)の配下の志能備(シノビ)で、田油津日女に、正体はアカメだと分かっているので仮面を取るよう、勧告します。鞠智彦の配下の志能備は、田油津日女の振る舞いを見るうちに、志能備、それも暈の探り女の動きだと見抜いていました。しかも、日見子(ヒミコ)に選ばれた者以外でトンカラリンの洞窟から出られるのは、迷路の見取り図を記憶している者だけで、それは鞠智彦とその配下の志能備に、アカメしかしない、というわけです。鼻と耳を削がれ、両手両足を切断される、という抜けた志能備の掟アカメはせめて一人でも多く道連れにして死のう、と覚悟して仮面を取ります。なぜ山社の日見子(ヤノハ)に寝返ったのか、問われたアカメは、ヤノハが自分を一人の人として接してくれるからだ、と答えます。鞠智彦配下の志能備の一人が、自分に始末を任せてくれ、と言ってアカメに斬りかかりますが、アカメは木の葉返しの秘技で相手の肩を斬ります。すると、アカメの腕を惜しいと思いつつ、鞠智彦配下の志能備は投擲武器でアカメを倒し、まずアカメの手足を切断しようとします。

 山社の千穂(現在の高千穂でしょうか)では、洞窟に籠って出産に備えているヤノハに、ヌカデが食事の世話をしていました。ヤノハから、アカメを暈に送った、と聞かされたヌカデは、暈から我々へと寝返ったアカメになぜそのような非情な命令を下したのだ、と問い詰めます。するとヤノハは、鞠智彦に直接自分の文を届けられるのはアカメしかいないからだ、と答えます。暈は戦人の国で出入りが難しいので、アカメはもう死んでいるかもしれない、というヌカデに、アカメに限ってそんなことはない、とヤノハは力強く答えます。アカメを信じて待つ、もし捕らわれたら自分が助けに行く、というヤノハに、妊娠中なので無理だろう、とヌカデは言います。ヌカデがヤノハに、不安にさせたことを誤り、アカメなら絶対に帰ってくる、と励ますところで今回は終了です。


 今回、田油津日女の正体がアカメだと明らかになりました。田油津日女の正体について、アカメは最初から有力候補の一人でしたし、前回でほぼ確定していたので、とくに意外ではありませんでした。今回殺された田油津日女の配下の男性の発言から考えると、ヤノハはアカメを暈の日見子とするつもりはなく、アカメには、暈との表面的な敵対関係を保ったまま、鞠智彦に疫病対策の書簡を届けさせるよう、指示しただけで、その後は田油津日女を暈から山社へ密かに帰還させるつもりだったのでしょう。しかし、アカメの正体は鞠智彦の配下の志能備に見抜かれ、アカメは絶体絶命の危機に陥りました。ここからアカメが脱出するのは不可能に思えますが、鞠智彦はアカメの正体についてある程度見抜いているように思われるので、アカメを殺さないよう、ヤノハと密約を結んでいるかもしれません。トメ将軍とミマアキの帰還も気になりますが、まずは窮地のアカメの運命が注目されます。

子供は「不作為の嘘」には寛容になりやすい

 子供が「不作為の嘘」には寛容になりやすいことを報告した研究(Hayashi, and Mizuta., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。人間は誰でも嘘をついたことがあり、嘘は身近な社会的行動です。子供においても、親や先生に怒られるのを避けるために、悪事を隠そうとして嘘をつくことは頻繁に見られます。嘘は行為の形態により2種類に分けられます。一つは「事実と違うことを相手に伝える」ことで欺くものです。人間が「嘘」と聞いた時に通常思い浮かべるのはこの種類で、積極的な発言を伴っていることから、「作為による嘘(lie of commission)」とみなせます。しかし人間は、事実を知っているのに「あえて何も言わない」ことで欺くこともあります。これは「不作為の嘘(lie of omission)」と呼ばれることがあります。

 人間は物事を判断するとき、常に客観的であったり、合理的であったりするわけではなく、認知バイアスにより歪みが生じ得る、と知られています。作為と不作為についても同様で、人間は、作為による悪いことを不作為による悪いことよりも否定的に判断する(不作為の方が気にならない)傾向があります。これは「不作為バイアス」と呼ばれます。これは、「他者の大切なものを突き落として壊す/落下しそうな他者の大切なものに気づきながら支えない(その結果、落下して壊れる)」というように、「何かをする/何もしない」という「行動の有無」に主として焦点を当てられた研究から明らかになりました。この研究では、「発言の有無」に焦点を絞り、作為の嘘と不作為の嘘の道徳的判断においても不作為バイアスが生じるのかどうか、さらに年齢や状況によりバイアスの程度に差があるのか、検討しました。

 この実験の参加者は、小学3年生(8~9歳)78人、6年生(11~12歳)76人、大人80人です。2つの類似した話で構成された4場面が用意されました。4場面のうち2場面は「利己的状況」で、主人公が自分を守るために先生を欺く場面でした。残りの2場面は「他者をかばう状況」で、主人公が同級生を守るために先生を欺く場面でした。さらに、利己的状況の2場面のうち一方は、主人公がわざわざ悪いことをする「意図的悪事」(たとえば、ゴミ箱に投げ入れて遊んで、ゴミを散らかすようなこと)でした。もう一方は、主人公がうっかり悪いことをしてしまう「偶発的悪事」(たとえば、うっかりゴミ箱をひっくり返して、ゴミを散らかしたようなこと)でした。他者を庇う状況の2場面も同様で、一方は同級生がわざわざ悪いことをする「意図的悪事」で、それを主人公が目撃しました(たとえば、壁に落書きをしている同級生と目が合ったような場合)。もう一方は、同級生がうっかり悪いことをしてしまう「偶発的悪事」で、それを主人公が目撃しました(たとえば、:うっかり壁を汚してしまった同級生と目が合ったような場合)。各状況内の2場面で、主人公(および同級生)の性別が入れ替えられています。

 各場面の2つの話で、主人公の「意図」(たとえば、先生に訊かれたら、「わたしではない」と言おうとしたような場合)と、「結果」(たとえば、主人公が安堵として喜んだような場合)は完全に同じでした。唯一の違いは、主人公の嘘が「作為」によるもの(偽の情報を伝える)か、それとも「不作為」によるもの(何も言わない)かでした。各場面で事実確認の質問をした後、2つの話それぞれについて「善悪の評価」(たとえば、話1で、甲さんが「私ではありません」と言ったこと、もしくは、話2で、乙さんが何も言わなかったことは、どれくらい良いことか、それとも悪いことか)を、7段階(3:とても良い、2:まあまあ良い、1:少し良い、0:どちらでもない、-1:少し悪い、-2:まあまあ悪い、-3:とても悪い)で回答してもらいました。

 全学年の4場面全てで、作為による嘘を不作為による嘘よりも悪いと判断しており、大人だけでなく子供でも、嘘の道徳的判断において不作為バイアスが見られました。次に、バイアスの強さを明確にするために、バイアス値が算出されました。これは、作為による嘘(話1)での善悪評定値から、不作為による嘘(話2)での善悪評定値を引き算し、符号を逆転させたものです。2つの話で主人公の意図や生じた結果は完全に同一だったので、仮に人間の嘘に対する道徳的判断が論理的であれば、バイアス値は0になるはずです。しかし、結果はすべてで統計的に有意に0より大きかったため、年齢や状況の違いを問わず、不作為バイアスが生じる、と確認されました。

 さらに、バイアスの強さは年齢によって違いがあり、小学3年生と6年生では4場面の間で差はなかったのに対して、大人では統計的に有意な差があり、利己的状況の方で他者をかばう状況よりもバイアスが大きく、また意図的悪事を隠す方で偶発的悪事を隠す場合よりバイアスが大きくなりました。事実確認質問から、悪事が意図的であったか偶発的であったかを区別できなかった参加者は分析から除外されているので、子供は大人と違って、状況に左右されず不作為バイアスが同程度に生起する、と示されました。

 結果を見直すと、不作為の嘘に対して、どの状況でも大人の方が小学3年生や6年生よりも寛容であることが窺え、これが大人における不作為バイアスの強さを生み出していました。さらに、3年生から既に他者をかばう嘘に対して寛容な傾向が見られます。しかし、3年生では隠蔽する悪事の意図性の違いは評価に影響せず、6年生と大人では、他者を庇う状況において、他者の悪事が偶発的だった場合は、寛容に判断している、と示されました。

 一般的に子供は「嘘は悪いことだ」と教えられて育ちますが、これらの知見を総合すると、子供の嘘に対する道徳的判断は、幼い頃から長い時間をかけて変化していく、と示唆されます。この研究の結果は、教育にも重要な意味を持つと考えられます。たとえば、子供が自分や友達の犯した罪を報告しなかった場合、不作為バイアスが無意識に働くことで、「嘘をついていないから問題ない」と考えてしまうこともあるでしょう。この場合、親や教師など大人が、「真実を何も言わない」こと(不作為の嘘)は、「虚偽の情報を提供する」こと(作為の嘘)と同じ結果を生み出すことがあり、そうであれば、どちらも同じように悪いことであると指導すべき場合もあることでしょう。

 しかし、この研究の結果は、大人でも嘘の道徳的判断において不作為バイアスが生起するだけでなく、むしろ子供よりもバイアスが強く働くことを示しています。これは、大人自身も「不作為による嘘に対して、甘く判断しがちになる傾向」に気づきにくいことを意味します。その結果、子供の道徳性を向上させる機会を逸している可能性もあります。バイアスによる影響を大人が知っておくことで、子供の嘘にかかわる道徳性を高めていくことができる、と考えられます。進化心理学的観点からも注目される研究だと思います。


参考文献:
Hayashi H, and Mizuta N.(2021): Omission bias in children’s and adults’ moral judgments of lies. Journal of Experimental Child Psychology, 215, 105320.
https://doi.org/10.1016/j.jecp.2021.105320

再来年(2024年)の大河ドラマの予想

 そろそろ再来年(2024年)の大河ドラマが発表されそうなので、予想してみます。まず大前提として、2年連続で時代が重なることはあまりなく、多少重なったとしても舞台となる地域は異なる場合がほとんどのようだ、ということが挙げられます。来年は徳川家康が主人公なので、戦国時代後期~江戸時代初期ものである可能性は除外して問題ないと思います。今年は平安時代末から鎌倉時代序盤となるので、10年に1回程度の頻度となる源平ものである可能性も除外して問題ないと思います。

 前回、大河ドラマで徳川家康が主人公だった(1983年)後は、近現代ものが3年間続きました。徳川家康を主人公とすると、武田信玄や織田信長や豊臣秀吉や伊達政宗といった、すでに大河ドラマの主人公として取り上げられた戦国時代の知名度の高い人物も関わってきます。すでに今川義元と武田信玄と織田信長と豊臣秀吉の配役は発表されており、かなり豪華な出演陣なので、戦国大河ドラマの総決算といった感もあり、ここで戦国時代には一度区切りをつけて、前回のように3年続くことはないでしょうが、近現代ものとなる可能性は高いように思います。

 そうすると、第二次世界大戦後まで描く場合、政治家だと物議を醸しそうですから、経済人か文化人か官僚か太平洋戦争前に没した政治家で、低迷が続く日本社会を元気(勇気)づけるような人物になるでしょうか(以下の候補者をそのように解釈することの問題は当然あるわけですが)。思いついたのは、すでにNHKでドラマ化された白洲次郎、長命の志賀直哉、外交官として知名度の高い杉原千畝です。第二次世界大戦前に没した人物ならば、森鴎外や夏目漱石などが思い浮かびます。第二次世界大戦中で太平洋戦争勃発前に没した人物として、西園寺公望もおり、幕末も少し描けて、太平洋戦争直前までの近代日本の動向を俯瞰できるのは魅力的とも言えます。

 21世紀になってからの一時期、大河ドラマでは、男女が交互に主役となる傾向にありましたが、2018年から2023年までは6年連続で男性主人公となります。しかし、近年の報道機関や娯楽世界での主流派の思潮を考えると、そろそろ女性主人公、それも女性の地位向上に貢献した、と一般的に言われている人物になりそうな気もします。その意味では、津田梅子や与謝野晶子や平塚雷鳥が予想されます。市川房枝は第二次世界大戦後に長く国会議員を務めたこともあり、現時点では主人公となる可能性は低いように思います。

 以上、まとめると、再来年(2024年)の大河ドラマの主人公(題材)の予想は、前近代を捨てて近現代に全て賭け、以下のようになります。
◎最有力・・・白洲次郎
○有力・・・・・杉原千畝、津田梅子
▲穴狙い・・・森鴎外、夏目漱石、与謝野晶子、平塚雷鳥、西園寺公望

タンザニアの366万年前頃の人類の足跡

 タンザニアの366万年前頃の足跡に関する研究(McNutt et al., 2021)が報道されました。1976年、タンザニアのラエトリ(Laetoli)遺跡A の7地点で、5点の連続した二足歩行の足跡が発見されました。広さは490m²で、年代は366万年前頃となり、18400個の動物の足跡があります(図1)。この行跡(連続した足跡)は当時、暫定的に人類のものと提案されました。当時この足跡は、現代人(ヒト)の自由な歩き方とは対照的に、歩隔で腰が回転する、回転して恐らくはゆっくりした動きの歩き方と示唆されました。当時、この足跡は人類のものに分類されたものの、歩行はややよろよろしており、片方の足がもう一方の足を横切っていた、と注意が喚起されていました。

 1978年にラエトリ遺跡Gで人類の足跡が発見され、ラエトリ遺跡Aの足跡を人類のものとする見解に疑問が呈されました。当時、ラエトリ遺跡Aの足跡は、異常で不思議な形をしており、謎めいていると指摘されましたが、二足歩行の蹠行性(足の裏の全面を地面につける歩き方)哺乳類によるものというのが一致した見解でした。以下は本論文の図1です。
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 1980年代の研究では、足跡の形態と交差歩行(それぞれの側からの足が着地前に正中線を横切るような歩き方)を説明するのに、3通りの仮説が提示されました。第一は基層の歪みです。第二は、仔のクマが残した足跡です。第三は、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)以外の人類の足跡です。第二の仮説を検証するため、二足歩行するよう訓練されたサーカスのクマからデータが収集され、その短い一歩と比較的広い足はラエトリ遺跡Aの足跡と密接に合致しているものの、二足歩行のクマはより広い一歩になる、と明らかになりました。さらに、第五指は通常クマ科では最大で、交差歩行の問題を解決するものの、ヒトもたまに交差歩行する、と注意が喚起されていました。1980年代の研究では、二足歩行のクマと裸足のヒトに関して、詳細で自然の生物測定と運動学的研究が行なわれるまで、ラエトリ遺跡個体Aに関する人類とクマの仮説の選択を延期する必要がある、と結論づけられました。

 さらに問題を複雑にしたのは、ラエトリ遺跡Aの内部形態が、基盤充填物を完全には除去できていないことです。1980年代には、ラエトリ遺跡Aの謎めいた足跡の確実な同定は、基盤充填物が完全に除去されて横方向の追跡が行なわれるまで無理だろう、と指摘されました。したがって、この研究は、ラエトリ遺跡Aを移設して再発掘し、アメリカクロクマ(Ursus americanus)とチンパンジー(Pan troglodytes)とヒト(Homo sapiens)の足跡の詳細な比較分析を行ない、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのが人類なのか、それともクマなのか、検証しました。


●ラエトリ遺跡Aの再発見

 以前の研究の詳細な地図を用いて、二足歩行の足跡に隣接する長鼻目の痕跡が特定されました。A3足跡が見つかるまで、周囲の表土が取り除かれました。次にその領域がきれいに清掃され、A1~A5が露出しました。これらは最初の発見以来、認識できるほどの侵食はありませんでした(図1)。足跡凝灰岩は北方に侵食されているので、A1の踵から南方(87cm)と東方(54cm)へと発掘されましたが、追加の足跡は見つかりませんでした。

 A3から堆積物が除去された後、木製の舌圧子を用いて、1976~1978年の野外調査期間に無傷のまま残った凝灰岩充填物が取り除かれました。親指(第一指)の跡は明確に定義され、約30mmの幅です。重要なのは、第二指の跡が露出したことです。A2から充填物が取り除かれましたが、損傷の危険性を冒さずに完全に削除することはできませんでした。それにも関わらず、踵と母指の跡は明確です。他の跡の詳細な情報は、長さと幅と歩隔の長さの推定値に限界があります。

 A1~A5の内部とそれぞれの間の保存状態はさまざまですが、生物学的に情報をもたらす計測が基盤の歪みに影響を受けた、という証拠はありません。他の動物(ホロホロチョウからゾウまでの大きさ)の隣接・混在する足跡は、周囲もしくは内部の形態の歪みの証拠を示しません。足跡表面は数時間かに数日間の時間間隔を表している可能性が高いことを考えると、痕跡の形成およびその後の時代における類似の基盤条件と化石生成仮定を推測するのが節約的です。


●クマと人類の仮説の評価

 野生のアメリカクロクマの行動の50.9時間の映像が録画されました。裏づけられない二足歩行の姿勢と移動は全観察時間の0.09%で、そのうち59%は姿勢、41%は移動でした。1例でのみ、クマは4歩続けての補助なしの二足歩行の歩隔を実行しました。したがって、本論文の調査結果が他のクマ科に一般化可能だと仮定すると、4歩続けての二足歩行の歩隔を観察する確率は0.003%です。この行動の低頻度と、四足歩行から二足歩行への移行段階の歩幅がないので、クマの二足歩行がラエトリ遺跡Aで保存された可能性は低そうですが、あり得ないわけではありません。

 さらにラエトリ遺跡では、哺乳類85種に分類される25000点以上の化石が回収されているにも関わらず、クマの化石が欠けています。ラエトリ遺跡一帯では、クマは存在したとしても稀でした。足跡の集合には、骨格化石が稀な分類群の驚くような数の痕跡が含まれる可能性もあり、たとえばケニアのイレレット(Ileret)近くの150万年前頃の遺跡やラエトリ遺跡の鳥の痕跡は比較的高頻度ですが、クマ科の痕跡が存在するものの、その化石が存在しない理由について、明確な化石生成論的説明はありません。

 さらに、足の長さ(平均145.7mm)がラエトリ遺跡Aの足跡の長さ(平均161.7mm)の10%以内だったためとくに選択された、四足歩行の野生の仔クマの足跡46点が測定されました。さらに、ウガンダのガンバ島チンパンジー保護区(Ngamba Island Chimpanzee Sanctuary)の四足歩行中のチンパンジーの足跡(46頭の生体から54点)と、アメリカ合衆国のストーニーブルック大学のチンパンジーの二足歩行中の足跡(2頭の亜生体から44点)が測定されました。これらのデータは3条件下で生成されたヒトの裸足の足跡と比較されました。その3条件とは、(1)習慣的に靴を履いている人が足底圧マット上を歩く(654点)、(2)習慣的に靴を履いていないもしくは最小限にしか履いていない人が変形性のぬかるみを歩く(41点)、(3)再堆積し火山灰で形成された、タンザニアのエンガレセロ(Engare Sero)の後期更新世の足跡(関連記事)です。

 ラエトリ遺跡Aで観察された歩隔の長さに対する足跡の寸法(たとえば、踵と前足の幅)の比率が、クマの範囲に収まることに関して、他の研究と一致します。しかし、これらの同じ測定に関して、ラエトリ遺跡Aはチンパンジー的でもあり、ラエトリ遺跡GおよびSの明確な人類の足跡と適度に類似しています。ラエトリ遺跡A個体は、ヒトがゆっくりと、もしくは滑りやすい基盤を歩く時に起きるように短い歩隔だったものの、その歩行はクマ的ではありませんでした。

 ラエトリ遺跡のA2とA3から追加の充填物を取り除くと、前足幅に対して踵の跡が広くなり、周囲寸法は明らかに人類的です。対照的に、チンパンジーとクマは比較的狭い踵を有しています。さらに、足跡が完全に発掘され、汚れが取り除かれると、鉤爪の跡の証拠は見つかりませんでしたが、クマの足跡では鉤爪が欠けている場合もあります。この研究の検証では、クマの足跡の31%には鉤爪の跡がありません。ラエトリ遺跡A3が人類の左足かクマの右足のどちらによるものなのか検証するため、ヒト(30点)とチンパンジー(50点)の足跡で第二指に対する母趾の幅と、クマの足跡(5点)における第四指に対する第五指が比較されました。A3の爪先の跡は、クマではなくヒトとチンパンジーの特徴的な比率と一致します。

 A3が人類の左足だと確認することにより、交差歩行が起きたことを確証できます。本論文の比較標本では交差歩行は観察されませんでしたが、ヒトでは揺れた後に均衡を取るための代償戦略としてたまに起きます。じっさい、交差歩行はラエトリ遺跡Aの足跡が人類により残されたという仮説を裏づける、と本論文は提案します。クマもしくはチンパンジーが二足歩行する時に、交差歩行は起こりそうになく、おそらく不可能です。クマとチンパンジーは、重心位置が大きく中外側に逸れて、腰を大きく外転させて歩くため、歩幅と歩隔の長さの比率が高くなります。逆に、ヒトの交差歩行は重心と身体の動きの中外側減少、腰の内転、内・外側顆を結ぶ線と大腿骨長軸の角度により可能となり、ラエトリ各行跡で表れているように、低い対応比となります。

 ラエトリ遺跡GおよびSの足跡の相対的な歩隔幅は、現代人の分布にほぼ収まっています。ラエトリ遺跡Aの足跡は、ヒトとチンパンジーとクマの分布外に位置しますが、最もヒト的です。この結果から、ラエトリ遺跡Aの足跡は外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を有していた、と示唆されます。二足歩行の特徴があることから、ラエトリ遺跡Aの足跡を残したのは人類と考えられます。


●足跡を残したのはどの人類か

 アウストラロピテクス・アファレンシスが、ラエトリ遺跡GおよびSで足跡を残したことは、一般的に認められています。したがって、ラエトリ遺跡Aの足跡をアウストラロピテクス・アファレンシスに割り当てたくなりますが、この前提には、鮮新世人類間の歩行運動(および恐らくは分類学的)多様性の化石証拠を考慮に入れた、足の個体発生および種内形態変異の調査が必要です。

 身長101~104cmと推定されるラエトリ遺跡Aの足跡を残した個体は、他のラエトリ遺跡の足跡を残した個体よりも身長が低く、G1では111~116cm、S1では161~168cmと推定されています(関連記事)。ラエトリ遺跡Aの足跡が学童期(juvenile、6~7歳から12~13歳頃)のアウストラロピテクス・アファレンシスだったとの想定は尤もらしいものの、この仮説は、ラエトリ遺跡GもしくはSとは異なる足跡の形態により否定されます。

 足の幅と長さの比率は、ヒトとチンパンジーにおいて異なる個体発生の軌跡に従い、ヒトの足はチンパンジーよりも一貫して狭くなっています(図2)。現代と更新世両方の靴を履いていないヒトの足跡は、産業化された人口集団の靴を履いたヒトの足跡よりもわずかに広くなっています。ラエトリ遺跡GおよびS歪みのない足跡は、ヒトの範囲内に収まります。ラエトリ遺跡A3は、その長さと比較して広い点で、チンパンジーにより似ています(図2a)。チンパンジーでは、このより広い足跡の形態は、部分的には、親指(第一指)のより大きな開度により駆動されます。したがって、親指と第二指による跡の中心と、足跡の長さとの間の距離の比率として、親指の開度が測定されました。この測定では、ヒトとチンパンジーは明確に異なります。

 最良に定義されたラエトリ遺跡Gの足跡がヒトの分布と重なる一方で、A3の足跡は重ならず、ヒトおよびラエトリ遺跡Gよりもわずかに開いた親指を有していますが、チンパンジーに近いほど開いているわけではありません。エチオピアのアファール(Afar)地域のディキカ(Dikika)で発見された足の親指が、成体よりもわずかに開いて可動的だったことを考えると(関連記事)、この知見だけでは、この足跡が学童期のアウストラロピテクス・アファレンシスだった可能性を除外しません。以下は本論文の図2です。
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 他の有益な特徴を調べるため、以前の研究で報告された、比例した爪先の深さの比率が比較されました。曲がった股関節と膝関節を用いると、ラエトリ遺跡Aの平均値はラエトリ遺跡G1およびヒトとは異なっているものの、ラエトリ遺跡Sの変異の低端と重なります。さらに、足跡A1~A3は、踵と前足側部との間の硬化した灰の隆起を表します。この隆起が、基盤の剪断の証拠なのか、それとも、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡には欠けており、アウストラロピテクス・アファレンシスの足遺骸と一致しない、中足部の移動性の証拠なのか、不明です。

 最後に、ヒトもしくはチンパンジーの足跡から、さまざまなラエトリ遺跡の足跡と類似した内部組織分布を有する足跡を無作為に標本抽出できるのかどうか、検証されました。図2は、ラエトリ遺跡GおよびSの足跡が、再標本抽出された靴を履いていないヒトの足跡の変異範囲にどのように含まれ得るのか示しており、一方で、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡の平均的形態は、習慣的に靴を履いてないヒトとラエトリ遺跡GおよびSの足跡とは異なります。

 じっさい、ラエトリ遺跡A2およびA3の足跡は再標本抽出されたチンパンジーの分布内によく収まり、チンパンジーの足跡は、裸足のヒトの足跡の形態とは異なります。こうした異なる足跡の形態について可能な説明の一つは、ラエトリ遺跡Aの足跡は交差歩行するアウストラロピテクス・アファレンシスだった、というものです。ヒトの足跡を好みの歩行、次に交差歩行と比較することにより、この仮説が検証されました。その結果、通常歩行および交差歩行のヒトの足跡の違いは最小限で、ラエトリ遺跡GおよびSとラエトリ遺跡Aの痕跡との間における程度もしくは方向の違いとは一致しない、と明らかになりました。

 したがって本論文は、ラエトリ遺跡Aの足跡は、アウストラロピテクス・アファレンシスとは異なり、恐らくはより祖先的な足の二足歩行の人類が残した、と結論づけます。ラエトリ遺跡Aの足の全体的な形態はチンパンジー的で、わずかに親指が開き、おそらく中足部はいくぶん可動的です。しかし、ラエトリ遺跡A個体は、外反の膝もしくは内転する腰、あるいはその両方を示唆する、狭い歩隔で二足歩行していました。保存された足跡から推測される足の形態と歩行運動学の組み合わせは、ラエトリ遺跡A個体をアウストラロピテクス・アファレンシスから排除します。

 鮮新世人類の分類学的多様性の証拠が築かれつつあり(関連記事)、ラエトリ遺跡の事例も含まれますが、これらの人類は形態学的に同じ足で歩いていたわけではありません。たとえば、エチオピアのアファール地域のウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域の340万年前頃のBRT-VP-2/73標本の足跡は、鮮新世のアファール窪地に少なくとも2つの異なる足の形態が共存した、と示します(関連記事)。本論文は、人類の歩行運動多様性についての足跡の証拠が、同様に1970年代のラエトリ遺跡Aの行跡の発見以来、タンザニアのラエトリ遺跡に存在していた、と提案します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上記報道で指摘されているように、本論文で新たにアウストラロピテクス・アファレンシスとは異なる人類のものと提示された足跡の標本数が少ないことは否定できず、鮮新世人類の多様性についての新たな決定的証拠とまでは言えないように思います。ただ、中期鮮新世となる380万~330万年前頃の人類については、アウストラロピテクス・アファレンシスしか存在していなかった、との見解が長く有力でしたが、近年では、中期鮮新世のアフリカ東部(~中部)には複数の人類種が存在したことは確実だ、との見解も提示されており(関連記事)、おそらく今後、そうした見解を裏づける証拠が蓄積されていくのではないか、と予想しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:未知のヒト族の個体と結び付けられた古代の連続した足跡

 タンザニア北部のラエトリ遺跡で発見された行跡(連続した足跡)の化石を再分析したところ、約360万年前に複数のヒト族種が二足歩行していたことが示唆された。これまでの研究で、1組の行跡化石が現生人類の初期の近縁種のものと特定されているが、今週のNature に掲載される論文では、別の1組の行跡化石が未知のヒト族種に帰属することが示唆されている。今回の知見は、二足歩行の起源についての新たな手掛かりとなる。

 1970年代にラエトリ遺跡で発見された5つの連続した行跡化石は、ヒト族の二足歩行を示す最古の決定的な証拠だ。これらの行跡化石は、有名な「ルーシー」の骨格化石の場合と同じく、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)のものだとする学説が提起された。同時期に別の行跡化石も発見されていたが、その後埋められてしまい、議論を呼んだ。クマが後肢で歩いた行跡だったという考え方があり、別のヒト族種の行跡とする考え方もあった。

 2019年になって、Ellison McNuttたちは、このような一風変わった形状の行跡を再び発掘した。McNuttたちは、これをクマ、チンパンジー、ヒトの行跡と比較し、クマよりもヒトの行跡に近いことを明らかにした。また、野生のアメリカグマの行動を映像で分析したところ、アメリカグマが後肢で歩くことはほとんどないことが分かった。McNuttたちは、ラエトリで数千点の動物の化石が発見されているが、いずれもクマのものではないことも明らかにした。McNuttたちは、これが、いまだに特定されていないヒト族種の行跡で、このヒト族の個体が、変わった歩き方(一方の足が体の正中線を横切って、もう一方の足の前方に着地するクロスステップという歩行)をしていたと結論付けた。

 この時代のヒト族の多様性が過小評価されていることを示唆する証拠が増えており、今回の知見もその1つとなった。


古生物学:初期ヒト族の移動運動の多様性を示すタンザニア・ラエトリの足跡証拠

古生物学:ラエトリの足跡はやはりヒト族のものだった

 1970年代、メアリー・リーキーたちは、タンザニアのラエトリと呼ばれる場所で、300万年以上前のヒト族が残した足跡を発見した。これらの足跡はヒト族、具体的にはアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis;「ルーシー」として知られる有名な化石骨格が属する種)による二足歩行を示す、最古の決定的証拠として有名になった。しかし、この顛末には、ある忘れ去られた側面があった。ラエトリには大小さまざまな動物によって残された多数の足跡が存在し、ヒト族のものとして有名になった行跡「G」は最初に発見された足跡ではなかったのだ。先に見つかった別の行跡「A」について、リーキーはそれがヒト族のものかもしれないと考えたが、後肢で立ったクマ類の足跡に少し似て見えたことから、確信が持てずにいた。サーカスのクマによる実験で、この行跡がクマ類のものである可能性が示唆されたものの、その後も疑いはずっと残されたままだった。これ以外に、クマ類のものに少しでも似た足跡は(後脚で歩いたものすら)見つかっておらず、クマ類のものである可能性のある化石も発見されていない。そこでE McNuttたちは、2019年にこの遺跡に戻り、行跡「A」の再発掘を行った。現代の画像化法(およびクマを用いた追加実験)から、これらの足跡はヒト族のものである可能性が高く、有名な行跡「G」を残したヒト族とは違う種類であることが明らかになった。鮮新世の東アフリカにはアウストラロピテクス・アファレンシス以外にも複数の異なるヒト族が住んでおり、それぞれ歩行様式が異なっていたことは、リーキーの時代から知られていた。行跡「A」はそのうちの1種が残したものなのかもしれない。



参考文献:
McNutt EJ. et al.(2021): Footprint evidence of early hominin locomotor diversity at Laetoli, Tanzania. Nature, 600, 7889, 468–471.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04187-7

