社会的隔離による渇望反応

 社会的隔離による渇望反応に関する研究(Tomova et al., 2020)が公表されました。社会的交流は報酬刺激であり、笑顔などの前向きな社会的交流に関連した画像は、ヒトの脳内のドーパミン報酬系を活性化させます。これまでの研究で、短時間の社会的隔離を受けたマウスは、その後の社会的交流時に中脳ドーパミン系の反応が強化される、と示されています。これは、中脳ドーパミン系が隔離後の孤独感に似た状態に寄与している可能性を示唆しています。しかし、ヒトが社会的隔離後に同様の神経反応を経験するのか、明らかではありません。

 この研究では、40人の被験者が、対面やオンラインでの社会的交流から隔離されるセッションと絶食するセッション(各10時間)を行なう様子が観察され、それぞれのセッション後に、被験者に社会的交流や食物や花の画像が見せられ、脳のfMRIが実施されました。また被験者は、孤独感や食物への渇望や社会性への渇望を経験したのか、自己申告しました。その結果、被験者は、社会的交流からの隔離後には社会性への渇望が増し、絶食後には食物への渇望が増した、と自己申告しました。これに対応して、ドーパミン作動性活性と一致する報酬反応と新規性反応に関連する中脳領域は、社会的交流からの隔離後には社会的交流の画像に対して、絶食後には食物の画像に対して、強い反応が見られました。

 この研究は、社会的交流からの隔離後の社会的交流の画像と絶食後の食物の画像に対する中脳の反応は互いに類似しており、花の画像に対する中脳の反応よりも類似性が高いことを明らかにしました。これは、急性の社会的隔離は、絶食が食物への渇望を引き起こすのと類似した過程で社会性への渇望を引き起こす、と示唆しています。この研究は、短期間の社会的制約や社会的隔離が、社会性への渇望を引き起こし、社会的交流などの要求を断たれた状態に対する脳の反応に影響を及ぼす過程に関して新たな知見が得られた、と結論づけています。こうした反応も進化の過程で獲得されたと考えられ、そうした観点での研究の進展が期待されます。また、他の社会性動物ではどうなのか、という研究も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:社会的隔離はヒトの脳内で渇望反応を引き起こす

 10時間にわたって強制的に社会的に隔離されたヒトは、社会性への渇望を経験し、社会的交流の画像に対する脳の反応が強くなる傾向のあることを示唆する論文が、今週、Nature Neuroscience に掲載される。

 社会的交流は、報酬刺激であり、笑顔などの前向きな社会的交流に関連した画像は、ヒトの脳内のドーパミン報酬系を活性化させる。これまでの研究で、短時間の社会的隔離を受けたマウスは、その後の社会的交流時に中脳ドーパミン系の反応が強化されることが示されており、このことは、中脳ドーパミン系が、隔離後の孤独感に似た状態に寄与している可能性を示唆している。しかし、ヒトが、社会的隔離後に同様の神経反応を経験するかは明らかでない。

 今回、Livia Tomovaたちの研究チームは、40人の被験者が、対面やオンラインでの社会的交流から隔離されるセッションと絶食するセッション(各10時間)を行う様子を観察し、それぞれのセッション後に、被験者に社会的交流、食物、花の画像を見せて、脳のfMRIを実施した。また、被験者には、孤独感、食物への渇望、社会性への渇望を経験したかを自己申告させた。

 この実験で、被験者は、社会的交流からの隔離後には社会性への渇望が増し、絶食後には食物への渇望が増したと自己申告した。これに対応して、ドーパミン作動性活性と一致する報酬反応と新規性反応に関連する中脳領域は、社会的交流からの隔離後には社会的交流の画像に対して、絶食後には食物の画像に対して、強い反応が見られた。Tomovaたちは、社会的交流からの隔離後の社会的交流の画像と絶食後の食物の画像に対する中脳の反応は互いに類似していて、花の画像に対する中脳の反応よりも類似性が高いことを明らかにした。これは、急性の社会的隔離は、絶食が食物への渇望を引き起こすのと類似した過程で社会性への渇望を引き起こすことを示唆している。

 Tomovaたちは、今回の研究から、短期間の社会的制約や社会的隔離が、社会性への渇望を引き起こし、社会的交流などの要求を断たれた状態に対する脳の反応に影響を及ぼす過程に関して新たな知見が得られたと結論付けている。



参考文献:
Tomova L. et al.(2019): Acute social isolation evokes midbrain craving responses similar to hunger. Nature Neuroscience, 23, 12, 1597–1605.
https://doi.org/10.1038/s41593-020-00742-z

14世紀のポーランドにおける人為的な地域生態系の変化

 14世紀のポーランドにおける人為的な地域生態系の変化に関する研究(Lamentowicz et al., 2020)が公表されました。この研究は、ポーランド西部のワグフ(Łagów)村近くの自然保護区であるポースキワグ(Pawski Ług)で、異なる泥炭層に含まれる植物と花粉の組成の違いを分析しました。ワグフ村は13世紀初頭に開拓され、1350年に聖ヨハネ騎士団が入植しました。この研究は、さまざまな泥炭層の組成を分析することにより、それぞれの層が形成された時に存在した条件を推測しました。より古い時代の深い層からブナの木やシデの木やスイレンが見つかったので、聖ヨハネ騎士団が入植する前のポースキワグは、原生林に囲まれた湿地だったと結論づけられました。また、泥炭には少量の木炭が含まれていたため、当時この地域に居住していたスラブ系の部族が定期的に原生林の小規模な野焼きをしていた、と示唆されました。

 聖ヨハネ騎士団の下で、大部分の土地は農業労働者に与えられ、農業が行なわれていました。こうした分析から、この時代の泥炭において、穀物の含有量が増加するにつれてシデの含有量が減少した、と明らかになりました。これは、森林を破壊する活動が、湿地の周囲での耕作地や牧草地の確立につながったことを示しています。この研究は、森林破壊がポースキワグの地下水位に影響を与えた可能性を指摘します。また、ヨーロッパアカマツが増えたことは、この樹木種の再定着を示しています。その結果として、土壌の酸性化が進み、ミズゴケが生育するようになり、生息地の酸性化と泥炭の形成が促進されました。これらの知見は、部族社会から封建社会へ移行したワグフの経済的変容が、地域生態系に直接的かつ著しい影響を与えたことを示している、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:14世紀の部族社会から封建社会への移行に伴う生活の変化が地域生態系に及ぼした影響

 14世紀のポーランドのワグフで起こった部族社会から封建社会への移行は、地域の生態系に著しい影響を与えたことを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、過去に人間社会と経済に生じた変化がどのように地域環境を変えたのかを実証している。

 今回、Mariusz Lamentowiczたちの研究チームは、ポーランド西部のワグフ村近くの自然保護区であるPawski Ługで、異なる泥炭層に含まれる植物と花粉の組成の違いを分析した。ワグフは13世紀初頭に開拓され、紀元1350年に聖ヨハネ騎士団が入植した。

 Lamentowiczたちは、さまざまな泥炭層の組成を分析することによって、それぞれの層が形成された時に存在した条件に関する結論を導き出すことができた。Lamentowiczたちは、より古い時代の深い層からブナの木、シデの木、スイレンが見つかったことを踏まえて、ヨハネ騎士団が入植する前のPawski Ługは、原生林に囲まれた湿地だったと結論付けた。また、泥炭には少量の木炭が含まれていたため、当時この地域に居住していたスラブ系の部族が定期的に原生林の小規模な野焼きをしていたことが示唆された。

 聖ヨハネ騎士団の下で、大部分の土地は農業労働者に与えられ、農業が行われていた。今回の分析から、この時代の泥炭において、穀物の含有量が増加するにつれてシデの含有量が減少したことが明らかになった。これは、森林を破壊する活動が、湿地の周囲での耕作地や牧草地の確立につながったことを示している。Lamentowiczたちは、森林破壊がPawski Ługの地下水位に影響を与えた可能性があるとする見解を示している。また、ヨーロッパアカマツが増えたことは、この樹木種の再定着を示している。その結果として、土壌の酸性化が進み、ミズゴケが生育するようになり、生息地の酸性化と泥炭の形成が促進された。

 以上の知見は、部族社会から封建社会へ移行したワグフの経済的変容が地域生態系に直接的かつ著しい影響を与えたことを示している。



参考文献:
Lamentowicz M. et al.(2020): How Joannites’ economy eradicated primeval forest and created anthroecosystems in medieval Central Europe. Scientific Reports, 10, 18775.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75692-4

ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係

 ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係についての研究(Csáky et al., 2020)が公表されました。ウラル地域は多くの移住に関わっており、それはヨーロッパの歴史も形成しました。こうした事象の考古学的痕跡は、中でもウラル南部地域の中世初期の墓地に見られます。数百基の墓を有する小さくまとまった墓地はウラル地域の典型で、豊富な考古学的発見がありました。考古学・言語学・歴史学の議論によると、現代ハンガリー人集団の民族的起源はウラル地域にさかのぼれます。

 言語学的証拠に基づくと、ウラル語族のウゴル諸語に属するハンガリー語は、ウラル山脈の東側で紀元前1000~紀元前500年頃に現れました。文字記録と言語学的情報と考古学的議論によると、紀元後6世紀(以下、紀元後の場合は省略します)の後、ハンガリー人の先駆者の一部が、その故地からウラル地域西部(シスウラル地域)へと移動しました。9世紀の第1三半期頃、シスウラル地域集団の一部がヴォルガ川を渡り、ドニエプル・ドニエストル地域のハザール・カガン(Khazarian Khaganate)の近くに定住しました。初期ハンガリー人は、895年に起きたカルパチア盆地の征服までヨーロッパ東部に居住し、いわゆるスボッツィ(Subbotsy)考古学的層を形成します。10世紀のカルパチア盆地の物質的特徴は、征服後の急速な変化で、ヨーロッパ東部地域との維持された文化的つながりには、多くの間違いない考古学的証拠があります。

 ウラル地域の先史時代から中世の集団の遺伝的歴史は、これまでほとんど調べられてきませんでした。他方、中世カルパチア盆地の集団は、父系・母系での単系統遺伝標識の観点から集中的に研究されてきました。最近の研究では、ハンガリーの早期征服期の墓地から102人のミトコンドリアゲノムが報告されました。その研究では、草原地帯遊牧民(アジア中央部のスキタイ人)とヨーロッパ東部のスルブナヤ(Srubnaya)文化集団の子孫との混合集団が、ハンガリーの征服者の遺伝的構成の基礎だったかもしれない、と示唆されています。また、アジアのフン人(フン族)とハンガリーの征服者の遺伝的つながりも推測されています。ただ、調査された中世の標本セットは征服者集団全体を表しておらず、標本の76%はハンガリー北東部の特別な遺跡複合であるカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)に由来しています。これは、ハンガリー征服期の最重要遺跡の一つで、東方の特徴についても多くの発見がありました。結論は大規模ですが、最も強調されたスルブナヤ文化集団とのつながりは曖昧です。それは、ハンガリー人の考古学的遺産の最初の痕跡が現れる2000年以上前に存在していたからです。さらに、匈奴(フン人)の遺伝的データセットのようなさらに言及された関係はユーラシアではわずかで、フン人の遺伝的遺産はまだ特徴づけられていません。

 最近の別の二つの研究は、ハンガリーの征服者のY染色体ハプログループ(YHg)の変異度を調査し、征服者の支配層集団の父系は、ヨーロッパ人やフィン・ペルム諸語話者やコーカサス人やシベリア人(もしくはユーラシア東部人)の割合がかなり高く、異質だと報告しています。これらの研究は、ハンガリーの征服者は離れた3集団に起源がある、と主張します。それは、内陸アジア(バイカル湖地域~アルタイ山脈)、シベリア西部~ウラル南部(フィン・ウゴル語派話者)、黒海~コーカサス北部(コーカサス北部テュルク人、アラン人、ヨーロッパ東部人)です。これらの研究では、フィン・ウゴル語派話者でも頻繁に存在する、YHg-N1a1a1a1a2(Z1936)の存在が指摘されています。YHg-N1a1a1a1a2(旧N3a4)は、現代ハンガリー人でも4%ほど存在します。また別の研究では、YHg-N1a1a1a1a2の詳細な系統が復元されており、特有の下位系統が特定の民族集団に共有されている、と示されています(関連記事)。たとえば、N1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)はタタール人とバシキール人(Bashkir)とハンガリー人に共有されており、ヴォルガ・ウラル地域の現代人とハンガリーの現代人とを結びつけます。

 ウラル語族話者現代人集団の以前のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究では、ユーラシア東部および西部のmtDNA系統の分布は、語族の障壁というよりはむしろ地理的距離により決定される、と示唆されました。たとえば、ヴォルガ・ウラル地域のフィン・ウゴル語派集団は、言語学的に関連するバルト・フィン民族集団よりも、テュルク語の近隣集団の方と類似しているようです。ウラル語族15集団に関する最近の研究では、同様に近隣集団との類似性が報告されていますが、シベリア人起源の可能性がある遺伝的要素の共有も指摘されています。現代ハンガリー人の一部のミトコンドリア系統はシベリア人起源かもしれませんが、ハンガリー人の遺伝子プールは他のウラル語族話者とは異なります。

 本論文のおもな目標は、考古遺伝学的手法により、ウラル地域の中世初期集団に関する現在の一連の考古学的知識を拡大することです。ウラル地域からの36人の標本の収集において、最重要の意図は、文化的かつ年代的に(直接的もしくは間接的)にハンガリー人の祖先とつながる、専門的に発掘され適切に報告された、ウラル南部地域の墓地からのみ被葬者を集めることです。トランスウラル地域から標本抽出されたウェルギ(Uyelgi)墓地は、10世紀のカルパチア盆地の考古学的特徴と最も類似していました。後期クシュナレンコヴォ(Kushnarenkovo)文化の墓地は、8世紀末から11世紀にかけて使用されました。

 考古学と歴史学の理論はやや多様なので、ウラル山脈西側(シスウラル地域)のカマ川中流に位置する中世初期の考古学的文化の広範囲を包含することが目的とされました。これまでの研究では、8~9世紀のネヴォリノ(Nevolino)文化の終焉がハンガリー人の祖先の西方への移住と関連づけられています。したがって標本抽出は、3~4世紀のブロディ(Brody)、5~6世紀のバーティム(Bartym)、7~8世紀のスホイログ(Sukhoy Log)という、ネヴォリノ文化の3段階全てで行なわれました。

 さらに、南方の近隣のネヴォリノ文化との密接な文化的つながりのあるロモヴァトヴォ(Lomovatovo)文化の、南部の異形を表す9~10世紀のバヤノヴォ(Bayanovo)墓地が調査されました。バヤノヴォの豊富に供えられた墓の標本抽出は、骨の保存状態が悪いため、制限されました。さらに、調査されたウラルの個体群の一部を伴う、mtDNAの同一の超可変領域1(HVRI)に基づいて以前の研究で選択された、カルパチア盆地のミトコンドリアゲノムに関して、10~12世紀の古代ハンガリー人から9標本が再分析されました。

 本論文のおもな目的は、3~11世紀のウラル南部地域の集団の父系の遺伝的構成を特徴づけ、ユーラシアの利用可能な古代人および現代人の遺伝的データセットと結果を比較することです。また、ウラル集団とカルパチア盆地の征服期集団との間の、潜在的な遺伝的関係の報告も目的とされました。以下、本論文で分析対象とされた個体が発見された遺跡の場所と文化区分とその年代を示した図1です。
画像


●DNA解析

 標本は29人の男性と16人の女性から構成されます。mtDNA全体と、3122ヶ所の核DNAの一塩基多型標的濃縮が実行されました。後者では、常染色体およびY染色体の一塩基多型が得られ、ウラル地域の5ヶ所の異なる墓地と現代のハンガリーの6ヶ所の埋葬地に由来する、45人の性別が決定されました。さらに、ウラル地域の20人の男性のY染色体縦列型反復配列(Y-STR)が調査されました。放射性炭素年代と安定同位体データも得られました。

 45人の高網羅率(8.71~154.03倍で平均71.16倍)のミトコンドリアゲノムが得られました。この新たなデータセットは、mtDNAハプログループ(mtHg)では9マクロハプログループ(A・ C・D・H・T・U・N・R・Z)から構成されます。ユーラシア西部起源と推定されるmtHgはU(U2e1・U3a1・U4a1d・U4b1a1a1・U4d2・U5a1a1・U5b2a1a1、計12人)、H(H1b2・H3b・H40b、計9人)、N(N1a1a1a1a、計5人)、T(T1a1・T1a2・T2b4h、計5人)により表されますが、系統分析からは、そのうち一部が東方起源と示されます。ユーラシア東部起源と推定されるmtHgは、A(A+152+16362・A12a、計4人)、C(C4a1a6・C4a2a1、計6人)、D(D4j・D4j2、計2人)、R11b1bとZ1a1aが1人ずつです。

 ハンガリーの征服者はウラル地域の特定の古代人とのmtDNAのHVRIの一致に基づいて選択されましたが、ミトコンドリアゲノム水準では同一と証明されていません。しかし、関連標本とは系統的に近いままです。いくつかのミトコンドリア系統関係は、トランスウラル地域とシスウラル地域をつなげます。たとえば、ウェルギとスホイログの標本はmtHg-A+152+16362の主要な系統に集まり、さらにウェルギとブロディの標本(mtHg-D4j2)、およびウェルギとバーティムの標本(mtHg-U4d2)は、同様に同じ主要な系統に位置します。

 ミトコンドリア系統とは対照的に、STR および・もしくは一塩基多型データに基づくY染色体の遺伝子プールは、本論文のデータセットでは均一な構成を示します。YHgの内訳は、N1a1(M46)が83.3%、G2a2b2a1a1a1b(L1266)が5.5%、J2が5.5%、R1bが5.5%です。ウェルギ墓地の19人の男性のうち13人はさまざまなDNA保存状態の下位区分のYHg-Nを有していますが、シスウラル地域では、YHg-N1a1の3系統が検出されました。スホイログとバーティムのシスウラル地域標本は全体的に保存状態が悪く、さらなるY染色体に基づく分析はできませんでした。


●母系とゲノムデータの比較集団分析

 ハンガリーの征服者は、mtHgに基づく主成分分析ではシスウラル地域集団に最も近く、アジア中央部およびヨーロッパ東部のスキタイ集団ではウェルギ集団の比較的近くに位置します。それは、これらの古代人集団がユーラシア東西両集団の混合だからです。シベリア西部のマンシ(Mansi)およびハンティ(Khanty)集団のような、アジア中央部および南部とフィン・ウゴル語派現代人集団の一部は、調査されたシスウラル地域およびウラル地域の集団と密接なつながりを示します。ミトコンドリアゲノム分析では、古代人13集団のシスウラル地域の有意な違いは示唆されず、その中で、ハンガリーの征服者は最小の遺伝的距離を示します(FST=0.00224)。ハンガリーの征服者と調査されたウラル地域の2集団との遺伝的距離は、その地理的距離と相関しません。ウェルギ集団とハンガリーの征服者との間の遺伝的距離は、ウェルギと地理的により近いシスウラル地域の集団間よりも小さくなっています。

 古代人28集団のMDS(多次元尺度構成法)プロットによると、シスウラル地域集団はとりわけ中世ハンガリーの征服者集団との類似性を示し、ヨーロッパ集団とアジア集団との間に位置します。ウェルギ地域集団は全ての古代人集団から比較的離れたプロットのアジア部分に位置し、(アジア中央部の後期鉄器時代集団を除く)古代人集団からの有意でより大きな遺伝的距離と、アジアの比較ミトコンドリアゲノムデータセットの不足に起因する可能性が高そうです。シスウラル地域集団とハンガリーの征服者との遺伝的関係は明らかですが、直接的なつながりというよりは、以前の居住地域の地理的近接性を示唆します。以前の研究では、ハンガリーの征服者のミトコンドリアゲノムの多様性は、本質的にスルブナヤ文化関連遊牧民集団とアジアの遊牧民集団との混合の結果として報告されています。その分析と解釈は、ウラル地域の古代人標本の欠如に制限されていましたが、本論文で示された新たなデータは、この以前の見解を洗練します。さらに、以前に研究されたハンガリーの征服者集団が、移民だけではなく、カルパチア盆地の在来混合系統も含む混合起源の遺伝子プールであることは、注目に値します。

 シスウラル地域集団は、アジア中央部高地の現代人4集団、近東およびコーカサス地域のさらなる7集団、ヨーロッパの6集団からの有意ではない遺伝的距離を明らかにし、この集団の混合的な特徴が示唆されます。興味深いことに、ウェルギ地域集団のミトコンドリアは遺伝的距離において、広範な系統発生的つながりにも関わらず、ハンガリーの征服者を含むほぼ全ての先史時代および現代の集団で有意な違いを示し、これは集団内の関連系統の多さと、ユーラシア東西のmtHgの混合的特徴により説明できます。

 ウェルギ地域の5標本からの10928個の核ゲノムの一塩基多型と、ショットガン配列データで524301個の一塩基多型で主成分分析が行なわれました。主成分分析は、現代人集団の地理的位置を反映しています。PC1軸は、ユーラシア東西を分離し、アジア中央部人はその中間に位置します。PC2軸はヨーロッパ人をアジア南西部人と、ユーラシア東部人を南北の勾配に分離します。ウェルギ地域の5標本は、核ゲノムの主成分分析ではヨーロッパ人集団とアジア人集団との間で中央に集団化します。

 ウェルギ地域の5標本はウラル語族の傾向に沿っており、現代シベリア中央部のマンシ人(Mansis)およびセリクプ人(Selkups)だけではなく、草原森林地帯の北部集団のバシキール人(Bashkirs)やタタール人とも近くなっています。PC3軸では、シベリアのタタール人はウラル地域個体群クラスタと最も近い集団です。他の古代人集団が主成分分析で投影されると、ウェルギ地域の5標本はアルタイ地域の青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)集団や、カザフスタン中央部草原地帯の青銅器時代集団とクラスタ化し、ロシアの中期青銅器時代ボリショイ・オレーニ・オストロフ(Bolshoy Oleni Ostrov)集団(関連記事)の近くに位置します。言語学的勾配(関連記事)に基づくと、ウェルギ集団はユーラシア中央部草原地帯のウラル語族話者個体群とテュルク語族集団との間に位置します。

 主成分分析は集団層序化を明らかにしない可能性があるので、教師なしADMIXTURE(K=16)が実行されました。平均して22450個の一塩基多型を有するウラル地域標本は、現代のマンシ人、イルツーク・バラビンスク(Irtysh-Barabinsk)のタタール人、ユーラシア中央部草原地帯のさまざまな古代人ゲノムと、最も類似した系統クラスタ割合を示します。これらの集団間の関係と、集団間の何千年もの潜在的な集団遺伝的事象を解明するためには、より古い参照標本と、より高網羅率の配列が必要です。


●ウェルギ墓地の遺伝的継続性

 トランスウラル地域のウェルギ墓地は、考古学的記録によると、最古の9世紀、9~10世紀、10~11世紀の3期間に区分できます。母系・父系での単系統遺伝的標識は、これらの期間の遺伝的継続性を示し、母系ではやや内婚制集団と示唆されますが、これは、墓地の多数の埋葬が攪乱されているため、考古学的調査結果では観察できませんでした。mtHgではN1a1a1a1aとC4a1a6とH40bが、3期間それぞれおよび3期間相互で同一系統もしくは単系統であることを示し、この傾向は父系のハプロタイプおよびネットワーク分析により一層顕著です。

 YHg-N1a1は3期間全てで存在しますが、STR特性にはほとんど違いがありません。最古および中間の層位には、墳墓(クルガン)32の2個体の同一のSTR を含むYHg-N1a1のみが含まれます。墳墓28・29・30の個体群間では、3個体の同一のSTRが検出されます。おそらく、さらに同一のYHgがこの墓地に存在したかもしれませんが、保存状態が悪いため、7人の男性の全STR特性を復元できません。これらの結果に基づくと、ウェルギ墓地は父系共同体に使用された、と示唆されます。

 母系・父系での単系統遺伝的標識は、墓の集団化同様に、調査対象個体群間の血縁関係を、少なくともある程度は示唆します。しかし、親族分析をできるだけの高品質なデータはまだ得られていません。


●ウラル南部地域とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりの可能性

 トランスウラル地域のカルパチア盆地および10世紀のハンガリーの征服者との遺伝的つながりは、ウェルギ3とカロス2(Karos II)墓地の3人のハンガリーの征服者が同一のmtHg-U4d2を有するという、個体群の密接な母系関係により推測されます。さらに、10世紀前半のハルタ(Harta)墓地の30~40歳程度の女性であるコンク3(Hconq3)はmtHg-A12aで、母系ではウェルギ7の祖先です。

 ウェルギ墓地は、植物の装飾品が施された銀の台が特徴であるスロスツキ(Srostki)文化の考古学的特徴を示し、シベリアのミヌシンスク盆地とアルタイ地域のバラバ草原地帯とカザフスタン北部を経て、トランスウラル地域へと広がりました。さらに、これらの墳墓での考古学的発見は10世紀以前ではなく、つまりカルパチア盆地のハンガリー人の征服の後でした。mtHg-U4d2に現れるカロス墓地からのハンガリーの征服者との同一のミトコンドリアゲノム配列は、密接な生物学的つながり、もしくはウェルギ集団とハンガリーの征服者の共通起源集団を示します。mtHg-D4jは、一つの興味深い現象を示します。ウェルギ21は現代ハンガリー人1個体とクラスタ化します。この墳墓11で発見されたウェルギ21個体の副葬品は、同様にカルパチア盆地のハンガリーの征服者の典型的な副葬品と類似しています。

 ウェルギ10のミトコンドリアゲノムと、バラントニュラク・エルド・デュロ(Balatonújlak-Erdő-dűlő)のハンガリーの征服者の2個体(コンク1およびコンク9)、およびマコ・イガシ・ジャランド(Makó-Igási járandó)墓地のコンク9の同一系統は、mtHg-U5a1a1でクラスタ化します。ウェルギ10は考古学的観点からは混合的特徴を示します。その発見物はスロスツキ文化の影響と同様に9世紀とつながっているかもしれません。バラントニュラク・エルド・デュロの成人女性標本は銀のヘアピンとともに埋葬されており、考古学的発見に基づくと、年代は10世紀第2三半期の可能性があります。埋葬の一つには、東方起源の側壁の窪みを有する墓がありました。そうした発見物のないマコ・イガシ・ジャランドの墓は、11世紀第2三半期と推定されています。つまり、それはアルパディアン(Árpádian)期で、ハンガリーの征服者と在来集団はおそらくすでに混合していました。興味深いことに、25~30歳の男性は、この墓地に埋葬されたほとんどの男性のように、いくつかのアジア人の頭蓋の特徴を示します。

 ウェルギ墓地とハンガリーの征服者のつながりは、mtHg-N1a1a1a1aでも見られ、これは古代ハンガリー人で優勢でした。本論文で取り上げられた、ケネズロ・ファゼカスズグ(Kenézlő-Fazekaszug)とオロシャザ・ゲルビクシュタンヤ(Orosháza-Görbicstanya)とカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)墓地のハンガリーの征服者の7個体は、母系では1分枝でクラスタ化しますが、最初と最後の層のウェルギ墓地標本は、その隣接する分枝に位置します。これらの結果は。ウェルギ墓地の考古学的年代と一致して、これら2集団とその共通祖先との間の間接的なつながりを明確に示します。

 シスウラル地域集団とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりは、とくにmtHg-T2b4hで明らかです。カロス遺跡のバーティム2とベイ3とハンガリーの征服者はmtHg-T2b4hの同じ分枝に位置し、さらに、バーティムとカロスの個体群は、バヤノヴォの個体のmtHgの祖先である同じ系統を共有します。カロス標本の系統はアジア起源の可能性があると判断されました。しかし、それにも関わらず、この推測は、じっさいの系統的つながりだけではなく、中世の前からさえこれらの系統が繰り返し西方に存在することもあり、本論文のデータにより再検討されました。ウラル地域とハンガリーの征服者との間のミトコンドリア6系統の系統発生的つながりは、これらの集団間のやや密接な母系の遺伝的つながりを示し、考古学的発見物でも裏づけられます。


●ウラル南部地域の古代の父系

 ウェルギ地域の男性の大半はYHg-Nで、STRと一塩基多型とネットワーク分析を組み合わせると、同じ下位区分であるN1a1(M46)に分類されます。YHg-N1a1はシベリア東部からスカンジナビア半島まで広範に分布しています。その下位区分の1つがN1a1a1a1a2(Z1936)で、ウラル語族話者集団では顕著に見られ、おそらくウラル地域に起源があり、おもにウラル山脈の西側からスカンジナビア半島(フィンランド)に分布しています。ウェルギ遺跡の7標本は、ほぼYHg-N1a1a1a1a2の下位区分であるN1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)に分類され、これはほぼ現在のタタールスタン共和国とバシコルトスタン共和国とハンガリーにのみ見られます。

 17ヶ所のSTR遺伝子座を有するウェルギ遺跡の7標本を含む、YHg-N1a1に分類される238人と、12ヶ所のSTR遺伝子座を有するYHg-N1a1に分類される335人を用いて、中央結合(MJ)ネットワーク分析が行なわれました。17ヶ所のSTR遺伝子座のMJに基づくと、特定の標本は、バシキール人やハンティ人(Khanty)やハンガリー人やヴォルガ・ウラル地域およびロシア中央部のタタール人と、同一もしくは一段階隣の特性を示します。12ヶ所のSTRデータに基づくMJは、ボドログスゼルダヘリ・バルヴァニヘギー(Bodrogszerdahely-Bálványhegy)およびカロス・エパージェッスゼーグの2人のハンガリーの征服者との、ウェルギの一段階隣のつながりを示します。Y染色体のSTRハプロタイプ参照データベース(YHRD)は、フィンランド人と、ウラル地域もしくはペンザ州(Penza)やアルハンゲリスク州(Arkhangelsk)といったヨーロッパロシア地域の標本間でのさらなる類似性もしくは同一性を示し、とくに、ハンガリー語も属するウラル語族と類似した地域、もしくは初期ハンガリー人の想定される移住経路に沿った地域で顕著です。

 カルパチア盆地の7世紀のアヴァールの支配層男性が、ウェルギ集団と類似のYHg-N1a1頻度にも関わらず、離れた下位区分であるN1a1a1a1a3a(F4205)を有していることは注目され、N1a1a1a1a3aは現代ではバイカル湖地域周辺のモンゴル語族話者集団で顕著に見られます。さらに、アヴァールの支配層男性は、本論文で取り上げられた集団とはかなり異なる集団史を有していたので、相互に混同されてはいけません。

 ウェルギ11のYHgはJ2です。YHg-Jは現在広く分布しており、おそらくは近東起源です。興味深いことに、サレツドヴァリ・ヒゾフェルド(Sárrétudvari-Hízóföld)のハンガリーの征服者個体(SH/81)はYHg-J2a1aですが、ウェルギ11はその下位区分には分類できないので、さらなる推測はできません。

 ウェルギ4のYHgはG2a2b2a1a1a1b(L1266)で、その下位系統はヨーロッパ外に存在すると確認されています。ハンガリーの征服者の間では、YHg-G2a2b(L30)の存在がカロス2墓地の個体(K2/33)で証明されており、さらなる分類もしくはSTRデータはありませんが、YHg-G2a2b2a1a1a1bは確認されており、その標本は本論文のSTR分析にも含めることができます。この場合、14のSTR標識を用いることにより、データベースの見解に起因して、MJネットワークはハンガリーの征服者とウェルギ個体群両方のコーカサス人との類似性を示しますが、同一性も単系統性もこれらの間では観察できません。


●まとめ

 ウラル地域は、考古学・言語学・歴史学に基づくと、古代ハンガリー人の民族形成において重要な役割を果たしましたが、これらの研究分野の結果は、年代および文化的側面の違いを示します。本論文で示されたウラル南部のY染色体と常染色体DNAデータは、集団遺伝学的観点からもこの地域の関連性を確証します。

 系統発生的および系統地理学的観点で調べられたウラル地域の36標本の全体的な母系構成は、東西の混合の特徴を示唆しますが、父系はヴォルガ・ウラル地域に典型的なYHgとより均質です。トランスウラル地域のウェルギ集団の各mtHgを正確に東西系統に分類することは不可能ですが、包括的な代表が存在します。ヨーロッパ起源のmtHg-N1a1a1a1a・H40bは、内部の多様化を伴う母系の通時的な成功を示し、ややユーラシア西部の特徴の集団が基底にある、と示唆します。他方、強い東方の系統地理を有するmtHgでは、同一(C4a1a6)もしくは単一(A・A12a・C4a2a1)のハプロタイプは、ウェルギ地域の第3三半期において顕著で、この集団への比較的最近の混合が示唆されます。しかし、遺伝的および考古学的変化の同時発生は、系統構成の均質性、核ゲノムの主成分分析の位置、父系の均一性、全期間での東部構成(mtHg-C4a1a6)の存在と矛盾します。

 スロスツキ文化関連集団の遺伝的寄与をこの水準では除外できないという事実にも関わらず、東方構成の大半はウェルギ墓地の使用前に混合していた可能性が高そうです。ウェルギ集団は、父系・母系での単系統の遺伝的構成から、ハンガリーの征服者の潜在的な遺伝的起源と、年代的および・あるいは地理的に関連した集団として示されます。さらに、ウェルギ集団の予備的な常染色体分析結果からは、ウェルギ集団がアレル(対立遺伝子)頻度構成を、言語学的もしくは歴史的にハンガリー人と関連する現代のウラルおよびシベリア西部集団と共有している、と示されます。これは、将来の研究の立脚点を提供します。

 ハンガリーの征服者とのウェルギ集団の母系でのつながりは、間接的な(単系統的ではあるものの連続的ではない)関係と直接的な(同一もしくは一段階隣の)関係に区分できます。興味深いことに、間接的なつながりは遺伝的に西方の特徴に基づく集団に区分できますが、直接的なつながりは、ほぼ混合した東方構成のみです。この現象の考えられる説明は、ハンガリーの征服者とウェルギ集団が、過去に東方の混合前に分離した共通祖先を有しており、ウェルギ集団はその後で両集団に遺伝的構成を提供した、というものです。

 しかし、まだ報告されていない東方の構成の正確な起源もしくは同定と、核ゲノムの混合割合と、緩やかな系統発生的つながりは、アジア中央部を指摘します。シスウラル地域の系統発生的構成は、それらの緊密さもしくは連続性に疑問を呈しますが、データ不足のため、この集団の詳細な分析はできません。ハンガリーの征服者の系統に基づくつながりは散発的ですが、地域的な類似性が観察され、それはMDSと主成分分析でより顕著です。

 ハンガリーの征服者の遺伝的構成のみに基づく以前の研究は、非ヨーロッパ系統をさまざまな東方系統に結びつける傾向がありますが、とくに、後期鉄器時代と前期中世のシスウラル地域集団における稀なユーラシア東部のハプロタイプの存在は、将来これらの結論を再形成するかもしれません。将来の研究では、本論文で提示されたデータセットを、高い網羅率のゲノム分析と、さらに古代ハンガリー人とその近隣共同体のヨーロッパ東部の墓地からの標本を含めることで、拡張する予定です。


参考文献:
Csáky V. et al.(2020): Early medieval genetic data from Ural region evaluated in the light of archaeological evidence of ancient Hungarians. Scientific Reports, 10, 19137.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75910-z

大相撲十一月場所千秋楽

 これまで当ブログでは九州場所と表記してきましたが、今場所は東京の両国国技館開催となったので、十一月場所としました。今場所は初日から白鵬関と鶴竜関の両横綱が休場となり、混戦が予想されました。さらに、大関の朝乃山関が負傷により3日目から、先場所優勝して大関に昇進した正代関が5日目から休場となり、横綱・大関陣5人のうち4人が5日目までに休場となりました。とくに、注目されていた新大関の正代関の休場には、相撲協会も頭を抱えたことでしょう。

 今場所も大混戦が予想されましたが、優勝争いは、出場力士では番付最上位となる貴景勝関が引っ張り、千秋楽の時点では1敗の貴景勝関と2敗の照ノ富士関に絞られ、序盤に懸念したほどの混戦にはなりませんでした。千秋楽結びの一番で貴景勝関と照ノ富士関が対戦し、照ノ富士関が貴景勝関の突き押しに耐え、組み止めて寄り倒して勝ち、優勝決定戦となりました。優勝決定戦では、貴景勝関が一方的に照ノ富士関を攻め立てて押し出しで圧勝し、13勝2敗で2回目の優勝を果たしました。貴景勝関は来場所横綱昇進に挑むことになりそうですが、突き押し一辺倒で、組むと十両以下の実力のように思われるので、横綱昇進は難しそうですし、横綱に昇進しても安定した強さを発揮することはできないでしょう。

 照ノ富士関は、もちろん膝の状態が万全ではなく、全盛期の力をまだ取り戻せてないと言えるでしょうが、両横綱が衰え、大関陣は盤石ではなく、他の大関候補も伸び悩むなか、結びの一番を見ると一時期よりも下半身の粘りがずっと強くなりましたから、大関復帰にできる可能性が高くなってきたように思います。照ノ富士関は怪我をして長期休場に追い込まれた反省からか、以前よりも強引な相撲はずっと少なくなりましたし、またよく考えた上手い相撲をとるようになりました。両横綱の衰えは明らかですから、膝の状態がさらに良くなれば、という条件付きではありますが、横綱昇進もあるかもしれません。

 今場所は、大関3人の明暗がはっきりと分かれましたが、とくに朝乃山関に関しては、長期の出稽古禁止による実力の近い稽古相手の不在が悪影響をもたらしたように思われます。一方、貴景勝関は、今場所新関脇で8勝7敗と勝ち越した隆の勝関と同部屋で、稽古相手に恵まれていることが、好調につながっているように思います。貴景勝関よりも朝乃山関の方が次の横綱に相応しい、と考えている相撲愛好者(相撲協会も?)は多そうですが、朝乃山関にとっては何とも不運な新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行です。朝乃山関も正代関も来場所は角番となりますが、2人とも普通以上の状態で出場できれば大関陥落はないでしょう。

ネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型関連遺伝子

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型関連遺伝子に関する研究(Villanea et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文は、今年(2020年)4月のアメリカ自然人類学会総会における報告(関連記事)が元になっています。

 ABOは人類において発見された最初の血液型で、その識別はABO式血液型遺伝子によりコードされています。ABO式血液型は化学的検定により識別できるので、ABO式血液型遺伝子の変異は、DNA配列技術の出現前には遺伝的情報源として重要でした。たとえば、1960年代の研究では、血清学に基づくABO式血液型の決定を用いて、ABO式血液型遺伝子のアレル(対立遺伝子)頻度が正確に人類の移住パターンを再現するのか、決定されました。

 DNA配列技術の進歩により、集団固有の稀な多様体を含む、ABO式血液型遺伝子座の変異の解像度が向上しました。稀な多様体は、集団移住史を理解する手法として役立ちます。たとえば、アメリカ大陸先住民集団において系統の情報標識であるO型多様体(O1V542)や、特定の人類集団に固有の多数の稀な多様体です。さらに、マラリアやノロウイルスや天然痘などの病原体との歴史的な相互作用に起因する自然選択についても、ABO式血液型遺伝子の稀な多様体は有益だと推測されており、稀なABO式血液型遺伝子の変異の重要性が強調されます。

 現代人では、ABO式血液型遺伝子の変異は、ハプロタイプ多様性の予想よりも高い水準の維持により特徴づけられ、これは平衡選択の古典的痕跡です。ABO式血液型遺伝子ハプロタイプは共通の機能タイプ(AとBとO)を有しており、それは平衡選択の効果により集団で保持されます。より細かい規模では、稀な変異は突然変異を通じて蓄積し、同一の機能タイプのアレルに対して、分岐するハプロタイプを生成します。ネアンデルタール人とデニソワ人(関連記事)という非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)にとって、高網羅率ゲノムの最近の配列決定は、古代型ホモ属種におけるABO式血液型遺伝子の多様性がどのようなものだったのか、研究する可能性を開きます。

 現生人類(Homo sapiens)はアフリカから拡散すると、さまざまな古代型ホモ属集団と遭遇して交雑した、と知られています(関連記事)。古代型ホモ属と現代人のゲノムの直接的比較から、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間の複雑な混合が明らかになってきました(関連記事)。現代人で見られる遺伝子の大半では、負の選択が古代型ホモ属に由来するタイプを除去してきました(関連記事)。しかし、古代型ホモ属に由来する遺伝子には有益なタイプもあり、正の選択を通じて現生人類では高頻度に上昇しました(関連記事)。その場合、古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子の多様体が現生人類に継承され、現生人類集団において選択の標的になった可能性があります。

 本論文は、1000ゲノム計画で収集された現代人のゲノムと、古代型ホモ属の高品質なゲノムデータを組み合わせて(28集団2500人)、ABO式血液型遺伝子の集団特有の稀な変異を調べます。対象となる古代型ホモ属個体は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)とチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)で発見されたネアンデルタール人個体、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)で発見されたネアンデルタール人個体、デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人個体です。

 ABO式血液型の古代型ホモ属のアレルに関しては、現代人のABO式血液型のアレルと類似した機能を有する一般的な機能タイプと、稀なハプロタイプ多様体を生じさせる変異が見つかる、と予想されました。デニソワ人個体は、アフリカ系と非アフリカ系両方の現代人で見つかるABO式血液型遺伝子のハプロタイプと類似した多様体を示し、おそらくはデニソワ人系統と現生人類系統の分岐前から保持されている、と明らかになりました。デニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟とヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体はすべて、固有のネアンデルタール人ABO式血液型遺伝子のハプロタイプを示します。さらに、これらのネアンデルタール人の多様体は、現生人類とネアンデルタール人との混合の結果として、選択された非アフリカ系現代人集団に見られます。遺伝子移入されたネアンデルタール人のABO式血液型遺伝子のハプロタイプで観察された高い配列の相違は、平衡選択の結果と一致している、と明らかになりました。


●1000ゲノム計画におけるABO式血液型の多様性

 現代人では、ABO式血液型遺伝子のエクソン6および7で、共通のアレル多様性が発生し、4通りの共通の一塩基多型により機能的なアレルタイプが決定されます。エクソン6の機能喪失型(LOS)変異は、O型ハプロタイプを表します。このLOS変異は一般的に欠失(本論文では「欠失O型アレル」と表記されます)ですが、挿入や、未成熟終止コドンを生成する塩基対変異(本論文では「非欠失O型アレル」と表記されます)の結果の場合もあります。以下、古代型ホモ属4個体における血液型のアレルのタイプを示した本論文の表1です。
画像

 稀なハプロタイプ水準における古代型ホモ属のABO式血液型機能変異を理解するため、1000ゲノム計画の2504個体のABO式血液型遺伝子の変異を二倍体で要約し(合計5008本の染色体のコード配列)、69ヶ所の可変領域を特定し、合計で108個のハプロタイプが識別されました。A型では20タイプ(945本の染色体)、B方ではタイプ(720本の染色体)、シスAB型では1タイプ(1本の染色体)、欠失型のO型では72タイプ(3280本の染色体)、非欠失型のO型では6タイプ(17本の染色体)です。


●古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子のハプロタイプ構造

 表1に示されるように、古代型ホモ属4個体のうちデニソワ人は欠失O型ハプロタイプを示しますが、1000ゲノム計画の個体で完全に一致するものはありません。デニソワ洞窟のネアンデルタール人は、現代人で稀な非欠失O型ハプロタイプのホモ接合型を示します。チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人も同じく非欠失O型ハプロタイプのホモ接合型を示しますが、3ヶ所(136131539でA→G、136133506で A→G、136137547で A→C)でデニソワ洞窟のネアンデルタール人とは異なります。

 ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人は、現代人では一般的な欠失O型アレルと、1000ゲノム計画の1個体(HG02537)で見られる現代人では稀なシスAB型アレルと類似した機能的アレルを、ヘテロ接合型で有します。シスAB型アレルはきわめて稀な組換えアレルで、A型およびB型抗原の混合をコードします。ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人における欠失O型アレルは以前の研究と一致しており、ヨーロッパの他のネアンデルタール人2個体でもこの欠失が見つかっています。


●現代人のABO式血液型における古代型ホモ属からの遺伝子移入の証拠

 古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子ハプロタイプが1000ゲノム計画の個体群で見られる現代型と関連しているのかどうか調べるため、ABO式血液型遺伝子ハプロタイプ間の配列が推定され、次に現代人集団により集団化されたこれらの距離が視覚化されました。混合集団はこの分析から除外されました。その結果、全ての古代型ホモ属のハプロタイプは、現代人とほぼ同等と示されました。デニソワ人の場合、その特有のO型アレルは、現代人集団に共通する他のO型アレル、とくにアフリカの個体群で見られるものに近く、デニソワ人のO型アレルはデニソワ人と現生人類との間で共有される祖先的なものであることを示唆します。これは、平衡選択が同じABO式血液型の機能的アレルにおいて何百万年も霊長類種で維持されてきたことを考えると、あり得そうなことです。

 逆にネアンデルタール人の場合、デニソワ洞窟個体やチャギルスカヤ洞窟個体のようなO型アレルと、ヴィンディヤ洞窟個体のようなO型アレルは両方、非アフリカ系現代人集団におけるほぼ同じハプロタイプに相当します。これらのアレルの地理的パターンは、遺伝子移入の説得力がある事例で、ネアンデルタール人と、ヨーロッパやアジア南東部やアジア東部の現代人の祖先集団との間の交雑の結果と推測されます。

 ヨーロッパとアジア南東部とアジア東部で見つかったネアンデルタール人的なABO式血液型アレルが遺伝子移入の結果なのかどうか確認するため、以前の研究(関連記事)で報告された、遺伝子移入されたゲノム断片の一覧が検索されました。その結果、ABO式血液型遺伝子のゲノム座標と重なる遺伝子移入されたゲノム断片が、1000ゲノム計画の7集団で見つかり、ネアンデルタール人と現代人との間で共有されるABO式血液型ハプロタイプは遺伝子移入による可能性が高い、と示されます。


●多様な遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプ

 現代人において、2つの異なる遺伝子移入されたネアンデルタール人的なO型ハプロタイプが見つかりました。一方は、ヨーロッパおよびアジア南東部現代人で見られるアルタイ地域(デニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟)のネアンデルタール人的なO型アレルで、もう一方は、アジア東部現代人集団で見られるクロアチア(ヴィンディヤ洞窟)のネアンデルタール人的なO型アレルです。このパターンは、地理的位置とは反対となります。そこで、ヴィンディヤ洞窟とアルタイ地域のネアンデルタール人のABO式血液型の遺伝子移入されたハプロタイプの類似性が、ヨーロッパ人(イベリア半島)およびアジア東部人(日本人)集団のゲノムにおける他の全ての遺伝子移入された断片の類似性と比較されました。

 その結果、ヨーロッパおよびアジア南東部の遺伝子移入された非欠失O型ハプロタイプは、アルタイ地域のネアンデルタール人とより密接に類似しており、アジア東部の遺伝子移入された欠失O型ハプロタイプは、クロアチアのネアンデルタール人とより密接に類似している、と確認されましたが、いずれも、遺伝子移入されたハプロタイプはそれぞれ、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人型と同一ではありませんでした。また、遺伝子移入されたABO式血液型ハプロタイプは、ヨーロッパにおける他の遺伝子移入されたゲノム断片の多様性の外と、アジア東部における他の遺伝子移入されたゲノム断片の端に位置します。このパターンから、遺伝子移入されたABO式血液型ハプロタイプは、他の遺伝子移入されたゲノム断片と比較して予想以上に多様である、と示唆されます。


●考察

 古代型ホモ属は特有のABO式血液型ハプロタイプを有しており、それは構造的に現代人のABO式血液型アレルと類似し、いくつかの事例では遺伝子移入を通じて現代人でも見られる、と明らかになりました。コード領域に見られる類似性から、それらのアレルは機能的に現代人のABO式血液型アレルと同一と示唆されます。古代型ホモ属特有のABO式血液型ハプロタイプの選択的背景について推測することは困難ですが、機能的遺伝子のネアンデルタール人型に対する強い選択の説得力ある証拠があるので、現代人において中程度の頻度でネアンデルタール人のABO式血液型アレルが見つかるのは興味深いことです。最も可能性が高い説明は、本論文で特定されたネアンデルタール人のO型アレルは両方、現代人のO型アレルと比較して選択的に中立で、したがって現代人における頻度は中立的な人口統計学的効果の結果にすぎない、というものです。

