洞窟堆積物から得られたネアンデルタール人の核DNA

 洞窟堆積物からのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のDNA解析結果を報告した研究(Vernot et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。更新世人類の古代DNA分析は、ネアンデルタール人やデニソワ人のような古代型ホモ属(絶滅ホモ属)の進化史、および絶滅ホモ属と初期現生人類(Homo sapiens)との相互作用に関する理解を大いに深めました。

 現在までに、完全もしくは部分的核ゲノム配列が、絶滅ホモ属23個体の遺骸から回収されました。その内訳は、ユーラシア全域(大半はヨーロッパ)の14ヶ所の遺跡のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)18個体、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)4個体、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親との間の交雑第一世代の1個体(デニソワ11)です(関連記事)。多くの旧石器時代遺跡が発掘されてきましたが、人類の骨格遺骸が残っている遺跡は比較的少なく、一つもしくはいくつかの地層に集中することが多くなっています。したがって、絶滅ホモ属の遺伝的歴史を再構築する試みは、おもに標本の利用可能性により限定される、不均一な時空間的標本抽出により制約されます。

 2017年に、人類のミトコンドリアDNA(mtDNA)が更新世の堆積物から回収できると明らかになり(関連記事)、人類のDNAの調査において希少な化石記録への依存を克服できるかもしれない、と示唆されます。しかし、mtDNAは母系に関する情報のみを有しており、完全な人口史を常に反映しているわけではありません(関連記事)。核DNAはmtDNAよりもずっと多くの情報を含んでいますが、堆積物からの回収には大きな課題があります。核DNAはmtDNAよりもコピー数が少なく、多くの遺伝子座は人口集団の遺伝的分析にとって情報価値がありません。

 さらに、堆積物における哺乳類のDNAの大半は人類のものではなく、多くの遺伝子座における配列相同性のため、人類のDNAを区別することは困難かもしれません。これらの特質や微生物DNAの圧倒的多さは、単純なショットガン配列による人口集団の遺伝的分析に充分な数と品質の核DNA回収の試みを妨げます。この研究はこれらの課題を克服するため、高い哺乳類の配列多様性を有する核ゲノム領域を、ハイブリダイゼーションキャプチャーにより標的とすることで、堆積物からの人類の核ゲノム配列を回収し、これらの配列を用いて、ヨーロッパ西部とシベリア南部のネアンデルタール人集団の歴史を調べました。


●対象となる3ヶ所の遺跡

 デニソワ洞窟(関連記事)とチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)(関連記事)はともにシベリア南部のアルタイ山脈に位置し(図1A)、その堆積物にはネアンデルタール人のmtDNAが保存されており、この2ヶ所の遺跡で得られた絶滅ホモ属3個体の遺骸からの高網羅率の核ゲノムとの比較が可能です。その高網羅率の核ゲノムとは、デニソワ洞窟では、130000~90900年前頃となる足の指骨(デニソワ5)が残っているネアンデルタール人個体(関連記事)と、76200~51600年前頃となる手の末節骨(デニソワ3)が残っているデニソワ人個体(関連記事)と、59000~49000年前頃となる手の指骨(チャギルスカヤ8)が残っているチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体(関連記事)です。これらの年代範囲は全て、年代測定手法の95%信頼区間(CI)が含まれます。デニソワ洞窟では少なくとも25万年に及ぶ絶滅ホモ属の居住の証拠がありますが(関連記事)、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人が確認されている第5層および第6層の堆積物(図1B)は、1万年未満で蓄積されました(関連記事)。

 アルタイ山脈のデニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟とともに分析対象となった遺跡は、スペイン北部のアタプエルカ考古学・古生物学複合の一部である彫像坑道(Galería de las Estatuas、以下GEと省略)です(図1C)。GEでは、明確なムステリアン(Mousterian)との類似性を有するほぼ500個の石器が、関連する堆積物の単一粒光学年代測定(single-grain optical dating)と組み合わされ、ネアンデルタール人の居住が少なくとも113000±8000年前から70000±5000年前と示唆されましたが、絶滅ホモ属遺骸ではネアンデルタール人の足の指骨が1個発見されただけです。GE堆積物の最初の判別検査から、人類も含む古代哺乳類のmtDNAの存在が示唆されました。したがって、堆積物DNAの分析は、現時点ではヨーロッパのネアンデルタール人の遺伝的記録でよく表されていない期間となる、GE居住者の人口集団遺伝学を再構築するための唯一の実行可能な手法かもしれません。

 デニソワ洞窟では、人類のmtDNAを有する堆積物標本3点(東空間の11.4層および15層と主空間の14.3層)から核DNAが回収されました。チャギルスカヤ洞窟とGEでは、旧石器時代層全体から広範囲に標本抽出され、GEでは2ヶ所のピットから76点の標本が、チャギルスカヤ洞窟では73点の収集され(図1)、人類のmtDNAと核DNA両方が標的とされました。以下、本論文の図1です。
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●人類のmtDNA分析

 合計で369点のライブラリが作成されました。チャギルスカヤ洞窟では54点の標本(74%)、GEでは43点の標本(56%)で、人類のmtDNAを含む少なくとも1点のライブラリが見つかり、古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換の有意な頻度上昇が確認されました。古代人類のmtDNAを含む223点のライブラリのうち182点で、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人とスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃のホモ属個体群のいずれかの集団では派生的で、他集団では祖先的なミトコンドリアゲノムの「診断」位置に基づいて、人類集団に分類するのに充分な断片が得られました。そのような分類は全てネアンデルタール人のmtDNAで、考古学的痕跡のない30万年以上前のチャギルスカヤ洞窟第7層の上部を除く全ての層におけるネアンデルタール人の存在を示す、考古学的証拠と一致します。チャギルスカヤ洞窟第7層の上部近くでネアンデルタール人のmtDNAが検出されたのは、以前に居住されていた時の床だったこと、および/あるいは上層からの混合の結果かもしれません。

 14点の標本はネアンデルタール人のmtDNAの網羅率が高く(17倍以上)、このうち4点(チャギルスカヤ洞窟6c層、GEピット2/第2層、GEピット1/第3および4層)は、各位置で観察されたヌクレオチドの一貫性に基づくと、単一のmtDNA配列を含むようです。これらは、現代人や古代人遺骸やデニソワ洞窟の堆積物(関連記事)からの既知の人類のmtDNA配列とともに、ほぼ完全な参照配列の生成と系統樹構築に用いられました(図2A)。

 最も注目されるのは、GEピット1/第4層の参照ミトコンドリアゲノムが、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HSTと省略)の12万年前頃となるネアンデルタール人のmtDNAと最も類似していたことで、HSTネアンデルタール人は他の既知の全ネアンデルタール人のミトコンドリアゲノムの基底部に位置します(関連記事1および関連記事2)。GEピット1・第4層堆積物の年代は112000±7000年前頃で、HSTとほぼ同年代です。GE の79000±5000年前となるピット2/第2層および107000±8000年前頃のピット1/第3層は、7万~6万年前頃となるコーカサス北部のメズマイスカヤ洞窟(Mezmaiskaya Cave)の個体(メズマイスカヤ1)とまとまる一方、チャギルスカヤ洞窟の6c層の配列はチャギルスカヤ洞窟の個体(チャギルスカヤ8)とまとまります。GEピット1・第4層堆積物標本の136000年前頃年代など、系統樹における堆積物mtDNA配列の推定年代は、それぞれの遺跡および層の既知の年代と合致します。

 チャギルスカヤ洞窟とGEの堆積物のmtDNAの多様性をさらに調べるため、250もの古代の断片を含むライブラリを、既知のネアンデルタール人のmtDNA多様性の中に確率的に配置する手法が開発されました。この手法により、チャギルスカヤ洞窟の38点のライブラリとGEの59点のライブラリから、各洞窟で標本抽出されたほとんどの層にまたがるmtDNAの系統樹割り当てが可能となりました(図2B)。GEピット1・第4および5層は、しばしば同じ下位標本でHST的および非HST的両方のネアンデルタール人のmtDNAを有しており、非HST的mtDNAは、おもにメズマイスカヤ1およびベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)の13万年前頃の個体(スクラディナI-4a)とまとまります。

 その後、HST的mtDNAはGEの上層から消え、おもにメズマイスカヤ1的な参照配列と関連します(図2B)。GEの上層およびピット1・第4層のDNAのシミュレートされた混合は、GEピット1/第4層においてメズマイスカヤ1およびスクラディナI-4a的なmtDNAの観察を生成せず、下層におけるmtDNAの真の不均一性を示唆し、GEの層序の以前に観察された保全性と一致します。チャギルスカヤ洞窟では顕著な均質性が見つかりました。第5層から第7層の全標本は、第6c層配列かチャギルスカヤ8かアルタイ地域のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の個体(オクラドニコフ2)とまとまり、時としてデニソワ11的な配列が裏づけられます。以下、本論文の図2です。
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●人類の核DNA分析

 核ゲノム内の160万ヶ所の情報価値のある一塩基多型を標的として、ハイブリダイゼーションキャプチャーによりこれらの部位と重複するDNA断片が濃縮されました。古代のヒグマ(Ursus arctos)のDNAを用いて古代DNA配列が判断され、既知のDNA配列情報を用いて、霊長類に分類された断片に分析が限定されました。しかし、既知の情報が充分ではない分類群があると誤配列の危険性があるので、チンパンジー属に由来する固定の診断部位(図3D)を含めて、人類の核DNAが判断されました。以下、本論文の図3です。
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 まず、これらの方法が、デニソワ洞窟の3点の堆積物から以前に準備されたライブラリに適用されました。そのうち2点はネアンデルタール人、1点はデニソワ人のmtDNAです(関連記事)。核DNAでも、標的とされた一塩基多型と重複するDNA断片において、全てが古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換の有意な水準を示しました。ある標本では、メタゲノムフィルタリングの前に、中程度(15%)の非ヒト動物の誤配列の証拠を示しましたが、フィルタリングでこれが1%未満に減少しました。フィルタリング後、1764・27923・162508のDNA断片が3点の標本から保持され、標的部位での最大0.1倍の網羅率を表します。

 古代人類の核DNAの存在の確認後、各標本がどの人類集団に分類できるか、検証されました。高網羅率のデニソワ人およびアルタイ山脈のネアンデルタール人のゲノムがホモ接合型で相互に異なっている部位で脱アミノ化DNA断片を調べると、2点の標本でネアンデルタール人のmtDNAが含まれ、DNA断片の約90%はネアンデルタール人の派生的状態を有するのに対して、2%はデニソワ人の派生的状態を有する、と明らかになりました(図4A)。対照的に、デニソワ人のmtDNAを含む標本の核DNAは、65%でデニソワ人の派生的アレル(対立遺伝子)を有していましたが、ネアンデルタール人の派生的アレルを有していません(図4A)。これらの結果は、骨格遺骸からの低網羅率のネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムで得られた結果と一致しており(図4A)、3点の堆積物標本における核DNAは、ネアンデルタール人もしくはデニソワ人に由来するものの、両方ではないことを示唆します。

 次に、チャギルスカヤ洞窟とGEの堆積物標本から核DNAが得られました。29標本から、脱アミノ化の有意な証拠と5%未満の動物の誤配列を有する少なくとも1点のライブラリが得られました。4点のライブラリは5%以上の動物の誤配列の証拠を示し、以下の分析から除外され、ライブラリごとの誤配列推定の重要性が強調されます。合計すると、チャギルスカヤ洞窟第6a~d層と第7層(第6cおよび6d層からの侵入の可能性が高そうです)と、GEピット2/第2層およびピット1/第2~5層で核DNAが回収されました。人類のDNAの回収率はデニソワ洞窟の標本より低く、チャギルスカヤ洞窟では最良のライブラリで134497断片(そのうち脱アミノ化の証拠を有するのは33594断片)、GEでは最良のライブラリで47667断片(そのうち脱アミノ化の証拠を有するのは16678断片)でした。

 ネアンデルタール人とデニソワ人のアレルの図に基づくと、これらの標本は明確にネアンデルタール人の核DNAを含んでおり、ネアンデルタール人の骨格標本と密接にクラスタ化します(図4A)。デニソワ洞窟のネアンデルタール人(デニソワ5)か、クロアチア北部のヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(Vindija 33.19)か、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人(チャギルスカヤ8)のゲノム間で異なる部位を考慮した同等の図は、これらの一塩基多型の標本ごとのデータ量が少ないため、これらネアンデルタール人のゲノムとの関係を解決するための解像度が不足しています。

 骨格標本の場合、X染色体と常染色体のDNAの相対的割合が性別決定に用いられてきました。この手法を、現代人の汚染が10%未満で、少なくとも5000ヶ所を網羅する脱アミノ化DNA断片を有する堆積物下位標本に適用すると、全てのデニソワ洞窟とGEの標本は、おもに単一の性に由来する人類のDNAと一致するX染色体と常染色体の割合を示す、と明らかになりました(図4B)。対照的に、チャギルスカヤ洞窟標本の大半は、予測される男女の割合の間に位置し、異なる性の複数個体からのDNAを含んでいる、と示唆されます(図4B)。単一のmtDNA配列を識別した4点のライブラリは全て、単一の性に由来するDNAと一致するX染色体と常染色体の割合を示し、この4点のライブラリはネアンデルタール人個体(図4B)のDNAを含んでいるかもしれない、と示唆されるものの、同性の複数個体の同一のmtDNAの存在を除外できません。以下、本論文の図4です。
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●核DNA系統分析

 限定的なデータにも関わらず、各標本をより大きな古代型系統に位置づけるため、最尤構成が開発されました。この手法は、標本Xに関して、高網羅率のネアンデルタール人3個体(図4C)とデニソワ人1個体のゲノムにより定義される古代型人類系統樹からのXの分岐点を、非人類動物の誤配列と現代人の汚染に由来する断片の割合と合わせて、共推定します。この手法は、古代型人類では多型の部位が、その人口史にとって情報価値がある、という事実を利用します。たとえば、ある古代型ゲノムではヘテロ接合型であるもの、他の古代型ゲノムではホモ接合型である部位では、標本Xで派生的アレルを観察できる確率は、Xが全体的な系統樹から分岐した点に基づいて変動します(図4C)。これらの確率は、有効人口規模と分岐年代が各高網羅率ゲノムから推定される、合着(合祖)シミュレーションから得られます。

 誤配列と汚染の割合は、脱アミノ化断片と非脱アミノ化断片でそれぞれ推定され、全ての断片を分析に使用できます。一部の堆積物標本は単一の個体群を表しているかもしれませんが、この手法はアレル頻度予測に基づいて機能するので、人口集団からの単一もしくは複数の個体群を表す標本にも同様に適用できます。この手法は、骨格標本から以前に公表された低網羅率ゲノムに適用すると、以前の推定と一致する人口集団の分岐年代と汚染の割合を推定します。検出力分析では、最大70%の現代人の汚染を有する低解像度処理された低網羅率のネアンデルタール人ゲノム(関連記事)における正確な分岐年代が推定され、現代人の汚染割合は正確に最大90%まで推測されます。

 この手法をデニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟の堆積物ライブラリに適用すると、骨格遺骸から得られた以前に報告された古代DNAと一致する結果が得られました。具体的には、デニソワ洞窟の2点のネアンデルタール人標本(Ell.4とM14.3)は、アルタイ山脈ネアンデルタール人個体(デニソワ5)につながる系統に分類される、と明らかになりました(図4D)。この結果は、Ell.4がデニソワ洞窟東空間のデニソワ5と同じ第11.4層(120000~105000年前頃)に由来し、M14.3が主空間の同時代(112000~97000年前頃)となる第14.3層に由来することと一致します。デニソワ洞窟東空間の第15層(20万年前頃)の標本はデニソワ人系統に分類され、mtDNAと一致します。チャギルスカヤ洞窟の全ての層の堆積物標本(Ch-3058aとCh-3007a)はネアンデルタール人個体のチャギルスカヤ8系統に分類され、特有の中部旧石器時代石器群と関連するネアンデルタール人による短期間の居住と一致します(関連記事)。

 堆積物標本から回収された核DNAが少なく、骨格遺骸からの遺伝的データが存在しないGEについては、少なくとも500のネアンデルタール人DNA断片と、70%未満の現代人の汚染を有する個々の下位標本で、人口集団の分岐年代が推定されました。層ごとの推定を得るために標本が統合され、層あたり5000~36000断片があります(図5A)。ピット2/第2層とピット1/第2層とピット1/第3層の標本は、ネアンデルタール人系統樹で115000~100000年前頃に分岐し、Vindija 33.19(関連記事)およびチャギルスカヤ8およびメズマイスカヤ1との分岐年代(104000)と類似しています(図5B・C)。ピット1/第3層の堆積年代(107000±8000年前)はこの分岐年代と区別できず、ピット1/第3層のネアンデルタール人はVindija 33.19およびチャギルスカヤ8の祖先と密接に関連している、と示唆されます。これらの層が、同じネアンデルタール人集団による洞窟の繰り返しの居住を表しているのかどうか、判断できませんが、分岐年代とmtDNAデータ(図2B)は、同一人口集団による繰り返しの居住との仮説と一致します。

 対照的に、HST的なmtDNAを有するピット1/第4層の堆積物は、ネアンデルタール人系統樹では135000~122000年前頃に分岐します(図5A)。この分岐年代はHSTネアンデルタール人個体自身や、ベルギーのスクラディナI-4a個体や、アルタイ山脈のデニソワ5個体の分岐年代と類似しています(図5B・C)。クラディナI-4aとデニソワ5はより一般的な非HST的mtDNAを有しており(図5B)、ピット1/第4層標本でも観察される祖先的ネアンデルタール人集団のmtDNAの多様性と一致します(図2B)。

 ピット1/第4層堆積物でネアンデルタール人の一般的(非HST的)なmtDNAを有する唯一の標本であるGE-IB33fでは核DNAが得られています。GE-IB33fは第3層との境界近くで収集され、データセットが小さいため(867の古代人類DNA断片)推定年代の信頼区間は大きい(139000~83000年前頃)ものの、第3層標本と類似の年代を示しました。まとめると、これらの観察から、GEでは第4層の堆積の末に向かって人口集団の置換が起き、それはmtDNAの多様性喪失を伴っていた、と示唆されます。脱アミノ化断片のみを用いた場合にも同様の結果が得られ、現代人の汚染の影響に対するこの手法の堅牢性が強調されます。以下、本論文の図5です。
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●考察

 分岐年代の明らかなクラスタ化は、ネアンデルタール人集団の2つの異なる拡散を示唆します。メズマイスカヤ1とVindija 33.19とチャギルスカヤ8とGEのピット2/第2層・ピット1/第2層・ピット1/第3層標本は、相互に115000~100000年前頃に分岐したのに対して、デニソワ5とHSTとスクラディナI-4aとGEのピット1/第4層標本は、Vindija 33.19およびチャギルスカヤ8と135000年前頃に分岐しました(図5C)。したがって、これらの拡散事象は、後期更新世前半に起き、最終間氷期の気候および環境条件の変化と関連しているかもしれません。

 さらに、典型的なネアンデルタール人形態はいくつかの段階で進化し(関連記事)、最後の段階で「古典的」ネアンデルタール人が10万年前頃に出現した、と指摘されています。これらの事象の年代測定の不確実性にも関わらず、後者の変化は、本論文で検出されたより新しい人口集団拡散と関連している可能性がありそうです。しかし、そうした要因がネアンデルタール人や他の更新世人類の人口動態に重要な役割を果たしたのかどうか判断するには、追加の遺跡からの時系列データと、これら遺伝的事象のより正確な推定が必要でしょう。本論文の手法は、化石記録とは無関係にそうしたデータを得る可能性を開き、長期的なDNA保存に対する生化学的制約にのみ制限されます。

 本論文の結果から、堆積物の人類DNAの回収は人口規模に限定されないかもしれない、とも示されます。それは、個々のネアンデルタール人に由来すると推定されるDNA(つまり、単一のmtDNA配列と性を有する堆積物標本)が、本論文で分析された3ヶ所全ての遺跡の堆積物標本で識別されたからです。この観察から、将来、堆積物DNAの分析に基づく過去の人口集団の遺伝的構成のヘテロ接合性の評価も可能になるかもしれない、と示唆されます。

 近接して採集された堆積物標本間で観察された人類のDNA量のかなりの変動の観点、および非人類動物のDNAと比較しての人類のDNAの存在量の少なさを考慮すると、更新世堆積物の人類のDNA分析が、考古学的層を通過してのDNAの浸透により大きな影響を受けることはない、と考えられます。しかし、チャギルスカヤ洞窟第7層におけるネアンデルタール人のDNAの存在は、堆積物から特定の層へりDNA配列を評価するさいには、人工物や骨格遺骸や他の考古学的資料の発見の解釈における共通の課題と同様に、堆積物の堆積後の混合の証拠を評価する必要性があることを強調します。最後に本論文は、堆積物や骨格遺骸からの不完全なゲノム規模データがマッピングできる過去の遺伝的景観を定義する足場として、たとえ少数個体での生成だとしても、高網羅率の絶滅ホモ属ゲノムの価値も強調します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、堆積物から10万年以上前の個体(群)の核DNA解析も可能とすることを示し、たいへん意義が大きいと思います。進展の著しい近年の古代DNA研究でも、画期とも言えそうな成果だと思います。堆積物からの核DNA分析も可能となると、圧倒的に多い人類遺骸が発見されていない遺跡にも適用可能で、人類史の詳細な解明に大きく貢献できるでしょう。日本人の私としては、更新世の人類遺骸がほとんど発見されていない日本列島における人口集団の遺伝的構成の解明が進むことを願っています。すでにイスラエルでも中部旧石器時代遺跡の堆積物で非ヒト動物のmtDNA断片が回収されており(関連記事)、堆積物のDNA解析の適用可能範囲は時空間的にかなり広いのではないか、と期待されます。コーカサスの25000年前頃の堆積物からは、祖先系統の分析結果も示されました(関連記事)。

 本論文は、イベリア半島北部におけるネアンデルタール人集団の置換の可能性を示しました。ネアンデルタール人は気候変動に応じて拡大・撤退・縮小・絶滅を繰り返していたと考えられ(関連記事)、本論文でmtDNAデータからも示唆されているような人口集団の置換は珍しくなく、そうした過程で遺伝的多様性が低下していったこともあったのでしょう。気候の寒冷化に伴い、一定以上の緯度のネアンデルタール人は南方に撤退するか絶滅し、気候温暖化に伴い、ヨーロッパ地中海沿岸もしくはその近隣地域のネアンデルタール人が再度北方へと拡大していき、その過程で特定系統の置換・絶滅が起きたと考えられます。堆積物のDNA解析が進めば、絶滅ホモ属の人口史がより詳細に解明されていき、後期ホモ属の進化史がこれまでの想定よりもずっと複雑だったと証明されるのではないか、と予想しています。


参考文献:
Vernot B. et al.(2021): Unearthing Neanderthal population history using nuclear and mitochondrial DNA from cave sediments. Science.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667

初期ホモ属の祖先的な脳

 初期ホモ属の祖先的な脳に関する研究(Ponce de León et al., 2021)が公表されました。現代人の脳は最近縁の現生分類群である(非ヒト)大型類人猿(以下、大型類人猿はヒトを除いた分類群です)よりもかなり大きく、とくに、道具製作や言語能力などより高次の認知機能と関連する皮質連合野において、重要な構造的再構成の証拠も示します。これらの構造的革新が人類進化において出現した時期は、依然として大きな課題です。脳は化石化しないので、脳進化のじっさいの過程の唯一の直接的証拠はいわゆる頭蓋内鋳型で、それは、脳回や脳溝や脳の血管構造を表す、複雑ではあるものの空間的に信頼性の高いパターンの痕跡を示します。

 前頭葉の再構成と潜在的な言語能力についての重要な情報を有する頭蓋内領域はブローカ野(BC)で、これは頭蓋内鋳型の外側前頭葉眼窩面の膨らみです(図1)。ブローカ野は現代人と大型類人猿両方の頭蓋内鋳型に存在し、しばしば類似の形態を示します。しかし、根底にある脳領域は集団間で同じではありません(関連記事)。大型類人猿では、ブローカ野はおもにブロードマンの脳地図の44野を構成し、その下面は前眼窩溝(fronto-orbital sulcus、略してfo)により形成されます(図1A)。現代人では、ブローカ野はおもにブロードマンの脳地図の45および47野を構成し、下側の境界は外側眼窩溝と一致する傾向(関連記事)があります(図1B)。

 したがって、化石頭蓋内鋳型のブローカ野領域の形態からの脳の再構成の推測は曖昧なままです。アウストラロピテクス属の頭蓋内鋳型のブローカ野は通常、前眼窩溝により下側に区切られていると解釈されており、その根底にある脳領域の大型類人猿的な構成が示唆されます。しかし、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)やアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)からの頭蓋内の証拠は、前頭葉の初期の再構成を示す、と解釈されてきました。この提案はさまざまな理由で異議を唱えられており、類人猿的な前頭葉組織から現代人的なそれへの進化的移行の時期と機序は、ほとんど未解明です。

 頭頂後頭皮質の進化的な再編成についても不明な点があります。全ての大型類人猿は一次視覚野(ブロードマン17野)の前方境界を示す月状溝(L)を示しますが(図1A)、ヒトの脳は月状溝の完全な欠如により特徴づけられ、それは頭頂後頭皮質の拡大を反映しています(図1B)。月状溝は頭蓋内にほとんど痕跡を残さないので、化石化した人類史の頭蓋内鋳型で月状溝の痕跡がないことは、月状溝がなかったことの証明にはならず、人類進化の過程で頭頂後頭皮質がいつ拡大し始めたのか、依然として不明です(関連記事1および関連記事2)。

 伝統的に、前頭葉と頭頂後頭葉の派生的で現代人的な再構成は、その始まりからホモ属を特徴づける、と仮定されてきました。しかし、この仮説を化石頭蓋内鋳型で明示的に検証することは困難です。アフリカの化石記録では、ホモ属の起源は280万年前頃までさかのぼりますが(関連記事)、重要な頭蓋内証拠は180万年前頃以降にしか保存されておらず、時空間的に分散した個々の発見物により表されます。そのため、頭蓋内形態の個体間変異を背景に、脳進化の通時的傾向を明らかにすることは困難です。一方、アジア南東部のホモ・エレクトス(Homo erectus)は、地理的に限定的な地域の多くのよく保存された神経頭蓋により表されますが、その地質学的年代はアフリカの初期ホモ属化石よりも新しくなります(関連記事1および関連記事2)。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の化石人類の年代は185万~177万年前頃で(関連記事)、初期ホモ属の脳の再構成とアフリカからの人類拡散の潜在的重要性の評価に鍵となる役割を果たします。ドマニシ遺跡では、思春期から老年期までの個体を表すよく保存された頭蓋5個が発掘されており、これは初期ホモ属集団における自然の変動を表しているかもしれせん(関連記事)。またドマニシ遺跡では、豊富な動物遺骸と様式1(関連記事)のオルドワン(Oldowan)石器が共伴しており、ドマニシ遺跡人類の道具使用と特有の行動、さらに広く、初期ホモ属の生計戦略や社会組織や認知能力の推論が可能です。以下、本論文の図1です。
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 本論文は、ドマニシ遺跡の標本5個(D2280、D2282、D2700、D3444、D4500)の頭蓋内形態分析(図2)と、アフリカおよびアジア南東部の化石頭蓋内鋳型の比較標本の再評価により、初期ホモ属の脳組織における重要な変化を検証します。化石頭蓋内鋳型の前頭葉の祖先的側面と派生的側面を識別するために、現代人と大型類人猿でひじょうに異なる頭蓋大脳組織分布が参照されました。前頭葉下部拡大の特徴的な兆候は、冠状縫合(coronal suture、略してCO)と比較しての下中心前溝(inferior precentral sulcus、略してpci)の後方への移動です。両方の構造は通常、化石頭蓋内鋳型によく表されており、その組織分布関係は前頭葉の再構成を確実に示しています。さらに、幾何学的形態計測法を用いて、どの頭蓋内および脳領域が前頭葉再構成において特異的な拡大をしたのか、識別します。以下、本論文の図2です。
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●頭蓋内分析

 ドマニシ人類遺骸で、D4500は下顎骨D2600とともに、初期ホモ属遺骸としてはひじょうに良好な保存状態を示します。全体的に、ドマニシ人類の頭蓋内鋳型は、外部皮質形態の一貫した組織分布パターンを示しています。つまり、中心前溝が冠状縫合を横断し、その下側がブローカ野に向かって縫合線の前方に位置します。大型類人猿と現代人の頭蓋大脳組織分布を参考にすると、ドマニシ人類は前頭葉組織では大型類人猿のパターンを反映しており、ブローカ野は眼窩溝により下側に区切られ、ブロードマン皮質領域44と45の一部を含んでいる可能性が高そうです(図1A)。

 アフリカの前期~中期更新世の初期ホモ属の頭蓋内鋳型の比較分析から、頭蓋内組織分布の多様性がより大きい、と明らかになります。ホモ・ハビリス(Homo habilis)とされるKNM-ER1805とKNM-ER1813はともに、分類に議論がありますが、年代は170万年前頃以前で、前頭葉で大型類人猿的な組織と一致する痕跡を示します。170万~150万年前頃の頭蓋内鋳型は、ホモ・エルガスター(Homo ergaster)もしくはホモ・エレクトス(Homo erectus)と分類されますが、前頭葉の形態は祖先的なものから派生的なものまで変動を示します。対照的に、150万年前頃以降のアフリカのホモ属化石は、現代人的な派生的な前頭葉組織と一致する頭蓋内組織分布を示します。アジア南東部に位置するジャワ島のホモ・エレクトスの頭蓋内鋳型は通常、前頭回(frontal sulci)の顕著な痕跡を示しますが、中心前溝と中心溝の痕跡はほとんど見られません。本論文で再検証されたジャワ島のホモ・エレクトスの全標本で、前頭葉の派生的組織の痕跡が示されます。


●頭蓋内の形態とサイズと組織分布

 図3では、化石ホモ属と大型類人猿および現代人の比較標本における頭蓋内形態の変異が示されます。大型類人猿の頭蓋内は頭頂葉で低いものの広く、前頭葉は先細りで、大後頭孔は後方に位置しています。ヒトの脳硬膜は比較的高く、広い前頭葉と下に位置する大後頭孔を有しています。頭蓋内形態における大型類人猿と現代人の大きな対照は、おもに相対的な脳化(頭蓋基底部および顔面のサイズと比較しての脳のサイズとして測定されます)の変動の影響です。化石人類の頭蓋内は、大型類人猿とヒトとの間に位置します。200万~100万年前頃のホモ属の頭蓋内形態は、広範な集団内および集団間の変異を示します(図3)。ドマニシ人類の変異は、他の分類群の集団内変異と範囲およびパターンにおいて一致します。以下、本論文の図3です。
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 頭蓋内組織分布に関するデータを地質学的年代と相関させることで、前頭葉再構成の時期、および脳形態における脳の拡大と変化との相関可能性を推測できます(図4)。前頭葉における祖先的形態から派生的形態への変化は170万~150万年前頃に起き、150万年前頃以後の化石記録でほぼ確立された派生的形態を伴います。この期間に、前頭葉の再構成は脳の拡大と並行して起き、平均頭蓋内容積(ECV)は650㎤から850㎤へと増加しました。この二つの過程は、同様の進化的要因に由来する可能性があります。しかし、これら初期ホモ属よりもずっと新しい、アフリカの中期更新世のホモ・ナレディ(Homo naledi)や、アジア南東部のフローレス島の後期更新世のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)は、派生的な前頭葉形態を示しながら、ECVはナレディが465~565㎤、フロレシエンシスが426㎤程度で、前頭葉組織は大きな脳容量と機構的に関連しているわけではない、と示唆されます。

 本論文のデータはさらに、前頭葉組織における祖先的特徴から派生的特徴への変化が、頭蓋内形態における特定の変化を伴っていた、と示唆します(図4B)。下中心前溝の後方への移動(図4A)は、下前頭(inferior prefrontal、略してIPF)領域の差異的な拡大と関連しています(図1および図4B)。さらに、下前頭の拡大は、後頭頂葉(posterior parietal、略してPP)および後頭皮質領域(O)の顕著な拡大と相関しています。以下、本論文の図4です。
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●初期ホモ属における脳再構成のパターンと時期

 頭蓋大脳組織分布から、最初期ホモ属は祖先的な前頭葉組織を有しており、それは冠状縫合と比較しての下中心前溝の類人猿的な前方の位置を特徴とする、と明らかになります。本論文のデータから、派生的な前頭葉組織はホモ属進化の比較的遅い時期、つまりアウストラロピテクス属からホモ属への移行期ではなく、アフリカからのホモ属最初の拡散よりも明確に遅い170万~150万年前頃に出現した、と示唆されます。前頭葉の再構成と関連する頭蓋内形態は、下中心前溝、および後頭頂葉と後頭皮質の差異的な拡大を明らかにします(図4B)。このパターンから、前頭および後頭皮質連合野が、連続ではなく連結して進化した、と示唆されます。この知見から、前頭葉の再構成に先行する初期ホモ属の頭蓋内鋳型は、頭頂後頭領域に残っている類人猿的月状溝の痕跡を示す可能性がある、と推測されます。

 初期ホモ属における祖先的および派生的脳組織の時空間的パターン化は、単一の拡散を想定しては説明できず、以前に示唆されたように、より大きな時空間的複雑さを含んでいたに違いありません(関連記事)。現時点での証拠を考慮すると(図4)、最も節約的な仮説は、最初のホモ属人口集団はアフリカから早ければ210万年前頃には拡散し(関連記事)、ドマニシ人類に代表されるように、祖先的な前頭葉組織を保持していた、というものです。アジア南東部のホモ・エレクトス化石は現時点で150万年前頃以降と推定されており(関連記事)、派生的な前頭葉形態がアフリカで170万~150万年前頃に出現した後の、第二の拡散を表します。アフリカ外のホモ属最初の人口集団が、派生的形態を示す人口集団と統合したのか、および/もしくは置換されたのかどうか評価するには、追加の化石および考古学的証拠が必要となるでしょう。


●神経機能への影響

 現代人の脳では、前頭葉下部は、高度な社会的認知や道具製作および使用や明瞭な言語にとって重要な神経機能基質です(関連記事)。したがって、170万~150万年前頃に起きたその進化的再構成が技術文化的遂行の大きな変化に伴っていたのかどうか、問うことができます。アフリカにおける様式2のアシューリアン(Acheulian)技術文化は176万年前頃に始まり(関連記事)、初期の前頭葉再構成とほぼ一致し、様式1および様式2の石器技術は、この重要な期間に同時に用いられていました(関連記事)。本論文は、このパターンが脳と文化の共進化(関連記事)の相互依存過程を反映している、と仮定します。脳と文化の進化では、文化的革新が皮質の相互接続性および最終的には前頭葉外層組織分布の変化を引き起こしました。一方、150万年前頃のホモ属を特徴づける大脳の革新は、後のホモ属種の「言語対応」脳の基礎を構成した可能性があります。


●分類学的意味

 本論文の知見は、初期ホモ属の分類にも影響を及ぼします。ホモ属に分類される前期更新世化石の顕著な形態学的多様性は、単一人類種系統内の人口集団多様性、もしくはアフリカにおける種の多様性として解釈されてきました。前者の見解は、計測的および非計測的頭蓋特徴の継続的変異パターン、およびかなりの性的二形の証拠(関連記事)により裏づけられます。後者の見解は、顎の計測的変異が単一の分類群で予測されるよりも大きい、との観察により裏づけられ、初期ホモ属における種分化の主因として、脳の拡大よりも食性の特殊化が示唆されます(関連記事)。

 本論文で提示された脳構造の変異に関するデータは、アフリカの初期ホモ属における多様性の追加の証拠を提供します。しかし、大脳の構造的多様性(図4A)のパターンは、顎の多様性のパターンと一致しないので、初期ホモ属における分類学敵多様性の問題は未解決のままです。初期ホモ属における進化過程の解明は、充分に管理された年代的文脈からの化石標本の拡張を通じてのみ解決されるだろう課題のままです。


参考文献:
Ponce de León MS. et al.(2021): The primitive brain of early Homo. Science, 372, 6538, 165–171.
https://doi.org/10.1126/science.aaz0032

宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』

 KADOKAWAより2020年11月に刊行されました。著者は岡田英弘氏の弟子にして妻で、「岡田史学」の継承者と言えるでしょう。著者や岡田氏の著書は、現代日本社会において、保守派や「愛国者」を自任している人々や、「左翼」を嫌っている人々に好んで読まれているように思います。ただ、碩学の岡田氏には、そうした人々が自分の著書を好んで読んでいることに対して、冷笑するようなところがあったようにも思います。まあ、これは私の偏見にすぎないかもしれませんが。岡田氏の著書は著者との共著も含めて随分前に何冊か読みましたが、著者の単独著書を読むのは本書が初めてです。

 著者が現代日本社会の言論においてどのように見られているのか、そうした問題を熱心に調べているわけではない私にもある程度分かるので、著者の本を読むこと自体に否定的な人も少なくないとは思います。ただ、私自身「保守的」・「愛国的」・「反左翼的」なところが多分にあるのに、そうした傾向の人々が読む歴史関連本をあまり読んでこなかったので、電子書籍で読み放題に入っていたこともあり、読んでみました。私の思想的傾向から、本書の諸見解をつい肯定的に受け入れてしまう危険性があると考えて、他の歴史関連本よりは慎重にというか、警戒しつつ読み進めました。その分、かなり偏った読み方になり、本書を誤読しているところが多分にあるかもしれません。

 本書は、現代日本社会における世界史認識の問題点を、その成立過程にさかのぼって指摘します。西洋史と東洋史が戦前日本の社会的要請もあって成立し、戦後は両者がまとめられて世界史とされた、という事情はわりとよく知られているように思います。したがって、戦後日本社会の世界史は体系的ではなく問題がある、という本書の指摘は妥当だとは思います。また本書は、西洋と東洋では歴史哲学が異なり、それに起因する偏りもある、と指摘します。そこで本書は、「中央ユーラシア草原史観」により歴史を見直し、日本の歴史を客観的に位置づけようとします。

 本書の具体的な内容ですが、「世界史」を対象としているだけに、各分野の専門家や詳しい人々にとっては、突っ込みどころが多いかもしれません。とくに、著者や夫の岡田氏の著書がどのような思想傾向の人々に好んで読まれているのか考えると、「左翼」や「リベラル」と自認する人々は本書をほぼ全面的に批判するかもしれません。私も、本書で納得できる見解は、世界史におけるモンゴルの影響力の大きさなど少なくないものの、気になるところは多々ありました。ただ、現在の私の知見と気力では細かく突っ込むことはとてもできないので、私の関心の強い分野に限定して、とくに気になったところを述べていきます。

 総説では、皇帝や封建制や革命といった用語で西洋史を語る問題点など、同意できるところは少なくありません。ただ、「中国」の史書が変化を無視するとの見解は、誇張されすぎているようにも思います。儒教に代表される「中国」の尚古的思想は、世界で広く見られるものだと思います。それは、神や賢者などによりすでに太古において真理は説かれており、後は人間がそれにどれだけ近づけるか、あるいは実践できるのか、というような世界観です。これを大きく変えたのが、近世から近代のヨーロッパで起きた科学革命です(関連記事)。

 本書の見解でやはり問題となるのは、「漢族」が後漢末から『三国志』の時代にかけて事実上絶滅した、との認識でしょう。その根拠は史書に見える人口(戸口)の激減ですが、これは基本的に「(中央)政権」の人口把握力を示しているにすぎない、とは多くの人が指摘するところでしょう。著者も岡田氏もそれを理解したうえで、このような見解を喜んで受け入れている「愛国的な」人々を内心では嘲笑しているのではないか、と邪推したくなります。そもそも、後漢の支配領域に存在した人々を「漢族」とまとめるのがどれだけ妥当なのか、という問題もありますが。

 これと関連して、隋および唐の「漢人」と秦および漢の「漢人」とは「人種」が違う、という本書の見解には、かなり疑問が残ります。「人種」というからには、生物学的特徴を基準にしているのでしょうが、「中原」の住民に関しては、後期新石器時代と現代とでかなりの遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。これは、アジア東部北方の歴史的な諸集団の微妙な遺伝的違いがよく区別されていないことを反映しているかもしれない、と以前には考えていました。ただ、「中原」以南とその北方地域との人口差を考えると、「中原」における後期新石器時代から現代までの住民の遺伝的安定性との見解は、素直に解釈する方がよいのではないか、と最近では考えています。もちろん、「中原」を含めて華北の現代人の主要な遺伝的祖先集団が、「中原」の後期新石器時代集団だとしても、支配層が北方から到来した影響は、政治はもちろん、言語を初めとして文化でも小さくはなかったでしょう。ただ、そうだとしても、それが「民族」の絶滅あるいは置換と評価できるのか、かなり疑問は残ります。そもそも、前近代の歴史に「民族」という概念を適用するのがどこまで妥当なのか、という問題がありますが。

ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学

 ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の摂食生体力学について、2021年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Huerta-Sanchez et al., 2021)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P21)。ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)はインドネシアのフローレス島の小型人類で、頑丈な下顎枝や厚い下顎結合や上下の横断隆起の存在など、祖先的な頭蓋顔面の特徴を示します。これらの特徴は、「強化された」アウストラロピテクス属と共有されており、高い咀嚼圧への適応と示唆されています。しかし、ホモ・フロレシエンシスは顕著な頭蓋顔面の華奢化、および後のホモ属とより類似する第一大臼歯も示し、より頑丈な人類種と比較して高い咬合負荷の減少が示唆されます。この不一致により、ホモ・フロレシエンシスの摂食行動の推測は困難です。

 そのため、フロレシエンシスの起源をめぐっては、発見当初に提案されたジャワ島というかスンダランドのホモ・エレクトス(Homo erectus)の子孫とする見解とともに、エレクトスよりもさらに祖先的、つまりアウストラロピテクス属的な特徴を有する分類群の子孫ではないか、との見解も一方の有力説として認められているように思います(関連記事)。じっさい、エレクトスよりも祖先的なホモ属がアフリカからユーラシアへ拡散していたことを示す証拠が蓄積されつつあり(関連記事)、後者の見解を無視することはとてもできないと思いますが、私は前者の見解の方を支持しています。

 この研究は有限要素分析を用いて、フロレシエンシスにおける摂食生体力学を検証します。この研究はフロレシエンシスの正基準標本(LB1)の復元を用いて、チンパンジーの筋力から調整された咀嚼負荷が、第三小臼歯と第二大臼歯のシミュレーションに適用されました。ミーゼス応力とひずみデータが、チンパンジーおよび現代人およびアウストラロピテクス属と比較されました。わずかな例外を除いて、LB1の微小ひずみの程度は、現代人で観察されたひずみの上昇と類似しており、一部区域ではチンパンジーのようなひずみ水準の増加を示します。

 したがって、LB1はほとんどのアウストラロピテクス属との比較において相対的に弱く、現代人とより一致しているようです。臼歯の咬合中に力の乱れが観察され、顎関節脱臼の危険性から、力強く噛む能力が低下した、と示唆されます。これらの結果は、頭蓋顔面の華奢化の現代人的モデルを裏づけ、ホモ・フロレシエンシスの食性がより柔らかい食料へと転換していったことを示唆するかもしれません。この研究は、摂食生体力学の観点からフロレシエンシスの派生的特徴を示唆しており、フロレシエンシスの祖先的と考えられている特徴は、島嶼化による形態縮小と関連しているのかもしれません。


参考文献:
Cook RW. et al.(2021): Evaluating the craniofacial feeding biomechanics in Homo floresiensis using the finite element method. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

加藤真二「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P27-31)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 近年、古代ゲノム研究が飛躍的に発展しており、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部についても、草原地帯(関連記事)やアジア東部(関連記事)の包括的な研究が提示されました。華北で遺伝的に確認されている最古の現生人類(Homo sapiens)遺骸は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃(関連記事)の現生人類(Homo sapiens)男性1個体で(関連記事)、この個体はユーラシア東部というかアジア東部基層集団の一員と推測されています。つまり4万年前頃には、アジア東部現代人の祖先がすでに華北に存在した可能性は高そうです。本論文は、このアジア東部基層集団の存在を示す可能性がある、華北の海洋酸素同位体ステージ(MIS)3大型石器インダストリーを取り上げています。

 大型石器インダストリーとは、礫器(PaleoAsia mode C1)を中心として、不定形で粗雑なスクレイパー(PaleoAsia mode D1)などの剥片石器を組成するインダストリーです。礫器・剥片石器群(PF群)、長型石核石器(Long core tool:LCT:PaleoAsia mode E1)を有する礫器・剥片石器群(PFL群)、礫器を多く有する鋸歯縁石器群(DP群)などがこれに相当します。これらの大型石器インダストリーは、中国南半部の長江流域・華南東部などで盛行する、と知られています。一方、中国北半部、とくに華北地方南部の嵩山東麓地区を中心に、若干の大型石器インダストリが見られます。


●華北の大型石器インダストリー

 河南省織機洞8・9層は、嵩山東麓の丘陵地帯に所在する洞窟遺跡です。第8層の上に堆積する第7層の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代(49700±5760年前)や花粉分析により、温和で比較的乾燥した温帯草原環境が復元されたことから、MIS3初頭の段階と考えられ、56000~50000年前頃と想定されます。遺跡付近の河床で採集された、石英砂岩の礫を多用する礫器・剥片石器群(PF群)が出土しましたが、少数(第8層では75個、第9層では27個)です。第7層からは、鋸歯縁石器群(3574個)も検出されています。

 河南省方家溝5・6層および8・9層は、織機洞から南西へ30kmの地点に所在する開地遺跡です。主要な石器群である6層下面に開口した溝状遺構(G1)出土石器群(6050個)の上下の層位から、石英砂岩・石英岩の石核・礫器を有する少数の礫器・剥片石器群(PF群)が出土しました(5層では13個、6層では49個、8層では40個、9層では96個)。両者の間に位置するG1出土石器群は石英製鋸歯縁石器群(DQ群)です。5層は放射性炭素年代測定による較正年代で41887~40810年前と42168~41269年前、9層はOSで56400±3500年前と推定されています。また花粉分析では、5・6層はキク科・ヨモギ属とアカザ科が繁茂する草原環境と復元され、気候の乾燥寒冷化が進むと推測されました。一方、8~9層は、キク科・ヨモギ属とアカザ科の草原と落葉広葉樹、針葉樹林が見られる温暖湿潤環境と復元されています。

 山西省下川富益河圪梁地点中文化層は、太行山脈南端にあたる中条山脈の山間盆地に位置する開地遺跡です。細石刃石器群(MB群)、台形様石器、ナイフ形石器を有する石器群(TB群)を含む、上文化層の下に堆積する褐赤色亜粘土層(中文化層)に包含される少量の石器群が確認されます(34個超)。石英砂岩製の礫器・石核・剥片とともに、石英岩製のノッチ・ベックをもつDP群と見られます。年代は放射性炭素年代測定の非較正年代では36200年前頃で、下川旧石器後期文化初期段階(較正年代で43000~39000年前頃)に相当すると考えられます。


●華北の大型石器インダストリーの荷担者

 このようにわずかな事例ですが、華北南部ではMIS3の較正年代で56000~50000年前頃から40000万年前頃にかけて、大型石器インダストリーが確認されます。上述のように、大型石器インダストリーは中国南半部の長江流域・華南東部などで盛行します。MIS5~3にかけて長江流域では、犀牛洞や黄龍(Huanglong)洞や棗子坪や水湾や烏鴉山や小河口など、また華南東部では、大梅下文化層や船帆洞上・下文化層や宝積岩などが挙げられ、大型石器インダストリーがこれらの地域で展開する、と確認できます。このため、華北地方にみられる大型石器インダストリーは、中国南半部の人類集団が荷担したもので、その移動・拡散に伴って華北に持ちこまれた、と推定できます。つまり、MIS3の時期には数度にわたり、中国南半部の集団が、大型石器インダストリーをもって中国北半部へ北上・拡散したと考えられます。問題となるのは、中国南半部から華北へ移動してきた大型インダストリーの荷担集団が何者だったのか、ということです。

 上述の長江流域石器群のうち、湖北省北部の鄖西(Yunxi)県から25kmに位置する黄龍洞第3層(103700±1600~79400±6300年前)では、礫器・剥片石器群(PF群)とともにシャベル型門歯を含む現代型新人の歯化石(鄖西人)が出土しています。また、中国南半部では、113000~100000年前頃と推定されている広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)や、10万年以上前と推定される咁前洞や、12万~7万年前頃と推定される陸那(Luna)洞などで、かなり古い現生人類化石が検出されています。

 しかし、その理化学年代は、しばしば過度に古い年代が測定される場合もある鍾乳石を試料としたウラン系列年代です。このため、年代については、さらなる検証が必要で、MIS3の前半期における石器群の荷担者については、現時点で不明です。じっさい、おそらく本論文脱稿後の公表となる研究では、黄龍洞は35000年前頃以降、陸那洞はおおむね完新世と推定されており(関連記事)、本論文の懸念は妥当だったと言えそうです。一方、華北最古の現生人類化石である4万年前頃の田園洞人や、中国南半部で最古の後期旧石器文化と考えられる、43500年前頃以降となる雲南省硝洞(Xiaodong)6層の石器群(石斧をもつ礫器・剥片石器群:PFAX)は、現生人類の所産だった可能性が高そうです。


●華北地方における現生人類集団の出現と拡散

 華北地方の大型石器インダストリーの年代に注目すれば、織機洞8・9層、方家溝8・9層の56000~50000年前頃と、方家溝5・6層、下川富益河圪梁地点中文化層の4万年前頃という2つの年代が見られます。このうち56000~50000年前頃は、MIS3cの比較的温暖な湿潤期に相当します。一方、4万年前頃は、ハインリッヒイベント(HE)4もあり、比較的寒冷・乾燥化した時期です。このため、環境変化による居住可能領域の拡大などとは別の解釈が必要とされます。むしろ、MIS3においては、人口増などの理由から中国南半部の集団の北上圧力が常に高かった、と解釈できそうです。たまたま、考古学的に把握されたのが、上述の2つの年代だっただろう、というわけです。

 上述のように、アジア東部基層集団の現生人類(田園洞人)が、4万年前頃には、北緯39度40分まで北上している。また、同じく4万年前頃以降、中国北半部の主体的な石器群であった鋸歯縁石器群グループに、石刃・縦長剥片や典型的な掻器・彫器など、上部旧石器的な道具・装身具・磨製骨角器・黒曜石等の遠隔地石材の利用など、いわゆる現代的行動様式が見られるようになります(関連記事)。また、華北地方の北端にある泥河湾盆地(The Nihewan Basin)に所在する、較正年代で5万~4万年前頃となる河北省西白馬営では、典型的な鋸歯縁石器群(D群)とともに、現代的行動様式と解釈できる初源的な磨製骨器や火の制御の痕跡が検出されています。

 大型石器インダストリーの動きと以上のような中国北半部の石器群の様相をもとにすれば、MIS3の後半期、アジア東部基層集団の現代型新人が大型石器インダストリーを荷担して、中国南半部から北上し、中国北半部、とくに華北地方に拡散していく、と考えられます。その過程で、華北地方に鋸歯縁石器群を荷担する在地集団(古代型「新人」?)と接触して、鋸歯縁石器群を受容し、荷担するようになります。西白馬営の鋸歯縁石器群も、アジア東部基層集団の現生人類が残したと考えられます。また、下川富益河圪梁地点中文化層の礫器をもつ鋸歯縁石器群(DP群)は、アジア東部基層集団が鋸歯縁石器群を受容するさいに出現した、大型石器インダストリーと鋸歯縁石器群のハイブリッドともいえる石器群かもしれません。較正年代で4万年前頃には、鋸歯縁石器群を荷担したアジア東部基層集団が、在地集団と置換したと考えられます。

 このように、華北地方の大型石器インダストリーに注目し、その動向を見ると、大型石器インダストリーはMIS3に相当する較正年代で56000~40000年前頃に華北地方南部で見られる、と確認されました。中国南半部での現生人類の出現と拡散状況はまだ詳細不明ですが、中国南半部で後期(上部)旧石器時代が開始される43500年前頃以降は、アジア東部基層集団が大型石器インダストリーを荷担した、と想定されます。アジア東部の後期更新世人類遺骸は少ないので、石器分析からの拡散経路の推測に依拠せざるを得ないところが多分にあります。今後、堆積物のDNA解析が進めば、石器からの推測とは異なる様相の人類集団の拡散や置換が明らかになるかもしれません。


参考文献:
加藤真二(2021)「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P27-31

国武貞克「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-20)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部西部の初期上部旧石器(IUP)は、アルタイ地域と比較して、大型石刃生産技術にルヴァロワ(Levallois)技法の影響が少ない点や尖頭器の形態組成に違いがあるなど、部分的には地域的な特徴を示します。しかし、大型石刃と小石刃と尖頭器の生産という3セットを基本とする石器群で、アルタイIUPと共通する石器組成と技術組成を示す、と明らかになりました。そのインダストリーは中部旧石器時代のオビ・ラフマティアンから連続的に成立したと考えられるので、アルタイIUPの起源として、アジア中央部西部における中部旧石器時代のオビ・ラフマティアン(Obirakhmatian)を想定できます。

 さらに、アジア中央部の西部と東部、およびアジア北部のIUP期の石器群をユーラシアIUP石器群と概括し、その展開がユーラシア東部で追跡されました。その結果、2020年の日本列島中央部における野外調査により、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島の後期旧石器時代初頭に到来した証拠と見られる石器群を新たに把握できました。これは、ユーラシアIUP石器群の荷担者とみられる現生人類(Homo sapiens)によるユーラシア北回りの拡散が、日本列島に及んでいた可能性を示唆します。


●ユーラシアIUP石器群の特徴

 アルタイ地域を中心としたアジア中央部東部からアジア北部にいたるIUP石器群は、その組成と製作技術に高い斉一性が指摘されています。一方で、同様の石器群がウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟で確認されており、その石器組成は下層から上層までよく類似しています。アジア中央部西部でオビ・ラフマティアンと呼ばれるこのインダストリーについては、全て中部旧石器時代前半に帰属するとする見解が示される一方で、再発掘調査の結果IUP期にまで継続すると指摘されるなど、近年位置づけが流動化しています。

 そこで、アジア中央部西部における確実なIUP石器群を把握するため、タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓に立地するフッジ遺跡の本格的な発掘調査が、2019年10月~11月に実施されました。その石器組成は、10cm前後の大型石刃を主体とし、三角形剥片による未調整の尖頭器が伴い、小石刃(幅1cm前後)も出土しました。約4000点の石器が地表下6.5~3.5mの3mの間で検出され、第1~第4文化層の4枚の文化層が識別されました。地床炉から採取した木炭試料の放射性炭素年代測定の結果、較正年代では、第1文化層で42135~41255年前頃、第3文化層で43024~42438年前頃と47329~45577年前頃と推定されており、年代値は層序堆積と整合しています。

 2019年の発掘調査により得られたフッジ遺跡の新たな年代値から、おそらくIUP期の単純石器群を把握できたと評価されます。第3文化層の年代(47329~45577年前頃)はアジア中央部西部におけるIUP期の初源に近く、以後の第3文化層の43024~42438年前頃と第1文化層の42135~41255年前頃という年代は、この地域におけるIUP期石器群の継続性を示しているようです。石器組成と技術組成については、第1~第3文化層において大きな変化は認められませんでした。

 石器製作技術では、大型石刃はルヴァロワ並行剥離による平面的な石核消費に加えて、半円周(亜プリズム)型、小口面型など立体的な石核消費が目立ちます。尖頭器は、典型的なルヴァロワ型尖頭器も少数組成しますが、多くは求心剥離石核から剥離された斜軸剥片を素材とするものと、幅広の尖頭形石刃を素材とするものが主体的に見られ、長さが6~7㎝前後で未調整である点に斉一性が見られます。小石刃核としては、末端が肥厚した大型石刃や縦長剥片を素材としたいわゆる彫器状石核(burin-core)が特徴的でした。二次加工石器の詳細は現在調査中です。

 これらの知見から、オビ・ラフマート洞窟の年代に関わらず、オビ・ラフマティアンがアジア中央部西部のIUP期にまで継続することは、タジキスタンのフッジ遺跡の発掘調査により確認できた、と言えそうです。天山・パミール地域を中心とするアジア中央部西部では、アルタイIUPと石器組成及び石器製作技術が共通する石器群はアルタイ地域より年代的に先行するとともに、それと同時期にも展開していました。このため、アルタイIUPに加えて、むしろ核心であるアジア中央部西部におけるIUP石器群を合わせて一体として把握し、ユーラシアIUP石器群と呼称します。

 アルタイIUPは、ルヴァロワ技法による石刃生産技術が特徴とされますが、それは中部旧石器時代にルヴァロワ・ムスティエ文化(Mousterian)が発達したアルタイ北麓ならではの特徴です。より広域に見渡すと実態はそれに限定されず、ルヴァロワ技法によらない平面剥離型や小口面型や各種の立体剥離型など、多様な石刃生産技術が同居します。アジア中央部西部のうちフッジ遺跡やジャル・クタン遺跡などIUP期に帰属するとみられる石器群には、天山・パミール地域における中部旧石器時代の非ルヴァロワ・ムスティエ文化伝統を背景にして、立体剥離型による亜プリズム型、大型分割礫片を素材とする小口面型、中部旧石器的な平面剥離型のいずれもが認められます。

 タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓は、集中的な資料調査により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)7から続く石刃を特徴とするオビ・ラフマティアンが普遍的に見られる、と明らかになっていますが、編年ではその最終末段階がフッジ遺跡と推定されていました。この推定は、2019年の発掘調査により放射性炭素年代値から裏づけられた、と言えそうです。アルタイIUP石器群においても、ルヴァロワ型石刃生産技術に限定されず、多様な技術が同時に発揮されています。このため、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術は、立体型・平面型・小口面型の3様相の共存を特徴する点が重視されるべきです。

 さらに尖頭器の形態組成においても、ルヴァロワ型尖頭器、未加工の斜軸剥片(つまり斜軸尖頭器)、斜軸剥片に二次加工を施したムスティエ型尖頭器、寸詰まりの尖頭形石刃の4種が概ね共通して見られます、このうちいずれかが卓越するかにより、石器群間の違いが際立ちます。尤も、尖頭形石刃と尖頭器の違いは定義上の長さの違いでしかないため、実態としては同一視されています。ここで重視すべきは、尖頭器の形態組成の違いの根底には、ルヴァロワ技法がどの程度その技術的な基盤を構成するかにより起因することがあり、石刃の形態と同様に、アジア中央部西部における中部旧石器時代のルヴァロワ技法の比率の低さと関係している、と見られることです。すでにフッジ遺跡の組成の評価で指摘されているように、アジア中央部各地における中部旧石器時代終末段階の技術様相の多様性が表出していると考えられます。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来説とそれへの反対説

 日本列島の石刃の起源については、後期旧石器時代初頭の石刃石器群の類例が必ずしも多くないことあり、まだ定まった理解がありません。日本列島の後期旧石器時代最初期に小型剥片石器群が先行し、やや遅れて関東地方を中心に石刃石器群が現れる現象の解釈について、石刃の大陸伝播説と日本列島自生説のどちらかは、日本の旧石器研究における長年の課題でした。その後、現生人類の渡海技術を前提にしたMIS3における日本列島への現生人類の拡散を踏まえることで、石刃石器群の大陸伝播説は一般的な理解となります。

 ただ、具体的にユーラシア大陸のいかなる文化段階のものが流入したのかまでは、議論の対象となりませんでした。しかし、恐らくアルタイIUPの概要が整理されて、ユーラシア旧石器研究が日本旧石器研究に参照され始めたことが契機となったため、日本列島における石刃石器群の起源を具体的にユーラシアIUP石器群に見定めた見解が、2015年3月に2件同時に発表されました。ともに日本列島最古の石刃石器群である長野県佐久市八風山II遺跡の起源についての議論です。

 一方は「尖頭石刃や小口面タイプの石刃核を含む」点に着目し、ユーラシア中央部を東西に横断して分布するIUP石器群であるエミラン(Emiran)と関連させました。較正年代で4万年前頃の年代と合わせて、石器が似すぎており「他人の空似」と決めつける根拠もない、と指摘されています。この視点は継承され(関連記事)、アジア東部への現生人類到来に伴う石刃石器群の系譜が、各地の在地の石器群との関係性から明確化されます(関連記事)。

 もう一方はやや視点が異なり、小口面剥離によるY字稜をもつ石刃生産技術が、打面の90度転回に特徴づけられる半転型の石核消費でもあるとして、立体的な石核消費を特徴とする上部旧石器的な石刃生産技術とは一線を画した石核消費だった、と評価する見解です。つまり、石核消費が中部旧石器から上部旧石器への移行期的であるとの評価ですが、この見解では、石刃石核消費の特徴に加えて、量産されたY字稜をもつ基部加工尖頭形石刃石器がルヴァロワ型尖頭器の外形を模倣した例として、ユーラシアIUP期の石刃石器群との関連が示唆されていまする。やや不鮮明ですが、大型石刃を石核素材として小石刃生産の可能性がある、彫器状石核の存在も指摘されています。

 これらユーラシアIUP石器群からの影響関係を考慮する見解に対して、石刃生産技術にルヴァロワ技法が認められないため、ユーラシアIUP石器群とは類似しないとして、その影響関係を明確に否定する見解もあります。つまり、「他人の空似」というわけですが、ユーラシアIUP石器群の基本構成と八風山II遺跡の資料の実態を踏まえていない表層的な批判に過ぎなかったことは、3名の連名著者らも認めるところだろう、と本論文は指摘します。その結果として、日本列島の石刃石器群の由来を収斂進化説にもとめる理解に陥った、というわけです。

 八風山II遺跡が仮に日本列島最古の石刃石器群であったとしても、この遺跡の場の性格上、最古の石刃生産技術の全てが表現されていると評価するのは難しい、と考えられます。なぜならば、幅約7mの痩せ尾根上において、基盤の崖錐性堆積物に含まれる黒色安山岩を抜き取り、小口面型石核消費により基部加工尖頭形石刃石器の量産に専従した地点だからです。特定の目的のための作業地点で、同時期の全ての石刃生産技術が発揮されたとは考え難い、というわけです。

 たとえば、1点のみ含まれる打面の細部調整が顕著な和田峠産黒曜石製の石刃など、この地点には見えていない異なる石刃生産技術が存在したことは明らかです。そのため、八風山II遺跡の石刃生産技術が小口面型の単相であることから、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術の多様性が認められないとして、その関係を否定してしまうことは難しいだろう、と考えられます。すでに指摘されているユーラシアIUP石器群との類似点も、要素としては部分的に認められることも確かです。

 そこで、同じ八風山の山中にある香坂山遺跡が取り上げられます。香坂山遺跡は上信越自動車道八風山第2トンネルの立坑地上施設の建設にともない1996年に発見され、1997年に長野県埋蔵文化財センターにより発掘調査されていました。八風山II遺跡よりも80m標高が高く1140mで、周囲から屹立した幅広い平坦な尾根に立地し、黒色安山岩の散布域からは南東に約600m外れています。1997年の長野県調査では、施設建設範囲において地表下5.5mという深さでAT下位から中型剥片石器を主体とする4ブロックが検出され、そこから約40m離れた斜面下方に設定された幅2mの確認トレンチからは、地表下2.7mの同じくAT下位から長さ14cmと11cmで幅が3㎝以上の大型石刃2点と、長さ12cmの大型石刃が剥離された石刃核1点が出土していました。石刃の形態は長方形で先細りせず、石刃核は亜プリズム型で小口面型ではありません。

 さらに、IUP期のレヴァントからアジア北部にまで分布する横断面取石核(truncated-faceted pieces)の範疇で理解できる小石刃核も同じトレンチから出土していました。較正年代では36000~35000年前頃と推定とされ、八風山II跡と同時期の石刃石器群の存在が、香坂山Ib石器文化と命名され、報告されました。確認トレンチの範囲は記録保存の対象とならず、その存在が確認された石刃石器群の包含層は現状保存されました。このため、片鱗のみで確証がもてないものの、香坂山遺跡の確認トレンチ周辺には、八風山II遺跡とは異なる技術と石器組成をもつ石刃石器群が展開し、日本列島の石刃の起源を示唆する未知の情報が埋没しているのではないか、と考えられます。


●香坂山遺跡の学術調査

 日本列島最古の石刃石器群の調査のため、2020年8月から9月に、1997年の長野県調査で石刃が出土した確認トレンチ周辺の国有林と高速道路施設地において、学術目的の発掘調査が実施されました。7ヶ所のトレンチ合計約135㎡を3次にわけて発掘したところ、遺跡が立地する幅約40mの尾根のうち、中心軸から南半に石器包含層が広がる、と確認できました。水洗選別試料を含めて800点以上の石器が、1997年の長野県調査と同一とみられる層準から出土しました。

 2020年の学術調査地点では、地表下約2mまで浅間山に由来する軽石層が重層し、その下で30~50cmの斜面崩落土層が堆積し、それにパックされる形で3万年前頃の姶良Tn火山灰層が純層で堆積していました。石器は、その約40~50cm下位を中心に出土しました。石器包含層は層厚が約40cmの軟質な暗色帯で、その中位から下位にかけて石器が包含されていました。この暗色帯の上部には白色と赤色の径2mm程度の小さなパミスが包含されており、これが八風山II遺跡で確認された八ヶ岳第4軽石(較正年代で34000年前頃)となるのかどうか、分析中です。石器製作地点は1次調査区で1ヶ所、2次と3次調査区でそれぞれ2ヶ所ずつ検出されました。その内容は、8月調査の第1次調査区で小石刃生産地点、第2次調査区で尖頭形剥片の生産地点、9月調査の第3次調査区で大型石刃生産地点と小石刃生産地点、および尖頭形剥片の生産地点が検出されました。

 石器は、長さ10cm以上で幅3cm以上の大型石刃、幅1cm前後の小石刃、尖頭形剥片が出土しました。尖頭形剥片は長さ5cm上の斜軸剥片で、定義的な斜軸尖頭器とも言えます。それぞれの石器が剥離された石核も出土したため、製作技術も判明しました。大型石刃は、60度程度の小さい打角をもつ、平面剥離型の両設打面の石刃核から剥離されていました。小石刃は、末端が肥厚した大型石刃や厚手の縦長剥片を石核素材として剥離され、彫器状石核が残されます。尖頭形剥片は、求心剥離石核から規格的に剥離されていました。