古人類学の記事のまとめ(45)2021年9月~2021年12月

 2021年9月~2021年12月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2021年9月~2021年12月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

中村美知夫「ヒト以外の霊長類の行動と社会 ヒトを相対化する」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_7.html

齋藤慈子「霊長類の子育」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_24.html

河野礼子「猿人とはどんな人類だったのか 最古の人類」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_19.html

諏訪元「人類化石の発見,いかに」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_21.html

霊長類の脳の進化
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_22.html

甘い食物を好んだ始新世初期の霊長類
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_3.html

オマキザルのゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_14.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

藤田祐樹「サピエンス以前の人類の島への分布を考える」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_8.html

呉汝康「中国古人類学30年」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_9.html

長井謙治「日本列島最古級の石器技術を考える」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_10.html

中川和哉「朝鮮半島南部の石器群から見た日本の前・中期旧石器」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_14.html

上峯篤史「存否問題のムコウ」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_17.html


●ネアンデルタール人関連の記事

近藤修「旧人ネアンデルタールの盛衰 現生人類との交代劇」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_28.html

森恒二『創世のタイガ』第9巻(講談社)
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_25.html

レヴァントの中期更新世の人類化石をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_26.html


●デニソワ人関連の記事

黒竜江省で発見された中期更新世のホモ属頭蓋
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_25.html

最古のデニソワ人のmtDNA分析とその文化的適応
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_31.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシスの起源
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_32.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

現生人類の出アフリカを可能とする気候条件
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_2.html

中期更新世の火の使用と人類集団間の文化的拡散
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_12.html

更新世におけるアラビア半島への人類の複数回の移動
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_23.html

過去10年の古代ゲノム研究
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_5.html

海部陽介「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_26.html

西秋良宏「旧人と新人の文化」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_2.html

最初の芸術とは何か
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_21.html

中国南部で発見された現生人類遺骸の年代をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_7.html

ポーランドの41500年前頃の象牙製ペンダント
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_19.html

中期更新世ホモ属の新たな分類
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_24.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_16.html

縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html

オホーツク文化人のゲノム解析とアイヌ集団の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_28.html

縄文時代の人類のゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_8.html

言語と遺伝子の関係
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_12.html

ニュージーランドにおける人類の移住の影響
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_14.html

佐藤弘夫『日本人と神』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html

シベリアにおけるイヌの進化
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_17.html

弥生時代と古墳時代の人類の核ゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html

ポリネシアにおける人類の移動経路と年代
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_7.html

大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html

アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html

新疆ウイグル自治区の青銅器時代の人類の遺伝的起源
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_14.html

学際的研究に基づくチベット高原の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_12.html

江戸時代の人々の口腔内細菌叢
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_17.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

2万年以上前の北アメリカ大陸の人類の足跡
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_34.html

リモートセンシングによる古代メソアメリカ遺跡の配置
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_24.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_5.html

コーカサス現代人の起源とその移動経路
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_15.html

古代ゲノムデータに基づくエトルリア人の起源と後世への影響
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_3.html

ハンガリーのアールパード朝のベーラ3世のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_7.html

ヨーロッパ南東部前期青銅器時代における親族構造と社会的地位の相続
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_10.html

家畜ウマの起源
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_29.html

ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_31.html

イベリア半島南部における銅器時代から青銅器時代の人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_28.html

ヒト遺骸から周囲の石へのDNAの拡散
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_5.html


●現生人類拡散後のアフリカに関する記事

彭宇潔「熱帯湿潤地域の狩猟採集民集団における民族誌的研究―カメルーンのバカ・ピグミーにみられる移住と道具利用に関して」
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_9.html


●進化心理学に関する記事

同性間の性行動の進化的要因
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_15.html


●その他の記事

古代DNA研究の倫理的指針
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_24.html

更科功『「性」の進化論講義 生物史を変えたオスとメスの謎』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_30.html

最終氷期極大期以降の気温変化
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_18.html

エキソーム塩基配列の解読および解析
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_26.html

2021年の古人類学界
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過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
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古人類学の記事のまとめ(1)
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古人類学の記事のまとめ(2)
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古人類学の記事のまとめ(3)
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古人類学の記事のまとめ(4)
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古人類学の記事のまとめ(42)
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古人類学の記事のまとめ(43)
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古人類学の記事のまとめ(44)
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謹賀新年

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。ついに2022年を迎えました。毎年元旦には同じような記事を掲載しており、たまには変わったことを述べようと思うのですが、これといって思い浮かびません。昨年も一昨年から続く新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響が世界規模に拡大し、新たな変異株が流行して収束する見通しは立っておらず、私の周囲でも色々と不愉快なことが起きそうですが、人生には楽しみも多いのだ、と開き直ってしぶとく生きていき、古人類学を中心としてさまざまな分野で勉強と情報収集を地道に続けていくつもりです。

 昨年は、一昨年と同等以上に古人類学関連の文献を読めたと思います。ブログの記事更新数は、2019年の679本はもちろん、2020年の516本からもかなり減って393本となりましたが、2019年と2020年は似たような記事を複数書いてしまい、過去の記事の流用と継ぎ接ぎで終わったような記事も複数掲載してしまったので、充実度という点で、昨年は2019年や2020年と同等以上だったと思います。それでも、古代DNA研究はとくにそうですが、最新の研究動向には追いつくのはなかなか難しく、追いつくのは無理としても、関連文献を少しでも多く読んでいこう、と考えています。

 昨年は大きな買い物がなく、今年もとくに予定はないので、当分は節約を心がけていこう、と考えています。まあ、節約は個人や家族のような小単位では多くの場合で合理的な選択ですが、多くの人が節約に努めれば、社会は貧困化してけっきょく多くの人が苦しむことになります(合成の誤謬)。ほとんどの社会問題は結局のところ、トレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくので、多くの社会問題は解決困難なのだろう、と私は考えています。もちろん私程度の知見では有効な具体策は思いつかないのですが、私は、こうした矛盾を抱えて解決策を講じていくのも人間の宿命だろう、と開き直り、しぶとく生き続けていきたいものです。

年末の挨拶

 いよいよ2021年も終わりが近づいてきました。一年間この過疎ブログをお読みくださった方、さらには有益な情報を寄せてくださった方には感謝申し上げます。今年も日本社会は新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため大打撃を受け、その中で東京オリンピック・パラリンピックが開催されたことには今でもたいへん批判的ですが、東京都民の一人として、東京オリンピック招致を阻止できなかった報いだと反省・後悔しています。なお、当ブログで今回の東京オリンピック・パラリンピックに言及しなかったのは、開催に反対だったからというよりも、2004年にアテネで開催された夏季オリンピックの前にオリンピックへの関心を失ったからで(関連記事)、2006年6月に始めた当ブログではオリンピックについてほとんど言及していません。

 新型コロナウイルス感染症は夏に感染者数が激増し、その後感染者は急速に減少しましたが、冬を迎えて再度感染拡大の兆候も見られ、油断できません。国内の経済も政治も国際情勢とともに今後の見通しの暗さが印象づけられ、何とも厳しい時代だとは思いますが、しぶとく生き続けて、自分のやりたいことを続けられるよう、日々生きていくつもりです。今年当ブログで取り上げた中でとくに面白かった本は、以下の通りです。

Joseph Henrich『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化−遺伝子革命〉』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_3.html

柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_21.html

澤田典子『よみがえる天才4 アレクサンドロス大王 』
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_38.html

関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_6.html

石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_14.html

高杉洋平『昭和陸軍と政治 「統帥権」というジレンマ』
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_29.html

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_9.html

岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_31.html

黒田基樹『下剋上』
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_30.html

佐藤弘夫『日本人と神』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html

伊藤俊一『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_27.html

これらのなかでもとくにお勧めなのは、佐藤弘夫『日本人と神』です。なお、過去の面白かった本のまとめは以下の通りです。

(1)2010年4月以前
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_25.html

(2)2010年5月~2013年12月
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_3.html

(3)2014年1月~2018年4月
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_24.html

(4)2018年5月~2019年12月
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_51.html

(5)2020年1月~2020年12月
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_41.html

2021年の古人類学界

 あくまでも私の関心に基づいたものですが、年末になったので、今年(2021年)も古人類学界について振り返っていくことにします。近年ずっと繰り返していますが、今年も古代DNA研究の進展には目覚ましいものがありました。正直なところ、最新の研究動向にまったく追いついていけていないのですが、今後も少しでも多く取り上げていこう、と考えています。当ブログでもそれなりの数の古代DNA研究を取り上げましたが、知っていてもまだ取り上げていない研究も少なくありませんし、何よりも、まだ知らない研究も多いのではないか、と思います。古代DNA研究の目覚ましい進展を踏まえて、今年もネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)と、現生人類(Homo sapiens)とに分けます。



(1)非現生人類ホモ属のDNA研究

 まず大きく注目されるのが、イベリア半島北部の洞窟堆積物からネアンデルタール人の核DNAを解析し、その系統を推定した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_20.html
環境DNA研究の古代DNA研究への応用は近年大きく進展しており、その他にもこの記事でいくつか取り上げます。10万年以上前の洞窟堆積物から核DNA解析が可能となると、古代DNA研究の可能性が大きく開けてきます。日本列島のように、更新世の人類遺骸がきわめて少ない地域でも、人類集団の遺伝的構成が明らかになるのではないか、と期待され、今後の研究の進展がひじょうに楽しみです。ただ、DNAの保存状態は年代以上に環境に大きく左右されるようなので、日本列島の更新世の洞窟堆積物でDNAの解析に成功するのか、楽観はできないと思います。

 デニソワ人の存在が最初に確認された、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の堆積物でも、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類のミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、まずデニソワ人が、続いてネアンデルタール人が恐らくは気候変動に応じて繰り返し居住し、45000年前頃に初めて現生人類がデニソワ洞窟に居住した、と示唆されます。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_25.html

 デニソワ洞窟では新たにホモ属遺骸のDNAも解析されており、現時点では最古となるデニソワ人遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されました。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_31.html

 まだ論文では公表されていませんが、アルタイ山脈のネアンデルタール人14個体の核ゲノムデータを報告した研究は、解析された個体の多さとともに、ネアンデルタール人の社会構造解明の手がかりになりそうという点でも注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_20.html



(2)現生人類の古代DNA研究


●ユーラシア西部

 まず更新世では、ヨーロッパ最古級の現生人類遺骸のゲノムデータが相次いで報告され、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)では、42000年以上前の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)と関連した現生人類個体群が、遺伝的にはヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方に近い、と明らかになりました。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_9.html
一方、バチョキロ洞窟でも35000年前頃の上部旧石器時代個体は、アジア東部現代人よりもヨーロッパ現代人の方と遺伝的に近縁で、人口集団置換が起きた、と考えられます。

 チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、特定の文化的技術複合に確定的に分類できない石器群と関連する、推定年代が曖昧(おそらく4万年以上前)な現生人類遺骸はズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれており、遺伝的にはユーラシア東西の共通祖先集団と分岐した出アフリカ現生人類集団と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_11.html

 ルーマニアで発見された34000年前頃の現生人類女性のゲノム解析の結果、ユーラシア西部系ではあるものの、恐らくは絶滅した集団を表している、との研究も注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_27.html

 イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析結果を報告した研究は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)からその後のヨーロッパの人口史を推測するうえで重要となりそうです。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html

 環境DNA研究の古代DNA研究への応用では、コーカサスの上部旧石器時代層堆積物から、ホモ属とイヌ属とウシ属とヒツジ属のDNAが解析され、構成要素の違いもある程度識別できたことから、今後は他の地域や年代での応用が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_16.html
ドイツの後期青銅器時代遺跡では、ヒト遺骸から周囲の石へのDNA拡散が確認されています。
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_5.html

 ユーラシア西部、とくにヨーロッパは古代DNA研究が最も進展している地域で、今年も多くの注目すべき研究が提示されましたが、研究が進展している地域だけに、親族関係や社会構造の変化や特定の表現型と関連する遺伝子頻度の変化など、他地域よりもさらに深い学際的研究が進展しているように思います。当ブログで取り上げた研究では、昨年後半の公開となりますが、ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html
後期新石器時代から鐘状ビーカー期のフランスの人類集団の遺伝的多様性を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_23.html
クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者のゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_17.html
デンマークの新石器時代単葬墳文化の人々の遺伝的構成に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_24.html
新石器時代アナトリア半島における親族パターンの変化を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_31.html
イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html
エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_19.html
紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html
新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_5.html
エトルリア人の起源に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_3.html
ヨーロッパ南東部前期青銅器時代における親族構造と社会的地位の相続に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_10.html
イベリア半島南部における銅器時代から青銅器時代の人類集団の遺伝的変化を報告した研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_28.html

 現代ヨーロッパでは特異な言語を話すバスク人の起源と遺伝的構造を報告した研究も注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_32.html


●ユーラシア東部

 ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較してユーラシア東部の古代DNA研究は大きく遅れていましたが、近年の進展は目覚ましく、今年も重要な研究が相次いで公表されました。アジア北東部、とくにバイカル湖と隣接する地域とロシア極東全体の上部旧石器時代後期から中世までのゲノムデータが報告され、複雑な人口史が推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_14.html

 広範な古代ゲノムデータによりアジア東部各地域集団の形成過程を扱った包括的研究は、「縄文人」の形成過程も扱っており、とくに注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html

 おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示した研究も、完新世におけるユーラシア内陸部の動的な人口構造を指摘した点で注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_33.html

 新疆ウイグル自治区の青銅器時代人類の古代DNA研究では、牧畜の伝播が人口移動を伴った場合もそうでなかった場合もあることを示唆しており、文化伝播と人口移動の関係という考古学の重要な問題にも貢献する知見だと思います。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_14.html

 ユーラシア東部でもアジア東部の古代DNA研究の大きな成果は、後期更新世のアジア東部には絶滅した現生人類集団が複数存在した、と示したことです。アジア東部北方では、3万年以上前に北京近郊やモンゴル高原やアムール川流域といった広範な地域に、ユーラシア東部系に分類できるものの、その後絶滅した集団が存在した、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_1.html
中国南部(広西チワン族自治区)で発見された末期更新世~初期完新世にかけてのホモ属遺骸は、遺伝的に現代では絶滅している集団を表している、と報告されています。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html
両研究は、後期更新世のアジア東部の遺伝的多様性が現代よりも高く、絶滅した集団が少なからず存在したことを示唆します。

 日本列島に関しても注目すべき研究が相次いで公表され、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土集団の「内部二重構造」モデルを提唱した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_4.html
九州の縄文時代早期人類の核DNA解析結果を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html
2万年前頃となる港川人のmtDNA解析結果を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA解析結果を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html
高松市茶臼山古墳の古墳時代前期人骨の核DNA解析結果を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_16.html
和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA解析結果を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_16.html
オホーツク文化人のゲノム解析結果を報告した研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_28.html

 これらの研究も重要ですが、とくに大きな進展と言えるのは、古墳時代と縄文時代の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究で、上述の九州の縄文時代早期人類のみだった西日本の縄文時代の人類の核ゲノムデータが複数報告されています。
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html

 日本列島や朝鮮半島も含めてのアジア北東部の学際的研究も画期的成果で、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の文化は縄文文化に限定されていなかった、と示唆されます。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


●アメリカ大陸

 以前から指摘されていた、南アメリカ大陸の一部の先住民集団におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性は、より南アメリカ大陸のより広範な先住民集団で確認されました。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html
この問題は依然として未解決で、今後の研究の進展が期待されます。


●アジア南東部島嶼部とワラセアとオセアニア

 アジア南東部島嶼部とオセアニアへの現生人類の拡散とその後の遺伝子流動はかなり複雑だったようで、現生人類集団間でも複数の混合があり、デニソワ人関連集団から現生人類集団への複数回の遺伝子流動もあったようです。
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html

 ワラセアでは、スラウェシ島の7300~7200年前頃の現生人類遺骸が、遺伝的には大きく異なる二つの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合により形成され、既知の古代人および現代人には見られない独特な遺伝的構成を示し、現代人には遺伝的影響を(ほとんど)まったく残していない、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_29.html
上述のアジア東部に限らず世界各地で、後期更新世にはその後絶滅した集団が多くいたのでしょう。


●非ヒト動物の古代DNA解析

 古代DNA研究においては、ヒトが優先される傾向にあることは否定できませんが、非ヒト動物の研究も着実に進展しています。北アメリカ大陸の絶滅したダイアウルフ(Canis dirus)はその形態的類似性からハイイロオオカミ(Canis lupus)の姉妹種と考えられてきましたが、古代DNA解析の結果、ハイイロオオカミとは570万年前頃に分岐し、その後、両系統間の遺伝子流動はなかった、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_28.html

 放射性炭素年代と遺伝的データを組み合わせてマンモスの絶滅過程を推測した研究は、古代DNA研究と他分野の研究との学際的研究の典型例とも言え、今後こうした研究が増えていくでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_27.html

 家畜ウマの起源に関しても、古代DNA研究と考古学を統合した学際的研究が進んでいます。
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_29.html

 今年の古代DNA研究で最も注目されるのが、100万年以上前のマンモスのDNA解析結果を報告した研究で、
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_26.html
DNA解析に成功した動物遺骸としては最古となり、永久凍土のようなDNAの保存に適した環境では、100万年以上前の動物遺骸のDNA解析が可能であることを示した点で、たいへん意義深いと思います。


●総説的論文

 こうした古代人や現代人を対象としたゲノム研究の総説的な論文としては、現生人類の祖先系統の起源に関する総説や、
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_15.html
アフリカの人口史を概観した総説や、
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_2.html
上部旧石器時代のユーラシア北部のゲノム研究をまとめた概説や、
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_30.html
アメリカ大陸への人類の移住に関する総説や、
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html
中東の人口史に関する研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_9.html
アフリカ北部の人口史に関する概説や、
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_24.html
中期更新世の火の使用と(おそらくは種水準で異なる)人類集団間の文化的拡散に関する概説や、
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_12.html
学際的研究に基づくチベット高原の人口史などがあり、
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_12.html
とくに、過去10年の古代ゲノム研究の総説は有益です。
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_5.html

 古代DNA研究に関しては以前より倫理的問題も指摘されており、研究の倫理的指針が公表されました。
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_24.html

 まだ査読前ですが、古代DNA研究と考古学を統合して初期現生人類のアフリカからの拡散を推測した研究はたいへん注目され、検証の進展が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_4.html



(3)新たなホモ属化石やホモ属の分類

 レヴァントの中期更新世ホモ属化石は、後期ホモ属の複雑な進化とともにネアンデルタール人の起源を示唆していますが、
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_8.html
その人類進化史における位置づけについては今後も議論が続きそうです。
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_26.html

 黒竜江省で発見された中期更新世のホモ属頭蓋は新種ホモ・ロンギ(Homo longi)と分類されていますが、まだ広く認められているわけではないようで、またDNA解析に成功すればデニソワ人に分類される可能性が高いように思います。
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_25.html

 ホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)という問題のある分類群を破棄し、新たな分類群ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)を提案した研究は、中期更新世ホモ属の進化に関する混乱を整理する契機になるのではないか、と注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_24.html



 上記の3区分に当てはまりませんが、その他には、ネアンデルタール人の南限範囲の拡大と、現生人類と同様の石器技術を用いていたことを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_25.html
アフリカ西部において11000年前頃まで中期石器時代が持続していたことを明らかにした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_24.html
スラウェシ島で45000年以上前の具象的な洞窟壁画(イノシシ)が描かれていたことを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_25.html
海洋酸素同位体ステージ(MIS)5のチベット高原における石器を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_11.html
古代DNA研究にも言及しつつ、アジア東部のホモ属に関する知見をまとめた総説的な論文も注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_20.html


 この他にも取り上げるべき研究は多くあるはずですが、読もうと思っていながらまだ読んでいない論文もかなり多く、古人類学の最新の動向になかなか追いつけていないのが現状で、重要な研究でありながら把握しきれていないものも多いのではないか、と思います。この状況を劇的に改善させられる自信はまったくないので、せめて今年並には本・論文を読み、地道に最新の動向を追いかけていこう、と考えています。なお、過去の回顧記事は以下の通りです。

2006年
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_27.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_29.html

2007年
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_28.html

2008年
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_25.html

2009年
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_25.html

2010年
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_26.html

2011年
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_24.html

2012年
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_26.html

2013年
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_33.html

2014年
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_32.html

2015年
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_31.html

2016年
https://sicambre.at.webry.info/201612/article_29.html

2017年
https://sicambre.at.webry.info/201712/article_29.html

2018年
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_42.html

2019年
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_57.html

2020年
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_40.html

第67回東京大賞典結果

 近年では競馬への情熱をかなり失ってしまい、競馬関連の記事を掲載することが少なくなりましたが、有馬記念と東京大賞典だけは当ブログを始めてから毎年必ず取り上げてきたので、今年(2021年)も記事を掲載します。昨日(2021年12月29日)行なわれた今年の東京大賞典には、4連覇を狙うオメガパフュームとそのオメガパフュームを前走のJBCクラシックで破ったミューチャリーが出走してきましたが、GIとしてはやや寂しい出走馬構成になった感は否めませんでした。

 レースは、キャッスルトップがやや話して逃げたものの、1000m前で早くも後続が迫り、馬群が固まって直線を迎え、外を回ったオメガパフュームがクリンチャーとの激しい叩き合いを制して半馬身差で勝ち、4連覇を達成しました。クリンチャーとの着差はわずかでしたが、ずっと外を回り、直線を迎えるところでは外に振られたような形での勝利ですから、力の差は明らかだと思います。東京大賞典4連覇は確かに偉業ですが、正直なところ今年は相手に恵まれた感が否めません。オメガパフュームはこれで引退とのことで、種牡馬としてエンドスウィープからスウェプトオーヴァーボードへと続く系統をつなげてもらたいたものです。

大河ドラマ『青天を衝け』の記事のまとめ

 大河ドラマ『青天を衝け』が終了したので、関連記事をまとめました。

2021年の大河ドラマは渋沢栄一が主人公の『青天を衝け』
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_27.html

安藤優一郎『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる!慶喜をめぐる二人の暗闘』
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_22.html

第1回「栄一、目覚める」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_16.html

第2回「栄一、踊る」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_24.html

第3回「栄一、仕事はじめ」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_1.html

第4回「栄一、怒る」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_8.html

第5回「栄一、揺れる」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_16.html

第6回「栄一、胸騒ぎ」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_23.html

第7回「青天の栄一」
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_31.html

第8回「栄一の祝言」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_5.html

第9回「栄一と桜田門外の変」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_13.html

第10回「栄一、志士になる」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_21.html

第11回「横濱焼き討ち計画」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_28.html

第12回「栄一の旅立ち」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_4.html

第13回「栄一、京の都へ」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_11.html

第14回「栄一と運命の主君」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_18.html

第15回「篤太夫、薩摩潜入」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_26.html

第16回「恩人暗殺」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_33.html

第17回「篤太夫、涙の帰京」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_7.html

第18回「一橋の懐」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_14.html

第19回「勘定組頭渋沢篤太夫」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_21.html

第20回「篤太夫、青天の霹靂」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_28.html

第21回「篤太夫、遠き道へ」
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_5.html

第22回「篤太夫、パリへ」
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_12.html

第23回「篤太夫と最後の将軍」
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_20.html

第24回「パリの御一新」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_16.html

第25回「篤太夫、帰国する」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_23.html

第26回「篤太夫、再会する」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_13.html

第27回「篤太夫、駿府で励む」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_21.html

第28回「篤太夫と八百万の神」
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_30.html

第29回「栄一、改正する」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_4.html

第30回「渋沢栄一の父」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_11.html

第31回「栄一、最後の変身」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_18.html

第32回「栄一、銀行を作る」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_25.html

第33回「論語と算盤」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_1.html

第34回「栄一と伝説の商人」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_8.html

第35回「栄一、もてなす」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_15.html

第36回「栄一と千代」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_22.html

第37回「栄一、あがく」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_30.html

第38回「栄一の嫡男」
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_6.html

第39回「栄一と戦争」
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_13.html

第40回「栄一、海を越えて」
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_20.html

第41回(最終回)「青春はつづく」
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_28.html

全体的な感想
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_29.html

大河ドラマ『青天を衝け』全体的な感想

 前作の『麒麟がくる』が、重要人物の演者の降板により放送開始が遅れたことと、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため収録が中断され、最終回が年明けにずれ込んだことから、本作は初回が今年(2021年)2月14日と遅れ、さらにはCOVID-19のため1年延期された東京オリンピック・パラリンピックの開催と重なって放送休止となったため、41回で放送終了になり、その意味ではたいへん不運だったように思います。まだ試行錯誤だった最初期と、1993~1994年の変則放送期間の作品を除けば、本作は大河ドラマとしては最も放送回数の少ない作品だったのでしょう。

 これと関連して残念だったのが、明治維新以降の短さで、終盤、とくに岩崎弥太郎と五代友厚の死後はかなり駆け足気味だったように思います。ただ、元々幕末編に比重を置いていたらしいので、5~6回程度増えても、明治以降、とくに1890年代以降は駆け足気味になったかもしれませんが。正直なところ、もう少し明治以降に時間を割いてほしかったとは思いますが、本作の主人公である渋沢栄一の世界観形成と使命の自覚に重点が置かれていたと考えれば、本作の時間配分は大きな問題ではなかった、とも考えています。

 本作の時間配分では、序盤の血洗島での描写が比較的丁寧だったように思います。有名人による幕末政治劇を期待していた視聴者には不評だったかもしれませんが、栄一の世界観形成と使命の自覚を描くには、血洗島での経験が不可欠だったわけで、ここを丁寧に描いたのは正解だったように思います。大河ドラマに限らず、時代劇ではあまり描かれない幕末の農村の描写は、私にはなかなか楽しめました。この期間の幕末政治劇はおもに徳川慶喜視点で描かれており、この点はなかなか工夫されていたように思います。

 本作の最大の魅力は、主人公が能動的に選択し、自分の道を切り開いていくところが描かれていた点だと、私は評価しています。もちろん、明治維新のように栄一が時代の大きな流れに翻弄されることも、仕えた一橋家の意向に振り回されることもあったわけですが、栄一はそうした局面でもそれまでの人脈を活かしつつ乗り越えていき、新たな道を開いています。大河ドラマの主人公でも、上司(主君)など周囲の人物や大きな情勢に振り回されることが珍しくないように思うので、本作の主人公の能動性は魅力的に思えます。もちろん、受動的な人物を主人公に据えると魅力的な物語を描けない、というわけではありませんが。

 本作で評価が分かれそうなのは、栄一が一橋家に仕官して以降、政治劇も基本的には栄一視点となり、栄一のヨーロッパ訪問中に起きた大政奉還から王政復古を経て戊辰戦争へと至る過程が、詳しくは描かれなかったことです。この期間を慶喜視点で詳しく描くこともできたでしょうが、主人公である栄一にはよく分からないまま国内の政治情勢が激変した、と視聴者に印象づける構成になっており、悪くなかったように思います。

 明治以降、とくに1890年代以降が駆け足気味だったことなど、不満がないわけではありませんが、主人公が能動的だったこともあって、本作の全体的な出来にはかなり満足しており、これまでに視聴した幕末(もしくは幕末~近代前期)ものの大河ドラマでは、1980年放送の『獅子の時代』に次いで楽しめました。また、今後の幕末大河ドラマへの影響も注目され、たとえば本作の井伊直弼の人物像は、自信がなく頼りなさを自他ともに認めており、それまでの大河ドラマで多かったように思われる、大物感溢れる人物像とはかなり異なっていました。今後の幕末大河ドラマでは、井伊直弼はどのように描かれるのでしょうか。

大河ドラマ『青天を衝け』第41回(最終回)「青春はつづく」

 いよいよ最終回を迎え、1年近く視聴してきただけに、寂しさは否めません。今回は栄一の晩年が、おもに後継者である孫の敬三の視点から描かれました。初回から登場していた慶喜も喜作も、おもに明治編から登場した伊藤博文も井上馨もすでに退場しており、栄一は本当に長命だったのだな、と改めて思います。明治編初期の主要人物もおおむね退場し、大隈重信くらいしか残っていませんが、その大隈と栄一とのやり取りは、近代国家建設の自負を抱く両者が今後の日本を案じており、感慨深いものでした。

 最終回には、原敬や加藤友三郎や幣原喜重郎などの要人が初登場となり、さらには関東大震災も描かれて、やはり41回と短いこともあり、終盤は駆け足気味だったかな、と思います。この点は残念でしたが、栄一が最晩年まで意気軒昂だったので、最後まで活力のある作風となり、楽しめました。栄一は大往生と言えるでしょうし、栄一が死ぬ場面もそのような演出になっていましたが、最終回は全体的には、晩年の栄一が懸念していたアメリカ合衆国における排日機運の高まりや、栄一の死の直前に起きた満洲事変があり、不穏なところも予感させる内容でした。視聴者はその後の歴史を知っていますから、不穏な雰囲気をまったく見せないのも不自然で、その意味では、悪くはなかった最終回だったように思います。

第66回有馬記念結果

 近年では競馬への情熱をかなり失ってしまい、競馬関連の記事を掲載することが少なくなりましたが、有馬記念と東京大賞典だけは当ブログを始めてから毎年必ず取り上げてきたので、今年(2021年)も記事を掲載することにしました。今年の有馬記念には、昨年の三冠馬のコントレイルはジャパンカップ後に引退したため出走しませんでしたが、グランプリレース3連覇中のクロノジェネシス、皐月賞と天皇賞(秋)を勝った3歳馬のエフフォーリア、菊花賞を勝ったタイトルホルダーなどが出走し、まずまずの出走馬構成になったと思います。

 レースは、パンサラッサが後続をやや離して逃げ、タイトルホルダーが続く展開となり、クロノジェネシスを見るような形で進んだエフフォーリアが、直線で粘るディープボンドを競り落として勝ちました。3着にはクロノジェネシスが入り、直線でやや窮屈なところに入った感もありますが、状態が好調時には及ばなかったのかな、と思います。年度代表馬争いは、香港とアメリカ合衆国でGIを3勝したラヴズオンリーユーがいますが、エフフォーリアの方が有利だと思います。このところ牝馬がグランプリレースを5連勝しており、3年振りの牡馬のグランプリレース勝利となりました。

レヴァントの中期更新世の人類化石をめぐる議論

 以前当ブログで取り上げた(関連記事)、レヴァントの中期更新世の人類化石に関する研究(Hershkovitz et al., 2021、以下H論文)に対する反論(Marom, and Rak., 2021、以下MR論文)と再反論(May et al., 2021、以下M論文)が公表されました。まずはMR論文を取り上げます。

 H論文は、イスラエル中央部のネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)開地遺跡(以下、NR)の中期更新世ホモ属の下顎と頭蓋を報告し、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との間の交差点としてのレヴァントの重要性を確証します。H論文によると、NR化石は独特なホモ属古集団を表しており、レヴァントのネアンデルタール人に先行し、「NRホモ属」と呼ばれます。H論文の結論は、ネアンデルタール人的特徴とネアンデルタール人よりも古い古代型の特徴の斑状がNR化石の頭頂骨と下顎骨と下顎第二大臼歯で観察され、ヨーロッパとアジア東部の中期更新世ホモ属の進化と関わった可能性があるネアンデルタール人の祖先の起源集団と、NR化石との類似性を裏づける充分な証拠を構成する、というものです。

