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ネアンデルタール人の洞窟壁画関連記事のまとめ

2018/10/18 16:56

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の洞窟壁画関連の記事がそれなりの本数となったので、今では、ネアンデルタール人ではなく現生人類(Homo sapiens)が描いただろう、と考えられているものも含めて、まとめてみます。以下は、フランスのショーヴェ=ポン・ダルク洞窟(Chauvet-Pont d'Arc Cave)を除いて、いずれもスペインの洞窟です。


●南部のネルハ洞窟(Nerja cave)

ネアンデルタール人の壁画?
https://sicambre.at.webry.info/201202/article_9.html

ネアンデルタール人の壁画の続報
https://sicambre.at.webry.info/201202/article_10.html

ネアンデルタール人の壁画に関する日本語での報道
https://sicambre.at.webry.info/201202/article_17.html

当初の想定より新しいネルハ洞窟の壁画の年代
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_30.html


●北部のエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟

さかのぼる旧石器時代のイベリア半島の洞窟壁画
https://sicambre.at.webry.info/201206/article_15.html

イベリア半島にある旧石器時代の洞窟壁画の年代の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201206/article_16.html

ネアンデルタール人所産の壁画の意義
https://sicambre.at.webry.info/201207/article_4.html

エルカスティーヨ洞窟の壁画の年代
https://sicambre.at.webry.info/201502/article_4.html


●北部のラパシエガ(La Pasiega)洞窟、西部のマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟、南部のアルダレス(Ardales)洞窟

ネアンデルタール人の洞窟壁画(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201802/article_33.html

ネアンデルタール人の洞窟壁画との見解に懐疑的な報道
https://sicambre.at.webry.info/201802/article_41.html

6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_33.html

6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直しへの反論
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_23.html


●ショーヴェ洞窟

ショーヴェ洞窟壁画の年代
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_9.html

ショーヴェ洞窟壁画を描いたのはまず間違いなくネアンデルタール人ではない
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_40.html


 これらのうち、ショーヴェ洞窟壁画を描いたのは発見当初より現生人類と考えられていましたが、ネアンデルタール人の所産との理解をネットで見かけたので、そうではない、という趣旨の記事を公開しました。ネルハ洞窟の壁画に関しては、当初はネアンデルタール人の所産である可能性が強く示されていましたが、その後、2万年前頃と明らかになり、ほぼ間違いなく現生人類の所産だと思います。エルカスティーヨ洞窟に関しても、当初はネアンデルタール人の所産である可能性が示唆されていましたが、この頃のエルカスティーヨ洞窟一帯は考古学的にはオーリナシアン(Aurignacian)期なので、現生人類の所産である可能性が高そうです。

 ラパシエガ・マルトラビエソ・アルダレスの3洞窟の壁画に関しては、当初、ネアンデルタール人が洞窟壁画を描いた決定的証拠として大いに注目されました。その後、反論も提示されましたが、再反論もなされており、やはりネアンデルタール人の所産である可能性がきわめて高いと思います。ただ、形象的な線画を描いたのがネアンデルタール人であるという決定的証拠はまだ得られていないようです。ネアンデルタール人も洞窟壁画を描いていたとなると、今後、形象的な線画の有無が現生人類とネアンデルタール人の決定的な違いとして一部?で強調されるようになるかもしれませんが、ネアンデルタール人も形象的な線画を描いた可能性は高い、と私は考えています。
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真核生物と近縁な古細菌の細胞骨格調節

2018/10/18 16:52
 真核生物と近縁な古細菌(アーキア)の細胞骨格調節に関する研究(Akıl, and Robinson., 2018)が公表されました。よく理解できてはいないのですが、重要な研究と思われるので、とりあえずまとめてみました。真核細胞の起源は明らかになっていません。最近、メタゲノミクス塩基配列解読によってAsgard上門アーキアで真核細胞遺伝子ホモログ候補が複数見つかり、これは真核細胞がアーキアドメイン内から進化したとする仮説と一致しています。しかし、これらの真核細胞様塩基配列の多くは相違が著しく、またこの上門アーキアに属する生物の実体が撮像されたり、培養が行なわれたりしていないため、アーキアのこのようなタンパク質が、真核細胞のそれらに対応するタンパク質と機能的にどの程度同等なのか、という疑問が呈されています。

 本論文は、Asgard上門アーキアが機能性のプロフィリンをコードしていると示し、このアーキア上門に属する生物が真核細胞の特徴の一つである調節されたアクチン細胞骨格を持つ、と明らかにしています。ロキ門アーキアのプロフィリン1、同じくプロフィリン2、それにオーディン門アーキアのプロフィリンは、プロフィリンの典型的な折りたたみ構造をとっていて、哺乳類のウサギアクチンと相互作用し、リン脂質依存的なGアクチンの隔離と、アクチンフィラメントの反矢尻端の伸長を促進できます。これは、12億年以上前に分岐した種間のタンパク質相互作用です。生化学的実験から、哺乳類アクチンがAsgard上門のプロフィリンの存在下で重合する、と明らかになっています。しかし、ロキ門・オーディン門・ヘイムダル門のプロフィリンは、矢尻端の伸長を妨げます。これらのアーキアのプロフィリンはアクチンフィラメントの自発的核形成も遅らせ、この影響はリン脂質が存在すると低下します。Asgard上門のプロフィリンはポリプロリンモチーフとは相互作用せず、プロフィリン–ポリプロリン間の相互作用は、おそらく真核生物ドメイン系統で後に進化した、と考えられます。

 これらの結果から、Asgard上門アーキアは祖先的で極性があり、プロフィリンによって調節されるアクチン系を持つと考えられます。Asgard上門のプロフィリンはリン脂質感受性なので、この系は膜に局在しているかもしれません。Asgard上門アーキアは、膜トラフィッキングやエンドサイトーシスに関わる真核生物様遺伝子候補もコードしていると予測されています。そのため、真核細胞の運動・ポドソーム・エンドサイトーシスで観察されるような、アクチンによって調節される真核細胞様の膜動態をこのようなアーキアがひき起こすことができるかはっきりさせるため、次に必要なのは画像化だと指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


細胞進化学:Asgard上門アーキアのゲノムにはアクチンを調節するプロフィリンがコードされている

細胞進化学:Asgard上門アーキアでは機能性プロフィリンがアクチン細胞骨格を調節する

 R RobinsonとC Akılは今回、Asgard上門アーキアに属するメンバーにコードされている真核細胞類似のタンパク質について、構造と機能を初めて解析したことを報告している。ロキ門の3つのプロフィリンに加え、トール門、ヘイムダル門、オーディン門のそれぞれ1つのプロフィリンについて、高品質な構造が解かれた。ロキ門のプロフィリンは、哺乳類アクチンと相互作用し、リン脂質依存的にGアクチンを隔離することが可能で、アクチンフィラメントの反矢尻端の伸長を促進できる。アーキアが持つ真核細胞様遺伝子の産物についてはほとんど分かっておらず、今回の研究はこのようなタンパク質が真核生物のタンパク質と同じような挙動をするのかどうかの検証に向けた重要な一歩である。これらの結果は、アーキアと真核生物の最終共通祖先の細胞生物学的性質や本来の姿の推定に明らかに関係しており、また、これによってAsgard上門アーキアに備わった真核生物様の特徴の1つに関する待望の機能データがもたらされた。



参考文献:
Akıl C, and Robinson RC.(2018): Genomes of Asgard archaea encode profilins that regulate actin. Nature, 562, 7727, 439–443.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0548-6
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文永の役日本勝利説は歴史修正主義?(追記有)

2018/10/17 17:51
 表題のような呟きがTwitterで流れてきました。まあ正確には、引用画像で流れてきたので、検索して見つけたわけですが。

アンゴルモア、100%見る気もしないけどよもや「実は日本が勝っていた」という歴史修正主義に走るつもりじゃないだろうな。

とのことです。『アンゴルモア』という漫画があることは私も知っており(読んだことはありませんが)、モンゴル襲来(文永の役・弘安の役)を扱った作品だと思っていたのですが、検索してみると、文永の役における対馬での戦いを扱っているそうです。『アンゴルモア』はアニメ化されて今年(2018年)7月〜9月まで放送されていたそうで、上記の発言はアニメ版を対象としているようです。近年でも、文永の役は日本側の惨敗だった、との見解をまともな研究者が提示することもあり(関連記事)、文永の役で日本が負けたとの見解を非専門家が主張しても、とくに問題はないと思います。しかし、文永の役日本勝利説は歴史修正主義的なのか、大いに疑問です。

 そもそも、戦争の勝利・敗北の判定には難しいところがあります。最も一般的と思われる基準は、開戦時の目的をどれだけ達成できたか、ということでしょうが、各陣営で目的が一致していない場合も多々あったでしょうから、判定は難しいと思います。また、開戦時の目的が曖昧だったり、途中から目的が変わったりすることも珍しくなく、たとえば豊臣政権の朝鮮侵略はその具体例です(関連記事)。その意味で、文永の役がどちら側の勝利だったのか、判定するのは難しいところがあります。

 しかし、25000とも27000とも33000とも推定されているモンゴル・高麗軍がわざわざ渡海して九州にまで攻めてきて、最終的には土地を占領できずに撤退したわけですから、モンゴルの敗北との評価もじゅうぶんあり得ると思います。少なくとも、「歴史修正主義」と判断されるほどの与太話ではないでしょう。文永の役も含めてモンゴル襲来を見直した研究では、文永の役の九州における戦闘は1日だけではなく10日ほど続き、大宰府まで攻め込んできたモンゴル・高麗軍を退けるなど、日本軍が善戦していた、と評価されています(関連記事)。モンゴル史研究の側からは、たとえば杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者』(関連記事)において、モンゴル側も日本側も自軍の敗北と考えたのではないか、と推測されています(P325)。

 確か、文永の役におけるモンゴル側の意図は威力偵察だった、との見解をどこかで読んだ記憶がありますが、それも有力な根拠のある推測ではないと思います。文永の役において、モンゴル・高麗軍が撤退し、戦闘において日本軍が惨敗したわけではなく、善戦していたらしいことから、日本が勝ったとの評価はさほど的外れではないと思います。もちろん、九州での当初の戦闘ではややモンゴル・高麗軍が優勢だったようですし、戦闘での被害者数は、あるいは日本軍の方が多かったかもしれません。しかし、それを根拠に日本の敗北とするのは、ノモンハン事件で日本軍が勝った、と評価するようなものでしょう(関連記事)。

 なお、上記の発言主は「わさび盛友」と名乗るアカウントです。わさび盛友氏は以前、今では凍結されたアカウントにて騎馬民族征服王朝説を支持する発言をしており、否定的に引用したことがあります。その時は、見かけた記憶があるものの、どこで見たのか、思い出せなかったのですが、その後、私がフォローしているアカウントとやり取りをしており(関連記事)、それをほぼリアルタイムで見ていた、と思い出しました。その時のわさび盛友氏のアカウントは凍結されているので、今では発言を確認することはできませんが、やり取りをしていたアカウントの発言からある程度のことは分かりますし、ある意味で衝撃的な発言でもあったので、私も割とよく覚えています。

 その時、わさび盛友氏は、日本史教科書の江戸時代の項目から「士農工商」という用語が消えることにたいして、「歴史修正主義」と批判していました。これにたいして、わさび盛友氏は、江戸時代の身分制度を否定する、と反発していました。それに対して、研究の進展により、江戸時代の身分制を示す用語として「士農工商」は相応しくないと明らかになった、と丁寧な説明があったのですが、わさび盛友氏は、『カムイ伝』に描かれた強烈な身分差別を否定するのか、と「反論」しました。さすがにこれには私も含めて多くの人が呆れたようです。

 そもそも、日本史教科書の江戸時代の項目から「士農工商」という用語が消えるのは、当時の身分制を示す用語として相応しくないと明らかになったからで、江戸時代の身分制を否定しているわけではありません。わさび盛友氏は、それを丁寧に解説されても認めるわけではなく、半世紀ほど前の漫画を「反論」の根拠として提示したわけで、本当にふざけた態度だと思います。本気でそう考えているのなら、知性にかなりの問題がありますし、理解していても自分の間違いを認めたくないだけで、ふざけた態度で誤魔化そうとしたのなら、人間性に問題があります。あるいは、その両方かもしれません。わさび盛友氏のこの態度は嘲笑されても仕方のないところで、ここまで愚劣な発言となると、アンチ「リベラル」のなりすましではないか、と疑いたくもなります。わさび盛友氏のその他の発言も少し読んでみた限りでは、本気である可能性の方がやや高いかな、と私は判断していますが。

 上述した文永の役に関する発言もそうですが、わさび盛友氏は自分の歴史観とは異なる見解を、安易に「歴史修正主義」と判断する傾向にあるようです。しかし、「士農工商」をめぐるやり取りにおける、歴史学の方法論・根拠・研究の進展を無視して、半世紀ほど前の創作を根拠に提示する、といったわさび盛友氏の言動は、まさに「リベラル」側でよく批判される「歴史修正主義」そのものだと思います。わさび盛友氏こそ、「リベラル」側の批判する「歴史修正主義者」と言うべきでしょう。なお、あまりにも低水準な懸念なのですが、一応念のために前もって述べておくと、現在・過去に関わらず「日本」を批判していることは、たとえその一定以上の割合が妥当だとしても、「歴史修正主義者」ではないことの証明にはまったくなりません。

 また、

ウヨさんやたら神風美化するけど北条時宗が元からの手紙無視したり使者切り捨てたりあり得ないことをしたから元が怒って元寇が起きたこととなんとか神風で追い返せたけど元から土地勝ち取ったわけじゃないから一生懸命戦った武士にあんまり恩賞与えられなくて幕府滅亡に繋がったこと知ってるのかな?

との呟きも見かけましたが、これは的外れだと思います。モンゴル襲来に関する近年の「ウヨさん」の見解は大まかには、神風を美化するのではなく(神風特攻隊を美化する「ウヨさん」は少なくないかもしれませんが)、日本軍が奮闘して勝利したのに、それを神風のおかげだと主張してきた歴史学は自虐的だ、というものだと思います。現代日本社会の非専門家層においても、モンゴル襲来に多少なりとも関心があるのならば、「神風史観」から脱却すべきなのだと思います(関連記事)。


追記(2018年10月18日)
 『アンゴルモア』でどこまで文永の役が描かれるのか分かりませんが、文永の役において対馬が占領されるところまでだとすると、日本が勝ったとの評価はかなり問題で、「(歴史捏造という程度の通俗的な意味合いでの)歴史修正主義」と言っても、大過はないかもしれません。しかし、わさび盛友氏は上記の発言以前に


鎌倉武士がモンゴル軍に勝ったとか、最強の軍団だとか。歴史修正主義どころか、歴史妄想主義ではないか。


とも呟いており、文永の役に限らず弘安の役に関しても、日本が勝ったとの評価は「歴史修正主義」、あるいはもっとひどい「歴史妄想主義」と考えているようです。ひじょうに偏向した認識だと思います。なお、本文では述べ忘れましたが、呉座勇一『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』では、文永の役におけるモンゴル軍優勢との見解は虚構で、初戦はモンゴル軍の事実上の敗北とみるのが妥当であり、一部で指摘されている、文永の役のモンゴル軍は威力偵察に過ぎず、撤退は予定通りだった、との見解も疑わしく、モンゴル軍が撤退したのは日本側の抵抗が予想以上に強力だったからではないか、と指摘されています(関連記事)。
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嗅覚と空間記憶の関連

2018/10/17 17:48
 嗅覚と空間記憶の関連についての研究(Dahmani et al., 2018)が公表されました。動物が嗅覚を持つようになったのは、環境におけるナビゲーションに役立てるためだったと考えられています。現在までに、嗅覚同定(何の匂いか特定すること)と空間記憶(環境中のさまざまな目標物同士の関係を学習し、認知地図を構築することに関与します)が関連している可能性を示すいくつかの証拠は集まっていますが、それらが直接検討されたことはありませんでした。

 この研究は、嗅覚同定と空間記憶が相互に関係しており、もしそうなら、両者が同じ脳領域に依存しているのではないかと仮説を立て、これらを示す直接的な証拠を探しました。この研究は、ボランティア57人が参加した実験で、さまざまな匂い(臭い)をかぎ分ける試験の成績が優秀だった被験者は、経路探索課題(仮想市街においてさまざまな目標物を手掛かりに進路を決定する課題)の成績も優秀だった、と明らかにしました。

 この研究はまた、磁気共鳴画像法を用いて、脳の左内側眼窩前頭皮質(mOFC)の厚みがあることと右海馬の容量が大きいことから、二つの課題における成績優秀者を予測できる、と見出しました。これは、嗅覚同定能力と空間ナビゲーション能力が同じ脳領域に基づいている可能性を示唆しています。さらに実施された試験では、mOFCに影響する脳病変を持つ9人の患者集団は、嗅覚同定課題と空間記憶課題の成績がいずれも低い、と明らかになりました。一方、mOFCに影響しない類似の脳病変を持つ9人の患者集団では、このような成績の低下は見られませんでした。

 今後さらに調べていく必要があるものの、これらの知見により、嗅覚の機能は元来、認知地図の構築と空間記憶を支えるものであったとする説が裏づけられた、とこの研究は主張しています。これはひじょうに興味深い研究だと思います。生物のある表現型が他の表現型と密接に遺伝的基盤を共有していることは珍しくないでしょうし、今後も次々と同様の事例が解明されていくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】嗅覚と空間記憶が関連している可能性

 ヒトの嗅覚と空間記憶は関連しており、両者が同じ脳領域に依存している可能性があることを明らかにした論文が、今週掲載される。

 動物が嗅覚を持つようになったのは、環境におけるナビゲーションに役立てるためだったと考えられている。現在までに、嗅覚同定(何のにおいかを特定すること)と空間記憶(環境中のさまざまな目標物同士の関係を学習し、認知地図を構築することに関与する)が関連している可能性を示すいくつかの証拠が集まっているが、それらが直接検討されたことはない。