 大型石刃生産については、1997年の長野県調査で立体剥離型の亜プリズム型石刃核が出土しており、それとは異なる技術と判明しました。さらに、石核は残されていませんでしたが、石刃の側面に石核側面が取り込まれた例から、小口面型による石刃生産の存在も想定されました。このため、大型石刃生産技術は、中部旧石器的な平面剥離型(2020年学術調査)と上部旧石器的な立体剥離型(1997年長野県調査)、中間的な小口面型(2020年学術調査、ただし石核はありません)の3種の存在が確認できました。この石刃生産技術の多様性は、ユーラシアIUP石器群と共通すると評価できそうです。

 また、小石刃生産の石核素材となった大型石刃や厚手の縦長剥片は、大型石刃の剥離過程で生産され、小石刃核として適した素材が選別されており、アルタイIUPにおいてモードBがモードAに取り込まれている状況を確認できました。小石刃生産による大型石刃素材の彫器状石核は、ユーラシアIUP石器群の示準石器とされています。較正年代は現時点で、中央値の平均が36800年前となることから、日本列島最古の石刃石器群と判明しました。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来の可能性

 大型石刃と小石刃と定義的な斜軸尖頭器の3セットに特徴づけられる香坂山遺跡の石刃石器群の由来については、石器組成と技術組成が上旬のようにユーラシアIUP石器群と共通することから、何らかの影響を考慮しなければなりません。以前の見解では、武蔵野台地X層の石刃出土遺跡を大陸の例と比較する中で、水溝洞やトルバガやワルワリナ山に共通して伴っている、「長三角形剥片を利用した尖頭器」、「両設打面の扁平石刃核」、「円盤形石核」が立川ローム層第I期の石刃出土遺跡には伴っていないことが、相違点として指摘されています)。日本列島最古の石刃石器群である香坂山遺跡は、まさにこの3点が大型石刃に伴って出土した点において、大陸の初期の石刃石器群との共通性を改めて指摘できます。換言すると、これらにより、香坂山遺跡の石刃石器群はユーラシア大陸の初期石刃石器群に起源が求められる、と理解できます。

 その年代から、ユーラシアIUP石器群そのものというよりも、その系譜をひく前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、略してEUP)の石器群をアジア東部に想定して、それが較正年代で36800年前頃までに日本列島に流入したと考えられるでしょう。調査は継続中なのでまだ確定できませんが、細部にわたる共通性から、現時点では移住を伴う伝播と想定するのが妥当なようです。アジア東部のユーラシアIUP石器群の確実な例は、中国寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou)遺跡が挙げられ、較正年代では41000年前頃と推定されています。韓国の較正年代で42000~40000年前頃とされる石刃石器群も、その影響下にあった可能性が考えられます。韓国の初期石刃石器群については、ユーラシアIUP石器群にみられる中部旧石器的な様相、すなわち平面剥離型の大型石刃生産技術や中部旧石器的な尖頭器生産などの有無が、今後の焦点となりそうです。

 日本列島内部では、香坂山遺跡以降は、八風山II遺跡や武蔵台遺跡Xb層など、基部加工尖頭形石刃石器を主たる石器とする石器群が、較正年代で15000年前頃程度の年代差で後続します。このため、香坂山遺跡で確認されたユーラシアIUP石器群の系譜は日本列島内において途中で途絶せず、その後の石刃石器群の起源になった、と評価できます。八風山II遺跡に年代が500年前とわずかではあるものの先行することからも、香坂山遺跡は、較正年代で36000~35000年前頃以降に関東・中部地方で一般化する、小口面型石刃生産による基部加工尖頭形石刃石器に特殊化する以前の石刃石器群と理解できます。このように、ユーラシアIUP石器群の系譜が現生人類の後期拡散の流れにより日本列島にまで到達しており、その最初期の足跡が香坂山遺跡に表れている可能性を指摘できます。しかし、その証明には、大型石刃や尖頭器や小石刃など、両者に共通する石器の詳細な技術上の比較検討が必要です。


●八風山で日本列島最初期の石刃石器群が見つかる理由

 ユーラシアIUP石器群の系譜が、なぜ八風山という日本列島中央部の山中に孤立的に残されたのか、との疑問が生じます。しかし、これについては、ユーラシア中央部におけるIUP期の遺跡立地を参照すると、それほど特異にも見えません。ユーラシア中央部のIUP期遺跡群は、フリント(燧石)や黒曜石と比較するとやや粗粒な石質である堆積岩や火成岩が、大型角礫の形状で産出する石材産地の近傍に立地します。またIUP期遺跡群は、標高1000~1300m程度の比較的標高の高い山中に遺跡が立地する傾向があります。

 この立地傾向は、香坂山遺跡にもそのまま当てはまります。ユーラシアIUP石器群の遺跡が共通してこのような立地となる背景については、現在のところ以下の3点が想定されます。第一に、やや粗粒の大型角礫は、その石材利用可能性として、おそらく大型石刃の生産に適していました。第二に、大型石刃生産技術に平面剥離型が採用されているため、中部旧石器的な石器製作システムが残存していました。このため、石材の運用が中部旧石器時代と大きく異なるものではなかった可能性もあり、結果として石材産地近傍に拠点を置いて継続的に入手する必要がありました。第三に、標高の高さは狩猟対象獣などの生業資源との関りによるものと推定されます。

 恐らくユーラシアIUP石器群の荷担者たちは、これらの条件が満たされる資源環境に限定的に適応して遺跡を残していたため、面的な遺跡分布は形成せず、特定地域に偏在しながら広域に展開していった、と推定されます。そのため、仮に朝鮮半島から日本列島にこの系譜が流入したとしても、九州や近畿地方にこれらの遺跡が見つからず、突如として八風山に出現したように見える理由も理解できます。そもそもユーラシアIUP石器群は、活動地点を面的に展開することができず、資源環境が同一条件に整う特定地域に偏在して展開し、それを求めて拡散しており、日本列島においては八風山がその条件を満たしていた、というわけです。逆に言えば、八風山に限らず、上記の条件を満たす地域があれば、同様の石器群が残されている可能性もあるでしょう。


●まとめ

 日本列島における石刃石器群の起源という日本旧石器研究の長年の課題に対して、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島に流入した可能性を、香坂山遺跡の石器群に見出せました。この仮説の背景には、ユーラシア北回り経路で拡散した現生人類の後期拡散があり、そのアジア東部における終着点として、日本列島が位置づけられることになります。日本列島の後期旧石器文化はその開始期から、ユーラシア旧石器文化の活力に組み込まれていた、とも言えそうです。日本列島を含むアジア東部におけるユーラシアIUP石器群の事例は、今後少しずつ増加していくことが予測され、それらにより本論文の仮説が検証され、より具体的な歴史像へと発展することが望まれます。


参考文献:
国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響に関する研究(Niknamian et al., 2021)が公表されました。昨年(2020年)から今年にかけての新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の世界的大流行は、かなりの感染率と死亡率をもたらし、現在も多くの犠牲者を出しつつあります。SARS-CoV-2により起きる症状は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれ、無症状もしくは軽症から呼吸不全への急速な進行まで、症状が大きく異なります。

 SARS-CoV-2は、哺乳類や鳥類で病気を引き起こすウイルスの一種です。ヒトの場合、コロナウイルスの始まりでは、風邪の一部の症例など、通常は軽度の気道感染症が起きます。SARSや MERSやCOVID-19など、より稀な形態では致命的になる可能性があります。症状は他の種では異なります。ニワトリでは上気道疾患が、ウシやブタでは下痢が起きます。コロナウイルスはオルトコロナウイルス亜科で構成され、そのゲノム規模は約27000~34000塩基対で、既知のRNAウイルスでは最大です。

 COVID-19は最近ますます深刻化し、呼吸器や肝臓や腎臓や心臓などが標的さなっています。SARS-CoV-2は一本鎖プラスRNAウイルスで、mRNAに類似しているため、宿主細胞によって即座に翻訳されます。RNAウイルスにおける組換えは、ゲノム損傷に対処するための適応のようです。組換えは、同じ種ではあるものの系統が異なる動物ウイルス間で稀にしか発生しないかもしれません。結果として生じる組換えウイルスは、時にヒトにおいて感染症の発生を引き起こすかもしれません。RNAウイルスは変異率がひじょうに高く、そのためRNAウイルスによる病気を予防するための効果的なワクチンを作ることが困難です。こうして生まれた組換えウイルスが、ヒトに感染症を引き起こしました。

 1990年代後半以降、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のDNA研究が可能になり、2010年代に大きく進展しました。ネアンデルタール人系統と現生人類(Homo sapiens)系統の推定分岐年代に関しては、75万年前頃から40万年前頃まで大きな幅があります(関連記事)。昨年、COVID-19の重症化をもたらす3番染色体上の遺伝子が、ネアンデルタール人に由来する、との研究が公表されました(関連記事)。その後、同じ研究者たちが、12番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプはCOVID-19の重症化危険性を低下させる、との研究を公表しました(関連記事)。

 今では、ネアンデルタール人と現生人類との混合は広く認められています(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムで、やや地域差はあれどもネアンデルタール人由来の領域の割合は類似している、と推定されており、当初は1~4%(関連記事)、後に1.5~2.1%(関連記事)と推定され、さらにその後で、非アフリカ系現代人の祖先集団と混合したネアンデルタール人とより近いと推測される、クロアチアで発見されたネアンデルタール人の高品質なゲノムデータでは、1.8~2.6%と推定され、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方がその割合は高い、と示されています(関連記事)。

 ただ、当初、サハラ砂漠以南の現代アフリカ人のゲノムにはネアンデルタール人由来の領域はほとんどない、と推定されていましたが、昨年公表された研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人のゲノムにも、現代ヨーロッパ人やアジア人の1/3程度の割合でネアンデルタール人由来の領域がある、と推定されています(関連記事)。同時に、現代ヨーロッパ人やアジア人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は1.6~1.8%と推定され、以前の推定よりもヨーロッパ系現代人とアジア東部系現代人の差が小さくなっており、合計でネアンデルタール人のゲノムの約40%が現代人に継承されている、と指摘されています。

 皮膚や髪や爪のタンパク質成分であるケラチンの生成に関わる現代人の遺伝子は、とくにネアンデルタール人からの遺伝子移入の水準が高い、と推測されています。たとえば、アジア東部系現代人の約66%は、ネアンデルタール人から遺伝子移入されたPOUF23L多様体を、ヨーロッパ系現代人の70%はネアンデルタール人から遺伝子移入されたBNC2アレル(対立遺伝子)を有します。また、脂質異化作用過程に関わる遺伝子でも、ヨーロッパ系現代人ではネアンデルタール人由来の多様体の頻度がアジア東部系現代人よりもずっと高い、と指摘されています(関連記事)。これに関しては、非アフリカ系現代人の祖先が各地域集団に分岐した後の選択の可能性も指摘されています。

 ネアンデルタール人由来の遺伝的多様体には、上述のCOVID-19重症化をもたらすものなど、生存の危険性を高めるものもあります(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類との混合については、上述の非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人からの遺伝的影響の地域差と関連して、非アフリカ系現代人全員の共通祖先とネアンデルタール人との混合以外に、非アフリカ系現代人が各地域集団系統に分岐した後に、各系統とネアンデルタール人との間で複数回起きた可能性も指摘されています(関連記事)。また、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やホモ・エレクトス(Homo erectus)も含めて、ホモ属における複雑な遺伝子流動の可能性も指摘されています(関連記事)。

 上述のCOVID-19重症化をもたらすネアンデルタール人由来の遺伝的多様体の研究でも地域差が見られ、ネアンデルタール人由来と推測されるCOVID-19を重症化させるリスクハプロタイプの頻度は、アジア南部で30%、ヨーロッパで8%、アジア東部ではほぼ0%に近い、と示されています。最も頻度が高い国はバングラデシュで、63%の人々がネアンデルタール人のリスクハプロタイプを少なくとも1コピー有しており、13%の人々がこのハプロタイプをホモ接合型で有しています。

 本論文は、COVID-19重症化をもたらすネアンデルタール人由来の遺伝的要因として、ジペプチジルペプチダーゼ4(DPP4)と呼ばれる酵素に注目しています。DPP4は、中東呼吸器症候群(MERS)の原因となる別のコロナウイルスがヒト細胞に結合して侵入することを可能にする、と知られています。COVID-19患者のDPP4遺伝子多様体の新たな分析から、DPP4も、細胞表面のアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)受容体を経由する通常の感染経路に加えて、SARS-CoV-2にヒト細胞への第二の扉を有する、と示唆されています。

 2番染色体上のDPP4関連遺伝子は、ネアンデルタール人と現生人類とで微妙に異なる、と示されています。ネアンデルタール人型のDPP4関連遺伝子は、深刻なCOVID-19患者7885人のゲノムに、対照群よりも高頻度で見られます。SARS-CoV-2感染時のCOVID-19重症化の危険性は、DPP4関連遺伝子のネアンデルタール人型の多様体が、1コピーある場合は2倍に、2コピーある場合は4倍になります。ユーラシア現代人の1~4%は、DPP4関連遺伝子のネアンデルタール人型の多様体を受け継いでいる、と推定されています。アメリカ大陸先住民では、この割合はユーラシア現代人よりも低くなっています。

 また、ネアンデルタール人由来と推定される遺伝子領域に関して、ヨーロッパ系現代人とアジア東部系現代人との比較では、DNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域では大きな違いがないものの、コロナウイルスなどRNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域ではヨーロッパ系の方がずっとネアンデルタール人の影響が大きい、と明らかになっています(関連記事)。COVID-19による被害に関しては、もちろん生活習慣や自然および社会環境の影響を重視すべきでしょうが、地域間の遺伝的違いも無視できず、それにはネアンデルタール人由来の遺伝子も関わっている、と考えるべきなのでしょう。


参考文献:
Niknamian S.(2021): The Negative Impact of The Hominin’s Dpp4 Gene Inherited from Neanderthals To Pandemic of Covid-19. Clinical Case Reports and Clinical Study, 3, 1, 101.
https://doi.org/03.2021/1.1032.

大河ドラマ『青天を衝け』第9回「栄一と桜田門外の変」

 今回は安政の大獄の影響を中心とした話となりました。栄一は江戸から一時的に戻った長七郎から政治情勢を聞き、感化されていきます。当時、このように留学や公務などで江戸に行き地方に戻った人々が地元の人々に思想的影響を及ぼしていき、そうした構造はすでに幕末動乱以前にかなりの程度築かれていたのでしょう。まだ栄一の農村部の話と「中央政界」の話とが直接的には接続していませんが、幕末の歴史ドラマとしてなかなか上手い構成になっているように思います。栄一が江戸留学で喜作に先を越されて焦っているところは、青春群像劇的性格が強く出ていて、ドラマとしてなかなか面白くなっています。

 井伊直弼は、安政の大獄を中心とした話だったのに、予想していたよりも出番が少なかったのですが、将軍の家茂とのやり取りや桜田門外の変では見せ場がありました。まあ、井伊直弼は知名度の高い人物ですが、本作では主人公と直接的に関わるわけではないので、桜田門外の変の描写がやや長めだったことからも、優遇されて出番は多かったと言うべきでしょうか。本作の井伊直弼は、自信がなく頼りなさを自他ともに認めており、これまでの大河ドラマで多かったように思われる、大物感溢れる人物像とはかなり異なっていました。この新たな井伊直弼像は、今後の幕末時代劇に影響を与えるかもしれません。井伊直弼とともに徳川斉昭も今回で退場となります。史実に近いのでしょうが、本作の徳川斉昭もこれまでの大河ドラマのように奇矯な人物として描かれており、強い印象を残しただけに、寂しいものです。

九州の縄文時代早期人類のDNA解析

 九州の縄文時代早期人類のDNA解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本列島の現代の人口集団の遺伝的構造は、移住のいくつかの層とその後の混合の結果です(関連記事)。縄文時代は16000~2800年前頃まで続き(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)、「縄文人(縄文文化関連個体)」は日本列島先史時代の先住民でした。「縄文人」に関しては、考古学や人類学や遺伝学で長い研究蓄積があります。

 古代DNA研究は過去の人々の直接的な遺伝的証拠を提供し、近年著しく発展しています。しかし、縄文時代の人口集団間の遺伝的関係に関しては、これまでほとんど、核DNAよりも解析がずっと容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究に基づいていました。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、mtDNAだけで人口集団の遺伝的特徴を明らかにすることには限界があり、近年の古代DNA研究では核ゲノムデータの分析が主流になっています。

 近年では、縄文人の核ゲノムデータも少ないながら提示されており、それは、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前となる男性と女性の2個体(関連記事)、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる男性と女性の2個体(関連記事)、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の2500年前頃となる女性1個体(関連記事)、千葉市の六通貝塚の紀元前2500~紀元前800年頃となる6個体(関連記事)です。

 しかし、縄文時代は南北に長い日本列島で1万年以上前続き、これまでの核ゲノムデータは東日本の縄文時代中期末以降の標本に限定されていました。したがって、縄文人の遺伝的特徴は、少数の標本だけでは完全には表されない、と予想されます。じっさい、mtDNAを用いた以前の研究では、縄文人の地域差が示唆されていました。縄文人の遺伝的特徴を充分に解明するには、縄文時代の広範な地域と年代を網羅したゲノムデータの蓄積が必要です。


●東名貝塚遺跡

 本論文は、佐賀市の東名貝塚遺跡で出土した縄文人のDNA解析結果を報告しています。東名遺跡は有明海の海岸線から約12km離れた、佐賀平野中央部に位置します(図1)。以下、本論文の図1です。
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 東名遺跡は1990年に発見され、1993~1996年に最初の本格的な発掘調査が行なわれ、2003年の工事中に貝塚が偶然発見され、2004~2007年にかけて2回目の発掘調査が行なわれました。東名遺跡は厚さ5m以上の堆積物で覆われており、有機物が保存されていました。東名遺跡は攪乱されることなく保存されていたので、縄文人の生活に関する追加情報を推測できます。放射性炭素年代は、7980~7460年前頃で、縄文時代早期に相当します。東名遺跡は日本列島で最古かつ最大の湿地帯貝塚で、発掘された人類遺骸は、九州の縄文時代では最古となります。

 本論文は、東名遺跡個体の完全なミトコンドリアゲノムと部分的な核ゲノムを報告します。これは、九州の縄文人の遺伝的特徴および縄文時代早期の最初のゲノムに関する初めての報告です。これらの調査結果は、縄文人の地域差と経時的変化の理解のための重要なデータを提供します。東名遺跡では、人類遺骸8個体と、貝塚などで69個の散在する人類遺骸が発見されました。東名遺跡の人類遺骸の保存状態は一般的に悪く、本論文では、2004年の調査で発見され、標本012と命名された保存状態の良好な遊離した右下第一大臼歯がDNA解析に用いられました。標本012は遊離していたので、どの人類遺骸のものなのか、特定できませんでした。標本012の遺伝的データは、他の縄文人(六通貝塚の個体群は対象とされていません)も含めての古代人や現代人と比較されました。


●DNA分析

 標本012のミトコンドリアゲノムの深度は約47倍で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1aでした。標本012のmtHgは、系統的にM7a1aの基底部に位置します。これは、標本012の年代が縄文時代早期と推定されていることと一致します。これまでに分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。東名遺跡の標本012もmtHg-M7a1aだったことから、縄文時代の九州ではmtHg-M7a1aが優勢だった、と示されます。これは、mtHg-N9bが優勢だった東日本とは対照的です。

 標本012の核ゲノムの深度は0.086倍でした。Y染色体とX染色体の読み取りの比率から、標本012は男性と推測されました。標本012のY染色体ハプログループ(YHg)はD1bに分類されましたが、データ不足のためさらなる細分化はできませんでした。標本012では、YHg-D1bを定義する6ヶ所の一塩基多型の変異が確認されましたが、それらがどの変異に基づくのか、補足データでも見つけられませんでした。したがって、断定できませんが、現在の分類ではYHg-D1bはD1a2aになると思います。以下、()内で現在の分類を示します。標本012の2ヶ所の一塩基多型では、YHg-D1b2(D1a2a2)を定義する変異が見つからなかったので、千葉市の六通貝塚の縄文人3個体で確認されているYHg-D1b1(D1a2a1)に分類できるかもしれせん。

 東名遺跡の標本012と遺伝的に近い現代および古代の人口集団が調べられました。主成分分析では、標本012は他の縄文人とクラスタ化し(図4)、本論文で分析対象とされた縄文人全個体が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 外群f3統計では、他の縄文人が遺伝的に標本012と最も近く、それに続くのが、日本人、ウリチ人(Ulchi)、朝鮮人、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)といった台湾先住民、カンカナイ人(Kankanaey)やイロカノ人(Ilocano)といったフィリピン人など、沿岸部および海洋地域のアジア東部人です。f4の結果からも、標本012が漢人よりも日本人やウリチ人や朝鮮人とより多くのアレル(対立遺伝子)を有意に共有する、と明らかになりました。これらの識別特性は、船泊遺跡の縄文人であるF23個体のそれと類似しています。そこで、縄文人の間の共通する特徴が平等に共有されているのか、調べられました。その結果、本論文で分析された検証対象の人口集団のどれも有意なf4値を示さず、これは縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012の全員が、検証対象の人口集団から等しく離れていることを意味します。

 次に、縄文時代人口集団の遺伝的構造が調べられました。f4統計では、どの組み合わせでも有意なf4値は示されませんでした。これは、地理的もしくは時間的に近い縄文人の間での有意な特定の類似性がなかったことを意味します。最尤系統樹でも、縄文人3個体はクラスタ化し、全ての現代ユーラシア東部人およびアメリカ大陸先住民の外群に属する、と明らかになりました。縄文人3個体のうち、標本012の位置づけは60万ヶ所の一塩基多型データと全ゲノム配列データでは不安定で、前者では標本012がF23とIK002の外群に(図5)、後者ではIK002がF23と標本012の外群に位置します(補足図2)。この不一致は、低網羅率のゲノムデータに起因する可能性があります。

 最後に、現代人口集団における縄文人のDNAの割合が推定されました。60万ヶ所の一塩基多型データに基づく系統樹で3回の遺伝子流動事象を想定すると、東名遺跡標本012から日本人およびウリチ人への遺伝子流動が検出されました。全ゲノム配列データを用いた場合、遺伝子流動事象は厳密には推定されませんでした。朝鮮人を人口集団Bとして用いた場合(人口集団Bはf3統計の結果に基づいて選択されました)、f4比検定では日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は9.7%で、これはTreeMix分析の結果に近いものでした。縄文人祖先系統は朝鮮人とウリチ人でそれぞれ5%と6~8%でした。もちろん、これはあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化にすぎず、朝鮮半島に縄文人が拡散して(少なくとも一時的に)遺伝的影響を残した可能性は高そうですが(関連記事)、現代朝鮮人やウリチ人の祖先に縄文人が直接的に遺伝的影響を残したとは限らず、近い世代で共通祖先を有するなど、縄文人と遺伝的に密接に関連する集団が現代朝鮮人やウリチ人の祖先にいることを示している、とも解釈できるでしょう。以下、本論文の図5と補足図2です。
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●考察

 本論文の結果は、縄文人が主成分分析と系統樹で相互にクラスタを形成する、と示唆します。この知見は、縄文文化関連の人々が共通祖先集団に遺伝的に由来する可能性を示唆します。この仮説は、船泊遺跡縄文人で見つかったYHg-D1b(D1a2a)が、東名遺跡標本012でも検出された事実により裏づけられます。なお、船泊遺跡縄文人のYHgはD1b2b(D1a2a2b)とさらに細分化されており、標本012は、上述のようにYHg-D1b1(D1a2a1)の可能性があります。

 これまでに分析された縄文人標本全てで観察されたYHgから判断すると、YHg-D1b(D1a2a)は縄文時代人口集団で一般的だった、と予測されます。興味深いことに、YHg-D1b(D1a2a)を含むYHg-Dは、現代ではおもに、アンダマン諸島やヒマラヤ地域や日本列島などアジアの海や山岳で隔てられた地域に残っています。これらの知見から、YHg-Dは元々広く分布しており、後に孤立した、と示唆されます。海に隔てられた日本列島の地理的環境は、旧石器時代に流入してきた人々とアジア東部大陸部人口集団との間の相互作用を妨げ、その結果として縄文人固有の遺伝的特徴が形成されたかもしれせん。

 縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012では、f4検定と系統樹の結果は、起源の大きな地理的および年代的違いを反映していませんでした。縄文人は共通祖先の子孫ですが、その形成過程はまだ不明です。しかし、その起源は、縄文人のmtHgの分布と23000~22000年前頃となるその分岐年代、および核ゲノム分析における系統発生的な基底部の位置に基づくと、旧石器時代にまでさかのぼります。

 f4検定と系統樹の結果から、祖先的人口集団は系統発生的に3分枝の多分岐だった、と示唆されました。この知見から、縄文人および/もしくはその祖先的集団の分化と拡散は急速だったかもしれず、この分化と拡散の後において、地域的な相互作用は限定的だったか、ほとんどなかった、と示唆されます。さらに、縄文時代には遺伝的構成を顕著に変化させた移住はなく、遺伝的分化は縄文時代を通じて地域化の進展により促進されたかもしれせん。

 現代日本人における、縄文人の代表的なmtHgであるM7aとN9bの割合に基づくと、現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西部縄文人だった可能性があります。しかし、核ゲノム分析は、東名遺跡の西部縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しません。ただ、東名遺跡の標本012では核ゲノムの6.9%しか読めなかったので、結果が不明瞭になっているかもしれせん。船泊遺跡縄文人の研究では、現代日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は10%程度と推定されており、本論文の分析では、縄文人の地域差を明らかにできませんでしたが、古代DNAは縄文人の人口史に独自の洞察を提供する、と明らかになりました。

 本論文の分析結果は、縄文時代早期から後期まで、遺伝的に類似した人口集団間の遺伝子流動が最小限だった、と示唆します。日本列島における孤立と移住と遺伝的浮動の歴史は、縄文人独自の遺伝的特徴を生み出しました。独自の分化を形成した縄文人の間の相互作用へのより高い解像度と追加の洞察を提供するには、広範な地域と年代にまたがる多くの縄文時代人口集団の高品質なゲノムデータの蓄積と、それらできるだけ高い精度のデータを比較対照する必要があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、これまで核ゲノムデータが報告されていなかった年代(縄文時代早期)と地域(西日本)の縄文人の核ゲノムデータの分析結果を提示しており、たいへん注目されます。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されており(関連記事)、他の現代人および古代人との比較で、地理的には北海道から九州まで、年代的には早期から晩期までの縄文人が遺伝的にクラスタ化することは、意外ではありませんでした。

 しかし、縄文人で現代日本人に遺伝的影響を残したのはおもに西日本集団だった、と推測されていたたけに、九州の縄文時代早期の個体(佐賀市東名遺跡の標本012)でさえ、北海道の後期の個体(船泊遺跡のF23)との比較で、現代日本人との遺伝的違いに差が確認できなかったことは、かなり意外でした。本論文の結果から、縄文人が私の想定以上に時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質だった可能性も考えられます。

 ただ、東名遺跡の標本012は、系統樹における位置づけが不安定であることにも示されるように、ゲノムデータの網羅率が低いので、東名遺跡個体群で高品質なゲノムデータが得られれば、また違った結果が示される可能性もあるように思います。また、7300年前頃の鬼界カルデラの大噴火で東名遺跡個体群も含めて九州の縄文人集団は大打撃を受けた可能性があるので、その後で九州も含めて西日本に定着した縄文人集団は、東名遺跡の標本012とも東日本の縄文人ともやや遺伝的に異なっており、現代日本人と遺伝的により近い可能性も考えられます。

 いずれにしても、縄文人の起源も含めて縄文時代の人口史のより詳細な解明には、本論文が指摘するように、時空間的により広範囲の縄文人のゲノムデータが必要になるでしょう。最近、アジア東部の古代DNA研究が大きく進展しており、現時点では、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系統が沿岸部系統と内陸部系統に分岐し、両者の混合により縄文人が形成された、というモデルが、YHg-D1の分布を上手く説明できることからも、縄文人の起源に関して最も説得的だと思います(関連記事)。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

ヨーロッパ最古級となるチェコの現生人類遺骸のゲノム解析

 ヨーロッパ最古級となるチェコで発見された現生人類(Homo sapiens)遺骸のゲノム解析結果を報告した研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。以下、放射性炭素年代測定法の最新の較正曲線(IntCal20)に基づいている年代(関連記事)は、その後に(IntCal20)と示します。

 4万年前頃前後以前のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムは、最近まで3個体分しか得られていませんでした。第一に、完全なゲノムデータが得られた、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(IntCal20)となる男性の左大腿骨は、後のユーラシア人との遺伝的連続性を示しません(関連記事)。第二の個体は北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性個体で、ウスチイシム個体と対照的に、そのゲノムは、現代ヨーロッパ人よりも現代アジア東部人やアメリカ大陸先住民の方と密接に関連しています(関連記事)。第三に、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃(IntCal20)の現生人類標本「Oase 1」からは、部分的なゲノムデータが得られており、後のヨーロッパ人と共有される祖先系統の証拠を示しません(関連記事 )。しかし、Oase 1はこれまでにゲノム解析された他の現生人類よりも多くのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)祖先系統を有しており(6~9%)、これは6世代以内にネアンデルタール人の祖先がいたことに起因します。


●ズラティクン

 本論文は、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群(図1)で1950年に他の骨格要素とともに発見されたほぼ完全な人類頭蓋のゲノム配列を報告します。全ての骨格要素は、洞窟群の頂上の丘にちなんで、ズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体に由来する、と明らかになりました。ズラティクンとは、黄金の馬(アハルテケ)という意味です。考古学的調査では、洞窟の石器と骨器は早期上部旧石器時代のものとされます。しかし、ズラティクンと関連する人工物は、特定の文化的技術複合に確定的に分類できませんでした。以下、本論文の図1です。
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 ズラティクンは当初、形態学的および層序学的情報と関連する動物相遺骸の種類に基づいて、少なくとも3万年前頃と考えられていました。さらに、前頭骨の左側の損傷は、ヨーロッパ中央部では24000年前頃に絶滅したハイエナにより噛まれた痕跡と解釈されました。直接的な放射性炭素年代測定結果は、15000年前頃と当初の推定よりずっと新しく、ズラティクンの仮想再構築を含む最近の頭蓋測定分析は、ズラティクンが最終氷期前の個体だったことを裏づけます。

 ズラティクンの頭蓋断片に改めて放射性炭素年代測定法が適用され、非較正年代で23080±80年前(較正年代で27000年前頃)と、以前の測定よりかなり古い値が得られました。前処理と限外濾過を用いた測定では、非較正年代で15537±65年前(較正年代で19000年前頃)と、より新しい値が得られました。これら3点の直接的なズラティクンの放射性炭素年代測定結果の大きな不一致は、ズラティクン標本がひじょうに汚染されており、放射性炭素年代が信頼できない可能性を示唆します。そこで、残ったコラーゲンからヒドロキシプロリンを抽出して骨からの化合物特異的断片の年代測定が試みられ、非較正年代で29650±650年前(較正年代で34000年前頃)との結果が得られました。しかし、これも汚染物質により実際よりも新しい年代値となっている可能性が高そうです。

 ズラティクンの側頭骨錐体部(DNAの保存状態が良好な部位とされます)からDNAが抽出されました。ズラティクンのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はNで(図2a)、ヨーロッパで最古級となるブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の44640~42700年前頃(IntCal20)の個体群のうち2個体(BB7-240とCC7-335)と類似しています(関連記事)。ベイジアン年代測定では、ズラティクンの年代は95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)で52600~31500年前頃(43000年前頃)と示唆されます。核DNAでは、124万ヶ所の一塩基多型を標的とし、合計で678000ヶ所の一塩基多型で少なくとも1回網羅されました。X染色体と常染色体の網羅率は同様の範囲を示し、形態に基づく性別判断と一致して女性と決定されます。


●ズラティクンと他の現生人類との遺伝的関係

 ズラティクンと現代および古代の個体群との関係を調べるため、アレル(対立遺伝子)共有に基づいて、要約統計量が計算されました。まずアフリカのムブティ人を外群として用いて、ヨーロッパおよびアジアの現代人とズラティクンとが比較され、ズラティクンはヨーロッパ人よりもアジア人とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。ズラティクンとアジア人とのより密接な遺伝的関係は、ヨーロッパ現代人と比較しての、ヨーロッパの上部旧石器時代の他個体および中石器時代狩猟採集民でも観察され、ヨーロッパ現代人における「基底部ユーラシア人」祖先系統により説明できます。基底部ユーラシア人とは、出アフリカ現生人類系統ではあるものの、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とは早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けなかった、と仮定されている集団(ゴースト集団)で(関連記事)、ヨーロッパ現代人において、ズラティクンとヨーロッパの上部旧石器時代および中石器時代と狩猟採集民との間で共有されていたアレルを「希釈」した可能性があります。

 基底部ユーラシア人祖先系統は、一般的にヨーロッパの狩猟採集民では確認されていませんが、コーカサスやレヴァントやアナトリア半島の古代狩猟採集民で見られます(関連記事)。古代および現代アジア人に対して、基底部ユーラシア人祖先系統を有さないヨーロッパの狩猟採集民を検証すると、これらの比較のいずれも、ズラティクンがどの集団ともより密接な関係を示唆しない、と明らかになりました。これは、ズラティクンがヨーロッパとアジアの人口集団の分岐前の基底部に位置することを示唆します。

 これまで、ズラティクンのようにヨーロッパ人とアジア人の分岐の基底部に位置するように見えるゲノム解析された古代人は2個体だけで、それは上述のウスチイシム個体とOase 1です。ズラティクンがウスチイシム個体と同じ人口集団に由来するのかどうか検証するため、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)や、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された、38000年前頃の若い男性1個体(関連記事)など、他の古代ユーラシア狩猟採集民と比較して、ウスチイシム個体とのより密接な関係が検証されました。

 その結果、興味深いことに、ウスチイシム個体はズラティクンよりも後のユーラシア個体群とより多くの祖先系統を共有している、と明らかになりました(図2b)。これは、ズラティクンが、後にウスチイシムや他のユーラシア人口集団の起源となった人口集団から、より早期に分岐した人口集団の一部だったことを示唆します(図2c)。Oase 1のデータは限定的なので、ズラティクンとOase 1の人口集団が同じなのか、それとも異なるのか、明確にはできません。以下、本論文の図2です。
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●ネアンデルタール人との混合

 Oase 1のゲノムの約6~9%はネアンデルタール人に由来しますが、現代および古代のユーラシア人では1~3%程度です(関連記事)。ズラティクンにもネアンデルタール人からのより高い遺伝的寄与があるのかどうか検証するため、アフリカ人に対してネアンデルタール人と共有されるアレルの過剰としてネアンデルタール人祖先系統が計算され、アフリカ人に対してネアンデルタール人2個体間で予測される共有によりこの量が正規化されました。その結果、ズラティクンはネアンデルタール人祖先系統を3.2%有すると推定されました。これは、ゲノム規模データを有する上部旧石器時代6個体と中石器時代1個体では最高となります。しかし、この差は、7つの比較のうち5つで、2つの標準誤差の水準で有意ではありませんでした(図3a)。

 ゲノムにおけるネアンデルタール人祖先系統の分布を調べるため、高網羅率のクロアチアのネアンデルタール人個体(関連記事)がアフリカ現代人と大型類人猿外群の99.9%以上で見られない多様体を有する、常染色体上の430075ヶ所がまず決定されました。ズラティクンのゲノムの166721ヶ所のうち、4480ヶ所(2.7%)でネアンデルタール人由来のアレルが見られました。ズラティクンのゲノムのネアンデルタール人由来の領域は、高頻度(50%)で発生する区間に集まり(図3b)、このクラスタ化を用いて、ネアンデルタール人祖先系統の可能性のある区間が、隠れマルコフモデルで分類されました。ネアンデルタール人区間の1つは1番染色体上の大きな領域に含まれ、ここでは現代人においてネアンデルタール人祖先系統の証拠をほとんど若しくは全く示しません。これは、ネアンデルタール人祖先系統のこの「砂漠」が、ズラティクンの時代には完全に形成されていなかったことを示唆します。

 組換えは、長いネアンデルタール人区間を時間の経過に伴ってより短く断片化していきます。ズラティクンにおける祖先とネアンデルタール人との混合の年代へのさらなる洞察を得るため、アフリカ系アメリカ人もしくはdeCODE社のデータを用いて、ネアンデルタール人区間の長さが調整され、ズラティクンにおける長さが上位100番までの区間の遺伝的長さが、他の早期ユーラシア狩猟採集民と比較されました。その結果、ズラティクンは平均して他のユーラシア狩猟採集民全員よりも長いネアンデルタール人区間を有する、と明らかになりました(図3c)。

 組換えによりネアンデルタール人祖先系統が世代ごとにより短い区間に断片化されていくと仮定すると、ズラティクンではその70~80世代前の祖先でネアンデルタール人との最後の混合が起きた、と推定されます。対照的に、最近までゲノムデータが得られている最古の現生人類だったウスチイシム個体は、94もしくは99世代前にネアンデルタール人との混合が起きた、と推定されます。低網羅率のゲノムデータでの混合を推定できるソフトウェアのadmixfrog(関連記事)を用いると、一致する結果が得られました。以下、本論文の図3です。
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 ネアンデルタール人祖先系統区間の呼び出しとは無関係に混合年代を推定するため、遺伝的距離の増加につれてネアンデルタール人の情報源の状態が相関することに基づく、以前に公表された手法が適用されました。この手法では、ズラティクンでは63世代前、ウスチイシム個体では84世代前にネアンデルタール人との混合が起きた、と推定されました。

 現代人および古代人におけるネアンデルタール人祖先系統のほとんどは、おそらくはネアンデルタール人の1集団との共通の混合事象に由来します。そのネアンデルタール人集団は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)よりも、ヨーロッパのネアンデルタール人(関連記事)の方と密接に関連しています。ズラティクンにおけるネアンデルタール人祖先系統が同じ関係を示すのかどうか検証するため、D統計が用いられ、高網羅率のゲノムデータが得られている、ヨーロッパのネアンデルタール人1個体とアルタイ山脈のネアンデルタール人1個体に加えて、既知の低網羅率のゲノムデータの後期ネアンデルタール人5個体(関連記事)との、アレルの共有が比較されました。その結果、ズラティクンは後期ネアンデルタール人とのアレル共有において、ウスチイシム個体と比較して有意な違いはないと示し、ズラティクンとウスチイシム個体におけるネアンデルタール人祖先系統の類似した割合と一致します。

 共通するネアンデルタール人との混合事象を想定すると、これらの結果から、ズラティクンは44380年前頃(IntCal20)のウスチイシム個体とほぼ同年代か、最大で数百年前の個体と示唆されます。しかし、以前に提案されたように、最初の共通のネアンデルタール人との混合の後に第二のネアンデルタール人との混合事象がウスチイシム個体に影響を与えた場合、ズラティクンはウスチイシム個体よりも数千年前の個体だった可能性があります。ズラティクンのゲノムデータでは、第二ネアンデルタール人との混合事象の裏づけは見つかりませんでした。


●まとめ

 4万年前頃前後以前のユーラシアの現生人類の遺伝的識別はほとんど知られていないままです。本論文では、チェコで発見されたヨーロッパの初期現生人類個体であるズラティクンが、現代のヨーロッパ人とアジア人が分岐する前に形成された人口集団の一部だった、と判断されました。大部分が保存された頭蓋を有するヨーロッパ最古の現生人類個体であるズラティクンの年代は、本論文では45000年以上前と推定されました。

 ウスチイシム個体およびOase 1と同様に、ズラティクンは4万年前頃以後の現生人類との遺伝的連続性を示しません。この不連続性は、39000年前頃のカンパニアン期のイグニンブライトの噴火と関連している可能性があります。この噴火は北半球の気候に深刻な影響を及ぼし、ユーラシア西部の大半のネアンデルタール人と初期現生人類の生存率を低下させたかもしれません。ただ、この噴火による影響にも初期現生人類は適応できた、との見解も提示されています(関連記事)。

 Oase 1やバチョキロ洞窟の個体群など、ネアンデルタール人との置換事象の前に存在したヨーロッパの現生人類が同じ人口集団に属していたのかどうか、これら旧石器時代個体群のさらなるゲノム規模データによってのみ解決できます。最近のバチョキロ洞窟個体群のゲノム解析からは、バチョキロ洞窟個体群とズラティクンとは大きく異なる人口集団に分類できそうです(関連記事)。したがって、ヨーロッパの初期現生人類の将来の遺伝的研究は、アフリカからユーラシアに拡大した後、非アフリカ系現代人の各地域集団に分岐して拡散する前の初期現生人類の歴史の復元に役立つでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。チェコで発見された現生人類遺骸であるズラティクンの年代は、直接的な測定ではなく遺伝的データに基づいているので、確定的とは言えませんが、45000年以上前である可能性が高そうです。この年代は、ブルガリアのバチョキロ洞窟個体群と近いものの、上述のように両者の遺伝的構成は大きく異なっており、ズラティクンは、ウスチイシム個体の人口集団よりもさらに前に非アフリカ系現代人系統と分岐した、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない人口集団に属するのに対して、上限では44640年前頃(IntCal20)までさかのぼるバチョキロ洞窟の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)個体群は、ユーラシア西部現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に密接に関連しています。

 ズラティクンもウスチイシム個体も、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない人口集団に属する点では同じですが、両者は異なっており、出アフリカ初期現生人類集団の中には、現代人にほとんど遺伝的影響を残していない集団も珍しくなかったというか、むしろ現代人の主要な直接的祖先となった集団はごく一部だった、と考えるべきなのかもしれません。また、ズラティクンには、非アフリカ系現代人全員の共通祖先の時点でのネアンデルタール人との交雑以外に、ネアンデルタール人との混合の痕跡は見つかりませんでしたが、近い年代のバチョキロ洞窟IUP個体群では、6世代前未満のネアンデルタール人との混合が推定されています。

 ヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人と現生人類とが遭遇した場合は、混合が珍しくなかったかもしれませんが、現生人類がヨーロッパに拡散した頃に、ネアンデルタール人が衰退過程にあったならば、両者の遭遇機会はさほど多くなく、それがズラティクンとバチョキロ洞窟IUP個体群との違いの要因かもしれせん。48000年前頃のハインリッヒイベント(HE)5における寒冷化・乾燥化によりネアンデルタール人は減少した、との見解も提示されています(関連記事)。初期現生人類のゲノム規模データはまだ少ないものの、バチョキロ洞窟IUP個体群など蓄積されつつあり、現生人類拡散の経路や年代の解明も進んでいくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:ヨーロッパで最古の現生人類に関する解明が進んだ

 約4万5000年前のものとされるヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石のゲノム解析が行われ、ヨーロッパにおける初期人類の移動に関する新たな知見が得られたことを報告する2編の論文が、それぞれNature とNature Ecology & Evolution に掲載される。これら2つの研究は、ヨーロッパにおける初期現生人類集団の複雑で多様な歴史を描き出している。

 ヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石は、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発見され、放射性炭素年代測定法によって4万5930~4万2580年前のものと決定された。この最古の現生人類集団が、約4万年前まで生存していたネアンデルタール人とどの程度交流していたのかは解明されておらず、その後の人類集団にどのように寄与したのかについても、ほとんど分かっていない。

 Nature に掲載される論文では、Mateja Hajdinjakたちが、バチョキロ洞窟で採集された人類標本の核ゲノム塩基配列の解析が行われて、これらの人類個体の祖先についてと、これらの個体と現代人の関係についての手掛かりが得られたことを報告している。最古の3個体は、西ユーラシアの現代人集団よりも、東アジア、中央アジア、アメリカ大陸の現代人集団と共通の遺伝的変異の数が多かった。また、これら3個体のゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合は3~3.8%であり、これら3個体のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝物質の分布から、わずか6世代前かそれより近い世代の祖先がネアンデルタール人であったことが示された。これらのデータは、現生人類とネアンデルタール人の交雑が、これまで考えられていたよりも頻繁だった可能性のあることを示唆している。

 Nature Ecology & Evolution に掲載される論文では、Kay Prüferたちが、チェコのZlatý kůň遺跡から出土した4万5000年以上前のものと考えられる女性の現生人類の頭蓋骨化石のゲノム塩基配列解析結果を報告している。Prüferたちは、この人類個体が、ゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合が約3%で、その後のヨーロッパ人集団、アジア人集団のいずれにも遺伝的に寄与していないと思われる集団に属していたことを明らかにした。この頭蓋骨化石は、汚染のために放射性炭素年代測定には失敗したが、ネアンデルタール人に由来するゲノム中のDNA断片が、他の初期現生人類個体のゲノムのそれよりも長かったため、この個体は4万5000年以上前に生存しており、アフリカから各地に広がった後のユーラシアにおける最古の現生人類集団の1つに属していたことが示唆された。

 以上の知見を総合すると、ヨーロッパにおける人類集団の交代が連続的に起こったとする従来の学説が裏付けられる。



参考文献:
Prüfer K. et al.(2021): A genome sequence from a modern human skull over 45,000 years old from Zlatý kůň in Czechia. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01443-x

楊海英『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は地政学的観点から、モンゴルと中国との関係を検証していきます。本書は、アジア内陸部を含むユーラシア中央部が、人類史において大きな役割を果たしてきた、と指摘し、アジア内陸部でも農耕地帯と接する内モンゴル(モンゴル南部)の重要性を強調します。漢字文化圏の日本では伝統的に、漢字文献が豊富にある「中国」を重視し、アジア内陸部も含めてユーラシア中央部(内陸部)の歴史的役割が軽視され、さらには漢字文献に見えるアジア内陸部への偏見も多分に受け継がれてきたように思います。こうした状況は、日本の研究者の一連の一般向け書籍により変わってきつつあるように思いますが、まだアジア内陸部への過小評価や偏見には根強いものがあるように見えます。その意味で、本書の意義は小さくないでしょう。

 ユーラシアにおける影響力拡大を意図している中国にとって、内モンゴルはユーラシア内陸部への侵出の足掛かりとなる重要地域なので、その安定した統治が必要となります。内モンゴルの地政学的重要性を強調する本書は、内モンゴルが国際情勢に翻弄されたことを指摘します。内モンゴルの動向にとくに大きな影響を与えたのは、ダイチン・グルン(その後は中華民国)、ロシア(その後はソ連)、日本といった周辺大国でした。このうち、第二次世界大戦後に日本が敗戦により脱落し、中華民国から中華人民共和国(共産党政権)へと交代して、中国とソ連の狭間で内モンゴルは翻弄されます。

 モンゴルは冷戦期に、北部がソ連の事実上の衛星国家ながら一応は独立国家だったのに対して、南部は内モンゴルとして中華人民共和国の支配下に置かれました。同じ民族ながら北部とは異なる国家に支配されたモンゴル南部に対する中華人民共和国支配層の視線は、その民族主義的傾向や漢字文化圏における伝統的な遊牧世界への蔑視もあり、たいへん厳しいものでした。そこへ中ソ対立が激化していったので、内モンゴルに対する中国共産党政権の視線はさらに厳しくなりました。本書は、内モンゴルが中華人民共和国に支配されて以降、文革期を中心に過酷な弾圧があったことを指摘します。

 本書は、ダイチン・グルン期に始まった、漢人(中国人)による内モンゴルの破壊を批判します。それは自然環境の側面では、農耕に適さず、遊牧が行なわれてきた草原で漢人入植者が農耕を始めて、環境破壊が進んだことです。これは、遊牧が農耕よりも劣って遅れている、との漢人側の根強い偏見のためだった、と本書は指摘します。これと強く関連しているというか、同根の問題が、昨年(2020年)以降大きな問題となっているモンゴル語教育の減少など、モンゴル文化の抑圧です。これらの内モンゴル抑圧は中華人民共和国だけの問題ではなく、前近代の中華文化から継承されてきたモンゴル文化への偏見だった、というのが本書の見通しです。

 著者は内モンゴルで迫害されているモンゴル人なので、他の著書と同様に、本書も中華人民共和国(共産党政権)を厳しく糾弾する論調となっています。本書も誇張したり偏ったりしているところはあるかもしれませんが、内モンゴルを地政学的観点で位置づけ、内モンゴルを支配する中国や周辺諸国との関わりで解説する構成は興味深いものだと思います。その他に、私も小学生の頃に教科書で読んだ『スーホの白い馬』が、中国共産党政権の「階級闘争論」の影響を受けており、モンゴル人の視点からは、モンゴルの歴史を実態以上に貶めている問題のある内容になっている、とのオリエンタリズム批判の観点からの指摘も興味深いものです。

ヨーロッパ最古級となるバチョキロ洞窟の現生人類のゲノム解析

 ヨーロッパ最古級の現生人類(Homo sapiens)のゲノム解析結果を報告した研究(Hajdinjak et al., 2021)が公表されました。ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は47000年前頃に始まり(関連記事)、現生人類(Homo sapiens)の拡大、および4万年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の消滅(関連記事)と重なっています。ネアンデルタール人と現生人類のゲノム分析から、両人類集団間で6万~5万年前頃に遺伝子流動が起き(関連記事)、その場所はおそらくアジア南西部だった、と示されています。

 しかし、4万年前頃前後以上前のユーラシアの現生人類遺骸は不足しており、ゲノム規模データが利用可能なのは、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」(関連記事)と、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性の左大腿骨(関連記事)と、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性(関連記事)の3個体だけです(図1)。なお、これらの年代は放射性炭素年代測定法の最新の較正曲線(IntCal20)に基づいており(関連記事)、以下の年代でもIntCal20に基づいている場合は年代の後に(IntCal20)と示します。

 したがって、ユーラシアの最初期現生人類の遺伝的情報、つまりネアンデルタール人のような絶滅ホモ属(古代型ホモ属)との相互作用や後の人口集団への寄与の程度については、ほとんど知られていません。たとえば、39980年前頃のOase 1と、44380年前頃のウスチイシム個体は、その後のユーラシア人口集団との特定の遺伝的関係を示しませんが、39980年前頃の田園個体は、古代および現代のアジア東部人口集団の遺伝的祖先系統に寄与しました(より厳密には、当時存在したアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団と遺伝的にきわめて近縁で、わずかに現代人にも直接的な遺伝的影響を残しているかもしれません)。別の未解決の問題は、現生人類がヨーロッパとアジア全域に拡大した時、ネアンデルタール人とどの程度混合したのか、ということです。Oase 1では地域的な交雑の直接的証拠が得られており、その4~6世代前の祖先にネアンデルタール人がいた、と推測されています。以下、本論文の図1です。
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●バチョキロ洞窟

 本論文は、ブルガリア中央部のドリャノヴォ(Dryanovo)の西方5km、バルカン山脈の北斜面に位置し、ドナウ川からは南へ約70kmとなるバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類遺骸のゲノム規模データを報告します。バチョキロ洞窟(図1-1)では、当初はバチョキリアン(Bachokirian)と報告され、後に初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)インダストリーの一部とされた石器群が発見されており、その石器群と直接的に関連している人類遺骸と、もっと新しい2個の人類遺骸が発見されています。

 IUPは、年代的に、中部旧石器時代の最後の石器群と、上部旧石器時代の最初の小型石刃(bladelet)インダストリーとの間に収まる石器群をまとめています。IUPはアジア南西部とヨーロッパ中央部および東部からモンゴルまで(関連記事)広範な地域にまたがっています(図1)。石器技術に基づいて、これらの石器群をまとめる理由はありますが、IUPは大きな地域的変異性も示します。したがって、IUPが中緯度ユーラシア全域の現生人類の拡散なのか、特定の技術的着想の拡散なのか、独立した発明なのか、これらの一部もしくは全ての組み合わせのどれを表しているのか、議論されています(関連記事)。IUPはヨーロッパ中央部および西部では後期ネアンデルタール人の遺跡と同年代で(関連記事)、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)やオーリナシアン(Aurignacian)などヨーロッパにおける後の上部旧石器技術複合に数千年先行します。

 最近の発掘で、バチョキロ洞窟では人類遺骸5個が回収されました。下顎大臼歯1個(F6-620)は主区域のJ層下部で、4個の断片的な骨(AA7-738、BB7-240、CC7-2289、CC7-335)は壁龕1区域I層で発見されました。これらの直接的な放射性炭素年代は44640~42700年前頃(IntCal20)で、そのミトコンドリアゲノムは現生人類の変異内に収まりましたから、ヨーロッパでは最古級の上部旧石器時代現生人類と示唆されます(関連記事)。

 1個の断片的な骨(F6-597)は主区域B層で発見され、もう1個の断片的な骨(BK1653)は1970年代の発掘において、B層とC層の境界面に対応する位置で発見されました。F6-597とBK1653の直接的な放射性炭素年代は、それぞれ36320~35600年前頃と35290~34610年前頃です。より新しい層の石器群は疎らですが、オーリナシアンの可能性が高そうです。また、考古学的文脈外で見つかったOase 1の追加のデータも生成されました。

 歯または骨のこれら8標本からDNAが抽出されました。このうち6標本では、古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換が一定以上の割合で確認されました。F6-620とAA7-738とBB7-240とCC7-335は男性、BK1653とCC7-2289は女性と推定されますが、データ量が少ないためCC7-2289の性別判断は暫定的です。大臼歯F6-620と骨片AA7-738は同じミトコンドリアゲノム配列を有しており、ともに男性です。一塩基多型でのこれら2標本間の塩基対ミスマッチ率は0.13で、同じ標本のライブラリー間のミスマッチ率と類似しています。対照的に、他のバチョキロ洞窟標本ではミスマッチ率は0.23で、他の研究での無関係な古代人と類似しています。したがって、F6-620とAA7-738は同一個体か、可能性はずっと低いものの、一卵性双生児だった、と結論づけられます。

 Y染色体DNAでは、F6-620で15.2倍、BB7-240で2.5倍、CC7-で1.5倍の網羅率のデータが得られました。F6-620はY染色体ハプログループ(YHg)F(M89)の基底部系統で、BB7-240とCC7-335のYHgはC1(F3393)です。YHg-Cはアジア東部とオセアニアの男性では一般的ですが、YHg-FおよびC1は現代人では比較的低頻度で、オセアニアやアジア南東部本土や日本列島などにおいて低頻度で見られます。


●ゲノム解析

 外群f3統計を用いて、バチョキロ洞窟個体群と他の初期現生人類との間の遺伝的類似性の程度が推定されました。バチョキロ洞窟のIUP期3個体は、他のあらゆる古代の個体よりも相互に類似しています。対照的に、そのずっと後となる35000年前頃のBK1653は、ヨーロッパの38000年前頃以降の上部旧石器時代個体群とより類似しています。たとえば、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)や、さらに後のグラヴェティアン(Gravettian)石器群と関連する、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んで、ヴェストニツェ遺伝的クラスタと呼ばれる個体群の方と類似しています。バチョキロ洞窟個体群を現代の人口集団(関連記事)と比較すると、IUP個体群は、ユーラシア西部人口集団よりも、アジア東部および中央部とアメリカ大陸先住民の人口集団の方と多くのアレル(つまり、より多くの遺伝的多様体)を共有していますが(図2a)、BK1653は、現代ユーラシア西部人口集団の方と多くのアレルを共有しています。

 次に、これらの観察結果は、現代のユーラシア西部人口集団が「基底部ユーラシア人」(関連記事)からの祖先系統の一部に由来する、という事実に起因するのかどうか、調べられました。基底部ユーラシア人とは、出アフリカ現生人類系統ではあるものの、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とは早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けなかった、と仮定されている集団(ゴースト集団)で、ユーラシア西部人口集団とIUP個体群との間で共有されるアレルを「希釈」した可能性があります。

 この検証のため、ウスチイシム個体とOase1個体とバチョキロ洞窟個体群が、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された、ヨーロッパへの「基底部ユーラシア人」祖先系統の導入に先行する38000年前頃の若い男性1個体(関連記事)など、ユーラシア西部の個体群と比較されました。その結果、ウスチイシム個体とOase1個体はユーラシア東部人口集団よりもユーラシア西部人口集団の方と多くの類似性を示さず、以前に示されたように、この2個体は後のヨーロッパの人口集団に遺伝的に寄与しなかった、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。

 対照的に、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、コステンキ14個体よりも、4万年前頃の田園個体や他の古代シベリア人(関連記事)やアメリカ大陸先住民(関連記事)の方と多くのアレルを共有します。他のユーラシア西部上部旧石器時代人では、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、コステンキ14個体よりも、Oase1個体および35000年前頃のGoyet Q116-1個体の方と多くのアレルを共有しています。とくに、Goyet Q116-1個体は、ヨーロッパの類似した年代の他の個体との比較で、初期アジア東部人とより多くのアレルを共有する、と示されていました(関連記事)。

 混合グラフを用いて上記の観察結果と一致する人口史のモデルを調べると、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、田園個体や、より少ない程度ながらGoyetQ116-1個体やウスチイシム個体に祖先系統をもたらした人口集団とも関連していた、と明らかになりました(図2d)。これにより、ベルギーのGoyetQ116-1個体と中国北東部の田園個体間の以前には不明確だった関係が、地理的に離れた2個体間の遺伝子流動を必要とせずに解決されます。このモデルでは、以下のようなことも示唆されます。まず、バチョキロ洞窟でより新しいBK1653個体は、GoyetQ116-1個体の人口集団と関連するものの、同一ではない人口集団に属します。次に、グラヴェティアン石器群との関連で見つかったヴェストニツェ遺伝的クラスタの祖先系統は、BK1653個体のような人口集団に一部が、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)と関連する人口集団に残りが由来します。以下、本論文の図2です。
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●ネアンデルタール人との混合

 バチョキロ洞窟のIUP個体群は、ヨーロッパで末期ネアンデルタール人と同時に存在していたので、高品質なゲノムデータの得られているネアンデルタール人個体、つまりシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の個体(関連記事)と、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の個体(関連記事)のゲノムデータを用いて、バチョキロ洞窟のIUP個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合が推定されました。その結果、IUP個体群(F6-620とBB7-240とCC7-335)はそれぞれ、3.8%(95%信頼区間で3.3~4.4%)、3.0%(95%信頼区間で2.4~3.6%)、3.4%(95%信頼区間で2.8~4.0%)と推定されました。これは、他の古代人および現代人の平均1.9%(95%信頼区間で1.5~2.4%)よりも多く、例外はOase1個体の6.4%(95%信頼区間で5.7~7.1%)です。

 対照的に、IUP個体群よりも新しいBK1653個体では、ネアンデルタール人由来の領域の割合は1.9%(95%信頼区間で1.4~2.4%)と推定されており、他の古代人および現代人と類似しています。これまでに研究された全ての現生人類のように、バチョキロ洞窟のBK1653個体とIUP個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)よりも、クロアチアのヴィンディヤ洞窟の個体(Vindija 33.19)およびアルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の個体(チャギルスカヤ8)の方と類似していました。

 バチョキロ洞窟個体群におけるネアンデルタール人祖先系統の分布を調べるため、ネアンデルタール人および/もしくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のゲノム(関連記事)でアフリカ人のゲノムとは異なる約170万ヶ所の一塩基多型と、古代ゲノムにおける古代型DNAの領域を検出する手法が用いられました。その結果、各個体におけるネアンデルタール人のDNAは合計で、F6-620個体で279.6cM(センチモルガン)、CC7-335個体で251.6 cM、BB7-240個体で220.9cMとなり、これら3個体はそれぞれ、5 cMより長いネアンデルタール人由来のDNA断片を、7ヶ所、6ヶ所、9ヶ所有していました(図3)。ネアンデルタール人から遺伝子移入された最長の断片は、F6-620個体で54.3cM、CC7-335個体で25.6cM、BB7-240で17.4cMでした(図3)。対照的に、BK1653個体のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNAの合計は121.7 cMで、最長のネアンデルタール人由来の断片は2.5 cMでした(図3)。以下、本論文の図3です。
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 長いネアンデルタール人断片の分布に基づいて、F6-620個体は6世代前未満にネアンデルタール人の祖先がいた、と推定されます。CC7-335およびBB7-240個体は、7世代前頃(信頼区間の上限は、それぞれ10世代前と17世代前)にネアンデルタール人の祖先がいた、と推定されます。したがって、全てのバチョキロ洞窟IUP個体群は、比較的近い世代の祖先にネアンデルタール人がいました。

 バチョキロ洞窟個体群が後のユーラシア人口集団に遺伝的にどの程度寄与したのかさらに調べるため、バチョキロ洞窟個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNA断片が、現代の人口集団におけるネアンデルタール人由来のDNA断片と、偶然の場合に予測されるよりも多く重複しているのか、検証されました。その結果、現代アジア東部人口集団とバチョキロ洞窟IUP個体群との間で、BK1653個体とよりも多い断片の重複が明らかになりました。対照的に、BK1653個体は、バチョキロ洞窟IUP個体群の場合よりも、現代ユーラシア西部人口集団とネアンデルタール人由来の断片の重複が多い、と示しました。これは、バチョキロ洞窟IUP人口集団が、後のアジア東方集団やアメリカ大陸先住民の方により多く祖先系統をもたらした一方で、BK1653個体はユーラシア西部人口集団により多くの祖先系統をもたらした、との観察結果と一致します。

 次に、ほとんど若しくは全くネアンデルタール人祖先系統を有さない、ヒトゲノムの部分(ネアンデルタール人「砂漠」)間の重複が調べられました。このネアンデルタール人「砂漠」は、ネアンデルタール人からの遺伝子移入直後に、ネアンデルタール人由来のDNAに対する浄化選択により起きた、と考えられています(関連記事1および関連記事2)。その結果、バチョキロ洞窟IUP個体群とOase1で以前に報告された「砂漠」では、ネアンデルタール人から遺伝子移入されたDNAはほぼない、と明らかになりました。これらの比較をより近い世代でのネアンデルタール人からの遺伝子移入に限定すると(つまり、5 cM以上)同様に重複はないと明らかになり、ネアンデルタール人のDNA多様体への選択は交雑後数世代以内に起きたと推測されるものの、この問題を完全に解決するには、より近い世代でのネアンデルタール人祖先系統を有する追加の個体群が必要になるだろう、と示唆されます。


●まとめ

 バチョキロ洞窟個体群のゲノムは、いくつかの異なる現生人類人口集団が初期上部旧石器時代のユーラシアに存在していたことを示します。Oase1個体とウスチイシム個体に代表されるこれら人口集団の一部は、後の人口集団との検出可能な類似性を示しませんが、バチョキロ洞窟IUP個体群と関連する集団は、アジア東方祖先系統を有する後の人口集団や、GoyetQ116-1個体のような一部のユーラシア西部集団に寄与しました。これは、IUP石器群がヨーロッパ中央部および東部から現在のモンゴルまで見つかるという事実、およびヨーロッパ東部からアジア東部へと達する推定上のIUP拡散と一致します。

 最終的に、バチョキロ洞窟IUP個体群と関連する人口集団は、バチョキロ洞窟のBK1653個体を含む後の個体群が現代アジア東方人口集団よりも現代ヨーロッパ人口集団の方と遺伝的に近い、という事実により示唆されるように、ユーラシア西部では後の人口集団に検出可能な遺伝的寄与を残さずに消滅しました。ヨーロッパでは、連続的な人口集団置換との見解は考古学的記録とも一致し、IUPは中部旧石器に対して明確に侵入的であり、石刃への共通の焦点を除いて、IUPとその後のオーリナシアン技術との間の明確な技術的つながりはありません。最後に、末期ネアンデルタール人と年代的に重複し、そのゲノム規模データが得られているヨーロッパの4個体(F6-620とBB7-240とCC7-335とOase1)全てで、近い世代の祖先にネアンデルタール人がいたことは驚くべきです(図3)。これは、ネアンデルタール人とヨーロッパへ到来した最初の現生人類との間の混合が、想定されるよりも一般的だったことを示唆します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、ヨーロッパ最古級の現生人類のゲノム規模データを提示した点はもちろん、出アフリカ現生人類の複雑な移動を浮き彫りにし、謎めいた遺伝的事象の説明を提供できた点でも、たいへん意義深いと思います。ベルギーの35000年前頃となるGoyet Q116-1個体と、中国北部の4万年前頃の田園個体との遺伝的類似性の解釈はこれまで難問でしたが(関連記事)、バチョキロ洞窟IUP個体群のゲノム規模データにより、ユーラシア西部集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近縁で、おそらくはアジア東部集団の主要な祖先集団の一方ときわめて近縁な集団が、45000年以上前のヨーロッパ東部に存在した、と明らかになりました。この遺伝的構成の集団は上部旧石器時代にヨーロッパでは消滅したようですが、一部の上部旧石器時代ヨーロッパ集団に遺伝的影響を残し、それがGoyet Q116-1個体と田園個体との遺伝的類似性をもたらしたのでしょう。

 ユーラシア中緯度地帯にIUPを広めた人口集団は、遺伝的に均一ではなかったかもしれませんが、少なくともその一部は、アジア東部人口集団に大きな遺伝的影響を残したようです。もちろん、バチョキロ洞窟IUP個体群が現代アジア東部人口集団の直接的祖先である可能性は低く、同時代の直接的祖先はもっと東方に存在した可能性の方が高そうですが。最近のアジア東部人口集団に関する包括的な古代ゲノム研究(関連記事)に従うと、IUPを広めた集団の少なくとも一部は、ユーラシア東部内陸部系統に位置づけられる可能性が高そうです。その意味で、ユーラシア東部内陸部系統の拡散経路と時期の指標として、IUPは重要な意味を有してくるかもしれません。ヨーロッパ上部旧石器時代における現生人類人口集団の置換を改めて示した点でも、本論文は注目されます。現在の分布からの人口史の推定には限界があり、古代DNA研究が必要になる、と再確認されます。

 ネアンデルタール人と現生人類との混合が一般的だったことを示唆する知見も注目されます。アルタイ山脈ではネアンデルタール人とデニソワ人との混合が一般的だったと推測されており(関連記事)、後期ホモ属において異なる系統間の混合は珍しくなかったのかもしれません。これと関連して、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とネアンデルタール人との混合以外に、ヨーロッパ系現代人と東アジア系現代人の祖先集団がそれぞれ、ネアンデルタール人と追加の交雑をした可能性が高い、と推測されていますが(関連記事)、本論文の知見は、アジア東部現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の混合がどこで起きたのか、という観点からも注目されます。

