過去40万年間のアラビア半島への人類の複数回の移動

 過去40万年間のアラビア半島への人類の複数回の移動に関する研究(Groucutt et al., 2021)が公表されました。アフリカとユーラシアとの間の唯一の陸橋として、アジア南西部はヒト進化と地球上の移住の重要な段階を理解するのに特有の位置を占めています。サハラ・アラビアと旧北区の生物群系間の移行する境界における環境的および生態学的条件は、孤立と多様化とその後の人口集団の混合を経て、ヒトの人口統計のパターンに強く影響を及ぼしました(関連記事1および関連記事2)。

 顕著な事例は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の混合の地理的状況に関するものです。両者の混合はアジア南西部で起きたと示唆されてきており、それは非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、ancestry)の遍在性のためですが、混合の「現地」の証拠、あるいは現生人類との時空間的な同時性さえ、アジア南西部では曖昧なままです。

 この一因は、アジア南西部の古生物学と古環境と考古学の記録のひじょうに断片化された性質です。これにより、アジア南西部の古人類学的記録に関する問題のある一般化を克服し、この地域の人類の居住の継続程度について、人類のこの地域への拡散と地域内の拡散の役割、生物地理学と環境と生態学に関連する人類集団間のこれらの拡散と相互作用について、重要な問題に関する一般化を克服する能力が制約されました。

 アジア南西部の研究は、レヴァントの冬季降雨疎林地帯の深く層序化された洞窟系列に伝統的に焦点を当ててきました(図1)。これは、旧北区生物群系の南方の延長である疎林地帯の詳細な記録につながりました。しかし過去10年、アラビア半島の研究では、草原や湖や川により特徴づけられる偶発的湿潤期間における、乾燥したサハラ・アラビア生物群系の人類の居住が記録され始めました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。アジア南西部における空間的に分岐した文化的進化発展の出現パターンは、アラビア半島中央部における新しい(20万年前未満)アシューリアン(Acheulean)の存在が含まれ(関連記事)、アシューリアンはホモ・エレクトス(Homo erectus)のような以前の人類と一般的に関連している技術です。アラビア半島南部の「退避」地域では、在来の発展として一般的には解釈される、特有の局所的特徴の出現もあります。

 これらの進歩にも関わらず、アラビア半島内陸部と北部のいくつかの報告された遺跡(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の人工物の標本規模は小さく、多くの場合、それらの遺跡は素材の調達と作業場で、レヴァントの疎林記録で支配的な洞窟や岩陰の「生活遺跡」とはひじょうに異なる特徴を示します。アラビア半島には恒久的な河川体系と深く層序化された洞窟系列がないため、長期間の考古学的および水文学的系列の構築が妨げられてきました。これは、人類の分布と人口統計と行動の変化と関連する、考古学的および古生物学的記録の重要なパターンを認識する試みを制約してきました。以下は本論文の図1です。
画像

 本論文は、アラビア半島北部のネフド砂漠の石器群および化石動物相と関連した複数の古湖沼系列を報告します。これは、アラビア半島における人類居住の最初となる詳細な長期間の記録を表します(図1~3)。ハール・アマユシャン4(Khall Amayshan 4、以下KAM4)は、単一の砂丘間盆地内の一連の重なった湖の系列で構成されます。KAM4遺跡では、現時点でアラビア半島では珍しく、ヨーロッパ北西部のような地域で保存されている詳細な河川記録と類似した記録が保存されています。さらに、近くのジュバ(Jubbah)古湖沼盆地の海洋酸素同位体ステージ(MIS)7および5の発掘された遺跡群からは、複数の人類居住の証拠が提示されます。KAM4とジュバの一連の証拠から、過去40万年間にアラビア半島への人類の複数回の拡散があった、と示されます。

 KAM4の各古湖沼堆積物は層序的に類似しており、おもに砂上に塊状もしくは細かく重なった炭酸塩に富んだ泥灰土で構成されています。これら泥灰土の類似性は、それぞれ不連続の湖の段階により形成され、KAM4の古環境は連続的な湿潤段階期に広く類似していたことを示唆します。堆積物はネフド砂漠西部の他の古湖沼堆積物(関連記事)に匹敵しますが、層序的に明確で重なり合った特徴と、関連する石器および化石の豊富さで注目に値します。

 KAM4の堆積物は細粒(砂、沈泥、泥灰土)で、低エネルギーもしくは静水条件での堆積を反映しています。より大きな砕屑物(砂利)は存在せず、堆積物蓄積のさいに、より高いエネルギーの流れの過程が盆地に供給されていないことを浮き彫りにしています。したがって、周囲の景観からこれら湖の本体に石器群や化石群が流入した可能性はきわめて低そうです。したがって本論文は、これらの堆積物に関連して発見された石器群や化石群は原位置にある、と主張し、それは北西湖の場合には発掘により確認されました。

 独特なKAM4の記録は、盆地全域をベルトコンベアのように移動した砂丘のため存続しており、侵食から系列のより古い部分を保護し、各湖沼段階と関連する異なる考古学的遺物および古生物学的遺骸が混ざることを防いでいます。KAM4は、アラビア半島における中期更新世後半および後期更新世の最初となる長期的系列を提供し、広く類似した環境および石材の利用可能性と関連した人類の居住の各段階を伴います。

 KAM4で最古の堆積物となる中央湖の年代は、ルミネッセンス法で412000±87000年前です(図2)。また中央湖の堆積物はKAM4における他の堆積物と比較してひじょうに鉄分が多く含まれており、盆地内での古さを証明しています。中央湖は層序的に、ルミネッセンス年代が337000±39000年前と306000±47000年前となる北東湖の最南端に重なっています。中央湖と北東湖両方の推定年代の不確実性は大きいものの、本論文は、MIS11および9両方の千年間に地域的乾燥の証拠があると強調し(図2)、中央湖をMIS11、北東湖をMIS9に分類するのが妥当です。

 北西湖は部分的に北東湖と重なっており、泥灰土堆積物の2段階の間に挟まった炭酸塩の豊富な砂の一連のルミネッセンス推定により、210000±16000年前と192000±20000年前の間と年代測定されています。同じ層のウシ科化石の直接的なウラン系列年代推定値は、一貫して205000±2000年前です。したがって北西湖はMIS7と相関していると考えられ、これは中期更新世の最期の湿潤期です。南西湖のルミネッセンス推定年代は143000±10000年前なので、MIS6後期か、可能性は低いもののMIS5への移行期となります。

 中央湖と北東湖の上に位置する南東湖の砂は、ルミネッセンス推定年代は159000±11000年前~149000±9000年前で、南湖の年代である168000±12000年前~142000±13000年前と類似しています。下層の砂に由来するこれらの最大推定年代から、南東湖と南湖の年代は中期更新世の最後の千年か、それに続く後期更新世で、後者の可能性の方が高い、と示唆されます。後述のように、本論文は考古学的根拠に基づき、南湖の年代はMIS5、南東湖の年代はMIS3早期と仮定します。以下は本論文の図2です。
画像

 発掘された層序化された石器から構成されるジュバの記録により、この地域の人類居住系列をさらに拡張することが可能となります。ジェベル・カッター1(Jebel Qattar 1、以下JQ1)での発掘調査の大幅拡大により、以前の研究で報告されている211000±16000年前の石器標本規模が250%にまで増加しました。ジェベル・ウム・サンマン1(Jebel Umm Sanman 1、以下JSM1)では、以前の検証発掘のすぐ西側に新たな4ヶ所の試掘坑が掘られました。JSM1の試掘坑により、深い(1.5~2.5m以上)層序系列が明らかになり、これは局所的な砂利砕屑物の頻度が変化する一連の沈泥砂から構成されます。ルミネッセンス年代測定では、JSM1系列の下部の年代は130000±10000年前なのに対して、石器の見つかった上部は75000年前頃と示唆されました。

 南西湖を除くKAM4における湖形成の各段階は、異なる石器群と関連しています(図3)。40万年前頃となる中央湖の石器群Aは、握斧(ハンドアックス)と関連する削片群(debitage、非目的製作物)から構成され、アラビア半島における最古のアシューリアン石器群です。石器群Aは、珪岩の角のある石板の形成(打製石器)により作られた、小さく洗練された握斧の製作を示します。30万年前頃となる北東湖の石器群Bも、小型握斧の製作により特徴づけられます。これらの握斧は技術と形態がかなり均一で、小さくとがっています。剥片を製作する石核の縮小技術も、石器群Bでは低頻度で存在しており、そのほとんどは選好ルヴァロワ(Levallois)縮小により特徴づけられます。

 その後の20万年前頃となる北西湖の石器群Cは、中部旧石器技術を示します。表面採集と発掘により回収された石器群は、握斧製作の完全な欠如と、求心性が高いもののやや多様なルヴァロワ技術への集中を示しています。125000~75000年前頃となる南東湖の石器群Dと55000年前頃となる南湖の石器群Eは、両方中部旧石器の特徴を示しています。石器群Dは求心性ルヴァロワ技術に重点が置かれており、石器群Eはやや多様な技術であるものの、収束的なルヴァロワ剥片を製作する単方向収束調整の強い要素が伴っています。以下は本論文の図3です。
画像

 JQ1における発掘調査拡大とともに、21万年前頃の石器群は明確な中部旧石器の特徴を示し、ルヴァロワ剥片が存在しており、両面技術は欠如しています。75000年前頃となるJSM1石器群は、アラビア半島北部で発掘された最大の中部旧石器群で、求心性ルヴァロワ縮小に明確な重点が置かれ、ルヴァロワ剥片の83%に求心性痕跡パターンがあります。

 水中気候およびそれと関連する人類居住のこの独特な記録から、アシューリアンの下部旧石器技術は中期更新世後期の湿潤期に存在しており、ルヴァロワ技術はアシューリアンの最終段階に存在していた、と示されます。レヴァントの疎林地帯のアシュール・ヤブルディアン(Acheulo-Yabrudian)との類似性を示す石器群はアラビア半島では特定されておらず、アジア南西部内における異なる軌跡が浮き彫りになります。MIS7からは、アラビア半島の中部旧石器群は降水量増加の各段階とともに出現しており、MIS7のさまざまなルヴァロワ技術からMIS4の求心性ルヴァロワ技術とMIS3の単方向収束技術まで、用いられた縮小手法の観点ではさまざまな技術的焦点を示しています。

 KAM4石器群Cは、頻繁な求心性ルヴァロワ剥片のような技術的特徴を示し、この技術は同時代のレヴァントの中期石器時代前期よりもアフリカ東部の中期石器時代の技術と類似しています。中期更新世後期のレヴァントの剥片の主成分分析では、KAM4石器群Cはアフリカ東部のオモ・キビシュ(Omo Kibish)AHSとレヴァントのミスリヤ(Misliya)遺跡の間に位置する、と示されます。後期更新世では、主成分分析により、オモ・キビシュBNS30およびアラビア半島のアル・ウスタ(Al Wusta)遺跡など現生人類と関連する石器群と、ケバラ(Kebara)やトール・ファラジ(Tor Faraj)のネアンデルタール人と関連するレヴァントの石器群とが区別されます。KAM4石器群DとJSM1はMIS5の現生人類関連石器群へと向かっていますが、KAM4石器群Eの第2主成分構成要素の負の値は、MIS4~3のレヴァントのネアンデルタール人の石器群へと向かっています。

 KAM4の動物化石(おもに脊椎動物)により、人類居住期の古環境および生物地理学的状況の再構築が可能となります。アラビア半島におけるMIS5のカバの化石は、以前に報告されました(関連記事)。KAM4では、カバはMIS7にも存在したと示されており、まだ暫定的ですが、MIS9における存在も指摘されています。ティズ・アル・ガダー(Ti's al Ghadah)の近くの遺跡では、化石の表面散乱でもカバが特定されました。水深数メートルの恒久的な水域を必要とする半水生哺乳類であるカバの繰り返しの存在は、繰り返される「緑のアラビア」の多雨期における環境改善の程度の強力な証拠を提供します。

 さらに、KAM4の古生物学的遺骸は、アラビア半島の哺乳類動物相が、レヴァントの疎林地帯とよりも中期および後期更新世のアフリカの方と強い類似性を有していた、と示唆する証拠の増加に寄与します(関連記事)。アラビア半島北部におけるアフリカ水牛やセーブルアンテロープなどアフリカのウシ科分類群の存在は、豊富な淡水を有するアフリカ北部およびアラビア半島全域の草原の隣接地域の繰り返しの確立を示唆し、人類を含むさまざまな種の拡散経路を提供します。しかしアラビア半島は、ユーラシアおよび固有の分類群も特徴としており、アフリカとユーラシアの他地域との間の重要な生物地理学的つながりで、それにより人類にとっても重要な相互作用地帯を構成していたかもしれない、と示唆されます。

 アラビア半島北部の中期更新世後期の石器群は同様に、レヴァントの疎林地帯遺跡群よりもアフリカの方と大きな類似性を示します。中期更新世アラビア半島中央部における大型握斧と鉈状石器の継続的な製作(関連記事)は、この時点での高水準の人口構造を示唆し、おそらくアラビア半島にはさまざまな人類種が居住していました。MIS5には、アフリカ北東部とアジア南西部の大半は類似の物質文化を共有しており、現生人類の広範な拡散と一致します(関連記事)。

 その後、最終氷期周期の寒冷化と乾燥化が、人口集団の断片化と現象につながりました。59000~50000年前頃となるMIS3前期の部分的な気候改善期には、おそらくは北方からのネアンデルタール人の到来も含む新たな拡散がありました。レヴァントの疎林地帯のような比較的安定した環境および生態学的条件は、特有の局所的な物質文化段階の発展を促しました。対照的に、アラビア半島北部内陸部の記録は、環境の湿度増加の一時的な段階における居住の波を示唆しており、乾燥化が進むと地域的な過疎化が繰り返されるようです。

 本論文はアラビア半島北部へのヒト拡散の少なくとも5回の波(40万年前頃、30万年前頃、20万年前頃、130000~75000年前頃、55000年前頃)を特定し、それぞれの拡散は乾燥化減少段階と関連していました。これらの段階間の物質文化の違いは、アシューリアン技術の2段階と、その後の中部旧石器の異なる3形態で、多様な人類集団とおそらくは異なる複数種が、さまざまな時期にアラビア半島北部に拡大した、と示唆されます。アラビア半島の新たな古人類学的記録は、アジア南西部のさまざまな地域における、中期および後期更新世の人類の人口統計および行動の動態と地域的な特異性を浮き彫りにします。これらの過程は、地域的な気候変化と密接に関連していました。

 利用可能な記録は、脈動的な広範囲の拡散の後、局所的な変異と、最終的には人口減少が起きた、と強調します。アラビア半島内の根本的に異なる技術の時間的重複と、動物相の混合についての生物地理学的証拠を考えると、遺伝的分析により特定された人類の混合過程の一部がアラビア半島で起きたかもしれません。したがって、アラビア半島と、より一般的にアジア南西部は、現生人類がアフリカを越えてどのように拡大したのか、というますます複雑になりつつある歴史だけではなく、もっと広く、現生人類の最近の成功が、著しい環境変動の状況で起きた人類の拡散や地域的発展や混合のより長い歴史とどのように関連しているのか、理解するのに重要な地域です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:アラビア半島への初期人類の移動に水文気候変動が関係していた

 初期人類は、過去40万年間に少なくとも5回の移動期でアラビアに足を踏み入れていたことを報告する論文が、Nature に掲載される。アラビアの砂漠で発見された一連の石器と動物化石が、こうした初期人類の移動の証拠となっており、それぞれの移動は、一時的に乾燥度が低下した期間と関係していた。

 アラビア半島の広大な乾燥地帯は、アフリカとユーラシアを結ぶ唯一の陸橋であるため、アフリカ大陸から外界へ移動し、アフリカ大陸に戻ってきたヒト族(ホモ・サピエンスと現生人類の近縁絶滅種)の進化に関する研究の焦点になっていた。このようにアラビアが重要であるにもかかわらず、この地域で発見された文化的記録、生物学的記録、環境的記録は限られており、ヒト族の人口動態と行動に関する我々の理解は十分でない。

 今回の論文で、Huw Groucutt、Michael Petragliaたちは、サウジアラビア文化省遺産委員会との共同研究で、サウジアラビア北部のネフド砂漠にかつて存在していた湖の付近の堆積層から発見された一連の石器と動物化石について報告している。これらの発見物の中には、これまでで最古のヒト族のアラビアでの居住記録に関連する人工産物も含まれており、更新世(約260万~1万1700年前)に初期のヒト族のアラビアへの分散は少なくとも5回起こったことが明らかになった。これらの移動期は、それぞれ、環境条件が有利な時期、つまり一時的に乾燥度が低下した時期(約40万年前、30万年前、20万年前、13万~7万5000年前、5万5000年前)と一致していた。これらの移動期は、物質文化の違いによっても分類することができ、2回の移動期にはアシュールの技術(一般にホモ・エレクトスのような初期のヒト族種に関連している)が含まれ、3回の移動期には、中期旧石器時代の技術のそれぞれ独自の形態(手斧や大包丁など)が含まれていた。以上の知見は、アラビアに多様なヒト族集団が移住し、この集団が複数のヒト族種によって構成されていた可能性があることを示唆している。

 Groucuttたちは、これらの発見物は、アフリカとユーラシアの連結点におけるヒト族の移動に関する理解を深める上でアラビアが重要なことを裏付けるだけでなく、より具体的には、初期人類集団間の相互作用が著しい環境的変化と生態学的変化の時期にどのように関連していたのかを明らかにするものだと結論付けている。


考古学:過去40万年間の複数回にわたる西南アジアへのヒト族の分散

考古学:「砂漠のアラビア」物語

 西南アジア、とりわけアラビア半島は、人類の最初の出アフリカとその後の分散に極めて重要だった可能性がある。この地域は、現在は乾燥しているが、かつては穏やかで十分に水のある場所だった。今回H Groucuttたちは、アラビア地域のネフド砂漠の現在最も過酷な奥地の古代湖の堆積層から発見された、石器群や哺乳類化石について報告している。これらの遺物から、ヒト族が、約40万年前、約30万年前、約20万年前、約13万~7万5000年前、約5万5000年前の乾燥が短期的に緩和した時期に、アラビア内陸部へと繰り返し移動していたことが明らかになった。



参考文献:
Groucutt HS. et al.(2021): Multiple hominin dispersals into Southwest Asia over the past 400,000 years. Nature, 597, 7876, 376–380.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03863-y

白亜紀-古第三紀の大量絶滅後に進んだヘビの多様化

 白亜紀-古第三紀の大量絶滅後にヘビの多様化が進んだことに関する研究(Klein et al., 2021)が公表されました。6600万年前頃となる白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、地球上の生物種の推定76%の消失をもたらしましたが、その後、脊椎動物のいくつかの分類群で種の多様性が増大しました。しかし、大量絶滅事象がヘビの進化に及ぼした影響は明らかになっていません。

 この研究は、絶滅していないヘビ分類群(115群)の間の進化的関係、DNA上の変異発生率、化石種と非絶滅種のヘビの地理的分布に関するそれぞれのデータを組み合わせることにより、ヘビの進化史を再構築しました。その結果、大量絶滅事象を生き残ったヘビはわずか6系統で、大量絶滅事象の頃にヘビ種の多様性が増大したことと、ヘビの体型および体サイズの範囲が大量絶滅事象後に拡大し、ギガントフィス(Gigantophis)とティタノボア(Titanoboa)という巨大ヘビが出現した、と明らかになりました。

 この研究は、大量絶滅事象の頃にボア科とクサリヘビ科を含む分類群がアジアに出現し、現生種のニセサンゴヘビやホソメクラヘビやメクラヘビを含む分類群も出現した、と示しています。この研究は、ヘビには滅多に餌を取らなくても生きられる能力があり、大量絶滅事象後に競争者や捕食者が絶滅したため、ヘビの生存とその後の多様化が可能になった、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:白亜紀-古第三紀の大量絶滅の後にヘビの多様性が進んだ

 6600万年前の白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、ヘビ種の多様性が急速に増すように作用した可能性のあることを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。

 白亜紀-古第三紀の大量絶滅事象は、地球上の生物種の推定76%の消失をもたらしたが、その後、脊椎動物のいくつかの分類群で種の多様性が増大した。しかし、大量絶滅事象がヘビの進化に及ぼした影響は明らかになっていない。

 今回、Nicholas Longrich、Catherine Kleinたちは、絶滅していないヘビ分類群(115群)の間の進化的関係、DNA上の変異発生率、化石種と非絶滅種のヘビの地理的分布に関するそれぞれのデータを組み合わせることによって、ヘビの進化史を再構築した。その結果、大量絶滅事象を生き残ったヘビはわずか6系統で、大量絶滅事象の頃にヘビ種の多様性が増大したこと、そして、ヘビの体型と体サイズの範囲が大量絶滅事象後に拡大し、ギガントフィス(Gigantophis)とティタノボア(Titanoboa)という巨大ヘビが出現したことが分かった。著者たちは、大量絶滅事象の頃にボア科とクサリヘビ科を含む分類群がアジアに出現し、現生種のニセサンゴヘビ、ホソメクラヘビ、メクラヘビを含む分類群も出現したことも示している。

 著者たちは、ヘビには、めったに餌を取らなくても生きられる能力があり、大量絶滅事象後に競争者や捕食者が絶滅したため、ヘビの生存とその後の多様化が可能になったと結論付けている。



参考文献:
Klein CG. et al.(2021): Evolution and dispersal of snakes across the Cretaceous-Paleogene mass extinction. Nature Communications, 12, 5335.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25136-y

大河ドラマ『青天を衝け』第27回「篤太夫、駿府で励む」

 栄一(篤太夫)は駿府藩への仕官を断りつつも、栄一が水戸藩に仕官して殺されることのないよう配慮した慶喜の配慮に感謝し、駿府で新たに生計を立てようとします。しかし、駿府藩の財政危機を知った栄一は、駿府藩が自立できるよう、パリで学んだ知識を活かして財政改革に乗り出します。駿府藩の武士も商人もなかなか栄一に協力しませんが、栄一は江戸に行くなどして金策に走り、事業は何とか軌道に乗ります。ここは栄一が農村で見せていた商売の才覚を活かした場面となっており、地味で退屈と思っていた視聴者も少なくなかったかもしれませんが、序盤の農村の話は必要だったのだな、と改めて思います。

 函館では旧幕府軍の敗色が濃厚となり、討ち死にを覚悟した土方歳三は喜作(成一郎)に生きるよう言い残します。五稜郭は陥落し、土方は戦死して戊辰戦争は終結します。栄一は五代才助(友厚)と遭遇し、最後に伊藤博文と大隈重信も登場して、今回は幕末編から明治編への移行といった感じでした。次回からはいよいよ本格的に明治編が始まりますが、残り14回と短いのが残念です。本作については放送開始前から幕末編重視と聞いていましたが、放送開始が遅れて全41回で終わるのは残念です。

縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ

 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
画像

 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88~7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
画像


●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150~2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9~11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000~15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
画像


●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
画像


●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20~30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
画像

 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
画像

 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000~18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000~15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000~16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500~3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75~8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991~8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980~7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000~3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300~4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000~15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950~33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001~1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期~古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6~7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398~468年頃)および2号個体(紀元後407~535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9~56.4%と42.4~51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800~2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半~紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419

『卑弥呼』第71話「本物の日見子」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年10月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがオオヒコに、千穂の厳谷(イワヤ)に行き300日間人々に祈祷(イノリ)を捧げる、と伝えたところで終了しました。今回は、ミマアキたちが八咫烏(ヤタガラス)を迎え撃った現場を、日下(ヒノモト)の重臣でフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)と姻戚関係にあるシコオが見分している場面から始まります。ミマアキたちが松カサとツバキの実で火を熾し、鐸(銅鐸)があるたことに気づいたシコオは、八咫烏を炎で炙り出し、松カサの強烈な臭いで嗅覚を奪い、鐸で聴覚を封じたと悟り、トメ将軍とミマアキたち筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の一行が強者だと改めて悟ります。追撃を主張する排他に対してシコオは、都に戻るよう命じます。トメ将軍とミマアキの一行はすでにフトニ王に従わない當麻(タイマ)一族の手中にあるから、というわけです。筑紫島の一行は逃げおおせたのだろうか、と配下に問われたシコオは、それは分からない、當麻一族の長は気まぐれで残酷なので、筑紫島の一行は我々に捕らえられなかったことを後悔するかもしれない、と答えます。

 トメ将軍とミマアキの一行は當麻一族の邑に到達します。邑には柵が張りめぐらされていました。サヌ王の息子のタギシ王の末裔と名乗る阿多(アタ)のチカトは、當麻一族は今の王家を信用していない、と改めてトメ将軍とミマアキに伝えます。邑ではマガリと名乗る人物が現れ、チカトには去るよう命じ、トメ将軍とミマアキの一行には中に入るよう、促します。チカトはトメ将軍に、當麻一族がどのようにトメ将軍とミマアキの一行を扱うか分からないので油断しないよう、警告します。この邑での厲鬼の被害についてトメ将軍に問われたマガリは、近隣の邑は全滅し、當麻一族だけが早々に門を閉ざしたので無事だった、と答えます。マガリはトメ将軍とミマアキに建物で休むよう促し、我々の長は慈悲深いのできっと歓迎するだろう、と笑顔で言います。土俵が作られていることに気づいたトメ将軍に、明日手乞(テゴイ)がある、とマガリは説明します。ミマアキは手乞について知らず、捔力(スモウ)のことだ、とトメ将軍が説明します。手乞で競うことにより饒速日(ニギハヤヒ)様の力を借り、厲鬼を土俵の下に葬るのだ。とマガリは説明します。厲鬼は筑紫島にもあるが、日下とどう違うのかぜひ拝見したい、とトメ将軍し言います。

 筑紫島の那(ナ)国では、オオヒコとヌカデの先導によりヤノハの乗った籠が聖地の千穂(高千穂)へと向かっていました。那国では甕棺による埋葬が慣行とされていますが、厲鬼(レイキ)、つまり疫病の流行があまりにも早く、火葬とするのが精一杯だったのだろう、とオオヒコは推測します。ヤノハ一行は、疫病神(エヤミノカミ)に冒されて家々を焼いた、とくに被害の大きい邑に到達します。そこへある家族が現れ、オオヒコは慌てて家から出ないように命じますが、その家族に続いて多くの者が次々と現れ、日見子(ヒミコ)であるヤノハの乗った籠を崇め始めます。ヤノハは籠を下すよう命じますが、オオヒコはヤノハを制止して先に進むよう命じ、穂波(ホミ)との国境で多くの死体と遭遇します。隣国に行けば厲鬼から逃れられると思ったのだろう、とオオヒコは推測します。そこへ、那国から穂波国へと向かう難民がやって来ます。オオヒコは難民に向かって、道を開けて地に座して頭を垂れよ、と命じます。日見子の一行だと気づいた難民はヤノハの乗った籠を崇め、厲鬼から自分たちをお守りください、と懇願します。オオヒコは、早く道を開けないと斬り捨てるぞ、と難民に警告しますが、ヤノハはオオヒコの制止を聞かず強引に籠を降ろすよう命じ、籠から出てきます。ヤノハは難民に顔を上げるよう促し、今、天上では天照大神(アマテラスオオミカミ)様が疫病と戦っておられるが、敵は手強く天照様が勝つとは限らないので、皆に力を借りたい、と言います。自分は天照様の力になるため祈祷(イノリ)の場に籠り、皆も自分と同じく家に帰ってともに祈って欲しい、というわけです。食糧や水の確保の他には外出せず、家族以外とは話さず、ただひたすら祈ってほしい、一年皆が耐えてくれれば、必ず天照様は疫病神を退散させてくれる、とヤノハは難民に訴えます。すると難民は、自分たちも邑に帰って祈る、と誓います。ヌカデが言葉を発しないナツハ(ヤノハの弟のチカラオ)に、日見子(ヤノハ)様は本物の日見子になったと伝え、ナツハが笑顔を見せるところで、今回は終了です。


 今回は、トメ将軍およびミマアキの一行とヤノハの動向が描かれました。シコオによると、當麻一族の長は気まぐれで残酷とのことで、手乞(相撲)でトメ将軍かミマアキに疫病退散のため命がけで勝負するよう、命じるのかもしれません。そこでトメ将軍かミマアキが負ければ、筑紫島の者は生贄として皆殺しにされそうですが、トメ将軍は『三国志』に見える倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、相撲での勝負となるのか否かは分かりませんが、無事筑紫島に生還すると予想しています。當麻一族の長がどのような人物なのかも注目されます。ヤノハは、妊娠という逆境をも活かして運命を切り開こうとしており、この生命力の強さと大胆さが魅力になっていると思います。ヤノハが人々にも協力を要請したことで、暈(クマ)の国はともかく、筑紫島の人々がまとまりやすくなったように思います。ヤノハの妊娠を知っているのは事代主(コトシロヌシ)とチカラオとヌカデだけで、ヤノハが出産して子を託すとなるとこの3人しかいませんが、あるいはヌカデを介して出雲の事代主に預けて修行させるのでしょうか。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、台与の登場は本作の終盤になりそうですし、ヤノハとチカラオとの間の子供の登場もずっと先かもしれません。まずは、筑紫島の疫病をヤノハがどのように収束させるのか、注目されます。

吉村武彦『新版 古代天皇の誕生』

 角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2019年6月に刊行されました。 電子書籍での購入です。本書は『漢書』に見える倭人の記事から天皇号成立の頃までの、王位継承とその称号の変遷についての概説です。本書は『漢書』や『後漢書』に見える卑弥呼以前の倭の記事を簡潔に取り上げた後、卑弥呼についてはやや詳しく言及しています。本書は、女性の王としての卑弥呼と台与は特殊な政治状況下の存在で、一般化できない、と指摘します。また本書は、卑弥呼の時代の倭国とヤマト王権とは連続しない、との見解を提示していますが、これに関しては議論があるとは思います。

 紀元後3世紀の前方後円墳の出現は王権史において画期となりそうですが、本書は、王権研究の主対象は古墳ではなく王宮であるべきだ、と指摘します。いわゆる倭の五王については、『宋書』では倭姓の同じ父系一族と把握されており、『宋書』から当時の倭王が二つの氏族・家柄が存在したとは言えない、と指摘されています。また本書は、「大王」は称号ではなく尊称だった、と指摘します。本書がヤマト王権における王位継承で重視するのは、王は群臣の推挙を経て即位するのであり、王もしくは王族内の自由意志により王位継承を実現させる条件はなかった、ということです。この新王即位において、大臣をはじめとして群臣も改めてその地位を確認されました。

 『隋書』と『日本書紀』の相違について、本書は当時の倭国王が基本的には人前に現れない存在で、外交使節にも姿を見せなかったことが要因ではないか、と推測しています。隋から倭国に使節として赴いた裴世清が接触したのは厩戸王子(聖徳太子)で、裴世清は自分の任務達成のために、厩戸王子を国王に見立てる倭国側の方策を受け入れた、というわけです。なお、本書では『隋書』に倭国王の名(字)が「多利思北(比)孤」であることからも、裴世清が倭国王を男性として隋に報告したことは間違いないとされますが、律令制確立前の日本においては名前が男女で明確に区別されていたわけではなく、『日本書紀』などに見える、これまで男性と考えられてきた名前の人物の中に女性もいたかもしれない、と指摘されています(関連記事)。

 乙巳の変は、ヤマト王権史上初の譲位が実現した点で画期的だった、と本書は評価します。それまでは終身王位制で、しかも上述のように群臣推挙により王は即位ましたが、乙巳の変後の皇極から孝徳への譲位には群臣が介在せず、国王の意思に基づく王位継承だった、というわけです。その後の王権において重要なのは、壬申の乱に勝った天武天皇以降、天皇の神格化が始まったことです。天皇号の使用については、天武朝には確実で、天智朝にまでさかのぼる可能性があるものの、法制度化されたのは浄御原令からだろう、と本書は指摘します。

上峯篤史「存否問題のムコウ」

 本論文はまず、2000年11月5日に発覚した旧石器捏造事件の影響もあり、日本列島における4万年以上前の人類の存在に慎重な意見も少なくないなか(関連記事)、日本列島には4万年以上前に人類が存在したと断定し、そもそも4万年以上前の遺跡の存否問題はずいぶん前に決着している、と指摘します。その根拠は岩手県遠野市の金取遺跡で、第III文化層からはハンドアックス(握斧)を彷彿とさせる両面調整石器や円盤状石器やシンボリックな石器群が発見されました。接合資料をも含むこれらの石器群について、人工品でないとする意見を寡聞にして知らない、と本論文は指摘します。

 金取遺跡の石器群はⅢ層上面に集中し、下位のⅢd層はYk-M(焼石村崎野軽石)から構成されます。Yk-Mそのものの年代は未詳ですが、北上低地ではYk-Mの直上にYk-Y(焼石山形軽石、82000±19000年前)が堆積していて、両者の年代は近いと推測されます。Ⅲd層上面は波状帯となって。Ⅲb 層下部におよび、第Ⅲ文化層の遺物分布を乱します。の波状帯は、北上山地一帯で観察される周氷河インボリューションです。周氷河インボリューションの形成機構を考慮すれば、波状帯の凹み最下底で出土したカバノキ属近似種炭化材の放射性炭素年代測定値(46480±710年前)は、第Ⅲ文化層の年代下限の定点になります。

 周氷河インボリューションより上位ではIw-Od(岩手-生出火山灰、5万~3万年前頃)由来の火山ガラスが検出され、この年代観と矛盾しません。Iw-Yu(岩手-雪浦軽石)のフィッション・トラック(FT)年代(67 ± 7ka, 伊藤ほか2007)をIw-Od年代の近似値とみなし、第Ⅲ文化層の年代に関連づける意見もありますが、Iw-YuはIw-Od(ないしは生出黒色火山灰、OBA)の火山ユニットの最下部で、Iw-Od はやや長期にわたる堆積物とされているので、Iw-YuのFT 年代は第Ⅲ文化層の年代根拠には採用しにくく、第Ⅲ文化層の年代が4 万年以上前であることは明らかです。

 存否問題を乗りこえれば、日本列島各地に20ヶ所弱ある4 万年以前の遺跡候補地の再点検、とくに4万年以上前の年代測定がますます重要になってきます。OSL(光励起ルミネッセンス、光刺激ルミネッセンス法)法にかかる期待は大きいものの、その測定値のセカンドオピニオンをもつ意味でも、火山灰編年学を徹底したい、と本論文は提言します。金取遺跡の年代研究では、発掘調査区のみならず、遺跡を載せる地形面、同一水系の地形面群へと調査範囲を拡大し、この地域の地形形成史のなかで金取遺跡の堆積物が年代づけられました。これは地形層序学的手法のお手本です。遺跡候補地の再点検にあたっては、考古学研究者自身が周辺地形・地質調査に取り組むことも辞さない、発掘区と周辺地形とを関連づける調査が存在感を増すでしょう。

 石器と自然破砕礫の識別、すなわち石器認定をめぐる潜思も避けられませんが、科学的コンセンサスを醸成していくには、方法の整備と検証可能な根拠の明示が求められます。著者が以前に指摘したように、割れ痕跡の判読が安定しない不均質石材でも、手間をかければ、黒曜岩などのガラス質石材と同様に観察所見を蓄積できます。この方法に則る限り、島根県出雲市の砂原遺跡の石製資料の割れ経過にはパターンが認められます。他方、すべての出土物を堆積物と再認識したうえで、その場からその資料が出土する事実を自然現象で説明できるかという観点からも、石器認定を議論できます。砂原遺跡では、原位置性を示す堆積学的根拠をもった石製資料群が、乾裂面が示す旧地表面上でいくつかの集中部を見せていました。長野県大町市の木崎小丸山遺跡では、火山灰由来の細粒堆積物から剝離痕を持った石製資料が複数出土しました。

 割れ現象や出土状況に関わる、奇妙なようで見慣れた現象を自然現象で説明する妙案が浮かぶまでは、出土物は人が関与した遺物であると考えるのが妥当だろう、と本論文は指摘します。空想を語る場面ならともかく、研究者が意見を述べるにおいては根拠が必要で、その根拠は特定の対象から明確な方法に基づいて導かれていなければならず、夢や信念、ましてや学統の出る幕ではない、というわけです。科学の舞台で語る以上、すべては方法と根拠の問題で、確からしい判断と、より確からしい判断が鎬を削ることになるだろう、と本論文は指摘します。


参考文献:
上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析

 本論文(安達他.,2021)は清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』に所収されており、PDFファイルで公開されています(P105-118)。本論文は、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡で発見された人骨のDNA解析結果を報告しています。磯間岩陰遺跡では保存状態のきわめて良好な12個体の人骨が発見されています。本論文は、これらの個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)および核DNA解析結果と、各個体の血縁関係や系統分析結果を報告します。mtDNAの解析結果とmtDNAハプログループ(mtHg)の分類は以下の表1に示されています。APLPは「Amplified Product-Length Polymorphism」の略称、NGSは次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer)の略称です。
画像

 APLP分析では、全12個体から再現性のある結果が得られました。また、第4号・第5号・第6号石室出土人骨について行なわれた高多型領域のダイレクトシークエンス解析についても、全個体で再現性のある結果が得られました(表1)。第4号石室出土人骨のmtHgは3個体ともM7a1aで、ダイレクトシークエンスの結果も分析できた範囲で同一でした。第5号および第6号石室出土人骨のmtHgはそれぞれD4b2a2a1およびM7a1b1と推定されました。これらのmtHgは遺跡内の他の個体では見られません。

 1号・第2号・第3号石室出土人骨の7個体については、NGSによるミトコンドリアゲノム分析が行なわれました。いずれの個体からもミトコンドリアゲノムにマップされたリードが多く得られました。このデータから推定されたmtHgはAPLP法による分析結果と矛盾しませんでした。第1号石室1号および2号のmtHgはともにN9b1の祖型に分類され、個体特異的変異の多くも共通しますが、G7521Aの変異の有無で違いが認められました(表1)。ただ、ミトコンドリア全配列で1塩基のみの違いであるため突然変異の可能性は否定できず、両者が母系の血縁者である可能性は排除されません。一方、第2号石室の3個体、および第3号石室2号人骨のmtHgは全てM7a1a4aで、かつ、個体特異的変異まで共通していたことから、これらの人骨は母系の親族である可能性が高そうです。しかし、第3号石室1号人骨のmtHgはD5b2で、遺跡内の他の個体では見られません。

 ミトコンドリアゲノム分析で良好な結果が得られたことから、核ゲノム分析が進められており、現時点では第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)で核ゲノム解析結果が得られています。X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から性別を判定したところ、両個体とも男性と判断する基準である10:1に近いことから男性と判定されました。検出されたY染色体ハプログループ(YHg)は、第1号石室1号がO1b2a1a1、第1号石室2号がD1b(現在の分類ではD1a2aだと思いますので、以下D1a2aで統一します)でした。

 主成分分析によりアジア東部の現代人・古代人と比較した結果、第1号石室2号人骨は本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人クラスタの近傍に投影されましたが、1号人骨は「本土」日本人と「縄文人」クラスタの間に位置しました(図1)。傾向としては、西北九州弥生時代の長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡2号・3号(関連記事)と類似しています。次にF4統計による集団比較では、f4(ムブティ人、船泊縄文;アジア東部、磯間岩陰遺跡個体)で正の値(f4>0、Z>3)であることから、いずれも現代日本人と比較して縄文的な遺伝要素が多い、と統計的に有意に示されました。f4(ムブティ人、アジア東部人;船泊縄文人、磯間岩陰遺跡個体)の比較から、磯間岩陰遺跡個体の2個体には「渡来系集団」の混血がすでに認められます。混血の程度を判断するためにf4比による定量が行なわれた結果、1号および2号人骨は「縄文要素」がそれぞれ52.9~56.4%と42.4~51.6%で見られました。以下は本論文の図1です。
画像

 血縁推定は一般にIBS(identical by state)やIBD(identity-by-descent)に基づいた手法の開発がなされています。IBSは同じアレル(対立遺伝子)を有していることです。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。しかし、これらの手法はゲノム網羅率が1倍以下の古代DNA試料には適用できず、この手法で血縁推定が可能な古代DNA試料はひじょうに限定されます。一方READ(Relationship Estimation from Ancient DNA)は、平均深度1倍以下と網羅率の低い古代DNAでも、個体間の血縁推定を2親等までは高い精度で推定できます。必要な一塩基多型数も2500以上あれば推定可能なので、READによる第1号石室1号および2号の血縁推定が試みられました。

 READでははじめに、4個体以上の同一系統集団を用いて基準となる「赤の他人同士」の遺伝的差異(normalized-P0)を取得する必要があります。これは、主成分分析で同一クラスタに属する別集団で代用することも可能です。しかし今回は、磯間岩陰遺跡内では2個体のみです。また、主成分分析やF4統計の結果からも明らかなように、第1号石室の2個体は「渡来系弥生時代人」や現代人よりも「縄文人」的で、遺伝的に類似の別集団で解析に利用できる個体は西北九州弥生時代人である下本山3号のみです。そこで、やや強引ではありますが、「縄文人」と「渡来系弥生人」の両集団を用いてnormalized-P0の取得と血縁推定が行なわれた結果、第1号石室の2個体は2親等の範疇に含まれました。

 磯間岩陰遺跡第1号石室の2個体についてまず言えるのは、「縄文的」遺伝子を古墳時代人としてはかなり多く受け継いでいる可能性が高いことです。遺跡内に母系の血縁者が多いことは要注意ですが、mtHgはM7aとN9bが大部分を占めており、いずれも「縄文的遺伝子型」として知られています。また、核ゲノムでも第1号石室1号人骨は古墳時代人としては例外的に「縄文人」に近く、第1号埋葬2号人骨も現代日本人よりは「縄文的」です。さらに、各石室内でmtDNAの塩基配列の一致例が多く、母系単位の埋葬慣行の可能性が高そうです。しかし、第3号石室は2体合葬ですが、それぞれの人骨の母系が異なっています。第3号石室1号と2号には埋葬時期に時間差があり、歯冠計測値を用いた血縁推定でも血縁関係は否定的でしたが、今回の結果はそれを支持しています。第3号石室2号人骨はmtDNAの配列が完全に一致する第2号石室の3個体と母系の血縁があり、1号人骨とは血縁関係がないのかもしれません。

 遺跡の主体部である第1号~第3号石室から離れた第4号~第6号石室の埋葬人骨では、第4号石室出土の3個体はそれぞれ母系の血縁者である可能性があり、かつ第2号石室の3個体および第3号石室2号との血縁関係も否定されませんでした。一方、第5号および第6号石室人骨のmtHgは両方とも磯間岩陰遺跡で唯一のもので、主体部とは母系がはっきり異なっていました。上述のように磯間岩陰遺跡の埋葬原理は母系の血縁である可能性が高いので、第5号・第6号については主体部との血縁関係がないかもしれません。考古学的に第1号~第4号石室は紀元後5世紀中頃から6世紀初頭までに位置づけられる前半期の、第5号~第8号は紀元後6世紀後葉の埋葬施設で、遺跡の利用には6世紀前葉~中葉に空白期間があります。つまり、磯間岩陰遺跡を利用した人々はこの地をいったん放棄している可能性があるわけです。第5号および第6号石室人骨のmtHgが前半期に見られないタイプなのは、これが一因かもしれません。

 上述のように、第1号石室の2個体は2親等の範疇に含まれたが、父系を示すY染色体の遺伝子型が大きく異なり、母系のつながりを示すmtDNAの塩基配列にも1塩基ながら違いが見られました。mtDNA全配列中1塩基のみの違いは突然変異により生じる可能性があることから、この2個体に母系の親族関係が存在する可能性は否定されません。そこで、1塩基の違いを重視して両者に母系の親族関係がないと仮定する場合と、突然変異の可能性を考えて両者に母系の親族関係があると仮定する場合に分けて、両人骨の親族関係が検証されました。

 第1号石室の2個体に母系の親族関係がないと仮定した場合、Y染色体の遺伝子型が異なり、mtDNAの塩基配列を共有しない2親等の男性親族関係とすれば、まず祖父(1号人骨)と孫(2号人骨)が考えられます。Y染色体の遺伝子型が異なるので、2号人骨は1号の娘の子と想定されます。この場合、1号人骨と2号人骨の年齢差が問題となります。埋葬時期がほぼ同時と考えられているので、死亡年齢の差がそのまま生前の年齢差となります。他の分析によれば、1号人骨は中年、2号人骨は3歳前後と推定されています。両名ょ祖父と孫の関係とするにはやや年齢が近いものの、可能性はあります。奈良時代の戸令によれば男性は15歳、女性は13歳から婚姻が許されます。1号人骨とその娘がともに早くに婚姻して子を儲けたとすれば、1号人骨と2号人骨が祖父と孫の関係である可能性は残ります。

 また、3親等ではありますが、オジ(1号人骨)とオイ(2号人骨)の関係も考えられます。この場合、Y染色体とmtDNAの遺伝子型をともに共有しないので、2号人骨は1号人骨の異父兄弟の子か、1号人骨の異母姉妹の子と想定されます。以前の古代戸籍の研究によると、奈良時代では再婚が数多く行なわれていた、と指摘されています。多産多死の世界では集団を維持するためには再婚は必要で、この傾向は古墳時代でも当てはまる、と予想されます。また、古代は夫婦のつながりが弱い対偶婚であったとする説もあり、その場合も再婚が頻繁に行なわれます。そうならば2号人骨が1号人骨の異父兄弟の子、あるいは異母姉妹の子という想定もあり得ます。なお、イトコは4親等です、この可能性は排除されません。その場合、1号人骨と2号人骨の親の関係が姉弟や兄妹のように異性であることが求められます。ただ、30歳以上年齢差のあるイトコの想定は難しく、可能性は低いと言えるでしょう。

 第1号石室の2個体に母系の親族関係があると仮定した場合、父系を示すY染色体の遺伝子型が異なり、母系のつながりを示すmtDNAの塩基配列を共有する2親等となれば、両者は異父兄弟である可能性があります。しかし、埋葬時期ほぼ同時と考えられるにもかかわらず両者の年齢差が大きいことから、この考えは棄却されます。そうすると考えられるのは3親等ですが、両者の血縁関係としてはオジ(1号人骨)とオイ(2号人骨)が最も考えやすそうです。mtDNAを共有するとすれば、2号人骨は1号人骨の同母姉妹の子であるはずですが、父が同じか否かは問われません。また、母系の親族関係がないと仮定した場合と同じく、4親等のイトコの関係だった可能性は排除されません。その場合、mtDNAを共有するので、1号人骨と2号人骨の親は同母姉妹の必要があります。母系の親族関係がないと仮定した場合と同じく、30歳以上年齢差のあるイトコの想定は難しく、可能性は低いと言えるでしょう。

 この推定結果の信頼性については将来、磯間岩陰遺跡の別個体の核ゲノムを用いて検討することになりますが、現時点で遺伝的に類似している下本山3号との比較で、第1号石室1号および2号と下本山3号の分布域はnormalized-P0(0.1193)と重複することから、両者に2親等レベルの血縁関係が存在する、という推定結果には妥当性があると考えられます。ただ、normalized-P0はその集団の遺伝的多様度により変動することから、多様度が下本山3号と磯間岩陰遺跡個体群で異なる場合は、normalized-P0も信頼できません。将来的には、縄文時代人と「渡来系弥生時代人」を磯間岩陰遺跡集団と同程度に混血させた模擬データを用いた詳細な検証が必要でしょう。あるいは上述のように、磯間岩陰遺跡の残りの個体についても核ゲノム分析を行ない、そこから推定することが望ましいと言えます。

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、古墳時代の近畿地方においても、日本列島「本土」現代人集団よりも顕著に高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素の個体が存在したことを示しています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性遺骸(茶臼山3号)は、核ゲノムでは日本列島「本土」現代人集団の分布範囲内に収まるものの、日本列島「本土」現代人集団よりも「縄文人」に遺伝的に近い、と推測されており(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が弥生時代以降に長い時間をかけて形成され、古墳時代にはまだ大きな地域差があった、と示唆されます。磯間岩陰遺跡の事例は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(関連記事)。磯間岩陰遺跡は「周辺部」に位置し、「縄文人」的な遺伝的構成要素が遅くまで残りやすかったのではないか、というわけです。


参考文献:
安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118

コーカサス現代人の起源とその移動経路

 コーカサス現代人の起源とその移動経路に関する研究(Gavashelishvili et al., 2021)が公表されました。コーカサスはヨーロッパとアジア、黒海とカスピ海の境界線上にある山岳地帯です。コーカサスでは、地理的範囲が比較的小さく、ほぼ温暖な気候にも関わらず、自然景観や動植物種や栽培家畜品種の多様性はひじょうに高くなっています。この多様性のため、コーカサスは世界の生物多様性のホットスポットの一つであり、地球上の全言語のほとんどを占める、かなりの言語多様性も含んでいます。

 コーカサスは世界の重要な退避地の一部を提供しました。退避地では、ヒトも含めて陸生動植物のほとんどが一連の氷期極大期に生き残り、その現在の分布はおもに退避地からの氷期後の拡大を反映しています。これら氷期の退避地と移動への障壁はヒトの進化において重要な役割を果たし、現在世界で見られるヒトの遺伝的および民族言語的パータンのほとんどを生み出しました(関連記事)。コーカサスはヤムナヤ(Yamnaya)の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の約半分に寄与しました(関連記事)。つまり、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の牧畜民です。

 この後期銅器時代から前期青銅器時代の牧畜民集団は、顕著な人口統計学的および文化的影響をユーラシアの大半に及ぼしました。たとえば、遺伝的影響やインド・ヨーロッパ語族や乗馬の拡大です(関連記事1および関連記事2および関連記事33)。インド・ヨーロッパ語族祖語は、コーカサスの古代語とポントス・カスピ海草原のウラル語族祖語の混合から生まれた、と仮定されています。したがって、コーカサスは過去と現在のユーラシアの遺伝的および文化的多様性の形成に重要な役割を果たしてきました。

 研究技術が進歩してより多くの標本が得られるにつれて、研究により、コーカサス人口集団の遺伝的変異と地理やさまざま民族性の指標との関連がさらに多く明らかにされてきました。コーカサスの常染色体ゲノムとミトコンドリアDNA(mtDNA)の変異は比較的均一に見えますが、Y染色体の多様性はコーカサスの東部と西部を区別する地理的不均一性を明確に示します。コーカサスにおけるこの東西の勾配は、ジョージア(グルジア)人を下位の民族集団に区別した場合、常染色体ゲノムの変異でも示されてきました。

 ゲノム規模の常染色体特性やミトコンドリアやY染色体のハプログループの研究から、現在のコーカサス南部では少なくとも13000年前頃となる上部旧石器時代後期にまでさかのぼる遺伝的連続性がある、と裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。コーカサス北部では、この連続性はユーラシア草原地帯の人口集団との青銅器時代後の混合のため崩壊しました(関連記事)。現在、コーカサスにおける民族/下位区分民族集団間の遺伝的差異は、ヒトの移動の景観浸透性と相関しています。これは、民族的もしくは言語的境界というよりもむしろ、地形の険しさや森林被覆や降雪により決定されます。

 以前の研究の仮説は、次のようなものでした。コーカサス現代人の遺伝的構成はいくつかの異なる氷期退避地からのヒトの拡散により最終氷期と初期完新世に形成され、その後、大コーカサス山脈の人口集団間の遺伝子流動は、歴史時代にかなりの混合を経てきたコーカサスの他地域の人口集団間よりも少なかった、というものでした。退避地人口集団からのヒトの移動の性質を理解することが、この仮説を提示した研究の背後にある主要な動機でした。

 本論文は、コーカサスの現代の人口集団と過去の狩猟採集民人口集団との間のゲノム規模の遺伝的類似性を測定し、これらの人口集団間の遺伝的類似性が地理的特徴により決定されるのかどうか検証し、退避地人口集団のコーカサスへの主要な拡散経路を推測します。この研究の結果により、最終氷期から初期完新世を通じてのコーカサスの移住の全体像の再構築が可能となります。


●標本抽出と遺伝子型決定

 コーカサスの地理的および言語的に異なる集団の男性77人(表1)から標本抽出されました(図1)。その内訳は、ジョージアとトルコのカルトヴェリ語族話者、ロシア連邦との北西コーカサス語族話者とテュルク語族話者、ジョージア南部のジャヴァヘティ(Javakheti)州のアルメニア語話者で、アルメニア語話者は19世紀初期にトルコ東部のムシュ(Mush)とエルズルム(Erzurum)から逃れてきた人々の子孫です。各人口集団の遺伝的識別特性の代表制を最大化するため、標本は過去3世代にわたって各民族・地理的人口集団の外部からの祖先がいない地元の人々から収集されました。DNA標本は、常染色体693719ヶ所とX染色体17678ヶ所で遺伝子型決定されました。

 これらコーカサス現代人のゲノムデータに、既知のムブティ人10個体、上部旧石器時代から中石器時代の122個体のゲノムデータが組み合わされました。古代人の遺伝子型は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)もしくは氷期退避地内に由来する個体が選択されました。古代人標本群は2000年間隔で区分され、次に地理単位でまとめられました(表2)。以下は本論文の図1です。
画像


●分析結果

 標本抽出された中で12個体は3親等と4親等の関係にあると推測されましたが、残りは無関係でした。標本抽出された現代人はほぼゼロ水準の近親交配を示しました。コーカサスの現代の人口集団間の平均Fst(遺伝的距離)は0.00951で、最大値はジョージアのヘヴスレティ(Khevsureti)集団(KHEVS)とジョージアのメスケティ(Meskheti)集団(MSKH)との間の0.027です。カルトヴェリ語族話者のAJARとSMGとIMRとKRTとKAKH(表1)の間では有意な違いはありませんでした。残りの集団は、これらの集団および相互と有意に異なっていました。現代人のデータのADMIXTURE分析では、全てのK値にわたってKHEVSとTUSHを他のデータと区別しました。K=2はKに応じて増加する交差検証誤差が最小でした。ADMIXTUREプロットは、南西と南(LAZとMSKH)から北と北東(CHCHNとKHEVSとTUSH)への勾配を示唆しました。

 主成分分析の第1軸と第2軸はアナトリア半島北東部(カルトヴェリ語族話者のLaz共同体)からコーカサス北東部(BalkarとKarachayとChechen共同体)への明確な勾配を示しました。大コーカサス山脈の主要な尾根の南側の人口集団は、北部の人口集団間よりも相互に密接に関連しています。北部人口集団は2つの明確なクラスタを示しました。それは、カルトヴェリ語族話者の北東部クラスタ(KHEVSとTUSH)と、北東コーカサス語族およびテュルク語族話者(CHCHNとBLKとKRCH)です。

 古代の人口集団を主成分分析の最初の2軸に投影すると、類似の勾配が生成され、アナトリア半島とレヴァントの古代の人口集団は古代のシベリアおよびヨーロッパの人口集団の反対側に位置します。これらの勾配では、レヴァントおよびアナトリア半島の古代の人口集団とアナトリア半島北東部の現代の人口集団が一方の端に、シベリアとヨーロッパの古代の人口集団とコーカサス北部の現代の人口集団がもう一方の端に位置します。古代のコーカサス狩猟採集民は現代のカルトヴェリ語族話者のSVNとSMGの変異の範囲内に収まりました。古代のアナトリア半島人とレヴァント人は現代の南カルトヴェリ語族話者(MSKH)とアルメニア語話者(ARM)の変異内に収まります。古代のシベリア人とヨーロッパ人は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の人口集団(ChechensとBalkarsとKarachays)とより密接でした。

 一般的に、現代のコーカサスの人口集団は時空間的により密接なコーカサスの古代の人口集団と遺伝的により類似しており、この関係は現代の人口集団間の遺伝的違いをよく説明しました(図2および図3)。この類似性は、コーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の初期の氷期後の人口集団で最高でした。コーカサス古代人の祖先系統はカルトヴェリ語族話者集団において最高で、ジョージア西部のイメレティア人(Imeretians)集団(IMR)とスヴァン人(Svans)集団(SVN)とメグレリアン人(Megrelians)集団(SMG)で最高に達します。つまり、古代コーカサス狩猟採集民(CHG)と地理的に最も近い人口集団です。

 アナトリア祖先系統は、ジョージア南部のカルトヴェリ語族話者であるメスヘティ人(Meskhs)集団(MSKH)およびラズ人(Lazs)集団(LAZ)と、トルコ北東部のインド・ヨーロッパ語族話者のアルメニア人集団(ARM)で最高でした。バルカンおよびシベリア祖先系統は、大コーカサス山脈の主要な尾根の北側の集団で最高に達します。つまり、ジョージア北東部のカルトヴェリ語族話者のトゥシェティ人(Tushs)集団(TUSH)と、ロシア連邦の北東コーカサス語族話者のチェチェン人(Chechens)集団(CHCHN)テュルク語族話者のバルカル人(Balkars)集団(BLK)です。以下は本論文の図2です。
画像

 コーカサス現代人と古代の人口集団との間のf3統計の遺伝的類似性は、最小コスト経路および最小コスト(LCD)の相互作用とこれら人口集団間の現在から過去への平均年代(BP)により最もよく説明されます。最良のモデルでLCDが示唆するのは、(1)ヒトの移動は地形の険しさ(TRI)により妨げられ、(2)ポスポラス・ダーダネルス海峡とイギリス海峡は障壁として機能せず、(3)沼地や氷河や砂漠は完全な障壁ではなかったものの、コスト節点の最高コストで浸透性があり、(4)砂漠の川辺と河川はTRI値で浸透性がある、ということです。つまり、コスト節点は、表3で特定された地理的特徴(2・4・6・8・10・12・14)の組み合わせでした。遺伝的類似性は一般的に、BPとLCDの減少につれて増加しました(図3)。以下は本論文の図3です。
画像

 このコスト節点により生成されたLCD.Dは、f4統計に基づく遺伝的類似性との最高の一致度を示しました(図4)。F3統計とLCDとの間、およびf3統計とBPとの間には全体的に負の相関がありました。f3統計とLCDとの間の部分相関は−0.297でした。LCDと遺伝的類似性との間の相関は、15950~5950年前頃の期間ではひじょうに有意でした。25950~17950年前頃となる氷期極大期には相関が低下しました。さらにさかのぼる25950年以上前には、ほとんどの場合で相関は有意ではありませんでした。以下は本論文の図4です。
画像

 本論文のモデルは、15950~13950年前頃と39950~37950年前頃となる古代の人口集団への遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を示します(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950~13950年前頃の標本群とよりも同期間のアペニン山脈標本群(図1)の方と多くの遺伝的類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、最小コスト距離がより近いヨーロッパ中央部の15950~13950年前頃の標本群とよりも、同期間のアナトリア半島標本群の方と多くの遺伝的類似性を有ます。本論文のコーカサス現代人標本は、最小コスト距離がより近いバルカン半島の39950~37950年前頃の個体よりもアジア東部の古代人個体の方とより多くの類似性を示しました。

 本論文のモデルは、ユーラシアとアフリカの古代の人口集団から現代のコーカサスの人口集団への最小コスト経路を生成しました(図5)。ヨーロッパとシベリアとアジア東部の古代の人口集団からの全ての最小コスト経路は、ヨーロッパ東部平原とカスピ海北西部沿岸とムツクヴァリ(Mtkvari)川(クラ川)の氾濫原を経て大コーカサス山脈の南側の人口集団に到達しました。大コーカサス山脈の南側の全ての古代の人口集団は、カスピ海西部沿岸もしくはボスポラス・ダーダネルス海峡とヨーロッパ東部平原を経て大コーカサス山脈の北側の人口集団に到達しました。

 アナトリア半島の古代の人口集団からコーカサスの人口集団のカスピ海流域への最小コスト経路は、ボスポラス・ダーダネルス海峡を横断し、ヨーロッパ東部平原とカスピ海西部沿岸とムツクヴァリ川の氾濫原を通りました。アフリカとレヴァントとアナトリア半島とイランのアルボルズ(Alborz)州からの最小コスト経路は、ポントス山脈を横断するか、アラス(Araxes)川およびムツクヴァリ川の氾濫原を通ってコーカサス南部に達しました。アフリカからの最小コスト経路は、コーカサスに到達する前にレヴァントに収束しました。以下は本論文の図5です。
画像

 Fstは、f3およびf4統計の最良の説明となる同じ地理的特徴に由来するLCDと最も強い相関がありました。Fstに基づく近隣結合樹は、(1)ジョージア西部とトルコ北東部のカルトヴェリ語族話者人口集団、(2)ジョージア南部とトルコ東部のカルトヴェリ語族話者およびアルメニア語話者、(3)コーカサス北部の北東コーカサス語族話者およびテュルク語族話者、(4)他とは遺伝的に最も異なる大コーカサス山脈北東部のカルトヴェリ語族話者でそれぞれ一まとまりとなります。

 ジョージア中央部(KRT)と東部(KAKH)の標本抽出されたカルトヴェリ語族話者人口集団は、最も混合していました。追加のマンテル検定では、Fstが古代の4人口集団(アナトリア半島とバルカン半島とコーカサスとシベリア)からの寄与における違いと有意に相関していた、と示されました。これら古代の人口集団からの寄与の違いは、LCDとも有意に相関していました。LCDを制御した部分的マンテル検定では、Fstと古代の寄与との間の相関は有意ではありませんでした。古代の寄与の制御では、FstとLCDの相関は有意に減少しました。マンテル検定では、LCDと古代の祖先系統がコーカサスにおける現代の遺伝的変異のほとんどを説明する、と示唆されました。


●考察

 本論文の結果は、コーカサスの現代の人口集団がコーカサスとアナトリア半島とバルカン半島の狩猟採集民からの検出可能な祖先系統を有している、と示唆します。コーカサス狩猟採集民(CHG)は現代のコーカサスの人口集団にとって主要な遺伝的寄与者です。CHGのアレル(対立遺伝子)の割合は、ジョージア西部の遺跡群と近接した地域の現代の人口集団で最高となり、そこではCHGの遺骸が発見されていて(関連記事)、この地域から離れると徐々に減少し、アナトリア半島およびヨーロッパの古代人のアレルにほとんどが置換されます。これらの遺跡はコルシック(Colchic)退避地内にあり、そこではコーカサスにおいてLGMを含む一連の氷期極大期をヒトが生き延びました。本論文のモデルは、氷期後の早期に他地域からコーカサスへの狩猟採集民の移住が増加した、と示します。

 アナトリア半島古代人のアレルはジョージア南部およびトルコ東部の現代人、つまりジョージアのメスケティ(Meskheti)州のジョージア人とラズ人とアルメニア人のゲノムで最も高い頻度となりますが、ヨーロッパもしくはバルカン半島の古代人のアレルは、コーカサス北部の現代の人口集団において最も一般的で、ヨーロッパの狩猟採集民が小アジアというよりもむしろヨーロッパ東部平原を横断してコーカサスに移住した、と示唆します。注目すべきことに、レヴァントのナトゥーフ文化(Natufian)とアトラス山脈(アフリカ北西部)の古代人のゲノムは、アナトリア半島古代人のように同じ現代の人口集団と最も高いアレル共有を示しており、古代アナトリア半島人口集団がコーカサスに拡大する前に、これらの人口集団間で何らかの混合があったことを示唆します。本論文の主成分分析投影におけるコーカサスの古代人および現代人の遺伝的勾配の類似性は、上部旧石器時代後期から現代までの遺伝的連続性を改めて確証します(関連記事)。本論文はこの現象の理由を明確に説明します。

 コーカサスの現代の共同体における古代のさまざまな人口集団(移住源)の痕跡は、(1)拡散の物理的障壁により重みづけされた地理的距離、および(2)古代の人口集団の年代とともに減少します。この兆候は、現代の人口集団間を個々の古代の人口集団との類似性により区別するのに充分な強さです。本論文の分析から示唆されるのは、上部旧石器時代および中石器時代の狩猟採集民の退避地人口集団の拡大は、起伏の多い地形や沼地や氷河や砂漠により大きく妨げられ、コーカサス現代人におけるこれら狩猟採集民の遺伝的遺産は、退避地の人口集団間の景観浸透性によりよく説明される、というものです。古代の遺伝的痕跡と景観浸透性との間の関係は、退避地人口集団が時間的にコーカサス現代人とより近ければより強くなり、特定の祖先的地域と関連する遺伝的痕跡が、遺伝的浮動とその後の混合事象の結果として消えていく、と示唆されます。

 本論文のモデルはひじょうに高い性能を示しましたが、15950~13950年前頃と39950~37950年前頃の古代の人口集団では、遺伝的類似性と地理的近接性(景観浸透性の関数として)との間の不一致を説明できませんでした(図3および図4)。コーカサスの全ての現代人標本は、地理的により近い15950~13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアペニン山脈標本の方と多くの類似性を有しており、ラズとアルメニアの全ての現代人標本は、地理的により近い15950~13950年前頃のヨーロッパ中央部標本よりも、同年代のアナトリア半島標本の方と多くの類似性を有しています。これはおそらく、氷期後初期のアナトリア半島狩猟採集民とコーカサスおよびヨーロッパの狩猟採集民との混合、およびこの時期のアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民とヨーロッパ狩猟採集民との混合に起因します。

 これらの混合事象が本論文の景観浸透性と組み合わされた結果、コーカサス狩猟採集民の遺伝的痕跡を有するアナトリア半島古代人が、ヨーロッパ中央部狩猟採集民に対してよりも、ポスポラス・ダーダネルス海峡およびバルカン半島を通ってアペニン山脈の狩猟採集民へと多くの遺伝的影響を与えた一方で、ヨーロッパ中央部狩猟採集民はユーラシア草原地帯を通じてアジア東部(ユーラシア東部)狩猟採集民からより多くの遺伝的影響を受けた、と示唆されます。これら東方から西方への混合事象は、技術的発展もしくは自然選択を通じての利点(たとえば、致命的な感染症への耐性)を通じて促進されたかもしれず、現代の人口集団の本論文の標本を、ヨーロッパ中央部の古代の人口集団よりもアナトリア半島とアペニン山脈の古代の人口集団の方とより密接に関連させます。

 39950~37950年前頃となる古代の人口集団の本論文の標本は、バルカン半島とアジア東部の単一個体によりそれぞれ代表されます。コーカサス現代人の本論文の標本が、地理的により近いバルカン半島の39950~37950年前頃の1個体とよりも、同じ年代のアジア東部の1個体の方とより多くの類似性を示すことは、二つの想定により説明できます。一方は、このバルカン半島の個体がどこかから移動してきて、あらゆる現代の人口集団に遺伝的に寄与しなかった、と示される場合です。もう一方は、現生人類がヨーロッパに45000年前頃に到来した時とLGMとの間で、気候が最も穏やかだった39950~37950年前頃に、ユーラシア東西間でより多くの遺伝子流動があり得た場合です。

 この遺伝子流動は、バルカン半島のこの1個体が旧石器時代および中石器時代のヨーロッパ人よりもアジア東部人の方と密接に関連している、という事実により支持されますが(関連記事)、ロシア西部の同年代の1個体は、アジア東部人よりも後のヨーロッパ人の方と密接に関連しています(関連記事)。氷期極大期には、起源となる人口集団はひじょうに断片化され、相互の遺伝子流動はなかったか限定的で、氷期退避地で生き延び、そこから人口集団が温和な気候期に拡大し、過酷な気候期には縮小して戻りました。したがって、本論文のモデルは、もし古代の人口集団間でその人口集団内よりも多くの遺伝的非類似性があるならば、コーカサス現代人における古代の人口集団の遺伝的遺産をよりよく説明します。

 現在でさえ、コーカサスの現代の人口集団間の遺伝的類似性(Fst)は、これらの人口集団間の接続地間の最小コスト距離と有意に相関しており、限定的な標本および遺伝的指標に基づく以前の研究と一致します。現代の人口集団間の遺伝的類似性は、同じ地理的特徴により重みづけられた最小コスト距離に最も強く対応しており、その地理的特徴は、古代と現代の人口集団間の遺伝的類似性を最もよく説明します。しかし、過去のメタ集団間の状況を考慮しなければ、現代の人口集団間の景観浸透性でコーカサスの現在の遺伝的構造の変異のかなりの部分を説明することはできません。

 大コーカサス山脈および小コーカサス山脈とポントス山脈の両方は、コーカサスを通っての推定されるヒトの移動をかなり妨げた、と示唆されます。大コーカサス山脈はヒトの移動にとって大きな障壁をもたらし、遺伝的多様性の南北の勾配と一致します。遺伝的分化は大コーカサス山脈の主要な尾根の南北の人口集団間で最も強く、大コーカサス山脈が最終氷期以降ヒトの拡散にとって重要な物理的障壁だったことを再度示唆します。しかし、大コーカサス山脈の同じ側の人口集団間の顕著な違いもあり、不均一な景観を通って入ってくる移民への異なる接触を示唆します。

 カスピ海の西側は、黒海の東側よりもヒトの移動にとってより浸透性があったようです。ヨーロッパとシベリアとアジア東部からの最小コスト経路のどれも、黒海の東側を通りませんでした。黒海の東側は、北は大コーカサス山脈、南は小コーカサス山脈とポントス山脈に囲まれていますが、カスピ海の西側はほとんど開けています。コーカサスの東端と西端との間の違いが、コーカサスにおけるY染色体と常染色体ゲノムの変異の東西の勾配を説明します。

