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日本における対韓感情の世代差

2019/05/21 02:35
 日本における大韓民国への感情の世代差に関する、毎日新聞の澤田克己記者の記事が公表されました。この記事は、「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」と題した澤田氏のコラムへの批判的な記事への対応といった内容になっています。確かに、澤田氏が指摘するように、最新(2018年10月)の日本国内世論調査では、若い世代よりも高齢世代の方が、顕著に対韓感情は悪くなっています。こうした結果が出ると、世代論を言い出す人が少なくないようで、社会に一般的に見られる高齢者批判と結びつけられる傾向にあるように思います。澤田氏の記事も、高齢世代の嫌韓感情の一因として定年後の社会からの疎外感を挙げています。じっさい、以下のような反応があり、そうした反応はありふれているように思います。

脳内の新陳代謝が滞っている感じ。
世代交代しないと、やっぱり社会は活性化しないんだろうなぁ。


 しかし、素朴な常識論になってしまいますが、世代間での有意な違いを、各世代への肯定的もしくは否定的な印象と安易に結びつけてはならない、と思います。この件で言えば、若い世代の対韓感情が高齢世代よりも顕著に良いことを、「頭の固い」高齢世代と「柔軟で偏見に囚われない」若い世代といった通俗的な世代論と結びつけてよいのだろうか、というこです。では、若い世代の対韓感情が高齢世代よりも顕著に良いことを、そうした通俗的な世代論と絡めて好意的に受け取る人は、近年、高齢世代よりも若い世代で有意に自民党支持率が高いことも、若い世代への肯定的な印象と結びつけて論じるのか、ということでもあります。世代間で有意な違いの見られる事象は興味深く、その理由を追求することは必要でしょうが、それを通俗的な世代論と安易に結びつけてはならないでしょう。
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『卑弥呼』第17話「秘儀」

2019/05/20 15:58
 『ビッグコミックオリジナル』2019年6月5日号掲載分の感想です。前回は、自分の策が凶と出ても、それはそれで面白いではないか、とヤノハが不適に言うところで終了しました。今回は、ヤノハが日向(ヒムカ)時代の夢を見ている場面から始まります。当時(2世紀末〜3世紀初頭)の日向には鉄(カネ)はもちろん青銅(アオカネ)も少なく、石器が用いられていたので、内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)から来る賊に襲撃されれば、ひとたまりもありませんでした。しかし、ヤノハは比較的平和な邑で裕福な家の養女として育ちました。ヤノハは、日の守(ヒノモリ)の義母が家の壁にかけていた2枚の銅鏡を思い出します。ある日、ヤノハの弟であるチカラオが毒蛇に咬まれ、ヤノハは義母に、刀を火に翳すよう、命じられます。ヤノハは義母に刀を渡しますが、弟が助かるのか、不安な様子です。義母はヤノハに軟膏の壺と葉薬の籠を取ってくるよう命じ、焼いた刀をチカラオの傷口に当てて毒を吸い出し、葉薬に軟膏を塗って患部に当てます。心配な様子のヤノハに、発見が遅かったので、チカラオはもう根の国の門くらいまでたどり着いている頃だ、と義母は言います。弟を黄泉の国から呼び戻してほしい、と懇願するヤノハに、お前の弟を死なせはしない、と言った義母は、銅鏡2枚をヤノハに持ってくるよう命じ、自分はチカラオを抱えて外に出ようとします。義母はヤノハに、魂を取られるので、銅鏡に自分の顔を気安く映さないよう、注意します。須佐之男(スサノオ)様の国に向かうチカラオの魂を天照様の力で呼び戻してもらうのだ、と義母はヤノハに説明します。

 ヤノハが山社(ヤマト)の楼観で目を覚ますと、イクメがいました。ヤノハがうなされていたためか、イクメはヤノハが悪い夢を見ていたのではないか、と案じます。故郷が夢に出てきたが、弟の顔を忘れてしまったようだ、とヤノハは寂しげに答えます。イクメは、短期間で日向から暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に行き、さらにはトンカラリンを経て山社に来たヤノハの苦難の連続を思いやります。イクメが朝早くからヤノハを訪ねたのは、今晩闇に紛れて山社を出立するためでした。イクメの弟のミマアキが安全な場所まで同行してくれる、とイクメはヤノハに説明します。イクメの父であるミマト将軍は、ヤノハを捕えると決めたものの、娘に懇願されたため、出奔するなら見逃そうとしているわけです。山社を出てどこに行くのだ、とヤノハに問われたイクメは、豊秋津島(トヨアキツシマ)と答えます。サヌ王(神武天皇と思われます)が東征して拓いたという新たな山社を目指そう、というわけです。しかし、ヤノハは乗り気ではありません。自分がサヌ王で新たな山社を造ったとしたら、そこを故郷の筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の写し鏡のようにして、似たような景色の場所を選び、山野に筑紫島と同じ名をつけ、その中心に山社を構えるので、すでにその新たな山社には日見子か日見彦が鎮座しているはずだ、とヤノハは説明します。自分が新たな日見子と名乗って出ても受け入れられないだろう、というわけです。イクメ焦った様子で、では父に捕縛されることを選ぶのか、とヤノハに問いかけます。ヤノハは冷静に、3日の猶予をいただきたいとミマト将軍に伝えるよう、イクメに指示します。理由を理解できないイクメに、3日あれば風向きが変わると義母がよく言っていた、と説明します。ヌカデに任せた那国のトメ将軍との交渉が情勢を変える、とヤノハは考えているのでしょうか。

 その頃山社では、最高位の祈祷女(イノリメ)であるイスズが、ヤノハが真の日見子(ヒミコ)であるか、伺いを立てるために籠ってから4日経過していました。年長の祈祷女は、不眠不休で伺いを立てるイスズの体調を案じますが、天照様は何も言わないので、このままではヤノハを偽の日見子と断定できないことから、イスズは焦っているようです。すると年長の祈祷女は、天照様の神託が降りなくとも、真の日見子か否か見極める方法がある、とイスズに進言します。もしヤノハが本物の日見子なら、天照様が乗り移っているはずなので、秘儀を見せていただきたい、とヤノハに提案してはどうか、と年長の祈祷女は言います、それは真の日見子のみが天照大神より伝えられる、生と死を司る祭礼で、それを目の当たりにすれはせ、見ている者の命もどうなるか分からない、という危険なもののようです。躊躇うイスズにたいして年長の祈祷女は、ヒルメ様もタケル王も偽物の日見子と断定して女性なので、できるはずがない、と年長の祈祷女は答え、イスズも納得します。

 鞠智彦(ククチ)の里では、鞠智彦が立ち去る暈国のタケル王を見送っていました。タケル王は、ヤノハは偽の日見子だと断定し、ヤノハの手足を砕くよう命じたのに、直ちに実行しない鞠智彦に不信感を抱いたのか、鞠智彦に冷ややかな視線を向けているように見えます。タケル王がどこに向かうのか、配下のウガヤに問われた鞠智彦は、暈と那の国境、つまり戦場の最前線だ、と答えます。タケル王自ら出陣するのでしょうか、とウガヤに問われた鞠智彦は、それならまだよいが、タケル王は最前線の兵を全員引き連れて急遽山社に向かうそうだ、と答えます。鞠智彦はウガヤに、旅の準備を命じます。鞠智彦は、どう対応すべきか、イサオ王に相談するつもりだ、とウガヤに伝えます。

 天照大神の秘儀を見せていただきたい、というイスズの意向はすぐにヤノハに伝えられました。その秘儀を見せてもらえば、イスズはヤノハを支持してもよい、というわけです。断れないのか、とヤノハに問われたイクメは、秘儀を見る者の命も縮めると言われており、イスズも真剣なのだ、と答えます。その秘儀が何なのかまったく思い浮かばないヤノハは、途方に暮れます。天照大神に伺いを立てて初めて伝えられるものなので、知らなくて当然だ、とイクメはヤノハに伝えます。ヤノハはそれでも、天照大神が自分に素直に伝えてくれるのか、とまったく自信がない様子です。楼観の下では祈祷女たちが儀式の準備を進めており、祭壇を設えて護摩を焚いているため、その煙がヤノハにも届いていました。その秘儀がどんなものなのか少しは知っているのか、とヤノハに問われたイクメは、100年前の日見子の治世以来、誰も見たことはないが、古老が言うには鏡を使うらしい、と答えます。ヤノハはイクメに、祈祷の準備が整うまでしばらく一人にしてもらいたい、と言います。

 万策尽きたといった感じのヤノハは、誰も見たことのない秘儀なら適当にやってもばれないのではないか、と一旦は考えますが、適当とはいってもそれなりの説得力というか厳粛さが必要だと思いなおします。モモソならどうしたのだろうか、と考えたヤノハは、友であるモモソを突き落とした自分は大罪を犯したのだ、と後悔します。そこへモモソが現れ、夢で教えたただろう、すでに「お鏡の秘儀」を知っているではないか、と伝えます。モモソの幻覚?はすぐに消えて、弟のチカラオを黄泉の国から救おうとした義母が、「日の鏡」と「地の鏡」という二つの鏡が必要だ、と言っていたことをヤノハが思い出したのところで今回は終了です。


 今回はヤノハの過去が描かれ、それが現在の窮状を打開する鍵になる、と示唆されました。ヤノハの義母が本格的に描かれたのは今回が初めてですが、日の守として儀式や占いだけではなく、自然現象も含めてあらゆる事象に通じた知識人でもあるように思います。また、今回の描写からは、ヤノハの義母は養子の2人に愛情を注いでいるように見えます。ヤノハは危険を冒してまで義母の遺体を回収しようとしていましたから、義母には深く感謝しているのでしょう。また、ヤノハは弟の命を救おうと必死になっており、賊に襲撃されて義母を殺され、弟が行方不明になるまでは、生きるために手段を択ばず、親友のモモソも殺してしまうような狂気の人物ではなく、ごく一般的な情感の持ち主だったように思います。ヤノハは義母を殺されて精神的な大打撃を受けたのでしょう。注目されるのは、ヤノハが弟の顔を忘れてしまった、と打ち明けたことです。ヤノハは、賊に襲撃されて弟は死んだと考えていますが、義母とは異なり、死体を確認したわけではありません。おそらくヤノハの弟は生きており、『三国志』にあるように、卑弥呼(日見子)となったヤノハを支える「男弟」となるのでしょうが、再会した時には、弟が成長したこともあり、ヤノハの方は弟と気づかないのかもしれません。

 鞠智彦が会おうとしているイサオ王も注目されます。これまで作中では言及のなかった人物ですが、鞠智彦がわざわざ難題の相談に行くということは、権威のある重要人物だと思われます。あるいは、タケル王に位を譲った暈の前代の王でしょうか。イクメから、おそらく神武天皇のことであろう、6代目の日見彦たるサヌ王が東征して豊秋津島(おそらく本州を指すのでしょう)新たに築いた山社を目指そう、と進言されたヤノハが乗り気ではなかったことは、今後の展開との関連で重要だと思います。ヤノハとイクメはこのままサヌ王が豊秋津島に築いた新たな山社に行き、そこを拠点に日見子(卑弥呼)たるヤノハが倭国を統治し、それは奈良県の纏向遺跡一帯ではないか、とも予想していたのですが、日向(現在の宮崎県)の奥にあるという現在の山社が『三国志』の邪馬台国という展開になりそうです。しかし、ヤノハの存命中に纏向遺跡一帯に「遷都」し、箸墓古墳にヤノハが葬られる、という展開も考えられます。ともかく、後には魏や呉も絡んできて壮大な物語になりそうですし、短期的には、ヤノハが現在の苦境をどう切り抜けるのかという点が焦点となりますから、今後もたいへん楽しめるのではないか、と期待しています。
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現生人類の初期の拡散をめぐる議論

2019/05/19 09:59
 近年、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散がじゅうらいの想定よりも早かった可能性を指摘する研究が相次いで公表され、当ブログでも以前取り上げました(関連記事)。具体的には、現生人類(的な特徴を有する集団)が、レヴァントでは194000〜177000年前頃(関連記事)、アラビア半島では88000年前頃(関連記事)、アジア東部では12万〜8万年前頃(関連記事)、アジア南東部では73000〜63000年前頃(関連記事)に存在した、との見解が提示されています。また、オーストラリアにおける人類の痕跡は65000年前頃までさかのぼる、との見解も提示されています(関連記事)。

 しかし、こうした現生人類の早期拡散説には疑問も呈されています。それらは本当に現生人類の遺骸なのか、年代は信用できるのか、というわけです(関連記事)。じっさい、上記のアジア南東部・アジア東部・オーストラリアの事例に関しては、年代に疑問が呈されています(関連記事)。また、ルソン島で発見された67000年前頃の人類遺骸も、かつては現生人類のアジア南東部への初期拡散の事例と解釈されたこともありましたが(関連記事)、その後の研究で、この遺骸はホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)と分類されました(関連記事)。

 このように、ユーラシア東部やオセアニアへの現生人類の初期の拡散については疑問が呈されており、まだ確定したとは言い難い状況だと思います。しかし、上記のオーストラリアの事例に関しては、近年の研究の進展により別の可能性も想定されるようになったという意味で、興味深いと思います。昨年(2018年)、オーストラリア南東部のモイジル(Moyjil)遺跡における人類の痕跡が12万年前頃にさかのぼる、と報告されています。これはまだ確定したとは言えないでしょうが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がニューギニア島に存在した可能性を指摘した研究(関連記事)との関連で注目されます。つまり、6万年以上前のオーストラリアにおける人類の痕跡は、現生人類ではなくデニソワ人のものかもしれない、というわけです。
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「美しすぎる」内親王佳子さま、すごい人気です

2019/05/19 09:57
 4年前(2015年2月26日)に公開された表題の関連記事を見つけました。佳子内親王の人気は高いと強調し、秋篠宮家の教育にも肯定的な記事で、4年前と現在とで、秋篠宮家への報道機関の論調が大きく変わったことを改めて痛感させられます。少し前までは東宮家(現在は天皇家)叩きが盛んで、それと対照的に秋篠宮家が称賛されていたように見えましたから、その反動でもあるように思います。有名人を持ち上げておいて叩くのは報道機関の常套手段ですが、報道機関を批判するだけではなく、そうしたことを喜んでしまう多数の一般国民の心性も批判されねばならないのでしょう。率直に言って、凡人の私にもそうした心性があることは否定できません。

 そもそも、秋篠宮家が持ち上げられるようになったのは、東宮家(現在は天皇家)叩きが盛んになってからのように思います。公務を怠る妻(現在は皇后)と、それに何の対応もできない不甲斐ない皇太子(現在は天皇)という見立てとの対比で、公務に励み皇室を支える秋篠宮家といった構図が描かれていったように記憶しています。とくに、2006年9月に秋篠宮家に男子(悠仁親王)が生まれて以降、秋篠宮家を持ち上げる風潮が強くなり、東宮家叩きと秋篠宮家称賛の根本要因としては、皇位継承者の有無が大きかったように思います。

 しかし、昭和天皇崩御から1年も経たずに婚約が内定し、しかも現在は天皇の兄よりも先の結婚だったこともあり、文仁親王の評判は1980年代〜1990年代にはかなり悪かった、と記憶しています。当時は、出来の良い兄にたいして出来の悪い文仁親王といった感じでの報道が多く、文仁親王の素行についても、真偽不明の噂が出回っており、さすがに大手報道機関が取り上げることはなかったものの、凡人である私でさえ知っていたくらいでした。当時の印象が強く残り続けたので、21世紀になってからの秋篠宮家を持ち上げるような報道には、かなりの違和感がありました。しかし、最近の報道機関やネット上の秋篠宮家叩きは、さすがに行き過ぎではないか、と思うことも少なくありません。こうした論調もまた、今後容易に変わり得るのであり、常識論ではありますが、安易に現在の風潮に乗るべきではない、と改めて思います。