 H論文がNR化石の年代に持たせている意味(一種の系統種として扱われています)は、完全にネアンデルタール人と異議なく認められている別の化石が、同じくレヴァントのタブン(Tabun)遺跡で発見され、明らかに同じ年代であることを考えると、妥当ではありません。タブン遺跡のネアンデルタール人は、発掘者がC層と呼んでいた層で発見され、その年代は14万年前頃とNR化石と類似していることに要注意です。ただ最近になって、タブン遺跡のネアンデルタール人遺骸はより新しいB層に分類され、これは、中東でのネアンデルタール人の存在がずっと後の5万~4万年前頃に始まった、という一般的な合意と一致する年代です。したがって、タブン遺跡における元々の考古学的文脈を受け入れると、ネアンデルタール人が少なくとも2個体、14万年前頃に現在のイスラエルで生存していたことになります。

 報道によると、NR化石の研究に関わっていないライトマイア(Philip Rightmire)氏は、NR化石の頭頂部は、「初期のどちらかと言えば古代型の外観のネアンデルタール人」と指摘しています。別の報道によると、同じくNR化石の研究に関わっていないハブリン(Jean-Jacques Hublin)氏は、NR化石はネアンデルタール人の起源集団を表しているにはあまりにも新しく、歯の証拠に基づくと、斑状の形態はネアンデルタール人の地域的変異を表している、と指摘しています。MR論文は、NR下顎骨を解剖学的構成要素に分解し、H論文で考慮されなかった下顎形態を再評価します。その結果、NR化石はネアンデルタール人として単純に分類されるべきだ、と示唆されます。

 ネアンデルタール人の下顎骨は、一連の高度な診断的特徴を示し、それを理解するMR論文の手法の前提は、ネアンデルタール人の独特な生体力学的機能に由来します。ネアンデルタール人が派生的な種であることを考えると、これらの特徴はネアンデルタール人だけのものです。これらの特徴には、明白な中間翼状結節、臼歯後隙、下顎前部の台形輪郭(基底部の観点)、長髄歯、短く前方に位置する歯列弓、咬合平面に対する下顎頭の明確に低い位置があります。下顎の解剖学的構造は下顎の特有の機能に関わっているので、これらの特徴は生得的に相互と関連しており、他の形態学的結論もあります。

 下顎頭自体は、いくつかの特有の解剖学的特徴と関連しています。ネアンデルタール人の下顎頭は、一般的な形態よりも低く位置しているだけではなく、前方に移動し(S字切痕の最深点にひじょうに近くなります)、これらには二つの重要な意味があります。まず、下顎頭の前方位置により、S字切痕の典型的な非対称輪郭が生じます(後方の観点)。次に、下顎稜は下顎頭極間の中間に位置しますが、一般的な構成では、下顎稜は通常、横方向にずれて側方極と結合します。さらに、ネアンデルタール人の歯列弓は短く、固定されたオトガイ孔に対して前方に位置しており、臼歯後隙を生じます。その結果、ネアンデルタール人においては、オトガイ孔を通る冠状断は通常、下顎第一大臼歯と交差します。

 これらのネアンデルタール人の形態学的特徴は、NR下顎で明確に示されます。たとえば、NR下顎頭は残っていませんが、その基部を用いて下顎頭の高さを推定できます。過大評価でさえ、非常に低い下顎頭が示唆されます(図1)。同様に、下顎頭頸状部の基部は、下顎稜が横方向にずれていないものの、下顎頭に垂直に接近していることを明確に示します(図1)。以下はMR論文の図1です。
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 ネアンデルタール人20個体、現生人類141個体、ホモ・エレクトス(Homo erectus)1個体(KNM-ER 993)の下顎標本に基づくMR論文の定量分析は、ネアンデルタール人と現生人類の下顎の形態間の違いの大きさを確証します。MR論文の図では、NR下顎は一貫して有意に、歯列弓の長さおよび結果として生じる臼歯後隙を含めて、全てのパラメータでネアンデルタール人の形状に一致します(図2および図3)。以下はMR論文の図2および図3です。
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 ネアンデルタール人の下顎、およびネアンデルタール人と現生人類の下顎間の違いの程度により示される分類学的に特有の特徴群を考えると、H論文で主張された急進的な想定には堅牢な証拠が必要です。そうした証拠が欠けているだけではなく、H論文自体が、「NR化石は、中期更新世ホモ属かネアンデルタール人かホモ・エレクトスのどれに分類できる可能性が高いのか、確定できない」と述べています。さらにH論文は、「分類学的に関連する下顎の特徴を組み合わせて」分析した、と述べています。しかし、上述の明確に診断的な特徴はほぼ見落とされています。

 三次元幾何学的形態分析(geometric morphometric analysis、略してGMA)も形態比較も、分類学的分析と関連する詳細を捕捉していません。35点の標識のGMAが、視覚的に明らかなネアンデルタール人の診断的形態さえ捕捉しなかったのはなぜでしょうか?標識の選択、少なすぎる標識の使用、一般的な形態の主成分分析の使用を通じて最大の変異を強調したことの結果として、情報が失われたのかもしれません。H論文はNR化石の形態を本質的なネアンデルタール人の特徴と比較しませんでしたが、その結果はネアンデルタール人とのNR化石の類似性を排除していません。ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)の剃刀を引用すると、「証拠なしで主張できることは証拠なしで却下もできます」。MR論文の分析は、NR化石は明白なネアンデルタール人として単純に分類すべきである、との証拠を提供します。


 M論文は、こうしたMR論文の指摘に反論します。H論文では、NR化石は関係する形態を示す他のレヴァントのホモ属化石とともに、中期更新世ホモ属古集団の一部として認識されます。このホモ属集団はいくつかのネアンデルタール人的な下顎と歯の特徴を示しますが、いくつかの重要な特徴ではネアンデルタール人とはかなり異なります。それはおもに、H論文の補足資料で広範に記載され分析されているように、頭頂骨の古代型の形態(平坦さと厚さ、特有の頭蓋内表面形状、大きさ、管の痕跡に反映されています)も下顎形態により証明されています。

 MR論文で示唆された主張とは対照的に、H論文はNR化石を新種として解釈しませんでした。「古集団(paleodeme)」という用語はひじょうに控えめで、さまざまな水準での人類化石記録の研究に適切かつ必要なので、H論文の主張は「急進的」ではなく慎重な手法を反映しています。NRホモ属化石がネアンデルタール人の事例とみなされるべきかどうかは、このホモ属集団をどう定義するかに完全に依存します。MR論文と同様に、M論文はネアンデルタール人下顎とのNR下顎の形態学的類似性を詳細に認識しました。しかし、MR論文とは異なりM論文は、NR化石の頭頂骨と下顎で観察された古代型の特徴は、無視できない古典的なネアンデルタール人との重要な進化的違いを説明する、と主張します。じっさいM論文は、NRホモ属がネアンデルタール人系統の先行者だったかもしれない、と提案します(図1)。以下はH論文の図1です。
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 MR論文はH論文の複数の方法論の形態計測分析の欠陥を報告していませんが、M論文はMR論文の分析と結果の解釈に以下のような欠陥を見つけました。

(1)ネアンデルタール人の下顎の特徴について、MR論文ではネアンデルタール人特有と主張された6点の特徴は、じっさいにはNR化石に代表されるこのホモ属集団に限定されていません。たとえば、よく発達した中間翼状結節は、前期更新世のイベリア半島北部のATD6-96標本、イベリア半島北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)のホモ属下顎の一部、他の非ネアンデルタール人標本に存在します。長髄歯は、SH標本の大臼歯や、ATD6-96標本の第三大臼歯や、ホモ・エレクトスでさえ観察されます。

(2)下顎の特徴の重要性について、MR論文では、「下顎の解剖学的構造は下顎の特有の機能に関わっているので、これらの特徴は生得的に相互と関連している」と指摘されています。換言すると、ネアンデルタール人の下顎を適切に機能させるには、これら6点の特徴が共在しなければならない、とMR論文は提案したわけです。しかし、この指摘は、たとえば、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)がこれら全ての特徴を有していないものの、その咀嚼体系は機能している、との観察により容易に論破できます。MR論文がネアンデルタール人の下顎の特異性の生体力学的説明を提供しようとした場合、線形測定ではなく、下顎の三次元形態分析(つまり、幾何学的形態計測分析)を実行すべきです。なぜならば、三次元形態は下顎に加えられた負荷をより適切に表すからです。

(3)用いられた特徴の数について、主張の裏づけとなる下顎の6点の特徴を用いたMR論文とは異なり、H論文は既知の判別能力を有する47点の特徴を分析し、NR化石を他の化石と比較しました。

(4)臼歯後隙について、M論文はNR-2標本が臼歯後隙を有しており、この特徴がネアンデルタール人の下顎では優占的であることを報告します。ただ、H論文は、NR-2標本の臼歯後隙の形態が古典的ネアンデルタール人とは異なることを明示しています。第三大臼歯後方の領域は短く、わずかに傾斜していますが(祖先的状態)、ネアンデルタール人では大きくて水平です。臼歯後隙の提示のこのさらなる観察(図2)は、MR論文では考慮されませんでした。以下はM論文の図2です。
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(5)下顎第二大臼歯の形態について、MR論文は長髄歯の存在を主張しましたが、NR化石とイスラエルのケセム洞窟(Qesem Cave)のホモ属遺骸とSHホモ属遺骸の歯の間の類似性を認識させられるような、他の形態学的特徴を無視しました。ネアンデルタール人に先行する集団と比較を無視しながら、選択された特徴に対処するというMR論文の選択の背後にある理論的根拠は、M論文の著者たちには不明なままです。

(6)頭頂骨について、NRホモ属化石を異なる古集団として解釈するH論文は、古代型の形態を明確に有している頭頂骨の詳細な分析に基づいています。MR論文では、頭頂骨の言及はありません。

(7)比較標本について、MR論文はNR下顎を、自身の種の分類学的帰属にしたがって、ネアンデルタール人と現生人類のみで構成される標本と比較しています。この手法は必然的に、NR遺骸の分類を、現生人類とネアンデルタール人との間の二元的選択へと強制しました。さらに悪いことに、MR論文は7点のSH標本をネアンデルタール人標本にまとめること(SH標本はネアンデルタール人であるとの先験的仮定を表しています)により、NR化石をネアンデルタール人として分類する以外に選択肢がない、循環論法を作りました。

(8)推定された計測と再構築された解剖学的構造の使用について、NR下顎は不完全なので(図2A)、MR論文はその測定値を得るために、NR下顎の形態と大きさと一部の失われた解剖学的構造の位置について、いくつかの仮定を立てる必要がありました。MR論文に云う「ネアンデルタール人」の下顎の大半では、対象となる解剖学的領域が欠けているので、MR論文で類似の仮定は他の標本でも同様になされた、とM論文は推測します。そうした暫定的な測定値の使用には注意が必要になる、とM論文は考えます。とくに、MR論文はNR化石の下顎頭と下顎稜はネアンデルタール人的と説明しますが、M論文の図2Bで示されるように、下顎頭とその頸状部はNR下顎では失われています。さらに、MR論文におけるNR下顎頭の自由な描写が正しかったとしても、MR論文で記載された形態はネアンデルタール人だけのものではなく、中期更新世ホモ属化石でも見られます。MR論文における臼歯後隙の大きさの評価は、MR論文の不確かな手法の別の事例で、それは、第三大臼歯が壊れており、その大きさが正確には評価されなかったからです(図2C)。さらに、咬合平面の再構築は、存在する唯一の切歯が壊れている(もしくはひじょうに浸食されている)ものの、それにも関わらずMR論文では報告されていたことを考えると、不可能です。

(9)MR論文の再構築がH論文の結果を変える可能性の検証のため、M論文は全ての下顎の三次元標識形状に基づいて分析を実行し、分析では、アフリカの中期更新世ホモ属とヨーロッパの中期更新世ホモ属とSH集団とネアンデルタール人の平均的位置という4通りの代替的再構築を用いて、NR化石の下顎頭と下顎稜の位置が推定されました。主成分分析が明確に示すのは、用いられた再構築に関係なく、NR下顎は常に、ネアンデルタール人もしくは他のホモ属クラスタ内ではなく、SH集団の分布範囲内に投影された、ということです(図2D)。

(10)年代について、NRホモ属の年代の重要性がそれほどでないと主張するため、MR論文は以下のように述べています。最近になって、タブン遺跡のネアンデルタール人遺骸はより新しいB層に分類され、これは、中東でのネアンデルタール人の存在がずっと後の5万~4万年前頃に始まった、という一般的な合意と一致する年代です。このMR論文の指摘には根拠が欠けています。なぜならば、H論文のどこにも、タブン1標本の年代が5万~4万年前頃とは述べられていないからです。逆にH論文は、タブン1標本がずっと古い、と強調しています。

 NR化石の正確な分類学的帰属は、可能だとしても、H論文の貢献の範囲を超えています。H論文は代わりに、これらのレヴァントでの発見を、より広い視点で調べ、ヨーロッパとアジアにおける中期更新世ホモ属の移住の役割の役割を議論しました。興味深いことに、明らかにネアンデルタール人と関連があり、遺伝学的にネアンデルタール人と近いと証明されているSH集団(関連記事)でさえ、ネアンデルタール人とは分類されませんでした。

 MR論文は、NR化石が形態学的に、したがって系統発生的にネアンデルタール人と関連している、とのH論文の大前提を裏づけます。しかし、上述のようにM論文は、MR論文の比較標本における帰属と、その手法の形式と内容に欠陥を見つけました。NR化石に関するMR論文の評価は、頭頂骨の除外により制約されており、頭頂骨はNR化石を異なる古集団として認識するのに重要です。さらに、MR論文はその結果を、利用可能なデータの豊富さと、とくに人類史の複雑性を考慮せずに、伝統的な手法で解釈しました。本文に添付されている包括的な補足は、この種の批評を述べる前に、より慎重に考慮されるべきです。H論文は、保存された構造の全側面の記述的および定量的分析を用いて、NR化石を包括的に分析し、NR遺骸の最も徹底的で正確な形態学的および形態計測的評価を得ました。それにも関わらず、M論文は、化石証拠の解釈とヒト進化の再構築が困難な課題であることを認識しています。したがってM論文は、新たな見解を受け入れ続け、NR古集団に関する情報に基づいた科学的議論を歓迎します。


参考文献:
Hershkovitz I. et al.(2021): A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel. Science, 372, 6549, 1424–1428.
https://doi.org/10.1126/science.abh3169

Marom A, and Rak Y.(2021): Comment on “A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel”. Science, 374, 6572, ebl4336.
https://doi.org/10.1126/science.abl4336

May H. et al.(2021): Response to Comment on “A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel”. Science, 374, 6572, eabl5789.
https://doi.org/10.1126/science.abl5789

森恒二『創世のタイガ』第9巻(講談社)

 本書は2021年12月に刊行されました。第9巻ではまず、第8巻の最後で明らかになった、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の側の「王」がどのように太古の世界に来たのか、描かれます。1940年代のドイツとの国境に近いフランスで、士官学校を出たばかりの新任将校であるクラウス・シュルツ少尉の率いるドイツ軍の小隊は敵軍に包囲され、シュルツは曹長のヴォルフの進言に従って森へと入ります。ドイツ軍が劣勢なようなので1944年の戦いかもしれませんが、クラウスは部下から功を焦って無茶な進軍を繰り返したと批判されているので、全体的にはドイツ軍が優勢でも、小隊が突出して敵軍に包囲されかけただけかもしれず、そうならば1940年の戦いの方かもしれません。士官学校を出たばかりのクラウスは小隊を統率できず、戦果が乏しかったものの、ヴォルフが来て小隊は戦果をあげ始めます。クラウスは、この小隊の手柄は全てヴォルフのものだと考え、隊長としての自分の存在意義に悩んでいしました。ここまで生き延びた5人は洞窟の入り口を見つけて中に入り、洞窟壁画を発見します。その壁画は戦いの様子を描いたもののようでした。ところが、一行は突然眩暈を覚えて洞窟が崩落し始め、入り口が塞がれます。一行は洞窟の中を塞がれていない方へと進み、光が入り込んでることに気づきますが、まだ午前3時であることに気づき、警戒しつつ洞窟の外へと出ます。そこは川の近くで、一行が洞窟から出た途端に洞窟が崩壊します。ここまでは、主人公のタイガたちの経験とよく似ています。

 洞窟から出た一行は野営している人々を見つけ、敵だと一瞬警戒しますが、子供もおり、「未開」の人々のようだと気づき、焦ります。「未開」の人々がクラウスたちを襲撃してきたので、クラウスたちは森へ退避しようとしますが、「未開」の人々は速く、とても逃げ切れそうにないので、銃で応戦します。「未開」の人々は銃撃にまったく対応できず、クラウスたちに怯えます。すると、ネアンデル渓谷の近くの町の出身であるデニスが、「未開」の人々はネアンデルタール人だと気づきます。一行が呆然とするなか、マンモスが2頭現れ、一行が逃げようとするなか、ヴォルフは応戦します。銃撃と手榴弾でマンモス2頭を倒し、クラウスたちは太古の世界に来たことを悟ります。ネアンデルタール人たちは、マンモス2頭をあっという間に倒したクラウスたちを神のように崇拝します。ヴォルフは、ここがドイツで、人以上の存在が我々を戦うために導いたのだと考え、最も優れた人間が地上を獲得し、最高の人種だけが支配民族たるべく招かれている、という『我が闘争』にしたがって、一つの民族と一つの国家による世界統治を目指そう、と提案します。クラウスたちはネアンデルタール人を従えて現生人類(Homo sapiens)を殺戮していき、勢力を拡大します。作中での「現在」の描写からすると、クラウスがこの世界に来てから少なくとも数年、あるいは10年以上経過しているかもしれません。

 一方、現生人類の側では同盟が拡大し、タイガの住む集落は人口が増え、煉瓦で囲壁が築かれつつありました。狩に出てネアンデルタール人の小規模な集団をすぐに撃退してきたタイガとアラタに、レンは話し合いの必要性を訴えます。このままネアンデルタール人と戦って殺すだけでは、未来に帰る手がかりを失ってしまう、というわけです。自分を戦場に連れて行け、とレンは要求しますが、レンが戦場に出れば3分ともたずに死ぬし、戦えない人間を戦場では守れない、とタイガは断ります。自分を守るくらいできる、と激昂するレンですが、試しにアラタと戦って圧倒されます。リクは傷心のレンに前に進むよう諭し、弓を渡します。レンは弓を上手く扱えますが、獣を仕留めることはできず、悩みます。そんなレンに、ティアリや子供たちは弓を習おうとします。レンはタイガから、激しい戦闘ではティアリは危険なので、弓を教えるよう、頼まれていました。レンは、戦わない自分が皆から軽蔑されていると考えていましたが、ティアリから、タイガはレンが弱いのではなく優しいと考えており、だから子供たちに慕われるのだ、と聞いて自分の居場所を見つけたようです。

 一方、レンと違って、ネアンデルタール人と戦ってネアンデルタール人を殺すことに迷いがなかったように見えるタイガにも、心境の変化が現れ始めていました。現生人類は槍盾部隊を編成してネアンデルタール人を圧倒しますが、あまりにも一方的な殺戮に疑問を抱き始めたタイガは、追い詰められたネアンデルタール人を殺さないよう仲間に言い、それに仲間たちは反発します。そこへナクムが仲裁に入り、皆殺しにするようではネアンデルタール人と変わらない、我々は人になるか獣になるか選ばねばならない、と訴えて現生人類の男性たちは団結し、タイガとアラタはナクムが本物のカリスマだと感心します。タイガは心境の変化をアラタにも打ち明けます。

 そんな戦いの中で、現生人類の言葉を解するネアンデルタール人が捕虜となり、ナクムがカシンとタイガとアラタとともに尋問します。全能の神の意志に基づいて自分たちの王が「色つき」、つまり現生人類を滅ぼすことに従うだけだ、と言うネアンデルタール人の捕虜に、これからも大勢が死ぬのになぜ戦い続けるのか、とタイガは問いかけます。するとネアンデルタール人の捕虜は、光の風が氷を運んできて、長い冬が訪れたところに王が現れ、「春は来ない」と予言し、その通り氷に閉ざされたが、王の導きで獣と敵を倒して南進し、生き延びた、と答えます(まあ、寒冷化のような気候変動はヒトの一生から見ると長期的なので、1年単位で氷河の劇的な出現・消滅のような大きな変化が起きることはないと思いますが)。その王が「色つきは災い」で、我々「白き者」が大地を支配せよと言ったので、ネアンデルタール人は現生人類と戦い続けねばならない、というわけです。アラタは、ネアンデルタール人側の王が(タイガたちの視点で)現代人で、白人至上主義者だろう、と推測します。現生人類を滅ぼしたら人類も滅ぶのではないか、とチヒロが疑問を呈すと、ネアンデルタール人側の王は現生人類アフリカ単一起源説ではなく多地域進化説を信じており、ネアンデルタール人がヨーロッパ人に進化したと考えているかもしれない、とアラタは推測します。

 タイガは悩みつつも、再び攻めてきたネアンデルタール人を皆殺しにするよう訴え、新たに仲間となった別の現生人類部族の最強の戦士だったカイザは賛同します。しかし、アラタやナクムはタイガの悩みに気づいていたようで、ナクムはタイガに、ネアンデルタール人の偵察ではなくともに狩りに行くよう指示します。それでもネアンデルタール人との戦いになるかもしれないから、と言って偵察に行こうとするタイガに、お前は俺を王と認めたのではないか、と諭します。タイガの狩りの腕を認めたナクムは、良き戦士より良き狩人になりたい、とタイガに言います。自分は何になりたいのか分からない、と悩むタイガを、タイガには猛る狼のような一面と父鹿のように優しい一面があり、どちらも必要だ、とナクムは諭します。戦いのために生きてはいけない、との賢者ムジャンジャの言葉に従うナクムは、自分たちは狩人であり、敵をいくら殺しても幸せにならない、とタイガに言い、妹のティアリと結婚するよう勧めます。タイガは悩みつつもティアリと狩りに出て、ティアリが弓で獲物を射て、それで仕留められずともウルフが血の跡を追って仕留める、という方法が有効だと気づきます。ウルフが別の狼と仲良くしているのを見たタイガとティアリは喜びますが、タイガはこれから来る冬にネアンデルタール人が南下してきて、現生人類にとって未知の戦いが始まることを懸念していました。


 第9巻はここまでとなりますが、ついにネアンデルタール人の側の王の正体が描かれ、謎解きはかなり進んだように思います。普遍的な物語の側面では、疎外感を強めていたレンがこの太古の世界での自分の存在意義を見つけ、一方で迷いを振り切って戦っていたように見えるタイガが深刻に悩み始め、まだ割り切れていないものの、ナクムに諭されて再度自分の方向性を見つめ直しつつあるようです。ネアンデルタール人側の「現代人」というか「未来人」は、作中の「現在」ではまだクラウス以外描かれておらず、あるいは仲間割れや戦死などでクラウスしか生き残っていないのかもしれません。

 アラタはクラウスたちが現生人類多地域進化説を信じているのではないか、と推測していますが、1940年代には、多地域進化説的な見解は主流ではなかったと思います(関連記事)。ただクラウスたちが、多地域進化説を信じていなくとも、白人至上主義的な考えから、肌の色が薄いネアンデルタール人を自分たちの祖先もしくは仲間と考え、肌の色の濃いナクムたち現生人類を蔑視・敵視している、とも解釈できるかもしれません。タイガたちがタイムスリップして以降、クラウスが前線に出てくることはなかったようなので、タイガとクラウスが遭遇するとしてもかなり先になるかもしれませんが、二人の接触は本作の山場となりそうなので、注目されます。第9巻も、謎解きと普遍的な物語が描かれ、楽しめました。今後の展開も期待しています。なお、第1巻~第8巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

第6巻
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_41.html

第7巻
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_22.html

第8巻
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_2.html

中期更新世ホモ属の新たな分類

 中期更新世ホモ属の新たな分類に関する研究(Roksandic et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。2019年、アメリカ生物人類学会(以前はアメリカ自然人類学会)総会で、本論文の著者たちはホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の定義に取り組みました(関連記事)。会議の結果は以下の通りです。(1)ホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群には誰も満足していませんでした。(2)研究者により種の意味づけが異なり、分類に用いられる全資料にさまざまな化石が含まれました。(3)この問題を無視することは、奇跡的な解決策にはつながりません。(4)中期更新世人類の系統分類学をよりよく理解するためには、この「中期の混乱」を取り除くことが重要でした。

 本論文は、ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)について、定義が不充分で一貫性なく用いられてきたので、完全に破棄するよう提案します。代わりに本論文は、おもにアフリカ、および地中海東部にも存在した可能性が高い分類群として、新種ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)を提出します。本論文の主張は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の派生的特徴を示し、伝統的に狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスに分類されてきた中期更新世人類化石は、ドイツのマウエル(Mauer)で発見され、ホモ・ハイデルベルゲンシスの正基準標本とされている下顎骨を含めてホモ・ネアンデルターレンシスに再分類され、初期ネアンデルタール人とみなされるべきである、というものです。

 分類学的区分は、進化の概念的理解に強い影響を及ぼし、先取権の規則による古い種名の復活は、中期更新世人類進化の複雑性の理解を不明瞭にするのに、重要な役割を果たすことがありました。ホモ・ハイデルベルゲンシスの復活はその好例です。観察された変異の一部を認識して分類する、新たなよく定義されていない種を導入することにより、古人類学者が中期更新世における人類進化をよりよく説明するための、より堅牢な説明モデルを構築できる基礎的部分に貢献するよう、本論文は希望します。


●ホモ・ハイデルベルゲンシスという種区分の設定による中期更新世人類進化史理解の混乱

 中期および後期更新世におけるヒト進化の研究は、最近数十年で顕著な進歩を遂げました。今では、現生人類(Homo sapiens)の起源はアフリカ、おそらくはアフリカ全域にあり、以前に考えられていたよりも古く、中期更新世後期にまでさかのぼる、と知られています(関連記事)。現生人類がアフリカから6万年以上前におそらくは複数のより小さな波で拡散し、主要な拡散が6万年前頃以後だったことも明らかです(関連記事)。さらに、たとえばホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ナレディ(Homo naledi)やホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)といった(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、現生人類系統と同年代に存在したものの、現生人類の進化には殆どもしくは全く役割を果たさなかったと考えられている、過去20年間でホモ属に分類された種は、後期更新世後半のヒト進化記録の複雑さを証明しています。

 中期更新世は、諺の「中期の混乱」としてもはや退けられていませんが、地球規模で、後のヒトの形態の二つの重要な特徴の出現が見られる期間として、次第に認識されつつあります。それは、より進んだ大脳化とより小さな歯で、おそらくは地理的集団の分化でした。ホモ・ハイデルベルゲンシスの妥当性に関する最近の疑問は、後期更新世へのホモ属の進化のシナリオを仮定する能力を妨げるような、中期更新世人類を特徴づける観察可能な変異をひとまとめにすることの停滞を明らかにしています。

 古人類学の分野は、20世紀初頭にドイツのマウエルで発見された下顎骨に基づいてホモ・ハイデルベルゲンシスが提案されて以来、大きく発達しました。20世紀の最後の20年におけるホモ・ハイデルベルゲンシス化石の回収以来、さらなる重要な発見がなされてきました。残念ながら1908年において、ホモ・ハイデルベルゲンシスの報告者には進化の統合の概念がなく、分岐分類学的手法はまだ開発されていませんでした。さらに、ホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群の復活はとくに、動物命名規約で要求されるような形態学的特徴の特定の組み合わせではなく、現代人の起源についての議論と関連した、人類の系統発生/系統分類学に関する20世紀後半の理解に起源があります。

 この問題をさらに悪化させたのは、下顎骨が通常はひじょうに可塑的と考えられ、頭蓋において関連する形態学的変化を反映している可能性もそうでない可能性もあるのに、関連頭蓋のない下顎がホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群の正基準標本として用いられたことです。マウエル標本と、関連する頭蓋断片により表されるフランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l'Arago)の下顎骨との間の類似性は、ホモ・ハイデルベルゲンシスの復興につながりました。次にマウエルとアラゴの集団は、ギリシアのペトラローナ(Petralona)標本や、アフリカではザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)頭蓋と呼ばれているカブウェ1号(Kabwe 1)やエチオピアのボド(Bodo)の標本と、頭蓋の形態学的類似性を考慮して関連づけられたので、ホモ・ハイデルベルゲンシスの提案された時空間的範囲は拡大しました。

 ホモ・ハイデルベルゲンシスは後に、中国で発見された「古代型サピエンス」もホモ・ハイデルベルゲンシスに含められるかもしれない、と提起されました。残念ながら、分類名の復活が望ましい明確さをもたらすことは稀で、たとえば1945年に提案されたアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus)の再導入(関連記事)は、議論を過熱させました。ホモ・ハイデルベルゲンシスも、この点で例外ではありません。

 ホモ・ハイデルベルゲンシスを構成する化石についての、複数の、しばしば矛盾する見解は、この分類群をとくに誤解させます。他の分野の生物学者や旧石器時代考古学者など非専門家にとってさえ、ホモ・ハイデルベルゲンシスは一般化された中期更新世人類か、あるいはネアンデルタール人の系統種を表しており、時には逆説的に両方を表します。古人類学界内では、ホモ・ハイデルベルゲンシスの分類学的曖昧さは、複雑で時として分かりにくい議論を引き起こしてきました。一つの論文において、矛盾するような分類標本(hypodigm、ある集団の特徴を推測するための標本)を有する分類群の多数の記述を見つけられます。

 より厄介なことに、ホモ・エレクトス(Homo erectus)かネアンデルタール人か初期現生人類か、容易に分類できない新たに発見された中期更新世人類化石は依然として、中期更新世人類の非特異的形態を示唆する「広義」という修飾語句とともに、ホモ・ハイデルベルゲンシスというこの一律的な分類群にまとめられる傾向にあります。あるいは、そうした分類の容易ではない中期更新世人類化石は、より一般的もしくは説明的な名称である、「古代型ホモ・サピエンス」、「中期更新世ホモ属」、「ホモ属種」に分類されますが、これはその進化的位置を示すことがほとんどありません。


●人類の分類とその重要性

 人類の分類学の不確実性には多くの理由があります。重要で明確な阻害要因は均等ではない地理的範囲の稀な化石記録で、より広範な地域比較を困難にすることがよくあります。しかし、分類学、とくに人類の分類学の理論的土台は、ヒト進化の理解と個々の化石記録の進化における位置づけにとって、より深刻な妨げとなる可能性があります。理論的および方法論的考察は科学の歴史そのものに由来しているので、現在利用可能なデータの再分析ではなく、視点の変化が必要です。遺伝学は、化石分類学の問題にさらなる複雑さを追加してきました。なぜならば、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような一部の遺伝学的によく定義された人口集団は、骨格的にはあまり定義されていないからです(関連記事1および関連記事2)。

 「種」はリンネ式二名法分類学内で設計された「動物命名法国際審議会により承認された分類の基本単位」です。このように、種は生物学的に関連する集団を形成する有機体の最下層の分類を示します。リンネ式分類学は、進化論の発展に先立って、生物の体系的分類として18世紀以来発展しました。当然、分類学的思考の歴史は、化石の数とこれら化石の変異範囲の両方が増加するにつれて、ますます複雑になりました。この問題は、化石分類学における、cf.(参照せよ)やaff.(類似)やs.l.(広義)やs.s.(狭義)など修飾語句未決定の命名法を使う必要によりさらに複雑になりました。

