ボノボの食性と人類の進化

 ボノボ(Pan paniscus)の食性と人類の進化に関する研究(Hohmann et al., 2019)が報道されました。脳容量の増大と高度な認知能力は、人類進化の主要な特徴です。脳の発達に不可欠な栄養素として、長鎖多価不飽和脂肪酸やアラキドン酸やエイコサペンタエン酸やヨウ素のような特定の微量元素などがあります。ヨウ素の摂取量が不足するとクレチン病を患い、体格の小型化とともに精神遅滞と運動障害をもたらします(関連記事)。ヨウ素は海藻に多く含まれており、内陸部を中心として海産物を食べる習慣があまりないような地域では、ヨウ素添加食塩の販売が定められていることもあります(関連記事)。

 沿岸地域はヨウ素の豊富な供給源となるので、人類の進化にとって重要と考えられてきました。一方、内陸部ではヨウ素が不足しがちとなるので、内陸部の人類はどのようにヨウ素を摂取してきたのか、という問題が生じます。本論文は、非ヒト霊長類にもヨウ素が必須栄養素であることから、内陸部の霊長類を対象にこの問題を検証しています。現代人(Homo sapiens)と最も近縁なボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)は、自然の食資源だけでヨウ素不足に起因する疾患を経ずに成長しています。ボノボは、世界保健機関によりヨウ素が不足していると認定されているコンゴ盆地にも生息していることから、この地域のボノボを調査することで、内陸部の初期人類がどのようにヨウ素を摂取していたのか、推測する手がかりになるだろう、との見通しのもと、本論文はコンゴ民主共和国のサロンガ国立公園(Salonga National Park)のルイコテール(LuiKotale)森林のボノボの二つの共同体の行動を観察しました。じっさい、かつての調査ではコンゴ盆地の住民のヨウ素不足が指摘されており、ヨウ素添加塩の導入によりこの問題は改善されました。しかし、ピグミーと総称される小柄な集団の中でもエフェ(Efe)人は、ヨウ素欠乏症の有病率が低いと明らかになっており、エフェ人の表現型がヨウ素不足への適応でもある可能性を本論文は提示しています。

 本論文は、ルイコテール森林の果実と陸生および水生の草の栄養価を分析しました。すると、水草のミネラル含有量は他の植物より多く、低頻度ながらボノボも食べている水草の中には、海藻とほぼ同等の濃度のヨウ素が含まれている、と明らかになりました。ボノボの水草摂取頻度は低いのですが、この水草の摂取がかなり困難だとしても、高濃度のヨウ素が含まれていることから、かなりの量のヨウ素を得られたかもしれない、と本論文は指摘します。本論文は、コンゴ盆地の初期人類は、他地域から得た食物でヨウ素を摂取せずとも、地元の水草から充分な量のヨウ素を摂取できただろう、と推測しています。ただ本論文は、ルイコテール森林における豊富な天然ヨウ素という状況が、コンゴ盆地全体に当てはまるのか不明であることも指摘しています。以下、ボノボが水草を入手している写真(本論文図1)です。
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 天然ヨウ素の乏しい地域と考えられており、現代人は外部からのヨウ素補給に頼っているコンゴ盆地にも、天然ヨウ素が充分にあることを本論文は示しました。これは、コンゴ盆地の非ヒト霊長類にはとくにヨウ素欠乏症が見られない、という観察と整合的です。人類の脳容量の増大と高度な認知能力の発達について、ヨウ素の摂取が容易な沿岸地域を想定する見解もありますが、本論文は、内陸部でも沿岸地域と同程度のヨウ素摂取が可能であると示しました。沿岸地域は海岸線の変化により内陸部よりも人類の痕跡が発見されにくいという事情はあるとしても、内陸部で沿岸地域よりも初期人類の証拠が多いわけですから、脳の増大や高度な認知能力の発達に必要な条件が沿岸地域と同程度以上に備わっていた内陸部地域も珍しくなかったのだろう、と考えられます。


参考文献:
Hohmann G. et al.(2019): Fishing for iodine: what aquatic foraging by bonobos tells us about human evolution. BMC Zoology, 4, 5.
https://doi.org/10.1186/s40850-019-0043-z

アジア南部の現生人類の人口史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア南部の現生人類(Homo sapiens)の人口史に関する研究(Metspalu et al., 2018)が公表されました。アジア南部の人口史に関しては、以前にも短く整理しましたが(関連記事)、本論文は近年の研究成果を簡潔にまとめており、私が知らなかったことも多く、たいへん有益だと思います。現生人類のアジア南部への拡散というか、アフリカからユーラシアへの拡散については、回数・年代・経路をめぐって議論が続いています(関連記事)。しかし、これまでの諸研究から、非アフリカ系現代人全員の主要な遺伝子源が、7万~5万年前頃の出アフリカ単一集団に由来する可能性は高そうです。

 しかし、疑問も呈されているとはいえ、アジア東部および南東部とオセアニアに関しては、より早期の現生人類の出アフリカを示唆する見解も複数提示されています(関連記事)。これを整合的に解釈すると、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類集団は、子孫を残さずに絶滅したか、後続の現生人類集団に吸収され、現代人にはその遺伝的痕跡をほとんど残していない、と想定されます。じっさい、早期にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類集団が、現代パプア人に2%以上の遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。本論文は、そうした早期出アフリカ現生人類集団が存在したならば、存在した場所としてアジア南部は有力であるものの、まだそうした証拠は得られていない、とも指摘しています。それはともかく、おそらくは5万年前頃前後に、アジア南部にも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団が到来した、と考えられます。本論文は、この集団が到来してからのアジア南部の人口史に関する近年の研究を整理しています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの系統からは、アジア南部の人類集団は、他地域の集団との深い分岐を示しつつ、ユーラシア西部集団との遺伝的共通性を有している、と指摘されています。ユーラシア西部集団の遺伝的要素は、アジア南部でも北西部では40%になりますが、南部と東部では10%未満となり、バラモンのような上位カーストでより高くなっています。この地理的勾配がアジア南部の現代人の遺伝的構造の特徴とされています。以前のアジア南部の現代人のゲノム規模データでは、北部(ANI)と南部(ASI)の二つの異なる祖先集団が想定され、遺伝的にANIはASIよりもユーラシア西部集団の方と近縁と推定されています。一方ASIは遺伝的に、ユーラシア西部集団よりもアジア東部集団の方とより近縁か、両方と遠い関係にある、と推定されています。ANIの遺伝的構成は、上述の地理的勾配を示します。ANIとASIとの混合事象の年代は、紀元前2200~紀元後100年頃と推定されています。この混合期間の後、インドの人類集団は同族結婚の傾向を強めた、と推測されています。近現代のカースト制度へとつながる階層差が固定されていった、ということでしょうか。

 ユーラシア西部の人口史は古代DNA研究により飛躍的に発展しましたが、アジア南部の気候条件は古代DNA研究に適していません。ヨーロッパへの農耕の拡大は、アナトリア半島起源の農耕民のヨーロッパへの拡散によるものでした。一方、アジア南部への農耕の拡大は、ザグロス山脈のイラン農耕民集団(IF)の東進によるものでした。アジア南部におけるANIとASIは、IF、出アフリカ現生人類集団で早期に分岐した狩猟採集民集団である古代祖先的アジア南部集団(AASI)、前期および中期青銅器時代草原地帯集団という3要素の混合により説明されてきましたが、最近のアジア南部の古代DNA研究(関連記事)により、この3要素が再定義されました。インダス周辺部集団(IP)は、イラン農耕民(IF)、アジア東部集団と同時に分岐してアンダマン諸島集団やオーストラリア先住民集団の祖先系統と近縁の古代祖先的アジア南部集団(AASI)、シベリア西部狩猟採集民集団(WSHG)の混合で、インダス文化の担い手の遺伝的基盤になった、と推測されています。インダス文化衰退後、IPはANIとASI双方の形成に寄与し、ASIはIPとAASIのさらなる混合により形成されました。ANIは、IPとアジア南部に侵入してきた中期および後期青銅器時代ユーラシア草原地帯集団(SMLBA)との混合です。このANIとASIとの混合により現代アジア南部集団が形成され、上述のように、それはアジア南部において均一な混合ではなく、地理的勾配が見られます。

 アジア南部集団の大半はインド・ヨーロッパ語族かドラヴィダ語族の話者です。しかし、約2000万人はオーストロアジア語族もしくはチベット・ビルマ語族の話者です。オーストロアジア語族であるインドのムンダ(Munda)集団はアジア南東部から南部に流入してきました。Y染色体DNAハプログループ(YHg)に基づくムンダ集団のアジア南部への流入年代は、紀元前3000~紀元前2000年頃と推定されています。しかし、ムンダ集団とアジア南部の在来集団との交雑は、もっと後の紀元前1800~紀元前元年頃と推定されています。ムンダ集団のmtDNAの多様性は完全にアジア南部集団のものですが、Y染色体では、アジア東部集団に特有のYHg- O2aが60%以上になっており、性的非対称が見られます。ゲノム規模データでは、ムンダ集団はアジア南東部集団から20%ほどの遺伝的影響を有している、と推定されています。ムンダ集団は、ASIよりもユーラシア西部集団との遺伝的に近縁ではない、と推測されています。カシ(Khasi)集団はムンダ集団と同じくインドのオーストロアジア語族ですが、遺伝的にはムンダ集団とは大きく異なり、インドのチベット・ビルマ語族集団と類似しています。インドのチベット・ビルマ語族集団は北東部に居住しており、アジア東部集団起源であることを明確に示し、アジア南部集団から過去1000年に20%ほどの遺伝的影響を受けていた、と推定されています。

 アジア南部においては、語族からおおむね遺伝的構造を推定できますが、例外もいくつかあります。インド最大の民族とされるドラヴィダ語族のゴンド(Gond)集団は、他のドラヴィダ語族集団よりも、ムンダ集団とより多くの祖先系統を共有しているようです。また、インド・ヨーロッパ語族のムシャー(Mushars)集団も、遺伝的にムンダ集団と類似しています。これは、集団が新たな言語を採用したためと推測されています。ドラヴィダ語族のブラーフーイ(Brahui)集団は、他のドラヴィダ語族集団の分布範囲からずっと遠くとなる、近隣のパキスタンの集団と遺伝的に類似しています。

 より最近のアジア南部への人類集団の移動としては、アフリカ系のスィッディー(Siddis)、ムスリム、ユダヤ人、ゾロアスター教のパールシー(Parsis)などがいます。スィッディーは、紀元後17~紀元後19世紀にポルトガル人貿易商により、兵士や奴隷としてインドの各地域の領主に売られました。スィッディーの遺伝的分析は、過去200~200年間の、インド系30%とアフリカ系70%の混合を示します。インドのユダヤ人は、紀元後5世紀にインド南部へ、紀元後10世紀にインド西部へと、2回の大きな移住の波によりインドに定着しました。

 パールシーはイスラム勢力がアジア南西部で拡大した7世紀頃にイランからインドへと移住しましたが、ユダヤ人やスィッディーと比較して、インドの在来集団との混合は少なかったようです。パールシーのホモ接合連続領域は長く、閉鎖的な集団だったことを示唆します。パールシーは遺伝的には、比較的新しい時代に近東の集団と混合した現代イラン人よりも新石器時代イラン人に近縁です。イランのザグロス地域の早期新石器時代の農耕民は遺伝的に、現代人ではとくにイランのゾロアスター教徒と類似している、との見解も提示されています(関連記事)。

 イスラム教のアジア南部への拡大はおもに文化的でしたが、検出できるだけの遺伝子流動の痕跡もあり、それはアラビア半島から直接的にというよりもむしろ、イランやアジア中央部からの拡散でした。パキスタンの少数民族のカラシュ人(Kalash)は、アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)の兵士の子孫と主張していますが、以前のY染色体と常染色体の研究では、その証拠は得られませんでした。カラシュ人は長期にわたって人口規模が小さく、遺伝的浮動の強い影響を受けた、と推測されています。

 アジア南部集団における選択圧の痕跡は、祖先集団の中で新しく到来したユーラシア西部集団と共有されているのではないか、と推測されています。じっさい、アジア南部集団における選択的一掃の兆候として、ユーラシア西部集団起源と考えられる、皮膚の色素沈着関連多様体と乳糖耐性多様体が指摘されています。これらの多様体は、アジア南部の北西部から南東部へと減少していく地理的勾配にほぼ対応しています。しかし、これらの多様体の自然選択がアジア南部で続いているのか、アジア南部への到達以前の選択を反映しているのか、現時点では不明確です。

 最近の古代DNA研究の進展は、アジア南部の人類史の理解をさらに深めました。しかし現時点では、アジア南部の古代DNAデータは、時空的に制限されています。上述のように、アジア南部の環境条件はヨーロッパと比較して古代DNA研究に適していないので、仕方のないところではあります。しかし、この分野の近年の進展は目覚ましいので、今後アジア南部でも古代DNA研究が飛躍的に発展するのではないか、と期待されます。とくに注目されるのは、インダス文化の担い手です。インダス文化の地理的範囲は広いので、その担い手の遺伝的構成も、一定以上多様だったのではないか、と私は推測しています。


参考文献:
Metspalu M, Mondal M, and Chaubey G.(2018): The genetic makings of South Asia. Current Opinion in Genetics & Development, 53, 128-133.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2018.09.003

性善説と性悪説

 性善説と性悪説は、一般的には二項対立的に把握されていると思います。性善説と性悪説のどちらが正しいのか、といった問いかけは、そう頻繁にあるものではないとしても、きょくたんに珍しいものでもないでしょう。ネット上はとくにそうですが、「現実主義者」を自認している人の声は大きいので、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っているのではないか、とでも疑問を呈したならば、直ちに幼稚だとかお人好しだとか散々に罵倒・嘲笑されそうです。しかし私は、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っている、と確信しています。

 こうした二項対立的な問いかけにたいして、そもそも善と悪は固定的ではない、という根本的な批判もあるでしょう。たとえば、多くの社会で勇敢は善として称賛され、臆病は悪として蔑視されるでしょうが、勇敢はしばしば軽率や粗暴と結びつきますし、臆病が冷静で慎重な態度と結びつくことも、きょくたんに珍しいわけではないでしょう。とはいえ、もちろん厳密には状況により変わってくることもあるとはいえ、善としての利他性や悪としての利己性など、かなり普遍的な性格を有する資質も少なくないでしょう。やや大雑把になるとはいえ、性善説と性悪説という二項対立的把握にも有効なところはあるだろう、とは思います。

 一方、中国古代史研究からは、異なる認識も提示されています(平勢.,2005,P307-308)。人間は上上聖人・上中仁人から下下愚人まで9等に区分され、これを上人・中人・下人に3区分しなおすと、中人以上について性善説を主張したのが孟子で、中人以下について性悪説を主張したのが荀子なので、性善説と性悪説は相互に排他的ではなく補完的だった、というわけです。平勢氏の評判はたいへん悪いようなので、どこまで信用してよいものなのか疑問も残りますが、私の見識ではこの見解の妥当性をとても判断できません。ただ、なかなか興味深い見解だと思います。

 私は別の意味で、性善説と性悪説は相互に補完的と考えています。『暴力の人類史』が、人間の心には「5つの内なる悪魔」と「4つの善なる天使」が内在しており、その基本的設計は進化のプロセスに負っている、と説くように(関連記事)、人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっているのではないか、というわけです。その意味で、性善説と性悪説はともに、部分的に正しく、また部分的に間違っており、相互補完関係にある、と私は考えています。

 もちろん、教育も含めて環境は、善悪のどちらに人間を傾かせるのか、という点で決定的に重要です。しかし、そもそも人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっている、という認識を無視して、教育も含めて社会制度を設計していけば、その害悪はたいへん大きくなるのではないか、と思います。その意味で、人間の心は誕生時には「まっさら」で、教育も含めて社会環境次第で善人にも悪人にもなり得る、というような考えは、根本的に間違っているだけではなく、たいへん危険で有害でもある、と私は考えています。


参考文献:
Pinker S.著(2015)、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史』上・下(青土社、原書の刊行は2011年)、関連記事

平勢隆郎(2005)『中国の歴史02 都市国家から中華へ』(講談社)

フロレシエンシスの脳および身体サイズの進化

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の脳および身体サイズの進化に関する研究(Diniz-Filho, and Raia., 2017)が公表されました。フロレシエンシスは、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見された小柄なホモ属集団で(関連記事)、その石器と人類遺骸から、リアンブア洞窟には19万~5万年前頃まで存在した(下限年代は、フロレシエンシスの遺骸が6万年前頃、フロレシエンシスの所産と考えられる石器が5万年前頃)、と推測されています(関連記事)。その後、フローレス島中央のソア盆地のマタメンゲ(Mata Menge)遺跡で、フロレシエンシスと類似した70万年前頃の人類遺骸が発見されています(関連記事)。

 フロレシエンシスは身体および脳サイズがホモ属としてはたいへん小さく、発見当初より島嶼化のためだろう、と考えられていました。島嶼化は、島の動物の身体サイズの変化をもたらします。大型動物は島における資源の少なさに対応して矮小化していき、小型動物は、大型動物の矮小化による捕食圧の低下により目立つことの不利益が減少するので、大型化する傾向にあります。当初、フロレシエンシスはアジア南東部のホモ・エレクトス(Homo erectus)が島嶼化により矮小化した、と考えられていましたが、それだけではフロレシエンシスの形態を説明できないのではないか、との批判もあります。そのため現在では、フロレシエンシスの起源について、エレクトスよりもさらに祖先的な系統、たとえばホモ・ハビリス(Homo habilis)のようなアウストラロピテクス属的特徴を強く保持していた集団から進化したのではないか、との見解も提示されています。

 本論文は、定量的進化モデルを用いて、フロレシエンシスの身体および脳サイズの進化パターンを検証しました。本論文はまず、フロレシエンシスの進化が中立的である可能性を検証しました。フロレシエンシスがエレクトスのようなより大型の祖先集団から進化したと仮定した場合、有効人口規模が100未満の場合を除いて、中立的進化は5万通りのシミュレーションの97%で棄却されました。有効人口規模が200以上の場合、中立的進化は100%棄却されます。そのため本論文は、フロレシエンシスの小柄な体格は島嶼化による選択圧のためだろう、との見解を改めて支持しています。

 一方で本論文は、フロレシエンシスにおいて脳サイズの進化パターンが身体サイズのそれとは異なる、と推測しています。島嶼化は脳と身体のサイズにおいて、それぞれ異なる進化パターンを引き起こすかもしれない、というわけです。島嶼化によるカバの矮小化に関しては、身体サイズと脳サイズの進化は無関係と主張されています。しかし、人類の脳サイズは認知能力とも強く関連しており、フロレシエンシスの石器は充分に発達したものです。そのため本論文は、フロレシエンシスの脳サイズに関して、脳の可塑性により縮小したにも関わらず認知能力が維持されたか、複雑な脳機能の再編により認知能力がそのまま維持された、と推測しています。

 本論文の分析では、フロレシエンシスの祖先をエレクトスとは断定できません。しかし本論文は、フロレシエンシスの祖先として、エレクトスよりも祖先的で小柄なアフリカの人類集団を想定することは倹約的ではない、とも指摘しています。本論文は、総合的に考えると、フロレシエンシスの脳および身体サイズの縮小の最も倹約的な説明は島嶼化で、フロレシエンシスの祖先はアジア南東部のエレクトスである可能性が最も高い、という従来の見解を改めて支持しています。歯の分析からもフロレシエンシスの祖先がアジア南東部(ジャワ島)のエレクトスであると指摘されており(関連記事)、フロレシエンシスの祖先はアジア南東部のエレクトスだろう、と私も考えています。


参考文献:
Diniz-Filho JAF, and Raia P.(2017): Island Rule, quantitative genetics and brain–body size evolution in Homo floresiensis. Proceedings of the Royal Society B, 284, 1857, 28637851.
https://doi.org/10.1098/rspb.2017.1065

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第27回「替り目」

 東京の金栗四三を兄の実次が訪ねてきます。実次は四三に、熊本に帰るよう促した後、帰郷します。四三が決断を躊躇う中、実次危篤との電報が入り、四三は慌てて帰郷しますが、実次はすでに亡くなっていました。四三は熊本に帰る決断をして、嘉納治五郎に報告します。東京にオリンピックを誘致する話が出てきて意気軒昂の嘉納は、四三を引き留めようとしますが、兄が亡くなり、母も老いたので、これまでの分も孝行しようという四三の決意は固く、熊本に帰ります。

 四三から田畑政治へと主人公が交代して3回目となりますが、これまで四三の出番もそれなりにありました。すでに話の方は完全に田畑中心になっていましたが、まだ第一部の続きといった感もありました。今回は、四三が嘉納に帰郷を報告したさいに田畑と会い、完全な主役交代を印象づける場面になっており、感慨深いものがありました。ただ、そうした節目の回だったのに、まだ本筋とあまり上手く接続できていない古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面がそれなりに長かったのはやや残念ではありました。まあ落語の方も、すでにいくつかの繋がりが示唆されているので、そのうち本筋と上手く接続するのではないか、と今でも期待してはいるのですが。

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係

 日本列島の人類集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較すると大きく遅れているのですが、進展しつつあるのは間違いないでしょう。日本列島に関しても、縄文時代の人類のDNA解析結果が蓄積されつつあります。近年では、解析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)だけではなく、核DNA解析も報告されており、「縄文人」の遺伝的データは以前よりもずっと豊富になった、と言えるでしょう。現時点での縄文人の核DNA解析結果は、3000年前頃となる福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚(関連記事)、2500年前頃となる愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)、3800年前頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)からのものが報告されています。このうち高品質のゲノム配列が得られているのは、船泊遺跡の縄文人です。

 これら縄文人の核DNA解析から現時点でまず言えるのは、縄文人は既知の古代および現代の各地域集団との比較において、一つの分類群を形成するほど遺伝的に類似している、ということです。もちろん、今後ユーラシア東部において、縄文人と遺伝的により類似した古代集団が発見される可能性は低くありませんが、おそらく縄文人はユーラシア東部から日本列島到来した複数の集団の融合により形成されたので、縄文人そのものという遺伝的構成の古代集団が発見される可能性はかなり低いでしょう。考古学的にも、縄文文化は比較的孤立していることから(関連記事)、今後西日本の縄文人のDNA解析が進展しても、縄文人が、既知の古代および現代の各地域集団との遺伝的比較において、一つの分類群を形成する可能性はたいへん高い、と私は考えています。おそらく縄文人は、完全に一致するわけではないとしても、おおむね日本列島限定の孤立した文化集団で、遺伝的にも近隣地域の各地域集団とは明確に区別できただろう、と私は考えています。

 次に言えるのは、縄文人は現代の各地域集団との遺伝的比較で、大きくはアジア東部集団の変異内に収まりますが、その中でも日本列島も含めて沿岸部の地域集団とより類似している、ということです。これは、縄文人の祖先集団が、アフリカからユーラシア南岸経由でアジア南東部まで東進し、そこから北上したことを示唆します。あるいは、両者の類似性は一定以上の遺伝子流動の結果かもしれません。考古学的観点からは、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られるので、縄文人の祖先集団の一源流として、北方からの流入も想定しておくべきかもしれません。また、縄文人は更新世に日本列島に拡散してきた集団の子孫である可能性が高いことも、縄文人のDNA研究では指摘されています。

 日本列島の各集団と縄文人との関係について諸研究で一致しているのは、縄文人との遺伝的近縁性の順番が、近い方からアイヌ集団→琉球集団→本土集団になる、ということです。船泊遺跡の縄文人のゲノムデータからは、縄文人の遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、本土集団では9~15%、琉球集団では27%と推定されています。もちろん、これは幅の大きい推定値なので、今後修正される可能性は高いでしょう。とくに問題となるのは、西日本の縄文人のゲノムデータが得られていないことです。西日本の縄文人との比較では、本土集団への縄文人の遺伝的影響が20%程度になる可能性も提示されています(関連記事)。また、西日本の縄文人の遺伝的構成は既知の東日本の縄文人のそれとは一定以上異なっている可能性が高そうです。そうだとすると、縄文人の遺伝的多様性は現時点での推定より高くなりそうですが、それでも、古代および現代の各地域集団との比較において、縄文人が一つの分類群を形成する可能性は高いと思います。遺伝的影響の推定値に幅がありますし、各集団の違いも大きそうですが、現代日本人が縄文人の遺伝的影響を一定以上受けていることは間違いないでしょう。

 この縄文人と現代の日本列島の各集団との遺伝的継続性についてネットでよく言われているのが、Y染色体DNAハプログループ(YHg)です。縄文人ではYHg- D1bが確認されており、それは現代の日本列島の各集団でも高い割合で確認されています。本土集団でも35.34%と高いのですが、アイヌ集団では81.3%と顕著に高くなっています(関連記事)。このことから、現代日本人の独自性および朝鮮半島や中華地域など近隣地域との違いを強調する見解が、「愛国的な」人々の間では常識になっている感があります。うっかり本土集団と朝鮮人集団や漢人集団との遺伝的類似性を指摘しようものなら、最新の「科学的知見」を無視して捏造に励む「反日左翼」扱いされかねません。じっさい、最近の研究でも、現代日本人のYHg- D1bは縄文人由来と推測されています(関連記事)。しかし、複数の縄文人の核DNA解析で明らかなように、そもそも縄文人は、ユーラシア東部集団という枠組みの中では、既知および古代の各地域集団とは遺伝的に遠い関係にあり、現代日本人の圧倒的多数派である本土集団が、縄文人よりも朝鮮人集団や漢人集団の方と遺伝的に近縁であることは、とても否定できません。mtDNAハプログループ(mtHg)でも、現代日本人と朝鮮人や漢人との類似性が指摘されています。

 では、YHgとmtHgや核DNA(この場合、常染色体DNAと言うべきかもしれませんが)で、現代日本人とその近隣集団との遺伝的類似性が異なることはどう説明されるべきなのでしょうか。一つ考えられるのは、縄文時代の後に、アイヌ集団は本土集団とは異なり、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の遺伝的影響をほとんど受けなかったために高頻度でYHg- D1bが残り、一方本土集団は朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統から強い遺伝的影響を受けたものの、6世紀前半に父系継承の王族(皇族)を確立した氏族がYHg- D1bだったため、臣籍降下した天皇の父系子孫である武士(源氏や平氏、もちろん父系が皇族にさかのぼらない武士も多数いましたが)の勢力拡大により、再度YHg- D1bの頻度が本土集団において増加した、ということです。

 もう一つ考えられるのは、現代日本人のYHg- D1bのうちかなりの割合が、弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の農耕民もしくは特定の技術集団に由来する、ということです(関連記事)。現在、朝鮮人集団や漢人集団にはYHg- D1bがほとんど見られませんが、これは南北朝時代や五代十国時代なども含めてユーラシア東部における青銅器時代以降の人類集団の移動の結果で、かつてはアジア東部にも広範にYHg- D1bが存在したのではないか、というわけです。この仮説の検証は、ユーラシア東部における古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、傍証として、縄文人のYHg- D1bでは、最近までYHg-D1b2aしか確認されておらず(関連記事)、最近公表された船泊縄文人もYHg- D1b2bだったことが挙げられます。しかし、現代日本人のYHg- D1b のうち、多数派はYHg- D1b 1です。YHg- D1bにおける合着年代は19400年前頃と推定されており(関連記事)、アジア東部でYHg-D1b1とYHg-D1b2が分岐し、日本列島へは、末期更新世までにYHg-D1b2系統が、弥生時代以降にYHg- D1b2bが拡散した、とも考えられます。もちろん、まだ西日本の縄文人のYHgは明らかになっていないので、それがYHg-D1b1で、YHg-D1bの分岐は後期更新世に日本列島で起きた可能性も考えられます。やはり、この仮説の妥当性も古代DNA研究の進展を俟つしかありません。

 なお、「アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した」というような見解がネットで拡散されつつあるようですが、その遺伝学的根拠は北海道の人類集団におけるmtHgの構成の変容を誤解したもので、とても通用する話ではありません(関連記事)。これまでのDNA解析からは、現代の日本列島の各集団のなかで、アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を保持していることは否定できないでしょう。もちろん、アイヌ集団は縄文人の「純粋な子孫」ではなく、オホーツク文化集団の遺伝的影響も強く受けています。

 縄文人の文化、とくに言語の影響については、以前当ブログで短く取り上げましたが(関連記事)、確定はほぼ不可能でしょう。現時点で考えられる組み合わせは、アイヌ語と日本語がそれぞれ縄文人の言語系統だったのか否か、という4通りです。どちらも縄文人の言語系統だった場合、縄文人の言語は地域により大きく異なり、別系統が共存していたことになります。この場合、アイヌ語系統はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に由来し、日本語系統はその他の経路で日本列島へ流入した集団に由来した、と推測されます。日本語が縄文人の言語に由来しない場合、弥生時代にアジア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団か、弥生時代に先駆けて縄文時代後期~晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた集団に由来している、と推測されます。アイヌ語が縄文人の言語に由来しない場合、その起源となる有力候補はオホーツク文化集団でしょう。

 日本語系統(日本語および琉球語)もアイヌ語も「系統不明」とされていますが、それは、近縁な言語がかつてユーラシア東部に少なからず存在したものの、後に絶滅してしまったためではないか、と考えられます。なお、本土集団では弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと流入してきた農耕民および特定技術集団の遺伝的影響が縄文人よりもずっと高いと推定されているのに、日本語が縄文人の言語に由来するとは考えにくい、との批判もあるとは思います。しかし、弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団が、大挙して押し寄せたのではなく、じょじょに流入してきて、後に人口増加率の違いから縄文人系を遺伝的影響度で圧倒したのだとしたら、縄文人の言語が日本列島で話され続けたとしても不思議ではないと思います(関連記事)。バヌアツの事例(関連記事)からも、遺伝的構成の大規模な変容を経ても、在来集団の言語が話され続ける可能性はじゅうぶんあるでしょう。

本郷恵子『院政 天皇と上皇の日本史』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2019年5月に刊行されました。本書は古代と近世にも言及しつつ、おもに中世を対象として、院政がどのように確立し、変容していったのか、解説しています。本書は、院政の前提というか院政との類似として、藤原道長の権力掌握の在り様を挙げています。公職を退いた道長は「大殿」として権勢をふるいますが、これは公式の役職と権力の所在とが分離する先例になり、この後の院政とも通ずる、というわけです。こうした見解はすでに一般向けにも提示されており(関連記事)、現在では有力な見解かもしれません。

 本書が画期としているのは、白河院ではなく後三条天皇(関連記事)の治世です。本書は、後三条を院政の開始者と明言できないものの、明らかに中世の扉を開いた人物だった、と評価しています。それは第一に、摂関家の血統からの脱却と父権による後継者選定です。第二に、荘園整理により、荘園公領制と呼ばれる中世の土地制度・生産体制および中世的文書主義成立の流れを作ったことです。第三に、宣旨升の制定や一国平均役の開始など、公家政権の全国支配のための統一的基準や税制を設定したことです。本書はこれを、天皇家・貴族社会の再編および支配の分裂や利権化に向かう流れと、それを補填する統一性や合意・共感の創出とまとめています。中世社会はこうした道筋に沿って展開し、当初はその劇的な進行を院が主導した、というわけです。

 本書は、院政が白河のような強烈な個性の主宰者による属人的な政治から、体制として確立していく過程を、おもに人事と土地制度の観点から解説します。院政が展開していく過程で重要となるのが武士というか武力で、保元の乱・平治の乱・承久の乱を経て、天皇・上皇に対する武家政権の優位が確立します。この傾向は南北朝時代にさらに強くなるわけですが、本書は、皇を濫用することに躊躇しなかった後醍醐天皇こそ、天皇の権威を決定的に下落させた、と評価しています。本書はこの他に、院政期における似絵の出現から個人の容貌への興味が強くなった可能性を提示していることなど、幅広く院政の特徴を提示しているように思います。

気候変動により分解の進むヴァイキング時代の遺物

 気候変動により分解の進むヴァイキング時代の遺物に関する研究(Hollesen et al., 2019)が公表されました。この研究は、北極域内の7ヶ所の遺跡で22点の土壌試料を採取しました。この試料には、グリーンランドの3つの主要な文化である紀元前2500~紀元前800年頃のサッカック(Saqqaq)文化、紀元前300年~紀元後600頃の年ドーセット(Dorset)文化、紀元後1300年以降のチューレ(Thule)文化に由来する堆積物と、この地域に居住していたノルウェーのヴァイキング時代の入植者由来の堆積物が含まれます。有機堆積物は微生物による分解に対してひじょうに脆弱で、有機堆積物の分解には、土壌の温度と含水量が直接影響します。

 この研究は、コンピュータモデルを用いて、いろいろな気候変動シナリオのシミュレーションや、気温と降水量(雨・雪・みぞれ)の変化と北極の土壌への影響を原因とする、有機的遺物の喪失可能性のシミュレーションを行ないました。このモデルにより、地中に埋もれた考古学的遺物に含まれる有機炭素の30~70%が、今後80年以内に分解する可能性がある、と示されました。ノルウェーのヴァイキング時代の入植者の遺物が多数見つかっている北極の内陸部では、今後30年間に有機炭素の35%以上が失われる可能性があります。北極域には18万ヶ所以上の考古遺跡が登録されているため、最も脆弱な遺跡を見つけ出し、限られた保全用資源の分配を手助けする新しい方法が必要と指摘されています。また、この方法が気候変動に対してとくに脆弱な遺跡の特定に役立つ可能性がある、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【地球科学】気候変動によってノルウェーのヴァイキング時代の遺物の分解が進むかもしれない

 分解に対して非常に脆弱なノルウェーのヴァイキング時代の入植者の有機遺物(木材、骨、古DNAなど)は、今後の気候変動の影響のために、その存在が特に大きな危機にさらされるという見解を示した報告が、今週掲載される。

 今回Jorgen Hollesenたちの研究グループは、北極域内の7か所の考古遺跡で22点の土壌試料を採取した。この試料には、グリーンランドの3つの主要な文化であるサッカック(紀元前2500~800年)、ドーセット(紀元前300年~紀元600年)、チューレ(紀元1300年以降)に由来する堆積物と、この地域に居住していたノルウェーのヴァイキング時代の入植者由来の堆積物が含まれる。有機堆積物は微生物による分解に対して非常に脆弱で、有機堆積物の分解には、土壌の温度と含水量が直接影響する。

 Hollesenたちは、コンピュータモデルを用いて、いろいろな気候変動シナリオのシミュレーションや、気温と降水量(雨、雪、みぞれ)の変化と北極の土壌への影響を原因とする有機的遺物の喪失可能性のシミュレーションを行った。このモデルにより、地中に埋もれた考古学的遺物に含まれる有機炭素の30~70%が、今後80年以内に分解する可能性があることが示された。ノルウェーのヴァイキング時代の入植者の遺物が多数見つかっている北極の内陸部では、今後30年間に有機炭素の35%以上が失われる可能性がある。

 北極域には18万か所以上の考古遺跡が登録されているため、最も脆弱な遺跡を見つけ出し、限られた保全用資源の分配を手助けする新しい方法が必要とされている。Hollesenたちは、この論文で示した方法が、気候変動に対して特に脆弱な遺跡の特定に役立つ可能性があると考えている。



参考文献:
Hollesen J et al.(2019): Predicting the loss of organic archaeological deposits at a regional scale in Greenland. Scientific Reports, 9, 9097.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-45200-4

老化した脳における免疫浸潤

 老化した脳における免疫浸潤についての関する研究(Dulken et al., 2019)が公表されました。哺乳類の脳では、神経幹細胞や神経前駆細胞とその他のいくつかの細胞型から構成される神経原性ニッチ内において、新しいニューロンを産生する能力があります。神経原性ニッチの機能と新しいニューロンを産生する能力は年齢とともに低下し、この影響が、認知機能の低下の一因と考えられています。しかし、神経原性ニッチが年齢とともにどのように変化し、何がこうした変化を引き起こすのか、まだ解明されていませんでした。

 この研究は、3匹の若齢マウス(3ヶ月齢)と3匹の高齢マウス(28~29ヶ月齢)の脳細胞の特性解析を行ない、若齢マウスと高齢マウスの神経原性ニッチの細胞組成を比較しました。14685個の単一細胞のRNA配列の解析が行なわれ、活性化した神経幹細胞と神経前駆細胞の減少や、高齢マウスの脳におけるT細胞(免疫細胞の一種)の浸潤など、神経原性ニッチの年齢依存的変化が明らかになりました。高齢マウスの脳に由来するT細胞は、シグナル伝達分子の一種であるインターフェロンγを分泌しており、インターフェロンγが、培養神経幹細胞の増殖を抑制することも明らかになりました。この研究はこれらの結果から、加齢に伴うニューロン補充能力の低下の原因と考えられるものが明らかになり、加齢に伴う認知障害に免疫に基づいた戦略で対処する道が開かれるかもしれない、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【老化】老化した脳における免疫浸潤

 マウスを使った研究で、新しいニューロンの産生(神経原性ニッチ)に寄与する細胞集団において年齢依存的な変化が観察されたことを報告する論文が今週掲載される。今回の研究から、加齢に伴う神経原性ニッチの衰退における免疫系の役割が明らかになった。この新知見は、老化した哺乳類の脳におけるニューロン前駆細胞の減少を食い止める戦略に役立つ情報となるかもしれない。

 哺乳類の脳には、神経幹細胞、神経前駆細胞とその他のいくつかの細胞型から構成される神経原性ニッチ内で新しいニューロンを産生する能力がある。神経原性ニッチの機能と新しいニューロンを産生する能力は年齢とともに低下し、この影響が、認知機能の低下の一因と考えられている。しかし、神経原性ニッチが年齢とともにどのように変化するのか、そして、何がこうした変化を引き起こすのかという点は解明されていなかった。

 今回Anne Brunetたちの研究グループは、3匹の若齢マウス(3か月齢)と3匹の高齢マウス(28~29か月齢)の脳細胞の特性解析を行い、若齢マウスと高齢マウスの神経原性ニッチの細胞組成を比較した。1万4685個の単一細胞のRNA配列の解析が行われ、活性化した神経幹細胞と神経前駆細胞の減少、高齢マウスの脳におけるT細胞(免疫細胞の一種)の浸潤など、神経原性ニッチの年齢依存的変化が明らかになった。高齢マウスの脳に由来するT細胞は、シグナル伝達分子の一種であるインターフェロンγを分泌しており、インターフェロンγが、培養神経幹細胞の増殖を抑制することも判明した。以上の結果から、加齢に伴うニューロン補充能力の低下の原因と考えられるものが明らかになり、加齢に伴う認知障害に免疫に基づいた戦略で対処する道が開かれるかもしれない、と著者たちは結論付けている。


神経科学:単一細胞解析から明らかになった、老化した神経発生ニッチにおけるT細胞の浸潤

神経科学:老化した脳では炎症が幹細胞機能に影響を及ぼす

 哺乳類の脳の神経発生領域には、活性化に応答して新しいニューロンを作り出すことのできる幹細胞が含まれている。ニューロンの新生能は加齢に伴って低下するが、その理由は分かっていない。A Brunetたちは今回、若齢マウスと老齢マウスの神経発生ニッチについて単一細胞RNA塩基配列解読を行い、老化したニッチではT細胞が増加していることを明らかにしている。これらのT細胞は血液中に存在するT細胞とは異なり、インターフェロンγを発現していて、これが老化した神経幹細胞における炎症性シグナル伝達応答の増大と相関する。これらの知見は、加齢に伴う脳の障害を防ぐための有望な将来の道を開くものである。



参考文献:
Dulken BW. et al.(2019): Single-cell analysis reveals T cell infiltration in old neurogenic niches. Nature, 571, 7764, 205–210.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1362-5

足の役に立っている足裏のタコ

 足裏のタコ(胼胝)が足の役に立っていることを報告した研究(Holowka et al., 2019)が公表されました。裸足で歩く習慣のある人の足裏には分厚いタコが自然にでき、歩きづらい地面や滑りやすい地面を歩くさいに足裏を保護します。現代の靴にも同じような保護効果がありますが、足裏で触刺激を知覚する能力が低下します。分厚いタコによる足裏の感度低下の可能性が指摘されてきましたが、この研究は、成人のケニア人81人と米国人22人の足を調べて、この見解に異議を唱えています。

 予想されたように、この研究では、裸足で歩く習慣のある人は、普段靴を履いている人よりも足裏のタコが分厚く、硬くなる傾向がある、と分かりました。しかし、タコの厚みが足裏の神経の感度に変化を及ぼさないことも明らかになりました。また履物は、地面に着地する時に足から加わる衝撃の大きさに影響を与え、普段靴を履いている人は、分厚いタコを持つ人よりも関節に多くのエネルギーがかかることも明らかになりました。クッション素材の靴底の靴は足裏の感度を低下させ、足から関節に伝わる力を変化させるわけです。こうした機械的負荷の変化が骨格に及ぼす影響についてはほとんど解明されておらず、この研究は、モカシンやサンダルのような薄くて硬く、クッション性のない靴底の履物が、分厚いタコにより近い足裏保護性と足裏感度をもたらす可能性を提示しつつも、さらなる研究の必要性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【生理学】足裏のタコは足の役に立っている

 裸足で歩く人の足裏にできるタコは足裏を保護するが、これによって足裏の感度や歩き方は損なわれていないことを報告する論文が、今週掲載される。これに対して、クッション素材の靴底の靴は、足裏の感度を低下させ、足から関節に伝わる力を変化させる。著者たちは、モカシンやサンダルのような薄くて硬く、クッション性のない靴底の履物は、分厚いタコにより近い足裏保護性と足裏感度をもたらす可能性があると考えている。

 裸足で歩く習慣のある人の足裏には、分厚いタコが自然にでき、歩きづらい地面や滑りやすい地面を歩く際に足裏を保護する。現代の靴にも同じような保護効果があるが、足裏で触刺激を知覚する能力が低下する。分厚いタコによっても足裏の感度が低下する可能性があると考えられてきたが、今回、Daniel Liebermanたちの研究グループは、成人のケニア人81人と米国人22人の足を調べて、この仮説に異議を唱えている。

 予想されたように、今回の研究では、裸足で歩く習慣のある人は、普段靴を履いている人よりも足裏のタコが分厚く、硬くなる傾向のあることが分かった。しかし、タコの厚みが足裏の神経の感度に変化を及ぼさないことも明らかになった。また、履物は、地面に着地する時に足から加わる衝撃の大きさに影響を与え、普段靴を履いている人は分厚いタコを持つ人よりも関節に多くのエネルギーがかかることも明らかになった。こうした機械的負荷の変化が骨格に及ぼす影響については、ほとんど解明されておらず、さらなる研究が必要である。


生体力学:足の胼胝の厚さは歩行において保護と触覚感度の間にトレードオフを生じない

生体力学:足の胼胝が歩行に役立つ理由

 工業化社会では大半の人々が靴を履いているが、普段靴を履かずに歩いている人は、足裏が肥厚して硬化し、厚い胼胝(たこ)ができる。靴を履くと触覚刺激に対する感度が低下するため、胼胝でも同じことが起きると一般に考えられている。今回D Liebermanたちは、ケニアと米国ボストンで、常に靴を履いている人々と靴を履いていない人々を調べ、胼胝が触覚感度を犠牲にして保護機能を得ているわけではないことを明らかにしている。胼胝のある足が圧力を感じる程度は胼胝のない足と同等で、胼胝のある足が歩行時に地面に当たる際の衝撃は靴を履いている足の場合と同等だが、靴は負荷の割合を低下させるのと引き替えに力積を増大させており、このトレードオフによって関節にかかる全エネルギーは増大する。つまり、我々は靴を使って足を感覚刺激から守り、負荷を調節することによって、裸足で歩くときとは異なる様式で関節に力を伝えていることになり、これは体にさまざまな影響をもたらす可能性がある。ここから得られる教訓は明確だ。クッション性のあるかかとのついた靴を捨てれば、関節と腰はきっと喜んでくれるだろう。



参考文献:
Holowka NB. et al.(2019): Foot callus thickness does not trade off protection for tactile sensitivity during walking. Nature, 571, 7764, 261–264.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1345-6

収穫安定性を高める作物の多様性

 作物の多様性と収穫安定性の関係についての研究(Renard, and Tilman., 2019)が公表されました。食料システムの安定は、世界的な食料需要の増加や低水準の穀物備蓄量や気候変動のために、世界規模でも国家規模でも脅かされています。オーストラリアやロシアやアメリカ合衆国など世界の主要な農業地域の一部では、過去10年間に旱魃と猛暑のために穀粒収量が減少しました。収穫量と灌漑や作物の旱魃耐性を高める政策が、安定性を高める解決策として提案されています。

