池谷和信「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P1-4)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 初期現生人類(Homo sapiens)の象徴行動(symbolic behavior)のうち、顔料の使用や副葬品による埋葬などとともに、ビーズの存在が一つの指標として注目されてきました。これまで、アジア・アフリカにおける更新世の各地の遺跡から様々な素材のビーズが報告されています。イスラエルの海岸部のスフール(Skhul)洞窟では巻貝やムシロガイ、内陸部のカフゼー(Qafzeh)洞窟では二枚貝、アフリカ東部の内陸部の遺跡ではダチョウの卵殻、インドネシアのスラウェシ島ではバビルサの骨などです。中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点で現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていない、との指摘もあります(関連記事)。

 しかし、数万年前の先史狩猟採集民を対象にした考古学的ビーズ研究では、その年代やビーズの素材は明らかになりますが、誰が身に着けたのか、どのように入手し、どのような役割があったのか、把握することは困難です。本論文は、現存する狩猟採集民のなかでビーズの素材や製作技術や利用と役割についての基礎資料を提示します。著者はこれまで、ボツワナのカラハリ砂漠のサン人およびタイ南部のマニ人という二つの狩猟採集民社会で、人類のビーズ利用に関して民族考古学やエスノヒストリー調査を実施してきました。本論文では、マレー半島に位置するタイ南部のマニ人集落の調査結果が報告されます。マニ人はオラン・アスリ(マレー半島の先住少数民族)の北部集団に分類されます。現在マニ人は、定住化した集団と半定住化した集団と遊動している集団に分類され、調査地は遊動している集団の事例です。

 キャンプAでは、5事例が報告されています。事例1では、成人女性は細長い黄色の筒と3 個と黒の玉を半分にしたもの2 個を組み合わせていました。黄色の筒は動物(ジャコウネコ)の骨、黒色の球形は植物の実です。彼女がなぜそれらを選んだのか、不明です。また、なぜ複数の素材を組み合わせたのも不明です。ただ、動物の骨は同じキャンプの狩猟者からもらい、植物は自分が採集した、との情報が得られました。事例2では、成人女性が3 種類の異なる素材を使っています。上述と同じ木の実が1 個、木の根が3 個、アルマジロの甲羅の破片が1 個です。部材の合計の数は5 個で、素材は事例1 と比較してさらに多様になっています。事例3では、子供男性が2 個の黄色の骨に1 個の木の根を組み合わせています。事例4では、子供男性が2 個の木の根のみを身に着けています。事例5では、1 個の木の根と2 個のプラスティク製のものを身に着けています。キャンプBでは、1事例が報告されています。事例6では、成人女性が15 個の部材を身に着けていました。12 個が上述と同じ木の実で、2 個がアナグマ(Hog badger)の歯から構成されています。キャンプ内では肉が食用にされて、犬歯の部分が装身具に使われています。この二つのキャンプの事例から、この地域のビーズの素材として、植物の実や根や骨や歯が利用されている、と明らかになりました。

 これらの事例では、ビーズを身に着けていたのは成人女性と子供で。成人男性の事例は見いだせませんでした。これは、著者が現地で観察したカラハリの狩猟採集民の事例ともよく類似しています。成人女性は、ダチョウの卵殻や木の実やガラスなどの素材のビーズを、首のみならず頭飾りとしても利用していました。子供の場合は、誕生後に手首などに着けられます。一方で、キャンプのなかのすべての女性がビーズを見に着けているわけではありません。両キャンプのビーズを比較すると、数の違いはありますが、木の実の利用が広く共通して見られました。同時に、誰一人として同じ素材を組み合わせる人はいなかった点が注目されます。ここから、ビーズは人々の美しさのためだけではなく、自らの個性を示すものであり、よい匂いなどの目的のために身に着けている、と分かりました。

 素材は、植物の実や根や動物の骨でした。これに、貝類の素材を加えることからビーズの製作技術について考えてみると、まず、貝類のなかでは人の手を加えることなしに穴があくものもあります。また動物の骨は、なかに空洞が見られるので、その中に糸を通すことが可能である。一方、木の実や根茎は穴を開けるための道具が必要です。それに使用されたのは、動物の角や石器などの可能性が高そうですい。これに対して、ダチョウの卵殻には、これらの素材との比較ではあるものの、かなりの労力が必要になってくると推定されます。

 他地域の事例として、カメルーン南東部の森林地域で暮らすピグミーの場合には、森の産物を用いたビーズを身に着けています。子供が産まれると、親は「赤子が早く歩き出すように」、「災難から守ってくれるように」と願いを込めて、森で見つけた木の実や枝、野生動物の骨や角に穴を開け、首やお腹や手首に巻きつけます。また、ピグミーが重い病気の時のみ、呪術が込められたお守りとしてのビーズが知られています。

 以上のようなことから、以下のようにまとめられます。ビーズを身に着ける目的に関して、当初は、自らの美しさのため、よい匂い、魔除け(ピグミーの事例、呪術的意味)などのために、植物や動物の素材をビーズに使用していた段階(マニの事例)があった、と推測されます。続いて、ダチョウの卵殻や貝の首飾りのように製作や交易に労力を費やすものが生まれ、集団間の社会関係や集団のアイデンティティのために用いられるようになった段階(サンの事例)に変化した、と推定されます。

 考古資料と民族誌資料との関係について、民族誌の事例では、素材の組み合わせにより作られた首飾りが知られていますが、初期人類の考古資料からは見つかっていません。これには、植物製の素材が残りにくいことも関与しているかもしれません。本論文の報告では、個々のビーズが他地域から伝播したものなのか、個々に独立発生したものであるのか、充分十分に区別できていません。ビーズの民族誌は、どのような点で考古資料の解釈に有効であるのか否か、今後の課題として残されています。


参考文献:
池谷和信(2021)「アジアの新人文化における装身具について―マレー半島の狩猟採集民の事例」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 35)』P1-4

恐竜の鳥類に似た特徴の起源

 恐竜の鳥類に似た特徴の起源を指摘した二つの研究が報道されました。日本語の解説記事もあります。一方の研究(Hanson et al., 2021)は、非鳥類型恐竜・ワニ類・鳥類を含む主竜類群の絶滅種と生存種を対象にその内耳構造を調査し、半規管と蝸牛の形が二足歩行・四足歩行・飛行といった運動能力と高周波音を聞く聴力に関係する、明確なパターンを発見しました。この研究は、これらの分析により恐竜の飛行能力を示す最古の例が示されたとともに、最古いと考えられる親子間の口頭伝達も明らかになった、と指摘します。

 もう一方の研究(Choiniere et al., 2021)は、獣脚竜の生存種と絶滅種を対象に内耳と視覚系の状態を調査し、フクロウのような夜間の捕食に必要な聴覚と視覚の適応は、とりわけ後期白亜紀のアルヴァレスサウルスでは、早い時期に進化したことを発見しました。この発見は、夜間活動のための恐竜の感覚適応は現代の鳥類の登場のかなり前に個々に進化したことを示唆しているとともに、これらの特徴が非鳥類型恐竜・鳥類・哺乳類の間で何百万年もの時間をかけて収斂したことを実証しています。

 絶滅種124種と生存種91種を対象とした内耳構造と眼球を支える強膜輪に関するこれら二つの研究により、恐竜の感覚器官の生態と、飛ぶ・夜間に狩りをする・子供の甲高い鳴き声を聞くといった能力を含む行動の進化について、新たな知見が得られました。これら二つの研究では最先端の画像技術と高度な統計分析が活用されており、これまで調査の届かない部分だった、器官内部の構造の多くの特徴と子育てや日常の活動パターンといった習慣との確かな関連性が示されました。


参考文献:
Choiniere JN. et al.(2021): Evolution of vision and hearing modalities in theropod dinosaurs. Science, 372, 6542, 610–613.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667

Hanson M. et al.(2021): The early origin of a birdlike inner ear and the evolution of dinosaurian movement and vocalization. Science, 372, 6542, 601–609.
https://doi.org/10.1126/science.abe7941

アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動

 アフリカ南部内陸部における中期石器時代の革新的行動に関する研究(Wilkins et al., 2021)が公表されました。アフリカ南部沿岸地域における考古学的発見は、現生人類(Homo sapiens)を特徴づける複雑な象徴的および技術的行動の出現に関する知識を変えました。特定の種類の象徴的物資の製作と使用は10万年前頃までさかのぼり、南アフリカ共和国のブロンボス洞窟(Blombos Cave)における顔料処理道具一式と線刻のあるオーカー小瘤を含みます。同じ頃、南アフリカ共和国のピナクルポイント(Pinnacle Point)洞窟13B層とクラシーズ川(Klasies River)主遺跡のヒトは、斬新で非実用的な物(非食用海洋性貝)を集めており、おそらくは象徴的慣行の構成要素でした。

 南アフリカ共和国西ケープ州のディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡(関連記事)では、装飾されたダチョウの卵殻(OES)の廃棄された断片が、ハウイソンズ・プールト(Howiesons-Poort)様式の人工物と関連して発見され、最初期の装飾されていないダチョウの卵殻の根名題は105000年前頃です。現在、アフリカ南部のこれらの遺跡は全て沿岸にありますが、過去には異なっていたでしょう。しかし、過去12万年間の最も極端な氷期においてさえ、海岸はこれらの遺跡から100km以上離れていませんでした。アフリカ南部の内陸部では、保存状態が良好で堅牢な年代の得られている層状遺跡は稀で、その結果、内陸部人口集団の役割を軽視する、沿岸部遺跡への強い偏りが生じます。


●GHN遺跡

 ガモハナ丘(Ga-Mohana Hill)はカラハリ盆地南部にあり、南アフリカ共和国のクルマン(Kuruman)の北西12km、最も近い現代の海岸から665kmに位置します(図1b)。GHN(Ga-Mohana Hill North Rockshelter)遺跡は、2ヶ所の主要な岩陰といくつかの小さな張り出しのうち最大のもので、古原生代にさかのぼる苦灰石のガモハーン層(Gamohaan Formation)内に位置します。合計4.75㎡の3ヶ所の岩陰が発掘され、最大深度1.7mにまで達し、中期石器時代と後期石器時代の一連の層状堆積物が明らかになりました。

 約10cmの緩い表面堆積物の下に、「暗褐色の砂利沈泥(シルト)」、「橙色の灰質沈泥」、「暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)」と呼ばれる3つの層序学的集合体が見つかりました。ルーフスポール(roofspall)とは、洞窟や岩陰の屋根や壁からの破片です。報告された出土品(2128個)の傾きと方向性は、これらの人工物がほぼ主要な文脈にあったことを示唆します。これら3層それぞれの石英単一粒光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定の結果、暗褐色の砂利沈泥層は14800±800年前、橙色の灰質沈泥層は30900±1800年前、暗褐色の沈泥とルーフスポール(DBSR)は105300±3700年前との結果が得られました。

 本論文は、これまでの発掘で最も深い堆積物となる、A地区のDBSRに焦点を当てます。DBSR表面から1.6m下の標本の追加のOSL年代は105600±6700年前で、これは以前の推定と一致しており、DBSRの年代の新たな加重平均は105200±3300年前です。DBSRの剥片石器群は中期石器時代石器群の典型で、石刃や尖頭器や調整石核により特徴づけられます。これらの石器群は、地元で入手可能な燵岩(42%)と凝灰岩(28%)と縞状鉄鉱石(26%)で製作されました。DBSRでは赤色オーカーの大きな断片も回収されました。これには2つの平らな表面の形で使用の証拠があり、そのうち一方には、浅い平行の条線がありました。以下は本論文の図1です。
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●方解石結晶

 DBSRでは22個の未加工の方解石結晶が発見されました。結晶は半透明の白い菱面体で、規則的で整った小面を有し、最大長は0.8~3.2cmです(図1a)。結晶は自然の過程により外部から堆積物にもたらされたわけではありません。DBSRの人工物は水平に積み重なった堆積物内に平らに置かれており、方向性はありません。石膏など続成作用のカルシウム鉱物は、骨の保存を破壊する微結晶集合体として考古学的堆積物に形成されますが、これらはDBSRの方解石結晶(大結晶であり、骨の保存を破壊しません)とは異なります。

 DBSRの方解石結晶は岩陰の壁や天井には由来しません。刀身のある方解石結晶はガモハーン層では鉱脈として自然に発生しますが、それらは小さすぎて(最大長寸法0.5cm未満)形が不規則なので、考古学的結晶の供給源にはなりません。岩陰の壁もしくは天井、あるいはこの研究で集中的に調査されたガモハナ丘の地域内には、形の整った白い半透明の結晶は自然には存在しません。方解石結晶の供給源として可能性があるのはGHN遺跡の南東2.5kmに位置する低地の苦灰石の丘で、大きな菱面体の方解石結晶の形成と豊富な石英結晶が観察されました。これは結晶には地元の供給源があることを意味しますが、その自然的発生は稀です。

 DBSRの方解石結晶はいずれも、意図的な加工の兆候を示しません。方解石はモース硬度3と柔らかく、貝殻様には割れないので、これらの結晶が石器の原料としてGHN遺跡に運ばれた可能性は低そうです。結晶の分布は限られており、大半は2ヶ所の区画(0.5㎡)で回収され、垂直方向の分布は15cm未満だったので、別々の貯蔵物として堆積された、と示唆されます。結晶のサイズは、上層の中期石器時代および後期石器時代層のものと類似しています。したがって、DBSRで発見された方解石結晶は、意図的に収集された非実用的な物体の小さな貯蔵物を表している、と考えられます。

 結晶は中期石器時代アフリカ南部を含む世界中の多くの期間で、精神的信念や儀式と関連づけられてきました。結晶は、アフリカ南部の完新世および更新世の文脈で知られていますが、確実に8万年以上前の堆積物からの結晶群はまだ報告されていません。したがって、105000年前頃となるGHN遺跡における非実用的な物の収集は、アフリカ南部沿岸における非食用海産貝の収集慣行と同年代です。


●ヒトが収集したダチョウの卵殻

 DBSRで42個のダチョウの卵殻(OES)が発見されました。OESを構成する断片は細かく、平均最大断片長は11.3mmです(5.3mm~25.7mm)。いくつかの証拠はOESの起源が人為的であることを裏づけます。第一に、断片は保存状態良好な岩陰遺跡内で発見され、他の多くのヒトの活動の痕跡と直接的に関連しています。第二に、OES断片は燃やされた証拠を示します。OES断片の80%以上に赤色が着いており、これは300~350℃の温度に曝されたことを反映しています。第三に、GHN遺跡における動物相遺骸の蓄積の主因はヒトで、ダチョウの卵を食べるハイエナや他の動物が存在した証拠はありません。

 DBSRの動物考古学的資料の識別可能な断片は、有蹄類とカメの遺骸が優占します。化石生成論的分析は、人為的打撃痕と解体痕の高頻度を示し、動物標本のほとんどには中程度の燃焼の証拠があります。民族誌的観察では、OESは効率的な貯蔵容器の製作に用いることができる、と示唆されており、それは初期のヒトにとって重要な革新を表しています。なぜならば、そうした容器は水や他の資源の輸送と貯蔵に仕えるからです。OES容器の証拠は後期石器時代では一般的で、この技術はアフリカ南部沿岸の遺跡では長い年代を経ており、中期石器時代となる105000年前頃までさかのぼります。ヒトが収集したOES群はカラハリ砂漠の比較可能な文脈で報告されており(図2)、GHN遺跡におけるヒトが収集したOESの出現は沿岸部と同年代である、と示されます。以下は本論文の図2です。
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●古環境的背景

 ガモハナ丘の証拠は、本論文の調査結果の古環境的背景への重要な洞察を提供します。ガモハナ丘には石灰華の蓄積や水溜りや小滝や堰や角礫岩の堆積物が豊富にあり、過去には浅い水溜りや水の流れがあったことを示しています。小滝形成のいくつかの段階は、苦灰石に対してはその場、崩壊した塊としては外側と、GHN遺跡の両側で起きました(図3)。外側のコアからは5点のウラン・トリウム年代値が得られ、その年代範囲は113600~99700年前頃でした。この半連続的石灰華形成は、丘の中腹を流れる豊富な水を示唆します。これはカラハリ盆地の他の古気候記録と一致しており、マカディカディ(Makgadikgadi)盆地の巨大湖の高台の年代はOSLでは104600±3100年前で、カサパン6 (Kathu Pan 6)の堆積物は湿地環境と関連していると解釈されており、OSLでは100000±6000年前となります。以下は本論文の図3です。
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 現代の気候データは、気候変化の過去の潜在的推進要因について情報を提供します。現在、南方振動指数はガモハナ丘周辺の11月と5月の降水量と有意な正の相関を示しますが、それ以外の時期は異なります。インド洋の海面水温は、11月の降水量との有意な負の相関を除けば、ガモハナ丘周辺の降水量と有意には相関していません。インド洋の海洋コア堆積物に基づく海面水温の復元は、11万~10万年前頃の一対の二重極を示唆しており、これがアフリカ南部の対流性隆起に有利に作用したでしょう。しかし、二重極の程度は、降水量増加の唯一の原因となるほど極端ではないようです。したがって、降水量増加は単一の気候要因ではなく、インド洋南西部の海面水温の上昇と、強烈な負の南方振動指数の組み合わせにより降雨量が増加し、苦灰石岩盤の貯蔵能力とともに、景観上で恒久的な水がもたらされた、と考えられます。


●考察

 現代的行動の現生人類の進化に関する単一起源沿岸モデルは、アフリカ内陸部の人口集団が主要な文化的革新の出現に殆どもしくは全く役割を果たさなかった、と仮定します。しかし、カラハリ盆地南部のGHN遺跡における堅牢な年代測定値のある中期石器時代堆積物の発掘により、そうした沿岸モデルと矛盾する証拠がもたらされました。沿岸部から離れた後期更新世遺跡が稀であることを考えると、このモデルは常に問題を抱えています。GHN遺跡での本論文の調査結果は、カラハリ砂漠における非実用的な物体の収集の証拠が105000年前頃までさかのぼるひとを示し、これは沿岸部の証拠と同年代です。GHN遺跡で新たに明らかになった行動的革新の記録は、カラハリ砂漠における降水量増加の期間と同年代で、空白で乾燥した内陸部という長年の見解と矛盾します。水の利用可能性の向上は、一次生産性の向上および人口密度増加と相関しており、それが革新的行動の起源と拡大に影響を及ぼしたかもしれません(関連記事)。

 本論文で用いられた考古学的・年代測定的・古環境的手法は、カラハリ盆地および他の研究されていない地域でのさらなる調査の基礎を築きました。GHN遺跡の証拠は、現生人類特有の行動の出現が沿岸部の資源に依存していた、との仮定に疑問を提起します。代わりに、これらの現代的行動は、多様で離れた環境で共有されていたようで、技術的収斂もしくはアフリカ全域での相互接続された人口集団の拡大を通じての急速な社会的伝達を反映しているかもしれません。したがって、本論文の結果は、沿岸部環境に限定されず、カラハリ盆地南部を含む、現生人類出現の多極起源(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)への裏づけを追加します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


ヒトの進化:初期人類の行動を示す証拠が内陸部で見つかった

 初期現生人類が複雑な行動を取っていたことを示す証拠が、アフリカ南部の内陸部で見つかったことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、ヒト(Homo sapiens)の複雑な行動が沿岸環境で出現したとする最も有力な見解に異議を唱えるものだ。

 現生人類が黄土色の顔料、非食用貝の貝殻、装飾された人工遺物などの象徴的資源を使用していたことを示す証拠としてこれまでで最古のものは、アフリカのさまざまな沿岸域で出土し、12万5000~7万年前のものとされる。

 今回、Jayne Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の南アフリカ共和国内の海岸線から約600キロメートル内陸に位置するGa-Mohana Hill North岩窟住居遺跡で発見された約10万5000年前の考古学的遺物について報告している。出土した人工遺物の中には、意図的に収集されて持ち込まれたと考えられる方解石結晶が含まれていた。しかし、方解石結晶の実用上のはっきりとした目的は分からなかった。これに加えて、ダチョウの卵殻の破片も発見され、これは、水を貯蔵するために使われた容器の残骸である可能性がある。

 カラハリ砂漠の数々の古代遺跡に関するこれまでの研究では、初期人類の存在が示されてきたが、実用的でない物の収集や容器の使用といった複雑なヒトの行動を示す証拠で、なおかつ年代がはっきり決定されているものについての報告はない。Wilkinsたちは、アフリカ南部の内陸部における現生人類の行動革新は、沿岸付近の人類集団の行動革新に後れを取っていなかったという考えを示している。


考古学:10万5000年前のホモ・サピエンスの、より湿潤だったカラハリ盆地における革新的な行動

考古学:初期の人類の行動を示す内陸部の証拠

 現生人類に特徴的な行動に関する最初期の証拠は、アフリカの最南部の海岸洞窟から得られており、その年代は12万5000~7万年前と推定されている。しかし、アフリカ南部では内陸部の考古学的標本が極めて少ない。今回J Wilkinsたちは、カラハリ砂漠南部の岩窟住居(海岸から約600 km内陸に位置する)で発見された、約10万5000年前の考古学的資料について報告している。これらの資料には、別の場所から運ばれたに違いない方解石の結晶やダチョウの卵殻の破片が含まれていた。これは、他では海岸部の遺跡としか関連付けられていない人類の行動が、はるか内陸部でも存在したことを示している。



参考文献:
Wilkins J. et al.(2021): Innovative Homo sapiens behaviours 105,000 years ago in a wetter Kalahari. Nature, 592, 7853, 248–252.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03419-0

大河ドラマ『青天を衝け』第13回「栄一、京の都へ」

 これまで、栄一視点の農村部の話と、徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話が、一瞬交わることはあったものの、栄一と喜作は京都に行くことになり、今回からはいよいよ融合していくことになります。ただ、農村部の話もそれなりに描かれそうで、農村部の視点からの幕末の描かれ方も注目されます。京都への途中で栄一と喜作は初登場となる五代才助(友厚)と遭遇しますが、両者はともに相手を強く意識したわけではなく、今回の五代は顔見世程度の出番でした。五代は本作でかなり重要な役割を担いそうで、配役からしても本作の目玉なのでしょう。

 京都に到着した栄一と喜作は、その華やかな様子に圧倒されますが、そこに新撰組が取り締まりに現れ、栄一と喜作は土方歳三と遭遇します。大久保利通も登場しましたが、こちらも土方や五代と同じく顔見世程度の出番でした。栄一と喜作は長七郎を京都に呼びますが、京都へ向かう途中、幻覚を見るなど精神状態が不安定な長七郎は間違って飛脚を斬って捕まってしまいます。そのため、栄一と喜作が長七郎に出した文も役人に入手され、栄一と喜作は窮地に陥ったところ、平岡円四郎に呼び出されます。新章に入り、五代や大久保のような本作では重要な役割を担うだろう人物も顔見世程度とはいえ登場し、いよいよ物語が大きく動き始めました。なお、今回徳川家康の登場はありませんでした。

更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響

 更新世における島嶼部の動物絶滅への人類の影響を検証した研究(Louys et al., 2021)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)が最初にニュージーランドの島々に到達した時、モアの9種を含む多様で豊かな生態系が存在しました。現生人類の到達後200年以内に、それらは少なくとも25種の他の脊椎動物とともに全て絶滅しました。後期完新世に、この一連の出来事は太平洋の40以上の島で発生し、平均して太平洋の島嶼部の鳥のほぼ50%が現生人類の定住後に絶滅し、これらの絶滅の大半はヨーロッパ人との接触前に起きました。これらのパターンは、マスカリン諸島やマダガスカル島を含むインド洋の島々の絶滅記録を反映しており、現生人類の定住直後の島嶼部の世界的な絶滅パターンを示唆します。

 島は大陸と比較して、生物相の広範な絶滅が生じやすい傾向にあります。それは、生息する動物相と個体数が少なく、遺伝的多様性が低くて、確率的過程に影響されやすく、再定着の可能性が少なくて、固有性がより高水準だからです。太平洋とインド洋の島々の驚くような絶滅は、現生人類の活動、とくに乱獲と生息地改変と侵入種の導入に起因します。島嶼部動物の絶滅と現生人類の定住の年表は、大陸における大型動物絶滅を理解するための魅力的な類似を提供してきました。以前の研究では、マダガスカル島とニュージーランドにおける人為的絶滅の明示的参照による過剰殺戮仮説が提示され、アフリカと南北アメリカ大陸の大型動物絶滅を説明するのに同様のメカニズムが適用できる、と主張されました。

 島と大陸の生態系間に存在する重要な違いが認められているにも関わらず、島嶼部の記録はその後、更新世の絶滅が大陸でどのように展開したのか理解する理想的なモデルとよくみなされてきました。現在、島嶼部の動物の絶滅は、5万年以上前に現生人類により開始された世界的な絶滅事象の継続と解釈する見解が圧倒的に優勢です。現生人類の到来と大型動物絶滅との間の密接な関連がしっかりと確立されている島嶼部のよく知られている記録は、他の大陸における人為的絶滅仮説の裏づけとして広く引用されています。したがって、島嶼部の大型動物絶滅は、大型動物現象の原因に関する議論において重要な構成要素です。

 現生人類が島嶼部の動物絶滅の主因との仮説は、現生人類が「未開の生態系(過去に現生人類との接触がない生態系)」に到来したことが動物絶滅と密接に関連していることを示唆する、ほぼ同時代の記録に依拠しています。しかし、世界的絶滅仮説の評価において多くの島が考慮されてきましたが、それらの考慮はほぼ完全に完新世の現生人類の存在に焦点が当てられてきました。この枠組みでは更新世島嶼部の重要性と、第四紀における島嶼部の定住事象の増加している考古学的記録にも関わらず、更新世の記録を有する島が、第四紀の絶滅の世界的評価に明示的に含まれることはほとんどありません。技術と行動と、人類種さえ、島嶼部で均一ではないので、これは重要です。人類は少なくとも前期更新世以来、海洋の島々を訪れたか、そこで居住し(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、現生人類は少なくとも5万年前頃には島嶼部に存在しており、この期間に多くの顕著な進化的・行動的・文化的変化が起きました。人類の到来と絶滅との間の関連が更新世に人類が存在した島々に当てはまるのかどうか再調査することは、この研究の不足への対処における重要な第一段階です。

 本論文は、更新世における人類の島嶼部への到達が、島嶼部の動物分類群の消滅と一致している、との仮説をデータが裏づけるのかどうか、調べます。本論文は、更新世における人類存在の記録があり、動物絶滅のいくつかの記録がある全ての島の考古学および古生物学的記録を調べます。本論文は、海洋の島々、つまり第四紀に大陸と陸続きになったことのない島々と、大陸部の島々、つまり最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)やそれ以前に大陸と陸続きになっていたものの、現在では島となっている地域を別々に扱います。また、火山活動など大規模な地質学的事象と、島の生態系へのさまざまな人類の明らかな生態学的影響に関連するデータも調べられます。

 本論文は、動物分類群絶滅と人類の到来との間に時間的重複が存在するのかどうか確立するため、評価を限定しました。本論文は、これが人類の到来と動物絶滅との間の因果関係を意味するとは主張せず、むしろ、そのような関係が存在した可能性を示す最初の兆候とみなします。これにより、人類がそれまで人類の存在しなかった生態系に常に悪影響を及ぼした、との提案を評価できます。この長期的視点は、現代の生態系への現生人類の影響を理解し、島の保全活動に情報を提供するうえで必要な段階です。


●非現生人類ホモ属の島々

 海洋の島における人類最古級の記録(図1および図2)は、フローレス島で100万年以上前の単純な石器(関連記事)、スラウェシ島で194000~118000年前頃の単純な石器(関連記事)、ルソン島で709000年前頃の石器や解体痕のあるサイの骨など(関連記事)が見つかっています。ルソン島における動物種(Nesorhinus philippinensis)とイノシシ科動物(Celebochoerus cagayanensis)の絶滅は、最初の人類の到来とほぼ同時かもしれませんが、現時点では、証拠は単一の年代測定された地点にのみ基づいており、人類と絶滅動物の共存期間に関する確たる洞察は提供されていません。フィリピンの大型動物の多くは6万~5万年前頃に絶滅した可能性があり、その頃までにルソン島に存在していたかもしれない(関連記事)ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)との明確な関連はないようです。大型ラット(Batomys sp.)や小型スイギュウ(Bubalus sp.)は、ホモ・ルゾネンシスと同じ層で見つかっています。それらは、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)の後の堆積層、もしくはルソン島のこれまで発掘された他の遺跡には存在せず、更新世末の前に絶滅した可能性が示唆されます。以下は本論文の図1です。
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 フローレス島では、最初の人類の出現と密接に関連する既知の絶滅はありません。スラウェシ島では、まだ特定されていない人類種の到来と動物の消滅との間で、明確な時間的関連性は示されていませんが、ステゴドン(Stegodon sp.)およびスイギュウ(Bubalus grovesi)の絶滅は、その下限年代が真の絶滅年代に近いとしたら、人類の到来と関連しているかもしれません。ギリシアのナクソス島(Naxos)で記録されている唯一の絶滅したゾウ種(Paleoloxodon lomolinoi)は、人類到来からかなり後のことです。サルデーニャ島では、人類の出現は同様に動物の消滅と関連していません。しかしクレタ島では、フクロウ(Athene cretensis)とイヌワシ(Aquila chrysaetos simurgh)とイタチ(Lutrogale cretensis)の絶滅が、人類の到来と関連しているかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 大陸部の島では、人類最初の記録はジャワ島の130万年前頃のホモ・エレクトス(Homo erectus)となり(関連記事)、ブリテン島では100万年前頃までさかのぼり、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)かもしれない足跡が確認されています(関連記事)。台湾では、分類未定の人類種の存在が45万年前頃までさかのぼる可能性があります(関連記事)。これらの人類の到来と同時の絶滅は記録されていませんが(図3)、これらの絶滅は、島が大陸と陸続きになった時期に起きており、「未開の生態系」への人類の到来というよりもむしろ、これらの人類の範囲拡大の文脈で理解する必要があります。古生物学的および考古学的記録は明らかに限定的ですが、この証拠に基づくと、ルソン島とスラウェシ島とクレタ島では合計7種が非現生人類の到来の結果絶滅したかもしれません。以下は本論文の図3です。
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●現生人類が存在する海洋の島々

 海洋の島々における現生人類の最初の直接的証拠は、アジアにおいて5万年前頃までさかのぼります(図1)。想定される最も広い意味での現生人類最初の到来と時間的に関連している絶滅(5000年以内)は、カリフォルニアのチャネル諸島の2種の長鼻類(Mammuthus columbiaおよびMammuthus exilis)とハタネズミ(Microtus miguelensis)、アイルランドのギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)とレミング(Dicrostonyx torquatus)、スラウェシ島のゾウ(Elephas/Paleoloxodon large sp.)、ティモール島のツル(Grus sp.)です。

 フローレス島では、コウノトリ(Leptoptilos robustus)とハゲワシ(Trigonoceps sp.)と鳴鳥(Acridotheres)と小型ステゴドン(Stegodon florensis insularis)とホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が、最初の現生人類の到来と近い時期および同時期の噴火の頃に消滅しています(図2)。フィリピンでは、ホモ・ルゾネンシスが55000年前頃もしくはその直前までルソン島に存在しており、パラワン島における現生人類最初の証拠は現時点では47000年以上前です。キプロス島と久米島だけで、現生人類到来後すぐに全ての記録された動物の絶滅が起きた、という証拠があります。これらのデータに基づくと、海洋の島々におけるほとんどの既知の絶滅は、更新世人類の到来と関連づけられないか、もしくは非人為的過程との切り離しはできなさそうです。


●現生人類が存在する大陸部の島々

 大陸部の島々に関しては、現生人類最初の記録はスマトラ島(関連記事)で得られていますが(73000~63000年前頃)、この時点でスマトラ島は大陸部と陸続き(スンダランド)だったので、その観点から解釈されます(図3および図4)。ただ、スマトラ島の初期現生人類の年代には疑問が呈されています(関連記事)。ボルネオ島やスマトラ島における動物絶滅の記録は乏しく、とくにジャワ島に関してはほとんど記録がありません。現生人類が到来した時にスマトラ島に生息していたサイやトラやバクなどほとんどの大型哺乳類は、つい最近まで生存していました。

 ジャワ島における動物絶滅は、現生人類の可能性があるジャワ島における最初の人類の記録の前に起きており、氷期におけるアジア南東部本土への一時的なつながりに起因する、動物相交替事象と関連しています。これらの絶滅は、サバンナの広範な喪失と閉鎖的林冠への置換により起きた可能性があります(関連記事)。同様にブリテン島では、ほとんどの動物絶滅が現生人類の到来前に起きました。島の段階での絶滅は、おそらくブリテン島とアイルランド島の氷床拡大に起因しますが、ほとんどの動物絶滅はヨーロッパ本土と陸続きだった期間に起きた可能性が高く(図4)、ヨーロッパ本土の絶滅の文脈で理解されるべきです。これらの絶滅は一般的に、環境変化に起因しています。

 ニューギニアにおけるほぼ全ての更新世の動物絶滅は、現生人類到来後かなり経過してから起きており、動物絶滅も現生人類到来もオーストラリアと陸続き(サフルランド)だった期間のことだったようです(図4)。ウォンバット型亜目種(Hulitherium tomassetti)とヒクイドリ(Casuarius lydekkeri)の絶滅は、その下限年代が化石の実際の年代に近ければ、現生人類の到来と同時だった可能性があります。同様に、カンガルー島では有袋類3種(Procoptodon browneorum、Procoptodon gilli、Procoptodon sp.)は、その下限年代が実際の絶滅年代と近ければ、最初の現生人類の到来と同時期に絶滅した可能性があります。タスマニア島では、2種の有袋類(Protemnodon anakおよびSimosthenurus occidentalis)だけが、現生人類の最初の記録と近い年代に消滅しており、両種のどちらも考古学的記録とは関連していません。大陸部の島々が島だったのは更新世のわずかな期間で、一部の動物絶滅は島嶼化の開始と同時のようですが、ほとんどは大陸と陸続きだった期間に起きました(図4)。したがって、これらの絶滅の根底にあるメカニズムは、海洋の島々に作用するメカニズムと直接比較できる可能性は低そうです。以下は本論文の図4です。
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●動物絶滅のまとめ

 現生人類も含めて更新世人類集団が後期完新世の現生人類と同じくらい破壊的だったならば、その影響は孤立した海洋の島々でとくに明らかなはずですが、本論文のデータでは観察されませんでした。キプロス島と久米島でのみ、現生人類の到来と同時期の全ての動物絶滅の記録を裏づけるデータがあります。海洋の島々における他の全ての更新世の動物絶滅は、少なくとも現在利用可能な年代解像度の範囲内では、そうした原因とは無関係か、時期がずれているようです。

 海洋の島々や遠方の大陸部の島々の累積的動物絶滅は、数は絶対的には少なく、サルデーニャ島とフローレス島でそれぞれ最大12件が記録されています。サルデーニャ島とフローレス島は比較的大きく、とくに孤立していませんが、近くの大陸からは深い海で隔てられています。大陸棚の島々における動物絶滅は、よく表されて制約されている場合でも、時間的にずれており、おもに大陸との陸続きの期間に限定されているようです。最も近い大陸からの分離は、大陸部の島々全体で少なくとも過去50万年間には比較的稀で、間氷期の条件に大きく依存し、顕著な環境変化と関連していました。ジャワ島やブリテン島のような化石記録が豊富な大陸部の島々では、動物絶滅は多発していますが、その原因はおもに、大陸における絶滅のメカニズムの延長線上にある、と考えられるべきです。


●考察

 動物相の入れ替わりは海洋の島々では一般的で、動物絶滅は、ひじょうに大きな島であっても、生態系が平衡状態に向かうさいの自然の過程です。より小さくより孤立した島は遺伝的多様性に大きな影響を及ぼし、人類が存在しない場合でさえ絶滅を起こします。この過程は、海面上昇により強化されます。島の大きさ、したがって資源の多様性は、人類の居住成功の最重要の原因である可能性が高く、陸生タンパク質の欠如は明らかな課題です。海洋資源に特化することにより、この制約を取り除けます。その他の資源には石や竹および/もしくは木材や淡水利用可能性が含まれ、これらは、どの島がどのようにどこで利用可能な資源を有していたのか、いくらかの尺度を提供します。海洋の島々では、淡水の利用可能性が定住の最大の制約だった可能性があります。それは、海洋性タンパク質が豊富だったとしても、多くの小さな島々は、淡水の獲得戦略が利用可能になった後期完新世まで人類により居住されなかったからです。

 以前の乱獲の概念では、島嶼部における動物絶滅は本土の絶滅の加速版とみなされ、何を狩るべきかの選択がほとんどない、という追加の特徴がありました。K選択分類群は、大型動物絶滅モデルにおいて乱獲による絶滅に最も脆弱である、と考えられています。しかし、人類が関わらない海洋の島々の条件は、r選択された分類群を好む傾向にあるので、大型で繁殖が遅い種は、大陸よりも島の方で見られない可能性が高そうです。注目すべき例外にはカメと長鼻類が含まれますが、長鼻類は島では小型化し、島の条件に応じて進化を示す可能性があります。それにも関わらず、島における乱獲は更新世および完新世の動物絶滅を説明する重要な原因の一つであり続けます。

 フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)とルソン島ねホモ・ルゾネンシスのような島に存在した非現生人類ホモ属は、さまざまな陸生動物を利用していました。ジャワ島のホモ・エレクトスは海洋資源の利用が可能でしたが、陸生資源以外のものが消費された明白な証拠はありません。カラオ洞窟では、人類が茶色のシカ(Rusa marianna)やフィリピンヒゲイノシシ(Sus philippensis)を狩るか、その死肉を漁っていました。両種ともルソン島で現存しています。ボルネオ島とジャワ島の動物考古学的記録では、現生人類が陸生と水生と樹上性の脊椎動物を狩り、罠で捕獲するためのさまざまな技術を用いていた、と示唆されます。アジア南東部の広範な地域における遠隔武器(弓矢や槍など)の導入は、狩猟対象の動物相の多様性、とくにサルやジャコウネコのような樹上性分類群に影響を及ぼしたようです。しかし、カニクイザルやリーフモンキーやビントロングのように最も集中的に狩られてきた種は、現存しています。

 ワラセアの海洋の島々における現生人類と関連する更新世の記録は、海洋魚介類が優占しており、遠海漁業と複雑な漁業技術の初期の証拠が含まれます。注目すべき例外はスラウェシ島で、44000年前頃の洞窟壁画には、小型スイギュウ(Bubalus depressicornis)やセレベスヒゲイシ(Sulawesi warty pig)とともに狩猟場面の獣人が描かれており(関連記事)、最初期の考古学的堆積物はイノシシ科のバビルサ(Babyrousa babyrussa)と小型スイギュウ(アノア)が優占します。両分類群はスラウェシ島に現存します。琉球列島中央部の沖縄島では、縄文時代の人々がイノシシ(Sus scrofa)を集中的に狩っており、イノシシは6000年前頃までに小型化しました。その後、食資源は貝類に移行し、イノシシは再び大型化しました。これは、絶滅に至る乱獲を抑制する文化的および/もしくは環境的管理が存在したかもしれない、と示唆します。