 本論文では、コーカサスの他の民族集団の標本が対象とされておらず、もしそれらの民族から標本が得られていたならば、コーカサスの遺伝的構造についてより多くの情報が得られたはずです。しかし、得られた標本は本論文の仮説の検証には充分でした。これまでの研究は、現在の多くの共同体における古代の人口集団のゲノム規模の祖先系統を測定してきました。しかし、本論文が把握している限りでは、さまざまな地理的特徴の機能としての景観浸透性への現代と古代の人口集団間のゲノム規模遺伝的類似性の関係を推定し、退避地人口集団からの主要な拡散経路を推測したのは、本論文が初めてです。本論文のモデルは、コーカサスだけではなく他の地域との関連においても、先史時代の事象の拡散と移住の経路の年代を定めて地図を作成することに役立てます。異なる遺伝的痕跡の古代の供給源からの重みづけされた地理的距離と、この供給源との遺伝的類似性との間に有意な負の相関があることは、特定の経路で特定の年代に移住したことの証拠とみなせます。


参考文献:
Gavashelishvili A. et al.(2021): Landscape genetics and the genetic legacy of Upper Paleolithic and Mesolithic hunter-gatherers in the modern Caucasus. Scientific Reports, 11, 17985.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-97519-6

中川和哉「朝鮮半島南部の石器群から見た日本の前・中期旧石器」

 2000年11月5日に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)は、考古学のみならず日本社会に大きな衝撃をもたらしました。捏造石器と日本列島に隣接する地域の後期旧石器以前の石器群との明らかな違いにも関わらず、明確に古い地層から出土する石器を根拠に、日本列島には極東地域とは変容した文化がある、と考えられました。問題を複雑にしたのは、放射性炭素年代測定では5万年前頃までしか計測できず、前期石器時代はもちろん中期旧石器時代もそのほとんどが適用範囲外となることです。極東の遺跡では光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代に依拠することが多く、その年代値が極端な場合もあることから、石器群の年代決定は困難でした。

 韓国では1978 年の全谷里遺跡におけるハンドアックス(握斧)の発見以後、後期旧石器時代より古いと考えられる石器群が相次いで発見されて調査されました。その年代については、石器の持つ稚拙な加工やアシューリアン(Acheulian)に類似した形態から、70 万年前以前の石器群であるという見解や、理化学的な年代測定結果から4 万年以降とする説などがありました。全谷里遺跡などの発掘調査に携わっていた裵基同氏は、遺跡に共通してみられる地層の濃淡が過去の気候変動と連動しており、地層で編年できる、と主張しました。

 韓国の地層にみられる周期的な色調変化は、中国の黄土高原で顕著に認められるレス-古土壌連続であると考えた松藤和人氏たちは、2001 年からの日中韓の共同研究において年代測定や火山灰分析、地形学などの手法を駆使し、韓国に見られる周期的な土層変化がレス-古土壌堆積物であり、海洋酸素同位体ステージ(MIS)に対応すると位置づけました。レス-古土壌編年研究の結果、アシューリアン類似のハンドアックスや石球やチョッパーやチョッピングツールといった重厚な石器は、MIS5aの8万年前頃まで存続している、と明らかになりました。また、こうした石器群には小型の石器が伴い、その数は重厚な石器に比べて多い傾向にあります。小型石器にはノッチやベックや錐や鋸歯縁などがあります。MIS4の石器群の詳細は、明確な出土石器が少ないため分かりませんが、4万年前前後にはスヤンゲ遺跡第VI地点4文化層や龍湖洞遺跡3文化層に見られるように、石刃技法により作られた剥片尖頭器石器群が出現します。

 剥片尖頭器石器群以前のMIS3前半期の石器群は、層位関係においては不明ですが、坪倉里遺跡や新華里遺跡のように、MIS3の地層から剥片尖頭器石器群とは異なる石器群が出土しています。剥片尖頭器石器群がMIS2まで存続することを考えると、剥片尖頭器石器群以前の石器群と想定できます。両遺跡では石材環境を反映し、坪倉里遺跡では石英類、新華里遺跡1・2文化層ではフォルンフェルスが用いられています。坪倉里遺跡では、小型の石核から剥片を剥がし、掻器やノッチなどが製作されました。新華里遺跡では、大型剥片や大型石刃とともに、掻器やベックや削器などが出土しています。両者にはMIS5以前には少なかった掻器が特徴的に含まれており、刃部が弧状を呈しているなどの共通点が認められます。

 日本列島のMIS3前半期とされる遺跡として挙げられるのが熊本県沈目遺跡で、鋸歯縁状の加工などの共通点もありますが、大型石刃や、小型の石核からある程度打面を固定して剥片を取る技術、弧状の刃部を持つ掻器がないなど現状では、積極的な共通点は見いだせません。ただ、韓国側の資料が多くはなく、将来的に再検討する可能性もあります。MIS5の資料としては、島根県砂原遺跡や長崎県入口遺跡があります。いずれの遺跡もアシューリアン類似の大型の礫器を含まない石器群です。韓国のアシューリアン類似の石器は、全谷里遺跡で見られるように石英質の石材が多く用いられますが、江原道錦山里葛洞遺跡や日本海沿岸部の遺跡では、堆積岩や火山岩も用いられており、石材環境が変化しても同じ形の石器が作られています。鋸歯縁状の加工は共通していますが、簡素な形態なので、詳細な研究により対比が可能になると考えられます。

 前・中期旧石器時代の遺跡を見つける作業は、これからも必要とされます。一方、百数十万年前にアフリカを出たホモ・エレクトス(Homo erectus)は、その保有していた石器構成をほとんど変えずに極東アジアに至り、数十万年間その形態を変えませんでした。ホモ・エレクトスの末裔が日本列島に到来してアシューリアン類似の石器をすべて捨て去り生活様式を変えたとするのは、現状を解釈する上で一つの方法ですが、なぜ日本列島でだけ変容したのかについては、疑問が残ります。朝鮮半島の資料から見れば、これまで日本列島で出土している石器群は類似していないようです。


参考文献:
中川和哉(2020)「朝鮮半島南部の石器群から見た日本の前・中期旧石器」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P44-45

大河ドラマ『青天を衝け』第26回「篤太夫、再会する」

 元号はすでに明治となっていますが、幕末の最終段階で日本におらず、国内の政治体制の激変に戸惑っていた栄一(篤太夫)が家族・親族・郷里の人々や慶喜と再会し、今回で幕末編が終了となり次回から明治編になる、といった区切りをはっきりと感じさせる構成だったように思います。帰郷した栄一は、政治体制が激変するなかで、故郷が変わっていないように見えることに安堵します。確かに、明治になってすぐに全国一律に近代化が急速に進展したわけではなく、明治編ではそうした側面も描かれるのではないか、と期待しています。

 注目は栄一と慶喜との再会で、これまで鳥羽伏見の戦いから謹慎までの心境がほとんど描かれていなかったため、栄一と会って慶喜がどう語るのか、気になっていましたが、栄一に鳥羽伏見の戦い以降の行動を問いただされた慶喜は、すでに過ぎたことと言って答えませんでした。あるいは今後、明治時代に慶喜が栄一に鳥羽伏見の戦い以降の心境をわずかながらでも語ることはあるのでしょうか。栄一と慶喜との関係は慶喜の最期まで続くので、明治になっての栄一の活躍とともに、今後の二人の関係の描写も注目されます。

中期更新世の火の使用と人類集団間の文化的拡散

 中期更新世の火の使用の時空間的パターンから当時の人類集団間の関係を検証した研究(MacDonald et al., 2021)が公表されました。維持と火熾しの強化を含めた火との相互作用は、一般的に人類の文化的進化の中で最重要過程と考えられています。火は捕食者と寒さから人類を保護し、利用可能な食料の範囲と、調理を通じて食料から得られるエネルギー量の範囲を拡大し、物質の操作を可能とし、1日(活動時間)の長さを拡大し、社会的相互作用の性質に影響を与えました。火は人類に生息地の生産性を高める手段を与え、自然の景観は経時的に大きく変わりました。火は、人類が使用するさいに燃料を集めて中心部に運ぶ必要があり、集団内の協力が必要なので、負担がかかりました。

 火の技術が有したに違いない影響を考えると、火の使用の起源と発展の理解は、本論文で議論される文化的行動の重要性を含む経時的な人類種の生態的地位の発展に関する理解と関連しています。じっさい本論文は、その期間を(相対的な)40万~30万年前頃の時間枠に絞り込み、きょくたんに広範な地理的地域にまたがっている恒常的な火の使用の出現に関する証拠の蓄積は、火の使用と関連する技術の文化的拡散により最もよく説明できる、と仮定します。事実、火の記録は人類進化における文化的拡散の出現の最初の明確な証拠を提供する可能性があり、現生人類(Homo sapiens)の文化的行動の特有の特徴はこの時点で整っていた、と示唆されます。

 現在、現生人類にとって文化的行動の重要性は明らかです。現代人は日常的に自身では発明できない技術を使い、現代人の文化は複雑な技術から言語や貨幣や記号数学まで、独特な物質的および象徴的人工物を生み出しています。文化的行動はヒトの進化の性質を変え、文化的行動が家族以外の構成員間の大規模な協力と認知の側面の進化に役割を果たした、と主張する人もいます。中には、文化的行動で現生人類のほぼ世界規模の拡散と成功を説明する人もいます。しかし、現代人に存在する文化的行動の重要な特徴がいつ出現したのか不明で、一部の特徴は他のものよりも早く出現した可能性があります。これらの特徴には、そのしばしば適応的もしくは固有の価値、多くの種に存在する地域的伝統、非ヒト動物には稀な要素の蓄積、もしくは「ラチェット(歯止め)」が含まれ、長距離にわたって、社会的に学習された構造の急速な拡大も含まれているかもしれません。

 文化的伝播は、文化的行動の要素(着想や行動や人工物)が拡大できるいくつかの過程の一つです。文化的伝播は、社会的学習を通じて文化的特徴をある個体から他の個体に伝える過程を指します。文化的伝播はいくつかのパターンを生み出す可能性があり、地元の伝統、累積的文化、本論文の焦点である文化的特徴の広範な分布です。本論文は、「文化的拡散」という用語を使って、ある人口集団から次の人口集団への、文化的伝達の過程を通じての文化的特徴の拡大を説明します。

 文化的特徴の拡散に関する研究は、主要な革新に焦点を当ててきました。革新の拡散に関する古典的研究は、農耕や狩猟や土器や建築技術や建築様式の採用を扱っています。革新や他の文化的特徴の地理的に広範な分布や、それがさまざまな人口集団や社会に存在することは、文化的拡散が原因かもしれません。他の生物種では、広範な行動は一般的に、遺伝的進化の過程で説明されます。大規模な文化的拡散は現生人類の重要で独特な特徴であり、本論文は考古学的記録にその最初の出現がある可能性を調べます。


●火の使用の時空間的パターン

 初期の火の使用の記録に関する完全な再調査は本論文の範囲を超えています。本論文の目的は、40万年前頃前後の記録間の対比に焦点を当ててパターンを報告し、説明を提案し、議論とさらなる研究を促すことです。火の痕跡を人為的と識別することは簡単ではないので、時空間的な初期の火の使用の発展を追跡することは困難と証明されています。この一因は、火の周りの構造物には滅多に労力を費やさない、遊動的な狩猟採集民の広く分布した一時的な性質です。したがって、狩猟採集民の火の一般的な代理指標は熱に曝された物質から構成され、炭や加熱処理された石器や炭化した骨や燃えた場所の熱変性堆積物が含まれます。開地では、これら脆弱な痕跡の多くは自然の過程により簡単に除去されますが、自然の火からは人為的な火の痕跡に似ている広範な代理指標が生成され得ます。

 これらの問題に対処するため、新たな分析方法が開発されてきており、木材や骨やさまざまな種類の人工物や火の下の堆積物の加熱効果を検証する、実験的研究が行なわれています。そうした手法はまだ広く適用されていないので、火の使用の以前の事例はまだ検出されていなかった、と推測できます。しかし、考古学的記録の証拠の制約にも関わらず、以前の研究ではヨーロッパにおける明確なパターンが特定されました。考古学的記録からは、人為的な火の使用が中期更新世の前半にはひじょうに稀か存在しなかった、と示唆されます。これは、わずかに散らばった炭の粒子を除いて、深く層序化された考古学的なカルスト系列における人為的な火の使用の代理指標の欠如により示されます。具体的な遺跡として、スペインのアタプエルカ(Atapuerca)遺跡複合や、フランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l’Arago)や、イギリスのボックスグローヴ(Boxgrove)開地遺跡があります。対照的に、40万年前頃以降の記録は、主要な考古学的系列文脈内における複数の火の使用の代理指標(たとえば、炭や加熱された石器や炭化した骨や熱変性した堆積物)を伴う遺跡の増加により特徴づけられます。

 その後の研究では、ヨーロッパを超えてこのパターンが強化され、40万年前頃以降の火の使用の存在が特定されました。たとえば、ポルトガルのアロエイラ洞窟(Gruta da Aroeira)遺跡(関連記事)では、加熱された骨の形での火の使用の代理指標が40万年前頃の層で現れ始めます。スペインのボロモール洞窟(Bolomor Cave)では、加熱された物質と関連する14ヶ所の炉床が、35万~10万年前頃の複数の層で発掘されました。火の使用の代理指標は、開地遺跡や岩陰遺跡にも存在し、24万~17万年前頃となるフランスのビアシュ・サン・ヴァ(Biache-Saint-Vaast)のように、そうした火の使用の証拠が繰り返し何度も長期にわたって繰り返される開地遺跡もあります。火は洞窟深部に入るため(関連記事)や樹脂の生産や調理などの過程に用いられ、後期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に関して報告されていますが、それ以前にも関連していたかもしれません。

 重要なのは、レヴァントについて、習慣的な火の使用の出現が35万~32万年前頃と推定されていることです。この年代は、イスラエルのタブン洞窟(Tabun Cave)のよく年代測定された系列や、レヴァントの他の広範な遺跡群からの証拠の再調査に基づいています。イスラエルのケセム洞窟(Qesem Cave)では、40万~20万年前頃となる人類の使用期間を通じて広範囲の燃焼の証拠に加えて、ひじょうに巨大で繰り返し用いられた中央の炉床が見つかり、その年代は30万年前頃です。アジア西部を越えて東方となると、これまでのところ中期更新世における火の使用の証拠はひじょうに限定的です。中国の周口店(Zhoukoudian)遺跡では火の使用の証拠が推定されていますが、活発な議論となっており、最近の研究では人為的な火の痕跡を特定されたものの、その痕跡が見つかった層の推定年代は年代測定技術により50万~25万年前頃と大きく異なります。これは、ユーラシア西部における火の使用の出現と同じ期間です。

 このパターンはユーラシアに限定されません。モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡では30万年前頃の明確な火の兆候が見られ、人為的な火の使用の豊富な証拠があり、加熱された石器や動物遺骸が含まれます(関連記事)。ジェベルイルード遺跡の証拠は、アフリカの中期石器時代の他の証拠とひじょうによく一致します。中期石器時代は35万~35000年前頃となり、大まかにはユーラシア西部の中部旧石器時代と同年代です。さまざまな種類の火の証拠のを再調査した以前の研究では、火の技術はサハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代初期にはひじょうに重要だった、と示唆されていますが、遺跡の数は少なく、南アフリカ共和国の洞窟遺跡群がおもで、南アフリカ共和国における野外調査の量を反映しています。南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)では、炉床と灰の層が23万年前頃から紀元後1000年頃までの複数の層で発掘されてきました(関連記事)。火は、石材の特性変更(関連記事)や洗浄やおそらくは害虫駆除(関連記事)やデンプン質の根茎の調理(関連記事)に用いられました。

 40万年前頃以降、そうした顕著で地理的に広範に分布した恒常的な火の使用のパターンがあることは、人類が40万年以上前には火を使用しなかったかもしれない、と示唆するわけではありません。じっさい、人為的な火の痕跡はスペインとイスラエルでは80万年前頃、南アフリカ共和国では100万年前頃(関連記事)、アフリカ東部ではさらに古くなるかもしれない、と示唆されています。さらに、解剖学的変化についての古人類学的証拠に基づいて、火は最初にホモ・エレクトス(Homo erectus)により180万年前頃に使用された(調理仮説)、とも主張されています(関連記事)。

 しかし、40万年以上前となる人為的と評価される火の使用の痕跡のほとんどは議論となっています。たとえば、ケニアのクービフォラ(Koobi Fora)地域のFxJj20遺跡の150万年前頃となる堆積物の赤くなった区画の起源は、最初の報告から現在まで40年間議論されてきました。40万年以上前の証拠の詳細な再調査は本論文の範囲を超えていますが、いくつかの特徴的な景観からの記録は、初期の火の記録の孤立した問題のある性質を示しています。その好例が南アフリカ共和国のワンダーワーク洞窟(Wonderwerk Cave)で、クルマン丘(Kuruman Hills)の東斜面に位置しています。ワンダーワーク洞窟で回収された100万年前頃の加熱された物質が、じっさいに人為的な火の結果ならば、クルマン丘の西斜面で回収されたほぼ同年代の何百万もの石器の中で、加熱された石器が見買っていないのは驚くべきことです。以前の研究では、この状況が、調理仮説で推測されるようなこの期間における火の重要な役割と一致させることは困難である、と指摘されています。

 別の興味深いの火の兆候は、エチオピア北部高地のアワシュ川上流渓谷の海抜約2000mに位置する、メルカクンチュレ(Melka Kunturé)開地遺跡複合に由来します。メルカクンチュレ遺跡は、170万年前頃から後期石器時代までのひじょうに長期にわたる、高地環境への人類の適応を記録しています。更新世において、これらの高地では深刻な寒冷期があり、ゴンボレII(Gombore II)遺跡の85万~70万年前頃の居住の兆候で示唆されるように、おそらくは継続的な人類の存在には寒すぎました。後期アシューリアン(Acheulian)遺跡であるガルバ1(Garba 1)の加熱された可能性がある1点の礫器を除いて、空間的に広範なメルカクンチュレ複合全体では、後期石器時代まで火の使用の存在の証拠はありません。

 40万年以上前となる恒常的な火の使用の確たる証拠の欠如を注意深く解釈する必要がありますが、火の代理指標と関わる化石生成論的問題と、一般的に初期の遺跡群の時空間的な標本抽出の限界を考えると、各地域の複数の遺跡における複数の代理指標により記録され、遺跡内で繰り返し使用されるという、40万年前頃以降に観察されたものと同様のパターンを実証するものはありません。アフリカとユーラシアにおける初期の火の使用についての現在のデータは、200万年前頃のユーラシアへの初期人類の拡散が考古学的に視覚化された火の使用のあらゆる種類と関連していなかったことを示しているだけではなく、人類の技術一覧の恒常的な構成要素としての火の使用がずっと後の現象で、中期更新世後半であることを示唆します。

 その頃、アフリカとユーラシアには多様な人類集団(亜集団)が存在しており、具体的には、アフリカの現生人類やホモ・ナレディ(Homo naledi)、ユーラシア西部のネアンデルタール人、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、さらに東方のホモ・エレクトス(Homo erectus)集団です、その多くは相互作用し、より広範な人類のメタ集団(ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群)の近隣亜集団と遺伝子を繰り返し交換していました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。


●火の使用の文化的拡散?

 考古学的記録から浮かび上がる火の兆候の顕著な特徴は、広範な地域にわたって、(地質学的に)同じ期間に、さまざまな人類亜集団で、火の使用の証拠が強く増加していることです。本論文は、これが考古学的記録に示されるヒト進化における広範な文化的拡散の最初の明確な事例を表している、と提案します。文化的拡散は先史時代において、技能や技術の革新の急速な拡大に重要な役割を果たしました。上述のように、本論文はこれを現代人の文化のいくつかの区別される特徴の一つとみなしており、その中には累積的な文化発展や地域的伝統の存在も含まれます。

 本論文の仮説が示唆するのは、知識と技術が人類の社会的ネットワークを介して伝播され、「旧世界」の主要地域に居住するより広範な亜集団内で相互作用していた、というものです。本論文は以下で、観察されたパターンに対する代替的な説明に反論し、文化的拡散仮説を裏づける証拠について議論します。また本論文は、火の記録とは別でやや新しい、中期更新世後半における文化的拡散の解釈をより強く裏づける考古学的データ、とくに特定の石器製作技術、つまりルヴァロワ(Levallois)技術の考古学的記録を示します。本論文は最後に、これを考古学的記録により証明された広範な文化的拡散の最初の明確な事例として解釈する理由を説明します。


●独立した革新や遺伝的もしくは人口的な説明に対する反論

 考古学的記録における革新出現の時空間的パターンは、革新がどのように広範に分布するようになったのか、特定することと関連する証拠を提供します。つまり、独立した革新や人口過程や文化的拡散や遺伝的過程を通じて、ということです。恒常的な火の使用が比較的急速に「旧世界」全域においてさまざまな人類亜集団で出現したという事実から、火の使用は、繰り返し独立して発明されたというよりも、起源の一地点から拡散もしくは拡大した、と強く示唆されます。

 追加の証拠は環境データから得られます。火の使用が収斂進化の産物ならば、環境圧と相関すると予測されます。したがって、この想定では、人類の亜集団がその環境で同様の課題に対応して、さまざまな場所で類似の技術を開発した、と提案できます。こうした想定では、地理的領域全体の地域環境に同等の影響を有する変化、そのうち最も可能性が高い気候の地球規模の変化と対応するか、それに続く火の記録の変化が予測されます。また、火の使用の出現と消滅は、人類がこうした変化への適応を示すまで環境条件に依存していた、とも予測されます。火の使用にはいくつかの利点があり、それはとくに、より寒冷な条件で有利だったかもしれません。同時に、火の使用の労力は、とくに燃料の収集に関して、開けた条件ではより高いと考えられます。

 人類による火の使用の増加に関して、二つの環境仮説があり得ます。一方は、必要性によって促進されたより寒冷な条件下で、もう一方は労力がより低い森林性の条件下です。50万年前頃までに、更新世後半の特徴的な氷期と間氷期の10万年周期がしっかりと確立され、世界規模の大規模な氷床と関連しています。このパターンは、125万~70万年前頃となる中期更新世移行期の後には優勢となり、生物相と景観に大きな影響を与え、火の記録における顕著な変化の30万年前頃には完了しました。海洋酸素同位体ステージ(MIS)12のひじょうに深刻な氷期は、世界規模の寒冷化および乾燥化の状態と関連しており、火の記録が発見される前に終わりました。40万~30万年前頃で回収された火の確実な証拠がある遺跡群は、寒冷条件および温暖条件の両方と関連しています。さらに、更新世全体で比較的森林性の期間が繰り返されました。したがって、環境変化は火の使用の収斂進化の想定と一致していないようです。

 さらに、火の使用の時空間的パターンから、その根底にある過程について窺えます。一般的に、広範な地域での新技術の拡散は、遺伝的か人口的か文化的観点、もしくはそれらの組み合わせで説明されます。これらのうち、他の事情が同じならば(亜集団全体もしくは種全体)、遺伝的拡散が最も遅い過程で、人口的拡散はそれよりも幾分速く、文化的拡散は新規の行動の最速の拡大につながります。遺伝的拡散では、(行動を含む)遺伝的特性が自然選択もしくは浮動の結果として集団(亜集団)内でより高頻度となります。亜集団の規模や選択圧の強さによりますが、この過程にかかる時間は最小で数世代です。この特性が遺伝的に複数の亜集団で拡散する場合、恒常的な火の使用が多くの亜集団にまたがったことを想起すると、さらに多くの世代が必要です。行動の急速で遺伝的な拡大は、局所的集団内、もしくは遺伝的拡散が強い人口拡散の過程を伴う場合にのみ実現可能です。

 人口拡散では、人口統計学的および範囲の拡大、亜集団の融合、他の集団による局所的集団の置換により、特性の拡散が促進されます。こうした人口統計学的および移動の過程は、世代ではなく数十年の時間規模で起きる可能性があります。文化的拡散はさらに短い時間枠(数十年単位ではなく年単位)で機能する可能性があります。その場合、行動特性の伝達は文化的学習、つまり他者の観察もしくは他者に教えられることによる特性の学習により推進されます。個体群もしくは亜集団間の接触が友好的で充分な頻度がある限り、行動特性は1年でも長距離を移動することが可能です。

 文化的および人口的拡散過程は、原則として考古学的記録から計算された拡散率に基づいて区別できますが、年代測定手法の制約のため、旧石器時代についてはひじょうに困難です。中期更新世の放射性年代測定と関連する大きな誤差により、人口的拡散と文化的拡散との間を定量的に区別することはできません。しかし定性的には、本論文の観察現象は比較的小さな時間枠と広範に拡散した地域における火の使用の出現を含んでおり、急速な過程を示唆します。さらに、遺伝的および化石証拠は、遺伝的および人口的拡散の観点における説明を弱化させます。

 化石証拠は、火の恒常的使用前の、50万~40万年前頃となるネアンデルタール人と現生人類の集団分岐の仮説を裏付けますが、遺伝学的研究が示唆するのは、そのずっと前の分岐で、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人の最終共通祖先が765000~55万年前頃と推定します(関連記事)。歯の進化に関する最近研究では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人の最終共通祖先の年代は80万年以上前と推定されています(関連記事)。これらの推定年代と一致して、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の化石集団の遺伝的研究から、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐は43万年以上前と示唆されています(関連記事)。これらの人類亜集団は遺伝的および系統発生的に火の恒常的使用が始まる前に分岐し、その頃にはさまざまな大陸に存在しました。複数の人類亜集団が存続し、火の使用の証拠を残したので、火の使用と関連する慣行が単一の拡散する人類亜集団により伝達された可能性は低そうです。さらに上述のように、「火の使用の遺伝子」がさまざまな人類集団で環境変化に応じて繰り返し進化した可能性は低そうです。


●文化的説明の議論

 次に、火の使用と関連する技術の文化的拡散の議論に戻ります。中期更新世人類はしばしば、「疎ら」であるとして特徴づけられ、中期更新世後半の人類の世界は、複数の亜集団と主要な地理的障壁を特徴としていました。しかし遺伝的証拠からは、集団が文化的拡散の発生には充分なほど相互に遭遇していた、と示唆されます。具体的には、最近の遺伝学的研究は、古代の現生人類からネアンデルタール人への30万~20万年前頃の遺伝子移入を含む、人類のメタ集団内の遺伝子の繰り返しの交換を伴う、亜集団間の直接的接触を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。したがって、これら亜集団の構成員は相互に繰り返し長期にわたって遭遇し、文化的拡散のための舞台を提供しました。シベリアの後期更新世のネアンデルタール人に関して示唆されるように(関連記事)、個体群は比較的孤立し、ほとんどの時間を小規模な集団で暮らしていたかもしれませんが、遺伝的記録から、さまざまな地域的集団の個体群間の相互作用は繰り返し起きていた、と示されます。

 恒常的な火の使用期間における人類の社会構造は少なくとも、以下で議論される火の技術の伝播に必要な集団間の寛容性の適切な水準を支えただろう、と考えるいくつかの理由があります。まず、火を使い熾すことと関連する技術は、特性と物質(燧石や黄鉄鉱や可燃性物質や燃料)の知識を含んでおり、火を熾すための技術も含まれているかもしれません。これらは、離れた場所からでも数日以内に、学習者の多大な労力なしに、指導の有無にかかわらず、すぐに容易に伝えられます。第二に、火の技術と関連する専門分野はほとんどありません。最近の狩猟採集民93集団の火の使用慣行の調査では、火熾しを男性の任務として言及したのは5集団だけで、火の維持を女性の任務として言及したのは10集団でした。専門分野がほとんど必要ないので、集団の構成員は観察により火熾しと火の維持に必要な知識を容易に身につけられます。

 第三に、非ヒト霊長類の分析から、ヒトとチンパンジーの最終共通祖先はおそらく、すでにある程度の社会的寛容性を有しており、それは異なる集団の個体間のこの水準の学習を支えた、と示唆されています。たとえば、非ヒト霊長類における寛容な集団間遭遇は、採餌応答の増加、集団外交配、移動前の新たな集団の査察といった理由で報告されていますが、ボノボは最近、集団外で肉を共有している、と観察されてきました。そうした非ヒト霊長類の遭遇は、数時間から数日続き、これは観察による火と関連する技術の拡散には充分な長さです。さらに、資源を守る労力が排他的な利用の利点を上回る火のような資源の場合、寛容な遭遇や学習機会の可能性が高くなり、とくに、火を使うことで得られる利益は、他の人が使っても減らないからです。

 集団間の相互作用の最小限の想定について上述しましたが、異なる集団の個体間での寛容性以上のものを必要としません。しかし、最近の狩猟採集民のように、多数の個体間のより複雑な文化的および協力的相互作用を含む最小限の想定も考えられます。40万年前頃までに、脳サイズとそれに対応する必要なエネルギーは、人類がチンパンジーおよびボノボとの最終共通祖先と分岐してからの進化の(少なくとも)600万年間において、かなり増加しました。強化された集団間の協力は、遠方の資源の入手と情報を維持することにより、高いエネルギー要求と関連する不足の危険性増大を管理する戦略だったかもしれません。

 本論文の文化的拡散の説明を強化するもう一つの要因は、過去の狩猟採集民の社会組織の流動性および規模の見解の変化と関連しています。ますます多くの民族誌的研究がこの特徴を強調しており、個体は一般的に認められているよりも大きな社会的ネットワークの一部です。以前の研究では、「小規模な社会組織が祖先の人類の共同体を特徴づけていたならば、そうした共同体は現代の遊動的な狩猟採集民との明確な類似点を有さない」と指摘されています。狩猟採集民社会組織の伝統的な見解と定量的な民族誌的証拠との間のこの一般的な切断は、ヒトの認知と向社会性と狩猟採集民の規模と組織との間の共進化関係に関する、現在の古人類学的および神経学的モデルの重要な弱点を浮き彫りにします。

 霊長類の傾向に基づいて推定された人類集団の規模もしくは「分散共同体」は600万年前頃以降に増加しますが、集団化の最大水準は現生人類に限定されると主張されています。以前の研究では、社会的ネットワークにおける複数水準のクラスタ化を伴う流動的な社会構造が、33万年前頃には中期更新世後期の狩猟採集民にとって特徴的だった、と示唆されています。これらの研究で指摘されているように、中期石器時代初期には原材料の長距離輸送が行なわれており(関連記事)、遊動性と社会的つながりの変化が示唆されます。

 中部旧石器時代の記録には、これら新たな長距離輸送の類似点が見られます。中期更新世において個体がじっさいにずっと大きくてより流動性の高い集団の構成員だったならば、それほど早くないとしても、上述の「旧世界」の考古学的記録における変化は広大な地域で地質学的に同様の年代に起きており、さまざまな集団の個体間の偶発的で友好的な接触の結果だったかもしれず、それは経時的に広範な地域と長期の文化的伝播を支えました。以下で議論するように、火と関連する技術に加えて、この社会構造は他の比較的複雑な文化的人工物と技術の伝達に重要だったかもしれません。

 協力的相互作用の増加は、人類の集団規模の増大と相関しているかもしれませんが、その必要はないことに要注意です。最良の入手可能な証拠から、人類集団は更新世末になってやっと成長し始めた、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。それでも、集団規模推定値が困難とよく知られていることを考えると、データは更新世の人口統計学的パターンを間違えている可能性があります。いずれにせよ、人口統計はより複雑な協力的ネットワークを促進する可能性がある唯一の仕組みではありません。これらは、移動性の増加や社会組織の変化の結果かもしれません。


●強化された集団間の相互作用

 中期更新世の考古学的記録で顕著になる別の特徴は、火の恒常的使用よりも10万年遅れます。これは石器製作のいわゆるルヴァロワ(Levallois)技術で、1個もしくは複数のより大きくて薄い剥片製作のための石核を調整するひじょうに特殊な方法を伴います。ルヴァロワ技術出現の年代は、広範囲にわたって再調査されています。調整された石核技術の単純な形態と適切に区別されれば、その出現を30万年前頃の狭い時間帯に割り当てることができます。

 ルヴァロワ技術は初期現生人類やネアンデルタール人などさまざまな人類集団により、「旧世界」の大半、つまりアフリカ(関連記事)とアジア西部(関連記事)とヨーロッパで用いられています。ルヴァロワ技術はこれまでアジア東部の中期更新世の記録では回収されておらず、中国南西部における17万年前頃のルヴァロワ技術の可能性を主張した最近の研究(関連記事)は、せいぜい単純な調整された石核技術の石器を表しているにすぎない、とも指摘されています(関連記事)。

 最近の研究では、下部旧石器時代から中部旧石器時代への移行は、ヨーロッパ北西部と近東で28万~25万年前頃に完全に採用されたことにより示される、と位置づけられています。したがってルヴァロワ技術の時空間的分布は、恒常的な火の使用と比較して、地理的範囲は類似しているものの、開始年代はずっと絞り込まれています。それ故に、初期ルヴァロワ技術は、文化的拡散が40万~25万年前頃に技術と行動の変化に役割を果たした、という追加の証拠を提供します。さらに、ルヴァロワ技術の石の打撃の複雑さは、広範な実験的な打撃と改造の研究で示されており、積極的な指導と組み合わされた近くて長い観察によってしか習得できないことを意味しており、40万年前頃に集団間の相互作用が活発化した、という上述の本論文の主張を裏づけます。

 興味深いことに、以前の研究では、本論文における火の使用に関する主張と類似の主張がなされており、下部旧石器時代と中部旧石器時代の大陸規模での技術的変化の疑似的同時性が指摘されています。また以前の研究では、上部旧石器時代の1/3程度の期間である1万年程度の許容誤差で世界規模のデータを調べると、ヨーロッパとアジアとアフリカ全域にわたる変化の時期の同時性が理解される、と指摘されています。これらの急速な技術変化は「旧世界」の主要部分の広範な環境で起きた、というその研究の見解では、この急速な技術変化の要因として、生物学的なホモ属種の影響と環境要因の影響が否定されています。さらに以前の研究で強調されているのは、これらの迅速で大規模な変化の舞台に対して、各地域は地域的な文化的パターンと強くつながる固有の技術的特徴と軌跡を示している、ということで、ルヴァロワ技術が比較的早く導入されて在来の技術伝統と統合された、と示唆され、295000~29万年前頃のイタリア半島中央部の初期ルヴァロワ石器群の研究により結論が裏づけられています。

 狭い時間枠と大規模な地域と複数の集団が関わっていることとを考えると、本論文は、中期更新世の初期現生人類の範囲が時として拡大したことを示唆する証拠(関連記事)にも関わらず、人口拡散は大規模なパターンを説明できる可能性が低い、と主張したこのような先行研究に同意します。火の使用と比較してのルヴァロワ技術の伝達のより複雑な性質と、おそらくは積極的な教育の役割を考えると、発達および社会的文脈に関する問題が提起されることにも要注意です。ネアンデルタール人と初期現生人類の長い学童期(juvenile)は、広範で複雑な身体的および社会的技能を学ぶ必要性と関連づけられてきました。寿命が長いほど学習により多くの時間を費やすことや、他集団の行動など他者の観察機会が多くなることが可能となります。現生人類の生活史のパターンは、中期更新世中期までに出現したかもしれず、複雑な技術的技能の学習やそうした技能の拡散の機会が生まれます。

 さらに以前の研究では、この期間の空間組織の変化が浮き彫りにされており、それはとくに、持ち込んだ資源や他の人類の利用可能性に人類が惹きつけられた場所の持続的な再利用で、新たな「社会的相互作用にとっての進化の場」を提供します。これは、教育を含んでいたかもしれません。石器についての考古学的記録のさらなる変化は、アフリカの中期石器時代における識別可能な地域的伝統の出現で、他の要因のなかでも、長く存続した亜集団の学ばれた伝統と関連しているかもしれません(関連記事)。これは、現代人に存在する文化的行動の特徴的な様式がこの期間に出現したことをさらに裏づけます。


●考察

 初期の火の使用とルヴァロワ技術の時空間的パターんの徹底的な再調査は、本論文の目的から外れていました。代わりに本論文は、パターンの解釈と、仮説の提示に焦点を当てました。この仮説は、中期更新世の考古学的研究を新たな方向に進められますが、それは、本論文の仮説の間違いの証明を明らかに目的とする新たな研究を促進することによってのみで、それにより過去の行動の発展の時系列についてこの分野の知識を発展させられるからです。

 ルヴァロワ技術と火の記録は、アシューリアンの握斧(ハンドアックス)技術と対比させることができます。アシューリアンの握斧技術は、旧石器時代の初期に起きた技術移転の、主要で、他に広範に分布し、特徴的で、年代的にやや絞り込める事例だからです。ルヴァロワ技術と恒常的な火の使用との顕著で重要な違いは、握斧がアフリカの記録で175万年前頃(関連記事)、あるいはレヴァントで140万~120万年前頃に最初に出現してから、ヨーロッパの初期の居住者の技術的一覧に登場するまで、70万~60万年間要していることです(関連記事)。したがって、アシューリアンの記録は人口拡散仮説とより一致しているようです。じっさい、アフリカはアシューリアンの起源地ですが、アフリカ外でのアシューリアン握斧技術の出現は、人類拡散の結果として広く見られ、これはアシューリアンの記録の系統発生分析と、ヨーロッパではアシューリアンの存在と欠如の詳細なパターンにより裏づけられた仮説です。

 一部の研究では、アシューリアンの記録が遺伝的伝播の想定を示唆してさえいる、と指摘されています。以前の研究は、アシューリアンの「基準標本化石」の「非文化的」特徴を強調し、「保守的な」握斧を文化的伝播というよりも寧ろおもに遺伝的伝播の結果として解釈しました。この解釈は、アシューリアン記録の変動性を強調したいくつかの反証を受けており、その変動性が後期においてはかなり大きいことは確かです。本論文は、恒常的な火の使用以前の文化的拡散の可能性を否定するわけではありませんが、人口拡大により最もよく説明できるように見えるアシューリアンの記録との対比は、火の使用とルヴァロワ技術はヒト進化史において技術の広範な文化的拡大の最初の明確な事例を表している、という本論文の主張を裏づけます。

 本論文は、40万年前頃に文化的過程が広範な地域で技術の変化を支えた、という仮説を提示しました。これは少なくとも、さまざまな集団の個体の一定程度の社会的寛容性を示唆しており、最小限ではあるものの、依然として妥当な仮説を提案します。その仮説は、大規模なネットワーク内のより強い協力的相互作用が40万年前頃にはすでに形成されており、より広範な人類のメタ集団内で、通常は異なる生物学的集団として推測される個体群間で時として境界を越えることがあった、というものです。

 本論文の結論は、考古学的記録における恒常的な中期更新世の火の使用の時空間的パターンは、人類の「道具箱」における重要な道具の出現以上のものを示している、ということです。つまり、40万年前頃の文化的行動の存在は、現生非ヒト大型類人猿よりも現代人の方に近かった、というわけです。本論文は、中期石器時代後期/中期更新世、およびより繁栄した後期石器時代/上部旧石器時代と関連する文化的繁栄のずっと前に、人類は技術と行動の複雑さや変動性や広範な拡散の能力を発達させ始めていた、と提案します。そうした能力は、これまで現生人類とのみ関連づけられる傾向にありました。


参考文献:
MacDonald K. et al.(2021): Middle Pleistocene fire use: The first signal of widespread cultural diffusion in human evolution. PNAS, 118, 31, e2101108118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2101108118

水谷千秋『女たちの壬申の乱』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。壬申の乱に関する一般向けの本は少なくありませんが、本書の特徴は女性に焦点を当てたことです。具体的には、鸕野讚良皇女(持統天皇)と倭姫と遠智娘と姪娘とカジ媛娘と額田王と元明天皇と十市皇女です。これらの女性は、壬申の乱で戦った大海人皇子(天武天皇)と大友皇子、もしくは大友皇子の父である天智天皇の娘や配偶者でした。十市皇女のように、大海人皇子の娘にして大友皇子の妻だったり、鸕野讚良皇女のように天智天皇の娘にして大海人皇子の妻だったりする場合もあります。

 本書は、まず壬申の乱の背景と推移を解説します。本書の見解でまず注目されるのは、病床の天智と大海人とのやり取りです。『日本書紀』によると、天智が大海人に皇位を譲ろうとしたものの、大海人は病気を理由に断り、皇后の倭姫に皇位を継承もしくは代行させるよう天智に進言しました。兄弟のこのやり取りは天智紀と天武紀上に見え、両者には多少の違いがあります。しかし本書は、このやり取りには創作がある、と推測します。天智はすでに弟の大海人ではなく息子の大友を後継者として決めており、大海人を呼んだのは、大友の後見を頼んだものの、大海人は断って出家を申し出て、天智はそれを認めた、というわけです。

 天武に最も愛された女性は、有力氏族の出身ではなく政略結婚とは思えないものの、天武との間に4人の子を産んだカジ媛娘だっただろう、と本書は推測します。さらに本書は、大海人が吉野へ妻では鸕野讚良だけではなくカジ媛娘も同行させたのではないか、と推測します。その根拠は、大海人が吉野へ行くさいに同行させた子供が、鸕野讚良の息子の草壁とカジ媛娘の息子の忍壁だったからです。そのため、忍壁は母とともに鸕野讚良に嫉妬・警戒され、天武朝では重用されたものの、持統朝では冷遇された、と本書は推測します。

 また本書は、天智の三人の后妃(倭姫と遠智娘と姪娘)の墓の記録が残っていないのは、三人が壬申の乱の終わりまで近江朝廷方に属しており、近江朝廷方に殉じて非業の最期を遂げたからではないか、と推測します。当時、自害した要人の妻が自殺することはよくあった、と本書は指摘します。倭姫など近江方に殉じた女性たちの歌を後世に伝えたのは額田王だっただろう、と本書は推測します。吉野盟約については、それまで天武がやや冷遇してきた天智の息子たちと和解し、彼らを積極的に登用することで、壬申の乱のような事態の再来を防ごうとした、と推測されています。

 持統は遷都や律令といった天武朝の未完の事業を継承して完成させましたが、天武朝に始まった史書編纂が形となったのは持統没後かなり経過してからでした。本書はその理由を、持統が史書編纂に熱心ではなかったからではないか、と推測します。壬申の乱の記憶も生々しかった当時、史書編纂を進めると対立が再燃し、融和路線が挫折すると持統は恐れていたのではないか、というわけです。一方、持統が編纂に深く関わったと考えられる、『万葉集』の原型と思われる歌集では、倭姫や有間皇子といった墓が記録に残っていない敗者の歌も採録されており、本書はそこに持統の深慮を見ています。本書は、歌を積極的に取り入れて当時の要人の関係や思惑を推測しており、大胆に思えるものもありますが、昔から関心を持っていた倭姫(関連記事)の最期など興味深い見解を知ることができ、有益でした。

長井謙治「日本列島最古級の石器技術を考える」

 本論文はまず、紅村弘氏の研究を参照します。紅村氏は、「截断(剥離)技法」という独自性の高いアイデアを提示していました。紅村氏は、愛知県加生沢遺跡の石核について、立位複方向剥離石核と称する垂直方向の剥離が交差する立磐状の石核の存在を指摘し、これをバイポーラー・テクニックや円盤型石核技術とは異なる極東アジア的な剥片剥離法と示しました。紅村氏の提唱した「截断(剥離)技法」とは、鈍角剥離によって礫を縦分割するというアイデアにあり、90度°に近い打撃痕を正しく見抜くことで生まれました。紅村氏は立位複方向剥離石核についても、垂直方向からの打撃痕を正しく捉えることで、石核が縦位に置かれた状態で剥離が進んだことを見抜いていました。

 この紅村氏の洞察はおそらく独立独歩ではあるものの、手にした資料を忠実に観察していたことが厚い記述から読み取れ、その着眼点と研究態度は評価されるものである、と本論文は指摘します。しかし、この紅村氏の先駆的業績が、その後積極的な評価を受けることはありませんでした。また、バイポーラー・テクニックについて、芹沢長介氏や佐藤達夫氏や小林博昭氏や岡村道雄氏が注視し、その存在を指摘していたものの、これについても具体的な議論へと発展しませんでした。本論文はこれに関して、不運な時世と比較対象となる資料が不足していたこととともに、学説史としての哲学的・思想的背景があったことも指摘します。

 2000年の旧石器捏造発覚以降、学説史としてのパラダイムは解体し、国外の当該資料は充実した、と本論文は指摘します。近年、柳田俊雄氏と梶原洋氏はテクノロジーの視角に再び光を灯しており、愛知県加生沢遺跡、岐阜県西坂遺跡、大分県早水台遺跡、群馬県鶴ヶ谷東遺跡、栃木県星野遺跡、宮城県蒲沢山遺跡の出土試料に「両極剥離」の存在を指摘し、これを中国北部や朝鮮半島を含むアジア東部の「前期旧石器時代」に通有の技術基盤として再評価しています。本論文は、国内外の研究成果を渉猟し、「両極剥離」の内実を具体的なものへと昇華させようとする柳田氏と梶原氏の姿勢には大いに賛同しつつ、両氏たちが日本の「前期旧石器時代」の存在を当然視して議論を進めていることは、懐疑論者には少しついていけないところがあるだろう、と指摘します。石器か否かを決める一つの「言語」として「両極剥離が存在する」ことが利用されてきたような、負の学史が日本にはある、というわけです。「両極剥離」があるから真の石器があるのか、真の石器があるから「両極剥離」があるのか、堂々巡りしてはならない、と本論文は指摘します。

 著者も偽石器論争の渦中にあった「鈍角剥離」の用語を踏襲し、その技術的意義を唱えたことがあるそうです。しかし、著者の議論そのものが「石器認定論」と混同した印象を与えたことにより、学界に強い印象を残すことはできなかったようだ、と本論文は指摘します。「鈍角剥離」という用語もまた、捏造事件の後遺症を引きずる用語として、研究者の深層心理に負のイメージとして刷り込まれている可能性を本論文は指摘します。その後著者は、岩手県金取遺跡IV文化層、愛知県加生沢遺跡、岐阜県西坂遺跡、朝鮮半島の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に相当する萬水里遺跡、錦山里葛屯遺跡の大形石器群、さらには長野県石子原遺跡、竹佐中原遺跡の移行期石器群のなかに台石上の鈍角打撃技術を見出して、後期旧石器時代初頭を遡るアジア東部大陸部と島弧における技術体系としてその存在意義を主張し続けています。

 21 世紀には、更新世旧石器時代考古学の技術論者を中心として、非アシューリアン(Acheulian)系石器群としての両極技術ユニットの見直し機運が醸成しています。ヴァンデルドリフト(Jan Willem van der Drift)氏はこの学説を牽引する一人で、オンラインや映像媒体を通して積極的に成果発表をしています。2012 年に上梓された著書『旧石器時代の分割:両極道具体系概念への誘い』はその白眉とも言え、クラーク(John Desmond Clark)氏による石器階梯論モード1・2・3(関連記事)の見直し案が提示されています。ヴァンデルドリフト氏は、前・中期旧石器時代(下部旧石器時代と中部旧石器時代)の非アシューリアン系技術モードとして両極打撃群によるモードXを見出しており、これをモード2・3に並行する存続時期の長い剥片剥離モードとして位置づけています。両極打撃については、いわゆるナッツ割りを想起させる水平台石上での鉛直方向への挟み撃ち法のみならず、地面上保持による垂直打撃、あるいは台石保持による斜めの打撃などのいくつもの亜種を提示し、その技術的基盤としての特性を明示しています。ヴァンデルドリフト氏は、こうした亜種をふくむ両極打撃系石器群に対して、両極トゥールキット概念(bipolar toolkit concept)と呼称して、アシューリアン概念とは異なる別立てユニットを捉えています。

 日本列島においても、両極打撃に対しては、長らく石器経済上の補完的役割を担う利便的な技術としての評価が強く、原材料の制約に直接関与する代替手法として、あるいは節理のある小型石材への特別措置しての存在意義が強調されてきました。しかし、こうした前提については修正が必要となるでしょう。両極打撃と似たハンマー操作により計画的な剥片剥離が可能であること、あるいは台石利用の打撃により硬質円礫素材を容易に分割できることが、国内外の実験例により検証済みです。

 両極打撃には手保持の打撃に優るところがあります。それは、強大な力を岩石に与えられる点にあります。ヴァンデルドリフト氏は、手保持による自由裁量剥離の限界を負荷量の違いで説明しています。円礫を手保持の自由裁量で剥離した場合、円礫の上に水を入れたバケツを置く程度の衝撃しか与えられません。しかし、台石を使うと、ハンマー衝撃による減速ははるかに速くなり、減速に要する時間は0.0002秒、測定値は50000m/sec.square、減速質量は25000ニュートンに達します。つまり台石を使うことで、円礫に3台の小型車を乗せているのと同等の負荷を与えることができる、というわけです。

 両極打撃は、硬くて丸い大きな石を砕くことのできる優れた剥離技術モードの一つです。両極打撃はオルドワン(Oldowan)のスフェロイド(石球)の成形にも採用されています。著者は、デラトーレ氏たちがオルドワン石器群のハンマー分析で明らかにした受動打撃(passive hummer percussion)に注目しています。つまり、アジア東部更新世遺跡の原材料にある内部欠陥性を超克する戦術的手法の一つとして、台石利用の受動打撃が採用されていた、と本論文は推測します。これを台石上の打撃として手保持の打撃とは概念的に区別しよう、というわけです。

 岩手県金取遺跡第IV文化層から出土した接合資料には双極打撃痕が残されており、台石からの受動打撃が加わった証拠を留めています。この資料は9万~8万年前頃の地層から出土したと言われていますが、全体の資料数が少なく、この時期の類似の資料が他に見つかることこそまず前提である、と本論文は指摘します。日本列島最古級の石器技術を語るにはまだ証拠が不足している、というわけです。4万年前頃以前の日本列島における人類の存在については議論になっていますが、仮に存在したとしても、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少ないことから、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がなかったように思います。


参考文献:
長井謙治(2020)「日本列島最古級の石器技術を考える」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P26-27

呉汝康「中国古人類学30年」

 中華人民共和国における古人類学の発展に関する概説(呉., 1981)を読みました。40年前の論文なので、もちろん現時点では更新された情報が多く、基本的に個別の事例は取り上げませんが、最近言及した中国における人類進化認識(関連記事)との関連で取り上げます。個別の事例を一つだけ取り上げると、ギガントピテクスについて本論文は、「絶滅枝の一つであり,従って人類あるいは猿類の直系の祖先とすることはできない」と指摘しており、最近のタンパク質解析研究でも改めて示されました(関連記事)。ギガントピテクスは、現生類人猿ではオランウータンと最も近縁です。

 本論文はまず、

中国は人類の起源と発展にとって重要な地域であり,人類化石や旧石器等の関連資料がきわめて豊富である。しかし半封建・半植民地の状態にあった旧中国においては,この方面の科学が重視され発展するということはありえなかった。1949年に新中国が成立してから,中国の古人類学は独立自主の道を歩むことになった。この30年間に我々は比較的大規模な調査活動をすすめ,かつまた重要な地点を選んで発掘を行ない,大量の新しい資料を獲得して各方面の研究を進展させた。

と指摘します。本論文は最後に、

我国において古人類学に従事するということは,人類の起源と発展の過程とその法則を理解するということだけではなく,人類の起源と発展の科学的事実を通じて労働者・農民・兵士と広範な大衆に対して弁証法的唯物論と歴史的唯物論を宣伝することなのである。

と指摘し、

我国において古人類学に従事するということは,人類の起源と発展の過程とその法則を理解するということだけではなく,人類の起源と発展の科学的事実を通じて労働者・農民・兵士と広範な大衆に対して弁証法的唯物論と歴史的唯物論を宣伝することなのである。

と結んでいます。本論文は全体的には中国の個々の遺跡と化石と石器を簡潔にまとめており、1981年時点での中国における古人類学の状況を把握するのにたいへん有益だったでしょうし、40年経った現在でも、学説史を把握するうえで大いに参考になるとは思います。ただ、本論文からは中国の古人類学研究における強いイデオロギー色も窺えます。もちろん、「自由主義陣営」や「先進国」にもイデオロギーはあり、それが古人類学に限らず学問を規定するというか制約することは否定できません。本論文からは、1981年の中国におけるイデオロギーが窺え、当時と40年後の現在で中国が大きく変わったことを否定する人はほぼいないでしょうが、一方で当時のイデオロギーや人類進化認識は現在でも建前として多分に残っているようにも思います。

 本論文は、

丁村人,北京原人,現代黄色人種の間には体質形態上少なからぬ類似点がみられる。たとえばシャベル形の切歯を持つことや頭頂骨の後上角に鋸歯状のぎざぎざを持つことからインカ骨があると考えられること等は,三者の間に親縁関係のあったことを示すものである。丁村人は北京原人と現代黄色人種の中間に位置するリンクの一つである。

と指摘し、

我が国の旧石器時代後期の文化遺物の発見件数は多く,分布範囲も広い。この時期のホモ・サピエンス化石とその文化遺物の発見と研究は,現代人の種族の起源を探るうえにおいて,とりわけ黄色人種あるいはモンゴロイドの起源を探るうえにおいて重要なよりどころを与えるものであり,また中国の遠古の住民が当時の外界と接触し文化交流を行ないつつも,彼等自身及びその文化には独自の特徴が継承されていたことを明らかにしたのである。

との見解を提示しており、中国における人類の長期の連続性を前提としています。原書が2009年刊行の『人類20万年遥かなる旅路』(関連記事)やそのドキュメンタリー番組(関連記事)でも、中国の経済が飛躍的に発展し、社会が大きく変わっても、中国において現生人類(Homo sapiens)多地域進化説が多数派を占めている、と指摘されています。中国の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型と分類されており(関連記事)、現生人類多地域進化説ときわめて親和的です。しかし、遺伝学を中心に現代中国の専門家の間では、ホモ属のアフリカ起源、さらには現生人類のアフリカ単一起源説を前提とする傾向が現在では強いようです(関連記事)。なお、シャベル型切歯が「北京原人」と現代中国人(さらにはアジア東部現代人や現代のアメリカ大陸先住民)との遺伝的連続性の証拠になるとの主張は、今では無理筋と言うべきでしょう(関連記事)。

 さらに現代中国の遺伝学の研究者の間では、現生人類アフリカ単一起源説を前提として、中国で発見された非現生人類ホモ属が現代中国人の主要な祖先集団であることに否定的なばかりか、5万年前頃以降に現在の中国領に拡散してきた現生人類集団の中に、現代人とは遺伝的につながらず絶滅した集団も存在した、と明らかにされており、それは現在の中国領の北方(関連記事)でも南方(関連記事)でも確認されています。これは、本論文の見解と大きく異なります。2009年と今年(2021年)とでは、中国社会における人類進化認識がかなり変わっているかもしれませんが、十数年では社会全体で大きく変わる可能性は低いように思います。その意味で、現在の中国領で発見された人類化石のうち、非現生人類ホモ属のみならず、現生人類の中にも現代中国人と遺伝的につながらない集団が存在した、との見解は現代中国社会ではあまり受け入れられていない可能性が高そうです。ただ、現代中国社会の主流的見解とは異なっても、古代DNA研究も含めて遺伝学的研究は中国の技術と経済の発展に必要と考えられているでしょうから、中国政府が古代DNA研究を抑圧する可能性は低い、とやや楽観的に考えています。

 また本論文は、中国における人類進化の長期の連続性とともに、唯物史観的な人類進化観を強く打ち出しており、これも建前として「特色ある社会主義」が強調されている現代中国社会において、依然として強い影響を有しているかもしれません。本論文は、

1949年の中国解放以後,我々は労働が人類を作ったとする理論にもとづき,新しい解釈を提出した。原人の体質形態は人体各部の発達が不均衡であったことを明示している。人類進化の過程の中ではまず直立二足歩行が確立し,手が支持作用から解放され,道具を製作・使用して生産労働を進めていくようになったのである。ヒトの脳は直立二足歩行確立の後,長期にわたる生産労働の実践中に発展したものである。エンゲルスはこう言っている。「或る意味では労働が人間自身を作ったと言わざるをえない」と。原人化石の研究は,エンゲルスの労働が人類を創造したとする理論に有力な証拠を提供した。

 と指摘します。しかし、570万~530万年前頃となるアルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)の存在から、人類の直立二足歩行は600万年前頃には確立していた可能性が高そうなのに、「脳の発展」というか脳容量の増加はホモ属系統においてで、せいぜい300万年前頃以降のこととなり、しかも体格の大型化と連動しています(関連記事)。チンパンジーの事例から、人類も直立二足歩行以前から道具を使用していた可能性は高い、と考えられます(関連記事)。直立二足歩行により「道具を製作・使用して生産労働を進めていく」ことがより効率的になったとしても、直立二足歩行の開始から脳容量の増加が始まるのにおそらく300万年以上要しており、道具製作が「脳の発展」というか脳容量の増加とどれだけ直結していたのか、はなはだ疑問です。

 脳容量の増加というかホモ属出現の背景としては、不安定な気候が指摘されています(関連記事)。ホモ属が出現する頃のアフリカの気候は、乾燥化と草原の拡大(森林の減少)という傾向として単純に把握できるものではなく、環境が不安定化・断片化したことが重視されるべきだ、というわけです。この300万~200万年前頃のアフリカにおける気候変動に対応して、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)はそうした状況で定期的に食料不足に陥り、それへの適応として、広範な生態系で活動し、食料不足に対応したのではないか、と推測されています(関連記事)。また、アウストラロピテクス・アフリカヌスの母親が育児にさいして、食料不足の時期には授乳で対応し、それが長期にわたったことから、母子の間のつながりとともに、授乳期間の長期化による潜在的な出産回数の減少を招来し、200万年前頃にはアフリカ南部でアウストラロピテクス属が絶滅した一因になった可能性も指摘されています。もちろん、道具使用と脳容量増加との間に関連はあったというか、道具使用が脳容量増加の選択圧の一つにはなったでしょうが、直立二足歩行が始まっておそらく300万年以上前も脳容量の大幅な増加が見られず、不安定な気候で脳容量増加が始まり、しかもそれは体格の大型化と連動していたわけですから、「労働が人間自身を作った」との評価は的外れだと思います。

 最近、環境問題対策としての「脱成長」の典拠をマルクス(Karl Marx)に求めるような動きもありますが、「聖典」としてのマルクスの言説の中に現在の問題の解決策を見出すのは、率直に言ってマルクスを崇める宗教だと思います。マルクスの言説は広範囲にわたり、期間も長いので、その中に現代の問題と解決策と通ずるように思えるもしれない言説もあるかもしれませんが、それをわざわざ現代においてマルクスの言説の中に見出す必要があるのか、はなはだ疑問です。「マルクス教」の神官ならば、時代に適応して生き残るために、「教祖」の言説を現代的に解釈する必要もあるでしょうが、それは「マルクス教徒」ではないほとんどの人々にとってはさして意味のない行為であり、社会に大きく役立つとは言えないでしょう。

 人類進化を唯物史観というかエンゲルス(Friedrich Engels)の主張に沿って解釈することにも、同様の問題があります。エンゲルス(やマルクス)のような大家ならば、示唆に富んだ言説は多くあるでしょうし、そうした中には、現代における人類進化の有力説と通ずるものもあるかもしれません。しかし、人類はもちろん、非ヒト霊長類の研究が現代と比較にならないほど貧弱だった時代の研究に依拠しているエンゲルスの主張の枠組みで人類史を理解しようとすることには大きな無理があると言うべきでしょう。また、仮に現代にも通ずるようなエンゲルスの指摘があったりしても、それが人類進化の研究においてエンゲルスの言説を重視すべき理由にはならないと思います。「唯物史観教」の「神官」や「信者」が人類進化史におけるエンゲルスの言説に「重要な示唆」を見出すのは自由ですが、エンゲルスの言説に沿って人類史を理解するのは、率直に言って時代錯誤だと思います。おそらくはエンゲルスの言説により広まった人類の「原始的社会」は母系制だった、との現在でも根強そうな理解も、今となってはかなりの無理筋だと思います(関連記事)。


参考文献:
呉汝康著、谷豊信翻訳(1981)「中国古人類学30年」『人類學雜誌』第89巻第2号P127-135
https://doi.org/10.1537/ase1911.89.127

藤田祐樹「サピエンス以前の人類の島への分布を考える」

 本論文はまず、インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)やシベリア南部およびチベットの種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など、相次いで新たな分類群の人類が発見されたことから、アジアの更新世人類史が従来の想像をはるかに超えて複雑だった可能性を指摘します。現生人類(Homo sapiens)以外の人類が日本列島に到来していたのかどうか、まだ明らかにはなっていませんが、日本列島は更新世に何度か大陸と陸続きになった、と考えられています。非現生人類ホモ属が分布を広げたとすれば、大陸と接続した時期に日本列島に移住した可能性を考えるべきでしょうが、本論文はあえて、非現生人類ホモ属の渡海について考察しています。本論文は、非現生人類ホモ属に現生人類のような渡海能力がなかったのは当然としても、それならば島々への非現生人類ホモ属の分布をどう解釈すればよいのだろう、と問題提起します。

 人類の海洋進出は、現生人類において飛躍的に発展しました。その重要な舞台となったアジア南東部島嶼域では、4 万年前頃からマグロやカツオといった外洋性の魚類が獲られ(関連記事)、16000~23000年前頃には釣り針も発明されていました。日本列島も現生人類の海洋進出の重要な舞台で、35000年前頃に黒潮を越えて恩馳島の黒曜石利用していたことや、琉球列島全域への35000~30000年前頃の移住、サキタリ洞の23000年前頃の貝製釣り針や多様な貝器、水産資源利用などは、いずれも現生人類の渡海能力や海と関連の深い生活を示す証拠です。これらの他にも、西太平洋島嶼域には、現生人類の海洋進出の証拠が数多く発見されています。

 それに対して非現生人類ホモ属は、一般的には陸上資源に強く依存していたと考えられていますが、ネアンデルタール人に関しては、地中海沿岸域の遺跡では貝類など水産資源を利用し、冷水刺激により生じる外耳道骨腫の報告もあります(関連記事)。地域的には、水辺環境を積極的に利用する集団もいたと考えられます。ホモ・エレクトス(Homo erectus)などネアンデルタール人出現以前の人類(本論文では「原人」とされています)水産資源利用の証拠はもっと乏しいものの、アフリカではオオナマズやカバなど水辺の動物を利用し(関連記事)、インドネシアではホモ・エレクトスによる貝殻の線刻が報告されています(関連記事)。更新世に大陸と接続しなかったフローレス島やスラウェシ島やルソン島における「原人」の分布からも、この地域に水辺環境に親しんだ「原人」がいた可能性も考えられそうです。

 「原人」の島への分布は、偶然の漂流を想定するのが主流ですが(関連記事)、一般的に陸上動物の海流分散の頻度はかなり低く、たとえば琉球列島のトカゲの仲間では、琉球列島全体に分布を広げるのに数百万~数十万年かかっています。アジア南東部島嶼域の「原人」と琉球列島のトカゲを比較するのは乱暴ですが、トカゲ類は一年に複数回、数個の卵を産むのに対して、数年で一子を産む「原人」の海流分散の成功率は、ずっと低くなるはずです。少ない証拠で議論しても仕方ありませんが、動物にとって移動の障壁となるハックスレー線やウォーレス線を越えて複数の「原人」遺跡が見つかるのは、もっと高い頻度で移住を実現したからと考えられます。「原人」の中にも積極的に水産資源を利用するような集団があり、漂流の確率や漂流後の生存確率を高めるような何かしらの行動的特徴(ある程度の遊泳能力や木片を浮き具として利用するなど)を有していた可能性も考えられるかもしれません。

 渡海の問題では、琉球列島で1970 年に港川人が発見されたさいに、旧石器人に渡海能力はないと考えられていました。そのため、古地理学や動物地理学や古生物学の点から後期更新世の琉球列島陸橋化は否定されていたにも関わらず、港川人は最終氷期最寒冷期の陸地化によって分布を広げた、と結論づけられたまし。「原人」の分布がこれと同じ状況だとは言えないとしても、「原人」の島への分布を偶然の漂流と簡単に決めつけないほうがよいでしょう(関連記事)。

 遺跡出土の証拠だけではなく、新技術により判明する新事実に対しても同様で、近年のDNA研究によれば、オセアニアやアジア南東部の現代人にデニソワの遺伝子が一部共有されている、と指摘されています(関連記事)。現生人類とデニソワがどこでどう接触したの、まだ不明です、一連の近年の発見からは、かつてユーラシア東部には「原人」、ネアンデルタール人やデニソワ人などの「旧人」と現生人類人が共存し、部分的に複雑に交流したようです。日本列島に「原人」や「旧人」が到来していたのか、まだ不明ですが、現代日本人の祖先が「原人」や「旧人」と何らかの形で接触していた可能性も考えられます。


参考文献:
藤田祐樹(2020)「サピエンス以前の人類の島への分布を考える」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P6-7

中村美知夫「ヒト以外の霊長類の行動と社会 ヒトを相対化する」

 井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。本書は、第1部「人類進化の歩み」が第1章~第4章、第2部「ヒトのゲノム科学」が第5章~第8章、第3部「生きているヒト」が第9章~第12章、第4部「文化と人間 文理の境界領域」が第13章~第15章で構成されています。本書を1本の記事にまとめるとひじょうに長くなりそうなので、各章およびコラムを単独の記事で取り上げます。本書は参考文献と索引もあり、人類進化に関する最新の知見を日本語で学ぶのに適切な一冊になっていると思います。


●霊長類の分類と生活

 本論文は、ヒト(Homo sapiens)が霊長類、さらには類人猿(ヒト上科)の一種であることから、その行動や社会の進化を考察するさいに参考になる、ヒト以外の(野生)霊長類の行動と社会を取り上げています。本論文はまず、霊長類には分かりやすい視覚的な特徴を見つけにくいものの、四肢がいずれも手のようになっていることは特徴と言えるかもしれない、と指摘します。これにより、手足の親指が残り4本の指と離れた拇指対向性を示し、枝などをつかめる、というわけです。また、両目が顔面前方にあり、立体視できることも霊長類共通の特徴で、樹上生活への適応と考えられています。

 霊長類(霊長目)は、大きく曲鼻亜目と直鼻亜目に分類されます。かつては原猿亜目と真猿亜目に二分されていましたが、原猿に分類されていたメガネザルが系統的には真猿類に近いと明らかになり、メガネザルと真猿類をあわせて直鼻猿に分類されるようになりました。真猿類は一般的に想像されるだろう「サル(monkey)」のことで、さらに広鼻猿類と狭鼻猿類に区分されます。広鼻猿類はラテンアメリカに、狭鼻猿類はアジアとアフリカに生息しています。狭鼻猿類はさらにオナガザル上科とヒト上科に区分され、オナガザル上科には日本固有種のニホンザルも含まれます。ヒト上科は類人猿で、比較的小型のテナガザル科と大型類人猿およびヒトを含むヒト科に区分されます。

 霊長類は熱帯から温帯にかけての森林におもに分布しており、赤道付近の熱帯森林では同所的に複数(場所によっては十数種)の霊長類が共存しています。霊長類の中には乾燥地や寒冷気候に適応した種もおり、ヒヒやパタスモンキーは乾燥地の木が疎らなサバンナに生息しており、二次的に地上性が強くなっています。ニホンザルは積雪地帯にも生息しており、ヒトを除く霊長類の分布の北限(青森県下北半島)を表しています。

 霊長類の祖先は樹上の昆虫食者として進化したと考えられており、夜行性曲鼻類の多くはそうした食性ですが、真猿類はほとんどが昼行性で、果実を主食とする雑食性です。真猿類の中には脊椎動物や昆虫を捕食する種もいますが、コロブス亜科は葉食に適応した胃の構造を有しており、ゴリラは草本を中心とした食性で、草食傾向がつよい霊長類もいます。

 霊長類の捕食者には、中~大型の食肉目や大型猛禽類や爬虫類などがいます。大型食肉目はヒトも含めて大型類人猿を捕食することがあります。霊長類の進化において捕食圧は重要で、とくに昼行性霊長類の集団生活は、捕食者への対抗のためと考えられています。集団生活により捕食者を早く発見できるほか、捕食者に標的を絞りにくくさせる「薄めの効果」や、集団防衛の効果が推測されています。一方、集団生活により採食競合が激しくなるため、捕食者に対する利点と採食に関する不利益の均衡で集団規模が決定されている、と考えられています。動物の生体には寄生者の存在も重要で、多くの霊長類は回虫や条虫や線虫や蟯虫といった内部寄生中に感染しており、その多くは複数種で共通しています。外部寄生虫も霊長類の進化においては重要で、多くの霊長類にとって重要な社会行動である毛づくろいは、外部寄生虫であるシラミ除去のためです。


●霊長類の社会

 霊長類の社会について、伊谷純一郎氏が社会構造を全体としての社会として把握するのに対して、欧米の霊長類学では、社会は下位の要素に分解できる、と考えられる傾向が強いようです。たとえば、社会システムは、社会組織と繁殖システムと社会構造に3区分されています。ここでの社会組織とは、社会集団の大きさや性年齢構成や時空間的な凝集性などです。単独生活やペアや単雄複雌群や複雄複雌群といった区分は、社会組織に関するものです。繁殖システムは、じっさいにどのような雄と雌が交尾により仔を残すのか、という問題で、社会組織と密接に関連しますが、区別して考えるべきとされます。たとえば、単独生活の霊長類でも、1頭の雄が複数の雌の行動圏を移動し、繁殖に関しては一夫多妻になっている場合があります。社会構造は、社会的相互作用のパターンと、その結果として生じる社会関係の累積です。たとえば、ある種では血縁雌同士の絆が強く、別の種では雄同士が強固な関係を築きます。

