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ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』61話・63話〜67話

2019/06/26 02:43
61話「別れは白いハンカチで」5
 麻薬捜査官である村岡房江の再登場となります。ボスと村岡との会話で、マカロニに言及されていたのは、マカロニの死を改めて思い知らされたという点で、寂しさもありました。話の方は村岡房江シリーズの定番で、村岡を麻薬捜査官と知らない若手刑事が村岡を不審に思いつつ関わりを持ち、村岡が自分の捜査を犠牲にしても危機に陥った若手刑事を救う、という展開です。まあ、村岡はたまにしか登場しないので、見飽きるというほどではありませんが。マカロニ・ジーパン・テキサス・ボンと、歴代の若手刑事の教育係的役割を担った村岡ですが、ロッキー以降は登場しませんでした。正直なところ、鮫島勘五郎とは異なり、そこまで楽しみなセミレギュラーではないのですが、やや残念ではあります。


63話「大都会の追跡」8
 出所してすぐに単独で銀行強盗事を起こした男性と、かつての恋人で現在は別人の妻となっている女性との関係を中心に話が展開します。安定して幸せな生活を捨ててまで、犯罪者である過去の恋人と駆け落ちしようとする女性の覚悟はなかなか見ごたえがありました。男性の方はもう結婚したかつての恋人を忘れているのではないか、女性は馬鹿な選択をした、と若いジーパンが疑問を抱くのにたいして、山さんはもう若くはない男性の情念と男女の機微を説きます。山さんに限らず、ボスや長さんは、ジーパンにとって刑事としてだけではなく、人生の師にもなっている、ということなのでしょう。一係と逃亡を企てる男女との駆け引きに暴力団も絡んできて、緊張感が持続してなかなか楽しめました。青春ドラマ的性格の強い初期ですが、今回は大人向けの話といった感じです。多様な話があったことは、本作の人気と長期放送を支えていたように思います。


64話「子供の宝・大人の夢」7
 玩具会社をめぐる陰謀が描かれます。当初は製品事故を起こしたとして世論から糾弾された会社が実は被害側で、かつて会社創業時にその社長の共同経営者だった男性が、自らの利益のために陰謀を企てていた、という話です。陰謀に巻き込まれた玩具会社の社長は大人物といった感じで、ボスはこの社長を信じられると言って、捜査を進めます。この玩具会社の社長を演じたのは千秋実氏で、視聴者からまだ確たる支持を得ていない、との懸念もあったからなのか、初期は後期と比較して、今回のように大物ゲストの出演が多いように思います。久美ちゃんが珍しく捜査に直接深く関わったという点でも楽しめました。


65話「マカロニを殺したやつ」10
 ジーパン登場から3ヶ月近く経過しましたが、マカロニ殺害犯はこの時点ではまだ逮捕されていませんでした。今回はマカロニ殉職(関連記事)の後日譚ですが、山さんの執念、一係の刑事たちの仲間への強い想い、序盤に登場したチンピラが終盤で重要な役割を担ったこと、マカロニを知らないジーパンの疎外感と長さんの叱咤激励、マカロニ殺害犯が偶然殺されてしまったという苦い結末と、その場に到着した山さんの激昂など、話の構造もたいへんよくできており、殉職刑事の後日譚としては文句なしに最高だと思います。マカロニ殺害犯についてとくに描かれる予定はなかったものの、視聴者の要望により制作された、との話をどこかで読んだ記憶がありますが、私も本放送時に視聴していたら、解決編を制作してほしい、と強く願ったことでしょう。


66話「生きかえった白骨美人」7
 女性を連続して絞殺した犯人が逮捕されますが、真犯人は自分だと、田口という52歳の男性が自首してきます。ジーパンは真面目に男性を取り調べますが、山さんやゴリさんには、田口がよく真犯人だと偽って自首してくることを知っていました。田口は、3年前に可愛がっていた娘が失踪してからおかしくなって記憶喪失となり、若い女性の死体が発見されるたびに、犯人だと自首するようになりました。そんな中、3年ほど前に殺された女性の白骨化した身元不明の遺体が発見されます。今回は、この遺骸から生前の姿を復元した科学警察研究所技師の川上という女性が、重要人物として登場します。一係と川上のやり取りは喜劇調で、なかなか楽しめました。発見された女性遺骸の身元が田口の娘とすぐ明らかになり、有力容疑者もすぐに分かりましたが、一係が捜査を進めていく過程と容疑者に仕掛けた罠はなかなか面白くなっていました。久美ちゃんが目立っていたことも、ボスが最後に命の尊さを田口に説いた場面もよかった、と思います。


67話「オリの中の刑事」10
 鮫島勘五郎シリーズの第2回となります。今回は、友人の妻の毒殺未遂容疑で殿下が逮捕され、一係と鮫島が殿下の容疑を晴らしていくという話となります。鮫島が城北署の方針と殿下への恩義との間で苦しむ描写は、見ごたえがありました。一係の刑事が容疑者になる、という話は他にもありますが、さすがにそうはないので、新鮮さはあります。こうした苦難に遭う刑事として、殿下は適任だと思います。この頃には各刑事のキャラが固まってきたということでもあるのでしょう。話の方は、夫婦・友人関係の機微が描かれ、謎解き要素もあってなかなか楽しめました。鮫島勘五郎シリーズで殿下が主演だったのは最初の2回だけなのですが、鮫島と殿下の間に深い信頼関係が築かれたことに納得できるような話になっていたと思います。これ以降も、鮫島が殿下を信頼しているような場面が描かれ、長期シリーズの長所が上手く活かされているな、とたびたび思ったものです。


 これで、欠番を除いて、PART2も含めた『太陽にほえろ!』全話の感想を当ブログで述べたことになります。ファミリー劇場ではジーパン編の再放送が続くので、今後も視聴していきます。再視聴時に以前とは違った感想を抱くことも珍しくないので、大きく変わったものがあれば、当ブログで取り上げるかもしれませんが、当分は、『太陽にほえろ!』に関する記事を掲載することはなさそうです。
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3000年前から「石器」を製作していたヒゲオマキザル

2019/06/25 03:47
 ヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)の「石器製作」が3000年前までさかのぼることを報告した研究(Falótico et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。サルやチンパンジーやラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られています。しかしこれまでのところ、ヒトを除く動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけでした。ヒゲオマキザルに関してはすでに、意図的に石を壊し、断片化されて端の鋭い剥片と石核を意図せず繰り返し「作り」、その剥片と石核が意図的に生産された人類の石器に見られる特徴と形態を有している、と報告されています(関連記事)。

 本論文は、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園(Serra da Capivara National Park)で、ヒゲオマキザルが過去3000年(約450世代)にわたって、「石器」を用いて木の実を割っていた痕跡を報告しています。また、ヒゲオマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆されました。3000〜2400年前頃には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な「石器」を使用していました。2400〜300年前までは、ヒゲオマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石を使用していた。300年前〜現在では、再びわずかに小型の「石器」を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係しています。

 本論文は、使われる石の変化について複数の説明が考えられる、と指摘しています。たとえば、ヒゲオマキザルの群れにより使う「石器」が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの「石器」が必要であった可能性です。ヒゲオマキザルの3000年にわたる「石器」の使用には変化が見られ、そうした事例は人類系統を除くと初めてになる、と本論文は指摘します。人類系統の石器製作も、かなり深い進化的基盤に依拠しており、とくに高度に発達したものと言えるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


オマキザルは3000年前から石器を製作していた

 野生のヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)が3000年以上前から石器を製作しており、その技法が時と共に変化してきたことを示唆する論文が、今週掲載される。

 サルやチンパンジー、ラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られている。しかしこれまでのところ、ヒト以外の動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけだった。

 今回Tomos Proffittたちは、ブラジルでオマキザルの考古学的遺跡を発掘した。現在、そこではサルが石を使ってカシューナッツの殻を割っている。放射性炭素年代測定と石器の分析の結果、オマキザルは3000年(すなわち450世代)にわたり、石を使って木の実を割ってきた可能性が明らかになった。また、オマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆された。3000年の歴史を持つこの遺跡の最初期には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な石器を使用していた。2500〜300年前までは、オマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石器を使用していた。そして最近では再びわずかに小型の石器を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係している。

 Proffittたちは、使われる石器の変化を説明する仮説が複数考えられ、オマキザルの群れによって使う石器が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの石器が必要であった可能性があることを示唆している。



参考文献:
Falótico T. et al.(2019): Three thousand years of wild capuchin stone tool use. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0904-4
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山岡拓也「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」

2019/06/25 03:45
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P105-112)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、アジア南東部の更新世の考古学的研究を整理しています。

 アジア南東部の4万年前以前の人類の痕跡については、ベトナム北部のソンヴィ石器群やインドネシア領フローレス島のマタメンゲ遺跡など複数報告されており、いずれも礫石器と剥片石器を共に含む石器群です。いくつかの遺跡や石器群の年代は100万年以上前と報告されていますが、すべての遺跡や石器群でしっかりとした年代的根拠が得られているわけではなかった、と指摘されています。そうした中で近年、ベトナム中部のザライ省では、複数の遺跡で両面調整石器を含む石器群が発見されています。石器群の中にはテクタイト製の石器も含まれており、石器群の特徴とテクタイトの年代から70〜90万年前と推定されています。スラウェシ島のタレプ(Talepu)遺跡では20万〜10万年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。ルソン島北部では777000〜631000年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。

 本論文はおもに20万〜2万年前頃のアジア南東部を対象にしていますが、年代的な根拠が得られており、石器群の内容について分かる遺跡はさほど多くない、と指摘します。マレーシアのレンゴン渓谷のコタタンパンでは石器群は74000年以上前と推定されています。フローレス島では、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の遺骸が10万〜6万年前頃、フロレシエンシスと関連する石器が19万〜5万年前頃と推定されています(関連記事)。マレーシアのレンゴン渓谷のブーキットブヌでは出土した石器の一部の年代は、183万年前頃までさかのぼる、と推定されています。ただ、石器を包含する層序の堆積物に関しては、4万年前頃と推定されています。石器の石材には珪岩・水晶・チャート・燧石・スエバイトなどが利用されており、様々な礫器に加えて大型の両面調整の握斧(handaxes)も出土しており、石器群の内容は4万年前以前の石器群と共通します。コタタンパン遺跡ではおもに珪岩の河川礫が利用されており、石器群にはチョッパーやチョッピング・トゥールやピックなどの礫石器とともに、錐状の石器や大形のスクレイパーなどの剥片石器が含まれています。レンゴン渓谷の遺跡では礫石器が数多く出土している一方で、リアンブアから出土した4万年前以前の石器群は、おもに剥片石器で構成されており、礫石器はほとんど確認されていません。フリーハンド・樋状剥離・折断剥離・両極剥離の4つの剥離技術が復元され、二次加工のある剥片石器や二次加工が加えられていない小形の剥片が使用された、と想定されています。

 アジア南東部の更新世の遺跡は、4万年前以前とそれ以降では立地に大きな違いがあります。4万年前以前の遺跡はおもに河岸段丘上に残されていたのに対して、4万年前以降は洞穴内に残されるようになります。ここから、石器利用を含む行動体系がかなり変化した、と推定されています。また4万年前以降には、アジア南東部でも大陸部と島嶼部で、石器群に異なる特徴が見られるようになります。大陸部では石器群に礫石器が含まれるのに対して、島嶼部の石器群には礫石器はほとんど含まれず、剥片石器のみから構成されます。

 ベトナム北部では、片面加工の礫石器であるスマトラリス等で特徴づけられるホアビニアン(Hòabìnhian)・インダストリーが更新世までさかのぼります。そのうちソムチャイ洞穴やディウ岩陰の年代は2万年前近くまでさかのぼります。ディウ岩陰とソムチャイ洞穴では刃部磨製石斧も出土しており、1万8千年前までさかのぼると推定されています。また、ングォム洞穴では剥片石器を主に含む石器群が発見されており、年代は2万年前以上と推定されています。タイでも複数の遺跡でホアビニアン・インダストリーが更新世にまでさかのぼり、タムロッド洞穴・ランカムナン洞穴・モーキウ洞穴などの年代は2万年以上前と推定されています。またランロンリンエン洞穴においては、完新世の層序ではホアビニアン・インダストリーと呼べる石器群が出土しているものの、放射性炭素年代測定法で37000〜27110年前と推定されている更新世の層序では、チョッパーやスクレイパーなどから構成される、ホアビニアン・インダストリーとは異なる石器群が出土しています。ボルネオ島のニア洞穴では、多くの年代測定値が公表され、年代は確実に4万年以上前となります。石器群には礫石器がかなり多く含まれ、その中には斧形石器も含まれるため、ホアビニアン・インダストリーとほぼ同じ内容と指摘されています。ベトナム北部ではその他にハンチョー洞穴で、2万年前頃までさかのぼるホアビニアン・インダストリーが確認されており、斧形石器も含まれていると報告されています。ホアビニアン・インダストリーが出土した層序よりさらに下層からも剥片1点と焼けた動物骨が出土しており、年代は3万年前頃です。ングォム洞穴では、出土した石器の内容が比較的詳しく報告されており、23000±200年前となる最古の文化層からは、掻器・削器・鋸歯縁石器などの剥片石器や斧形石器とみられる石器も出土しています。

 このようにホアビニアン・インダストリーの年代は、少なくとも2万年前までさかのぼります。近年、中国南西部では43500年前頃のホアビニアン・インダストリーが確認されています。そのため、ベトナムやタイなどのホアビニアン・インダストリーの年代もさらにさかのぼるのではないか、と予想されています。本論文は、アジア南東部大陸部の4万年前以前と4万年前以降の更新世石器群の違いの一つとして、スマトラリスのような定形的な斧形石器が含まれるか否かを挙げています。

 アジア南東部島嶼部で4万〜2万年前頃の石器群が出土した遺跡としては、パラワン島のタボン洞穴、ジャワ島のケプレック洞穴とブラホロ洞穴、スラウェシ島のリアンブルン2、タラウド諸島のサリバブ島のリアンサル、ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴、アロール諸島のアロール島のリアンルンドゥブなどが報告されており、これらの遺跡からは削器・抉入石器・鋸歯縁石器などの剥片石器を含む石器群が出土しています。これらの他にも、多くの4万年前以降の更新世遺跡が発掘されていますが、近年ではいくつかの遺跡でより詳しく石器群の内容が報告されています。東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)では、2つのグリッド(Square AとSuare B)から出土した石器について報告されています(関連記事)。その中では、折断剥離・両極剥離に加えて、単設打面や両設打面の剥離、打面転異を繰り返す剥離など様々な剥離技術が示されるとともに、打面調整を行う求心的な剥離のほか、「両側縁が並行するか先細る形状で、1本かそれ以上の縦長の稜が認められる4cm以上の長さの縦長剥片」という定義の「細石刃」が石器群に含まれている、と示されています。ただ、こうした「細石刃」を剥離したことが認められる石核は出土していないようです。ジェリマライの最も古い文化期の較正年代は42000〜35000年前ですが、その時期でもこれらの剥離技術のすべてが確認されています。また、石器群には石核石器はほとんど含まれていないようで、錐状の石器や剥片の端部や側縁に二次加工が施された様々なスクレイパー・鋸歯縁石器・抉入石器などの剥片石器から構成されています。こうした石器は最古の文化期でも確認されています。ジェリマライでの剥片剥離や二次加工のあり方は、フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡の石器群と類似している、と指摘されています。

 タラウド諸島のリアンサルでは、C3グリッドから出土した石器群について報告されています。この石器群では特徴的な横長剥片の剥離技術が認められ、錐状の石器・スクレイパー・抉入石器などの剥片石器で構成されています。抉入石器の中にはひじょうに大きな1枚の剥離面で抉りが作出されているものもあり、二次加工技術として注目されています。較正年代で35000〜32000年前となる3層と較正年代で21000〜18000年前となる2B層が更新世の層序となりますが、二次加工のある剥片石器の比率は上層の完新世の層序と比較して少なく、抉入石器は3層からは出土しておらず2B層から5点出土しています。リアンサルでは被熱した石器が多く出土していることから、剥離しやすくするために加熱処理をしている可能性が指摘されています。リアンサルと比較的近接するスラウェシ島のリアンサカパオ1でも、31000〜25000年前の層序から出土した石器群について報告されています。ここでも他の二次加工のある剥片石器に加えて、ひじょうに大きな一枚の剥離面からなる抉入石器が出土しています。また、多くの石器で被熱した痕跡が認められているものの、剥離しやすくするための加熱処理の証拠はなく、埋没後に偶発的に炉などの火で熱せられたのではないか、と推定されています。

 アジア南東部島嶼部で4万年前以上前の石器群の内容を把握できるのはリアンブアから出土した資料ですが、4万年前以降の石器群との違いは今のところ確認されていません。ただ、石器群の特徴が比較的詳しく記載されているジェリマライやリアンサルの事例を見ると、一般的に不定形な剥片石器が卓越する石器群と一括りに捉えられるアジア南東部島嶼部の石器群の中にも、剥離技術や剥片石器の種類などに違いがありそうで、必ずしも単純な石器群と一括して捉えられるわけではなさそうだ、と本論文は指摘しています。また本論文は、石器群の詳細な分析を蓄積することで、4万年前以前の石器群と4万年前以降の石器群との間に何らかの違いが見出されるように思われる、との見通しを提示しています。