 これまで、ユーラシア東方では少なくともアルタイ山脈にまでネアンデルタール人は拡散していたので、アルタイ山脈などユーラシア東部が追加の混合の場所だったかもしれない、と私は考えていました。しかし、本論文の知見を踏まえると、ヨーロッパでアジア東部現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の混合が起きたかもしれせん。じっさい、アルタイ山脈のデニソワ洞窟のネアンデルタール人個体と遺伝的に近い集団と、アジア東部現代人の祖先集団との混合に関しては、否定的な知見も提示されています(関連記事)。ただ、上述のチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体は、デニソワ洞窟のネアンデルタール人個体よりもヨーロッパのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体の方と遺伝的に近いので、そうしたネアンデルタール人集団とアジア東部現代人の祖先集団が、ユーラシア東部で混合した可能性も考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用ですが、もう一方の研究は後日取り上げる予定です。


集団遺伝学:後期旧石器時代初頭のヨーロッパの人類はネアンデルタール人を近い祖先に持っていた

進化:ヨーロッパで最古の現生人類に関する解明が進んだ

 約4万5000年前のものとされるヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石のゲノム解析が行われ、ヨーロッパにおける初期人類の移動に関する新たな知見が得られたことを報告する2編の論文が、それぞれNature とNature Ecology & Evolution に掲載される。これら2つの研究は、ヨーロッパにおける初期現生人類集団の複雑で多様な歴史を描き出している。

 ヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石は、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発見され、放射性炭素年代測定法によって4万5930~4万2580年前のものと決定された。この最古の現生人類集団が、約4万年前まで生存していたネアンデルタール人とどの程度交流していたのかは解明されておらず、その後の人類集団にどのように寄与したのかについても、ほとんど分かっていない。

 Nature に掲載される論文では、Mateja Hajdinjakたちが、バチョキロ洞窟で採集された人類標本の核ゲノム塩基配列の解析が行われて、これらの人類個体の祖先についてと、これらの個体と現代人の関係についての手掛かりが得られたことを報告している。最古の3個体は、西ユーラシアの現代人集団よりも、東アジア、中央アジア、アメリカ大陸の現代人集団と共通の遺伝的変異の数が多かった。また、これら3個体のゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合は3~3.8%であり、これら3個体のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝物質の分布から、わずか6世代前かそれより近い世代の祖先がネアンデルタール人であったことが示された。これらのデータは、現生人類とネアンデルタール人の交雑が、これまで考えられていたよりも頻繁だった可能性のあることを示唆している。

 Nature Ecology & Evolution に掲載される論文では、Kay Prüferたちが、チェコのZlatý kůň遺跡から出土した4万5000年以上前のものと考えられる女性の現生人類の頭蓋骨化石のゲノム塩基配列解析結果を報告している。Prüferたちは、この人類個体が、ゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合が約3%で、その後のヨーロッパ人集団、アジア人集団のいずれにも遺伝的に寄与していないと思われる集団に属していたことを明らかにした。この頭蓋骨化石は、汚染のために放射性炭素年代測定には失敗したが、ネアンデルタール人に由来するゲノム中のDNA断片が、他の初期現生人類個体のゲノムのそれよりも長かったため、この個体は4万5000年以上前に生存しており、アフリカから各地に広がった後のユーラシアにおける最古の現生人類集団の1つに属していたことが示唆された。

 以上の知見を総合すると、ヨーロッパにおける人類集団の交代が連続的に起こったとする従来の学説が裏付けられる。



参考文献:
Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3

新たな手法により推測される人類史における遺伝的混合

 新たな手法により人類史における遺伝的混合を推測した研究が、2021年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Huerta-Sanchez et al., 2021)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P90)。Legofitは、人口集団で共有さそれる派生的アレル(対立遺伝子)で観察される頻度と、人口史の特定のモデルで予測される頻度との間の違いを最小化することにより、パラメータを推定します。これを改良したLegofit2は、より高速で正確なアルゴリズムを用いて、これらの予測される頻度を計算します。

 予備的な分析結果は、以前に報告されたパプアニューギニアの5言語族の70個体のゲノムに基づいています。これらの結果は、現生人類(Homo sapiens)との分岐後の、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」と超古代型人類系統(ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の共通祖先と分岐した人類系統)との混合と、現代パプア人の祖先とデニソワ人との混合を確認します。また、現生人類とネアンデルタール人との2回の混合も示され、それは、ヨーロッパ人とパプア人の共通祖先(つまり、非アフリカ系現代人の共通祖先)との早期の混合と、パプア人系統がヨーロッパ人系統と分岐した後の、パプア人祖先とネアンデルタール人との混合です。

 ネアンデルソヴァンと超古代型人類系統との混合の可能性は、すでに以前の研究で示されており(関連記事)、ネアンデルソヴァンからネアンデルタール人系統とデニソワ人系統に分岐した後に、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統がそれぞれ超古代型人類系統と混合した可能性も指摘されています(関連記事)。後期ホモ属で複雑な混合が起きていた可能性は高そうで、今後の研究の進展により、じっさいの混合史に少しずつ近づいていくのではないか、と期待されます。そのためには、この研究のように新たな手法の開発とともに、より多くの新たな古代DNAデータが必要となります。


参考文献:
Rogers AR, Sudoyo H, and Cox M.(2021): The population history of Indonesia and Melanesia as inferred by Legofit2. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

現代人の骨盤の性差の起源

 現代人の骨盤の性差の起源に関する研究(Fischer et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。平均して、現代人の骨では骨盤で最も性差が強くなります。骨盤は、男性よりも女性の方が平均的に大きい唯一の人骨です。男性と比較して女性では、出産に関連する骨盤管が大きく、恥骨下角と坐骨切痕が広くなっています。これらの違いにより、現生人類(Homo sapiens)の骨盤は、性別決定の最も信頼できる部位となります。

 ヒトと非ヒト霊長類の骨盤の性差は、出産と関連する雌に作用する選択の証拠として、長く解釈されてきました。しかし、骨盤の性差の出産と関連する重要性については、議論があります。児頭骨盤比が高い霊長類(母親の骨盤と比較して胎児の頭が大きいこと)は、強い骨盤の性差を示す傾向があります。しかし、(ヒトを除く)大型類人猿など出産に制約の少ない種でも軽度の骨盤の性差が存在するので、出産が骨盤の性差の選択に排他的な役割を担ってきたのか、議論があります。重量では新生児が母体のわずか0.01%にすぎない有袋類であるキタオポッサム(Virginia opossum)のような出産上の制約がほとんどない種でも、身体サイズの違いとは無関係に骨盤の性差が存在します。ステロイドホルモンは二形性成長と再構築だけではなく、他の多くの発達的および生理学的過程にも関わっているので、骨盤の性差は少なくとも部分的には、他の解剖学的もしくは生理学的特性の自然選択に由来する可能性がある、と示唆されています。

 二足歩行の進化は、男女ともに骨盤を含むヒト骨格の大きな変化と一致しました。しかし、保存状態の良好な骨盤化石が不足しているため、現代人的な骨盤の性差が中新世から鮮新世の二足歩行で現れたのか、更新世の脳の巨大化で現れたのか、あるいは両方の過程に先行したのかどうか、不明です。また、化石記録からの推測も、標本の性別が不明なために妨げられています。たとえば、女性と考えられてきた、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)の化石として最も保存状態が良好で骨盤を含むルーシー(Lucy)と呼ばれる個体(A.L. 288-1)でも、男性の可能性が指摘されています(関連記事)。

 身体比と身長はヒトでは骨盤形態と相関しており、大型類人猿における骨盤の性差は、部分的には性別間の身体サイズの違いの結果である、と一部の研究では示唆されています。しかし現代人の場合、全体的なサイズの違いは骨盤形態の性差に最小限にしか寄与しない、と示されてきました。本論文は、現代人とその最近縁現生種であるチンパンジー(Pan troglodytes)の骨盤の変異の包括的な形態計測により、ヒトの骨盤の性差の進化的起源に取り組みます(図1)。チンパンジーではヒトよりも出産は容易な過程で、これは新生児の頭が母体の最小骨盤寸法の約70%しかなく、分娩が通常は短いためです。チンパンジーの胎児の頭も出産中に回転するように見えますが、ヒトと同一ではありません。それにも関わらず、チンパンジーは通常、骨盤に起因する出産制約があったとしても、ほとんどない種とみなされます。チンパンジーの骨盤の性差を調べた研究のほとんどは、骨器寸法の微妙な違いを記録しています。以下、本論文の図1です。
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●分析結果

 骨盤形態の個体差を調べるため、チンパンジー34個体とヒト99個体を対象に主成分分析が実行されました(図2)。ヒト(赤色が雌、青色が雄)とチンパンジー(薄赤色が雌、薄青色が雄)はPC1軸に沿って明確に分離しており(図2a)、ヒトとチンパンジー両方の性差はPC2軸とPC3軸により表されます(図2b)。骨盤形態の両種の違いは、両種の性差とは明らかに異なっています。PC2軸とPC3軸では、ヒトとチンパンジー両種の両性はほぼ一共線で、性差のパターンが両種でひじょうによく似ていることを示します。しかし、チンパンジーの性差の全体的な程度は、ヒトの52%にすぎません。以下、本論文の図2です。
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 ヒトはチンパンジーよりも身体サイズはずっと大きく、両種で雄は雌よりも大きいので、両種で相対成長や身体サイズと形態の関連が調べられました。骨盤相対成長は両種で類似しているものの、性的二形の方向性と種の違いは明確に異なる、と分かりました。ヒトとチンパンジーの性差の同様のパターンは、骨盤形態の3次元視覚化でも明らかです(図3)。両種で骨盤入口の相対的な横径と恥骨下角は、雄と比較して雌の方が大きくなっています。雌は平均して雄よりも広いものの短い仙骨を有しています。雄は雌よりも比較的大きくて裾幅の広い腸骨片を有しています。以下、本論文の図3です。
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 骨盤形態の両種間の強い違いとは無関係に、両種間の性差パターンをよりよく比較するため、チンパンジーの性差ベクトルが、ヒトの性差ベクトルと同じ長さに調整された後で、ヒトの性差平均値に加えられました。換言すると、ヒトの二形性と同じ程度に調整されたチンパンジーの二形性をヒト雌の平均形態に追加し、この調整されたチンパンジーの二形性をヒト男性の平均形態から差し引いたことになります。これにより、骨盤形態のヒトの性差がほぼ完全に再構築され(図4)、性差のパターンが両種でじっさいにほぼ同じと示されます(上段がヒト、下段がチンパンジー)。以下、本論文の図4です。
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 産道の性差をより具体的に評価するため、骨盤入口の形態が個別に分析されました。産道と最も関連性がある寸法は、骨盤管の上側または冠状部分である骨盤入口と、骨盤の正中面および出口により決定されます。ヒトとチンパンジーの間で最も容易に比較できる入口では、性差のパターンは両種でひじょうに類似していました。平均して、入口の横径は両種において雌の方で相対的により広く、雄と比較して雌では丸い産道がもたらされました(図5)。入口のサイズは、両種で雄よりも雌の方が大きく、その違いは平均して、ヒトでは11%、チンパンジーでは10%です。以下、本論文の図5です。
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●考察

 ヒトの骨盤は出産時に大きな胎児を収容し、直立運動を可能にしなければならず、これは人類進化の中心とみなされる二つの特徴です。このヒト中心の観点からは、チンパンジーが基本的にヒトと同じ骨盤の性差パターンを有している、との本論文の知見は驚くべきことのように思われます。ヒトの骨盤形態は、進化のトレードオフ(交換)の結果と考えられています。出産の安全には広い産道への選択が課されますが、二足歩行の生体力学と直立姿勢の骨盤底安定性には狭い骨盤への選択が課されます。さらに、拡張された雌の骨盤管は、子宮や膣や生殖腺の空間的要件によっても発達的に誘発されるかもしれない、と示唆されています。明らかに、より広い空間的産道への出産の選択は、ヒトよりもチンパンジーでかなり弱いものの、より狭い産道への拮抗も、二足歩行をしないチンパンジーではヒトよりもずっと弱くなります。したがって、チンパンジーの骨盤の最適な「妥協形態」は、新生児が比較的小さいにも関わらず、ある程度の性的二形を含んでいるかもしれません。これは、以前の研究で指摘されているように、チンパンジーや他の大型類人猿の骨盤の二形性の程度を説明できるかもしれません。

 二形性の程度の違いや、出産と生物力学の全ての違いにも関わらず、チンパンジーの骨盤の性差のパターンがヒトとひじょうによく似ている理由は、あまり明白ではありません。ヒトとチンパンジーの骨盤の性差の顕著な類似性から、それらが現生人類で新規に進化せず、すでにヒトとチンパンジーの共通祖先において存在していたので、その程度は異なっていたものの、絶滅したホモ属およびアウストラロピテクス属種と、サヘラントロプス属など推定される人類にも存在していた、と示唆されます。

 しかし、骨盤の性差のパターンはずっと古く、初期哺乳類か、あるいは羊膜類に由来するかもしれません。大きな胎児に起因する困難な分娩はヒトに限らず、テナガザルやマカク属やリスザルなどいくつかの他の霊長類にも見られます。コウモリやアザラシやいくつかの齧歯類やほとんどの有蹄類でさえ、ヒトよりも相対的に大きな新生児を有します。大きな新生児を有する種は、より顕著な性差を示す傾向にもあります。爬虫類と鳥類は産卵しますが、それでも、キーウィ鳥や小型カメのように、母親の体格と比較して卵のサイズが大きい場合には、同じように「出産」の問題に直面する可能性があります。

 じっさい、骨盤の性差は、アフリカ獣上目や真主齧上目や真無盲腸目や翼手目や鯨偶蹄目や異節上目といった全ての主要な胎盤クレード(単系統群)で報告されてきており、骨盤の性差のパターンは、これらの集団間で類似しているようで(およびヒトのパターンとも類似しており)、その違いはおもに恥骨領域に集中しています。同様の微妙な骨盤の性差はいくつかの爬虫類と鳥類に存在します。これは、性的二形の骨盤はすでに初期哺乳類か、あるいは羊膜類にさえ存在しており、それが哺乳類の祖先的状態を構成している、という仮説につながります。この共通祖先はすでに骨盤において性的二形を進化させ、成体と比較して大きな仔もしくは大きな卵を産んだ、と本論文は提案します。

 小さな新生児を有する一部の哺乳類でさえ、骨盤で微妙な性差を示します。有袋類の骨盤は小さな胎児に充分な空間を提供し、出産の選択では骨盤の性差の存在を明確に説明できません。それでも、その性的二形の一部はヒトのパターンと類似しています。出産が完全に骨盤により制約されていない哺乳類種の骨盤の性差は「痕跡パターン」である、と本論文は提案します。つまり、初期哺乳類もしくは羊膜類の祖先で出産において適応的だった発達の残滓だった、というわけです。根底にあるホルモン誘導のため、有袋類のようにもはや出産に必要がなくなったとしても、進化的に骨盤の性差を除去するのは困難かもしれません。微妙な性差は適応の不利益を有さない可能性があり、したがって単純に痕跡的特徴として存続したのかもしれません。

 発達上、骨盤の性差のパターンは、おもにエストロゲンとアンドロゲンとリラキシンのホルモン受容体の空間分布と、ホルモン誘発性の骨再構築により決定されます。たとえばヒトでは、これらのホルモンは思春期の骨盤再構築を調整すると示されてきましたが、これらのホルモンの骨盤受容体は、すでに胎児で発達しています。骨盤の性的二形の程度も、他の組織のエストロゲンの広範で多面的な効果に影響を受けるかもしれません。じっさい、さまざまな体幹要素が、異なる程度ではあるものの、ヒトとチンパンジーの形態学的統合の類似のパターンを示す、と報告されてきました。

 内分泌系のほとんどの側面は脊椎動物間で高度に保存されているので、骨盤の性差の根底にある遺伝的発達機構も、霊長類と、おそらくは羊膜類の進化でさえ比較的安定してきた、と本論文は提案します。しかし、この機構を制御する発達上の「取手」、つまり骨盤におけるホルモン分泌の量と持続期間、および対応する受容体の全体的な反応性は、ずっと進化可能で、迅速に適応できます。進化可能性におけるこの不一致は、霊長類と哺乳類の骨盤の性差の保存されたパターンと、そのひじょうに変動的な程度を説明できるかもしれません。したがって、更新世のヒト系統で新生児の脳サイズが大きく増加した時、より広い雌の骨盤を進化させる遺伝的および発達的機構はすでに存在しており、新たに進化する必要はありませんでした。この進化共同体化が現生人類の骨盤の二形へとつながり、それはほとんどの霊長類では突出した大きさではあるものの、おそらくはほとんどの他の哺乳類と同様のパターンです。

 この見解は、進化発生学と拡張進化合成の中心的概念である、「促進された変化」という概念とひじょうに似ています。その概念では、保存された遺伝的および発達的「核構成要素」の「弱い調節連鎖」が、複雑な有機体の進化可能性をひじょうに高めた、と提案されています。古典的な例は、性別決定と性特有の発達です。性別が決定されると、性特異的発達の遺伝と生理は、脊椎動物で強く保存されます(保存された核構成要素)。しかし、性別を決定する方法、つまり雌雄の発達を活性化するスイッチは、系統によりかなり異なります。骨盤の性差の原因となる遺伝的および発達的機構は、それ自体が保存された核構成要素で、高度に進化可能な調整制御を備えている、と本論文は提案します。

 骨盤の性差の促進された変動性仮説の裏づけは、ヒトの人口集団の比較に由来します。以前の研究では、本論文の仮説で予測されるように、全人口集団は二形の程度に充分な変動があるにも関わらず、骨盤の性差のひじょうに類似したパターンを有する、と示されました。これまで、霊長類と哺乳類と羊膜類全体の骨盤の性差の広範な定量的比較は行なわれていません。本論文の仮説は、ひじょうに異なる出産と生体力学的要件にも関わらず、哺乳類と他の羊膜類全体で、骨盤の性差の程度ではなくパターンがほぼ保存されている、という検証可能な予測を提供します。


参考文献:
Fischer B. et al.(2021): Sex differences in the pelvis did not evolve de novo in modern humans. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01425-z

『卑弥呼』第60話「油津の怪」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年4月20日号掲載分の感想です。前回は、吉備で疫病によると考えられる死者をトメ将軍一行が見つけたところで終了しました。今回は、ヤノハが輿に乗り、山社(ヤマト)から出立する場面から始まります。日見子(ヒミコ)たるヤノハの乗った輿を先導するのはチカラオ(ナツハ)とオオヒコで、ヌカデも同行しています。ヤノハを見送るイクメは不安そうですが、父のミマト将軍は娘を宥めます。閼宗(アソ)までの道は安全で、閼宗には那(ナ)王の軍が迎えに来ている、というわけです。ヤノハが父を同行させなかったことを不安に思う娘に対して、テヅチ将軍が不在なので山社を守るのは自分しかいないし、オオヒコが同行しているので心配不要だ、と言います。それでも不安そうなイクメは、他に不安があるのか、父に尋ねられると、先日の大火以降、ヤノハが変わった、と答えます。事代主(コトシロヌシ)との面会でもヤノハは自分を遠ざけ、ヌカデを指名した、というわけです。ヤノハもそろそろ独り立ちしたいのだろう、と苦笑気味に言う父に対して、事代主は「知の巨人」と言われているが、ヤノハは幼い頃から祈祷女(イノリメ)としての教えを受けてきたわけではない、となおもイクメは不安を討ち受けます。するとミマト将軍は、ヤノハの強さは自分の無知を恐れないことだ、と力強く断言します。ヤノハは事代主の前で心を曝け出すだろう、というわけです。しかしイクメには、それ以上に気がかりなことがありました。それは、ヤノハが倭国の未来を平気で事代主に託しそうなことです。そうなれば、少なくとも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は再び乱れるだろうな、とミマト将軍は言います。

 ヤノハ一行は夜になって休息し、ヌカデとオオヒコは、今後の道のりを相談していました。閼宗で那軍と合流して那国の「首都」である那城(ナシロ)に向かい、そこから身像(ミノカタ、現在の宗像でしょうか)と岡まで陸路を進み、舟で弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に渡る手はずだ、とオオヒコはヌカデに説明します。舟に乗るのはヤノハ(日見子)一人なのか、とヌカデに問われたオオヒコは、ナツハ(チカラオ)が漕ぎ手を務めるが、上陸するのはヤノハだけだ、と答えます。ヤノハが受け入れたから仕方ないが、そもそも事代主は信用できるのか、とヌカデは疑っていました。ヤノハは弟のチカラオに、なぜ事代主に会ってから姿を消すのか、説明します。ヤノハは豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の人に会ったことがないので、豊秋津島で生まれた事代主から金砂(カナスナ)や出雲やその他の国を聞いてみたい、場合によってはチカラオと二人で豊秋津島に住んでみるのも一興だ、と笑顔で言います。ヤノハは心配そうなチカラオに対して、まずは事代主に倭国安寧を託し、自分の大役はそこで終わる、と諭します。

 日向(ヒムカ)を併合して成立した山社国の小肥(ヲビ)では、テヅチ将軍が訓練を終えた兵士たちに訓示していました。実に逞しくなり、よく頑張った、と兵士を褒めたテヅチ将軍は、いつ伊予之二名島(イヨノフタナジマ、四国と思われます)から賊が攻め寄せてきても容易に撃退できる、と力強く言います。テヅチ将軍は、自分は近く山社に戻る予定なので、ナギヒコ校尉の支持に従うよう、兵士たちに命じます。そこへ、油津(アブラツ、現在の宮崎県日南市油津港でしょうか)の邑で異変が起きた、と報告が入ります。油津に30艘の船が大挙して押し寄せた、との報告に、五百木(イオキ)の賊の仕業ではないか、とテヅチ将軍は疑います。急遽油津に向かうことになった兵士たちは、これが初陣だと意気軒昂です。

 その頃、山社にはテヅチ将軍から書簡が届いていました。その書簡には、西海道の若者たちはなかなか優秀な兵になり、もういかなる海賊も追い払えるので、テヅチ将軍は近く山社に戻る、とありました。イクメは父のミマト将軍に、テヅチ将軍の帰還を待ってヤノハ(日見子)に合流するよう、進言します。油津に到着したテヅチ将軍の部隊は、海岸に停泊した船にも、油津の邑にも人の気配がなく、さらには襲撃の痕跡がないことや、昼間に襲撃してきたことも不審に思います。テヅチ将軍は、朝まで待ち、動きがなければ自ら攻めることにします。夜が明け、なおも邑が静まりかえっていることから、テヅチ将軍は、部隊を二分し、半分をナギヒコが率いて邑へ、半分を自身が率いて浜へと向かうことにします。船の中には、醜い瘡のできた多数の死者がいました。邑人は全員、身体に膿疱ができて悶え苦しみ、死にかかって家にいました。テヅチ将軍が、これは厲鬼(レイキ)、つまり疫病神(エヤミノカミ)の祟りで、五百木の賊は厲鬼に憑かれ、それが油津の邑に蔓延したのだ、と悟るところで今回は終了です。


 今回は、本州と四国で蔓延していた疫病(天然痘のようですが、天然痘が日本列島に到来したのは本作の舞台である紀元後3世紀前半よりもずっと後のようなので、別の疫病かもしれません)がついに九州にまで上陸したところまで描かれました。この疫病は、『日本書紀』巻第五(崇神天皇)に見える疫病のことかもしれません。この疫病は倭国情勢を大きく動かすことになりそうで、あるいは、この疫病を契機に西日本は日見子(卑弥呼)の下でまとまる、という話になるのかもしれません。事代主は薬にも通じているとすでに明かされているので、事代主と和議を結んで協力を得たヤノハがこの疫病を収束させ、倭国の王として認められる、という話になるのでしょうか。いよいよ本州や四国も本格的に舞台となってきて、ますます壮大な話となる予感がするので、今後もたいへん楽しみです。

大河ドラマ『青天を衝け』第8回「栄一の祝言」

 今回は、農村部の話では渋沢栄一と千代の結婚をめぐる喜作も交えた三角関係と、その決着としての栄一と千代との結婚、および喜作と「よし」との出会いが、「中央政界」の話では安政の大獄が描かれました。栄一と喜作との関係は後腐れのないもので、一層結びつきが強くなったようです。農村部の話は青春群像劇といった感があり、青春群像劇と激動期は一般的に相性がよいと言えそうですから、幕末の激動期を迎えての栄一とその周辺の人物の描写も楽しみです。

 「中央政界」の話は、井伊直弼の大老就任から一気に動き出し、これまでよりも長めでした。本作の井伊直弼は、自信がなく頼りなさを自他ともに認めており、これまでの大河ドラマで多かったように思われる、大物感溢れる人物像とはかなり異なります。井伊直弼の伝記を読んだことはなく、その人物像についてもよく知らないので、本作の描写がどこまで妥当なのか判断できませんが、将軍の徳川家定から重用され、その恩に報いようとして張り切りながらも、自信を持てないので疑心暗鬼に陥り、家定の命令にしたがって強硬路線に走る、という描写はよかったと思います。徳川慶喜の篤い尊王心が描かれたことも、王政復古後の慶喜の行動を描くうえで重要ですから、しっかりと構想されていることが予感され、今後が楽しみです。

新疆ウイグル自治区の青銅器時代以降の住民のmtDNA解析

 現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区(以下、新疆と省略)の古代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Wang et al., 2021)が公表されました。中華人民共和国北西部に位置する新疆は、何千年もの間、ユーラシア東西の移動の交差点として機能してきました。青銅器時代(BA)には早くも、新疆には古代ユーラシア草原地帯とシベリアとアジア中央部とアジア北東部の人口集団に影響を受けた、多様な文化が存在しました。多くの考古学的発見により示唆されているように、新疆へのこれらの文化的影響は、地域と期間により異なりました。新疆北部の遺跡では、アルタイ山脈の紀元前3300~紀元前2500年頃となるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化および紀元前2750~紀元前1900年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化とのつながりが明らかにされてきました。

 新疆西部の青銅器時代墓地には、移動輸送および発達した冶金術と関連する物質が含まれており、草原地帯西部および天山地域の紀元前1700~紀元前1500年頃となるアンドロノヴォ(Andronovo)文化に由来する可能性が高そうです。青銅器時代の新疆は、内陸アジア山地回廊(IAMC)を介してアジア中央部西方とのつながりがあり、コムギやオオムギのような農業で重要性の高い穀類がもたらされ、河西回廊を通じてアジア東部とのつながりがあり、ホウキモロコシがもたらされた可能性が高そうです。さらに、新疆東部の青銅器時代人口集団は、中華人民共和国北部の甘粛省および青海省(甘粛青海)地域のアジア東部人と文化的つながりを共有しています。新疆の青銅器時代の小河(Xiaohe)遺跡と天山北路(Tianshanbeilu)遺跡に関する過去の研究は、Y染色体の一塩基多型とミトコンドリアDNA(mtDNA)の超可変領域の限定的な数を用いており、新疆の過去の遺伝的歴史を解明できません。

 中期~後期青銅器時代(MLBA)を経て紀元前800~紀元前200年頃の鉄器時代(IA)には、ユーラシア草原地帯の遊牧民集団が新疆のさまざまな地域に影響を及ぼしました。そうした集団の一つがスキタイで、タガール(Tagar)文化やパジリク(Pazyryk)文化やサカ(Saka)文化のようないくつかの人口集団の連合でした(関連記事)。一部の埋葬習慣の記録から、中期青銅器時代シベリア南部のオクネヴォ(Okunevo)文化は、草原地帯関連祖先系統を限定的に有し、新疆北部にも影響を及ぼした、と示唆されています(関連記事)。

 鉄器時代遺跡1ヶ所の最近のゲノム研究は、新疆東部における草原地帯関連祖先系統を報告しました。おもに草原地帯となる新疆周辺地域の古代ゲノム研究はさらに、鉄器時代における広範な人口集団移動と西方草原地帯関連祖先系統の混合を裏づけます(関連記事)。しかし、新疆全域の草原地帯関連祖先系統の程度は、より多くの古代DNAがなければ不明です。その後、紀元前200年頃以後、新疆は匈奴や突厥など多くの重要な遊牧民連合により支配されました。これらの集団はとくに新疆に影響を及ぼし、権力の頻繁な移行から、歴史時代(HE)も文化的に混合された期間だった、と示唆されるものの、新疆の人口構造がこれらの文化的変化に影響を受けたのかどうか、古代DNAなしには確定できません。

 全体として、古代新疆の人口集団の遺伝的構造は、青銅器時代から鉄器時代を経て歴史時代までの変化と同様に、特徴づけられていません。言語学的に、トカラ語とコータン語の存在も調べるべき重要な問題です(関連記事)。現在の新疆人口集団に関するゲノム研究からは、頻繁な移住と遺伝的混合を伴う複雑な遺伝的構造が示唆されます。しかし、わずか数遺跡の古代DNAデータしかないので、過去の人口集団構造と混合の全体像を再構築する能力は限られています。したがって、青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の古代遺伝データを得ることは、新疆の人口集団構造の時空間的変化を特徴づけるのに重要です。


●データの概要

 新疆全域の41ヶ所の遺跡から、4962~500年前頃となる古代人237個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)データが得られました。網羅率は31~5515倍です。これら237個体の完全なミトコンドリアゲノムは、時代・地域・文化により分類されました。青銅器時代では、4962~2900年前頃の63個体のデータが得られました。これには4800~4000年前頃となる前期および中期青銅器時代(EMBA)の新疆北部の24個体が含まれます。このうち18個体はチェムルチェク文化と関連しており(北部チェムルチェクEMBA、4811~3965年前頃)、2個体はアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連しています(北西部アファナシェヴォEMBA、4570~4426年前頃)。新疆西部のイリ渓谷のアファナシェヴォ文化と関連する3標本(西部アファナシェヴォEMBA、4962~4840年前頃)が得られ、新疆北部のアファナシェヴォ文化と関連する標本と組み合わされて、北西部アファナシェヴォEMBA集団が形成されます。

 4237~4087年前頃となる松樹溝(Songshugou)遺跡の3個体(NSSG_EMBA)と、4500年前頃となるカバ(Habahe)遺跡の1個体は、その文化に関連する情報がなく、別々に分析されました。新疆東部では、青銅器時代の3600~3000年前頃となる南湾(Nanwan)遺跡の1個体(東部BA)と、後期青銅器時代の追加の25標本が得られました(3000~2900年前頃の東部LBA)。天山北路と南湾の密接な考古学的関係を考慮して、本論文の南湾遺跡1個体のハプログループ情報が既知の天山北路個体群と統合され、東部青銅器時代集団が構成されました。さらに、新疆南東部に位置するタリム盆地東部の小河遺跡の第4層~第5層の10標本が収集されました(3929~3572年前頃となる南東部小河BA)。これらの分類は、青銅器時代の新疆の東部・西部・北部・南東部の人口集団を表しています(図1)。

 鉄器時代に関しては、新疆全域で2900~2000年前頃の128標本が収集されました(図1)。そのうち27標本は新疆東部で(東部IA)、15標本は新疆北部で(北部IA)、55標本は新疆西部のイリ地域で(西部IA)、31標本は新疆南部で(南部IA)得られました。異なる南部IA遺跡群は、その高い文化的異質性と広範な地理的分布のため1つの大集団に統合されず、別々の集団として分析されました。南部IA集団のSZGLK_IA(19標本)とSWJEZKL_IA(12標本)はタリム盆地に由来し、SWJEZKL_IAはチベット高原に隣接する新疆南西部の高地に由来します。天山東部の石人子溝(Shirenzigou)遺跡の既知の鉄器時代10個体(2200年前頃)のハプログループ情報も、収集されて分析されました。

 青銅器時代と鉄器時代の個体群のミトコンドリアゲノムデータに加えて、2000~500年前頃となる歴史時代の個体群のmtDNAも配列されました。歴史時代の遺跡群の標本規模とひじょうに混合された文化を考慮して、まず地理的位置に基づいて標本群が分類され、次に追加で文化に基づいて細分化されました。合計で5集団が分類され、1つは新疆西部(西部HE、11個体)、3つは新疆南部(15個体のSBZL_HE、10個体のSSPL_HE、9個体の南部ホータン)、1つは新疆東部の白楊河(Baiyanghe)遺跡の1個体(東部HE)です。さらに、新疆周辺地域の既知の古代人738個体と現代人7085個体のmtDNAデータが得られ、これら全ての人口集団は、以前の遺伝学的研究に基づいていくつかの下位集団に分類されました。

 一般的に、標本抽出された新疆の古代人口集団全てについて、母系(mtDNA)の遺伝的距離(FST)と地理的距離との間に正で有意な相関係数が見つかります。したがって、新疆の古代人口集団はひじょうに混合しており、低い地理的構造を有していた可能性が高そうです。青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の新疆人口集団の遺伝的比較も、ヌクレオチド多様性の変動を明らかにしました。鉄器時代と歴史時代の人口集団は一般的に、青銅器時代人口集団と比較してより高いヌクレオチド多様性を示し、青銅器時代と比較して鉄器時代と歴史時代における人口集団の移住と混合の増加を示します。鉄器時代と歴史時代の人口集団では、西部HEが最も高い多様性を示し、新疆南部人口集団で最も低い多様性が観察されました。以下、本論文の図1です。
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●青銅器時代新疆人口集団の遺伝的起源と複雑性

 青銅器時代新疆集団間の遺伝的違いと類似性を決定するために、まずmtDNAハプログループ(mtHg)頻度に基づいて主成分判別分析(DAPC)が行なわれました。PC1軸は地理的に東西の人口集団変動を、PC2軸は地理的に南北の人口集団変動を説明します(図2A)。一般的に、全人口集団は主要な4クラスタに区分されます。それは、アジア北東部(NEA、シベリアとアジア東部北方)、アジア南東部(SEA、アジア東部南方とアジア南東部)、草原地帯中央部、ヨーロッパ(トゥーラーンとヨーロッパ)です。新疆古代人全標本は、NEA人口集団から草原地帯中央部およびヨーロッパクラスタへと伸びる勾配に位置し、これら古代新疆人口集団がNEAと草原地帯中央部とヨーロッパの人口集団との関連性をさまざまな程度で有していた、と示唆されます。

 アファナシェヴォ文化(4962~4840年前頃となる北西部アファナシェヴォEMBA)と関連する、新疆北部および西部の青銅器時代個体群は、西方の草原地帯関連人口集団(西部草原地帯EMBAおよびMLBA)に囲まれている、と明らかになります(図2A)。対照的に、新疆北部のチェムルチェク文化と関連するEMBA個体群(北部チェムルチェクEMBA)と松樹溝遺跡個体群(NSSG_EMBA)は、他の中央部草原地帯人口集団により囲まれるそれぞれ別個のクラスタを形成します(図2A)。以前おもに青銅器時代草原地帯人口集団で報告された、mtHg-U・H・Rの高い割合が観察されました。これらEMBA人口集団間の有意な遺伝的分化はありませんが、北部チェムルチェクEMBAのみが、草原地帯西部両人口集団(西部草原地帯EMBAおよびMLBA)とは有意な遺伝的分化を示します(図2B)。北部チェムルチェクEMBAは中央部草原地帯MLBAとも有意な遺伝的分化を示しますが、中央部草原地帯EMBAとは示さず、DAPCの位置と一致します。

 さらに、中央値結合ネットワークでは、西部草原地帯EMBA個体群は、北西部アファナシェヴォEMBAとmtHg-U4・U5・H15で、北部チェムルチェクEMBA とmtHg-U4・U5・H2・H6a・W3で、NSSG_EMBAとmtHg-U4でクラスタ化します(図3D)。mtHg-H2・H5は草原地帯西部関連人口集団に存在し、mtHg-H6aはアルタイ地域のオクネヴォ文化と関連する人口集団に存在します。mtHg-D4jの存在により裏づけられる北部チェムルチェクEMBA とNEAとのつながり(バイカルEBA)も見つかり、それはこれら2人口集団で、ネットワーク分析におけるわずか4ヶ所の変異で異なっており、シベリア地域を含むアジア東部北方に存在しました(図3E)。HBHのEMBA1標本のmtHgはU5で、より多くの草原地帯西部と関連するつながりが示唆されます。したがって、新疆の西部および北部両人口集団は、EMBAにおいてかなりの草原地帯西部関連祖先系統を有していた、と示されます。以下、本論文の図2です。
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 東部集団(東部BAおよびLBA)は新疆北部および西部のEMBA個体群とは別にクラスタ化する、と明らかになります。東部集団は両方、DAPCでは古代および現代のNEAとクラスタ化します(図2A)。東部BAおよびLBAは、mtHg-Dの高い割合(それぞれ36.70%と32.00%)を有しています。mtHg-Dは、中国北部人(18.20~44.80%)および古代モンゴル人(31.20%)など古代および現代のNEA人口集団(関連記事1および関連記事2)で一般的です(図1A・3E)。東部LBAはこれらNEA人口集団の一部と有意ではない遺伝的距離を示します。具体的には、甘粛省・青海省(GQ)の古代2人口集団、つまりGQ斉家(Qijia)文化BAおよびGQ卡約(Kayue)文化LBAと、現代4人口集団、つまり日本人とモンゴル人とツー人(Tu)とオロチョン人(Oroqen)です。

 東部BAおよびLBAは両方、草原地帯西部関連のmtHg-Uを有していますが、ヨーロッパよりもNEAの系統の方でより高い割合を示し、後の標本ではより多くのヨーロッパ系統が確認されます(東部BAでは20%、東部LBAでは36%)。このパターンはDAPCと一致し、東部LBAの位置は東部BAと比較してユーラシア西部人の方に近くなっています。さらに、mtHg-D4b2b4は匈奴と東部LBAの両方でも見つかり(図3E)、共有されるNEA祖先系統の存在に起因する、東部LBAと匈奴の人口集団間の直接的関係を示唆します。したがって、東部BAおよびLBA人口集団は、より多くのNEAとのつながりを示しますが、草原地帯西部関連系統の存在(mtHg-Uが東部BAでは16.7%、東部LBAでは8%)も、草原地帯西部関連人口集団との追加のつながりを裏づけます。

 南東部小河BA はDAPCではNEA集団とクラスタ化し、それは東部BAおよびLBAと類似していますが、古代および現代のシベリア人祖先系統を有する人口集団へのより多くの類似性を示します。南東部小河BAは、NEA人口集団およびシベリア南部のバイカル湖地域近くのシャマンカ(Shamanka)人口集団など、古代および現代のシベリア人口集団に存在するmtHg-C4の高い割合を示します。この人口集団は、他の青銅器時代新疆集団を含む他の全ての古代および現代の人口集団と比較して、有意な遺伝的距離を示すことにおいて独特ですが、シベリアの現代の3人口集団、つまりエヴェン人(Even)とエヴェンキ人(Evenk)とヤクート人(Yakut)とは最短の遺伝的距離を示します。これらの結果は、小河遺跡に関する以前の研究と一致します。以下、本論文の図3です。
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 新疆の東部および西部の青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の標本群では、mtHg-R1bも見つかっています。青銅器時代では、北部チェムルチェクEMBAで2個体、北西部アファナシェヴォEMBAで1個体、NSSG_EMBAで1個体、南東部小河BAで1個体、東部IAで1個体、西部IAで1個体、西部HEで2個体です。mtHg-R1bはロシア北西部のカレリア(Karelia)など(関連記事)ヨーロッパ東部狩猟採集民だけではなく、カザフスタンのボタイ(Botai)文化個体群(関連記事)やダリ(Dali)遺跡個体群(関連記事)でも報告されました。さらに、ボタイ文化(関連記事)および草原地帯関連人口集団では、新疆東部の標本(東部LBA)と同様に、mtHg-K1b2が共有されていました。

 mtHg-R1bの中央値結合ネットワークでは、北西部アファナシェヴォEMBAと関連する、新疆北部および西部のEMBA標本(紀元前3012~紀元前2890年頃)がネットワークの中央に位置し、1ヶ所のみの変異によりボタイ文化個体群と分離する、と示されます(図3B)。この分枝は、NSSG_EMBAおよびダリ遺跡の1個体を含む別の分枝と関連しています(図3B)。これは、古代北ユーラシア(ANE)人口集団との深い祖先系統のつながり、もしくはカザフスタンの地理的に近接する人口集団とのいくつかの遺伝的繋がりを示唆しているかもしれません(関連記事1および関連記事2)。新疆人口集団の1個体でもmtHg-R1bが見つかり、小河遺跡の人々の新疆北部とのつながりも示唆しているかもしれません。したがって青銅器時代において、新疆北西部人口集団がアファナシェヴォ文化およびチェムルチェク文化など草原地帯西部関連文化集団に、新疆南東部人口集団がNEAやシベリア南部の人口集団への高い遺伝的類似性を示し(図4A)、近隣人口集団および多様な文化的背景の共同体との複雑な相互作用が示唆されます。


●鉄器時代新疆におけるより大きな文化的およびmtHgの多様性

 鉄器時代(IA)の新疆における人口集団の移動と変化をよりよく理解するため、新疆全域の128標本が分析されました。一般的に、北部IAを除く全ての新疆鉄器時代集団は、青銅器時代集団よりも高いmtHg多様性を示し、ユーラシア東西からのより多くの移住と伝達が示唆されます。鉄器時代集団間の遺伝的分化(FST)はほぼ有意ではなく、鉄器時代における高水準の混合が示唆されます(図2B)。DAPC(図2A)では、北部IAはは、中国北部のGQ馬家窯(Majiayao)文化EBAやフブスグル(Khovsgol)LBA、中国北部の現代シボ人(Xibo)、シベリアの現代ヤクート人といったNEA人口集団の近くにクラスタ化し、これは草原地帯関連祖先系統を有する人口集団と密接にクラスタ化する新疆北部のEMBA人口集団と対照的です。NEAへのこの高い類似性は、アジア東部の主要な2つのmtHg(図1A)、つまりD(53.30%)およびF(13.30%)と、GQ馬家窯EBAやGQ斉家BAやGQ卡約LBAやLTP_IAといった中国北部人口集団との低いFST値によっても表されます。中央値結合ネットワークはさらに、一部のサカ文化個体群(天山サカIAのmtHg-D4j8)とともに、北部IAとNEAの個体群間のつながり(mtHg-D4eとD5a)を示唆します。さらに、草原地帯関連mtHg-U4(6.70%)・H5(6.7%)と、トゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)関連mtHg-U7(6.7%)も観察され(図3D)、これらの集団との遺伝的つながりが示唆されます。

 新疆東部IAと既知のSRZG_IAを含む2人口集団があります。東部IAとSRZG_IAの両方は、中国北部のGQ斉家BAとひじょうに低い遺伝的距離を示し、青銅器時代標本の東部LBAと一致します(図2B)。DAPCでは、東部IAとSRZG_IAは草原地帯中央部クラスタに位置しますが、東部IAがNEA人口集団とのわずかに大きな類似性を示すのに対して、SRZG_IAの既知の標本群は、草原地帯西部関連祖先系統を有する人口集団と密接に集団化します(図2A)。東部IA(22.20%)と比較して、草原地帯西部関連mtHg-U祖先系統のより高い割合(40%)も観察され、DAPCを裏づけます(図1A)。さらに、東部IAにおける匈奴のmtHg-D4b2bに表される NEAのmtHg-D(14.8%)も見つかりました(図3E)。アジア中央部のmtHgも見つかりました。東部IAにおけるトゥーラーン固有のmtHg-T2d1(ウズベキスタンMLBA)は、トゥーラーン人口集団と共有される追加の類似性を反映している可能性が高そうです。したがって、東部IA人口集団は、NEAとヨーロッパ両方のmtHgを示すだけではなく、トゥーラーン人口集団との追加の遺伝的類似性も共有します。

 DAPCでは、西部IA人口集団はNEAとヨーロッパの人口集団の勾配に位置し、サカやフンなど草原地帯中央部のIA人口集団と密接に集団化します(図2A)。このユーラシア東西との類似性は、他の鉄器時代3地域と比較しての、ユーラシア東西のmtHgの多様な配列でも見られます(図1A)。西部IAは2つの主要なヨーロッパのmtHg-U(20.40%)およびH(18.50%)と、NEAのmtHg-C(14.80%)およびD(11.10%)を含みます(図1A)。西部草原地帯MLBA系統とのつながりも、mtHg-T2b34およびU5a2a1で観察されますが、一部地域の青銅器時代標本では観察されません。mtHg-T2b34の中央値結合ネットワークも、西部IAと西部草原地帯MLBAのつながりを示します。この高いmtHg多様性はさらに、NEAおよびヨーロッパの人口集団の多くが西部IAとひじょうに低い値を示すFST値に反映されています。

 さらに、トゥーラーン固有のmtHg-HV(HV18およびHV20)とW(W3b)の存在(図3C)は、トゥーラーンから内陸アジア山地回廊(IAMC)を通ってイリ地域への人々の移住の可能性を示唆します。mtHg-G3a3(匈奴HP)やC4a1a+195およびC4+152(天山フン)やH101(中央部サカIA)の存在などいくつかの重要な外れ値も観察され、草原地帯遊牧民集団とのつながりの可能性が示唆されます。mtHg-C4・G3a3・H101の系統発生ネットワークも、西部IAと、鉄器時代草原地帯遊牧民のサカ文化や匈奴やフンの人口集団との間のわずかな違いを有する直接的つながりを示し(図3A)、古代のサカ文化や匈奴やフンの移住におけるイリ地域の潜在的な役割を示唆します。

 新疆南部のSZGLK_IAは、DAPCで草原地帯およびアジア中央部人口集団の近くに位置するので、草原地帯およびアジア中央部との強いつながりを示しますが、SWJEZKL_IAはNEAおよび草原地帯中央部祖先系統を有する人口集団の近くに位置し、NEAのmtHg-C(25.00%)およびD(25.00%)を高頻度で有します(図1A)。mtHg分析から、SZGLK_IAはmtHg-H(26.3%)とU(5.3%)を比較的高い頻度で有しており、これらのmtHgは、西部草原地帯MLBAなど古代ユーラシア西部人口集団に存在しました。SZGLK_IAは西部草原地帯MLBAとの低いFST値も示します。

 草原地帯MLBAとのつながりは、西部草原地帯MLBAには存在するものの、西部草原地帯EMBAには存在しないmtHg-T2b34・H5a1・U5a2a1・N1a1a1aの存在により、さらに強化されます。さらに、SZGLK_IA におけるmtHg-HV12とR2+13500も、トゥーラーンからのアジア中央部のつながりを明らかにします。アジア中央部人との密接な類似性は、SZGLK_IAをイラン銅器時代およびトルクメン前期新石器時代と比較してのより低いFST値で、さらに見つかりました。さらに、SWJEZKL_IAもトゥーラーン関連系統(mtHg-H13a2a)を有しており、トゥーラーンとのいくつかのつながりが示唆されます。

 鉄器時代人口集団は全体として、激しい混合にも関わらず、新疆全域で明確な人口集団構造を示します。北部IAと高地のSWJEZKL_IAがより多くのNEA祖先系統を有する一方で、西部IAと東部IA人口集団はNEAとヨーロッパ両方の祖先系統を示し、SZGLK_IAはMLBAにおける草原地帯西部関連人口集団とのより多くのつながりを示します(図4B)。さらに、全鉄器時代人口集団はトゥーラーン人口集団との遺伝的つながりを示します。これら鉄器時代標本群において、東部IAと西部IAとSZGLK_IAは、北部IAと比較して、トゥーラーン人口集団とより多くの類似性を共有します。これはさらに、内陸アジア山地回廊(IAMC)が果たした重要な役割を示唆します。それはおそらく、この地域で広く見られたバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化集団と類似した祖先系統を有する、トゥーラーンの人々の移住増加につながりました。以下、本論文の図4です。
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●新疆における鉄器時代と歴史時代の間の遺伝的連続性

 青銅器時代と鉄器時代の個体群に加えて、鉄器時代後の遺伝的多様性をさらに評価するため、2000~500年前頃となる歴史時代の遺跡の46標本のmtDNAが配列されました。一般的に、歴史時代の個体群は新疆以外の他の古代人口集団と比較して、古代新疆人口集団と最小のFST値を示す、と明らかになりました。DAPCでは、西部HEは古代草原地帯中央部個体群とともに、西部IAやSRZG_IAやSBZL_HEやSZGLK_IAの他の鉄器時代個体群と密接にクラスタ化します(図2A)。西部HE人口集団も、西部IAに存在した、同じNEA系統(mtHg-Cが27.30%、mtHg-Gが9.10%)とヨーロッパ系統(mtHg-Hが9.10%、mtHg-Uが18.20%)を示します(図1A)。西部HE人口集団はさらに、西部IAでも見られた、フン(mtHg-C4a1a+195)とサカ文化(mtHg-H101)とトゥーラーンのmtHgを有します。西部HEと西部IAとの間の密接な類似性は、低いFSTでさらに示されます。新疆東部の歴史時代の1標本はmtHg-D4で、より多くのNEAとのつながりを示唆します。

 3ヶ所の遺跡(SBZL_HEとSSPL_HEとSHetian_HE)の南部HE個体群は、さまざまな類似性を示しました。SBZL_HEは南部HEではmtHg-D(13.3%)を有している点で独特ですが、SSPL_HEは草原地帯西部関連のmtHg-Hを高い割合(60%)で有しています(図1A)。mtHg頻度は同じパターンを示し、SBZL_HE個体群はSHetian_HE(mtHg-Cが11.1%)およびSSPL_HE(0.00%)と比較して相対的に高いNEAとの類似性(mtHg-A・C・Dで33.3%)を示し、草原地帯西部関連人口集団とのより高い類似性(SSPL_HEではmtHg-Hが60%、mtHg-Uが20%、mtHg-TおよびWが10%)を示し、DAPCでは草原地帯関連人口集団と密接に集団化します(図2A)。歴史時代の3人口集団は、草原地帯西部関連およびトゥーラーン人口集団と低いFST値を示し、同じ地域の鉄器時代人口集団(SZGLK_IA)と類似しています。しかし、南部HE標本群(SBZL_HE)と西部IAにおけるフン関連のmtHg-D4j5が見つかりました。mtHg-D4ネットワークから、西部IAとSBZL_HEは天山フンHEと少ない変異で分離しており(図3E)、鉄器時代の新疆西部と歴史時代の新疆南部との間のつながりと、イリ地域から新疆南部へのフンの南方への移動を反映しているかもしれません。


●青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の新疆個体群のミトコンドリアゲノム比較

 とりわけ、青銅器時代と鉄器時代の異なる新疆の地域間のmtHg比較は、複数の移住および混合事象の発生を示唆します(図1A)。新疆北部のEMBA人口集団は、mtHg-UおよびHにより示唆されているように、草原地帯西部関連人口集団とのより高い類似性を示していますが、鉄器時代人口集団(北部IA)は、ユーラシア東部人とのより多くのつながりを共有しており、とくに、鉄器時代と歴史時代に固有のmtHg-D4c1b1・D4e1・D4o2aなどmtHg-D4を高い割合で有するNEAで見られるつながりが多く共有されています。FST分析では一貫した結果が明らかになり、新疆北部EMBA人口集団は草原地帯西部関連人口集団との、北部IA は古代NEAとの小さな遺伝的距離を示します。青銅器時代から鉄器時代へのより多くのNEA関連祖先系統へのこの変化は、NEAと新疆北部の人口集団間のより頻繁な移住と混合を示唆します。

 新疆西部人口集団は青銅器時代と鉄器時代全体を通じてかなり一致するmtHg構成を示し、草原地帯西部関連mtHg(U5・H15)を有しますが、西部IAはNEAのmtHg(C4・G2・D4)をいくつか共有します。DAPCでは、西部IAはNEAとヨーロッパの人口集団の間に位置し、草原地帯中央部人口集団とクラスタ化します。これは、アファナシェヴォ文化と関連するEMBA個体群(北西部アファナシェヴォEMBA)とは異なります(図2A)。西部IAはトゥーラーン(トゥルクメン前期新石器時代、イラン銅器時代、イランEMBA)とのつながりも示します。したがって、青銅器時代から鉄器時代の遺伝的比較は、イリ地域の果たした重要な役割を裏づけます。イリ地域では、草原地帯関連およびNEA祖先系統を有する人口集団がひじょうに長く存続しました。

 新疆東部では、青銅器時代および鉄器時代両集団が、NEA人口集団とのより多くの類似性を示しますが、ヨーロッパ人口集団のmtHgも見つかり、NEAとヨーロッパの混合人口集団の存在が示唆されます。南部IA人口集団はトゥーラーンとのつながりを示し、西部IAと類似しており、新疆西部(イリ地域)から南部への人口集団の移住を反映しているかもしれません。IA人口集団におけるこれらのひじょうに混合した祖先系統は、歴史時代へと続きました。新疆の歴史時代には、NEAとヨーロッパの両人口集団のさまざまな移住と定住が見られたので、ユーラシア東西の両人口集団により創立され確立した「文明」を反映しています。

 さまざまな分類が異なる新疆集団間の分散にどのように影響するのか検証するため、古代新疆人口集団間で分子分散分析(AMOVA)検証が実行されました。他集団と比較すると、有意に高い値は、新疆標本群を4集団に分類する時に観察されました。その4集団とは、西部新疆(北部チェムルチェクEMBA、北部アファナシェヴォEMBA、NSSG_EMBA、西部IA、西部HE、SZGLK_IA、SSPL_HE、南部ホータンHE、SBZL_HE)、東部新疆(北部IA、SWJEZKL_IA、東部LBA)、東部IA(東部IA、SRZG_IA)、南東部小河BAです。東部新疆集団はNEA人口集団とより多くの類似性を共有し、西部新疆集団は草原地帯西部関連人口集団とクラスタ化し、東部IA集団は草原地帯中央部およびヨーロッパ人とより多くの類似性を共有します。


●新疆の現代人口集団と古代人との比較

 古代新疆人口集団がユーラシア現代人と共有する関係を決定するため、新疆個体群が地理的位置に基づいて下位4集団と比較されました。その下位4集団とは、現代NEA人口集団(pdNEA、シベリアとアジア東部北方)、アジア南東部人口集団(pdSEA、アジア東部南方とアジア南東部)、新疆および周辺地域人口集団(pdCA/XJ)、ヨーロッパとコーカサスとアジア西部を組み合わせた集団(pdEurWA)です。青銅器時代人口集団では、南東部小河BAはpdNEAのシベリア人と、東部LBAはpdNEAのアジア東部人(ツー人と日本人とモンゴル人)と最高の類似性を示しますが、新疆北部および西部EMBAはpdCA/XJおよびpdEurWAと最高の類似性を示し、それはDAPCおよびmtHg分析でも観察されます。鉄器時代と歴史時代の新疆人口集団も一般的に、pdCA/XJと高い類似性を示し、鉄器時代と歴史時代と現代の人口集団間の遺伝的つながりが示されます。さらに、新疆の北部IAおよびSWJEZKL_IAとpdNEAとの有意なつながりが観察されます。

 新疆南西部現代人には、ウイグル、キルギス、サリコル(Sarikoli)・タジク、ワハン(Wakhan)・タジクの4人口集団が含まれます。DAPCでは、ウイグルとキルギスはpdCA/XJ人口集団の近くに位置し、サリコル・タジクとワハン・タジクはpdEurWA人口集団とクラスタ化します。本論文の古代新疆標本群は、ウイグルおよびキルギスとクラスタ化し、ヨーロッパ人およびイラン人とのより多くの類似性を示すサリコル・タジクおよびワハン・タジクと比較して、アジア東部人とのより多くの類似性が示唆されます。FST分析では、新疆EMBAおよびIA個体群が、サリコル・タジクおよびワハン・タジクと比較してウイグルおよびキルギスと高い遺伝的類似性を示す一方で、新疆HE標本群はこれらの集団両方と同じような遺伝的類似性を示す、と一般的に観察されます。したがって、要約すると、シベリアとヨーロッパとアジア東部とアジア西部・中央部の全ての主要な祖先系統が、古代と現代の新疆人口集団に存在するという、古代から現代の遺伝的連続性が見つかります。


●考察

 新疆の考古学的発見は、過去の人口集団構造および移住に関する好奇心を高めました。競合する仮説の中でほとんどの考古学者が支持する見解は、古代新疆はユーラシア東西両方の人々の混合された連合だった、というものです。新疆周辺の青銅器時代および鉄器時代の人々の高い移動性と混合は、限定的な片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の以前の分析でも裏づけられています。しかし、複数の地域および期間の古代DNAの欠如のため、新疆の過去の人口構造は謎に包まれています。本論文の分析を通じて、新疆の人口集団構造と、それが青銅器時代から現代までどのように変化したのか、特徴づけられました。これらの新たなデータと結果から、ずっと詳細で広範な混合シナリオを提供できます。

 新疆周辺の青銅器時代はおもに、EMBAヤムナヤ(Yamnaya)およびアファナシェヴォ文化を含む草原地帯関連祖先系統に代表されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。たとえば、西部草原地帯EMBA人口集団は、複数のmtHg(U4・U5・H2・H6a・W3)で新疆北部の松樹溝遺跡個体群とクラスタ化します。これは、松樹溝遺跡のアファナシェヴォ様式の遺物、およびヨーロッパ人的な特徴を示すM15号墓の1個体の身体的特徴と一致します。青銅器時代新疆のチェムルチェク文化の影響の証拠も見つかりました。これは、さまざまな墓地の周囲の擬人化された彫像を伴う石柱の考古学的記録により示唆されます。

 ユーラシア東部(NEA)と西部(草原地帯西部関連)のmtHgの存在が見つかったように、新疆内の青銅器時代人口集団は遺伝的にかなり混合されていました。青銅器時代新疆の人々の高い混合にも関わらず、いくつかの特有の類似性が依然として観察されます。たとえば、草原地帯西部関連人口集団は、新疆北部および西部の人口集団(北西部アファナシェヴォEMBAと北部チェムルチェクEMBA)に、より多くのNEAとのつながりを示す新疆東部集団(東部BAおよび東部LBA)よりも多くの影響を及ぼしたようです。NEAとのつながりは、青銅器時代新疆東部の最初の既知の文化である、天山北路文化(3900年前頃)の考古学的に仮定された形成と一致します。新疆の東方に位置する甘粛省の馬家窯・馬廠(Machang)文化は、新疆東部で天山北路文化を、河西回廊でシバ(Siba)文化を形成した、と示唆されました。青銅器時代新疆東部の個体群(東部BA、天山北路文化)も甘粛省・青海省地域(GQ)の人口集団と身体的類似性を示しました。これらの報告と一致して本論文では、新疆東部の後のLBA人口集団も、古代GQ人口集団(GQ斉家BAとGQ卡約LBA)との遺伝的つながりを示す、と明らかになりました。

 新疆東部(東部BAと東部LBA)におけるいくつかのユーラシア西部関連mtHgの存在は、ヨーロッパ人的な身体的特徴を有する何人かの個体や、いくつかのユーラシア西部の特徴を有する天山北路文化遺跡の埋葬形態や装飾品や道具とさらに一致します。しかし、南東部小河BA人口集団は、古代および現代のシベリア人口集団とより多くのつながりを示します(図4A)。小河遺跡の考古学的発見には、コムギとキビの穀粒が含まれており、内陸アジア山地回廊(IAMC)沿いの、アジア西部文化と中国北部文化両方からのつながりと交換の可能性が示唆されます。このシナリオは、NEAとユーラシア西部両方からの移住が、青銅器時代新疆人口集団にかなりの影響を及ぼした、と示唆している可能性があります。アファナシェヴォやチェムルチェクやボタイなど、全てのこれら草原地帯関連文化は、おそらくIAMC経路を用いて新疆でその存在を確立した、アルタイ文化の一形態を表せます。さらに、NEAおよびシベリア人との新疆東部および南部青銅器時代人口集団の類似性も、新疆の青銅器時代におけるNEAとシベリアからのより大きな影響を示唆します。

 新疆の鉄器時代標本群は、ユーラシア東西系統とのより多くの混合であり続けましたが、青銅器時代と同様に、特定の地域はNEAとヨーロッパの人口集団へのさまざまな類似性を示しました。新疆北部の鉄器時代人口集団は、より多くの古代NEAとのつながりを示しましたが、新疆西部および東部の人口集団(西部IAおよび東部IA)は、NEAとヨーロッパ(トゥーラーンおよび草原地帯西部関連)両方の人口集団との類似性を有しました。新疆西部鉄器時代において、ユーラシア東西との混合された類似性は、混合された文化的および身体的類似性を反映しているかもしれません。

 新疆西部の前期鉄器時代の索墩布拉克(Suodunbulake)文化の埋葬構造は、アムダリヤ(Amu Darya)のアジア中央部サパリ(Sapali)およびワケシ(Wakeshi)文化と類似しています。索墩布拉克文化の彩色土器はユーラシア東部文化をより想起させますが、索墩布拉克文化と関連する個体群は、より多くのヨーロッパ人的特徴を有します。鉄器時代初期のスキタイ人によるイリ地域の占領も、鉄器時代新疆西部におけるユーラシア東西両方の人口集団との共有された類似性を説明できるかもしれません。東部IAで観察された継続的なNEAとのつながりは、青銅器時代の天山北路文化および鉄器時代の焉不拉克(Yanbulake)文化との間の連続性を反映しており、焉不拉克文化はさらに、新疆のチェムルチェク文化や新塔拉(Xintala)文化と同様に、甘粛省の辛店(Xindian)文化に影響を受けました。

 新疆南部の人口集団(SZGLK_IA)は、西部草原地帯MLBAおよびトゥーラーンとのより多くのつながりを示しますが、新疆南部の高地の人口集団(SWJEZKL_IA)は、NEAとのより多くのつながりを示します。一部の新疆人口集団の地域的な選好、とくに新疆の南西部と北東部との間の分化から、鉄器時代はひじょうに相互作用的な期間だった、と示唆されます。紀元前200年頃から、新疆を通過するシルクロードが、ユーラシア全域での人口集団移動の促進に影響を有するようになりました。新疆北部の鉄器時代標本群(北部IA)は、GQ地域の河西回廊のNEA人口集団とのより密接な類似性を示す点で、新疆北部のEMBA標本群とは異なる、と明らかになりました。さらに、新疆南部の鉄器時代標本群(SZGLK_IA)も、NEA系統(mtHg-C7b・D4i・D4j1b)を有しており、中国北部とタリム盆地との間のつながりが示され、シルクロード沿いのタリム盆地への人口集団移動の影響と一致します。

 歴史時代の人口集団はNEAおよびヨーロッパ両系統を示し続け、新疆における人々の高い移動と混合の維持を反映しています。これら歴史時代の人口集団はひじょうに混合されており、異なる文化的類似性の共存する社会でした(図4C)。北部IAと西部IA両方の人口集団は、サカ文化関連系統を有していると明らかになり、サカ文化の人々は新疆北部および西部で鉄器時代人口集団と混合したかもしれない、と示唆されます。天山の東西両方の人口集団(東部および西部IA)で見られる匈奴系統(図3E)は、紀元前3世紀もしくは紀元前2世紀頃の匈奴人口集団の西方への拡大と一致します(関連記事)。フン人のmtHgが新疆南部の(鉄器時代ではなく)歴史時代の標本群(紀元後421~538年頃のSBZL_HE)で観察され、フン人のスキタイ人口集団への侵略および紀元後4~5世紀のフン・スキタイ人の形成と一致し(関連記事)、歴史時代におけるイリ地域からこのフン伝統への南方への移動を示唆します。

 新疆東部は、消滅したインド・ヨーロッパ語族のトカラ語と関連しています(関連記事)。古代の写本に基づくと、トカラ語は新疆中央部で紀元後500~900年頃まで存在していました。一般的に、考古学者はトカラ語を新疆のアファナシェヴォ文化の人々と関連づけています。青銅器時代遺跡群に関する本論文の結果は、タリム盆地の小河遺跡個体群が古代シベリア人口集団と深い祖先的つながりを有している一方で、新疆北部および西部の他のEMBA人口集団はより多くの草原地帯EMBA(アファナシェヴォ文化)とのつながりを示す、という複雑なシナリオを提案します。したがって、おそらくトカラ語は、アファナシェヴォ文化など草原地帯関連祖先系統と関連する人口集団とともに新疆に到来しました。しかし、他の新疆EMBA(4500年前頃)よりも後になる小河遺跡(3900~3500年前頃)個体群は、代わりに古代シベリア人との深いANEのつながりを有しているので、この仮説の確定にはより多くの標本抽出が必要でしょう。

 別の古代言語であるコータン語はインド・イラン語派と関連しており、タリム盆地南部のコータンのニヤ(Niya)遺跡(紀元後200~500年頃)の古代の記録で最初に観察され、本論文のタリム盆地の標本群(紀元後74~226年頃のSSPL_HE、紀元後138~345年頃の南部ホータンHE、紀元後421~538年頃のSBZL_HE)と同時代です。コータン語は、紀元前200年頃のサカ文化の新疆への拡大と関連しています。多くの鉄器時代および歴史時代の新疆人口集団とサカ文化個体群との遺伝的類似性も観察され、新疆における広範な存在が示唆されます。

 まとめると、新疆のミトコンドリアゲノムの歴史は、草原地帯西部関連と草原地帯中央部とアジア北東部とトゥーラーンの遺伝子移入により強く特徴づけられ、さまざまな古代人口集団の連合が青銅器時代から歴史時代にかけてはっきりと見られます。この混合は新疆の現代人口集団の基礎を形成し、古代ゲノムデータを伴う将来の研究は、新疆におけるより多くの混合パターンを明らかにするでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、あくまでもmtDNAデータに基づいており、核ゲノムデータではやや異なる人口史が、Y染色体ではもっと異なる人口史が示されるかもしれませんが、広範な時代と地域のmtDNAデータに基づいており、たいへん意義深いと思います。確かに、mtDNAでは母系の人口史しか明らかになりませんが、核DNAと比較すると解析がずっと容易なので、より広範な地域と時代のより多くの個体を対象とした古代DNA研究が可能になる、という利点もあります。その意味で、本論文のようにmtDNAを用いた古代DNA研究は、今後も続けられていくでしょう。


参考文献:
Wang W. et al.(2021): Ancient Xinjiang mitogenomes reveal intense admixture with high genetic diversity. Science Advances, 7, 14, eabd6690.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd6690

安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』

 イースト・プレスより2017年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。島津久光の一般的な印象は、今でもたいへん悪いように思います。時代錯誤の頑迷な保守派で、名君である異母兄の斉彬と比較して人物は大きく劣り、明治維新の功績は久光ではなく大久保利通たち家臣のもので、それどころか、久光は家臣たちに騙されて討幕に加担してしまった間抜けな人物だった、というわけです。最近では、久光の評価が見直されており、幕末における主導的な役割が認められている、と一般向けの本や雑誌でも指摘されているので、一度まとまった本を読もうと考えて、本書を購入しました。