 現代人集団におけるネアンデルタール人のO型アレルの地理的分布は、アルタイ地域(デニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟)個体のものがヨーロッパとアジア南東部で、クロアチア(ヴィンディヤ洞窟)個体のものがアジア東部で見られ、独立したネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象と一致します。この結果は、他のゲノム領域での発見と一致しており、痛覚感受性関連遺伝子(関連記事)と欠失多型(関連記事)という少なくとも2つのネアンデルタール人の多様体で、異なる地理的分布を有する現代人集団で見つかっています。しかし、本論文で明らかになった地理的パターンは、ヨーロッパ(クロアチア)のネアンデルタール人型はアジア東部で、ユーラシア東部(アルタイ地域)のネアンデルタール人型はヨーロッパ(およびアジア南東部)と、地理的には逆になっており、ネアンデルタール人のO型アレルは両方、同じネアンデルタール人集団もしくは現生人類と混合した集団で維持されていた可能性があります。

 ヨーロッパとアジア東部の個体群で見られるすべての遺伝子移入されたゲノム断片は、どのネアンデルタール人ゲノムとも似た類似性を示し、クロアチアのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人の方へとわずかに傾斜しています。これは、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体が、アルタイ地域(デニソワ洞窟)のネアンデルタール人よりも現生人類と交雑した集団とより密接に関連しているからです(関連記事)。ヨーロッパ人に見られるアルタイ地域のネアンデルタール人的なO型アレルは、他の全てのゲノム断片の相対的な類似性において外れ値として現れます。逆に、アジア東部人で見られる、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人的な遺伝子移入されたO型アレルは、他の全てのゲノム断片の相対的な類似性の端に位置します。

 これらの結果に基づくと、ネアンデルタール人のO型ハプロタイプは両方、現生人類へと遺伝子移入された他のゲノム断片と比較してひじょうに多様で、ヴィンディヤ洞窟とアルタイ地域の間でより多く共有されているようです。ヴィンディヤ洞窟もしくはアルタイ地域のネアンデルタール人個体群のどちらも、現生人類と直接的に交雑した集団の一部ではなかった可能性が高いことを考えると、このパターンの最も一貫した説明は、これら2つのネアンデルタール人のひじょうに分岐したO型アレルは、現生人類と交雑したネアンデルタール人集団で維持されており、他のゲノム要素と比較してより大きなハプロタイプ多様性を保持していた、というものです。この場合、これらのさまざまなハプロタイプは、平衡選択により集団で維持された可能性が高そうです。平衡選択は、現代人においてABO式血液型関連遺伝子多様性を維持しているように、ゲノムの中立的領域よりもずっと長く祖先の多様性を維持すると予想されます。


●結論

 ABO式血液型遺伝子における遺伝的多様性は、人類の遺伝的多様性の古典的標識とされました。本論文は、既知の高品質なゲノムデータに基づいて、古代型ホモ属4個体におけるABO式血液型遺伝子の遺伝的多様性を詳細に報告しました。古代型ホモ属のABO式血液型ハプロタイプは、現代人のABO式血液型の機能を定義する同じ場所で多型と明らかになり、これらの古代型ホモ属のアレルは現代人のアレルと同様に機能するに違いない、と仮定されました。さらに、現代人のO型アレルと類似したデニソワ人特有のO型アレルが見つかった一方で、ネアンデルタール人特有のO型アレルは現代人のそれと比較して派生的であるものの、過去の現生人類とネアンデルタール人の混合のため、現代人に低頻度で見つかります。

 後期ネアンデルタール人で4つの異なる多様体が見つかったことは予想外です。ネアンデルタール人のゲノム全体で見られるホモ接合性の長い連続に基づくと、一般的な認識は、後期ネアンデルタール人はひじょうに近親交配の度合が高く、遺伝的多様性が減少した、というものです。本論文で見つかったネアンデルタール人の高いアレル多様性は、ABO式血液型遺伝子座における平衡選択を通じて維持された可能性が高そうです。これは、遺伝子移入されたネアンデルタール人のO型ハプロタイプがゲノム分岐の外側に位置することを示しており、平衡選択がネアンデルタール人において現生人類と同様に機能したことを示唆します。


参考文献:
Villanea FA, Huerta-Sánchez E, and Fox PK.(2020): ABO genetic variation in Neanderthals and Denisovans. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.27.223628

大河ドラマ『麒麟がくる』第33回「比叡山に棲む魔物」

 1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)後半、織田信長は南方の三好三人衆と本願寺、北方の比叡山延暦寺と朝倉と浅井に包囲され、窮地にありました。足利義昭は、畿内と周辺地域で戦いが治まらない苛立ちを摂津晴門にぶつけますが、摂津晴門はとぼけた対応でやり過ごします。明智光秀(十兵衛)は旧知である朝倉家臣の山崎吉家を頼って朝倉義景と比叡山で会い、和議を提案しますが、義景は、困っているのは織田だと言って光秀の提案を退けます。そこで光秀は、越前に大雪が降ってからでは来春まで越前に戻れない、と義景を脅しますが、義景は、覚恕法親王の織田への強い反感と、比叡山延暦寺の強大さを指摘して、和議には信長の屈服が必要だと言い放ちます。光秀は義景のとりなしで覚恕法親王と面会します。覚恕法親王は、兄の正親町天皇への劣等感を光秀に打ち明け、醜い自分は金と力を持って都を支配したのに、信長がそれを奪おうとする、と信長に対する敵意を剥き出しにします。

 伊勢長島の一向一揆相手に信長の弟の信興が敗死し、信長はますます苦境に追い込まれます。摂津晴門が覚恕法親王と通じていることを知った信長は、領国の美濃と尾張に帰ろうとしますが、光秀は信長を説得し、信長は正親町天皇を和議に持ち出そうとします。正親町天皇は、弟の覚恕法親王が自分に頭を下げさせたいと考えているのだ、とその真意を見抜いていました。信長の朝廷への貢献を高く評価する正親町天皇は、織田と朝倉と浅井と延暦寺に和睦の勅命を出し、信長はひとまず窮地を脱します。しかし、覚恕法親王は織田の追い落としを諦めず、武田信玄との連携を画策していました。都には束の間の平安が訪れますが、筒井順慶を重用する幕府に松永久秀は強い不満を抱きますが、この場を演出したのは摂津晴門でした。1571年、信長は軍勢を比叡山にまで進み、延暦寺への攻撃を命じ、延暦寺は焼き払われます。

 今回は、初登場の覚恕法親王が強烈な印象を残しました。美しい兄への強い劣等感を抱く醜い弟という人物造形は、まだ1回見ただけですが、兄との関係性も含めて成功と言えるように思います。松永久秀が足利義昭に叛く要因は、「最新の研究で新たなアプローチがなされ始めている英傑たちの姿を、従来のイメージを覆す新しいキャラクター像として、描いていきます」との制作方針に基づいて、研究も踏まえたものになっているように思います。延暦寺攻撃に対して、全員を殺害せよとの信長の方針に光秀は否定的で、こうした信長への違和感の積み重ねが、後に本能寺の変へとつながっていくのかもしれません。

斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』

 秀和システムより2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はDNA研究による日本人起源論を扱っています。表題には「最新」とありますが、進展の速い分野なので、脱稿後にも関連研究が次々と公表されていくわけで、その意味では、「最新」と謳っているのにあの研究が取り上げられていない、といった否定的感想もありそうです。しかし、この分野の本は、すでに刊行時点で「古く」なってしまっている運命は免れないわけで、この点で本書の価値が下がるものではないでしょうし、本書が一般向けであることを考えると、2020年時点での「最新」の知見という意味で、本書の表題は妥当なところだと思います。

 何よりも、集団遺伝学の基礎を解説した第1章はたいへん有益で、日本人起源論に関する本書の見解は今後急速に古くなるかもしれませんが、第1章は今後長く参照すべき内容になっており、その意味で本書の「寿命」は長くなりそうです。また、日本人起源論の学説史を解説した第2章や、ゲノム解析の基礎を解説した第3章や、集団間の比較を解説した第4章も、長く参照されていきそうです。本書は、「最新の知見」を得る目的として読めば、すぐに「時代遅れ」になるかもしれませんが、人類進化の遺伝学的研究を基礎から理解する目的ならば、長く参考書籍として読まれ続けるだけの価値があると思います。

 第5章で取り上げられた琉球列島に関しては、近年情報更新が停滞していたので、新たな情報を得るとともに、これまでの情報を整理できたので、とくに有益でした。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡については過去に当ブログでもたびたび取り上げてきましたが(関連記事)、6個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されており、M7aとB4とRに分類され、とくにM7aの頻度が高いそうです。形態学的な解析結果と合わせて、更新世琉球列島の人類は南方から到来しただろう、と本書は推測しています。

 第6章はピロリ菌ゲノムから推測される日本列島の人類史で、ピロリ菌の進化については10年以上ほとんど勉強が進んでいなかったので、たいへん有益でした。琉球集団に特有のピロリ菌2系統が人類の移動とどう関連しているのか、たいへん注目されますが、これは今年(2020年)になって大きく進展したユーラシア東部の古代DNA研究を踏まえると興味深いと思います。琉球集団特有の沖縄(B)はニュージーランドのマオリに近く、沖縄(C)は沖縄(B)とサフル(オーストラリア先住民およびパプア人)系統の中間に位置します。最近のユーラシア東部の古代DNA研究を踏まえると、沖縄(B)はアジア東部南方系統、沖縄(C)はユーラシア東部南方系統に由来するのではないか、と考えられます。今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)からは、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散の見通しは以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系と南方系とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族集団の主要な祖先となりました。「縄文人」は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。琉球集団は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団よりも「縄文人」の遺伝的影響が強く残っています。

 こうした新たな知見を前提とすると、沖縄(B)はアジア東部南方系統、沖縄(C)はユーラシア東部南方系統に由来すると想定すれば、整合的に解釈できるように思います。もちろん、上記の見通しはあくまでも現時点での一つのモデル化で、じっさいの人口史はもっと複雑でしょうから、過度に単純化することには慎重であるべきですが。また、上述の白保竿根田原洞穴遺跡の人類集団は、ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのではないか、と予想しています。「縄文人」の遺伝的構成の半分以上を占めるアジア東部南方系統の影響をほとんど受けていないため、「縄文人」とは異なる形態を示すのではないか、というわけです。もちろんこれも、現時点ではとても断定できませんが。

 今年になって、チベット人の形成に関する包括的な研究(関連記事)や、ユーラシア東部草原地帯の長期にわたる古代DNA研究(関連記事)が公表されるなど、ユーラシア東部の古代DNA研究が一気に進んだ感があります。ユーラシア東部、さらにはオセアニアも、現生人類の拡散後に関しては、南北の遺伝的構造の確立と融合が大きな枠組みとして提示できるように思います。アジア東部においては、黄河流域などのアジア東部北方系統と長江流域などのアジア東部南方系統という南北の大きな違いが新石器時代の始まりまでに確立しており、新石器時代以降は、それが融合して均質化していくことで現代人の地域差が形成されていきましたが、現代でも南北の遺伝的勾配が見られます。

 しかし、ユーラシア東部とオセアニアではそれよりも大きな遺伝的違いとして、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統という南北間の遺伝的構造も見られ、少なくとも日本列島とチベットとアジア南東部に関しては、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統における南北間の違いだけではなく、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統との違いも考慮に入れなければ、人口史の正確な復元はできないだろう、と思います。オセアニアに関しても、オーストロネシア語族集団の拡散は、それまで恐らくはユーラシア東部南方系統のみだった地域に、ユーラシア東部北方系統(から派生したアジア東部南方系統を主要な祖先とする集団)が到来し、一定以上の混合が起きたという意味で、完新世にユーラシア東部南北両系統の融合した地域として把握できるように思います。一方、モンゴルとアメリカ大陸に関しては、ユーラシア西部系統の遺伝的影響も無視できず、ユーラシア東部現代人集団の形成過程がたいへん多様だったことを示しています。


参考文献:
斎藤成也編著(2020)『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』(秀和システム)

『卑弥呼』第51話「急襲」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年12月5日号掲載分の感想です。前回は、穂波(ホミ)の国の重臣であるトモが、日下(ヒノモト)の国と結んで山社(ヤマト)を攻めようとするならば、トモを殺す、とトメ将軍が誓うところで終了しました。今回は、荒爪山(アラツメヤマ)の夜萬加(ヤマカ)で、ヒルメが2人の男性のために、田畑が狼や野犬に荒らされないよう、祈っている場面から始まります。礼を言う男性2人が、砂金での支払いはできないと言うと、2人が裕福ではないと知っているヒルメは、構わない、と言います。すると、せめてものお礼をしたい、という2人は、粟と稗と兎の燻製肉を献上します。肉は神に仕える身なので犬に与えるが、粟と稗はありがたい、とヒルメは喜びます。2人が退出した後、ヒルメはすぐに兎の燻製肉を食べ、こんな美味いものを初めて食べた、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)から追放されても、少しはよいことがあるものだ、と呟きます。そこへアオという犬(狼かもしれませんが)が入ってきて、山杜(ヤマト)にいるナツハからの頼りを渡します。木簡のようなものには阿比留(アビル)文字で、日見子(ヒミコ)と称するヤノハが山社の国の閼宗(アソ)にいる、とありました。

 閼宗では、トメ将軍が、ヤノハから至急閼宗に来るよう命じられたミマアキの到来を待っていました。ミマアキはヤノハに呼ばれ、トメ将軍とともに豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)に行き、日下(ヒノモト)を探るよう命じます。倭を平らかにするには日下の動静を知る必要があり、昼の王になるべき逸材であるミマアキに探ってもらいいた、というわけです。気が進まないミマアキは、食事などヤノハの世話を誰がするのか、と食い下がりますが、もう決めたことだ、とヤノハはミマアキに改めて命じます。その頃、夜萬加のシカオ、五百木(イオキ)のミミヒコ、多禰(タネ)のハヤトといった男たちが閼宗(阿蘇)の近くと思われる場所に集まっていました。首領格らしき男性は褒美の砂金を渡し、明日の朝、那(ナ)の国の使者(トメ将軍)が発った後に決行する、と男たちに言い渡します。

 翌朝、気が進まないミマアキを、ヤノハはミマト将軍・イクメとともに見送ります。弟のミマアキがこの旅で立ち直ることを願うイクメですが、父であるミマト将軍は、ミマアキはヤノハから嫌われたと勘違いしているだろう、と指摘します。ヤノハは、ミマアキならいずれ自分の真意を分かってくれるはずだ、と確信していました。そこへ、前後から10人ずつの男性が襲ってきます。山社国内ということでミマト将軍も油断しており、ミマト将軍も含めて兵は7人しかいない状況です。ヤノハは襲撃してきた男性の黥を見て、前方から襲ってきたのは五百木の兵、後方から襲ってきたのは多禰の兵だと悟ります。ヤノハの故郷の邑は多くの賊に襲われていたので、その黥で出身地が分かるようになった、というわけです。五百木は伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)、多禰は南の島(種子島でしょうか)と離れた者同士なのに、と不審に思うイクメに、足軽なので何者かに雇われた寄せ集めだろう、とミマト将軍は答えます。オオヒコから、2人が殺されたと報告を受けたミマト将軍は、襲撃者たちを館に引き込む間にヤノハを外へ連れ出すよう、命じます。しかし、ヤノハはそれを思いとどまらせます。外では、多数の犬と狼が襲撃者たちに噛みつき、あっという間に全滅させました。そこへナツハが現れ、ヤノハに笑顔を見せます。ヤノハは涙を浮かべるナツハに礼を述べ、ミマアキの代わりにナツハに警固と食事の世話を頼みたい、と言います。俯いたナツハが不敵な笑みを浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、ヒルメの策略が描かれました。ヒルメは、ヤノハがナツハを信頼するよう、暈とは離れた地域の兵を雇ってヤノハを襲撃させ、それをナツハに防がせたのでしょう。ヒルメがヤノハへの復讐のため、ナツハにどのような指示を出したのか、まだ明かされておらず、狡猾なヒルメがどのような策を講じているのか、気になります。ヤノハはナツハが弟のチカラオかもしれないと考えているようですが、どのような意図・感情でナツハに自分の世話を命じたのか、気になるところです。『三国志』には、卑弥呼(日見子)の部屋に出入りして給仕の世話をしていたというただ一人の男性と、政治を補佐した「男弟」の存在が記されており、前者がミマアキ、後者がチカラオ(ナツハ)だと予想していたのですが、最近の展開から推測すると、この役割は逆になるかもしれません。ただ、ナツハはヒルメを母のように慕い、ヒルメによるヤノハへの復讐を実行しようとしていますから、今後ナツハがヤノハに屈して真の忠誠を誓う展開も、ナツハが弟のチカラオかもしれないと考えつつ、ヤノハがナツハを返り討ちにして殺すか追放する展開も考えられます。今回、急な襲撃に対するナツハの対応は不自然でしたから、ヤノハはナツハを信用しているのではなく、自分への敵意を知りつつ、それを利用するつもりなのかもしれません。ヤノハとナツハとの関係がどう描かれるのか、楽しみです。また、日下がどのような国なのか、トメ将軍とミマアキが山社にとって潜在的な敵国と思われる日下でどのように危機的状況に対処するのか、という点も注目されます。

九州の縄文時代後期の土器のコクゾウムシ圧痕

 九州の縄文時代後期の土器のコクゾウムシ圧痕に関する研究(Obata et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。圧痕とは、土器の表面や断面についたタネやムシの痕跡のことで、これを探る土器圧痕法という手法が2003年頃から取り入れられています。圧痕の中でも特に、目視で確認できない圧痕を可視化する方法がX線CTを用いた土器圧痕法です。この方法により、本論文の筆頭著者である小畑弘己氏の研究グループは、2010年に種子島で1万年前頃のコクゾウムシの圧痕を発見しました。コクゾウムシは、従来、イネとともに朝鮮半島から日本列島に渡来したと考えられていましたが、この発見により、イネの伝播よりはるかに前から日本列島に存在していた、と明らかになりました。

 小畑氏のグループは、2012年には青森県の三内丸山遺跡で、2013年には北海道の館崎遺跡で、コクゾウムシの圧痕を発見しました。本来クリが自生しない北海道や東北地域に縄文人が持ち込んだ事はいくつかの研究により証明されていましたが、小畑氏のグループにより、クリを持ち込まれたさいにコクゾウムシも持ち込まれていた、と証明されました(関連記事)。これにより、食料害虫であるコクゾウムシの人為拡散説が裏づけられました。

 宮崎県役所田遺跡から出土した縄文時代後期の土器片(3600年前頃)の粘土内からは、28点のコクゾウムシ圧痕が発見され、ドングリの皮の混入も確認されました。この土器のコクゾウムシの圧痕密度は、これまでに日本国内で発見された土器の中で、最も高いものでした。この発見により、堅果類貯蔵とそれを加害した害虫の関係が間接的に裏づけられるとともに、じゅうらいの想像以上に「縄文人」たちの周囲にたくさんのコクゾウムシが存在したことも証明されました。コクゾウムシのような食料害虫は縄文時代にも存在し、それらを蔓延させた原因は定住的な生活様式と食料の運搬・交易だった、と考えられます。


参考文献:
Obata H, Miyaura M, and Nakano K.(2020): Jomon pottery and maize weevils, Sitophilus zeamais, in Japan. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, Part A, 102599.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102599

ヨーロッパ人との接触前のアンデス中央部における親族結合の強化

 ヨーロッパ人との接触前のアンデス中央部における親族結合の強化に関する研究(Ringbauer et al., 2020)が公表されました。ROH(runs of homozygosity)とは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。本論文は、低網羅率の古代DNAを用いてROHを測定できる手法を適用して、アンデスの人口史に関する研究(関連記事)などで収集された、アンデス中央部の古代人46個体を分析しました。

 その結果、46個体のうち13個体で、イトコもしくはマタイトコの子に典型的な水準の長いROHが検出されました。その割合は、紀元後1000年頃以前には22個体のうち2個体でしたが、それ以後では、24個体のうち11個と増加します。現在のアンデスでは、その割合は低くなっており、リマのペルー人では86人のうち2人、多様な他のアンデスの人々では56人のうち11人です。後者はおもにボリビアのベンティージャ(Ventilla)地域のアンデス中央部のアイマラ語(Aymara)話者に由来し、18人のうち6人で長いROHが観察されました。しかし、中間の時代の古代DNAデータがなければ、過去500年間、この地域で密接な親族結合の高い割合が継続的だったのかどうか、識別できません。

 ヨーロッパ人との接触前の500年間の密接な親族結合の割合増加が、不均一な標本抽出の結果だった可能性も考慮されました。しかし、親族関係の事例は広範囲で、後期中間期および後期ホライズン(Late Horizon)の遺跡11ヶ所のうち8ヶ所で確認され、4地域にまたがっています。本論文で分析された標本内では親子のような密接な近親者は検出されず、親族結合の痕跡が密接な近親者のクラスタに影響を受けていないことを示します。親族結合の痕跡は、都市支配層で特異的に見つかるわけではなく、本論文で分析された個体はほぼ完全に地方で発見されています。親族の結合はインカ社会の最高層では知られていましたが、配偶慣行はしばしば社会的階層によりひじょうに異なるので、本論文の結果は予測できませんでした。

 親族結合の増加期の始まりは、アンデス中央部の大半に広がった中期ホライズン(紀元後700~1050年頃)の主要な2社会であるワリとティワナクの衰退、およびより小規模な政体への移行が起きた後期中間期(紀元後1050~1440年頃)の始まりと一致しています。大規模な国家が再び興隆するのは、後期ホライズン(紀元後1440~1534年)になってからで、インカは南アメリカ大陸西部の大半に拡大しました。本論文の知見は、スペイン植民地期の記録に残るアイユの社会的結合に照らして注目されます。スペイン植民地期の記録では、集団は少なくとも共有される祖先の一部として定義され、共同体内の資源を維持し、核家族を超えた協力を促進するため、集団内の婚姻が選好されました。現在、「アイユ」という言葉は、アンデスにおいてある種の社会的組織を表すために使用されていますが、これらの慣行が古代のアイユにどれだけ類似しているのか、不明です。

 考古学では、後期中間期のチュルパ(Chullpa)と呼ばれる墳墓を含む集団埋葬慣行の割合の増加が報告されており、この期間に共通するようになった新たな社会体系の証拠とされます。古代DNA研究では、チュルパにおける父系に基づく集団の発見により、親族ネットワークとチュルパとの関連の証拠が見つかっています。本論文で明らかになったアンデス中央部全域の密接な親族結合の割合増加は、考古学的証拠だけからは収集できないタイプの情報で、後期中間期の始まりにさかのぼる、先史時代アンデス中央部における親族パターンの性質の定量的変化に関する最初の証拠を提供します。後期中間期をそれ以前の時代と区別する、断片化された社会政治的単位や減少した交易距離や激化する集団間暴力は、地域の家族の管理下で資源を維持するための、社会的慣行の変化を選好した可能性があります。インカはしばしば、既存の慣行を取り入れ、それは後期ホライズンへと持続するこの慣行と一致します。アンデス中央部のより多くの地域を含む将来の古代DNA研究と、より多様な時期および埋葬状況は、配偶選択選好における変化の性質と原因の理解を洗練するでしょう。


参考文献:
Ringbauer H. et al.(2020): Increased rate of close-kin unions in the central Andes in the half millennium before European contact. Current Biology, 30, 17, R980–R981.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.07.072

接触仮説の検証

 接触仮説を検証した研究(Mousa., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。集団間の社会的偏見は集団間の有意義な協調を通じて軽減できる、という広く認められた接触仮説は、平和促進を目指す現実世界の戦略の基盤としての役割を果たすことが多く、それに一部基づいて、世界では外集団との接触に焦点を合わせた平和構築計画に何十億ドルもの資金が費やされています。しかし、この仮説の仮定を厳密に評価する実証的研究はほとんどありません。

 この研究は、集団間の接触が戦争後に社会的団結を構築できるかのかどうか、評価するためのフィールド実験として、アマチュアのサッカーリーグに対して、ISISに強制移住させられたイラクのキリスト教徒選手らを、キリスト教徒だけのチームとイスラム教徒選手が3人混じったチームに無作為に所属させる、という介入を行ないました。リーグ戦の後、この研究は選手たちの行動および態度に焦点を合わせた一連の結果を測定し、混合チームにいることでキリスト教徒選手はイスラム教徒のチームメイトに対する行動が変化したものの、それはサッカーに関連に限ることを発見しました。混合チームでは、キリスト教徒選手はイスラム教徒選手にスポーツマンシップ賞を贈ったり、リーグ戦の後もイスラム教徒選手たちと試合や練習を続けたりするようになりました。

 したがって、この調査結果によると、態度ではなく行動が変わっています。しかし、この研究は、認められた行動変容が、たとえばイスラム教徒の多いレストランに通う、知らないイスラム教徒が同席するイベントに参加するなど、見知らぬイスラム教徒のいる他の社会的状況にまでは及んでいなかったことも明らかにしました。行動変容の好ましい効果がサッカーリーグという背景を超えて普及しなかった一因は、それらが態度ではなく行動に限られていることと指摘されています。

 この研究結果は他の最近の偏見軽減研究と一致している。今後の研究では、態度は行動より変えるのが単純に難しいのか、もしくは現在の研究では正確な態度を測定していないのかを解明できるかもしれない、と指摘されています。この研究の成果は、戦争後の和平実現のために集団間に介入する有用性と潜在的限界を浮き彫りにしています。局所的団結によって関係する集団を、たとえば民族抗争の再開などからどの程度守れるのか、今後の研究で調査すべきと提言されています。こうした変容と限界の進化的基盤という観点からも注目されます。


参考文献:
Mousa S.(2020): Building social cohesion between Christians and Muslims through soccer in post-ISIS Iraqu. Science, 369, 6505, 866–870.
https://doi.org/10.1126/science.abb3153

Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住

 Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住に関する研究(Lazim et al., 2020)が公表されました。現在のイラクは、古代にはメソポタミアとして知られる地域でした。この地域の古代の狩猟採集民は紀元前1万年頃に定住し、農耕を始めて、やがて交易が発展しました。イスラム教勢力の拡大に伴い、イラクにはアラブ人が拡散してきます。アラブ人は、イスラム教よりも前のアラブ人は、アッシリアやバビロニアなど多くの帝国の保護下で、アラビア半島中央部に存在した部族でした。現代のイラクの人口は4000万人ほどで、南はアラビア湾(ペルシア湾)とクウェートとサウジアラビア、西はヨルダンとシリア、北はトルコ、東はイランと接しています。イラクには5つの主要な民族集団が存在しますが、イラクの人口の多様性について、刊行されたデータはほとんどありません。本論文のデータは、イラクで最大の民族集団であるアラブ人を表します。

 一塩基多型標識は変異率が低いため安定しており、多様性がほとんどないので個人識別には適していません。そこで、一塩基多型の組み合わせを使用してハプログループが決定され、個人識別や現生人類(Homo sapiens)の移動および進化のパターンの研究に役立てられています。一方、父系で継承されるY染色体の縦列型反復配列(Y-STR)は1世代あたり平均して0.2%と高い変異率を有するので、個体識別や集団構造の理解や血族問題に役立ちます。Y-STRのアレル(対立遺伝子)はハプロタイプの生成に用いられ、それに基づいてハプログループと起源となる集団を予測できます。この手法を用いると、Y-STRに基づいて集団内の多様性を推測できます。イラクの人口とその民族集団における遺伝的多様性についての刊行されたデータはほとんどありません。本論文は、Y-STRを用いて、イラク人集団の遺伝的構成や近隣との関係や移住の歴史を検証します。

 イラクのアラブ人254人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も多いのはJ1(36.6%)で、以下、E1b1b(13.8%)、J2a1b(9.4%)などが続きます。イラクのアラブ人集団とアラブ・アジア・アフリカ・ヨーロッパの他集団との遺伝的距離では、最も近いのはイラクのクルド人で、その次がイエメン人およびクウェート人でした。一方、最も遠いのはジブチ人とエチオピア人でした。中東集団でイラクのアラブ人集団と遺伝的に最も遠いのはレバノン人でした。遺伝的違いが最も大きいのはジブチ人とイラクのクルド人で、最も小さいのはモロッコ人とエリトリア人でした。

 遺伝子流動は3段階の水準で検証されました。水準1ではアラビア半島を経由してイラクへの出アフリカ移住経路が調べられました。これは、モロッコ→エジプト→イラク、アフリカ東部→エジプト→イラク、アフリカ東部→イエメン→イラクの3経路が検証され、Y染色体に基づく移動パターン分析から、アフリカ東部→エジプト→イラクのパターンである可能性が最も高い、と推測されました。逆に最も可能性が低い経路は、アフリカ東部→イエメン→イラクです。

 水準2ではアラビア半島内の集団移動経路が4通り検証されました。それは、イエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆の2通りと、イエメン→アラブ首長国連邦(UAE)→イラクおよびその逆の2通りです。最も可能性が高い経路はイエメン→UAE→イラクで、最も可能性が低いのはイエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆です。水準1と水準2を組み合わせると、最も可能性が高い移住経路は、アフリカ東部→エジプト→イエメン→UAE→イラクです。アフリカ東部からエジプトへと北上した後、アラビア半島西岸を南下し、そこから東進した後にアラビア半島東岸を北上したことになります。水準3では、クウェートへのイラクとサウジアラビアの影響が調べられました。最も可能性が高いのは、サウジアラビア人集団がイラク人集団よりもクウェートに対してわずかに多くの影響を有している、というものです。

 本論文は、イラクのアラブ人集団に特有のY-STRの特徴を示します。Y-STRの2つの遺伝子座(DYS389IおよびDYS392)では、イラクのアラブ人集団は他集団よりも変異が少ない、と明らかになりました。また、最も高い遺伝的多様性が見られるのは、イラクのアラブ人集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS458なのに対して、他集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS481になります。DYS458の多様体を有するYHgの98.8%はJ1内にあります。この多様体はM267マーカーと重複し、遺伝的浮動と創始者効果との組み合わせの結果と推測されます。その後、アフリカ北部と中東において、集団は急速に拡大しました。

 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと中東への移住に関しては広く研究され、さまざまな移住経路が提案されています。本論文はY-STRに基づいて、アフリカからシナイ半島を経由してアラビア半島沿岸の移住経路を、最も可能性が高いと推測します。つまり、レヴァントは乾燥していたため、アフリカ東部からバブ・エル・マンデブ海峡を渡ってアラビア半島南西岸へと達した、と想定する見解が妥当である可能性は低そうだ、というわけです。

 本論文は、現代イラク人のY染色体の遺伝的構造を示した点で注目されます。本論文が推定する現生人類の拡散経路は現代人のY-STR に基づいており、現代人の核ゲノムデータや古代DNAデータと組み合わせることで、より正確で詳細な現生人類集団の移住および混合史を解明できるでしょう。完新世の中東の現生人類集団の遺伝的構成の推移に関する大規模な研究もあり、複雑な移動と混合が想定されていますが、まだイラクの古代DNAデータは含まれておらず(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Lazim H. et al.(2020): Population genetic diversity in an Iraqi population and gene flow across the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 10, 15289.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72283-1

古代DNAデータから推測されるバヌアツにおける複数の移住

 古代DNAデータからバヌアツにおける複数の移住を推測した研究(Lipson et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。太平洋の人類史研究における重要な違いは、ニアオセアニアとリモートオセアニアとの間にあります。ニアオセアニアは西太平洋の一部で、ニューギニアやビスマルク諸島(ニューブリテン島やニューアイルランド島など)やソロモン諸島を含み、現生人類(Homo sapiens)は5万年前頃に到来しました。リモートオセアニアはミクロネシアおよびポリネシアの全域と、バヌアツやニューカレドニアやフィジーや岩礁の散在する島々やソロモン諸島南東部のサンタクルーズ諸島といった、メラネシアの島々を含みます。

 バヌアツは、リモートオセアニア南部において人類が居住した最初の島嶼集団で、それに続く3000年の重要な地域的交差点になったという意味において、太平洋の移民史における重要な群島です。バヌアツの遺伝的歴史は、定住過程の個体群からのゲノム規模データにより明らかにされてきました(関連記事)。バヌアツへの最初の移民(M1)は、ラピタ文化複合の初期段階と関連しており、オセアニアへのオーストロネシア語族の最初の拡大と関連していた可能性が高そうです。オーストロネシア語族集団は今では、もっと広範に拡大しています。オーストロネシア語族は台湾に起源があり、ほぼ完全なアジア東部関連系統を有しており、「最初のオセアニア人(FRO)」と呼ばれてきました。

 対照的に「先住現地バヌアツ人」として識別される現代人を含む後の個体群はおもに、ニューブリテン島起源の可能性が高いパプア人系統を有しており、2800年前頃以後、最後のラピタ文化期もしくはラピタ文化期後にサンタクルーズ諸島とバヌアツへ到達しました。本論文は、ニアオセアニアの現代人集団で見られる系統の大半に寄与した深い祖先的系統を「パプア人」と呼びます。以前の研究では、この2回目の移住(M2)が、短期間に起きたのか、一定以上の時間を要した漸進的な遺伝的交換だったのか、議論になりました(関連記事)。

 以前の研究でも、過去1000年に起き、バヌアツにおける「ポリネシア人外れ値」の確立と関連した、第三の異なる移住の波(M3)の詳細な兆候については、言及されたものの深くは扱われませんでした。そうした「ポリネシア人の外れ値」は、ポリネシア人の下位集団の言語が話され、ポリネシア人の物質および非物質文化が見られる島々のことです。バヌアツにおけるポリネシア人の影響は、完全な言語置換を伴わない外れ値共同体に隣接する多くの島々にも拡大しました。しかし、これらのポリネシア人に由来する文化的および言語的変化を伴う人口移動の程度については、ほとんど知られていません。

 そうしたポリネシア人影響を受けた島の一つがバヌアツ諸島中央部のエファテで、ポリネシア語話者の2共同体が現在存在しており、一方は小さな沖合の島であるイフィラ(Ifira)、もう一方はバヌアツ諸島南西部の島であるメレ(Mele)です。エファテ島とその隣接するエレトク(Eretok)島およびレレパ(Lelepa)島に位置する「ロイマタ首長の領地」は、口承伝統と1960年代に発掘された壮大な埋葬遺跡との間のつながりに基づいて、2008年にユネスコ世界遺産に登録されました。地元の口承伝統と関連する物質文化の側面のいくつかの異形は、エファテ島および隣接する羊飼い集団の島々におけるロイマタ首長およびその政治的役割についての物語に示されるように、強いポリネシア人の影響を示唆します。エレトク島の埋葬遺跡は、当初紀元後13世紀と考えられていましたが、エレトク島およびロイマタ首長およびその最も密接な従者たちの故地と言われてきたエファテ島のマンガース(Mangaas)村遺跡の放射性炭素年代測定から、今では紀元後1600年頃と推定されています。

 ロイマタ首長の領地の歴史、より一般的にはバヌアツにおけるポリネシア人の影響の歴史に関する遺伝的視点を得るため、伝承によるとロイマタが埋葬されたエレトク(レトカもしくはハット)島の3個体と、マンガース村の床下埋葬の2個体がともに、古代DNA分析のために標本抽出されました。また、公開されたデータを補完する、追加の6個体のゲノム規模古代DNAデータが新たに報告されます。このうち4個体はテオウマ遺跡のラピタ文化共同墓地(3000~2750年前頃)から、1個体はタプリンズ(Taplins、メレ)1岩陰から、1個体はバナナ湾から得られました。

 これら11個体が、既知のバヌアツの古代人26個体、他の古代オセアニア人8個体、多様な現代人集団と組み合わされ、上記の人類集団の移動(M1・M2・M3)に関する以下の主要な問題に光が当てられました。M1に関しては、テオウマ遺跡のラピタ文化期の埋葬の標本増加は他の遺跡と組み合わされて、以前の報告よりも多様な創始者集団を明らかにしますか?M2に関しては、バヌアツへのパプア人の移住の起源地・年代・期間をよりよく解明できますか?M3に関しては、ロイマタ首長の領地の世界遺産地域内のエレトク島とマンガース村から新たに報告された個体群は、一部の口承伝統と考古学的記録の特徴が示唆するように、ポリネシア人との特別な関連性を示しますか?以下、本論文で取り上げられた島々や遺跡の位置を示した図1です。
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●主成分分析

 主成分分析(図2)は、PC1軸が最初のリモートオセアニア人(FRO)の相対的比率(左側ほど低く、右側ほど高くなります)、PC2軸がソロモン諸島人(上側)とニューギニア人(下側)との類似性に対応します。ニューブリテン島とバヌアツの現代人集団は、PC2軸に沿って比較的均一な値でクラスタを形成しますが、PC1軸に沿って適度な広がりを形成し、ポリネシア人およびポリネシア人外れ値集団がさらに右側に位置します。古代の個体群はほとんど同じ島の連鎖からの現代人集団と重なりますが、バヌアツのエファテ島のテオウマ遺跡およびトンガのタラシウ(Talasiu)遺跡のラピタ文化関連個体群と、マラクラ(Malakula)島の古代個体群、エレトク島およびエファテ島マンガース遺跡の一部個体群は、さらに右側に位置します。

 主成分分析(図2)のバヌアツ内における最大の変異の方向性はほぼ左から右(異なるFROとパプア人の混合比率を反映している可能性が高そうです)で、ニューブリテン島やバヌアツやポリネシアや古代のラピタ文化関連個体群と関連する変異の主要な方向とよく一致します。このパターンは、この拡張された勾配に沿った集団の多くもしくは全てが、異なる割合の系統構成の一対の共有として単純な方向でモデル化できる、という可能性を示唆します。一方は、ニューブリテン島とバヌアツの一部で100%近く見られる系統と関連したパプア人系統により表され、もう一方はラピタ文化関連個体群で100%近く見られる系統と関連するFRO系統により表されます。以下、主成分分析結果を示した図2です。
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●明白な混合モデル化

 主成分分析の結果に基づいて、qpAdmを用いて候補となる混合モデルが検証されました。以前の研究や本論文の主成分分析(図2)は、ニアオセアニアにおける高度な地域的集団構造を示唆し、それにはニューギニアやニューブリテン島やニューアイルランド島で見られるパプア人系統のほぼ異なるクラスタを伴いますが、ニューアイルランド島など多くの集団は、複数のパプア人系統構成の混合を有するとモデル化できます。以下の分析では、ソロモン諸島とニューブリテン島のクラスタを表すため、それぞれ、ブーゲンビル島の非オーストロネシア語族話者であるナシオイ(Nasioi)人と、ニューブリテン島の非オーストロネシア語族話者であるバイニング(Baining)人がしばしば用いられます。それは、ナシオイ人(20%以下)とバイニング人(5%以下)が、最も低いFRO系統の割合を有している一方で、本論文のデータセットのクラスタから特有の在来パプア人系統の最も高い割合を有しているからです。

 古代バヌアツ個体群はほぼ全て、マラブ(Kankanaey)の下位集団であるバイニング人と、フィリピンのオーストロネシア語族話者であるカンカナイ人(Kankanaey)を用いて、外群集団としてナシオイ人を伴っても、2代理起源集団としてqpAdmでモデル化できます。逆に、バイニング人の代わりにナシオイ人を代理起源集団として用いると、ほとんどのモデルが成功しません。ただ、適合性が低いのは、外群と検証集団もしくは代理起源集団との間の、モデル化されず共有されていない系統に由来するかもしれません。たとえば、古代の個体群にとっての小量の汚染や、外群としてのナシオイ人におけるFRO関連系統が、カンカナイ人におけるFRO関連系統よりも優れた起源集団であるような場合です。ポリネシア人とポリネシア人外れ値にとって、異なる系統間を区別する本論文の能力は、パプア人系統のより低い割合によって制限されますが、代理起源集団としてナシオイ人よりもむしろバイニング人を用いると、より適合した類似の結果が観察されます。以前に報告されたように、ナシオイ人の代わりに一部のニューブリテン島関連系統を有するソロモン諸島集団であるマライタ島人で適合性は改善しますが、バイニング人とよりは悪化し、ほとんどの集団で棄却されます。

 qpAdmからの定量的な混合割合の推定(図3)は、主成分分析ともよく一致します。FRO系統の最も低い割合はラピタ文化後の個体群で見られ、エファテ島で0~3.6%、タンナ(Tanna)島で0.6~6.6%です。FRO系統の最も高い割合はラピタ文化関連個体群で見られ、テオウマ遺跡で96.4~99.2%、トンガのタラシウ遺跡で96.4~100%、マラクラ島で87.4~100%です。ロイマタ首長の領地の個体群ではFRO系統の割合は比較的多様で、マンガース遺跡の個体(I10966)では17.3~22.0%、エレトク島の個体(I10969)では38.3~44.2%です。

 また、常染色体とX染色体の系統割合の推定を比較し、性的に偏った混合があったのか、検証されました。その結果、性的に偏った兆候が観察され、現代ポリネシア人および古代マラクラ島人で以前報告された事例が確認されました。なお新たに報告された11個体に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では、3000年前頃のテオウマ遺跡の1個体がB4a1a1、2600~2200年前頃のメレの1個体がQ1b、マンガース遺跡では、500~200年前頃の1個体がQ1、180±20年前頃の1個体がQ2a3、エレトク島の500~200年前頃の2個体はB4a1a1とP2、490~310年前頃の1個体はP2、エファテ島のバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体はP1d2です。Y染色体ハプログループ(YHg)は、テオウマ遺跡の3000~2750年前頃の2個体がともにO、2600~2200年前頃のメレの1個体とエレトク島の500~200年前頃の1個体とエレトク島の490~310年前頃の1個体とバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体は、いずれもC1b2aです。mtHgでもYHgでも、ほぼFRO系統のみからパプア人系統の流入が示唆されます。以下、古代バヌアツ個体群におけるパプア人系統の割合を示した図3です。
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●混合年代

 以前の研究では、バヌアツの現代人集団の大半は、他のオセアニア人と一致して、平均して2000年前頃を中心とする混合年代を有する、と示されましたが、一部の集団、とくにポリネシア人関連系統を有する集団は、たとえば1075±225年前となるフツナ(Futuna)島のように、より最近の年代を示します。本論文は、MALDERとDATESの両方を用いて、エレトク島とマンガース遺跡の個体群の混合年代を推定し、平均して個体群の約20~30世代前もしくは550~850年前頃、つまり1400~700年前頃と示されました。

 この年代範囲は、考古学的証拠に基づく、1000~750年前頃に起きた西進してきたポリネシア人の到来の可能性よりも、やや早くなっています。しかし、ポリネシア人流入の想定では、ポリネシア人と在来集団の両方がすでに混合していたことを考慮すると、予想される平均混合年代は、最近とより古い混合事象の組み合わせを反映しているでしょう。MALDERから混合の複数の波の有意な証拠は検出されませんでしたが、両方の代理起源集団が系統の同じ混合タイプ(パプア人とFRO)を有しているでしょうから、異なる混合事象を解明するのは困難です。それでも、エレトク島とマンガース遺跡の比較的最近の混合年代は、混合割合で観察された不均質性とともに、より最近の混合過程の証拠を提供します。


●パプア人系統とFRO系統の起源

 アレル(対立遺伝子)共有対称性検証を通じて、リモートオセアニアにおけるパプア人系統とFRO系統の勾配がより詳しく調べられました。まずf4統計(X、傣人、ナシオイ人、ニューギニア高地人)で、検証対象の集団Xとソロモン諸島およびニューギニアの集団との間で共有される相対的なアレルが検証されました。検証対象の2集団は、パプア人系統の異なる起源集団を有する場合(たとえば、一方はニューブリテン島で、他方がニューギニアやニューアイルランド島やソロモン諸島)、FR系統の割合を補正した後では、異なる値を示すと予想されます。エロマンガ(Erromango)島やテオウマ遺跡やツツバ(Tutuba)島などいくつかの例外を除いて、現代および古代のリモートオセアニア人はひじょうに均一な結果を示し、そのパプア人系統の共通起源と一致します。

 パプアニューギニアの祖先の起源が異なる場合(たとえば、1つはニューブリテン島から、もう1つはニューギニア、ニューアイルランド、またはソロモン諸島から)、コプラ(ココヤシを乾燥させたヤシ油や石鹸の原料)の大農園で知られるツツバ島は、おそらく在来バヌアツ人とメラネシアの他地域から到来した大農園労働者間の最近の混合を受けました。エロマンガ島が例外である理由は不明ですが、19世紀に白檀を購入して伐採する集団が多数訪れており、そうした接触の結果として、持ち込まれた疾患により人口減少に悩みました。

 ニアオセアニア人の間では、予想されたように、ニューギニアの集団は一般的にリモートオセアニア人の線の下に位置し、ソロモン諸島の集団はその上に位置します。しかし、ニューブリテン島の下位集団はリモートオセアニア人を密接に追っており、(おもに)バヌアツとポリネシアへ寄与したパプア人系統の起源集団の適切な代理を表している、と示唆されます。この結果はqpWaveの使用で確認されました。現代バヌアツ集団は、4系統の起源集団を必要としており、おそらくエロマンガ島やツツバ島のように異なるパプア人系統、もしくは最近の接触に由来する、アジア東部人やヨーロッパ人のような他の系統の小さな割合に起因します。

 次に、FRO系統の異なる起源集団の可能性について同様の検証が行なわれました。まずf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、カンカナイ人)で、テオウマ島個体群と現代カンカナイ人への、オセアニア全域のFRO系統の関連性が検証されました。全集団はFRO系統の水準と高度に相関する正の値を示し、この系統がテオウマ遺跡個体群と密接に関連している、と示唆されます。次のf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、タラシウ遺跡個体群)では、FRO系統がラピタ文化関連個体群でもバヌアツとトンガのどちらとより密接に関連しているのか、検証されました。本論文の統計的能力は、このラピタ文化関連2集団間の密接な関係により制限されますが、エファテ島のテオウマ遺跡個体群よりもトンガのタラシウ遺跡個体群の方と、より大きな類似性を示唆する有意な結果が示されました。しかし、わずかな偏差しか観察されません。したがって、標本抽出された古代および現代のオセアニア集団で見つかったFRO系統は、バヌアツとトンガのラピタ文化関連個体群との関係では比較的均一で、わずかにトンガに近いようです。


●ポリネシア人の遺伝的遺産

 同様の手法で、f4統計(X、ニューブリテン島のトライ人、カンカナイ人、トンガ人)によりとくにポリネシア人関連系統の存在が検証されました。予想通り、他のポリネシア人はトンガ人と共有されるひじょうに強いアレルを示します。バヌアツ内では、ほとんどの集団はニアオセアニア人により確立された基準線水準と一致しますが、一般的にFRO系統より高い割合を有する一部の集団は、トンガ人と共有される過剰なアレルを示します。これらには、150年前頃のエファテ島のイフリア(Ifira)遺跡の1個体や、現代のアネイチュム(Aneityum)島やバンクス諸島やエファテ島やフツナ島やマクラ(Makura)島やトンガや、エファテ島でも高いFRO系統を示すメレの下位集団が含まれます。本論文で新たに報告された古代の個体群では、マンガース遺跡個体群とエレトク島の3個体のうち2額の両方が、ポリネシア人との類似性の強い兆候を有します。

 より正確にこのポリネシア人との類似性の起源を決定するために、f4統計(X、トライ人、ポリネシア人1、ポリネシア人2)が用いられました。トンガとサモアの比較では、共有されるアレルに有意な違いは検出されませんでしたが、バヌアツにおけるポリネシア人の影響を受けた多くの集団では、トンガとポリネシア人の外れ値との比較で、やや過剰な共有されるアレルが観察されました。例外の一つは、ペンテコスト(Pentecost)島のナマラム(Namaram)とオントンジャワ(Ontong Java)との間の過剰な関連性でした。しかし、ほとんどの場合、バヌアツ集団におけるポリネシア人関連系統の起源集団は、メラネシアにおける他のポリネシア人外れ値共同体よりも、ポリネシア集団の方とわずかに密接に関連しているようです。

 次に、エレトク島およびマンガース遺跡の個体群と他のバヌアツ集団との間で共有される過剰なアレルが検証されました。その結果、いくつかの有意な兆候が検出されました。それは、古代の5個体とエファテ島現代人と、とくにエファテ島のメレ地区の高いFRO系統の現代人下位集団との間、次にエレトク島の2個体(I10968とI10969)とエファテ島イフリア地区の150年前頃の1個体との間、最後に、5個体のエレトク島個体群とマンガース遺跡個体群との間です。フツナ島現代人と共有されるアレルに関する別の統計検定は、アネイチュム島人との強い関係を特定しましたが、エレトク島もしくはマンガース遺跡個体群との特別な関係性は確認されませんでした。また追跡調査分析から、エレトク島の個体(I14493)とマンガース遺跡の個体(I10967)はおそらく2親等の近親者と示唆され、この特別に高いアレル共有を説明し、ロイマタの物語における両遺跡と直接的に関連する口承伝統を確証します。