 アジア南東部では、石器以外の更新世の人工遺物についても報告されています。ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴では32000〜28000年前の層序から海棲の巻貝を素材とした打製の貝器が出土しており、素材の獲得から廃棄に至る製作−利用−廃棄の工程が復元されています。東ティモールのジェリマライでは、較正年代で23000〜16000年前の層序から貝製釣針の欠損資料が出土しています。東ティモールのマヂャクル2では、較正年代で36500〜34500年前の層序から欠損した銛先の基部とみられる骨器が出土しています。この骨器の長さは2cm弱、幅は1cm程で、両側に連続する刻みが入った側縁部と逆三角形状の端部から構成されています。両側縁の連続した刻みは着柄するための加工と推測されています。アフリカの中期石器時代のカタンダから出土した骨器に類似した資料があると指摘されており、これはアジア南東部における着柄に関わる最古の証拠とされています。

 象徴行動に関しても、近年、アジア南東部島嶼部で様々な証拠が得られています。東ティモールのレネハラでは、ウラン系列法により、方解石の層で挟まれた顔料の層の年代が29300〜24000年前と明らかにされています。スラウェシ島南部の7遺跡では、ウラン系列法による洞窟二次生成物の年代測定の結果、更新世の洞窟壁画が明らかにされています(関連記事)。最古の手形の年代はリアンティンプセンの39900年前で、同遺跡では、バビルサ(シカイノシシ)が描かれた、35400年前となる最古の動物壁画も確認されています。近接するリアンサカパオ1に残されている洞窟壁画についても、文化層の年代や描かれているモチーフ(手形や動物)から、更新世に遡ると推定されています。東ティモールのジェリマライとマヂャクル2では更新世の海棲巻貝のビーズが出土しています。ジェリマライの方は較正年代で37000年前となります。ジェリマライでは較正年代で42000〜38000年前となる層序から、加工痕があり顔料が付着したオウムガイの貝殻片も発見されています。スラウェシ島南部のリアンブルベトゥでは、較正年代で30000〜22000年前となる層序から、クスクスの指骨製のペンダントやバビルサの下顎切歯製のビーズやその未製品が出土しています。また、利用されたオーカーや刻みの入った石器、顔料の付着した石器なども出土しています。このように、骨角器・顔料・ビーズ・ペンダント・壁画など、これまで「現代人的行動」と関わると把握されてきた遺物が、アジア南東部島嶼部で、近年多数発見されています。それに加えて貝製の道具や道具製作の痕跡も発見されており、こうした遺物は海域世界であるアジア南東部島嶼部ならではの道具資源利用と言えるかもしれない、と本論文は指摘しています。また、こうした人工遺物はおおむね4万年前以降に出現しており、それ以前の石器群には伴わないことが重要と思われる、と本論文は指摘しています。

 本論文はまとめとして、アジア南東部の考古学的研究を整理しています。これまでアジア南東部全域で様々な遺跡が発見され、発掘調査が行なわれてきたものの、発掘調査の成果全体を収録した報告書の刊行はきわめて稀で、ほとんどの場合、発掘調査や出土遺物の内容について個別の論文で発表されるそうです。出土した石器について個別の位置情報を記録し、出土した資料全点を提示することもほとんど行なわれていないそうです。そのため、代表的な石器と大まかな年代を把握できる、というのが一般的な状況だと本論文は指摘します。また、遺跡の発掘調査はトレンチやグリッド単位で行なわれているものの、他地域での遺跡調査と比較すると、発掘調査が行なわれている面積は比較的狭い印象を受ける、とも本論文は指摘します。また、いくつかの遺跡で出土資料について報告されていますが、遺跡全体でのデータを提示するというよりも、いくつかのグリッドから出土した資料について報告するといった事例が多いそうです。そのため、これまでに提示されている情報は他地域と比較して少ないようです。こうした現状から、これまでに各遺跡で得られている石器群の内容の詳細を記載していくことが必要な作業ではないか、と本論文は指摘します。

 本論文ではほとんど言及されていませんが、遺跡から出土する動植物遺存体の分析も進められており、熱帯雨林域や海域世界で初期現生人類(Homo sapiens)がどのように適応したのか、具体的な証拠が得られつつあります。アジア南東部は、先行して研究が進められてきたヨーロッパ・アジア南西部・アフリカとは異なる環境であるため、初期現生人類の柔軟な適応能力を示す証拠として注目され、オセアニアも含めた多くの遺跡で古環境や生業に関わる情報が蓄積されています。

 また本論文は、人工遺物の研究から技術や行動に関する具体的な情報を得ることが必要とも指摘しています。人工遺物の中で最も多く残されているのは石器なので、石器についてその種類や製作技術を詳細に記載することに加えて、石器の利用が自然環境への適応とどのように関わっていたのか、具体的に明らかにすることが求められている、というわけです。これまでに、間接的な証拠から、環境に適応するためのより複雑な技術や行動の存在が予測されてきました。ニア(Niah)洞穴では、動物遺存体の分析結果に基づき、投射具を用いた狩猟や植物製の罠を用いた狩猟が推定されていますし、アジア南東部島嶼部やオセアニアにおいて4万年前以降に遺跡が急増することは、初期現生人類が舟により渡海したことを示している、と把握されています。そうした複雑な技術や行動に関わる証拠を石器の研究から得ることで、研究がさらに発展するのではないか、というわけです。たとえば、アジア南東部の更新世では、二次加工の状態や形態から狩猟具の先端部として用いられたと考えられる石器は存在しないものの、パラワン島のイリ洞穴の更新世末の層序から出土した二次加工のない剥片に、衝撃剥離痕と着柄と関わる膠着材の残滓が残されている、と報告されています。そうした痕跡は、その石器が着柄されて狩猟具として用いられ、おそらく投射具とともに用いられていたことを示しています。本論文は、こうした痕跡が4万年前以降のより古い時期の更新世遺跡から出土した石器に認められるかどうか、検討する必要性を指摘しています。

 また一般的にアジア南東部では、初期現生人類は道具製作において植物資源に大きく依存していたと考えられており、より直接的な証拠を得るための努力が続けられてきました。近年、アジア南東部の伝統的な生活を送る集団の植物利用について調べ、伐採や加工といった植物利用に関わる作業を複製された石器を用いて行ない、複製された石器に残された痕跡と遺跡から出土した石器に残された痕跡を比較することで、植物加工技術に関わる具体的な手がかりを得ようとする研究が行なわれています。本論文が注目しているのは、石器が植物の加工に用いられたという証拠を探すだけでなく、具体的な作業内容を特定することで、植物利用に関わる複雑な技術の存在を明らかにしようとする試みです。一般的にアジア南東部の更新世の石器は単純な技術で製作されていると考えられていますが、その背後にあったはずの、初期現生人類の複雑な技術や行動に関する証拠を得るためには、使用痕分析を組み合わせた研究の進展が必要ではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
山岡拓也(2019)「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P105-112
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中期〜後期更新世のアラビア半島における動物相の変化および人類の拡散との関係

2019/06/24 03:28
 中期〜後期更新世のアラビア半島における動物相の変化に関する研究(Stewart et al., 2019)が公表されました。鮮新世〜更新世における移動・絶滅などの動物相の変化は、人類の拡散との関連で注目されてきました。しかし、高い関心が寄せられてきたのはアフリカ東部および北部とアジア南西部のレヴァントで、これらの近隣地域であるアラビア半島に関しては、おもに更新世の脊椎動物記録の不足のため、議論から除外される傾向にありました。

 アラビア半島内陸部は現在ではおおむね砂漠ですが、過去の湿潤な時期には草原が広がり、30万年以上前には人類も存在していました(関連記事)。そこで本論文は、蓄積されてきたアラビア半島の動物相記録を、近隣のアフリカ北部および東部、レヴァントも含むアジア南西部、アジア中央部南方、アジア南部の動物相記録と比較し、これらの地域の動物相の変化を検証し、人類の拡散との関連を論じています。検証対象とされた動物は、ウシ・カバ・サイ・ハイエナ・イノシシ・キリン・ラクダ・ゾウなどの哺乳類です。

 動物相記録からは、アフリカとユーラシアの間の動物の移動が、前期更新世となる120万〜78万年前頃にはほとんどなかった、と示唆されます。ただ例外もあり、アフリカ起源の大型ヒヒ(Theropithecus oswaldi)が160万〜100万年前頃にレヴァントとイタリアで確認されています。ユーラシアでは大型ハイエナ(Pachycrocuta brevirostris)が100万〜90万年前頃に絶滅しており、アフリカ起源のブチハイエナ(Crocuta crocuta)の増加による競合が原因かもしれません。

 中期更新世は78万年前頃に始まります。これ以降、顕著な乾燥や草原拡大といったように気候変動が激化していきます。中期〜後期更新世におけるアフリカとユーラシアの動物相の最も顕著な変化は、60万〜40万年前頃に起きました。この時期にサハラ砂漠地域の乾燥化が進展したにも関わらず、アラビア半島には、ウシ科のアラビアオリックス(Oryx leucoryx)の祖先種のような在来系統だけではなく、ウシ科のエランド(Taurotragus oryx)やハーテビースト(Alcelaphus buselaphus)といったアフリカ起源の動物が出現し、動物が移動できるようなユーラシアとアフリカの間の経路は継続していたようです。

 その地理的位置から、アラビア半島にはユーラシアの他地域やアフリカ起源の動物が流入しました。中期〜後期更新世にかけてのアラビア半島におけるアフリカ起源の動物の代表は、巨大な角を有するウシ科のペロロビス(Pelorovis)属です。アラビア半島内部への動物相の拡散は、ウシ科のオリックス(Oryx)属のような乾燥適応種を除けば、湿潤な時期と考えられます。したがって、その頃のアラビア半島はアフリカ東部の草原と類似した環境だったので、人類のアラビア半島への拡散は、顕著な行動学的および/または技術的革新を必要としなかっただろう、と本論文は推測しています。

 また本論文は、アラビア半島の気候が乾燥化していった時に、動物相が後退もしくは絶滅した可能性を提示しています。これは人類も同様だったのでしょう。後退に関して本論文は、より環境条件のよい高地が待避所となり、気候が回復した時に再度拡散したかもしれない、と推測しています。また本論文は、こうした気候変動が種分化をもたらした可能性を指摘しています。ただ本論文は、アラビア半島における化石記録がまだ不足している、と注意を喚起しています。中期〜後期更新世のアラビア半島における動物相の変化の研究には、まだ進展の余地が多くある、と言えそうです。


参考文献:
Stewart M. et al.(2019): Middle and Late Pleistocene mammal fossils of Arabia and surrounding regions: Implications for biogeography and hominin dispersals. Quaternary International, 515, 12–29.
https://doi.org/10.1016/j.quaint.2017.11.052
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仲田大人「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」

2019/06/23 09:54
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P125-132)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、初期後期旧石器(上部旧石器)群(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の研究の現状を整理しています。本論文はまず、広い意味でのIUPの特徴を整理しています。

 IUPの定義およびその特徴は石刃製法です。もっとも広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることです。平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似しています。ただ、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります。また、石核小口面から小石刃を製作する彫器状石核を伴うこともあります。IUPは地中海東部においては、後期ムステリアン(Mousterian)の上層で前期オーリナシアン(Aurignacian)の下層に位置します。ヨーロッパ中部では中部旧石器時代後半と前期オーリナシアンの中間層に位置し、継続していくことはありません。シベリア・アルタイ地域ではムステリアンと上部旧石器時代前半(EUP)の間に位置づけられます。モンゴル北部では、IUPはプリズム式石刃技術を用いたEUPアセンブリッジに継続します。華北やモンゴル南部ではIUPの前後に石核・剝片石器群が残されます。較正年代では50000〜35000年前頃の間に見られます。1ヶ所の遺跡において複数の年代値が得られている場合でも、最大で10000年の開きもあります。IUPには中部旧石器および上部旧石器に見られる石器型式が伴います。IUPに独特な二次加工石器はとくにレヴァント地域で発達しました。エミレー式尖頭器や基部を両面加工したルヴァロワ式尖頭器、平坦横打刻面をもつシャンフランです。また彫器状石核は、シベリアのアルタイ地域やモンゴルやトランスバイカル地域で組成されくます。IUPの石刃技術は多様で、特徴的なのは単方向または両方向の石刃石核です。アジア南西部ではこれらは時間的に連続し、後者がやや早くから現れます。非ルヴァロワ式のプリズム型石核や半周縁型石核の製作も石器群間で異なります。レヴァントのIUPにはビーズや骨角器やその他の「典型的」な上部旧石器的遺物があります。装飾品や骨角器は、トルコ・ブルガリア・シベリア・モンゴルの遺跡から報告されています。しかし、多くの遺跡ではそうした遺物を欠いています。ビーズと骨角器の有無ついては、保存状態によるものか、場所の機能か、または文化的実践の違いによるものかどうか、不明です。

 本論文はIUPの特徴を、石刃製法を主体的に有し、時に装飾品や有機製品などが伴う、と整理しています。こうした道具行動が突如として拡大し、それが各地の石器群シークエンスに侵入するかたちで把握されることは、IUPの担い手が現生人類(Homo sapiens)であることを強く示唆する、と本論文は指摘します。じっさいに、アジア南西部ではIUPに伴う現生人類遺骸が回収されています。しかし本論文は、IUPの石刃製法にはルヴァロワ式の石核技術によるものがあったり、中期的な二次加工石器も組成されたりと、中部旧石器期から上部旧石器への移行ないしは継続性を示す要素も見られることから、現生人類以外の人類が担い手であった可能性も否定しきれない、と指摘しています。

 IUPの理解において重要になるのは、イスラエルのボーカー・タクチット(Boker Tachtit、以下BT)遺跡です。BT遺跡では、両打面石核から単打面石刃石核への変化、つまりルヴァロワ式の収束石刃石核からいわゆる容積的(Volumetric)な石刃石核技術へ次第に変化していく様相が把握されました。BT遺跡第1層から第3層では両打面のルヴァロワ式石核と収束ルヴァロワ石片、さらにはレヴァントの「移行期」に特徴的なエミレー式尖頭器が伴うものの、よりあたらしい第4層においてはそうした組成の代わりに上部旧石器的な要素が主体になる、と指摘されました。そこから、移行期に相当するエミラン(Emiran)がいつ上部旧石器とみなされるのか、問題となりました。その後のトルコのユチャユズル(Üçağızlı)洞窟遺跡などの事例から、編年モデルが提示され、レヴァント地域一帯において上部旧石器的様相の石器群にはいずれもルヴァロワ式の石刃製法があること、遺跡によって組成差はあるものの、石器群の「地域化」が進行している状況を示す石器型式やシャンフランやエミレー式尖頭器やウンム・エル・トレル式尖頭器が見られるようになること、またレヴァントだけでなく、ヨーロッパ東部のボフニシアン(Bohunician)やアルタイのカラボム(Kara-Bom)などでもこれによく似た石刃製法や石器型式が見られることなどが指摘されました。こうした広義のIUPが提案された理由として、「エミラン」という用語は学史的に重要ではあるものの、その中にはエミランの特徴型式を有さない石器群も多いことと、エミランを「移行期」と呼ぶにしても、中部旧石器後半の石器群と上部旧石器のそれとの系統的な関係が充分に裏づけられていないことが挙げられ、中立的な把握としてのIUPという枠組みが提案されています。

 一方、IUPを広く把握するのではなく、インダストリーごとの変異に注目する見解もある、と本論文は指摘します。BT遺跡第1層・第2層の資料をエミランとして限定的に把握したり、両方向ルヴァロワ式の石核技術とエミレー式尖頭器をもつものを前期、単方向石刃石核とシャンフランやウンム・エル・トレル式尖頭器をもつ一群を後期として把握したりするような見解です。より細かくIUPを区分する見解では、レヴァントにはボーカリアン(Bokerian)、クサル・アキリアン(Ksar Akilian)といったレバノン山岳地帯に展開する集団と、イスラエルやパレスチナに生じたエミランの存在が提案されています。これらは単系的にではなく、地域や時間あるいは担い手さえも異なって現れ、現生人類の出アフリカに起因してレヴァント一帯で起きた「中部旧石器ルネッサンス」の産物ではないか、というわけです。このようにIUPの理解については、広汎な地理上に技術的にとてもよく似た石器群が分布しているという認識のもと、石器群をいったん包括的に把握する方向性が打ちだされる一方で、分布地理を広くとって見えてくる石器群の変異に注目し、エンティティの種類をとらえる立場も提出されている、と本論文は整理しています。

 IUPという用語は、BT遺跡第4層の石器群を基準としており、その範囲も当初はレヴァント地域を超えるものではありませんでした。しかし切子打面と硬質ハンマーによる直接打法と平坦石核という3点の技術的特徴を持つルヴァロワ的な石刃石核技術に加えて、上部旧石器的な石刃石核技術の組み合わせをもつ石器群をIUPと定義すれば、これに相当する石器群はレヴァント以外にも点々と分布している、と明らかになってきました。つまり、広汎な「文化現象」として理解されるようになったわけです。現在では、IUPの分布はレヴァントとヨーロッパ東部からアジア北東部にいたる広範な地域で確認されています。年代もおよそ47000年前から35000前で、1万年間以上の期間にわたって展開しました。しかし、IUP現象が世界各地で石器群シークエンスの一段階を必ずしも示さないことにとは注意すべきである、と本論文は指摘します。IUPは現時点で、ヨーロッパ中部以西および以北、ザグロスから南アジアにおいては類例が確認されていません。パキスタン北部のリウォトについてはその可能性が示唆されていますが、アジア南部について詳細は明らかではありません。また、考古層位の問題としても、IUPはレヴァントやヨーロッパでは中部旧石器群の上層かつ上部旧石器群の下層で見つかるものの、中国やモンゴルでは上部旧石器時代に通有の剥片石器群に上下を挟まれています。このように、各地の中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は一様ではありません。IUPもそうしたいくつかある状況の一つといえるかもしれない、と本論文は指摘します。