 今回、Veronique Bohbotたちの研究グループは、嗅覚同定と空間記憶が相互に関係しており、もしそうなら、両者が同じ脳領域に依存しているのではないかと考え、これらを示す直接的な証拠を探した。Bohbotたちは、ボランティア57人が参加した実験で、さまざまなにおいをかぎ分ける試験の成績が優秀だった被験者は経路探索課題(仮想市街においてさまざまな目標物を手掛かりに進路を決定する課題)の成績も優秀だったことを明らかにした。

 Bohbotたちはまた、磁気共鳴画像法を用いて、脳の左内側眼窩前頭皮質(mOFC)の厚みがあることと右海馬の容量が大きいことから、2つの課題における成績優秀者を予測できることを見いだした。このことは、嗅覚同定能力と空間ナビゲーション能力が同じ脳領域に基づいている可能性を示唆している。さらに実施された試験では、mOFCに影響する脳病変を持つ9人の患者集団は、嗅覚同定課題と空間記憶課題の成績がいずれも低いことが判明した。一方、mOFCに影響しない類似の脳病変を持つ9人の患者集団では、このような成績の低下は見られなかった。

 Bohbotたちは、今後研究を深めていく必要があるものの、今回得られた知見によって、嗅覚の機能は元来、認知地図の構築と空間記憶を支えるものであったとする説が裏付けられたと主張している。



参考文献:
Dahmani L. et al.(2018): An intrinsic association between olfactory identification and spatial memory in humans. Nature Communications, 9, 4162
https://doi.org/10.1038/s41467-018-06569-4
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家畜と野生動物の共存が有益になる可能性

2018/10/16 16:26
 家畜と野生動物の共存が有益になる可能性を報告した研究(Huypens et al., 2018)が公表されました。地球全体で見ると、野生動物の大半は保護区外に住んでいるため、野生動物と人間のそれぞれの要求の潜在的な衝突を生み出しています。こうした問題の典型例がアフリカ東部のサバンナで、ゾウやキリンなどの野生種の生息地であるとともに、人間や家畜の居住地にもなっています。土地利用を巡る対立はありふれたもので、家畜の管理と野生動物の管理の間には固有のトレードオフがある、という仮説が提示されています。

 この研究は、ケニア中央部のサバンナのさまざまな地域を調べ、野生動物が優位な地域、家畜が優位な地域、共存している地域を比較しました。その結果、家畜が野生動物と共存している地域では、ダニの数が減り、飼料になる植物の質が向上するとともに、収入が野生動物ツーリズムと食肉・乳製品の生産の両方を通して得られる、と明らかになりました。さらに、家畜と野生動物が共存する地域で、家畜による収入やツーリズムによる収入が減少することはありませんでした。保護区は、大型の移動性野生動物の存続可能集団を維持するには小さすぎることが多いので、これらの知見は、地球規模で土地を共有して共存していく可能性について楽観視できる理由の一つになる、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


家畜と野生動物の共存が有益になる可能性

 家畜と野生動物を共存させると、ある条件下では、環境にも人間の幸福にも有益になる可能性があることを報告する論文が、今週掲載される。野生動物は家畜や人間と遭遇すると負けることが多いことから、そうした有益な状況の解明は、大型動物や歴史的風土の維持に不可欠である。

 地球全体で見ると、野生動物の大半は保護区外に住んでいるため、野生動物と人間のそれぞれの要求の潜在的な衝突を生み出している。こうした問題の典型例が東アフリカのサバンナで、ここはゾウやキリンなどの野生種の生息地であるだけでなく、人間や家畜の居住地にもなっている。土地利用を巡る対立はありふれたものであり、家畜の管理と野生動物の管理の間には固有のトレードオフがあるという仮説が生まれている。

 今回Felicia Keesingたちは、ケニア中央部のサバンナのさまざまな地域を調べ、野生動物が優位な地域、家畜が優位な地域、共存している地域の行く末を比較した。その結果、家畜が野生動物と共存している地域では、ダニの数が減り、飼料になる植物の質が向上するとともに、収入が野生動物ツーリズムと食肉・乳製品の生産の両方を通して得られることが分かった。さらに、家畜と野生動物が共存する地域で、家畜による収入やツーリズムによる収入が減少することはなかった。

 保護区は、大型の移動性野生動物の存続可能集団を維持するには小さ過ぎることが多いので、今回の知見は、地球規模で土地を共有して共存していく可能性について楽観視できる1つの理由となる。



参考文献:
Keesing F. et al.(2018): Consequences of integrating livestock and wildlife in an African savanna. Nature Sustainability, 1, 10, 566–573.
https://doi.org/10.1038/s41893-018-0149-2
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門脇誠二「西アジアにおける新人の拡散・定着期の行動研究:南ヨルダンの遺跡調査(2017年度)」

2018/10/15 16:35
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2017年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 11)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P19-27)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、ヨルダン南部アカバ県のカルハ山一帯(約3 ㎢、標高約1000 m)にある、中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての諸遺跡の調査結果を報告しています。カルハ山は死海地溝帯南部(アラバ渓谷)の東岸に位置し、隣接するヒスマ盆地がより東方のアラビア半島北西部に続いています。現在は年間降水量50mm以下の乾燥地帯で植生が乏しく、露出したカンブリア紀の砂岩に多くの岩陰が形成されており、その窪みに更新世以降の堆積物が残っています。

 トール・ファラジ(Tor Faraj)はカルハ山中心部の涸れ谷(ワディ・アガル)の北岸に位置する岩陰遺跡です。以前の調査で1.5 mほどの厚さの堆積が確認されており、そこから中部旧石器時代後葉の石器群が発見されています。D2層の遺物密度は低いものの、角礫が多く混じる堆積の下のE層では遺物密度が高く、堆積物に炭化物片や灰も混在しているので、炉址付近の居住痕跡と推測されています。有機物の保存は悪く、動物遺骸としては小さな破片のみが確認されています。D2層もE層も、C層と同様にルヴァロワ方式による剥片剥離が主体で、ポイントや石刃形態も発見されています。ただ、C層に比べると、単方向収束剥離によるルヴァロワ・ポイントが少なく、複数方向の剥離によってポイントや石刃、剥片形態を作り出す方式が多い、と指摘されています。この特徴はアムッド洞窟(Amud Cave)のB4層やウンム・エル・トゥレル遺跡のVI3層でも報告されています。

 トール・ファワズ(Tor Fawaz)は、カルハ山北部を北西から南東に延びる涸れ谷(ワディ・ヒュメイマ)の北岸に位置する岩陰遺跡です。以前の調査では、岩陰内の東端とテラス斜面の上部が発掘され、5千点以上の石器が収集されました。大型の石刃が特徴ですが、レヴァント地方上部旧石器時代の代表的文化であるアハマリアン(Ahmarian)やレヴァント地方オーリナシアン(Levantine Aurignacian)のどちらにも似ていないため、詳細な時期や文化が不明とされていました。再調査では、西側の発掘区で石器集中部が発見され、30〜45 cmの厚さの堆積から数千点の石器資料が回収されました。その技術形態学的な特徴は、剥片や石刃の打面が大きく、形態的にルヴァロワ様の尖頭器が含まれ、エンドスクレーパーなどの上部旧石器的な器種があることです。これらは上部旧石器時代初頭の石器群に類似していますが、剥片剥離の方向や放射性炭素年代から上部旧石器時代前葉への過渡期と推測されています。有機物の保存が悪く動物遺骸骨などは発見されていませんが、貝殻が5点収集されました。

 また、2016年度までに調査された遺跡の堆積物から年代測定も試みられているそうです。2016・2017年度の現地調査の結果、カルハ山一帯は文化的には、中部旧石器時代後葉(Late Middle Paleolithic)→上部旧石器時代初頭(Initial Upper Paleolithic)→上部旧石器時代初頭〜前葉への移行期(Initial‒Early Upper Paleolithic)→上部旧石器時代前葉(Early Upper Paleolithic)→終末期旧石器時代前葉(Early Epipaleolithic)と移行していくことが確認されました。カルハ山一帯では人類遺骸が発見されていませんが、レヴァントなど他地域の人類遺骸記録から、中部旧石器時代後葉にはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在していたものの、上部旧石器時代初頭以降は現生人類(Homo sapiens)の人口が増加し、遅くとも上部旧石器時代前葉までにネアンデルタール人は消滅していた可能性が高い、と本論文は推測しています。また本論文は、西アジアにおいても文化や行動の変化に地域差があった可能性は単位、とも指摘しています。


参考文献:
門脇誠二(2018)「西アジアにおける新人の拡散・定着期の行動研究:南ヨルダンの遺跡調査(2017年度)」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2017年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 11)』P1-5
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シャテルペロニアンの担い手の検証

2018/10/14 18:51
 シャテルペロニアン(Châtelperronian)の担い手を改めて検証した研究(Gravina et al., 2018)が公表されました。西ヨーロッパにおける中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行期は、現生人類(Homo sapiens)によるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の置換とも関連しており、高い関心が寄せられ、激しい議論が続いています。当ブログではこれまで、フランス西部〜スペイン北部で確認されるシャテルペロニアンをヨーロッパの中部旧石器時代〜上部旧石器時代の「移行期インダストリー」と把握してきましたが、本論文では、石刃・骨器・装飾品・顔料といった要素の見られるシャテルペロニアンは現在、西ヨーロッパで最初の真の上部旧石器時代インダストリーと考えられている、と指摘されています。

 ともかく、シャテルペロニアンはヨーロッパの人類進化史をめぐる議論において重要な役割を担っており、とくに、シャテルペロニアンの担い手がどの系統の人類なのか、という問題は注目されています。当初、シャテルペロニアンには上部旧石器的要素が見られることから、現生人類が担い手と考えられていました。その後、シャテルペロニアンの人工物とネアンデルタール人遺骸との共伴が報告され、ネアンデルタール人が担い手と考えられるようになりました。しかし、本論文が指摘するように、シャテルペロニアンとネアンデルタール人遺骸との共伴は、フランスの2ヶ所の遺跡でしか報告されていません。

 一つは、アルシ=スュル=キュール(Arcy-sur-Cure)のトナカイ洞窟(Grotte du Renne)のシャテルペロニアン層の最下層における散乱した歯と側頭骨で、もう一つは、サン=セザール(Saint-Césaire)のラ・ロシュ=ア=ピエロ(La Roche-à-Pierrot)のシャテルペロニアン層の部分的なネアンデルタール人骨格です。これらネアンデルタール人遺骸とシャテルペロニアンの関係をめぐって長く議論が続いており、シャテルペロニアンの担い手については、以下のような仮説が提示されてきました。

 まず、シャテルペロニアン層のネアンデルタール人の骨は攪乱の結果で現生人類が担い手という説(仮にA説としておきます)と、大きな攪乱はなく、ネアンデルタール人が担い手という説に大きくは区分されます。ネアンデルタール人が担い手という仮説はまず、シャテルペロニアンの象徴的思考を示す人工物が本当にシャテルペロニアンのものなのか否か、という点で分類されます。一方は、それら象徴的思考を示す人工物は後世の層からの嵌入であり、シャテルペロニアン期のものではない、と想定します(仮にB説としておきます)。

 さらに、それら象徴的思考を示す人工物がシャテルペロニアン期のものだと認めたうえで、その製作者がどの系統の人類か、という点で分類されます。シャテルペロニアン期にフランス西部〜スペイン北部にまで現生人類が進出していたのか、微妙な問題です。当時すでに現生人類がこの地域に進出していたとする立場からは、シャテルペロニアンに見られる象徴的思考を示す人工物はネアンデルタール人が現生人類から入手したか(仮にC説としておきます)、ネアンデルタール人が(あるいはその象徴的意味を理解せずに)模倣して作ったのだ、との見解が提示されています(仮にD説としておきます)。

 これに対して、ネアンデルタール人が独自にシャテルペロニアンを発展させたと主張する見解もあります(仮にE説としておきます)。また、ネアンデルタール人の所産と考えられる遺跡数が減少するなか、フランス南西部〜スペイン北東部にかけてシャテルペロニアンの遺跡が増加していることから、シャテルペロニアン遺跡の全てがネアンデルタール人の所産と考えると矛盾点が多く、現生人類がその形成に大きく関与していたのではないか、との見解(仮にF説としておきます)も提示されています(関連記事)。シャテルペロニアンは、ヨーロッパに限らず、現生人類によるネアンデルタール人の置換理由、さらには現生人類と比較してのネアンデルタール人の認知能力といった、関心の高い問題の解明の重要な手がかりになりそうだという点でも、注目されています。

 前置きが長くなってしまいましたが、本論文は、ラ・ロシュ=ア=ピエロ遺跡のネアンデルタール人遺骸が発見された層を改めて検証しています。その結果明らかになったのは、少なくともネアンデルタール人遺骸の一部は、二次埋葬や後世の嵌入により本来の年代と異なる層に位置している可能性は低そうで、本来その層にあっただろう、ということです。また、ネアンデルタール人遺骸の層では確かにシャテルペロニアン石器も発見されていますが、圧倒的に多いのはシャテルペロニアンより前のインダストリーであるムステリアン(Mousterian)石器で、ネアンデルタール人遺骸はシャテルペロニアンではなく、ムステリアンと関連づけるべきだ、と本論文は指摘しています。つまり、ラ・ロシュ=ア=ピエロ遺跡において、シャテルペロニアン人工物とネアンデルタール人遺骸が共伴していると示すような信頼性の高い証拠はない、というわけです。

 上述したように、シャテルペロニアンの担い手は、西ヨーロッパにおける中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行期と、現生人類によるネアンデルタール人の置換理由、さらには両者の認知能力の違いを理解するうえで重要となります。これまで、たびたび疑問が呈されてはいたものの、シャテルペロニアンの担い手をネアンデルタール人と想定する見解は一定以上支持されていたというか、圧倒的ではないとしても、むしろ優勢だったように思います。しかし本論文は、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとの関連を示す証拠とされた2ヶ所の遺跡のうち、ラ・ロシュ=ア=ピエロ遺跡では、それを示すような信頼性の高い証拠はない、と指摘しています。

 ただ、本論文の見解が妥当だとしても、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとの関連を示す証拠とされた2ヶ所の遺跡のうち、トナカイ洞窟の事例は依然として有効だと思います(関連記事)。もっとも、トナカイ洞窟におけるシャテルペロニアンとネアンデルタール人との関連も、今後の検証により否定されることになるかもしれません。もしそうなると、上述した、シャテルペロニアン遺跡の一部に現生人類が関与したとの仮説は有力になっていくかもしれません。もちろん、「先祖返り」して、シャテルペロニアンの担い手は現生人類との仮説が定着する可能性も考えられます。

 イベリア半島北部では、ムステリアンの終焉から数千年以上経過して、シャテルペロニアンと、現生人類が担い手の可能性のきわめて高そうなオーリナシアン(Aurignacian)とが、500〜1000年ほど重なっていることも注目されます(関連記事)。ヨーロッパのムステリアンの担い手はネアンデルタール人のみでしょうから、現生人類の拡散してきた地域では、現生人類の影響も受けつつ上部旧石器的なインダストリーに移行したネアンデルタール人集団のみが、短期間とはいえ現生人類集団の圧力に抵抗できて共存した、とも考えられます。あるいは、シャテルペロニアンの担い手の一部もしくは全ては現生人類で、ネアンデルタール人との接触によりシャテルペロニアンを開発した、とも考えられます。

 ネアンデルタール人が独自にシャテルペロニアンを開発した可能性(上記区分ではE説)も考えられますが、イベリア半島北部ではオーリナシアンがシャテルペロニアンに先行しそうですから、シャテルペロニアンの全てもしくは一部がネアンデルタール人の所産だとしても、現生人類の影響を想定する方が妥当なのかもしれません。シャテルペロニアンの担い手は、現生人類と比較してのネアンデルタール人の認知能力の評価、さらにはネアンデルタール人の絶滅要因とも関わってくるだけに、シャテルペロニアンをはじめとして、ヨーロッパの中部旧石器時代〜上部旧石器時代の各インダストリーの担い手と起源・展開に関する研究の進展は注目されます。


参考文献:
Gravina B. et al.(2018): No Reliable Evidence for a Neanderthal-Châtelperronian Association at La Roche-à-Pierrot, Saint-Césaire. Scientific Reports, 8, 15134.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-33084-9
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大河ドラマ『西郷どん』第38回「傷だらけの維新」

2018/10/14 18:50
 新政府軍と上野に立て籠もった彰義隊の戦いが始まります。彰義隊討伐には時間がかかる、と西郷吉之助(隆盛)は考えていましたが、大村益次郎の作戦により半日で鎮圧します。時代を先導してきて、「江戸無血開城」を達成して名声が頂点に達した感のある吉之助ですが、すでに時代に取り残されつつあることを示唆するような展開でした。これ以降、北陸・東北・北海道へと戦線は拡大し、新政府軍は鎮圧に1年以上を要しました(戊辰戦争)。

 この間、大村の要請を受けて吉之助は薩摩に戻り、薩摩藩の精兵を率いて東日本へと進軍します。吉之助の弟の吉二郎も従軍を希望し、戦死します。これも、名声が頂点に達するなか、吉之助の前途の暗さを予感させる展開でした。兄弟の絆や吉二郎の鬱屈が以前からもっと描かれていればよかったのですが、さすがに40回近く視聴を続けると、本作にそこまで望めないことは理解できるので、とくに不満はありません。吉之助は東京に留まらず、薩摩に帰国します。

 今回は全体的に暗いというか、吉之助の迷走が強調された印象を受けます。次回からの明治編も、こんな感じで進むのでしょうか。本作と比較対象になる『翔ぶが如く』は1990年放送で、今年(2018年)と日付・曜日が一致していますが、すでに8月5日放送分から明治編に入っており、本作は2ヶ月半ほど進行が遅れています。『翔ぶが如く』では10月14日放送分で、吉之助は大久保一蔵(正助、利通)と対立して敗れたことにより下野するのですが、本作の進行はあまりにも遅いと思います。明治編はかなり省略されることになりそうで、残念ではあります。西南戦争は2回ほど構わないので、吉之助の下野の前を少しでも多く描いてもらいたいものです。次回予告を見ると、語りが吉之助の長男である西郷菊次郎という設定のようで、これには驚きました。明治編では菊次郎が重要な役割を担うのでしょうか。
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Eric H. Cline『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』