●混合グラフ分析

 混合グラフが作成され、現代のタンナ(Tanna)島およびフツナ島人、エファテ島の600年前頃の1個体(I5259)、エレトク島とマンガース遺跡の個体群、ポリネシア人、多様なニアオセアニア人を含む、複数集団間の関係が同時に調べられました。最終的なモデルでは、ニューギニア集団とソロモン諸島集団とニューブリテン島の2集団と関連する祖先的パプア人系統間の、2回の混合事象が推測されます。そのうち1回は、ニューブリテン島のメラメラ(Melamela)とバヌアツとトンガにおけるパプア人系統を節約的に特徴づけられます。

 バヌアツ内では、このモデルはバヌアツ諸島の南部および中央部における別々の2段階の混合史を含みます。現代のフツナ島集団は、タンナ島の個体群(12%のFRO系統と88%のパプア人系統と推定されます)と関連する56%の系統と、ポリネシア人と関連する44%の系統の混合としてモデル化できます。エファテ島では、マンガース遺跡で発見されたものの、必ずしもロイマタ首長の領地遺跡とは関連していない1個体(I5259)が、11%のFRO系統と88%のパプア人系統の混合と推定され、エレトク島とマンガース遺跡の集団は、I5259関連系統63%とポリネシア人関連系統37%の混合としてモデル化できます(全体では33%のFRO系統)。エレトク島およびマンガース遺跡の集団とフツナ島集団を、過剰な(とくにポリネシア人関連ではない)FRO系統を有するとモデル化すると、予測不充分なf統計が残ります。タンナ島個体群とI5259は、真の起源集団の正確な代表ではないかもしれないので、ポリネシア人関連系統の推定割合はわずかに不正確かもしれませんが、地域の遺伝的状況と最終モデルの適合品質の両方に基づく、尤もな代理です。以下、諸集団間の混合を示した本論文の図5です(緑色がFRO系統でその他の色がパプア人系統)。
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●まとめ

 バヌアツ諸島の人類集団の遺伝的歴史は複雑で、多様な起源を有する複数集団間の相互作用が特徴です。この複雑さは、バヌアツ諸島が1000km以上にわたり、ソロモン諸島の東端に位置する岩礁およびサンタクルーズ諸島からニューカレドニアまでの南西太平洋において重要な相互に見える関連を形成していることを考えると、驚くべきではありません。さらに、現代のバヌアツを特徴づける大きな文化的多様性に照らすと、バヌアツ諸島のさまざまな部分が過去に異なる人口動態を経てきたとしても、驚くことではありません。本論文の結果は、いくつかの未解決の問題に関連する新たな証拠とともに、経時的にバヌアツの遺伝的構成に実質的に寄与した上記の3つの集団移動(M1~M3)に関する理解を深めます。

 エファテ島のテオウマ遺跡の新たに報告された4個体が既知のデータに加わり、ラピタ文化関連では、リモートオセアニアの3000~2500年前頃の合計12個体(テオウマ遺跡の8個体、タラシウ遺跡の3個体、マラクラ島の1個体)のゲノムデータが得られ、その全個体はほぼ完全にFRO関連系統を有していました。したがって、将来の標本抽出ではこの時期のより大きな遺伝的多様性が明らかになる可能性も依然としてありますが、現時点での古代DNA研究の結果が支持する仮説は、ラピタ文化複合の拡大をもたらしたリモートオセアニアの最初の人々(上記のM1)は、ほぼアジア東部および南東部の起源を有する集団の子孫だった、というものです。

 2500年前頃以後、ラピタ文化期後の標本抽出された個体群はパプア人系統の流入(M2)を示しますが、バヌアツの異なる地域でさまざまな軌跡を伴っています。バヌアツ中央部および南部のこの時期最初の3個体は、本論文のデータセットではFRO系統の割合が最も低く、大きな地域的な遺伝的変化を示します。同じ島々からのもっと後の集団におけるFRO系統の増加は、ラピタ文化期の後の混合の推定年代と組み合わされて、混合はFRO系統とパプア人系統のさまざまな割合を有する集団間でその後に起きた、と示します。バヌアツ北部のマラクラ島における既知の後期ラピタ文化期およびラピタ文化期後(2500~2000年前頃)の個体群は、最近の推定混合年代とともに大きく異なる個体水準での系統割合に反映されているように、そのような混合過程の直接的証拠を提供します。他の古代の個体群とは異なりマラクラ島の個体群は、ラピタ文化集団の創始者から2000年前頃までの1000年間、継続的に居住された1遺跡に由来します。ラピタ文化の要素が、この地域でバヌアツ中央部および南部よりも長く続いた兆候もあります。

 古代と現代のデータの再分析は、2500年前頃から現代までのバヌアツで見られるパプア人系統の主要な構成が単一起源だったことを支持し、いくつかの例外のほとんどは、ヨーロッパ人との接触後の移動と関連している可能性があります。とくに、ニアオセアニアからの利用可能な同時代の古代DNAデータはありませんが、この起源集団の位置は、強い現代の地域的な遺伝的構造に基づくと、ニューブリテン島だった可能性が高く、地理的により近いソロモン諸島からの遺伝子流動の孤立した証拠以上のものは検出されません。

 バヌアツ全域の経時的なこの相対的な均質性は、後期ラピタ文化期の頃に始まるパプア人系統の流入をもたらしたのは短期間での移住事象だった、という仮説を支持します。ポリネシア人の影響を受けた集団を除いて、バヌアツにおける推定混合年代も、FRO系統とパプア人系統のこの頃の混合を示します。先験的に、最も可能性の高い移動と相互作用は、遠方の島々よりもむしろ、近隣の群島間と予想されます。つまり、ソロモン諸島から岩礁およびサンタクルーズ諸島を経てバヌアツ諸島へと至る経路です。しかし、これは考古学的および言語学的理由でM1には当てはまらないようで、またソロモン諸島を除いて、バヌアツ諸島とニューブリテン島との間の直接的な遺伝的つながりに基づくと、M2にも当てはまらないようです。

 遺伝学と考古学両方の結果に照らすと、節約的な説明は、後期ラピタ文化期においてM2が事実上M1の継続だったものの、ほぼ異なる系統を有する移民を含んでいた、というものになるかもしれません。ニューブリテン島とバヌアツとの間の文化的つながりは、バヌアツの最初のラピタ文化期の堆積物におけるニューブリテン島の黒曜石の存在や、このラピタ文化期の最初の段階に続く、食性と埋葬行動と骨格形態の変化や、頭部結合および完全に円形のブタの牙の製作といった、これらの場所に限定された(どの年代までさかのぼるのか不明な)独特の慣行を含みます。また、以前の研究でのより複雑な提案とは異なり、バヌアツに同じニューブリテン島関連起源集団を用いることにより、ポリネシア人で見られるパプア人系統をモデル化でき、両者が移住の同じ段階からおもに派生した可能性が提起されます。しかし、FRO構成と同様に、この系統を有する人々がポリネシアへの経路でバヌアツを通過したのかどうか判断するには、将来の研究を俟たねばなりません。

 過去数世紀のエファテ島におけるポリネシア人の文化的影響の考古学的および人類学的証拠と一致して、ロイマタ首長の領地の5個体の分析は、より高いFRO系統の割合の兆候と、混合の比較的最近の年代と、ポリネシア人と共有されるとくに高いアレルにより、ポリネシア人関連系統の流入(M3)を示します。エファテ島のメレ地区の現在のポリネシア人の外れ値共同体や、他の現在および比較的近い過去のエファテ島の個体群も、エレトク島とマンガース遺跡の個体群と共有される系統を示します。バヌアツ南部におけるフツナ島とその近隣諸島のポリネシア人外れ値集団は、ポリネシア人の影響の別の例を表しているかもしれませんが、比較するためのデータが不足しています。したがって、現代のバヌアツ先住集団の系統はおもにバヌアツ諸島の初期の人類史にたどれるものの、後の移住、とくにポリネシア人の移住もまた、現代のバヌアツ諸島集団の遺伝的多様性に寄与しました。以下、諸集団間の混合とその割合を示した本論文の図S5です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、バヌアツ諸島の複雑な人類史を以前よりも詳しく明らかにしましたが、今後の研究によりさらに詳細に解明されることが期待されるとともに、本論文の見解もある程度は修正されていく可能性も想定されます。上記の図4や図S5に関しては、最近の古代DNA研究(関連記事)を踏まえると、現代のオーストロネシア語族の台湾先住民であるタイヤル(Atayal)人も含まれる、FROの主要な祖先系統はアジア東部南方系統に位置づけられます。これは、ユーラシア東部北方系統より派生したアジア東部系統からさらに分岐した系統で、FRO系統の直接的な起源は台湾でしょうが、さらにさかのぼると現代の福建省などアジア東部南方沿岸部地域になりそうです。これは、福建省新石器時代集団の古代DNA研究でも確認されています(関連記事)。アジア東部現代人集団では、同じくアジア東部系統から派生したアジア東部北方系統の方が、アジア東部南方系統よりも遺伝的影響は強くなっています。

 一方、バヌアツ諸島の現代人で大きな遺伝的影響を有しているパプア人系統は、ユーラシア東部南方系統に位置づけられます。ユーラシア東部世界は、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内における南北間の遺伝的構造の違いとともに、それよりも大きな遺伝的違いとして、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統という南北間の構造も見られ、その複雑な相互作用と混合割合の解明が今後進んでいくのではないか、と期待されます。日本列島の人類集団も、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内の南北両系統と、ユーラシア東部南方系統との複雑な相互作用により形成された、と考えられます。


参考文献:
Lipson M. et al.(2020): Three Phases of Ancient Migration Shaped the Ancestry of Human Populations in Vanuatu. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.035

大河ドラマ『麒麟がくる』第32回「反撃の二百挺」

 1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)4月、浅井長政の裏切りにより、織田信長は越前から撤退します。明智光秀(十兵衛)は摂津晴門とのやり取りから、摂津が朝倉や浅井と通じている、と確信します。光秀は足利義昭に、次の戦いでの出陣を要請します。今回の戦いで義昭が出陣していれば、浅井長政は裏切らなかっただろう、というわけです。越前からの撤退戦で鉄砲を多数失ったことから、光秀と木下藤吉郎(豊臣秀吉)は堺の今井宗久を訪ねて鉄砲300挺の購入を依頼しますが、すでに鉄砲の大量注文を受けているので用立てはできない、と宗久は言います。宗久はその注文主を直接的には光秀と藤吉郎に教えませんでしたが、茶会に参加する筒井順慶だと示唆します。筒井順慶は松永久秀と敵対しているため、譲ってもらうことは難しいと考える光秀と藤吉郎ですが、ともかく茶会に出席することにします。順慶が信長に好意的だと知った光秀は、順慶に鉄砲を譲ってもらいたと要請し、順慶は信長と義昭への口添えを条件に鉄砲200挺を譲ることにします。順慶は、久秀を退けよとまで要求するつもりはないが、自分も信長と義昭とは懇意にしたい、と考えていました。

 1570年6月、信長は徳川家康とともに近江に出陣し、姉川で朝倉・浅井軍を破ります。光秀は家康から、義昭は食えない男だと忠告を受けます。信長は義昭に出陣を要請して三好三人衆を攻めますが、本願寺が三好三人衆側に立って決起し、さらには朝倉と浅井も出陣し、包囲される形となった信長は窮地に追い込まれ、まずは朝倉妥当を優先します。義昭は、信長が意外と脆いと認識を改めます。信長は、比叡山延暦寺が朝倉・浅井を匿うことに苛立っていました。

 今回は、筒井順慶が初登場となり、光秀との縁ができたことも描かれ、今後も重要人物として存在感を示しそうです。順慶が信長・義昭と通じ、義昭が順慶を優遇したことも一因となって久秀は義昭と対立し、1572年までともかく一応は義昭と協調関係にあった信長とも対立していくわけですから、本作での久秀の重要性から考えても、順慶は今後も重要人物として描かれることになりそうです。何よりも、順慶は本能寺の変での光秀との因縁もありますから(洞ヶ峠の逸話は史実ではないようですが)、その意味でも注目されます。それにしても、残り12回なのにまだ1570年ですから、丹波攻めもあまり描かれず、本能寺の変へと至る過程も駆け足になるのではないか、との懸念は残ります。

坂野潤治『明治憲法史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者は先月(2020年10月)14日に亡くなり、本書が遺著となるのでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。本書は、大日本帝国憲法(明治憲法)の構造と機能を分析します。明治憲法が施行されてから昭和戦前期までの政治史を憲法史として再構成します。まず本書は、明治維新から憲法施行までの20年以上を助走期間と規定し、これが長かったことは、支配勢力と在野勢力に憲法と議会に関する理解を浸透させ、相互、主張への理解を容易にしたという意味で、単に民主化の遅れと批判するのではなく、一定以上高く評価しています。

 議会制の導入は幕末以来多くの指導者層の目標で、明治になって在野勢力からも主張されましたが、憲法制定の必要性にまず着目したのは、在野の民権派ではなく、藩閥政府内の「リベラル派(現在のリベラル保守)」の木戸孝允でした。木戸は、皇帝権限が強く、議会権限が弱いドイツ憲法に着目しました。本書はこれを、「立憲主義」と「民主主義」の対立と把握しています。1880年代になると、こうした政治思潮は保守主義と自由主義と民主主義の三勢力に分かれ、それぞれが立憲制の必要性を認めるようになります。

 本書は明治憲法へと至る過程で、民間の憲法案をやや詳しく取り上げています。とくに福沢諭吉系の交詢社の憲法案(1881年)に関しては、現在の象徴天皇制に近い議会制民主主義が提唱されていた、と本書はその民主主義的性格を高く評価します。本書は、明治憲法の制定にさいして政府は交詢社案を強く意識したところがある、と推測します。この交詢社案とも関連して、大隈重信が失脚します(明治14年の政変)。本書は、この時点ですでに明治憲法の骨格は出来上がっていたものの、交詢社案が人々の記憶に強く残っている間は、政府内保守派もドイツモデルの憲法制定を強行するわけにはいかなかった、と推測します。

 1889年2月11日、明治憲法が発布されます。明治憲法の特徴は、天皇権限が強く、議会権限がきわめて弱いことです。本書は、明治憲法の編成大権と外交大権の目的は、国防問題と外交問題への議会の関与を禁じることにあり、ひじょうに反議会的である一方、内閣の権限は相当に大きかった、と指摘します。議会は予算審議で対抗できたものの、それにも限界があった、いうわけです。巨大な内閣の権限を拘束する唯一の例外が枢密院でしたが、本格的な政党内閣が成立するまで、重要問題で内閣と枢密院が対立することは余りありませんでした。内閣の権限も制約したのが統帥大権で、これが昭和期に問題となりました。ただ、明治憲法では天皇権限が強かったとはいえ、憲法施行により天皇は超法規的存在とは言えなくなりましたが、政府と議会の調停者にはなれた、と本書は指摘します。

 憲法施行と議会開設から10年も経たないうちに政党内閣(第一次大隈内閣)が成立しますが、本書はこれを、元老たちが時として政党内閣の成立を認めたにすぎず、大隈内閣が短期間で退陣した後、第二次西園寺内閣の総辞職までの14年間は、政党勢力の緩やかな発達というよりは、政治の民主化の停滞だった、と評価しています。ただ本書は、政党内閣を正当化する憲法論が次第に影響力を増大させてきた、とも指摘しており、それは美濃部達吉の天皇機関説です。これは、日本国の主権者は天皇ではなく国民の共同体である日本国家で、天皇は主権者が統治のために設けたさまざまな「機関」の頂点にすぎず、天皇の権力は無制限ではない、というものです。本書は、美濃部がやや強引な論理ながら、明治憲法下における政党内閣の正当性を提示した、と評価しています。ただ、本書はその美濃部について、天皇機関説問題の前の昭和期には、政党政治に見切りをつけていたのではないか、と指摘します。大正時代には、主権者が天皇なのか否かという「国体論争」はさほど注目されず、普通選挙制の実現が中心課題でした。しかしこの間にも、後の「国体」に関わる政争の議論の基盤が整えられていき、それは統帥権をめぐるものでした。それが顕現したのはロンドン海軍軍縮条約ですが、本書は、統帥権干犯問題を主張したのは軍令部ではなく政友会、具体的には鳩山一郎だった、と指摘します。

 五・一五事件以降、陸軍の影響力がさらに増大し、「全体主義」的傾向を強めていく1930年代の日本において、明治憲法は機能不全的状況に陥っていたものの、1936年2月の総選挙を機に、「民意」表出の重要な制度としてその機能を回復してきた、と本書は評価します。本書は日本における「民主主義」は明治時代以降、国民の間で漸進的かつ確実に、共有の信念になっていった、と指摘します。1936年2月の総選挙から翌年7月の日中戦争勃発までは、明治憲法下の議会でも社会民主主義政党が有力政党として存在し得ると示され、戦後の保革対立を基本とする政治が出現した、と本書は評価します。ただ本書は、その担い手である社会大衆党には、社会民主主義と国家社会主義との路線対立があったことも指摘します。戦後民主主義の萌芽とも言えるこの政治状況をもたらしたのは、「広義国防」と「狭義国防」の対立でした。しかし、宇垣一成の組閣が失敗した後では、政党内閣復活の可能性はほとんどなかった、と本書は指摘します。本書は、日中戦争の前まで、日本国民の政治常識は「自由主義乃至デモクラシー」だった、と評価します。この状況を変えたのが日中戦争の勃発だった、というのが本書の見解です。戦前日本の自由主義もしくは民主主義は、武力により鎮圧されたのではなく、国民自身が自発的に放棄した、というわけです。

 本書の全体的な見解は、近代日本には「万世一系」の天皇が支配する専制的な憲法体制はなく、日中戦争から敗戦までは明治憲法の時代というよりは、憲法が機能しなくなった時代だった、というものです。日本国憲法は8年間の無憲法状態の後を継いだのであって、明治憲法を否定したわけではなく、近代日本史は、明治憲法の時代と総力戦の時代と日本国憲法の時代に区分するのがよい、というわけです。これは、戦前と戦中と戦後に相当します。「平和と民主主義」の時代は戦後だけではなく戦前にもあった、と本書は強調します。ただ、日中戦争はずっと「事変」扱いされていたわけで、指導層も含めて当初国民は楽観視していたのではないか、と思います。その意味で、現在の視点では日中戦争は確かに日本の岐路でしたが、勃発により大きく変わったというよりは、長期化により国民の意識が変わっていった、という側面の方が大きいように思います。

ヨーロッパの上部旧石器時代の一卵性双生児

 ヨーロッパの上部旧石器時代の一卵性双生児に関する研究(Teschler-Nicol et al., 2020)が公表されました。4万~3万年前頃、現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州のクレムス(Krems)市中心部を、上部旧石器時代の狩猟採集民が繰り返し利用していました。これらの上部旧石器時代遺跡は、ヨーロッパ中央部の早期現生人類(Homo sapiens)の居住パターンや文化や生計の理解に重要な役割を果たします。

 その中でも、クレムス=ヴァハトベルク(Krems-Wachtberg)遺跡(以下、KW遺跡)は、残存状況がとくに良好です。KW遺跡では炉床や乳児の2ヶ所の埋葬が確認されています。KW遺跡の文化は、上部旧石器時代となる早期グラヴェティアン(Gravettian)の地域版であるパブロフィアン(Pavlovian)に分類されています。放射性炭素年代測定法では、KW遺跡の較正年代は31000年前頃と推定されています(IntCal13)。KW遺跡は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)へと向かう寒冷化の時期に相当します。獲物の遺骸から、KW遺跡は冬もしくは早春に利用された、と示唆されます。

 乳児埋葬のうち一方は二重埋葬の楕円形の墓穴(埋葬1)で、乳児2人(乳児1および乳児2)が埋葬されており、それぞれ赤いオーカーで埋められ、東を向いており、頭蓋が北を向くように配置されていました。乳児2はより中央に配置され、乳児1は墓穴の南西端に位置していました。マンモスの牙で製作され、紐で通されていた痕跡のある53個のビーズが乳児1の骨盤に置かれ、ビーズには使用摩耗痕は確認されませんでした。穿孔されたアマオブネガイ科(Theodoxus属)の貝とキツネの切歯が供えられており、単一のネックレスと示唆されました。

 もう一方の埋葬(埋葬2)は長くて狭い墓穴で、乳児1人(乳児3)が見つかりました。乳児3も東を向いていましたが、頭蓋は南向きでした。乳児3には、マンモスの牙で作られた長さ8cmのピンが供えられていました。当初の観察では、二重埋葬の乳児1および2は同様の成長段階というか、おそらくは周産期死亡で、2人が双子もしくは少なくとも密接に関連した個体だった、と示唆されます。二重埋葬の乳児1および2は、同時に埋葬されたのではなく、異なる連続した段階で行なわれ、墓が再度開けられたことを示唆します。本論文は、埋葬1の乳児2人の遺伝的関係を評価し、2人が親族関係にあるのか、確認します。また、同位体分析により年齢も推定されます。これら乳児の遺骸は、当時の埋葬慣行の推測にも役立ちます。

 乳児3のDNAはすでに解析されており、乳児1および2のDNAが新たに解析されました。平均網羅率は、個体1が1.772倍、個体2が0.282倍です。個体1および2は男性で、ともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU5、Y染色体ハプログループ(YHg)はIに分類され、乳児3と一致します。KW遺跡の乳児3人はほとんどのアレル(対立遺伝子)を相互に共有しており、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名された、グラヴェティアン集団のクラスタ(関連記事)とアレルを共有します。親族関係の分析の結果、埋葬1の乳児1と乳児2はゲノム全体を共有する一卵性双生児で、乳児3は乳児1および2と3親等かそれ以上離れた親族と推定されました。

 一卵性双生児(乳児1および2)の埋葬時期が異なるから、死亡年齢が異なっていた可能性も考えられます。乳児の死亡年齢はほとんどの場合、長骨骨幹の長さと歯の発達段階の比較に基づいて決定されます。形態計測の結果、乳児2は誕生前後(妊娠39~40週)、乳児1は生後6~7週間、乳児3は生後13~14週間で死亡した、と示唆されます。双子の妊娠は危険性が高く、単生児よりも双子の方が周産期死亡率は高い、とよく知られています。個体1に見られるストレス症状は、周産期の死亡と関わる要因の反映かもしれません。

 炭素および窒素の安定同位体分析は、乳児2では汚染・分解の痕跡が示されたことから利用できませんが、乳児1および3ではヨーロッパの初期現生人類の同位体食性証拠と一致し、乳児3では乳児1よりもわずかに窒素15および炭素13が濃縮されています。これは乳児1よりも長い期間となる乳児3の母乳育児を反映しているようです。エナメル質の同位体分析からは、乳児3が誕生後の短い人生においてもストレスを受けていた、と示唆されます。当時のKW遺跡の住人は、厳しい生活を送っていたようです。

 乳児1および2は、古代DNA分析により確認された初めての双子となります。乳児1および2が安置された埋葬1は、一度葬った後に開けたと推測されていますが、これは乳児2が誕生前後に死亡したのに対して、乳児1は生後6~7週間生きていたからだと推測されます。グラヴェティアンの埋葬儀式に関しては、個人的な象徴的扱いが報告されており、本論文の知見からは、それには墓を再度開けたり配置を変えたりすることも含まれていた、と考えられます。双子の周産期死亡率は単生児よりも高いので、今後さらに、一卵性双生児遺骸が古代DNA研究により明らかになることも予想されます。


参考文献:
Teschler-Nicol M. et al.(2020): Ancient DNA reveals monozygotic newborn twins from the Upper Palaeolithic. Communications Biology, 3, 650.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01372-8

翼竜類の食性

 翼竜類の食性に関する研究(Bestwick et al., 2020)が公表されました。食物を噛んだ時、食物に歯型が残るのと同様に歯にも跡が残ります。歯に残る跡は、食物によって異なるため、こうした跡を用いて、さまざまな動物の食生活を推測できます。この研究は、17属のさまざまな翼竜の歯の化石に残されたマイクロメートル以下の跡のパターンを分析しました。飛行捕食者だったこれらの翼竜は、2億1000万年~6600万年前頃の中生代に生息していましたが、その食性についてはあまり知られていません。

 この研究では、多彩な情報が得られました。たとえば、ディモルフォドンはさまざまな脊椎動物を餌とし、ランフォリンクスは魚類を食べ、アウストリアダクティルスは甲虫や甲殻類などの「硬い」無脊椎動物を食べていました。獲物の範囲が非常に限定された翼竜がいた一方で、広食性捕食者の翼竜もいました。翼竜類の祖先種は無脊椎動物を食べていましたが、その後、魚や肉を食べるように進化した、と推測されます。この研究は、こうした変遷が中生代末期にかけて多様化した鳥類との競争により引き起こされた可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


翼竜類の歯から分かった食物の好み

 翼竜類の歯に残された跡の研究から、翼竜類が進化の過程で、多種多様な食物を摂取するようになったことを明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、翼を持つ爬虫類である翼竜類の進化と、翼竜類がさまざまな生態系で果たした役割について解明を進める上で役立つ。

 食物を噛んだ時、食物に歯型が残るのと同様に歯にも跡が残る。歯に残る跡は、食物によって異なるため、こうした跡を用いて、さまざまな動物の食生活を推測できる。今回、Jordan Bestwickたちの研究チームは、17属のさまざまな翼竜の歯の化石に残されたマイクロメートル以下の跡のパターンを分析した。飛行捕食者だったこれらの翼竜は、2億1000万年~6600万年前の中生代に生息していたが、その食餌について知られていることは比較的少ない。

 今回の研究では、多彩な情報が得られた。例えば、ディモルフォドンはさまざまな脊椎動物を餌とし、ランフォリンクスは魚類を食べ、アウストリアダクティルスは甲虫や甲殻類などの「硬い」無脊椎動物を食べていた。獲物の範囲が非常に限定された翼竜がいた一方、広食性捕食者の翼竜もいた。翼竜類の祖先種は、無脊椎動物を食べていたが、その後、魚や肉を食べるように進化したとされた。Bestwickたちは、こうした変遷が、中生代末期にかけて多様化した鳥類との競争によって引き起こされた可能性があると考えている。



参考文献:
Bestwick J. et al.(2020): Dietary diversity and evolution of the earliest flying vertebrates revealed by dental microwear texture analysis. Nature Communications, 11, 5293.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-19022-2

イスラエルのティンシェメット洞窟遺跡

 イスラエルのティンシェメット洞窟(Tinshemet Cave)で発掘調査が進められており、公式サイトが公開されています。ティンシェメット洞窟では中部旧石器時代の石器や人類遺骸が発見されているそうです。この時期に、ヨーロッパ起源のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とアフリカ起源の現生人類(Homo sapiens)がレヴァントで遭遇したと考えられており、ティンシェメット洞窟では人類遺骸と石器が発見されていることから、注目すべき遺跡と言えるでしょう。

 少なくとも5個体分となる人類遺骸は、2017~2019年の発掘で発見され、その中には部分的に関節がつながっている子供の骨格や、遊離した歯のある2個の頭蓋もあり、まだ発掘中の人類遺骸もあるそうです。これらの人類遺骸の分類はまだ同定されておらず、現生人類、ネアンデルタール人、他の中期更新世後期~後期更新世前期の人類の可能性がある、と指摘されています。詳細な年代は公表されていないませんが、熱ルミネッセンスや光刺激ルミネッセンスやウラン系列法などで年代測定が進められているそうです。

 石器は、ムステリアン(Mousterian)と関連する多くの剥片が発見されています。ティンシェメット洞窟遺跡石器群の特徴は、剥片の製作にルヴァロワ(Levallois)技法が用いられていることです。大量の石屑があることから、ティンシェメット洞窟で石器が製作されていた、と示唆されます。石材はおもに地元の燧石(フリント)でした。また、遠方からオーカーや特別な意思が持ち込まれており、当時のティンシェメット洞窟の中部旧石器時代の住人における、複雑な象徴的および社会的行動が示唆されます。

 ティンシェメット洞窟では、さまざまな非ヒト動物遺骸も発見されています。発見された動物遺骸は地元の種で、ティンシェメット洞窟の中部旧石器時代の住民がより大型の獲物に重点を置いていた、と示されます。具体的には、オーロックス(Bos primigenius)やイランダマシカ(Dama mesopotamica)やマウンテンガゼル(Gazella gazella)やウマ類です。これらの非ヒト動物遺骸の堆積の主因はヒトだった、と推測されています。

 異常が現時点で公開されている主な情報ですが、ヒト遺骸も非ヒト動物遺骸も多くの石器も発見されており、人類進化史において重要な中部旧石器時代のレヴァントに関する多くの情報が得られるのではないか、と大いに期待されるので、今後の研究の進展がひじょうに楽しみです。人類遺骸がどの種に分類されるのかも気になりますが、同じくイスラエルのセフニム洞窟(Sefunim Cave)で中部旧石器時代層の堆積物から非ヒト動物のミトコンドリアDNA(mtDNA)断片が回収されているそうなので(関連記事)、ティンシェメット洞窟でも堆積物からのDNA解析が期待されます。もちろん、遺骸から直接DNAが解析できればもっとよいわけですが、まだイスラエルと同程度以下の緯度の地域で発見された、中部旧石器時代以前の遺骸からのDNA解析には成功していないでしょうから、貴重な人類遺骸をごく一部とはいえ破壊してDNA抽出を試みることは、さすがに当分はなさそうです。

デマを流すのは低コストで否定するのは高コスト

 デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性は人間社会の嫌な真理です。もちろん、知識・情報が足りず、情報判断力が低いため、真実と確信して結果的にデマを流す人もいるでしょうが、常習犯のように次から次へとデマを流す人の中には、デマと知っているか、真偽や根拠が曖昧だと理解していながら、騙せる奴(いわゆる情弱)だけ騙せればよいとか、検証しようとする人間を疲弊させてやりたいとばかりに、この非対称性を利用している輩もいるのではないか、と考えたくなります。もちろん、デマを流す人間の意図というか内面を断定することはきわめて困難ですが。

 私がずっとアメリカ合衆国のトランプ大統領(関連記事)をまったく支持しなかったのは、その古い日本観に対する警戒もありますが、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えないような発言が絶えないことも大きく、デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性をトランプ大統領は悪用しまくった、と認識しています。過去に、この非対称性を利用して次から次へと真偽や根拠が曖昧な話やデマを流す輩と対応した経験から、私はこうした輩を心底嫌っています。

 私がやり取りする話題は人類進化史関連が多く、最近はあまり意欲が湧かないのでやり取りは少なくなっていますが、以前のやり取りで、現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では、アフリカ集団よりもアジア南東部集団の方がずっと多様だ、と言い張っていた輩がいました(関連記事)。その根拠は、アフリカにはほぼmtHg-Lしかいないのに、アジア南東部はもっと多様だ、というものです。じっさい、たとえば現代ミャンマー人のmtHgはA・B・C・D・F・Uなど多様です。しかし、上記の記事で述べましたが、これは字面だけを見ての誤解です。この点に関しては何度か説明しましたが、その輩はついに自分の主張を変えませんでした。どうも、本気で信じているというよりは、騙せる奴だけ騙せればよいと考えているのではないか、と私はやり取りの途中から推測するようになりましたが、もちろんその輩の真意を断定できるわけではありません。

 同じように、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているように思われる人物として、アイヌと「縄文人」との関係の否定に熱心な元北海道議員の小野寺まさる(秀)氏がいます(関連記事)。小野寺氏は議員時代に、「アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて」北海道庁の幹部職員に北海道議会で質問していますが、幹部職員が「アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力」と答弁したところ、「単純な子孫ではないということで、関係ないということだと思います」と述べており、これも、小野寺氏が騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているからではないか、と私は推測しています。

 騙せる奴だけ騙せればよい、とは考えていなかったようですが、次から次へと真偽や根拠が曖昧な私見を繰り返し述べ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の染色体数は48本で、現代人(Homo sapiens)の染色体数が46本になったのは、ネアンデルタール人系統と分岐した後だった、と主張する輩とのやり取りもありました。これも結果的には、デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性の事例だと思います。以前述べたように、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の染色体数は46本だった可能性がきわめて高い、と考えるべきでしょう(関連記事)。世の中には詐欺師や扇動者としての才能に特化した人もいて、社会的に「成功」する人もいるので、常に見抜くのは困難ですが、私もできるだけ見抜けるよう、知見を高めていかねばなりません。

アメリカ合衆国大統領選挙結果

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響を大きく受けている中で、世界的に注目されたアメリカ合衆国大統領選挙が今月(2020年11月)3日に行なわれました。嫌われ者で現職の共和党のトランプ大統領と、魅力に欠ける民主党のバイデン前副大統領との対決となり、第1回討論会が酷評されるなど、お世辞にも内容が高く評価される大統領選挙ではありませんでしたが(そもそも、過去にどれだけ立派な大統領選挙があったのか、という問題もありますが)、一応は現時点で世界最強と言える国の大統領選挙だけに、世界中で大きな注目を集めたように思います。

 世論調査ではバイデン前副大統領の優勢が伝えられていましたが、基本的には州ごとの勝者総取りという特異な選挙制度もあり、前回は優勢を報道されていたクリントン候補が負けたので、今回は勝敗の判断に慎重な記者・評論家が多かったように思います。また、終盤になってのトランプ大統領の追い上げも一部で報道されていました。私も、前回の大統領選挙の記事ではクリントン候補の勝利を想定した予定稿を準備しており、ほとんど使い物にならなくなったので、今回はどちらかの候補の勝利を前提とした予定稿を用意しませんでした。

 結果は、新型コロナウイルス感染症の流行もあって郵便投票が激増したこともあり、まだ確定していませんが、現時点での開票が認められれば、バイデン前副大統領の勝利は確実なようです。また、得票率でもバイデン前副大統領が3%ほどの差をつけそうです。しかし、多くの人が予想した通り、トランプ大統領は敗北を認めないようで、これから訴訟で揉めそうです。2000年の大統領選挙も確定に時間がかかりましたが、今回はそれ以上となりそうです。

 結局、トランプ大統領が11月3日消印までの郵便投票込みでも選挙人数と総得票数で上回るか、バイデン前副大統領が郵便投票抜きでも選挙人数と総得票数で上回るしか、早期の決着はあり得なかったのかもしれません。前回の大統領選挙の記事でも、アメリカ合衆国社会の亀裂が深まりそうだ、と述べましたが、今回の大統領選挙の結果さらに深まりそうで、これはトランプ大統領とバイデン前副大統領のどちらが勝っても変わらなかったでしょう。世界最強の国であるアメリカ合衆国の政治・社会的混迷は世界に悪好影響を与えるでしょうから、今後の情勢が懸念されます。新型コロナウイルス感染症の流行もあって、アメリカ合衆国も含めて世界的な混乱が続くなか、アメリカ合衆国の政治的混乱が長引くのは、何とも困ったものです。

 バイデン前副大統領に魅力が欠けていることは否定できませんが、それ以上に問題なのは民主党の分裂も深刻なことで、バイデン政権が民主党の両極に挟まれて迷走する可能性は低くなさそうです。トランプ大統領を引きずり降ろしたいという強い想いから消極的にバイデン前副大統領に投票した人は多いでしょうから、トランプ大統領に投票した人々はもちろん、バイデン前副大統領に投票した人でも多くがすぐにバイデン政権に不満を抱きそうで、バイデン政権の支持率はすぐに低迷しそうです。バイデン前副大統領が来年1月の大統領就任時に78歳と高齢なことも気がかりで、1期での退任が確実視されていますが、1期もたない可能性も低くないと思います。カマラ・ハリス上院議員は初の女性副大統領に就任することになり、次回の大統領選挙の有力候補と考える人は多いでしょうが、バイデン政権の支持率が低迷すると、副大統領であることが足枷になり、次回の大統領選挙で勝ち抜くのは難しいかもしれません。もちろん、副大統領であることは、知名度を上げ、実績を積む好機ともなるわけですが。

 正直なところ、トランプ大統領はあまりにも自己愛が強く、政治を不動産業と同じように考えているところも見られ、まったく支持できませんでした。前回の大統領選挙の直後だったと記憶していますが、現実主義者(気取り)がトランプ大統領の頭の良さを褒め、優れた大統領になる、と予想していました。しかし、率直に言って、トランプ大統領は頭が良いとはいっても、それは詐欺師・扇動者としての才能で、政治家にそうした才能が不要とは言いませんが、トランプ大統領のようにそうした才能に特化した人が世界最強の国の政治面での最高指導者では困ります。前回の大統領選挙の記事では、何とも不安ではあるものの、発足後は「意外と現実的で穏和」と言われるような運営を願っています、と述べましたが、同盟国軽視は懸念された通りで、残念ながら希望は叶いませんでした。

 そういうわけで、トランプ大統領が敗北したことにやや安堵していますが、新型コロナウイルス感染症によるアメリカ合衆国の混乱がなければ、おそらく経済は(少なくとも表面的には)好調なままだったでしょうから、党内分裂が深刻な民主党の候補は敗北していたでしょう。そう考えると、やや複雑な気持ちではあります。もちろん、こうした私の見解がひじょうに偏っており、数十年後と言わず数年後には、バイデン政権を誕生させたことは大きな誤りだった、との評価が定着している可能性もあるとは思いますが。

 前回の大統領選挙の時から、トランプ大統領の日本観はアメリカ合衆国で日本叩きが激しかった1980年代頃の古いものと言われていましたし、安倍前首相がトランプ大統領と「親密な関係」を築いたとはいえ(トランプ大統領の性格を読んで、少なくとも表面的には徹底的に媚びただけとも言えますが、これは必ずしも悪いことだけではなかったように思います)、日本人の私としては、その世界観には警戒せざるを得ませんでした。トランプ大統領の中国叩きに喝采を送る日本人は少なくないようですが、黄禍論の観点(関連記事)からも、日本人の私としては、ヨーロッパや北アメリカ大陸での中国叩きには警戒せざるを得ません。日本では、トランプ大統領の再選で「リベラル」派が悔しがるのを楽しみにしている、といった発言もTwitterで見かけましたが、「リベラル」派から見れば「ネトウヨ」に他ならない私でも、さすがに日本への影響も大きいアメリカ合衆国の大統領選挙で、そうした気分にはなれません。

 大統領選と同時に行なわれた上院選(議席数の1/3の改選)と下院選の結果、上院では民主党の議席数は選挙前より増えそうなものの、過半数に届くのか微妙です。下院は、議席数を減らしそうですが、引き続き民主党が過半数を制しそうです。上院を共和党が制した場合、バイデン政権は政策遂行もままならず、早々に行き詰まるかもしれません。アメリカ合衆国の政治制度は権力の分散化が徹底されており、それに起因する政争の不毛さも指摘されているので、バイデン政権も苦しみそうです。しかし、おかしな大統領が出現した時にその暴走を抑止するという意味で、トランプ政権ではその制度設計が役立った、とも言えそうです。

古代ゲノムデータに基づくユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史

 古代ゲノムデータに基づく、モンゴルを中心とするユーラシア東部草原地帯の長期にわたる人口史に関する研究(Jeong., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。最近の古代ゲノム研究により、ヨーロッパや近東やコーカサスにおける青銅器時代の変化と一致する大陸規模の移住を伴う、ユーラシア草原地帯の動的な人口史が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的歴史の理解は進みましたが、草原と森林草原と砂漠草原で構成される2500km以上に及ぶユーラシア東部草原地帯の人口動態はよく理解されていません。現代の中国とロシアの一部地域も含みますが、ユーラシア東部草原地帯のほとんどは現在のモンゴルに位置します。最近の古代ゲノム研究では、ユーラシア東部森林草原地帯は青銅器時代の前と前期青銅器時代に遺伝的に構造化されており、カザフスタン中央部のボタイ(Botai)からシベリア南部のバイカル湖地域やロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)まで、系統の強い東西の混合勾配を有します(関連記事)。

 青銅器時代における牧畜の複数段階の導入は、ユーラシア東部草原地帯における生活様式と生計を劇的に変えました。最近の大規模な古代プロテオーム(タンパク質の総体)研究では、紀元前3000年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化に属する個体群による、紀元前2500年よりも前のモンゴルにおける乳消費が確認されています。エニセイ川上流のアファナシェヴォ文化集団は遺伝的に、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ文化と関連していますが、チェムルチェク文化集団の起源に関しては議論が続いています。

 反芻動物の酪農は導入されると、紀元前1900~紀元前900年頃となる中期~後期青銅器時代(MLBA)までに拡大し、鹿石キリグスール複合(Deer Stone-Khirigsuur Complex、DSKC)と関連する遺跡の西部と北部、およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化と関連する東部で行なわれていました。DSKCとウランズーク文化との間の関係はよく理解されておらず、ムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化やバイタグ(Baitag)文化のようなモンゴルにおける他のMLBA埋葬伝統についてはほとんど知られていません。

 紀元前千年紀半ばまでに、以前のMLBA文化は衰退し、前期鉄器時代文化が出現しました。それは、DSKCの記念碑から物質を根こそぎ持ち込んだ、紀元前1000~紀元前300年頃となるモンゴル東部および南部の石板墓(Slab Grave)文化や、モンゴル北西部の紀元前500~紀元前200年頃となるサヤン(Sayan)山脈のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化です。サグリ・ウユク文化はサグリ・バジー(Sagly-Bazhy)文化もしくはチャンドマン(Chandman)文化としても知られており、アルタイ地域やカザフスタン東部の紀元前500~紀元前200年頃となるパジリク(Pazyryk)文化や紀元前900~紀元前200年頃となるサカ(Saka)文化と強い文化的つながりを有します。

 紀元前千年紀後半以降、紀元前209~紀元後98年の匈奴、紀元後552~742年のテュルク(突厥)、紀元後744~840年のウイグル、紀元後916~1125年のキタイ(契丹)帝国など、一連の階層的で中央に組織化された帝国がユーラシア東部草原地帯に勃興します。匈奴帝国は草原地帯で最初のそうした政体で、現在の中国北部とシベリア南部とアジア中央部深くに劇的に拡大し、ユーラシアの人口と地政学に大きな影響を与えました。紀元後13世紀に出現したモンゴル帝国は、これらの政権の最後で最も広大なものであり、最終的には中国から地中海にいたる広範な領土と交易路を支配しました。しかし、大規模な遺伝的研究が不足しているため、支配者のエリート地元の庶民の両方を含むこれらの国家を形成する人々の起源と関係は、曖昧なままです。

 先史時代以来のユーラシア東部草原地帯の人口動態を明らかにするため、約6000年(紀元前4600~紀元後1400年頃)に及ぶモンゴルの85ヶ所の遺跡とロシアの3ヶ所の遺跡の、214個体のゲノム規模データセットが生成され、分析されました。これに、モンゴル北部の青銅器時代19個体と、ロシアおよびカザフスタンの近隣古代集団のデータセットが追加され、世界中の現代人集団とともに分析されます。また、以前に刊行された放射性炭素年代74点を補足する、30点の新たな放射性炭素年代値が生成され、合計98人の直接的な年代が提示されます。以下、本論文で取り上げられた遺跡の場所と年代を示した本論文の図1です。
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●青銅器時代よりも前の牧畜民の集団構造と到来

 紀元前五千年紀~紀元前四千年紀にかけての、青銅器時代よりも前の6個体が分析されました。その内訳は、1個体がモンゴル東部(SOU001、モンゴル東部preBA、紀元前4686~紀元前4495年頃)、1個体がモンゴル中央部(ERM003、モンゴル中央部preBA、紀元前3781~紀元前3639年頃)、4個体がバイカル湖地域東部(Fofonovo_EN)です。この6個体が既知のユーラシア全域の古代人および現代人のゲノムデータと比較され(図2)、同年代となる、紀元前5200~紀元前4200年頃のバイカル湖西部地域(Baikal_EN)や、紀元前5700年頃となるロシア極東の悪魔の門遺跡(DevilsCave_N)の狩猟採集民と最も類似している(図3A)、と明らかになり、この遺伝的構成の分布の地理的間隙を埋めます。

 本論文はこの遺伝的特性を「古代アジア北東部人(ANA)」と呼びます。ANEは、「古代ユーラシア北部人(ANE)」として知られる他の広範に拡大した中期完新世の遺伝的構成の地理的分布を反映しています。ANEは、更新世シベリア南部中央の、24500~24100年前頃となるマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(MA-1)や、16900~16500年前頃となるアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の狩猟採集民や、紀元前3500~紀元前3300年前頃となるカザフスタンのボタイ(Botai)文化のウマ牧畜民で見られます。

 主成分分析(図2)では、ANA個体群はアジア北東部の現代ツングース語族およびニヴフ語話者集団のクラスタに近く、その遺伝的構成が現代でも極東の在来集団に存在している、と示唆されます。モンゴル東部preBAは、遺伝的にANA集団の悪魔の門N(DevilsCave_N)と区別できませんが(図3Aおよび図4A)、Fofonovo_ENおよびわずかに後のモンゴル中央部preBA(青銅器時代よりも前)はともに、ボタイ文化集団のようなANE関連集団の系統をわずかに有しており(12~17%)、残りの系統(83~87%)はANAにより特徴づけられます(図3Aおよび図4A)。バイカル湖西部地域早期新石器時代のキトイ(Kitoi)文化(Baikal_EN)と早期青銅器時代のグラズコボ(Glazkovo)文化(Baikal_EBA)の既知のデータの再分析により、これらの個体群が類似の系統構成と経時的なANE系統のわずかな増加(6.4%から20.1%)を示す、と明らかになりました。以下、主成分分析結果を示した本論文の図2です。
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 モンゴルの牧畜に関しては、アファナシェヴォ文化のようなユーラシア西部草原地帯文化の東方への拡大により、エニセイ川上流やサヤン山脈地域経由でモンゴル北西部へ、もしくはアルタイ山脈経由でモンゴル西部へともたらされた、との推測が多くなっています。既知のアファナシェヴォ文化埋葬の大半はアルタイ山脈とエニセイ川上流地域にありますが、モンゴル中央部のハンガイ山脈南部の前期青銅器時代(EBA)となるシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡では、アファナシェヴォ様式の墳墓が、乳消費のプロテオーム分析の証拠や、ユーラシア西部系統のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とともに見つかっています。これらアファナシェヴォ文化の影響を受けたモンゴルの紀元前3112~紀元前2917年前頃となる個体群のうち2個体の分析により、その遺伝的特性は既知のエニセイ川地域に位置するアファナシェヴォ文化個体群と区別できない(図2)、と明らかになりました。したがって、これらアファナシェヴォ文化の2個体から、ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)のEBA拡大は、アルタイ山脈を越えてモンゴル中央部中心部へとさらに1500km以上東方へと拡大した、と確証されます。

 アファナシェヴォ文化の次となる、紀元前2750~紀元前1900年頃のEBAのチェムルチェク文化は反芻動物の酪農社会で、その埋葬の特徴は石板と擬人化された石碑を含むことですが、WSH移民との関連も推測されてきました。チェムルチェク文化の墓は、アルタイ山脈と現在の中国新疆ウイグル自治区のジュンガル盆地で見られます。チェムルチェク文化の、アルタイ山脈南部のヤグシインフゥドゥー(Yagshiin Huduu)遺跡の2個体と、ゴビ砂漠のアルタイ地域北部遺跡の2個体が分析されました。モンゴルのアファナシェヴォ文化個体群と比較して、ヤグシインフゥドゥー遺跡個体群もユーラシア西部系統の高い割合を示しますが、主成分分析(図2)では移動しており、アフォントヴァゴラ文化個体(AG3)やシベリア西部新石器時代個体群やボタイ文化個体群のような、ANE関連系統古代人との強い遺伝的類似性を有しています(図3A)。ヤグシインフゥドゥー遺跡のチェムルチェク文化個体群(チェムルチェク南アルタイ)は、同年代のカザフスタン東部のダリ(Dali)遺跡個体群と遺伝的に類似しています。

 ヤグシインフゥドゥー遺跡とダリ遺跡EBA個体群の遺伝的特性は、ボタイ文化個体群系統(60~78%)と、バクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化の重要なEBA遺跡であるゴヌルテペ(Gonur Tepe)の個体のような、古代イラン関連系統(22~40%)との2方向混合モデルによく適合します。アファナシェヴォ文化関連集団からのわずかな遺伝的寄与を排除できませんが、イラン関連系統は全モデルで適合し、DATESを用いてモデル化すると、この混合は分析対象となった個体群の12±6世代前(336±168年前)に起きた、と推測されます。しかし、このモデル化で用いられた全ての代理起源集団は年代もしくは地理的にEBAアルタイ地域とはかなり離れているので、チェムルチェク文化個体群に寄与する近い集団を正確には特定できません。アルタイ山脈北部では、チェムルチェク文化の2個体(チェムルチェク北アルタイ)はほぼANA関連系統(80%)で構成されており、残りはアルタイ山脈のチェムルチェク文化個体群のそれと類似しています(図3Aおよび図4A)。そこで本論文は、チェムルチェク文化個体群の地域間の遺伝的異質性を調べます。