 この研究が提唱した作物多様性-安定性仮説は、そうした解決策の一つになる可能性があります。この研究は、91ヶ国の176種の作物の年間収穫量に関する50年間のデータを用いて、作物の多様性と各国の収穫量の安定性との関係を調べました。その結果、各国の収穫量の時間的安定性が、作物の多様性の増加による恩恵を直接的に受ける、と明らかになりました。また、収穫量の安定性がわずかに高まると、国内の収穫量の大幅に減少する年が出現する確率は大幅に低下しました。これらの知見は、国内の作物の多様性の増加が気候変動性の増加の影響を相殺する可能性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】作物の多様性が収穫安定性を高める

 作物の多様性が増すと、世界各国の作物の年間収穫量の安定性が大いに高まるという研究結果を報告する論文が、今週掲載される。

 食料システムの安定は、世界的な食料需要の増加や低水準の穀物備蓄量、気候変動のために、世界規模でも国家規模でも脅かされている。オーストラリア、ロシア、米国など世界の主要な農業地域の一部では、過去10年間に干ばつと猛暑のために穀粒収量が減少した。収穫量と灌漑、作物の干ばつ耐性を高める政策が、安定性を高める解決策として提案されている。

 今回Delphine RenardとDavid Tilmanが提唱した作物多様性-安定性仮説は、そうした解決策の1つとなる可能性がある。彼らは、91カ国の176種の作物の年間収穫量に関する50年間のデータを用いて、作物の多様性と各国の収穫量の安定性との関係を調べた。その結果、各国の収穫量の時間的安定性が、作物の多様性の増加による恩恵を直接的に受けることが明らかになった。また、収穫量の安定性がわずかに高まると、国内の収穫量が大幅に減少する年が出現する確率が大幅に低下した。これらの知見は、国内の作物の多様性の増加が気候変動性の増加の影響を相殺する可能性があることを示唆している。



参考文献:
Renard D, and Tilman D.(2019): National food production stabilized by crop diversity. Nature, 571, 7764, 257–260.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1316-y

睡眠の起源(追記有)

 睡眠の起源に関する研究(Leung et al., 2019)が公表されました。睡眠は、動物界の系統樹上の全ての枝について、行動基準を用いて記述されています。ヒトの場合には、主要な電気生理学的特徴、すなわち深睡眠と急速眼球運動睡眠(レム睡眠)が突き止められています。こうした睡眠状態は、他の哺乳類・鳥類・爬虫類にも見つかっていますが、ヒトの初期の共通祖先である魚類と両生類が同じ睡眠状態を経験するかどうか、不明でした。

 この研究は、非侵襲的な分子ツール、画像化ツール、生理学的ツールを用いて、2週齢のゼブラフィッシュ幼生の睡眠時の眼球運動・筋肉運動・心拍・脳全体の活動を測定し、ゼブラフィッシュの睡眠のニューロンのシグネチャーを初めて突き止めました。この研究は、徐バースト型睡眠(SBS)・深睡眠・レム睡眠などさまざまな睡眠状態を、心筋や眼筋などの筋肉に特有のシグネチャーと結びつけて明らかにしています。この研究はこうした知見から、脊椎動物全体にとって必須の祖先型の睡眠機能を示している可能性がある、と指摘しています。ヒトが経験する睡眠は、4億5000万年前に出現した可能性がある、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【進化学】ヒトはゼブラフィッシュのように眠る

 ゼブラフィッシュの睡眠段階は、哺乳類、鳥類、爬虫類と似ているということを示した論文が今週掲載される。この新知見からは、ヒトが経験する睡眠が、4億5000万年前に出現した可能性があることが示唆されている。

 睡眠は、動物界の系統樹上の全ての枝について、行動基準を用いて記述されており、ヒトの場合には、主要な電気生理学的特徴、すなわち深睡眠と急速眼球運動睡眠(レム睡眠)が突き止められている。こうした睡眠状態は、他の哺乳類、鳥類、爬虫類にも見つかっているが、ヒトの初期の共通祖先である魚類と両生類が同じ睡眠状態を経験するかどうかは不明であった。

 今回、Philippe Mourrainたちの研究グループは、2週齢のゼブラフィッシュ幼生の睡眠時の眼球運動、筋肉運動、心拍とともに脳全体の活動を測定し、この測定結果を用いて、ゼブラフィッシュの睡眠のニューロンのシグネチャーを初めて突き止めた。今回の研究では、さまざまな睡眠状態[徐バースト型睡眠(SBS)、深睡眠、レム睡眠など]を心筋や眼筋などの筋肉に特有のシグネチャーと結び付けて明らかにしている。Mourrainたちは、これらの知見が、脊椎動物全体にとって必須の祖先型の睡眠機能を示している可能性があると考えている。


神経科学:ゼブラフィッシュにおける睡眠の神経シグネチャー

Cover Story:うたた寝の記録:魚類とヒトの睡眠に共通する性質が神経信号から明らかになった

 魚類にとって眠りとはどのようなものなのだろうか。今回P MourrainとL Leungたちは、この問題に取り組んでいる。哺乳類、鳥類、爬虫類では、さまざまな段階の睡眠が特定され、特徴付けられているが、それが魚類などの他の脊椎動物にも当てはまるかどうかは分かっていなかった。著者たちは、非侵襲的な分子ツール、画像化ツール、生理学的ツールを用いてゼブラフィッシュの神経シグネチャーを観測し、少なくとも2つの異なる睡眠状態を特定できたことを報告している。これらの状態は、他の生物に見られる徐波睡眠状態および急速眼球運動睡眠状態と類似している。魚類においてこうした特徴が特定されたことから、これらの睡眠状態は、4億5000万年以上前に脊椎動物の脳に現れた可能性が示唆された。



参考文献:
Leung LC. et al.(2019): Neural signatures of sleep in zebrafish. Nature, 571, 7764, 198–204.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1336-7


追記(2019年7月12日)
 ナショナルジオグラフィックで報道されました。

アフリカ外で最古となる現生人類化石

 アフリカ外で最古となる現生人類(Homo sapiens)化石に関する研究(Harvati et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、ギリシア南部のマニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟で1970年代に発見された、アピディマ1(Apidima 1)とアピディマ2(Apidima 2)という2点のホモ属頭蓋の形態を分析し、他のホモ属化石と比較しました。両者は近接した場所で発見されましたが、ウラン系列方法ではやや年代差のある結果が得られ、アピディマ1は21万年以上前、アピディマ2は21万年以上前と推定されました。両者の考古学的文脈は不明です。

 アピディマ2は、以前にはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)もしくはハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類されていました。アピディマ2にはほぼ完全な顔面と頭蓋冠のほとんどが残っていますが、下顎は欠けており、化石生成の過程での歪みも見られます。アピディマ1には後部頭蓋が残っており、化石生成論の過程での歪みは見られません。アピディマ1に関しては、最近まで詳細な研究はありませんでしたが、アピディマ2と同じ種に分類される、と考えられていました。

 本論文は、コンピューター断層撮影(CT)スキャンによりアピディマで発見された2点のホモ属頭蓋を復元して分析し、他のホモ属頭蓋と比較しました。アピディマ2には、眼窩上隆起や後頭部の膨らみなどといったネアンデルタール人的特徴が見られます。他のホモ属化石との比較で、アピディマ2の復元はネアンデルタール人に最も近いか、あるいはネアンデルタール人と中期更新世ユーラシア人の間に位置づけられ、本論文はアピディマ2を(早期)ネアンデルタール人と分類しています。

 対照的にアピディマ1は、後頭部の膨らみなどネアンデルタール人的特徴を有さず、球状の後頭部など現生人類的特徴が見られます。ただ、アピディマ1は完全に現生人類の変異内に収まるわけではなく、各分析により、現生人類と他の分類群との間に位置する場合もあります。本論文は、アピディマ1に関して、祖先的特徴と現生人類の派生的特徴との混在が見られると指摘しつつ、アピディマ1には当時すでに確立していたネアンデルタール人の派生的特徴が欠けており、年齢・性・個体の違いでは説明できない現生人類の派生的特徴が見られることから、アピディマ1をヨーロッパのネアンデルタール人系統ではなく早期現生人類と分類しています。

 この解釈が正しければ、アピディマ1はアフリカ外では最古の現生人類の証拠となります。これまで、アフリカ外で最古の現生人類の証拠は、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave)で2002年に発見された、194000~177000年前頃のホモ属の上顎化石でした(関連記事)。本論文は、ギリシアにおける化石証拠から、早期現生人類は中期更新世後期にヨーロッパ南東部まで拡散していたものの、その後ネアンデルタール人に置換された可能性を提示しています。中期更新世のヨーロッパには、ネアンデルタール人系統だけではなく、アフリカ起源の現生人類も存在していたものの、現生人類がヨーロッパで絶滅したか、アナトリア半島やレヴァントへと撤退した後はネアンデルタール人だけがヨーロッパに存在したのではないか、というわけです。その後、よく知られているように、45000年前頃以降に現生人類がヨーロッパへと拡散してきて、ネアンデルタール人は40000年前頃までにはおおむね絶滅しました(関連記事)。こうした人類集団の拡大・撤退・置換は、更新世にも珍しくなかったのでしょう。

 上記報道は、イスラエルのズッティエ(Zuttiyeh)遺跡で発見された50万~20万年前頃のホモ属頭蓋との関連で、アピディマ1を論じています。ズッティエ頭蓋に関しては、早期ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と現生人類の共通祖先集団との見解が提示されており、26万年前頃となるアフリカ南部のフロリスバッド(Florisbad)遺跡や、30万年以上前となるアフリカ北部のジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡(関連記事)で発見された早期の現生人類的化石との類似性が指摘されています。ズッティエ頭蓋は、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の混合個体か、あるいは広い意味での現生人類系統に位置づけられるのかもしれません。

 本論文のアピディマ1の解釈は、現在有力になりつつあると私が考えている、現生人類アフリカ多地域進化説(関連記事)と整合的だと思います。現生人類アフリカ多地域進化説とは、現生人類の唯一の起源地がアフリカであることを前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というものです。20万年以上前には、祖先的特徴と現生人類の派生的特徴との混在するホモ属集団がアフリカに存在しました。これらを広い意味での現生人類系統と分類し、その一部がレヴァントやヨーロッパ南部にまで拡散したと考えると、アピディマ1の存在を整合的に説明できそうです。上述のようにミスリヤ洞窟の現生人類遺骸もすでに報告されていたので、アピディマ1の分類と年代について、大きな驚きはありませんでした。

 これは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果とも整合的です。ネアンデルタール人のmtDNAは、元々は現生人類よりも種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の方と近縁だったのに(前期型)、後期ネアンデルタール人ではデニソワ人よりも現生人類の方と近縁(後期型)です(関連記事)。そのため、ある時点でネアンデルタール人系統のmtDNAは、現生人類と近縁な系統のものに置換されたのではないか、と推測されています(関連記事)。アピディマ1系統もしくはその近縁の広い意味での現生人類系統がヨーロッパ南部まで拡散し、寒冷期にヨーロッパ南部に撤退していたネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人に「後期型」のmtDNAをもたらした、と考えられます。もちろん、これはまだ確定的ではなく、ヨーロッパの中期~後期更新世のホモ属のDNA解析のさらなる蓄積が必要となります。

 上記報道は、アピディマ1やズッティエやミスリヤで発見された現生人類とされる頭蓋は部分的なので、現生人類と分類することに慎重な見解もあるだろう、と指摘しています。これらのホモ属頭蓋が現生人類なのか、判断するのにDNA解析は有効ですが、年代が古く、気温の高い地域の標本ではDNA解析は困難です。そこで、タンパク質解析による人類種の特定が注目されています(関連記事)。アピディマ1のようなDNA解析の難しそうな個体も、タンパク質解析によりどの人類種なのか特定できるかもしれません。今後の研究の進展が大いに楽しみです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【化石】ユーラシアにいた現生人類の最古の証拠

 ギリシャで発見された約21万年前の頭蓋骨化石が、ユーラシアにいた現生人類の最古の証拠だとする研究報告が、今週掲載される。同時に出土したもう1つの頭蓋骨化石は17万年前のものと推定され、この化石にはネアンデルタール人の特徴が見られる。この新知見は、現生人類がアフリカから分散した時期がこれまで考えられていたよりも早く、これまで考えられていたよりも遠方に到達していたことの裏付けとなる。

 南東ヨーロッパは、現生人類がアフリカから分散する際の主要な回廊だったと考えられている。1970年代後半にはギリシャ南部のApidima洞窟でヒト頭蓋骨の化石が2点発見されたが、考古学的脈絡が欠如しており、断片化された状態であったため、この2つの化石標本を詳細に記述した研究論文はなかった。今回、Katerina Harvatiたちの研究グループは、最新の年代測定法と画像化技術を用いて、これら2点の頭蓋骨化石(Apidima 1、Apidima 2)の詳細な比較分析を行った。

 Apidima 2は、ネアンデルタール人に似た特徴[例えば、太く、丸みのある眉弓(眼窩上隆起)]があり、年代測定により17万年以上前のものとされた。Apidima 1には、現生人類とその祖先種の特徴が混在しており、例えば、現生人類の独自の特徴である丸みを帯びた後頭蓋(頭蓋の後部)がある。Apidima 1の年代測定では、少なくとも21万年前のものとされ、過去の研究報告によってヨーロッパで最古のものとされていたホモ・サピエンスを15万年以上もさかのぼる。

 以上の分析結果は、現生人類が以前考えられていたよりもかなり早期にアフリカから分散していたことを示しており、複数の分散事象があったとする仮説も裏付けているとHarvatiたちは結論している。



参考文献:
Harvati K. et al.(2019): Apidima Cave fossils provide earliest evidence of Homo sapiens in Eurasia. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1376-z

農場の室内塵の微生物と都会の子供の喘息減少

 農場の室内塵の微生物と都会の子供の喘息減少に関する研究(Kirjavainen et al., 2019)が公表されました。喘息の発症は都会化に関連があるとされており、それは室内塵(ハウスダスト)から重要な微生物種が失われたことと関係しているかもしれません。こうした種はまだ農場には存在していますが、農場の細菌が都会環境中に存在した場合に、喘息の罹患率の減少に結びつくのか、これまで不明でした。

 この研究は、合計395人の子どもが住んでいるフィンランドの田舎と郊外の家について室内塵の微生物相を調べ、農場の家に関連する独特な微生物の個体数パターンを特定しました。さらにこの研究は、ドイツの子供1031人のコホートでもこのような知見を得て、農場ではないものの、フィンランドの農場の家とよく似た屋内微生物相を持つ家に住む子供は、喘息の発症リスクが減少する、と明らかにしました。

 この調査研究は、個々の微生物種が喘息を直接防ぐ働きをしていると決定的に示しているわけではないものの、環境由来の細菌が喘息の発症に役割を果たしている、とさらに裏づけるものです。この研究は、家庭内微生物相の構成の測定が、郊外や都会の家に住む子供たちの喘息発症の相対リスクの評価や監視に役立つ可能性がある、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


農場の家の室内塵の微生物が都会の子どもの喘息減少に結び付く

 農場のような家の室内塵(ハウスダスト)のマイクロバイオームへの曝露が、都会環境に住む子どもたちの喘息発症の減少に関係している可能性があることを報告する論文が、今週掲載される。

 喘息の発症は都会化に関連があるとされており、それには室内塵から重要な微生物種が失われたことが関係している可能性がある。こうした種はまだ農場には存在している。しかし、農場の細菌が都会環境中に存在した場合に、喘息の罹患率の減少に結び付くかは、これまで不明だった。

 Pirkka Kirjavainenたちは、フィンランドの田舎と郊外の家(計395人の子どもが住んでいる)について室内塵の微生物相を調べ、農場の家に関連する独特な微生物の個体数パターンを特定した。さらに、Kirjavainenたちは、ドイツの子ども1031人のコホートでもこのような知見を得て、農場ではないがフィンランドの農場の家とよく似た屋内微生物相を持つ家に住む子どもは、喘息の発症リスクが減少することを明らかにした。

 この調査研究は、個々の微生物種が喘息を直接防ぐ働きをしていると決定的に示しているわけではないが、環境由来の細菌が喘息の発症に役割を果たしていることをさらに裏付けるものである。Kirjavainenたちは、家庭内微生物相の構成の測定が、郊外や都会の家に住む子どもたちの喘息発症の相対リスクの評価や監視に役立つ可能性があると述べている。



参考文献:
Kirjavainen PV. et al.(2019): Farm-like indoor microbiota in non-farm homes protects children from asthma development. Nature Medicine, 25, 7, 1089–1095.
https://doi.org/10.1038/s41591-019-0469-4

一流のスポーツ選手のパフォーマンスと腸内微生物叢の関係

 一流のスポーツ選手のパフォーマンスと腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、マイクロバイオーム)の関係についての研究(Scheiman et al., 2019)が公表されました。ヒトの微生物叢が健康に影響する、と知られています。以前の研究では、運動と微生物叢の変化との関連が示されましたが、こうした微生物叢の変化がスポーツ選手のパフォーマンスにどのように影響するかは分かっていませんでした。この研究は、ボストンマラソンの選手15人とランナーではない対照者10人から、マラソンの前後1週間にそれぞれ採取した糞便試料を解析しました。

 その結果、運動後の選手の糞便中にはベイヨネラ属(Veillonella)の細菌が多くなり、ベイヨネラ属菌には乳酸(運動後の疲労に関連する代謝産物)の消費に必要な遺伝子が全て備わっている、と明らかになりました。これらの結果は、スポーツ選手87人からなる別のコホートでも確認されました。またこの研究は別の実験で、マラソン選手の1人からベイヨネラ属の細菌株1種類を単離し、マウス16匹に投与しました。その結果、この細菌を投与されたマウスは、対照群のマウスと比較して、トレッドミルテストの成績(走る時間の長さ)が13%上昇しました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


一流のスポーツ選手のパフォーマンスに腸内マイクロバイオームが関係する

 一流ランナーの腸内マイクロバイオームに含まれる特定の細菌が、選手のパフォーマンスの向上に役立つ可能性があることを報告する論文が、今週掲載される。

 ヒトのマイクロバイオーム(ヒトの体内に住む微生物群)がヒトの健康に影響することが知られている。以前の研究で、運動とマイクロバイオームの変化との関連が示されたが、こうしたマイクロバイオームの変化がスポーツ選手のパフォーマンスにどのように影響するかは分かっていなかった。

 今回Aleksandar Kosticたちは、ボストンマラソンの選手15人とランナーではない対照者10人から、マラソンの前後1週間にそれぞれ採取した糞便試料を解析した。その結果、運動後の選手の糞便中にはベイヨネラ属(Veillonella)の細菌が多くなること、また、ベイヨネラ属菌には乳酸(運動後の疲労に関連する代謝産物)の消費に必要な遺伝子が全て備わっていることが明らかになった。これらの結果は、スポーツ選手87人からなる別のコホートでも確かめられた。また別の実験で、Kosticたちは、マラソン選手の1人からベイヨネラ属の細菌株1種類を単離し、マウス16匹に投与した。その結果、この細菌を投与されたマウスは、対照群のマウスに比べて、トレッドミルテストの成績(走る時間の長さ)が13%上昇した。



参考文献:
Scheiman J. et al.(2019): Meta-omics analysis of elite athletes identifies a performance-enhancing microbe that functions via lactate metabolism. Nature Medicine, 25, 7, 1104–1109.
https://doi.org/10.1038/s41591-019-0485-4

腸内細菌の治療による心血管系リスクのある患者の健康状態の改善

 腸内細菌の治療による心血管系リスクのある患者の健康状態の改善に関する研究(Depommier et al., 2019)が公表されました。心血管代謝疾患の世界的な広がりを打ち勝つために、科学者たちは、腸内微生物相を標的とした介入に関心を向けるようになっています。動物モデルでの以前の研究では、腸内細菌の一種であるアッカーマンシア・ムシニフィラ(Akkermansia muciniphila)には健康増進作用があり、体重過多のヒト、2型糖尿病や炎症性腸疾患を治療していないヒトの腸内ではその数が少ないことから、アッカーマンシア・ムシニフィラは肥満や耐糖能異常、インスリン抵抗性、肝臓の脂肪蓄積を減少させる、と明らかになっています。

 この研究では、ヒトでは、生きたアッカーマンシア・ムシニフィラや低温殺菌アッカーマンシア・ムシニフィラは安全で、腸の忍容性が高い、と明らかにしています。この研究は、合計32人のボランティアに、プラセボあるいは生きたアッカーマンシア・ムシニフィラ、低温殺菌したアッカーマンシア・ムシニフィラを補助食品として3か月間摂取させました。その結果、プラセボを摂取した参加者と比較すると、殺菌したアッカーマンシア・ムシニフィラを摂取した参加者のみで、インスリン感受性の改善、インスリンレベルの低下、腸障壁の改善の兆候、血中コレステロールの改善などが見られました。ただ、この研究は、低温殺菌したアッカーマンシア・ムシニフィラの有益な作用が3ヶ月以上持続するかどうか確認し、多数の患者が参加する比較臨床試験で効果を評価するには、さらなる研究が必要と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


腸内細菌の治療によって、心血管系リスクのある患者の健康状態が改善するかもしれない

 特定の腸内細菌の量を増やすことが、体重過多や肥満の人にとって有益かもしれないという、小規模な臨床試験の結果が、今週掲載される。Akkermansia muciniphilaは、腸内細菌の一種で、体重過多や肥満の人、2型糖尿病や炎症性腸疾患を治療していないヒトの腸内ではその数が少ない。この研究は、この細菌の投与はヒトに対して安全であり、健康状態の改善につながることを示唆している。

 心血管代謝疾患の世界的な広がりを打ち勝つために、科学者たちは、腸内微生物相を標的とした介入にますます関心を向けるようになっている。以前に行われた動物モデルでの研究では、A. muciniphilaには健康増進作用があり、A. muciniphilaが肥満や耐糖能異常、インスリン抵抗性、肝臓の脂肪蓄積が減少させることが明らかになっている。

 今回の概念実証研究でPatrice Caniたちは、ヒトでは、生きたA. muciniphilaや低温殺菌したA. muciniphilaは安全で、腸の忍容性が高いことを明らかにしている。合計32人のボランティアに、プラセボあるいは生きたA. muciniphila、低温殺菌したA. muciniphilaを補助食品として3か月間摂取させた。その結果、プラセボを摂取した参加者と比較すると、殺菌したA. muciniphilaを摂取した参加者のみで、インスリン感受性の改善、インスリンレベルの低下、腸障壁の改善の兆候、血中コレステロールの改善などが見られた。低温殺菌したA. muciniphilaの有益な作用が3か月以上持続するかどうかを確認するためには、また、多数の患者が参加する比較臨床試験で効果を評価するには、さらなる研究が必要である。



参考文献:
Depommier C. et al.(2019): Supplementation with Akkermansia muciniphila in overweight and obese human volunteers: a proof-of-concept exploratory study. Nature Medicine, 25, 8, 1096–1103.
https://doi.org/10.1038/s41591-019-0495-2

1970年代に社会主義への道を批判した市井人

 表題の記事を読みましたが、なかなか興味深い内容でした。この記事が取り上げている中村隆承氏は、おそらく有名ではなく、失礼ながら私も知りませんでしたが、優れた見識の持ち主だったようです。中村氏は1983年に49歳という若さで亡くなり、翌年『中村隆承遺稿集』が家族により自費出版されたそうです。インターネットの普及した現在なら、優れた見識を有する「市井人」が自分の考えを世に問うことは容易ですが、当時は、そうした「市井人」の考えが世に知られる機会は今よりずっと少なかった、と言えるでしょう。もちろん今でも、インターネットで公開するだけでは、テレビや発行部数の多い新聞・商業誌で取り上げられる場合よりもずっと影響力は低いわけですが、1980年代と比較して、「市井人」が世に意見を問う場合の難易度がずっと低くなり、その機会が飛躍的に増えたことは間違いないでしょう。もちろん、新たな技術の常として、インターネットの弊害も多いわけですが、それを上回るだけの利点があるだろう、と私は考えています。

 上記の記事で紹介されている中村氏の見解は興味深いのですが、私の関心に引きつけると、まず注目したのが、マルクスとエンゲルスの社会発展の理論(史的唯物論)は社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎている、との指摘です。もう20年近く前(2000年6月)に西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を取り上げた時(関連記事)にも少し考えたのですが、「左翼」への嫌悪・憎悪の強い論者に、悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあるように思います。『国民の歴史』に関しては、20年近く前に、「中国」の長期にわたる停滞と「日本」の内的発展が強調されている、と指摘しました。『国民の歴史』に「左翼」への強い嫌悪・憎悪があることは一読すれば明らかでしょうが、そうした論者にも悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあることには、20世紀における史的唯物論の影響力の強さを改めて痛感させられます。今でも史的唯物論の影響は根強く、自覚せずに囚われてしまっている場合も多いのではないか、と思います。凡人の私もその例外ではないので、史的唯物論の悪影響については意識し続けねばなりませんし、その批判は今でも重要だと考えています。

 上記の記事でもう一つ私が注目したのは、中村氏が、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例としてエンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と『自然弁証法』を挙げ、前者はモルガンの主著『古代社会』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにした、と評価していたことです。これに関しては、(通俗的)唯物史観の影響で一般にも広く浸透したと思われる、人類の「原始社会」は母系制だった、との見解に以前から興味があったので、当ブログでたびたび取り上げてきました。まず6年以上前(2013年2月)に、更新世の人類社会は母系制だったのか、という問題に軽く言及しました(関連記事)。その後、昨年(2018年)初めに唯物史観との関連で(関連記事)、今年初めには近親婚との関連で(関連記事)この問題を再度取り上げました。

 これらの記事で私がずっと主張してきたのは、人類の「原始社会」を母系制と想定する唯物史観的な見解とは正反対に、むしろ人類は父系制的社会から始まった、というものです。当ブログで2013年2月にこの問題を取り上げて以降、この見解は変わらないというか、その後色々と調べるにつれて、ますます確信を強めています。ただ、これまで人類社会が父系的なのか母系的なのか単純化してきたところがある、と今では反省しています。そこで先々月(2019年5月)の記事では、現生人類(Homo sapiens)社会は高度な認知能力に由来する柔軟性により基本的に双系的で、父系的継承の社会が古代から世界で広く見られるのは、そもそも人類社会が他のアフリカの現生大型類人猿(ヒト科)と同じく父系的な社会から始まったためではないか、と考えを改めました。こうした柔軟な社会構造がいつ確立したのか、現時点では不明です。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)社会に関しては父系的と示唆されていますが(関連記事)、まだイベリア半島北部の1例にすぎず、あるいは現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で、かなりの程度柔軟な社会構造が確立していた可能性もある、と考えています。

 なお、近年、唯物史観的な「原始乱婚説」がフェミニストの間で評価されている、との指摘もあります。その代表作と言えるかもしれない『性の進化論』を当ブログでも取り上げましたが(関連記事1および関連記事2)、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な「原始乱婚説」にも改めて採るべきところがある、といったところで、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。また、唯物史観で採用された「原始乱婚説」では、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定されています。しかし、人類系統にはずっと近親婚を回避する生得的な認知メカニズムが備わっていた、と考えるのが妥当で、唯物史観的な「原始乱婚説」は、現在では少なくともそのままでは通用しないと思います。私は、『性の進化論』の見解が妥当である可能性を全否定するわけではありませんが、きわめて低いと考えていますし、仮に同書の見解が妥当だとしても、それを唯物史観の復権と評価することは妥当ではないでしょう。

冷蔵庫の買い替え

 おそらく先代よりは安い分、第3世代Ryzen(Zen2アーキテクチャ)発売の記事で述べましたが、冷蔵庫の冷却機能が急に弱くなり、買い替えざるを得なくなりました。先々代の冷蔵庫は8年1ヶ月弱、先代の冷蔵庫は10年2ヶ月ほどの使用で故障したことになり、冷蔵庫の寿命としては、まあこんなものでしょうか。久しぶりの冷蔵庫の買い替えとなるのですが、検索してみて、こんなに高かったかな、とやや驚きました。ただ、思い出してみると、記憶は曖昧なのですが、確か先代の冷蔵庫は8万~9万円くらいで購入したので、そんなものかな、とも思います。

 先代よりは安い分、容量は先代よりも劣るのですが、食品を詰め込み過ぎたのが寿命を縮めたかな、とも思うので、今後はあまり詰め込まないようにするつもりです。安い氷菓を多く入れていたところ、冷却機能が急に弱くなったので、かなりの氷菓を捨てることになりました。まあ、安価な氷菓なので、被害額は1000円程度に抑えられましたが。新たな冷蔵庫はできるだけ長く使いたいものです。デスクトップパソコンの買い替えを考えている時に痛い出費となりましたが、デスクトップパソコンも近いうちに買い替える予定です。昨年(2018年)から今年にかけて、スマホ・テレビ・録画機・冷蔵庫と高額な出費が続きましたが、デスクトップパソコンを買い替えれば、しばらくは出費を抑えられそうです。

臼歯の歯根数から推測されるアジア東部での現生人類とデニソワ人の交雑

 下顎大臼歯の歯根数から、アジア東部における現生人類(Homo sapiens)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑の可能性を指摘した研究(Bailey et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で、16万年以上前と推定されるホモ属の右側下顎骨が発見され、タンパク質の総体(プロテオーム)の解析の結果、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)と分類されました(関連記事)。

 この夏河下顎骨の大臼歯には3根が見られます。ホモ属の下顎大臼歯における歯根数は2本である場合が多く、1本もしくは3本かそれ以上の場合もあります。最近の現生人類(Homo sapiens)では、第三の歯根は通常、下顎第一大臼歯に発生しますが、下顎第二および第三大臼歯に発生する場合もあります。臼歯の第三の歯根は、片側もしくは両方に出現します。双子の研究から、これは遺伝性と考えられています。広範な臨床および生物考古学的研究から、アジアとアメリカ大陸以外では、下顎大臼歯の3根(3RM)は3.4%以下と稀ですが、アジア東部集団およびアメリカ大陸先住民集団では40%を超えるかもしれません。これは、アジア東部系集団がアメリカ大陸先住民の主要な祖先集団だった、との以前からの見解(関連記事)を裏づけます。

 現代のアジア東部集団およびその近縁のアメリカ大陸先住民集団では、3RMは高頻度で見られますが、アジア東部では、中華人民共和国広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)田東県(Tiandong County)林逢鎮(Linfeng Town)の独山洞窟(Dushan Cave)で発見された、15850~12765年前頃と推定されている初期現生人類(関連記事)にもホモ・エレクトス(Homo erectus)にも、またアフリカの初期現生人類にも、3RMは見られません。ただ、北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)で発見されたエレクトス化石(いわゆる北京原人)が、日中戦争の激化の中で失われてしまったため、これは断定的な見解ではない、と本論文は注意を喚起しています。近年まで3RMの最古の例は、フィリピンで発見された47500~9000年前頃の現生人類下顎骨でした。この現生人類遺骸では、下顎の両側で3RMが見られます。そうしたことから最近まで、アジア東部集団およびアメリカ大陸先住民集団における3RMの高頻度は、現生人類がユーラシアへと拡散した後に獲得された、と考えられていました。

 しかし近年、ずっと古い下顎大臼歯の3根が報告されました。一つは、上述のチベット高原東部で発見された16万年以上前と推定されている夏河下顎骨です。もう一つは、台湾沖で発見された澎湖1(Penghu 1)下顎骨です(関連記事)。澎湖1の年代は曖昧で19万~13万年前頃または7万~1万年前頃と推定されています。澎湖1の下顎は、頤のないことや厚いことなど「古代的」特徴を保持しており、その巨大な大臼歯の歯冠は、デニソワ人のそれとサイズが類似しています。夏河下顎骨と同様に、こうした巨大な大臼歯は、第三大臼歯の欠如と結びついています。こうした理由から、澎湖1とデニソワ人との近縁性が指摘されています。夏河下顎骨と澎湖1下顎骨は、アジア東部において現生人類が拡散してくる前に、下顎大臼歯の3根が存在したことを示します。

 夏河下顎骨と澎湖1下顎骨から、3RMの起源はアジア東部で、現生人類ではない系統の人類で進化した可能性が高い、と考えられます。本論文はさらに、3RMがより「古代型」の人類で発見されるまでは、これがすでに多くの研究で示されている(関連記事)デニソワ人との遺伝子流動を通じて現生人類にもたらされたと理解すべきだ、と主張します。アジア東部では、ネパールでも3RMが25%ほど見られます。デニソワ人から現生人類への遺伝子流動では、高地適応関連遺伝子も指摘されていますが(関連記事)、アジア東部における3RMの高頻度は、咀嚼負荷と関連した正の選択かもしれない、と本論文は推測しています。

 一方、アジア東部系集団よりもデニソワ人の遺伝的影響の強いオーストラリア先住民集団およびニューギニア集団では、3RMの頻度が低く、咀嚼頑丈性もより弱くなっています。ただ、本論文は代替的仮説も提示しています。3RMの頻度は、他の特徴における選択の結果である間接的影響を反映しているかもしれない、というわけです。たとえば、アジア北部および東部集団とアメリカ大陸先住民集団における高頻度のシャベル状切歯は、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の多様体「EDAR V370A」と関連していますが、この多様体は汗腺密度や乳腺管分岐にも関与しており、それが寒冷地において適応的だったのではないか、と推測されています(関連記事)。シャベル状切歯自体はとくに適応度を高めたわけではなく、シャベル状切歯関連遺伝子が関与する別の表現型が強い選択を受けた結果、シャベル状切歯が高頻度で定着し、3RMの高頻度も同様かもしれない、というわけです。この問題の解決には、3RMの遺伝的基盤と、それが他の表現型にも関連しているのか、解明する必要があります。

 本論文は、3RMは現生人類拡散前のアジア東部にいて派生した特徴であり、デニソワ人へと確実にたどれる、と主張します。現代人における祖先的形質を古代型ホモ属との交雑で説明する見解は、アジア東部では上述の独山洞窟人や、北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の人類遺骸(関連記事)などで提示されています。本論文は、3RM以外にも、交雑を通じて古代型ホモ属から現生人類へと継承された特徴がある可能性を指摘します。本論文は、かつて、アジア東部におけるエレクトスから現生人類への連続性を示すために挙げられた、現代アジア東部集団における「古代的特徴」は、デニソワ人との交雑によりもたらされたのかもしれない、と推測しています。アジア東部の更新世の人類遺骸は少なく、DNA解析もユーラシア西部と比較して遅れていますが、それだけ研究の進展の余地があるとも言えるわけで、本論文の見解がどこまで証明され、また修正されるのか、注目されます。


参考文献:
Bailey SE, Hublin JJ, and Antón SC.(2019): Rare dental trait provides morphological evidence of archaic introgression in Asian fossil record. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1907557116

暴力的犯罪を抑止しない懲役刑

 懲役刑と暴力的犯罪の抑止に関する研究(Harding et al., 2019)が公表されました。刑事上の有罪判決後に収監を行なう一般的な動機は、懲役刑が将来の暴力的犯罪を抑止するだろう、という考えにあります。理論上、未来の暴力的犯罪の抑止は、犯罪行動の機会を奪ったり、更正の機会を提供したり、将来の犯罪への関与を阻止したりすることで達成されるとされています。しかし、そうした目的を達成するための収監の有効性、とくに収監にかかる高い社会的・財政的コストに関しては活発に議論されてきました。

 この研究は、アメリカ合衆国ミシガン州において、実刑判決を受けた個人と保護観察の判決を受けた個人の暴力的犯罪の発生率を比較した。この研究は、収監か保護観察のどちらかの判決になる可能性のある犯罪の被告人を判事に無作為に割り当てた、10万以上の重罪判決のデータを分析しました。その結果、収監期間の行動制限の影響を考慮すると、懲役刑に服することが、判決後5年間の暴力的犯罪による再逮捕あるいは起訴の可能性をわずかに減少させることと相関している、と見いだされました。しかし、この研究は、保護観察の判決を受けた個人と比べると、収監判決を受けたことが、釈放後の暴力的犯罪による逮捕や起訴に大きく影響しなかったことも見いだしています。懲役刑は、収監中は犯罪の発生を防ぐことができるものの、釈放後の将来の犯罪には影響しない可能性が高い、とこの研究は結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


懲役刑は暴力的犯罪を抑止しない

 実刑判決は将来の暴力的犯罪の発生率をそれほど低下させないことを明らかにした論文が、今週掲載される。

 刑事上の有罪判決後に収監を行う一般的な動機は、懲役刑が将来の暴力的犯罪を抑止するだろうという考えにある。理論上、未来の暴力的犯罪の抑止は、犯罪行動の機会を奪ったり、更正の機会を提供したり、将来の犯罪への関与を阻止したりすることで達成されるとされる。しかし、そうした目的を達成するための収監の有効性、特に収監にかかる高い社会的・財政的コストに関しては活発な議論が行われてきた。

 今回David Hardingたちの研究グループは、米国ミシガン州において、実刑判決を受けた個人と保護観察の判決を受けた個人の暴力的犯罪の発生率を比較した。著者たちは、収監か保護観察のどちらかの判決になる可能性のある犯罪の被告人を判事に無作為に割り当てた、10万以上の重罪判決のデータを分析した。その結果、収監期間の行動制限の影響を考慮すると、懲役刑に服することが、判決後5年間の暴力的犯罪による再逮捕あるいは起訴の可能性をわずかに減少させることと相関しているのが見いだされた。しかし、Hardingたちは、保護観察の判決を受けた個人と比べると、収監判決を受けたことが、釈放後の暴力的犯罪による逮捕や起訴に大きく影響しなかったことも見いだしている。

 懲役刑は、収監中は犯罪の発生を防ぐことができるが、釈放後の将来の犯罪には影響しない可能性が高いと、Hardingたちは結論付けている。



参考文献:
Harding DJ. et al.(2018): A natural experiment study of the effects of imprisonment on violence in the community. Nature Human Behaviour, 3, 7, 671–677.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0604-8

第3世代Ryzenの性能

 昨日(2019年7月7日)、先々月に公式発表された(関連記事)第3世代Ryzen(Zen2アーキテクチャ)が発売され、同時にベンチマークも公開されました。現在使用しているデスクトップパソコンは購入からすでに7年9ヶ月近く経過しており(関連記事)、最近、ワードでの文章作成、とくに貼り付けのさいの動作の遅さを実感しているので、そろそろデスクトップパソコンを買い替えようと考えています。Intel製CPUは、最近ではセキュリティ問題が頻繁に報告されており、パッチを適用すると性能が低下することもあり(私の環境でも、ディスクアクセス速度が低下しました)、次はAMD製CPU搭載パソコンにすると決めていたので、第3世代Ryzenの発売を楽しみに待っていました。

 次は最低でも8コアCPUと考えており、できれば12コアか16コアと考えていたのですが、第3世代Ryzenの性能を見ると、12コアではメモリバス2チャンネルはバランスが悪いようで、12コア以上ならば、Threadripperの方がよさそうです。ただ、価格帯が大きく違いますし、私の使い方ではThreadripper を持て余しそうですから、8コア以下を選択するのが無難でしょうか。第3世代Ryzenはシングルスレッド性能でもCore i第9世代に匹敵するようなので、私の使い方では、価格が魅力の6コアのRyzen 5 3600でも充分かもしれませんが、デスクトップパソコンはなるべく長く使いたいので、8コアの3700Xを選択するのが無難でしょうか。もう少し価格が落ち着いた頃に、再度検討するのがよさそうです。マザーボードの選択も悩むところで、PCI-Express4.0対応のX570はかなり高いため、選択を躊躇してしまいます。しかし、長く使い続ける前提ならば、X570を選ぶしかなさそうです。やはり、もう少し価格が落ち着くのを俟つべきでしょうか。

 GPUも悩むところで、現在使用しているデスクトップパソコンを購入した時に後悔しているのは、重いゲームをやるわけでもないのに、当時としてはハイエンドのRadeon HD 6950を選択したことです。ミドル~ロークラスを選択して、数年経過して性能に不満を抱くようになれば、再度ミドル~ロークラスに買い替える方がずっとお得のように思います。メモリも、一時期よりかなり安くなりましたが、やはり高性能だとなかなかの高価格で、選択に悩みます。SSDも一時期よりかなり安くなったので、PCI-Express4.0対応のNVMeを選択する予定です。まあ、デスクトップパソコンを購入する前に、急に冷却機能が弱くなった冷蔵庫をすぐ買い替えねばならないわけですが。

ペリシテ人の起源

 ペリシテ人の起源に関する研究(Feldman et al., 2019B)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。地中海東部において、青銅器時代へ鉄器時代への移行は、ギリシア・エジプト・レヴァント・アナトリアの繁栄した経済・文化の終焉に続く、文化的混乱により特徴づけられています(関連記事)。レヴァントではこの事象と一致して、紀元前12世紀にアシュケロン(Ashkelon)などでかなりの文化変容が見られ、その担い手は『ヘブライ語聖書』では「ペリシテ人」と呼ばれています。これらの集落の建築や他の物質文化は、近隣の遺跡とは異なります。紀元前12世紀のペリシテ人の文化は、紀元前13世紀のエーゲ海の文化との類似性が指摘されています。そこから、エジプトやレヴァントに侵入してきた「海の民」はエーゲ海から到来した、との仮説も提示されています。これに対して、文化変容は知識の拡散や内在的発展により起きた、との反論もあります。また、ペリシテ人の起源地として、キリキアやキプロス島も提示されています。

 本論文は、アシュケロンで発掘された108人のうち、後期青銅器時代~鉄器時代の10人のDNA解析に成功しました。平均網羅率は0.08倍~0.7倍です。本論文はこの10人を、紀元前18~紀元前16世紀頃となる後期青銅器時代(3人)、紀元前14世紀~紀元前12世紀頃となる鉄器時代初期(4人)、紀元前12世紀~紀元前11世紀頃となる鉄器時代後期(3人)の3期間に区分しています。本論文は、この10人の124万ヶ所のゲノム規模の一塩基多型を解析しました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)およびY染色体DNAのハプログループも明らかになっています。mtDNAハプログループ(mtHg)はU3b1a・T2c1c・H4a1cなど多様で、男性4人のY染色体DNAハプログループ(YHg)はJ・R1・BT・Lです。

 本論文は、青銅器時代~鉄器時代にかけての、1000年以上にわたるレヴァントの人類集団の遺伝的継続性を明らかにしています。しかし、鉄器時代初期には、前後の時代と異なる遺伝的構成が見られます。これは、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統の増加により示されます。本論文は、これがヨーロッパ南部系統からの遺伝子流動と推測します。これは、レヴァントにペリシテ人が到来したと推定されている時期と一致します。ヨーロッパ南部起源の集団が青銅器時代末期か鉄器時代初期にレヴァントへ到来し、在来集団と混合してペリシテ人が形成されたのではないか、というわけです。この時期、陶器の様式から、ペリシテ人とレヴァント在来系集団とが近接していた、と推測されています。

 しかし、それから2世紀以内の鉄器時代後期には、このヨーロッパ南部系統の遺伝的痕跡はアシュケロンでは消滅し、再びレヴァント在来集団と近い遺伝的構成となります。本論文は、レヴァントの在来集団との混合により、ヨーロッパ南部系統が希釈されたのではないか、と推測しています。ただ、ペリシテ人に関して単純化しすぎてはならない、とも指摘されています。鉄器時代初期のペリシテ人の起源は一つではなく、ペリシテ人は在来のレヴァント集団との混合後も、紀元前604年にバビロニア人によって征服されるまで、5世紀以上にわたり近隣集団と文化的にはっきり異なっていた、というわけです。

 本論文は、アシュケロンに見られる古代の一時的な遺伝的構成の変化が、少ない標本では見落とされる可能性を指摘しています。じっさい、青銅器時代と鉄器時代後期のアシュケロンの人類集団のDNA解析では、ヨーロッパ南部からの比較的大きな遺伝子流動は見落とされていた可能性が高そうです。さらに本論文は、レヴァントの青銅器時代の遺伝的多様性や、青銅器時代~鉄器時代の遺伝子流動をより正確に把握するには、追加の標本が必要であることを指摘しています。本論文は、ペリシテ人の起源地としてヨーロッパ南部の可能性を提示していますが、さらに限定するには、キプロス島やサルデーニャ島やエーゲ海地域の青銅器時代~鉄器時代の人類集団の古代DNAが必要になる、というわけです。


参考文献:
Feldman M. et al.(2019B): Ancient DNA sheds light on the genetic origins of early Iron Age Philistines. Science Advances, 5, 7, eaax0061.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax0061