 秋篠宮家の評価暴落にともない、秋篠宮家の文仁親王やその息子の悠仁親王ではなく、天皇陛下と皇后陛下の唯一の子である愛子内親王への即位を望む日本国民が増えているように思います。それは、愛子内親王がたいへん優秀である(と報道されている)ことも大きいのでしょうが、報道機関が天皇家叩きを始めたら、簡単に勢いを失うような危ういものでしかないように思います。愛子内親王が即位するとしたら、その子供にも皇位継承権を、と考えるのが多くの国民の人情でしょうし、それは女系容認論につながりかねないので、一部の報道機関が執拗に愛子内親王叩きを始める可能性考えられ、それでも国民が愛子内親王の皇位継承を強く支持し続けるかというと、疑問が残ります。個人的には、琴光喜関のファンだった愛子内親王は、双羽黒(北尾)関のファンだった私と同じく、「持っていない人」ではないか、との不安は残ります。
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中国軍と韓国軍は「韓国戦争」で、ともに日本と戦った戦友

2019/05/19 09:54
 1年半ほど前(2017年11月)にネットで、大韓民国の小中学校では、大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と一度も戦争をしたことがなく、「韓国戦争(朝鮮戦争)」では、南では米英仏韓の国連軍が、北では中ソの連合軍が日本軍を追い出したと教えられている、といった内容の情報が流れてきました。1945年、第二次世界大戦で敗北した日本は満洲から追われて朝鮮半島に侵入して占領し、悪逆非道の限りを尽くしたものの、1950年6月25日に始まった「韓国戦争」で、南では米英仏韓の国連軍に、北では中ソの連合軍に朝鮮半島から追い出されたのであり、大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と戦争をしなかった、というわけです。ほぼ同じ内容の文章がネットで散見されるので、日本社会ではそれなりに知られているのでしょう。

 もちろん、内容は出鱈目なのですが、大韓民国の小中学校ではこうした内容が教えられている、ということを本気にした人はそれなりにいるようです。この文章を引用した人は、大韓民国の小中学校でのこうした教育を批判せず、日本だけを歴史修正主義と批判するから話がおかしくなってくる、と指摘しています。しかし、日本語訳のある『国定韓国高等学校歴史教科書』を参照せずとも、大韓民国の歴代政権の民主化までの強烈な反共主義による国家統制を想起すれば、大韓民国が公教育でのこうした与太話を許可するはずもないので、ガセネタに違いない、と分かりそうなものです。

 1998年以降、大韓民国では「従北」と揶揄されるような「革新」政権がたびたび出現しましたが、強烈な反共主義の系譜の「保守」政権による奪還も見られます。「保守」政権で上記のような内容の教育が許されるとはとても思えませんし、「革新」政権であっても、小中学校で上記のような内容が教えられるようになったとしたら、「保守」派が黙っておらず、アメリカ合衆国も巻き込むでしょうから、「革新」政権が上記のような内容の教育を小中学校で実施させるとはとても思えません。

 朝鮮現代史や大韓民国にほとんど関心のないような人が、上記のガセネタに引っかかるのは、仕方のないところもあるかもしれません。しかし、朝鮮近現代史関連の歴史認識で散々論争するような人が、上記のガセネタを即座に全否定しないようでは、その人の知見が「論争」に耐えるような水準にはとても届かないか、偏見が強すぎて認知が偏っている、言われても当然だと思います。そうした人が「やや保守」と自称し、参考文献を読んできた自分は歴史認識などの論争で比較的中立だと自負したところで、本当に参考文献を理解できているのか、きわめて怪しく、そうした人の言説は価値がないと思われても仕方ないでしょう。
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第19回「箱根駅伝」

2019/05/19 09:52
 アメリカ合衆国横断の駅伝を思いついた金栗四三は、その国内予選として箱根駅伝を計画します。1920年にアントワープでオリンピック大会が開催されることも決まり、四三は歓喜しますが、すぐに資金などの現実的な問題に気づき、悩みます。四三は帰省しますが、早く熊本に戻ってくるよう圧力を受け、まだ東京に拠点を置いてオリンピック大会を目指し、後進育成のための箱根駅伝も計画しているため、居心地の悪さを感じます。しかし、アントワープはまだ第一次世界大戦の被害から立ち直っておらず、また前回のオリンピック大会で死者が出たことから、マラソンは種目に入っていませんでした。嘉納治五郎はこのことを四三に言い出せず、四三はそうと知らずに箱根駅伝の運営に全力を尽くします。

 今回は箱根駅伝の企画から第1回大会までが描かれました。相変わらず、1960年代初頭の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)一門の落語で四三の話を語るという構成になっています。今回、五りんと四三とのつながりに関して、母親がかつて播磨屋で働いていたことだけではなく、父親が箱根駅伝大会に出場したことも明かされ、じょじょに古今亭志ん生と四三とのつながりが見えてきた感もあります。しかし、まだ両者が上手く接続されていないことも確かで、ここが本作の弱点になっており、視聴率低迷の要因なのでしょう。しかし、この後両者が上手くつながってくるのではないか、と私はまだ期待しており、楽しみに視聴を続けています。
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デニソワ人についてのまとめ(2)

2019/05/18 11:25
 2年近く前(2017年9月)に種区分未定のデニソワ人(Denisovan)についてまとめましたが(関連記事)、その後に研究が大きく進展し、情報が古くなったので、再度整理します。当ブログで取り上げながら見落としてしまった関連情報もありそうなので、気づいたら追加・訂正していきます。


●基本情報

 デニソワ人は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、現生人類(Homo sapiens)ともネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とも異なる後期ホモ属の分類群で、種区分は未定です。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。

 これは、デニソワ人に関する最初の研究が公表された2010年3月から2019年4月まで、デニソワ人と確認されている遺骸がいずれも断片的なので、更新世人類としては豊富な遺伝学的情報が得られていたものの、形態学的情報はわずかしか得られていなかったからです。一方、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属は、形態学的情報はそれなりに得られているものの、遺伝学的情報はまったく得られていないため、デニソワ洞窟以外で発見された、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属遺骸のどれがデニソワ人に分類されるのか、照合できない状況が続いていました。

 この状況は、チベット高原東部で発見された右側半分の下顎骨がデニソワ人と分類されたことで、今後大きく変わってくると期待されます(関連記事)。なぜならば、デニソワ人の形態学的情報がじゅうらいよりも大きく増加したため、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属遺骸との照合がずっと容易になったからです。チベット高原東部の下顎骨の分析では、遺骸のタンパク質の総体(プロテオーム)を解析し、アミノ酸配列を識別することで、系統を分類する手法が用いられました。この手法はデニソワ洞窟で発見された人類遺骸でも用いられ、1点の断片的な骨がホモ属と分類されたり(関連記事)、4点の断片的な骨がホモ属と分類されたりしており(関連記事)、その有益性が確認されています。

 まずは、デニソワ人遺骸に関する基本的な情報を以下の表1にまとめましたが、デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人ではない遺骸も含めています。情報は今年1月に公表された研究におもに依拠していますが、推定年代は考古学的と遺伝学で大きく異なる場合もあり、あくまでも目安にすぎません(関連記事)。性別・年代を確認できなかった個体の欄は空白としています。この他にデニソワ洞窟では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析によりデニソワ人と分類された頭頂骨の一部(関連記事)が発見されていますが、まだ詳細な研究が公表されていないと思いますので、今回は表から除外しました。
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●形態学的特徴

 上述のように、チベット高原東部の下顎骨が発見されるまで、デニソワ人の形態学的情報はわずかしか得られていませんでした。そうした中で、デニソワ人に分類されているデニソワ4・デニソワ8の臼歯はたいへん大きく、ネアンデルタール人や現生人類とは異なる祖先的特徴を有する、と指摘されていました(関連記事)。デニソワ4・デニソワ8の年代は異なるので、この臼歯の特徴はデニソワ人の一部の個体に見られる例外ではなく、デニソワ人に共通する特徴である可能性が高そうです。ただ、デニソワ人の臼歯のサイズは鮮新世の人類に匹敵するくらい大きいものの、後期更新世の現生人類やネアンデルタール人の中には、デニソワ人と同程度のサイズの臼歯を有する個体もいます。

 このように形態学的情報が乏しかったデニソワ人ですが、上述したように、チベット高原東部で発見された右側下顎骨(夏河下顎骨)がデニソワ人もしくはそのきわめて近縁な系統と確認され(関連記事)、デニソワ人に関する形態学的情報がじゅうらいよりも大きく増加しました。この下顎骨には歯も残っており、デニソワ洞窟のデニソワ人と同じくらい大きく、またホモ・エレクトス(Homo erectus)よりもネアンデルタール人や現生人類など他の中期更新世ホモ属と類似した点も見られます。ただ全体的には、夏河下顎骨は形態的にネアンデルタール人や現生人類と比較して祖先的特徴がより強いようです。夏河下顎骨と年代の近そうな類似したアジア東部のホモ属遺骸として、台湾沖で発見された下顎骨が挙げられています(関連記事)。また、中国河北省で発見された後期更新世のホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎骨との類似性が指摘されています。デニソワ人はアジア東部に広く分布していたのかもしれません。


●DNA解析と系統樹における位置づけ

 形態学的情報がほとんど得られていなかったため、デニソワ人の研究は遺伝学が主流となりました。まずミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果が2010年3月に公表され(関連記事)、初めてデニソワ人という分類群が提示されました。その後2010年12月に核DNAの解析結果も公表されました(関連記事)。ここで問題となったのは、mtDNAと核DNAとで、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の系統関係が異なることです。ただ、種系統樹と遺伝子系統樹が一致しないことは、たとえばゴリラ・チンパンジー・ヒトのように、分岐してから(進化史の基準では)さほど時間の経過していない種の間では珍しくないので(関連記事)、とくに驚くべきことではないでしょう。

 この不一致は、後期ホモ属間の複雑な交雑と進化を反映しているかもしれないという意味で、注目されます。この問題を考察するうえで参考になるのが、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群です。SH集団には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)、祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。そのため、SH集団は形態学的には、ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人集団か、そのきわめて近縁な集団と考えられます。

 後期ホモ属の各系統の分岐年代は、研究により異なります。たとえば、核DNAに基づく推定分岐年代は、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類の祖先系統では、765000〜550000年前頃もしくは589000〜553000年前頃、デニソワ人系統とネアンデルタール人系統では473000〜445000年前頃もしくは381000年前頃との研究がある一方で(関連記事)、前者を751690年前頃、後者を744000年前頃とする研究や(関連記事)、前者を63万〜52万年前頃、後者を44万〜39万年前頃とする研究もあります(関連記事)。43万年前頃というSH集団の年代から、後者は遅くとも50万年以上前である可能性が高そうで、歯の分析からは、前者が125万〜85万年前頃と推定されています(関連記事)。

 mtDNAに基づく推定分岐年代は、現生人類および(後期)ネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人系統とが141万〜72万年前頃、ネアンデルタール人の祖先系統と現生人類の祖先系統が468000〜360000年前頃です(関連記事)。なお、Y染色体のDNA解析では、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は806000〜447000年前頃です(関連記事)。以下にmtDNAと核DNAによる後期ホモ属系統樹を掲載しますが、このように推定分岐年代は研究により異なるので、図の年代は確定的ではありません。
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 この図で示されているように、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の系統関係において、mtDNAでは現生人類とネアンデルタール人が近縁関係にあるのにたいして、核DNAではネアンデルタール人とデニソワ人が近縁関係にあります。さらに問題となるのは、SH集団はmtDNAではデニソワ人と近縁で(関連記事)、核DNAではネアンデルタール人と近縁ということです(関連記事)。これら後期ホモ属の系統関係は、おそらく複雑な交雑を反映しているのではないか、と私は考えていますが、現時点ではまだ決定的な解釈は提示されていません。

 現時点で有力な一方の見解は、デニソワ人のmtDNAは遺伝学的に未知の人類系統(既知の人類遺骸の中に存在しているかもしれません)からもたらされたのではないか、というものです(関連記事)。この未知の人類系統は、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統と400万〜100万年前頃に分岐し、デニソワ人と交雑した、と推測されています。もう一方の有力な見解は、ネアンデルタール人のmtDNAは元々デニソワ人に近く、後にヨーロッパに拡散してきた遺伝学的に未知のホモ属系統(こちらも、既知の人類遺骸の中に存在しているかもしれません)により後期ネアンデルタール人型に置換された、というものです(関連記事)。この未知のホモ属系統は、デニソワ人およびネアンデルタール人系統よりも現生人類系統に近縁で、ユーラシアにルヴァロワ(Levallois)技術をもたらした可能性が指摘されています。SH集団のDNA解析からは、現時点では後者の見解が最も有力だと思います。そうだとすると、ドイツ南西部のネアンデルタール人のmtDNA解析から、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は27万年前頃までに起きたのかもしれません(関連記事)。また、そもそもデニソワ人という分類学的実体があるのか、疑問視する見解も注目されます(関連記事)。

 デニソワ人の間の系統関係については、mtDNAの解析結果に基づく系統樹が、デニソワ洞窟の年代を報告した研究の図4に示されています(関連記事)。
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 より古いデニソワ2および8と、より新しいデニソワ3および4がそれぞれ分類群を形成しています。デニソワ人はデニソワ洞窟一帯に同じ系統が長期にわたって居住し続けたのではなく、気候変動などによりデニソワ洞窟一帯への拡散とそこからの撤退を繰り返し、デニソワ洞窟の10万年以上前のデニソワ人と10万年前以降のデニソワ人は祖先-子孫関係にはなく、異なる系統なのかもしれません。DNAが解析されているデニソワ人はデニソワ洞窟でしか確認されておらず、その遺伝的多様性は、複数の遺跡で発見されているネアンデルタール人とほぼ同等で、世界規模の現代人よりも低くなります。もちろん、デニソワ人にしてもネアンデルタール人にしても、今後の新たなDNA解析により遺伝的多様性が高くなる可能性はあります。なお、デニソワ人の遺骸からではありませんが、環境DNA研究の古代DNAへの応用により、デニソワ洞窟の中期更新世の堆積物からデニソワ人のmtDNAが確認されています(関連記事)。


●現生人類やネアンデルタール人との交雑

 上述のように、デニソワ人はデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統と400万〜100万年前頃に分岐した人類系統と交雑した、と推測されていますが、ネアンデルタール人や現生人類との間の複雑な交雑も指摘されています。これら後期ホモ属の系統関係と交雑については昨年3月にまとめましたが(関連記事)、その後も新たな研究が次々と公表されています。デニソワ人もネアンデルタール人も現生人類と交雑しましたが、多少の地域差があるとはいえ、非アフリカ系現代人にほぼ等しく遺伝的影響の見られるネアンデルタール人にたいして、デニソワ人の現代人への遺伝的影響には明確な地域差があり、ユーラシア西部ではほぼ見られない一方で、オセアニアでは顕著に高くなっています(関連記事)。

 デニソワ人の現代人各地域集団への遺伝的影響については、現代人のゲノムに占める他系統由来の領域のうち、ネアンデルタール人とデニソワ人の区別が曖昧なものもあることなどから確定的ではありませんが、最近の研究では、おおむねゲノムに占める割合は、パプア系では4〜6%とネアンデルタール人の影響の2%程度より高く、アジア大陸部(南部・南東部・東部)では、0.17〜0.33%と推定されています(関連記事)。また、デニソワ人とネアンデルタール人との交雑も指摘されています(関連記事)。ただ、得られたゲノム配列の品質の問題から、ネアンデルタール人や現生人類との交雑がはっきりと確認されているのはデニソワ3だけです(関連記事)。

 デニソワ人と現生人類との交雑の場所はアジア東部もしくは南東部(関連記事)、年代は54000〜44000年前頃(関連記事)と推定されています。ただ、これはデニソワ人と現生人類との交雑を1回のみと想定した場合の推定で、複数回の交雑を想定する見解も提示されており、最近では複数回説の方が有力なように思えます。交雑複数回説はおおむね、デニソワ人が複数系統に分岐したことを想定しています。上述のように、デニソワ人は南シベリアとチベット高原東部でのみ確認されていますが、現代人でとくに強い遺伝的影響が見られるのはオセアニアなので、その生息範囲は広かったのではないか、と以前より推測されていました。