 さらに、「種の概念について論じるのに使われてきた何千ものページ」にも関わらず、広く受け入れられてきたのは(少なくとも有性生殖生物については)、エルンスト・マイヤー(Ernst Mayr)の生物学的種概念(BSC)だけで、そこでは、種の基盤として末端分類群の生殖隔離が用いられます。化石種の定義にさいして、この概念は分岐分類学的分析にとって暗黙的かつ基本的です。残念ながら、化石標本に生物学的種概念を適用することには、以下のようないくつかの問題が明らかです。(1)形態学的変異は必ずしも生殖隔離を反映していません。(2)生殖隔離は、よく定義された現生霊長類と他の哺乳類でさえ絶対的ではなく、属水準でも交雑が観察されてきました。(3)時間的枠組みが含まれていないので、生物学的種概念は進化の変化の理解もしくは調査に不向きです。

 進化的種概念(ESC)は、祖先と子孫間の関係を確立する必要があるので、化石記録にはより適切と提案されました。たとえば、アウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)は、同じ向上進化的に進化する系統の一部を表している、と提案されました。しかし、この関係がより薄弱な場合、進化的種概念は循環論法になる可能性があります。さらに、年代学は系統発生において重要ですが、分類学的定義の基礎にはなり得ません。なぜならば、第一に、評価された年代が方法の改良による変化に左右され、第二に、種は一部地域において親種と娘種がり長く並存するかもしれないからです。本論文では言及されていませんが、アウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスではその可能性が指摘されています(関連記事)。

 最近の研究では、実用的で純粋に形態学的な手法が、「診断可能な最小単位」として種に適用されました。人類の事例では、分岐分類学的分析に基づいて、属内における変異の世界的分布とあり得る祖先・子孫関係の調査が、生殖隔離の問題を仮定(もしくは考慮さえ)せずに可能となりました。類似モデルとしてヒヒ族を調べた研究では、「400万年前未満に祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が分岐したあらゆる人類種は、有利ならば拡大する可能性がある外来遺伝子を戻し交配により導入できる雑種を、以前には生めたかもしれない」と提案されました。反対の初期の主張にも関わらず、過去10年の古代DNA分析は、さまざまな人類系統間のかなりの混合を示しました(関連記事)。後期更新世における人類の末端分枝間の交雑の程度と頻度はよく確立されており、最近の研究では、中期更新世でも同様に観察できる、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。

 古生物学者や進化人類学者と比較して、ヒトの進化と分類学に対する古人類学者の手法の例外主義的性質から、さらなる問題が生じます。たとえば、人類種については、年代学(したがって、最終的に確立された概要)が、分類学的決定に重要な役割を果たし、動物命名規約の確立された慣行とは(理想的には)無関係に考慮されます。本論文の著者たちは最終的に、仮定としてのヒト進化を理解したいと考え、年代学と系統発生は、概要の構築と特定の分岐分類学の適切性(もしくは不適切性)の判断において重要な役割を果たします。さらに、人類、とくにホモ属は、広範に分布した多型的分類群で、人類は大きな行動的柔軟性を示し、「万能家-専門家(generalist specialist)」の生態的地位を占め(関連記事)、その生態的地位により、形態における顕著な変化なしにさまざまな環境条件を利用し、そこに適応できます。

 中期更新世人類の進化については、他の可能性があり得ることを理解したうえで、以下の二つの選択が識別されます。(1)更新世ホモ属化石全体を、分離した亜種および/もしくは系統種を有するホモ・サピエンスの単系統と見なせるか、(2)観察された形態学的変異を、「実用的」種概念内の分類学的に意味のあるものと見なせます。後期更新世のネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類が姉妹分類群を形成することを考えると、中期更新世人類の記録の変異性を再考する必要があります。観察された中期更新世の変異性が、(不明瞭に定義された)ホモ・ハイデルベルゲンシスのような単一の分類群に包摂され得る可能性は低い、と明らかになります。中期更新世の人類の変異は国際動物命名規約(ICZN)およびヒト進化の過程の理解に関する現在の進展を同時に満たす分類群の定義において、よりよく、より正確で、一貫した基準を用いて、整理される必要があります。


●分類群としてのホモ・ハイデルベルゲンシスは破棄すべきです

 問題のある分類群であるホモ・ハイデルベルゲンシスを用いると、ヒト進化の後期段階における主要な問題をどう考えて伝えるのか、複雑にし、難解にし続けるでしょう。これらの問題の解決のため本論文は、ホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)という分類群を破棄し、新たな分類群ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)を導入するよう、推奨します。

 分類群としての狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスは、最近の遺伝学的および/もしくは形態学的データに照らして抑制し、それらの化石はホモ・ネアンデルターレンシスに再分類されるべきです。この主張を裏づける最近の一致は、スペイン北部の「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の人類をネアンデルタール人系統の初期構成員とみなすべきである、というものです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。SH人類は、その年代が少なくとも海洋酸素同位体ステージ(MIS)12となる43万年前頃までさかのぼり、頭蓋や下顎におけるネアンデルタール人の派生的特徴とともに、ひじょうに派生的な歯列をすでに示します。

 アラゴ洞窟の人類と他の中期更新世ヨーロッパ西部の人類は、変動的ではあるものの、遍在する派生的なネアンデルタール人の特徴を示します。そのため、同じ形態を有する別の種を提起する必要はなく、同様にホモ・ハイデルベルゲンシスはホモ・ネアンデルターレンシスの下位同物異名となるので、余分です。とくに、609000±40000年前頃となるマウエルのホモ属下顎が、現在考えられているように、いくつかの派生的なネアンデルタール人の特徴を示すならば、ネアンデルタール人系統内の初期標本を表す可能性があります。しかし、ホモ・ネアンデルターレンシスとしてヨーロッパ西部中期更新世標本を認識しても、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)などヨーロッパにおける他の分類群の存在は除外されません。

 アジア、とくに中国の古代型人類のホモ・ハイデルベルゲンシスへの分類は、破棄されるべきです。中国の記録に精通している多くの研究者は、中国の化石をホモ・ハイデルベルゲンシスに分類することに満足していません。たとえば、ヨーロッパとアフリカと中国のさまざまな化石の前額部の幅の最大値と最小値の比較では、ペトラローナやボドやカブウェのような人類は比較的密接にまとまりますが、中国の化石からはずっと離れています。おそらく非計測的特徴の最も包括的な比較研究では、アフロユーラシア世界の東西の中期更新世人類間で異なる、以下のような特徴が特定されました。それは、頬骨の前蝶形骨突起、顔面上部の高さ、上顎のシャベル型切歯、インカ骨、第三大臼歯の形成不全、鼻サドルです。ほとんどの場合、中国の中期更新世ホモ属は西方の準同時代のホモ属(ホモ・ボドエンシスやホモ・ネアンデルターレンシス)から離れています。アジアにおける中期更新世人類の変異性の全体像は、当初の予想よりずっと複雑で、アジア地域において同時に複数系統が存在し、中には同定されていない系統がいたかもしれません(関連記事)。

 広義のホモ・ハイデルベルゲンシスも、一般的に全ての非特異的な中期更新世人類を含むため破棄すべきで、これはとくに情報をもたらさない手法です。広義のホモ・ハイデルベルゲンシスは以前、後期更新世人類の最終共通祖先(MRCA)、もしくは少なくともアフリカとヨーロッパの系統(つまり、それぞれ現生人類とネアンデルタール人)の共通祖先とみなされていました。現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先は、前期更新世後期もしくは中期更新世最初期にさかのぼるので(関連記事)、現在広義のホモ・ハイデルベルゲンシスに分類されている標本は、最終共通祖先を表しているとはみなされません。アフリカとユーラシアの人類間の分岐がデニソワ人系統とネアンデルタール人系統との間の分岐よりもずっと早かった、と最近になって提案されたこと(関連記事)を考えると、これはとくに適切な点です。そのため、広義のホモ・ハイデルベルゲンシスは、もはや全てのアフリカとヨーロッパの系統の根源とみなせません。

 前期更新世後期もしくは中期更新世最初期に最終共通祖先が出現した場合、中期更新世の地域的な地理的多様体(アフリカかヨーロッパかアジア)は、これら3系統の最終共通祖先として機能できません。しかし、前期更新世後期にさかのぼる候補が存在するかもしれません。それはエチオピアのアワッシュ川上流のメルカクンチュレ(Melka Kunture)層のゴンボレ2(Gombore II)遺跡で1973年と1975年に発見された2個の大きなホモ属の頭蓋断片の、一方は部分的な左側頭頂であるメルカクンチュレ1(MK1)で、もう一方は側頭骨の右側であるメルカクンチュレ2(MK2)です。これらの化石は興味をそそり、アフリカの中期更新世標本の祖先的形態の可能性が指摘されています(関連記事)。

 MKホモ属は、その推定頭蓋容量が1080cm³であることを考えると、中核的特徴の一つとして増大した頭蓋容量を共有する全ての中期更新世系統の最終共通祖先を表しているかもしれません。MK頭蓋遺骸は一般的に「古代型」形態を示す、と考えられています。大脳化(脳頭蓋の拡大と頭頂壁の垂直化)の兆候は、ダカ(Daka)やブイア(Buia)などより古いアフリカ東部の標本でも観察されます。現在の化石記録に基づくと、これは100万年前頃のアフリカ東部が後の中期更新世および後期更新世人類の最終共通祖先出現の、最も可能性が高い候補地であることを示唆します。


●ホモ・ローデシエンシスという分類群は抑制されるべきです

 ホモ・ローデシエンシスという分類群は1921年に提唱されて以来、古人類学で広く用いられることはありませんでした。じっさい、「Web of Science」でのクイック検索では、ホモ・ハイデルベルゲンシスの直接的言及が274件に対して、ホモ・ローデシエンシスはわずか17件です。本論文は、これには二つの要因がある、と考えています。まず、ホモ・ローデシエンシスという分類群は充分に定義されておらず、さまざまに理解されて用いられています。次に、その名称が、現代の科学共同体が自身を分離しようとしている社会政治的重荷と関連しているからです。以下、さらに詳しく説明されます。

 ホモ・ローデシエンシスはひじょうに異なる意味を有するようになりました。たとえば、ホモ・ローデシエンシスをヨーロッパの狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスと同年代で、最終的にはアフリカでホモ・サピエンスを生み出したアフリカの中期更新世分類群とみなす研究者もいます。あるいは、ホモ・ローデシエンシスは全ての後期更新世人類系統の最終共通祖先で、現生人類とネアンデルタール人の両方の祖先とみなされました。ホモ・ローデシエンシスという分類がホモ・サピエンス系統の中期更新世の祖先として排他的にみなされる場合、現在の理解に従って、その分類標本(hypodigm)を再定義するだけでよい、と主張できるかもしれません。しかし、ホモ・ローデシエンシスという分類群は複数の方法で定義されてきたので、これらの多様な定義から分離することはできません。したがって、ホモ・ローデシエンシスを使い続けることで、不必要な混乱が生じます。

 ホモ・ローデシエンシスの形態学的記載は、1931年以前の分類学的名称の命名慣行に準拠してネアンデルタール人との違いに焦点が当てられていた、と主張できるかもしれません。しかし、その後のこの分類群の復活は、正基準標本であるカブウェ1(Kabwe 1)およびとペトラローナ標本との類似性に基づいています。同じ分類標本にカブウェとペトラローナを含めることで、アフリカとヨーロッパの分類群が生じます。アフリカとヨーロッパの最終共通祖先に広義のホモ・ハイデルベルゲンシスを用いることと並行して、中期更新世標本をこのようにまとめることは、ペトラローナ標本で観察されたネアンデルタール人の特徴、およびユーラシアの歯列パターンの初期の出現と矛盾します(関連記事)。

 ホモ・ローデシエンシスが古人類学者により広く使われるようにならなかった理由の少なくとも一部は、その致命的な政治的重荷に起因します。その名称は、ケープ植民地政府首相だったセシル・ローズ(Cecil Rhodes)とイギリスの鉱業植民地主義、およびこの自称「ローデシア(Rhodesia)」の所有者の在来先住民集団対する忌まわしい行為と関連しています。これらの考慮事項は名称却下の根本にはありませんが、小さな問題ではなく、無視すべきではありません。人類の分類群の議論は、社会的深淵では機能できません。名称が送る社会的意図の賢明な評価が必要です。なぜならば、名称は現生人類の進化における過程の理解に影響を及ぼすからです。古人類学を非植民地化することは、厳密な分類規則に優先する必要がある重要な課題です。

 国際動物命名規約の不幸な控えめさは、1937年に命名された昆虫(Anophthalmus hitleri)により例証されます。スロベニアの5ヶ所の洞窟だけで見つかっているこの歩行甲虫の分類名は、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に由来します。この名誉は、悪名高きドイツ首相もしくはその記念品収集家にとって失われず、記念品収集家は違法採集によりこの甲虫を絶滅寸前に追いやりました。こうした事情にも関わらず、国際動物命名規約ではその分類名は有効なままです。生物学における命名規則は中立的でも絶対的でもないので、その伝統的な厳格さへの批判が高まりつつあります。


●新たな分類群ホモ・ボドエンシス

 ホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシスという二つの分類群の抑制に加えて、国際動物命名規約に準拠して明確に定義され、あらゆる社会政治的重荷を背負わない新たな人類分類群を追加する必要がある、と本論文は提案します。この分類群は、ユーラシアの分類群がネアンデルタール人とデニソワ人に分岐する前の、ヨーロッパとアジアとアフリカの中期更新世分類群の最終共通祖先に起源があり、ホモ・サピエンスの中期更新世の祖先を表しています。この中期更新世(774000~129000年前頃)、つまりチバニアン(Chibanian)の人類標本はホモ・サピエンスの直接的祖先を表し(図1)、エチオピアの旧ハラゲ県(Hararghe Province)北西部のアファール盆地(Afar Depression)に位置する、ミドルアワシュ(Middle Awash)研究地域のボド・ダール(Bodo D'ar)で発見された頭蓋に因んで、ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)と命名されます。ホモ・ボドエンシスの正基準標本はボド1号(Bodo 1)で、1976年秋に発見され、顔面と前方頭蓋が保存されており、現在はアディスアベバの国立エチオピア博物館で保管されています。年代はアルゴン-アルゴン法により60万年前頃と推定されており、アシューリアン(Acheulian)石器群と関連しています。以下は本論文の図1です。
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 ボド1号は、損傷した顔面骨格、部分的な神経頭蓋、単一個体の基底点(大後頭孔前縁と頭蓋正中線の交点)の前に位置する頭蓋底を有し、数十個の骨片から復元されました(図2)。右上顎および右頬骨の側面と、左側頭突起が失われていることを除けば、顔面は一般的によく保存されています。口蓋は第四小臼歯の後方部分が欠けており、右側大臼歯根のいくつかの小さな断片を除いて歯は保存されておらず、歯槽突起は損傷を示しています。神経頭蓋は、ほぼ完全な前頭骨、蝶形骨、左側側頭骨と両側頭頂骨の部分、後頭骨の右側部分が保存されています。頭蓋底は、部分的に保存された左側下顎窩と関節隆起、後頭骨底部、側頭骨の錐体部を含んでいます。顔面はひじょうに巨大で、大きな長方形の眼窩とひじょうに広い眼窩間領域、広い鼻根と開口部、深くて頑丈な左側頬骨、広くて深い口蓋があります。眼窩上隆起は突出して頑丈ですが、弓型で、区切られており(つまり、内側と外側に分割されています)、外側では細くなっています。眼窩上隆起は連続した骨棚を形成しませんが、むしろ顕著な眉間領域で区切られ、その背後は(溝ではなく)平坦な面になっています。

 正面から見て、とくに頭蓋冠の頭蓋骨前頂には明確な矢状竜骨があります。上顎洞は拡大し、犬歯窩はありません。前頭洞も広く、非対称です(右側の洞の方が大きくなっています)。側面から見ると、頭蓋は長くて低く、前頭部は低くて平らな形態を示します。頭頂骨角窩は顕著で、側頭鱗は高く弧を描いています。前鼻孔は側面突起でほぼ垂直です。上から見ると、頭蓋骨は梨状で、顕著な眼窩後狭窄から後方に広がります。下から見ると、大きな切歯孔が硬口蓋前方に位置し、下顎窩は浅く、間接隆起の保存された部分は平坦です。側頭骨の錐体部は、破裂孔が隙間のような形状を示すように位置しています。頭蓋内容積は1250 cm³(1200~1325 cm³)と推定されています。顔面と後頭頂部に位置する一連の解体痕は、意図的な死後の肉の切り取りと解釈されました。以下は本論文の図2です。
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 ホモ・ボドエンシスは、頭蓋の特徴の特有の組み合わせにより判断されます。ボド標本(ボド1号)はすでに、ホモ・エレクトス(Homo erectus)的特徴とホモ・サピエンス的特徴の混合を示す、と報告されてきました。ボド1号はホモ・エレクトスに似ており、それは、頑丈な中顔面、全体的な顔面下顎前突、突出した隆起と平坦で低い前頭鱗、矢状竜骨、低い頭蓋冠形態、顕著な頭頂骨角窩、厚い頭蓋冠骨、破裂孔が観察されないこと(狭い隙間として示されます)です。これらの特徴は、ホモ・エレクトスの一般的な頭蓋構造の保持に関連している可能性があります。他の中期更新世および後の人類分類群と類似する特徴は、頭蓋容量の増加および関連する特徴(より広い前頭および中頭蓋冠、減少した眼窩後狭窄、頭頂骨瘤の兆候、高くて弓形の側頭鱗)、垂直(前方傾斜ではありません)な鼻縁、硬口蓋前方の切歯管の位置です。過度に厚くて突出していますが、断片化された眉弓は、中間の眼窩と後方で細くなった眉の始まりの分割とともに、ホモ・ボドエンシスの特有の特徴と見なせるかもしれません。

 ホモ・エレクトスと比較して、ホモ・ボドエンシスは頭蓋容量の増加(ホモ・エレクトスとホモ・サピエンスの中間)と、一連の派生的特徴により異なります。その派生的特徴とは、側頭鱗の湾曲、より広い中頭蓋冠、頭頂骨瘤の兆候、比較的広い前頭骨で、前頭骨では、最大頭蓋幅が後方から見て頭蓋骨の下部1/3に位置し、より垂直な頭頂骨壁があります。

 脳容量の増加は、ホモ・ナレディやアジア南東部島嶼部で孤立していたホモ・フロレシエンシスなどを除いて、中期更新世人類のほとんどで共有されています。この特徴は、おそらく前期更新世後半の最終共通祖先においてすでに選択下にあります(関連記事1および関連記事2)。他の特徴は、ホモ・ネアンデルターレンシスや後期ホモ・エレクトスやまだ体系化されていないかもしれないアジア集団など、中期更新世の人類と共有されていません。ホモ・ボドエンシスはホモ・ネアンデルターレンシスとは異なっており、それは、中顔面突出および神経頭蓋形態と関連したネアンデルタール人特有の形態を示さないからです。両者は眉弓の特定の形態でも異なっており、ホモ・ネアンデルターレンシスの眉弓は滑らかに連続し、二重弓形となっています。

 ホモ・ボドエンシスには、多くのホモ・サピエンス特有の特徴が欠けており、別種としての命名が保証されます。これは、ホモ・ネアンデルターレンシスでは中期更新世の初期に固有派生形質が観察されることとは対照的です。しかし、後のホモ・サピエンス特有の特徴は、巨大ではあるものの断片化された眉弓(外側と内側に分割されています)など、ホモ・ボドエンシスに存在する特徴から派生し得ます。

 ホモ・ボドエンシスの分類標本(hypodigm)は、正基準標本のボド1号に加えて、遊離した下顎を除いて頭蓋が充分に保存されているものとなり、アフリカでは少なくとも、ザンビアのカブウェ1号、タンザニアのンドゥトゥー(Ndutu)人骨、南アフリカ共和国のエランズフォンテイン(Elandsfontein)のサラダンハ(Saldanha)人骨、タンザニアのラエトリのンガロバ(Ngaloba)人骨(LH 18)が含まれ、モロッコのサレ(Salé)人骨もその可能性があります。299000±25000年前と推定されているカブウェ1号は、後期ホモ・ボドエンシスを表しているかもしれません(関連記事)。イタリアのチェプラーノ(Ceprano)人骨など、ヨーロッパのいくつかの中期更新世ホモ属標本は、同様にホモ・ボドエンシスに含められるかもしれません。ホモ・ボドエンシスはアフリカ全体に分布し、地中海東部(ヨーロッパ南東部とレヴァント)にまで拡大し、氷期後にそこからヨーロッパ(おそらくはアジア中央部および東部)の人口動態吸収源の再移住に寄与したかもしれません。


●まとめ

 本論文はホモ・ボドエンシスを新種として提示し、ホモ・サピエンス(現生人類)の祖先である、と提案します。しかし、ホモ・ボドエンシスはユーラシア(ネアンデルタール人とデニソワ人)とアフリカ(現生人類)の人類の最終共通祖先と考えるべきではありません。図1で模式的に示されているように、ホモ・ボドエンシスはユーラシアの人類がネアンデルタール人とデニソワ人とおそらくは他の集団に分岐する前に、ユーラシアの人類集団と分離しました。本質的にアフリカの種であるホモ・ボドエンシスは、レヴァントとヨーロッパの人類進化史に役割を果たしたかもしれません。とくに、レヴァントとヨーロッパ(おもに地中海東部に集中しています)の中期更新世標本は、セルビアのマラ・バラニカ(Mala Balanica)や、ハゾレア(Hazorea)やナダオウイェー・アイン・アスカール(Nadaouiyeh Aïn Askar)などレヴァントのいくつかの標本など、あらゆるネアンデルタール人的特徴を示さないものがあり、ホモ・ボドエンシスとみなせる可能性があります。これらの化石はあまりにも断片的なので、現時点ではホモ・ボドエンシスの分類標本に含められませんでした。しかし、チェプラーノ標本に示されるように、ホモ・ボドエンシスは中期更新世のヨーロッパに存在した可能性があり、ヨーロッパ西部のアラゴやペトラローナの人類化石で見られる混合形態に寄与したかもしれず、それはヨーロッパ西部の他の化石でもあり得ます。

 新たに定義された種であるホモ・ボドエンシスは、ボド1号標本に基づいて記載され、明確な二つの利点があります。第一に、中期更新世人類の変異性と地理的分布を認識することです。第二に、ホモ・ネアンデルターレンシスとは異なり、ホモ・サピエンスの出現に先行する、地中海東部へと拡大したアフリカの中期更新世人類の特有の形態を記載したことです。厳密な生物学的意味で真の種ではありませんが(これら分岐した集団間の移住と遺伝子流動の強くて蓄積されつつある証拠のため)、ホモ・ボドエンシスという新たに定義された分類群は、ヨーロッパとアフリカの不適切に命名され定義された中期更新世人類の不明瞭で一貫していない使用を断ち切り、本論文で提示されたさまざまな話題について、より一貫して意味のある議論を促すはずです。


参考文献:
Roksandic M. et al.(2021): Resolving the “muddle in the middle”: The case for Homo. Evolutionary Anthropology.
https://doi.org/10.1002/EVAN.21929

『カムカムエヴリバディ』安子編からるい編へ

 放送開始前から本作の脚本への個人的期待値が高く、安子編の主演にも期待していましたが、主演に関しては期待値以上で、たいへん満足しています。話の方もここまでは楽しめてきましたが、放送開始前から本作最大の山場になりそうだと思っていた、安子編から「るい」編への移行がどう描かれるのか、たいへん気になっていました。放送開始前から、安子が娘の「るい」を日本に残してアメリカ合衆国へと行き、「るい」が母親とカムカム英語を恨むようになる、と明かされていたので、ここをどう描くかで本作の評価が大きく左右されるのではないか、と懸念しつつも楽しみにしていました。この経緯があまりにも突飛だったりご都合主義的だったりすると、本作の評価は大きく下がることになります。まだ1/3が終わったにすぎないので、最終的な評価はできないとしても、安子編の最後が詰め込み気味だったことは否定できないと思います。本来は半年放送予定だったのに、おそらくは短縮になるでしょうから、ある程度は仕方ないのでしょうが、それにしても安子編の最後は情報過多だったかな、とは思います。

 安子と「るい」だけではなく、その周辺の人々の思惑と行動と偶然が安子と「るい」の別れにつながったわけですが、「るい」の心理については、納得しやすい構成になっていたのではないか、と思います。雪衣から、自分が母にとって重荷になっており、雉真家に返す、つまり捨てられたかのように言われ、それでも自分の世話をしてくれる母が好きではあるものの、おはぎを一緒に売ることはできないと言われたばかりか、和菓子屋「たちばな」を叔父の算太と再興したら一緒には暮らせないとまで言われて、「るい」には母への不信感が蓄積されていたのでしょう。そこへ、母が「たちばな」に関する要件で算太のいる大阪に行くと言っておきながら、入学式当日にも戻らず、ロバートと会っており求愛されていたわけですから、母が嘘をついていたと誤解したでしょうし、自動車が迫ってきたことでかつて母のせいで額に大きな傷を負ったことも思い出し、一気に母を拒絶する心理状態に陥ったのには納得できます。母が大阪に行くと言ったときに、「るい」が不安げに母に尋ねていたことも、「るい」の母への不信感が示されていたように思います。難点を言えば、小学校に入学する直前の子供が岡山から大阪まで列車に乗って母を探しに行くことですが、まあ、不可能とまでは言えないように思います。それにしても、“I hate mushroom”が“I hate you”の伏線だったのには驚きました。ここで、「るい」は‘hate’という英単語をすでに知っている、とさりげなく示されたわけです。

 安子の選択には、納得できない視聴者が多いかもしれません。確かに娘からともに学んできた英語で“I hate you”と言われたのは半端な衝撃ではないでしょうが、それであれほど大切にしていた娘を諦めるのか、との疑問は当然あると思います。ただ、娘を連れて雉真家から逃げて大阪で暮らしたものの、生活は楽ではなく、ついには娘に大きな傷の残る怪我を負わせてしまって雉真家に戻り、娘の額の傷を目立たないよう治療するには雉真家の財力でなければ無理だ、という状況に追い込まれており、勇との結婚を断って雉真家にもいられなくなった上に、その娘から(安子は気づいていませんが)誤解されて“I hate you”と言われて拒絶され、兄の算太にも裏切られたわけですから、もう頼れるのはロバートしかいない、とまで思い詰めても仕方ないかな、とは思います。安子が勇からの求婚を断ったのは、まだ自覚していなかったもののすでにロバートに惹かれていたことともに、妊娠中に勇に無防備に腹を触らせていたように、勇は安子にとって頼りにはなるものの、稔とは違って性愛の対象には全くならなかったからでもあるのでしょう。千吉が「るい」に執着したことで安子を追い込んだ感もありますが、この時点では勇には子供がおらず、孫は「るい」だけですから、仕方のないこところでしょうか。勇にすでに息子がいれば、千吉も安子が「るい」とともに雉真家から出ることを許し、治療費も出して、安子と「るい」が別れることもなかったかもしれません。まだ先は長いので、安子と「るい」との関係がこのままで終わるとは思えず、安子とロバートとの間の息子が語りで、どこかで安子の真意を「るい」に語るのかもしれません。

 その安子を追い詰めた一人である兄の算太の行動には、不可解なところがあります。算太はお調子者のろくでなしで、これまで家族に頼りっぱなしでしたが、戦争経験と、祖父母と両親が出征中に全員亡くなったことで精神的に打撃を受け、雪衣にも勝手に想いを寄せてすでに家族扱いしていたのに、雪衣が勇と関係を持ったことで、家族に裏切られたように思いこんで衝撃を受け、失踪したのかな、と当初は考えました。しかし、雪衣が妊娠しているとすると、作中の時間経過は不明ですが、勇との間の子ではさすがに悪阻は早すぎるように思うので、算太が先に雪衣と関係を持っていたのかな、とも思います。そう考えると、算太が雪衣に求婚したのは、当初お調子者の算太の勝手な思い込みだと考えていましたが、算太にとっては無謀な選択というわけではなかったのでしょう。雪衣と関係を持って求婚したのに、その雪衣が勇になびいたとなると、算太が自暴自棄になって失踪したのも納得しやすくなります。

『ウイニングポスト9 2022』2022年4月発売

 『ウイニングポスト9 2022』が来年(2022年)4月に発売される、と公表されました。私は『ウイニングポスト』シリーズの信者で、98DOS版だった初代から7マキシマム2008まで、PKも含めてパソコン版をすべて購入してきました(関連記事)。しかし、『ウイニングポスト7 2010』以降は、購入しない作品もあり、『ウイニングポスト8』も2017年版と2018年版は購入せず、2019年に発売された『ウイニングポスト9』も、その2020年版と2021年版も購入しませんでした。

 『ウイニングポスト』シリーズ発売以降、『ウイニングポスト7 マキシマム2008』と『ウイニングポスト7 2012』の間で購入期間が4年空きましたが、『ウイニングポスト8 2016』の発売からすでに5年以上経過し、『ウイニングポスト』の新作を購入していない期間としては最長となり、『ウイニングポスト8 2016』も発売後数ヶ月少しプレイしたくらいですから、すっかり信者ではなくなりました。競馬自体への関心も以前と比較してかなり低下しており、マルシュロレーヌのブリーダーズカップディスタフ勝ちのような快挙を当ブログで取り上げる気力もないくらいです。

 それでも、この間『ウイニングポスト』シリーズの新作情報は一応確認しており、『ウイニングポスト9 2022』の来春発売も知ったわけですが、最大の注目は、やはり『ウイニングポスト』シリーズでは初となる1970年代のシナリオ(1976年)が追加されたことでしょう。1976年は、国内ではトウショウボーイとテンポイントとグリーングラスの三強が3歳(当時の表記では4歳)で、故障明けで重賞には出走しなかったものの、4歳のカブラヤオーがまだ現役におり、同じく4歳のテスコガビーも一応はまだ現役です。同じく4歳には、1976年の天皇賞(春)と1978年の宝塚記念を制したエリモジョージもいます。2歳にはマルゼンスキーがおり(ゲームではクラシックに出走可能なのでしょうか?)、現代でも比較的知名度の高そうな競走馬がそろっていることから、1976年が開始年代に採用されたことは尤もだと思います。さすがに番組は現代のものとなるでしょうから、天皇賞の勝ち抜け制は採用されておらず、テンポイントが天皇賞春秋連覇を達成することもあるかもしれません。まあ、天皇賞(秋)は2000mとなるでしょうから、テンポイントがトウショウボーイに勝つのは難しそうではありますが。

 ヨーロッパでは、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと凱旋門賞を牝馬が勝ち、この前後のヨーロッパでは、牝馬が牡馬との混合の大レースを勝つことがよくありました(そうした傾向は、1990年代には弱くなり、2010年代にはまた強くなっているように思います)。この年、ヨーロッパでは2歳に同厩のアレッジドとザミンストレルがいます。アメリカ合衆国では、6歳にこの年に3年連続年度代表馬に選出されるフォアゴー、2歳にシアトルスルー、1歳にアファームドとアリダーとジョンヘンリーがおり、この年にはスペクタキュラービッドが生まれます。1970年代は、アメリカ合衆国の競馬の黄金期だったように思います。