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第26回「明日なき暴走」

 1928年にアムステルダムで開催されるオリンピック大会への日本選手団の派遣は、相変わらずの予算不足のため、選考も難航していました。そんな中、田畑政治は高橋是清を説得し、巨額の臨時予算を国に支出させることに成功します。このアムステルダム大会から、女子競技も正式種目に採用されました。しかし日本では、女性選手を派遣すべきか議論となります。けっきょく、田畑が熱く主張したこともあり、人見絹枝が日本史上初の女子オリンピック選手としてアムステルダムに向かいします。人見は大きな期待を背負って100m走に出場しますが、予選落ちとなります。放心状態の人見は、このままでは帰国できないので800m走に出る、と言いだします。人見には800m走の経験がありませんでしたが、2位となり、日本人女性選手として初のオリンピックメダリストなります。

 今回は人見絹枝というか、日本女子スポーツの黎明期に焦点が当てられました。本作は当初からオリンピックの暗い側面も見せていましたが、それは今回も変わらず、本作を貫く基調でもあるのでしょう。ただ、人見絹枝の最期がわずかな語りだけですまされたのは、やや残念でした。まあ、第二部の主人公は田畑政治で、前畑秀子など水泳選手に焦点が当てられるのでしょうから、仕方のないところかもしれません。今回も暑苦しい田畑のキャラが前面に出ており、これに嫌悪感を抱く視聴者は少なくなさそうですが、私は田畑のキャラを割と気に入っています。

佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』

 講談社学術文庫の一冊として、2018年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『神国日本』は、ちくま新書の一冊として2006年4月に筑摩書房より刊行されました。以前、当ブログにて本書を取り上げましたが、制限字数の2万文字を超えてしまったので、前編後編に分割しました。今週(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約13万文字に増えたので、記事を一つにまとめることにしました。以下、本文です。


 本書の親本を刊行直後に購入して読み、たいへん感銘を受けたので、何度か再読したくらいです。その後、また再読しようと思っていたところ、講談社学術文庫として文庫版後書が付け加えられて刊行されたことを知り、購入して読み進めることにしました。しっかり比較したわけではないのですが、本文は基本的に親本から変更はないようです(誤字の訂正はあるかもしれませんが)。以前、本書を改めて精読したうえで、当ブログで詳しく取り上げるつもりだ、と述べたので(関連記事)、この機会に以下やや詳しく本書の内容について述べていきます。


 本書はまず、現代日本社会における神国・神国思想の認識について論じます。現代日本社会では、神国思想についてある程度共通の認識はあるものの、その内実には揺らぎもあり、何よりも、好きか嫌いか、容認か否定かという立場が前提となって議論が展開されています。しかし、日本=神国の主張が実際にいかなる論理構造なのか、立ち入った考察がほとんどない、と本書は指摘します。神国思想の内容は議論の余地のないほど自明なのか、と本書は問題提起します。神国思想の論理を解明すべき学界では、神国思想は当初、公家政権側が自己正当化のため唱えた古代的思想と評価され、その後、鎌倉時代の公家政権を中世的とみなす見解が有力となり、神国思想も中世的理念と規定されました。しかし、神国思想が古代的か中世的かといった議論はあっても、それぞれの特色についてはまだ統一的見解が提示されていない、と本書は指摘します。本書は、まず現代日本社会における神国・神国思想についての認識を概観し、その認識への疑問を提示した後に、鎌倉時代を中心に神国思想の形成過程と論理構造を解明し、古代とどう異なるのか、鎌倉時代に確立した後はどう展開していったのか、展望します。

 近代の神国思想を代表するのは『国体の本義』で、神としての天皇を戴く日本は他の国々や民族を凌ぐ万邦無比の神聖国家とされました。天皇とナショナリズムこそ近現代日本社会における神国・神国思想認識の核心です。その『国体の本義』は、神の子孫故に外国(異朝)と異なる、との『神皇正統記』の一節を引用します。『神皇正統記』はまず、次のように説明します。この世界(娑婆世界)の中心には須弥山があり、その四方には四大陸が広がっていて、南の大陸を贍部と呼びます。贍部の中央に位置するのが天竺(インド)で、震旦(中国)は広いといっても、天竺と比較すれば「一片の小国」にすぎません。日本は贍部を離れた東北の海中にあります。日本は、釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、というわけです(末法辺土思想)。こうした理念は、末法思想の流行にともない、平安時代後期には社会に共有されました。

 13世紀後半のモンゴル襲来を契機に台頭する神国思想と末法辺土思想は、真っ向から対立する、との見解が学界では主流でした。神国思想は、末法辺土思想を克服するために説かれたのだ、というわけです。それは、「神道的優越感」による「仏教的劣等感」の「克服」と解釈されました。しかし、中世における神国思想の代表とされる『神皇正統記』にしても、日本を辺土粟散と位置づけていました。本書は、神国思想が外国を意識してのナショナリズムだったのか、疑問を呈します。神国思想のもう一つの核である天皇も、中世には儒教的徳治主義や仏教の十善の帝王説の立場から相対化されており、天皇を即自的に神聖な存在とする『国体の本義』とは異なります。

 神国思想の解明にさいしてまず重要なのは、日本における神です。日本の神は現代では、日本「固有」もしくは「土着」の存在として認識されています。しかし、古代と現代とでは、神のイメージは大きく異なります。次に、神国思想を「神道」の枠内にとどめず、より広い思想的・歴史的文脈で見ていかねばなりません。日本を神国とする主張は日本の神祇(天神地祇=天地のあらゆる神々)の世界と密接不可分ですが、中世において圧倒的な社会的・思想的影響力を有していたのは仏教でした。また、陰陽道・儒教など多様な宗教世界の全体的構図を視野に入れねばなりません。こうした視点から、本書は中世、とくに院政期と鎌倉時代を中心に、古代から現代にいたる神国思想の変遷とその論理構造を解明していきますが、その前に、そうした変遷と論理構造の前提となった世界観の変容が解説されます。


 本書は、古代における天皇号の確立を重視します。これにより、ヤマト政権の大王とは隔絶した権威が確立され、天皇が神聖化されるにともない、天照大神を頂点とする神々と神話の体系的秩序が形成されました。じゅうらいは、各氏族がそれぞれ神話と祖先神を有していました。律令体制の変容(本書では古代的な律令制支配の「解体」と表現されています)にともない、平安時代後半には、国家の支援を期待できなくなった大寺院が、摂関家や天皇家といった権門とともに荘園の集積を積極的に進め、古代から中世へと移行していきます。有力神社も、荘園を集積したり、不特定多数の人々に社参や参籠を呼びかけたりするようになります。律令制のもとで神社界の頂点にあった伊勢神宮も、御師が日本各地を回り、土地の寄進を募っていました。

 こうした変動は、伊勢神宮を頂点とする神々の序列にも影響を与えました。国家から以前のような保護を受けられなくなった代わりに、相対的に自立した各神社は、浮沈存亡をかけて競争するようになります。日吉神社を中心とする山王神道関係の書物では、山王神こそ日本第一の神と主張され、公然と天照大神を頂点とする既存の神々の秩序に挑戦しました。本書はこうした状況を、神々の世界における自由競争・下剋上と表現しています。春日社(春日大明神)や熊野本宮や石清水八幡宮なども、既存の神々の秩序に挑戦しました。伊勢神宮でも、経済力をつけてきた外宮が、天照大神を祭る内宮の権威に挑戦します。

 こうした神々の世界における自由競争・下剋上的状況で、天照大神というか伊勢神宮内宮の側も、「自由競争」に参加せざるを得なくなります。しかし本書は、これは天照大神にとって悪いことばかりではなかった、と指摘します。かつての天照大神は諸神の頂点に位置づけられていたものの、非皇族が参詣することも幣帛を捧げることも認められておらず、貴族層の間ですら詳しくは知られていませんでした。確固たる秩序の古代から「自由競争」の中世へと移行し、天照大神は伊勢神宮内宮の努力により、日本において広範な支持・基盤を得るようになります。人々の祈願に気軽に声を傾けるようになった天照大神の一般社会における知名度は、古代よりも飛躍的に上昇します。こうした神の性格の変化は天照大神だけではなく、程度の差こそあれ、どの有力神でも同様でした。有力な神々は、各氏族(天照大神の場合は皇族)の占有神から開かれた「国民神」としての性格を強めていった、というわけです。

 このように中世に神々の性格が変容するにつれて、神々は主権者として特定の領域に君臨し、排他的・独占的に支配する存在と主張されるようになります。寺院でも、寺領荘園が「仏土」と称されるようになります。こうした寺社領への侵犯は、仏罰・神罰として糾弾されました。古代にも一定の領域を神の地とする観念は存在しましたが、あくまでも抽象的・観念的で、中世のように可視的な境界線と具体的な数値で示されるものではありませんでした。さらに、古代と中世以降とでは、神への印象が大きく異なっていました。古代の神は常に一定の場所にいるわけではなく、人間の都合だけで会える存在ではありませんでした。古代の神は基本的に、祭りなど特定の期間にだけ祭祀の場に来訪し、それが終わればどこかに去ってしまうものでした。神が特定の神社に常駐するという観念が広く社会に定着するのは、せいぜい律令国家形成期以降でした。一方、中世の神は遊行を繰り返す存在ではなく、常に社殿の奥深くにあって現世を監視し続け、神社やその領地の危急時には、老人・女性・子供などの具体的姿で現世に現れて人々に指示をくだす存在でした。中世の神々は、人々に具体的な姿で現れ、信仰する者には厚い恩寵を与え、自らの意思に反する者には容赦ない罰をくだす、畏怖すべき存在でしたが、全知全能の絶対者ではなく、多彩で豊かな情感を有し、時には神同士の戦闘で傷つき、弱音を吐くこともありました。


 このように、古代と中世とでは、神の性格が大きく変容します。本書は次に、そうした変容がいかなる論理・契機で進行したのか、解説します。神祇界における古代から中世への移行で重要なのは、上述した国家的な神祇秩序の解体と神々の自立でしたが、もう一つ重要なのは、仏教との全面的な習合でした。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーの中に組み込まれました。中世の神国思想は、こうした濃密な神仏混淆の世界から生まれました。仏教伝来後しばらく、神と仏が相互に内的な関係を結ぶことはありませんでした。朝廷の公的儀式でも、仏教は原則として排除されていました。しかし、奈良時代になると、日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられ、神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建立されるようになります。神は煩悩に苦しむ衆生の一人として仏教に救済を求めていた、と信じられるようになります。

 しかし、この時点での主役はあくまでも神社に祀られた神で、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設にすぎませんでした。平安時代後半以降、神宮寺と神社の力関係は逆転します。王城鎮守としての高い格式を誇る石清水八幡宮では、元々はその付属寺院(神宮寺)にすぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになります。日吉社と延暦寺、春日社と興福寺、弥勒寺と宇佐八幡宮などのように、伊勢神宮を除く大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになります。こうした神社と寺院の一体化が進行するなか、思想的な水準でも神と仏の交渉が著しく進展します。神仏を本質的には同一とし、神々を仏(本地)が日本の人々の救済のために姿を変えて出現したもの(垂迹)とする本地垂迹説が、日本全域に浸透し、各神社の祭神は菩薩・権現と呼ばれるようになります。鎌倉時代には、ほとんどの神の本地が特定され、天照大神の本地は観音菩薩や大日如来とされました。


 平安時代に本地垂迹説が日本を席巻した背景として、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行がありました。死後の世界(冥界・他界)の観念は太古よりありましたが、平安時代前半まで、人々の主要な関心はもっぱら現世の生活に向けられており、来世・彼岸はその延長にすぎませんでした。しかし、平安時代半ば以降、しだいに観念世界に占める彼岸の割合が増大し、12世紀には現世と逆転します。現世はしょせん仮の宿で、来世の浄土こそ真実の世界なのだから、現世の生活のすべては往生実現のために振り向けられなければならない、との観念が定着しました。古代的な一元的世界にたいする、他界─此土の二重構造を有する中世的な世界観が完成したわけです。当時、往生の対象としての彼岸世界を代表するのは、西方の彼方にあると信じられていた、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土でした。しかし、それに一元化されているわけではなく、観音菩薩の補陀落浄土・弥勒菩薩の兜率浄土・薬師仏の浄瑠璃世界・釈迦仏の霊山浄土などといった、多彩な他界浄土がありました。とはいえ、真実の世界たる彼岸の存在という確信は、どれも変わりませんでした。

 浄土往生に人生究極の価値を見出した平安時代後半以降の人々にとって、どうすればそれを実現できるのかが、最大の関心事でした。法然の出現前には、念仏を唱えれば往生できるといった簡単な方法はなく、試行錯誤が続いていました。そうした中で、最も効果的と考えられていたのは、垂迹たる神への結縁でした。平安時代後半から急速に普及する仏教的コスモロジーにおいて、日本は此土のなかでも中心である天竺から遠く離れた辺土と位置づけられました。しかも、平安時代後半には末法の世に入った、と信じられていました。こうした中で、末法辺土の救済主として垂迹が注目されるようになります。垂迹たる神が平安時代後半以降の日本に出現したのは、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には浄土へ送り届けるためでした。そのため、垂迹のいる霊地・霊場に赴いて帰依することが、往生への近道と考えられました。

 仏との親密化・同体化にともない、日本の伝統的な神々は仏教の影響を受け、その基本的な性格が大きく変容していきます。上述したように、日本の神は、律令国家成立の頃より、定まった姿を持たず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在から、一つの神社に定住している存在と考えられるようになりました。律令国家は、天皇をつねに守護できるよう、神を特定の場所に縛りつけました。また、かつては定まった姿を持たない神が、9世紀になると、仏像にならって像を作られるようになります。このように、律令国家成立の頃よりの神の大きな変化として、可視化・定住化の進展が挙げられます。

 もう一つの神の重要な変化は「合理化」です。かつて神々が人間にたいして起こす作用は、しばしば「祟り」と呼ばれ、その時期と内容、さらにはどの神が祟りを下すのかさえ、人間の予知の範囲外とされました。祟りを鎮めるためには、いかに予測不能で非合理な命令でも、神の要求に無条件に従うしかありませんでした。しかし、平安時代半ば頃から、神と人間の関係は変容し始めます。たとえば、返祝詞の成立です。朝廷からの奉献された品々を納受とそのお返しとしての王権護持からは、もはや神が一方的に人間に服従を求める立場にはないことを示しています。神々は人間にとって「非合理的的」存在から「合理的」存在へと変容したわけです。神々の「合理化」は、神の作用を「祟り」から「罰」と表現するようになったことからも窺えます。罰は賞罰という組み合わせで出現する頻度が高く、賞罰の基準は神およびその守護者たる仏法にたいする信・不信でした。神が初めから明確な基準を示しているという意味で、罰と祟りは異質です。神が人間にたいして一方的に(しばしば「非合理」的な)指示を下す関係から、神と人間相互の応酬が可能な関係へと変容したわけです。こうした神々の「合理化」の背景として、本地垂迹説の定着にともなう神仏の同化がありました。本地垂迹説は、単に神と仏を結びつけるのではなく、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、現実世界に実在する神や仏や聖人とを結合する論理でした。救済を使命とする彼岸の仏(本地)と、賞罰権を行使する此土の神・仏・聖人(垂迹)という分類です。垂迹たる神は自らが至高の存在というわけではなく、仏法を広めるために現世に派遣されたので、その威力も神の恣意によるものではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきものでした。神の「合理化」はこうして進展しました。古代ローマでも、当初の神は「理不尽」で「非合理的な」存在でした。

 本地垂迹説の流布は、仏と神がタテの関係においてのみならず、ヨコの関係においても接合されたことを意味します。垂迹たる現世の神・仏・聖人の背後には本地たる仏・菩薩がいますが、その本地も究極的には全宇宙を包摂する唯一の真理(法身仏)に溶融するものと考えられていました。個々の神々も本質的には同一の存在というわけです。法身仏の理念は、「神々の下剋上」的風潮において、完全な無秩序に陥ることを防ぐという、重要な機能を果たしました。仏教的な世界像では、現実世界(娑婆世界)の中心には須弥山がそびえ、その上空から下に向かって、梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や仏像が位置づけられていました。日本の神は聖なる存在とはいっても、世界全体から見ればちっぽけな日本列島のごく一部を支配しているにすぎません。また、こうした序列のなかで、仏教や日本の神祇信仰だけではなく、道教の神々も取り入れられ、その順位は日本の神仏よりも上でした。それは、道教的な神々が日本の神仏よりも広範な地域を担当していたからでした。中世の神々の秩序においては、仏教から隔離された純粋な神祇世界に、相互の結合と神々の位置を確認するための論理は見出されませんでした。中世において、日本の神々は仏教的世界観の中に完全に身を沈めることで初めて、自らの安定した地位を占められました。こうして、天照大神を頂点とする強く固定的な上下の序列の古代から、神々が横一線で鎬を削りつつ、仏教的な世界観に組み入れられ、ゆるやかに結合した中世へと移行します。


 こうした古代から中世への思想状況の変容を背景に、本書は古代と中世の神国思想の論理構造と違いを解説していきます。『日本書紀』に初めて見える神国観念は、神国内部から仏教などの外来要素をできるだけ排除し、神祇世界の純粋性を確保しようとする指向性を有している、イデオロギー的色彩の濃厚なものでした。これには、新羅を強く意識した創作という側面も多分にあります。一方、院政期の頃より、神の国と仏の国の矛盾なき共存を認める神国観念が浮上します。仏教の土着化と本地垂迹説の普及を背景として、神仏が穏やかに調和する中世的な神国思想の出現です。

 『日本書紀』の時点では神国観念はそれほど表面に出ておらず、神国という用語が初めてまとまりをみって出現するのは9世紀後半で、その契機は新羅船の侵攻でした。古代の神国思想は、新羅を鏡とすることで確定する領域でした。その後、平安時代中期に日本の観念的な領域(東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡の範囲内)が確定し、神国もこの範囲に収まりました。この範囲は、後に東方が「外が浜」へ、西方が「鬼界が島(現在の硫黄島?)」へと移動(拡大)したものの、基本的にはずっと維持されました。もっとも、これらの範囲は近現代のような明確な線というよりは、流動的で一定の幅を有する面でした。また、こうした日本の範囲は、濃厚な宗教的色彩を帯びていました。この範囲を日本の前提として、奈良時代から9世紀後半までの神国観念は、天照大神を頂点とし、有力な神々が一定の序列を保ちながら、天皇とその支配下の国土・人民を守護する、というものでした。本書はこれを「古代的」神国思想と呼んでいます。古代的神国思想の特徴は、仏教的要素が基本的にはないことです。古代において、公的な場での神仏分離は徹底されており、むしろ平安時代になって自覚化・制度化されていきました。

 古代的神国観念から中世的神国観念への移行で注目されるのは、院政期の頃より日本を神国とする表現が急速に増加し始めることです。神国は、古代の神国思想では、天照大神を頂点とする神々により守護された天皇の君臨する単一の空間が、中世の神国思想では、個々の神々の支配する神領の集合体が想定されていました。また、古代では一体とされていた「国家」と天皇が中世には分離します。中世の神国思想の前提には、上述の本地垂迹説がありました。彼岸と此岸の二重構造的な世界観を前提とし、遠い世界の仏が神として垂迹しているから日本は神国なのだ、という論理が中世の神国思想の特色でした。つまり、古代の神国思想とは異なり、中世の神国思想では仏は排除されておらず、むしろ仏を前提として論理が構築されていました。

 その意味で、上述した、神国思想は平安時代後期から広まった仏教的世界観に基づく末法辺土意識を前提として、その克服のために説きだされた、との近現代日本社会における認識は根本的に間違っています。日本が末法辺土の悪国であることは、本地である仏が神として垂迹するための必要条件でした。神国と末法辺土は矛盾するわけでも相対立するわけでもなく、相互に密接不可分な補完的関係にありました。中世の神国思想は、仏教が日本に土着化し、社会に浸透することにより、初めて成立しました。

 また、中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識も妥当ではありません。まず、日本の神祇を仏教的世界観に包摂する論理構造の神国思想は、国土の神秘化と他国への優越を無条件に説くものではなく、むしろ普遍的真理・世界観と接続するものでした。また、釈迦も孔子や日本の神々や聖徳太子などと同様に他界から派遣された垂迹であって、本地仏とは別次元の存在でした。中世的神国思想は、日本とインド(天竺)を直結させ、中国(震旦)を相対化するものではありませんでした。本地垂迹説の論理は、娑婆世界(現世)の二地点ではなく、普遍的な真理の世界と現実の国土を結びつけるものでした。ただ、中世の神国思想に、日本を神聖化し、他国への優越を誇示する指向性があり、鎌倉時代後半からそれが強くなっていったことも否定できません。しかし本書は、神国思想が仏教的理念を下敷きにしていたことの意義を指摘します。

 日本は天竺・震旦とともに三国のうちの一国として把握され、日本が神国であるのは、たまたま仏が神として垂迹したからで、天竺と震旦が神でないのは、神ではなく釈迦や孔子が垂迹したからでした。そのため、日本の聖性と優越が強調されたとしても、それは垂迹の次元でのことでした。日本に肩入れする神仏は垂迹で、日本と敵対する国にも垂迹はいました。垂迹たちの背後には共通の真理の世界が存在し、その次元ではナショナリズム的観念には意味がありませんでした。中世の僧侶が日本を礼賛して日本の神仏の加護を願いつつ、たびたび震旦・天竺行きを志したのも、本地垂迹説の「国際的な」世界観が前提としてあったからでした。上述した、『神皇正統記』における、日本神国で他国(異朝)とは異なる、との主張も、単純に日本の優越性を説いたものではなく、本地としての仏が神として垂迹し、その子孫が君臨しているという意味での「神国」は日本だけだ、と主張するものでした。『神皇正統記』では、日本賛美傾向もあるものの、日本が広い世界観の中に客観的に位置づけられており、その日本観はかなりの程度客観的です。


 中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識は、中世的神国思想がどのような社会的文脈で強調されたのか、との観点からも間違っています。中世において神国思想がある程度まとまって説かれる事例としては、院政期の寺社相論・鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃・モンゴル襲来があります。すでにモンゴル襲来前に、「対外的」危機を前提とせずに、中世的神国思想が強調されていたわけです。中世において、神仏が現実世界を動かしているとの観念は広く社会に共有されており、寺社勢力が大きな力を振るったのはそのためでした。院政期に集中的に出現する神国思想は、国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるため、院とその周辺を中心とする支配層の側から説かれたものでした。神国思想の普遍性が活かされているのではないか、と私は思います。

 いわゆる鎌倉新仏教、中でも法然の唱えた専修念仏は、伝統仏教側から激しく執拗な弾圧を受けました。そのさい、しばしば神国思想が持ち出されました。専修念仏者が念仏を口実として明神を敬おうとしないのは、「国の礼」を失する行為で神の咎めに値する、と伝統仏教側は糾弾しました。神々の威光は仏・菩薩の垂迹であることによるのだから、神々への礼拝の拒否は「神国」の風儀に背く、というわけです。末法辺土の日本では存在を視認できない彼岸の仏を信じるのは容易ではないので、末法辺土の日本に垂迹して姿を現した神々・聖人・仏像などへの礼拝が必要とされました。伝統仏教側は、神々の「自由競争」・「下剋上的状況」のなか、礼拝・参詣により人々の関心を垂迹たる神々や仏像のある霊場に向けさせようとしました。しかし法然は、念仏により身分・階層に関わりなく本地の弥陀の本願により極楽往生できる、と説きました。誰もが、彼岸の阿弥陀仏と直接的に縁を結べるのであり、彼岸と此岸を媒介する垂迹は不要どころか百害あって一利なしとされました。法然の思想には本来、現実の国家・社会を批判するような政治性はありませんでしたが、荘園支配のイデオロギー的基盤となっていた垂迹の権威が否定されたことは、権門寺社にとって支配秩序への反逆に他ならず、垂迹の否定は神国思想の否定でもありました。そのため、専修念仏は支配層から弾圧されました。

 モンゴル襲来の前後には、神々に守護された神国日本の不可侵を強調する神国思想が広く主張されました。本書はこれを、ナショナリズム的観念の高揚というより、荘園公領体制下で所領の細分化による貧窮化などの諸問題を、神国と規定してモンゴル(大元ウルス)と対峙させることで覆い隠そうとするものだった、と指摘しています。院政期の寺社相論や鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃で見られたように、中世の神国思想はモンゴル襲来よりも前に盛り上がりを見せており、対外的危機を前提とはしていませんでした。寺社相論も鎌倉新仏教への弾圧もモンゴル襲来も、権門内部で完結する問題ではなく、国家秩序そのものの存亡が根底から揺らぐような問題だったため、神国思想が持ち出された、と本書は論じます。中世において、国家全体の精神的支柱である寺社権門の対立は、国家体制の崩壊に直結しかねない問題でした。専修念仏の盛り上がりも、寺社権門の役割を否定するものという意味で、国家的な危機と認識されました。もちろん、モンゴル襲来はたいへんな国家的危機で、支配層たる権門の再結集が図られるべく、神国思想が強調されました。イデオロギーとしての神国思想はむしろ、内外を問わず、ある要因がもたらす国家体制の動揺にたいする、支配層内部の危機意識の表出という性格の強いものでした。

 神国思想は本来、日本を仏の垂迹たる神々の鎮座する聖地と見る宗教思想でしたが、支配層の総体的危機において力説されたように、政治イデオロギーの役割も担わされました。すべての権力が天皇に一元化していく古代とは異なり、中世社会の特色は権力の分散と多元化にありました。多元的な権力から構成される社会において、諸権門をいかに融和させるかが重要な課題となり、神国思想もそうした中世の国家体制を正当化するイデオロギーとして支配層から説きだされた、と本書は推測しています。神国思想が強調されたのは、個別の権門が危機に陥った時ではなく、国家秩序全体の屋台骨が揺らいでいるような時でした。ただ、中世、とくに前期においては、神国思想は民衆を支配するイデオロギーとして強く機能したわけではありませんでした。中世の民衆を束縛した理念は、荘園を神仏の支配する聖なる土地とする仏土・神領の論理だった、と本書は推測しています。国思想は、じっさいの海外交渉ではなく支配層の危機意識の反映だったので、抽象的でした。その背景となる仏教的世界観自体がきわめて観念的性格の強いものだったので、神国思想はなおさら抽象的にならざるを得ませんでした。天竺・震旦・日本から構成される三国世界との認識も観念的で、日本仏教との関わりの強い朝鮮半島が欠落していました。


 本書は次に、神国思想における天皇の占める位置の変遷を解説します。古代では天皇は神国思想の中核的要素でしたが、中世の神国思想では天皇の存在感は希薄です。古代の神国思想は天皇の安泰を目的としましたが、中世では、天皇は神国維持の手段と化し、神国に相応しくない天皇は速やかに退場してもらう、というのが支配層の共通認識でした。その前提として、天皇の在り様の変化があります。律令国家の変容にともない、天皇の在り様も大きく変わります。天皇の政治権力は失墜しますが、形式上は最高次の統治権能保有者たる「国王」であり続けました。それは、他の権力では代替できない権威を天皇が有していたからでした。それに関しては、大嘗祭に象徴される古代から現代まで一貫する権威があった、という説と、即位灌頂のような仏教的儀式に代表される、それぞれの時代に応じた権威があった、という説が提示されています。

 一方、院政期になると天皇がさまざまな禁忌による緊縛から解き放たれて、神秘性を失ってしまう、との見解もあります。天皇は現御神の地位から転落した、というわけです。天皇は、より高次の宗教的権威である神仏の加護なくして存立し得ず、罰を受ける存在でもある、との観念も広く見られるようになりました。つまり、天皇の脱神秘化が進み、天皇はもはや内的権威で君臨できなくなったので、即位灌頂のような新たな仏教的儀式に見られるように、外的権威を必要としたのではないか、というわけです。しかし本書は、天皇に対する仮借なき批判が一般的だったことから、新たな儀式の効果には限界があった、と指摘します。そもそも、即位灌頂は秘儀とされていて、特定の皇統で行なわれていただけで、よく知られていませんでした。即位灌頂き一般的な天皇神秘化の儀式ではなく、特定の皇統による自己正当化の試みの系譜ではないか、と本書は指摘しています。

 古代の神国思想は天皇の存在を前提として正当化することが役割でした。神々の守るべき国家とは天皇でした。中世には、国家的寺社が自立し天皇は権門の一員となりました。しかし、分権化の進行する中世において、とくに体制総体が危機にある時は、天皇が諸権門の求心力の焦点としての役割を果たすには、ある程度聖別された姿をとることが必要でした。古代には天皇が神孫であることは天皇個人の聖化と絶対化に直結していましたが、中世には神孫であることは即位の基礎資格でしかなく、天皇の終生在位を保証しませんでした。これは、中世には古代と異なり、天皇の観念的権威の高揚が天皇個人の長久を目的としておらず、国家支配維持の政治的手段だったことと密接に関連しています。そのため天皇が国王としての立場を逸脱したとみなされた場合は、支配層から批判され、交代が公然と主張されました。天皇は中世には体制維持の手段と化したわけです。古代には国家とは天皇そのものでしたが、中世の国家概念には国土や人民といった要素が含まれるようになり、国家はより広い支配体制総体を指す概念となりました。神孫であることだけでは天皇位を維持できないので、中世の天皇は徳の涵養を強調する場合もありました。

 より高次の宗教的権威が認められ、個人としては激しく批判されることもあった天皇が必要とされ続けたのは、一つには、神代からの伝統と貴種を認められた天皇に代わるだけの支配権力結集の核を、支配層が用意に見つけられなかったからです。権力の分散が進行する中世において、混乱状況の現出を防ぐために、権門同士の調整と支配秩序の維持が重要な課題として浮上しました。天皇が国家的な位階秩序の要を掌握していたのは、単に伝統だからではなく、支配層全体の要請でもありました。したがって、天皇位の喪失は、天皇家という一権門の没落にとどまらず、支配層全体の求心力の核と、諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味していました。既存の支配秩序を維持しようとする限り、国王たる天皇を表に立てざるを得ないわけです。そのため、体制の矛盾と危機が強まるほど、天皇の神聖不可侵は反動的に強調されねばならず、故にそうした時には神国思想も強調されました。

 天皇が必要とされたもう一つの理由は、中世固有の思想状況です。中世では地上の権威を超える権威たる本地仏が広く認められていたので、天皇ではない者が本地仏と直接結びつく可能性もありました。日蓮や専修念仏には、そうした論理の萌芽が認められ、天皇家と運命共同体の公家にとって、天皇に取って代わる権威は絶対に認められないので、新興仏教に対抗するために天皇と神国を表に出しました。武家政権も、中世前期においては荘園体制を基盤とし、垂迹たる神仏への祈祷に支えられていたので、垂迹を経由せず彼岸の本仏と直接結びつくような、日蓮や専修念仏の信仰を容認できませんでした。武家政権が神国思想を否定することは、鎌倉時代の段階では不可能でした。


 このように、神国思想は固定化された理念ではなく、歴史の状況に応じて自在に姿を変えてきました。神国思想はしばしば、普遍世界に目を開かせ、非「日本的」要素を包摂する論理としても機能しました。「神国」の理念を現代に活かすのであれば、安易に過去の「伝統」に依拠せず、未来を見据え、世界を視野に収めてその中身を新たに創造していく覚悟が求められます。日本を神国とみなす理念は古代から近現代に至るまでいつの時代にも見られましたが、その論理は時代と論者により大きな隔たりがありました。その背景には、神国思想の基盤となる神観念の変貌とコスモロジーの大規模な転換がありました。モンゴル襲来以降の神国思想も、決して手放しの日本礼賛論ではありませんでした。中世の神国思想の骨格は、他界の仏が神の姿で国土に垂迹している、という観念にありました。普遍的存在である仏が神の姿で出現したから「神国」というわけです。インド(天竺)や中国(震旦)が神国ではないのは、仏が神以外の姿をとって現れたからでした。

 現実のさまざまな事象の背後における普遍的な真理の実在を説く論理は、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじみません。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越の主張ではなく、その独自性の強調でした。中世的な神国思想は、仏教的世界観と根本的に対立するのではなく、それを前提として初めて成立するものでした。中世的神国思想において、天皇はもはや中心的要素ではなく、神国存続のための手段でした。神国に相応しくない天皇は退位させられて当然だ、というのが当時の共通認識でした。中世的神国思想には普遍主義的性格が見られます。中世の思潮に共通して見られる特色は、国土の特殊性への関心とともに、普遍的世界への強い憧れです。現実世界に化現した神・仏・聖人への信仰を通じて、誰かもが最終的には彼岸の理想世界に到達できる、という思想的状況において、中世の神国思想は形成されました。

 中世後期(室町時代)以降、日本の思想状況における大きな変化は、中世前期(院政期・鎌倉時代)に圧倒的な現実感を有していた他界観念の縮小と、彼岸─此岸という二重構造の解体です。古代から中世への移行期に、現世を仮の宿と考え、死後の理想世界たる浄土への往生に強い関心を寄せる世界観が成立しました。しかし、中世後期には浄土のイメージが色褪せ、現世こそが唯一の実態との見方が広まり、日々の生活が宗教的価値観から解放され、社会の世俗化が急速に進展します。仏は人間の認知範囲を超えたどこか遠い世界にあるのではなく、現世の内部に存在し、死者が行くべき他界(浄土)も現世にある、というわけです。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、墓地に葬られ、子孫の定期的な訪れと読経を聞くことにある、とされました。神は彼岸への案内者という役割から解放され、人々の現世の祈りに耳を傾けることが主要な任務となりました。この大きな社会的変化は、江戸時代に完成します。このコスモロジーの大変動は、その上に組み上げられたさまざまな思想に決定的転換をもたらしました。彼岸世界の衰退は、垂迹の神に対して特権的地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招き、近世の本地垂迹思想は、他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、現世の内部にある等質な存在としての仏と神をつなぐ論理となりました。その結果、地上のあらゆる存在を超越する絶対者と、それが体現していた普遍的権威は消滅しました。中世において、現世の権力や価値観を相対化して批判する根拠となっていた他界の仏や儒教の天といった観念は、近世では現世に内在化し、現世の権力・体制を内側から支えることになりました。

 彼岸世界の後退という大きな変動が始まるのは14世紀頃で、死後の彼岸での救済ではなく、現世での充実した生が希求されるようになりました。もっとも、客観的事実としての彼岸世界の存在を強力に主張し、彼岸の仏の実在を絶対的存在とする発想は、中世を通じておもに民衆に受容されて存続しました。一向一揆や法華一揆は、他界の絶対的存在と直結しているという信念のもと、現世の権力と対峙しましたが、天下人との壮絶な闘争の末に、教学面において彼岸表象の希薄な教団だけが正統として存在を許されました。江戸時代にはすべての宗教勢力が統一権力に屈し、世俗の支配権力を相対化できる視点を持つ宗教は、社会的な勢力としても理念の面でも消滅しました。神国思想も、近世には中世の要素を強く継承しつつも、大きく変わりました。近世の神国思想では、本地は万物の根源ではなく「心」とされました。本地は異次元世界の住人ではなく、人間に内在するものとされました。また、近世の神国思想では、垂迹は浄土と現世を結ぶ論理とは認識されておらず、中世の神国思想の根底をなした遠い彼岸の観念は見られません。近世の神国思想では、本地垂迹は他界と現世とを結ぶのではなく、現世における神仏関係となっていました。

 中世的神国思想の中核は、他界の仏が神として日本列島に垂迹している、という理念でした。現実の差別相を超克する普遍的真理の実在にたいする強烈な信念があり、それが自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する役割を果たしていました。しかし、中世後期における彼岸表象の衰退にともない、諸国・諸民族をともかくも相対化していた視座は失われ、普遍的世界観の後ろ盾を失った神国思想には、日本の一方的な優越を説くさいの制約は存在しませんでした。じっさい、江戸時代の神道家や国学者は、神国たる日本を絶賛し、他国にたいする優越を説きました。中世的な神国思想では日本の特殊性が強調されましたが、近世の神国思想では、日本の絶対的優位が中核的な主張となりました。

 古代においても中世前期においても、神国思想には制約(古代では神々の整然たる秩序、中世では仏教的世界観)があり、自由な展開には限界があった、という点は共通していました。しかし、近世においては、権力批判に結びつかない限り、神国思想を制約する思想的条件はありませんでした。近世には、思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し、独立しました。近世の神国思想は多様な人々により提唱され、日本を神国とみなす根拠も、さまざまな思想・宗教に基づいていました。共通する要素は、現実社会を唯一の存在実態とみなす世俗主義の立場と強烈な自尊意識です。近世の神国思想の重要な特色としては、中世では日本=神国論の中心から排除されていた天皇が、再び神国との強い結びつきを回復し、中核に居座るようになったことです。中世において至高の権威の担い手は、超越的存在としての彼岸の本地仏でした。中世後期以降、彼岸のイメージが縮小し、中世には天皇を相対化していた彼岸的・宗教的権威が後退していきます。近世の神国思想において、本地垂迹の論理は神国を支える土台たり得ず、日本が神国であることを保証する権威として、古代以来の伝統を有する天皇が持ち出されました。

 明治政府は神国=天皇の国という近世の神国思想の基本概念を継承しますが、神仏分離により、外来の宗教に汚されていない「純粋な」神々の世界のもと、神国思想を再編しました。近代の神国理念には、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を許容する余地はなく、中世の仏教的世界観も、近世の多様な思想・宗教も排除されました。天皇を国家の中心とし、「伝統的な」神々が守護するという現代日本人に馴染み深い神国の理念は、こうした過程を経て近代に成立しました。近代の神国思想には、日本を相対化させる契機は内在されていませんでした。独善的な意識で侵略を正当化する神国思想への道が、こうして近代に開かれました。

 現代日本社会における神国思想をめぐる議論について、賛否どちらの議論にも前提となる認識に問題があります。日本=神国とする理念自体は悪ではなく、議論を封印すべきではありません。自民族を選ばれたものとみなす発想は時代を問わず広範な地域で見られ、神国思想もその一つです。排外主義としてだけではなく、逆に普遍的世界に目を開かせ、外来の諸要素を包摂する論理として機能したこともありました。神国思想は日本列島において育まれた文化的伝統の一つで、その役割は総括すべきとしても、文化遺産としての重みを正しく認識する義務があります。一方、神国思想を全面的に肯定する人々には、他者・他国に向けての政治的スローガンにすべきではない、と本書は力説します。そうした行為は、神国という理念にさまざまな思いを託してきた先人たちの努力と、神国が背負っている厚い思想的・文化的伝統を踏みにじる結果になりかねません。神国思想は、一種の選民思想でありながら、一見すると正反対な普遍主義への指向も内包しつ、多様に形を変えながら現代まで存続してきました。仏教・キリスト教・イスラム教などが広まった地域では、前近代において、普遍主義的な世界観が主流を占めた時期があります。宇宙を貫く宗教的真理にたいする信頼が喪失し、普遍主義の拘束から解放された地域・民族が、自画像を模索しながら激しく自己主張をするのが近代でした。自尊意識と普遍主義が共存する神国思想に関する研究成果は、方法と実証両面において、各地域における普遍主義と自民族中心主義の関わり方と共存の構造の解明に、何らかの学問的貢献ができる、と予想されます。


 以上が親本の内容となり、以下が文庫版の追加分となります。本書執筆の背景には、異形のナショナリズムと排他主義の勃興、大規模な汚染や大量破壊兵器といった近代が生み出した問題にたいする危機意識がありました。文庫版では、親本よりもこの問題意識が強く打ち出されています。近代化の延長線上にある現代の危機的状況の解決・克服には、近代そのものを相対化できる視座が不可欠で、それは前近代にまで射程を延ばしてこそ可能ではないか、というのが本書の見通しです。以下、親本での内容とかなり重なりますが、文庫版の追加分について備忘録的に取り上げていきます。


 中世には機能の異なる二種類の仏がいました。一方は、生死を超越した救済に民族(的概念に近い分類)・国の別なく衆生を導く普遍的存在で、姿形を持ちません。もう一方の仏は、具体的な形を与えられた仏像で、日本列島の住民を特別扱いし、無条件に守護する存在です。日本の仏は人々を彼岸(他界)の本仏に結縁させる役割を担っていますが、それ自体が衆生を悟りに到達させる力は持ちません。日本に仏教が導入された当初の古代において、死後の世界たる浄土は現世と連続しており、容易に往来できました。このような仏教受容は、人間が神仏や死者といった超越的存在(カミ)と同じ空間を共有する、という古代的なコスモロジーを背景としていました。

 こうした古代的な一元的世界観は、10~12世紀に転換していきます。超越的存在にたいする思弁が深化して体系化されるにつれてその存在感が増大し、その所在地が現世から分離し始めます。人間の世界(現世)から超越的存在の世界(他界)が自立して膨張します。この延長線上に、現世と理想の浄土が緊張感をもって対峙する二元的な中世的コスモロジーが成立します。至高の救済者が住む他界こそが真実の世界とされ、現世は他界に到達するための仮の宿という認識が一般化しました。言語や肌の色の違いを超えて人々を包み込む普遍的世界が、現実の背後に実在すると広く信じられるようになりました。日本の神や仏像など、現世に取り残されたカミは、衆生を他界に導くために現世に出現した、彼岸の究極の超越的存在(本地仏)の化現=垂迹として位置づけられました。

 日本では古代から中世においてこのようにコスモロジーが転換し、仏教、とりわけ浄土信仰が本格的に受容されます。教理として論じられてきた厭離穢土欣求浄土の思想や生死を超えた救済の理念が、閉じられた寺院社会を超えて大衆の心をつかむ客観的情勢がやっと成熟したわけです。仏教や浄土教が受容されたから彼岸表象が肥大化したのではなく、他界イメージの拡大が、浄土信仰本来の形での受容を可能にしました。コスモロジーの変容が仏教受容の在り方を規定する、というわけです。現世を超えた個々人の救済をどこまでも探求する「鎌倉仏教」誕生の前提には、こうした新たなコスモロジーの形成がありました。このコスモロジーの転換の要因について、本書は人類史の根底にある巨大な潮流を示唆していますが、いずれ本格的に論じたい、と述べるに留まっています。

 神国がしきりに説かれるようになる中世は、多くの人が現世を超えた心理の世界を確信していた時代でした。日本の神は仏(仏像)と同じく、それ自体が究極の真理を体現するのではなく、人々を他界に送り出すことを最終的な使命として、現世に出現=垂迹した存在でした。神の存在意義は衆生を普遍的な救済者につなぐことにあったわけです。こうした世界観では、現世的存在で、他界の仏の垂迹にすぎない神に光を当てた神国の論理は、他国を見下し、日本の絶対的な神聖性と優位を主張する方向らには進みませんでした。神に託して日本の優越性が主張されるのは、世俗的な水準の問題に限られており、真実の救済の水準では、国や民族(的概念に近い分類)といった修行者の属性は意味を失いました。中世の神国思想は普遍的な世界観の枠組みに制約されていたわけです。日本が神国であるのは、彼岸の仏がたまたま神という形で出現したからで、インド(天竺)はそれが釈迦で、中国(震旦)はそれが孔子や顔回といった学者(聖人)だったので、神国とは呼ばれませんでした。

 中世的なコスモロジーは14~16世紀に大きく転換していきます。不可視の理想世界にたいする現実感が消失し、現世と他界という二元的世界観が解体し、現世が肥大化していきます。人々が目に見えるものや計測できるものしか信じないような、近代へとつながる世界観が社会を覆い始めます。生死を超えた救済に人々を誘う彼岸の本地仏の存在感は失われ、現世での霊験や細々とした現世利益を担当する日本の神や仏像の役割が増大し、日本と外国を同次元においたうえで、日本の優位を主張するさまざまな神国思想が近世(江戸時代)には登場します。

 近世的神国思想では、背景にあった普遍主義の衰退にも関わらず、日本優位の主張が暴走することはありませんでした。その歯止めになっていたのは、一つには身分制でした。国家を果実にたとえると、身分制社会は、ミカンのようにその内部に身分や階層による固定的な区分を有しており、それが国家権力により保証されています。一つの国家のなかに利害関係を異にする複数の集団が存在し、国家全体よりも各集団の利害の方が優先されました。モンゴル襲来にさいして神国観念が高揚した中世においても、モンゴルと対峙した武士勢力に純粋な愛国心があったわけではなく、自らが君臨する支配秩序の崩壊にたいする危機意識と、戦功による地位の上昇・恩賞が主要な動機でした。自分の地位に強い矜持を抱き、命をかけてそれを貫こうとする高い精神性はあっても、愛する国土を守るために侵略者に立ち向かうといった構図は見当たらず、それが中世人の普通の姿でした。愛国心がないから不純だと考えるのは、近代的発想に囚われています。中世の庶民層でも国家水準の発想は皆無で、モンゴル襲来は、日本の解体につながるからではなく、日常生活を破壊するものとして忌避されました。