2018/10/14 10:37
 エリック・H・クライン(Eric H. Cline)著、安原和見訳で、筑摩書房より2018年1月に刊行されました。原書の刊行は2014年です。本書は、後期青銅器時代となる紀元前1500〜紀元前1200年頃の、エジプト・ギリシア・アナトリア半島・レヴァントなど東地中海地域〜メソポタミア地域の諸勢力がいかに密接に結びついていたのか、詳しく解説していった後、紀元前13世紀末?〜紀元前12世紀前半もしくは半ば頃までの、この地域の諸勢力の衰退・滅亡や都市の崩壊・放棄などの広範な破滅的事象を解説していきます。後期青銅器時代において、東地中海地域〜メソポタミア地域まで「グローバル化」が進展していたものの、それが紀元前12世紀前半もしくは半ば頃までには崩壊し、鉄器時代へと移行していった、というのが本書の見通しです。

 本書の主題は、おも東地中海地域〜メソポタミア地域の古代「グローバル」文明の崩壊ですが、その前提となる紀元前1500〜紀元前1200年頃の東地中海地域〜メソポタミア地域の「グローバル」文明の解説が丁寧でたいへん面白く、有益だと思います。これは、後期青銅器時代のこの地域についてかなり解明されているからでしょう。それは、近代を主導したヨーロッパ系勢力(アメリカ合衆国も含みます)にとって、自らの起源とも関わるのでこの地域への関心が高く、研究が進展していることも一因なのでしょうが、当時この地域が世界で「最も先進的」だったので、複数言語の文字記録が多く残っているからでもある、と思います。

 本書が描く後期青銅器時代の東地中海地域〜メソポタミア地域像はたいへん魅力的です。後期青銅器時代におけるこの地域の、エジプト・ミュケナイ・ヒッタイト・ミタンニ・アッシリア・カッシートなどの諸勢力は、時に戦争・禁輸措置などで敵対しつつも、交易・外交交渉・婚姻などを通じて緊密なつながりを構築していました。本書はこうした状況を古代の「グローバル化」と呼んでいます。そこではある種の「国際社会」が成立していた、とも言えそうです。もっとも、解明が進んでいるとはいっても、3000年以上前のことですから、大きな限界はあり、見解の異なる問題は少なくありません。本書は、簡潔な根拠とともに丁寧に複数の見解を提示することが多く、この特徴は「古代グローバル文明」の「崩壊」についての解説で顕著です。単純明快な解説ではありませんが、一般向け書籍といえども、そうした良心的な姿勢が好ましいとは思います。

 本書の主題となる「古代グローバル文明」の崩壊について、本書は具体的な状況とその解釈にかなりの分量を割きつつ、その要因について検証しています。要因を論じるのにまず必要なのは具体的な状況の解明ですが、本書からは、各遺跡の崩壊状況とその要因、さらには年代についても、さまざまな議論がある、と了解されます。じっさい、全域が一律に崩壊したわけでもないようです。本書は、そうした具体的な状況に関するさまざまな解釈とその根拠を解説していきますが、まだはっきりしない点も多いようで、もどかしさもあります。

 後期青銅器時代の東地中海地域の「崩壊」について、それぞれの遺跡で崩壊年代について少なからずそれぞれ議論はあるものの、紀元前13世紀末?〜紀元前12世紀前半もしくは半ば頃にかけて、東地中海地域で多くの都市が破壊されたり放棄されたりしたことは確かなようです。この間、ミュケナイやヒッタイトのような当時の「大国」も崩壊し、エジプトも衰退した、と本書は論じます。古典的学説では、この崩壊をもたらしたのは「海の民」とされていましたが、現在では、地震・旱魃などの天災説や、「海の民」も含む諸集団の侵略や戦術の変化といった人災説など、さまざまな仮説が提示されており、本書はそれらの説を丁寧に取り上げています。

 本書はこうしたさまざまな仮説にたいして、慎重な表現を用いていますが、東地中海地域の「古代グローバル文明の崩壊」を旱魃や「海の民」の襲来など単一の要因に帰するのは間違いだろう、と主張します。本書の見解は妥当だと思いますが、一方で、一般向け書籍における単純明快な説明ではないだけに、不満を抱く読者は少なくないかもしれません。本書は、単一ではなく一連の災厄が複合的に作用して増幅されていき、緊密につながった「国際社会」が崩壊したのではないか、との見解(システム崩壊説)を提示しています。

 しかし本書は、システム崩壊説でも単純すぎるかもしれない、と指摘します。本書は代わりに複雑性理論を提示し、後期青銅器時代末期の東地中海地域の「崩壊」は、一部に変化があるとシステム全体が不安定になる事例として解釈できるかもしれない、と指摘します。ともかく、この「古代グローバル文明の崩壊」過程と要因が、たいへん複雑だった可能性は高く、今後の研究の進展により、さらに説得力のある仮説が提示されるのではないか、と期待されます。

 本書は広範な地域の多様な議論を取り上げてまとめており、著者が博学で整理能力に長けた人である、と了解されます。本書でも言及されていますが、「グローバル化社会」の崩壊の実例として、現代との類似性を見たり、現代への教訓を引き出したりする読者も少なくないでしょう。私も、現代社会の生活・文化水準が、天災・人災などにより大打撃を受けて低下する可能性を、常に懸念しておくべきだとは思います。まあ、天災とはいっても、その備えや事後の救済・復旧活動など人災的側面もあるのは、東日本大震災の事例からも現代日本人には分かりやすいと思います。また、人災とはいっても、戦争やテロや国内弾圧などだけではなく、政策も大きな影響を及ぼし得ることは、現在のベネズエラの事例からも明らかでしょう。

 ただ、本書を読んでも、「古代グローバル文明」の「崩壊」との評価がどこまで妥当なのか、やや疑問も残りました。それは、「崩壊」の前後でどれだけ具体的に変わったのか、本書の解説ではどうもはっきりしないように思えたからです。それは、本書に引用された膨大な参考文献を読んでいくべきなのかもしれませんが、「崩壊」の前後の比較について、もっと分量を割いて具体的に解説すべきだったのではないか、と思います。この点では、ローマ帝国西方の崩壊を論じた見解の方が、ずっと具体的で説得力があったように思います(関連記事)。もっとも、後期青銅器時代よりもローマ帝国の方がずっと史実は解明されているので、仕方のないところではありますが。
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6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直しへの反論

2018/10/13 11:36
 6万年以上前とされたイベリア半島の洞窟壁画の年代の見直しへの反論(Hoffmann et al., 2018C)が公表されました。今年(2018年)2月に、スペインの洞窟壁画の年代が6万年以上前までさかのぼると公表され(Hoffmann論文)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産である可能性が高いということで、大きな話題を呼びました(関連記事)。具体的には、北部となるカンタブリア(Cantabria)州のラパシエガ(La Pasiega)洞窟、ポルトガルとの国境に近く西部となるエストレマドゥーラ(Extremadura)州のマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟、南部となるアンダルシア(Andalucía)州のアルダレス(Ardales)洞窟です。

 もっとも、これら3洞窟の壁画が現生人類(Homo sapiens)の所産である可能性も一部で指摘されていましたし(関連記事)、そもそも年代に疑問が呈されていることも当ブログで取り上げました(関連記事)。先月(2018年9月)、これら洞窟壁画の年代で古いものには肯定的証拠がなく、新しい年代は信頼性が高いものの、「芸術的」表現とは言えない、と指摘した批判(Slimak論文)が公表されました(関連記事)。本論文はこの批判への反論となります。以下、本論文の内容を短くまとめました。

 Slimak論文は、Hoffmann論文の見解が正しいとすると、ヨーロッパの洞窟壁画に25000年の空白期間が存在する、と指摘します。じゅうらい、ヨーロッパで最古の洞窟絵画はスペイン北部のカンタブリア州にあるエルカスティーヨ(El Castillo)洞窟で発見されており、40800年前頃以前と推定されていました(関連記事)。Hoffmann論文はヨーロッパにおける洞窟壁画の年代が65000年前よりもさかのぼると推測したので、そうだとすると、ヨーロッパの洞窟壁画に25000年の空白期間が存在する、というわけです。しかし、それはHoffmann論文を誤解したためで、Hoffmann論文はそうした空白期間(中断)の存在を示唆していません。アルダレス洞窟の壁画のうち、年代の根拠とされた標本の一つであるARD16の45900年前という下限年代と、ARD 08・09・06標本の63700年前という上限年代および32100年前という下限年代は、Slimak論文の云う「空白期間」に該当します。じっさい、Hoffmann論文の65000年以上前の壁画を除外しても、数百点もの壁画と関連する年代値が、空白期間に該当します。またSlimak論文は、アルダレス洞窟の47000年前頃以降の赤い堆積物で覆われた二次生成物の年代の信頼性は高いと指摘しつつも、それが人為的なのか疑問を呈していますが、100年以上の研究で人為的と確定しており、さらには技巧的との認識すらあります。

 Hoffmann論文にたいするSlimak論文の疑問点は、(1)年代測定の試料となった炭酸塩は、信頼性の高い年代が得られる「閉鎖系」ではなく、「開放系」だったのではないか、(2)炭酸塩形成中の原料となる水に含まれている「非放射性」トリウム230により測定年代がじっさいより古くなってしまう可能性、(3)炭酸塩形成中の原料となる砕屑物による年代補正、という3点に関して疑問を呈しています。本論文は、Slimak論文のこれら3点の疑問点を検証しています。

 (1)Slimak論文が指摘するように、Hoffmann論文は系列的な標本抽出方法論を開放系か閉鎖系かの検証に用いました。第二次標本の年代は層序学的に正しく、外側から内側へと顔料に近づくにつれて、年代が古くなります。開放系では、第二次標本の年代学的順序がこのように秩序だっていることはほとんどあり得ません。Hoffmann論文は複数の第二次標本を用いて検証しており、閉鎖系ではなく開放系の炭酸塩を年代測定の試料としたのではないか、との疑念は払拭されます。

 (2)炭酸塩形成中の原料となる水に含まれている、いわゆる非放射性トリウム230の問題に関して、Hoffmann論文では、壁画の年代を測定した3ヶ所の洞窟すべてで、標本のなかに1000年前以降と年代測定されたものもありました。この結果は、水滴などによりトリウム230が形成中の炭酸塩に多く含まれ、実際よりも古い年代値が得られた、とする仮説とまったく一致しません。水滴などによりトリウム230が形成中の炭酸塩に多く含まれたとすると、ウラン-トリウム年代法では1000年前以降という新しい年代は得られないからです。

 (3)炭酸塩形成中の原料となる砕屑物汚染の補正を考慮すると、ラパシエガ洞窟の標本(PAS34c)に大きな不確実性があるの確かで、Hoffmann論文でも補足で長く議論されました。Hoffmann論文は、選択した補正要因が、同じく砕屑物補正の影響を受けるウラン234/ウラン238の比率から見ても適切だと示しました。Slimak論文は、ラパシエガ洞窟の他の全標本と一致しない、PAS34cのウラン234/ウラン238比率を利用するよう提案しますが、その効果を説明していません。さらに、PAS34cを除外しても、ラパシエガ洞窟の他の標本であるPAS34aとPAS34bは53000年前という下限年代を示しており、ラパシエガ洞窟の壁画が上部旧石器時代よりも前であることを示唆しています。

 Slimak論文は、Hoffmann論文の結果に由来する年代線に基づき、PAS34の年代がもっと新しい、と論じています。しかし、3点のデータポイントに由来する年代線は妥当ではなく、最低限5点が必要となるでしょう。さらに、これらの皮殻タイプが短期間で形成されるとの推測は、以前の結果からは支持されません。ウラン-トリウム年代法により系列的に年代測定された流華石への仮説的例示からは、Slimak論文の年代線の誤りがどのように生じるのか、示します。Slimak論文の年代線は25000年間の洞窟壁画の空白期間という仮説と一致しませんし、その高い砕屑物補正は大まかに言って、標本が同年代という間違った推測の結果です。Slimak論文の年代線は、より新しい標本の結合に偏向しています。Slimak論文の手法は、PAS34a・b・c標本が同時代だと示せなければ、不適切です。

 炭酸塩標本は、砕屑物のトリウムによりある程度は汚染され、Slimak論文が提案した、トリウム232/ウラン238比もしくはトリウム232/ウラン234比の測定に基づく信頼性の閾値は完全に恣意的です。より重要なのは、適用された補正年代の信頼度です。各遺跡への年代とトリウム232/ウラン234比の間に明確な正の相関性はなく、その年代は砕屑物補正とは比較的関連していません。アルダレス洞窟では、標本ARD5およびARD13bの現実的なウラン238/トリウム232比の値は、依然として59000年前という下限年代を示します。この標本の補正年代がSlimak論文の推測する47000年前以降と示すには、ひじょうに非現実的な砕屑物性のウラン238/トリウム232比が要求されます。Hoffmann論文の砕屑物に関する年代補正は堅牢です。

 マルトラビエソ洞窟の標本は、より高い砕屑物のトリウムにより特徴づけられます。したがってHoffmann論文では、砕屑物構成を直接的に特徴づける余分な努力がなされました。マルトラビエソ洞窟からの堆積物が集められ、標本の砕屑物断片の代用物として分析されました。二次生成物柱もまた標本抽出され、一連の6点の成長層が年代測定され、堆積物に由来する補正を制御します。分析の結果、これらの標本は補正年代に大きく影響を及ぼすには充分ではない、と明らかになりました。Slimak論文は、マルトラビエソの手形は中部旧石器時代になる、というHoffmann論文の見解に疑問を呈しましたが、それは単一の標本に基づいた年代だという不正確な認識に基づくもので、退けられます。マルトラビエソ洞窟の一部の壁画の年代は、63600+9600-8400年前と推測されます。

 現時点での証拠に基づくと、ヨーロッパにおいて洞窟壁画は65000年前以前に始まって、旧石器時代にわたってずっと断続的に描かれた、との想定が最もあり得そうです。Slimak論文は、ヨーロッパ中央部のボフニチアン(Bohunician)とフランス地中海沿岸のネロニアン(Neronian)という二つの複合技術の年代が5万年前頃で、現生人類と関連している可能性を指摘します。Slimak論文は、年代の信頼性が高いと主張する、アルダレス洞窟の47000年前頃以降の赤い堆積物が人為的か疑問を呈していますが、上述したように、人為的である可能性は高いでしょう。しかし、それが人為的だったとしても、47000年前頃にヨーロッパに現生人類が到達していた可能性を指摘することで、ネアンデルタール人は洞窟壁画を描けなかった、と主張する人々にとって、Slimak論文の見解は受け入れやすくなっています。しかし、Hoffmann論文を改めて検証した結果、その推測には根拠がありませんでした。ヨーロッパ最古の現生人類はルーマニアのワセ1(Oase 1)下顎骨で、年代は4万年前頃以降です(関連記事)。一方、直接的に年代測定された5万〜4万年前頃のネアンデルタール人遺骸は、ヨーロッパ中で確認されています。これらの年代的なパターンは、ヨーロッパ最初の洞窟芸術の制作者がネアンデルタール人だと示唆しています。

 以上、ざっと本論文の指摘を見てきました。私は門外漢なので、ただちに的確な結論を下すことはとてもできませんが、乏しい知見で判断すると、本論文の反論の方にずっと説得力があるように思います。現時点では、ヨーロッパにおいて洞窟壁画を初めて描いたのはネアンデルタール人で、現生人類の影響はなかった、と考えるのが節約的だと思います。もちろん、現生人類がアフリカで独自に洞窟壁画を描き始めていたとしても不思議ではなく、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Hoffmann DL. et al.(2018C): Response to Comment on “U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art”. Science, 362, 6411, eaau1736.
https://doi.org/10.1126/science.aau1736
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宋代以降の中国人を尊敬しない日本人

2018/10/12 16:49
 日本で尊敬される「中国人」の大半が宋代より前の人物である理由について論じた記事が公表されました。「春秋時代の中国人は生気に満ち溢れ、品格もあったと紹介したほか、漢や唐の時代の中国人は自信に溢れ、余裕と覇気があった」のに対して、「明や清の時代の中国人は鈍感で脆弱、そして創造力も失っていた」とか、春秋時代は「平等や独立が重視された時代」だったのに、「明や清の時代では、政府の役人は名声と利益以外に関心がなく、汚職が蔓延り、平等や独立はもちろん、尊厳や人格といったものも社会からなくなった」とか、率直に言って、大した根拠もない与太話としか思えません。しかし、信頼性の高い調査はないかもしれませんが、現代日本社会で尊敬される「中国人」の大半が宋代より前の人物である可能性は高いと思います。もちろん、王陽明など例外もいるでしょうが。

 この一因は、「元代以降の日本による中国軽視」の原因を分析した記事にたいする雑感で述べたこととかなり重なりますが、遣唐使の「廃止(実際は延期)」以降、「日本」は「中国」の影響を受けず独自の文化を発展させていった、との認識が現代日本社会の一般層では定着しているからでしょう(以下、煩雑になるので「中国」も「日本」も「」で括りません)。この認識が間違っており、唐滅亡以後も日本が中国文化の影響を強く受け続けたことは、河内春人「国風文化と唐物の世界」などで指摘されています(関連記事)。さらに、上記の雑感でも述べましたが、日本では江戸時代において中国文化への傾倒が頂点に達し、この状況が変わるのは、中国文化とは大きく異なる近代ヨーロッパ文化の本格的な受容以降のことでした。