 そう考えると、1976年開始シナリオはなかなか魅力的で、私が『ウイニングポスト』シリーズを購入しない間に、サブパラが16段階になったり、芝コースの適性が取り入れられたり、大阪杯やホープフルステークスやグッドウッドカップがGIになったりしていますので、久々に購入しようかな、と考えています。ただ、もう能力閲覧ツールなしにプレイする気にはなれないので、能力閲覧ツールがなければ購入しませんし、未読の論文と本を読む方が有益ですし、何よりも近年はその方がずっと楽しめるので、発売後すぐに購入するのではなく、評判を確認してから購入するか否か、決めるつもりです。

『卑弥呼』第77話「天照の神託」

 『ビッグコミックオリジナル』2022年1月5日号掲載分の感想です。前回は、暈(クマ)の国の5人のタケル王が、田油津日女(タブラツヒメ)に日見子(ヒミコ)となるよう要請するところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の国の千穂(現在の高千穂でしょうか)で、出産のさいに死んだ妻を夫たちが悼んでいる場面から始まります。暈(クマ)の国の飽田里(アキタノサト)では、暈の5人のタケル王が集まり、日見子(ヒミコ)にしてやると言ったのに、田油津日女(タブラツヒメ)が即答しないことに不満を言い合っていましたが、これほど。の大役なので躊躇するのも当然だ、との意見も出ます。田油津日女は5人のタケル王の要請を一度断り、それでも5人のタケル王から強引に要請されたため、天照大神次第と返答しました。5人のタケル王は田油津日女を監視して返答を待ちます。竪穴住居に籠っていた田油津日女が出てきて、配下の男性に何かを告げます。

 一方、暈国の鞠智(ククチ)の里(現在の熊本県菊池市でしょうか)では、鞠智彦(ククチヒコ)が配下の志能備(シノビ)から、5人のタケル王が田油津日女を日見子として擁立し、鞠智彦に対抗しようと考えている、と報告します。5人のタケル王は自分が考えているほど阿呆ではなかった、と呟く鞠智彦に、志能備の頭領は危険な田油津日女を早く始末するよう、進言します。田油津日女が5人のタケル王の要請を受けて天照大神の神託を俟っている、と報告を受けた鞠智彦は、たとえ5人のタケル王が田油津日女を日見子に擁立しようとも、民がそれを認めることはよういではない、と答えます。暈の民は田油津日女を慕っている、と言う配下のウガヤに対して、厲鬼(レイキ)、つまり疫病に家族を殺されて心が塞いだ民を、田油津日女が勇気づけたことは認めるが、田油津日女の言う通りに1年後に厲鬼が消えるのかまだ不明で、やすやすと日見子になることは不可能だから、徒に騒がず様子を見よう、と鞠智彦は答えます。すると志能備たちは、そもそも田油津日女がどうも気に入らないと言いますが、鞠智彦は意味ありげな表情を浮かべます。

 千穂では、ヌカデがヤノハに食事を用意していました。妊娠中のヤノハの腹はすでにかなり大きくなっており、ヌカデは、里で赤子の取り上げ方はしっかり学んだので、安心して自分に任せろ、と言います。するとヤノハは、その赤子の母は昨日死んだと聞いている、と言います。筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)では子を産んだ母親の5人に1人は死ぬ、と言うヤノハを、弱気なことを言うな、大丈夫だ、とヌカデは励まします。するとヤノハはヌカデに、自分に万一のことがあれば子を育ててくれないか、と依頼します。

 暈国では、籠っていた竪穴住居から出てきた田油津日女が、5人のタケル王を連れて道を進んでいましたが、どこに行くのか分からず、それどころか鞠智の里に近づいていることから、カワカミ家のタケル王は鞠智彦の兵に襲われるのではないか、と案じます。するとサジキ家のタケル王は、いかに田油津日女が豪胆とはいえ、鞠智彦に会うつもりはないだろう、と楽観的に言います。到着した場所はトンカラリンで、田油津日女の配下の男性は、ここで三日三晩待つよう、5人のタケル王に要請します。田油津日女が受けた天照大神の神託とは、トンカラリンに入って3日の間に田油津日女が生還できたなら日見子になる、というものでした。つまりはトンカラリンの儀式を行なうわけです。田油津日女がトンカラリンの洞窟に入っていくところで、今回は終了です。


 今回もヤノハはほとんど登場せず、田油津日女をめぐる暈の有力者の思惑が中心に描かれました。ヤノハは自分に万一のことがあれば子を育ててくれ、と依頼しますが、無事に出産しても日見子としての立場上、自身が子供を育てることは難しいでしょうから、誰かに預けることになります。ヤノハは事情を知る出雲の事代主(コトシロヌシ)に子供を託すのかな、と予想していましたが、ヌカデが出雲までヤノハの子供を連れていくのでしょうか。ヤノハは主人公ですから、さすがに出産で死ぬことはないでしょう。この子供も、今後重要な役割を担うことになりそうで、その動向が注目されます。

 田油津日女の正体については、重要な手がかりが得られたように思います。トンカラリンの儀式に挑むことや、鞠智彦の配下の志能備たちの反応や、ヤノハの指示を受けていると考えられることから、田油津日女がアカメである可能性は高そうです。田油津日女の正体がアカメだとすると、アカメはすでにトンカラリンの洞窟の内部構造を知っていますから、脱出は難しくないでしょう。鞠智彦の配下の志能備たちが田油津日女を気に入らないのも、かつて自分たちを裏切ったアカメだと気づきかけているからだと考えられます。鞠智彦の意味ありげな表情も、すでに田油津日女の正体をある程度以上知っているからだと思います。ただ、田油津日女の正体がアカメだとすると、これまでの行動はヤノハの指示に従ったものでしょうが、日見子としてのヤノハの権威を脅かすような行動をなぜヤノハが命じたのかは、よく分かりません。あるいは、アカメが日見子と認められれば、自分は弟のチカラオ(ナツハ)とともにどこかに姿を消すつもりなのでしょうか。ヤノハと鞠智彦の思惑が読みにくく、今後どのように話が展開されるのか、楽しみです。

大河ドラマ『青天を衝け』第40回「栄一、海を越えて」

 第一線を退いた栄一は、妻の兼子とともに排日機運の高まるアメリカ合衆国を訪れ、日米関係の改善に努めます。しかし、その間の1909年10月、伊藤博文がハルビン駅で暗殺されます。伊藤は幕末編で1回登場しましたが、本格的な登場は明治編になってからで、喜作のように序盤から登場していたわけではありませんが、明治編では井上馨や大隈重信や五代友厚とともに重要で、存在感を示していたように思います。本作での配役の成功例だと思います。

 今回は功成り名を遂げた栄一の晩年が描かれましたが、栄一がその達成感に浸るような穏やかで明るい内容ではなく、アメリカ合衆国の排日運動の高まりなど日米関係の今後の多難や、第一次世界大戦での日本の外交方針への栄一の不満とその後の対外関係の悪化が強く示唆され、むしろ暗い内容だったようにも思います。家庭でも、長男の篤二が問題を起こして廃嫡され、この点でも暗さを感じました。それでも、栄一は対米関係にも家庭の問題にも必死に対処し、何とか状況を改善しようと足掻きます。この栄一の個性は序盤から終盤まで変わらず、魅力になっています。

 また回想も多めで、次回で最終回となることをいよいよ実感します。いよいよまとめに入った感があり、それは喜作の栄一評や、栄一と喜作との別れや、栄一と慶喜との関係によく表れていたように思います。栄一が慶喜の名誉回復のため執心していた慶喜の伝記編纂も大詰めを迎え、慶喜は、いつ死ねばよかったのかずっと悩んでいたが、栄一とまた語り合えたので、生きていたよかったと言い、栄一に感謝します。本作の重要な軸だった栄一と慶喜との関係性の集大成といった感じで、よかったと思います。慶喜も喜作もいなくなった最終回はどのような話となるのか、寂しくはありますが、楽しみでもあります。

ポーランドの41500年前頃の象牙製ペンダント

 ポーランドで発見された41500年前頃の象牙製ペンダントに関する研究(Talamo et al., 2021)が公表されました。人体の装飾や飾りの出現は、象徴的行動の最初期の兆候の一つと考えられており、ヒトの進化における民族言語的帰属意識と社会的複雑さの始まりを示しています。個人的装飾品が考古学的記録において出現した時期と場所は、古代人の抽象的思考の軌跡の再構築と、具象的表現が経時的にどのように変わったのか、理解するのに重要です。

 ヨーロッパでは、身体装飾の最古の証拠は、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)層で46000年前頃のものが報告されており、いくつかの肉食動物の歯がペンダントに加工されています(関連記事)。最初の体系的石刃製作としてのIUP石器群は、広くシベリアのアルタイ山脈とモンゴル北部で見つかり、通常は初期現生人類拡散の証拠として認識されています(関連記事)。マンモスの牙がペンダントや動産芸術の製作に扱われ始めた4万年前頃の前期オーリナシアン(Early Aurignacian)では、その後の技術的進歩が記録されています(関連記事)。

 これら新規の装身具のうち、装飾の新たな種類(区切りの整列)が出現し、フランス南西部のいくつかの装飾品や、ドイツのシュヴァーベン・ジュラ(Swabian Jura)の小像です。これまで、これら図像的装飾品のほとんどは、古い発掘中に回収され、遺跡形成史や過去の堆積後の攪乱はあまり認識されていませんでした。したがって、その年代的帰属は、直接的な年代測定ではなく層序状況にのみ基づいています。シュヴァーベン・ジュラ遺跡における最近の年代計測計画により矛盾した結果がもたらされ、野外調査で収集された標本の不正確な出所が確認されました。この状況は、ヨーロッパにおける、ヒトの身体装飾の出現の再構築と、熱く論じられている動産芸術拡散の中心に関する議論を、解決困難にします。

 こうした状況を踏まえて本論文は、ポーランドのスタイニャ洞窟(Stajnia Cave)で発見された新たな象牙製の穿刺跡のある装飾品の発見と直接的な年代測定を報告します。この発見は、ヨーロッパにおける現生人類の意思伝達と儀式と表現を理解するための、旧石器時代芸術品の直接的年代測定の重要性を示すのに、独特な役割を果たします。スタイニャ洞窟は、ポーランドン南部のクラクフ・チェンストホーヴァ高地(Krakow-Czestochowa Upland)の北側(北緯50度36分58秒、東経19度29分04秒)に位置します(図1a)。スタイニャ洞窟遺跡は2006~2010年に発掘され、7ユニットの層序系列が明らかになり、基底部は海洋酸素同位体ステージ(MIS)5cのG、最上層はMIS1のAです。スタイニャ洞窟の発掘中に、後期更新世の草原・ツンドラ地帯種の骨や、中部旧石器時代および上部旧石器時代の人工物の中で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)遺骸が発見されました(関連記事)。

 2010年に、飾り立てた象牙のペンダント(S-22222とS-2310)がD1層で回収されました(図1b・cおよび図2)。さらに、千枚通しの断片(S-12160)がD1層の骨の断片群で識別されました(図3)。スタイニャ洞窟の考古学的記録の最近の評価では、堆積後の攪乱と現代の歪みにより、各層間の人工物とヒト遺骸がずれた、と明らかになっています(関連記事)。D1層で収集された石器のほとんどは、ヨーロッパ中央部および東部のミコッキアン(Micoquian)と関連しており、上部旧石器として分類されるものはほとんどないので、ペンダントと千枚通しの正確な文化的帰属には直接的な放射性炭素年代測定が必要です。破壊的分析に曝される量を最小限に抑えるため、放射性炭素年代測定における最新の方法論の発展に従いました。以下は本論文の図1です。
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●ペンダントと千枚通し

 ペンダントは、丸い端と2ヶ所の穿孔された穴と連続的な穿刺パターンから構成される装飾を有する楕円形により特徴づけられます。ペンダントの最大の断片は、長さが4.5cm、幅が1.5cmで、厚さは0.36~0.39cmです、完全な人工物の再構築された幅は図2に示されます。最大の断片で、上部端近くの再構築された人工物の中心近くに位置する、目に見える完全に保存された穿孔が一つあります(図2の穴1)。もう一方の穴(図2の穴2)は、最初に人工物の反対側に位置し、部分的に保存されています。完全に保存された穴1の直径は2.3mmで、部分的に保存されている穴2の元々の直径もおそらく同じです。ペンダントの背面は、不規則な輪状曲線を描く、少なくとも50点の穿刺跡で装飾されています(図1c)。この装飾は、穴1の近くの剥離により部分的に破壊されています(図1c、図2d)。この剥離の他にも表面には縦方向の亀裂も見られます。以下は本論文の図2です。
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 走査電子顕微鏡(SEM)が用いられ、観察された特徴のうち人工物の特徴が確かめられ、その製作に用いられた技術が特定されました。SEM分析(図2b・c・d・e・g)から、ペンダントの背面には穿刺跡の前の意図的準備の明確な痕跡はない、と示唆されます。しかし、腹側穿刺は平滑化の痕跡を示し(図2g)、ペンダントの最長軸に直線的で平行です。こうした痕跡のV字型断面は、燧石製人工物の使用を示唆しており(図2b・g)、筋の深さと幅の違いは、適用された石器の不規則な端により説明できるかもしれません。

 穴1および2は、それ以前に薄くされていなかった両側から穴をあけることにより人口的に製作されたもので、断面が二重円錐形となりました(図2f)。ほとんどの穿刺跡は輪郭と断面の観点で類似しており(図2c・e)、同じ道具で、恐らくは比較的短時間に作られた可能性がひじょうに高そうです。穿刺は完全に保存された穴1の真下に位置し、わずかに異なる形態を示し、その端はあまり定義されていません(図2a)。これらの穿刺跡が他のものと異なる時間に作られた可能性を排除できませんが、ペンダントの段階的な摩耗もしくは変化した位置がより節約的です。

 千枚通しの最大長は68.33mmです(図3)。いくつかの摩耗面が千枚通しの表面で見え、底部断面(5.8mm×3.4mm)は平らになっています。底面では、丸い顕著な端と平坦なスパイクを有する滑らかな表面があります。上側はより凹面で、先端に向かって、極端に滑らかな面がさらなる精錬をもたらしています。スパイクの側面は丸みを帯びており、磨かれています。スパイクから38.18mmで、千枚通しは基本的に厚くなります。骨を加工した明確な証拠は底面で示され、底面では鋭い端が両貝に向かってあり、丸いスパイクは摩耗の痕跡を示し、廃棄される前に広く使用された、と示唆されます(図3)。ZooMS(Zooarchaeology by Mass Spectrometry、質量分光測定による動物考古学)分析により、ペンダントはマンモスの牙で、千枚通しは馬の骨で作られた、と明らかになりました。以下は本論文の図3です。
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●年代測定

 骨と象牙は、放射性炭素年代測定を試みるのに、最も適切で確立された骨資料です。ペンダント(R-EVA 2651)と千枚通し(R-EVA 2650)におけるコラーゲンの存在は、放射性炭素年代測定の標本抽出前に、近赤外線(NIR)分析を用いて検証されました。その結果、両標本はよく保存されており、ペンダントでは5.30±1.52%、千枚通しでは8.04±1.43%の重量のコラーゲンが示唆され、抽出後に得られたコラーゲンの収量と密接に一致します(表1)。

 コラーゲンは、ドイツのライプツィヒにあるマックス・プランク進化人類学研究所(MPI-EVA)で両標本から抽出されました。ペンダントと千枚通しのコラーゲンは、2ヶ所の異なる放射性炭素年代測定実験室(MAMSとETH)で2回、加速器質量分析(AMS)で放射性炭素年代が測定され、最近更新されたIntCal20較正曲線(関連記事)でひじょうに正確な放射性炭素年代が得られました。ペンダント(S-22222)の組み合わされた放射性炭素年代は36577±183年前で、千枚通し(S-12160)の組み合わされた放射性炭素年代は37701±208年前でした。較正年代(68.3%の確率)では、ペンダントが41730~41340年前、千枚通しが42270~42070年前です(表1)。

 マックス・プランク進化人類学研究所で前処理された動物標本20点のうち、11点は49000年前より古く、それは、E層の1点、D3層の2点、D2層の3点、D1層の4点、C18層の1点です。D1層では、ペンダントと千枚通しの標本を含めて、さらに5点の標本の年代が、非較正で45300±1410~36577±183年前となります。C19層の3点の年代範囲は、非較正で37750±310~33450±350年前となり、C18層の最上部の1点の年代は、C19層下層の標本(MAMS-19870)の年代と比較して、非較正で40400±420年前とひじょうに古くなります(表1)。D2層とD1層とC19層のマンモスの牙の断片は5万年以上前ですが、D1層の別の象牙断片の年代は、非較正で44600±2100年前です。

 次に、ソフトウエアOxCal 4.4とIntCal20曲線を用いて、ベイズ年代モデルが再構築され、スタイニャ洞窟の放射性炭素年代の較正が改良されました。較正年代(表1の年代はモデル化されていません)とモデル化された年代が得られましたが、モデル化された年代では49000年以上前のものは含まれません。スタイニャ洞窟最下層は、放射性炭素年代測定法の範囲を超えています。D1層のさらなる5点の年代と、C18層の1点の年代も49000年以上前ですが、上部旧石器時代の人工物が含まれています。これは、高解像度の放射性炭素年代と層序の低解像度との間の一致が不充分であることを示しており、14点のモデル化された標本のうち4点の外れ値(20%超)で、34.5%のモデル一致指数が得られます。

 この状況から、D1層で見つかった千枚通しとペンダント(それぞれ、外れ値の確率が32%と21%)は層の間で動いており、元々はD1層ではなくC19層にあった可能性が高そうだと示唆されます。この仮説は、C19層の2点の骨の放射性炭素年代により裏づけられ、それは千枚通しおよびペンダントと類似の年代範囲です(表1)。標本R-EVA 739(MAMS-19851では、非較正で36080±460年前)も人為的改変を示し、スタイニャ洞窟のヒトの居住と象牙製ペンダントとの間の密接な関連を示唆します。


●考察

 直接的な放射性炭素年代の結果、スタイニャ洞窟の装飾ペンダントの較正年代は41730~41340年前(確率68.3%)となり、現時点では既知のユーラシア前期上部旧石器時代の記録で最初の穿刺象牙物となります(図4b)。スタイニャ洞窟におけるオーリナシアン(オーリニャック文化)の定住は一時的でしたが、ペンダントと千枚通しの直接的な放射性炭素年代により、これらの精巧で高度に作られた物体は、現生人類によるひじょうに象徴的な価値を伴う文化的革新の形態として、42000年前頃までには確立していた、と確証されます。他の象牙断片の放射性炭素年代は、中部旧石器時代以降のマンモスの牙の現地の輸送を明らかにしますが(表1)、前期オーリナシアンにおいてのみ、この原材料としての象牙は動産芸術の製作のため加工されました。以下は本論文の図4です。
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 ペンダント自体の年代が、装飾が施された年代よりずっと古い可能性は、本論文の実験および年代のデータを考えると、低いと考えられます。2点の貴重な物体の直接的年代は、C19層の年代範囲と対応しており、層序年代との一致ではなく、オーリナシアンにおける短期の洞窟居住を示唆します。永久凍土層では何千年もの間、開地遺跡でマンモスの牙の完全な保存が可能かもしれませんが、これらの条件はポーランド南部のMIS3および2では欠けています。この証拠から、マンモスの牙が何千年にもわたって、象牙の進行性の劣化を引き起こす、化石生成的過程を経ていた可能性が高そうです。本論文の複製実験で示されるように、中程度/悪条件で半化石化して乾燥した牙の断片を用いると、スタイニャ洞窟で見つかったような装飾品を形作り飾ることはできませんでした。したがって、形成と穿刺の装飾は、マンモスの牙が新鮮な状態で行なわれ、41500年前頃の較正年代を裏づける、と推定されます。

 穿刺装飾品がユーラシアでいつ出現したのか、正確に判断するには、この芸術的パターンが見つかった他の遺跡と比較する必要があります(図4)。ドイツのガイセンクレステレ洞窟(Geißenklösterle Cave)では、較正年代で40280~38800年前(68.3%の確率)となる層準IIbで穿刺が識別されました(象牙の擬人化は後部の規則的な穿刺装飾を示します)。フランスでは、較正年代で40790~30830年前(68.3%の確率)となるトゥト・デ・キャマルホット(Tuto de Camalhot)遺跡の前期オーリナシアンと、キャステル・マーレ渓谷(Castel-Merle Valley)のいくつかの遺跡でオーリナシアン後期でのみ、穿刺模様が出現します。

 しかし、本論文のモデルの出力は、ドイツのフォーゲルヘルト洞窟(Vogelherd Cave)について、低い一致指数と乏しい層序学的統合を明らかにします。トゥト・デ・キャマルホット洞窟では、ベイズモデルから得られた境界は「仮説的」とみなされるべきで、それは、あらゆる層序学的情報がない、2点の骨に基づいているからです。さらに東方では、象牙製ペンダントの連続的な穿刺パターンが、ロシアのスンギール(Sungir)開地遺跡において較正年代で34810~33500年前(68.3%の確率)、シベリア北極圏のヤナ遺跡において較正年代で32400~30820年前(68.3%の確率)となる前期上部旧石器時代に作られました。この証拠は、穿刺の記号表現の広範な地理的分布を明らかにし、ユーラシアにおいて、スタイニャ洞窟の穿刺装飾がこの種の装飾活動の他の事例に2000年先行する、と示します(図4b)。

 ユーラシアにおける動産芸術と身体装飾の拡散の始まりのより深い調査は、いくつかの年代の不確実性を示します。スンギール遺跡では、埋葬された個体群の直接的年代が象牙製ビーズの年代の正確な指標となりますが、ヤナ遺跡では、崩積作用や土壌流や浮氷など堆積後の過程により、元々の位置から一部のペンダントが動いています。ヨーロッパでは、ガイセンクレステレ洞窟を除いて、全ての個人的装飾品は19世紀後期と20世紀初期の発掘で発見され、前期もしくはもっと新しいオーリナシアンと間接的にのみ関連しています。ガイセンクレステレ洞窟では、年代順はさまざまなオーリナシアン層でよく確立しています。対照的に、他の前期上部旧石器時代遺跡の年代解像度は低く、オーリナシアンの芸術表現の通時的な発展の明確な理解を妨げます。この状況はおもに、遺跡における疑わしい層序学的文脈により起きた、制約が不充分な放射性炭素年代解像度に起因します。スタイニャ洞窟のペンダントに照らして考えると、シュヴァーベン・ジュラが芸術的革新の拡散の中心だった、とするクルトゥルプンペ(Kulturpumpe)仮説は、さらなる調査が必要です。


●まとめ

 穿刺装飾模様は、ヨーロッパにおける前期オーリナシアンとロシア平原における前期上部旧石器時代に発展した、芸術的革新の一つです。したがって、これまでのところ、動産物体におけるこれらの刻印は、狩猟記録や計数体系や月の記録として解釈されてきましたが、他の人々は美的目的を提案してきました。スタイニャ洞窟のペンダントで表されている輪状曲線は、ブランチャード(Blanchard)銘板の刻印パターンと似ています。これらの刻印が周期的な記録もしくは獲物の数を示唆しているのかどうかは未解決の問題ですが、月のアナレンマ(地球や他の惑星上の同一地点で、1年間、毎日同じ時刻に見掛けの星の位置を記録した図)との類似性は印象的です。

 他の個人的装飾品や象牙製品では、穿刺パターンの使用は、製作者が新たな文脈で自然のパターンを模倣して移そうとしたので、容易に識別できます。これらは、フォーゲルヘルト洞窟におけるネコ科とマスの皮の模造や、フランスのラ・ソウケット(La Souquette)遺跡とアブリ・キャスタネット(Abri Castanet)遺跡における貝殻のさまざまな種類の複製や、スンギール遺跡におけるウマの皮の模写です。さらに、穿刺は、ガイセンクレステレ洞窟の擬人化の後部、スンギール遺跡の穿孔杖、ヤナ遺跡の象牙製王冠と針で見られるように、単純な装飾としても機能する可能性があります。動産芸術と身体装飾の正確な異文化比較は、とくにヨーロッパでは、上部旧石器時代の始まりにおける現生人類集団間の同時代性と社会文化的つながりに関する議論されてきた問題を解決するには、これら小像と装飾品のいくつかの直接的な放射性炭素年代測定が必要です。

 放射性炭素時計の正確な刻みを用いて旧石器時代芸術を調べるのは、とくに貴重で独特な人工物の破壊を伴う場合、困難です。しかし、更新された放射性炭素前処理と、非破壊的にコラーゲンの保存を定量化するNIR分光法前検査と、最新のAMS機器の発展の較正曲線を組み合わせることで、小さく、ひじょうに貴重な装飾品の直接的年代測定への以前の限界を克服し、代わりに数世紀の精度の放射性炭素年代と直接的に関連づけられます。スタイニャ洞窟の装飾された象牙製ペンダントの41500年前頃という較正年代は、ヒトの進化における象徴的行動と現代的認知の出現に関する興味深い難問の解決のために、芸術を直接的に年代測定することの重要性を強調します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:人類がユーラシアで宝飾品の装飾をしたことを示す最古の証拠

 マンモスの骨から作られ、装飾された楕円形のペンダントが、4万1500年前のものとされ、人類が装飾を施した宝飾品の最古の実例になったことを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Sahra Talamoたちは、2010年にポーランドのスタイニャ洞窟で発見されたペンダントと馬の骨でできた道具である千枚通しを分析した。Talamoたちは、高度な放射性炭素年代測定法を用いて、ペンダント、千枚通し、骨断片の年代を後期旧石器時代初期(4万2000~3万7000年前)と決定した。放射性炭素年代測定法は、放射性炭素の存在量を測定することによって有機試料の年代を決定する方法だ。Talamoたちによると、これらの出土品は、ユーラシアで人類が宝飾品の装飾をしていたことを示す最古の証拠であり、人類の進化における象徴的行動の出現だとされる。

 このペンダントの装飾として、50か所以上の穿刺跡が不規則なループ状曲線に並んだパターンと、2つの完全な穴が見つかった。Talamoたちは、この刻み目のパターンが、その後の時代のものとしてヨーロッパで発見された宝飾品における刻み目に似ており、獲物の数を記録したもの(数学的な計数システム)、あるいは月や太陽の約1か月の周期に対応する陰暦表記である可能性を指摘している。

 Talamoたちは、ペンダントと骨製千枚通しと共に動物の骨が存在することは、人類がユーラシア全土に広がり始めた4万1500年前に、携帯できる小さな芸術作品を作製し始めたことを示していると考えられると述べている。



参考文献:
Talamo S. et al.(2021): A 41,500 year-old decorated ivory pendant from Stajnia Cave (Poland). Scientific Reports, 11, 22078.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-01221-6

関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。1019年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に起きた刀伊の入寇(刀伊の来襲)はそれなりに有名な事件ではあるものの、現代日本社会において関心はあまり高くなく、詳しく知らない人が多いように思います。また高校までの日本史教育では、刀伊の入寇は孤立した突発的な事件として教えられてきたように思います。

 もちろん私も、武士の形成と関わりで興味を抱いてきたものの、刀伊の入寇についてよく知らず、当ブログでも、週刊誌の記事を一度取り上げたことがあるくらいです(関連記事)。その記事では刀伊の入寇について、キタイ(遼、契丹)やジュシェン(女真)や高麗や宋といった広範囲を視野に入れた考察が提示されており、キタイ帝国がジュシェンと宋との交易路を遮断し、ジュシェンを攻撃して、キタイ帝国が宋と1004年に和平条約を締結し(澶淵の盟)、1018年に高麗に遠征するなか、高麗の混乱に乗じてジュシェンの一部が海賊化して朝鮮半島東岸を荒すようになった延長線上に刀伊の入寇があった、と指摘されていました。本書でも、こうしたアジア東部における大きな動向から刀伊の入寇が把握されています。

 本書は、10世紀以降の王朝国家への移行を通じての政治権力の構造的変化という「内」の視点と、アジア東部情勢という「外」の視点から刀伊の入寇を検証します。ただ、この王朝国家への移行は、10世紀初めの唐の滅亡、およびその前後のアジア東部諸地域の国家交代(朝鮮半島における新羅の滅亡と高麗の建国など)という大きな枠組みで解されています。また本書は、孤立した突発的な事件として教えられてきたように思われる刀伊の入寇について、9世紀の新羅問題や13世紀のモンゴル襲来など、前後の視点からも検証します。もちろん本書は、刀伊の入寇の詳細な経過とその意義も検証しており、刀伊の入寇についての入門書として長く読まれ続けるのではないか、と思います。

 本書の「外」の視点で注目されるのは、日本列島における国家形成に、古代は「中国」、近世は「南蛮」、近代は「欧米」という普遍的価値を有する文化が寄与したのに対して、古代からの移行期も含めて広く範囲をとった中世は、外的要素の受容に消極的だった、との見通しです。もちろん、外的要素の受容意志の強弱はあくまで相対的で、中世にさまざまな物資や文献が外部から日本列島に到来しました。本書の「内」の視点で注目されるのは、来襲者の撃退に当たった武力の質で、9世紀の新羅海賊問題では律令軍団制下の徴兵制を前提とした武力だったのに対して、11世紀前半の刀伊の入寇と13世紀後半のモンゴル襲来では、「選ばれた武力」が主体になった、と指摘されています。

 刀伊の入寇の主体となったのは、当時キタイ(遼、契丹)の支配下にあったジュシェン(女真)勢力のうち、朝鮮半島東北部沿岸の東女真と推測されています。キタイに圧迫されたジュシェンのうち、東女真はまず高麗の南東沿岸を襲撃し、対馬と壱岐へ侵攻し、九州北部へ来襲しました。「刀伊」は朝鮮語に由来し、「東夷」の音を「刀伊」に当てた、と推測されています。刀伊の入寇の時点で中央政権(朝廷)の主導者は藤原道長で、道長に政争で敗れた甥の藤原隆家が大宰権帥として赴任しており、刀伊迎撃を指揮しました。隆家は武勇の人として知られ、多くの武勇伝があります。

 侵攻してきた刀伊の撃退に動員された主要な武力は、天慶の乱以降に形成されつつあった武士で、こうした「兵」・「武者」には、都で有力貴族に仕えた者が多くおり、都鄙を往還する存在でした。一方で、地方名士(地域領主)と呼ばれる人々も、刀伊の撃退に功績がありました。天慶の乱や刀伊の入寇、さらには平忠常の乱などの争乱の平定を経て功臣意識が醸成され、「兵ノ家」の正当性が保証されていくことで、武士が形成されていきます。また本書は、刀伊の撃退の勲功認定で、以前の新羅海賊の撃退時とは異なり、個人の首級数が重視されるところに、中世の本格的武家社会の戦闘様式に通底する性格が見られることにも注目します。

 こうした現地での奮闘に対し、朝廷は危機感が薄くて対応は遅く、刀伊の撃退後には関心が薄れ、恩賞の是非さえ議論されました。本書は、恩賞授与を主張する藤原実資たちには原理・原則を超えた運用主義とも言うべき現実的思考があり、困難な事態を現場に委任する柔軟な方向につながるという意味で、王朝国家が是認する請負と通底する、と評価しています。一方、恩賞授与に反対した藤原公任や藤原行成たちは、秩序維持を是とする理念的立場にあった、と指摘されています。また本書は、刀伊の撃退の恩賞が官位であり所領ではなかったことに注目し、所領のような永続性に欠けていたことを指摘します。