 夜行性曲鼻類の多くは単独性で、交尾と子育ての間だけ同種他個体と関わります。夜行性曲鼻類は営巣し、仔を1回に複数産む種がいる点でも、昼行性真猿類とは社会の特徴が異なります。曲鼻類の中でも比較的から他の大きい昼行性のキツネザル類は、母系の複雄複雌群を作ることが多く、ワオキツネザルのように、雌の方が体は大きく、雄より優位な種も存在します。広鼻猿のうち、クモザルなどは父系の複雄複雌群を作ります。小型のマーモセット類は、繁殖ペアと子供たちで集団を作ることが多く、双子が多いことも特徴です。雄も子供の運搬などを手伝い、父親が子育てを手伝う点でヒト社会との共通点も注目されています。

 ニホンザルなどマカク属は、母系の複雄複雌群を作ります。母娘や姉妹など母系の血縁に基づいた雌同士の結びつきが強く、個体間で順位が不明なことも多くなっています。ヒヒには、1頭の雄と複数の雌から構成される「ワン・メイル・ユニット」が多数集まる重層社会を形成するものもしられています。派手な顔をしているマンドリルは、ヒトを除く霊長類で最大の集団を形成し、詳細はよく分かっていませんが、500~600頭の大集団が確認されています。

 類人猿は、少ない種数のわりには多様な社会を形成します。テナガザルは、多くの場合ペア型の集団を作り、雄と雌が共同で縄張りを防衛します。オランウータンは、昼行性霊長類としては例外的に単独性が強く、典型的には、単独で動く複数の雌の遊動域を1頭のフランジ雄(顔ひだのある成熟雄)がカバーしますが、地域によっては複数の雌が集団を作ることもあります。ゴリラはまとまりのより単雄複雌群を作りますが、マウンテンゴリラでは、成熟した息子が群に残り、父系的な複雌群となることもあります。チンパンジーとボノボは父系の複雄複雌集団を形成します。類人猿の社会に共通しているのは、いずれも非母系である点です。母系社会は哺乳類の多くの種に見られるため、類人猿(ヒト上科)で母系が見られない理由について、現時点で明確な答えはありません。

 霊長類では離合集散が見られ、集団内の構成員が繰り返し集まったり離れたりします。以前は、クモザルやチンパンジーなどが離合集散型の社会を作り、ニホンザルやゴリラの安定した群型社会とよく対比されていました。しかし、こうした二分法は必ずしも適切ではない、と指摘されるようになっています。たとえば、基本的には安定した群を作るニホンザルでも、群が数日間二分してしまったり、1~数頭の個体が群から離れてしまったりする現象が確認されています。現在では、離合集散性は度合の問題で、離合集散性が低くて遊動時の構成員が安定した社会から、離合集散性が高くて遊動時の構成員が大きく変わる社会まで連続的に把握すべきと考えられています。

 離合集散性の高い社会を作るチンパンジーでは、単位集団の構成員が日常的には1~数十頭に分かれて遊動します。こうした一時的な小集団は「パーティ」もしくは「サブグループ」と呼ばれています。採食時には平均2~4頭のパーティとなることが多く、移動や休息のさいには十数頭くらいとなります。そのため、離合集散性の度合は、基本的には食物の分布と量に関係している、と考えられています。季節によっては、パーティ同士が数ヶ月も出会わないこともありますが、長期の別離でも単位集団が崩壊することはなく、再会しても同じパーティで共に遊動できます。離合集散性の高い種では、別離後の再会時に、「挨拶」と呼ばれる行動が生じることも多くあります。


●知性

 霊長類の治世の進化に関する仮説は、「生態仮説」と「社会仮説」に大きく区分されます。生態仮説では、複雑な環境への対処が知性の進化に重要だった、とされます。環境の中から餌を探し出すことなどにおいて高い知性が必要だった、というわけです。より具体的には、行動圏の中に食べ物がある場所と時期を覚えておく「メンタルマップ」、地下や倒木の中などに隠れた食物や、棘や殻などで防御された食物を利用する「取り出し採餌」などが指摘されており、道具使用も生態仮説の一部として理解できます。

 社会仮説では、集団生活を送る中で同種の他個体と駆け引きをしたり協力したりするといった、社会的もんだいへの対処により知性が進化した、とされます。多くの昼行性霊長類は集団を作るので、社会的環境が霊長類の治世の進化においてとくに重要な淘汰圧になった、というわけです。狭鼻猿類において集団規模と大脳新皮質との間の正の相関が見られることからも、この仮説は支持されています。社会的知性仮説の中でも、とくに相手を騙したり出し抜いたりすることを強調するものは、「マキャベリ的知性」と呼ばれています。

 かつてはヒトにのみ見られると考えられていた「知的」行動が他の霊長類でも確認されるようになってきており、道具使用はその代表例です。動物の行動研究において道具とは、下界から切り離されて手や口などで操作可能な物体と定義され、類似の機能を果たす「基盤使用」と区別されます。つまり、操作可能な石を使ってナッツを割る場合は道具使用で、岩盤にナッツを打ち付けて割る場合は基盤使用となります。道具使用は霊長類に限らず、道具使用は稀でも基盤使用が多い種もいます。

 チンパンジーの道具使用は、おそらく非ヒト動物では最も多様で、また最もよく調べられています。重要なのは、道具使用自体はチンパンジーにおいて普遍的ですが、使用道具は場所により異なることです。これは、道具使用が固定的行動ではなく、何らかの社会学習による獲得であることを示唆します。じっさい、チンパンジーの道具使用の獲得には一定の時間がかかり、多くの場合2~3歳で最初の道具使用に成功し、効率よく使えるようになるには、さらに数年かかります。ナッツ割りのように石の道具が使われる場合もありますが、チンパンジーの道具の大半は植物性(棒や蔓や葉など)です。これは初期人類の道具使用にもおそらく当てはまり、石器として考古学的証拠が残るずっと前から植物性の道具はつかわれていた、と考えられます。

 社会的知性では、チンパンジーの駆け引きがよく知られています。タンザニアのマハレの事例では、第1位雄のカソンタと第2位のソボンゴが順位をめぐって争っている間、第3位のカメマンフはカソンタとソボンゴのどちらにも付く日和見的な姿勢を見せ、カメマンフの動向により上位2個体の形成が逆転するため、カメマンフは第3位であるにも関わらず、上位2個体に一目置かれる存在となり、その間一時的に、カメマンフの交尾頻度が高くなりました。類似の三者関係は飼育下でも観察されています。他には、マハレのントロギという第1位雄は、自分にとって脅威となる第2位の雄が他の雄と毛づくろいしていると、突撃ディスプレイをして蹴散らす一方で、連合相手には肉分配で寛容だったことなど、自分以外の個体関係も理解したうえで狡猾に振舞っていました。


●肉食と食物分配

 人類進化のある段階で、肉食の重要性が増したと考えられています。ヒトは他の類人猿と比較して明らかに高い割合で動物性食物を食べており、相対的に腸が短く(一般的に、肉食動物と比較して草食動物の腸は長いと考えられています)、大型化した脳が高質の栄養を必要とすることなどから、支持されています。そのため、かつては「狩猟仮説」が優勢でした。狩猟仮説では、人類進化の過程で、家族・性的分業・直立二足歩行・食物の運搬・ホームベース・道具使用などのヒト的特徴が、いずれも狩猟の開始とともに生じた、とされていました。現在ではこうした狩猟仮説は否定されており、それは、直立二足歩行を始めた直後の人類が弓矢のような高度な武器を用いて体系的な狩猟をしていたとは考えられていないからです。しかし、肉食および狩猟の重要性は変わっておらず、その関係でチンパンジーの肉食が注目されることも多くなっています。

 チンパンジーは日常的に哺乳類を捕らえて食べますが、その対象は自身よりも小型の動物です。霊長類学ではこうした捕食が「狩猟」と呼ばれますが、初期人類の「狩猟」が議論される場合には、こうした小動物の捕獲はしばしば考慮されません。それは、獲物の化石に残された痕跡などから明らかにできるのは、槍や弓矢などの道具を用いて大型獣を組織的に狩るようなものがほとんどだからです。

 チンパンジーの狩猟対象はおもにアカコロブスという猿類で、小型のレイヨウやイノシシの幼獣や齧歯類や鳥類なども対象となります。サル以外の獲物の場合、機会的につかみ取りすることが多いものの、アカコロブスが対象の場合は集団での狩猟が行なわれます。つまり、多くのチンパンジーが包囲網を作るようにアカコロブスの群にさまざまな方向から近付き、一部の個体は木に登ってアカコロブスを枝先に追いやり、逃げ損なって地面に落ちるアカコロブスを別の個体が待ち伏せています。こうした状況は、一見すると勢子と待ち伏せ役との役割分担ができており、「協力」しているようですが、この評価に関しては議論となっています。節約的解釈では、各個体が最も捕まえやすそうと判断する場所に自らを配置することで、結果的に包囲網が形成され、役割分担ができているように見える、と指摘されています。真に協力的な場合、協力の程度に見合った「分け前」があってしかるべきですが、そうなっていない場合が多い、というわけです。むしろ多くの場合、狩猟への貢献度よりも肉の保持者との社会関係により分配がなされています。

 初期人類は大型獣狩猟を行なっていなかった、との見解で重視されているのが屍肉食です。肉食獣などが殺した獲物の屍体を入手する形での肉食が先行していた、というわけです。チンパンジーも屍肉食をしますが、その頻度は自ら動物を捕まえるよりもずっと低く、それは森林で新鮮な動物の屍体に遭遇する頻度が低いからです。チンパンジーが動物の屍体と遭遇した場面の分析では、屍体が狩猟対象になっている(食べ慣れている)種のもので新しければ、屍肉食をする割合は高く、同所的に生息するヒョウ(チンパンジーにとって捕食者です)から獲物を入手することはないと考えられてきましたが、チンパンジーが集団で駆けつけてヒョウの獲物を入手して食べた事例も報告されています。

 チンパンジーの獲物は小型でも5~10kgほどあるのりで、一気に食べられるものではなく、肉食のさいには頻繁に分配が見られます。食物分配(もしくは食物移動)も、人類進化の考察では興味深い行動です。多くの霊長類が主食とする果実は、ほぼその場で口に入れて消費できる程度のサイズで、周辺で他にも入手できるため、さほど食物分配が生じる必然性はありません。ただ、未成熟個体が母親から果実などの一部を与えられて食べるような、恐らく採食アイテムの学習に貢献している事例は、より多く見られます。チンパンジーの肉分配は基本的に消極的で、貰う側がベッギング(掌を上に向けて相手の口の付近に伸ばすなど)を示して初めて、分配が起きることがほとんどです。このため、食物分配は「許容された盗み」とも呼ばれており、基本的には肉を完全に防衛するよりも一部を分配した方がコストは低い、と考えられています。また、分配される食物は少量で比較的低質のもの(肉をほとんど食べた後の骨など)が多くなります。それでも、肉はチンパンジーにとって価値が高く、分配は社会的用途にも使われます。たとえば、第1位雄が地位を高める目的や、毛づくろいや喧嘩での支援、交尾といった「見返り」を期待してのものなど、戦術的な分配が知られています。チンパンジーの肉分配では、保持者は高位雄であることが多く、価値の高い肉を入手しようと多くの個体が集まってくるため、ひじょうに騒がしく、攻撃的交渉も頻繁に生じます。


●文化

 文化は言語や知性とともにヒト固有の特徴と考えられることが多く、遺伝的多様性の低いヒトの行動や社会が多様なのは、文化の存在が大きいことを示しています。非ヒト霊長類にも文化が存在し得ることは1952年に今西錦司が予言しており、その後のニホンザルの研究で実例が報告されました。1973年には、各地のニホンザルの行動比較から、多様な行動が文化(もしくは前文化)として報告されましたが、国際的にはさほど認知されず、この時点では文化の存在はヒトだけとする見解が根強かったようです。

 動物の文化が世界的に認められるようになった発端は、チンパンジーの文化に関する1999年に報告された研究です。その後、チンパンジーの文化に関する研究が盛んになり、オランウータンやオマキザルやボノボや鯨類でも、行動の地域間比較により文化の存在が報告されています。チンパンジーの文化研究は物質文化が中心で、それは一つには、チンパンジーに多様な道具使用が見られ、地域間での比較が進んだためです。道具使用は知性の進化との関連が指摘されており、道具自体や使用の痕跡が残るため、直接観察ができないような調査地でも研究可能であることも、その理由となっています。

 文化は物質文化だけではなく、挨拶のさいに抱き合うか会釈をするかといった違いも、文化的と考えられます。非ヒト霊長類ではこうした視点での詳細な研究はまだありません。社会的慣習の代表的な事例は、チンパンジーの対角毛づくろいです。これは、2頭が対面して座り、互いの対応する手を宙に上げて組み、相手の脇の下を毛づくろいする、という行為です。この行動はいくつかの集団で見られ、他集団では報告がなく、飼育下の集団での報告もあります。他に、毛づくろいのさいに相手の背中などを「掻く」という単純な行動(ソーシャル・スクラッチ)が限られた集団でしか見られなかったり、毛づくろいのさいに発せられる音が集団によって違ったりする、といった現象も報告されています。

 求愛ディスプレイも集団間で異なり、たとえばマハレでは、求愛のさいに葉を唇でちぎる「リーフ・クリッピング」が行なわれますが、ボッソウでは同じ状況で「かかと叩き」が行なわれます。いずれも微細な干支が出て、その音で相手の注目を惹きつける、と考えられています。類似の機能を果たすものとして、マハレの「灌木曲げ」やタイの「拳たたき」などがあります。こうした社会的習慣の興味深い点は、集団間で違いがあることに積極的な意味を見いだしにくいことです。たとえば、「リーフ・クリッピング」なのか「かかと叩き」なのかに大きな機能的違いがあるとは考えにくく、ヒトの社会的習慣についても同様の「意味がわからない」違いが存在することから、人類学的には興味深い現象です。

 非ヒト動物の研究者による「文化(culture)」の定義は、「(少なくとも部分的には)社会学習によって集団内に共有された行動変異」と言えますが、ほぼ同じものを「伝統(tradition)」と呼んで、文化と区別する研究者もいます。その理由として、高次の社会学習である模倣や教育で伝達されるもののみを文化とすべきとの見解や、文化には累積的に複雑さが増大するラチェット効果があるとの見解が挙げられています。文化(もしくは伝統)に何らかの社会学習が必須との点ではほとんどの研究者が一致しており、そうした社会学習についての研究はほとんどが飼育下で行なわれています。これは、学習に影響し得るさまざまな要因を制御しやすいからです。社会学習の存在を厳密に証明するには、社会的影響を排除した学習との比較が必須ですが、野生動物ではそうした状況をそもそも考えにくい、という事情もあります。

 野生下での分化の存在を示すために用いられることが多いのは、「民族誌的方法(排除法)」です。これは、まず同種の行動を複数の地域間で比較し、地域変異を把握します。全ての変異が文化的なものではないため、遺伝的説明や環境による説明が排除される時に文化的な違いとされます。ただ、この方法論には批判もあり、未知の遺伝的および環境的要因による違いの可能性を排除できないので、じっさいには文化ではないものを文化と判断している可能性があります。逆に、遺伝や環境と文化がそれぞれ排他的と考えることで、じっさいに文化的な変異を文化ではないと排除する恐れもあります。このように、霊長類、さらには動物の文化については、まだ論争が続いています。


●殺し

 ヒトの行動や社会の特徴を理解するには、殺しという暗い側面に注目することも重要です。1960年代頃までは、同種殺しはヒトに特有と考えられていました。非ヒト動物でも種内攻撃はあるものの、通常は相手を殺すまでには至らない、というわけです。こうした見解が大きく変わる契機は、霊長類の野外研究でした。霊長類の子殺しに関する最初の報告は、インドのダルワールでのハヌマンラングールの事例で、1962年に杉山幸丸氏により発見されました。これは当時病的な異常行動と考えられ、正当な評価を受けませんでしたが、その後、社会生物学の興隆とともに、子殺しは雄の繁殖戦略として有効と考えられるようになっていきます。

 ハヌマンラングールは単雄複雌群を形成し、群外の雄による乗っ取りが生じる場合もあり、そのさいに乗っ取り雄が前の雄の子供を次々と殺害します。子供を殺された雌たちは発情を再開し、乗っ取り雄と交尾します。通常、哺乳類の雌は授乳期間には発情しませんが、乳飲み子を失うと発情を再開するので、乗っ取り雄は子殺しにより前の雄の子供が離乳するまで待たずに子供を残せることになります。こうした子殺しは、種もしくは集団の利益のためではなく、個々の雄が自分の遺伝子を最大限に残す戦略として考えれば理解可能です。その後、子殺しは霊長類を含む多くの哺乳類種で確認されており、現在では哺乳類の約40%の種で子殺しがある、と指摘されています。

 チンパンジーでも子殺しが確認されており、殺した乳児を食べるカニバリズムがしばしば伴います。これはハヌマンラングールと同様に雄の繁殖戦略と考えられることも多いものの、乱婚社会のチンパンジーでは自身の子供である可能性がある集団内の乳児を殺す事例や、雌が殺す事例もあるため、単純に繁殖戦略との解釈が当てはまらない場合も多くあります。そのため、競合者を減らすためとか、栄養(肉)のために殺すとかいった仮説もありますが、決定的ではありません。チンパンジーでは、子殺しだけではなく成熟個体の殺害もあります。多くの場合、複数個体が1頭を攻撃し、数的優位性の状態で殺害が起きます。成熟個体の殺しも、集団間のものが多いものの、集団内でも起きます。こうした複数個体による「連合での殺し」ヒトの戦争の起源と関連づけて論じる研究者もいますが、チンパンジーの連合的殺しの場合はあくまでも多数対1個体の攻撃で、戦争に見られるような集団間の組織的な殺し合いではありません。


●ヒトの相対化

 形態や生理や遺伝子などの生物学的特徴は、ヒトでも他の生物でも同じ手法で調べることが可能で、直接的比較ができます。一方、行動や社会については、人間の特殊性が強調されます。これは、人間の行動や社会に関する研究が通常は文系分野で行なわれ、場合によっては生物学とは無関係であるとすら考えられてきたこととも深く関連しています。古くは霊魂や理性、最近では言語や象徴能力など、人間だけが有し、他の動物とは明確に分断されるようなメルクマールが強調され続けてきました。そうした特徴の故に、「人間」は生物学的な「ヒト」以上の存在である、というわけです。

 しかし、ヒトの行動や社会を他の霊長類、さらには動物と比較し、できるだけ相対化することで人間を知ることにつなげることも必要でしょう。霊長類研究は、一昔前ならば人間に特有と考えられてきた数々の行動上の特徴が、程度の違いはあれども、他の霊長類にも見られることを明らかにしてきました。非ヒト霊長類における個体間のやり取りは、「社会的」という用語を使わずに記述することは困難です。

 行動や社会が生物学と無縁のものと考えることは、もはや不合理です。ヒトと他の生物を比較することは、ヒトを物質に諫言して考えることではなく、決定論的に考えることでもありません。ヒトが機械ではないのと同様に、他の生物も機械ではありません。細胞内の物質や遺伝子の水準でのメカニズムの中には、決定論的な仮定もあるとしても、個体の行動や個体間の相互作用により形成される社会水準となると、もはや決定論的かていでは記述しきれないような現象が日常的に生じています。ヒトの行動や社会もまた、他の生物との比較の中で相対的なものとし把握することこそが、本当の意味での人間性の理解につながるでしょう。


参考文献:
中村美知夫(2021)「ヒト以外の霊長類の行動と社会 ヒトを相対化する」井原泰雄、梅﨑昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第1章P2-20

ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ

 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300~7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世~完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
画像

 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000~37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
画像

 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万~5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000~24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300~7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000~25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340~13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980~7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万~8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980~7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800~3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000~3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000~3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300~4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期~後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800~2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000~2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000~2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
画像

 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6~7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8~9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000~15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236~331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415~4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640~42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132
関連記事

Bard E. et al.(2020): Extended dilation of the radiocarbon time scale between 40,000 and 48,000 y BP and the overlap between Neanderthals and Homo sapiens. PNAS, 117, 35, 21005–21007.
https://doi.org/10.1073/pnas.2012307117
関連記事

Bergström A. et al.(2021): Origins of modern human ancestry. Nature, 590, 7845, 229–237.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03244-5
関連記事

Carlhoff S. et al.(2021): Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea. Nature, 596, 7873, 543–547.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03823-6
関連記事

Castro e Silva MA. et al.(2021): Deep genetic affinity between coastal Pacific and Amazonian natives evidenced by Australasian ancestry. PNAS, 118, 14, e2025739118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2025739118
関連記事

Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5
関連記事

Curnoe D, Xueping J, Herries AIR, Kanning B, Taçon PSC, et al. (2012) Human Remains from the Pleistocene-Holocene Transition of Southwest China Suggest a Complex Evolutionary History for East Asians. PLoS ONE 7(3): e31918.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0031918
関連記事

Curnoe D, Ji X, Liu W, Bao Z, Taçon PSC, Ren L (2015) A Hominin Femur with Archaic Affinities from the Late Pleistocene of Southwest China. PLoS ONE 10(12): e0143332.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0143332
関連記事

Fu Q. et al.(2014): Genome sequence of a 45,000-year-old modern human from western Siberia. Nature, 514, 7523, 445–449.
https://doi.org/10.1038/nature13810
関連記事

Fu Q. et al.(2015): An early modern human from Romania with a recent Neanderthal ancestor. Nature, 524, 7564, 216–219.
https://doi.org/10.1038/nature14558
関連記事

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事

Gelabert P. et al.(2021):Genome-scale sequencing and analysis of human, wolf, and bison DNA from 25,000-year-old sediment. Current Biology, 31, 16, 3564–3574.E9.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.06.023
関連記事

Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414
関連記事

Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3
関連記事

Hubisz MJ, Williams AL, Siepel A (2020) Mapping gene flow between ancient hominins through demography-aware inference of the ancestral recombination graph. PLoS Genet 16(8): e1008895.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008895
関連記事

Hublin JJ.(2021): How old are the oldest Homo sapiens in Far East Asia? PNAS, 118, 10, e2101173118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2101173118
関連記事

Jinam T. et al.(2021): Genome-wide SNP data of Izumo and Makurazaki populations support inner-dual structure model for origin of Yamato people. Journal of Human Genetics, 66, 7, 681–687.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00898-3
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Lazaridis I. et al.(2016): Genomic insights into the origin of farming in the ancient Near East. Nature, 536, 7617, 419–424.
https://doi.org/10.1038/nature19310
関連記事

Malaspinas AS. et al.(2016): A genomic history of Aboriginal Australia. Nature, 538, 7624, 207–214.
https://doi.org/10.1038/nature18299
関連記事

Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事

McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.
https://doi.org/10.1126/science.aat3628
関連記事

Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460
関連記事

Prüfer K. et al.(2021): A genome sequence from a modern human skull over 45,000 years old from Zlatý kůň in Czechia. Nature Ecology & Evolution, 5, 6, 820–825.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01443-x
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1

Scerri EML, Chikhi L, and Thomas MG.(2019): Beyond multiregional and simple out-of-Africa models of human evolution. Nature Ecology & Evolution, 3, 10, 1370–1372.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0992-1
関連記事

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

Siska V. et al.(2017): Genome-wide data from two early Neolithic East Asian individuals dating to 7700 years ago. Science Advances, 3, 2, e1601877.
https://doi.org/10.1126/sciadv.1601877
関連記事

Vallini L. et al.(2021): Genetics and material culture support repeated expansions into Paleolithic Eurasia from a population hub out of Africa. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2021.05.18.444621
関連記事

Vernot B. et al.(2021): Unearthing Neanderthal population history using nuclear and mitochondrial DNA from cave sediments. Science, 372, 6542, eabf1667.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667
関連記事

Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事

Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
関連記事

Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2021): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics, 66, 4, 431–437.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0
関連記事

Willerslev E, and Meltzer DJ.(2021): Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature, 594, 7863, 356–364.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03499-y
関連記事

Wong EHM. et al.(2017): Reconstructing genetic history of Siberian and Northeastern European populations. Genome Research, 27, 1, 1–14.
https://doi.org/10.1101/gr.202945.115

Yang MA. et al.(2017): 40,000-Year-Old Individual from Asia Provides Insight into Early Population Structure in Eurasia. Current Biology, 27, 20, 3202–3208.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.030
関連記事

Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021B)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
関連記事

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
関連記事

国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20
関連記事

佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P27-62
関連記事

篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
関連記事

篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
関連記事

篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210
関連記事

高畑尚之(2021)「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 36)』P27-44
関連記事

仲田大人(2019)「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P125-132
関連記事

野口淳(2020)「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P31-34
関連記事

山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)
関連記事1および関連記事2

新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造

 新石器時代と青銅器時代の現在のクロアチアにおける人口史と社会構造エピに関する研究(Freilich et al., 2021)が公表されました。ヨーロッパ南東部のクロアチアは、連続した生態地域の多様な景観を有しており、東部のアドリア海沿岸と北部の温暖なパンノニア平原を隔てる嶮しい山々があります。クロアチアはヨーロッパ中央部とバルカン半島と地中海の接点に位置するため、アナトリア半島とエーゲ海と草原地域と黒海への経路として用いられてきており、北部の低地はカルパチア盆地を通ってヨーロッパへとつながっています。

 したがってクロアチアは、アナトリア半島西部からヨーロッパへの最初の移住農耕民にとって重要な回廊で、ヨーロッパ最初の農耕民はドナウ川沿いの内陸部とアドリア海沿岸東部の海岸経路を通ってヨーロッパの他地域に拡大しました。クロアチアはヨーロッパにおける人口集団と文化的変遷の理解に重要ですが、利用可能な人類遺骸が限定されており、先史時代人口集団の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)と社会的複雑さについての詳細な知識は乏しいままです。

 以前の研究では、ユーラシア西部における中石器時代に続く遺伝的不連続性が示されてきており、それは初期農耕民の移住および農耕の拡大と関連しています(関連記事)。現在のクロアチアで発見された少ない古代人の刊行されたゲノム規模データで示されてきたのは、新石器時代と銅器時代の人々のゲノムがアナトリア半島の初期農耕民と類似の祖先系統を共有しているものの、一部の銅器時代個体と沿岸部青銅器時代個体群は、紀元前三千年紀にヨーロッパへと拡散した草原地帯牧畜民集団と関連する追加の祖先系統を示す、ということです。

 ヨーロッパ南東部の社会的複雑さの始まりは、考古学者の間で集中的に研究されてきた分野でもあります。古代DNA研究によりますます共同体内の社会組織が調べられてきており、過去の社会の居住パターンや生物学的親族関係や社会的地位が明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。これらの研究では、たとえば、密接に関連した個体がヨーロッパ全域の後期新石器時代と青銅器時代の共同体において特定されてきており、多様性はミトコンドリアが高い一方でY染色体が低いことと関連しており、女性族外婚と父方居住の社会的組織が示唆されます。しかし、これまでクロアチアでは、そうした詳細で遺跡固有の研究はほとんど行なわれてきませんでした。

 現在のクロアチアの東部地域はパンノニア平原(カルパチア盆地とほぼ同義)の南端の境界を定めており、ドナウ川とサヴァ川とドラーヴァ川と他の大きな支流が交差しています。これらの支流には多くの先史時代集落があり、この地域の通交と交換のネットワークの重要な部分を形成しています。クロアチア東部における新石器時代の出現は、現在のセルビア西部および北方からカルパチア盆地にまで拡大したスタルチェヴォ(Starčevo)文化の到来にまでさかのぼりますが、沿岸部の遺跡では、前期新石器時代は紀元前6000年頃からのインプレッソ土器(Impressed Ware)文化の存在により示されます(図1)。

 紀元前5200年頃までに、スタルチェヴォ文化はソポト(Sopot)文化に取って代わられました。ソポト文化では、おもに子供や女性が家の床下や壁沿いか、集落内の他の場所に埋葬される、壁内埋葬の儀式が行なわれていました。古代DNA研究が対処できる一つの重要な問題は、そうした壁内埋葬には誰が選ばれ、生物学的親族関係が役割を果たしたのかどうか、ということです。さらに、遺伝的祖先系統と生物学的親族関係が、身体の位置や遺跡内の埋葬場所もしくは副葬品の分布など埋葬儀式における違いと関連しているのかどうか、解明し始められています。これらの埋葬の違いは、異なる社会的集団の存在を示唆し、故人もしくは会葬者の帰属もしくは業績の地位を表しているかもしれません。

 ヨーロッパ南部とトランスダニュービア(Transdanubia)東部では、後期新石器時代までに新たな埋葬慣行が生活空間から離れた墓の出現とともに現れました。これは被葬者間の増大する社会的分化を伴い、死者と人々の関係における重要な変化を示します。クロアチアの銅器時代(紀元前4500/4300~紀元前2400年頃)には、現在のクロアチアにラシニヤ(Lasinja)文化やバデン(Baden)文化やコストラク(Kostolac)文化やヴチェドル(Vučedol)文化などの集落が見られ、交易ネットワークが成長し、身分の高い被葬者の出現に見られるように社会階層がより明確になりました。より明確な社会階層の発達は、現在のクロアチアでは紀元前2400~紀元前800年頃となる青銅器時代における金属の使用増大と関連しているようで、社会的序列の上昇に伴い、ヨーロッパ東部草原地帯とエーゲ海地域とアナトリア半島からの移民がさらに増えます。

 パンノニア平原で共存していた多くの中期青銅器時代文化の一つがトランスダニュービア皮殻土器(Transdanubian Encrusted Pottery)文化(以下、TEP)で、これは現在のクロアチア東部において紀元前2000~紀元前1500年頃に南北に分かれて存在していました。これまで、おもに火葬遺骸がTEPと関連して見つかってきましたが、今では新たに土葬遺骸が利用可能となって、その遺伝的および文化的構造の解明に古代DNAを用いることが可能となり、その遺伝的データを用いて、威信材の副葬品の分配で見られるような社会的地位についてより多くを知ることができます。

 本論文は、現在のクロアチア東部の2ヶ所の遺跡で発見された28個体の新たなゲノム規模データを提示します。その年代は中期新石器時代からローマ期(1個体)で、移住と混合の過程が、あまり研究されていないクロアチア東部のゲノム変化にどのような影響を与えたのか、調べられました。さらに、さまざまな期間の壁内埋葬地および壁外墓地の両方における異なる埋葬儀式の存在は、クロアチア東部において先史時代を形成した変化する生物文化的影響の文脈における、生物学的親族関係や人口統計学や社会組織への貴重な洞察を得る機会を提供します。以下は本論文の図1です。
画像


●標本と考古学的背景

 合計54個体が全ゲノムショットガン配列で調べられました。このうち、ベリ・マナスティル・ポポヴァ(Beli Manastir-Popova)遺跡(以下、BMP遺跡と省略)の中期新石器時代層の19個体が分析され(クロアチアPop_MN)、これはクロアチアでこれまで発掘された最大のソポト文化居住地遺跡を構成します。発掘された個体のほぼ半数は16歳未満で、亜成体の高い死亡率が示唆されます。これらの遺骸の2/3は女性でしたが、成人では男女が同数でした。ほとんどの個体は、大きな竪穴住居の壁に沿って、あるいは居住地内の他の竪穴に縮まった状態にて新石器時代埋葬儀式で葬られており、時には頭の近くに土器の副葬品や他の生活用用品が置かれていました。これらのうち3標本(POP07とPOP09とPOP14)には、比較的多くさまざまな副葬品が共伴しており、それらは家庭用や経済活動と関連する日用品で構成されています。別の4個体は、遺跡の東端に沿って、うつむけ若しくは仰向けになった状態で堆積しており、ほぼ副葬品はありませんでした。新たな放射性炭素年代が銅器時代の1個体(クロアチアPop_CA)とローマ期の1個体(クロアチアPop_RomanP)で得られました(図1a・b)。

 BMP遺跡から約12km南に中期青銅器時代のジャゴドヒャク・クルツェヴィネ(Jagodnjak-Krčevine)遺跡(以下、JK遺跡と省略)が位置し、TEP文化に分類されています。JK遺跡では土葬された7個体がさらに分析されましたが、同じ時期の火葬された30個体も発見されています。JK遺跡の土葬個体には、土器から金の装飾品までさまざまな程度の副葬品が含まれています。これらの新たな集団は、ユーラシア西部人口集団の既知のデータと共同分析されました。とくに比較対象となったのが、現在のクロアチアの複数遺跡の個体です。それは、同遺跡もしくは近隣地域では、中期新石器時代のオシイェク(Osijek)遺跡個体(クロアチアOsijek_MN)、銅器時代のBMP遺跡個体(クロアチアCroatia_Pop_CA)、より広範な地域では、銅器時代のラドヴァンチ(Radovanci)遺跡個体(クロアチアRadovanci_CA)やヴチェドル(Vučedol)遺跡個体(クロアチアVučedol_CA)、青銅器時代のダルマチア(Dalmatian)遺跡個体(クロアチアDal_BA)や、現在のハンガリーとバルカン半島のさまざまな期間の集団です。

 これら人類遺骸の錐体骨から最大1倍の全ゲノムショットガンデータが生成され、約124万ヶ所のゲノム規模一塩基多型を用いて擬似半数体が遺伝子型決定されました。遺伝的に15人の女性と13人の男性が特定されました(表1)。これらのデータが、既知の現代人1311個体および古代人1102個体と統合されました。これら現代人と古代人のデータに基づいて主成分分析が実行され(図2)、またADMIXTUREを用いて教師なし様式でクラスタ化が実行されました。


●新石器時代からローマ期への遺伝的変化

 本論文で新たに報告された個体群は主成分分析では、新石器時代農耕民集団と青銅器時代牧畜民集団との間に広がる、ヨーロッパ勾配に沿って位置します。クロアチアPop_MNは他のヨーロッパ南東部および中央部の新石器時代および銅器時代個体群と密接にまとまり、その中にはクロアチアのラドヴァンチ遺跡とヴチェドル遺跡の銅器時代個体群も含まれます。この個体群はさらなる分析でクロアチアの北東部銅器時代クラスタ統合され、アナトリア半島関連祖先系統(アナトリアN)からの主要な寄与とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)関連祖先系統からのわずかな寄与を示す、類似のADMIXTURE特性を共有します。

 クロアチアPop_MNとクロアチアOsijek_MNが統合され、クロアチア北東部MNとまとめられてさらに分析されました。その後、外群f3統計(クロアチア北東部MN、検証集団;ムブティ人)で他の古代および現代のユーラシア西部人口集団と共有される浮動が検証されました。クロアチア北東部MNは、バルカン半島とヨーロッパ中央部の他の新石器時代人口集団およびサルデーニャ島現代人と、最も多くの遺伝的浮動を共有します。

 次に、ヨーロッパ人のゲノム多様性に寄与したと知られている、中石器時代狩猟採集民を表すWHGとアナトリア半島新石器時代農耕民を表すアナトリアNの遠位供給源を用いて、qpAdmで混合割合が定量化されました。クロアチア北東部MNは2.4±1%のWHGと97.6±1%のアナトリアNの混合としてモデル化でき、さらには100%のアナトリアNモデルがデータと適合し、これはバルカン半島とハンガリーの新石器時代集団におけるひじょうに低いWHGからの遺伝子移入を示す以前の研究と一致します(関連記事)。

 鉄門(Iron Gates)狩猟採集民(鉄門HG)をWHGの代わりに用いると、よく似た結果が得られます。DATESを用いて、これらの標本の前後関係の年代の前に、このWHGとアナトリアNとの混合が19~42世代前に起きたと推定され、前期新石器時代に相当します。これは、追加のWHGからの遺伝子流動を示すヨーロッパ中央部および西部の中期新石器時代人口集団とは対照的に、中期新石器時代におけるクロアチアの人口集団の継続性をさらに裏づけます。以下は本論文の図2です。
画像

 新たな銅器時代個体POP39が、同じ遺跡と時代に由来する既知の個体I3499とまとめられました(クロアチアPop_CA)。主成分分析では、クロアチアPop_CAはPC2軸に沿ってさらに上に移動し、沿岸部ダルマチア遺跡の既知の青銅器時代3個体(クロアチアDal_BA)とまとまり、ブルガリアとハンガリーの青銅器時代個体群およびヨーロッパ南部現代人のゲノムの広範な分布に収まり、草原地帯関連祖先系統の存在が示唆されます。じっさい、qpAdmでの遠位混合モデル化では、71±8%のアナトリアNと29±8%のヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の寄与が推定され、新石器時代には欠如しているものの、ユーラシアの銅器時代と青銅器時代の人口集団間では広く見られる草原地帯関連祖先系統を表しています(図3a)。より近位の、広く同時代の先・草原地帯集団であるクロアチア北東部CA(64±8%)とヤムナヤ・サマラ(36±8%)では、より上手く2方向混合モデルが得られました(図3b)。

 新たに報告されたJK遺跡の中期青銅器時代個体群(クロアチアJag_MBA)のゲノムは、一般的な考古学的背景と主成分分析上のクラスタ化(図2)に基づいて、さらなる集団遺伝学分析では単一の人口集団とみなされました。PC1軸沿いにヨーロッパ西部および鉄門狩猟採集民に向かって顕著な移動が観察され、外群f3統計では最も多くの浮動が共有されます。供給源集団としてWHGとアナトリアNとヤムナヤ・サマラを用いての遠位混合モデル化は、クロアチアPop_CAとは対照的にクロアチアJag_MBAにおける大きなWHG構成要素(20±2%)を確証し、広く同時代のダルマチア遺跡青銅器時代個体で推定されたWHG断片の2倍以上です(図2a)。これは、その有意に正のf4検定(ムブティ人、WHG;クロアチアDal_BA、クロアチアJag_MBA)と一致します。JK遺跡集団は、より古いクロアチアPop_CAと比較してわずかに大きい草原地帯関連祖先系統も有しており(33±5%)、バルカン半島についての以前の知見と一致します。WHGを鉄門HGと置換すると、同等の結果が得られます。JK遺跡集団は主成分分析ではカルパチア盆地の青銅器時代人口集団の広範な分布やフランス人などヨーロッパ北西部現代人の左側に位置し、西方青銅器時代集団の痕跡の東方への拡大が示唆されます。

 ダルマチア遺跡青銅器時代個体群や他の個体群のゲノムに対するJK遺跡集団の異なる遺伝的類似性をさらに特徴づけるため、UMAPと既定のパラメータを用いて解像度を上げることで、クロアチアの新石器時代後の個体群のゲノム間の遺伝的下位構造が視覚化されました(図3c)。UMAPは遺伝的距離を直線的に反映していませんが、明確に定義されたクラスタが明らかになり、クロアチアPop_CAとクロアチアDal_BAは、おもに現在のイタリア北部人のゲノムとともに、ブルガリアとモンテネグロとルーマニアと一部のハンガリーの古代人ゲノムとまとまり、ヨーロッパ南部と一致する遺伝的特性を示します。qpWaveを用いた検定により、クロアチアPop_CAはダルマチア遺跡青銅器時代個体群にとって祖先系統の適した単一供給源を提供する、と確証されます。対照的にクロアチアJag_MBAは、ハンガリーとドイツとチェコとクロアチアの現代人のゲノムの左側に位置し、ヨーロッパ中央部の遺伝的痕跡が示唆されます。この一群における他の古代人ゲノムも、マコ(Makó)遺跡の前期青銅器時代個体やヴァタヤ(Vatya)遺跡の中期青銅器時代個体や後期青銅器時代個体に属する、カルパチア盆地の個体群を含みます。

 中期青銅器時代JK遺跡個体群に存在する過剰なWHG関連祖先系統から、この集団は追加のWHG関連祖先系統を有する人口集団の子孫で、それはより古いクロアチアの銅器時代もしくはダルマチア青銅器時代の個体群では欠けており、qpAdmモデル化と一致します(図3b)。考古学的証拠では、クロアチア東部の中期青銅器時代共同体とさらに北方の他の文化集団との間の交換ネットワークが示されています。カルパチア盆地におけるその年代と中核的分布、UMAPと主成分分析におけるクロアチアJag_MBAとのクラスタ化に基づくと、ハンガリーのマコ遺跡前期青銅器時代個体群(ハンガリーMakó_EBA)が、祖先系統の最も適切な祖先候補とみなされます。この選択は、クロアチアJag_MBAに対してWHGとの浮動の類似量を共有するハンガリーMakó_EBAによりさらに裏づけられます。じっさい、クロアチアPop_CA からの35±11%の寄与を有する2方向モデルとしてか、あるいは単一供給源として、ハンガリーMakó_EBAとの適したモデルが得られました(図3b)。以下は本論文の図3です。
画像

クロアチアJag_MBAについては、WHGとアナトリアNとの間の混合年代が、人口集団の放射性炭素年代と考古学的文脈の年代の統合より41±13世代前と推定されました。これは、銅器時代と重なる紀元前3424~紀元前2412年の範囲と一致します。また、qpAdmを常染色体とX染色体に別々に適用して、祖先的構成要素の継承における性差の偏りの可能性が調べられました。その結果、有意な性差がないことと一致しましたが、こうした分析における大きな標準誤差は、低いか中程度の性差を隠す可能性があります。


●青銅器時代後の遺伝的変容

 JK遺跡とダルマチア遺跡の青銅器時代集団はどちらも、主成分分析では同地域の現代の人口集団に近くはなく、さらなる有意な人口集団変化がそれ以降に起きた、と示唆されます。本論文のBMP遺跡のローマ期の唯一の個体(クロアチアPop_RomanP)は、青銅器時代後のクロアチアの稀なゲノムデータ(関連記事)を提供します(図4a)。このBMP遺跡のローマ期の1個体は、主成分分析とUMAPでは、クロアチアとブルガリアとルーマニアの現代の人口集団とまとまる、と明らかになりました(図2および図3c)。

このクラスタ化をf4統計で調べると、この個体はヨーロッパの古代および現代の人口集団と比較して、現代クロアチア人とクレード(単系統群)化する、と確証されました。次にqpWaveで人口集団の継続性を検証すると、クロアチアPop_RomanPが現代クロアチア人およびブルガリア人もしくはハンガリー人との遺伝的クレード形成と一致しました。当時のより広範な人口集団を代表しているのか否か不明な単一個体に基づいていますが、このデータから、広く現代の遺伝的識別特性はすでにローマ期までに形成されており、さらなる人口集団の置換は以前ほどには顕著ではなかった、と示唆されます。


●人口集団内の遺伝的多様性と親族関係と人口統計学

 次に、個々の祖先系統、ハプロタイプ多様性、親族関係、ROH(runs of homozygosity)の分析により、と人口集団内の遺伝的不均質性と人口統計学パターンが調べられました(図4)。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 qpAdmでの個々の祖先系統モデル化は、全ての中期新石器時代個体間の高い遺伝的均質性を確証し、大半は、WHG関連祖先系統からの遺伝子移入がなかったか低かったことと、埋葬儀式間の有意な違いがなかったことを示します。JK遺跡中期青銅器時代個体群も構造化されていない祖先系統を示しますが、草原地帯関連祖先系統の割合では部分的により大きな程度の不均質性を示します。

 Haplogrepで分類されたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプロタイプでは、BMP遺跡の新石器時代における高いハプロタイプ多様性が識別されました(表1、図4a)。1個体のmtDNAハプログループ(mtHg)はヨーロッパ狩猟採集民集団と関連するU5ですが、mtHgのほぼ60%はK およびT2系統です。これらのmtHgでは、mtHg-N1aおよびJとともに、クロアチア北部およびその隣接するカルパチア盆地の前期新石器時代のスタルチェヴォ文化および線形陶器(Linearbandkeramik)文化農耕共同体で報告された多様性のほとんどが見られ、遺伝的連続性が示されます。Y染色体ハプログループ(YHg)はYleafで分類され、同様に高度な多様性を示し、男性7個体は4つの異なるYHgで表されます(表1、図4a)。これらのうち、YHg-CおよびIは中石器時代人口集団で見つかりますが、YHg-G2aは一般的に新石器時代の拡大と関連しています。

 JK遺跡でも高いmtDNAハプロタイプ多様性が検出され、男性2個体はmtHg-T2b11の同じ定義変異を有していますが、中石器時代人口集団に存在する、mtHg-Uの下位3クレードとmtHg-Kの下位2クレードも見られます。YHgはG2aクレードに限定されますが、そのうち4個体は同じYHg-G2a2a1a2a2a1a(Z31430)です。第5の個体は変異決定の範囲を読み取れず、上位のハプロタイプに分類されます。これらの共有ハプロタイプは個体間の関連を共有しており、ゲノム規模親族関係分析でさらに調べられました。

 JK遺跡の個体群に関して、ペアワイズゲノム規模ミスマッチ率(図4a)では、JAG58がJAG06の一親等として特定され、その共有されるmtDNAとY染色体のハプロタイプは、この男性2個体が父子ではなく全兄弟(両親が同じ兄弟)だった、という解釈と一致します。さらに、JAG58はJAG34およびJAG82と二親等の関係にあります。JAG06とJAG34も、JAG78とJAG93の場合同様に、三親等もしくはそれ以上の親族関係を示す、ペアワイズミスマッチ率の低下が見られます。成人女性のJAG85は、親族関係が確認されていない唯一の個体です。

 中期新石器時代個体群間では一親等もしくは二親等の親族関係が特定されませんでしたが、BMP遺跡の個体POP05は、他の亜成体2個体(POP02とPOP04)とのより遠い親族関係を示す、低いペアワイズミスマッチ率が見られ、これら3個体は全て同じ竪穴住居に埋葬されています。POP05は、溝に埋まっていた年配男性のPOP24とも低いペアワイズミミスマッチ率を示します。これらのうち3個体も、同じmtHg-K1aを示します。高い近交係数は親族係数を上昇させますが、まとめると、これらの個体が同じ母系の一部だったことを示唆します。POP24も、POP02やPOP04やPOP07と遠い関連があるようで、同じYHg-I2a1b1(M223)を共有します。

 hapROH で4cM(センチモルガン)以上のホモ接合性の連続が推定され、近親交配の水準が評価されて、過去の配偶慣行が推定されました(図4a・c)。20 cM超の長いROHは最近の親族間配偶を示唆しますが、多くの短いホモ接合性の連続は、有効人口規模のより遠い制限を示唆します。中期新石器時代の8個体はROHを有さず、近親交配の欠如、したがって大きな配偶範囲を示します。しかし、残りの2個体(POP05とPOP09)は、多くの20 cM超となる長いROHを有しており、その合計は驚くべきことに95Cmを超えます。これは、POP05とPOP09がイトコもしくは同等の親族関係にある者同士の子供で、古代DNAの記録では珍しいことと一致します。別の3個体は、両親がマタイトコもしくは同等の親族関係同士であることを示す、20 cM超の長いROHをほとんど有していませんが、残りの個体は過去10世代以内の関連を示すROHを有しています。

 対照的に、JK遺跡個体群はROHの合計がずっと低く、20 cM超の長い連続はなく、全ての個体で短い連続がいくつかあり、より遠い関連が示唆されます。乳児のJAG93とJAG58は12cM超のROHを有しており、最大5世代前の両親の関連が示唆されますが、より短いROHがJAG58の一親等の親族であるJAG06で見つかっており、その混合特性に反映されている一部の不均質性を示します。銅器時代とローマ期の個体は、4cM以上のROHをほとんど若しくは全く示しません。以下は本論文の図4です。
画像

 最近の選択の対象となっている表現型特徴と関連する機能的一塩基多型(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の分析の結果、より明るい皮膚の色素沈着(SLC45A2とSLC24A5)およびより明るい目の色(HERC2)の派生的アレル(対立遺伝子)が全期間の個体に存在する、と明らかになり、SLC24A5の派生的アレルは新石器時代に移住の結果として頻度が急速に増加した、とする以前の知見と一致します。さらに、ヨーロッパ人で成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する一塩基多型の祖先的アレル(LCT rs4988235)を全個体が有しており、成人期には乳糖を消化できなかった可能性が示唆され、ヨーロッパでは乳糖耐性が青銅器時代まで低頻度だった、とする以前の知見と一致します(関連記事)。


●考察

 本論文は、現在のクロアチアにおける人類集団の遺伝的構造の時空間的な変容を示しました。主成分分析におけるヨーロッパの勾配に沿ったゲノム分布は、何千年にもわたってヨーロッパ大陸全域を移動する人々にとって、現在のクロアチアが接触地帯として重要だったことを証明します。BMP遺跡のソポト文化共同体は、先行する前期新石器時代のスタルチェヴォ文化からの遺伝的連続性を示し、以前の知見を裏づけるとともに、銅器時代まで続く低水準のWHG関連祖先系統を示し、カルパチア盆地のいくつかの他の同時代人口集団の遺伝的特性を反映しています。さらに、BMP遺跡の銅器時代個体群は、ヴチェドル遺跡において、わずか60km離れた草原地帯集団到来前の銅器時代個体群と共存していただろう、現在のクロアチアにおける草原地帯関連祖先系統を有する人々の初期の存在を表しています。

 青銅器時代には、二つの遺伝的に異なるものの同時に存在した祖先系統が、異なる生態系地域で再度観察されます。セティナ(Cetina)文化と関連するダルマチア遺跡の2個体は、JK遺跡の最新の年代とほぼ同年代ですが、銅器時代BMP遺跡個体群と類似した祖先系統を有しています。この特性は、遺伝的に異なるJK遺跡個体群よりほぼ1000年遅いダルマチア遺跡の第三の個体でも持続しています。JK遺跡個体群と、さらに北方のヴァタヤ文化個体群との間で共有された遺伝的類似性は、高いWHG関連祖先系統により区別され、現在のクロアチア東部におけるカルパチア盆地と南部TEP共同体におけるさまざまな集団間の密接な相互作用と交換ネットワークについての考古学的証拠を裏づけます。

 TEP共同体の土器は近隣のヴァタヤ文化やカルパチア盆地のドナウ川沿いの他の同時代集団で見つかっています。さらに、その共有された類似性は、前期青銅器時代後期のキサポスタグ(Kisapostag)文化だと広く受け入れられている、共通の直接的前身についての考古学的証拠とも合致します。キサポスタグ文化自身は、広く分布するマコ・コシー・カカ(Makó-Kosihy-Čaka)文化複合の一部を基礎としています。したがって、これらの洞察は、ドナウ川とカルパチア盆地に沿って共存した、さまざまな中期青銅器時代文化単位間の関係についての長い議論に寄与し、現在のクロアチア東部とその隣接するカルパチア盆地の人口集団間の複数の期間にわたる遺伝的類似性を明らかにします。

 こうした時空間的関係を超えて、これらの共同体の人口統計学と社会組織への貴重な洞察が得られました。中期新石器時代遺跡全体の構造化されておらず均質な祖先系統は、多くの無関係な個体における高いハプロタイプ多様性および低いか全くない近親交配の兆候とともに、この共同体が大きく安定した族外婚人口集団であったことと一致し、現在のクロアチアにおける高い人口密度の考古学的証拠を裏づけます。しかし、この文脈では、ひじょうに密接な親との関係を示す、遺跡全体で散見されるわずかな個体も検出されます。5個体のうち4個体は同じmtHg-K1aに分類されますが、そのうち2個体(POP02とPOP05)は親族係数の上昇を示し、最大の竪穴住居で相互に隣接して埋葬されていました。まとめると、これらの個体は同年代だった可能性があり、同じ母系内の時として密接な親族単位の事例だったかもしれません。これらの個体を、遺伝的特性もしくは埋葬儀式の観点で同じ遺跡に埋葬された他の個体と区別する他の検出可能な違いはなく、これが社会的に受容された別の配偶選択だったことを示唆します。

 現在のクロアチアにおける壁内埋葬遺跡のこの最初のゲノム規模研究では、一親等もしくは二親等の親族関係が明らかになっておらず、POP05とPOP24のようにわずか数個体がmtHgと同様により遠い親族関係を共有しています。これはいくつかの母系関係の存在と、興味深いことに、溝に埋まった個体(POP24)と主要な壁内の場所に埋葬された他の個体との間のつながりも示唆しますが、密接な生物学的親族関係は埋葬の選択の基礎を形成せず、建物にともに埋葬された個体が拡大家族を表している、との提案に疑問を提供します。しかし、これが埋葬慣行の唯一の形態ではなく、生物学的親族は他の場所で埋葬されたかもしれません。

 子供、とくに少女の割合が高く、新生児の埋葬も多いことから、年齢と性別の選択および共同体の信念体系に基づく地位の付与を示している可能性が高く、その信念体系については、クロアチアにおける類似の新石器時代壁内遺跡に関してさまざまな説明がなされてきました。たとえば、建物は母系主義および祖先崇拝の考えと関連づけられており、社会の再生産と継続に結びついた空間であり、そこに埋葬されることで保護と繁栄がもたらされました。さらに、ここでは埋葬慣行との関連で遺伝的構造化は検出されません。

 副葬品の観点では、個人間の区別の表現は検定的で、埋葬の大半には土器の容器もしくは破片などの物質がほとんど含まれていません。しかし、さまざまな年齢と性別区分の少数の個体(POP07とPOP09とPOP14)には、社会的および経済的地位に基づく限定的な社会的分化を示すように見える、日常活動と関連する豊富な副葬品があります。これらのうち最年少個体は13~15歳と推定されているので、全員が成人の作業に参加するのに十分な年齢で、それ故にこれらの個体がその地位を獲得したのか、それとも継承したのか知ることは困難です。

 居住区での屈葬と、おもに男性である溝の拡張埋葬も、検出された遺伝的祖先系統と相関しません。さまざまな溝での堆積の理由は不明ですが、本論文で見られるような混合した身体位置の存在は、パンノニア盆地の他のソポト文化遺跡で記録されており、さまざまな埋葬習慣と密着した社会的集団を表しているかもしれない、と提案されてきました。高い人口密度地域内のBMP遺跡における高度に族外婚の遺伝的特性を考えると、これを一つの可能な説明として除外できません。じっさい、新石器時代の埋葬儀式と人口構成は大きく異なると示されているので、BMP遺跡のようなより局所的な研究は、この現象の多様性についての理解を深めるのに役立つでしょう。

 JK遺跡におけるさまざまな副葬品が豊富に供えられた中期青銅器時代土葬の回収は、現在までしばしば火葬埋葬儀式と関連づけられてきた文化の遺伝的特性を調査する、稀な機会を提供します。他のTEP文化埋葬遺跡やより広くヨーロッパの青銅器時代埋葬と同様に、本論文は、新石器時代と比較して増加する社会的分化を示唆する、威信材で構成される副葬品を明らかにしました。まず、密接に関連する親族であるJAG06とJAG58との間の埋葬処置の違いが観察されます(図4a)。JAG06の埋葬には、多数の土器とともに石製の鏃や青銅製品や穿孔された貝殻が含まれていたのに対して、JAG58の墓はより大きくて深いものの、わずかな土器や頭蓋から下の骨で構成されています。埋葬儀式におけるこの明らかな違いは、生涯を通じて獲得した地位の違いを反映している可能性があるか、出生順位が富もしくは地位の継承の要因だったのかもしれません。しかし、これらの埋葬には二次走査の兆候があるので、一部の副葬品や骨格要素が一次堆積に続いて攪乱された可能性があり、慎重な解釈を要します。

 副葬品の数と種類の観点で最も豊富な墓の一つは、成人女性JAG85のものです。この墓は土器の容器と金製髪飾りや多くの他の青銅製品から構成されており、JAG85が生家もしくは婚姻関係を通じて獲得した高い社会的地位を反映しているかもしれません。ピンや宝石青銅製品など青銅製の個人的装飾品は、JK遺跡では男女両方の墓で見つかり、個人もしくは家族の地位か富を示している可能性が高い一方で、鏃は成人男性の墓でしか見つからず、社会における個人のさまざまな地位を示唆します。乳児2個体(JAG82とJAG93)の墓では豊富な副葬品が観察され、JAG93には金製ヘアリングが含まれています。これらの個体は、自身で富もしくは地位を獲得するにはあまりにも幼く、家族からの垂直継承が示唆され、それは他のTEP文化や青銅器時代のドイツとセルビアの他の文化でも観察されます。

 相対的に高いミトコンドリアハプロタイプの多様性と、関連する男性間のひじょうに低いY染色体多様性から、埋葬された個体は女性族外婚と、父方居住社会組織の順守により特徴づけられる共同体に属していた、と示唆され、これはヨーロッパの後期新石器時代および青銅器時代墓地でも観察されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの人々の有するホモ接合性の短い連続は、おそらく有効人口規模の過去の制限に起因する、いくつかの遠い共有祖先系統を有する人口集団と一致します。

 全体として、2人の兄弟、多くのより遠い男性親族、1人の無関係で高い地位の成人女性の埋葬は、他の5人の標本抽出されていない土葬男性とともに、父方居住と女性族外婚のある男性系統での、性別の偏った埋葬慣行の存在の可能性を示唆します(関連記事1および関連記事2)。TEP文化を含む現在のクロアチア東部で記録されている多くの青銅器時代遺跡は、地域の人口集団の相互作用の源だった可能性があり、パンノニア平原の縁に住む中期青銅器時代共同体の複雑な模様を示唆します。


参考文献:
Freilich S. et al.(2021): Reconstructing genetic histories and social organisation in Neolithic and Bronze Age Croatia. Scientific Reports, 11, 16729.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94932-9

高橋のぼる『劉邦』第11集(小学館)

 最近、第10集までを読んだので(関連記事)、第11集も楽しみにしていました。電子書籍での購入です。第10集では鴻門の会が始まったところまで描かれており、劉邦がこの危地を脱する展開は史書と変わらないとしても、どのように脱出するのか、注目していました。第10集は、張良が劉邦を弁護し始めたところで終わりました。第11集はその続きとなり、張良は弁舌爽やかに虚偽を述べ立て、それを信じ始めた項羽は、劉邦に自分を関中王と認めるのか、と問い質します。劉邦はそれを認めつつも、項羽に説教を始めます。憎しみは破壊しか生まないので、憎しみを断って人の上に立つ王になるべきだ、というわけです。かつて項羽の叔父の項梁から、項羽の憎しみを受け止め、項羽という刀の鞘になってもらいたい、と言われたことを劉邦は項羽に伝え、項羽もその配下も劉邦の器の大きさに畏敬の念すら抱き始めます。韓信はここで劉邦とともに帰ろうとしますが、劉邦を危険視していた虞が宴を提案して劉邦一行を引き留めます。虞は剣舞に見せかけて劉邦を殺そうとし、韓信がそれに気づいた時はすでに手遅れでしたが、鬼(死者の霊魂)は見えないという劉邦を甘く見ていた項羽は、殺すまでもないと劉邦を助けます。劉邦を殺せなかったとはいえ、秦の都の咸陽を制圧し、項羽が天下を取ったと確信した虞は項羽に体を許し、咸陽宮を焼くよう進言します。項羽は咸陽宮を燃やして財宝を略奪し、女性を捕虜として秦王子嬰など秦の王族を処刑します。

 西楚覇王と名乗った項羽により、劉邦は漢王に任命されます。項羽の側は劉邦を僻地に追いやった認識しており、劉邦側の認識もまた同様でした。故郷の沛県に戻った劉邦は妻の呂雉(呂后)やかつて兄事していた王陵と再会して器の大きさを見せ、王陵の配下で劉邦の仇敵でもある雍歯とともに配下とします。漢王として現地に赴いた劉邦ですが、土地が痩せており、兵士が脱走することに焦ります。韓信は即座に関中を取り戻すよう、劉邦に進言し、そこへ劉邦と親しかった楚の義帝(心)が項羽の命により黥布に殺された、との報せが届きます。義帝は劉邦に、戚という女性を託します。劉邦は韓信を大将軍に任命して関中に侵攻し、章邯を自害に追い込んで関中を制圧します。

 その頃、項羽は論功行賞不満を抱く斉の旧王族の反乱鎮圧に赴いていましたが、その残虐な行為により状況が悪化します。張良が使者となり諸国と同盟を結び、劉邦は大軍で楚の都である彭城を攻め、あっさりと陥落させます。ところが、劉邦とその同盟軍では張耳と陳余の対立があり、さらには恩賞をめぐる要求で内部分裂寸前となって、劉邦は大軍の統制の難しさを痛感します。そこへ項羽が斉から軍を率いて彭城奪還に向かってくる、というところで第11集は終了です。


 第11集では、劉邦の器の大きさが改めて示されるとともに、周囲の人々が劉邦の成長を認める描写も多く、劉邦が「中華一の男」になっていく過程が本書の見どころなのだな、と思います。多くの人に慕われ、そうした人たちを上手く活用する劉邦と、個人的な武勇には優れており周囲から畏怖されるものの、孤独で人々の力を活かせない項羽との対比も、面白くなっていると思います。ただ、劉邦は彭城を攻め落としたものの、諸侯の欲を制御できておらず、これも劉邦にとっての試練で、第12集で描かれる大敗と逃走を経てさらに成長していくのでしょう。諸侯・功臣の欲望の制御という点では、皇帝即位後がどう描かれるのか、楽しみですが、皇帝即位後は功臣粛清が続いて暗い話になってしまうだけに、あるいは項羽を打倒するところで物語は完結するのでしょうか。できれば、劉邦の最期まで続いてもらいたいものです。

 第11集では、劉邦と呂雉との間の二人の子供(魯元公主と恵帝)が初めて本格的に描かれました。恵帝(劉盈)は聡明で活発な感じの男子で、予想とは違っていたのですが、今後父との関係がどう描かれるのでしょうか。第12集で描かれるだろう、劉邦が逃走中に邪魔な子供二人を置き去りにしようとした逸話がどう描かれるのか、注目しています。呂雉およびその息子の恵帝との関係では、戚の登場も注目されます。後に戚は悲惨な最期を迎えるわけですが、劉邦死後のことだけに、さすがに本作では描かれないでしょうか。ただ、劉邦の後継者をめぐる争いでは、戚と劉邦との間の息子(劉如意)が一方の当事者になるわけで(もう一方は恵帝)、今後も戚の出番は多いかもしれません。第11集では登場しなかったものの、韓信が陳平に言及しており、陳平はすでに項羽を見限って劉邦陣営に移っています。韓信は陳平を高く評価しており、今後陳平の活躍場面が描かれそうで楽しみです。

『卑弥呼』第70話「敵か味方か」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年9月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがアカメに、暈(クマ)の国の最高権力者となった鞠智彦(ククチヒコ)に書状を届けるよう、命じたところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)が放った八咫烏(ヤタガラス)との戦いをミマアキに任せて、當麻(タイマ)一族との交渉に向かうべく、サヌ王の息子のタギシ王の末裔と名乗る阿多(アタ)のチカトとともに、トメ将軍が急いでいる場面から始まります。そこへ矢が放たれ、トメ将軍は皆に伏せるよう命じます。その頃、ミマアキは八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物に勝負を挑んでいました。ミマアキもタケツヌも向かい合ったまま動きません。兵士たちは、手練れ同士の戦いはこういうもので、先に動いた方が負けるのだ、と話しています。ミマアキは蜻蛉の構えのまま動きませんが、これはかつて暈(クマ)の国のオシクマ将軍も使っており(第22話)、刀を縦に持って初太刀にかける剣法で、後の示現流の一の太刀の起源という設定のようです。チカトの配下の者は、ミマアキの構えが日下にはないものなので、太刀筋が読めず動けないのだろう、と推測します。タケツヌは配下に仕掛けさせ、ミマアキはタケツヌの配下を初太刀で斬殺します。部下を犠牲にしてまでミマアキの太刀筋を読んだタケツヌはミマアキに斬りかかり初太刀を凌ぎ、トメ将軍の配下の兵士たちはミマアキの負けを覚悟します。それでもミマアキは脛を負傷しつつもタケツヌと何とかやり合います。そこへ矢が放たれ、現れた兵が、ここは當麻一族の地なので勝手な戦は許さない、と言って八咫烏に立ち去るよう命じます。八咫烏は即座に逃走し、ミマアキは當麻一族の兵に投降するよう勧告されます。當麻一族の兵とともに現れたトメ将軍は、ミマアキに勧告に従うよう命じます。當麻一族と出会えたのか、と安堵するミマアキに、我々は捕らえられた、まだ敵か味方か分からない、と言います。

 那(ナ)の国の岡(ヲカ)では、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)とともに出立しようとしていました。数日前、チカラオは自身が強姦したことによりヤノハが妊娠したことを聞かされ、事代主(コトシロヌシ)から堕胎の薬をもらい、また誰にも知られず産む手立てがあることを知らされました。産むべきか否か、ヤノハに尋ねられたチカラオですが、恐怖のあまり答えられません。その様子を見たヤノハは、倭を平らかにするという望みはもう一歩のところまで来ているので、子は無用の存在で、今から薬を飲む、とチカラオに語ります。するとチカラオは必死に止めようとします。ヤノハは、子供が邪魔なのは本心だが、人が命を全うできる世を作るのも自分の願いなので、望まない子供であっても産もうと決心していた、とチカラオに打ち明けます。ヤノハはチカラオを試したわけです。さらにヤノハは、チカラオがヤノハの出産を望まなければ、チカラオの方を殺すつもりだった、と打ち明けます。ヤノハは、300日間人々に祈祷(イノリ)を捧げるためのよい場所がある、とオオヒコに伝えます。オオヒコにその場を訊かれたヤノハが、かつて「鬼」を退治した千穂の厳谷(イワヤ)だ、と答えるところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍とミマアキの一行の動向とともに、ヤノハの決断が描かれました。トメ将軍とミマアキの一行は當麻一族と出会いましたが、當麻一族がトメ将軍とミマアキの一行をどう扱うのか、まだ分かりません。當麻一族はかつて鳥見の長脛者(ナガスネモノ)と勢力を二分していましたが、長脛者たちがサヌ王と連合した結果、往時の勢力を失い、現王朝には面従腹背というか、逆らわないものの服従もしないという態度を取っています。當麻一族の真意がどこにあるのか、トメ将軍とミマアキが當麻一族の長をどう説得するのか、注目されます。弟のチカラオを殺してでも出産しようとするヤノハの決断は驚きましたが、弟以外の身内がもはや存在しないヤノハにとって、新たに生まれてくる子供を殺したくはなく、子供か弟の二択ならば子供を選ぶ、ということでしょうか。ヤノハとチカラオとの間の子供の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していますが、まずはヤノハとチカラオとの間の子供がどのような扱いを受け、どう育つのか、注目されます。あるいは、事情を知る出雲の事代主に預けるのでしょうか。

現生人類の出アフリカを可能とする気候条件

 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカを可能とする気候条件についての研究(Beyer et al., 2021)が公表されました。化石と遺伝的証拠の分析は、現生人類のアフリカ起源の強い裏づけを提供しますが、アフリカからの現生人類拡大の年代が最近の議論の焦点となっています(関連記事)。ほとんどのアフリカ外の化石、およびミトコンドリアと全ゲノムデータに基づくユーラシアとアフリカの人口集団間の分岐の年代は、主要な出アフリカが65000年前頃であることを示します(関連記事1および関連記事2)。

 しかし、現生人類遺骸の考古学的発見は、サウジアラビアでは少なくとも85000年前頃(関連記事)、イスラエルでは少なくとも10万年前頃で、議論もあるものの(関連記事)おそらくは194000年前頃(関連記事)まで、ギリシアでは21万年前頃(関連記事)までさかのぼり、現生人類の65000年以上前の出アフリカを示唆しています。さらには、少なくとも8万年前頃、おそらくは12万年前頃までさかのぼる中国における現生人類の痕跡も指摘されていますが(関連記事)、疑問も呈されています(関連記事)。

 これらもしくはそれ以前の出アフリカの波は、パプアニューギニアの現代人で小さな遺伝的寄与(1%程度)も残したかもしれません(関連記事)。あり得るもっと早い出アフリカのさらなる証拠は、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の痕跡で、遺伝的に13万年以上前にさかのぼり(関連記事1および関連記事2)、25万年前までさかのぼる可能性もあります(関連記事)。ユーラシアにおける中期更新世現生人類の存在を確認するにはさらなる研究が必要ですが、現在の証拠から強く示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散できたものの、その回数と年代と経路とそうした初期の出アフリカの波の運命は不明である、ということです。

 古気候の再構築は、出アフリカのあり得る出口への洞察を提供できます。ほとんどの研究では、アフリカ北部の気候条件の再構築を用いて、定性的にあり得るシナリオが議論されてきました。その気候条件の再構築は、ユーラシアへの気候的に実行可能な移住経路の空間的に完全な図を提供することがひじょうに稀な経験的記録か、いくつかの時間的断片からのモデル依拠データに基づいていました。

 アフリカからのあり得る出口を定義する定量的試みは、ヒト拡散モデルに適合する人口統計学的法則を、考古学的記録(関連記事)もしくは遺伝的データのいずれかに合致させてきました。そうした法則を見つけることは可能ですが、生物学的にどれほど現実的なのか、不明です。たとえばその考古学的記録に基づく研究では、ヒトの温度の生態的地位の変化は50度で変わり、沿岸の移住速度は125000年前頃にほぼ6000%増加した、と仮定されています。さらに、考古学的記録は、とくに現生人類の初期拡散と想定される時期に関してはひじょうに疎らであり、遺伝的データは子孫が標本抽出された出口のみを反映しています。

 本論文は、現生人類がアフリカを離れた可能性のある適切な期間を特定するため、別の手法を採用します。まず、過去30万年間の高解像度の古気候シミュレーションを用いて、特定の年代に現生人類がアフリカから出ることができるのに必要だっただろう、低降水量と乾燥への耐性を推定します。第二段階では、これらのデータを、人類学的および生態学的データに基づく狩猟採集民の実際の気候耐性の推定と組み合わせ、アフリカから拡大できる気候的期間の年代を再構築できるようにします。次に、推定された接続期間が、利用可能な出アフリカ拡大の経験的考古学および遺伝的証拠とどれだけ適合するのか、調べます。