 IUPが広範な地域に見られる理由について、本論文はやや詳しく検証しています。まず、じっさいに各地の様子をみていくと、地中海レヴァント、チェコモラビア、シベリア・アルタイ、および環バイカル/モンゴル北部といった複数のIUP遺跡を含んだ「ホットスポット」が見られます。表面的に同型のようであっても、技術的・型式的には均質ではないだろう、というわけです。硬質ハンマーによる打撃や調整打面や平坦作業面石核という一般的特性には、地域的な変異も多く備わっています。こうした変異の理由について、担い手の違いも考えられます。ただ、ユーラシア東部では化石の共伴事例がまだないため、IUPの担い手は不明です。考古学的には、中部旧石器と上部旧石器の「移行」(レヴァント)または「連続的な発達」(アルタイ)の要素として仮定できるかもしれない、と本論文は提案します。ただ、突如として在地石器群の伝統のなかに入りこんでくる場合(ヨーロッパ中部および東部)もあれば、独自の技術や石器型式を作りだしてもいる場合(レヴァントやユーラシア東部)もあります。またIUPで準備した石刃技術を継続しない石器群もあります(水洞溝遺跡)。

 このように、IUPとはいっても地域間の違いは見られるわけですが、共通要素が広範な地域で見られることは否定できません。これについて、文化史的視点(伝播や移住)や適応論的な視点(行動選択)、つまり人類の移動の結果なのか、それとも各地で独自に開発されたのか、という問題が提起されています。本論文は、近年大きく進展した古代DNA研究が、この問題の解明に役立つ可能性を指摘しています。また、生物進化のみではなくそれに応じてヒトの文化も進化する「二重遺伝モデル」の発展により、文化的行動が集団内でどのように蓄積されるのか、または集団間で伝達されるのか、理論モデルも提示されています。

 生物系統学や分岐学から持ちこまれた見方を援用して、広範な地域のIUP現象についてのモデルが提示されています。これに関しては、3通りの仮説があります。最初は、広く分布しているIUP集団の少なくとも一部は、ユーラシアを横断する現生人類の初期の拡散経路を追跡している、という見解です。互いに離れた場所の石器群における類似はIUPが相同形質(homologous)を有していることになり、この場合、祖先集団が地理的に拡散する中でもたらされた文化的形質を継承してきた結果とみなされます。ただ本論文は、担い手が現生人類とは限らない、と注意を喚起しています。次は、石器群の分布は文化的アイデアの拡散を示すというもので、既存の集団ネットワークを伝って拡大していきます。この場合に共有される形質は相同性(homology)を示すことになります。アイデアや情報の伝播や拡散の背景には、じっさいの集団拡散というより遺伝子流入に類似したプロセスが想定されます。最後は、相互のIUPには文化的連続性はほとんどなく、観察される変異は、互いによく似た技術選択が各地域で独自に、なおかつ何度か繰り返されて収斂した結果とするもので、この場合、石器群間での類似は相似(homoplasy)を表すと理解されます。

 IUP現象に関しては、これら3モデルのどれが妥当なのか、まだ確定しておらず、これらのうちのいくつか、または全てが組み合わさっている可能性も指摘されています。重要なことは、相同か相似か、あるいは収斂進化か平行進化か、そのうちのどれかであると断定することではなく、まずは石器群の変異を明らかにし、それを評価するための適切なモデルを用意することだろう、と本論文は指摘します。IUPの変異を把握する場合、個別の石器型式よりも石器群を対象としての議論が望まれる、というわけです。石核技術などは水平伝達あるいは垂直伝達による知識や行動がともに観察できるからです。またモデルについては、仮想の系統樹作成の必要が指摘されていまする。最大節約法の系統樹は形質の有無とその変化率がわかっている場合はとくに有効で、その点で物質文化に応用しやすいのですが、考古学的アセンブリッジの系統関係や収斂進化について論じるのであれば、文化進化に特化した単純なモデルを構築するか、形質が徐々になおかつ垂直に伝達されるというモデルが必要になる、と本論文は指摘します。

 IUPに関してはユーラシア西部で検証が進んでおり、、(1)ルヴァロワ式石核や上部旧石器の石核技術を組み合わせて製作される石刃、とりわけ(2)縦長の尖頭石刃の製作、(3)石刃素材の二次加工石器として、端削器や彫刻刀型石器や裁断石器が新たに組成されるとともに、(4)中部旧石器的な側削器や鋸歯縁石器もよく見つかる、といった特徴が共通要素として指摘されています。同様の石器群はアジア北東部および東部にもありますが、それらをユーラシア西部と同じのものと把握できるのか、と問題提起されています。

 ユーラシア東部のIUPの傾向としては、まず石核技術に2モードあることが指摘されています。一つは、礫や板材を母材として石核整形や稜付石刃を割りとって石刃製作を進めていくものです。打面管理が一般的で、打面調整や頭部調整が加えられます。石核型式は単打面小口型石核、両打面平坦石核です。作業面が小口から幅広平坦面へ半周する石核も見られます。平坦石核はルヴァロワ式石核技術に類似するものの、典型的なそれではありません。最終形態の断面形は左右非対称になります。もう一つのモードは、石刃ないしは小石刃製作に関連するもので、彫刻器状石核が特徴です。素材は大型石刃製作のプロセスで得られた厚手石刃ないし剝片です。これら二つの石割り作業で目的剝片とされるのは尖頭石刃/小石刃や両側縁平行石刃や稜付き石刃です。それらが二次加工石器の素材とされ、上部旧石器的石器型式を組成するようになります。尖頭器や掻器が伴う一方で、真正な彫刻器や二次加工のある小石刃などは見当たらず、これにノッチや鋸歯縁石器が加わります。アルタイからモンゴル、さらには華北地域にかけて、ルヴァロワ式、あるいはそれに類似した平坦作業面石核が特徴的に見られます。非対称石核とルヴァロワ式石核の石核技術の組み合わせが見られるアルタイからモンゴル北部にかけての石器群は、相同的な関係のパッケージと指摘されています。一方で、モンゴル南部から華北の石器群においては今のところ彫刻器状石核がないか稀であることと、水洞溝ではルヴァロワ式石核技術こそみられるものの、それ以前の石器群は在地的な石核・剝片石器群ということもあり、石刃製作の進化的プロセスには不明な点が多く、アルタイ地域と相同とはみなせない、と指摘されています。

 石刃の分割方式に関しても、カラポムの大型石刃とその分割法の検証からは、石刃が意図的に分割された可能性も指摘されています。分割された石刃の破断面には、それらが台石上で打撃されたことを示すヘルツコーンや破断面両極に残る打撃点があり、曲げ折りや台石に石刃を直接打ちつけて分割したさいに生じる蝶番状剥離の痕跡が見られます。これらの分割片は、二次加工石器や彫刻器状石核の素材に変換されている、と指摘されています。同様の手法はモンゴルのトルボルやトルバガにおいても確認されています。これに関しては、同じく石刃分割片を多く回収している水洞溝遺跡の石刃が意図的に折断されたものではないか、と推測されています。水洞溝遺跡石器群に組み合わせ石器や複合石器の特徴があるのか、検証されましたが、観察所見(分割サイズ、破断面の打撃痕、着柄痕の有無)からは人為的意図は読みとれず、この分割は自然破損、すなわち剥離時の事故や踏みつけなどの結果だと指摘されています。数少ない比較資料ですが、シベリアおよびモンゴル北部と華北とでは、たとえ類似する表現形質であっても、重大な違いが潜んでいる可能性が示唆されます。水洞溝遺跡にかぎらず、アジア東部のIUPについては、いくつかの地域的変異が今後も見出されるだろう、と本論文は予想しています。

 本論文は日本列島におけるIUPの存在について、「敢えていえば」という限定つきで長野県の37000〜36000年前頃となる八風山II遺跡の石器群を候補に挙げています。また本論文は、北海道のルベの沢やモサンル下層も候補に挙げています。IUPの石核技術は大別すると二つとなりそうで、一方(モードA)は、分割された板状素材が石核原型とされるものです。打面は平坦面で、作業面の稜形成は礫面と分割面の交差する稜上を横打加工して準備されます。作業面は小口に設定され、剥離の進行によって広い平坦面に移行することもあります。打面調整は顕著ではありません。ただ小剝片をとって頭部調整するものや打面転位により作業面管理がなされることもあります。目的剥片には尖頭石刃も含まれますが、多様な形態を示し、近位端が細部加工されてナイフ形石器(尖頭形石器)が作られます。もう一方(モードB)は、いわゆる彫刻器状石核に類似した樋状剥離をもつ厚手石刃で、素材の側縁が作業面に見立てられます。小石刃が打ち割られていますが、これが目的剝片かどうかは不明です。八風山II石器群は、モードAの小口型石核を備えていることになります。またモードB、つまり彫刻器状石核についても、積極的に評価するなら認められるかもしれないものの、ルヴァロワ式類似の平坦石核技術が決定的に欠落している、と本論文は指摘します。八風山II遺跡の石器群においては二次加工石器も貧相で、ナイフ形石器以外、定型的な石器はありません。これについては遺跡の性格も勘案しなくてはならず、この石器群がIUPの変異を示すのか、それとも在地適応で発達した石器群なのか、評価が重要になってくる、と本論文は指摘します。八風山II遺跡の石器群にも見られる小口型石核技術を有する石器群をBT-1、周縁型石刃石核をもつ石器群をBT-2として、EUP石器群という大きな枠組みで把握する見解も提示されています。ヨーロッパや中国や朝鮮半島の石器群との比較の結果、EUP石器群の石刃技術に最も類似するのが朝鮮半島の好坪洞や龍山洞などの石器群である、という見解も提示されています。小口型石核から周縁型石核への変化は、一つは、日本列島内での文化的な適応を示すと言えそうですが、もう一つは、古本州島と朝鮮半島の間で並行して起きていることを重視して、これらの地域間での集団と石器技術の何度かの拡散があったのではないか、というわけです。ただ本論文は、こうした見解も重要ではあるもののが、小口型石核をもつ石器群をグレード(段階)ではなく、クレード(分岐群)と把握できるかもしれない、との見解を提示しています。

 本論文は最後に、IUP現象の重要性を指摘します。考古学的には、中部旧石器時代から上部旧石器時代へどのように移行するのか、その鍵を握る石器群であることが挙げられています。また、IUP石器群がいくらかの変異を有しつつユーラシアに展開しているという文化的動態が、現生人類の拡散を示すのか、それとも現代人的行動の地域的な発達を示すのか、その解明にも寄与する、と本論文は指摘します。ただ、この問題に取り組むには、各地の石器群の変異を明らかにしていかねばならない、と本論文は注意を喚起します。また本論文は、石刃技術の系統関係を世界史的に把握していくことは、日本列島へのヒトの到来の時期と経路を解明する有力な手がかりになるので、IUP石器群の変異に日本列島の資料も含まれるのか、明らかにしていくことも課題として挙げています。


参考文献:
仲田大人(2019)「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P125-132
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ノストラダムスは令和の危機も予言した――『大予言』著者・五島勉氏のいま

2019/06/23 09:50
 表題の記事がデイリー新潮で公開されました。五島勉氏の、『大予言』シリーズには希望も書いていた、との「弁明」や、『大予言』刊行当時の子供たちにショックを与えたことは申し訳ない、との「懺悔」は、これまでの五島氏へのインタビューと大差のないもので、率直に言って、これといって注目すべきところのある記事ではありませんでした。あえて言えば、『大予言』シリーズが話題だった頃、シェルターの問い合わせが多かった、というシェルター会社の西本誠一郎社長の証言くらいでしょうか。

 内容自体はさほど目新しさのない記事でしたが、やはり、今年(2019年)11月には90歳になる五島勉氏が、今でもインタビューに応じられるくらい元気そうなのは、五島氏のファンである私としては嬉しいものです。五島氏には、黙示録を題材にした新作の構想があるそうですから(関連記事)、何とか書き上げてもらいたいものです。まあ五島氏も、さすがに新ネタを大きく取り入れることは難しいでしょうから、過去作の流用を基本に時事ネタを随所に入れる、といった内容になりそうですが、それでも、近年の情勢を五島氏がどう認識しているのか、ということも気になるので、刊行を楽しみにしています。
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第24回「種まく人」

2019/06/23 09:47
 1923年9月1日の関東大震災により、東京は壊滅的な打撃を受けます。金栗(池部)四三は、シマが行方不明となったことで、自分を責めていました。嘉納治五郎は、完成間近の神宮競技場に被災者を収容するよう、東京市長の永田秀次郎に進言します。傷心の四三は帰省し、家族は暖かく迎えますが、四三の義母の池部幾江は、こんな時に東京を見捨てるのか、と四三を責め立てます。しかし、それは四三を励ますためのもので、兄の実次の言葉に自分の思い上がりを気づかされた四三は妻のスヤとともに東京に戻り、復興活動に尽力します。

 今回で金栗四三を主人公とする第一部は完結となり、次回からは田畑政治が主人公の第二部が始まります。今回は、関東大震災からの復興が庶民視点から描かれ、近代史を扱った歴史ドラマとして見ごたえがありましたが、極限状況での普遍的な人間ドラマとしてもよかったと思います。第一部の最後が復興運動会で、ストックホルム編の後はほとんど出番のなかった三島弥彦と大森安仁子も登場したのは、第一部の締めに相応しく、感慨深くもありました。人見絹枝も再登場し、第二部との接続も意識した構成になっていたように思います。視聴率低迷が面白おかしく取り上げられている本作ですが、第二部もたいへん楽しみです。
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高橋啓一「中国東北部〜北部におけるマンモス−ケサイ動物群と北方系細石刃石器群」

2019/06/22 06:07
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P30-34)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文はマンモス‐ケサイ動物群(Mammuthus - Coelodonta fauna)に関して、まず以下のように説明します。

 マンモス‐ケサイ動物群は、中期〜後期更新世にユーラシア大陸北部〜北アメリカ大陸中部にかけて広がったマンモスゾウを中心とする寒冷〜冷涼な気候に適応した哺乳動物群で、マンモス動物群(Mammoth fauna)と呼ばれることも一般的です。北アメリカ大陸においては、この動物群の要素の中にケサイは存在しません。マンモス‐ケサイ動物群がユーラシア大陸北部の広大な地域に分布を拡大した4万〜3万年前頃、その分布の中心部における構成種は、マンモスゾウ(Mammuthus primigenius)、ケサイ(Coelodonta antiquitatis)、トナカイ(Ragifer tarandus)、バイソン(Bisonpriscus)、ノウマ (Equus przewalskyi)、サイガ(Saiga tatarica)、ホッキョクギツネ(Vulpes lagopus)、ホラアナハイエナ(Crocuta crocuta spelaea)、ホラアナグマ(Ursus spelaeus)、ステップナキウサギ(Ochotona pusilla)、ホッキョクウサギ(Lepus arcticus)、レミング類、ハタネズミ類などの草原棲の動物たちでした。

 本論文は、マンモス‐ケサイ動物群の分布の中心部に、温帯性や森林性の動物が見られないことを特徴として挙げています。ただ、マンモス‐ケサイ動物群の分布の南縁部には温帯地域の動物たちが含まれていたり、山地が近い場所にはやや高い標高に生息する動物たちが混じっていたりもした、と指摘されています。こうしたマンモス‐ケサイ動物群は、地球規模の気候変動やそれに伴う植生の変化に伴って、分布範囲を南北に移動していきました。マンモス‐ケサイ動物群の中心とも言えるマンモスゾウは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3後半期に、最も南方へと拡大しました。ユーラシア東部では中国山東省済南市において較正年代で37500年前頃の遺骸が、ユーラシア西部ではスペインのグラナダ市において較正年代で40400〜30600年前頃、イタリア北部のポーバレーにおいて較正年代で47500〜39700年前頃となる遺骸が発見されています。北アメリカ大陸では中部にまでマンモスゾウが南下しましたが、その南限地の年代はよく分かっておらず、それよりも北に位置するサウスダコタ州ホットスプリングにおいて、較正年代で30900〜29900年前頃の遺骸が発見されています。本論文は、ユーラシア大陸でも北アメリカ大陸でも、マンモスゾウの南限はおよそ北緯36〜37度で、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれている気候の寒暖が繰り返された時期になる、と指摘しています。

 中国北部〜東北部のマンモス‐ケサイ動物群については、マンモスゾウやケサイやトナカイなどの典型的なマンモス‐ケサイ動物群の他に、温帯性のオオツノジカ(Megaceros ordosianus)やスイギュウ(Bubalus wansjocki)やイノシシ(Sus scrofa)やトラ(Panthera tigris)と、乾燥地帯のラクダ(Camelus knoblochi)などの遺骸も発見されており、典型的な北方のマンモス‐ ケサイ動物群の構成種とはやや異なっている、と指摘されています。ただ、これらの様々な種類の動物たちが同じ時代に属するのか、それとも厳密には若干異なる時代に生息していたのか、との問題については、個々の標本の年代測定が必要となるものの、そうした研究はまだ行なわれていないので、現時点では結論を出せない、と本論文は慎重な姿勢を示します。中国の北方地域に温帯の動物相が混在する原因については、度重なる気候の寒暖の変化により温帯の動物相が北方にまで分布を拡大したことや、こうした動物には熱帯だけに生息するような本当に暖かい気候を好む種は含まれていないことなどが指摘されています。これらの動物群の年代は4万〜1万年前頃とされていますが、1990年以前に測定されたものも多く、33800±1700年前という以前の推定年代が、新たな測定では43500 + 998 / -888年前とかなり古くなることもあり、今後の研究の進展を俟つ必要がありそうです。ただ、MIS3〜2の中国東北部が、動物地理的には寒冷な動物相と温暖な動物相の境界域だったことは確かだろう、と指摘されています。