江戸時代の人々の口腔内細菌叢

 江戸時代の人々の口腔内細菌叢に関する研究(Shiba et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。歯垢が石灰化することで形成される歯石には、食物や細菌のDNAが含まれています。歯石から抽出されたDNAを用いたゲノム解析により、当時の食生活や病気に関連した情報を入手可能であることが近年報告され、注目されています。これまでにも、古代人遺骸に付着した歯石を対象とした細菌ゲノム研究は行なわれていましたが、その報告の多くは西洋を対象としており、日本列島の古代人の歯石を対象にした細菌叢解析の報告はまだほとんど存在していません。

 江戸時代初期には房楊枝や歯磨き粉を用いた歯磨き習慣があるものの、これまでの研究報告から当時の人々も、齲蝕や歯周病といった疾患に罹患していた痕跡がある、と報告されていました。現代でも歯周病の原因菌とされる細菌がネアンデルタール人で検出された、と報告されており(関連記事)、古代より歯周病の原因菌が変わっていない可能性も指摘されていました。一方で、日本は周りを海に囲まれた島国であることに加え、江戸時代(1603~1867年)は鎖国状態であったために異国との接触がほとんどなかった、と知られています。そのような社会的背景や、現代と異なる文化・食生活が発展していたことから、口腔内細菌組成も現代と異なる構成により成立していたことが推測されるだけでなく、歯周病の原因菌も異国との交流が多くある現代の日本とでは異なるかもしれない、と考えられます。

 この研究は、江戸時代の深川に位置する雲光院(東京都江東区三好)で発掘された江戸時代後期のヒト(町人)12個体の遺骸に付着していた歯石より抽出した細菌のDNAから、当時の口腔疾患罹患状況と口腔内の細菌組成を評価しました。マイクロコンピュータ断層撮影法(高分解能のX線CT撮影装置を用いた画像解析)を用いた歯周病診断により、約4割を超える個体に歯周病が原因と推察される歯槽骨吸収を認め、歯周病に罹患していた、と明らかになりました。この研究はさらに、遺骸に付着した歯石から抽出されたDNAを対象にメタ16S解析法(標本中の細菌を単離・培養せず、細菌の保有する16SリボソームRNA遺伝子の配列を読み取り、菌種の構成を特定する方法)を用いた細菌叢解析により、現代日本人の歯垢における細菌叢と比較し、時代間の口腔内の細菌組成の変化を検討しました。

 その結果、11系統の細菌門が江戸時代と現代日本人の標本から共通して検出された一方、フソバクテリウム(Fusobacteria)門、SR1門、GN02 (Gracilibacteria) 門は現代日本人の歯垢でのみ検出されました。また、歯周炎の代表的な病原菌であるレッドコンプレックス(歯周病の発症に関連が深いとされる菌種群の総称、Porphyromonas gingivalis,Tannerella forsythia、Treponema denticola)は、現代日本人の歯垢から多く検出される一方で、江戸時代の歯石からは検出されない、と明らかになりました。細菌種間の相関関係をネットワーク解析(相関する細菌や遺伝子に線を引き可視化することで重要となる細菌や遺伝子を選定する解析手法)により調べると、江戸時代と現代では細菌種同士の関係性が異なり、特にユウバクテリウム(Eubacterium)属、モリクテス(Mollicutes)属、トレポネーマ属細菌(Treponema socranskii)といった細菌が、江戸時代の歯周病細菌ネットワークで特徴的に重要となる細菌だったかもしれない、と示唆されました。

 口腔内の細菌組成は食事や生活習慣などの環境要因により変化する、と知られています。日本が島国であることに加えて、江戸時代は約200年間にわたって実施されたいわゆる鎖国政策により、日本と諸外国との貿易が極端に制限されたことで外国からの細菌伝播が少なかったことから、江戸時代の人々は現代と異なる独特な細菌組成を持っていた可能性が示唆されました。この研究の新たな発見は、歯周病の成り立ちと原因について新しい知見を見出すと同時に、社会的背景が口腔内の細菌組成に及ぼす影響について重大な洞察をもたらす、と考えられます。この手法を先史時代などさまざまな遺跡の試料に適用することで、過去の人類における口腔疾患への罹患状況やその原因となる細菌種を明らかできるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Shiba T. et al.(2021): Comparison of Periodontal Bacteria of Edo and Modern Periods Using Novel Diagnostic Approach for Periodontitis With Micro-CT. Frontiers in Cellular and Infection Microbiology, 11, 723821.
https://doi.org/10.3389/fcimb.2021.723821

ヒトの原腸形成

 ヒトの原腸形成に関する研究(Tyser et al., 2021)が公表されました。原腸形成は、全ての多細胞動物の基本的な過程で、初期胚(胞胚)が3つの胚葉を持つ胚(原腸胚)に変化する、初期胚発生における決定的な瞬間です。原腸形成により、基本的なボディープランが最初に定められます。原腸形成は、空間的なパターン形成と協調した細胞多様性を生み出すのにきわめて重要です。ヒトでは、原腸形成は受精後約3週目に起きます。

 ヒトでのこの過程に関する知識は比較的限られており、おもに歴史的な標本、実験モデル、あるいはごく最近では試験管内(in vitro)の培養試料に基づいています。試験管内での培養が、最近まで14日間に制限されていたことも、ヒトでの原腸形成の知識を限定的にしていました。この研究は、受精後16~19日の間の発生段階に相当する、原腸形成中の1つのヒト胚全体の単一細胞転写プロファイル(細胞構成および分子構成)を、単一細胞RNA塩基配列解読により空間的に分解して、その特徴を明らかにしました。

 これらのデータを用いて、存在する細胞タイプを解析し、他のモデル系と比較した結果、多能性の胚盤葉上層に加えて、始原生殖細胞、赤血球、さまざまな中胚葉や内胚葉の細胞タイプが特定されました。このデータセットから、ヒトの発生の重要ではあるものの直接的研究が難しい発生段階を、独特な視点で垣間見られます。この特性解析は、他のモデル系での実験を解釈するための新たな文脈を提供し、試験管内でのヒト細胞の分化誘導を導くための貴重な情報資源となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


発生生物学:原腸形成中のヒト胚の単一細胞トランスクリプトームの特性解析

発生生物学:ヒトの原腸形成を垣間見る

 原腸形成は、初期胚(胞胚)が3つの胚葉を持つ胚(原腸胚)に変化する、初期胚発生における決定的な瞬間である。ヒトでは、原腸形成は受精後約3週間で起こる。ヒト胚のin vitroでの培養は、最近まで14日間に制限されていたため、ヒトの原腸形成についての知識は非常に限られていた。S SrinivasとA Scialdoneたちは今回、人工妊娠中絶後に得られた、原腸形成中の1つのヒト胚の解析結果について報告している。この胚の細胞構成および分子構成を、単一細胞RNA塩基配列解読を用いて解析することで、ヒトの原腸形成についての独特な手掛かりが得られた。総合的にこの研究は、ヒトの初期発生についての我々の理解を深めるだけでなく、この分野の非常に有益な参照情報にもなる。



参考文献:
Tyser RCV. et al.(2021): Single-cell transcriptomic characterization of a gastrulating human embryo. Nature, 600, 7888, 285–289.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04158-y

ヘモグロビンの進化

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ヘモグロビンの進化に関する研究(Song et al., 2020)が報道されました。赤血球は哺乳類に特有ではありません。この色は、脊椎動物だけではなく環形動物(最も有名なメンバーがミミズであるワームファミリー)、軟体動物(とくに池のスネイル)、甲殻類(ミジンコ)の循環系にも見られる、酸素の輸送に特化した複雑なタンパク質であるヘモグロビンに由来します。ヘモグロビンがこのような多様な種に出現するためには、進化の過程で何度か「発明」されたに違いない、と考えられていました。しかし、この研究では、「独立して」生まれたと考えられているこれらのヘモグロビンはすべて、実際には単一の祖先遺伝子に由来する、と示されました。

 この研究は、赤い血を持つ小さな海洋ワーム(Platynereis dumerilii)を調べました。この海洋ワームは、その遺伝的特性がほとんどの動物の海洋の祖先であるUrbilateria(左右相称動物の最終共通祖先)に近いため、ゆっくりと進化した動物とみなされています。これらのワームについて赤血球を持つ他の種と比較することが、ヘモグロビンの起源を遡ることに役立ちました。この研究は、ヘモグロビンが属する幅広いファミリー(酸素や一酸化窒素などのガスを「貯蔵」する、ほとんど全ての生物に存在するタンパク質であるグロビン)に焦点を当てました。

 しかし、ほとんどのグロビンは、ヘモグロビンのように血液中を循環しないため、通常は細胞内で作用します。この研究は、赤血球を持つすべての種において、「サイトグロビン」と呼ばれるグロビンを作るのは同じ遺伝子であり、独立して進化してヘモグロビンをコードする遺伝子になった、と示しています。この新しい循環分子は、祖先での酸素輸送をより効率的にし、より大きく、より活発にしました。この研究は今後の目標として、規模を変え、左右相称動物の血管系のさまざまな特殊な細胞が、いつどのように出現したのか、調べることを挙げています。


参考文献:
Song S. et al.(2020): Globins in the marine annelid Platynereis dumerilii shed new light on hemoglobin evolution in bilaterian. BMC Ecology and Evolution, 20, 165.
https://doi.org/10.1186/s12862-020-01714-4

オマキザルのゲノム解析

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、オマキザル(Cebus imitator)のゲノム解析結果を報告した研究(Orkin et al., 2021)が報道されました。オマキザルはサルの中で相対的な脳サイズが最も大きく、身体サイズが小さいにも関わらず50歳を超えて生きられますが、その遺伝的基盤はこれまで不明でした。この研究は、霊長類の糞便からDNAをより効率的に分離するための新技術の使用により、白い顔をしたオマキザルのリファレンスゲノムアセンブリを開発して注釈を付け、多種多様な哺乳類にまたがる比較ゲノミクスアプローチを通じて、長寿と脳の発達に関連する進化的選択の下にある遺伝子を特定しました。

 FecalFACS(糞便蛍光活性化セルソーティング)は、体液中の細胞タイプを分離するために開発された既存の技術を利用しており、それが霊長類の糞便サンプルに適用されたわけです。糞便からDNAを抽出する一般的な方法では、DNAの約95~99%が腸内微生物や食品に由来するため、これは大きな進歩となります。哺乳類とは異なる生物のゲノムの配列決定に多額の資金が費やされてきました。そのため、野生生物の生物学者が全ゲノムを必要とする場合、血液や唾液や組織など、より純粋なDNA源に頼らざるを得ませんでしたが、絶滅危惧種の動物ではこうした作業が困難になります。したがって、

 分析の結果、両方の形質の根底にある遺伝子に正の選択の兆候が見つかりました。これは、そうした形質がどのように進化するのか、よりよく理解するのに役立ちます。さらに、熱帯雨林と 季節的乾林のオマキザルの集団を調べることにより、旱魃と季節の環境への遺伝的適応の証拠が見つかりました。より具体的には、DNA損傷応答や代謝や細胞周期やインスリンシグナル伝達に関連する遺伝子が特定されました。DNAの損傷は老化のおもな原因と考えられており、以前の研究では、DNA損傷応答に関与する遺伝子が哺乳類で寿命特異的な選択パターンを示す、と示されています。ただ、加齢に関連する遺伝子は複数の役割を果たすことが多いため、これらの遺伝子の選択が加齢に関連するのか、成長率や発達時間などの他の生活史の特徴に関連するのか、確認することは不可能です。

参考文献:
Orkin JD. et al.(2021): The genomics of ecological flexibility, large brains, and long lives in capuchin monkeys revealed with fecalFACS. PNAS, 118, 7, e2010632118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2010632118

大河ドラマ『青天を衝け』第39回「栄一と戦争」

 日清戦争に勝った日本の国際的地位の向上に、栄一や喜作や尾高惇忠は感慨に浸ります。ただ、日本は軍事力を高く評価されても経済はさほど評価されず、日露戦争の勝利も危うかったことが描かれており、ここは悪くありませんでした。栄一は喜作と惇忠を連れて慶喜に謁見し、慶喜に富岡製糸場運営などの功を労われた惇忠は感激し、その後亡くなります。この3人の幕末での焦燥が詳しく描かれていたので、この3人の感慨にも説得力があったように思います。やはり、大河ドラマのような長期の連続ドラマでは、序盤からの積み重ねが後半の説得力ある描写に必要なのだな、と改めて思わされます。

 日露戦争において政府と軍部から協力を要請された栄一は公債購入の呼びかけに奔走し、これに放蕩から立ち直りつつあった息子の篤二は不満なようで、瀕死の栄一から嫡男として家を継ぐよう伝えられた重圧もあって、再び実業の道を踏み外してしまうのでしょうか。栄一は公債購入の呼びかけ後に倒れ、医師から家族には死も覚悟するよう伝えられます。そこへ慶喜が見舞いに訪れ、栄一が回復したならば、ずっと拒否していた自身の伝記編纂に協力する、と伝えます。これまで描かれてきた栄一と慶喜との深いつながりを活かした場面になっており、その後で慶喜が鳥羽伏見の戦い前後のことを語ったことからも、栄一と慶喜との関係で大きな区切りになっていたように思います。今回も駆け足気味でしたが、残り2回となった中、栄一と息子や慶喜との関係はしっかり描かれていたように思うので、さほど不満はありません。次回は15分拡大とのことで、全41回と少ないだけに、最終回は30分以上の拡大放送を期待していますが、どうなるでしょうか。

学際的研究に基づくチベット高原の人口史

 チベット高原の人口史に関する研究(Zhang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、農耕開始前までのチベット高原の人口史に関する先行研究を整理しており、たいへん有益だと思います。チベット人は高地環境に住む最大の在来人口集団で、青海・チベット高原の過酷な環境に対処する一連の特徴を発展されてきました。平均標高が海抜4000m(masl)のチベット高原は、寒冷で乾燥した環境と顕著な季節変動を伴う自然の障壁に囲まれています。

 後期更新世(126000~11700年前頃)には、最終氷期のひじょうに頻繁な千年規模の変動が、高地生態系へのヒトの拡大にとって追加の障害となりました。さらに、高度が上昇すると、酸素濃度が急速に低下し、低酸素症として知られる生理的ストレスにつながります。海抜2500mで通常は経験する低酸素症により、深刻で時として生命を脅かすような症状が起きます。それは、妊娠中の子宮内発育不全や出生時低体重などで、行動調整だけでは緩和できず、生理学的適応を必要とします。

 それでも、チベット人は何世代にもわたってチベット高原にうまく定住してきましたが、いつどのように誰によりチベット高原が恒久的に居住されるようになったのかは、依然として議論となっています。これらの問題に対処した既存のモデルは、考古学的証拠にほぼ基づいています(関連記事)。チベット高原についての考古学的研究は1960年代に始まりましたが、よく記録された発掘調査と年代測定された遺跡はこれまで限定的です。利用可能なデータから、チベット高原ではヒト居住の主要な4期間があった、と示唆されます。考古学的研究は、生計慣行や行動やヒトの分布について情報をもたらしますが、低酸素症への生物学的適応には直接的な洞察を提供しません。

 対照的に、ゲノム研究はチベット人における適応的遺伝子のいくつかの候補を特定し、チベット人と低地中国人との間の人口集団の分岐を推定し、チベット人の遺伝的適応を促進した、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝子移入を検出しました(関連記事)。したがって、考古学と遺伝学的研究は、チベット高原への移住過程の状況を再構築するにあたって補完的です。しかし、考古学と遺伝学を同等に重視した研究はまだありません。尼阿底(Nwya Devu)遺跡(関連記事)や白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)遺跡(関連記事)など最近の発見を踏まえて、本論文は関連する考古学とゲノムと化石と古環境の証拠を一つの枠組みで評価し、チベット高原の人口史に関する二つの節約的モデルと予測を提案します。


●海洋酸素同位体ステージ6~4(第1期)

 中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の下顎骨から、古代型人類が海洋酸素同位体ステージ(MIS)6となる16万年前頃にチベット高原の端に到達した、と示唆されます(関連記事)。この化石標本(夏河下顎)は、ネアンデルタール人とは異なる古代型ホモ属の下顎と歯の特徴を有しており、古プロテオーム(タンパク質の総体)解析では、デニソワ人(関連記事)との密接な類似性が示唆されています。さらに、デニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が、白石崖溶洞の10万年前頃と6万年前頃の堆積物、および恐らくは再堆積した45000年前頃の堆積物から抽出されました(関連記事)。

 海抜2763mに位置する甘粛省永登(Yongdeng)県の将軍府01(JiangjunfuJiangjunfu 01、JJF01)開地遺跡の年代は12万~9万年前頃で、露出した地質区画から収集された少数の石器により特定されました(関連記事)。最近、アシューリアン(Acheulean)的な握斧(ハンドアックス)が13万年以上前と報告されていますが、まだ報道発表でしか知られていません。もっと驚くのは、チベット高原中央のチュサン(Chusang)遺跡(関連記事)で、226000~169000年前頃とされる初期の岩絵が発見された、との主張です。それは、足跡と手形の年代測定、および芸術の証拠としてのその解釈についての関心を惹起します。

 現生人類(Homo sapiens)が低酸素環境に適応した最初で唯一の人類(ヒト亜科)だった、との見解に異議を唱える発見が増加しています。全体として、証拠はチベット高原での人類の活動のより長い歴史を示しています。しかし、夏河下顎標本には考古学的文脈が欠けており、堆積物から回収されたmtDNAは、高地適応と関連するゲノム多様体を特定できません。したがって、チベット高原での古代型人類の形態と生物学と行動を理解するには、古代の核DNAと化石と本格的な発掘調査のさらなる証拠が必要です。


●MIS3の巨大湖時代(第2期)

 チベット高原のMIS3(4万~3万年前頃)は「巨大湖時代」と呼ばれることもあり、夏季の季節風強化による、気温と降水量と湖の水位の上昇が特徴です。尼阿底開地遺跡の体系的発掘から、狩猟採集民が4万~3万年前頃となるこの温暖事象期に、海抜4600mの高地に以前知られていたよりもずっと早く到達していた、と示唆されます(関連記事)。尼阿底遺跡では、高地で発見された最初の石刃製作も報告されており、石刃技術は中国では稀であるものの、ユーラシア草原地帯の初期上部旧石器時代では典型的な技術です。色林錯(Siling Co)や小ツァイダム(Xiao Qaidam)や冷湖地域(Lenghu Locality)など他の遺跡は、たとえば近隣の地質区画の標本などから、間接的に3万年前頃と測定されています。しかし、色林錯の事例については、最近になってずっと新しいと主張されていることに要注意です。発掘された遺跡が1ヶ所しかないため、巨大湖時代の狩猟採集民の定住パターンと行動適応は不明なままです。


●最終退氷(第3期)

 25000年前頃から始まる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)は、現在よりも気温が4~7度低い、顕著な寒冷化が特徴です。LGMだと確実に年代測定された遺跡はなく、ヒトの居住に適した最終退氷のより穏やかな気候の前の、そうした居住しにくい環境のチベット高原における把握しづらいヒトの存在を示唆します。以前の研究では、この期間の遺跡群が「後期上部旧石器時代の短期の兵站野営地」と呼ばれており、おもに調査と試掘坑から研究されました。青海省の「151」遺跡における最近の動物考古学的研究は、高い移動性と短い居住の事例を提供しました。石器は、LGM後に低地中国北部で広がった細石刃として記載されました。LGMには、チベット高原北東端に遺跡が集まっているものの(図1)、このパターンが行動か保存か可視的な偏りを表しているのかどうか、不明なことに要注意です。以下は本論文の図1です。
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●完新世の気候最適(第4期)

 ヤンガードライアス(YD)における急速な寒冷化は、ヒトの活動における顕著な減少と対応しているようです。次に、第4期は完新世の気候最適の開始と一致します。8000~6000年前頃の遺跡はおもに、細石刃など以前の伝統からの技術的継続性を示しますが、6000年前頃後には、磨製石器や彩文土器や農耕など新石器時代の文化的革新がじょじょに出現し、時には細石刃技術と共存しました。さまざまな人工物形態の分布は、さまざまな低地集団との接触と交換を示します。さらに、この期間の3600年前頃に農耕集団により通年の居住が確立された、と一部の研究者は主張し、30000~8000年前頃に狩猟採集民により通年居住が行なわれていた、との主張(関連記事)に反対しました。

 要約すると、ヒトの居住の4期間が観察され、それは考古学的および化石記録における明らかな間隙により分離されています。デニソワ人は後期MIS3のずっと前に、チベット高原に最初に到来したでしょう。文化的人工物により示唆される現生人類の証拠は、早くも4万年前頃となり、その居住はほぼ、寒冷/乾燥気候下の間隙を伴う温暖事象および技術的変化と相関しているようです。しかし、これらヒトの居住間の間隙は、低解像度のデータセットか、行動的パターンか、両者の組み合わせを反映している可能性があります。考古学的居住と環境記録との間のつながりは、まだ完全には確立していません。


●デニソワ人からの遺伝子移入

 低地からの地理的孤立と低酸素症の選択圧は、チベットの人口集団の適合性の形成にとって本質的な要因です。したがって、遺伝学的研究は、高地適応に有利な遺伝子を特定し、チベット人の人口史を推測することに焦点を当ててきました。チベット人の高地適応における別の重要な構成要素は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入の役割ですが(関連記事)、その遺伝子移入の時期と地理的範囲は議論の余地があります。

 低酸素環境への長期の暴露は、チベット人の生理機能における一連の変化をもたらしました。結果として、酸素供給と循環器系機能に関する複数の遺伝子が、高地適応に寄与した候補として特定されてきました(関連記事)。全ての遺伝子のうち、内皮PAS1(EPAS1)遺伝子は、低酸素環境におけるヘモグロビン値の低下と関連する強い正の兆候であることから、最も研究されてきており、この遺伝子はチベット人集団に有利に作用して独特だと考えられています。

 EPAS1遺伝子は、デニソワ人的な人類からの適応的遺伝子移入の兆候を示し(関連記事)、それはシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された化石から配列されたデニソワ人のゲノム(関連記事)とひじょうに高い類似性を示す、EPAS1遺伝子の適応的ハプロタイプにより特徴づけられます。このハプロタイプは、近隣人口集団では存在しないか極端に低頻度で、アルタイ山脈のデニソワ人からの適応的遺伝子移入が示唆されます。

 さらに、最近の研究では、アジアとオセアニアにおける少なくとも4回のデニソワ人的な混合の波が識別されています。そのうち一つはアジア人とオセアニア人に共有され(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはパプア人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはアジア東部人に(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、一つはフィリピンのマリヴェレニョ語アエタ人(Ayta Magbukon)に特有です(関連記事)。これらの遺伝子移入の遺伝的推定は、早ければ55000年前頃から遅ければ12000年前頃まで広範囲です(表1)。この年代の不一致は、推定手法か、分析データの種類と標本か、2018年以前の研究におけるデニソワ人からの遺伝子移入の単一の波の推定での違いを反映しているかもしれません。

 その結果、いつ、どこで、どのデニソワ人集団から有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがチベット人に伝わったのか、という問題が提起されます。最近の研究では、アジア東部人特有の遺伝子移入が48000年前頃に起き、有利なEPAS1遺伝子のハプロタイプがもたらされた、と特定されました(関連記事)。他の二つの研究でも、アジア東部人を含む46000年前頃の遺伝子移入が明らかになりました(関連記事1および関連記事2)。一般的に、48000~46000年前頃のアジア東部現代人の祖先とデニソワ人との間の遭遇は、チベットの現代人集団の高地適応に役立ったかもしれません。


●正の選択の開始およびチベット人と漢人との集団分岐

 隣接する低地人口集団と比較してのチベット人における独占的に高頻度の遺伝子は、高地適応の正の選択の標的と考えられます。したがって、これらの遺伝子の選択の時期は、適応と恒久的な定住の開始の代理としてよく用いられます。EPAS1遺伝子の選択の推定年代は、18300~2800年前頃と比較的広範囲を示します(表1)。この長い間隔にも関わらず、大半の研究は、選択がデニソワ人からの遺伝子移入よりもずっと後のLGM後に起きた、と示唆します。チベット高原からの古代の(核)DNAを有するヒト遺骸の発見により、高地適応の時系列の追加の状況とより高い解像度を提供できます。しかし、古代の核DNAはチベット高原では稀で、これまでにヒマラヤ山脈のネパール側の限定的な標本を報告した研究一つだけとなり、その標本の年代は1750~1250年前頃で、適応的なEPAS1アレル(対立遺伝子)を有していました(関連記事)。

 チベット高原の地理的孤立を考慮すると、チベット人と低地漢人との間の集団分岐の時期は、適応へのもう一つの参考ですが、60000~2700年前頃までと、年代的解像度では類似の問題を抱えています(表1)。標本と手法の違いに加えて、集団分岐年代の不一致は、チベット人と漢人との間の継続的な遺伝子流動により部分的に説明でき(関連記事)、この遺伝子流動は歴史時代にかなり増加し、チベット人と低地人との間の合着(合祖)を合成するかもしれません。

 要約すると、遺伝学的研究はアジア東部人へのデニソワ人からの遺伝子移入の年代を解明し、デニソワ人とアジア東部人の祖先との間の接触は、シベリアのアルタイ山脈とチベット高原との間のどこかで、48000~46000年前頃からすぐに起きた、と示唆されます。チベット人と漢人との間の分離は、デニソワ人からの遺伝子移入の後で起きた可能性が高そうです。60000年前頃から3000年前頃にわたる複数の上述の要因により、年代推定は混乱している可能性があります。

 遺伝子移入されたEPAS1遺伝子における正の選択についてのほとんどの結果は、更新世と完新世の境界の頃にまとまっています(13000~7000年前頃)。そのため、正の選択はチベット高原における農耕導入前に起き、狩猟採集民による恒久的な定住との想定が支持されるでしょう。古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入と選択と集団分岐の遺伝学的推定年代は、現時点では長い間隔になっているという同じ問題を共有していますが、これは長期の進化における偶然性、観察されたゲノムパターンに寄与した複雑な仕組み、遺伝学的モデルの仮定など、複数の要因により起きます。もっと多くの古代DNAが利用可能になり、人口統計学的モデルを改良するまで、遺伝学的年代は、注意して用い、考古学的および古人類学的データで補足されるべきです。


●チベット高原におけるヒト居住の連続性の問題

 チベット高原に居住した最初のヒトは、白石崖溶洞のデータで示唆されるように恐らくデニソワ人で、デニソワ人は16万~6万年前頃に何回かチベット高原北東端に到来し、その前後にも居住した可能性があります(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、EPAS1遺伝子座を含むデニソワ人の核DNAが高地では知られていないので、デニソワ人が生物学的に高地に適応していたのかどうか、分かりません。デニソワ人がチベット高原で現生人類と直接的に接触していたのかどうか調べるには、将来の発見が重要です。

 現生人類の居住については、三つの主要な問題が際立っています。第一に、考古学的記録における複数の居住事象にも関わらず、恒久的な定住の開始は不明です。第二に、居住の間隙と気候変化との間に直接的つながりがあったのかどうかは、高解像度の研究データからの確証が必要です。第三に、適応的遺伝子移入と関連する重要な事象についての広範囲の推定年代は、チベット人における適応の出現の大まかな概要を提供します。その結果、二つの仮説的な移住モデルが、不連続な居住と連続的な居住を想定し、ともに既存の証拠と一致します(図2)。現時点では、低解像度のデータではどちらの仮説の完全な確認も却下もできません。しかし、このモデルは、将来の研究のため、明確に考古学的および遺伝学的予測がある解釈の枠組みを確立できるでしょう。


●モデルA:不連続な居住

 モデルAは、デニソワ人と更新世現生人類の居住における複数の到来/試みを伴う、不連続のヒトの居住を想定し、チベット高原は完新世まで恒久的に定住されませんでした。更新世における定住の試みの失敗は、低酸素症や極端な気候など外部要因による、局所的な絶滅もしくは低地への撤退により説明できるでしょう。

 モデルAでは、LGMおよびYDにおいて観察された間隙は居住期間の間の不毛層で、それは、「証拠の欠如」の事実につながる、よく確立された地質考古学的記録により確証されるべきとされます。別の予測は、よく記録された考古学的および環境系列は、人口集団の不連続性と気候悪化との間の関連を示すだろう、というものです。その上、チベット高原の物質文化におけるかなりの変化は、経狩猟採集民の行動が経時的に変化するのと同様の経路をたどり、近くの低地における文化的変化と同時です。より重要なのは、不連続モデルでは、高地における恒久的な居住もしくは通年の定住が完新世にのみ出現するだろう、と意味していることです。つまり、チベット高原の更新世遺跡群は、低地の居住拠点野営地とは対照的に、単なる侵入もしくは季節的な居住にすぎなかっただろう、というわけです。したがって、その分布は高地と低地の間で異なる定住パターンを示します。

 上述のように遺伝学的に、デニソワ人からの遺伝子移入は低地におけるチベット人と漢人との間の集団分岐に先行し、アジア東部人の祖先で早ければ48000~46000年前頃に起きた可能性があります。過去の核DNAがチベット高原のデニソワ人遺骸から得られたならば、チベット高原のデニソワ人が適応的なEPAS1遺伝子ハプロタイプを有していながら、現代チベット人の遺伝子プールにほとんど遺伝的寄与を示さない可能性は低そうです。同様に、チベット高原の更新世現生人類が適応遺伝子を有している可能性は低そうで、現代チベット人の直接的祖先ではないでしょう。結果として、EPAS1遺伝子を含む全ての高地適応遺伝子の正の選択の開始は、低地漢人からのチベット人の隔離と類似した年代で、完新世の頃であるはずです。


●モデルB:連続的な居住

 モデルBは、巨大湖時代から完新世までの現生人類による恒久的居住のより大きな時間的深さを仮定しており、高地人口集団における遺伝的ボトルネック(瓶首効果)もしくは低地からの移住により起きた人口変動は限定的です。この状況では、後期MIS3の狩猟採集民は高地環境での定住に成功し、現代チベット人の直接的祖先の一員でした。

 考古学の観点では、間隙が小さな標本規模および/もしくは保存の偏りに起因する、とモデルBは予測します。したがって、LGMとYDの厳密な年代を伴う新たな発見がこの間隙を埋める、と予測されます。行動的には、低地と高地との間の文化的変化の異なる速度が予想されます。高地の文化は、低地の侵入ではなく、環境圧への適応である、経時的に伝わる地域の革新とともに見つかるでしょう。完新世の前の初期通年居住は、季節性と移動性に関連する遺跡の機能と動物相の分析についての研究により確立されるべきです。生態系モデルは、気候悪化時の退避地もしくは移動パターンの予測の補足となるかもしれません(関連記事)。この場合、狩猟採集民はLGMとYDにおける極端な気候にも関わらず継続的に高地に居住し、農耕は通年定住に必須ではありません。

 遺伝学では、モデルAのように、デニソワ人からの遺伝子移入は低地で48000~46000年前頃に起きた可能性があります。より多くのデニソワ人化石がチベット高原で発見されれば、とくにそのデニソワ人が適応的EPAS1遺伝子ハプロタイプを有していれば、高地における現生人類への追加の(複数回かもしれない)適応的遺伝子移入の可能性が開かれます。高地適応については、EPAS1を含む主要な適応遺伝子の選択は、LGMに先行する、と予測されます。