 少数のゲノムに基づいていますが、アファナシェヴォ文化個体群もチェムルチェク文化個体群も、その後のMLBA個体群への永続的な遺伝的痕跡を残していない、と明らかになりました。これは、移住してきたEBA草原地帯牧畜民が在来集団に遺伝的変化とその持続的影響を有したヨーロッパとは著しく異なります。ユーラシア東部草原地帯におけるEBA牧畜民の一時的な遺伝的影響は、墳墓建築や酪農牧畜のようなEBA牧畜民により最初に導入された文化的特徴が現在まで継続していることを考えると、強く永続的な文化的および経済的影響とは対照的です。以下、系統構成の経時的変化を示した本論文の図3です。
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●青銅器時代における3系統の遺伝的構造の出現

 バイカル湖(関連記事)西部地域狩猟採集民(バイカルEBA)とフブスグル(Khövsgöl)の後期青銅器時代(LBA)モンゴル北部牧畜民(フブスグルLBA)との間の、共有された遺伝的構成が報告されました。この遺伝的特性は、主要なANA系統とわずかなANE系統で構成され、それ以前のバイカル湖東部地域集団(Fofonovo_EN)およびモンゴル集団(モンゴル中央部preBA)と共有されており、この遺伝的構成のほぼ3000年にわたる地域的持続性を示します。モンゴル北部を中心とするこの遺伝的特性は、他の青銅器時代集団とは異なります。全体として、LBA モンゴルでは3つの異なる地理的に構造化された遺伝子プールが見つかり、そのうちの1つを表すのがフブスグルLBA集団です。他の2者は、アルタイMLBA およびウランズーク石板墓と呼ばれます。

 紀元前1900~紀元前900年頃となるMLBAには、気候変動とともに草地が拡大するにつれて、新たな牧畜文化が山岳地帯からユーラシア東部草原地帯全域へと拡大しました。この時期は、現在ではほぼ馬乳酒生産のみと関連している、ウマの搾乳の最初の地域的証拠が確認されている点でも注目されます。また、乗馬を含むウマの利用の劇的な強化も注目され、これは草原地帯の遠隔地への移動性を大きく拡大したでしょう。アルタイ・サヤン地域では、鹿石キリグスール複合(DSKC)や他の未分類のMLBA埋葬様式(アルタイMLBA)と関連する酪農牧畜民(7個体)が、フブスグルLBA関連系統とシンタシュタ(Sintashta)文化関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統との混合の明確な遺伝的証拠を示します(図3B)。全体として、これらはユーラシア西部草原地帯集団とバイカルEBAおよびフブスグルLBAクラスタの間で主成分分析において「アルタイMLBA」勾配を形成し、ユーラシア西部系統の水準に応じてPC1軸上で変動します。

 これは、以前の研究では「草原地帯MLBA」と呼ばれることが多い、シンタシュタ的な系統のユーラシア東部草原地帯における最初の出現となります。シンタシュタ的な系統は、アファナシェヴォ文化やチェムルチェク文化個体群に存在した以前のユーラシア西部系統とは異なり、代わりにヨーロッパの縄目文土器(Corded Ware)文化集団や後のアンドロノヴォ(Andronovo)文化関連集団との密接な類似性を示します。モンゴルのホブド(Khovd)県では、DSKCや三分類のMLBA集団に属する個体群が、フブスグルLBAおよびシンタシュタの等しい割合の混合として最適にモデル化される、モンゴル北部の類似の遺伝的特性を有しています。この遺伝的特性は、以前の研究でフブスグルLBAクラスタからそれたモンゴル北部の遺伝的外れ値個体と一致します。DSKCに属する追加のアルタイMLBAの4個体と未分類のMLBA集団も、さまざまな混合割合の混合モデルと一致します。

 まとめると、アルタイMLBA勾配は、シンタシュタおよびアンドロノヴォ関連WSH集団と、フブスグルLBAにより表される在来の集団という、2起源集団の継続中の混合を明らかにします。この混合は、分析された個体群の10±22世代前(290年前頃)に起きたと推定され、不均一な系統割合と一致します。紀元前2200~紀元前1700年頃となるシンタシュタ文化は、ウマが牽引する戦車(チャリオット)のような新たな輸送技術と関連しているので、ユーラシア東部草原地帯におけるこの遺伝的特性の出現から示唆されるのは、移動能力の向上がユーラシア東部草原地帯全域の多様な集団を結びつけることに重要な役割を果たした、ということです。

 本論文のデータセットにおけるMLBAの3個体は、アルタイMLBA勾配では充分に説明できない遺伝的特性を示します。この3人は、アルタイ山脈の2個体(UAA001およびKHI001)とフブスグル県の1個体(UUS001)ですが、第三の起源系統として、ゴヌルテペ遺跡の個体(ゴヌル1BA)からのわずかな寄与でよりよくモデル化できます。まとめると、アルタイ山脈とモンゴル北部(ムンクハイルハンやDSKCや未分類のMLBA)の主要なMLBA埋葬伝統の間には文化的違いが存在したものの、異なる遺伝的集団を形成していません。

 不均一なアルタイMLBA勾配を構成する集団は、アルタイ・サヤン地域に子孫を残し、その子孫は、前期鉄器時代(EIA)のモンゴル北西部のチャンドマン(Chandman)山のサグリ・ウユク文化遺跡で特定されました(紀元前400~紀元前200年頃のチャンドマンIA)。チャンドマンIAの9個体は、主成分分析ではフブスグルLBAクラスタから離れて、アルタイMLBA勾配の端で緊密なクラスタを形成しています(図2)。EIAには、サグリ・ウユク文化集団は牧畜民およびキビの農耕牧畜民で、おもに現在のトゥヴァとなるエニセイ川上流地域に集中していました。アルタイ山脈のパジリク文化やカザフスタン東部のサカ文化とともに、サグリ・ウユク文化集団は、ユーラシア西部草原地帯とタリム盆地とエニセイ川上流全域に拡大した広範なスキタイ文化現象(関連記事)の一部を形成しました。

 EIAスキタイ文化集団は、より早期のアルタイMLBA勾配から体系的に逸脱しており、第三の祖先的構成が必要となります(図3Cおよび図4A)。この系統の出現は、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化を含むアジア中央部(コーカサスとイラン高原とマー・ワラー・アンナフル)の集団と関連しており(関連記事)、中央サカや天山山脈サカやタハル(Tagar)やチャンドマンIAのような鉄器時代集団において明確に検出される一方で、より古いDSKCやカラスク(Karasuk)集団では存在しません。この第三の構成は、これら鉄器時代集団の系統で6~24%を占め、チャンドマンIAにおける混合年代は、対象個体群の18±4世代前(紀元前750年頃)と推定され、紀元前1600年頃となるBMAの崩壊よりも後となり、紀元前550年頃となるペルシア帝国の形成よりもわずかに先行します。

 このイラン関連の遺伝的流入は、マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ、トゥーラーン)地域とフェルガナ地域の農耕牧畜民集団との増大する接触および混合によりもたらされた、と示唆されます。紀元前二千年紀後半と紀元前千年紀前半における乗馬の広範な出現と、その後のウマの輸送の高度化は、このイラン関連系統の草原地帯への増加する集団接触と拡散に貢献した可能性があります。本論文の結果は、内陸アジアの山岳回廊に沿った増加する移動性のような、接触の追加の範囲を除外しません。これも、青銅器時代に始まり、現在の新疆ウイグル自治区経由でアルタイ山脈へこの系統をもたらしました。以下、各集団の系統構成を示した本論文の図4です。
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 アルタイ山脈とモンゴル北部のMLBAおよびEIAクラスタとは対照的に、異なる埋葬伝統がモンゴル東部および南部地域、とくに紀元前1450~紀元前1150年頃となるLBAウランズーク文化と紀元前1000~紀元前300年頃となるEIA石板墓文化で見られます。他の同年代のユーラシア東部草原地帯集団とは対照的に、これら石板墓と関連する個体群は、ANEとWSH両方の混合が欠如している、明確なアジア北東部(ANA関連)遺伝的特性を示します(図2・図3C・図4)。両集団は反芻動物の牧畜民で、EIA石板墓文化もウマを搾乳していました。

 ウランズーク文化と石板墓文化の個体群の遺伝的特性は区別できず(図2)、石板墓伝統がウランズーク文化から出現した、とする考古学的仮説と一致します。両集団は、紀元前4600年頃となるそれ以前のモンゴル東部preBA個体とも遺伝的に区別できず(図2)、先史時代モンゴル東部の遺伝子プールの4000年以上にわたる長期的安定が示唆されます。さらなる分析では、ウランズーク文化と石板墓文化の個体群は単一の遺伝的集団に統合されました。このウランズーク石板墓遺伝的クラスタは、以前に報告されたフブスグル県のDSKC東部外れ値や、LBA~EIA移行期のモンゴル中央部の文化的に未分類の個体(TSI001)の起源である可能性が高い、と推測されます。

 さらに、モンゴル北西部のムンクハイルハン文化個体(KHU001)は、バイカルEBA系統に加えて、無視できない割合のウランズーク石板墓系統を有しています。これら3個体は、モンゴルの北西部と東部の間の時として起きた長距離接触を証明しますが、アルタイ山脈のウランズーク石板墓系統の証拠は見つからず、MLBAにおけるモンゴル東部および南部外のウランズーク石板墓系統の遺伝的特性の全体的な頻度はたいへん低くなっています。EIAにおいて石板墓文化は北方へ拡大して、時としてその拡大経路において先行者であるDSKC墓を破壊して根絶し、最終的に北はバイカル湖東部地域にまで達して、それは石板墓文化個体(PTO001)の遺伝的特性に反映されています(図3C)。全体的に本論文の知見は、前期鉄器時代末までの青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団における強い東西の遺伝的分割を明らかにします。モンゴル中央部および南部のさらなる標本抽出は、これらの遺伝的特性の地理的分布および現在の知見の代表性の改善に役立つでしょう。


●最初の帝国的な草原地帯国家となる匈奴

 紀元前千年紀の後半に、ユーラシア東部草原地帯の先史時代集団から、大規模な国家が発展し始めました。匈奴は牧畜民により建てられた最初の歴史的に記録された帝国で、その設立はユーラシア東部草原地帯の社会政治的歴史の分水嶺的事象とみなされています。匈奴は紀元前3世紀から紀元後1世紀まで、アジア東部および中央部で政治的支配を維持しました。匈奴の人々の文化的・言語的・遺伝的構成は、ユーラシア東部草原地帯における他の同年代の遊牧集団やその後の遊牧集団との関係のように、たいへん興味深いものでした。本論文は、モンゴル全土からのほぼ匈奴時代全期間にわたる、紀元前200~紀元後100年頃となる60個体のゲノム規模データを報告します。ほとんどの個体の年代は紀元前50年頃以後となる後期匈奴時代ですが、13個体は紀元前100年以前で、北方の前期匈奴の境界となるサルキティンアム(Salkhityn Am)遺跡(SKT)およびアツィンゴル(Atsyn Gol)遺跡(AST)の12個体と、モンゴル東部のジャルカランティムアム(Jargalantyn Am)前期匈奴遺跡(JAG)の1個体を含みます。

 前期匈奴の形成に寄与した2つの異なる人口統計学的過程が観察されました。まず、前期個体の約半数(6個体)は、アルタイ・サヤン地域の先行するサグリ・ウユク文化のチャンドマンIAと類似する遺伝的クラスタを形成します(前期匈奴西部)。この6個体の系統は、その92%がチャンドマンIAに由来し、残りは代理としてBMACを用いてモデル化される追加のイラン関連系統に由来します(図3Dおよび図4D)。これが示唆するのは、EIAにおけるチャンドマンIAで特定された低水準のイラン関連遺伝子流動は、紀元前千年紀後半にも継続しており、モンゴル西部および北部全域に拡大した、ということです。

 次に、6個体の前期匈奴の残り(前期匈奴残り)は、前期匈奴西部とウランズーク石板墓クラスタの中間に位置します。このうち4個体は前期匈奴西部(39~75%)と、ウランズーク石板墓関連系統(25~61%)の異なる割合を有しており、2個体(SKT004とJAG001)はウランズーク石板墓クラスタと区別できません(図3D)。前期匈奴西部とウランズーク石板墓遺伝子プールを結ぶこの遺伝的勾配は、ユーラシア東部草原地帯における深く分岐して異なる2系統の統一を示しています。その一方は西部のDSKCやムンクハイルハン文化やサグリ・ウユク文化集団の子孫で、もう一方は東部のウランズーク石板墓文化集団の子孫です。全体的に、以前のサグリ・ウユク文化から継続するイラン関連の遺伝子流動の低水準の流入と、ユーラシア東部草原地帯の遺伝子プールを統合する新たな東西混合の突然の出現が、匈奴台頭と関連した2つの明確な人口統計学的過程です。

 後期匈奴の個体群では、さらに高い遺伝的異質性が見られ、主成分分析上の分布からは、前期匈奴で明らかな2つの人口統計学的過程が後期匈奴でも継続したものの、新たな波の追加と遺伝子流動の複雑な方向性を伴っていました。後期匈奴の47個体のうち26個体は、前期匈奴で見られる同じ混合過程により適切にモデル化できます。このうち22個体はチャンドマンIAとウランズーク石板墓の混合として、2個体(NAI002とTUK002)はチャンドマンIAとBMACもしくはチャンドマンIAとウランズーク石板墓とBMACの混合として、2個体(TUK003とTAK001)は前期匈奴西部とウランズーク石板墓もしくは前期匈奴西部とフブスグルLBAの混合としてモデル化できます(図3Dおよび図4D)。さらに2個体(TEV002とBUR001)も前期匈奴遺伝子プールに由来する可能性が高いものの、そのモデルのp値は閾値よりわずかに低くなっています。しかし、PC1軸に沿ったユーラシア西部系統との類似性の高い割合を有する後期匈奴の11個体は、BMACもしくは他の古代イラン関連集団を用いてモデル化できません。代わりに、この11個体は、ユーラシア西部および中央部草原地帯のさまざまな場所の古代サルマタイ人(Sarmatian)のクラスタに重なります(図2)。

 混合モデル化により、後期匈奴におけるサルマタイ人関連遺伝子プールの存在が確証されます。11個体のうち、3個体(UGU010とTMI001とBUR003)はサルマタイ人と区別できず、2個体(DUU001とBUR002)はサルマタイ人とBMACとの間の混合、3個体(UGU005とUGU006とBRL002)はサルマタイ人とウランズーク石板墓との間の混合、3個体(NAI001とBUR004とHUD001)のモデル化ではサルマタイ人とBMACとウランズーク石板墓の3系統が必要となります。さらに、PC1軸沿いでは最も高いユーラシア東部系統との類似性を有する8個体は、ウランズーク石板墓およびフブスグルLBAの両方と異なり、PC2軸では現在のアジア東部からさらに南方の人々への類似性を示します(図2)。これらのうち6個体(EME002とATS001とBAM001とSON001とTUH001とYUR001)は、ウランズーク石板墓と漢人の混合として適切にモデル化され、とくにYUR001は、既知の漢帝国兵士2人(漢200年前)と密接な遺伝的類似性を示しています。8個体のうち残りの2個体(BRU001とTUH002)は類似していますが、モデル化にはサルマタイ人系統の追加が必要です。

 したがって後期匈奴は、前期匈奴と区別される2つの追加の人口統計学的過程により特徴づけられます。一方は、新たなサルマタイ人関連のユーラシア西部系統からの遺伝子流動で、もう一方は、同時代の漢の人々との相互作用と混合の強化です。以前のエグ川匈奴(Egyin Gol Xiongnu)墓地の研究では、ユーラシア東西両方の起源のmtHgが報告されており、これは本論文におけるゲノム規模データからの東西の混合の発見と一致します。まとめると、これらの結果は、モンゴルにおいて推定される人々の出入と、匈奴が漢やアジア中央部のシルクロード諸王国を含む近隣に及ぼした政治的影響力を報告する歴史的記録とよく一致します。全体として匈奴時代は、モンゴル東西の遺伝子プールを統合することにより始まり、アジア東西の遺伝子プールを統合することにより終了した、広範な遺伝子流動の一つとして特徴づけられます。


●匈奴時代後の国家における変動する遺伝的不均一性

 紀元後100年に匈奴が崩壊した後の数世紀にわたって、政治的に細分化されたユーラシア東部草原地帯全域で、一連の遊牧民の政権が台頭しては没落しました(以下、年代は基本的に紀元後)。それは、100~250年頃の鮮卑、300~550年頃の柔然、552~742年頃の突厥、744~840年頃のウイグルです。本論文における前期中世の標本は不均一で、鮮卑もしくは柔然時代の未分類の1個体(TUK001)、突厥の埋葬と関連した8個体、ウイグルの墓地の13個体から構成されますが、これらの個体が、先行するする匈奴時代とは異なる遺伝的特性を有することは明確で、モンゴルへの遺伝子流動の新たな供給源が示唆されます。

 250~383年頃となるTUK001個体は、埋葬がより早期の匈奴墓地への嵌入でしたが、最も高いユーラシア西部系統との類似性を有します。この系統はサルマタイ人のそれとは異なり、BMACおよびイラン関連系統を有する古代集団とより密接です(図2)。ユーラシア東部系統との最も高い類似性を有する個体のうち、突厥期の2個体とウイグル期の1個体は、ウランズーク石板墓クラスタと区別できません。唐王朝の支配層のテュルク時代の使者の墓の傾斜路から回収された別の個体(TUM001)は、漢人関連系統の高い割合(78%)を有します(図3E)。2匹のイヌと一緒に埋葬されたこの男性は、おそらく漢人の墓の入り口を守るために犠牲とされた殉葬者でした。残りの突厥期とウイグル期の17個体は、中間的な遺伝的特性を示します(図3E)。

 前期中世の高い遺伝的異質性は、ウイグル期のオロンドヴ(Olon Dov)の墓地の12個体により鮮やかに例証されます。オロンドヴの12個体のうち6個体は単一の墓(19号墓)に由来し、そのうち2個体(OLN002とOLN003)のみが血縁関係にあります(2親等)。より密接な親族関係の欠如は、そうした墓の機能と、被葬者の社会的関係についての問題を提起します。ほとんどのウイグル期の個体は、高いものの、変動的なユーラシア西部系統を示します。その最適なモデル化は、サルマタイ人の子孫である可能性が高い遊牧民集団であるアラン人と、同時代のフン人と、イラン(BMAC)関連系統集団というユーラシア西部系統との混合で、ウランズーク石板墓系統(ANA関連系統)も伴います。突厥とウイグル個体群で推定された混合年代は500年頃で、突厥個体群の8±2世代前、ウイグル個体群の12±2世代前となります。


●モンゴル帝国の台頭

 9世紀半ばのウイグル帝国崩壊後、現在の中国北東部のキタイ(契丹)が916年に強力な遼王朝を樹立しました。キタイはユーラシア東部草原地帯の広範な地域を支配し、征服領域内に人々を移住させたとの記録が残っていますが、モンゴルではキタイ時代の墓地はほとんど知られていません。本論文では、ボルガン(Bulgan)県のキタイ時代の3個体(ZAA003とZAA005とULA001)が分析され、全て強いユーラシア東部系統の遺伝的特性を有し、ユーラシア西部系統は10%未満です(図3Aおよび図4B)。これは、モンゴル語族話者であるキタイのアジア北東部起源を反映しているかもしれませんが、モンゴル内でキタイ集団の遺伝的特性を適切に特徴づけるには、より大きな標本規模が必要です。1125年、キタイ帝国はジュシェン(女真)の金王朝に敗れて崩壊し、金王朝は1234年にモンゴルに征服されました。

 モンゴル帝国の最大範囲はユーラシアのほぼ2/3にまたがっていました。モンゴル帝国は世界最大の連続した陸上国家で、その「国際的な」実態はユーラシア草原地帯中心部に流入した多様な集団で構成されていました。低い地位の地元の支配層と一致する、モンゴル期の62個体の被葬者が分析されました。王室もしくは地域的な支配層は含まれず、カラコルムのような「国際的首都」の個体群も含まれません。モンゴル期の個体は多様と明らかにされましたが、匈奴期の個体群よりもずっと低い遺伝的異質性を示しており(図2)、匈奴期およびそれ以前のモンゴル北部および西部のMLBA文化集団で存在していた残りのANE関連系統(チャンドマンIAとフブスグルLBA)が、ほぼ欠如しています。

 平均して、モンゴル期の個体群はそれ以前の帝国よりもずっと高いユーラシア東部系統との類似性を有しており、モンゴル期は現代モンゴル人の遺伝子プールの形成の始まりを示します。ほとんどの歴史的なモンゴル人は、ウランズーク石板墓関連系統と漢人関連系統とアラン人関連系統を代理とする、3方向混合モデルによく適合します。主成分分析(図2)と一致して、1集団としてのモンゴル期の個体群は、ユーラシア西部系統(アラン人もしくはサルマタイ人)15~18%と、ウランズーク石板墓関連系統55~64%と、漢人関連系統21~27%でモデル化できます。各個体に同じモデルを適用すると、この3起源モデルは61人のうち51人と、モンゴル帝国初期の頃となる未分類の後期中世1個体(SHU002)を適切に説明します。

 1368年のモンゴル帝国の崩壊以来、モンゴル人集団の遺伝的特性は実質的に変わっていません。モンゴル帝国期に確立された遺伝的構造は、モンゴルとロシアの現代のモンゴル語族話者集団を特徴づけ続けています。個人単位のqpWave分析を用いて、モンゴル期の個体群と現代のモンゴル語族話者7集団間の遺伝的系統を調べると、現在のデータの分析内では、モンゴル期の61人のうち34人は、少なくとも1つの現代モンゴル語族話者集団と遺伝的にクレード(単系統群)化されます。モンゴル帝国は、ユーラシア東部草原地帯の政治的および遺伝的景観の再構築に大きな影響を及ぼし、これらの影響はモンゴル帝国の衰退後も長く続き、現在でもモンゴルにおいて明らかです。


●ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的および性別的側面

 ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的側面を調べるため、機能的もしくは進化的側面と関連する5ヶ所の一塩基多型が調べられました。それは、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する遺伝子(LCT/MCM6)、歯の形態と関連する遺伝子(EDAR)、色素沈着関連遺伝子(OCA2とSLC24A5)、アルコール代謝関連遺伝子(ADH1B)です。

 まず、乳消費の広範な直接的証拠を伴う牧畜民生活様式にも関わらず、ユーラシア東部草原地帯におけるMLBAとEIAの個体群は、LPをもたらす派生的な変異を有していなかった、と明らかになりました。その後の個体群は、ヨーロッパで現在広がっている変異(rs4988235)を有していたものの、無視できるほどの低頻度(5%)で、経時的な頻度増加はありませんでした。これは、他の酪農産物に加えて、一部の現代モンゴル遊牧民が夏季には1日4~10Lの馬乳酒(2.5%のラクターゼ)を消費し、毎日100~250gの乳糖を摂取することからも、やや注目に値します。一方ヨーロッパでは、LPをもたらす派生的な変異の青銅器時代後の継続的な強い選択が明らかになっています(関連記事)。壁面彫刻の描写から、馬乳酒生産はエニセイ川流域でEIAにまでさかのぼり、歴史的なモンゴルの記述には、馬乳酒の大量かつ頻繁な消費や、広範な反芻動物の液体および個体の生産物が記録されており、古代のプロテオーム分析の証拠によりさらに確認されています。モンゴル人がLPのない状態で何千年もの間大量の乳糖を消化できた方法は不明ですが、乳糖を消化するビフィズス菌が豊富に存在する、珍しい腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、マイクロバイオーム)と関連しているかもしれません。

 地域的な選択的一掃を受けた遺伝標識は、ゲノム規模の系統特性における変化と相関するアレル(対立遺伝子)頻度の変化を示します。たとえば、EDAR遺伝子のrs3827760(エクトジスプラシンA受容体)やSLC24A5のrs1426654といったアレルは、それぞれアジア東部人やユーラシア西部人における良く知られた正の選択の標的です。本論文のMLBAおよびEIA集団は、これら2ヶ所の一塩基多型のアレル頻度の強い集団分化を示します。rs3827760の頻度は、ユーラシア東部系統との高い類似性を有する集団(フブスグルLBAとウランズーク石板墓)でずっと高いのに対して、rs1426654はアルタイMLBAやチャンドマンIAで高くなっています。アジア東部人でより最近の正の選択を受けた2ヶ所の一塩基多型、つまりADH1B遺伝子のrs1229984とOCA2遺伝子のrs1800414は、MLBAとEIAには欠如しているかきょくたんに低頻度でしたが、中華帝国や他集団との相互作用を通じてアジア東部系統が増加するにつれて、経時的に頻度が上昇しました。

 ユーラシア東部草原地帯の人口史の性別的側面も調べられました。遺伝的混合の性的に偏ったパターンは、移住や社会的親族や家族構造の性別的側面の解明に有益かもしれません。EIAのサグリ・ウユク文化期と突厥期における男性に偏ったWSH混合の明確な兆候が観察され、Y染色体ハプログループ(YHg)Q1aの衰退、およびそれに伴うYHg-R・Jの台頭と対応します(図S2A)。その後のキタイおよびモンゴル期には、アジア東部関連系統の顕著な男性の偏りが観察され(図S2C)、YHg-O2aの頻度上昇でも確認されます(図S2A)。匈奴期は、男性に偏った混合の最も複雑なパターンを示し、それにより集団の異なる遺伝的部分集合の証拠を示します(図S2C)。

 匈奴では10組の遺伝的親族が検出され、ジャルカランティムアム遺跡の同じ墓に葬られた父親と娘の組み合わせ(JAG001とJAA001)、イルモヴァヤパッド(Il’movaya Pad)遺跡の母親と息子の組み合わせ(IMA002とIMA005)、タミリン・ウラーン・コーシュー(Tamiryn Ulaan Khoshuu)遺跡の兄と妹もしくは姉と弟の組み合わせ(TMI001 and BUR003)、サルキティンアム遺跡の兄弟の組み合わせ(SKT002 and SKT006)が含まれます。残りの6組のうち3組は同じ遺跡内で葬られた女性同士の親族で、匈奴集団内の拡大された女性親族関係の存在が示唆されます。常染色体の縦列型反復配列(STR)データに基づくエグ川匈奴墓地の以前の研究では、単一遺跡内の1親等の親族関係も報告されていました。これらの関係は、埋葬の特徴と組み合わせると、匈奴帝国内の在来系統と親族構造への最初の手がかりを提供します。以下、YHg(図S2A)とmtHg(図S2B)の経時的な頻度変化と、各系統の性的偏りを示した本論文の図S2です。
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●まとめ

 ユーラシア東部草原地帯の人口史は、多様なユーラシア東西の遺伝子プールの繰り返しの混合により特徴づけられます。しかし、ユーラシア東部草原地帯における人口統計学的事象は、単純な移住の波というよりは、むしろ複雑で変化に富んだものでした。200個体以上のゲノム規模の古代データセットの生成により、紀元前4600年頃からモンゴル帝国末にわたる、この動的な人口史の最初の遺伝的証拠が提示されます。ユーラシア東部草原地帯は、古代アジア北東部人(ANA)および古代ユーラシア北部人(ANE)系統の狩猟採集民により中期完新世に植民され、その後は青銅器時代に酪農牧畜経済に移行した、と明らかになりました。移住してきたヤムナヤおよびアファナシェヴォ草原地帯牧畜民は馬車と家畜を有しており、紀元前3000年頃に反芻動物の酪農牧畜を初めてユーラシア東部草原地帯に導入したようですが、ヨーロッパとは異なり、持続的な遺伝的影響はほとんどありません。MLBAまでに、反芻動物の酪農牧畜は、系統に関係なくユーラシア東部草原地帯全域の集団により採用されており、この生計は継続し、LBAにはウマの搾乳、モンゴル期にはラクダの搾乳が追加され、現在に至っています。しかし、ユーラシア西部から集団がその後も移動してきてラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)関連遺伝子が繰り返し導入されたにも関わらず、酪農牧畜導入以来5000年以上、LPが選択された証拠はありません。これは、今まで説明されていない、アジアにおける乳糖適応の異なる軌跡を示唆します。

 MLBAには、ユーラシア東部草原地帯における3者の遺伝的構造が観察されます。それは、東方における青銅器時代より前のANA系統の持続と、北方における青銅器時代より前のANA系統とANE系統との間の遺伝的多様性の勾配と、西方における新たなシンタシュタ関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統の割合増加により特徴づけられます。ヨーロッパの縄目文土器文化との遺伝的関連を有する、ユーラシア西部の森林草原地帯に分布していたシンタシュタ文化集団は、青銅の冶金と戦車(チャリオット)に長け、ユーラシア東部草原地帯におけるシンタシュタ文化関連系統の出現は、新たな、とくにウマと関連した技術の導入と関連していたかもしれません。とくにキリグスール複合(DSKC)文化は、輸送とおそらくは騎乗においてウマの使用の広範な証拠を示し、遺伝的分析からは、これらのウマとシンタシュタの戦車を引いたウマとの間の密接な関連が示されてきました。この時点での青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団間の強い東西の遺伝的分割は、広範な騎乗の最初の明確な証拠が出現し、一部集団の移動性が高まったEIA末まで1000年以上維持され、とくに東方の石板墓文化で、この構造の破壊が始まりました。最終的に、これら主要な3系統が遭遇して混合し、これは匈奴帝国の出現と同時でした。匈奴は、現在の中国やアジア中央部やユーラシア西部草原地帯からの新たな追加の系統が急速に遺伝子プールに入ったので、遺伝的異質性のきょくたんな水準と増加する多様性により特徴づけられます。

 その後の前期中世の遺伝的データは比較的まばらで不均一であり、鮮卑もしくは柔然の遺跡ではまだほとんど特定されておらず、匈奴と突厥の間の400年の空隙があります。突厥期とウイグル期には、高い遺伝的異質性と多様性が観察され、それが続くウイグル帝国の崩壊期には、より大きなユーラシア東部系統へと向かう、後期中世における最終的で主要な遺伝的変化が示されます。この変化は、ユーラシア東部草原地帯への北東からの、ツングース語族話者集団のジュシェン(女真)の拡大と、モンゴル語族話者集団であるキタイ(契丹)およびモンゴルの拡大という、歴史的記録と一致します。また、このアジア東部関連系統は、女性よりも男性により、後期中世集団へと多くもたらされました。モンゴル期の末までに、ユーラシア東部草原地帯の遺伝的構成は劇的に変わり、先史時代には顕著な特徴だったANE系統はほとんど残っていませんでした。現在、ANE系統は孤立したシベリア集団と、アメリカ大陸先住民集団でのみ、かなりの割合で残っています(関連記事)。歴史時代のモンゴルの遺伝的特性は、現代モンゴル人の間で依然として反映されており、過去700年のこの遺伝子プールの相対的安定性が示唆されます。

 本論文はユーラシア東部草原地帯における遺伝的変化の重要な時期を報告したので、将来の研究は、これらの変化が文化的および技術的革新と関連していたのかどうか、これらの革新は政治的景観にどのように影響を及ぼしたのか、調べることができるかもしれません。これらの調査結果をウマの技術や放牧慣行や家畜の特性や品種の変化と統合することで、とくに解明が進むかもしれません。この研究は、ユーラシア東部草原地帯の最初の大規模な古代ゲノム調査となり、この地域の顕著に複雑で動的な遺伝的多様性に光を当てました。この進歩にも関わらず、世界の先史時代素におけるユーラシア東部草原地帯とその重要な役割の人口史をじゅうぶん明らかにするためには、ユーラシア中央部と東部、とくに現在の中国北東部とタリム盆地とカザフスタン東部草原地帯におけるさらなる遺伝的研究が依然として必要です。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。ユーラシア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部と比較して遅れていますが、本論文はユーラシア東部草原地帯の包括的な古代ゲノムデータを報告しており、ひじょうに注目されます。ユーラシア東部草原地帯における完新世の複雑な人類史はある程度想定していましたが、本論文はそれよりもずっと複雑な混合過程を示しており、自分がいかに単純化していたか、思い知らされました。もちろん、本論文で指摘されているように、本論文の云う前期中世(鮮卑~柔然期)のゲノムデータが不足しているので、今後の研究の進展が期待されます。今年(2020年)になって、中国の古代ゲノム研究も大きく進展しており(関連記事)、今後、遅れていたユーラシア東部の古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、日本列島集団の形成過程もより詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015

大河ドラマ『麒麟がくる』第31回「逃げよ信長」

 織田信長は、勅命を得て徳川家康や松永久秀など同盟勢力を動員し、大軍で若狭に攻め込み、そこから越前へと進軍して朝倉を攻めます。織田軍は順調に進みますが、金ヶ崎城があっさりと陥落したことを久秀は不審に思います。久秀の懸念は的中し、近江の浅井長政が裏切り、織田軍は挟み撃ちの危機に陥ります。朝倉の本拠の一乗谷城に攻め込む、と言い張る信長を、ここで死んではならない、と明智光秀(十兵衛)は説得し、信長は激昂しつつも退却を決意します。信長は先に退却し、光秀は金ヶ崎城に残ろうとします。そこへ木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿を申し出て、自分の貧しい生い立ちと出世への強い想いを光秀に語ります。光秀は藤吉郎とともに殿を務め、苦戦しつつも退却に成功します。本当に殿を務めたのか、他の織田家臣から疑われた藤吉郎を光秀は弁護します。この敗戦を前に、帰蝶への返事と将軍への報告と参内をどうすべきか悩んでいる信長を、信長が生きているならば次があり、敗戦ではない、と光秀は励まします。

 今回は信長の撤退戦が描かれ、貧しい生い立ちの藤吉郎の情念と屈折した想いが明かされました。この藤吉郎の個性が今後の光秀との関係でどう描かれるのか、また本能寺の変とどう関わってくるのか、注目されます。光秀と家康の再会場面も、短かったものの気になります。本作の家康は、子役2人が起用され、幼い頃から登場するなど、かなり扱いが大きいように思います。家康も本能寺の変と関わってくるのかもしれませんが、あるいは、光秀の平和な世への想いを受け継ぐのは家康という話になるのでしょうか。光秀と家康との今後の関係も注目されます。

最古の寝具

 最古の寝具に関する研究(Wadley et al., 2020)が報道されました。人類による火の使用の古い証拠は、100万年前頃となる南アフリカ共和国のワンダーウェーク洞窟(Wonderwerk Cave)遺跡(関連記事)や、150万年前頃となるケニアのクービフォラ(Koobi Fora)のFxJj20遺跡で得られています。アフリカ外での火の使用の古い事例としては、80万年前頃となるスペインのネグラ洞窟(Cueva Negra del Estrecho del Río Quípar)岩陰遺跡や78万年前頃となるイスラエルのジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya’akov)開地遺跡(関連記事)が知られています。これらの遺跡における積み重ねられた炉床と複数の熱使用の証拠から、人類が火を意図的に制御していた、と示唆されます。40万年前頃以降、火は遺跡で頻繁に確認されるようになり、調理や暖房や明かりや社交や捕食者対策のために用いられました。

 本論文は、南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)における、20万年以上前となる新たな火の使用法を報告します。ボーダー洞窟の住人は、灰層の上に広い葉の草の敷物(寝具)を体系的に置き、近くに炉床を設置し、時々寝具を燃やしました。既知の最古となる植物製の寝具は南アフリカ共和国のシブドゥ(Sibudu)遺跡で発見された77000年前頃のもので(関連記事)、より新しい年代のものが他の遺跡で発見されています。シブドゥ遺跡では、殺虫性の化学物質を含む芳香植物(スゲや他の単子葉植物)から葉を切り取った寝具が作られ、古くなった寝具が焼かれることもありました。ボーダー洞窟の事例は、そうした行動がシブドゥ遺跡の事例よりもずっと早く20万年以上前に始まっていたことを示します。

 ボーダー洞窟では227000~1000年前頃までの人類による居住が確認されています。炉床や灰層や草の寝具はボーダー洞窟の全層で確認されます。最古の草の寝具は227000±11000~183000±2000年前頃となる5WA層で発見され、炉床が近くにあり草の端が焦げていますが、ほとんどは焼かれていないため、寝具の偶発的な焼失は稀だったと推測されます。4 WA層の厚い灰は、捕食者からの防御や調理のための燃焼の痕跡と推測されます。ボーダー洞窟では、5BS層と4 WA層でヒポキシス属の根茎を調理していた痕跡が発見されています(関連記事)。

 5WA層の寝具の草は、プラントオパール分析により、キビ亜科(イネ科)と特定されました。また、寝具の炭には、現代アフリカにおいて植物製寝具で防虫剤として使用されている、芳香性の葉を有するレレシュワ(Tarchonanthus camphoratus)が含まれています。ボーダー洞窟で確認された植物は、現在でも近くの森林に存在します。また寝具が時々新調される前に、維持のために焼かれたことを示す証拠も見つかりました。灰には防虫効果があります。寝具では赤色と橙色のオーカー粒も発見されており、人々が寝具を利用した時に物体やヒトの皮膚から剥がれた、と推測されます。オーカーは30万年以上前からアフリカで使用されていました(関連記事)。石器製作の残骸が草の残骸と混ざり合っているので、人々は寝具の上で作業したり寝たりした、と推測されます。

 ボーダー洞窟の住民は、火を制御できて定期的に使用し、火と灰と薬用植物により防虫効果のある拠点を維持できました。狩猟採集民の重要な特徴として移動性がありますが、このように防虫効果のある行動は居住地の潜在的範囲を広げた、と推測されます。ボーダー洞窟の20万年前頃の人類の行動は、10万年前頃以降の革新的な物質文化に明らかな、認知的・行動的・社会的複雑さの早期の可能性も示唆しています。「現代的」行動は、ある時点で一括して出現したのではなく、長期の試行錯誤の過程でじょじょに出現し、揃っていったと推測されます。


参考文献:
Wadley L. et al.(2020): Fire and grass-bedding construction 200 thousand years ago at Border Cave, South Africa. Science, 369, 6505, 863–866.
https://doi.org/10.1126/science.abc7239

第4世代Ryzenの性能

 昨日(2020年11月6日)、先月公式発表されたAMD製CPUの第4世代Ryzen(Zen3アーキテクチャ)が日本で発売され、同時にベンチマークも公開されました。リーク情報ではZen2アーキテクチャから大きく性能が向上した、とされていましたが、実際の性能も少なからぬリーク情報と一致していたようで、ここまで性能が向上するとは、昨年の時点では予想していませんでした。昨年8月に、Zen2アーキテクチャの性能向上と評判の良さから、約8年ぶりにデスクトップパソコンを買い替えましたが(関連記事)、これならば、もう1年3ヶ月ほど待てばよかったかな、とやや後悔しています。ただ、先代のデスクトップパソコンはすでにやや不安定になっており、私の使い方でも性能面でやや不満が出てきていただけに、結果的には買い替えて正解だったかもしれません。

 ただ、第4世代Ryzenの価格はやや高めなので、コストパフォーマンスの観点からは、やや魅力に欠けるとも言えます。しかし、性能と消費電力の観点からは、素晴らしい製品だと思います。デスクトップパソコン用の高性能CPUでは、AMDはIntelに長い間及ばなかったのですが、第1世代Ryzen以降の躍進は目覚ましいものがあります。第4世代Ryzenはチップセットも変わり、メモリも現行のDDR4からDDR5に変わるようなので、どれだけ性能が向上するのか、楽しみです。また、Intelにも巻き返しを期待していますが、しばらくは、少なくとも以前のような性能面での優位を確立することは難しそうです。

 第4世代Ryzenに対応する新たなチップセットは公表されなかったので、相変わらずX570が最新の対応チップセットとなります。私が現在使用しているデスクトップパソコンのマザーボードはX570ですから、BIOSをアップデートすれば第4世代Ryzenに換装することも可能なようです。まあ、まだ購入してから1年3ヶ月で、私の使い方では性能面に関してとくに問題はありませんし、発売されたばかりでまだ高いので、すぐに第4世代Ryzenを購入するつもりは全くありませんが、2022年に第5世代Ryzenが発売されれば、第4世代Ryzenもさらに安くなるでしょうから、その頃にPCI-Express4.0対応のSSDとGPUと共に購入することも考えています。

光成準治『本能寺前夜 西国をめぐる攻防』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、地域としては畿内よりも西、とくに毛利を、年代は織田信長の上洛から本能寺の変までを主要な対象として、織田権力と西国の大名・領主層との関係に着目し、本能寺の変を検証しています。本書から窺えるのは、戦国時代の領主層の自立性と、それがとくに境目の領主である場合、勢力間の争いを惹起しやすい、ということです。これは本書の主要な対象地域だけではなく、全国的に当てはまることなのでしょう。また、領主連合的性格の強い毛利はとくにそうですが、一応は傘下に入った領主も、自立的であるため、毛利のような上位権力の支持に従順とは限らず、これも戦国時代の情勢を流動化させます。

 織田と毛利は、共に足利義昭を奉じる勢力として、同盟関係にありました。これは、織田信長が義昭を都から追放した後もしばらくは変わりませんでした。じっさい、信長は義昭追放後もその嫡男を擁しており、毛利が仲介して、信長と義昭との間で義昭の都への帰還も交渉されていました。ただ、義昭が将軍就任後、織田と毛利の勢力圏が接近していくにつれて、両者は相互を警戒するようになります。また、上述の領主層の自立的性格という構造的問題もあり、両者の間の関係は悪化する方向へと向かいます。それでも、織田も毛利も互いに決定的な関係悪化を避けるようにしていました。しかし、毛利も織田の西国への勢力圏拡大志向に脅威を強く認識するようになり、ついに織田との戦いを決意し、領国に義昭を迎えます。ここから、西国の諸勢力を捲き込み、織田と毛利の本格的な戦いが始まります。織田にとっても、別所や荒木の寝返りなどといった苦境の場面はありましたが、苦しいのは毛利も同様でした。

 別所や荒木の織田方からの離反など、毛利も荷担した反織田勢力が優勢な局面もあったものの、上述のように、領主連合的性格の強い毛利は、容易には当主の思惑通りに軍事動員できない弱点も抱えていました。そのため毛利輝元は、武田勝頼から上洛の好機と勧められても、上洛戦を断念しました。これを毛利の弱さと見た宇喜多は、織田方に寝返ります。毛利首脳陣も、毛利が弱さを見せたら、宇喜多のような境目の領主が離反する危険性をよく認識していましたが、それでも防ぐことはできませんでした。南条も毛利方から織田方へと寝返り、次第に毛利は劣勢になっていきます。とはいえ、織田は一方的に侵攻できたわけでも、侵攻一本槍でもなく、和平の意思も示しており、硬軟両路線で毛利に対峙しました。本書は、織田家中において対毛利政策の武力討伐路線の主な担い手が羽柴秀吉、講和路線の主な担い手が明智光秀だった、と推測します。そのため、織田家中の対毛利政策の路線で最終的に武力討伐が採用された場合、光秀が失脚する危険性もあっただろう、と本書は指摘します。このように信長は家臣同士を競争させることで、勢力を拡大していきました。

 そうした状況下で、本能寺の変の直前には、光秀が織田側の窓口となっていた長宗我部に対して、信長が討伐方針を明確にし、信長の息子の信孝が総大将的な地位に抜擢されました。また、信長自身が毛利主力との決戦を選択して自ら出陣することになり、対毛利講和路線も破綻しました。これらの情勢変化により、光秀は失脚の危機感を募らせ、信長とすでに家督を継承していた信忠が都にわずかな兵とともにいる「千載一遇の好機」に遭遇し、謀反を決意したのではないか、というのが本書の見通しです。

翼竜類の飛行効率

 翼竜類の飛行効率に関する研究(Venditti et al., 2020)が公表されました。生物多様性の長期的な蓄積の過程では、生物による新たな生態学的機会の利用を可能とする、大規模な進化的移行が繰り返し起きてきました。1億5000万年以上にわたって空を支配し、白亜紀の終わり(約6500万年前)に非鳥類型恐竜と共に絶滅した中生代の飛行性爬虫類(翼竜類)は、そうした移行の産物でした。翼竜類の祖先は、小型でおそらく二足歩行の初期の主竜類で、間違いなく陸上でのロコモーションによく適応していました。翼竜類は前期三畳紀(約2億4500万年前)に恐竜類の祖先から分岐しましたが、最古の翼竜類化石の年代はその2500万年後の後期三畳紀とされています。したがって、原始的な翼竜類の化石が存在しないことから、この動物群で飛行が最初にどう進化したのか、研究することは困難です。

 本論文は、翼竜類の新たなロコモーションへの適応の進化的動態について報告します。既知で最古の翼竜類は飛行が可能で、その後、有能で効率の良い飛行動物になった、と推測されています。しかし、陸上から空中へのロコモーション様式の移行が、初期の翼竜類に対して高いエネルギー負荷を課すことで問題を突きつけ、その飛行にそうした負荷を相殺できるような何らかの適応度利益の提供を要求したことは明らかと考えられます。本論文は、系統発生学的な統計学的方法および生物物理学的モデルを化石記録から得られた情報と組み合わせて用いることで、数百万年にわたって飛行効率を向上させるように働いた自然選択の進化的シグナルを発見しました。

 これらの結果は、飛行の出現後に効率の面でまだ大きな改善の余地があったことを示しています。ただし、巨大化が認められるクレード(単系統群)であるアズダルコ類(Azhdarchoidea)において、飛行への依存度が低下していたという仮説を検証したところ、このクレードでは飛行効率に対する選択が弱かった、と示す証拠が見つかりました。この研究の手法は、地質年代を通した機能的およびエネルギー的な変化を、これまでは不可能だったより繊細なレベルで客観的に研究するための青写真を提供します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:翼竜類の飛行

 空飛ぶ爬虫類である翼竜類は、1億5000万年にわたる進化の過程で、より効率よく飛行できるようになったことを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、陸上に生息していた翼竜類の祖先がどのようにして空を飛ぶようになり、さらに進化したのかを解明する上で役立ち、今回用いられた研究方法は、機能性とエネルギーの微妙な変化を地質時代を通して調べるための青写真になると考えられる。

 翼竜類は恐竜に近い近縁種で、三畳紀(約2億4500万年前)に出現し、白亜紀の終わり(約6500万年前)に非鳥類型恐竜と共に絶滅したが、最古の翼竜類の化石についての研究は進んでいない。そのため、翼竜類がどのようにして飛行するようになったのかを調べることが難しくなっている。今回、Chris Vendittiたちの研究チームは、新しい統計的手法、生物物理学的モデル、化石記録から得られた知見を用いて、翼竜類の出現から絶滅までの間、その飛行効率は、自然選択の作用によって一貫して向上していたことを明らかにした。翼竜類は、当初は短距離しか飛べない非効率的な飛行をしていたが、その後、長時間にわたって長距離を飛ぶことができる能力を身につけた。

 しかし、この進化パターンには例外がある。白亜紀に生息していたアズダルコ科の巨大な翼竜(QuetzlcoatlusとTapejaraを含む)については、陸生動物の生活様式に近かったことを示唆するさまざまな適応が見られるため、その飛行能力は、論争の的になることが多い。今回の研究でVendittiたちは、アズダルコ科の翼竜は飛行できたが、その飛行能力は時間がたっても向上しなかったことを明らかにした。このことは、アズダルコ科の翼竜にとって飛行効率が他の翼竜類ほど重要ではなかったことを示唆している。



参考文献:
Venditti C. et al.(2020): 150 million years of sustained increase in pterosaur flight efficiency. Nature, 587, 7832, 83–86.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2858-8

『卑弥呼』第50話「筑紫島と豊秋津島」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年11月20日号掲載分の感想です。前回は、ミマトの冷静な返答にヤノハが満足そうな表情を浮かべるところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、ヤノハの夢に久々の登場となるモモソが現れる場面から始まります。モモソはヤノハに、倭の王にならねばならない運命なのに、何をのんびりしているのだ、と問い質します。自分は五ヶ国と同盟を結び、暈(クマ)の脅威を取り除いたばかりなので、少しくらい休みたい、と答えるヤノハを、モモソは掴んで天上に引き上げます。日本列島をヤノハに見せたモモソは、これが倭国だと説明します。筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は倭のほんの一部で、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)ではまだ戦が絶えず、筑紫島の平和は平和のうちに入らない、というわけです。自分は所詮モモソの偽物にすぎないので買いかぶらないでくれ、と懇願するヤノハに対して、だからできることもある、とモモソは諭します。目が覚めたヤノハは、倭の広大さに驚きます。そこへ穂波(ホミ)から戻ったアカメが、穂波の重臣であるトモの動向を報告します。トモが東方の日下(ヒノモト)の国に向かう、とアカメから聞いたヤノハは、面白い、と呟きます。