 カリフォルニアのチャネル諸島では、現生人類の到来と同じ時期に3つの陸生分類群の絶滅が記録されていますが、マンモスがそれまでに狩られていた兆候はなく、生計は海洋資源に集中していました。同様に、タスマニア島の考古学的記録では、小型から中型の動物のみが狩られており、絶滅種が現生人類により利用されていた証拠、もしくは現生人類が絶滅の原因である証拠はない、と示されています。キプロス島の考古学的記録は、12000年前頃の現生人類の到来に続く大規模な動物絶滅を示唆しており、これは島嶼部の動物絶滅と最初の現生人類到来との間に説得力のある重複が存在する2つの島のうち一方の事例となります。

 絶滅は生計活動と結びついている場合、環境変化の記録から解明することは困難です。フィリピンのパラワン島のタボン洞窟(Tabon Caves)では、47000年前頃となるパラワン島で最初の現生人類の痕跡が確認されており、その頃パラワン島では森林は限定的で、開けた林地が優占していました。後期更新世の狩猟採集民共同体はおもにシカを狩っていました。パラワン島では、前期完新世に熱帯雨林が拡大し、海面上昇のため陸地の80%以上が失われました。シカの個体数は減少し、パラワンイノシシ(Sus ahoenobarbus)は現生人類にとって主要な大型哺乳類資源となりました。3000年前頃までに、シカ集団は絶滅しました。パラワン島では、現生人類の狩猟はシカの絶滅に顕著な役割を果たしましたが、気候と環境の大きな変化も集団回復力に影響を及ぼし、それはより開けた環境を維持しているカラミアン諸島の3島でシカが生存し続けていることにも示されています。

 更新世の少なくともいくつかの島では人類も絶滅し(図1)、いくつかの考古学的記録は島の放棄を表しているようです。たとえば、ワラセアの小さな島であるキサール島に現生人類が最初に居住したのは16000年前頃でした。現生人類の居住は、大規模な海上交易ネットワークの確立後にのみ成功し、前期完新世における島の放棄は、これらのネットワークの崩壊と関連していた可能性があります。カンガルー島は、放棄の最良の直接的な肯定的証拠を保存しています。カンガルー島の記録によると、オーストラリア先住民は4000年前頃までに居住を終えましたが、一時的な訪問(もしくは恐らく継続した限定的居住)がさらに2000年続いた可能性があり、ヨーロッパ人がカンガルー島に到来した時までには、人類は存在しなくなっていました。キプロス島では、小型カバの絶滅後、現生人類の存在は前期新石器時代まで制限されていました。

 島、とくに小さくて大陸から遠い島は、その小ささと孤立のため、無作為な事象が発生しやすくなります。本論文では、火山活動が恐らくは動物絶滅と同時期だった事例はほとんど見つかりませんでしたが(図2および図4)、これらの事象は島における現生人類最初の到来時期とも区別できません。大規模な噴火の第四紀の歴史は、日本列島でとくによく調査されており、噴火は哺乳類種の絶滅と同時期ではないようです。これはフローレス島の噴火記録にも当てはまります。歴史時代に島で起きた比較的よく記録された大規模噴火でさえ、局所的絶滅に対する噴火の影響を評価することは困難です。それにも関わらず、噴火の生態学的影響の研究は、哺乳類群集における短い回復時間と、長期的変化がないことを示しました。

 完新世における島嶼部への現生人類の到来は、島の固有種の大規模な絶滅と同時だった、とよく考えられています。これらの絶滅は概念的に、乱獲や生息地改変や家畜・栽培植物・共生動物の導入のようなメカニズムを通じての、人類の作用と関連しています。家畜・栽培植物・共生動物の導入は間違いなく、島の動物絶滅にずっと大きな影響を及ぼし、それはとくに小型哺乳類や鳥類に当てはまり、それだけではなく大型哺乳類も同様です。たとえば琉球列島の宮古島では、固有種のシカ(Capreolus tokunagai)は最初の現生人類到来により追いやられたのではなく、その絶滅は後期更新世もしくは前期完新世に現生人類がイノシシを導入したことと一致します。

 結果として、完新世において島嶼部で起きたことはしばしば、人々と関連する絶滅過程を理解する理論的および実践的枠組みを提供してきました。これは、現生人類が、以前には到達できなかったか、居住し続けられなかった地域へと完新世に拡大することを考えると、説得的です。それは大陸部の島々にも当てはまり、島の状態や技術変化が完新世の始まりと一致していました。しかし、更新世の記録は島の生物相の影響に関してずっと曖昧です。これは、生計戦略と密接に関連する要因、更新世を通じての技術および行動変化、島とその資源の世界的に特徴的な性質によるものです。

 本論文のデータは、現生人類を含む人類が、現代人のように島の生態系に悪影響を常に及ぼしてきたわけではない、と示します。むしろ、絶滅の加速は前期~後期完新世において始まり、それは移住機会の拡大、航海能力と拡散能力の向上、広範な土地開拓の導入、共生動物やシナントロープ(スズメなど人間社会の近くに生息してそこから食資源や生活空間を得て存続している動物)の導入、人口密度の増加、動物集団の過剰な搾取を可能とする技術の発展の後に続いた事象です。人類が常に「未開の生態系」に有害だったわけではない、との認識は、人類がより受動的な、あるいは有益でさえあった影響を及ぼしてきた事例の特定に重要です。こうした事例は、島の固有動物相の絶滅危険性を増加させる要因の特定を目的とした比較研究に重要です。このような過程を経てのみ、現在島に残る生物多様性を保全できるでしょう。


参考文献:
Louys J. et al.(2021): No evidence for widespread island extinctions after Pleistocene hominin arrival. PNAS, 118, 20, e2023005118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2023005118

桜井芳生、赤川 学、尾上正人編『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』

 日本評論社より2021年3月に刊行されました。人類進化に関してさまざまな知見が得られそうなので、読みました。社会学に関しては門外漢なので、日本の社会学における生物学嫌い(バイオフォビア)に関しては(日本に限らないかもしれませんが)、本書を読んで多少は把握できたように思いますが、深く理解できたわけではないので言及せず、本書の興味深い知見を以下に短く備忘録的に述べていきます。



第一部 遺伝子社会学の試み


1●桜井芳生、西谷篤、赤川学、尾上正人、安宅弘司、丸田直子「ツイッター遺伝子の発見?──SNP(遺伝子一塩基多型)rs53576解析による遺伝子社会学の試み」P3-20
 本論文は前提として、遺伝決定論ではなく、遺伝子・環境相互作用論を採用する、と明言します。その主題からして、本書に対する「社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)」側からの警戒は強いでしょうから、この立場表明は必要と言えそうです。本論文が取り上げたのはオキシトシン受容体OXTR遺伝子の一塩基多型(rs53576)です。ホルモンの一種であるオキシトシンは、他者への信頼・共感・養育行動のような「向社会性」との関連が指摘されています。rs53576ではGが野生型、Aが変異型とされています。本論文は、AA型のヒトのTwitter利用頻度の高さに注目していますが、同時に、試料数の少なさと、この多型がTwitter利用頻度の違いという「表現型」の違いにどう発言したのか、未解明であることから、生理的機序・心理的機序・社会環境など環境要因も考量する必要性を指摘します。また今後の展望として、ジャポニカアレイの利用による大規模分析が視野に入れられています。


2●桜井芳生、西谷篤、尾上正人「現代若者「生きにくさ」に対する、セロトニントランスポーター遺伝子多型5-HTTLPRの効果」P21-30
 本論文は、「生きにくさ(生きづらさ)」を感じる要因として、社会経済的側面だけではなく、遺伝的側面にも注目します。具体的には、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)がSS型のヒトほど、「生きにくさ」を感じやすいのではないか、と指摘されています。セロトニンは神経伝達物質のひとつで、ドーパミンやノルアドレナリンを制御し、精神を安定させます。5-HTTの反復配列領域の多型(5-HTTLPR)は一般的に、短いS型と長いL型に二分され、SS型・SL型・LL型に分類されます。本論文は、5-HTTLPRが「生きにくい」との意識に直接的効果を有すると指摘し、「発達障害(あるいは、自閉症・アスペルガー症候群)」自体が、5-HTTLPRによる影響である可能性も示唆します。また今後の展望として、発達障害などにおいて、個人の遺伝子に応じた政策の必要性が指摘されています。


3●桜井芳生、西谷篤「(補論)セロトニントランスポーター遺伝子多型におけるヘテロ二本鎖解析の検討」P31-38
 セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTT)多型(5-HTTLPR)は、第2論文で指摘されているように、上述のように、一般的にその反復配列の長さからSS型(短)・SL型(中間)・LL型(長)に分類されていますが、反復配列の数と並び方で複数のサブタイプが存在すると報告されており、DNA配列の決定が必要となります。本論文は、「ヘテロ二本鎖」への対応方法を検討し、最適なアニーリング温度(68度)を明らかにし、多型のサブタイプ頻度が、以前の報告とおおむね近い値となったことを示します。各多型の頻度は、SS型が76%、SL型19%、LL型が5%と報告されています。


4●桜井芳生、西谷篤、尾上正人、赤川学「日本若年層の「スマホゲーム」頻度に対する、遺伝子一塩基多型(SNP)rs4680の看過しがたい効果」P39-46
 本論文は、カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)遺伝子の一塩基多型(rs4680)に注目し、スマホゲーム頻度との関連を検証します。COMTは、ドーパミンやノルアドレナリンやアドレナリン系脳内ホルモンを不活性化させ、排せつするのに必要な酵素です。COMT遺伝子の一塩基多型(rs4680)では、Aアレル(対立遺伝子)だと前頭前皮質のドーパミンが多くなり、心理に影響を及ぼす、と指摘されています。変異型のAアレルは心配性(痛みの閾値が低く、ストレスにより脆弱ではあるものの、ほとんどの条件下で情報処理がより効率的)、野生型のGアレルは勇士(痛みの閾値が高く、ストレス回復力が向上するものの、認知能力がわずかに低下)とされています。分析結果は、Aアレルを有するヒトほどスマホゲームをせず、外向性が低くて協調性は高く、技能向上の訓練機会が多いことを重視しません。今後の課題として、スマホゲームの内容(「勇士」的なものか否か)、1日あたりのゲーム時間の調査が挙げられています。



第二部 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて


5●桜井芳生「「社会学の危機」から、「バイオダーウィニスト」の「理解」社会学へ」P49-60
 英語圏では社会学部の廃止など「社会学の危機」が論じられており、「標準社会科学的モデル(SSSM)」批判の議論がよく言及される、と本論文はまず指摘します。1990年代に、SSSMを批判し、進化心理学を基盤として自然科学と社会科学をつなぐ試みである統合因果モデル(ICM)が提唱されました。本論文は、社会学の伝統にある中核部分である理解社会学的方略が、近代科学についてのある種の思い込みにより不当に軽視されており、現代バイオダーウィニズムの援用により再評価できるのではないか、と指摘します。理解社会学的方略を理由とする社会学の科学性への懐疑には、理解社会学的方略の選択自体を必然的な理由として近代経験科学に値しないとする立場と、理解社会学的方略の選択によりほぼ必然的に学理上の難点(他我理解問題)に逢着するので、理解社会学は科学に値しない、とする立場があります。本論文は、これまで分別されてこなかった両者を分別することで、現代ダーウィニズムの進展が理解社会学の擁護に資する、との見通しを提示します。本論文が重視するのは、生得的な二つの認識能力です。一方は、外界をいわば「物」として把握するセオリーオブセオリー、もう一方は、対象をいわば「心ある者」として認識するセオリーオブマインド(心の理論)です。本論文は、理解社会学への批判は、経験科学である以上、この二種の認識のうちセオリーオブセオリーだけであるべきとの暗黙の前提があるのではないか、と指摘します。本論文は、そうした区分ではなく、反証可能性こそが科学的認識の線引きに相応しい、と提言します。他我理解の問題に関しては、各人は自分の思念する意味を内心に持っていることが前提とされているものの、心の目理論に基づくと、元々他個体の振る舞い予測の方略として意味理解が進化したので、他個体の把握における意味利用は、近代科学の仮説=テスト図式に親和的である、と本論文は指摘します。


6●赤川学「高田少子化論の進化論的基盤」P61-76
 本論文は、20世紀前半の社会学者である高田保馬の少子化論を取り上げています。少子化に関しては、(1)1人あたりGDPの高い国は出生率が低く、(2)日本やアジアの都市部は村落部と比較して出生率が低く、(3)世帯収入の低い女性の子供の数は多く(貧乏人の子だくさん)、(4)歴史的に豊かな階層の子供の数は多い(金持ちの子だくさん)という事実が知られています。本論文はこの4点の事実を説明する有効な社会学理論として、高田の見解を取り上げています。高田は、日本での出生率低下を案じる社会学者が他にいなかった1910年代中盤において、日本でも欧米のような低出生傾向がやがて起きる、とすでに懸念しており、その理論的検討を始めていました。本論文では、「金持ちの子だくさん」はヒトの遺伝子レベルに書き込まれた「進化時間」への適応、「貧乏人の子だくさん」は産業革命以降に文化的な媒体・経路を通じて個体間で学習された「歴史時間・文化時間」への適応と位置づけられます。

 本論文は現代の少子化問題として、ハイポガミー(女性下降婚)とハイパガミー(女性上昇婚)も取り上げています。女性の下降婚と上昇婚の違いは、社会における資源専有の性別の偏りに起因する、との見解もあります。富や地位の性別格差が、男性優位で大きければ女性上昇婚が多く、小さければホモガミー(同類婚)が多くなる、というわけです。女性上昇婚や同類婚が進化時間における最適な戦略とすれば、女性下降婚の割合はあらゆる社会において低くなっているはずですが、実際には女性下降婚の割合が高めの国もあり、その方が出生率は高めです。ただ、本論文は断定には慎重です。本論文は、日本など女性下降婚の少ない国の事例は、進化時間における適応の結果というよりは、歴史・文化時間における事象ではないか、と指摘しています。この問題に関して私は不勉強なので、今後も地道に調べていかねばなりません。


7●尾上正人「育ち(Nurture)の社会生物学に向けて──共進化とエピジェネティクスから見た社会構築主義」P77-110
 「生まれか、育ちか」という伝統的な対立軸において、社会学ではその草創期から、「育ち」を重視した理論やモデルが構築され、「生まれ」による影響は「生物学的」とみなされ、距離を置かれるか拒絶されてきましたが、近年の進化生物学は、一般的な社会学者の想定とはかなり異なる内容へと発展している、と本論文は指摘します。具体的には、文化的要素との共進化を説く潮流と、分子レベルでの遺伝的決定からの修正を重視するエピジェネティクスの台頭です。本論文の目的は、これら進化生物学の新たな潮流が、社会構築主義に自然科学的な裏づけを部分的に与える可能性はあるものの、同時に社会構築主義の限界も示唆していると考えられることから、社会構築主義を進化生物学もしくはより広く自然科学的に許容できる範囲内に位置づけし直し、再定式化しようとすることです。

 本論文は、社会生物学で当初想定された、文化は遺伝子により「引き綱」をつけられており、相対的に自律しているにすぎない、との見解が、その後の遺伝子と文化の共進化論により修正されていったことを指摘します。文化伝達には「不適応」をもたらす力があり、その具体例が、エベレスト登山などの危険な競争や、ポリネシアにおける高価で健康を脅かすタトゥーへの固執です。本論文が重視するもう一方のエピジェネティクスも、文化と遺伝子の共進化と同様に、急速で劇的な適応を可能にした、と本論文は指摘します。本論文がとくに重視するのは表現型可塑性で、一卵性双生児における形質の違いや、爬虫類の性別が卵の温度に左右されることなどです。

 本論文はこれらを踏まえたうえで社会構築主義を改めて位置づけようとしますが、そのさいに重要なのが、社会構築主義を二分していることです。一方は、観念・概念の出現により社会的事象が生まれるとする客観的観念論に該当する立場でブランクスレート(空白の石板)説を強く主張する傾向にあり、もう一方は、不可知論もしくは主観的観念論に該当する立場です。本論文は、客観的観念論の社会構築主義は、「知識と実在の一致」を批判するものの、それは多分に藁人形的論法で、主観的観念論の社会構築主義は、「実在の状態」からの絶縁を強調しすぎると、ブランクスレート説に近づいてしまう、と指摘します。本論文はブランクスレート説の問題点を、自然的(物理的、生物学的など)現実の影響力もしくは拘束力を軽視し過ぎていることにある、と指摘します。ヒトを、空白の石板ではなく、物理的・生物学的な制約を受けた存在としてまず把握すべきというわけです。

 本論文は社会構築主義の新たな位置づけの参考として、ニッチ構築論を挙げます。ニッチ構築論では、生命体による生物も含めた環境の改変・構築が重視され、生命体と環境の共進化が主張され、その対象範囲はヒトに限らず生物全体に及びます。近年になってこのニッチ構築論から、発声と進化における構築過程の役割を強調する「拡張版進化総合」が提唱されています。本論文は、これら新たな進化生物学の潮流では「育ちの強さ」が明らかにされつつあり、それを踏まえたうえでの社会構築主義の自己革新を提言します。一方で本論文は、エピジェネティクスや構築の「強さ」だけではなく、「弱さ」の認識の必要性も指摘しており、「育ち」の「強さ」も「弱さ」も踏まえたうえでの、総合的理解が求められているのでしょう。


8●三原武司「進化社会学的想像力──3つの進化社会学ハンドブックの検討と進化社会学的総合」P111-128
 本論文は、3冊のハンドブックを取り上げることで、進化社会学もしくは生物社会学の英語圏における動向を解説しています。これら3冊のハンドブックからは、広範囲の生命科学関連領域が社会学に導入された、と分かります。また、人類学や社会疫学や医学や犯罪学や政治学などの研究者も寄稿しており、進化社会学と隣接領域の深い共同も窺え、社会学の全領域を反映した傾向のようです。進化社会学ではすでに論争点も現れており、一方は現在の標準的な生物学であるネオ・ダーウィニズムもしくは現代的総合(MS)、もう一方は本書第7章でも取り上げられた拡張版進化総合(EES)です。EESの新たな動向として、(1)従来の血縁選択と互恵的利他主義の理論から、マルチレベル選択理論などより向社会的な利他主義の理論への変化、(2)脳を孤立したデータプロセッサのようなものと考える以前の見解から、社会脳仮説などに見られる多重接続された社会的なものとして表現するようになったこと、(3)エピジェネティクスへの注目、(4)個体の自律性と独立性から共生的プロセスの強調への変化、(5)生態学的相互作用と微生物への関心の高まり、(6)遺伝子の水平伝播やキメラ現象への関心です。また新たな動向として、エボデボ(進化発生生物学)やニッチ構築理論なども挙げられています。これらの中で、集団選択もしくはマルチレベル選択の問題では、選択の単位として遺伝子よりも集団が強調されます。これらの動向により社会学は大きく変わっていき、本論文は社会学とMSやESSをつなげていく試みについて、「進化社会学的総合」と呼んでいます。


9●高口僚太朗「「女性特有の病気だから」という理由で沈黙せざるを得ない父親たち──ターナー症候群の娘を持つ父親たちの「生きづらさ」とは何か」P129-144
 近代医療は患者が「寛解者(本論文では慢性疾患当事者も含まれます)」として長く生きることを可能にしましたが、それによる「生きづらさ」も生じます。本論文は、その具体的事例として、女性にのみ発症するターナー症候群当事者の家族、とくに父親の「生きづらさ」を取り上げます。ターナー症候群はX染色体の全体もしくは一部の欠失に起因した疾患の総称で、性腺機能不全を主病態とし、多くの当事者が不妊となります。患者数は約1000人に1人と推測されており、具体的な症候として、低身長や卵巣機能不全に伴う二次性徴への影響や月経異常などがあります。ターナー症候群と診断された当事者の多くは小学校高学年の頃から低身長が顕著となり、母親にのみ告知することが標準医療として推奨されています。本論文では、ターナー症候群当事者の父親は、妊孕性や妊娠や出産よりも、自立した生活を送れるのか、心配する傾向にあると分析されています。また、ターナー症候群が女性特有であることから、父親には娘と不本意に距離を取る苦悩があることも指摘されています。本論文は、ターナー症候群当事者の父親の「生きづらさ」は、家族との関係性の中で成立し、家族の抱える「生きづらさ」とも同一ではない、と指摘しています。


10●桜井芳生「バイオダーウィニズムによる〈文化〉理論──なんの腹の足しにもならないのに、、、」P145-164
 本論文はまず文化を、「ヒトの行動・表象のうちで、なんの腹の足しにもならないのに、望ましいもの、価値あるもの、として評価されているものの謂である」と定義します。これはバイオダーウィニズムの「性淘汰の理論」を下敷きにしており、つまり孔雀の尾やライオンの鬣のような資源の浪費に見えるような形質が選択されてきたのは、異性から選ばれたからだ、というわけです。本論文は、ヒトの「文化的なもの」のほとんどは性淘汰の産物だろう、との見通しを提示しています。ただ、進化的観点では、この性淘汰は石器時代というか更新世の環境に適応したものなので、現代社会において性淘汰における適応度指標として機能するとは限らない、と指摘されています。


11●尾上正人「「待ち時間」としてのヒトの長い長い子ども期──社会化説、アリエス、そして生活史不変則へ」P165-184
 本論文はヒトの子供期(離乳から性的成熟まで)に関する議論を検証します。近縁の現生種と比較して長いヒトの子供期は、以前から注目されてきました。ヒトの長い子供期を、一人前になっていくための道程もしくは収斂期間として理論的に緻密化したのが社会化機能説で、家族の重要性が強調されました。ここでは、社会化過程こそがヒトの子供期を長期化させた、と明言されていないものの、社会化と長い子供期を結びつける論理が伏在していた、と本論文は指摘します。その後、家族を重視する見解は批判されても、社会化仮説そのものは自明視され、現在の社会学に継承された、と本論文は評価します。その後、ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)の精神分析理論を取り入れたフェミニズムは、社会化仮説の固定観念化に貢献した、と本論文は指摘します。人類学では徒弟制仮説が提唱され、「近代社会」を念頭に置いたとも考えられる社会化仮説とは異なり、狩猟採集社会を前提にしていますが、両者とも、子供が社会化を達成するのには長い期間が必要で、この長い子供期には何らかの機能があったに違いない、という機能主義的観点は共通していました。

 一方、アリエス(Philippe Ariès)の『<子供>の誕生』では、子供は7歳頃から「大人の小さな者」として成人の大共同体の中に入っていき、近代以降のような明示的な「子供」は存在しなかった、と論じられます(関連記事)。ここでは、機能主義的論法が採用されていません。ただ本論文は、アリエスが近代における子供の位置づけの特殊性を主張したのではなく、むしろ「中世特殊性」論者だったことを指摘します。それでも本論文は、社会化されるべき期間と位置づけられた子供期を相対化したことがアリエスの功績だった、と評価しています。ヒトの長い子供期は、必ずしも機能的課題が課されないとすると、どう解釈されるのか、との問題が生じます。そこで本論文が取り上げるのは、全ての種に普遍的・横断的に当てはまる、生活史不変則です。生活史不変則では、成熟年齢に達するのが遅い、つまり子供期が長い種ほど、その後の余命が長くなる、と指摘されています。長い子供期は繁殖機会増加をもたらす意味はあるものの、それ自体は本来社会的に意味のある期間ではない、というわけです。逆に、子供の社会化が喫緊かつ長期の課題ではなかったからこそ、その期間に「学校化」を挿入でき、新たな子供観が出現し得たのだろう、と本論文は評価します。子供期は人類史において、社会・時代によりさまざまな用途に使えることができた、というわけです。

 ただ、ヒトの長い子供期は、それ自体に特定の機能はなくとも、繁殖行動や家族・集団形成に重大な影響を及ぼしたかもしれない、と本論文は指摘します。まず、雄同士の苛烈で危険な配偶者獲得競争は緩和される傾向があります。余命が長いので繁殖機会は多い、というわけです。その結果、血縁者同士だけではなく、非血縁者も含めた集団が形成されやすくなり、集団の大規模化傾向が生じます。さらに、こうした繁殖機会の多い社会では協力的行動が進化しやすくなります。一方で、中長期的には協力を基調としながらも、常に騙しや裏切りの危険性に曝されているため、「マキャヴェリ的知性」も発達します。本論文は、社会化説は因果関係を逆に把握しており、教育上の実践としては、子供を「育てる」という視点よりも、「育つ」という視点の重要性を指摘します。子供期は現代人(Homo sapiens)と近縁なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも検討されている問題で(関連記事)、私も関心を抱いてきましたが、本論文を踏まえて考え直してみる必要があります。


12●桜井芳生「ある種の両性生殖生物のオス(たとえばヒトの男)は、なぜ母子を扶養するのか──岸田秀を超えて」P185-195
 ヒトなど両性生殖生物の中には、雄が母子を「扶養」する種も存在します。これに関して岸田秀の「セックス=サービス」説がありますが、岸田説は「至近要因による問題の説明」の誤謬に陥っており間違っている、と本論文は指摘します。「究極因」の分析視点からは、セックスをサービスと感じ得ること自体を説明すべきで、セックスがサービスとして機能するからそれを代償として雄は雌とその子を扶養するとの論理は、「至近因」による説明(という誤謬)に陥っている、というわけです。一方本論文は、雄が雌とその子を扶養しないと雄の遺伝子を後世に残せないから、と主張します。より正確には、雄が母とその子を扶養しなければこの血統は維持できず、現存する雄は全て母とその子を扶養する血統に属する、となります。しかし、托卵というかペア外父性の問題があり、軍拡競争的な進化が起きやすくなります。本論文は、雄による雌およびその子の扶養と、ペア外父性との間のせめぎ合いで「均衡値」が存在しただろう、と推測します。また本論文は、同じ雄でも扶養型と托卵型の間で揺れ動くこともあっただろう、と指摘します。岸田説については、扶養している子が実子ではないかもしれない、との不安から自我を防衛すする規制として、セックスなど扶養の対価サービスを得ているという物語が需要されたのではないか、と推測されています。


13●尾上正人「高緯度化と農耕を通じた女の隷属──性分業・家父長制への新たな視座」P197-224
 本論文はまず、母権制あるいは「家母長制」が存在したことを示す経験的証拠はなく、男性優位社会の普遍性は進化史で現れた生物学的特性だった、と指摘します。母系制社会は存在したものの、そこで子供に対して強い権限・権力を有したのは父親よりも母親の兄弟(オジ)で、これは「叔権制」と呼ばれています。これは父性の不確実な母系制における男性の対応で、相対的に父性の確実な父系制では家父長制が採用されやすくなります。ただ、ヒトも含まれる霊長類では、雌が優位の、ほぼ母権制あるいは「家母長制」と言えるような社会を形成する種がいくつか存在する、と本論文は指摘します。次に本論文は、男性支配もしくは家父長制がヒトの社会に普遍的だとしても、その度合いは歴史的に大なり小なり変化して現在に至っている、と指摘します。女性の社会的地位が相対的に高い社会も存在する、というわけです。本論文はその基盤として、性(性役割)分業の可能性を指摘します。

 モーガン(Lewis Henry Morgan)の『古代社会』は独自の婚姻制度発達論を主張し、エンゲルス(Friedrich Engels)が採用したことにより大きな影響力を有しました。しかし、その原始乱婚制や家族形態の進化図式は今では支持されていません。ただ本論文は、人々の性行動に規定されて父性が不確実だと母系制になりやすいという考察に関しては妥当と認めています。母系制は人類の家族史において太古の時代に普遍的に位置づけられるものではないとしても、産業化以前の社会では父系制と母系制はほぼ3:1の比で存在した、と推測されています。モーガン説の問題点として、母系制と母権制を強く結びつけたことも指摘されています。母系制社会では、上述の叔権制が高頻度で出現します。

 霊長類では母方(妻方)居住の母系制が圧倒的に多く、家族・群れに残る雌が独自の階層を形成する種が多くなります。個体レベルの競争では頻繁に順位が入れ替わる同種の雄と比較すると、雌が作る社会的階層は保守的で流動性が小さい傾向にあります。雌の地位は継承され、そのメカニズムは遺伝的ではなく、おおむね好天的です。マカクザルにおいては、最上位の雌(アルファ雌)はアルファ雄を除く全ての雄よりも有意ですが、群れ全体の頂点はアルファ雄の方です。一方アカゲザルなどでは、母権制・「家母長制」と呼べそうな権力関係が見られます。ヒトも含まれる大型類人猿では、雌は性的に成熟すると出生集団を離れる傾向にあり、他の霊長類とは異なります。雌の社会的地位は種により異なり、かなり強い雄支配のゴリラ社会では、上述の母系制霊長類ほど厳格ではなくとも雌にも優劣関係があります。同じく父系制で近縁のチンパンジーとボノボは対照的な社会を形成し、チンパンジーでは雄は雌に対して優位で、雄同士の激しい地位争いがあります。一方ボノボでは、雌独自の強固な社会階層が見られ、交尾相手の選択権は雌にあります。雄の地位を決めるのは、チンパンジー社会では兄弟の絆で決まりますが、ボノボ社会では母親の地位です。ボノボでは雄と雌の力関係は対等か、やや母権制・「家母長制」に傾いています。本論文はこれらの霊長類の事例から、父系制・母系制と雌雄の権力関係の間に顕著な相関はない、と指摘します。

 一雄複雌のゴリラや一雄一雌のテナガザルは雄が子育てに関与しますが、霊長類の大半の種では父が子育てには関与しません。これは、一雄複雌や一雄一雌では複雄複雌(乱婚制)と比較して父性が確実になることとも関連しているようで、ヒトにも当てはまるかもしれませんが、父性の確実性が必ず父親の子育て関与につながるとは限りません。本論文は他の条件として、アロマザリング(育児の母親代行)を挙げます。ヒトは成長が遅いので、とくにアロマザリングの必要性が生じます。本論文は、人類史における父親の育児への関与は太古からの現象だった、と指摘します。

 性分業では、ヒト社会の採集における女性の役割の大きさが指摘されています。本論文は、これが後世の一部ヒト社会と比較しての女性の相対的地位の高さにつながった可能性を指摘します。本論文はこの性分業において、現生人類(Homo sapiens)による高緯度地帯への拡散を重視します。高緯度地帯ほど狩猟への依存度が高まるので、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。本論文は、女性の社会的地位低下が農耕開始により加速した可能性も指摘します。農耕は狩猟と採集で分かれていた男女の「職場」を一つにして、家畜や重い農具を扱うといった重作業の主導権は多くの場合男たちが握ったと考えられることから、女性の社会的地位が低下したのではないか、というわけです。また本論文は、農作業で夫婦の過ごす時間が狩猟採集生活よりも増加したことにより、夫の妻に対する正行動の監視(配偶者防衛)は強まっただろう、と推測します。最後に本論文は、自然主義と道徳主義の誤謬に陥らないよう、提言しており、強く同意できます。男性支配・家父長制がヒトの種特異性だからといったそれが現代社会でも望ましい(自然主義的誤謬)と考えたり、現代社会では男女平等が望ましいからかつてそうした理想社会(あるいは男女の力関係が逆転したような社会)が存在したはずと根拠なく想定したりすることも誤りだ、というわけです。


14●桜井芳生「若者の若者文化離れ仮説への、ホルモン時系列推移の状況証拠」P225-240
 文化的創造性曲線と犯罪曲線がかなり相似している(青年期=成年期をピークとして、前後で急上昇・急下降します)ことから、これがかなりの部分で性的淘汰への適応ではないか、と本論文は推測します。本書第10章の議論の「腹の足しにもならない」行為ではないか、というわけです。さらに本論文は、カブトムシやヘラジカの雄の角の突き合いから、こうした行為が進化史的に「かなり根の深い」現象である可能性を指摘します。現代の男性が第二次性徴期に見せる「悪い」行為の進化的起源は、「善悪」の感覚を獲得するかなり前だったのではないか、というわけです。一方現代日本社会において、こうした「危険」で「悪い」行為から若者が離れていっているとも解釈できそうな統計が提示されています。これに関して本論文は、内分泌攪乱物質による影響と、恋愛や結婚のコスパ悪化を要因として想定しますが、今後の調査が必要と指摘しています。


参考文献:
桜井芳生、赤川 学、尾上正人編(2021) 『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』(日本評論社)

白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生

 白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。哺乳形類(Mammaliamorpha)は、トリティロドン類および哺乳類の最終共通祖先と、その全ての子孫から構成されます。トリティロドン類は非哺乳型類(nonmammaliaform)の植食性犬歯類で、後期三畳紀に出現し、ジュラ紀に多様化を遂げ、前期白亜紀まで存在しました。真三錐歯類は、異論はあるものの、一般に絶滅した哺乳類群と考えられてきました。

 本論文は、中国の熱河生物相から新たに発見された、前期白亜紀(1億4500万~1億年前頃)のトリティロドン類および真三錐歯類について報告します。一方の化石は、遼寧省の九仏堂累層から出土したトリティロドン類(哺乳類様爬虫類)の一種で、熱河生物相では初めて特定されました。その体長は316mmで、「Fosiomanus sinensis」と命名されました。もう一方の化石は正三錐歯目(有胎盤哺乳類と有袋類の現生種と遠縁の関係にある動物種)の一種で、熱河生物相では一般的に見られ、「Jueconodon cheni」と命名されました。これは遼寧省の義県累層で発見され、体長はFosiomanusより小さい183mmです。

 熱河生物相では、真三錐歯類は一般的ですが、トリティロドン類はこれまで見つかっていませんでした。これら2種は互いに遠縁ですが、掘削生活に適応した収斂的な特徴を有しており、この生物相で知られる最初の「引っかき型の掘削動物」です。また、これら2種はともに、単弓類や哺乳類の祖先的状態と比較して仙前椎の数が多く、体節性変化およびホメオーシス変化が確認されました。とくに、トリティロドン類の標本は、既知の単弓類(哺乳類およびその絶滅近縁生物からなり、石炭紀までさかのぼります)と比較して、仙前椎の数が最も多く、胸郭が最も長い、と確認されました。

 これらの化石は、脊椎動物の進化学と発生生物学に関する数々の研究で注目されてきた、哺乳形類の軸骨格の進化的発生に光を当てます。これらの化石に記録されている表現型は、現生の哺乳類に認められるような、軸骨格の体節形成およびHOX遺伝子発現における発生学的な可塑性が、ステム群哺乳形類にすでに備わっていたことを示しています。こうした発生機序と自然選択との相互作用が、哺乳形類のさまざまなクレード(単系統群)で独立に進化したボディープランの多様な表現型を支えていた、という可能性がある。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:遠縁の関係にある2種の穴掘り哺乳類が発見された

 中国北東部の前期白亜紀の熱河生物相から発見された、哺乳類の祖先である哺乳形類の2種の化石について記述した論文が、Nature に掲載される。これら2種は、遠縁の関係にあるが、収斂進化を示す穴掘り生活様式の特徴を複数有しており、この生態系で初めて発見されたスクラッチディガー(引っかき掘りをする穿孔哺乳類)となった。

 今回、Jin Meng、Fangyuan Maoたちの研究チームは、前期白亜紀(約1億4500万~1億年前)の、遠縁の関係にある2種の動物の化石について報告している。第1の化石は、遼寧省の九仏堂累層から出土したトリティロドン類(哺乳類様爬虫類)の一種で、熱河生物相では初めて特定された。その体長は316ミリメートルで、Fosiomanus sinensisと命名された。第2の化石は、正三錐歯目(有胎盤哺乳類と有袋類の現生種と遠縁の関係にある動物種)の一種で、熱河生物相では一般的に見られ、Jueconodon cheniと命名された。この動物種は、遼寧省の義県累層で発見され、体長は183ミリメートルでFosiomanusより小さかった。

 穴を掘る生活様式に適応した哺乳類は、穴掘りのための特殊な特徴があることで識別される。Mengたちは、FosiomanusとJueconodonが、遠縁の関係にあるにもかかわらず、こうした特殊な特徴を共に持っていたことを見いだした。例えば、この2種は、共に前肢より後肢が短く、短い尾と強靭な爪のある幅広の前肢を持っており、胸椎の数も多かった。Mengたちは、この2種に共通する特徴は、同じような選択圧の下で独立に進化したと結論付けている。


古生物学:白亜紀の2種の哺乳形類の掘削性と進化的発生

古生物学:穴掘り動物を発掘する

 今回、中国の熱河生物相で新たに発見・記載された、前期白亜紀の2種の化石哺乳類において、穴掘りの生活様式への収斂適応が見いだされている。一方の標本は、現生の有胎盤哺乳類および有袋類に遠縁の真三錐歯類のもので、体長は約180 mmだった。真三錐歯類は熱河生物相ではごく一般的な哺乳類である。もう一方の標本は、この生物相では非常にまれな、いわゆる哺乳類型爬虫類の中で最も哺乳類に近い動物であるトリティロドン類のもので、これまでに見つかったトリティロドン類の標本の中でも最も保存状態が良好で最も年代が新しい。そのサイズは、体長300 mm以上と、真三錐歯類の標本の2倍であった。これら2種の関係は、カモノハシとセンザンコウ以上に遠縁だが、いずれも掘削への顕著な適応の数々を有していた。これらの適応には、胸椎と肋骨の数が通常より多く、胸部と腰部の境界が不鮮明であることなどが挙げられる。特に、トリティロドン類の標本は、既知の単弓類(哺乳類およびその絶滅近縁生物からなり、石炭紀までさかのぼる)と比べて仙前椎の数が最も多く胸郭が最も長い。今回の発見は、現生哺乳類の椎骨数の変動に関する研究に、時間的な奥行きという極めて達成の難しい要素を加えるものである。



参考文献:
Mao F. et al.(2021): Fossoriality and evolutionary development in two Cretaceous mammaliamorphs. Nature, 592, 7855, 577–582.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03433-2

『卑弥呼』第62話「遭逢」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年5月20日号掲載分の感想です。前回は、トメ将軍とミマアキが、日下(ヒノモト)の国の無人の都を見て、全滅したのだろうか、と案じるところで終了しました。今回は、ミマト将軍が配下の兵士を率いてヤノハ一行に追いつこうと急いでいる場面から始まります。ヤノハ一行は那(ナ)の国の岡(ヲカ)で時化のため足止めを食らっていました。オオヒコはナツハ(チカラオ)に、この時化では出立は無理だ、と諭します。それでも動じる様子を見せないナツハに、ヤノハは弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に着く前に沈むぞ、とヌカデは諭します。ヤノハは建物で待機中に現れたモモソの霊に、自分を解放してくれ、自分より倭国を泰平にするのに相応しい方、つまり事代主(コトシロヌシ)が現れた、自分は事代主に筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)を譲り、弟のチカラオとともに姿を消すつもりだ、と訴えます。しかしモモソは、倭を泰平にするのはヤノハの仕事だ、国を譲る前に事代主とじっくり話して人となりを見極めろ、と答えます。以前より優しくなった、山社(ヤマト)の仲間を想い、生き別れの弟を必死に守ろうとし、それ以上にこの国の民のことに心を砕いている、とモモソに指摘されたヤノハは、買いかぶるな、自分の望みは誰にも邪魔されず生き抜くことだけだ、と反論しますが、モモソは姿を消します。