 本論文の分析は、考古学的および遺伝的データに基づいて以前に提案された出アフリカの経路と年代が、ユーラシアへのじゅうぶんに湿潤な回廊の存在と一致することを明らかにし、古気候的条件がアフリカからの拡大における重要な要因だったことを示唆します。あり得る接触の期間にあるアジア南西部の厳しい環境条件と、アフリカからの人口流入の中断、他の人類とのあり得る競合は、65000年前頃に始まる世界規模の植民以前の初期の現生人類移住者の消滅を説明できる可能性があります。


●出アフリカに必要な降水量耐性

 最近まで、準時系列的に連続した古気候の復元は、HadCM3などの地球循環モデルや、中間程度の複雑さの単純な地球モデルから得られた過去125000年のものしかありませんでした。本論文は、最近開発されたHadCM3モデルのエミュレータを用いて、過去300年の高解像度気候を1000年間隔で生成し、約0.5度に規模を縮小し、観測された気候条件に合わせて偏りを補正しました。次に本論文は、これらの再構築を年間の古気候変動のシミュレーションと組み合わせ、気候図の時間的解像度を10単位まで改善しました。

 また、アフリカ北部とアジア南西部における現生人類の生存と関連する2点の別の気候変数である、年間降水量と乾燥度が考慮されます。乾燥度については、ケッペン(Wladimir Peter Köppen)の乾燥度指数が用いられ、これは古気候において最も信頼できる乾燥度指標と提案されてきました。降水量と乾燥度への注目は、地域の生態学的制限要因で、したがって初期現生人類がアフリカから移動するさいに、狩猟採集や水といった生存に関わる要因を制約する重要な気候条件だった、と考えられるからです。

 本論文では、アフリカからユーラシアへの初期現生人類の拡散経路として、ナイル川とシナイ半島の陸橋と、バブ・エル・マンデブ海峡というあり得る2経路が考慮され、前者は北方経路、後者は南方経路と一般的に言われています。まず、現生人類がアフリカから移動するために耐えねばならない年間降水量の最低条件が10年単位で推定されました。この値を推定するため、一般的な南北両経路それぞれで、低降水量の閾値で現生人類がユーラシアに到達できただろうあらゆる経路が考慮され、次にアフリカからの経路を接続する最低水準の降水量が決定されました。乾燥度についても、別に同様の分析が行なわれました。

 本論文の推定では、ナイル川デルタは局所的な降水量や乾燥度に関わらず、常に横断可能と仮定されました。湖や小川のような他の特徴を経時的にモデル化することは困難ですが、そうした特徴は、ヒトの居住の比較的低い降水量と乾燥度の閾値よりも湿潤な地域で起きた可能性が高そうです。さらに南方経路の分析では、バブ・エル・マンデブ海峡は常に横断可能と仮定されました。この海峡横断に必要な航海技術が当時じっさいに利用可能だったのかは未解決の問題です(後述)。航海が原則的に可能だったならば、バブ・エル・マンデブ海峡横断の難易度は、海峡の幅が4km~20km以上に変わる海面変動に依存していたはずです(図1b)。図1では、過去30万年間に現生人類によるアフリカからの移動を気候条件的に実現するために必要となっただろう、降水量耐性の推定が示されています。以下は本論文の図1です。
画像


●狩猟採集民の降水量耐性

 現生人類のアフリカからユーラシア大陸への移動を可能とした気候条件期間は、推定される耐性要件を初期現生人類のじっさいの耐性閾値と組み合わせることで推定できるようになります。低降水量に対する妥当な閾値を確定するため、環境条件に応じた初期現生人類の空間動態を調査するために以前に使用された大規模な人類学的データセットから、現代の狩猟採集民の分布がまず調べられました。淡水源の近くに居住していると知られている3人口集団を除くと、年間降水量が90mm前後の閾値があり、それ以下での狩猟採集民の記録はありません(図2a)。

 この水準は、草食獣集団を維持できる最小降水量とも一致し(図2a)、砂漠から乾燥性低木環境への転換点近くに位置します。現在のアフリカ北部とアラビア半島の降水量はこの程度で、継続的に草で覆われるには乾燥しすぎていますが、散在するアシや草や小さな低木もしくは散在する樹木間の低木や草の斑状により特徴づけられる、擬似サバンナの存続が可能です。こうした植生では、レイヨウやガゼルやキツネやネコやトガリネズミや齧歯類など現生人類の獲物となり得る、ひじょうに乾燥した環境に適応したいくつかの哺乳類の生存が可能です。以下は本論文の図2です。
画像


●出アフリカが可能な気候的条件

 本論文の降水量の推定閾値である年間90mmに基づくと、過去30万年間にアフリカから南北どちらかの経路での拡大が気候的に可能だった時期(グリーンベルト)がいくつかありました(図2b・c)。最終間氷期以前には、ナイル川とシナイ半島の陸橋は246000~200000年前頃の間のいくつかの期間で横断可能だったはずです(図3a)。アフリカからユーラシアへの出口は13万年前頃に再開された後(図3c)、96000年前頃までは継続的に、78000~67000年前頃には再度横断可能だった、と考えられます。その後、この北方経路は湿潤な完新世まで閉ざされていた可能性が高そうです。

 海上移動が原則的に可能だったならば、過去30万年間にかなりの割合で南方経路を開かせていた気候条件が存在したでしょう。最終間氷期の前には、充分な降雨量と比較的高い海水準が、275000~242000年前頃(図3a)と230000~221000年前頃と182000~145000年前頃の3回にわたって続きました。135000~115000年前頃には、その開始期を除いて、海水準がとくに高くなっています(図3c)。この時期は提案されている北方経路での現生人類の初期出アフリカの時期に近いので、もし移動があったならば、南北の経路でアフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類がアラビア半島で遭遇したかもしれません。

 南方経路が遮断されていた長期間の後、65000~30000年前頃に充分に湿潤な気候のかなりの出口が開かれました(図3e)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)直後と中期完新世には、ユーラシアからアフリカへの人類の「逆流」と一致する、さらなるつながりがありました(関連記事)。現代の狩猟採集民に基づくケッペン乾燥度1.7付近には、降水量についての本論文の推定値と類似した閾値が存在し、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の推定期間は、降水量に関する推定値とほぼ同じです。以下は本論文の図3です。
画像

 本論文の再構築から、現生人類の出アフリカを可能とする南北両経路のどちらかで、適切な気候の期間がいくつかあった、と示唆されます。これらの期間のいくつかは、アフリカ外の最初の現生人類遺骸に先行しますが、25万~13万年前頃の間のある時点と推定されている、現生人類からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)への遺伝子移入の年代と完全に一致します(関連記事1および関連記事2)。最近では、イスラエルで194000年前頃(関連記事)、ギリシアで21万年前頃(関連記事)の初期現生人類遺骸が報告されています。

 アフリカからユーラシアへの現生人類の移動は、最終間氷期には南北両経路で可能だったと考えられ、考古学的証拠はより大きな期間を指摘します。考古学的および遺伝学的証拠に基づいて、アフリカからの主要な拡大は65000年前頃だったとする南北両経路の仮説は、本論文の推定と一致します。この時期には、4万年におよぶ気候不順の前に北方経路が最後に開かれた直後の時点とともに、南方経路が最終間氷期以来初めて再度開けた時点も示します。南方経路は、経験的な古環境的記録に基づいて議論されてきており、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(57000~29000年前頃)には、アラビア半島はヒトの移動には継続的に乾燥しすぎていたとの主張から、断続的な湿潤期間だったとの主張や、長い多雨期、だったとの主張まであります。

 いずれにしても、これらの推論は本論文の結果と直接的には比較できません。なぜならば、一つには、いくつかの経験的代理指標(洞窟二次生成物など)は本論文で考慮されたような小規模の降雨量の検出には適していないからです。もう一つには、各経路について、低降水量の最小限の耐性を必要とするアフリカからの特定の経路が経時的に変動するからで、図1に示された降水量が最も少ない区間の地理的位置も変化するので、本論文の推定値は局所的な経験的気候再構築と同じパターンを経時的に示すとは予測されません。


●降水耐性に対する気候期間の感度

 現代の狩猟採集民のデータに由来する降水量や乾燥耐性の閾値を初期現生人類の代理指標として使用できるとの仮定に、限界がないわけではありません。民族誌に記録されている人口集団は世界中で一様に分布しているわけではなく、おもに北アメリカ大陸とオーストラリアと南アメリカ大陸とサハラ砂漠以南のアフリカとアジア南部および南東部に居住しており、気候や土壌の水文学的条件がアフリカ北部やアジア南西部とは大きく異なる可能性があります。さらに、水の貯蔵や輸送の能力などにおける技術的違いは、初期狩猟採集民にとってより高い閾値水準(つまり、より高水準の降雨量)を意味するかもしれません。

 現在利用可能な証拠では、現代のデータに由来する耐性閾値を定量的に改善することはできないかもしれませんが、アフリカとユーラシアとの間の気候的接続性の窓をもたらすさまざまな閾値の影響を調べることは可能です(図2b・c)。北方経路では、本論文のデータが示唆するのは、年間110mm以上の降水量の耐性閾値ならば、以前に推定されていた期間でアフリカからの拡大が可能となったのは、降水量が千年規模の平均値を上回るより短い期間に限られていた、と考えられます。この想定では、最終間氷期(13万年前頃)が最も好適な条件だったでしょう。

 年間降水量が130mm以上の耐性閾値では、移住はひじょうに困難で、異常に湿潤な期間に限定されていた可能性が高そうです。南方経路では、より高い降水量耐性水準へのより多くの機会を提供したでしょう。閾値が年間降水量200mm以上だと、最終間氷期にアフリカから移動する機会があったでしょう。この時点から湿潤な完新世までの間に、年間降水量が130mmまでの耐性水準ならば、65000~55000年前頃の好適期間にアフリカからユーラシアへの移動が可能だったでしょう。


●紅海横断の難しさ

 気候的制約に加えて、バブ・エル・マンデブ海峡の横断は、南方経路にとって重要な課題になったでしょう。初期狩猟採集民が紅海を渡ったのかどうか、遺伝学的証拠に基づいて示唆されていますが、この想定を裏づける考古学的証拠がきわめて限定的であるため、議論となっています。海水準が低い期間には、アラビア半島は現在のジブチやエリトリア南東部から見えていたでしょうから、そうした時期に海峡を渡るに際しては、洗練された舟や航海の技術が必要なかったかもしれません。

 しかし、初期現生人類が紅海西部沿岸に居住し、海洋食資源を利用した可能性は高いものの、舟や航海の直接的証拠はまだ見つかっていません。さらに、アラビア半島とアフリカ北東部のいくつかの遺跡間で技術的類似性が示唆されてきましたが(関連記事)、他の遺跡はそうした関係を示しません。したがって、本論文のデータにより提案された南方経路のより好適な気候との解釈は要注意です。むしろ、アフリカからの拡大におけるバブ・エル・マンデブ海峡の役割を明らかにするには、一連の遺伝学的および考古学的証拠を拡大し、一致させることが重要です。


●短期的な気候変動と初期現生人類の人口統計

 過去30万年間にアフリカから移動する現生人類の気候的実現可能性に関する本論文の分析は、年間降水量と乾燥度の10年規模の変化に基づいています。経験的手法もシミュレーションに基づいた手法も現時点では、堅牢性を損なわずに同じ期間と地域のより高い時間解像度での気候条件を再構築できないように見えますが、重要なのは、短期の気候変動が人口集団の動態に重要な役割を果たす可能性がある、と留意することです。嵐とモンスーンの雨に続いて、乾燥した期間が長く続くと、同じ総降雨量が長期にわたって続いた場合とは異なる問題が発生したでしょう。

 本論文の結果は、現生人類にとってアフリカとユーラシアとの間の移動が気候的に実現可能だった時期を推定するものであり、これらの可能な期間にじっさいに現生人類の移動があったのかどうかを示すものではありません。初期現生人類が実際にアフリカから移動したのかどうか確認するには、本論文のデータと、時空間的な人口動態を明確に再現する現生人類拡散モデルとを組み合わせる必要がありますが、本論文はそれを試みていません。

 人口成長率や拡散速度など、人口統計学的過程と関連するパラメータの現在の推定値が数桁の幅に及ぶことを考慮すると、そうした手法と関連する不確実性はかなり大きい可能性が高いでしょう。同様に、初期現生人類の移動パターンの程度がどの程度方向性を有していたのか、あるいは無作為だったのか、初期現生人類はさまざまな環境や人口規模の変化への対応でどう変わったのか、という重要な問題については、ほぼ定量的な回答が欠けています。人類学と考古学と遺伝学のデータを統合することは、既存の不確実性を減らすための最も有望な方法のように見えます。


●ユーラシアには定着しなかった初期現生人類

 考古学的および遺伝学的データでは、現生人類は65000年前頃に始まる大規模な移住の波の前に少なくとも1回ユーラシアに拡大した、と強く示唆されていますが、アフリカ外の恒久的居住の最初の失敗の理由は、あまり明らかではありません。アラビア半島を越えての移動は、トロス・ザグロス山脈を越える能力に依拠していたでしょう。北方ではネアンデルタール人と競合し(図3f)、これは以前には、最終間氷期における現生人類の拡大の限界と主張されていました。また、おそらくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような他の人類と、現生人類は東方で競合したでしょう。デニソワ人の範囲は不明ですが、アジア東部の大半に存在した可能性が高そうです(関連記事)。

 さらに、本論文の再構築から、南北両経路で気候的に好適な期間は、ヒトの生存には不充分な降雨量の期間によりしばしば中断されており(図2b・cおよび図3b)、アフリカから拡散してきた初期現生人類を事実上孤立させたでしょう。アフリカからのさらなる移住による人口流入が欠如していたため、アラビア半島に残された人口集団は気候変動による確率的な局所的絶滅に陥りやすかったでしょう。当時は4kmの幅のバブ・エル・マンデブ海峡の航海が南方経路での移動を可能にしたならば、この制約は、65000~30000年前頃のほぼ好適な気候の前例のない長期間において、南方経路ではさほど重要ではなかったでしょう。

 この長い期間は、成功した大規模な拡散にとって理想的な前提条件であり、アラビア半島の人口集団を安定させただろう、アフリカからの定期的な人口流入を可能としたでしょうから、ユーラシアへの現生人類のさらなる拡大を促進したでしょう。このような動態は、現生人類社会における技術と経済と社会と認知の変化を補完し(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の衰退とともに(関連記事)、現生人類によるユーラシアへのその後の拡大において後期の拡散の成功を説明するでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ヒトの進化:アフリカからの人類の移動には気候上の制約があった

 ホモ・サピエンスがアフリカから移動する際に利用できた時期と経路は、気候の影響を受けていたことを示唆する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、現生人類の分散における古気候の変動性の役割を強調しており、ホモ・サピエンスの進化史を理解する上で役立つ可能性がある。

 初期人類がアフリカから他の地域に移動したと一般的に考えられているが、これに関連する化石や古代のDNAが稀少であるため、ユーラシアへの移動の時期や経路については論争がある。

 今回、Robert Beyer、Andrea Manicaたちは、古気候の再構築結果と狩猟採集民が生存するために最低限必要な降雨量の推定値を用いて、アフリカからユーラシアへの移動を容易にする良好な気象条件と十分な降雨量が得られる時期と経路を評価した。著者たちのシミュレーションによって示唆された推定時期と推定経路は、考古学的証拠と遺伝学的証拠との整合性が認められ、このため過去30万年間にアフリカからの移動が複数回起こった可能性が示唆された。ホモ・サピエンスは、初期のいくつかの移動の波では、ユーラシアに永住できず、その後の約6万5000年前に、より大きな規模の移動の波が起こって移住に成功した。著者たちは、その理由として、南西アジアの厳しい環境条件、アフリカからの移住者の到着が断続的だったことと、他のヒト族との競争の可能性を挙げている。

 著者たちは、今回の研究で、ホモ・サピエンスがアフリカから移動することが気候的に可能だった時期が実証されたと結論付けている。ただし、そうした時期に実際に移動があったかどうかを調べるためには、さらなる研究が必要とされる。



参考文献:
Beyer RM. et al.(2021): Climatic windows for human migration out of Africa in the past 300,000 years. Nature Communications, 12, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-24779-1

古人類学の記事のまとめ(44)2021年5月~2021年8月

 2021年5月~2021年8月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2021年5月~2021年8月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

ボノボの高品質なゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_10.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

アラビア半島のアシューリアン
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_1.html

高橋啓一「MIS 6の動物の渡来を探る」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_13.html

野口淳「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_17.html

コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_27.html


●ネアンデルタール人関連の記事

森恒二『創世のタイガ』第8巻(講談社)
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_2.html

アルタイ山脈のネアンデルタール人の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_20.html

レヴァントの中期更新世の人類化石と石器
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_8.html


●デニソワ人関連の記事

オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html

デニソワ洞窟の堆積物のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_25.html

MIS5のチベット高原における人類の存在と石器
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_11.html

現代人で最もデニソワ人からの遺伝的影響が強いフィリピンのネグリート
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_15.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシス頭蓋の生体力学と摂食能力
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_19.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

仲田大人「人口モデルと日本旧石器考古学」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_6.html

更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_10.html

アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_12.html

池谷和信「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_14.html

澤藤りかい、蔦谷匠、石田肇「アジア東部のホモ属に関するレビュー」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_20.html

現生人類アフリカ南部起源説に対する批判
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_28.html

ルーマニアの34000年前頃となる現生人類女性のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_27.html

高畑尚之「上部旧石器時代の北ユーラシアの人々に関するゲノム研究」
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_30.html

初期現生人類のアフリカからの拡散
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_4.html

さまざまな現生人類起源説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_4.html

アフリカにおける最古の埋葬
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_26.html

加藤真二「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_33.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_1.html

藤本透子、菊田悠、吉田世津子「中央アジアにおける移動と接触―ものの形態に反映される人の行動パターン」
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_13.html

港川人のミトコンドリアDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

東アジアの考古学は国の歴史以外のなにものでもない
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_17.html

アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html

11000年前頃以降の中国南部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html

西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html

佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_13.html

出雲市猪目洞窟遺跡の古代人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_14.html

高松市茶臼山古墳の古墳時代前期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_16.html

福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_21.html

韓国の三国時代の人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_23.html

愛知県清須市朝日遺跡の弥生時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_24.html

堺市野々井二本木山古墳出土人骨のミトコンドリアDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_27.html

鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_28.html

南九州古墳時代人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_29.html

鹿児島県南種子島町広田遺跡出土人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_30.html

徳之島出土人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_31.html

中国要人?の人類進化認識
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_2.html

アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_22.html

中沢祐一「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_26.html

ワラセアの中期完新世狩猟採集民のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_29.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

アメリカ大陸への人類の移住に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

イタリア半島における銅器時代~青銅器時代の人類集団の遺伝的構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_17.html

エーゲ海地域青銅器時代人類集団のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_19.html

バスク人の起源と遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_32.html

イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html

未確認生物とも噂されてきたコーカサス南部の女性の正体
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_1.html

イタロ・ケルト語派の起源
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への農耕民の拡大経路
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_8.html

中東の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_9.html

紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html


●現生人類拡散後のアフリカに関する記事

アフリカ北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_24.html

先植民地期のガボンにおける埋葬習慣
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_11.html


●進化心理学に関する記事

真正な自己表現と主観的幸福感
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_22.html


●その他の記事

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_9.html

最終氷期極大期における広範な陸域の寒冷化
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_15.html

シチリア島の絶滅ゾウの小型化過程
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_15.html

ヤンガードライアスを同期させるラーハ湖の噴火の正確な年代
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_6.html

閉経時期と関連する遺伝的多様体
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_25.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
https://sicambre.at.webry.info/200709/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(1)
https://sicambre.at.webry.info/200707/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(2)
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_31.html

古人類学の記事のまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(4)
https://sicambre.at.webry.info/200807/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(5)
https://sicambre.at.webry.info/200811/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(6)
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(7)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(8)
https://sicambre.at.webry.info/200909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(9)
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(10)
https://sicambre.at.webry.info/201005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(11)
https://sicambre.at.webry.info/201009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(12)
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(13)
https://sicambre.at.webry.info/201105/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(14)
https://sicambre.at.webry.info/201109/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(15)
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(16)
https://sicambre.at.webry.info/201205/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(17)
https://sicambre.at.webry.info/201209/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(18)
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(19)
https://sicambre.at.webry.info/201305/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(20)
https://sicambre.at.webry.info/201309/article_5.html

古人類学の記事のまとめ(21)
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(22)
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(23)
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(24)
https://sicambre.at.webry.info/201501/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(25)
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(26)
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(27)
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(28)
https://sicambre.at.webry.info/201605/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(29)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(30)
https://sicambre.at.webry.info/201701/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(31)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(32)
https://sicambre.at.webry.info/201709/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(33)
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(34)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(35)
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(36)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(40)
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(41)
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(42)
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(43)
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_1.html

加藤真二「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」

 本論文のユーラシア東部とは、中国を中心とする大陸部を指し、中国は秦嶺山脈―淮河線で南北に区分されます。ユーラシア東部と日本列島を結ぶ路線としては、北ルート(アムール河口部―サハリン-北海道)、西ルート(陸化した大陸棚・朝鮮半島-九州北部)、南ルート(華南-台湾-琉球弧-九州南部)の他、日本海ルート(日本海横断)などが想定できます。ただ、現生人類(Homo sapiens)以前の人類が日本列島へ移動するさいには、渡海能力が低かったので、氷期に陸化した北ルートや西ルートを経由したと考えられます。

 中国北半部、華北北辺の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)では166 万年前の河北省馬圏溝III以降、旧石器遺跡が断続的に形成されます。したがって、少なくとも、これ以降の西ルートが陸化した時期には、日本列島への人類集団と石器群の拡散機会があったことになります。この陸化した西ルートを通り、120万年前頃にトロゴンテリゾウなどの動物群、43 万年前頃にナウマンゾウの祖先種などの動物群が中国北半部を含む旧北区から、また63 万年前頃にトウヨウゾウなどの動物群が中国南半部以南の東洋区から、日本列島に渡来しました。この時、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が動物群とともに列島にやってきたとすれば、どのような石器群を持ち込んだのか、という点が問題となります。

 華北の河北省飛梁・麻地溝(120 万年前頃)、北京市周口店第1地点上部文化層(50万~40万年前頃)などでは、不定形剥片を臨機的に二次加工したノッチやペッグなどの小型剥片石器に粗粒石材の礫器を交えた石器群が見られます。一方、中国南半部となる長江下流域の江蘇省和尚墩12 層(66万~62万年前頃)では、礫器やピックなどの大型重量石器を主体とする石器群が出土しました。朝鮮半島南部でも、東洋区の動物群が列島に渡来した時期に、全羅北道甑山などのピックや多面体石器などの大型重量石器をもつ石器群が出現し、それ以後、最終間氷期ごろまで盛行することが知られています。

 ユーラシア東部では、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5(128000~71000年前頃)となる最終間氷期に、北ルート入口と同緯度の北緯50度付近まで旧石器遺跡が形成されます。そのため、この地域にいた種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの非現生人類ホモ属が、MIS4(71000~57000年前頃)となる間氷期直後の寒冷期に陸化した北ルートを経由して、北海道に渡来した可能性があります。なお、MIS4では西ルートは陸続きになりませんでした。

 このMIS5~4において、中国北半部には、鋸歯縁石器類や厚型削器などの各種削器、カンソン型やタヤック型などの尖頭器、石球をもつ鋸歯縁石器群が広く見られます。これと類似する同時期の石器群が東シベリアのイゲチェイスキー・ログ1(北緯53 度)でも抽出されています。一方、中国東北部では、内蒙古自治区三龍洞でキナ型スクレイパーやムスチエ型尖頭器をもつ石器群が出土しました。内蒙古自治区チンスタイ(金斯太、Jinsitai)8・7層(北緯45度) でもルヴァロワ(Levallois)技法が確認されています(関連記事)。これらはムステリアン(Mousterian)が北方もしくは西方から中国東北部に伝播したことを示している、と考えられます。将来、北ルートを経由してきた絶滅ホモ属集団がもたらした、鋸歯縁石器群やムステリアンなどの中部旧石器が北海道で出土するかもしれません。

 ユーラシア東部に現生人類による上部旧石器的な石器群が出現するのは、中国南半部でやや古く43500年前頃、中国北半部では41500~40000年前頃です。現生人類は渡海能力を有しており、日本列島への移動は氷期でなくとも可能でした。また、これまでの2ルートに加えて、海上移動が必須な南ルートなども利用されました。現生人類が最初に日本列島にもたらした石器群を考えるさいにまず参考になるのは、中国南半部最古の上部旧石器で、43500年前頃のスマトラリス(甲高な打製石斧)を有するホアビニアン的な雲南省硝洞の石器群です。

 中国北半部最古の上部旧石器は、寧夏回族自治区水洞溝(Shuidonggou)の41500~41000年前頃のものです。円盤状石核や柱状石核から剥離された大型石刃に特徴づけられる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)石器群です。IUP 石器群は、忠清北道スヤンゲ第6 地点やシベリア東部のカーメンカやマカロヴォIVなどでも出土しており、各地での最古の上部旧石器とされています。ただ、中国北半部では水洞溝石器群のみで、中国におけるEUP(上部旧石器時代前期)石器群とされる、小石刃技術や磨製骨角器、装身具類などの上部旧石器的要素を付加し、技術変容した鋸歯縁石器群が主体的です。この石器群は、熊本県石の本8区や江原道魯峰第2文化層の石器群などとも類似点を有します。また、山西省下川の36000~27000年前頃の石器群は、小石刃技術や石斧や台形様石器など、日本列島のものと共通する要素を有しており、注目されます。

 上述のように41500~40000年前頃とされる中国北半部での現生人類の出現について、50000~40000年前頃とされる河北省西白馬営では、初源的な磨製骨器や火処での火の管理など、現生人類的な活動の痕跡が認められ、この地域での現生人類の出現は従来の説よりも古かったかもしれません。その場合、日本列島に近い華北沿海部でも見られた中部旧石器的な鋸歯縁石器群が日本列島に拡散した可能性もあります。最後に本論文は、日本列島では最古の上部旧石器や上部旧石器以前の確実な石器群は、まだ発見されていない、との認識を示しています。一方で本論文は、ユーラシア東部に起源するより古い石器群が日本列島で出土しても不思議ではない、とも指摘しています。


参考文献:
加藤真二(2020)「ユーラシア東部の状況からみた旧石器文化の列島への拡散」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P42-43

孵化直後の翼竜類の飛行能力

 孵化直後の翼竜類の飛行能力に関する研究(Naish et al., 2021)が公表されました。翼竜類は、三畳紀とジュラ紀と白亜紀(2億2800万~6600万年前頃)に存在していた空を飛ぶ爬虫類の一種です。化石化した翼竜の卵と胚はほとんど見つかっておらず、孵化したばかりの個体と小さな成体を区別することも難しいため、孵化したばかりの翼竜が飛べたのかどうか、分かっていません。

 この研究は、2種の翼竜(Pterodaustro guinazuiとSinopterus dongi)の孵化直後の幼体の化石と胚の化石として確立されている合計4点の化石から以前に得られた翼の測定値を用いて、孵化直後の幼体の飛行能力をモデル化しました。また、この翼の測定値が同種の成体のものと比較されるとともに、翼の一部を形成する上腕骨の強度が、孵化直後の幼体3頭および成体22頭とで比較されました。

 この研究は、孵化直後の幼体の上腕骨が多くの成体の上腕骨よりも強いことを明らかにしました。これは、孵化直後の幼体の上腕骨が飛行に充分な強度を有していた、と示しています。また、孵化直後の幼体の翼は、長くて幅が狭く、長距離飛行に適していましたが、成体の翼と比較すると短くて幅が広く、孵化直後の幼体の翼面積は、その質量と体サイズの割に大きい、と示されました。孵化直後の幼体は、こうした翼の寸法のために、長距離の移動では成体よりも効率が悪かったかもしれませんが、より機敏な空飛ぶ爬虫類として、方向や速度を突然変えることができた可能性があります。

 この研究は、孵化したばかりの翼竜が、機敏な飛行スタイルにより捕食者から素早く逃れることができ、成体の翼竜よりも、敏捷性に優れた獲物を追いかけ、密集した植生の中を飛ぶことに適していたのではないか、と推測しています。この研究はこうした知見に基づいて、孵化したばかりの翼竜が密集した生息地で生活し、成体の翼竜が開放された環境で生息していたかもしれない、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:孵化したばかりの翼竜も飛べたかもしれない

 翼竜類は、孵化直後から飛ぶことができたが、その時点での飛行能力は、成体の翼竜とは異なるものだったと考えられることを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。

 翼竜類は、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀(2億2800万~6600万年前)に生きていた空飛ぶ爬虫類の一種である。化石化した翼竜の卵と胚はほとんど見つかっておらず、孵化したばかりの個体と小さな成体を区別することも難しいため、孵化したばかりの翼竜が飛べたかどうかは分かっていない。

 今回、Darren Naishたちは、2種の翼竜(Pterodaustro guinazuiとSinopterus dongi)の孵化直後の幼体の化石と胚の化石として確立されている合計4点の化石から以前に得られた翼の測定値を用いて、孵化直後の幼体の飛行能力をモデル化した。また、Naishたちは、この翼の測定値を同種の成体のものと比較するとともに、翼の一部を形成する上腕骨の強度を、孵化直後の幼体3頭と成体22頭とで比較した。

 Naishたちは、孵化直後の幼体の上腕骨が多くの成体の上腕骨よりも強いことを発見した。これは、孵化直後の幼体の上腕骨が飛行に十分な強度を有していたことを示している。また、孵化直後の幼体の翼は、長くて幅が狭く、長距離飛行に適していたが、成体の翼と比べると、短くて幅が広く、孵化直後の幼体の翼面積は、その質量と体サイズの割に大きかった。孵化直後の幼体は、こうした翼の寸法のために、長距離の移動では成体よりも効率が悪かったかもしれないが、より機敏な空飛ぶ爬虫類として、方向や速度を突然変えることができた可能性がある。

 Naishたちは、孵化したばかりの翼竜が、機敏な飛行スタイルによって捕食者から素早く逃れることができ、成体の翼竜よりも、敏捷性に優れた獲物を追いかけ、密集した植生の中を飛ぶことに適していたのではないかと推測している。Naishたちは、これは、孵化したばかりの翼竜が密集した生息地で生活し、成体の翼竜が開放された環境で生息していたことを示している可能性があると指摘している。



参考文献:
Naish D, Witton MP, and Martin-Silverstone E.(2021): Powered flight in hatchling pterosaurs: evidence from wing form and bone strength. Scientific Reports, 11, 13130.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-92499-z

紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化

 紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化に関する研究(Papac et al., 2021)が公表されました。考古遺伝学は過去1万年のヨーロッパにおける2回の主要な人口集団交替を明らかにしてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最初のものは、紀元前七千年紀に始まり、アナトリア半島からの農耕民共同体の拡大と関連していました。ヨーロッパの前期新石器時代農耕民は当初、在来の狩猟採集民と遺伝的に異なっており、アナトリア半島農耕民とほぼ区別できませんでしたが(関連記事1および関連記事2)、その後数千年にわたって遺伝子プールに狩猟採集民祖先系統(祖先系譜、ancestry)を組み込んできました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 2番目の主要な人口集団交替は、紀元前三千年紀早期に縄目文土器(Corded Ware、略してCW)文化の個体群で起きました(関連記事1および関連記事2)。以下本論文では、ヒト骨格遺骸と考古学的文化(たとえば、副葬品や身体の向き)の標識の共伴を用いて、個体群と考古学的文化との間の関連が、たとえば「CW個体群」のように示されますが、これは統一された社会的実体を反映していないかもしれません。CWはヨーロッパ中央部と北部と北東部における主要な文化的変化を表しており、経済とイデオロギーと埋葬慣行に変化をもたらしました。

 CW個体群は、文化的にCWに先行する人々とは遺伝的に異なると示されており、その祖先系統の75%はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群と類似しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。その後、このヤムナヤ的「草原地帯」祖先系統は急速にヨーロッパ全域に拡大し、紀元前三千年紀末の前には、ブリテン島とアイルランド島とイベリア半島とバレアレス諸島とサルデーニャ島とシチリア島に到達しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 紀元前三千年紀の重要性にも関わらず、現在の遺伝学的理解はおもに汎ヨーロッパ的な標本抽出戦略による研究に基づいており、地域的で高解像度の時間的区間にはほとんど重点が置かれていません。その結果、多くの時間的および地理的標本抽出の間隙が残り、社会と共同体の水準での過程、および文化的集団がどのように相互作用して影響を及ぼし、相互に生じたのかについて、知識が限定的です。さらに、地域を超えた考古学的現象を表す小さな標本規模の使用と、結果として生じる過度に単純化された文化・歴史的解釈は、考古学者から批判されてきました。

 未解決の問題は、CWと鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してBB)個体群の遺伝的および地理的起源、両者の相互関係およびヤムナヤ個体群との関係、前期青銅器時代(EBA)のウーニェチツェ(Únětice)個体群の起源に関するものです。CWは遺伝的にヤムナヤ的な人々の男性に偏った西方への移住から形成された、と提案されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、Y染色体系統の重なりは、いくつかの分類できないY染色体ハプログループ(YHg)I2を例外として、おもにYHg-R1aのCW男性と、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)を有するヤムナヤ男性との間で見つかってきました。

 草原地帯祖先系統はBB個体群にも存在しますが(関連記事)、そのYHgはおもにR1b1a1b1a1a2(P312)で、これはCWもしくはヤムナヤ男性ではまだ見つかっていません。したがって、草原地帯祖先系統の共有とかなりの年代的重複にも関わらず、現時点では、ヤムナヤとCWとBBの各集団を父系の供給源として直接的に結びつけることはできません。とくに、草原地帯祖先系統が男性主導で拡大したと示唆されていることと、これら3社会の父方居住・家長的社会親族制度が提案されていることを考慮すると(関連記事)、注目に値します。

 紀元前三千年紀のヨーロッパにおける文化的・社会的・遺伝的変化を理解するのに重要なのは、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のようなCWに先行する文化と、CWやBBやEBAウーニェチツェに分類される社会の存在(共存)を証明する、緻密な居住地域です。現在、そうした地域は考古遺伝学の観点では体系的に研究されていません。ヨーロッパの中心部に位置し、重要なエルベ川に密着する、現在のチェコ共和国西部であるボヘミアの肥沃な低地では、多くの主要な超地域的な考古学的現象が見られました(図1)。

 ボヘミアの密集した農耕定住は、早期新石器時代農耕民の到来とともに紀元前5400年後に始まり、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化や後期刺突文土器(Stichbandkeramik、略してSTK)文化やレンジェル(Lengyel)文化です。これらの文化は、ヨルダヌフ(Jordanów)文化やミシェスベルク(Michelsberg)文化や漏斗状ビーカー(Funnelbeaker)文化やバデン(Baden)文化やリヴナック(Řivnáč)文化やGACや前期および後期CWやBBなど、二桁の考古学的文化集団と関連する、銅器時代(紀元前4400~紀元前2200年頃)の多くの社会に継承されました。銅器時代には、重要な革新(冶金や車輪や荷馬車と犂や要塞化された丘陵や古墳)が見られ、ボヘミア周辺に地理的に集まった、拡大したEBAウーニェチツェ文化に継承されました。

 物質的および技術的発展に加えて、埋葬行動を通じて示されるようにイデオロギー的変化も明らかです。漏斗状ビーカー期(紀元前3800~紀元前3400年頃、ボヘミアで100基の墓が知られています)には比較的一般的でしたが、通常の墓は中期銅器時代(紀元前3500~紀元前2800年頃)となるバデン期やリヴナック期やGAC期にはほぼ消滅します(ボヘミアでは20基)。単葬墳は、現在では身体の位置と副葬品で厳密な性区分が伴いますが、紀元前2900年頃のCWでは多数再出現して(ボヘミアでは1500基)BB期に継続し(ボヘミアでは600基)、BBは先行するCWとは重要な違いを発展させ維持しました。EBAウーニェチツェ文化では単葬墳が継続しましたが(ボヘミアでは4000~5000基)、再度身体位置の性差はなくなりました。

 これらの変化をよりよく理解するため、ボヘミア北部の271個体(新たに報告される206個体と既知の65個体)の高解像度の考古遺伝学的時期区分が分析されました(図1)。時空間的に重複する考古学的文化からの密な遺伝的標本抽出を通じての本論文の目的は、(1)ヨーロッパ中央部の銅器時代とEBAにおける文化的変化が非地元民の流入により引き起こされたのかどうかに取り組み、(2)CWの出現直前のヨーロッパ中央部の遺伝的多様性を特徴づけ、(3)ヤムナヤ的草原地帯祖先系統を有する個体群がヨーロッパ中央部に最初に出現した時期を特定して、その遺伝的起源と社会的構造を理解し、(4)CW出現後の「地元民」と「移民」との間の生物学的交換の性質と程度を特徴づけ、(5)遺伝的および考古学的変化と関連する社会的変容を特定することです。以下は本論文の図1です。
画像


●標本の概要

 37ヶ所の遺跡から古代人261個体が調べられ、219個体のゲノムで、1233013ヶ所の祖先系統(祖先系譜、ancestry)の情報をもたらす部位が濃縮されました(1240kキャプチャパネル)。濃縮後、3万ヶ所未満の部位もしくは汚染の兆候がある13個体は削除され、206個体の新たなデータセットが得られました。この新たなデータセットは、ボヘミアの既知の古代人65個体およびより広範な個体群と組み合わされ、それにより、ボヘミアの新石器時代および先CW銅器時代個体は7から58に、CW個体は7から54に、BB個体は40から64に、EBA個体は11から95に拡大されました。

 重要なのは、CW形成の頃(紀元前3200~紀元前2600年頃)の個体の標本規模をかなり拡大したことです(1個体から50個体)。その内訳は、バデン文化とリヴナック文化とGACとなる最後の先CW個体が0から18に、前期CW個体が1から32に増加しており、ヨーロッパ中央部のCWの起源と、その移住の性質と、共存する先CWの人々との社会的相互作用を直接的に研究できるようになりました。一親等の親族関係はアレル(対立遺伝子)頻度に基づく分析(f統計、qpWave、qpAdm、進化的兆候の祖先系統の時間区間の分布を示すDATES、Y染色体分析)では除外されました。本論文は140点の新たな放射性炭素年代も報告し、より精細な時間的解像度を支援し、重要な紀元前三千年紀の文化的集団(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)の前期と後期の間の遺伝的変化を調べることが可能となります。


●紀元前2800年頃以前となる先CW期のボヘミア

 まず、ボヘミアの古代人を、ユーラシア西部現代人1141個体から構築された主成分分析の最初の2軸に投影することにより、ゲノム規模データが評価されました。その結果(図2A)、ボヘミアの全ての先CW個体(58個体)はアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の間で、ヨーロッパ中央部の既知の文化的に先CWに分類される個体群と密接した状態に位置しました。これは、草原地帯祖先系統の欠如を示唆しており、qpAdmモデル化を用いても確認され、ボヘミアの先CW個体群はほぼアナトリアNとWHGの2方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図3A)。狩猟採集民(HG)祖先系統の割合は年代と正の相関があり、以前に報告された新石器時代におけるHG祖先系統の増加傾向はボヘミアでも起きた、と示されました(関連記事1および関連記事2)。このHG祖先系統の増加は2段階の線形過程として最良にモデル化でき(図3A)、紀元前五千年紀にHG祖先系統が増加し、その後に停滞(有意ではない勾配)が続く、と明らかになりました。以下は本論文の図2です。
画像

 HG祖先系統がボヘミアの先CW個体群の遺伝子プールに組み込まれた過程への洞察を得るため、qpAdmを用いて、先CW文化的集団がそれぞれ、アナトリアNとルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体とケレス(Körös)遺跡狩猟採集民の3方向混合としてモデル化され、組み込まれたHG祖先系統の遺伝子移入された年代がDATESにより推定されました(図3B)。HG祖先系統の連続的な組み込みを伴う人口集団継続性のシナリオでは、後続の文化の遺伝子移入の平均年代は、図3Bの灰色の間隔(右側)で示唆されるように、経時的により新しくなる、と予測されます。逆に、さらなるHG祖先系統の組み込みがない人口集団の連続性では、混合年代は類似のHG割合を有する連続した文化的集団では類似したものになるはずです。

 本論文の結果は、両方の予測が満たされない、2つの文化的移行を示唆します。まず、ボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーは類似の量のWHG祖先系統を有していますが、漏斗状ビーカーのWHGからの遺伝子移入の推定年代(図3B)はヨルダヌフ(紀元前4636~紀元前4310年)よりも有意に早く(紀元前5079~紀元前4748年)、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群がさまざまな人口集団(その祖先系統はさらに昔に組み込まれました)に由来することと一致し、ボヘミアではヨルダヌフ人口集団に取って代わりました。

 ヨルダヌフと漏斗状ビーカーとの間のこの移行は、3点の追加の観察により裏づけられます。第一に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアの漏斗状ビーカー;ボヘミアのヨルダヌフ、ドイツの漏斗状ビーカー)は正で、ボヘミアの漏斗状ビーカーが、先行する在来のヨルダヌフ個体群よりも、ザクセン=アンハルト(Saxony-Anhalt)のバールベルゲ(Baalberge)遺跡とザルツミュンデ(Salzmünde)遺跡の漏斗状ビーカー個体と有意により大きな遺伝的類似性を示す、と明らかにします。逆に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアのヨルダヌフ;ドイツの漏斗状ビーカー、ボヘミアの漏斗状ビーカー)は一貫して0と一致しており、ボヘミアのヨルダヌフ個体群に関して、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間の系統発生的クレード(単系統群)化を示唆します。

 第二に、ボヘミアのヨルダヌフ個体群は、アナトリアNとケロスHGの2方向混合としてモデル化できるものの、アナトリアNとロシュブールの2方向混合としてはモデル化できない一方で、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群では逆が当てはまります。これは、さまざまな遺伝子移入年代に加えて、ボヘミアのヨルダヌフ文化的集団と漏斗状ビーカー文化的集団におけるHG祖先系統のさまざまな類似性を示唆します。第三に、qpWaveはボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーの個体群間のクレード化を裏づけませんが、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間のクレード化を却下できません。まとめると、これらの結果は、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群の大半(有意に50%以上)の非在来の遺伝的起源を示唆します。

 この第二のような事例は、リヴナックからGACへの文化的移行で見られます。GAC個体群はボヘミアの先CW文化的集団で最も高いHG祖先系統を有しており(25.7±1.4%)、リヴナック個体群よりも有意に多くにっています。しかし、GACにおけるHGとの混合の推定年代は、リヴナック個体群よりも遅いわけではなく(図3B)、GAC個体群はリヴナックとHGの起源集団の最近の混合に由来するのではなく、ボヘミアにおける最近の非在来の侵入を構成しており、それは、たとえばポーランドのように(関連記事1および関連記事2)より多くのHGからの遺伝子流動を受けた地域からの侵入で、考古学的証拠の解釈とも一致します。

 リヴナック個体群とGAC個体群の異なる遺伝的起源は、主成分分析とqpAdmモデル化によりさらに裏づけられます。主成分分析では、GACのTUC003個体を除いて、リヴナック個体群とGAC個体群は異なる一群を形成します(図3C)。これはqpAdmモデル化により確認され、GAC個体群はアナトリアNとロシュブールの混合としてモデル化できますが、アナトリアNとケロスHGの混合としてはモデル化できない一方で、リヴナック個体群にはその逆が当てはまります。その結果、リヴナック個体群とGAC個体群はHG祖先系統の量と供給源に基づいて区別でき、ボヘミアにはCW出現時にリヴナック個体群とGAC個体群という遺伝的に異なる集団が存在した、と示唆されます。リヴナック個体群の外れ値個体(TUC003)も、GAC集団で生まれたものの、リヴナック集団の文化的背景で埋葬された、という興味深い可能性を提起します。以下は本論文の図3です。
画像

 ボヘミアにおけるCWの出現と同時代かその後のリヴナックとGACの16個体間(図1B)では、草原地帯祖先系統の検出可能な痕跡は見つからず(図2A)、CW/ヤムナヤから文化的にCWに先行する人々(リヴナックやGACなど)への生物学的交換は低く、おそらく存在していなかった、と示唆されます。草原地帯祖先系統は、CW個体群とともに紀元前三千年紀初期のボヘミアに出現します。


●縄目文土器(CW)

 本論文は現時点で最初期となるCW個体群のゲノムデータを報告し、その中には、紀元前3010~紀元前2889年頃となるボヘミア北西部のSTD003個体や、紀元前3018~紀元前2901年頃となるボヘミア中央部のVLI076個体や、紀元前2914~紀元前2879年頃となるボヘミア東部のPNL001個体が含まれ、CWはボヘミア全域に紀元前2900年頃までに広範に拡大した、と示されます。これら初期の放射性炭素年代は、これらの個体の遺伝的特性によっても裏づけられます。これらの個体は、最初のCWが地元民と混合した東方からの移民で、後の世代ではPC2軸の位置が中間になる、というシナリオで予測されているように、PC2軸では最も極端な位置にあります(図2B)。

 ボヘミアのCW個体群の遺伝子プールの形成を調べるため、草原地帯祖先系統を有しており平均年代が紀元前2600年以前のCWの27個体がボヘミアCW前期、残りの21個体がボヘミアCW後期とまとめられました。ボヘミアCW前期を、あらゆる既知のヤムナヤ供給源と、あらゆる在来のボヘミアもしくはポーランドやウクライナやハンガリーやドイツといった非在来の先CW供給源の2方向混合としてモデル化する統計的裏づけは乏しい、と明らかになりました。新石器時代祖先系統(アナトリアNと一連のHG供給源)の代理として遠方の供給源を用いると、3方向遠位混合モデルの一つを除いて強い裏づけは見つかりませんでした。しかし、この統計的に裏付けられた一つのモデルから、ヨーロッパにおける新石器時代祖先系統の以前には観察されていなかった比率が得られました。それは、アナトリアNとスウェーデンのムータラ(Motala)遺跡狩猟採集民との1:1の混合比の新石器時代人口集団です。さらに、前期CWを個々に、アナトリアNとWHGとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の「標準」3方向混合としてモデル化すると、37%(27事例のうち10事例)で、このモデルが強い裏づけを欠いている、と明らかになりました。

 ヤムナヤとヨーロッパ新石器時代人口集団の供給源間の2方向近位モデルが、ボヘミアCW前期の遺伝的多様性を説明するのに不充分な理由を調べるため、よりよいモデル適合を得られる第三の供給源の追加が試みられました。ラトヴィア中期新石器時代(ラトヴィアMN)やウクライナ新石器時代(ウクライナN)や円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化のいずれかを供給源として追加すると、ほぼ全てのモデル(285例のうち280例)の適合が改善し、その改善のほとんどは数桁に達しました。全ての2方向近位モデル(95例)が強い裏づけを欠いている一方で、ラトヴィアMN(95例のうち57例)かウクライナN(95例のうち53例)かPW(95例のうち32例)を供給源に追加すると、裏づけられたモデルの数が大幅に増加しました。

 これらの結果は、全ての既知のヤムナヤおよびヨーロッパ中央部新石器時代人口集団と比較して、ボヘミアCW前期における、ラトヴィアMN/ウクライナN/ PW的な祖先系統の存在を示します。本論文のモデルから、この祖先系統はボヘミアCW前期遺伝子プールの5~15%を占める、と示唆されます。ボヘミアCW後期およびドイツCWをモデル化すると、これら第三の供給源のいずれかとのモデル適合の増加も観察され、この祖先系統が後のヨーロッパ中央部CWにも存在し、CW集団はヤムナヤよりも古代ヨーロッパ北東部集団と多くのアレルを共有すると示すアレル共有f4統計とも一致する、と示唆されます。

 本論文は、草原地帯祖先系統を有さないCW個体群からの最初のゲノムデータを提供し、それにより、CWとCWに先行する人々との間の相互作用の社会的過程を解明します。草原地帯祖先系統を有さない前期CW個体群間の女性のみ(4個体)の観察結果(図2Bおよび図3C)から、先CWの人々を前期CW社会に同化させる過程が女性に偏っていた、と示唆されます。この女性4個体のうち2個体(STD003とVLI008)は主成分分析ではボヘミアとポーランドのGAC個体群の近くに位置します(図3C)。これらを一群にまとめると、STD003とVLI008はボヘミアのリヴナック個体群よりもボヘミアのGAC個体群とより多くの遺伝的類似性を共有します。STD003とVLI008はポーランドのGAC個体群と比較してボヘミアのGAC個体群と遺伝的により密接ではなく、非在来の東部もしくは北東部起源(たとえば、ポーランド)の可能性が除外できないことを意味します。さらに、VLI009とVLI079は主成分分析では、標本抽出されたボヘミアの中期銅器時代(バデンとリヴナックとGAC)個体群の遺伝的多様性の範囲外に位置し、有意により多くのHG祖先系統を有しており、前期CW社会の遺伝的に先CW女性の大きな割合(50%か、STD003とVLI008を含めるとそれ以上)はボヘミア外に由来する、と示唆されます。

 ボヘミアCW後期はボヘミアCW前期と比較して、有意に先CW銅器時代的祖先系統をより多く有する、と明らかになりました。しかし、この兆候は草原地帯祖先系統を有さない前期CW女性を含めると失われます。ボヘミアCW前期と比較しての、ボヘミアCW後期におけるこの追加の先CW銅器時代的祖先系統は、地元の供給源に由来するものとしては上手くモデル化されず、ボヘミアのCW遺伝子プールに地元以外の遺伝的影響が経時的にあった、示唆されます。これは、ボヘミア外に由来する遺伝的に先CWの女性と一致し、類似の量の先CW銅器時代的祖先系統を有するにも関わらず、ボヘミアCW前期(草原地帯祖先系統を有さない女性を含みます)とボヘミアCW後期がqpWave分析でクレード化しない、という知見により裏づけられます。

 経時的な常染色体の遺伝的変化に加えて、前期CWの異なる5系統から後期CWの優勢な(単一)系統へと移行する、Y染色体多様性の急激な減少が観察されます(図4A)。フォワードシミュレーションを用いて、Y染色体多様性の観察された減少を説明できる人口統計学的シナリオが調べられました。ボヘミアCW前期で観察された開始頻度を中心としたYHg-R1a1a1(M417)の開始頻度で人口集団のシミュレーションが100万回実行され、この系統が、閉鎖集団と任意交配のモデル下で500年の時間枠において、ボヘミアCW後期で観察される頻度(11個体のうち10個体)に達する妥当性が評価されました。

 その結果、妥当な人口規模の広範囲を考慮すると、この頻度変化が偶然に起きたという「中立的」仮説は却下されました。代わりに本論文の結果から示唆されるのは、YHg-R1a1a1は無作為ではない増加を経ており、この系統の男性は他系統の男性と比較して1世代あたり15.79%(4.12~44.42%)多く子を儲けた、ということです。Y染色体頻度におけるこの変化は、同じ男性内の充分に網羅された常染色体124万ヶ所におけるアレル頻度の変化と比較して極端だと明らかになり、常染色体の遺伝的多様性と比較してY染色体に不均衡に影響を及ぼした過程が示唆され、このY染色体多様性の急激な減少の原因として人口集団のボトルネック(瓶首効果)は除外されます。以下は本論文の図4です。
画像

 本論文の結果から、前期CW男性のY染色体系統の多様性は、無作為ではない過程により取って代わられ、それは選択か社会的構造か外来のYHg-R1a1a1の流入であり、Y染色体多様性の崩壊を引き起こした、と示唆されます。新石器時代にさかのぼるY染色体多様性の同時に起きた減少は、ほぼ全ての現存YHgで観察されており、おそらくは男性を中心とした家系間の紛争増加に起因します(関連記事)。本論文は、社会的構造の変化(たとえば、厳密に排他的な社会規範を有する孤立した婚姻ネットワーク)が別の原因かもしれないものの、基礎となるモデルパラメータで区別することは難しいだろう、と考えます。初期CW個体群内の最大の遺伝的分化は、ヴリネヴェス(Vliněves)遺跡個体で見られます。ヴリネヴェス遺跡のPC2軸上のCW個体群で最も高い3個体と最も低い3個体間の遺伝的違いは、全ての現代ヨーロッパの人口集団の組み合わせ比較よりも大きくなります(図5)。以下は本論文の図5です。
画像


●鐘状ビーカー(BB)

 最初期のBB個体群は、主成分分析ではCWと類似の位置を占めており(図4B)、ある程度の遺伝的連続性が示唆されます。前期BB個体群(ボヘミアBB前期、平均年代が紀元前2400年以前で、3個体)の遺伝的起源を調べるため、先行する文化的集団と同時代の文化的集団との間の2方向混合としてモデル化されました。その結果、地元起源の裏づけが明らかになりましたが、外来の代替案を除外できませんでした。しかし、本論文のボヘミアBB前期集団はわずか3個体の女性で構成されているので、供給源人口集団を識別するための代表性と解像度が制約されているかもしれません。

 後期BB個体群(ボヘミアBB後期、紀元前2400年以後で、56個体)は、ボヘミアBB前期と比較して有意により多くの中期銅器時代的祖先系統を有する、と明らかになりました。この遺伝的変化を調べるため、ボヘミアBB後期がボヘミアBB前期と地元の中期銅器時代供給源の2方向混合としてモデル化され、ボヘミアBB前期と比較してボヘミアBB後期では追加の20%程度の地元の中期銅器時代的祖先系統の裏づけが見つかりました。

 前期CWとBBで見つかったY染色体系統間では、後期CWもしくはヤムナヤおよびBBの場合より密接な系統発生関係が観察されます。YHg-R1b1a1b1a1a(L151)は前期CW男性では最も一般的なY染色体系統で(11個体のうち6個体)、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の祖先的系統であり(図4A)、BBでは優勢な系統です。YHg-R1b1a1b1a1a2の(複数の)変異がボヘミアの前期CWのYHg-R1b1a1b1a1a男性の1人で生じたのかどうか、判断できませんが、ほとんどのボヘミアのBB男性はさらに派生的なYHg-R1b1a1b1a1a2(S116)とYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)を有しており、何人かはYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)派生的変異を有するイングランドの男性とは対照的です。これは、イギリスとボヘミアのBB男性が相互の子孫ではあり得ず、むしろ並行して多様化したことを示します。YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がボヘミアとイングランドの間のどこか、おそらくはライン川の近くで生じ、その後で北西と東方へ拡大した、とのシナリオは、古代のYHg-R1b1a1b1a1a(L151)の派生的系統の系統地理に関する本論文の理解と一致します。


●EBAウーニェチツェ文化

 ボヘミアにおけるEBAへの移行は、先行する後期BBと比較して、PC2軸の正の変化と関連しています(図4B)。ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)もしくはシベリア西部狩猟採集民(WSHG)を、時空間的に近接するボヘミアにBB後期に加えて第二の供給源として用いると、f3統計の混合は最も負の値となり、ボヘミアウーニェチツェ先古典期への北東部からの寄与が示唆されます。あり得る追加の供給源人口集団の適切な代理を見つけるため、ボヘミア・ウーニェチツェ先古典期が、地元のボヘミアBB後期とPC2軸上のより正の値を示すさまざまな供給源の2方向混合としてモデル化されました。

 その結果、ボヘミアBB後期とヤムナヤ、もしくはボヘミアBB後期とCWを含む混合モデルは却下されました。ボヘミアBB前期63.5%とボヘミアBB後期36.5%の2方向混合モデルは却下できず、前期BB系統からの大きな割合が示唆されます。前期BB系統は後期BB段階(紀元前2400~紀元前2200年頃)ではほぼ標本抽出されていませんが、青銅器時代開始期のあり得る新たな系統を表しています。Y染色体データはさらに大きな置換さえ示唆します。後期BBでは100%だったYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、先古典期ウーニェチツェ文化では20%に減少しており、EBA開始期における少なくとも80%の新たなY染色体の流入が示唆されます。

 しかし、ボヘミアBB前期の解像度が限定的なため(小規模で低解像度で大きな標準誤差)、先古典期ウーニェチツェ個体群について代替モデルが調べられました。ラトヴィアBAを供給源に含めると全てのモデル化が改善し、2つの追加のモデルが裏づけられます。ボヘミアBB後期とボヘミアCW前期とラトヴィアBAの3方向混合は、47.7%という人口集団置換の控えめな推定値を裏づけるだけではなく、先古典期ウーニェチツェで見つかるY染色体多様性も説明し、その中にはボヘミアBB後期のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)と、ボヘミアCW前期のYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびI2と、ラトヴィアBAのYHg-R1a1a1b(Z645)があります(図4A)。

 この新たな祖先系統の地理的起源は正確に特定できませんが、3点の観察結果が手がかりを提供します。第一に、全てのモデル適合性を改善するラトヴィアBA祖先系統は、究極的な北東部起源を示唆します。第二に、YHg-R1a1a1bはEBAの始まりにボヘミア(およびより広範なヨーロッパ中央部)で初めて出現します。YHg-R1a1a1bはそれ以前にはバルト海地域に固定されており、スカンジナビア半島のCW男性で一般的で、北部・北東部からの遺伝的寄与を裏づけます。第三に、ウーニェチツェの遺伝的外れ値であるYHg-R1a1a1bの男性個体VLI051は、青銅器時代(BA)のラトヴィアの個体群と類似しており(関連記事)、北東部からの移住の直接的証拠を提供します。

 先古典期から古典期へのウーニェチツェの遺伝的移行も検出され、それは紀元前2000年頃以後のウーニェチツェ個体群のPC2軸における減少に反映されており、qpWaveとf4統計で確認されました。ボヘミアのウーニェチツェ古典期個体群は、ボヘミアのウーニェチツェ先古典期と地元の銅器時代の供給源の混合としてモデル化できます。後期BBと先古典期ウーニェチツェとの間の遺伝的変化とは対照的に、Y染色体多様性はウーニェチツェの両期間(先古典期と古典期)を通じて類似しており、同化と微妙な社会的変化を示唆します。


●考察

 ボヘミアにおける高解像度の遺伝的時間区間により、文化的集団の前期と後期を区別して個々に研究することが可能となり(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)、草原地帯祖先系統到来前後のいくつかの大きな過程を解明します(図6)。本論文の密な標本抽出により、厳密な文化史的観点を通じて見るならば、文化的集団内の新しく重要でおそらくは「予期せぬ」変化の検出が可能となりました(CWやBBなど)。以前の研究では、新石器時代の始まりと終わりにおける主要な移民の解明としておもに解釈されてきましたが(つまり、侵入集団が遺伝的にひじょうに異なる期間です)、本論文の結果は、追加の大きな遺伝的置換を明らかにします。連続的かつ部分的な同時代の文化的集団の標本抽出により、漏斗状ビーカーとGACの拡大は、ウーニェチツェの起源と同様に、短期間での大きな遺伝的変化を伴っており、おそらくは移住により説明される、と示されます。以下は本論文の図6です。
画像

 前期CWは遺伝的にひじょうに多様で、一部はGACやヤムナヤと似ており、いくつかの個体は以前に標本抽出されたヨーロッパ中央部新石器時代の遺伝的多様性の範囲外に位置する、と示されます。そうした顕著に多様な兆候は、多様な文化的および言語的背景から、考古学的に類似しているものの多民族的もしくは複数社会への人々の密集の結果だった可能性があります。民族自認の重要な要素には、祖先系統と歴史とイデオロギーと言語が含まれます。草原地帯祖先系統の割合が高いか存在しない前期CW個体群間の遺伝的分化の水準(つまり、共通祖先以来の時間)は、長い生物学的孤立と、それ故の異なる歴史を示唆します。前期CWにおけるGAC的およびヤムナヤ的遺伝的特性の発見は、イデオロギー的に多様な社会(つまり、CWとは異なり、GACもヤムナヤも埋葬慣行で強い性差はありませんでした)から来た人々の統合を示唆します。GACとCW/ヤムナヤ個体群が異なる言語を話していた可能性はあり、それが意味するのは、ボヘミアの前期CW社会は明らかに異なる歴史を有しており、イデオロギー的に多様な文化に由来したかもしれず、異なる母語を話す人々が含まれていた、ということです。

 前期CW社会への草原地帯祖先系統を有さない個体群の同化過程は、女性に偏っていました。しかし、草原地帯祖先系統の最高量を有する個体群間でも女性が見つかっており(5個体のうち3個体、図2B)、移住してきたCW個体群間にも女性が存在したか、近隣のヤムナヤ集団から恐らくは同化されたことを示唆します(たとえば、現在のハンガリー)。前期CWにおける草原地帯祖先系統を有さない個体の発見は、先CWにおける草原地帯祖先系統を有する個体よりも一般的です(たとえば、先CWのGACではそうした個体が確認されていません)。同時代のGACとCWとの間の非対称的な遺伝子流動のこのパターンは、自分たちの共同体に重要な在来の知識(つまり、先CW文化からの知識)を有する人々を組み込むことでより多くの利益を得た、新来者(CW集団)を反映しているかもしれません。考古学的記録では、いくつかの地域におけるそうした知識(たとえば、土器製作や石材)の継続性が示されます。

 ヴリネヴェス遺跡は、高い草原地帯祖先系統を有する個体群と草原地帯祖先系統を有さない個体群間の相互作用の解明に重要です。ヴリネヴェス遺跡では、最初期のCW個体(紀元前3018~紀元前2901年頃のVLI076)が見つかっており、VLI076は先CW個体群と遺伝的に最も分化していますが、ヴリネヴェス遺跡の標本抽出された前期CWの15個体のうち3個体は草原地帯祖先系統を有していません。興味深いことに、ヴリネヴェス遺跡とシュタッダイス(Stadice)遺跡の草原地帯祖先系統を有する個体と有さない個体との間の考古学的違いは観察されず、同じ考古学的文化内の、遺伝的に、および恐らくは民族的に多様な個体群の完全な統合が示唆されます。

 前期CWにおけるラトヴィアMN的祖先系統は、前期CWとヤムナヤの男性間で共有されるY染色体の欠如とともに、ヨーロッパ中央部へのCWの起源と拡大における既知のヤムナヤの限定的もしくは間接的役割を示唆します。本論文の結果は、前期CWへのヨーロッパ北東部銅器時代森林草原地帯(考古学的証拠の一部の解釈と一致する地域です)の寄与か、過剰なラトヴィアMN的祖先系統を有するこれまで標本抽出されていない草原地帯人口集団を示唆します。これは、紀元前3000年頃の草原地帯集団間の高水準の遺伝的均質性を考えると、ありそうにないことです。たとえば、ヤムナヤとシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)は、2500km離れているものの、遺伝的にはほぼ区別できません。紀元前4000~紀元前2500年頃のヨーロッパ東部(北東部)の遺骸の大半は標本抽出されておらず、前期CW個体群の正確な地理的起源は理解しにくいままです。

 社会的親族制度は遺伝的多様性のパターンに影響を及ぼすので(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、いくつかの異なる親族制度が紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部に存在したかもしれません。前期CWのひじょうに多様な遺伝的特性(常染色体とY染色体の両方)は、Y染色体パターンが厳密な父系を示唆する後期CWおよびBBとは異なる社会組織を示唆します。これが示唆するのは、さまざまな文化的集団が、多様な形態の物質文化と埋葬慣行を用いたことに加えて、その配偶パターンおよび/もしくは社会組織で表現されているような、異なるイデオロギーに従っていた可能性がある、ということです。これは、部分的に同時代の後期CWとBBとの間の完全に重複しないY染色体多様性の発見により裏づけられ、これら2集団間の父方の大規模な配偶孤立を示唆し、たとえばヴリネヴェス遺跡のように同じ遺跡でさえ見られます。

 先古典期ウーニェチツェ文化の始まりは、究極的には北東部に起源があり、後期CWとBBの性別による埋葬慣行の違いと厳密な父系を破壊した、40%以上の核DNAと80%以上のY染色体の寄与が伴いしました。これは、埋葬慣行でも物質文化でも明らかではありませんでしたが、バルト海地域との根底的なつながりを表しており、バルト海地域は、後に出現する琥珀路と関連する、ボヘミアにおけるEBAの琥珀の究極的な供給源だったかもしれません。したがって本論文の結果は、北東部からの遺伝的影響の2つの主要な期間(前期CWと前期ウーニェチツェ)を示唆し、その時期の人類遺骸の大半はヨーロッパの考古学的記録では標本抽出されていません(たとえば、ベラルーシなど)。

 本論文の結果は、新石器時代からEBAのヨーロッパ中央部の複雑でひじょうに動的な歴史を明らかにし、この期間には人々の移住と移動が急速な遺伝的および社会的変化を促進しました。大規模な人口拡大が、ヨーロッパにおける草原地帯祖先系統の出現の前後に複数回起きました。前期CW社会は多様で、強い文化的および遺伝的移行の最中に出現し、多様な起源とおそらくは民族性の男女が関わっていました。CWとBBとEBAの社会内では、物質文化の連続性にも関わらず、遺伝的変化が生じました。文化的役割が紀元前三千年紀の社会的行動に重要な役割を果たしましたが、究極的には経時的な新たな人々の流入に伴って変化しました。遺伝的多様性のパターンには社会的過程の影響が観察されますが、これらの変化の動因を小規模および大規模両方の地域的水準で特徴づけるには、さらなる学際的研究が必要です。


参考文献:
Papac L. et al.(2021): Dynamic changes in genomic and social structures in third millennium BCE central Europe. Science Advances, 7, 35, eabi6941.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi6941

黒田基樹『下剋上』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、戦国時代の重要な特徴と一般的に考えられている下剋上の実像を個別の事例から検証していきます。下剋上という言葉は戦国時代の前から低頻度ながら使用されており、その意味は、家臣による主君の排除だけではなく、百姓が領主支配に抵抗したり、下位の者が上位の者を殺害したり、分家が本家に取って代わったり、下位の者が上位者を追い越したりすることなど広範でした。共通しているのは、下位の者が主体性を有し、実力を発揮して、上位者の権力を制限したり排除したりすることです。これは時代を超えて普遍的に見られますが、自力救済を基調として、さまざまな水準での戦争が絶えず、社会秩序の流動性が高かった中世ではとくに頻繁でした。その中でもとくに一般的によく知られているのが戦国時代の武家社会の事例で、家臣が主君を排除し、取って代わりました。ただ、戦国時代にそうした行為は頻繁に見られるものの、当時の史料で下剋上と表現されている事例は確認されておらず、それは江戸時代以降となります。

 本書がまず取り上げるのは、戦国時代初期に主殺しを意図して大規模な叛乱を起こした長尾景春です。景春は山内上杉の家宰(家臣筆頭で、主家の家政や分国・領国支配を統括)だった長尾景信の嫡男で、山内上杉の有力宿老である長尾一族の庶流で、孫四郎家と呼ばれています。景春は父の死後、祖父と父が就任した家宰を継承できなかったことから、1477年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)正月、主君の山内上杉顕定に対して叛乱を起こします(長尾景春の乱)。山内上杉の家宰は長尾嫡流か一族の最有力者が就任することになっていたものの(遷代の論理)、享徳の乱を契機に景春の祖父と父が継承したことから、景春とその家臣・与党は孫四郎家を継承した景春が就任すべきと考えたようです(相伝の論理)。伝統的な「遷代の論理」と直近に形成された「相伝の論理」との衝突の結果として起きた長尾景春の乱は、当時の山内上杉方勢力を二分する大規模なものでした。家宰には権益分配の役割も果たし、それを通じて与党が形成されていったわけです。主君の顕定殺害後の景春の政治抗争は不明ですが、顕定に代わる当主を用意していないことから、自らが主君に取って代わろうとしたのではないか、と本書は推測します。しかし、景春は頼みとしていた叔母婿の太田道灌が敵に回ったことにより敗走し、古河公方足利成氏の支援を受けてその支配下に入り、独自の政治勢力ではなくなります。景春はその後も北武蔵で蜂起するなどしぶとく抵抗を続けますが、1480年には武蔵から没落して東上野に退き、これをもって長尾景春の乱は終結したとされます。景春は敗者となったわけですが、景春による叛乱成功の可能性もあった、と本書は指摘します。本書は、長尾景春の乱について、主君としての器量を問題にしたもので、その後もしばしば類例が見られることを指摘します。その後の景春は、短期間和睦したこともあるものの長く顕定に抵抗し続け、その執念は実らず没します。

 伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)は通俗的には下剋上の典型で、出自不明の牢人から戦国大名に成り上がった、と言われていますが、現在の有力説では、室町幕府政所頭人の伊勢氏一族で、下剋上とされてきた行動も幕府中枢と連携したもので、何よりも宗瑞自身は晩年まで今川の一員との意識を強く持ち続けた、とされています。宗瑞は京都で生まれ育ったと考えられ、足利将軍の近臣の一人として活動していました。その宗瑞が駿河に赴いたのは、姉が今川義忠の正室だったからで、宗瑞は今川の一員として関東で独自の勢力を築いていきます。本書は、下剋上とされる宗瑞の行動について、名誉回復的な性格が基底にあったことを指摘します。宗瑞の事績とその背景については、著者の『戦国大名・伊勢宗瑞』を当ブログで取り上げたさいにやや詳しく述べたので(関連記事)、今回は省略します。