 近代国家は、内部が区分されているミカン的な近世社会から、一様な果肉を有するリンゴ的社会へと転換しました。近代国家は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。神国日本は悠久の伝統を有する神としての天皇をいただく唯一の国家なので、他国と比較を絶する神聖な存在であり、その神国の存続と繁栄に命を捧げることが日本人の聖なる使命とされました。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国日本の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。第二次世界大戦での敗北により状況は一変しましたが、ナショナリズムを制御する役割を果たす基本ソフト(コスモロジー)が欠けているという点では、現在も変わりません。

 社会の軋轢の緩衝材としてのカミが極限まで肥大化し、聖職者によりその機能が論理化され、普遍的存在にまで高められたのが中世でした。現世の根源に位置する超越者は、民族・身分に関わりなく全員を包み込む救済者でした。近代化にともなう世俗化の進行とカミの世界の縮小により、人間世界から神仏だけではなく死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間同士が直に対峙する社会が出現しました。近代社会は、人間中心主義を土台としていたわけです。この人間中心主義は基本的人権の拡大・定着に大きな役割を果たしましたが、社会における緩衝材の喪失も招きました。人間の少しの身動きがすぐに他者を傷つけるような時代の到来です。現在の排他的な神国思想は、宗教的装いをとっていても、社会の世俗化の果てに生まれたもので、その背後にあるのは、生々しい現世的な欲望と肥大化した自我です。自分の育った郷土や国に愛情と誇りを抱くのは自然な感情ですが、問題はその制御です。現在の危機が近代化の深化のなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長い射程のなかで、文化・文明を再考することが必要です。これは、前近代に帰れとか、過去に理想社会が実在したとかいうことではなく、近代をはるかに超える長い射程のなかで、近現代の歪みを照射することが重要だ、ということです。


 以上、本書の見解について備忘録的に詳しく取り上げてきました。そのため、かなりくどくなってしまったので、改めて自分なりに簡潔にまとめておきます。神国思想は、神としての天皇を戴く日本を神国として、他国に対する絶対的優位を説いた、(偏狭な)ナショナリズムで、鎌倉時代のモンゴル襲来を契機に盛り上がりました。平安時代後期~モンゴル襲来の頃まで、日本は釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、という末法辺土思想が日本では浸透しており、神国思想は神道的優越感による仏教的劣等感の克服でした。

 本書は、このような近現代日本社会における(おそらくは最大公約数的な)神国思想認識に疑問を呈し、異なる解釈を提示します。神国思想は、古代・中世・近世・近現代で、その論理構造と社会的機能が大きく変容しました。古代のコスモロジーは、人間が神仏や死者といった超越的存在と同じ空間を共有する、というものでした。しかし、古代の神は人間にとって絶対的で理不尽な存在で、人間には祟りをもたらし、予測不能で非合理的な命令をくだしました。また、古代の神は一ヶ所に定住せず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在でした。これも、古代の神の人間にとって理不尽ではあるものの、絶対的存在でもあったことの表れなのでしょう。古代の神は氏族に占有されており、広く大衆に開かれているわけではありませんでした。しかし、律令国家形成の頃より、次第に神は一ヶ所に定住する傾向を強めていきます。中央集権を志向した律令国家により、神々も統制されていくようになったわけです。このなかで、皇祖神たる天照大神を頂点とする神々の整然とした秩序が整備され、天皇は国家そのものとされ、神々が守護すべき対象とされました。古代的神国思想では、仏教的要素は極力排除され、天皇が中核的要素とされました。

 こうした整然とした古代的秩序は、律令制度の変容にともない、平安時代前期に大きく変わります。神社にたいする国家の経済的支援は減少し、神社は皇族や有力貴族・寺院などとともに、荘園の集積に乗り出し、経済的基盤を確立しようとします(荘園公領制)。この過程で、古代的な整然とした神々の秩序は崩壊し、神々の自由競争的社会が到来します。これが古代から中世への移行で、古代から中世への移行期を経て、中世にはコスモロジーも神国思想も大きく変容します。古代から中世への移行期に、神の立場が大きく変わります。かつては一ヶ所に定住せず、人間に祟り、理不尽な命令をくだす絶対的な存在だったのが、一ヶ所に定住し、人間の信仰・奉仕に応じて賞罰をくだす、より合理的存在となります。神の一ヶ所への定住は、集積された各所領の正当性の主張に好都合でした。また、仏像にならって神の像も作られるようになります。古代から中世への神の変化は、合理化・定住化・可視化と評価されます。

 さらに、仏教の浸透、神々の仏教への融合により、かつては人間と神などの超越的存在とが同じ空間を共有していたのに、超越的存在の空間としての彼岸の観念が拡大し、理想の世界とされ、現世たる此岸と明確に分離します。こうしたコスモロジーは、仏教信仰と教学の深化により精緻になっていきました。そこで説かれたのが本地垂迹説で、普遍的真理たる彼岸の本地仏と、その化現である垂迹としての神や仏(仏像)という構図が広く支持されるようになりました。古代において人間にとって絶対的存在だった神は、普遍的真理ではあるものの、あまりにも遠く、人間には覚知しにくい彼岸と、現世の存在たる人間とを結びつける、本地仏より下位の存在となりました。この垂迹は、天竺(インド)・震旦(中国)・日本という当時の地理的認識における各国では、それぞれ異なる姿で現れました。天竺では釈迦、震旦では孔子、日本では神々というわけです。日本が神国との論理は、中世においては、垂迹が神であるという意味においてであり、日本が天竺や震旦より優位と主張する傾向もありましたが、それは垂迹の水準でのことで、本質的な主張ではありませんでした。中世の神国思想は、仏教的世界観を前提とした普遍的真理に基づいており、モンゴル襲来のようなナショナリズム的観念の高揚を契機に主張されるようになったのではありませんでした。じっさい、中世において神国思想が盛んに説かれる契機となったのは、院政期の寺社相論と鎌倉時代のいわゆる新仏教(とくに専修念仏)排撃で、モンゴル襲来よりも前のことでした。このような中世的神国思想は、他国にたいする絶対的優位を説く方向には進みませんでした。また、中世には天皇の権威も低下し、神国思想において天皇は自身が守護の対象というより、体制維持の手段でした。

 しかし、神国思想の前提となるコスモロジーが変容すれば、神国思想自体も大きく変わっていきます。14世紀以降、日本では中世において強固だった彼岸─此岸の構造が解体していきます。彼岸世界の観念は大きく縮小し、此岸たる現世社会が拡大していき、人々が彼岸世界に見ていた普遍的真理も衰退していきます。こうした傾向は江戸時代に明確になり、ナショナリズム的観念の肥大を阻止していた普遍的真理が喪失されたコスモロジーにおいて、自国の絶対的優越を説く主張への歯止めはもはや存在していませんでした。江戸時代(近世)には、さまざまな思想・宗教的根拠で他国にたいする日本の絶対的優位が主張され、天皇がその中核となっていきました。しかし、身分制社会の近世において、身分や階層による固定的な区分の、利害関係を異にする複数の集団が存在していたため、国家全体よりも各集団の利害の方が優先され、神国思想の他国にたいする暴走に歯止めがかけられていました。近代日本は、近世の神国思想を継承しつつ、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を排除し、近現代日本社会における(最大公約数的な)神国思想認識が確立しました。近代日本は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国思想の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。


 短くと言いつつ、長くなってしまい、しかもさほど的確な要約にもなっていませんが、とりあえず今回はここまでとしておきます。神国思想の論理構造と社会的機能の変遷を、世界観・思想・社会的状況から読み解いていく本書の見解は、12年前にはたいへん感銘を受けましたし、今でもじゅうぶん読みごたえがあります。ただ、当時から、古代が一元的に把握されすぎているのではないか、と思っていました。もっとも、諸文献に見える思想状況ということならば、本書のような把握でも大過はない、と言えるのかもしれませんが。一向一揆などいわゆる鎌倉新仏教系と支配層との対立的関係が強調されすぎているように思われることも、気になります(関連記事)。戦国時代の天道思想(関連記事)と中世のコスモロジーとの整合的な理解や、今後の日本社会において神国思想はどう活かされるべきなのか、あるいは否定的に解釈していくべきなのかなど、まだ勉強すべきことは多々ありますし、今回はほとんど本書の重要と思った箇所を引用しただけになったのですが、今回は長くなりすぎたので、それらは今後の課題としておきます。

『卑弥呼』第20話「イサオ王」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年7月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが義母の教えを回想している場面で終了しました。巻頭カラーとなる今回は、鞠智彦(ククチヒコ)が暈(クマ)の国の以夫須岐(イフスキ)を訪れる場面から始まります。以夫須岐は、現在の鹿児島県指宿市と思われます。鞠智彦の配下の兵士たちは、倭人とは異なる顔つきの首が晒されているのを見て驚きます。従者のウガヤからこの首は何者なのか、尋ねられた鞠智彦は、はるか南方からの難民だ、どこも戦なのだ、と答えます。ウガヤから首が晒されている理由を問われた鞠智彦は、イサオ王は情け容赦のない人だからだ、と答えます。

 山社(ヤマト)では、ミマト将軍の息子でイクメの弟であるミマアキが、クラトという男性と抱き合っていました。クラトはミマアキが戦場から生還したことを喜び、ミマアキは、恋しかった、と言います。しかしクラトは、ミマアキの言葉を疑っていました。ミマアキは日見子(ヒミコ)・日見彦(ヒミヒコ)の世話役に生まれついた身なので、本当は女の方が好きなのに自分を相手にしている、戦場ではこっそり女と寝ているのではないか、というわけです。私を信じろ、と言うミマアキに対してクラトは、現在の心配は日見子(ヤノハ)様だ、と言います。ヤノハはなかなか見目麗しいので、ミマアキが心を奪われてしまうのではないか、というわけです。日見子(ヤノハ)様は確かに美しいが、それはあり得ない、とミマアキは言います。日見子様は美しさを通り越して神々しいか、とクラトに問われたミマアキは、恐ろしいお方からだ、と答えます。ミマアキはクラトに、山社の祈祷女(イノリメ)の長であるイスズと副長のウズメがどこかに向かう様子を見るよう促します。ミマアキは二人がどこに向かうのか知りませんでしたが、日見子(ヤノハ)の命令であることは知っていました。クラトは、ヤノハを偽物の日見子と考えていたはずのイスズとウズメがヤノハの命に従っていることに驚きます。イスズとウズメは日見子様にあっという間に魂を奪われ、もはや日見子様の言うがままだ、とミマアキに説明を受けたクラトは、日見子(ヤノハ)様は恐ろしいお方だ、と呟きます。日見子様は頭脳明晰にして言葉巧みで、ケシの実の幻覚作用を実に上手く使う、とミマアキはクラトに説明します。何から何まで計算ずくか、と呟くクラトに、日見子様は頭が違う、とミマアキは言います。我々山社の兵はどうするのか、とクラトに問われたミマアキは、日見子様にかける、と宣言します。兵士が慌ただしくでる様子を見たミマアキが、父も日見子様に加勢するだろう、と予想すると、ミマト将軍はタケルを裏切るのか、とクラトは驚きます。

 以夫須岐では、鞠智彦がイサオ王と対面していました。イサオ王は50代くらいのようです。イサオ王にとって現在の悩みは、南方より多くの野蛮人が流れ着くのに、暈からは後漢に行けないことでした。イサオ王の居室には、1年前に後漢に派遣された使者の頭蓋骨が置かれています。使者は、亶州まではたどり着けたものの、夷州(台湾でしょうか)に着く前に海の藻屑と消えたようだ、とイサオ王は鞠智彦に説明します。会稽郡は鞠智彦たちが思っている以上に遠いようです。倭の統一のためには後漢への朝貢が必須なので、那を攻め落として韓(カラ)への航路を確保するしかない、とイサオ王は鞠智彦に説明します。鞠智彦は、那との戦のことでイサオ王に相談します。イサオ王は、自分の息子のタケルは足手まといか、と鞠智彦に尋ねます。鞠智彦の力でタケルを日見彦に仕立て上げたまではよかったものの、タケルは自分を真の生き神と勘違いしたようだな、荷が重かったか、とイサオ王は鞠智彦に確認します。鞠智彦は明確に返答しませんでしたが、イサオ王は、鞠智彦が自分の評価を肯定した、と判断したようです。イサオ王に新たな日見子(ヤノハ)について尋ねられた鞠智彦は、本物かは分からないものの、豪胆で頭が切れる、と答えます。新たな日見子を操れるか、とイサオ王に問われた鞠智彦は、分かりません、と答えます。イサオ王は、もし新たな日見子を操れるようなら、生かす道もある、と鞠智彦に言います。

 山社では、那軍との戦いで前線にいたはずの暈軍の兵士千人が山社に押し寄せる、との情報を聞いたミマト将軍が困惑していました。配下から、ミマト将軍が新たな日見子を擁立した、との噂が暈で流れており、日見彦たるタケル王の命により、山社に軍が派遣されるのだろう、と聞いたミマト将軍は、自分が謀反を起こしたというのか、といきり立ちます。暈の国境の警護を怠るとは愚かだ、と吐き捨てるように言うミマト将軍にたいして、現在那軍と対峙しているのはオシクマ将軍率いる僅かな兵のみで、もう一人のテヅチ将軍はタケル王と行動を共にしている、と報告します。ミマト将軍は、那のトメ将軍を侮ったな、これで暈軍の敗戦は濃厚と呟きます。父親であるミマト将軍に、イスズとウズメの動向を尋ねられたイクメは、ヤノハが本物の日見子であることをヒルメに伝えるために、二人とも夜中に、暈にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に向かった、と伝えます。するとミマト将軍は不敵な笑みを浮かべ、日見子殿は勝ったようだな、今すぐ会いたい、と娘のイクメに伝えます。

 その頃、タケル王が率いる軍は、険しい山中を進んでいました。行軍が止まった理由をタケル王から問われたテヅチ将軍は、夜通しの行軍で兵が疲れている、と答えます。すると、輿に乗っているタケル王は、自分はまったく疲れていないと言い、テヅチ将軍は困惑します。四大将軍の一人と言われるテヅチ将軍がこれほど弱気とは、那軍に手こずる理由がよく分かった、とタケル王は嘆息します。しかしテヅチ将軍は引き下がらず、百戦錬磨のミマト将軍が率いる難攻不落の山社を攻めるので、兵の英気を養うためにも時間が必要だ、とタケル王に進言します。するとタケル王は、戦にはならない、千人の兵で山社を囲むだけだ、ミマト将軍は呆気なく降参し、偽の日見子(ヤノハ)を差し出すだろう、と言います。テヅチ将軍が、とても信じられないといった様子で、そうでしょうか、と躊躇いつつ言うと、自分がそう言うのだからそうなる、とタケル王は自信満々に言います。タケル王はテヅチ将軍に、戦にはならないので小休止は不要、すぐに兵を進めよ、と命じます。タケル王は、父のイサオ王に見限られているように、日見彦として崇められるうちに自分を本当に神と認識し、万能感に囚われてしまったのでしょうか。

 山社の楼観では、ミマト将軍が日見子たるヤノハと対面し、タケル王が日見子殿の身柄を渡すよう攻めて来るそうです、と伝えます。つまり謀反人の汚名を着せられたわけですね、とヤノハに問われたミマト将軍は、そのようだ、と答え、覚悟を決めた表情で、タケル王が自分を信じないなら、もはや忠義には及ばない、とヤノハに言います。戦の準備を始めようとしたミマト将軍は、戦の結果をどう予測するのか、ヤノハに尋ねます。ヤノハは自信満々に、戦は起きない、自分が起きないといったら起きないのだ、と答えます。その起きない戦の勝敗はどうなるのか、とミマト将軍に問われたヤノハは、ミマト将軍の大勝利だ、と答えます。ミマト将軍は楼観から配下のオオヒコを呼び、戦の準備を命じます。ミマト将軍が、敵は日見子様に謀反を起こした逆賊のタケル王と力強く宣言し、ヤノハが不敵な笑みを浮かべているところで、今回は終了です。


 今回も、日見子と宣言したヤノハをめぐる人々の思惑が描かれました。ミマト将軍は恩人の鞠智彦を裏切るわけにはいかないと言って、ヤノハを日見子として擁立することにずっと消極的でした。しかし、娘のイクメに懇願され、逃亡を見逃す、というところまで妥協していたのですが、ヤノハが流した噂により追い詰められ、ヤノハを日見子として擁立し、決起する決断を下しました。ヤノハは、配下のヌカデを那軍のトメ将軍と接触させ、暈軍が手薄な隙に、那軍が大河(筑後川と思われます)を渡って暈軍を攻撃するよう、工作しています。暈軍が山社に到達する直前か直後に、那軍が暈軍を攻撃したとの報告が入り、暈軍は退却する、とヤノハは計画しているのでしょう。ここまでは、ヤノハの計画通り進んでいるように思います。

 しかし、今回初登場となったイサオ王はいかにも大物といった感じですし、それは鞠智彦も同様なので、ヤノハの計画通りに事態が進むわけではなさそうです。イサオ王は息子のタケル王が日見彦の器に相応しくないと考えており、ヤノハを操れるようなら、新たな日見子として認めることも想定しているようです。ただ、鞠智彦もそうですが、イサオ王は暈による倭国統一を考えているようですから、各国の独立と王の存在を認めようとしているヤノハとは、提携できそうにありません。もちろん、どちらかが妥協・従属する展開も考えられますが、ヤノハとイサオ王の人物造形からも、『三国志』からも、日見子(卑弥呼)たるヤノハと暈国(狗奴国)は対立を続けることになりそうです。

 今回初登場となるクラトは、ミマアキと恋愛関係にあります。単に、日見子・日見彦に仕える男は女との性交が禁止されている、ということを説明するだけのキャラかもしれませんが、モブ顔ではないので、あるいは今後重要な役割を担うかもしれません。同じく初登場で、ややモブ顔ながら注目されるのは、ミマト将軍の配下のオオヒコです。この名前は、四道将軍の一人である大彦命(孝元天皇の息子)を連想させます。百年振りに出現した真の日見子でありながら、ヤノハに殺されたモモソの名は倭迹迹日百襲姫命(孝霊天皇の娘)に由来するでしょうから、本作の人物は、『日本書紀』の天皇では第8代孝元天皇から第9代開化天皇の世代に相当しそうです。また、ミマアキという名前は、『日本書紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇、つまり第10代崇神天皇を想起させますから、いずれは、現在の主要人物が現在の奈良県、具体的には纏向遺跡一帯に移り、ヤマト王権を樹立するのではないか、と予想しています。まあ、私の予想的中立は低いので、もっとひねってくる可能性が高いかな、とも思いますが。現在の舞台は九州ですが、今回もイサオ王が後漢に言及したように、やがては日本列島に留まらず、アジア東部にまで拡大する壮大な話になりそうなので、今後の展開をたいへん楽しみにしています。

人間の活動が盛んな地域で雄だけの群れを形成するアジアゾウ

 アジアゾウの群れ形成に関する研究(Srinivasaiah et al., 2019)が公表されました。アジアゾウは絶滅が強く危惧されています。この研究は、耕作地で採餌するアジアゾウでは、青年期の雄だけの大規模な群れが複数年にわたって共同生活を続ける傾向にある、と明らかにし、この行動が危機に瀕した生息地で生き残るためのリスク管理戦略であるかもしれない、という見解を提示しています。また、この研究は、人間の活動が活発な地域に生息するアジアゾウの行動進化の解明は、人間とアジアゾウの衝突を減らし、絶滅危惧種のさらなる減少を防ぐために役立つかもしれない、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【保全】人間の活動が盛んな地域で雄だけの群れを形成するアジアゾウ

 絶滅が強く危惧されるアジアゾウについて、人間活動によって分断された陸域では、青年期の個体が雄だけの群れを形成していることが観察されたことを報告する論文が、今週掲載される。こうした雄ゾウの群れ形成は、人間と接触するリスクの高い地域において繁殖適応度を向上させるための適応行動だと論文の著者は推測している。

 Srinivasaiahたちは、耕作地で採餌する大規模な雄だけの群れが複数年にわたって共同生活を続ける傾向があることを明らかにし、この行動が危機に瀕した生息地で生き残るためのリスク管理戦略であるかもしれないという考えを示している。また、Srinivasaiahたちは、人間の活動が活発な地域に生息するゾウの行動の進化を解明することは、人間とゾウの衝突を減らし、絶滅危惧種のさらなる減少を防ぐために役立つかもしれないと考えている。



参考文献:
Srinivasaiah N et al.(2019): All-Male Groups in Asian Elephants: A Novel, Adaptive Social Strategy in Increasingly Anthropogenic Landscapes of Southern India. Scientific Reports, 9, 8678.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-45130-1

「外来」鳥類の新しい生息地での定着

 「外来」鳥類の新しい生息地での定着に関する研究(Redding et al., 2019)が公表されました。人間の活動により世界の姿が変わりつつある中で、外来種の個体群は増加の一途をたどり、その速度はますます高まっていて、外来種が在来種との競争に勝利して、在来種の絶滅につながることもあるなど、外来種の問題が深刻化しています。しかし、新たな場所で存続可能な個体群の確立に成功する外来生物と、それに失敗する外来生物がいる理由は、まだ明らかになっていません。

 この研究は、708種の鳥類が関係する4346件の移入事例から得られたデータを調べ、移入種の定着に役立つ最も重要な決定因子が環境要因であることを見いだしました。この環境要因には、それぞれの地域の気候や他の外来種の存在が含まれます。新しい生息地の気候条件にすでに前適応していた場合や、他の外来種がすでに定着していた場合には、外来種の定着能性が高く、一腹卵数や創始者の集団サイズなど他の要因はそれほど重要ではありませんでした。

 この知見は、現在の人為的な環境変化の軌跡が、将来の外来種の侵入を促進する可能性のきわめて高いことを示唆しています。国際貿易が拡大し、より多くの生物種が世界中を移動するにつれて、外来種が定着する機会が増えると考えられます。この研究は、外来種の移入による悪影響を防止または軽減するための管理プログラムの強化の必要性を強調しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【生態学】「外来」鳥類が新しい生息地での定着に成功する秘訣

 「外来種」の鳥類は、新しい生息地の環境条件が元の生息地の環境条件に似ていると、新しい生息地で生き残る可能性が非常に高くなることを明らかにした論文が、今週掲載される。今回の研究は、一部の外来種の繁栄を支援する条件についての重要な見識をもたらすものであり、将来の外来種の移入を阻止しようとする場合にも役立つと考えられる。

 人間の活動によって世界の姿が変わりつつある中で、外来種の問題が深刻化しており、外来種が在来種との競争に勝利して、在来種の絶滅につながることもある。しかし、繁栄する外来種と低迷する外来種が生じる理由は明らかになっていない。

 今回、Tim Blackburnたちの研究グループは、700種以上の鳥類が関係する4000件以上の移入事例から得られたデータを調べて、移入種の定着に役立つ最も重要な決定因子が環境要因であることを見いだした。この環境要因には、それぞれの地域の気候や他の外来種の存在が含まれる。新しい生息地の気候条件にすでに前適応していた場合や、他の外来種がすでに定着していた場合には、外来種が定着する可能性が高かった。他の要因、例えば、一腹卵数や創始者の集団サイズは、それほど重要でなかった。

 国際貿易が拡大し、より多くの生物種が世界中を移動するにつれて、外来種が定着する機会が増えると考えられる。Blackburnたちは、外来種の移入による悪影響を防止または軽減するための管理プログラムの強化が必要なことを強調している。


生態学:場所レベルの過程が全球において外来鳥類個体群の確立を促進する

生態学:鳥類の侵入に対する環境的制約

 外来種の個体群は増加の一途をたどり、その速度はますます高まっている。しかし、新たな場所で存続可能な個体群の確立に成功する外来生物と、それに失敗する外来生物がいる理由は、いまだ明らかにされていない。今回T Blackburnたちは、708種の鳥類による4346件の導入事象についての全球的なデータを調べ、導入の成功を左右する決定要因を評価した。その結果、外来個体群の確立の成功においては環境が最も重要な決定要因となることが明らかになった。つまり、環境条件が当該種の本来の生息域によく似ている場所で確立の成功率が最も高かったのである。同じく重要なのは他の外来種の存在で、すでに他の外来種集団が存在する場所では、新たな導入種の個体群確立の成功が促進されることが分かった。この知見は、現在の人為的な環境変化の軌跡が将来の外来種の侵入を促進する可能性が極めて高いことを示唆している。ホシムクドリ(Sturnus vulgaris)はヨーロッパ原産だが、現在では南アフリカ、ニュージーランド、北米など、世界各地に外来種として分布している。特に北米への導入は、この鳥がシェークスピアの作品に登場することが理由であった。



参考文献:
Redding DW. et al.(2019): Location-level processes drive the establishment of alien bird populations worldwide. Nature, 571, 7763, 103–106.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1292-2

昆虫の卵の独特な進化

 昆虫の卵の独特な進化に関する研究(Church et al., 2019)が公表されました。この研究は、昆虫の卵が、サイズに関するさまざまな進化理論を検証するための強力な系であることを明らかにしました。昆虫の卵は多様ですが、量的形質を用いれば、近縁関係にない系統間の比較も可能となります。この研究では、既発表の論文における昆虫の卵に関する記述(10449件)のデータベースがまとめられました。この昆虫のリストには526科6706種が含まれ、現在記述されている六脚目(昆虫とそれ以外の生物)が全て含まれています。最も大きな卵の体積は、最も小さな卵の10の8乗倍で、最も大きいのがブルーベリー大のセンチコガネ科の昆虫(Bolboleaus hiaticollis)の卵(豆粒サイズ)で、最も小さいものは小さ過ぎて人間の目には見えません。

 この研究は、発生期間、体のサイズまたは卵殻の推定「コスト」との進化的トレードオフ関係に関する先行仮説を検証し、昆虫の卵のサイズと形状を比較したところ、これらの仮説が当てはまらない、と明らかになりました。卵のサイズと形状は、単純に体サイズや発生速度と関係しているわけではなく、また単純なアロメトリー(相対成長)関係で表されるいかなるスケーリング則にも従っていない、というわけです。この研究は、発生期間が卵のサイズと無関係なことを明らかにし、その一方で、細胞の数や分布などの発生の他の特徴は、卵のサイズに応じて予測可能な法則で拡大縮小する可能性がある、との見解を提示しています。

 さらに、この研究は、水生環境での孵化への移行が、より小さな卵の進化と関連しており、托卵による孵化への移行がより小さく、より非対称的な卵の進化と関連していることを示す証拠も示しました。これらの知見は、最も見事な仮説でも膨大なデータという圧倒的な力の前では崩壊し得ることを示す華麗な一例で、複雑な生物システムが単純なアロメトリースケーリング則に従い得る、という考え方に異を唱えるものです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【進化発生生物学】昆虫の卵の独特な進化

 昆虫の卵のサイズと形状は、産卵の仕方と産卵場所の影響を受けているが、昆虫の体のサイズや発生速度には影響されないとする研究論文が、今週掲載される。

 今回、Cassandra Extavour、Samuel Churchたちの研究グループは、昆虫の卵が、サイズに関するさまざまな進化理論を検証するための強力な系であることを明らかにした。昆虫の卵は多様だが、量的形質を用いれば、近縁関係にない系統間の比較も可能となる。今回の研究では、既発表の論文における昆虫の卵に関する記述(1万件以上)のデータベースがまとめられた。この昆虫のリストには6700種以上、526科が含まれ、現在記述されている六脚目(昆虫とそれ以外の生物)が全て含まれている。最も大きな卵の体積は、最も小さな卵の10の8乗倍で、最も大きいのがブルーベリー大のBolboleaus hiaticollis(センチコガネ科の昆虫)の卵で、最も小さいものは小さ過ぎて人間の目には見えない。

 この研究グループは、発生期間、体のサイズまたは卵殻の推定「コスト」との進化的トレードオフ関係に関する先行仮説を検証した。昆虫の卵のサイズと形状を比較したところ、これらの仮説が当てはまらないことが判明した。この研究グループは、発生期間が卵のサイズと無関係なことを明らかにし、その一方で、細胞の数や分布などの発生の他の特徴は、卵のサイズに応じて予測可能な法則で拡大縮小する可能性があると考えている。さらに、この研究グループは、水生環境での孵化への移行が、より小さな卵の進化と関連しており、托卵による孵化への移行がより小さく、より非対称的な卵の進化と関連していることを示す証拠も発表した。


進化発生生物学:昆虫の卵のサイズと形状は発生速度ではなく生態によって進化する

進化発生生物学:アロメトリーではなく産卵生態と関連付けられた昆虫の卵のサイズ

 C Extavourたちは今回、文献の情報から昆虫の卵のサイズと形状に関するデータベースを作成し、生物のスケーリングについて広く行き渡っている考え方の検証を行った。その結果、卵のサイズと形状は、単純に体サイズや発生速度と関係しているわけではないことが明らかになった。卵のサイズと形状はまた、単純なアロメトリー(相対成長)関係で表されるいかなるスケーリング則にも従っていない。系統発生について適切に調整すると、卵のサイズと形状はいずれの場合も産卵の状況に支配されることが分かった。今回のデータベースは、出版された科学文献から収集した卵の形態に関する1万449件に及ぶ描写からなり、526科、6706種を網羅するとともに、これまでに記載されている全ての現生昆虫および非昆虫六脚類を含んでいる。これらの卵は、ムネアカセンチコガネの一種Bolboleaus hiaticollisの豆粒サイズの大きなものから、捕食寄生バチPlatygaster vernalisの塵サイズの微小なものまで、体積に8桁もの幅がある。今回の結果は、最も見事な仮説でも膨大なデータという圧倒的な力の前では崩壊し得ることを示す華麗な一例であり、複雑な生物システムが単純なアロメトリースケーリング則に従い得る、という考え方に異を唱えるものである。



参考文献:
Church SH. et al.(2019): Insect egg size and shape evolve with ecology but not developmental rate. Nature, 571, 7763, 58–62.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1302-4

線虫の神経系内の接続の全容

 線虫の神経系内の接続の全容に関する研究(Cook et al., 2019)が公表されました。神経系の構成要素がどのように接続されているか知ることは、神経系が機能する仕組みの理解に不可欠です。線虫は神経科学研究の重要なモデル生物で、過去の研究では、線虫の雄のいろいろな部分に関するコネクトームと雌雄同体の神経系に関する記述がありました。この研究は、一連の電子顕微鏡写真を用いて、線虫の一種(Caenorhabditis elegans)の両方の性(雄と雌雄同体)の完全な配線図を示し、この分野の研究を前進させました。次にこの研究は、これらの配線図を以前に発表された顕微鏡写真と組み合わせ、雌雄同体の神経系における接続の再構成を含む、線虫全体のコネクトームを生成しました。

 この研究の方法は、以前の研究で報告されたよりも多くの接続を同定でき、接続の物理的な大きさに基づいて、それぞれの接続の位置とその強度の間接的な尺度を示した。また、この研究は、接続の最大30%までが両性間に著しい強度差があると推測し、明らかになったコネクトームは、複数の個体の顕微鏡写真から構築されているため、コネクトームというコンセプトの作成と把握すべき点も指摘しています。この研究で得られた知見については、脳の機能が脳の構造からどのようにして生じたのか、理解しようとする試みが大きく一歩前進したことを示している、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【神経科学】線虫の神経系内の接続の全容が明らかになった

 線虫の一種Caenorhabditis elegansの成虫の両方の性(雄と雌雄同体)の神経系における接続の全容を示すマップが今週発表される。この新知見は、これまでに発表された線虫の神経マップ(コネクトーム)の中で最も完全なものであり、雌雄の神経系を比較することができる。このマップは、線虫の行動を担う神経回路の解読に役立つかもしれない。

 線虫は、神経科学研究の重要なモデル生物である。過去の研究論文には、線虫の雄のいろいろな部分に関するコネクトームと雌雄同体の神経系に関する記述があった。

 今回、Scott Emmonsたちの研究グループは、一連の電子顕微鏡写真を用いて線虫の雄の頭部の回路をマッピングすることにより、この分野の研究を前進させた。次にEmmonsたちは、これらのマップを以前に発表された顕微鏡写真と組み合わせて、雌雄同体の神経系における接続の再構成を含む線虫全体のコネクトームを生成した。Emmonsたちの方法は、以前の研究で報告されたよりも多くの接続を同定でき、Emmonsたちは、接続の物理的な大きさに基づいて、それぞれの接続の位置とその強度の間接的な尺度を示した。また、Emmonsたちは、接続の最大30%までが両性間に著しい強度差があると考えられるとし、今回の研究におけるコネクトームは、複数の個体の顕微鏡写真から構築されているため、コネクトームというコンセプトの作成ととらえるべき点も指摘している。

 同時掲載のDouglas Portman のNews & Views論文では、今回の研究で得られた知見は「脳の機能が脳の構造からどのようにして生じたのかを理解しようとする試みが大きく一歩前進したこと」を示していると述べられている。


神経科学:Caenorhabditis elegansの両方の性の個体全体のコネクトーム

Cover Story:ワームワイドウェブ:両方の性の C. elegansの神経系の完全なマッピング

 神経系の構成要素がどのように接続されているか知ることは、神経系が機能する仕組みの理解に不可欠である。今回S Emmonsたちは、線虫の一種であるCaenorhabditis elegansの両方の性(雄と雌雄同体)の完全な配線図を示している。この神経地図、つまりコネクトームは、影響力の大きかった1986年の文献を更新するもので、新たな電子顕微鏡画像と以前出版された電子顕微鏡画像から作られ、感覚入力から末端器官への出力まで線虫の全ての接続を含んでいる。この地図によって、各シナプスの位置を決定して、それぞれの接続の強さの間接的測定を、構成シナプスの物理的なサイズに基づいて割り当てられるようになった。また、この地図によって雄と雌雄同体を直接比較することができるようになり、著者たちは雄と雌雄同体の間で接続の約30%が大きく異なっている可能性があると見積っている。これら2つのコネクトームは、線虫の行動に関与する神経回路の特定に役立つはずである。



参考文献:
Cook SJ. et al.(2019): Whole-animal connectomes of both Caenorhabditis elegans sexes. Nature, 571, 7763, 63–71.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1352-7

HIV感染マウスに対する併用療法

 HIV感染マウスに対する併用療法に関する研究(Dash et al., 2019)が公表されました。現時点では、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染患者の治療は抗ウイルス薬の併用によっています。しかし、この治療法では完治に至らず、薬を一生飲み続けなければなりません。この研究は、HIVに感染したマウスの一群を対象として、HIVを標的とする併用療法を開発しました。この併用療法は、体内で抗ウイルス剤をゆっくりと放出させ、数日間にわたってウイルスの活動を抑制する方法と、CRISPR-Cas9による遺伝子編集技術を用いての、HIVに感染した細胞のDNAのうち、関連する部分の切断によるウイルスの遺伝コードの除去を組み合わせたものです。この併用療法による継続治療の結果、13匹のマウスのうち5匹は、HIVに感染した細胞/組織部位では、治療後最長5週間にわたって、HIV感染の兆候を示しませんでした。これに対して、いずれかの治療法を単独で受けたマウスからは、HIVが容易に検出されました。この結果は有望ですが、さらに、ウイルスリザーバーへの薬剤の送達を改善し、ウイルスの潜伏感染を特異的になくすための研究が計画されているそうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【感染症】HIV感染マウスに対するCRISPRを用いた併用療法

 長時間作用型の薬剤送達システムとCRISPR-Cas9による遺伝子編集技術を併用して、HIVに感染したマウスを治療したところ、その一部でHIVが検出されなくなったという報告が今週掲載される。2回の試験で、合計13匹のマウスがこの併用療法を受けたが、そのうちの5匹は、治療後最長5週間にわたってHIV感染の兆候を示さなかった。これに対して、いずれかの治療法を単独で受けたマウスからはHIVが容易に検出された。

 現在のところ、HIV感染患者の治療は抗ウイルス薬の併用によっている。しかし、この治療法では完治に至らず、薬を一生飲み続けなければならない。

 今回、Howard Gendelman、Kamel Khaliliたちの研究グループは、HIVに感染したマウスの一群を対象として、HIVを標的とする併用療法を開発した。この併用療法は、体内で抗ウイルス剤をゆっくりと放出させて数日間にわたってウイルスの活動を抑制する方法とHIVに感染した細胞のDNAのうちの関連する部分を切断してウイルスの遺伝コードを除去する方法を組み合わせたものだ。この併用療法による継続治療の結果、全体の約3分の1のマウスでHIVが検出不可能なレベルまで低下した。今回の研究では、これらのマウスをいくつかの手法で調べ、HIVに感染した細胞/組織部位で、治療後の5週間、HIVは検出されなかった。

 今回マウスで得られた結果は有望だが、この研究グループは、ウイルスリザーバーへの薬剤の送達を改善し、ウイルスの潜伏感染を特異的になくすためのさらなる研究を計画している。



参考文献:
Dash PK. et al.(2019): Sequential LASER ART and CRISPR Treatments Eliminate HIV-1 in a Subset of Infected Humanized Mice. Nature Communications, 10, 2753.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10366-y

ウェブリブログのリニューアル(追記有)

 ウェブリブログのリニューアルは先々月(2019年5月)に公表され(関連記事)、その後延期が告知されましたが(関連記事)、ついに昨日(2019年7月2日)実施されました。しかし、制限文字数の増加以外は私にとってほぼ全面的な改悪になっており、本当にうんざりさせられました。引っ越しも考えたくなるくらいですが、5000本以上の記事がありさすがに面倒なので、今後さらに改悪されない限りは、ウェブリブログに留まり続ける予定です。

 まず、カレンダーで土曜日が抜けています。今月でいえば、6・13・20・27日が抜けています。私にとっては実質的にさほど問題はありませんが、これはさすがにすぐ修正されるとは思いますが、大規模なリニューアルで作業が大変だったろうとはいえ、これにはがっかりしました。トラックバック機能の廃止は、ブログサービスではそれが主流となっているようなので、仕方のないところかな、と思います。私の使い方では、トラックバック機能がたいへん有用だったので、ひじょうに残念ではありますが(関連記事)。一方、当初は廃止が予告され、ユーザーの反対により復活することになった気持ち玉は、私にとっては廃止でも構わなかったのですが。

 把握していなかったことでは、ブログ表示があります。これまでスマホでは、PC版と同様に表示できていたのですが、スマホ仕様でしか表示されなくなり、記事の全文表示ができなくなりました。まあこれは、私にとってさほど問題にならないのですが、テーマ別で6記事しか表示されず、しかも全文表示ではないのは困ります。これまでは、テーマ別では500記事まで表示でき、そのうち最新10記事は全文表示だっただけに、検索が面倒となり、これは私にとって明らかに改悪でした。

 記事表示といえば、これまでブログ管理画面で過去の記事を修正するさい、1画面で最初の記事までたどりつけていたのに対して、リニューアル後は、1画面で最大1050記事分しかたどれないので、5000本以上の記事を掲載している私の場合、古い記事の修正に要するクリック回数が増えてしまい、まあこれは、まだ我慢できる改悪ですが。ブログ記事の投稿時間が管理画面でしか表示されないのも問題だと思いますが、これは今のところ、実用上さほど困っていません。月別表示の選択では、これまで開始月(私の場合は2006年6月)までさかのぼれたのに、リニューアル後は一覧で選択できるのが2011年4月までとなり、検索が不便となりました。ブログ記事投稿のさいに、テーマを一覧から選択できず、入力しなければならなくなったのも私にとって改悪で、今回のリニューアルには本当にうんざりさせられます。まあ、ブログサービスが継続となっただけでも、ありがたいと考えるべきなのでしょうか。


追記(2019年7月3日)
 スマホの表示に関しては私の関知外で、PC版と同様に表示できました。ブログ管理画面に関しては、以前と同様に全記事を表示できるようにしてもらいたいものですが、それはサーバに負荷がかかりすぎるということであれば、せめて以前のようにテーマ別に表示できるようにしてもらいたいものです。後は、私も勘違いしてしまいましたが、ブログ管理の投稿画面で、「保存する」を選択すると公開される仕様はたいへん紛らわしいと思います。「保存する」ではなく、「公開する」に訂正してもらいたいものです。

近藤修「ネアンデルタール恥骨成長分析の試み」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P133-138)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の恥骨(Os pubis)成長の分析について報告しています。

 内外側に長くかつ上下に平らな恥骨上枝(superior pubic ramus)は、ネアンデルタール人の特徴的な骨格形態の一つとして古くから報告されてきました。なお、ネアンデルタール人的特徴を有する43万年前頃のイベリア半島北部の集団には、こうしたネアンデルタール人の派生的特徴は見られないそうです(関連記事)。こうしたネアンデルタール人の恥骨形状が進化した理由については、機能的観点あるいは進化的観点から議論されてきましたが、妊娠・出産期間に生じるなんらかの制約と関連するという見解や、直立姿勢や二足歩行姿勢に関連するという見解などが提示されており、まだ明確ではないようです。個体成長変化の観点では、いくつかの未成人段階のネアンデルタール恥骨上枝が内外側方向に延長している、と報告されています。シリアのデデリエ(Dederiyeh)洞窟出土の幼児骨格(デデリエ1号人骨)にも恥骨が保存されており、その恥骨上枝は大腿骨の長さと比較して長く、ネアンデルタール人的な形質の一つとして報告されています。

 本論文は、この幼児恥骨形態を現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人の成長変化の枠組みのなかで評価します。そのため本論文はまず、恥骨形態の成長変化パターンを現代人コレクションより抽出しました。具体的には、さまざまな成長段階の、年齢・性別ともに既知の近現代日本人女性21個体および男性27個体です。このうち27個体は未成人です。次に本論文は、さまざまな成長段階の恥骨をマイクロCTでスキャンし、表面形状を解剖学的な相同点に基づく格子状の複数点座標により代表し、幾何学的形態測定法により形態変異を分析しました。その上で本論文は、ネアンデルタール人ではイスラエルのケバラ(Kebara)遺跡で発見された成人男性1個体(ケバラ2号)、現生人類ではイスラエルのスフール(Skhul)遺跡で発見された1個体(スフール4号)の化石模型を3次元スキャナーにてデジタル化し、ネアンデルタール人幼児1個体(デデリエ1号人骨)の幼児恥骨とともに、現代人サンプルの変異のなかで評価しました。

 本論文の標本は、現代人と「縄文人」と化石人骨から構成されます。現代人はさまざまな成長段階の、年齢・性別ともに既知の近現代日本人女性21個体および男性27個体の恥骨の形状が収集されました。このうち未成人が27個体含まれています。本論文は、これらの標本の恥骨部分をマイクロCTにて撮影し、3次元データを得ました。本論文は基本的に恥骨右側を用いましたが、恥骨結合面などの保存程度を考慮し、一部の標本は左側を用いた、とのことです。「縄文人」では、千葉県姥山貝塚と愛知県伊川津貝塚で発見された幼児標本2個体が用いられました。恥骨の大きさから3~5歳程度と推定されています。

 ネアンデルタール人の恥骨、とくに恥骨上枝の形態については、内外側に長くかつ上下に偏平であると古くから報告されており、現代人の骨盤の性差との関連が議論されてきました。現代人の骨盤の性差については、「出産ジレンマ」説で語られることが多い、と本論文は指摘します。同説では、当初、狭い骨盤がより適応的であるという直立二足歩行の進化と、幅広い骨盤がより効果的であるとするヒト進化における脳の大型化の間の「ジレンマ」として説明されましたが、その後、骨盤の性的二型を説明するものへと転用されました。より幅広い女性骨盤は、より大きな脳と体を持つ新生児を出産するさいに、リスクが少ない、というわけです。

 一方で、ネアンデルタール人の骨盤、とくに恥骨形態については、さまざまな解釈が提示されてきました。骨盤の内腔(産道を構成する部分)のサイズを拡大させるだろうという仮定に基づいて、妊娠期間や出産戦略ーに関連するとの見解や、出産ジレンマ説を発展させて、母親と出産児の体サイズ関係と性的二型に帰する見解や、移動や姿勢に関連する形質として考える見解が提案されてきました。未成人のネアンデルタール恥骨についても、恥骨上枝が内外側に長い、と報告されてきました。しかし、成長という観点で恥骨形態を論じたものはない、と本論文は指摘します。本論文は、こうした個体成長の観点から恥骨形態を分析し、現代人における性差とネアンデルタール人に特有な形態の関連を検証しました。