 ヤノハは山社(ヤマト)の閼宗(アソ)山(阿蘇山)にある寄合場に那(ナ)のトメ将軍を呼び出します。閼宗は筑紫島の真ん中に位置し、那・伊都(イト)・末盧(マツロ)・穂波・都萬(トマ)の五ヶ国にとっても験のいい場所だから、というわけです。ヤノハに韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)の情勢を問われたトメ将軍は、津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)の国のアビル王によると、遼東郡の公孫度が高句麗や烏桓を討伐し、韓全体の支配を強めている、と答えます。ヤノハから公孫度の真意を問われたトメ将軍は、おそらく黄巾の乱で衰退した漢(後漢)からの独立だろう、と答えます。もし自分が漢に使節を派遣した場合、公孫度はどう遇すると思うか、とヤノハに問われたトメ将軍は、もてなすだろうが、自らを帝と称して漢への未知を閉ざすだろう、と答えます。公孫度が独立を勝ち取れるのか、とヤノハに問われたトメ将軍は、漢には曹操という無敵の武将がいるので、簡単にはいかないだろう、と答えます。どうしたいのかヤノハに問われたトメ将軍は、公孫度の領地を強引に突破できないかとも考えたものの、生きて突破できる可能性は五分五分と答えます。無理せずとも近いうちに漢は滅びるのでは、とヤノハに指摘されたトメ将軍は、ヤノハの先見の明に感心します。漢はすでに天命を失った、というわけです。ヤノハはトメ将軍に、当分は遣漢使となることを諦めてもらい、まず近くて遠い豊秋津島に行ってもらいたい、と打診します。ヤノハの望みは倭国全土の平和なので、豊秋津島で戦が続いているのならば止めねばならない、とヤノハはトメ将軍に説明します。小国ながら日下の国が吉備(キビ)や金砂(カナスナ)や播(ハリ)や越(コシ)の支配を画策しているとの噂は耳にしている、と言うトメ将軍に、とくにその日下がどんな国なのか見てきてほしい、とヤノハは依頼します。剛毅なトメ将軍も一瞬絶句し、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が支配する国だと言いますが、奸智に長けた日下がどれほどの繁栄を遂げているのか見たくないか、とヤノハに言われ、承諾します。この視察にミマアキを同行させたい、とヤノハに打診されたミマト将軍は、危険が大きいと息子の身を案じて反対します。ミマアキの姉であるイクメはヤノハに意見を問われ、弟は友であるクラトを失って気落ちしているので、外の世界を見るのはよい気晴らしになるだろう、と答えます。そこへトメ将軍が、かつてミマアキから、後悔に出ることがあれば連れて行ってほしいと言われた、と話し、ミマト将軍も仕方なく同意します。ヤノハはトメ将軍に、穂波の重臣かつ客人にして古の支族の末裔であるトモが、日下を目指して出港した、と伝えます。

 穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)の関(関門海峡でしょうか)では、激しい海流に翻弄されつつ、トモがワニ氏の助けを得て舟で豊秋津島を目指していました。何とか激流を切り抜けると、ワニはトモに、豊秋津島と筑紫島は近いものの、その間の海峡はなかなか越せない難所だ、と説明します。ワニはトモに、内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)に入ったので、これからはサヌ王の海路を進む、と言います。サヌ王は日向(ヒムカ)から、岡水門(オカミナト、福岡県遠賀郡の岡湊神社でしょうか)、埃宮(エノミヤ、広島県安芸府中町の多家神社でしょうか)、吉備を経て、難波の碕(ナニワノミサキ)に到達しました。吉備まで行ければ、難波の碕まではさほど難儀ではないだろう、とワニはトモに説明します。難波の碕に到達した後は河を遡上し、そこからが日下の領域となり、サヌ王の末裔が我々を敵と認識すれば命はないだろうが、我々は古の支族なので、日下の民もよく心得ているだろう、とワニは楽観的です。閼宗では、山社がサヌ王のかつての領土を併合したので、トモはサヌ王の子孫に山社へ派兵するよう要請に行ったのではないか、とミマト将軍が懸念していました。トモが山社と同盟国に謀反を企むなら、自分が追いつき息の根を止める、と言うトメ将軍に、その言葉を待っていた、とヤノハが言うところで今回は終了です。


 今回は、本州が本格的に描かれることを予感させる内容でした。一方、漢の衰退が改めて語られ、大陸との関係が描かれるのはかなり後になりそうです。おそらく、倭から漢(後漢)への使節派遣は行なわれず、公孫氏政権と交流し、魏が公孫氏政権を滅ぼしてから魏と通交する、という展開になるのでしょう。本州情勢は、トメ将軍も恐れる日下がどのような国なのか、またサヌ王の末裔はどうしているのか、という点でもたいへん注目されます。本作の山社とはおそらく『三国志』の邪馬台国のことで、日向というか現在の宮崎県を主要な領土としていますが、現在有力な邪馬台国畿内説との関係でどう描かれるのだろうか、と以前から気になっていました。最終的には、現在の纏向遺跡一帯に山社が「遷都」するのかもしれませんが、まずは奸智に長けているとされる日下が山社にどう対処するのか、注目されます。山社はサヌ王の故地を侵したわけですから、九州に残っているらしいサヌ王の家臣の末裔と組んで山社と敵対する、とも考えられますが、奸智に長けているとのことですから、そのような単純な展開にはならないように思います。サヌ王の末裔とヤノハとの間でどのような駆け引きが行なわれるのか、楽しみです。

爆発的な適応放散の生態学的・ゲノム的基盤

 爆発的な適応放散の生態学的・ゲノム的基盤に関する研究(McGee et al., 2020)が公表されました。種分化の速度は系統間で著しく異なり、新たな適応放散の中で何が種分化事象を次々に駆動しているのか、ということについての理解は、まだ不完全です。カワスズメ科の魚類(シクリッド類)はそうした多様性の顕著な例で、緩やかな種分化を経た系統が多い中、一部にはひときわ大規模で急速な放散を遂げた系統もあります。

 この研究は、シクリッド類の全ての記載種について大規模な系統発生の再構築を行なうことで、シクリッド類の爆発的な種分化は、一部の新しい大湖沼の種群にのみ集中している、と明らかにします。種分化速度の上昇は頂点捕食者の欠如と関連づけられたものの、これは爆発的な種分化を充分に説明するものではありません。湖沼における放散では全体的に、種分化速度と大きな挿入/欠失多型の多さとの間に正の関係が認められました。

 種分化が最も急速に進んでいる放散はヴィクトリア湖で見られ、この放散に属する100種のシクリッドのゲノムアセンブリから、数百の古いハプロタイプに挿入/欠失多型が含まれており、それらの大半が、特定の生態学的特徴と関連づけられるとともに、アフリカの他の湖沼で先行した別の放散に由来する生態学的に類似した種と共通している、という顕著な「ゲノムの可能性」が明らかになりました。ネットワーク解析からは古いハプロタイプの組換えを通した基本的に非樹形の進化が明らかになり、生態学的ギルドの起源は放散の初期に集中している、と明らかになりました。この結果は、爆発的な適応放散の理解には、生態学的な機会と性選択、さらに並外れたゲノムの可能性の組み合わせが重要である、と示唆しています。


参考文献:
McGee MD. et al.(2020): The ecological and genomic basis of explosive adaptive radiation. Nature, 586, 7827, 75–79.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2652-7

古代ゲノムデータに基づくイヌの進化史

 古代ゲノムデータに基づくイヌの進化史に関する研究(Bergström et al., 2020)が報道されました。オオカミは、ヒトが相利共生関係を築いた最初の動物でした。イヌの家畜化の年代・起源地・回数について、ほとんど合意はありませんが、考古学的記録はヒトとの長期にわたる密接な関係を証明します。現代のイヌのゲノムは複雑な集団構造を明らかにしましたが、古代ゲノムで利用できるのは6頭のイヌとオオカミだけなので、この集団構造が出現した仮定はほとんど不明のままです。

 以前のミトコンドリアDNA(mtDNA)およびゲノム研究では、イヌの遺伝的痕跡とその考古学的背景との間の関連が示唆されてきました。しかし、イヌの集団史が、ヒトの人口史と関連したか、あるいは、交易や、特定のタイプのイヌへのヒトの選好や、感染症感受性の多様性や、ヒト集団間のイヌの移動の結果として分離したのか、という程度の評価のために、イヌとヒトのゲノムが定量的に分析されてきたことはありません。

 本論文では、イヌの集団史を再構築するために、最古で10900年前頃となるヨーロッパや近東やシベリア古代のイヌ27頭のゲノムが、中央値1.5倍の網羅率(0.1~11倍)で配列されました。ヒト人口史との関連を検証するため、古代のイヌの年代と地理的位置と文化的背景が合致するヒトのゲノム規模データが17組集められ、イヌとヒトの間で直接的に遺伝的関係が比較されました。


●更新世に起源がある世界のイヌ集団の構造

 主成分分析(図1B)では、PC1軸で東西系統が示され、西端は現代および古代のユーラシア西部および現代アフリカのイヌで構成され、東端は先コロンブス期の北アメリカ大陸のイヌと、シベリアのバイカル湖地域の7000年前頃のイヌと、ニューギニア・シンギング・ドッグとオーストラリアのディンゴを含む現代のアジア東部のイヌにより表されます。しかし、f4検定に基づくと、古代および現代のヨーロッパイヌは全頭、古代近東のイヌよりも強い東方系統との類似性を示します。古代ヨーロッパのイヌはユーラシア東部のイヌと近東のイヌとの間で遺伝的勾配を示して広く分布しており、外群f3統計を用いて、バイカル湖地域やレヴァント(7000年前頃のイスラエル)のイヌとの共有された遺伝的浮動を比較すると、対角線に沿った線形傾斜として現れます(図1C)。シミュレーションからは、この線形の傾斜勾配は、長期の継続的な遺伝子流動もしくは系統樹のような歴史で説明することは困難で、中石器時代および新石器時代のヨーロッパのイヌは大きな混合事象により特徴づけられた、と示唆されます(図1D)。

 主要な系統を表す5集団の構造の根底にある遺伝的歴史がモデル化され、最大2回の混合事象を伴うあらゆる混合グラフモデル135285通りが検証されました。このうち1モデルだけがデータに適合し、10900年前頃となる中石器時代のフィンランドのカレリア地方のイヌは、その一部を、東方のイヌと関連する系統と、レヴァント系統から受け継いだ、と特徴づけられます(図1E)。モデルを拡張して、7000年前頃となる最初期の新石器時代のヨーロッパのイヌを、カレリア系統とレヴァント系統の混合として特徴づけることができ、古代系統の勾配(図1C)により示唆されるヨーロッパのイヌへの二重系統モデルが支持されます。観察された系統構造から、全部で5つの祖先系統(新石器時代レヴァント、中石器時代カレリア、中石器時代バイカル湖、ニューギニア)が10900年前頃までには存在したに違いなく、したがって、11600年前頃となる更新世から完新世への移行期に先行して存在していた可能性が高い、と示唆されます。以下は本論文の図1です。
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●イヌの複数起源もしくは野生イヌ科からの広範な遺伝子流動の証拠は検出されません

 これまでの研究では、ヨーロッパや中東やアジア中央部やシベリアやアジア東部、もしくはこれらのうちの1地域以上で、オオカミ集団が初期のイヌの多様性に寄与した、と指摘されました。しかし、現代のオオカミとイヌは相互に単系統で、双方向の遺伝子流動があった、と指摘する研究もあります。そこで、各地のイヌの間でオオカミとの類似性において非対称性を特定すると、遺伝子流動が起きたに違いない、と確認されました。しかし、現代および古代のすべてのイヌと対称的に関連する一部のハイイロオオカミを特定したので、イヌからオオカミへの遺伝子流動は単方向だった可能性が高そうです。

 オオカミから特定のイヌ集団への過去の遺伝子流動は、これらの検証において現代のハイイロオオカミのあらゆる個体と類似性を示すので、イヌへの持続的な遺伝子流動は、データの現在の解像度では検出できないほど制限されている、と示唆されます。さらにこの結果は、全てのイヌが単一の今では絶滅した古代のオオカミ集団、もしくは複数の密接に関連しているかもしれないオオカミ集団に由来する、という想定と一致します。他の、まだ標本抽出されていない古代オオカミ集団が初期の家畜化と独立して関わっている可能性はまだありますが、本論文のデータからは、そうしたオオカミ集団は後のイヌには実質的に寄与していない、と示唆されます。

 イヌへのオオカミの混合の欠如とは対照的に、ほぼ全ての分析された現代のオオカミへのイヌの混合が特定され、それは通常、ヨーロッパや近東やアジア東部において、イヌから地理的に近接しているオオカミ集団への遺伝子流動の強い痕跡を伴います。また、古代アメリカ大陸のイヌとコヨーテとの間、アフリカにおけるイヌとゴールデン・ウルフとの間での類似性が再現されましたが、両者の遺伝子流動の方向は不明であり、それは小規模なので、イヌと関係するほとんどの分析に影響を与える可能性は低そうです。高地への適応に関連するEPAS1遺伝子周辺のオオカミ系統の証拠にも関わらず、チベットオオカミからチベットのイヌへの遺伝子流動のゲノム規模の証拠は見つかりませんでした。したがってイヌは、ブタやヤギやウマやヒツジやウシに見られるような、野生近縁種からの遺伝子移入の類似の証拠を示しません。


●イヌの集団史とヒトの集団史との関係

 イヌで観察された集団の関係が、ヒト集団の関係と定量的に比較され、両者の集団構造が互いに類似している、と明らかになりました。最大の違いは銅器時代イランで観察され、ヒト集団は新石器時代レヴァント集団とは異なりますが、イランとレヴァントのイヌ集団は類似しています。新石器時代のドイツとアイルランドでは、ヒトはレヴァント集団へと近づいていますが、イヌはヨーロッパ北部狩猟採集民と関連する集団へと近づいています。青銅器時代のユーラシア草原地帯と、ドイツの縄目文土器(Corded Ware)文化では、ヒトはイヌと同様に新石器時代ヨーロッパクラスタから離れています。

 次に、一方の種の混合形態がもう一方の種の集団関係も説明できるのか、評価されました。完全に一致する事例は見つかりませんでしたが、ほぼ一致する事例は見つかりました。しかし、イヌとヒトとの集団の時間の長さは考慮されていません。ヒト集団のユーラシア東西の分岐は43100年前頃と推定されており(関連記事)、14500年前頃の化石記録で確認されているイヌの形態の出現よりも著しく古くなっています。ただ、イヌの形態の出現はもっとさかのぼる、との見解もあります。全体的に、イヌとヒトの集団史がどの程度一致するのか不明ですが、系統関係では全体的な特徴を共有しているものの、時空間全体では同一ではなく、いくつかの分離されたに違いない事例もあります。

 イヌとヒトの集団史の一致事例として注目されるのは、アジア東部のイヌとヒトは両方、近東集団よりもヨーロッパ集団の方と近いことです。イヌのヨーロッパ系統は、近東およびアジア東部系統の混合として最適にモデル化されます。しかし、ヒトでは近東の「基底部ユーラシア」系統の分岐が45000年以上前と推定されており、イヌ集団の動態がヒトの初期の過程を模倣した可能性が示唆されます。次に注目されるのは、全てのヨーロッパのイヌが、ニューギニア・シンギング・ドッグに対してよりも、アメリカ大陸およびシベリアのイヌの方と強い類似性を有することで、これは混合されていないアジア東部のイヌを表しており、ヨーロッパとアメリカ大陸のヒト集団との間の極地付近の類似性を反映しています。

 24000~18000年前頃のバイカル湖地域のヒト集団はユーラシア西部人との類似性を有しており、その近縁集団がアメリカ大陸先住民の祖先になったものの(関連記事)、完新世には完全ではないとしても他系統に置換された、と推測されています(関連記事)。7000年前頃のバイカル湖地域のイヌはアメリカ大陸およびヨーロッパとの間の類似の関連を構成していますが、この関連は1万年前の後に起きました。したがって、ユーラシア北部で共有されている極地付近の系統は、イヌとヒト両方の集団構造の重要な特徴ですが、同じ移動事象に由来していない可能性が高そうです。


●ヨーロッパへの新石器時代の拡大

 古代ヒトゲノム研究は、近東からヨーロッパへの新石器時代農耕民の拡大と関連した、大きな系統変化を明らかにしており、古代のイヌのmtDNA研究は、新石器時代農耕民が近東からヨーロッパへとイヌを導入した、と示唆します(関連記事)。古代ヨーロッパのイヌで観察されたゲノム系統の勾配(図1C)は、少なくとも部分的には、中石器時代狩猟採集民および到来してきた新石器時代農耕民と関連するイヌの間の混合に起因する、と仮定されます。これは、三つの観察結果により支持されます。まず、この勾配の仮定的な狩猟採集民関連のイヌの端は、10900年前頃の中石器時代カレリア地方のイヌと、4800年前頃となるスウェーデンの狩猟採集民の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture)遺跡のイヌとで占められています。次に、スウェーデンの狩猟採集民のイヌと比較して、同時代となるスウェーデンの新石器時代農耕文化のイヌは、同じ遺跡のヒトを反映して、勾配のレヴァント側の端へと移動しています。最後に、新石器時代レヴァントのイヌ集団との類似性は南方に向かって増加しており、新石器時代ヒト集団の範囲拡大と一致します。中石器時代のヨーロッパの「西方狩猟採集民」ヒト集団と明確に関連するイヌはまだ特定されていませんが、本論文の結果から、そうしたイヌはヨーロッパ勾配のシベリアの端へと向かって強い類似性を有する、と示唆されます。全体的にこれらの結果から、新石器時代におけるヨーロッパへの農耕民の拡大も、イヌの系統変化と関連していた、と示唆されます。

 デンプン消化に関連するAMY2B遺伝子のコピー数増加は、農耕移行期におけるイヌの食性適応と関連してきました。パラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)なAMY1遺伝子は、ヒトでは適応的進化を受けてきましたが、これは農耕と明確に関連していないようです。中石器時代のカレリア地方のイヌは、すでにオオカミと比較してより多くのコピー数を有していたかもしれませんが、ヒト狩猟採集民文化のイヌでは、少ないコピー数が観察されます。5800年前頃のイランのイヌや6200年前頃のスペインのイヌなど新石器時代のイヌの一部は、現代のイヌと同じくらい多くのコピー数を有しますが、レヴァントの7000年前頃の個体のように、他の新石器時代のイヌは少ないコピー数を有しています。これらの結果から、AMY2B遺伝子のコピー数増加は家畜化の初期段階では起きず、ヒトとは対照的に、中石器時代狩猟採集民文化では発達しなかったものの、初期農耕集団では変動的で、デンプンが豊富な農耕生活様式の最初の出現から数千年経過するまで拡大しなかった、と示唆されます。


●アフリカと近東

 現代アフリカのイヌはレヴァントとイランの古代のイヌ、とくに7000年前頃となる本論文のデータセットでは最古のレヴァント個体とクラスタ化し、近東起源を示唆します。肥沃な三日月地帯の西部(アナトリア半島およびレヴァント)と東部(イランのザグロス山脈)のヒト集団は遺伝的に大きく異なっており、西部集団は新石器時代においてヨーロッパとアフリカへの遺伝子流動の主要な供給源でした(関連記事)。アフリカのイヌ系統の起源は、5800年前頃のイランよりも7000年前頃のレヴァントの方とより適合しており、ウシの場合(関連記事)と同様に、ヒトの移住を反映しています。対照的にヨーロッパの新石器時代のイヌの系統に関しては、レヴァントとイランのどちらが起源集団として適切なのか、区別できません。本論文の結果は、レヴァント関連集団からのサハラ砂漠以南のアフリカ集団の単一起源を示唆し、過去数百年までアフリカ大陸外からの遺伝子流動は限定的でした。

 アフリカとは対照的に、7000年前頃となる新石器時代レヴァント集団は、近東の現代のイヌへの遺伝的寄与があったとしても、多くはなかったようです。代わりに、レヴァントの2300年前頃のイヌは、イラン関連系統(81%)と新石器時代ヨーロッパ関連系統(19%)の混合としてモデル化できます。レヴァントではこの時期までに、イランからのヒトの遺伝子流動(関連記事)と、ヨーロッパからの一時的な遺伝子流動(関連記事)がありました。しかし、本論文の結果は、レヴァントではイヌの系統が2300年前頃までにほぼ完全に置換されたことを示唆します。現代近東のイヌは、2300年前頃のレヴァントのイヌと、現代ヨーロッパのイヌの混合として最適にモデル化されます。


●草原地帯牧畜民の拡大

 ヤムナヤ(Yamnaya)文化および縄目文土器文化と関連したユーラシア草原地帯牧畜民の後期新石器時代および青銅器時代ヨーロッパへの拡大は、ヒト集団の系統を変えました(関連記事)。イヌの系統が同様に影響を受けたのか検証するため、青銅器時代のスルブナヤ(Srubnaya)文化と関連したヨーロッパ東部草原地帯の3800年前頃のイヌが分析されました。その系統はヨーロッパ西部のイヌと類似していますが、主成分分析(図1B)の中間に位置する外れ値です。ドイツの縄目文土器文化関連の4700年前頃となるイヌは、草原地帯関連系統を有すると仮定され、その51%はスルブナヤ草原地帯関連系統に、残りは新石器時代ヨーロッパ系統に由来する、と推定されています。青銅器時代の3100年前頃となるスウェーデンのイヌでも同様の結果が得られますが、青銅器時代の4000年前頃となるイタリアのイヌでは同様の結果は得られません。

 草原地帯と縄目文土器文化のイヌの間の潜在的なつながりにも関わらず、ほとんどの後のヨーロッパのイヌは、スルブナヤのイヌとの特別な類似性を示しません。現代のヨーロッパのイヌは代わりに、新石器時代ヨーロッパのイヌとクラスタ化し、牧畜民拡大後のヒトで見られた永続的な系統変化を反映していません。この過程をよりよく理解するには、より早期となる追加の草原地帯のイヌのゲノムが必要ですが、新石器時代と現代の個体群との間の相対的連続性からは、草原地帯牧畜民の到来は、ヨーロッパのイヌの系統に持続的な大規模な変化をもたらさなかった、と示唆されます。

 草原地帯牧畜民は東方にも拡大しましたが、アジア東部の現代人には多くの遺伝的影響を残さなかったようです。多くの現代中国のイヌは、ニューギニア・シンギング・ドッグと関連した集団と、ユーラシア西部関連集団との間の混合の、明確な証拠を示します。最近の研究では、過去数千年に中国のイヌでmtDNAの置換が起きたことも明らかになっています。最適なモデルでは、現代ヨーロッパの品種からだけではなく、3800年前頃となるスルブナヤの草原地帯関連のイヌからのかなりの遺伝子流動も含まれます。一部の集団、とくにシベリア集団は、7000年前頃となるバイカル湖地域のイヌと関連した追加の起源集団を必要としますが、ニューギニア・シンギング・ドッグと関連する系統はないか最小限です。したがって本論文の結果からは、草原地帯牧畜民の東方への移動が、アジア東部のヒトよりもイヌの系統において、大きな遺伝的影響を与えた可能性が高い、と示されます。


●ヨーロッパにおけるイヌの系統の均質化

 現代ヨーロッパのイヌは全て、データセット内の古代のイヌと対称的に関連しているので、初期のヨーロッパのイヌにおける系統多様性の広大な範囲は、現在では保存されていません。これは、ヨーロッパのイヌにおける現在の多様性に、ほとんどの在来の中石器時代および新石器時代集団がわずかか、全く寄与していないことを示唆します。代わりに、スウェーデン南西部のフレールセガーデン(Frälsegården)遺跡の5000年前頃となる新石器時代巨石文化のイヌ1個体が、ほとんどの現代ヨーロッパのイヌの系統の90~100%の起源集団としてモデル化でき、他の全ての古代のイヌは除外される、と明らかになりました。この知見から、必ずしもスカンジナビア半島起源とは限らない、このフレールセガーデン遺跡の1個体と類似の系統を有する集団が、他の集団を置換し、大陸規模の遺伝的勾配を消し去った、と示唆されます。この系統は勾配の真ん中にあったので(図1C)、現代ヨーロッパのイヌは、カレリア地方関連系統とレヴァント関連系統のほぼ等しい割合としてモデル化できます。

 またフレールセガーデン遺跡のイヌは、4000年前頃となる青銅器時代イタリアのイヌや、トルコやビザンツ帝国(東ローマ帝国)や中世の1500年前頃となるイヌの部分的祖先としても好適ですが、レヴァントのより早期のイヌには当てはまらず、この系統の拡大の年代を限定します。しかし、現代の品種の表現型多様性や遺伝的分化を含む、ヨーロッパ新石器時代に存在した遺伝的構成から、ヨーロッパにおけるイヌの系統の均質化を開始もしくは促進した環境は不明のままです。

 最近では、近代化におけるヨーロッパ勢力の拡大と関連していると考えられますが、この現代ヨーロッパのイヌ系統は広く拡大しており、現在では世界中のほとんどのイヌ集団の主要な構成となっています。しかし、本論文の系統モデルは、一部の植民地期以前の系統が、メキシコのチワワ(4%以下)やメキシカン・ヘアレス・ドッグ(3%以下)や南アフリカ共和国のローデシアン・リッジバック(4%以下)に残っていることを明らかにします。以下は、世界各地の現代のイヌの系統の割合(図5A)と、イヌの推定拡散経路(図5B)を示した本論文の図5です。
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●まとめ

 完新世の始まりまでに起きた少なくとも5つのイヌ系統の多様化の後に、動的なイヌの集団史が続き、それは多くの場合ヒトの集団史を追跡したもので、イヌがヒト集団とともにどのように移動したのか、ということを反映している可能性が高そうです。しかし、ヨーロッパにおける草原地帯集団の移動などいくつかの事例では、イヌとヒトの集団史は一致しておらず、ヒトがイヌを伴わずに移動したこともあり、イヌがヒト集団間で移動したか、イヌが文化的および/もしくは経済的交易商品だったことを示唆します。

 東西ユーラシアの分化や、極地のつながりや、近東における潜在的な基底部系統のような、イヌ集団間の遺伝的関係の特定の側面は、イヌの最初の家畜化の前に起きたヒト集団史の特徴と類似しています。したがって、イヌとヒトの間のこの表面的な反映は代わりに、まだ理解されていない生物地理的もしくは人類学的要因により繰り返し起きた集団動態を示しているかもしれません。重要な問題は、イヌが完新世までにユーラシアとアメリカ大陸全域にどのような拡大したのか、ということです。これは、主要なヒト集団の移動が、地球規模の拡大をもたらした最初の出アフリカに伴う拡大の後には、特定されていないからです。

 現代および古代のゲノムデータはイヌの単一起源と一致する、と明らかになりましたが、複数の密接に関連するオオカミ集団を含む想定は依然として可能です。しかし本論文では、イヌの地理的起源は不明のままです。ゲノム多様性もしくは現代のオオカミ集団との類似性に基づくイヌの起源に関する以前の研究は、より最近の集団動態や遺伝子流動の不明瞭な影響に敏感です。本論文で分析された個体よりも古いイヌやオオカミのDNAを、考古学や人類学や動物行動学やその他の分野と統合することは、どこのどのような環境と文化的背景で最初のイヌが生まれたのか、決定するのに必要です。


参考文献:
Bergström A. et al.(2020): Origins and genetic legacy of prehistoric dogs. Science, 370, 6516, 557–564.
https://doi.org/10.1126/science.aba9572

アフリカ人の包括的なゲノムデータ

 アフリカ人の包括的なゲノムデータを報告した研究(Choudhury et al., 2020)が公表されました。世界規模でのゲノム解析により、現代人で最も遺伝的多様性が高いのはアフリカ人と示されています。こうしたゲノムデータは、医療にも役立てられています。しかし、現在までに、約2000のアフリカの民族言語集団のうちわずかしか遺伝的に特徴づけられておらず、ヨーロッパ集団で一般的な限定的な数の多様体が含まれています。そのため、アフリカ人における新規で医学的に関連する稀な変異はほとんど不明のままで、複雑な疾患への遺伝的要因の理解が進んでいません。

 サハラ砂漠以南のアフリカ人集団は古典的に、アフロ・アジア(AA)、ナイル・サハラ(NS)、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)、コイサン(KS)の各語族で説明されてきました。これらの語族の中には独立した集団も含まれており、たとえばコイとサンは、それぞれ異なる歴史があるにも関わらず、文献ではコイサン一括されています。バンツー語族はサハラ砂漠以南のアフリカでは最も広範に分布していまが、これは過去5000年にわたるアフリカ大陸全体の一連の移住に起因します(関連記事)。

 これらの移住事象とそれに続く在来集団との混合は、新たな環境と経験への適応を伴うので、アフリカのゲノムの全体像の形成においてたいへん重要な役割を果たしてきました。これらの適応の特徴は、マラリアと関連するHBB遺伝子、ラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子、肝機能障害と関連するAPOL1遺伝子、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)と関連するG6PD遺伝子の多様性で示される、重要な生理的特性もしくは伝染性流行病と関連するアレル(対立遺伝子)多様性のパターンにおいて明らかです。最近の研究では、食性・身長・血圧・肌の色といった多様な特徴に対して、混合により導入された新たな変異の重要性を反映する選択の兆候が特定されています。

 現代人で最も遺伝的多様性の高いアフリカ人のゲノムを研究することは、疾患の集団人口統計的理解への特有の機会を提供します。アフリカにおけるヒトの遺伝と健康(H3Africa)協会は、アフリカ人のゲノム研究の不足を補うために創設され、アフリカ人全体の遺伝的多様性を特徴づけ、ゲノム研究の枠組みを促進することが目的です。そこで本論文では、H3アフリカ研究においてアフリカの13ヶ国の50の民族言語集団から得られた、426人の全ゲノム配列データ(314人分の平均網羅率が30倍の高品質なゲノムデータと、112人分の平均網羅率が10倍の中程度の品質のゲノムデータ)が分析されました。これらの集団のいくつかは、本論文で初めて研究結果が報告されます。本論文では、一塩基多様体(SNV)に焦点が当てられました。以下、本論文で取り上げられた集団の地理(図1a)と主成分分析結果(図1b)を示した本論文の図1です。
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●移住と混合

 これまで充分に研究されていなかった地域からの標本を含めることで、アフリカの集団規模のゲノムデータが得られました。主成分分析では、第一主成分は、ナイル・サハラ(NS)とアフロ・アジア(AA)とある程度は東部のニジェール・コンゴ(NC)個体群(ウガンダのバンツー語族個体群、略してUBS)を、他のNC話者から分離します。第二主成分は、残りのNC話者を西方から南方への勾配に沿って位置づけます。非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)は顕著な例外で、個人間のより多くの分散を示します。ベニンのフォン(FNB)、グル語話者(WGR)、ギニアのスス語話者(SSG)、コートジボワール人(CIV)、MALを含むアフリカ西部集団は近くに位置づけられますが、しばしばナイジェリアのヨルバ人(YRI)やエサン人(ESN)のような他のアフリカ西部NC話者からは独立しています。ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)および南部のボツワナ(BOT)のNC話者は、それぞれの地域から以前に研究された集団とクラスタ化します。

 ナイジェリアのベロム(Berom)集団(BRN)、カメルーンの個体群(CAM)、コンゴ民主共和国の個体群(DRC)、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)、ウガンダのNS話者(UNS)の5集団は、主成分分析で特徴的な位置を示します。BRNは他のアフリカ西部集団とは独立して存在し、アフリカ東部集団に近づいています。CAMとDRCはカメルーンとコンゴの地理的近さと一致して、一まとまりに位置し、独立したアフリカ中央西部集団を形成します。UNSは他のNS集団であるグムズ(Gumuz)とは独立して位置します。同様に、BSZは他のNS話者集団とは大きく離れています。これらの集団のいくつかは独特の遺伝的位置を示し、標本抽出された集団の広範なゲノム多様性が確認されます。NC話者集団の地理的距離と遺伝的距離との間には有意な正の相関が観察されました。

 次に、非NC話者からの遺伝子流動が本論文の対象集団を区分したのかどうか、さらには混合事象が検証されました。結果は、アフリカ大陸全体の混合パターンに関する現在の理解と一致しており、ボツワナ(BOT)へのコイサン(KS)の遺伝子流動、UBSにおけるアフロ・アジア(AA)語族集団の遺伝子流動、アフリカ中央西部集団であるDRCとCAMにおける熱帯雨林狩猟採集民(RFF)からの様々な程度の遺伝子流動を示します。さらに、これらの分析では、2回の興味深く未報告の混合事象も明らかになりました。それは、ウガンダのNS話者(UNS)におけるRFFの遺伝子流動と、ナイジェリアのベロム集団(BRN)におけるNC話者からの遺伝子流動です。追加の母集団データセットを用いたさらなる分析では、UNSと他のNC話者集団との間の違いは、AAとの混合の欠如、およびRFFからの遺伝子流動の増加に起因するかもしれない、と示唆されました。アフリカ東部系統の追跡は、過去数千年のサヘル横断移動に由来し、ナイジェリアのハウサ(Hausa)人を含む他の集団で報告されてきました。しかし、アフリカ東部の遺伝子流動の観察は、おそらくチャドに由来し、最大となる在来の中央部ナイジェリア集団であるBRNにおいてひじょうに独特です。

 ボツワナの分析から、集団間の遺伝的距離への非NCの遺伝子流動の寄与が強調されます。対照的に、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)は、アンゴラやコンゴやボツワナの隣接地域集団とは異なり、RFFもしくはKS集団のような非NC話者からの主要な遺伝子流動の証拠を示しません。同様に、在来集団の混合の低水準は、マラウイとモザンビークのバンツー語族話者で指摘されてきました。アフリカ中央部を横断するバンツー語族集団の移動経路復元の試みでは、アンゴラ集団がアフリカ東部および南部のバンツー語族話者にとっての最良の起源地と結論づけられ、アンゴラ経由のバンツー語族の移動の西方経路が示唆されました(関連記事)。

 データセットにDRCとBSZ集団を含めることで、この経路がさらに調査されました(図2b)。主成分分析と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)から、BSZは他のアフリカ中央部集団と比較して、UBSとBOTの両方に遺伝的に近い、と示されました。さらに混合の検証では、アフリカ東部および南部のバンツー語族話者系統にとって最も可能性が高いアフリカ中央部起源集団として、BSZを支持します。また、集団間で共有されるIBDの程度から、BSZにとってアンゴラ集団が最も密接な中央部もしくは中央西部の集団だった、と示唆されます。まとめると、これらの推定から、ザンビアがバンツー語族のアフリカ東部および南部両方への経路の中継地点だった、と示唆されます。

 いくつかの主要な混合事象を推定する試みでは、アフリカ南部におけるKSの遺伝子流動と、CAMにおけるRFFの遺伝子流動は以前の研究とほぼ一致した、と示されました。UNS におけるRFFの混合の年代範囲は、CAMにおけるそれと類似しており、以前の研究と一致します。これは、60~70世代前頃に、中央部熱帯雨林の東西両方のRFF集団の範囲が変化した可能性を示唆します。アフリカ西部へのサヘル横断移動に関する以前の研究では、移動の異なる2波が示唆されました。一方は100世代以上前(2900年前頃)で、もう一方はもっと最近となる過去35世代(1015年前頃)です。さまざまなアフリカ東部の代理集団に基づくと、BRNにおける混合は50~70世代前(1500~2000年前頃)に起きた、と推定されます。これらの年代は、地域水準もしくはより広範な地理的規模で、これまで知られていない人口統計学的事象が起きたことを示唆します。

 ボツワナとカメルーンとマリの定義された地政学的境界と、非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)間のホモ接合性の明確に長い断片の内部で、民族言語集団内もしくは集団間の広範な変異のような、これらの集団のいくつかの人口史における追加の特有の傾向が観察されました。片親からの単系統遺伝となるミトコンドリアとY染色体の分析では、BOTのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0dや、BRN のmtHg-L3や、MALのY染色体ハプログループ(YHg)E1b1bといった、特定の優占するHgが特定され、これらの集団への複雑な祖先の寄与がさらに強調されます。以下、各集団の系統混合比(図2a)と、バンツー語族集団の移動経路(図2b)と、主要な混合事象の年代(図2c)を示した本論文の図2です。
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●ゲノム多様性と選択の痕跡

 一塩基多様体(SNV)は標本規模と相関し、集団ごとに1200万~2000万のSNVが特定されました。合計で約340万のSNVはこれまで報告されていませんでした。新規SNVは、カメルーンの個体群(CAM)で最も少なく、ボツワナ(BOT)と非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)で最も多い(絶対数でも標本抽出された個体の最も少ない数に正規化した場合でも)、と明らかになりました。

 データセット内の新規多様体が飽和しているのか判断するため、BOTを開始母集団として用いて、発見された新規多様体の累積数を配置していき、追加の集団ごとに1標本でしか確認されていない(シングルトン)新規SNVを削除した後でも平坦域には達せず、最後の2集団(FNBとMAL)間でも依然として6000以上の新規SNVが存在しました。また、本論文の対象集団、とくにコイサン(KS)系統間では、多様体の発見と非中央西部アフリカ人系統の割合の間で、強い相関があることも明らかになりました。

 選択を受けたと推定される遺伝子は、C5AR1やMYH10(細菌感染)、ARHGEF1やERCC2やTRAF2(ウイルス感染)、IFNGR2(細菌およびウイルス感染)といった、免疫関連機能とおもに関わっています。BOTを代理とする、アフリカ南部、CAMを代理とするアフリカ中央部、グル語話者(WGR)を代理とするアフリカ西部の各集団に固有の選択に関しては、BOTでは代謝関連(MRAP2とARSKとGPD2)、WGR(C12orf65とFAN1)とCAM(FZR1とTDP1とKCTD1)ではDNA修復関連の遺伝子で見つかりました。BOTにおける選択の痕跡では、KSからの優先的な遺伝子流動の証拠が見つかりました。

 本論文のデータセットで観察された複雑な集団構造と可変的な選択圧は、集団間のアレル(対立遺伝子)頻度の分化を促進する、と知られています。そこで、集団間でかなり異なる(40%以上)アレル頻度を有する、高度に分化した多様体(HDV)が特定されました。2497のHDVのうち1106がBOT(アフリカ南部)とMAL(アフリカ北西部)で観察され、この地理的分離は最も異なるアレル頻度を生成します。これらのHDVのうちいくつかは、BOTにおける高い割合と歴史的により深いKS系統も繁栄しています。

 機能喪失(LOF)多様体では、インフルエンザやヒト免疫不全ウイルス(HIV)やC型肝炎ウイルス(HCV)の死亡率との相関が観察され、環境および社会経済的要因とともに、遺伝的影響が推定されます。病原性もしくは病原性の可能性がある262の固有の多様体のうち、54は低いアレル頻度を示します。マラリアによる死亡を防ぐ遺伝子座の予想と一致して、G6PDのアレルの推定値は、アフリカ全体の固有のマラリアの分布と概ね一致します。鎌状赤血球症の変異は、マラリアが蔓延するアフリカ西部および東部の集団において高いアレル頻度を示します。全体的に、62の遺伝子とその周辺領域で自然選択の新たな証拠が見つかりました。


●まとめ

 本論文の結果は、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)話者集団の遺伝的連続を明らかにし、バンツー語族移動の経路と年代と範囲に関する理解を拡張します。本論文で提案されたバンツー語族の拡散経路は、カルンドゥ(Kalundu)土器伝統の拡大と重なり、これもバンツー語族の拡大と関連づけられてきました。しかし、カルンドゥ土器の拡大の推定年代は、本論文の混合年代に先行し、カルンドゥ土器伝統とバンツー語族の移動との間の関連は疑問視されており、考古学的な移動と遺伝的な移動との間の類似は未解決のままです。あるいは、先に文化的拡散が起き、その後で人類集団の移動が伴ったのかもしれませんし、推定混合年代が実際よりも新しいのかもしれません。

 ナイジェリアの言語はひじょうに多様で、ゲノムデータの観点でもアフリカの最も代表的な国です。ベロムにおけるかなりのナイル・サハラ(NS)集団との混合と、NCおよび非NC両方の話者における高度に分化した多様体(HDV)と新規変異両方との観察から、既知の刊行データベースにおけるナイジェリア集団は、ナイジェリアのゲノム多様性を過小評価している可能性が高いだけではなく、ほぼ確実にアフリカ大陸集団の貧弱な一般的代理である、と示唆されます。アフリカ全体の多様性のより包括的な要約の提供には、複数のアフリカ人集団における追加の深い配列が必要です。

 HIVやエボラ熱やラッサ熱を含むウイルスの流行がアフリカ全土で報告されています。この背景として、ウイルス感染に重要な遺伝子と重複する選択された遺伝子座の観察は、アフリカ全土の人類集団のゲノム形成における、ウイルス感染に対する耐性および/もしくは感受性の、まだ報告されていない役割の可能性を裏づけます。これは、インフルエンザとHIVに関わる遺伝子の推定LOF多様体と、疾患死亡率との強い相関関係により支持されましたが、疾患死亡率との相関についてはさらなる分析が必要です。免疫関連遺伝子の他に、DNA修復や炭水化物および脂質代謝に関連する遺伝子の正の選択、またNC話者内の地域固有の正の選択も観察されました。

 アフリカ人のゲノムの多様性と変異に対する祖先の事象と感染性病原体への暴露の複合効果は、ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)とNS話者(UNS)との間で観察されたアレル頻度の違いにより示されます。このアレル頻度の違いから、マラリアが流行している西部地域(UBS)からではなく、マラリアがあまり一般的ではない北部地域(UNS)からの最近の移住が別の妥当な説明になる、と示唆されます。他のアレルからも、同様の想定が可能です。

 本論文の知見から、アフリカのゲノムデータの充足と使用には、多様体の高水準の精選に加えて、広く確認されて包括的な変異の概要が必要である、と示唆されます。アフリカのゲノム変異は、アフリカ人の移住と世界集団両方の多様体分布より良い表示である可能性が高く、したがって、アフリカ人のゲノム変異の完全な目録は、医療遺伝学および集団遺伝学の両方により良いゲノム参照を提供できるかもしれません。アフリカ現代人のゲノム研究が進めば、近年になってアフリカでも進展した古代DNA研究(関連記事)とともに、アフリカ人の人口史をさらに正確に理解できるようになるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:アフリカ人集団における遺伝的多様性

 高深度塩基配列解読されたアフリカ人ゲノムの、これまでで最大級の研究から、300万を超える遺伝的バリアントが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究は、バントゥー諸語話者集団のルートに沿った古代人の移動に関する知見をもたらした。

 アフリカは現生人類の起源において中心的な役割を果たしているにもかかわらず、アフリカ人集団に見られる多様性については、これまでほとんど知られていなかった。今回、H3アフリカコンソーシアムのZané Lombardたちは、これまでに試料採取されていなかった集団を含む50の民族言語集団に属する426人の全ゲノム塩基配列解読解析を行うことで、この不均衡の問題に取り組み、アフリカ全体のゲノム多様性の幅を探った。今回新たに発見されたバリアントの大部分は、今回新たに試料採取された民族言語集団から見つかっている。また、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連する62の遺伝子とその周辺領域での自然選択の新たな証拠が見いだされた。さらに、祖先集団内および祖先集団間での混合に複雑なパターンが見られ、バントゥー諸語話者集団の拡大ルートに沿って移動した入植者の中継地点がザンビアであった可能性が高いことを示す証拠も見つかった。以上の知見は、アフリカ大陸内の人類の移動に関する理解を深めるものであり、ヒトの疾患に対する応答と遺伝子流動が、集団の多様性の強い決定要因であることを明らかにした。

 Lombardたちは、人類の祖先をより包括的に理解し、健康研究を向上させるためには、アフリカ人のゲノム多様性に関する特徴解明の幅を広げること(対象者と対象集団を増やすことなど)が必要だと強調している。


進化遺伝学:高深度のアフリカ人ゲノムから得られたヒトの移動と健康についての情報

Cover Story:アフリカの多様性:全ゲノム解析によって明らかになったアフリカの豊かな遺伝的遺産の詳細

 アフリカは、現生人類のゆりかごと見なされているが、アフリカの人々の遺伝的多様性はごく一部しか調べられていない。今回H3アフリカコンソーシアムのZ Lombard、A Adeyemo、N Hanchardたちは、50の民族言語グループをカバーする426人の全ゲノム塩基配列解読の解析結果を提示して、この不均衡の是正を促している。著者たちは、300万を超える新規バリアント(その大半が、これまで試料採取されていなかった集団で見られた)を明らかにするとともに、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連するこれまで報告されていなかった62の座位を特定した。さらに著者たちは、集団内と集団間での祖先の混合も発見し、バントゥー諸語話者集団の拡散経路においてザンビアが中継地点であった可能性が高いことを示す証拠を見いだした。これらの知見は、アフリカ全体における人類の移動に関する理解を深めるのに役立つとともに、遺伝子流動と疾患への応答が、集団のゲノムレベルの多様性の強力な駆動要因であることを明らかにしている。表紙は、今回の研究で集められた遺伝子データを基に、ジンバブエのマリーゴールド・ビーズ飾り協同組合が手織りで作ったビーズのネックレスである。



参考文献:
Choudhury A. et al.(2020): High-depth African genomes inform human migration and health. Nature, 586, 7831, 741–748.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2859-7

堆積物のmtDNA解析で確認されたチベット高原のデニソワ人

 チベット高原の更新世堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で見つかった手の末節骨の断片から決定されたゲノム配列により初めて特定された、中期更新世後期~後期更新世にかけての遺骸が確認されている絶滅人類集団です。手の末節骨や臼歯など複数個体のデニソワ人遺骸は当初、デニソワ洞窟でしか確認されていませんでしたが、その後、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前の下顎(夏河下顎)が、デニソワ人のものと確認されました(関連記事)。ただ、この下顎のDNA解析にはまだ成功しておらず、タンパク質の総体(プロテオーム)の解析に基づいた分類です。

 デニソワ人は、核DNAでは現生人類(Homo sapiens)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方とずっと近縁ですが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では(後期)ネアンデルタール人と現生人類がクレード(単系統群)を形成し、デニソワ人は両者とは異なる系統に位置づけられます。しかし、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群は、形態では祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴との混在を示し、核DNAではデニソワ人よりも後期ネアンデルタール人の方と近縁なので、後期ネアンデルタール人の直接的な祖先ではないとしても、少なくとも広義の早期ネアンデルタール人と位置づけられそうですが、mtDNAではネアンデルタール人と後期ネアンデルタール人に対して、デニソワ人とクレードを形成します。そのため、ネアンデルタール人のmtDNAは元々デニソワ人に近かったものの、後に現生人類とより近い系統に置換された可能性が高い、と推測されます。

 デニソワ人とネアンデルタール人の推定分岐年代は研究により幅があり、473000~445000年前頃とも744000年前頃とも推定されていますが、SH集団の43万年前頃という年代が妥当だとすると、遅くとも50万年前頃には分岐していたと考えられます。デニソワ人は現代人の祖先の一部とも交雑し、現代人ではアジア南部・南東部・東部やオセアニア集団のゲノムにおいてデニソワ人の遺伝的影響が確認されているので、デニソワ人は広範な地域に分布していた、と考えられます。とくにパプア人やオーストラリア先住民(サフルランド集団)のゲノムではデニソワ人の遺伝的影響が強く見られます。また、アジア東部の現代人にもわずかながらデニソワ人の遺伝的影響が見られ、現代人のゲノム解析から、複数系統のデニソワ人が一部現代人の祖先集団と交雑した、と推測されています。アジア東部の更新世現生人類のゲノム解析からも、アジア東部現代人集団の祖先と交雑したデニソワ人は、サフルランド集団の祖先と交雑したデニソワ人とは異なる系統だった、と推測されています(関連記事)。以上のデニソワ人に関する昨年(2019年)5月頃までの情報は、当ブログでまとめています(関連記事)。

 白石崖溶洞は、チベット高原北東端の海抜3280mに位置する石灰岩洞窟です。白石崖溶洞では3ユニット(T1・T2・T3)の発掘が計画され、T2では10層が特定されました。全ての層で石器と動物化石が発見されました。石器の予備的分析では、石器はほぼ全て、地元の変成石英砂岩と角岩礫を用いて、単純な石核および剥片技術により製作された、と示唆されます。動物化石は、第1~第6層ではガゼルやマーモットやキツネといった小型から中型の種が優占するのに対して、第7層~第10層ではサイや大型ウシ科のような大型種が優占します。これが生態系の変化に起因するのか、それとも白石崖溶洞の人類の獲物選好が変わったためなのか、今後の研究の進展が注目されます。