 朝倉孝景は室町幕府管領の斯波家の重臣で、朝倉家は基本的には当主に従って在京していましたが、すでに越前に本拠的な所領として一乗谷があったようです。孝景は応仁・文明の乱において、将軍の足利義政の命により西軍から東軍へと鞍替えする約束で1468年に越前に赴きますが、孝景にとっては越前における勢力の確保の方が優先されただろう、と本書は推測します。孝景は1471年に幕府から事実上の越前国主と認められますが、守護に任命されたわけではありませんでした。ここで孝景は明確に東軍への加担を表明して放棄し、敗北しつつも1474年には越前を平定します。朝倉は越前の戦国大名として一般的には有名ですが、その過程は平坦ではなく、とくに斯波家との関係は後々まで問題となり、孝景の死の直後には斯波家を名目的な守護に推戴せざるを得ませんでした。朝倉が名目的にも越前国主としての地位確立するのは、1516年でした。尼子経久は京極家重臣でしたが、主君と対立し、応仁・文明の乱以後の戦乱が恒常化する時代に、一旦は没落しつつも、出雲の領国化を進めていきます。本書は、出雲における尼子と京極の争いは、当主と家宰のどちらが分国と家中の維持を担えるか、という器量をめぐるもので、こうした対立構造は戦国時代には珍しくなかった、と評価しています。経久は出雲を領国化した後、周辺諸国へと勢力を拡大し、西国有数の大名となります。朝倉も尼子も守護家重臣の立場から自立し、実力により領国支配を達成し、主家の影響力を排除して戦国大名化しました。

 越後では1450年から守護の上杉房定が在国するようになり、1471年からは恒常的に在国して領国化が進められました。長尾為景は越後上杉家の家宰で越後守護代でしたが、1507年に主君の房能(房定の三男)と抗争して敗死させ、房能の従兄弟の上杉定実を擁立します。これは先代からの守護と守護代との対立という側面があり、先に仕掛けたのは房能の方だったようです。ここまでの為景の行動は主家における主導権確保と言えそうです。1509年には房能の実兄である山内上杉顕定が越後に侵攻してきましたが、為景は顕定を討ち取って危機を脱しました。1513年、定実は為景を追い落とそうとして両者の抗争が始まりますが、為景が勝って定実を傀儡化し、実質的な越後国主の地位を確立します。為景は1527年には幕府からも守護家相当の地位を認められますが、この後に守護一族の叛乱や内乱が起きて為景の求心力が低下し、一方で定実の発言力が強まるなか、為景は1540年には嫡男の晴景に家督を譲ります。その後も続く越後の内乱の中で晴景と弟の景虎(上杉謙信)が対立し、定実の仲介により景虎が家督を相続します。定実は1550年に没し、後継者がいないため越後上杉家は断絶し、この直後に景虎は幕府から守護家相当の地位を認められ、1551年には越後を領国化します。越後長男家は親子二代にわたって下剋上に成功したことになりますが、主君とその一族からの抵抗は執拗で、主家との関係は微妙でした。景虎がそれを克服できたのは、主家に後継者がなく断絶した、という幸運があったからでした。越後の戦国大名としての地位を確立した景虎にとって、越後の上杉一族との関係が問題として残りましたが、景虎が山内上杉憲正の養子として家督を継承し、関東と越後の上杉一族全体の惣領家の当主になったことで解決しました。

 斎藤利政(道三)は、他国から美濃に来て長井家に仕えてその一族となった父の長井新左衛門尉(豊後守)の息子で、親子二代かけて美濃国主に成り上がる下剋上を達成したことになります。長井新左衛門尉は京都妙覚寺の法華宗の僧侶で、還俗して西村の名字を称して長井秀弘に仕えて長井の名字を与えられました。長井新左衛門尉の活動が確認されるのは1526年からで、すでに利政は23歳になっており、当初は新九郎規秀と称していました。当時、美濃では土岐頼武とその弟である頼芸が争っており、土岐家の家宰で守護代は斎藤利良で、斎藤家の家宰である長井家の当主は秀弘の息子である長弘でした。新左衛門尉は長弘とともに主人の斎藤利良から離れて土岐頼芸に加担し、頼芸が勝って斎藤利良は討ち死にしました。この功績が高く評価されたのか、新左衛門尉は土岐家直臣となり、惣領の長井長弘とほぼ対等の地位を認められたようです。新左衛門尉の動向が確認されるのは1528年までですが、その後に豊後守を称しており、1532年頃まで活動していた可能性がある、と本書は推測します。息子の長井新九郎規秀が登場するのは1533年以降で、1535年までには長井長弘の嫡男の景弘を滅ぼして長井惣領家の地位を獲得していた、と推測されます。1535年、土岐頼武の嫡男の頼充が六角と朝倉の支援を得て美濃に復帰しようとして、美濃は内乱に陥ります。長井新九郎規秀は頼芸方の中心人物として活動し、斎藤利政と名乗るようになります。これは、頼芸から斎藤名字を与えられて斎藤一族の立場に引き上げられたからだろう、と本書は推測します。さらに利政は出家して法名道三と称していますが、その後還俗しています。1538年9月には頼芸と頼充の間に和睦が成立しましたが、頼充は美濃での在国を続けたので、頼芸にとっては妥協の結果でした。1539年に利政は斎藤一族の中でも、さらには土岐家の家臣の中でも第三位の地位にまで昇ります。頼芸と頼充は再び対立し、利政は1544年には頼充を尾張に追いやりますが、頼充は尾張の織田信秀の支援を受けて美濃に侵攻します。1546年9月、頼芸と頼充の間に再度和睦が成立し、頼充は頼芸の後継者とされます。頼芸と利政には、六角と朝倉と斯波(中心勢力は尾張の織田信秀)の支援を受けた頼充と戦う実力が備わっていなかった、と考えられます。利政は娘を頼充に嫁がせますが、1547年11月には頼充が急死し、後世には利政による毒殺と伝わりますが、当時の史料からは利政の関与はなかった、と考えられます。しかし、利政が土岐一族を粛清していったのは事実でした。この過程で利政は斎藤正義を暗殺し、斎藤家惣領の利茂も討った可能性が指摘されています。これにより、利政は斎藤家惣領に取って代わる存在となり、当主の頼芸に次ぐ地位に昇ります。利政は強引な手段で1548年までには美濃の戦乱を収拾し、1549年5月には再度出家して道三と称します。この間、利政は尾張の織田信秀と激しく抗争するようになり、頼充の妻だった自分の娘を信秀の嫡男である信長に嫁がせることで、和睦を結びます。信長の妻となった道三の娘は、1573年12月25日に死去したと推測されているそうです。こうして国外勢力との同盟を成立させた道三は、事実上美濃の戦国大名となり、1551年10月頃には頼芸を国外に追放し、幕府からも事実上承認されました。本書は、下剋上により戦国大名化した人物でも道三が最も大きな成り上がりだった、と評価します。道三は息子の利尚(范可、高政、義龍)に家督を譲ったと一般的には言われていますが、本書は、道三は利尚に家督を譲ったわけではなく、利尚と対立して戦い討ち取られた、と推測しています。本書は、能力と功績により身分を大きく上昇させていった道三は、織田信長や羽柴秀吉といった後の人々の意識に大きな影響を与えただろう、と推測します。

 陶晴賢(隆房)は西国最大の戦国大名だった大内義隆の家宰で、周防守護代でした。隆房と義隆の対立が明らかになってくるのは1548年7月頃からです。1543年に尼子との戦いで大敗して以降の義隆は軍事行動に消極的になり、それに隆房は不満だったようです。隆房の謀反の動きは大内家中ではすでに知られているようになっていましたが、義隆は長くその可能性を信じなかったようです。義隆は主君失格と判断した隆房は、1551年8月に挙兵して義隆を自害に追い込み、義隆の嫡男の義尊も殺害しました。しかし、隆房は自らが主家に取って代わろうとしたわけではなく、豊後の戦国大名である大友義鎮(宗麟)の弟である晴英(大内義長)を後継者に迎えて、晴賢と改名します。晴英は以前に義隆の養嗣子として迎えられる予定でしたが、義尊が誕生したため、取り止めになりました。この謀反に毛利も加担していましたが、備後の所領をめぐる問題で陶と毛利との関係は悪化し、晴賢は1555年10月の厳島合戦で毛利元就に敗れて戦死します。本書はこの背景に、主殺しにより信用を失ったこともあるのではないか、と推測します。下剋上とはいっても、身分秩序や主従関係の意識がまだ強固だった時代には、主殺しの有無で周囲の反応が大きく変わったのではないか、というわけです。

 戦国時代における幕府の統治地域はほぼ畿内に相当し、これが「天下」の範囲と認識されるようになりました。この「天下」における下剋上の最初が三好長慶(範長)となります。三好家は管領細川家(京兆家)の家臣で、長慶は晴元に仕えていましたが、晴元と氏綱の細川家の内乱において晴元と対立するようになり、晴元に対する優位を確立して細川家から自立し、幕府直臣となって畿内における戦国大名としての地位を確立していきます。長慶は1553年8月に将軍の足利義輝を京都から近江に追放し、実質的に「天下」を統治しました。これは、長慶がすでに幕府の政治秩序に依拠せず戦国大名として独自の領国支配を展開していたため、可能になったことでした。朝廷も長慶の「天下」統治に依存するようになります。しかし、足利将軍家の存在を否定し続けることはまだ難しく、将軍家とその支援勢力の反撃を受けて、1558年11月に和睦して義輝を京都に帰還させます。とはいえ、その後も長慶の領国支配は継続されました。長慶の「天下人」としての期間は短く、また1564年に一族の分裂が兆す中40代で没し、三好は内紛で没落していったので、一般的な評価はあまり高くないかもしれません。しかし、京都に将軍が不在で、将軍相当の人物も存在しない状況において、長慶が事実上の「天下人」となっていた期間が確かにあったわけで、これは後の織田信長による「天下」統治の直接的な前例となりました。長慶は、「天下」を統治する「天下人」には相応しい器量が求められ、特定の家系による世襲という観念が相対化される重要な契機を作った、と本書は評価します。

 織田信長について、本書は典型的な下剋上の連続だった、と評価します。信長の織田家は、尾張守護の斯波家の重臣で守護代の清須織田家の重臣でした。信長の父の信秀は、すでに事実上尾張を代表する力な勢力になっていましたが、清須織田家や国主の斯波家との主従関係が完全に解消されていたわけではありませんでした。信長が幕府の政治秩序における「斯波家の代官」との立場を克服したのは、1568年に足利義昭を奉じて入京し、義昭を将軍職に就けて幕府を再興してからでした。この頃の信長は幕府内部に深く関わることを忌避していたようですが、それは、「天下」統治が将軍義昭の管轄で、自身は尾張・美濃・近江の戦国大名として支える立場を選択下からだ、と推測されています。「天下」統治を担っては、戦国大名として領国統治が疎かになり、自己の存立基盤を失いかねないと恐れたのではないか、というわけです。しかし現実には、朝廷は実力者の信長を頼り、信長は「天下」統治に関わらざるを得ず、その結果として次第に信長と義昭近臣との間に対立が生じます。信長はその後、対立した義昭を追放し、自ら「天下」を統治することになり、これは三好長慶と同様です。ただ、信長も当初は幕府秩序の全否定を考えておらず、義昭の息子(義尋)を将軍家後継としていました。信長と長慶との最大の違いは、信長が朝廷から足利将軍家と同等の身分を獲得し、名実ともに「天下人」の地位を確立したことです。信長が1582年6月2日の本能寺の変で横死した後、「天下人」の地位を獲得したのは、信長の家老だった羽柴秀吉でした。秀吉は主君を傀儡化し、対立した織田家当主の信雄を降伏させ、公卿となることで「天下人」としての地位を確立しました。秀吉の羽柴(豊臣)政権下で最大の大名だった徳川家康は、秀吉の死後に主君である秀吉の息子の秀頼を傀儡化し、関ヶ原合戦を経て秀頼を実質的には一大名の地位に追い落とし、将軍に就任することで主家からの自立を図りました。しかし家康は、織田信雄を配下に組み込んだ秀吉とは異なり、旧主家の羽柴家を完全に取り込むことはできず、1615年に羽柴家を滅ぼします。これにより、江戸幕府を中核とする新たに政治秩序が確立し、下剋上は封印されます。

 本書は最後に、下剋上の特徴をまとめています。主君に取って代わるさいに必ず生じる問題は、主殺しや追放や傀儡化や当主挿げ替えなどといった主君の扱いです。下剋上が横行したとはいえ、身分制社会の戦国時代において、これらの行為は本来容易には社会で容認されないものでした。しかし、戦線の恒常化により、そうした行為が頻出するとともに、一定程度許容されていきました。とはいえ、上述のように主殺しへの視線はとくに厳しいものでした。こうした下剋上の正当化に用いられたのが、幕府からの国主・守護相当の家格の獲得でした。足利義昭が追放されて以降は、「天下人」の地位は朝廷の官職により正当化され、「天下人」としての信長の後継者となった羽柴秀吉は、官位を明確な政治秩序編成の手段としました。この頃には、一族による当主の地位をめぐる内紛はあっても、家臣が取って代わる下剋上は見られなくなっていきます。本書はこの背景として、個々の戦国大名家の領国の広域化と継続性により、戦国大名としての枠組みが確固たるものになっていたことと、統一政権の出現を挙げます。「天下人」たる羽柴秀吉による戦国大名の従属や討滅で「天下一統」が達成されると、大名家の地位は実力ではなく統一政権の承認に基づくようになり、自力解決が制御されることで、下剋上は封じ込められていきます。本書は下剋上を、社会秩序が流動化したなかで、社会に求められた器量をもとに、実力により社会的地位を獲得する行為だった、と評価します。

ワラセアの中期完新世狩猟採集民のゲノム解析

 ワラセア(ウォーレシア)の中期完新世狩猟採集民のゲノム解析結果を報告した研究(Carlhoff et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)は、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセアを通って、遅くとも5万年前頃(関連記事)、早ければ65000年前頃(関連記事)にはサフルランドに到達しました。

 現時点で、ワラセアにおける現生人類最初の考古学的証拠は45500年前頃のスラウェシ島における具象的芸術にまでさかのぼり(関連記事)、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟における行動変化は47000~43000年前頃に起きました(関連記事)。ワラセアで最古となる現生人類の骨格遺骸は13000年前頃のものです。現生人類がどのような経路でサフルランドに到達したのか、まだ明らかになっていません。

 人口統計学的モデルでは、オセアニア集団とユーラシア集団の祖先間の人口集団分岐は58000年前頃、パプア人とオーストラリア先住民の祖先間の分岐は37000年前頃と推定されています(関連記事)。この期間に、現生人類は種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)関連集団と複数回混合し(関連記事)、他の未知の人類と混合した可能性も指摘されています(関連記事)。

 アジア南東部本土は、考古学的記録が乏しく、熱帯気候のため古代DNAの保存に適していないので、古代ゲノムデータは少ないものの、ラオスのファ・ファエン(Pha Faen)遺跡とマレーシアのグア・チャ(Gua Cha)遺跡のホアビン文化(Hòabìnhian)関連の狩猟採集民個体の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)が明らかになっており、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人と最も高い類似性を示します(関連記事)。

 これらの古代人および現代人は、パプア人ほどデニソワ人関連祖先系統を有しておらず、ホアビン文化およびオンゲ人関連系統は、デニソワ人関連集団から現生人類への主要な遺伝子移入事象の前に分岐した、と示唆されます。ワラセアの現代人のデニソワ人関連祖先系統の割合はホアビン文化関連個体やオンゲ人よりも多いものの、パプア人やオーストラリア先住民よりもかなり低くなっています。これは恐らく、ワラセアに4000年前頃に到来したアジア東部新石器時代農耕民(オーストロネシア語族話者)との混合に起因します(関連記事)。


●リアン・パニンゲ鍾乳洞

 ワラセアの完新世狩猟採集民と関連する最も特徴的な考古学的遺物は、トアレアン(Toalean)技術複合に分類されます。トアレアン文化はスラウェシ島南部の1万㎢の地域にのみ見られ(図1b)、一般的に、背付き細石器と「マロス尖頭器(Maros points)」と呼ばれる小型投擲石器により特徴づけられます。2015年に、スラウェシ島南部のマロスのマラワ(Mallawa)地区のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発掘が行なわれ、厳密にトアレアン文化と関連づけられる最初の比較的完全な埋葬人類が発見されました。

 この個体は、豊富な先土器トアレアン層で屈曲した状態で埋葬されていました。約190cmの深さで露出した埋葬遺骸は、カンラン属種(Canarium sp.)の種の放射性炭素年代測定により、7300~7200年前頃と推定されました。この人類遺骸の形態学的特徴から、17~18歳の女性で、広くオーストラロ・メラネシア人との類似性を有するものの、最近のアジア南東部の変異の範囲外に位置する、と示唆されました。以下は本論文の図1です。
画像


●ゲノム解析

 リアン・パニンゲ鍾乳洞で発見された7300~7200年前頃の人類遺骸(以下、LP女性)の側頭骨錐体部から、DNAが抽出されました。その結果、ヒトゲノム全体で約300万ヶ所の一塩基多型が濃縮され、ほぼ完全なミトコンドリアゲノムが得られました。1240 Kパネルでは263207ヶ所の一塩基多型が、古代型混合パネルでは299047ヶ所の一塩基多型が回収されました。遺伝的にも、LP女性は女性と確認されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はMの深い分岐と示唆されました。

 まず主成分分析により、LP女性のゲノムが、アジア東部および南東部とオセアニア(オーストラリア先住民とパプアニューギニアとブーゲンビル島)の現代人と比較されました。次に、ユーラシア東部の古代人が主成分分析で投影されました。LP女性は、現代人もしくは古代人が占めていない主成分分析空間に位置しますが、大まかにはオーストラリア先住民とオンゲ人との間に位置します(図2a)。f3統計(ムブティ人;LP女性、X)では、Xがアジア太平洋地域の現代人集団で検証され、LP女性はニアオセアニア個体群と最も遺伝的浮動を共有する、と示唆されました(図2b)。これらの結果はf4統計でも確認され、ニアオセアニア集団がLP女性を除外するクレード(単系統群)を形成するにも関わらず、LP女性とパプア人のアジア現代人への同様の類似性が示唆されます。この地域の全現代人集団はママヌワ人(Mamanwa)とレボ人(Lebbo)を除いて、パプア人関連祖先系統からわずかな寄与しかありません。

 デニソワ人関連集団に起因する遺伝的寄与の存在と分布を調べるため、f4統計(ムブティ人、デニソワ人;LP女性、X)が実行され、Xはアジア南東部島嶼部とニアオセアニアとアンダマン諸島の現代人およびアジア太平洋地域の古代人が対象とされました。ニアオセアニア集団で得られた正の値は、LP女性よりも高いデニソワ人関連祖先系統を示唆していますが、オンゲ人と残りの古代人は負の値を示し、デニソワ人関連祖先系統のより低い割合が示唆されます。

 f4比統計でデニソワ人の割合が推定され、デニソワ人祖先系統量は、オーストラリア先住民とパプア人が類似している(約2.9%)のに対して、LP女性はそれよりも低い2.2±0.5%と確認されました。LP女性におけるデニソワ人との混合割合は、ファ・ファエン遺跡とグア・チャ遺跡のホアビン文化関連の2個体よりも高く、ワラセアとスンダ大陸棚の狩猟採集民の祖先集団が、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)と異なる遺伝子移入事象に関わった、と示唆されます。

 さらに、現代人における古代型祖先系統の寄与を測定するために設計された一連の一塩基多型でD統計が実行されました。その結果、LP女性が、パプア人と共有するデニソワ人関連アレル(対立遺伝子)は少ないものの、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類個体(関連記事)を含む、ほとんどの検証集団よりもそうしたアレルを多く有している、と示されました。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来と推定されるアレルの共有は、検証された非アフリカ系現代人集団全てで類似していました。古代型混合の一塩基多型セットでadmixfrog(関連記事)が実行され、LP女性のゲノム全体に分散する33ヶ所の断片で2240万±190万塩基対が測定されました。このデニソワ人からの寄与は、パプア人集団で見られる量の約半分ですが、LP女性とニアオセアニア現代人集団のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片には有意な相関があり、共有された遺伝子移入事象が示唆されます(図2c)。以下は本論文の図2です。
画像

 主成分分析でニアオセアニア集団からLP女性が明らかに離れていることは、遺伝的浮動だけに起因するのかどうか調べるため、f3(ムブティ人;LP女性、X)として測定された遺伝的類似性に基づいて多次元尺度構成プロットが実行されました。LP女性の多次元尺度構成プロットは主成分分析を要約し、LP女性はパプア人とアジア人の中間に位置します。次に、f4統計とqpWaveを用いて、パプア人関連祖先系統以外のLP女性における追加の遺伝的供給源の存在が検証されました。その結果、古代アジア人のゲノムへのわずかな類似性と、デニソワ人および/もしくは古代アジア人集団がqpWave参照集団に含まれる場合の少なくとも2つの祖先系統の流れが識別されました。

 これらの結果に基づいて、qpAdmを用いて、パプア人関連構成要素とともに、LP女性のゲノムにおけるアジア人関連祖先系統のあり得る供給源が識別されました。さまざまなアジア人集団間で循環手法を用いると、LP女性のゲノムをパプア人と田園洞窟個体(51±11%)もしくはオンゲ人(43±9%)の混合としてモデル化できました(図3a)。現代人集団および関連する古代人を含む、qpGraphとTreeMixで組み込まれた混合図でのさらなる調査により、深いアジア人祖先系統の存在の証拠が提供されました(図3b・c)。

 TreeMixでは、最初の混合端はデニソワ人関連集団からLP女性とニアオセアニア現代人集団の共通祖先への古代型遺伝子移入を表しています。その後、中国南東部の前期新石器時代農耕民のゲノムを表す、福建省の斎河(Qihe)遺跡の個体(関連記事)を基点として、アジア東部人関連の遺伝子流動がLP女性に起きました(図3b)。qpGraph分析により、この分岐パターンが確認され、LP女性はデニソワ人からの遺伝子流動後にニアオセアニア集団クレードと分岐したものの、最も支持される接続形態は、LP女性のゲノムへの約50%の基底部アジア東部人構成要素を示唆します(図3c)。以下は本論文の図3です。
画像


●考察

 LP女性のゲノム規模分析により、ほとんどの遺伝的浮動がニューギニアおよびオーストラリア先住民の現代人集団で共有されている、と示されます(図2b)。しかし、このトアレアン文化関連とするLP女性のゲノムは、以前には報告されていなかった祖先系統特性を表しており、一方は、オンゲ人関連系統およびホアビン文化関連系統の分岐した後に、パプア人およびオーストラリア先住民集団と同じ頃に分岐した系統です(図3b・c)。LP女性が、遅くとも5万年前頃となるサフルランドへの最初の人類移住の前にスラウェシ島に存在した局所的祖先系統を有している可能性はありますが、この人口集団がスラウェシ島南部の岩絵(関連記事1および関連記事2および関連記事3)を描いたのかどうか、分かりません。

 LP女性はかなりの量のデニソワ人関連祖先系統を有しており、おそらくはニアオセアニア現代人集団と古代型混合を共有しています(図2c)。これは、現生人類がサフルランドに到達する前に起きた主要なデニソワ人関連の遺伝子流動への強い裏づけを提供し、ワラセアとスンダ大陸棚がこの古代型遺伝子移入事象の同等の可能性の候補地となります。しかし、スンダ大陸棚ドの既知の狩猟採集民ゲノムは、ほぼデニソワ人関連祖先系統を有しておらず、古代型遺伝子流動後のアジア南東部へのホアビン文化関連集団の拡大か、ワラセアがじっさいに絶滅ホモ属と現生人類との重要な遭遇地点だったことを示唆します。

 スラウェシ島南部は古代型人類集団が明らかに長く存在した地域で(関連記事)、この古代型遺伝子移入事象の候補地となります。以前の研究では、深く分岐したデニソワ人系統がパプア人の祖先と混合したと示唆されましたが(関連記事1および関連記事2)、本論文のゲノムデータには、1回もしくは複数回の遺伝子移入の波を区別するのに充分な解像度はありません。

 LP女性におけるパプア人やオーストラリア先住民よりも低いデニソワ人祖先系統の量は、ニアオセアニア集団の共通祖先へのデニソワ人祖先系統との追加の混合か、デニソワ人関連祖先系統が少ないか存在しない祖先系統との混合を通じての、LP女性のゲノムにおけるデニソワ人関連祖先系統の希釈の結果かもしれません。本論文のアレル頻度に基づく分析は、前者の仮定を裏づけず、後者の仮定を支持します。アジア全域の新石器時代前のゲノムの不足により、この遺伝子流動事象の正確な供給源と混合割合を定義することが妨げられます。

 しかし、再構築された人口集団系統樹(TreeMixおよびqpGraph)が、アジア東部本土からの中期完新世スラウェシ島への遺伝的影響を示唆するにも関わらず、本論文のqpAdmモデル化が、アンダマン諸島現代人と関連する集団からのアジア南東部の寄与を除外できないことは注目に値します(図3)。これは古代のオンゲ人関連人口集団と田園個体関連人口集団との間でのアジア全域の広範な混合を報告する最近の研究と一致します(関連記事 )。しかし、ワラセアからの中期完新世狩猟採集民であるLP女性におけるこの型の祖先系統の存在は、アジア人関連の混合がオーストロネシア語族社会のワラセアへの拡大のずっと前に起きた可能性を示唆します。

 検証された現代人集団では、LP女性の祖先系統の証拠は検出できませんでした。これは、ワラセアにおけるニアオセアニア関連祖先系統の全体的な限定的割合か、より早期の狩猟採集民と現代人集団との間の大規模な遺伝的不連続性に起因する可能性があります。後者の想定では、LP女性と関連するあらゆる遺伝的兆候は、オーストロネシア人の拡大を含む後の人口統計学的過程により覆い隠された、と提案されます。この独特な祖先系統特性と、より一般的にワラセアの狩猟採集民の遺伝的多様性をさらに調べるには、スラウェシ島の現代人集団からのより高い網羅率の遺伝的データと、追加のトアレアン文化関連の古代人のゲノムが必要です。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、スラウェシ島南部という低緯度地域で発見された7000年以上前の人類遺骸のゲノム解析結果を報告した点で、大いに注目されます。何よりも興味深いのは、LP女性の遺伝的構成および他集団との遺伝的関係です。LP女性の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。

 このLP女性の遺伝的構成はこれまで知られておらず、現代人集団でもLP女性的な祖先系統は検出されていませんが、検証対象を拡大して網羅率を高めることで、今後現代人集団でLP女性的な祖先系統が見つかる可能性もあるとは思います。ただ、見つかったとしても、LP女性的な祖先系統を主要な遺伝的構成とする現代人集団はいないでしょう。その意味でも、LP女性的な集団は(ほぼ)絶滅してしまった可能性が高そうです。

 最近、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された10686~10439年前頃の現生人類個体(隆林個体)は未知の遺伝的構成を示し、現代人には遺伝的影響を残していない、と報告されました(関連記事)。後期更新世~中期完新世にかけて、アジア東部南方やアジア南東部には遺伝的に大きく異なる複数の現生人類集団が存在したようです。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、遺伝的分化が進みやすかったのだと思います。

 完新世になると、農耕開始による人口増加とその圧力、さらには気候温暖化により通交が容易になったことなどで、ユーラシア規模で現生人類集団の遺伝的均質化が進み(関連記事)、ほぼ絶滅した集団も珍しくはなく、LP女性も隆林個体も、そうした集団を代表する個体だった可能性が高そうです。もっとも、こうした置換は更新世においても珍しくなかったようで、かつてアムール川地域も含めてアジア東部北方に広く存在したと考えられる田園個体的な集団は、少なくともアムール川地域ではLGMまでに置換されたようです(関連記事)。むしろ、完新世よりも気候が不安定だった更新世の方が、人類集団の絶滅は頻繁だったかもしれず、それは現生人類に限らずネアンデルタール人やデニソワ人でも起きたことでしょう(関連記事)。

 本論文のLP女性のゲノム解析で注目されるのは、パプア人やオーストラリア先住民やオンゲ人など、オーストラレーシア人の現生人類進化史における位置づけです。本論文は、古代のオンゲ人関連人口集団と田園個体関連人口集団との間でのアジア全域の広範な混合を示唆し、オーストラレーシア人はユーラシア東西系統の分岐後にユーラシア東部系統内でアジア東部系統と分岐した、と推定します。一方、最近の研究では、まずオーストラレーシア人がユーラシア東西集団の共通祖先と分岐した、と推定されています(関連記事)。

 こうした矛盾するように見える結果をどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、パプア人が、ユーラシア東部系統内で早期にアジア東部系統と分岐した可能性と、ユーラシア東西系統の分岐前に分岐した系統(適切な名称ではありませんが、仮に「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びます)とアジア東部系統との45000~37000年前頃の均等な混合として出現した可能性は同等である、と指摘した研究です(関連記事)。後者は、出アフリカ現生人類の系統樹において位置づけの異なる系統間の混合によりオーストラレーシア人が形成されたことを意味します。ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が非アフリカ系現代人でほぼ同じであることから、原オーストラレーシア祖先系統とユーラシア東西の共通祖先系統との分岐は、現生人類とネアンデルタール人との主要な混合の後だったでしょう。

 この仮定は、Y染色体ハプログループ(YHg)との関連でも注目しています。オーストラレーシア人のYHgでは、アンダマン諸島人がほぼD(D1a2b)なのに対して、オーストラリア先住民とパプア人ではK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっていますが、田園個体がYHg-K2bなので、オーストラリア先住民とパプア人のYHg-K2はアジア東部祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団に由来するかもしれません。YHg-Cは、遺伝的にアジア東部系に近いヨーロッパの4万年以上前の集団でも確認されているので(関連記事)、こちらもアジア東部系集団に由来するかもしれませんが、YHg-Cは分岐が早いので、原オーストラレーシア系集団にも存在していて不思議ではないと思います。

 アンダマン諸島人がほぼYHg-Dで、ホアビン文化集団でもYHg-Dが確認されていることから(関連記事)、原オーストラレーシア祖先系統が主要な遺伝的構成要素だった集団では、元々YHg-Dが多く、アンダマン諸島人の祖先ではアジア東部系集団と混合してもYHg-Dが残ったのに対して、オーストラリア先住民とパプア人の共通祖先ではYHg-Dが消滅したのかもしれません。ご都合主義的な推測ではありますが、YHgは置換が起きやすいので(関連記事)、無理な想定ではないと思います。

 アジア東部系集団と原オーストラレーシア系集団がいつどのようにアジア南東部やワラセアやオセアニアに拡散してきたのか、現時点では不明で、この私見に基づいて考古学的知見を整合的に解釈できるような見識と能力は現時点でありません。それでもあえて推測すると、アジア東部系集団に関しては、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。原オーストラレーシア系集団は、ユーラシアを南回りで東進してきた可能性が高そうです。

 オーストラレーシア人関連祖先系統は、アジア東部でも北方の遼河地域で確認されており(関連記事 )、さらには南アメリカ大陸先住民でも確認されています(関連記事)。原オーストラレーシア祖先系統は、アジア東部祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団との複雑な混合により、ユーラシア東部沿岸に広まったのかもしれません。パプア人もオーストラリア先住民も原オーストラレーシア祖先系統とアジア東部祖先系統との混合により形成されたとすると、LP女性の祖先系統の起源もかなり複雑なものになりそうです。

 原オーストラレーシア祖先系統が主要な遺伝的構成要素だった集団は、隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸などから推測すると、かなり頑丈な形態だった可能性があります。ただ、原オーストラレーシア系集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 以上、まとまりのない私見がやや長くなってしまったので、今回はここまでとして、述べ忘れたことは今後機会があれば言及するつもりです。この試験が的外れである可能性は低くありませんし、仮にそうでなくとも、かなり単純化した話になっており、じっさいの人口史はずっと複雑なのでしょう。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人との間の関係さえ複雑と推測されていますから(関連記事)、現生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないでしょうが、上述のように現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。

 オーストラレーシア人の出アフリカ現生人類進化史における位置づけは、デニソワ人と現生人類の混合が起きた場所・年代・回数の問題とも関連して、かなり複雑です。本論文も示唆するように、デニソワ人がスラウェシ島に存在した可能性も低くはないでしょう。もしそうならば、デニソワ人は高地から熱帯環境まで適応できたことになり、現生人類に次いで多様な環境に適応できた分類群かもしれません。それは、デニソワ人系統では遺伝的分化が進んでいたことも示唆しており、それもデニソワ人と現生人類との混合の解明を難しくしているのかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:ウォーレシアの古代人DNAが回収された

 新石器時代以前のウォーレシアの狩猟採集民のゲノム規模のデータについて記述された論文が、今週のNature に掲載される。今回の研究で、初めてのウォーレシアの古代ヒトゲノムデータが得られ、東南アジアでの人類の定住を解明するための新たな手掛かりになった。

 ウォーレシアは、主にインドネシアの島々(スラウェシ島、ロンボク島、フロレス島など)からなる島嶼の一群である。この地域では、化石が少なく、熱帯気候のために古代DNAが分解しやすいため、この地域の現生人類の集団史はほとんど分かっていない。現生人類は、少なくとも5万年前にウォーレシアを経由してオーストラリア大陸へ移動したが、ウォーレシアにおける人類の存在を示す最古の考古学的証拠は、それより後の時代のもので、その一例が、少なくとも4万5500年前のものとされるスラウェシの洞窟壁画だ。

 今回、Adam Brumm、Selina Carlhoffたちは、インドネシアの南スラウェシにあるLeang Panninge鍾乳洞で骨格の残骸が発見されたことを報告している。これは、若い女性のものとされ、約7200年前にToaleanの埋葬複合体に埋葬されていた。錐体骨から回収したDNAの解析が行われ、この女性が、東アジア集団よりも現代の近オセアニア集団に近縁な集団に属していたことが明らかになった。ただし、この女性のゲノムは、未知の分岐したヒト系統のゲノムであり、地球上の他の地域では見つかっていない。

 著者たちは、この若い女性の祖先が、現生人類が到来した時からスラウェシ島で生活していた可能性があるという考えを示しているが、この祖先の集団が、スラウェシ島南部で洞窟壁画を描いていたかどうかは不明だ。


進化学:ウォーレシアで見つかった中期完新世の狩猟採集民のゲノム

進化学:ウォーレシアの人骨から得られた古代ゲノムDNA

 東南アジアは考古学的および古ゲノム学的記録が乏しく、この地域におけるヒト集団史の解明はなかなか進んでいない。今回A Brummたちは、インドネシア・南スラウェシ州のLeang Panninge鍾乳洞で発見された女性の骨格について行った、DNAのゲノム解析結果を報告している。この女性の骨は新石器時代以前のToaleanの埋葬跡から発見されたもので、年代は約7200年前と推定された。錐体骨から抽出したDNAから得られたゲノム規模のデータによって、このLeang Panningeの女性が属していた集団が、現代の東アジア人集団よりも近オセアニア集団に近縁であること、そして、その独特な祖先構成は現在世界のどこにも見られないことが明らかになった。



参考文献:
Carlhoff S. et al.(2021): Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea. Nature, 596, 7873, 543–547.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03823-6

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

北極マンモスの生涯にわたる移動

 北極マンモスの生涯にわたる移動に関する研究(Wooller et al., 2021)が報道されました。日本語の解説記事もあります。マンモスは最も広く研究されている氷河期を象徴する動物の1種であるにも関わらず、化石からだけだと、マンモスの生活における静的で特異的でありがちなことしか推測できないため、自然界でのその生活史についてはほぼ分かっていません。しがたって、マンモスの行動圏や移動範囲、つまり生涯を通してどこをどう移動していたのか、という点については概ね解明されていません。

 しかし、日常的な壮大な距離の移動は親戚である現存するゾウやその他の北極圏の動物の移動パターンの特徴なので、マンモスもそれらと似た行動を取っていた、と考えられます。太古に絶滅したマンモスの移動パターンを潜在的に再構築する一つの方法として、生存中に歯と牙に取り込まれた酸素およびストロンチウム(Sr)の同位体分析を行なうという手段があります。土と植物の中のストロンチウム同位体比(87Sr/86Sr)はその下の基盤地質を反映し、それは地勢にわたって異なります。動物がこれらの植物を食べると、その地域の87Sr/86Srパターンが細胞内に取り込まれます。したがって、マンモスの牙などの生涯を通して伸び続ける組織の中の87Sr/86Sr比は、動物の長期にわたる移動の追跡に使える記録です。

 この研究は、現在のアラスカ本土に17100年以上前に生息していた雄のマンモスの長さ1.7メートルの牙を使用して、高時間分解能同位体記録をまとめ、そのマンモスの28年という生涯の移動の詳細を明らかにしました。この記録により、広大な地理的行動圏内を繰り返し移動した経路が示されたとともに、そのマンモスが28年間でアラスカをあまねく移動し、それはほぼ地球2周に相当することも明らかになりました。またこの結果から、そのマンモスが、群れとともに移動した幼い時期や若い時期、より広い範囲を移動した動き盛りの成体期、最期の数年など、様々なライフステージにしばしば訪れた地域も明らかになりました。このマンモスはアラスカ北部の狭い地域で餓死した、と推測されます。


参考文献:
Wooller MJ. et al.(2021): Lifetime mobility of an Arctic woolly mammoth. Science, 373, 6556, 806–808.
https://doi.org/10.1126/science.abg1134

コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動

 コーカサスの前期更新世のイヌ科動物の社会的行動に関する研究(Bartolini-Lucenti et al., 2021)が報道されました。野生のイヌは中型から大型のイヌ科動物で、いくつかの純肉食的な頭蓋歯の特徴と複雑な社会的および捕食的行動を有しています。つまり、社会階層的集団を構成し、自身と同等以上の大きさの脊椎動物を群れで狩ります。アフロユーラシアでは野生イヌ2種が現存しており、それはインドのアカオオカミ(Cuon alpinus)とアフリカの猟犬リカオン(Lycaon pictus)です。国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種のレッドリストによると、両者はどちらも現在、絶滅危機もしくは絶滅寸前とされています。リカオンとアカオオカミ(ドール)は、いくつかの歯の純肉食的形質や走行性群狩猟に適した骨格や高度に発達した社会的行動の組み合わせのため、それぞれの生息地で頂点捕食者の一種とされています。これら純肉食性イヌ科の進化はまだ不明で、議論されています。

 さらに、絶滅した大型で純肉食性のイヌ科の分類にも大きな混乱があり、さまざまな分類法の命名で呼ばれていました。そうした学名は絶滅分類群との暗黙もしくは提案された類似性を示唆することがよくありますが、系統発生分析に基づくことはめったにありません。分子系統学の結果を考慮すると、リカオンとアカオオカミはイヌ科のクラウングループの姉妹分類群であることは明らかで、クセノキオン(Xenocyon)属の大型の構成員はリカオンとアカオオカミの両方と関連しているかもしれません。本論文は、イヌ(Canis)属とクセノキオン属の両方のうちどちらかとより密接な関係を示唆する名称を避け、より節約的な命名であるイヌ属(クセノキオン属)という名称を優先します。

 純肉食性のイヌ科種の最初の記録は、チベットのザンダ盆地(Zanda Basin)で発見された381万~342万年前頃となるイヌ属(クセノキオン属)種(Canis(Xenocyon) dubius)の片方の下顎骨です(図1の28)。Canis(Xenocyon) dubiusは一般的に、ドール属の系統と関連づけられています。より新しくより完全な標本は山西省の太谷(Fan Tsun、Taigu)県(図1の32)で発見された250万年前頃のイヌ科(Canis(Xenocyon) antonii)です。Canis(Xenocyon) antoniiは大型で、純肉食性への初期の適応を示唆する明らかな歯の特徴を示します。純肉食性の特徴を有する大型イヌ科の他の記録はユーラシア全体でかなり乏しく、前期更新世のアジアにおける純肉食性イヌ科の存在を考えると、分類は困難です。

 200万~180万年前頃に、アフロユーラシアのいくつかの地域でさまざまな形態のイヌ科が出現しました。これらの形態は独特の歯の特徴、つまり拡大した頬側犬歯を伴う広く頑丈な裂肉歯(顎の中央にあって食物を剪断する歯)を示し、頭蓋下顎の特徴(頑丈な下顎と発達した前頭洞)が組み合わされます。ヨーロッパ西部のイヌ科(Canis(Xenocyon)falconeri)や、アフリカのタンザニアやアルジェリアのイヌ科(Canis(Xenocyon)africanus)の西方への分散により証明されているように、歯の適応と組み合わされた大型化は、同時代の中型で中程度の肉食性のイヌ科に対する優位性を決定づけたかもしれません。Canis(Xenocyon)falconeriに分類される祖先的な野生イヌの記録も、多摩川の堆積物から報告されており、年代は210万~160万年前頃です。両分類群間の密接な関係が、現代のリカオンの祖先とみなす研究者たちにより提案されましたが、他の研究者たちから合意は得られていません。

 最近、南アフリカ共和国のクーパーズ洞窟(Cooper’s Cave)で発見された190万年前頃の断片的な頭蓋と、同じく南アフリカ共和国のグラディスヴェール(Gladysvale)洞窟で発見された100万年前頃のほぼ完全な骨格に基づいて、新たなリカオン属種(Lycaon sekowei)が記載されました。しかし、正基準標本とされたクーパーズ洞窟で発見された遺骸のいくつかの形態(高い歯冠の上顎小臼歯や近心咬合面や第四小臼歯プロトコーン舌側の突起、第一大臼歯の相対的な頬舌側の長さなど)により、その分類とイヌ科集団との実際の関係には疑問が呈されています。さらに、その上顎の歯は、大型のイヌ科でおそらくはイヌ科の純肉食性系統に区分されるアジアのイヌ属種(Canis chihliensis)と類似しています。

 前期更新世後半となるカラブリアン期(180万~80万年前頃)には、他のより祖先的な種がアフリカに留まった一方、より派生的な形態のイヌ属(クセノキオン属)がアフロユーラシア世界全域に出現して拡大しました(図1)。そのうちCanis(Xenocyon) lycaonoidesはCanis(Xenocyon) falconeriと似ているものの、より派生的な頭蓋歯的特徴を有する大型のイヌ科で、その最初期の記録はスペイン南部のヴェンタ・ミセナ(Venta Micena)のようです(図1の2)。その不確実な年代にも関わらず、より派生的な形態の大型イヌ科の初期の出現は、この純肉食性種の起源がアジア東部であることを示唆します。

 その後、前期更新世後期および中期更新世初期となる160万~70万年前頃には、Canis(Xenocyon) lycaonoidesがユーラシアの肉食動物分類群の最も一般的で重要な種のひとつとなりました(図1)。さらに、Canis(Xenocyon) lycaonoidesはアフリカにも拡散し、アフリカ北部および東部で発見されています(図1)。頭蓋全体と歯の特徴を考慮して、以前の研究ではCanis(Xenocyon) lycaonoidesは現生リカオン(Lycaon pictus)の近縁と分類されました。この解釈を支持しない研究者もいますが、類似の結論を提示する研究者もおり、現生のアフリカの猟犬の起源がユーラシアにあることを支持しています。

 現生食肉目のうち、リカオン(Lycaon pictus)は最も複雑で構造化された独特な社会的行動を示す動物種の一つです。リカオンに最も近い分類群の一つとされるCanis(Xenocyon) lycaonoidesはユーラシアの猟犬で、リカオンに匹敵する複雑な社会性を有していたかもしれません。以前の研究では、大型種(21.5kg以上)では代謝エネルギー要件により、自身より大きな獲物を捕食しなければならないので、純肉食性イヌ科では協力して狩りをする必要がある、と示されました。このように、直接的証拠が限られていても、絶滅した純肉食性イヌ科の社会的行動を判断できます。それにも関わらず、間接的で推論的な証拠とは別に、ユーラシアの猟犬の社会的行動の直接的証拠が報告されてきました。

 本論文は、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡(図1の22)における最初の野生イヌの証拠を報告します。ドマニシ遺跡は骨格遺骸の豊富さと完全性および保存状態の点で優れた化石記録を保持しており、それは177万年前頃となるサイの歯の化石に基づく分子系統樹を報告した研究により証明されています(関連記事)。本論文は新たに発見された遺骸(177万~176万年前頃)を報告し、それらを分類学的に同定して、イヌ属(クセノキオン属)の前期更新世の多様性の枠内で解釈しました。

 さらに、ドマニシ遺跡では出アフリカ人類のユーラシアにおける最初の直接的(人類遺骸)証拠が得られており(関連記事1および関連記事2)、この集団の複雑な社会性も示唆されています。180万年前頃に同じ場所で社会性の高い2種(人類と野生イヌ)が共存していたことになり、この時期にはこの2クレード(単系統群)がその起源地の中心(人類はアフリカ、野生イヌはアジア東部)から極端に多様化して拡大していることから、これらの種の地理的拡大における社会的行動および互恵的協力の果たした役割が注目されます。以下は本論文の図1です。
画像

 ドマニシ遺跡における大型イヌ科の発見は重要な発見を表しており、前期更新世後半(カラブリアン期)におけるイヌ科の放散に関する現在の知識に重要な情報を追加します。標本の断片化された性質にも関わらず、大型イヌ科標本(D6327)の一連の特徴(図2)により、おそらくは現生アフリカ猟犬の祖先であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesに確実に分類できます。D6327はユーラシアの猟犬の最古の記録となり、カラブリアン期におけるアフロユーラシア世界全体の猟犬の拡散爆発に先行します。以下は本論文の図2です。
画像


●ドマニシ遺跡の猟犬の食性選好

 ドマニシ遺跡の猟犬および他の前期更新世動物の食性適応を検証するため、現生イヌ科(32種247標本)で線形判別分析が行なわれ、2つの摂食集団に分類されました。それは、雑食動物(食性に占める脊椎動物の肉の割合が70%未満で、中~低度の肉食性、27現生種210標本)と、食性がほぼ完全に脊椎動物の肉で構成され、自身以上のサイズの獲物を群で狩る純肉食性動物(4現生種34標本)です。このデータセットのうち、ドマニシ遺跡標本において測定値が利用可能だった7つの指標変数が分析に用いられました。それは、下顎第三小臼歯の長さと幅、下顎裂肉歯の三角錐の長さと幅、第三小臼歯と第四小臼歯の間で測定される顎の深さです。交差検証の結果、判別関数(図3)は98.8%の標本をそれぞれの摂食集団に正しく分類できました(図3)。

 純肉食性動物は雑食性動物と比較して、第三小臼歯が相対的に近遠心側に短く、頬舌側が狭いなどといった特徴があり、以前の分析と一致します。ドマニシ遺跡の大型イヌ科標本D6327は純肉食性動物に分類され、やや新しいスペイン南部のヴェンタ・ミセナの2標本(160万年前頃)も同様ですが、D6327よりも高い純肉食性を示しました。ハラミヨ(Jaramillo)正磁極亜期(106万~90万年前頃)のドイツのウンターマスフェルト(Untermassfeld)遺跡の単一標本は、化石猟犬では最高の肉食性得点を示しており、現生アフリカ猟犬のように純肉食性への適応が進んでいることを反映しています。これらの結果は、ドマニシ遺跡のユーラシア猟犬の頭蓋の特徴が、脊椎動物の肉のみに依存する食性に適していたことを確証します。さらに、Canis(Xenocyon) lycaonoidesの最古の標本(ドマニシ遺跡のD6327)から最も派生的な標本(ドイツのウンターマスフェルト遺跡)にかけての頭蓋歯の適応の漸進的進化があった、と示され、以前の形態学的証拠を裏づけます。以下は本論文の図3です。
画像


●考察

 ドマニシはヨーロッパの門となるコーカサスに位置し、アフリカとユーラシアとの間の交差点に近いので、アフロユーラシア世界における大型動物相交替の時期における、大型動物種の拡散を説明する重要な遺跡となります。またドマニシ遺跡では、180万年前頃となる、人類のアフリカ外における存在とユーラシアへの拡散を示す最初の直接的証拠(人類遺骸)も得られています。本論文は、ユーラシアの猟犬であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesの記録を報告します。これは、より派生的で純肉食性のアジア東部起源となるイヌ科動物の拡散の始まりを証明しており、ドマニシ遺跡では、中程度の肉食性のオオカミ的な種(Canis borjgali)も発見されています。

 カラブリアン期には、Canis(Xenocyon) lycaonoidesはアフロユーラシア世界全体の動物相の共通要素となっており、その時期に北アメリカ大陸にさえ到達しました。この拡散では、ユーラシア猟犬は人類とは逆方向の拡散パターンを示します(ユーラシア猟犬はアジア東部からユーラシア西部とアフリカへ、人類はアフリカからユーラシアへ)。両種の同時の拡散は、アフリカ起源のネコ科の剣歯虎(マカイロドゥス亜科)であるメガンテレオン属種(Megantereon whitei)などの大型肉食分類群とともに、生態学的条件がこの時期にこれらの種の拡散に有利であったことを示唆します。この大型肉食目は、大型の死肉漁り動物である大型ハイエナ(Pachycrocuta brevirostris)と直接的に競合する人類にとって、死肉漁りの重要な供給者として認識されてきました。

 前期更新世後半におけるイヌ属(クセノキオン属)とホモ属の社会的行動では相互援助も重要で、社会性は相互闘争と同じくらい一般的でした。おそらく、絶滅した人類と化石猟犬との間の最も関連する共通の特徴は、両種の互恵的協力についての化石証拠です。これは、ドマニシ遺跡のほとんど歯のないホモ属化石(D3444/D3900)により報告されています。なお、ドマニシ遺跡のホモ属の分類には議論がありますが(関連記事)、本論文ではホモ・エレクトス(Homo erectus)とされています。

 この年配のホモ属個体は、1個を除いて歯を失ってから数年は生きていました。この個体は頭蓋が華奢なので女性と考えられており、死の数年前には固いものや革質のものを噛めず、おそらくは家族の援助に依存していました(図4a)。以前の研究で指摘されているように、この利他的行動は生物学的利他性の形態を超えており、利他的行動や高齢者への配慮が、少なくとも200万年前頃には人類において発達した可能性を示唆します。食肉目では、強力により得られる多くの利点(繁殖成功率と個体生存率の向上、狩猟成功率の向上、より大きな獲物を殺す能力、寄生動物への抑止、仔の養育への協力)を考えると、社会的行動が頻繁に見られます。

 イヌ科には、たとえばハイイロオオカミなどで、全ての哺乳類の社会組織の最もよく知られた例がいくつかあります。おそらくあまり知られていませんが、興味深いのはアフリカ猟犬(リカオン)の事例です。純肉食性のリカオンは、イヌ科でも独特のより複雑で固有の一連の行動を示します。これには、排他的な協力的狩猟、義務的な協力的繁殖、獲物への仔犬の優先的利用、動物で最も多様な発声、「くしゃみ」による合意的な意思決定などが含まれます。多くの研究者は、タイリクオオカミやアカオオカミといった他の社会性イヌ科種と比較して、リカオンでは獲物を食べている間でも、群れの構成員間の攻撃性が低いことを指摘しています。

 化石イヌ科の社会性は多数調べられており、21.5kg以上の大型イヌ科には、自身よりも大きな獲物を殺すために協力して狩る必要がある、と証明されました。ユーラシア猟犬であるCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは、じっさい大型の純肉食性種でした。このユーラシア猟犬の推定身体サイズはリカオン(平均体重が20~25kg)と似ており、推定体重は28kgです。ドマニシ遺跡のユーラシア猟犬個体(D6327)は、若いにも関わらずかなり頑丈で、体重は30kg程度と推定されます。その体重と顕著な純肉食性から、Canis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは現生のタイリクオオカミやアカオオカミやリカオンのように協力的な狩猟戦略を採用した、との見解が支持されます。

 ひじょうに社会的な集団組織のさらなる裏づけは、化石病理学的標本により提供されます。最近の研究では、中華人民共和国河北省の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)の神庙咀(Shanshenmiaozui)で、120万年前頃となるイヌ科化石の怪我が報告されています。そのうち一方の標本は、骨など硬いものを噛んださいに起きたかもしれない歯の感染症の痕跡が見られ、もう一方の標本は脛骨の転位骨折の痕跡を示しますが、このような重症(孤立性肉食動物では致命的です)にも関わらず、外傷が治癒するまで生き延びられました。複雑骨折の治癒には長い期間を要し、外傷によりその後の捕食能力が低下したと考えられることから、社会的狩猟戦略や群れの他の構成員による食料共有といった支援が示唆されます。類似の症状は、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部の後期更新世のダイアウルフ個体群でも検出されました。ダイアウルフは最近、分類がCanis dirusからAenocyon dirusに変更されました(関連記事)。

 多くの研究で現生のオオカミとリカオンの両方について報告されているように、集団の効率性の観点では負担がかかるにも関わらず、現生イヌ科の群れは集団の負傷したかあるいは病気の構成員を一時的に養っているので、更新世のイヌ科で同様の行動が見られても驚くべきことではありません。リカオンの場合いくつかの研究では、獲物を仕留めるにあたって、負傷した個体だけではなく障害を負ったか老齢の個体にも寛容だと報告されています。さらに、障害があるか老齢のリカオンは、吐き戻しを通じて群れの仲間から食べ物を受け取り、これは他のイヌ科では、血縁者やごく稀に非血縁者の仔犬や繁殖期の雌にのみ与える食物の共有方法です。

 化石記録からは、絶滅狩猟犬でも同様の行動の証拠が得られます。障害個体への食料供給の利他的行動は、ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusでも報告されています(図4b)。ヴェンタ・ミセナ遺跡では、下顎骨を有するほぼ完全な頭蓋が発見されました(頭蓋VM-7000)。この頭蓋の個体の年齢は、歯の中程度から重度の摩耗を考慮して7~8歳と推定されました。この標本の最も突出した特徴は、高度な頭蓋の上下の非対称性と、上顎右側犬歯と第三小臼歯と第三大臼歯の無発生などいくつかの歯の異常です。これらの歯は、頭蓋のCTスキャンやX線写真で示されるように、個体の生前に折れたり失われたりしませんでした。上顎右側の犬歯の歯槽は、他の歯と同様にほぼ完全に欠如しています。さらに、右側第二大臼歯は欠損しており、その歯槽は一部再吸収されています。ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinus個体の奇形は、おそらくは前期更新世後半のバザ盆地に生息していた野生イヌの比較的小さな個体群における高水準の遺伝的ホモ接合性に起因します。

 無歯症と頭蓋の両側の非対称性は両方とも、ポーランドなどで、深刻なボトルネック(瓶首効果)と近親交配の対象となる小規模のオオカミの現生集団で記録されています。現代のリカオンの場合、博物館の頭蓋の研究は、前世紀のサハラ砂漠以南のアフリカにおける種の個体数の劇的な減少を記録しており、集団のホモ接合性水準の増加の結果として頭蓋の非対称性の顕著な増加が示されてきました。これは、ヴェンタ・ミセナ遺跡のCanis(Xenocyon) lycaonoidesalpinus頭蓋の奇形が、地理的に他の集団から孤立していた、バザ盆地の猟犬の比較的小さな集団における遺伝的ホモ接合性の高水準の結果としての発達不安定性を反映している、と示唆します。

 さらに、現代のリカオンの有効集団規模は通常、下位個体の繁殖抑制と不均等な性比により、調査された個体数の20~35%にまで減少しています。ヴェンタ・ミセナ遺跡の場合、これもさらなる近親交配とホモ接合性を促進したでしょう。しかし、多くの先天的障害にもかかわらず、VM-7000個体は成体に達することができ、それはおそらく、群れの狩猟活動における能力に影響を及ぼし、あるいは妨げさえしました(図4b)。これは、家族集団の他の構成員からの協力的行動と食料供給こそ、VM-7000個体が成体まで生き延びた唯一の方法だった、と示唆します。家族からの利他的な助けと世話により老齢に達したドマニシ遺跡の人類と同様に、VM-7000個体は成体に達しました。この真に利他的な行動はおそらく、ドマニシ遺跡の猟犬集団にも当てはまりますが、ドマニシ遺跡におけるこの種の記録が少ないため、直接的推論はできません。以下は本論文の図4です。
画像

 したがって、これらの知見は、協力的で利他的な行動の増加が、アフリカとユーラシアと北アメリカ大陸の開けた環境における、ヒトと大型の社会的肉食動物両方の生存と拡散の重要な原因だった、と示唆しているようです。興味深いことに、現時点で、食料共有も含めて集団の他の構成員への利他的行動が証明されている、前期更新世後半のひじょうに社会的な種は猟犬と人類だけです。上述のように、そうした利他的行動は現生のアフリカ猟犬でとくに発達しており、遺伝的異常や病気や高齢から生じる制約のある個体は、家族の他の構成員により助けられ、支えられています。

 Canis(Xenocyon) lycaonoidesalpinusは、群れの構成員に対して協力的で利他的な類似のパターンを示します。ドマニシ遺跡におけるユーラシア猟犬の出現は、この大型であり群れで狩猟をするイヌ科の、最初の、年代のより限定された記録を示しています。他の大型イヌ科が到達したことはない、大陸横断的な広範囲の拡散の成功は、種の構成員間の協力につながる進化的傾向の結果として、これら絶滅猟犬の互恵的協力と利他的性質の利点と関連しているかもしれません。それは、「個体にとって有利になる最良の経路」だった、というわけです。ホモ属とひじょうに社会的なイヌ科はともに、ひじょうに社会的な祖先の子孫で、その祖先は集団で暮らしていました。これは選択ではなく不可欠な生存戦略で、そこから相互援助が出現しました。


 以上、本論文についてざっと見てきました。180万年前頃のドマニシ遺跡の人類がイヌ科動物を家畜化していたわけではありませんが、死肉漁りなどにおいて、人類にとってイヌ科動物は身近で競合的な存在だったと考えられ、200万年前頃かそれ以前からの長期にわたって観察機会が多かったのではないか、と推測されます。イヌは人類にとって最初の家畜化動物で、それも他の種よりもずっと早かったと考えられますが、これはイヌ科動物が人類にとって長きにわたって身近な存在だったからなのでしょう。また本論文は、社会性の発達が大きく異なる種で独立して起きることを改めて示しています。上述のように、ドマニシ遺跡で発見された177万年前頃のサイの化石ではプロテオーム解析に成功しており、ドマニシ遺跡のイヌ科遺骸でも成功すれば、本論文では曖昧とされた進化系統樹における位置づけをより明確にできるかもしれないので、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:ヨーロッパにおいて、有史以前の猟犬は初期人類のそばで暮らしていた可能性

 ジョージアのドマニシで最近発見された有史以前の猟犬の遺骸が、ヨーロッパに猟犬が到来したことを示す最古の証拠なのではないかという知見を示した論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、この猟犬が、同じ場所で発見された初期人類のそばで生活していた可能性を示唆している。

 今回、Saverio Bartolini-Lucentiたちの研究チームは、177万~176万年前と年代決定された大型犬の遺骸を分析した。この遺骸の標本は、ヨーロッパに近い地域での最古の猟犬の事例で、猟犬がアジアからヨーロッパとアフリカへと広範囲にわたる移動をした更新世カラブリアン期(180万年前~80万年前)より古いものとされる。

 Bartolini-Lucentiたちは、このドマニシ犬が、東アジアに起源を持っていて現生アフリカ猟犬の祖先と思われるユーラシア猟犬のCanis(Xenocion)lycaonoides種に分類できることを示唆する、独特な歯の構造を持つことを突き止めた。また、このドマニシ犬の歯の特徴は、肉食性の強いこと(食餌の70%以上が肉であること)が明らかになっている同時代の他のCanid(野生の犬に似た動物種)や現代のCanidとも類似している。これらのCanidの歯の特徴としては、雑食動物よりも幅が狭く、短い第3小臼歯や大きく鋭利な裂肉歯(顎の中央にあって食物をせん断する歯)などがある。しかし、ドマニシ犬の歯には、著しい摩耗が認められなかったため、大型の若齢成体であることが示唆され、体重は約30キログラムと推定された。

 これまでにドマニシで発見されたヒトの遺骸は、約180万年前に初期人類がアフリカから移動したことを示す最も古い直接証拠となっているため、今回の研究結果は、ドマニシで猟犬が初期人類のそばで生活していたことを示唆している。ユーラシア猟犬はその後、アフリカ、アジア、ヨーロッパに分散し、化石記録上、最も広く分布した肉食動物の1つとなった可能性がある。



参考文献:
Bartolini-Lucenti S. et al.(2021): The early hunting dog from Dmanisi with comments on the social behaviour in Canidae and hominins. Scientific Reports, 11, 13501.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-92818-4

中沢祐一「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P45-63)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 人類のアジア東部への拡散の中でも、北緯40度以北の高緯度への移住は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)やアメリカ大陸への拡散を達成する前提であり、アジア東部の東端に位置する日本列島の居住史を理解するうえでも重要な課題です。後期旧石器時代(上部旧石器時代)初頭の考古学的遺跡の分布からは、石刃技術や装身具などに代表される上部旧石器的要素の存在により、アジア中央部から東方への拡散が確認されており、北回り経路として知られています(関連記事)。この北回り経路はステップ環境が広がる地域であり、石刃技術の利用がステップ環境での生存にとって適切であった、と指摘されています(関連記事)。最終氷期の北海道には草原と針葉樹が広がっており、北回り経路の延長線上にある生態環境と言えます。

 北海道は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3以降の最終氷期にはユーラシア大陸と地続きの半島の一部でした。この古サハリン/北海道/クリール列島(Paleo-SHK)と呼ばれる半島は、アムール川下流域から南に突き出した半島であり、その南端は津軽海峡によって古本州島と切り離されていました。後期更新世における北海道の地理的な特性は動物の拡散にも影響しており、最終氷期には北海道へと北回りで拡散したトナカイやバイソンやマンモスやヒグマなどのマンモス動物群がいました。この時期に北回りで拡散した草原性の動物の中には、完新世以後も居住域を縮小しつつも生き残ったエゾナキウサギ(キタナキウサギの亜種)のようなレリクト(残存種)もおり、氷期の北海道がステップ性動物群の生息環境を備えていた、と示唆されます。

 こうした古生物地理的な特質に加えて、後期更新世の北海道における考古記録は石器製作技術や遺跡のパターンなどの側面に、古本州島とは異なる特徴をもつ点があります。古本州島の後期旧石器時代末に確認される細石刃技術のうち、クサビ形の細石刃核をもつグループは、しばしば「北方系」や「削片系」や「削片-分割系」という名称でくくられており、北海道の後期旧石器時代に展開したいくつかの細石刃技術(湧別技法、ホロカ技法)との共通性が高い、と指摘されています。地理的に近い東北地方や北関東の削片-分割系の細石刃技術は北海道のそれと対比可能なことから、細石刃技術が17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて北海道から南下した、と提示されています。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の直後に北海道から古本州島北部へ人類集団が南下した、という想定です。

 「故地」とされる北海道の細石刃技術の出現は、確実な層準から細石刃が検出された柏台1遺跡の年代を基準とし、LGMまでさかのぼります。一方、近年までの調査で、LGMの技術的多様性やLGM以前の細石刃や石刃をもたない考古記録の特徴や課題も明らかになってきました。本論文は、北海道の後期旧石器時代の考古記録の通時的な特徴や変化を、パレオアジア文化史学で重点的に扱ってきた技術や行動の選択、居住活動、拡散(とくに北回り経路)との関係といった論点によって整理し、見解を提示します。

 現在までに明らかになっている北海道の考古記録を年代軸に沿って配置すると、LGMを真ん中に挟んで前後に大きく3つの時期に分けることができます。年代の古い段階から、LGM以前、LGM、LGM以後の3時期で、それらの時期に伴う特徴的な剥片石器の製作技術(細石刃技術、石刃技術、剥片技術など)が確認されます。LGM以後については当該期に多様化する細石刃技術に代表される技術的特徴や石器組成などから、おおむね前半と後半に分けて把握されます。なお、年代および層序が確実な遺跡はLGMに集中しており、年代が得られていない遺跡も少なくなく、前後の時期にどの遺跡やどのような技術が該当するのかについては、研究者間で一致していない部分もあります。


●LGM以前

 層位と放射性炭素年代の整合性という観点からみて、LGM以前を代表する遺跡は、北海道中央部の石狩低地帯に位置する祝梅遺跡三角山地点(通称、祝梅三角山下層)です。祝梅遺跡は、1970年代に発掘調査され、剥片石器が出土し、当時はナイフ形石器として分類された石器を介して本州や中国との関係が示唆されました。発掘調査で回収された炭化物の放射性年代測定から、21000年前(未較正)という年代値が得られ、北海道最古の石器群の位置づけがなされました。その後、2015年に改めて炭化物が標本抽出され、加速器質量分析(AMS)法により再測定され、29500~28500年前という較正年代値が得られました。これはMIS3とMIS2の境界年代となり、古本州島の後期旧石器時代の前半期と後半期を区分する基準となるAT(姶良丹沢火山灰)層年代ともほぼ対応します。

 しかし、北海道ではATが層位的に検出されることはほとんどないため、AT以前・以後という対比は容易ではありません。ATに相当する噴出年代をもつテフラが乏しい中で、経験的に後期旧石器と関連するテフラには、2万年前頃のEn-a降下軽石(恵庭降下軽石)といった段階まで新しくなります。北海道中央部(石狩低地帯)や東南部(十勝平野)では、En-a下位に遺跡が一定数残されていますが、柏台1遺跡などLGMの遺跡も含んでおり、層位的根拠のみで前半期の遺跡を抽出するには至りません。こうした地理的特徴から、北海道においてAT下位相当の後期旧石器時代前半期の存在を示唆するのは、古本州島前半期を代表する石器器種である台形様石器といった示準的な石器の認定とその評価です。

 祝梅遺跡三角山地点より出土した石器は点数が少なく、器種認定可能な掻器や錐形石器などを除くと、微細な剥離痕を残す剥片であり、形態的な多様性が乏しい、と指摘されています。後者の、二次加工や微細剥離を残す寸詰まりの剥片を台形様石器とし、後期旧石器時代前半期と関連づける見解があります。一方、剥片の端部に二次加工を施した「基部平坦加工石器」や「裏面微細加工石器」などの中立的な呼称を用いることもあります。剥片素材の石核や円礫に対して打面調整を施さずに、寸詰まりの剥片を(おそらくは直接打撃により)剥離している特徴があります。石核から推測される剥片剥離工程はいくつかに類型化できるものの、打面調整や石核調整を施さないため、石刃や細石刃製作でみられるような特定の手順を踏んだ体系的な「技法」は抽出しにくくなっています。こうした剥片がいかなる作業に用いられたのかについても、まだ具体的な研究が進んでおらず、古本州島では台形様石器の一部は着柄や飛び道具として機能したという説や、直接保持して切る作業などに用いたという説などがあります。LGM以前の剥片石器に関しても、いかなる道具としての視点が成立するのか、といった検討が必要となるでしょう。

 祝梅三角山下層とともにLGM以前として注目されるのは、若葉の森遺跡(帯広市)のEn-a降下軽石の下から検出された剥片石器群です。祝梅三角山下層と同様に器種が乏しく、縁辺に微細な剥離を残す剥片が一定量あるものの、台形様石器といった形態をもつ石器は見られません。大部分は搬入した転礫に対して、分割や打面転位を繰り返して剥離された剥片です。石刃とは言えませんが、縦長剥片と呼べる形状の剥片が一定量あるところは、祝梅三角山下層と違う点のようです。En-a降下軽石の下のローム層の石器群に近接して残された焼土から得られた炭化物の年代は、27600~24000年前となります。IntCal20(関連記事)による較正年代は32025~31159年前で、AT降灰直前でMIS3の後半と考えられます。また、石器が残された後に焼土が形成されたという所見から、年代値よりも石器群の形成年代が古いと推測されています。遺跡形成過程の検討が必要ですが、MIS3の人類集団の存在が問われる例です。

 LGM以前の北海道では、若葉の森遺跡の例のように、台形様石器とは関連が薄そうな石器群が残されていますが、その一方で台形様石器と認定できる資料もあります。とくに、秋田10遺跡(置戸町)の資料は、表面採集ですが注目されます。台形様石器や局部磨製石斧と認定可能な石器が抽出されており、古本州島の後期旧石器時代前半期に相当する石器群と関連づけられました。具体的には、MIS3の北海道には、古本州島に生息したナウマンゾウやオオツノシカなどの動物化石が確認されることから、北海道における台形様石器の存在を森林性の中小型獣を狩猟対象とした人類集団の北上によって残された、という生態学的な仮説が提示されています。

 北海道と古本州島東北部に文化的関連はありそうですが、台形様石器の認定は難渋しています。万人が見ても明瞭に台形へ加工された「タイプ」のみを抽出して、形態的特徴や加工技術から比較検討するオーソドックスな型式学的手法をもっても、帰属時期(前半期か後半期か)の推定は揺れています。おそらく、台形様石器の素材となる寸詰まりの剥片は素材剥離に至る工程が石刃製作などに比べて短いため、原石の形状や大きさなどに影響され、素材作成時点での形状の変異幅も大きく、遺跡間および地域的・時間的ばらつきが生じる、と予想されます。一般論ですが、似ている・似ていないといった評価には、研究者の依拠する分類(型式認定)基準が反映されやすく、今期待される議論の方向性は、進化論的な観点に思えます。そこで定式化されているように、同系統の技術であるがゆえに形態が同じなのか(相同)、形態が似ているだけで非なる技術であるのか、似た技術といえるが古本州島からの系統ではないのか(収斂・相似)、といったいくつかの想定を技術の関連・非関連の形成過程として考慮していく必要があるでしょう。

 地域を隔てた石器の形態的相似をどのように説明するかという難題を抱えているのに対して、北海道と古本州島の関連は石材利用に明確に見られます。古本州島東北部の清水西遺跡(山形県)では、後期旧石器前半期に相当すると考えられる類米ヶ森型の台形剥片や石刃や局部磨製石斧などが出土しており、蛍光X線分析によって、黒曜石で製作された石器のいくつかは北海道置戸山産(置戸町)と推定されています。ATの検出場所と石器の出土地点が異なるものの、清水西遺跡は古本州島の前半期と評価されています。この遺跡例に基づいて、北海道から古本州島への集団の南下を評価する見解もあります。ナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の北上に加えて、MIS3における人類集団の南下も想定され、北海道と古本州島の間に双方向移住があった、と示唆されます。