 しかし、他のメカニズム(たとえば、最近の混合や有害な変異の存在など)が正の選択の推定と適応的遺伝子移入の識別に影響を与えるかもしれません。たとえば、デードゥ(Deedu)モンゴル人はごく最近高地に適応し、それは500年前頃のチベット高原への最初の移住後で、そうした適応が独立した過程を表しているのか、最近の移住もしくはチベット人と共有される祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)により促進されたのか、不明なままです。最後に、LGM前となるチベット人と漢人との間の深い分岐は、低地からの高地の早期の分離に起因する、と予測されます。以下はモデルAとBを示した以下は本論文の図2です。
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●まとめ

 新たな発見が急速に蓄積され、チベット高原の人口史の理解を深め続けていますが、いくつかの既知の統合は考古学的発見に大きく依存していました。本論文は学際的手法を用いて、チベット高原高地の人口史の、節約的ではあるものの異なる二つのモデルを提案します。両モデルは考古学と遺伝学との間で一貫性に達するように構築されていますが、各分野に固有の課題が残っています。たとえば、考古学的データは複数の別々の居住事象を示しているようですが、これは記録の断片的な性質を反映しているかもしれません。ゲノム研究は、チベット人と低地漢人との間の分岐と、適応遺伝子の選択について年代推定を提示しますが、それにも関わらず、結果は連続性と不連続性の両方と一致しています(表1)。したがって、上述のモデル予測を検証するには、そうした課題を克服するために高解像度のデータセットが必要です。

 データ解像度が向上するにつれて、より節約的ではない想定(たとえば、さまざまな集団における複数回の適応)の別の可能性が開かれるかもしれませんが、現時点では、二つの単純なモデルでさえ、完全に確認もしくは却下することができません。現在の証拠から、デニソワ人はMIS6~4もしくはその前後にチベット高原を繰り返し訪れた可能性がある、と示唆されます。それにも関わらず、古代の核DNAと直接的に関連する化石および文化的遺物と明示的な地理的分布なしには、デニソワ人が高地に適応したのかどうか、不明です。

 特定されたデニソワ人からの遺伝子移入のうち、アルタイ山脈のデニソワ人と関連する人口集団からアジア東部現代人の祖先への特定の波は、低地において48000~46000年前頃にEPAS1ハプロタイプをもたらした可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。多くの結果は、このハプロタイプが末期更新世と早期完新世の間に正の選択を受けた、と示唆しており(表1)、それは最初の遺伝子移入の4万~3万年後です。しかし、現生人類やデニソワ人や他の未知の古代型ホモ属(関連記事)など、どのホモ属種が最初に高地環境で生理学的に適応を達成したのか、結論づけるのは時期尚早のようです。単一個体のデニソワ人参照ゲノムにおける高地適応的なEPAS1遺伝子のハプロタイプの存在は、デニソワ人集団における頻度について情報をもたらさず、種の水準で生物学的機能を説明するわけでもありません。

 デニソワ人の時代の後、現在のデータの限界を認めて、考古学的および遺伝学的証拠がヒトの拡散の一つの想定に収束することは注目に値します。4万~3万年前頃の尼阿底遺跡における石刃技術の突然の出現は、ユーラシア草原地帯東部(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)における48000~40000年前頃となる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とのつながりの可能性を示し、これはシベリアにおける現生人類化石(関連記事)や、アジア東部人へのデニソワ人からのEPAS1の遺伝子移入と同年代です。

 最初の体系的石刃製作としてのIUP石器群は、広くシベリアのアルタイ山脈とモンゴル北部で見つかり、通常は初期現生人類拡散の証拠として認識されています(関連記事)。この問題については後述の補足で取り上げます。さらに、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)のヒト遺骸から、現生人類はIUP石器を製作し、アジア東部現代人と遺伝的つながりがある、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。アジア東部低地では、石刃石器群は稀ですが、IUP石器群の明確な事例は中国北部の寧夏回族自治区の水洞溝(Shuiddongou)遺跡(関連記事)で確認されており、年代は41000~34000年前頃です。

 まとめると、石刃石器群と現生人類化石は、デニソワ人からの適応的遺伝子移入とともに、仮定的ではあるものの説得力のある想定を提案します。それは、現生人類がシベリアのアルタイ山脈に48000年前頃に到来し、モンゴル北部には45000年前頃に到達して、最終的には中国北部とチベット高原に早ければ4万年前頃には拡大した、というものです。狩猟採集民はデニソワ人から遺伝子移入されたEPAS1ハプロタイプとともに、アジア東部へとある種の石刃技術をもたらしました。新石器時代のチベット人は、南方の新石器時代集団よりも、北方の新石器時代アジア東部人およびシベリア人と遺伝的に密接なので(関連記事)、草原地帯とアジア東部との間のつながりは後の期間には頻繁だった可能性があります。

 最後に、本論文の二つのモデルは、チベット高原の人口史の洗練と、チベット高原と草原地帯との間の初期のつながり、もしくは現生人類とデニソワ人との間の地理的および時間的重複といった、特定の問題(後述の未解決の問題)の対処に役立つはずです。本論文は、チベット高原における高地適応の人口史と進化的過程への考古学と遺伝学の統合の価値を強調します。本論文は、この研究により、チベット高原およびそれを越えて学際的にさらなる協力が促進されるよう、願っています。


●補足1:現生人類の拡散とIUP

 「出アフリカII」モデルによると、現生人類のアジア東部への二つの拡大経路が提案されています。それは、南方経路と北方経路です。南方経路はアフリカ東部からの拡散を支持し、その後はアジア南部の海岸線を進み、早ければ6万~5に万年前頃にオーストラリアに到達した、とされます。北方経路では、現生人類はレヴァントを通って拡散し、アジア中央部と北部を横断し、アジア東部に5万年前頃に到達した、と想定されます。

 二つの拡散経路は、異なる適応経路を示唆しているかもしれません。北方経路は、おもに中緯度と比較的高緯度の大陸性気候となります。それは、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Isinhim)遺跡の45000年前頃の個体(関連記事)や、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)とともに、IUPとして知られる考古学的技術複合の拡大により裏づけられます。

 IUPは、中部旧石器時代と古典的な上部旧石器時代との間の移行期に出現した、特定の石器技術の一種です(関連記事)。IUPは、アジア西部(レヴァント)やヨーロッパ東部やアジア中央部および北部で広く見つかります。ユーラシア東部草原地帯(アジア中央部やシベリアのアルタイ山脈やモンゴル北部など)のIUP遺跡群の年代はほぼ48000~40000年前頃で、上述の現生人類化石と同年代です。IUP石器群はおもに、非対称的石核や彫器状石核(burin-core)など、特定の手法による体系的な石刃製作が優占します。IUPは、骨や角や牙の道具、および個人的装飾品の使用でも明らかになることがあります。

 IUPの拡散は、生計慣行と社会的組織の変化、および/もしくは動産および洞窟芸術の目覚ましい発展とともに、初期現生人類狩猟採集民人口集団を特徴づける行動の一般化に向けた初期段階としてみなされます。ヨーロッパ東部のブルガリアのバチョキロ洞窟における新たな発見から、45000年前頃の石器群と直接的に関連して発見されたヒト遺骸に基づいて、現生人類はIUPの製作者であり、バチョキロ洞窟個体群はヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と密接な遺伝的類似性を有している、と示唆されました(関連記事)。


●補足2:未解決の問題

 チベット高原におけるデニソワ人遺骸の特定は、デニソワ人集団がどのようにしていつチベット高原の高地へ拡大したのかについて、基本的な問題を提起します。絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は高地環境に適応しましたか?絶滅ホモ属は高地で特定の行動を取りましたか?アジアにおけるデニソワ人の人口動態および地理的分布はどうでしたか?

 早ければ48000年前頃にデニソワ人から現生人類に伝えられたEPAS1遺伝子のハプロタイプは、チベット人集団の高地適応に役立ちますが、そのハプロタイプの正の選択はデニソワ人から現生人類への遺伝子移入よりもずっと新しかったようです。デニソワ人と現生人類との間の複数回の混合事象が示されてきましたが、現生人類はどの地域でEPAS1の遺伝子移入を受けましたか?デニソワ人の地域的人口集団内のEPAS1遺伝子のハプロタイプはどのくらいの頻度でしたか?

 石刃製作など特定の行動は、チベット高原で早ければ4万年前頃に突然出現し、恐らくはユーラシア草原地帯に由来します。狩猟採集民はその技術を、どのように極限環境に適応させたのでしょうか?技術拡散につながったメカニズムは何でしたか?文化的拡散なのか、それとも人口移動だったのでしょうか?

 現生狩猟採集民はよく、季節や自然の資源に応じて、移動頻度を景観に適応させます。更新世の狩猟採集民は、その移動性と定住パターンを、過酷な高地環境にどのように順応させましたか?


参考文献:
Zhang P. et al.(2021): Denisovans and Homo sapiens on the Tibetan Plateau: dispersals and adaptations. Trends in Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1016/j.tree.2021.11.004

大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』

 角川新書の一冊として、KADOKAWAから2019年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、宇喜多秀家を中心に宇喜多一族(宇喜多一類)の動向を検証します。宇喜多氏が台頭したのは秀家の父の直家の代ですが、直家の素性は明らかではなく、戦国時代の新興勢力だったようです。なお、16世紀初めに、備前には地侍ながら名声の高かった宇喜多能家がおり、一般的には直家の祖父とされていますが、両者の血縁関係を立証する確実な史料はないそうです。

 直家は浦上宗景の配下として、1568年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に西備前の松田氏を滅ぼし、備前・美作地域において、浦上宗景と直家に対抗できる勢力はいなくなります。1569年、まだ織田と毛利が協調関係にあった時に、浦上宗景が織田・毛利方に抵抗したのに対して、直家は毛利方に与し、直家は織田信長に接近します。しかし、織田軍の播磨での行動は順調に進まず、浦上宗景が信長に接近して直家は孤立し、宗景が優位の形で両者は和睦します。しかし、これにより、直家は自勢力を宗景に匹敵するものとして織田と毛利に印象づけることに成功したようです。

 その後、宗景と直家は共に毛利と戦い続けますが、勢力で劣るので講和に奔走し、1572年末に毛利との争いは終息します。この講和交渉中の1572年に直家の息子として秀家が生まれますが、その母(円融院)の出自については確定していないようです。1574年、直家は宗景と断交し、毛利氏の支援を得て、1575年には備前・美作一帯のほとんどを領有する大名に成長します。この宇喜多氏の成長を毛利氏も警戒しており、織田方への寝返りを懸念していましたが、その懸念は的中し、織田方の攻勢に自身も大打撃を受けた直家は、1579年に羽柴秀吉を介して織田方に服属します。直家は毛利氏の攻勢に苦戦するなか、1581年に没し、翌年、息子の秀家が11歳(数え年)で家督を相続しますが、実権はなく、宇喜多家は家臣の合議体制により運営されます。

 1582年は、秀家にとって転機となりました。父の死により家督を継承し、毛利氏との戦いで劣勢にあるなか、本能寺の変が起きて毛利氏とは講和し、宇喜多氏の領国が確定へと向かいます。ただ、境目での紛争は続き、勢力圏がほぼ確定したのは1585年になってからでした。宇喜多氏の所領は50万石弱だったようです。さらに、秀家は1582年に秀吉の養女(実父は前田利家)と婚約します。秀吉の養女(樹正院)を妻に迎え、宇喜多氏が早々に秀吉に服属して毛利氏への抑えとして機能したこともあり、秀家は豊臣(羽柴)政権で重用され、統一過程での秀吉の軍事行動にもたびたび従います。秀吉に寵愛された樹正院は、秀家にとって豊臣政権での地位を保証する重要な存在だったようです。ただ、秀家とは異なり秀吉と血縁関係にある秀次・秀勝・秀保の三兄弟が台頭すると、秀家は豊臣政権で相対的に地位を下げたようです。しかし、この三兄弟は相次いで病死もしくは失脚し、秀家が最終的に豊臣政権の「大老」の一人になったのは、そうした外在的事情が大きかったようです。

 秀家は秀吉の命で1592年に朝鮮へも出兵し(文禄の役)、秀吉は秀家を厚遇しつつも、その経験不足を危ぶんでいたようです。この出兵や城下町整備などで、宇喜多氏の財政状態は厳しかったようですが、それは同時代の他の大名も変わらなかったのでしょう。秀吉は1597年に再度朝鮮への出兵を命じ(慶長の役)、秀家も出陣しますが、翌1598年4月に帰国します。秀吉の死は同年8月で、秀家時代の宇喜多氏の家中統制は、多分に秀吉の威光を背景にしたものだったので、秀吉死後の1599年末から翌年正月の頃、お家騒動(宇喜多騒動)が勃発します。秀吉の威光を失い、続けてすぐに樹正院の実父である前田利家も没し、まだ若く経験不足だった秀家は、この騒動を収拾できず、多くの重臣を失います。この宇喜多騒動の原因は、秀家への集権化に対する家臣団の反発だったようです。

 こうして宇喜多家中が混乱している状況で、関ヶ原の戦いへと至る騒動が勃発します。まず、1600年6月16日に上杉景勝討伐のため徳川家康が大坂から出兵し、秀家は従兄弟の浮田左京亮を名代として従軍させますが、同年7月に石田三成と大谷吉継の家康討伐計画に同心し、挙兵します。しかし、同年9月15日の関ヶ原合戦で秀家たちの西軍は家康が率いる東軍に大敗し、秀家は逃亡生活を続け、妻の樹正院とその生家の前田氏の助けもあったようで、薩摩に落ち延びます。島津氏は徳川方との交渉の末に本領安堵となり、秀家の助命も交渉します。その結果、秀家は助命となり、まず駿河に配流となった後、1604年4月、八丈島へと配流されました。樹正院の生家の加賀藩前田氏から配流先の秀家には継続的な支援があり、秀家は1655年11月20日、数え年84歳で没します。加賀藩による宇喜多一類への支援は明治維新まで続き、その理由は、加賀藩が宇喜多一類を流罪人ではなく藩祖(前田利家)の親族として敬意を払っていたことあるようです。

チリで発見されたアンキロサウルスの新種

 チリで発見されたアンキロサウルスの新種に関する研究(Soto-Acuña et al., 2021)が報道されました。装甲を持つ恐竜(装盾類)は、剣竜類の対をなす棘や、進化した曲竜類(鎧竜類)の重い棍棒状の構造など、尾に特殊化した武器を進化させたことでよく知られています。かつてパンゲア超大陸の一部だった北方のローラシア大陸で発見された曲竜下目アンキロサウルスは、多様性に満ちた恐竜種で、詳しく研究されています。これに対して、南方のゴンドワナ大陸南部で発見される装甲恐竜は希少で謎が多いものの、おそらくはアンキロサウルスなど曲竜類の最初期の系統を含むと考えられます。

 本論文は、生物地理学的に西南極と関連する、チリ最南端マガジャネスで発見された、後期白亜紀(約7170万~7490万年前)の小型(全長約2m)の装甲恐竜の、ほぼ完全で部分的に関節がつながった骨格について報告します。この新属新種はステゴウロス・エレンガッセン(Stegouros elengassen)と命名され、尾の遠位半分を覆う7対の側方に突出した皮骨で形成された、ヤシやシダの葉状の平たい構造という、他の恐竜に類のない大きな尾の武器が見られます。ステゴウロス・エレンガッセン名前の由来は、奇妙な「屋根の尾(ステゴウロス)」と、パタゴニア地域の先住民アオニケンクの神話に登場する鎧のような獣(エレンガッセン)です。以下は、ステゴウロス・エレンガッセンの想像図です。
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 ステゴウロス・エレンガッセンには、曲竜類の頭蓋形質が認められるが、頭蓋後方の骨格は概して祖先的で、剣竜類様の形質も見られました。系統発生学的解析の結果、ステゴウロス・エレンガッセンは曲竜類に位置づけられました。具体的には、ステゴウロス・エレンガッセンは、オーストラリアのクンバラサウルス(Kunbarrasaurus)および南極のアンタークトペルタ(Antarctopelta)に近縁で、これらと共に、他の全ての曲竜類から最初に分岐したゴンドワナ大陸の曲竜類クレード(単系統群)を形成します。以下は、曲竜類この系統関係を示した本論文の図3です。
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 アンタークトペルタに見られる大きな皮骨と特殊化した尾椎は、ステゴウロス・エレンガッセン恐竜がステゴウロス属に似た尾の武器を有していた、と示唆します。この研究は、ステゴウロス属の最初の祖先およびその全ての子孫を含むものの、アンキロサウルス(Ankylosaurus)は含まない、新たなクレード「Parankylosauria」を提案しています。後期ジュラ紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が分裂した後、これらの超大陸にはそれぞれ、曲竜類の系統樹の異なる枝に属する恐竜が存在していたかもしれない、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:チリで発見されたアンキロサウルスの新種

 チリの亜南極地域で発見され、アンキロサウルスの新種とされる化石が、装甲恐竜の起源と初期進化についての新たな手掛かりをもたらしている。この知見を報告する論文が、Nature に掲載される。今回の知見は、Stegouros elengassenが武器となる大きな尾を進化させており、これが他の恐竜には見られない特徴であることを明らかにした。

 かつてパンゲア超大陸の一部だった北方のローラシア大陸で発見された曲竜下目アンキロサウルスは、多様性に満ちた恐竜種で、詳しく研究されている。これに対して、南方のゴンドワナ大陸のアンキロサウルスには、最古のアンキロサウルスが含まれている可能性が高いと考えられているが、その化石はほとんど見つかっておらず、解明が進んでいない。

 今回、Alexander Vargasたちは、チリ最南端のマガリャネスで発見された、保存状態が良好でほぼ完全な骨格化石が、後期白亜紀(約7170万~7490万年前)の体長約2メートルの小型のアンキロサウルスの骨格であることを報告している。Vargasたちは、これが、アンキロサウルスの新種であることを明らかにし、Stegouros elengassenと命名した。Stegourosには、他のアンキロサウルスと同様に独特な頭蓋骨の特徴が見られるが、その他の骨格はほとんどが原始的なもので、ステゴサウルスに似た特徴が含まれていると考えられている。また、Stegourosには、武器として使える大きな尾があり、7対の平たい骨性堆積物が融合した葉状構造が、この尾の遠位部全体に形成されている。この点で、他の装甲恐竜に見られる一対の尾部のスパイクや尾錘とは異なっていた。また、Vargasたちが系統発生解析(アンキロサウルスの系統樹を作成するのに相当する)を行ったところ、Stegourosがアンキロサウルスの一種で、特にオーストラリアのクンバラサウルス(Kunbarrasaurus)と南極のアンタークトペルタ(Antarctopelta)に近縁なことが判明した。

 Vargasたちは、以上の知見を踏まえて、後期ジュラ紀にパンゲア超大陸がローラシア大陸とゴンドワナ大陸に完全に分裂した後に、両大陸におけるアンキロサウルスの系統樹に別の枝が存在していた可能性があると結論付けている。Vargasたちは、この仮説は、Stegourosの発見によって提起された他の可能性と共に、装甲恐竜の進化、特にゴンドワナ大陸での装甲恐竜の進化に関して解明されていない点が多いことを改めて示していると述べている。


古生物学:チリの亜南極地域で発見された移行期の曲竜類の風変わりな尾の武器

Cover Story:武装して対処:独特な尾の武器を誇示するチリの曲竜類の遺骸

 装甲を持つ恐竜(装盾類)は、剣竜類の対をなす棘や曲竜類(鎧竜類)のこん棒状の構造といった、尾の武器で広く知られている。今回A Vargasたちは、アステカ文明で用いられていた武器によく似た特異な尾の武器を持つ新種の曲竜類について報告している。チリ南部で出土したこのStegouros elengassenのほぼ完全な骨格は、約7500万年前のもので、その大きな尾の武器は、融合してヤシやシダの葉状の構造になった7対の平たい骨状の被覆物からなる。著者たちは、Stegouros が、他のゴンドワナ大陸の曲竜類である、オーストラリアのクンバラサウルス(Kunburrasaurus)や南極のアンタークトペルタ(Antarctopelta)と特に関連が深いと確定することができた。彼らは、後期ジュラ紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が分裂した後、これらの超大陸にはそれぞれ、曲竜類の系統樹の異なる枝に属する恐竜が存在していた可能性があると提案している。



参考文献:
Soto-Acuña S. et al.(2021): Bizarre tail weaponry in a transitional ankylosaur from subantarctic Chile. Nature, 600, 7888, 259–263.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04147-1

彭宇潔「熱帯湿潤地域の狩猟採集民集団における民族誌的研究―カメルーンのバカ・ピグミーにみられる移住と道具利用に関して」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P31-34)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、カメルーン東南部の狩猟採集民バカ(Baka)を事例に、狩猟採集民をはじめとする小規模居住集団の居住形態(少人数で居住していた民族集団は、変化した社会的環境の中で居住の様式はどうなったのか)、狩猟採集民に見られる道具利用(ヒトが道具を利用する際に、身体の動作とその時の活動の進行がどのように構成され、何に影響されるのか)、それと関連する資源獲得の活動について検証します。

 バカについては、2010年以降に合計15ヶ月フィールドワークが実施されました。長期滞在した主要地域はブンバベック国立公園とンキ国立公園北側のソン村で、それ以外に、広域調査でソン村周辺地域と、西のジャ動物保護区近くのロミエ地域でも調査が行なわれました。ソン村およびその周辺地域には、狩猟採集民のバカとバンツー系焼畑農耕民のコナンベンベも、昔から居住しています。西側のロミエおよび周辺地域は都会や大きい街への交通が便利なところで、バカの他に人口が多いのはバンツー系焼畑農耕民ンジメです。ロミエはカメルーン東南部の物流中心地で、その二つの民族集団以外に、商人や国際協力機関関係者、伐採事業者などの外部からの人がひじょうに多くいます。

 バカ・ピグミーは実は数百年前から農耕民集団との接触が始まった、と言われています。著者の調査地のバカは100年前頃に奴隷貿易から逃げるために、中央アフリカからカメルーンにやってきた、と報告されています。昔のバカはその地域に住む焼畑農耕民集団とともに、ある場所に大人数で集まって定住するのではなく、少人数で構成する集落が森の中で分散していました。1935 年頃、当時のフランス植民地政府により、森林部の住民に対する定住化政策が始まりました。その後カメルーンが独立しても、そのような政策が続いています。

 1950 年代に、農耕民の方は先に幹線道路沿いへの定住に定着しましたが、バカはまだ森での遊動生活を続けていました。しかし、その時に森林地域に出入りする他の民族集団も増え、バカたちとの接触の機会は以前より増えました。カメルーン独立後の1960 年代に、国内反乱軍に対する制圧が厳しくなり、森に住む人は全員反乱軍とみなされて刑罰を与えられることになりました。それを恐れてバカは森の奥地から出て、幹線道路沿いの定住村に居住していきます。その後、1990 年代にまた政府の強制的な政策により、バカでは農耕と貨幣の利用が始まりました。2000 年代前後に世界的にカカオブームとなり、それに乗ってバカでも自家消費用の農作物だけではなく、カカオなどの換金作物の耕作も始まりました

 筆者のフィールドワークはこのような定住化過程の後に始まり、定住化後のバカの居住形態についてまとめることができました。これまで収集した事例数は16 個です。バカの移住は婚姻状態の変化からの影響が一番多く、移動の距離は3 km程度も100 km程度と比較的長距離もありますが、移住先はどれも当事者たちと近い親族関係を持つ人々の居住地です。したがって、定住化後のバカの移住には、婚姻制度や親族関係などの集団内の社会的規範は強く機能している、と考えられます。しかし、図2で示されるように、点線が表示する外部との関係による移住も目立ちます。それは、近年その地域に出入りする他民族の増加により、バカに新たな民族間関係ができており、それに基づいて長距離で中短期の移住が顕在化されたからです。また、それに伴い、女性の結婚相手が集団外の者でも認められるようになり、バカ社会における通婚圏が拡大したことにより、バカ自身の集団内規範も変化した、と明らかになりました。

 道具利用時の行動は、映像4点(2010 年に2回と2014 年と2017 年のフィールドワークにおいて同じ村で撮影)に基づいて部化石されました。個人で作業する活動と集団で作業する活動が二つずつあります。個人の事例は木を切る男子(図3)と、刀の部品およびその取手を作る中年男性(図4)の映像が観察されました。彼らが道具(斧と山刀)を振る動作のペース、つまりテンポを、beat per minuteで測ってみた結果、彼らは単一な動作を繰り返す時には切るペースが安定しているものの、複合的な動作や動作の調整と修正が必要となる時には切るペースが頻繁に変化する、と明らかになりました。また、作業が進行する中で、次に適切な動作を取るために、その時の動作を一時的に中断して、しばらく観察したり考えたり、あるいは周りの人の介入・指摘を受けたりしました。そのような中断の頻度は、作業自体の複雑さによって変わります。中断の頻度も中断する時間の長さも、作業者自身の熟練度とそうした作業に関する経験の多さにより異なる、と考えられます。

 集団の事例では、ナイフを持って一緒に木を叩きながら歌う5 歳の子どもたちの事例(図5)と、採集した野生果実を山刀で加工する女性たちの事例(図6)の映像が観察されました。まず分かったのは、音声的同調における相違です。参加者たちが道具を使って出した音声は、子供の遊びのような音楽性を求める場合には完全な同調、またはポリフォニーが必要とされています。それに対して、果実の作業のような場合では、音声的な同調がみられなくて、互いの出した音を無視し、回避していることが必要になる、と考えられます。音声的な同調とは別で、作業の進行における各個人の行動の同調、つまり休憩を取ることや作業を再開することなどについては、音楽性を求める活動の場合は音楽の構成に従って、参加者たちは担当するパートに応じて休止・再開・進行・テンポとテンションの調整などをしている、と観察されました。一方で、果実の加工活動にはそのような行動の同調が見られませんが、個々の参加者は自分のペースで作業を進めながら、誰かの休憩に合わせて少し止めて雑談するというような、周りの人の行動と部分的にオーバーラップすることが見られました。したがって、完全な同調もなくて完全な隔離もなく、自分のペースと他人のペースを自律的に合わせています。このように、一人で道具利用する場合でも、互いの協力が必要な集団活動でも、それぞれできるだけ作業自体に関与しない集団活動でも、周りの人々の行為によって作業時身体動作のリズム、作業進行のペースが影響される、と明らかになりました。

 「道具利用」、「居住形態」、「民族誌データベース」に関するこれまでの研究も踏まえると、第一の成果は、現代の狩猟採集民集団における道具利用の多様性とそれに影響する要素についての考察です。道具の多様さは確かに自然環境への適応をある程度反映しますが、道具の複雑度と用途に関しては、個々の集団の内部における制度および彼らが接触する集団との関係により影響されることも考慮すべき要素である、と明らかになりました。第二の成果として、集団の居住形態は遊動的で小規模から、大規模で定住型への移行につれて、集団内の社会制度が他集団との相互作用により変化します。したがって、ある人類集団の居住形態の変化は他の集団との接触も考慮すべきものと明らかなりました。記述スタイルの多様な民族誌資料を利用したデータベースの構築は、狩猟活動を事例にデータベースのデザインが初歩的に完成し、今後においてはレコードを充実させて、量的分析を通した新たな人類学モデルの構築が期待されます。


参考文献:
彭宇潔(2021)「熱帯湿潤地域の狩猟採集民集団における民族誌的研究―カメルーンのバカ・ピグミーにみられる移住と道具利用に関して」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P31-34

意思決定における不確実性の解消

 意思決定における不確実性の解消に関する研究(Mukherjee et al., 2021)が公表されました。視床背内側核と前頭前野の間の相互作用は、認知にきわめて重要です。ヒトでの研究から、これらの相互作用が意思決定において不確実性を解消している可能性が示されていますが、前頭前野に投射する視床領域には複数の細胞タイプがあり、これらの異なる細胞タイプが意思決定において別々の役割を担っているのかどうか、その正確な機構は分かっていません。この研究は、視床背内側核から前頭前野への2つの投射が、不確実な状況での意思決定において相補的な機構的役割を持つ、と突き止めました。

 具体的には、ドーパミン受容体(D2)を発現する投射は、課題からの入力が少ない場合に前頭前野の信号を増幅し、カイニン酸受容体(GRIK4)を発現する投射は、課題入力が密にあるものの整合的でない場合に、前頭前野の雑音(ノイズ)を抑制します。総合すると、これらのデータは微弱信号による不確実性と高雑音による不確実性を処理する別個の脳機構の存在を示唆しており、前頭前野要因の強い障害で見られる異常な意思決定を是正するための、機構的な突破口を提供しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:前頭前野の信号と雑音をそれぞれ独立に制御する視床回路

神経科学:意思決定における不確実性を解消する

 前頭前野とそこへの視床からの入力は、さまざまな形の意思決定に重要なことが知られている。しかし、前頭前野に投射する視床領域には複数の細胞タイプがあり、これらの異なる細胞タイプが意思決定において別々の役割を担っているかどうかは判明していない。今回M Halassaたちは、2つの異なる細胞タイプが、前頭前野の活動を増幅または抑制していることを見いだした。これらの細胞タイプはさらに、課題の不確実性に応じて、前頭前野の活動を上昇させたり下降させたり切り替えていることも分かった。



参考文献:
Mukherjee A. et al.(2021): Thalamic circuits for independent control of prefrontal signal and noise. Nature, 600, 7887, 100–104.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04056-3

中国南部で発見された現生人類遺骸の年代をめぐる議論

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、以前当ブログで取り上げた(関連記事)、中国南部における複数の遺跡の7万年以上前とされる初期現生人類の年代を見直した研究(Sun et al., 2021、以下Sun論文)に対する、二つの反論と再反論が公表されました。

 まず、一方の反論(Higham, and Douka., 2021、以下反論1)は、Sun論文の年代測定に疑問を呈しています。Sun論文で、中国南部への現生人類(Homo sapiens)の遅い到来を裏づけるために用いられた放射性炭素年代測定の信頼性には懸念があります。加速器質量分析(AMS)の年代を導き出すために用いられた前処理化学法は報告されておらず、年代測定された物質の性質を定義できず、限定的な分析データはほぼ完全に受容パラメータの範囲外で、精度に疑問が生じます。

 Sun論文は、参考文献で概説されているコラーゲン抽出法に従った、と述べていますが、参考文献とは手順が二つ異なります。反論1は、Sun論文が限外濾過ではなく基礎的コラーゲン法を参照したのではないか、と推測します。基礎的コラーゲン法は、腐植質を結集するための基礎洗浄も、より小さな汚染されている可能性がある分子を除去するための分子限外濾過も含まれていないことに、要注意です。フミン酸塩が存在する場合、汚染は除去されていない可能性が高そうです。次に、Sun論文は「TOC(total organic carbon、全有機炭素)」と呼ばれる手法を適用しましたが、ここでもこの手法の言及はありません。反論1は、これが参考文献で用いられた手法で、本質的にはゼラチン化を伴う酸-アルカリ-酸処理だと推測します。そうした前処理技術は、過去20年間にわたって、旧石器時代の物質の放射性炭素年代を顕著に過小評価する、と示されてきており、コラーゲン生産量の少ない骨ではより深刻な問題になります。