 なお、上記の記事にたいして、「ふざけるな。宋王朝は中華文明の精華やぞ。現代の歴史家に妙に評価が高いモンゴル帝国(元王朝)が偉大なる中華文明を何百年も以前の水準に後退させた。モンゴル帝国の拡大は人類史最大の厄災だったんだよ」との呟きを見かけました。しかし、以前にも述べましたが(関連記事)、大元ウルス治下の中国において出版文化が盛んになり、朱子学が普及していったわけで、モンゴル帝国の拡大が「中華文明を何百年も以前の水準に後退させた」との評価は的外れだと思います。

 もっとも、「明代のはじめ100年あまりは、まったく文化不毛となった。社会の暗黒さと、文化や著述の限りない乏しさは、中国史上で突出している。モンゴル治下における中国社会・経済・文化の繁栄・活発ぶりとは、両極端である。むしろ、中国文化の良さの多くは、明代のはじめ100年いじょうの空白で、いったん断絶したといってもいい。野蛮なモンゴルを追いはらって、中華文明が蘇ったなどというのは、誤解もはなはだしい」との杉山正明氏の評価(関連記事)もまた、行き過ぎかもしれませんが。

 ただ、大元ウルスの中国統治への評価の低さには理由がないわけでもなく、14世紀の中国の混乱は、大元ウルスの統治の失敗と言えるでしょうし、中国統治に関しては、おそらく後のダイチン・グルン(大清帝国)の方が上手く行なっていたのだろう、とは思います。もっとも、これに関しても、14世紀におけるユーラシア規模の気候悪化の影響が大きかったとの見解も提示されており、日本においても、観応の擾乱も含む南北朝時代の争乱が長引いた背景になっていた、との指摘もあります(関連記事)。その意味では、華夷の区別を掲げ、中国社会における南北の経済格差を解消して南北を統合するために、先進的な南を後進的な北に合わせようとして、貿易・貨幣を制限して現物主義を採用し、江南を弾圧した初期明朝の政策(関連記事)も、単にその守旧的・理念的にすぎる傾向に起因する時代錯誤ではなく、ユーラシア規模の気候悪化により混乱した中国社会への対応として評価できるのかもしれません。
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ディプロドクス科恐竜の生活様式

2018/10/12 16:46
 ブロントサウルスなどの首の長い草食恐竜であるディプロドクス科恐竜の生活様式に関する研究(Woodruff et al., 2018)が公表されました。この研究は、これまでに発見されたものの中で最も小さなディプロドクス科恐竜の頭蓋骨(全長約24cm)を調べました。より大きな化石標本と比較すると、幼若体は単に成体を小型化したものではなく、自らの親(成体)よりも祖先に似た身体的特徴を有していた、と明らかになりました。この現象は「反復発生」として知られています。幼若体の身体的特徴は、個体が成長するとともに、成体に見られるような、より進化した(派生した)状態に変化していきました。

 この研究で検証された幼若体の頭蓋骨と歯の独特な特徴は、ディプロドクス科恐竜の生活様式を解明する手掛かりとなります。本論文は、成体の吻部が幅広くて四角いのに対して、幼若体の吻部は細く短いことから、幼若体の食餌には成体の食餌よりも多くの種類の植物物質が含まれていた可能性を示唆しています。また、成体がより開放的な生息地の地面で限られた種類の食物を採餌していたのに対し、幼若体は森林で採餌していた可能性も指摘されています。

 この研究は、こうした知見が、ディプロドクス科恐竜の親が仔の世話をせず、仔は森林で年齢別の群れの中で生活していたとする学説を裏付ける証拠になるかもしれない、と指摘しています。ディプロドクス科恐竜の孵化したての幼体と成体のサイズにきわめて大きな差があることから、親と仔が別れて生活したことで幼体が踏みつぶされないように保護され、また、幼若体の生息地が森林にあったことで捕食者からも守られていた可能性がある、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】ディプロドクス科恐竜のこれまでで最も小さな頭蓋骨から竜脚類恐竜の生活を解明する手掛かりが見つかる

 ディプロドクス科恐竜(ブロントサウルスなどの首の長い草食恐竜)の幼若体は、食餌内容や身体的特徴が成体とは異なっており、親から離れて別の群れで生活していた可能性を示唆する論文が、今週掲載される。

 今回D. Cary Woodruffたちの研究グループは、これまでに発見されたものの中で最も小さなディプロドクス科恐竜の頭蓋骨(全長約24センチメートル)を調べ、未成熟なディプロドクス科恐竜の知られざる側面を明らかにした。より大きな化石標本と比較すると、幼若体は単に成体を小型化したものではなく、自らの親(成体)よりも祖先に似た身体的特徴を有していたことが明らかになった。この現象は「反復発生」として知られる。幼若体の身体的特徴は、個体が成長するとともに、成体に見られるような、より進化した(派生した)状態に変化していった。

 今回の研究で検討された幼若体の頭蓋骨と歯の独特な特徴は、ディプロドクス科恐竜の生活様式を解明する手掛かりとなる。成体の吻部が幅広くて四角いのに対し、幼若体の吻部は細く短いことから、幼若体の食餌には成体の食餌よりも多くの種類の植物物質が含まれていた可能性が示唆される。また、成体がより開放的な生息地の地面で限られた種類の食物を採餌していたのに対し、幼若体は森林で採餌していた可能性があるという。Woodruffたちは、こうした知見が、ディプロドクス科恐竜の親が仔の世話をせず、仔は、森林で年齢別の群れの中で生活していたとする学説を裏付ける証拠となるかもしれないと考えている。ディプロドクス科恐竜の孵化したての幼体と成体のサイズに極めて大きな差があることを考えると、親と仔が別れて生活したことで幼体が踏みつぶされないように保護され、また、幼若体の生息地が森林にあったことで捕食者からも守られていた可能性があるという考えを、Woodruffたちは示している。



参考文献:
Woodruff DC. et al.(2018): The Smallest Diplodocid Skull Reveals Cranial Ontogeny and Growth-Related Dietary Changes in the Largest Dinosaurs. Scientific Reports, 8, 14341.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-32620-x
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鳥に食べられていたネアンデルタール人の子供

2018/10/11 16:51
 鳥に食べられていた痕跡のあるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の子供について報道されました。この研究は今年(2018年)のうちに考古学誌にて公表されるとのことで、現時点では詳細は不明です。ポーランドのキエムナ洞窟で数年前に長さ1cmほどの指の骨2本が発見され、5〜7歳の子供だと推定されているそうです。推定年代は115000年前頃で、ポーランドでは最古の人骨となるそうです(それまでの最古の人骨の推定年代は52000年前頃)。

 指の骨の表面は、多数の穴で覆われており、大きな鳥の消化器官を通過した結果だったと推測されています。子供が鳥に襲われて身体の一部を食べられた可能性も、死後に鳥の餌になった可能性も指摘されています。DNA解析は成功しなかったそうです。長さ1cmほどの指の骨でDNA解析が成功しなかったとなると、推定年代からネアンデルタール人と判断されたのでしょうか。キエムナ洞窟では石器も発見されていますが、ネアンデルタール人の洞窟利用が通年だったのか、季節ごとの短期間だったのか、不明とのことです。

 ネアンデルタール人に限らず人類が他の動物に食べられることは、とくに更新世においてはそう珍しいことではなかっただろう、と思います。たとえば、最近発表されて大きな話題となった、ネアンデルタール人と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の交雑第一世代個体(関連記事)は、ハイエナに食べられた可能性が指摘されています(関連記事)。もちろん、逆にネアンデルタール人が鳥を食べることはありましたし(関連記事)、鳥の爪・骨を装飾品に加工した可能性さえ指摘されています(関連記事)。
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イギリスのバイオバンクの遺伝学的データ

2018/10/11 16:49
 イギリスのバイオバンクの遺伝学的データに関する二つの研究が公表されました。イギリスのバイオバンクは、登録時に40〜69歳だった約50万人のイギリス人の遺伝的データと臨床データの情報資源で、健康と各種疾患の遺伝的基盤の研究に役立っています。参加者は2006〜2010年に集められ、モニタリングは今後も継続されます。バイオバンクに登録された最大のデータセットは遺伝子型と脳スキャンのデータで、これにより脳の構造と機能に影響を及ぼす遺伝子の研究が可能となります。

 一方の研究(Elliott et al., 2018)は、遺伝学的データとMRI脳画像データを解析しました。脳の構造と機能の遺伝的構成については、ほとんど分かっていません。本論文はこれを調べるために、イギリスのバイオバンクの8428人分の発見データセットを用いて、3144の機能的および構造的な脳の画像表現型(構造容量や病変の大きさや脳の白質の結合能と微細構造など)について、ゲノム規模関連研究を行ない、これらの表現型の多くが遺伝性であることを示しています。本論文は、一塩基多型と画像表現型の間に関連性の見られるクラスターを148個特定し、とくに顕著で説明可能な関連性としては以下のようなものが含まれていました。鉄の輸送と貯蔵の遺伝子は皮質下の脳組織の磁化率(アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患に関係します)に、細胞外マトリックスや上皮増殖因子の遺伝子は白質の微細構造や病変に、正中線の軸索発生を調節する遺伝子は脳橋の交差路の組織化に、全部で17個の遺伝子が発生・経路シグナル伝達および可塑性に関連していました。これらの知見は、神経および精神疾患(鬱病・多発性硬化症・脳卒中など)・脳の発生・加齢と関連する脳の遺伝的構成についての手掛かりを示しています。

 もう一方の研究(Bycroft et al., 2018)は、バイオバンクに登録された約50万人全員分のデータ(生物学的測定結果・生活様式の指標・画像データなど)を説明しています。イギリスのバイオバンクの遺伝学的データは、その規模と範囲において類を見ないものです。各参加者について、ひじょうに多様な表現型や健康関連の情報が利用可能で、その中には生物学的測定値・生活様式の指標・血中や尿中のバイオマーカー・体や脳の画像などの情報が含まれています。追跡情報は、健康記録と医療記録を結びつけることにより提供されます。全参加者からゲノム規模の遺伝子型データが集められており、新しい遺伝的関連や複合形質の遺伝的基盤を発見するための多くの機会を提供しています。本論文は、遺伝子型の品質・集団構造や遺伝的データの近縁性の特性・効率的なフェージングや遺伝子型のインピューテーション(これにより調べられる多様体の数が約9600万まで増加しました)などの遺伝的データの集中解析について報告しています。11のヒト白血球抗原遺伝子の古典的対立遺伝子変動について欠測値補完が行なわれた結果、ヒト白血球抗原対立遺伝子と多くの疾患との間の関連が知られているシグナルを回復できました。

 以上二つの研究は、人類進化の観点からも大いに注目されます。今後は、より広範な地域を対象に同様の研究が進展することを期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【遺伝学】英国バイオバンクからの見返りは数々の遺伝学的知見

 英国バイオバンクの遺伝学的データを中心に据えた2編の論文が、今週掲載される。これらの論文には、約50万人分のゲノム規模の遺伝学的データ、臨床測定結果、保健記録を含む全データセットに関する説明があり、脳の遺伝的構造に関する知見が示されている。

 英国バイオバンクは、登録時に40〜69歳だった約50万人の英国人の遺伝的データと臨床データの情報資源であり、健康と各種疾患の遺伝的基盤の研究に役立っている。参加者は2006〜2010年に集められ、モニタリングは今後も継続される。バイオバンクに登録された最大のデータセットは、遺伝子型と脳スキャンのデータで、これによって脳の構造と機能に影響を及ぼす遺伝子の研究ができる。

 今回、Jonathan Marchiniたちの研究グループは、バイオバンクに登録された8428人の遺伝学的データとMRI脳画像データの解析を行い、遺伝的バリアントとMRIスキャンで同定された特徴(構造容量、病変の大きさ、脳の白質の結合能と微細構造など)の関連を調べた。その結果、鉄分の輸送と貯蔵に関与する遺伝子が、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患に関係することがあるなど、さまざまな遺伝的関連が特定された。また、Marchiniたちは、シナプス可塑性と神経繊維の修復に関係すると考えられているタンパク質をコードする遺伝子や、うつ病、多発性硬化症および脳卒中に関与する遺伝子との関連を明らかにした。MRIスキャンにおいて同定された形質の多くには、遺伝性が認められた。この新知見は、脳の発生過程と老化過程だけでなく、さまざまな精神・神経疾患の生物学的基盤に関する我々の理解を深めるものとなっている。

 Marchiniたちのもう1編の論文では、バイオバンクに登録された約50万人全員分のデータ(生物学的測定結果、生活様式の指標、画像データなど)の説明が初めて示されている。この情報資源は、関係者以外の研究者にも公開されている。

 また、上記論文に関連したNews & Viewsでは、Nancy Cox が「英国バイオバンクには、ゲノムのバリエーションとヒトのありふれた病気との関係性の発見を助け、こうした関連の根底にある機構に関する我々の理解を進めることが期待できる」との見解を示している。


ヒトゲノミクス:高深度表現型解析とゲノムデータを含んだ英国バイオバンク情報源

ヒトゲノミクス:英国バイオバンクの脳画像表現型のゲノム規模関連研究

Cover Story:英国バイオバンク:英国の50万人の人々から得られた遺伝学的データと健康データ

 英国バイオバンクは、前向きコホート研究で、これまでに英国全域の40〜69歳の約50万人の人々から遺伝学的データと表現型データが集められている。参加者たちは、健康測定を受け、血液、尿、唾液の試料の他、自身の詳細な情報を提供するとともに、その後の健康追跡に同意している。J MarchiniとP Donnellyたちは今回、高分解能の遺伝学的データと遺伝学的関連研究におけるその使用の実証結果を含む、全コホートのデータセットを報告している。S SmithとJ Marchiniたちは別の論文で英国バイオバンク参加者の最初の8428人の脳画像、そして3144の機能的および構造的な脳画像の表現型についてのゲノム規模関連研究の結果を報告している。彼らは、形質の多くが遺伝性であることを見いだすとともに、こうした構造的・機能的測定の結果に関連する多くの領域を明らかにした。英国バイオバンクのデータセットと研究結果は全て、オープンアクセスリソースとして利用できる。



参考文献:
Bycroft C. et al.(2018): The UK Biobank resource with deep phenotyping and genomic data. Nature, 562, 7726, 203–209.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0579-z

Elliott LT. et al.(2018): Genome-wide association studies of brain imaging phenotypes in UK Biobank. Nature, 562, 7726, 210–216.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0571-7
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アフリカ東部の気候変動と現生人類の進化

2018/10/10 16:29
 アフリカ東部の気候変動と現生人類(Homo sapiens)の進化との関連についての研究(Owen et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。人類進化と気候変動とを関連づける仮説は多くあります。気候変動の証拠となるのは、陸上や湖や海洋のコア、花粉記録などです。しかし本論文は、そうした気候記録の多くは継続性がなく、その根拠となったコアなどが採取された地域と、人類遺骸や石器など人類の痕跡が発見されている地域との間の大きな地理的隔たりがあるので、気候変動と人類進化との相関性の証明は困難だと指摘します。

 本論文が気候変動の根拠としたのはケニアのマガディ湖(Lake Magadi)の堆積物で、575000年前頃以降の長期の乾燥化傾向と、それが湿潤-乾燥周期によりたびたび中断されたことを明らかにしました。本論文が強調しているのは、マガディ湖は人類の痕跡が多数発見されているオロルゲサイリー盆地(Olorgesailie Basin)に近い、ということです。そのため、マガディ湖の気候変動とオロルゲサイリー盆地の人類進化との相関性の検証に相応しい、というわけです。

 オロルゲサイリー盆地では、50万年前頃と32万年前頃とで石器技術に大きな違いがある(この間の層は浸食により失われているので、詳細は不明です)、と指摘されています(関連記事)。前期石器時代から中期石器時代への変化です。マガディ湖からの古気候記録が示すのは、この地域の激しい乾燥化は525000〜40万年前の間に起き、35万年前頃以降は、現在へと続く比較的持続した乾燥気候となります。周辺地域では、50万〜40万年前頃に多くの哺乳類が絶滅しており(オロルゲサイリー盆地では80%以上)、激しい気候変動の前後で石器技術に大きな変化が見られることから、本論文はアフリカ東部における気候変動と人類進化との相関性を指摘しています。

 より具体的には、激しい乾燥化というか、気候変動の予測困難性が、それへの適応のためにより大きな脳の進化を促し、新技術の石器の製作や、じゅうらいは見られなかった長距離輸送・交易といった新たな行動をもたらしたのではないか、という見通しを本論文は提示しています。つまり、予測困難な激しい気候変動が、アフリカにおいて現生人類の出現を促進したのではないか、というわけです。じっさい、30万年前頃には、アフリカ北部において現生人類的な人類遺骸が発見されています(関連記事)。もちろん、気候変動は人類進化に大きな影響を及ぼしているでしょうが、人口密度や接触機会の増加なども、人類進化の選択圧になり得たでしょう。今後は、より広範な地域での古気候の復元と人類進化との相関性の検証の進展が期待されます。


参考文献:
Owen RB. et al.(2018): Progressive aridification in East Africa over the last half million years and implications for human evolution. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.1801357115
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「朝鮮人・韓国人はホモサピエンスではない」との言説と悪魔の門遺跡

2018/10/09 16:40
 Twitterにてネアンデルタール人で検索していたら、「朝鮮人・韓国人はホモサピエンスではない ※現代人と約900万個の遺伝子相違」と題する記事を発見しました。もちろん、ガセネタなのですが、ネットではそれなりに引用されています。さすがに本気にしている人はいない、と信じたいところですが、本気にしている人もいるように思えるのは残念なことです。私の判断が間違っていればよいのですが。そもそも、現代人の推定遺伝子数は2万数千個程度なので、「約900万個の遺伝子」と言っている時点で与太話確定なのですが、あるいは、これは「ネタ」ですよ、と示唆しているのでしょうか。