 本書は久光の評伝ですが、幕末から明治にかけての激動の時代に久光を位置づけるため、鎌倉時代にさかのぼって島津家の歴史を解説します。本書がとくに重視するのは、江戸時代において島津家と徳川将軍家との間には姻戚関係があった、ということです。島津家は将軍の御台所を二人も輩出しており、徳川将軍家とは、相互に警戒しつつも、密接な関係を築いていました。本書は、こうした関係を前提として、島津家中では討幕路線が主流ではなかった、と指摘します。西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩では非主流派だった、というわけです。討幕に薩摩藩の主流派が消極的だったのは、薩英戦争による打撃で出費が増加したことも一因でした。しかし、久光が健康状態の悪化により政治から離れた時期に、西郷と大久保が主導して薩摩藩は討幕へと動きます。

 薩摩藩が最終的に西郷隆盛や大久保利通の武力討幕に踏み切った要因として、徳川慶喜への不信感があります。慶喜が将軍に就任してからしばらくは、薩摩藩と幕府との関係は良好でしたが、四侯会議の結果、慶喜には雄藩と協調する意思はない、と島津久光や他の薩摩藩有力者は判断しました。ただ、それが直ちに薩摩藩における武力討幕路線の確立につながったのではなく、上述のように、久光を筆頭に武力討幕路線を拒否する有力者は少なくありませんでしたが、久光が病気で政治的影響力を低下させ、上京した息子で藩主の茂久は、西郷の強硬路線を支持しました。不本意ながら幕府を滅亡に追い込んだ薩摩藩主流派にとって、明治時代に大きな課題となったのは徳川家との関係修復でした。これは、島津家と徳川家との姻戚関係の復活として果たされました。

 本書は、西郷と大久保が主導した薩摩藩による討幕という幕末史像を、島津久光を中心とした観点から見直し、明治時代の島津家と徳川家との関係修復にも言及しており、通俗的ではなく、近年の研究に基づいた歴史を学ぶのに適した一般向け書籍になっている、と思います。薩長同盟に関しては、軍事同盟ではなく、長州藩の復権を支援する盟約にすぎなかった、と指摘されています。久光(というかその両親)派と斉彬派との激しい対立は有名ですが、久光は個人的には、斉彬と強い信頼関係で結ばれていた、と本書は指摘します。

南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性

 南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性に関する研究(Castro e Silva et al., 2021)が公表されました。南アメリカ大陸の現代および古代の先住民と、アジア南部の現代の先住民・オーストラリア先住民・メラネシア人との間の遺伝的類似性が、以前に報告されました(関連記事1および関連記事2)。このオーストラレシア人とアメリカ大陸先住民のつながりは、人類における最も興味深く、よく理解されていない事象の一つとして存続しています。

 議論となっているこのオーストラレシア人口集団の遺伝的構成要素は、ユピケラ(Ypikuéra)人口集団もしくは「Y人口集団」構成要素と呼ばれており、現代アマゾン人口集団でのみ特定されており(関連記事)、アマゾン地域の人々の形成につながる少なくとも2つの異なる創始者の波があった、と示唆されます。その最初の波は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)停止人口集団の直接的子孫で構成されていると推測され、第二の波は、ベーリンジア人口集団ともっと新しくベーリンジアに到達したアジア南東部人の祖先の混合人口集団により形成された、と推測されました。これら両人口集団はアマゾン地域に定住し、混合したでしょう。

 在来遺伝子プールへの標本抽出されていない人口集団の寄与は、オーストラレシア人と共有される祖先系統の起源につながった、と考えられています(関連記事)。この意味で、Y人口集団はアメリカ大陸最初の植民集団の一部だったでしょう。南アメリカ大陸の古代標本のデータは、1万年前頃の弱いY兆候を示します(関連記事)。この証拠は、Y祖先系統が、アジア南東部から南アメリカ大陸に入ってくる第二の波というよりはむしろ、アジア北東部に居住していたアメリカ大陸先住民の共通祖先にさかのぼるかもしれない、と示唆します。

 さらに、新たな研究(Ning et al., 2021)の一連の証拠から、最初のアメリカ大陸先住民クレード(単系統群)は、ベーリンジアではなくアジア東部で分岐したと示唆されており、祖先的アジア東部人集団からのY祖先系統の遺伝子流動の可能性がさらに高まっています。しかし、現代および古代の集団間の兆候の不足は、検出の地域特有で明らかに無作為のパターンとともに、それが、アマゾン人口集団(および他の南アメリカ大陸先住民)が経てきた強い遺伝的浮動効果に起因する、偽陽性検出である可能性を高めました。しかし、逆の可能性もあります。それは、Y人口集団の兆候が一部人口集団で高い遺伝的浮動効果のために有意水準を下回った、という想定です。この問題を解明するため、南アメリカ大陸人口集団からのゲノムデータの、現時点で最も包括的な一式となるデータセットが調べられました(383個体の438443ヶ所の指標)。これらのデータは倫理的承認を経ています。

 本論文の結果は、以前にアマゾン人口集団に限定されると報告されたオーストラレシア人の遺伝的兆候が、太平洋沿岸人口集団でも特定されたことを示し、南アメリカ大陸におけるより広範なY人口集団の兆候が指摘され、これは太平洋とアマゾンの住民間の古代の接触を示唆している可能性があります。さらに、この遺伝的兆候の人口集団間および人口集団内の変異の有意な量が検出されました。

 この過剰なアレル(対立遺伝子)共有の存在を検証するために、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)が実行され、YとZは在来集団もしくは本論文のデータセットの個体群が対象とされました。ここでの「オーストラレシア人」とは、オーストラリア先住民とメラネシア人とアンダマン諸島のオンゲ人とパプア人です。集団間の検証では、兆候の検出がアマゾンのカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)で再現されましたが、太平洋沿岸のモチカ人(Mochica)の子孫であるチョトゥナ人(Chotuna)や、ブラジル中央西部のグアラニ・カイオワ人(Guaraní Kaiowá)や、ブラジル高原中央部のシャヴァンテ人(Xavánte)でも観察されました。最大の無関係な個体群一式を用いると、Y人口集団の兆候はカリティアナ人とスルイ人とグアラニ・カイオワ人で有意な水準を失いました。しかし、この兆候は太平洋沿岸人口集団とブラジル中央部先住民でまだ明らかでした(図1)。以下、本論文の図1です。
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 また、一部の個体が同じ人口集団の他者よりも多数の有意な検証を示すのかどうか、検出することも目的とされました。これは、陽性人口集団内の不均一な遺伝的祖先系統を示唆しているかもしれません。じっさい本論文の分析では、一部の個体が過剰なアレル共有を示すより多くの検証を示しましたが、一部は他者との比較でこの祖先の有意な不足を示す可能性も高い、と明らかになりました(図2)。これらの結果から、完全な一式から最大限無関係な標本一式までの変化における兆候の重要性の喪失が、最初の場所で検証された標本間の関連性により引き起こされた偏りの除去というよりもむしろ、オーストラレシア人と共有しているアレルのより高い水準を有する特定の個体群の除外により起きたことは明らかです。以下、本論文の図2です。
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 これは、この兆候の有意な変動が人口集団間水準だけではなく、同じ人口集団の個体間でも存在する、という強い証拠を提供します。これらの結果は、この兆候の人口集団内の変動が稀ではなく(図2)、アパライ人(Apalai)やグアラニ・ニャンデヴァ人(Guaraní Nãndeva)やカリティアナ人やムンドゥルク人(Munduruku)やパラカナ人(Parakanã)やシャヴァンテ人といった、いくつかの集団で観察されることを示唆します。最も有意な検証では、トゥピ(Tupí)語族話者個体群でこの過剰な兆候が検出されましたが、その兆候は主要な全言語集団でも検出され、同時に、南アメリカ大陸内で広範な地理的分布を示しました(図1)。逆に、かなりの数の標本が、オーストラレシア人と共有するアレルの欠損を有している、と推測されました(図2)。一際目立つのは、パラカナ人の1個体(PAR137)で、有意な検証の極端に高い割合(31.64%)を示し、相対的な不足を示唆します。PAR137は、アメリカ大陸先住民標本の主成分分析でも、欠測率に関しても、無関係で混合されていない下部一式の標本間の対の遺伝的距離MDS(多次元尺度構成法)でも、外れ値ではありません。さらに、南アメリカ大陸の現代先住民集団間のY人口集団祖先系統分布は、民族言語的多様性もしくは地理的位置との関係を示しませんでした。

 中央および南アメリカ大陸先住民集団の祖先系統をさらに特徴づけるため、qpWaveで実行された以前の一連の検証(関連記事)が再現され、これら人口集団の形成に必要な祖先系統の波の最小限の数が調べられました。基本的に、世界の6地域(サハラ砂漠以南のアフリカ、ヨーロッパ西部、アジア東部、アジア南部、シベリアおよびアジア中央部、オセアニア)のそれぞれの4人口集団を外群として、混合されておらず無関係な3個体以上のアメリカ大陸先住民14集団が検証集団として選択されました。これらの集団はいくつかの組み合わせで検証されました。その結果、以前の検証により得られた推定値が再現され、中央および南アメリカ大陸先住民人口集団の現代の遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2つの移住の波が必要と示唆されます。

 太平洋沿岸のチョトゥナ人も、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)により推定されるようにオーストラレシア人と共有する過剰なアレルを示したので(図1)、以前の研究(関連記事)に基づいて、セチュラ人(Sechura)とチョトゥナ人とナリフアラ人(Narihuala)という太平洋沿岸集団を追加して、混合グラフモデルが作成されました(図3A)。最適モデルでは、カリティアナ人やスルイ人でも観察されたように、太平洋沿岸は、南アメリカ大陸祖先系統と、オンゲ人との姉妹系統と関連する小さな非アメリカ大陸先住民の寄与の混合集団である、と示されました(図3C)。シャヴァンテ人が分析に含まれると、最適モデルは、太平洋沿岸におけるオーストラレシア人構成要素の直接的寄与を示し、その後、この兆候の強い浮動が続き、アマゾン集団が形成されました(図3D)。図3Dはオーストラレシア人関連祖先系統からの独立した2回の混合事象を示唆しますが、このモデルの結節点間の小さな遺伝的距離は、単一の混合事象の証拠を強固にしました。Treemix分析も、太平洋沿岸とアンデス集団がまず分岐し、続いてアンデス東部斜面人口集団が、最後にアマゾン集団と他の南アメリカ大陸東部集団が分岐した、という多様化のパターンを示しました。これらの知見から、Y人口集団の寄与はアマゾン系統の形成前にもちらされ、太平洋沿岸およびアマゾン人口集団の祖先だった可能性が高い、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
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 南アメリカ大陸へのさまざまな移住経路が以前に提案され、証明されてきました。考古学的および遺伝学的データでは、太平洋沿岸と内陸部の両経路が最初の移民に用いられた可能性が高い、と示されました。本論文のモデルは、太平洋沿岸とアマゾンの人口集団間の古代の遺伝的類似性を指摘し、それは両地域集団のY祖先系統の存在により説明できます。さらに、この共有された祖先系統の導入は、太平洋沿岸系統とアマゾン系統の分離に先行するようで、西岸からの拡散と、ブラジルの人口集団における遺伝的浮動の連続事象が続く、と示されます。南アメリカ大陸太平洋沿岸におけるY祖先系統の遺伝的証拠から、この祖先系統は太平洋沿岸経路でこの地域に到達した可能性が高いので、これまでに研究された北および中央アメリカ大陸の人口集団におけるこの遺伝的構成要素の欠如を説明できる、と示唆されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、アマゾン地域の現代先住民集団の一部と、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)で発見された10400年前頃の1個体で確認されていた、オーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域(Y祖先系統)が、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることを示しました。この問題はひじょうに謎めいており、以前から注目されていたので、新たな手がかりを提示した点で、本論文の意義は大きいと思います。本論文でも、このY祖先系統の正確な起源はまだ明らかになっていませんが、南アメリカ大陸で太平洋沿岸集団とアマゾン集団が分離する前にすでにもたらされていたようですから、南アメリカ大陸への(現代の南アメリカ大陸先住民集団の主要な祖先である)人類集団の初期の移住の時点で、Y祖先系統がすでに存在していた可能性は高そうです。

 最近のアジア東部における古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、Y祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、と考えられます。北および中央アメリカ大陸の先住民集団でY祖先系統が確認されないのは、Y祖先系統を有する集団が北および中央アメリカ大陸にはほとんど留まらず急速に南アメリカ大陸に拡散したか、北および中央アメリカ大陸に留まったものの、後にY祖先系統を有さないアメリカ大陸先住民集団に置換されたか、ヨーロッパ勢力の侵略後の大規模な人口減少の過程で消滅した、と推測できます。もちろん、これは現時点での推測にすぎず、この問題の解明には、現代アメリカ大陸先住民のさらに広範囲なゲノム分析と、何よりも古代DNA研究のさらなる進展が必要になるでしょう。


参考文献:
Castro e Silva MA. et al.(2021): Deep genetic affinity between coastal Pacific and Amazonian natives evidenced by Australasian ancestry. PNAS, 118, 14, e2025739118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2025739118

Ning C. et al.(2021): The genomic formation of First American ancestors in East and Northeast Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.12.336628

中新世の巨大海生蠕形動物

 中新世(2300万~530万年前頃)の巨大海生蠕形動物に関する研究(Pan et al., 2021)が公表されました。この研究は、中新世に形成された台湾北東部の海底層内に保存されていた319点の標本を用いて新しい生痕化石(石中に保存されている巣穴・足跡・植物根による空洞などの地質学的特徴で、古代生物の行動についての結論を導き出せます)を復元し、新種(Pennichnus formosae)と分類しました。この生痕化石には、長さ約2m、直径2~3cmのL字型の巣穴が含まれていました。

 新種の形態から、この巣穴に生息していたのは巨大な海生蠕形動物であった可能性が高い、と示唆されています。そうした蠕形動物の1つがオニイソメ(Eunice aphroditois)で、現在も生息しています。オニイソメは、海底の細長い穴の中に隠れて、勢いよく飛び上がって獲物を捕らえます。この研究は、新種に残されていた特徴的な羽毛様の崩壊構造が、古代の蠕形動物が海底の堆積物の中に獲物を引き込んだときに形成されたもので、巣穴周辺の堆積物の攪乱を示している、と推測しています。

 また、さらなる分析から、巣穴の上部に向かって鉄の濃度が高くなっている、と明らかになりました。この研究は、海生無脊椎動物が分泌する粘液を餌とする細菌は鉄を多く含む環境を作り出す、との知見を踏まえて、古代の蠕形動物が粘液を分泌して巣穴の壁を強化していた、と推測しています。海生蠕形動物は古生代前期から存在していましたが、その胴体は主に軟組織から構成されているため、保存されていることはほとんどありません。この生痕化石は、地下で待ち伏せをする捕食者の初めての化石と考えられ、この生物の海底下での行動を垣間見る貴重な機会を提供します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代の海底に巨大な海生蠕形動物が定住していたことが示す巣穴の化石

 今から約2000万年前、オニイソメ(Eunice aphroditois)の祖先かもしれない巨大な待ち伏せ型捕食者である蠕形動物が、ユーラシア大陸の海底に定住していたと考えられることを示した論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。この知見は、台湾北東部で見つかった中新世(2300万~530万年前)の海底層にあった大きなL字型の巣穴を再構築した結果に基づいている。

 今回、Ludvig Löwemarkたちは、中新世に形成された台湾北東部の海底層内に保存されていた319点の標本を用いて新しい生痕化石を復元し、Pennichnus formosaeと命名した。生痕化石とは、岩石中に保存されている巣穴、足跡、植物根による空洞などの地質学的特徴であり、古代生物の行動についての結論を導き出すことができる。Pennichnusには長さ約2メートル、直径2~3センチメートルのL字型の巣穴が含まれていた。

 Pennichnusの形態からは、この巣穴に生息していたのが巨大な海生蠕形動物であった可能性の高いことが示唆されている。そうした蠕形動物の1つがオニイソメで、現在も生息している。オニイソメは、海底の細長い穴の中に隠れて、勢いよく飛び上がって獲物を捕らえる。Löwemarkたちは、Pennichnusに残されていた特徴的な羽毛様の崩壊構造が、古代の蠕形動物が海底の堆積物の中に獲物を引き込んだときに形成されたものであり、巣穴周辺の堆積物のかく乱を示していると考えている。また、さらなる分析から、巣穴の上部に向かって鉄の濃度が高くなっていることが明らかになった。これについて、Löwemarkたちは、海生無脊椎動物が分泌する粘液を餌とする細菌は鉄を多く含む環境を作り出すことが知られていることを踏まえて、古代の蠕形動物が粘液を分泌して巣穴の壁を強化していたという考えを示している。

 海生蠕形動物は古生代前期から存在していたが、その胴体は主に軟組織から構成されているため、保存されていることはほとんどない。今回示された生痕化石は、地下で待ち伏せをする捕食者の初めての化石と考えられ、この生物の海底下での行動を垣間見る貴重な機会を提供してくれる。



参考文献:
Pan YY. et al.(2021): The 20-million-year old lair of an ambush-predatory worm preserved in northeast Taiwan. Scientific Reports, 11, 1174.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-79311-0

2021年度アメリカ自然人類学会総会(ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域差)

 来月(2021年4月)7日~4月288日にかけて、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市で第90回アメリカ自然人類学会総会が開催される予定ですが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2) により起きる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、オンライン開催となるそうです。アメリカ自然人類学会総会では、最新の研究成果が多数報告されるだけに、古人類学に関心のある私は大いに注目しています。総会での各報告の要約はPDFファイルで公表されているのですが、まだいくつかの報告をざっと読んだだけです。とりあえず今回は、とくに興味深いと思った、ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響の地域差報告(Witt et al., 2021)を取り上げます(P115)。

 ネアンデルタール人由来のゲノム領域は、は全ての現代ユーラシア人口集団で見つかりますが、不均一に分布しており、アジア東部人はヨーロッパ人よりもゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域が優位に多い、と報告されています。具体的には、ヨーロッパ人も含めてユーラシア西部現代人では1.8~2.4%、アジア東部現代人では2.3~2.6%と推定されていますが(関連記事)、両者の違いはこの推定より低い、との見解も最近提示されました(関連記事)。この違いに関しては、ネアンデルタール人からのアジア東部現代人の祖先集団への追加のネアンデルタール人からの遺伝子流動や、ネアンデルタール人からの遺伝的影響をほとんど受けていない現生人類集団(基底部ユーラシア人)とユーラシア西部現代人の祖先集団との混合による「希釈」の効果(関連記事)など、複数の人口統計学的モデルがこの違いを説明するために提案されてきました(関連記事)。

 この研究は、以前から報告されてきたユーラシア東西間のネアンデルタール人からの遺伝的影響の程度の違いを解明するため、1000人ゲノム計画のデータに基づいて、現代ユーラシア人口集団における古代型の一塩基多型を識別し、ヨーロッパ人口集団とアジア東部人口集団との間の個体および人口集団特有の古代型網羅率のパターンを比較しました。その結果、アジア東部人とヨーロッパ人は、人口集団全体でほぼ同じ数の古代型アレル(対立遺伝子)を有しているものの、アジア東部人は個体間で共有されるアレルの割合がより高いので、ヨーロッパ人よりも個体あたりのネアンデルタール人由来の多様体の数が多くなる、と示されました。

 次に、「追加の古代型遺伝子流動」仮説および「希釈」仮説と一致する人口統計学的モデルを用いてシミュレーションが実行され、どの人口統計学的仮説が、ヨーロッパ人と比較してアジア東部人において、より多い個体あたりのアレル数があるものの、人口集団あたりのアレル数は類似していることと最も一致するのか、検証されました。その結果、どちらの人口統計学的モデルも経験的結果を個別に複製しませんが、これらのモデルの組み合わせは、ユーラシア現代人で見られるような、個体および人口集団全体のアレル分布をもたらしました。

 したがって、ユーラシア現代人全体におけるネアンデルタール人由来のアレルの分布は、ネアンデルタール人と現生人類との間の複数回の相互作用、および、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けたユーラシア西部現代人の祖先集団と、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けていない仮定的な(ゴースト)人口集団(基底部ユーラシア人)との間の遺伝子流動の結果と推測されます。おそらく、本論文が指摘するように、複数の複雑な要因により、ユーラシア現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来領域の割合の地域差が生じたのでしょう。なお、アメリカ自然人類学会総会に関するこのブログの過去の記事は以下の通りです。


2020年度(第89回)
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_16.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_29.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_30.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_36.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_46.html

2019年度(第88回)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_50.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_51.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_53.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_1.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_10.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_11.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_23.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_24.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_34.html

2018年度(第87回)
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_46.html

2017年度(第86回)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_13.html

2016年度(第85回)
https://sicambre.at.webry.info/201606/article_23.html

2015年度(第84回)
https://sicambre.at.webry.info/201504/article_15.html

2014年度(第83回)
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_22.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_34.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_5.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_7.html

2013年度(第82回)
https://sicambre.at.webry.info/201304/article_30.html

2012年度(第81回)
https://sicambre.at.webry.info/201204/article_20.html

2011年度(第80回)
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_27.html

2010年度(第79回)
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_23.html

2009年度(第78回)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_27.html

2008年度(第77回)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_20.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_32.html

2007年度(第76回)
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_32.html
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_11.html


参考文献:
Witt ‪KE, Villanea FA, Huerta-Sánchez E.(2021): Accounting for Neanderthal ancestry differences in Eurasians using archaic SNP identification and simulations. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

スキタイ人集団の遺伝的構造

 スキタイ人集団の遺伝的構造に関する研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)が公表されました。鉄器時代への移行は、ユーラシア史において最重要事象の一つです。紀元前千年紀の変わり目に、考古学的記録の変化は、アルタイ山脈からポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)西端までの草原地帯全域の、いくつかの遊牧民文化の台頭を証明します。これらの文化は、その埋葬文脈で見られる共通の特徴に基づいて、まとめてスキタイとよく呼ばれます。先行する青銅器時代人口集団と比較して、スキタイは定住型から遊牧型の牧畜生活様式への移行を経ており、戦争の増加と、鉄製武器の新様式や鞍の導入を含む乗馬技術など軍事技術の進歩と、階層的なエリートに基づく社会の確立を示しました。

 以前のゲノム研究では、青銅器時代草原地帯において大規模な遺伝的置換(したがって、かなりの人類の移住も)が検出され、それは最終的に、西部および中央部草原地帯の定住牧畜民を特徴づける、均質で広範に拡大した中期~後期青銅器時代遺伝子プールの形成をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら中期~後期青銅器時代(MLBA)クラスタの急速な衰退とスキタイの台頭を促した理由は、まだよく理解されていません。研究者たちが指摘してきたのは、最も関連する要因のなかで、気候湿潤化と、近隣農耕文化(文明)、つまりバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化と関連する文化からの社会経済的圧力です。

 スキタイ人の起源に関しては、競合する3仮説が議論されてきました。第一に、推定されるイラン語により支持されるポントス・カスピ海草原起源説です。第二に、考古学的知見により支持されるカザフ草原起源説です。第三に、共通の文化的特徴を採用した遺伝的に異なる集団の複数独立起源説です。これまでに鉄器時代草原地帯遊牧民から回収されたゲノムの数は限定的で、スキタイ人の遺伝的多様性を一瞥できるものの、さまざまなユーラシア東西の遺伝子プール間の混合の複雑なパターンを特徴づけるには、とても充分ではありません(関連記事1および関連記事2)。

 考古学的観点からは、遊牧民戦士文化と関連する最初の鉄器時代埋葬は、カザフ草原東端の、トゥワ(Tuva)とアルタイ地域で特定されました(紀元前9世紀)。この初期の証拠に続いて、カザフスタン中央部および北部のタセモラ(Tasmola)文化は、最初の主要な鉄器時代遊牧民戦士文化の一つです(紀元前8世紀~紀元前6世紀)。これらの早期集団の後には、カザフスタン南東部と天山(Tian Shan)山脈に位置する象徴的なサカ(Saka)文化(紀元前9世紀~紀元前2世紀)や、アルタイ山脈を中心とするパジリク(Pazyryk)文化(紀元前5世紀~紀元後1世紀)や、ウラル南部地域に最初に出現し(紀元前6世紀~紀元前2世紀)、コーカサス北部やヨーロッパ東部にまで西進した(紀元前4世紀~紀元後4世紀)サルマティア人(Sarmatian)が続きます。遊牧民集団も、トボル(Tobol)川とエルティシ(Irtysh)川との間の北部森林草原地帯に位置する、サルガト(Sargat)文化遺構(紀元前5世紀~紀元前1世紀)と関連する文化など、その定住型隣人に影響を与えました。

 鉄器時代後のカザフ草原は、東方の匈奴(Xiongnu)や鮮卑(Xianbei)、南方のペルシア人関連王国の康居(Kangju)など、複数の帝国の拡大の中心として機能しました。これらの事象は、スキタイ東部文化の終焉をもたらしましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的交代はよく理解されていないままです。さらに、遊牧民生活様式の形態は、何世紀にもわたってカザフ草原で存続しました。遊牧民人口集団の最近の歴史における重要な事象は、紀元後15・16世紀に起きました。この時、現在のカザフスタンの領域に住む全部族が組織化され、主要な3ジュズ(Zhuz)に分類されました。それは、長老(Elder)ジュズと中年(Middle)ジュズと若年(Junior)ジュズで、それぞれカザフスタンの南東部・中央部および北東部・西部に位置します。ジュズとは、本来「100」を意味する言葉で、「(カザフ人全体の中の)部分」を意味する、民族と部族の中間概念とのことです(関連記事)。

 この分割はアジア中央部全域に拡大し、ジョチ・ウルス崩壊後に外部の脅威から自衛する必要があった、異なる部族間の政治的で宗教的な妥協でした。これは、カザフ・ハン国(紀元後1465~1847年)設立の基礎を築きました。現在、カザフスタンのカザフ人集団は依然として、その部族同盟を維持しており、その文化の一部の側面を維持しながら遊牧民の歴史を尊重しています。これらの伝統の一つは、親族間の結婚を避けるために父系により家系図を7世代までさかのぼる「ジェティ・アタ(Zheti-ata)」です。

 さまざまな鉄器時代遊牧民文化の遺伝的構造や、その起源と衰退に関する人口統計学的事象を理解するため、カザフ草原全域(カザフスタンとキルギスとロシア)の39ヶ所の遺跡で回収された古代人111個体と、現在のハンガリーに位置するフン人エリートの埋葬から回収された1個体のゲノム規模データが生成されました。本論文のデータセットの範囲はおもに紀元前8世紀~紀元後4世紀までで、中世の3個体も含みます(図1)。また、最近の歴史事象が現代遊牧民の遺伝的構造をどのように形成してきたのか、よりよく理解するため、現在のカザフスタンの全域にわたる、主要な3ジュズに分類されるいくつかの部族に属する現代カザフ人96個体の新たなゲノム規模データも生成されました。

 1233013ヶ所の一塩基多型を濃縮するよう設計されたDNA解析技術を用いて、古代人117個体のゲノム規模データが得られました。品質管理の後、現代カザフ人96個体と古代人111個体のデータが保持され、少なくとも2万ヶ所を超える一塩基多型が網羅され、全個体で常染色体網羅率1.5倍のゲノム規模データが得られました。これら新たなデータは、以前に公開された現代および古代の個体群の参照データセットと統合され、586594ヶ所の一塩基多型で主成分分析および混合分析が行なわれました。各個体は、年代と考古学的文化により分類されました。以下、本論文の図1です。
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●カザフ草原における鉄器時代の移行

 全体として、主成分分析とADMIXTUREでは、かなりの人口統計学的変化がカザフ草原の青銅器時代から鉄器時代の移行期に起きた、と示唆されます(図2)。紀元前二千年紀末までカザフ草原全域で見られるひじょうに均質な草原地帯中期~後期青銅器時代(MLBA)とは対照的に、鉄器時代個体群は主成分分析空間全体、とくにPC1軸とPC3軸に散らばっています。これらPC軸に沿った広がりはそれぞれ、MLBA人口集団と比較しての余分なユーラシア東部人との類似性と、最終的には新石器時代イラン人および中石器時代コーカサス狩猟採集民(以下、イラン人関連祖先系統と呼ばれます)と関連する南部人口集団との余分の類似性の、さまざまな程度を示唆します。

 高い遺伝的多様性にも関わらず、同じ文化および/もしくは地域の古代の個体群の均質なクラスタを評価できます。年代順に従うと、前期鉄器時代タセモラ文化と関連する遺跡の個体群のほとんど(タセモラ650BCE)と、カザフスタン中央部・北部の「サカ文化カザフスタン中央部・北部600BCE」は、主成分分析の中央部でクラスタ化し、ADMIXTURE分析では遺伝的構成要素の均一なパターンを示します(図2A・D)。トゥワのアルディベル(Aldy-Bel)文化遺跡の以前に報告された2個体も、この遺伝的集団内に収まります(図2A)。この遺伝的特性は後の中期・後期鉄器時代で持続し、ベレル(Berel)のパジリク文化遺跡のほとんどの個体(パジリク・ベレル50BCE)により示されます(図2B)。

 この鉄器時代クラスタは、同じ地域に居住していた以前の草原地帯MLBA集団とは異なり、これはほぼPC1軸沿いにユーラシア東部人の方へとかなり動いているためです。さらに、主要クラスタよりもユーラシア東部人へと一層強く動いている外れ値も明らかになりました。これは、パジリク・ベレル50BCEの外れ値2個体と、ビルリク(Birlik)のタセモラ文化遺跡の3個体(タセモラ・ビルリク640BCE)と、カザフスタン中央部・北部のコルガンタス(Korgantas)段階の4個体のうち3個体です(図2B)。ユーラシア東部人の遺伝的特性を有するビルリクの女性1個体(BIR013.A0101)は、典型的なユーラシア東部草原地帯の特賞を示す副葬品(青銅鏡)とともに発掘されました。

 天山山脈地域から南方までの古典的な鉄器時代サカ文化個体群(サカ・天山600BCE、サカ・天山400BCE、以前に報告されたサカ・天山200BCE)は、タセモラ文化・パジリク文化クラスタとイラン人関連遺伝子プールとの間でPC3軸沿いに勾配で分布します(図2A・B)。新石器時代イラン人へのより強い類似性も、ADMIXTURE分析で見つかります(図2D)。イラン人関連遺伝子プールへの移動は、早くも紀元前650年頃に、サカ文化のエリート被葬者から回収されたエレケ(Eleke)・サジー(Sazy)の1個体(ESZ002)で見つかりますが、カスパン(Caspan)の紀元前700年頃となる最初の天山サカ文化遺跡の1ヶ所で発見された4個体のうち3個体は、タセモラ・パジリク集団の範囲内に収まります。

 カザフ草原北方の森林草原地帯の定住性サルガト文化と関連する個体群(サルガト300BCE)は部分的に、タセモラ・パジリク文化クラスタと重なりますが、主成分分析では、ユーラシア西部人(PC1軸)および内陸部北方ユーラシア人の最上端の勾配(PC2軸)へと移動する集団を形成します(図2B)。主成分分析と一致して、サルガト文化個体群は、さらに南方の遊牧民集団では検出されなかった、アジア北東部人祖先系統のさまざまな種類の小さな割合を有しています(図2D)。

 タセモラ・パジリク集団に収まる外れ値1個体を除いて、早期のサルマティア450BCEや後期のサルマティア150BCE、西部のサルマティア・カスピ海草原地帯350BCEといったサルマティア文化と関連する個体群は、広範な地域と期間にまたがっているにも関わらず、遺伝的にひじょうに均質です(図2A・B)。カザフスタン中央部および西部の早期サルマティア文化の7ヶ所の遺跡からの本論文の新たなデータ(サルマティア450BCE)は、この遺伝子プールがすでにサルマティア文化の初期段階にこの地域に広がっていた、と示します。さらに、サルマティア人は、ユーラシア西部人へと動くクラスタの形成により、他の鉄器時代集団とは急激な不連続性を示します。以下、本論文の図2です。
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●鉄器時代人口集団の混合モデル化

 qpWaveとqpAdmにより実行された鉄器時代集団の遺伝的祖先系統モデル化では、草原地帯MLBA集団が鉄器時代スキタイ人におけるユーラシア西部祖先系統起源にほぼ適切に近似しているのに対して、ヤムナヤ(Yamnaya)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団のような先行する草原地帯前期青銅器時代(EBA)クラスタは近似していない、と確認されました。ユーラシア東部人の代理として、時空間的近接性に基づき、モンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)の後期青銅器時代(LBA)牧畜民が選ばれました。他のユーラシア東部人の代理は、古代北ユーラシア人(ANE)系統(関連記事)への類似性の欠如もしくは過剰のため、モデルに適合しませんでした。

 しかし、このフブスグルと草原地帯MLBAの2方向混合モデルは、スキタイ人の遺伝子プールの遺伝的構成要素を完全には説明しません。欠けている断片は、コーカサス・イランもしくはトゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)の中部地域に居住していた古代人口集団と関連する起源集団からの、小さな寄与とよく一致します(図3A)。この祖先系統の割合は経時的・地理的に増加します。最北東部のアルディ(Aldy)・ベル(Bel)700BCE集団ではごくわずか、早期のタセモラ650BCEでは6%、パジリク・ベレル50BCEでは12%、サルガト300BCEでは10%、サカ・天山600BCEでは13%、サカ・天山400BCEでは20%で(図3A)、f4統計と一致します。サルマティア人のモデル化にも、イラン人関連祖先系統が15~20%ほど必要となりますが、東部スキタイ人集団よりもフブスグル関連祖先系統がずっと少なく、草原地帯MLBA-関連祖先系統が多くなっています。

 サルマティア人と後の天山サカ人にとって、銅器時代集団やBMACやBMAC後といったトゥーラーンの集団のみが起源集団として一致しますが、イランとコーカサスからの集団は適合しません。本論文では、代表的な代理としてBMACとBMAC後の集団が用いられました(図3A)。タセモラ・ビルリク640BCEやコルガンタス300BCEやパジリク・ベレル50BCEoといった外れ値の余分なユーラシア東部人の流入は、フブスグルのような以前の集団と同じユーラシア東部の代理には由来しません。代わりに、ロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡の前期新石器時代集団(悪魔の門N)に表される、古代アジア北東部人(ANA)系統でのみモデル化できます(図3A)。以下、本論文の図3です。
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●カザフ草原における鉄器時代後の遺伝的置換

 紀元後千年紀早期(鮮卑・フン・ベレル300CE)からカラカバ(Karakaba)830CEやカヤリク(Kayalyk)950CEなどの個体群まで、上述の新たなユーラシア東部人の流入の劇化が観察されます。これらの個体群は主要な鉄器時代タセモラ・パジリクのクラスタからANA 集団に向かってPC1軸沿いに散在しています(図2C)。紀元後3世紀のフン人エリート層埋葬と関連する2個体は、一方がカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡で、もう一方がハンガリーのブダペストで発見されていますが(フン人エリート350CE)、この勾配に沿って密集してクラスタ化します(図2C)。

 カザフスタン南部のオトラル(Otyrar)オアシスの古代都市の個体群は、ひじょうに明確な遺伝的特性を示します。コンレイ(Konyr)・トベ(Tobe)300CE と呼ばれる5個体のうち3個体は、類似の年代と地域の康居250CE個体群と近く、サルマティア人とBMAC集団の間に位置します(図2C)。コンレイ・トベ個体群のうちKNT005は主成分分析ではBMACの方へと動いています(図2C)。さらに、KNT005はアジア南部人のY染色体ハプログループ(YHg)L1a2(M357)を有する唯一の個体で、ADMIXTUREではアジア南部人の遺伝的構成要素を示します(図2D)。KNT004はPC1軸ではアジア東部人の方へと動いています。アジア南部人からの流入を10%、ユーラシア東部人からの流入を50%含む混合モデルは、それぞれ適切にKNT005と KNT004を説明します。対照的に、コンレイ・トベ遺跡の200km東方に位置する天山山脈のアライ・ヌラ(Alai Nura)遺跡の個体群(アライ・ヌラ300CE)は依然として、コンレイ・トベ300CE により近い4個体およびタセモラ・パジリク集団により近い4個体とともに、天山サカの鉄器時代勾配に沿って位置しています(図2C)。


●古代の混合の年代

 DATESプログラムでの混合年代測定により、紀元前1500~紀元前1000年頃の主要なスキタイ人遺伝子プールの形成が明らかになります(図3C)。DATESは2方向混合のみをモデル化するよう設計されているので、qpWaveとqpAdmで得られた推定される3方向モデルを説明するため、3対比較が個別に検証されました(草原地帯MLBAとBMACとフブスグル)。DATESは、ユーラシア東西の2組、草原地帯MLBAとフブスグル、BMACとフブスグルについて、指数関数的減衰の適合に成功しましたが、ユーラシア西部同士(草原地帯MLBAとBMAC)では失敗しました。

 各標的について、草原地帯MLBAとフブスグル、およびBMACとフブスグルでは、ほぼ同じ混合年代推定が得られました。本論文の推定年代は、真のシミュレーション3方向混合を反映しているというよりはむしろ、2つのユーラシア西部起源集団からの相対的寄与により重みづけされる、遺伝的に区別できる東部(フブスグル)と西部(草原地帯MLBAとBMAC)の祖先系統間の平均年代をほぼ反映している、と考えられます。BMAC 関連祖先系統が増加するにつれて、天山サカ集団におれる混合年代が新しくなる、とDATES により明らかになったことは注目されます。サカ・天山600BCEからサカ・天山400BCEまで、タセモラ650BCEの年代についてパジリク・ベレル50BCEおよびサルガト300BCEと同様に、とくに後のアライ・ヌラ300CEにおいてはそうです。

 鉄器時代に継続したBMAC関連起源集団からの小規模な遺伝子流動は、BMAC関連祖先系統の割合の増加と、ますます新しくなる混合年代の両方を説明できるかもしれません(図3A)。繰り返しになりますが、推定された年代は、BMAC関連起源集団との鉄器時代の混合と、草原地帯MLBAとの後期青銅器時代の混合の平均を反映しているので、それらの推定年代は鉄器時代の遺伝子流動の実際の年代よりも古い期間に動いている可能性があります。

 qpAdmの結果を確認して、タセモラ・ビルリク640BCEとコルガンタス300BCEの混合個体群(混合東部鉄器時代)は、ひじょうに最近の混合年代を示します(図3C)。鮮卑・フン・ベレル300CEとフンエリート層350CEとカラカバ830CEといった後の集団はさらに、混合の最近の年代というこの傾向を確証し、この新たなユーラシア東部流入は鉄器時代に始まった可能性が高く、少なくとも紀元後千年紀の最初の数世紀の間継続した、と明らかになります。


●現代カザフ人

 現代カザフ人で行なわれた主成分分析とADMIXTUREとCHROMOPAINTER/fineSTRUCTUREの詳細な規模のハプロタイプに基づく分析は、地理的位置もしくはジュズの所属に関わらず、カザフ人の間での緊密なクラスタ化と検出可能な下位構造の欠如を明らかにします(図2)。ほぼ地理的起源を反映するジュズの所属に従ってカザフ人個体群を分類し、独立した複製としての経路にしたがってGlobetrotter分析を実行して、カザフ人の遺伝子プールに寄与しているさまざまな祖先系統の起源集団が識別され、混合事象の年代が測定されました。Globetrotter分析は、3集団が同じ起源構成要素と混合年代を有し、さまざまなユーラシア西部・南部・東部の祖先系統の複雑な混合の結果である、と確認しました。Globetrotterにより特定された混合年代は、現代カザフ人の遺伝子プール形成の狭く最近の時間範囲(紀元後1341~1544年頃)を浮き彫りにします。


●考察

 アジア中央部の古代人100個体以上の本論文の分析は、カザフ草原の鉄器時代遊牧民人口集団が広範な混合を通じて形成され、草原地帯の先行するMLBA人口集団と近隣地域人口集団との間の複雑な相互作用から生じた、と示します(図2A、図3 A・C、図4A)。本論文の知見は、スキタイ文化の起源について新たな光を当てました。本論文は、スキタイ文化のポントス・カスピ海草原起源を裏づけず、じっさい、同説は最近の歴史学と考古学ではひじょうに疑問視されています。カザフ草原起源説は、代わりに本論文の結果とよりよく一致しますが、人口集団拡散の単一起源と、文化伝播のみの複数起源という、二つの極端な仮説の一方を裏づけるというよりもむしろ、少なくとも2つの独立した起源と、人口集団拡散および混合の証拠が明らかになりました。とくに東部集団は、シンタシュタ(Sintashta)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化など、さまざまな文化と関連しているかもしれない先行する在来の草原地帯MLBA起源集団と、近隣のモンゴル北部地域に後期青銅器時代にはすでに存在していた、特定のユーラシア東部起源集団との間の混合の結果として形成された遺伝子プールの子孫であることと一致します(関連記事)。

 カザフスタン中央部と北部の前期鉄器時代タセモラ文化集団の遺伝的構造は、ほぼこれら2祖先系統で構成されていますが、そのモデル化にはイラン人関連起源集団からの遺伝子流動もわずかに必要です(図3 A、図4A)。トゥーラーンの全体的なBMAC関連人口集団は、本論文のモデルに最適であるものの、コーカサス北部青銅器時代集団のようなさらに西方のイラン人関連起源集団では適合しない、と明らかになりました。これらの結果は、南方文化と北方草原地帯の人々との間の文化的接続という、歴史学と考古学の仮説を確証します。このBMACからの流入は、後の紀元前4世紀~紀元後1世紀となる、ベレルに位置する北東部のパジリク文化遺跡のスキタイ人集団で継続し、南東部に位置する天山山脈のサカ文化個体群で次第に増加し、不均一に分布します(図2B・D、図3 A・C、図4B)。

 以前に報告されたトゥワ地域のアルズハン2(Arzhan 2)遺跡のアルディ・ベル文化の2個体は、主要な東部スキタイ人遺伝的クラスタ内に収まり、最初のスキタイ埋葬が見つかる同じ遺跡にも存在した、と確認されます。モンゴルにおける鉄器時代移行からの最近の知見と組み合わせると(関連記事)、これらのデータは、全東部スキタイ人を形成した主要な遺伝的下位構造のアルタイ地域起源を示しているようです(図4B)。ウラル地域南部の西部サルマティア人も、東部スキタイ人と同じ3祖先的起源集団間の混合の結果として形成されました(図3 A)。それにも関わらず、ユーラシア東部人祖先系統はサルマティア人ではわずかしか存在しません(図3 A)。さらに、サルマティア人と東部集団との間の、その早期の混合(図3 C)と混合勾配の欠如(図2A・B・D)からは、サルマティア人が、東部スキタイ人に寄与した遺伝子プールと比較して、関連しているものの異なる後期青銅器時代遺伝子プールに由来し、おそらくは後期青銅器時代混合勾配に沿って異なる位置にある、と示唆されます。

 既知で最初のサルマティア人遺跡の場所を考えると、この遺伝子プールは後期青銅器時代ウラル地域南部に起源がある、と仮定されます(図4B)。コーカサスとヨーロッパ東部の、後の年代で西端となるスキタイ文化からのより多くのデータが、本論文で分析されたカザフ草原のより早期のスキタイ人との遺伝的類似性の、さらなる理解を提供するでしょう。さらに、本論文の結果から、北部の定住性サルガト関連文化個体群は、スキタイ人、とくに東部遊牧民集団と密接な遺伝的近似性を示す、と明らかになります(図2B)。サルガト文化個体群は、究極的にはシベリア北部系統と関連する、スキタイ人には見られない追加の遺伝的類似性を示します(図2D、図3 A)。これは、サルガト文化集団が、侵入してくるスキタイ人集団と、標本抽出されていない在来人口集団、もしくは恐らくこの余分なシベリア人祖先系統を有する近隣人口集団との間の混合の結果として形成された、との歴史的仮説と一致します。

 紀元前千年紀後半から、興味深いことに、カザフスタン中央部のタセモラ文化を置換したコルガンタス文化の出現と関連する多くの外れ値で、大きな遺伝的変化が検出されます。とくに、後期青銅器時代の変化に寄与した起源集団とは異なる、ユーラシア東部起源集団からの流入が観察されます(図3 A、図4C)。紀元前千年紀の変わり目に、この混合された遺伝的特性は、鮮卑・フン文化および後の中世個体群と関連する北東部個体群間で広がるようになりました(図2C・D、図3 B、図4C)。それらの個体群で得られたひじょうに変動的な混合割合と年代から、これが紀元後千年紀(少なくとも紀元後1世紀~紀元後5世紀)を特徴づける継続的な過程だった、と示唆されます(図3 C)。紀元後千年紀の追加の遺伝的データが、この不均質性の性質と程度のより包括的な理解を可能とするでしょう。

 代わりに、カザフスタン南部地域では、オトラル・オアシスの古代都市に位置するコンレイ・トベ遺跡の個体群が、イラン人関連遺伝的祖先系統の増加によりほぼ特徴づけられる、異なる遺伝的置換を示し、ペルシア帝国の影響を反映している可能性が最も高そうです(図4C)。ユーラシア東部人との高い混合もしくはアジア南部からの遺伝子流動を有する外れ値個体群からは、この時点でオトラル・オアシスの古代都市人口集団は不均質だった、と示唆されます(図2C)。この時期に、オトラルは康居王国の中心で、シルクロードの交差点でした。天山山脈の近隣地域では、アライ・ヌラの紀元後3世紀の遺跡の個体群で、ずっと早い鉄器時代天山サカ個体群に典型的な遺伝的特性がまだ見られます(図3 B)。

 カザフスタンの鉄器時代と鮮卑・フンと中世で観察される不均質性と地理的構造化は、現代カザフ人で観察される遺伝的均質性とはひじょうに対照的です。詳細なハプロタイプに基づく分析はこの均質性を確認し、以前の知見(関連記事)と一致して、カザフ人の遺伝子プールはユーラシア東西のさまざまな起源集団の混合である、と示します。古代人口集団に関する本論文の結果から、これがひじょうに複雑な人口史の結果で、経時的に混合するユーラシア東西の祖先系統の複数の層を伴う、と明らかになりました。

 現代カザフ人で得られた混合年代は、カザフ・ハン国が設立された期間(紀元後15世紀)と重なります。さらに、現代カザフ人の遺伝子プールは、鉄器時代後の北部の鮮卑・フンおよび南部の康居と関連する遺伝子プールの混合として、完全にはモデル化できません。これらの知見から、紀元後二千年紀に起きた可能性が高い最近の事象は、厳密な族外婚を有するカザフ・ハン国の設立の結果として、最終的にカザフ人の遺伝子プールの均質化につながった、この地域のより多くの人口統計学的交代と関連していた、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示したことからも、たいへん意義深いと思います。本論文は改めて、ユーラシア草原地帯の人口集団が大規模な移動と複雑な混合により形成されてきたことを示しました。人口集団の遺伝的構造が、均質から不均質へ、また均質へと変わっていく様相は、動的なユーラシア草原地帯の歴史を反映しているのでしょう。これは、ユーラシア草原地帯で巨大勢力が急速に勃興し、また急速に崩壊することとも関連しているのかもしれません。今後、歴史学でも古代DNA研究の成果が採用されていくのではないか、と予想されます。

 私が日本人の一人として注目したのは、コンレイ・トベ300CEの個体KNT004(紀元後236~331年頃)が、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、YHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHV18と分類されていることです。YHg-D1a2a2aは「縄文人」で確認されており、一般的には「縄文系」と考えられているでしょうが、それが現在のカザフスタン南端の紀元後3世紀の個体で見られる理由については、私の知見ではよく分かりません。一般的に、片親性遺伝標識、とくにY染色体は現在の分布から過去を推測するのに慎重であるべきで、研究の進展により、YHg-D1a2a2aの分布についてより詳細に明らかになるでしょうから、それまでは判断を保留しておくのが妥当でしょうか。KNT004は、ADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の個体群(関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、それとも関連している可能性が考えられます。


参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414

過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類の移住

 過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類(Homo sapiens)の移住に関する研究(Larena et al., 2021)が公表されました。フィリピンは、アジア太平洋地域の過去の人類の移住の交差点となるアジア南東部島嶼部(ISEA)に位置する、7641の島々から構成される群島です。最終氷期末(11700年前頃)までに、フィリピン諸島は一つの巨大な陸塊としてほぼつながっており、ミンドロ海峡とシブツ海峡によりスンダランドと隔てられていました。少なくとも67000年前頃以降、フィリピンには人類が居住してきました(関連記事)。ネグリートと自己認識している民族集団の祖先が、最初の現生人類の居住と広くみなされていますが、その古代型ホモ属(絶滅ホモ属)や他の早期アジア集団やその後の植民との正確な関係は充分に調査されておらず、議論の余地があります。

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)および/もしくは常染色体データを用いての以前の調査は、ISEAへのさまざまな移住事象の可能性を解決しようとしましたが(関連記事1および関連記事2)、明確な合意には至っていません。分析の欠如は、フィリピンの多様な民族集団の不充分な把握と、用いられたゲノムデータの限定的な密度に起因するかもしれません。これらの問題に対処するため、これまでで最も包括的なフィリピンの人口集団ゲノムデータセットが収集され、分析されました。その内訳は、全地理的範囲の115の異なる文化的共同体からの1028個体で、250万ヶ所の一塩基多型が遺伝子型決定されました。また、早期完新世におけるアジア東部本土からの移住史をよりよく理解するため、台湾海峡に位置する福建省の亮島(Liangdao)の古代人2個体(それぞれ、較正放射性炭素年代で8320~8060年前頃と7590~7510年前頃)からのゲノムデータが生成されました(図1A)。

 本論文の分析から、フィリピンでは少なくとも5回の大きな現生人類の移住があった、と示唆されます。それは、フィリピン内で在来の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)とそれぞれ独立して混合した、基底部オーストラレシア集団の南北のネグリート分枝集団と、パプア人関連集団、基底部アジア東部人の分枝であるマノボ人(Manobo)とサマ人(Sama)とコルディリェラ人(Cordilleran)です。基底部アジア東部人の最小限の混合分枝のままであるコルディリェラ人は、農耕移行の確立年代に先行してフィリピンに到来し、全オーストロネシア語族(AN)話者人口集団で広がっている遺伝的祖先系統をアジア東部人とともに持ち込んだ可能性が高そうです。この複雑な人口統計学的歴史は、アジア太平洋地域の人口集団の遺伝的構成に大きく影響を与えた、出入口としてのフィリピンの重要性強調します。


●フィリピン現代人の複数の祖先

 主成分分析による調査は、フィリピンの民族集団が世界規模の比較でアジア太平洋地域人口集団とともにクラスタ化する、と示します(図1B)。ネグリートがパプア人と非ネグリートとの間で一直線に並ぶ独特の勾配を形成するのに対して、コルディリェラ人は興味深いことに、PC1軸でアジア東部人クラスタを定義する端に位置し、アメリカ大陸先住民集団およびオセアニア集団よりもさらに極端です(図1B)。ネグリートと非ネグリートとの間には明確な二分があり、コルディリェラ人に最もよく表される基底部アジア東部人祖先系統と、ネグリートおよびオーストラロパプア人により表される祖先系統との間の深い分岐が示唆されます(図1B)。アジア太平洋地域人口集団の詳細な分析を見ると、非ネグリートは、コルディリェラ人、もしくはティン人(Htin)およびムラブリ人(Mlabri)かマレーの非ネグリートのような、アジア南東部本土(MSEA)民族集団のどちらかに属する集団に明確に分かれます。

 さらなる分析により、後述のようにフィリピンのネグリート集団間の明確な遺伝的構造と、非ネグリート集団間の階層構造とが明らかになり、それはコルディリェラ人やマンギャン人(Mangyan)やマノボ人(Manobo)やサマ・ディラウト人(Sama Dilaut)集団により例証されます(図1C)。これらの観察結果は、推定された祖先系統構成要素と一致します。簡潔に言うと、階層構造はオーストラロパプア人関連のネグリート対非ネグリートの間の二分で始まり、コルディリェラ人対MSEAに属する人口集団への非ネグリートのクラスタ化と、アイタ人(Ayta)やアイタ人(Agta)集団へのネグリートの階層構造、およびコルディリェラ人やマンギャン人やマノボ人やサマ人関連人口集団への非ネグリートの階層構造が続きます。以下、本論文の図1です。
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●フィリピンのネグリートは深い分岐を示します

 地理的障壁と人口集団間の孤立の長い歴史の可能性を考えると、ネグリート集団間ではある程度の分化が予測されます。たとえば、ネグリート集団に限定された主成分分析は、ルソン島中央部ネグリート集団と南部ネグリート集団との間の勾配(PC1軸)、PC2軸沿いのフィリピン北部におけるネグリートの東西のクラスタ化を明らかにします。さらにフィリピン北部ネグリートは深い人口集団構造を示し、3クラスタに分かれます。それは、全アイタ人(Agta)となるルソン島中央部ネグリート、ビコル(Bicol)地域およびケソン(Quezon)州のアイタ人(Agta)集団となるルソン島南東部ネグリート、カガヤン(Cagayan)地域のアイタ人(Agta)とアッタ人(Atta)とアルタ人(Arta)のネグリートとなるルソン島北東部ネグリートです。

 フィリピン北部のネグリートは、オーストラリア先住民およびパプア人の両方にとって外群です(図2A)。合着(合祖)に基づく分岐時間推定手法を用いて人口集団分岐モデルを仮定すると、フィリピン北部のネグリートの祖先は46000年前頃(95%信頼区間で46800~45500年前)に共通の祖先的オーストラレシア人口集団(基底部スンダ)と分岐した、と推定されます。この分岐はスンダランドの古い大陸の陸塊で起きた可能性があり、オーストラリア先住民とパプア人の25000年前頃(95%信頼区間で26700~24700年前)の分岐に先行し、おそらくはフィリピン北部の現在のネグリートにつながる、ルソン島への移住の結果としてでした。

 北部とは対照的に、オーストラロパプア人的な遺伝的兆候は、他のネグリート集団においてよりも、ママヌワ人(Mamanwa)のような南部ネグリートにおいて明らかに高くなっています(図2A)。ママヌワ人ネグリートも、パプア人およびオーストラリア先住民にとって外群として現れ、祖先的ママヌワ人は、37000年前頃(95%信頼区間で36200~38700年前)に分岐した基底部オセアニア人の派生集団で、オーストラリア先住民とパプア人の分岐前に恐らくはスールー諸島経由でミンダナオ島に拡散した、と示唆されます。しかし、南部ネグリートが北部ネグリートとクレード(単系統群)を形成する、という代替的なモデルは却下されません。これを考えると、共通祖先的ネグリート人口集団が、パラワン島もしくはスールー諸島経由で単一の地域からのみフィリピンに拡散し、続いてフィリピン内で分岐して、南北のネグリートに分岐した、という想定を排除できません。

 南北両方のネグリートはその後、コルディリェラ人関連人口集団と混合し、興味深いことに、南部ネグリートはオーストラリア先住民とパプア人の分岐後にパプア人関連人口集団から追加の遺伝子流動を受けました。この以前には評価されていなかったパプア人関連祖先系統の北西部の遺伝子流動は、インドネシア東部や、サンギル人(Sangil)とブラーン人(Blaan)のようなフィリピン南東部の民族集団で最大の影響を有します。


●マノボ人とサマ人の祖先のフィリピンへの早期拡散

 フィリピン南部の民族集団は、非オーストラロパプア人関連で、一般的にフィリピン北部の非ネグリート集団では欠けている、遍在する祖先系統を示します。これまで「マノボ人祖先系統」と呼ばれていたこの独特遺伝的痕跡は、ミンダナオ島の内陸部マノボ人集団で最も高くなっています。コルディリェラ人および南部ネグリート祖先系統を隠し、マノボ人祖先系統のみを保持すると、ミンダナオ島の他の民族集団間でマノボ人構成要素がより明らかになりました。マノボ人祖先系統に加えて、他の異なる祖先系統がフィリピン南西部で識別されました。この遺伝的兆候は、スールー諸島のサマ人海洋民で最も高く、「サマ人祖先系統」と呼ばれます。全ての他の祖先系統を隠し、サマ人祖先系統のみを保持すると、サマ人構成要素は、サンボアンガ半島(Zamboanga Peninsula)、パラワン島、バシラン島、スールー諸島、タウイタウイ島の民族集団間、さらにはサマ人としての自己認識がないか、サマ人関連言語を話さない人口集団間でさえ、より明確になります。

 高いサマ人祖先系統を有する民族集団は、最小限の混合マノボ人集団であるマノボ・アタ人(Manobo Ata)と比較して、ムラブリ人やティン人のようなアジア南東部本土(MSEA)のオーストロアジア語族話者民族集団と顕著に高い遺伝的類似性を示します。このティン・ムラブリ関連遺伝的兆候は、サマ・ディラウト人や内陸部サマ人集団だけではなく、フィリピン南西部のパラワン島およびサンボアンガ半島民族集団でも見られます。これらの知見は、ティン・ムラブリ関連遺伝的兆候がインドネシア西部の民族集団間で検出される、という以前の観察と一致します(関連記事)。本論文の分析では、この遺伝的兆候もインドネシア西部を越えてフィリピン南西部に広がっている、と明らかになります。

 マノボ人とサマ人の両遺伝的祖先系統は、台湾先住民とコルディリェラ人との間の推定される分岐よりも早く、共通アジア東部祖先的遺伝子プールから15000年前頃(95%信頼区間で15400~14800年前)に分岐しました(図2B)。驚くべきことに、マノボ人とサマ人の祖先系統は両方、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)やコルディリェラ人からの漢人や傣人(Dai)やキン人(ベトナム人)の分岐前に、共通アジア東部人から分岐しました(図2B)。したがって、本論文の知見からは、祖先的マノボ人およびサマ人は、他のティン人およびムラブリ人関連民族集団とともに、漢人や傣人や日本人やキン人やアミ人やタイヤル人の拡大前に、基底部アジア東部人から15000年前頃に分岐した分枝を形成します(図2B)。

 サマ人はマノボ・アタ人と比較してティン人とクレードを形成します。サマ人とティン人およびムラブリ人集団の共通祖先は、祖先的マノボ人と12000年前頃(95%信頼区間で12600~11400年前)に分岐した、と推定されます。ティン人およびムラブリ人関連遺伝的兆候の現在の地理的分布を考えると、その祖先はコルディリェラ人関連人口集団の拡大前に、スンダランドを経由してインドネシア西部とフィリピン南西部に拡大した可能性が高そうです(関連記事)。興味深いことに、15000年前頃および12000年前頃という上述の推定は、最終氷期末におけるスンダランドの復元から推測される、アジア南東部島嶼部(ISEA)における主要な地質学的変化と一致します。したがって、ISEAにおける気候要因の変化は、人口集団の氷期後の移動と孤立を促進し、ISEAにおける民族集団の分化につながったかもしれません。以下、本論文の図2です。
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●アジア東部人集団としてのコルディリェラ人

 コルディリェラ人民族集団は、ルソン島北部から中央部のコルディリェラ山脈を越えて、フィリピンで唯一の海に接していない地域に居住しています。歴史的に、コルディリェラ人はスペイン人による直接的な植民地化とキリスト教化に抵抗したと知られており、したがって、その独特の文化的慣習の多くを保持できました。この地理的および文化的孤立は、この地域の高い言語的多様性と、一部の集団により示される遺伝的混合の低水準に役割を果たしたかもしれません。以前に報告されたカンカナイ人(Kankanaey)と(関連記事)、それに続く混合およひf3・f4統計分析の組み合わせに加えて、ボントック人(Bontoc)とバランガオ人(Balangao)とトゥワリ人(Tuwali)とアヤンガン人(Ayangan)とカランガイ人(Kalanguya)とイバロイ人(Ibaloi)が、基底部アジア東部人祖先系統を有する最小の混合人口集団として明らかになりました。

 本論文の全混合分析で観察されたコルディリェラ人の間の均質な祖先系統は、強い遺伝的浮動の存在により説明できます。しかし、ホモ接合性連続の数と領域の長さに基づく以前の分析および本論文の調査は、コルディリェラ人の間での最近のボトルネック(瓶首効果)もしくは広範な近親交配を裏づけません。さらに、f3混合とf4統計を用いての検証は、中央部コルディリェラ人が、ネグリートからの遺伝子流動を受けなかったフィリピン内で唯一の民族集団であり続けた、という直接的証拠を提供します。コルディリェラ地域の周辺での一連の移住および植民地期と、ルソン島のネグリートおよび非ネグリート集団との交易および歴史的相互作用の報告された記録を考えると、これは予想外です。アジア太平洋地域の他の全民族集団は、アンダマン諸島人かパプア人かネグリートかティン人およびムラブリ人か、アジア東部北方人と関連する遺伝的祖先系統と混合しています。したがって、地域集団間の標本規模の違いを制御した後でさえ、コルディリェラ人集団は一貫して世界規模の主成分分析ではPC1軸を一貫して定義し、アフリカのコイサン民族集団とは対極に位置する、と明らかになりました(図1B)。

 台湾のアミ人もしくはタイヤル人ではなくコルディリェラ人は、オーストロネシア語族話者人口集団拡大についての最小限の混合された遺伝的兆候の、最良の現代の代理として機能します。アミ人とタイヤル人は両方、ティン人・ムラブリ人関連(もしくはオーストロアジア語族関連)およびアジア東部北方関連と類似した遺伝的構成要素との混合を示します。さらに、全てのフィリピンの民族集団は、アミ人もしくはタイヤル人とよりも、コルディリェラ人とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有します。さらにコルディリェラ人は、アミ人とタイヤル人を除いて、マレーシア人やインドネシア人やオセアニア人と、さらにはマレー半島とオセアニアのラピタ(Lapita)文化の古代個体群の間でさえ、最も多くのアレルを共有します(関連記事)。


●アジア本土からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移住

 台湾海峡の馬祖(Matsu)島(馬祖列島)は行政区分では中華人民共和国でも中華民国(台湾)でも福建省に属し、現在は台湾が実効支配しています。馬祖島の亮島(Liangdao)で発見された2個体は、現代人ではコルディリェラ人やアミ人やタイヤル人、古代人ではフィリピン北部やマレーシアや台湾やラピタ文化の個体群と最高水準の遺伝的浮動を共有します。中国本土に近い亮島の位置(中国本土からは26km、台湾からは167km)を考えると、8000~7000年前頃の個体である亮島2は、アジア本土への「コルディリェラ人」祖先系統の最古のつながりを表します。

 予測されるように、亮島の2個体(亮島1および亮島2)は、基底部スンダ祖先系統との混合を示しません。亮島1および亮島2は両方、アジア東部北方集団との共有された祖先系統・混合明確な証拠を示し、それはアジア東部本土と台湾の現代および古代の人口集団・個体群と類似しています。これは、アジア東部の古代の個体群の最近の分析と一致します。それによると、さまざまな時点で人口集団間の遺伝子流動が明らかになり、アジア東部北方人と亮島の2個体を含むアジア東部南方人との間である程度の遺伝的類似性が示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 しかし、現代コルディリェラ人はこのアジア東部北方祖先系統構成要素を示さないので、コルディリェラ人関連集団とアジア東部本土および台湾の民族集団との間の分岐の下限(8000年前頃)を提供します。この知見は、フィリピン北部における4000~3000年前頃の新石器時代遺物の最初の考古学的証拠と合わせて、最初のコルディリェラ人はこの時点でのアジア東部沿岸部の他集団と同様に、定住農耕民ではなく複雑な狩猟採集民だった、と示唆されます。アジア東部北方祖先系統は後に到来したに違いなく、中国沿岸部と台湾地域に起源があり、パタン諸島およびルソン島沿岸地域へ拡散しました。アジア東部北方祖先系統の存在がじっさいに農耕拡大の遺伝的兆候ならば、コルディリェラ人におけるその一般的な欠如から、これらの集団間での新石器時代への移行は、人口拡散ではなく文化的拡散の結果だった、と示唆されます。


●完新世の移住と言語および新石器時代文化

 フィリピンへの完新世の移住については、2つの対照的なモデルが提示されてきました。一方は出台湾仮説で、オーストロネシア語族と赤色スリップ土器と穀物農耕をもたらした、台湾から海洋航海民による新石器時代要素一式の北方から南方への一方向の拡大を支持します。もう一方は出スンダランド仮説で、海洋交易ネットワークと、以前に居住可能だった土地の気候変化による浸水に続いてのスンダランドからの人口集団拡大により先行する、早期完新世以来のフィリピンへの人口集団の複雑な南北の移動を想定します。

 本論文の分析では、ネグリートやマノボ人やサマ人的集団の北方への移住後、中国南部・台湾地域からフィリピンへのコルディリェラ人関連祖先系統の遺伝子流動が、1万年前頃以後に複数の波で起きたかもしれない、と示唆されます。これは、アミ人と、コルディリェラ人とフィリピン中央部・北部のさまざまな集団との間の分岐よりも早い中央部コルディリェラ人との間の、推定される(遺伝的)分岐を説明できるかもしれません。さらに、ルソン島からミンダナオ島へのコルディリェラ人関連祖先系統の単純で段階的な一方向の移動で予想される、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の年代の南北の勾配は観察されません。それどころか、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の最古の年代は、フィリピン諸島全域に散らばっており、推定される中国南部・台湾の起源地域からフィリピンへの人口集団の複雑で不均一な移動を示唆します。

 多様な遺伝的祖先系統からの移住にも関わらず、フィリピンの全民族集団が、オーストロアジア語族のマレー・ポリネシア分枝内に収まる言語を話す、という事実の観点では、フィリピンの言語的景観は著しく多様性が低くなっています。言語と遺伝子の不一致のあり得る一つの説明は、フィリピン諸島内外で広範な言語置換を促進した、移住してきたオーストロネシア語族話者人口集団の支配的影響です。一部の単語が元の非オーストロネシア語族言語に保持されてきた可能性があるので、完全に言語置換は起きなかったかもしれません。たとえば、一部のネグリート集団は、あらゆる他のオーストロネシア語族言語では完全に説明されていない、特定の語彙要素を含む言語を話します。同様に、ボルネオ島の陸ダヤク人(Land Dayak)のオーストロネシア語族話者は、その言語に保持されたオーストロアジア語族の語彙項目の証拠をいくつか有しています。