 日下(ヒノモト)の都(纏向遺跡でしょうか)では、トメ将軍とミマアキが2日間探索しても誰とも遭遇せず、住民は厲鬼(レイキ)から逃れるため都を捨てたのではないか、とミマアキは推測します。トメ将軍はその可能性を認めつつ、ともかく奥津城(オクツキ)まで行こう、と提案します。トメ将軍とともに奥津城に近づいたミマアキは、擦れるような金(カネ)の音が聴こえてきたのに気づきます。一行が林に入ると、逆さに吊った杯のような形の金物から音が鳴っていました。これは銅鐸なのですが、ミマアキもトメ将軍も詳しくは知らないようです。銅鐸は九州でも出土していますが、数は近畿と比較して圧倒的に少なく、本作の舞台である3世紀初頭には、すでに九州では使われていなかった、という設定なのかもしれません。トメ将軍は、以前吉国(ヨシノクニ)だった邑(吉野ケ里遺跡でしょうか)で見たことがある、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)や伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)に伝わる魔除けの楽器で、鬼があの音を嫌う、とミマアキに説明します。ミマアキは、林の向こうに鬼から身を守る人が住んでいるかもしれない、と考えます。トメ将軍とミマアキが林を抜けると、桃の木が整然と植えられており、枝が落とされていました。夏に果実を採取するため、冬に剪定しているのだろう、とミマアキは推測します。木の下には桃の種が多数置かれており(纏向遺跡では大量の桃の種が発見されています)、何の目的なのか、ミマアキは疑問に思います。そこへ、奥津城というか古墳の前の屋敷の門が開き、女性が現れます。その女性はたいへん美しく、トメ将軍もミマアキも配下の兵士たちも見惚れます。その女性が立ち止まったのを見て、トメ将軍は慌てて、自分たちは筑紫島から来た者で、そなたたちに敵意はない、と説明します。すると女性は、ようこそおいでくださいました、とトメ将軍一行を歓迎し、自分は日下のフトニ王の娘で名はモモソだ、と名乗ります。

 岡では、時化にも関わらず、ヤノハがチカラオとともに出立しようとします。オオヒコは出立を見合わせるよう、ヤノハに進言しますが、時間がない、と言ってヤノハは答えます。それでもオオヒコは、せめてもう1日待つべきと進言しますが、この程度の嵐で死ぬようならば、天照大御神様に見捨てられた証で、もはや倭王を名乗る資格はない、と答えます。もし自分が2日経っても戻らなければ、海の藻屑と消えたか、事代主にしてやられたのだ、とヤノハはオオヒコに言い残します。そこへヌカデが現れ、ミマト将軍一行が到着したことを報告します。ミマト将軍は、日向(ヒムカ)に駐在するテヅチ将軍からの文で、日向の海沿いの邑々の多くの者が死に瀕している、とヤノハに伝えます。やはり筑紫島にも疫病神(エヤミノカミ)が降りたのか、と言うヤノハに、すでにご存じでしたか、とミマト将軍は驚きます。ヤノハはミマト将軍を労い、これから弁都留島に向かう、とミマト将軍に伝えます。この時化にも関わらず出立することにミマト将軍も驚きますが、厲鬼に通じた事代主に助けを求めなければ、人々を救う手立てはない、とヤノハは言います。チカラオとともに弁都留島に向かったヤノハは、時化の中でのチカラオの見事な操船を褒めます。弁都留島に到着したヤノハとチカラオを事代主が出迎えるところで、今回は終了です。


 今回は、話が大きく動き出すことを予感させる内容となっており、たいへん楽しめました。ヤノハは弁都留島に到着し、ついに事代主と対面します。二人の会談というか対決がどのような結果を迎えるのか、二人の駆け引きとともにたいへん注目されます。疫病が本州と四国だけではなく九州でも流行し始めた中、ヤノハは事代主に協力を申し出て、事代主が倭国を導くよう要請するのでしょうが、これまでの描写から、事代主には倭国の王になる野心はなさそうに見えます。ただ、事代主の思惑が詳しく描かれているわけでもないので、事代主の真意がどこにあるのか、ヤノハとの会談で見えてくるのではないか、と期待しています。ヤノハは事代主に全てを譲り、弟のチカラオとともに姿を消すつもりですが、モモソ(の霊)の宣託からは、ヤノハが倭国王となる運命からは逃れられないように思えます。その意味でも、ヤノハと事代主の会談(対決?)は作中の山場の一つになりそうなので、たいへん注目されます。

 今回のもう一つの注目は、疫病のためか人が全くいなかった日下の都で現れた女性です。この女性は、日下のフトニ王の娘のモモソと名乗りました。フトニ王とは、『日本書紀』の大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)、つまり第7代孝霊天皇でしょうか。孝霊天皇の娘に倭迹迹日百襲姫命がいますから、この新たなモモソが後世に倭迹迹日百襲姫命として伝えられた、という設定のようです。これまで、ヤノハに殺された真の日見子(ヒミコ)だったモモソと、卑弥呼(日見子)として倭国王となったヤノハの事績がまとめられ、後世に倭迹迹日百襲姫命として伝えられたのかな、と予想していましたが、日下というか後の大和にも、『日本書紀』の記事にずっと近い設定のモモソがいたわけで、この新たなモモソとヤノハとの関係がどう描かれるのか、注目されます。

 また、モモソは誰もいなくなった日下の都に残って疫病退散の役目を担っているようなので(本来の目的は祖先霊の祭祀かもしれませんが)、霊力のある人物という設定かもしれません。その意味でも、偽の日見子であるヤノハとの関係が気になるところです。日下のモモソは裏のないまっすぐな人物のように見えますが、まだほとんど人物像が描かれておらず、強かなところもあるかもしれず、その人物像も楽しみです。本作の日下は、山陽や山陰にも影響力を及ぼし、巨大な古墳と壮麗な都を築いており、この時点でかなり強大な勢力を築いているようです。この日下と新たに建国された山社とはどのような関係を築くのか、本作における倭国の都というか邪馬台国は、現時点では日向と設定されているようですが、後には日下の都(纏向遺跡と思われます)に移るのか、という点も注目されます。ついに日下の人物が登場し、ますます壮大な話になってきたので、今後もたいへん楽しみです。

仲田大人「人口モデルと日本旧石器考古学」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P92-100)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、考古学と文化進化研究との接点を、とくに人口や集団規模との関係を論じた研究に限定して整理しています。人口統計と文化進化についての論文には相反する二つの立場があり、それらの相違を俯瞰して、考古学から文化進化研究にどんな貢献ができそうか、取り組むべき課題を見つける、というわけです。文化進化研究では、考古データや民族誌学データをそれぞれ用いて、生態的・文化的変数と文化変化の相関を調べています。それによって提示されるモデルは、考古学からみてもイメージ通りと思うこと、また逆に、意表を突かれることもあり興味深いものです。それ以上に、他分野でのモデルを知ることは、考古学が前提としてきた見方や条件を点検する良い機会でもあります。文化進化研究で用いられるデータセットは民族誌学のそれが多いものの、考古学であれば、何を、どのように提示をすればよいのか、考えさせてくれます。

 文化変化と人口との相関については、豊富な考古データを擁する日本の旧石器考古学でも検討してみる価値は充分あると考えられ、それはまた石器文化モデルの構築という作業としても有意義な作業になるでしょう。最近では、文化進化研究の概要を知るのに適した邦訳書が相次いで刊行され(関連記事1および関連記事2)、また、このテーマを扱った入門書・教科書においては、文理の境をほとんど感じさせない脱領域的な状況が、日本考古学において芽生えつつあることも読みとれます。以下では、日本の旧石器考古学と文化進化研究との協同を模索する方向で、文化進化モデルの論文をいくつかが取り上げられ、その内容が確認されていきます。なお、今回は体系的な文献渉猟は試みていないので、それは今後の取り組みとして考えている。


●文化進化と集団規模

 なかなか定義しにくいという意味において、文化の概念はとらえどころがありません。考古学においても伝統的な見方、つまりチャイルド(Vere Gordon Childe)のように考古学的実体を措定してその組み合わせを文化と見立てるものや、それを批判してもっと動的なシステムとみなすもの、あるいは主体やその行為実践に文化をみる社会学的な見方など、さまざまな見解が提示されてきました。それでいて、「文化」について互いに意思疎通がなされている状況は奇妙でもあります。文化進化研究では、文化は情報と把握されています。これは生活知識や習慣、成員の性向や信条などを広くかつ単純に述べたもので、技術も情報の一つとみなされます。情報は他から伝えられたり、学んだりするものであることが何よりも重要です。文化進化とは、そうした情報がある集団においてどのくらい継承され、共有されているかどうか、その時間的な変化のことを指します。

 文化進化研究では変化・変異のパターンと人口統計との相関が一つの主題で、進化という観点から変化のモデルが示されています。その重要論文としてとりあげられるのがスティーブン・シェナン(Stephen Shennan)氏とジョセフ・ヘンリック(Joseph Henrich)氏の研究です。これらは、考古学者が参照しても、文化変化について人口の役割がどれだけ重要なものか、改めて考えさせてくれます。ある集団内で、なぜ文化革新が起きて模倣されるのか、という問題に関して、シェナン氏の2001年の研究のシミュレーションでは、孤立した小さな集団では文化形質の模倣率も集団の適応率も低いのに対して、大きい集団では模倣率も適応率も高い、との結果が提示されています。大きな個体群の方がより小さな個体群よりも文化情報の維持という点では有利に働く、というわけです。これは、大きい集団には「優れた人物(biological fitter)」が多く、学習者が模倣のお手本を見つけやすいのに対し、集団が小さいとお手本も少なくなるため、文化形質がその集団内でしか維持されなくなるからだ、とシェナンは指摘します。シェナン氏はこのモデルを用いて、アフリカの中期石器時代文化の多様性と比較してのアジア南東部やオセアニアの旧石器文化との相違を、74000年前頃となるスマトラ島のトバ大噴火に伴う人口のボトルネック(瓶首効果)と、その後の人口回復が論じられます。

 ヘンリック氏の2004年の論文は、文化進化と人口・集団規模をめぐって論争を引き起こすきっかけにもなった、重要な研究です。文化(=情報)は世代を越えて継承され、同時に蓄積も進みます。文化情報とは、要するに適応度を高める技能やその蓄積のことです。つまり、累積的で適応的なものであり、そうした文化情報を生み出して実践していくには、社会学習者の数(規模や密度)が何よりも求められます。もしその数が少なくなれば、複雑な技能や技術を実践していくのが難しくなります。学習者間での相互作用が低くなれば、習得された文化情報の蓄積や維持が望めなくなるからです。その一方で、模倣するにも手間のかからない単純な技能は、情報として蓄積されるとも考えられています。

 このモデルで、ヘンリック氏たちは、タスマニアの技術的損失について、気候変化によってオーストラリア南部の社会的ネットワークから孤立し、利用可能な土地面積と社会学習者が減少したこととの相関を指摘しています。これはまた、現代人的行動のような複雑な文化情報の累積的進化を調べる場合にも引用されています(関連記事)。シミュレーションによると、複雑なスキルはメタ集団の絶対的な大きさというより、むしろ下位集団、つまりそこに含まれる文化伝達集団相互の頻繁な移動と接触によって蓄積・維持され得る、と指摘されています。

 このように文化進化と人口・集団規模との関係については、シェナン氏とヘンリック氏の研究に基本を負うところが大きいものの、この理論モデルについてはその是非をめぐって、その後いろいろ検討されています。現状では、人口や集団規模と文化的複雑さの関係を支持するものと、影響は見出せず、別のモデルが提案される、との見解が並立した状況のようです。そこで以下では、後者の立場を積極的にとるマーク・コラード(Mark Collard)氏たちの議論が取り上げられます。


●文化進化とリスク戦略

 考古学や民族誌学などでは、なぜ集団によって複雑な道具組成を持つのか、道具の数に大きな偏りが見られるのか、などの理由を考え、いくつかのモデルを提案してきました。コラード氏たちは、それを以下の4点にまとめ、いずれのモデルが妥当なのか、検証しました。そのモデルとは、オズワルド(Wendell H. Oswalt)氏の食料資源の性格、トレンス(Robin Torrence)氏の資源獲得のリスク、ショット(Michael J. Shott)氏の集団の居住形態、ヘンリック氏の人口規模である。

 オズワルド氏のモデルは、食料資源が植物か動物か、つまり対象物が移動するものかそうでないかにより、道具の数や種類などの複雑さが変わる、というものです。食料資源対象の移動性が高いほど道具は複雑でかつその数も多くなる、と指摘されています。トレンス氏のモデルはオズワルド氏のモデルの改良版と言えそうです。トレンス氏は、緯度が高くなるほど食用資源としての植物の数が減少し、動物資源に依存することになるので資源の追跡時間が大きくなり、それが道具の数や複雑さと関係している、と考えました。これは時間圧モデルと呼ばれ、後にトレンス氏は、精巧で複雑な道具が用意されていることは、それだけ資源入手のための高いリスクを回避するものだ、とのリスク回避モデルを採用します。その方針転換を促したのがショット氏で、居住移動性の高さと運搬コストを考慮したモデルを提案しました。移動頻度の高い場合や長距離を移動する場合、その道具組成の多様性は低くなります。これは、移動民の道具が少ない数の道具をより幅広いタスクに用いる、と意味します。またその分、専門的な道具の数も少ない、といった特徴もあります。ヘンリック氏のモデルは上述のように、人口規模と複雑な技能や道具の多様性は相関する、というものです。

 これらのうち、食料獲得のための道具の複雑性に影響を与えている変数を調べるため、コラード氏たちはいくつかの変数間での検定を実行しました。そこで支持されたモデルは、資源リスクへの対応と、道具組成やその構造の複雑さに相関が見られる、というものでした。しかし、コラード氏たちはこの結果をいったん保留します。コラード氏たちは、選んだ変数(有効温度と地上生産数)や集団標本に偏りがあると認めて、自らのモデルを再検討しました。有効温度や地上純生産数がリスク回避モデルを支持する変数だと主張されましたが、これらの変数はおもに植物利用者に関連するもので、動物資源の利用者にとって重要ではない、というわけです。

 コラード氏たちは2011年の論文で、再度リスク回避モデルを検証しました。接触期の北アメリカ大陸西海岸狩猟民を対象に改めてデータが選ばれ、海岸部と高原にそれぞれ居住する16集団が対象とされました。しかし、この場合も結果は芳しくなく、生態学的な変数は海岸部と比較して高原地域のリスクが高いことは示せたものの、道具組成との相関が見られませんでした。この結果についてコラード氏たちは、海岸部と高原の生態学的なリスク差が大きくなく、それ故に道具組成や構造に違いが見つからなかったのだろう、と解釈しました。

 コラード氏たちは2013年の論文で、標本数を80以上に増やして点検してみたところ、降水量と地上での純生産量の二つの変数で、道具組成・構造との間に相関が見られました。集団規模が小さい狩猟採集民では、食糧生産者に比べてその道具組成に環境や資源へのリスク回避が働いている場合が多い、というわけです。これは、何を食糧とするか、つまり生産形態や社会の違いにより採用されるモデルも変わってくることを意味しているのではないか、とコラード氏たちは指摘します。じっさい、食糧生産者の道具組成を調べたコラード氏たちの2013年の論文では、リスク回避モデルよりも人口モデルが支持される結果となっています。

 しかし、たとえ小さな集団であったとしても、ヘンリック氏やパウエル(Adam Powell)氏たちが予測しているように、集団の移動や接触で文化進化は促されます。ストラスバーグ(Sarah Saxton Strassberg)氏とクレンザ(Nicole Creanza)氏は、2021年の論文、集団間の接続についての研究を紹介しています。新しい道具をある集団の道具組成に取り入れてあげると、その集団間で共有される道具の数が増えていくというもので、接続性が道具組成の規模と正の相関関係があることを示唆しています。多くの道具を持つ大きな集団に接続すると、新しい道具の導入可能性があり、反対に、単純な道具組成しか持たない小集団と接続しても、それほど有益にはならない、というわけです。

 こうしたモデルの不一致について、いくつかの論文で気づかされるのは、標本抽出や量的な問題、またデータの使用法に関することです。文化進化モデルの提示を受けて、考古学の側も自らのデータについて洗い直してみたり、考古データとはどういう性質のものなのか、それを理解したりすることが、考古学にとって一層必要な作業になるでしょう。さらに、その認識を異分野間の研究者で共有することが最重要課題となります。


●考古学による人口推定

 これらのモデルのうち、著者が興味を持っているのは人口モデルです。その他のモデルについても関心はあるものの、人口モデルは、石器文化や石器技術がどれだけの人々により支えられてきたのか、という素朴な疑問に最も迫るモデルだから、というわけです。しかし、人口や集団規模サイズを考古学的データから見出していくには、いくつかの前提や条件を踏まえたうえで作業せざるを得ません。たとえば、遺跡数や遺構数を用いる場合は、人が増えれば、考古学的な指標も比例して増えるという単純な論理を前提にしています。じっさい、この手法は、研究者が経験的に感じる部分と相まって、分かりやすいといえば聞こえはよいものの、遺跡数や遺構数は調査における標本抽出の偏りが深く、大きくか変わります。また、居住形態による遺跡利用の違いや、一つの遺跡が実際に一つの集団により利用されたのか、などの見極めも必要です。

 石器群の年代値(放射性炭素年代)は考古事象の豊富さを反映する属性であると考えて、人口の復原に用いられる研究もよくある手法です。しかし、これにも標本抽出や統計的な問題が伴います。標本抽出では、たとえば遺跡や遺構にどれだけ試料が残っているのか、回収率では、発掘した場所や遺構の性質などで、大きく異なってきます。また、研究者がどの時期の遺跡の年代に興味があるか、つまり調査者の研究対象によっても、試料への選択が作用します。測定値の網羅性も問題で、あるデータセットにおいてどれだけ測定値がまとっているかにより、推定される人口値に影響が出る、と予想できます。さらに、データをどう統計的に処理するか、その手法の適切さも問われ続けるでしょう。

 考古データからの人口推定は困難な作業です。遺跡や遺構数にしても年代値のセットにしても、それらは人口に見立てる代替データであり、人口変化についての記述に変換する方策が取られているにすぎなません。それを承知で人口復元を試みようとするならば、できるだけ考古データと年代データが揃っている地域を取り上げ、量的な保証を伴った人口モデルを立てるしかありません。さらに、数値として時間的な変化や地域的な差異が目に見えることも必要です。

 その一例として、メラーズ(Paul Mellars)氏とフレンチ(Jennifer C. French)氏の研究が挙げられます(関連記事)。これは、フランス南西部の現生人類(Homo sapiens)遺跡と絶滅ホモ属(古代型ホモ属)、具体的にはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)遺跡の規模を比較した論文で、表題で現生人類遺跡の規模の大きさが示されています。この論文で採用された遺跡規模を調べる方法は、面倒な手続きが必要ではなく、日本の旧石器遺跡でも検討できます。ごく簡単に言えば、遺跡規模を密度値で示すものです。観察項目は、遺跡の調査面積、出土石器の総数、二次加工石器の総数、遺跡の継続年代です。これに動物遺骸の最小個体数や重量も加えて遺跡規模サイズが推定され、それが人口量に見立てられます。人工物や動物遺骸の密度値を1000年あたりの値に揃えることで、石器文化により継続期間が異なる場合の遺跡を比較対象とできます。日本列島で行なうのならば、石器密度はこの方法で問題なく調べられます。日本列島では動物遺骸は欠落してしまいますが、これを母岩別・個体別資料の点数や重量に置き換えて、遺跡における居住強度と関連づけて人口を考えてもよいかもしれません。

 この論文に対しては批判も提示されています。論文の内容が現生人類とネアンデルタール人の古人口推定に関してでもあるので、石器文化や遺跡の年代について疑問が指摘されている中で注意したいのが、石器組成への言及です。つまり、活動内容により二次加工石器は再利用される可能性があるので、石器数はその頻度に左右されるものだ、と批判されています。消耗の激しいような活動を行なった遺跡では、その分、石器再生も活発になって二次加工石器数も増えるのではないか、というわけです。

 これらの批判に対してメラーズ氏たちは、組成については現生人類遺跡とネアンデルタール人遺跡でその密度値に違いはなく、これは動物遺体の密度値も同様であり、現生人類とネアンデルタール人の居住強度に差はみられないことを強調します。現生人類とネアンデルタール人それぞれの石器文化の継続年代に長短の差があるという事実から、遺物密度データを平均化し、それで得られた値の違いこそ人口差を反映している、という論理です。メラーズ氏たちがネアンデルタール人と現生人類の違いとして重視するのが遺物データの総量であることはよく分かりますが、これは石器組成データが人口を推測するうえでかなり有用な情報であることをよく示しています。

 石器組成をどう考えるのかも議論のある問題ですが、一般的には、それをそのまま過去の行動や信念の痕跡とはみなせない、との認識で落ち着いています。機能主義の主張では、石器組成とその構造は人々の活動形態やその性格を表していると仮定され、道具の組み合わせの違いが活動の空間配置を示す、と考えられます。しかし、行動とはなんの関係もない要因も組成には一定の影響を与えることが無視されている、というのが行動考古学の見解です。行動考古学では、過去の行動がそのまま痕跡となるわけではなく、歪みをともなうものであることが強調されました。機能主義的考古学の看板ともいえる技術的組織という考え方についても、組成の違いが過去の行動を本当に正しく反映しているのか、問われることになりました。

 このように遺跡の石器組成については、機能的な行動だけではなく、道具の再生や廃棄など、さまざまな要因によって形成されたものである、と現在では認識されているようです。ショット氏の1989年の論文は、組成の規模と多様性(多様度)に注目して、機能的行動(同論文では「実質的な行動」)の内容と性質について推論しています。ショットが注目するのは、道具の組成規模とその多様性である。この二つの変数については、道具の使用期間と居住期間を反映するものである、との見解がすでに提示されており、道具の廃棄率や廃棄量と居住期間の総日数が調べられ、集団規模の推定にも役立てられる、と指摘されました。廃棄率が低く使用寿命が長い道具は、作業期間が長いほど出現しやすくなる、と想定されます。ショット氏は、この論理がクン人の民族誌データには当てはまらないことを指摘したうえで、パレオ・インディアン期の組成の規模と多様性を分析し、規模と多様性の関係は、一つの文化体系における技術変異パターンを表している、と整理しました。

 この結論は、組成規模と多様性の関係が居住形態や移動頻度と関係することを明晰に述べています。民族誌データや考古データでのモデルをそれぞれ統計的に検証し、人口モデルを棄却して、むしろ居住形態モデルを採用する点で、この論文はショット氏の1986年の論文と同じ結論に達している、と了解されます。この検討には確かに説得力がありますが、道具の量的規模や堆積量の時間的経過が直ちに居住パターン違いにのみ還元されるものでもないでしょう。遺物の累積量を調べる研究モデルが、人口規模を論じるのにも有効な属性であることは間違いありません。それを日本列島の考古学でも実践するならば、たとえば組成中の欠損品率や製作品と搬入品との割合や遠隔石材の比率など、規模も含めていくつかの属性が多様性(多様度指数)とどう相関するのか、調べると面白そうです。


●今後の課題

 旧石器考古学のデータから古人口を復元できるか、ほとんど疑わしくなってきますが、データは豊富にあるので、それをどう利用するのか、考えねばなりません。何が難しく、何が課題になるのか、以下では、フレンチ氏の2016年の論文をが参照されつつ整理されます。考古記録には基本的に人口情報が含まれません。日本列島の場合、古人類学的な情報にもそれは言えます。旧石器時代では、琉球諸島を除いてその証拠を把握できません。考古学的証拠については、人口情報に端的につながる属性が何か、直接的には見出せていません。間接的には試行錯誤があっても、どう「見立て」るのか、難しいことは事実です。どのような考古学的パターンが人口へ接近するのに有効なのか、考古記録から観察できたパターンから過去の人口の理解に移行するのに必要な「理論的な飛躍」をどう最小に留められるのか、という2点をの解決が決定的に重要になってきます。

 パターンの説明が必ずしも人口の説明にのみ作用するわけではないことは、ショット氏の1989年の論文に述べてられている通りで、データのパターンが示す可能性をどれか一つに絞り込むことは困難です。それが人口動態と相関するものと考られる代理指標を、考古学者はまだ理解しきれていません。もちろん研究背景にも左右されるところですが、それ故に、組成量の変異が示す意味を、研究者は時間圧モデルや居住モデル、人口モデルという形でそれぞれ説明しているのでしょうし、あるいは説明できてしまうのかもしれません。その意味では、人口動態を反映する、確からしい代理指標をどのように見つけてどう組み合わせるのか、その能力向上が問われます。

 これは、解決すべき二つめの点にも関係してきます。データと説明を結びつける可能性のある中位理論の構築ということです。いわば、指針のような役目を果たすもので、考古データと人口との関係を強く示唆する、そうした民族誌学データや歴史データが思い浮かびます。民族考古学の成果は、とくに人口モデルに異を唱えるモデル研究でよく引用されているようです。民族誌データは道具の廃棄や使用期間、居住状況など詳細なデータを提示してくれますが、考古データとの大きな違いは、観察している時間幅にあります。考古学ではいくつもの行動の結果として累積したデータを取り扱っていることが多いのに対して、民族誌データは長期的観察にもとづくデータもありますが、考古データと比較すると瞬間の切り取りにも近い生活の一コマの記録と言えます。その一コマをモデルとして旧石器時代の人口動態を丸々代弁してもらおうとするのは、間違っているかもしれません。

 むしろ、民族誌において、人口に関係しそうな行動代理指標を複数取り上げ、その組み合わせのうち、最も影響力の強い変数を提示してもらうことが、手続きとして重要になります。その民族誌的変数の中から考古学的に検討ができるものを選び、古人口研究に落としこんでみることが効果的と思われます。フレンチ氏の2016年の論文はこれを「マルチプロキシ・アプローチ(多代理指標手法)」と呼んでおり、たとえばビンフォード(Lewis R. Binford)氏の2011年の民族誌集成や、ケリー(Robert L. Kelly)氏の1995年の民族考古学アトラスに示されている膨大なデータから、人口代理指標とみなせる情報を特定していくよう、提案しています。複数のデータが人口情報に関係がありそうならば、そこに一定の傾向が把握されることになり、さらにそれらが考古学的にも検討できる性格のものならば、古人口の復元にも妥当性が得られる、というわけです。

 こうした方法はとくに目新しいものではなく、北アメリカ大陸の民族考古学などではやり尽くされている感があるかもしれませんが、民族学や考古学や数理人類学などの研究者が大勢集まり、人口推定に関するモデルの構築に取りかかるとなると、そう多くないでしょう。とくに旧石器時代については、古代型ホモ属と現生人類の交替に関するものや、現代人的行動の出現といった主題に集中するようです。いくつか研究が出されているなか、若野友一郎氏と門脇誠二氏たちによる2018年と2021年の研究は、独自の数理モデルに基づいて古代型ホモ属と現生人類をめぐる人類学的・考古学的考察を発表しており、人口モデルが応用されています。日本列島のデータは組み入れられていませんが、このような共同作業により、モデルはより蓋然性が高まったり、反対に、問題点が掘り下げられて明確になったりを繰り返します。


●まとめ

 本論文では、著者の関心から、文化進化研究と考古学研究の人口について取り上げられました。なぜ人口モデルなのか、と問われても論理立てて答えられるほど整った意見はないので、日本の旧石器研究を進めてきたなかで、感覚的にこのモデルで説明できそうなことがあるといった程度だ、と著者は述べます。それ故に、この感覚を具体的にしていかねばならない、と指摘されます。

 田村隆氏の2017年の論文は、人口という観点に立ち、日本列島の旧石器時代を3段階に分けています。つまり、少なくとも3回、日本列島では人口の増減が明確になる事象が起き、その度に生活戦略の刷新を繰り返し、環境変化への対応を図ってきた、というわけです。この回復力の過程を、田村氏は適応サイクル・モデルと名づけています。3つの画期とは、(1)本州では38000年前頃で古北海道島では3万年前頃、(2)25000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)、(3)2万年前頃以降の旧石器時代終末期です。

 著者もこれらの時期の人口推定に関心を抱いています。(1)に関しては、日本列島に到来してきた集団の規模はどのくらいだったのか、日本列島ではなぜ現代人的行動が顕著に現れないのか、という問題です。これらは人類の進化史的にみても重要な問題と言えます。その意味で、最近の井原泰雄氏たちの2020年の論文で提示された人口シミュレーション研究は、大きなヒントを与えてくるかもしれません。(2)に関しては、石器の様式性の高まりと情報交換網の形成がなぜ寒冷期に促進されるのかが、問題なるでしょう。(3)は土器技術についてです。新技術が現れる背景と、なぜそれが当初緩やかにしか増えず、完新世に入って急速に普及するのか、という問題です。

 これらの主題が人口とどのように関係するのか興味のあるところで、詳しい解析には文化進化研究との協同がどうしても必要になってきます。また、これらの主題は日本列島の地域的な事象にとどまらず、世界の先史学にも充分な貢献が期待できる普遍的な主題性を備えています。豊富な考古データを持つ日本列島で、協同研究を少しずつ進展させていくことが今後の課題になるでしょう。


参考文献:
仲田大人(2021)「人口モデルと日本旧石器考古学」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P92-100

『卑弥呼』第6集発売

 待望の第6集が発売されました。第6集には、

口伝39「密談」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_30.html

口伝40「結界」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_7.html

口伝41「答え」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_27.html

口伝42「拝顔」
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_6.html

口伝43「冷戦」
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_24.html

口伝44「貢ぎ物」
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_8.html

口伝45「死と誕生」
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_27.html

口伝46「現在と未来」
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_4.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第39話が掲載された『ビッグコミックオリジナル』2020年6月5日号は昨年(2020年)5月20日の発売ですから、もう1年近く前のことになります。第6集では暈(クマ)というか暈の大夫である鞠智彦(ククチヒコ)とヤノハとの交渉を中心に話が進むとともに、クラトの陰謀への加担やヒルメの陰謀など、同時進行の複数の陰謀が描かれました。

 このように複数の陰謀が同時進行で描かれていますが、それぞれが本筋に密接に関わっていて散漫なところはなく、よく話が練られているように思います。倭国泰平とのヤノハの願いは、さまざまな人々の思惑が交錯し、なかなか一直線には進まず、複雑な事態の展開が描かれています。ヤノハを筆頭にミマアキやトメ将軍や鞠智彦など、個性的な人物も多く、話の構成とともに人物描写の点でも楽しめています。最終的な評価時期尚早ですが、本作は、当ブログで過去に熱心に取り上げた、原作者が本作と同じ『イリヤッド』や、作画者が本作と同じ『天智と天武~新説・日本書紀~』よりも個人的な評価は上になるかもしれない、と期待しています。なお、第1集~第5集までの記事は以下の通りです。

第1集
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_49.html

第2集
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_60.html

第3集
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_1.html

第4集
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_5.html

第5集
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_37.html

大河ドラマ『青天を衝け』第12回「栄一の旅立ち」

 栄一たちは横浜の外国人居留地を焼き討ちしようと計画し、まず高崎城を占拠しようとします。喜作とともに江戸に出て平岡円四郎と再会します(とはいっても、両者ともに過去の遭遇を覚えていないでしょうが)。栄一は平岡に自分には志があると言い、平岡は栄一と喜作に一橋家(と最初は栄一と喜作には明かしていないわけですが)に仕えるよう誘いますが、栄一は断り、平岡は栄一の器量を認めて惜しみます。栄一はたちの攘夷決行の日が近づき、長七郎が戻ってきて栄一たちは喜びますが、長七郎は無謀な決起だと反対します。長七郎は京都の最新の情勢を栄一たちに知らせ、決死の覚悟で中止を訴え、決起は中止となります。

 栄一は役人に目をつけられたことから、喜作とともに京都に向かうことにします。今回は、栄一と父の父子関係とともに、父の器の大きさが印象づけられました。栄一の成功は、豪農出身というだけではなく、理解のある父にも恵まれていたから、というわけでしょうか。徳川慶喜も京都へ向かい、いよいよこれまで別々に描かれてきた栄一の話と慶喜の話の合流が近づいてきました。ここからが本番といった感じですが、これまでの前振りがなかなかよい感じだっただけに、慶喜に仕えてからの栄一は一掃魅力的に描かれるのではないか、と期待しています。

オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合

 オセアニアの人口史に関する研究(Choin et al., 2021)が公表されました。考古学的データでは、ニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島含むニアオセアニア(近オセアニア)には、45000年前頃に現生人類(Homo sapiens)が居住していました(関連記事)。リモートオセアニア(遠オセアニア)として知られており、ミクロネシアとサンタクルーズとバヌアツとニューカレドニアとフィジーとポリネシアを含む太平洋の他地域は、3500年前頃まで人類は居住していませんでした。この拡散は、オーストロネシア語族およびラピタ(Lapita)文化複合の拡大と関連しており、台湾で5000年前頃に始まり、リモートオセアニアには3200~800年前頃までに到達した、と考えられています。

 オセアニア人口集団の遺伝的研究は、オーストロネシア語族の拡大に起因するアジア東部起源の人口集団との混合を明らかにしてきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、オセアニアの移住史に関しては疑問が残っています。太平洋地域への移住が島嶼環境への遺伝的適応をどのように伴ったのか、また古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入がオセアニア個体群においてこの過程を促進したのかどうかも、不明です。オセアニア個体群は、世界で最高水準のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の組み合わされた祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文は、全ゲノムに基づいた調査を報告します。この調査は、太平洋の人口集団の人口史および適応の歴史と関連する広範な問題に対処します。


●ゲノムデータセットと人口構造

 ニアオセアニアとリモートオセアニアの移住史に影響を与えたと考えられる地理的区域の20の人口集団から、317個体のゲノムが配列されました(図1a)。これらの高網羅率ゲノム(約36倍)は、パプアニューギニア高地人やビスマルク諸島人(関連記事1および関連記事2)や古代型ホモ属(絶滅ホモ属)を含む(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、選択された人口集団のゲノムとともに分析されました。最終的なデータセットには、太平洋地域の355個体を含む462個体と、35870981ヶ所の一塩基多型が含まれます(図1b)。

 ADMIXTURE、主成分分析、遺伝的距離の測定(FST)を用いると、人口集団の多様性はおもに4要素により説明される、と明らかになりました。それは、(1)アジア東部および南東部個体群、(2)パプアニューギニア高地人、(3)ビスマルク諸島人とソロモン諸島人とバヌアツ人(ni-Vanuatu)、(4)ポリネシア人の外れ値(本論文ではポリネシア個体群と呼ばれます)と関連しています(図1c・d)。最大の違いはアジア東部および南東部個体群とパプアニューギニア高地人との間にあり、残りの人口集団はこの2構成要素のさまざまな割合を示し、オーストロネシア語族拡大モデルを裏づけます(関連記事)。

 ビスマルク諸島人とバヌアツ人の間では強い類似性が観察され、ラピタ文化期末におけるビスマルク諸島からリモートオセアニアへの拡大と一致します(関連記事)。ヘテロ接合性の水準はオセアニア人口集団の間で著しく異なり、個々の混合割合と相関します。最も低いヘテロ接合性と最も高い連鎖不平衡は、パプアニューギニア高地人とポリネシア個体群との間で観察され、おそらくは低い有効人口規模(Ne)を反映しています。とくにF統計は、バヌアツのエマエ(Emae)島民からポリネシア個体群のバヌアツ人において、他のバヌアツ人より高い遺伝的類似性を示し、ポリネシアからの遺伝子流動を示唆します(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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●ニアオセアニアとリモートオセアニアの定住

 オセアニアの移住史を調べるため、いくつかの進化的仮説により駆動される一連の人口統計モデルが複合尤度法(composite likelihood method)で検討されました。まず、パプアニューギニア高地人と他の現代人および絶滅ホモ属との間の関係が決定され、以前の調査結果(関連記事)が再現されました。次に、遺伝子流動を伴う3期の人口統計が想定され、ニアオセアニア集団間の関係が調べられました。観測された部位頻度範囲は、ニアオセアニアにおける定住前の強いボトルネック(瓶首効果)により最もよく説明されました(Ne=214)。ビスマルク諸島およびソロモン諸島の人々とパプアニューギニア高地人の分離は39000年前頃までさかのぼり、ソロモン諸島人とビスマルク諸島人の分離は2万年前頃で(図2a)、これは45000~30000年前頃となるこの地域における人類の定住の直後となります(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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 次に、マラクラ(Malakula)島のバヌアツ人個体群に代表される、リモートオセアニア西部人口集団がモデルに組み込まれました。バヌアツ人個体群の祖先の一部はビスマルク諸島からの移民で、3000年前頃以後にバヌアツ人の遺伝子プールの31%以上に寄与したと推定され、これは以前の古代DNA研究と一致します(関連記事)。しかし、最適なモデルでは、バヌアツに3000年前頃以降に到来したパプア人関連人口集団は、他のニアオセアニア起源集団の混合だった、と明らかになりました。バヌアツ人のパプア人関連祖先はパプアニューギニア高地人と分岐し、後にソロモン諸島人関連系統から約24%の遺伝的影響を受けました。興味深いことに、台湾先住民のバヌアツ個体群への直接的寄与は3%未満と最小限で、2700年前頃までさかのぼる、と明らかになりました。これは、現代リモートオセアニア西部人口集団のアジア東部関連祖先系統が、おもに混合されたニアオセアニア個体群から継承されたことを示唆します。


●オーストロネシア語族拡大への洞察

 フィリピンとポリネシアのオーストロネシア語族話者を本論文のモデルに組み込むことにより、オセアニア人口集団におけるアジア東部祖先系統の起源が特徴づけられました。移住に伴う孤立を想定して、台湾先住民、およびフィリピンのカンカナイ人(Kankanaey)やソロモン諸島のポリネシア個体群といったマレー・ポリネシア語派話者は7300年前頃に分岐した、と推定され、これはフィリピンの人口集団に関する最近の遺伝学的研究と一致します(関連記事)。他のオーストロネシア語族話者集団をモデル化しても、同様の推定が得られました。

 これらの年代は、台湾からの拡散事象は4800年前頃に始まり、オセアニアに農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした、と想定する出台湾モデルと一致しません。しかし、アジア北東部人口集団からオーストロネシア語族話者集団へのモデル化されていない遺伝子流動(関連記事)が、パラメータ推定に偏りをもたらしているかもしれません。そのような遺伝子流動を考慮すると、出台湾モデルにおいて予測されるよりも古い分岐年代が一貫して得られたものの、信頼区間とは重複します(8200年前頃、95%信頼区間で12000~4800年前)。これは、オーストロネシア語族話者の祖先が台湾の新石器時代の前に分離したことを示唆しますが、パラメータ推定における不確実性を考慮すると、古代ゲノムデータを用いてのさらなる調査が必要です。

 次に、近似ベイズ計算(ABC)を用いて、さまざまな混合モデルにおける、ニアオセアニア個体群とアジア東部起源の人口集団との間の混合の年代が推定されました。その結果、2回の混合の波モデルが、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々の要約統計に最もよく一致しました。最古の混合の波はこの地域でラピタ文化出現後の3500年前頃に起き、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々についてはそれぞれ、2200年前頃と2500年前頃でした(図2c)。これにより、台湾先住民からのマレー・ポリネシアの人々の分離が、ニアオセアニア人口集団との即時で単一の混合事象の後に起きたわけではない、と明らかになり、オーストロネシア語族話者はこの拡散中に形成段階を経た、と示唆されます。


●ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝的影響

 太平洋島嶼部の人々は、主成分分析やD統計やf4比統計により示唆されるように、かなりのネアンデルタール人およびデニソワ人祖先系統を有しています。ネアンデルタール人祖先系統が均一に分布しているのに対して(2.2~2.9%)、デニソワ人祖先系統は集団間で顕著に異なり(関連記事)、パプア人関連祖先系統と強く相関しています(図3a・b・c)。注目すべき例外はフィリピンで観察されており、「ネグリート」と自認しているアイタ人(Agta)と、それよりは影響が劣るもののセブアノ人(Cebuano)で、デニソワ人祖先系統の相対的影響が高めではあるものの、パプア人関連祖先系統をほとんど有していません。

 古代型ホモ属(絶滅ホモ属)祖先系統の供給源を調べるため、信頼性の高いハプロタイプ(図3d)が推測され、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(関連記事)およびシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)とのハプロタイプ一致率が推定されました。ネアンデルタール人の一致率は全集団において単峰型で(図3e)、ネアンデルタール人のゲノム断片は人口集団の組み合わせで有意に重複しており、単一のネアンデルタール人集団からの非アフリカ系現代人集団の祖先への1回の遺伝子移入事象と一致します。

 逆に、デニソワ人から遺伝子移入された断片では、異なる最大値が見られました(図3e)。以前に報告されたように(関連記事)、2つの最大値兆候(デニソワ人のゲノムとの一致率は、それぞれ98.6%と99.4%)がアジア東部個体群で検出されただけではなく、台湾先住民やフィリピンのセブアノ人やポリネシア個体群でも見つかりました。約99.4%一致するハプロタイプは、約98.6%一致するハプロタイプよりも有意に長く、アジア東部人口集団では、アルタイ山脈のデニソワ人と密接に関連する人口集団からの遺伝子移入が、遺伝的により遠い関係の絶滅ホモ属集団からの遺伝子移入よりも新しく起きた、と示唆されます。

 パプア人関連人口集団でもデニソワ人の2つの最大値が観察され、一致率は約98.2%と約98.6%です。近似ベイズ計算を用いると、一貫して、パプアニューギニア高地人は2回の異なる混合の波を受けている、と確認されます。約98.6%の一致率のハプロタイプは、全人口集団で類似の長さでしたが、約98.2%の一致率のハプロタイプは、パプア人関連人口集団において、他の人口集団における98.6%の一致率のハプロタイプよりも有意に長い、と示されました。

 近似ベイズ計算パラメータ推定は、最初の混合の波が222000年前頃にアルタイ山脈デニソワ人と分岐した系統から46000年前頃に起き、パプア人関連人口集団への第二の混合の波が、アルタイ山脈デニソワ人と409000年前頃に分離した系統から25000年前頃に起きた、と裏づけます。このモデルは、アルタイ山脈デニソワ人とは比較的遠い関係にあるデニソワ人系統からの混合の波が46000年前頃に起きた、と報告した以前の研究(関連記事)よりも支持されました。本論文の結果は、パプア人関連集団の祖先とデニソワ人との複数の相互作用と、遺伝子移入元の絶滅ホモ属の深い構造を示します。

 フィリピンのアイタ人についても、2つのデニソワ人関連の最大値が観察され、それぞれ一致率は98.6%と99.4%です(図3e)。99.4%の最大値の方は、おそらくアジア東部人口集団からの遺伝子流動に起因します。アイタ人における遺伝子移入されたハプロタイプは、パプア人関連人口集団のハプロタイプと有意に重複していますが、パプア人とは関係ないデニソワ人祖先系統の比較的高い割合(図3c)は、追加の交雑を示唆します。

 ルソン島におけるホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)の発見(関連記事)を考慮して、ネアンデルタール人やデニソワ人以外の絶滅ホモ属からの遺伝子移入の可能性も調べられました。絶滅ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により絶滅ホモ属との混合の痕跡と思われる領域を検出する方法(関連記事)で、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来するハプロタイプを除外すると、合計499万塩基対にまたがる59個の古代型ハプロタイプが保持され、ほとんどの集団で共通していました。アイタ人とセブアノ人に焦点を当てると、両集団に固有の遺伝子移入された約100万塩基対のハプロタイプしか保持されませんでした。これは、ホモ・ルゾネンシスが現代人の遺伝的構成に全く、あるいはほとんど寄与しなかったか、ホモ・ルゾネンシスがネアンデルタール人もしくはデニソワ人と密接に関連していたことを示唆します。以下は本論文の図3です。
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●絶滅ホモ属からの遺伝子移入の適応的性質

 絶滅ホモ属からの適応的な遺伝子移入の証拠は存在しますが(関連記事1および関連記事2)、オセアニア人口集団における役割を評価した研究はほとんどありません。本論文ではまず、適応的遺伝子移入兆候における濃縮について、5603の生物学的経路が検証されました。ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する断片については、有意な濃縮がそれぞれ24と15の経路で観察され、そのうち9つは代謝機能と免疫機能に関連していました。

 ネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入に焦点を当てると、OCA2やCHMP1AやLYPD6Bなどの遺伝子が複製されました(図4a)。また、免疫(CNTN5、IL10RA、TIAM1、PRSS57)、神経細胞の発達(TENM3、UNC13C、SEMA3F、MCPH1)、代謝(LIPI、ZNF444、TBC1D1、GPBP1、PASK、SVEP1、OSBPL10、HDLBP)、皮膚もしくは色素沈着表現型(LAMB3、TMEM132D、PTCH1、SLC36A1、KRT80、FANCA、DBNDD1)と関連する遺伝子の、以前には報告されていなかった兆候が特定され、ネアンデルタール人由来の多様体が、有益であろうとなかろうと、多くの現代人の表現型に影響を与えてきた、との見解(関連記事)がさらに裏づけられました。

 デニソワ人については、免疫関連(TNFAIP3、SAMSN1、ROBO2、PELI2)と代謝関連(DLEU1、WARS2、SUMF1)の遺伝子の兆候が複製されました。本論文では、自然免疫および獲得免疫の調節と関連する遺伝子(ARHGEF28、BANK1、CCR10、CD33、DCC、DDX60、EPHB2、EVI5、IGLON5、IRF4、JAK1、LRRC8C、LRRC8D、VSIG10L)における、14個の以前には報告されていない兆候が示されます。たとえば、細胞間相互作用を媒介し、免疫細胞を休止状態に保つCD33は、約3万塩基対の長さのハプロタイプを含み、オセアニア集団特有の非同義置換多様体(rs367689451-A、派生的アレル頻度は66%超)を含む、7個の高頻度の遺伝子移入された多様体を伴い、有害と予測されました。

 同様に、ウイルス感染に対するToll様受容体シグナル伝達とインターフェロン応答を調節するIRF4は、29000塩基対のハプロタイプを有しており、アイタ人では13個の高頻度多様体が含まれます(派生的アレル頻度は64%超)。これらの結果から、デニソワ人からの遺伝子移入が、病原体に対する耐性アレル(対立遺伝子)の貯蔵庫として機能することにより、現生人類の適応を促進した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●島嶼環境への遺伝的適応

 太平洋の人口集団における古典的一掃と多遺伝子性適応の兆候が調べられました。デニソワ人からの適応的遺伝子移入として識別されたTNFAIP3遺伝子(関連記事)を含む、全パプア人関連集団に共通する44個の一掃の兆候が見つかりました。最も強く的中したなかには、妊娠中に内因性プレグナノロンの抗痙攣作用を媒介するGABRPと、肥満度指数および高密度リポタンパク質コレステロールと関連するRANBP17が含まれます。最高得点は非同義置換を特定し、おそらくはGABRPの多様体(rs79997355)に損傷を与え、パプアニューギニア高地人とバヌアツ人では70%以上の頻度ですが、アジア東部および南東部人口集団では5%未満と低頻度です。人口集団特有の兆候の中で、栄養欠乏に対する細胞応答を調節し、血圧と関連するATG7は、ソロモン諸島人で高い選択得点を示しました。

 高いアジア東部祖先系統を有する人口集団間では、29個の共有される一掃兆候が特定されました。最高得点は、ALDH2など複数遺伝子を含む約100万塩基対のハプロタイプと重複します。ALDH2欠損は、アルコールに対する有害反応を起こし、日本人では生存率増加と関連しています。ALDH2の多様体rs3809276の頻度は、アジア東部人関連集団では60%以上、パプア人関連集団では15%未満です。脂質異常症および中性脂肪水準とデング熱に対する保護と関連するOSBPL10周辺で強い兆候が検出され、これはネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入と明らかになりました。人口集団特有の兆候として、ポリネシア個体群におけるLHFPL2が含まれ、その変異は、鋭い視力に関わるひじょうに多様な特性である眼の網膜黄斑の厚さと関連しています。LHFPL2の多様体はポリネシア個体群では約80%に達しますが、データベースには存在せず、研究されていない人口集団におけるゲノム多様性を特徴づける必要性が強調されます。

 ほとんどの適応的形質は多遺伝子性と予測されるので、形質関連アレルの統合されたハプロタイプ得点を、一致する無作為の一塩基多型のそれと比較することにより、充分に研究された遺伝的構造を有する25個の複雑な形質(関連記事)の方向性選択が検証されました。対照としてヨーロッパの個体群に焦点当てると、以前の研究で報告されたように、より明るい肌や髪の色素沈着への多遺伝子性適応兆候が見つかりましたが、身長に関しては見つかりませんでした(図4b)。太平洋の人口集団では、ソロモン諸島人とバヌアツ人で、高密度リポタンパク質コレステロールのより低い水準の強い兆候が検出されました。


●人類史と健康への示唆

 オセアニアへの移住は、現生人類の島嶼環境への生息と適応の能力に関する問題を提起します。現生人類の変異率と世代間隔に関する現在の推定を用いると、ニアオセアニアの45000~30000万年前頃の定住の後に、島嶼間の遺伝的孤立が急速に続くと明らかになり、更新世の航海は可能であったものの限定的だった、と示唆されます。さらに本論文では、アジア東部とオセアニアの人口集団間の遺伝的相互作用は、厳密な出台湾モデルで予測されていたよりも複雑だったかもしれない、と明らかになり、ラピタ文化出現後のニアオセアニアで少なくとも2回の異なる混合事象が起きた、と示唆されます。

 本論文の分析は、リモートオセアニアの定住への洞察も提供します。古代DNA研究では、パプア人関連の人々が、バヌアツへと最初の定住の直後に拡大し、在来のラピタ文化集団を置換した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代のバヌアツ個体群におけるほとんどのアジア東部人関連祖先系統は、初期ラピタ文化定住者からよりもむしろ、混合されたニアオセアニア人口集団からの遺伝子流動の結果だった、と示唆されます。これらの結果は、ポリネシアからの「逆移住」の証拠と組み合わされて(関連記事1および関連記事2)、バヌアツにおける繰り返された人口集団の移動との想定を裏づけます。比較的限定された数のモデルの調査だったことを考慮すると、この地域の複雑な移住史の解明には、考古学と形態計測学と古ゲノム学の研究が必要です。

 本論文のデータセットにおける多様なデニソワ人から遺伝子移入されたゲノム領域の回収は、以前の研究(関連記事1および関連記事2)とともに、現生人類がさまざまなデニソワ人関連集団から複数の混合の波を受けた、と示します。第一に、アルタイ山脈デニソワ人と密接に関連するクレード(単系統群)に由来する、アジア東部固有の混合の波が21000年前頃に起きた、と推定されます。このクレードのハプロタイプの地理的分布から、その混合はおそらくアジア東部本土で起きた、と示されます。

 第二に、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的に比較的と追い関係の別のクレードが、ニアオセアニア人口集団とアジア東部人口集団とフィリピンのアイタ人に、類似した長さのハプロタイプをもたらしました。本論文のモデルはニアオセアニアとアジア東部の人口集団の最近の共通起源を支持しないので、アジア東部人口集団はこれらの古代型断片を間接的に、アイタ人および/もしくはニアオセアニア人口集団の祖先的人口集団を経由して継承した、と提案されます。ニアオセアニア個体群の祖先への混合の波を仮定すると、この遺伝子移入はサフルランドへの移住の前となる46000年前頃に恐らくはアジア南東部で起きた、と推測されます。

 第三に、パプア人関連集団固有の別の混合の波は、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的にもっと遠い関係にあるクレードに由来します。本論文では、この遺伝子移入は25000年前頃に起きたと推測され、スンダランドもしくはさらに東方で起きた、と示唆されます。ウォレス線の東方で見つかった絶滅ホモ属はホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)(関連記事)とホモ・ルゾネンシスで、これらの系統がアルタイ山脈デニソワ人と関連していたか、デニソワ人と関連する人類もこの地域に存在していた、と示唆されます。

 アジア東部とパプアの人口集団で検出されたデニソワ人からの遺伝子移入の最近の年代から、絶滅ホモ属は25000~21000年前頃まで生存していた可能性がある、と示唆されます。アイタ人における比較的高いデニソワ人関連祖先系統から、アイタ人の祖先が異なる独立した混合の波を経てきた、と示唆されます。まとめると、本論文の分析から、現生人類と絶滅ホモ属のひじょうに構造化された集団との間の交雑は、アジア太平洋地域では一般的現象だった、と示されます。

 本論文は、太平洋諸島住民の未記載の10万以上の頻度1%以上の遺伝的多様体を報告し、その一部は表現型の変異に影響を及ぼす、と予測されます。正の選択の候補多様体は、免疫と代謝に関連する遺伝子で観察され、太平洋諸島に特徴的な病原体および食資源への遺伝的適応を示唆します。これらの多様体の一部がデニソワ人から継承された、との知見は、現生人類への適応的変異の供給源としての絶滅ホモ属からの遺伝子移入の重要性を浮き彫りにします。

 高密度リポタンパク質コレステロールの水準と関連する多遺伝子性適応の兆候からは、脂質代謝における人口集団の違いがあり、この地域における最近の食性変化への対照的な反応を説明している可能性がある、と示唆されます。太平洋地域の大規模なゲノム研究は、過去の遺伝的適応と現在の疾患危険性との間の因果関係を理解し、研究されていない人口集団における医学的ゲノム研究の翻訳を促進するために必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:太平洋地域の人類集団の祖先を読み解く

 太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。

 太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。

 この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、その後、約2万~4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。

 太平洋地域の集団に属する人々は、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方のDNAを持っている。デニソワ人のDNAは複数回の混合によって獲得されたもので、これは、現生人類と古代ヒト族との混合が、アジア太平洋地域で一般的な現象だったことを示している。ネアンデルタール人の遺伝子は、免疫系、神経発生、代謝、皮膚色素沈着に関連した機能を備えているが、デニソワ人のDNAは主に免疫機能と関連している。そのため、デニソワ人のDNAは、太平洋地域に初めて定住した者が、その地域で蔓延していた病原体と闘うために役立つ遺伝子の供給源となり、島嶼環境の新たな居住地に適応するために役立った可能性がある。



参考文献:
Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5

森恒二『創世のタイガ』第8巻(講談社)

 本書は2020年8月に刊行されました。第8巻は、タイガたちのいる現生人類(Homo sapiens)の集落で、リクが集落の住人とともに鉄製武器の製作を試みている場面から始まります。すでに何度か失敗していたリクは、それも踏まえて今回ついに成功します。リクはタイガの要求に応じて鉄の剣を2本製作し、その他に槍と斧を1本ずつ製作します。剣2本をタイガが、斧をナクムが、槍をカシンが持ち、その威力を実演してみせたところ、集落の人々はその威力に驚嘆します。タイガたちはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に襲撃される現生人類を助けことにし、早速現生人類を襲っていたネアンデルタール人を撃退します。そこで鉄剣は大きな威力を発揮しますが、タイガとアラタは、せいぜい7000年前頃から使われ始めたと言われている投石紐を、ネアンデルタール人が使っていたことに疑問を抱きます。

 タイガたちが集落に戻ると、チヒロが山羊の世話をしていました。チヒロはカシンに山羊を捕獲してもらい、牧畜を始めようとしていました。ここで、ヤギの乳を飲もうとしてユカが吐いたことから、ユカの妊娠が明らかになります。ユカはネアンデルタール人に拉致されて強姦されてしまい、そこで妊娠したようです。タイガたちがネアンデルタール人を殺し過ぎたからこうなったのだ、と責めるレンにアラタは激怒し、タイガはリクに、ネアンデルタール人と戦うなと要求するなら守れない、と覚悟を迫ります。ユカは自暴自棄になり、池に入って流産しようとしますが、ナクムはそれを阻止して自分や妻子とともに住まわせることにします。それでも流産しようとするユカを、その子供は敵(ネアンデルタール人ではなく)ではなく自分たちの子供だ、とナクムは諭します。

 ナクムは、その後もネアンデルタール人と遭遇して戦闘になったことから、同じ現生人類の西の民と同盟を結ぼうとします。タイガもアラタも同行しますが、2人は以前に市の民と遭遇していました(第5巻)。タイガの近くにマンモスのアフリカが寄ってきますが、西の民を恐慌に陥らせると考えたタイガは、アフリカを同行させないことにします。タイガたちは西の民の集落に到着しますが、警戒されているようです。そこでナクムは、斧を置いて、タイガとカシンだけを連れて同盟締結交渉に臨みます。しかし、西の民はナクムたちを信用しません。そこへ、西の民のカイザという腕自慢の男性が現れ、ナクムに決闘を挑みます。ナクムは、自分より強いからと言って、タイガにカイザと戦わせます。タイガは、自分が勝ったら協力してもらう、と要求しますが、カイザは、自分がまけることはあり得ず、お前たちを殺す、と強硬な姿勢を変えません。そこへ、以前タイガに命を救われた(第5巻)男性が現れ、勝者の約束は自分が保証する、と訴えます。タイガはカイザの力に圧倒されつつも、はるかに上回る技術と強力な鉄剣により、カイザをほとんど傷つけずに倒します。

 しかし、そこに多数のネアンデルタール人が襲撃してきて、このままでは勝てないと判断したタイガは、近くにいるアフリカを呼ぶために一旦離脱します。そのタイガの行動に西の民やカシンは不信感を抱きますが、ティアリとナクムはタイガを信じます。その間、投石紐を用いるネアンデルタール人に西の民とナクムたちは何とか押しとどめますが、ネアンデルタール人たちに挟撃されて苦戦します。ネアンデルタール人たちを率いているのは、以前に現生人類の集落を襲撃した時も指揮官的な役割を担っていたドゥクスでした。崖の上から戦況を確認していたドゥクスはナクムの存在に気づき、マンモス(作中では当時の人々はドゥブワナと呼んでいます)タイガがどこにいるのか、探します。そこへタイガがアフリカに乗って現れ、戦況は一気に逆転します。ドゥクスに気づいたタイガは、アフリカから降りてドゥクスを倒そうとし、苦戦しつつも狼のウルフの助けも得て、ドゥクスを圧倒して鉄剣で斬りつけますが、ドゥクスは金属製のサバイバルナイフのようなものでそれを防ぎます。タイガが衝撃を受けている隙にドゥクスは他のネアンデルタール人とともに撤退します。

 襲撃してきたネアンデルタール人を退け、ナクムは再度西の民に同盟を締結するよう、説得しますが、西の民はナクムたちを信用しません。そこでタイガは、アフリカを使って脅しつつ、西の民は同志であり兄弟なので守る、と訴えます。続いてナクムも西の民を同胞(兄弟)と呼び、ナクムたちに強い不信感を示し続けてきたカイザも感激し、同盟締結に成功します。その後ナクムたちは、点在する現生人類の部族と交渉していき、ネアンデルタール人への脅威から同盟交渉は順調に進みます。とくに、マンモスに乗るタイガの効果は絶大でした。タイガは、ドゥクスが金属製のサバイバルナイフのようなものを持っていたことから、自分たち以外に未来からこの時代に来ている人間がいる、と仲間に伝えます。リカコは、が金属製のサバイバルナイフのようなものがアーミーナイフで軍用ではないか、と推測します。その頃、洞窟のネアンデルタール人の拠点では、1人の男性がネアンデルタール人たちを前に演説していました。迷ってはいけいない、迷いは罪である、どれほど我々に似ていても我々以外は人ではない、我々白き民が支配する清浄な世界、一民族による世界の統治が我が総統の夢であり、第三帝国は復活し、歴史は書き換えられるのだ、と男はネアンデルタール人たちに訴えます。男の背後の岩壁には、鉤十字の模様が彫られていました。


 第8巻はこれで終了となります。第8巻は、鉄の武器の製作やユカの妊娠や他の現生人類部族との同盟交渉なども描かれましたが、やはり、以前から言及されていたネアンデルタール人の「王」の正体が明かされことこそ、最大の見せ場と言うべきでしょうか。この男性は、第三帝国の復活が目標と発言していますから、1945年以降の世界から更新世にやって来た、と推測されます。この男性が、第三帝国の軍人なのか、それともナチスとの直接的関りはなく、軍事訓練を受けたネオナチなのか、まだ分かりません。また、この男性にタイガたちのような同行者がいるのかも、まだ明らかになっていません。この男性は(作中舞台から見て)未来の知識を活用してネアンデルタール人を心服させていったのかもしれませんが、「色つき」を滅ぼそうとする意図は、ナチズム信奉者ならば不思議ではないとしても、同じ現生人類ではなくネアンデルタール人の方に肩入れする理由はよく分かりません。ただ、男性がタイガたちと違って人類学に疎ければ、ネアンデルタール人と現生人類の違いもさほど気にならず、単に肌の色を重視してネアンデルタール人による「世界征服」を試みている、とも考えられます。正直なところ、ナチスを敵役として出すのは安易なようにも思いますが、いよいよ本作の核心に迫って来た感もあり、私はかなり楽しんで読んでいます。なお、第1巻~第7巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

第6巻
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_41.html

第7巻
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_22.html

古人類学の記事のまとめ(43)2021年1月~2021年4月

 2021年1月~2021年4月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2021年1月~2021年4月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

現代人の骨盤の性差の起源
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_7.html

マウンテンゴリラの情報伝達
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_25.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

鮮新世温暖期の偏西風
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_10.html

ホモ・エレクトスと現生人類の頭蓋進化の比較
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_26.html

初期ホモ属の祖先的な脳
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_19.html


●ネアンデルタール人関連の記事

ネアンデルタール人に関する「ポリコレ」や「白人」のご都合主義といった観点からの陰謀論的言説
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_12.html

『地球ドラマチック』「ネアンデルタール人 真の姿に迫る!」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_17.html

新型コロナウイルス感染症の重症化危険性を低下させるネアンデルタール人由来の遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_22.html

ネアンデルタール人の南限範囲の拡大および現生人類と共通する石器技術
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_25.html

地球環境の変化を引き起こした42000年前頃の地磁気逆転
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_27.html

2021年度アメリカ自然人類学会総会(ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域差)
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_34.html

新たな手法により推測される人類史における遺伝的混合
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_8.html

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_14.html

洞窟堆積物から得られたネアンデルタール人の核DNA
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_20.html


●デニソワ人関連の記事

アジア南東部現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_29.html

麻柄一志「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_23.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_17.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_24.html

スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_25.html

現生人類系統の起源に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_15.html

中国南部における初期現生人類の年代の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_19.html

極東アジア最古の現生人類の年代
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_30.html

アフリカの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_2.html

オーストラリア最古の岩絵の年代
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_7.html

現生人類のmtDNAの進化速度の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_10.html

過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類の移住
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_32.html

ヨーロッパ最古級となるバチョキロ洞窟の現生人類のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_9.html

ヨーロッパ最古級となるチェコの現生人類遺骸のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_11.html

国武貞克「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_15.html

加藤真二「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_16.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_14.html

男性に偏った移住を示す貴州省のフェイ人(回族)
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_3.html

日本列島「本土」集団の「内部二重構造」モデル
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_4.html

ホンシュウオオカミのゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_7.html

歯根形態と関連する遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_9.html

前期新石器時代~漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_11.html

古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html

スキタイ人集団の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_33.html

新疆ウイグル自治区の青銅器時代以降の住民のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_4.html

九州の縄文時代早期人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

北アメリカ大陸の絶滅したダイアウルフのイヌ科進化史における位置づけ
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_28.html

イヌの家畜化のシベリア起源説
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_13.html

海鳥グアノ肥料により1000年頃から発達したアタカマ砂漠の農業
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_20.html

アメリカ大陸へのイヌの最初の拡散経路
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_19.html

後期更新世アジア北部におけるY染色体ハプログループC2aの拡大とアメリカ大陸先住民の起源
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_22.html

南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html

ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_32.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html

コーカサスの上部旧石器時代層堆積物のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_16.html

後期新石器時代から鐘状ビーカー期のフランスの人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_23.html

ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html

ポーランド南東部の縄目文土器文化集団の遺伝的多様性
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_40.html

池谷和信「アジアの新人文化における狩猟活動について―アラビア半島の犬猟に注目して」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_2.html

ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_11.html

クロアチアの中期銅器時代の虐殺犠牲者の遺伝的分析
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_17.html

デンマークの新石器時代単葬墳文化の人々の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_24.html

グリーンランド現代人におけるヨーロッパ人からの遺伝子流動の時期
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_29.html

新石器時代アナトリア半島における親族パターンの変化
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_31.html


●進化心理学に関する記事

Joseph Henrich『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化−遺伝子革命〉』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_3.html

ヒトの幼児の食べ方の学習
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_9.html

類似した文脈で世界共通に現れるヒトの16種類の顔表情
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_19.html

自閉症におけるde novo縦列反復配列変異のパターンとその役割
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_20.html

山田仁史「宗教と神話の進化―集団間の動態におけるその役割」
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_28.html

人間は減法的変化を体系的に見落とす
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_24.html


●その他の記事

野生のニューギニア・シンギング・ドッグ
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_8.html

イヌの家畜化の初期段階
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_15.html

アルコール摂取と疾患の遺伝的関連の分析に生じる偏り
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_18.html

更新世の氷期の海洋循環を再編成する南極氷山
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_33.html

古気候の証拠の解釈の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_37.html

氷河期の北極海が淡水化していた時期
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_12.html

マダガスカル島現代人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_18.html

100万年以上前のマンモスのDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_26.html

放射性炭素年代と遺伝的データによるマンモスの絶滅過程
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_27.html


過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
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古人類学の記事のまとめ(1)
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古人類学の記事のまとめ(2)
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古人類学の記事のまとめ(3)
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古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(40)
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(41)
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(42)
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_2.html

ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生

 ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生についての研究(Bush et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヨーロッパから南アメリカ大陸への人類の侵出が始まると、病気や戦争や奴隷制度や集団虐殺などが持ち込まれ、ついにはアメリカ大陸先住民の大量死として知られる悲惨な人命損失に至りました。アマゾン川流域では1492年以降に先住民の90~95%が死亡した、と推定されています。その結果、それまで農地だった広大な土地をはじめとして、多くの居住地が放棄されたため、アマゾン川全域で森林再生が急激に進みました。この急激な森林再生により、大気中二酸化炭素濃度の著しい減少(この異常な減少はオービス・スパイクと呼ばれます)が17世紀初頭に始まった、と考えられてきました。

 この研究は、アマゾン川流域の39ヶ所で化石花粉を採取し、過去2000年にわたる森林被覆の変化を調べた。その結果、「大量死」の期間中に森林花粉が増加した場所の数は、減少した場所の数とほぼ同じだった、と明らかになり、広範囲で同時期に起こった森林再生は大気中二酸化炭素濃度を減少させるのに充分だった、との仮説は事実上排除される、と指摘されています。データによると、多くの場所で、ヨーロッパ人到来の600~300年前頃に土地放棄および森林再生が始まった、と示唆されます。

 この研究は、1500~950年前頃に土地放棄を引き起こしたメカニズムは特定されていないと指摘する一方で、環境の変化、ヨーロッパ人到着以前の感染症大流行、および/もしくは社会闘争のカスケード効果が関与していた可能性を示唆しています。先コロンブス期アマゾン川流域でも、たとえば大規模な社会を築いていたモホス文化が1300年頃までには衰退していたと推測されているように(関連記事)、人口減少は珍しくなかったのでしょう。ただ、アマゾン川流域の一部地域で、ヨーロッパ人到来時すでに先住民人口が減少しつつあったとしても、ヨーロッパ人との接触が致命的な影響を及ぼし、人口減少が加速したことには変わりありません。


参考文献:
Bush MB. et al.(2021): Widespread reforestation before European influence on Amazonia. Science, 372, 6541, 484–487.
https://doi.org/10.1126/science.abf38707

新石器時代アナトリア半島における親族パターンの変化

 新石器時代アナトリア半島における親族パターンの変化に関する研究(Yaka et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジア南西部の新石器時代に出現した最初の完全に定住的な社会の社会組織は、おもに物質文化研究ではこの問題への洞察が限定されるため、よく分からないままです。しかし、新石器時代アナトリア半島の共同体はしばしば、死者を家庭用建物の下に埋葬したので、これらの遺骸を通じて世帯構成や社会構造を研究できます。

 本論文は新石器時代の2期間にわたる社会組織に焦点を当てています。先土器新石器時代は紀元前8350~紀元前7300年頃のアシュクル・ヒュユク(Aşıklı Höyük)遺跡と紀元前8300~紀元前7600年頃のボンクル(Boncuklu)遺跡(関連記事)に代表され(図1A)、アナトリア半島中央部では最初の定住共同体です。紀元前九千年紀において、これらの遺跡は小さな曲線の建物により特徴づけられ、アシュクル・ヒュユク遺跡とボンクルはおもに採集生活習慣を維持していました。その後の土器新石器時代共同体は、食料生産にますます依存するようになり、直線的で密集した建築を特徴とするより大きな集落に住んでいました。本論文では、この後の期間は紀元前7100~紀元前5950年頃のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡と、紀元前6600~紀元前6000年頃のバルシン・ヒュユク遺跡(Barcın Höyük)に代表されます。

 この研究では、新石器時代のアシュクル・ヒュユク遺跡の30個体とチャタルヒュユク遺跡の60個体が調べられ、保存状態が悪くて古いため、それぞれ8個体(26%)と14個体(23%)で錐体骨から0.1%以上のヒトDNAが確認されました。これら22個体のゲノムの平均網羅率は0.01~5.0倍です。これらのデータは、既知のボンクル・ヒュユク(Boncuklu Höyük)遺跡9個体やバルシン・ヒュユク遺跡23個体やテペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡5個体のデータ(関連記事1および関連記事2)と組み合わされました。以下は本論文の図1です。
画像


●先土器時代から土器時代の遺伝的多様性の増加

 まず、人口集団水準で遺伝的関係が分析されました。主成分分析(図1B)、ADMIXTURE分析、遺伝的距離(FST)、f3およびD統計では、アシュクル・ヒュユク遺跡個体群とチャタルヒュユク個体群が、ボンクル・ヒュユク遺跡やテペシク・シフトリク遺跡やバルシン・ヒュユク遺跡個体群に代表されるアナトリア半島中央部および西部初期完新世遺伝子プール、およびボンクル遺跡の30km南方に位置するプナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡の続旧石器時代アナトリア半島中央部の1個体(関連記事)に分類される、と示されます。この地域集団内で、テペシク・シフトリクを除く遺跡の個体群が、他の定住者と比較して同じ定住者の個体群とより最近の共通祖先系統を有する傾向にあるように、遺伝的に異なる共同体が識別されます。FSTとf3およびD統計でも、先土器新石器時代のアシュクル・ヒュユク遺跡とボンクル・ヒュユク遺跡の住民が、土器新石器時代人口集団と比較して、遺伝的に相互にひじょうに類似している、と示されます(図1C)。

 先土器新石器時代人口集団は、土器新石器時代集団よりも集団内の遺伝的多様性が低く(図1D)、ほとんどの土器新石器時代個体のゲノムよりも、短いROH(runs of homozygosity)のより高い割合を有していました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。多様性におけるこの一時的増加は、二つの排他的ではない想定、つまり人口増加と遺伝的混合により説明できます。

 D検定(外群、X、先土器時代アナトリア半島人、土器時代アナトリア半島人)ではXが早期完新世ザグロスもしくはレヴァント人口集団を表し、これにより、以前に提案されたように(関連記事)、紀元前7500~紀元前6500年頃におけるアナトリア半島中央部および西部への南部と東部からの遺伝子流動と適合する結果が見つかりました。qpAdmを用いると、土器新石器時代アナトリア半島人口集団は、約90%の先土器新石器時代アナトリア半島祖先系統と、約10%のレヴァント祖先系統の混合としてモデル化できます。とくに、人口集団の移動性増加の時期は、以下で説明されるように、食資源としての農耕および畜産へのより強い依存、より大きな建築物、想定される人口増加、想定される社会的組織のパターンにおける変化と同時代です。


●新石器時代の共同埋葬間の血縁関係の推定

 新石器時代アジア南西部の集落には、通常は世帯員の社会化に中心的役割を果たした家庭住居として解釈される建造物が含まれます。これらの社会はよく、両性の未成年と成人を含む死者を、人々がこれらの建造物で生活している間に、その下に埋葬しました。これらの埋葬は、遺伝的もしくは社会的親族関係を通じて、何らかの形で関係している世帯員だった、と一般的に仮定されてきました。しかし、家の床下に埋葬された個体が、単一の共住集団の一部としてそれらの建造物に必ず居住していたのかどうか、まだ明らかではありません。たとえば、同じ建物内に埋葬された個体間の食性の類似性の程度は、現時点では曖昧です。

 それにも関わらず、家庭建造物内もしくはその周囲の埋葬の集合体は、世帯構成および/もしくは埋葬慣行についての情報を有すると予測され、それはこれら早期新石器時代共同体内の組織原理としての遺伝的関連性の相対的重要性に光を当てるかもしれません。チャタルヒュユク遺跡に関する以前の研究では、歯の形態計測とミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析から、同じ建造物内に埋葬された個体は遺伝的に密接に関連していないことが多い、と示唆されています。しかし、1ヶ所の遺跡に関して、どちらのデータでも正確な血縁関係を充分に識別できないため、この問題は未解決です。

 本論文では、新石器時代アナトリア半島共同体のゲノムデータを用いて、共同埋葬の関係の問題を再度検討します。信頼できる血縁関係を推測するため、さまざまな情報源が同時に用いられました。まず、遺伝的親族係数を推定するため、3通りのアレル頻度に基づく手法が採用されました。それは、NgsRelate とlcMLkinとREADです(図2)。次に、推定上の1親等の1組(たとえば、キョウダイや母と息子や父と娘)間のさまざまな血縁関係を区別するため、遺伝的に同一の0・1・2個のアレルを共有する確率(コッターマン係数k0・k1・k2)が用いられましたが、本論文のゲノムデータは低網羅率なので、この手法の有効性は制約されます。したがって、血縁関係を推測するために、常染色体およびX染色体の遺伝子座から推定される親族係数と、mtDNAのハプロタイプ共有と、骨格遺骸からの死亡時推定年齢と、放射性炭素年代が組み合わされました。

 最後に、血縁シミュレーションが実行され、低網羅率データを用いて親族係数推定の検出力が決定されました。さらに、陰性対照(negative controls)、つまり歴史的に密接な親族ではなかった可能性がある個体の組み合わせから得られた実データで、親族推定アルゴリズムの性能が調べられました。したがって、親族関係検定は、最低でも5000ヶ所の一塩基多型を共有する個体の組み合わせに限定されました。これにより、3親等(イトコ)までの遺伝的関連性の信頼できる推定が可能となります。3親等を超えて関連する1組は、本論文では「無関係」と呼ばれます。なお英語圏では、キョウダイが1親等(日本語では2親等)、イトコが3親等(日本語では4親等)となります。

 最終的なデータセットには、同じ遺跡内で埋葬された個体群の合計223組が含まれ、これらの個体群はほぼ同年代で、遺伝的関連性を確実に推定するのに充分なゲノムデータがありました。これらのうち、共同埋葬は32個体と50組で構成され、同じ建物もしくは建物群と関連する2~6個体の埋葬(つまり、共同埋葬)が含まれます。チャタルヒュユク遺跡とバルシン遺跡では、遺伝的に標本抽出された共同埋葬個体には未成年しか含まれていませんでした。重要なことに、これらの建造物の全ては、家庭での使用(たとえば炉床)の証拠があるか、体系的な非家庭的使用の証拠(たとえば、動物の囲いとしての使用)が欠けており、構造もしくは成功さの観点では、同じ層の他の建造物から逸脱していませんでした。以下は本論文の図2です。
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●先土器時代遺跡の共同埋葬の組み合わせには親族がよく含まれます

 アシュクル・ヒュユク遺跡のデータは、統計的に一貫した放射性炭素年代を示し、同時代に生きていた可能性がある同じ層の5人のゲノムを含んでいます。これらの個体は全員女性で、近接した2ヶ所の建造物に埋葬され、単一世帯により使用されていた可能性がある作業場を共有していました(図3A)。3通りの手法全てで、1親等の親族関係の2組が特定されました(図2A)。同じ建造物に埋葬された1組には、成人と子供(個体136と131)が含まれます。別の1組は別々ではあるものの近接した建造物に埋葬されており、老人と子供が含まれます(個体133と個体128)。遺伝的および骨格的証拠は、両方の組み合わせが姉妹であることを示唆しました(図2A~C)。しかし、親子関係の可能性を除外できません。個体128と同じ建造物に埋葬された成人女性(個体129)は、他の4個体の間で遺伝的に密接な親族がいませんでした。したがって、調査された個々の組み合わせのうちわずか(10組のうち2組)が密接に関連していましたが、調査された個体群の大半(5人のうち4人)は同じもしくは隣接する建造物で1人の近親者が特定されました(図2D)。

 ボンクル・ヒュユク遺跡のデータは、3ヶ所の建造物もしくは外部空間に埋葬された個体群の9点のゲノムで構成されています。このうち5個体が2ヶ所の隣接する連続した建造物で共同埋葬密集を形成します(図3B)。このうち1親等の2組が特定されました(図2A~C)。一方は母親と成人の息子(個体ZHFと個体ZHJ)で、同じ建造物(B14)に埋葬されました。その放射性炭素年代は1%の有意水準で異なり、女性が90%の確率で先に死亡した、と示唆されます。もう一方の組み合わせは、成人の男性と女性のキョウダイ(個体ZHBJと個体ZHAF)です。この2個体は隣接する連続した建造物(B12とB14)に埋葬されました。したがって、アシュクル・ヒュユク遺跡の場合と同様に、隣接する建造物の組み合わせと関連する大半の個体(5人のうち4人)で親族を特定できました。唯一の例外は、周産期の乳児(個体ZHAG)でした。興味深いことに、この乳児は成人女性(個体ZHAF)と同じ墓に埋葬されました。両者はmtDNAハプロタイプを共有していますが、成人女性とも他の調査対象個体とも密接に関連していませんでした。他の個体もこのデータセットでは親族がいませんでした。以下は本論文の図3です。
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●チャタルヒュユク遺跡とバルシン遺跡では建造物内埋葬では近親者は稀です

 チャタルヒュユク遺跡のデータには、複数の層序からの14個体のゲノムが含まれます。1個体を除いて全て未成年で、遺伝的に女性は10個体、男性は4個体と決定されました。紀元前七千年紀の3ヶ所の建造物に埋葬された未成年10個体は、3つの共同埋葬密集を構成します(図3C)。同じ建造物(B50)に埋葬された乳児と子供の姉妹(個体2728と個体2842)の単一の親族関係が特定されました(図2A~C)。この1組は、統計的に一貫した放射性炭素年代値を生成しました。他の検証された個体群の組み合わせは、どれも密接には関連していませんでした。したがって、これら3ヶ所の建造物に共同埋葬され、遺伝的に検証された個体では、10個体のうち2個体のみで遺伝的親族が特定されました(図2D)。