 それはともかく、この記事は一応、まともな研究を引用し、根拠としています。もっとも、認識がでたらめで、あまりにも飛躍していますが。この記事が引用した研究は、「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡の7700年前頃の人類(女性2人)のゲノム解析です(関連記事)。平均網羅率は、50代に近い方(悪魔の門1号)が0.059倍、20代(悪魔の門2号)の方が0.023倍と、いずれも低いものです。もっとも、この記事は直接的には、該当論文ではなく朝鮮日報の記事を参照したようです。朝鮮日報の記事はもちろん、この記事のような与太話にはなっていませんが、やや問題のある解説になっています(少なくとも日本語版は)。

 朝鮮日報の記事には、悪魔の門遺跡の女性2人は遺伝的には、「現地に住むウルチ(Ulchi)族と最も似ており、近くの先住民を除く現代人の中では韓国人が最も近いことが分かった」とあります。しかし、そもそも悪魔の門遺跡はウルチ人の中心地域とはそれなりに離れており、両者の距離は、大韓民国からとはさほど変わらないかもしれませんが、朝鮮民主主義人民共和国からの方が近い、と言えます。また、悪魔の門1号に関しては、韓国人よりもやや遺伝的に近縁なホジェン人(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)の中心地域は韓国よりも悪魔の門遺跡に地理的に近いものの、ホジェン人よりもはっきりと悪魔の門1号に遺伝的に近いオロチョン人(Oroqen)は、地理的には韓国人とさほど変わりませんし、朝鮮民族という区分ではむしろ地理的にオロチョン人よりも近いと言えそうです。悪魔の門2号に関しては、悪魔の門遺跡からの距離で韓国よりもずっと遠い地域のガナサン人(Nganasan)が、韓国人よりも明らかに遺伝的に近縁です。なお、悪魔の門遺跡の女性2人との遺伝的近縁性に関して、日本人と韓国人はほぼ同等で、わずかに韓国人の方が近い程度です。この件で、韓国人を日本人とまったく異なる存在と考えるのは論外です。

 「近くの先住民を除く」としても、悪魔の門遺跡からの距離では、韓国人とほぼ同等か、もっと遠い集団が韓国人よりも遺伝的に近縁なわけで、朝鮮日報の記事は不正確というか、誇張されたものだと思います。そもそも、朝鮮日報の記事では「近くの先住民」とされていますが、ウルチ集団などこの研究で比較対象になった極東集団は移動・融合の結果成立したものであり、いつどのように形成されたのか、詳細は不明でしょうから、それらの集団を「先住民」と区分して、韓国人(もしくは朝鮮民族)が「先住民」とは異なる区分であるかのように表現すること自体に、問題があると思います。もちろん、アメリカ大陸のように、移住・融合の歴史がかなりの程度解明されているのならば、先住民系・ヨーロッパ系・アフリカ系などと区分することは妥当だと思います。ウルチ人など極東の諸集団を「先住民」とするならば、韓国人(もしくは朝鮮民族)も「先住民」とすべきでしょうし、悪魔の門遺跡の女性2人と韓国人との遺伝的近縁性を強調することにあまり意味はないと思います。

 なお、「朝鮮人・韓国人はホモサピエンスではない」と題した記事には、その水準に相応しく、「米人類学者Cavalii−Sforzaの遺伝子勾配データによれば」で始まる、ネットでは拡散してしまった一節も引用されています。これは有名なガセネタで、当ブログでも以前取り上げました(関連記事)。それにしても、「朝鮮人・韓国人はホモサピエンスではない」というような記事を書くのはどのような人なのか、気になります。閲覧数を稼いで収入を増やそうとして、それなりに勢力があると思われる「嫌韓派(の中でも知的水準のかなり低い層)」に受けそうな記事を(本心からではなく)書いているだけなのかもしれませんが、「嫌韓派」を嫌っている人が「嫌韓派」の評判を下げようとして書いているか、単に知的水準の低い層を嘲笑したい暇な愉快犯が、「嫌韓派」には知的水準の低い層が一定以上いると考えて書いているのではないか、と陰謀論的に考えたくなります。もちろん、「ネットで真実に目覚めた」人が、たまたま得た情報から結果的に与太話(とは執筆者本人は考えていないわけですが)を作り上げただけかもしれません。
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Wikipediaにおける歴代天皇の項目のページ数

2018/10/08 12:44
 Wikipediaの個人的な楽しみの一つとなっているのが、ある項目のページ数がどれくらいあるのか、確認することです。これを、ある項目についての、世界規模での知名度・関心度の指標とすることは妥当ではないでしょうが、お遊び的な楽しみはあると思います。そこで、歴代天皇の項目のページ数を調べて、画像ファイルで掲載しました。以下、閲覧数は2018年10月8日時点のもので、赤字の天皇は女性です。なお、「天皇」の項目のページ数は62です。

 詳細に分析したわけではありませんが、前近代の天皇に関しては、現代日本社会における知名度・重要度の認識とページ数は基本的に相関していないように思います。例外は、神武・仁徳・後醍醐・後小松でしょうか。もっとも、仁徳・後小松は近い年代の天皇と比較してそこまで突出しているわけではありませんが。神武は、初代ということで(まあ、「実在」はかなり怪しいのですが)、ページ数が多いのは当然かもしれません。仁徳は、公式には日本最大規模の古墳の被葬者とされているので、日本以外でもそれなりに注目されているのかもしれません。後醍醐は近い年代の天皇と比較して明らかにページ数が多く、前近代の天皇のなかでは、日本以外でも知名度や注目度が高めなのかもしれません。確かに、後醍醐は歴代の天皇の中では、行動面では異例と評価できそうですし、歴史に与えた影響は大きそうですから、日本以外でも注目されて不思議ではないように思います。後小松は、南北朝合一時の天皇ということで注目されたのでしょうか。

 前近代の各天皇のページ数に関しては、室町時代にかけて減少傾向にあるのが注目されます。これは、各言語版の執筆者が、途中で力尽きたり面倒になったりしたことを反映しているのかもしれません。ページ数の下位はおおむね北朝の天皇で占められているのですが、これは北朝の諸天皇が、南北朝合一時の後小松を除いて、125代のなかに公式には数えられていないためなのかもしれません。一方、室町時代の天皇を底として、戦国時代〜江戸時代にかけてページ数は増加傾向にあります。これは、通俗的な天皇権威の盛衰と相関している可能性も考えられますが、単にページ数を調べただけなので、はっきりとは分かりません。

 近代の天皇のページ数は前近代の天皇より明らかにずっと多く、世界的には、日本の存在感が近代になって大きくなったことを窺わせます。とくに昭和天皇のページ数は今上天皇とともに他の天皇を引き離して多く、今上天皇がネット時代に在位中であることを考えると、世界的な知名度では歴代でもずば抜けているのかもしれません。まあ世界的には、第二次世界大戦の主要参戦国の最高指導者という位置づけなのでしょうから、それも当然でしょうか。
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天皇個人を批判する保守派は矛盾しているわけではない

2018/10/08 12:43
 現代日本社会では、自他ともに「保守派」と認めるような人が今上天皇を批判したり、今上天皇の意向を否定するような言動を示したりすることはさほど珍しくありません。「保守派」に批判的な人々が、これを揶揄したり、矛盾だと指摘したりすることも珍しくないのですが、「保守派」によるそうした言動は別に矛盾ではなく、むしろ「保守派」の論理に即している、と評価すべきように思います。

 歴史的に、天皇への批判的な言説や諫言はさほど珍しくありませんでした。平安時代最初期の徳政相論や中世の吉田定房奏状もその具体例と言えるでしょう。中世の慈円『愚管抄』にしても、その対象は、天皇位を譲って上皇となり、治天の君として朝廷を掌握していた後鳥羽院だったと思われますが、広い意味で天皇への批判的な言説や諫言の一例と言えるように思います。とくに中世は、古代以来の天皇の権威の低下により、天皇の側も新たな権威を模索していたものの、天皇に対する仮借なき批判は一般的だった、と指摘されています(関連記事)。

 しかし、ここで取り上げている「保守派」は、そうした長い歴史的経緯と無関係ではないとしても、直接的起源というか依拠する(理想とする)ところは、大日本帝国憲法公布や帝国議会開設の頃、さらには日清・日露戦争を経て確立した、明治国家(大日本帝国)体制である、と想定しています。この明治国家体制の確立に重要な役割を果たしたのが伊藤博文ですが、伊藤は師である吉田松陰から大きな影響を受けた、と指摘されています(関連記事)。

 それは、既存の体制を否定して絶対的なもの(たとえば、藩主や天皇)を設定する論理と、政治の運営にさいして、その絶対者に単に服従するのではなく、あるべき君主になるよう教導し、君主との信頼関係を基盤にする、という態度です。また、藩主の「意志」のもとに「有司」集団が藩政を指導し、特別な場合を除いて藩主は積極的に「意志」を示さない、という幕末期長州の体制も、伊藤に大きな影響を与えたようです。これら幕末期長州での伊藤の経験が、君主の直接的な政治関与を抑制する大日本帝国憲法体制の前提としてあるようです。

 明治国家体制に依拠する「保守派」にとって、重要なのは「あるべき」君主(天皇)・国家体制像であり、現実の天皇個人がそれらから逸脱することがあれば、それは「教導」の対象であり、「教導」するような近い関係になければ、批判や具体的行動に出るべきなのです。じっさい、二・二六事件などは、直接的な標的は現実の天皇個人(この場合は昭和天皇)というよりは「君側の奸」でしたが、1945年における終戦工作への批判・妨害活動や、8月のクーデタ計画などがありました。それらは、現実の天皇個人が「あるべき」君主像・国家体制像から逸脱しようとしていると考えられた時は、現実の天皇個人の意向に反したり、時には退位まで追い込んだりしても、「あるべき」君主像・国家体制像を護持するという「保守派」にとって正しい行動だった、というわけです。

 この観点からは、現代の「保守派」が「リベラル」寄りとされる今上天皇に不満を抱き、批判的なのもとくに矛盾ではありません。具体的には、靖国神社に参拝しないことや、生前退位の意向を示したことや、日本国憲法遵守の姿勢です。確定的ではありませんが、「保守派」の間には、今上天皇は女性天皇、さらには女系天皇を容認しかねない、との疑念があるかもしれず、その点でも今上天皇への不満は大きいのでしょう。そうした「保守派」に対しては、天皇の意向に逆らうのか、といった揶揄や矛盾の指摘は有効ではなく、もっと根源的なところで批判する必要があるのだと思います。
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小野林太郎「東南アジア・オセアニア海域に進出した新人の移住戦略と資源利用」

2018/10/08 08:39
 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2016年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 4)に所収されています。公式サイトにて本論文PDFファイルで読めます(P19-27)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 更新世の寒冷期に、オーストラリア大陸はタスマニア島・ニューギニア島と陸続きでサフルランドを形成していました。後期更新世における現生人類(Homo sapiens)のサフルランドへの拡散にさいしては、80km以上の渡海が必要だったと推測されています。これは、現生人類による当時の渡海距離としては最長なので、サフルランドへの出発点となった東南アジア海域において、現生人類の海洋適応が進んでいたのではないか、と考えられています。本論文は、サフルランドへの経路として注目されていながら考古学的研究が遅れていた、スラウェシ中部沿岸からマルク諸島を通ってニューギニア島の西端まで連なる島々の考古学的研究の現状を取り上げています。

 東南アジア海域からサフルランドへの経路としては、北マルク諸島を通る北方経路と、東ティモールを通る南方経路の二つが提示されています。最大渡海距離は、北方経路では約95km、南方経路では約150kmとなるので、北方経路の方が渡海の難易度は低そうです。しかし、現時点では、南方経路の方で更新世のより古い遺跡が発見されています。本論文は、北方経路の考古学的調査があまり進んでいないことも、北方経路で南方経路より古い遺跡が発見されていない一因かもしれない、と慎重な姿勢を示しています。

 本論文は、こうした現状を打開するために、スラウェシ島で著者も参加しての考古学的調査が進められていることを取り上げています。その中でも本論文で大きく紹介されているのは、中スラウェシ州のモロワリ県の沿岸から3.5km内陸にある石灰岩丘陵上に位置する、標高約90mのトポガロ洞窟群遺跡です。ここでは、3つの洞窟(トポガロ1・2・3)と、その上部に形成されるドリーネ内にある4つの岩陰が確認されています。29000年前頃のまでさかのぼりそうなトポガロ洞窟群遺跡では、今後も調査が継続される予定とのことです。

 北方経路の資源利用として、まず石器に関しては、遺跡で廃棄された石器の具体的な利用目的が、中・大型動物の捕獲や解体などではなく、小型哺乳類の捕獲や解体だった可能性が指摘されています。また、不定形を特徴とする東南アジア海域の石器利用としてかねてより指摘されてきたように、木製品などの加工具等としての利用なども推測されています。食資源に関しては、更新世寒冷期には、安定性の高い貝類への依存度が高まったのにたいして、魚類への依存度はかなり低かったようです。一方、南方経路では、魚類遺骸や釣針などの出土から、魚類への依存度がかなり高かったのではないか、と推測されています。


参考文献:
小野林太郎(2017)「東南アジア・オセアニア海域に進出した新人の移住戦略と資源利用」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2016年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 4)』P19-27
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日本人が好きな偉人100人

2018/10/08 08:37
 2006〜2007年に4回にわたって、「超大型歴史アカデミー史上初!1億3000万人が選ぶニッポン人が好きな偉人ベスト100」という番組が日本テレビ系列で放送されたそうです。やや古い年代の調査なので、現在ではかなり順位が変わっていると思われますが、興味深いので取り上げます。当ブログではウィキペディアの記事を典拠とすることはできるだけ避けているのですが、このような芸能関係のテレビ番組のランキング記事に関しては信頼性が高いと思いますので、以下、ウィキペディアの記事を参照して雑感を述べていきます。

 織田信長と坂本龍馬の人気・評価が高いのは、10年以上経過した現在(2018年10月)でも変わらないと思います。豊臣秀吉の人気は第二次世界大戦後に低下したように思われるのですが(関連記事)、この企画では、第1弾で4位、第2弾で7位と、なかなか健闘しているように思います。ただ、2007年以降の大河ドラマで描かれた秀吉は、いずれも情けなさや暗黒面が強調されていたように思われるので、現在同様の調査を実施したら、秀吉の人気・評価はもっと低いかもしれません。

 注目されるのは、4回にわたって100人ずつ選ばれているのに、第2弾は女性のみが対象なので除外するとしても、足利将軍が1人も選ばれていないことです。まあ、鎌倉幕府の将軍も得宗も選ばれていませんし、260年以上続いた江戸幕府の将軍でも選ばれたのは徳川家康・吉宗の2人だけですが、室町幕府も一応は250年近く続き、将軍の人数では江戸幕府と同じです。このような企画で足利将軍から選ばれるとすれば初代の尊氏と第3代の義満でしょうが、第1弾と第4弾では、尊氏と義満よりもずっと知名度の低そうな杉田玄白・東郷平八郎・杉原千畝・平賀源内・天草四郎などが選ばれていますから、足利将軍は本当に人気が低いのだな、と痛感します。

 その他には、藤原氏からも1人も選出されていないのが注目されます。藤原氏で知名度の高そうな人物といえば道長と鎌足でしょうが、藤原氏自体が、陰謀により他氏を追い落とし、和歌と宴会に明け暮れ政治を疎かにして武士に実権を奪われてしまった、というような通俗的悪印象のため人気が低いのでしょうか。天皇の選出が、第2弾の美女編の持統天皇だけなのも注目されます。これは、製作者側が結果を意図的に操作したというより、天皇は歴史上ほとんど実権を有しておらず、現代の象徴的存在に近かった、という多くの日本人の通俗的な歴史認識が要因かもしれません。天皇は歴史上の偉人として選出するのに相応しくないとの意識があったのではないか、というわけです。
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ウルツィアンの担い手

2018/10/07 22:23
 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ウルツィアン(Uluzzian)の担い手に関する研究(Zilhão et al., 2015)が公表されました。先月(2018年9月)当ブログで取り上げた、イベリア半島北部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代に関する論文(関連記事)に本論文が引用されており、重要だと思ったので取り上げます。なお、以下の考古学的年代はすべて、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 ヨーロッパにおける中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行は、47500〜37500年前頃に起きました。この間、ヨーロッパ各地で「移行期インダストリー」と呼ばれる複数の文化が出現し、イタリア半島を中心に分布するウルツィアンもその一つです。イタリア半島のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)遺跡のウルツィアン層で発見された人類の乳臼歯2個は、形態的にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)ではなく現生人類(Homo sapiens)と区分されました(関連記事)。そのため、ウルツィアンの担い手は現生人類で、現生人類はじゅうらいの見解よりも数千年早くヨーロッパ南部に到達し、ネアンデルタール人が現生人類のヨーロッパ到達前に上部旧石器文化的要素のある「移行期インダストリー」を開発したとは考えにくい、とも主張されました。

 本論文は、1960年代のカヴァッロ洞窟の発掘状況を、当時の詳細な刊行物の検証も含めて再評価し、ウルツィアンの担い手について論じています。本論文は、カヴァッロ洞窟遺跡の発掘状況に疑問を呈します。カヴァッロ洞窟に関する以前の報告では、F層がムステリアン、D・E層がウルツィアン、C層が火山灰、B層が前期続グラヴェティアン(Early Epigravettian)とされていました。しかし、D層の遺物はプロトオーリナシアンとオーリナシアンが主体で、両者の前後のインダストリーであるウルツィアンと続グラヴェティアンの遺物も確認されます。本論文は、D層の形成はプロトオーリナシアン期に始まり、ウルツィアンと前期続グラヴェティアンの遺物も見られることから、それらの遺物がD層形成後の攪乱による嵌入である可能性を指摘しています。また本論文は、1960年代の発掘に問題があり、ムステリアンのF層にも影響を及ぼし、それが1964年まで認識されなかった、と指摘します。つまり、発掘時の問題により嵌入が発生した可能性もじゅうぶん考えられる、というわけです。本論文は、攪乱もしくは発掘時の問題、あるいはその両方により、カヴァッロ洞窟遺跡において遺物・人類遺骸の嵌入が起きた可能性は高い、と推測しています。現生人類と分類された乳臼歯2個は1963〜1964年に発見されたので、ウルツィアンの担い手の根拠とするのは難しい、と指摘します。