 一連のさまざまな遺伝的および考古学的証拠から、農耕はフィリピンにおけるコルディリェラ人関連人口集団の最初の到来と関連していなかった、と示唆されます。コルディリェラ人には欠如しており、8000年前頃となる亮島の2個体には存在するアジア東部北方祖先系統構成要素に加えて、コルディリェラ人とアミ人・タイヤル人との間の8400年前頃(95%信頼区間で8800~8000年前)の分岐は、台湾およびフィリピンへの農耕の到来に先行します。公開されている利用可能なゲノム配列データを用いて2・2外群(TTo)手法を適用すると、その分岐年代は17000年前頃(95%信頼区間で25000~9500年前)とさらに古くなります。

 さらに、考古学的証拠では、7000~5000年前頃の中国南部沿岸部とベトナム北部の共同体は漁撈民・狩猟採集民であり農耕民ではなく、水田稲作は中国南部とISEAで3000~2000年前頃にやっと確立した、と示唆されます(31)。これは、ジャポニカ米(Oryza japonica)の最近の包括的な系統発生分析と一致します。コメがISEAにもたらされたのは2500年前頃後で、フィリピンの稲作はもっと最近始まった可能性が高い、と示唆されます(32)。さらに、ISEAにおける稲作の研究では、台湾からのフィリピンとインドネシアのイネ品種の起源への裏づけも、コメの台湾からのおもな拡散への強い裏づけも提供されません。

 したがって、コルディリェラ人関連集団の移住の推進力は、農耕ではなく、気候変化による台湾と中国南部との間の古代の陸塊の地質学的変化により触媒されたかもしれません。その地質学的変化は、12000~7000年前頃の沿岸部平野の漸進的な浸水をもたらしました。これは、コルディリェラ人の有効人口規模における推定される減少の時期の頃であり、コルディリェラ人関連人口集団とアミ人・タイヤル人との間の分岐年代と一致します。したがって、以前に議論された一連の証拠を伴う本論文の知見は、フィリピンとISEAの先史時代の文脈における農耕と言語と人々の拡散の一元的モデルを支持しません。


●一部のフィリピンの民族集団への最近のアジア南部人およびスペイン人との混合の証拠

 2000年前頃から植民地期以前まで、ISEAの文化的共同体は地域全体のインド洋交易ネットワークに積極的に参加しました。この長距離の大洋横断交換経路に沿って、2つの連続したヒンドゥー教と仏教の王国であるシュリーヴィジャヤとマジャパヒトがあり、MSEA沿岸部やインドネシア西部やマレーシアやフィリピンのスールー諸島までの広範な地域を支配しました。この大規模な多国間交易の人口統計学的影響は、低地マレー人やインドネシアの一部民族集団において現在明らかで、アジア南部人の遺伝的兆候の検出により示されます。ジャワ島やバリ島やスマトラ島のインドネシア人に加えて、航海民のサマ人関連人口集団であるコタバル・バジョ(Kotabaru Bajo)やデラワン・バジョ(Derawan Bajo)も、アジア南部人祖先系統の検出可能な水準を示します。したがって、予想外ではありませんが、これらの知見から、スールー諸島の海洋民であるサマ・ディラウト人や、サンボアンガ半島のサマ沿岸部住民は、アジア南部人からの遺伝子流動の証拠を示します。

 フィリピンは1565~1898年の333年間、スペインの植民地でした。しかし、ビコラノス人(Bicolanos)や、スペイン語系クレオール話者のチャバカノ人(Chavacanos )といった、一部の都市化された低地住民でのみ、ヨーロッパ人との混合の有意な人口集団水準の兆候が観察されます。ボリナオ人(Bolinao)やセブアノ人(Cebuano)やイバロイ人やイロカノ人(Ilocano)やイヴァタン人(Ivatan)やパンパンガ人(Kapampangan)やパンガシナン人(Pangasinan)やヨガド人(Yogad)の集団の一部の個体も、ヨーロッパ人との混合の低水準を示しました。この混合は450~100年前頃に起きたと推定されており、スペイン植民地期に相当します。他のいくつかのスペイン植民地とは対照的に、フィリピンの人口統計は、ヨーロッパ人との混合による影響を大きくは受けていないようです。


●まとめ

 本論文で説明されたフィリピンの微妙な人口史は、出台湾もしくは出スンダランド仮説のどちらかの基礎的モデルとのみ一致しているわけではありません。まとめると、フィリピンは過去5万年に少なくとも5回の古代の現生人類の移住の大きな波があった、と示されます(図3A~D)。最初の2回は46000年前頃以後の旧石器時代狩猟採集民集団の拡散に特徴づけられ、現代人の基底部オーストラレシア分枝と遺伝的に関連しています。これらのうち、より早期のネグリート集団は、おそらくパラワン島およびミンドロ島を経由してフィリピン北部に拡散してきて、続いてママヌワ人に代表される基底部オセアニア人分枝(図2Aおよび図3A)が、スールー諸島経由でフィリピン南部へと拡散しました。

 さらに、デニソワ人もしくは他の関連する絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は、ネグリートの拡散時にすでにフィリピンに存在しており、独立した局所的な古代型ホモ属との混合が生じました(関連記事1および関連記事2)。さらに、ネグリート民族集団間のデニソワ人祖先系統の検出可能な水準を考え得ると、この絶滅ホモ属からの遺伝子移入兆候は現在まで明らかです。さらに、狩猟採集慣行を伴う元々の狩猟採集民の遺伝的祖先系統が、その後の移住により置換および/もしくは希釈されたにヨーロッパの人口史とは対照的に、フィリピンにおけるネグリートの祖先系統は現在まで依然として大量に存在します。これは、現在までの一部集団で観察されるように、生計の狩猟採集民様式の実践が伴います。

 ネグリートに続くのは、15000年前頃以後のフィリピンへの「マノボ人」的および祖先的「サマ人」的な遺伝子流動で、それは最終氷期末のISEAにおける大きな地質学的変化の頃に、南方経路で起きた可能性が高そうです。その後もしくは同時に、パプア人関連人口集団の西方への拡大があり、フィリピン南東部の民族集団に遺伝的影響を残しました。最後に、アジア南部人からサマ人民族集団への遺伝子流動のわずかな影響と、一部の都市化された低地住民とヨーロッパ人との最近の混合に先行する、最も新しい大きな移住事象は、早ければ10000~8000年前頃となる、中国南部と台湾からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移動でした(図2Bおよび図3D)。この拡大は複数の波で起きた可能性が高く、古代の航海民集団は、フィリピン内外の現代の人口集団に広がっている言語優位の持続的遺産をもたらしました。以下、本論文の図3です。
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 現在確認されている、水田稲作の到来および拡大の年代と、中国南部・台湾からフィリピンへの人々の人口統計学的移動の年代との間の関連についての遺伝的証拠は見つかりません。全員が一部のアジア東部北方祖先系統を示す、亮島2および他の台湾とアジア東部南方の古代人個体群の遺伝的構成を考えると、最も簡潔な説明は、コルディリェラ人はアジア東部北方人集団からの遺伝子流動の前にフィリピンに拡散してきた、というものです。この観察から、フィリピンにおけるコルディリェラ人の到来年代の境界は遅くとも8000~7000年前頃と推測され、フィリピンの早期コルディリェラ人は遊動的な狩猟採集民だった、と示唆されます。フィリピンの集団間の複雑な混合から分かるように、他の全てのコルディリェラ人的集団は最終的に、さまざまな時点で在来人口集団と混合しました。したがって、コルディリェラ人は人口史において独特の位置を占めており、基底部アジア東部人の最小限の混合された子孫として明らかにされます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、フィリピンへの現生人類の拡散が、台湾もしくはスンダランドのどちらかのみに由来するのではなく、複雑な複数回の移動の結果だった可能性が高いことを示しました。また、農耕の拡大と人類集団との拡大が一致しない場合もあることも示されました。本論文は、アジア南東部に留まらず、アジア東部やオセアニアの現生人類集団の進化史を考察するうえでも重要な知見を提示した、と言えるでしょう。なお、恐らくは執筆に間に合わなかったため本論文では取り上げられていない最近の研究としては、2200年前頃のグアム島集団がフィリピンから到来した可能性を指摘した研究(関連記事)と、ISEA現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響を検証し、ホモ・エレクトス(Homo erectus)のような「超古代型人類」と現生人類との交雑はなかっただろう、と推測した研究(関連記事)があります。最近のアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(関連記事)を踏まえると、コルディリェラ人関連祖先集団は遺伝的には、基本的に内陸部南方祖先系統で構成されていた、と言えるでしょう。今後のユーラシア東部における古代DNA研究により、内陸部祖先系統内の南北の混合がいつどのように進んでいったのか、明らかにされていくと期待されます。


参考文献:
Larena M. et al.(2021): Multiple migrations to the Philippines during the last 50,000 years. PNAS, 118, 13, e2026132118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026132118

大河ドラマ『青天を衝け』第7回「青天の栄一」

 今回、徳川家康の解説では江戸時代の漢詩の重要性が指摘され、近代以降の日本社会、とくに第二次世界大戦後には、日本史における漢詩の重要性はあまり意識されていないように思うので、よかったと思います。主人公の渋沢栄一を中心とする農村部の話は、千代をめぐる栄一と喜作の三角関係が描かれました。大河ドラマ愛好者にはこうした話を嫌がる人が多いかもしれませんが、千代は主人公の妻ですし、さほど長くはなかったものの、3人の心理が割と丁寧に描かれていたので、悪くはなかった、というかなかなかよかったのではないか、と思います。また、江戸に出た尾高長七郎が尊王攘夷の動向に突き動かされていくところも、なかなか丁寧な描写になっていて、よいと思います。

 徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話では、阿部正弘が没し、井伊直弼と将軍の徳川家定が接近し、いよいよ幕末の政治的激動が始まったことを予感させます。井伊直弼はすでに登場していましたが、これまではほとんど目立たず、モブキャラのようでしたが、今回終盤でやっと目立った感があります。本作では慶喜が重要人物として描かれていますが、幕末政治史の重要人物である父の斉昭だけではなく、母と妻も短い描写ながらキャラが立っています。栄一は幕末の最終段階で海外に行くため、国内の政治情勢は慶喜を中心に描かれ、慶喜の周囲の人物も重要になってきそうですから、今からしっかりキャラを立てておくことは必要でしょう。井伊直弼も以前の登場でもう少しキャラを立てておいてもらいたかったものです。

大相撲春場所千秋楽

 もうすっかり慣れてしまいましたが、両横綱のうち鶴竜関は初日から、白鵬関は3日目から休場となり、またもや横綱不在の場所となりました。稀勢の里関の悪例があるので、白鵬関と鶴竜関の休場に関して私はずっと擁護してきましたが、さすがに鶴竜関に関しては厳しいと思っていたところ、場所中に鶴竜関は引退を表明しました。親方として鶴竜を襲名するとのことで、まだ親方株を取得していないのでしょうか。鶴竜関は優れた親方になりそうですし、鶴竜関の前に引退した横綱7人のうち5人が定年よりもずっと前に相撲協会から離れていることもありますから、鶴竜関には親方株を取得してもらい、長く後進の指導に当たってもらいたいものです。白鵬関は来場所も休場して七月場所で進退をかけるそうですが、膝の状態がかなり悪そうなので、このまま引退することになりそうです。白鵬関はこれだけの実績を残しているので、一代年寄を認められるべきだと思いますが、もし認められないようならば、これを機に一代年寄制を廃止すべきでしょう。

 横綱不在で今場所も混戦となり、千秋楽を迎えた時点で4敗の力士にも優勝の可能性が残されているくらいでした。優勝争いを引っ張っていた高安関が13日目・14日目と連敗して後退したところは、兄弟子の稀勢の里関の勝負弱さを想起させました(2012年夏場所)。14日目を高安関とともに3敗で迎えた照ノ富士関は14日目に朝乃山関に勝ち、単独首位で千秋楽を迎えました。まず、4敗の碧山関と高安関が対戦し、高安関は硬くなっていたのか、はたき込みで敗れ、10勝5敗で優勝争いから脱落しました。高安関は、あるいは終盤にどこか痛めたのでしょうか。照ノ富士関は貴景勝関に一度は押し込まれながら逆襲して押し出して勝ち、12勝3敗で3回目の優勝を果たしました。

 照ノ富士関は大関復帰を確実にしました。序二段まで陥落しながら大関に復帰したのは見事です。白鵬関はこのまま引退しそうですから、現時点では照ノ富士関が最強と言えるかもしれません。しかし照ノ富士関は、大関から陥落する原因となった大怪我の前よりも心技の面では成長が見られますが、やはり体の面では膝の状態が悪いので、横綱に昇進するのは難しそうですし、仮に昇進できたとしても、満足な成績を残せず短命に終わりそうです。そもそも、照ノ富士関は今年(2021年)11月には30歳になりますから、大関の地位を長く維持することも容易ではないでしょう。

 高安関は最近復調してきたように見えたので、横綱不在の中、今場所最後まで優勝を争ったことは意外ではありませんでした。ただ、高安関も全盛期より力が落ちていることは否定できず、両横綱の衰えと若手の伸び悩みにより、また優勝争いができるようになった、と私は考えています。外国出身力士も幕内上位にいますが、少子高齢化が進む中、やはり圧倒的多数を占める日本出身力士の素質が以前よりも低いことは否めないので、全体的な水準が以前より下がっていると考えるべきなのでしょう。高安関の「復調」や照ノ富士関の大関復帰も、そうした文脈で解釈すべきだと思います。

 7勝8敗と負け越した正代関は不安定で今年11月には30歳になりますし、何とか二桁勝った朝乃山関は出稽古禁止で伸び悩んでいるところがあり、貴景勝関は押し相撲で不安定ですから、間もなく迎えるだろう横綱不在は長期化しそうです。貴景勝関は減量について色々と言われましたが、押し切れないところが見られたので圧力は減少したかもしれないものの、動きは良くなって総合的には正解だったと言えそうです。白鵬関の引退がいよいよ近づき、不安はありますが、横綱不在とはいっても、毎場所混戦の優勝争いも面白いものですから、悲観要素だけでもないとは思います。仮に以前よりも八百長が激減しているとしたら、横綱に昇進するにはそれこそ全盛期の白鵬関くらい力量が抜けていないと難しいので、今後は横綱不在が当たり前のように思えてくるのかもしれません。

アジア南東部現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響

 アジア南東部現代人におけるデニソワ人(Denisovan)の遺伝的影響に関する研究(Teixeira et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。デニソワ人は、現生人類(Homo sapiens)およびネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との遺伝的関係で、現生人類よりもネアンデルタール人に近い種区分未定のホモ属分類群です(関連記事)。ただ、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体では、(後期)ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現代人の方と近縁です(関連記事)。

 アジア南東部島嶼部(ISEA)には、更新世を通じての独特で多様な人類の化石記録があります(関連記事)。ジャワ島は、アフリカ外の拡散に成功した最初の人類種であるホモ・エレクトス(Homo erectus)の範囲の南東部を示しており(本論文はこのような認識を提示しますが、エレクトスよりも前にユーラシア東部まで拡散した人類が散在した可能性も指摘されています)、エレクトスは149万年前頃(関連記事)から117000~108000年前頃(関連記事)までジャワ島に存在しました。

 少なくとも2つの追加の固有種が更新世においてISEAに生息しており、5万年頃前後(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の現生人類の到来まで生存していた可能性が高そうです。その固有種とは、インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と(関連記事)、ルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)です(関連記事)。これら2種の相互および他の人類との系統発生的関係には、依然として議論の余地があります。最近の解釈では、フロレシエンシスはエレクトスの近縁種か(関連記事)、アフリカからの別の拡散事象でISEAに独立した到達したホモ属のより古代型種を表している(関連記事)、と提案されています。ルゾネンシスの現在の分類も不確かです。ルゾネンシスの利用可能な標本は、アウストラロピテクス属やアジアのエレクトスやフロレシエンシスや現生人類などさまざまな人類の分類群と、特定の形態的特徴で類似性を共有しています(関連記事)。

 現代人のゲノムに保存されている遺伝的証拠からは、追加の1つの人類集団がおそらくは現生人類到来時期のISEAに生息していた、と示唆されます。ISEAやニューギニアやオーストラリアに住む現代人集団は、デニソワ人からのかなりの遺伝的祖先系統を有しています。デニソワ人はネアンデルタール人の姉妹系統で、その化石記録は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)からの数個の骨格断片(関連記事1および関連記事2)と、チベット高原で発見された16万年前頃の下顎(関連記事)に限定されており、チベット高原では洞窟堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析されました(関連記事)。この地理的に限定された化石記録にも関わらず、現代人集団におけるデニソワ人の祖先系統のパターンから、現生人類到来時のISEA全域にデニソワ人が存在したかもしれない、と示唆されます(関連記事)。

 人口統計学的および古代型祖先系統の推論に固有の複雑さにより、現生人類とデニソワ人との間の遭遇の正確な回数と地理的位置を推測することは困難ですが、現代人集団におけるデニソワ人との混合の複数の異なる波動(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)からは、デニソワ人はおそらく5万年前頃までにウォレス線の東のいくつかの島々に居住するようになった、と示唆されます。20万~10万年前頃のスラウェシ島の石器も(関連記事)、デニソワ人がウォレス線の東側に存在した可能性を示唆しますが、ISEAにおけるデニソワ人の直接的な化石証拠は、これまで目立ったものがありません。

 ISEAにおけるデニソワ人の化石記録の欠如と、ISEAでの現生人類とデニソワ人の混合事象を示唆する遺伝的証拠の増加との間の不一致は、人類の先史時代における重要な未解決の問題を提起します。この問題に関する簡潔な解決は、ルゾネンシスおよび/もしくはフロレシエンシスが、ISEAの現代人のゲノムにおけるデニソワ人祖先系統の起源である、というものです。しかし、ルゾネンシスやフロレシエンシスといったISEAの絶滅人類種の現生人類への遺伝的寄与は、アルタイ地域やチベット高原のデニソワ人のいくつかの確認された標本と容易に一致しません(関連記事1および関連記事2)。

 さらに、形態学および考古学的データからは、フロレシエンシスとルゾネンシスは両方、ISEAにおける広範な歴史を有しており、それはデニソワ人の推定出現年代に先行する、と示唆されます(関連記事)。したがって、フロレシエンシスとルゾネンシスは、それぞれの島環境で進化した2つの異なる超古代型人類として解釈されます。他の可能性がある混合の起源はインドネシアのエレクトスですが、その最終出現年代が117000~108000年前頃(関連記事)なので除外されます。したがって、ISEAにおけるデニソワ人から現代人のゲノムへの遺伝子移入の(複数の)起源は、理解しにくいままです。

 あるいは、現生人類のISEA到来まで、ISEAではフロレシエンシスとルゾネンシスが存在していたかもしれず、両者もISEAの現代人集団の祖先と混合した、という可能性があります。超古代型人類との混合の痕跡がアルタイ山脈のデニソワ人で検出されており(関連記事)、それはアンダマン諸島現代人集団でも検出される可能性があることから、超古代型人類とより派生的な人類種との間の交雑が以前に起きて子孫を残した、と示唆されます。そのような交雑事象が現生人類とISEA固有の人類との間に起きたならば、この混合の証拠はISEAの現代人集団のゲノムではまだ検出されていないかもしれず、ISEAにおける1つもしくは複数の超古代型人類種の過去の存在を間接的に確認するでしょう。


●手法

 この問題に対処し、ISEAの先史時代へのさらなる洞察を提供するため、現代人のゲノムにおける遺伝子移入された超古代型人類の領域に関して、これまでで最も包括的な調査が実行されました。フロレシエンシスやルゾネンシスや他の仮定的な後期生存超古代型人類種のような、古代型人類からの遺伝子移入と一致するゲノム痕跡に関して、パプアとISEAの人口集団からの214個体を含む世界中の現代人計426個体のゲノムが調査されました。遺伝子移入された超古代型人類のDNAの領域を検出するため、本論文で「HMMarchaic」と呼ばれる隠れマルコフモデル(HMM)検出手法と、ChromoPainter(CP)と、HMMとを含めることにより、以前の研究(関連記事)で用いられた分析経路が拡張されました。

 重要なことに、HMMarchaicは遺伝子移入されたDNAの検出を導く参照ゲノムを必要としない点でCPおよびHMMと異なり、ゲノム情報が現時点で存在しない超古代型人類集団からのDNAの識別に適しています。したがって、426個体全員のゲノムでの3通りの検出手法の実行と、CPおよび/もしくはHMMにより予測されるネアンデルタール人およびデニソワ人とまったく重ならない領域の保持により、推定される遺伝子移入された超古代型人類の領域を区別できます。結果として生じる一連の推定上の超古代型人類の配列は、残留古代型領域と呼ばれます。重要なのは、ISEAにおける超古代型人類の祖先系統のパターンにとくに焦点を当てるため、本論文の戦略がアフリカ人口集団と非アフリカ人口集団との間で共有される遺伝的変異を意図的に除外することです。したがって、ホモ・ナレディ(Homo naledi)といった(関連記事)、アフリカの現生人類と関わるあらゆる超古代型人類との混合は、本論文の結果から除外されるでしょう。


●現生人類における超古代型人類からの遺伝子移入の証拠はありません

 ネアンデルタール人およびデニソワ人の遺伝子移入された区域に重なるHMMarchaic遺伝子移入領域をフィルタリングすると、個体あたり1250万塩基対の残留古代型配列が識別されました。これが、超古代型人類から遺伝子移入されたと推定される領域です(図1a)。検出された残留古代型配列の量は、世界規模の人口集団全体で一致しており、ISEA東部(1500万塩基対)とパプアおよびオーストラリアの人口集団(1800万塩基対)でわずかに高い量になっています。

 以前の結果と一致して、ISEAとパプアとオーストラリア(先住民)の人口集団は、デニソワ人祖先系統の最大量(パプア人とオーストラリア先住民のゲノムでは6000万塩基対に達します)を有しており、それが意味するのは、パプアやオーストラリア先住民の人口集団が、分析された全人口集団で観察された古代型祖先系統の合計と比較して、残留古代型配列の割合が最も低い、ということです。本論文の結果から、超古代型人類の祖先系統は、アフリカ外の現代人集団のゲノム祖先系統の、少量の可能性があるものの一貫した量を含むかもしれない、と示唆されます。

 しかし、現代人集団における広範な超古代型人類との混合の証拠は現在欠如しており、この世界的な残留古代型兆候は、手法的な人口産物か、出アフリカ移住に先行する現生人類集団における古代の遺伝的兆候か、不完全な系統分類もしくは平衡選択の結果として生じる、本論文のアフリカ人参照標本では検出されない高度に分岐した現生人類由来の配列の分離である可能性がより高そうです。同様に、パプアとオーストラリア先住民人口集団で観察される残留古代型配列の追加の250万~500万塩基対は、パプアとオーストラリアにおける少量ではあるものの意味のある超古代型人類の祖先系統を表しているかもしれませんが、代わりに、デニソワ人の断片もしくは一部の他の手法的人口産物を検出する、統計的手法の能力における人口集団内多様性を単純に反映しているかもしれません。

 残留古代型領域が本当に遺伝子移入された超古代型人類のDNAなのかどうかさらに区別するために、残留古代型領域内の遺伝子移入された超古代型人類のDNAに特徴的な、遺伝的に異なる変異モチーフ(一定の機能を有すると予測される特徴的な共通の配列や構造、アレル状態)の調査により、一致した痕跡が検索されました。具体的には、残留古代型領域における各ヌクレオチド位置について、検証個体(X)、デニソワ人(D)、ネアンデルタール人(N)、非アフリカ系個体(H)のアレル状態が特徴づけられました。これにより、X・D・N・H形式の一連の変異モチーフが得られ、タイプ1000と0111は超古代型人類からの遺伝子移入の兆候を示している可能性があります。各個体における全ての残留古代型領域のこれら変異モチーフを列挙した後、一般化線形モデルを用いて、モチーフの割合が人口集団特有の違いを示すのか、また切片のみで構成される帰無モデルを有する完全なモデルを対比させることによりP値を計算するのかどうか、検証されました。

 線形モデルで仮定されたように、多項ロジスティック回帰モデルを用いず、線形モデルを考慮した場合、人口集団間で変異モチーフは有意に異なりました(図1b)。しかし、これらの違いはひじょうに微妙で、既知の古代型祖先系統と強く相関しており、交絡効果の存在と一致します(図1c)。たとえば、パプア人のゲノムは他の人口集団と比較して1000モチーフのわずかに高い割合(2%未満)を示しますが(図1b)、個体間変動も高く、超古代型人類の遺伝子移入のシナリオでも予測される、人口集団における0111モチーフの割合での類似の増加は観察されません。

 全モチーフ数の違いを正確に説明することは重要ですが、あり得る説明は、祖先的もしくは派生的で複雑な人口史や、フィルタリング段階で除去されなかった残留古代型領域の中でのネアンデルタール人とデニソワ人の古代型兆候の持続のような、アレル(対立遺伝子)の誤分類を含んでいることです。たとえば、パプア人とオーストラリア先住民で観察される250万~500万塩基対の余分な残留古代型配列は、アルタイ山脈のデニソワ人のゲノムとはひじょうに分岐しているデニソワ人的起源からのかなりのより多くの遺伝子移入を有する、これら人口集団に起因しているかもしれません(関連記事)。

 この結果、より分岐した領域の一部は、参照配列のないHMMarchaic走査では検出されるものの、参照ゲノム配列に依存する2つの手法(CPとHMM)では検出されない可能性があります。じっさい、デニソワ人とネアンデルタール人の祖先系統は全人口集団で1000モチーフの割合と正の相関がありますが、0111モチーフの割合とは負の相関があり、これらモチーフの割合における違いは、残留古代型領域内の割り当てられていないネアンデルタール人とデニソワ人の祖先系統により引き起こされた、と強く示唆されます。以下、本論文の図1です。
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●デニソワ人からの超古代型人類のDNAの間接的遺伝子移入

 最近の研究では、現代人は遺伝子移入されたデニソワ人の配列に含まれている超古代型人類の祖先系統(デニソワ人と未知の超古代型人類との間の古代の混合事象に由来します)の痕跡(400万塩基対)を有する、と報告されました(関連記事)。重要なことに、これらの間接的に遺伝子移入された超古代型人類のゲノム断片の大半は、本論文でも検出されました(回収された各遺伝子移入された領域の配列の長さの100%で)。これらのほとんどは、本論文における推定される超古代型人類の領域にも含まれていました。同様の結果は、HMMarchaicと、予測されたネアンデルタール人の遺伝子移入された領域内の超古代型人類断片を有する残留古代型領域との比較で得られました。


●合着シミュレーションは経験的観察を裏づけます

 本論文の分析経路による間接的に遺伝子移入された超古代型人類断片の正確な回復から、低水準の直接的に遺伝子移入された超古代型人類祖先系統がもし存在するならば、検出するのに充分に強力である、と示唆されます。それにも関わらず、現代人への超古代型人類からの遺伝子移入の証拠の欠如が統計的能力の欠如に起因する可能性を除外するため、合着(合祖)ソフトウェアmsprimeを用いて、オーストラリア先住民とパプア人の歴史が経験的に情報に基づいた人口統計学的モデル下でシミュレートされました。これらのシミュレーションには、オーストラリア先住民とパプア人の共通祖先人口集団における超古代型人類の異なる量(2%、1%、0.1%、0%)を有する、別々のネアンデルタール人およびデニソワ人との混合事象が含まれています。次に、完全な分析経路をこれらシミュレートされたゲノムデータセットに適用し、超古代型人類の領域が検出され、さまざまな水準の超古代型人類からの遺伝子移入の能力と誤検出率が定量化されました。

 本論文のシミュレーション結果から、HMMarchaicは超古代型人類の祖先系統を確かに検出できる、と示されました。真陽性率(TPR)は、0.1%と2%の超古代型人類祖先系統を有するモデルで50~90%の範囲です。一方、偽陽性率は極端に低い割合を維持します。0.1%と0%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルにおける個体あたりで検出された残留古代型配列の量(2000万塩基対、図2a)は、パプア人とオーストラリア先住民の経験的データで観察された量と著しく近くなっています(1800万塩基対、図1a)。これらのモデルに関しては、残留古代型兆候の大半は、CPとHMMでは検出されなかった、ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝子移入に由来します。対照的に、1%と2%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルは、経験的推定よりも個体あたり少なくとも2倍以上の残留古代型配列を検出し(それぞれ3300万塩基対と4700万塩基対)、それはおもに超古代型人類の領域の数で膨張により引き起こされました。興味深いことに、HMMarchaicを用いてのネアンデルタール人とデニソワ人の領域を検出する能力は、増加する超古代型人類の祖先系統の量により負の影響を受けます。それは、この手法の能力が、遺伝子移入された古代型人口集団と外群の現生人類人口集団との間の分岐に比例しているからです。

 同様に、0.1%と0%の超古代型人類からの遺伝子移入モデルで観察された変異モチーフは、超古代型人類からの遺伝子移入の高水準を提供するよりも、経験的データへの密接な適合を提供します。たとえば、1000変異モチーフと0111変異モチーフは経験的データではそれぞれ27%と6%なのに対して、0.1%モデルでは26%と6.5%で、0%モデルでは22.5%と4%です。本論文の経験的観察への0%モデルと0.1モデルの密接な適合は、非アフリカ系現代人のゲノムへの遺伝子移入された超古代型人類からの配列がほとんどないか、皆無であることへの強い裏づけを提供します。以下、本論文の図2です。
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●考察

 ネアンデルタール人および/もしくはデニソワ人との過去の混合を経由して間接的に継承されたわずかな水準を超えての、非アフリカ系現代人のゲノムにおけるあらゆる検出可能な超古代型人類の欠如は、現代ISEA人口集団の祖先とデニソワ人との混合の強い証拠とは完全に対照的です(関連記事1および関連記事2)。超古代型人類集団の子孫としてのルゾネンシスおよびフロレシエンシスの現在の古人類学的解釈に基づくと、本論文の結果は、ルゾネンシスやフロレシエンシスと現生人類との間の交雑は起きなかった、と示唆します。しかし、ルゾネンシスやフロレシエンシスと現生人類との遭遇が、生存可能な子孫を生み出せなかったか、子孫が生存できたとしても、これらの系統がその後絶滅したならば、交雑が起きた可能性を完全には否定できません。アルタイ山脈のデニソワ人と(関連記事)、おそらくはアンダマン諸島人口集団の祖先への超古代型人類の遺伝子移入の証拠から、生存可能な繁殖がじっさいにあり得たかもしれないものの、これらの仮説のさらなる評価は、利用可能なデータを考慮すると、現時点では不可能です。

 代替的な説明は、ルゾネンシスとフロレシエンシスは現在受け入れられているよりも現生人類との分岐がずっと遅い人類クレード(単系統群)で、ISEA全域のデニソワ人的系統のより早期の分岐の子孫で、かなり後期まで生存していた、というものです。これは、フローレス島の100万年以上前(関連記事)およびルソン島の70万年前頃(関連記事)の人類の存在は継続的ではなく、ISEA全域に遍在するデニソワ人祖先系統はルゾネンシスとフロレシエンシスの一方もしくは両方から生じた、と示唆します。じっさい、ISEA全域のデニソワ人祖先系統のパターンは、ルゾネンシスの存在したフィリピンと、可能性がある候補地としてフロレシエンシスの存在したフローレス島(関連記事1および関連記事2)での、別々のデニソワ人からの遺伝子移入事象と一致します。さらに、フロレシエンシスとルゾネンシスの顕著な小型化と固有の島での進化の長期化は、その形態とあり得る系統発生関係の複雑な評価を有している可能性があります。この説明は、「南放デニソワ人」の独自性への簡潔な答えを提供するでしょうが、考古学および化石データの解釈に基づく現在の総意とは一致しません(関連記事)。

 これらの問題の解決において大きな混乱は、デニソワ人化石記録の少なさで、現時点では、指骨1個、下顎1個、いくつかの歯と一部の頭蓋断片だけで、意味のある形態学的比較がひじょうに困難です。さらなる研究のための有望な地域にはスラウェシ島が含まれ、そこでの石器記録は、デニソワ人の居住の可能性がある20万~10万年前頃と一致します(関連記事)。興味深いことに、スラウェシ島は、固有の小型スイギュウ(Bubalus spp.)やスラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)や野生イノシシ科種(Babirusa spp.)が生息しており、それらは完新世まで生存したと知られているウォレス線の東側の数少ない大型動物種です。ISEA東部の大型動物相生存のパターンは、現生人類以前の人類の既知の居住地域と一致しており、フローレス島やその周辺のコモドドラゴン(Varanus komodoensis)、オセアニアフィリピン諸島の現存するミンドロスイギュウ(Bubalus mindorensis)、ブタ(Sus spp.)、ルサジカ属種(Rusa spp.)が含まれます(図3)。このパターンは、古代型人類によるあり得る狩猟圧力への長期暴露が、その後の現生人類と接触における大型動物種の生存を促進した可能性がある、と示唆します。したがって、そのような島々は、理解しにくい「南方」デニソワ人の証拠を回収するための、将来の研究努力の要望な候補地です。別の興味深いものの低そうな可能性はオーストラリアで、北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では65000年前頃の人工物が発見されており(関連記事)、デニソワ人の存在と関連していたかもしれません。以下、本論文の図3です。
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 明らかに、ISEAにおける人類の先史時代のさらなる解決は、ISEAにおけるデニソワ人の存在の直接的な化石および考古学的証拠から大いに恩恵を受けるでしょうし、DNAが回収できない系統発生関係の解決に役立つのは、プロテオーム解析かもしれません。それにも関わらず、現在の化石および考古学的記録は、ISEA全域の遺伝的証拠の増加とともに、ウォレス線の東側の古代型人類の広範な存在を示し、ISEAに到来した最初の現生人類集団が、どのような経路でサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)に拡散したとしても、恐らくさまざまな人類集団と遭遇しただろう、と示唆されます。これは、ISEAとニューギニアとオーストラリアの現代人集団で見られるデニソワ人祖先系統のほとんどがその地で得られた可能性を示唆し、将来にはこの充分には研究されていな地域全体でより多くの考古学的および遺伝学的研究が必要になる、と強調します。


参考文献:
Teixeira JC. et al.(2021): Widespread Denisovan ancestry in Island Southeast Asia but no evidence of substantial super-archaic hominin admixture. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01408-0

倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、天皇(大王)に即位できた皇子(王子)とできなかった皇子とを比較し、その理由を検証することで、古代日本、さらには日本の王権の特質を解明していきます。対象となるのは、伝承的性格の強い日本武尊の頃から院政期までです。日本武尊は、倭王武の上表文に窺えるような、倭王権の支配地域を拡大させた複数の王族将軍を集約させた存在ではないか、と指摘されています。

 5世紀のいわゆる倭の五王の時代には、まだ王位を世襲する「王家(大王家)」という血縁集団は形成されておらず、「皇統譜」も成立していなかったので、五王が『日本書紀』のどの天皇に該当するのか、議論することにはほとんど意味がない、と本書は指摘します。継体「天皇」の即位まで、記紀をどこまで信用できるのか、よく分からず、継体即位後も、その一族の間で政治的対立があった可能性を本書は指摘します。こうした王権の動揺は欽明の即位により収束し、ここに血縁集団としての大王家が成立した、と本書は評価します。またこの頃までに、氏(ウヂ)という支配者に特有の政治組織と、姓(カバネ)という政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、倭王権を構成する支配者層が再編されました。本書は欽明以降の飛鳥時代の王統を蘇我系と非蘇我系に把握していますが、この問題は今後も考えていきたいものです。

 天武朝とその次の持統朝は国制の画期となったようです。多くの息子がいた天武の後継者に関は、天武朝末の時点では、年齢と母の出自から草壁と大津に絞られていた、と本書は指摘します。本書は、大津を個人的能力に優れた専制君主型、草壁を機関・象徴・超越型と評価します。ただ本書は、そもそも草壁が病弱で凡庸な人物だったとの一般的認識は、大津の人となりを伝える記事との相対的な想像にすぎない、とも指摘しています。確かにその通りですが、そうならば、草壁を機関・象徴・超越型と評価するのもどうかな、とは思います。持統から文武への譲位にはかなり無理があり、朝廷で広範な支持は得られていなかった、と指摘されています。

 奈良時代には、皇位継承をめぐる政変が頻発しました。これは、文武天皇の息子が公式には首皇子(聖武天皇)1人だけだったこと(本書で言及されているように、他にも存在した可能性はあります)に起因する、と本書は指摘します。文武には皇后がおらず、当時皇后は皇族に限定されていたものの、適齢の皇女がほとんどいなかったからではないか、と本書は推測します。皇統の観点からは転機となった白壁王の即位(光仁天皇)は、白壁王と聖武天皇の娘(井上内親王)との間の息子(他戸王)の将来の即位が前提とされていましたが、光仁の即位後間もなく、井上内親王は皇后の地位を、他戸王は皇太子の地位を追われます。本書はこれを、藤原式家の陰謀と推測しています。平安時代初期の桓武天皇や嵯峨天皇や仁明天皇には子供が多く、これは文武天皇の子が少なく、皇位継承に問題が生じたことを反面教師としたためかもしれません。

 皇位継承をめぐる争いは9世紀半ばの摂政の出現後も続きますが、この頃になると、平安時代初期までに見られたような、敗者側の皇子が死に追いやられるようなことは見られなくなります。本書はこれを、日本的な政治の美意識だろう、と指摘します。皇位継承に母方の有力者の存在が大きな意味を有したのは9世紀以前も同様ですが、摂政・関白(または内覧)が常置される摂関期になると、皇位継承は完全に時の執政者とのミウチ関係に左右されるようになります。これが大きく変わったのは後三条天皇の即位で、「治天の君」と称された上皇が皇位継承者選定の主導権を握るようになります。この院政期になると、后妃の家柄が以前ほどには問われなくなります。

 本書は、初代天皇の神武の子孫が皇位を継承するという制度を築いたため、天皇は皇子を儲けねばならなくなり、ほとんどの天皇は気の向くままに何人もの后妃や女官と接触して皇子を儲けことから、悲劇の皇子が再生産され続けた、と指摘します。それは、血縁に基づく世襲による皇位継承という制度に必然的に付随する矛盾だったかもしれない、というわけです。また本書は、皇位継承に敗れた皇子が、伝承の世界で流浪・遍歴を重ね、各地の民衆と結びついてきた、と指摘します。その一例が、出羽の羽黒山に伝えられている、崇峻天皇の皇子である能除太子(鉢子皇子)です。

イヌの身体意識

 イヌの身体意識に関する研究(Lenkei et al., 2021)が公表されました。これまでの研究から、イヌは共感や社会的学習といった複雑な認知能力を有することが明らかになっていますが、イヌが何らかの形の自己認識を示すのかどうかは分かっていません。この研究は、32匹の飼いイヌに「体が障害物になる」という課題の実験を行なわせました。この課題は、小型マットの上に立たされたイヌが、マット上に配置した玩具を飼い主に渡すというもので、玩具をマットに固定した場合には、イヌは玩具を飼い主に渡すためにマットから降りなければなりません。

 実験の結果、玩具をマットに固定した場合、玩具を地面に固定した対照実験と比べて、イヌはマットから降りる頻度が高く、マットから降りるまでの時間が短かい、と明らかになりました。対照実験で、イヌがマットから降りることは玩具を飼い主に渡す能力に影響を与えませんでした。また、玩具をマットに固定した場合、対照実験と比べて、イヌが玩具を口にくわえたままマットから降りる頻度が高いことも明らかになりました。

 これらの知見は、イヌが、玩具を飼い主に渡すさいに自分の体が障害物になっていることを認識でき、課題を遂行するためにマットから降りる必要がある条件と、マットから降りると課題を遂行できない条件とを区別していた、と示唆しています。身体認識とは、自分自身の体と自分以外の物体との関係を理解する能力のことで、自己認識の前兆とされます。これらの知見は、イヌが身体認識を有し、自分自身の行動の結果をある程度理解している、という仮説を裏づけるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:イヌには身体意識があって自分の行動の結果を理解できるのかもしれない

イヌは自分の体を障害物として認識していて、自分の行動の結果を理解している可能性のあることが、32匹の飼い犬を対象とした研究から明らかになった。この結果を報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

これまでの研究から、イヌは共感や社会的学習といった複雑な認知能力を有することが明らかになっているが、彼らが何らかの形の自己認識を示すのかは分かっていない。

今回、Péter Pongrácz、Rita Lenkeiたちの研究チームは、イヌに「体が障害物になる」課題をさせる実験を行った。この課題は、小型マットの上に立たせたイヌが、マット上に配置した玩具を飼い主に渡すというもので、玩具をマットに固定した場合には、イヌは、玩具を飼い主に渡すためにマットから降りなければならない。

実験の結果、玩具をマットに固定した場合、玩具を地面に固定した対照実験と比べて、イヌはマットから降りる頻度が高く、マットから降りるまでの時間が短かった。対照実験で、イヌがマットから降りることは玩具を飼い主に渡す能力に影響を与えなかった。また、玩具をマットに固定した場合、対照実験と比べて、イヌが玩具を口にくわえたままマットから降りる頻度が高かった。以上の知見は、イヌが、玩具を飼い主に渡す際に自分の体が障害物になっていることを認識でき、課題を遂行するためにマットから降りる必要がある条件とマットから降りると課題を遂行できない条件を区別していたことを示唆している。

身体認識とは、自分自身の体と自分以外の物体との関係を理解する能力のことで、自己認識の前兆とされる。今回得られた知見は、イヌが身体認識を有し、自分自身の行動の結果をある程度理解しているという仮説を裏付けるものかもしれない。



参考文献:
Lenkei R. et al.(2021): Dogs (Canis familiaris) recognize their own body as a physical obstacle. Scientific Reports, 11, 2761.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-82309-x

100万年以上前のマンモスのDNA解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、100万年以上前のマンモスのDNA解析結果を報告した研究(Valk et al., 2021)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。古代DNA研究は近年大きく発展しており、人類を含むさまざまな動物遺骸からゲノムデータが得られ、先史時代の人口動態や古代の遺伝子移入事象や絶滅種の人口統計に関する理解が深まりました。しかし、一部の進化過程は、古代DNA研究の時間的限界を超えている、とみなされる時間枠で起きます。たとえば、多くの現代の哺乳類および鳥類種は、前期および中期更新世に起源があります。したがって、種分化過程の古代ゲノム調査では、少なくとも数十万年前の標本から古代DNAを回収する必要があります。

 マンモス(Mammuthus sp.)は500万年前頃にアフリカに出現し、その後、北半球の大半に拡散しました。260万~11700年前頃となる更新世に、マンモス系統は南方マンモス(Mammuthus meridionalis)とステップマンモス(Mammuthus trogontherii)を出現させた進化的変化を経て、後にはコロンビアマンモス(Mammuthus Columbi)とケナガマンモス(Mammuthus primigenius)が派生しました。これら分類群間の正確な関係は不確かですが、一般的な見解では、コロンビアマンモスは150万年前頃に北アメリカ大陸への拡散初期に進化し、ケナガマンモスは70万年前頃にシベリア北東部で最初に出現した、とされています。ステップマンモス(トロゴンテリーゾウ)と類似した(およびそれと同種と考えられている)マンモスは、少なくとも170万年前頃からユーラシアに生息していました。

 ケナガマンモスおよびコロンビアマンモスの起源と進化を調べるため、前期および中期更新世のシベリア北東部のマンモスの大臼歯3個からゲノムデータが回収されました(図1a)。これらの大臼歯は、シベリア北東部のよく記録された化石を含むオリョリアン・スイート(Olyorian Suite)に由来し、古地磁気逆転の世界的な系列、およびベーリンジア東部の絶対年代を有する動物相と結びついた、齧歯類の生層序を用いて年代測定されました。これらの大臼歯のうち、その発見場所に基づいてクレストフカ(Krestovka)と呼ばれる標本は、元々ヨーロッパの中期更新世化石で定義された種であるステップマンモスと形態的に類似しており、120万~110万年前頃の下部オリョリアン堆積物から収集されました。第二の標本はアディチャ(Adycha)と呼ばれ、ステップマンモスのような形態で、オリョリアン・スイート内の年代はさほど確実ではありません(120万~50万年前頃)。しかし、アディチャ標本の形態からは、年代は前期オリョリアンで、おそらくは120万~100万年前頃と強く示唆されます。第三の標本はチュコチヤ(Chukochya)と呼ばれ、ケナガマンモスの初期形態と一致しており、上部オリョリアン堆積物のみが露出している区画で発見されており、80万~50万年前頃と示唆されます。これら3標本から完全な(網羅率37倍以上)ミトコンドリアゲノムが回収され、核ゲノムデータに関しては、クレストフカ標本が4900万塩基対、アディチャ標本が8億8400万塩基対、チュコチヤ標本が36億7100万塩基対ほど得られました。以下、本論文の図1です。
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●DNAに基づく年代推定

 ミトコンドリアゲノムを用いて標本の年代を推定するため、放射性炭素年代を有する標本群を用いて較正されたベイジアン分子時計分析と、530万年前頃のアフリカのサバンナゾウ系統とマンモス系統との間のゲノムの違いを仮定した対数正規分布事前分布が実行されました。この分析に基づいて、クレストフカ標本は165万年前頃、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)では208万~125万年前、アディチャ標本は169万年前頃(95% HPDで169万~106万年前)、チュコチヤ標本は87万年前頃(95% HPDで107万~68万年前)と推定されます。また、常染色体ゲノムデータを用いて、より高い網羅率のアディチャ標本(0.3倍)とチュコチヤ標本(1.4倍)の年代が調べられました。これは、アフリカのサバンナゾウとの最新の共通祖先以来の派生的変化の数の推定に基づきます。一定の変異率を仮定して、経時的な派生的多様体の蓄積に基づく手法が用いられました。この分析から、アディチャ標本は128万年前頃(95%信頼区間で164万~92万年前)、チュコチヤ標本は62万年前頃(95%信頼区間で100万~24万年前)と示唆されました。この分析は低網羅率のデータに基づいており、信頼区間は広く、推定年代はミトコンドリアミトコンドリアデータから得られたものと類似している、と本論文は指摘します。

 チュコチヤ標本およびアディチャ標本のDNAに基づく推定は、生層序および古地磁気から独立して得られた地質学的年代推定と一致していますが、クレストフカ標本の分子時計年代測定は、生層序から得られた年代よりも古い、と示唆されます。これは、クレストフカ標本がより古い地質堆積物から嵌入したか、ミトコンドリアの変異率が過小評価されてきたことを意味するかもしれません。しかし、クレストフカ標本の遺伝的および地質学的年代推定の信頼区間はわずか5万年離れているだけで、全推定値は100万年以上前の年代を裏づけます。


●遺伝的に分岐したマンモス系統

 常染色体データに基づく系統では、クレストフカ・アディチャ・チュコチヤの前期および中期更新世3標本は、スコットランド(48000年前頃)やシベリアのカンチャラン(Kanchalan)のケナガマンモス(24000年前頃)を含む、後期更新世の全てのユーラシアのマンモスのゲノムの範囲外となります(図1b)。アディチャ標本とチュコチヤ標本の系統的位置は、全ての後期更新世ケナガマンモスの直接的祖先集団に由来するゲノムであることと一致しますが、クレストフカ標本のゲノムは、コロンビアマンモスとケナガマンモスのゲノム間の分岐以前に分岐しました(図1b)。同様に、168個体の後期更新世マンモス標本を含むミトコンドリア系統のベイジアン再構築では、前期更新世のクレストフカ標本とアディチャ標本が、既知の全てのマンモスのミトコンドリアゲノムの基底部に位置づけられるのに対して、中期更新世のチュコチヤ標本のミトコンドリアゲノムは、後期更新世ケナガマンモスで以前に報告された3クレード(単系統群)の一つの基底部となります(図1c)。

 核ゲノムおよびミトコンドリア両方のデータに基づく分岐年代の推定は、クレストフカ標本と本論文で分析された他の全マンモスとの間の深い分岐を示唆します。クレストフカ標本のミトコンドリアゲノムは、他の全てのマンモスのミトコンドリアと266万~178万年前(95% HPD)に分岐した、と推定されます。常染色体データから類似の推定分岐年代(95%信頼区間で265万~196万年前)が得られますが、この分析は限定的なゲノムデータに基づいていることに注意が必要です。さらに、F統計を用いての相対的分岐推定では、クレストフカ標本の核ゲノムは、高網羅率のケナガマンモスではヘテロ接合である部位において、他のあらゆるマンモスよりも派生的アレル(対立遺伝子)が少ない、と示されます。これは、クレストフカ標本系統が、アジアゾウとの分岐後ではあるものの、本論文で分析された他のマンモス間の分岐よりも前に分岐した、という見解へのさらなる裏づけを提供します。

 全体としてこれらの分析で示唆されるのは、マンモスの2つの進化系統(つまり、2つの孤立集団が経時的に存続しました)が前期更新世後半にシベリア東部に生息していた、ということです。クレストフカ標本に代表される一方の系統は、北アメリカ大陸におけるマンモスの最初の出現前に他のマンモスと分岐しました。もう一方の系統は、中期および後期更新世の全ケナガマンモスとともにアディチャ標本で構成されます。


●コロンビアマンモスの起源

 いくつかの証拠は、全ての他のマンモスと比較してコロンビアマンモスでは、クレストフカ標本に代表される系統にその祖先系統のずっと高い割合が由来する、と示唆されます。D統計を用いての分析では、コロンビアマンモスとクレストフカ標本との間で共有される過剰な派生的アレルの強い兆候が明らかになりました(図2a)。これは、その後の混合D統計なしの想定ではゼロから逸脱してないので、他の全てのマンモスのゲノムの基底部に位置するクレストフカ標本の平均的な系統的位置と矛盾します。そこで、Tree- Mixを用いてこのパターンがさらに調べられました。移動(混合)事象をモデル化しないと、どのモデルもデータに適合しません。代わりに、1つの移動事象をモデル化すると、良好な適合が観察されました。これは、コロンビアマンモスの祖先系統の一部がクレストフカ標本系統に由来することを示唆します。

 マンモスの集団史におけるクレストフカ標本系統の進化的背景をさらに評価するため、補完的な混合グラフモデル手法が用いられました。クレストフカ標本とアディチャ標本とチュコチヤ標本を、シベリアのケナガマンモスとコロンビアマンモスとアジアゾウに関連づける、全ての可能性のある系統の組み合わせが、徹底的に検証されました。誤って呼び出された遺伝子型の影響を制限するために、アジアゾウ6頭のゲノムで多型として識別された1ヶ所を含めて、アジアゾウが外群として設定されました。混合事象なしのグラフモデルでは、データにうまく適合しなかったので、単純な系統樹のような集団史は除外されました。対照的に、1回の混合事象を伴うグラフモデルは、完全な適合を提供し、有意な外れ値なしで全てのf4統計の組み合わせを説明します。2つの混合グラフモデル手法から得られた点推定に基づいて、コロンビアマンモスは、クレストフカ標本と関連する系統に由来する祖先系統が38~43%、ケナガマンモス系統からの祖先系統が57~62%の混合事象の結果と推定されました(図2b)。

 未知の起源集団(つまり、ゴースト混合)からの混合ゲノム領域を識別する目的の隠れマルコフモデルを用いて、コロンビアマンモスの複雑な祖先系統のさらなる裏づけが得られました。前期および中期更新世標本を一切含まずに行なわれたこの分析では、コロンビアマンモスのゲノムの約41%は、ケナガマンモスとは遺伝的に区別される1系統に由来する、と示唆されました。その後、ゴースト混合の結果として識別されたゲノム領域の2者間距離系統樹が再構築され、クレストフカ標本のゲノムと密接に関連している、と明らかになりました。対照的に、これらの領域を除外すると、コロンビアマンモスのゲノムの残りは、後期更新世ケナガマンモスの多様性の範囲内に収まります。

 最後に、本論文のD統計分析でも、コロンビアマンモスとアメリカ合衆国ワイオミング州のケナガマンモスとの間での、派生的アレル共有のより高水準が識別されました。F4比に基づくと、これらのゲノム間で共有される祖先系統の過剰は10.7~12.7%と推定され、以前の研究と一致します。コロンビアマンモスはクレストフカ標本祖先系統の大きな割合を有しているので、コロンビアマンモスから北アメリカ大陸のケナガマンモスへの遺伝子流動は、クレストフカ標本系統のマンモスとワイオミング州のケナガマンモスとの間でのアレル共有のより大きな割合を生じたでしょう。クレストフカ標本のゲノムと、ワイオミング州の個体を含むDNA解析されたあらゆるケナガマンモスとの間のアレル共有の過剰は見つからなかったので、遺伝子流動のこの第二段階は一方向で、ケナガマンモスからコロンビアマンモスだった可能性が示唆されます。これは、コロンビアマンモスのゲノムの構成が2回の混合事象の結果であることを示唆します。その混合では、最初はクレストフカ標本系統とケナガマンモス系統のそれぞれから約50%の寄与が、その後では北アメリカ大陸のケナガマンモスからの約12%の遺伝子流動が続きます(図2c)。以下、本論文の図2です。
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●マンモスの適応的進化への洞察

 ケナガマンモスは一連の適応的変化を通じて、耐寒性で開地の専門家へと進化しました。本論文のゲノムの古さは、これらの適応がいつ進化したのか、調べることを可能にします。そのために、全ての後期更新世ケナガマンモスが有している派生的アレルと、全てのアフリカのサバンナゾウとアジアゾウが有する祖先的アレルのタンパク質コード変化が識別されました(合計5598個)。前期および中期更新世のマンモスのゲノムで呼び出される可能性のある多様体のうち、マンモス特有のタンパク質コード変化の85.2%(918個のうち782個)と88.7%(2906個のうち2578個)が、ステップマンモス的なアディチャ標本のゲノムと、前期ケナガマンモスであるチュコチヤ標本にそれぞれすでに存在しました。さらに、本論文でDNA解析された前期・中期・後期更新世のマンモスのゲノム間で、非同義箇所と同義箇所の比率の有意な違いは検出されませんでした。したがって、中期更新世開始式の気候とマンモスの形態の変化にも関わらず、この期間中にタンパク質コード変異率に顕著な変化は観察されません。

 以前の分析では、北極圏環境への一連のケナガマンモスの適応の根底にあると考えられている、特定の遺伝的変化が特定されています。これらの多様体(91個)に関して、アディチャ標本とチュコチヤ標本のゲノムが、後期更新世のケナガマンモスで観察されたものと同じアミノ酸変化を共有するのかどうか、評価されました。毛の成長、概日リズム、熱感覚、白色および褐色脂肪沈着と関連する可能性がある遺伝子のうち、コーディング変化の大半がアディチャ標本(87%)とチュコチヤ標本(89%)の両方のゲノムに存在する、と明らかになりました。これは、シベリアのステップマンモス的なマンモス、つまりアディチャ標本が、すでに体毛やいくつかの寒く高緯度の環境への生理的適応をすでに発達させていた、と示唆します。しかし、ケナガマンモスで最もよく研究されている遺伝子の一つである、熱感覚毛の成長に関わっているかもしれない温度感受性チャネルをコードしているTRPV3では、後期更新世ケナガマンモスで識別された4個のアミノ酸変化のうち2個だけが、初期ケナガマンモス(チュコチヤ標本)のゲノムに存在していました。これは、TRPV3遺伝子における非同義変化が、適応的進化の単一の短い突発というよりはむしろ、数十万年にわたって起きたことを示唆します。


●考察

 本論文のゲノム分析からは、コロンビアマンモスが、ケナガマンモスと、クレストフカ標本に表される以前には認識されていなかった古代マンモス系統との間の混合の産物である、と提案されます。これらの系統それぞれが最初にこの古代の混合のゲノムの約半分に寄与した、という知見を考えると、コロンビアマンモスの起源は交雑種分化事象を構成する、と提案されます。この異種交配事象は、北アメリカ大陸のマンモス集団の平均的な大臼歯形態に変化を与えなかったようですが、ミトコンドリアゲノムでは、全ての既知のコロンビアマンモスはケナガマンモスの多様性内に収まるという、コロンビアマンモスにおけるミトコンドリアゲノムと核ゲノムの不一致を説明できます。

 ミトコンドリアゲノム系統樹に基づくと、全ての後期更新世コロンビアマンモスの最も近い共通母系祖先は42万年前頃(95% HPDで511000~338000万年前)と推定され、この異種交配事象が起きた下限年代を提供します(図1c)。マンモスはすでに北アメリカ大陸において150万年前頃までに出現していたので、これらの知見からは、異種交配事象前の北アメリカ大陸のマンモスはクレストフカ標本系統に分類される、と示唆されます。クレストフカ標本の形態を考えると、これは、最初の北アメリカ大陸のマンモスが、北アメリカ大陸への南方マンモス(メリジオナリスゾウ)の拡大に由来するというよりはむしろ、ステップマンモス的なユーラシアの祖先から派生した、という以前に提案されたモデルを確証します。

 本論文の知見は、ゲノムデータが前期更新世標本からも回収できることを示し、種分化事象全体の適応的進化の研究の可能性を開きます。本論文で提示されたマンモスのゲノムから、この可能性を垣間見ることができます。ステップマンモス的な分類群(アディチャ標本)からケナガマンモス(チュコチヤ標本)への移行は、大臼歯形態の顕著な変化を表していますが、この間にゲノム規模の選択率の増加は観察されません。さらに、後期更新世マンモスで特定された多くの重要な適応は、すでに前期更新世のアディチャ標本のゲノムに存在していました。したがって、ケナガマンモスの起源と関連する適応的進化率増加の証拠は見つかりません。これは、マンモスの生息地と形態における大きな変化が、南方マンモス的集団とステップマンモス的集団との間でより早期に起きたと示唆した、以前の研究と一致します。

 100万年以上前のDNAの回収は、古代の遺伝的記録は以前に示されたものを超えて拡張できる、とする以前の理論的予測を確証します。これまでで最古のDNA解析に成功した動物遺骸は、カナダのユーコン準州で発見された78万~56万年前頃のウマの骨でしたが(関連記事)、この研究の成果はこれを大きくさかのぼることになります。前期および中期更新世のゲノムの追加の回収と分析により、進化的変化と種分化の複雑な性質についての理解がさらに深まる、と期待されます。本論文の結果は、DNA回収の時間的限界を拡張するための永久凍結環境の価値を浮き彫りにし、高緯度からの標本が重要な役割を果たすだろう古代DNA研究の将来の時間的深さの重要な一区切りを示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:100万年前のマンモスのDNAが発見された

 マンモスの標本2点から100万年以上前の古代DNAが回収されたことを報告する論文が、Nature に掲載される。これまでに塩基配列が解読された最古のマンモスのDNAの年代は、78万~56万年前のものであった。

 古代DNAは、先史時代の生物集団に関する我々の理解を深めてきた。しかし、種分化(新種の形成)などのいくつかの進化過程は、DNA研究の限界を超えていると考えられる時期に起こっていることが多い。それにもかかわらず、理論モデルからは、DNAが必要とされる時間スケールで存続できるかもしれないことが示唆されている。

 今回、Love Dalénたちは、シベリア北東部で出土した前期更新世と中期更新世のマンモスの標本3点の臼歯からDNAが回収されたことを報告している。臼歯が採取された堆積層の年代に基づいて、3点中2点の標本(KrestovkaとAdychaと命名された)は100万年以上前のものとされた。ミトコンドリアゲノムデータを用いて得られたDNAに基づいた年代推定では、Krestovkaが約165万年前、Adychaが約134万年前、そして第3の標本(Chukochya)が87万年前のものであることが示唆された。

 これらの標本から得られたゲノムデータは、前期更新世のシベリア東部に2系統のマンモスが存在していたことを示唆している。AdychaとChukochyaはケナガマンモス(Mammuthus primigenius)につながる系統だが、Krestovkaマンモスはこれまで知られていなかった系統だった。Dalénたちは、Krestovkaのゲノムが他のマンモスのゲノムから分岐したのは約266万~178万年前であり、Krestovkaは、北米に定着した最初のマンモスの祖先だと推定している。


古代DNA:100万年前のDNAが解き明かすマンモス類のゲノム史

古代DNA:100万年前の古代DNA

 更新世の北米に生息したコロンビアマンモス(Mammuthus columbi)とケナガマンモス(M. primigenius)は、より以前の年代のユーラシア大陸に生息したメリジオナリスゾウ(M. meridionalis)やトロゴンテリーゾウ(M. trogontherii)の系統から派生した。今回L Dalénたちは、メリジオナリスゾウやケナガマンモスに似た形態を示す前期および中期更新世のシベリアのマンモス3個体について報告している。各標本の年代は、齧歯類の生層序に基づき、Krestovkaが120万~110万年前、Chukochyaが80万~50万年前、Adychaが(追加的な形態データの助けも借りて)120万~100万年前と推定された。著者たちは、マンモス種間の進化的関係をより明確にするため、これら3個体の大臼歯から古代DNAを抽出してゲノム規模のデータを得た。KrestovkaとAdychaの核DNAデータは、これまで得られたものの中で最も古い。系統発生解析および集団遺伝学的解析から、Krestovkaのゲノムの分岐は266万〜178万年前と、コロンビアマンモスとケナガマンモスの分岐のはるか前であったこと、そして、コロンビアマンモスはKrestovkaに代表される古代マンモス系統とケナガマンモスとの交雑の結果生じたことが示唆された。



参考文献:
Valk T. et al.(2021): Million-year-old DNA sheds light on the genomic history of mammoths. Nature, 591, 7849, 265–269.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03224-9

ヤツメウナギ類のアンモシーテスの進化

 ヤツメウナギ類のアンモシーテス(現生ヤツメウナギ類の濾過摂食性の幼生)の進化に関する研究(Miyashita et al., 2021)が公表されました。アンモシーテスは、脊椎動物の祖先に関する仮説に長年影響を与え続けてきました。外見がナメクジウオに似たアンモシーテスから特殊化した捕食性の成体へと変態する、現生ヤツメウナギ類の生活史は、脊椎動物の起源に関して広く受け入れられている仮説を再現するように見えます。しかし、アンモシーテスの進化的な古さを裏づける直接的な証拠はなく、脊椎動物における原始的形態のモデルとしての位置づけは不確かです。

 本論文は、古生代のステム群ヤツメウナギ類4属、つまりハルディスティエラ(Hardistiella)、マヨミゾン(Mayomyzon)、ピピシカス(Pipiscius)、プリスコミゾン(Priscomyzon)の幼生および幼形について報告しています。これらの標本には、後期デボン紀のゴンドワナ大陸南端で発見された、プリスコミゾン属の孵化期から成体期に至る成長系列が含まれます。これら4属いずれにおいても、幼生にアンモシーテスの典型的な形質は認められませんでした。その代わり、これらの幼生は、大きく発達した眼、角質性の歯を伴う摂食装置、後部が閉ざされることにより消化管から独立した鰓篭など、現生ヤツメウナギ類では成体にしか見られない特徴を示しています。系統解析の結果、これら非アンモシーテス型の幼生は、ステム群ヤツメウナギ類の独立した3つ以上の系統で見られることが明らかになりました。この広がりは、アンモシーテスが脊椎動物の祖先の名残ではなく、現生ヤツメウナギ類の系統で生活史が特殊化した結果であることを強く示唆しています。

 以上の系統学的知見からはまた、ヌタウナギ類とヤツメウナギ類の最終共通祖先は、濾過摂食性の幼生期を持たない巨食性(macrophagous)の捕食者であったことも示唆されました。したがって、全ての現生脊椎動物の最終共通祖先の形質をよりよく表すのは、現生の円口類ではなく、円口類と顎口類のステム群をそれぞれ構成する、装甲を持つ「甲皮類」がふさわしいと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:古生代のステム群ヤツメウナギ類の非アンモシーテス型幼生

動物学:ヤツメウナギ類のアンモシーテスは比較的最近出現した

 ヤツメウナギ類のアンモシーテスは、脊椎動物の祖先の名残と考えられている。しかし、宮下哲人(カナダ自然博物館ほか)たちが今回報告している新たな化石証拠からは、最古のヤツメウナギ類が、現生ヤツメウナギ類の成体をそのまま小さくしたような姿で孵化していたことが明らかになった。これは、アンモシーテスが、より最近になって進化した形態である可能性を示唆している。この知見は、捕食性の脊椎動物が濾過摂食性の祖先から進化したとする脊椎動物の進化モデルの文脈において重要である。



参考文献:
Miyashita T. et al.(2021): Non-ammocoete larvae of Palaeozoic stem lampreys. Nature, 591, 7850, 408–412.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03305-9

デンマークの新石器時代単葬墳文化の人々の遺伝的構成

 デンマークの新石器時代の単葬墳文化(Single Grave Culture、略してSGC)の人々の遺伝的構成に関する研究(Egfjord et al., 2021)が公表されました。最近の大規模な古代人口集団の遺伝的研究では、ヨーロッパの縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)は、紀元前三千年紀にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から西方へと拡大し、ヨーロッパの新石器時代人口集団と混合した、ヤムナヤ(Yamnaya)文化とつながる集団として出現した、と示されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 この移住過程は、ヨーロッパの文化的および遺伝的景観を永久に変えました。4850~4600年前頃のデンマークとドイツ北部とオランダにおけるSGCの出現は、ヨーロッパの他地域のCWCの形成と類似した文化的変化を表しており、何十年も、これは考古学者の間で広く議論されてきた現象でした。デンマークでは、最初のSGC定住地域はユトランド半島中央部および西部の平坦な砂質土壌で、ここでは骨格遺骸が保存されていないものの、何千もの小さな塚(古墳)がSGCの大規模な存在を証明しています。花粉分析で報告されているように、SGCの到来には景観変化が伴いました。

 デンマーク西部となるユトランド半島では、SGCはおもに埋葬で知られています。定住の証拠は疎らで、建物の残骸はほぼ独占的にSGCの後の段階に由来します。SGCの墓は通常、小さな古墳の下の単一の土葬です。墓において遺体の位置を反映する土壌痕跡からは、遺体は横向きに置かれ、一般的には東西軸の南向きである、と示されます。右側に横たわる遺体(頭は西)は通常、戦斧や燧石の斧や琥珀色の円盤が伴っていますが、左側に横たわる遺体(頭は東)は土器と琥珀色のビーズを有しており、全体的なCWC伝統と一致して、性別を強調する埋葬の扱いが示唆されます。