 バルシン・ヒュユク遺跡のデータには、複数段階(ViaとVIbとVicもしくはVId2/3)の23個体のゲノムが含まれます(図3D)。このうち10個体は3もしくは4ヶ所の建造物に埋葬されました。建造物B5と関連する未成年の姉妹(個体L11_213と個体L11_215)と、建造物B14/15と関連する2親等もしくは3親等の未成年の兄弟(個体M10_271と個体M10_275)の、2組の親族関係が特定されました(図2A~C)。この2組はともに、相互に近接して埋葬され、統計的に一貫した放射性炭素年代値を生成しました。建造物B4に埋葬された乳児を含む他の個体では密接な親族が特定されませんでした。したがってバルシン・ヒュユク遺跡では、10個体のうち4個体のみで親族が特定されました(図2D)。

 テペシク・シフトリク遺跡のデータには、2つの層からの合計5個体のゲノムが含まれます。同じ建造物(AY/AK)の異なる場所に埋葬された母親と息子の組み合わせ(個体37と個体21)の可能性が特定されました。この2個体は1%の有意水準で異なる放射性炭素年代結果を生成し、96%の確率で女性の方が先に死亡した、と示唆されます。


●共同埋葬の親族パターンにおける時間的もしくは年齢的変動

 分析対象の全ての新石器時代アナトリア半島の集落にわたる共同埋葬間の密接な遺伝的関係の複数事例の特定から、早期新石器時代の社会的取り決めや恐らくは世帯構成が、遺伝的結びつきとある程度関連していた、と示唆されます。長い間想定されていましたが、新石器時代の家に関連する社会集団内の遺伝的関連性は、本論文で初めて直接的に報告されます。これは、紀元前九千年紀と紀元前八千年紀初期のアシュクル・ヒュユク遺跡とボンクル・ヒュユク遺跡の証拠でとくに顕著で、先土器新石器時代の家の中でともに埋葬された集団間の密接な遺伝的親族関係の要素を示唆している、とみなせます。

 それにも関わらず、本論文の標本のかなりの割合は、遺伝的に無関係な個体とともに建造物に埋葬された個体(ほぼ全員が未成年)も含んでいました(32個体のうち半数、図3)共同埋葬間の遺伝的関連性は、紀元前七千年紀のチャタルヒュユク遺跡とバルシン・ヒュユク遺跡でとくに低く、共同埋葬の大半は識別可能な遺伝的に関連する親族を欠いていましたが、テペシク・シフトリク遺跡に関しては標本規模が小さすぎるので、一般的な結論には達しません。じっさい、特定された親族関係の有無の個体群の頻度は、アシュクル遺跡およびボンクル遺跡と、チャタルヒュユク遺跡およびバルシン・ヒュユク遺跡との間で異なっているようです。しかし、先土器時代と土器時代の時間的比較において、テペシク・シフトリク遺跡の共同埋葬された成人の組み合わせを含むと、違いは有意ではなくなります。

 さらに言及すべきなのは以下の2点です。まず、全ての年齢層がチャタルヒュユク遺跡とバルシン・ヒュユク遺跡の埋葬では考古学的に表されていますが、充分なDNAデータのある標本の中では、未成年の割合が高くなっています(チャタルヒュユク遺跡では14個体のうち13個体、バルシン・ヒュユク遺跡では23個体のうち16個体)。これは、少なくともチャタルヒュユク遺跡では、未成年遺骸でDNAの保存状態がより良好だったことに起因するようで、おそらくは埋葬時の扱いにおける年齢による違いの結果です。結果として本論文では、チャタルヒュユク遺跡とバルシン・ヒュユク遺跡では成人の共同埋葬が遺伝的には調査できませんでした。次に言及すべきなのは、チャタルヒュユク遺跡とバルシン・ヒュユク遺跡の建造物が、先土器新石器時代遺跡の建造物より大きく、より多くの被葬者を含んでいることです。

 チャタルヒュユク遺跡とバルシン・ヒュユク遺跡における比較的大きな建造物にともに埋葬された未成年間の密接な親族関係の頻度は興味深く、共同埋葬された未成年が本論文の手法では識別できない遠い親族だった可能性があるように、これらの建造物が拡大家族により使用された可能性があるのかどうか、という問題を提起します。したがって、f3統計に基づく遺伝的距離を用いて、より近接して埋葬された個体がより大きな遺伝的類似性を共有するのかどうか、検証されました。密接な親族を除外した後、チャタルヒュユク遺跡もしくはバルシン・ヒュユク遺跡のいずれにおいても、埋葬の組み合わせ全体で遺伝的距離と空間的距離との間に相関は見つかりませんでした。建造物間よりも建造物内で共同埋葬された個体間の全体的な遺伝的類似性が高いかもしれない、との仮説も検証されましたが、その証拠は見つかりませんでした。

 これらの結果は、新石器時代チャタルヒュユク遺跡の成人被葬者における埋葬位置と歯の類似性との間で有意な相関は見つからず、共同埋葬間で共有されるmtDNAの欠如が確認された、という以前の分析を裏づけます。ただ、これらの建造物と関連する全個体がそれら建造物の中に埋葬されてきたとは考えられないことに、注意が必要です。また、これらの建造物に埋葬された全個体が、本論文で標本抽出できたわけでもありません。それでも、特定された親族関係のない個体の存在から、共同体構成員の埋葬のための同じ建造物の選択が、他の要因の中でも、社会的つながりの追加の形態により動機づけられる可能性がある、と示唆されます。たとえば、学童期(juvenile)を含む共同埋葬は、「記憶と歴史の作成により結ばれた養子や里親や想像上の親族」が含まれていたかもしれません。

 したがって、これら後の新石器時代集落における共同埋葬とおそらくは世帯構成には、密接な遺伝的親族だけではなく、それよりも遠い遺伝的関係の親族も含まれていたかもしれません。じっさい、ボンクル遺跡の成人女性と乳児の女性は墓を共有しているものの遺伝的に無関係で、そうした伝統を反映しているかもしれません。したがって、新石器時代アナトリア半島において、共同埋葬パターンにおける遺跡間の違いが反映しているのは、時間的変化なのか、それとも成人と未成年の埋葬時の異なる扱いのどちらなのか、依然として不明です。


●性別と空間をつなぐさまざまな伝統

 別の一連の観察には、性別に関する埋葬パターンが含まれます。まず、ボンクル・ヒュユク遺跡では両性の密接に関連した成人の共同埋葬が、アシュクル・ヒュユク遺跡では成人と子供の姉妹の可能性の1組が見つかりました。本論文の標本規模は、決定的な結論に達するには限定的ですが、このパターンが、生涯のかなりの期間にわたって、象徴的もしくは居住的に、出生世帯との密接な関係を保持している成人女性と一致していることは、注目に値します。この想定は、少なくともボンクル・ヒュユク遺跡では、男性にも当てはまる可能性があります。

 次に、アナトリア半島新石器時代埋葬で観察された性別パターンは、ヨーロッパの新石器時代および青銅器時代で報告されたものとは異なっているようで、ヨーロッパでは男性の埋葬が顕著であり(関連記事1および関連記事2)、父系性が明らかで、たとえば複数墓地の研究において、21組の1親等の関係のうちも2組のみが女性の組み合わせでした(関連記事)。この割合は、1親等の関係7組のうち4組が女性同士となる本論文のデータとは異なります。この結果は、先土器新石器時代の関連する成人女性の共同埋葬と、紀元前六千年紀~紀元前三千年紀のヨーロッパの墓地における際立った父系的パターンとの間の対照と同様に、性的役割の違いが農耕の最初の採用後に強化された、という考えと一致します。一方、バルシン遺跡とチャタルヒュユク遺跡で特定された姉妹の組み合わせは両方とも未成年でした。この点で、土器新石器時代アナトリア半島の遺跡における父系的伝統は、以前に歯およびmtDNAのデータに基づいて示唆されたように、依然として可能性があります。

 要約すると、先土器新石器時代における推定される世帯間の密接な遺伝的つながりの存在に関する証拠に加えて、未成年の共同埋葬間の遺伝的つながりは、土器新石器時代のチャタルヒュユク遺跡とバルシン遺跡では低頻度だった、と明らかになりました。後者の慣行がいつどこで出現したのか、まだ正確に特定できませんが、アナトリア半島における先土器新石器時代から土器新石器時代への移行期に、生計および人口集団の移動性と並行して、遺伝的関連性は建造物内埋葬伝統の構造化において重要性を低下させていった、と考えるのが妥当なようです。


参考文献:
Yaka R. et al.(2021): Variable kinship patterns in Neolithic Anatolia revealed by ancient genomes. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.050

チクシュルーブ・クレーターの原因となった小惑星の衝突軌跡

 取り上げるのがたいへん遅くなってしまいましたが、チクシュルーブ・クレーターの原因となった小惑星の衝突軌跡に関する研究(Collins et al., 2020)が公表されました。メキシコにあるチクシュルーブ・クレーターの形成につながった約6600万年前の小惑星の衝突は、地球の環境に壊滅的な影響を与え、ほぼ同時期に起きた大量絶滅事象に関連する、と広く信じられています。しかし、この小惑星の衝突軌跡については、いまだに議論が続いています。

 この研究は、チクシュルーブ・クレーターの形成をシミュレートしたモデルにより、小惑星が飛来した方角と衝突角度を推測しました。この研究は、4種類の衝突角度(90度・60度・45度・30度)を考慮した3D数値シミュレーションを用いました。この研究は、このデータと地球物理学的観測に基づいて、北東方向から飛来した小惑星が急角度(水平面に対して45~60度)で衝突し、チクシュルーブ・クレーターが形成された、と推測しています。この研究はまた、水平面に対して45~60度の衝突角度であれば、クレーターから放出された物質がほぼ対称的に分布し、衝突した小惑星の質量当たりの気候変動ガス放出量が他の検証対象シナリオの場合よりも多かったと考えられる、と推測しています。

 白亜紀末の大量絶滅につながったこの小惑星衝突に関しては、衝突地点付近ではマグニチュード11以上と推定される地震などの地球全体に破壊的な衝撃波と、大きな熱パルスおよび約300mの津波が瞬く間に発生したかもしれない、と指摘されています(関連記事)。また、この小惑星衝突地点では、白亜紀末の大量絶滅後に生態系が急速に回復した、と推測されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


惑星科学:チクシュルーブ・クレーターを生み出した小惑星の衝突軌跡を突き止める

 メキシコにあるチクシュルーブ・クレーターは、小惑星が水平面に対して45~60度というかなり大きな角度で衝突したことによって形成されたことを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。

 チクシュルーブ・クレーターの形成につながった約6600万年前の小惑星の衝突は、地球の環境に壊滅的な影響を与え、ほぼ同時期に起きた大量絶滅事象に関連すると広く信じられている。しかし、この小惑星の衝突軌跡については、いまだに議論が続いている。

 今回、Gareth Collinsたちの研究チームは、チクシュルーブ・クレーターの形成をシミュレートしたモデルを使って、小惑星が飛来した方角と衝突角度を決定した。Collinsたちは、4種類の衝突角度(90度、60度、45度、30度)を考慮した3D数値シミュレーションを用いた。Collinsたちは、このデータと地球物理学的観測に基づいて、北東方向から飛来した小惑星が急角度(水平面に対して45~60度)で衝突し、チクシュルーブ・クレーターが形成されたという見解を示している。また、Collinsたちは、この衝突角度であれば、クレーターから放出された物質がほぼ対称的に分布し、衝突した小惑星の質量当たりの気候変動ガス放出量が他の検証対象シナリオの場合よりも多かったと考えられると主張している。



参考文献:
Collins GS. et al.(2020): A steeply-inclined trajectory for the Chicxulub impact. Nature Communications, 11, 1480.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15269-x

グリーンランド現代人におけるヨーロッパ人からの遺伝子流動の時期

 グリーンランド現代人におけるヨーロッパ人からの遺伝子流動の時期に関する研究(Waples et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。グリーンランド人はおもに、12世紀頃に現在のカナダからグリーンランド北部に到来したチューレ(Thule)文化のイヌイットの子孫です。当時、ノルウェー人が985年以来グリーンランド南部に居住しており、1450年頃までグリーンランドに存在しました。以前の遺伝的研究では、ノルウェー人とイヌイットとの間の遺伝子流動の裏づけは得られませんでした。しかし、16世紀以降、ヨーロッパのさまざまな国からグリーンランドへ、何千人も訪れるか移動しており、ヨーロッパ人口集団からグリーンランド人口集団へかなりの遺伝子流動がありました。このグリーンランドとヨーロッパとの接触は、先植民地期と植民地期と植民地期後の3期間に区分されます(図1)。以下は本論文の図1です。
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 先植民地期の接触は当初、イギリスの探検者が16世紀に北西航路を探索した時など、探検や貿易に限定されていました。18世紀初頭以降、グリーンランド西海岸のヨーロッパ人の捕鯨で、捕鯨船員はグリーンランドのイヌイットと接触しました。当初、ヨーロッパの捕鯨を支配したのはオランダ人でしたが、18世紀後半には、捕鯨船員にはドイツ人もおり、おもにフリジア人やイギリス人やデンマーク・ノルウェー人でした。1721年の、デンマーク・ノルウェー人の宣教師ハンス・エゲデ(Hans Egede)の到来は植民地期の始まりを示し、グリーンランドのイヌイットとヨーロッパ人との間の新たなより多くの永続的接触をもたらしましたが、捕鯨は依然として主要な牽引力で、1721年にはオランダ船が107隻到来しました。

 デンマーク・ノルウェーの宣教師に加えて、ドイツのモラヴィア兄弟団(Moravian Brethren)は1733~1900年に、ヌーク(Nuuk)や他の場所に教会を設立しました。1751年、デンマーク・ノルウェーは植民活動を拡大し、貿易の独占を主張し、それ以来、グリーンランド人とヨーロッパ人との間の主要な接触はデンマーク王国とでした。デンマーク・ノルウェーは1814年まで複合国家(礫岩国家)で、グリーンランドはデンマークだけの植民地になった後、1953年にデンマーク王国の対等な一部となりました。植民地期後は、デンマーク人労働者だけではなく、おもにポルトガルやフェロー諸島からの季節的漁師の顕著な流入も見られました。

 1740年代以降、イヌイットとスカンジナビア半島人との間の結婚の体系的文書がありましたが、植民地期前の混合の程度はほとんど知られていません。しかし、オランダ人の大規模な捕鯨および貿易活動により、オランダ人捕鯨者との混合は比較的一般的だった、と考えられています。とくに、20世紀よりも前のグリーンランド人の遺伝子プールへのヨーロッパ人の寄与は、最近の混合と比較して大きな影響を与えた可能性があります。それは、グリーンランドの人口が1789年の6000人未満から現在では55000人まで急速に増加したからです。したがって本論文では、デンマークだけではなく、オランダやドイツやノルウェーも全て、グリーンランド人への無視できない祖先系統の寄与があった、と仮定されました。本論文では、グリーンランドの異なる15ヶ所からの3972人の高密度一塩基多型配列データの分析により、この仮説が調査されました。


●ヨーロッパ人との混合の推測

 グリーンランド人の遺伝的データを用いて混合の割合が推測され、関連する個体が特定されました。結果に基づいて、イヌイットとヨーロッパ両方の祖先系統を有する無関係の混合されたグリーンランド人1582個体のセットと、イヌイットの祖先系統のみを有する混合されていない181個体のセットが得られました。次にこれらの個体の遺伝的データが、デンマークやノルウェーやスウェーデンやイギリスやオランダなど、ヨーロッパ14ヶ国の8275個体の一塩基多型配列データと組み合わされました。品質管理と統合の後、135702ヶ所の一塩基多型、1582個体の混合されたグリーンランド人、8456個体の参照個体を伴う、結合データセットが残りました。次に、プログラムのChromoPainterがこのデータセットに適用され、参照個体群におけるハプロタイプの混合として混合されたグリーンランド人個体群のゲノムが再構築されました。この分析のおもな結果は、混合された各グリーンランド人(および各参照個体)についての、各参照個体と祖先的に最も近い関係にあるゲノムの割合の推定です。

 次に、ChromoPainterからの結果の要約にプログラムのSOURCEFINDを適用することにより、混合されていないイヌイットおよびヨーロッパ14ヶ国それぞれの個体からグリーンランドの混合された個体の祖先系統への遺伝的寄与が推定されました。SOURCEFINDはマルコフ連鎖モンテカルロ(Markov chain Monte Carlo、略してMCMC)法で、これは、対照個体群の集団への祖先系統寄与の事後分布から統計的標本を生成します。この場合、対象となる個体群は混合されたグリーンランド人で、潜在的な祖先系統の起源は参照国となります。次に、これらの統計標本は、各参照国の祖先的寄与についての情報をもたらすさまざまな方法で要約できます。この方法が混合された各グリーンランド人に個別に適用され、個体水準の解像度が得られましたが、祖先系統推定におけるノイズを減らすための試みにおいて、混合されたグリーンランド人全員が1集団にまとめられて分析されました。

 混合された各個体について個別に推測を実行する場合、まず、簡潔な概要を得るために、1個体あたりの各国からの祖先系統の割合の事後平均を用いて、SOURCEFINDの結果が要約されました(図2)。これに基づいて、混合されたグリーンランド人1582個体は平均してグリーンランドのイヌイットの祖先系統を65.6%、ヨーロッパ人の祖先系統34.4%有しており、後者の大半はデンマーク人である、と推定されました。

 SOURCEFINDの結果をより詳細に把握するため、高確率(事後確率>0.99)のいずれかの国からの少なくとも5%の祖先系統が割り当てられた個体も数えられました。その結果、混合されたグリーンランド人1582個体のうち1100個体(69.5%)は、少なくとも5%のデンマーク人祖先系統に割り当てられ、ヨーロッパ諸国で最も多い、と明らかになりました。5個体以上で5%以上の祖先系統の寄与が見られるヨーロッパの国は北部だけで、ノルウェーが98個体、スウェーデンが20個体、フィンランドが5個体です。他のいくつかの国では、1~4個体で祖先系統の寄与が5%以上となっており、それはイギリスとアイルランドとポーランドとドイツとオランダです。同じ全体的パターンが、より低い1%の閾値で観察されます。ヨーロッパ人の祖先系統が20%以上では4個体のみが、デンマークもしくはノルウェー以外の国からと推定されました。以下は本論文の図2です。
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 集団に基づく分析でも同様の結果が得られ、イヌイット祖先系統の推定割合は65.6%、ヨーロッパ人祖先系統の割合は34.4%でした。ただ、これらの結果は混合されたグリーンランド人個体群に関するもので、ヨーロッパ人祖先系統を約25%有すると推定される、グリーンランド人全体を反映しているわけではありません。混合されたグリーンランド人の間でのデンマーク人祖先系統の割合は31%で、1%以上寄与した他のヨーロッパ国はありません。これは、推定されるヨーロッパ人祖先系統全体の91%を占め、ヨーロッパ人祖先系統を1%以上寄与した唯一の他のヨーロッパの国が、2.1%のノルウェーであることを意味します。


●過去数世代におけるヨーロッパとの混合の調査

 グリーンランドにおけるヨーロッパ人の混合の歴史をさらに特徴づけるため、混合の年代が調べられました。具体的には、混合された各グリーンランド人のゲノムにおいて、アレル(対立遺伝子)が、両方ともイヌイットもしくはヨーロッパ、あるいはその両者に由来するのか、という3通りの割合が推定されました。これらの割合は混合の年代についての情報をもたらします。それは、さまざまな混合史を有する個体が、さまざまな予測される3通りの割合を有するからです(図3A)。

 混合されたグリーンランド人1582個体のうち、250個体は3通りの断片を有しており、これは少なくとも1人の完全にヨーロッパ人祖先系統の親を有することと一致します(図3Bの青色と黄色)。これらのうち27個体はほぼどのゲノム位置でも2ヶ所のヨーロッパ人アレルを有しており、2人のヨーロッパ人の親がいることを示唆します。合わせてこれら277人のヨーロッパ人祖先系統の親(250-27+2×27)は、混合された個体群の祖先の8%以上で、グリーンランドにおけるヨーロッパ人祖先系統の合計のほぼ25%です。図3Aで示されるように、残りの個体群の3通りの祖先系統の割合は、ヨーロッパ人との第2および第3世代の混合とほぼ一致します。しかし重要なのは、組換えと非任意交配の分散に起因して、これらの割合が古い混合の結果でもある可能性です。

 少なくとも1人のヨーロッパ人祖先系統の親を有する混合されたグリーンランド人の集団の間では、デンマークが頭抜けて最大の祖先系統供給源で、ヨーロッパ祖先系統の98.4%を占め、他の国は1%以上の寄与はしていません。対照的に、ヨーロッパ人の親がいないグリーンランド人の集団、つまり少なくとも1人のヨーロッパ人の親を有する集団よりも混合が古い時期に起きた集団は、ノルウェー(3.8%)やドイツ(2.1%)やスウェーデン(1.6%)からの祖先系統の寄与を有しており、デンマークは85.7%でした。以下は本論文の図3です。
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●議論

 遺伝的分析からは、グリーンランド現代人のヨーロッパ人祖先系統はおもにデンマーク人に由来し、ごく最近の遺伝子流動の結果である、と提案されます。これが示唆するのは、植民地以前のヨーロッパ人の活動は、グリーンランド人口集団の現在の遺伝的構成に顕著な影響を与えなかった、ということです。イギリス人による初期の探検活動に由来する遺伝的祖先系統の欠如は、おそらく驚くべきことではありません。なぜならば、イギリス人の活動にはわずか数隻の船しか関わっていなかったからです。同様に、1900年まで約170年間グリーンランドに滞在したドイツのモラヴィア宣教師に由来する比較的少ない祖先系統は、モラヴィア兄弟団がグリーンランド人口集団との結婚を制限したことにより説明できるかもしれません。

 しかし、捕鯨国、とくにオランダ人からの祖先系統の欠如は、グリーンランドの一般的な考えや、かなりの期間グリーンランド沿岸に多数のオランダ船が存在したことを示唆する歴史的記録を考えると、驚くべきことです。これは、いくつかの要因で説明できるかもしれません。第一に、初期のヨーロッパ人捕鯨者は、グリーンランドで冬を過ごさないことがよくありました。第二に、オランダやイギリスやそのヨーロッパ諸国の捕鯨者は、デンマーク・ノルウェーにより1751年に課された経済的独占によれ減少しました。第三に、ヨーロッパ人との最初の接触後に深刻な伝染病が続き、ディスコ島周辺のオランダ人との相互作用がこの地域の伝染病の最初期の事件のいくつかにつながった、と仮定されます。よく記録された事例は、ヨーロッパの船の到来に続く、ヌークにおける1730年代の深刻な天然痘でした。これらの伝染病がヨーロッパ人祖先系統の初期のパターンに影響を与え、初期の混合の影響を減少させた可能性があります。

 本論文の結果は、グリーンランド現代人におけるヨーロッパ人祖先系統のほとんどが、植民地化の開始後に由来することを示唆します。この結果は、ヨーロッパ人祖先系統を有さないグリーンランドの個体群のほとんどが、グリーンランドの北部および東部沿岸に居住している、という事実と一致します。植民地の活動は、北部(1909年)と東部(1894年)で南西部(1721年)よりも遅く始まりました。また、少なくとも1人のヨーロッパ人祖先系統の親がないグリーンランド人の間では、ノルウェー人やスウェーデン人やドイツ人のより高い割合が見つかり、植民地期の家族登記とよく一致します。とくに最後の世代にデンマーク人祖先系統が多く含まれていると推測されることは、1950年代以降の植民地期後におけるグリーンランドへのデンマーク人の流入がヨーロッパからの移民の割合で顕著に増加したことを示す、歴史的記録と一致します。

 まとめると、本論文の結果は、グリーンランドにおける最近の人口統計学的傾向およびヨーロッパ人との接触の歴史的記録と一致しているようです。グリーンランドについては、ヴァイキングとの関連で古代DNA研究も進んでおり、グリーンランドのヴァイキング集団は、スカンジナビア半島人(ほぼノルウェー起源)とブリテン諸島の個体群との間の混合で、アイスランドの最初の定住者と類似している、と推測されています(関連記事)。グリーンランドはDNAの保存には適した環境だと思われるので、今後の古代DNA研究の進展が期待されます。


参考文献:
Waples RK. et al.(2021): The genetic history of Greenlandic-European contact. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.02.041

大河ドラマ『青天を衝け』第11回「横濱焼き討ち計画」

 今回は、幕末の動乱の中で、栄一や長七郎のような農村知識層の青年の焦燥が描かれ、幕末のドラマらしくなっていると思います。最近取り上げた町田明広『攘夷の幕末史』に従うならば、この時点での栄一たちは、通商条約を直ちに破棄してそれによる列強との戦争も辞さない、とする「小攘夷」派に分類されるでしょう(関連記事)。栄一たちは横浜焼き討ちを計画し、江戸で武器を買い集めますが、おそらく栄一のような過激派が当時の青年で多数だったわけではなく、多くは日々の生活に懸命で、栄一の父のような考えだったのでしょう。栄一は生まれたばかりの長男を麻疹で亡くし、それも計画に前のめりになった一因でしょうか。新たに子が生まれた栄一は、それでも攘夷実行を諦めず、家族に意志を伝え、父は栄一の選択を認めます。ここは、息子をよく理解している父の決断が描かれ、ある種の理想の父子関係と言えるかもしれません。

 一方、徳川慶喜は攘夷を主張する島津久光に対して、攘夷の即時実行の不可を説きますが、こちらは「大攘夷」に分類されるでしょうか。この時の久光に対する突き放すような慶喜の対応は、後の両者の衝突・関係悪化の伏線でしょうか。京都では過激派が跋扈して治安が悪化し、慶喜も標的とされます。慶喜は三条実美たち過激派の公家の恐喝にも屈しませんが、この混迷した状況に苛立っています。そこへ平岡円四郎が一橋家に戻り、慶喜は喜び勇気づけられたようです。いよいよ栄一と慶喜との出会いも近づき、これまで別々に描かれていた栄一と慶喜の話が融合してどう展開していくのか、楽しみです。

放射性炭素年代と遺伝的データによるマンモスの絶滅過程

 放射性炭素年代と遺伝的データの組み合わせによりマンモスの絶滅過程を検証した研究(Dehasque et al., 2021)が公表されました。後期更新世は大型動物の急速かつ世界的な衰退により特徴づけられます。この絶滅事象の主因は依然として不明で、一般的に気候と人類の相対的な影響を中心に議論が展開されています。この絶滅事象に関して近年では、放射性炭素年代や古代DNAや安定同位体分析や顕微鏡検査など多くの方法が使用されてきました。そのうち一般的に使用されるのは、時間枠内における生物集団の存在と不在の再構築に使用できる放射性炭素年代と、個体群の移動や動態や種構成を経時的に研究できる古代DNAです。しかし、これらの方法は、低解像度データおよび/もしくはデータの欠如により、問題の一部しか解明できないことがよくあります。さまざまな手法の組み合わせで、種の絶滅に至る過程と動態をより詳細に理解できます。大型動物の絶滅事象の解明はより統合的な手法に向かって発展していますが、異なる種類のデータを組み合わせた研究は比較的少ないままです。

 絶滅大型動物でよく研究されている種の一つがマンモス(Mammuthus primigenius)で、多くの出土地点が確認されている標本と、放射性炭素年代値があります。暦年代で28600~22500年前頃(以下、基本的に暦年代です)となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に、マンモスはユーラシアから北アメリカ大陸まで分布していましたが、LGMから14700年前頃に始まる晩氷期の間に、マンモスは一連の連続的な局所的絶滅と部分的な再移動事象を経ました(関連記事)。12900~11700年前のヤンガードライアスにより、マンモスの生息範囲はシベリア最北端とヨーロッパ北部の退避地に限定され、早期完新世の9500年前頃までに、ケナガマンモスはユーラシア本土と北アメリカ大陸全域で絶滅しました。しかし、ケナガマンモスはベーリング海のセントポール島とチュクチ海のウランゲリ島(Wrangel Island)で孤立して完新世まで生き残りました。大陸部の既知の最新のマンモス標本はノヴォシビルスク諸島(当時は大陸の一部)とタイミル半島に由来し、マンモスはこれらの地域からウランゲリ島へと移動した、と提案されました。

 ウランゲリ島は、更新世末期の世界規模の急速な海面上昇に続いて、10500~10000年前頃に本土から切り離されました、ウランゲリ島の更新世マンモス遺骸の年代は、少なくとも4万年前頃から14000年前頃の間までとなり、隣接するシベリア東部本土で発見された最新のマンモス遺骸とほぼ同じ頃です。ウランゲリ島のマンモス遺骸の年代は1万年前頃に再び始まり、4000年前頃まで続きます。晩氷期と完新世最初期のマンモスの化石記録の間隙が地域的な消滅・再移動事象か、あるいは集団のボトルネック(瓶首効果)のどちらに起因するのか、議論が続いています。しかし、完全なケナガマンモスのミトコンドリアゲノムに関する以前の研究では、完新世のウランゲリ島マンモス集団は、単一のミトコンドリアハプロタイプにより始まった可能性が高い、と明らかになっています。

 シベリアのケナガマンモスの絶滅の原因と動態を理解するには、さまざまな地域のマンモスの存在と不在の年代に関する詳細な情報がひじょうに重要となります。しかし、現在の推定絶滅年代は最新の個々の標本の年代に基づいており、これは集団の存在もしくは不在の大まかな推定値にすぎません。最後の既知の標本は実際の絶滅上よりも常に先行するでしょうが、これらがどれだけ近い年代なのかは、標本抽出密度次第です。この問題に対処する一つの手法は、ベイズ年代モデルの使用です。これらのモデルは、標本抽出の偏りと年代測定誤差を考慮しながら、放射性炭素年代を主要な情報として用いて、生物集団の存在の開始と終了の境界を統計的に決定するために使用できます。

 本論文の目的は、放射性炭素年代と遺伝的データ(ミトコンドリアゲノム)の組み合わせにより、大陸本土とウランゲリ島両方のケナガマンモスの絶滅動態を調査することです。そのために、ベイズ年代モデルの証拠を用いて、さまざまな地域(図1)のケナガマンモスの消滅年代と、ウランゲリ島とさまざまな本土地域のマンモス間の遺伝的類似性の推論を可能とするベイズ系統樹が推定されました。以下は本論文の図1です。
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●系統発生分析

 以前の研究と一致して、北アメリカ大陸とユーラシアのミトコンドリアゲノムでクレードIのマンモス間には、全てが2万年以上前でユーラシアクレードとまとまる北アメリカ大陸の3標本一定の集団規模モデルを除いて、よく裏づけられた遺伝的区別がありました(図2)。完新世のウランゲリ島のマンモスは、ユーラシアクレード内で単一の系統を形成しました。完新世ウランゲリ島のマンモス集団内のミトコンドリアゲノムの関係は充分には解決されず、急速な多様化を示唆します。完新世ウランゲリ島マンモスのクレードと最も密接に関連する本土の個体群は、シベリア中央部(ノヴォシビルスク諸島)および西部(タイミル半島)と15000年前頃のヨーロッパの個体です。以下は本論文の図2です。
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●ベイズ年代モデル

 さまざまな地域(図3)を対象とした本論文のベイズ年代モデルでは、開始の境界はシベリア東部と中央部と西部の放射性炭素年代の限界を表し、終了の境界はその地域のケナガマンモスの最後の出現年代、つまり局所的な絶命の推定年代を表します。晩氷期から完新世初期の後のウランゲリ島に関しては、開始の境界はウランゲリ島におけるケナガマンモスの最初の出現を表す一方で、終了の境界はケナガマンモス種の世界的な絶滅を示します。以下は本論文の図3です。
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 このモデルでは、シベリア東部地域におけるマンモスの消滅(14200~12900年前頃)とウランゲリ島におけるその出現(10200~9800)年前頃との間のほぼ3000年の時間的間隙が明らかになりました。マンモスは大陸部本土では、シベリア中央部(11000~10200年前頃)と西部(11200~10400年前頃)で東部よりも長く存続しました。本論文の分析では、ウランゲリ島におけるケナガマンモスの最終的な絶滅年代は4200~3900年前頃と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●地域的な絶滅の年代

 以前の研究と一致して、本論文のベイズ年代モデルでは、ケナガマンモスの絶滅は単一事象として起きたわけではなく、さまざまな年代のさまざまな地域での絶滅により特徴づけられる、と示されます。マンモス絶滅の究極的原因に関しては、議論が続いています。しかし、LGM後のマンモスの生息範囲の縮小には、気候変化による植生変化が重要な役割を果たしたかもしれません。15000年前頃に始まる後期更新世末に、気候が変化し始めました。より湿潤で温暖な気候条件により、シベリアの乾燥して生産性の高い「マンモス草原地帯」は、湿潤なツンドラと温帯および亜寒帯森林へとじょじょに置換されていきました。これらの不利な条件により、マンモスは樹木のない北方への後退を余儀なくされた可能性があります。

 興味深いことに、本論文の結果では、14200~12900年前頃となるシベリア東部におけるケナガマンモスの絶滅は、14700~12900年前頃となるボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期の開始と一致しません。この遅れた絶滅は、シベリア北東部の樹木の範囲の遅く漸進的な拡大により説明できるかもしれませんが、チュクチ海では、絶滅は11500~8800年前頃の樹木範囲の主要な拡大に先行します。マンモス草原地帯はシベリア最北端ではさらに長く存続し、マンモスはその小さな退避地で生き残り、最終的に本土では早期完新世に絶滅しました。

 シベリア本土東部からのウランゲリ島の分離は10500~10000年前頃と推定されています。本論文のベイズ年代モデルで観察されたウランゲリ島におけるマンモスの出現年代(10200~9800年前頃)がウランゲリ島への完新世の移動を表しているならば、ウランゲリ島は10200年前頃以前には海面上昇により分離されることはあり得ません。以前の研究では、ウランゲリ島におけるケナガマンモスの絶滅は最新標本の年代(4024年前頃)後のいつかに起きた、と推定されていました。しかし、最新標本の年代後にどのくらいの期間で絶滅が起きたのか、不明です。

 本論文のベイズ年代モデルでは、マンモスが最新標本の年代から100年以内に絶滅したと提案され、既知の最新標本は最後のマンモスの1頭を表している、と示唆されます。ウランゲリ島におけるマンモスの絶滅原因は不明なままです。環境確率性、小さな集団規模に起因する遺伝的過程、人類の狩猟が、考えられる原因として提案されてきました。本論文のベイズ年代モデルに基づくと、人類による狩猟仮説は、ウランゲリ島における人類の最初で唯一の既知の先史時代の痕跡が、関連する木材の年代測定で3583年前頃となることから、可能性は低そうです。


●完新世ウランゲリ島集団の地理的パターンと起源

 本論文のベイズ年代モデルでは、マンモスは初期完新世にウランゲリ島で再出現する前に、ほぼ3000年前にシベリア本土東部地域で絶滅した、と示唆されます。しかし、このモデルは均一な分布構造を想定しているので、マンモスが連続した集団として存在したものの、観察された間隙において低密度で存在した可能性を完全には排除できません。一方、本論文のベイズ年代モデルでは、マンモスが12900~11700年前頃のヤンガードライアスおよび11700~10200年前頃の初期完新世にシベリア本土中央部および西部の最北端で生き残っていた、と示唆されます。

 完新世のウランゲリ島マンモス集団の起源をさらに調べるため、ユーラシアおよび北アメリカ大陸全域のクレードIのミトコンドリアゲノムが分析されました。本論文の系統発生分析では、完新世ウランゲリ島マンモス集団は、地理的により近いシベリア本土東部や北アメリカ大陸のマンモスではなく、シベリア本土西部および中央部のマンモスと最も密接に関連しています。これは、更新世と完新世のウランゲリ島マンモス集団間の遺伝的構成の違いを示唆しており、13000~10000年前頃のウランゲリ島を含むシベリア東部における年代の間隙は、シベリア東部におけるマンモスの不在が事実上の原因である、との仮説を裏づけます。

 さらに、本論文のベイズ年代モデルと一致して、完新世ウランゲリ島マンモス集団がシベリア本土西部集団と密接な遺伝的関係を有していることから、完新世ウランゲリ島マンモス集団の起源はシベリア本土中央部および/もしくは西部集団に由来するか、あるいはその集団と密接に関連しています。そのため本論文は、マンモスが現在ではラプテフ海と東シベリア海により水没している地域を移動することによりウランゲリ島に到達した、とのモデルを提案します。

 シベリアの海岸線は後期更新世にはさらに北方に伸びており、マンモスはセヴェルナヤ・ゼムリャ(Severnaya Zemlya)諸島に相当する、現在では水没している北シベリア平原に生息していた可能性が高そうです。マンモスはLGMには広範に分布していましたが(図5A)、晩氷期には北方へと後退しました。12900年前頃から、本論文の結果では、マンモスの分布範囲は北緯72度以北の地域に限定されており、現在ではノヴォシビルスク諸島となる中央部地域や現在のタイミル半島となる西部地域だけではなく、北シベリア平原も含まれます(図5B)。しかし、ウランゲリ島は北緯72度未満に位置し、この時期にマンモスがウランゲリ島に存在しなかったことと一致します。

 興味深いことに、マンモスは南方へと拡大し、初期完新世にはまだベーリンジア(ベーリング陸橋)本土の一部だったウランゲリ島へと再度移動しました。温暖な気候の期間におけるこの範囲拡大は、マンモスの気候変化への対応が複雑だったことを示します。しかし、完新世の温暖化事象の直後に海面が上昇し始め、マンモスは急速にウランゲリ島に閉じ込められました(図5C)。本論文のデータからは、ウランゲリ島のマンモスが、北シベリア平原を通ってシベリア本土の中央部と西部どちらから移動してきたのか、あるいは北東シベリア平原の報告されていない集団に由来するのか、判断できません。以下は本論文の図5です。
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●結論

 大陸規模では、気候温暖化による晩氷期から完新世にかけての森林拡大が、ユーラシア北部全域の開けた生息地の大幅な減少、したがってマンモスおよび他の「草原地帯・ツンドラ」動物の範囲の縮小につながったことは明らかです。しかし、細かい規模では、この過程は気候および植生の変化の複雑な時空間的パターン、退避地における哺乳類種の生存、局所的絶滅、一時的な範囲拡大で構成されていました。本論文は、遺伝的データと年代測定データと生物地理的データの組み合わせをモデル化することで、この過程、したがって最終的な絶滅のパターンと考えられる原因の詳細に焦点を当てられました。この過程における人類の追加の役割を無視できませんが、少なくともシベリア北東部では、考古学的データが限定されているので、この可能性を検証できません。

 原則として、ベイズ年代モデルと遺伝的データを組み合わせるという本論文の手法は、他の哺乳類種における集団置換および絶滅の特定に適用できます。これは現在、データの利用可能性により制限されており、マンモスでは他のあらゆる種よりも広範にわたるデータが利用可能です。ケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)も絶滅しましたが、それは完新世の前で、その分布範囲全域でマンモスよりも同時的でした(関連記事)。バイソンやウマやジャコウウシなど他の種の生息範囲はこの期間に北方へと広く後退しましたが、これらの種は世界規模では絶滅しませんでした。さらにデータがあれば、本論文で強調された手法は、これらのさまざまなパターンを理解し、現在の気候変化に対する絶滅危惧の北方種の反応をより正確に予測するための、潜在的な鍵を提供します。マンモスはその生息範囲から古代DNA研究に適しており、最近では100万年以上前の個体のDNAも解析されています(関連記事)。今後のマンモスの古代DNA研究にも大いに期待できそうです。