 本論文は次に、イタリア半島だけではなくヨーロッパに検証対象を拡大して、ウルツィアンの担い手について論じています。ウルツィアンは45000年前頃に始まりました。45000年前頃に近い年代のヨーロッパの現生人類遺骸として、イギリスのケンツ洞窟(Kent’s Cavern)で発見された上顎骨があり、年代は44200〜41500年前頃と推定されています(関連記事)。しかし本論文は、ケンツ洞窟遺跡の現生人類遺骸もまた、カヴァッロ洞窟遺跡と同様に層序学的に疑問が呈されるとして、ヨーロッパにおける確実な現生人類遺骸として最古のものは、現時点ではルーマニアで発見されたワセ1(Oase 1)下顎骨のみである、と指摘しています。

 さらに本論文は、45000年前頃のイタリア半島周辺では、東方のギリシア、北東のクロアチア、北方のドイツで、人類遺骸ではネアンデルタール人のみが確認されている、と指摘します。45000年前頃のヨーロッパに現生人類はおらず、人類ではネアンデルタール人しかいなかった、というわけです。また本論文は、ウルツィアンが始まった頃と同年代で、イタリア半島に直接到来できそうな地域であるエジプトやマグレブにおける、おそらくは現生人類所産のインダストリーには、ウルツィアンとの関連が確認されない、と指摘します。一方で、ウルツィアンに見られるルヴァロワ(Levallois)技術は、イタリア半島も含めてヨーロッパの先行インダストリーであるムステリアンとの明確な関連が認められます。

 こうした状況証拠と、カヴァッロ洞窟遺跡の再評価から、ウルツィアンの担い手はネアンデルタール人と考えるのが最も節約的だ、との見解を本論文は提示しています。なお、本論文は、地中海における確実な航海の痕跡は7000年前頃までしかさかのぼらず、コルシカ島やサルデーニャ島にも上部旧石器時代末期か中石器時代まで人類の居住の痕跡はない、ということもウルツィアンの担い手をネアンデルタール人とする状況証拠としています。しかし、地中海を横断するような航海はなかったとしても、上部旧石器時代初期までに地中海で沿岸航海が行なわれており、ネアンデルタール人が担い手の場合もあった、という可能性は無視してよいほど低いわけではない、と思います(関連記事)。

 もちろん、今後どのような発見があるか分からないので、現時点では断定できませんが、ウルツィアンの担い手がネアンデルタール人で、少なくともその始まりにおいて現生人類の影響を受けなかった可能性は高いと思います。ただ、上述したイベリア半島北部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代に関する論文では、イベリア半島北部におけるオーリナシアン始まりは42000年以上前までさかのぼりそうなので(関連記事)、ヨーロッパにおける現生人類最初の拡散が45000年前頃近くまでさかのぼる可能性はあると思います。本論文が指摘するように、現生人類はヨーロッパ東部から西部へと拡散したでしょうから、ヨーロッパ最古級の現生人類遺骸が発見されるとしたら、東部地域の可能性が高そうです。


参考文献:
Zilhão J, Banks WE, d’Errico F, Gioia P (2015) Analysis of Site Formation and Assemblage Integrity Does Not Support Attribution of the Uluzzian to Modern Humans at Grotta del Cavallo. PLoS ONE 10(7): e0131181.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0131181
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青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷

2018/10/07 13:46
 青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷に関する研究(Krzewińska et al., 2018)が報道されました。本論文は、おもにポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代〜鉄器時代の人類集団のゲノムを解析し、ユーラシアの古代および現代の人類集団の既知のゲノムと比較しました。本論文の結論は、鉄器時代のユーラシア西部遊牧民集団の主要な起源はポントス-カスピ海草原東部にある、というものです。

 ポントス-カスピ海草原には青銅器時代〜鉄器時代にかけて多くの遊牧民集団が連続的に存在し、アジアとヨーロッパ双方の文化発展に大きな影響を及ぼしました。その中で最も有名なのは前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で、その拡大はヨーロッパにコーカサス地域の遺伝的要素をもたらしました(関連記事)。ポントス-カスピ海草原の重要性は、このヤムナヤ文化集団の拡大だけではなく、その後の紀元前1800〜紀元後400年にかけての青銅器時代〜鉄器時代の連続した移住と文化的変容も同様です。

 紀元前1800〜紀元前1200年にかけてのポントス-カスピ海草原は、スルブナヤ-アラクルスカヤ(Srubnaya-Alakulskaya)文化集団の期間で、ウラルからドニエプル流域まで小さな居住遺跡が分布しています。青銅器時代〜鉄器時代の移行期となる紀元前1000年頃からは、キンメリア人を含む先スキタイ遊牧民集団がポントス-カスピ海草原西部に出現し始めます。紀元前700〜紀元前300年にはスキタイ人がポントス-カスピ海草原西部を支配し、新たな軍事文化を有する遊牧民として、アルタイ地域からカルパティア山脈までその勢力が及びました。スキタイ人は、ポントス-カスピ海草原に留まらず、カザフスタン草原まで支配したわけです。

 スキタイ人は紀元前300年頃に衰退し始めますが、これは西方のマケドニアと敵対していったことと、東方からのサルマティア人の侵略が大きかったようです。サルマティア人とスキタイ人は数世紀間共存したと考えられていますが、けっきょくはサルマティア人が優勢になり、スキタイ人は没落しました。サルマティア人は、類似した多くの遊牧民集団から構成されていたと考えられ、政治的にはローマ帝国東方の辺境地帯で最も政治的影響力を有しましたが、紀元後400年には、ゴート人とフン人の連続した攻撃により衰退しました。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の人類集団のゲノム構造はじゅうぶんには解明されていません。以前の研究では、スルブナヤ集団と後期新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパ集団との近縁性が指摘されていました。キンメリア人については、その遺伝的起源はあまり解明されていません。スキタイ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、ユーラシア草原地帯の東西の集団の混合が指摘されていました。スキタイ人でも東方のアルタイ地域のアルディベル(Aldy-Bel)文化集団は、中央アジアの東部集団との遺伝的類似性を示しますが、西方のポントス-カスピ海草原のスキタイ人集団との関係と起源に関する理解は貧弱です。サルマティア人の起源と他集団との遺伝的近縁性もあまり知られていませんが、ゲノム解析では東部ヤムナヤ文化集団および青銅器時代のヴォルガ川中流域のポルタフカ(Poltavka)集団との類似性が指摘されています。

 本論文は、後期青銅器時代〜鉄器時代にかけてのポントス-カスピ海草原の古代人のゲノム解析が不充分であることから、紀元前1900〜紀元後400年にかけての、ポントス-カスピ海草原の年代的に連続した異なる4文化集団の35人ゲノムを解析し、既知のユーラシアの人類集団のゲノムと比較することで、研究を前進させました。ゲノム解析の平均網羅率は0.01倍〜2.9倍です。内訳は、スルブナヤ-アラクルスカヤ人が13人、キンメリア人が3人、スキタイ人が14人、サルマティア人5人です。

 mtDNAハプログループでは、後期青銅器時代のスルブナヤ-アラクルスカヤ人がヨーロッパ人もしくはユーラシア西部人と関連するH・J1・K1・T2・U2・U4・U5に分類されたのにたいして、青銅器時代〜鉄器時代の移行期の遊牧民集団であるキンメリア人と、鉄器時代の遊牧民集団であるスキタイ人・サルマティア人には、中央アジアおよび東アジア系集団と関連するA・C・D・Mに分類される個体がいました。より古いスルブナヤ-アラクルスカヤ人に東アジア系mtDNAハプログループが見られないのは、草原地帯の集団の東アジア系ハプログループの出現が鉄器時代の遊牧民集団と関連しており、キンメリア人に始まるからかもしれません。Y染色体DNAハプログループでは、18人の男性のうち17人が、ハプログループRに分類されました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は、青銅器時代に拡大したR1aに分類されました。鉄器時代の遊牧民はほとんどがR1bに分類され、これはロシア草原地帯のヤムナヤ文化集団に特徴的です。例外はキンメリア人の男性1人で、ユーラシア東方集団と関連するQ1に分類されました。

 低〜中網羅率ですが、ゲノム解析の結果、さまざまな新知見が得られました。スルブナヤ-アラクルスカヤ人は現代のヨーロッパ北部・北東部集団と近縁です。青銅器時代〜鉄器時代移行期のキンメリア人は、遺伝的に均質ではありません。本論文でゲノム解析の対象となったスキタイ人は、スキタイの中核であるポントス草原北部の個体群で、高い集団内多様性を示します。スキタイ人は遺伝的に大きく3集団に区分され、それぞれ、ヨーロッパ北部集団・ヨーロッパ南部集団・コーカサス北部集団と近縁です。スルブナヤ-アラクルスカヤ人の1個体と、キンメリア人の最も新しい年代の個体と、サルマティア人全員も、コーカサス北部集団と近縁です。スキタイ人の1個体は、ユーラシア西部集団の遺伝的変異の範囲を超えて、東アジア人と遺伝的近縁性を示しています。

 スルブナヤ-アラクルスカヤ人はユーラシア西部集団の変異内に収まり、北東部および南東部アジア集団の要素を欠いています。一方、それに続くキンメリア人は全員、東方のシベリア集団の遺伝的要素を有していました。キンメリア人の最古の個体の遺伝的構成の比率は東方のアジア系とユーラシア西部系で等しく、2番目に古いキンメリア人個体は、ユーラシア東部とアメリカ大陸先住民集団で見られるY染色体DNAハプログループQ1に分類され、この頃よりポントス-カスピ海草原の遊牧民集団に東アジア系の遺伝的要素が入ってきたようです。

 スキタイ人は、上述したように遺伝的には多様で、複数の系統から構成されているため、起源の解明は困難です。東方スキタイ人がヤムナヤ文化集団と近縁な一方、西方スキタイ人は中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です。また、西方スキタイ人には、南アジアおよび東アジア系集団の遺伝的要素が欠けており、これもスキタイ人の遺伝的多様性の一因となっています。スキタイ人は、ユーラシアの半遊牧民集団や黒海地域のギリシア人など、多様な人々を組み込んでいったのではないか、と推測されています。じっさい、異なる遺伝的背景の個体が、同じ文化様式で埋葬されていたこともありました。スキタイ人は、遺伝的に大まかに言って、その前後にポントス-カスピ海草原を支配したキンメリア人とサルマティア人とも、近い関係にはあるものの直接的な祖先-子孫関係にはない、と推測されています。

 ウラル南部の個体も含むサルマティア人は草原地帯集団の変異内におおむね収まり、ウラル南部ではユーラシア西部の遊牧民集団の遺伝的構成が比較的維持された、と推測されています。サルマティア人の比較的高い遺伝的多様性については、遺伝子流動というよりも、大きな有効人口規模の結果かもしれない、と指摘されています。サルマティア人とキンメリア人の遺伝的近縁性も指摘されており、鉄器時代以降にユーラシア東部の遺伝的影響を受けつつも、ポントス-カスピ海草原においてユーラシア西部草原地帯の遺伝的要素が強く維持されてきた、と示唆されます。

 古代ゲノム解析から、ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代は、遊牧民集団の移動性の高い複雑な時代だった、と推測されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけてポントス-カスピ海草原を支配した人類集団は、それぞれ前後の時代の集団と主要な直接的祖先-子孫関係にあったまでは言えませんし、ユーラシア東部からの遺伝的影響を受けているものの、大まかには、ポントス-カスピ海草原とウラル南部を起源地とする集団の遺伝的構成が維持され、ユーラシア西部の遊牧民集団が形成された、と言えそうです。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の遊牧民集団では、とくにスキタイ人において強い傾向が見られるようですが、拡散先の在来集団を同化させて組み込んでいったようです。遊牧民集団の柔軟性は、歴史学などでも指摘されていたと思いますが、それが古代ゲノム解析でも裏づけられた、ということなのでしょう。もっとも、これにより広範な地域に及ぶ強大な勢力を短期間で築くこともできますが、出自の異なる集団の合流で形成されているだけに、史実に見えるように、崩壊する時はあっけないのでしょう。

 ポントス-カスピ海草原の青銅器時代〜鉄器時代の遊牧民集団は、アジアとヨーロッパに遺伝的にも文化的にも大きな影響を及ぼしました。文化面では、乗馬・戦車(チャリオット)などが挙げられます。これらは考古学的検証が可能ですが、直接的証拠は乏しいとしても、おそらくはインド・ヨーロッパ語族も、草原地帯の遊牧民集団が広めた可能性は高いと思います。ユーラシア中央部の遊牧民集団は、とくに紀元前に関しては文字記録が少ないため、あるいは過小評価される傾向にあるかもしれませんが、古代ゲノム解析の進展により、その重要性が今後広く認識されていくのではないか、と予想されます。


参考文献:
Krzewińska M. et al.(2018): Ancient genomes suggest the eastern Pontic-Caspian steppe as the source of western Iron Age nomads. Science Advances, 4, 10, eaat4457.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aat4457
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磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一『戦乱と民衆』

2018/10/07 13:43
 講談社現代新書の一冊として、講談社から2018年8月に刊行されました。本書は「戦乱と民衆」という視点から日本史を概観しており、第一部が古代(白村江の戦い)・中世(応仁の乱)・近世(大坂の陣)・近世〜近代移行期(禁門の変)の四章、第二部が「歴史を視る視点」および「生き延びる民衆」という二回の座談会で構成されています。

 白村江の戦いについては、倭(日本)軍の主力は新羅の都(金城)を目指しており、白村江の戦いに参加した倭軍は主力ではなく輸送船団で構成されていて、水軍とは言えなかった、と推測されています。倭軍の決定的敗因としては、統制されていた国家軍である唐軍にたいして、倭軍は豪族の寄せ集めにすぎなかった、と指摘されています。また、朝鮮半島への軍の派遣は、百済復興というより、対外危機を煽ることが目的だったのではないか、とも推測されています。史料的な制約から、民衆視点の解説は少ないのですが、唐で囚われて人々の帰国の話が紹介されています。

 中世では足軽が取り上げられ土一揆との関連が指摘されています。京都では土一揆は15世紀後半に頻発しますが、応仁の乱の期間は途絶えています。そのため、土一揆の担い手と足軽の担い手はかなり共通しているのではないか、と推測されています。民衆は状況に応じて権力の側にも反権力の側にも立った、というわけです。

 近世ではおもにオランダとイエズス会の史料から大阪の陣が取り上げられています。オランダ側史料は豊臣方に、イエズス会側史料は徳川方に厳しい傾向が見られますが、いずれも、軍事行動に庶民が翻弄され、被害を受けた、と伝えています。イエズス会の情報に基づき、近世ヨーロッパでは徳川家康は狡猾な悪党との評価が定着していたようです。

 近世〜近代移行期では禁門の変が取り上げられています。禁門の変で京都は大打撃を受けました。それは、おもに会津藩など幕府側が、長州藩の敗残兵が潜伏することを恐れて放火したからでした。当時の京都の民衆は、会津藩が一橋(徳川)慶喜の命で放火したことをよく知っており、会津藩はいっそう京都で嫌われていきました。これには、薩摩藩なども放火したものの、禁門の変後の被災者対策において会津藩よりも薩摩藩がうまく立ち回ったこともあったようです。また、民衆は禁門の変で一方的に被害を受けただけではなく、死者から金目の物を奪って商売に成功した事例もあったようです。一方、こうした略奪を武士の側は行なわなかった、とも指摘されています。

 座談会では、前近代において戦乱における民衆の被害・動向を解明するための試料が少ない、と指摘されています。また、戦乱による民衆への影響についても、何が記録されるのか、視点の違いが時代により異なる、とも指摘されています。民衆が戦乱の被害者であったことは当然ですが、一方で、略奪を行なう民衆もおり、加害者としての側面もあることが指摘されています。ただ、こうした側面は、古代史では史料的制約からはっきりとしたことは分かりません。
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アフリカ北部の9万年前頃の骨製道具

2018/10/06 21:00
 アフリカ北部の9万年前頃の骨製道具に関する研究(Bouzouggar et al., 2018)が報道されました。本論文が取り上げているのは、モロッコ王国の大西洋岸にあるダルエスソルタン1(Dar es-Soltan 1)洞窟遺跡の9万年前頃の大型哺乳類の肋骨製の道具です。文化的な時代区分では中期石器時代となり、アテリアン(Aterian)に分類されています。アテリアンは、「現代的」行動・複雑な認知能力の出現をめぐる議論で重要な文化で、アフリカ北部において145000年前頃に出現します。

 複雑な認知能力の考古学的指標の一つは特殊化された道具で、骨製道具は重要な指標となります。そうした骨製道具は、擦ったり削ったり溝を刻んだり磨いたりするような複雑な過程を経て製作されます。以前には、こうした特殊化された骨製道具の出現はおおむねヨーロッパの上部旧石器時代以降とされ、一部にヨーロッパの中部旧石器時代の事例も報告されています。近年では、アフリカにおいてヨーロッパの上部旧石器時代よりも古い中期石器時代の骨製道具の報告が蓄積されつつあり、現生人類(Homo sapiens)の起源地たるアフリカにおいて、中期石器時代に「現代的」行動・複雑な認知能力が発達していったことが窺えます。

 ダルエスソルタン1遺跡の骨製道具は、複雑な過程を経て製作された確実な年代の骨製道具としては最古となります。本論文は、この骨製道具は柔らかい素材を切るナイフとして用いられたのではないか、と推測しています。本論文はさらに、こうした新技術を用いて骨製道具が製作されるようになったことと、資源戦略の変化が関連している可能性を指摘しています。9万年前頃にアフリカでは海洋資源の利用が増加したと推測されており、それが新技術の採用と関連しているのではないか、というわけです。ただ本論文は、この仮説の証明にはさらなる発見と実験考古学的検証が必要と指摘しています。