 本論文は平均形状からの個体変異を主成分分析し、第1主成分と第2主成分の得点をプロットしました。第1主成分は恥骨の内外側方向の変異を表し、第2主成分は上下方向の変異を表しています。性差は第1および第2主成分では表現されておらず、第3主成分で弱い性差が確認されました。本論文は、サイズ変化を取り除いた恥骨形態の成長変化の大部分には、性差が明確に現れないかもしれない、と指摘しています。また本論文は、成長にともなう形態変化を検証するため、中心サイズと第1主成分得点をプロットしました。横軸はサイズ変化を示し、それはほぼ成長軸だろう、と本論文は判断しています。この図からは、大きいサイズのサンプルには性差が見られ、女性の方で第1主成分得点が高くなっています。これは、同じ成人サイズでも、女性の恥骨の方が内外側方向に広がった形であることを示しています。さらに、化石人骨の位置からは、ネアンデルタール人のケバラ2号と現生人類のスフール4号は上下に対照的な位置を占めています。どちらも男性とされていますが、ケバラ2号の恥骨は第1主成分得点が高く、近現代日本人女性の範囲に入ります。一方スフール4号の恥骨は男性の範囲に収まります。ネアンデルタール人のデデリエ1号幼児は現代人サンプルの上限となりますが、およそその変異内にプロットされました。

 恥骨の形態は、骨盤の性的二型の出現と関連して成長とともに性差が表れると予想されています。骨盤形態の性的二型に関しては、上述のように「出産ジレンマ説」に基づいて理解されることが多くなっています。現代人の成長に伴う骨盤形態の性差は、思春期以降に顕在化して女性の骨盤は急拡大し、出産にかかわる部分のサイズを増大させます。40歳以降の変化様式は、男性と変わらず出産にかかわるサイズを減少させます。本論文の恥骨形態による分析においても、成人サイズに達するまでは性差を見出せず、成人のみにある程度の性差が見られました。本論文は骨盤の出産に関わるサイズ変化と関連のある恥骨形態として、恥骨の内外方向の長さ(幅)を想定しています。成人段階でこの方向(第1主成分)に性差が見られたのは、これまでの知見と整合するものだろう、と本論文は評価しています。

 ネアンデルタール人男性のケバラ2号の恥骨が、現代人の女性的であるという結果について本論文は、形態的には内外側に長い恥骨を持っているというこれまでの報告と整合的であるものの、進化・適応の観点からは理解を難しくしている、と指摘しています。男性個体であるケバラ2号に「出産仮説」をあてはめるのは困難なので、別な進化的解釈が必要になる、というわけです。本論文はは成長という観点からこの問題を検証し、成人段階の性的二型およびネアンデルタール人の成人1個体(ケバラ2号)と現生人類の成人1個体(スフール4号)に関しては、形態変異の傾向が検出できました。一方で、ネアンデルタール人の幼児であるデデリエ1号については、明確ではありませんでした。未成人段階の恥骨の形状からは、デデリエ1号と現代人では内外方向のサイズ以外にも形態的差異がありそうなので、本論文が用いた方法ではその差がうまく検出されていないかもしれない、と推測されています。本論文は、個体変異という観点からは、現代人の成長シリーズを拡張すると同時に、ネアンデルタール人を含む化石人類の成長シリーズにアプローチする必要があるだろう、と指摘しています。


参考文献:
近藤修(2019)「ネアンデルタール恥骨成長分析の試み」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P133-138

大河ドラマ『平清盛』の全体的な感想のまとめ

 現在放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』がほぼ間違いなく更新しそうですが、2012年放送の大河ドラマ『平清盛』(関連記事まとめ)は、大河ドラマ史上最低の平均視聴率(関東地区)だったことから、今でもネットでは罵倒・嘲笑されることが珍しくありません。しかし、本放送時から現在まで、私は本作を傑作と評価し続けています。ついでに言うと、私は『いだてん~東京オリムピック噺~』も高く評価しており、楽しみに視聴を続けています。『いだてん~東京オリムピック噺~』の方はまだ暫定的な評価なのでさておくとして、『平清盛』への私の評価は、「声が大きく」、「正統派」の大河ドラマ愛好者にとっては噴飯ものでしょうが、これは今後もずっと変わらない、と確信しています。『平清盛』は私にとってたいへん思い入れの深い作品なので、全体的な感想もかなり力を入れて執筆しました。その結果、かなり長くなってしまい、以下の5回に分割して掲載しました。

全体的な感想(1)主人公の清盛について
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_5.html

全体的な感想(2)脚本・演出の特徴と音楽
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_7.html

全体的な感想(3)平氏・源氏側の人物造形と配役
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_10.html

全体的な感想(4)人物造形と配役(平氏・源氏側以外)
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_16.html

全体的な感想(5)大河ドラマと歴史学との距離
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_21.html

 これらの記事の合計文字数は2万を超えるので、ウェブリブログではじゅうらい1記事に収まらなかったのですが、本日(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約2万文字から約13万文字に増えたので、本当に機能しているのか確認する目的もあり、これらの全体的な感想記事を一つにまとめてみます。説明文や他の記事へのリンクは省略しましたが、ほぼ当時の文章を再掲しました。今ではやや考えが変わっているところもあるのですが、今後再視聴した時に、余裕があれば新たに感想を掲載するつもりです。正直なところ、大河ドラマの感想記事の執筆に関しては、本作で力尽きてしまった感があり、本作以後の大河ドラマの感想記事は、各回にしても全体的なまとめにしても、手抜きになってしまっています。まあ、ドラマも含めての歴史娯楽作品や、そもそも歴史の優先順位が以前よりも低下している、ということもありますが。今後、本作を超えるような大河ドラマの新作を視聴したいものではあります。以下、本文です。



●主人公の清盛について

 まずは簡単に全体的な話の構造について触れますが、活力にあふれる武士が、退廃的で乱れた王家・貴族に見下されつつも、彼らに取って代わって新しい世を作る、という現代日本社会では広く浸透している歴史観に基づいたものになっています。また、清盛や重盛の描写をはじめとして後半は、かなりのところ「平家物語史観」に依拠しているように思われ、話の根本的なところは、現代日本社会では馴染みの歴史観というか物語に準じたものになっている、と言えそうです。

 その意味で、この作品は多くの視聴者にとって親しみやすいものになる可能性もあったわけですが、大河ドラマとしては空前の低視聴率に終わってしまいました。その要因として、コーンスターチの多用に象徴される見づらい映像だったことや、大河ドラマとしては過激な性的描写も挙げられそうですが、それらは次回以降に述べることにします。根本的なところで馴染みのある歴史観・物語に準じているということは、陳腐な話になる可能性もあるわけですが、この作品には大将同士の不自然な一騎討ちなど陳腐な描写も少なからずあったとはいえ、それゆえに多くの視聴者が見離した、というわけではないように思います。

 では、大河ドラマとしては空前の低視聴率という観点で、何が問題だったのかというと、それは主人公の清盛の立ち位置が定まらなかったというか、清盛の人物像がふらついているように見えたからではないか、と思います。それは一つには、清盛の本質を描くにあたって、武士、物の怪の血、既存の権威への反発者・無頼者というように、多面的な性格を盛り込んだためでもあるでしょう。ただ、この作品の清盛を構成するこうした要素は、それぞれ個別に存在して結果として多重人格の清盛像が提示されているというわけではなく、物の怪の血を受け継いでいることが既存の権威への反発者として顕現するという側面もあっただろう、と思います。

 清盛の人物像がふらついているように見えたのは、清盛の英雄譚というよりも、清盛を主人公としつつも、平安時代末期の群像劇を目指したように思われるこの作品の志向とも関連しているのでしょう。偉大な主人公にすべてが収斂する単純明快な物語を志向しなかったように、主人公をはじめとして主要人物についても、単純明快な人物造形にするのではなく、多様な側面を描こうとしたのではないか、と思います。頼長や信西もそうでしたが、主要人物については、ある側面だけを強調するのではなく、人間の複雑なところをできるだけ描こうとしたのでしょう。

 もう一つの問題点は、清盛の若い頃に既存の権威への反発者・無頼者としての本質から青臭さが強調された一方で、有能なところや人間的魅力があまり描かれなかったことで、この期間が長すぎたことが、主人公としての清盛の魅力を乏しいものにしてしまった感があります。それは、棟梁になる前の清盛をそれなりに詳しく描きながらも、清盛が伊勢平氏一門の棟梁として相応しい大人物になるための最後の関門として、叔父である忠正の斬首を設定するという、物語上の構造に起因するものでした。おそらく、これは物語を構築するにあたってかなり早い段階で決まった構想であり、それに合わせて清盛の言動・人物像が構築されていったのではないか、と思います。それが成功したのかとなると、忠正の斬首までに半分近くを費やすという時間配分からして、むしろ失敗したという側面のほうが大きかったのではないか、と思います。

 確かに、忠正は魅力的に描けていましたし、保元の乱前後の忠正の描写はこの作品を盛り上げましたから、この創作はあるていど成功したとは思います。しかし、物語の半ば近くまで主人公の覚醒を引っ張ったのは、1年続く連続テレビドラマとしては、問題のある構成だったように思います。忠正の斬首を清盛にとって最後の関門とするならば、保元の乱をもっと早く迎えるような時間配分にすべきだったように思いますが、保元の乱へといたる過程にもあるていど時間を割かねばならないでしょうし、じっさいにこの作品では面白い話も多かったので、あえて清盛にとって最後の関門を設定するとしたら、祗園闘乱事件が相応しかったかもしれません。

 また、清盛の最終的な「覚醒」は忠正の斬首にしても、白河院の御前での舞・義朝との競馬・海賊討伐・結婚・最初の妻の死・祗園闘乱事件・忠盛の死と棟梁の座の継承・保元の乱直前の不穏な政治情勢などを通じて、清盛はじょじょに成長していったのですが、最終的な「覚醒」が忠正の斬首であるため、保元の乱が近づくにつれて、人物像のぶれがより強く印象づけられることににったのではないか、とも思います。これは物語の基本的な構想に起因する問題なので、途中での修正はなかなか難しかったかもしれません。

 ただ、青臭い頃の清盛が魅力に欠けたとはいっても、では「覚醒」後の清盛が魅力的だったかというと、大河ドラマの主人公としては疑問の残るところです。「覚醒」後の清盛は大人物として朝廷で重きをなし、政治が綺麗事だけでは動かないことをよく理解した、清濁併せ呑む大政治家として描かれました。自身および平家一門の地位・権力を高めつづけた清盛は、自身の国造りに邁進します。清盛の思い描く国造りは、青臭かった若い頃からの理想を抱き続けているかのようであり、先進的な宋との交易を通じて豊かになって、民も虐げられることなく幸せに暮らす世の実現が目指されました。

 しかし、自身の権力を高めていった清盛は、しだいに権力への妄執を強め、専制的になっていき、白河院を髣髴とさせます。ここで、清盛が白河院という物の怪の血を受け継ぐ者であるという設定が活きてきます。反体制的というか既存の権威に反抗する無頼者であった若い頃にも、清盛が物の怪の血を受け継ぐ者であることを、雅仁親王(後白河院)が指摘したり、清盛の最初の妻である明子が死んだ時に伊勢平氏一門が危惧したりしていました。私は、清盛が白河院の御落胤という説を支持していませんが、この作品で御落胤説が採用されたのは、たんによく知られている説だからということ以上の意味が込められており、物語としては面白くなっているように思います。

 清盛は、物の怪の血を受け継いでいるとともに、忠盛に引き取られて武士として育てられた、という自覚・自己認識も有していました。清盛の養父の忠盛は、清盛の生母である舞子を殺してしまうような白河院の理不尽な政治に憤り、武士の世を目指し、白河院をはじめとして王家・貴族の腐敗・堕落に憤っていた清盛も、父の理想を受け継いで武士の世を目指します。武士の世を目標とする国造りについて、清盛が若い頃には理想に重点が置かれていた感がありますが、家貞や時忠などの台詞にて、しだいに私欲が根本にあることが明かされていきました。これが、復讐を動機とする清盛の国造りという話につながるのですが、これは西光(藤原師光)が絡んできて、なかなか面白い創作になっていたと思います。

 物の怪の血と武士の魂の間で苦悩するのが後半~終盤の清盛で、清盛は一時物の怪の血のほうに強く引きずられるものの、ともに武士の世を目指した義朝の子である頼朝の挙兵により、武士の魂を回復する、というのが後半の大きな話の流れになっています。後半~終盤にかけて、清盛に内在する物の怪の血が強く顕現したとき、清盛はひじょうに加虐的で冷酷な独裁者として物語の世界に君臨します。こうした専制的で残酷な清盛像は、『平家物語』などの古典に源泉のある、現代日本社会では馴染みの伝統的な歴史観に基づくものと言えるでしょうが、この作品では、たんに地位・権力が高まって驕った結果としてではなく、物の怪の血を受け継いでいるという、清盛の宿命に基づくものとの設定になっており、物語としてより深みがあるのではないか、と思います。

 ただ、こうした清盛の人物像が、大河ドラマの主人公として魅力的かというとそうではなく、むしろ頼朝や義経を主人公とした作品において、敵役として映える人物造形になっているのではないか、と思います。こうしたところも、後半~終盤にかけて視聴率が回復するどころかさらに低迷した一因になっているのではないか、と思います。もっとも、基本的には一話完結ではない長丁場の大河ドラマでは、最終回かその直前でもないかぎり、途中から新規の視聴者が大量に参入するとか、一度離れた視聴者が戻ってくるという可能性は低そうだという事情もあるでしょう。

 以上、低視聴率の一因になったと思われる、この作品における清盛の人物像について概観しましたが、人間の個性は単純に割り切れるものではないでしょうから、清盛を理想に向かって一直線に邁進する大人物というように描かず、さまざまに苦悩しながら決断していく存在として提示しようとしたことは、間違いではなかったように思います。もっとも、最終的な「覚醒」が作品の半ば近くになってしまったという時間配分の問題と、それまでに有能なところや大物感をあまり描けていなかったことは否定できないでしょうから、大河ドラマの主人公という観点からは、人物造形に失敗したところが多分にあるように思います。ただ、群像劇の主要人物の一人としてならば、これでもよいかな、とも思います。

 このように清盛が魅力に欠けるところのある主人公になってしまった理由を考えると、邪推になるのですが、脚本家の思い入れが、脇役である璋子(待賢門院)・頼長・西光よりも低かったためではないかな、という気もします。本放送の視聴でもそう思いましたが、小説版を読むと、璋子・頼長・西光への脚本家の思い入れが強いことがよく分かります。これは、配役の問題も絡んでいるのかもしれず、西光役の加藤虎ノ介氏は、同じ脚本家の『ちりとてちん』の時の縁もあってか、明らかに脚本家のお気に入りの俳優だろう、と思います。一方、清盛については、脚本家はNHKから清盛を主人公とする作品を依頼され、色々と調べて執筆したものの、どうも清盛にあまり魅力を感じず、そのこともあって、群像劇的性格の強い作品になったのではないか、と思うのですが、これは的外れな見解かもしれません。


●脚本・演出の特徴と音楽

 この作品を最初から最後まで貫く特徴として、河内源氏と伊勢平氏、清盛と義朝・頼朝、璋子(待賢門院)と得子(美福門院)など対照的な二者を対比する脚本・演出が挙げられます。頼長と信西(高階通憲)や璋子と得子や由良と常盤など、主人公の周囲から外れた人物の対比的描写にも印象的なところがありましたが、やはり主人公の清盛をめぐる対比的な描写にもっとも力が入れられていたように思います。清盛のライバルは、武士では、序盤から中盤までが義朝で、ライバルというには終盤まで力不足なところがありましたが、中盤~終盤までが頼朝だったように思います。清盛の場合、これら加えて後白河院とのライバル関係が、後白河院の即位前より最終回の直前まで続きます。

 清盛と義朝とは、当初義朝のほうが有能で魅力的に描かれ、対照的に清盛は情けないところや青臭さが強調されます。これが保元の乱後の処理を境に逆転し、清盛が大人物としての風格を身に着けていくのにたいし、義朝には焦りと器の小ささが目立つようになります。清盛と頼朝の関係も同様で、清盛がその地位・権力を高め自身に満ち溢れていたとき、頼朝は伊豆で逼塞しており、恋仲の八重との別離・息子の殺害のために、すっかり無気力になってしまいました。しかし、地位・権力を高めた清盛の中の物の怪の血が強く出て、清盛が自分を見失いつつあったとき、頼朝は政子との出会いにより覚醒しました。清盛と後白河院との場合、もともと身分・立場が大きく異なるということもあってか、対照的な状況の比較という演出ではなく、ともに自らの権力を高めていこうと駆け引きをすることが、双六により象徴的に表現されました。

 また、ライバル関係にある対照的な二者それぞれの場面を交互に見せる演出もこの作品の特徴でしたが、成功ばかりとは言えず、失敗も少なからずあったのではないか、と思います。失敗の代表例が、第42回「鹿ヶ谷の陰謀」における、清盛と頼朝・政子だったのではないか、と思います。明日を見失いつつあった清盛と、見失っていた明日を再度見つけた頼朝の対比という脚本・演出の意図はよく伝わってきましたが、正直なところ、冗長になって緊張感を失わせたのではないか、と思います。西光役の加藤虎ノ介氏の熱演を活かすためにも、西光への拷問の場面に伊豆の頼朝・政子の場面を挿入するというか、交互に場面を切り替えていく演出ではないほうがよかったのではにないか、と思います。

 成功例として即座に思い浮かぶのは、第21回「保元の乱」における帝方と上皇方の軍議との対比で、『孫子』を用いての信西と頼長との違いを浮き彫りにする脚本・演出は、役者の好演もあって、素晴らしい場面になっていたと思います。第21回「保元の乱」への期待は大きかったので、前半でこの場面を見た時には、大傑作回になるのではないか、と興奮したものです。全50回のなかで、私がもっとも盛り上がったというか、期待が高まったのが、この場面でした。ただ、第21回はその後に冗長で不自然な一騎討ちがあったのがたいへん残念でした。

 この冗長で不自然な一騎討ちは、第6回「西海の海賊王」や第27回「宿命の対決」でも見られましたが、主要人物同士の一騎討ちという演出はドラマ・映画のお約束といった感があり、陳腐な感が否めません。私はこのお約束に昔からなじめないので、こうした演出がどうも好きになれませんでした。この作品は、演出・映像造りという点で、2010年の大河ドラマ『龍馬伝』を志向していたのでしょうが、そうした新たな試みが強く見られる一方で、主要人物同士の一騎討ちのような陳腐な演出も同居しており、やや雑然とした印象を受けました。

 前半の脚本・演出で目立ったのは過激な性的描写で、とくに宮中において顕著でした。白河院・鳥羽院・璋子・得子の関係は保元の乱へといたる過程を説明するうえで重要だったので、性的描写が不要とは思いませんが、それにしてもやり過ぎた感は否めません。年齢制限のある映画でも放送時間帯が深夜の連続テレビドラマでもなく、日曜午後8時に日本中で放送されているわけですから、脚本・演出にもっと工夫があってしかるべきだったのではないか、と思います。おそらく、過激な性的描写により離れた視聴者も少なくないのではないか、と思います。天皇家以外の性的描写では、頼長と家盛との関係で男色が描かれました。こちらのほうが衝撃的だったかもしれませんが、放送は第14回「家盛決起」だけだったので、視聴者離れという点では、宮中での性的描写ほど影響はなかったように思います。

 伏線の多用もこの作品の特徴で、これは同じ脚本家による朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』でも同様でした。清盛に受け継がれた物の怪の血は、終盤になって一時強く表れ、清盛が白河院の実子であることが改めて印象づけられるとともに、御落胤説の採用が意味のあるものだったことを認識させられました。若い頃には物の怪たる白河院とその政治にたいする反発の目立った清盛が、最初の妻である明子の死の時などに見せた言動は、完結した今になってみると、後年の清盛の振る舞いを示唆するものでした。また、後白河院も即位前から、清盛が物の怪の血を受け継いでいることを指摘していました。

 この他にも、重盛をめぐる後白河院と清盛との双六や、清盛と信西の出会いと信西の最期や、時忠と幼い頃の宗盛との会話や、若き日の清盛・義朝・義清(西行)が夢を語り合った場面や忠正の竹馬など、伏線が多用されました。最初から最後まで熱心に視聴を続けた人ならば、こうした伏線の発見もこの作品の魅力になったでしょうが、こうした伏線を意識した作りは、新規の視聴者の獲得を難しくして、視聴率が低迷した一因でしょうし、伏線を狙いすぎた感もある作りにうんざりとした視聴者も少なからずいるかもしれません。

 コーンスターチを多用した「画面の汚し」は、この作品においてとくに評判の悪い演出で、都での多用も不満でしたが、海戦でもコーンスターチを多用した時には、さすがに唖然としました。これと暗い画面により見辛かったことが、視聴率低迷の一因だったのでしょう。確かに、現代日本社会では想像しにくいような汚さが、中世初期の都にはあっただろうとは思うのですが、砂漠地帯にあるわけでもない平安京の汚さが、コーンスターチの多用により表現されるとはとても思えません。コーンスターチの多用は出演者にも大いに負担をかけているようですし、今後の大河ドラマではこの作品のように多用されることがないよう、願っています。

 小道具への拘りが強いこともこの作品の特徴で、清盛の宋剣・清盛と後白河院との双六・頼長の鸚鵡(鸚鵡を小道具というのも変な気がしますが)・鳥羽と璋子の水仙などが挙げられます。これらの小道具は象徴的に上手く使われており、納得することが多々ありました。清盛の宋剣は、清盛の強さと清盛の国造りの礎にある宋への憧れの象徴となっており、終盤になって清盛が迷走したときに剣が錆びていたのは、見事な演出だったと思います。清盛と後白河院との関係を双六遊びにたとえたのも、鳥羽院と璋子との関係というか絆の象徴となった水仙の使い方も上手かったと思いますが、なんといっても大成功だったのは頼長の飼っていた鸚鵡です。鸚鵡は頼長の象徴だった感があり、頼長の才と孤独とを表現していたのではないかな、とも思います。頼長と鸚鵡の最期は、たいへん印象に残るものでした。

 この作品の音楽は素晴らしく、それ故に『平清盛×吉松隆:音楽全仕事 NHK大河ドラマ《平清盛》オリジナル・サウンドトラック』を購入し(関連記事)、これを聴きながらこの記事を執筆していますが、つい記事の執筆よりも音楽のほうに気を取られてしまうこともあるくらいです。ただ、個々の曲自体は素晴らしいものの、場面に合っていないというか、どうも違和感のある選曲になっていたことが何度かあり、これは演出の問題だと思います。また、「遊びをせんとや」の曲があまりにも多用された感は否めません。音楽自体は素晴らしいものの、適切な使用ができていなかったのではないか、というのが正直な感想です。


●人物造形と配役

 全体的には、配役はおおむね成功だったのではないか、と思います。まずは主役の清盛についてですが、その人物造形については、上記の全体的な感想で述べたので省略します。清盛役の松山ケンイチ氏について、放送開始前はよく知らなかったのですが、予告を見て演技に不安を覚えました。じっさいに放送が始まると、前半は不満に思うところが少なからずありましたし、一部?で言われているほど演技力があるわけでもない、と思ったものですが、後半、とくに老境(現代日本社会では老境というほどの年齢ではありませんが)に入ってからは、メイク担当の方の頑張りもあって、見応えのある演技になっていたと思います。

 松山氏は全体的にはかなり健闘しており、大河ドラマとしては前代未聞の低視聴率になった原因を松山氏の演技に求める見解には同意できません。ただ、1年間通して視聴して、松山氏にはスター俳優としての華はないように感じたので、低視聴率の一因として松山氏の問題点を挙げるとするならば、華のなさということになるのかもしれません。ただ、一部?の世評ほど高くはないにしても、松山氏の演技力は若手としては上位のほうでしょうし、松山氏は今後経験を積んでいけばさらに伸びそうなので、高倉健・吉永小百合・木村拓哉の各氏のようなスター俳優にはならなくとも、存在感のある俳優として第一線で長く活躍し続けていくのではないか、と思います。

 まずは平氏および平氏配下の人物についてです。初回の実質的な主役だった忠盛は、初回の前半では青臭さを見せていましたが、それ以降は清濁併せ呑む大人物で、清盛の導き手となりました。『風と雲と虹と』の良将や『独眼竜政宗』の輝宗と同じく、厳しさと優しさを兼ね備えた、理想の父親像を見せたと思います。忠盛役の中井貴一氏の好演も期待通りでした。忠盛の父の正盛は、中村敦夫氏が演じるということで注目していたのですが、初回の前半で退場となったのは残念で、もっと見たかったものです。

 忠盛の正妻である宗子(池禅尼)は、伊勢平氏の頭領の妻として、自分はもちろん夫の実子でもない清盛を実子二人と分け隔てなく育てようとし、普段は良妻賢母なのですが、家盛が木から落ちた時や死んだ時など、時として情念というか生の感情を露わにすることがあり、序盤は普段から清盛との距離感を出さねばならないところなど、演じるのがなかなか難しい役だったと思います。そうした難しい役回りの宗子を、和久井映見は期待通り好演しました。清盛の弟たちのうち、実母が宗子ではない経盛・教盛・忠度にはあまり見せ場がありませんでしたが、それぞれ文・武・和歌に長けた人物という性格付けがなされ、完全に埋没しなかったのはよかったと思います。

 家盛・頼盛という宗子の実子二人にはそれなりに見せ場があり、ともに直接には血縁関係にない兄の清盛にたいする複雑な想いが表現されていましたし、二人ともかなりの好演だったと思います。とくに家盛は、清盛との対比で恋仲の女性を諦めねばならなかったことなど、若い頃の清盛と対照的に優等生的に描かれ、母の宗子と伊勢平氏一門のことを思って忠盛の後継者の座に名乗り出るものの、それが一門の分裂を招く行為であることを悟って愕然とするところなど、登場期間は短かったのですが、大東駿介氏の好演もあって深く印象に残りました。

 平家の家人では、序盤から登場していた家貞・忠清・盛国の三人に期待していましたが、放送開始前の期待・予想と比較すると、意外なほどに目立ちませんでした。とくに盛国は、上川隆也氏が演じるということもあって、ひじょうに重要な役になるのではないか、と予想していたのですが、所々で有能なところを見せるものの、とくに清盛が棟梁となって以降は置物と化した感があり、盛国の妻も結婚後にまったく触れられなかったのはなんとも残念です。ただ、三人とも演技にまったく不満はありませんでしたが。この三人が目立たなかったくらいですから、清盛の乳父の盛康・家盛の乳父の維綱・頼盛の乳父の宗清・家貞の息子の貞能にも見せ場が少なく、それぞれ力量のある俳優を配しただけに、もったいなかったなあ、と思います。

 清盛の妻子では、清盛の最初の妻である明子が、結婚の回と退場の回くらいしか見せ場がなかったものの、控えめな賢妻という感じで好印象でした。この作品には性別を問わず癖のある人物が多かったので、常識人というか裏のない明子の人柄にはほっとさせられるところがありました。明子役は加藤あい氏ということで、放送開始前は演技力がかなり不安だったのですが、役に合っていたということもあるのか、懸念していたよりもはるかによかったと思います。テレビ朝日系の『風林火山』の頃より、時代劇の演技力が向上していた、ということもあるのでしょう。

 清盛の後妻である時子は、放送開始前にはメインヒロインだと予想していたのですが、それなりに台詞はあり、『源氏物語』に憧れる夢見る少女から、伊勢平氏一門の棟梁の正妻としての覚悟を決め、壇ノ浦で入水するまでの成長過程には確かに見どころがあったものの、予想していたよりずっと見せ場が少なく、意外なほど置物と化した感があります。こちらも、演じるのが深田恭子氏ということでかなり不安だったのですが、深田氏の適性を考慮した人物造形になっていたように思いますし、演技に不満の残るところもありましたが、懸念していたよりはよかったと思います。

 清盛の子供たちは、重盛にかなりの見せ場があったものの、若くして死んだ基盛は仕方ないにしても、宗盛・知盛・重衡・徳子といった清盛と時子との間の子供たちには意外なほど見せ場が少なかったように思います。おそらくそれと関連して、2005年の大河ドラマ『義経』と比較すると、清盛の子供を演じた俳優の知名度(それぞれ放送時点での比較)がかなり劣ることは否めません。だからといって、この作品の清盛の子供を演じた俳優の演技に大きな不満はなく、むしろ高く評価してはいるのですが、『義経』では重盛・宗盛・知盛・重衡の妻にも知名度の高い女優が起用されたことと比較すると、この作品では清盛の息子たちのうち妻が登場したのは重盛だけということからも、清盛の子供たちの比重が軽かったことが分かります。

 ただ、宗盛・知盛・重衡には見せ場が少なかったとはいっても、それぞれしっかりと性格付けがなされており、完全に埋没したということはありませんでした。宗盛は、幼い頃より暗愚を予感させる描写となっており、終始頼りない無能な人物として描かれましたが、息子の清宗への態度など人のよさそうなところや、兄の重盛にたいする劣等感など屈折したところも見られ、なかなか見応えのある人物になっていたように思います。知盛・重衡は宗盛よりもさらに見せ場が少なかったのですが、知盛の冷静なところや、重衡の屈託のなさは印象に残りました。

 清盛の子供たちのなかで他を圧倒して重要な役割を担った重盛は、基本的には『平家物語』などに基づくおなじみの人物像に近かったと思います。ただ、この作品では大物の清盛と比較して小物だ、という設定が強調された感がありました。そこは残念ではありましたが、この作品ではそれが物語のうえで重要な構造を担っており、連続テレビドラマとしてはなかなかよかったのではないか、と思います。重盛が弟たちに威厳を見せようとする場面と、偉大な父の前で無力感を味わう場面とを演じ分けるなど、窪田正孝氏の演技は強く印象に残るものであり、『ゲゲゲの女房』を視聴していたのでそれなりに期待していたのですが、その期待をはるかに上回る熱演で、大いに評価を高めたのではないか、と思います。

 清盛の息子たちの妻のうち唯一登場した重盛の妻である経子は、重盛の母である明子と同じく、癖がなく控えめな賢妻という感じで好印象でした。ただ、経子は明子と比較して、兄が成親ということで、平氏一門にあって難しい立場にあったというか、背負っているものが大きく、そのことに重盛が苦悩する、という側面もありました。そうしたなかで、重盛・経子夫妻がお互いを労わる姿には好感が持てましたし、経子が壇ノ浦まで平氏一門と行動を共にしたという設定も、悲惨な運命ではありますが、ほっとさせられたところもあります。経子役の高橋愛氏の演技は放送前にはやや不安だったのですが、全体的にはなかなかの好演だったと思います。

 源氏については、河内源氏も摂津源氏も一まとめにした扱いで、頼政が義朝の配下であるかのような描写になっていたことに疑問がありますが、この問題は次回述べることにします。その頼政は、登場場面が少なかったのですが、なかなか存在感はあったように思います。主人公の清盛にとって前半の好敵手だった義朝は、保元の乱後は、大物として描かれるようになった清盛と対照的に、器の小ささが強調された感がありますが、全体的には、粗野なところがあるものの、有能で魅力的に描かれていました。義朝役の玉木宏氏の演技には不満なところもありましたが、全体的には好演だったと思います。

 義朝の父の為義は、かなり情けない人物として描かれました。じっさいの為義はここまで情けない人物ではなかったでしょうが、河内源氏の低迷期を印象づけるための人物造形ということでしょうから、あるていど仕方のないところかな、と思います。そうした人物造形を前提とすると、為義の演技には満足しました。第三部で清盛と対照的に描かれた頼朝は、全体の語りも担当し、かなり重要な役割を担いました。伊豆では無気力な時期が長く、もどかしい人物造形になっていましたが、清盛との対比を意識したというか優先したということなのでしょう。正直なところ、序盤の語りはかなり下手でしたが、終盤は序盤よりよくなっていたと思います。演技については、幼少期・少年期ともかなり良かったと思うのですが、成人後は物足りないところのあった感が否めません。

 義経は知名度が高いということで公式サイトでも宣伝に力が入れられていたように思うのですが、さほど重要な役ではなく、これといって見せ場もありませんでした。むしろ、義経配下の弁慶のほうが、頼朝・義経に清盛の役割を伝えるという意味で、重要な役割を担ったように思います。義経も弁慶も、演技自体には満足しています。義朝の弟たちでは、為朝が少ない出番ながら強烈な印象を残しました。配役発表の自伝で為朝にはかなり期待していましたが、演出で戯画化されたところがあったとはいえ、大満足の演技でした。義朝の子供たち頼朝・義経以外では、粗野なところは戯画化された感もありますが、義平が存在感を示しました。

 源氏側の女性では、由良・常盤・政子が主要人物と言えるでしょうが、由良は喜劇的な場面で登場することが多く、多少そんな役回りなのかな、とも思いましたが、保元の乱の前後で武士団の棟梁の妻らしい覚悟が描かれ、見せ場があったのは何よりでした。演技も、なかなかよかったと思います。常盤は、登場前に予想していたよりも難しい役で、声には最後まで慣れませんでしたが、演じた武井咲氏は健闘していたと思います。政子は頼朝を覚醒させる役割を担い、この作品でもとくに戯画化のなされた人物造形になったように思うのですが、演技自体は懸念していたよりも悪くなかったと思います。

 天皇家には強烈な個性の持ち主がそろいました。実質的な登場が第1回・第2回・第34回のみだった白河院は、強烈な存在感を示すとともに、終盤まで主人公の清盛にとって重荷となり続けました。白河院はこの作品世界における禍の源泉とも言うべき存在であり、主人公の清盛をはじめとして多くの登場人物は、白河院の播いた禍の種に苦しめられました。そうした位置づけの白河院は「物の怪」と表現され、物語後半の清盛は、この物の怪の血の顕現により迷走することになります。白河院役が伊東四朗氏と発表された時には多少不満もありましたが、迫力のある演技でたいへんよかったと思います。白河院の寵愛を受けた祇園女御(乙前)は、配役発表の時点で覚悟していたものの、晩年もきょくたんに若く見えたのは残念でした。

 鳥羽院は魅力的な人物の多いこの作品でも有数の当たりキャラで、鳥羽院役が三上博史氏と発表された時から大いに期待していましたが、繊細なところをじつに上手く表現し、それゆえに発狂した場面を強く印象づけることに成功するなど、期待以上の演技を見せてくれて、大満足でした。ただ、鳥羽院の人物像が璋子(待賢門院)・得子(美福門院)という女性との関係のみに収斂されてしまったところが多分にあり、鳥羽院の権威により朝廷の秩序が保たれていた、という大政治家としての側面がほとんど前面に出なかったのは残念でした。頼長が直接鳥羽院を見下しているような場面が何度か見られ、おそらくじっさいにはそんなことはとてもなかったでしょうが、この作品の鳥羽院ならば頼長に見下されても仕方ないな、と思ったものです。

 崇徳院は最初から最後まで不遇な人として描かれましたが、繊細で和歌に優れた教養人としての側面とともに、権力への執着を垣間見せるところもあり、井浦新氏の好演もあり、ひじょうに魅力的な人物になっていたように思います。崇徳院の最期の演出は賛否両論でしょうが、私の好みには合わなかったものの、悪いというわけではなかったように思います。この作品では色々な人に裏切られた崇徳院でしたが、保元の乱でも崇徳院に付き従った教長の出番はそれなりにあり、教長の存在は崇徳院にとって少ない救いになっていたように思います。

 後白河の初登場は第9回とわりと早く、この時は即位前でした。清盛と後白河が本格的に関わり合うのは、後白河が即位してからのことで、これ以降清盛にとって、義朝・頼朝という武士とともに、後白河も好敵手となりました。ただ後白河の場合、清盛にとっては、好敵手というより相互に利用しつつも乗り越えるべき壁として描かれた側面が強く、その結末が第49回「双六が終わるとき」であり、もはや天下の権を争うのは天皇家・公卿ではなく武士であることが、清盛と後白河との関係を象徴する双六によって示されました。

 後白河(雅仁親王)は当初史実通り皇位継承争いから外れた存在として登場し、それ故に今様にはまるなど気ままな生活を送る奇人変人として描かれました。その後白河が思いもかけず即位する直前、自身が不要な存在なのではないか、との悩みを抱えていることを告白します。これは、第10回「義清散る」での得子の発言を、その時は受け流して気にしていないように見せていたことが伏線になっており、じつは内心悩んでいたことが後になって分かるようになっています。「脚本・演出の特徴と音楽」でも述べましたが、こうした伏線の多用もこの作品の特徴となっています。

 即位後の後白河は相変わらずの奇人変人なのですが、自身の存在理由を見出したいということなのか、曾祖父の白河院を超える存在になろうとし、清盛と相互に利用し合いつつ、自身の権力を高めていこうとします。後白河の即位が当時の多くの人々にとって思いもかけないことであったことは作中でも触れられていましたが、後白河は二条帝までの中継ぎとして即位したのであり、廷臣から軽んじられるところも少なからずあった、ということも作中で描かれていれば、後白河の権力志向にもっと説得力が与えられてよかったのになあ、と思います。

 人間心理の洞察に長けている後白河の言動には見応えがありましたが、それは、放送開始前にはこの作品最大の地雷になるのではないか、と懸念していた松田翔太氏の好演が大きかったと思います。『篤姫』の家茂役での演技を見てかなり不安だったのですが、家茂のような優等生ではなく、癖のある人物の役に適しているということなのでしょう。これは配役の勝利と言うべきかもしれません。また、これまで平安時代末期の映像作品ではベテラン男優が演じることの多かった後白河に若い松田氏を起用したことは、作中での後白河の実年齢を考えると、松田氏が好演したという結果に関わりなく、老獪な政治家である後白河という固定観念への意欲的な挑戦と高く評価できるのではないか、と思います。今後も、大河ドラマではこのような固定観念への挑戦を続けてもらいたいものです。

 近衛帝・二条帝・高倉帝は登場期間が短く、とくに近衛帝には見せ場がほとんどありませんでしたが、ネットで検索したかぎりでは、近衛帝・二条帝がこれまで娯楽映像作品に登場することはほとんどなかったようなので、描写不足とはいえ、近衛帝・二条帝の立場と動向がそれなりに説明されたことはよかったのではないか、と思います。二条帝は公式サイトでは賢帝として紹介されていましたが、作中ではそうした描写がほとんどなく、実父の後白河院との対立的関係に主眼が置かれたのは残念でした。高倉帝は誠実な感じで、徳子との夫婦関係は、重盛・経子夫妻とともにこの作品における癒しになっていたように思います。

 鳥羽の中宮である璋子は序盤のメインヒロインとも言うべき存在で、放送開始の少し前に案内本を読むまでは、そうなるとはまったく予想していませんでした。璋子は作中では、白河院とともに世の乱れの元凶とも言うべき役割を担っており、メインヒロインと言っても異端的なところが多分にあったのですが、正統的ヒロインになるべき明子・時子の存在感がやや薄かったこともあり、とにかく強烈な印象を残しました。心が空だった璋子が人並みな感情を持つようになり、ずっとすれ違いだった鳥羽院と最期に心を通わせるという話は面白かったのですが、清盛が主人公ということを考えると、鳥羽院をめぐる女性関係の描写はやや長かったかもしれません。璋子役の檀れい氏のことは放送前にはよく知らなかったのですが、適役だったと思います。配役の勝利と言うべきでしょうか。

 璋子と対立関係にあった得子は、野心溢れる強い女性として描かれましたが、演者の実年齢が璋子とほぼ同じということが放送開始前は疑問でした。しかし、作品が完結した今にして思うと、璋子に負けないだけの迫力・演技力が要求されるということで、松雪泰子氏の起用は大成功だったと思います。作中では、権勢とともに鳥羽院の愛を求め、璋子を失脚させることにも成功した得子でしたが、けっきょく鳥羽院の愛は璋子に向けられており、権勢を振るったとはいえ、やや不遇な扱いを受けた人物のようにも思えます。璋子とともに、こちらも配役の勝利と言うべきでしょうか。得子の娘の八条院(暲子内親王)は、大らかな人物と思っていたのですが、作中では得子の娘らしい強気な女性として描かれました。八条院が娯楽映像作品に登場することは今後もほとんどないでしょうから、この作品の人物像が浸透するとなると、やや残念ではあります。

 滋子(建春門院)は、奇人変人である後白河院に寵愛されたということから、変わった女性という人物造形になりましたが、どうも成功したように思えません。メイクにも演技にも不満が多く、成海璃子氏が演じるということで放送開始前には不安を抱きつつも期待していたのですが、この作品で最大の期待外れの人物となりました。聡明で美しい女性として描いてもらえなかったものだろうか、と残念でなりません。成海氏はあるいは時代劇に向いていないのかもしれませんが、どうも役者として伸び悩んでいるようにも見えます。まだ今後の成長に期待してはいるのですが。

 摂関家には魅力的な人物がそろいましたが、小説版を読むと、本放送では省略された場面が少なからずあるようで、何とも残念です。忠実は出番こそ少なかったものの、存在感はさすがで、前半の平家にとっての高い壁をじつによく象徴的に表現できていたと思います。ただ、本放送では省略されたところがあるので仕方ないところもありますが、頼長との関係をもう少し丁寧に描いておけば頼長との別れがもっと印象深くなったでしょうから、その点が残念ではあります。忠通は、父の忠実や弟の頼長と比較すると地味な人物像になりましたが、作中での伊勢平氏への対応の変化から、伊勢平氏の地位向上を印象づけるという役割を担い、大きな見せ場はなかったのですが、重要な人物だったと思います。

 頼長には配役発表時点で大いに期待していたのですが、脚本家のお気に入りだったようで、人物造形にも力が入れられていたように思われ、期待値以上の出来になったので大いに満足しています。とくに、鸚鵡を使った頼長の描写は見事でした。才知に溢れる隙のない人物として登場した頼長は、死が近づくにつれて情けないところが見られるようになり、最期は悲惨でしたが、厳格すぎる性格が周囲の反感を買い、追いつめられていった感があります。頼長はこの作品最大の当たりキャラで、脚本に力が入っていたということもありますが、とにかく山本耕史氏の演技が見事でした。次に大河ドラマで頼長が登場するのはずいぶんと先になりそうですが、頼長を演じる男優には高い壁ができたように思います。

 忠通の子供たちについては、基実の配役に疑問が残りました。それは、演技力にたいしてではなく、基実は若くして亡くなったのに、40代後半の村杉蝉之介氏を起用したことにたいしてです。ただ、おそらくはこれまで娯楽映像作品ではほとんど登場しなかっただろう基実が登場し、その早過ぎる死が清盛にとって痛手であったと描かれたということだけでも、意義があったと言うべきかもしれません。基実の弟である基房・兼実も存在感を示しましたが、あまりにも戯画化が行き過ぎた感があるのは否めません。これは他の公卿についてもあてはまることが多かったのですが、貴族と武士とを対立的に描くという作品の基本構想に沿ったものなのでしょう。忠通の孫となる基通は出番が少なかったのですが、これまで娯楽映像作品に登場することが少なかったでしょうから、平家との関係の深さが描かれただけでもよしとすべきでしょうか。

 他の貴族にも、出番は少なくても目立った人物が多く射ました。信西(高階通憲)は主要人物の一人であり、才覚に溢れる野心家としての性格がよく表現されていました。演技自体は、期待していたほどではなかったのですが、悪いということはありませんでした。家保・家成・成親の三代、とくに家成・成親の親子は、出番も多く重要な役割を担いました。家成は、従兄弟の宗子(池禅尼)が忠盛の正妻ということから、伊勢平氏に親切で、やたらと陰険な人間の多い貴族のなかにあって、数少ない良心派という印象を視聴者に与えたように思います。成親は小賢しく世渡りの上手い陰険な人物といった感じで、義弟の重盛を小物と見下していましたが、窮地に陥った時の態度から、成親自身はそれ以上の小物だという印象を受けました。家保・家成・成親の三代は演技もよく、この配役は成功だったと思います。

 家成の養子となった西光(藤原師光)は信西の後継者としての自負を抱き、信西の志を継ぐと自認している清盛と対比させるという脚本・演出はよかったと思いますが、何よりも加藤虎ノ介氏の熱演には見応えがありました。この作品では上位に入る当たりキャラになったと思います。脚本家の力が入っているように思えたのは、脚本家のお気に入りである加藤虎ノ介氏が演じるという前提だったからでしょうか。西光は、清盛の国造りが宋との交易により民も豊かになるという志だけではなく、復讐心によるものでもあるということを明らかにしたという意味でも、重要な役割を担ったと思います。

 その他には、わずか2回だけの登場でしたが、得子の父である長実が、いかにも気弱で無能という感じで、印象に残りました。経宗は、この作品における貴族像をきょくたんに戯画化した人物といった感じで、さすがにやり過ぎといった感は否めませんが、有薗芳記氏の演技力に助けられたところが大いにあるように思います。私は、やり過ぎとは思いつつも有薗氏の演技が楽しみで、経宗の登場を心待ちにしていたものです。経宗が拷問を受けて配流処分とされたことは本放送では触れられませんでしたが、経宗の作中での役回りを考えると、仕方ないかな、とは思います。平治の乱の発端において、その経宗とともにというか、もっとも重要な役割を果たした人物とも言える信頼は、この作品の主要人物には珍しく、よいところがまったくと言ってよいほどなく、情けない無能な悪役として描かれました。もう少しよいところを描いてもよかったように思うのですが。