参考文献:
Dehasque M. et al.(2021): Combining Bayesian age models and genetics to investigate population dynamics and extinction of the last mammoths in northern Siberia. Quaternary Science Reviews, 259, 106913.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2021.106913

町田明広『攘夷の幕末史』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2010年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は複雑な幕末情勢を、主に「攘夷」の観点から解説します。本書は、幕末の「日本人(の武士など一定以上の知識層」にとって「攘夷」は常識だった、と指摘します。「国論」が分裂したのは、「攘夷」の具体的手段が大きく二つに分かれていたからでした。一方は、現時点での日本の武力が列強に劣ることを認め、通商条約を容認し、海外貿易で力を蓄えた後、日本の武威を海外に示そうとする「大攘夷」です。もう一方は、通商条約を直ちに破棄し、それによる列強との戦争も辞さない、とする「小攘夷」で、外国人や外国勢力と通ずると疑われた「日本人」を殺害することもありました。本書は、こうした観念が幕末に急に出現したのではないと指摘し、幕末以前の外交にさかのぼって攘夷の問題を検証します。

 幕末動乱の前提として、本書は江戸時代における華夷秩序観念の浸透と、海禁(いわゆる鎖国)政策による幕府の貿易独占(およびごく一部の藩の貿易への部分的関与)を挙げます。幕末史となると、どうしてもペリーの来航が一般的には注目されますが、本書は、その半世紀前頃から始まったロシアとの接触を重視し、ロシアとの接触を通じて松平定信政権期に「鎖国」概念が成立した、と指摘します。また本書は、いわゆる鎖国期の日本に関して、政治が安定し、教育水準が向上して、近代化の準備が整えられていった、と肯定的な側面も指摘します。

 ペリー来航に伴う日米和親条約は、同時代人には「鎖国」の維持と考えられ、「開国」が問題となったのは通商条約でした。18世紀末の時点ですでに武威の低下していた江戸幕府が、朝廷から大政を委任されている、と権威づけしていたことも、権力の二重構造というか権威と権力の並立の問題を顕在化させ、幕末の動乱を激化させました。上述のように 、当時の知識層にとって攘夷は常識で、それは当時の幕閣の中で一般的に「開国派」と認識されている要人も同様でした。「開国」最大の功労者である岩瀬忠震も、漢字文化圏的華夷思想に基づく攘夷主義者だった、と本書は指摘します。

 幕末の動乱を加速させたのは、朝廷と幕府の二重政体でした。とくに攘夷実行に関しては、両者からの指示(政令二途)で西国を中心として諸藩は悩まされました。この矛盾の中で起きた事件として、本書は朝陽丸をめぐる長州藩と小倉藩の衝突に注目します。これは八月十八日政変の前後に起きた事件で、長州藩と小倉藩の衝突への対応として、幕府が長州藩に糾問の使者を派遣したものの、その使者は長州藩の奇兵隊過激派に殺されました。朝陽丸事件は幕府と長州藩の戦争に至った可能性もあった、と本書は指摘します。また本書は、朝陽丸事件が八月十八日政変の一因になったことと、長州藩が攘夷実行に関して一枚岩ではなかったことも指摘します。

マウンテンゴリラの情報伝達

 マウンテンゴリラ(Gorilla beringei beringei)の情報伝達に関する研究(Wright et al., 2021)が報道されました。ゴリラ類が胸たたき(手で胸を素早くたたいて太鼓のような音を出す行動)をして情報を伝えていることはすでに提唱されていますが、伝えようとする情報の正確な内容は分かっていない。この研究は、ルワンダのボルケーノ国立公園でダイアン・フォッシー・ゴリラ基金により監視されている野生のシルバーバックゴリラの雄の成体25頭を2014年1月から2016年7月まで観察し、記録しました。身体サイズは、写真に写ったゴリラの左右の肩甲骨の間隔を測定して決定されました。またこの研究は録音を用いて、6頭の雄による36回の胸たたきの持続時間・回数・可聴周波数を測定しました。

 この研究は、大柄な雄が胸をたたく音の可聴周波数が、小柄な雄が胸をたたく音の可聴周波数より有意に低い、と明らかにしました。この研究は、大柄な雄は喉頭近くの気嚢が大きく、これにより胸たたきの際に生じる音の周波数が低くなる可能性を想定しています。また、胸たたきの持続時間と回数に個体差があることも観察されました。これらの点は、身体サイズとは関係がありませんでしたが、胸たたきをする個体の特定を可能にする、と考えられました。

 マウンテンゴリラが生息している鬱蒼とした熱帯林では、自分以外の個体を視認することが困難です。この研究は、胸をたたく音により熱帯林での意思疎通が可能になると考えており、マウンテンゴリラが胸たたきにより伝えられる情報を使って、配偶者の選択に役立つ情報を提供し、競争相手の戦闘能力を見積もっているのかもしれない、と推測している。このような情報伝達は、ゴリラと近縁な人類の進化の観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:マウンテンゴリラは胸をたたいて自分に関する情報を伝えているのかもしれない

 マウンテンゴリラ(Gorilla beringei beringei)の胸たたき(手で胸を素早くたたいて太鼓のような音を出す行動)は、自身の体サイズに関する情報を伝える行動であり、個体の特定を可能にする可能性があるという見解を示した論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、マウンテンゴリラのコミュニケーションに非発声行動がどのように寄与するのかを示している。

 ゴリラ類が胸たたきをして情報を伝えていることはすでに提唱されているが、伝えようとする情報の正確な内容は分かっていない。今回、Edward Wrightたちの研究チームは、ルワンダのボルケーノ国立公園でダイアン・フォッシー・ゴリラ基金によって監視されている野生のシルバーバックゴリラの雄の成体25頭を2014年1月から2016年7月まで観察し、記録を取った。体サイズは、写真に写ったゴリラの左右の肩甲骨の間隔を測定して決定された。また、Wrightたちは、録音を用いて、6頭の雄による36回の胸たたきの持続時間、回数、可聴周波数を測定した。

 Wrightたちは、大柄な雄が胸をたたく音の可聴周波数が、小柄な雄が胸をたたく音の可聴周波数より有意に低いことを明らかにした。Wrightたちは、大柄な雄は喉頭近くの気嚢が大きく、これによって胸たたきの際に生じる音の周波数が低くなる可能性があると考えている。また、胸たたきの持続時間と回数に個体差があることも観察された。これらの点は、体サイズとは関係がなかったが、胸たたきをする個体の特定を可能にすると考えられた。

 マウンテンゴリラが生息しているうっそうとした熱帯林では、自分以外の個体を視認することが難しい。Wrightたちは、胸をたたく音によって熱帯林での意思疎通が可能になると考えており、マウンテンゴリラが胸たたきによって伝えられる情報を使って、配偶者の選択に役立つ情報を提供し、競争相手の戦闘能力を見積もっているのかもしれないと推測している。



参考文献:
Wright E. et al.(2021): Chest beats as an honest signal of body size in male mountain gorillas (Gorilla beringei beringei). Scientific Reports, 11, 6879.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-86261-8

人間は減法的変化を体系的に見落とす

 人間は減法的変化を体系的に見落とすと報告した研究(Adams et al., 2021)が公表されました。技術開発や主張の強化、より具体的には、設計者が技術を向上させようとする、著述家が論拠を強化しようとする、あるいは管理者が望ましい行動を奨励しようとするなど、いずれの場合にしても、物体や考えや状況を改善するには、起こり得る変化を頭の中で探索しなければなりません。

 この研究では、人間は物体や考えや状況に新しい構成要素を足す変化を考慮するのと同様に、それらから構成要素を引く変化を考慮するのかどうか、調べられました。人間は通常、全ての可能な考えをくまなく調べる認知的負担にうまく対処するために、限られた数の有望な考えを検討しますが、その結果、より優れたものになり得る代替案を考慮せずに、まずまずの解決策を受け入れることになりかねません。この研究では、人間は加法による変化の探索を体系的に標準としており、その結果、減法による変化を見落とす、と示されます。

 1153人が参加した8つの実験(たとえば、幾何学パズルを解くこと、レゴで作られた構造物の安定性を高めること、ミニチュアゴルフコースを改良すること)を通じて、参加者は、減法を考慮に入れるという手掛かりが課題に含まれていない場合(手がかりがあった場合と比べて)、加法による探索戦略の欠点を認識する機会が1度のみの場合(複数回ある場合と比べて)、認知的負担が大きい場合(小さい場合と比べて)に、有利な減法的変化に気付かない傾向がありました。

 加法による変化の探索が標準であることは、人間が過密スケジュールや画一的な官僚的形式主義や地球に対する破壊的影響の緩和に苦戦している理由の一つかもしれません。こうした傾向は合理化による心理負担の軽減でもあり、長い人類進化の過程で定着した認知メカニズムである可能性が高そうです。一部で評判が悪いように思える進化心理学ですが、現実の諸問題の解決に寄与できるところは少なくないように思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


心理学:人間は、引くことによる改善を好まない

 人間が物や考え、状況の改善を求められた時、その要素の一部を引くのではなく、新しい要素を足す傾向があることを報告する論文が、Nature に掲載される。その結果として、新たな要素を加えて問題を解決する方法が採用され、特定の要素を除去する方法は、たとえ優れた代替案であっても検討されない可能性がある。

 物や考えの改善(例えば、技術開発や主張の強化)は、斬新な点を加えること、あるいは、既存の要素を減らして物や考えを合理化することで達成される。しかし、人間は、可能性のある全ての選択肢を探索することによる疲労に対処するために、検討する考えの数を絞り込む傾向があり、最適解が得られないことが多い。

 今回、Gabrielle Adams、Benjamin Converseたちの研究チームは、1153人が参加した実験で、さまざまな課題(例えば、幾何学パズルを解くこと、レゴで作られた構造物の安定性を高めること、ミニチュアゴルフコースを改良すること)に対する参加者の反応を調べた。その結果、参加者には、新しい要素を足す解決策を好む傾向が見られ、既存の要素を減らす解決策は、たとえ単純でより良いものであっても、日常的に見過ごされることが分かった。

 また、フォローアップ実験では、減らす変化の方が人々に認知されにくく、そのために足す変化が標準的な戦略になっていることが示唆された。Adamsたちは、このことが、人々が過密スケジュール、画一的な官僚的形式主義、地球に悪影響を及ぼす事象などの問題の緩和に苦労している理由の1つになっていると結論付けている。


心理学:人間は減法的変化を体系的に見落とす

Cover Story:減らした方がいいのに:引き算による変化を考えるのに苦労する理由

 物体や考えや状況の改善を試みるときは、どのような場合であれ、起こり得る変化について考えを巡らせることになる。今回G AdamsとB Converseたちは、何かを取り除く方がより簡単で有利な場合でも、人間は余計な要素を追加することで、こうした課題を解決する傾向があることを明らかにしている。彼らは、幾何学パズルを解いたり、レゴで作ったものを安定させたり、ミニチュアゴルフコースを改良したりといったさまざまな課題に、人間がどのように取り組むのか調べた。その結果、一般的に人間は、加法による解決策を模索するのがデフォルトで、減法による解決策を考えるのは、より労力を投資することが可能で、そうしようとする意思がある場合のみであることが見いだされた。著者たちは、減法による解決策は認知的に利用しづらく、また、人間は加法による解決策を探し続けているという事実が、我々が過密スケジュール、過度な官僚主義、地球への過度の負担などの課題を減らすのに苦戦している理由の説明に役立つ可能性があると示唆している。



参考文献:
Adams GS. et al.(2021): People systematically overlook subtractive changes. Nature, 592, 7853, 258–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03380-y

麻柄一志「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P68-81)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 許家窰遺跡群は1973年に発見された山西省許家窰村の73113地点と、1974年に発見された河北省侯家窰村の74093地点から構成されます。侯家窰/許家窰遺跡の日本語でのこれまでの表記には、侯家窯/許家窯の場合があり、当ブログでは許家窯遺跡としてきました。現代中国語では侯家窑/许家窑ですが、「窑」は窰と窯の簡体字です。簡体字の普及以前の侯家窑村、许家窑村の表記が文献では「侯家窰村」、「許家窰村」となっているので、以下では侯家窰/許家窰遺跡とします。

 数次にわたる発掘調査が実施され、豊富な遺物が出土し、許家窰遺跡として知られているのは河北省侯家窰村の74093地点です。74093地点を河北省は侯家窰遺跡と呼びます。74093地点の遺跡名称は20世紀まで「許家窰遺跡」が主流でしたが、遺跡の所在地が河北省侯家窰村で、2007年から2012年にかけての河北省文物研究所の調査で、遺跡の所在地に基づいて「侯家窰遺跡」と呼ばれたので、侯家窰遺跡の名称が普及しました。古脊椎動物与古人類研究所は1974年の調査以来、「許家窰遺跡」の名称を使い続けており、古脊椎動物与古人類研究所所管の資料(人類化石など)を使用した近年の外部研究者の研究でも、「許家窰遺跡(Houjiayao)」の名称が使われています。

 これに対して、河北省文物研究所のトレンチでのサンプリング資料を用いた研究では「侯家窰遺跡(Xujiayao)」の名称が多く使われています。遺跡名称の混乱については以前かから指摘されていますが、解決していません。なお、古い文献には74093地点の所在地を山西省陽高県許家窰村としたものもありますが、明らかな間違いです。ちなみに現地には、中華人民共和国文物保護法に基づき、国務院が全国重点文物保護単位に指定した「侯家窰遺址」の石碑があります。

 中国科学院古脊椎動物与古人類研究所の1973年と1974年の一帯の踏査では、1974年に74093地点が発見され、試掘調査の結果、地表から8mの深さの灰褐色粘土層、黄緑色粘土層から589点の石器と大量の動物化石が発掘されました。1976年の大規模調査では、人類化石9点、石器約13650点と骨角器、20種類の脊椎動物化石が出土しています。石器、人類化石、動物化石は地表から8~12mの深さで出土すると記載されていますが、土層図では8mと12mのレベルで二つの文化層が明記されています。

 1977年の大規模な調査では、人類化石8点、8657点の大量の石器と骨角器、動物化石が出土しています。1979年の第4次調査では、3点の人類化石と石器など1419点と、動物化石が出土しました。このように古脊椎動物古人類研究所による短期間の集中的発掘調査で、25000点近い石器と20点の人類化石が出土しました。考古資料の検討から、年代は中期更新世後期から後期更新世前期と推定されました。また年代測定ではウラン系列法の測定値が採用され、10万年前の前後とされ、アジア東部を代表する中部旧石器時代の石器群と人骨との評価が定着しました。

 その後、河北省文物研究所は2007年と2008年に第5次調査を実施し、2012年まで継続調査を行ないました。この一連の調査は発掘面積が極めて狭く、人類化石は得られていませんが、後述のように、さまざまな関連諸科学の資料採取が行なわれ、年代や地形や環境などの分析結果が報告されました。著者は2010~2012年に侯家窰遺跡の再整理を行ない、河北省文物研究所調査のトレンチで標本が採取され、石器群の検討もこの時の出土資料でした。

 2019年12月14・15日の「パレオアジア文化史学 第8回研究大会」において、王法崗氏と張文瑞氏は「泥川湾盆地における20万年におよぶ古人類の痕跡」と題して発表し、泥川湾盆地に焦点を当て、現生人類(Homo sapiens)の展開として侯家窰遺跡から於家溝までの変遷を示し、侯家窰遺跡を最も古い20万~16万年前頃と位置づけました。侯家窰遺跡の年代はそれまで10万年前頃前後とされてきましたが、近年の新たな年代測定により若干変更されています。2020年に王法崗氏たちは、2007年から2012年までの河北省文物研究所の調査に基づいて、侯家窰遺跡のこれまでのさまざまな理化学的年代を整理し、遺跡の年代問題を総括しています。

 近年、侯家窰遺跡についての様々な研究が公表されているが、ロビン・デネル(Robin Dennell)氏は侯家窰遺跡の位置づけについて、「難しい」と評しています。年代が確実でないこと(20万~16万年前頃、33万年前頃、16万年前頃よりずっと新しい、といった説が提示されています)、人類化石がホモ・エレクトス(Homo erectus)でもホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑した人類である可能性があることなどのためです。とくに、河南省許昌市霊井(Lingjing)遺跡の2点の頭蓋骨(関連記事)について、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人の特徴を合わせもっていることが例として挙げられており、現在の中国に現生人類到達以前に異なる集団と交雑した人類集団が存在した、と想定されています。


●年代

 侯家窰遺跡の1974年の試掘調査の報告では、動物化石群から気温が現在より低いと考えられ、石器群の様相に基づいて発展ムステリアン(Advance Mousterian)からオーリナシアン(Aurignacian)初期と位置づけられて、遺跡の年代は6万~3万年前頃と推定されました。1976年の調査報告では、総合的に判断して10万年以上前とされています。また動物化石の分析では、丁村の化石群より新しく、薩拉烏蘇の化石群より古いと判断され、6万年前頃と推定されています。

 調査の初期段階から放射性炭素年代測定も行なわれました。1976年の調査地点では地表から8mの上文化層で16450±2000年前、下層の9.9~12.3mの4点でいずれも4万年以上前との結果が報告されています。2007・2008年の調査地点では、動物化石3点と堆積物の測定が日本の加速器分析研究所で行なわれました。これらは下文化層のピート層から採取されましたが、No.7の動物骨42800±290年前はNo.8(54060年以上前)とNo.9(54040年以上前)の骨や歯と比較して、炭素含有率とコラーゲン回収率が低いので信頼性が劣るとされ、No.10・11の堆積物も炭素含有率はかなり低く(0.3と0.4%)、「何らかの形で年代の異なる有機物が加わった可能性がないか注意する必要がある」と指摘されています。信頼性が高いのはNo.8とNo.9のようです。

 発掘資料と遺跡での採集資料(動物化石)のウラン系列法による年代測定も行なわれました。上層のウマとサイの歯は8.8±0.5万年前と9.1±0.9万年前、下層上部のウマの歯2点は9.9±0.6万年前と10.2±0.6万年前、下層(黒色)のウマの歯は11.4±1.7万年前と9.4±0.7万年前と報告されています。その後、華北地区の主要旧石器遺跡のウラン系列年代が報告され、侯家窰遺跡の上層資料(サイの歯)が追加されており、その年代は10.4~12.5万年前です。

 これに対して、侯家窰遺跡とその周辺での古地磁気年代測定と火山灰年代測定などから、侯家窰遺跡の文化層は50万年前頃もしくは中期更新世の前期から中期と推定されました。しかし、周辺の地形調査から遺物包含層は泥河湾層(I面)を刻む開析谷中に堆積したII面構成層で、II面は開析の進んでいない若い扇状地性の段丘面であるとされ、最下部に泥炭層が堆積している、と確認されました。つまり、遺物包含層は泥河湾層ではなく、泥河湾層の上に不整合に堆積している河川堆積物なので、堆積速度等から年代を計算できる環境ではない、と言えます。

 また、近年では泥河湾層の最上部の年代が明らかになっています。侯家窰遺跡でも観察できるように泥河湾層は河川によって開析され、その上に扇状地性の堆積物が認められます。つまり、泥河湾層の最上部は失われている場合が多く、地点によって最上部の年代に差異があります。泥河湾湖の収縮は27万年前頃から始まり、最後に残った盆地中央部も3万年前頃には湖が消滅しており、湖沼堆積物である泥河湾層の最上部は27万年前頃以前にはさかのぼらないことになります。つまり、泥河湾層の上位の河成堆積物も27万年前頃以前にはさかのぼりません。

 泥河湾摩天嶺遺跡では、泥河湾層の最上部の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代は335000万年前で、その上に不整合面があり、黄土層の堆積が見られます。このように頂部が浸食されていても、30万年代の値が得られており、侯家窰遺跡の遺物の包含層は泥河湾層の上に堆積した層なので、27万年前頃をさかのぼることはなさそうです。2009年には赤外光励起ルミネッセンス(IRSL)測定により、侯家窰遺跡の文化層上部で60000±8000年前、文化層中間で69000±8000年前との結果が得られています。ただ、この報告では結果のみが記載され、遺跡のどの場所のどの層位で資料採取が行なわれたのか、不明です。古脊椎動物与古人類研究所調査地点では詳細は不明ですが、北京大学によるOSLの測定も行なわれており、文化層中部の年代が13万年前を超える、と報告されています。

 その後、河北省文物研究所調査トレンチの壁面のOSL測定値が公表されています。番号Ll453-457のサンプル採取レベルは9~12層に対応するので、上文化層の年代となります。しかし、12層は上面から少量の遺物が出土しているので、Ll453~Ll456までが上文化層に対応し、その年代は161000±13000~188000±23000年前のOSL年代の範囲に収まることになります。その後、同じトレンチの下文化層相当層のOSLが実施され、深度12.83mで198000±15000年前、深度13.85mで212000±16000年前、14.25mで188000±10000年前と測定されていますが、この分析での最下層が上位2点より新しく、他の研究で示された深度9.75mの測定値とも一部逆転しています。測定機関は最上部が蘭州大学、上文化層の上位の砂質粘土層が国土資源部、上文化層が北京大学、下文化層が南京大学と分かれていますが、年代値はほぼ整合しています。このOSL測定値は、河北省文物研究所のトレンチで地表から約7.5~10m(第9層~12層)の上文化層は19万~16万年前頃、地表12.6mの黒色粉砂質粘土層(第14層)である下文化層が20万年前頃です。脊椎動物与古人類研究所調査地点の上文化層中部の13万年を超えるという測定結果も、矛盾しません。

 近年、中国では下部旧石器時代の遺跡に対して、宇宙線照射年代測定法と呼ばれる26Al/10Beの測定が行なわれるようになり、侯家窰遺跡でも実施されています。2007・2008年調査トレンチの14層(地表から12.1~12.3m)から採収された2点の石英資料は26万±6万年前と17万±12万年前で、加重平均は24万±5万年前と報告されています。資料が採収された14層は下文化層に相当します。

 河北省文物研究所調査トレンチでは電子スピン共鳴法(ESR)の測定行なわれています。地層区分は調査者それぞれの認識が異なっているため、各調査分析との対比はできませんが、地表からの深度が明記されており、深度を参考に対比すると、報告者は深さ8~12mまでを遺物層とし、8~9.6mを上部、9.6~12mを下部とし、上から順に連続させて標本抽出しています。上部は上から順に267000±29000年前、232000±34000年前、282000±27000年前、下部は上から順に374000±32000年前、373000±22000年前、376000±25000年前と測定されており、上部は28万~23万年前頃、下部は37万年前頃となります。上部はOSLの上文化層の標本抽出位置に近いものの、数値は10万年ほど古くなっています。下部では最下部の標本抽出位置がOSLの12.83m(198000±15000年前)、26Al/10Beの14層(12.1~12.3m)に近く、下文化層相当と推定できますが、OSLは198000±15000年前、26Al/10Beが24万±5万年前と報告されており、ESRの年代が十数万年古くなっています。

 このように、2007・2008年の河北省文物研究所調査トレンチでは、その後、標本抽出のための深堀も行なわれ、放射性炭素、OSL、26Al/10Be、ESRの年代測定が行なわれていますが、多くは、脊椎動物与古人類研究所調査地点での初期の分析測定を大きく上回る数値が提示されています。中国では2010年代初めまで、侯家窰遺跡をめぐるさまざまな研究は、その年代を12万~10万年前頃または7万~6万年前頃という前提で議論を進めています。しかし、近年では侯家窰遺跡を22万~16万年前頃とする論考が見られるようになりました。


●人類化石

 侯家窰遺跡ではこれまでに20点の人類化石が出土しており、調査当初から後期更新世の遺跡と考えられたため、中国では数少ない後期更新世の人骨と中部旧石器が出土する遺跡として注目されていました。侯家窰遺跡からの人類化石の出土は、現時点で1970年代の脊椎動物与古人類研究所調査地点に限られており、近年も続けられている化石人骨の研究は、40年以上前に出土した資料に基づいています。賈蘭坡氏たちは、1976年の侯家窰遺跡の発掘調査で出土した人類化石の特徴をホモ・エレクトス(いわゆる北京原人)とネアンデルタール人のいくつかの特徴が混在していると指摘し、エレクトスからネアンデルタール人への過渡的類型と把握しました。1977年出土の頭頂骨や後頭骨や歯などの人類化石を分析した呉茂霖氏は、侯(許)家窰人をネアンデルタール人に分類しました。さらに呉氏は1979年出土の側頭骨を分析し、その特徴が初期現生人類と類似すると指摘し、あるいはエレクトスと現生人類の間に位置づけています。

 2010年代になり、侯家窰人の研究は再び活発となり、侯(許)家窰人は、エレクトス本来の特徴を保持するだけではなく、現生人類の派生的特徴も示し、ネアンデルタール人によく見られる性質もある、との見解が提示されています。具体的には、侯(許)家窰15(左側頭骨)の化石の三半規管の分析では、後期更新世のネアンデルタール人に一致し、現代人や前期および中期更新世の人類とは異なる、と指摘されています。1977年の調査で出土した下顎枝、つまり侯(許)家窰14の分析では、比較できる資料がユーラシア東部で存在しないものの、おもにユーラシア西部のネアンデルタール人の間で知られている特徴も示している、と指摘されています。また、年代は以前の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5~4という前提ですが、侯家窰人の歯の分析では、祖先的特徴は前期・中期更新世ホモ属やネアンデルタール人にも共通する古い要素が見られ、分類学的に不明確な集団の存在が示唆されています(関連記事)。

 最近の研究では、侯家窰遺跡の年代の再検討により、中期更新世に種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がユーラシア東部に拡散した時期と一致し、侯家窰人のデニソワ人に似た臼歯などから、侯家窰人が初期デニソワ人を表している可能性がある、と推測されています。また別の研究も、侯家窰人化石の大きな歯、歯の病状や頭蓋骨、下顎骨、歯列の形態的特徴の独特の寄せ集めから、デニソワ人と関連する交雑した人類を示唆しています。また、侯家窰人の臼歯がデニソワ人のものに似ている、とも指摘されています(関連記事)。その後、チベット高原において、ホモ属の下顎骨がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と確認され(関連記事)、また洞窟の堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が検出されたこと(関連記事)から、侯家窰人とデニソワ人との関係をより積極的に示唆する見解が出されています。このように人類化石の研究からは、ネアンデルタール人に類似する要素や、デニソワ人との関係を想定するものなど複雑な様相を示しますが、すでに多くの指摘があるように、交雑した人類である可能性を考えなければならないようです。


●石器群

 近年、侯家窰遺跡の人類化石や地層や地形や古環境等の研究は活発ですが、3万点に近いとも言われている出土石器の分析は低調です。以前の発掘調査での出土石器の概要は報告されていますが、これらは上文化層の出土で、下文化層の様相は不明です。石器の量が膨大なので、つまみ食い的な報告や紹介では全容を把握できません。とくに、器種の分類は個人差があり、器種名自体が報告者独自の命名の場合もあり、文章中の石器組成等では理解が困難です。じっさい、中国の小型剥片石器は、器種分類に迷うような、日本列島の後期旧石器の基準では非典型的なものが多く、また石英製の石器などは二次加工の有無も見分けにくく、全面的に報告書などの記述に頼れません。

 著者たちは、2010~2012年に河北省文物研究所による侯家窰遺跡2007・2008年調査資料を再整理しましたが、この資料も出土層位から上文化層のものです。そのさい、器種分類は竹花和晴氏の指導でフランス石器型式学に基づいています。河北省文物研究所には2007・2008年調査の石器が613点保管されており、その中の141点に2次加工等が認められ、石器(tool)とされました。石材は石英が68%を占め、石英岩(7%)、玉髄(5%)が続き、これらの石材で小型石器の大半が製作されています。

 器種の内訳は大分類で、削器20点(14%)、ノッチ(抉入石器)18点(12%)、ベック(嘴状石器)51点(36%)、鋸歯縁石器10点(7%)、石球または多面体石器21点(15%)となり、主要なこの5器種で84%を占めます。その他に特徴的な石器として、カンソン型尖頭器(Quinson type point)、リマス形尖頭器(Limace point)、タヤック型尖頭器(Tayac type point)がそれぞれ1点ずつ存在しています。さらに上部旧石器時代に特徴的な器種や磨製骨角器も存在しておらず、こうした石器組成は、ヨーロッパにおける中部旧石器時代の一部の石器群(鋸歯縁石器群)に類似している、と指摘されました。

 具体的にはムステリアン(Mousterian)の鋸歯縁石器様相に相当する、と指摘されました。同時に再整理が行なわれた西白馬営遺跡も、石材こそ玉髄などの珪質の石材が多いものの、同様の石器組成を示し、やや時代幅はありますが、ユーラシア大陸の東西で中部旧石器時代に類似する石器群が存在する、と確認できました。しかし、その意義については深く言及されていません。中間地帯の中国西部やアジア中央部の情報がよく把握されておらず、ユーラシア大陸の両端でも類似現象の説明ができなかったからです。

 石器型式に注目すると、鋸歯縁石器類の他に、カンソン型尖頭器やリマス形尖頭器やタヤック型尖頭器など、従来ヨーロッパに分布すると考えられていた特徴的な石器の再検討が必要です。とくにカンソン型尖頭器については近年、その分布が追求され、アジア東部の一部にも存在する、と指摘されています。この型式は中国では旧石器時代研究の最も古典的な遺跡である薩拉烏蘇遺跡や周口店LOC.15にも存在しており、山西省塔水河遺跡、河南省霊井遺跡などでも確認され、過去の調査例も精査すれば、さらに増加すると考えられます。この型式の石器はフランスを中心とするヨーロッパの中部旧石器時代に散見されますが、中国の年代が明らかな遺跡ではMIS6~3に存在します。侯家窰遺跡は、かつてMIS5~4と考えられていましたが、近年の研究から、その年代はさかのぼると予想されます。しかし、カンソン型尖頭器やタヤック型尖頭器やリマス形尖頭器の存在は、ヨーロッパの中部旧石器時代の年代枠から外れることはない、と考えられます。

 侯家窰遺跡の鋸歯縁石器群は、小型のベック(嘴状石器)の多量存在にその特徴があります。さらに小型のノッチや鋸歯縁石器が一定量含まれ、安定的に石球/多面体石器を組成し、対照的に狩猟具的石器の欠乏が目につきます。同様の石器組成は西白馬営遺跡や河南省霊井遺跡や遼寧省小孤山遺跡でも認められ、アジア東部で200万年近くにわたって存在する小型剥片石器群の中で一類型をなします。いずれも中部旧石器時代の遺跡で、華北の中部旧石器時代の地域的・時期的な特徴と把握できます。


●まとめ

 年代についての混乱は王氏たちの研究で整理されており、従来の約12~10万年前頃から、現在では20万~16万年前頃と推定されていま。こうした新しい年代観では、従来の人類化石の分析で古い様相が後期更新世まで残っている、といった無理な解釈は必要ではなくなりました。また、初期の調査で上下2層の文化層が認められていますが、出土した人類化石や石器の層位が問題にされることは少なく、この点を2007・2008年の発掘調査トレンチで明確にできた点は重要です。これまでの報告の記述によれば、1970年代の調査で人類化石と多数の石器が出土した層は上文化層と考えてよく、これらの化石や石器の年代も上文化層の年代と考えられます。2007・2008年の発掘調査は上文化層が対象となっており、これまで出土した侯家窰遺跡の出土物は大半が上文化層です。下文化層の年代は分析が蓄積されていますが、現時点では、人類化石や動物化石や石器の議論の対象外です。

 人類化石の研究で俎上に上がる侯家窰(許家窰)人と霊井人との関係は興味深く、化石だけでなく、両遺跡の石器群の様相は近似しています。これらの石器群は侯家窰型鋸歯縁石器群として華北の中期旧石器時代を特徴付けるものと位置づけられましたが、以前から指摘されているように、この石器群は突然出現したものではなく、華北の小型剥片石器群の伝統の中で、鋸歯縁石器群、とくにベックが突出し、ノッチと石球に特徴付けられる石器群がMIS6~3に華北平原から渤海湾周辺に現れた、と考えられます。とくに注目されるのは、この石器群のヨーロッパにおける鋸歯縁ムステリアン(Denticulate Mousterian)との類似性です。侯家窰遺跡や霊井遺跡に見られる石器群の前段階からの継続性と、ユーラシア大陸の東西で共通する要素は、両遺跡出土の人類化石に対する評価と共通する点があります。人類化石については近年詳細な研究が蓄積され、さまざまな要素が複雑な構造を呈している、と明らかになりつつあります。中国大陸の石器群の研究も汎ユーラシア的視点で取り組めば、現生人類出現前夜の様相の解明につながるでしょう。


参考文献:
麻柄一志(2021)「侯家窰(許家窰)遺跡をめぐる諸問題-中国の中期旧石器文化はどこから来たか?」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P68-81

『卑弥呼』第61話「日下」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年5月5日号掲載分の感想です。前回は、テヅチ将軍の率いる部隊が、油津(アブラツ、現在の宮崎県日南市油津港でしょうか)の邑で疫病の流行に気づくところで終了しました。今回は、トメ将軍とミマアキが、難波碕(ナニワノミサキ)に到達した場面から始まります。サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の兄であるミケイリ王は筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に戻り、最初の日下(ヒノモト)は難波碕かに見える山の北側の湖岸、比羅哿駄(ヒラカタ、現在の枚方市でしょうか)にあった、と伝えたそうです。その後、サヌ王はその山の背後の外敵が攻めにくい場所に遷都したそうです。

 金砂(カナスナ)の国と宍門(アナト)の国の境目に到達した事代主の一行は、阿武(アブ)の邑に向かったシラヒコから、宍門が国境の門を閉ざし、阿武の邑に誰も入ってはならないと通達してきた、と報告します。宍門のニキツミ王からは宍門の通過を許してもらったはずだ、と事代主は不審に思います。するとシラヒコは、邑長が塀越しに、事代主一行のためと伝えてきた、と言います。宍門国も疫病神(エヤミノカミ)に祟られていたのでした。ニキツミ王は、阿武の前の砂浜に舟を用意したので、海岸沿いに目的地まで行くよう、シラヒコに伝えてきました。宍門の民が次々に死んでいる、とシラヒコから報告を受けた事代主は、自分たちにも鬼(疫病)が迫っているので、急いで海に出るよう進言するシラヒコに対して、その前に阿武の邑長と話したい、と言います。

 那(ナ)の国の「首都」である那城(ナシロ)では、ヤノハがウツヒオ王から、厲鬼(レイキ)が豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)を襲い、大勢が死んでいる、と報告を受けていました。ニキツミ王の使者は上陸せず舟から、今回の厲鬼はまず悪寒がして、やがて燃えるほど熱くなり、口の中に発疹ができ、やがて全身に膿疱が生じて1ヶ月以内に多くの者が死に、筑紫島もいつ祟られるから分からないので、じゅうぶん用心するよう、那国に伝えてきました。するとヤノハは、その鬼がもはや筑紫島に上陸し、我々の近くに迫っていると覚悟すべきではないか、とウツヒオ王に言います。そうなれば自分の祈祷など空しい、と率直に言ったヤノハは、この難局を乗り切るには出雲の毉(クスシ)の技に頼るしかないのでは、とウツヒオ王に提案します。確か出雲には人を死より遠ざける祈祷がある、とウツヒオ王から聞いたヤノハは、事代主なる現人神にはやはり合わねばならない、と言って明日出立の予定だったところ、すぐに出立するとことにします。

 阿武の邑に到達した事代主は塀越しに邑長に話しかけます。事代主は自分の配下の巫覡(フゲキ)4人を邑に入れてもらうよう、邑長に要請します。巫覡は毉の技を持つので宍門の人々にも役立つはずだ、というわけです。自分たちは目に見えない鬼とも戦える禁厭(マジナイ)を心得ており、助けられる人は助けよ、というのが自分たちの奉る大穴牟遅神(オオアナムヂノカミ)の教えだ、と事代主は訴えます。すると、阿武の邑の門が開き、事代主はヤノハと会うために弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)へと急ぎます。

 日下の邑に到達したトメ将軍とミマアキは、邑に人がおらず、遺体も見つからなかったが、邑外れに多くの土盛りがあった、と報告を受けます。トメ将軍は、一気に川(大和川でしょうか)を上ってサヌ王の都まで進むことに決めます。トメ将軍とミマアキは舟で日下に到達し、ミマアキはその美しい都に感嘆します。都の背後に見える巨大な土盛りを見たミマアキは、サヌ王の霊廟だろう、と推測します。トメ将軍もその土盛りの大きさに感嘆し、筑紫島では誰も造れないだろう、と言うミマアキに対して、戦になれば我々は負けるな、と率直に呟きます。ミマアキもトメ将軍の率直な発言に同意します。都には人の気配が全くなく、王も貴族も民の姿も見当たりません。厲鬼に襲われ皆逃げてしまったのか、とトメ将軍が言い、あるいは全滅したのだろうか、とミマアキが案じるところで今回は終了です。


 今回は、これまで語られるだけだった日下の様子がついに描かれましたが、まだ日下の人々は登場していません。さすがに全滅したわけではないでしょうが、日下から出雲への干渉が止まったくらいですから、疫病で大打撃を受けたことは間違いないでしょう。現時点では、この疫病は瀬戸内海とその周辺地域を中心に広がっているようで、出雲が無事なことから推測すると、日本海側では流行していないようです。あるいは、出雲が無事なのは、その治療技術のためかもしれません。この疫病に出雲の治療技術が有効かもしれず、それが、西日本の統合を促進する、という話になるとしたら、間もなく描かれるだろう日見子(ヒミコ)たるヤノハと事代主との会見が大いに注目されます。今回の描写から、日下はすでにかなり強大な勢力を築いているように思われます。トメ将軍とミマアキも感嘆した日下の都は纏向遺跡でしょうか。大きな土盛りは纒向石塚古墳かもしれませんが、あるいは現在には残っていない墳丘か、後に箸墓古墳へと改築された巨大墳丘とも考えられます。ヤノハと事代主との会見とともに、日下の王がどのような人物なのか(疫病で没して王が不在かもしれませんが)、日下を目指した穂波(ホミ)のトモは日下に到達できたのか、ということも注目されます。ついに日下も描かれ、ますます壮大な話になってきたので、今後もたいへん楽しみです。

大河ドラマ『青天を衝け』第10回「栄一、志士になる」

 喜作が江戸に留学することを知って焦った栄一は、自分も江戸に行きたい、と父に頼み込み、1ヶ月だけではあるものの許可されます。開国し、物価高騰など世情が騒然とするなか、一定以上の知識層の中に栄一のような直情的な行動を起こす者もおり、そうした雰囲気がよく描かれているように思います。栄一は江戸で喜作や長七郎と再会し、長七郎の師である大橋訥庵やその弟子たちと出会い、攘夷思想に感化され、草莽の志士としての自覚を強めていき、約束の1ヶ月を過ぎてやっと血洗島に戻りました。ここは、歴史ドラマと青春群像劇が融合してなかなか楽しめました。