 ユニットT2の年代は、堆積物の光学的年代測定法と断片的な14個の骨の放射性炭素年代測定法により推定されました(図2)。第10層は190000±34000~129000±20000年前にかけて蓄積され、その後、第9層から第6層は96000±5000年前までにかけて、比較的急速に蓄積されます。第5層の年代は得られていませんが、前後の層の年代から、その間隔は24000~39000年と推定されます。第5層の堆積物は白石崖溶洞の河川環境を示しており、10万~6万年前頃に堆積物を除去した浸食事象を表しているかもしれません。第4層は66000±6000~47000±2000年前の間に蓄積されました。第4層の中間には7000~18000年の堆積休止期間があった、と確認されました。第3層は46000±2000~33000±1000年前の間に蓄積されました。第3層と第2層では年代値がかなり異なるなど、複雑な層序形成が示唆されます。以下、ユニットT2の層序と年代を示した本論文の図2です。
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 第1層と第5層を除く各層の堆積物で古代DNAの抽出が試みられ、第8層と第9層(第2・3・4・6・7・10の各層)を除いて哺乳類のmtDNAが確認されました。第4・6・7・10層では、絶滅したハイエナやサイ(どちらも第10層で特定されました)を含む1万年前頃以降にはこの地域に存在しなかった動物種のDNAが検出されました。これらの非ヒト動物の詳細なDNA解析・比較も今後進んでいき、各種の進化・拡散の理解に寄与すると期待されます。

 人類のmtDNAは第2・3・4・7層で確認され、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と43万年前頃のSH個体と比較されました。これらのmtDNA断片は、デニソワ人(31~95%)やネアンデルタール人(0~14%)やSH個体(0~3.7%)や現生人類(0~67%)と一致します。古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換を伴うmtDNA断片に分析を制限すると、現生人類と一致する割合は0~43%に減少し、デニソワ人と一致する割合は71~100%に増加します。現代人の汚染の影響を減らすため、その後の分析では脱アミノ化したmtDNAに限定し、デニソワ人のmtDNA断片よりずっと少なくとも、現生人類のmtDNA断片がわずかに脱アミノ化された2ライブラリを除外しました。各層の人類のmtDNAの網羅率は、第2層が0.37倍、第3層が1.5倍、第4層が40倍、第7層が1.3倍です。堆積物から回収されたmtDNAは複数個体に由来する可能性があり、少なくとも充分なmtDNA断片が得られた第4層には当てはまります。ただ本論文では、各層のmtDNAの平均的な関係が測定されます。

 これら第2・3・4・7層のmtDNAは、デニソワ洞窟のデニソワ人4個体(デニソワ2・3・4・8)およびSH個体と比較され、系統樹が推定されました。比較的高品質の第4層のmtDNAはデニソワ人の変異内に収まり、10万年前以降と推定されるデニソワ3・4とクレードを形成します。これに対して、10万年以上前と推定されるデニソワ2・8は異なるクレードを形成します。白石崖溶洞ユニットT2の低品質のmtDNAのうち、第2層と第3層は第4層とクレードを形成しますが、第7層は、デニソワ2・8のクレードと分岐した後、第2・3・4層およびデニソワ3・4のクレードとは早期に分岐します。これらの結果から、白石崖溶洞ユニットT2の堆積物から得られたmtDNAは、デニソワ2・8クレードと早期に分岐し、デニソワ3・4とクレードを形成する、と示されます。

 第4層の下部の堆積年代は6万年前頃で、76200~51600年前頃のデニソワ3および84100~55200年前頃のデニソワ4とは近接しています。第7層の堆積年代は108000~97000年前で、デニソワ3・4よりも古いものの、194400~122700年前頃のデニソワ2および136400~105600年前頃のデニソワ8よりは新しいことになります。デニソワ人のmtDNAは第2層と第3層の堆積物でも確認されましたが、再堆積を考慮すると、その堆積年代(5万~3万年前頃)と関連づけることは根拠薄弱です。したがって、白石崖溶洞のデニソワ人が、チベット高原に現生人類が到来する4万~3万年前頃に到来する(関連記事)まで生存していたのか、まだ確定的ではありません。以下、デニソワ人とSH個体のmtDNA系統樹を示した本論文の図4です。
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 これらの知見は、デニソワ人が白石崖溶洞に10万年前頃と6万年前頃に存在していたことを示します。あるいは、デニソワ人はチベット高原に45000年前頃以降にも存在していたかもしれませんが、それはともかく、これらの知見は、デニソワ人が後期更新世にアジアに広く分布していたことを確証します。夏河下顎も含めて考えると、チベット高原における長期の居住が示唆され、この人類は高地環境に適応するようになっていたかもしれません。現代チベット人の遺伝的な高地適応に関しては、デニソワ人から遺伝子移入されたハプロタイプとの関連が指摘されています(関連記事)。デニソワ人はチベット高原のような高地に長期間存在しており、高地適応関連の遺伝子多様体が選択されたのではないか、というわけです。

 ただ、高地適応と関連したEPAS1遺伝子がデニソワ人からチベット人の祖先集団にもたらされたのは4万~3万年前頃と推定されていますが、それがすぐに有益なアレル(対立遺伝子)として選択対象になったのではなく、もっと最近になってから有益なアレルとして選択されていった、とも推測されています(関連記事)。これは現代チベット人の形成過程(関連記事)とも関連しており、チベット高原の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。

 本論文は、デニソワ人がチベット高原にも古くから存在し、あるいは現生人類とも共存した可能性がある、と示した点でたいへん注目されます。デニソワ洞窟のデニソワ人のmtDNA解析からは、古いデニソワ人(デニソワ2・8)と新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とが、少なくとも母系では祖先子孫関係にはない、と示唆されます。一方、白石崖溶洞のデニソワ人は、母系では新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とクレードを形成します。これは、デニソワ人の生息範囲とも関わってくるかもしれません。人類のデニソワ洞窟の利用は断続的だったと指摘されており(関連記事)、デニソワ人は長期間アルタイ山脈に存在し続けたのではなく、時に撤退するか絶滅し、その後で異なるデニソワ人系統がアルタイ地域に拡散してきたのかもしれません。チベット高原も同様で、デニソワ人が長期間居住し続けたのではなく、撤退もしくは絶滅と再拡散を繰り返していた可能性も考えられます。

 ただ、デニソワ人において高地適応への選択圧があったのだとすると、長期間チベット高原に存続し続けた可能性は高そうです。実際にはどうだったのか、白石崖溶洞の石器と非ヒト動物遺骸の詳細な年代分析により、解明が進むと期待されます。仮にチベット高原がデニソワ人にとって長期的な生息範囲ではなかったとすると、おそらくは華北や華南(やアジア南東部)がデニソワ人の「本拠地」で、そこからチベット高原やアルタイ山脈に時として拡散していったのでしょう。中国では中期~後期更新世の石器や分類の曖昧な複数のホモ属遺骸が発見されており、その中にデニソワ人もいるかもしれません。たとえば、河北(Hebei)省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸です(関連記事)。また、台湾沖で発見されたホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎との類似性からデニソワ人の可能性が指摘されています。

 また本論文は、堆積物からの古代DNA研究の応用範囲を10万年前頃まで拡張したという点で、たいへん意義深いと思います。イスラエルでも中部旧石器時代層の堆積物から非ヒト動物のmtDNA断片が回収されており(関連記事)、かなりの低緯度地域でも5万年以上前の人類のDNA解析が可能ではないか、と期待されます。日本列島のように更新世の人類遺骸がきょくたんに少ない地域でも、更新世人類のDNA解析が可能となれば、人類進化史、さらには現代人の形成史の解明に大きく貢献できそうですから、研究の進展がひじょうに楽しみです。


参考文献:
Zhang D. et al.(2020): Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau. Science, 370, 6516, 584–587.
https://doi.org/10.1126/science.abb6320

大河ドラマ『麒麟がくる』第30回「朝倉義景を討て」

 1569年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)夏、明智光秀(十兵衛)は美濃へと向かい、織田信長を訪ねます。光秀は木下藤吉郎(豊臣秀吉)から、松永久秀や三淵藤英も信長に呼ばれており、朝倉との戦になるのではないか、と聞かされます。光秀は岐阜城で、帰蝶・奇妙丸(織田信忠)と再会し、信長が朝倉との戦を迷っている、と帰蝶から聞かされます。帰蝶は、斎藤龍興が朝倉を唆して美濃への帰還を画策していることから、信長に朝倉攻めを進言していました。織田単独で朝倉を倒すのは難しいと考える信長は光秀との会話から、天皇を動かそうと考えます。1570年2月、信長は上洛して正親町天皇に拝謁し、畿内静謐のための軍事行動の勅命を得ることに成功します。摂津晴門から信長が朝倉討伐を計画していると聞かされた朝倉義景は織田との全面的な戦いを決意します。しかし、摂津晴門も三淵藤英も織田の朝倉攻めに反対し、多くの大名から幕府は支えられるべきと主張します。

 今回は、信長が朝倉を攻める大義名分として天皇を動かすところが描かれました。本作では、近衛前久の出番も多く、二条晴良も重要人物のようなので、これまでの信長が重要人物だった大河ドラマと比較して、朝廷が重要な役割を果たすようです。正親町天皇がどのような人物なのか、まだよく描かれていませんが、大物を起用しているだけに、今後信長との関係で重要な役割を果たすのではないか、と期待されます。本能寺の変には朝廷が関わっていた、という話になるのでしょうか。帰蝶は久々の登場となりますが、実質的には架空人物なので、いつ退場しても不思議ではありません。帰蝶も本能寺の変と関わってくるのか、注目されます。

川田稔『木戸幸一 内大臣の太平洋戦争』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、表題にあるように、おもに太平洋戦争期とそこへ至るまでの木戸幸一を満洲事変の頃から取り上げており、前半生は簡潔に言及されています。木戸は戦前・戦中期の昭和天皇の側近の代表格的人物で、昭和天皇の補佐を誤ったとして、一般的にはきわめて評判が悪いように思います。その代表例が、近衛文麿の後継首相として東条英機を昭和天皇に推挙したことです。本書はそこへと至る木戸の決断、さらには太平洋戦争中の木戸の言動を検証します。

 木戸は学習院初等科で近衛文麿・原田熊雄と知り合い親しくなり、この三人の関係は後々まで続きます。木戸は商工省に勤めつつ貴族院議員となり、欧米に出張もしています。1930年、木戸は近衛から打診を受けて内大臣秘書官長に就任します。当時の内務大臣は、昭和天皇の側近の初期の代表格だった牧野伸顕でした。内大臣秘書官長時代の木戸にとってまず大事件となったのは、満洲事変でした。首相の若槻礼次郎は関東軍を抑えるために宮中工作に乗り出しますが、木戸は、内閣が対応すべきと言って拒否します。他の天皇側近の働きかけによる天皇の不拡大発言にも、木戸は否定的でした。木戸は鈴木貞一など一部軍人とも親しく、そのため軍部の情報をいち早く入手できましたが、一方で軍部への配慮から、宮中から陸軍への抑制的働きかけを警戒していました。木戸は、軍部には明確な「国策」があるが内閣にはない、と考えて「軍部善導論」を支持していました。政治家は平和を維持に専念し、不拡大主義を採っているが、それは「計画」とは言えず、「国策」ではない、というわけです。木戸は平和維持・不拡大主義に否定的でした。政治家は不況など日本の苦境に有効な対策をとれていない、というわけです。こうした木戸の認識は、近衛とも共通するところがありました。

 内大臣秘書官長時代の木戸にとって、満洲事変と共に重大だったのは二・二六事件でした。木戸は直後からクーデター鎮圧を主張し、それが採用され、昭和天皇は暫定内閣も認めない厳しい姿勢を示し、クーデターは失敗します。木戸は二・二六事件における功績を高く評価され、後に内大臣に就任する一因となりました。1936年6月、木戸は内大臣秘書官長を辞任します。これは、二・二六事件での対応を筆頭に精神的疲労が蓄積されていたからでした。木戸は一時的に政界から離れますが、広田内閣末期に、西園寺公望の要請により、首相推薦の制度変更に関わります。すでに唯一の元老となって久しく、高齢の西園寺は、軍部の意向が組閣を左右する状況に、後継首相の下問にさいして自らの信念に従って奉答はできないと考えました。木戸は、次期首相の下問にさいして、内大臣が元老と協議のうえ奉答し、そのさい「重臣その他」との協議は制限されない、との案を提示し、西園寺と昭和天皇に了解されました。これにより、後継首相選定の主導的役割を内大臣が担うことになりました。

 1937年10月、木戸は近衛内閣の文部大臣に就任し、政界に復帰します。近衛内閣の重要案件だった日中戦争と講和交渉に、木戸は否定的でした。しかし、日中戦争の早期解決の目処が立たず、近衛内閣も講和交渉に傾き、内閣改造などにより対応しようとしますが、結局挫折し、気力を失った近衛は辞職します。この間、木戸は注目すべき昭和天皇評を原田に漏らしています。昭和天皇は「科学者としての素質が多すぎる」ので右翼への同情がなく困る、というのです。これは、日独伊三国軍事同盟を巡る交渉にも表れており、米英との対立を懸念して同盟締結に慎重な昭和天皇に対して、木戸は同盟締結推進派でした。しかし、独ソ不可侵条約の締結により、日本では日独伊三国軍事同盟への動きが一旦頓挫します。1940年6月、木戸は内大臣に就任します。上述のように木戸は陸軍に親和的でしたから、陸軍は木戸の内大臣就任を歓迎しました。また、近い次期の再組閣を構想していた近衛は、親しい木戸が内大臣に就任することで宮中に拠点ができることから、木戸の内大臣就任を後押ししたようです。

 1940年、ドイツ軍のヨーロッパ西方での快進撃を見た日本陸軍は、アジア南東部のイギリス植民地の奪取を本格的に計画し始めます。その中心となった武藤章は、イギリスがドイツに敗れればアメリカ合衆国は介入してこないだろう、と予測しました。武藤は日本とアメリカ合衆国との国力差を認識しており、対米戦は避けようとしていました。独ソ不可侵条約の締結により、一旦は挫折した日独伊三国軍事同盟構想ですが、南進の前提としてソ連との条約締結も含めて、再び推進の機運が高まりました。日独伊三国軍事同盟に否定的な米内内閣は陸軍の圧力に崩壊確実となり、この時点で木戸は、近衛の再組閣を前提に新たな首相選出法を昭和天皇に上奏して採可されます。これは、まず天皇より内大臣に対して、枢密院議長・首相経験者の意見を徴し、元老と相談のうえで奉答するよう命じ、内大臣がこれらの人々と宮中で一同に会して協議し、そのうえで内大臣は元老と相談して奉答する、というものです。これにより、首相選出において元老の役割が大きく低下しました。唯一の元老の西園寺は近衛の再登板に否定的でしたが、近衛が再度首相に就任することになりました。近衛内閣で日独伊三国軍事同盟が締結されます。木戸は戦後、日独伊三国軍事同盟に反対だった、と述べていますが、本書は疑問を呈します。

 1941年6月22日、独ソ戦が始まります。これは、木戸も近衛も容認して積極的に推進していた、独伊と結合し、ソ連と提携して米国を牽制しつつ、南方に武力侵出する、という基本的構想の破綻を意味しました。じっさい、日ソ中立条約により、対独戦のさいに日本の参戦を警戒する米国は、日本との妥協もある程度考慮していましたが、独ソ戦が始まる直前にドイツのソ連侵攻が確実と判断すると、対日方針が大きく変わっていきます。木戸は、独ソ戦が始まる直前に独ソ間の緊張関係を知ると、日独伊三国軍事同盟とはしばらく距離を置き、独伊との友好関係を維持しつつ、米国との軍事的対立を避け、日米諒解案を基本的に受け入れたうえで、じょじょに蘭印に非軍事的な方法で勢力を浸透させるか、南部仏印に進駐して将来の南方武力行使に備える、と考えるようになりました。

 独ソ戦が始まった翌月に南部仏印進駐が実行されると、米国は対日全面禁輸を実施しますが、木戸も含めて日本の指導層はこれを全く予想していませんでした。米国政府内でも、ルーズヴェルト大統領をはじめとして対日戦を決定づけかねない対日全面禁輸に慎重な意見はありましたが、独ソ戦初期にソ連軍はドイツ軍に圧倒され、ソ連軍の崩壊を恐れた米国は、対日戦も覚悟のうえで、日本を南方に向かわせてソ連攻撃を回避させようとしていました。木戸はこの情勢変化を踏まえて、日米国交調整と対独友好関係維持は両立できる、との見解を変え、米国との関係改善に大きく方向転換し、それは近衛も同様でした。木戸も近衛も、対米全面譲歩を考え、近衛は日米首脳会談に臨もうとします。しかし、日米首脳会談は実現せず、開戦決定の期日を定められ追い詰められた近衛は辞任します。

 木戸は近衛が辞職に傾いていることを知りつつ、まだ近衛内閣での事態打開を模索していましたが、1941年10月16日、木戸にとって唐突に近衛内閣は総辞職します。この前後、皇族内閣案も出ていましたが、木戸は反対していました。もし日米交渉が妥結せず対米戦となり敗れれば、皇室が国民の恨みを買って皇室の存続が問われるかもしれない、と木戸は恐れていました。木戸は重臣会議で近衛の後継首相として東条を推薦し、東条が首相に就任しますが、そのさいに9月6日の御前会議決定の白紙還元を東条に求めました。東条もこの木戸の考えに同調していたため、木戸は東条を首相に推薦したわけです。木戸は、海軍が開戦への不同意姿勢継続を示すことによる、戦争回避を考え、開戦か避戦か内心では迷っていた東条も同様でした。しかし、東条内閣で嶋田海相が開戦容認の姿勢を示したため、木戸の構想は破綻します。

 結局、1941年12月8日、日本は米英と開戦しました。木戸は、東条内閣成立に責任があると感じていたこともあり、東条内閣を基本的には支えました。しかし、日本もドイツも戦況が不利となり、イタリアが降伏すると、東条内閣が講和に動こうとしないため、ソ連の仲介による講和を考えるようになります。それでも東条内閣を支え続けた木戸ですが、1944年4月頃には反東条内閣に立場を変えていました。1944年7月、東条内閣は倒れ、小磯内閣が成立しますが、陸軍では統制派が実権を掌握しており、講和への動きは進みませんでした。講和への動きが実質的に進まないまま小磯内閣は総辞職し、1945年4月、鈴木内閣が成立します。

 終戦へと至る過程での木戸の果たした役割は、昭和天皇への助言など小さくはありませんでしたが、後世から見ると、危機感というか切迫感に欠けるところがあります。しかし、当時の日本の指導層の大半から逸脱しているほどでもなく、結局のところ、原爆とソ連参戦という強力な外圧がなければ、日本が降伏することは難しかったかもしれません。本書は最後に、木戸は「貴族」だった、という評価を取り上げていますが、それが最も簡潔で的確な木戸への評価なのかもしれません。木戸の皇室への忠誠、さらには皇室存続のために国民の安寧幸福を願う心情は本物だったのでしょうが、敗戦へと至る道を回避できませんでした。本書からは、木戸の見通しの甘さや胆力のなさのようなものも感じますが、木戸が国家の指導層として特別無能だったわけでも卑怯だったわけでもなく、優秀な人でもこのような誤りは犯しやすいものだと思います。素朴な常識論になってしまいますが、大日本帝国の敗戦のような大きな出来事を個人の器量で語ってはならず、制度・社会構造の中での組織・個人の選択という観点で考えていかねばならないのでしょう。

横浜市の称名寺貝塚遺跡の人類遺骸のmtDNA解析

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、横浜市の称名寺貝塚遺跡の人類遺骸のmtDNA解析に関する研究(Takahashi et al., 2020)が公表されました。称名寺貝塚遺跡は、縄文時代後期初頭の考古学的指標とされる称名寺式土器で有名です。2017年の発掘では、人類遺骸を伴う25の土坑墓が発見されました。これらの人類遺骸には、年代の指標となる副葬品が共伴していなかったので、全標本で放射性炭素年代測定法が用いられました。ほとんどの人類遺骸の年代は、縄文時代後期初頭となる4000年前頃(以下、紀元後1950年を基準と下較正年代)です。縄文時代遺骸の上で発見された2個体の年代は、それぞれ平安時代と古墳時代開始期(ほぼ弥生時代終末期)でした。

 最近の研究では、「縄文人(縄文文化の遺跡で発見された人々)」は現代日本人(おもに本州・四国・九州とその近隣の島々から構成される「本土」個体群)を含むどの既知の古代および現代人集団とも遺伝的にかなり異なる、と明らかにされつつあります(関連記事)。これは、日本「本土」の人類集団において、いつ遺伝的構成の劇的な変化が起きたのか、という問題を提起します。縄文時代と古墳時代と平安時代の人類遺骸が発見されている称名寺貝塚遺跡は、この問題の解明に寄与する手がかりを提供できるかもしれません。そこで本論文は、称名寺貝塚遺跡の人類遺骸の放射性炭素年代測定とミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果を報告します。

 土坑墓13基のうち11基は、4417~3712年前と、縄文時代後期(4420~3400年前頃)の範囲に収まりました。土坑墓1は965~823年前の平安時代(紀元後11世紀初頭)、土坑墓2は1694~1544年前の古墳時代(紀元後3~4世紀後半)と推定されました。mtDNA解析は、土坑墓13基のうち9基で発掘された人類遺骸において成功し、mtDNAハプログループ(mtHg)が決定されました。mtHgは、平安時代個体(土坑墓1)がB5b3a、古墳時代個体(土坑墓2)がB4fです。縄文時代の7個体のmtHgは、土坑墓9がD4b2、土坑墓13がM7a1、土坑墓14がM7a2、土坑墓15がM7a2、土坑墓17がN9b、土坑墓21がN9b、土坑墓23がM7a1です。

 古墳時代以前の関東地方の人類のmtDNAデータはまだひじょうに限定的なので、これらのデータは有益です。称名寺貝塚の縄文人のmtHgは、D4b2とM7a1とM7a2とN9bです。土坑墓13と23、土坑墓14と15、土坑墓17と21は同じmtHgなので、共通の母系に属していたかもしれませんが、現時点でのデータからはより詳細な親族関係を推測できません。これら称名寺貝塚の縄文人のmtHgは、すでに他の縄文人でも確認されています。

 しかし、称名寺貝塚の平安時代個体(土坑墓1)で確認されたmtHg-B5b3aと、古墳時代個体(土坑墓2)で確認されたmtHg-B4fは、これまで縄文人では確認されていません。少なくとも称名寺貝塚の人類遺骸でmtHgが決定された個体に関しては、縄文時代と古墳時代および平安時代とで、母系ではつながっていないことになります。これは、少なくとも称名寺貝塚遺跡では、古墳時代もしくはその前に、本土日本人の遺伝的移行が起きたことを示唆します。ただ、mtHg-B5b3aおよびB4fは、弥生時代および古墳時代の他遺跡の個体でもまだ確認されていません。そのため、称名寺貝塚遺跡の人類遺骸で確認されたmtHg-B5b3aおよびB4fは、現時点ではそれぞれ日本最古の事例となります。mtHg-B5b3aおよびB4fは現代本土日本人では頻度で、それぞれ0.08%と0.03%です。

 本論文の知見は、mtHg-B5b3aおよびB4fが、日本列島の人類集団のmtHgの代表ではないことを示唆します。さらに、これらのmtHgは、縄文時代以来日本列島集団において低頻度で存在している可能性もあります。それは、遺伝的に分析された縄文人の個体数が、稀なmtHgを検出するには充分ではないからです。日本列島でmtHg-B5b3aおよびB4fが出現する時期を明らかにするには、より古い人類遺骸を分析する必要があります。さらに、縄文時代と現代との間の遺伝的移行の可能性を確認するために、称名寺貝塚遺跡個体群の核ゲノム解析も行なう必要があります。

 本論文は、同じ遺跡の縄文時代と古墳時代と平安時代の人類遺骸のmtDNA解析結果を報告している点で、たいへん注目されます。本論文が指摘するように、称名寺貝塚遺跡において、縄文時代の7個体と古墳時代および平安時代のそれぞれ1個体とがmtHgでは異なることから、縄文時代と現代との間に起きた、日本列島本土における人類集団の大きな遺伝的構成の変化が、関東地方では古墳時代もしくはその前の弥生時代におきた、と示唆されます。一方で、本論文が指摘するように、mtHg-B5b3aおよびB4fは縄文時代の後に日本列島にアジア東部大陸部から到来した系統ではなく、縄文時代から低頻度で存在し続けた可能性も考えられます。称名寺貝塚遺跡の個体群の核ゲノム解析ではどのような結果が得られるのか、たいへん注目されます。


参考文献:
Takahashi R. et al.(2019): Mitochondrial DNA analysis of the human skeletons excavated from the Shomyoji shell midden site, Kanagawa, Japan. Anthropological Science, 127, 1, 65–72.
https://doi.org/10.1537/ase.190307

神経堤細胞の多様化を促進したエンドセリン経路の進化

 エンドセリン経路の進化と神経堤細胞の多様化に関する研究(Square et al., 2020)が報道されました。魚は最初の脊椎動物で、そこからヒトを含む他のすべての脊椎動物が進化しました。しかし、最初の魚が進化した直後の化石記録にはギャップがあり、それは小さく柔らかい骨格のために化石記録に保存されていなかったからです。そこで、化石ではなく、分子生物学や遺伝学などを使用して、遺伝子古生物学のように、進化がどのように起こったのか、解明されるようになりました。

 この研究で取り上げられた神経堤細胞(NCC)は移動性の多能性胚細胞であり、脊椎動物に固有で、クレード(単系統群)を特徴付ける成体の特徴の数々を形成します。NCCの進化は、新たな遺伝子調節ネットワークの進化、遺伝子のde novo進化、ゲノム規模の重複事象におけるパラログ遺伝子の増幅など、さまざまなゲノム事象と関連づけられてきました。しかし、新規遺伝子や重複遺伝子とNCCの進化とを結びつける決定的な機能的証拠はまだありません。エンドセリンリガンド(Edn)とエンドセリン受容体(Ednr)は脊椎動物に固有で、有顎類(顎口類)のNCC発生の複数の局面を調節します。

 この研究は、Ednシグナル伝達の進化がNCC進化の駆動要因だったかどうか調べるため、ヤツメウナギ類のウミヤツメ(Petromyzon marinus)のednとednrとdlx遺伝子を、CRISPR–Cas9による変異誘発を用いて破壊しました。ヤツメウナギ類は無顎魚類で、約5億年前に現生の有顎類と最終共通祖先を共有していました。したがって、ヤツメウナギ類と有顎類の比較から、脊椎動物発生の高度に保存されており、進化的に柔軟な特性を明らかにできます。これらの遺伝子を取り除くと、幼生の発育中にウミヤツメがより無脊椎動物のようなワームに戻り、進化の祖先になるだろう、というわけです。

 この研究は、アフリカツメガエル(Xenopus laevis)を用いて有顎類の系統発生学的表現を拡張するとともに、並行解析を容易にすることで、Ednシグナル伝達の古代の役割と系統特異的な役割を特定しました。これらの知見は、脊椎動物ゲノムの重複が起こる前から、Ednシグナル伝達がNCCで活性化されていたことを示唆しています。また、脊椎動物の基部で1回以上のゲノム規模重複が起きた後、パラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)のEdn経路は機能的に分岐し、その結果、Ednシグナル伝達の異なる必要条件を持つNCC亜集団が生じました。

 この発生の新たなモジュール性が、ステム群脊椎動物におけるNCC派生細胞の独立した進化を促したと、この研究は推測します。この見解と一致して、Edn経路の標的の違いは、ヤツメウナギ類と現生有顎類の、口腔咽頭骨格と自律神経系に見られる違いと関連づけられました。まとめると、これらの知見は、新たな脊椎動物遺伝子の起源や重複と、特徴的な脊椎動物の新規性の段階的な進化とを結びつける機能的な遺伝学的証拠を提供しています。


参考文献:
Square TA. et al.(2020): Evolution of the endothelin pathway drove neural crest cell diversification. Nature, 585, 7826, 563–568.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2720-z

アフリカ東部の環境変化と中期石器時代への移行

 アフリカ東部の環境変化と中期石器時代への移行に関する研究(Potts et al., 2020)が報道されました。環境変化と人類の進化を結びつける仮説は、地球規模もしくは地域規模の気候変化と主要な進化基準との間の時間的相関に焦点を当ててきました。アフリカにおける人類の進化に関しては、軌道周期による乾燥化や湿潤化や気候変動の増加が、どのように人類の適応や種分化の出現と一致し、それが始まるのか、特定することが一つの手法です。

 しかし、これらの一般的な古気候仮説のいずれかが、人類進化における重要な移行を説明するのか、まだ明らかではありません。今も続く課題は、気候と環境の記録を、エネルギー獲得に不可欠でありながら、生物の既存の適応戦略を損なうかもしれない変化の影響を受けやすい、水の利用可能性や食料や他の生態資源と結びつけることです。本論文では、南ケニア地溝帯において、高解像度の掘削コアデータを近隣の盆地からの露頭記録と統合し、この地域の基本的な考古学的および古生物学的変化の期間に、景観規模の生態資源の変化がどのように人類の適応に影響を及ぼしたのか、調べられます。

 ケニア南部のクーラ(Koora)盆地のオロルゲサイリー(Olorgesailie)掘削計画では堆積物が回収され、水利用可能性や植生や全体的な資源景観の変化の証拠が提供されます。これらの変化は、近隣のオロルゲサイリー盆地で記録されている、アシューリアンの消滅および中期石器時代技術によるその置換と関連しています。オロルゲサイリー盆地では、既知のアフリカ東部の証拠では最古となる、アシューリアン(握斧や他の大型切削石器により定義されます)の永久的な喪失と、中期石器時代の行動革新の出現が示されます(関連記事)。この移行には、新たな技術、相互接続された社会的集団間の資源交換を示唆する長距離の黒曜石移動、強化された象徴的能力と関連するかもしれない着色材の使用が含まれていました。

 ケニア南部の地溝帯におけるこれら行動革新の始まりは、50万~32万年前頃に起きました。現生人類(Homo sapiens)の最も深い分岐の年代は35万~26万年前頃と推定されており(関連記事)、最古の現生人類化石と広く認められているのは、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された32万~30万年前頃の個体で(関連記事)、オロルゲサイリー盆地におけるアフリカ東部では最古の中期石器時代の証拠と一致します。この時点でアフリカには、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)的な人類やホモ・ナレディ(Homo naledi)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)が存在しましたが、どちらも中期石器時代の人工物とは関連づけられていない一方で、現生人類は中期石器時代の人工物と広く関連づけられています。397000~334000年前頃となるケニア南部のレイニャモク(Lainyamok)遺跡の人類遺骸(保存状態の悪い歯と大腿骨骨幹部)は、早期現生人類と計量的に一致しているものの、他には古代型ホモ属と現生人類との区別ができません。アフリカ東部の中期更新世後期の他のホモ属頭蓋は、通常現生人類と古代型ホモ属の特徴の混在を示しますが、その年代は曖昧です。

 本論文は、中期石器時代もしくは現生人類の起源がケニア南部地溝帯にあるとは想定していません。しかしケニア南部は、中期石器時代の行動革新がアシューリアン(アシュール文化)と永久的に置換したことを示し、正確な年代を有する地域としては最古の記録を提供します。ケニア南部の地溝帯では、394000~320000年前頃となるアシューリアンから中期石器時代への移行期には、哺乳類において大規模な85%もの置換が起きました。この置換では、以前は優勢だった大型草食動物(体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物であるグレーザー)が消滅する一方で、より小型で水に依存しない、グレーザーや低木の葉・果実を食べるブラウザーのような草食動物が増加しました。

 オロルゲサイリー盆地の露頭記録で50万~32万年前頃に侵食が中断し、この期間に上述の行動と動物相の移行が起きます。そこで、この重要な空白期間のデータを得るため、オロルゲサイリー盆地に隣接し、そのすぐ下流(南へ約24km)にあるクーラ盆地の掘削コアにより、高解像度の環境データを保存している堆積物が回収されました。139mのコアは、アルゴン-アルゴン法に基づき、1084000±4000~83000±3000年前と推定されました。これから得られたデータは、広範な地域の植生や岩質や水文を反映しています。

 オロルゲサイリー盆地の人類が用いた石材は、オロルゲサイリー盆地よりもずっと広範な資源獲得を示します。中期石器時代技術で使用される黒曜石は、オロルゲサイリー盆地から25km~95kmの範囲の複数の方向の地点に位置する火山露頭源から輸送されていますが、対照的に、アシューリアン石器群に典型的な石材の輸送は5km以内です。これらのデータを地域の地殻変動および景観区画の証拠と統合することにより、高い地質年代学的解像度で、変化する資源景観の連続を人類の行動および動物相の重要な移行と結びつける枠組みが提供されます。

 民族誌的観察では、食性や狩猟採集範囲や集団移動性や規模は、適応的特徴の中で、環境条件と体系的に関連している、と示されます。また狩猟採集民は、資源の予測不可能性と危険が高まる状況において、技術への投資を増やし、資源獲得の範囲を拡大し、遠方の社会的同盟と交換ネットワークに依存する傾向にある、と報告されています。現代の狩猟採集民におけるこうした反応が、オロルゲサイリー盆地の中期石器時代の考古学的革新と相似していることを考慮すると、資源の予測可能性の低下が、ケニア南部地溝帯における中期石器時代の適応の早期出現における要因だったかもしれない、との仮説を検証するため、コアの記録が調査されます。具体的には、現生人類の狩猟採集民の観察された適応的反応の出現をより広く形成したかもしれない生態学的要因である、資源の変動性が増加している期間に、この地域で中期石器時代の行動がアシューリアンを置換したのかどうかです。

 クーラ盆地の掘削コアデータは、100万~40万年前頃の安定した期間の後に、気候と生態の変動が大きくなったことを示します。たとえば、乾燥期は40万年以上前にも起き、78万~59万年前頃に集中していますが、47万年前頃までの約53万年前間のうち5%ほどの長さにすぎず、47万年前頃まで淡水の利用可能性は高かった、と推測されます。47万年前頃以降、乾燥期が増加し、50万~30万年前頃には8回の乾燥期があり、そのうち5回は5000年程度続いたと推測されます。30万年前頃以降も乾燥期は頻繁に訪れますが、各期間は50万~30万年前頃よりも短くなります。

 こうしたクーラ盆地における変化をまとめると、47万年前頃から始まるものの、40万年前頃から大きく変わっていき、30万年前頃に次の大きな変化があります。まず湖の水深は、47万年前頃までほぼ一貫して中間の深さですが、47万~40万年前頃に浅くなり、40万年前頃には変動するようになり、30万年前頃以降は浅いか変動を示すようになります。水質は、47万年前頃まではおもに淡水ですが、47万~40万年前頃は塩水となり、40万年前頃以降は淡水と塩水の間で変動するようになります。景観は、40万年前頃までは草原地帯に森林が散在するサバンナ的なものでしたが、40万年前頃以降、森林と草原の混在から森林地帯へと変化し、25万年前頃以降は森林と草原の間で変動するようになります。草は、40万年前頃までは短いものが優占しましたが、40万年前頃以降は高い草へと移行していき、25万年前頃以降は高い草が優占します。資源は、47万年前頃までは比較的利用可能性が高いものの、それ以降は利用可能性が急速に変化し、時として乏しくなります。15万年前頃以降も、資源の利用可能性は変動を示します。また、40万年前頃以降に火山構造活動が活発化したことも指摘されています。

 オロルゲサイリー盆地では、上述のように50万~32万年前頃のデータが欠けているので、その前後の変化となりますが、動物相でも人類の行動でも大きな違いが見られます。動物相では、大型動物が減少し、以前には確認されなかった23kg未満の小型動物の割合が一気に増加します。水に依存しない動物も増え、食性では、おもに草本を採食する動物であるグレーザーが減り、多様化します。動物は全体的に、環境および資源利用可能性・予測性の変動劇化に対応して、小型化して食性が多様となり、水に依存しない割合が増えました。動物相全体では、この間に85%ほどの置換があった、と推測されます。一方、近隣のマガディ(Magadi)盆地に関しては、35万年前頃以降、現在へと続く比較的持続した乾燥気候が推測されており(関連記事)、本論文は、近隣でありながら、オロルゲサイリー盆地とマガディ盆地との景観の対照性を指摘します。

 オロルゲサイリー盆地の人類の行動も、前期石器時代となるアシューリアンの120万~499000年前頃と、中期石器時代となる32万~295000年前頃とでは、大きく変わりました。石器は、大型のもの、とくに大型切削石器が優占していたアシューリアンから、より小さく多様な中期石器時代技術へと変わりました。石材は、ほぼ全て(98%)地元の火山岩だったのが、地元産だけではなく、25km~95kmの範囲の複数の方向の地点の黒曜石や燵岩(チャート)も使用されるようになりました。顔料の使用は、アシューリアン期では証拠がなく、中期石器時代には確認されています。

 本論文は、こうした景観と動物相の変化に伴う、資源利用可能性・予測性の変動劇化が、前期石器時代から中期石器時代への人類の行動変化をもたらしたかもしれない、と指摘します。動物相は全体的に小型化し、中期石器時代のより小型化した石器はそれに対応しているのではないか、と本論文は推測します。また、環境と資源利用可能性・予測性の変動劇化は、危険性減少のため、顔料の使用といった象徴的な意思伝達により支えられた、広範囲のネットワーク構築につながったかもしれない、と本論文は指摘します。石材の調達は、前期石器時代には5km未満でしたが、中期石器時代には25km~95kmまで拡大しており、これが広範囲のネットワーク構築を反映しているかもしれない、というわけです。

 本論文は、広範な社会的つながりや技術革新といった「現代的行動」をもたらしたものが、環境と資源利用可能性・予測性の変動劇化への適応だったのではないか、との見通しを提示しています。こうした変動性の激しい環境への適応が、現生人類への進化の選択圧になった可能性はあると思います。ただ、現生人類はとくに環境変動劇化への適応力が高かったかもしれませんが、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他の人類も、一定以上環境変化に適応できていた可能性は高いでしょう。ネアンデルタール人はおそらく、ヨーロッパで40万年以上存続したわけで、これは環境変化に一定以上適応できなければあり得なかったでしょう。じっさいネアンデルタール人社会でも、異なる文化間での長距離の石材移動が行なわれた可能性は高いと指摘されており(関連記事)、ある程度は広範な社会的ネットワークが存在した、と推測されます。現在まで生き残ったことから、現生人類の適応力が他の人類との比較で過大評価されているようにも思います。


参考文献:
Potts R. et al.(2020): Increased ecological resource variability during a critical transition in hominin evolution. Science Advances, 6, 43, eabc8975.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abc8975

高齢の野生チンパンジーの社会行動

 高齢の野生チンパンジーの社会行動に関する研究(Rosati et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。社会情動的選択性理論(SST)は、年を取るにつれて人は老い先短いという感覚ゆえに確立されたポジティブな関係を優先させるようになり、新しい友達を作るより最も親密で最も古くからの最も大切な友達と過ごす方を選ぶ、という理論です。こうした傾向は、未来について独自の複雑な論理的思考を行なうと考えられているヒト全体に広く見られますが、この行動が自分の未来の時間に関する明確な感覚により引き起こされているのかどうか、判断は容易ではありません。一部の最近の証拠では、加齢に伴う社会情動的目標の変化は、未来時間展望とは無関係という可能性も示されています。

 この研究は、ヒトとヒト以外の社会性動物の比較研究により、ヒトの社会的行動とその起源が分かるという方法を利用して、ヒトの社会的高齢化の主要要素が野生チンパンジーと共通するのかどうか、調査しました。この研究は、ウガンダのキバレ国立公園で20年間にわたって実施した調査を用いて、15~58歳の野生の雄チンパンジー21頭の社会的交流について報告しました。その結果、若いチンパンジー同士の関係は一方的で敵対しており、高齢のオスのチンパンジーの交友関係は若いチンパンジーのそれより相互的でポジティブだ、と明らかになりました。また、高齢のチンパンジーは単独になりがちではあるものの、大切な社会的パートナーとの交流も多めと明らかになりました。この結果は、社会的選択性の強化は未来時間展望が充分ではない状態で起こり得ることを示しています。このような行動様式は、ヒトという種を超えて一般的だと考えられ、よく発達した時間概念や寿命についての自覚には依存しない可能性がある、というわけです。


参考文献:
Rosati A. et al.(2020): Social selectivity in aging wild chimpanzees. Science, 370, 6515, 473–476.
https://doi.org/10.1126/science.aaz9129

クローヴィス文化の年代

 クローヴィス(Clovis)文化の年代に関する研究(Waters et al., 2020)が報道されました。本論文はクローヴィス文化の各遺跡の信頼性が高い年代を提示していてたいへん意義深く、今後の研究で長く参照されるでしょう。長い間、アメリカ大陸における最古の文化はクローヴィスで、クローヴィス文化からその後の南北アメリカ大陸の技術が派生した、と考えられてきました(クローヴィス最古説)。クローヴィス文化は、両面石器や披針形縦溝彫り尖頭器(lanceolate fluted projectile point)や石刃石核や石刃や骨器により特徴づけられます。しかし、クローヴィス文化以前の文化が南北アメリカ大陸で見つかったため、クローヴィス最古説は今では否定されています(関連記事)。

 しかし、クローヴィス文化の年代測定は、クローヴィス文化集団と後期更新世のアメリカ大陸における人類の移動および大型動物の絶滅との関わりの解明に重要です。2007年に、クローヴィス文化は13000前頃(以下、基本的に放射性炭素年代測定法による較正年代)からわずか200年しか続かなかったかもしれない、との研究が公表され(関連記事)、議論となりました。その後の諸研究ではクローヴィス文化の年代について、たとえば13390年前頃と推定されるなど(関連記事)、始まりが繰り上がる傾向にあります。また一部の研究では、クローヴィス文化の期間が1500年以上の可能性も指摘され、そうならばクローヴィス文化が14000年以上前に出現した可能性も考えられます。

 本論文は、放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線IntCal20(関連記事)を用いて、クローヴィス文化の諸遺跡の新たな年代を提示します。「信頼できる」標本は、地質学的に攪乱されていな状態で発見された骨・象牙・歯・枝角・木と炭と定義されました。堆積物や土壌(攪乱があるため)・貝殻(現代の地下水の影響や海洋リザーバー効果のため)・炭化有機物(標本分類の困難さや地下水の影響のため)は、短い間隔の放射性炭素年代測定には適さない、と本論文は指摘します。クローヴィス文化の正確な年代測定にはまず、遺跡がクローヴィス文化なのか、判断する必要があり、その指標はクローヴィス尖頭器とされました。信頼できる放射性炭素年代測定結果が得られたクローヴィス文化遺跡は以下の通りで、図1の赤丸となります(曖昧な年代の遺跡は青三角)。遺跡の()数字は図1と対応します。以下、本論文の図1です。
画像


●サウスダコタ州ランゲ・ファーガソン(Lange-Ferguson)遺跡(5)
 13095~12990年前

●コロラド州デント(Dent)遺跡(9)
 12970~12845年前

●オクラホマ州ドメボ(Domebo)遺跡(7)
 12905~12820年前

●ペンシルベニア州ショーニー・ミニシンク(Shawnee-Minisink)遺跡(6)
 12885~12770年前

●オハイオ州シェリデン洞窟(Sheriden Cave)遺跡(4)
 12830~12770年前

●ワイオミング州ラプレレ(La Prele)遺跡(10)
 12915~12835年前

●ワイオミング州コルビー(Colby)遺跡(3)
 12820~12800年前

●オクラホマ州ジェイクブラフ(Jake Bluff)遺跡(1)
 12755~12745年前

●モンタナ州アンジック(Anzick)遺跡(8)
 12905~12840年前。以前の研究では、埋葬された男児(Anzick-1)と骨角器の年代が12900~12725年前頃と推定されていました(関連記事)。この男児のDNAも解析されています(関連記事)。

●バージニア州サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(2)
 12820~12745年前。サボテン丘遺跡では、クローヴィス文化以前の人類の痕跡(20585~18970年前頃)の可能性が指摘されています(関連記事)。


 これら10遺跡が、クローヴィス文化の信頼できる年代となります。これらの年代から、クローヴィス文化はアレレード(Allerød)期末の13050年前頃に最初に出現した、と示唆されます。テキサス州のオーブリー(Aubrey)遺跡とメキシコのエルフィンデルムンド(El Fin del Mundo)遺跡の年代からは、クローヴィス文化が13400~13300年前に出現したと示唆されますが、地質学的および生物地球化学的問題のために、その年代は曖昧です。

 13050年前という最初のクローヴィス文化遺跡の年代は、北アメリカ大陸西部および南アメリカ大陸における非クローヴィス文化石器複合と同年代です。アメリカ合衆国山間西部では、基底部有茎を伴う披針形尖頭器により特徴づけられる西部有茎伝統が少なくとも、オレゴン州ペイズリー洞窟群(Paisley Caves)で13000年前(関連記事)、アイダホ州クーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡で13400年前(関連記事)にさかのぼります。南アメリカ大陸の南回帰線以南では、特徴的な有茎魚尾尖頭器の年代が12900年前となります。これらのデータは、更新世末にアメリカ大陸では少なくとも三つの同年代の石器複合が存在し、クローヴィス文化はその一つだった、という証拠となります。オーブリー遺跡やエルフィンデルムンド遺跡で示唆されるように、クローヴィス文化が13400年前頃に始まったとしても、クローヴィス文化は北アメリカ大陸の有茎尖頭器と同年代となります。

 クローヴィス技術の起源は依然として明ですが、証拠からは、クローヴィス文化きょくたんな気候と生物の変化期に北アメリカ大陸の氷床の南で発達した、と示唆されます。現在の遺伝的モデルからは、後期更新世にアメリカ大陸へと単一の早期の移住があった、と示唆されます。多くの遺跡の考古学的証拠からは、16000~15000年前頃までにアメリカ大陸には人類が存在した、と示唆されます。これは、クローヴィス文化の起源が、北アメリカ大陸における最初の遺跡群の両面石器や石刃や骨器技術にあることを示唆します。

 クローヴィス文化は12750年前頃に突然終了します。これは年代的にヤンガードライアスの寒冷事象と、古生物学的にゾウ目の絶滅と一致します。考古学的には、クローヴィス文化は、アメリカ合衆国の大平原のフォルサム(Folsom)技術および東部の縦溝彫り尖頭器伝統の出現直前に消滅します。対照的に、アメリカ合衆国西部での有茎尖頭器の製作は、クローヴィス文化終焉後も継続します。クローヴィス文化の起源とその広がりについて調べるには、さらに多くの遺跡での、厳格な基準の年代測定が必要です。


参考文献:
Waters MR, Stafford TW, and Carlson DL.(2020): The age of Clovis—13,050 to 12,750 cal yr B.P.. Science Advances, 6, 43, eaaz0455.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0455

エジプト第25王朝のミイラのmtDNA解析

 エジプト第25王朝のミイラのミトコンドリアDNA(mtDNA)結果を報告した研究(Drosou et al., 2020)が公表されました。タカブチ(Takabuti)は、紀元前660年頃エジプト第25王朝下のテーベに住んでいた女性で、そのミイラ化した遺骸と棺は、1834年に北アイルランドのベルファストに運ばれ、現在はアルスター博物館で展示されています。タカブチは、棺の碑文から、テーベのアメン神の司祭であるネスパーレ(Nespare)とその妻であるタセニレット(Taseniret)の娘と明らかになっています。

 1834年の最初の形態学的調査では、身長が155cmで、歯列がよく保存されていることから、25~30歳と推定されました。遺骸は全身が包帯で覆われていました。1987年にはX線画像、2006年にはCTスキャンにより包括的な研究が行なわれ、死亡時の年齢が25~30歳で、小児疾患の証拠がない健康体と明らかになりました。エジプトの気候から、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析は困難と考えられていましたが、次世代シーケンサーなど解析技術の革新により、タカブチのmtDNAの解析に成功しました(平均網羅率9.8倍)。

 タカブチのmtDNAハプログループ(mtHg)はH4a1に分類されました。mtHg-Hはヨーロッパで最も一般的で、現在ではアフリカとアジア西部でも見られ、エネルギー効率の高いmtHgと推測されています(関連記事)。このうちmtHg-H4a1は現代では比較的稀で、イベリア半島南部集団では2%、レバノン集団で1%、複数のカナリア諸島集団で1.5%ほどです。これまで、古代エジプトではmtHg-H4a1が確認されておらず、タカブチが最初の個体となります。mtHg-H4a1が確認されたその他の古代人としては、紀元後6~14世紀のカナリア諸島の個体群と、ドイツのザクセン=アンハルト州のクヴェードリンブルク(Quedlinburg)とオイラウ(Eulau)の鐘状ビーカー(Bell Beaker)およびウーネチチェ(Unetice)文化(紀元前2500~紀元前1575年頃)の2個体と、早期青銅器時代のブルガリアの1個体で、mtHg-H4a1の稀で散在的な分布を示します。