 更新世の動物群と石器との関連については、中国東北部と華北では、較正年代で27000〜17000年前頃となる、最終氷期極大期(LGM)へと寒冷化する気候の中で、マンモス−ケサイ動物群がシベリアから南下するのに伴って、周辺調整横−斜刃型彫器と楔型細石刃石核を持つ北方系細石刃石器群も中国北東部に南下し、較正年代で17000〜9000年前頃には、華北でもこうした技術が見られるようになる、と指摘されています。上述のように、中国山東省済南市において較正年代で37500年前頃のマンモスゾウ遺骸が発見されていることから、当時すでにマンモスーケサイ動物群は華北にまで南下していた、と考えられます。つまり、中国東北部や華北地域には、北方系細石刃石器群よりも、マンモスーケサイ動物群が先に南下しただろう、というわけです。一方、中国東北部と華北地域の北方系細石刃石器群の分布範囲や南限は、マンモスーケサイ動物群の主要な構成種の分布範囲や南限とよく一致しているので、この石器技術は中国東北部と華北地域の植生や動物群に関連している、と指摘されています。


参考文献:
高橋啓一(2019)「中国東北部〜北部におけるマンモス−ケサイ動物群と北方系細石刃石器群」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)』P30-34
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山極寿一、小原克博『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』

2019/06/22 06:02
 平凡社新書の一冊として平凡社より2019年5月に刊行されました。補論を除いて対談形式になっています。第1章では、宗教の起源として共存のための倫理が挙げられており、この点に関して、(人間を除く)動物と人間との間の連続性が指摘されています。宗教を人間と動物の決定的な違いとするヨーロッパ世界で根強い観念が、一定以上相対化されています。ただ、人類の出アフリカは未知の環境への拡散との見解については、初期人類というか非現生人類の出アフリカはアフリカと同じような環境への拡散だった、との見解も提示されているので(関連記事)、議論のあるところだとは思います。

 第2章では、人類史における暴力は一定以上進化的産物であるものの(関連記事)、暴力行使の頻度が上昇した要因として、一定以上の規模の集団を維持するのに必要な「共感能力」の「暴発」と、未来投資型の生業である農耕の始まりにより土地への執着が強くなったからではないか、と指摘されています。人類史における暴力行使頻度の変化については、本書の見解を直ちに全面的に受け入れるのではなく、今後も調べていくつもりです。大規模な集団の維持に宗教が大きな役割を果たし、個人を抑圧するような側面もあったものの、仏教・キリスト教・イスラム教といった「世界宗教」は当初、既存の秩序を破壊するような役割も担った、とも指摘されています。急速に大規模化した集団に、現代人の制度や社会性や心は追いついていない、と指摘されています。

 第3章では、日本人は欧米と一まとめにしがちですが、キリスト教の有り様にしても、両者には大きな違いがある、と指摘されています。アメリカ合衆国ではキリスト教が資本主義化している、というわけです。また、近代において宗教にとって代わったヒューマニズムが、あまりにも個としての人間に集中していることが懸念されています。

 第4章では、霊長類は元々とくに視覚が発達しているものの、現代社会はあまりにも視覚に依存している、と懸念されています。もっと他の感覚も活用すべきだ、というわけですが、多くの宗教では身体作法が重視されてきた、とも指摘されています。近代に多くの地域で宗教の地位が大きく低下したことは否定できないでしょうが、こうしたところに宗教の叡智が感じられます。現代人は情報に使われている側面が多分にある、との指摘はもっともで、私も反省すべき点が多々あります。

 第5章では、個人主義が行きすぎ、個人が孤立しがちな現代社会において、集団・共同体を再建する核として、大学の役割が強調されています。大学は、もっと開かれて多様な人々が多様な方法で学べる場になるべきではないか、と提言されています。

 補論では、絵画などネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の象徴的思考の痕跡はほとんどなく、現生人類(Homo sapiens)との大きな違いと指摘されています。しかし、この根拠となる比較が適切なのか、疑問が残ります。現時点での証拠からは、ネアンデルタール人の絶滅もしくは衰退後まで、両者の間で象徴的思考の痕跡に決定的な違いがあるのか、確定的とは言えなさそうだからです(関連記事)。ゴリラやチンパンジーでは、一度集団を離れた個体が元の集団に戻ることはないのに対して、人間はある程度会わなくても仲間意識が持続するようになり、集団を離れた個体が元の集団に戻ることも可能になった、と本書は指摘します。本書はここに、人間とゴリラやチンパンジーとの大きな違いを見いだしています。本書はまた、言葉が身体を離れてしまい、人間がロゴスに依存して大きく身体性を損なってしまったことに、現代の社会問題の根底的要因を見いだしています。


参考文献:
山極寿一、小原克博(2019)『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社)
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シロイルカとイッカクの雑種

2019/06/21 03:17
 シロイルカ(Delphinapterus leucas)とイッカク(Monodon monoceros)の雑種に関する研究(Skovrind et al., 2019)が公表されました。両者は500万年前頃に分岐し、165万〜125万年前頃に両者の間で遺伝子流動があった、と推定されています。この研究は、1990年に西グリーンランドで発見され、デンマーク自然史博物館に保管されている頭蓋骨の歯から抽出したDNAを解析し、この頭蓋骨のDNAと、頭蓋骨が発見された西グリーンランドの同じ地域に生息するシロイルカ8頭およびイッカク8頭から得たDNAと比較されました。その結果、この頭蓋骨標本は遺伝的に、54%がシロイルカで、46%がイッカクである、と示唆されました。この研究は、個体の性別を決定する一般的な方法であるX染色体と常染色体の比を用いて、この雑種が雄であると推定しました。また、この個体のミトコンドリアDNA解析から、その母親がイッカクと示唆されました。つまり、父親がシロイルカというわけです。

 この研究はまた、頭蓋骨から抽出した骨コラーゲンに含まれる炭素と窒素の同位体を分析し、イッカク18頭およびシロイルカ18頭の頭蓋骨の参照パネルの骨コラーゲンと比較しました。その結果、頭蓋骨から抽出された試料に含まれる炭素同位体の濃度は他の頭蓋骨よりも高く、この雑種の食餌は親種のいずれとも異なっていた、と示唆されました。この研究は、こうした知見に基づき、この雑種がイッカクやシロイルカよりも海底に近い場所(深海底域)で採餌していた、と推測しています。500万年前頃に分岐し、165万〜125万年前頃は遺伝子流動の痕跡の確認されていない種間でも交雑が起き得るわけですから、アザラシの事例(関連記事)などからも、哺乳類において交雑は珍しくないと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】シロイルカとイッカクの間で雑種形成があったことを示す博物館所蔵の頭蓋骨

 1990年に西グリーンランドで発見された頭蓋骨から得られた遺伝子を解析した結果、これが雌のイッカクと雄のシロイルカの第一世代の雄の子孫のものであることが明らかになったと報告する論文が、今週掲載される。この知見は、イッカクとシロイルカの間で雑種形成があった可能性を示す唯一の証拠となる。

 今回、Mikkel Skovrind、Eline Lorenzenたちの研究グループは、デンマーク自然史博物館に保管されている頭蓋骨の歯から抽出したゲノムDNAの解析を行った。今回の研究では、この頭蓋骨のDNAと、頭蓋骨が発見された西グリーンランドの同じ地域に生息するシロイルカ8頭とイッカク8頭から得たゲノムのDNAとが比較された。この解析から、この頭蓋骨標本は54%がシロイルカで、46%がイッカクであることが示唆された。著者たちは、個体の性別を決定する一般的な方法であるX染色体数と常染色体数の比を用いて、この雑種が雄であると推定した。また、個体のミトコンドリアゲノム(全DNAのごく一部で、雌の生殖系列を介してのみ遺伝する)の解析から、この雑種の母親がイッカクであることが示唆された。

 著者たちはまた、博物館所蔵の頭蓋骨から抽出した骨コラーゲンに含まれる化学元素(炭素と窒素)の同位体を分析し、これをイッカク18頭およびシロイルカ18頭の頭蓋骨の参照パネルの骨コラーゲンと比較した。その結果、頭蓋骨から抽出された試料に含まれる炭素同位体の濃度は他の頭蓋骨よりも高く、この雑種の食餌が親種のいずれとも異なっていたことが示唆された。著者たちは、この知見に基づいて、この雑種がイッカクやシロイルカよりも海底に近い場所(深海底域)で採餌していたと推測している。



参考文献:
Skovrind M et al.(2019): Hybridization between two high Arctic cetaceans confirmed by genomic analysis. Scientific Reports, 9, 7729.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44038-0
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性選択の始まりの説明

2019/06/21 03:13
 性選択の始まりの説明に関する研究(Muralidhar., 2019)が公表されました。性選択の原動力に関する有力な仮説の一つは、フィッシャーの「ランナウェイ過程」で、雄の形質にはその形質に対する雌の選り好みが関係している、と考えられます。雄の形質と雌の好みは、両方が固定されるまで共に進化します。このとき重要なのは、クジャクの長い上尾筒であれ、カエルの甘美な鳴き声であれ、形質の種類は雌に好まれる限り何でも構わないことです。しかしこの仮説には、「ハンディキャップ原理」や「優良遺伝子仮説」といった他の仮説と同様に、雄の形質やその形質に対する雌の選り好みが、いずれも全くのゼロからは始まり得ないという問題があります。では、雄のディスプレイ形質とそれに対する雌の選り好みは、どのように始まったのか、という問題にたいして、一種のごまかしのようですが、そうした形質と選り好みの進化では、それらは何らかの確率論的過程によって集団の一定の割合にまで徐々に数を増やす必要がある、と説明されています。これは、遺伝的浮動あるいは中立進化により起こると考えられています。

 この研究は、こうした行き詰まりを打開する新たな仮説を提案します。異なる性染色体、とくに雌を介してのみ伝わる遺伝的要素(鳥類やチョウ類のW染色体など)を持つ種では、雌には利益となるものの、雄にはコストとなる形質に対して選り好みを示すことがあります。雌のこうした選り好み(この好みは娘に伝えられます)はコストを伴わないため、その広がりはほとんど制約を受けませんが、雄はこれに振り回されてコストを負担しなければならなくなります。XY型(ショウジョウバエや哺乳類など)の場合や性染色体に偽常染色体領域がある場合は複雑になりますが、それでも最初に必要なのは、種が別個の性染色体を持つことだけと指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:利己的な性染色体の配偶相手の選り好み

進化学:性選択への新しい道筋

 性選択の原動力に関する有力な仮説の1つは、フィッシャーの「ランナウェイ過程」で、雄の形質にはその形質に対する雌の選り好みが関係していると考える。雄の形質と雌の好みは、両方が固定されるまで共に進化する。このとき重要なのは、クジャクの長い上尾筒であれ、カエルの甘美な鳴き声であれ、形質の種類は雌に好まれる限り何でも構わないことである。しかしこの仮説には、「ハンディキャップ原理」や「優良遺伝子仮説」といった他の仮説と同様に、雄の形質やその形質に対する雌の選り好みが、いずれも全くのゼロからは始まり得ないという問題がある。では、雄のディスプレイ形質とそれに対する雌の選り好みは、どのように始まったのか。その答えは、一種のごまかしのようだが、そうした形質と選り好みの進化では、それらは何らかの確率論的過程によって集団の一定の割合にまで徐々に数を増やす必要がある、というものである。これは、遺伝的浮動あるいは中立進化によって起こると考えられている。今回P Muralidharは、こうした行き詰まりを打開する新たな仮説を提案している。異なる性染色体、特に雌を介してのみ伝わる遺伝的要素(鳥類やチョウ類のW染色体など)を持つ種では、雌には利益となるが雄にはコストとなる形質に対して選り好みを示すことがある。雌のこうした選り好み(この好みは娘に伝えられる)はコストを伴わないため、その広がりはほとんど制約を受けないが、雄はこれに振り回されてコストを負担せざるを得なくなる。XY型(ショウジョウバエや哺乳類など)の場合や性染色体に偽常染色体領域がある場合は話は複雑になるが、それでも最初に必要なのは、種が別個の性染色体を持つことだけである。



参考文献:
Muralidhar P.(2019): Mating preferences of selfish sex chromosomes. Nature, 570, 7761, 376–379.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1271-7
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ミトコンドリアの選択を引き起こす断片化

2019/06/21 03:10
 ミトコンドリアの選択を引き起こす断片化に関する研究(Lieber et al., 2019)が公表されました。ミトコンドリアゲノムは母系遺伝しますが、ミトコンドリアゲノムには変異が生じやすく、ミトコンドリアで働く選択機構は、こうした変異で起こり得る有害な影響を打ち消しています。この研究は、in situハイブリダイゼーション法(組織切片・細胞・染色体に存在する特定の核酸シークエンスの局在を検出する方法)を用いて、ショウジョウバエ(Drosophila)の生殖系列において個々のミトコンドリア対立遺伝子を可視化する系を樹立しました。ミトコンドリアの融合が減少すると、対立遺伝子が複数のミトコンドリアへと分散されることになり、ゲノムの混合が妨げられる、と明らかになりました。これはまた、有害な変異を持つATP産生能の低いミトコンドリアが、オートファジー経路によって分解されるための標識となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


細胞生物学:生殖系列ではミトコンドリアの断片化によって有害なmtDNAの選択的除去が駆動される

細胞生物学:断片化がミトコンドリアの選択を引き起こす

 ミトコンドリアゲノムは母系遺伝するが、ミトコンドリアゲノムには変異が生じやすいことを考えると、ミトコンドリアで働く選択機構は、こうした変異で起こり得る有害な影響を打ち消している。R Lehmannたちは今回、in situハイブリダイゼーション法を用いて、ショウジョウバエ(Drosophila)の生殖系列において個々のミトコンドリア対立遺伝子を可視化する系を樹立した。ミトコンドリアの融合が減少すると、対立遺伝子が複数のミトコンドリアへと分散されることになり、ゲノムの混合が妨げられることが分かった。これはまた、有害な変異を持つATP産生能の低いミトコンドリアがオートファジー経路によって分解されるための標識となる。



参考文献:
Lieber T. et al.(2019): Mitochondrial fragmentation drives selective removal of deleterious mtDNA in the germline. Nature, 570, 7761, 380–384.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1213-4
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『卑弥呼』第19話「黄泉返り」

2019/06/20 15:43
 『ビッグコミックオリジナル』2019年7月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)の楼観で自分が日見子であると証明するための儀式を始めたヤノハが、自分が日見子である、イスズとウズメに名乗るところで終了しました。今回は、ヤノハが義母とともに、毒蛇に咬まれて瀕死の弟であるチカラオを救おうとする回想場面から始まります。ヤノハは「日の鏡」でチカラオに日光を当てますが、チカラオは目を覚ましません。不安になるヤノハに、チカラオの魂は天照様と須佐之男(スサノオ)様の中間、つまり生死の境で彷徨っている、と義母は説明します。チカラオを甦らせるにはどうするのか、とヤノハに問われた義母は、退路を断つのだ、と答えます。黄泉の国への出入り口である「地の鏡」を粉々に割れば、須佐之男様も追ってこられない、というわけです。義母はヤノハに「地の鏡」を渡し、割るように促します。ヤノハは「地の鏡」を地面に打ちつけますが、割れなかったので石の槌で叩き割ろうとします。しかし、「地の鏡」はわずかにひび割れするだけでした。この間、義母はヤノハの行動をにこやかに見守っていました。けっきょく、義母は銅鏡を粉々に割り、チカラオは翌日、朝日とともに目を覚ましました。喜ぶヤノハに、これが黄泉返りの秘儀だ、と義母は言います。万物のほとんどは生きていない、もうすでに死んだか、まだ生まれていないか、死こそが普通の状態だ、と義母はヤノハに教えます。生は一瞬の大切な奇跡なので、生の世界に長く留まりたいならなりふりかまわず戦え、と義母はヤノハに言い聞かせます。

 舞台は現代の山社(ヤマト)に戻ります。ヤノハは楼観で山社の祈祷女(イノリメ)の長であるイスズと、副長のウズメに、天照大御神の秘儀を見せよと言うのか、と尋ねます。イスズはやや躊躇うような表情を見せつつも、ぜひお願いしたい、と答えます。ヤノハは二人に、自分が日見子(ヒミコ)である証が欲しいのか、と尋ねます。暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長であるヒルメと同様に、自分を偽者の日見子と思うのか、というわけです。ヤノハは答えない二人に、秘儀とは天照様の弟で黄泉の国の王である須佐之男様との対面だ、と説明します。これはイスズもウズメも知っていました。無意味な儀式を行なえば、二柱の神の怒りを買い、災いがイスズとウズメに及ぶかもしれない、というわけです。イスズは、天照大御神の秘儀とは死んだ人間を甦らせる方法で、同時に生者を殺す呪術と知っていました。承知のうえで秘儀を見せよというのか、と問われたイスズとウズメのうち、ウズメは自信のある様子でそうだと答えますが、イスズは沈黙で答えます。