 ダルエスソルタン1遺跡と同じくモロッコ王国の大西洋岸にあるエルムナスラ(El Mnasra)遺跡でも、アテリアン期の骨製道具が複数発見されていますが、そのうちの2個はダルエスソルタン1遺跡の「ナイフ」と技術的特徴が類似している、と本論文は指摘しています。一方、サハラ砂漠以南のアフリカでも、中期石器時代の骨製道具が複数報告されています。しかし本論文は、アフリカ北西部の中期石器時代となるアテリアンの骨製道具と、サハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代の骨製道具は技術的に明確に異なる、と指摘します。本論文は、後者の骨製道具は基本的に端を尖らせる形状に限定されていることを、大きな違いとして挙げています。ただ、南アフリカ共和国シブドゥ洞窟(Sibudu Cave)の骨製道具と、コンゴ民主共和国のカタンダ(Katanda)で発見された骨製道具(返しのある銛と推測されています)は例外とも指摘されています。

 これらの知見は、「現代的」行動・複雑な認知能力の出現の指標となる複雑な道具製作技術が、アフリカ各地で独自に開発されていったことを示唆します。これらアフリカの中期石器時代の複雑な道具の製作者が現生人類のみとは限りませんが、その多くが現生人類の所産である可能性は高そうです。そうだとすると、これの考古学的知見は、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、という「アフリカ多地域進化説」(関連記事)と整合的かもしれません。

 一方、ユーラシアまで比較対象を拡大すると、これらアフリカの中期石器時代の骨製道具よりは新しそうではあるものの、フランス共和国で発見された中部旧石器時代の特殊化された骨製道具が注目されます(関連記事)。これはアシューリアン伝統ムステリアン(Mousterian of Acheulean Tradition)層で発見され、ヨーロッパに拡散して来た当初の現生人類の骨製道具と技術的に異なることから、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産と考えられています。ネアンデルタール人と現生人類の認知能力に何らかの違いがあった可能性は高そうですが、ネアンデルタール人が複雑な道具を独自に開発したこともあったのではないか、と思います。


参考文献:
Bouzouggar A, Humphrey LT, Barton N, Parfitt SA, Clark Balzan L, Schwenninger J-L, et al. (2018) 90,000 year-old specialised bone technology in the Aterian Middle Stone Age of North Africa. PLoS ONE 13(10): e0202021.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0202021
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前期更新世のヨーロッパのホモ属の臼歯に見られるネアンデルタール人的特徴

2018/10/06 11:34
 前期更新世のヨーロッパのホモ属の臼歯に関する研究(Martín-Francés et al., 2018)が報道されました。本論文が分析対象としたのは、スペイン北部のアタプエルカ山地のグランドリナTD6(Gran Dolina-TD6)遺跡で発見された、前期更新世後期となる90万〜80万年前頃のホモ属の臼歯です。このホモ属化石はアンテセッサー(Homo antecessor)と分類されています。アンテセッサーの形態的特徴はモザイク状とされ、ホモ属の進化系統樹において、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の分岐点近くに位置するのではないか、と推測されています。

 本論文は、マイクロCTスキャンと高解像度画像を用いて、アンテセッサーの臼歯17個を、他のホモ属の臼歯と比較しました。対象となったのは、東南アジアのエレクトス(Homo erectus)、アフリカ東部および北部のホモ属、ヨーロッパの中期更新世のホモ属、ネアンデルタール人、化石および現在の現生人類です。比較の基準となったのは、臼歯の組織構造やエナメル質の厚さおよび分布です。歯冠組織の構造やエナメル質の厚さの分布は、人類系統の分類・系統的関係・食性・行動を推測するさいの信頼できる特徴とされています。

 エナメル質の厚さに関しては、更新世人類のほとんどはおおむね厚く、なかにはひじょうに厚い標本も存在します。しかし、ネアンデルタール人は例外的に比較的薄いエナメル質を有しています。アンテセッサーのエナメル質も、他の大半のホモ属と同様に、比較的厚いエナメル質を有しています。一方、ネアンデルタール人といくつかの孤立した標本では、比較的薄いエナメル質が確認されました。しかし、象牙質とエナメル質の分布に関しては、アンテセッサーは他のホモ属よりもネアンデルタール人の方と類似している、と明らかになりました。つまり、90万〜80万年前頃に存在したアンテセッサーには、ネアンデルタール人の歯の派生的特徴の一部はすでに出現していたものの、ネアンデルタール人の歯の特徴一式はそろっておらず、他のホモ属との共通する特徴を有していた、というわけです。

 本論文の知見は、ホモ属の進化過程や、進化系統樹におけるアンテセッサーの位置づけに関する議論にも役立ちそうです。イタリアで発見された45万年前頃のホモ属の歯は、総合的にほぼネアンデルタール人の変異内に収まります(関連記事)。ネアンデルタール人のような歯の特徴は、90万年前頃にはヨーロッパでその一部が出現し、しだいに典型的なネアンデルタール人的特徴が形成されていったのでしょう。おそらく歯に限らず、ネアンデルタール人の派生的特徴は、ヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により、典型的なネアンデルタール人が形成されたのではないか、と思います。

 一方で上述したように、アンテセッサーはホモ属の進化系統樹においてネアンデルタール人と現生人類の分岐点近くに位置する、と推測されています。じっさい、アンテセッサーの頬骨上顎については現代人との類似性が指摘されています。じゅうらい、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先にはネアンデルタール人や現生人類の派生的特徴はなく、祖先的特徴のみを有する、と想定されていました。しかし、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先には祖先的特徴と派生的特徴が混在しており、特定の派生的特徴が一方の系統のみに継承された可能性もある、との見解も提示されています(関連記事)。ホモ属の進化はたいへん複雑だったようで、把握するのは容易ではありませんが、地道に情報を収集して、少しでも的確に理解していきたいものです。


参考文献:
Martín-Francés L, Martinón-Torres M, Martínez de Pinillos M, García-Campos C, Modesto-Mata M, Zanolli C, et al. (2018) Tooth crown tissue proportions and enamel thickness in Early Pleistocene Homo antecessor molars (Atapuerca, Spain). PLoS ONE 13(10): e0203334.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0203334
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『卑弥呼』第3話「断ち切れぬ欲望」

2018/10/05 21:53
 『ビッグコミックオリジナル』2018年10月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハから手を組もうと持ち掛けられたモモソが了承したところで終了しました。今回は、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院で、神がかり状態となったモモソが人々の前で神託を告げる場面から始まります。戦部(イクサベ)の者たちの話によると、モモソは祈祷部(イノリベ)の許可を得て前日から東の楼観に籠っていました。戦部の一人が、ついに天照大御神が降ったようだ、と言うと、モモソは神託を告げ始めます。それは古代の言葉とのことで、種智院の人々も多くは理解していないようです。モモソの神託は次のようなものでした。

 故是に須佐之男命言ひけらく「然らば天照大御神に請して罷らむ」といひて、乃ち天に参上る時、山川悉に動み国土皆震りき。爾に天照大御神聞き驚きて詔りたまひけらく・・・・・・

 これはほぼ『古事記』の一節そのものなのですが、当時すでに『古事記』に見える神話の一部は整っていた、ということでしょうか。本作の舞台は弥生時代ですが、天照大御神は単なる普遍的性格の強い太陽神というよりは、すでに記紀神話で語られるような背景を少なくとも一部は有している、という設定のようです。個人的には同意できないのですが、じっさいのところは不明ですし、創作ものとしてはとくに問題ないと思います。祈祷部の身分のある程度高そうな巫女が、モモソは古代の言葉で神託を告げており、内容は須佐之男命(スサノオノミコト)と天照大御神との戦いだ、と解説します。側にいる巫女見習いと思われる女性に意味するところを訊かれた巫女は、いずれ倭国最後の戦いが始まる、と答えて周囲は動揺します。神託を告げていたモモソは我に返ります。演技ではなさそうなので、いわゆるトランス状態ということでしょうか。この様子を見たヤノハは、あれが神降りか、養母とあまり変わらないな、と呟きます。

 場面は変わって、祈祷部の拠点と思われる建物の中です。祈祷部の長であるヒルメと副長であるウサメが話し合っています。ウサメはヒルメに、鬼国(キコク)が金砂(カナスナ)の国に侵攻し、越(コシ)の国は日ノ下(ヒノモト)の国に援軍を送っている、と報告します。地図が示されていないので不明ですが、越の国は北陸一帯で、金砂の国とは旧国名の陸奥でしょうか。鬼国は『三国志』に見えますが、どうもこれらの国々は東日本にあるという設定のようです。すでに九州地方から東北地方まである程度の政治・文化的一体性がある、ということでしょうか。

 ウサメの報告を受けたヒルメは、戦争は鎮まるどころか、ますます激しさを増している、と言います。鹿屋(カヤ)にいるタケル王はまだ神託を受けに山杜(ヤマト)に入らないのか、とウサメに問われたヒルメは、タケル王にはその思いが強いようだが、タケル王が本当の日見彦(ヒミヒコ)ではないと知っている鞠智彦(ククチヒコ)が反対している、と答えます。倭国の行く末についてウサメに問われたヒルメは、新たなる日見彦もしくは日見子(ヒミコ)の出現を待つしかない、と答えます。

 そのために祈祷部の見習いたちに「トンカラリン」の儀式を行なうのか、とウサメに問われたヒルメは、必要なのは祈祷女(イノリメ)ではなく、この百年顕われていない日見子だ、と答えます。存命者の誰も体験したことのない儀式で、見習い全員が死ぬ場合もある、とウサメはトンカラリンの実施に反対しますが、覚悟のうえだ、とヒルメは考えを変えません。今朝、楼観に籠ったモモソに神が降りたのだから、モモソが日見子であることに疑いの余地はなく、モモソが日見子と宣言すればトンカラリンという試練も不要なのでは、とウサメはあくまでもトンカラリンの実施に反対します。ヒルメは、モモソがトンカラリンを生き延びれば倭国中の国々の誰も文句は言えまい、とウサメを説得します。

 それでもウサメは万が一の場合を不安視します。するとヒルメは、モモソが死ねば日見子ではないので、また新たに探すのみだ、と冷酷に言い放ち、ウサメもヒルメの説得を諦めたようです。日見子が顕われた場合、タケル王と鞠智彦はどうするのか、とウサメに問われたヒルメは、タケル王の日見彦としての尊厳が失われるので、日見子を殺そうとするだろう、と答えます。種智院の柵の外の男兵は鞠智彦の手勢なので攻めてくることを懸念するウサメは、山杜にいる戦部の精兵を呼び戻すことをヒルメに提案しますが、味方は隠れたところに大勢いるので案ずるな、とヒルメは落ち着いた様子でウサメを諭します。このヒルメの発言が今後の展開にどう活かされるのか、気になります。

 場面は変わって、種智院の建物の中でヤノハとモモソが話しています。前回、ヤノハには天照大御神の声が聞こえるようだとヒルメに進言してもらいたい、とヤノハに頼まれていたモモソですが、継母たるヒルメはウサメと密談していることもあり、二人きりになる機会がないので、まだヒルメには話していない、とヤノハに謝ります。しかしヤノハは怒ることもなく、モモソを信じている、と言います。モモソはヤノハに感謝し、ヤノハを祈祷部の見習いに加えるよう、必ずヒルメに頼む、と笑顔で約束します。一安心したモモソは周囲を窺いながら、お願いがある、とヤノハに言います。モモソは戦友だから何でも聞くぞ、と言ったヤノハに、モモソはあることを頼みます。ここではその内容が明かされませんが、後述の展開から推測すると、前回密会した柵の外いる男兵のホオリと再度会いたい、ということのようです。人は欲望をなかなか断ち切れず、最も断ち切り難いのは男女の縁だ、とヤノハは内心ほくそ笑みます。

 おそらくその晩のことと思われますが、ヤノハは戦部の師長であるククリに呼び出されます。ヤノハは戦部見習いのなかで最も優れた戦士(もののふ)なので、命が下った、とククリはヤノハに告げ、その内容を説明します。暈の国と那の国はかねてより敵対関係にあり、形勢は大川を挟んで暈の国が圧倒的に不利です。大川とは球磨川かもしれませんが、第1話の地図から推測すると、筑後川でしょうか。那国のトメという人物を知っているか、とククリに問われたヤノハですが、知りません。トメは那国の将軍で、元は平民でしたが、示斎(ジサイ)に志願し、なんども韓国(カラコク)への航海を成功させて出世した、とククリは説明します。示斎は『三国志』では「持衰」と表記され、倭国から中国への遣使のさいに選ばれる男性一人です。持衰(示斎)は、髪をすかず、虱も取らず、衣服も汚れたままで、肉を食べず、女性も近づけず、喪中の人のように振舞います。遣使の旅が無事であれば持衰には家畜や財物が与えられますが、病人が出たり災害にあったりすると、人々は持衰を殺そうとします。トメが指揮を執る限り暈の敗北は明らかなので、トメに近づき、女性の武器をすべて使って殺せ、とククリはヤノハに命じます。戦柱(イクサバシラ)なのか、とヤノハに問われたククリは、使命を果たして生還すれば、自分と同じ白の衣を授ける、と答え、数日後に旅立て、と命じます。

 ククリの前から去ったヤノハは、そのまま(翌日の夜かもしれませんが)ホオリを誘惑しに行きます。全裸になったヤノハにたいして、今日こそ交らわせてくれ、と懇願するように言いますが、ヤノハはホオリに男根を出すよう促し、手でしごき始めます。しかしヤノハは、ここでは駄目だ、千数えたら柵を超えて邑(種智院)に忍び込め、楼観で待っている、楼観では自分をモモソと呼べ、とホオリに伝えます。呼合(よばい)なのだ、本当の名を言ってどうするのだ、とヤノハは不審に思うホオリを説得します。自分の要求を受け入れたら身体を好きにしてもよい、とヤノハに言われたホオリは、喜んで了承します。

 楼観に忍び込んだホオリはモモソと呼びかけ、抱き着きますが、その相手はヤノハではなくモモソでした。ヤノハにホオリと再度密会できるよう頼んでいたモモソは、話をするだけだ、と言ってホオリを拒みます。暗い中、依然として相手をヤノハと勘違いしているホオリは、先ほどは抱かせてくれると言ったではないか、と言って強引にモモソに迫り、ヤノハと呼びかけてしまいます。すると、隠れて見張っていたヤノハがホオリを刺し殺し、危ないところだったな、とモモソに声をかけます。ホオリが死んだことで錯乱するモモソをヤノハは落ち着かせます。ホオリが突然自分に乱暴してきた、と説明するモモソに、これだから男は、と呆れた様子でヤノハは呟きます。獣のくせに死に顔は善人面だ、とホオリの死体に向かって言い放つヤノハですが、モモソはホオリを殺したことに批判的です。するとヤノハは、日の巫女の長の後継者の操を奪おうとしたのだ、死んで当然だ、とモモソに力強く言います。この時点から先のヤノハが、自分の謀はまた一段階目的に近づいたが、それが死への第一歩だったことを当時は知らなかった、と回想するところで今回は終了です。


 今回も少しずつ作中設定が明かされつつ、ヤノハとモモソを中心に話が動いていき、楽しめました。このまま進んでいけば、『イリヤッド』や『天智と天武〜新説・日本書紀〜』以上に楽しめる作品になるのではないか、と期待しています。タケル王が本当の日見彦ではなく、支配層のみがそれを知っている、という前回の予想はほぼ的中したようです。ヒルメは、日見子が出現すれば、というか人々に認められれば、日見彦として建前上は崇敬されているだろうタケル王が日見子を殺そうとするだろう、と予想しています。これは、暈の国がおそらくは『三国志』の狗奴国で、狗奴国が卑弥呼と敵対していたこととつながるのでしょう。

 そうだとすると、モモソとヤノハのどちらが卑弥呼となるのか、現時点では分かりませんが(他の人物が卑弥呼となる可能性もわずかにあるかもしれませんが)、どこかの時点で後の卑弥呼が暈の国から脱出することになるのでしょう。本作の邪馬台国は、ヤノハの出身地でもある日向(ヒムカ、おそらく現在の宮崎県)と設定されているように思われるので、ヤノハは暈の国から脱出すると予想しています。モモソが暈の国に留まるか日見子出現前に死ぬ場合は、ヤノハがモモソから得た知識を活用してもとに日見子となるのかもしれません。ただ、モモソの扱いが大きく、名前は卑弥呼に比定する見解もある倭迹迹日百襲姫命に由来するでしょうから、モモソが卑弥呼となり、ヤノハが陰から、もしくは「男弟」となってモモソを支える展開も考えられます。

 歴史的な側面での謎解き要素も本作の魅力ですが、主人公であるヤノハの生き様も魅力になっていると思います。ヤノハは生きることに必死で、手段を選びません。巫女として稀有の才能を秘めているらしいモモソが、それ以外では世間知らずで純情なところのある普通の人物として描かれていることと対照的です。本作はヤノハを主人公とする悪漢小説のようでもあり、今後もヤノハの強烈な生き様が描かれることになりそうです。そこで気になるのは、時々入るヤノハの回想がどの時点のものなのか、ということです。回想場面でのヤノハはまだ若いようなのに、死が近いことを受け入れているようで、生に執着している現時点とは大きく異なるように思います。

 今回、ヤノハは那国の将軍であるトメを殺すよう、ククリに命じられましたが、那国で囚われるということでしょうか。まあ、そうなるのか分かりませんが、手段を選ばないヤノハが、自らを死地に追いやった、という展開になるかもしれません。そうだとすると、今のところはヤノハがお人好しのモモソを操っているように見えて、未来が見えると称するモモソの掌で踊らされているのかもしれません。もっとも、ホオリに襲われたモモソの様子を見ると、モモソがヤノハの謀略を見抜けているとはとても思えません。しかし、ホオリが自分にヤノハと呼びかけたことから、何かおかしいと後で気づくことでしょう。そのホオリは、それになりに重要な人物としてずっと登場するのかと予想していたのですが、あっさりと退場しました。