 具体的には、現代人に見られるデニソワ人の遺伝的影響の地域差から、デニソワ人は北方系と南方系に分岐し、前者はオセアニア系現代人の祖先と、後者はアジア東部・南部系現代人の祖先と交雑した、との見解が提示されています(関連記事)。さらにその後、デニソワ人は少なくとも3系統に分岐し、それぞれがパプア人系統やアジア東部系統と交雑し、そのうち1系統は3万年前頃以降も存在した可能性があり、ニューギニア島(更新世の寒冷期には、オーストラリア大陸やタスマニア島とも陸続きとなり、サフルランドを形成していました)まで拡散していたかもしれない、との見解も提示されています(関連記事)。以下に掲載する、この研究の図4に、デニソワ人と現生人類との交雑についてまとめられています。
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 デニソワ人とネアンデルタール人の交雑については、デニソワ11が交雑第一世代と確認されています(関連記事)。デニソワ11は母がネアンデルタール人、父がデニソワ人で、13歳以上の女性と推測されています。デニソワ11の父親の系統は、デニソワ11の300〜600世代前、つまり1世代を20〜30年と仮定すると、136000〜85000年前頃にネアンデルタール人と交雑した、と推定されています。ただ、デニソワ11の父親の系統が交雑したネアンデルタール人は、デニソワ11の母親のネアンデルタール人とは異なる系統と推測されています。また、高品質なゲノム配列が得られている唯一のデニソワ人であるデニソワ3の系統と、デニソワ11の父親の系統は、デニソワ3の7000年前に分岐した、と推定されています。なお、デニソワ人とネアンデルタール人の混合集団がオセアニアやアジア東部・南部の現代人の祖先と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。デニソワ人とネアンデルタール人の交雑については、以下に掲載する、昨年8月に両者の交雑第一世代を報告した研究の図4にまとめられています。
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●人口史と生息範囲

 デニソワ人の遺伝的多様性の低さから、デニソワ人系統は現生人類系統との分岐後ずっと人口が減少していったか(関連記事)、人口が増大していっても、集団規模の小さい状態から急速に拡大し、遺伝的多様性が増大するじゅうぶんな時間がなかっただろう(関連記事)、と推測されています。ただ、この推測はデニソワ洞窟のデニソワ人1個体(デニソワ3)のゲノム解析に基づいており、上述のようにデニソワ人には複数系統存在した可能性が高そうなので、各系統は比較的孤立しており遺伝的多様性は低かったとしても、デニソワ人系統はデニソワ3から推測されるよりも遺伝的多様性が高かったのではないか、と思います。

 遺伝的多様性と関連してよく指摘されるのが、ネアンデルタール人やデニソワ人といった非現生人類ホモ属は近親交配のために絶滅したのではないか、ということです。じっさい、デニソワ洞窟のデニソワ人(デニソワ5)は半きょうだい(片方の親を共有するきょうだい関係)のような近親関係にあり、近い祖先の間でも近親交配が多かった、と推測されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)洞窟遺跡のネアンデルタール人集団も、近親交配の頻度の高さが指摘されています(関連記事)。ただ、近親交配が習慣となっていて絶滅要因になったというよりは、孤立して衰退していった結果として近親交配の頻度が高くなり絶滅した、考えるべきでしょう。現生人類も含めて更新世のホモ属では、発達異常の多さから近親交配頻度の高さが指摘されていますが(関連記事)、それも孤立・衰退の結果なのだと思います。クロアチアのネアンデルタール人でも(関連記事)デニソワ洞窟のデニソワ人(デニソワ3)でも(関連記事)直近の祖先での近親交配は確認されておらず、非現生人類ホモ属にも近親交配を避けるメカニズムが備わっていた可能性は高いでしょう。

 上述のように、デニソワ人は複数系統に分岐していき、各系統は比較的孤立していたのではないか、と推測されます。現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響が、ユーラシア西部系にはほとんど見られず、オセアニア系で顕著に高く、アジア東部や南部でわずかに見られることから(関連記事)、デニソワ人系統はネアンデルタール人系統と分岐した後、ユーラシア東部に拡散した、と推測されます。現時点では、デニソワ人は南シベリアのアルタイ山脈とチベット高原東部で確認されていますが、現代人への遺伝的影響の地理的範囲から、アジア南東部や南部にも存在した可能性が高そうです。デニソワ人の生息範囲については最近まとめましたが(関連記事)、ユーラシア東部に広く拡散し、上述のように(何らかの手段で渡海して)ニューギニア島まで拡散した可能性も想定されます。


●現代人の表現型への影響

 デニソワ人と現生人類との交雑で注目されているのは、現代人に残るデニソワ人由来と推定されるゲノム領域に、適応度に関わるような遺伝子があるのか、ということです。デニソワ人だけではなくネアンデルタール人に関してもよく言われるのが、現生人類はアフリカから世界各地へと拡散する過程で、デニソワ人やネアンデルタール人のような先住人類との交雑により拡散先の地域での適応的な遺伝子を獲得し、それが現生人類の拡散を容易にした、という説明です。具体的には、免疫に関わる遺伝子が取り上げられることが多く、たとえば、現代人のToll様受容体関連遺伝子のうち、ハプロタイプ7がデニソワ人由来と推測されています(関連記事)。その他のデニソワ人由来の免疫関連遺伝子としては、TNFAIP3がインドネシアとパプアニューギニアの現代人で確認されています(関連記事)。確かに、こうした免疫関連遺伝子が現生人類の新たな環境に有利に作用した可能性は高いと思います。ただ、それが現在は免疫疾患の原因となっていることもあるでしょう。

 この他には、現代チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1の多様体がデニソワ人に由来する、と推測されています(関連記事)。このEPAS1遺伝子の多様体は血中のヘモグロビン値を低く抑え、高地への適応を高めます。上述のように、デニソワ人がチベット高原東部にも存在したと明らかになったことから、デニソワ人も高地に適応していた可能性が高くなりました。デニソワ人系統において高地適応関連遺伝子が選択され、それはデニソワ人との交雑を通じてユーラシア東部系現代人の祖先集団にも継承されたのでしょうが、高地に拡散したチベット人系統においてとくに選択圧により定着した、ということなのでしょう。なお、EPAS1遺伝子を含むDNA配列の解析から、チベット人系統においてもデニソワ人との複数回の交雑があった、と推測されています(関連記事)。また、平滑筋細胞の増殖・脂肪生成と関連した遺伝子においても、デニソワ人から現生人類への遺伝子流動の可能性が指摘されています(関連記事)。

 一方、デニソワ人やネアンデルタール人由来の遺伝子のなかには、かつては中立的だったか有益だったのに、現在の環境では適応度を下げているものもあります。免疫機能の強化はアレルギー反応をもたらすかもしれませんし、ネアンデルタール人由来の遺伝子では、鬱病の危険性を高める遺伝子多様体が指摘されています(関連記事)。また、具体的な影響はまだ不明ですが、現代人のゲノムに占めるデニソワ人もしくはネアンデルタール人由来と推定されている領域の割合が、常染色体よりもX染色体の方でずっと低くなっていることから、デニソワ人やネアンデルタール人と現生人類との交雑により繁殖能力が低下したのではないか、と推測されています(関連記事)。さらに、デニソワ人のゲノムの言語や発話・脳およびその発達・脳細胞シグナル伝達に関わる遺伝子のある領域は、現代人系統において排除されたのではないか、と推測されています(関連記事)。ネアンデルタール人のゲノムでも、発話や精巣の形成と関連する遺伝子は現代人では見られない、と指摘されています(関連記事)。

 このように、デニソワ人やネアンデルタール人との交雑は現生人類にとって、免疫関連遺伝子など適応度を上げたものもあるものの、適応度を下げたものもあると推測されます。現代人のゲノムに占めるデニソワ人やネアンデルタール人由来の領域の比率が低い(せいぜい2〜6%)なのは、適応度を下げることが多かったからなのでしょう。ネアンデルタール人に関しては、現生人類と比較して人口規模が小さかったので、除去されなかった(強い選択圧に曝されなかった)弱い有害な遺伝的多様体が、交雑の結果より大規模な集団である現生人類に浸透すると除去されるのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、これはデニソワ人にも当てはまりそうです。現生人類がデニソワ人やネアンデルタール人との交雑により適応度を下げる遺伝的多様体を受け取ったのに、現代でもその遺伝的痕跡が残っているということは、後期ホモ属における異なる系統間の交雑が珍しくなかったからだと思います。

 なお、デニソワ人やネアンデルタール人との交雑が現生人類の適応度を下げたのは、染色体数が異なっていたからだ、との見解もありますが、デニソワ人の染色体数は現代人と同じく46本である可能性がきわめて高いので、系統関係から推測すると、ネアンデルタール人の染色体数も46本である可能性が高いと思います(関連記事)。つまり、現代人以外の現生大型類人猿(ヒト科)の染色体数は48本なので、チンパンジー系統と現代人系統の最終共通祖先の染色体数も48本だったものの、それ以降、遅くともデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の最終共通祖先の時点では46本に減っていた可能性が高い、というわけです。なお、デニソワ人の肌・髪・眼の色は比較的濃かった、と推測されています(関連記事)。


●考古学的文脈と象徴的思考能力

 デニソワ洞窟のデニソワ人は考古学的な年代区分では、中部旧石器時代早期から中部旧石器時代中期を経て上部旧石器時代初頭(Initial Upper Palaeolithic)まで存在したことになります(関連記事)。デニソワ洞窟の中部旧石器時代の人工遺物は広い意味でネアンデルタール人と共通するところが多そうですから、デニソワ人がユーラシア西方から拡散してきたか、ユーラシア西部起源のネアンデルタール人が東進してきて中部旧石器をもたらしたのではないか、と思います。中部旧石器は伝統的な5段階の石器製作技術区分では様式3(Mode 3)となります(関連記事)。じゅうらい、アジア東部では様式3の石器技術は少ないとされていたのですが、近年では、北部となる中国内モンゴル自治区で47000〜37000年前頃のムステリアン(Mousterian)様石器群が(関連記事)、南部となる貴州省では17万〜8万年前頃のルヴァロワ(Levallois)技術石器群が発見されています(関連記事)。これらの中部旧石器の製作者がどの人類系統なのか不明だったのですが、チベット高原東部におけるデニソワ人の存在が確認されたことから、デニソワ人だった可能性は低くないと思います。

 デニソワ人の文化が中部旧石器であることは激しい議論を惹起しないでしょうが、問題は上部旧石器時代初頭の人工遺物、とくに装飾品のような象徴的思考能力の証拠となり得るものです。ネアンデルタール人に関しては、装飾品を製作したり壁画を描いたりした証拠が蓄積されつつあり(関連記事)、現生人類と同等ではないかもしれないとしても、一定水準以上の象徴的思考能力を有していた、と考えられます。そのため、ネアンデルタール人と近縁なデニソワ人にも一定水準以上の象徴的思考能力を想定できます。おもに今年1月に公表された研究(関連記事)に依拠して、以下の表2にデニソワ3より上層のデニソワ洞窟の上部旧石器時代初頭の主要な人工遺物をまとめました。
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 その他にもデニソワ洞窟では、50000〜45000年前頃となるマンモスの牙製のティアラと思われる装飾品が発見されています(関連記事)。またその後の研究では、デニソワ洞窟の上部旧石器時代初頭の飾品や骨器の年代は48000〜45000年前頃と推定されています(関連記事)。ロシアの研究者には、これらの人工遺物の製作者をデニソワ人と考える傾向があるようで(関連記事)、その可能性もあるとは思いますが、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の現生人類DNA解析(関連記事)からは、現生人類がシベリアに到達したのは46880〜43200年前頃と推定されているため、現生人類の所産である可能性の方が高いように思います。ただ、デニソワ人の本格的な研究はまだ10年に満たず、最近になって形態学的情報が飛躍的に増加し、今後研究が大きく進展しそうなので、現時点では判断を保留しておくのが無難かな、と思います。
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佐藤信『日本古代の歴史6 列島の古代』

2019/05/18 10:52
 『日本古代の歴史』全6巻の第6巻として2019年3月に吉川弘文館より刊行されました。本書は第1巻〜第5巻で扱われた、更新世〜平安時代にかけての概説となっており、ユーラシア東部世界を視野に入れた叙述になっていることと、考古学的成果も積極的に取り入れているのが特徴です。本書は、更新世〜平安時代という長期間を対象とした概説だけに(更新世〜縄文時代への言及はきわめて少ないので、実質的には弥生時代以降となりますが)、第1巻〜第5巻と比較してやや薄くなっていることや、源頼朝が征夷大将軍に固執していたとの認識など、疑問の残る見解があることは仕方ないかな、とは思います。

 ただ、10世紀には国司のなかでも長官に権限が集中していったことが再度述べられているように、更新世〜平安時代という長期間を対象とした概説として、こうした繰り返しはやや構成に問題があるように思います。あるいは、これは本書の刊行の遅れと関連しているのかもしれません。また、長期間を対象とした概説として、考古学的成果も取り入れたいのは分かるとしても、平城京の解説はやや細かすぎるのではないか、と思います。本書は、中央政治史・地方情勢・文化史と多岐にわたっての解説となっているだけに、平城京に関する細かい考古学的成果は、どうも浮いているように思います。どうも本書は、大まかな概説とするのか、特定の観点からの通史とするのか、焦点が定まっていないように思います。率直に言って、『日本古代の歴史』第1巻〜第5巻まではなかなか楽しんで読み進められただけに、本書は期待外れでした。ただ、これは期待値が高かったからでもあり、弥生時代〜平安時代の概説としては、一読の価値があると思います。


なお、第1巻〜第5巻の記事は以下の通りです。

木下正史『日本古代の歴史1 倭国のなりたち』
https://sicambre.at.webry.info/201307/article_28.html

篠川賢『日本古代の歴史2 飛鳥と古代国家』
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_10.html

西宮秀紀『日本古代の歴史3 奈良の都と天平文化』
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_20.html

佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_25.html

坂上康俊『日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会』
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_17.html
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歯の進化率から推測されるネアンデルタール人と現生人類の分岐年代

2019/05/17 01:57
 歯の進化率からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の分岐年代を検証した研究(Gómez-Robles., 2019)が報道されました。ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代には高い関心が寄せられており、議論が続いています。ネアンデルタール人と現生人類の事例に限らず、DNA変異率は領域により異なると予想されることから、系統間の分岐年代の推定は難しくなっています。また近年では、ネアンデルタール人と近縁な種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の存在も明らかとなり(関連記事)、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐年代も注目されています。まず、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類系統とが分岐し、その後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐した、と推測されています(関連記事)。

 これら後期ホモ属の各系統間の推定分岐年代に関して具体的には、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類の祖先系統では、765000〜550000年前頃もしくは589000〜553000年前頃、デニソワ人系統とネアンデルタール人系統では473000〜445000年前頃もしくは381000年前頃との研究がある一方で(関連記事)、前者を751690年前頃、後者を744000年前頃とする研究や(関連記事)、前者を63万〜52万年前頃、後者を44万〜39万年前頃とする研究もあります(関連記事)。近年では大まかに言えば、前者を60万〜50万年前頃、後者を50万〜40万年前頃とする見解が有力であるように思います。

 しかし、その年代は、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃のホモ属遺骸群を考慮に入れると、もっとさかのぼる可能性が高い、と本論文は指摘します。SH集団には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)、祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。そのため、SH集団は形態学的には、ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人集団か、そのきわめて近縁な集団と考えられます。また核DNA解析でも、SH集団はデニソワ人よりもネアンデルタール人の方と近縁と推測されています(関連記事)。そのため、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐年代が45万年前頃以降とは考えにくく、そうすると、ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代も現在の有力説よりさかのぼることになります。

 本論文は、歯の進化率の定量的データからネアンデルタール人と現生人類の分岐年代を推測しています。以下、本論文の著者の以前の論文(関連記事)に倣って、ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代を[N-MH]LCA(ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先)年代と表記します。本論文の見解は、同じ問題を扱った以前の論文と、大きな違いはありません。著者の人類の各系統の歯の進化率には大きな違いはなく、[N-MH]LCAの推定年代により各系統の進化率は異なってきます。本論文はこれを用いて、人類の各系統の歯の進化率を推定し、より可能性の高い[N-MH]LCA年代を検証しています。