 宗教関係では、厳島神社の佐伯景弘が、案外目立たず、見せ場がなかったのが残念でした。延暦寺の明雲は、出番こそ少なかったものの、迫力のある演技で存在感を示し、強い印象を残しました。もっと出番があるとよかったのですが。西行(佐藤義清)は、出家してからすっかり存在感が薄くなり、本当に主要人物の一人なのだろうか、と思ったくらいですが、終盤になって存在感を示しました。出家するさいの経緯から、視聴者には印象の悪い人物になってしまったかもしれませんが、晩年の最高権力者となった清盛に直言できるほとんど唯一の人物ということで、終盤になって見せ場が増えたのは何よりでした。放送開始前には不安だった演技も、悪くはなかったと思います。

 まだ取り上げていない重要人物もいるでしょうが、さすがに疲れるので、ここまでにしておきます。テレビドラマとしての全体的な感想は今回で終了となるので、最後に、とくに面白かった回を順番に列挙していきます。なお、場面単位でもっとも面白かったというかよい意味で興奮したのは、「脚本・演出の特徴と音楽」でも述べたように、第21回「保元の乱」における帝方と上皇方の軍議との対比です。『孫子』を用いての信西と頼長との違いを浮き彫りにする脚本・演出は、役者の好演もあって、素晴らしい場面になっていたと思います。。


●大河ドラマと歴史学との距離

 大河ドラマがどこまで史実に忠実であるべきか、というか歴史学の研究成果に沿うべきか、というのは難問であり、答えのない問題と言うべきかもしれませんが、それでも限度はあると思います。たとえばこの作品でいうと、清盛や義朝や後白河院が、月に人を送り込むとか、大陸間弾道ミサイルで高麗・金・南宋を攻撃するとかいった計画を立てるという場面が描かれれば、明らかに問題というか誤りだとほとんどの人には分かるでしょう。それは極端にしても、清盛がトマトやジャガイモを使った料理を食べている場面を描けば、批判されても仕方ないでしょう。まあ、トマトやジャガイモの事例もまだ極端と言えそうですが、私も含めて一般人の多くは、平安時代末期の常識をこの時代の研究者よりもはるかに知らないわけで、研究者やこの時代に詳しい人から見ておかしな描写がどこまで許されるかとなると、線引きがたいへん難しいとは思います。

 そもそも、言葉からして、忠実に再現しようとすると、現代日本社会では字幕が必要になり、娯楽映像作品には適さないでしょう。歴史ものの映画でよく見られるように、地域・時代に関わらず人々が英語で話す作品が少なからずあるように、言葉の問題はあるていど割り切らなければならないだろう、とは思います。ただ、それでもやはり限度はあり、平安時代末期の日本を舞台にした大河ドラマで、トイレに行くとか遺伝子などという言葉が出るのは問題でしょう。もっとも、これも線引きの難しいところがあり、トイレは極端にしても、当時の言葉・概念だけで台詞を構成するというのは難しく、研究者が考証を担当しても、見逃すこともあるのではないか、とも思います。

 このように線引きが難しいとなると、最終的には各視聴者が自分で基準を設けて判断すればよいのではないか、とも思うのですが、やはり専門家の見解が重視されるべきではないかな、と思います。現代では、さまざまな分野で専門家への懐疑が強まっているようですが、専門家の見解はもっと尊重されるべきだろう、とは思います。もちろん、だからといって専門家の見解を鵜呑みにしろということではなく、たとえば大河ドラマは専門家の見解にすべてしたがって制作されるべきだ、と主張するつもりはありませんし、以下の私見はすべてそれを大前提としたうえでのことです。

 あくまでも新聞・雑誌・ネットなどでの私の見聞の範囲内ではありますが、この作品の舞台となっている平安時代末期というか中世初期・前半を専門とする歴史学の研究者の間で、この作品はきわめて評判が悪く、とくに脚本への評価はたいへん低くなっています。これは、研究者だけではなく、この時代に詳しい一般人の間でも同じ傾向が見られます。この作品、とくに脚本を誉めているこの時代の研究者となると、二人いる時代考証担当の一方である本郷和人氏だけです。この時代に詳しい人がこの作品に肯定的な見解を述べた例となると、この時代を専攻とする歴史学の研究者ではありませんが、『新潮45』2012年10月号にて小谷野敦氏がこの作品をそれなりに高く評価していたことくらいでしょうか。

 もちろん、ネットでも既存メディアでも声の大きな主張が目立ち、批判というものは往々にして声高なものではありますし、私の見聞範囲は限定されているのですが、研究者か否かを問わず、平安時代末期に詳しくこの作品について語っている人のほとんどがこの作品を厳しく批判し、とくに脚本にたいして低い評価を下している一方で、脚本も含めてこの作品を絶賛しているのが本郷氏だけということは、この作品の歴史ドラマとしての価値を考えるうえで、とても無視できないだろう、とは思います。とはいえ、私にはそうした批判も咀嚼したうえで有意義な議論を展開するだけの見識はとてもなく、まとまりのない思いつきの羅列になりそうですが、以下、この問題についての雑感を述べていくことにします。

 この作品は低視聴率ということでマスメディアに面白おかしく取り上げられることが多かったのですが、とくにネット上のニュースサイトに掲載される記事には、本当に視聴したうえでの批判なのか、と疑問に思うものが少なくなく、まともなものは少なかったように思います。そうした批判的な記事のなかには、この作品を擁護する見解も申し訳程度に掲載されているものが多かったのですが、この擁護も批判と同じく紋切型というか、視聴したうえでのものではなく、大河ドラマとしては前代未聞の低視聴率という負の話題性を題材にした、机上の作文との感は否めませんでした。

 そうした紋切型の記事でよく見られたこの作品への擁護が、リアルな映像作りや史実に忠実で人間関係が複雑といったものでしたが、この作品を高く評価している私でさえ、そうした評価は的外れだろう、と考えているくらいです。まず、とくに序盤で顕著だったコーンスターチを多用した映像作りは、平安京が砂漠地帯にあったわけではないというほとんどの日本人にとって周知の事実からも、とてもリアルとは言い難いものでした。このコーンスターチの多用を海賊討伐の海戦場面でもやってしまったのですから、この作品の映像作りがテレビドラマとして優れていたとか効果的だったとかいう議論はあり得るかもしれませんが、リアルとはとても言えないように思います。

 また、若き日の清盛の姿が汚すぎることからも、とてもリアルな映像作りとは言えないように思います。おそらく、若き日の清盛の姿を現代において忠実に映像化するための根拠になり得るような文献はないでしょうから、この作品における若き日の清盛の姿が間違いだと断定できるわけではなさそうですが、清盛の誕生時点ですでに祖父も父も国守を務めたことがあるわけで、清盛自身も数え年12歳で従五位下となり、その後も30歳の時の祗園闘乱事件の直前まではわりと順調に出世していったのですから、この作品で描かれたような、30代半ばまで薄汚れた格好で都を歩き回っていた、というようなことはまずあり得なかっただろう、と思います。

 次に、人間関係が複雑という擁護についてですが、たとえば、藤原公教がほとんど端役扱いで、平治の乱でも重要な役割を果たさなかったとか、宗子(池禅尼)が重仁親王の乳母だったことが無視されているとか、清盛と信頼との姻戚関係とか、人間関係はかなり簡略化されており、テレビドラマとして分かりやすいように構成しよう、という意図が伝わってきました。少なくとも、この作品の人間関係がきょくたんに複雑だったということはないでしょう。あくまでも私の見聞の範囲内ではありますが、この時代に詳しく、おそらくこの作品で提示された人間関係を複雑とは思わない人たちのほとんどが、面白くない、脚本が駄目だと言っているわけですから、この作品の人間関係は低視聴率の根本的な原因ではないだろう、と思います。

 これらのことからも、史実に忠実という擁護は疑問なのですが、根本的な問題は、活力にあふれる武士が、退廃的で乱れた王家・貴族に見下されつつも、彼らに取って代わって新しい世を作る、というこの作品の基本的な話の構造にあるのではないか、と思います。この作品の基本的な世界観は、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠したものである、と言えるわけです。この作品では、そうした世界観のもとに、忠盛や義朝や清盛が保元の乱の前より、多分に曖昧なところがあったとはいえ、武士の世を目指す、という明確な目標を立て、その実現のために奮闘しました。これは、悪い意味で後世の視点が露骨に出てしまっているというか、結果論的解釈になってしまっている感は否めません。

 また、この作品における経宗・基房・兼実などといった公卿の戯画化も、上述した世界観に基づくものと言えるでしょう。さらに、源氏と平氏を類型化して対照的に描き、源氏を一まとめにし、頼政も義朝に従属していたかのように説明していることも、上述した基本的な世界観に淵源があると言えるでしょう。この作品の基本的な世界観が多分に依拠している通俗的歴史観は見直しも進んでいるわけで、そうしたことからも、通俗的歴史観にかなりのところ依拠したこの作品への批判・不満は大きかったのではないか、と思います。

 また、この作品の後半~終盤にかけての清盛が専制化していく描写は、かなりのところ「平家物語史観」に依拠しているように思われ、その意味でも、現代日本社会では馴染みの通俗的歴史観に依拠している、と言えそうです。清盛と同じく、重盛・宗盛・信頼の人物描写も、通俗的歴史観に依拠したところが多分にあり、人物造形が陳腐である、との批判はあるだろうと思います。ただ、この作品でもこれまでの一般的印象通り無能と描かれた宗盛と信頼の見直し論については、興味深い見解ではあるものの、まだ確証されたとは言えないように思います。

 一方で、この作品は戦後の歴史学の研究成果を取り入れたところもあり、平治の乱において、それまで対立していた後白河院政派と二条帝親政派の公卿層が反信西で一致する、という動向を描くところもありました。基本的な世界観は通俗的歴史観に依拠しているものの、多くの視聴者にとって馴染み深い物語にするという方針を徹底するわけではなく、ところどころの話では戦後の歴史学の研究成果を取り入れるといったところは、娯楽映像歴史作品としてやや中途半端になったのではないか、とも思います。ただ、この私見にはあまり自信はありません。

 鳥羽院を中心とした序盤の宮中の描写なども、かなり戯画化されて現実離れしたところがありましたから、この作品が当時の身分社会を描けておらず、全体的に史実には忠実ではないというか、戦後の歴史学における見直しがあまり反映されず、古臭い通俗的歴史観を再生産する役割を果たしたばかりか、若き日の清盛の無頼など、新たな捏造(だろうと私は考えています)を提示したという意味で、この時代の専門家か否かに関わらず、この時代に詳しい人々の間できわめて不評だったのは、かなりのていど仕方のないところなのかな、とは思います。

 正直なところ私も、放送開始前にこの作品の時代考証担当が髙橋昌明氏と知った時は(当初は、時代考証担当が二人とはしりませんでした)、近年の歴史学での見直しを取り入れ、比較的史実に忠実な物語になるのではないか、と期待していましたし、本放送よりもずっと史実に近い話にしても、さらに面白い話にするのは困難ではなかっただろう、と考えているだけに、残念ではあります。ただ、作品が完結した今になってみると、映像作りなどで不満はありましたが、実父白河院から引き継いだ物の怪の血と、武士である伊勢平氏の長男として育ったこととの間で時として悩み迷走しつつも、交易による豊かな国造りを目指して主人公を軸としつつも、その周囲の個性あふれる人物たちを魅力的に描いた群像劇となっていて、1年間の連続テレビドラマとしてはたいへん楽しめました。

 歴史ドラマとしては欠陥が多かったことは否めませんし、そうした諸々の欠陥がどこまで許容範囲なのか、あるいは是正すべきなのか、という点について、現在の私の見識では的確に答えられませんし、おそらく一生かかっても無理でしょうが、そうした問題を考えさせられる重要な契機になったという意味でも、私にとっては記念碑的な作品となりました。けっきょくのところ、上手くまとめられず雑然とした感想の羅列になってしまいましたが、今回の本題はこれで終わりとします。


 以下、とくに面白かった回を上位から挙げていきます。

1位:第22回「勝利の代償」
https://sicambre.at.webry.info/201206/article_4.html
頼長の最期と鸚鵡の使い方が抜群の上手さでした。

2位:第20回「前夜の決断」
https://sicambre.at.webry.info/201205/article_21.html
平氏・源氏それぞれの別れ・再会・覚悟がよく描かれ、中盤第一の山場である保元の乱に向けての盛り上がりとしては申し分なかった、と思います。

3位:第37回「殿下乗合事件」
https://sicambre.at.webry.info/201209/article_24.html
重盛の苦悩・挫折感とともに、重盛・経子夫妻の絆が印象に残りました。

4位:第43回「忠と孝のはざまで」
https://sicambre.at.webry.info/201211/article_6.html
とにかく重盛の熱演が光ります。

5位:第8回「宋銭と内大臣」
https://sicambre.at.webry.info/201202/article_27.html
初登場の頼長の存在感が強烈でした。

6位:第42回「鹿ヶ谷の陰謀」
https://sicambre.at.webry.info/201210/article_29.html
西光の熱演と清盛の狂気が見どころです。

7位:第5回「海賊討伐」
https://sicambre.at.webry.info/201202/article_6.html
鳥羽院と璋子・得子との関係があまりにも刺激的です。

8位:第46回「頼朝挙兵」
https://sicambre.at.webry.info/201211/article_26.html
清盛の狂気がよく表現されていました。

ニコチン受容体遺伝子と大麻の乱用との関係

 ニコチン受容体遺伝子と大麻の乱用との関係についての研究(Demontis et al., 2019)が公表されました。大麻は世界中で最も頻繁に使用されている違法な精神活性物質で、使用者のおよそ10人に1人が依存状態になります。大麻使用障害(CUD)は、他の種類の嗜癖と同様に、高頻度の有害な使用によって発症し、対人関係や楽しい活動への関与が減り、薬物を摂取しないと渇望や離脱症状が起きます。合法化により大麻製品が入手しやすくなるにつれて、大麻使用障害の罹患率も上昇すると予想されています。

 この研究は、デンマークの全国規模のコホートを用いて、大麻使用障害患者2000人以上のゲノムと対照被験者5万人近くのゲノムを解析し、比較的高頻度の遺伝的多様体と大麻使用障害の関連を特定しました。その結果、大麻使用障害は、脳で神経伝達物質アセチルコリンの受容体をコードする、ニコチン様アセチルコリン受容体α2 (CHRNA2)遺伝子の発現を制御する遺伝的多様体と関連している、と明らかになりました。次にこの研究は、アイスランドの遺伝学研究のコホートに含まれる大麻使用障害患者5500人と対照被験者30万人以上の遺伝的解析を行ない、上記の解析結果を再現しました。また、大麻使用障害患者において、認知能力の低下に関連する遺伝的多様体の全体的な多さが、大麻使用障害リスクの増加と関連していることも明らかになりました。

 この研究はこうした知見について、大麻使用障害と特定の遺伝子を結び付けた初めての大規模研究だと結論づけています。こうした遺伝的差異が大麻使用障害の発症に寄与する生物学的機構を解明し、この情報を治療法の改善に用いる方法を突き止めるためには、さらなる研究が必要と指摘されています。なお、別の遺伝子(SLC6A11)ですが、現代人(Homo sapiens)において、ニコチン依存症の危険性を高める、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来と推測される多様体も確認されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ニコチン受容体遺伝子が大麻の乱用と関係していた

 このほど行われたゲノム規模関連解析研究で、大麻使用障害(CUD)の遺伝的マーカーが突き止められたことを報告する論文が、今週掲載される。このマーカーは、ニコチンに結合する脳受容体の量的制御にも関係すると考えられている。

 大麻は世界中で最も頻繁に使用されている違法な精神活性物質で、使用者のおよそ10人に1人が依存状態になる。CUDは、他の種類の嗜癖と同様に、高頻度の有害な使用によって発症し、対人関係や楽しい活動への関与が減り、薬物を摂取しないと渇望や離脱症状が起こる。合法化によって大麻製品が入手しやすくなるにつれて、CUDの罹患率も上昇すると予想されている。

 今回、Ditte Demontisたちの研究グループは、デンマークの全国規模のコホートを用いて、CUD患者2000人以上のゲノムと対照被験者5万人近くのゲノムを解析し、比較的高頻度の遺伝的バリアントとCUDの関連を特定した。その結果、CUDは、脳で神経伝達物質アセチルコリンの受容体をコードするCHRNA2遺伝子の発現を制御する遺伝的バリアントと関連していることが明らかになった。次にDemontisたちは、アイスランドの遺伝学研究のコホートに含まれるCUD患者5500人と対照被験者30万人以上の遺伝的解析を行って、上記の解析結果を再現した。また、CUD患者において、認知能力の低下に関連する遺伝的バリアントが全体的に多いことがCUDリスクの増加と関連していることも明らかになった。

 Demontisたちは、今回の研究について、CUDと特定の遺伝子を結び付けた初めての大規模研究だと結論付けている。こうした遺伝的差異がCUDの発症に寄与する生物学的機構を解明し、この情報を治療法の改善に用いる方法を突き止めるためには、さらなる研究が必要とされる。



参考文献:
Demontis D. et al.(2019): Genome-wide association study implicates CHRNA2 in cannabis use disorder. Nature Neuroscience, 22, 7, 1066–1074.
https://doi.org/10.1038/s41593-019-0416-1

ヨーロッパのジャガイモの複雑な進化史

 ヨーロッパのジャガイモの複雑な進化史に関する研究(Gutaker et al., 2019)が公表されました。ジャガイモは南アメリカ大陸のアンデス地方が起源で、現在では世界各地に見られます。ヨーロッパのジャガイモに関する歴史記録は、16世紀後半のスペインまでさかのぼります。ジャガイモの塊茎の成長は、日長や温度などの複数の環境要因の影響を受けます。こうした環境要因はアンデス地方とヨーロッパとで異なっているため、ヨーロッパでジャガイモが普及するには、新しい環境条件への適応が必要でした。

 この研究は、チリとヨーロッパの過去のジャガイモ(1660~1896年のもの)のゲノムを解析しました。調べられた標本の中には、ダーウィンがビーグル号での航海で収集したものも含まれます。この研究は、南アメリカ大陸とヨーロッパの現在の地方品種のゲノムも解析しました。その結果、1650~1750年に収集されたヨーロッパのジャガイモは、アンデス地方に由来する、と明らかになりました。その後の100年でヨーロッパのジャガイモは新たに導入されたチリのジャガイモと交配され、20世紀にはヨーロッパで栽培されるジャガイモと野生種との遺伝子交換が行なわれました。

 現在のヨーロッパのジャガイモは、長日への適応と関連するCDF1遺伝子の多様体を有しています。CDF1の長日多様体は、19世紀のヨーロッパの試料では確認されましたが、1650~1750年の試料では確認されませんでした。これは、CDF1の長日対立遺伝子がヨーロッパで最初に出現したことを示唆しますが、先コロンブス期のチリにわずかながら存在していた可能性も指摘されています。この研究は、南アメリカ大陸のさまざまなジャガイモ品種がヨーロッパで交配され、野生種との交配と相まって、現在のヨーロッパのジャガイモの多様性に寄与している、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


現在の欧州のジャガイモの複雑な進化史

 最初に欧州に導入されたジャガイモはアンデス地方の品種に近縁で、それが後にチリの品種と交配されたことを報告する論文が、今週掲載される。

 ジャガイモは南米のアンデス地方が起源で、現在では世界各地に見られる。欧州大陸のジャガイモに関する歴史記録は、16世紀後半のスペインまでさかのぼる。ジャガイモの塊茎の成長は、日長や温度などの複数の環境要因の影響を受ける。こうした環境要因はアンデス地方と欧州とで異なっているため、欧州でジャガイモが普及するには、新しい環境条件への適応が必要であった。

 今回Hernan Burbanoたちは、チリと欧州の過去のジャガイモ(1660~1896年のもの)のゲノムの塩基配列を明らかにした。調べた標本の中には、ダーウィンがビーグル号での航海で収集したものも含まれる。Burbanoたちはまた、南米と欧州の現在の地方品種のゲノムの塩基配列解読も行った。その結果、1650~1750年に収集された欧州最古のジャガイモは、アンデス地方に由来することが分かった。その後の100年で、欧州のジャガイモは新たに導入されたチリのジャガイモと交配された。そして20世紀には、欧州で栽培されるジャガイモと野生種との遺伝子交換が行われた。

 現在の欧州のジャガイモは、長日への適応と関連するCDF1遺伝子のバリアントを有している。CDF1の長日バリアントは、19世紀の欧州の試料には認められたが、1650~1750年の試料には認められなかった。これは、CDF1の長日対立遺伝子が欧州で最初に出現したことを示唆するが、コロンブスによるアメリカ大陸発見以前のチリにそれがわずかながら存在していた可能性もある。

 Burbanoたちは、南米のさまざまなジャガイモ品種が欧州で交配されたことが、野生種との交配と相まって、現在の欧州ジャガイモの多様性に寄与していると結論付けている。



参考文献:
Gutaker RM. et al.(2019): The origins and adaptation of European potatoes reconstructed from historical genomes. Nature Ecology & Evolution, 3, 7, 1093–1101.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0921-3

ドローンに反応するミドリザル

 ドローンに反応するミドリザルについての研究(Wegdell et al., 2019)が公表されました。アフリカ東部のベルベットモンキー(Chlorocebus pygerythrus)は、ヒョウやヘビ、ワシなどのさまざまな捕食者の存在を知らせる警戒音を発し、それぞれの警戒音に対して異なる反応を示します(関連記事)。セネガルに生息する近縁のミドリザル(Chlorocebus sabaeus)も類似の行動を示しますが、ワシに対して警戒音を発した観察例はありませんでした。

 この研究は、ミドリザル80頭の上空でドローンを飛行させ、空を飛ぶ未知の脅威にどう反応するか、調べました。ドローンを視認したミドリザルは、ヘビやヒョウに対するものとは異なる警戒音を発しました。その新たな警戒音は、ワシを見つけた際にベルベットモンキーが発する音声によく似ていました。この研究は、こうした警戒音の類似性は、警戒音の構成があらかじめ決められたもので、両種の進化史に深く根差していることを示すのではないか、と考えています。これらのサルのうち16頭に向けてドローンの音を再生すると、サルたちは空を見回したり逃げたりしたことから、サルはその音の示すものを直ちに学習した、と示唆されます。これは動物界での複雑なコミュニケーション法の進化解明の手掛かりとなります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ミドリザルはドローンに反応する

 アフリカ西部のミドリザルは、空を飛ぶ未知の脅威に遭遇すると独特の決まった警戒音を発し、なじみのないその音が何を示すかを直ちに学習することを明らかにした論文が、今週掲載される。この研究は、動物界での複雑なコミュニケーション法の進化を明らかにするものである。

 アフリカ東部のベルベットモンキー(Chlorocebus pygerythrus)は、ヒョウやヘビ、ワシなどのさまざまな捕食者の存在を知らせる警戒音を発し、それぞれの警戒音に対して異なる反応を示す。セネガルに生息する近縁のミドリザル(Chlorocebus sabaeus)も類似の行動を示すが、ワシに対して警戒音を発した観察例はなかった。

 今回、Julia Fischerたちの研究グループは、ミドリザル80頭の上空でドローンを飛行させ、空を飛ぶ未知の脅威にどう反応するかを調べた。ドローンを視認したミドリザルは、ヘビやヒョウに対するものとは異なる警戒音を発した。その新たな警戒音は、ワシを見つけた際にベルベットモンキーが発する音声によく似ていた。

 Fischerたちは、この警戒音の類似性は、警戒音の構成があらかじめ決められたものであり、両種の進化史に深く根差していることを示すのではないかと考えている。これらのサルのうち16頭に向けてドローンの音を再生すると、サルたちは空を見回したり逃げたりしたことから、サルはその音の示すものを直ちに学習したと示唆される。



参考文献:
Wegdell F, Hammerschmidt K, and Fischer J.(2019): Conserved alarm calls but rapid auditory learning in monkey responses to novel flying objects. Nature Ecology & Evolution, 3, 7, 1039–1042.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0903-5

ブタの損傷した肺の再生

 ブタの損傷した肺の再生に関する研究(Guenthart et al., 2019)が公表されました。胃吸引(胃の内容物が気道に入ること)は、肺が損傷する一般的な症状で、損傷した肺は移植に適さなくなります。移植用臓器は世界的に不足しているため、損傷した肺を再生する方法があれば、移植に適した臓器のプールを充実できる可能性があります。この研究は、激しく損傷した肺を再生して移植判定基準に適合させられるか、調べました。この研究は、8匹のブタで胃吸引を再現した後、損傷した肺を移植先のブタの循環器系に接続することによって体外システムで維持しました。

 この交叉循環システムを用いることで、ドナー肺がブタドナーの体外で最大36時間にわたって維持され、一連の治療介入を行う時間的余裕が生まれました。この体外臓器維持システムは、損傷肺の再生と機能改善を実現し、こうして再生された肺は、移植判定基準に全て適合していました。再生された肺の移植後の機能容量およびこの方法の安全性を確認するためには、さらなる研究が必要となります。また、ヒトの臓器移植に必要な免疫抑制が肺の修復に及ぼす影響を評価するための研究も必要とされます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【医学研究】ブタの損傷した肺を再生する

 体外臓器維持システムによってブタの損傷した肺を再生できたことを報告する論文が、今週掲載される。この予備的知見は、損傷した肺を修復して臓器移植に利用し得ることを示唆している。

 胃吸引(胃の内容物が気道に入ること)は、肺が損傷する一般的な症状であり、損傷した肺は移植に適さなくなる。移植用臓器は世界的に不足しているため、損傷した肺を再生する方法があれば、移植に適した臓器のプールを充実できる可能性がある。

 今回、Matthew Bacchettaたちの研究グループは、激しく損傷した肺を再生して移植判定基準に適合させられるかを調べた。Bacchettaたちは、8匹のブタで胃吸引を再現した後、損傷した肺を移植先のブタの循環器系に接続することによって体外システムで維持した。この交叉循環システムを用いることで、ドナー肺がブタドナーの体外で最大36時間にわたって維持され、一連の治療介入を行う時間的余裕が生まれた。この体外臓器維持システムは、損傷肺の再生と機能改善を実現し、こうして再生された肺は、移植判定基準に全て適合していた。

 再生された肺の移植後の機能容量、およびこの方法の安全性を確認するためには、さらなる研究が必要となる。また、ヒトの臓器移植に必要な免疫抑制が肺の修復に及ぼす影響を評価するための研究も必要とされる。



参考文献:
Guenthart BA. et al.(2019): Regeneration of severely damaged lungs using an interventional cross-circulation platform. Nature Communications, 10, 1985.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-09908-1

mtDNAに基づく漢人の地域的な違い

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく漢人の地域的な違いを報告した研究(Li et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。漢人は現代中国人の約91.6%を占める巨大な人類集団です。以前の研究では、漢人の遺伝的多様性の高さが観察されています。mtDNAとY染色体DNAと核ゲノムのデータに基づくと、漢人の間では南北の遺伝的違いが観察されます。しかし、とくにmtDNA研究は、部分的な配列もしくは限定された地域の標本に基づいており、広範な漢人の間で同様のパターンが観察されるのか不明だ、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中国のほぼすべての省および同水準の行政区の21668人の漢人のmtDNAの、4004ヶ所の多様体を解析しました。

 漢人のmtDNAハプログループ(mtHg)では、D4が16.46%と最多で、11.19%のB4、9.46%のF1、8.13%のM7、7.12%のA 、6.49%のD5、4.95%のB5、4.29%のN9と続きます。この頻度は中国およびその周辺でも地域により異なります。mtHg-D4は北部および北東部で高頻度となり、B4はおもに南部に分布しています。F1は南部および南西部において比較的高頻度で、北部の一部地域でも高頻度です。M7はおもに南部で見られ、そのうちM7bがおもに広西チワン族自治区と広東省で見られるのにたいして、M7cは台湾で比較的高頻度で見られます。Aは北部と北西部において最も頻度が高く、南部の一部地域でも比較的高頻度です。

 興味深いことに、北部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばD4a・D4e・A5は、南部においてより高頻度です。一方、南部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばM7aやB4bなどは北部において高頻度で見られ、南北の漢人集団の遺伝的混合を表しているようです。他の比較的稀なmtHgの分布でも、地域差が見られます。M8・Z・Yは寧夏回族自治区において高頻度で見られ、F4は江蘇省と雲南省に分布しています。ユーラシア西部で一般的なmtHg- N2・R1・R0・Uは、中国ではおもに北西部で見られ、ユーラシア東西の遺伝的混合との見解と一致します。方言とmtHgとの強い相関は検出されませんでした。しかし本論文は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)と方言の間で、より強い相関が見られる可能性を指摘しています。

 mtDNAデータからは、漢人の遺伝的構成が中国の南北で異なる、との以前からの見解が改めて確認されました。しかし、常染色体のDNAデータに基づく地理的分布とはやや異なり、これは女性の特定の移動に起因するかもしれない、と本論文は指摘します。また、中国中部地域の南方漢人は、北方漢人とより密接に関連しています。一方、南方漢人でも、珠江流域の集団は一つのまとまりに分類されます。これは、漢人を遺伝地理的に区分する場合、南北で二分するよりも、黄河(北部)・長江(中部)・珠江(南部)という3河川流域の集団として三分する方が適していることを示唆します。具体的に漢人のmtHgと中国における地理的分布との相関では、D4は北部、B4は中部、M7は南部において高頻度で確認され、それぞれ黄河・長江・珠江流域の一とよく一致しています。

 本論文は、こうした大河により異なる分布がいつ確立されたのか調べるため、D4・M7・B4に分類される4859人のmtDNAの全配列データを集め、各mtHgの合着年代を推定しました。その結果、D4は41760~20160年前頃、B4は61490~29790年前頃、M7は54110~37560年前頃と推定されました。一方、それらのmtHgのサブハプログループの推定合着年代は、46950~220年前頃となり、後期旧石器時代から歴史時代への継続的な人口拡大を示唆します。これらのサブハプログループの推定合着年代は、約6割が11500~5500年前頃となる早期完新世で、2000年前頃以降では4.24%でした。本論文は、とくに黄河・長江・珠江という主要3河川流域の漢人集団の母系の遺伝的構成は、早期完新世には確立していた、と推測しています。

 また本論文は、mtDNAの全配列データセットに基づき、漢人の人口史を推定しました。漢人は全体的に、18870年前頃以降に増加しました。これは、最終氷期極大期(LGM)後の気候改善に伴うと推測されています。その後、漢人で最も急速な増加は9430年前頃に見られます。これは早期完新世における第二の人口増加を反映し、漢人を南北に二分した場合でも、黄河・長江・珠江という主要3河川流域に三分した場合でも同様です。本論文はこれを、黄河・長江・珠江流域における初期農耕の3タイプを反映している、と認識しています。中国の初期農耕では、長江流域のコメや黄河流域のキビがよく知られていますが、6000年前頃となる稲作導入前の、珠江流域を含む中国南部の温帯湿潤地域農耕も近年確認されるようになっています。中国におけるこれら3タイプの初期農耕はそれぞれ、1万年前頃の3河川(黄河・長江・珠江)流域に起源があり、12800~11600年前頃となるヤンガードライアス期後の気候改善が契機になった、と本論文は推測します。本論文の推定では、この期間に3河川流域で急速な人口増加が見られます。農耕の潜在的な人口増加力は普遍的なのでしょう。本論文は、3河川流域の遺伝的相違は古代農耕の拡大の結果と推測しています。本論文で観察された黄河流域と他の河川流域との遺伝的類似性は、黄河流域からのキビ農耕の北方拡大により説明されています。

 本論文はこれらの結果から、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と指摘します。本論文はこれに関して、中国における初期農耕との関連を指摘しています。また本論文はこれらの結果から、河川が人類集団の移住の障壁となった可能性を示唆します。現代漢人は母系では、黄河・長江・珠江という主要3河川流域における早期新石器時代農耕民の遺伝的痕跡を基本的に保持しており、本論文は主要3河川流域それぞれの古代農耕の重要性を強調しています。しかし、これは母系遺伝のmtDNAデータに基づいているので、父系遺伝のY染色体DNAデータにより、たとえば中国の初期農耕民の拡大が性的に偏った過程だったのかどうかなど、より詳細な人口史が明らかになるだろう、との見通しを本論文は提示しています。

 本論文は現代人のmtDNAデータに依拠しているので、さらに詳細な人口史を明らかにするには、古代DNAデータが必要となります。しかし、ユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部と比較して大きく遅れており、現時点では、大規模データを扱う場合、現代人が対象となるのは仕方のないところだと思います。本論文は、これまでの漢人のmtDNAデータの、部分的な配列や地理的に限定されていたという制約を超えたという意味で、たいへん意義深いと思います。今後、中国をはじめとしてユーラシア東部でも古代DNA研究が進展していくでしょうが、人口史の推測には、古代人のDNAだけではなく現代人のDNAデータも重要となります。本論文は、漢人のmtDNAデータに関して、今後長く基準となりそうな重要な成果を提供したと思います。

 もちろん、本論文が指摘しているように、あくまでも現代人を対象とした母系遺伝のmtDNAデータに基づいた漢人の人口史推定なので、Y染色体DNAデータやゲノムデータ、とくに前者では、また違った人口史が見えてくる可能性が高いと思います。まだ確定的とはとても言えませんが、人類史において、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなかったのではないか、と私は考えています(関連記事)。ヨーロッパに関しては、最初に農耕をもたらしたアナトリア半島起源の集団では大きな性差がなかったものの、後期新石器時代~青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの移住集団は男性主体だった、と推測されています(関連記事)。中国でも、初期農耕集団の拡大では大きな性差がなく、後の魏晋南北朝時代や五代十国時代などでは、男性に偏った大規模な移住があったのかもしれません。

 本論文は、母系における漢人の遺伝地理的相違が、すでに早期完新世に成立していた、と推測しています。これは、漢人系統においての短くとも1万年近くとなる、一定以上の遺伝的継続性を示唆します。今後、現代人と古代人のゲノムデータの蓄積により、漢人系統が早期完新世集団の遺伝的影響をどれだけ保持しているのか、といった問題も解明されていくでしょう。もちろんこれは、早期完新世に漢民族が成立していたことを意味するわけではありません。そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではありません。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。

 その意味で、漢民族に限らずどの民族でも、現代に近い遺伝的構成の集団の確立時期をもって、民族の形成期と判断することはできない、と思います。前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。ただ、漢民族のような巨大な集団ほど、前近代における民族の存在を前提とすることには慎重であるべきとは思います。それは、民族成立の指標として、高い比率での構成員の自認が必要と考えているからです。これは、漢民族ほどの規模ではなくとも、「ヤマト(日本)民族」も同様でしょう。漢民族の成立を本格的に論じられるのは精々近代になってからで、「ヤマト(日本)民族」に関しても、どう古く見積もっても江戸時代後期までしかさかのぼらないだろう、と私は考えています。ただ、この問題を本格的に勉強したわけではないので、とても断定的に主張できるわけではありませんし、優先度はさほど高くないので、今後も自信をもって主張できそうにはありませんが。


参考文献:
Li YC. et al.(2019): River Valleys Shaped the Maternal Genetic Landscape of Han Chinese. Molecular Biology and Evolution.
https://doi.org/10.1093/molbev/msz072

髙倉純「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P97-104)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。なお、本論文の年代は原則として較正されたものです。

 本論文は、アジア北部のシベリアやモンゴルにおける中期旧石器時代(中部旧石器時代)から後期旧石器時代(上部旧石器時代)への移行期を取り上げています。この移行期に関しては、現生人類(Homo sapiens)の拡散と適応の問題への注目とも重なり、考古学的に長い研究の歴史があります。この時期に、石器製作伝統は文化的な断絶を示すのか否か、断絶が認められる場合、新たな伝統はどの地域に系統的にたどれるのか、また伝統の違いと生物学的な人類集団とは対応するのか、といった問題群がおもに議論されてきました。こうした問題群は、遺伝人類学から次々ともたらされる新たな知見とも関わり、考古学者だけにとどまらず、ユーラシア大陸の人類進化にかかわる様々な研究者からも多大な関心を集めるものになっている、と本論文は指摘します。

 本論文は、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の編年理解について検証していますが、研究の進展差から、実質的にはアルタイ山地からザバイカルにかけての南西シベリア諸地域とモンゴルを対象としています。編年が構築されるさいに適用される研究の枠組みには、地域に限定されない普遍的な観点からの議論とともに、地域に特有の背景から生じた特殊性が含まれていることにも注意が必要と、本論文は指摘します。それは、研究の対象とする資料の種類・遺存の状況に起因することもあるでしょうし、該当地域・国の研究・教育体制や歴史的諸条件に一定の影響を受けている側面も否定できないだろう、というわけです。本論文は、日本の旧石器考古学にも、同様な普遍性と特殊性が内包されている、と指摘します。ロシアやモンゴルや日本や欧米の研究者の間で時に生じる評価の齟齬には、そうした問題が内在しているのではないか、というわけです。

 本論文は、旧石器時代研究における編年に関して、変動する環境・資源構造の中に人類集団の活動を把握していこうとする枠組みが必要と指摘しています。こうした目的で資料を収集し、その位置づけを明らかにしていこうとするならば、岩相層序(lithostratigraphy)、生物層序(biostratigraphy)、「考古層序」(archaeostratigraphy)、数値年(numerical dates)の四者の統合的提示が理想であるものの、ヨーロッパとは異なり、アジア北部でそうした統合的な議論が有効に示されてきたわけではなく、今後に多くの課題を残している、と本論文は指摘します。本論文はおもに、中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期における時期区分と石器製作伝統の設定にかかわる問題を整理しています。

 本論文はまず、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の石器群の類型区分とそれに基づく石器製作伝統の設定や時期区分がどのように議論されてきたのか、概観します。アジア北部における移行期の研究は、まずルヴァロワ(Levallois)技術術の展開・消長を指標に、長期的系統性を認める議論が提示されました。その後の研究でも、移行期における文化の系統的連続性が議論されました。近年では、移行期の石器群区分に関して、「カラ・ボム(Kara-Bom)・トレンド」や「カラコル・トレンド」という系統的な単位が設定され、複数の異なる系統がアジア北部で移行期には長期的に継続した、との仮説が提示されています。重点的な議論の対象とする地域や資料、編年区分を導く基準は異なるものの、アジア北部において長期にわたる特定の技術型式学的要素の連続性を認め、それを文化的あるいは人類集団の系統性の表れとみなす観点は、議論の枠組みとして共有されてきました。長期的な連続性を示す系統を軸に石器群の位置づけを評価しようとする議論は、アジア北部での移行期の資料を対象とする他の研究者にも見出せる、と本論文は指摘します。

 移行期の石器群に認められるとする長期的な系統的連続性の存在は、石器群の評価を導き出した枠組みからは独立した、岩相層序や生物層序や数値年代といった他のデータからの検証を必要とします。しかし、以前のモンゴルやアルタイ山地における諸遺跡の調査においては、そうした議論の展開を可能とするような編年にかかわる高精度のデータが、信頼性の高い安定的なコンテクストから体系的に得られていなかった、と本論文は指摘します。相互検証のためには、少なくとも取り扱う時間の目盛りを1万~数万年という単位から、千~数千年という程度の単位に絞り込んでいかなければならなかった、というわけです。そうした状況下では、当該期における「文化の系統的連続性の存在」と「その枠内での石器群の変化=編年的な段階の設定」が、相互依存的な論理を前提として仮設されてしまった側面は否定できない、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中部旧石器時代と上部旧石器時代をどう区分し、どのような意義を与えるのか、という課題に立ち戻るさい、石器製作伝統の系統的連続性が仮設される以上、時代区分にあたっては、たとえばヨーロッパのような他地域から外挿的に年代的な基準を当てはめることに逢着せざるを得ない、と主張します。

 近年では、石器の接合資料分析と遺跡形成過程の再検討により、「カラ・ボム・トレンド」と「カラコル・トレンド」の指標的な資料が出土しているとされる、カラ・ボム遺跡とウスチ・カラコル遺跡の上部旧石器時代出土石器群に関して、これまで時間的に併存すると見なされていた石器群が、上部旧石器時代のなかで時間差を示すものである、と再解釈されるにいたっているそうです。また、中部旧石器時代を代表する特徴的な石器製作伝統であるシビリャチーハ(Sibiryachikha)伝統が上部旧石器時代にも「残存」し、上部旧石器時代の石器群と「併存」していたとする評価については、シビリャチーハ伝統に帰属する石器群が検出されたチャグルスカヤ洞窟において48000年前頃よりも古くなるという放射性炭素年代測定値が得られるようになってきたことで、少なくとも長期的な「併存」を支持することは難しくなっている、と本論文は指摘します。系統的連続性の仮設から石器群の類型区分と編年的な段階設定を導くという枠組みに関しては、それとは独立したデータからの検証によって見直しが迫られている状況にある、というわけです。

 2000年代以降のアジア北部における研究では、遺跡形成過程の再検討により石器群の一括性が見直され、また高精度化された年代測定値の集積により、従来想定されてきた編年の妥当性が問い直されるようになってきたそうです。その一方で、初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、IUP)あるいは前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、 EUP)という時期区分と石器群区分の捉え方が導入されるようになってきており、アジア中央部および南西部やヨーロッパ東部といった他地域での時期区分も考慮しながら、それとの比較を重視し、地域間の関係(移住・伝播もしくは収斂進化)を把握しようとする志向が強くなっている、と本論文は把握しています。じゅうらいの、地域内での時間的かつ系統的な連続性を仮設する枠組みとは別の観点からの議論が導入されるようになった、というわけです。

 本論文はモンゴルの上部旧石器時代を、アジア中央部や南西部といった周辺地域との対比も視野に入れて、初期(IUP)・前期(EUP)・中期(MUP)・後期(LUP)の4期に区分しています。EUPの年代に関しては、開始が39000~38000年前頃、終末が29000~28000年前頃との結果が提示されています。IUPの開始は48000~45000年前頃と推定されており、南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の骨製尖頭器や装身具の年代測定値とも整合的です(関連記事)。IUPとEUPの区分に関しては、IUPにおける大・中形石刃の剥離をもたらした石刃剥離技術や「彫器石核技術」の存在と、EUPにおける細石刃技術の存在が重要な指標とされています。ルヴァロワ技術に関しては、中部旧石器時代およびIUPで確認されていますが、モンゴルのチヘン2遺跡などEUPの一部の石器群においても存在が確認できるそうです。ルヴァロワ技術のみでは特定の段階の指標と見なすことができないことは明らかで、剥離工程の諸特徴や組成等の変化を考慮することが必要となっている、と本論文は指摘します。

 IUPの成立過程、とくにその担い手の人類集団に関しては、関連資料の数値年代が高精度化されたことで、関連諸事象の年代的位置づけの絞り込みが可能となってきたにも関わらず、化石人類の共伴事例がまだ確認されていないために、議論が続いています。この問題に関してはおもに、(1)他地域から新たに拡散してきた現生人類が残した、(2)中部旧石器時代からの先住集団が文化変容を遂げた、(3)現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合・交雑集団が残した、という仮説が提示されています。

 本論文が、中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期における編年との関連で重視しているのは、近年、中部旧石器時代晩期(Terminal Middle Paleolithic、TMP)という段階が設定され、議論されるようになってきたことです。モンゴルのハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層(5層からはIUPの石器群が出土)の出土資料の検討の結果、各種の削器類に代表される二次加工石器に伴う、ルヴァロワ技術から剥離される石刃や剥片の諸特徴とその組み合わせが着目され、それ以前の不定形剥片を基盤とする中部旧石器時代の石器群との区別のために、IUPに先行するTMPという段階が設定されているそうです。TMPの段階の石器群としては、オルホン1遺跡の3層、モイルティン・アム遺跡の5・4層、ハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層石器群をモンゴルでの指標的な資料とし、アルタイ山地ではカラ・ボム遺跡の中部旧石器時代石器群やデニソワ洞窟の開口部8・9層や東ギャラリー11.3層・11.4層で出土している石器群がそれに該当する、と本論文は主張します。その継起年代は60000~45000年前頃で、これらの石器群の製作者はデニソワ人だった可能性が最も高い、と本論文は指摘します。TMPとIUPの石器群の間では、ルヴァロワ技術に関してとくに多くの共通点が認められますが、IUPにのみ認められる小形石刃剥離技術の存在や石核の稜形成の工程等に着目することにより、両者を弁別する特徴が見出せるだろう、と指摘されています。