 ヤノハはイスズとウズメに「地の鏡」を渡すよう、イクメに命じ、「地の鏡」を渡された二人は、鏡を表に向けて覗くよう、ヤノハに命じられます。ヤノハはイスズとウズメに、二人の魂は今、黄泉の国の入り口で彷徨っている、地より蛇が出れば魂は黄泉へと導かれる、と伝えます。思わず鏡から目をそらしたウズメは、秘儀を体験したいのになぜ目をそらすのか、とヤノハに問い質され、再び鏡に目を向けます。すると、ケシの実の樹液を粉にしたものを焚いている効果なのか、ウズメは蛇の幻覚を見て狼狽し、お許しください、と言い続けます。何か見えたか、とヤノハに問われたイスズは、大蛇が顕われた、と答えます。狼狽したウズメは、自分は死ぬのですか、とヤノハに尋ねます。するとヤノハは、いつかは自分も分からないが、ごく近いうちに、と答えます。するとウズメはすっかり怯え、お助けください、と懇願し続けます。その様子を見たヤノハは、二人の魂を取り戻すのが天照様より授かった秘儀だ、と言ってイスズとウズメを安心させます。ヤノハは、天照大御神(アマテラスオホミカミ)、又の名を大日靈貴神(オオヒルメノムチノカミ)、又の名を天照坐皇大御神(アマテラシマススメオホミカミ)、とその名を唱え始め、一瞬沈黙した後、天照様が怒っておられる、二人の魂を黄泉から戻すのは嫌だとおっしゃっている、と述べ、なぜですか、と天照大御神に問いかけます。この様子を見たウズメは顔面蒼白になります。

 その頃、那と暈の国境の戦場の最前線の那の陣営側で、那のトメ将軍と、ヤノハの命を受けたヌカデとが面会していました。トメ将軍は暈の陣地に放った乱波(ラッパ)は、暈のタケル王が鹿屋(カノヤ)を出て最前線に向かっている、と報告を受けていました。するとヌカデは、日見子(ヤノハ)様の予言通りと言います。ヤノハは、大河(筑後川と思われます)さえ無事越せれば那軍の勝利と予言していました。トメ将軍は、大河を渡れば勇敢な自軍が勝利すると分かっているが、渡河の途中で暈軍から弓や槍で攻撃されて自軍は全滅するので不可能だ、と言います。するとヌカデは、暈軍の兵が数日間河岸からいなくなったとしたら、とトメ将軍に問いかけます。日見子はそう予言したのか、タケル王がオシクマ将軍たちの陣地を訪れる目的は軍勢を最前線から動かすためなのか、とトメ将軍に問われたヌカデは肯きます。トメ将軍は痛快といった感じで、もし現実にそうなれば、自分も日見子を支持する、と言います。

 山社では、狼狽したウズメが楼観から鏡を投げ落としましたが、イクメの弟で地上にいるミマアキが確認したところ、鏡は割れていませんでした。ますます狼狽したウズメは地上に降りて行き、ヤノハはイクメに、同行するよう指示します。ウズメは槌で鏡を割ろうとしますが、ひび割れして歪むだけで割れず、絶望した様子を見せます。黄泉の国から戻るには、「地の鏡」を割らねばならないのでしょう。ウズメ殿が狼狽しているのにイスズ殿は冷静ですね、とヤノハは言います。イスズは、自分もまだ黄泉の国に召されたくない気持ちは同じだと言い、そのためにはヤノハを日見子と信じなかったことで怒った天照様を鎮めねばならず、天照様は自分たちがヤノハを日見子と信じた証を欲しがっておられるのか、とヤノハに確認します。ヤノハが沈黙するのを見て、ついにイスズは、ヤノハに天照大御神からお告げがあったのだろう、と認めます。イスズは、ヤノハの様子を見て、お告げの内容を悟ります。それは、イスズが生きたければ、姉と慕うヒルメを即刻殺せ、というものでした。ヤノハが義母からの、生の世界に長く留まりたいならなりふりかまわず戦え、との教えを回想しているところで、今回は終了です。


 今回は、生に執着するヤノハの生き様の根源が明かされました。ヤノハが義母から、生きていくうえで必要な知識を授かったことは、これまでにも描かれていました。それだけではなく、ヤノハの人生観の根源も義母の教えに由来すると明かされ、ヤノハが危険を冒してまで義母の遺体を敵兵から回収したほど、義母を強く慕っていたことも納得できました。義母がどのように「地の鏡」を割ったのか、今回は明かされませんでしたが、それがイスズとウズメを心服させる重要な鍵になる、とヤノハは考えているのでしょう。ヤノハの機知と度胸には感嘆させられます。ヤノハの「本性」を知っているヌカデとアカメがヤノハに賭けようとするのも、納得できます。ヤノハがタケル王をどう動かしてこの危地を脱しようとしているのかも、少し見えてきましたが、タケル王はヤノハの策に踊らされそうではあるものの、鞠智彦(ククチヒコ)の方は一筋縄ではいかなそうです。ヤノハが暈と那の争いをどう利用してこの危地を脱するのか、面白い話になりそうで期待しています。次回は巻頭カラーとのことで、たいへん楽しみです。
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『アナザーストーリーズ』「“太陽にほえろ!”誕生〜熱きドラマ、若者たちは走った〜」

2019/06/20 03:02
 BSプレミアムで放送されたので視聴しました。BSプレミアムのドキュメンタリーはBS4Kでも放送されることが多いので、最近ではBSプレミアムの番組を録画して視聴することはほとんどなくなり、大河ドラマ『葵徳川三代』の再放送と映画数本と「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」を視聴したくらいで、番組表もほとんど確認していなかったため、この放送を危うく見逃すところでした。このように『太陽にほえろ!』を扱った番組が今でも放送されるのは、ありがたいことです。

 内容は、すでに知っていた話も少なからずあったものの、放送開始当初の緊張感が改めて伝わってきて、なかなかよかったと思います。最近亡くなったこともあってか(関連記事)、萩原健一氏の話を中心に最初期の話が多かったのですが、音楽に大野克夫氏を推薦したことや、殉職による降板という本作の大きな特徴を確立したことといい、萩原氏が本作の基本を確立したとも言えるので、当然でしょうか。『太陽にほえろ!』での萩原氏の出演期間は約1年でしたが、その功績・影響はひじょうに大きかったと思います。もっとも、当初は新人刑事として沢田研二氏の起用が検討されており、断られたために萩原氏が起用されたそうで、これは初めて知りました。

 私にとって新鮮だったのは君塚良一氏の話で、君塚氏が『太陽にほえろ!』のアンチテーゼとして『踊る大捜査線』の脚本を執筆した、という話はどこかで読んだ記憶がありましたが、脚本にも関わっていたのはすっかり忘れていました。もっとも、君塚氏の脚本は小川英氏によりほぼ全面的に手直しされたそうですが。調べてみると、君塚氏が関わったのは423話「心優しき戦士たち」(関連記事)と434話「ある誘拐」(関連記事)で、後者はまずまずの面白さでしたが、前者は私にはまったく合いませんでした。どちらも長さん主演なのは、君塚氏の意図なのでしょうか。

 その他に知らなかったというか、初めて聞いたのが、『太陽にほえろ!』終了の打ち上げパーティーでの石原裕次郎氏の肉声です。石原氏は当時すでにかなり体調が悪く、打ち上げパーティーにも出席できなかったのですが、テープにメッセージを吹き込んで送ったそうです。ドラマでのボスの台詞をずっと聞いてきた私からすると、かなり弱弱しい声との印象を受けたのですが、自分の体調の悪さには一切言及せず、今後の話をしているのは石原氏らしいと思います。もっとも、最終回(関連記事)の時点で石原氏の体調の悪さは明らかでしたから、それから数ヶ月経過した時点だと、さらに体調は悪化していたのでしょう。石原氏は52歳で亡くなりましたから、本当に早すぎる死だったな、と改めて残念に思います。
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Y染色体DNA解析から推測される縄文時代晩期の人口減少

2019/06/19 03:10
 父系継承のY染色体(厳密にはわずかにX染色体との間で組換えが起きますが)DNA解析から縄文時代晩期の人口減少を推測した研究(Watanabe et al., 2019)が報道されました。解説記事もあります。本論文は、現代日本人を北海道のアイヌ、本州・四国・九州(およびそれぞれのごく近隣の島々)から構成される「本土」、沖縄の琉球の3集団に区分しています。私も、これは遺伝的にも文化的にもおおむね妥当な区分だと思います。ただ、言語を中心とする文化的には、本土集団と琉球集団が近縁なのにたいして、アイヌ集団は両集団とはかなり異なります。

 現代日本人の形成過程は、3集団それぞれで異なります。アイヌ集団は「縄文人」を基盤にオホーツク文化集団などユーラシア北東端集団との融合により形成された、と考えられています(関連記事)。本土集団は、縄文人と弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した集団との融合により形成され、後者の方が現代人にはずっと多くの影響を残している、と推測されています(関連記事)。琉球集団は、在来の集団と中世に九州南部から到来した集団との融合により成立した、と考えられます(関連記事)。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、ある程度の幅が想定されていますが、アイヌ集団では66%、本土集団では9〜15%、琉球集団では27%です(関連記事)。アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を受けており、本土集団は、弥生時代以降のアジア東部からの渡来集団の遺伝的影響を強く受けている、と考えられています。

 本論文は現代日本人345人のY染色体の全塩基配列を決定し、28254ヶ所の一塩基多型を解析しました。本論文はこのデータを、3006ヶ所の一塩基多型を用いて解析されたアジア東部大陸部の各現代人集団と比較しました。対象となったのは、韓国人、ベトナムのキン人、中国北部(北京)の漢人、中国南部の漢人、中国のシーサンパンナタイ族自治州のタイ人です。現代日本人のY染色体DNAは異なる7クレード(単系統群)に区分されました。このうちクレード1はアジア東部大陸部で見られず、現代日本人において特異的です。一方、例外も報告されているものの(関連記事)、原則として母系継承のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、日本人特有のクレードが見られませんでした。

 クレード1の割合は、現代日本人の本土集団で35.34%、全体では35.7%です。クレード1はY染色体DNAハプログループ(YHg)D1bに相当します。クレード1の割合は現代日本人3集団において最も縄文人と遺伝的に近縁なアイヌ集団で81.3%と高く、本論文はクレード1が縄文人由来と推測しています。クレード2および3は日本人も含むアジア東部集団やアジア南東部集団で比較的高く、クレード2はYHg- O1、クレード3はYHg- O2に相当します。クレード4および5はYHg-C、クレード6および7はYHg-Nに相当します。本土集団における各クレードの割合は、クレード2が35.4%、クレード3が19.7%、クレード4が4.1%、クレード5が4.1%、クレード6が0.9%、クレード7が0.6%です。縄文人におけるY染色体DNAの7クレード割合は、クレード1が約70%、クレード2が14%、クレード3が2%と推定されました。本土集団のクレード3はほぼ弥生時代(以降の)移民に由来すると考えられます。

 本土集団のクレード1の122人のY染色体に関して、ベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析が行なわれました。これは、組換えのない相同領域に注目してサンプルDNAに関する分岐パターンと分岐年代を推定し、そこから集団サイズの履歴を推定する方法です。縄文時代が始まった直後の12500年前頃以後に男性の有効人口規模はじょじょに増加し、3200年前頃に急激に減少しました。その後すぐ、クレード1の有効人口規模は増加しました。クレード3の68人の分析では人口減少は観察されず、弥生時代の移民が日本列島に到来した時に、深刻なボトルネック(瓶首効果)は起きなかった、と示唆されました。これは、本土集団のゲノムの80〜90%が弥生時代以降の日本列島への移民に由来する、という以前の観察と一致します。

 縄文時代は、草創期(16500〜11500年前頃)→早期(11500〜7000年前頃)→前期(7000〜5470年前頃)→中期(5470〜4420年前頃)→後期(4420〜3220年前頃)→晩期(3220〜2350年前頃)と一般的に区分されています(関連記事)。本論文は縄文時代の始まりを12500年前頃としていますが、これは、土器製作の開始だけでは縄文時代の指標とは言えず、より定住性が高いことなど縄文的な生活様式の定着が指標になる、との見解を本論文が採用しているからでしょう。もちろん、縄文時代もその次の弥生時代も、本土に限っても一律に移行したわけではなく、地域による年代差があったでしょう。なお、北海道が縄文時代に移行するのは本土に遅れて9000年前頃だった、との見解もあります(関連記事)。

 本論文の見解は、縄文時代後期〜晩期にかけての人口減少という考古学的知見と整合的です。以前の研究では、縄文時代後期〜晩期にかけて、気候変動とともに食性が変わった、と報告されており、狩猟採集への依存度の高い縄文人の人口は、寒冷化による食料不足により減少したのではないか、と本論文は指摘しています。本論文の知見は、弥生時代以降の急速な人口増加も示唆します。これは、本格的な稲作の導入により、食料を安定的に調達できたからではないか、と本論文は指摘しています。本論文の縄文時代後期〜弥生時代初期にかけての人口変動の推定は、厳密には男性に限定されています。人類集団の混合が起きる時、一般的に混合集団への遺伝的寄与は男女で異なるので、縄文人女性の人口史は縄文人男性のそれとは異なっていたかもしれない、と本論文は指摘しています。本論文というか一般的な見解に従えば、縄文人の現代日本人への遺伝的影響は、ゲノム解析からの推定よりもY染色体DNAからの推定の方がずっと高そうです。しかし、後述のように、この見解には疑問も残ります。

 YHg-D1bとなるクレード1は日本列島でしか見られず、YHg-D1もアジア東部ではほぼ日本列島とチベット人にしか見られません。中国と韓国でYHg-D1がほぼ見られないことから、YHg-D1系統の分岐と日本列島への拡散経路およびその年代について、現時点では詳細は不明です。本論文は、YHg-D1bの分岐は縄文人の祖先が日本列島に到達する前に起きた、と推測しています。ただ、現代日本人で多数派なのはYHg- D1b1なのに、縄文人では最近まで詳細な解析の可能な個体ではYHg-D1b2aしか確認されておらず(解説記事)、最近になってYHg-D1b2bが確認されました(関連記事)。いずれにしても、YHg- D1b1はまだ縄文人では確認されていないので、本論文でのクレード1がすべて縄文人由来なのか、断定は時期尚早だと思います。

 チベットと日本列島にYHg-D1が高頻度で存在し、その中間の中国と韓国にほぼ存在しないことから、YHg-D1はかつてユーラシア東部に広範に存在していたものの、文献が残っているような時代も含めてその後の大規模な人類集団の移動により、中国や韓国では他の系統に置換された可能性があります。私が想定しているのは、本論文でのクレード1の一定以上の割合が、弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来している可能性なのですが、この仮説は、無視してよいほど可能性が低いわけではないものの、優先順位はかなり低いので後回しにしてもよい、といった水準ではなく、真剣に検証されるべきだと思います。この問題に関しては最近取り上げましたが(関連記事)、やはり現代人のDNA解析だけで過去の人類史を復元するのには大きな限界があり、ユーラシア東部の古代DNA研究の進展を俟つしかないでしょう。


参考文献:
Watanabe Y et al.(2019): Analysis of whole Y-chromosome sequences reveals the Japanese population history in the Jomon period. Scientific Reports, 9, 8556.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44473-z
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喫煙行動の関連遺伝子座

2019/06/18 03:12
 喫煙行動の関連遺伝子座についての研究(Matoba et al., 2019)が公表されました。喫煙は、ヒトのさまざまな疾患のリスク因子です。この研究は、日本人集団における喫煙行動に関連する遺伝的因子を調べるために、165436人を対象として、喫煙に関連した4形質について全ゲノム関連解析を行ないました。その結果、1日あたりの喫煙本数に関連する3つの遺伝子座(EPHX2–CLU、RET、CUX2–ALDH2)、喫煙の開始に関連する3つの遺伝子座(DLC1、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)、喫煙開始年齢に関連する1つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG)を含む計7つの新たな遺伝子座が同定されました。

 このうち3つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)は、追加の性別層別化全ゲノム関連解析によって明らかとなりました。この追加の解析からは、男女で影響に差がある、と判明しました。異性間連鎖不均衡スコア回帰分析の結果からも、喫煙開始の遺伝的因子に男女間で有意差がある、と分かりました。形質間連鎖不均衡スコア回帰分析および形質関連組織解析から、1日あたりの喫煙本数には、他の3つの喫煙行動とは異なる特異的な遺伝的背景があることも明らかになりました。またこの研究は、喫煙行動と遺伝的背景が共通する11の疾患についても報告しています。

 この研究は、これらの知見は追試試料を欠くため慎重に考慮すべきであるものの、喫煙行動の遺伝的構造を明らかにするもので、アジア東部の人類集団を対象としたさらなる研究により、この研究の結果が確認されねばならない、と指摘しています。私は子供の頃から煙草が心底嫌いで、一度も煙草を吸ったことがなく、吸いたいと思ったこともまったくないのですが(たいへん不愉快なことに、受動喫煙の経験は多数あります)、これは環境要因だけではなく遺伝的要因もあるのでしょうか。なお、現代人(Homo sapiens)において、ニコチン依存症の危険性を高める、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来と推測される遺伝子も確認されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