 SH集団の歯は、ネアンデルタール人の歯と複数の類似性を示しつつも、祖先的特徴と派生的特徴とが混在しています。本論文は、SH集団の歯の進化率が他の人類系統と大きく変わらないのであれば、[N-MH]LCAの年代は80万年前頃よりも新しくなりそうにない、と指摘します。逆に、SH集団の歯の進化率が高ければ、[N-MH]LCAの年代は80万年前頃以降になるわけです。しかし本論文は、そうした選択圧の証拠はなく、ホモ・またエレクトス(Homo erectus)の歯から推測されるような祖先的な形態や、SH集団の歯の形態からも、とくに機能的な意味はなく、強い選択圧があったとは考えにくい、と指摘します。ただ、現代人のうちアメリカ大陸先住民とアジア東部集団に高頻度で見られるシャベル状切歯と関連している遺伝子が、汗腺密度や乳腺管分岐とも関連していると推測されているように(関連記事)、歯の形態と関連する遺伝子が他の表現型とも関連しており、その表現型に強い選択圧が生じた場合は、歯の進化率が高くなることも想定されると思います。

 また、SH集団の歯の形態が強い創始者効果のためだとすると、[N-MH]LCA年代が80万年前頃以降という可能性も考えられます。その場合、SH集団の祖先集団に、SH集団で定着した独特な歯の特徴が存在したと考えられます。イベリア半島がヨーロッパで孤立した地域となった可能性もあることから、本論文はこの仮説の有効性を認めています。しかし、化石記録の少なさからこの仮説の可能性を除外できないとはいえ、現時点ではこの仮説を支持する証拠もない、と本論文は指摘します。

 SH集団が異なる人類系統間の交雑系統であるとすると、[N-MH]LCA年代が80万年前頃以降とも考えられます。形態的にも、SH集団には祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。しかし、SH集団には現生霊長類の交雑初期世代に見られるような骨格異常が見られないことから、SH集団が交雑系統である可能性はあるものの、現時点ではとくに強く支持されるわけではない、と本論文は指摘します。このように、[N-MH]LCAの年代が80万年前頃以降という可能性を排除できるわけではないものの、積極的に支持できるわけでもない、というのが本論文の見解です。

 本論文は、[N-MH]LCA年代は80万年以上前で、SH集団の歯の進化率は他の人類系統とさほど変わらなかった、との想定が最も節約的と指摘します。[N-MH]LCAが80万年以上前だとすると、これより新しい人類化石はその候補となりません。たとえば、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)として一括されるヨーロッパやアフリカやアジアのホモ属化石群です。ただ本論文は、[N-MH]LCA年代が古くなりすぎると、ホモ・エレクトス系統と分岐した後のデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統の歯の進化率が高くなりすぎるため、[N-MH]LCA年代としては125万〜85万年前頃の可能性が高そうだ、とも指摘しています。この年代は、現在の遺伝学の有力説と比較すると確かに古すぎますが、上述したように遺伝学では近い推定年代も提示されており、あり得ないほど古い年代とは言えないと思います。本論文が指摘するように、より正確なホモ属の進化過程の復元には、新たな化石の発見と既知の化石の再評価が不可欠で、今後もできるだけ研究の進展を追いかけていきたいものです。


参考文献:
Gómez-Robles A.(2019): Dental evolutionary rates and its implications for the Neanderthal–modern human divergence. Science Advances, 5, 5, eaaw1268.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw1268
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樹脂の塊から解析されたスカンジナビア半島の中石器時代の古代DNA

2019/05/16 04:28
 スカンジナビア半島の中石器時代の古代DNAに関する研究(Kashuba et al., 2019)が報道されました。古代DNA研究では、早期氷河期以後のヨーロッパには、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・スカンジナビア狩猟採集民(SHG)という3集団の存在が指摘されています。SHGはWHGとEHGの混合と推測されています(関連記事)。これは、最終氷期終了後のスカンジナビア半島への人類集団の移住に、南からの11500年前頃のWHG、北東からの10300年前頃のEHGという2経路があったことを示唆し、考古学的証拠とも一致します。この記事の年代は、放射性炭素年代測定法による較正年代です。ただ、DNAが解析されたSHGとヨーロッパ東部の早期石刃製作技術との直接的関連はまだ確認されていませんでした。この件もそうですが、古代DNA研究における問題の一つは、DNA解析された個体と物質文化とのつながりが明確でない場合も少なくないことです。

 本論文は、スウェーデンの中石器時代のヒューセビークレヴ(Huseby Klev)遺跡(HK遺跡)で発見された、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊8点から3人(ble004・ble007・ble008)のDNAを解析しました。このうち女性は2人、男性は1人です。中部旧石器時代以降、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊は石器製作で接着剤として使われていました。当時の人々はこの樹脂の塊を噛んで接着剤として用いており、じっさい、歯型が残っています。年代は10040〜9610年前頃で、スカンジナビア半島で確認された人類のDNAとしては最古となります。DNA解析により3人のゲノム規模データが得られました。網羅率は0.10倍・0.11倍・0.49倍です。ble004とble007は二親等程度の関係と推測されています。ミトコンドリアDNAハプログループ(mtHg)は全員U5a2dと分類されました。

 ゲノム規模データからは、HK遺跡の3人がスカンジナビア半島の最初期人類集団と遺伝的にひじょうに近縁だと明らかになり、SHG をWHGとEHGの混合とする推測が改めて確認されました。また、HK遺跡ではヨーロッパ東部の石器技術の影響が確認されており、HK遺跡の3人のDNA解析は、SHGとヨーロッパ東部平原の石器技術との直接的関連を示したという点でも注目されます。HK遺跡の3人は、EHGよりもWHGの遺伝的影響が強い、と明らかになりました。以前の研究ではヨーロッパ東部平原文化の影響から、SHGにおけるEHGの強い遺伝的影響が想定されていました。本論文は、スカンジナビア半島における最初期人類集団では、遺伝子流動を伴わないような文化交流もあったのではないか、と推測しています。

 カバノキ属の樹皮の樹脂の塊には、乳歯で噛まれた痕跡もあることから、子供も作業に関わっていたと推測されます。上述のように、男女ともにこの作業に関わっていましたから、子供にはまだ性別分業が確立していなかった、とも考えられます。カバノキ属の樹皮の樹脂の塊のような咀嚼物は、人類の遺骸がなくとも、古代DNA研究を可能にしますから、今後大きく古代DNA研究を発展させるのではないか、と期待されます。また本論文は、こうした咀嚼物が当時の環境・生態系・口腔微生物叢の情報源となり得ることを指摘しており、この点での研究の進展も楽しみです。


参考文献:
Kashuba N. et al.(2019): Ancient DNA from mastics solidifies connection between material culture and genetics of mesolithic hunter–gatherers in Scandinavia. Communications Biology, 2, 185.
https://doi.org/10.1038/s42003-019-0399-1
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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』53話〜56話

2019/05/15 01:43
53話「ジーパン刑事登場」8
 マカロニが殉職し、新たに一係に配属になったのはジーパンでした。ジーパンは、やはり存在感があり、初登場回から多くの視聴者に強い印象を残したのではないか、と思います。人物造形の方も、未熟な若手刑事と拳銃嫌いという設定が、今回だけではなくその後も上手く機能しており、ジーパンの登場から殉職までの1年1ヶ月ほどは、若手刑事の成長物語という側面が強くなっているように思います。マカロニに関しては、あまり成長物語といった感じはなかったのですが、1年での降板が当初は想定されていなかったこともあるのでしょうか。ジーパン以降の若手刑事の多くには、成長物語としての側面が見られるように思うので、本作の路線を決定づけるうえで、ジーパンの役割は大きかったと思います。

 話の方は、ジーパンが自分の境遇を犯人と重ね合わせ、共感するところもあり、犯人も若い男性なので、青春ものといった感じになっています。犯人が狂気を秘めた役だったのは、いかにも本作の鎌田敏夫氏脚本とった感じです。それにしても、マカロニが殉職して大変なのは分かりますが、淡々とした感じでマカロニの後釜はいつ来るのですか、とボスに尋ねた殿下には驚かされました。シンコ・ゴリさん・山さん・長さんもマカロニの死を吹っ切れすぎているな、と思う描写もありましたが、ゴリさんが拳銃を持たないジーパンに怒鳴った場面で、マカロニの死を引きずっており、無理をして元気に振舞っているのだな、と明示されました。また、今回から事務員として久美ちゃんが登場したことも注目されます。この頃になると、各刑事のキャラ・若手刑事の成長物語といった基本的な構造・7人前後の刑事と事務員といった本作の一般的な印象に近づきあるように思います。マカロニ編は全体的に面白かったのですが、視聴率的な意味での本作の全盛期というか、多くの視聴者にとっての『太陽にほえろ!』像からすると、かなり異質だとは思います。


54話「汚れなき刑事魂」7
 スナックで爆発事件が起き、3人が即死します。冒頭で店員の若い男性の怪しい動きが描かれ、犯人であることが強く示唆されます。その男性はジーパンの知り合いで、山さんがその男性を容疑者の一人として挙げたことにジーパンは強く反発します。ジーパンを山さん・長さん・ゴリさん、とくに山さんが教育していくといった感じで話が進み、未熟な若手刑事と教育係としてのベテラン刑事という王道的な構成となっています。けっきょくジーパンの知り合いが犯人で、若手刑事の未熟さと苦悩を強調する構成も王道的だと思います。ジーパンのアクションシーンはやはり魅力的で、最後の手錠を手で強引に外す場面はさすがにやり過ぎといった感もありますが、娯楽ドラマとしては有だと思います。メインゲストは水谷豊氏で、今となっては貴重な映像と言えるでしょう。


55話「どぶねずみ」7
 銃砲店が襲撃され、一家は殺害されてライフル銃が盗まれます。犯人はすぐには事件を起こさず、捜査も行き詰りますが、ジーパンが老女に頼まれていた犬の捜索から、偶然犯人に行き当たります。事件とイヌの捜索がどう結びつくのか、気になっていたのですが、なかなか工夫されていると思います。犯人は本作ではたまに見る狂気を秘めた男性で、脚本は本作でそうした犯人を描くことの多い鎌田敏夫氏なので、いかにもといった感じです。人付き合いがあまり上手くなさそうなジーパンが、人間不信に陥っている同じく若者の犯人の心理を把握するという構造は、しっかりと計算されているな、と思います。犯人の人物像があまり掘り下げられなかったのは残念ですが、まずまず楽しめました。今回、本庁から平田昭彦氏の演じる西山警部(後に警視)が捜査に関わってきて、次の異動で七曲署の署長に赴任する、とボスに伝えます。本作の署長といえば、やはり出演期間が長期にわたっただけに、まず平田氏を思い浮かべる視聴者が多いことでしょう。西山警部がジーパンにジーパンの父親のことを話すなど、ジーパンのキャラを立てようという工夫が見られます。西山警部とジーパンとを対照的に描いた苦い結末も悪くなかったと思います。


56話「その灯を消すな」6
 街を支配しようとする暴力団の前に、人々が屈服しそうになる中、若い男性をゴリさんが必死に庇う話です。かつて街を支配していた暴力団の組長が暴力団同士の抗争で人を殺してしまい、ゴリさんは怯える若い男性の証人を説得し、その証言のおかげで組長は逮捕されます。ゴリさんは証人の若い男性に、組長が出所しても必ず守る、と約束します。組長が出所することになり、ゴリさんは約束を守るべくその街に赴きます。ゴリさんは、地元の警察署に妨害され、暴力団に殴られて蹴られても耐え抜き、ついにかつて世話をした男性から重要な証言を得て、組長を逮捕に追い込みます。体力に優れた好漢であるゴリさんの個性がよく活かされており、この頃には各刑事のキャラが固まりつつあることを窺わせます。しかし、けっきょく若い男女は街を追われることになり、爽快感もあるものの、苦い結末となりました。終盤がやや急展開だったのは残念ですが、ゴリさんの活躍は楽しめました。ゴリさんが庇う若い男性を演じたのは北條清嗣(今回は北條清名義)氏で、本作の常連の一人ですが、善人役で出演したのは今回だけだと思います。
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文在寅大統領に関する備忘録

2019/05/14 14:42
 大韓民国の文在寅大統領について、覚えているうちにこれまで得た情報をまとめておきます。

●日本への関心は低い
 2017年の大統領選の時からすでに専門家に指摘されていたと記憶していますが、文在寅大統領は「反日」なのではなく、そもそも日本への関心が低いそうです。これは、バブル崩壊以降、世界における日本の相対的な経済的地位および影響力が低下し、それは大韓民国にとっても同様だからなのでしょう。大韓民国では、日本はもはや特別に重要な外国ではなく、それ故に軽視してもかまわない、といった雰囲気が強くなりつつあるのでしょうか。

●確たる対日政策はない
 文在寅政権を「反日」と解釈する一般層が日本では多いようですが、上述のように文在寅大統領をはじめとして現在の政権要人の多くは日本にさほど関心を抱いておらず、日本の相対的な地位低下にともない、日本にはぞんざいに対応してもよい、というような雰囲気があるというか、そもそも確たる対日政策が定まっていないそうです。それが、多くの日本人にとっては、「反日」に見える、という側面があるようです。

●確たる対中政策もない
 大韓民国はもはや「西側陣営」から中華人民共和国側に「寝返った」と、考えている日本人は少なくないかもしれません。しかし、革新とされる文政権には確たる対中政策もないようです。もっとも、大韓民国における中華人民共和国の影響力は、とくに経済面においてたいへん強く、また中華人民共和国は日本よりもずっと「怖い国」なので、さすがに日本よりはずっと丁寧に対応しているようです。大韓民国では、財界の意向により強く左右される保守政権の方が、経済面での利害関係から、対中関係には積極的なようです。

●強烈な民族主義
 文政権に確たる対日・対中政策がない根本的な要因は、その強烈な民族主義にあるようです。朝鮮民主主義人民共和国にたいしては同民族ということで強い共感を抱き、それは人権という普遍的価値観を上回っているようにさえ見えます。「従北」とも揶揄される文在寅政権にとって、朝鮮民主主義人民共和国との何らかの形での統一は悲願であり、それ故に朝鮮民主主義人民共和国および南北朝鮮和解のための最重要国(障壁)になっているアメリカ合衆国との関係に注力しているので、対日・対中政策が疎かになっているようです。

●外交の天才
 2017年11月にアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領が大韓民国を訪問し、国会で演説しました。これも含めて就任半年までの外交的成果から、文在寅大統領を「外交の天才」と評する人もいたようです(関連記事)。この評価は、2018年6月の米朝首脳会談の頃までは本気で主張する人もいたように思います。日本でも、「リベラル」系のアカウントが本気でそう主張していたように記憶しています。しかし、現時点では、文在寅大統領はトランプ大統領にも朝鮮民主主義人民共和国の金正恩国務委員会委員長にも、不信感を抱かれているように思います。文大統領は強烈な民族主義から朝鮮民主主義人民共和国との和解、さらには統一への道筋をつけたい、と対北政策にのめり込むあまり、米朝首脳会談を実現させるべく無理を重ねてしまい、トランプ大統領にも金委員長にも、2019年2月の第2回米中首脳会談の失敗の戦犯とされてしまったように見えます。文大統領が大韓民国の国力と自身の力量を超えた仲介役になろうとして失敗したのではないか、と思います。最近では、さすがに日本でも、文大統領を「外交の天才」と本気で主張する人はほぼいないようで、もっぱら大韓民国に好感情を抱いていない人々が、文大統領への揶揄として用いているようです。こうした外交の失敗と、何よりも経済政策の迷走により、文大統領の支持率は就任当初よりかなり低下しています。
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宇垣美里氏「私自身、昔からやっかみを受けやすかった」