 TMPとして設定された段階に一定の技術型式学的諸特徴を共有する石器群が拡散していると確認されれば、IUPの前段階が編年的に明確になり、IUPとの比較の対象が特定できるようになったことには一定の意味がある、と本論文は指摘します。ただ、該当例としてあげられている石器群のなかには、一括性や年代的位置づけに問題を含むものもあり、今後の検証が求められる、とも本論文は指摘します。モンゴルの該当遺跡では、現時点での放射性炭素年代測定値はハルガニン・ゴル5遺跡6層において得られているだけなので、他の遺跡での数値年代の取得による追検証が必要というわけです。

 このように、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代へ移行する段階に関しては、TMP・IUP・EUPという時期設定がなされてきています。それぞれの時期に関しては、一括性が見込まれる石器群資料をもとに、技術型式学的な諸特徴を指標として石器製作伝統と同義の観点から設定がなされ、数は少ないものの、層位的な出土事例をもとに相対的な前後関係が把握されるとともに、数値年代によって相互の継起年代が推定されるにいたっています。得られている数値年代が限られているため、TMPの年代観の妥当性の検証は今後の課題ですが、TMPの設定の妥当性およびIUPとの型式組成や剥離技術、石材利用行動等に関する比較、とくに年代的重複の有無や程度といった相互の年代的位置づけの精査は、IUPの成立過程をめぐる今後の考古学的研究のなかで重要な検討課題となっていくだろう、と本論文は指摘します。本論文は、こうした比較作業のなかで、石刃や剥片を剥離する際の剥離法や剥離具の同定を重視しています。

 さらに本論文は、TMPと同一時期のアジア中央部および南西部やヨーロッパ東部における石器群との比較作業も重要な課題になる、とも指摘しています。アルタイ山地のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟やチャグルスカヤ洞窟で確認されているシビリャチーハ伝統は、想定されている年代的位置づけによる限り、このTMPの石器群と同一地域内で「併存」している可能性が高そうですが、技術型式学的には全く異なる特徴を示す両者の併存のあり方を明らかにしていくことも、人類進化の探求のうえでは興味深い課題になるだろう、と本論文は今後の見通しを提示しています。

 本論文はこのように、アジア北部の中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の研究において、編年の単位となる時期として、TMP・IUP・EUPが設定され、各時期の石器群に見られる型式組成や剥離工程の諸特徴、あるいは各時期の継起年代等が追及されてきている現状を概観しています。年代的位置づけの妥当性を数値年代によって検証する試みも、年代測定の高精度化と議論の目的の違いに応じた試料選択が果たされることにより、多角的に推進されつつある、と本論文は指摘します。しかし、編年の単位として任意の時空間を区切る石器製作伝統の枠組みが適用されてはいないために、今後、同一段階内での地域差が本格的に論じられるようになると、どのような体系のなかでその地域差の位置づけをおこなっていくのか、という点が問題となるだろう、と本論文は注意を喚起します。TMP・IUP・EUPといった時期区分の設定は、アジア南西部や中央部と同じような時間的スケールで様々な事象の生起の比較を試みていくさいには有効な時間的枠組みとなり得るものの、地域差の顕在化を明らかにしていくさいには、石器製作伝統の設定にもとづいて整理をおこなっていく必要性があるのではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
髙倉純(2019)「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P97-104

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第25回「時代は変る」

 今回から第二部となります。金栗(池部)四三は1924年にパリで開催された夏季オリンピック大会に出場しますが、すでに全盛期を過ぎていたことから、マラソンで棄権してしまいます。その帰国報告会で四三たち陸上選手や嘉納治五郎を厳しく糾弾したのが、若き新聞記者の田畑政治でした。ここは、金栗四三から田畑政治へと主人公の座が引き継がれたことを上手く表現できていたのではないか、と思います。それにしても、朝日新聞社での面接もそうでしたが、田畑は本当に暑苦しく、強烈な人物造形になっています。まあ確かに、田畑は面白い人物ですが、あまりにも騒々しいので、主人公としてはくどすぎるかな、とも思います。私はなかなか楽しめていますが。

 今回は、大正から昭和への改元時期を上手く背景に盛り込み、田畑の強烈なキャラもあり、かなり面白くなっていました。ただ、今回はあまりにも騒がしい内容だったので、この調子が続くようだと、視聴を続けて疲れそうではあります。もっとも、満足感のある疲れなので、苦にはならないかな、と思いますが。今回初登場となった高橋是清を演じたのは萩原健一氏で、今年(2019年)3月26日に亡くなりました(関連記事)。萩原氏にとってこれが遺作となるのでしょうか。改めて、萩原氏が68歳で亡くなったのは惜しい、と思ったものです。

タンパク質解析が明らかにする人類進化

 人類進化の理解にタンパク質解析が有益なことを報告した解説(Warren., 2019B)が公表されました。古代DNA研究は近年飛躍的に発展しており、人類史の理解を大きく進展させました。しかし、古代DNA研究には制約もあります。まず、時間的制約があり、10万年以上前の人類のDNA解析成功例はたいへん少なく、最古の事例は43万年前頃のスペイン北部のホモ属集団です(関連記事)。次に、環境の制約があり、高温地域は寒冷地域よりもDNAが残存しにくくなります。そのため、低緯度地帯では中緯度以上の地帯よりも古代DNA研究がずっと困難となります。

 こうした制約から、人類進化史の重要な問題を古代DNA研究で解明するのは困難になっています。たとえば、70万年前頃のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や現生人類(Homo sapiens)との関係です。ハイデルベルク人はネアンデルタール人と現生人類の共通祖先なのか、それともネアンデルタール人のみの祖先系統なのか、あるいは両者の共通祖先系統とは異なる系統なのか、古代DNA研究で結論を提示することはきわめて困難です。また、高温地域のフローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)は、10万年前以降も存在していましたが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)の子孫なのか、それともより祖先的な(アウストラロピテクス属的特徴をより多く残している)系統から進化したのか、古代DNA研究では判断が困難です。これは、同じく高温地帯のルソン島で発見された、67000~50000年以上前のホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)に関しても同様です(関連記事)。

 そこで注目されているのがタンパク質解析です。タンパク質はDNAよりも長く残存する、とされています。早くも1950年代には、化石からアミノ酸が確認されました。しかし、古代のタンパク質の配列決定に必要な技術が確立したのは、現代のタンパク質を分析する質量分析法が応用されるようになった21世紀になってからです。質量分析法は本質的に、タンパク質を結合ペプチド(アミノ酸の短い鎖)に分解し、それらの質量を分析して化学的構成を推定します。質量分析計を用いた動物考古学(ZooMS)と呼ばれるこの方法では、1種類のコラーゲンが分析されます。

 これにより、南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された2000個以上の小さく断片的な骨の中から、人類の骨が識別されました(関連記事)。現在、この技術の適用により、アジアの人類の骨の確認が進められています。ただ、ZooMSでは詳細な系統区分は困難なので、そのためにはタンパク質の総体(プロテオーム)を解析することが必要となります。これはZooMSよりずっと多くの情報をもたらしますが、その解釈は面倒です。プロテオーム解析(プロテオミクス)により得られた情報を危地の配列と照合することで、コラーゲンや他のタンパク質の正確な配列を同定できます。次に、この新たに決定されたタンパク質配列を他の人類集団と比較し、系統樹を作成します。これは古代DNA研究と類似しています。

 プロテオミクスには、古代DNA研究の困難な年代や地域の人類の系統関係を明らかにする可能性があります。じっさい、チベット高原東部で発見された16万年以上前の人類の骨が、タンパク質分析により種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と確認されました(関連記事)。また、絶滅したサイのステファノリヌス(Stephanorhinus)属のタンパク質も解析されています。チベット高原東部のデニソワ人のタンパク質が歯の内部の象牙質から得られたのにたいして、ステファノリヌス属のタンパク質は歯を覆うエナメル質から得られました。エナメル質は脊椎動物の体内で最も硬い物質で、アミノ酸の浸出を防ぎます。180万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された動物遺骸のプロテオーム解析からは、絶滅したケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)との密接な関連が指摘されています。北極圏で発見された340万年前頃のラクダからのコラーゲン配列も報告されており、タンザニアで発見された380万年前頃のダチョウの卵殻からもタンパク質の配列が報告されています。このダチョウの卵殻が発見された場所の年間平均気温は約18℃で、とくに寒冷な環境ではありません。これは、比較的高温な地域の更新世人類のタンパク質解析の成功も期待させる結果です。

 ただ、古代プロテオミクスには困難や問題も指摘されています。これまで、古代の人類のタンパク質配列をかなり容易に推定できたのは、すでにゲノム配列の得られているデニソワ人とネアンデルタール人と現生人類が対象だったからです。これにより、タンパク質配列を予想できます。しかし、ゲノム配列の得られていない人類に関しては、タンパク質配列は困難となります。また、古代の人類のタンパク質は小さな断片に分解され、現代のタンパク質で汚染されていることが多いことも課題となります。

 古代の歯と骨に含まれるタンパク質の数は少ないため、標本の識別に使用できる情報は比較的少なく、チベット高原東部のデニソワ人では、8種類の異なるコラーゲンから2000をわずかに超えるアミノ酸が同定されました。これらのアミノ酸のうち1種類だけがネアンデルタール人および現生人類とは異なっており、デニソワ人と分類される根拠となりました。そのため、エレクトス標本からタンパク質の配列を決定できても、現生人類や他のホモ属との関係について判断できるほどの充分な情報は得られないかもしれない、と指摘されています。

 一方、古代DNAではずっと多くの情報を得ることができます。また、タンパク質は骨の構造を形成するという重要な機能を担うことが多いため、進化につれて変化するとは限りません。たとえば、エナメル質に特有のタンパク質は、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類では同じです。これは他の大型類人猿とは異なるので、よりデニソワ人やネアンデルタール人や現生人類より古い人類集団のタンパク質を配列できれば、いつ人類系統においてこのタンパク質への変化が起きたのか、明らかにできるかもしれません。また、タンパク質配列が古代の人類集団でどのように異なるのか、ほとんど明らかになっておらず、デニソワ人に関しても、他の個体では異なっていた可能性も指摘されています。

 古代プロテオミクスに関して懸念されているのは、かつて古代DNA研究では、1990年代~2000年代初頭にかけて、中生代の生物のDNA解析に成功した、と派手に報道されたことがあったものの、その後に試料汚染や方法論の問題から否定されたからです。そのため、プロテオミクスでも同様のことが起きるのではないか、と懸念する研究者は少なくないようです。一方、プロテオミクスにおける方法論の進展も見られ、380万年前頃の卵殻のタンパク質配列に関しては、タンパク質が卵殻のミネラルクリスタルの表面に結合している、と明らかになり、現代までタンパク質が残存していた理由も説明されました。こうしたタンパク質が残存している理由の説明は、プロテオミクスをより堅牢なものとします。古代プロテオミクスには、古代DNA研究では困難な人類進化史に関する問題を明らかにする可能性が秘められているという点で、今後の研究の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Warren M.(2019B): Move over, DNA: ancient proteins are starting to reveal humanity’s history. Nature, 570, 7762, 433–436.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-01986-x

小路田泰直『日本史の思想』、『「邪馬台国」と日本人』、『邪馬台国と「鉄の道」』

 小路田泰直氏の著書で過去に取り上げたものを一つの記事にまとめます。『日本史の思想』の雑感は2001年12月に前編後編に分割して、『「邪馬台国」と日本人』の雑感は2001年5月に、『邪馬台国と「鉄の道」』の雑感は2011年9月にそれぞれ掲載しました。小路田氏の著書の雑感をまとめようと思ったのは、近年、小路田氏の著書『卑弥呼と天皇制』(洋泉社、2014年)への批判をツイッターで見かけたからなのですが、現在は検索しても見つけられませんでした。もっとも、後述する『邪馬台国と「鉄の道」』を読んで失望したので、『卑弥呼と天皇制』への批判にも驚きませんでした。

 しかし、『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』をその10年以上前に読んで感銘を受けたので、小路田氏がどのようなことを述べて、自分がどう受け取ったのか、改めて確認する意味で、一つの記事にまとめます。また、2万字という制限内に収まるので、利便性のためにも、一つの記事にまとめる方がよいかな、と判断しました。『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』の雑感は、当ブログ開始前に掲載したので、現在とは考え方が違っているところもありますし、文字遣いもかなり異なっているのですが、明らかな誤字と段落構成の訂正と説明文以外は、基本的にそのままにしておきます。なお、この3冊と深く関わりそうなその後に読んだ本として、増淵竜夫『歴史家の同時代史的考察について』があります(関連記事)。



『日本史の思想』

 柏書房より1997年に発行された。副題は「アジア主義と日本主義の相克」である。本書の後に取り上げる小路田氏の著書『「邪馬台国」と日本人』を先に読んだが、本書の方が先に発表されている。『「邪馬台国」と日本人』の内容は、本書を踏まえてのものでもあるので、なるべく早く読んでおこうと思っていたのだが、織田信長について色々と調べていたので、読み終えるのが遅れてしまった。

 小路田氏の関心は、現在の日本の民主主義の在り様である。「辺境」に押し付けて解決する日本の戦後民主主義は、もはや成り立たず、変わらねばならない。では、どうすれば変われるのか。そのためには日本の民主主義の成り立ちを深く知る必要があり、本書はそのための模索である。以下、先ず概略を、次に雑感を述べていく。


 戦後歴史学は、大正デモクラシーと戦前ファシズムとの間に越えがたい断絶を認めてきたが、両者の間には連続性が認められ、大きな差はなかった。15年戦争を、「我々」の政治参加の存在した大正デモクラシーの必然的帰結ではなく、天皇制や軍部によって抑圧された独裁時代の過誤として戦後歴史学は認識した。その結果、戦後歴史学の歴史認識は、歴史の変化を自らの主体的行為の帰結ではなく、「我々」にとってはどこまでも他者である誰かの作為や状況に帰せて説明する、没主体的なものとなった。

 大正デモクラシーは、社会的同権化と政治的民主化という二つの要素の組み合わせであった。一般に、両者は同じ民主主義の中で調和すると考えられているが、そうではない。社会的同権化は議会制民主主義の大衆政治(衆愚政治)化=形骸化と巨大な官僚集団の誕生=政治の官僚化を齎す。政治の官僚化は政治の無秩序化を齎すから、それを矯正するには政治の民主化が必要だった。故に、民主主義が政治風土として定着していようがいまいが、大正デモクラシーは必要とされたのだが、それは政治の官僚化の必要から生まれた民主主義であって、国民の欲求・参加意識に支えられたものではなく、故に大正デモクラシーは脆くも崩壊した。

 当時の日本には、社会的豊かさと、社会的同権化を進め「官僚的行政」を肥大化させていくために必要な民主主義を、それでも民主主義だと理解して受容するだけの強固なナショナル・アイデンティティが存在しなかったのである。何故なら、日本の歴史学が、国民共同の過去の記憶を創出することに失敗し続けたからであった。その理由を史学史の中に探ろうとするのが本書の課題である。


 日本近代国家の完成された形態を大日本帝国憲法体制に求めるとすると、それは水戸学的名分論とアジア主義の二つの歴史観・思想によって支えられていた。前者は、国民の信頼(世論)という客観的で具体的な基準を設けた点と、世論を祖法(皇祖皇宗の法)に名を借りた法として規範化し、叡慮(天皇の意思)に名を借りた命令として意志かした点に、特徴があった。

 また、仏教伝来以前に真の日本文化を認めた点も特徴と言える。後者は、自らの伝統の中に、自立した個人を前提に形成される市民社会の伝統を発見しようとして、アジア規模における文明の交流に着目した内省的なナショナリズムで、日本においては、仏教伝来以降の歴史に真の日本文化が認められた。

 このままでは、両者は重要な点で相容れないが、アジア主義において、日本はアジア文明の博物館である、と想定されることにより、両者の接近が可能となった。つまり、他に征服されることなく、途切れなく主権が続いてきたこの日本は、アジアの文化の貯蔵庫となった、という想定である。絶え間ない征服と王朝の興亡のあった中国の文化は、日本において保存され、遂には中国の学者自身、知識の源泉を日本に求めるようになった、というのである。

 この「日本=アジア文明の博物館論」により、日本文化の形成はアジア文明の圧倒的影響下で行なわれたとするアジア主義と、万世一系の天皇が日本を統治することを正当視する名分論的国体論とが融合しやすくなった。「日本=アジア文明の博物館論」はまた、モンゴルの膨張によりアジア文明の破壊、モンゴルを阻止した日本と西欧という観点を提示することにより、日本と西欧の対等性・日本とアジアの非対等性という認識を提示し、同時にモンゴルを退けたという点を強調することで、名分論的歴史観との間に神国思想という接点を持つことができた。


 大日本帝国憲法体制が、水戸学的名分論だけでなく、これと歴史観が大いに異なるアジア主義を必要とし、アジア主義の側に水戸学的名分論との接点が模索されたのには、理由があった。名分論の論理は、必然的に大政委任論、更には天皇親政論にまで行き着かざるを得なかったが、名分論が成立するには天皇が不執政の君主である必要があり、矛盾が生ずることになる。

 故に、名分論を成立させるには、「天皇の意志=覇者の意志」という虚構が成立し、その覇者に大政が委任される必要があった。明治政府は、当初、英国型責任内閣制を導入し、議会多数党の党首=覇者にしようとしたが、議会を通じて形成される世論に全幅の信頼は置けず、責任内閣制を断念せざるを得なかった。

 そこで政府は、個人の天賦の自由を前提に成立させる立憲制を、国家の伝統に規制された特殊な制度として成立させようとし、そのために、特殊主義と歴史主義の合理化が要求された。そこで必要とされたのが、一つには社会有機体説または社会進化論であり、もう一つがアジア主義であった。アジア主義を用いて、日本の伝統が立憲的に読み換えられたのである。

 アジア主義は、日本のナショナリズムに普遍的価値を与える役割を果たした。アジア主義は、差異はあれど、西欧の侵出に対してアジアに広く見られたものだった。アジア主義は、自らの文化的自立性を主張し、尚且つ価値相対主義に陥ることなく文化的多元主義として理念化された。未開・野蛮として(半)植民地化されてきたアジア諸国が、自らの文化的個性を強調することによって独立を達成しようとした時、頼るべき唯一の普遍思想だった。

 アジア主義が広まったのは、アメリカのアジアにおける発言力が拡大したからであった。世界は、強国が小国を併合して文明化させる天賦の権利を有する国際法秩序から、全ての民族に天賦の国権を認める国際法秩序へと移り変わっていった。つまり、建国の条件が、完全な文明化(西欧化)から、民族存在の事実=伝統へと変わっていたのである。そこで、伝統の近代的読み換えが必要とされたが、その際に活用されたのがアジア主義であった。

 だが、アジア主義と名分論との蜜月は長続きせず、南北朝正閏論争においてアジア主義者の喜田貞吉が敗れると(1911年)、正式に体制のイデオロギーから排除されることとなった。そして、アジア主義の凋落を示すのが津田左右吉の登場であった。以下、やや詳しく津田の歴史学について見ていく。


 津田は、中国思想の停滞・非普遍・反社会性を強調した。それは、中国文明の感化力の乏しさと日本への影響をできるだけ過小評価し、中国思想が近代国民国家の思想足り得ないことを証明するためであった。近代日本国民国家の淵源を外来のアジア文明に求めようとしたアジア主義者とは正反対の主張である。

 続いて津田は、日本の地理的孤立性とそれに起因する文化的後進性を証明したが、それは、日本文化よりも高度な中国文化を日本は理解できなかった、従って日本文化への中国文化の影響が皮相なもの(中央貴族段階)に留まった、と主張するためであった。

 故に津田は、記紀の中国思想やインド(仏教)思想で書かれた箇所は、潤色としてあっさりと切り捨ててしまった。津田は、古代以来中国文明の日本への影響は大きなものではなかった、日本と中国とは別個の世界で、一つの東洋という世界を形成していない、と主張するためにその膨大な歴史研究を行なったのである。

 津田の神代史(神話)研究が高く評価されたのは、記紀を史実を記した史書として読むのではなく、編者の精神を今日に伝える物語として読む立場を確立したからであった。津田は、本居宣長のように『古事記』を完全な史書と見做す立場だけでなく、記紀の記事を、確たる証拠もなく何らかの史実の反映と見做す立場でさえ、徹底的に排斥し、7世紀前後の日本の支配層の思想を解明する手法を確立した。従って、津田の神代史研究は、神代史を物語として成立させている基本精神の発見し、その基本精神に沿って神代史を物語として再構成させ、改めてその基本精神を確認する、という方法になった。

 津田の考えた基本精神とは、「気に乗じ、折にふれて、皇室の由来を世に示さうとする特別の意思」であった。津田の推量した神代史の形成のされ方は、「神代史は皇祖を日神とするといふ思想が中心となってゐて、それを一方に於いて大和奠都・出雲退譲の歴史的事実と結合するために、日孫降臨及びオホナムチ国ゆづりの物語が出来、一方に於いて、それを国家に於ける皇室の位置と調和させるためにイザナギ・イザナミ二神の国土及び日神生産の物語が出来たのである。さうして、その二つを連結するためにスサノヲの物語が作られたのである」というものであった。

 津田は、こうした物語を作った古代国家が、氏族制的言説(祖先崇拝・族制制度の時代に起る思想)によって統合された、極めて凝集性の高い国家だと考えたのである(氏族制=血縁社会は観念にすぎなかった)。津田は、上代史については、『日本書紀』をあくまで史書として読むことを心掛けた。その結果、記紀の原型が形成され始めた頃には、日本は氏族制社会を出て国家段階の社会に入っていたとした。また、大化改新の意義を低く評価し、大化改新によって「廃罷」された氏族制度は「政治上」に残った「旧慣」にすぎなかった、とした。

 また津田は、日本における古代国家形成は、外部の影響は受けず、内部の刺激だけで行なわれたとし、古代日本は、「天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと同じくし血統を同じくせられ、国民といふ一大家族の内部にあって其の核心となってゐらせられる」といった、主権者に対する恰も同族の長に対するが如き親愛の観念によって統合された、極めて特異な国家だったとした。つまり、日本がアジアの一角に位置しながら、例外的に近代国民国家の形成に成功し得た理由を科学的に証明しようとしたのである。そして、このように証明するには、日中間の文化的な溝の深さを強調するしかなかった。

 津田の学問の動機は、学問をする動機の最も重要なるものは、それによって国家の発達、国民文化の進歩に貢献しようとするところにあり、学問の効果は国家の隆盛となって現はれるのであります、であり、その目的は、国民の精神生活を豊かにし、特色ある国民的文化を形成し、人類の文化の発達に寄与し、またそれによって国家の品位と権威とを世界に高める、だった。

 更に津田は、(神代史をその形成された時代の思想によって解明した結果は)過去のいろいろの学者の考が、おのづから皇室の尊厳と国体の本質とを傷つけることになってゐるのとは反対に、ますますそれを明らかにする、とより明確にその目的を語っていたのである。


 日露戦争後、アジア主義は凋落し、日本をアジアの盟主として位置付ける膨張主義的な大アジア主義へと転換していったが、一方で、民族自決の原則を強制する「パクスアメリカーナ」も成立しつつあった。本来は民族自決の主張であったアジア主義がいとも簡単に膨張主義的な大アジア主義へと転換したのは、国家が、一度動員した国民の排外的感情の暴走を抑制する能力を持たないからであった。何故国家が抑制能力を持たないのかというと、国家自体が近代社会を創出するに際して、排外主義の統合効果を過剰に利用し過ぎていたからだった。

 近代日本は、何か公的事業を行なう際、関係する諸利害を、個々の利害を越えた一つの利益(公益または国益)に統合していく仕組みとしての立憲制の創出に最終的には失敗し、その失敗を補うために、天皇の超越性を演出したが、天皇の絶対性には天皇不執政の原則と天皇親政原理の矛盾が付き纏う。従って、如何なる水準であれ、近代日本社会の統合には、共通の他者を排除することによって生まれる共同体意識=排外主義を利用することが求められた。

 故に、例えば市制を施行し(1888年)都市団体を創出するために、都市住民の農村に対する排他性を利用することが不可欠であった。日本の近代都市が、将来の都市化を見込めば、当然あらかじめ政治的傘下に収めておくべき周辺農村を敢えて政治的傘下に収めようとはせず、社会資本整備を遅らせ、際限なきスプロール化を招いてしまったのは、そのためだった。排外主義を内蔵してしまった国家に、排外主義の暴走が食い止められなかったのは必然的だったのである。


 アジア主義凋落の跡を埋める思想には、門戸開放体制(パクスアメリカーナ)に順応すべく、日本という国家を、日本列島と日本文化によって先天的に限定された存在として論じることと、日本人をより積極的な政治主体に変え、政治に強い指導力を生み出すことを可能にすることが要求され、これに応えて影響力を強めたのが、広い意味での日本主義であった。それは、日本という国家の存在根拠を、一人一人の国民の皇祖皇宗の「建国当初の抱負」に対する自覚と共感に求める思想で、万世一系の天皇の血統に日本国の正当性を求める一種の名分論だった。

 だが、日本主義は二つの点で従来の名分論とは根本的に異なっていた。一つは、民族存在の事実ではなく、一人一人の日本人の主体的な共感に国家を基づかせようとした点である。もう一つは、祖宗の遺訓を万国に通じる普遍的真理と認識していた従来の名分論に対して、それを日本社会の中で日本人にのみ理解できる特殊日本的な真理と認識した点である。従って日本主義は、植民地支配の根拠を、従来のアジア主義のように敢えて歴史に求めることを拒否する思想だった。

 従って、日本主義は、極端に権力・同化主義的な侵略主義に発展する可能性も、石橋湛山の小日本主義のように反植民地主義に発展する可能性も持った思想だった。日露戦争後、アカデミズムの世界では、アジア主義から日本主義への移行が確実に始まっていたが、アジア主義が一旦広まった後だけに、日本主義の確立はなかなか困難だった。


 そこで、日本主義確立のために先ず取られた方法が、日本の歴史を純粋な日本史として描き、東洋史への埋没から救い出すことであった。内藤湖南が、「日本文化の起源とその根本を知る為にはどうしても先づ支那文化を知らなければならぬ。今、歴史といふものを日本の歴史だけで打切ってしまって、その以前の支那の事を知らぬといふと、日本文化の由来を全く知らぬことになる、更には、大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です」と述べたようなアジア主義の呪縛から日本史を解き放つための方法は、三つあった。

 一つ目は、既に津田が指摘したように、常識的に考えると日本が最も深刻に中国文明の影響下に置かれたと思われる古代において、外来文化の影響が実は小さく、所詮は表面的な影響に過ぎなかったことを発見することだった。

 二つ目は、中国文明の影響を長期間色濃く受けた中央貴族の歴史ではなく、中国文明の影響を殆ど受ける筈のない地方(関東)武士、またはより下からの民衆の歴史として、日本史を描き直すことだった。日本中世史の創始者とされる原勝郎は、関東武士の世界の中に歴史発展の原動力を見付けたのである。

 三つ目は、現代日本の古典を古代ではなく中世に求めることで、これにより外来文化をひたすら受け入れて発展してきた古代貴族の歴史と切り離して、地方の武士や民衆を主体とした内なる国民形成史を描くことができた。とはいえ、このように日本史を東洋史とは無関係な純粋な日本史として描くことは、史実の壁があり容易ではなかった。そこで日本主義者達は、更に二つの方法を選択した。


 一つは、「歴史は現代史である」という立場での方法、つまり、歴史を現代の歴史研究者の主観に完全に従属させる、という方法だった。この立場を推し進め、歴史を敢えて実証から解放し、理論へと飛躍させることによって、歴史を客観的な史実をありのまま記述する学問から、歴史家の主観によって過去を主体的に(従って未来への実践を視野において)統合する叙述の学問へと変貌せしめるのに功があったのが、内田銀蔵と平泉澄であった。

 この立場では、「我等紛れもなき日本人」の描き得る歴史は、必然的に「桜咲く日本の国土の上に幾千年」刻まれてきた歴史としての日本史しかなくなるのであり、如何にアジアから多様な影響を受けようとも、国土に限定された日本史が正当なものということになるのである。所謂皇国史観は、この方法の歴史的帰結であり、一種の戯画化であった。

 もう一つは、日本史を、予めその普遍性が約束された西洋史の方法に沿って描くという方法だった。そうすれば、日本史に普遍性が宿ることになり、普遍的なものは自ずから自己完結性を帯びるからである。この方法は、近代日本の歴史学が西洋歴史学を範としたためか、広く行なわれた。一見すると西洋史とは無縁に見える津田史学にしても、中国やインドの文化・思想が国民の実生活から遊離していたと主張していたのに対して、西洋文化は国民の実生活に密着したことを認め、西洋思想は日本人にとって決して異国の思想ではない、としていた。


 だが、日本主義を確立するには、日本史を自己完結的に描くだけでは不充分であった。何故ならば、一つには、帝国主義的膨張を続ける日本という現実の下では、アジア主義の方が受け入れられやすかったからである。もう一つは、如何に日本史を東洋史から切り離して描いてみても、その虚偽性が明らかだったからである。そこで、日本主義を確立するには、国家を先天的に空間的に限定することの必然性を哲学的に論証しなくてはならなかった。

 その課題を担ったのは、「場の論理」を確立した西田幾多郎と、『風土』を書き風土論を確立した和辻哲郎だった。和辻は西田哲学の影響も受けつつ、国家や社会が固有の時間(伝統)と空間(風土)によって限界付けられた存在だと主張した。それは、一つには、日本という国家を、どこまでも日本列島とそこに育った文化によって限定された空間として捉え、アジア主義と決別して日本主義に哲学的基礎を与えるためであった。

 もう一つは、津田のような極端な事実歪曲を行なうことなく、「日本人がいかに深くシナ文化を吸収したにしても、日本人はついに前述の如きシナ的性格を帯びるには至らなかった」という津田同様の結論に到達するためだった。文化における風土の規定性を言うことによって、如何に日本文化が中国文化やその他の外来文化の影響を受けようとも、その固有性を語ることができたのである。和辻は津田の古代史理解を批判したが、それは和辻が希代のコスモポリタンだったからではない。善き日本主義者たらんとすれば、外来文化の影響を正当に評価した上で日本主義を主張しなければならないのである。


 こうして日本主義は完成したが、植民地帝国日本の現実とアジア主義のナショナリズムの根強さが、その定着を妨げた。アジア主義は、日露戦争後に膨張主義的帝国主義の代名詞に転換していき、それは国内社会の同権化を目的としていた。故に、アジア主義は大衆に浸透してその命脈を保った。

 これに対して、「建国当初の抱負」に対する自覚を持たせることに主眼を置く日本主義は、社会契約論にも似たエリート主義的思想で、大衆には受け入れられなかった。明治以降の日本は、名望家(市民)社会の建設に挫折し、社会の大衆化と権力の「一君」化が先行した、エリート主義があまり強固な基盤を持つことのできない社会だったのである。

 アジア主義が日本主義と比較して強靭だったのには、もう一つの理由があった。第一次世界大戦後、アメリカ型消費文化が世界的に広がる中、日本社会のアイデンティティを保とうとすれば、アメリカ型消費文化に対抗可能な「物質文明」を構想する必要があったが、そのための想像力の源は、日本主義ではなくアジア主義に求めなければならなかった。何故ならば、日本主義は祖宗の時代の文化という、捉えようのないものを理想化する思想であり、アジア主義のように固有の物質的表象を持たなかったからである。

 日本主義者達は、日本社会に「公共性の観念」を確立することを最大の現実的関心とし、そのためには公共財の荘厳化を図る必要があったが、以上の理由で、国家が公共財の荘厳化を図るべく新たな伝統文化の「創造」を企図した時、日本主義ではなくアジア主義に依存せざるを得なかった。人々の内面に「公共性の観念」を喚起できない日本主義は、容易に戦前期日本社会には定着しなかったのでる。


 だが日本主義は、第二次世界大戦後に定着した。その理由は、一つには敗戦により植民地帝国としての現実が失われたためであった。もう一つは、象徴天皇制の成立により天皇親政の原則と不執政の原則との矛盾が取り除かれたためであった。最後に、アメリカの核の傘に入ったことにより、国家水準での強固なアイデンティティ確立の必要性が取り除かれたためであった。敗戦は、日本社会に日本主義の受け入れられる素地を築いたのである。

 故に、戦後歴史学は戦前期歴史学以上に日本社会の自明性を前提に形成され、単一民族説が一般化した。戦後歴史学の出発点が、嘗ての原の試みを敷き写すが如く、草深い東大寺領黒田荘に住む武士や民衆史として中世を叙述した石母田正の『中世的世界の形成』から始まったことは、その象徴であった。故に、戦後歴史学は、網野善彦らによって、その日本主義と農本主義とを激しく攻撃されているのである。


 社会現象を大きく政治と経済に分けると、経済に「物語」(虚構された社会像)は必要ないが、政治にはそれは必要である。「物語」によって観念化され、一旦現実から遊離させられた社会を前提にしなければ、つまり、あるがままの社会を前提にしたのでは、政治は成り立たないのである。経済の基盤は人間の多様性そのもので、経済社会に立ち現れる諸個人は、全て個性的である。

 一方政治の基礎は、人間の多様性そのものではなく、抽象・非個性化された平等な個人の集合体としての社会である。その証拠に、大抵の国において、各国民は平等に一票ずつ選挙権を持っている。政治は、例えば貧富の差の拡大といった、経済の齎す差異化作用に相抗して、社会の均質化を保持するための人間行為なのである。故に、政治には、多種多様で差別し差別される人間を、平等な人間として立ち上げる虚構が必要なのである。そしてその虚構を構想するために、社会を同等の個人の共同体として描く、ある種の「物語」が必要なのである。

 しかし、本質的に多様性と差別性を帯びていて、故に社会的分業と文明が成立した人間社会を、同等の資格を持った個人の集合体として描くことは、容易ではない。古代以来、社会の紐帯として、西洋においては「愛」が、東洋においては「孝」が語られてきたが、社会がそれらによって満たされたことは一度もなかった。

 常に「性悪説」と「法家の思想」が社会を担保し続けてきた。戦後歴史学は、人間を本来的に共同体的な動物と見做し、本源的共同体を想定するところから歴史叙述を始めてきたが、それは、過去をともすれば近代の反対物として描こうとする近代人の錯覚に過ぎなかった。人間は、本来多様で公益なしには生存できない動物だった。

 では、共同体の「物語」は如何にして作られたのかというと、それは共同体の歴史を語ることによってであった。その理由は、一つには、「体験」=過去の共有が、人間が相互に同胞として理解しあうための最も大きな手掛かりになるからだった。もう一つには、一君万民式に人々の平等を確保しようとすれば、「先王制作の道」であれ「祖霊」であれ、歴史の中に居場所のある何らかの絶対者を想定せねばならなかったからである。故に、社会を同胞社会として描く「物語」の中心には、どうしても歴史的な語りがなくてはならなかった。

 こうした事態は近代になっても変わらなかった。近代になると、「先王制作の道」や「祖霊」を証明するための歴史ではなく、国民の歴史が描かれるようになるが、それも、主権者たる国民を絶対者の地位に置くためのものであった。故に、歴史をどう描くかは、いつの時代にも政治の最大の関心事だった。歴史学=歴史観の変遷(史学史)と政治の変遷(政治史)との間には、密接不可分の関係があるのである。


 本書は、政治動向と歴史思潮の移り変わりとを相互に関連付けて近代日本を概観しており、大変示唆に富んだものである。一般に、戦前は神憑り的で非科学的な皇国史観が一世を風靡し、戦後歴史学は戦前期歴史学と一線を画して科学的な研究成果を積み重ねてきた、などと言われているが、事はそう単純ではない。

 皇国史観を生んだ日本主義は、実は戦後になって却って定着したのであり、戦後歴史学は日本主義に基づいたものであった。日本主義者の代表的存在である津田左右吉は、戦後になって反動化したとして戦後歴史学の主流からは大いに非難されたが、その研究内容自体が否定されたわけではなく、戦後歴史学は津田史学を実証的・科学的として高く評価し続けてきた。

 その戦後歴史学が厳しく批判したのが、2年前(1999年)話題となった西尾幹二氏の『国民の歴史』で、私も評判になったので読んだことがあった(関連記事)。同書は一般では賛否両論といった感じだったが、歴史学界では概ね評判が悪く、戦前の皇国史観の焼き直しとの批判も少なからずあった。『国民の歴史』批判派に言わせると、西尾氏は科学的な研究に立脚した戦後歴史学の成果を無視している、ということになり、戦後歴史学と西尾氏とは対極に位置するかの如き感があった。

 ところが、『国民の歴史』の内容は、実は津田左右吉の主張と大いに共鳴するところがあり、徹底した日本孤立論を主張している。確かに、『国民の歴史』は戦後歴史学の提示した歴史像とは、一見すると大いに異なるのかもしれないが、実は同根から生じたという側面が多分にあった。

 戦後歴史学の側からの厳しい批判にも関わらず、一般の間で『国民の歴史』がそれなりに高い評価を受けたのは、戦後歴史学への不信・不満があるからだ、との評価もあり、確かにその指摘にも妥当性はあろう。だが、より根本的な問題は、両者が同根から生じたものだということで、故に、戦後歴史学の側が『国民の歴史』を徹底的に批判することは困難なのではなかろうか。

 戦前・戦中・戦後を通じて、津田の歴史観・思想は首尾一貫していた。ところが戦後歴史学は、津田が戦後になってマルクス主義の台頭に脅威を覚えて国体護持論を主張すると、津田は反動化したとして厳しく批判した。こうした事実の中に、戦後歴史学の重要な問題点と、『国民の歴史』が国民の間で一定の影響力を有した理由が見えてくるのではなかろうか。

 私は中学生の頃、日本人単一民族説は寧ろ戦後になって常識となったのだ、と何かの本で読んで、疑問に思ったことがある。日本人単一民族説は、皇国史観が一世を風靡した戦前の方が明らかに受け入れられやすいように思えたからである。そうした疑問点も含めて、本書は近代日本の政治動向と歴史思潮の変遷を、その社会的背景と共に実に上手く説明しており、近代日本史学史についての議論に有益な提言をしているように思われる。



『「邪馬台国」と日本人』

 平凡社新書として、今年(2001年)初めに平凡社から発行された。書名は『「邪馬台国」と日本人』となっているが、主題は近現代日本における「日本史」叙述・認識の問題で、皇国史観が如何にして生まれ、何故未だに克服されていないのかを論じている。邪馬台国論争は、皇国史観に傾斜していく戦前の日本史研究状況を説明する一挿話として描かれているといった感じで、書名は、「皇国史観の形成過程」とでもするのが妥当なように思う。或いは、邪馬台国を書名に入れた方が人目を引くから、といった理由で、編集者がこの書名を提案したのだろうか(邪推かな・・・)。

 冒頭では、歴史認識・叙述の在り方として、物語としての歴史(構成主義的歴史観)と客観的歴史観とが挙げられ、以下の章で、近代日本における歴史認識・叙述が、両者の間を揺らぎながら次第に前者に傾倒していき、遂には皇国史観が成立するに至った経緯が、『大日本編年史』の編纂と挫折・白鳥庫吉と津田左右吉の思想と認識を通じて述べられている。簡潔に要旨を述べると、次のようになる。


 不平等条約改正・一流国の仲間入りを目指した明治前半の日本に要求されたのは、文明国としての証であり、具体的にはそれは立憲制であった。だから、立憲制国家に相応しい力量のある国民を育成するために、普遍的な価値観に基づく文明史としての客観的な『大日本編年史』の編纂が企図された。だが、憲法が制定される頃になっても、先進国の立憲制には到底及ばないことが明らかになっていく。そこで政府は、天皇の絶対的権威を持ち出して政府の議会に対する優越を歴史的に説明しようとし、特殊的性格を持つ日本という歴史像の創出を企図し始めた。

 この流れは、その頃より民族自決の原則が主張されるようになったことによって、一層強くなった。何故なら、独立国としての条件が、文明水準から民族の存在へと転換することを意味したからである。故に、以後の日本では、日本の特殊性を歴史に求める傾向が強くなったが、それは歴史の物語化を招来した。その理由は、一つには中国(外来)文化の影響を受けない日本固有の文化の存在を確認できなかったからであり、もう一つには、流入する中国文化に圧倒されないよう、古くに成立した固有文化に回帰して歴史的発展を図る復古の英雄の存在を想定するしかなかったからである。

 だが、日本の特殊性を歴史に求める動きの中にも、物語を作り上げることによるものではなく、実証的手法によるものもあった。その手法を開拓したのが、東洋史家の白鳥庫吉とその弟子である津田左右吉であった。白鳥は、記紀神話などの古伝説を、過去の事実を反映した歴史として理解する前に、書き手の思想の産物として理解しようとした。白鳥は、日本神話には中国思想の影響があるが、その影響を受けていない日本固有思想の部分は、自然崇拝に留まっている中国思想より優れている、とした。

 そして、中国思想の流入にも関わらず日本固有の思想が消え失せなかったのは、歴史のある時期までは、日本は中国と文化的に隔絶されていたからだ、とした。この見解の補強のため、白鳥は邪馬台国九州説を唱え、それに執着した。大和朝廷、即ち日本の主要部分が中国と接触した時期が遅いほど、自説には有利になるからである。だが白鳥は、一見すると中国思想の影響を受けていないように思われる日本神話の一部も、実は仏教の影響により形成されたものだと気付いていた。だが、日本孤立主義を採って「満州進出不可論」を主張し、「尊厳なる国体の本質と、我が皇室の万世一系であらせられる真の理由」を発見することを企図していた「国士」白鳥は、生前にはその考えを一部にしか漏らさなかった。

 白鳥の弟子である津田は、一層徹底した日本孤立主義論者だった。津田は、中国思想は普遍的なものではなく、また文化水準の低い日本に浸透したわけではなかったとし、日本における中国文化の影響を軽視した。津田は、日本と中国との違いを強調し、両者は東洋文明・文化などといって一つに括れるものではなく、全く別個の地域であった、と主張した。そのため津田は、一つの東亜を形成しようとした時流への反逆者と受け取られ、戦前には政府から睨まれることとなり、反戦・反体制の歴史家と理解された。

 津田や白鳥とは対極的に、一つの東亜という立場にたったのが内藤湖南で、内藤は西洋文明に対する東洋文明の対抗可能性を歴史研究の課題としていた。故に内藤は、日本の歴史を東洋の歴史に組み込む必要性を感じ、日本文化の固有性や外来文化摂取の選択性といった議論に反駁し、邪馬台国畿内説を主張したのである。

 白鳥と津田の、日本的固有文化を歴史的に実証せんとする試みに限界が見えると、同様の目的を掲げる者の多くが皇国史観を選択することとなった。皇国史観は、単に物語的歴史の延長にあるのではなく、進んで日本人になろうとする皇道実践に生命をかける歴史家の主体性に支えられてはじめて成り立つ歴史観であり、日本文化の特殊性を証明しようとする大きな流れの最後の姿であった。

 皇国史観は、戦後になって非合理・非科学的として糾弾されたが、その誕生過程・理由を解明するといった徹底的な克服はなされなかった。それは、戦後歴史学もつい昨日までは皇国史観と五十歩百歩だったので、歴史家がそれに触れたくないためであり、もう一つは、戦後日本も、国家のアイデンティティ確立のために、日本文化の特殊性・固有性を主張するしかなく、歴史学がその証明のために動員されたからであった。戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはなく戦前期歴史学と連続しており、その中では、実証的・反戦的と理解されていて日本孤立論を採る津田史学とのみ公然と接続することによって、戦前期歴史学との連続を図った。


 戦後歴史学が津田史学とのみ・・・との最後の辺りには疑問もあるが、戦後歴史学においても日本の孤立性が強調されてきたことを考えると、一定の妥当性は認めてもよいのかもしれない。皇国史観形成の過程については、上手く題材を選択して纏めており、なかなか分かりやすく説得力があると思う。皇国史観が過去の問題ではないことや、日本の新たなるアイデンティティの確立など、現在の重要問題へと上手く繋がる内容となっており、歴史を学ぶ本来の意義を再確認させてくれる本だと思う。戦後になって反動化したと非難された津田左右吉についても、やはり井上光貞氏や今谷明氏が仰るように、戦前戦後を通じてその主張が首尾一貫していることを確認できたことも収穫であった。

 うーん、殆ど要約になってしまったか・・・。



『邪馬台国と「鉄の道」』

 歴史新書の一冊として、洋泉社から2011年4月に刊行されました。小路田氏の著書では、邪馬台国論争を手掛かりとして、近代日本におけるナショナリズムと歴史認識の問題を論じた『「邪馬台国」と日本人』が面白く、上述しました。