 古代エジプト(紀元前2000~紀元後200年頃)の97個体のmtHgは、U・M1a1・J2・T・H・Iなど多様で、移住により形成された複雑な社会だった、と示唆されます。エジプトがアフリカと中東の間の唯一の陸の玄関口に位置することを考えると、これはとくに意外ではありません。年代別に古代エジプトのmtHgを見ると、紀元前二千年紀と紀元前千年紀はUとM1a1により代表され、紀元前千年紀にJ2a・R0・T1・T2・HV・Iの拡大が見られます。タカブチはこうした多様な古代エジプトのmtHgの中で、初めて確認されたH4a1となります。

 本論文は、ヨーロッパで優勢なmtHg-H4a1が、ローマはもちろんギリシア勢力の支配(マケドニアによる紀元前332年のエジプト征服)の前に、エジプト南部で見つかったことに注目しています。現在の遺伝的証拠からは、エジプト南部は移住から高度に隔離されていた、と示唆されるものの、タカブチのmtHg-H4a1はそれに異議を唱え、古代エジプト南部の遺伝的構成をよりよく理解するための調査も可能ではないか、と本論文は指摘します。これまでも古代DNA研究によって、古代エジプトの特定のmtHgの最初の出現年代がさかのぼることはあり、タカブチはその新たな事例となりました。

 タカブチはそのmtHg-H4a1から、母系ではヨーロッパ起源である可能性を本論文は指摘します。当時の地中海のつながりから、ヨーロッパよりエジプトに到来する人がいてもとくに不思議ではないでしょう。エジプト史に詳しくないので断定できませんが、タカブチの父はアメン神の司祭なので、エジプト土着の出自である可能性が高そうです。仮にタカブチのmtHg-H4a1がヨーロッパ起源だとしても、その母系祖先がエジプトにいつどのような経緯で到来したのか、不明です。タカブチの母系祖先がかなり前にヨーロッパからエジプトに到来したとすると、タカブチの核ゲノムは当時のエジプト人とさほど変わらないでしょうが、数代前ならばヨーロッパ系の痕跡が明確に検出できそうです。タカブチの核ゲノム解析が望まれますが、mtDNA解析としては網羅率が低めなので、核ゲノムの解析は困難でしょうか。


参考文献:
Drosou K. et al.(2020): The first reported case of the rare mitochondrial haplotype H4a1 in ancient Egypt. Scientific Reports, 10, 17037.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-74114-9

大河ドラマ『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」

 織田信長は新将軍足利義昭の御座所として二条城の建築を急ぎ、近隣の寺社から調度品などを調達します。摂津晴門は、そうした寺社からの苦情を義昭に取り次ぎますが、義昭は信長に配慮し、信長が岐阜に戻った後、少しずつ寺社に返却していく、と返答します。摂津晴門は畿内の寺社と深く結びついており、寺社から金銭を受け取っていました。明智光秀(十兵衛)は伊呂波太夫に呼び出され、三好三人衆の失脚とともに京都から離れて身を隠していた近衛前久と会います。前久は摂津晴門と対立しており、光秀に、幕府を変えられるのは信長だと伝えます。伊呂波太夫は光秀に、都には天皇もいると語り、その重要性を示唆します。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、光秀が前久と密会していたことを知っており、公家に注意するよう、警告します。光秀は信長と面会し、信長が父の信秀から帝のことを教えられた、と聞かされます。光秀は東寺から、義昭より与えられた八幡宮領を横領したと訴えられます。光秀は摂津晴門に、詳細を調べるよう抗議に行きますが、摂津晴門は惚けます。二条城は完成し、信長は光秀に、朝倉の件で相談したいと伝えます。

 今回は、一筋縄ではいかない京都情勢が描かれました。摂津晴門は典型的な小物の悪役といった感じですが、寺社の側が信長から強引に徴発されたことも描かれていますから、摂津晴門の事情も描かれている、とも言えるでしょう。京都の情勢が詳しく描かれていることも本作の特徴になっています。光秀と密会した近衛前久は、意外と本作では扱いが大きく、あるいは本能寺の変で重要な役割を担うのでしょうか。京都の情勢が詳しく描かれていることと合わせて注目されます。また、光秀と藤吉郎とが競合する関係になっていくことも示唆され、光秀は藤吉郎とはあまり合わないようですが、両者の関係が今後どう描かれていくのか、注目されます。

廣部泉『黄禍論 百年の系譜』

 講談社選書メチエの一冊として、2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。近年、中華人民共和国の経済力・軍事力の拡大により、アメリカ合衆国で黄禍論が再燃しつつあるかのように思えたところ、今年(2020年)になって、新型コロナウイルスの流行により、アメリカ合衆国だけではなくヨーロッパでも黄禍論が復活するのではないか、とさえ私は懸念しています。私も日本人の一人として、黄禍論的な言説には警戒せざるを得ません。しかし、黄禍論の歴史的位置づけと詳しい内容をよく理解しているわけではないので、本書を読むことにしました。

 黄禍論は19世紀後半にヨーロッパで主張されるようになりました。それは、日本の軍拡を重要な契機としつつ、「黄色人種」の人口の多さに基づく潜在力を警戒したもので、とくに問題とされたのは、日中の提携でした。これに対して日本側からも「同人種同盟論」が提唱され、近衛篤麿の主張はとくにヨーロッパで警戒されました。アメリカ合衆国にもヨーロッパ、つまり東方から黄禍論が流入しましたが、一方で、アメリカ合衆国西岸にはやや異なる黄禍論が存在しました。それは、「中国」から来た労働者により「白人」労働者の雇用が脅かされることに起因しました。日露戦争後、黄禍論はさらに潜在的影響力を拡大した感もあり、日本政府は黄禍論の抑制に躍起になっていました。

 アメリカ合衆国においては、国際社会における日本の台頭と、低賃金の日本人移民労働者により黄禍論は根強く浸透し、第一次世界大戦後に「反日移民法」が成立します。これに日本の世論が大きく反発し、アメリカ合衆国やヨーロッパがそれに対して日本と中国やインドとの大団結(アジア主義など)を警戒するなど、黄禍論を巡って「人種」対立構造が強化されている様相さえ見られるようになります。しかし、第一次世界大戦後の軍縮と国際協調の情勢のなか、日本もアメリカ合衆国も、政府は「人種」対立に陥らないよう、努めていました。日本政府主流派は、あくまでも列強との協調による日本の権益維持・拡大を構想していました。また「白人」世界でも、アジアの大団結はあり得ないだろう、との冷静な見解もありました。中国にとって、日本が最大の加害者だと認識されていたからです。じっさい、中国の報道では、日本のアジア主義的動向が、日本による中国支配の道具にすぎない、との論調が多く見られました。

 こうしたアジア主義的動向は、1920年代後半から1930年代初頭には落ち着きを見せましたが、日本における黄禍論への反感は根強く潜伏しており、満州事変後に本格的に顕在化していき、1920年代とは異なり、各界の有力者がじっさいに深く関わるようになります。これは、世界恐慌後の世界的なブロック化と国際連盟からの脱退といった情勢変化によるところが大きいのでしょう。太平洋戦争が始まると、アメリカ合衆国では人種差別的意思表示が以前よりも激しくなり、その文脈で日系人の収容が実行されます。指導層も日本との戦いが人種戦争であることをさらに強く意識するようになりますが、一方で、「有色人種」の連合を警戒し、日本との戦いを「白人種」対「黄色人種」という構図で把握する認識が顕在化しないよう、注意を払っていました。

 第二次世界大戦は日本の敗北に終わり、戦後秩序の構築が問題となります。アメリカ合衆国では日本脅威論が衰え、政府は中華民国を軸にアジア東部地域に対処しようと構想していました。第二次世界大戦後、アジア主義の旗手として台頭したのは独立したばかりのインドでした。インドはアジア会議を開催し、「白人」を排除するものではないと主張しましたが、欧米諸国、とくにヨーロッパから遠くアジアと隣接していながら、「白人」主導国家のオーストラリアやニュージーランドはこの動きを警戒しました。第二次世界大戦後、日本の立場を大きく変えたのが、中国における共産主義政権の成立(中華人民共和国)でした。これにより、冷戦構造における前線として、日本は西側世界に組み込まれていき、経済復興の道が開かれました。

 アメリカ合衆国は、サンフランシスコ講和条約後も、日本がアジアの一員としての自覚を強め、中国とインドの人口大国と共に反「白人」連合に加わることを警戒していました。当時、中華人民共和国と台湾に封じ込められた中華民国とが、「中国」の正統性を争い、冷戦構造の中で中華民国と国交を維持している西側諸国が多かったという事情もあったとはいえ、アメリカ合衆国は、その人種・文化的近縁性から、日本と中華人民共和国との提携強化を日本とソ連との国交正常化も含めた接近よりも警戒していました。そのためアメリカ合衆国は、1960年の安保騒動後に対日関係改善を重視し、国内の残業界の保護主義的要請を抑えることもありました。それでもアメリカ合衆国は、日本と中華人民共和国との接近を、相変わらず警戒していました。このように、アメリカ合衆国では黄禍論は潜在的に強い影響力を有していたものの、社会全体では第二次世界大戦後、人種的偏見の表出が減少していきました。これは、ドイツによるナチス政権下でのユダヤ人大虐殺が広く知られるようになったことと、第二次世界大戦に出征したことで、「黒人」の社会的地位向上を求める動きが強くなったことに起因していました。

 ところが、日本が目覚ましい経済成長を遂げると、アメリカ合衆国において黄禍論的言説が再度表面化しました。1990年代以降、日本経済が長期の停滞に入ると、今度は、目覚ましい経済成長を続け、第二次世界大戦後は軍事的野心を示さなかった日本に対して、軍事的にも拡張路線を取り続ける中華人民共和国が、アメリカ合衆国で黄禍論の対象とされました。黄禍論的思考は今でもアメリカ合衆国やヨーロッパにおいて根強く残っており、それを大前提として、日本は「白人」社会と付き合っていかねばならないのでしょう。当然、だからといって近い将来世界最大の経済力を有するだろう、「同じアジア」の中国に従属して「白人」世界と対峙すべきだ、と安易に考えるわけにもいきませんが。

ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像

 ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像に関する研究(Tang et al., 2020)が公表されました。ヒトの全細胞は固有の体細胞変異セットを持っていますが、個々の細胞の遺伝型を包括的に決定することは困難です。この研究は、正常なヒト皮膚において、この障害を克服する方法について報告します。これにより、ヒト皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像を垣間見ることができるようになりました。

 予想通り、日光を遮断したメラノサイトは、日光に曝露されたメラノサイトよりも変異が少ない、と明らかになりました。しかし、顔など慢性的に日光に曝露されている皮膚のメラノサイトは、背中など間欠的に日光に曝露される皮膚のメラノサイトよりも変異量が少ない、と明らかになりました。皮膚癌に隣接して位置するメラノサイトは、皮膚癌のないドナー由来のメラノサイトよりも変異量が多いことから、正常な皮膚の変異量を用いて、日光による累積的な損傷および皮膚癌のリスクを測定できる、と考えられます。さらに、健康な皮膚由来のメラノサイトは病原性変異を含むことが多いと知られていますが、これらの変異は発癌性が弱い傾向があり、おそらくこれが認識可能な病変を生じなかった理由だろう、と推測されます。

 系統発生学的解析から、関連するメラノサイトのグループが複数特定され、メラノサイトが肉眼では分からない、クローン関係がある細胞の領域として皮膚全体に広がっている、と示唆されました。まとめると、これらの知見は個々のメラノサイトのゲノムの全体像を明らかにしており、黒色腫の原因と起源についての重要な手掛かりを提供します。また、メラノサイトのゲノムには地域差もあり、それらがどのような進化を経てきたのか、という点も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


腫瘍生物学:ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像

腫瘍生物学:メラノサイトの体細胞変異

 これまでの研究では、多くの正常な非がん組織で体細胞変異が研究されてきた。加齢に伴って体細胞変異が蓄積し、そうした変異には発がん性変化が含まれることが分かっている。J Tangたちは今回、正常な皮膚のメラノサイトの塩基配列を解読した。日光に曝露されたメラノサイトは、日光から保護された体の部位のメラノサイトよりも多くの変異を持っていることが分かった。しかし、意外にも、慢性的に日光に曝露されている皮膚(顔など)のメラノサイトは、時折日光に曝露される部位のメラノサイトよりも変異が少なかった。また、一部のメラノサイトがクローン増殖することも分かった。発見された変異には、黒色腫の形成に関係するとされている病原性変化が含まれていた。



参考文献:
Tang J. et al.(2020): The genomic landscapes of individual melanocytes from human skin. Nature, 586, 7830, 600–605.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2785-8

非生殖細胞におけるY染色体遺伝子の効果

 非生殖細胞におけるY染色体遺伝子の効果に関する研究(Deschepper., 2020)が報道されました。哺乳類は1対の性染色体と多数の常染色体を有します(ヒトでは22対の常染色体)。雌は2本のX性染色体を有していますが、雄はX染色体とY染色体を1本ずつ持っています。Y染色体には雌に欠けている遺伝子があります。これらの雄特有の遺伝子は体のすべての細胞で発現していますが、これまでに確認された唯一の役割は、本質的に性器の機能に限定されています。

 この研究では、マウスのY染色体上の2つの雄特有の遺伝子を不活性化する遺伝子操作が実行され、性器以外の細胞の特定の機能で重要な役割を果たす、いくつかのシグナル伝達経路が変更されました。たとえばストレス下では、影響を受けるメカニズムのいくつかは、心臓の細胞が虚血(血液供給の低下)や機械的ストレスなどの攻撃性から身を守る方法に影響を与える可能性があります。この研究はさらに、これら雄特有の遺伝子が、常染色体上の他のほとんどの遺伝子により一般的に使用されるメカニズムと比較して、異常な方法でそれらの調節機能を実行する、と示しました。

 つまり、Y染色体は、ゲノムレベルでの直接作用により特定の遺伝子を特異的に活性化する代わりに、タンパク質産生に作用することにより細胞機能に影響を与えているのではないか、というわけです。これらの機能の違いの発見は、雄のY染色体遺伝子の機能がこれまで充分に理解されていなかった理由の一部を説明するかもしれません。ヒトの場合、男性は、ほとんどの病気の症状・重症度・結果において女性とは異なります。この性差の最近の事例例は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で、男性の死亡率は女性の2倍です。

 Y染色体は、現代日本では皇位継承問題との関連で注目が高まっているようで、それまで生物学や人類進化やY染色体の解析・比較による人類集団の移動といった問題に関心がなかったような人々も、皇位継承の根拠としてY染色体を持ち出すことが多くなっているように思います。それに対する批判・反発として、Y染色体には性を決定する機能しかない、といった揶揄が少なくないように思いますが、この研究は、Y染色体がタンパク質産生に作用することにより細胞機能に影響を与えている可能性を提示しており、今後、性決定以外のY染色体の機能がさらに明らかにされていくかもしれない、と期待されます。


参考文献:
Deschepper CF.(2020): Regulatory effects of the Uty/Ddx3y locus on neighboring chromosome Y genes and autosomal mRNA transcripts in adult mouse non-reproductive cells. Scientific Reports, 10, 14900.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-71447-3

『卑弥呼』第49話「かりもがり」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年11月5日号掲載分の感想です。前回は、クラトがヤノハの命により殺され、それを知らないミマアキが呑気にクラトを呼んでいるところで終了しました。今回は、ミマアキが棺に納められたクラトの遺骸を前に嘆き悲しんでいる場面から始まります。クラトに刺さっていた矢は暈(クマ)のものなので、クラトは暈の物見(モノミ、間者)と遭遇して殺されたのではないか、とヌカデは推測します。報復として暈を攻めろということか、とヤノハに問われたヌカデは、クラトは忠臣だったので、間髪を入れず暈に宣戦布告せねば、山社(ヤマト)の顔が立たない、と言います。ヤノハに意見を問われたテヅチ将軍は、戦人ゆえに政治には進言しない、と断ったうえで、今なら勝機はある、と答えます。タケル王が死に、その父親のイサオ王まで死んだ今、鞠智彦(ククチヒコ)をはじめとして暈の軍閥が覇を唱えて内乱状態に陥るのは必至なので、それに乗じて攻め込めば、暈の領土の半分は手に入る、というわけです。一方イクメは、弩が暈のものだとしても、暈の者がクラトを殺したとは限らず、大義のない戦いをすれば人心は離れる、と戦に反対します。殯は今日で最後となり、ミマアキはその後で清めの沐浴をして明日には楼観に参じるだろう、とイクメから聞いたヤノハは、ミマアキの意見も聞いてみる、と言います。

 暈の以夫須岐(イフスキ)では、鞠智彦が円墳状の墓に参っていました。そこへタケル王の兄が現れ、この墓にはイサオ王とともに、トンカラリンで殉死した者も葬られていると聞いたが、なぜだ、と問いかけます。鞠智彦はタケル王の兄を兄(ニ)タケル様と呼んでいます。暈の諸王がイサオ王の葬儀に参列したのに、長男が来ないので心配していた、と鞠智彦は笑顔で言います。すると兄タケルは、父のイサオ王が自分ではなく弟(タケル王)を世継ぎに選んだ時から折り合いが悪い、と言います。鞠智彦と兄タケルはイサオ王の館で酒を飲みます。この館に住むつもりではないだろうな、と兄タケルに問われた鞠智彦は、兄タケルの帰還まで留守を預かっていただけだ、と笑顔で否定します。自分がイサオ王となることはどう思うか、と兄タケルに問われた鞠智彦は、返答に詰まります。まさかイサオ王を名乗るつもりか、と兄タケルに問われた鞠智彦は即座に否定し、鞠智彦の一族は丞相(大夫)の身分で、代々のイサオ王に仕える定めだ、と笑顔で答えます。では、今より自分に仕えよ、と兄タケルに命じられた鞠智彦は真顔になり、暈には兄タケルのカワカミ家の他に、イ・ヤ・サジキ・カマの四家それぞれにタケル王がいるので、これら五家が集まって話し合い、選ばれた方こそ真のイサオ王ではないか、と鞠智彦は指摘します。どの家も元は同じ取石(トロシ)の一族で、取石最古の家はカワカミなので、その宗主がイサオ王になって何が悪い、と兄タケルは鞠智彦に言います。さらに兄タケルは、父のイサオ王は病死と聞くが本当の死因は何だ、と鞠智彦に問いかけます。すでに、鞠智彦が謀反を起こしたとか、山社の志能備(シノビ)の仕業とかいった噂が流れていました。どちらが正しいか答えよ、と兄タケルが鞠智彦に迫ると、イサオ王は賊に襲われた、と鞠智彦は答えます。その賊は山社の者か、と兄タケルに問われた鞠智彦は、その可能性はある、と答えます。では、山社を攻めろ、と兄タケルに命じられた鞠智彦は、即座に断ります。山社は那(ナ)・伊都(イト)・穂波(ホミ)・都萬(トマ)と同盟を結んだので、この国々に戦を仕掛けるのは愚か者の所業だ、というわけです。山社が同盟を結んだ国として末盧(マツロ)が挙げられていませんが、小国なので無視されたのでしょうか。鞠智彦の返答を聞いた兄タケルは激昂し、酒杯を鞠智彦に投げつけ、鞠智彦の顔に当たります。兄タケルは家臣を呼び、生きたまま生皮を剥いで鞠智彦を殺そうとします。すると、鞠智彦の配下の志能備が現れ、兄タケルを警固していた者たちは、出された酒を飲んで血を吐き全員死んだ、と兄タケルに告げます。鞠智彦は即座に兄タケルを斬殺し、その死体を前に、四家のタケル王は、獰猛な兄タケルの殺害を条件に全員自分を支持した、自分は新たな日見彦(ヒミヒコ)が現れるまで暈の統治を任されている、と言います。鞠智彦は配下の志能備に、イサオ王は長男の兄タケルの謀反により落命し、丞相の鞠智彦が仇を討ったと国内に触れて回るよう、指示します。

 山社ではミマアキが楼観に参じ、ヤノハはミマアキを慰めます。ヤノハはミマアキに、最愛の友で、ヤノハの忠臣であるクラトを殺した暈との戦を望むか、と尋ねます。那国王の加勢は間違いなく、今戦えば勝機はある、とテヅチ将軍は言いますが、ミマアキは反対します。確かに勝機はあるものの、暈の兵を根絶やしにするほどの大勝はありえず、反撃を受けることになるので、今度は山社が多くの犠牲を出す、とミマアキは説明します。ではどうするのか、とヤノハに問われたミマアキは、国境で戦わず睨み合う、と答えます。束の間の平和でも何百年ぶりのことだ、というわけです。その返答を聞いたヤノハは満足そうな表情で、自分も同じ考えだと言います。楼観でヤノハと二人きりになったミマアキは、ヤノハに残酷な人だ、と言います。自分が悲嘆に暮れていても、怒りに駆られて戦を選ばないような冷静な判断ができるかどうか、ヤノハは試したのではないか、というわけです。ミマアキがヤノハに、自分が昼の政治を司るのに適した人物なのか、知りたかったのだろう、と指摘し、ヤノハが満足そうな表情を浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、暈の情勢と、ヤノハに試されるミマアキの器量が描かれました。暈は分割統治体制ではないか、と以前から予想していましたが、やはり、五家が王を名乗り、その上にイサオ王が君臨する、という連合体制のようです。兄タケルは、外見ではさほど小物感がありませんでしたが、言動がいかにも小物なので、初登場回での退場はもっともといった感じです。鞠智彦と兄タケルが酒を飲み始めたので、イサオ王の時のように毒殺するのかと思ったら、斬殺だったのでやや意外でしたが、イサオ王殺害の仇討ちによる斬殺という辻褄合わせだったので、納得しました。鞠智彦は、新たな日見彦が現れるまで暈を統治する、と言っていますが、暈は『三国志』の狗奴国と思われ、卑弥弓呼(日見彦)がいると見えるので、この後で誰かが日見彦に擁立されるのかもしれません。それが誰なのか、鞠智彦との関係がどう描かれるのか、注目されます。

 山社では、ミマアキがヤノハの期待通りの返答で、今後「昼の王」に就任することが確実になった、と言えそうです。ただ、『三国志』では、卑弥呼(日見子)を補佐したのは弟だとされており、ミマアキ(彌馬獲支)の地位は姉のイクメ(伊支馬)や父のミマト(彌馬升)よりも低いので、あるいはヤノハの弟のチカラオと思われるナツハが、ヤノハを政治面で補佐するのかもしれません。ただ現時点では、ナツハは志能備として優れているものの、政治的手腕はまだ発揮していません。ナツハがヤノハの弟なのか、ということも含めて、山社(邪馬台国)の政治体制が今後どう確立していくのか、という点も楽しみです。

ホモテリウム属個体のゲノム解析

 ホモテリウム属個体のゲノム解析結果を報告した研究(Barnett et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、ネコ科の剣歯虎(マカイロドゥス亜科)のホモテリウム族の1種(Homotherium latidens)のゲノムデータを報告します。この記事では仮に「三日月刀歯虎」と訳しておきます。この1個体は、カナダのユーコン準州ドーソン(Dawson)市近郊の永久凍土堆積物から回収されました。核ゲノムの網羅率は約7倍で、エクソームの網羅率は約38倍です。この核データセットには、分析に利用できる独立した遺伝子座の大幅な増加を表しており、ホモテリウムの系統をよりよく理解し、進化的推論が可能となります。したがって、結果が系統全体を表すと解釈できる場合は、種名(Homotherium latidens)ではなく属名で記されます。このデータセットに基づくホモテリウムの系統は、以前の化石およびミトコンドリアのデータセットに基づく研究と一致しており、ホモテリウムは全ての現生ネコ科種の姉妹系統に位置づけられます。以下、ホモテリウム属と他のネコ科種との系統関係を示した本論文の図1です。
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 4点の化石による較正も用いて、ホモテリウムと現生ネコ科種の分岐年代は、2250万年前(95%確信区間で2780万~1740万年前)と推定され、これは2300万年前頃となる漸新世と中新世の境界に近い年代となります。この年代は、ホモテリウム属の潜在的祖先としての、後期プロアイルルス属(Proailurus)もしくは早期プセウダエルルス属(Pseudaelurus)と一致します。この推定年代は、ミトコンドリアゲノムに基づく以前の研究で提示された2000万年前と近くなっています。この深い分岐により、ホモテリウムは全ての現生ネコ科種とは異なるクレード(単系統群)に属している、と確認され、ネコ亜科とは異なる亜科としてのマカイロドゥスが裏づけられます。

 ただ、こうした明確な系統関係は、ホモテリウムと現生ネコ科との完全な進化的関係を表していない可能性があります。たとえば、同じネコ科のライオン(関連記事)やネコ科と近縁なハイエナ科(関連記事)では種間交雑が指摘されており、それは食肉目(ネコ目)で以前に考えられていたよりもずっと一般的だった、と示されてきたからです。そこで、ホモテリウムと他系統との間に遺伝子流動があったのか、調べられました。ホモテリウムはアフリカ南部からユーラシア全域、さらには南北アメリカ大陸まで分布しており、剣歯虎(マカイロドゥス亜科)では最も広範に分布していたと考えられますが、同時期にこれら全地域に存在したのか、不明です。またホモテリウムは、密集した植生のジャワ島から全北区の開けたステップ・ツンドラ地帯まで、さまざまな異なる生息地に分布しました。さらに化石証拠から、ホモテリウムが他の同所性の大型ネコ科との潜在的競争にも関わらず、その分布を拡大した、と示唆されます。たとえば、ライオン(Panthera leo)や絶滅したホラアナライオン(Panthera spelaea)やヒョウ(Panthera pardus)や絶滅したメガンテレオン属種(Megantereon cultridens)とはユーラシアやアフリカ全域で、トラ(Panthera tigris)とはアジア南東部で、ジャガー(Panthera onca)やアメリカライオン(Panthera atrox)や他の絶滅したスミロドン属(Smilodon)とはアメリカ大陸で共存していました。

 ホモテリウムと現生ネコ科種との間で遺伝子流動が起きたかどうか調べるため、系統樹において矛盾する系統発生の兆候が検証されました。しかし、他のネコ科では遺伝子流動の痕跡が見つかりましたが、ホモテリウムと現生ネコ科種との間では見つかりませんでした。ただ、現生ネコ科種の全系統の祖先とホモテリウム系統との間の遺伝子流動が検出されていない可能性は排除されません。ホモテリウムと現生ネコ科種との間における遺伝子流動の欠如の最も妥当な説明は、ホモテリウムと現生ネコ科種との間の深い分岐です。

 現在のデータセットで検出できる遺伝子流動の最古の兆候は、1400万年前頃となるネコ亜科の分岐後に検出されます。これは、マカイロドゥス亜科とネコ亜科の間で、800万年以上にわたる遺伝子流動が検出できないことを意味します。対照的に、現生ネコ科の主要な系統の放散は過去500万年以内に起きました。この急速な放散は、繁殖能力のある交雑個体が生まれなくなるほど遺伝的に分岐する前に、これらの系統間の遺伝子流動を可能としたかもしれません。

 遺伝子流動の明らかな欠如には代替的な説明も可能かもしれませんが、その可能性はずっと低そうです。一つの可能性は、ホモテリウムが、生態地理的障壁や競合相手の排除や低い集団密度のいずれかのために、単純に他のネコ科種と相互作用できなかった、というものです。しかし、生態地理的障壁は、ホモテリウムの広範な分布と異なる生態系への適応を考えると、可能性は低そうです。ホモテリウムの化石はヒョウ属化石とも同じ場所で発見されるため、競合相手の排除も起きそうにありません。ホモテリウムの化石記録は、スミロドン族やヒョウ属を含む他の同年代の大型ネコ科よりもずっと断片的なので、集団密度が低い、との解釈が示唆されています。しかし、集団密度が低くとも、同所性の他種との時折の接触が妨げられることはありません。

 別の代替的な説明は、行動的および/もしくは他の生態学的メカニズムが交雑を妨げた、というものです。これは、現生のライオンとヒョウの間で見られます。両者はしばしば同じ地域に存在しますが、ヒョウは積極的にライオンを避けます。ホモテリウムと他の同所性ネコ科との間で、同様の行動的および/もしくは生態学的な回避メカニズムが起きかもしれません。遺伝子流動欠如のさらなる証拠となるのは、人類(関連記事)やボノボ(関連記事)で明らかになった、現生哺乳類種と未知のまだ標本抽出されていない系統との間の交雑を検出した手法でも、現生ネコ科種とホモテリウムと同じくらい前に分岐した未知の系統との間の古代の混合の兆候が、以前の研究では検出されなかったことです。

 したがって、この相違は、これらの系統が相互に分岐した時にどのような遺伝的適応が起きたのか、という問題につながります。どのゲノム基盤がホモテリウム固有の特徴をもたらしたのか解明するために、比較ゲノム分析が行なわれ、ゲノム全域でいくつかのタンパク質コード領域における正の選択の兆候が明らかになりました。2191ヶ所の1:1で対応する相同的な遺伝子座(orthologous loci)のうち230個の遺伝子で正の選択の証拠が見つかりました。これら230個の遺伝子のうち、31個はひじょうに重要とみなされ、推定機能と表現型の役割についてさらに調べられました。いくつかのひじょうに重要な正の選択を受けた遺伝子は、ホモテリウムの推定される昼行性行動と一致していました。網膜変性や網膜色素変性症や水晶体タンパク質の加水分解や視角処理を含む既知の表現型を有する、視覚に関連する遺伝子(B3GALNT2や AGBL5やCAPNS2やSLC1A7)で、強い正の選択が検証されました。また、概日時計リズムの同調とマスター調節と関連する遺伝子(SFPQとPer1)における正の選択の証拠も見つかりました。とくに同じ遺伝子ありませんが、以前の研究では、概日時計調節遺伝子の多型が昼行性の選好と関連している、と示されており、概日遺伝子と昼行性の行動との関連が強化されます。推測となりますが、これらの結果は、薄明もしくは夜行性の多くの現生ネコ科種とは異なり、ホモテリウムが日中に狩猟した、という見解を支持します。この仮説は、拡大した眼球や大きくて複雑な視覚野を含む、いくつかの解剖学的特徴によりさらに裏づけられます。

 正の選択の兆候は、ホモテリウムの走行狩猟様式の持久力増大に役立つ適応と関連している、と考えられる遺伝子でも推測されました。これらには、呼吸器系や低酸素症(TMEM45A)、循環器系(F5およびMMP12)、血管新生(ECSCR)、 脂肪生成(TAF8)、呼吸・循環系(MMP12)、ミトコンドリア呼吸(AK3、ISCU、SURF)への大きな影響を有する遺伝子が含まれます。これらの遺伝子における新たな適応は、より開けた生息地における狩猟や、疲労するまで獲物を追いかけるのに必要な持続的走行を可能としました。これら様々な機能強化の相乗的相互作用は、骨石灰化(PGD遺伝子)の改善により支援されたかもしれません。改善された骨石灰化は、推定される走行性狩猟様式に必要な堅固な骨格枠組みと力強い前肢を発達させて維持するのにひじょうに貴重でした。さらに、とくにPGD遺伝子ではありませんが、骨の発達と修復に関わる2個の遺伝子(DMP1とPTN)が、多くの肉食動物のゲノムで正の選択下にある、と明らかになってきており、堅固な骨が捕食行動の適応に重要かもしれない、と示唆されます。これらの遺伝子の選択の特徴は、頭蓋後方骨格形態データにより示唆される、走行性狩猟様式への証拠を追加します。これにはより収縮性の低い爪が含まれ、それにより長距離の中間速度の追跡が改善される、と考えられています。同じことはイヌ科やハイエナ科にも当てはまり、より高い上腕指数(上腕骨に対する橈骨の比)を有しています。

 社会的行動はひじょうに複雑なので、特定の遺伝的特性と直接的に結びつけることは困難ですが、認知・行動(阻害されたシナプス可塑性および社会的行動と関連するSCTR)および神経系(神経成長因子と関わるNTF3)に関わると推定される遺伝子において、正の選択の証拠が見つかりました。これらの遺伝子は、ホモテリウムが大型の獲物を狩るのに必要と示唆される協調的な社会的相互作用において役割を果たしている、と推測されますが、その確証には追加のデータが必要です。本論文の結果は、正の選択とその生態学的結果との間の決定的なつながりを提供するわけではありませんが、絶滅した超肉食動物であるホモテリウムの遺伝子と生態との間の関係に、機能的研究への出発点を提供します。本論文の調査で多くの正の選択を受けた遺伝子が見つかり、それらの既知の機能は古生物学的データを補完し、走行性狩猟戦略および昼行性行動と密接に関連しているように見えるホモテリウムの、いくつかの特有の適応の推定上の遺伝的基盤を表しています。

 上述のように、ホモテリウムの化石記録はスミロドン族やヒョウ属を含む他の同年代の大型ネコ科よりもかなり断片的で、ホモテリウムの集団密度がより低かったことを示唆します。これは、ホモテリウムの断片的な化石記録が本当に低い集団密度を反映しているのか、あるいは生息地もしくは行動に起因する保存可能性に基づく確率論的な結果なのか、という疑問につながります。現生ネコ科種と比較して三日月刀歯虎(Homotherium latidens)の相対的な数を調べるため、有効集団規模と相関する遺伝的多様性が比較されました。比較は、異型接合性の程度で、15種の現生ネコ科それぞれの単一個体に対する三日月刀歯虎個体のゲノムで行なわれました。異型接合性の推定のため、常染色体全体とエクソーム全の2通りの手法が用いられました。ただ、この比較は各種の単一個体に基づいているので、各種の全体的な傾向を表していない可能性があります。比較の結果、三日月刀歯虎(Homotherium latidens)のゲノムは、他の大型ネコ科種に対して、中~高水準の遺伝的多様性を示します。以下、異型接合性の程度の比較を示した本論文の図3です。
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 これは、常染色体全体でもエクソーム全体でも当てはまりました。ゲノム規模の異型接合性、有効集団規模、個体数調査規模の間の関係を考えると、この知見から、三日月刀歯虎は、他の大型ネコ科と比較してミトコンドリアの遺伝的多様性が低いことに基づいて低い集団密度を想定した以前の研究とは対照的に、比較的個体数が多かった、と示唆されます。しかし、以前の研究では3個体の単一の遺伝子座のミトコンドリアゲノムに基づいていたので、多様性に関する推論は限定されていました。三日月刀歯虎における推定上の個体数の多さの発見は、アフリカ南部からユーラシア全域と南北アメリカ大陸まで、ホモテリウムがマカイロドゥス亜科で最大の地理的範囲を有する、という事実により強化されます。

 遺伝的多様性はしばしば集団規模を反映しますが、集団・種の人口史および生活史の特性も役割を果たすかもしれません。(亜)北極圏も占めるホモテリウムの遺伝的多様性のより高い水準をもたらした要因の注目すべき一つは、構造化された集団間の長距離移動でしょう。一般的に、劇的な季節変動を有するか、もしくは一次生産性の低い地域に分布する走行性捕食者を含む種は、より安定して生産性の高い地域の種よりも長距離を移動します。したがってホモテリウムは、生産性の低い(亜)北極圏に分布する走行性捕食者として、広範囲を移動し、離れた集団間の遺伝子流動の増加につながった可能性があります。しかし、ホモテリウムの広範な地理的分布と、異なる生息地に分布する明らかな能力から、ホモテリウムはひじょうに成功した分類群で、比較的個体数が多かったかもしれないという本論文の推論に適合する、と示唆されます。

 ホモテリウムの明らかな成功は、なぜ現在まで存続せず絶滅したのか、という問題につながります。確かなことは不明ですが、ホモテリウムの成功につながった正確な適応・特殊化が、ホモテリウムの絶滅につながったかもしれません。後期更新世末に向かって、大型の獲物の捕獲可能性の減少は、生き残ったより小さな獲物の狩りにおいてより効率的だった可能性が高い、他のネコ科種とのより多くの直接的競合を引き起こしたかもしれません。ホモテリウムが獲得した特定の適応は突然不利になり、絶滅へとつながったのではないか、というわけです。

 三日月刀歯虎(Homotherium latidens)のゲノム配列は、他の現生ネコ科種との進化的関係、およびその特有の適応の遺伝的基盤に関する理解を深めます。本論文の結果は、ホモテリウムが全ての現生ネコ科種とはひじょうに深く分岐しており(2250万年前頃)、現生ネコ科種の最初の放散(1400万年前頃)の後で現生ネコ科種との検出可能な遺伝子流動を受けなかった、と示します。これは、マカイロドゥス亜科をネコ科内の別の亜科として位置づける認識を支持します。さらに、視覚や認知機能やエネルギー消費に関わるいくつかの遺伝子において、正の選択の証拠が見つかり、これはホモテリウム系統の昼行性および狩猟・社会的行動と一致する可能性があります。三日月刀歯虎個体の遺伝的多様性は比較的高水準と明らかになり、成功した系統だっただけではなく、むしろ他の現生ネコ科種と比較して個体数が多かった、と示唆されます。本論文は、どのようにして、化石記録と古ゲノミクスを相乗的に利用し、比較のために近縁な現生分類群が存在しない絶滅種の進化と生態をよりよく理解するのか、示します。


参考文献:
Barnett R. et al.(2020): Genomic Adaptations and Evolutionary History of the Extinct Scimitar-Toothed Cat, Homotherium latidens. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.051

アジア南東部における人類も含む大型動物絶滅の環境要因

 アジア南東部における人類も含む大型動物絶滅の環境要因に関する研究(Louys, and Roberts., 2020)が報道されました。アジア南東部は北部のインドシナ地域と南部のスンダ地域で構成されており、広大なフタバガキ科熱帯雨林により特徴づけられ、世界で最も種が豊富な生態系を有します。アジア南東部では、寒冷期に海面が低下するとスンダランドが形成され、とくにインドシナからジャワ島にかけての生物地理地域で深刻な環境変化が起きた、と主張されています。アジア南東部の大半で降水量をかなり減少させた熱帯収束帯の変化に伴い、より乾燥した草原環境の拡大により、アジア南東部本土と島嶼部の大半でホモ属の早期種と大型グレーザー(おもに草本を採食する動物)が拡散してきた、と主張されています。

 その後のサバンナ回廊の消失と熱帯雨林の再拡大により、これらホモ属の早期種と大型グレーザーの多くは絶滅もしくは生息範囲が縮小した、と考えられています。これらの変化はボルネオ島のオランウータンやアジアゴールデンキャットのような熱帯雨林種の拡大とも関連しています。更新世アジア南東部が開かれた地域だったことを考慮すると、これらの仮説の検証は、人類がどのように異なる生態学的耐性もしくは能力を有していたのかということや、大型動物絶滅における気候変化の役割に関する世界的な理解に大きく貢献するでしょう。

 アジア南東部において、より開放的な環境が更新世に存在したことを示唆する証拠にも関わらず、サバンナ回廊の程度、さらには存在さえ、激しく議論されてきました。それは、いくつかのモデリングと長距離花粉データから、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の最寒冷期にさえ、熱帯雨林が存在したと示唆されているからです。こうした仮説の検証は、限定的な古環境データと、広範囲にわたる古生態学的評価の欠如により妨げられてきました。安定同位体の炭素13および酸素18の分析は、地域・大陸・地球規模での主要な環境事象の復元に長く用いられてきました。植物は光合成経路に応じて異なる炭素13値を有し、酸素18値は環境の水により変わります。これに基づく研究では、人類遺跡と関連する中型から大型の哺乳類の環境では、C3植物の優占する湿潤な森林と、C4植物により特徴づけられるより開放的で乾燥したサバンナの生物群系とが、どの程度存在したのか、という証拠が示されます。アジア南東部における同位体分析の適用はこれまで限定的でしたが、最近の研究では、古環境の指標として化石哺乳類の分析が始まっています。しかし、化石記録を適切に解釈し、地球生物学の記録を現代の文脈に位置づけるのに必要な現代の基準データは、ほとんど完全に欠落しています。

 本論文はこの問題に対処するため、アジア南東部で見つかった哺乳類63種の、269点の現代および歴史的標本の炭素13および酸素18データを報告します。これらは、前期更新世から現代に至る化石から得られた、644点の既知の炭素13および酸素18値と比較されます。一貫性と比較可能性のため、全事例で標本から得られた炭素13値は哺乳類の食性の炭素13値の推定に修正されました。本論文で組み合わされたデータセットは、アジアにおける哺乳類からの炭素13および酸素18値の最大の収集で、通時的な動物相および人類と関連したC3およびC4植物の分布の広範な傾向の検証が可能となります。以下、地域区分とサバンナの範囲と各標本の場所とを示した本論文の図1です。
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 本論文の結果から、前期更新世にはC3およびC4植物両方の消費者(草食動物を捕食する肉食動物も含めて)がアジア南東部に存在した、と示されます。しかし、これらの哺乳類は地域全体では不均一に分布していました。C3植物の消費者はおもにインドシナ地域に、C4植物の消費者はおもにスンダランドに存在します。草食動物と雑食動物の分布は、C3もしくはC4植物の優占する生態系全体で、有意な違いはありませんでした。中期更新世までに、スンダランドの記録ではC3植物の消費者がほとんどいなくなります。ほとんどの種は、C4植物の摂取と関連した範囲内に収まるか、程度は少ないものの、C3およびC4植物の混合摂食と関連する範囲に分類されます。中期更新世の始まりの頃に、炭素13食性の頂点が見られ、インドシナ地域では、より高い炭素13値へと向かうC3植物を消費する草食動物の変化と対応しています。これは雑食動物に影響を及ぼしていないようで、インドシナとスンダランド両地域全体の分布は、前期更新世の分布と類似しています。肉食動物はこの期間、C4植物を消費するグレーザーを好みます。後期更新世までに、ほとんどのスンダとインドシナの草食動物および雑食動物は、おもにC3植物を消費していました。これは肉食動物とは著しく対照的で、肉食動物のほとんどは、食性スペクトラムのC4末端で見つかりました。完新世までに、アジア南東部の哺乳類はおもにC3植物を消費するようになりました。

 C3植物とC4植物の間の顕著な違いを超えて、C3植物が優占する生態系内における、炭素13および酸素18のかなりの変動も見られます。最も低い炭素13食性値は、閉鎖的な林冠および亜林冠生息地に対応します。逆に、より高い炭素13値は、開けた林冠もしくは森林地帯で見られます。高い酸素18値は、林冠上部で採食する草葉食動物にも見られますが、下層を好む草葉食動物はより低い酸素18値を有します。アジア南東部では、ブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)の炭素13および酸素18値の分布は、全期間で有意に異なります。事後分析からは、環境構造における有意な違いが通時的に存在する、と示唆されます。前期更新世のインドシナの遺跡では、炭素13値に基づくと、下層で摂食していたブラウザーが何種類かいます。中期更新世までに、下層のブラウザーは記録から消え、5個体のみが閉鎖的林冠と一致する値を有します。後期更新世には、インドシナ北部の遺跡で、層序化された閉鎖的林冠森の最初の明確な証拠が記録に現れ始めます。完新世には、インドシナとスンダランド両方のブラウザーが閉鎖的な林冠森を占めており、両地域ではひじょうに高い負の歪んだ分布を示します。時間の経過に伴って増加する森林階層は、完新世における林冠専門分類群の出現により支持されます。これは、下層・中層・上層の林冠で採食する種間における、漸進的にかつ有意に高くなる酸素18値により支持されます。

 全分類群におけるC3およびC4植物消費の地域的変化と、ブラウザー集団内の炭素13および酸素18値の変化は、共通の状況を明らかにします。大気中二酸化炭素の分圧の微妙な変動が、時間の経過とともに起きたかもしれず、これは森林被覆と正確に同等であるとして炭素13値の解釈に影響しますが、C3およびC4植物の相対的な存在量、もしくはC3植物が優占する環境内における変化に関して観察された程度を曖昧にするのに充分ではありません。本論文のデータからは、閉鎖的な林冠森との混合が前期更新世のインドシナに存在しており、その頃スンダランドは開けたサバンナ草原だった、と示されます。中期更新世の始まりまでには、スンダランドとインドシナの両地域では開けたサバンナが優占しますが、インドシナのサバンナはスンダランドよりも森林が多く、いくつかの開けた森林が持続しました。閉鎖的な林冠はインドシナで後期更新世に出現しましたが、スンダランドではおもに開けた林冠森が優占していました。完新世までに、インドシナとスンダランドの両地域では閉鎖的な林冠森が優占しました。

 これらの観察は全球気候モデルと一致しており、中期更新世移行期におけるかなりの変化を示唆します。125万~70万年前頃の、41000年周期から高振幅の10万年周期への変化は、海面温度のかなりの低下、氷床の増加、アジアの乾燥化とモンスーン強度の高まりと一致します。底生酸素同位体記録に見られる氷期周期の変化は、アジア南東部の哺乳類における炭素13および酸素18値で観察された頂点と一致します。乾燥状態が低下するにつれて、サバンナは森林へと変わっていきました。この過程は、スンダ大陸棚の沈下により、40万年前頃にさらに影響を受けました。この事象は、土地を著しく減少させて反射率を低下させたことで、大気の対流と地域の降雨量の増加につながりました。本論文のデータは、この時点での炭素13および酸素18値の減少の加速を示しており、森林に好適な条件への継続的傾向が示唆されます。

 遺跡の分布から、最大時にサバンナはインドシナからスンダランドへと広がり、この広大な地域全体で大型グレーザーの拡散を可能にした、と示唆されます。これらの生態系の拡大は、この地域における最大の人類多様性の時期と一致します(関連記事)。中期更新世と後期更新世の始まりの間、C4植物の優占する生息地の顕著な衰退が起き、この時期はアジア南東部におけるほぼ全ての人類系統が絶滅しました。これらの人類集団は、アジア南東部において優先するようになる、拡大する熱帯雨林生息地に柔軟に移行できなかったようで、サバンナと森林の混合環境に依存するこれらの種の地位を浮き彫りにします。対照的に、72000~45000年前頃のこの地域における現生人類(Homo sapiens)の到来は、熱帯低地常緑熱帯雨林の存在が拡大した時に起きています。サバンナ環境はいくつか断片的に持続し、ほぼ確実に現生人類により利用されましたが、現生人類はその生態的地位をアジア南東部で拡大し、豊富な熱帯雨林と海洋生息地を利用しました。このような環境に特殊化する能力は、末期更新世と完新世においてますます明らかになっています(関連記事)。

 これらの環境変化は、人類のみならず広く哺乳類の置換にも重要な役割を果たしました。前期更新世には、ほとんどの哺乳類は開けた森林の広範な生態空間を占めていました。唯一の例外は、閉鎖林冠森に限定されていた奇蹄類です。前期および中期更新世のC4植物が優占する環境の拡大と閉鎖林冠森の生物群系の衰退により、哺乳類は、開けた森林もしくはサバンナという二つの生態空間を占めるようになりました。齧歯類や霊長類や奇蹄類は開けた森林へと後退し、一方で肉食動物や偶蹄類やゾウ目はサバンナを利用しました。森林の喪失はおそらく、これまでに存在した最大の類人猿であるギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)の絶滅に影響を及ぼしました。安定同位体データや関連する動物相および歯の形態に基づくと、ギガントピテクス・ブラッキーはインドシナ北部の熱帯雨林環境に特化していたようで、中期更新世におけるその絶滅は、おそらく好適な生息地の喪失により起きました。またこれらの変化は、武陵山熊猫(Ailuropoda wulingshanensis)や中国で発見された絶滅イノシシ(Sus peii)のような、他の前期更新世ブラウザーの絶滅にも影響を及ぼしました。現在のアジア南東部の島々のほとんどが直接大陸とつながっていた中期更新世のサバンナの大規模な分布により、インドシナと在来の固有種の交換を通じて、スンダランド全域で新たな動物相群が形成されました。以下、中期更新世のアジア南東部に広がっていたサバンナの風景の想像図です。
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 中期更新世後期以降のより高密度の熱帯林冠への再帰は、この時点までに広範に拡散していた、草原に特化した種の絶滅に影響を及ぼしました。偶蹄目は開けた林冠森環境に移行し、この期間にはウシ族種(Bubalus palaeokerabau)やウシ亜科種(Duboisia santeng)のようなグレーザーの最後の記録が残っています。この生態空間には、霊長類や齧歯類もいました。しかし、この変化は、ゾウ目に示される食性の大幅な変化との比較で見劣りします。それは、ゾウ目種(Elephas hysudrindicus)やステゴドン種(Stegodon trigonocephalus)を含むグレーザー分類群の消滅と対応しています。この時点以降、ゾウとその近縁種は閉鎖的な林冠森に限定されるようになりました。サイとバクは後期更新世までに閉鎖的な林冠森に戻りましたが、LGMにおいて熱帯雨林の明らかな減少の影響を受けました。たとえば、スマトラサイはこの期間に対応する集団減少を示します。後期更新世には、開けた環境に適応していた、肉食動物の森林生態系への著しい移動と、ハイエナの主要な絶滅事象が見られます。完新世には、開放的および閉鎖的な林冠森という、主要な森林生態系の拡大が見られます。霊長類もこの時点で、より閉鎖的な林冠を伴う森への移行を示します。