2019/05/14 14:39
 2019年5月14日付読売新聞朝刊の特別面に、作家の朝井リョウ氏とフリーアナウンサーの宇垣美里氏の対談が掲載されています(ネットでも公開されています)。朝井氏から読書遍歴を訊かれた宇垣氏は、原点に近い本として坂口安吾『堕落論』と山田詠美『風葬の教室』を挙げ、虐めを受けている女子転校生がどう立ち向かうか、という話の後者は、「私自身、昔からやっかみを受けやすかったので勉強になりました」と述べています。宇垣氏は今年(2019年)3月にTBSを退社しており、近年では民放地上波放送をほぼ視聴しなくなった私でも退社前から知っているくらいなので、知名度はかなり高いと思います。

 宇垣氏の容貌から考えて、「やっかみを受けやすかった」ことは事実である可能性が高いだろうな、とは思います。少なくとも、宇垣氏はそう確信しているのでしょう。ただ、多くの人はそう思っても公言しないでしょうから、宇垣氏は正直な人とも言えます。宇垣氏は長田高校出身とのことですから、中学時代は校内で成績上位だったのでしょうし、ミスキャンパスにも選ばれ、何よりもTBSアナウンサーに採用されたわけですから、多くの人よりもずっと自己肯定感を得る機会があったのでしょう。「闇キャラ」を前面に出せるのも、自分に確たる自信があるからなのだろう、と思います。

 もっとも、ネットで検索してみた限りではそれなりにいそうな宇垣氏のアンチは、「やっかみを受けやすかった」発言は宇垣氏の傲慢・性格の悪さは表れで、まともな指摘・批判も多かったのではないか、と主張するかもしれません。確かに、そう解釈されても仕方のないところがあるとは思います。アンチにとって、宇垣氏の「やっかみを受けやすかった」発言は都合の良い攻撃材料となることでしょう。宇垣氏の容貌が好みの私としては、宇垣氏の発言をできるだけ好意的に解釈したいところではありますが。

 結局のところ、ある発言を問題視するか否か、あるいは好意的に受け取るか否かは、発言者の属性に依拠しているところが多分にあります。誰が発言したかではなく、発言内容で評価せよ、との意見は正論ではありますが、発言内容を深く理解するには発言者の属性を把握しておいた方がよいことも珍しくないでしょうし、常識論になりますが、発言内容とともに発言者の属性も気に留めておくのが無難なのだと思います。まあ、政治問題はとくにそうですが、あまりにも発言者の属性を意識しすぎると、誤解してしまうことも珍しくなく、私も人物の好き嫌いの激しい方だと自覚しているので、注意せねばなりません。
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「縄文人」のゲノム解析(追記有)

2019/05/14 02:54
 「縄文人」のゲノム解析について報道されました。「縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できた」とのことですので、「縄文人」としては初めて高品質なゲノム配列が決定された、ということでしょうか。この「縄文人」は海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性です。表現型では、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛で、瞳は茶色で酒に強く、耳垢は湿っていることなどが明らかになったそうです。また、北極圏の住民に多く見られる、脂肪分の多い食べ物を代謝するのに有利に働く遺伝子の変異も見つかり、狩りや漁を中心とした生活の様子が裏づけられた、とのことです。

 この船泊遺跡の「縄文人」女性から、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度と推定されています。また、「縄文人」の祖先は、38000〜18000年前頃に、ユーラシア大陸の住民から分岐したと推定されているそうです。「縄文人」は遺伝的には、台湾先住民・韓国人・極東ロシアのウルチ人など、アジア東部沿岸の南北に広範な人々と近いことが明らかになった、とのことです。これらの情報はおおむね、篠田謙一氏の昨年(2018年)の解説記事(関連記事)や今年3月に刊行された著書(関連記事)で明らかにされていたので、とくに意外な感はありません。

 ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度との推定に関しては、まだ確定的とは言えないでしょう。篠田氏の今年3月に刊行された著書では、現代日本人には東日本よりも西日本の「縄文人」の方がより多くの遺伝的影響を残していると推定されることと、縄文時代と現代のミトコンドリアDNAハプログループの比較から、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は20%程度になりそうだ、と推測されています。今後、「縄文人」やユーラシア東部の古代DNA研究が進めば、「縄文人」がどのように形成されたのか、また現代日本列島にどの程度の遺伝的影響を残し、地域差はどれくらいあるのか、といったことがより詳細に解明されるのではないか、と期待されます。


追記(2019年5月14日)
 国立科学博物館からのプレスリリースが公表されました。船泊遺跡の「縄文人」のゲノム解析に関する論文は今月(2019年5月)下旬に公表予定とのことです。
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ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先集団のユーラシアでの進化

2019/05/13 03:29
 『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』では、ホモ属の分岐がユーラシアで起きた、と主張されています(関連記事)。ホモ属としてエレクトス(Homo erectus)が最初にアフリカからユーラシアへと拡散し、ユーラシアでネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)などに分岐していき、アフリカに「戻った」一部の系統から現生人類が派生した、というわけです。これは、現生人類系統がアフリカでずっと進化したと仮定する有力説よりも、ホモ属の大規模な移住回数をより少なく想定できることが根拠の一つとなっています。

 同書は、有力説に従うと、ホモ属の大規模な移住が4回必要になる、と指摘します。その4回とはいずれもアフリカからユーラシアへの移動で、180万年以上前のエレクトス、その後の「超旧人類」、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先、現生人類です。「超旧人類」とは、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と140万〜90万年前頃に分岐し、デニソワ人と交雑した、と推測されている遺伝学的に未知のホモ属です(関連記事)。一方、エレクトスによるホモ属最初の出アフリカの後、ユーラシアでホモ属が分岐していった、とする同書の見解では、ホモ属の大規模な移住は、180万年以上前のエレクトスの出アフリカ、エレクトスの子孫系統の一部のユーラシアからアフリカへの「帰還」、現生人類の出アフリカの3回と想定されるので、有力説より節約的というわけです。

 しかし、こうしたアフリカとユーラシアの間のホモ属の移動は珍しくなく、現代人には遺伝的影響を残していない人類系統によるアフリカからユーラシアへの拡散も少なからずあった、と考えると、ホモ属の大規模な移住の回数をより少なく想定できるからといって、同書の見解が説得的であるとは言えないように思います。このように考えるのは、現代人の祖先ではなさそうな人類系統の出アフリカが珍しくなかったことを示唆する証拠が提示されているからです。たとえば、中国北部では212万年前頃の石器が発見されています(関連記事)。これは現時点ではほぼ完全に孤立した証拠で、どの人類系統の製作なのか、不明です。エレクトスかもしれませんが、現時点では可能性は低いと考えるべきでしょう。240万〜140万年前頃にアフリカにいた、ハビリス(Homo habilis)のようなエレクトス以前のホモ属や、ホモ属よりも前(一部はホモ属と共存)の人類であるアウストラロピテクス属が、この212万年前頃の石器を製作した可能性も提示されています。

 こうした可能性は、他の証拠からも支持され得ます。ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された人類遺骸には、アウストラロピテクス属的な祖先的特徴とホモ属的な派生的特徴とが混在しており、脳もホモ属としては小さく、推定脳容量は546〜780㎤です(関連記事)。また、アジア南東部の島嶼部で発見された人類遺骸の中には、ホモ属に分類されているものの、その祖先的特徴から、アウストラロピテクス属的特徴の強い系統の子孫と推測されているものもあります。一方は、インドネシア領フローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)で(関連記事)、もう一方は、ルソン島で発見されたホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)です(関連記事)。私は、フロレシエンシスもルゾネンシスもエレクトスから派生し、祖先的とされる特徴は島嶼化による小型化に起因するのではないか、と考えていますが、中国北部の212万年前頃の石器の事例からも、エレクトスよりも前のアウストラロピテクス属的特徴を強く保持する人類系統が、220万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した可能性は高いと思います。

 そうすると、ホモ属も含めて人類の大規模な出アフリカはきょくたんに珍しいことではなく、大規模な移住回数をより少なく想定できることは、仮説の確たる根拠にはなり得ない、と思います。もちろん、アフリカからユーラシアへと拡散した人類がアフリカに「戻る」こともあったでしょうし、そうした系統の中から現生人類が派生した可能性もあるとは思います。また、スペイン北部で発見された96万〜80万年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)に、現生人類とネアンデルタール人双方の特徴が見られることも『交雑する人類』は根拠として挙げており、同書のホモ属進化に関する見解に一定以上の説得性があることは確かでしょう。しかし今後、現生人類とネアンデルタール人双方の特徴が見られる100万年前頃のホモ属化石が、アフリカで発見される可能性はかなり高いのではないか、と私は予想しています。
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ポーランド南部の後期新石器時代集団墓地の被葬者のDNA解析

2019/05/12 09:59
 ポーランド南部の後期新石器時代集団墓地の被葬者のDNA解析に関する研究(Schroeder et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の集団墓地で2011年に発掘調査が行なわれました。この集団墓地は球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(GA)と関連しており、殺害された成人と子供の計15人が丁寧に埋葬されていました。16点の放射性炭素年代測定から、この虐殺事件は紀元前2880〜紀元前2776年と推定されました。

 埋葬された15人の内訳は、男性が8人、女性が7人です。男性のうち成人が3人、10代が2人、10歳未満の子供が3人で、女性のうち成人が5人、10代が2人です。最高齢は50〜60歳の女性で、最年少は1.5〜2歳の男児です。この15人のゲノムが解析され、網羅率は1.1〜3.9倍です。コシツェなどGA集団は、遺伝的には旧石器時代〜中石器時代以来のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とアナトリア半島起源の新石器時代農耕民集団(ANF)の混合により形成され、WHGよりANFの方が影響は強くなっています。これはヨーロッパの他地域の新石器時代農耕民集団と同様です。ゲノム解析から表現型も推測されており、この15人はほとんど、褐色の目、黒もしくはダークブロンドの髪と、中間的から濃い肌の色を有していました。

 この15人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAも解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)はHV0aやK1a1b1eなど6タイプに分類されましたが、8人の男性のY染色体DNAハプログループ(YHg)は全員I2a1b1a2b1に分類されました。ホモ接合性から、この15人では近親交配の痕跡はない、と推測されています。この15人では、近親度からおもに4つの核家族が確認されました。母親が子供を抱き、きょうだいが隣同士になっているなど、親族関係に応じた埋葬になっていることから、この15人をよく知る者が埋葬した、と考えられます。この件に関して興味深いのは、母親と息子の組み合わせが4組存在するのにたいして、父親と息子の組み合わせは1組しか存在しないことで、被葬者の父親たちがこの15人を埋葬した可能性を本論文は提示しています。

 YHgの分析から、コシツェ遺跡のGA集団は父系的社会を形成していた、と考えられます。後期新石器時代〜初期青銅器時代のドイツのバイエルン州南部では父系的社会の存在が確認されており(関連記事)、当時ヨーロッパ中央部では父系的社会が一般的だったのかもしれません。ただ、コシツェ遺跡の男女間で、ストロンチウム同位体比の明確な違いは確認されませんでした。しかし、mtHgの多様性とYHgの単一性から、コシツェのGA集団は父系的だった、と本論文は指摘します。GA集団はおもにウシの牧畜に依存していたようです。この生業形態の遊動性は、分裂と融合の流動的な社会を形成したと考えられます。コシツェ遺跡の15人のストロンチウム同位体比からも、比較的高い遊動性が示唆されています。コシツェ遺跡のGA集団は父系的で大規模な拡大家族を形成していた、と推測されています。

 コシツェ遺跡の15人には全員、負傷の痕跡が見られ、最も一般的なのは頭蓋の骨折です。これは、頭部への強打が死因だったことを示唆します。上肢の骨折がないことから、この15人は戦死したのではなく、捕らえられて処刑された、と推測されます。これは、ヨーロッパ先史時代の特定段階における広範で高頻度の暴力パターンに当てはまり、新石器時代には、人口圧力から資源や土地をめぐる競争が激化したのではないか、と推測されます(関連記事)。新石器時代における集団間の紛争は、共同体全体を標的とするか、男性に特化しているかのどちらかに分類されるようで、後者の場合、成人女性や子供は捕虜の対象です。コシツェ遺跡の場合は、儀式的暴力や家族内殺人の可能性も排除できませんが、共同体全体が標的とされていただろう、と本論文は推測します。成人男性が少ないことから、彼らは襲撃時に集落から離れた場所にいたか、逃亡した、と本論文は推測しています。あるいは、コシツェ遺跡の成人男性が狩猟や他集落の襲撃に出かけた隙を狙われたのかもしれません。

 紀元前2880〜紀元前2776年頃に起きたコシツェ遺跡の虐殺の原因の特定は将来も不可能でしょうが、縄目文土器(Corded Ware)文化が急速にヨーロッパ中央部に拡大してきた時期と合致していることに、本論文は注目しています。早期縄目文土器文化集団も含むポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源の集団の遺伝的影響をGA集団が受けていないことから、コシツェ遺跡のGA集団は縄目文土器文化集団と敵対的関係にあり、その紛争の中で虐殺事件が起きたのかもしれません。本論文は、遺伝学・形態学・考古学(同位体分析)を統合した興味深い結果を提示しており、同様の研究はヨーロッパを中心に盛んになりつつあるように思いますが、日本列島も含めてユーラシア東部圏でも同様の研究が進展するよう、期待しています。


参考文献:
Schroeder H. et al.(2019): Unraveling ancestry, kinship, and violence in a Late Neolithic mass grave. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1820210116
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神武天皇のY染色体

2019/05/12 09:56
 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。
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バスク人の起源とインド・ヨーロッパ語族の拡散

2019/05/12 09:53
 当ブログではバスク人についてほとんど言及していませんが、その起源と関わる研究を取り上げたことがあります。バスク人は、インド・ヨーロッパ語族集団が支配的なヨーロッパにおいて、孤立言語であるバスク語を話しているため、その起源について関心が寄せられてきました。バスク語の孤立性から、バスク人は旧石器時代や中石器時代からイベリア半島で継続してきた集団で、比較的孤立していたのではないか、との見解が長い間有力でした。

 古代DNA研究が進むと、ヨーロッパの他地域と同じく、バスク人は新石器時代になってアナトリア半島からイベリア半島に進出してきた初期農耕民の子孫ではないか、との見解が提示されました(関連記事)。もっとも、ヨーロッパの他の多くの地域と同様にイベリア半島北部においても、アナトリア半島起源の農耕民集団は、じょじょに更新世からの在来狩猟採集民集団と交雑していった、と推測されています。バスク人は遺伝的には、ヨーロッパにおいてきわだって特異的な存在ではないだろう、というわけです。

 もっとも、現代ヨーロッパ人の起源については、アナトリア半島起源の農耕民集団と更新世からの在来の狩猟採集民集団との融合だけでは説明できません。現代ヨーロッパ人の遺伝的構成に大きな影響を及ぼしているのは、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団を代表とする遊牧民集団です(関連記事)。ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、青銅器時代のヨーロッパにおけるポントス-カスピ海草原地帯起源の遊牧民集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。この遊牧民集団のヨーロッパへの拡散は、とくに父系において大きな影響力を有した、と推測されています(関連記事)。15世紀末以降のアメリカ大陸もそうですが、征服的側面の強い大規模な人類集団の移動は男性主体で、被征服地はとくに父系で強い影響を受ける傾向にあるのかもしれません。バスク人も、この遊牧民集団の遺伝的影響を強く受けています(関連記事)。

 ヤムナヤ文化集団の大規模な拡散は、インド・ヨーロッパ語族の拡散との関連でも注目されています。インド・ヨーロッパ語族の起源について大別すると、アナトリア半島の初期農耕民説とロシア南西部草原地帯説があります。後者の仮説の発展版が、ヤムナヤ文化集団によるヨーロッパやアジア南西部・中央部・南部という広範な地域へのインド・ヨーロッパ語族の拡散説です。この見解は近年では有力になりつつあるように思います。しかし、アナトリア半島に関しては、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の前にインド・ヨーロッパ語族系言語が用いられており、アジア中央部および南部に関しては、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんどない、との見解も提示されています(関連記事)。