 生計の証拠は乏しいものの、エンマーコムギやハダカムギの耕作および家畜の飼育が証明されています。ユトランド半島西部の花粉の証拠は、おもに牧草地の形でのこの時点での広範な開墾を示しており、その目的は明確に、放牧のための広大な開地の確保でした。デンマーク東部では、SGCの存在は後からとなりあまり目立たず、さまざまな形となります。デンマーク東部では、いくつかの例外はあるものの、古典的なSGCの塚は見られず、代わりに既存の巨石墓が再利用されます。SGC伝統はより古い漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、略してTRB)と統合します。またデンマーク北部では、ブーストロプ(Bøstrup)様式の窯のような新たな様式の巨石墓が建てられ、その事例としてゲアイル(Gjerrild)遺跡の埋葬記念碑(図1)があります。

 デンマークにおけるSGCの発展が(南方地域からの)人々の移住により促進されたのか、それとも在来の文化的適応およびTRBの在来新石器時代農耕民の拡大を表しているのか、あるいはこの2つの現象の組み合わせなのか、長く未解決の問題でした。この議論は、カテガット海周辺のデンマーク沿岸部の、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)とつながる混合経済の存在により複雑になっており、この混合経済は魚とアザラシを含む非家畜資源に大きく依存しました。PWCは年代的にSGCと重なり、ゲアイル記念碑が位置するデューアスラン(Djursland)北部に強い存在感を示します。

 ユトランド半島やドイツ北部やオランダにおける何千もの塚の存在にも関わらず、SGC集団が好んで居住した地域の一般的な土壌条件のため、人類遺骸はひじょうに疎らです。この点で、ゲアイル遺跡埋葬のよく保存された骨格(図1)は幸運な例外です。ゲアイル遺跡のSGC個体群が典型的な新石器時代遺伝的祖先系統の在来の人々で、単に新たな埋葬文化を採用したのか、それとも移民CWC集団を表しているのか調べるために、古代DNA分析と放射性炭素年代測定とコラーゲンの炭素13・窒素15食性測定を目的として、ゲアイル遺跡の骨格のうち5個体が標本抽出されました。次世代「ショットガン」配列を用いてゲノム規模情報が得られ、ゲアイル遺跡個体群の祖先系統を、ヨーロッパの他の関連する新石器時代および前期青銅器時代集団と比較できました。本論文は、この例外的なデンマーク先史時代遺跡に埋葬された個体群への詳細な洞察を提供し、ヨーロッパ北部の紀元前三千年紀における移住の役割と新たな文化の形成の理解に貢献します。以下、本論文の図1です。
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●ゲアイル遺跡

 ゲアイル遺跡はユトランド半島東部のデューアスラン北部に位置し、デンマークで知られているSGC遺骸では最も保存状態が良好で数も多い点で注目されます。デンマークの新石器時代文化史では、デューアスラン北部はTRB最終期の発見が欠けていますが、代わりに比較的短いものの重要な狩猟漁撈採集民志向のPWC段階(紀元前3000~紀元前2700年頃)を経ている点で独特です。PWC段階の後、デューアスランの文化的発展はデンマーク東部に続き、巨石墓の継続的使用とわずかなSGCの単葬墳と少なく遅い戦斧により特徴づけられます。したがって、4ヶ所のSGC墓のみが以前のPWCが優勢なデューアスラン北部において報告されており、これらは全て紀元前2500年頃以後となります。

 ゲアイル遺跡の墓は1956年に発掘され、その埋葬は考古学的に副葬品に基づくSGCの上部墓時代(紀元前2450~紀元前2250年頃)となり、薄い刀身と厚い端の燧石手斧や2個の琥珀色ビーズや3個の燧石鏃で構成されます(様式D)。古典的なSGC墓のほとんどとは異なり、ゲアイル遺跡の塚はいわゆるブーストロプ棺である巨石墓を含みます。ブーストロプ棺はほぼ独占的にユトランド半島北部および北東部で見られるので、ユトランド半島中央部および西部の初期各地域の北部と東部の、SGCの後の拡大を表しています。墓室は乱されていたものの、その輪郭を再構築できました。墓室はより広い北端では長さ2.8~3m、幅1.6~1.7mですが、南部では幅がわずか約1mで、入口が見つかりました。

 ゲアイル遺跡の人類遺骸には、少なくとも10個体が含まれており、成人6個体、学童期(juvenile、6~7歳から12~13歳頃)1個体、子供3個体です。これらの頭蓋の形態分析から、ドイツ中央部のCWC個体群とまとめられましたが、その後となるデンマーク後期新石器時代の個体群は、TRB集団とCWC集団両方の混合とされました。これら人類遺骸のいくつかは関節がつながっていましたが、他は多かれ少なかれ乱れており、関節が離れていました。以前の研究では、1~9の番号が振られた数個体の遺骸が識別されました(図1)。2個の遺骸(ゲアイル6および7)は互いに並行して仰向けに置かれており、他の2個体は腰掛けのような位置にいました。ゲアイル6の顕著な特徴は、胸骨に刺さっている燧石鏃で(図1)、おそらくは死因となった戦傷です。様式Dの鏃は後のSGC段階(紀元前2525~紀元前2250年頃)を特徴づけると考えられていますが、本論文のゲアイル6遺骸の放射性炭素年代は、そのような鏃の最初の「直接的」年代測定です。ゲアイル7遺骸の注目される特徴は、おそらく外傷で溜まった血を出すような健康上の問題の治療のための、穿孔による頭蓋の穴でした。

●同位体測定と放射性炭素年代測定

 コラーゲンの炭素13および窒素15値からは食性を推定できます。ゲアイル遺跡個体群の両同位体値は低く、海洋および/または淡水食資源からの寄与は限定的と示されます(図2)。ゲアイル遺跡個体群のうち、ゲアイル1は完全に陸生食性を示しますが、ゲアイル6および7は限定的な海洋食性を示します。以下、本論文の図2です。
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 放射性炭素年代は、6個体のうち5個体は4007~3790年前(非較正)で、較正年代では紀元前2575~紀元前2035年頃となります。これら5個体のうち最古の個体はゲアイル8で(較正年代で紀元前2575~紀元前2345年頃)、ゲアイル5が最も新しく、較正年代で紀元前2284~紀元前2035年頃です。これらの年代から、ゲアイル遺跡の墓室がSGC期に使われたと確認されます。ゲアイル遺跡個体群のうち、1・6・7・8はSGC中期および後期と結論づけられます。これは、考古学で示されたよりも早い記念碑の建設と長い使用期間を示唆します。ゲアイル5の年代はわずかに新しく、後期新石器時代もしくは中期~後期新石器時代移行期に相当します。6個体のうち頭抜けて新しい下顎骨標本(較正年代で紀元前1741~紀元前1443年頃)は前期青銅器時代に相当します。男性2個体(ゲアイル6と7)は年代が重なっており、同時代の可能性がありますが、ゲアイル8はもっと早く、ゲアイル5はそれより後になります。ゲアイル1はゲアイル8とほぼ年代が重複していますが、やや後かもしれまず、ゲアイル8とゲアイル6および7の中間です。


●DNA解析と性別決定

 ゲアイル遺跡個体群のDNA保存状態は悪かったものの、ゲアイル1・5・8個体で、それぞれゲノム網羅率0.007倍・1.038倍・0.020倍のデータが得られました。遺伝的に、ゲアイル5・8は男性、ゲアイル1は女性と識別されました。ゲアイル1は以前に形態学的に女性と識別されていましたが、ゲアイル5・8は遺伝学で初めて性別が識別されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、ゲアイル5・8がK2aで、ゲアイル1がHV0です。Y染色体ハプログループ(YHg)は、ゲアイル8では識別できず、ゲアイル5はR1b の稀な下位系統であるR1b1a2(V1636)です。ゲアイル5のYHgと、以前にYHg-R1b1a2が確認された個体群から、YHg-R1b1a2の分岐がYHg-R1b1a1b(M269)の拡大と多様化に先行する、と示されます。YHg-R1b1a1bの下位系統には、ヤムナヤ埋葬と関連する古代の個体群間で一般的なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)や、ヨーロッパ現代人全体で一般的なYHg-R1b1a1b1a(L51)が含まれます(図3)。以下、本論文の図3です。
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●人口集団分析

 ゲアイル遺跡の3個体(1・5・8)のゲノムデータが、他のユーラシア西部古代人と比較されました。主成分分析(図4)では、年代・地理・文化と関連する古代の個体群のクラスタ化が確立されました。主成分分析では、MDS(多次元尺度構成法)1は、オクネヴォ(Okunevo)文化やボタイ(Botai)文化のようなアジア中央部青銅器時代個体群と新石器時代個体群を分離し、ヨーロッパおよび草原地帯青銅器時代個体群を両者の勾配に位置づけます。MDS 2は、より早期のヨーロッパ狩猟採集民とアジア中央部の新石器時代個体群を区別します。

 ゲアイル遺跡の3個体が、線形陶器文化(Linear Pottery Culture、略してLBK)やTRBや球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)集団で観察される、典型的な前期および中期新石器時代祖先系統を示さないことは明らかです。ゲアイル遺跡個体群はむしろ、CWCやスカンジナビア半島の戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)やドイツのウーネチチェ(Unetice)文化のような、ヤムナヤ文化集団の移住とつながる個体群に先行するヨーロッパ北部および東部の個体群と遺伝的に類似しています。より詳細な水準では、ゲアイル遺跡の3個体は、草原地帯個体群に遺伝的により近いCWCと関連する最初期の個体群から、やや離れてクラスタ化しています。以下、本論文の図4です。
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 ADMIXTUREの結果(図5)から、ゲアイル遺跡の3個体全員が主要な「ヨーロッパ後期新石器時代および青銅器時代」クラスタの範囲に収まり、それに応じて草原地帯関連祖先系統構成要素を示す、と確認されます。以下、本論文の図5です。
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●考察

 SGCはオランダからデンマークのユトランド半島まで広がっていました。ゲアイル遺跡個体群のDNA分析から、TRBと関連する以前の新石器時代人口集団には存在しない草原地帯関連祖先系統として観察された、CWCと関連する個体群との密接な遺伝的関係が示されました。したがって本論文の結果から、SGCの習慣に従って生活して埋葬された人口集団が、遺伝的にはCWCと関連する人口集団の北西部の分枝とみなされるべきである、と提案されます。

 SGCは紀元前2850~紀元前2700年頃にユトランド半島中央部および西部に出現し、ユトランド半島の砂質土壌の平坦な景観には、先行する新石器時代集団の居住は疎らでした。ユトランド半島では森林がむしろ開けており、容易に牧草地に変換できます。それは花粉分析で明らかになっており、牧畜経済戦略を志向した後期TRB集団の居住地域で起きた過程です。考古学的指標に基づくと、SGC移住者群の起源はドイツ中央部のハレ(Halle)地域を示しているかもしれず、森林が数世代以内で消滅したので、かなりの程度で継続的だったに違いありません。SGCがユトランド半島中央部および西部に確立すると、デンマークの島々やユトランド半島北部および東部において、まだ後期TRB集団が存在したかもしれない地域に拡大した可能性が高そうです。ゲアイル遺跡個体群は、拡大の第二段階に由来します。


▲ゲアイル遺跡古墳の年代と使用

 ゲアイル遺跡塚の主要な使用期間は紀元前2600/2500~紀元前2200年頃以後で、紀元前1700年頃に再利用されました。これの年代は、人工物から推測されたよりも長い期間で、建設はSGCの中期となります。この年代は、最古の個体ゲアイル8に基づきます。残りの年代は、(再利用されたさいの紀元前1700年頃の個体を除く)最新の個体ゲアイル5に基づきます。スカンジナビア半島南部における中期~後期新石器時代の境界の定義に基づくと、ゲアイル5は後期新石器時代早期もしくは中期~後期新石器時代移行期に分類できます。ゲアイル遺跡では、個体が同時に埋葬されたのではなく、推定約300年間使われたことは明らかです。埋葬されたのが10人以下の場合、平均して1世代に1人しか埋葬できなかったかもしれず、全人口からの強力な選択を示唆します。墓室の個体群が同じ家系に属すのかどうか、本論文の結果からは決定できませんが、選択は性別や年齢の基準ではなかったことが明らかです。

 上述のように、ゲアイル6の胸骨には様式Dの燧石鏃が刺さっていました。様式Dの鏃は後期SGC(紀元前2525~紀元前2250年頃)と考えられており、本論文のゲアイル6の年代(紀元前2447~紀元前2201年頃)を確証します。ゲアイル遺跡の発掘では、ゲアイル6が最後に埋葬された個体と推測されましたが、これは放射性炭素年代と矛盾しています。様式Dの鏃は古典的なPWCの鏃(様式A~C)から派生した、と推測されています。様式CとSGCの様式Dは両方、特殊な戦争用鏃とみなされています。

 2個の土器で大きい方は石棺のほぼ中央で発見され、高さは16.7cm、幅は20.5cmです。これはユトランド半島東部北方地域のヒマーランド(Himmerland)を中心に分布する丸胴様式の典型的な事例です。墓の南端にある、ゲアイル6頭蓋の近くに置かれているより小さな土器は、高さが9.5cm、縁の直系が11.7cmです。これはまっすぐなビーカー(大杯)の大型に分類されますが、側面が湾曲しています。この様式はユトランド半島北東部の同じ地域でも見られますが、じっさいにはデューアスラン西部に由来します。両方の土器は後期SGC(紀元前2450~紀元前2250年頃)に分類され、少なくとも一部の被葬者では、墓の様式のように、後期SGCの内陸部の文化的環境と関連しています。

 縁が僅かに窪んだ薄い刀身と厚い端の燧石手斧はゲアイル6の近くの墓の南部見つかっており、その長さは13.1cm、縁の幅は5.9cmです。燧石の手斧(釿)は、SGCの古墳期に出現し始めました。ゲアイル遺跡の薄い刀身の手斧は様式3A1に分類されており、年代は後期SGCの上部墓期なので、土器の年代に相当します。墓の燧石手斧は、ゲアイル周辺地域が後期SGCの人々の標的になった理由を説明できるかもしれません。この種の燧石手斧は、デューアスラン東部で顕著な分布を示します。隣接するゲアイル・クリント(Gjerrild Klint)には、高品質の豊富な燧石がありました。そのような燧石資源の管理は、これら新たに確立した共同体に、より高品質のさまざまな燧石製品を作って交換することで利点を与えたので、地域を超えてより大きなネットワーク同盟を形成するでしょう。


▲食性と移動性

 骨のコラーゲンの炭素13と窒素15の値から、食性を推定できます。ただ、この値は気候や植生被覆や牧畜のような人類の活動により時空間的に変化する可能性があります。局所的で時系列的に関連する背景知識がない場合、ゲアイル遺跡個体群の同位体値の解釈は一般的でしかありません。ゲアイル遺跡は海岸に近いにも関わらず、その個体群では限定的な海洋性タンパク質摂取量が示唆されます。成人女性のゲアイル1は、完全に陸生食性を示す点で他の個体と異なります。これは、ヨーロッパ北部の他の新石器時代個体群の値と類似しているかわずかに低く、ドイツのCWC集団よりも明らかに低くなっています。これらの結果から、ゲアイル1の食性はおもに植物、つまり穀物に依存していた、と推測されます。これは、後期SGCにおける最初の数世紀よりも高い農耕への依存度と移動性の低い生活様式を示唆する、定住と経済のデータを裏づけます。

 ストロンチウム同位体比(87/86)は以前の研究で示されていましたが、最近のより詳細な研究で訂正する必要があるようです。ゲアイル遺跡の青銅器時代の下顎骨(RISE72)は最低のストロンチウム同位体比を示し、その他の個体と一致します。ゲアイル5・6・7・8はRISE72よりも高い値を示し、とくに成人個体ゲアイル6および7はひじょうに類似した値を示すので、同じ地域で成長した可能性があります。そのような値の最も近い地域は、ゲアイル遺跡から西方に約10~20kmに位置します。同様の値は、スウェーデン南端やヨーロッパ中央部の多くの地域や他のデンマーク地域でも見られるので、この2個体の起源の問題に決定的に答えることはできません。しかし、このストロンチウム同位体比に関する最も簡潔な説明は、ゲアイル遺跡の墓に葬られる個体の地域は、遺跡から少なくとも10~20km離れた地域を含んでいた、というものです。

 成人女性ゲアイル1は、全個体で最も高いストロンチウム同位体比を示し、これは明らかにデンマーク外の出自なので、長距離移動が示唆されます。上述のように、ゲアイル1は海洋資源に依存する食性を示しませんでした。そのため、ゲアイル1の出身地としては、スウェーデン南部、ボーンホルム島、ヨーロッパ中央部のいくつかの地域が考えられますが、同位体もしくは考古学的データからは区別できません。ともかく、ゲアイル1はそのストロンチウム同位体比から、ドイツ南部のCWC集団でも示唆されているように、族外婚慣行と一致します。


▲遺伝的祖先系統

 温帯地域の古代人遺骸でよく見られるように、ゲアイル遺跡個体群のDNAの保存状態は、錐体骨からDNAが得られたゲアイル5を除いて不充分でした。この結果は、錐体骨が古代DNA分析に適していることを改めて確認しました(関連記事)。ゲアイル遺跡個体群のうち3個体で分析に充分なゲノム規模データが得られ、最も高品質なゲアイル5では網羅率1倍以上のデータが得られました。

 本論文の分析は、ゲアイル遺跡の3個体が「草原地帯DNA」と呼ばれる特定のゲノム祖先系統構成要素を有意な割合で有する、と明確に示します。これは、ヨーロッパの遺伝的景観を永久に変えた紀元前3000年頃のヤムナヤ文化関連集団の移住のゲノム痕跡です。紀元前3000年頃以前のヨーロッパ新石器時代農耕民は、紀元前8000年頃に始まる中近東からの大規模な人口集団拡大に直接的にさかのぼるゲノム祖先系統を示しました。しかし紀元前3000年頃に、ヤムナヤ牧畜民がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)から東方へはアルタイ山脈、西方へはヨーロッパと両方に拡大しました。在来の新石器時代共同体との遭遇は時として劇的で暴力的だったかもしれませんが、新たな文化の形成、つまりCWCをもたらしました。したがって、CWCおよび関連する文化の遺骸から古代DNAが分析されると、ヨーロッパ新石器時代とヤムナヤ関連の祖先系統が常に明らかになります(関連記事)。

 ゲアイル遺跡個体群の祖先系統分析からは、デンマークのSGCはCWCの北方の「分枝」として遺伝的に特徴づけられるかもしれない、と示されます。TRBからSGCへの移行は、単純な人口統計学的継続性として特徴づけられる可能性はほとんどありません。むしろSGCの出現は、紀元前3000年頃にヨーロッパの大半で起きつつあった同じ大きな人口統計学的変化の産物です。ヨーロッパ規模の人口統計学的変化に関する現在の知識を考えると、これは驚くべき結果ではありません。しかし本論文の観察はCWC拡大の地理的範囲と年代の理解に重要な情報を示しているので、デンマークにおけるSGCの起源と後の拡大に関する長く続く議論に貢献します。より具体的には、ゲアイル遺跡の3個体はユトランド半島東部への東方へと向かう地域的移住のより後期の段階を表しています。

 ゲアイル遺跡個体群の遺伝的データは3個体分しかなく、そのうち1個体(ゲアイル5)だけが網羅率1倍以上なので、デンマークのSGCの正確な起源や他のCWC的集団との関係について、本論文では詳細な遺伝学的議論は行なわれません。しかし、ゲアイル遺跡の3個体は、平均してわずかに高い割合の草原地帯関連祖先系統を示す、主要なヨーロッパCWCクラスタとはやや離れているようです(図4および5)。ゲアイル遺跡の3個体は、スウェーデンの戦斧文化関連個体群、ポーランドのウーネチチェ文化個体群、以前に分析されたデンマークの後期新石器時代および前期青銅器時代個体群など、他のCWC派生文化の個体群と密接な遺伝的類似性を有しています。これらの観察は、より広範なCWCにおける、微妙な地理的もしくは時間的な人口集団の遺伝的構造を示唆します。ゲアイル遺跡の3個体の遺伝的構成は、まだ存在していた新石器時代人口集団との相互作用の長期の過程から生じたものの、その適切な検証にはより大規模な人口集団ゲノムデータセットのより詳細な分析が必要になる、と本論文では提案されます。

 残念ながら、デンマークとスウェーデン西部どちらのPWC個体群でも、利用可能な遺伝的データはありません。しかし、ゲアイル遺跡の3個体は、草原地帯関連祖先系統を示さないスウェーデン東部の既知のPWC個体群とは遺伝的類似性を示さない、と確認できます(関連記事)。PWC集団はひじょうに移動性が高く、紀元前3000年頃から前期SGC段階まで続くユトランド半島北部およびデューアスランのPWC遺跡群があります。したがって、スウェーデン東部のPWC個体群が、その移動性のためより広範な観点でPWCの遺伝的代表とみなせるならば、SGCの初期段階におけるPWCとSGCの相互作用はひじょうに異なる2人口集団のもので、この時点でヨーロッパの大部分において起きているより広範なCWCとTRBの相互作用と類似しています。しかし、この提案は、西部PWCと関連する個体群の将来のDNA分析により検証される必要があります。

 mtHgは、ゲアイル8および5がK2aで、ゲアイル1がHV0です。これらのmtHgは「新石器時代一括」の一部で、新石器時代以降後にヨーロッパで一般的になり、mtHg-K2の下位系統は以前にその後のCWC集団やイングランドの鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)集団(関連記事)で観察されました。これは、女性遺伝子プールの継続性としてよく解釈されており、到来してくるCWC関連移民はおもに男性で、その後で在来の女性がCWC集団に取り込まれた、と示唆されます。ゲアイル遺跡の3個体のmtDNA分析は、この見解と矛盾していません。さらに珍しいのは、ゲアイル5のYHg-R1b1a2です。これはYHg-R1bの稀な下位系統で、ポントス・カスピ海草原の銅器時代の4個体と、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の銅石器時代1個体(関連記事)で観察されています。


▲考古学的意味と解釈

 デンマークにおけるSGC到来の年代は、花粉分析により確証されます。ゲアイル遺跡の理解でとくに重要なのは、デューアスラン北部のPWCの活動が紀元前28世紀頃に終わり、その後、この地域の考古学的発見がほぼ完全に欠落している、という事実です。この欠落は、紀元前26世紀と正確に年代測定された、最初のゲアイル遺跡埋葬の頃に終わりました。ゲアイル遺跡の西方約12kmに位置するデューアスラン北部のフールスー(Fuglsø)湿原からの高解像度花粉図表では、農耕活動の200年の脱落と森林の再生が観察できます。SGCがデューアスラン北部に到来した時、森林はおもに恒久的な放牧のために再び開けました。花粉拡散の増加は開地の指標として観察できますが、以前のTRB農耕期よりも顕著に少なくなっています。したがって、ゲアイル遺跡の古墳は、約2世紀の「暗黒時代」の後に、この地域において復活した定住の時期を示しています。

 人類遺骸はSGCでは疎らなので、ゲアイル遺跡個体群のDNAデータは、紀元前三千年紀のデンマークにおけるSGCと関連する文化的および社会的変化の背景にある過程に、独自の洞察を提供します。デンマークの地域的なSGCが文化的変容だけではなく、ヨーロッパ他地域におけるCWCの拡大と関連する遺伝的変化も表している、と本論文は提案します。この変容がどのように地域的に認識されたのか、明らかではありません。デンマークのPWCは、ユトランド半島の北部および北東部の沿岸地域で見つかる比較的少ない大規模定住遺跡により特徴づけられます。しかし、利用可能な少ない情報を見るならば、PWC集団との遭遇は必ずしも平和的ではなかった、と示唆されます。経済は混合され、海洋資源に注目しているものの、狩猟や家畜や小規模農耕を含んでいるようです。

 当初、PWCとSGCの共同体はおそらく、領土や資源をめぐって深刻には競争していませんでした。しかし、これはSGCがユトランド半島北部と北東部に拡大してきた時に変わった可能性が高そうです。それは、特殊なPWCの戦争用鏃(様式C)を含む、 SGCの下部墓期(紀元前2850~紀元前2600年頃)の墓により示唆されます。墓の中の鏃の位置は、埋葬のさいに身体に供えられた可能性が高そうです。4基の単葬墓が、リームフィョー(Limfjord)のすぐ南のユトランド半島北部のSGCとPWCの境界地帯として定義される場所にあります。墓のうち3基は、PWC中核領域とみなせるかもしれない場所に位置する、最北で記録される初期SGC墓にあります。したがって、拡大するSGC集団と在来のPWC集団にとって関心のある地域において、侵入もしくは短期の確執の形で起きた暴力的遭遇を予想しなければなりません。そのようなパターンはじっさい、紀元前三千年紀の激しい人口統計学的および文化的過程において暴力的衝突が重要な役割を果たした、と示唆するヨーロッパ他地域の証拠と一致します(関連記事)。

 様式Dの鏃の存在と、ゲアイル遺跡の埋葬の比較的遅い年代から推測して、ゲアイル遺跡個体群の一部の外傷はPWCとSGCの遭遇の結果ではなさそうです。代わりに、そうした外傷はSGC内の競争の結果である可能性が高そうです。明らかな紛争の原因は、本論文で分析されたゲアイル遺跡の石棺の東方1.5km未満の沿岸の崖で見つかる、豊富な燧石堆積物だった可能性があります。これらの資源はPWC期に集中的に利用され、薄い刀身との燧石手斧と様式D鏃の一定の集中により示唆されるように、おそらくその後のSGC期にも利用されました。いずれにしても、鏃および外傷と関連する2個体(ゲアイル6および7)の問題が重なっており、同時代かもしれないことは注目に値します。これは、2人が以前のPWC 地域に居住するSGC集団間の、同じもしくは恐らく関連する一連の敵対的遭遇の犠牲者だったかもしれない、という可能性を提示します。

 上述のように、ゲアイルとデューアスラン北部のいくつかの同時代SGC遺跡は、この地域が放棄されたように見える約2世紀の後の定住を表しており、海から容易に利用できる高品質燧石堆積物のより制約されていない、もしくは共同の利用を可能としたかもしれません。ゲアイル遺跡の塚を建築した集団が紀元前26世紀にこの地域に定住した時、その集団は、この地域と、長く争われていたか未制御だった資源への領域的主張をした、いくつかの集団の一つだったかもしれません。この仮説は、ゲアイル遺跡の人類遺骸に反映されている暴力的紛争を説明できるかもしれません。


参考文献:
Egfjord AF-H, Margaryan A, Fischer A, Sjögren K-G, Price TD, Johannsen NN, et al. (2021) Genomic Steppe ancestry in skeletons from the Neolithic Single Grave Culture in Denmark. PLoS ONE 16(1): e0244872.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0244872

大河ドラマ『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」

 今回冒頭で、徳川家康により水戸藩における尊王の伝統が語られました。本作でもう一人の主人公と言えそうな徳川慶喜の言動を理解するうえで、これは重要となるでしょうから、適切な解説だったと思います。最初は、幕末~近現代の大河ドラマに徳川家康が登場するという演出には懐疑的でしたが、今では、解説がなかなか的確なこともあり、成功と言えるように思います。幕末の複雑で急変する政治状況を家康が解説すれば、本作をよりよく理解できそうですし、明治以降も家康の解説があるとよいのですが、どうなるでしょうか。

 今回も、渋沢栄一を中心とする農村部の話と、慶喜を中心とする「中央政界」の話の二部構成でした。今回、栄一と慶喜が遭遇したとはいえ、両者はまだ本格的に接続しておらず、まとまりの悪いところがあるとも言えますが、両者の接続はそう遠くないでしょうから、その時が楽しみです。ただ、現時点でも話はなかなか面白くなっており、とくに不満はありません。農村部の話は大河ドラマらしくない、と不満に思う大河ドラマ愛好者は少なくないかもしれませんが、道場破りや攘夷に向かう当時の農村有力者層の動向が描かれており、大河ドラマとして見てもとくに不満はありません。判断は時期尚早ですが、本作は当たりとなりそうで、今後も楽しみです。

後期更新世アジア北部におけるY染色体ハプログループC2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源

 後期更新世アジア北部における特定のY染色体ハプログループ(YHg)C2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源に関する研究(Sun et al., 2021)が公表されました。以前の考古学的および遺伝学的研究では、アジア北部における現生人類(Homo sapiens)の出現と最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の再拡大に関わる過程が明らかにされてきました。アルタイ山脈からチュクチ半島にいたるアジア北部では、一連の旧石器時代遺跡が発見されており、古代DNA研究では、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年1個体のゲノムに代表される「古代北ユーラシア」人口集団が、現代ユーラシア人およびアメリカ大陸先住民の遺伝子プールに大きく寄与した、と示されています(関連記事)。24000~18000年前頃のLGMは、アジア北部の人口集団の遺伝的構造を強く再形成しました(関連記事)。LGM後、さまざまな地域の古代人口集団は、アジア北部全域に再拡散しました。これら古代人口集団間の長期の混合はついに、アジア北部の現代人集団の出現につながりました。

 以前の調査では、アジア北部の人口集団は4系統のYHgと多くの稀な系統で構成されます。たとえば、YHg-Nは、ウラル語族の唯一の創始者父系で、ツングース語族やモンゴル語族やテュルク語族人口集団において高頻度ですが、YHg-C2a1a3(M504)はモンゴル語族人口集団の創始者父系の一つです。古代および現代の人口集団両方の研究により、YHg-C2a1a1b1(F1756)が東胡(Donghu)や鮮卑(Xianbei)や室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)といった人口集団で優勢な系統だった、と示されました。YHg-C2a1a2a(M86)はツングース語族の人々の唯一の創始者父系です。これら4系統のYHgの下位系統は過去5000年に出現しました。

 YHg-C2a(L1373)には多くの少数派の下位系統があり、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の人口集団から無作為に検出されてきました。たとえば、コリャーク人(Koryak)のYHg-C2a1a1b2(B77)・C2a1a4c(B79)・C2a1a2b1(B91)、朝鮮人のYHg-C2a1b(BY145927)、日本人のC2a1a4(M8574)です。一般的に、これら稀な系統のほとんどの起源と拡散過程は曖昧なままです。以前の研究では、YHg-C(M130)もしくはC2(M217)もしくはC2a1a1a(P39)の広範な分布が明らかにされてきました。重要なことに最近の研究では、エクアドルのワランカ人(Waranka)集団で新たなYHg-C2a2b(MPB373)が識別されており、アメリカ大陸先住民の祖先集団の形成における「短いベーリンジア停止」期間を裏づける、と示唆されています(関連記事)。古代DNA分析では、1万年前頃となるブラジルのCP19個体(関連記事)と、ロシア沿海地域のNEO239個体(関連記事)も、YHg-C2a2bに分類されます。これら現代および古代のデータからは、YHg-Cの下位系統がアメリカ大陸先住民の創始者父方系統の一つだった、と示唆されます。

 「ベーリンジア停止仮説(ベーリンジア潜伏モデル)」は、過去10年のアメリカ大陸先住民の起源に関する最も評判のよい理論です(関連記事)。この仮説では、以下のことが提案されています。まず、アメリカ大陸先住民の直接的祖先はベーリンジアに32000年前頃もしくは22000年前頃に移動してきました。次に、アメリカ大陸先住民関連の遺伝的構成の分化はLGMにおいて大ベーリンジア地域で起き、LGM後のベーリンジアから東方への拡大は、アメリカ大陸先住民の出現とベーリンジアからの西進につながりました。このいわゆる「逆移動」は、シベリアにおけるアメリカ大陸先住民の最も密接に関連する系統とほとんどのユーラシア北部人の起源です(関連記事)。31600年前頃となるシベリア北東部のヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、以下ヤナRHS)は、かつてベーリンジア停止仮説を裏づける最も強力な証拠とみなされました。現在利用可能な証拠は、LGMにおいて最寒冷地域の一つであるシベリアの古代人集団はベーリンジアに集中し、LGM後にそこからシベリア北東部の大半とアメリカ大陸に拡散した、と提案する以前の仮説と矛盾している、と本論文は主張します。

 ヤナ遺跡集団の古代DNAの最も進んだ分析では、以下のように提案されています(関連記事)。マリタ遺跡の少年個体に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先集団、古代旧シベリア人(APS)、古代ベーリンジア人は、LGM前に分岐した古代北シベリア人(ANS)およびこれらの祖先集団と遺伝的構成を共有しています。アジア東部人とANS関連祖先系統の混合によりAPSと古代ベーリンジア人とアメリカ大陸先住民の直接的祖先集団が生まれ、この混合は2万年前頃に起きました。混合人口集団の北方への拡散はLGM後に起きた可能性が高く、LGM後の細石刃技術の拡大に反映されているようです。アジア東部人の遺伝的構成の欠如のため、31600年前頃のヤナRHS個体はアメリカ大陸先住民の直接的祖先集団ではありません。最近の古代DNA研究では、後期更新世以来のアジア北東部とシベリア北東端のチュクチ半島と北アメリカ大陸のより詳細な人口史が提供されています(関連記事)。一般的に、最近の技術による古代DNA研究は、「長期ベーリンジア停止仮説」と一致しません。本論文では、アメリカ大陸先住民の創始者系統に最も密接に関連するYHgが特定され、アメリカ大陸先住民の祖先集団の出現は、LGM後のユーラシア全域での大きなYHg-Q1b1(L53)の拡散の一部だった、と提案されます。

 本論文は、アメリカ大陸先住民の創始者父系であるYHg-C2a1a1a(P39)とC2a2b(MPB373)のより詳細な起源過程に焦点を当てます。YHg-C2a(L1373)の稀な下位系統であるC2a1a3(M504)・C2a1a1b1(F1756)・C2a1a2a(M86)に分類される、43人の男性のY染色体DNA配列が分析されました。年代推定を有する改訂された系統樹が、YHg-C2aの利用可能な全下位系統で再構築されました。旧石器時代のこれら下位系統の起源および分化過程が調べられました。とくに、稀な下位系統の分岐パターンに焦点が当てられ、アメリカ大陸先住民におけるYHg-C2a1a1aとC2a2bの起源を調べる証拠が用いられました。全体として、本論文は正確な年代の洗練されたY染色体系統樹を生成し、YHg-C2a下位系統の起源と拡散およびアメリカ大陸先住民の祖先集団の形成における寄与を調べます。


●分析結果

 調査対象の標本の地理的位置は図1に示されます。緑色の台形は大きい方が現代、小さい方が古代のYHg-C2a(L1373)の稀な下位系統を表します。灰色の円形は、大きい方が現代、小さい方が古代のYHg-C2aの主要な下位3系統であるC2a1a3(M504)・C2a1a1b1(F1756)・C2a1a2a(M86)を表します。赤色の四角はアメリカ大陸の標本を表します。以下、本論文の図1です。
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 YHg-C2a の改訂された系統樹には、1816ヶ所の非固有多様体と2257ヶ所の固有多様体が含まれていました。上述のYHg-C2a の主要な下位3系統に加えて、他の稀な27の下位系統が識別されました(図2)。中国では、YHg-C2a の稀な下位系統は北方の国境付近の人々に由来し、YHg-C2a の主要な下位3系統と同じパターンを示します。YHg-C2a の稀な下位系統は、カムチャッカ半島やアムール川地域や韓国や日本やヨーロッパ中央部やパキスタン北部で見つかりました。アメリカ大陸先住民の2個体ではYHg-C2a1a1aとC2a2bが確認され、暫定的に北アメリカ大陸北部と分類されました。データ不足のため、一部の例外を除いてモンゴルにおけるYHg-C2a下位系統の分布は不明確です。一般的に、YHg-C2a の稀な下位系統の分布は、アムール川地域からモンゴル高原および隣接地域までのアジア北部の低緯度地域に集中している、と本論文は結論づけます。ヨーロッパ中央部とパキスタン北部の標本は、最近のユーラシア東部からの移住の結果の可能性が高そうです。

 年代推定を伴うYHg-C2aの再構築系統樹からは、YHg-C2aが17700~14300年前頃に急拡大した、と示唆されます(図2)。主要な下位系統であるYHg-C2a1a3・C2a1a1b1・C2a1a2aの他に、YHg-C2aの多くの少数派の下位系統があります。アメリカ大陸先住民で見つかったYHg-C2a1a1a(P39)とC2a2b(MPB373)は、14000年以上前に出現した下位12系統のうちの2系統です。YHg-C2a1a1aはその最も密接に関連する系統C2a1a1b(F11350)と14300年前頃(95%信頼区間で15100~13500年前)に分岐しました。YHg-C2a2bはエクアドルの1個体(Waranka9586)で見つかり、YHg-C2aの最初の分岐です。Waranka9586個体のデータは低網羅率なので、192ヶ所の多様体のうち84ヶ所で結果が得られませんでした。YHg-C2a2bはYHg-C2aから22400もしくは17700年前頃に分岐したと推定され、より信頼できる分岐年代の決定には、より高品質のデータが必要です。以下、本論文の図2です。
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 また、利用可能なYHg-C2aの古代人37個体が再分析されました(図1)。朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域に位置する悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡の7400年前頃の個体(NEO239)はYHg-C2a2bです。ブラジルの1万年前頃の個体(CP19)もYHg-C2a2bです。NEO239個体はアムール川地域に分類され、アジア北部および最古のYHg-C2a2bを表す、ブラジルのCP19個体におけるYHg-C2a2bの初期の起源の手がかりを提供します。ロシアのブリヤートの14000年前頃の個体(UKY001)はYHg-C2a1a1a(P39)で、ユーラシアにおける最初のYHg-C2a1a1aの事例を表します。以前の研究ではYHg-C2a1a1aがアメリカ大陸先住民に特有とされていたことを考えると、これは驚くべき重要な発見です。UKY001個体とアメリカ大陸先住民との間の常染色体およびY染色体の大きな類似性(関連記事)から、アジア北部低緯度地域は混合が起きたかもしれない地域で、アメリカ大陸先住民の直接的な起源だったかもしれない、と示唆されます。

●YHg-C2aのLGM後の分化

 現代人集団ではYHg-C2a1a1b1(F1756)・C2a1a3(M504)・C2a1a2a(M86)の頻度が高いため、ほとんどの研究はこれらYHg-C2aの主要な下位3系統の拡大過程と、祖型モンゴル人、現代モンゴル語話者人口集団、ツングース語族人口集団の形成におけるその役割に注目してきました。本論文は、YHg-C2aの稀な下位系統の初期の分化史に注目します。YHg-C2b(F1067)との35000年前頃の分離後、YHg-C2aは約17000年間のきょくたんに長期のボトルネック(瓶首効果)を経ました。LGM後、YHg-C2aの急速な文化により、14300年以上前に12の下位系統が生じました(図2)。

 上述のように、YHg-C2aの稀な下位系統の標本のほとんどは、アムール川地域やモンゴル高原や中国北方の国境やその隣接地域のような、アジア北部低緯度地域の人口集団で見つかりました。以前の研究でも、アムール川地域はYHg-C2aの主要な下位3系統(C2a1a1b1・C2a1a3・C2a1a2a)の原郷で、過去数千年の拡大の前だった、と示されてきました。これらの知見と、たとえばYHg-C2a2bのNEO239個体やYHg-C2a1a1(B473)のようなUKY001個体といった利用可能な古代DNAに基づくと、YHg-C2aの最初の分化はアジア北部の低緯度地域(アムール川地域の可能性が高そうです)で、18000~14000年前頃のYHg-C2aの連続的な分化パターンは、LGM後の南方から北方や西方へのアジア北部の移住に対応しているかもしれない、提案されます。


●「ベーリンジア停止」期間の減少とその重要性の低下

 「ベーリンジア停止」期間は、過去数十年の遺伝学的研究の発展により大きく短縮しました。ヤナRHSとミトコンドリアDNA(mtDNA)の観点での最初の提案では、15000年ほどの停止が主張されました(関連記事)。しかし、その後の研究では、アメリカ大陸先住民の祖先はアジア北東部の近縁集団と23000年前頃に分離した、と提案されました(関連記事)。したがって、アメリカ大陸先住民の祖先は23000年前頃以前にはアメリカ大陸に拡散しておらず、ベーリンジアでの孤立期間は8000年以下となります。

 アラスカで発見された末期更新世の個体(USR1)のゲノム分析では、アメリカ大陸先住民の共通祖先は20900年前頃に分岐し、その場所はアジア北東部もしくはベーリンジア東部だったかもしれない、と示されました(関連記事)。したがって、「ベーリンジア停止」があったならば、6000~5000年ほど(21000~16000年前頃)続いたかもしれません。最重要なのはヤナRHSの2個体の古代DNA分析で、古代ヤナRHS人口集団はアメリカ大陸先住民集団に直接的には寄与しなかった、と明らかになりました(関連記事)。最近のY染色体の研究では、ベーリンジア停止期間は2700年もしくは4600年と提案されています(関連記事)。

 本論文のY染色体の証拠は、アメリカ大陸先住民の祖先直接的な祖先集団が、「古代北シベリア人(ANS)」とアムール川地域の旧石器時代共同体の混合で、LGMの間およびその後に出現した、との古代DNA分析(関連記事)の議論を裏づけます。混合人口集団の大ベーリンジア地域への移動に長い期間かかったかもしれないことも、注目に値します。したがって、大ベーリンジア地域における停止の実際の間隔は、2000年もしくは1000年未満だったかもしれません。一般的に、この短いベーリンジア停止期間は、停止として解釈されるパターンがおそらくはシベリア南部からの移住過程の一部にすぎず、もし停止があったならば、その期間は最初に考えられたよりも進化的圧力としての重要性はずっと低くかった、という可能性がひじょうに高そうです。


●アメリカ大陸への移住の複数の可能性

 まず、主要な祖先系統と最初の混合についてです。シベリア南部は、アメリカ大陸先住民の創始者父系YHg-Q(M242)の起源地と一般的に認められています。現代のエニセイ語話者人口集団は、ユーラシア人の中でアメリカ大陸先住民に最も近いとみなされています。LGMにおけるYHg-Qを有する古代人口集団の退避地は、シベリア南部にあったかもしれません。本論文では、アムール川地域はLGM 後のYHg-C2a(L1373)の拡大中心地だった可能性が高く、シベリア南部地域から遠く離れている、と提案されます。したがって、LGMにおけるシベリア南部とアムール川地域の古代人口集団は、アメリカ大陸先住民の主要な2祖先系統だったかもしれません。シベリア南部の人口集団がアムール川地域からの移民と混合し、ベーリンジア地域においてアメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団が形成されるには、長期間を要した可能性があります。

 第二に、多様な遺伝的系統の起源についてです。アメリカ大陸先住民のmtDNA創始者系統と、そのユーラシア人で最も密接に関連する系統の分岐年代は、研究により大きく異なります。以前の研究では、アメリカ大陸先住民の主要な3創始者父系、つまりYHg-Q1b1a1a(M3)・Q1b1a2(Z780)・C2a1a1a(P39)は、相互にひじょうに古い時代に分岐した、と明らかされてきました。以前の研究では、アメリカ大陸先住民の祖先集団の多様な遺伝的系統は、ベーリンジア地域における単一で孤立した人口集団としての長期の分化の結果と考えられていました。しかし、古代ゲノムの分析により明らかになったように(関連記事)、アメリカ大陸先住民祖先系統の起源集団は、上部旧石器時代にシベリア全域により広範に拡大しており、この基底部アメリカ大陸先住民集団は、アジア北東部人口集団と複数回の遺伝的接触を経て、明確に古代シベリア人口集団が形成されました。したがって、アメリカ大陸先住民の祖先集団の遺伝子プールで観察された多様性には2つの起源集団があったかもしれない、と本論文は提案します。一方は、シベリア南部とアムール川地域における祖先集団の多様な系統です。もう一方は、ベーリンジアにおける長期の孤立期間というよりもむしろ、シベリア南部からベーリンジアへの移動中に新たに出現した構成要素かもしれません。

 第三に、単一の祖先集団だったか否か、という問題です。古代ゲノムの以前の研究では、アメリカ大陸先住民の単一の小さな祖先集団を想定し、複雑な分化と混合過程を解釈する傾向があります。本論文では、現在利用可能な遺伝的証拠は、30年以上前に最初に提案された「移住の複数の波モデル」を裏づける傾向にある、と提案されます。アメリカ大陸先住民の一部の遺伝的系統は、比較的古い時代にアメリカ大陸へと拡散し、たとえば、mtDNAハプログループ(mtHg)D4h3aやX2aです。対照的に、一部の他の系統は、アジア北東部の近縁系統と比較的最近分離しました。たとえば、YHg-C2a1a1a(P39)と、YHg-C2a1a1b1(F1756)のようなその最も密接に関連した系統は、14300年前頃に分離しました。これらの想定では、アメリカ大陸先住民の一部の祖先集団は、アジア北部の低緯度地域に居住していた可能性がある一方で、他の祖先集団は北アメリカ大陸における拡大を始めていたかもしれません。一般的に、多数の創始者の母系および父系と、これらの系統のさまざまな出現・拡大年代は、全アメリカ大陸先住民の単一の共通祖先を裏づけず、それは古代DNA研究の議論と一致します(関連記事)。

 第四に、石器技術の観点における人類の拡散です。細石刃技術の痕跡は、アジア北東部において考古学で特定された最初の文化である35000~13000年前頃のデュクタイ(Dyuktai)文化の遺跡では稀です。デュクタイ文化は10500~6000年前頃のサムナギン(Sumnagin)文化に置換されました。サムナギン文化では細石刃技術の繁栄を示唆する痕跡が残っており、アジア北部の低緯度地域から拡散しました。考古学では、デュクタイ文化の古代人口集団が早期に北アメリカ大陸へと移動していった一方、細石刃技術の古代人口集団がその後で北アメリカ大陸へと拡散した、と提案されてきました。移住のこれら2回の波が、北アメリカ大陸北部における細石刃技術の普及につながりましたが、細石刃技術の痕跡は北アメリカ大陸南部と南アメリカ大陸では稀です。デュクタイ文化の古代人遺骸のより多くの分析が、シベリアにおけるアメリカ大陸先住民の祖先集団の進化史の解明に重要です。

 第五に、拡散の可能性がある3回の主要な波についてです。全体として本論文は、石器技術の移行、YHg-C2a2b(MPB373)とC2a1a1a(P39)の分岐パターン、アメリカ大陸先住民の3集団の出現過程が、アメリカ大陸先住民の起源に関する移住の複数の波モデルを裏づける、と提案します。移住の第二の波がナ・デネ(Na-Dene)語族話者人口集団の祖先を形成した一方で、他のアメリカ大陸先住民は移住の最初の波の古代人の子孫かもしれません。移住の別の後の波は、エスキモー・アレウト(Eskimo-Aleut)語族話者人口集団を形成したかもしれません。アメリカ大陸先住民の異なる父方および母方の創始者系統の分岐年代の間隙は、アジア北部からベーリンジアの低緯度地域への長距離移住に対応しているかもしれません。混合人口集団は、アメリカ大陸へと拡散する前に長くベーリンジア地域に留まらなかったかもしれません。要するに本論文の提案は、本論文で提示された父方の創始者系統に関する証拠が最近の古代DNA分析の知見を裏づける、というものです。最近の古代DNA分析では、アメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団は、LGM前の大ベーリンジアもしくは隣接地域の古代人口集団というよりもむしろ、「古代北シベリア人(ANS)」と、LGM後にアジア北東部へと拡散したアムール川地域の旧石器時代後期共同体の混合だった、と提案されました。

 結論として、本論文はユーラシア東部人口集団からの稀なYHg-C2a(L1373)の下位系統の大規模な標本セットを収集し、18000~14000年前頃のこれら下位系統の明確な分化パターンの証拠を提供しました。これらの標本の分布と、YHg-C2aの下位系統全ての拡大史に基づき、LGM 前のYHg-C2aの分化はアムール川地域からアジア北部の他地域へと北方への拡散の波と対応しているかもしれない、と本論文は提案します。現在利用可能な古代人および現代人のDNAデータは、「長期ベーリンジア停止モデル」よりもむしろ、「移住の複数の波モデル」と一致します(図3a・c)。「短期ベーリンジア停止」モデルはまだ可能性がありますが、その重要性は当初に考えられていたよりも大きく減少しました(図3b)。シベリア東部における24000~10000年前頃の人類遺骸からのより多くの古代DNAデータは、ユーラシアにおけるアメリカ大陸先住民の直接的な祖先集団の形成過程に関する追加の詳細の提供に役立つかもしれません。以下、本論文の図3です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。アメリカ大陸への人類最初の移住年代については議論が続いており、まだ確定していません。アメリカ大陸におけるLGM直後やLGM期さらにはその前までさかのぼるかもしれない人類の痕跡としては、16000年前頃までさかのぼるアメリカ合衆国アイダホ州西部のクーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡(関連記事)や、3万年前頃までさかのぼるかもしれないメキシコのチキウイテ洞窟(Chiquihuite Cave)遺跡(関連記事)の事例が報告されています。

 これらの遺跡の年代と本論文の見解がともに妥当だとしたら、LGM期さらにはその前までさかのぼるかもしれないアメリカ大陸の人類は、完新世のアメリカ大陸先住民にほとんど遺伝的影響を残していないかもしれません。あるいは、最近mtDNAの変異率の見直しが提案されているように(関連記事)、Y染色体DNAの変異率の見直しにより、アメリカ大陸への人類拡散の推定年代が本論文の想定よりもさかのぼる可能性があるとは思います。これらの問題の解決には、アメリカ大陸の更新世の人類遺骸のDNA解析が望ましいものの、アメリカ大陸の更新世の人類遺骸は少ないので、堆積物のDNA解析による研究の大きな進展が期待されます。


参考文献:
Sun J. et al.(2021): Post‐last glacial maximum expansion of Y‐chromosome haplogroup C2a‐L1373 in northern Asia and its implications for the origin of Native Americans. American Journal of Physical Anthropology, 174, 2, 363–374.
https://doi.org/10.1002/ajpa.24173

長谷川岳男『背景からスッキリわかる ローマ史集中講義』

 パンダ・パブリッシングより2016年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもにローマの始まりから拡大期を経て安定期までを扱い、紀元後3世紀以降は簡略な解説となっています。ローマ史の復習になると思い、読みました。これまで考えてこなかったというか、意識してこなかった本書の指摘は、近代日本において、当初はローマよりもギリシアへの関心の方が高く、それは第二次世界大戦後も変わらなかった、というものです。

 1980年代になると、ローマをアメリカ合衆国、カルタゴを日本になぞらえる風潮が現れ、日本社会においてローマへの関心が高まります。なお第二次世界大戦前には、裕福で物資文化重視のアメリカ合衆国を第二次ポエニ戦争時のカルタゴ、貧しくとも質実剛健な気風の日本をローマになぞらえる見解もあったそうです。1980年代後半のバブル期には、漠然とした先行きへの不安からか、日本社会ではローマ帝国の滅亡への関心が高まりました。日本をカルタゴになぞらえたり、ローマ帝国の滅亡への関心が高まったりした現象は、同時代を過ごした私も印象に残っています。ただ本書は、表面的な事柄だけで日本とローマの共通性を感じたり、ローマから教訓を得たりするのは危険だ、と指摘します。ローマは現代日本とは明らかに異質だ、というわけです。

 本書のローマ史概説は、堅実で分かりやすいものになっており、世界史の授業でローマ史に関心を抱いた高校生はもちろん、中学生でもある程度以上の割合が読み進められるのではないか、と思います。もちろん本書は、平易だからといって内容が薄いわけではなく、時に日本史を比較対象とするなど、あくまでも一般向けであることを意識して分かりやすく解説しよう、という意図が伝わってきます。これまでローマ史関連の本をそれなりに読んできましたが、著者の本は今回が初めてだったので、新鮮に読み進められました。

 初期ローマは一時エトルリアに支配されたと考えられてきましたが、決定的な証拠はなく、考古学ではこの時期におけるギリシアの影響が指摘されているそうです。なお、中石器時代から現代と長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変化に関する研究も公表されており(関連記事)、エトルリア人とラテン人との間にかなりの遺伝的異質性が存在した可能性も示唆されています。今後は歴史学においても古代DNA研究が積極的に取り入れられていくのではないか、と予想されます。

 ローマが拡大を続けた理由に関しては、ローマが高度に軍事的な共同体で、軍事に関することがきわめて高く評価されていたからだ、と指摘されています。指導者として優れた人物として認められるには軍事的資質が要求された、というわけです。ローマ社会では出世に軍功が必要で、それが拡大をもたらしました。本書は、開放性が高く、人口移動が激しいイタリア半島中部では、軍事を重視する社会が成立しやすかったのではないか、と指摘します。また本書は、対外戦争による(勝利の結果としての)経済的利益も、ローマが対外戦争を続けた理由として挙げます。対外戦争は、経済的利益でもとくに 奴隷供給源として重要になり、基本的に奴隷は家庭を持てないため、多数の奴隷が必要な社会経済構造が一旦確立すると、奴隷を獲得し続けるためにも対外戦争が必要になった、と本書は指摘します。

 ローマは拡大に伴い、軍事的負担の増加から中小農民が没落していき、元老院議員のような上層の大土地所有が進展したため、紀元前2世紀半ばには格差が拡大し、自営農民である市民に依拠していたローマの軍事力は低下します。そこで、大土地所有の制限などの改革が試みられましたが、社会的対立が激化し、ローマは内乱の時代に突入します。この間、軍事面では市民の徴兵だけではなく募兵制が次第に採用されるようになり、司令官と兵士との結びつきが強くなります。これも、内乱を激化させた側面がありました。

 この内乱を終息させようとする動向の中からカエサルが登場し、オクタウィアヌスの元首政へとつながっていきますが、平和をもたらしたと言われるオクタウィアヌスも、領土拡大のための軍事行動を続けた、と本書は指摘します。ローマが内乱の世紀を経て帝政前期に安定した理由としては、その開放性が挙げられています。それが、新たな支配地の有力者をローマに協力的にさせた、というわけです。ローマの衰退については、都市の衰退と連動していた、と本書は指摘します。都市の役割が大きかったローマにおいて、軍事費や公共施設建造・維持の負担から、都市が疲弊していき、富裕層は没落したり郊外に拠点を移したりします。また本書は、ローマ帝国西方が崩壊・滅亡しても、ローマ帝国の理念がヨーロッパで長く生き続けたことを指摘します。

『卑弥呼』第59話「厲鬼」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年4月5日号掲載分の感想です。前回は、ところで終了しました。今回は、吉備の高嶋をトメ将軍とミマアキが訪れている場面から始まります。高嶋(高島)は、神武天皇が東征のさいに3年間行宮を置いた場所とされています。高嶋でも人の姿が見当たらず、大きな穴には多数の人々の焼死体が積み重なっていました。トメ将軍は、戦ならば槍や礫や矢がどこかに落ちているはずなのが、奇襲による焼き討ちではないか、と推測します。トメ将軍は、不吉な予感がすることから直ちに島から出て吉備本土に向かいます。トメ将軍一行が海岸に近づくと、お暈(ヒガサ)様を象ったワニ家の紋章の入った舟がすでに到着していました。どうやら、穂波(ホミ)の国の重臣で、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の末裔が治めるとされる日下(ヒノモト)の国に向かったトモに追いついたようですが、トメ将軍は慎重で、夜まで様子を見ることにします。)

 山社(ヤマト)では、楼観でイクメがヤノハに、出雲の神和(カンナギ)にして金砂(カナスナ)国の支配者である事代主(コトシロヌシ)と会うことにまだ疑問を呈していました。ヤノハはイクメに、顔を見なければ人となりも分からない、と言います。金砂国が筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)より優れているものは何か、と問われたイクメは、事代主も巫覡(フゲキ)も神に仕える身であると同時に、毉(クスシ)であることだろう、と答えます。イクメの説明によると、毉とは筑紫島の呪禁師もしくは巫医で、草木を育てて薬を作り、民に役立てることから毉と呼ばれているそうです。それなら和議を結んで損はない、とヤノハは考えます。そこへヌカデが多禰(タネ、種子島でしょうか)国より戻ってきます。最近のヤノハは、弟のチカラオ(ナツハ)以外には顔を見せませんでしたが、ヌカデとは対面します。日見子(ヒミコ)様とヤノハに呼びかけるヌカデに対して、二人だけの時はヤノハと呼んでよい、堅苦しい言葉は抜きだ、とヤノハは言います。少し女っぽくなったな、とヌカデに言われたヤノハは、チカラオに犯されたことに気づかれたのか、と慌てます。多禰での交渉についてヤノハに問われたヌカデは、ノシュ王はできた人で、山社との間に暈(クマ)があるので大っぴらには言えないものの、山社と争う気はないと言った、と答えます。閼宗(アソ)でヤノハが襲撃された件についても、ノシュ王は関りがないと述べ、サヌ王の末裔に仕える古の五士族が動いたのだろう、とヌカデは推測します。古の五士族の一人であるトモを殺すよう、トメ将軍に命じており、近いうちに事代主と会うためにと弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に行く、と聞かされたヌカデは、改めてヤノハに感心します。

 吉備では、トメ将軍一行がトモのものと思われる舟を見張っていましたが、夜明け近くになっても人の気配がまったくしません。トモは近くの邑に逗留しているのではないか、とミマアキは推測し、トメ将軍は上陸を決断します。トメ将軍一行がトモのものと思われる舟に近づくと異臭がしてきて、多数の死体が見つかります。トメ将軍は、即刻離れて口と鼻を覆うよう、命じます。トメ将軍は、これが韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)で一度見た疫病神(エヤミノカミ)の祟りだ、とミマアキに説明します。トメ将軍によると、それは厲鬼(レイキ)という見えない鬼で、人の体内に巣食い、人は身を焼かれ、摧かれるようにもがき苦しみ、前進に醜い瘡を発して死に、患者の近くで呼吸し唾を浴びた者は全員同じ厲鬼に取り憑かれるので、助かるには焼く以外に術はないそうです。トモの一行は、半数の漕ぎ手が厲鬼に憑かれ、舟を放棄するしかなかったのだろう、というわけです。豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の人々は死に絶えたかもしれない、とトメ将軍が言うところで今回は終了です。


 今回は、今後いよいよ本格的に本州の情勢が描かれていくのではないか、と予感させる内容になっており、ますます楽しみです。阿岐(アキ)や高嶋で多数の焼死体が見つかり、吉備でそれが疫病による死者だと明らかになりました。日下の国が突如沈黙したのも、この疫病が原因なのでしょう。今回の描写からは、この疫病は天然痘のように思われますが、日本列島に天然痘が到来したのはもっと後(本作は現時点で3世紀前半のようです)のようですから、別の疫病かもしれません。出雲はこの疫病の影響を受けていないようですから、現時点では本州・四国の瀬戸内海沿岸でのみ広がっているのかもしれません。この疫病は、『日本書紀』巻第五(崇神天皇)に見える疫病のことかもしれません。そうすると、ミマアキは『三国志』に見える彌馬獲支なのでしょうが、『日本書紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)も想起させる名前ですから、後にはミマアキが「昼の王」となり、後世には「天皇」として語り継がれるようになった、という設定なのでしょうか。それはともかく、この疫病が山社と日下の国との関係を大きく動かしていくことになりそうですが、事代主は薬にも通じていると今回語られていますから、それが大きな役割を果たすのでしょう。次回もたいへん楽しみです。

アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路

 アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路に関する研究(Coelho et al., 2021)が報道されました。イヌは家畜化されて以来、世界中で人類とともに移動しており、アメリカ大陸への人類の拡散にも不可欠だった、と考えられています(関連記事)。しかし、アメリカ大陸への人類の移動の正確な年代と(複数かもしれない)経路は、イヌの場合と同様に未解決です。遺伝的証拠からは、アメリカ大陸先住民はアジア東部現代人の祖先と23000年前頃以降に分岐したと提案されており(関連記事)、考古学的証拠からは、16000年以上前にアメリカ大陸氷床の南に人類集団が存在した、と示唆されていますが、示唆されていますが(関連記事)、北アメリカ大陸最古の人類遺骸は12600年前頃(12707~12556年前頃)までにしかさかのぼりません(関連記事)。なお、この人類遺骸の年代は、最近12905~12840年前と修正されました(関連記事)。

 イヌの遺伝的データでは、アフロユーラシアにおける家畜化は32100~18800年前頃に起きたと示唆されており、北アメリカ大陸への人類最初の移住よりも前となりそうです。しかし、人類と同様に、イヌの考古学的証拠はDNAに基づく年代よりも遅れており、アフロユーラシアでは15000~12500年前頃以降となります。遺伝的証拠と遺骸証拠との間の間隙は、イヌがアメリカ大陸への人類最初の移住に同行していたのかどうか、あるいは、イヌは人類とともにもっと後のアメリカ大陸への移住の波でのみ到来したのか、という問題を残します。これまでのところ、北アメリカ大陸における最古の確認されたイヌ遺骸は、イリノイ州のコスター(Koster)遺跡およびスティルウェル2(Stilwell II)遺跡の埋葬で発掘されており、その年代は10190~9630年前頃で、最古の確認された人類遺骸よりも2000年以上新しくなります。最近の遺伝的研究では、これら初期のヨーロッパ人との接触前のイヌ(PCD)は、北アメリカ大陸の北アメリカ大陸のオオカミから家畜化されたのではなく、シベリア東部のジョホフ(Zhokhov)島の9000年前頃のイヌ集団との共有祖先から分岐した、と示されています(関連記事)。

 アメリカ大陸の人類とイヌの先史時代は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)およびその直後の生物学的生産性および食料入手可能性と同様に、氷期の年代と程度にも密接に依存しています。LGMにおいて、ローレンタイド(Laurentide)氷床とコルディレラ(Cordilleran)氷床は北アメリカ大陸の大半を覆っており、人類と他のほとんどの動物相および植物相にとって、この地域の生息もしくは通過さえ不可能でした。この回廊は早ければ15000年前頃には開けていたかもしれませんが、13000年前頃までは生物は生存できなかった可能性が高そうです。

 別の仮説は、北西太平洋沿岸(NPC)に沿ったコルディレラ氷床の後退が、現在よりも低い海面と組み合わさり、初期人類と他の生物相にとってより早期の無氷沿岸回廊を提供した、というものです。アレクサンダー諸島を含む北西太平洋沿岸諸島は、独特な生物多様性を保持しており、コルディレラ氷床がその最西端で後退し始めた17000年前頃まで資源の利用が可能でした。この時期は、アメリカ大陸への人類最初の移住時期の遺伝的証拠とほぼ同じで、イヌがすでに家畜化されていたことを示唆する遺伝的証拠と一致します。イヌが北アメリカ大陸に最初の人類とともに到来したのか、その後なのかいずれにしても、イヌはアメリカ大陸全域に拡大しました。考古学的証拠では、イヌは1万年前頃にはアメリカ大陸中央の異なる遺跡に存在しており、それは4000年前頃までにはニューファンドランドからアラバマとカリフォルニアに、1000年前頃までには南アメリカ大陸に及びました。

 現代および古代のイヌは、主要な4ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と、少数派の2mtHgに分類されます。mtHg-Aは最も多様で、ほとんどの犬種とPCD下位クレード(単系統群)を含みます。過去2000年、アメリカ大陸への少なくとも3回のイヌの移動が、PCD集団に直接的に影響を及ぼしました。第一に、チューレ(Thule)文化とともにアジア東部から北極圏のイヌが到来しました。チューレ文化の前には、イヌはアメリカ大陸北極圏では稀でした。北アメリカ大陸北極圏全域のイヌの急速な拡大は、後のイヌイットのそりイヌ文化と関連していた可能性が高そうです。ヨーロッパ人は、現代の犬種の新たな波をもたらし、ほとんどのPCDはおもに文化的選好のため置換されました。ヨーロッパからアメリカ大陸への入植者たちは、集落や家畜を守る能力がより高く、軍用犬もしくは狩猟犬として使えるため、小さなPCDよりも大きなヨーロッパの品種を好みました。ヨーロッパの犬種は、在来のPCDが感染しやすい病気をもたらした可能性もあります。さらに後になって、シベリアンハスキーがアラスカのゴールドラッシュのさいに導入されました。

 最古のアメリカ大陸のイヌ遺骸はアメリカ大陸中西部で発見されたので、PCDがアメリカ大陸への移動のさいにどの経路で持ち込まれたのか、強力な洞察を提供しません。北西太平洋沿岸の古代PCD個体群の直接的証拠は、この難問を解決するのに役立つでしょう。本論文は、古代のイヌ1頭のミトコンドリアゲノムを報告します。このイヌの年代は10150±260年前頃で、アラスカ南東部のアレクサンダー諸島のランゲル(Wrangell)島の東のアラスカ本土に位置する法曹洞窟(Lawyer's Cave)で発掘されました(図1)。この1頭のイヌはPP-00128として知られ、法曹洞窟で発見された最古の骨遺骸を表しており、アメリカ大陸で発見された最古の遺伝的に確認されたイヌです。法曹洞窟では、PP-00128標本以外にも、さまざまな哺乳類や鳥や魚の骨や人類遺骸や人工物が発見されています。人工物には、骨製品や貝殻のビーズや黒曜石の細石刃および剥片などが含まれています。PP-00128標本は当初、クマの骨片と考えられていました。以下、本論文の図1です。
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●放射性炭素年代と炭素13同位体分析

 放射性炭素年代測定では、PP-00128の較正年代は10150±262年前となり、既知のアメリカ大陸最古のイヌ遺骸の年代9910±280年前より240年ほど古いことになります。PP-00128の炭素13値から、その食性はおもに海洋性動物に依存しており、アラスカ南西部のユピク(Yup'ik)の遺跡のあるヌナレク(Nunalleq)で発見された1頭の古代イヌと類似しています。これは、現代のイヌの範囲の下限と重複し、非肉食性哺乳類の範囲内にある北アメリカ大陸中西部地域の他の同時代のイヌとは対照的です。