 ストーンボイリングなど石器製作以外の考古記録に関する論点に関して、ヨーロッパやアフリカでは上部旧石器時代や中期石器時代になると、技術革新や採食活動の多様化や象徴の利用など、「現代人的」行動がそれ以前よりも急速に広がる、と指摘されています。こうした視点から想定される石器群には、器種分化や製作・使用技術の多様性が表れると期待されますが、LGM以前の北海道における後期旧石器相当の石器には、そもそも狩猟具といえる石器も未確認で、台形様石器に伴う局部磨製石斧などの磨製の加工具の存在も秋田10遺跡などの例を除くと希薄です。少なくとも、技術革新や多様性が顕在化しているようには見えません。同様に、象徴的あるいは様式的な要素も確認しがたく、現状ではむしろ、石器として可視化される考古資料の限定的な側面に囚われすぎず、石器石材の選択と剥片剥離工程の関連、使用痕跡、遺跡形成過程などの多方面の検討から活動に関する理解を柔軟に求める必要がありそうです。

 そこで注目されるのは、礫群の存在です。祝梅遺跡三角山地点では報告されていませんが、年代的に近い上似平遺跡下層には礫群があり、ほぼ同時期と考えられる勢雄遺跡や上似平遺跡や大成遺跡にも礫群があります。いずれも十勝平野に位置する開地遺跡で、LGM以前の北海道東部に居住した人類が食資源を利用したさいに好んで用いた加熱調理技術だった、と考えられます。日本列島では後期旧石器時代を通じて礫群が発達していますが、古本州島の南関東地方では29000年前頃以降のLGMにかけて増加する、と指摘されています。同様な増加傾向は東海地方や九州南部でも見られます。古本州島で礫群が増加し始める時期と、北海道で礫群が確認され始める時期とが一致することになります。異なるのは、LGMとそれ以降からの展開です。嶋木遺跡など礫群が確認される北海道のLGMの遺跡は少なく、同様な大規模遺跡である川西C遺跡(十勝平野)や柏台1遺跡(石狩低地帯)では礫群の影が薄く、むしろ北海道のLGMの遺跡では炉址が顕著となります。

 これまで日本列島の後期旧石器時代における礫群の機能に関しては、オセアニアの民族誌からの類推に基づく石蒸し調理法が想定され、実験研究も蓄積されています。同じく熱した石の熱を水へ伝達させて熱水へと換える加熱調理法である、ストーンボイリング法も着目されます。ストーンボイリング法に関する民族事例を渉猟した研究では、クリール・アイヌ、イテリメン、北アメリカ大陸先住民といった北半球の少数民族社会の中で、油脂抽出のためにストーンボイリング法が広く採用されていた、と明らかにされています。油脂の抽出とは、骨の中の海綿状骨に貯蔵された油脂を抽出することです。カリブーやヒツジでは、大腿部の遠位端(後肢)、上腕骨の近位端(前肢)、脛骨の近位端(後肢)には特に油脂が多く含まれます。ヨーロッパの上部旧石器時代の礫群の検討からは、油脂抽出のためにストーンボイリング法が採用された、と推論されており、資源の集約的利用が示唆されます。加えて、風味などの味への嗜好も影響することから、現生人類(Homo sapiens)による味覚や嗜好の多様化といった側面を示している可能性もあります。北海道の最終氷期における礫群の形成背景にもストーンボイリング法が想定されますが、仮にそうであれば、LGM以前の段階ですでに資源の集約的利用や嗜好の多様化をうながす程度に、地域人口が増加していた可能性もあるでしょう。

 LGM以前の年代値を示す遺跡が限られている現状では、LGM以前の人類居住がどこから始まるかについて、明確ではありません。LGM以前の集団が一定期間存続した場合、残された遺跡は本来残された遺跡を母集団とすればサンプルに過ぎません。化石人骨の年代値は、得られた年代値がその人類集団の存続期間のどのタイミングを示しているかが問題となりますが、考古記録についても同様です。つまり、最古の年代を示す遺跡の存在が、無人地帯に移住した最初の人類集団の居住を示しているとしても、それが最初に拡散した時期よりもやや時間が経過した段階の遺跡であることもあり得ます。むしろ、一定期間居住が継続しなければ地域内の人口が増えず、それゆえに考古記録(遺跡や技術)も可視化されにくくなります。とくに北海道に関してはLGM以前の年代値が片手に満たない程度なので、それらをもって居住の最初期と結論づけるよりも、もう少し年代値をそろえる必要があります。

 このサンプリング・エラーに加えて、タフォノミック・バイアスも考慮されます。具体的には、後期旧石器時代の遺跡が集中する石狩低地帯南部や、北海道東北部の屈斜路湖~オホーツク海沿岸などでは4万年前頃に大規模な火砕流(Spfa1、Kp1)が噴出しており、仮にこうした地域にMIS3の人類が居住していたならば、死滅したか人口が減少した、と想定されます。少なくとも、4万~3万年前頃となるLGM以前の北海道でも火山活動は活発で、北海道内でも生態環境や景観の安定性には地域差があった、と考えられます。上述の礫群の増加を資源の集約的利用と解釈するならば、LGM以前における地域内の資源分布の偏在に起因する地域間の人口移動を推測することも可能でしょう。


●LGM期

 LGMでは、石器群間変異と細石刃の出現をめぐる論点があります。LGMでは該当する遺跡数は限られるものの、それ以後の細石刃石器群よりも年代と層序に関するデータが蓄積されています。LGMには、細石刃石器群と剥片石器群と石刃石器群という技術基盤の異なる3種類の石器群があります。これらはLGMの中で同時併存していたと考えられ、それぞれが特定の集団の中でのみ伝達される排他性の強い技術だったのか、同じ集団が資源利用に対して適応した行動の違いが異なった技術の選択として表れたのか、という問題があります。これはボルド(François Bordes)とビンフォード(Lewis Binford)の間で交わされたムステリアン(Mousterian)論争と共通する、石器群間の変異・多様性に関する課題です。本論文は以下のように、行動様式の差による選択技術の違いが顕著に表れた結果ではないか、と推測しています。

 まず、LGMを26000~19000年前頃と把握するならば、北海道で最古の細石刃技術が確認された柏台1遺跡の年代が25000~22000年前頃となり、LGMにおいて細石刃技術が北海道に存在したことになります。世界的には細石器の出現をもって組み合わせ道具の普及と把握されていますが、形態的定義やその製作意図(機能・用途)の多様性や地域的差異は明確ではありません。ヨーロッパやレヴァントでは背付き細石器(backed bladelets)が頻出するのに対して、LGMの細石刃の中にはそうした刃潰し加工を施した細石刃は見られません。刺突による破損は一部に観察されるものの、使用された痕跡のある細石刃は少なく、これはLGM以後の北海道の細石刃石器群にも共通しており、大量製作した細石刃の一部を選択した、と推測されます。柏台1遺跡の石核の消費工程からは、細石刃の製作は石刃の製作と一体化していた、と考えられます。これを人類集団の一つの戦略と把握するならば、移動の最中にキャンプ地で細石刃・石刃を製作しながら狩猟具を補給することで、細石刃を剥離できるような良質の石材が獲得できる産地へと回帰する頻度を減らしつつ、狩猟活動を継続できる、という利点があります。北海道LGMの細石刃技術は、分散する資源利用に応じて長距離移動する動物を追尾することや、そうした資源を小集団に分散して獲得する移動式の生活様式には最適な技術だった、と考えられます。

 細石刃技術発生の背景の意義については、北太平洋を挟んだシベリアと北アメリカ大陸北部で細石刃技術の共通性が以前から指摘されています。進展するゲノム研究からは、アメリカ大陸先住民の祖先集団がアジア東部人との共通祖先から分岐した年代が36000±15000年前頃で、LGMとなる25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。アメリカ大陸への(現代のアメリカ大陸先住民と遺伝的につながる)人類の拡散はその後となりそうで、シベリア東部がLGMで無人化した可能性があることや、同様な細石刃技術は北海道にも広がり、その年代もLGMとなることから、単純にシベリア東部→ベーリンジア(ベーリング陸橋)東部という人類拡散の想定は再考されつつあります。北回りの人類拡散の過程で、北海道へも拡散の分岐があったことも論点となるでしょう。

 細石刃技術の出現ばかりが注目されがちな北海道のLGMですが、大部分のLGM遺跡から検出されるのは、剥片を素材とした石器が中心となる剥片石器群です。柏台1遺跡でも、細石刃関連の遺物と空間分布を違えて剥片石器が多量に残されています。柏台1遺跡の剥片石器は、円礫を主とする多様な石材(安山岩やチャートや頁岩など)から厚手の剥片を、おそらく直接打撃によって剥離し、石核素材に利用してさらに剥片を剥離し、二次加工を施して掻器や削器を量産しています。また縁辺に微細な剥離を残した剥片も顕著にあります。細石刃のような狩猟具をもたず、剥片素材の加工具(掻器、削器)が卓越します。LGM以前よりも加工具が量的に増えますが、LGM以前の剥片石器との技術的な連続性も窺えます。

 細石刃技術と剥片技術とは別に、石刃技術を基盤とする遺跡も少数確認されています。LGMの石刃技術は川西C遺跡(十勝平野)のEn-a降下軽石下のローム層から検出されており、炉より得られた年代からもLGMであることは明らかです。川西C遺跡では石刃を剥離した石刃核は残されておらず、遺跡外で石刃が製作され携帯されていた、と考えられます。遺跡に搬入された石刃は縁辺を二次加工によって再生し、折りとった面から樋状剥離を縁辺に施して新たな刃部を作り出すことにより、頻繁に刃部の更新をしています。その結果、掻器や削器や彫刻刀形石器という複数の器種に変形する様子が、接合資料から明らかにされています。

 石刃か剥片かという技術の選択については、どのような状況で両者が選択されるのか、簡単なシミュレーションが行なわれました。これは、行動生態学で用いられるコスト・ベネフィット分析です。石器のベネフィットが刃部の長さであるのに対し、石器のコストが運搬コスト、すなわち容量とされました。石器がつくられた当初の効用(IU)は長さの2乗と幅の和、初期のコスト(IC)は長さの3乗とされました。移動型の狩猟採集民が想定され、その石器が作られてから滞在した資源パッチ数をsとし、それぞれの滞在先で石器を使うことで石器の効用は減じられます。一方でコストも減ります。仮定としては、10回の滞在で石器の寿命が尽き、かつ途中で石器は補給されない、というモデルです。石器は剥片と石刃に限定し、長さ1幅1を単位とするヴァーチャルな剥片を基準とし、大きめの剥片(長さ2 幅2)、石刃(長さ2 幅1)、長めの石刃(長さ4 幅1)の4形態について、移動による効用に対するコストの値の変化が調べられました。

 その結果、移動を通じて効率性(効用/コスト)が最も高いのは剥片、次いで大きめの剥片、石刃、長めの石刃という順番でした。一方、パッチの移動にともなって安定した効率性が得られたのは、この逆の順番でした。つまり、効率性が比較的高かった剥片は、移動する資源パッチ間の効率性にばらつきが大きかったのに対して、石刃はばらつきが小さかった、というわけです。効率性のばらつきが大きいほど、使用する資源パッチによって効用が異なることになり、安定的な資源利用という観点からはリスクがあることになります。そうした中で石刃は効率性が低いものの、資源パッチ間での効率性のブレは小さいため、資源パッチを連続的に開発するパッチ選択型の狩猟採集活動では有用な道具だった、とみなされます。

 この結果からLGMの石刃と剥片の技術を解釈すると、道具を携帯しながら、移動の先々で資源を開発した集団にとっては、石刃が望ましいことになります。同じ状況は、柏台1遺跡の石刃製作と細石刃製作が一体化した技術体系にも見られます。原産地に回帰する頻度も他の石器技術を選択するよりも少なくなった、と考えられます。川西C遺跡と同様な遺跡が、石刃を製作するのに十分な大きさの黒曜石が豊富な環境下にある白滝遺跡群でもひじょうに少ないことは、その傍証と思われます。反面、石器を補充せずに移動し続けるという状況に迫られなければ、石刃よりも剥片を随意利用することが効率性の高さを保証することになります。剥片と石刃の効率性の観点から北海道のLGMの石器群間変異を説明するならば、それを残した狩猟採集集団がLGMの資源を利用するさいに何を重視したのかに応じて選択された技術の違い、つまり資源選択や移動様式の違いが、石器群の変異として表れたと考えられるでしょう。

 移動に対して居住に関しては、川西C遺跡では炉と石器の集中が重複しており、炉を中心とする活動空間が組織されたことは、被熱遺物の分布パターンから明らかです。遺跡形成過程の分析からは、炉にたまった廃棄物が遺跡内の別の場所に二次的に廃棄されたと推定できるため、一定程度の居住強度(遺跡滞在時間と滞在者数を合わせた概念)の高さが示唆されます。同じく炉と遺物分布が重複する柏台1遺跡についても同様の分析を経て、剥片石器を用いた集団の遺跡における居住強度の評価が必要です。現状では、単純に炉の規模や遺物数を見る限り、柏台1遺跡の剥片石器を用いた集団は、細石刃を用いた集団よりも居住強度が高かった、と予想されます。

 LGMの表徴行動をめぐっては、たとえばヨーロッパ東部のグラヴェティアン(Gravettian)などでは、女性像などの偶像(ヴィーナス像)という可動芸術が発達します。こうした「芸術性」の発露は、北海道のみならず日本列島の後期旧石器記録の中では稀です。北回り経路による人類拡散や文化伝達を経て、北海道へも可動芸術が到達した可能性は皆無とは言えませんが、芸術品と識別できるような遺物は極めて少なく、あえて挙げるならば、柏台1遺跡のLGMの居住面より出土した、コッペパンのような楕円な石の側面に沿って刻みが並列する石製品です。この石製品が検出された柏台1遺跡(B地区)からは約35000点もの遺物が出土していることから、ごく稀に残ったユニークな道具と判断されます。同じく柏台1遺跡では、琥珀玉が1点検出されており、同様の細石刃核型式(蘭越型)が出土した湯の里4遺跡と美利河1遺跡、広郷型細石刃核が伴う美利河遺跡E地点でも玉が検出されています。中国大陸部でも石製の装身具はダチョウの卵殻などよりも検出例が少ないことを勘案すると、日本列島の装身具記録の乏しさは化石生成論的偏りを反映している面がありそうです。

 玉は装身具に用いられたと考えられます。装身具の一種であるビーズは、つなげることを基本としつつも、石や貝殻や歯や骨や木の実やガラスなどの多様な素材を用います。LGM以前ですが、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡のように、墓に埋葬された人物の装飾品としてビーズ(マンモス象牙製)が確認されている例もあります。ユーラシア大陸部における旧石器時代の墓壙の検出例は一定数あるものの、ヨーロッパの後期旧石器時代の装身具(ペンダントなど)は特別にキャッシュされた状態で残されるとは限らず、石器や獣骨と同じく遺物層から検出されることが珍しくありません。湯の里4遺跡の玉は土坑に共伴しますが、一般に言われるように「墓壙」と推定するには、考古学的証拠(人骨や副葬品)が乏しいことは否めません。北海道におけるLGMの遺跡から検出された玉は、石製ビーズがほどけて遺存したといった、物の破損などに伴う日常的な物の廃棄に関わるコンテクストに位置づけることが自然かもしれません。

 一方で、装身具が集団や社会の表徴(いわゆるスタイル)であるとするならば、事例は少ないものの、北海道LGMの初源期の細石刃技術の中に特徴的に装身具を示唆する記録があるという状況は、細石刃技術を担った集団の中に自らを独自とみなす意識があり、集団的アイデンティティーが表れていた、と想定することも可能でしょう。アイデンティティー形成の背景には、他者への意識が存在したことになる。北海道のLGM社会には、細石刃技術を担った集団とそれ以外の技術を用いた集団が、互いを意識していた状況があったと想定されます。そうならば、それは資源をめぐる競合だったのか、協調だったのかが問われるでしょう。一方で、身体を飾る装身具が他者に対する自己の表徴となったことも自明であり、それを身に着けていた個人のファッション性や個人のアイデンティティーが表出した場合も考えられます。

 北海道のみならず日本列島の旧石器時代では、装身具と判断できる考古遺物の検出例は玉くらいで、あるなしというレベルに留まります。少なくともスタイルを示すようなパターンを抽出する程の、空間的・時間的ヴァリエーションは整っていません。仮に、細石刃技術などの特有の技術を共有する集団の中に個人を超えたアイデンティティーが物象化されたことを想定するならば、民族誌的現在で社会的意味が示唆されるビーズなどの装身具よりも、考古記録にパターン化されるような、長期的に維持された技術やそれを運用する知識のパッケージ(石器作り、狩猟方法など)に集団のアイデンティティーが覆いかぶさっている、という可能性を検討することが現実的と言えそうです。かつて、硬質頁岩製の荒屋型彫刻刀形石器が集団関係を取り結ぶ機能をもった、というアイデアが提示されましたが、LGM以後に顕在化する特定の石材と器種の対応関係などの経験的パターンは、集団の表徴行動を示している可能性も含めて、改めて注目されます。

 いわゆる現代人的行動とされる象徴行動の痕跡として、顔料の体系的な利用があります。北海道の後期旧石器時代の中でも顔料としての評価が可能な彩色鉱物は玉よりもはるかに検出例が多く、中でもLGMの遺跡に顕著に見られます。嶋木遺跡や川西C遺跡や柏台1遺跡や美利河遺跡(D・E地点)では、赤色および黒色の鉱物(褐鉄鉱、磁鉄鉱、マンガンなど)の小破片が多数出土しています。これらは概して破片化していますが、ナゲット状で表面に擦痕を残すものも少なくありません。LGM相当の南町2遺跡スポット1では台石の研磨面に赤色鉱物が残されており、実験からも、台石などを用いて研磨することにより粉末が作られた、と考えられます。同時に、LGM以前には影が薄い磨製の技術(ground technology)が、LGMの旧石器社会で顕在化することを示唆します。

 同様なナゲット状の赤色鉱物は、スペイン北部のエル・ミロン(El Mirón)洞窟遺跡に残されたマグダレニアン(Magdalenian)の文化層より回収された遺物の中にあります。エル・ミロン洞窟には壁画はありませんが、赤色のみならず黄色など多彩な鉱物破片は、石器や獣骨にまじった遺物層から多数出土していました。その後拡張した発掘区から、赤色鉱物(赤鉄鉱)を散布した埋葬人骨が確認され、ほぼ同じ時期に描かれたと推定される線刻のある石灰岩塊にも赤鉄鉱が残存していたことから、死者を弔う場面で用いられた顔料があったことは確実です。

 北海道の後期旧石器記録では、墓や芸術品が乏しいのに対して、赤色・黒色の鉱物は確実にLGMの段階で用いられています。これらは、LGMの剥片石器および石刃石器を伴う遺跡の多くに残されています。また、美利河遺跡D地点・E地点では黒色の鉱物(マンガン)が多量に搬入されており、その用途が注目されます。こうした色彩をもった鉱物を「顔料」(pigment)とすることにはやぶさかではありませんが、「顔料」の存在をもって象徴品の出現とみなす評価には異論があります。日本国内の旧石器記録については、少なくとも先に述べたようなスタイルや表徴をめぐる理論的考察も不活発であり、時期尚早と思われます。彩色鉱物の機能的側面も無視できず、赤色・黒色がモノの加工のために用いられた実用品(機能的側面)だった可能性もあります。例えば、平原部のアメリカ大陸先住民にみられる革をなめす活動は、水漬けや毛の除去など多工程を踏み、彩色には顔料を用います。

 掻器や削器といったスクレイパー類が主となる北海道のLGMの遺跡には、しばしば赤色・黒色の鉱物が伴います。LGMの寒冷乾燥気候下では、現代の北方狩猟採集民が身に着ける防寒具や移動式テントの覆いの製作といった、寒冷地への適応行動として皮革加工が北海道を含む高緯度域を中心とする地域に浸透していた、と想定されます。ただ、LGMの川西C遺跡の石刃の縁辺に残された使用痕跡からは、刃部再生を繰り返しながらも、カットを示す動作が大部分であり(111/144件)、スクレイピング作業はそれほど多くありません(24/144件)。LGMの石器の種類からみれば、鉱物利用と革なめし作業との関連性はありそうですが、現状では作業内容に関する分析結果は革なめしを素直にトレースするものではありません。LGMの人類集団、とりわけ石刃技術を運用した集団は、居住活動の内容に応じて刃部を調整しつつ多用途へ融通させており、比較可能なデータを集積する必要があります。

 象徴的側面が強調されがちですが、彩色鉱物の用途に関しては、アフロ・ユーラシア大陸の旧石器記録の研究から、いくつかの機能的説明が提示されています。薬説や接着剤説(関連記事)や着火剤説などです。たとえば着火剤説は、黒色鉱物が多数検出されたフランスのムステリアンおよびシャテルペロニアン(Châtelperronian)の遺跡についての実験研究があります(関連記事)。黒色鉱物は大部分が二酸化マンガンであり、着火の温度を低下させる効果がある、と指摘されています。ただ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺跡からの見解のため、現生人類もこうした知識をもって鉱物を利用したのか、定かではありません。細部の検証が果たせていませんが、北海道のLGMは生活様式の異なる二つの狩猟採集社会が併存した時期と言えそうです。一方は細石刃技術をもつ高頻度の移動を繰り返す狩猟採集集団で、もう一方は剥片・石刃技術を運用した移動性も居住強度も高い集団です。前者を「玉(装身具)をもつ社会」、後者を「彩色鉱物(顔料)をもつ社会」と大まかに区別することも可能かもしれません。


●LGM以後

 LGMが終わった後から更新世の終末までをLGM以後とするならば、それは19000~11500年前頃までの7500年間となります。考古学的には後期旧石器時代後半となり、北海道では細石刃技術の多様化(細石刃核型式の増加)により特徴づけられ、遺跡数も増加します。LGM以後の石器群は6種類13類型に分けることが可能で、広範囲に移動しつつ資源利用していた前半から、ベースキャンプをもちつつ兵站的な資源利用をするようになった後半へと居住様式が変化する、と指摘されています。

 LGM以後の石器技術は細石刃と石刃技術が普遍化し、石器の器種も彫刻刀形石器や掻器や削器や尖頭器など多様となります。技術面では両面調整技術が出現します。これは尖頭器(石槍)の加工技術のみならず、湧別技法による細石刃製作技術の中で、両面調整体を準備する中でも用いられます。柏台1遺跡にあるLGMの細石刃技術における石核の準備でも、下縁や側縁に面的な調整がなされますが、両面調整体を仕上げる方向ではありません。両面調整技術はむしろ、LGM以後の湧別技法の運用の中で頻繁に用いられる技術となります。

 石器の器種では、尖頭器や有茎尖頭器や舟底形石器などLGMにはなかった新たな道具が、細石刃技術や石刃を素材とする掻器や削器や彫刻刀形石器などの加工具と共伴します。尖頭器の出現は、細石刃(組み合わせ道具)とともに新たな種類の飛び道具が人類集団の道具立ての中に加わった、と示唆します。彫刻刀形石器はLGMの細石刃技術の中で初めて登場しますが、LGM以後になると形態も多様化します。忍路子型や広郷型の細石刃石器群にはしばしば斧形石器という磨製石器も加わり、器種は増えます。前半と後半の石器群における石器器種の種類を定量的に検討した結果でも、LGMを過ぎると器種の種類は明らかに増えます。

 LGM以後の石器群には、石刃と細石刃と両面調整という主要な3技術がまんべんなく見られますが、LGMと異なり、それらが遺跡や石器群に一対一対応するのではなく、いくつかの技術が組み合わされ、考古記録(石器群)として表れていることが多くなります。これは石器群相互がポリセティックな連結をもつ、いわば技術複合(technocomplex)です。石器製作技術の核となる石刃技術や細石刃技術も、LGMよりもはるかにヴァリエーションが増えます。端的には、石刃の打面調整方法や細石刃製作技法の増加に表れています。また、機能・用途が未解明ですが、舟底形石器のような、細石刃核の整形技術の一種(ホロカ型細石刃核)から分化したような石核石器が登場し、示準的な石器となります。

 ただ、技術複合をどのように把握するか、それらの出現・存続期間については資料の多さも相まって、研究者間で一致をみていない現状です。たとえば、石刃を素材として規格的な細石刃を製作する広郷型細石刃核は、北海道のみならず、サハリンや朝鮮半島をめぐる日本海沿岸に広がり、北回り経路による人類拡散との関連性も窺えます。しかし、数少ない放射性炭素年代値の評価をめぐり、後期旧石器時代後半とする見解とLGMまでさかのぼるとする見解に割れているのが現状で、北回り経路と関わるような、どこからどこへ技術が広がったのかという議論には至っていません。

 彩色鉱物と黒曜石の広域移動に関しては、石器は多様化するものの、LGMで確認された装飾品は乏しく、頻出した鉱物も減少するようです。たとえば、吉井沢遺跡(北海道東北部)では22265点の全遺物のうち鉱物は34点のみです。吉井沢遺跡では、彫刻刀形石器の彫刃面に赤色の粒子が付着している、と確認されており、かきとりや削り出しといった動作の過程で赤色鉱物との接触があった、と示唆されています。大部分の彫刻刀形石器の用途が骨・角であることから、LGMで想定されたような革なめしと彩色鉱物との関係を必ずしも支持していません。あるいは、鉱物自体の役割がLGMとそれ以後では変化した可能性も考えられます。

 石器に基づく技術複合の広がりよりも明確な空間的スケールを示しているのは、北海道産黒曜石の広域への移動でしょう。サハリンのLGM以後の遺跡(アゴンキ5、ソコルなど)では北海道白滝産の黒曜石が確認され、さらにアムール川下流域では前期新石器時代(8600~7200年前頃)には白滝産の黒曜石が確認されるようになります。こうした石器石材の移動を長距離に及ぶ人類集団の北上と把握するのか、Paleo-SHKにおける南北方向への交換ネットワークが確立していたのかが、論点となります。また、産地から遠くへ運ばれた石器がどのくらい保持され続けたのか、それはどのような社会であったのかといった、石器の管理性(curation system)やその意義をめぐる理論的課題もあわせて検討されるべきです。

 上述のように、LGM以後に北海道から人類集団が南下した、つまり17000~16000年前頃に津軽海峡を越えて東北地方へ南下した、という見解が提示されています。北海道と古本州島東北部の文化的関連は、削片-分割系という北海道とパラレルである石器技術の分布によって注目されており、背景にある石材を節約するといった行動面の共通性や、近年では北海道産黒曜石が古本州島東北地方でも確認されるという経験的データからも示唆されます。一方で、LGM以後の北海道からの南下仮説の前提は、中心である北海道から周縁の古本州島への移住に伴う伝播(demic diffusion)、ならびに水平方向の文化伝達モデルです。現時点では、なぜ南下したのかといった点に関する明確な仮説はありませんが、まずは南下仮説の当否を検証するため、その前提となるモデルの妥当性が問われるでしょう。つまり、中心部の北海道における削片-分割系の初源年代が17000~16000年前頃かそれ以前であることが必要条件となります。たとえば、湧別技法をもつ上幌内モイ遺跡(北海道厚真町)の炉の炭化物の年代のうち、最古の年代は14770±70年前で、石川1遺跡(北海道函館市)の炭化物は13400±160年前です。IntCal20による較正年代では、それぞれ18240~17892年前、16627~15667年前となります。オルイカ2遺跡(石狩低地帯)の14690±70年前という放射性炭素年代値は、IntCal20による較正年代では18209~17813年前です。仮に湧別技法が北海道で発生したとしても、ほとんど時間差なく古本州島で同様な技術が出現した状況となります。いずれにしても、各地域で年代値の信頼性やLGM以後の古環境条件を吟味しつつ、拡散のベクトルを議論することが必要です。


●まとめ

 北海道は最終氷期を通じてPaleo-SHKの南端であったことから、陸路による北回り経路のどん詰まりであり、吹きだまり地勢を呈します。また、古本州島の旧石器文化の形成といった観点からはしばしば「北方系」の要素を見出し、多くの考古学者がその背後に、北海道およびその先のシベリア東部などアジア東北部大陸部からの人類の南下や文化伝播を想定しています。一方で北海道の考古記録の変遷には多様性と独自性が顕著であり、それがいかにして形成されたかに関する北回り経路の果たす役割は、まだ議論が始まったばかりとも言えます。さらに、LGM以前で想定されるようにMIS3の段階で津軽海峡を越えた古本州島からの北上経路も、北海道の旧石器記録の形成に影響を及ぼしている可能性があり、吹きだまり特有の人類拡散があったのかもしれません。より微細に見るならば、細石器などの組み合わせ道具、ストーンボイリング法による油脂抽出、装身具、彩色鉱物などの要素の展開は、ヨーロッパを含むユーラシアの各地やアフリカでも見られる事象です。こうした現生人類の多彩な技術の諸相が北海道の旧石器記録にも確認されるわけですが、遅れる場合とパラレルに生じる場合の両方がありそうです。これは、二重波モデルとの関連でも興味深い問題です。

 古本州島でも後期旧石器時代を通じて朝鮮半島からの人類の東進や文化伝播の証拠が示されており、緯度は異なるものの、Paleo-SHK同様に古本州島も吹きだまり地勢であることに変わりありません。現生人類の北回り経路をめぐる現時点の議論では、トランス・バイカル地域やモンゴルや中国東北部などアジア北東部内陸部の旧石器記録が積極的に意義づけされていますが(関連記事)、その先にある地域へ最終氷期の人類がいつどのように拡散したのかを関連づけることで、北回り経路の吹きだまりである北海道(古本州島との関連を含みます)の旧石器文化の成立過程といった、史的過程の構築が可能となるでしょう。一方でアジア北東部からの北回り経路による直接的な人類移住に対して、アジア南東部から現生人類が北上してアジア北東部地域にいた集団が押し出された結果、Paleo-SHKに吹きだまったという想定もあり得るでしょう。


参考文献:
中沢祐一(2021)「北回りルートと北海道における更新世人類居住:論点の素描」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 33)』P45-63

閉経時期と関連する遺伝的多様体

 閉経時期と関連する遺伝的多様体に関する研究(Ruth et al., 2021)が公表されました。生殖能力の長期維持は妊孕性に必須で、女性の健康的な老化に影響を与えます。平均的には、大半の女性が50~52歳の間に閉経を経験し、閉経が近づくにつれて女性の自然生殖能力は低下し、骨折や2型糖尿病などの疾患のリスクが高まります。しかし、その根底にある生物学的機構や、生殖能力を温存する治療法についての知見は限られています。

 この研究は、ヨーロッパ系女性20万1323人のゲノムワイド関連解析と、自然閉経年齢に見られる正常なばらつきに基づいた評価により、約1310万の遺伝的対幼体を検証した結果、卵巣の老化に対する290個の遺伝的決定因子を特定しました。これらのありふれた対立遺伝子は、自然閉経年齢の臨床的極端値と関連しており、遺伝的感受性が上位1%の女性では、FMR1の単一遺伝子前変異を持つ女性と同等の早発卵巣機能不全のリスクが見られました。

 特定された一連の座位から、広範なDNA損傷応答(DDR)過程の関与が示され、こうした座位には主要なDDR関連遺伝子の機能喪失多様体が含まれていました。実験モデルとの統合により、これらのDDR過程が生涯にわたって働き、卵巣予備能とその低下速度を形作っている、と明らかになりました。さらに、ヒト遺伝学により明らかになったこれらの遺伝子のうちの2つ(Chek1とChek2)について、DDR経路をマウスで実験的に操作すると、妊孕性が高まり、生殖寿命が延長する、と示されました。

 特定された遺伝的多様体を用いた因果推論解析では、女性の生殖寿命の延長は、骨の健康を改善し、2型糖尿病のリスクを低下させる一方で、ホルモン感受性癌のリスクを増加させる、と明らかになりました。これらの知見は、卵巣の老化を制御する機構と、それらがいつ働き、そうした機構を、妊孕性の延長や疾患予防を目的とした治療的取り組みによりどのように標的化できるのか、手がかりをもたらすものです。今後は、地域集団間の差があるのか、という人類進化の観点からも研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:閉経時期に関連する遺伝的バリアント

 大規模なゲノムワイド関連解析が実施され、閉経年齢に関連する290個の遺伝的バリアントが特定されたことを報告する論文が、Nature に掲載される。今回の研究で、生殖寿命を制御する生物学的機構に関する知識が得られた。この知識は、新たな不妊治療法の発見や疾患の予防を目的とした今後の研究に役立つ可能性がある。

 平均すると、大部分の女性が50~52歳の間に閉経を経験する。閉経が近づくにつれて、女性の自然生殖能力は低下し、骨折や2型糖尿病などの疾患のリスクが高まる。なぜこのようなことが起こるのか、そして生殖能力を維持するための治療法の開発については、あまり知見が蓄積されていない。

 今回、John Perryたちは、40~60歳で自然閉経を迎えたヨーロッパ系女性20万1323人の遺伝的データを解析した。約1310万の遺伝的バリアントが検討された結果、卵巣の加齢性変化の決定因子が290個特定され、これらが閉経の遅れに関連することが分かった。また、さまざまなDNA損傷応答遺伝子が、自然閉経年齢に関連し、女性の一生にわたって作用して、卵巣機能を制御していることも判明した。マウスにおいて、これらの遺伝子のうちの2つ(Chek1とChek2)を特異的に操作すると、生殖能力と生殖寿命が影響を受けることが分かった。さらにヒトでの遺伝的解析から、閉経の遅れが、骨の健康状態の改善と2型糖尿病の発症確率の低下とそれぞれ因果関係のあることが示唆された。その一方で、閉経の遅れは、ホルモン感受性がんのリスク上昇とも関連していた。

 生殖年齢の期間に影響を及ぼす数多くの因子(非遺伝的因子を含む)については解明が進んでいないが、Perryたちは、今回の研究で得られた知見が、女性の生殖機能を高めたり、生殖能力を維持したりするための新しい治療法に関する将来の実験的研究にとって有益な情報となることを期待している。


リプロダクティブ・ヘルス:ヒトの卵巣の老化を制御する生物学的機構に関する遺伝学的知見

Cover Story:卵巣の老化:生殖寿命を駆動する遺伝的特徴

 女性の生殖寿命にはかなりのばらつきがあり、そうした寿命を迎えるタイミングは妊孕性と健康な老化に影響を及ぼす。多くの女性は40〜60歳で閉経を迎え、自然妊孕性はその5~10年前から低下する。今回、大規模な国際研究チームが、この過程の背後にある遺伝的特徴に光を当てている。著者たちは、20万2323人の女性の遺伝学的データを分析し、閉経のタイミングに関連する290の遺伝的決定因子を特定した。マウスでこうした遺伝子の2つ(Chek1とChek2)を操作した結果、それらが妊孕性と生殖寿命に直接影響を及ぼすことが見いだされた。著者たちは、この結果から、妊孕性の延長や疾患予防のための治療手段が得られる可能性があると期待している。



参考文献:
Ruth KS. et al.(2021): Genetic insights into biological mechanisms governing human ovarian ageing. Nature, 596, 7872, 393–397.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03779-7

ハチの個体数減少に対する農薬の影響

 ハチの個体数減少に対する農薬の影響に関する研究(Siviter et al., 2021)が公表されました。広範に報告されている花粉媒介者の減少は、世界的に懸念されています。それは、世界の食料安全保障と野生生態系にとっての脅威だからです。ハナバチの個体群に対しそれぞれが単独で有害となる人為的ストレッサー(農薬や寄生虫や栄養的ストレス要因など)がいくつか明らかになっており、たとえば殺虫剤がミツバチやマルハナバチに対して高い毒性を示すことはすでに広く知られています(関連記事)。

 これらのストレッサー間の相乗的な相互作用は、そうしたストレッサーによる環境的影響を大きく増幅させる可能性があるため、花粉媒介者の健康の改善を目指す政策決定に重要な意味を持つと考えられますが、これまでの研究は、結果がまちまちで、決め手に欠けていました。この研究は、そうした脅威の規模を定量的に評価する目的で、農薬や栄養的ストレッサーや寄生虫のさまざまな組み合わせにハナバチを曝露させた90件の研究に由来する、356の相互作用効果量のメタ解析を行ないました。

 その結果、ハナバチの死亡率に対する、複数のストレッサー間の全体的な相乗的影響が明らかになりました。ハナバチの死亡率に関するサブグループ解析から、ハナバチが野外の現実的なレベルで複数の農薬に曝露された場合に、相乗作用が見られることを示す強力な証拠が得られましたが、ハナバチが寄生虫や栄養的ストレッサーに曝露された場合は、それらの相互作用は相加的な期待値を超えるものではありませんでした。

 適応度の代理指標や行動や寄生虫量や免疫応答に対する全ての相互作用的な影響は、相加的または拮抗的のいずれかであったことから、観測されたような、ハナバチの死亡率に対する相乗的相互作用を駆動していると考えられる機序は依然として不明です。農薬への曝露リスクの相加的影響を想定した環境リスク評価計画は、ハナバチの死亡率に対する人為的ストレッサーの相互作用的影響を過小評価している可能性があり、持続可能な農業を支える重要な生態系サービスを提供している花粉媒介者の保護には成功しない、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生態学:ハチの個体数減少に対する農薬の影響が過小評価されている可能性がある

 複数の農薬(殺虫剤、除草剤など)の相乗的相互作用は、相加的であれば、ハチの死亡率に予想以上に大きな影響を与えることをメタ分析によって明らかにした論文が、今週、Nature に掲載される。農業に関連する環境ストレス要因の相互作用による影響が過小評価されているとすれば、ハチが現行の規制制度では保護されない可能性が生じる。

 ハチの個体数が減少することは、世界の食料安全保障と野生生態系にとっての脅威である。この個体数減少に対しては、数多くの要因(例えば、農薬、寄生虫、栄養的ストレス要因)が、それぞれ寄与していることが明らかになっているが、これらの要因の相互作用を調べるこれまでの研究は、結果がまちまちで、決め手に欠けていた。

 今回、Harry Siviter、Emily Bailesたちは、こうした脅威の程度を定量的に評価するため、、農薬、寄生虫、栄養的ストレス要因の356種類の相互作用がハチの健康に及ぼす影響を比較した90件の研究結果をまとめて分析した。全般的に言うと、複数のストレス要因が相乗的にハチの死亡率に影響していることが明らかになり、相互作用するこれらのストレス要因の複合効果が、ストレス要因の個々の効果の合計より大きくなることが分かった。ただし、このメタ分析の結果をストレス要因の種類別に整理すると、農薬が散布された作物中の残留農薬濃度として報告されている濃度の農薬間の相乗的相互作用がハチの死亡率に影響していることを示唆する強力な証拠が得られた。他方、ハチと共進化してきたストレス要因(寄生虫感染および/または栄養不良)の場合には、その複合効果が、ストレス要因の個々の効果を合計した期待値を超えなかった。

 Siviterたちは、以上の結果は、農薬のストレス要因が相加的に相互作用することを前提としていて、その結果として人為的発生源がハチの死亡率に及ぼす相乗的な相互作用の影響を過小評価しているかもしれない環境リスク評価計画における警告を浮き彫りにしている可能性があると結論付けている。Siviterたちは、もしこの問題に取り組まなければ、ハチの個体数がさらに減少するリスクが生じ、世界の食料生産にとってかけがえのない財産である花粉媒介にも連鎖反応的な影響が及ぶと述べている。


生態学:複数の農薬が相乗的に相互作用してハナバチの死亡率を上昇させる

生態学:ハナバチの死亡率に対する複数のストレッサーの相乗的影響

 ハナバチ個体群の世界的な減少が食料安全保障と野生生態系を脅かしている。こうした個体群の減少は、農薬、寄生虫、栄養的ストレッサーの相互作用的影響によって促進されていると考えられているが、そうした相互作用を調べた研究ではそれぞれ異なる結果が得られている。今回H Siviterたちは、農薬、寄生虫、栄養的ストレッサーが、ハナバチの健康に及ぼす相互作用的影響のメタ解析を行った。その結果、ハナバチが野外の現実的なレベルで複数の農薬に曝露された場合に、ハナバチの死亡率に「相乗的影響(ストレッサーの組み合わせによる影響が、想定される相加的影響を大きく上回る)」が認められることが分かった。一方、ハナバチが寄生虫や栄養的ストレッサーに曝露された場合の相互作用は、相加的期待値を超えるものではなかった。農薬への曝露の相加的影響を想定した環境リスク評価計画は、ハナバチの死亡率に対する人為的ストレッサーの影響を過小評価している可能性がある。



参考文献:
Siviter H. et al.(2021): Agrochemicals interact synergistically to increase bee mortality. Nature, 596, 7872, 389–392.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03787-7

大河ドラマ『青天を衝け』第25回「篤太夫、帰国する」

 今回は栄一(篤太夫)の帰国と、栄一が海外にいる間の国内情勢が描かれました。栄一が横浜に到着したのは明治元年10月で、すでに慶喜は鳥羽伏見の戦いで負けて江戸に戻り、さらに水戸から駿府へと移って謹慎しており、江戸城は新政府軍に明け渡されており、戊辰戦争が継続中でした。主人公である栄一の視点では、この間の国内情勢は遅れて得た断片的な情報から推測するしかなかったわけで、栄一が帰国後に福地源一郎たちからこの間の国内情勢を聞かされるという構成で種明かしのように激変した国内情勢を描くのは、悪くないと思います。

 栄一の親族である喜作(成一郎)や平九郎や惇忠の運命に時間がより多く割かれましたが、栄一と関わりのあった小栗忠順(上野介)の最期が描かれたのは、よかったと思います。とくに平九郎は明治時代を生きた喜作や惇忠とは異なり戊辰戦争で討ち死にしだけに、その最期は長く描かれました。栄一が帰国した時にはまだ函館で喜作は土方歳三たちとともに戦っていましたが、栄一は函館には向かいませんでした。徳川昭武から今後も仕えるよう要請された栄一は、まず慶喜に会おうとします。すでに明治と改元されていますが、幕末編は次回で終了のようです。幕末編の結末がどのように描かれ、明治編につながるのか、楽しみです。

アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係

 アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係に関する研究(Matsumae et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事と筆頭著者の解説記事もあります。現生人類(Homo sapiens)の歴史には、大規模な移住や他の移動の事例が多数あります。これらの過程は、現代人の遺伝的および文化的多様性を形成しました。現生人類は他種と比較して相対的に均質ですが、さまざまな地理的規模で観察できる遺伝的変異には微妙な人口集団水準の違いがあります。さらに、全ての既知の社会には言語と音楽があるように、現生人類の行動には普遍的特徴がありますが、その文化的多様性は後代です。たとえば、現代人は7000以上の相互理解できない言語を話すか書き、民族・言語集団ごとに多くの異なる音楽様式が存在する傾向にあります。

 これまでの研究では長く、歴史的および考古学的データと現在の生物学的および文化的多様性のパターンとの組み合わせによる、世界的な移動と多様化の歴史の再構築に関心が抱かれてきました。ダーウィンまでさかのぼると、多くの研究者は、文化的進化史は生物学的進化史を反映する傾向にある、と主張してきました。しかし、文化的特徴とゲノムが伝わる方法の違いは、遺伝的および文化的変異がさまざまな歴史的過程により説明される可能性を意味します。20世紀後半以降の集団遺伝学および文化的進化の両方における大きな進歩により、今では遺伝的および文化的データの照合により容易にこれらの見解を検証できるようになりました。

 言語の文化的進化は、過去の人口史(遺伝的変異から統計的に推測される遺伝的歴史)を理解するためにとくに有益だと証明されてきました(関連記事)。古典的手法は、言語間の相同(同語源)な単語のセットを特定し、分析することです。この語彙的手法により、オーストロネシア語族やインド・ヨーロッパ語族など、単一の語族内の進化系統と関係の再構築が可能となります。しかし、語彙的手法は通常、複数の語族には適用できません。なぜならば、複数の語族は確実に信頼できる同語源を共有していないからです。同語源の分析限界年代は、系統的兆候が一般的に失われてから1万年間とされています。別の手法は、文中の品詞の相対的順序もしくは鼻腔子音の存在など、文法と音韻の特徴の分布を研究することです。言語の構造的データは、語族の系統的兆候を保存するには進化が速すぎる傾向にあり、語彙と構造の歴史は部分的に、たとえばクレオール言語の出現のように、独立しているかもしれません。しかし、言語構造の地理的分布は多くの場合、個々の時間の深さを超えた語族全体の進化における、接触により起きる類似点を示します。

 しかし、言語は深い歴史の代理として役立てる多くの複雑な文化的特徴の一つにすぎません。音楽は言語よりもさらに深い文化史を保存しているかもしれない、と提案されてきました。リズムやピッチや歌唱様式など標準化された音楽分類体系は、遺伝的および言語的違いの比較のため、人口集団間の音楽的多様性のパターンを定量化するのに使用できます。オーストロネシア語族話者である台湾先住民間では、これらの分析により、音楽とミトコンドリアDNA(mtDNA)と語彙の間の有意な相関が明らかになり、音楽が人口史を保存している可能性が示唆されました。しかし、これらの関係が語族の水準を超えているのかどうかは不明です。

 本論文はこの間隙に対処するため、アジア北東部およびその周辺の人口集団に焦点を当てます(図1)。アジア北東部は、遺伝的および文化的多様性が高水準なので、有益な検証地域を提供します。その中には、小規模な語族もしくは孤立語があり、たとえば、ツングース語族(エヴェン語・エヴェンキ語)、チュクト・カムチャツカ語族(チュクチ語・コリヤーク語)、エスキモー・アリュート語族(西グリーンランドイヌイット語)、ユカギール語族(ユカギール語)、アイヌ語、ニブフ語族(ニブフ語)、朝鮮語、日本語、テュルク語族(ヤクート語)、モンゴル語族(ブリヤート語)、フィン・ウラル語族(セルクプ語、ガナサン語)などです。重要なのは、世界の大半の遺伝的および言語的データが公開されている一方で、アジア北東部は音楽的データが公開されている唯一の地域で、音楽と遺伝と言語の多様性の直接的な一致比較が可能である、ということです。以下は本論文の図1です。
画像

 本論文はこれらの一致比較を用いて、さまざまな形式の文化的データが語族の限界を超えた水準で人口史を反映している程度について、競合する仮説を検証します。具体的には、文化的進化のパターンが遺伝的進化のパターン(人口史)と有意に相関しているのかどうか検証し、もし相関しているならば、個々の語族内の言語(空間的自己相関)と共有された継承との間の最近の接触の影響を制御したうえで、音楽もしくは言語(語彙か文法か音韻)のどちらが遺伝的多様性のパターンと最高の相関を示すのか、検証することを目的とします。


●分析結果

 アジア北東部および周辺部の、ゲノム規模一塩基多型と文法と音韻と音楽のデータが利用可能な、11語族・孤立語の14集団が選択されました。各調査の類似性は、分岐ネットワークにより図示されました(図2)。語彙データでは、全体的に星型の構造のネットワーク形態が得られました(図2C)例外は、互いに関連し、近接して際立っている3組で、ともにツングース語族のエヴェン人とエヴェンキ人、ともにチュクト・カムチャツカ語族のチュクチ人とコリヤーク人、ともにウラル語族のセルクプ人とガナサン人です。この距離分析の結果は、語彙資料は語族内の関係を検出できるものの、語族間の歴史的関係を解決できない、という事実と一致します。以下は本論文の図2です。
画像

 文法と音韻と遺伝と音楽の距離分析により、さらに多くの情報が得られる構造が明らかになるかもしれません。言語構造は語族関係を識別しないという主張と一致して、距離分析からのクラスタ化は一般的に語族と一致せず、例外は遺伝と音韻におけるチュクト・カムチャツカ語族のチュクチ人とコリヤーク人です。クラスタ化のほとんどは代わりに、語族間の関係を示します。たとえば、朝鮮語と日本語は、文法と一塩基多型と音楽に基づくとネットワークで近隣となりますが、音韻では異なります。ブリヤート人とヤクート人は、一塩基多型と文法と音韻では密接に関係していますが、音楽では違います。音楽に基づくネットワークは、音楽構成要素のクラスタ化分析に基づいて、アイヌの音楽の独自性と極地付近の音楽からのアジア東部の音楽の区別を示す以前の研究と一致します。ニブフ人は各要素で異なるパターンを示します。たとえば、ニブフ人は他の人口集団よりも朝鮮人と日本人とブリヤート人の方と遺伝的に密接で、距離行列では次に全人口集団でアイヌと2番目に高い類似性を示し、系統樹での位置を反映しています。しかし、音楽と文法と音韻は、ニブフ人ではこれらの関係に従っていません。

 まとめると、これらの結果から、人口史も語彙を除く文化的特徴も、語族に沿った単純な垂直系統により進化したわけではない、と示唆されます。むしろ、チュクト・カムチャツカ語族の可能性を除けば、それぞれが独立した軌跡をたどったかもしれません。これは、単一的な系統発生という考えに疑問を提起する一方で、特徴の一部は相互に関連しており、それは水平および垂直伝達の先史時代の迷路をたどったから、という可能性を残します。換言すると、特徴は依然として相互に関連しているかもしれず、それは、特徴が同じ(複数かもしれない)時期と場所に存在し、そこでは人々が接触し、および/もしくは遺伝的に関連していたからです。

 そうした関連が現在でも検出可能なのかどうか明らかにするため、データの主成分もしくは座標に対して冗長性解析(Redundancy Analysis、略してRDA)が実行されました。RDAは説明変数で説明できる応答変数の変動を要約し、直接的な関連を見つけます。RDA分析は並べ替え検定で有意な2つの関連を明らかにします(図3)。つまり、文法的類似性は遺伝的類似性を予測し、遺伝的類似性は文法的類似性を予測します。両者の関連は、同じ起源の単語により識別できるように、現在の語族の形成前にさかのぼる深い時間の対応を反映している可能性がある一方で、社会間の空間的な近接性や接触が、比較的最近で浅い関連の類似のパターンにつながっている可能性もあります。以下は本論文の図3です。
画像

 この問題を解決するため、データの兆候を説明する以下の3通りの想定が評価されました。(1)最近の接触です。関連は最近および現在の接触を反映しているので、現在のデータの空間的な自己相関により説明可能です。つまり、現在相互に密接な社会は、類似の文法と人口史を有する傾向にあります。(2)この関連が共通祖先を反映している想定です。この関連は残りの語族内の垂直系統から生じ、本論文の標本ではその語族には複数(ツングース語族とチュクト・カムチャツカ語族とウラル語族)が含まれます。(3)深い時間に対応している想定です。この関連は、既知の語族内の最近の接触もしくは系統発生的継承では説明できない、文法と遺伝との間の浅くない対応を反映しています。

 これら3仮説を区別するため、空間的な近接性と継承を潜在的交絡要因として扱い、その影響を制御するために部分的RDAが実行されました。赤道から離れた社会と言語はより大きな空間的範囲を示す傾向にあるので、各社会の領域は点ではなく範囲で表現され、これらの範囲内から無作為の空間位置が標本抽出されました。部分的RDAは、最近の接触に反して強い証拠を明らかにします。空間的近接性では文法と遺伝の関連を説明できません。空間的自己相関を制御すると(1000個の無作為標本で人々の位置の不確実性を考慮)、観測された説明の分散は依然として、無作為な並び替えよりも大きくなります。

 部分的RDAにおいて言語の最近の接触と系統発生的継承の両方を制御すると、依然として文法と遺伝の関連は他の関係よりも強い証拠を示します(図4)。本論文の分析では、同等の強さで他の関連は見られません。いくつかの弱い兆候(たとえば、文法と音楽と音韻)はありますが、空間的自己相関と系統の両方を制御すると、これらは全て消えます(図4)。これは、そうしたあらゆるパターンが、最近の接触および語族特有の一連の継承に由来する可能性が高いことを示唆します。以下は本論文の図4です。
画像

 わずか14集団の小規模な標本を前提として、3種の感度分析を通じて文法と遺伝の関連の堅牢性が評価されました。まず、RDAへの主成分もしくは座標の数が変更され、したがって、応答と予測因子の両方に分散の量が変わりました。ある構成要素はどれだけの分散を説明する必要があるかというさまざまな閾値(10%と15%と18%)は、結果にほとんど影響がありませんでした。次に、RDAへの言語標本が変えられました。ほとんどの言語は兆候にほとんど影響を与えませんが、アイヌに関しては当てはまらず、アイヌを分析から除外すると、文法と遺伝の関連は弱くなります。

 最後に、部分的RDAでは、一部の空間標本が他の標本よりも応答の分散を上手く説明する場合があります。低い調整済R2を有する場所の空間的クラスタは、最近の言語設定を示している可能性があり、高い調整済R2を有するクラスタは、系統的外れ値が兆候に影響している可能性を示唆します。0.2および0.8パーセンタイルの場所をマッピングすると、高パーセンタイルでは弱くて部分的なクラスタ化しか見つからず、低いパーセンタイルではまったく見つかりませんでした。これは、最近の接触も系統的外れ値も兆候を説明しない、と示唆します。

 要約すると、アジア北東部においてゲノムと音楽と言語の完全な一式を用いると、基本RDAにより遺伝と文法との間に有意な相関関係がある、と明らかになりました。地理や言語継承を制御した部分的RDAや感度分析では、遺伝と文法の関係は最近の接触および継承前の言語間の早期の関係にさかのぼるかもしれない、と示唆されます。


●考察

 本論文は語族の水準を超えて、遺伝と言語と文化間の関係を同時に調べました。その結果、人口史と文法の類似性との間の関係の顕著な証拠が見つかりましたが、ゲノムと文法は、配偶体系と文化伝達との間の違いなど、さまざまな進化の力に影響を受けたかもしれません。集団遺伝学は、系統発生的関係を超えて人口集団間の遺伝子流動を検出します。本論文のデータセットは、人口集団の系統発生的広範囲を網羅します。それは現代アジア東部人の3系統(アイヌとアジア東部人とアジア北東部人)と北アメリカ大陸の1系統(グリーンランドのイヌイット)で、日本人とアイヌやブリヤート人とヤクート人のように、系統を超えた遺伝子流動が含まれます。

 人口史に影響を及ぼす進化の力はかなりよく理解されていますが、特定の人口集団の遺伝的関係が、共有された祖先系統(祖先系譜、ancestry)と文化の先史時代の接触のどちらをどの程度反映しているのか判断することは、まだ困難です。さらに、文化と言語に影響を及ぼす進化的過程は議論されていますが、ゲノムに影響を及ぼす進化的過程とは明らかに異なる可能性があります。たとえば、文化的置換と言語変化は、植民地化もしく戦争や文化的拡大など他の社会政治的要因により、1世代でも起きる可能性があります。

 文化的類似性における近接性の影響を排除した本論文の結果は、これらのさまざまなデータはさまざまな歴史的パターンを明らかにする、という見解を支持しますが、一部の文化的特徴は依然として、語族の境界さえ超えた関係の維持が可能であることを示します。文法の類似性は、単純に遺伝的系統に従った場合に生じるわけではなく、朝鮮人と日本人とニブフ人とアイヌの遺伝的近接性は文法には反映されておらず、チュクチ人とコリヤーク人と西グリーンランド人も同様です。むしろ、先史時代に部分的に独立した垂直および水平伝達の複雑な相互作用を反映している可能性が高そうです。

 このパターンは、語族をなぞる語彙では著しく異なりますが、本論文のデータセットではより上位水準の関係は明らかになりません(図2)。これは、歴史言語学や、文法がオーストロネシア語族では語彙よりも速く進化し、インド・ヨーロッパ語族でも急速な進化を示す、という最近の知見からの予測とは対照的です。たとえば、英語とヒンディー語は多くの同起源の単語を保存していますが、両者は語順および格表記が大きく異なります。しかし、これらの知見は語族内の文法進化と関係していますが、本論文の手法は、語族間の初期の接触を可能とする共有された歴史を解明しようとします。したがって、本論文の知見は、語順など固有の特徴は語族内で急速に進化したものの、繰り返し模倣されて新たに調整された、という想定と一致し、それは同じ期間の遺伝的ネットワークを反映する先史時代にわたる比較的均一な特性をもたらします。感度分析でアイヌを削除すると、この兆候を検出する統計的能力が弱くなります。これは、アジア北東部の文脈におけるアイヌの特別な位置を示唆しているかもしれませんが、この問題の解決には、この地域の内外の言語と人口集団のより大きな標本が必要です。

 本論文の結果は、遺伝と言語と音楽の関係を定量的に比較した唯一の先行研究とは質的に異なります。以前の研究では、台湾先住民のオーストロネシア語族話者集団間では、音楽は遺伝と有意に相関していたものの、言語とは相関しておらず、一方で本論文では、音楽は言語もしくは遺伝のどちらとも強固には関連していない、と明らかになりました。しかし、これらの違いの背景にはいくつかの方法論的違いがあります。以前の研究ではmtDNAと語彙データと集団の歌のみが検証対象だったのにたいして、本論文では、ゲノム規模一塩基多型データと構造的な言語の特徴と集団および個人の歌が取り上げられました。より大規模な標本とさまざまな種類のデータを用いたさらなる研究が、言語と音楽と遺伝の間の一般的関係の解明に役立つかもしれません。

 最近の研究は、基底部ユーラシア東部人の主要な遺伝的構成要素の一つとしてのアジア北東部人口集団を浮き彫りにします(関連記事)。アジア北東部の高い言語的多様性は、以前の研究で仮定されていたように、地理的障壁による農耕人口集団からの影響が少ない、先史時代の関係を反映しているかもしれません。しかしアジア北東部では、文化と地域的人口史との間の関係についての知識は限られています。本論文の結果は、遺伝的パターンと文法的パターンとの間の関連だけではなく、複雑な分離も明らかにしており、そこでは、これらのデータが、文化的変化も含むかもしれないさまざまな地域史を反映しています。たとえば、以前の研究が朝鮮人と本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人口集団との間の特有の遺伝的および文化的関係を提案するか、共有された起源を仮定する一方で、本論文の知見は、一塩基多型と音楽と文法では類似しているのに対して、語彙と音韻では類似していないことを裏づけます。

 アイヌはとくに日本人と遺伝的類似性を示しますが、その音楽はコリヤーク人とより密接にまとまります(図2)。これは、歴史のさまざまな時点で起きた、さまざまな水準の遺伝と言語と音楽の交換を反映しているかもしれません。音楽のパターンは、オホーツクおよび他の「極地付近」の人口集団からのより最近の文化的拡散や遺伝子流動を反映しているかもしれません。それらの人口集団は過去1500年以内に北方から到来してアイヌと相互作用し、これは日本列島の歴史の「三重構造」モデルで以前に提案されました。

 新たに遺伝子型決定されたニブフ人の標本は一塩基多型ではアイヌと近いものの、他のデータでは近い関係ではなく(図2)、アジア北東部沿岸地域における歴史的関係が示唆されます。ニブフ人はアイヌと他のアジア北東部人をつなぐ重要な人口集団かもしれませんが、ニブフの人口史はよく理解されていません。したがって、近隣網系統樹は、人口集団と関連する関係を反映しているかもしれないものの、ニブフ人を含むアジア北東部人における地域の人口史と文化的関係をより詳細に調べるには、さらなる分析が必要です。将来の研究では、社会のより大規模な標本とその文化的特徴のより豊かなコード化が必要になるでしょう。

 結論として、本論文は多様なアジア北東部語族全体で文法とゲノム規模一塩基多型との間の関係を示しました。本論文の結果から、文法的構造は語彙を含む他の文化的データよりも密接に人口史を反映しているかもしれない、と示唆されますが、本論文は、遺伝的データと文化的データのさまざまな側面が、複雑な人類史のさまざまな側面を明らかにすることも見出しました。換言すると、文化的関係は人口史により完全には予測できません。これらの不一致の別の解釈は、地域史における言語変化などの歴史的事象か、遺伝的進化から独立した文化固有の進化です。より明確なモデルを用いたより大きな規模での、これらの関係についての将来の分析は、ヒトの文化的および遺伝的進化の複雑な性質の理解の改善に役立つはずです。


参考文献:
Matsumae H. et al.(2021): Exploring correlations in genetic and cultural variation across language families in northeast Asia. Science Advances, 7, 34, eabd9223.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd9223

麻田雅文『日露近代史 戦争と平和の百年』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2018年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は幕末から1945年までの日露(日ソ)関係史です。近現代日本の対外関係において重要な国がイギリスとアメリカ合衆国であることは、現代日本社会において一致する見解でしょう。第二次世界大戦で日本はその両国と戦い惨敗したため、戦後日本政治ではその両国、とくにアメリカ合衆国との協調関係が至上命題とされました。一度は戦争に至ったものの、協調関係志向の期間が長かった対英米関係に比して、対露(ソ)関係は、日露戦争や冷戦での対立の印象もあり、対立の歴史が強調されてきました。

 しかし近現代日本において、ロシア(ソ連)との協調を志向する政治家は絶えずいましたし、協調的な関係が築かれた期間もありました。ただ本書は、これらロシア(ソ連)との協調を志向した人々は、日本外交の一潮流として無視できないものの、細々とした流れだった、と指摘します。本書は、近代日露(ソ)関係史を三区分し、各時期で対露(ソ)外交に積極的だった代表的な政治家を三人取り上げています。時期区分は、日露戦争前後までと、日露戦争後から大正時代と、満州事変から日ソ中立条約までです。各時代を代表するのが、伊藤博文と明治天皇、桂太郎と後藤新平、松岡洋右です。本書は最後に、大日本帝国終末期の対ソ外交を論じます。

 江戸時代の日露の交流は、漂流民を介した散発的なものでした。アヘン戦争でイギリスが清朝(ダイチン・グルン)を蹂躙しているとの風聞が日本に伝わると、佐久間象山など蘭学者の間でロシアとの連携が説かれるようになります。こうした幕末の対露提携には、橋本左内のように、覇権国(当時はイギリス)への対抗という目的が示されており、この構図は近代日本を貫くことになります。しかし、福沢諭吉などじっさいにロシアを訪れた知識階層の人々が、農奴制と皇帝専制政というロシアの実態を見てロシアへの評価を下げたことや、幕府がフランス、薩長がイギリスと交流を深めたことで、明治維新前後にはロシアへの関心は低下していました。

 明治維新後の日露関係は、国境交渉から始まりました。日露間で国境問題となったのは樺太で、伊藤博文は早くも1869年、樺太を放棄して北海道の保持に注力すべきと主張しました。この樺太問題をめぐって、強硬派の西郷隆盛と外交解決派の大久保利通とが対立します。西郷の失脚後、大久保は榎本武揚を起用してロシアと交渉させ、1875年、樺太千島交換条約により、日本は樺太を放棄して千島列島を全て領土としました。この後、明治天皇がロシア皇帝に好意的で、伊藤博文がロシアを警戒しつつも協調関係を築こうとしたため、日露関係は比較的安定していましたが、1891年の大津事件により、日露関係は危機に陥ります。これは、ロシアとの関係を重視してきた明治天皇や伊藤博文や榎本武揚たちの奔走により、開戦のような破局には陥らずにすみました。しかしその後、日露関係は朝鮮半島をめぐって悪化し、それは三国干渉により決定的となります。ただ、日本政府首脳部、とくに長州系の伊藤博文と山県有朋と井上馨は、ロシアとの宥和を模索しました。これは結局実らず、日露戦争が勃発しますが、伊藤は1903年になっても日露協商の可能性に拘っていました。それどころか、伊藤が最終的に日露開戦を決意したのは1904年1月でした。

 日露両国は戦後の1906年2月、国交を回復します。すぐに日露関係が良好になったわけではありませんが、1907年7月には、イギリスやフランスの後押しもあり、日露通商航海条約と第一次日露協約が結ばれます。日露の戦後の関係で重要な役割を担ったのが後藤新平でした。後藤は満鉄の経営を成り立たせるため、鉄道を介してロシアとの提携を模索しますが、思惑通りに進まないところもありました。しかし、この交渉で後藤はロシアに人脈を築き、後の日露(日ソ)関係で重要な役割を果たします。1909年に伊藤が殺害されたのは後藤にとって大きな痛手となり、後藤が伊藤の後継としてロシア外交で担ぎ上げたのは桂太郎でした。ロシアは日本による大韓帝国併合も容認し、アメリカ合衆国に対して日本と共同で満洲での利権確保に努めるなど、朝鮮半島や満洲で勢力範囲を線引きできたことで、友好的な対日関係が築かれます。

 この良好な日露関係は、1917年のロシア革命により大きく変わります。10月革命で権力を掌握し、ドイツと講和して連合国から離脱したボリシェヴィキ政権に対して列強がシベリアに出兵し、列強では地理的に最も近い日本は最大の兵力を派遣しました。後藤もシベリア出兵に同意しており、それには後藤なりの国益計算がありました。しかし、シベリア出兵は失敗に終わり、英米との協調という後藤の目論見に反して、とくにアメリカ合衆国との関係が悪化しました。後藤はシベリア出兵への負い目があったのか、ソ連との国交樹立に奔走します。後藤個人の努力は直接的には実らないところも多かったとはいえ、1925年1月に日ソ基本条約が調印されます。田中はその後も満洲での権益確保と対中政策の観点からソ連との提携を進めようとしますが、中国情勢の急変に対する日ソの隔たりは大きく、後藤の構想は実現しませんでした。

 1929年4月13日に亡くなった後藤の外交構想を継承したのは、松岡洋右でした。しかし、日ソ不可侵条約締結への日本国内の反対は強く、とくに陸軍の一部は対ソ防衛も目的としてきたことから予算を削減されるのではないか、と恐れていました。1936年11月25日に締結された日独防共協定により日ソ関係は悪化し、翌年始まった日中戦争によりさらに悪化します。それは、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件といった武力衝突につながります。本書はノモンハン事件を、「戦争」と呼べる規模だった、と評価します。さらに日本を苦境に追い込んだのは、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約でした。これにより、日本は頼みとしていたドイツとの関係も悪化します。

 しかし、この苦境を逆手にとってソ連との不可侵条約を締結しようとする動きが出てきます。ドイツの一部にも日本の一部にも、独ソに日本、さらにはイタリアも加えて連合を形成しよう、というわけです。第二次近衛内閣の外相に就任した松岡は、日独伊三国同盟によりソ連に圧力をかけて有利な条件でソ連と不可侵条約を締結し、その圧力を背景に対米交渉に臨もうと構想します。1940年9月の日独伊三国同盟締結後、松岡はソ連との交渉に臨みますが、1941年3月、ドイツを訪問した松岡は、独ソ関係の悪化に気づきます。松岡はドイツのリッベントロップ外相から、ソ連との不可侵条約もしくは中立条約を締結しないよう警告されましたが、ソ連との中立条約締結は独ソ和解への第一歩になると考え、モスクワを訪れて1941年4月13日に日ソ中立条約が締結されます。難しいと考えられていた日ソ中立条約が急遽調印に至ったのは、独ソ関係の悪化、とくにバルカン半島情勢の悪化が原因と松岡は考えていました。松岡の構想は、1941年6月22日に始まった独ソ戦により完全に破綻します。すると松岡は、ソ連との「即時開戦」を主張します。松岡は後に、この主張が日本軍の南進を牽制するための謀略だった、と明かしています。しかし本書は、松岡が独ソ戦でのドイツの短期間の勝利を確信しており、ソ連への攻撃を主張していた、と指摘します。対米交渉の邪魔になると考えられた松岡は、第三次近衛内閣で外相に再任されず、実質的に追放されます。

 第二次世界大戦末期、戦局がきょくたんに悪化した日本では、講和交渉の仲介者としてソ連に期待する声が指導層の間で高まります。ソ連に対日参戦確約を伝える情報は日本にも届いていましたが、当時の日本の支配層は、ソ連を強く警戒しつつも、無条件降伏を恐れて、ソ連が仲介者の役割を担うことに期待しました。貧すれば鈍するというか、溺れる者は藁をもつかむ、という心理でしょうか。日ソ中立条約がまだ有効である1945年8月9日、ソ連は日本軍への攻撃を始め、ソ連軍を防ぐべく満洲に配置された関東軍は、すでにかなりの部隊が他戦線に投入されていたこともあり、ソ連軍の進撃を止めることはできませんでした。ソ連の対日参戦により、日本人では軍人のみならず民間人も多大な被害を受け、これがそれ以降の多くの日本人のロシア観を決定づけた、と本書は指摘します。

『卑弥呼』第69話「逃走」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年9月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがヌカデに、疫病が終結せず民が自分を人柱にしようとしたならば、自分を祈祷(イノリ)の場から引きずり出して殺せ、と命じるところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)の国で、トメ将軍とミマアキの一行が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に戻るべく急いで逃走している場面から始まります。一行は一度立ち止まり、兵士たちは地面に大量の松カサを拾います。すると、サヌ王の息子のタギシ王の末裔で、現在の日下の王家とは対立していると言う阿多(アタ)のチカトは、日下のフトニ王(記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)がトメ将軍とミマアキの一行を追撃するよう命じた八咫烏(ヤタガラス)は距離を縮めているので、休んでは駄目だ、と忠告します。チカトの部下は地面に耳をつけて八咫烏との距離を測り、すでに自分たちの声が聞ける距離に潜んでいる、とチカトに報告します。日が暮れる前に視界の開けた場所にたどり着かねば我々は全滅だ、とチカトは呟きます。