 それでも、ヨーロッパに関しては、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族を広めた可能性は高そうです。しかし、ヨーロッパの他地域と同様にヤムナヤ文化集団の遺伝的影響を強く受けたバスク人の言語はインド・ヨーロッパ語族ではありません。なぜこのような違いが生じたのか、現時点ではよく分かりません。バスク人は、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響を強く受けた後は、遺伝的には比較的孤立していたと推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団はヨーロッパにおいて全地域集団の言語をインド・ヨーロッパ語族に転換させたわけではなく、当初は新石器時代以来の言語を保持し続けた集団もそれなりに存在したものの、他集団との交流により次第にインド・ヨーロッパ語族へと転換していった中、バスク人は比較的孤立していたので、新石器時代以来の言語を保持し続けたのかもしれません。そうだとすると、バスク人の言語が新石器時代にイベリア半島に拡散してきたアナトリア半島農耕民集団に由来するのか、それとも中石器時代以前の狩猟採集民集団に由来するのか、気になるところです。
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第18回「愛の夢」

2019/05/12 09:48
 今回は、金栗四三のマラソンと夫婦関係、1910年代と1960年代の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)、黎明期の近代女子体育教育が描かれました。正直なところ、本作の視聴率低迷の一因であろう、それぞれの物語の断絶感は否めず、本作の欠点が強調されてしまった感は否めません。しかし、女子体育教育は四三の次の目標となりますし、古今亭志ん生と四三も、久しぶりに登場した美川も媒介として両者が気づかないところで深い縁ができつつあるように思いますから、今後、現在は分断されているように見える各物語が上手く結びついていくのではないか、と期待しています。

 まあ、私のように気長に待てる視聴者は少ないでしょうから、視聴率が低迷するのは仕方のないところでしょうか。このところ毎週のように、本作の低視聴率が面白おかしく報道されていますが、今回は、視聴率低迷の一因と指摘されている構成そのものになっていたので、制作陣が外野の無責任の声に惑わされてないことを反映しているのかな、とも思います。そうだとすると、私はこの作風を支持しているので、最後までこの方針を貫いてほしいものです。視聴率が低迷していることから、本作を失敗と言う人は少なくないようですが、私は楽しみに視聴を続けています。
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バルト海東部地域のウラル語族の起源

2019/05/11 10:58
 バルト海東部地域のウラル語族の起源に関する研究(Saag et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ほとんどのヨーロッパ人の遺伝的構成は、旧石器時代〜中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と、新石器時代のアナトリア半島起源の初期農耕民と、青銅器時代前後のポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とする草原地帯遊牧民という、3系統の組み合わせです。

 バルト海東部地域もその例外ではありません。バルト海東部の人類集団においては、中石器時代以降の遺伝的情報が得られています。中石器時代の狩猟採集民は、遺伝的にヨーロッパに拡散したヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と最も類似しています。バルト海東部におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)への遺伝的移行は、紀元前3900年以降となる新石器時代の櫛目文土器文化(Comb Ceramic culture、CCC)集団の到来の影響と推測されています。ポントス-カスピ海草原地帯起源の後期新石器時代縄目文土器文化(Corded Ware culture)は紀元前2800年以降にバルト海東部に到達し、ヨーロッパの他地域と同様に、草原地帯遊牧民の遺伝的影響がもたらされました。

 インド・ヨーロッパ語族が支配的なヨーロッパにおいて、ウラル語族の存在するヨーロッパ北東部に関しては、現代人集団にヨーロッパの他地域よりも強いシベリア系の遺伝的影響が確認されています。バルト海東部では、Y染色体DNAハプログループ(YHg)のN3a系統が高頻度で確認されており、N3a系統はヨーロッパのウラル語族であるのフィン・ウゴル語派集団のほとんどおよびシベリア全域のいくつかの集団で共有されています。古代DNA研究からは、青銅器時代以降にシベリアからウラル語族集団が到来し、ウラル語族系言語をもたらしたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は、青銅器時代〜中世にかけてのバルト海東部地域の人類の古代DNAを解析し、既知の古代および現代の遺伝的データと比較することで、バルト海東部における遺伝的構成の変容を検証しています。

 本論文は、青銅器時代〜中世にかけてのバルト海東部地域の56人の歯根からDNAを解析しました。地域はさらにエストニアとイングリアに区分されています。このうち15人は分析できるだけのデータが得られなかったので除外され、8人からはミトコンドリアDNA(mtDNA)と(男性の場合は)Y染色体DNAのハプログループを決定できるだけのデータが得られたものの、常染色体では情報分析に充分なデータが得られず、33人は解析に充分なデータが得られました。この33人のゲノム解析の網羅率は0.017倍〜0.734倍です。その内訳は、紀元前1200〜紀元前400年となる後期青銅器時代のエストニア(EstBA)の15人と、紀元前800/500〜紀元後50年となる先ローマ期鉄器時代のエストニア(EstIA)の6人と、紀元前500〜紀元後450年となるイングリアの先ローマ期からローマ期鉄器時代(IngIA)の5人と、紀元後1200〜紀元後1600年となる中世エストニア(EstMA)の7人です。

 新たに特定された41人の古代のmtDNAハプログループ(mtHg)は全て現代エストニア人にも確認され、特定の地域に限定されない、と明らかになりました。父系では、30人の古代のYHgが特定されました。EstBAの16人は全員YHg- R1aで、後期新石器時代のCWCとはまったく異なりません。EstIAの3人とIngIAの2人もYHg- R1aですが、EstIAの3人はシベリア系のYHg- N3aで、これまでバルト海東部において確認されたYHg- N3としては最古となります。EstMAのYHgは、3人がN3a、2人がR1a、1人がJ2bです。CWC以前のバルト海東部のYHgはI・R1b・R1a5・Qですから、東方の草原地帯由来のR1aに実質的に置換されたようです。エストニアでは、フェノスカンジアとは異なり、青銅器時代にシベリア系のN3aは検出されていませんが、標本が少ないためにまだ検出できていないだけで、青銅器時代に存在した可能性を除外できない、と本論文は指摘します。ただ、YHg- N3aの頻度は青銅器時代よりも鉄器時代で顕著に高く、ヨーロッパ東部におけるYHg-R1a1とYHg-N3a3の拡大時期は類似しており、エストニアにおけるN3aの出現もしくは少なくとも現代エストニア人と匹敵する程度の頻度になったのは、青銅器時代〜鉄器時代の移行期のみだっただろう、と本論文は結論づけています。この頃に、エストニアにシベリア系集団が到来したのではないか、というわけです。

 青銅器時代以降のエストニアの常染色体では、以前のバルト海東部地域の研究で指摘されていたように(関連記事)、WHG系統の明確な比率増加が見られます。EstBA・EstIA・IngIA・EstMA・現代エストニアの集団は相互に平均してよく類似しており、他の現代ヨーロッパ人と比較して現代バルト海東部地域集団においてWHGの比率が比較的高いのは、青銅器時代以来のことだろう、と本論文は指摘します。銅器時代〜鉄器時代にかけて、エストニアの人類集団の常染色体では、それまでにはほぼ検出されなかったシベリア系の要素が出現します。これはシベリア系YHgの出現時期とおおむね一致します。フェノスカンジアの人類集団ではシベリア系統が3500年前頃に出現したと推測されていますが(関連記事)、バルト海東部の人類集団ではこれよりも後の紀元前千年紀となる青銅器時代〜鉄器時代の移行期に、ウラル語族のシベリア系統集団の遺伝的影響を受けたようです。これは、言語学で推定されている、バルト海東部におけるフィン・ウゴル語派の多様化の時期とも一致しており、バルト海東部では青銅器時代〜鉄器時代の移行期にウラル語族のシベリア系統集団が到来し、考古学的証拠に基づくと、それはヴォルガ-ウラル地域からの南西経路だったのではないか、と本論文は推測しています。ただ、エストニアの鉄器時代以降の人類集団において、常染色体でのシベリア系の影響はY染色体よりもずっと低く、青銅器時代〜鉄器時代にかけてバルト海東部に拡散してきたシベリア系集団は男性主体だったか、シベリア系集団が支配的な地位を確立して父系社会を築いた、とも考えられます。

 本論文は、新たにDNAを解析した個体間の親族関係も推定しています。X14とV16という青銅器時代の2個体は、かなり近い近親関係にありました。2人は母系でも父系でも同じハプログループに分類され、mtHgではH1b2、YHgでも他のEstBA 男性全員と同様にR1aでした。Y染色体DNA解析の網羅率が充分ではないため、2人が父系でどの程度近い関係にあるのか定かではありませんが、mtDNAの全解析ではハプロタイプが一致しており、2人は母親を同じくする半兄弟もしくは男性とその姉妹の息子(オジと甥の関係)だった、と推測されます。この2人の石窯での埋葬場所は13km離れており、石窯での埋葬例が少ないことから、こうした墓は限られたエリート層のものだっただろう、と本論文は指摘します。放射性年代測定では、X14が2481±30年前、V16が2399±27年前です。推定死亡年齢は、X14が35〜40歳、V16が30〜40歳です。本論文は、X14がオジでV16は(その姉妹の息子となる)甥だろう、と推測しています。

 本論文は、バルト海東部の古代人類集団の表現型の変化についても検証しています。バルト海東部のCWC集団では、肌の色は濃かったと推測されています。その後、バルト海東部の人類集団では肌の色が薄いもしくは中間的になっていき、さらに青い目とより明るい髪の色の比率が増加しました。バルト海東部の人類集団においては、色素沈着機能を低下させるような遺伝的多様体の比率が青銅器時代以降に増加していった、と考えられます。ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。また、ヨーロッパ北部においてとくに高い乳糖耐性関連の遺伝的多様体の頻度も、バルト海東部では後期新石器時代以後に増加したことが明らかになりました。


参考文献:
Saag L. et al.(2019): The Arrival of Siberian Ancestry Connecting the Eastern Baltic to Uralic Speakers further East. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.04.026
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Vybarr Cregan-Reid『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』

2019/05/11 10:54
 ヴァイバー・クリガン=リード(Vybarr Cregan-Reid)著、水谷淳・鍛原多惠子訳、真柴隆弘解説で、飛鳥新社より2018年12月に刊行されました。原書の刊行は2018年です。本書は、現代社会の環境の多くが人間にとって「ミスマッチ」となっており、それが腰痛・糖尿病・肥満・近視などの要因になっている、と指摘します。『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』(関連記事)と類似した主題の本ですが、同書は原書の刊行が2013年なのにたいして、本書は原書の刊行が2018年なので、その分新たな知見も得られるので、併せて読むとよいでしょう。

 本書が強調しているのは、現代人の多くがあまりにも身体を動かさない生活を送っており、それがさまざまな疾患の根本的原因になっている、ということです。人間は身体を動かさずに同じ姿勢でいるような環境に適応してきたわけではないので、そうした姿勢を要求する時間の長い生活は現代人にとって「ミスマッチ」になっている、というわけです。本書はこの問題について、椅子に座っての仕事が増大してきたように、労働環境の改善も指摘していますが、食器洗浄機の使用や映像試聴や読書など私生活、さらには子供の頃からの学校での教育環境(長時間の座学)といった習慣も改善されねばならない、と指摘します。

 本書は人間の生活が環境に適応できなくなった契機として、まず農耕の開始を挙げています。これにより以前より進んでいた定住生活が確立し、狩猟採集生活よりも運動量が低下しやすくなったこともありますが、何よりも、食生活が狩猟採集生活よりも炭水化物に偏重した契機になったことを本書は問題としています。それ以上に本書が問題としているのは産業革命・近代化です。これにより、長時間の同じ姿勢による労働慣行が確立し、人間の健康を損なうことになった、と本書は指摘します。本書は、更新世の狩猟採集民よりも新石器時代の農耕民の方が骨密度は低かったものの、現代人はさらに激減している、との研究を引用しています(関連記事)。本書は、人類進化に関する解説は期待していたほど多くはなかったのですが、しっかりとした根拠のあるかなり「実用的」な本になっており、私も自分の生活習慣を見直さねばならないな、と改めて認識させられました。人類進化に関心のない人にもお勧めの一冊です。


参考文献:
Cregan-Reid V.著(2018)、水谷淳・鍛原多惠子訳『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』(飛鳥新社、原書の刊行は2018年)
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アウストラロピテクス・セディバがホモ属の祖先である可能性は低い

2019/05/10 03:24
 アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus)がホモ属の祖先なのか、検証した研究(Du, and Alemseged., 2019)が報道されました。セディバはホモ属的な特徴を有するアウストラロピテクス属化石として知られており、現時点では、南アフリカ共和国のマラパ(Malapa)遺跡でしか確認されていません(関連記事)。セディバの推定年代は197万7000年±7000年前です(関連記事)。セディバの歯はアフリカ東部のアウストラロピテクス属よりもセディバと同じくアフリカ南部で発見されているアウストラロピテクス・アフリカヌス (Australopithecus africanus)に似ており、セディバの下顎はアフリカヌスと異なる一方で初期ホモ属と似ている、と指摘されています(関連記事)。

 セディバを報告した研究者たちは、セディバが現代人も含むホモ属の祖先と主張しましたが、セディバの推定年代は197万年前頃なので、ホモ属の祖先である可能性は低い、と考える研究者が2010年の公表当初から多かったように思います。すでにホモ・ハビリス(Homo habilis)と分類されている233万年前頃の化石(A.L. 666-1)が発見されていたからです。その後、エチオピアで発見されたホモ属的特徴を備える280万〜275万年前頃の下顎骨が2015年に公表され、種区分は未定であるもののホモ属と分類されたことから(関連記事)、セディバをホモ属の祖先とする見解はさらに苦しくなった感があります。

 本論文は諸文献を調べ、セディバがホモ属の祖先なのか、検証しました。本論文は、先種の化石よりも子孫種の化石の方が古いこともあり得る、と指摘します。祖先種の一部から子孫種が分岐し、その後で祖先種と子孫種が一定期間共存しているような場合です。セディバがホモ属の祖先であるには、セディバの一部からホモ属系統が分岐し、ホモ属系統にホモ属の派生的特徴が出現した後も、少なくとも80万年間はセディバが存続してホモ属と共存しなければなりません。

 本論文は諸文献から、人類系統において祖先-子孫関係にあると仮定される28の組み合わせを調べました。そのうち、祖先の化石が子孫の化石より新しいのは1例だけでした。インドネシアで発見された広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)化石(Kedung Brubus 1)の年代は80万〜70万年前頃で、広義のエレクトスから派生したと考えられるアンテセッサー(Homo antecessor)は90万〜80万年前頃までさかのぼりのます。本論文は、人類系統において種の平均的な存続期間は約100万年で、祖先の化石が子孫の最古の化石より80万年新しくなる可能性は限りなく可能性は0に近い、と指摘します。

 一方、エチオピアで発見されたホモ属的特徴を備える280万〜275万年前頃の下顎骨について、ホモ属と分類することに慎重な見解も提示されているので、より広くホモ属と認められている233万年前頃の上顎化石(A.L. 666-1)を最古のホモ属標本とみなし、人類種の平均的な存続期間をアフリカの大型哺乳類の平均的な種存続期間の上限である約200万年と仮定し、改めてセディバがホモ属の祖先となり得るのか、検証しました。その結果、この過程でも、セディバがホモ属の祖先である可能性は0に近い、と本論文は指摘します。

 本論文は、セディバがホモ属の祖先ではないとすると、ホモ属の祖先の最有力候補をアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)とする以前からの見解が依然として有効だろう、と指摘します。アファレンシスは、最古のホモ属化石として有力な、280万〜275万年前頃のホモ属的な下顎やハビリスと分類されている上顎化石(A.L. 666-1)と同じくエチオピアで発見され、280万〜275万年前頃のホモ属的な下顎にはアファレンシス的な特徴も認められており、300万年前頃というアファレンシスの下限年代は280万〜275万年前頃に近いからです。