 本書は、その『「邪馬台国」と日本人』において、邪馬台国が畿内にあろうと九州にあろうとどちらでもよい、と軽率に述べてしまったことへの反省が執筆動機とのことで、期待して読み始めたのですが、正直なところ、かなり困惑させられる内容でした。一般にもよく知られている『日本書紀』や『古事記』や「正史」などの史書のみならず、地名や神社の由来などの伝承を大いに活用することで、古代の流通と社会を復元し、日本古代史像を見直す、という意欲的な試みではあるのですが、本書の最後に、「ただし展開したのはどこまでも仮説なので、実証的でないといわれればそこまでだ」と述べられているように、専門分野ではないにしても、歴史学の研究者が一般向けに執筆した歴史本としては、かなり問題があるように思います。

 それは、神武など実在を疑う見解が主流と言ってよい人物の実在を主張しているからではなく、封建制という概念について、しっかりと定義されているわけではなく、通時的に用いていることや、地名や慣習や神社の伝承などがいつからのものなのか、詳しく言及されるわけでもなく、漠然と古くからあるかのような前提で議論が展開されているように思われるからです。つまり、その時代の概念・価値観・名称に基づく議論かどうか怪しく、超歴史的というか、あまりにも長期間にわたる一貫性を前提とした主張になっているのではないか、との疑問が残ります。古代と近代とをあまりにも異質な世界として認識することへの疑問など、本書の主張には考えさせられるものが多いとは思いますが、まだ方向性が漠然と示された段階で、検証・議論が大いに必要なのでしょう。

12万年前頃のネアンデルタール人の核DNA解析(追記有)

 12万年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の核DNA解析に関する研究(Peyrégne et al., 2019)が報道されました。ネアンデルタール人の早期の形態学的証拠は、頭蓋(関連記事)と頭蓋以外(関連記事)において、43万年前頃と推定されているスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)のホモ属集団で得られています。SH集団は、核DNAでもネアンデルタール人との近縁性が確認されています(関連記事)。ただ、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、SH集団はネアンデルタール人や現生人類(Homo sapiens)よりもデニソワ人と近縁です(関連記事)。

 イベリア半島南部は例外かもしれませんが(関連記事)、ネアンデルタール人は4万年前頃までにほぼ絶滅した、と考えられています(関連記事)。最近の研究では、ヨーロッパからアジア中央部までのネアンデルタール人は単一集団に属し、その最終共通祖先の年代は97000年前頃と推定されています(関連記事)。4万年前頃に絶滅したネアンデルタール人は、この集団と考えられます。この集団は、高品質なゲノム配列の得られている、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の5万年前頃のネアンデルタール人個体(関連記事)に代表されます。ここでは、西方(ヨーロッパ)系としておきます。一方、同じく高品質なゲノム配列の得られている南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)でも、130000~90900年前頃(関連記事)のネアンデルタール人の個体が確認されており(関連記事)、ここでは東方(アルタイ)系としておきます。

 デニソワ洞窟では、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人の、118100~79300年前頃の交雑第一世代個体が発見されています(関連記事)。その母親は遺伝的に、同じデニソワ洞窟の東方系個体よりも、ずっと後のクロアチアの西方系の方と類似していました。これは、アルタイ地域のネアンデルタール人集団において、13万~8万年前頃に東方系の少なくとも一部が西方系に置換された可能性を示唆します。ただ、西方系と東方系が一時的に共存した場合も想定されます。東方系と西方系の分岐は、145000~130000年前頃と推定されています。

 こうした東西系統間の置換も想定されるネアンデルタール人集団の人口史を解明するには、ヨーロッパの早期ネアンデルタール人のゲノム配列が必要となりますが、これまで10万年以上前のものは、SH集団を例外として得られていませんでした。本論文は、ヨーロッパの12万年前頃のネアンデルタール人2個体のゲノムを配列しました。一方は、すでにmtDNAが解析されていた、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HSTと省略)で発見された大腿骨化石です(関連記事)。HST個体は、mtDNA系統では他のネアンデルタール人系統と最も早期に(27万年前頃、316000~219000年前)分岐した、と推定されています。年代は、mtDNA解析から124000年前頃(183000~62000年前頃)と推定されています。もう一方は、ベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)で発見された上顎骨で、年代は、ウランとトリウムの同位体比では127000年前頃(173000~95000年前頃)、mtDNA解析では12万年前頃(168000~76000年前頃)と推定されています。

 mtDNA解析に基づくネアンデルタール人集団の系統樹では、まずHST個体が他の個体群と分岐します。次に、アルタイ地域のデニソワ洞窟の個体(東方系)がヨーロッパの個体群(西方系)と分岐します。上述のようにHST個体のmtDNAはすでに解析されており、本論文でも同様の結果が得られました。スクラディナ個体のmtDNAは、デニソワ洞窟の個体とクレード(単系統群)を構成します。つまり、mtDNAに基づくネアンデルタール人の系統樹では、HST個体が「孤立系統」、スクラディナ個体が東方系に分類され、ともに西方(ヨーロッパ)系とは異なる、というわけです。

 HST個体もスクラディナ個体も、年代が12万年前頃と古く、発見後数十年間に多くの人に触れているため、ゲノム規模解析に充分なDNA量を入手することは困難でした。核DNAは、HST個体で1憶6800万塩基対、スクラディナ個体で7800万塩基対の配列が得られました。ゲノムデータでは、HST個体は男性、スクラディナ個体は女性と推定され、形態学的評価と一致します。これら2個体のゲノム配列は、高品質なゲノム配列が得られている、アルタイ地域のデニソワ洞窟のネアンデルタール人個体およびクロアチアのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人と比較されました。その結果、HST個体もスクラディナ個体も、東方系よりも西方系の方と密接に関連していました。本論文は、HST個体とスクラディナ個体を西方系の祖先系統と分類し、西方系ネアンデルタール人集団はヨーロッパにおいて遅くとも12万年前頃には確立していた、との見解を提示しています。ヨーロッパにおいては、8万年以上にわたるネアンデルタール人の遺伝的継続性があっただろう、というわけです。

 問題となるのは、核DNAではHST個体もスクラディナ個体も西方系なのに、mtDNAでは両者とも西方系には分類されないことです。この不整合について本論文は、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換との関連を指摘しています。ネアンデルタール人系統と現生人類系統との推定分岐年代は、mtDNAでは468000~360000年前頃(関連記事)、核DNAでは63万~52万年前頃(関連記事)です。本論文では採用されていませんが、両系統の分岐を25920世代前(751690年前頃)と推定する見解もあります(関連記事)。この場合、mtDNAの分岐年代との違いがさらに大きくなります。

 上述のようにSH集団は、核DNAでもネアンデルタール人との近縁性が確認されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、ネアンデルタール人や現生人類よりもデニソワ人と近縁です。本論文は、おそらく他の早期ネアンデルタール人もデニソワ人に近いmtDNAを有していただろう、と推測しています。一方、後期ネアンデルタール人は、デニソワ人よりも現生人類に近いmtDNAを有しています。つまり、ネアンデルタール人のmtDNAは本来デニソワ人と近縁で、核DNAとも系統関係は一致していたものの、後に現生人類の祖先系統もしくはその近縁系統との交雑により、デニソワ人よりも現生人類の方と近縁になった、というわけです。もちろん、これはまだ確定的ではなく、複数の見解が提示されています(関連記事)。

 本論文は、後期ネアンデルタール人のmtDNAは、現生人類の祖先系統もしくはその近縁系統との交雑によりもたらされた、との見解を前提に、HST個体とスクラディナ個体のmtDNAの由来を推測しています。以前のHST個体のmtDNA解析では、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は、遅くとも27万年前頃(316000~219000年前頃)に起きた、と推定されていました(関連記事)。本論文は、この置換のさいにネアンデルタール人系統にもたらされた多様なmtDNA系統のうちの一つが、HST個体のそれではないか、と推測しています。つまり、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は、27万年前頃よりも後だった、というわけです。

 この問題に関して本論文はもう一つ仮説を提示しています。それは、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は27万年前頃以前に起き、HST個体のmtDNA系統は、ネアンデルタール人集団における孤立系統を表しているのではないか、というものです。寒冷な海洋酸素同位体ステージ(MIS)6よりも前にHST系統は他のネアンデルタール人系統と分岐し、寒冷化により各ネアンデルタール人系統は孤立して進化し、温暖なMIS5に各系統が拡散して遭遇した結果、遺伝子流動が生じたかもしれない、というわけです。本論文は、そうした遭遇が、ヨーロッパ北部より温暖で待避所として適していただろう、中東またはヨーロッパ南部からの再植民の結果だった可能性を指摘しています。

 後期ホモ属の進化と相互作用は複雑だった、と私は考えています(関連記事)。ネアンデルタール人系統に限定しても、それは同様だったのでしょう。ネアンデルタール人系統でも、置換も含めて東方系と西方系との間の相互作用があったようですし、後期西方系に限定しても、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文で明らかになった、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAと核DNAの系統樹の不整合も、まだ確定的な説明ができる状況ではありません。本論文は、ネアンデルタール人の人口史をさらに詳細に解明するには、さらに古いネアンデルタール人のDNA配列が必要になる、と指摘しています。この分野の近年における研究の進展は目覚ましいので、今後も新たな知見が次々と得られることでしょう。追いついていくことは困難ですが、できるだけ多くの研究を当ブログで取り上げていくつもりです。


参考文献:
Peyrégne S. et al.(2019): Nuclear DNA from two early Neandertals reveals 80,000 years of genetic continuity in Europe. Science Advances, 5, 6, eaaw5873.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw5873


追記(2019年6月28日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

動物の多細胞性の起源と多能性の継承

 動物の多細胞性の起源と多能性の継承に関する研究(Sogabe et al., 2019)が公表されました。多細胞動物の初期進化は、単細胞性の鞭毛虫類と、海綿動物の襟細胞との間に見られる形態的類似性に結びつけられてきました。この研究は、海綿動物の一種(Amphimedon queenslandica)において、3種類の異なる細胞タイプの単一細胞RNAを解析し、襟細胞はこれまで考えられていたほど襟鞭毛虫類とは似ておらず、原始細胞が、もっと複雑な多細胞生物に見られる多能性関連遺伝子を発現していることを見いだしました。原始細胞は海綿動物の他のさまざまな細胞タイプへ分化できると思われ、襟細胞はそのような細胞タイプの一つですが、原始細胞へと戻ることができます。この研究は、初期の多細胞生物は、似たような細胞が集まった単純な球体ではなく、はるかに精巧だった、とする新たな見方の必要性を示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:動物の多細胞性の起源と、多能性

進化学:多細胞性へのカギとなる可塑性

 多細胞動物の初期進化は、単細胞性の鞭毛虫類と、海綿動物の襟細胞との間に見られる形態的類似性に結び付けられてきた。今回B Degnanたちは、海綿動物の一種であるAmphimedon queenslandicaにおいて、3種類の異なる細胞タイプの単一細胞RNAを解析し、襟細胞はこれまで考えられていたほど襟鞭毛虫類とは似ておらず、原始細胞が、もっと複雑な多細胞生物に見られる多能性関連遺伝子を発現していることを見いだしている。原始細胞は海綿動物の他のさまざまな細胞タイプへ分化できると思われ、襟細胞はそのような細胞タイプの1つだが、原始細胞へと戻ることができる。この研究は、初期の多細胞生物は、似たような細胞が集まった単純な球体ではなく、はるかに精巧だった、とする新しい見方の必要性を示している。



参考文献:
Sogabe S. et al.(2019): Pluripotency and the origin of animal multicellularity. Nature, 570, 7762, 519–522.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1290-4

自然災害による世界の輸送インフラの被害額の評価

 自然災害による世界の輸送インフラの被害額の評価に関する研究(Koks et al., 2019)が公表されました。この研究は、世界の道路および鉄道の資産データとハザードマップを用いて、世界の輸送インフラが、熱帯性低気圧、地震、陸面氾濫による洪水、河川の氾濫による洪水、沿岸洪水などの自然災害にどれほど曝されており、これらの自然災害がどれほど大きなリスクとなっているのか、算出しました。その結果、世界の輸送インフラの約27%が一つ以上の自然災害に遭遇しており、全球の年間被害予想額は31億~220億ドル(約3400億円~2兆4200億円)に及ぶ可能性がある、と明らかになりました。

 また、この研究は、こうした自然災害に対してとくに脆弱なのが、パプアニューギニアなどの小島嶼開発途上国の輸送インフラであることも明らかにしました。被害額の絶対値が最も大きかったのは、中国や日本などの高所得国でしたが、リスクのGDP比は、ジョージアやミャンマーなどの中所得国の方が大きいことも明らかになりました。この研究は、各国が交通計画を立てるさいに、リスク情報を評価に組み込んで改善を図ることが重要と主張しています。これは、自然災害による損害を防止するための主要な改善に目標を絞り込むことで、すべての交通資産に対する予算の支出額を最小限に抑えるのに役立つ可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】自然災害によって世界の輸送インフラに生じた被害額の評価

 自然災害によって世界の道路インフラと鉄道インフラに生じた損害の年間被害額の平均値が、約146億米ドル(約1兆6000億円)に達する可能性があることを明らかにした論文が、今週掲載される。今回行われたモデリング研究では、この損害の約73%は、極端な降雨によって引き起こされた地表水と河川の氾濫によることが示唆されている。

 今回、Elco Koksたちの研究グループは、世界の道路と鉄道の資産データと、ハザードマップを使って、世界の輸送インフラが、熱帯性低気圧、地震、陸面氾濫による洪水、河川の氾濫による洪水、沿岸洪水などの自然災害にどれほどさらされており、これらの自然災害がどれほど大きなリスクとなっているかを算出した。その結果、世界の輸送インフラの約27%が、1つ以上の自然災害に遭遇しており、全球の年間被害予想額が31億~220億ドル(約3400億円~2兆4200億円)に及ぶ可能性のあることが判明した。またKoksたちは、こうした自然災害に対して特に脆弱なのが、パプアニューギニアなどの小島嶼開発途上国の輸送インフラであることを明らかにした。被害額の絶対値が最も大きかったのは、中国や日本などの高所得国であったが、リスクのGDP比は、ジョージアやミャンマーなどの中所得国の方が大きかった。

 Koksたちは、各国が交通計画を行う際にリスク情報を評価に組み込んで改善を図ることが重要だと主張している。これは、自然災害による損害を防止するための主要な改善に目標を絞り込むことで、全ての交通資産に対する予算の支出額を最小限に抑えるのに役立つ可能性がある。



参考文献:
Koks EE. et al.(2019): A global multi-hazard risk analysis of road and railway infrastructure assets. Nature Communications, 10, 2677.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10442-3

マウスの骨からウランを除去する化合物

 マウスの骨からウランを除去する化合物に関する研究(Wang et al., 2019)が公表されました。ウランは原子力発電にとって重要な資源ですが、放射性毒性と化学毒性のために健康へのリスクがあります。被曝後にウランの約2/3は腎臓を介して体外に除去されますが、残りは腎臓と骨に留まり、腎臓の損傷や骨欠損および癌のリスク増加を引き起こす可能性があります。体内に吸収されたウランの除去は、キレート剤と呼ばれる分子を使用すると実現可能ですが、既存の製剤は骨からウランを効率的に除去できず、毒性が高いものもあります。

 この研究は、既存のヒドロキシピリジノンを基にしたキレート剤を改良し、骨中のウラン錯体との親和性が向上したキレート剤を作製しました。この研究は、作製されたキレート剤がマウスの腎臓と骨からウランを効率的に除去でき、他のキレート剤と比較して毒性が低いことを実証し、さらに、この化合物を経口投与した場合にも有効性が維持されることを明らかにしました。これは、この研究で作製されたキレート剤がウランに被曝したヒトに使用できる薬剤として有望視される可能性を示唆していますが、今後さらなる試験の必要がある、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【医学研究】マウスの骨からウランを除去する化合物

 放射性元素のウランに被曝したマウスの骨と腎臓からウランを除去できる化学薬品について報告する論文が、今週掲載される。この結果は、この化合物がウランに被曝したヒトに使用できる薬剤として有望視される可能性を示唆しているが、今後さらなる試験を行う必要がある。

 ウランは原子力発電にとって重要な資源だが、放射性毒性と化学毒性のために健康へのリスクがある。被曝後にウランの約2/3は腎臓を介して体外に除去されるが、残りは腎臓と骨に残存し、腎臓の損傷や骨欠損とがんのリスク増加を引き起こす可能性がある。体内に吸収されたウランの除去は、キレート剤と呼ばれる分子を使用すると実現可能だが、既存の製剤は、骨からウランを効率的に除去できず、毒性が高いものもある。

 今回、Shuao Wangたちの研究グループは、既存のヒドロキシピリジノンを基にしたキレート剤を改良して、骨中のウラン錯体との親和性が向上したキレート剤を作製した。Wangたちは、このキレート剤がマウスの腎臓と骨からウランを効率的に除去でき、他のキレート剤と比較して毒性が低いことを実証し、さらに、この化合物を経口投与した場合にも有効性が維持されることを明らかにした。



参考文献:
Wang X. et al.(2019): A 3,2-Hydroxypyridinone-based Decorporation Agent that Removes Uranium from Bones In Vivo. Nature Communications, 10, 2570.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10276-z

ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』61話・63話~67話

61話「別れは白いハンカチで」5
 麻薬捜査官である村岡房江の再登場となります。ボスと村岡との会話で、マカロニに言及されていたのは、マカロニの死を改めて思い知らされたという点で、寂しさもありました。話の方は村岡房江シリーズの定番で、村岡を麻薬捜査官と知らない若手刑事が村岡を不審に思いつつ関わりを持ち、村岡が自分の捜査を犠牲にしても危機に陥った若手刑事を救う、という展開です。まあ、村岡はたまにしか登場しないので、見飽きるというほどではありませんが。マカロニ・ジーパン・テキサス・ボンと、歴代の若手刑事の教育係的役割を担った村岡ですが、ロッキー以降は登場しませんでした。正直なところ、鮫島勘五郎とは異なり、そこまで楽しみなセミレギュラーではないのですが、やや残念ではあります。


63話「大都会の追跡」8
 出所してすぐに単独で銀行強盗事を起こした男性と、かつての恋人で現在は別人の妻となっている女性との関係を中心に話が展開します。安定して幸せな生活を捨ててまで、犯罪者である過去の恋人と駆け落ちしようとする女性の覚悟はなかなか見ごたえがありました。男性の方はもう結婚したかつての恋人を忘れているのではないか、女性は馬鹿な選択をした、と若いジーパンが疑問を抱くのにたいして、山さんはもう若くはない男性の情念と男女の機微を説きます。山さんに限らず、ボスや長さんは、ジーパンにとって刑事としてだけではなく、人生の師にもなっている、ということなのでしょう。一係と逃亡を企てる男女との駆け引きに暴力団も絡んできて、緊張感が持続してなかなか楽しめました。青春ドラマ的性格の強い初期ですが、今回は大人向けの話といった感じです。多様な話があったことは、本作の人気と長期放送を支えていたように思います。


64話「子供の宝・大人の夢」7
 玩具会社をめぐる陰謀が描かれます。当初は製品事故を起こしたとして世論から糾弾された会社が実は被害側で、かつて会社創業時にその社長の共同経営者だった男性が、自らの利益のために陰謀を企てていた、という話です。陰謀に巻き込まれた玩具会社の社長は大人物といった感じで、ボスはこの社長を信じられると言って、捜査を進めます。この玩具会社の社長を演じたのは千秋実氏で、視聴者からまだ確たる支持を得ていない、との懸念もあったからなのか、初期は後期と比較して、今回のように大物ゲストの出演が多いように思います。久美ちゃんが珍しく捜査に直接深く関わったという点でも楽しめました。


65話「マカロニを殺したやつ」10
 ジーパン登場から3ヶ月近く経過しましたが、マカロニ殺害犯はこの時点ではまだ逮捕されていませんでした。今回はマカロニ殉職(関連記事)の後日譚ですが、山さんの執念、一係の刑事たちの仲間への強い想い、序盤に登場したチンピラが終盤で重要な役割を担ったこと、マカロニを知らないジーパンの疎外感と長さんの叱咤激励、マカロニ殺害犯が偶然殺されてしまったという苦い結末と、その場に到着した山さんの激昂など、話の構造もたいへんよくできており、殉職刑事の後日譚としては文句なしに最高だと思います。マカロニ殺害犯についてとくに描かれる予定はなかったものの、視聴者の要望により制作された、との話をどこかで読んだ記憶がありますが、私も本放送時に視聴していたら、解決編を制作してほしい、と強く願ったことでしょう。


66話「生きかえった白骨美人」7
 女性を連続して絞殺した犯人が逮捕されますが、真犯人は自分だと、田口という52歳の男性が自首してきます。ジーパンは真面目に男性を取り調べますが、山さんやゴリさんには、田口がよく真犯人だと偽って自首してくることを知っていました。田口は、3年前に可愛がっていた娘が失踪してからおかしくなって記憶喪失となり、若い女性の死体が発見されるたびに、犯人だと自首するようになりました。そんな中、3年ほど前に殺された女性の白骨化した身元不明の遺体が発見されます。今回は、この遺骸から生前の姿を復元した科学警察研究所技師の川上という女性が、重要人物として登場します。一係と川上のやり取りは喜劇調で、なかなか楽しめました。発見された女性遺骸の身元が田口の娘とすぐ明らかになり、有力容疑者もすぐに分かりましたが、一係が捜査を進めていく過程と容疑者に仕掛けた罠はなかなか面白くなっていました。久美ちゃんが目立っていたことも、ボスが最後に命の尊さを田口に説いた場面もよかった、と思います。


67話「オリの中の刑事」10
 鮫島勘五郎シリーズの第2回となります。今回は、友人の妻の毒殺未遂容疑で殿下が逮捕され、一係と鮫島が殿下の容疑を晴らしていくという話となります。鮫島が城北署の方針と殿下への恩義との間で苦しむ描写は、見ごたえがありました。一係の刑事が容疑者になる、という話は他にもありますが、さすがにそうはないので、新鮮さはあります。こうした苦難に遭う刑事として、殿下は適任だと思います。この頃には各刑事のキャラが固まってきたということでもあるのでしょう。話の方は、夫婦・友人関係の機微が描かれ、謎解き要素もあってなかなか楽しめました。鮫島勘五郎シリーズで殿下が主演だったのは最初の2回だけなのですが、鮫島と殿下の間に深い信頼関係が築かれたことに納得できるような話になっていたと思います。これ以降も、鮫島が殿下を信頼しているような場面が描かれ、長期シリーズの長所が上手く活かされているな、とたびたび思ったものです。


 これで、欠番を除いて、PART2も含めた『太陽にほえろ!』全話の感想を当ブログで述べたことになります。ファミリー劇場ではジーパン編の再放送が続くので、今後も視聴していきます。再視聴時に以前とは違った感想を抱くことも珍しくないので、大きく変わったものがあれば、当ブログで取り上げるかもしれませんが、当分は、『太陽にほえろ!』に関する記事を掲載することはなさそうです。

3000年前から「石器」を製作していたヒゲオマキザル(追記有)

 ヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)の「石器製作」が3000年前までさかのぼることを報告した研究(Falótico et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。サルやチンパンジーやラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られています。しかしこれまでのところ、ヒトを除く動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけでした。ヒゲオマキザルに関してはすでに、意図的に石を壊し、断片化されて端の鋭い剥片と石核を意図せず繰り返し「作り」、その剥片と石核が意図的に生産された人類の石器に見られる特徴と形態を有している、と報告されています(関連記事)。

 本論文は、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園(Serra da Capivara National Park)で、ヒゲオマキザルが過去3000年(約450世代)にわたって、「石器」を用いて木の実を割っていた痕跡を報告しています。また、ヒゲオマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆されました。3000~2400年前頃には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な「石器」を使用していました。2400~300年前までは、ヒゲオマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石を使用していた。300年前~現在では、再びわずかに小型の「石器」を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係しています。

 本論文は、使われる石の変化について複数の説明が考えられる、と指摘しています。たとえば、ヒゲオマキザルの群れにより使う「石器」が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの「石器」が必要であった可能性です。ヒゲオマキザルの3000年にわたる「石器」の使用には変化が見られ、そうした事例は人類系統を除くと初めてになる、と本論文は指摘します。人類系統の石器製作も、かなり深い進化的基盤に依拠しており、とくに高度に発達したものと言えるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


オマキザルは3000年前から石器を製作していた

 野生のヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)が3000年以上前から石器を製作しており、その技法が時と共に変化してきたことを示唆する論文が、今週掲載される。

 サルやチンパンジー、ラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られている。しかしこれまでのところ、ヒト以外の動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけだった。

 今回Tomos Proffittたちは、ブラジルでオマキザルの考古学的遺跡を発掘した。現在、そこではサルが石を使ってカシューナッツの殻を割っている。放射性炭素年代測定と石器の分析の結果、オマキザルは3000年(すなわち450世代)にわたり、石を使って木の実を割ってきた可能性が明らかになった。また、オマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆された。3000年の歴史を持つこの遺跡の最初期には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な石器を使用していた。2500~300年前までは、オマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石器を使用していた。そして最近では再びわずかに小型の石器を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係している。

 Proffittたちは、使われる石器の変化を説明する仮説が複数考えられ、オマキザルの群れによって使う石器が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの石器が必要であった可能性があることを示唆している。



参考文献:
Falótico T. et al.(2019): Three thousand years of wild capuchin stone tool use. Nature Ecology & Evolution, 3, 7, 1034–1038.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0904-4


追記(2019年6月27日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

山岡拓也「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P105-112)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、アジア南東部の更新世の考古学的研究を整理しています。

 アジア南東部の4万年前以前の人類の痕跡については、ベトナム北部のソンヴィ石器群やインドネシア領フローレス島のマタメンゲ遺跡など複数報告されており、いずれも礫石器と剥片石器を共に含む石器群です。いくつかの遺跡や石器群の年代は100万年以上前と報告されていますが、すべての遺跡や石器群でしっかりとした年代的根拠が得られているわけではなかった、と指摘されています。そうした中で近年、ベトナム中部のザライ省では、複数の遺跡で両面調整石器を含む石器群が発見されています。石器群の中にはテクタイト製の石器も含まれており、石器群の特徴とテクタイトの年代から70~90万年前と推定されています。スラウェシ島のタレプ(Talepu)遺跡では20万~10万年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。ルソン島北部では777000~631000年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。

 本論文はおもに20万~2万年前頃のアジア南東部を対象にしていますが、年代的な根拠が得られており、石器群の内容について分かる遺跡はさほど多くない、と指摘します。マレーシアのレンゴン渓谷のコタタンパンでは石器群は74000年以上前と推定されています。フローレス島では、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の遺骸が10万~6万年前頃、フロレシエンシスと関連する石器が19万~5万年前頃と推定されています(関連記事)。マレーシアのレンゴン渓谷のブーキットブヌでは出土した石器の一部の年代は、183万年前頃までさかのぼる、と推定されています。ただ、石器を包含する層序の堆積物に関しては、4万年前頃と推定されています。石器の石材には珪岩・水晶・チャート・燧石・スエバイトなどが利用されており、様々な礫器に加えて大型の両面調整の握斧(handaxes)も出土しており、石器群の内容は4万年前以前の石器群と共通します。コタタンパン遺跡ではおもに珪岩の河川礫が利用されており、石器群にはチョッパーやチョッピング・トゥールやピックなどの礫石器とともに、錐状の石器や大形のスクレイパーなどの剥片石器が含まれています。レンゴン渓谷の遺跡では礫石器が数多く出土している一方で、リアンブアから出土した4万年前以前の石器群は、おもに剥片石器で構成されており、礫石器はほとんど確認されていません。フリーハンド・樋状剥離・折断剥離・両極剥離の4つの剥離技術が復元され、二次加工のある剥片石器や二次加工が加えられていない小形の剥片が使用された、と想定されています。

 アジア南東部の更新世の遺跡は、4万年前以前とそれ以降では立地に大きな違いがあります。4万年前以前の遺跡はおもに河岸段丘上に残されていたのに対して、4万年前以降は洞穴内に残されるようになります。ここから、石器利用を含む行動体系がかなり変化した、と推定されています。また4万年前以降には、アジア南東部でも大陸部と島嶼部で、石器群に異なる特徴が見られるようになります。大陸部では石器群に礫石器が含まれるのに対して、島嶼部の石器群には礫石器はほとんど含まれず、剥片石器のみから構成されます。

 ベトナム北部では、片面加工の礫石器であるスマトラリス等で特徴づけられるホアビニアン(Hòabìnhian)・インダストリーが更新世までさかのぼります。そのうちソムチャイ洞穴やディウ岩陰の年代は2万年前近くまでさかのぼります。ディウ岩陰とソムチャイ洞穴では刃部磨製石斧も出土しており、1万8千年前までさかのぼると推定されています。また、ングォム洞穴では剥片石器を主に含む石器群が発見されており、年代は2万年前以上と推定されています。タイでも複数の遺跡でホアビニアン・インダストリーが更新世にまでさかのぼり、タムロッド洞穴・ランカムナン洞穴・モーキウ洞穴などの年代は2万年以上前と推定されています。またランロンリンエン洞穴においては、完新世の層序ではホアビニアン・インダストリーと呼べる石器群が出土しているものの、放射性炭素年代測定法で37000~27110年前と推定されている更新世の層序では、チョッパーやスクレイパーなどから構成される、ホアビニアン・インダストリーとは異なる石器群が出土しています。ボルネオ島のニア洞穴では、多くの年代測定値が公表され、年代は確実に4万年以上前となります。石器群には礫石器がかなり多く含まれ、その中には斧形石器も含まれるため、ホアビニアン・インダストリーとほぼ同じ内容と指摘されています。ベトナム北部ではその他にハンチョー洞穴で、2万年前頃までさかのぼるホアビニアン・インダストリーが確認されており、斧形石器も含まれていると報告されています。ホアビニアン・インダストリーが出土した層序よりさらに下層からも剥片1点と焼けた動物骨が出土しており、年代は3万年前頃です。ングォム洞穴では、出土した石器の内容が比較的詳しく報告されており、23000±200年前となる最古の文化層からは、掻器・削器・鋸歯縁石器などの剥片石器や斧形石器とみられる石器も出土しています。

 このようにホアビニアン・インダストリーの年代は、少なくとも2万年前までさかのぼります。近年、中国南西部では43500年前頃のホアビニアン・インダストリーが確認されています。そのため、ベトナムやタイなどのホアビニアン・インダストリーの年代もさらにさかのぼるのではないか、と予想されています。本論文は、アジア南東部大陸部の4万年前以前と4万年前以降の更新世石器群の違いの一つとして、スマトラリスのような定形的な斧形石器が含まれるか否かを挙げています。

 アジア南東部島嶼部で4万~2万年前頃の石器群が出土した遺跡としては、パラワン島のタボン洞穴、ジャワ島のケプレック洞穴とブラホロ洞穴、スラウェシ島のリアンブルン2、タラウド諸島のサリバブ島のリアンサル、ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴、アロール諸島のアロール島のリアンルンドゥブなどが報告されており、これらの遺跡からは削器・抉入石器・鋸歯縁石器などの剥片石器を含む石器群が出土しています。これらの他にも、多くの4万年前以降の更新世遺跡が発掘されていますが、近年ではいくつかの遺跡でより詳しく石器群の内容が報告されています。東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)では、2つのグリッド(Square AとSuare B)から出土した石器について報告されています(関連記事)。その中では、折断剥離・両極剥離に加えて、単設打面や両設打面の剥離、打面転異を繰り返す剥離など様々な剥離技術が示されるとともに、打面調整を行う求心的な剥離のほか、「両側縁が並行するか先細る形状で、1本かそれ以上の縦長の稜が認められる4cm以上の長さの縦長剥片」という定義の「細石刃」が石器群に含まれている、と示されています。ただ、こうした「細石刃」を剥離したことが認められる石核は出土していないようです。ジェリマライの最も古い文化期の較正年代は42000~35000年前ですが、その時期でもこれらの剥離技術のすべてが確認されています。また、石器群には石核石器はほとんど含まれていないようで、錐状の石器や剥片の端部や側縁に二次加工が施された様々なスクレイパー・鋸歯縁石器・抉入石器などの剥片石器から構成されています。こうした石器は最古の文化期でも確認されています。ジェリマライでの剥片剥離や二次加工のあり方は、フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡の石器群と類似している、と指摘されています。

 タラウド諸島のリアンサルでは、C3グリッドから出土した石器群について報告されています。この石器群では特徴的な横長剥片の剥離技術が認められ、錐状の石器・スクレイパー・抉入石器などの剥片石器で構成されています。抉入石器の中にはひじょうに大きな1枚の剥離面で抉りが作出されているものもあり、二次加工技術として注目されています。較正年代で35000~32000年前となる3層と較正年代で21000~18000年前となる2B層が更新世の層序となりますが、二次加工のある剥片石器の比率は上層の完新世の層序と比較して少なく、抉入石器は3層からは出土しておらず2B層から5点出土しています。リアンサルでは被熱した石器が多く出土していることから、剥離しやすくするために加熱処理をしている可能性が指摘されています。リアンサルと比較的近接するスラウェシ島のリアンサカパオ1でも、31000~25000年前の層序から出土した石器群について報告されています。ここでも他の二次加工のある剥片石器に加えて、ひじょうに大きな一枚の剥離面からなる抉入石器が出土しています。また、多くの石器で被熱した痕跡が認められているものの、剥離しやすくするための加熱処理の証拠はなく、埋没後に偶発的に炉などの火で熱せられたのではないか、と推定されています。

 アジア南東部島嶼部で4万年前以上前の石器群の内容を把握できるのはリアンブアから出土した資料ですが、4万年前以降の石器群との違いは今のところ確認されていません。ただ、石器群の特徴が比較的詳しく記載されているジェリマライやリアンサルの事例を見ると、一般的に不定形な剥片石器が卓越する石器群と一括りに捉えられるアジア南東部島嶼部の石器群の中にも、剥離技術や剥片石器の種類などに違いがありそうで、必ずしも単純な石器群と一括して捉えられるわけではなさそうだ、と本論文は指摘しています。また本論文は、石器群の詳細な分析を蓄積することで、4万年前以前の石器群と4万年前以降の石器群との間に何らかの違いが見出されるように思われる、との見通しを提示しています。

 アジア南東部では、石器以外の更新世の人工遺物についても報告されています。ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴では32000~28000年前の層序から海棲の巻貝を素材とした打製の貝器が出土しており、素材の獲得から廃棄に至る製作-利用-廃棄の工程が復元されています。東ティモールのジェリマライでは、較正年代で23000~16000年前の層序から貝製釣針の欠損資料が出土しています。東ティモールのマヂャクル2では、較正年代で36500~34500年前の層序から欠損した銛先の基部とみられる骨器が出土しています。この骨器の長さは2cm弱、幅は1cm程で、両側に連続する刻みが入った側縁部と逆三角形状の端部から構成されています。両側縁の連続した刻みは着柄するための加工と推測されています。アフリカの中期石器時代のカタンダから出土した骨器に類似した資料があると指摘されており、これはアジア南東部における着柄に関わる最古の証拠とされています。

 象徴行動に関しても、近年、アジア南東部島嶼部で様々な証拠が得られています。東ティモールのレネハラでは、ウラン系列法により、方解石の層で挟まれた顔料の層の年代が29300~24000年前と明らかにされています。スラウェシ島南部の7遺跡では、ウラン系列法による洞窟二次生成物の年代測定の結果、更新世の洞窟壁画が明らかにされています(関連記事)。最古の手形の年代はリアンティンプセンの39900年前で、同遺跡では、バビルサ(シカイノシシ)が描かれた、35400年前となる最古の動物壁画も確認されています。近接するリアンサカパオ1に残されている洞窟壁画についても、文化層の年代や描かれているモチーフ(手形や動物)から、更新世に遡ると推定されています。東ティモールのジェリマライとマヂャクル2では更新世の海棲巻貝のビーズが出土しています。ジェリマライの方は較正年代で37000年前となります。ジェリマライでは較正年代で42000~38000年前となる層序から、加工痕があり顔料が付着したオウムガイの貝殻片も発見されています。スラウェシ島南部のリアンブルベトゥでは、較正年代で30000~22000年前となる層序から、クスクスの指骨製のペンダントやバビルサの下顎切歯製のビーズやその未製品が出土しています。また、利用されたオーカーや刻みの入った石器、顔料の付着した石器なども出土しています。このように、骨角器・顔料・ビーズ・ペンダント・壁画など、これまで「現代人的行動」と関わると把握されてきた遺物が、アジア南東部島嶼部で、近年多数発見されています。それに加えて貝製の道具や道具製作の痕跡も発見されており、こうした遺物は海域世界であるアジア南東部島嶼部ならではの道具資源利用と言えるかもしれない、と本論文は指摘しています。また、こうした人工遺物はおおむね4万年前以降に出現しており、それ以前の石器群には伴わないことが重要と思われる、と本論文は指摘しています。

 本論文はまとめとして、アジア南東部の考古学的研究を整理しています。これまでアジア南東部全域で様々な遺跡が発見され、発掘調査が行なわれてきたものの、発掘調査の成果全体を収録した報告書の刊行はきわめて稀で、ほとんどの場合、発掘調査や出土遺物の内容について個別の論文で発表されるそうです。出土した石器について個別の位置情報を記録し、出土した資料全点を提示することもほとんど行なわれていないそうです。そのため、代表的な石器と大まかな年代を把握できる、というのが一般的な状況だと本論文は指摘します。また、遺跡の発掘調査はトレンチやグリッド単位で行なわれているものの、他地域での遺跡調査と比較すると、発掘調査が行なわれている面積は比較的狭い印象を受ける、とも本論文は指摘します。また、いくつかの遺跡で出土資料について報告されていますが、遺跡全体でのデータを提示するというよりも、いくつかのグリッドから出土した資料について報告するといった事例が多いそうです。そのため、これまでに提示されている情報は他地域と比較して少ないようです。こうした現状から、これまでに各遺跡で得られている石器群の内容の詳細を記載していくことが必要な作業ではないか、と本論文は指摘します。

 本論文ではほとんど言及されていませんが、遺跡から出土する動植物遺存体の分析も進められており、熱帯雨林域や海域世界で初期現生人類(Homo sapiens)がどのように適応したのか、具体的な証拠が得られつつあります。アジア南東部は、先行して研究が進められてきたヨーロッパ・アジア南西部・アフリカとは異なる環境であるため、初期現生人類の柔軟な適応能力を示す証拠として注目され、オセアニアも含めた多くの遺跡で古環境や生業に関わる情報が蓄積されています。

 また本論文は、人工遺物の研究から技術や行動に関する具体的な情報を得ることが必要とも指摘しています。人工遺物の中で最も多く残されているのは石器なので、石器についてその種類や製作技術を詳細に記載することに加えて、石器の利用が自然環境への適応とどのように関わっていたのか、具体的に明らかにすることが求められている、というわけです。これまでに、間接的な証拠から、環境に適応するためのより複雑な技術や行動の存在が予測されてきました。ニア(Niah)洞穴では、動物遺存体の分析結果に基づき、投射具を用いた狩猟や植物製の罠を用いた狩猟が推定されていますし、アジア南東部島嶼部やオセアニアにおいて4万年前以降に遺跡が急増することは、初期現生人類が舟により渡海したことを示している、と把握されています。そうした複雑な技術や行動に関わる証拠を石器の研究から得ることで、研究がさらに発展するのではないか、というわけです。たとえば、アジア南東部の更新世では、二次加工の状態や形態から狩猟具の先端部として用いられたと考えられる石器は存在しないものの、パラワン島のイリ洞穴の更新世末の層序から出土した二次加工のない剥片に、衝撃剥離痕と着柄と関わる膠着材の残滓が残されている、と報告されています。そうした痕跡は、その石器が着柄されて狩猟具として用いられ、おそらく投射具とともに用いられていたことを示しています。本論文は、こうした痕跡が4万年前以降のより古い時期の更新世遺跡から出土した石器に認められるかどうか、検討する必要性を指摘しています。

 また一般的にアジア南東部では、初期現生人類は道具製作において植物資源に大きく依存していたと考えられており、より直接的な証拠を得るための努力が続けられてきました。近年、アジア南東部の伝統的な生活を送る集団の植物利用について調べ、伐採や加工といった植物利用に関わる作業を複製された石器を用いて行ない、複製された石器に残された痕跡と遺跡から出土した石器に残された痕跡を比較することで、植物加工技術に関わる具体的な手がかりを得ようとする研究が行なわれています。本論文が注目しているのは、石器が植物の加工に用いられたという証拠を探すだけでなく、具体的な作業内容を特定することで、植物利用に関わる複雑な技術の存在を明らかにしようとする試みです。一般的にアジア南東部の更新世の石器は単純な技術で製作されていると考えられていますが、その背後にあったはずの、初期現生人類の複雑な技術や行動に関する証拠を得るためには、使用痕分析を組み合わせた研究の進展が必要ではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
山岡拓也(2019)「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P105-112

中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化および人類の拡散との関係

 中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化に関する研究(Stewart et al., 2019)が公表されました。鮮新世~更新世における移動・絶滅などの動物相の変化は、人類の拡散との関連で注目されてきました。しかし、高い関心が寄せられてきたのはアフリカ東部および北部とアジア南西部のレヴァントで、これらの近隣地域であるアラビア半島に関しては、おもに更新世の脊椎動物記録の不足のため、議論から除外される傾向にありました。

 アラビア半島内陸部は現在ではおおむね砂漠ですが、過去の湿潤な時期には草原が広がり、30万年以上前には人類も存在していました(関連記事)。そこで本論文は、蓄積されてきたアラビア半島の動物相記録を、近隣のアフリカ北部および東部、レヴァントも含むアジア南西部、アジア中央部南方、アジア南部の動物相記録と比較し、これらの地域の動物相の変化を検証し、人類の拡散との関連を論じています。検証対象とされた動物は、ウシ・カバ・サイ・ハイエナ・イノシシ・キリン・ラクダ・ゾウなどの哺乳類です。

 動物相記録からは、アフリカとユーラシアの間の動物の移動が、前期更新世となる120万~78万年前頃にはほとんどなかった、と示唆されます。ただ例外もあり、アフリカ起源の大型ヒヒ(Theropithecus oswaldi)が160万~100万年前頃にレヴァントとイタリアで確認されています。ユーラシアでは大型ハイエナ(Pachycrocuta brevirostris)が100万~90万年前頃に絶滅しており、アフリカ起源のブチハイエナ(Crocuta crocuta)の増加による競合が原因かもしれません。

 中期更新世は78万年前頃に始まります。これ以降、顕著な乾燥や草原拡大といったように気候変動が激化していきます。中期~後期更新世におけるアフリカとユーラシアの動物相の最も顕著な変化は、60万~40万年前頃に起きました。この時期にサハラ砂漠地域の乾燥化が進展したにも関わらず、アラビア半島には、ウシ科のアラビアオリックス(Oryx leucoryx)の祖先種のような在来系統だけではなく、ウシ科のエランド(Taurotragus oryx)やハーテビースト(Alcelaphus buselaphus)といったアフリカ起源の動物が出現し、動物が移動できるようなユーラシアとアフリカの間の経路は継続していたようです。

 その地理的位置から、アラビア半島にはユーラシアの他地域やアフリカ起源の動物が流入しました。中期~後期更新世にかけてのアラビア半島におけるアフリカ起源の動物の代表は、巨大な角を有するウシ科のペロロビス(Pelorovis)属です。アラビア半島内部への動物相の拡散は、ウシ科のオリックス(Oryx)属のような乾燥適応種を除けば、湿潤な時期と考えられます。したがって、その頃のアラビア半島はアフリカ東部の草原と類似した環境だったので、人類のアラビア半島への拡散は、顕著な行動学的および/または技術的革新を必要としなかっただろう、と本論文は推測しています。

 また本論文は、アラビア半島の気候が乾燥化していった時に、動物相が後退もしくは絶滅した可能性を提示しています。これは人類も同様だったのでしょう。後退に関して本論文は、より環境条件のよい高地が待避所となり、気候が回復した時に再度拡散したかもしれない、と推測しています。また本論文は、こうした気候変動が種分化をもたらした可能性を指摘しています。ただ本論文は、アラビア半島における化石記録がまだ不足している、と注意を喚起しています。中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化の研究には、まだ進展の余地が多くある、と言えそうです。


参考文献:
Stewart M. et al.(2019): Middle and Late Pleistocene mammal fossils of Arabia and surrounding regions: Implications for biogeography and hominin dispersals. Quaternary International, 515, 12–29.
https://doi.org/10.1016/j.quaint.2017.11.052