●系統分析

 分析された全ての系統樹において、PP-00128はPCD内に収まり、mtHg-Aに分類され、シベリア東部のジョホフ島のイヌ集団と密接に関連しています。北アメリカ大陸北極圏地域とグリーンランドの古代および現代のイヌもジョホフ島系統のmtHg-A2aに分類されます。PCD系統はmtHg-A2bとなり、本論文の分析では下位クレード3系統に分離します(図1b・2b)。mtHg-A2b1はシベリアのコスター遺跡の古代のイヌや、北アメリカ大陸全域やカリフォルニアのチャネル諸島や南アメリカ大陸の4000~1000年前頃のイヌや、現代の犬種を含みます。mtHg-A2b2はおもに、イリノイ州のジェニ・B・グード(Janey B. Goode)遺跡とオハイオ州のサイオト洞窟(Scioto Caverns)のイヌに加えて、アラバマ州やミズーリ州の4000年以上前のイヌが含まれます。mtHg-A2b3は、北極圏全域およびブリティッシュコロンビアのプリンスルパート島(Prince Rupert Island)からカリフォルニアまでの太平洋沿岸の4000年前頃以降のイヌで構成されます。PP-00128のmtHgにおける位置づけはデータセットにより異なり、mtHg-A2b1の姉妹系統とも、mtHg-A2b1・A2b2の両方を含むより大きな系統の姉妹系統とも分類されます。mtHg-A2b3の位置づけはデータセット間で大きく異なり、mtHg-A2b2姉妹系統とも、mtHg-A2b1の姉妹系統とも、mtHg-A2全体の姉妹系統とも位置づけられます。以下、本論文の図2です。
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 ミトコンドリアゲノムのハプロタイプネットワーク(図3)では、mtHg-A2aとA2bは6ヶ所の置換により区別されます。mtHg-A2bでは、PP-00128はネットワークの中心にあり、そこからPCDの下位クレードが放散します。PP-00128は他のイヌとは共有されない4ヶ所の変異を有しており、コスター遺跡のイヌ個体群と密接に関連し、それらとは7~9ヶ所の置換により分離します。他の全てのPCDは、少なくとも9ヶ所の置換によりPP-00128と分離します。mtHg-A2b内の下位3クレードは、最大で6ヶ所置換により相互に異なります。以下、本論文の図3です。
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●分岐年代と個体群統計学的推定

 各データセットからの推定分岐年代は比較可能です。最も包括的なデータセットに基づく推定分岐年代は図2bに示されます。PCDとジョホフ島のイヌの祖先は16700年前頃、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)では18719~14894年前推定されます。PCDの最終共通祖先は16200年前頃(95% HPDで18125~14378年前)で、mtHg-A2b3の分岐年代でもあります。PP-00128系統の分岐は14500年前頃(95% HPDで16261~12988年前)です。mtHg-A2b1とA2b2は14040年前頃(95% HPDで15651~12570年前)に分岐しました。とジョホフ島のイヌと密接に関連する北極圏のそりイヌは、10300年前頃(95% HPDで10998~9197年前)に存在した祖先を共有しています。個体群の統計学的推論では、PCD集団は15000年前頃に合着(合祖)した、と示されます。最初の約5000年間、集団規模は1万年前頃まで増加し、その後では2000年前頃まで一定で、2000年前頃以後に減少が始まりました。


●考察

 イヌと人類との間の密接な文化的関係、およびイヌが全大陸で人類に同行したという事実のため、イヌは人類の移住パターンを理解するための代理として使えます。ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化の前には、イヌはベーリンジア(ベーリング陸橋)を通ってアメリカ大陸先住民の祖先とともにアメリカ大陸へと移動してきました。しかし、在来のアメリカ大陸のイヌの遺骸はほとんど確認・分析されてきませんでした。既知の全てのPCDはmtHg-A2bに分類され、全てのアメリカ大陸の在来イヌの間での密接な関係を示唆します(関連記事)。

 アメリカ大陸最古の人類遺骸および考古学的証拠は、アメリカ大陸におけるイヌの証拠よりも古いものの、氷床の南のアメリカ大陸への最初の人類の移住に関する現在の遺伝的推定は、シベリア東部のイヌからのPCDクレードの分岐に関する本論文で報告された16700年前頃という年代、およびPCDクレード自身の16200年前頃という合着(合祖)年代と一致します。この年代は、現在の推定値よりも1000年古くなります(関連記事)。北アメリカ大陸の2つの氷床間の内陸部経路は13000年前頃以後に生物学的に利用可能となりましたが、コルディレラ氷床は北太平洋沿岸で急速に後退した可能性が高く、遅くとも17000年前頃にはアラスカ南東部の周囲に生態学的に利用可能な回廊が出現し、15000年前頃までには内陸部のフィヨルドと入り江は無氷になりました。

 考古学的(関連記事)および遺伝的(関連記事)証拠は、アメリカ大陸に移住した最初の人類が、大陸経路の代わりに沿岸経路を用いた、という仮説を裏づけます。シベリア東部のイヌとのPCDの推定分岐年代は、提案されている北アメリカ大陸への初期の人類の移住と類似しているので、イヌはアメリカ大陸への北太平洋沿岸経路での人類最初の移住においてもたらされた可能性が高そうです。しかし、人類と同様に、イヌ遺骸は半化石記録ではずっと後の年代でしか知られておらず、PCDはLGMにおいてベーリンジアに存在し、沿岸経路での後の南方への人類の移住に同行した、という可能性を除外できません。

 年代測定された法曹洞窟で発掘された人工物は、法曹洞窟のPP-00128標本とは年代が一致しません。興味深いことに、PP-00128標本が見つかった場所からそう遠くない、プリンスオブウェールズ島の「膝の上洞窟(Shuká Káa)」では、10300年前頃の人類遺骸が識別されています(関連記事)。PP-00128標本の系統発生および地理的位置と、時空間的にほぼ同時となるこの人類遺骸から、イヌと人類は前期完新世に北太平洋沿岸に居住しており、遅くともこの時期までには北太平洋沿岸の経路が用いられていた、と示されます。

 PP-00128標本の年代は10150±262年前となり、アメリカ大陸で最古の遺伝的に確認されたイヌ遺骸で、スティルウェル2遺跡の1頭のイヌとコスター遺跡の2頭のイヌがその後に続きます。これらの北アメリカ大陸中部のイヌの大きさは中型で、下顎の大きさに顕著な変動がありました。PP-00128標本の限定的な保存(大腿骨の小さな断片)のため、他の初期PCDとの形態的比較はできません。しかし、本論文の全ての系統分析では、PP-00128標本の高網羅率のミトコンドリアゲノムは全てのPCDと密接に関連しており、ほとんどの分析では、古代のスティルウェル2遺跡とコスター遺跡のイヌを含む系統の姉妹系統です。PP-00128標本の、不確実ではあるものの、PCDのハプロタイプ間の提案された基底部の位置は、PP-00128標本がPCDの初期系統に属することを示唆します。

 経時的な有効個体数規模の変化を見ると、PCD集団のmtDNAの変異は15000年前頃に合着しており、その後集団は1万年前頃まで拡大しました。PCD集団は2000年前頃まで安定した規模を維持し、その後、おそらくは北アメリカ大陸にヨーロッパのイヌが到来した頃に、系統が絶滅したと推定されるまで減少し始めました。以前の研究では、9000年前頃とより新しい合着年代が明らかになり、その後、ほぼ一定の集団規模が続きました。しかし、以前の研究では、同じ時期の同じハプロタイプのイヌが多数標本抽出されており、そのほとんどはイリノイ州のジェニ・B・グード遺跡に由来します。これは、標本抽出の偏りにつながる可能性があります。

 在来のイヌと同様に、アメリカ大陸先住民集団の有効人口規模は同じ時期に減少しました。この現象は、イヌイット文化の移動の始まりと一致します。さらに、同じ時期に、イヌイット到来前に北極圏に存在したイヌも集団規模で減少しました。これらの結果と本論文の結果は、人類とイヌ両集団が同じ時期に減少を経たことになるので、イヌは人類集団の移住や人口統計学的パターンさえ分析する代理として使えるかもしれない、という考えを裏づけます。アメリカ大陸への到来後、PCDは2000年前頃まで孤立していました。この時期以後、北アメリカ大陸への3回の新たなイヌの導入があり、PCDの個体数減少を加速した可能性があります。イヌイットは北極圏のイヌをシベリア東部からも導入し、ヨーロッパのイヌは15世紀に始まる植民者に同行し、もっと最近では、シベリアンハスキーが20世紀のアラスカのゴールドラッシュ期に導入されました。

 ヨーロッパの犬種がアメリカ大陸にもたらされた時、PCD集団はすでに減少しつつあり、遺伝的浸透を通じて容易に置換もしくは吸収された可能性があります。ヨーロッパの犬種と北極圏のそりイヌはPCDを完全に置換したように見えますが、一部の現代の品種ではPCDのわずかな遺伝的遺産があるようです(関連記事)。たとえば、PCDクレード内で7頭の現代のイヌがまとまっており、さらには2頭の歴史時代のイヌも同様です。本論文の分析では、別の現代のアラスカのアメリカエスキモー犬は、これら他の現代のイヌとは異なるPCD下位クレードに分類されます。これらの知見は、まだほとんど標本抽出されていないPCD祖先系統のより高い程度が、現代もしくは歴史時代のアメリカ大陸のイヌに存在しているかもしれない、と裏づけます。

 安定同位体は、生物の古食性を推測する代理として用いることができます。安定同位体分析により、食性が異なる光合成経路(C3やC4)で構成されているのかどうか、食性が海洋性と陸生どちらの食資源の消費に基づいているのか、区別できます。海洋食資源とC4植物は、食物連鎖でより高次の消費者では炭素13値濃度がより高くなる傾向があります。アラスカ南東部の現代の動物の食性を調べることで、PP-00128標本がどの食資源にどの程度依存していたのか、推定できます。

 PP-00128標本の食性は海洋哺乳類の範囲と推定され、ベーリング海沿いのアラスカ南西部の古代のイヌと類似しており、海洋性食資源に大きく依存している人口集団のとも一部重複します。アラスカでは最近まで魚がそりイヌの主食で、人類があまり食べない一部のサケもあります。たとえば、アラスカ南部全域ではイヌのサケとも呼ばれるシロザケ(Oncorhynchus keta)は、PP-00128標本が存在した頃にアラスカ南東部でイヌに餌として与えられていたかもしれません。臓器など人類の狩猟の残り物もイヌの餌として使われてきた、と報告されており、そうした動物にはアラスカ南東部のアザラシやクジラが含まれていたかもしれません。したがって、PP-00128標本は海洋性食資源に依存した食性を有しており、前期完新世にアラスカ南東部沿岸に居住した人類と同様だった可能性があります。


●まとめ

 本論文の結果から、PP-00128標本は初期に分岐したPCDを表している、と示唆されます。本論文は、PP-00128標本が、アメリカ大陸への移住期に人類に同行した最初の家畜化されたイヌの近縁だったかもしれない、と提案します。PP-00128標本の沿岸部の位置は、最初のアメリカ大陸のイヌおよび氷床の南方の人類の拡散に関する、放射性炭素年代および分子時計と組み合わされて、アメリカ大陸最初の人類とイヌの移住は、内陸部経路とその後の沿岸部への西進ではなく、北太平洋沿岸経路だったことを裏づけます。PCDは、後のイヌイットのそりイヌおよびヨーロッパの植民者とともに到来したヨーロッパの犬種によりほぼ完全に置換され、現代のイヌではわずかなPCDの遺伝的影響しか残っていません。PP-00128標本を含めてPCDの将来の核ゲノム分析は、PCDの運命についてより詳細な洞察を可能とするでしょう。


参考文献:
Coelho FAS.. et al.(2021): An early dog from southeast Alaska supports a coastal route for the first dog migration into the Americas. Proceedings of the Royal Society B, 288, 1945, 20203103.
https://doi.org/10.1098/rspb.2020.3103

ハヤブサの飛行の形成要因

 ハヤブサの飛行の形成要因に関する研究(Gu et al., 2021)が公表されました。北極圏の季節的に好条件となる繁殖地を利用する渡り鳥は数百万羽おり、冬はユーラシア各地で過ごしますが、こうした北極圏に生息する鳥類の渡り経路の形成・維持・未来・渡りの距離の遺伝的決定要因については、ほとんど知られていません。この研究は、ユーラシア大陸の北極圏で繁殖したハヤブサ(Falco peregrinus)の6個体群に属する56羽に関して、人工衛星での追跡により大陸規模の渡りのマップを構築し、このうち4個体群に属する35羽のゲノム塩基配列の再解読を行ないました。

 その結果、これらの繁殖個体群はユーラシ大陸全域にわたる5つの異なる渡り経路を用いていることが明らかになり、これの経路はおそらく、23000~19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)から11700年前頃に始まる完新世への移行期に繁殖地の経緯度の変化により形成された、と考えられました。これらの渡り経路は現在、環境的に互いに異なっており、各経路の固有性はこうした相違により維持されているようです。

 また、個体群水準の渡りの距離の差異には、ADCY8遺伝子が関連する、と示されました。この遺伝子の調節機構を調べたところ、ハヤブサの個体群間に見られるADCY8の相違に対する選択因子は、長期記憶である可能性が極めて高い、と明らかになりました。全球の温暖化は、ユーラシア大陸の北極圏に生息するハヤブサ個体群の渡り戦略に影響を及ぼし、繁殖域を縮小させる、と予測されています。生態学的相互作用と進化的過程を利用して気候に駆動される渡りの変化を調べることは、渡り鳥の保全に役立つ可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生態学:ハヤブサの渡りを解読する

 ハヤブサが渡りに使う経路は、最終氷期以降の環境の変化によって形成されてきたことを報告する論文が、Nature に掲載される。この論文では、渡りの距離が遺伝的要因の影響を受けたことの証拠も示されている。

 多くの渡り鳥は、北極に、季節的に有利な繁殖地を持っているが、冬はユーラシア各地で過ごす。一方、渡りの経路の形成、維持、将来の見通し、あるいは渡りの距離の遺伝的決定因子については、ほとんど分かっていない。

 今回、Xiangjiang Zhanたちの研究チームは、ユーラシア北極圏の個体群に属する56羽のハヤブサの衛星追跡データと35羽のハヤブサのゲノムデータを組み合わせて、ハヤブサの渡りを調べた。その結果、ユーラシア大陸では5つの経路が渡りに使われており、これらの経路は、最終氷期極大期(約2万~3万年前)以降の環境の変化によって形成されたことが分かった。また、渡りの距離の長いハヤブサは、ADCY8遺伝子の優性(顕性)の遺伝型を有することも明らかになり、Zhanたちは、これが長期記憶の発達と関連している可能性があるという見解を示している。

 Zhanたちは、全球の気候が変化している中で、ユーラシア西部のハヤブサは、個体数減少の確率が最も高く、新しい越冬地に渡るか、あるいは渡りを完全にやめる可能性があると提起し、生態学的相互作用と進化過程を用いて、気候を駆動要因とする渡りの変化を研究することが、渡り鳥の保全を促進するために役立つ可能性があると結論付ている。


動物行動学:気候に駆動される渡りルートの変化と記憶に基づく長距離の渡り

Cover Story:ハヤブサの飛行:環境の変化、記憶、遺伝子が鳥類の渡りを形成する

 北極圏に生息する鳥類の渡りルートを何が決めているのかについては、ほとんど分かっていない。今回X Zhanたちは、ハヤブサ(Falco peregrinus)が北極圏の繁殖地から移動してユーラシア全体のさまざまな場所で越冬する際の渡りルートを調べている。彼らは、56羽のハヤブサの人工衛星追跡データと35例のゲノム塩基配列再解読データを組み合わせ、古気候データを用いてこの鳥類の過去の繁殖地と越冬地の分布を再構築した。その結果、ハヤブサの渡りのパターンが主に最終氷期極大期末(2万2000年前)以降の環境の変化によって形成されたことが分かった。また、ハヤブサのより長い距離の渡りに役立っている可能性のある遺伝的要素として、ADCY8の優性(顕性)の遺伝子型が特定された。これは長期記憶の発達と関連付けられることから、渡りルートの維持に寄与していると考えられる。表紙は、追跡用のGPS発信機を装着したハヤブサである。



参考文献:
Gu Z. et al.(2021): Climate-driven flyway changes and memory-based long-distance migration. Nature, 591, 7849, 259–264.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03265-0

クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析

 クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析に関する研究(Novak et al., 2021)が報道されました。スーダンのジェベルサハバ(Jebel Sahaba)の墓地で発見された致命的な暴力的傷害を示す、両性と全年齢の多数の骨格遺骸により証明されるように、少なくとも13000年前頃にはヒト社会において大規模な暴力が存在していました。ジェベルサハバの事例は一般的に、集団的暴力もしくは戦争の最初の証拠を表すとみなされています。この仮説は、ケニアのトゥルカナ湖西方で2012年に発見されたナタルク(Nataruk)遺跡の、先史時代の狩猟採集民集団の虐殺を報告した最近の研究(関連記事)によりさらに強化されましたが、ナタルク遺跡が初期の集団間暴力を表すとの結論を疑う人もいます。

 ヨーロッパでは、タールハイム(Talheim)とアスパルン・シュレッツ(Asparn/Schletz)の前期新石器時代となる線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)遺跡の他に、ドイツ(関連記事)などで先史時代となるいくつかの類似の事例が報告されています。古代の虐殺の古ゲノムおよび生物人類学的研究が浮き彫りにしてきた遺跡に関しては、犠牲者が、男性でおそらくは戦闘で全員死亡したか(関連記事)、共同体の部分集団に意図的に向けられた殺害から予測されるように同じ家族の構成員として処刑されたか(関連記事)、あるいは虐殺された個体がおそらくは以前に確立していた集団との対立で移民共同体の構成員だったか(関連記事)、あるいは殺害が宗教的儀式の一部だった証拠があります。

 古代と現代の両方の文脈でそうした事象を扱う場合、「虐殺」という用語の明確な定義が必要です。これに関してはさまざまな定義が用いられており、本論文では、スウェーデンのサンドビーボルグ(Sandby borg)遺跡の虐殺に関する研究で用いられた、「戦闘準備をしていない多数の人々に対する意図的な殺害行為で、集団により行なわれる殺害を伴う」という定義が採用されます。本論文は、クロアチア本土のポトチャニ(Potočani)の銅器時代の集団埋葬から回収された41個体の報告された虐殺犠牲者のうち38個体で、ゲノム規模古代DNAの生成により、特定の家族に向けられなかった大規模な殺害の証拠を提供します(図1)。以下、本論文の図1です。
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 ポトチャニ集団埋葬地は小さな坑で表され、直径は約2m、深さは約1mです。多くの混合された、場合によってはまだ関節がつながっているヒトの骨格遺骸は41個体分あり、両性と広範囲な年齢にまたがっています(図2a・b)。具体的には、遺伝学と形態学から、男性21個体と女性20個体と確認されています。このうち半数以上(21個体)は未成年で、2~5歳の幼い子供が2個体、6~10歳の年長の子供が9個体、11~17歳の思春期が10個体です。成人20個体の内訳は、18~35歳の青年が14個体、36~50歳の中年が5個体、死亡年齢を特定できなかった成人が1個体です。

 複数個体の病変とともに、13個体の頭蓋骨で負傷が確認されています。観察可能な頭蓋負傷のパターンは、年齢と性別の特定のパターンに従っておらず、幼い男子1個体、年長の女子1個体、思春期の男子3個体と女子1個体、青年期の男性1個体と女性4個体、中年男性2個体です。頭蓋の負傷のほとんどは、側面と後部および/または上部にあります。考古学的背景と絶対年代を組み合わせると、さまざまな武器による負傷は、単一の実行事象を示します。窒素と炭素の安定同位体分析から、同時代のクロアチア本土の集団と比較して、ポトチャニ集団はより多くの動物性食品を消費していた、と示唆されます。以下、本論文の図2です。
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 直接的な放射性炭素年代(紀元前4200年頃)と、いくつかの回収された土器の破片から、ポトチャニ遺跡の虐殺犠牲者は、クロアチア本土やボスニア北部やスロヴェニアやオーストラリア東部やハンガリー西部に広範に拡大した、中期銅器時代のラシニヤ(Lasinja)文化に分類されます。ラシニヤ文化はレンジェル(Lengyel)文化に由来する、と一般的に信じられていますが、その広大な範囲と追加の影響のため、起源の問題には追加の複雑さがあります。ラシニヤ文化は、何らかの方法で在来の新石器時代人口集団により「刺激を受けた」一連の推進力に起因する、経済および社会変化が起きた銅器時代となります。

 考えられる理由の一つは、ウシの増加です。ウシは集落周辺の牧草地を枯渇させた後、より頻繁な生息地の変化を要求します。ラシニヤ文化の人々にとってのウシの重要性は、動物考古学的記録により確認されており、ウシの飼育が人々の生活において重要な、さらには支配的な役割を果たした、と示唆されています。より大きな遊動性はおそらく、異なる文化集団間のより大きな意思疎通につながりました。これら全ての事象に影響を及ぼす要因は、ヴィンチャ(Vinča)文化の衰退と消滅です。この期間の他の重要な特徴は、強化された銅採掘およびこれらの過程と関連するネットワークの形成です。クロアチアのラシニヤ文化の遺跡ではごくわずかの銅しか知られていませんが、銅器時代のクロアチアの人々は異なる鉱床(炭酸塩と硫化鉱)からの銅を用いていたので、銅生産に精通していました。さまざまな銅器時代文化の金属と堆積物からの鉱石標本に関する以前の研究から、発掘された鉱石と金属の循環が複雑なネットワークに続いた、と示されています。

 ゲノム規模データの得られた38個体の分析の結果、その祖先系統は均一と示されました。主成分分析では、この38個体はアナトリア半島新石器時代クラスタからヨーロッパ西部狩猟採集民の方向にわずかに動いており、草原地帯祖先系統の到来前となる他の中期~後期新石器時代農耕民に類似しているものの、とくにヨーロッパ東部の祖先系統と類似している、と明らかになりました(図3A)。このパターンは、ポトチャニ個体群を、草原地帯関連祖先系統の証拠なしに、おもにアナトリア半島新石器時代祖先系統と9%程度のヨーロッパ西部狩猟採集民祖先系統(図3B)の混合としてモデル化できることにより、確認されます。これはさらに、バルカン半島の新石器時代人口集団に典型的な父系である、Y染色体ハプログループ(YHg)G2・I2・C1a2(V20)の存在と、草原地帯関連集団の拡大に典型的なYHg-R1a・R1b1a1b(M269)の欠如により裏づけられます。全体的に、本論文の片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)の分析は、異なるミトコンドリアの30系統とY染色体6系統を識別し、ポトチャニ遺跡の犠牲者は女性系統の多様な遺伝子プールを有する大規模な共同体に属していた、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
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 次に、常染色体で親族関係が調べられ、38個体のうち11個体のみが密接に(3親等もしくはそれ以上)関連しており(図4)、異なる4家系に属する、と明らかになりました(図5)。若い男性(I10068)には6~10歳の少女I10070と11~17歳の少女I10074という2人の娘と、6~10歳の甥I10045がいました。6~10歳の姉妹I10067とI10293には、3親等の若い親族男性I10295がいました。中年男性I10061には、11~17歳の息子I10294がいました。6~10歳の少年I10054には、母方のオバもしくは異母姉妹の若いI10065がいました。以下、本論文の図4です。
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 いくつかの1親等および2親等の関係を通じてつながった拡大家族を表すポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の紀元前3000年頃の集団墓地とは異なり(関連記事)、ポトチャニ遺跡の虐殺は、親族集団が標的ではなく、分析された個体群の約70%は被葬者に近親者がいませんでした。これは、共同体内の少数の家族を標的にした殺害ではなく、多くの家族集団で構成される共同体における個体群の小さな部分集合を標的とする暴力的攻撃を示唆します。遺伝的分析は性的偏りがないことを明らかにし(女性20個体と男性18個体)、虐殺は戦闘で予想される男性間の戦いの結果でも、特定の性の個体群を標的とする報復事象の結果でもなかったことを示します。以下、本論文の図5です。
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 ホモ接合性連続(両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)の分析は、個体の両親がどの事例でも密接に関連していないことを明らかにします。この分析で充分な網羅率を有する27個体のうち、ホモ接合性の長い連続(20センチモルガン超)の欠如により反映されるように、1親等もしくは2親等のイトコ水準で近親交配は検出されませんでした。27個体のうち21個体では、4cM(センチモルガン)以上の連続さえありませんでした(図6)。そのような低い出自関連性は、数十世代にわたって持続する大きな地域的人口規模を示します。ホモ接合性が4~20cMの長さの連続の割合を用いて、任意交配祖先系統プールと過去数十世代にわたる一定規模の人口集団を仮定すると、最近の有効人口規模は20100~75600と推定され、農耕への移行後のユーラシア西部人口集団に典型的な推定範囲内に収まります。以下、本論文の図6です。
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 ポトチャニ遺跡の集団埋葬は、2つの軍隊間の戦いではなく、性別や年齢に偏りがない人口集団の無関係な部分集合の無差別殺害の結果です。この仮説は、若い男性や中年男性が圧倒的な戦闘関連個体群で見られる分布とは異なる、両性とさまざまな年齢集団を含む、ポトツァニ遺跡個体群の人口統計学的構成に基づいています。人口統計学的分布の観点では、ポトチャニ遺跡個体群は、タールハイムやアスパルン・シュレッツやシェーネック・キリアンシュテッテン(Schöneck-Kilianstädten)やコシツェのような他の先史時代虐殺とほぼ同じですが、共同体の全体もしくは一部が殺されたもっと新しい事例とも同じであることは明らかです。ヨーロッパにおける新石器時代(および銅器時代)の虐殺発生と大規模な暴力の急増の理由は、複雑で多因子的です。それにも関わらず、気候条件不順と人口規模における有意な増加の組み合わせが、通常はこの現象の最も可能性が高い理由として挙げられます。

 現代の虐殺の事例では、虐殺は通常、経時的に展開し、さまざまな方法で現れる特定の暴力パターンを有する過程です(および単一の事象ではありません)。この文脈では、虐殺の前後の事象や行動の理解が重要です。なぜならば、これらは虐殺の感情的条件に寄与するからです。一部の著者によると、虐殺は、通常加害者により「他者」とみなされる犠牲者を軽蔑し、破壊することを含む、精神的複合体により特徴づけられます。この過程が終了した後でのみ、犠牲者は殺されます。換言すると、指導者たちは、社会全体に存在する苦しみや辛さに関して特定の集団を非難し、その集団が排除された後に状況が改善するだろう、と示唆します。共同体の不安を標的となる集団への恐怖に向けることは、最終的には恐れられている「他者」を排除するという欲求に変わっていく憎悪で、「他者」である集団への憎悪を生じます。無実の非戦闘員の虐殺に寄与するかもしれない追加の重要な側面は、アイデンティティの構築と「他者」の非人間化過程であり、そこでは「他者」は脅威として認識され、社会を救うために「他者」は破壊されねばならない、という考えにつながります。

 本論文は現時点で古代の虐殺の最大規模の遺伝的分析であり、大規模社会の台頭前の組織化された暴力の様相への洞察を提供します。虐殺の頃の人口集団置換の兆候は見つからず、前期新石器時代のピレネー山脈(関連記事)もしくは球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(関連記事) での虐殺パターンとは対照的です。それらの虐殺では、新たな人々の到来が重要な役割を果たした可能性が高そうです。報復もしくは懲罰殺害により予想されるような、虐殺において性的もしくは年齢的に偏っているか、特定の家族を標的とする証拠もありません。代わりにデータは、この期間の組織化された暴力は、無差別殺害が歴史時代もしくは現代の生活の重要な特徴であったように、無差別だった可能性を明らかにします。今後の研究の重要な方向性は、古代の暴力のこのパターンの流行を決定するために、追加の虐殺遺跡を調べることです。


参考文献:
Novak M, Olalde I, Ringbauer H, Rohland N, Ahern J, Balen J, et al. (2021) Genome-wide analysis of nearly all the victims of a 6200 year old massacre. PLoS ONE 16(3): e0247332.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0247332

大河ドラマ『青天を衝け』第5回「栄一、揺れる」

 今回は大相撲春場所初日で後半に2番取り直しがあったため、相撲中継が18時過ぎまでずれ込み、放送開始が4分遅れました。そのため、予約録画が機能せず、急遽ワンタッチ録画を使いました。最近の録画機ならば、昔と比較して高機能なので前番組の延長にも対応してくれるものかと思っていましたが、何とも残念でした。私の設定が悪かったのかもしれませんが。前作と前々作のように午前9時からの放送ならば、こうしたことを心配せずによかったのですが、ともかく、来週も今回のような事態を想定しておかねばならないでしょう。再放送が地上波だけになったことも残念です。

 今回も、渋沢栄一の農村場面と、徳川慶喜を中心とする「中央政界」の場面との二部構成になっていました。「中央政界」場面の方が大河ドラマらしいとも言えるので、長年の大河ドラマ愛好者には好評かもしれませんが、私は当時の生活・価値観を描いている農村場面もかなり気に入っています。農村場面はこれまで屋外ロケが多いことも、高評価の一因です。農村場面では、外国船の到来が相次ぎ、当時の武士以外の知識階層の一部にも焦燥感が見えてくるところも描かれており、この点も良いと思います。何よりも、他の人物を貶めて主人公を相対的に持ち上げるとか、主人公を周囲の人物が不自然に称賛するとかいったことがなく、主人公の合理性や若者らしい行動力がしっかりと描かれているのはよいことだと思います。藤田東湖は、今回で退場となるためか、見せ場が多くありました。藤田東湖が地震で亡くならねば、その後の水戸藩の動向が変わったのかどうか、気になるところです。

古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史(追記有)

 古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文はすでに昨年(2020年)3月、査読前に公開されていましたが(関連記事)、その後に公表された複数の重要な研究を取り入れ、データと図がかなり修正されているようなので、改めて取り上げます。本論文は、この研究がアジア東部の人口史の理解における重要な進歩を示しており、氷河期以前のアジア東部個体と中国南部の完新世個体の古代DNAデータがより多く分析されれば、さらなる洞察が得られるだろう、と指摘しています。本論文はアジア東部の包括的な古代DNA研究成果を提示しており、この問題を調べるならば、現時点でまず読むべき重要な文献と言えるでしょう。

 アジア東部は動物の家畜化と植物の栽培化の最初期の中心地の一つで(関連記事)、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族など、ひじょうに多様な語族を有しています。しかし、チベット高原と中国南部の現代人の遺伝的多様性の標本抽出が最小限であるため(関連記事)、アジア東部における人口史の理解は不充分なままです。

 この研究は、人口史の広範な研究への使用に同意した中国(337人)とネパール(46人)の46人口集団から383人のDNAを収集し、約60万ヶ所の一塩基多型の遺伝子型が決定されました。古代DNA分析に関しても、現代の共同体とのつながりの可能性が高い時には、共同体からの許可が得られました。本論文は、新たに166個体のデータを報告します(図1)。その内訳は、紀元前5700~紀元後1400年頃となるモンゴルの82個体、中国の黄河流域の紀元前3000年頃となる1ヶ所の遺跡の11個体、紀元前2500~紀元前800年頃となる日本の縄文時代の狩猟採集民7個体、ロシア極東では紀元前5400~紀元前3600年頃となるボイスマン2(Boisman-2)共同墓地の18個体および紀元後900年頃の1個体と紀元後1100年頃の1個体、紀元前1300~紀元後800年頃となる台湾の2ヶ所の遺跡の46個体です。集団析では、汚染の証拠がある16個体、5000~15000ヶ所の一塩基多型データしか得られなかった10個体、データセットで他のより高い網羅率の個体の密接な親族となる11個体を除外して、130個体に焦点が当てられました。これらのデータは、公開されている古代人1079個体、および16人口集団の現代人3265個体のデータと統合されました。地理と年代と考古学的文脈と遺伝的クラスタにより、これらの個体群はまとめられました。

 主成分分析が実行され、古代の個体群は現代人を用いて計算された軸に投影されました。人口構造は地理および言語と相関していますが、例外もあります。中国北西部とネパールとシベリアの集団はユーラシア西部人に向かってそれており、平均して5~70世代前の混合を反映しています。初期完新世のアジア東部人では、現代(FST=0.013)と比較して遺伝的分化がずっと高く(FST=0.067)、深いアジア東部系統間の混合を反映しています。現在、最小限のユーラシア西部関連祖先系統を有するアジア東部人は、これらの極の間でじょじょに変化します。「アムール川流域クラスタ」は、アムール川流域の古代人および現代人と相関し、言語ではツングース語族話者およびニヴフ人と相関します。「チベット高原クラスタ」は古代ネパール人と在来チベット人で最も強く表されます。「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾人および、タイ・カダイ語族とオーストロアジア語族とオーストロネシア語族を話すアジア東部人で最大化されます。自動クラスタ化でも類似の結果が得られます。

 本論文は、主題に沿って調査結果を整理します。第一に、深い時間を考慮します。アジア東部人に寄与する初期に分岐した系統は何か、という問題です。第二~第四は、言語の拡大とその農耕拡大とのあり得るつながりについて、3通りの仮説を検証することにより、人口構造がどのようにして現在のものになったのか、明らかにします。第五に、ユーラシア西部人とユーラシア東部人とが地理的な接触地帯に沿ってどのように混合したのか、説明します。以下、本論文の図1です。
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●後期更新世の沿岸部拡大

 アジア東部で利用可能な氷河期前のゲノムは2個体だけです。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)1個体(関連記事)で、もう一方はモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000年前頃の現生人類1個体(関連記事)です。それにも関わらず、重要な洞察は氷河期後のゲノム分析から収集できます。一つの問題は、アジア東部の現生人類の移住が沿岸と内陸部のどちらの経路だったのか、ということです。チベット人が深く分岐したY染色体ハプログループ(YHg)D1(M174)を高頻度(50%)で有しているように、示唆的な遺伝的証拠はY染色体に由来します。YHg-D1は、現代日本人(および日本列島の縄文時代の狩猟採集民)およびベンガル湾のアンダマン諸島先住民と共有されています。

 qpGraphを用いて、データと一致する人口集団分岐および遺伝子流動が調べられ、本論文の主成分分析で祖先系統の両極端に寄与する主要系統の深い歴史に関して、節約的な作業モデルが特定されました。本論文の適合からは、アジア東部人祖先系統の大半は2つの古代人口集団の異なる割合の混合に由来する可能性がある、と示唆されます。一方は4万年前頃の田园個体と同じ系統、もう一方はアンダマン諸島先住民(オンゲ人)と同じ系統です。

 北方に分布する田园個体関連系統は、モンゴルの新石器時代の人々の祖先系統の98%、(現代チベット人を形成するチベット狩猟採集民から推測されるオンゲ関連系統と混合した)黄河上流域農耕民の90%に寄与した、と推測されます。より南方に分布する別の田园関連系統は、中国南東部沿岸の紀元前6300~紀元前5600年頃の前期新石器時代となる福建省の粮道(Liangdao)遺跡の狩猟採集民の祖先系統の73%と、日本の縄文時代狩猟採集民の56%に寄与しました(関連記事)。日本列島には氷河期の前後に人類が居住するようになり、南北の「縄文人」は形態学的に異なっているので、本論文で検出された混合と関連しているかもしれません。北部の田园個体関連系統は、西遼河農耕民(67%)と台湾農耕民(25%)の両方にも寄与し、その祖先系統の残りは、粮道遺跡の南部狩猟採集民と関連しています。北部の田园個体関連系統は、黄河上流域農耕民に寄与した系統とは関連しているにも関わらず異なる、という事実から、黄河流域農耕民の拡大とは関係していない、台湾への北部農耕民の拡大の可能性が高い、と示唆されます。

 オンゲ関連系統の寄与は、沿岸部集団に集中しています。この系統は、アンダマン諸島人で100%、「縄文人」で44%、古代台湾農耕民で20%と推定され、アンダマン諸島人と日本人に見られるYHg-D1に基づいて仮定された沿岸経路拡大と一致します。当然チベットは沿岸部に位置していませんが、古代チベット人へのこの系統の比較的高い推定される寄与(24%)と、現代チベット人におけるYHg-D1の50%の割合は、YHg-D1とオンゲ関連系統との間のつながりを強固にします。チベットの狩猟採集民は、内陸部に拡大してチベット高原に居住したこの後期更新世沿岸拡大の早期に分岐した枝を表す、と本論文では仮定されます。


●トランスユーラシア仮説の精緻化

 農耕・言語拡散仮説では、栽培化・家畜化の中心およびその周辺における人口密度増加が、言語を拡大させる人々の移動の推進に重要だった、と提案されますが、アジア東部では、この仮説を検証する利用可能なデータが限られていました。まず、共有された農耕用語を含む再構築された特徴に基づいて、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族などの大語族を提案している、「トランスユーラシア仮説」の遺伝的相関関係が調べられました。トランスユーラシア仮説では、これらの語族は、モンゴルへと西方に、シベリアへと北方に、朝鮮半島と日本列島へと東方に拡大した、中国北東部の西遼河周辺の初期雑穀農耕民の拡大と関連する祖型言語に由来する、と提案されます。

 この言語拡大のあり得る遺伝的相関への洞察を得るため、まずアムール川流域の年代区分調査が行われました(関連記事)。紀元前5500年頃の初期新石器時代個体群と紀元前5000年頃のボイスマン(Boisman)遺跡個体群から、紀元前900年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化、および紀元後50~250年頃となる鮮卑(Xianbei)文化まで、アムール川流域個体群は一貫して、qpWaveではクレード(単系統群)であることと一致します。この局所的に継続した人口集団も、後の人口集団に寄与しました。それは、ボイスマン遺跡個体群のYHg-C2a(F1396)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D4・C5に反映されています。これらのハプログループは現代のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族話者において優勢で、紀元後1100年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)文化と関連する1個体でも確認されます。この黒水靺鞨文化関連1個体は、43±15%のアムール川流域新石器時代祖先系統を有する、と推定されています(歴史時代に南方からの移民があった場合に予想されるように、残りの祖先系統は漢人によりよくモデル化されます)。

 この古くに確立されたアムール川流域系統は、東方のより多くの縄文人関連性と、西方のほとんどのモンゴル新石器時代関連祖先系統との勾配の一部でした。バイカル湖狩猟採集民(関連記事)における77~94%のモンゴル新石器時代関連祖先系統が推定され、残りは、氷河期にバイカル湖地域に居住していた、ユーラシア西部関連系統と深く分岐した、古代北ユーラシア人に由来します(関連記事)。ボイスマン遺跡のようなアムール川流域狩猟採集民では、モンゴル新石器時代関連祖先系統が87%(残りは縄文人関連祖先系統)と推定されます。アメリカ大陸先住民は、ボイスマン遺跡やモンゴルの新石器時代個体群の方と、他のアジア東部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有し、この系統の初期の分枝は図2の田园関連分枝の北部の分布を反映しており、アメリカ大陸先住民におけるアジア東部関連祖先系統の起源です。

 トランスユーラシア仮説は、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族の祖型言語が西遼河地域の農耕民により広がった、というものです。西遼河地域の農耕民は、本論文の分析(図2)では、黄河上流域関連祖先系統(67%)と粮道関連祖先系統(33%)の混合を示します。祖先系統のこの特徴的な混合は、本論文の対象ではモンゴルとアムール川流域の時代区分で欠如している、と観察されます(図3)。これは、西遼河農耕民の拡大がモンゴル語族とツングース語族を広めた、とする仮説の予測でありません。対照的に、西遼河農耕民祖先系統は、おそらくさらに東方に影響を及ぼしました。たとえば、現代日本人は青銅器時代西遼河人口集団(92%)と縄文人(8%)の2方向混合としてモデル化でき、黄河流域農耕民集団が本論文のqpAdm分析での外群として含まれ、そのモデルが適合されるので確認されるように、黄河流域農耕民関連集団からの無視できる程度の寄与を伴います。この祖先系統は、朝鮮半島を経由して伝わったことと一致します。それは、日本人が朝鮮人(91%)と縄文人(9%)の混合としてモデル化できるからです。

 本論文で取り上げられた縄文人6個体は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えているエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の370V/A多様体の派生的アレル(関連記事)を有していません。EDAR遺伝子の370V/A多様体の派生的アレルは中国本土で3万年前頃に出現したと推定されており、アジア東部本土とアメリカ大陸の完新世の人口集団で高頻度に達しました。この派生的アレルが縄文人にはほぼ欠如しているという事実は、アジア東部本土集団と比較しての縄文時代の人口集団の遺伝的相違を強調します。以下、本論文の図2です。
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●シナ・チベット語族の北部起源

 チベット高原には現生人類が4万~3万年前頃以来居住してきましたが(関連記事)、恒久的居住の証拠があるのは、農耕到来の紀元前1600年頃以降です(関連記事)。先住チベット人も、中国沿岸部平原の言語とつながるシナ・チベット語を話します。これらの密接に関連する言語の起源に関する「北部起源仮説」では、黄河上流および中流域でアワを栽培していた農耕民がチベット高原へと南西に拡大し、現在のチベット・ビルマ語族を広げ、中原および東岸へと東方と南方に拡大して、祖型的中国語を広めた、と提案されています(関連記事)。「南部起源仮説」では、祖型シナ・チベット語は高地を低地とつなぐチベットのイー(Yi)回廊で出現し、早期完新世に拡大した、と想定されます。

 チベット人の祖先系統と、中国語話者の祖先系統との関係を明らかにするため、現代の17の人口集団が3つの遺伝的クラスタにまとめられました。それは、「中核チベット人」、中核チベット人およびユーラシア西部人と関連する系統間の混合である「北部チベット人」、qpAdmでは30~70%のアジア南東部人と関連する系統を有し、チベット語話者だけではなく、チアン人(Qiang)やロロ・ビルマ語話者も含む「チベット・イー回廊」人口集団です。古代黄河流域農耕民と現代漢人とチアン人は、中核チベット人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、チベット人と漢人とチアン人は全て、新石器時代黄河流域農耕民と関連する人口集団からの祖先系統を有する、との仮説と一致します。混合連鎖不平衡の崩壊を通じて、中核チベット人における大規模な混合(最小で22%ですが、おそらくはるかに高く、図2の推定値84%と一致します)が確認されました。これは、中核チベット人とその遺伝的にほぼ区別できない古代ネパールの近縁集団が、チベットの狩猟採集民の継続的な子孫を表している可能性は低い、という独立した証拠を提供します。単一混合モデルでは、混合は平均して紀元前290~紀元後270年頃に起きた、と推定されますが、混合の始まりは、チベット高原への農耕拡大の紀元前1600年頃までさかのぼるかもしれません。

 現代漢人は南北の遺伝的勾配が特徴です。黄河上流および中流域の新石器時代農耕民とチベット人は、アジア南東部クラスタと比較して、現代漢人とより多くのアレルを共有していますが、アジア南東部クラスタ集団は、黄河流域農耕民と比較すると、ほとんどの漢人の方とより多くのアレルを共有しています。qpWaveを用いると、2つの起源集団がほとんどの漢人の全ての祖先系統への寄与と一致し、例外は本論文で2~4%のユーラシア西部関連系統との混合が推定される北部漢人である、と決定されました。このユーラシア東西の混合は32~45世代前に起きた、と推定されます。これは、紀元後618~907年の唐王朝および紀元後960~1279年の宋王朝の時期と重なります。唐代と宋代には、漢人(の主要な祖先集団)と西方民族集団との統合の歴史的記録があります。他の漢人全員に関しては、黄河上流および中流域の農耕民と関連する祖先系統が59~84%、残りは古代粮道遺跡狩猟採集民と関連する人口集団に由来する、と推定されました。粮道遺跡狩猟採集民集団は、長江流域の稲作農耕民と遺伝的構成が一致すると推測されます。この推論は、粮道遺跡狩猟採集民祖先系統が、おもに多くのオーストロネシア語族話者、海南島(Hainan Island)のタイ・カダイ語族話者のリー(Li)人(66%以下)、青銅器時代アジア南東部人の主要な系統で、一部のオーストロアジア語族話者の祖先系統の2/3である、という事実(図3)により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。

 現在のシナ・チベット語族話者と黄河上流および中流域の新石器時代農耕民との間の特有のつながりが検出されたので、本論文の結果はシナ・チベット語族の「北部起源仮説」を裏づけます。考古学的に証明されているこの地域からの農耕の拡大と同じ時期であることは、紀元前3800年頃の単一の男性祖先に由来する、漢人とチベット人との間で共有されているYHg-O2a2b1a1(M117)の証拠でも裏づけられます。現在の南部漢人における増加する粮道遺跡狩猟採集民関連祖先系統の勾配はおそらく、漢人(の主要な祖先集団)が中国南部に拡大したと歴史的文献で記録されているように、拡大する漢人と南部集団との混合に起因します。しかし、これは最初の南方への移住ではありませんでした。それは、中国南部の漢人が遺伝的に、中期新石器時代の中国南部農耕民よりも、後期新石器時代黄河流域農耕民の方と遺伝的に近く(関連記事)、古代台湾農耕民では約25%の北方系統も観察されるからです(図2)。


●稲作農耕の拡大が言語を広めます

 アジア南東部の以前の古代DNA分析では、アジア南東部最初の農耕民は、おそらく中国南部農耕民に関連するアジア東部人からの2/3の祖先系統と、深く分岐した狩猟採集民系統から1/3の祖先系統を有していると示され、これはオーストロアジア語族話者において最も強く明らかで、言語の拡大との関連が示唆されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。古代台湾農耕民からの約2000年にわたる時系列の利用により、これがより広範なパターンだと確証されました。古代台湾の個体群は、現代のオーストロアジア語族話者と強い遺伝的つながりを示します。これは、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)によりさらに裏づけられます。古代台湾の個体群では、YHgはO2a2b2(N6)が、mtHgはE1a・B4a1a・F3b1・F4bが優勢です。これらのハプログループは現代の台湾先住民に共有されており、おそらくは太平洋南西部に最初のオーストロネシア語族をもたらした(関連記事)、バヌアツのラピタ(Lapita)文化個体群(関連記事)にも存在しています。

 古代台湾集団とオーストロアジア語を話す現代台湾先住民は、中国南部本土のタイ・カダイ語族話者の方と、他のアジア東部人よりも有意に多くのアレルを共有しています。これは、現代のタイ・カダイ語族話者と関連し、長江流域農耕民(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)からそれ以前に派生した古代の人口集団が、紀元前3000年頃に台湾へと農耕を広めた、との仮説と一致します。意外な発見は、古代中国北部個体群が、台湾海峡の本土側の初期完新世狩猟採集民よりも、本論文における台湾の時代区分の古代個体群の方とより密接に関連している、との観察です。これは、新石器時代中国北部から台湾への遺伝子流動を示唆し、黄河流域農耕民の2集団系統の一方に派生するとモデル化する場合、25%の遺伝的影響が推定されます。この祖先系統は、黄河流域農耕民自体から由来すると仮定するならば適合せず、南北の移住はこれらの農耕民の拡大とは関連しない、と示唆されます。推測できる可能性としては、この祖先系統が紀元前8000年頃までに中国北部で栽培化されたアワの耕作者により伝えられ、中国南部では紀元前3000~紀元前2500年頃となる台湾新石器時代の大坌坑(Tapenkeng)文化で比較的早期に出現した、というものです。


●ユーラシア東西の混合

 モンゴルはユーラシア草原地帯の東端近くに位置し、考古学的証拠では、完新世を通じてユーラシア東西の文化的交換の水路だった、と示されています。たとえば、ヤムナヤ(Yamnaya)草原地帯牧畜民文化の東方への拡大である紀元前3100年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化は、モンゴルに最初の酪農をもたらし、紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化のようなその後の現象に文化的影響をもたらしました。

 本論文におけるモンゴルの時代区分では、紀元前6000~紀元前600年頃の4起源集団に祖先系統が由来します。最初に確立し、おもにアジア東部人と関連する唯一の起源集団は、紀元前6000~紀元前5000年頃となるモンゴル東部の新石器時代狩猟採集民2個体において基本的にほぼ100%で表され、本論文のデータセットでは最初期の個体群となります(図3)。第二の起源集団は、紀元前5700~紀元前5400年頃のモンゴル北部の新石器時代狩猟採集民7個体で最初に現れ、以前に報告されたシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する祖先系統(関連記事)を5%程度有するとモデル化できます。第三の起源集団はアファナシェヴォ文化個体群で最初に現れ、遺伝的にはヤムナヤ草原地帯牧畜民とひじょうに類似しており、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群のパターンと一致します。第四の起源集団は紀元前1400年頃までに現れ、シンタシュタ(Sintashta)文化の牧畜民のような祖先系統を有する人々に由来するとモデル化されます。シンタシュタ文化牧畜民は、ヤムナヤ関連祖先系統(約2/3)とヨーロッパ農耕民関連祖先系統(約1/3)の混合に由来します。

 モンゴルにおける混合史を定量化するため、qpAdmが用いられました。多くのモンゴル東部人は、新石器時代のモンゴル東部人(65~100%)とシベリア西部狩猟採集民の単純な2方向混合としてモデル化できます。このモデルに適合する個体群は、新石器時代集団(0~5%のWSHG)だけではなく、アファナシェヴォ・クルガク・ゴビ(Afanasievo Kurgak govi)遺跡の前期青銅器時代の子供(15%)、ウルギー(Ulgii)集団(21~26%)、中期青銅器時代のムンクカイルカーン(Munkhkhairkhan)文化の主要な集団(31~36%)、モンゴル中央部・西部地域の後期青銅器時代結合集団(24~31%)、モングンタイガ(Mongun Taiga)の個体群(35%)です。クルガク・ゴビの子供はアファナシェヴォ文化との関連および年代にも関わらずヤムナヤ関連系統祖先系統を有しておらず、ヤムナヤ関連祖先系統を有さないアファナシェヴォ伝統で埋葬された個体の最初の事例となります。モンゴルに拡大したヤムナヤ期の遺産は、紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体で継続し、その祖先系統は、ヤムナヤ・アファナシェヴォを一方の起源集団として用いてのみモデル化できます(33~51%)。これは、古代ヨーロッパ農耕民を外群で含める場合でも適合し、人々の長距離の移動はヨーロッパ西部の巨石文化伝統をチェムルチェク文化の人々に広めた、という仮説の証拠を提供しません。

 紀元前600年頃より前の4起源集団モデルが適合しない1事例は、チェムルチェク文化の1個体ですが、ずっと南方のトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)地域と関連する人口集団からの15%の追加の祖先系統でモデル化できます。最近の研究では、トゥーラン集団とボタイ(Botai)遺跡の初期カザフスタン牧畜民の混合としてチェムルチェク文化関連個体群がモデル化され、本論文において全てのチェムルチェク文化関連個体で検出された他の3祖先系統はいずれも確認されませんでした(関連記事)。本論文の最適モデルは、ボタイ文化関連個体群が参照セットにある時に合格するので、本論文と他の研究の知見は、どちらも正しいならば、ボタイ文化集団関連祖先系統を有する一方の移住の波と、それを有さないもう一方の移住の波を伴うような、チェムルチェク文化関連個体群のひじょうに複雑な起源を示唆します。

 中期青銅器時代以降、モンゴルの時代区分データでは、アファナシェヴォ文化とともに拡大したヤムナヤ派生系統の持続に関する説得力のある証拠はありません。代わりに、ヤムナヤ関連祖先系統は、中期~後期青銅器時代のシンタシュタ文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々と関連する後の拡大に由来するものとしてのみモデル化できます。シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化の人々は、2/3のヤムナヤ関連祖先系統と1/3のヨーロッパ農耕民関連祖先系統の混合です。シンタシュタ文化関連祖先系統は、中期~後期青銅器時代の集団で0~57%の割合で検出され、モンゴル西部でのみかなりの割合となります。これら全集団に関して、qpAdm祖先系統モデルは、外群にアファナシェヴォ文化関連個体群を用いて合格しますが、起源集団としてのアファナシェヴォ文化関連個体群と外群にシンタシュタ文化関連個体群を用いるモデルは全て却下されます(図3)。

 新たな祖先系統は後期青銅器時代から大きな割合で到達し始め、qpAdmでは、新石器時代モンゴル東部個体群を、フブスグル(Khövsgöl)やウラーンズク(Ulaanzukh)やモンゴル中央部・西部地域の一部後期青銅器時代個体群、石板墓(Slab Grave)文化と関連した前期鉄器時代2個体、匈奴や鮮卑やモンゴル時代の個体群において、単一のアジア東部人起源集団としてモデル化すると失敗します。しかし、漢人を起源集団として含めると、これらの個体群の9~80%の祖先系統の割合が推定されます。トゥーラン派生祖先系統は、紀元前6世紀~紀元前4世紀までに、鉄器時代のサグリ(Sagly)文化の複数個体において再度モンゴルに拡大しました。明るい肌の色素沈着と関連する2ヶ所の遺伝子多型(rs1426654とrs16891982)、およびヨーロッパ人で青い目と関連する1ヶ所の多型(rs12913832)のアレルは、サグリ文化個体群で高頻度ですが、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する多型(rs4988235)のアレルは、本論文で分析されたアジア東部人全員でほぼ欠如しています。

 ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統が中期~後期青銅器時代までにモンゴルでほぼ消滅したことで一致している一方、ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統拡大の遺産が中国西部で紀元前410~紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)文化の時期に存続したことを示唆する、以前の古代DNA分析が確認・補強されました。石人子溝文化個体群の多くと5つの遺伝的に均質な下位クラスタのうち3クラスタを別々に考慮すると、唯一の節約的なモデルは、アファナシェヴォ文化個体群と関連する集団からのユーラシア西部関連祖先系統に全てが由来し、後にアジア中央部とモンゴルで出現した特徴的なヨーロッパ農耕民関連混合のないアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統は現在の新疆ウイグル自治区で持続した、と確認されます。

 たとえば、最もユーラシア西部関連祖先系統を有する2個体(石人子溝文化)にとって、3方向モデルに適合する全モデルは、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統を71~77%含みます(図3)。さらに、そのようなモデルにおいて小さな割合で適合できる他のユーラシア西部関連2集団からの祖先系統の合計は、常に9%未満です。国家以前の社会では、言語はおもに人々の移動を通じて拡大すると考えられているので、これらの結果は、タリム盆地のトカラ語がヤムナヤ文化の子孫のアルタイ山脈およびモンゴルへの移住を通じて(アファナシェヴォ文化の外観で)拡大し、そこからさらに新疆ウイグル自治区へと拡大した、との仮説に重要な意味を追加します。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化の仮説にとって重要です。なぜならば、インド・ヨーロッパ語族系統樹における二番目に古い分枝の分岐は紀元前四千年紀末に起きた、という仮説を支持する証拠が増加しているからです。以下、本論文の図3です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で取り上げられていない最近の研究では、まだ査読前ですが、チベット人の形成過程と地域差を詳細に分析した論文(関連記事)や、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史を分析した論文(関連記事)や、前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造を分析した論文(関連記事)があります。本論文が指摘するように、アジア東部の更新世人類遺骸と、新石器時代長江流域個体群の古代DNAデータが得られれば、アジア東部、さらにはアジア南東部における現在の人口集団の形成史の理解は大きく進むと期待されます。

 上述のように、本論文は昨年3月に査読前に公開された時からかなり修正されており、それは昨年の公開時以降に公表された研究を取り入れているからでもあります。まず、査読前論文では、アジア東部における主要な祖先系統の大きな区分はユーラシア東部で、それが南北に分岐し、さらにユーラシア東部北方祖先系統から分岐したアジア東部祖先系統が南北に分岐した、とされていました。この大きな祖先系統間の関係は本論文でも変わっていませんが、ユーラシア東部系統の南北の分岐が、南方は沿岸部祖先系統、北方は内陸部祖先系統と名称が変わっています。4万年前頃の田园個体はユーラシア東部内陸部祖先系統に位置づけられるものの、アジア東部現代人の直接的な祖先集団とは早期に分岐し、現代人には殆どあるいは全く遺伝的影響を残していない、と推測されています。

 ユーラシア東部内陸部祖先系統(以下、内陸部祖先系統)は南北に分岐し、これが査読前論文のアジア東部南方祖先系統とアジア東部北方祖先系統に相当します。黄河流域新石器時代集団では内陸部北方祖先系統の割合が、前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体では内陸部南方祖先系統の割合がひじょうに高くなっていますが、それぞれユーラシア東部沿岸部祖先系統(以下、沿岸部祖先系統)の遺伝的影響も多少受けています。長江流域新石器時代集団は、粮道遺跡狩猟採集民と類似の遺伝的構成と予想されていますが、現時点ではまだゲノムデータが公表されていないと思います。上述のように、アジア東部の古代DNA研究における今後の注目点の一つが、長江流域新石器時代集団の遺伝的構成でしょう。

 黄河流域で新石器時代に成立した遺伝的構成をアジア東部北方祖先系統、中国南部新石器時代集団の遺伝的構成をアジア東部南方祖先系統とすると、現代中国における各人口集団の南北それぞれの割合は図3aで示されています。査読前論文と比較すると、漢人では全体的にアジア東部北方祖先系統の割合の方が高いものの、以前よりもアジア東部南方祖先系統の割合が高くなっています。これは、アジア東部北方祖先系統を表すのが、紀元前3000年頃となる後期新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡個体群から後期新石器時代黄河上流域個体群に、アジア東部南方祖先系統を表すのが、台湾の紀元後1~4世紀の漢本(Hanben)遺跡個体群から前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体に変わったことが大きいようです。後期新石器時代黄河上流域個体群は、新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(関連記事)で取り上げられた、ともに青海省に位置する、紀元前2461~紀元前2208年頃の金蝉口(Jinchankou)遺跡と紀元前2866~紀元前2237年頃の喇家(Lajia)遺跡の個体群で表されます。

 モンゴルでは改めてユーラシア西部関連祖先系統の流入が確認されましたが、最初に到来した祖先系統が消滅し、後に別の祖先系統が流入するなど、ユーラシア草原地帯における完新世の複雑な人口史が示唆されます。ユーラシア西部関連祖先系統の流入は、上述のようにトカラ語との関連でも注目されます。現代チベット人は内陸部北方祖先系統の圧倒的な割合と、沿岸部祖先系統の比較的低い割合とで構成され、内陸部南方祖先系統の影響はほとんどないようですが、上述のチベット人形成史に関する詳細な研究では、現代チベット人内部では明確な遺伝的地域差があり、地域によってはユーラシア西部関連祖先系統や内陸部南方祖先系統が明確に示されています。

 日本人の私は、やはり自分が属する現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団の形成過程に注目してしまいます(まあ、自分のゲノムを解析してもらったことはないので、じっさいに「本土」集団の遺伝的構成の範囲内に収まるのか、確定したわけではありませんが)。本論文では、縄文時代の7個体が分析されました。内訳は、紀元前2500~紀元前800年頃の千葉市の六通貝塚の6個体と、紀元前1500~紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1個体です。六通貝塚の6個体では1親等の関係にある2個体が確認されたので、そのうち網羅率のより低い1個体は集団遺伝分析から除外されています。

 縄文人は、内陸部南方祖先系統56%と沿岸部祖先系統44%の混合としてモデル化されます。この混合がいつどこで起きたのか、縄文人の年代・地域での遺伝的違いはどの程度だったのか、今後の研究の進展が期待されます。また、現代日本の「本土」集団の形成に関しては、縄文人とアジア東部大陸部から到来した集団との混合との見解が最近の研究でも改めて確認されており、アジア東部大陸部からの縄文時代以降のおそらくは2回(あるいはそれ以上)の移住が想定されています(関連記事)。本論文は、現代日本の「本土」集団は、縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と指摘します。縄文時代以降に日本列島に到来し、圧倒的な遺伝的影響(90%程度)を現代「本土」集団に残した集団は、考古学で強く示唆されているように、朝鮮半島経由で到来した可能性が高そうで、今後この推測が大きく変わることはなさそうです。もちろん、本論文の祖先系統モデル化は、あくまでも現時点でのデータに基づいており、今後の古代DNA研究の進展により、さらに精緻化されると期待されます。

 本論文で分析された縄文人7個体のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に区分できた4個体のうち3個体がN9b1、1個体がN9b2aです。礼文島の1個体と六通貝塚の6個体のうち3個体は男性です。YHgは、礼文島の1個体がD1(F1344)、六通貝塚の3個体がD1a2a1c1(Z1570)とD1a2a1c1(Z1575)とD1a2a1c1a(CTS11032)です。アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415~4160年前頃の1個体(Ma911)のYHgもD1(M174)です(関連記事)。ホアビン文化狩猟採集民は遺伝的には本論文の沿岸部祖先系統の影響が圧倒的に強く、沿岸部祖先系統を有さないアジア東部の古代人ではまだYHg-D1は確認されていないと思いますので、アジア東部の個体群のYHg-D1は沿岸部祖先系統にのみ由来する可能性が高そうです。日本列島やチベットでは、内陸部祖先系統の遺伝的影響が圧倒的に強くなってもYHg-D1が残ったのに対して、農耕到来とともに内陸部祖先系統の遺伝的影響が強くなったアジア南東部では、YHg-D1がほとんど消えた理由に関しては、拡散の経緯や外来集団と在来集団との力関係や社会構造などの影響が大きいかもしれませんが、今後の研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


追記(2021年3月18日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



集団遺伝学:東アジア人集団の形成に関するゲノムからの知見

集団遺伝学:古代DNAでたどる東アジア人の集団史

 古代東アジア人の利用可能なDNAデータは、これまで限定的だった。今回D Reichたちは、台湾、モンゴル、チベット、中国など、東アジア各地の古代人および現代人から得られた、大規模なゲノム規模のデータセットを報告している。このデータセットを既存のデータセットと統合して解析した結果、モンゴルおよびアムール川流域、黄河流域、台湾など、さまざまな地域での集団の移動が詳細に推測された。

朝ドラ『繭子ひとり』で延命の嘆願が寄せられた露口茂氏

 『女性自身』2021年3月23・30日号に朝ドラ特集記事が掲載されていました。朝ドラ史上平均視聴率が最高の作品は、1983年4月1日から1984年3月31日まで放送されていた『おしん』であることは、よく知られています。この特集記事によると、朝ドラ史上平均視聴率第2位の作品は、1971年4月5日から1972年4月1日にかけて放送された『繭子ひとり』とのことです。『繭子ひとり』は総集編も含めて映像が全く残っていなかったそうですが、出演者の1人である杉良太郎氏からNHKに提供されたビデオの中に第125回の一部の映像が含まれていたそうです(関連記事)。

 『繭子ひとり』の主役は山口果林氏演じる加野繭子で、繭子は雑誌社の女性記者となり、北川編集長に恋をしますが、どうも北川編集長は原作では死ぬ設定の役だったようで、この特集記事によると延命嘆願が寄せられたそうです。北川編集長を演じたのは露口茂氏なので注目したわけですが、ウィキペディアの記事を読むと、すでに書かれていた情報でした。勝手に少し興奮して損をした気分になりましたが、1972年7月21日放送開始の『太陽にほえろ!』前の露口氏の芸能界における立場を窺える興味深い情報が得られたので、読んで正解でした。

 『太陽にほえろ!』での露口氏は、山さん役で一定以上の年齢の女性からの人気がひじょうに高かったそうですが(若い女性から高い人気を得たのは殿下役の小野寺昭氏)、すでに『太陽にほえろ!』の放送開始前に、『繭子ひとり』などで一定以上の年齢の女性から高い支持を受けていたのかもしれません。露口氏は北川編集長をひじょうに魅力的に演じたのでしょうから、映像がほとんど残っていないのは何とも残念です。

 1973年に放送された大河ドラマ『国盗り物語』も、露口氏が葛籠重蔵役で出演していますが(関連記事)、総集編しか映像が残っておらず、この頃のNHKのドラマの映像がほとんど残っていないのは日本の芸能史における大きな損失だと思います。ネットで見かけた情報だと、『国盗り物語』本編で葛籠重蔵の出番は多かったそうなので、いつか本編の録画も見つかるのではないか、と期待してきたのですが、残念ながら叶わないようです。

 私は戦後芸能史に詳しくないので、『太陽にほえろ!』放送開始前の露口氏の立場がどのようなものだったのか、ほとんど知りませんが、『繭子ひとり』での演技が評判だったことや、山口崇氏が出演していた、1972年5月6日~1972年8月26日まで放送された『お祭り銀次捕物帳』でクレジットのトメは露口氏でしたから、すでにかなりの地位を確立していたように思います。『太陽にほえろ!』のサウンドトラックの解説(確か1975年頃発売のレコード盤の解説そのままだと思います)で、プロデューサーの岡田晋吉氏が、露口氏が出演依頼を承諾してくれた時に成功の手応えを感じた、というようなことを述べていたと記憶していますが、これも『太陽にほえろ!』放送開始直前の時点で、すでに露口氏が俳優として高く評価されていた傍証になりそうです。

中邑徹『地震とミノア文明』

 「自然異変と文明シリーズ」の一冊として、白水社より2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はミノア文化を地中海世界に位置づけ、近東およびヨーロッパとの関連で論じます。また表題にあるように、本書はミノア文化に大打撃を与えた地震に着目し、クレタ島やその周囲の地理・地形も詳しく解説しています。ミノス王朝下のミノア文化最盛期には、クレタ島のクノッソス宮殿周辺では、2万人以上の住民が経済活動に従事していた、と推測されています。

 農村は小規模でしたが、最大で200人規模の農村が存在した可能性も指摘されています。ミノア文化は優れた青銅製品を輸出し、その原材料となる銅や錫を輸入するため、キプロス島など東地中海にも進出しました。古代地中海世界における青銅製品の普及は、ミノア文化の優れた青銅生産技術と海上交易圏拡大が大きかった、と本書は指摘します。こうした地中海世界の交流の中で、ミノア文化とエジプトとのつながりも生じました。ミノア文化とフェニキアとの深い交易関係もあり、紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火後にミノア文化が衰退すると、フェニキアは急成長します。

 ミノス王朝のクノッソス宮殿は、紀元前1700年頃の大地震で破壊され、その後再建されました。クノッソス宮殿の最終的な破壊と原因については議論があり、紀元前1450年頃のミケーネ王国によるクレタ島への侵攻が原因との説もありますが、最近では、紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火による地震と津波が原因と指摘されています。しかし、津波と地震の後の数世代にわたる政治的混乱と内紛拡大が原因との見解も提示されています。紀元前1600年頃のテラ島のカルデラ噴火による自然変異が収まった後、ミケーネ王国がクレタ島に侵入し、ミノス王朝に代わってエーゲ海群島を支配しました。

 古代DNA研究によると、当時のミケーネ王国とクレタ島の住民の遺伝的構成は類似していましたが、前者には後者と異なり、ユーラシア草原地帯もしくはアルメニア系統が見られます(関連記事)。紀元前1200~1100年頃、ミケーネ王国は「海の民」も関わった東地中海の大混乱の中で滅亡し、ギリシア本土は「暗黒時代」に入ります。この大混乱の中で、青銅器時代から鉄器時代へと移行します。しかし本書は、この「暗黒時代」を経ても、ミノア文化の遺産がギリシア世界に受け入れられたことを指摘します。