日本人165,436人を対象とした喫煙行動のGWASから7つの新たな遺伝子座と共通の遺伝的構造が明らかとなった

 喫煙は、ヒトのさまざまな疾患のリスク因子である。日本人集団における喫煙行動に関連する遺伝的因子を調べるために、165,436人を対象として、喫煙に関連した4つの形質について全ゲノム関連解析を行った。その結果、1日あたりの喫煙本数に関連する3つの遺伝子座(EPHX2–CLU、RET、CUX2–ALDH2)、喫煙の開始に関連する3つの遺伝子座(DLC1、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)、喫煙開始年齢に関連する1つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG)を含む計7つの新たな遺伝子座が同定された。このうち3つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)は、追加の性別層別化全ゲノム関連解析によって明らかとなったものである。この追加の解析からは、男女で影響に差があることが判明した。異性間連鎖不均衡スコア回帰分析の結果からも、喫煙開始の遺伝的因子に男女間で有意差があることがわかった。形質間連鎖不均衡スコア回帰分析および形質関連組織解析から、1日あたりの喫煙本数には、他の3つの喫煙行動とは異なる特異的な遺伝的背景があることが明らかとなった。また、喫煙行動と遺伝的背景が共通する11の疾患についても報告する。今回の研究は追試試料を欠くため慎重に考慮すべきであるが、得られた知見は、喫煙行動の遺伝的構造を明らかにするものである。東アジア人集団を対象としたさらなる研究によって、我々の結果が確認されることが必要である。 日本人集団の喫煙行動の遺伝的因子が調べられ、喫煙行動に関連する7つの遺伝子座と、喫煙行動と遺伝的背景を共有する11の疾患が同定された。



参考文献:
Matoba N. et al.(2018): GWAS of smoking behaviour in 165,436 Japanese people reveals seven new loci and shared genetic architecture. Nature Human Behaviour, 3, 5, 471–477.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0557-y
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アーモンドの栽培化を可能にした変異

2019/06/18 03:09
 アーモンド(Prunus amygdalus)の栽培化を可能にした変異に関する研究(Sánchez-Pérez et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。まだ議論もあるものの、アーモンドの木の最初の栽培化は近東で完新世前半に始まったと考えられており、エジプトとギリシアにおけるナッツの初期の考古学的証拠により支持されています。しかし、野生アーモンドの種には苦くて毒性のある青酸配糖体アミグダリンが蓄積されます。これまでの研究から、アーモンドの最初の栽培化は、食べられない野生型に由来する食用の甘い種の遺伝子型を選抜することで可能になった、と示唆されています。しかし、最初の栽培化以来、アーモンドは地球上で最も広まったナッツ類となっているものの、アーモンドの分布と経済的重要性にも関わらず、そのゲノムの詳細な理解はバラ科の植物など他種よりも遅れており、甘い食用のナッツを作り出せる遺伝子の性質も分かっていませんでした。

 本論文は、アーモンドの完全な参照ゲノムを報告し、アセンブルした配列を用いて、毒性のある苦いアーモンドと甘いアーモンドの遺伝的差異を解明しました。これにより、甘い種の遺伝子型に関連する転写因子のクラスターが発見されました。このうちbHLH2が毒性化合物アミグダリンの産生の生合成経路の制御に関与している、と明らかになりました。この結果から、bHLH2の変異によりアミグダリンの産生が抑制され、その結果甘いアーモンドの遺伝子型が生み出され、栽培化中に積極的に選抜された、と示されました。私は植物の進化史や栽培化の歴史には本当に疎いのですが、人類進化史とも深く関わっているので、今後少しずつ知見を得ていこう、と考えています。


参考文献:
Sánchez-Pérez R. et al.(2019): Mutation of a bHLH transcription factor allowed almond domestication. Science, 363, 6445, 1095–1098.
https://doi.org/10.1126/science.aav8197
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Y染色体DNAハプログループDの起源

2019/06/17 03:26
 Y染色体DNAハプログループ(YHg)Dの起源に関する研究(Haber et al., 2019B)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ゲノム規模データ(関連記事)からも、単系統(母系および父系)のミトコンドリアDNA(mtDNA)およびY染色体DNA(関連記事)からも、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは7万〜5万年前頃の1回だった、と推測されており、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)の分岐年代や移動について詳しく検証され続けています。

 しかし、Y染色体DNAハプログループ(YHg)に関しては、現在の分布が単純な系統地理的モデルと合致していないため、長く議論が続いてきました。非アフリカ系現代人のYHgはCT系統ですが、短期間のうちにC・DE・FTの各系統に分岐していった、と推測されています。YHg-DE系統はその後すぐに、D系統とE系統に分岐していきます。YHg-C・D・FTの各系統は基本的に非アフリカ系現代人に見られますが、E系統はおもにアフリカに分布しているため、これらの系統がいつどこで分岐したのか、確定したとは言えない状況です。

 これまで、YHg-DE系統の分岐に関して、大別するとアジア起源説とアフリカ起源説が提示されてきました。アジア起源説では、YHg-CT系統の出アフリカ後、DE系統がD系統とE系統に分岐し、E系統がアフリカに「戻った」と想定されます。アフリカ起源説では、YHg-CT系統の出アフリカ後、DE系統がC・FT系統が分岐した後でアフリカに「戻って」D系統とE系統に分岐し、その後でD系統がアフリカからユーラシアに拡散した、と想定されます。アフリカ・ユーラシア間の系統移動が、アジア起源説では2回、アフリカ起源説では3回となるため、アジア起源説の方がより節約的と考えられてきました。

 YHg-DE系統の分岐に関する問題は、DE系統に分類されるものの、DにもEにも分類されない稀なハプログループDE*の存在により、さらに複雑になりました。YHg-DE*の存在はまずナイジェリアの5人で確認され、その後アフリカ西部のギニアビサウ出身者1人と、ユーラシア東部のチベット人2人で確認されました。本論文は、以前報告されたナイジェリアのDE*系統の5人を改めて分析するとともに、YHg-Dのチベット人4人も含めて世界規模のデータと比較しました。ナイジェリアの5人のうち、2組は重複の可能性が高いと推定されたため、3人が分析対象とされました。

 Y染色体DNA配列に基づく系統樹はすべて一貫した構造を示し、ナイジェリア人のYHg-DE*系統はD系統とE系統の分岐に近い系統を形成します。ナイジェリア人のYHg-DE*系統と他の系統との一塩基多型の共有は、D系統で7ヶ所、E・C1b2a・F2の各系統でそれぞれ1ヶ所となります。本論文は、単一の一塩基多型の共有を反復変異とみなし、ナイジェリア人のYHg-DE*系統を、じゅうらいのYHgの名称を変更せずにすむように、D0系統と命名しています。

 本論文はYHg各系統間の分岐年代を、B系統とCT系統は101100年前頃、CおよびFT系統とDE系統は76500年前頃、D系統とE系統は73200年前頃、D0系統と他のD系統は71400年前頃と推定しています。D系統とE系統の分岐後すぐに、D0系統と他のD系統が分岐したことになります。D0系統はさらに3系統に区分され、2500年前頃と1900年前頃に分岐します。D0系統は常染色体ゲノムの分析から、祖先がアフリカ西部系と確認されています。YHg-DE系統は、アフリカ系のD0とE、非アフリカ系のDに区分されます。本論文は、YHg-DE系統がどこで分岐し、どのように移動していったのか、3通りの仮説を検証しています。

(1)B系統とCT系統が分岐した101000年前頃〜CおよびFT系統とDE系統が分岐した77000年前頃までは、非アフリカ系現代人系統にはCT系統しか存在していないことから、CT系統がアフリカからユーラシアに拡散し、D0系統とE系統がD0系統の起源の71000年前頃〜E系統のアフリカでの分岐が始まる59000年前頃にアフリカに「戻った」と推測されます。この仮説でも以下の2仮説でも、E1b1b1系統が47000〜28500年前頃にアフリカからユーラシアへ拡散した、と推測されています。

(2)C系統とFT系統の分岐した76000年前頃〜D系統とE系統の分岐した73000年前頃の間に、C・DE・FTの3系統がアフリカからユーラシアへ拡散し、その後で(1)と同様にD0系統とE系統が71000年前頃〜59000年前頃にアフリカに「戻った」と推測されます。

(3)D0系統の起源の71000年前頃〜FT系統の分岐が始まる57000年前頃には、C・D0・その他のD・E・FTの5系統が存在し、このうちE・D0以外のC・D・FTがこの期間にアフリカからユーラシアへ拡散したと推測するもので、この場合、ユーラシアからアフリカへの「逆流」を想定する必要はありません。

 本論文のYHg-D0系統はナイジェリアの3人のY染色体DNAに基づいています。推定年代は、前提となる変異率の違いにより異なってくるため、確定的ではありません。しかし、西シベリアの45000年前頃の現生人類遺骸(関連記事)など、DNAが解析されている個体を参照すると、より年代を絞り込めます。非アフリカ系現代人は全員、ゲノムにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域を2%ほど有しています。ネアンデルタール人と現生人類の交雑が複数回起きたとしても(関連記事)、非アフリカ系現代人のゲノムに存在するネアンデルタール人由来の領域の大半は、非アフリカ系現代人がアフリカからユーラシアへ拡散してから各地域集団に分岐していく前まで間の(1回の)交雑に由来する、と考えられます。

 この交雑の時期について、本論文は59400〜49900年前頃とする見解(関連記事)を採用していますが、54000〜49000年前頃まで限定する見解も提示されています(関連記事)。本論文は、この現生人類とネアンデルタール人との交雑の推定年代から、上記のシナリオでは(3)を支持しています。mtDNAの分析におけるアフリカ系統から非アフリカ系統の推定分岐年代は、古代DNAも対象とすると95000〜62000年前頃、現代人を対象とすると65000〜57000年前頃となり、(3)と一致する、と本論文は指摘します。

 アフリカにおける現代のYHgの分布は、過去1万年のバンツー語族集団の拡大やユーラシアからアフリカへの遺伝子流動(関連記事)の結果、大きく変わりました。現在、YHgで最古の分岐系統が見られるのはアフリカ西部で(関連記事)、常染色体ではアフリカ南部の狩猟採集民集団において最古の分岐が推定されていること(関連記事)とは対照的です。これは、アフリカにおける現生人類の深い分岐(関連記事)を示唆しているのではないか、と本論文は指摘しています。

 アフリカにおけるYHgの分布に関しては、10万〜5万年前頃のアフリカ人の古代DNA解析には成功しておらず、今後も期待薄であることを考慮すると、アフリカ中央部および西部の現代人のYHgのさらなる研究が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は、アフリカ内におけるDE系統の起源と、その後のC・D・FT系統のアフリカからユーラシへの拡散という仮説を支持します。現代日本人もYHg-Dの割合は高く、その起源について議論があるので(関連記事)、その意味でも注目される研究です。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368
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アフリカにおける現代人系統と未知の人類系統との交雑

2019/06/16 09:53
 アフリカにおける現生人類の人口史に関する研究(Lorente-Galdos et al., 2019)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)の起源はアフリカにあり(関連記事)、ゲノム規模解析でもミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でもY染色体DNAハプログループ(YHg)でも、現代人において最も早く分岐した系統は、アフリカの狩猟採集民集団です。現生人類はアフリカからユーラシアへと拡散し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった先住人類と交雑しました(関連記事)。一方、アフリカに留まった現生人類に関しては、「純粋なサピエンス」との認識も見られますが(関連記事)、アフリカにおける現生人類と遺伝学的に未知の人類系統との交雑を指摘する見解もあります(関連記事)。

 本論文は、アフリカ全土の多様な生態系および生活様式と主要な語族を網羅する15集団の21人と、ユーラシアの4人を対象として、高網羅率(21.01〜46.63倍)のゲノム配列を決定しました。この21人は全員男性で、mtHgとYHgも決定されました。本論文はこのデータから、アフリカ人集団における人口史と過去の交雑を検証しました。全体としてアフリカの個体群は遺伝的に、コイサン、ピグミー、サハラ砂漠以南農耕民、北部の4集団に区分されます。サハラ砂漠以南の農耕民集団はほとんど、狩猟採集民系統をいくらか有しています。その割合はおもに集団間の地理的距離と関連しています。コイサンなどの狩猟採集民集団との地理的距離が近い農耕民集団では、狩猟採集民系統の割合が増加します。サハラ砂漠以南のアフリカでは、狩猟採集民集団は農耕民集団よりも遺伝的に多様で、本論文はこれをバンツー語族集団の拡大と関連している、と推測しています。

 サハラ砂漠以北となるリビア人のようなアフリカ北部集団は、サハラ砂漠以南のアフリカ集団よりもユーラシア集団(その中でも東部よりも西部の方)と近縁で、サハラ砂漠はアフリカの人類集団にとって大きな障壁となっていたかもしれません。一方、アフリカ北部集団とユーラシア西部集団の遺伝的近縁性から、現生人類の移動にとって地中海よりもサハラ砂漠の方が大きな障壁だった、と考えられます。また、アフリカ北西部・北部中央・中央部北方の集団において近親交配の痕跡が確認されましたが、その程度の推定のためには、より多くの標本が必要になる、と本論文は指摘しています。アラビア人集団とイラン人集団では、歴史的に近親交配の頻度が高かった、と推測されていますが(関連記事)、アフリカの一部集団でも同様なのか、注目されます。

 有効人口規模は、10万年前頃まではアフリカとユーラシアの各地域集団でほぼ同じです。これは、現代人の各地域集団への分岐が10万年前頃以降に始まった可能性を示唆しています。ただ、コイサン集団系統の分岐はもっとさかのぼる可能性が高そうです。ユーラシア集団とアフリカ北部集団では10万〜4万年前頃まで有効人口規模が減少し、その後も1万年前頃までは有効人口規模が小さかったのにたいして、サハラ砂漠以南のアフリカ集団は10万年前頃から1万年前頃近くまでほぼ一貫してユーラシアおよびアフリカ北部集団よりも有効人口規模がずっと大きく、同じく人口減少を経ているものの、減少率はユーラシアおよびアフリカ北部集団よりも低くなっています。バカピグミーでは3万年前頃に有効人口規模が急増していますが、これが人口の増加もしくは分離と混合のどれに起因するのか推測するには、今後の分析が必要になる、と本論文は指摘しています。

 本論文は古代型人口(集団)との交雑関係について、6通りのモデルを検証しました。現生人類は、アジア東部(EAs)、ヨーロッパ(Eu)、サハラ砂漠以南アフリカ西部(WAf)、ムブティピグミー(Mbt)、コイサン(Kho)が、非現代人系統では、アルタイ地域の東方ネアンデルタール人(N)および非アフリカ系現代人の共通祖先と交雑したネアンデルタール人系統(NI)、ネアンデルタール人やデニソワ人と近縁で現生人類系統と交雑したと推定されるゴースト集団(Xn)、アルタイ地域のデニソワ人(DI)、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と分岐したゴースト集団(Xe)、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の現生人類系統から現代人系統と分岐した推定上のアフリカ系統(XAf)が検証対象とされました。6通りのモデルのうち、Bの可能性が最も高い、という結果が得られました。以下に掲載する本論文の図4に、6通りのモデルが示されています。
画像

 現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人およびデニソワ人との交雑については、じゅうらいの見解と同じく、アフリカ北部およびユーラシア集団で低頻度ながら見られたのにたいして、サハラ砂漠以南のアフリカ集団では見られませんでした。本論文は、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の現生人類系統から現代人系統と分岐した推定上のアフリカ系統(XAf)が、サハラ砂漠以南のアフリカ集団の複数系統(コイサン、ムブティピグミー、西部)と10万年前〜5万年前頃にかけて交雑した、と推定しています。ただ、本論文はネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との分岐を43万年前頃と推定しており、これは新しすぎるのではないか、と思います(関連記事)。本論文の見解に関しては今後さらに研究が進むでしょうが、アフリカの環境条件を考えると、ネアンデルタール人やデニソワ人のような非現生人類のDNA解析はおそらく無理でしょう。そうすると、研究の進展には現代人のゲノム規模データの蓄積が必要となります。上述のように、アフリカに留まった現生人類(Homo sapiens)は「純粋なサピエンス」との認識もネットではよく見られるので、この問題に関する研究の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Lorente-Galdos B. et al.(2019): Whole-genome sequence analysis of a Pan African set of samples reveals archaic gene flow from an extinct basal population of modern humans into sub-Saharan populations. Genome Biology, 20, 4, 77.
https://doi.org/10.1186/s13059-019-1684-5
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白村江の戦い補足

2019/06/16 09:50
 1年ほど前(2018年6月2日)に、日本は百済の植民地だったとする説を取り上げました(関連記事)。それと関連する説として、倭(日本)と百済との特別に親密な関係を想定する見解も取り上げました。そうした見解では、日本の王族(皇族)の故地は百済だった、と示唆されることも珍しくありません。唐との無謀な戦いに挑み、白村江で惨敗するに至ったのには、日本と百済の特殊な関係があったからだ、というわけです。かつて、天智天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)は百済の王族だった、との説さえ主張されたほどです。しかし、1年ほど前の記事で指摘したように、結果的に白村江の戦いでの惨敗に終わった日本による百済救援は、当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様なので、日本と百済との特別に親密な関係を想定する必要はないと思います。

 百済は660年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に滅亡したとはいえ、復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いを見せました。5世紀後半にも百済は滅亡しかけてから復興しており、百済(残党)への支援は、当時としては無謀とは言えないでしょう。もちろん、南北朝時代だった5世紀後半とは異なり、660年には唐が存在し、その唐が新羅と共に百済を滅ぼした、という状況の違いはあります。しかし、当時はまだ高句麗が健在で、唐は太宗の時代と白村江の戦いの少し前にも高句麗に攻め入って撤退していました。客観的に見ても、当時、日本が百済救援方針を採用しても無謀とまでは言えないでしょう。もちろん、日本が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。日本は、長年日本に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。