 しばらく走ると、今度はミマアキがツバキの実を拾い、急いで逃走はなければと焦るチカトは、ツバキの実がそんなに珍しいか、と声を荒げてしまいます。しばらく走った後、夜は休まず走るから、と言ってチカトは小休止を提案し、トメ将軍とミマアキの一行は安堵します。木には小さな銅鐸が吊るされており、これは魔除けの鐸で當麻(タイマ)一族のものだから、當麻一族の領地の端を示している、とチカトは説明します。トメ将軍の配下の者が銅鐸を見ていい土産になる、と呑気に言っているのにチカトの配下は呆れます。當麻一族はかつて鳥見の長脛者(ナガスネモノ)と勢力を二分していましたが、長脛者たちがサヌ王と連合した結果、往時の勢力を失い、現王朝には面従腹背というか、逆らわないものの服従もしないという態度を取っています。もう少し進めば視界の開けた地に出る、と説明するチカトに、そこなら夜でも八咫烏は攻めづらいのだな、とトメ将軍は言います。チカトは、八咫烏は変幻自在なので油断禁物で、開けた土地でも隙をつくれば必ず攻めてくる、休まず走り続ければ勝機はある、とトメ将軍に伝えます。トメ将軍は、兵士たちが疲労しているのを見て、考えるところがあるようです。

 夜、開けた土地に出ると、トメ将軍はチカトに、もう限界なのでここで休まねば先に進めない、と言って野宿を求めます。チカトは仕方なく認め、大きな火を焚き周囲を明るく保ちます。チカトはトメ将軍とミマアキの一行に鹿の皮を渡して休むよう勧めます。夜、トメ将軍とミマアキの一行に全身を黒い服で覆った者たちが密かに近づき、吹矢でトメ将軍とミマアキの一行を攻撃します。しかし、その一部は案山子で、ミマアキたちを刺そうとした八咫烏は、寝ていると見せかけたミマアキたちに逆に刺されて殺されます。チカトは、鹿皮が吹矢を防いでくれる、と事前にトメ将軍とミマアキの一行に伝えていました。トメ将軍の配下の兵が火をつけると一気に燃え盛り、トメ将軍とミマアキの一行とともに八咫烏は火に囲まれます。ツバキの実と松カサを置き、一気に火がつくよう手配していたわけです。さらに、チカトの兵が小さな銅鐸を鳴らします。八咫烏は闇の戦闘に備えて耳と鼻を鍛えているので、炎で闇を消し、松カサの匂いで嗅覚を使えなくして、聴覚も互角になった、というわけです。ミマアキはトメ将軍に、残って自分が解きを稼ぐので先に行くよう、進言していました。トメ将軍は、ミマアキの方が配下の者とともに葛城山(カツラギノヤマ)を越えるよう要請しますが、當麻一族は頭であるトメ将軍の言葉以外信用しないだろう、と言いました。ミマアキは、八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物に勝負を挑みます。

 那(ナ)の国の岡(ヲカ)では、ヤノハの籠る建物の前でヌカデとオオヒコがヤノハの指示を待っていました。ヤノハはヌカデにもまだ行先を告げず、ヌカデも聞かされていない誰かを待っているようでした。ナツハ(チカラオ)の操る犬と狼が一瞬店を見上げたことから、曲者が来たのか、とオオヒコは一瞬警戒します。その曲者はアカメで、オオヒコにも気づかれずヤノハの籠る建物に入ります。アカメはヤノハに、厲鬼(レイキ)は五百木(イオキ)から海を越えて山社(ヤマト)にもたらされたようで、どの国も同じ状態だ、と報告します。暈(クマ)の国の様子をヤノハに尋ねられたアカメは、国を閉ざして人々の往来を禁じたが、いささか遅きに失したようで、他国以上に人が死んでいる、と答えます。ヤノハは暈の最高権力者となった鞠智彦(ククチヒコ)に書状を届けるよう、アカメに命じます。それは、ヤノハが出雲の事代主(コトシロヌシ)から聞いた厲鬼(疫病)撃退の術で、近いうちに厲鬼封じの薬も教えるという内容でした。暈は宿敵ではないか、と驚くアカメに、厲鬼は等しく人に災いをもたらし、暈の厲鬼が死なないと山社の厲鬼も死なないので、もはや敵味方と言っていられる状況ではない、とヤノハが答えるところで今回は終了です。


 今回はトメ将軍とミマアキの一行の逃走が主題でした。トメ将軍配下の呑気に見えた行動には意味があるのだろうな、とは思っていましたが、さすがにトメ将軍は百戦錬磨です。ミマアキが一騎討ちを求めた八咫烏の頭である賀茂のタケツヌと思われる人物は、八咫烏の一般的な兵に対する優位を失ったとはいえ、武芸に長けているはずなので、ミマアキが勝てるのか、予測しにくいところがあります。あるいは、ミマアキは負けて捕らえられ、筑紫島の情勢を尋問されるのでしょうか。ヤノハが暈にも疫病対策を伝えたことが、今後の展開にどう影響するのか、という点も注目されます。トメ将軍とミマアキの運命とともに、出産と疫病撃退を決意したヤノハの運命がどう描かれるのか、次回以降もたいへん楽しみです。

ホモ・フロレシエンシス頭蓋の生体力学と摂食能力

 ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)頭蓋の生体力学と摂食能力に関する研究(Cook et al., 2021)が公表されました。本論文の概要は、すでに今年(2021年)4月7日~4月28日にかけて、オンラインで開催された第90回アメリカ自然人類学会総会にて報告されていました(関連記事)。インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟で発見された小柄な人類はホモ属の新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と分類され、その頭蓋下顎や歯の形態は広く研究されてきましたが、その機能と接触生体力学に関する議論は続いています。

 フロレシエンシス遺骸の年代は10万~6万年前頃で(関連記事)、その頭蓋歯形態には、食性の生態的地位についての手がかりを提供する多くの祖先的特徴があります。以前の研究では、フロレシエンシスの上下の横溝を有する頑丈な下顎枝と下顎結合が示されました。これらアウストラロピテクス属にも存在する特徴は、硬い種子やナッツを割る時など、高い咀嚼圧力に対して顔面を「強化する」と考えられています。ホモ・フロレシエンシスはホモ・ハビリス(Homo habilis)と類似した小臼歯も示しており、おそらくは小臼歯が関わる摂食行動中の強い咬合を示唆します。しかし、ホモ・フロレシエンシスの大臼歯サイズは縮小しており、とくに上下の第一大臼歯が短く、より頑丈な人類種と比較して、咬合負荷の減少が示唆されます。さらに、ホモ・フロレシエンシス頭蓋の顔面中央骨格は顕著なサイズ縮小を示しており、後のホモ属と類似した華奢化を伴います。

 現生人類(Homo sapiens)の顔面中央に見られる類似の華奢化は、石器の開発とそれに伴う口腔前処理の増加に伴う負荷軽減の結果と主張されています。これらの適応的移行は、力学的に強化された頭蓋歯的適応に対する選択圧の緩和と相関していた、と示唆されています。さらに、増大した筋力を受けると、現生人類は臼歯の咬合時に顎関節(TMJ)脱臼の危険性がある伸張反作用力を示します。これらの結果は、より柔らかい食物への移行および/または現生人類による口腔前処理の仮説をさらに裏づけ、それにより強力な咀嚼の力学的圧力に耐えられるような顔面形態の選択圧を緩和します。一方、別の研究では、他の人類に匹敵する咬合反作用力を生成もしくは維持するさいに、人類の頭蓋はさほど頑丈でなくともよく、強力な咬合行動がホモ属の頭蓋形成において選択的に重要だった可能性を指摘します。後のホモ属の華奢化につながる選択圧はまだ不明ですが、これらの仮説はホモ・フロレシエンシスの頭蓋の外見上の華奢化について情報をもたらすかもしれません。

 さらに、ホモ・フロレシエンシスの食物選択の証拠が不足しています。ホモ・フロレシエンシス遺骸のLB1とLB6の下顎歯の摩耗は、関連する動物遺骸がリアンブア洞窟に残っていることと合わせて肉への依存を示唆しますが、エナメル質の同位体特性や歯の微視的使用痕など、食性再構築に関する他の形式のデータはまだ収集されていません。以前の研究では、ホモ・フロレシエンシスは繰り返しの負荷には耐えられたかもしれないものの、咀嚼力はアウストラロピテクス属ほど高くなかった、と指摘されています。ただ現生人類と比較すると、ホモ・フロレシエンシスは比較的頑丈で、咀嚼に関連する負荷の増加が示唆されています。

 本論文は有限要素解析(FEA)を用いて、ホモ・フロレシエンシスの正基準標本であるLB1の頭蓋における摂食生体力学を、アウストラロピテクス属および現代人およびチンパンジー(Pan troglodytes)と比較して調べます。ホモ・フロレシエンシスの咀嚼負荷は、アウストラロピテクス属よりも減少したものの、現代人を上回っている、との以前提示された仮説を本論文は検証します。そうした検証は、ホモ・フロレシエンシスが処理できただろう食物についていくつかの推論を可能にし、生体力学的接触パターンの進化に知見をもたらします。

 LB1の新たな仮想再構築に基づいて、ホモ・フロレシエンシスの有限要素モデル(FEM)が構築されました(図1)。LB1における第三小臼歯(P3)と第二大臼歯(M2)の咬合のさいの顔面の力みの度合と梃子比が分析され、現代のチンパンジーや最近の現生人類やアウストラロピテクス属と比較されました。アウストラロピテクス属には、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)標本(Sts 5)やアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)標本のMH1(関連記事)が含まれ、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)標本(OH5)も比較対象となりました。以下は本論文の図1です
画像


●分析結果

 ミーゼス応力の大きさと分布を示す図(図2および図3)から、LB1はとくにP3の咬合中に、アウストラロピテクス属よりも一般的に高いひずみみの大きさがあった、と示されます。全体的にLB1の高いひずみの分布は、チンパンジーの方と類似している頬骨の体部と弓部を除いて、現代人と最もよく似ています。以下は本論文の図2および図3です。
画像

画像

 顔面骨格全体の14ヶ所の相同部位から収集されたひずみの程度(図4)は、図2および図3の結果を裏づけます。P3の咬合時、LB1のひずみは、背側眼窩間(DIT)と作業側背側眼窩(WDO)を除くすべての部位で、アウストラロピテクス属を上回っていました。さらに、アウストラロピテクス・アフリカヌスに分類される標本Sts 5の均衡頬骨弓(BZA)のひずみの程度は、LB1を上回っていました。この負荷事例でLB1ひずみの程度が最大なのは作業鼻縁(WNM)で、分析した他のすべての種を上回りました。M2の噛み合わせでは、結果がやや変化しました。この負荷事例では、LB1のひずみの程度は作業頬骨根(WZR)とBZAでSts 5を上回り、近郊眼窩下(BIF)ではSts 5と同程度でした。以下は本論文の図4です。
画像

 LB1のP3およびM2の負荷事例の咬合梃子比は両方とも現代人の範囲内で、本論文の標本に含まれる他の人類と同定です。LB1のP3の力学的利点(MA)はチンパンジーのMAと重なっているものの、その上限に向かっているのに対して、LB1のM2のMAはチンパンジーの範囲を超えています。LB1は、大臼歯の咬合時に作業側のTMJでかすかに引張性の関節反作用力を示し、ゼロとの差がほとんどありません。これは、筋の合成運動が両側顎関節と咬合点の3点を頂点とする三角形のすぐ外側にある、と示唆します。一方、MH1や現代人のTMJ反作用力はより強い張力ですが、Sts 5やOH5のそれは圧縮性です。


●考察

 ホモ・フロレシエンシスの正基準標本であるLB1頭蓋の本論文のモデルは、P3とM2両方の咬合におけるアウストラロピテクス属と比較しての構造的弱さを示します。いくつかの例外を除いて、LB1のミーゼスひずみの程度は、顔面頭蓋の大半において現代人で観察されたひずみの上昇に似ていますが、頬骨の体部と弓部ではチンパンジー的な水準のひずみ増加を示します。これはとくにP3負荷の場合に当てはまり、摂食咬合をシミュレートできるかもしれません。摂食行動に大きく依存している種は、吻の張力を減少させる適応を示すはずだ、と示唆されています。アウストラロピテクス・アフリカヌスの摂食生体力学のFEAでは、この化石人類種の鼻縁に沿って走る特徴的な「前柱」が、硬い種やナッツを割るときなどに小臼歯に力が加わったさいに、圧縮ひずみに抵抗する作用をする、と明らかになりました。これらのひずみは、支柱を取り除くか縮小するシミュレーションでは、ひじょうに高くなります。本論文におけるLB1のFEMでは、P3の咬合ではWNMに沿って現代人の上限値より大きなフォンミーゼスひずみが発生し、モデルサイズに合わせると、Sts 5標本を3倍近く上回ります。

 噛み砕く力が強かったという以前の結論とは対照的に、本論文の生体力学シミュレーションの結果は、ホモ・フロレシエンシスの顔面中央が後のホモ属と同様に華奢化し、それに伴って咀嚼負荷が減少したことを示す形態学的証拠と一致します。ホモ属における顔面縮小の適応的意義を説明するための理論は、食性変化の重要性を強調することが多く、通常は口腔内での処理がより少ない食物への移行を伴います。対照的に以前の研究では、現生人類の頭蓋は力強く噛めるよう適応している、と示唆されています。しかし、M2の負荷事例におけるLB1の作業側TMJの張力は、力強く噛むことの限界と、大臼歯を使うさいに関節の張力を和らげる均衡側筋肉の力を減少する必要性を示唆します。さらに、最大咬合力は歯のサイズに比例すると示されており、ホモ・フロレシエンシスの大臼歯の咬合面積が小さいことは、力強い咀嚼が少ないことを反映している、と推測するのが妥当です。

 以前の研究では、ホモ・フロレシエンシスの下顎は摂食負荷においてアウストラロピテクス属的な構造的強さの程度を示すものの、傍矢状の曲がりに関しては現代人に近い、と明らかになりました。その研究では、ホモ・フロレシエンシスはアウストラロピテクス属と比較すると咀嚼負荷が減少している可能性は高いものの、現代人との比較では上昇している、と結論づけられました。本論文のFEAの結果は、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋がこのパターンに従わないことを示唆します。本論文では、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋が同程度の負荷条件では現代人と同じくらい、場合によっては弱かったことを示唆します。

 興味深いことに以前の研究では、食性に関係なく類人猿の骨形状パターンとの一致が観察されました。その研究では、さまざまな食生活(もしくは摂食行動)の力学的要求は、下顎における皮質骨の利用と配置の詳細には現れず、現生ヒト上科において皮質骨の分布と食性との間に明確な関係はない、と結論づけられています。したがって、ホモ・フロレシエンシスの下顎皮質骨の形状から摂食行動を推測できるのか、不明です。むしろ、下顎の強度を考慮するさいには、体格と比較しての体部サイズの方が関連しているかもしれません。なぜならば、アウストラロピテクス属の下顎における力学的強度は、比較的大きな体格とより高水準の骨量によりもたらされるからです。ホモ・フロレシエンシスの下顎枝のサイズが他の人類と比較して推定される身体サイズに比して小さいとの知見は、本論文の結果と一致します。

 霊長類の頭蓋形態が摂食行動に適応しているのかどうかも不明です。じっさい、頭蓋が選択圧にどのように反応し、適応するのか理解することは、頭蓋骨が果たす多くの機能により複雑になります。競合する要求は、さまざまな機能の最適化において複雑なトレードオフ(交換)をもたらし、高度に統合された構造をもたらします。頭蓋骨の歪みのデータは、それ自体では食生活を反映していない可能性もあります。しかし曲鼻亜目では、頭蓋と食性の側面との間の共変動は、下顎と食性との間のそれよりも緊密である、と以前の研究では明らかになりました。現生霊長類における食性と摂食生体力学との間の関係についての研究により、化石種の摂食適応についての理解がさらに深まるでしょう。


●まとめ

 本論文のシミュレーションと分析により、ホモ・フロレシエンシス、少なくともLB1の頭蓋は、咬合力を効率的に伝達できるものの、顔面骨格の大半に比較的高水準のひずみが生じており、力強く大臼歯を噛むと、TMJ亜脱臼もしくは脱臼の危険性がある、と示されました。これらの結果から、LB1は大きくて強力な咀嚼負荷には適しておらず、おそらく犬歯後列の最大咬合力の生成に関して制約を受けている、と示唆されます。したがって、ホモ・フロレシエンシスの頭蓋は、力強い咬合および/もしくはひじょうに反復的な咀嚼を必要とする硬いものか硬い組織を食べることへの対応で、自然選択により形成された可能性は低そうです。エナメル質の同位体(関連記事)や歯の局所分布や咬合性微視的使用痕(関連記事)や巨視的使用痕のパターンのさらなる分析により、ホモ・フロレシエンシスの食性傾向に新たな光を当てられるでしょう。

 ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学は、現代人で観察されるパターンとよく似ています。現生人類とホモ・フロレシエンシスの最終共通祖先において、本論文で観察されたような顔面中央の縮小と摂食生体力学の現代人的パターンがすでに存在していた、と推測するのは妥当です。ホモ・フロレシエンシスの系統的位置づけは議論されており、依然として不明ですが(関連記事)、ホモ・フロレシエンシスはホモ属の基底部構成員を表しているかもしれず、縮小した顔面中央の骨量や張力TMJ負荷のそうしたパターンは、ホモ属の初期に出現した可能性があります。頭蓋歯摂食の現代人的な生体力学パターンの進化は、このパターンが最初に進化したかもしれない、現生人類とホモ・フロレシエンシスの最終共通祖先の摂食生態と食性のさらなる研究により明らかになるかもしれません。


参考文献:
Cook RW.. et al.(2021): The cranial biomechanics and feeding performance of Homo floresiensis. Interface Focus, 11, 5, 20200083.
https://doi.org/10.1098/rsfs.2020.0083

昆虫のコミュニケーションの起源

 昆虫のコミュニケーションの起源に関する研究(Schubnel et al., 2021)が公表されました。多くの昆虫は、翅の形や色に加えて、翅が発する音を使って、交尾相手を引き寄せたり、捕食者から逃れたりしています。こうした行動が、いつ、どのようにして進化したのか、まだ分かっていません。それは、コミュニケーションに使われている構造と他の目的に使われている構造を、翅化石において区別するのが困難だからです。

 この研究は、フランスのリエヴァン(Liévin)で昆虫の翅の化石を発見し、ティタノプテラ目の新種の翅であることを明らかにしました。ティタノプテラ目はキリギリスに似た巨大な捕食性昆虫で、翅の長さは最長のもので33cmを超えていました。この新種は「Theiatitan azari」と命名されました。テイアー(Theia)とは、ギリシア神話に登場する光の女神です。この翅は、これまで最古とされていたティタノプテラ目種の化石や翅を使って音を出していたと考えられている、「Permostridulus brongniarti」の化石よりも約5000万年古いことになります。

 この研究は、一部のティタノプテラ目種(T. azariを含む)の前翅の中に、さまざまな角度や形状の複数のパネルが存在していることを見いだしました。これらのパネルは、コミュニケーションのために翅を使って光を反射させたり、音を発したりする化石昆虫や現生昆虫の持つパネルに似ています。T. azariは、翅を使って光を反射させたり、パチパチという音を発生させたりすることでコミュニケーションを行なっており、この翅の形状と構造から、それが可能だったのは、こうしたパネルのためと示唆されました。

 これらの知見は、昆虫が翅を使って情報を発信することが石炭紀後期(約3億1000万年前)から始まっていた可能性を示唆するとともに、昆虫の進化史を通じて、翅が昆虫のコミュニケーションにとって重要だった、と明らかにするとともに、T. azariはコミュニケーションのために翅を使用していた最古の昆虫種だった、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:遠い昔の昆虫の翅が解き明かす昆虫のコミュニケーションの起源

 このほど発見された昆虫の翅の化石で観察された複数の特徴が、翅を用いたコミュニケーションを示す最古の証拠になったことを報告する論文が、Communications Biology に掲載される。この知見は、昆虫が翅を使って情報を発信することが石炭紀後期(約3億1000万年前)から始まっていた可能性を示唆している。

 多くの昆虫は、翅の形や色に加えて、翅が発する音を使って、交尾相手を引き寄せたり、捕食者から逃れたりしている。こうした行動が、いつ、どのようにして進化したのかは分かっていない。コミュニケーションに使われている構造と他の目的に使われている構造を、翅化石において区別するのが難しいからだ。

 今回、André Nelたちの研究チームは、フランスのリエヴァンで昆虫の翅の化石を発見し、ティタノプテラ目の新種の翅であることを明らかにした。ティタノプテラ目は、キリギリスに似た巨大な捕食性昆虫で、翅の長さは最長のもので33センチメートルを超えていた。Nelたちは、この新種をTheiatitan azariと命名した。テイアー(Theia)は、ギリシャ神話に登場する光の女神だ。この翅は、これまで最古とされていたティタノプテラ目種の化石や翅を使って音を出していたと考えられているPermostridulus brongniartiの化石よりも約5000万年古い。Nelたちは、一部のティタノプテラ目種(T. azariを含む)の前翅の中に、さまざまな角度や形状の複数のパネルが存在していることを見いだした。これらのパネルは、コミュニケーションのために翅を使って光を反射させたり、音を発したりする化石昆虫や現生昆虫の持つパネルに似ている。T. azariは、翅を使って光を反射させたり、パチパチという音を発生させたりすることでコミュニケーションを行っており、この翅の形状と構造から、それが可能だったのは、こうしたパネルのためであると示唆された。

 以上の知見は、昆虫の進化史を通じて、翅が昆虫のコミュニケーションにとって重要だったことを明確に示しており、T. azariがコミュニケーションのために翅を使用していた最古の昆虫種であることを示している。



参考文献:
Schubnel T. et al.(2020): Sound vs. light: wing-based communication in Carboniferous insects. Communications Biology, 4, 794.
https://doi.org/10.1038/s42003-021-02281-0

野口淳「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」

 本論文は、日本列島において報告された、あるいはこれから報告されるであろう、「後期旧石器時代以前」または「4 万年前以前」の遺跡の存在を定量的に検討するための試論です。本論文はまず結論として、日本列島における「4 万年前以前」とされる「遺跡」の存在を高い蓋然性によって示す・説明することは現状では困難と指摘し、その理由を遺跡分布・立地と地形発達史の関係から説明し、日本列島外の事例と比較します。本論文は、静岡県井出丸山遺跡第1文化層を、2020 年時点で報告されている後期旧石器時代(上部旧石器時代)文化層の最古の年代として、それより以前を「後期旧石器時代以前」とする立場から、「4 万年前」を区切りの目安としています。

 手続き論上、考古学的に「不存在」を証明することはほぼ不可能で、可能なのは、提示・報告された資料・データの確からしさの検証か、状況証拠からの推論による、「存在」の妥当性・蓋然性の検討である、と本論文はまず指摘し、遺跡分布・立地を『日本列島の旧石器時代遺跡』データベース(JPRA-DB)に基づいて検討します。ただJPRA-DBには時期区分情報が含まれないので、本論文では主要石器の組み合わせが示標とされます。具体的には、「台形(様)石器」または「石斧」を含むものの、「剥片尖頭器」や「角錐状石器・三稜尖頭器」や「槍先形尖頭器」や「細石刃・細石核」や「神子柴型石斧」や「有茎(舌)尖頭器」や「草創期土器」を含まない遺跡・地点・文化層が、後期旧石器時代前半(EUP)とされます。JPRA-DB 刊行時のデータで計791件が該当し、地理的には北海道から奄美大島までが含まれます。一方、4 万年前以前とされる遺跡については異論も多く確定的ではありませんが、22ヶ所の 遺跡・地点・文化層を示す2016年の論文もあります。その後報告された長野県の木崎小丸山遺跡を含めて、発掘調査資料で火山灰層序・年代測定により4 万年前以前と言えるのは、8 遺跡12件です。

 まず本論文は、日本列島における4万年前頃以降の旧石器時代遺跡の大幅な増加を指摘します。4万年前頃を境目とした単純な比較では、それ以前に対してそれ以降は80倍以上の増加となります。継続期間を考慮した遺跡数は、4万年前以前が12万~4万年前頃として1000年あたり0.15件、EUPが4万~3万年前頃として1000年あたり79遺跡です。日本列島における4万年以上前の遺跡を認めるとしても、4万年前頃以降に大量の人口移動または増加があったことは間違いない、と本論文は指摘します。

 4 万年前以前と言える8 遺跡12件のうち、4万年前頃以降の文化層も検出されているのは4 遺跡で、重複率は50%です。逆に、EUP 遺跡から見ると、重複率はわずか0.76%です。他の時代との比較では、利用可能な日本列島全体の遺跡のデータ集成がないため、東京都の遺跡6286件のデータが参照されました。EUP以降(4万年前頃以降)の旧石器時代では、単独の立地は7%で、残りの93%は縄文時代以降の遺跡と重複します。「旧石器あり」の遺跡は全体の約11%なので、その後の増加率は約10倍となります。東京都のデータでは、4万年前頃以降の居住・活動の立地選択は、時代を超えて共通していると言えますが、4万年前頃以前は、それとは大きく異なることになります。

 日本列島内における遺跡数や分布・立地、重複率などの大きな変化について、人類集団の渡来・交替による、との説明があります。4万年前頃以降に渡来した集団(population)は、それ以前とは異なる土地利用・資源開発により、短期間に日本列島に適応し急速に多くの遺跡を残したという説明も可能である、と本論文は指摘します。そこで本論文は、日本列島外との比較を試みますが、日本列島内のように網羅的なデータを利用できないので、いくつかの断片的な情報を参照します。

 以前の研究では、韓国の事例の集成から、朝鮮半島南部における後期旧石器時代とそれ以前の遺跡の重複率は約30%、増加率は約3倍と示されています。これは日本列島のそれ(0.7%、80倍)とは大きく異なる緩やかな変化だ、と本論文は指摘します。他の国・地域については同等のデータの比較は困難ですが、アジア東部だけではなく、アジア南部やアジア南東部やアジア中央部やアジア北部など広く見渡しても、開地遺跡において同一地点での中期旧石器時代(中部旧石器時代)以前と後期旧石器時代遺跡の重複、または同一立地の遺跡・遺跡群内での検出が広く確認できます。中期旧石器時代以前の遺跡が存在するとき、同じ立地において後期旧石器時代相当の地形・地層が残されていれば、遺跡が見つかる確率はそれなりにあると言えるだろう、と本論文は指摘します。

 東京都において同一遺跡・地点内で6 以上の文化層が検出された遺跡は、野川流域に多いほか、武蔵野台地の各地にも分布しているので、繰り返し利用された立地が少なくない、と本論文は指摘します。立川面の遺跡を除くと、他はS(下末吉)面~M2b(田柄)面で、14万~7 万年前頃以降の地形・堆積が残されていますが、これまでに発掘されたすべての遺跡・地点で4 万年頃以前の文化層は検出されていません。ヒトの活動の痕跡は、37000年前頃以に出現し、同層準(立川ロームXb層)に多数の地点・文化層が検出されているのに対して、それ以下の層準からの文化層・人工物の報告は、遺跡の形成·遺存が可能な地形·地層があるにも関わらずありません。本論文はこれらの検証から、日本列島において4万年前頃前後に見られる遺跡数の急速な増加や立地選択の変化は、日本列島にのみ特徴的に見られるもので、地形発達史や堆積物の遺存などの要因によるものではない、と結論づけています。

 日本列島における4万年前頃以前とされる遺跡は、アジア各地の人類集団の交替·それに伴う生活や行動の変化のデータと整合性が低いので確実なものとは言えない、と本論文は指摘します。日本列島において4 万年前頃以降に多数の遺跡が「突如」として現れるのは、先行する人類集団のいない事実上空白のニッチに進出した人類集団が、短期間に人口を増やしたか、あるいは広範囲を開発利用したことを示しているのだろう、と本論文は推測します。ただ本論文は、こうした見解が「現在得られている情報にもとづくならば」という留保つきであることから、新発見により見解が変わる可能性も指摘します。日本列島における4万年前頃以前の人類の痕跡を示すならば、上述の日本列島固有に見える特徴を日本列島外との比較で説明できねばならず、合理的な説明は現時点でまだないだろう、と本論文は指摘します。

 日本列島に前期・中期旧石器時代遺跡はあるのか、または4 万年前頃より古い人類の痕跡はあるのかという学術的な問いは、日本列島に最初に到来した人類が何者でどのくらい古いのかという「わたしたちの歴史や来歴」に関する語りに変換され、広く一般市民を魅了するので、一般市民を対象とした場では、科学的手続きに基づいたより厳密な応答よりも、結論を先に明示した上で後から細かい条件を説明すべきなのかもしれない、と本論文は提起します。本論文は、学術的な議論とサイエンス・コミュニケーションを使い分けた上で、「分かりやすく」と「丁寧に」を両立させる配慮を目指し、本論文で提示したデータや分析の説明を行ないたい、と今後の方針を示しています。

 以上、本論文についてざっと見てきました。これまで当ブログでは、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します、というようなことを述べてきました(関連記事)。これはかなり雑な印象論にすぎませんが、本論文で具体的な遺跡のデータおよび他地域との比較を知ることができ、この問題を考えるうえでたいへん有益でした。本論文も指摘するように、今後の発見により見解を大きく変える必要があるかもしれませんが、現時点では、4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、4万年前頃以降の日本列島の人類には遺伝的にも文化的にも影響を及ぼしていない可能性が高いように思います。


参考文献:
野口淳(2020)「日本列島における後期旧石器時代以前、または4万年前以前の遺跡の可能性」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P31-34

大河ドラマ『青天を衝け』第24回「パリの御一新」

 日本では大政奉還から王政復古まで進んでいますが、パリの栄一(篤太夫)には、1868年1月26日(慶応4年1月2日)になってやっと、大政奉還の報が伝わります。激変する国内情勢に栄一たちは困惑します。栄一はフランス側から誘われて証券取引所を訪れ、国債や社債について教えられ、感銘を受けます。翌月になって栄一たちに、慶喜が薩長との対立を避けて大坂城に退いた、との報が伝わります。妻をはじめとして家族・親族からの書状も届き、栄一は安堵しますが、自分の洋装に妻が落胆しているのを知って複雑な気持ちになります。さらに3月になって、鳥羽伏見の戦いと慶喜の江戸への退却が栄一たちに伝わります。栄一たちパリにいる一行は衝撃のあまり、激昂する者も呆然とする者もいました。慶喜から徳川昭武への書状も届き、そこには慶喜の意図が説明されていましたが、慶喜の行動に納得のいかない栄一は一瞬激昂します。

 今回、国内政局は慶喜視点の描写になるのかと予想していたら、慶喜は回想場面にしか登場せず、書状で意図が短く説明されただけでした。平九郎の死もあっさりとした描写でしたが、慶喜の意図と平九郎の最期は次回詳しく描かれるようです。今回、林董も登場しましたが、いかにもといったモブキャラだったので、今後の登場はないでしょうか。まあ、栄一について詳しくないので、明治時代に栄一との関係があったのかもしれませんが。今回、鳥羽伏見の戦いがまったく描かれなかったのは意外でしたが、あくまでも主人公は栄一ですから、パリにいた時は国内政局が分からず、帰国して初めて詳しく知ったという栄一視点を視聴者に強く印象づけるという意味では、悪くなかったように思います。

現代人で最もデニソワ人からの遺伝的影響が強いフィリピンのネグリート

 フィリピンのネグリートにおける種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝的影響に関する研究(Larena et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。出アフリカ以来、現生人類(Homo sapiens)はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やデニソワ人といった絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と、さまざまな年代と場所で共存して交雑してきました。ネアンデルタール人やデニソワ人、さらにおそらくは他の絶滅ホモ属との相互作用(関連記事)は、現代の人口集団のゲノムに遺伝的痕跡を残しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 全ての非アフリカ系現代人は、均一な水準のネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有しますが、オーストラレーシア人は他の人口集団と比較して、デニソワ人祖先系統の割合がより高くなっています。デニソワ人は当初、オーストラレーシア人(フィリピンのネグリートとオーストラロパプア人の間で共有された遺伝的祖先系統の総称)の祖先との単一の混合事象を通じて、現生人類との単一の共有された人口史を有していると考えられていました(関連記事1および関連記事2)。

 その後の研究では、デニソワ人は深く分岐した構造の人口集団である可能性が高く、広範で多様な環境に居住していた、と示唆されました。これは、デニソワ人の祖先系統が、低水準とはいえ、現代のアジア東部人とアジア南部人とシベリア人とアメリカ大陸先住民で検出されたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。人口集団水準のゲノムから回収された絶滅ホモ属由来領域の分析を通じて、現生人類はデニソワ人と過去に少なくとも2回混合し、デニソワ人的な人口集団は、参照されるアルタイ地域のデニソワ人(関連記事)とはさまざまな程度の遺伝的類似性を有する、と最近示されました(関連記事)。その後の研究により、第三の独立したデニソワ人からの遺伝子移入事象が明らかになり、これはパプア人関連人口集団のみで見られ、デニソワ人とオーストラレーシア人との間のますます複雑な混合史が示唆されました(関連記事)。

 デニソワ人とオーストラレーシア人との間の絡み合った人口史は明らかにされつつありますが、アジア南東部島嶼部(ISEA)におけるその特有の相互作用の知識は限られたままです。「ネグリート」と自己認識し、オーストラロパプア人と遺伝的に関連するフィリピンの一部の現代の人口集団が、顕著な水準のデニソワ人祖先系統を示すことから(関連記事1および関連記事2)、これはとくに重要です。ISEA地域における過去のデニソワ人とオーストラレーシア人の相互作用の理解を深めるため、25の民族言語的に多様なネグリート人口集団を含む、フィリピンの118の異なる民族集団からの1107個体の古代型(絶滅ホモ属由来の)祖先系統が包括的に調べられました(図1A)。以下は本論文の図1です。
画像


●フィリピンのネグリートの人口構造と遺伝的関係

 オーストラレーシア人関連のネグリートは、最終氷期には大半が陸地化していたISEAの連続した生物地理学的地域である、スンダランドの最初の現生人類の住民とみなされています(関連記事)。53000年前頃(95%信頼区間で64000~41000年前)となるパプア人との分岐に続いて、ネグリートは利用可能なパラワン・ミンドロもしくはスールー・サンボアンガ回廊を経由してスンダランドからフィリピンへと移動し、後に複数の言語的に多様な現在のフィリピンのネグリート集団へと分岐しました。

 現在のフィリピンのネグリートの遺伝的類似性の概要を提供するため、オーストラレーシア人とアジア東部人とユーラシア西部人を含む人口集団の部分集合で主成分分析が実行されました(図1B)。全てのネグリートはオーストラロパプア人とフィリピンのコルディリェラ人(Cordilleran)の人口集団クラスタ間に位置し、オーストラレーシア人関連祖先系統とアジア東部人関連祖先系統という、2つの祖先的供給源の混合が示唆されます。さらに、フィリピンのネグリートに限定された部分集合の主成分分析と、ADMIXTUREで実装された教師なしクラスタ化分析により、ネグリートの少なくとも5つの異なる人口集団クラスタが明らかになりました。それは、ルソン島中央部、ルソン島北部、ルソン島南東部、ルソン島南部、南部です(図1C)。

 フィリピンのネグリートはパプア人とクレード(単系統群)を形成する、と以前に示されました。そこで、フィリピンのネグリートとアジア東部人との間の最近の混合の証拠がさらに調べられました。D検定(ムブティ人;アジア東部人、オーストラレーシア人、検証集団)を用いると、ネグリート人はアジア東部人からの顕著な水準の遺伝子流動を示し、中国南部と台湾のより広大な地域からのオーストロネシア語族移民との最近の混合に起因します(関連記事)。連鎖不平衡(LD)に基づく混合年代推定手法を適用すると、ネグリートとアジア東部人との混合事象は2281年前(95%信頼区間で2523~2083年前)と推定されます。

 次に、最小限のアジア東部人との混合供給源の代理としてバランガオ(Balangao)のコルディリェラ人、最小限の混合オーストラレーシア人供給源の代理としてパプア人を用いて、qpAdmの実行で2つの祖先的供給源間の混合の程度が定量化されました。全体的に、ネグリートはアジア東部人とのさまざまな程度の混合を示し(図1D)、マリヴェレニョ語アエタ人(Ayta Magbukon)やアンバラ語アエタ人(Ayta Ambala)のようなルソン島中央部ネグリートは、アジア東部人関連祖先系統が10~30%と最小になっています。

 絶滅ホモ属とのオーストラレーシア人の遺伝的類似性を識別するため、チンパンジーとネアンデルタール人とデニソワ人の個体で主成分分析が実行され、現代のアフリカ人とアジア東部人とフィリピンのネグリートとオーストラレーシア人が投影されました。PC1軸はチンパンジーと絶滅ホモ属の軸により定義されたのに対して、PC2軸はデニソワ人とネアンデルタール人の軸により定義されます。全ての現代の人口集団は中心に位置し、その拡大図では、デニソワ人の軸に向かってのオーストラロパプア人とフィリピンのネグリートの帰属が示されます。興味深いことに、ほとんどのマリヴェレニョ語アエタ人は、パプア人もしくはオーストラリア先住民よりもデニソワ人の軸の端に位置し、オーストラロパプア人よりもマリヴェレニョ語アエタ人の方でデニソワ人祖先系統がより高水準であることを示唆します。


●最高水準のデニソワ人祖先系統を示すフィリピンのネグリート

 ネアンデルタール人祖先系統は全てのフィリピンの民族集団で均一に検出され、それはアフリカ外の世界規模の人口集団と同程度ですが、以前の研究で示されたように(関連記事1および関連記事2)、デニソワ人祖先系統の程度はずっと多様です(図2AおよびB)。デニソワ人祖先系統はネグリートでより高く、非ネグリート祖先系統の水準に比例して減少する明確な勾配があります。したがって、ネグリート祖先系統とデニソワ人祖先系統との間の強い相関が見つかります(図3A)。以下は本論文の図2です。
画像

 さらに興味深いことに、一部の北部ネグリートはこれまでに記録されたデニソワ人祖先系統の最高推定値を有しており(図2AおよびB)、D検定(ムブティ人;デニソワ人、オーストラリア先住民/パプア人、マリヴェレニョ語アエタ人)基づくと、オーストラロパプア人よりもマリヴェレニョ語アエタ人の方がより高いデニソワ人祖先系統を示します(図3BおよびC)。マリヴェレニョ語アエタ人へのデニソワ人の遺伝子移入のより高い程度は、10~20%のアジア東部人との最近の混合の検出にも関わらず、観察されます。これは、パプア人およびオーストラリア先住民集団との混合が少ないのとは対照的です(図3B~D)。これらの結果は、代替のデータセットを用いて、人口集団の代わりに個体群を検証するか、確認の偏りを考慮するか、これらの人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統を補正しても、一貫しています。

 デニソワ人の混合程度の違いは、ネグリートにおけるアジア東部人関連混合を隠すことでより明確になります(図3BおよびC)。これにより、ほとんどのネグリートでは、パプア人もしくはオーストラリア先住民よりも明らかに高いデニソワ人祖先系統の推定値が得られ、信頼区間は重なりませんでした。さらに、ネグリートにおけるデニソワ人祖先系統とアジア東部人関連祖先系統との間の回帰線を「アジア東部人との混合無し」に外挿法により推定すると、「混合されていない」祖先的ネグリートにおけるずっと高いデニソワ人祖先系統が示唆され、それはパプア人よりも46%高くなります(図3D)。同様に、ネグリートもしくはパプア人関連祖先系統とのデニソワ人祖先系統の比率は、パプア人関連人口集団よりもネグリートの方で顕著に高くなります(図3E)。以下は本論文の図3です。
画像


●配列データ分析によるデニソワ人祖先系統の割合の比較

 一部のフィリピンのネグリートにおいて、デニソワ人祖先系統が高水準であることについて、さらに調べられました。マリヴェレニョ語アエタ人5個体の高網羅率(平均37倍)の全ゲノム配列が生成され、絶滅ホモ属(関連記事1および関連記事2)および現代人(関連記事)の刊行された利用可能なゲノム配列データセットと統合されました。オーストラリア先住民の高網羅率のゲノムの比較分析に続いて、マリヴェレニョ語アエタ人が世界で最高水準のデニソワ人祖先系統を有する、と確証されました(図4A~C)。それは、f4比統計を用いてのデニソワ人祖先系統推定の違いに基づくと、オーストラリア先住民もしくはパプア人よりも34~40%高くなります(図4B)。以下は本論文の図4です。
画像

 統計的枠組み(関連記事)を用いて、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人のゲノムにおける(信頼度の高い)絶滅ホモ属由来の領域が特定され、人口集団における古代型ホモ属祖先系統の水準を推定するために、f4比統計における潜在的な偏りが除外されました。マリヴェレニョ語アエタ人における個体あたりのデニソワ人配列の平均量(5194万塩基対)は、パプア人のそれ(4196万塩基対)より有意に多く、マリヴェレニョ語アエタ人がパプア人よりもデニソワ人祖先系統を少なくとも24%多く有する、と示します(図4D)。

 さらに、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人はどちらも、シベリアのアルタイ地域の参照デニソワ人とは中程度の類似性を有するデニソワ人断片を示し、一致率は50%です(図5AおよびB)。これが示唆するのは、マリヴェレニョ語アエタ人およびパプア人へと遺伝子移入した絶滅ホモ属集団は、アルタイ地域のデニソワ人とは遠い関係にある可能性が高く、以前の観察(関連記事1および関連記事2)と一致する、ということです。以下は本論文の図5です。
画像

 アエタ人における高水準のデニソワ人祖先系統は、最近のデニソワ人との混合事象に起因するかもしれません。そうすると、混合領域はより長くなり、検出がより容易になります。これは、デニソワ人祖先系統がパプア人よりもアエタ人の方で24%過剰であることを説明できるかもしれません。しかし、アエタ人(26万塩基対)とパプア人(262000塩基対)では平均的な領域の長さが類似していることを考えると、この想定は当てはまらないと分かります。同様に、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人におけるデニソワ人領域の累積分布で有意な違いは見つかりませんでした。本論文の知見から、マリヴェレニョ語アエタ人とパプア人では混合年代は近いと示唆され、パプア人よりもアエタ人の方でデニソワ人との混合が多い、との本論文の主張を裏づけます。

 デニソワ人祖先系統の領域の長さは、以前にはパプア人と一部のフィリピンのネグリート集団で調べられ、さまざまな結果が得られました。以前の研究(関連記事)では、アジア東部人とパプア人への提案された2回の遺伝子移入事象に寄与した、混合デニソワ人由来の領域の長さに違いは見つかりませんでした。同様に別の研究(関連記事)では、パプア人における平均的なデニソワ人由来領域の長さには違いが見つかりませんでしたが、パプア人への異なる2回のデニソワ人からの遺伝子移入と一致する、領域の長さの分布における違いが報告されました。

 また別の研究では(関連記事)、本論文のデータセットではアンツィ語アエタ人(Ayta Mag-ants)とインディ語アエタ人(Ayta Mag-indi)と思われるアエタ人集団におけるパプア人よりもわずかに長い平均的な領域の長さが見つかり、アエタ人とパプア人への別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象が示唆されました。ただ、その研究(関連記事)で見つかった平均的な領域の長さは、別の研究(関連記事)よりも15倍短く、本論文の推定では、少なくとも部分的には異なる推定手法に起因しているので、直接的比較が困難であることに要注意です。


●フィリピンのネグリートへの独立したデニソワ人からの遺伝子移入

 パプア人と比較してのマリヴェレニョ語アエタ人における有意に高水準のデニソワ人祖先系統は、オーストラロパプア人の祖先へのデニソワ人からの遺伝子移入事象とは異なる、ネグリートの間でのフィリピンにおける独立したデニソワ人からの遺伝子移入事象を浮き彫りにします。この観察は、現生人類へのデニソワ人からの遺伝子移入の複数の波を示唆する最近の研究と一致しており、デニソワ人はおそらくISEA全域に拡大しており、アエタ人のネグリートは第二のデニソワ人からの遺伝子移入事象を経た可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。そこで、ネグリートとパプア人との間の分岐後に起きた、ネグリートへのデニソワ人からの独立した遺伝子移入事象の一連の証拠がさらに調べられました。

 第一に、ネグリートはオーストラロパプア人におけるオーストラレーシア人関連祖先系統と関連しないデニソワ人祖先系統を有する、と明らかになりました(図3A)。ほとんどのネグリートは、オセアニア人とインドネシア人におけるデニソワ人祖先系統およびオーストラレーシア人関連祖先系統と相関する傾きに対して、明確な外れ値を形成します。

 第二に、パプア人と比較してのネグリートにおけるかなり高いデニソワ人祖先系統(図3BおよびC、図4A~D)は、ネグリートへの追加のデニソワ人からの遺伝子移入事象のモデルと一致します。あるいは、ほとんどデニソワ人祖先系統を含まない人口集団との混合により、パプア人におけるデニソワ人祖先系統の「希釈」が起きたかもしれません。しかし、本論文でも以前の研究(関連記事1および関連記事2)でも、アジア東部人もしくはヨーロッパ人から高地パプア人への最近の遺伝子流動の証拠は見つかりませんでした。それどころかネグリートは、ほとんどデニソワ人祖先系統を有さないコルディリェラ人関連のアジア東部人との最近の混合の証拠を示します(図1D)。

 第三に、ネグリートとオーストラリア先住民とパプア人への共有されるデニソワ人からの遺伝子移入事象に基づく、qpGraphを用いての明示的な人口集団接続形態は却下されました(図6A)。これは、ネグリートへの個別のデニソワ人からの遺伝子移入事象に適合させたモデルとは対照的です(図6BおよびC)。以下は本論文の図6です。
画像


●シミュレーションにより裏づけられる異なるデニソワ人系統からの独立した遺伝子移入

 合着(合祖)シミュレーターmsprimeを用いてシミュレーションが実行され、共有されたデニソワ人からアエタ人ネグリートとパプア人の共通祖先への遺伝子移入事象の帰無モデル(図7F)、もしくは複数のデニソワ人との混合事象(図7K・P・U・Z)の代替的なモデル(代替1~4)から、アエタ人のネグリートがパプア人よりも高水準のデニソワ人祖先系統を有する、という観察されたデータ(図7A~E)と一致するデニソワ人祖先系統のバターンを得られるのかどうか、評価されました。代替1モデル(図7K)は、アエタ人ネグリートとパプア人の共通祖先集団における混合事象後の、異なる標本抽出されていないデニソワ人集団からのアエタ人ネグリートへの追加の混合事象を示します。代替2(図7P)・代替3(図7U)・代替4(図7Z)モデルは、さまざまな年代もしくは類似の年代に起きた、アエタ人ネグリートおよびパプア人の祖先集団への完全に別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象を示します。

 共有されたデニソワ人との混合事象の帰無モデルとは対照的に、デニソワ人からネグリートへの別々の遺伝子移入事象のモデルに基づくシミュレーションでは、観察されたデータと一致するデニソワ人祖先系統のパターンが得られます(図7)。全ての代替モデルは一貫して、三つの実験上の証拠を再現します。つまり、パプア人よりもアエタ人ネグリートにおいてデニソワ人祖先系統が高水準であること、パプア人よりもアエタ人ネグリートにおいてオーストラレーシア人祖先系統に対してデニソワ人祖先系統の割合が高いこと、アエタ人ネグリートは、デニソワ人祖先系統とオーストラレーシア人祖先系統との間の相関を投影すると、パプア人関連集団により形成された傾きの外側に位置することです(図7)。同じ頃にアエタ人ネグリートとパプア人へのデニソワ人からの遺伝子移入事象が起きたとする代替4モデルのみが、アエタ人ネグリートとパプア人における類似の水準の平均的なデニソワ人由来領域の長さを示し、これは実験上のデータと一致するパターンです(図7Cおよび図7Ab)。その結果、代替4モデルのみが、実験上のデータ全てと一致する定性的パターンを示しました。以下は本論文の図7です。
画像

 まとめると、本論文のシミュレーションは、独立してアエタ人ネグリートとパプア人へと遺伝子移入した2つの別々のデニソワ人系統の存在を裏づけ、それはネグリートとパプア人の53000年前頃(95%信頼区間で64000~41000年前)の分岐後に同じ頃に起きた可能性が高そうです。最初の現生人類の移民がスンダランドとサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)に到来すると、これらの祖先的オーストラレーシア人集団は、ISEAとオセアニア地域全体に散在していた、深く分岐したデニソワ人関連集団と混合した可能性が高そうです(関連記事1および関連記事2)。

 最高水準のデニソワ人祖先系統を有する人口集団がISEAおよびニアオセアニア地域で見つかるという事実にも関わらず、デニソワ人化石はこの地域ではまだ見つかっていません。これは部分的には、デニソワ人の決定的な表現型の特徴に関する情報の欠如に制約されているかもしれません。デニソワ人に関する利用可能な知識のほとんどは、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された断片的な遺骸からのゲノムデータに基づいています(関連記事)。

 シベリア以外のデニソワ人に関する他の唯一の直接的証拠は、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見されており(関連記事1および関連記事2)、古代プロテオーム解析と古代ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析により、白石崖溶洞で発見されたホモ属遺骸(夏河下顎)は系統発生的にアルタイ地域のデニソワ人と密接に関連している、と明らかになりました。これは、アジア東部で以前に発見された、中華人民共和国河北(Hebei)省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡で発見されたホモ属遺骸(関連記事)や、台湾沖で発見された澎湖1(Penghu 1)と呼ばれるホモ属遺骸(関連記事)など他の絶滅ホモ属(古代型ホモ属)遺骸がデニソワ人かもしれない、との提案につながります。

 さらに、現在ネグリートが居住するルソン島では、67000年前頃の人類遺骸が報告され、ホモ属の新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)に分類されており(関連記事)、本論文の遺伝的証拠と合わせると、ホモ・ルゾネンシスとデニソワ人が遺伝的に関連しており、異なる形態として存在していたか、あるいは島嶼部の同じ集団に属していた、という可能性が提起されます(関連記事1および関連記事2)。さらに、インドネシア領フローレス島で発見された絶滅ホモ属の新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)がデニソワ人と関連している可能性も、完全にあり得ないわけではありません。

 したがって、ISEAにおける複数の絶滅ホモ属(古代型ホモ属)遺骸の存在は、本論文も含めてこれまでの研究で提示されたゲノム証拠(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)とともに、デニソワ人がかなりの遺伝的および表現型的多様性のある深く構造化された人口集団を構成し、広範な環境に適応できたので、アジア太平洋地域で広く居住できた、という可能性を提起します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これは、パプア人が30000~25000年前頃という最近のデニソワ人からの遺伝子移入事象を経た、と示すゲノム証拠により裏づけられ(関連記事1および関連記事2)、それはアエタ人ネグリートとパプア人との間の53000年前頃の分岐後のことになります。

 本論文の解釈は、絶滅ホモ属とISEAにおける高水準のデニソワ人祖先系統を有する現代の人口集団との共存の節約的な説明を提供しますが、これは利用可能な化石データに関する現在の古人類学的分析とは一致しません。ISEAにおける、デニソワ人とホモ・ルゾネンシスとホモ・フロレシエンシスと他の絶滅ホモ属との間の決定的な系統発生関係はまだ確定しておらず、将来、古代DNAもしくは古代プロテオームデータが利用可能になれば、解決される可能性があります。


●まとめ

 ISEA地域の困難な熱帯環境におけるデニソワ人からの古代DNAの発見と抽出成功が待たれますが、現段階では、計算による遺伝的手法が唯一の実行可能な代替手段のようです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。この手法は、絶滅ホモ属(古代型ホモ属)が現生人類の過去と生物学をどのように形成したのか、理解を深めるのに成功した、と以前に示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。さらに、利用可能な計算ツールを最大限利用することで、フィリピンのネグリートのように、ゲノム調査で標本が不充分だった人口集団の重要性が強調されます。フィリピンのネグリートに関する本論文のゲノム分析は、ヒト進化史の重要な選択に光を当てます。つまり、以前には認識されていなかった、ISEA地域における現生人類とデニソワ人との間の複雑な相互作用です。


参考文献:
Larena S. et al.(2021): Estimating the dwarfing rate of an extinct Sicilian elephant. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.07.022

飯山陽『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相』

 扶桑社新書の一冊として、育鵬社から2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現代日本社会におけるイスラム教認識には誤解が多く、その責任は日本のイスラム教専門家やそれを鵜呑みにするマスメディアにある、と主張し、日本におけるイスラム教認識の問題点を指摘していきます。まず、イスラム教は平和の宗教との言説については、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件以降と指摘されています。イスラム教徒への偏見を助長しないような配慮からも、そうした言説が強調された意味はあるかもしれません。しかし本書は、そうした言説の中には、イスラム教徒の多数派が平和を愛好していることを、イスラム教は平和の宗教と読み替えているものがある、と批判します。また本書は、そもそもイスラム教における「平和」は、現代日本人の多くが想定する平和とは大きく異なり、全世界がイスラム法により統治された状態のことだ、と指摘します。またこれと関連して、ジハードの本義を内面的努力とするような日本の知識人(イスラム教の専門家も非専門家も含めて)の言説が批判され、本来のジハードの義務では軍事的な意味が理解されていた、と本書は指摘します。しかし本書は、イスラム教の教義が平和的ではないからといって、イスラム教徒全員が戦争を望んでいるわけではなく、テロリストでもない、と注意を喚起します。本書はその理由を、宗教の区別による差別が不正だからと指摘します。イスラム教が人道主義に立脚していようといまいと、宗教の区別による差別は許されない、というわけです。

 現代日本社会では、イスラム教を「イスラム」もしくは「イスラーム」と表記して「教」を省くことが一定以上浸透しています。本書はその理由として、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているからだ、とイスラム教の専門家たちが主張していることを挙げます。こうした専門家たちは、イスラム教こそ日本や欧米の現代社会の問題を解決する選択肢と考えている、と本書は批判的に指摘します。また本書は、こうした日本のイスラム教専門家が、抑圧体制のイランやその要人を称えることがあることも批判します。こうした日本のイスラム教専門家たちは、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィが指摘する「イスラム左翼主義」で「反米教」なので、事実の客観的分析を期待できない、と本書は指摘します。本書でも言及されていますが、「イスラム国」を擁護する日本のイスラム教(もしくは中東)専門家がいることは、こうした姿勢の延長上として了解されます。さらに本書は、こうしたイスラム教(もしくは中東)専門家のイスラム教賛美を、「西洋近代」を批判するイスラム教の専門家ではない「知識人」が鵜呑みにしていることも、「反近代」という理由でイスラム教を安易に賛美する傾向がある、と批判します。

 イスラム教は平和の宗教との言説とともに現代日本社会において一定以上浸透していると思われるのが、イスラム教は異教徒に寛容な宗教との言説です。これは、キリスト教、とくに中世ヨーロッパ西部のキリスト教との対比で主張されています。しかし、イスラム教と他の宗教との共存は宗教による差別を大前提としたものであることを、本書は指摘します。また本書は、イスラム教において、キリスト教徒やユダヤ教徒のような啓典の民ではない多神教徒は犬などと同じ「不浄」に分類され、殺しても差し支えない存在とされている、と指摘します。また本書は、イスラム教が棄教や改宗を認めないことも問題視し、棄教者を自ら殺害するイスラム教徒はほとんどいないものの、棄教者は殺されて然るべきと考えているイスラム教徒は多い(2013年の調査で、エジプト人の86%、アフガニスタン人の79%、パキスタン人の76%、マレーシア人の62%)、と指摘します。

 イスラム過激派テロの原因は(貧困や疎外など)社会にある、との言説は日本に限らず広く世界に浸透しているように思いますが、本書はこれも批判します。まず本書が指摘するのは、イスラム過激派テロの原因は何よりもイスラム教の宗教イデオロギーに求められることです。本書はここで、イスラム教の教義には確かに、イスラム教による世界征服を信者に義務づけており、イスラム教徒の大多数はそれを信じていてもジハードを実行するわけではないので、イスラム主義とイスラム教を区別しなければならない、と注意を喚起します。イスラム主義は、イスラム教徒がジハードを実行しないことを咎め、イスラム教の全教義を実践しなければならない、と促すイデオロギーであることを、本書は指摘します。次に本書は、イスラム過激派戦闘員のほとんどはヨーロッパではなくイスラム諸国にいるので、イスラム教徒であるという理由で社会から疎外されたり差別されたりしているわけではない、と指摘します。イギリスの公的調査でも、イスラム教徒のテロ容疑者の2/3は中流か上流階級の出身で、90%は社交的な人物と報告されているそうです。さらに本書は、「イスラーム復興論」を主張して多額の科研費の獲得に成功したイスラム教研究者たちが、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているから「教」をつけてはならない、と主張していたのに、イスラム過激派テロだけをイスラム教から切断することを詭弁と批判します。

 本書は、ヒジャーブ着用に関する日本のイスラム教研究者の言説も批判します。そうした言説では、ヒジャーブ着用によりイスラム教徒女性は守られており、自由が侵害されずにすむ、とされます。ヒジャーブは自由と解放の象徴である、というわけです。しかしそれは、ヒジャーブを着用しない女性の人権は守られなくても仕方ない(奴隷や売春婦とみなされ、強姦されても仕方ない、と認識されます)、ということだけではなく、男性は女性相手に理性を保てない、と言っていることにもなり、きわめて性差別的だ、と本書は批判します。ヒジャーブ着用擁護の言説は、女性が「ふしだらな」恰好をしていたから強姦されたのだ、と言って強姦した男性を擁護するような言説と通じる、と本書は指摘します。本書は、イスラム教徒女性がヒジャーブを着用してもしなくても、敬意を払うべきだ、と提言しています。女性の価値が外見によれ差別されることはあってはならない、というわけです。

 上述のように、イスラム教徒の大半は、イスラム教の教義を信じていてもジハードを実行するわけではありません。しかし本書は、イスラム過激派の支持者は看過できるほど少なくはない、とも指摘します。2015年の調査では、トルコ人のうち、9.3%が「イスラム国」をテロ組織ではないと考えており、5.4%がその行動を支持しています。同じく2015年の調査では、イラクとイエメンとヨルダンとシリアとリビアのイスラム教徒のうち15%が、「イスラム国」はテロ組織ではなく正当な抵抗運動と考えています。これらの調査結果から、「イスラム国」を支持するイスラム教徒の割合は、最低でも5.8%、最大では11.5%になる、と推定されています。さらに本書は、イスラム教徒に占めるイスラム過激派支持者の割合が10%程度だとしても、それ以外の多数派が穏健派とは必ずしも言えない、と指摘します。イスラム諸国では、イスラム法を国の法として施行することに72~99%のイスラム教徒が賛成しています。また、イスラム教徒の70~89%が、手首切断刑や投石による死刑など身体刑の執行に賛成しています。また、イスラム教徒の多数派は棄教を死罪に相当すると考えており、信教の自由を否定しています。さらに、イスラム教徒の9割ほどはLGBTにも否定的です。イスラム諸国では一般的に、同性愛は病気と信じられています。また、児童婚が広く行われているのもイスラム諸国の特徴です。本書は、イスラム教が全体的に、女性は男性より劣っているという大前提でさまざまな規定を設けている、と指摘します。これは、現代日本人の多くが想定する「穏健」の感覚とはかなりずれている、というわけです。

 本書の主張の根幹にあるのは、イスラム的価値観は、全ての人間に等しく自由や権利を与えるべきとする、ヨーロッパ発の近代的価値観とは大きく異なる、との認識です。次に本書が重視するのは、イスラム教は世界征服を目指す政治イデオロギーなので、そのための行動を促すイスラム主義の蔓延を許すと、亡国の危機に陥る可能性がある、ということです。本書は、イスラム教徒が移住先でもイスラム的価値観に従い続けることを擁護するリベラル勢力とその教義であるポリコレを批判します。イスラム教徒と関係を築き共存することは可能であるものの、それには法治を徹底せねばならず、ポリコレや文化相対主義を理由にイスラム教徒の違法行為を見逃したり寛大な措置をとったりしてはならない、というわけです。一方で本書は、イスラム教の教義と個人としてのイスラム教徒を同一視することを誤りと明言しています。イスラム教徒のほとんどは、イスラム教の教義の全てを実践しているわけではない、と本書は指摘します。さらに本書は、サウジアラビアやチュニジアやエジプトやアラブ首長国連邦など近年のイスラム諸国において、イスラム教と近代的価値観の矛盾に起因する問題について改善の兆しが見られることも指摘します。また本書は、最近になって進んだイスラエルとアラブ諸国との国交正常化にも、イスラム主義との決別との観点から注目します。イスラム主義者は多くの場合、イスラエルの殲滅とエルサレム支配を短期目標と定めているからです。

 本書は1章を割いて著者への批判に対する反論を提示しており、本書も多くのイスラム教や中東の専門家に酷評されることになりそうです。イスラム教の専門的な知見について、私の知見では本書の主張の方が妥当だと断定できませんが、ヨーロッパ発の近代的価値観に守られ、日本(や欧米)社会では普段それを声高に主張していながら、それと矛盾するイスラム教のさまざまな規定・慣習を擁護する専門家の姿勢には、根本的な矛盾があるとは思います。まあ、そこからさらに踏み込み、ヨーロッパ発の近代的価値観に覆われた社会のさまざまな問題はイスラム教により解消される、と考えている専門家ならば、矛盾ではなくなるわけですが。ただ、著者の「リベラル」や「左翼」、さらには「ポリコレ」への強い警戒は明らかで、その点は私も同様なだけに、そうした警戒・批判をつい全面的に受け入れてしまいたくなりますが、それだけに、私のような価値観・世界観の読者は、本書の指摘の中に誇張もあるのではないか、と慎重に考えて検証しつつ、本書を咀嚼していく必要があるとは思います。本書をよりよく理解するには、著者の『イスラム教の論理』(関連記事)と『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』(関連記事)を読むとよいでしょう。

高橋啓一「MIS 6の動物の渡来を探る」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P64-68)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)10以降の日本列島の哺乳類化石のうち、これまで報告されてきた沖縄を除く298地点・地域の化石についての、産出化石および産出層準について再検討を報告します。旧石器考古学の主題の一つに、日本列島における4万年以前のヒトの渡来問題があります。4万年前以前の遺跡とされる数には異論もあるようですが、8遺跡12件とされています。それらの年代は、12万~4万年前頃で、MIS6の海面低下期以降の年代を示しています。仮にヒトが12万年前以降に日本列島に渡来したのならば、動物たちも同様に渡来した証拠が残っているはずです。本論文はこうした視点から、改めて日本列島に新たに出現した哺乳動物化石を検証しました。

 日本列島周辺には、4つの海峡があり、このうち間宮海峡と宗谷海峡は敷居水深がそれぞれ20m、60mと浅く、最終氷期まで北海道と大陸は陸続きだったと考えられています。一方、対馬海峡や津軽海峡の敷居水深は約130mと深く、推定された最終氷期最寒冷期の海水準低下量とほぼ同じ値となっています。そのため、両海峡において最終氷期最寒冷期に陸橋が成立したかどうかの議論が繰り返されてきました。しかし、1990 年代前半までに行われた海底地形学による検討や地球物理学的モデルによる解釈では、対馬海峡や津軽海峡は、きわめて浅いながらも最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には陸化しなかった、という見解にほぼ落ち着きました。

 その後、2001年の日本海で行なわれた調査で、隠岐堆から得られたコア(MD01- 2407)の浮遊性有孔虫殻を使った酸素同位体比の研究や、2013年のIODP(Integrated Ocean Drilling Program)第346次航海による過去40万年間の東シナ海北部(U1429地点)の表層海水の酸素同位体比変動の復元により、対馬海峡付近の海水準変動の様子が推定できるようになりました。それらの結果から、MIS6およびMIS10の時代には、対馬暖流の日本海への流入量がMIS2の時代よりもはるかに少なかったか、あるいは停止していた、と示唆されました。

 脊椎動物化石を使った陸橋の成立についての議論は、ユーラシア大陸と日本列島との間の動物相の類似性や、新たな種の出現の証拠に基づいて行なわれてきました。その結果、12万年前頃以降には、後期更新世後半に起きた北方からのわずかな寒冷種の渡来を除いて、西の陸橋を通じての動物種の渡来はなかった、と繰り返し指摘されてきました。こうした脊椎動物化石による見解を用いて議論するさいには、そもそも脊椎動物化石の産出がそれほど多くないことや、それらの中には洞窟堆積物からの産出報告も多く、その化石あるいは動物群の年代とされているものが、MISやGRIP(深層雪氷コア)における温暖期番号(IS)で語れるほどの厳密な年代精度はないことに要注意です。

 このような脊椎動物化石の限界を抱えながらも、上述のようなMISの研究が進展する中で、MIS6にユーラシア大陸から日本列島に動物が渡来しなかったのか、本論文は改めて検討しました。MIS6における低海水準期より前については、「中部更新統上部(QM5帯)」とし、山口県美祢市伊佐町の宇部興産伊佐セメント工場の採石場を産地の代表とする見解が提示されています。また、その低海水準期より後は「上部更新統下部(QM6帯)」とし、その代表的な産地として栃木県佐野市葛生の上部葛生層が挙げられました。

 両者の構成種には、共通するものと異なるものが見られます。海峡を渡るのがより容易な大型の種でQM5帯では見られなかったものの、QM6帯では出現するものには、オオカミ(Canis lupus)、クマ(Ursus arctos)、トラ(Panthera tigris)、ヒョウ(Panthera pardus)、ヤベオオツノジカ(Sinomegaceros yabei)などです。これらのうち、クマやオオカミ、トラなどの大型ネコ科動物は、「中部更新統中部(QM4帯)」からも産出していることから、これらの時代に連続して生息した可能性も考えられます。

 ヤベオオツノジカに関しては、以前の研究で国内28ヶ所の産地が列挙されています。このうち、中期更新世もしくはその可能性があるものは、青森県東通村尻屋崎、秋田県男鹿市脇本、千葉県富津市長浜のみで、他は後期更新世もしくは時代不明のものです。中期更新世もしくはその可能性があるもののうち、尻屋崎の標本は、以前の研究では中嶋・桑野(1957)にリストの中にシカ科種(Megaceros sp.)として挙げられており、長骨の写真があるだけで詳細は不明です。男鹿市脇本の標本については、ヤベオオツノジカの可能性が指摘されているものの、種の同定に疑問が残ります。富津市長浜の標本は、産地などが挙げられているだけで、詳細は不明です。

 結局、ヤベオオツノジカとして確かな標本は後期更新世のものだけということになります。このことから、直ちにMIS6の時代(13万年前頃)に西の海峡部を経て新たな動物種の渡来があったと結論できませんが、海洋酸素同位体比の研究結果を踏まえつつ、今後も脊椎動物化石を丁寧に見直す作業が必要です。なお、著者の関連論文では中国東北部~北部におけるマンモス-ケサイ動物群と北方系細石刃石器群が報告されており(関連記事)、有益だと思います。


参考文献:
高橋啓一(2021)「MIS 6の動物の渡来を探る」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 33)』P64-68

最古の動物の証拠

 最古の動物の証拠に関する研究(Turner., 2021)が報道されました。分子系統学から、後生動物が新原生代の初期に出現したと示されていますが、物的証拠は欠如しています。原生代の動物化石の探索は、予想される体の特徴が不確かであるために進展していません。海綿動物は既知の動物の中で最も祖先的な部類であることから、未発見の原生代後生動物の体化石も、顕生代の化石海綿動物に似た外見をしている可能性があります。現生海綿動物から得られた遺伝学的証拠から、海綿動物が新原生代初期(10億~5億4100万年前頃)に出現した、と示唆されています。しかし、この時代の海綿動物の体化石はまだ見つかっていません。

 蠕虫状の微細構造は、顕生代の礁成炭酸塩や微生物炭酸塩に見られる複雑な記載岩石学的特徴で、現在は、骨針を持たない角質骨格の尋常海綿類の体化石であることが知られています。本論文は、これと記載岩石学的に同一な、約8億9000万年前の礁に由来する蠕虫状微細構造を提示します。これは、カナダ北西部の岩礁から採取された岩石試料で発見されました。この岩石試料は方解石の結晶を含み、それに囲まれた管状構造体の分岐ネットワークが見つかりました。これらの構造体は、角質海綿類(現生海綿動物の一種で市販の浴用スポンジの原材料)の体内に見られる繊維状骨格と、以前に炭酸カルシウム岩で特定され、角質海綿類の体の腐敗によって生成したと考えられている構造体にたいへんによく似ていました。

 蠕虫状微細構造を有する、サイズがミリメートルからセンチメートルのこの生物は、石灰化シアノバクテリア(光合成生物)が構築した礁の表面や内部、ごく近傍にのみ生息し、そうした石灰質微生物群が生息不能な微小ニッチを占めていた、と推測されます。蠕虫状微細構造が実際に角質海綿動物の化石化組織であるとすれば、この標本は、動物の体化石の既知で最古の証拠となり、動物が新原生代の酸素化事象より前に出現し、クライオジェニアン紀の7億2000万~6億3500万年前頃の厳しい氷期を生き延びたことを示す、最初の物的証拠をもたらすことになります。ただ、この見解に対して慎重な研究者もいます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:地球上最古の動物を示す証拠かもしれない

 古代の岩礁の中に海綿動物のような構造体が特定され、海綿動物が早ければ8億9000万年前から海洋に生息していたと考えられることを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見の妥当性が確認されれば、この化石は、これまで知られている中で最古の動物の体化石となり、その次に古い、議論の余地のない海綿動物の化石を約3億5000万年さかのぼることになる。

 海綿動物は単純な動物で、現生海綿動物から得られた遺伝学的証拠から、海綿動物が新原生代初期(10億~5億4100万年前)に出現したことが示唆されている。しかし、この時代の海綿動物の体化石は見つかっていない。