 今回は栄一の江戸行きおよび千代との関係が中心で、徳川慶喜視点の「中央政界」の話は短めでした。ただ今回は、まだ慶喜が本格的に表舞台に復帰する前なので、和宮降嫁と、徳川家茂と天璋院との会話が中心でした。和宮降嫁に憤激した人々は当時少なくなかったようで、長七郎は大橋訥庵やその弟子たちに、和宮降嫁を進めた安藤信正を斬るよう、要請されます。武士になりたがる長七郎は、この殺害計画に入れ込みますが、兄の惇忠だけではなく栄一も、根本から変えねばならない、と反対します。けっきょく、長七郎は兄と栄一の説得を受け入れて坂下門外の変には加わりませんでした。今回も栄一を幕末情勢に位置づけたなかなか丁寧な描写になっており、楽しめました。

洞窟堆積物から得られたネアンデルタール人の核DNA

 洞窟堆積物からのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のDNA解析結果を報告した研究(Vernot et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。更新世人類の古代DNA分析は、ネアンデルタール人やデニソワ人のような古代型ホモ属(絶滅ホモ属)の進化史、および絶滅ホモ属と初期現生人類(Homo sapiens)との相互作用に関する理解を大いに深めました。

 現在までに、完全もしくは部分的核ゲノム配列が、絶滅ホモ属23個体の遺骸から回収されました。その内訳は、ユーラシア全域(大半はヨーロッパ)の14ヶ所の遺跡のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)18個体、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)4個体、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親との間の交雑第一世代の1個体(デニソワ11)です(関連記事)。多くの旧石器時代遺跡が発掘されてきましたが、人類の骨格遺骸が残っている遺跡は比較的少なく、一つもしくはいくつかの地層に集中することが多くなっています。したがって、絶滅ホモ属の遺伝的歴史を再構築する試みは、おもに標本の利用可能性により限定される、不均一な時空間的標本抽出により制約されます。

 2017年に、人類のミトコンドリアDNA(mtDNA)が更新世の堆積物から回収できると明らかになり(関連記事)、人類のDNAの調査において希少な化石記録への依存を克服できるかもしれない、と示唆されます。しかし、mtDNAは母系に関する情報のみを有しており、完全な人口史を常に反映しているわけではありません(関連記事)。核DNAはmtDNAよりもずっと多くの情報を含んでいますが、堆積物からの回収には大きな課題があります。核DNAはmtDNAよりもコピー数が少なく、多くの遺伝子座は人口集団の遺伝的分析にとって情報価値がありません。

 さらに、堆積物における哺乳類のDNAの大半は人類のものではなく、多くの遺伝子座における配列相同性のため、人類のDNAを区別することは困難かもしれません。これらの特質や微生物DNAの圧倒的多さは、単純なショットガン配列による人口集団の遺伝的分析に充分な数と品質の核DNA回収の試みを妨げます。この研究はこれらの課題を克服するため、高い哺乳類の配列多様性を有する核ゲノム領域を、ハイブリダイゼーションキャプチャーにより標的とすることで、堆積物からの人類の核ゲノム配列を回収し、これらの配列を用いて、ヨーロッパ西部とシベリア南部のネアンデルタール人集団の歴史を調べました。


●対象となる3ヶ所の遺跡

 デニソワ洞窟(関連記事)とチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)(関連記事)はともにシベリア南部のアルタイ山脈に位置し(図1A)、その堆積物にはネアンデルタール人のmtDNAが保存されており、この2ヶ所の遺跡で得られた絶滅ホモ属3個体の遺骸からの高網羅率の核ゲノムとの比較が可能です。その高網羅率の核ゲノムとは、デニソワ洞窟では、130000~90900年前頃となる足の指骨(デニソワ5)が残っているネアンデルタール人個体(関連記事)と、76200~51600年前頃となる手の末節骨(デニソワ3)が残っているデニソワ人個体(関連記事)と、59000~49000年前頃となる手の指骨(チャギルスカヤ8)が残っているチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体(関連記事)です。これらの年代範囲は全て、年代測定手法の95%信頼区間(CI)が含まれます。デニソワ洞窟では少なくとも25万年に及ぶ絶滅ホモ属の居住の証拠がありますが(関連記事)、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人が確認されている第5層および第6層の堆積物(図1B)は、1万年未満で蓄積されました(関連記事)。

 アルタイ山脈のデニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟とともに分析対象となった遺跡は、スペイン北部のアタプエルカ考古学・古生物学複合の一部である彫像坑道(Galería de las Estatuas、以下GEと省略)です(図1C)。GEでは、明確なムステリアン(Mousterian)との類似性を有するほぼ500個の石器が、関連する堆積物の単一粒光学年代測定(single-grain optical dating)と組み合わされ、ネアンデルタール人の居住が少なくとも113000±8000年前から70000±5000年前と示唆されましたが、絶滅ホモ属遺骸ではネアンデルタール人の足の指骨が1個発見されただけです。GE堆積物の最初の判別検査から、人類も含む古代哺乳類のmtDNAの存在が示唆されました。したがって、堆積物DNAの分析は、現時点ではヨーロッパのネアンデルタール人の遺伝的記録でよく表されていない期間となる、GE居住者の人口集団遺伝学を再構築するための唯一の実行可能な手法かもしれません。

 デニソワ洞窟では、人類のmtDNAを有する堆積物標本3点(東空間の11.4層および15層と主空間の14.3層)から核DNAが回収されました。チャギルスカヤ洞窟とGEでは、旧石器時代層全体から広範囲に標本抽出され、GEでは2ヶ所のピットから76点の標本が、チャギルスカヤ洞窟では73点の収集され(図1)、人類のmtDNAと核DNA両方が標的とされました。以下、本論文の図1です。
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●人類のmtDNA分析

 合計で369点のライブラリが作成されました。チャギルスカヤ洞窟では54点の標本(74%)、GEでは43点の標本(56%)で、人類のmtDNAを含む少なくとも1点のライブラリが見つかり、古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換の有意な頻度上昇が確認されました。古代人類のmtDNAを含む223点のライブラリのうち182点で、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人とスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃のホモ属個体群のいずれかの集団では派生的で、他集団では祖先的なミトコンドリアゲノムの「診断」位置に基づいて、人類集団に分類するのに充分な断片が得られました。そのような分類は全てネアンデルタール人のmtDNAで、考古学的痕跡のない30万年以上前のチャギルスカヤ洞窟第7層の上部を除く全ての層におけるネアンデルタール人の存在を示す、考古学的証拠と一致します。チャギルスカヤ洞窟第7層の上部近くでネアンデルタール人のmtDNAが検出されたのは、以前に居住されていた時の床だったこと、および/あるいは上層からの混合の結果かもしれません。

 14点の標本はネアンデルタール人のmtDNAの網羅率が高く(17倍以上)、このうち4点(チャギルスカヤ洞窟6c層、GEピット2/第2層、GEピット1/第3および4層)は、各位置で観察されたヌクレオチドの一貫性に基づくと、単一のmtDNA配列を含むようです。これらは、現代人や古代人遺骸やデニソワ洞窟の堆積物(関連記事)からの既知の人類のmtDNA配列とともに、ほぼ完全な参照配列の生成と系統樹構築に用いられました(図2A)。

 最も注目されるのは、GEピット1/第4層の参照ミトコンドリアゲノムが、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HSTと省略)の12万年前頃となるネアンデルタール人のmtDNAと最も類似していたことで、HSTネアンデルタール人は他の既知の全ネアンデルタール人のミトコンドリアゲノムの基底部に位置します(関連記事1および関連記事2)。GEピット1・第4層堆積物の年代は112000±7000年前頃で、HSTとほぼ同年代です。GE の79000±5000年前となるピット2/第2層および107000±8000年前頃のピット1/第3層は、7万~6万年前頃となるコーカサス北部のメズマイスカヤ洞窟(Mezmaiskaya Cave)の個体(メズマイスカヤ1)とまとまる一方、チャギルスカヤ洞窟の6c層の配列はチャギルスカヤ洞窟の個体(チャギルスカヤ8)とまとまります。GEピット1・第4層堆積物標本の136000年前頃年代など、系統樹における堆積物mtDNA配列の推定年代は、それぞれの遺跡および層の既知の年代と合致します。

 チャギルスカヤ洞窟とGEの堆積物のmtDNAの多様性をさらに調べるため、250もの古代の断片を含むライブラリを、既知のネアンデルタール人のmtDNA多様性の中に確率的に配置する手法が開発されました。この手法により、チャギルスカヤ洞窟の38点のライブラリとGEの59点のライブラリから、各洞窟で標本抽出されたほとんどの層にまたがるmtDNAの系統樹割り当てが可能となりました(図2B)。GEピット1・第4および5層は、しばしば同じ下位標本でHST的および非HST的両方のネアンデルタール人のmtDNAを有しており、非HST的mtDNAは、おもにメズマイスカヤ1およびベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)の13万年前頃の個体(スクラディナI-4a)とまとまります。

 その後、HST的mtDNAはGEの上層から消え、おもにメズマイスカヤ1的な参照配列と関連します(図2B)。GEの上層およびピット1・第4層のDNAのシミュレートされた混合は、GEピット1/第4層においてメズマイスカヤ1およびスクラディナI-4a的なmtDNAの観察を生成せず、下層におけるmtDNAの真の不均一性を示唆し、GEの層序の以前に観察された保全性と一致します。チャギルスカヤ洞窟では顕著な均質性が見つかりました。第5層から第7層の全標本は、第6c層配列かチャギルスカヤ8かアルタイ地域のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の個体(オクラドニコフ2)とまとまり、時としてデニソワ11的な配列が裏づけられます。以下、本論文の図2です。
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●人類の核DNA分析

 核ゲノム内の160万ヶ所の情報価値のある一塩基多型を標的として、ハイブリダイゼーションキャプチャーによりこれらの部位と重複するDNA断片が濃縮されました。古代のヒグマ(Ursus arctos)のDNAを用いて古代DNA配列が判断され、既知のDNA配列情報を用いて、霊長類に分類された断片に分析が限定されました。しかし、既知の情報が充分ではない分類群があると誤配列の危険性があるので、チンパンジー属に由来する固定の診断部位(図3D)を含めて、人類の核DNAが判断されました。以下、本論文の図3です。
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 まず、これらの方法が、デニソワ洞窟の3点の堆積物から以前に準備されたライブラリに適用されました。そのうち2点はネアンデルタール人、1点はデニソワ人のmtDNAです(関連記事)。核DNAでも、標的とされた一塩基多型と重複するDNA断片において、全てが古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換の有意な水準を示しました。ある標本では、メタゲノムフィルタリングの前に、中程度(15%)の非ヒト動物の誤配列の証拠を示しましたが、フィルタリングでこれが1%未満に減少しました。フィルタリング後、1764・27923・162508のDNA断片が3点の標本から保持され、標的部位での最大0.1倍の網羅率を表します。

 古代人類の核DNAの存在の確認後、各標本がどの人類集団に分類できるか、検証されました。高網羅率のデニソワ人およびアルタイ山脈のネアンデルタール人のゲノムがホモ接合型で相互に異なっている部位で脱アミノ化DNA断片を調べると、2点の標本でネアンデルタール人のmtDNAが含まれ、DNA断片の約90%はネアンデルタール人の派生的状態を有するのに対して、2%はデニソワ人の派生的状態を有する、と明らかになりました(図4A)。対照的に、デニソワ人のmtDNAを含む標本の核DNAは、65%でデニソワ人の派生的アレル(対立遺伝子)を有していましたが、ネアンデルタール人の派生的アレルを有していません(図4A)。これらの結果は、骨格遺骸からの低網羅率のネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムで得られた結果と一致しており(図4A)、3点の堆積物標本における核DNAは、ネアンデルタール人もしくはデニソワ人に由来するものの、両方ではないことを示唆します。

 次に、チャギルスカヤ洞窟とGEの堆積物標本から核DNAが得られました。29標本から、脱アミノ化の有意な証拠と5%未満の動物の誤配列を有する少なくとも1点のライブラリが得られました。4点のライブラリは5%以上の動物の誤配列の証拠を示し、以下の分析から除外され、ライブラリごとの誤配列推定の重要性が強調されます。合計すると、チャギルスカヤ洞窟第6a~d層と第7層(第6cおよび6d層からの侵入の可能性が高そうです)と、GEピット2/第2層およびピット1/第2~5層で核DNAが回収されました。人類のDNAの回収率はデニソワ洞窟の標本より低く、チャギルスカヤ洞窟では最良のライブラリで134497断片(そのうち脱アミノ化の証拠を有するのは33594断片)、GEでは最良のライブラリで47667断片(そのうち脱アミノ化の証拠を有するのは16678断片)でした。

 ネアンデルタール人とデニソワ人のアレルの図に基づくと、これらの標本は明確にネアンデルタール人の核DNAを含んでおり、ネアンデルタール人の骨格標本と密接にクラスタ化します(図4A)。デニソワ洞窟のネアンデルタール人(デニソワ5)か、クロアチア北部のヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(Vindija 33.19)か、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人(チャギルスカヤ8)のゲノム間で異なる部位を考慮した同等の図は、これらの一塩基多型の標本ごとのデータ量が少ないため、これらネアンデルタール人のゲノムとの関係を解決するための解像度が不足しています。

 骨格標本の場合、X染色体と常染色体のDNAの相対的割合が性別決定に用いられてきました。この手法を、現代人の汚染が10%未満で、少なくとも5000ヶ所を網羅する脱アミノ化DNA断片を有する堆積物下位標本に適用すると、全てのデニソワ洞窟とGEの標本は、おもに単一の性に由来する人類のDNAと一致するX染色体と常染色体の割合を示す、と明らかになりました(図4B)。対照的に、チャギルスカヤ洞窟標本の大半は、予測される男女の割合の間に位置し、異なる性の複数個体からのDNAを含んでいる、と示唆されます(図4B)。単一のmtDNA配列を識別した4点のライブラリは全て、単一の性に由来するDNAと一致するX染色体と常染色体の割合を示し、この4点のライブラリはネアンデルタール人個体(図4B)のDNAを含んでいるかもしれない、と示唆されるものの、同性の複数個体の同一のmtDNAの存在を除外できません。以下、本論文の図4です。
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●核DNA系統分析

 限定的なデータにも関わらず、各標本をより大きな古代型系統に位置づけるため、最尤構成が開発されました。この手法は、標本Xに関して、高網羅率のネアンデルタール人3個体(図4C)とデニソワ人1個体のゲノムにより定義される古代型人類系統樹からのXの分岐点を、非人類動物の誤配列と現代人の汚染に由来する断片の割合と合わせて、共推定します。この手法は、古代型人類では多型の部位が、その人口史にとって情報価値がある、という事実を利用します。たとえば、ある古代型ゲノムではヘテロ接合型であるもの、他の古代型ゲノムではホモ接合型である部位では、標本Xで派生的アレルを観察できる確率は、Xが全体的な系統樹から分岐した点に基づいて変動します(図4C)。これらの確率は、有効人口規模と分岐年代が各高網羅率ゲノムから推定される、合着(合祖)シミュレーションから得られます。

 誤配列と汚染の割合は、脱アミノ化断片と非脱アミノ化断片でそれぞれ推定され、全ての断片を分析に使用できます。一部の堆積物標本は単一の個体群を表しているかもしれませんが、この手法はアレル頻度予測に基づいて機能するので、人口集団からの単一もしくは複数の個体群を表す標本にも同様に適用できます。この手法は、骨格標本から以前に公表された低網羅率ゲノムに適用すると、以前の推定と一致する人口集団の分岐年代と汚染の割合を推定します。検出力分析では、最大70%の現代人の汚染を有する低解像度処理された低網羅率のネアンデルタール人ゲノム(関連記事)における正確な分岐年代が推定され、現代人の汚染割合は正確に最大90%まで推測されます。

 この手法をデニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟の堆積物ライブラリに適用すると、骨格遺骸から得られた以前に報告された古代DNAと一致する結果が得られました。具体的には、デニソワ洞窟の2点のネアンデルタール人標本(Ell.4とM14.3)は、アルタイ山脈ネアンデルタール人個体(デニソワ5)につながる系統に分類される、と明らかになりました(図4D)。この結果は、Ell.4がデニソワ洞窟東空間のデニソワ5と同じ第11.4層(120000~105000年前頃)に由来し、M14.3が主空間の同時代(112000~97000年前頃)となる第14.3層に由来することと一致します。デニソワ洞窟東空間の第15層(20万年前頃)の標本はデニソワ人系統に分類され、mtDNAと一致します。チャギルスカヤ洞窟の全ての層の堆積物標本(Ch-3058aとCh-3007a)はネアンデルタール人個体のチャギルスカヤ8系統に分類され、特有の中部旧石器時代石器群と関連するネアンデルタール人による短期間の居住と一致します(関連記事)。

 堆積物標本から回収された核DNAが少なく、骨格遺骸からの遺伝的データが存在しないGEについては、少なくとも500のネアンデルタール人DNA断片と、70%未満の現代人の汚染を有する個々の下位標本で、人口集団の分岐年代が推定されました。層ごとの推定を得るために標本が統合され、層あたり5000~36000断片があります(図5A)。ピット2/第2層とピット1/第2層とピット1/第3層の標本は、ネアンデルタール人系統樹で115000~100000年前頃に分岐し、Vindija 33.19(関連記事)およびチャギルスカヤ8およびメズマイスカヤ1との分岐年代(104000)と類似しています(図5B・C)。ピット1/第3層の堆積年代(107000±8000年前)はこの分岐年代と区別できず、ピット1/第3層のネアンデルタール人はVindija 33.19およびチャギルスカヤ8の祖先と密接に関連している、と示唆されます。これらの層が、同じネアンデルタール人集団による洞窟の繰り返しの居住を表しているのかどうか、判断できませんが、分岐年代とmtDNAデータ(図2B)は、同一人口集団による繰り返しの居住との仮説と一致します。

 対照的に、HST的なmtDNAを有するピット1/第4層の堆積物は、ネアンデルタール人系統樹では135000~122000年前頃に分岐します(図5A)。この分岐年代はHSTネアンデルタール人個体自身や、ベルギーのスクラディナI-4a個体や、アルタイ山脈のデニソワ5個体の分岐年代と類似しています(図5B・C)。クラディナI-4aとデニソワ5はより一般的な非HST的mtDNAを有しており(図5B)、ピット1/第4層標本でも観察される祖先的ネアンデルタール人集団のmtDNAの多様性と一致します(図2B)。

 ピット1/第4層堆積物でネアンデルタール人の一般的(非HST的)なmtDNAを有する唯一の標本であるGE-IB33fでは核DNAが得られています。GE-IB33fは第3層との境界近くで収集され、データセットが小さいため(867の古代人類DNA断片)推定年代の信頼区間は大きい(139000~83000年前頃)ものの、第3層標本と類似の年代を示しました。まとめると、これらの観察から、GEでは第4層の堆積の末に向かって人口集団の置換が起き、それはmtDNAの多様性喪失を伴っていた、と示唆されます。脱アミノ化断片のみを用いた場合にも同様の結果が得られ、現代人の汚染の影響に対するこの手法の堅牢性が強調されます。以下、本論文の図5です。
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●考察

 分岐年代の明らかなクラスタ化は、ネアンデルタール人集団の2つの異なる拡散を示唆します。メズマイスカヤ1とVindija 33.19とチャギルスカヤ8とGEのピット2/第2層・ピット1/第2層・ピット1/第3層標本は、相互に115000~100000年前頃に分岐したのに対して、デニソワ5とHSTとスクラディナI-4aとGEのピット1/第4層標本は、Vindija 33.19およびチャギルスカヤ8と135000年前頃に分岐しました(図5C)。したがって、これらの拡散事象は、後期更新世前半に起き、最終間氷期の気候および環境条件の変化と関連しているかもしれません。

 さらに、典型的なネアンデルタール人形態はいくつかの段階で進化し(関連記事)、最後の段階で「古典的」ネアンデルタール人が10万年前頃に出現した、と指摘されています。これらの事象の年代測定の不確実性にも関わらず、後者の変化は、本論文で検出されたより新しい人口集団拡散と関連している可能性がありそうです。しかし、そうした要因がネアンデルタール人や他の更新世人類の人口動態に重要な役割を果たしたのかどうか判断するには、追加の遺跡からの時系列データと、これら遺伝的事象のより正確な推定が必要でしょう。本論文の手法は、化石記録とは無関係にそうしたデータを得る可能性を開き、長期的なDNA保存に対する生化学的制約にのみ制限されます。

 本論文の結果から、堆積物の人類DNAの回収は人口規模に限定されないかもしれない、とも示されます。それは、個々のネアンデルタール人に由来すると推定されるDNA(つまり、単一のmtDNA配列と性を有する堆積物標本)が、本論文で分析された3ヶ所全ての遺跡の堆積物標本で識別されたからです。この観察から、将来、堆積物DNAの分析に基づく過去の人口集団の遺伝的構成のヘテロ接合性の評価も可能になるかもしれない、と示唆されます。

 近接して採集された堆積物標本間で観察された人類のDNA量のかなりの変動の観点、および非人類動物のDNAと比較しての人類のDNAの存在量の少なさを考慮すると、更新世堆積物の人類のDNA分析が、考古学的層を通過してのDNAの浸透により大きな影響を受けることはない、と考えられます。しかし、チャギルスカヤ洞窟第7層におけるネアンデルタール人のDNAの存在は、堆積物から特定の層へりDNA配列を評価するさいには、人工物や骨格遺骸や他の考古学的資料の発見の解釈における共通の課題と同様に、堆積物の堆積後の混合の証拠を評価する必要性があることを強調します。最後に本論文は、堆積物や骨格遺骸からの不完全なゲノム規模データがマッピングできる過去の遺伝的景観を定義する足場として、たとえ少数個体での生成だとしても、高網羅率の絶滅ホモ属ゲノムの価値も強調します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、堆積物から10万年以上前の個体(群)の核DNA解析も可能とすることを示し、たいへん意義が大きいと思います。進展の著しい近年の古代DNA研究でも、画期とも言えそうな成果だと思います。堆積物からの核DNA分析も可能となると、圧倒的に多い人類遺骸が発見されていない遺跡にも適用可能で、人類史の詳細な解明に大きく貢献できるでしょう。日本人の私としては、更新世の人類遺骸がほとんど発見されていない日本列島における人口集団の遺伝的構成の解明が進むことを願っています。すでにイスラエルでも中部旧石器時代遺跡の堆積物で非ヒト動物のmtDNA断片が回収されており(関連記事)、堆積物のDNA解析の適用可能範囲は時空間的にかなり広いのではないか、と期待されます。コーカサスの25000年前頃の堆積物からは、祖先系統の分析結果も示されました(関連記事)。

 本論文は、イベリア半島北部におけるネアンデルタール人集団の置換の可能性を示しました。ネアンデルタール人は気候変動に応じて拡大・撤退・縮小・絶滅を繰り返していたと考えられ(関連記事)、本論文でmtDNAデータからも示唆されているような人口集団の置換は珍しくなく、そうした過程で遺伝的多様性が低下していったこともあったのでしょう。気候の寒冷化に伴い、一定以上の緯度のネアンデルタール人は南方に撤退するか絶滅し、気候温暖化に伴い、ヨーロッパ地中海沿岸もしくはその近隣地域のネアンデルタール人が再度北方へと拡大していき、その過程で特定系統の置換・絶滅が起きたと考えられます。堆積物のDNA解析が進めば、絶滅ホモ属の人口史がより詳細に解明されていき、後期ホモ属の進化史がこれまでの想定よりもずっと複雑だったと証明されるのではないか、と予想しています。


参考文献:
Vernot B. et al.(2021): Unearthing Neanderthal population history using nuclear and mitochondrial DNA from cave sediments. Science.
https://doi.org/10.1126/science.abf1667

初期ホモ属の祖先的な脳

 初期ホモ属の祖先的な脳に関する研究(Ponce de León et al., 2021)が公表されました。現代人の脳は最近縁の現生分類群である(非ヒト)大型類人猿(以下、大型類人猿はヒトを除いた分類群です)よりもかなり大きく、とくに、道具製作や言語能力などより高次の認知機能と関連する皮質連合野において、重要な構造的再構成の証拠も示します。これらの構造的革新が人類進化において出現した時期は、依然として大きな課題です。脳は化石化しないので、脳進化のじっさいの過程の唯一の直接的証拠はいわゆる頭蓋内鋳型で、それは、脳回や脳溝や脳の血管構造を表す、複雑ではあるものの空間的に信頼性の高いパターンの痕跡を示します。

 前頭葉の再構成と潜在的な言語能力についての重要な情報を有する頭蓋内領域はブローカ野(BC)で、これは頭蓋内鋳型の外側前頭葉眼窩面の膨らみです(図1)。ブローカ野は現代人と大型類人猿両方の頭蓋内鋳型に存在し、しばしば類似の形態を示します。しかし、根底にある脳領域は集団間で同じではありません(関連記事)。大型類人猿では、ブローカ野はおもにブロードマンの脳地図の44野を構成し、その下面は前眼窩溝(fronto-orbital sulcus、略してfo)により形成されます(図1A)。現代人では、ブローカ野はおもにブロードマンの脳地図の45および47野を構成し、下側の境界は外側眼窩溝と一致する傾向(関連記事)があります(図1B)。

 したがって、化石頭蓋内鋳型のブローカ野領域の形態からの脳の再構成の推測は曖昧なままです。アウストラロピテクス属の頭蓋内鋳型のブローカ野は通常、前眼窩溝により下側に区切られていると解釈されており、その根底にある脳領域の大型類人猿的な構成が示唆されます。しかし、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)やアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)からの頭蓋内の証拠は、前頭葉の初期の再構成を示す、と解釈されてきました。この提案はさまざまな理由で異議を唱えられており、類人猿的な前頭葉組織から現代人的なそれへの進化的移行の時期と機序は、ほとんど未解明です。

 頭頂後頭皮質の進化的な再編成についても不明な点があります。全ての大型類人猿は一次視覚野(ブロードマン17野)の前方境界を示す月状溝(L)を示しますが(図1A)、ヒトの脳は月状溝の完全な欠如により特徴づけられ、それは頭頂後頭皮質の拡大を反映しています(図1B)。月状溝は頭蓋内にほとんど痕跡を残さないので、化石化した人類史の頭蓋内鋳型で月状溝の痕跡がないことは、月状溝がなかったことの証明にはならず、人類進化の過程で頭頂後頭皮質がいつ拡大し始めたのか、依然として不明です(関連記事1および関連記事2)。

 伝統的に、前頭葉と頭頂後頭葉の派生的で現代人的な再構成は、その始まりからホモ属を特徴づける、と仮定されてきました。しかし、この仮説を化石頭蓋内鋳型で明示的に検証することは困難です。アフリカの化石記録では、ホモ属の起源は280万年前頃までさかのぼりますが(関連記事)、重要な頭蓋内証拠は180万年前頃以降にしか保存されておらず、時空間的に分散した個々の発見物により表されます。そのため、頭蓋内形態の個体間変異を背景に、脳進化の通時的傾向を明らかにすることは困難です。一方、アジア南東部のホモ・エレクトス(Homo erectus)は、地理的に限定的な地域の多くのよく保存された神経頭蓋により表されますが、その地質学的年代はアフリカの初期ホモ属化石よりも新しくなります(関連記事1および関連記事2)。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の化石人類の年代は185万~177万年前頃で(関連記事)、初期ホモ属の脳の再構成とアフリカからの人類拡散の潜在的重要性の評価に鍵となる役割を果たします。ドマニシ遺跡では、思春期から老年期までの個体を表すよく保存された頭蓋5個が発掘されており、これは初期ホモ属集団における自然の変動を表しているかもしれせん(関連記事)。またドマニシ遺跡では、豊富な動物遺骸と様式1(関連記事)のオルドワン(Oldowan)石器が共伴しており、ドマニシ遺跡人類の道具使用と特有の行動、さらに広く、初期ホモ属の生計戦略や社会組織や認知能力の推論が可能です。以下、本論文の図1です。
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 本論文は、ドマニシ遺跡の標本5個(D2280、D2282、D2700、D3444、D4500)の頭蓋内形態分析(図2)と、アフリカおよびアジア南東部の化石頭蓋内鋳型の比較標本の再評価により、初期ホモ属の脳組織における重要な変化を検証します。化石頭蓋内鋳型の前頭葉の祖先的側面と派生的側面を識別するために、現代人と大型類人猿でひじょうに異なる頭蓋大脳組織分布が参照されました。前頭葉下部拡大の特徴的な兆候は、冠状縫合(coronal suture、略してCO)と比較しての下中心前溝(inferior precentral sulcus、略してpci)の後方への移動です。両方の構造は通常、化石頭蓋内鋳型によく表されており、その組織分布関係は前頭葉の再構成を確実に示しています。さらに、幾何学的形態計測法を用いて、どの頭蓋内および脳領域が前頭葉再構成において特異的な拡大をしたのか、識別します。以下、本論文の図2です。
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●頭蓋内分析

 ドマニシ人類遺骸で、D4500は下顎骨D2600とともに、初期ホモ属遺骸としてはひじょうに良好な保存状態を示します。全体的に、ドマニシ人類の頭蓋内鋳型は、外部皮質形態の一貫した組織分布パターンを示しています。つまり、中心前溝が冠状縫合を横断し、その下側がブローカ野に向かって縫合線の前方に位置します。大型類人猿と現代人の頭蓋大脳組織分布を参考にすると、ドマニシ人類は前頭葉組織では大型類人猿のパターンを反映しており、ブローカ野は眼窩溝により下側に区切られ、ブロードマン皮質領域44と45の一部を含んでいる可能性が高そうです(図1A)。

 アフリカの前期~中期更新世の初期ホモ属の頭蓋内鋳型の比較分析から、頭蓋内組織分布の多様性がより大きい、と明らかになります。ホモ・ハビリス(Homo habilis)とされるKNM-ER1805とKNM-ER1813はともに、分類に議論がありますが、年代は170万年前頃以前で、前頭葉で大型類人猿的な組織と一致する痕跡を示します。170万~150万年前頃の頭蓋内鋳型は、ホモ・エルガスター(Homo ergaster)もしくはホモ・エレクトス(Homo erectus)と分類されますが、前頭葉の形態は祖先的なものから派生的なものまで変動を示します。対照的に、150万年前頃以降のアフリカのホモ属化石は、現代人的な派生的な前頭葉組織と一致する頭蓋内組織分布を示します。アジア南東部に位置するジャワ島のホモ・エレクトスの頭蓋内鋳型は通常、前頭回(frontal sulci)の顕著な痕跡を示しますが、中心前溝と中心溝の痕跡はほとんど見られません。本論文で再検証されたジャワ島のホモ・エレクトスの全標本で、前頭葉の派生的組織の痕跡が示されます。


●頭蓋内の形態とサイズと組織分布

 図3では、化石ホモ属と大型類人猿および現代人の比較標本における頭蓋内形態の変異が示されます。大型類人猿の頭蓋内は頭頂葉で低いものの広く、前頭葉は先細りで、大後頭孔は後方に位置しています。ヒトの脳硬膜は比較的高く、広い前頭葉と下に位置する大後頭孔を有しています。頭蓋内形態における大型類人猿と現代人の大きな対照は、おもに相対的な脳化(頭蓋基底部および顔面のサイズと比較しての脳のサイズとして測定されます)の変動の影響です。化石人類の頭蓋内は、大型類人猿とヒトとの間に位置します。200万~100万年前頃のホモ属の頭蓋内形態は、広範な集団内および集団間の変異を示します(図3)。ドマニシ人類の変異は、他の分類群の集団内変異と範囲およびパターンにおいて一致します。以下、本論文の図3です。
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 頭蓋内組織分布に関するデータを地質学的年代と相関させることで、前頭葉再構成の時期、および脳形態における脳の拡大と変化との相関可能性を推測できます(図4)。前頭葉における祖先的形態から派生的形態への変化は170万~150万年前頃に起き、150万年前頃以後の化石記録でほぼ確立された派生的形態を伴います。この期間に、前頭葉の再構成は脳の拡大と並行して起き、平均頭蓋内容積(ECV)は650㎤から850㎤へと増加しました。この二つの過程は、同様の進化的要因に由来する可能性があります。しかし、これら初期ホモ属よりもずっと新しい、アフリカの中期更新世のホモ・ナレディ(Homo naledi)や、アジア南東部のフローレス島の後期更新世のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)は、派生的な前頭葉形態を示しながら、ECVはナレディが465~565㎤、フロレシエンシスが426㎤程度で、前頭葉組織は大きな脳容量と機構的に関連しているわけではない、と示唆されます。

 本論文のデータはさらに、前頭葉組織における祖先的特徴から派生的特徴への変化が、頭蓋内形態における特定の変化を伴っていた、と示唆します(図4B)。下中心前溝の後方への移動(図4A)は、下前頭(inferior prefrontal、略してIPF)領域の差異的な拡大と関連しています(図1および図4B)。さらに、下前頭の拡大は、後頭頂葉(posterior parietal、略してPP)および後頭皮質領域(O)の顕著な拡大と相関しています。以下、本論文の図4です。
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●初期ホモ属における脳再構成のパターンと時期

 頭蓋大脳組織分布から、最初期ホモ属は祖先的な前頭葉組織を有しており、それは冠状縫合と比較しての下中心前溝の類人猿的な前方の位置を特徴とする、と明らかになります。本論文のデータから、派生的な前頭葉組織はホモ属進化の比較的遅い時期、つまりアウストラロピテクス属からホモ属への移行期ではなく、アフリカからのホモ属最初の拡散よりも明確に遅い170万~150万年前頃に出現した、と示唆されます。前頭葉の再構成と関連する頭蓋内形態は、下中心前溝、および後頭頂葉と後頭皮質の差異的な拡大を明らかにします(図4B)。このパターンから、前頭および後頭皮質連合野が、連続ではなく連結して進化した、と示唆されます。この知見から、前頭葉の再構成に先行する初期ホモ属の頭蓋内鋳型は、頭頂後頭領域に残っている類人猿的月状溝の痕跡を示す可能性がある、と推測されます。

 初期ホモ属における祖先的および派生的脳組織の時空間的パターン化は、単一の拡散を想定しては説明できず、以前に示唆されたように、より大きな時空間的複雑さを含んでいたに違いありません(関連記事)。現時点での証拠を考慮すると(図4)、最も節約的な仮説は、最初のホモ属人口集団はアフリカから早ければ210万年前頃には拡散し(関連記事)、ドマニシ人類に代表されるように、祖先的な前頭葉組織を保持していた、というものです。アジア南東部のホモ・エレクトス化石は現時点で150万年前頃以降と推定されており(関連記事)、派生的な前頭葉形態がアフリカで170万~150万年前頃に出現した後の、第二の拡散を表します。アフリカ外のホモ属最初の人口集団が、派生的形態を示す人口集団と統合したのか、および/もしくは置換されたのかどうか評価するには、追加の化石および考古学的証拠が必要となるでしょう。


●神経機能への影響

 現代人の脳では、前頭葉下部は、高度な社会的認知や道具製作および使用や明瞭な言語にとって重要な神経機能基質です(関連記事)。したがって、170万~150万年前頃に起きたその進化的再構成が技術文化的遂行の大きな変化に伴っていたのかどうか、問うことができます。アフリカにおける様式2のアシューリアン(Acheulian)技術文化は176万年前頃に始まり(関連記事)、初期の前頭葉再構成とほぼ一致し、様式1および様式2の石器技術は、この重要な期間に同時に用いられていました(関連記事)。本論文は、このパターンが脳と文化の共進化(関連記事)の相互依存過程を反映している、と仮定します。脳と文化の進化では、文化的革新が皮質の相互接続性および最終的には前頭葉外層組織分布の変化を引き起こしました。一方、150万年前頃のホモ属を特徴づける大脳の革新は、後のホモ属種の「言語対応」脳の基礎を構成した可能性があります。


●分類学的意味

 本論文の知見は、初期ホモ属の分類にも影響を及ぼします。ホモ属に分類される前期更新世化石の顕著な形態学的多様性は、単一人類種系統内の人口集団多様性、もしくはアフリカにおける種の多様性として解釈されてきました。前者の見解は、計測的および非計測的頭蓋特徴の継続的変異パターン、およびかなりの性的二形の証拠(関連記事)により裏づけられます。後者の見解は、顎の計測的変異が単一の分類群で予測されるよりも大きい、との観察により裏づけられ、初期ホモ属における種分化の主因として、脳の拡大よりも食性の特殊化が示唆されます(関連記事)。

 本論文で提示された脳構造の変異に関するデータは、アフリカの初期ホモ属における多様性の追加の証拠を提供します。しかし、大脳の構造的多様性(図4A)のパターンは、顎の多様性のパターンと一致しないので、初期ホモ属における分類学敵多様性の問題は未解決のままです。初期ホモ属における進化過程の解明は、充分に管理された年代的文脈からの化石標本の拡張を通じてのみ解決されるだろう課題のままです。


参考文献:
Ponce de León MS. et al.(2021): The primitive brain of early Homo. Science, 372, 6538, 165–171.
https://doi.org/10.1126/science.aaz0032

宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』

 KADOKAWAより2020年11月に刊行されました。著者は岡田英弘氏の弟子にして妻で、「岡田史学」の継承者と言えるでしょう。著者や岡田氏の著書は、現代日本社会において、保守派や「愛国者」を自任している人々や、「左翼」を嫌っている人々に好んで読まれているように思います。ただ、碩学の岡田氏には、そうした人々が自分の著書を好んで読んでいることに対して、冷笑するようなところがあったようにも思います。まあ、これは私の偏見にすぎないかもしれませんが。岡田氏の著書は著者との共著も含めて随分前に何冊か読みましたが、著者の単独著書を読むのは本書が初めてです。

 著者が現代日本社会の言論においてどのように見られているのか、そうした問題を熱心に調べているわけではない私にもある程度分かるので、著者の本を読むこと自体に否定的な人も少なくないとは思います。ただ、私自身「保守的」・「愛国的」・「反左翼的」なところが多分にあるのに、そうした傾向の人々が読む歴史関連本をあまり読んでこなかったので、電子書籍で読み放題に入っていたこともあり、読んでみました。私の思想的傾向から、本書の諸見解をつい肯定的に受け入れてしまう危険性があると考えて、他の歴史関連本よりは慎重にというか、警戒しつつ読み進めました。その分、かなり偏った読み方になり、本書を誤読しているところが多分にあるかもしれません。

 本書は、現代日本社会における世界史認識の問題点を、その成立過程にさかのぼって指摘します。西洋史と東洋史が戦前日本の社会的要請もあって成立し、戦後は両者がまとめられて世界史とされた、という事情はわりとよく知られているように思います。したがって、戦後日本社会の世界史は体系的ではなく問題がある、という本書の指摘は妥当だとは思います。また本書は、西洋と東洋では歴史哲学が異なり、それに起因する偏りもある、と指摘します。そこで本書は、「中央ユーラシア草原史観」により歴史を見直し、日本の歴史を客観的に位置づけようとします。

 本書の具体的な内容ですが、「世界史」を対象としているだけに、各分野の専門家や詳しい人々にとっては、突っ込みどころが多いかもしれません。とくに、著者や夫の岡田氏の著書がどのような思想傾向の人々に好んで読まれているのか考えると、「左翼」や「リベラル」と自認する人々は本書をほぼ全面的に批判するかもしれません。私も、本書で納得できる見解は、世界史におけるモンゴルの影響力の大きさなど少なくないものの、気になるところは多々ありました。ただ、現在の私の知見と気力では細かく突っ込むことはとてもできないので、私の関心の強い分野に限定して、とくに気になったところを述べていきます。