 現時点では、ホモ属の祖先に関して、アファレンシス(の一部)から進化したとする本論文の見解が最有力だと言えるでしょう。では、セディバのホモ属的特徴をどう説明すべきなのか、という問題が生じます。いくつかの想定が可能でしょうが、一つは収斂進化です。アウストラロピテクス属系統の一部でも、独立してホモ属と類似した特徴が一部進化した、というわけです。より可能性が高そうなのは、300万年前頃にアウストラロピテクス属においてホモ属的特徴を備えた系統が出現し、その後にホモ属系統とセディバ系統に分岐した、という想定です。さらに、ホモ属において異なる系統間の交雑が珍しくなく(関連記事)、それはチンパンジー属(関連記事)やヒヒ属(関連記事)でも同様だったことから、アウストラロピテクス属系統と初期ホモ属系統との間でも交雑があり、セディバはホモ属系統の遺伝的影響を受けたアウストラロピテクス属系統である可能性も想定されます。ホモ属の起源の解明には新たな化石の発見が必要なので、短期間に大きく進展する可能性は低そうですが、今後も研究の進展をできるだけ追いかけていくつもりです。


参考文献:
Du A, and Alemseged Z.(2019): Temporal evidence shows Australopithecus sediba is unlikely to be the ancestor of Homo. Science Advances, 5, 5, eaav9038.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aav9038
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コウモリのように飛んだ小型恐竜(追記有)

2019/05/09 15:18
 コウモリのように飛んだ小型恐竜に関する研究(Wang et al., 2019)が公表されました。スカンソリオプテリクス類は小型恐竜(体重約200g)の分類群で、前肢と指がひじょうに長く、樹上生活する羽毛恐竜として復元されるのが一般的です。しかし、2015年に発見されたスカンソリオプテリクス類恐竜イー(Yi qi) は、これとは異なっていました。イーには、尖筆状突起(styliform element)に支えられた、コウモリの翼に似た膜状翼があったと考えられます。この種の膜状翼は、恐竜以外の飛行能力を有する脊椎動物の系統(コウモリ類や翼竜類など)が持っていたものの、獣脚類恐竜も有していたことはこれまで知られていませんでした。

 この研究は、新たなスカンソリオプテリクス類(Ambopteryx longibrachium)について、これがイーと同じような膜状翼と尖筆状突起を有していたと説明しています。しかし、このスカンソリオプテリクス類にはイーと異なる特徴がいくつかあり、たとえば、前肢骨の幅が広く、短い尾の末端で椎骨が融合しており、ひじょうに長い前肢は後肢より長い、といったものです。この研究は、スカンソリオプテリクス類と鳥類の系統が分岐し、異なる経路で飛行能力を備えるに至ったものの、その分岐が近づいた頃に翼構造に著しい変化が生じたことを明らかにしました。またこの研究は、スカンソリオプテリクス類に備わっていた膜状翼と長い前肢は、短期間で終わった飛行実験を示すもので、その後、羽毛の生えた翼が優勢になった可能性がひじょうに高い、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【化石】コウモリのように飛んだ小型恐竜の化石証拠

 コウモリのような翼を持つスカンソリオプテリクス類恐竜の新種の化石が中国遼寧省で発見されたことを報告する論文が、今週掲載される。この化石標本は、約1億6300万年前のものと年代測定され、鳥類に近縁の恐竜類が飛行し始める直前の時期にいろいろな翼構造を試していたことを示唆する証拠となる。

 スカンソリオプテリクス類は、小型恐竜(体重約200グラム)の分類群で、前肢と指が非常に長く、樹上生活する羽毛恐竜として復元されるのが一般的だ。しかし、最近発見されたスカンソリオプテリクス類恐竜のYi qi は、これとは異なっていた。イー(Yi qi)には、尖筆状突起(styliform element)に支えられた、コウモリの翼に似た膜状翼があったと考えられるのだ。この種の膜状翼は、恐竜以外の飛行能力を有する脊椎動物の系統(コウモリ類や翼竜類など)が持っていたが、獣脚類恐竜も有していたことはこれまで知られていなかった。

 今回、Min Wangたちの研究グループは、Ambopteryx longibrachiumと名付けたスカンソリオプテリクス類について、これがイーと同じような膜状翼と尖筆状突起を有していたと説明している。しかし、Ambopteryxにはイーと異なる特徴がいくつかあり、例えば、Ambopteryxは前肢骨の幅が広く、短い尾の末端で椎骨が融合しており、非常に長い前肢は後肢より長い。

 Wangたちは、スカンソリオプテリクス類と鳥類の系統が分岐し、異なる経路で飛行能力を備えるに至ったが、その分岐が近づいた頃に翼構造に著しい変化が生じたことを明らかにした。また著者たちは、スカンソリオプテリクス類に備わっていた膜状翼と長い前肢は、短期間で終わった飛行実験を示すものであり、その後、羽毛の生えた翼が優勢になった可能性が非常に高いという考えを示している。


古生物学:ジュラ紀の新たなスカンソリオプテリクス類と獣脚類恐竜における皮膜状の翼の消滅

Cover Story:皮膜の翼:Ambopteryxのコウモリの翼に似た皮膜によって見直される恐竜の飛行の進化

 表紙は、新たに発見された恐竜Ambopteryx longibrachiumの想像図である。今回M Wangたちは、約1億6300万年前の後期ジュラ紀にさかのぼるAmbopteryxの化石について報告している。Ambopteryxは、長い手指を持つ樹上性の小型羽毛恐竜として描かれることの多い、スカンソリオプテリクス類の恐竜である。しかし、Ambopteryxは他のスカンソリオプテリクス類とは異なり、羽毛と、尖筆状突起(styliform element)と呼ばれる副骨によって支持されるコウモリに似た皮膜状の翼の両方の証拠を有している。皮膜状の翼は、2015年に発見されたイー(Yi qi)で最初に認められ、かなりの物議を醸して以来、今回が2例目となる。Ambopteryx の発見は、イーが例外ではなかったことを示しており、スカンソリオプテリクス類が、羽毛に加えて一般的にコウモリのような翼も有していた可能性を提起している。



参考文献:
Wang M. et al.(2019): A new Jurassic scansoriopterygid and the loss of membranous wings in theropod dinosaurs. Nature, 569, 7755, 256–259.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1137-z


追記(2019年5月11日)
 ナショナルジオグラフィックで報道されました。
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翼竜類の多様な外被

2019/05/09 15:17
 翼竜類の多様な外被に関する研究(Yang et al., 2019)が報道されました。初期の羽毛様構造体はかつて、現在の鳥類の祖先を含む恐竜類の生物群に特有のものと考えられていました。一方、羽ばたき飛行を身に付けた最初の脊椎動物である翼竜類は、毛皮を有するものとして描かれることが多くなっています。この研究は、中国で発見された約1億6500万〜1億6000万年前のジュラ紀の短尾型翼竜類に分類されている、保存状態が良好な2体の化石標本(翼を広げた大きさで推定約40〜45cm)を顕微鏡および分光イメージング技術で調べました。その結果、この翼竜類が4種類の外被を有していた、と明らかになりました。それは、頭部・胴部・脚部・尾部を覆う、ふわふわした毛皮のような断熱性の構造体と、頭部の一部と翼で見られる、現代の羽毛に類似した3種類の曲がった糸状の繊維です。

 このような種々の外被は、体温調節・知覚・シグナル伝達・空気力学において機能的な役割を果たしていた、と考えられます。翼竜類に羽毛様の構造体があったというこの知見から、羽毛は、恐竜類と翼竜類の両者がどちらかの祖先から受け継いだか、それとも両系統で別々に進化したかのいずれかだと示唆されます。また、走査型電子顕微鏡法が今後さらに改良されれば、生きていた当時の恐竜類と翼竜類の正確な姿に関するより多くの手掛かりが得られるかもしれない、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


さまざまな素材からなる翼竜類の驚異の外被

 一部の翼竜類が、羽毛や毛皮のようなさまざまな構造体による多様な外被に覆われていたことを示唆する論文が、今週掲載される。

 初期の羽毛様構造体はかつて、現在の鳥類の祖先を含む恐竜類の生物群に特有のものと考えられていた。一方、羽ばたき飛行を身に付けた最初の脊椎動物である翼竜類は、毛皮を有するものとして描かれることが多い。

 Baoyu Jiang、Michael Bentonたちは今回、約1億6500万〜1億6000万年前に現在の中国に生息していた短尾型翼竜類の、保存状態が良好な2体の化石標本を、顕微鏡および分光イメージング技術で調べた。その結果、この翼竜類が4種類の外被を有していたことが明らかになった。すなわち、頭部、胴部、脚部、および尾部を覆うふわふわした毛皮のような断熱性の構造体と、頭部の一部と翼で見られる、現代の羽毛に類似した3種類の曲がった糸状の繊維である。

 このような種々の外被は、体温調節、知覚、シグナル伝達、および空気力学において機能的な役割を果たしていたと考えられる。翼竜類に羽毛様の構造体があったという今回の知見から、羽毛は、恐竜類と翼竜類の両者がどちらかの祖先から受け継いだか、それとも両系統で別々に進化したかのいずれかであることが示唆される。

 関連するNews & ViewsでLiliana D’Albaは、走査型電子顕微鏡法が今後さらに改良されれば、生きていた当時の恐竜類と翼竜類の正確な姿に関するより多くの手掛かりが得られるかもしれないと述べている。



参考文献:
Yang Z. et al.(2019): Pterosaur integumentary structures with complex feather-like branching. Nature Ecology & Evolution, 3, 1, 24–30.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0728-7
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ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアル

2019/05/09 15:14
 来月(2019年6月)4日、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルがあるそうで、最大容量や1記事の制限文字数増加は改善点と言えるでしょう(関連記事1および関連記事2)。ウェブリブログを始めてから13年近く、ほぼ毎日更新してきましたが、ずっと過疎ブログのままです。より多くの人に読んでもらうという観点からは大失敗の当ブログですが、当ブログで収入を得ることが目的ではなく、実質的に備忘録としてしか機能していませんし、私はそれで満足しているので、とくに問題はありません。

 ただ、備忘録の観点からは、トラックバック機能の廃止はひじょうに困ります。私の場合、ある問題についてのまとめ的な記事だけではく、新規記事を書こうとした場合でも、過去の関連記事を参照することが珍しくなく、ある程度記憶に残っている場合もありますが、ブログ検索を利用することも珍しくありません。しかし、ブログ検索では拾いきれない記事もあるので、ある記事にトラックバックがついていると、関連記事を効率的に検索でき、たいへん便利です。すでに当ブログの記事数は5000本を超えており、分類したりまとめ記事を作成したりして整理しているものの、トラックバックによる関連記事検索の効率性を何度も実感してきただけに、大きな衝撃を受けています。

 ブログサービスではトラックバック機能の廃止が主流となっているようで、ウェブリブログもそれに倣ったのでしょうが、私のウェブリブログ利用法では、トラックバック機能の廃止はたいへん不便です。せめて、自分のブログ記事間のトラックバック機能だけは残しておいてもらいたかったのですが、まあ仕方のないところでしょうか。これからは、まとめ記事をもっと効率的に活用していかねばならないでしょう。何とも残念なウェブリブログにおけるトラックバック機能の廃止ですが、ブログサービスが廃止にならなかっただけまだましだった、と言うべきでしょうか。
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シナ・チベット語族の系統関係と起源

2019/05/08 03:08
 シナ・チベット語族の系統関係と起源に関する研究(Sagart et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。中国語・チベット語・ビルマ語を含むシナ・チベット語族はインド・ヨーロッパ語族とともに世界の2大言語族で、話者は前者が約32億人、後者が約14億人です。しかし、シナ・チベット語族の起源と拡散はアジア東部およびその周辺地域(アジア南東部や南部の一部)の先史時代・歴史時代の解明に重要であるにも関わらず、インド・ヨーロッパ語族と比較して研究は遅れています。

 本論文は、シナ・チベット語族の50言語から語彙を収集し、データベースを構築することにより、シナ・チベット語族の各言語間の系統関係と起源を推定しました。この中には、過去の言語のデータも含まれています。中国語の記録は紀元前1400年前頃、チベット語は紀元後764年、ネワール語(ネパール・バサ語)は紀元後1114年、ビルマ語は紀元後1113年までさかのぼります。また本論文は、農耕と牧畜に関する考古学的データも収集して組み合わせることにより、シナ・チベット語族の起源地も推測しました。

 本論文は、シナ・チベット語族が大きく、中国語系統と、ビルマ語やチベット語などを含むそれ以外の系統に二分されることを指摘します。ただ、アジア南東部および南部の一部の言語は、中国語系統により近縁です。また本論文は、シナ・チベット語族の起源は7200年前頃で、その担い手は中国北部の新石器時代農耕民集団である、後期磁山(Cishan)文化および早期仰韶(Yangshao)文化ではないか、と推測しています。ここから、農耕民集団の拡大に伴い、シナ・チベット語族も拡散し、分岐していったのではないか、というわけです。

 先月(2019年4月)、言語学・遺伝学・考古学・人類学の研究成果を統合し、109の言語における949の語彙の系統分析により、シナ・チベット語族の起源を検証した研究が公表されました(関連記事)。その研究でも、シナ・チベット語族の起源は中国北部の黄河流域にあり、5900年前頃に(7800〜4200年前頃)拡散・多様化が始まった、と推測されており、本論文とおおむね整合的だと思います。現時点では、シナ・チベット語族の起源は黄河流域の新石器時代農耕民集団にあり、アジア東部およびその周辺地域に拡大していった、との見解が最有力と言えそうです。


参考文献:
Sagart L. et al.(2019): Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116
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現代日本人のY染色体DNAハプログループDの起源

2019/05/07 02:47
 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)では、Dが30〜40%と高い割合を占めています。YHg-Dは現代では珍しいハプログループで、おもにアジア東部の一部地域とアンダマン諸島で見られます。アンダマン諸島ではYHg-Dは高頻度で見られ、アジア東部では日本列島とチベットを除くときわめて低頻度でしか存在しません。そのため、YHg-Dを現代日本人の独自性の根拠とする言説をネットでよく見かけます。とくに、「縄文人」においてYHg-Dが確認されてからは、長期にわたる日本の独自性が強調される傾向にあるように思います。「縄文人」の父系は現代日本人においてもその多くが継続している、というわけです。

 確かに、現代日本人で高頻度なのはYHg-D1b(ちなみに、チベットで高頻度なのはYHg-D1aです)で、これは「縄文人」でも確認されていますから、そうした言説に一定以上の根拠があることは否定できません。ただ、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。

 この問題は十数年前より考えていましたが、少なからぬ人も考えているであろうように、YHg-Dがかつてアジア東部に一定以上の頻度で広範に存在していた可能性は低くないように思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」の核DNA解析数はまだ少なく、東日本に遍在しているため、今後西日本の「縄文人」の解析が進めば、YHg-D1b1がかなりの頻度で発見されるかもしれません。ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域はせいぜい20%程度にしかならないと予想されており(関連記事)、父系の30〜40%が「縄文系」だと多いかな、とも思います。もちろん、あり得ない数値ではありませんし、仮に現代日本人のYHg-D1b1のうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」だとしても、現代日本人の父系の一定以上の割合は「縄文系」だと思いますが。
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デニソワ人の生息範囲

2019/05/06 06:47

 昨年(2018年)〜今年にかけて、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についての研究が大きく進展したように思います。デニソワ人については以前一度まとめたのですが(関連記事)、まだ2年も経過していないのに、もうかなり情報が古くなってしまったので、近いうちに改訂版を掲載しようと考えています。つい最近まで、デニソワ人は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)だけでしか確認されていませんでした。しかし、オーストラリア先住民やパプア系においてとくにデニソワ人の遺伝的影響が高いと明らかになっていたので、デニソワ人の生息範囲はアルタイ山脈に限らず、もっと広かったのではないか、と以前よりずっと考えられていました。