 テラ島の大噴火の後、ミノス王朝は衰退し、ミケーネ王国がクレタ島を支配しますが、ミケーネ王国の植民地拡大とともにミノア文化の影響は広がり、「海の民」も関わった青銅器時代末期から鉄器時代にかけての地中海東部の混乱にも関わらず、継承されていきました。その一例が、ミノア文化で筋力と速さと精神力を競う行事で、アテナイにおいてオリンピックとして定着しました。食文化でもミノア文化の影響は後世に伝えられており、単に「滅亡した文化」と把握することはできないでしょう。尤もこれは、他の「滅亡した」と認識されている文化にも当てはまるでしょうが。

中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器

 中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現生脊椎動物のうち哺乳類は、音波を変換し可聴周波数範囲の拡大(特に高音域)を促進する3つの耳小骨(槌骨と砧骨と鐙骨)の連鎖を有する点で他と区別されます。対照的に、初期の化石哺乳類および近縁動物では、これらと相同の骨は下顎骨との連結を介して咀嚼の機能も果たしていました。近年、保存状態の良好な中生代哺乳類がいくつも発見されたことで、耳小骨の二重の機能(咀嚼と聴覚)から単一の聴覚機能への移行について垣間見る機会が得られています。こうした移行は、哺乳類の進化において少なくとも3回起こったことが、現在広く受け入れられています。この研究は、槌骨と砧骨と外鼓骨(鼓膜を支える骨)が極めて良好に保存された、中期ジュラ紀(1億6000万年前)のハラミヤ類(Vilevolodon diplomylos)のものとされる頭蓋および頭蓋後方の骨格について報告します。

 ハラミヤ類として知られる、きわめて古い絶滅した哺乳類分類群の系統発生学的な位置づけに関しては、これまで2つの相反する見解がありました。議論の中心となってきたのは、哺乳類の進化できわめて重要となる中耳の構造です。一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が、骨化したメッケル軟骨により歯骨と連結されたままになっていたというもので、これによるとハラミヤ類はきわめて祖先的となります。もう一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が3つに分かれていたというもので、この解釈ではハラミヤ類は多丘歯類(同じく絶滅した哺乳類分類群で、進化的により派生的)に近縁となります。当ブログではこれまでハラミヤ類について、大いに繁栄した後に絶滅した齧歯類様の多丘歯類に近縁だとか(関連記事)、最古の滑空哺乳類だとか(関連記事)、独特の中耳構造だったとか(関連記事)、ゴンドワナ大陸の分類不明な「hahnodon」類の歯との類似性だとか(関連記事)いった見解について、取り上げてきました。

 この新たなハラミヤ類化石標本を他の中生代哺乳類および現生の哺乳類のものと比較した結果、その下顎には歯骨後方の溝もメッケル溝も見られませんでした。これは、この化石を含む複数の中生代化石、現生の単孔類、および現生の有袋類や有胎盤類の個体発生初期に見られる重なり合った砧槌関節が、耳小骨の二重機能から単一機能への移行において複数の哺乳類分類群で進化した形態である、と提案されます。ハラミヤ類はきわめて祖先的な哺乳類の派生的分類群ではなく、より進化的に進んだ(多丘歯類により近縁の)分類群だった可能性が高い、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:中期ジュラ紀のハラミヤ類の単孔類様の聴覚器

古生物学:ハラミヤ類の謎が解けた

 ハラミヤ類として知られる、極めて古い絶滅した哺乳類分類群の系統発生学的な位置付けに関しては、これまで2つの相反する見解があった。議論の中心となってきたのは、哺乳類の進化で極めて重要となる中耳の構造である。一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が、骨化したメッケル軟骨によって歯骨と連結されたままになっていたというもので、これによるとハラミヤ類は極めて原始的ということになる。もう一方の見解は、ハラミヤ類の耳小骨が3つに分かれていたというもので、この解釈ではハラミヤ類は多丘歯類(同じく絶滅した哺乳類分類群で、進化的により派生的)に近縁となる。今回S Biたちは、ハラミヤ類Vilevolodon diplomylosの新たな標本について報告している。この標本は、以前Natureで記載されたホロタイプと同一の場所および地層から発掘されたもので、その下顎には歯骨後方の溝もメッケル溝も見られなかった。これは、Vilevolodonのホロタイプを除く他の全ての真ハラミヤ類で報告されている状態で、このことから、ハラミヤ類が極めて原始的な哺乳類の派生的分類群ではなく、より進化的に進んだ(多丘歯類により近縁の)分類群であったと示唆された。



参考文献:
Wang J. et al.(2021): A monotreme-like auditory apparatus in a Middle Jurassic haramiyidan. Nature, 590, 7845, 279–283.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03137-z

前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造

 前期新石器時代~漢代にかけての、現代の中華人民共和国山東省の人類の母系の遺伝的構造に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代DNA研究により、アジア東部の南北の古代人口集団間の遺伝的区別など、ユーラシア東部の人口史と進化が明らかにされてきました(関連記事)。山東省は中国の北部沿岸地域に位置し、中国の南北を地理的に接続しています。山東省は多文化の中心地として、大汶口(Dawenkou)文化(6000~4600年前頃、黄河下流域)や山東省龍山(Longshan)文化(4600~4000年前頃、龍山文化の地域的文化)が存在しました。以前の古代DNA研究では、いくつかの山東省で発見された人類遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)の短い超可変領域1に焦点が当てられていましたが、ハプログループを識別する能力は限定されていました。

 最近、ゲノム規模研究(関連記事)とユーラシア東部の人口史の概説(関連記事)により、古代山東省個体群はアジア東部の人口集団の遺伝的歴史と過去の移住の特定に重要な役割を果たした、と明らかになりました。4ヶ所の前期新石器時代遺跡の古代山東省6個体(9500~7700年前頃)は、アジア東部北方人口集団と関連する祖先系統を有し、これは後にアジア東部南方への拡大した祖先的系統構成要素だった、と示されました。しかし、これらの研究は標本の不足により限定的で、山東省およびその近隣地域の経時的な変化する遺伝的関係の理解には大きな間隙があります。

 本論文は、山東省の12ヶ所の遺跡(図1a)で発見された古代人86個体(9500~1800年前頃)の高品質で完全なmtDNA配列(16569塩基対)の分析と、mtDNAハプログループ(mtHg)の分類を提示します。本論文は、山東省の母系の遺伝的構造に関する人口集団動態と、これらの人口集団が山東省外の人口集団とどのようにつながっていたのか、説明するにあたって、以前の研究よりも時空間的に広範で精細な解像度を提供します。以下、本論文の図1です。
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●4600年前頃までに分離された遺伝的構造

 山東省の古代人86個体(9500~1800年前頃)から、合計56個のハプロタイプが特定されました。A5aやB5b2a2など特定のハプロタイプは、蓓倩(Beiqian)遺跡の同じ墓に葬られた2~5個体に共有されている、と明らかになり、これら被葬者間の母系親族関係が示唆されます。母系親族関係の可能性がある標本に関しては、その後の遺伝的分析のために1個体のみが対象とされ、10個体は除外されました。56個のハプロタイプは13個の基底的mtHgに分類され、それはA・B・C・D4・D5・F・G・M8・M9・M11・N9a・R・Zです。AMOVAを用いて、標本の年代に基づきどの人口集団グループ化が山東省の全遺跡の遺伝的構造を最もよく表すのか、検証されました。その結果、最大の分散は人口集団が4600年前頃よりも古いものとそれよりも新しいものとに区分した時に観察され、これは6000~4600年前頃の大汶口文化期と4600~4000年前頃の龍山文期との間隔に一致します。


●4600年前頃以前の山東省における母系の遺伝的構造

 28個体が4600年前頃以前となります。その内訳は、9500年前頃の變變(Bianbian)遺跡1個体、8200年前頃の小高(Xiaogao)遺跡の1個体、8200年前頃の淄博(Boshan)遺跡の1個体、8000~7700年前頃の小荆山(Xiaojingshan)遺跡の3個体、6000~4600年前頃の伏佳(Fujia)遺跡の3個体、5500~5300年前頃の蓓倩遺跡の19個体です。これらの個体群のうち、4600年前頃よりも古い標本は、mtHg-B(B4c1とB5b2で24.14%)とD(D4とD5で37.93%)の高頻度を示します。

 mtHg-B4はおもに現代人ではアジア中央部~東部に分布していますが、mtHg-B4c1は、アジア東部南方(61.70%)と、ムアン(Mueang)やタイ(Tay)やフラ(PhuLa)やキン(Kinh)やラフ(LaHu)といった、アジア東部南方人と密接に関連するアジア南東部人口集団(25.53%)でおもに見られます。mtHg-B5bはアジア東部全域で広範に見られ、現代朝鮮人で最も高い多様性が示されます。mtHg-B5b2は、おもに漢人(Han)やホジェン人(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やミナン人(Minnan)やマカタオ人(Makatao)で見られるmtHg-B5b(63.64)の派生mtHgですが、キン人やブリヤート人(Buryat)やハムニガン人(Khamnigan)やキジ人(Kizhi)など他のアジア東部人でも見られます。

 mtHg-Dの場合、D4とD5の両方がアジア東部北方の古代人口集団において高頻度ですが(17.60~43.75%)アジア東部南方の古代人口集団ではそれよりも低頻度です(0~20%)。さらに、mtHg-N9aが8200年前頃の小高遺跡の1個体で見つかっています。mtHg-N9aはユーラシア東部系統に属し、おもにアジア東部に分布しています。これらの結果から、山東省の人口集団は4600年前頃以前にはアジア東部の南北両方と関連するmtHgを含んでいた、と示唆されます。


●4600年前頃以後の山東省における母系の遺伝的構造

 山東省の遺跡のほとんどでは、mtHg-BとDが本論文の標本抽出期間(9500~1800年前頃)で高頻度(20%超)を維持していますが、mtHg-C(6.00%、C7a1とC7b)、M9(6.00%、M9a1)、F(2.00%、F1a1とF2aとF4a1)は4600年前頃よりも新しい標本でのみ観察されます(図3b)。これら新たにもたらされたmtHgから、山東省人口集団の母系の遺伝的構造は、龍山文化期(4600~4000年前頃)の開始期により多様になった、と示唆されます。

 これら新たなmtHgの起源を調べると、mtHg-Cは、たとえばオロチョン人(Oroqen)集団(29.55%)のようなアジア東部の北方民族集団において優勢で、それはmtHg-Cが北方の民族集団でより多様である、という以前の観察と一致します。mtHg-M9aは、アジア南東部から北に向かってアジア東部本土へと15000年前頃に拡大したと提案されており、アジア東部北方現代人では限定的な分布になっています(0~4.20%)。

 mtHg-F1・F4は、アジア東部南方とアジア南東部でアジア東部北方よりも一般的ですが、mtHg-F2はアジア東部北方人においてより高頻度で分布しています。これらのより最近のmtHgはアジア東部の南北両方で見つかっているので、山東省の人類遺骸におけるこれらの出現は、4600年前頃以前に観察されたmtHgの置換なしに、4600年前頃以後の山東省の外部からの人口集団の流入を表しているかもしれません。

 さらに、mtHg頻度の主成分分析を用いて、4600~1800年前頃の各遺跡の人口集団が調べられました(図1b)。アジア東部の北方と南方の現代人はPC1軸で区別でき、それはおもにmtHg-D・B・Fの異なる割合に起因します。アジア東部北方現代人は、たとえば、モンゴル人で39.58%、吉林省漢人で35.29%、山東省漢人で36.00%と、mtHg-Dのより高い割合を示しますが、mtHg-B・Fは、たとえば、Bが江西省漢人で34.78%、広東省漢人で30.43%、Fがヴァ人(Va)で31.82%、ラフ人で33.33%、ペー人(Bai)で25.00%と、アジア東部南方現代人においてより高頻度です。

 龍山文化期およびその後の4400~3300年前頃となる城子崖(Chengziya)遺跡と、龍山文化期となる4600~4000年前頃の桐林(Tonglin)遺跡の個体群は、PC1軸の中心に位置し(図1b)、それはおもに、この2遺跡がアジア東部人の南方もしくは北方で割合の高いmtHgを高い割合で有することに起因します。具体的には、この2遺跡のmtHg-Bの頻度は37.50%よりも高く、mtHg-Dの頻度は城子崖遺跡で20.00%、桐林遺跡で37.50%です。mtHg-Fも桐林遺跡において12.50%の頻度で見つかります。

 3050~1800年前頃の新智(Xinzhi)遺跡と、3050~2750年前頃の後李(Houli)遺跡の個体群は、PC1軸ではアジア東部北方人により近づいており(図1b)、mtHg-Dのより高い割合で説明できます(新智遺跡では50.00%、後李遺跡では33.30%)。3100~1800年前頃の劉家荘(Liujiazhuang)遺跡の集団はアジア東部北方現代人とクラスタ化し(図1b)、これは現代の山東省人口集団とmtHg- A・B・D・G・M11・M8・N9aを59.40%共有することに起因します。他方、2300~1800年前頃の一席(Yixi)遺跡個体群は、mtHg-Fを40.00%有し、PC1軸でアジア東部南方人とより近づいています(図1b)。


●古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の関係

 次に、古代山東省人口集団がアジア東部現代人とどのように関連しているのか、調べられました。まず、古代山東省人口集団とアジア東部現代人(漢人および他の民族集団から選択された15人口集団)との間のΦst(集団の遺伝的分化を示す指標)が計算されました(図1c)。5500~5300年前頃の蓓倩遺跡個体群は遺伝的に、アジア東部現代人とのより多くの類似性を示す(0~4人口集団が有意なΦstを示します)より新しい山東省人口集団と比較して、アジア東部現代人とはより大きく異なっている(8人口集団が蓓倩遺跡個体群と有意なΦstを示します)、と明らかになりました。さらに、古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の、(ハプロタイプ頻度の相関に反映される)ハプロタイプ構成が調べられました。古代山東省人口集団は、他のアジア東部現代人カと比較して、ザフやウズベクやウイグルといった北方民族集団、およびペー人やジーヌオ人(Jino)といった南方民族集団とはあまり類似していない、との観察結果が得られました(図1d)。


●山東省の沿岸部と内陸部の間の遺伝的交換の可能性

 沿岸部の蓓倩遺跡と内陸部との間の人口動態も経時的に調べられました。沿岸部の蓓倩遺跡個体群には、mtHg-M(10.50%)とA(5.30%)が含まれていました(図3b)。しかし内陸部遺跡群では、これら2つのmtHgは3100年前頃よりも新しい遺跡の個体群(M8が10%、Aが16%)でしか観察されませんでした(図3b)。さらに、沿岸部の蓓倩遺跡の人口集団と3100年前頃よりも古い(4600~3100年前頃)内陸部遺跡の人口集団は、沿岸部の蓓倩遺跡およびより新しい(3100~1800年前頃)内陸部遺跡群との間の遺伝的距離と比較して、遺伝的距離の値がより大きい、と明らかになりました。

 AMOVA分析で類似のパターンが観察され、沿岸部の蓓倩遺跡とより古い内陸部遺跡群は、沿岸部の蓓倩遺跡とより新しい内陸部遺跡群との間の分散値よりも大きな分散値を有しています。これらの結果から示唆されるのは、沿岸部と内陸部の人口集団間の遺伝的交換は3100年前頃以前にはより低頻度だということで、それは、龍山文化期およびそれ以前には沿岸部と内陸部との間の文化的違いがあった、という考古学的知見と一致します。代替的な説明は、mtHg-M8・Aをもたらしたアジア東部の他地域からの祖先系統を有する人々の流入に起因するかもしれない、というものです。以下、本論文の図3です。
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●山東省におけるmtHg-B5b2の発見

 以前の研究では、mtHg-B5bを有する人口集団はアジア東部本土北西部から他のアジア東部地域へと移住した、と推測されていました。それは、アジア東部本土北西部の3000年前頃の個体群に基づくmtHg-B5bが、古代山東省の人類遺骸では観察されていなかったからです。本論文では、山東省の6ヶ所の遺跡(9500~1800年前頃)において、mtHg-B5bの個体群が識別されました。内訳は、變變遺跡で1個体、蓓倩遺跡で4個体、後李遺跡で1個体、桐林遺跡で1個体、新智遺跡で1個体、城子崖遺跡で1個体です。

 mtHg-B5bをより詳細に調べるため、アジア東部現代人20個体のmtHg-B5bの完全な配列が得られました。内訳は、北部漢人2個体、南部漢人3個体、ホジェン人1個体、ミナン人1個体、マカタオ人1個体、客家(Hakka)1個体、キルギス人2個体、ティンリー人(Tingri)1個体、ブリヤート人1個体、ハムニガン人1個体、キジ人1個体、日本人1個体、スワイ人(Suay)1個体、シャン人(Shan)1個体、キン人2個体です。ミトコンドリアゲノムの合着(合祖)年代は、BEASTを用いて完全なデータから推定されました。

 mtHg-B5b2では、蓓倩遺跡の5500~5300年前頃の個体(BQ-M2*)の下位系統B5b2a2が、現代人ではホジェン人1個体(HGDP01238)・ブリヤート人1個体(JN857016)・ハムニガン人1個体(JN857039)と共通祖先を有しています(図2a~c)。mtHg-B5b2a2の最新の共通祖先(TMRCA)の推定年代は、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)で8056年前です。さらに、蓓倩遺跡の2個体(BQ-M31-AとBQ-M24*)は、共通のmtHg-B5b2a祖先を13040年前頃(95% HPDで20329~7595年前)に有しています。蓓倩遺跡の1個体(BQ-M139-D)と新智遺跡の1個体(XZ-M59)は、共通のmtHg-B5b2b祖先を、南方漢人1個体(HG00690)および北方漢人1個体(NA18643)と11513年前頃(95% HPDで18102~6368年前)に有しています。

 したがって、これらの個体は全員、9500年前頃の變變遺跡1個体と関連する共通のmtHg-B5b2祖先を17293年前頃(95% HPDで26726~10503年前)に有しています。これらの結果から、9500年前頃の變變遺跡1個体で見られるmtHg-B5b2は、アジア東部人およびアジア北部人の祖先である可能性が高い、と示唆されます(図2a~c、図3a)。これは、以前の研究で提案された、アジア東部の西方と南方への拡大、および仰韶(Yangshao)文化のような他の文化との相互作用を有する、山東省における人口動態と一致します。以下、本論文の図2です。
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●まとめ

 本論文では、過去9000年にわたる山東省人口集団の母系の遺伝的構造が再構築されました(図3)。9500年前頃以降、アジア東部北方および南方の現代人の主要なmtHgは、山東省の古代人口集団で観察できます。4600年前頃以後、山東省の内外の人口集団間で追加の接続が識別されました。3100年前頃以後、山東省内の沿岸部と内陸部の間での遺伝的交換の可能性が観察されました。さらに、山東省人口集団で新たに発見されたmtHg-B5b2では、9500年前頃の變變遺跡1個体がアジア東部人および北部人の祖先的系統に属する可能性が高いことと、9500年前頃の變變遺跡1個体から5500~5300年前頃の蓓倩遺跡人口集団への継続的な母系の遺伝的構造が観察されました。より広範囲の時空間的なY染色体および核ゲノムデータが、これらの洞察に基づいてさらに構築され、古代山東省の人々の遺伝的歴史と人口移動のより包括的な全体像を提供できるでしょう。以下、本論文の要約図です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文が指摘するように、mtDNAからは母系の遺伝的関係しか明らかにならないので、今後はY染色体および核ゲノムデータが望まれます。しかし、mtDNAは核DNAよりもずっと解析が容易で、Y染色体とは異なり全員が保有しているため、核ゲノムよりも多くの標本数を得やすい、という利点があります。その意味で、これまでの研究よりも時空間的に分析範囲を広げた本論文の意義は大きいと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていた、アジア東部も含むユーラシア東部の古代DNA研究が近年大きく進展しつつあるように思われるので、今後がたいへん楽しみです。


参考文献:
Liu J. et al.(2020): Maternal genetic structure in ancient Shandong between 9500 and 1800 years ago. Science Bulletin.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.01.029

現生人類のmtDNAの進化速度の見直し

 現生人類(Homo sapiens)のミトコンドリアDNA(mtDNA)の進化速度を見直した研究(Cabrera., 2021)が公表されました。進化遺伝学は、人類史を時系列的な分子の文脈の中で研究しています。この点で、その主要な手法は分子時計です。分子時計は、系統間の変異の違いとして測定される、タンパク質もしくはDNA配列の間の分岐速度が、その最初の分離から経過した時間に比例していることを確立しました。しかし、その後の研究では、分子時計は系統内のヌクレオチドもしくはアミノ酸の位置により、系統間でも、さらには分類群間でも異なる、と明らかになりました。したがって、この不均一性を考慮に入れるために、毎回より洗練されたモデルを実装する必要があります。

 この分子時計の時間目盛内で検出された別の問題は、分子時計が、種内および種間で調べられた系統の歴史に沿って変わることです(関連記事)。最近、古代DNA分析の発展により、進化速度の推定を改善するための、さまざまな時点での追加の較正点が提供されました。しかし、少なくともヒトにおいては、これらの改善が、現代の配列で以前に得られた進化速度を実質的には変えていません。さらに、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)が大規模な全ゲノム配列決定に置き換えられるか、あるいは変異率が組換え率に置き換えられた場合、変異率と進化速度推定値との間で観察される有意な違いは消えていません。

 これら進化速度の不確実性にも関わらず、遺伝学は人類史の解釈において権威のある役割を果たしつつあります。したがって、考古学が現生人類の起源を30万年以上前に、もしくはアフリカからユーラシアへの拡大を12万年以上前に想定する場合、その年代は遺伝的推定年代(現生人類の起源は20万~15万年前頃、出アフリカは6万~5万年前頃)よりもずっと古くなり、それら遺伝的推定年代よりも古い年代の現生人類は現代の人口集団の遺伝子プールに寄与しなかったかもしれないので、考古学的知見は遺伝的に無関係とみなされます(関連記事)。その見解に反して著者は、過去の人口統計学的動態への分岐率の依存性を受け入れ、信頼できる値として平均的な生殖細胞系変異率を信頼することで、遺伝学的年代と考古学的年代を一致させられる、と示唆しました。さらに、世代に沿った人口集団における祖先系統の持続性が、速いmtDNA変異率にも関わらず、種内合着(合祖)年代推定値の精度に強く影響する、と分かります。

 本論文は、古代と現代のミトコンドリアゲノム配列を比較して、進化速度は経時的に著しく変化し、平均生殖細胞系変異率よりも顕著に遅い値と速い値に達する、と確認します。したがって、進化速度には時間依存性の影響が存在し、最近では加速度が増加しています。一過性の多型が、系統樹から推定される進化速度に減速の役割を果たすことも検出されました。これらの不確実性を修正するための実用的手法として、ハプログループ内の最も多様な系統の使用が提案されます。


●分子進化速度

 古代人423個体と現代人784個体のミトコンドリアゲノムを用いて、ミトコンドリアの進化速度が推定されました。古代人のミトコンドリアゲノムは較正年代に応じて10区分され、平均年代は1119±483年前から40160±4658年前です(表1)。この期間内の各ミトコンドリアマクロハプログループ(MとNとR)の現代人と古代人の配列間の変異の違いの平均数を比較すると、有意な違いは観察されませんでした。最も分岐した比較の対応のないt検定は、p値が0.54でした。mtDNAハプログループ(mtHg)間のこの均一性は、得られた合計値の統計的信頼性を強化します。観察された進化速度は、最新の期間(表1の第1期間)の1年につき4.33×10⁻⁸から、最古の期間(表1の第10期間)の1.91×10⁻⁸までの範囲です。前者の推定値を、最後の生殖細胞系変異率(1.30×10⁻⁸もしくは1.89×10⁻⁸)と同等とするならば、それぞれ2.27~3.33倍速くなります。しかし、最古の期間で得られた変異率(1.91×10⁻⁸)は、他の研究で計算された変異率のより低い範囲にあります。


●時間依存効果

 経時的な変異の線形蓄積を想定すると、最新の期間と最古の期間の両方で同じ変異率が予想されますが、実際には、最古の期間で観察された変異率は最新の期間のそれよりも2.27倍遅くなっています。これは、ヒトや他種で観察されたように、より古い期間の変異率と比較して有意に速い最近の置換率を有する変異率に対しての、時間依存効果の存在と一致します。この効果は図1で表されており、期間に沿って蓄積された変異の観測数と予想数が、1000年単位で示されています。じっさい、同じ期間に観察された進化速度に対して、各期間の年代の有意な負の回帰が観察されます。以下、本論文の図1です。
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●一過性の多型効果

 一過性のmtDNA多型の持続は約2Ne(有効人口規模)なので、ヒトにおける女性5000個体の有効規模を仮定すると、その過程は約1万世代、1世代平均25年とすると、25万年続くでしょう。直接的結果は、ヒトのような増加する集団では、固定時間、したがって一過性の多型の持続はさらに長くなるだろう、ということです。したがって、ヒト集団に見られる通常は高いミトコンドリアゲノム多様性にも関わらず、同じミトコンドリアゲノムを共有する多数の個体が存在するかもしれない、と予想されます。たとえば、古代mtDNA研究では、8000年以上の期間にわたる、祖先的なM系統の持続を裏づけます(関連記事)。

 さらに、1年につきゲノムあたり1.947×10⁻⁴の平均変異率を用いると、祖先的なミトコンドリアゲノムにおいて12500年の期間で変異を生じない確率は、まだ有意ではありません。これは、人口集団において同じミトコンドリアゲノムを共有する2個体が母系で関連している時間として発見された、500減数分裂/世代(1世代25年と仮定して12500年)の限界とひじょうによく似ています。この期間は、人口集団が大きなボトルネック(瓶首効果)を受けたか、新たな世代が少数の個体群から創出され、単一系統もしくは主要系統のみが残っている場合に、増加する可能性があります。その結果、系統は数世代にわたって変わらないかもしれませんが、同じ人口集団の同一系統には、同じ期間に1つもしくは複数の変異が生じます。このような想定は図2Aで示されます。祖先系統は人口集団に存在する間、さまざまな世代で子孫を生み出せることに注意が必要です。

 このように、人口集団がn世代後に標本抽出される場合、祖先系統(e)に加えて、有意な変異の違いを蓄積した祖先系統から派生した系統も見つけられます(f、h)。しかし、この事実は、同じ標本(図2B)から構築された系統樹には反映されていません。なぜならば、それらの系統が出現した世代とは関係なく、全ての派生的な系統が祖先分岐点(e)から同じ時に出現するからです。系図と系統樹との間のこの違いは、注目すべき結果をもたらします。一方では、この違いは、選択的制約を呼び出す必要なしに種内ハプログループ比較で見つかった、系統間の変異率均一性の欠如を説明できます。他方では、系統樹が構築されている系統への変異の影響なしに移った世代の表現の欠如は、これらの系統樹から計算された合着(合祖)の年代を短縮する一般的な効果があります。以下、本論文の図2です。
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 この短縮効果を弱める一つの単純な方法は、配列の平均の代わりに分析されたハプログループからの主要な変異数を有する、それらの配列を選択するか、ポアソン分布の分散を考慮して、下位四分位にまとめられた配列の平均を取得することです。本論文では、アフリカのmtDNAマクロハプログループL0およびL3と、出アフリカmtDNAマクロハプログループM・N・Rを構成する主要なハプログループの最高の変異数を有する配列がまとめられました。これらのデータと進化速度を用いて、mtHgの分岐で表される人類史の重要事象の合着(合祖)年代が計算されました。それは、現生人類の年代(L0とL1~7の分岐)、出アフリカ(L3とL4の分岐)、ユーラシア人口集団のアフリカへの「帰還」(L3の合着)、ユーラシア全域への現生人類の拡大(M・N・Rの合着)で、とくに重視されるのが、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散(Pの合着)、ヨーロッパへの拡散(U5の合着)、アメリカ大陸への拡散(A2・B2・C1・D1・D4h3a・X2aの合着)です。予想されるように、全てのこれら新たな推定は、以前の計算よりも顕著に古くなります(表3)。


●考察

 mtDNAの変異率は環境および遺伝的変数にも関わらず、合意の得られている平均値に近似しますが、本論文では、mtDNAの置換率は経時的に変わり、変異率よりも小さくも大きくもなり得る、と確認されました。したがって、進化速度が変異率の2倍になると明らかになった全ゲノムの同じ状況に達し、人類進化の年代に疑問を提起します。しかし、進化速度が人口規模に依存し、最近の爆発的な人口増加を有する人口史を通じて人口集団規模における大きな違いがあった、と認めるならば、これが当てはまると予想すべきです。分子進化の中立理論とのこの明らかな矛盾は、いくらかの説明に値します。まず、伝達率と固定率を区別することです。

 N0規模の人口集団において変異が出現すると、それは1/N0の次世代(N1)に伝達される確率と、伝達された場合の1/ N1の固定される確率があります。人口規模が世代に沿って一定のままである場合、伝達の確率と固定の確率は中立説の予測のように同じです。しかし、人口規模が世代間で変動する場合、伝達の確率は固定の確率とは正反対の動作を示します。次世代で人口規模が2倍になる場合(N1=2N0)、伝達の確率は2/N0です。しかし、変異が伝達されるならば、変異の個体確率は1/2N0です。逆に、次世代で人口が半減した場合(N1=N0/2)、伝達の確率は1/2N0ですが、伝達されるならば、固定の確率は2/N0です。繰り返すと、これは、大きな人口集団では変異の固定確率は小さな人口集団よりも低い、と予測する中立説に従っています。しかし、進化速度を駆動するのは伝達の確率です。

 人口集団もしくは種の間の進化速度を推定する場合、これらの多様体が異なるアレル(対立遺伝子)に固定されるのか、各人口集団もしくは種における一過性の多型として分離されているのかに関係なく、我々は配列間の変異の違いを数えています。したがって、本当に重要なのは、各系統で独立して蓄積された変異の量です。じっさい、変異は変異率に従って現れますが、増加する人口集団では、より多くの系統、系統ごとにより多くの変異があり、これらの系統は減少する人口集団の場合よりも長期間維持される、と知られています。これは、増加する人口集団では進化速度が加速し、変異率よりも高くなる理由を説明します。なぜならば、伝達される可能性がより高いように見える変異と、すでに人口集団で分離している変異が、より長い期間多型のままであるからです。人口が減少すると、正反対のことが起きます。

 本論文で古代と現代のミトコンドリアゲノムの比較分析により確認された時間依存効果は、人口規模動態への分岐速度の依存に関する上述の議論を経験的に確証します。同義置換と非同義置換の進化速度の違いにより繰り返し示されているように、選択が進化速度にも重要な役割を果たすことは確かです。しかし、その効果は、遺伝的浮動に分子進化の主要な役割を与える分子進化のほぼ中立進化説により説明されるかもしれません。

 著者は以前、ヒト集団で観察される急激な増加の効果を相殺する新たなアルゴリズムを提案しましたが、それは標本抽出された系統をまとめる系統樹の形態に基づいています。しかし本論文では、系統樹が経時的な祖先的系統を無視し、その結果、実際の年代よりも新しい合着年代が得られる、と示されました。平均ではなく各ハプログループ内の変異の数が多い系統を採用するよう、本論文では提案されましたが、実際の合着年代を推定する実用的手法として、変動する人口規模と系統樹が進化速度に課す問題に対処するには、より洗練されたモデルが実装されるべきです。

 それにも関わらず、本論文の2つの手法が、最近の考古学的知見(関連記事)とより一致する、30万年前頃という現生人類の起源の合着年代を示していることに言及する価値があります。現生人類の出アフリカは15万年前頃と推定されており、これはレヴァントのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)、さらには17万年前頃となる(ミスリヤ洞窟(Misliya Cave)での発見(関連記事)と一致する可能性があります。また、ユーラシアのmtHg-M・N・Rの合着年代は、ユーラシアにおける現生人類の拡散を10万年前頃までさかのぼらせ、これは中国南部の福岩洞窟(Fuyan Cave)遺跡の現生人類遺骸の年代と一致します(関連記事)。オーストラリアのmtHg-Pの分岐は、現生人類がサフルランドにアジア東部と同じ頃に到達した、と示唆しているようです。この同年代の拡大の一部として、ユーラシアの人口集団はmtHg-L3の分岐と一致してアフリカに「戻った」かもしれません(関連記事)。

 著者は以前、アメリカ大陸への人類の拡散を4万年前頃と提案しましたが、それは直接的もしくは間接的(関連記事)に考古学的年代により裏づけられます。しかし、このアメリカ大陸への最初の移住は、mtHg-A2・B2の年代により示され、その後で第二の波が続き、また27500年前頃のmtHg-C1・D1・D4h3a・X2aにより示される、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前だった、という可能性があるようです。ヒトの進化速度は未解決の問題として存続しますが、ヒト進化の主要事象について遺伝学者により提案された年代を疑問視するのに充分な証拠がある、と著者は考えています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。21世紀になって、DNAの変異率は現生人類の出アフリカなど人類史における重要な事象の年代を推定する重要な根拠とされてきましたから、DNA変異率の推定値はひじょうに重要です。本論文は現生人類のmtDNAの変異率の見直しと、より洗練されたモデルを提言していますが、確かに重要な指摘だと思います。ただ本論文は、mtDNAの変異率の見直しの結果、出アフリカやユーラシア各地への拡散といった現生人類史の重要な事象の年代が現在の有力説よりもさかのぼり、それは近年の考古学的知見とも整合的と指摘しますが、現生人類の起源と拡散はひじょうに複雑な問題で(関連記事)、特異な遺伝(片親性遺伝標識)となるmtDNAの分岐をそのまま現生人類史の重要事象に直結させてよいのか、慎重な検証が必要だとは思います。

 また本論文は、新たなmtDNAの変異率とそこから推測される現生人類史の重要事象の年代が、近年の考古学的知見と整合的と主張しますが、これも慎重な検証が必要でしょう。たとえば本論文は上述のように、中国南部の福岩洞窟の現生人類遺骸の年代は12万~8万年前頃と推定する研究を肯定的に引用していますが、この年代は以前から強く疑問視されており、最近になって、15000年前頃未満で、完新世のものも含まれる、との結果が得られています(関連記事)。現時点では、アジア東部における6万年以上前の確実な現生人類の痕跡はまだ確認されていないと考えるべきで(関連記事)、本論文の見解を直ちに有力説として認めるべきではないでしょう。


参考文献:
Cabrera VM.(2021): Human molecular evolutionary rate, time dependency and transient polymorphism effects viewed through ancient and modern mitochondrial DNA genomes. Scientific Reports, 11, 5036.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84583-1

歯根形態と関連する遺伝子

 歯根形態と関連する遺伝子についての研究(Kataoka et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。人類の歯の経時的な形態変化はよく研究されてきました。以前の研究では、歯の形態における人口集団内および人口集団間の多様性が明らかにされてきました。アジアの人口集団では、いくつかの歯の特徴が、「モンゴロイド歯科複合」と呼ばれる混合表現型としてまとめられています。これは後に、シノドントとスンダドントに二分されました。シノドントの特徴は、上顎中切歯(UI1)のシャベル状、単一歯根の上顎第一小臼歯(UP1)、3本歯根の下顎第一大臼歯(LM1)、C字根の下顎第二大臼歯(LM2)などです。対照的に、スンダドントでは、2本歯根の上顎第一小臼歯と下顎第一大臼歯を示す傾向にあります。

 以前の遺伝的研究では、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子(rs3827760:アミノ酸もしくはヌクレオチド配列に応じて、それぞれ370V/Aもしくは1540T/C)がシノドントおよびスンダドントの歯冠の特徴と強く関連している、と示されています。EDAR遺伝子は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えています。また370Aアレル(対立遺伝子)は、370Vアレルと比較して、乳腺管分岐の増大およびより小さな乳腺脂肪体と関連している、と示されています。370Aアレルは派生的で、3万年前頃の出現との推定もあり(関連記事)、アジア東部およびアメリカ大陸先住民集団でひじょうに高い頻度で見られ、アフリカおよびヨーロッパの人口集団では存在しないか稀です。

 さらに、集団遺伝学の研究では、アジア東部において強い選択が370Aアレルに作用した、と示唆されています。乳腺管分岐の増大をもたらす370Aアレルは高緯度地帯において適応的で、ベーリンジア(ベーリング陸橋)において出現して定着したのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。これらの知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)は、今ではほぼ完全に否定されたと言えるでしょう。

 本論文は、歯冠形成と比較して研究が遅れている歯根形成の分子メカニズムを、EDAR 370V/Aとの関連において、コンピューター断層撮影(CT)画像分析と、反応拡散モデル(空間に分布された一種あるいは複数種の物質の濃度が、物質がお互いに影響し合うような局所的な化学反応、および空間全体に物質が広がる拡散の、二つの過程により変化する様子を数理モデル化したもの)を仮定したコンピューターシミュレーションにより解明します。対象となったのは成人患者255名(男性98名と女性157名)で、CT画像とDNAが分析されました。

 255人のうち、EDAR遺伝子の多様体の割合は、Vのホモ接合型が25人(9.0%)、V/Aのヘテロ接合型が120人(47.1%)、Aのホモ接合型が112人(43.9%)です。EDAR遺伝子型と上顎第一小臼歯および下顎第二大臼歯の歯根の形態との間に有意な関連性が観察されました。また、EDAR遺伝子型と下顎第一大臼歯・上顎第一小臼歯・下顎第二大臼歯の歯根形態との関連も示されました。EDAR遺伝子の370Aアレルはシノドントの表現型と有意に関連する、と示されました。しかし、370Aアレルの影響は3種類の歯で異なっており、上顎第一小臼歯では歯根数の減少、下顎第一大臼歯では歯根数の増加、下顎第二大臼歯では歯根の不分離と関連していることも示されました。

 反応拡散モデルを想定した単純化コンピューターシミュレーションにより、C字根を含むさまざまな歯根型の形状パターンが、活性因子と抑制因子の誘導の強さを表すパラメーター(αsおよびγ)に依存して生成される、と示されました。歯が成長して断面が大きくなるにつれて、歯根の本数増加の傾向が見られました。活性因子の誘導の強さαsが減少するにつれて歯根の数は増え、増加するにつれてC字型の歯根のパターンが現れることと、抑制因子の誘導の強さγは逆の効果を有することが明らかになりました。

 本論文は、用いたモデルが単純化されており、じっさいの発現はもっと複雑である、と注意を喚起しています。それでも、EDAR 370V/A多型が現代アジア人口集団で観察される歯根形態および歯根数と関連している、と明らかになりました。ただ、上述のように歯根数への影響は単純ではありません。また、EDAR遺伝子型はアジアの人口集団で観察される歯の形態の二形性の強力な遺伝的要因ですが、他の遺伝的要因も関わっているかもしれません。以前の研究では、WNT10AおよびPAX9遺伝子の一般的な多様体が歯冠サイズと関連している、と示されており、歯根形態にも関連しているかもしれません。

 本論文は、現代アジア東部における人口集団の形成過程の観点でも注目されます。上述のように、現代のアジア東部やアメリカ大陸先住民の人口集団で多いシノドントの遺伝的基盤となるEDAR遺伝子の370Aアレルは派生的で、3万年前頃の出現との推定もあり、その出現候補地としてベーリンジアが指摘されています。最近のアジア東部現生人類(Homo sapiens)集団の古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、EDAR遺伝子の370Aアレルが出現したのは、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統のうち、アジア東部北方系統集団だったかもしれません。アジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統集団で、スンダドントの比率が高いポリネシア人の主要な遺伝的祖先はアジア東部南方系統集団だからです。今後の古代DNA研究の進展により、アジア東部現代人集団の形成過程がより詳しく解明されていく、と期待されます。


参考文献:
Kataoka K. et al.(2021): The human EDAR 370V/A polymorphism affects tooth root morphology potentially through the modification of a reaction–diffusion system. Scientific Reports, 11, 5143.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84653-4

大河ドラマ『青天を衝け』第4回「栄一、怒る」

 今回も、渋沢栄一を中心とする農村部の話と、徳川慶喜を中心とする「中央政界(ここまではおもに江戸で、たまに水戸)」の話の二部構成になっています。両者はまだ接続されておらず、前振り段階といった感じですが、栄一とすでに遭遇している平岡円四郎が慶喜に仕えることになり、今後話がつながることを予感させます。慶喜と円四郎との関係は割と丁寧に描かれました。両者は重要人物のようですから、主人公が関わらない場面の描写も必要なのでしょう。まだ幕末激動期が始まろうとしている段階ですが、慶喜場面は一般的な大河ドラマの印象に沿った描写になっていると思います。

 一方、栄一の話は農村が中心で、幕末の激動の波が及んできているとはいえ、まだ「中央政界」と直接的には関わっていないため、大河ドラマ愛好者には不評かもしれません。しかし私は、栄一の個性と才覚を描くことは必要だと思いますし、すでに商品経済がかなり浸透していた江戸時代後期の農村の様子をなかなか興味深く視聴しています。周囲の人物に褒めそやされるという主人公描写ではなく、栄一の個性と才覚を描こうとしているところはよいと思います。栄一の話と慶喜の話が合流するまで、視聴率が低下していきそうなのは気がかりですが、本作はこれまでのところ当たりを予感させるだけに、何とか最終回まで視聴率二桁を維持してもらいたいものです。

オーストラリア最古の岩絵の年代

 オーストラリア最古の岩絵の年代に関する研究(Finch et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。岩絵は世界中で、複雑なヒトの意思伝達の最初期の試みのいくつかを記録しています。有機物の保存に有利ではない条件の地域では、過去のヒトの活動の証拠はおもに、微細形態学的証拠や石器や岩絵に限定されています。石器の使用は、石器が見つかった考古学的発掘層の放射性炭素年代測定により年代が推測されます。残念ながら、放射性年代測定技術が岩絵に適用されることは滅多にないので、岩絵の年代はさほど絞り込まれていません。結果として、気候や海水準や食資源や人口の変化の記録を、たとえば人々が岩絵で描こうと選択した主題と相関させられず、考古学的記録は不完全なままになります。

 岩絵を直接的に年代測定する信頼できる手法が存在しないので、主題の重複と保存状態の広範な観察を用いて、一般的な特徴を共有する主題の集まりの相対的な年代順が決定されました。主要な岩絵地域の多くでは、様式と重複の分析が、相対的な様式期間を仮定するのに用いられてきました。しかし、様式の分類は必ずしも時系列で分離しているわけではありません。さらに、特定の様式の正確な定義における実際上の困難と、最古の色褪せた顔料の重複順序を確実に決定することの実際上の困難は、この手法に不確実性を追加します。これらの仮説を検証し、所与の様式を決定するために共通の特色を確認もしくは改善するには、個々の主題の絶対年代もしくは充分に限定された年代が必要です。

 たとえば、炭で着色された絵が深部で保存されているフランスの洞窟のような稀な例外を除いて、11500年前頃以前となる更新世の絵に残っている顔料は、直接的に年代測定できない物質を含んでいます。たまに、片面に顔料をいくらか含む岩絵の断片が、埋葬時の年代推定を提供する層序文脈を有する発掘調査で見つかります。オーストラリアでは、2回の発掘でそのような断片が見つかりました。一方は28000年前頃で、もう一方は4万年前頃ですが、どちらも描かれた岩絵の主題として明確に分類されておらず、いずれにしても、特定の様式に分類できません。

 本論文は、個々の主題に下限もしくは上限年代を提供するため、岩絵の上もしくは下に位置する年代測定されたドロバチの巣という偶然の条件に依存します。ハチの巣もしくは表面の鉱物付着を利用するこうした技術は、スペイン(関連記事)やインドネシア(関連記事)やオーストラリアの具象的な岩絵の年代を更新世に絞り込んできました。これらの限られた事例は、動物の「現実的な」絵がさまざまな大陸で最古の具象的な岩絵で優勢である、との主張を裏づけます。

 オーストラリアで最も広大な岩絵が見つかっているキンバリー(図1)とアーネムランドの2地域では、重複分析に基づくと、最古の様式期間において写実的な動物が最も一般的な主題ですが、その古さと定義の妥当性に関しては議論があります。同じもしくは類似の動物は、より新しい芸術期でも描かれていますが、異なる様式技術(たとえば、不規則な顔料付着というよりもむしろ固体もしくは規則的な顔料付着、頭や尾や四肢の末端の固体顔料付着)を用いています。したがって、これらの主題のいずれも古い放射性年代により絞り込まれていないので、古い年代を検証するにはさらなる証拠が必要です。キンバリー地域では、より最近のグィオン(Gwion)様式期と推定された絵が18000~12000年前頃に激増した、と知られているので、相対的な岩絵の順序からは、写実的な動物の絵がこれよりも古いはずと予測される、と一般的に合意されています。

 キンバリー地域の岩絵様式の様式順序では、これらの写実的な動物は岩絵の最初の既知の段階に分類され、これはIIAP(Irregular Infill Animal Period)と呼ばれています。アーネム地域(キンバリー地域の東方約700km)における類似の主題の分類に関する上述の議論にも関わらず、本論文では前提としてキンバリーIIAPの包括的な定義が採用されます。IIAPの主題の定義には、手形やブーメランおよびその他の物体、ヤマイモのような植物、カンガルーやハリモグラや鳥やトカゲや魚やオポッサムのような動物、稀ではあるものの擬人化されたものなどが含まれます。本論文は、8ヶ所の別々の砂岩岩陰(図1)から収集された、27個のドロバチの巣の放射性炭素年代を報告します。15個の巣が10点のIIAPの主題の上に、6個の巣が5点の主題の下にありました。重要なのは、上下それぞれ3個の巣の年代が1点のIIAPの主題から年代測定されたため、その絵の年代を絞り込めることです。以下、本論文の図1です。
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●年代測定結果

 キンバリー地域北東部の岩絵の主題の顔料の上下にある75個のドロバチの巣に、放射性炭素年代測定法が用いられました。このうち27個の巣はIIAP様式であることが確実か、ひじょうに高い可能性と分類された16個の主題と接していました。他の古い素は、IIAPの可能性が低い主題と関連づけられているので、本論文では分析対象外となります。各年代値は信頼性得点(RS)が高い順に10~1までの段階に評価されました。これらの年代値は、主題の上(下限年代)、主題の下(上限年代)、単一の主題の上下両方に3区分されます。

 6点の異なる岩絵から、IIAPだと「確実」もしくは「ひじょうに可能性が高い」主題10点の上に位置する、15個のドロバチの巣に放射性炭素年代測定法が適用され、その年代が較正されました(図2)。これらの主題のうち3点には、年代測定された複数の巣がありました。顔料の上にある巣の場合、(複数あるならば最古の)較正年代の95.4%の確立範囲の新しい方の年代が下限年代として採用されます。たとえば、カンガルーもしくはワラビーを描いた主題(DR015_04)は、11200年前(標本DR015_04-2、RSは8)よりも古いことになります。以下、本論文の図2です。
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 5点の異なる主題の下にある6個のドロバチの巣に放射性炭素年代測定法が適用され、その年代が較正されました(図3)。DR006_08は、少なくとも下部で塗り直されているかもしれませんが、全主題はIIAPに分類されます。したがって、DR006_08の上限年代は18700年前頃となります。以下、本論文の図3です。
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 岩陰遺跡の傾斜した天井に描かれた巨大な絵(DR015_10)は、その上下にドロバチの巣があるため、年代を絞り込めるという点で注目されます(図4)。絵の上に位置する最古の巣の標本(DR015_10-2)の年代から、下限年代は17200年前頃と推定されます。絵の下に位置する巣の標本(DR015_10-1)の年代から、上限年代は17500年前頃と推定されます。以下、本論文の図4です。
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 これらの年代から、各様式の年代が推測できます。グィオン様式の絵に関しては、12000年前頃に激増した、との仮説を確認できました。グィオン様式の主題と関連する2個のドロバチの巣を除く全ての年代分布から、主題の上に位置する15個の巣は12000年前頃よりも新しく、全てが13000年前頃よりも古い6個の下に位置する巣と重複しない、と明らかになりました。対照的に、本論文で検証されたIIAP主題の年代は、類似の比較的短期間の激増を支持しません。以下で述べられるように、絵の上下の巣の間の重複年代(図6)は、長期の製作とより一致しています。絵の上下の巣の年代からは、IIAP主題が少なくとも17200~13100年前頃まで製作された、と示唆されます。以下、本論文の図6です。
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 上述のように、カンガルーを描いた巨大な絵(DR015_10)には上下にドロバチの巣があり、IIAPは遅くとも17200年前頃には始まった、と強く裏づけられます。13100年前頃というIIAPの終了年代は、ブーメランを描いた絵(DR013_09)に由来します。DR013_09はIIAPに分類されましたが、グィオン様式と同年代との見解も提示されています。しかし、DR013_09はグィオン様式の主題に上塗りされており、IIAPである可能性が高そうです。ただ、DR013_09は他のIIAP主題よりも新しく、グィオン様式の主題に近い可能性があり、より正確な年代の確定にはさらに多くの年代値が必要です。DR013_09がIIAPに含まれない場合、IIAPの期間は17200~15100年前頃となります。


●考察

 キンバリー地域のIIAPの絵は、世界の他地域の写実的な動物主題と類似の様式特徴(節約的な塗り方、顔料の色、解剖学的詳細、等身大に近い描写)を共有します。これら世界の放射性炭素年代が得られている絵の年代は、たとえば中国の5000年前頃のものから、アジア南東部のスラウェシ島の44000年以上前のもの(関連記事)やボルネオ島の4万年以上前のもの(関連記事)まで、広範囲です。同様のスペインを中心とするヨーロッパの具象的主題の年代は35000年前頃と示唆されていますが、フランス南部のショーヴェ洞窟(Chauvet Cave)の壁画の年代は7000~33500年前頃と31000~28000年前頃の2期と推定されており(関連記事)、ヨーロッパではより一般的に33000~12000年前頃まで具象的な壁画が描かれました。

 IIAP様式は、岩絵と接触している27個のドロバチの巣の放射性炭素年代から、17200~13100年前頃と推定されます。このうちカンガルーを描いた絵の年代は、ヨーロッパの具象的主題の年代範囲の中間に位置する17500~17100年前頃と、より絞り込まれています。これは、近くのジョセフ・ボナパルト湾の海面が、21000±3000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に、現在よりも125m低下した時期となり、IIAP様式の絵の年代の大半は、海面が急速に上昇した14600~8000年前頃以前となります。12000年前頃までに、オーストラリア北西部の海岸線は300km内陸へと移動しており、キンバリー地域沿岸の人類集団の多くの世代は、数千年にわたる領土の継続的な喪失を経験しました。ほぼ同時期の14000~13000年前頃にかけて、古環境記録から、この地域はモンスーン活動と降水量の増加による気候改善が示唆されています。

 キンバリー北部でグィオン様式の絵が急増したのは12000年前頃の直後でした。IIAP様式のおもな主題は動物で、低頻度ではあるものの植物も描かれました。これがグィオン様式期には置換され、装飾された人物像にほぼ完全に焦点が当てられました。岩絵様式の変化と環境条件との間の一致は、IIAP様式からグィオン様式への変化はこの地域の社会および文化的変化を反映しているかもしれない、と示唆します。たとえば、芸術様式の変化は、気候改善に支えられた利用可能領域と人口の増加に対応していたかもしれません。

 オーストラリアの岩絵の最初の既知の期間におけるこれら写実的な動物の主題は、創造的なヒトの活動をLGM末期に位置づけます。キンバリー北東部の8ヶ所の岩絵遺跡の最初の分析結果は、不規則に塗る動物様式の期間が、17000~13000年前頃にかけて延びたことを示唆します。現在でも見える絵の完全な年代順の範囲が決定される前に、この期間のより多くの年代値が必要です。今のところ、カンガルーの絵の17300年前頃という堅牢な年代は、オーストラリアで放射性年代測定された最古の岩絵です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:カンガルーを描いたオーストラリアで最古の岩壁画

 オーストラリアのアボリジニの既知の最古の岩壁画には、カンガルーのような動物が描かれており、これは1万7000年以上前に作られたものであることを報告する論文が、Nature Human Behaviour に掲載される。

 岩に描かれた壁画は、最も初期に記録されたヒトのコミュニケーションの試みを表している。オーストラリアのアボリジニによる岩壁画には、写実的な動物が描かれていることが多いが、放射性炭素年代測定に不可欠な顔料中の有機物質を見つけにくいため、こうした壁画の年代を特定するのは困難だった。

 今回、Damien Finchたちの研究チームは、西オーストラリアのキンバリー地域のAboriginal Traditional Ownersと協力して、岩壁画試料の解析を行った。その結果、一部の岩壁画の上部と下部には古代のジガバチの巣の残骸が含まれており、放射性炭素年代測定が可能なことが判明した。ハチの巣の年代測定から、この様式の壁画が1万7000~1万3000年前に描かれたことが明らかとなった。ほとんどの壁画は、ヘビやトカゲのような姿、3頭のカンガルー類(カンガルー、ワラビー、クアッカワラビーを含む有袋類)などを描いたものであったため、この様式の壁画は、最終氷期極大期末期に少なくとも4000年にわたり存在していたことが確認された。また、カンガルーを描いた壁画の1つは、1万7500~1万7100年前のものと年代決定され、動物の姿を描いた壁画として、現時点でオーストラリアで最古のものとなった。

 Finchたちは、今後の研究によって、こうした創作活動のより詳細な年表が明らかになるだろうと結論付けている。



参考文献:
Finch D. et al.(2021): Ages for Australia’s oldest rock paintings. Nature Human Behaviour.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-01041-0

楊海英『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2019年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は独裁の観点からの中国近現代史です。本書は中国共産党を主要な対象としていますが、政権獲得(中華人民共和国成立)前の共産党だけではなく、孫文にまでさかのぼって現代中国の起源を検証します。新書となると、古い時代までさかのぼるよりは、孫文から見ていく方が、分量の点からも適切かもしれません。本書は孫文について、漢民族至上主義的なところがあった、と指摘します。現代中国の民族問題を考えるうえで、孫文にまでさかのぼることは重要だと思います。中国共産党には伝統的な秘密結社の性格が多分にあった、との見解も重要だと思います。現在、中国は事実上共産党の一党独裁制ですが、当初強かった秘密結社的性格が現在の有り様を規定するところはあると思います。

 本書は、国民党と共産党との組織体質や理念の類似性、さらには第一次国共合作において、まだ小勢力だった共産党が国民党に寄生する側面もあったことを指摘します。まだ小勢力だった共産党は、国民党との違いを打ち出そうとします。それは、コミンテルンとの類似性の強調と、民族政策でした。国民党が、孫文の漢民族至上主義方針を継承したのに対して、共産党は各民族の自立、対等の立場での民主共和国の設立を主張しました。一方で共産党は、モンゴルやチベットやウイグルは遊牧など原始状態にあり、それを支援するのが共産党の任務とも主張しました。マルクス史観を根拠に、諸民族を序列化する意識がすでに見られたわけです。とはいえ、当時の共産党は、漢民族による少数民族の植民地支配の見直しと、各民族の独立を主張していました。しかし本書は、こうした主張が野党的な立場にいた時だけだったことを指摘します。

 結成当初、知識人と富裕層が主導していた共産党を変えたのは毛沢東でした。第一次国共合作の破綻により、共産党は国民党に迫害される立場に追い込まれ、農村部に逃亡します。この時、農民をまとめあげて軍隊に組織していったのが毛沢東でした。毛沢東は地主や富農を敵視し、その土地や財産を没収して貧農に分配する「土地革命」により農村に勢力を拡大していこうとしました。しかし、地主や富農は農村の指導者でもあり、毛沢東の思惑通りには支持は拡大しませんでした。

 この状況で国民党からの攻撃を受けた共産党は、延安まで長距離の敗走を余儀なくされ、途中で略奪もしましたが、これを「長征」と輝かしい歴史であるかのように語りました。この過程で、共産党の一方面軍はイスラム軍閥に壊滅させられます。毛沢東は延安で、厳格な等級制を導入し、密告を推奨しました。共産党はモンゴルの有力者と義兄弟の契りを結び、独立を約束するなどして協力関係を築いていきました。抗日戦争における共産党の役割について、本書はかなり厳しいというか、中華人民共和国の体制教義とは正反対に近いような見解を提示します。この問題に関しては不勉強なので、本書の見解がどこまで妥当なのか、的確に判断できませんが、一般的に、中華人民共和国の体制教義をそのまま受容することにはもはや大きな無理がある、と言うべきでしょう。

 第二次世界大戦で日本が敗北した後、中国では国共内戦が再開され、アメリカ合衆国だけではなく、ソ連も国民党の統治を想定していましたが、共産党が勝ち、中華人民共和国が成立します。本書はその理由として、抗日戦争でおもに日本軍と戦った国民党軍が疲弊していたのに対して、共産党軍は戦力を温存していたことと、ソ連軍が一時的に満州を占拠し、日本軍の兵器が共産党軍に渡ったことを挙げます。また本書は、国共内戦における長春包囲戦など、共産党の残虐性を強調します。確かに、中華人民共和国(共産党政権)の体制教義を鵜呑みにすることはひじょうに危険ですが、共産党の勝因やその残虐さの度合いに関しては、今後も少しずつ調べていくつもりです。

 本書は中華人民共和国には三つの側面がある、と指摘します。それは、古くからの王朝支配、ダイチン・グルン(大清帝国)を打倒した孫文に始まる「漢民族中心主義」、中国を「更地化」する社会主義イデオロギーで、これらにより毛沢東は「完璧な独裁」を確立した、と本書は指摘します。土地改革も含めてこの過程で、粛清により多くの人が犠牲になりました。毛沢東による独裁は、1950年代後半の反右派闘争でほぼ完成します。

 1950年代の大躍進政策と1960年代の文化大革命により、中国では多数の死者(とくに大躍進政策で)が出て、経済も大打撃を受けました。本書はこの大惨事の要因が、毛沢東という独裁者だけではなく、共産党政権の志向・野望にもあった、と指摘します。本書は文革を、国際的(とくにインドネシアの九・三〇事件)および地方の視点(漢民族から見て「周辺地域」となるチベットやモンゴルやウイグル)と、中華人民共和国で繰り返され、今も続く「粛清の連鎖」との観点から把握します。「周辺地域」では文革期に、漢民族による強圧的支配が進行しました。本書はこの民族浄化の背景に 漢民族中心主義・中華思想があった、と指摘します。今も続く「粛清の連鎖」は、敵の定義の曖昧さと恣意性、誰でもいつまでも敵とみなされる可能性があることです。著者は1989年の天安門事件の直前に日本に留学しますが、これは、当時の学生運動に半ば見切りをつけたためでもあるようです。モンゴル出身の著者にとって民族問題はひじょうに重要でしたが、北京の学生たちの多くは少数民族問題への関心があまりにも低いように、著者には見えたためでした。

 改革開放路線で中国経済は飛躍的に発展しましたが、腐敗も進み、それは一部の不心得者が起こした例外ではなく、構造的必然だ、と本書は指摘します。これは妥当な見解で、現代中国における腐敗と格差の背景には、根深い歴史的問題があると思います(関連記事)。現在の習近平政権は、反腐敗闘争で支持を得ましたが、腐敗は構造的問題なので、現代中国である程度以上の地位にある人間を腐敗の罪状で処分することはいつでも可能で、腐敗を理由とした政敵の追い落としも可能です。じっさい、習近平政権はそうして政敵を失脚させてきたわけで、本書はこれを文革的手法そのものと指摘します。

 なお本書は、人類の起源について世界中のほとんどの学者はアフリカ起源説を基本に研究を進めているものの、中国は例外で、中国の学者だけは、今も中国人は「北京原人」の子孫で、人類の起源は中国と主張し続けている、と指摘しています。しかし、そもそも以前に中国で主流だった見解は、各地域の現代人の起源は基本的にその地域の太古の人類集団にまでさかのぼり、それは中国も同様とする多地域進化説的な見解で、人類の起源は中国とまで主張した中国人研究者はほとんどいなかったでしょう。また、現在では中国のとくに遺伝学の研究者のほとんどは、基本的に現代人のアフリカ起源説を認めていると言えるでしょう。さらにさかのぼって人類というかホモ属の起源に関しても、自然人類学の研究者たちの多くはアフリカ起源説を大前提としているようです。以前、中国人研究者が中心になって、陝西省の212万年前頃の石器を報告した研究が公表されましたが、アフリカ起源説を前提としています(関連記事)。

 このように、本書の見解には誇張されているところも多いと思われ、もちろん鵜呑みにはできません。著者が中華人民共和国(共産党政権)に批判的なのは明らかで、それは少数民族出身であることから仕方のないところもありますが、それ故の行き過ぎは少なからずあるとは思います。その意味で、本書の問題点を挙げて、著者の見解全体が出鱈目であるかのように主張する人もいるでしょう。ただ、誇張や誤りが少なからずあるとしても、本書の中華人民共和国に関する見解には、参考になるものが多いと考えています。

『卑弥呼』第58話「埃国」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年3月20日号掲載分の感想です。前回は、出雲の神和(カンナギ)にして金砂(カナスナ)国の支配者である事代主(コトシロヌシ)からの、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)との和議締結のために対決したい、との申し出を受けたヤノハが、万が一、自分が敗れても、倭を平らかにする大仕事は事代主に任せられる、と言ったところで終了しました。今回は、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の日下(ヒノモト)の国を目指すトメ将軍とミマアキが、埃国(エノクニ)に到着した場面から始まります。一行は埃国の中心地である阿岐(アキ)に近づきますが(現在の広島県でしょうか)、広大な干潟に守られているとはいえ、門番がいないことをトメ将軍は不審に思います。阿岐は、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が7年間滞在した場所とされています。篝の跡に気づいた一行が近づくと、多数の焼死体が確認できました。トメ将軍は、吉備(キビ)の北の鬼国(キノクニ)は残虐な戦を好むという噂に言及します。ミマアキは2人の兵士とともに阿岐に入りますが、人の気配が全くありません。そこへ建物からツノヲと名乗る老人の男性が現れ、埃国を訪れた旅人のもてなしを王から命じられている、とミマアキたちに説明します。

 ツノヲはその建物でトメ将軍とミマアキを歓待します。ツノヲは、埃国の王や民が鬼に襲われ、阿岐から避難した、と説明します。鬼とは鉄を狙う鬼国の戦人でしょうか、と問われたツノヲは、自分たちに製鉄技術がないのをいいことに襲撃してくる、戦人以上に恐ろしい鬼だ、と答えます。自分たちも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)で鬼退治をしたことがあるが、所詮は人ではないか、とミマアキに問われたツノヲは、人なら見えるが鬼は見えず、干潟の多数の焼死体も鬼の仕業だ、と答えます。今晩はこの建物で休んでいただきたい、翌朝見送りに来る、と言ってツノヲは立ち去ります。しかし、トメ将軍とミマアキはツノヲの話が変だと考えて、寝所を変えようと考えます。夜のうちに出立しますか、と配下に問われたトメ将軍は、何も起きないかもしれないが、ツノヲの魂胆を見届けるために留まる、と答えます。その夜、烏の仮面を着けた者たちが集まり、トメ将軍一行がいるはずの建物を包囲し、呪文を唱えながら放火します。その指揮者がツノヲであることを離れた場所から確認したトメ将軍一行は、舟で立ち去ります。舟上であの呪文が何だったのか、ミマアキに問われたトメ将軍は、おそらく百鬼退散の呪文で、我々は鬼と思われたのだろう、と答えます。トメ将軍は、干潟の多数の焼死体に、刀や矢や槍の傷がなかったことを指摘します。鬼たちに呪い殺されたのか、とミマアキは推測し、トメ将軍は、あるいは埃国の王が民を焼けと命じたかもしれない、と推測します。

 山社(ヤマト)では、ヤノハがイクメに、出雲のことを尋ねていました。天照大御神と、出雲が信仰する大穴牟遅(オオアナムヂ)という神とはどう違うのか、とヤノハに問われたイクメは、天照大御神は天と地の神、大穴牟遅は空と大地の神と答えます。出雲の社(後の出雲大社でしょうか)には大空の雲を表している大きな注連縄があり、天照大御神は伊弉諾(イザナギ)と伊弉弥(イザナミ)の子で、お二柱は最初に淤能碁志摩(オノロゴシマ)を産み、それが倭国になったが、出雲は少し特別な存在で、伊弉弥が身罷った黄泉の国のある場所と言われている、とイクメはヤノハに説明します。黄泉の国とは、天照大御神の弟である須佐之男(スサノオ)が治める根の国の入口だな、と言うヤノハに対してイクメは、出雲の言い伝えでは、八束水臣津野命(ヤツカミオミツヌノミコト)という神が四方から大地を引き出雲が生まれ、その神の志を継いだのが大穴牟遅神だ、と説明します。出雲の神をどう思うのか、ヤノハに問われたイクメは、大穴牟遅神とは、後に出雲の民に侵攻された新たな神ではないか、と答えます。しかしヤノハは、天照大御神の方が古いからといって、本物とは言い張れないだろう、と言います。出雲を都とする国を金砂(カナスナ)と呼ぶ理由をヤノハに問われたイクメは、広大な砂浜のある場所で、その砂には多量の鉄(カネ)が含まれているからだ、と答えます。川上にある金砂の山々には鉄の原石が眠っているのか、とヤノハに問われたイクメは、その鉄を狙って金砂侵略を繰り返しているのが吉備の北にある鬼国で、温羅(ウラ)と名乗る王がおり、韓(カラ、朝鮮半島)からきた戦人集団だ、と説明します。するとヤノハは、出雲はこれ以上、戦線を広げるつもりはないな、と推測します。山社の楼観では、ヤノハが弟のチカラオ(ナツハ)に、出雲の事代主に会うつもりだ、と決意を打ち明けます。心配そうなチカラオに対して、倭の泰平を事代主に託し、自分たちは姿を消す、とヤノハが言うところで今回は終了です。


 今回は、本州でもおもに中国の情勢が描かれました。本州では出雲に続いて埃国が描かれましたが、干潟の多数の焼死体や鬼国の正体など謎が残り、それは今後明かされていくのではないか、と楽しみです。トメ将軍一行が日下に到達する話はもう少し先で描かれそうですが、鬼国と埃国や金砂国との争いに日下国がどう関わっているのか、サヌ王の子孫が治めているとされる日下国は現在どのような状況なのか、今後の展開と大きく関わってきそうなので、注目されます。ヤノハは事代主と会うと決めましたが、イクメから金砂国をめぐる情勢を聞き、事代主の意図をかなりの度推把握できたようです。それを踏まえたうえで、なおもヤノハは弟のチカラオとともに山社から逃亡しようと考えていますが、ヤノハが『三国志』の卑弥呼でしょうから、このまま山社に留まる可能性が高そうです(一時的に山社から去って復帰するかもしれませんが)。今後の山場はまずヤノハと事代主との面会(対決?)となりそうで、そこでヤノハの決意が変わるのか、注目されます。