 適度に保存された骨コラーゲンの炭素と窒素の原子比率は2.9~3.5となり、炭素は40~45%、窒素は11~16%の範囲に収まるはずです。Sun論文の表S3のデータはこれらのパラメータの範囲外です。実際のコラーゲン収量は、選択された標本以外では報告されていませんが、これらはひじょうに低く、推奨される限界値1%を下回っていました。窒素の値は一様に1%未満で、ほとんどが0.01%未満でした。炭素の割合も極端に低くなっています。炭素と窒素の比率は全て最大許容範囲外で、しばしば40~50を超える一連の値を示します。これは、TOCにおけるコラーゲンもしくはコラーゲンの割合が実質的にゼロで、年代がおもに外因性(堆積物由来?)の炭素かもしれない物質で得られたことを示します。オックスフォード大学における中華人民共和国湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)の動物の骨からのコラーゲン抽出の以前の試みは、全て失敗しました。

 コラーゲンもしくはTOC手法のどちらかで処理された同じ標本の重複した骨の年代の分析は、問題の程度を確認します。16点の年代のうち、75%は統計的に異なる結果を示し、信頼性についてのさらなる疑問を提起します。炭の年代測定も同様に問題があります。Sun論文の図S2の炭の単一の斑点など、区画から採取された資料は、ヒトの居住に厳密には関連づけられず、自然事象に由来する可能性があります。しかし、重要なのは、古い炭に適した高度な酸化に基づく前処理手順の欠如です。放射性炭素年代は本質的に信頼性が低く、その結果は下限年代とみなされるべきです。Sun論文で取り上げられた遺跡群の年代の問題を解決するには、より高い基準に従って、より多くの研究が必要です。それまでSun論文のデータは、中国南部における現生人類の遅い出現についての結論とともに、片隅に置かれておくべきです。


 もう一方の反論(Martinón-Torres et al., 2021、以下反論2)は、Sun論文の放射性炭素年代測定と古代DNA分析に疑問を呈します。Sun論文は、47点の現生人類の歯が発見されている福岩洞窟など、中国南部の5ヶ所の人類遺跡が後期更新世の年代であることに疑問を呈し、それらが完新世のものだと提案します。反論2は、福岩洞窟の2点の「ヒト」標本(FY-HT-1およびFY-HT-2)の不確実な由来および分類学的識別と、その古代DNAおよび放射性炭素年代分析の品質基準に基づいて、Sun論文の確実性に疑問を呈します。

 (1)FY-HT-1およびFY-HT-2は、2019年に孫(Xue-feng Sun)氏と同僚により回収されましたが、福岩洞窟の発掘を率いる主要な研究者の監督はありませんでした。孫氏たちは、両標本が、反論2の著者たちの以前の研究(関連記事)と同じ標本に属する、と主張します。その根拠は、両標本が「明確に解剖学的現代人で、福岩洞窟遺跡のより早期の発見物の範囲内で計測的および形態的に合致している」からです。しかし両標本は、この主張を維持するような形態計測データも、歯の発見場所の主張について正確な情報も提供しません。重要なことに、反論2は、FY-HT-2がヒトではなく草食動物に属していることを確証します(図1)。摩耗はおもに歯の切端ではなく舌側にあります。歯の切端と舌側の摩耗の程度に関わらず、目に見える隣接摩耗面はありません。歯冠は高くて狭くなっています。歯根に対する歯冠の傾きは、シカなど一部の草食動物に典型的です。ひどいことに、その非ヒト的性質にも関わらず、Sun論文は「ユーラシア現代人系統の変異内に収まる」ヒト古代DNAが得られた、と主張します。明らかに、これらの結果はSun論文の厳密さと品質に疑問を呈します。以下は反論2の図1です。
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 (2)Sun論文では、AMS放射性炭素年代測定について、参考文献に記載されている手順の適用前に、TOC測定の前処理があるのかどうか、不明です。なぜならば、堆積後の炭酸塩は、通常の酸-アルカリ-酸処理手法での除去が困難だからです。コラーゲン以外のどの種類の成分がTOCに含まれていたのかも不明です。なぜならば、その炭素と窒素の比率が、たとえばFY-HT-2では、放射性炭素年代測定に適切なコラーゲン(2.9~3.6もしくは3.1~3.5)よりもずっと高いからです(46.2)。FY-HT-1における炭素の割合は約2.3%で、現代のエナメル質(0.1~0.8%)よりもずっと高くなっています。全体的に、Sun論文のこれらの標本は、堆積後の変質および/もしくは汚染を受けており、その放射性炭素年代は疑わしいように見えます。さらにSun論文は、後期更新世の動物相も、反論2の著者たちが得た43000年以上AMS放射性炭素年代測定結果も議論していません。

 (3)FY-HT-1については、反論2の著者たちの以前の研究における標本の深刻な歯根変質とは対照的に、歯根端のひじょうに良好な保存状態が浮き彫りになります。二つの異なる分類学的来歴の可能性は、全ての歯を同じ標本に関連づけることに、疑問を呈します。

 文脈化されておらず、汚染されている可能性が高い標本の、疑わしい古代DNAと放射性炭素年代分析を除いて、二次生成物のウラン-トリウム法年代測定と、化石を覆っている堆積物の光刺激ルミネセンス(optically stimulated luminescence、略してOSL)法は、福岩洞窟標本の後期更新世の年代を確証します。非ヒト動物の歯からヒトの古代DNAを得たことは、Sun論文の信頼性に深刻な疑問を投げかけます。中国における現生人類の早期の存在との反論2の著者たちの提案は、依然として揺るぎありません。


 これに対して再反論(Curnoe et al., 2021、以下再反論)は、反論2がSun論文を誤って再解釈しており、訂正が必要だと主張します。FY-HT-1およびFY-HT-2は2011~2013年の発掘調査の区画壁から収集され、その出所の詳細はSun論文で報告されています。FY-HT-2のエナメル質の舌側面の全ておよび咬合側と近心側表面のほとんどは失われています(図1A)。したがって、反論2で主張されている、「シカのような」摩耗の復元は、単純に歯の保存の現実とは似ていません。さまざまなシカの切歯の画像とFY-HT-2との比較にも、困惑させられます(反論2の図1A)。確証の偏り(確証バイアス)はさておき、適切な比較は、Sun論文において古代DNA分析により確証されたように、最近のヒトとの類似性を示唆しています(図1A)。FY-HT-1に関しては、その保存状態は既存の標本と視覚的に区別できません。しかし、動的な堆積史の文脈内の不均一な化石生成過程を考えると、Sun論文で示されたように、標本内では変異は明確であり、予測されます。

 反論1および2は、Sun論文のAMS放射性炭素年代測定にも異議を唱えます。Sun論文では、AMS放射性炭素年代測定の手順について説明し、これには以前に反論2の著者たちの研究(関連記事)で用いられた類似の手順が含まれていました。コラーゲンの保存が乏しいと示される、ほとんどの標本についてはSun論文で明らかです。しかし、コラーゲンと炭酸カルシウムとTOC(象牙質とエナメル質が含まれます)の結果の間の年代の不一致は一般的に小さく、少ない汚染が示唆されます。Sun論文では、FY3-1およびFY3-5の動物相標本も注目されました。重要なことに、反論2の著者たちの以前の研究におけるBA140121の炭素と窒素の比率も、最適な埋葬条件を示唆しており、信頼できる年代は8万年前頃よりずっと新しくなっています(たとえば、放射性炭素年代では39150±270年前)。北京大学研究室のAMSとTOCの歴史は、この放射性炭素年代をはるかに超えているはずです。反論2とは対照的に、BA140121の年代測定はその歴史に及ばず、じっさいにはSun論文の結果を独立して確証します。重要なのは、Sun論文の目的が、「真の」年代を得ることではなく、福岩洞窟が65000年前よりも古いヒト遺骸を含んでいるのかどうか、ということです。

 反論1は、以前に刊行された基準を「信頼できる」骨の放射性炭素年代測定に適用し、Sun論文の結果は解剖学的現代人(現生人類)の65000年前頃以降の到来を裏づけない、と主張します。これらの基準は化石におけるコラーゲンの分解(もしくは保存)の指標ですが、原則として、外因性炭素が存在しない場合、コラーゲンの分解は放射性炭素年代に影響を与えないはずです。化石における分解されたコラーゲンは汚染されているかもしれませんが、これらの基準は量を推定できません。真の年代から500~1000年の偏差は、一般的に考古学的資料では受け入れられないと考えられていますが、反論1で議論されているように、不確かな放射性炭素年代は単純に、8万年以上前から完新世への放射性炭素年代における変化の結果と想定できません。

 Sun論文は以前の研究に従って、現代のウシ属の骨や、考古学的資料の放射性炭素年代測定の前に年代が知られている歴史的遺跡のヒトの骨や歯について、検証を実施しました。Sun論文では、限外濾過について、ゼラチン状の骨溶液がホワットマンガラス微小繊維濾過器を用いて濾過されました。分子限外濾過を用いることができなかったのは、標本が小さすぎたからです。それにも関わらず、Sun論文の結果は、その手法が正確な年代を提供した、と示します(表1)。Sun論文で検証された人骨について、反論1はその結果を先験的に却下しました。しかし、歯のコラーゲンとTOC放射性炭素年代は、コラーゲンの分解により窒素と炭素の割合のほぼ半分が失われたにも関わらず、既知の年代とよく一致します(表1)。さらに、Sun論文における同じヒトの歯のAMS放射性炭素年代と、それとは独立したDNA先端年代の両方が一致します。通常、タンパク質配列は顕著な安定性を示し、DNAよりも古い過酷な環境で存在する可能性があります。したがって、真のDNA(古代DNA)の存在は、元々のコラーゲン(もしくは炭素)が存在したはずと示唆します。さらに、信頼できる炭素と窒素の比率を有するコラーゲンとTOCの年代の(たとえば、FY 3-5やYJP-1054やYJP-2936)の組み合わせは、これらの化石が65000年前よりずっと新しい、と示します。

 反論2も、FY-HT-2からの信頼性に疑問を呈しますが、Sun論文のデータは明確に、そうではないと示します(図1)。各部位の網羅率と、各部位のコンセンサス塩基と一致する読み取りの割合は、図1Bで示されます。各部位における多数派の塩基の平均頻度は99.92%でした。一部の部位における低いコンセンサス裏づけ(50%)は、挿入/欠失もしくはCストレッチ(シトシンが連続する配列パターン)に起因していました。汚染されてない標本で予測されるように、配列の大半は明らかに単一個体に由来します。読み取りの5′末端におけるシトシンとチミンの脱アミノ化は、古代DNAでは典型的です。全てのマッピングされた読み取りの平均的な脱アミノ化パターンは、図1Cに示されます。FY-HT-2ライブラリは、最後のヌクレオチドで損傷を保持しており、それは「二本鎖部分ウラシル・DNA・グリコシラーゼ」手順で提案された閾値(3%)よりずっと大きいものでした(図1B)。以下は再反論の図1です。
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 Sun論文では、流華石と堆積物と炭と哺乳類およびヒト化石から絶対年代を得ることにより、遺跡の形成過程と歴史が解明され、ウラン-トリウム法年代は福岩洞窟における古人類学的資料の埋葬年代を表せない、と強調されます。堆積物のOSL年代測定もできません。既存の47点のヒトの歯の一部の直接的な放射性炭素年代測定と古代DNA分析だけが、真の年代を理解できます。再反論は反論2対して、Sun論文の知見を誤って説明するのではなく、緊急の課題として扱うよう、強く求めます。

 再反論は、広範な年代測定技術と古代DNA技術を用いての、中国南部における解剖学的現代人の到来年代のさらなる研究を歓迎します。じっさい、これはSun論文の推進力でした。複数の手法と資料を用いて生成され、5ヶ所の遺跡にまたがる膨大な地質年代学的データとDNAデータを、予備検査の基準が不充分だったと主張することにより議論しようと試みることは、再反論者たちの意見では、(1)自分勝手であり、(2)中国南部における亜熱帯の古人類学的洞窟の複雑な堆積と化石生成と続成作用の現実を否定するものです。

 再反論は、Sun論文の放射性炭素年代測定結果は下限年代とみなせるはずである、との見解には同意しますが、これが二次生成物のトリウム230/ウラン年代測定の使用により解剖学的現代人の年代を表すことも、以前の研究で主張されたように、それらの年代が中国南部における初期解剖学的現代人の早期定住を確証することもできません。中国南部における解剖学的現代人の出現が50000~45000年前頃であることは、分子水準の結果と一致しており、まだ反証されていません。


 以上、Sun論文に対する反論と再反論についてざっと見てきました。現時点では、中国南部における6万年以上前の解剖学的現代人(現生人類)の存在が確定したとは言えないように思います。8万年前頃かそれ以前と主張された中国南部の現生人類遺骸の中に、Sun論文で主張されたように完新世のものが多い可能性も、現時点では高いように思います。ただ、ギリシアで20万年以上前となる広義の現生人類系統の遺骸が発見されていること(関連記事)などから、アフリカやレヴァントを越えて広義の現生人類が10万年以上前にユーラシアに広く拡散していたとしても不思議ではない、と私は考えています。その意味で、今後10万年以上前の現生人類遺骸が中国南部で確認される可能性もあるとは思います。


参考文献:
Curnoe D. et al.(2021): Reply to Martinón-Torres et al. and Higham and Douka: Refusal to acknowledge dating complexities of Fuyan Cave strengthens our case. PNAS, 118, 22, e2104818118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2104818118

Higham TFG, and Douka K.(2021): The reliability of late radiocarbon dates from the Paleolithic of southern China. PNAS, 118, 22, e2103798118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2103798118

Martinón-Torres M. et al.(2021): On the misidentification and unreliable context of the new “human teeth” from Fuyan Cave (China). PNAS, 118, 22, e2102961118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2102961118

Sun X. et al.(2021): Ancient DNA and multimethod dating confirm the late arrival of anatomically modern humans in southern China. PNAS, 118, 8, e2019158118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2019158118

大河ドラマ『青天を衝け』第38回「栄一の嫡男」

 今回は、栄一の家庭での話の比重が高く、嫡男の篤二に焦点当てた構成になっていました。偉大な父の存在に悩む不肖の息子という話は、大河ドラマに限らず創作ものの定番で、普遍的な話です。篤二の場合は、母の千代を亡くしてすぐに父がそれまで縁のなかった女性(兼子)と再婚したことでも、父への複雑な想いがあるようにも思います。もしそうならば、篤二が母を亡くしたのは満年齢で10歳に達する前でしたし、今回の時点でまだ10代でしたから、仕方のないところもあるでしょうか。篤二は血洗島に行き謹慎し、久々に血洗島の様子が描かれましたが、江戸時代と大きくは変わっていないようで、農村部の近代化が都市よりも遅れていることを示していたように思います。

 今回は、旧幕臣が集まり江戸時代を懐かしみ、久々の登場人物も少なからずおり、1年近く続いてきた本作の長さを改めて思うとともに、残り少なくなったことを考えると、寂しくもあります。憲法が公布されるなど、大きく世が変わっても旧幕臣は集まってきましたが、すっかり世捨て人状態の慶喜を栄一は気にかけており、慶喜に伝記執筆の許可を要請します。栄一と慶喜の交流は慶喜の死まで続くわけで、栄一にとって慶喜は生涯の大恩人だったのでしょう。今回は議会開設から日清戦争の終結と1897年の慶喜の東京帰還まで一気に話が進み、残り3回も駆け足になりそうですが、どこに焦点が当てられるのか、注目しています。

ヒト遺骸から周囲の石へのDNAの拡散

 ヒト遺骸から周囲の石へのDNAの拡散を報告した研究(Sarhan et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代DNAは、人類だけではなく、他の動物や植物や微生物の祖先の歴史の研究にとって強力な手法になりました。骨格およびミイラ化した遺骸に加えて、最近では堆積物も古代DNAの有望な供給源として特定されており、その中には更新世のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のミトコンドリアDNA(mtDNA)や核DNAも含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。そうした堆積物の古代DNAの供給源については、大型化石や小骨片や排泄物や腐敗した軟組織など、さまざまな仮定がありました。しかし、ヒトの堆積物古代DNAとその供給源との間の直接的つながりがある事例は、まだ見逃されています。

 本論文は、後期青銅器時代となる紀元前1306~紀元前1017年頃の骨壺墓地(Urnfield)文化のヒト骨格遺骸について報告します。このヒト遺骸はドイツ南西部のハイインゲン(Hayingen)の近くに位置するヴィムゼナー洞窟(Wimsener Höhle)もしくはフリードリヒ洞窟(Friedrichshöhle)と呼ばれる地下水河川洞窟内で発見されました(図1)。洞窟の入口の湖における同時代の土器および他のヒト骨片の発見から、儀式の場所だった可能性が示唆されています。シュヴァーベン山地(Swabian Alb)の他の洞窟の類似の発見物は、後期青銅器時代の宗教的現象、つまり洞窟における埋葬もしくは儀式行為を示しています。以下は本論文の図1です。
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 混ざり合った骨格遺骸は、洞窟天井からの継続的な水滴の結果として、重力の方向に向かって膨らみを形成した、方解石堆積物の重い層で覆われた状態で発見されました(図2AおよびB)。骨格の大半は方解石堆積物でかなり覆われていたので、より入手しやすい脛骨の標本だけが採取されました(図1D)。この考古学的発見物を分子的にさらに調べるため、周囲の方解石層とともに脛骨標本の断片が用いられました。骨と石のさまざまな部分が二次標本抽出され、メタゲノム配列されました。これらの遺骸について、骨格からの古代のヒトと微生物のDNAが周囲の環境に拡散した、と示せました。以下は本論文の図2です。
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●骨と石には同じ古代人のDNAが含まれています

 ヴィムゼナー洞窟で発見された後期青銅器時代のヒトDNAの分析をヒト参照ゲノムhg19と比較することにより、骨の標本だけではなく全ての石の標本でもヒトDNAの読み取りが明らかになりました。石のヒトDNAは骨の標本で見つかったヒトDNAの約1%を占めていました(図2C)。一般的に、石の標本のヒトDNA断片長は骨の標本より長く(図2D)、同等のDNA損傷水準、つまりチミンへの末端のシトシンの脱アミノ化の割合がありました。さらに、石と骨における古代人のDNAは、同じ分子的性別(男性、性染色体がXY)を示し、これは古典的な人類学的調査では不可能だったでしょう。

 石のヒトDNAが骨格遺骸のものなのかさらに確認するため、混成捕獲分析評価(hybridization capture assay)を用いてmtDNAが濃縮されました。これにより、骨の標本からのミトコンドリアゲノムの再構築が7倍以上の網羅率で可能となり、骨の標本の同一のミトコンドリアハプロタイプが明らかになりました(J1C1)。さらに、この個体の起源への片鱗を得るため、選択されたユーラシア現代人および他の青銅器時代個体群(関連記事)に対して、主成分分析が実行されました。その結果、ヴィムゼナー洞窟個体は同地域の他の青銅器時代個体群と同様にヨーロッパ人の多様性内に収まる、と示されました。全体として、ヒトDNAが骨から石へと拡散し、何千年も方解石に保存されていた、と確信的に論証できます。


●骨と石から再構築された微生物ゲノム

 ヒトDNAの結果に基づき、そうした方解石堆積物はタイムカプセルを表し、ヒトDNA以外の古代の分子情報をまだ含んでいる可能性がある、と仮定されました。したがって、一般的な微生物特性分析と、より長い連結断片への短いメタゲノム読み取りの新規解析を実行し、メタゲノム集合ゲノム(MAG)を再構築するとこにより、分析は骨と石の両標本の微生物群に拡張されました。一般的に、骨と石の標本の微生物特性は類似しており、洞窟環境に典型的な古細菌と放線菌門が豊富に存在しました。

 次に、骨と石の標本を別々に新規に解析すると、両標本から3点の高品質および4点の中間品質の原核生物MAGが得られました(骨から3点、石から4点のゲノム)。骨の標本からの1点のMAGを除いて、全ての再構築されたMAGはDNA損傷を示しました。ヒトDNAで観察されたものと同様に、骨と石の両方におけるMAGの存在は、微生物のDNAの拡散を示唆します。読み取り長が一般的に骨と比較して石でより長かったことも、観察されました(図2F)。

 これらのゲノムは、死後最初の分解と二次鍾乳石:以来の開始に関わったかもしれない微生物を表しています。たとえば、クロストリジウム属(Clostridium)とストレプトスポランギウム(Streptosporangium)属の構成員は、最も豊富な死後の骨分解生物の中で報告されています。さらに、ストレプトスポランギウム属は浸水した環境での骨の孔化にも関わってきました。ステノトロホモナス(Stentrophomonas)属やロドコッカス(Rhodococcus)属など他の微生物は、洞窟環境で炭酸カルシウムを結晶化すると示されてきましたが、これは方解石形成における潜在的な役割を示唆しているかもしれません。


●考察

 この事例研究では、青銅器時代のヒト骨格遺骸から骨と方解石が取り出され、そのDNA分析が行なわれました。よく保存された古代のヒトDNAと微生物DNAが石と骨から回収され、個体の性別決定およびヒトのmtDNAと微生物のゲノムの再構築には充分でした。骨と石の両標本で同じヒトDNAが特定され、それにより骨から周囲の環境へのヒトDNAの直接的拡散が論証されました。これは、洞窟堆積物における古代のヒトDNAの報告に、追加の説明モデルを提示します(関連記事1および関連記事2)。

 2003年の研究では、ニュージーランドのモアの骨の内部から収集された砂の標本で、沿岸モア(Euryapteryx curtus)のDNAの存在が報告されました、2007年の研究では、堆積物層全体で古代DNAの堆積後の垂直移動の可能性も示されました。しかし、鍾乳石堆積物がどのように過去からの古代DNA断片をよりよく保存できているのか、まだ確定していません。一般的に、DNAはその負の電荷のため、さまざまな鉱物要素に付着できます。さらに、洞窟環境は一定の温度と湿度と無光地帯を維持しており、通常のDNA損傷への暴露が少なくなります。タンパク質など有機物の含有量により骨が継続的に分類されるという事実のため、浸出したDNAが死後の微生物分解に曝されることが少なくなる可能性もあります。

 本論文は、洞窟環境の考古学的発見物に付随して発見された、こうした貴重な鉱物堆積物に注目することを目指しています。それらが鉱物堆積物を表すだけではなく、考古学的発見への拡張であり、古代DNAの形態で歴史的情報を保持して保存している、と本論文では示されました。現在、これらの堆積物はおもに、放射性炭素年代測定の限界(5万年前頃)を超えた、考古学的発見物の年代測定の代理として用いられています(たとえば、ウラン-トリウム法)。

 本論文の知見を考慮すると、これらの堆積物は同様の考古学的遺物の将来の破壊的標本抽出を回避するのに役立つ可能性があり、古代のヒトゲノムと微生物群の再構築に用いることのできる、古遺伝学的記録保管所を提供します。そうした堆積物が、タンパク質や脂質など他の古代の生体分子をどこまで保存できるかは、今後の課題です。最後に、考古学者と人類学者の共同体への伝達事項は、破壊的手順を伴うことが多い分子分析ではとくに、発掘における堆積物や鉱物堆積物や水など革新的な標本抽出の供給源を考慮することです。以下は本論文の要約図です。
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●この研究の限界

 この研究の主要な限界は、単一遺跡の単一個体に基づいており、そうした方解石堆積物で覆われた古代の骨格標本を見つけるのは稀でもあることです。さらに、方解石堆積物から得られたヒトDNAの合計読み取り量は、骨よりも2桁少なくなっています。これは、同様の標本からのDNAライブラリの準備に伴い、その後でヒトの核DNAとmtDNAの捕獲手法を適用するよう、示唆しているかもしれません。本論文からは、古代DNA研究のさらなる飛躍の可能性が窺え、今後の古代DNA研究への応用が大いに期待されます。


参考文献:
Sarhan MS. et al.(2021): Ancient DNA diffuses from human bones to cave stones. iScience, 24, 12, 103397.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2021.103397

森安孝夫『シルクロード世界史』

 講談社選書メチエの一冊として、2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「陸のシルクロード」と「前近代ユーラシア世界」を同一視する著書の立場からの「前近代ユーラシア世界史」です。冒頭の歴史学と歴史教育に関する提言には、教えられるところが少なくありません。本書で重点的に取り上げられる「中央ユーラシア」は、東西は旧満州西部からハンガリーまで、南北はチベット高原からシベリア南返までとなる乾燥地帯です。また本書の前近代史の主要な舞台はユーラシアとアフリカ北部だけで、それは他地域の文明がヨーロッパ人の侵略により破壊され、その後のグローバル世界史につながらなかったから、とされています。これについては異論が多いかもしれません。

 経済力と軍事力と情報伝達能力を重視した本書の8段階の時代区分はなかなか興味深いものです。それは、11000年前頃以降の農業革命(第一次農業革命)、5500年前頃以降の四大文明の登場(第二次農業革命)、4000年前頃以降の鉄器革命(第三次農業革命)、3000年前頃以降の騎馬遊牧民集団の登場、1000年前頃以降の中央ユーラシア型国家優勢時代、500年前頃以降の火薬革命と海路によるグローバル化、200年前頃以降の産業革命と鉄道・蒸気船(外燃機関)の登場、100年前頃以降の自動車・航空機(内燃機関)と電信の登場です。本書は疑問が呈されていることを認識しながら、あえて「四大文明」という概念を提示しますが、やはりその有効性には疑問が残ります。ただ、全体的にはなかなか適切な時代区分だと思います。もちろん本書も指摘するように、世界史の時代区分は他にもあり得ます。

 本書は、この時代区分にしたがって農業開始からの世界史を概観した後、世界史における中央ユーラシアの重要な役割を解説していきます。これは、馬の家畜化、とくに騎乗技術の開発が大きく、移動力の飛躍的発展をもたらした騎乗技術の拡散により各地で大規模な国家(帝国)が成立します。遊牧国家の発展・維持に不可欠だったのが「国際」商業、つまりシルクロードを通じた貿易で、遊牧民の日常生活の維持に必要だったのが、境界地帯での農耕民との交易でした。この北方の遊牧民勢力と南方の農耕民勢力との相克は、ユーラシアにおいて東(匈奴と漢など)から西(スキタイとギリシア・ローマなど)まで広範に見られる、と本書は指摘します。また本書は、シルクロード貿易の本質が奢侈品だったことを強調します。

『卑弥呼』第76話「真の王」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年12月20日号掲載分の感想です。前回は、暈(クマ)の国の5人のタケル王が、田油津日女(タブラツヒメ)を新たな日見子(ヒミコ)として擁立しよう、と画策しているところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)国の千穂(現在の高千穂でしょうか)の産処(ウミドコロ)にて、ヌカデが産婆に学んでいる場面から始まります。産処は出産のための場で、男子禁制です。山社の国の高官が出産の手伝いをすることに、産婆は恐縮します。自分も小屋の中に入りたい、と言うヌカデに産婆は難色を示しますが、自分は民を救うのが使命の祈祷女(イノリメ)なので、産婆の術も心得ておきたい、と説明します。いよいよ女性の出産が近づき、ヌカデは強引に小屋の中に入ります。ヤノハが出産するさいに役立てよう、とヌカデは考えているのでしょう。

 暈(クマ)の国の鞠智(ククチ)の里(現在の熊本県菊池市でしょうか)では、鞠智彦(ククチヒコ)が、要請に応じて10日間も里の民の前で舞った田油津日女(タブラツヒメ)を労っていました。田油津日女は配下の男性に、人と人の交わりを避ければ、1年で厲鬼(レイキ)、つまり疫病は消えるだろうと言って、暇乞いをします。鞠智の里を去る田油津日女の一行を、鞠智彦の配下の志能備(シノビ)が監視していました。鞠智彦は志能備の長を呼び、手分けして5人のタケル王に文を届けるよう、命じます。その文には、厲鬼を封じ込める術が書かれていました。すると志能備の長は、姶羅(アイラ、現在の鹿児島県姶良市でしょうか)と囎唹(ソオ、現在の鹿児島県曽於市でしょうか)と串岐(クシギ、現在の鹿児島県いちき串木野市でしょうか)と出水(イズミ、現在の鹿児島県出水市でしょうか)と浮土(ウド、現在の熊本県宇土市でしょうか)の5人のタケル王全員が姿を消したので、謀叛の兆しではないか、と鞠智彦に進言します。すると鞠智彦は、5人のタケル王にはそもそも謀叛の手立てがないから案ずるな、と楽観的な表情で言います。

 千穂では、天照大神が籠った窟(イワヤ)で祈るヤノハを、チカラオ(ナツハ)が警護していました。ヤノハはモモソから、妊娠中の子に殺される運命だ、と告げられたことを回想していました。ヤノハは悟りきったように、自分はモモソを含めて鬼畜のように人を殺したので、自分が誰かに殺されることなど覚悟の上だから、子を産んだらチカラオとともに山社から消える、とモモソに告げます。天照大神が籠った窟で祈るヤノハは、もはや日見子(ヒミコ)を続けるのは限界で、自分の子に殺されるとは自分らしい、と自嘲します。

 鞠智の里を去った田油津日女の一行は、予定通り玉杵名邑(タマキナノムラ、現在の熊本県玉名市でしょうか)に赴き、民の前で厲鬼退散のために舞います。田油津日女は配下の男性に、人が多すぎるので距離を空け、相互に近づかず、この舞いを最後に人と人の交流を避けて1年間外出しないよう、民に命じます。いずれこの地のタケル王より田油津日女と同じ触れが回るだろうが、全員それに従うように、と言う男性に、自分たちは田油津日女様のお言葉にのみ従う、と民は口々に言い、田油津日女こそ真の王だと崇めます。すると田油津日女の配下の男性は、今度の厲鬼は言の葉から感染するので声を出さないよう、民に命じます。玉杵名邑を去った田油津日女の一行は、暈の国から山社へと向かいます。そこへ5人のタケル王が現れ、田油津日女と面会したい、と申し出ます。籠から出てきた田油津日女に、5人のタケル王が暈の国の日見子になるよう、要請するところで今回は終了です。


 今回もヤノハの出番は少なく、田油津日女をめぐる動向が中心に描かれました。しかし、ヤノハの出番は少なかったものの、モモソから妊娠中の子に殺される運命だと聞かされたヤノハの反応が描かれ、ヤノハの思惑を推測する重要な手がかりになっていると思います。ヤノハから暈を除く筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)諸国へと送られた書簡を入手したことからも、田油津日女がヤノハの意向で動いていることは確実だと思います。その思惑については前回いくつか推測しましたが、今回のヤノハの発言からは、田油津日女を日見子とする意向のように思えます。ただそうならば、ヤノハは妊娠中であることを田油津日女には伝えていないでしょうから、天照大神の神意だと言って、田油津日女に日見子となるよう、命じたのでしょうか。ヤノハは本作の主人公ですから、ヤノハが今後も日見子(卑弥呼)であり続けると考えられ、どのように話が展開するのか、予想しにくいところがあり、楽しみです。また、田油津日女の正体はまだ明かされておらず、この点も気になります。田油津日女はヤノハに信頼されているようですから、すでに登場している人物ならばある程度は限定されますが、その中に日見子になることを了承しそうな者はいないようにも思います。ヤノハの真意も含めて、今後の展開が注目されます。暈では、5人のタケル王が田油津日女に日見子となるよう要請し、鞠智彦の配下の志能備はこうした事態を警戒していましたが、鞠智彦は楽観的です。これは、鞠智彦が配下にも容易に真意を明かさないからとも、疫病で暈が苦境にあるとはいえ、それまで順調に暈の権力を掌握してきたので油断している、とも考えられます。鞠智彦の動向も気になるところですが、その他には、トメ将軍とミマアキの帰還も描かれるでしょうし、今後の展開もひじょうに楽しみです。