 ただ、つい最近まで、まだ本格的な研究はおそらく公表されていないだろう頭頂骨の一部(関連記事)を除くと、デニソワ人のものとされる頭頂骨デニソワ人の遺骸は手の指骨や歯といった断片的なものだったので、遺伝学的情報は更新世の人類としては豊富に得られていたものの、形態学的情報はほとんど得られておらず、更新世の他地域の人類との照合が困難でした。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも現生人類(Homo sapiens)でもない更新世人類に関しては、形態学的情報はそれなりに得られているものの、遺伝学的情報はまったく得られていないからです。なお、DNAが解析されている43万年前頃のイベリア半島北部のホモ属集団は、形態学的にも(関連記事)遺伝学的にも(関連記事)ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人ときわめて近縁な集団と推測されるので、後期ネアンデルタール人の直系の祖先ではないとしても、大まかに言えばネアンデルタール人系統だろう、と私は考えています。

 上述したように、デニソワ人の生息範囲はアルタイ山脈に限らず、もっと広かったのではないか、と以前よりずっと考えられおり、既知のホモ属遺骸の中にデニソワ人と同じ系統に区分できるものがあるのではないか、と推測していた人は多かったと思います。とくに、中国で発見された中期〜後期更新世のホモ属遺骸の中には分類の曖昧なものが少なからずあることから、デニソワ人の有力候補と考えられていました。しかし、上述した理由のため、デニソワ人とネアンデルタール人および現生人類ではないホモ属遺骸との照合が困難なため、確証は得られていませんでした。

 ところが、今月(2019年5月)、チベット高原東部で1980年に発見された16万年以上前のホモ属下顎骨が、タンパク質分析の結果、デニソワ人もしくはそのきわめて近縁な系統と明らかになり(関連記事)、デニソワ人に関する研究は大きく進展しました。この右側半分の下顎骨は、デニソワ洞窟以外で初めて確認されたデニソワ人というだけでも大きな意義を有するのですが、それだけではありませんの他にも大きな研究の進展をもたらしました。まず、これまでのデニソワ人遺骸と比較すると、はるかに豊富な形態学的情報が得られたことです。これにより、遺伝学的情報が得られていない、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属との照合がじゅうらいよりずっと容易になりました。デニソワ人の形態および生息範囲の研究が大きく進展するのではないか、と期待されます。次に、この下顎骨は標高3280mという高地で発見されたことから、デニソワ人は非現生人類ホモ属としては初めて、高地のような極限環境への拡散が確認されたことになります。ただ、チベット高原東部で発見されデニソワ人(もしくはそのきわめて近縁な)系統と分類された下顎骨に関しては、1980年に僧侶により発見されたと報道されているように、考古学的文脈に曖昧なところがあり、この点に批判が寄せられても仕方のないところだと思います。1980年に発見されたのに、本格的な研究が2010年代に始まったのも、厳密な考古学的発掘によるものではなく、その信頼性に疑問が呈されそうなので、放置されていたからではないか、と邪推したくなります。ただ、年代は下顎骨の付着物の放射性年代測定法によるものですし、系統分析は下顎骨の歯からのコラーゲン分析によるものなので、年代とデニソワ人(もしくはそのきわめて近縁な)系統という分類は妥当だろう、と思います。

 このように、デニソワ人の遺骸は現時点でアルタイ山脈とチベット高原東部のみで確認されています。一方、遺伝学的にもデニソワ人の生息範囲が推測されています。上述したように、デニソワ人の遺伝的影響はオーストラリア先住民やパプア系においてとくに高いので、デニソワ人はアジア南東部にも存在したのではないか、と以前より推測されていました。今年になって公表された、デニソワ人の複数系統の可能性を指摘した研究は、デニソワ人が渡海してニューギニア島(もしくは、更新世寒冷期にオーストラリアと陸続きになっていたサフルランド)に拡散していたのではないか、と推測しています(関連記事)。そうだとすると、デニソワ人は比較的寒冷なアルタイ山脈やチベット高原東部だけではなく、熱帯地域にも適応していた可能性が高くなります。デニソワ人系統はネアンデルタール人系統との最終共通祖先から分岐した後、複数の系統に分岐していき、高地や比較的寒冷な地域に適応した系統と、熱帯地域に適応した系統が存在したのかもしれません。これはまだ遺伝学的な推測で、決定的な証拠が提示されているわけではありません。ただ、当ブログではまだ取り上げていませんが、昨年、オーストラリア南東部のモイジル(Moyjil)遺跡における人類の痕跡が12万年前頃にさかのぼる、と報告されています。この見解が妥当だとすると、どの人類系統か確証は得られていませんが、あるいはデニソワ人の1系統がサフルランドまで拡散したのではないか、と妄想したくなります。デニソワ人については、今後も形態学・遺伝学・考古学で大きな研究の進展が期待されるので、ひじょうに注目しています。
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イベリア半島南部の最初期現生人類をめぐる議論

2019/05/05 09:58
 今年(2019年)1月に、イベリア半島南部における43400〜40000年前頃の現生人類(Homo sapiens)拡散の可能性を報告した論文(Cortés-Sánchez et al., 2019A)が公表されました(関連記事)。この論文(以下、C論文)は、イベリア半島南部にも、ヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に現生人類が拡散してきた可能性を提示したことから、注目されました。その根拠となったのは、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の中部旧石器時代後期〜上部旧石器時代の年代です。以下、この記事の年代は基本的に、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 C論文は、バホンディージョ洞窟では第19層〜第14層(新しいほど上層となります)までが中部旧石器時代となり、まず間違いなくネアンデルタール人が担い手のムステリアン(Mousterian)インダストリーが46000年前頃まで続き、第13層では石刃や小石刃が出現するようになり、第12層は典型的な上部旧石器、第11層は発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)、第10層はグラヴェティアン(Gravettian)インダストリーになる、との見解を提示しています。C論文は第13層石器群について、数が少ないこと(100個未満)や骨器が共伴しないといった問題を指摘しつつも、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)もしくは早期オーリナシアン(Early Aurignacian)と分類しています。第13層の年代は43400〜40000年前頃です。

 この見解がなぜ重要かというと、今ではヨーロッパにおいてネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はおおむね4万年前頃までに絶滅したと考えられているものの(関連記事)、イベリア半島南部への現生人類の拡散は、エブロ川を境とする生態系の違いによりヨーロッパ西部の他地域よりも遅れ(エブロ川境界仮説)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が4万年前以降も生存していた、との見解(ネアンデルタール人後期絶滅説)が根強いからです(関連記事)。ヨーロッパにおいては、ムステリアンはネアンデルタール人のみ、オーリナシアンは現生人類のみが担い手だった、との見解が通説となっています。C論文が妥当だとすると、イベリア半島北部に42868〜41686年前頃に出現したオーリナシアンは、ほとんど変わらない年代でイベリア半島南部にも拡散していたことになります。


 このC論文の見解にたいして、2本の批判論文とC論文の著者たちによる反論が掲載されました。まずは、おもに石器技術に関するC論文への批判論文(de la Peña., 2019)です(以下、P論文)。P論文はまず、バホンディージョ洞窟第13層石器群は以前には多くの文献で、特徴的なムステリアン剥片と上部旧石器要素の両方を有する曖昧な技術と説明されており、C論文も第13層石器群がプロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアンと明確に区分できるだけの充分な証拠がないことを認めている、と指摘します。

 そこでP論文は、第13層石器群の説明と定義が問題になり、プロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアン以外で説明することも可能だ、と指摘します。P論文がまず問題とするのは、第13層石器群には明確に石刃と関連しているものの、オーリナシアン石器群と異なる技術的特徴も有するのならば、まだ識別・定義されていない上部旧石器時代のインダストリーとしての定義も可能ではないか、ということです。P論文は、イベリア半島南部の早期上部旧石器時代においては、ヨーロッパの他地域とは異なり、よく発展した剥片戦略が見られる、と指摘します。次にP論文が挙げているのは、第13層がムステリアン集団による石刃技術の採用を反映している可能性です。P論文は、この二つの可能性のどちらが妥当なのか、判断は困難だと指摘しています。

 さらにP論文が明代としているのは、層序学的混乱です。第13層には明らかな上部旧石器時代インダストリーである発展オーリナシアンの第11層との接触が見られ、土壌が下方に移動していく仮定も報告されているのに、C論文はこの重要な堆積物形成過程を無視している、とP論文は指摘します。C論文は第13層石器群をオーリナシアンとよく関連づけられておらず、現生人類がイベリア半島南部へ43400〜40000年前頃というヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に拡散した、とする根拠は弱いと結論づけています。


 次に、同じくC論文への批判論文(Anderson et al., 2019)です(以下、A論文)。A論文は、バホンディージョ洞窟の土壌の移動が第11層〜第13層で識別されており、第14層〜第11層は層序的混合の疑いのために以前は年代測定計画から除外されていた、と指摘します。さらにA論文が問題とするのは、第13層は遺跡の中央部の限られた部分にしか存在せず、その下のムステリアン層およびその上の発展オーリナシアン層の両方と接触している、ということです。それにも関わらず、C論文は説明なしに混合のないオーリナシアンとしての第13層石器群という解釈を提示している、とA論文は指摘します。

 A論文は、石器技術的にも第13層の石器群がオーリナシアンと分類できるのか、疑問視します。以前の文献では、第13層の石器群の分類が、「中部旧石器/上部旧石器」、「中部旧石器?」、ムステリアンとオーリナシアンもしくは上部旧石器要素のおそらくは混合というように、曖昧というわけです。またA論文は、第13層石器群には石刃要素があるものの、剥片要素も強く見られることも問題としています。またA論文は、第13層石器群の掻器が発展オーリナシアンの第11層の掻器とは異なり、石刃よりもむしろ剥片から製作されている、と指摘します。第13層の掻器は中部〜上部旧石器時代の再加工剥片と類似しており、オーリナシアンと関連させる理由はない、というわけです。

 またA論文は、ムステリアンの第14層と比較して第13層では石刃が増加するものの、それだけではオーリナシアンへと分類する根拠にはならず、第13層石器群が年代的に中部旧石器時代のムステリアンと明らかな上部旧石器時代の発展オーリナシアンの間に位置することも、第13層石器群がオーリナシアンである根拠にはならない、と指摘します。オーリナシアンをどのように区分するのか、議論が続いているものの、いずれにしても、ある石器群をオーリナシアンと分類するには、広義のオーリナシアンと共通する特別な技術的特徴を示す必要がある、とA論文は指摘します。現時点で第13層石器群をオーリナシアンと分類し、現生人類のイベリア半島南部への4万年以上前の拡散と関連づけるのは時期尚早だ、というのがA論文の結論です。


 これら2本の批判にたいして、C論文の著者たちの一部による反論(Cortés-Sánchez et al., 2019B)が掲載されています(以下、C反論)。C反論は全体として、批判論文2本がバホンディージョ洞窟の層序と石器分類に関する研究の進展をしっかりと抑えていない、と強調しています。これらの問題はC論文では補足情報としてまとめられているものの、参考文献はスペイン語なので、見落とされているところが少なからずあるのかもしれません。また年代に関しても、2016年のイベリア半島地中海沿岸部の放射性炭素年代測定計画において、バホンディージョ洞窟遺跡の標本が計画の分析基準を満たしておらず、年代が採用されなかったことから、古い年代観が根強く残り、誤解を招来しているのではないか、とC反論は指摘します。バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が周知されない状況にあったのではないか、というわけです。

 まず第13層石器群の分類について、決してムステリアンではなく、一貫して上部旧石器として識別されている、とC反論は主張します。またC反論は、オーリナシアンおよびその下位区分の定義は一貫しているわけではない、と指摘します。P論文は第13層石器群がまだ識別されていない上部旧石器時代インダストリーである可能性を示唆していますが、C論文は、明確に上部旧石器である第13層石器群を「最も適切な」分類としてオーリナシアンと解釈している、とC反論は指摘します。

 バホンディージョ洞窟の層序撹乱の可能性について、C反論は否定する根拠を2点挙げています。一つは、第13層石器群には撹乱を示唆するような転移の証拠は見られない、というものです。次に、第13層石器群の発見場所の燃焼構造の基づく分析です。植物オパールと放射性炭素年代測定から、中部旧石器時代水準の炉床とは燃焼要素および温度の両方とは明らかに対照的なパターンが示される、とC反論は指摘します。こうした知見から、第13層石器群の年代を上部旧石器時代と判断するのは妥当だろう、というわけです。

 C反論は、バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が広く知られておらず、古い年代観と組み合わせて推測に推測を重ねた結果、第13層石器群が後代の嵌入であることを示唆するような批判がなされたのだ、と指摘します。C論文にたいする批判は、誤解の積み重ねだろう、というわけです。C反論は、C論文の提示した新たな年代観は、ヨーロッパ西部において、ネアンデルタール人の絶滅は4万年以上前、現生人類の拡散も遅くとも4万数千年前までさかのぼるとする、近年の知見と整合的だと指摘します。


 以上、C論文にたいする批判論文2本と反論をざっと見てきました。バホンディージョ洞窟第13層の攪乱を懸念する批判論文2本にたいして、C反論は的確に対応できているのではないか、と思います。やはり問題となるのは、第13層石器群の分類で、「広義のオーリナシアン」とするのが適切なのか、門外漢の私には的確な判断ができませんが、今後の研究の進展が期待されます。これは、ヨーロッパだけではなく、アジア南西部も含めての大規模な研究となるので、すぐに結論の出る問題ではなさそうですが。

 ヨーロッパ西部の他地域とほぼ変わらない43400〜40000年前頃に、イベリア半島南部に現生人類が拡散してきた、との見解については、現時点では保留しておくのが無難かな、と思います。それは、第13層石器群を「明確に」オーリナシアンと分類できないからでもありますが、何よりも、ヨーロッパの中部旧石器時代〜上部旧石器時代移行期の遺跡では人類遺骸が少ないため(それでも他地域よりはずいぶんと恵まれているのでしょうが)、この時期の各インダストリーの担い手の人類系統を多くの場合でまだ確定できないからです。担い手について議論が続いていますが、現生人類の影響を受けているかもしれないとはいえ、シャテルペロニアン(Châtelperronian)の担い手がネアンデルタール人だった可能性は低くないでしょうから(関連記事)、ネアンデルタール人がイベリア半島南部の上部旧石器的なインダストリーの担い手であった可能性も想定しておくべきだと思います。


参考文献:
Anderson L, Reynolds N, and Teyssandier N.(2019): No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 713.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0885-3

Cortés-Sánchez M. et al.(2019A): An early Aurignacian arrival in southwestern Europe. Nature Ecology & Evolution, 3, 2, 207–212.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0753-6

Cortés-Sánchez M. et al.(2019B): Reply to ‘Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns’ and ‘No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia’. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 714–715.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0887-1

de la Peña P.(2019): Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 712.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0886-2
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第17回「いつも2人で」

2019/05/05 09:54
 1915年6月、第一次世界大戦(もちろん、当時はそう呼ばれていなかったわけで、作中でも嘉納治五郎は欧州戦争と呼んでいます)の長期化により、翌年にベルリンで開催予定だった夏季オリンピック大会は中止と決定され、前回大会でマラソンに出場して棄権した雪辱を果たそうとした金栗四三は落ち込み、無気力状態に陥ります。下宿先の播磨屋の部屋に引き籠る四三を、仲間が励ましに行きます。そんな四三を妻のスヤが訪ね、落ち込む四三を励まします。スヤの発言に手がかりを得た四三は後継者を育てようと決意し、教師となります。四三は、後の駅伝競走となる、団体の長距離戦を構想していました。四三は神奈川で教師となり、嘉納治五郎とともに構想の実現化に動き、京都から上野までの駅伝が開催され、四三がアンカーを務め、駅伝は大きな評判を呼びます。

 今回は、夏季オリンピック大会の中止に絶望した四三が立ち直り、駅伝という新たな目標を見つけて動き出し、大成功を収めるところまで描かれました。スヤの妊娠もあり、明るい感じで終わりました。主人公の挫折と復活という王道的な物語ですが、これまでの人間関係の積み重ねを活かした話になっており、よかったと思います。女性のスポーツへの参加という、今後の展開への伏線もしっかりと張られており、やはり構成は上手くできていると思います。まあ、今更視聴率が大きく上がるとも思えませんが、最終回まで外野の声に惑わされず、この作風を維持してもらいたいものです。
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