 アジア南東部の哺乳類では、炭素13および酸素18値の両方で、保全と絶滅との間の有意な正の相関があり、より乾燥して開けた環境の喪失が絶滅のより高い危険性と関連している、と示唆されます。この相関は、たとえ現生種のみを考慮しても有意なままです。本論文のデータからは、前期~中期更新世における大型動物の絶滅は、おもにC4植物に適応していた分類群を含んでいた、と示されます。これらの分類群は、後期更新世に森林再拡大とサバンナ縮小に伴って拡散します。熱帯雨林種は現在、最大の絶滅危機にあります。これは、大型哺乳類の運命における環境変化の支配的役割を浮き彫りにします。アジア南東部の現代の熱帯雨林には、世界で最も絶滅の危機に瀕している動物がいます。これらの絶滅危惧種は、乱獲と森林伐採による生息地喪失の危機に曝されており、これら熱帯雨林分類群がとくに存在しなかった草原生態系への、人為的影響による回帰を表しています。したがって、本論文の長期的視点は、現在の保全優先事項に関連する重要な洞察を提供します。たとえば、オランウータンの食性は全期間で有意に異なっており、完新世では最低の平均炭素13値が見られます。これらの変化は、おそらく中期~後期完新世における人類による搾取および土地開発の増加と関連しており、それによりオランウータンはより深い熱帯雨林に追いやられ、孤立して脆弱になっています。

 第四紀における人類や他の大型動物の変化する適応を理解するには、堅牢な古生態学的データセットが不可欠です。そのような記録はアフリカでは長く利用可能でしたが、アジア南東部では最近まで存在しませんでした。本論文の結果から、広範なサバンナ環境の往来が人類と他の哺乳類の生物地理に大きな影響を有しており、サバンナと森林の混合環境に適応した動物相は、熱帯雨林適応種によって、中期更新世後期と後期更新世に生息地を奪われていきました。アジア南東部ではかつて多様な人類が存在していましたが、現在では変化する環境によく適応した現生人類のみとなりました。現在、人類の開発・大農場開拓・人口増加を主要な動因とする、より開けた草原環境への回帰は、アジア南東部および熱帯全体の人類集団の長期的持続可能性と同様に、熱帯世界で最も絶滅の危機に瀕している哺乳類の最大の脅威となっています。本論文は、これらの脅威を長期的文脈に位置づけるのに役立ち、現生人類の運命が典型的な固有の熱帯雨林群系の到来に伴ってより良い方向に変化した一方で、我々がこれらの生態系を永久に破壊する危機にいる、と示します。


 以上、本論文をざっと見てきました。本論文は、アジア南東部における第四紀(更新世および完新世)の環境の変遷と、それに大型動物の拡大と絶滅が相関していることを示しており、今後も参照され続ける有益な結果を提示している、と思います。本論文では、アジア南東部にはかつて多様なホモ属が存在したものの、後期更新世にサバンナが後退すると非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)は絶滅し、適応能力の高い現生人類のみが存続した、と主張されます。本論文では、アジア南東部には少なくとも5系統のホモ属が存在した、と指摘されています。これは、ジャワ島のエレクトス(Homo erectus)、フローレス島のフロレシエンシス(Homo floresiensis)、ルソン島のルゾネンシス(Homo luzonensis)、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)、現生人類です。このうちデニソワ人に関しては、ゲノムデータからアジア南東部にも存在した可能性が高いと推測されていますが(関連記事)、遺骸はまだ確認されていません。

 また本論文では、アジア南東部の古代型ホモ属の絶滅要因として、中期更新世後期以降のサバンナの縮小を挙げます。ホモ属でも多様な環境に適応できたのは現生人類だけで、古代型ホモ属はサバンナもしくはサバンナ的環境(草原と疎林の混在)にしか適応していなかった、との見解は根強いように思います(関連記事)。しかし、初期ホモ属は遅くとも250万年前頃にはアフリカからユーラシアへと拡散し、210万年前頃までに現在の中国陝西省にも拡散していますから、サバンナもしくはサバンナ的環境以外の環境や環境変化にも一定以上適応できた可能性は高いように思います。おそらく古代型ホモ属の絶滅で最も多かった要因は、現生人類との競合なのでしょう。デニソワ人とフロレシエンシスとルゾネンシスは、その可能性が高いように思います。一方、エレクトスに関しては、ジャワ島における最後の痕跡が117000~108000年前頃なので(関連記事)、現生人類との競合ではなく、サバンナから熱帯雨林への移行が要因かもしれません。しかし、スンダランド、さらにはアジア南東部全域にまで範囲を拡大すると、現生人類との競合が絶滅要因だった、という可能性も充分考えられます。あるいは、エレクトスの競合相手はデニソワ人だったかもしれませんが、アジア南東部でデニソワ人遺骸が確認されるまでは強く主張できず、憶測に留めておきます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:東南アジアにおけるヒト族の進化を取り巻く環境的状況

 東南アジアへ移動した後のヒト族の進化は、中期更新世にサバンナだった地域が完新世までに密な熱帯雨林に置き換わるという気候変動を背景にして起こったことを明らかにした論文が、今週、Nature に掲載される。今回の分析から、東南アジアでのヒト族の進化を取り巻く環境的状況と、動物の絶滅との関連が明確になった。

 東南アジアはヒト族と哺乳類の移動と絶滅を解明する上で重要な地域である。以前の注目すべき発見によって、東南アジアにはヒト属の種が少なくとも5種生息していたことが明らかになっている。炭素同位体と酸素同位体の違いから過去の植物や利用可能な水量に関する手掛かりを得ることのできる安定同位体試験は、アフリカでのこうしたヒト族の進化的変化を取り巻く環境的状況を明らかにするために長い間用いられてきたが、東南アジアに関してはほとんど調べられていなかった。

 Julien LouysとPatrick Robertsは今回の論文で、第四紀(260万年前~現在)を通じた東南アジアの哺乳類の安定同位体データの大規模データセットを示した。このデータから、前期更新世(約260万~77万4000年前)に森林だった地域が、中期更新世(約77万4000年前~)までにサバンナへと変化し、これが、草食動物の分布拡大とブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)の絶滅につながったことが明らかになった。サバンナは、後期更新世(約12万9000年前~)に後退し、完新世(1万1700年前)までに完全に消失して、林冠の閉鎖した熱帯雨林に取って代わられた。この変化により、サバンナや森林が生息地だったホモ・エレクトス(Homo erectus)やその他の動物が犠牲になり、熱帯雨林に適応した動物種と適応能力の高いホモ・サピエンス(Homo sapiens)が優勢になった。


生態学:東南アジアにおける大型動物相とヒト族の絶滅の環境的駆動要因

生態学:ヒト族進化における東南アジアの環境

 アフリカでは、気候変動に伴い、閉鎖林が疎林や開けた土地からなるより多様性の高い環境へと移り変わったことを背景に、ヒト族が進化した。今回J LouysとP Robertsが東南アジアで行った炭素と酸素の安定同位体データの大規模収集から、この地域でのヒト族進化の背景がアフリカとは逆であったことが示された。後期更新世の東南アジアでは、西方へとつながるサバンナの「回廊」は残ったものの、アフリカとは対照的に、草原がより森林の多い環境に取って代わられていたのである。



参考文献:
Louys J, and Roberts P.(2020): Environmental drivers of megafauna and hominin extinction in Southeast Asia. Nature, 586, 7829, 402–406.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2810-y

都道府県単位の日本人の遺伝的構造

 都道府県単位の日本人の遺伝的構造に関する研究(Watanabe et al., 2020)が報道され、話題になっているようです。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文では、日本人の遺伝的構造を解明するため、47都道府県単位と、さらに大きな9地域区分(北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州・沖縄)単位で遺伝的データが分析されました。この区分は、以下の本論文の図1で示されます。
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 日本列島には、アイヌと主に沖縄の琉球人という二つの小集団と、その他の大多数を占める「本土」日本人という大集団が存在します。日本人の人口史については、変容・置換・交雑という3モデルが提示されており、現在有力なのは、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」です。このモデルでは、現代日本人は先住民である「縄文人(縄文文化関連個体群)」とアジア東部大陸部からの移民との混合により形成された、と想定されます。頭蓋形態に関する以前の研究では、アイヌと琉球人が「本土」日本人より「縄文人」に近く、東北地方の人々は形態的にアイヌに近い、と示唆されています。遺伝学的にも、アイヌと琉球人は「本土」日本人よりも「縄文人」の遺伝的影響を強く受けており、とくにアイヌではその影響がひじょうに高い、と推測されています(関連記事)。

 これまでの遺伝学的研究で、「本土」日本人と沖縄県民との間の遺伝的差異は示されていますが、「本土」日本人の都道府県間の遺伝的差異はよく理解されていません。以前の研究で、主成分分析から東北地方の人々が沖縄県民に近く、「縄文人」の遺伝的影響が強い、と示唆されています。しかし、東北地方の全県の人々が遺伝的に沖縄県民に近いのか不明で、さらに四国・中国地方の人々は対象とされていませんでした。本論文では、47都道府県全ての11069人のゲノム規模一塩基多型データが分析され、都道府県水準での日本人の遺伝的構造が明らかにされます。これは、ヤフー株式会社が提供するゲノム解析サービス「HealthData Lab」の顧客11069名の138688ヶ所の常染色体一塩基多型遺伝子型データに基づいています。その地域的内訳は、本論文の表1で示されています。

 まず、個体水準で主成分分析が行なわれ、琉球人(おもに沖縄県民)と「本土」日本人(おもに沖縄県以外の46都道府県民)が遺伝的に明瞭に分かれる、と確認されました。なお、本論文で用いられたデータにアイヌは含まれていないと考えられます。常染色体上の138688ヶ所の一塩基多型遺伝子型データから各個体の主成分得点が求められ、プロットされました。次に、47都道府県のそれぞれから50名ずつ無作為抽出されて各一塩基多型のアレル(対立遺伝子)頻度が計算され、中華人民共和国の北京の漢人も含めてペアワイズにf2統計量(2集団間の遺伝距離を測る尺度の一つで、一塩基多型データに対するf2統計量は、一塩基多型ごとにあれる頻度の集団間差の2乗を計算し、それらの平均値として与えられます)を求めてクラスタ分析(多数の変数、つまり多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、グループ分けが階層的になされる階層的手法と、特定のクラスター数に分類する非階層的手法があり、本論文では階層的手法の一つであるウォード法が用いられました)が行なわれました。

 日本人11069人と103人の漢人を対象とした主成分分析では、漢人に近い個体を除くと、日本人は沖縄県民を中心とする「琉球クラスタ」と本土日本人を中心とする「本土日本クラスタ」に大きく二分されました(図1)。本土日本クラスタ内では、東北の個体群が沖縄県民と、近畿および四国の個体群が漢人と比較的近い、と明らかになりました。以下、日本人と漢人を対象とした主成分分析結果を示した本論文の図2です。
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 ADMIXTURE分析(K=2からK=5まで)では、系統の割合が沖縄県民と他の都道府県民との間でかなり異なっていました。K=2では(図3)、青色成分が沖縄県民の系統の大半を占めています。沖縄県を除く都道府県では、青色成分の割合が近畿と四国で比較的低く、東北・関東・九州で比較的高い、と明らかになりました。以下、K=2の場合のADMIXTURE分析結果を示した本論文の図3です。
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 都道府県単位のクラスタ分析では、沖縄県民が他の全都道府県民と大きく異なり、沖縄県民を除く都道府県民は大きく3クレード(単系統群)に区分されました。クレード1は東北の全県、クレード2は四国と近畿の全府県、クレード3は中国と九州の全県を含みます。したがって、これら5地域(東北・四国・近畿・中国・九州)は比較的遺伝的には均質と考えられます。f2統計に基づくと、九州、とくに鹿児島県民が遺伝的には沖縄県民に最も近い、と明らかになりました。

 47都道府県単位での主成分分析では、同じ地域の都道府県が近くに位置づけられました(図5)。PC1軸では、沖縄県が他の都道府県から離れており、東北と九州の諸県は沖縄県と比較的近くに位置します。沖縄から最も遠いのは、近畿と四国の諸府県です。PC2軸は緯度および軽度と強く相関しており、各都道府県の地理的位置が反映されていることを示します。以下、47都道府県単位での主成分分析結果を示した本論文の図5です。
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 主成分分析結果を示す上記の図2は、近畿と四国の人々が他の都道県民よりも遺伝的に漢人に近いことを示唆します。これを確認するためf2統計が行なわれ、近畿と四国の人々が他のほとんどの都道県民よりもかなり漢人に近い、と明らかになりました。本論文の分析では、47都道府県民のうち、漢人と遺伝的に最も近いのは奈良県民です。

 これらの分析結果を踏まえると、以前の研究と同様に、日本列島の現代人集団は遺伝的に沖縄と本土日本に区分される、と改めて確認されました。ただ、上述のように本論文ではアイヌは含まれないと考えられるので、アイヌを含めると二分ではなく三分されるでしょう。上述のように、以前の研究で本土日本人よりも琉球人の方が遺伝的には縄文人と近い、と示されていました。つまり、本土日本人は琉球人よりも、アジア東部大陸部からの(おそらくは弥生時代以降の)移民に遺伝的に近いことになります。これは、上記の図3で示されたK=2のADMIXTUREにおいて、青を縄文人由来、橙を弥生時代以降の移民に由来すると仮定した場合に確認されます。

 アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民は、遺伝的に漢人に近いと予測されます。上記の図5で示された主成分分析のPC1軸で沖縄から最も遠い近畿と四国の府県は、他のほとんどの都道県よりも漢人に近い、と明らかになりました。図5のPC1軸は、縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民という二つの祖先集団との遺伝的類似性を反映しているようです。遺伝的に、東北と九州の個体群は他地方よりも縄文人に近く、一方で近畿と四国の個体群はアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民に近いようです。アイヌは北海道の在来集団ですが、現代の北海道民のほとんどは明治時代以降の本土日本からの移民の子孫です。したがって、アイヌは遺伝的に本土日本人よりも琉球人の方と類似していますが、現代の北海道民は琉球人と類似していません。縄文人系統の地域差が、現代日本人集団の遺伝的構造の主因かもしれません。

 主成分分析では、地理的位置が本土日本人の遺伝的構造に関わる主因の一つであることも明らかになりました。上記の図5のPC2軸と緯度もしくは経度との有意な相関は、隣接する都道府県間の移動によるものと考えられます。この結果は予測できましたが、ゲノム規模の一塩基多型遺伝子型データを用いて都道府県水準で大規模な分析を行なった本論で初めて示されました。

 本論文は、四国の住民が本土日本人の中では比較的漢人に近いことを始めて示しました。上記の図2では、四国の人々はわずかしか漢人クラスタと本土日本人クラスタとの間に位置づけられないので、四国の現代人は、中国人や朝鮮人とあまり混合していない可能性があります。したがって、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の遺伝的構成は四国でよく保存されている、と考えられます。アジア東部大陸部からの移民により導入された水稲耕作は九州北部で始まったので、この移民はまず九州北部に到来した可能性が高そうです。もしそうならば、アジア東部大陸部から四国への移住には、中国や九州を経由して瀬戸内海を渡る必要があります。それにも関わらず、四国は中国や九州よりも遺伝的に漢人に近く、弥生時代以降の渡来系統の程度がアジア東部大陸部からの移民の移動経路と必ずしも一致しない、と示唆されます。四国の人々のゲノムに関する将来の研究では、弥生時代以降におけるアジア東部大陸部からの移民の遺伝的背景が解明されるかもしれません。しかし、近畿の現代人と漢人との遺伝的類似性に関しては、図2の2集団間で位置づけられた個体群のように、最近の混合に由来するかもしれません。

 上記の図5で示される主成分分析では、東北だけではなく九州も沖縄県に近くなっています。これは図2の主成分分析により支持され、九州の一部個体が本土日本クラスタと沖縄クラスタの間に位置づけられます。その一因は、九州と沖縄の地理的近さで、最近になって九州に沖縄県から移住した人々や、沖縄県出身の両親がいるからです。九州の各県では鹿児島県が沖縄県に最も近くなっています。これは、鹿児島県に属する奄美群島が、かつて沖縄本島に存在した琉球王国の支配下にあったからと考えられます。九州と沖縄の遺伝的近縁性は、上述のように地理的近さが一因と考えられますが、九州北部の3県(福岡・佐賀・長崎)も沖縄に遺伝的に近くなっています。上述のように、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民は九州北部にまず到来したと考えられますが、九州北部の現代人よりも四国や近畿の現代人の方が遺伝的には漢人と近くなっています。この結果は、アジア東部大陸部からの移民が、弥生時代に九州北部に存在した縄文人とあまり混合しなかったことを示唆しますが、これは将来解決されるべき問題です。

 また、日本人のさまざまな疾患に関連する多型を特定するため、遺伝的関連研究が行なわれてきました。偽陽性を回避するため、症例と対照の遺伝的背景はできるだけ一貫している必要があります。ゲノム規模関連研究では、ゲノム拡張係数もしくは主成分分析スコアの使用により、集団階層化による偽陽性は回避できるかもしれません。しかし、原因となる一塩基多型が被験者の遺伝的不均質に寄与している場合、こうした調整が偽陰性を引き起こすかもしれません。これらの問題に完全に対処することは困難ですが、本論文の結果は、患者と対照群は、上述の各クレード(クレード1~3および沖縄)内の都道府県から募集する必要がある、と示唆します。

 まとめると、本土日本人は遺伝的に不均一で、これは、各地域で縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民との間の混合の程度と、近隣の都道府県間の限定的な移住によりもたらされた可能性があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は都道府県単位での日本人の遺伝的構造を示しており、ひじょうに有益だと思います。ただ、日本列島の現代人集団の遺伝的構造の地域差がどのように形成されてきたのか解明するには、やはり日本列島全域での通時的な古代ゲノムデータが必要となります。その意味で、現代日本人、さらにはその地域差の形成過程を、本論文から過剰に読み取ってはならない、とは思います。あくまでも、本論文はそうした問題に関して重要な基礎的情報を提供した、と考えるべきでしょう。

 本論文が提示する現代日本人の遺伝的構造の地域差は興味深く、今後の研究でより詳細に解明されていく、と期待されます。本論文では、日本列島の現代人のうち本土集団と琉球集団が取り上げられています。どちらも、日本人起源論で以前から提示されている「二重構造モデル」で説明されます。上述のように、縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民との混合により、日本列島の現代人集団は形成された、というわけです。ただ、本論文で取り上げられていないアイヌ集団に関しては、上述のように縄文人の遺伝的影響が本土集団および琉球集団よりもずっと高く、本土集団との混合が前近代より進行していたとはいえ(関連記事)、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の遺伝的影響は本土集団および琉球集団よりもはるかに低いでしょう。

 このアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民と遺伝的構成が最も類似していると推測されるのは、現時点で確認されている古代人では新石器時代黄河流域集団となります(関連記事)。このモデルでは、新石器時代黄河流域集団は出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団の中で位置づけられます。出アフリカ現生人類は、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。一方、ユーラシア東部北方系統からはアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア東部北方系統は新石器時代黄河流域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団(祖型オーストロネシア語族集団)です(関連記事)。

 現代において、日本列島本土集団や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、それはアジア東部北方系統とアジア東部南方系統との混合により形成された、と推測されます。チベット人はアジア東部北方系統とユーラシア東部南方系統との、日本列島本土集団はアジア東部北方系統と縄文人との混合により形成されましたが、いずれもアジア東部北方系統の遺伝的影響の方がずっと高くなっています(80%以上)。縄文人は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されています。

 本論文では、日本列島の現代人集団のうち本土集団と琉球集団は、先住の縄文人とアジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民の混合と指摘されていますが、後者は基本的に新石器時代黄河流域集団に代表されるアジア東部北方系統と考えられます。ただ、稲作の北上に伴って黄河流域でも後期新石器時代にはアジア東部南方系統の割合の増加が指摘されているように(関連記事)、アジア東部大陸部から日本列島への弥生時代以降の移民も、アジア東部北方系統を基本としつつ、アジア東部南方系統の遺伝的影響を受けている、と推測されます。

 本論文の結果を踏まえると、沖縄県民ではアジア東部北方系統の遺伝的影響が他の都道府県民(本土集団)よりも低く、本土集団でも地域差がある、と言えそうです。本論文が指摘するように、アジア東部大陸部からの弥生時代以降の移民はまず九州北部に到来したと考えられるのに、その遺伝的影響は九州よりも近畿と四国で高くなっています。本論文はこれに関して、アジア東部大陸部からの移民が、弥生時代に九州北部に存在した縄文人とあまり混合しなかった可能性を示唆します。ただ、ヤマト政権成立後に、アジア東部北方系統の遺伝的構成の人々が朝鮮半島から日本列島に到来し(いわゆる渡来人)、畿内に優先的に居住したことを反映している可能性も考えられます。弥生時代だけではなく、古墳時代以降の混合も地域差を形成したかもしれない、というわけです。四国に関しては、近畿との歴史的なつながりを反映しているかもしれません。また関東の現代人がクレードを形成しなかったことについては、近代以降の各地からの移住の影響が大きいかもしれません。これらの問題の解明には、やはり広範囲で通時的な古代ゲノムデータが必要で、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2020): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0

大河ドラマ『麒麟がくる』第28回「新しき幕府」

 1568年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、松永久秀も信長に面会に行きますが、自分が三好三人衆と通じていると疑われているのではないか、と懸念していました。じっさい、諸勢力の処遇を論じる評定にて、足利義輝の殺害に久秀が加担していたので処分すべきと三淵藤英は主張しますが、信長家臣の柴田勝家は、久秀の功績を主張して激論となります。義昭は、信長の主張通り久秀を受け入れるよう、藤英を説得します。久秀は信長に茶器を献上して歓心を買い、筒井順慶など大和の豪族と戦うつもりだ、と明智光秀(十兵衛)に言い、さらに朝倉義景の動きが怪しい、と光秀に伝えます。義昭は、幕府再興のために摂津晴門を政所で起用するよう信長に打診し、信長も受け入れますが、義輝を補佐できなかった晴門の起用に、細川藤孝も明智光秀(十兵衛)も不安に思います。1569年1月、義昭が拠点としていた本圀寺を三好三人衆が襲撃しますが、義昭には援軍が到来し、三好三人衆は撤退します。光秀は、幕府の中に三好と通じている者がいる、と推測します。信長は義昭の新たな居城の建築に取り掛かりますが、光秀は石仏が用いられていることに気づきます。信長は、子供の頃に仏像を粗末に扱い、母親に罰が当たると叱られたものの、何も起きなかった、と無邪気に言います。そんな信長に光秀は違和感を抱いていたようです。

 今回から摂津晴門が登場となります。晴門はいかにも守旧的な典型的悪役といった感じですが、これまでの作風からして、単純な悪役にはならず、晴門なりの主義主張も描かれるのではないか、と思います。今回は、今後の展開で重要となるやり取りも描かれました。松永久秀は筒井順慶を討つと意気込んでいましたが、義昭は順慶を赦免して優遇し、そのために久秀は義昭と対立します。また、久秀は光秀に、義昭に投降したり命乞いに来たりした者を見苦しいと言っており、これは久秀の最期とも関連しそうです。まあ久秀もこの後、一度は信長に投降して赦されていますが。石仏の件は、光秀が信長に対して明確な違和感を抱く契機になったという点で、たいへん注目されます。光秀は信長に重用されますが、最終的には本能寺の変に至ります。今回のような信長への違和感というか不安感の蓄積により、光秀は信長に叛いた、という流れになるのでしょうか。本作も後半に入り、そろそろ本能寺の変の原因も気になっていたところなので、今回の描写はとくに印象に残りました。

岡本隆司『腐敗と格差の中国史』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2019年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現在、中華人民共和国の習近平政権で進められている「反腐敗」運動の歴史的起源を探ります。なぜ中国では最高権力者今が大々的に腐敗撲滅に力を入れているのか、単に共産党の一党独裁体制による腐敗、つまり権力、それも独裁的な権力は必ず腐敗する、という一般論で説明するだけでよいのか、という問題提起でもあります。

 本書の見通しは、この問題の根源に、中国史における皇帝制の出現と官僚制の成立、およびその千年後に確立した皇帝独裁制と官僚制がある、というものです。戦国時代に中央集権体制と比較的平準化が進み、いわば一君万民的な体制の出現が要請される中で皇帝制が出現し、官僚制が成立しました。県を最少単位とするこの中央集権的体制は、皇帝制と共にこの後2000年以上続きます。官僚制は、身分・階級に格差が小さい社会に適合的でした。秦王朝は、在地勢力に強権的に臨んで強い反発を招来して滅亡し、これを踏まえた漢王朝は、在地勢力を取り込んでいき、儒教が次第に社会に浸透して有力層を統合していき、皇帝を頂点とする官僚制は、在地社会の自治を包摂していく形で展開します。

 しかし、漢代を通じて次第に特定の家柄が権勢を独占するようになり、格差が拡大していきます。官僚選抜の基準は儒教的な評判となり、ますます有力な家柄(豪族)が高位を占めるようになります。こうして、後漢ともなると何代にもわたって高官を輩出する家柄も出現し、貴族が成立します。貴族制を成立させて支えたのが九品官人法で、魏晋南北朝時代に貴賤の区別の確立に大きな役割を果たしました。家格により貴賤が決まり、それにより社会的存否が定まる貴族制は、とくに発達南朝で発達しました。南朝の貴族たちは皇帝になるわけではなく、武力・権力を握るものの、出自が「卑賤」な皇室をしばしば公然と見下しました。貴族層自らを「士」と称しました。その対立概念は社会の大多数を占める「庶」です。「士」と「庶」の間には転置ほどの隔たりがある、とされました。この風潮の中で、官吏になれるのは高貴な士だけとなりました。こうして、戦国時代~漢代初めの頃の身分・階級差の少ない社会とは大きく異なる格差会が形成されました。

 一方北朝というか華北では、諸勢力の相克が南朝よりも激しく、南朝政権のような継続性・連続性もしくは正統性が欠如していました。それもあって北朝では、南朝よりも実用主義・賢才主義的傾向が強くなります。「統一」王朝である隋も唐も、北朝の系譜に由来します。隋・唐では、官吏採用基準を門地ではなく個人の才徳に置き、科挙が始まります。しかし、社会の意識はそう簡単に変わりません。唐皇室の李氏でさえ、名門貴族よりも下に見られていました。社会通念上も旧来の門地ではなく個人の才徳が重視されるようになったのは、唐宋変革を経た後のことでした。

 宋代には、近代的な官僚制により近づいた制度が確立します。それ以前には、皇帝をも見下すような名門意識の強い貴族層が官吏の主要な供給源となり、時として皇帝に逆らいました。それが宋代には、皇帝に忠誠を尽くす官僚組織が形成されます。この官僚は士大夫と呼ばれ、その地位の源泉は皇帝と科挙に依存していました。ここに、官吏が皇帝に忠誠を尽くすような君主(皇帝)独裁制成立の基盤がありました。新たな支配層たる士大夫には、経典の教義を身につけて実践することが要求されました。士大夫は「読書人」とも呼ばれましたが、それは書を読むことが第一義的には儒教の経典だったからです。

 科挙はその「読書人」の学力を測定するためのもので、政治手腕・行政能力・専門知識ではなく、経書をどれだけ諳んじられるかが試されました。つまりは暗記力が要求されたわけです。基本文献となる四書五経だけでも40万文字以上で、散文・韻文・論説・詩詞も作れねばなりません。科挙に合格するにはたいへんな勉強が必要で、試験という一見合理的で平等な手段に基づくものだけに、「士」の「庶」に対する優越意識を決定づけ、貴族制の時代以来の社会の差別・隔絶を助長する役割を担った、と本書は指摘します。人々が「士」を目指すのは、単に社会的名誉からだけではなく、実利的な側面も多分にありました。科挙に合格さえすれば、本人の富貴が保証されるだけではなく、一族にもその余沢が及びました。

 科挙は原則として誰でも受験できましたが、本気で合格を目指すとなると、たいへんな勉強量が必要となりました。そこで、一族に優秀な子弟がいると、一族はこぞって支援しました。その子弟が合格して士大夫になると、次には既得の資格・権益を守るため、自分の子弟が科挙に合格するよう、指導教育します。こうして特権を目指した何世代にもわたる循環により、科挙は社会に定着します。本書は、「庶」の側も、一族の有望な子弟への支援など、この儒教理念の体制でいかに上手く立ち回るかに専念し、科挙を消極的に支えていった、と指摘します。科挙が存続するなか、差別機能も再生産を繰り返し、「士」と「庶」の階層分断と格差は固定化していき、世襲的な身分制は存在しないものの、二元的な社会構成となります。中国の官僚制は、こうした社会構造に立脚したという点で、世襲的な身分制を有しながら実質的な身分の隔たりが小さかった近世社会を基盤に成立した近代日本の官僚制とは異なる、と指摘します。

 この官僚制の歴史を大きくまとめると、一君万民的な比較的平準な社会構造下の未熟な体制で、個々の官僚が皇帝の代理として大きな権限を振るった法家的な時代から、貴族制の発展とともに皇帝権力を制度的に制約する時代を経て、皇帝権力と貴族制のせめぎ合いの中で、宋代に皇帝独裁制が確立した、となります。本書は、皇帝も含めて君主権力と貴族制のせめぎ合いの中から民主主義を独力で達成したのはイギリスとフランスだけだった、と指摘します。中国史の展開が特異的だったとは言えない、というわけです。

 こうして宋代に成立した皇帝独裁制は、その前代の五代十国時代の社会を踏まえたものでした。五代十国時代には諸勢力が割拠しましたが、それは各地の経済開発が進んでいたからでした。そうした在地の意向を無視した画一的統治は困難ですが、それをそのまま追認・黙認するだけでは、全体の秩序が成り立たず、宋代の皇帝独裁制には、そうした弊害の矯正への要望があった、と本書は指摘します。皇帝(君主)独裁制の本質は、皇帝が専制的支配を確立することではなく、地方に応じた在地主義を前提に、一元化を目指したものだった、というのが本書の見解です。単純なトップダウンの統治ではなく、ボトムアップの社会趨勢と適合的な統治を模索した結果成立したのが皇帝独裁制だった、というわけです。各地の産業と貨幣経済が発展した社会では、法律一辺倒ではない臨機応変な対応が官僚に求められました。

 権力・官僚によるトップダウン的な秩序維持と、民間・社会によるボトムアップ的な経済活動が噛み合って機能すれば、上下一体の社会と官民一体の政治が可能になり、西欧では議会政治と国民経済という形で実現しました。しかし中国では、上下および官民が必ずしも一体にならず、逆に「士」と「庶」に分かれた二元社会となります。本書は、世界ではむしろ西欧のような事例が特殊だと指摘します。本書が注目するのは、「官吏」という言葉です。現代日本ではほぼ同じ意味ですが、中国ではある時期以降、「官」と「吏」は異なる意味を有するようになります。共に役所に勤めて公務を担いますが、「官」は中央政府が任命して派遣する正式な官僚なのに対して、「吏」は必ずしも中央政府が任命せず、臨時的に執務する人員を指すようになります。「官」は「官員」・「官人」、「吏」は「吏員」・「書吏」・「胥吏」とも呼ばれます。本書は「官」と「吏」の分離を、分業化の一端と把握します。

 在地主義の台頭に伴い実地に即した行政が必要になるものの、転勤が大前提の官員だけでは対応できないので、胥吏が必要とされました。元々、在地の行政は地元民が労力を出しあって進め、課税しないのが理想とされました。しかし、唐宋変革に伴い行政機構も複雑・拡大化し、専門家でなければ対応できなくなりました。こうして地方官庁の事務員は専業化し、これが胥吏です。胥吏はその起源からして 、国家から報酬は出ません。官員は転勤が大前提で任地の行政には通じないのに社会的地位と報酬を得たのに対して、胥吏は実務を一手に担ったのに、地位も給与も与えられませんでした。少数の正規の「官」と圧倒的多数の非公式の「吏」という、この倒錯した二元構造が宋代以降の官界の重要な特徴となります。ただ、宋代はそうした二元化の進展時期で、まだ後代ほど固定化したわけではないので、王安石の改革のように、まだ一元化しようとの動きもありました。しかし、貴族制の時代以来の貴賤の差別意識は根強く、王安石の時代にはそれが再生産され固定化されつつあり、王安石の改革は挫折し、二元的な伝統中国社会が確立します。

 胥吏は叩き上げで、指導層の胥吏が見習いの部下を一種の徒弟制度により要請し、隠退するさいには自分の後継者として推薦しましたが、それは血縁・地縁による引き立てで、胥吏の地位は一種の権利株となっていき、盛んに取引されます。それだけ胥吏になりたい人々がいたわけですが、上述のように胥吏には中央政府からの給与は支払われません。それにも関わらず胥吏の希望者が絶えなかったのは、庶民からの手数料もしくは賄賂により充分生活できるだけの収入が得られたからでした。本書は、正規の官僚や地元の知識人・士大夫から蔑みと賎しめを受けていた胥吏の鬱屈・不満の捌け口が、同じ身分の庶民に向けられた、と指摘します。ただ本書は、こうした胥吏の弊害を伝える史料には士大夫の差別意識が反映されており、誇張されているかもしれない、と注意を喚起します。それでも、胥吏の弊害は否定できません。知識階層たる官僚は在地の行政に疎く胥吏頼みで、庶民は胥吏を経由しないと官僚とは接触できず、何かと胥吏に搾取されます。これが伝統中国社会の根源的問題の一つとなりました。本書はこのような伝統中国社会を、君主独裁・トップダウン的な官僚政治の外貌をとりながら、実質的には「封建」・ボトムアップ的な胥吏政治で、こうした二面性こそが特徴だった、と評価します。

 汚職は胥吏だけの問題ではありません。官僚の年俸は、多くの一族を養うと考えると、とても足りませんでした。「清官(清廉潔白な官僚)」であろうとすれば清貧にならざるを得ず、官僚では奇特な部類でした。清官であろうとすれば、例えば上司への礼物が簡素だったために不興を買って弾劾される危険性もありました。大多数の官僚にとって、清貧は耐えられるようなものではなく、官僚においても不正・汚職はありふれていました。皇帝独裁制下では、そもそも支出の範囲がきわめて狭く、地方税・地方財政はまったく考慮されていなかったことなど、これは構造的な問題でもありました。こうした状況に対して、清代には雍正帝が改革に乗り出しますが、官僚の俸給の方では一定以上の効果があったものの、胥吏の俸給は事実上支払われないままで対症療法におわり、構造的な改革とはなりませんでした。19世紀末の政府財政の規模は1億両弱でしたが、民間社会の実質負担は2億両という推計もあります。中央の「小さな政府」志向は、民間への負担に転化され、人口急増もあり、中央政府の支配力が末端まで浸透せず、賄賂・汚職構造は清代を通じてけっきょく解決されませんでした。

 この伝統社会構造を問題視した知識人もいました。たとえば、明清交代期を生きた顧炎武です。顧炎武は、庶民・社会と接して政務にあたる「小官」が少なく、官吏の父性・非違を糾す「大官」の監視・観察ばかりが増えている現状を批判しました。清朝はこの疲弊した制度・体系を立て直しましたが、それは対症療法にすぎず、18世紀後半の人口増加と社会の肥大化は官僚制の矮小化・統治の無力化と重なり、政治・社会は破綻に瀕していました。これが内憂外患の中国近現代史の根源にありました。

 中国近現代は、この状況を変えようとした革命の時代でした。若くして西洋的教育を受けた孫文のように、中国伝統社会の問題点を認識し、それを改めようとした人々は少なくありません。しかし本書は、孫文も含めて、20世紀に入るまで、革命を旧体制の変革・是正と位置づける観念・感覚がどの程度知識層に存在・定着していたのか、疑問を呈します。19世紀まで、大多数の知識人は漢語で思考・表現しており、「革命」も例外ではありませんでした。革命を伝統的な王朝交代ではなく、体制全体の大変革と考えるようになったのは、日本語を経由して西洋流の新概念が入ってきたからでした。つまり、中国近代史における革命とは、西洋外来の史実・概念の輸入・獲得なくして自覚できない観念だった、というわけです。

 そのため、革命運動も国民国家への目標も、対外的な配慮が勝っており、中国滅亡に至る「瓜分」が最も恐れられたため、国内社会の在り様よりも政治・外交が重視されました。それは孫文の三民主義(民族・民権・民生)にもよく表れており、圧倒的に重要だったのは民族主義です。孫文は清朝最後の宣統帝の退位後、明の太祖(朱元璋)の陵墓に参拝しています。朱元璋は「漢人政権を復活させた人物」とみなされており、孫文の意図は、明朝の復仇と再現・漢人政権の奪回を示すことでした。このように辛亥革命・中華民国は、西洋的な意味での革命・変革には至りませんでした。

 1920年代になると、革命は進展します。国民革命・国民党は社会変革をも射程に入れたため、支持を得ました。しかし、国共合作で共産党の勢力が伸張して乗っ取られることを恐れた蒋介石は、反共クーデタを敢行し、列強の英米との妥協を図ります。しかし蒋介石は、社会改革と均質な国民国家の形成を達成できませんでした。蒋介石にはその意思があり、じっさい幣制改革などに乗り出しましたが、英米に妥協し、その資本主義・企業と深くつながる中国の富裕層と一体化したため、南京国民政府の製作は資本家・富裕層を庇護するものにしかなり得ず、三民主義の民生主義が軽視されてしまいました。

 また、独裁制志向はついに変わらず、21世紀の現在も中国共産党により続いています。本書はこの要因としてカリスマ的指導者・独裁制をもたらす社会構造がある、と指摘します。清朝末期の1905年に科挙は廃止されますが、その身分意識と社会構成は容易に改まるものではありませんでした。エリート層選別機能を代わりに担ったのは外国への留学で、王朝の官僚制はなくなっても、軍閥勢力と政党国家が替わりを務めました。本書は、胥吏のような存在も、公式・表向きには見えにくくなっても、実質的には続いていた、と推測します。本書は、上下が乖離した二元的な伝統社会の構成自体にあまり変化はなかった、と指摘します。

 1937年、日中間の本格的な戦争が始まり、国民党と共産党は日本を共通の敵として再度提携します。日中戦争は総力戦の様相を呈し、国民政府も共産党も総動員体制を余儀なくされます。ここで、久しく民間社会を直接的に掌握してこなかった中国の権力が、半ば強制的に基層社会へと浸透し、上下の乖離した二元構造も動揺し始めます。中国が日本との戦争に「惨勝」すると、国民党と共産党の間で内戦が始まります。この国共内戦の帰趨を決したのは、日本軍が占拠していた宴会の都市部・経済先進地域の向背でした。国民党は、とくにハイパーインフレを招来した拙劣な通貨管理・経済政策により、その掌握に失敗しました。また、戦時物資の接収・分配、あるいは徴税や司法をめぐって、国民政府の綱紀弛緩・腐敗蔓延が、国民党を支持したアメリカ合衆国当局も呆れるほど、目に余りました。ただ、国共内戦に勝利した時点で、共産党がどれだけ民間社会を掌握していたかは未知数である、とも本書は指摘します。

 1949年に成立した中華人民共和国の課題は、国民政府も免れなかった政権・国家の腐敗と社会との隔絶、それを生み出す社会構成の変革でした。冷戦構造が確立していくなか、共産党政権の中華人民共和国は西側諸国との経済関係が極度に制限され、厳しい対外的環境の中での建国となりました。共産党政権は西側との激しい対立のなか、国内経済を資本主義世界経済と切り離し、統制管理下に起きます。「計画経済」体制下で、農村での農業集団化や都市部での商工業企業の国営化が進められ、いずれも中央の意思を現場へ徹底させようとの意図でした。各地でバラバラだった通過は、人民元により統一され、これは国民政府もなしえなかった事業でした。国民経済の統合と「計画経済」の実子は、民族主義・社会主義の達成で、共産党政権の目標でしたが、本書はその実質を問いかけます。むしろ、外圧に対抗する政治的・軍事的な動機によるもので、嶮しい国際情勢に応じた戦時統制とみなすべきで、必ずしも社会経済的な合理性に合致していない、というわけです。基層社会への権力浸透は、日中戦争以来の総動員体制から進展しており、その余勢を駆った戦時統制による上下の一体化だったので、精度の急速な変化とは裏腹に、人々の意識はあまり変わらなくても不思議ではない、と本書は指摘します。

 日中戦争までの中国社会は、官吏の腐敗・犯罪の多発・匪賊の横行が状態でしたが、中華人民共和国において、少なくとも外部からは、官吏は清廉質素となり、盗賊・犯罪が姿を消したように見えました。これは毛沢東政権の成果に違いはなく、1950・1960年代の日本の知識人は共産党政権を礼賛しましたが、中国が以前とはまったく異なった理想郷に見えたのも一面の事実である、と本書は指摘します。しかし、中華人民共和国の実情は、建国以来少なからず混迷していました。共産党幹部・官僚の汚職・浪費・官僚主義を告発する三反運動では、重大案件で約29万人が摘発されました。共産党にもそれだけ「腐敗」が広がっていたわけです。これは、公式・法的な手続きを経ない、民衆を動員してのものでした。官僚の自制や相互監視あるいは制度改革では効果が期待できない、と考えられたわけです。本書は、この時点でも官僚・党員と庶民・大衆とは戴然と分かれており、上下乖離した二元社会構造だったことを指摘します。1957年の百花斉放・百家争鳴でも、共産党幹部と農民との所得格差が厳しく指摘され、共産党は慌てて批判者たちを「右派」として弾圧しました。文化大革命でも、毛沢東と「四人組」を中心とした政権の一部支配層の呼びかけに応じて、多数の「紅衛兵」が出現し、凶行の限りを尽くしました。本書は、文革時点でも中国社会が上下隔絶する二元構造だったことと、毛沢東たちが下層を動員し、上層を撃滅させることで社会の一元化を目指した、と推測します。

 文革の結果は惨憺たるもので、その復興を優先して「改革開放」政策が進められ、現在の「社会主義市場経済」体制へとつながります。一見すると矛盾している概念・制度の組み合わせのように見えますが、中国の実情には適合していた、と本書は指摘します。政治は「社会主義」の共産党政権が独裁的に引き受け、経済は民間が自由な「市場経済」を取り入れるという方針は、上下乖離の二元構造社会に適しており、「改革開放」が目覚ましい成果を収めたのもそのためでした。「社会主義市場経済」が中国の伝統社会構成に応じた体制だとすると、それに根差す弊害も免れません。それは「腐敗」の蔓延と犯罪の多発です。国有企業の肥大と民間企業の縮小を指す「国進民退」という用語は、国家と民間の乖離と対立関係を示す表現で、二元構造の上下乖離が改めて拡大した所産です。上層を占めて富裕化したのは、共産党員とその縁類もしくは関連企業でした。

 共産党要人も、さすがにこの状況に危機感を抱き、胡錦濤前国家主席は、「腐敗」問題が解決できなければ、共産党は致命傷を受けて「亡党亡国」になる、と述べました。習近平国家主席も同様で、習近平政権は強権的手法も辞さず、「腐敗」を摘発していきました。「亡党亡国」とは共産党が亡んで中国が亡ぶという意味で、顧炎武の「亡国亡天下」を踏まえているようです。しかし、そこに現代中国の矛盾と苦悩も垣間見える、と本書は指摘します。そもそも「亡国亡天下」とは、「国」=政権と「天下」=中国世界とを別個に分かつところに要諦がありました。政権が亡んでも必ずしも中国の滅亡ではなく、政権と一般庶民はほとんど関係がありません。一方、習近平政権では、「党」=政権と「国」=中国とは同一視されています。これは中国革命の理想だったかもしれませんが、本当に実現してきたのか、理想が現実の前に挫折を続けてきたのが20世紀中国の革命史で、顧炎武の現状認識は現代中国にも当てはまっているのではないか、と本書は問題提起します。著者の著書をそれなりに読んできたこともあって、本書をすんなりと読み進められ、また新たに整理できた論点もあり、私にとってはたいへん有益な一冊となりました。

下側頭葉皮質のリサイクルがもたらしたヒトの読書能力

 ヒトの読書能力と下側頭葉皮質のリサイクルの奸計についての研究(Rajalingham et al., 2020)が報道されました。ヒトが読み書きのシステムを開発し始めたのは、過去数千年以内のことです。ヒトの読書能力は他の動物種と一線を画すものですが、数千年はヒトの脳が特に読書に専念する新しい領域を進化させるにはあまりにも短い時間枠です。読書能力の発達を説明するために、一部の科学者は、元々他の目的のために進化した脳の部分が読書のために「リサイクル」された、と仮定しました。たとえばオブジェクト認識の実行に特化した視覚システムの一部が、正字法と呼ばれる読書の主要なコンポーネント、つまり書かれた文字や単語を認識する機能に転用された、と示唆されています。この研究は、その仮説の証拠を提供します。この研究では、読む方法を知らない非ヒト霊長類であっても、下側頭葉皮質(inferotemporal cortex)と呼ばれる脳の一部が、意味のない単語と単語を区別したり、単語から特定の文字を取り出したりするなどのタスクを実行できる、と示唆しています。

 読むことは複雑な過程で、単語を認識し、それらの単語に意味を割り当て、対応する音に単語を関連づける必要があります。 これらの機能は、ヒトの脳のさまざまな部分に広がっている、と考えられています。機能的磁気共鳴画像法(fMRI)の研究により、脳が書かれた単語を処理するときに点灯する、視覚的単語形式領域(VWFA)と呼ばれる領域が特定されました。この領域は正字法の段階に関与し、乱雑な文字列や未知のアルファベットの単語から単語を区別します。VWFAは視覚皮質の一部で、オブジェクトの識別も行なう下側頭葉皮質にあります。

 2012年の研究では、ヒヒが単語と非単語の区別を学べる、と報告され、その後、単語認識の背後にある神経メカニズムに関心が抱かれました。以前の研究では、fMRIを使用して、オブジェクトや顔に反応する下側頭葉皮質の一部が、ヒトが読むことを学ぶと、書かれた単語を認識するのに非常に特化する、と明らかになっています。しかし、ヒトのイメージング手法の制限を考えると、これらの表現を個々のニューロンの解像度で特徴づけ、これらの表現が正射投影処理をサポートするために再利用できるのかどうか、またどのように再利用できるかを定量的に検証することは困難でした。

 この研究らは、霊長類の脳の一部がテキストを処理する素因がある場合、単語を見るだけで非ヒト霊長類の神経活動にそのパターンを見つけることができるかもしれない、と仮定しました。この仮説を検証するため、マカクの下側頭葉皮質全体の約500の神経部位からの神経活動が記録されました。その中には約2000の文字列があり、その一部は英語の単語で、一部は無意味な文字列でした。この方法論は、何かをするために動物を訓練する必要がない点で効率的です。

 その後、神経データは線形分類子と呼ばれる単純なコンピューターモデルに送られました。このモデルは、500の各神経部位からの入力を組み合わせて、その活動パターンを引き起こした文字列が単語か否か、予測することを学習します。動物自体はこのタスクを実行していませんが、神経データを使用して行動を生成する「代替手段」としてモデルが機能します。そのニューラルデータを使用して、このモデルは、単語と非単語を区別したり、特定の文字が単語の文字列に存在するのかどうか判断したりするなど、多くの正射投影タスクの正確な予測を生成できました。単語と非単語を区別するさい、このモデルの正確さは約70%でした。これは、2012年のヒヒに関する研究で報告された割合とひじょうによく似ています。さらに、このモデルにより作成されたエラーのパターンは、動物によって作成されたものと同様でした。

 また、視覚皮質の一部であるV4である下側頭葉皮質にも供給される、異なる脳領域からの神経活動も記録されました。V4活動パターンを線形分類子モデルに供給した場合、モデルは正射投影処理タスクでのヒトまたはヒヒのパフォーマンスを、下側頭葉皮質と比較して充分に予測できませんでした。この調査結果は、下側頭葉皮質が読書に必要なスキルに転用されるのに特に適していることを示唆しており、読書のメカニズムの一部はオブジェクト認識の高度に進化したメカニズムに基づいている、という仮説を支持しています。今後の計画として、正射投影のタスクを実行するために動物を訓練し、動物がタスクを学ぶにつれてその神経活動がどのように変化するのか、測定することが計画されています。


参考文献:
Rajalingham R. et al.(2020): The inferior temporal cortex is a potential cortical precursor of orthographic processing in untrained monkeys. Nature Communications, 11, 3886.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17714-3