 1年ほど前の記事ではこのように述べたのですが、その後で読んだ浅野啓介「白村江の戦い」佐藤信編『古代史講義【戦乱篇】』にて、百済復興運動の中心となった鬼室福信のもたらした情報から、唐は戦いに介入してこないだろう、と日本の首脳層が判断していた、との見解が提示されていました(関連記事)。もちろん、鬼室福信のもたらした情報に希望的観測側面が多分にあったことは否定できないでしょう。しかし、これは単なる望的観測ではなく、唐の高宗(李治)は百済(残党)にたいする大規模な軍の派遣に慎重だったものの、劉仁軌の進言により大規模な唐水軍が朝鮮半島へと派遣された、という事情がありました。鬼室福信が日本にもたらした情報には一定以上の現実性があったわけで、この観点からも、白村江の戦いへといたる日本の選択を、単なる無謀とみなすことは妥当ではなく、したがって日本と百済との間の特別に親密な関係を想定する必要はない、と思います。
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大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』第23回「大地」

2019/06/16 09:47
 金栗(池部)四三を免職にしようという動きに反対する東京府立第二高等女学校の学生たちは教室に立て籠もり、中心的人物である村田富江は、父との100m走に勝ち、父に女子のスポーツ教育を認めさせ、四三は免職されずにすみます。反省する四三を、いつか正しいと認められる時代が来る、と嘉納治五郎は励ましす。その嘉納は、神宮の競技場完成の目途が立ったことで、意気軒昂でした。そんな中、1923年9月1日、関東大震災が発生します。四三は浅草に出かけたシマを探しに行きますが、見つかりません。四三は村田富江から、シマが凌雲閣の12階にいた、と聞かされます。凌雲閣は半壊しており、半ば諦めかけていたシマの夫を四三は励まします。

 今回は関東大震災が描かれ、重い雰囲気で話が展開しました。今回も古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面がそれなりに長く描かれましたが、関東大震災時の一庶民の苦難を描くという意味では、悪くはなかった、と思います。シマが五りんの祖母だったことも明かされ、本筋とのつながりも見えてきました。私のように、本筋とのつながりがそのうち描かれると期待して視聴し続けていた私は楽しめましたが、これまでの本筋とのつながりの悪さは否めず、それが視聴率低迷の一因でもあるのでしょう。無責任な外野は本作の視聴率低迷を面白おかしく騒ぎ立てますが、そうした声には惑わされず、制作を続けてもらいたいものです。
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ポーランド中央部における新石器時代〜前期青銅器時代の人類史

2019/06/15 06:03
 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ポーランド中央部における新石器時代〜前期青銅器時代の人類集団の遺伝的構成の変容に関する研究(Fernandes et al., 2018)が公表されました。ヨーロッパ系現代人は遺伝的に、更新世の狩猟採集民、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに到来した農耕民、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた遊牧民の混合により形成されました。ヨーロッパの新石器時代の農耕民集団は、在来の狩猟採集民集団と混合していきましたが(関連記事)、その進展は地域により異なります(関連記事)。

 本論文は、ポーランド中央部北方のクヤヴィア(Kuyavia)地域の、紀元前4300〜紀元前1900年頃となる中期新石器時代から早期青銅器時代の17人のゲノム規模データを分析しました。クヤヴィア地域の考古学的な時代区分は、紀元前5400〜紀元前5000年頃の線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)、紀元前4700〜紀元前4000年頃となるレンジェル文化(Lengyel Culture)、紀元前3800〜紀元前3000年頃の漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、TRB)、紀元前3000〜紀元前2300年頃の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、GAC)、紀元前2700〜紀元前2200年頃の縄目文土器文化(Corded Ware Culture、CWC)、紀元前2500〜紀元前1900年頃の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)となり、一部が共存しています。レンジェル文化で本論文においてゲノム解析の対象となったのは、ブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、BKG)です。平均網羅率は0.71〜2.50倍です。

 BKGは遺伝的にはおおむねヨーロッパの中期新石器時代農耕民集団と類似していますが、N22とN42の2人は例外です。N22はヨーロッパ西部狩猟採集民集団(WHG)ときわめて近縁で、N42は前期〜中期新石器時代農耕民集団とWHG系統の中間に位置します。クヤヴィア地域の人類集団の遺伝的構成でまず注目されるのは、BKGからGACにかけて、WHG系統要素が増加していることです。これは、在来の狩猟採集民との混合によるものと推測されます。紀元前4300年頃のN42個体はほぼWHG系統なので、クヤヴィア地域においては、紀元前5400年頃のLBK農耕民の到着から少なくとも紀元前4300年頃までの1000年以上、外来の農耕民集団とほとんど混合しなかった狩猟採集民集団が存在し、両者は共存していた、と推測されます。こうしたWHG系統の増加(復活)傾向はドイツ中央部のTRB集団でも見られますが、本論文は、クヤヴィア地域ではそれ以前のBKGで見られることから、農耕民集団と狩猟採集民集団との混合はLBKの後に起きたのではないか、と推測しています。これに関して本論文は、クヤヴィア地域だけではなくヨーロッパ中央部でこの時期に一般的に見られる、人口減少との関連を指摘しています。農耕民集団にとって、狩猟採集民との密接な接触はLBK後の集団存続の鍵となったのではないか、というわけです。

 BKG・TRB・GAC集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)には、ヨーロッパの新石器時代農耕民によく見られるN1a・T2・J・K・Vが含まれており、ゲノム規模データと一致します。なお、N22はU5a、N42はU5bです。新石器時代の個体群でY染色体DNAハプログループ(YHg)が解析された3人はI2a2aに分類されています。本論文は、BKGにおけるmtHg- U5とYHg- Iが中石器時代のヨーロッパ起源であることから、クヤヴィア地域では更新世の狩猟採集民集団が母系でも父系でも新石器時代農耕民社会で存続しており、類似の事例はカルパチア盆地やバルカンでも報告されている、と指摘しています。

 クヤヴィア地域の人類集団の遺伝的構成が大きく変わるのは後期新石器時代で、CWC集団において、ポントス-カスピ海草原系統(草原地帯系統)の遺伝的影響が強く見られます。これは、青銅器時代の1個体のYHgがR1aであることとも一致します。一方、CWCとかなり年代の重なるGACには、草原地帯系統が見られません。またGACでは、それ以前の集団よりもWHG系統の割合が増加しています。草原地帯系統の欠如と高いWHG系統の割合という特徴は、クヤヴィア地域だけではなく、ポーランドのキエシュコボ(Kierzkowo)の5人とウクライナのイラーツカ(Ilatka)の3人でも確認されています。ただ、これらはGACの早期集団なので、後期GAC集団には草原地帯系統が存在したかもしれない、と本論文は指摘しています。クヤヴィア地域のCWC集団に関して本論文が注目しているのは、既知のCWC集団よりもWHG系統の割合が高いことです。これは、上述のように、クヤヴィア地域では少なくとも紀元前4300年頃まで、アナトリア半島起源の農耕民集団と混合しなかった狩猟採集民集団が存在したことと関連しているのではないか、と本論文は推測しています。それは、CWCと侵入してきた草原地帯文化集団との相互作用は複雑で、地域により異なっていた、との考古学的知見と一致している、と本論文は指摘しています。また、本論文刊行後の研究では、GAC集団とCWC集団との激しい争いを想定する見解も提示されています(関連記事)。

 ヨーロッパ系現代人の形成過程は、上述のように大まかには、更新世の狩猟採集民、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに到来した農耕民、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてヨーロッパに拡散してきた草原地帯遊牧民の混合と把握されます。しかし、その融合時期や混合の比率が各地域により異なっていたことは、本論文でも改めて示されたと思います。古代DNA研究の進展は著しいのですが、近代以降の知の中心・基準となり遺跡の発掘・研究が進んでいることと、DNAの保存に比較的好条件の環境であることから、ヨーロッパが中心となっています。本論文を読んで改めて、ヨーロッパにおける古代DNA研究が進展していることを思い知らされました。日本列島も含むユーラシア東部圏の古代DNA研究が、ヨーロッパも含むユーラシア西部と比較して大きく遅れていることは否定できませんが、日本人である私としては、今後少しでもヨーロッパとの差が縮まってほしい、と希望しています。


参考文献:
Fernandes DM et al.(2018): A genomic Neolithic time transect of hunter-farmer admixture in central Poland. Scientific Reports, 8, 14879.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-33067-w
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自然と健康・幸福感の関係

2019/06/15 06:00
 自然と健康・幸福感の関係についての研究(White et al., 2019)が公表されました。この研究は、イギリスの成人19806人を対象として、過去1週間に自宅の庭を除く野原や森林などの自然環境で過ごした時間と、自己申告に基づいた健康と幸福感について調査しました。この調査によると、自然の中で120分以上過ごしたと申告した人は、「健康状態が良い」または「幸福感が強い」と申告する傾向が強く見られました。この研究は、こうした関連が近隣の利用可能な緑地の規模とは無関係なことを明らかにしました。さらに、この関連は全ての年齢層の参加者(長期的な健康問題を抱えている人を含む)に見られ、この知見が、単に健康状態の良好な人々の方が自然環境を訪れる頻度が高いことによるものではない、という可能性が示唆されました。

 またこの研究は、一度に自然の中で120分を過ごした場合と短時間の自然環境への訪問を1週間に数回行った場合では差が生じなかった、と報告しています。自然の中で過ごした時間が週120分未満である場合は、幸福感の向上との関連が認められませんでしたが、自然環境で200〜300分を過ごしても、さらなる効果は得られませんでした。この研究は、こうした知見は予備的なものではあるものの、健康と幸福感の有意な向上をもたらす可能性のある自然環境と触れ合う時間に関して、証拠に基づいたシンプルな勧告を示して議論するうえで、重要な出発点になると結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【健康】自然の中で過ごすことが健康と幸福感の向上につながる

 週120分以上を自然環境で過ごすことが、健康と幸福感に関連することを明らかにした研究論文が、今週掲載される。

 今回、Mathew Whiteたちの研究グループは、イギリスの成人1万9806人を対象として、過去1週間に野原や森林などの自然環境(自宅の庭を除く)で過ごした時間と、自己申告に基づいた健康と幸福感について調査した。この調査によると、自然の中で120分以上過ごしたと申告した人は、「健康状態が良い」または「幸福感が強い」と申告する傾向が強かった。

 Whiteたちは、この関連が近隣の利用可能な緑地の規模とは無関係なことを見いだした。また、この関連は全ての年齢層の参加者(長期的な健康問題を抱えている人を含む)に見られ、この知見が、単に健康状態の良好な人々の方が自然環境を訪れる頻度が高いことによるものではない可能性が示唆された。またWhiteたちは、一度に自然の中で120分を過ごした場合と短時間の自然環境への訪問を1週間に数回行った場合では、差が生じなかったと報告している。自然の中で過ごした時間が週120分未満である場合は、幸福感の向上との関連が認められなかったが、自然環境で200〜300分を過ごしても、さらなる効果は得られなかった。

 Whiteたちは、今回の知見は予備的なものではあるが、健康と幸福感の有意な向上をもたらす可能性のある自然環境と触れ合う時間に関して証拠に基づいたシンプルな勧告を示すことを議論する上で、重要な出発点になると結論付けている。



参考文献:
White MP et al.(2019): Spending at least 120 minutes a week in nature is associated with good health and wellbeing. Scientific Reports, 9, 7730.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44097-3
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ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連

2019/06/15 05:57
 ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連についての研究(Rogers et al., 2019)が公表されました。この研究は、民間の医療保険会社から入手した非特定化データを用いて、2001〜2017年にアメリカ合衆国で生まれた乳児147万4535人のコホートを調べました。その結果、ロタウイルスワクチンの接種を完了した(必要な用量のワクチンを接種された)小児は、ワクチン接種を受けていない小児より1型糖尿病のリスクが低い、と明らかになりました。2006〜2017年に生まれ、ワクチン接種を受けた小児540317人のうち、糖尿病を発症したのが192人だった(年間10万人当たり12.2人に相当)のにたいして、同時期に生まれ、ワクチン接種を受けていない乳児246600人のうち糖尿病を発症したのは166人でした(年間10万人当たり20.6人に相当)。ワクチンの部分接種(接種回数が1〜2回不足している場合)は、糖尿病の罹患率との関連が認められませんでした。

 2006〜2017年の間には、2種類のロタウイルスワクチン(5種類のロタウイルスに対する防御をもたらす五価ワクチンと、1種類のロタウイルスに対する防御をもたらす一価ワクチン)が使用されていました。いずれかのワクチンを接種された小児は、接種されなかった小児と比較して、ロタウイルス感染による入院率が94%低く、ワクチン接種後60日以内の入院者数は、全体で31%少ない、と明らかになりました。この結果は、これらのワクチンが安全であることを示唆している、と考えられます。五価ワクチンの3回接種を完了した乳児は、1型糖尿病のリスクが37%低下しました。

 ヒトと動物の先行研究から、ロタウイルス感染は、1型糖尿病やβ細胞の破壊、膵臓のロタウイルス感染と関連している、と明らかになっています。ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連をより詳細に調査するためには、さらなる研究が必要となりますが、この研究は、ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病の予防に役立つ実用的な手段となる可能性がある、との見解を提示ています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【公衆衛生】ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病のリスク低下と関連

 乳児を対象とした研究で、下痢や体調不良の一般的な原因の1つであるロタウイルスに対するワクチンの定期接種が1型糖尿病のリスク低下と関連しているという見解を示す論文が、今週掲載される。

 今回、Mary Rogersたちの研究グループは、民間の医療保険会社から入手した非特定化データを用いて、2001〜2017年に米国で生まれた乳児147万4535人のコホートを調べた。その結果、ロタウイルスワクチンの接種を完了した(必要な用量のワクチンを接種された)小児は、ワクチン接種を受けていない小児より1型糖尿病のリスクが低いことが明らかになった。2006〜2017年に生まれ、ワクチン接種を受けた小児54万317人のうち、糖尿病を発症したのは192人だった(年間10万人当たり12.2人に相当)。これに対し、同時期に生まれ、ワクチン接種を受けていない乳児24万6600人のうち糖尿病を発症したのは166人だった(年間10万人当たり20.6人に相当)。ワクチンの部分接種(接種回数が1〜2回不足している場合)は、糖尿病の罹患率との関連が認められなかった。

 2006〜2017年の間には、2種類のロタウイルスワクチン(5種類のロタウイルスに対する防御をもたらす五価ワクチンと、1種類のロタウイルスに対する防御をもたらす一価ワクチン)が使用されていた。いずれかのワクチンを接種された小児は、接種されなかった小児に比べてロタウイルス感染による入院率が94%低かった。また、ワクチン接種後60日以内の入院者数は、全体で31%少なかった。この結果は、これらのワクチンが安全であることを示唆していると考えられる。五価ワクチンの3回接種を完了した乳児は、1型糖尿病のリスクが37%低下した。

 ヒトと動物の先行研究から、ロタウイルス感染は、1型糖尿病やβ細胞の破壊、膵臓のロタウイルス感染と関連していることが明らかになっている。ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連をより詳細に調査するためにはさらなる研究が必要だが、Rogersたちは、ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病の予防に役立つ実用的な手段となる可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Rogers MAM, Basu T, and Kim C.(2019): Lower Incidence Rate of Type 1 Diabetes after Receipt of the Rotavirus Vaccine in the United States, 2001–2017. Scientific Reports, 9, 7727.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44193-4
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渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』

2019/06/15 05:54
 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年5月に刊行されました。本書は秦王朝崩壊期から『三国志』の時代までを対象とし、漢王朝の前提となる秦の制度と、漢王朝滅亡後の漢の「古典化」にも言及しています。本書は、「漢」がいかに「中国の古典」となったのか、儒教を中心に解説しています。古典的というか通俗的見解では、前漢武帝期に儒教が国教化された、となっています。しかし日本でも、20世紀後半には一般向け書籍でそうした見解が批判的に取り上げられるようになり、私のような非専門家層にも、かなり知られるようになったのではないか、と思います。

 本書も、前漢武帝期に儒教が「国教化」されたわけではなく、前漢景帝期に始まり、後漢章帝期の白虎観会議(紀元後79年)で完成した、との見解を提示しています。本書はこの過程を、多様な儒教解釈の変遷から検証しています。正直なところ、儒教史に疎い私にとって、一読しただけで的確に全体像を把握するのは無理だったので、今後再読するつもりです。前漢成立後、儒教は時の権力者に取り入るため、多様な解釈を提示します。この権力者の中には、皇帝だけではなく、霍光や王莽のような権臣もいます。霍光はあくまでも臣下の地位に留まり続けましたが、王莽は儒家の新解釈も利用して皇帝に即位します(新王朝)。本書では、儒教が柔軟な解釈で時の権力者に取り入っていった様子が鮮やかに叙述されており、儒教が「国教」となり、「中国の古典」の中核となったことも納得できます。

 本書の主題は漢王朝がいかに「中国の古典」になったのか、ということであり、儒教解釈の変遷が詳しく解説されているので、表題から受ける印象とは異なり、前後合わせて400年ほどの漢王朝の一般向けの標準的な通史という性格は弱くなっているように思います。しかし、本書冒頭の秦王朝崩壊期における劉邦と項羽の覇権争いの解説はかなりのところ古典的というか通俗的な物語的な叙述になっており、読み終わってから振り返ると、本書の中では浮いてしまっているようにも思います。まあ、この時代に関しては子供の頃に得た知識からあまり上積みのない私にとって、なじみ深い叙述ではありましたが。本書を読み始めた時は、一般向けを強く意識した物語的な漢王朝史になるのかな、と予想しただけに、その後の儒教解釈の変遷の(一般向けとしては)詳しい解説が始まると、やや戸惑いました。秦王朝崩壊期に関する一般向け書籍は何冊か所有しているので、21世紀以降のものを再読して、近年の研究成果に基づいた解説を再度把握しておこう、と考えています。
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澤藤りかい他「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」