 今回、Elizabeth Turnerは、カナダ北西部の8億9000万年前の岩礁から採取された岩石試料を調べた。この岩礁は、炭酸カルシウムを析出する細菌類によって形成された。この岩石試料の中に、方解石の結晶を含み、それに囲まれた管状構造体の分岐ネットワークが見つかった。これらの構造体は、角質海綿類(現生海綿動物の一種で市販の浴用スポンジの原材料)の体内に見られる繊維状骨格と、以前に炭酸カルシウム岩で特定され、角質海綿類の体の腐敗によって生成したと考えられている構造体に非常によく似ていた。

 Turnerは、これらの構造体が、地球の酸素レベルが動物の生命を維持するために必要と考えられるレベルまで上昇した約9000万年前に、炭酸カルシウム岩礁の内部やその付近に生息していた角質海綿類の遺骸化石であるかもしれないという考えを提示している。この構造体が、海綿動物の体化石と認められるならば、この知見は、初期の動物の進化がこの酸素化事象とは無関係に起こったこと、そして初期の動物が7億2000万~6億3500万年前に起こった厳しい氷河期を生き延びたことを意味している可能性がある。


進化学:前期新原生代の微生物礁における海綿動物である可能性のある体化石

進化学:はるかに古い海綿動物の化石候補

 今週号では、海綿動物が約8億9000万年前の海洋に生息していた可能性が示されている。これは、これまで考えられていたよりも2億年以上古い年代である。海綿動物は極めて単純な動物で、地球上に最初に出現した多細胞動物であった可能性が高い。現生の海綿動物の遺伝学的証拠から、海綿動物の系統が確立されたのは極めて古い年代であったと示唆されているが、海綿動物の決定的な化石証拠として最古のものは、カンブリア紀(約5億4300万年前に始まる)という、他のより複雑な動物が進化・分岐し始めた時代から得られたものである。化石の分子バイオマーカーからはさらに古い証拠が得られているが、それについては激しい議論がある。E Turnerは、浴用スポンジの拡大写真によく似た見た目をした、珍しい岩石構造を研究してきた。より年代の新しい岩石に見られるそうした構造は、海綿動物の腐敗によって生じたと考えられている。今回、それに似た構造が約8億9000万年前の岩石に見いだされたことで、海綿動物が、サンゴ類が進化するはるか前に初期の礁を構成していて、より複雑な動物の進化を可能にした海の酸素化に大きく寄与した可能性が出てきた。



参考文献:
Turner EC.(2021): Possible poriferan body fossils in early Neoproterozoic microbial reefs. Nature, 596, 7870, 87–91.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03773-z

先植民地期のガボンにおける埋葬習慣

 先植民地期のガボンにおける埋葬習慣についての研究(Villotte et al., 2021)が公表されました。アフリカ西部中央の古代人とその埋葬慣行についての知識は、文献の欠如と人類遺骸の不足のためひじょうに限定的です。これに関連して、豊富な人工物と関連する何千点もの人類遺骸を含むガボンのングニエ州(Ngounié Province)のイルング洞窟(Iroungou Cave)遺跡(図1)の発見は、豊富な例外的で新規の情報を表します。

 イルング洞窟は1992年にリチャード・オズリスリー(Richard Oslisly)氏により発見され、2018年に初めて調査され、天井の2ヶ所の開口部を介して表と接続しており、現在では懸垂下降によってのみ入れます。深さ25mの空洞は4ヶ所の主要な階層により構成され、その領域は合計で2000m³になります(図1)。洞窟内に入ることと洞窟内での移動が困難なため、また骨の長期保存を確実にするため、2018年以降に実施された調査は4回だけです。全ての人類遺骸はその場に残されましたが、床に見える人工物は3D写真測量およびレーザースキャンで位置を記録した後で収集されました。以下は本論文の図1です。
画像


●イルング洞窟埋葬遺跡

 イルング洞窟では骨格要素と人工物は全体に散らばっており、天井の特定された開口部の真下に最も密度の高い蓄積物があります。骨格の保存状態は、完全なものからひじょうに断片的なものまでひじょうに多様です(図2)。一部の骨は堆積物で覆われており、方解石で表見が形成されているか、齧歯類(ヤマアラシ)の歯の跡を示しており、自然作用(重力や水や動物)を含む堆積後の攪乱を示唆します。逆に、人類による遺骸の意図的加工の証拠はありません。解剖学的関連はほとんど保存されていませんが(図2c)、全ての骨格部分が表されており、乾燥した骨ではなく死体が上から投げられたか、洞窟に降ろされたことを示唆します。以下は本論文の図2です。
画像

 右大腿骨の20点の標本が年代測定の目的で収集されました。充分なコラーゲンが得られた標本10点の放射性炭素年代から、空洞は紀元後14世紀および15世紀に2回もしくはそれ以上死体を埋めるのに用いられた、と示唆されます(図3)。この年代は、15世紀末のポルトガル人との接触の直前となります。以下は本論文の図3です。
画像

 関連する人工物には、486個の鉄と26個の銅の物質と127個の大西洋の貝殻(そのうち15個は穿孔されています)と39個の穿孔された肉食動物の歯が含まれます。最も代表的な金属性の物質は腕輪と指輪(38.7%)で、小刀(27.9%)と斧(13.5%)と鍬(9.4%)もあります。鉄とは異なり、銅の供給源はアフリカ西部中央では少なく、銅はこの地域では何世紀にもわたって貴重な金属とみなされました。最も可能性の高い銅の供給源は、コンゴ共和国のニアリ盆地(Niari Basin)のミンドゥリ(Mindouli)地域で、イルング洞窟遺跡から約400km離れており、紀元後13世紀以降採掘されてきました。


●骨格標本の構成と身体修飾

 個体群の最少人数(MNI)は、最も代表的な骨格要素の数と年齢の不一致の両方を考慮して評価されました。少なくとも24個体の成人(15歳以上)が下顎体の右側断片の数に基づいて特定され、4個体の非成人も特定されました。全ての年齢層は幼児から中年までで代表されます。利用可能な寛骨のその場の研究から、成人標本には男性(MNI=7)と女性(MNI=3)両方の骨が含まれる、と示されました。

 保存された上顎(MNI=22)のうち、中央もしくは横側の永久歯の切歯を示すものはありません(図4)。全事例で歯槽骨吸収が明らかなので、この欠如は死後の喪失とは関係ありません。むしろ、何らかの文化的慣習の文脈で、標本における歯の喪失の対称性と体系的な繰り返しは抜歯(特定の歯の意図的な除去)を明確に示します。保存された切歯部分を有する下顎(MNI=19)では、抜歯は存在しません。前歯の除去は発音を変え、顔の特徴においてひじょうに視覚的な変化を誘発するので、強い民族的指標として作用します。以下は本論文の図4です。
画像

 イルング洞窟における体系的な抜歯から、全個体は少なくともいくつかの共通の価値と信念を共有していた、と示唆されます。歯の詰め物や剥離や抜歯など、意図的な歯の修飾はアフリカでは長い歴史があります。アフリカ人の骨格遺骸では、アフリカ外で発見された奴隷も含めて、そうした行為が繰り返し観察されてきました。興味深いことに、上顎の永久歯の切歯4点は全て除去されており(下顎の切歯は除去されていません)、アフリカのほとんどの地域では比較的稀な歯の修飾形態です。これはおもに、19世紀~20世紀初期の民族誌学者によりアフリカ西部中央人口集団に関して報告されてきており、この地域における身体修飾の長い歴史と継続の可能性を示唆します。


●習慣的な埋葬か犠牲かエリートの埋葬慣行か

 アフリカ西部中央では多くの後期鉄器時代の埋葬が報告されてきており、一部では豊富な鉄製人工物が含まれますが、ほとんどは開地遺跡に位置する埋葬遺構の堆積物で構成されています。何百もの金属製人工物と関連する、1ヶ所の洞窟の多くの個体の骨の蓄積は、この地域の考古学的記録では同等のものが知られていませんでした。最も密接な対応物は、年代的および地理的両方の意味で、ナイジェリアのベニンシティ(Benin City)のかつての貯水池で見つかった、紀元後13世紀の人骨の蓄積です。これは大規模埋葬と言われており、40個体以上の遺骸(ほぼ若い成人女性)が含まれており、中央集権を示唆する儀式の犠牲の証拠として解釈されてきました。

 そうした解釈はイルング洞窟では主張できませんが、人骨と関連する豊富な物質は少なくとも、イルング洞窟が単に一般的な葬儀のためだけに用いられた可能性を除外します。物品の量と人類遺骸の人口統計学的特性と明らかな生前の外傷の欠如からも、この堆積物が戦争と関連している可能性はなさそうで、むしろ重要な個体とその付随的な死者(家臣の犠牲、殉死)のための特別な埋葬場所だった可能性を示唆します。将来の考古学的発掘と生物人類学的研究により、この仮説は検証されていくでしょう。最近、ケニアにおいてアフリカでは最古となる埋葬の痕跡が確認されており(関連記事)、サハラ砂漠以南のアフリカにおける埋葬習慣の多様性と変遷についての解明がいっそう期待されます。


参考文献:
Villotte S. et al.(2021): Mortuary behaviour and cultural practices in pre-colonial West Central Africa: new data from the Iroungou burial cave, Gabon. Antiquity, 95, 382, e22.
https://doi.org/10.15184/aqy.2021.80

ブチハイエナの社会構造

 ブチハイエナの社会構造に関する研究(Ilany et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。動物の社会的ネットワークの構造はあらゆる社会過程、および健康状態と生存と繁殖成功に重要な役割を果たしているにも関わらず、野生において社会構造を決める一般的な仕組みは依然として解明されていません。社会的相続と呼ばれる提案されたモデルで、子の社会的親和は親、とくに母親の社会的親和と似る傾向にある、と示唆されています。これまでの研究では、多数の種において、こうした社会的ネットワークの相続が世代を超えて社会的構造に影響を及ぼしている可能性も示されてきた。

 この研究は、高度に構造化された雌優位のブチハイエナ社会における社会的相続の役割について評価しました。この研究は、社会的ネットワークの分析と27年間にわたって収集したハイエナ野生群の73767点の社会的相互作用の観察結果から成る複数の世代間にわたるデータセットを併用し、幼いハイエナの社会的関係は母親の社会的関係に類似していること、また、その類似の水準は母親の社会的地位に応じて上がることを発見しました。

 その研究結果ではさらに、母子関係の強さは社会的相続に影響を及ぼすとともに、母子両者の長寿との間に正の相関関係が認められることも示されました。この研究はこうした結果から、社会的相続淘汰はハイエナの社会的行動と個々のハイエナの適応度の形成に重要な役割を果たしていると考えられる、と指摘しています。また、さらに研究を進めて、さまざまな個体群構造において特定の社会的関係がどの程度広く相続されているか、それが社会的ネットワークの構造に依存する多くの社会過程の進化速度に対してどんな意味を持つのか、調べる必要がある、とも指摘されています。


参考文献:
Ilany A, Holekamp KE, and Akçay E.(2021): Rank-dependent social inheritance determines social network structure in spotted hyenas. Science, 373, 6552, 348–352.
https://doi.org/10.1126/science.abc1966

中東の人口史

 中東の人口史に関する研究(Almarri et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。世界的な全ゲノム配列計画は、ヒトの多様性と拡散と過去の混合事象への洞察を提供してきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、多くの人口集団はまだ研究されておらず、そのため、遺伝的多様性と人口史の理解を制約し、健康の不平等性を悪化させるかもしれません。大規模な配列計画によりとくに研究対象とされている地域は中東です。中東はアフリカとヨーロッパとアジア南部の間に位置しており、ヒトの進化と歴史と移住を理解するうえで重要地域となります。中東ではアフリカ外の現生人類(Homo sapiens)の最初の証拠のいくつかが得られており、177000年前頃のレヴァント(関連記事)や85000年前頃のアラビア半島北西部(関連記事)で年代測定された化石が発見されています。さらに、現生人類のものとされる12万年前頃の道具と足跡も、アラビア半島で特定されました(関連記事1および関連記事2)。

 現在、アラビア半島の大半は超乾燥砂漠ですが、過去には「緑のアラビア」をもたらしたいくつかの湿潤期があり、その時期にはヒトの拡散が促進され、現在の砂漠気候の始まりは6000年前頃に始まった、と考えられています。後期更新世と完新世における湿潤期から乾燥期への移行は、気候に適応した人口集団の移動をもたらした、と提案されてきました。アラビア半島内の新石器時代の移行は、地域内で独立して発展したか、あるいはレヴァントの新石器時代農耕民の南方への拡大によるものでした。こうした問題に取り組むため、アラビア半島とレヴァントとイラクの人口集団からの高網羅率の物理的に位相の揃ったデータセットが生成され、分析されました。将来の医学研究に役立つだろうあまり研究されていない地域における遺伝的多様性の目録の作成に加えて、人口構造、人口統計学および選択の歴史、現生人類および絶滅ホモ属(古代型ホモ属)との混合事象が調べられました。


●データセット

 短い読み取りから長い情報を保存する手法を用いて中東の8人口集団(図1A)の137個体の全ゲノムが配列され、その平均網羅率は32倍です。この「連鎖読み取り(linked-read)」技術を用いる利点は、短い読み取りの整列を区別しない反復領域における、物理的に位相のそろったハプロタイプの再構築と、改善された整列です。調査対象の全人口集団はアフロ・アジア語族のセム語派であるアラブ語を話しますが、例外はイラクのクルド人集団で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語群であるクルド語を話します。

 品質管理の後、2310万ヶ所の一塩基多様体(SNV)が特定されました。このデータセットが、ヒトゲノム多様性計画(HGDP)で特定された多様体(関連記事)と比較されました。本論文のデータセットでは、HGDPでは見つかっていない480万ヶ所のSNVが見つかりました。予測されたように、これらの多様体のほとんどは稀で、その93%は1%未満の頻度ですが、37万ヶ所は一般的(頻度1%以上)です。興味深いことに、これらの一般的な多様体のほとんどは、以前の研究(関連記事)により定義された利用可能性被覆外となります(246000ヶ所の多様体)。これは、中東人など遺伝的にあまり知られていない人口集団の配列決定と、将来の医学研究における地域固有の多様体の包摂の重要性を示します。これは、標準的な短い読み取りを利用しにくい領域に、かなりの量の未知の変異が存在することも示します。以下は本論文の図1です。
画像


●人口構造と混合

 人口構造と過去の混合事象を明らかにすることは、人口史の理解と医学研究の設計および解釈に重要です。単一の多様体およびハプロタイプの両方に基づく手法を用いて、本論文のデータセットの構造と多様性が調べられました。本論文のデータセットを世界規模の人口集団と統合した後、fineSTRUCTUREで、地理と合致した遺伝的クラスタが識別され、自己標識された人口集団は一般的に異なるクラスタを形成する、と示されました(図1C)。レヴァントとイラク(レバノン人、シリア人、ヨルダン人、ドゥルーズ派、ベドウィンA、イラクのアラブ人)が一まとまりになったのに対して、イラクのクルド人はイラン中央部人口集団とまとまりました。アラビア半島の人口集団(エミラティA、サウジ人、イエメン人、オマーン人)はHGDPのベドウィンBとまとまりました。エミラティ人口集団(アラブ首長国連邦集団)内では、過剰なイランおよびアジア南部祖先系統(祖先系譜、ancestry)を有する下位人口集団(エミラティBおよびエミラティC)が特定されました(図1B)。また、比較的高いアフリカ祖先系統を有する下位人口集団(サウジBおよびエミラティD)も見つかりました。

 次に古代の地域的および世界的人口集団の文脈で本論文の標本が分析されました。主成分分析(図1D)では、現代の中東人は古代レヴァントの狩猟採集民であるナトゥーフィアン人(Natufian)と新石器時代レヴァント人(レヴァントN)と青銅器時代ヨーロッパ人と古代イラン人との間に位置する、と示されます。アラブ人とベドウィンは古代レヴァント人の近くに位置しますが、現代のレヴァント人は青銅器時代ヨーロッパ人の方に引き寄せられています。イラクのアラブ人およびクルド人とアッシリア人は古代イラン人に比較的近いようです。

 ほとんどの中東現代人は、4古代人口集団の祖先系統からの派生としてモデル化できる、と明らかになりました。それは、レヴァントN、新石器時代イラン人であるガンジュダレー(GanjDareh)N、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、4500年前頃のアフリカ東部人であるモタ(Mota)個体です。レヴァントとアラビア半島の人口集団間での差異が観察されました。レヴァント人は過剰なEHG祖先系統を有しており(図1E)、これは以前の研究(関連記事)で示された、青銅器時代後に古代ヨーロッパ南東部およびアナトリア半島祖先系統を有する人々とともに到来した祖先系統です。本論文の結果は、この祖先系統がアラビア半島と比較してレヴァントでずっと高い、と示します。

 レヴァントとアラビア半島との間の別の差異は、アラビア半島の人口集団におけるアフリカ祖先系統の過剰です。本論文のデータセットにおけるほとんどの人口集団にとってのアフリカ祖先系統の密接な供給源は、エチオピアのナイル・サハラ語族話者に加えて、ケニアのバンツー語族話者である、と明らかになりました。中東におけるアフリカ人との混合は過去2000年以内に起きたと推定され、ほとんどの人口集団は1000~500年前頃の混合の兆候を示しており、以前の研究と一致します。

 4方向混合の選択は、レヴァントNおよびガンジュダレーNが古代近東人にかなりの祖先系統をもたらしたこと(関連記事)、EHG/草原地帯祖先系統が青銅器時代後に中東に浸透したこと(関連記事)、ほとんどのレヴァント人とアラブ人でアフリカ祖先系統が現在見られることといった、中東に関する以前の知識に基づきます。本論文では検証において7つの外群が用いられ、それは、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体と、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された38000年前頃の若い男性1個体と、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と、コーカサス狩猟採集民(CHG)と、ナトゥーフィアン人もしくはレヴァントNと、パプア人と、ムブティ人です。

 EHGとアフリカの祖先系統における違いに加えて、レヴァントと比較してアラビア半島ではナトゥーフィアン祖先系統の過剰が観察されました(図1BおよびE)。中東における祖先系統の供給源としてレヴァントNをナトゥーフィアン人と置換すると、アラブ人はモデル化に成功できますが、レヴァントの現代人はどれもそのようにモデル化できませんでした。モデル準拠クラスタ化でも、アラビア半島の人口集団はレヴァント現代人と比較してかなり低いアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)祖先系統を有する、と示されました(図1Bの紫色の構成要素)。古代アナトリア半島祖先系統におけるこの違いは、アラビア半島への限定的なレヴァントNの拡大に由来するかもしれません。なぜならば、レヴァントNはアナトリアNとかなりの祖先系統を共有しているものの(関連記事)、レヴァントへのアナトリアN祖先系統を有する人口集団の拡大とともに青銅器時代後の事象にも由来するからです(関連記事)。

 続旧石器時代/新石器時代の人々からの在来の祖先系統に加えて、古代イラン人と関連する祖先系統が見つかり、それは現在すべての中東人に遍在します(図1Bの橙色の構成要素)。以前の研究では、この祖先系統は新石器時代のレヴァントには存在しなかったものの、青銅器時代には見られ、在来の祖先系統の最大50%が古代イラン人関連祖先系統を有する人口集団に置換された、と示されました。この祖先系統がレヴァントとアラビア半島の両方に同時に浸透したのかどうか調べられ、混合年代は北方から南方への勾配にほぼ従っており、最古の混合はレヴァントで5900~3300年前頃に置き、その後アラビア半島で3500~2000年前頃に、アフリカ東部で3300~2100年前頃に混合が起きた、と明らかになりました。

 これらの年代は、語彙データから推定された中東およびアフリカ東部におけるセム語派の青銅器時代起源および拡大の年代と重なります(図2)。この人口集団は、レヴァントとアラビア半島にY染色体ハプログループ(YHg)J1をもたらした可能性があります。本論文のデータセットにおけるYHg-J1の大半は5600年前頃に合着(合祖)し、青銅器時代の拡大の可能性と一致しますが、17000年前頃に分岐した稀なより早期の系統も見つかりました。そのYHgはナトゥーフィアン人で一般的なE1b1bで、本論文のデータセットでもよく見られ、ほとんどの系統は8300年前頃に合着しますが、39000年前頃に合着する稀なより深く分岐したYHgも見つかりました。以下は本論文の図2です。
画像

 次に、標本抽出された地域的な青銅器時代人口集団の一つからの祖先系統の派生として人口集団がモデル化できるのかどうか検証され、レバノンのシドン(Sidon)遺跡の中東青銅器時代人口集団(シドンBA)が一部の現代のレヴァントおよびアラビア半島の人口集団の祖先系統の供給源であり得る、と明らかになりました。本論文の系統発生モデル化では、レヴァント現代人はシドンBA関連人口集団に直接的に由来する祖先系統を有しているかもしれない、と示唆されます。しかし、アラブ人はナトゥーフィアン関連人口集団からの追加の祖先系統が必要です(図3)。以下は本論文の図3です。
画像


●有効人口規模と分離の歴史

 歴史的な有効人口規模は、母集団から標本抽出された染色体間の合着年代の分布から推測できます。しかし、単一のヒトゲノムを用いた場合、最近の期間では解像度が限定されますが、複数のゲノムを用いると、ハプロタイプ位相のエラーにより不自然な結果が作成されます。位相のないゲノムからアレル(対立遺伝子)頻度範囲を組み込むことによりこれらの範囲を拡張する手法が開発されましたが、最近では、たとえば金属器時代を通じて解像度がありません。

 ゲノム規模系統生成における最近の発展と、本論文の多数の物理的位相標本を活用することで、本論文のデータセットにおける各人口集団のごく最近(1000年前頃)までの有効人口規模を推定できます(図4A)。全中東人の祖先は、7万~5万年前頃の出アフリカ事象の頃に人口規模の顕著な減少を示す、と明らかになりました。このボトルネック(瓶首効果)からの回復は、レヴァントとアラビア半島の間の差異が出現し始める20000~15000年前頃まで、同様のパターンをたどります。レヴァントとイラクの全人口集団はかなりの人口拡大を示し続けますが、アラブ人は類似の人口規模を維持しました。この差異は注目に値します。それは、この差異が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の終了後に始まり、新石器時代に顕著になるからで、新石器時代には肥沃な三日月地帯で農耕が発達し、より大きな人口集団を支える定住社会へとつながりました。

 新石器時代に続いて、6000年前頃となるアラビア半島の乾燥化の始まりとともに、アラビア半島の人口集団はボトルネックを経ましたが、レヴァント人は人口規模が増加し続けました。その後、レヴァント人の拡大は停滞期に入り、4200年前頃の乾燥化事象で人口規模は減少します。エミラティ人(アラブ首長国連邦人)の減少はとくに顕著で、有効人口規模は5000人となり、同時期のレヴァント人およびイラク人の1/20程度でした。人口回復は過去2000年で観察されます。本論文の結果は、以前の人口規模推定に影響を及ぼした可能性のある、中東で一般的な最近の近親結婚に対しても堅牢で、それは、分析において標本ごとに単一のハプロタイプを含めたからです。

 次に、中東の人口集団の、中東人口集団内および世界の人口集団との人口分離の歴史が調べられました。この分析における正確な位相調整の重要性は、統計的に位相データに基づいて、現代パプア人がアフリカからの現生人類(Homo sapiens)の初期の拡大の祖先系統を有している、と提案した以前の知見(関連記事)により示されます。しかし、その以前の知見は、物理的に位相化されたゲノムデータを用いて複製されなかったので、統計的に不自然な結果が原因だった、と示唆されました(関連記事)。

 逆に、最近の人口分離の歴史を調べるさいには、稀な多様体がより多くの情報をもたらすものの、統計的手法により正確に位相化されておらず、参照パネルに存在する可能性は低くなります。本論文ではまず、中東の現代人が出アフリカ現生人類の初期拡大からの祖先系統を有しているのかどうか、HGDPからの物理的に位相化された標本と本論文の人口集団との分岐年代の比較により検証されました(図4B)。分岐年代の発見的推定値として相対的な交差合着率(rCCR)を0.5とすると、レヴァント人とアラブ人とサルデーニャ島人と漢人は同じ分岐年代と、さらに12万年前頃以降のムブティ人からの同じ漸進的な分離パターンを共有している、と明らかになりました。次に、本論文のデータセットの人口集団とサルデーニャ島人が比較され、両者は2万年前頃に分岐し、レヴァント人はアラブ人よりもわずかに最近の分岐を示す、と明らかになりました。

 ムブティ人との漸進的な分離パターンとは対照的に、サルデーニャ島人は中東の全人口集団とのより明確な分岐を示します。注目すべきことに、レヴァントおよびアラビア半島内の全系統と、さらに全ての中東人口集団およびサルデーニャ島人の内部の系統は、過去4万年以内で合着します。これらの結果をまとめると、現代の中東人口集団は、出アフリカ現生人類のより早期の拡大からの顕著な痕跡を有しておらず、全ての人口集団は6万~5万年前頃にアフリカから拡大した同じ人口集団の子孫だった、と示唆されます。

 次に、中東内の人口集団の分離年代が比較され、最古の分離年代はアラビア半島とレヴァント/イラクとの間だった、と明らかになりました(図4C)。エミラティ人はイラクのクルド人と1万年前頃に、ヨルダン人およびシリア人およびイラクのアラブ人とはもっと新しく7000年前頃に分岐しました。同じ人口集団からのサウジ人の分岐年代はもっと最近のようで7000~5000年前頃ですが、イエメン人の分離曲線はエミラティ人とサウジ人の曲線間の中間です。アラビア半島とレヴァントの人口集団間の分岐年代は青銅器時代に先行し、本論文の系統発生モデル化と一致しますが、青銅器時代にアラビア半島への拡大が起きたならば、祖先系統の完全な置換は起きませんでした。以下は本論文の図4です。
画像

 レヴァントとイラクの内部では、全ての分岐は過去3000~4000年間に起きました。アラビア半島内では、イエメン人がエミラティ人と4000年前頃に分岐し、サウジ人はエミラティ人およびイエメン人の両方と最も分岐度の低い人口集団として現れ、過去2000年以内となる最近の分岐です。注意すべきは、この地域内の分離曲線が漸進的なように見えることで、明確な分岐よりもむしろ、分離後の継続的な遺伝子流動が示唆されます。また、この分離曲線にはこれらの人口集団の混合史が反映されていることにも要注意です。


●中東における古代の遺伝子移入と深い祖先系統

 ほとんどの非アフリカ人口集団における類似のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)祖先系統量と、遺伝子移入されたハプロタイプの低い多様性から、現生人類はアフリカ外に拡大したさいにネアンデルタール人との単一の混合の波を経た可能性が高い、と示唆されています(関連記事)。中東の人口集団は以前に、ヨーロッパおよびアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統が少ない、と示されましたが、この知見の解釈は、ネアンデルタール人祖先系統を「希釈する」最近のアフリカ人との混合により複雑になっています。

 さらに、一部の分析では外群の使用が必要ですが、外群にネアンデルタール人祖先系統が含まれる場合、推定を偏らせる可能性があります(関連記事)。本論文のデータセットにおけるネアンデルタール人からの遺伝子移入を調べるため、標本の正確な位相調整を利用し、高網羅率となるクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人のゲノム(関連記事)と、交差合着率が比較されました。全ての中東人は、他のユーラシア人と同様の時期に古代型混合の兆候を示しました(図5A)。

 次に、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に基づく手法であるIBDmixが用いられました。IBDmixは、標的集団とネアンデルタール人のゲノムを直接的に比較し、ネアンデルタール人起源のハプロタイプを検出します(関連記事)。

 本論文の標本とHGDPデータセットでIBDmixが実行され、ネアンデルタール人起源の可能性が高そうな合計12億7000万塩基対の区域が回収されました。本論文のデータセットに固有ではあるものの、他の非中東地域ユーラシア人には存在しないネアンデルタール人のハプロタイプの量を比較すると、合計で2500万塩基対しか見つからず、中東人におけるネアンデルタール人のハプロタイプの大半が他の人口集団と共有されている、と示されます。しかし、世界では比較的稀であるものの、アラビア半島では高頻度に達する、比較的大きな遺伝子移入されたハプロタイプ(最大50万塩基対程度)が見つかりました。

 次に、人口集団あたりの合計のネアンデルタール人由来の塩基対の平均数が比較され、レヴァント人を含む他のユーラシア人口集団と比較してアラビア半島ではより低い値が見つかりました。たとえば、ドゥルーズ派とサルデーニャ島人は類似の量(1個体平均5640万塩基対)のネアンデルタール人祖先系統を有しています(図5B)。対照的にアラビア半島では、エミラティAとサウジAのネアンデルタール人祖先系統は平均してそれぞれ5270万塩基対と5210万塩基対で、ドゥルーズ派やサルデーニャ島人よりも8%、漢人よりも20%少なくなっています。

 エミラティAとサウジAのアフリカ祖先系統は3%未満なので、アラビア半島におけるネアンデルタール人祖先系統の希釈はアフリカ祖先系統だけでは説明できません。以前の研究では、ネアンデルタール人祖先系統の割合が低いか皆無の基底部ユーラシア人集団が、古代および現代のユーラシア人にさまざまな割合で寄与し、新石器時代イラン人とナトゥーフィアン人では50%に達する、と提案されました(関連記事)。アラブ人は中東の他地域集団と比較してナトゥーフィアン的祖先系統を過剰に有しているので、アラブ人はネアンデルタール人祖先系統を減少させるだろう基底部ユーラシア人祖先系統も過剰に有している、と明らかになりました。

 さらに、ほとんどの中東現代人は最近の混合からアフリカ祖先系統を有しており、それも主要なユーラシア祖先系統を有する時期と比較して、中東現代人の深い祖先系統に寄与しています。中東現代人では、深い祖先系統の増加とネアンデルタール人祖先系統量との間で負の相関関係が見つかりました。全ての古代人口集団を検証すると、ネアンデルタール人祖先系統の希釈を説明する2つの勾配(図5C)が明らかになりました。一方はアフリカ祖先系統により、もう一方は基底部ユーラシア人祖先系統により形成されます。中東人は、両方の祖先系統を有するので、両方の勾配に影響を受けたようです。以下は本論文の図5です。
画像


●選択

 現在の超乾燥気候は、アラビア半島の人口集団における適応に選択圧を及ぼした可能性があります。これを調べるため、控えめなゲノム規模閾値でひじょうに急速に拡大した変異を有する系統のゲノム規模系図が調べられました。以前の研究では、アラビア半島におけるラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する、ヨーロッパの既知の多様体(rs4988235)とは異なる2つの相関する多様体(rs41380347とrs55660827)が特定されました。アラブ人の多様体rs41380347について、本論文では強い選択の証拠が明らかになりました(図6A)。同様ではあるものの、やや弱く、ヨーロッパ人ではrs4988235における強い選択が報告されています。

 rs41380347はアラビア半島人口集団において最高頻度で存在し、サウジ人とエミラティ人では50%となりますが、レヴァントとイラクでは4%とずっと低頻度になります。注目すべきことに、この多様体は1000人ゲノム計画(1KG)ではユーラシアもしくはアフリカの人口集団に存在しませんが、一部のアフリカ東部集団には低頻度で見られます。この多様体は、レヴァントとイランの古代人を含む既知の古代ユーラシア人157個体でも見つからず、中東内のハプロタイプの最近の起源および選択によるその後の頻度増加と一致します。この多様体は9000年前頃から現代の間に頻度が急速に増加した、と明らかになりました(図6A)。注目すべきことに、この期間はアラビア半島における狩猟採集民から牧畜採集民への生活様式移行と重なります。

 最近の頻度増加を示す追加の多様体も特定されました。多くの遺伝子には発現量的形質遺伝子座(eQTL)でもある、LMTK2遺伝子内の多様体rs11762534は、推定上の選択の証拠を示します(図6B)。LMTK2遺伝子は、アポトーシスや成長因子シグナリングを含む多様な細胞過程に関わり、マウスでは精子形成に不可欠と思われる、セリン/セロトニンキナーゼをコードします。中東以外では、この多様体はひじょうに層序化されており、ヨーロッパ人で最高頻度(1KGで45%)となりますが、アフリカ人とアジア東部人では1%未満と稀です。

 この多様体の頻度は、アラビア半島人口集団では66%、ベドウィンBでは81%ですが、ドゥルーズ派とパレスチナ人ではともに55%とやや頻度か低いようです。rs35241117における強い推定上の選択の兆候も見つかりました(図6C)。この多様体は、サウジ人とイエメン人で最高の世界規模の頻度(最大で60%)を示し、糸球体濾過や利尿や高血圧やBMIなど、多くの代謝や骨格や免疫特性と関連しています。rs35241117はクウェート人サウジ人で選択下にあると最近示唆された40万塩基対外に位置しますが、それとは中程度の連鎖不平衡(LD)です。

 さらに、アラビア半島とレヴァント/イラクとの間の強く違う多様体が探されました。エミラティ人とサウジ人の両方では、7番染色体の97000塩基対で分化の強い兆候が見つかりました。このハプロタイプ(rs1734235)の多様体はアラブ人ではほぼ固定しており、培養線維芽細胞におけるlincRNA AC003088.1の発現増加と関連しています。イエメンで最も極端な人口集団分枝統計はrs2814778で、rs2814778では派生的アレルがダッフィー・ヌル(Duffy null)表現型をもたらし、1KGではアフリカの人口集団においてほぼ排他的に見られます。

 しかし、この多様体はイエメン人ではひじょうに一般的で(74%)、アラビア半島を北上するにつれて頻度が減少します(サウジ人では59%ですが、イラクのアラブ人では6%です)。ゲノム全体でこの領域は中東においてアフリカ祖先系統が最も濃縮されており、以前の研究と一致する、と明らかになりました。イエメン人とサウジ人におけるアフリカ祖先系統の平均量はそれぞれ9%と3%なので、この多様体の高頻度はアフリカ人との混合後の正の選択と一致しているようです。この派生的なアレルは、アラビア半島において歴史的に存在してきた三日熱マラリア原虫感染を防ぐ、と考えられてきました。

 ゲノム規模の系統を用いる利点は、比較的弱い選択を検出する力があることです。そこで、とくに過去2000年間の、20の多遺伝子性特徴全体のアラビア半島人口集団における多遺伝子適応の証拠が探されました。ほとんどの特徴では、身長や肌の色やBMIなど、最近の方向選択の証拠は見つからないか、決定的ではありませんでした(図6D)。しかし、いくつかの特徴は証拠を示しており、最も強い選択兆候は、現代西洋社会の教育年数と関連する遺伝子多様体に現れ、全アラビア半島人口集団で一貫しています。これはイギリスの人口集団でも報告されていますが、その兆候は他の特徴で条件付けした後には減少すると示されており、相関する特性を介した間接的選択が示唆されます。

 イギリスの人口集団の知見とは対照的に、日焼けや髪の色などの特徴に作用する推定上の選択の証拠は見つかりませんでした。アラビア半島内では、ほとんどの特徴の推定上の選択の方向性は、おそらく共有された祖先系統の結果として、人口集団全体で類似しています。しかし注意すべきは、アラビア半島全体の現在の変化している環境は、さまざまな最近の選択圧を起こす可能性がある、ということです。エミラティ人では、2型糖尿病を増加させる多様体の推定上の選択の証拠が見つかりました。エミラティ人における2型糖尿病の発症率は世界で最も高く、それは部分的に定住性生活様式への強い最近の変化に起因すると考えられているので、興味深い結果です。同じ人口集団で、低密度リポ蛋白質の水準を向上させ、アポリプロテインBの水準を減少させる推定上の選択のわずかな証拠も見つかりましたが、多重検定を調整すると、これらの証拠は示唆的になりました。以下は本論文の図6です。
画像


●考察

 本論文は、遺伝的に充分に研究されていなかった中東地域の高網羅率のゲノム配列の生成を報告しました。研究された全ての標本は、連鎖読み取り配列を用いて実験的に位相化され、大規模で正確なハプロタイプの再構築を可能とします。以前の世界規模の配列計画では分類されていなかった何百万もの多様体が見つかり、そのかなりの割合が中東では一般的です。これら一般的な多様体の大半は短い読み取りの利用可能な被覆外にあり、標準的な短い読み取りの配列に基づく研究の限界を浮き彫りにします。

 多数の物理的に位相化されたハプロタイプにより、比較的古い期間(10万年以上前)からごく最近(1000年前頃)までの人口史の研究が可能になりました。アフリカからのヒトの初期拡大が、中東の現代の人口集団に遺伝的に寄与した証拠は見つかりませんでした。この知見は、全ての非アフリカ系現代人はアフリカからの単一の拡大の子孫で、その後すぐにネアンデルタール人と混合し、それは世界の他地域に移住する前だった、という支持を集めつつする合意に追加されます(関連記事)。

 中東の人口集団は地域固有のネアンデルタール人由来のDNAをほとんど有しておらず、その大半が他のユーラシア人と共有されている、と明らかになりました。アラビア半島の人口集団は、レヴァントやヨーロッパやアジア東部の人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統の割合が低く、これは、ネアンデルタール人と混合しなかった基底部ユーラシア人からの祖先系統の増加と、ネアンデルタール人の遺伝的影響をユーラシア西部現生人類から間接的にしか受けなかったアフリカ人との最近の混合に起因する、と示されます。

 古代人のゲノムを用いて現代の人口集団をモデル化することにより、レヴァントとアラビア半島の人口集団間の違いが識別されました。レヴァントの人口集団はヨーロッパ/アナトリア半島関連祖先系統の割合がより高い一方で、アラビア半島人口集団はアフリカおよびナトゥーフィアン的祖先系統の割合がより高くなっています。レヴァントとアラビア半島との間の差異は、人口規模の歴史によっても示されます。両者は新石器時代前の20000~15000年前頃に分岐し、定住農耕生活様式への移行はレヴァントで人口増加を可能にしたものの、アラビア半島では並行していなかったことを示唆します。

 アラビア半島では後期更新世と前期完新世の間で人口集団の不連続性が起き、アラビア半島は肥沃な三日月地帯からの新石器時代農耕民により再移住された、と示唆されています。本論文の結果は、レヴァントの農耕民によるアラビア半島人口集団の完全な置換を支持しません。さらに、本論文のモデルでは、アラビア半島の人々は、レヴァントの農耕民ではなく、ナトゥーフィアン的な在来狩猟採集民人口集団に祖先系統が由来する、と示唆されます。アラビア半島北部石器群は、その一部がレヴァントの農耕民により製作された石器群と類似しているように見えると識別されており、さらにレヴァントとアラビア半島との間の家畜動物の移動から、人口集団の移動もしくは文化的拡散のどちらかによるものだった、と提案されてきました。本論文の結果は、文化的拡散および/もしくはレヴァントからの限定的な移住を示唆します。

 中東現代人のモデル化に必要な系統の追加の供給源は、古代イラン人と関連しています。本論文の混合検証では、古代イラン人祖先系統がまずレヴァントに到達し、その後でアラビア半島とアフリカ東部に到達した、と示されます。これらの事象の年代は、興味深いことにセム語派の起源および拡大と重なっており、この祖先系統を有する(おそらくはレヴァントもしくはメソポタミアのまだ標本抽出されていない)人口集団がセム語派を拡大させた、と示唆されます。乾燥化事象と関連する気候変化が人口集団のボトルネックと関連していることも明らかになり、アラビア半島では6000年前頃に砂漠気候の始まりとともに人口規模が減少しましたが、レヴァントでは、4200年前頃の乾燥化事象で人口が減少しました。この深刻な旱魃は、中東とアジア南部の王国および帝国の崩壊の原因になった、と示唆されており、本論文で特定された兆候に遺伝的に反映されている可能性があります。

 多様体の進化史の再構築への祖先的組換え図の適用は、自然選択研究に強力な手法を提供します。本論文は、アラビア半島の人口集団において、選択の兆候を洗練して特定しました。過去数千年に50%にまで頻度が達し、アラビア半島外ではほぼ存在しない多様体と関連するラクターゼ活性持続の事例は、ヒトの歴史と適応の理解において、あまり研究されていない人口集団の研究が重要だと示します。

 本論文の結果から、多遺伝子性選択は、過去に有益だった可能性があるものの、現在では2型糖尿病などの疾患と関連している多様体の頻度増加に役割を果たしたかもしれない、と示唆されます。本論文では、他の人口集団と比較して、アラビア半島人口集団では多遺伝子性選択の兆候がほとんど見つからず、これは理論的に選択の強度を低下させるだろう長期の小さな有効人口規模の結果かもしれません。長期の小さな有効人口規模は、とくに最近の近親結婚の習慣(関連記事)と相まって、メンデル型や複雑な特徴の研究に利用できます。なぜならば、個体群はホモ接合型の機能喪失変異を有し、自然な「ヒトノックアウト」として機能するからです。本論文と中東地域における最近の国立バイオバンク設立は、健康格差是正への第一歩であり、将来、中東における複雑で疾患性の特徴を調べるための、刺激的な機会を提供します。以下は本論文の要約図です。
画像


 本論文は最後に限界も指摘しています。アラビア半島人口集団の形成を洗練し、レヴァントとアラビア半島との間の先史時代のつながりをさらに明らかにするには、アラビア半島からの将来の古代DNA研究が必要です。中東の人口集団はゲノム規模関連解析では最も注目されていない集団の一つなので、選択兆候の理解や多遺伝子性特徴の分析には限界があります。中東集団に関する将来のゲノム規模関連解析は、これらの人口集団における多遺伝子性選択の影響を理解するのに必要です。


参考文献:
Almarri MA. et al.(2021): The genomic history of the Middle East. Cell, 184, 18, 4612–4625.E14.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.07.013

Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への農耕民の拡大経路

 Y染色体の詳細な分析に基づく新石器時代のヨーロッパ西部への拡大経路に関する研究(Rohrlach et al., 2021)が公表されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体の非組換え領域(NRY)のような片親性遺伝標識は、その歴史を単純な進化系統樹により表せるという事実のため、集団の人口史についての魅力的な情報源です。1980年代の先駆的研究以来、ゲノム研究以前には、人類の遺伝的歴史と世界への移住のほとんどは、片親性遺伝標識のmtDNAとNRYから推測されていました。細胞内のコピー数が多く、ゲノムが短くて(17000塩基対未満)、比較的高い置換率のため、mtDNAはとくによく研究されてきており、人口集団の遺伝的変異性についての安価ではあるものの信頼できる情報源を産出してきました。

 逆に、NRYのマッピング可能な部分(古代DNA研究などで短い読み取りが確実にマッピングされている領域)はmtDNAよりもずっと長く(10445000塩基対)、男性個体の細胞で単一コピーとしてのみ表れます。進化的置換率(年間の部位あたりの置換数)は、NRYではmtDNAよりも最大で2桁低い、と推定されました。たとえば、7.77×10⁻¹⁰~8.93×10⁻¹⁰で、ミトコンドリアゲノムでは1.36×10⁻⁸~1.95×10⁻⁸となりますが、置換率の推定に関しては多くの議論があります。しかし、mtDNAと比較してNRYのゲノムがより長いことは、これらの置換率から、および単一系統の場合に、ミトコンドリアゲノムでは約3094~4440年に起きる点変異と比較して、NRYでは約108~123年ごとに点変異が起きることを意味します。その結果、NRYは集団の父方の人口史についてより多くの情報を含み、男性主導の移住もしくは父方居住など、男性に偏った集団の人口統計学的変化について多くの情報を提供できるので、人口集団の父方の歴史を調べることは、ひじょうに重要かもしれません。

 人口史の研究では、古代DNAはかけがえのない情報源として示されてきました。古代DNA研究は、ユーラシア西部における大規模な人口集団の移動と遺伝的交替事象を明らかにしてきており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、これらの事象は現代の人口集団の遺伝的データからの復元は不可能でした。古代人の片親性遺伝標識の研究も、現代人のみの研究では検出できない結果をもたらしてきました。たとえば、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後のヨーロッパの再移住に続くmtDNAの多様性喪失、もしくは新石器時代拡大に続くヨーロッパ東部および中央部における狩猟採集民Y染色体系統多様性の減少と部分的な置換(関連記事)や、紀元前三千年紀初めにおける草原地帯的祖先系統(祖先系譜、ancestry)の到来に伴う、その後の新石器時代Y染色体系統の多様性喪失です(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNAデータを用いる研究者たちは、通常、標本の品質に関連する問題、とくに死後のDNA崩壊と環境汚染による内在性DNAの減少に直面します。Y染色体は男性細胞の全DNAの2%未満程度を占めており、これが意味するのは、研究者たちが単一コピーのNRYで充分な情報価値のある部位を適切に網羅するためにショットガン(SG)配列の使用を望むならば、良好なDNA保存状態の標本でさえ、かなりの配列作業が必要になる、ということです。

 標的捕捉分析評価の開発により、古代DNA研究者たちは配列においてゲノムの特定の部位と領域を濃縮できるようになり、古代標本からのヒト内在性DNAの収量は大きく改善しました。そうした一般的な分析評価の一つが1240kアッセイ(分析評価)で、ヒトゲノムにおける124万ヶ所の祖先系統の情報価値のある部位を標的とし、そのうち32000ヶ所はY染色体上の既知の多様体の選択を表します。これは、情報価値のあるY染色体の一塩基多型の遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)の一覧に基づきます。注目すべきことに、市販の利用可能版(myBaits Expert Human AffinitiesやDaicel Arbor Biosciences)では、ISOGGにより特定された追加の46000ヶ所のY染色体一塩基多型が含まれており、現代人男性で変異が見られます。

 現在知られている情報価値のあるY染色体の一塩基多型の数(ISOGGでは73163ヶ所、Yfullでは173801ヶ所)と比較して、標的Y染色体一塩基多型の数は比較的少なく、基本的なY染色体ハプログループ(YHg)の分類は可能ですが、現代の多様性と特定地域に大きく偏っています。結果として、1240kアッセイにおける特定のY染色体一塩基多型の表示に応じて、得られるYHgの分類は低く不均一な解像度になる可能性がありますが、標的を絞る手法は、ヒトの過去における隠れたおよび/もしくは消滅した可能性のある系統の検出ができません。

 人口集団の男性の歴史をよりよく研究して理解するために、すでによく知られている一塩基多型だけを標的にするのではなく、NRYの部位の配列データをとくに濃縮する標的分析評価の必要性が認識されました。そのため、YMCA(Y染色体マッピング可能捕獲分析評価)が設計され、実装されました。これは造語で、古代DNAに典型的な短いリードをヒトゲノムに確実にマッピングできるNRYの領域を標的とします。類似の手法はすでに以前の研究で調べられました(関連記事)。しかし本論文では、その研究で提示された精査セットとの詳細な比較は避けられます。その研究では、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)といったずっと古い標本のために設計され、690万塩基対を標的としているので、「マッピング可能」の定義が本論文よりもずっと控えめで制約されています。一方、別の研究では890万塩基対領域が報告され、本論文の標的領域をほぼ完全に(99.97%)含んでいます。本論文は、標的領域の残りの150万塩基対で確実にマッピングされた部位を得られる、と示します。

 本論文は、YMCA がショットガン配列と比較してNRY部位の相対的な網羅率を大きく改善し、同じ配列作業でNRY部位を濃縮できる、と示します。また本論文は、YMCAが2つの点で1240k一塩基多型アッセイ配列よりもずっと性能が優れていることを示します。本論文は実験的に、YMCAが網羅されているNRY部位の数を改善する、と示します。また本論文は、関連するbedファイル(標的領域を記述したタブ区切りのテキストファイル)により定義された標的NRY部位の考慮により、および抽出への高い複雑性を有する標本を配列する場合、YMCAが1240kアッセイ配列と比較して、YHg分類と新たな診断に役立つ一塩基多型の発見に対して、解像度改善の可能性を有することも示します。

 本論文は、YHg-H2(P96)の分析によりYMCA経由で得られた性能改善を強調します。YHg-H2は、ユーラシア西部の新石器時代移行期の初期農耕民と関連した低頻度のハプログループです。本論文は、既知の46個体(古代人45個体と現代人1個体)と、新たにYMCAで配列された49個体(全員古代人)のデータセットを精選しました。おもに現代人20個体の標本に基づくYHg-H2の現在の理解は、本論文のYHg-H2の個体群の古代の多様性と一致しない、と本論文は示します。この古代のYHgの解決において、アナトリア半島からヨーロッパ西部への新石器時代集団にとっての、地中海とドナウ川に沿った異なる2経路を示せます。地中海由来の集団は、最終的にブリテン島とアイルランド島にも到達しました。


●YMCAの性能の検証

 YMCAの性能を評価するため、さまざまな保存状態水準の標本について、内在性ヒトDNAの実験上の倍増が計算されました。ショットガンと1240kとYMCAの配列データについての、多すぎる環境変数の影響を避けるため、同じ遺跡から標本が選択されました。それはドイツのレウビンゲン(Leubingen)遺跡です。次に、網羅されたNRY部位の数と、少なくとも一度各ライブラリタイプで網羅されたISOGGの数を調べることにより、同じライブラリでの標準的なショットガン配列と1240kキャプチャに対するYMCAの実験上の性能が比較されました。ヒト内在性リードのみを選別し、次に500万の内在性リードごとに網羅された部位・一塩基多型の数を正規化することにより、同じ品質と入力配列労力が説明されます。ショットガン配列をYMCAと比較すると、内在性ヒトDNAの量で顕著な増加が観察され、以下ではこれが「濃縮」と呼ばれます。標本の保存状態が増加するにつれて濃縮が減少する、と明らかになりました。つまり、より高い開始内在性DNAの割合が高い標本では、濃縮効果が減少するものの、それでも有意でした。

 ショットガン配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリにより網羅されたNRY部位の数では、15.2倍の顕著な平均増加が観察され、1240k配列と比較した場合は1.84倍となり、YMCAは平均してショットガン配列および1240k配列の両方よりも多くのNRY部位を網羅する、と示されます(図1)。またこれは、ショットガン配列の500万リードあたり平均15.2倍のISOGG一塩基多型を網羅しているので、YMCAのわずか500万リードと比較して、ショットガン配列では同じ数のNRY部位を網羅するのに7600万のリードを配列する必要がある、と示唆します。以下は本論文の図1です。
画像

 興味深いことに、1240k配列と比較すると、YMCA捕捉ライブラリで少なくとも1回網羅されたISOGG一塩基多型の数では、平均4.36倍増加していることも明らかになりました。これは、同じ配列作業でYMCAがより多くの情報価値のある一塩基多型を網羅していることも示唆します。網羅されたNRY部位の数と、ショットガン配列および1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことと、網羅されたISOGG一塩基多型の数と1240k配列の内在性DNAの割合は相関していないことが明らかになり、これらの結果が標本における回収可能なヒトDNAの相対的量に依存しないことを示唆します。したがって、Y染色体で網羅される一塩基多型は1240kアッセイを用いると追加のボーナスですが、それはおもに男性と女性の常染色体ゲノムの分析で使用されるので、研究者が効率的かつ徹底的にY染色体の非組換え部分を調べたいならば、YMCAは明らか顕著な改善である、と明らかになります。

 次に、各bedファイルにしたがって、1240kアッセイとYMCAにも含まれる、ISOGG一塩基多型一覧14.8版におけるハプログループの情報をもたらす一塩基多型の割合が比較されました。YMCAと1240kアッセイは同じ技術に基づき、同じ実験室の手順で捕捉されているので、この比較はとくに強力です。1240kアッセイは現在掲載されているISOGG一塩基多型の24.44%を標的としますが、YMCAは90.01%を標的とします(図2)。注意すべきは、ISOGG一塩基多型の残り9.99%はNRY領域に存在し、古代DNAで一般的な短いリードでは「マッピングできない」と考えられることです。

 1240kアッセイの各部位は2つの精査(アレルと代替アレル)および多様体のそれぞれの側の5200塩基対により標的とされるので、追加の隣接する「標的」部位もマッピングされたリードから回収可能です。したがって、1240kアッセイの各一塩基多型の120塩基対(それぞれの側で60塩基対)の解析単位(window)も許可され、これは古代DNAの妥当な平均リード長です。この1240k+120塩基対の部位の一覧では、標的とされるISOGG一塩基多型の割合が45.34%にまで増加しますが、これは、1240k一塩基多型アッセイが、情報価値のあるY染色体一塩基多型が含まれる総数により基本的に制約されることも示します。ISOGG標的一塩基多型におけるこの顕著な増加は、同じ配列作業でYMCAがより多くISOGG一塩基多型を網羅する理由も説明します。以下は本論文の図2です。
画像

 さらに、NRYをできるだけ多く回収することは、とくに研究者がY染色体の新たな多様体を探すか、もはや存在しないかもしれない過去の多様性の解明に関心を持っている場合に、たいへん重要です。1240kアッセイにより標的とされた部位の数をYMCAと比較すると、1240k捕捉アッセイは合計で32670ヶ所の部位を標的とする可能性があり、これはYMCAにより標的とされた部位の数の約0.31%になる、と観察されます。しかし、各一塩基多型の周囲の120塩基対の解析単位を含めると、1240kアッセイは3953000ヶ所の部位、もしくはYMCAを用いての分析できる可能性のある部位の数の37.82%を、標的とする可能性があります。したがって、YMCAは新たな祖先系統の情報をもたらす一塩基多型のNRYを探すための手法としてより優れている、と予測されます。

 この研究では、YMCAと1240kにより標的とされた利用可能なISOGG一塩基多型を考えて、YHg分類の可能な潜在的解像度の比較にも関心がもたれました。各bedファイルのISOGG一塩基多型によると、32000ヶ所のY染色体の周囲の120塩基対を含めた時でさえ、一塩基多型YHgの解像度は改善できないことも明らかになりました。これは、現在優勢なYHgと、とくに、既知の過去の人口集団と関連するものの、現代の人口集団では顕著に頻度が低下しており、1240kアッセイの診断一塩基多型では充分に網羅されないYHgの両方で当てはまります。

 初期狩猟採集民のYHg-C1a2(V20)や、新石器時代の拡大と関連するYHg-G(Z38202)やYHg-H2(P96)などのハプログループでは低解像度がよく観察されます。これらのYHgに関して、1240kアッセイのY染色体一塩基多型は、それぞれ関連するISOGG一塩基多型の0.8%と0%と13%を標的とします。120塩基対の解析単位を含めると、これらの割合はそれぞれ32.5%と31.2%と36.2%に増加しますが、依然としてYMCAにより標的とされた一塩基多型の場合の、89.6%と90.6%と95.2%よりもずっと低くなります(図2)。さらに、初期ヒト集団の移動において存在すると考えられているものの、現代人集団では比較的多く見られるYHgの理論的網羅率が低いことも、1240kアッセイの部位に関して問題となる可能性があります。たとえば、アメリカ大陸への人類最初の移住と関連する、YHg-Q1b1a1a(M3)は、1240kアッセイでは関連する診断上の一塩基多型の11.9%(120塩基対の解析単位を含めると33.5%)しか網羅されていないのに対して、YMCAでは92%となります。

 まとめると、ショットガン配列および1240kアッセイと比較して、YMCAはNRYへのマッピングリードの相対的割合を高めます。またYMCAは、1240kアッセイよりもNRYの部位を2.5倍以上標的としており、新たな診断一塩基多型の検出を可能とします。しかし重要なことは、YMCAが、すでに情報価値があると知られているものの、1240kアッセイでは標的とできない一塩基多型を標的とすることです。


●事例研究としてのYHg-H2へのYMCAの適用

 標本選別のショットガン配列の手順適用と、実験室での適切な標本へのその後の1240kキャプチャを通じて、古代の男性個体におけるさまざまなYHgについて新たなYMCAの性能を調べられました。本論文は、YHg-H2(P96)の事例を紹介します。データ不足と現代の人口集団では低頻度であるため、YHg-H2では進化系統樹の解像度が依然として不明です。現在の古代DNA記録から判断すると、YHg-Hは過去には、とくに新石器時代化の時期のユーラシア西部全域で農耕拡大と関連する男性の間でもっと一般的だったようです。本論文は結果として、古代DNA研究、とくにYHgの高解像度型は、過去と現在のY染色体の進化関係の解明に役立つ、と示せます。

 YHg-H(L901)はアジア南部で48000年前頃に形成された、と考えられています。その下位区分のYHg-H1a(M69)とH2(P96)とH3(Z5857)は、その後4000年で急速に形成されたようです。YHg-H1およびH3は44300年前頃に形成されたと推定されていますが、YHg-H2はわずかに早く45600年前頃に形成された、と推定されています(yfull)。

 YHg-H1およびH3はアジア南部ではまだ20%の頻度で見られますが、ヨーロッパではひじょうに頻度が低く、YHg-H1はロマ人の900年前頃の拡大との関連のみで見られます。逆に、YHg-H2は少なくとも1万年前以来ユーラシア西部に存在してきており、農耕拡大と強く関連していますが、現代のヨーロッパ西部人口集団では0.2%以下の頻度です。対照的に、YHg-H2は新石器時代集団ではより一般的で(関連記事1および関連記事2)、観察されたYHgの1.5~9%を構成しますが、中には例外的に30%に達する個体群も存在します。

 5000年前頃となる草原地帯関連祖先系統の到来とともに、YHg-R1aやR1bなど侵入してくるYHgが、YHg-G2やT1aやH2などより古い「新石器時代」YHgの多くをほぼ置換し、YHg-H2はとくに、新石器時代個体群において高頻度で見られませんでしたが、その多様性も大きく減少し、多くの下位系統が完全に失われたかもしれない、と予測されます。

 本論文のYMCAがハプロタイプ決定品質を向上させて系統地理学的推論も導き出せるのかどうか検証するため、先史時代古代人のDNAデータと、暫定的にYHg-H2に分類された選択された個体群の新たな収集が用いられました。49個体の新たなデータが生成され、既知の46個体のY染色体ゲノムデータと統合されました。

 YHg-H2は、新石器時代のより優勢なYHg-G2a2b2a1a2a(Z38302)とともに一般的に見られますが、本論文ではYHg-H2の低頻度が注目されます。とくに、YHg-G2a個体群の相対的な高頻度と比較してのYHg-H2個体群の相対的な少なさから、系統選別のより強い影響と、したがって観察される地理的パターンのより高い変化を予測するように、「系統の歴史」、したがって潜在的には拡散経路をよりよく追跡できます。この特定の事例では、YHg-H2個体群と関連する固有の遺伝標識を用いて、アナトリア半島からヨーロッパ西部への拡大する新石器時代農耕民を追跡でき、新石器時代拡大の提案されたいわゆる「ドナウ川もしくは内陸部」経路と「地中海」経路を遺伝的に識別可能なのかどうか、検証できます。これらの新石器時代拡大経路は、最近核ゲノム分析でも裏づけられました(関連記事)。

 残念ながら、Y染色体の進化系統樹のYHg-H2の下位区分は、YHg-H2個体の現代人標本の不足とYHg-H2の古代人の相対的な少なさのため現在よく理解されておらず、多くの場合、既知および未報告の古代人標本のほぼ全ての系統樹的歴史と一致しません。本論文では、1例を除く全事例で、YHg-H2個体群は、YHg-H2 a1やH2b1など、現在のISSOG分類における2つの分岐クレード(単系統群)から派生した一塩基多型の混合を有している、と明らかになりました。したがって、上述のYMCAの性能から、さらにYHg-H2個体群が分析され、この系統の分岐パターンの解明が試みられました。

 Y染色体DNAの非組換え部分では、進化史は系統樹構造に従うと予測されるので、たとえばISOGGでのYHg-H2aとH2b1とH2c1aなどの混合ハプログループはあり得ません。これらの個体群のよりよく理解された進化史を見つけるため、IQ-TREEを用いて最尤(ML)系統発生樹が構築されました。ML系統樹(図3A)から2つの主要なクレードが識別され、暫定的にH2m(青色)およびH2d(緑色)と表示されます。現在のISOGGの命名法に関して、YHg-H2mはYHg-H2とH2aとH2a1とH2c1aの一塩基多型の混合により定義づけられることに要注意です。YHg-H2dは、2ヶ所のYHg-H2b1の一塩基多型と、以前には検出されなかった追加の4ヶ所の一塩基多型により定義されるようです。したがって、YHg-H2dは、トルコとドイツの個体群から成る下位クレードを含んでおり、それらは、YHg-H2b1と関連する追加の10ヶ所の一塩基多型により独自に定義され、さらなる下位区分の可能性が示唆されることに要注意です。

 診断一塩基多型の拡張セットに基づいて、ML系統樹に含まれるための最小限の網羅率要件を満たしていない個体も含めてさえ、58個体をYHg-H2mとH2dのどちらか、あるいは(基底部)H2*(低網羅率のため)に分類できました。最終的に、これら追加の一塩基多型のどれにも由来せず、YHg-H2の一塩基多型の多くにとって祖先型である3個体も確認され、基底部の3個体と表示されます。

 本論文の全標本をヨーロッパの地図に投影すると、系統地理的パターンがはっきりと現れました(図3B)。YHg-H2d個体は全員、ヨーロッパ中央部へのいわゆる内陸部・ドナウ川経路沿いで見つかり、YHg-H2mは1個体を除いて全て、ヨーロッパ西部とイベリア半島と最終的にはアイルランド島へのいわゆる地中海経路で見つかりました。ドイツ中央部で見つかった孤立したYHg-H2mの個体(LEU019)は、年代が後期新石器時代・前期青銅器時代で、新石器時代拡大の2000~3000年後となります。ミシェスベルク(Michelsberg)文化のような中期・後期新石器時代集団の東方への拡大の考古学およびmtDNAの証拠は、この単一の地理的に離れた観察結果を説明できるかもしれません。以下は本論文の図3です。
画像

 本論文で用いられた古代人標本の不完全でさまざまな網羅率のため、古代人標本の放射性炭素年代測定を用いての、分岐年代推定のための信頼できる較正を作成できませんでした。本論文は代わりに、個体の各組み合わせの最新の共通祖先(TMRCA)以来の年代を推定し、新たに識別されたYHg-H2クレードの分岐年代を調べました。まず、相対的な置換率が構成され、YHg-A0と他の全てのYHgの平均TMRCAが161300年前と推定されました。この較正された置換率を用いてのTMRCAは、YHg-A1が133200年前、YHg-HIJKが48000年前と推定され、これは現在のそれぞれの推定年代(yfull)である133400年前および48500年前とひじょうに近くなっています。本論文はYHg-H2のTMRCAを24100年前と推定し、これは現在の推定年代(17100年前)よりもわずかに古く、高網羅率のYHg-H2の現代人標本を1個体しか利用できず、古代人標本が増加したことで説明できます。

 YHg-H2dとH2mの推定TMRCA年代は15400年前で、それぞれの推定TMRCA年代は11800年前と11900年前です(図4)。しかし、重複する一塩基多型が少ないために関連するエラーバーがより広くなっている場合でも、平均推定年代は依然として比較的一貫していることに要注意です。これらの推定値に加えて、YHg-H2dとH2mの個体がアナトリア半島とレヴァントでも見つかった事実から、YHg-H2の多様性は農耕および家畜の確立以前に近東狩猟採集民に存在していた可能性が最も高く、初期農耕民にも存在し、その後で新石器時代拡大を経てヨーロッパ中央部および西部に広がった可能性が高い、と示されます。以下は本論文の図4です。
画像


●YHg-H2の解像度向上のための診断用一塩基多型の特定

 YMCAを用いてYHg-H2の新たな下位クレードを特定した後、参照ヒトゲノム配列(hs37d5)と比較して、どの一塩基多型がこれらの下位クレードの診断用なのか、識別することも目的とされました。そのために、次の特性を有する分離部位が探されました。(1)集団内のどの個体もその部位では祖先的ではない場合。(2)その部位では集団内の複数個体が網羅されている場合。(3)その部位では集団外のどの個体も派生的ではない場合。(4)その部位では集団外の複数の個体が網羅されている場合。そのうえで、「新たな」一塩基多型の調査は、CからTもしくはGからAではなく、したがって古代DNA損傷の結果である可能性が低い置換に限定されましたが、本論文の結果でCからTもしくはGからAである多様体も、それらがISOGG もしくはYFullで以前に発見されているならば、含まれました。

 YHg-H2(全て)とH2d(緑色)とH2m(青色)として定義される図3の下位ハプログループ・分枝の、312ヶ所の診断用の可能性のある一塩基多型が特定されました。心強いことに、本論文で特定された312ヶ所の診断用一塩基多型のうち258ヶ所(80.1%)はすでに、ISOGGもしくはYFullの一覧においてYHg-H2(P96)もしくはより派生的な下位区分と関連している、と明らかになっています。本論文では、YHg-H2と関連づけられていなかった、以前に発見された一塩基多型を2ヶ所(0.31%)のみ見つけました。それは、YHg-R1a1およびR1a1aと関連づけられたCからTの置換です。これはYHg-H2標本31点のうち17点で見つかったので、CからTの置換が損傷に起因する可能性は低そうです。さらに、本論文のYHg-H2の古代人(フランスのYHg-H2の1個体を除いて)では、134ヶ所の既知の基底部YHg-H2一塩基多型のうち110ヶ所を見つけられました。

 上述のさまざまなYHgで新たに発見された残りの62ヶ所の一塩基多型は、未発見の診断用一塩基多型か、失われたYHg-H2の多様性を表します。しかし、部位8611196におけるAからGの置換のような、新たに発見された一塩基多型のいくつか(本論文のYHg-H2の31個体のうち20個体)では、新たな真の診断用一塩基多型の圧倒的な証拠が見つかりました。これら明確なYHg-H2の下位ハプログループを検出する本論文の手法の能力、したがって新石器時代拡大における情報価値のあるYHgの分岐年代をさらに解明して推定する能力は、網羅率の増加と、YMCAで標的をとできる部位の数の増加によってのみ可能となります(ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合)。


●考察

 人口集団のY染色体の歴史の分析は、人口史を理解するうえでひじょうに重要かもしれません。この目的のため、本論文は古代のY染色体配列データの標的配列戦略の採用を提唱します。本論文で提示された焦点を絞った研究では、ショットガン配列もしくは1240k配列と比較した場合、内在性ヒトDNA含有量を考慮したうえで、同じ配列作業量YMCAを用いたさいに達成可能な一塩基多型の網羅率と数の改善が浮き彫りになります。

 標的となる内在性ヒトDNAの濃縮は、古代DNA研究における不充分な標本の保存状態を克服するためにひじょうに重要です。現代人男性から確認された1240kアッセイのY染色体一塩基多型は単に、信頼できるYHg分類のためのNRY上の診断用一塩基多型を、とくに現代の多様性に先行するYHgの事例では充分に網羅できない、と示され、最新の「Y染色体一塩基多型パネル」のために連続する領域を標的とする必要性が浮き彫りになります。YMCAは、他のキャプチャに使用され、追加の抽出もしくはライブラリの準備を必要としない、同じライブラリに適用できます。YMCAを本論文では試みられていない他のキャプチャアッセイと組み合わせることは確かに可能ですが、管理された研究における選択された男性標本の特注YMCAは、追加の配列作業を伴う(男性および女性標本への)手順複合適用よりも優れているかもしれない、と本論文は主張します。

 YHg-H2(P96)のより詳細な分析を通じて、古代のYHg-H2の多様性に関する現在の理解は、系統樹的な歴史(NRYの歴史にも当てはまるはずです)と矛盾し、この多様性の解決は近東からヨーロッパへの新石器時代拡大の2経路へのさらなる裏づけにつながる、と示せます。それは、YMCAによりもたらされた改善された解像度なしには可能ではなかっただろう観察結果です。ユーラシア西部狩猟採集民のY染色体(YHg-I2aやI2bやC1a)の下位構造の研究や、青銅器時代ユーラシア西部やアジア中央部および南部YHg-R1aおよびR1bの多様化をよりよく特徴づけるために、こうした手法が将来適用されるよう期待されます。


参考文献:
Rohrlach AB. et al.(2021): Using Y-chromosome capture enrichment to resolve haplogroup H2 shows new evidence for a two-path Neolithic expansion to Western Europe. Scientific Reports, 11, 15005.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94491-z

小林登志子『古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とするのはメソポタミアで、年代では都市文化が始まる紀元前3500年頃からおもに紀元前539年の新バビロニア王国の滅亡までで、その後もアラブ人勢力による支配の始まりとなる紀元後651年のサーサーン王朝の滅亡までが扱われています。メソポタミアは地理的に大きくは、南部のバビロニアと北部のアッシリアの2地域に区分されます。メソポタミアは現在の国境線ではおおむねイラク共和国に相当しますが、この南北の違いは、現在のスンニ派(北部)とシーア派(南部)の対立にも続いている、と本書は指摘します(妥当な見解なのか、疑問は残りますが)。

 世界最古の都市文化は、紀元前四千年紀後半にユーフラテス河畔で勃興しました。ユーフラテス河はアジア南西部における交易の大動脈で、それが都市の発展を促したのでしょう。ユーフラテス河の東方を流れるティグリス河は、ユーフラテス河と比較する短く、支流が山地から直接本流に流れ込むため水位が急増し、大洪水が頻繁に起きました。そのため、メソポタミアの災害といえば洪水で、「大洪水伝説」が語り継がれ、それは『聖書』にも取り入れられました。ユーフラテス河とティグリス河という「(両)河の間の地」を意味するギリシア語がメソポタミアです。メソポタミア南部のバビロニアは地理的に、北部のアッカドと南部のシュメルに二分されます。ただ、シュメル人は自らをシュメルではなく「キエンギ(ル)」と呼んでおり、シュメルは後代のアッカド語となります。

 メソポタミア南部に人々が最初に定住したのはウバイド文化期(紀元前5500~紀元前3500年頃)で、歴史時代は都市文化が成立したウルク文化期(紀元前3500~紀元前3100年頃)に始まります。その担い手は、「民族」系統不詳のシュメル人です。広い沖積平野が続くメソポタミア南部では高度な灌漑農業が営まれの下が、