 ヤノハの意図がどうもよく分からなかったのですが、素直に考えれば、生還の見込みの薄い戦柱に選ばれて数日中に出立せねばならなくなったことから焦り、ホオリにモモソを抱かせることにより、モモソの決定的な弱みを握って、ヒルメにヤノハを祈祷部とするよう急いで進言させたかったが、ホオリがついモモソにヤノハと呼びかけてしまったため、自分の企みがモモソに知られるのを恐れてホオリを殺したのだと思います。ただ、暗がりとはいえ、ホオリが途中で相手はモモソだと気づく可能性は低くありませんから、モモソが危機に陥ったところでホオリを殺し、モモソからさらに信頼を得て自分に依存させることで、ヒルメにヤノハを祈祷部とするよう急いで進言させたかった、とも考えられます。次回以降で、ヤノハの意図も詳しく明かされるのでしょうか。今のところはヤノハに操られている感じのモモソが今後どう変わっていくのか、ということも気になります。当分はヤノハとモモソを中心に話が動きそうですが、暈の国以外の重要人物も今後登場するでしょうから、人間ドラマという観点からも楽しめそうです。
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ヨーロッパ人に見られるネアンデルタール人由来の適応的遺伝子

2018/10/05 21:52
 ヨーロッパ人に見られるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の適応的遺伝子に関する研究(Enard, and Petrov., 2018)が報道されました。ネアンデルタール人と現生人類の交雑は少なくとも2回起きました。最初は10万年以上前で、この交雑が現代人に遺伝的影響を残しているのか、あるいはこの時交雑した現生人類の子孫が現代にいるのか、不明です(関連記事)。2回目は、非アフリカ系現代人全員に遺伝的影響を及ぼした、54000〜49000年前頃の交雑です(関連記事)。

 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、各地域集団間でさほど変わらず、たとえば、ユーラシア西部系で1.8〜2.4%、東アジア系で2.3〜2.6%と推定されており、低くなっています(関連記事)。非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は、単なる遺伝的浮動の結果ではなく、適応度の違いによる選択も受けている、と推測されています。たとえば、アフリカ起源の現生人類にとって、ユーラシアへの拡散にさいして、ユーラシアで長く進化してきたネアンデルタール人の免疫関連遺伝子は適応度を向上させたので、非アフリカ系現代人のゲノムに一定以上の割合で保持されているのではないか、と推測されています(関連記事)。一方、ネアンデルタール人由来の遺伝子が現生人類にとって適応度を下げた場合も想定されており、たとえば、精巣に関わる遺伝子領域やX染色体上の何らかの遺伝子がその候補です(関連記事)。そうしたネアンデルタール人由来のゲノム領域は、現生人類系統において排除されたのではないか、と推測されています。

 本論文はそうした観点から、ウイルスとタンパク質の関係に注目しています。人類系統が他の大型類人猿系統と分岐して以降、タンパク質の適応の約30%はウイルスとの相互作用の結果だと推測されています。ウイルスへの抵抗性を有するタンパク質には正の選択が作用したのではないか、というわけです。DNA領域は世代が進むたびに断片化されていき、有害な遺伝子を含む領域は排除されやすくなりますが、正の選択が作用するような遺伝子を含むDNA領域は、頻度が高くなり、長さを比較的維持する傾向にあります。

 本論文は、ウイルスと相互作用するタンパク質(VIPs)と関連する遺伝子のうち、ネアンデルタール人由来と推測されるものを含む領域が、ヨーロッパ系現代人でも東アジア系現代人でも、比較的長く高頻度(東アジア系で32%、ヨーロッパ系で25%)で保持されていることを明らかにしました。ウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域には、ネアンデルタール人由来であっても正の選択が作用することを改めて示した、というわけです。上述したように、アフリカ起源の現生人類にとって、ユーラシアの先住人類たるネアンデルタール人の遺伝子を交雑で獲得することは適応度を向上させたと推測されますが、ネアンデルタール人との直接的接触においてはとくに、ウイルスへの抵抗性を有するタンパク質は現生人類にとって有益だったと推測されます。

 本論文はさらに、ネアンデルタール人由来と推定される遺伝子領域に関して、ヨーロッパ系現代人と東アジア系現代人との比較では、DNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域では大きな違いがないものの、RNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域ではヨーロッパ系の方がずっとネアンデルタール人の影響が大きい、と明らかにしました。これは、出アフリカ現生人類系統でヨーロッパ系とアジア系が分岐した後の、ヨーロッパ系とネアンデルタール人との追加の交雑を反映しているのかもしれませんが、地域的なウイルスへの抵抗性に起因する適応度を反映しているのかもしれません。

 ただ本論文は、これらの知見はまだ統計的関連性のみを示している段階なので、今後の課題として、より機能的な研究が必要だと指摘しています。また本論文は、そうした研究の進展により古代の伝染病の発生を検出できるようになるかもしれない、との見通しを提示しています。更新世でも、ネアンデルタール人がまだ存在していた時代の人口密度は低かったでしょうが、それでもウイルスへの抵抗性が適応度に一定以上の影響を及ぼした可能性は高そうです。本論文が述べているように、今後、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)に関しても、同様の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Enard D, and Petrov DA.(2017): Evidence that RNA Viruses Drove Adaptive Introgression between Neanderthals and Modern Humans. Cell, 175, 2, 360-371.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2018.08.034
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ミツバチは菌類の摂取によりウイルスを遠ざける

2018/10/05 21:48
 菌類の摂取によりミツバチがウイルスを遠ざけている、と報告した研究(Stamets et al., 2018)が公表されました。全世界でミツバチの健康状態が低下しており、これに大きく関わっているのが、チヂレバネウイルス(DWV)やシナイ湖ウイルス(LSV)などのウイルスだと報告されています。しかし、現在のところ養蜂家が利用できる認可された抗ウイルス剤はなく、養蜂家は殺ダニ剤を使って、ウイルス媒介の疑いのあるダニが湧いたミツバチの巣を削減しています。

 本論文は、実験室環境と野外での研究で、菌類に由来する抽出物がDWVとLSVに対する活性を有しているのか、評価しました。実験室環境では、飼育しているミツバチに菌類(ツリガネタケとコフキサルノコシカケ)の抽出物または砂糖シロップ(対照用)を餌として与えました。その結果、菌類の抽出物を与えられたミツバチは、砂糖シロップを与えられたミツバチと比べて、DWVとLSVの量が用量依存的に急減しました。一方、野外実験では、ミツバチのコロニーにマンネンタケ属とツリガネタケ属のキノコの抽出物を餌として与えたところ、この食餌により12日後にはDWVとLSVの量が用量依存的に減少する、と明らかになりました。また、これとは別の菌類種の抽出物を与えてもウイルス量は有意に減少しましたが、スクロース溶液を与えた対照コロニーでは、ウイルス量の減少はわずかでした。今回調べられた菌類抽出物は経口摂取で有効な物質であり、また野生のミツバチはキノコを餌として摂取していることが観察されているため、養蜂家は今後、ミツバチの受粉サービスを維持するために菌類を利用できるかもしれない、と本論文は指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物学】ミツバチがウイルスを寄せつけなくなったのは菌類のおかげだった

 ミツバチは、菌類の抽出物を摂取して、特定のウイルスによる感染の防御といった健康上の効用を得ていることを示唆する論文が、今週掲載される。

 全世界でミツバチの健康状態が低下しており、これに大きく関わっているのがチヂレバネウイルス(DWV)やシナイ湖ウイルス(LSV)などのウイルスだとする報告がなされている。しかし、現在のところ養蜂家が利用できる認可された抗ウイルス剤はなく、養蜂家は殺ダニ剤を使って、ウイルス媒介の疑いのあるダニが湧いたミツバチの巣を削減している。

 今回、Walter Sheppardたちは、実験室環境と野外での研究で、菌類に由来する抽出物がDWVとLSVに対する活性を有しているのかどうかを評価した。実験室環境では、飼育しているミツバチに菌類(ツリガネタケとコフキサルノコシカケ)の抽出物または砂糖シロップ(対照用)を餌として与えた。その結果、菌類の抽出物を与えられたミツバチは、砂糖シロップを与えられたミツバチと比べて、DWVとLSVの量が用量依存的に急減した。一方、野外実験では、ミツバチのコロニーにマンネンタケ属とツリガネタケ属のキノコの抽出物を餌として与えたところ、この食餌によって、12日後にはDWVとLSVの量が用量依存的に減少することが明らかになった。また、これとは別の菌類種の抽出物を与えても、ウイルス量は有意に減少したが、スクロース溶液を与えた対照コロニーでは、ウイルス量の減少はわずかだった。

 今回の研究で調べた菌類抽出物は経口摂取で有効な物質であり、また、野生のミツバチはキノコを餌として摂取していることが観察されているため、養蜂家は今後、ミツバチの受粉サービスを維持するために菌類を利用できるかもしれない、とSheppardたちは考えている。



参考文献:
Stamets PE. et al.(2018): Extracts of Polypore Mushroom Mycelia Reduce Viruses in Honey Bees. Scientific Reports, 8, 13936.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-32194-8
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ネアンデルタール人的特徴を有するイタリアの45万年前頃の歯

2018/10/04 18:31
 イタリアで発見された中期更新世の人類の歯に関する研究(Zanolli et al., 2018)が報道されました。本論文は、ローマの南東50kmに位置するフォンターナ・ラヌッチョ(Fontana Ranuccio)遺跡と、トリエステの北西18kmに位置するヴィソグリアーノ(Visogliano)遺跡で発見されたホモ属の歯を、マイクロCTスキャンと詳細な形態学的分析により他のホモ属と比較しました。両遺跡は相互に約450km離れています。フォンターナ・ラヌッチョ遺跡の年代は45万年前頃と推定されており、4個の孤立したホモ属永久歯(上顎左側犬歯根、下顎左側側切歯、左右の下顎第一臼歯)が発見され、握斧と小剥片石器が共伴しています。ヴィソグリアーノ遺跡の推定年代には幅があるのですが、ホモ属の歯が発見された層は48万〜44万年前頃で、歯冠はないもののわずかに歯の残る右側下顎断片・5個の孤立した上顎歯・3個のおそらくはホモ属の断片的な歯が発見されており、礫器や円盤状コアや地元の石灰岩の剥片などが共伴しています。両遺跡のホモ属の歯はともに中期更新世中期で、おおむね同じ年代と言えそうです。海洋酸素同位体ステージ(MIS)では12となり、第四紀全体でも北半球では最も気候条件が厳しかった時代とされます。

 比較対象となったのは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、前期更新世後期〜中期更新世前期のアフリカ北部のホモ属(NAH)、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)のホモ属、現代人です。SHホモ属の推定年代は43万年前頃で、フォンターナ・ラヌッチョ遺跡およびヴィソグリアーノ遺跡と近いと言えます。SH人類遺骸群には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)、祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しており、遺伝学的研究からも、ネアンデルタール人の祖先集団もしくはそのきわめて近縁な集団と推測されています(関連記事)。

 本論文は、下顎切歯の厚さの組織分布的な多様性・小臼歯および大臼歯の歯冠側面組織・エナメル質と象牙質の接合部・歯髄腔の形態などを比較しました。その結果、フォンターナ・ラヌッチョ遺跡およびヴィソグリアーノ遺跡のホモ属の歯は、現代人やNAHとは明確に異なり、ネアンデルタール人と類似する内部構造を有していて、ネアンデルタール人の変異内におおむね収まる、と明らかになりました。また、フォンターナ・ラヌッチョ遺跡およびヴィソグリアーノ遺跡のホモ属の歯は、SHホモ属とも比較的近い関係にあります。本論文は、ネアンデルタール人的な歯はヨーロッパ西部において遅くとも45万〜43万年前には出現していた、との見解を提示しています。そのため本論文は、ネアンデルタール人系統と現生人類(Homo sapiens)系統との分岐は、前期〜中期更新世の移行期に起きたのではないか、と推測しています。

 一方で本論文は、中期更新世前期〜中期のヨーロッパのホモ属遺骸でも、ドイツのマウエル(Mauer)遺跡標本(Mauer 1)やセルビアのバラニカ(Balanica)標本(BH-1)の歯の内部構造には、ネアンデルタール人の派生的特徴がまったくかほとんど見られない、と指摘します。本論文は、中期更新世中期のユーラシアにはネアンデルタール人系統とは関係のないホモ属系統が存在し、ユーラシアにおける中期更新世中期のホモ属の進化が複雑なものだった可能性を示唆します。これは、中期更新世のヨーロッパにおける、人類集団間または集団内の多様性および複雑な人口動態と、さまざまな水準の孤立と交雑を伴う多様な集団置換を想定する見解(関連記事)と整合的と言えるでしょう。

 フォンターナ・ラヌッチョ遺跡およびヴィソグリアーノ遺跡もSHも、ヨーロッパでは南部に位置します。これらのホモ属の年代は、上述したように、たいへん気候条件の厳しかったMIS12となります(SHホモ属はMIS12後期〜MIS11となりそうですが)。おそらく、ヨーロッパのホモ属はMIS12にはおもに南部に退避し、各地域集団は比較的孤立していたのではないか、と思います。フォンターナ・ラヌッチョ遺跡およびヴィソグリアーノ遺跡のホモ属の歯はSHホモ属よりもネアンデルタール人的で、SHホモ属は、上述したように、頭蓋でも頭蓋以外でも祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。本論文の知見は、ネアンデルタール人の起源をめぐる議論とも関わってくると思います。

 近年、現生人類(Homo sapiens)の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」が提示されています(関連記事)。現生人類の派生的な形態学的特徴はアフリカでのみ進化したものの、それは単一の地域・集団のみではなく、複数の地域・集団で異なる年代に出現した、というわけです。

 ネアンデルタール人の起源に関しても、同様のことが言えるかもしれません。中期更新世前期〜中期の寒冷化により、ヨーロッパ北部のホモ属集団は絶滅するかイタリア半島やイベリア半島といった南部へと撤退し、孤立していきました。そうした各地域の集団において、異なる年代に異なるネアンデルタール人の派生的特徴が出現し、温暖化にともなう各集団のヨーロッパ北部への再拡散と融合・置換などの結果、ネアンデルタール人が形成されていったのではないか、というわけです。

 また、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先とされるハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)についても、再考が必要だと思います。上述したように、マウエル1も含めて中期更新世前期〜中期のヨーロッパのホモ属遺骸の歯の内部構造には、ネアンデルタール人の派生的特徴がまったくかほとんど見られません。マウエル1はハイデルベルク人(ハイデルベルゲンシス)の正基準標本とされていますが、ハイデルベルゲンシスについては、形態学的に多様性が大きく一つの種に収まらないほどの変異幅があるとか(関連記事)、マウエル1の下顎骨は現生人類とネアンデルタール人の共通祖先と考えるにはあまりにも特殊化しているとか(関連記事)指摘されています。そもそも、ハイデルベルゲンシスという種区分自体を見直す必要がありますし、またその種区分を残すとしても、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先どころか、ネアンデルタール人の祖先と位置づけることも難しいのではないか、と思います。


参考文献:
Zanolli C, Martinón-Torres M, Bernardini F, Boschian G, Coppa A, Dreossi D, et al. (2018) The Middle Pleistocene (MIS 12) human dental remains from Fontana Ranuccio (Latium) and Visogliano (Friuli-Venezia Giulia), Italy. A comparative high resolution endostructural assessment. PLoS ONE 13(10): e0189773.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0189773
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アフリカゾウの皮膚の微細な割れ目

2018/10/03 16:42
 アフリカゾウの皮膚の微細な割れ目に関する研究(Martins et al., 2018)が公表されました。物理的割れ目のパターンは非生物において発生することが多く、生物系で生じるのは稀です。アフリカゾウの皮膚には、マイクロメートル幅の割れ目が互いにつながって形成された、複雑な網目模様が深く刻み込まれています。この割れ目により、保水性は平面の場合の5〜10倍に向上しており、これによって熱調節と寄生虫予防の有効性も高まっています。ただし、この割れ目の形成過程は未解明でした。

 本論文は、顕微鏡観察と物理学に基づくモデル化により、この割れ目が皮膚の最外層(角質層)の破断だとする見解を提示しています。本論文は、この皮膚の割れ目が、徐々に増殖する表皮の曲げ応力により発生する物理的ひび割れによって生じる、と推測しています。この仮説は、このような割れ目がゾウの新生仔には見られないという観察結果からも裏づけられています。本論文は、この割れ目パターンがアジアゾウの皮膚には見られない理由、およびアフリカゾウの皮膚細胞の生理学的特徴を解明するには、さらなる研究が必要と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物学】アフリカゾウの皮膚に微細な割れ目が広範に見られる理由

 アフリカゾウの皮膚の表面には網状の割れ目が見られるが、その原因は、表皮が増殖する時に生じる物理的なひび割れだとする知見を報告する論文が、今週掲載される。

 物理的割れ目のパターンは、非生物において発生することが多く、生物系で生じるのはまれである。アフリカゾウの皮膚には、マイクロメートル幅の割れ目が互いにつながって形成された複雑な網目模様が深く刻み込まれている。この割れ目により、保水性は平面の場合の5〜10倍に向上しており、これによって熱調節と寄生虫予防の有効性も高まっている。ただし、この割れ目の形成過程は解明されていない。

 今回、Michel Milinkovitchたちの研究グループは、顕微鏡観察と物理学に基づくモデル化によって、この割れ目が皮膚の最外層(角質層)の破断だとする考えを示している。Milinkovitchたちは、この皮膚の割れ目が、徐々に増殖する表皮の曲げ応力によって発生する物理的ひび割れによって生じると考えている。この仮説は、このような割れ目がゾウの新生仔には見られないという観察結果からも裏付けられている。

 この割れ目パターンがアジアゾウの皮膚には見られない理由、およびアフリカゾウの皮膚細胞の生理学的特徴を解明するには、さらなる研究が必要とされる。



参考文献:
Martins AF. et al.(2018): Locally-curved geometry generates bending cracks in the African elephant skin. Nature Communications, 9, 3865.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-06257-3
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