2019/06/14 02:22
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P10-15)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散と、各地域集団の形成過程に関する近年の研究動向を整理しています。本論文はまず、昨年(2018年)刊行された『交雑する人類』(関連記事)を取り上げ、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散を概観しています。39000年以上前にユーラシアへと拡散した現生人類については、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の個体(関連記事)も40000年前頃となるルーマニアのワセ(Oase)遺跡の個体(関連記事)も、現代にはほとんど子孫が残っておらず、39000年前頃のイタリア半島の噴火のためではないか、と指摘されています。ただ、この噴火によりヨーロッパの現生人類が絶滅したとの見解には異論もあります(関連記事)。

 39000年前頃以降のヨーロッパでは、現代人にも遺伝的影響を残した狩猟採集民系統が拡散します。それを代表するのは、37000年前頃のヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の個体(関連記事)と35000年前頃のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(関連記事)で、文化的にはオーリナシアン(Aurignacian)期となります。32000〜22000年前頃のヨーロッパでは、オーリナシアン期の集団と遺伝的に近縁で、文化的にはグラヴェティアン(Gravettian)の狩猟採集民集団が広く拡散します。地理的に広範囲に拡散したにも関わらず、この狩猟採集民集団は遺伝的にひじょうに類似していました。

 19000〜14000年前頃のヨーロッパでは、最終氷期極大期(LGM)が終了して温暖化が進展し、寒冷期に待避所的な地域だったイベリア半島から、人類集団が再拡大します。この集団は文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)となり、19000年前頃となるスペイン北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の個体は、ベルギーのオーリナシアン期の個体と遺伝的に近縁です。一方、この時期のベルギーのゴイエット個体は、グラヴェティアン期の集団と遺伝的に近縁でした。14000年前頃になると、さらに温暖化が進展して氷河が広範に融解していき、ヨーロッパ南東部のイタリア半島やバルカン半島から拡散した集団が、先住集団をおおむね置換した、と推測されています(関連記事)。この集団は、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表され、現代の中東集団とも遺伝的に近縁な関係にあります。

 5万年前頃?以降、ユーラシア東部に拡散した現生人類は、サフルランド(更新世寒冷期にニューギニア島・オーストラリア大陸・タスマニア島が陸続きとなって形成された大陸)系統とアジア東部(および南東部)系統に分岐します。アジア東部では9000年前頃以降、同じユーラシア東部狩猟採集民系統ではあるものの、大きく異なる黄河集団と揚子江集団がそれぞれ農耕を開始し、この2集団が衝突・交雑し、北から南への祖先系統の勾配が形成されます。まだ遺伝的には特定されていない揚子江集団は陸路でベトナムとタイ、海路で台湾島という2経路で拡散しました。チベット人は、黄河集団から2/3、在来の狩猟採集民集団から1/3の遺伝的影響を受けて成立したのではないか、と推測されています。

 アジア南東部では、揚子江集団と在来の狩猟採集民集団との混合により現代人につながる各地域集団が形成された、と推測されています(関連記事)。この移住の大きな波は2回あり、最初は4000年前頃以前に農耕をもたらした集団、次が2000年前頃に青銅器文化をもたらした集団です。アジア南東部在来の狩猟採集民集団については、アフリカからユーラシア南部を東進してきてアジア南東部に到達し、アジア東部やサフルランドに拡散せず、アジア南東部に留まった集団が基盤となったようです(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑に関しては、ユーラシア東西でそれぞれ複数回あっただろう、との見解(関連記事)が採用されています。ただ、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が高い理由については、依然として不明と指摘されています。現生人類と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑についても、複数回説(関連記事)が採用されています。今年(2019年)4月に公表された研究でも、現生人類とデニソワ人の交雑複数回説が主張されています(関連記事)。デニソワ人については、最近情報をまとめました(関連記事)。

 愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」については、すでにアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団との遺伝的近縁性が指摘されており、「縄文人」も含めてアジア南東部および東部の最初期現生人類集団が、ユーラシア南方経路でアフリカから拡散してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は「伊川津縄文人(IK002)」を主役とした論文を現在準備中と述べていますが、まだ査読中ではあるものの、最近公開されました(関連記事)。また、アゼルバイジャンの古人骨のゲノム解析も試みられているとのことで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
澤藤りかい、木村亮介、石田肇、太田博樹(2019)「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P10-15
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地球最古の菌類

2019/06/14 02:13
 地球で最古かもしれない菌類についての研究(Loron et al., 2019)が公表されました。菌類は現代の生態系の重要な構成要素で、陸上での最初の生命の徴候と関連しています。しかし、これまで明確な菌類化石の最古の年代は約4億年前で、古生代中期より古い菌類の化石記録は存在していませんでした。この研究は、カナダ北極域のノースウエスト準州にあるグラッシーベイ累層から出土し、河口性の頁岩に保存されていた有機壁を持つ約10億〜9億年前の微化石(Ourasphaira giraldae)標本について報告しています。

 この研究は、分離菌糸を同定して、微化石標本の細胞壁にキチン(菌類の細胞壁を形成する繊維状物質)が存在していると明らかにし、この微化石の構造が菌類に特徴的と結論づけています。この新知見は、地質学的記録に残された最古のキチンを示しています。また、この知見により、オピストコンタ(動物と菌類が含まれるクラウン群真核生物)の出現時期がじゅうらいの推定よりもずっと前にさかのぼることも明らかになりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【化石】地球に初めて出現した菌類?

 カナダ北極域の頁岩層に保存されていた大量の化石菌類が、10億〜9億年前のものと年代決定されたことを報告する論文が、今週掲載される。先行研究では、明確な地球最古の菌類の化石記録の年代は少なくとも4億年前であるという測定結果が得られていたが、今回の知見によって原生代中期までさかのぼることとなった。

 菌類は現代の生態系の重要な構成要素であり、陸上での最初の生命の徴候と関連している。それにもかかわらず、約4億年前の古生代中期より古い菌類の化石記録は存在していなかった。

 今回、Corentin Loronたちの研究グループは、カナダのノースウエスト準州にあるグラッシーベイ累層から出土した河口性の頁岩に保存されていた有機壁を持つ微化石Ourasphaira giraldaeの標本について報告している。Loronたちは、分離菌糸を同定して、微化石標本の細胞壁にキチン(菌類の細胞壁を形成する繊維状物質)が存在していることを明らかにし、これによってO. giraldaeの構造が菌類に特徴的なものだと結論付けている。この新知見は、地質学的記録に残された最古のキチンを示している。また、この知見によって、オピストコンタ(動物と菌類が含まれるクラウン群真核生物)の出現時期はこれまで考えられていたよりもずっと前にさかのぼることになった。


古生物学:カナダ北極域で見つかった原生代の初期菌類

古生物学:最初の菌類

 菌類の化石記録における最初の明確な記録は、陸上に生命が存在したことを示す最初のしるしと結び付けられていて、これは約4億年前の頁岩に存在する。C Loronたちは今回、菌類の化石記録を原生代の中期にまでさかのぼらせた。これは、カナダ北極域の10億〜9億年前の頁岩中に保存されていた、有機物からなる細胞壁を持つ多細胞生物の微化石の大量の記録によるものである。これらの微化石はOurasphaira giraldaeのもので、その形態は菌類の特徴を示していて、複数に分枝した有隔菌糸を持ち、キチンの存在が明らかになった。これはキチンの存在を示す最古の地質学的記録で、菌類との類似性を強く示している。この記録はまた、オピストコンタ(後生動物、菌類とそれらに類縁の原生生物から構成される)の起源を原生代にまでさかのぼらせるものである。



参考文献:
Loron CC. et al.(2019): Early fungi from the Proterozoic era in Arctic Canada. Nature, 570, 7760, 232–235.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1217-0
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『ドラえもん』「ネアンデルタール人を救え」

2019/06/13 03:02
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について検索していたら気づいたので、録画して視聴しました。『ドラえもん』を視聴するのはいつ以来なのか、思い出せないくらいですが、21世紀になってからは視聴していないと思います。本当に久しぶりの視聴でしたが、記憶にある声とはずいぶんと違っていたのには戸惑いました。そういえば、かなり前に、『ドラえもん』の声優陣が交代する、と報道があったように記憶しています。検索したら、2005年に主要キャラの声優が交代したそうです。

 話の方は、博物館でネアンデルタール人の展示を見てきた、と自慢げにスネ夫が語ったことから、のび太と静香がネアンデルタール人に興味を抱き、ドラえもんと共にタイムマシーンでネアンデルタール人の存在していた時代に行く、というものです。のび太たちの行った世界では、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)が共存しており、ジャイアンに似たネアンデルタール人男性、スネ夫に似た現生人類男性、のび太に似た現生人類女性がいました。スネ夫の仲間の男性2人も登場します。

 もちろん、子供向け娯楽アニメ作品なので、かなりデフォルメされているわけですが、現生人類と比較してのネアンデルタール人の力強さや、ネアンデルタール人所産の壁画・ネックレスにも言及されており、かなり調べた上で書かれた脚本だと思います。ネアンデルタール人の方は1人しかおらず、現生人類の方は少なくとも4人いることも、両者がヨーロッパで遭遇した時、現生人類の方が人口はずっと多かった、との知見(関連記事)を踏まえたものだと思います。ネアンデルタール人にたいする一般的な印象に関しては、専門的な知見を踏まえた一般向け書籍やドキュメンタリー番組よりも、人気娯楽作品の方の影響が大きいでしょうから、今回のような最新の知見を踏まえたうえでの脚本は望ましいものだと思います。

 ジャイアンに似たネアンデルタール人男性は、のび太に似た現生人類女性に恋をします。ジャイアンに似たネアンデルタール人は気弱な男性なので、のび太に似た現生人類女性は彼を仲間に受け入れようとするものの、スネ夫たち現生人類男性3人は反対します。けっきょく、ジャイアンに似たネアンデルタール人は力強さを見せて現生人類の仲間に受け入れられるわけですが、のび太たちがタイムマシーンで現代に戻る時、現代人もネアンデルタール人のDNAを2%ほど受け継いでいる、とドラえもんが説明していることと関連していると思います。これは、ジャイアンに似たネアンデルタール人が自分たちの先祖かもしれない、との静香の発言とともに、ネアンデルタール人と現生人類との交雑という最新の知見を踏まえたものなのでしょう。子供向け娯楽アニメ作品の枠を守りつつも、最新の知見を踏まえた内容になっており、全体的にはなかなか良質な作品になっていたと思います。
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ハリスホークの獲物追跡

2019/06/13 02:59
 ハリスホーク(Parabuteo unicinctus)の獲物追跡に関する研究(Brighton, and Taylor., 2019)が公表されました。先行研究から、ハヤブサは「比例航法」と呼ばれる自動追尾ミサイルと同じ誘導則を用いて、獲物を迎撃すると明らかになっています。しかし、比例航法では、機動性の高い獲物に狙いを定めた時に、タカなどの他の鳥類種が頻繁に行き来する雑然とした生息域を飛行する実行可能な経路が得られません。この研究は、飼育下繁殖された5羽のハリスホーク(モモアカノスリ)が、不規則ですばやく飛行する人工標的を追跡するさいの飛行50回の軌跡を高速度カメラで撮影したうえで、その飛行をモデル化し、ハリスホークの攻撃軌跡との一致度が最も高い数学的誘導則を突き止めました。

 その結果、ハリスホークが混合誘導則を用いている、と明らかになりました。すなわち、追跡飛行における方向転換が、視線の変化率、およびハリスホークの攻撃方向と標的に対する視線の間の角度(偏差角)に関するフィードバックによって決まる、というわけです。この研究は、こえした混合則が応答速度を向上させ、追跡におけるオーバーシュート(追跡していた獲物より前に飛び出してしまうこと)のリスクを低減させ、獲物の不規則で機動的な飛行に惑わされないようにしている、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物学】ハリスホークの狩猟に用いられる混合誘導システム

 タカ科のハリスホーク(モモアカノスリ)が獲物を追跡する際に飛行を誘導するために用いられ、獲物の不規則で機動的な飛行に惑わされないようにするフィードバックシステムが、数学的な混合誘導則に基づいていることを明らかにした論文が、今週掲載される。

 先行研究から、ハヤブサは自動追尾ミサイルと同じ誘導則(いわゆる「比例航法」)を用いて獲物を迎撃することが明らかになっている。しかし、比例航法では、機動性の高い獲物に狙いを定めた時に、タカなどの他の鳥類種が頻繁に行き来する雑然とした生息域を飛行する実行可能な経路が得られない。

 今回、Graham TaylorとCaroline Brightonは、飼育下繁殖された5羽のハリスホークが不規則ですばやく飛行する人工標的を追跡する際の飛行50回の軌跡を高速度カメラで撮影した上で、その飛行をモデル化して、ハリスホークの攻撃軌跡との一致度が最も高い数学的誘導則を突き止めた。その結果、ハリスホークが混合誘導則を用いていることが判明した。すなわち、追跡飛行における方向転換が、視線の変化率、およびハリスホークの攻撃方向と標的に対する視線の間の角度(偏差角)に関するフィードバックによって決まることが分かった。著者たちは、この混合則が応答速度を向上させ、追跡におけるオーバーシュート(追跡していた獲物より前に飛び出してしまうこと)のリスクを低減させていると主張している。



参考文献:
Brighton CH, and Taylor GK.(2019): Hawks steer attacks using a guidance system tuned for close pursuit of erratically manoeuvring targets. Nature Communications, 10, 2462.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10454-z
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ユーラシア草原地帯牧畜民の穀類消費の増加と地域間の相互作用

2019/06/12 03:23
 ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類消費の増加と地域間の相互作用の関係を検証した研究(Miller, and Makarewicz., 2019)が報道されました。ユーラシア草原地帯はは、東西のヒト・家畜・物資・文化が行き交う重要な交通路であり、もちろんそれに留まらない独自の文化を開花させてきました。本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類、とくにキビ(Panicum miliaceum)やアワ(Setaria italica)といった雑穀の消費がどのように定着していったのか、検証しています。こうした雑穀の栽培は、まずアジア東部、具体的には中国北部で紀元前六千年紀早期には始まっており、その後で西方へと拡散していった、と考えられます。

 この他にユーラシアで重要な穀類としてコムギとオオムギがあり、こちらはまずアジア南西部で紀元前8500年前頃までに栽培が始まり、紀元前6000年前頃までにはイラン高原へ、紀元前5500年前頃までにはパキスタンへというように、東方へと拡大していき、アジア東部には紀元前2000年前頃に到達しました。本論文は、人類遺骸の同位体分析を用いて、穀類がどれだけ消費されていたのか、地域と年代(紀元前5500年以前〜紀元後500年)による違いを検証しています。C4植物のアワやキビの雑穀とC3植物のオオムギおよびコムギは、同位体分析により消費が区別されます。本論文での地域区分は、以下に引用する図2に示されています。
画像

 本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における雑穀の消費が次第に西方に拡大していき、第一段階の低水準の消費から、紀元前二千年紀半ばとなる青銅器時代〜鉄器時代移行期以後の第二段階に大きく増加した、と示します。たとえばミヌシンスク盆地では、第一段階となる紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀早期にかけての前期青銅器時代に、狩猟採集民による低水準の雑穀消費の可能性が指摘されています。青銅器時代にはすでに地域間の相互作用があり、雑穀も西方へと拡大していったわけですが、本論文は、雑穀消費が低水準であることと、同位体分析による雑穀消費の痕跡が、炭化した種子の最初の出現時期よりかなり遅れることから、ユーラシア草原地帯の牧畜民の雑穀は、まず儀式的に用いる威信財として少量の栽培から始まったのではないか、と推測しています。

 第二段階では、ユーラシア草原地帯の牧畜民で雑穀の消費が大きく増加します。本論文はこの要因として、ユーラシア草原地帯における複雑な政治的統合の拡大・強化を指摘しています。これにより、青銅器時代〜鉄器時代移行期以後には、第一段階よりもさらに地域間の相互作用が強化されたのではないか、というわけです。本論文は、雑穀が威信財的な機能も担う希少作物だった第一段階と比較して、第二段階には牧畜民社会における支配層の地位を区別する食料へと変わっていったのではないか、と指摘しています。なお、雑穀の出現時期と場所から、雑穀は中国北部より新疆ウイグル自治区を経由して西方に拡散していったのではないか、と本論文は推測しています。

 一方、青銅器時代〜鉄器時代移行期以後にも、雑穀がほとんど消費されない地域もありました。一方はモンゴル草原で、遊牧民的な生活に根差す生活様式に固執するようなイデオロギーがあったためではないか、と本論文は推測しています。モンゴル草原で雑穀の消費が増大するのは紀元前千年紀末に近く、これは匈奴の強大化との関連が指摘されています。もう一方はトランスウラル地域で、水の利用性や農耕技術とも関連して、コムギとオオムギが選択されたのではないか、と本論文は推測しています。

 このように、例外的な地域もあるとはいえ、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会では、当初はおそらく儀式用として希少だった雑穀が、政治的統合の拡大・強化とそれに伴う相互作用の増大により、次第に食料として定着していった様子が窺えます。一方で本論文は、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会の雑穀消費が、同時代の中国の水準に及ばないことも指摘しています。中国では、漢王朝期でもおおむね、コムギ・オオムギ・マメ類は貧困層の飢饉対策用の社会的地位の低い食糧で、雑穀の方が重視されていたようです(関連記事)。この状況が変わるのは漢王朝末期で、製粉技術の革新により、コムギは麺類に用いられる価値の高い食材と認識されるようになりました。


参考文献:
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w
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