 総説では、皇帝や封建制や革命といった用語で西洋史を語る問題点など、同意できるところは少なくありません。ただ、「中国」の史書が変化を無視するとの見解は、誇張されすぎているようにも思います。儒教に代表される「中国」の尚古的思想は、世界で広く見られるものだと思います。それは、神や賢者などによりすでに太古において真理は説かれており、後は人間がそれにどれだけ近づけるか、あるいは実践できるのか、というような世界観です。これを大きく変えたのが、近世から近代のヨーロッパで起きた科学革命です(関連記事)。

 本書の見解でやはり問題となるのは、「漢族」が後漢末から『三国志』の時代にかけて事実上絶滅した、との認識でしょう。その根拠は史書に見える人口(戸口)の激減ですが、これは基本的に「(中央)政権」の人口把握力を示しているにすぎない、とは多くの人が指摘するところでしょう。著者も岡田氏もそれを理解したうえで、このような見解を喜んで受け入れている「愛国的な」人々を内心では嘲笑しているのではないか、と邪推したくなります。そもそも、後漢の支配領域に存在した人々を「漢族」とまとめるのがどれだけ妥当なのか、という問題もありますが。

 これと関連して、隋および唐の「漢人」と秦および漢の「漢人」とは「人種」が違う、という本書の見解には、かなり疑問が残ります。「人種」というからには、生物学的特徴を基準にしているのでしょうが、「中原」の住民に関しては、後期新石器時代と現代とでかなりの遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。これは、アジア東部北方の歴史的な諸集団の微妙な遺伝的違いがよく区別されていないことを反映しているかもしれない、と以前には考えていました。ただ、「中原」以南とその北方地域との人口差を考えると、「中原」における後期新石器時代から現代までの住民の遺伝的安定性との見解は、素直に解釈する方がよいのではないか、と最近では考えています。もちろん、「中原」を含めて華北の現代人の主要な遺伝的祖先集団が、「中原」の後期新石器時代集団だとしても、支配層が北方から到来した影響は、政治はもちろん、言語を初めとして文化でも小さくはなかったでしょう。ただ、そうだとしても、それが「民族」の絶滅あるいは置換と評価できるのか、かなり疑問は残ります。そもそも、前近代の歴史に「民族」という概念を適用するのがどこまで妥当なのか、という問題がありますが。

ホモ・フロレシエンシスの摂食生体力学

 ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の摂食生体力学について、2021年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Huerta-Sanchez et al., 2021)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P21)。ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)はインドネシアのフローレス島の小型人類で、頑丈な下顎枝や厚い下顎結合や上下の横断隆起の存在など、祖先的な頭蓋顔面の特徴を示します。これらの特徴は、「強化された」アウストラロピテクス属と共有されており、高い咀嚼圧への適応と示唆されています。しかし、ホモ・フロレシエンシスは顕著な頭蓋顔面の華奢化、および後のホモ属とより類似する第一大臼歯も示し、より頑丈な人類種と比較して高い咬合負荷の減少が示唆されます。この不一致により、ホモ・フロレシエンシスの摂食行動の推測は困難です。

 そのため、フロレシエンシスの起源をめぐっては、発見当初に提案されたジャワ島というかスンダランドのホモ・エレクトス(Homo erectus)の子孫とする見解とともに、エレクトスよりもさらに祖先的、つまりアウストラロピテクス属的な特徴を有する分類群の子孫ではないか、との見解も一方の有力説として認められているように思います(関連記事)。じっさい、エレクトスよりも祖先的なホモ属がアフリカからユーラシアへ拡散していたことを示す証拠が蓄積されつつあり(関連記事)、後者の見解を無視することはとてもできないと思いますが、私は前者の見解の方を支持しています。

 この研究は有限要素分析を用いて、フロレシエンシスにおける摂食生体力学を検証します。この研究はフロレシエンシスの正基準標本(LB1)の復元を用いて、チンパンジーの筋力から調整された咀嚼負荷が、第三小臼歯と第二大臼歯のシミュレーションに適用されました。ミーゼス応力とひずみデータが、チンパンジーおよび現代人およびアウストラロピテクス属と比較されました。わずかな例外を除いて、LB1の微小ひずみの程度は、現代人で観察されたひずみの上昇と類似しており、一部区域ではチンパンジーのようなひずみ水準の増加を示します。

 したがって、LB1はほとんどのアウストラロピテクス属との比較において相対的に弱く、現代人とより一致しているようです。臼歯の咬合中に力の乱れが観察され、顎関節脱臼の危険性から、力強く噛む能力が低下した、と示唆されます。これらの結果は、頭蓋顔面の華奢化の現代人的モデルを裏づけ、ホモ・フロレシエンシスの食性がより柔らかい食料へと転換していったことを示唆するかもしれません。この研究は、摂食生体力学の観点からフロレシエンシスの派生的特徴を示唆しており、フロレシエンシスの祖先的と考えられている特徴は、島嶼化による形態縮小と関連しているのかもしれません。


参考文献:
Cook RW. et al.(2021): Evaluating the craniofacial feeding biomechanics in Homo floresiensis using the finite element method. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

加藤真二「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P27-31)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 近年、古代ゲノム研究が飛躍的に発展しており、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部についても、草原地帯(関連記事)やアジア東部(関連記事)の包括的な研究が提示されました。華北で遺伝的に確認されている最古の現生人類(Homo sapiens)遺骸は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃(関連記事)の現生人類(Homo sapiens)男性1個体で(関連記事)、この個体はユーラシア東部というかアジア東部基層集団の一員と推測されています。つまり4万年前頃には、アジア東部現代人の祖先がすでに華北に存在した可能性は高そうです。本論文は、このアジア東部基層集団の存在を示す可能性がある、華北の海洋酸素同位体ステージ(MIS)3大型石器インダストリーを取り上げています。

 大型石器インダストリーとは、礫器(PaleoAsia mode C1)を中心として、不定形で粗雑なスクレイパー(PaleoAsia mode D1)などの剥片石器を組成するインダストリーです。礫器・剥片石器群(PF群)、長型石核石器(Long core tool:LCT:PaleoAsia mode E1)を有する礫器・剥片石器群(PFL群)、礫器を多く有する鋸歯縁石器群(DP群)などがこれに相当します。これらの大型石器インダストリーは、中国南半部の長江流域・華南東部などで盛行する、と知られています。一方、中国北半部、とくに華北地方南部の嵩山東麓地区を中心に、若干の大型石器インダストリが見られます。


●華北の大型石器インダストリー

 河南省織機洞8・9層は、嵩山東麓の丘陵地帯に所在する洞窟遺跡です。第8層の上に堆積する第7層の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代(49700±5760年前)や花粉分析により、温和で比較的乾燥した温帯草原環境が復元されたことから、MIS3初頭の段階と考えられ、56000~50000年前頃と想定されます。遺跡付近の河床で採集された、石英砂岩の礫を多用する礫器・剥片石器群(PF群)が出土しましたが、少数(第8層では75個、第9層では27個)です。第7層からは、鋸歯縁石器群(3574個)も検出されています。

 河南省方家溝5・6層および8・9層は、織機洞から南西へ30kmの地点に所在する開地遺跡です。主要な石器群である6層下面に開口した溝状遺構(G1)出土石器群(6050個)の上下の層位から、石英砂岩・石英岩の石核・礫器を有する少数の礫器・剥片石器群(PF群)が出土しました(5層では13個、6層では49個、8層では40個、9層では96個)。両者の間に位置するG1出土石器群は石英製鋸歯縁石器群(DQ群)です。5層は放射性炭素年代測定による較正年代で41887~40810年前と42168~41269年前、9層はOSで56400±3500年前と推定されています。また花粉分析では、5・6層はキク科・ヨモギ属とアカザ科が繁茂する草原環境と復元され、気候の乾燥寒冷化が進むと推測されました。一方、8~9層は、キク科・ヨモギ属とアカザ科の草原と落葉広葉樹、針葉樹林が見られる温暖湿潤環境と復元されています。

 山西省下川富益河圪梁地点中文化層は、太行山脈南端にあたる中条山脈の山間盆地に位置する開地遺跡です。細石刃石器群(MB群)、台形様石器、ナイフ形石器を有する石器群(TB群)を含む、上文化層の下に堆積する褐赤色亜粘土層(中文化層)に包含される少量の石器群が確認されます(34個超)。石英砂岩製の礫器・石核・剥片とともに、石英岩製のノッチ・ベックをもつDP群と見られます。年代は放射性炭素年代測定の非較正年代では36200年前頃で、下川旧石器後期文化初期段階(較正年代で43000~39000年前頃)に相当すると考えられます。


●華北の大型石器インダストリーの荷担者

 このようにわずかな事例ですが、華北南部ではMIS3の較正年代で56000~50000年前頃から40000万年前頃にかけて、大型石器インダストリーが確認されます。上述のように、大型石器インダストリーは中国南半部の長江流域・華南東部などで盛行します。MIS5~3にかけて長江流域では、犀牛洞や黄龍(Huanglong)洞や棗子坪や水湾や烏鴉山や小河口など、また華南東部では、大梅下文化層や船帆洞上・下文化層や宝積岩などが挙げられ、大型石器インダストリーがこれらの地域で展開する、と確認できます。このため、華北地方にみられる大型石器インダストリーは、中国南半部の人類集団が荷担したもので、その移動・拡散に伴って華北に持ちこまれた、と推定できます。つまり、MIS3の時期には数度にわたり、中国南半部の集団が、大型石器インダストリーをもって中国北半部へ北上・拡散したと考えられます。問題となるのは、中国南半部から華北へ移動してきた大型インダストリーの荷担集団が何者だったのか、ということです。

 上述の長江流域石器群のうち、湖北省北部の鄖西(Yunxi)県から25kmに位置する黄龍洞第3層(103700±1600~79400±6300年前)では、礫器・剥片石器群(PF群)とともにシャベル型門歯を含む現代型新人の歯化石(鄖西人)が出土しています。また、中国南半部では、113000~100000年前頃と推定されている広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)や、10万年以上前と推定される咁前洞や、12万~7万年前頃と推定される陸那(Luna)洞などで、かなり古い現生人類化石が検出されています。

 しかし、その理化学年代は、しばしば過度に古い年代が測定される場合もある鍾乳石を試料としたウラン系列年代です。このため、年代については、さらなる検証が必要で、MIS3の前半期における石器群の荷担者については、現時点で不明です。じっさい、おそらく本論文脱稿後の公表となる研究では、黄龍洞は35000年前頃以降、陸那洞はおおむね完新世と推定されており(関連記事)、本論文の懸念は妥当だったと言えそうです。一方、華北最古の現生人類化石である4万年前頃の田園洞人や、中国南半部で最古の後期旧石器文化と考えられる、43500年前頃以降となる雲南省硝洞(Xiaodong)6層の石器群(石斧をもつ礫器・剥片石器群:PFAX)は、現生人類の所産だった可能性が高そうです。


●華北地方における現生人類集団の出現と拡散

 華北地方の大型石器インダストリーの年代に注目すれば、織機洞8・9層、方家溝8・9層の56000~50000年前頃と、方家溝5・6層、下川富益河圪梁地点中文化層の4万年前頃という2つの年代が見られます。このうち56000~50000年前頃は、MIS3cの比較的温暖な湿潤期に相当します。一方、4万年前頃は、ハインリッヒイベント(HE)4もあり、比較的寒冷・乾燥化した時期です。このため、環境変化による居住可能領域の拡大などとは別の解釈が必要とされます。むしろ、MIS3においては、人口増などの理由から中国南半部の集団の北上圧力が常に高かった、と解釈できそうです。たまたま、考古学的に把握されたのが、上述の2つの年代だっただろう、というわけです。

 上述のように、アジア東部基層集団の現生人類(田園洞人)が、4万年前頃には、北緯39度40分まで北上している。また、同じく4万年前頃以降、中国北半部の主体的な石器群であった鋸歯縁石器群グループに、石刃・縦長剥片や典型的な掻器・彫器など、上部旧石器的な道具・装身具・磨製骨角器・黒曜石等の遠隔地石材の利用など、いわゆる現代的行動様式が見られるようになります(関連記事)。また、華北地方の北端にある泥河湾盆地(The Nihewan Basin)に所在する、較正年代で5万~4万年前頃となる河北省西白馬営では、典型的な鋸歯縁石器群(D群)とともに、現代的行動様式と解釈できる初源的な磨製骨器や火の制御の痕跡が検出されています。

 大型石器インダストリーの動きと以上のような中国北半部の石器群の様相をもとにすれば、MIS3の後半期、アジア東部基層集団の現代型新人が大型石器インダストリーを荷担して、中国南半部から北上し、中国北半部、とくに華北地方に拡散していく、と考えられます。その過程で、華北地方に鋸歯縁石器群を荷担する在地集団(古代型「新人」?)と接触して、鋸歯縁石器群を受容し、荷担するようになります。西白馬営の鋸歯縁石器群も、アジア東部基層集団の現生人類が残したと考えられます。また、下川富益河圪梁地点中文化層の礫器をもつ鋸歯縁石器群(DP群)は、アジア東部基層集団が鋸歯縁石器群を受容するさいに出現した、大型石器インダストリーと鋸歯縁石器群のハイブリッドともいえる石器群かもしれません。較正年代で4万年前頃には、鋸歯縁石器群を荷担したアジア東部基層集団が、在地集団と置換したと考えられます。

 このように、華北地方の大型石器インダストリーに注目し、その動向を見ると、大型石器インダストリーはMIS3に相当する較正年代で56000~40000年前頃に華北地方南部で見られる、と確認されました。中国南半部での現生人類の出現と拡散状況はまだ詳細不明ですが、中国南半部で後期(上部)旧石器時代が開始される43500年前頃以降は、アジア東部基層集団が大型石器インダストリーを荷担した、と想定されます。アジア東部の後期更新世人類遺骸は少ないので、石器分析からの拡散経路の推測に依拠せざるを得ないところが多分にあります。今後、堆積物のDNA解析が進めば、石器からの推測とは異なる様相の人類集団の拡散や置換が明らかになるかもしれません。


参考文献:
加藤真二(2021)「華北におけるMIS3の大型石器インダストリー」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P27-31

国武貞克「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築」2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-20)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 アジア中央部西部の初期上部旧石器(IUP)は、アルタイ地域と比較して、大型石刃生産技術にルヴァロワ(Levallois)技法の影響が少ない点や尖頭器の形態組成に違いがあるなど、部分的には地域的な特徴を示します。しかし、大型石刃と小石刃と尖頭器の生産という3セットを基本とする石器群で、アルタイIUPと共通する石器組成と技術組成を示す、と明らかになりました。そのインダストリーは中部旧石器時代のオビ・ラフマティアンから連続的に成立したと考えられるので、アルタイIUPの起源として、アジア中央部西部における中部旧石器時代のオビ・ラフマティアン(Obirakhmatian)を想定できます。

 さらに、アジア中央部の西部と東部、およびアジア北部のIUP期の石器群をユーラシアIUP石器群と概括し、その展開がユーラシア東部で追跡されました。その結果、2020年の日本列島中央部における野外調査により、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島の後期旧石器時代初頭に到来した証拠と見られる石器群を新たに把握できました。これは、ユーラシアIUP石器群の荷担者とみられる現生人類(Homo sapiens)によるユーラシア北回りの拡散が、日本列島に及んでいた可能性を示唆します。


●ユーラシアIUP石器群の特徴

 アルタイ地域を中心としたアジア中央部東部からアジア北部にいたるIUP石器群は、その組成と製作技術に高い斉一性が指摘されています。一方で、同様の石器群がウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟で確認されており、その石器組成は下層から上層までよく類似しています。アジア中央部西部でオビ・ラフマティアンと呼ばれるこのインダストリーについては、全て中部旧石器時代前半に帰属するとする見解が示される一方で、再発掘調査の結果IUP期にまで継続すると指摘されるなど、近年位置づけが流動化しています。

 そこで、アジア中央部西部における確実なIUP石器群を把握するため、タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓に立地するフッジ遺跡の本格的な発掘調査が、2019年10月~11月に実施されました。その石器組成は、10cm前後の大型石刃を主体とし、三角形剥片による未調整の尖頭器が伴い、小石刃(幅1cm前後)も出土しました。約4000点の石器が地表下6.5~3.5mの3mの間で検出され、第1~第4文化層の4枚の文化層が識別されました。地床炉から採取した木炭試料の放射性炭素年代測定の結果、較正年代では、第1文化層で42135~41255年前頃、第3文化層で43024~42438年前頃と47329~45577年前頃と推定されており、年代値は層序堆積と整合しています。

 2019年の発掘調査により得られたフッジ遺跡の新たな年代値から、おそらくIUP期の単純石器群を把握できたと評価されます。第3文化層の年代(47329~45577年前頃)はアジア中央部西部におけるIUP期の初源に近く、以後の第3文化層の43024~42438年前頃と第1文化層の42135~41255年前頃という年代は、この地域におけるIUP期石器群の継続性を示しているようです。石器組成と技術組成については、第1~第3文化層において大きな変化は認められませんでした。

 石器製作技術では、大型石刃はルヴァロワ並行剥離による平面的な石核消費に加えて、半円周(亜プリズム)型、小口面型など立体的な石核消費が目立ちます。尖頭器は、典型的なルヴァロワ型尖頭器も少数組成しますが、多くは求心剥離石核から剥離された斜軸剥片を素材とするものと、幅広の尖頭形石刃を素材とするものが主体的に見られ、長さが6~7㎝前後で未調整である点に斉一性が見られます。小石刃核としては、末端が肥厚した大型石刃や縦長剥片を素材としたいわゆる彫器状石核(burin-core)が特徴的でした。二次加工石器の詳細は現在調査中です。

 これらの知見から、オビ・ラフマート洞窟の年代に関わらず、オビ・ラフマティアンがアジア中央部西部のIUP期にまで継続することは、タジキスタンのフッジ遺跡の発掘調査により確認できた、と言えそうです。天山・パミール地域を中心とするアジア中央部西部では、アルタイIUPと石器組成及び石器製作技術が共通する石器群はアルタイ地域より年代的に先行するとともに、それと同時期にも展開していました。このため、アルタイIUPに加えて、むしろ核心であるアジア中央部西部におけるIUP石器群を合わせて一体として把握し、ユーラシアIUP石器群と呼称します。

 アルタイIUPは、ルヴァロワ技法による石刃生産技術が特徴とされますが、それは中部旧石器時代にルヴァロワ・ムスティエ文化(Mousterian)が発達したアルタイ北麓ならではの特徴です。より広域に見渡すと実態はそれに限定されず、ルヴァロワ技法によらない平面剥離型や小口面型や各種の立体剥離型など、多様な石刃生産技術が同居します。アジア中央部西部のうちフッジ遺跡やジャル・クタン遺跡などIUP期に帰属するとみられる石器群には、天山・パミール地域における中部旧石器時代の非ルヴァロワ・ムスティエ文化伝統を背景にして、立体剥離型による亜プリズム型、大型分割礫片を素材とする小口面型、中部旧石器的な平面剥離型のいずれもが認められます。

 タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓は、集中的な資料調査により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)7から続く石刃を特徴とするオビ・ラフマティアンが普遍的に見られる、と明らかになっていますが、編年ではその最終末段階がフッジ遺跡と推定されていました。この推定は、2019年の発掘調査により放射性炭素年代値から裏づけられた、と言えそうです。アルタイIUP石器群においても、ルヴァロワ型石刃生産技術に限定されず、多様な技術が同時に発揮されています。このため、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術は、立体型・平面型・小口面型の3様相の共存を特徴する点が重視されるべきです。

 さらに尖頭器の形態組成においても、ルヴァロワ型尖頭器、未加工の斜軸剥片(つまり斜軸尖頭器)、斜軸剥片に二次加工を施したムスティエ型尖頭器、寸詰まりの尖頭形石刃の4種が概ね共通して見られます、このうちいずれかが卓越するかにより、石器群間の違いが際立ちます。尤も、尖頭形石刃と尖頭器の違いは定義上の長さの違いでしかないため、実態としては同一視されています。ここで重視すべきは、尖頭器の形態組成の違いの根底には、ルヴァロワ技法がどの程度その技術的な基盤を構成するかにより起因することがあり、石刃の形態と同様に、アジア中央部西部における中部旧石器時代のルヴァロワ技法の比率の低さと関係している、と見られることです。すでにフッジ遺跡の組成の評価で指摘されているように、アジア中央部各地における中部旧石器時代終末段階の技術様相の多様性が表出していると考えられます。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来説とそれへの反対説

 日本列島の石刃の起源については、後期旧石器時代初頭の石刃石器群の類例が必ずしも多くないことあり、まだ定まった理解がありません。日本列島の後期旧石器時代最初期に小型剥片石器群が先行し、やや遅れて関東地方を中心に石刃石器群が現れる現象の解釈について、石刃の大陸伝播説と日本列島自生説のどちらかは、日本の旧石器研究における長年の課題でした。その後、現生人類の渡海技術を前提にしたMIS3における日本列島への現生人類の拡散を踏まえることで、石刃石器群の大陸伝播説は一般的な理解となります。

 ただ、具体的にユーラシア大陸のいかなる文化段階のものが流入したのかまでは、議論の対象となりませんでした。しかし、恐らくアルタイIUPの概要が整理されて、ユーラシア旧石器研究が日本旧石器研究に参照され始めたことが契機となったため、日本列島における石刃石器群の起源を具体的にユーラシアIUP石器群に見定めた見解が、2015年3月に2件同時に発表されました。ともに日本列島最古の石刃石器群である長野県佐久市八風山II遺跡の起源についての議論です。

 一方は「尖頭石刃や小口面タイプの石刃核を含む」点に着目し、ユーラシア中央部を東西に横断して分布するIUP石器群であるエミラン(Emiran)と関連させました。較正年代で4万年前頃の年代と合わせて、石器が似すぎており「他人の空似」と決めつける根拠もない、と指摘されています。この視点は継承され(関連記事)、アジア東部への現生人類到来に伴う石刃石器群の系譜が、各地の在地の石器群との関係性から明確化されます(関連記事)。

 もう一方はやや視点が異なり、小口面剥離によるY字稜をもつ石刃生産技術が、打面の90度転回に特徴づけられる半転型の石核消費でもあるとして、立体的な石核消費を特徴とする上部旧石器的な石刃生産技術とは一線を画した石核消費だった、と評価する見解です。つまり、石核消費が中部旧石器から上部旧石器への移行期的であるとの評価ですが、この見解では、石刃石核消費の特徴に加えて、量産されたY字稜をもつ基部加工尖頭形石刃石器がルヴァロワ型尖頭器の外形を模倣した例として、ユーラシアIUP期の石刃石器群との関連が示唆されていまする。やや不鮮明ですが、大型石刃を石核素材として小石刃生産の可能性がある、彫器状石核の存在も指摘されています。

 これらユーラシアIUP石器群からの影響関係を考慮する見解に対して、石刃生産技術にルヴァロワ技法が認められないため、ユーラシアIUP石器群とは類似しないとして、その影響関係を明確に否定する見解もあります。つまり、「他人の空似」というわけですが、ユーラシアIUP石器群の基本構成と八風山II遺跡の資料の実態を踏まえていない表層的な批判に過ぎなかったことは、3名の連名著者らも認めるところだろう、と本論文は指摘します。その結果として、日本列島の石刃石器群の由来を収斂進化説にもとめる理解に陥った、というわけです。

 八風山II遺跡が仮に日本列島最古の石刃石器群であったとしても、この遺跡の場の性格上、最古の石刃生産技術の全てが表現されていると評価するのは難しい、と考えられます。なぜならば、幅約7mの痩せ尾根上において、基盤の崖錐性堆積物に含まれる黒色安山岩を抜き取り、小口面型石核消費により基部加工尖頭形石刃石器の量産に専従した地点だからです。特定の目的のための作業地点で、同時期の全ての石刃生産技術が発揮されたとは考え難い、というわけです。

 たとえば、1点のみ含まれる打面の細部調整が顕著な和田峠産黒曜石製の石刃など、この地点には見えていない異なる石刃生産技術が存在したことは明らかです。そのため、八風山II遺跡の石刃生産技術が小口面型の単相であることから、ユーラシアIUP石器群の大型石刃生産技術の多様性が認められないとして、その関係を否定してしまうことは難しいだろう、と考えられます。すでに指摘されているユーラシアIUP石器群との類似点も、要素としては部分的に認められることも確かです。

 そこで、同じ八風山の山中にある香坂山遺跡が取り上げられます。香坂山遺跡は上信越自動車道八風山第2トンネルの立坑地上施設の建設にともない1996年に発見され、1997年に長野県埋蔵文化財センターにより発掘調査されていました。八風山II遺跡よりも80m標高が高く1140mで、周囲から屹立した幅広い平坦な尾根に立地し、黒色安山岩の散布域からは南東に約600m外れています。1997年の長野県調査では、施設建設範囲において地表下5.5mという深さでAT下位から中型剥片石器を主体とする4ブロックが検出され、そこから約40m離れた斜面下方に設定された幅2mの確認トレンチからは、地表下2.7mの同じくAT下位から長さ14cmと11cmで幅が3㎝以上の大型石刃2点と、長さ12cmの大型石刃が剥離された石刃核1点が出土していました。石刃の形態は長方形で先細りせず、石刃核は亜プリズム型で小口面型ではありません。

 さらに、IUP期のレヴァントからアジア北部にまで分布する横断面取石核(truncated-faceted pieces)の範疇で理解できる小石刃核も同じトレンチから出土していました。較正年代では36000~35000年前頃と推定とされ、八風山II跡と同時期の石刃石器群の存在が、香坂山Ib石器文化と命名され、報告されました。確認トレンチの範囲は記録保存の対象とならず、その存在が確認された石刃石器群の包含層は現状保存されました。このため、片鱗のみで確証がもてないものの、香坂山遺跡の確認トレンチ周辺には、八風山II遺跡とは異なる技術と石器組成をもつ石刃石器群が展開し、日本列島の石刃の起源を示唆する未知の情報が埋没しているのではないか、と考えられます。


●香坂山遺跡の学術調査

 日本列島最古の石刃石器群の調査のため、2020年8月から9月に、1997年の長野県調査で石刃が出土した確認トレンチ周辺の国有林と高速道路施設地において、学術目的の発掘調査が実施されました。7ヶ所のトレンチ合計約135㎡を3次にわけて発掘したところ、遺跡が立地する幅約40mの尾根のうち、中心軸から南半に石器包含層が広がる、と確認できました。水洗選別試料を含めて800点以上の石器が、1997年の長野県調査と同一とみられる層準から出土しました。

 2020年の学術調査地点では、地表下約2mまで浅間山に由来する軽石層が重層し、その下で30~50cmの斜面崩落土層が堆積し、それにパックされる形で3万年前頃の姶良Tn火山灰層が純層で堆積していました。石器は、その約40~50cm下位を中心に出土しました。石器包含層は層厚が約40cmの軟質な暗色帯で、その中位から下位にかけて石器が包含されていました。この暗色帯の上部には白色と赤色の径2mm程度の小さなパミスが包含されており、これが八風山II遺跡で確認された八ヶ岳第4軽石(較正年代で34000年前頃)となるのかどうか、分析中です。石器製作地点は1次調査区で1ヶ所、2次と3次調査区でそれぞれ2ヶ所ずつ検出されました。その内容は、8月調査の第1次調査区で小石刃生産地点、第2次調査区で尖頭形剥片の生産地点、9月調査の第3次調査区で大型石刃生産地点と小石刃生産地点、および尖頭形剥片の生産地点が検出されました。

 石器は、長さ10cm以上で幅3cm以上の大型石刃、幅1cm前後の小石刃、尖頭形剥片が出土しました。尖頭形剥片は長さ5cm上の斜軸剥片で、定義的な斜軸尖頭器とも言えます。それぞれの石器が剥離された石核も出土したため、製作技術も判明しました。大型石刃は、60度程度の小さい打角をもつ、平面剥離型の両設打面の石刃核から剥離されていました。小石刃は、末端が肥厚した大型石刃や厚手の縦長剥片を石核素材として剥離され、彫器状石核が残されます。尖頭形剥片は、求心剥離石核から規格的に剥離されていました。

 大型石刃生産については、1997年の長野県調査で立体剥離型の亜プリズム型石刃核が出土しており、それとは異なる技術と判明しました。さらに、石核は残されていませんでしたが、石刃の側面に石核側面が取り込まれた例から、小口面型による石刃生産の存在も想定されました。このため、大型石刃生産技術は、中部旧石器的な平面剥離型(2020年学術調査)と上部旧石器的な立体剥離型(1997年長野県調査)、中間的な小口面型(2020年学術調査、ただし石核はありません)の3種の存在が確認できました。この石刃生産技術の多様性は、ユーラシアIUP石器群と共通すると評価できそうです。

 また、小石刃生産の石核素材となった大型石刃や厚手の縦長剥片は、大型石刃の剥離過程で生産され、小石刃核として適した素材が選別されており、アルタイIUPにおいてモードBがモードAに取り込まれている状況を確認できました。小石刃生産による大型石刃素材の彫器状石核は、ユーラシアIUP石器群の示準石器とされています。較正年代は現時点で、中央値の平均が36800年前となることから、日本列島最古の石刃石器群と判明しました。


●ユーラシアIUP石器群の列島到来の可能性

 大型石刃と小石刃と定義的な斜軸尖頭器の3セットに特徴づけられる香坂山遺跡の石刃石器群の由来については、石器組成と技術組成が上旬のようにユーラシアIUP石器群と共通することから、何らかの影響を考慮しなければなりません。以前の見解では、武蔵野台地X層の石刃出土遺跡を大陸の例と比較する中で、水溝洞やトルバガやワルワリナ山に共通して伴っている、「長三角形剥片を利用した尖頭器」、「両設打面の扁平石刃核」、「円盤形石核」が立川ローム層第I期の石刃出土遺跡には伴っていないことが、相違点として指摘されています)。日本列島最古の石刃石器群である香坂山遺跡は、まさにこの3点が大型石刃に伴って出土した点において、大陸の初期の石刃石器群との共通性を改めて指摘できます。換言すると、これらにより、香坂山遺跡の石刃石器群はユーラシア大陸の初期石刃石器群に起源が求められる、と理解できます。

 その年代から、ユーラシアIUP石器群そのものというよりも、その系譜をひく前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、略してEUP)の石器群をアジア東部に想定して、それが較正年代で36800年前頃までに日本列島に流入したと考えられるでしょう。調査は継続中なのでまだ確定できませんが、細部にわたる共通性から、現時点では移住を伴う伝播と想定するのが妥当なようです。アジア東部のユーラシアIUP石器群の確実な例は、中国寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou)遺跡が挙げられ、較正年代では41000年前頃と推定されています。韓国の較正年代で42000~40000年前頃とされる石刃石器群も、その影響下にあった可能性が考えられます。韓国の初期石刃石器群については、ユーラシアIUP石器群にみられる中部旧石器的な様相、すなわち平面剥離型の大型石刃生産技術や中部旧石器的な尖頭器生産などの有無が、今後の焦点となりそうです。

 日本列島内部では、香坂山遺跡以降は、八風山II遺跡や武蔵台遺跡Xb層など、基部加工尖頭形石刃石器を主たる石器とする石器群が、較正年代で15000年前頃程度の年代差で後続します。このため、香坂山遺跡で確認されたユーラシアIUP石器群の系譜は日本列島内において途中で途絶せず、その後の石刃石器群の起源になった、と評価できます。八風山II遺跡に年代が500年前とわずかではあるものの先行することからも、香坂山遺跡は、較正年代で36000~35000年前頃以降に関東・中部地方で一般化する、小口面型石刃生産による基部加工尖頭形石刃石器に特殊化する以前の石刃石器群と理解できます。このように、ユーラシアIUP石器群の系譜が現生人類の後期拡散の流れにより日本列島にまで到達しており、その最初期の足跡が香坂山遺跡に表れている可能性を指摘できます。しかし、その証明には、大型石刃や尖頭器や小石刃など、両者に共通する石器の詳細な技術上の比較検討が必要です。


●八風山で日本列島最初期の石刃石器群が見つかる理由

 ユーラシアIUP石器群の系譜が、なぜ八風山という日本列島中央部の山中に孤立的に残されたのか、との疑問が生じます。しかし、これについては、ユーラシア中央部におけるIUP期の遺跡立地を参照すると、それほど特異にも見えません。ユーラシア中央部のIUP期遺跡群は、フリント(燧石)や黒曜石と比較するとやや粗粒な石質である堆積岩や火成岩が、大型角礫の形状で産出する石材産地の近傍に立地します。またIUP期遺跡群は、標高1000~1300m程度の比較的標高の高い山中に遺跡が立地する傾向があります。

 この立地傾向は、香坂山遺跡にもそのまま当てはまります。ユーラシアIUP石器群の遺跡が共通してこのような立地となる背景については、現在のところ以下の3点が想定されます。第一に、やや粗粒の大型角礫は、その石材利用可能性として、おそらく大型石刃の生産に適していました。第二に、大型石刃生産技術に平面剥離型が採用されているため、中部旧石器的な石器製作システムが残存していました。このため、石材の運用が中部旧石器時代と大きく異なるものではなかった可能性もあり、結果として石材産地近傍に拠点を置いて継続的に入手する必要がありました。第三に、標高の高さは狩猟対象獣などの生業資源との関りによるものと推定されます。

 恐らくユーラシアIUP石器群の荷担者たちは、これらの条件が満たされる資源環境に限定的に適応して遺跡を残していたため、面的な遺跡分布は形成せず、特定地域に偏在しながら広域に展開していった、と推定されます。そのため、仮に朝鮮半島から日本列島にこの系譜が流入したとしても、九州や近畿地方にこれらの遺跡が見つからず、突如として八風山に出現したように見える理由も理解できます。そもそもユーラシアIUP石器群は、活動地点を面的に展開することができず、資源環境が同一条件に整う特定地域に偏在して展開し、それを求めて拡散しており、日本列島においては八風山がその条件を満たしていた、というわけです。逆に言えば、八風山に限らず、上記の条件を満たす地域があれば、同様の石器群が残されている可能性もあるでしょう。


●まとめ

 日本列島における石刃石器群の起源という日本旧石器研究の長年の課題に対して、ユーラシアIUP石器群の系譜が日本列島に流入した可能性を、香坂山遺跡の石器群に見出せました。この仮説の背景には、ユーラシア北回り経路で拡散した現生人類の後期拡散があり、そのアジア東部における終着点として、日本列島が位置づけられることになります。日本列島の後期旧石器文化はその開始期から、ユーラシア旧石器文化の活力に組み込まれていた、とも言えそうです。日本列島を含むアジア東部におけるユーラシアIUP石器群の事例は、今後少しずつ増加していくことが予測され、それらにより本論文の仮説が検証され、より具体的な歴史像へと発展することが望まれます。


参考文献:
国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症への悪影響に関する研究(Niknamian et al., 2021)が公表されました。昨年(2020年)から今年にかけての新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の世界的大流行は、かなりの感染率と死亡率をもたらし、現在も多くの犠牲者を出しつつあります。SARS-CoV-2により起きる症状は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれ、無症状もしくは軽症から呼吸不全への急速な進行まで、症状が大きく異なります。

 SARS-CoV-2は、哺乳類や鳥類で病気を引き起こすウイルスの一種です。ヒトの場合、コロナウイルスの始まりでは、風邪の一部の症例など、通常は軽度の気道感染症が起きます。SARSや MERSやCOVID-19など、より稀な形態では致命的になる可能性があります。症状は他の種では異なります。ニワトリでは上気道疾患が、ウシやブタでは下痢が起きます。コロナウイルスはオルトコロナウイルス亜科で構成され、そのゲノム規模は約27000~34000塩基対で、既知のRNAウイルスでは最大です。

 COVID-19は最近ますます深刻化し、呼吸器や肝臓や腎臓や心臓などが標的さなっています。SARS-CoV-2は一本鎖プラスRNAウイルスで、mRNAに類似しているため、宿主細胞によって即座に翻訳されます。RNAウイルスにおける組換えは、ゲノム損傷に対処するための適応のようです。組換えは、同じ種ではあるものの系統が異なる動物ウイルス間で稀にしか発生しないかもしれません。結果として生じる組換えウイルスは、時にヒトにおいて感染症の発生を引き起こすかもしれません。RNAウイルスは変異率がひじょうに高く、そのためRNAウイルスによる病気を予防するための効果的なワクチンを作ることが困難です。こうして生まれた組換えウイルスが、ヒトに感染症を引き起こしました。

 1990年代後半以降、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のDNA研究が可能になり、2010年代に大きく進展しました。ネアンデルタール人系統と現生人類(Homo sapiens)系統の推定分岐年代に関しては、75万年前頃から40万年前頃まで大きな幅があります(関連記事)。昨年、COVID-19の重症化をもたらす3番染色体上の遺伝子が、ネアンデルタール人に由来する、との研究が公表されました(関連記事)。その後、同じ研究者たちが、12番染色体上のネアンデルタール人由来のハプロタイプはCOVID-19の重症化危険性を低下させる、との研究を公表しました(関連記事)。

 今では、ネアンデルタール人と現生人類との混合は広く認められています(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムで、やや地域差はあれどもネアンデルタール人由来の領域の割合は類似している、と推定されており、当初は1~4%(関連記事)、後に1.5~2.1%(関連記事)と推定され、さらにその後で、非アフリカ系現代人の祖先集団と混合したネアンデルタール人とより近いと推測される、クロアチアで発見されたネアンデルタール人の高品質なゲノムデータでは、1.8~2.6%と推定され、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方がその割合は高い、と示されています(関連記事)。

 ただ、当初、サハラ砂漠以南の現代アフリカ人のゲノムにはネアンデルタール人由来の領域はほとんどない、と推定されていましたが、昨年公表された研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人のゲノムにも、現代ヨーロッパ人やアジア人の1/3程度の割合でネアンデルタール人由来の領域がある、と推定されています(関連記事)。同時に、現代ヨーロッパ人やアジア人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は1.6~1.8%と推定され、以前の推定よりもヨーロッパ系現代人とアジア東部系現代人の差が小さくなっており、合計でネアンデルタール人のゲノムの約40%が現代人に継承されている、と指摘されています。

 皮膚や髪や爪のタンパク質成分であるケラチンの生成に関わる現代人の遺伝子は、とくにネアンデルタール人からの遺伝子移入の水準が高い、と推測されています。たとえば、アジア東部系現代人の約66%は、ネアンデルタール人から遺伝子移入されたPOUF23L多様体を、ヨーロッパ系現代人の70%はネアンデルタール人から遺伝子移入されたBNC2アレル(対立遺伝子)を有します。また、脂質異化作用過程に関わる遺伝子でも、ヨーロッパ系現代人ではネアンデルタール人由来の多様体の頻度がアジア東部系現代人よりもずっと高い、と指摘されています(関連記事)。これに関しては、非アフリカ系現代人の祖先が各地域集団に分岐した後の選択の可能性も指摘されています。

 ネアンデルタール人由来の遺伝的多様体には、上述のCOVID-19重症化をもたらすものなど、生存の危険性を高めるものもあります(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類との混合については、上述の非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人からの遺伝的影響の地域差と関連して、非アフリカ系現代人全員の共通祖先とネアンデルタール人との混合以外に、非アフリカ系現代人が各地域集団系統に分岐した後に、各系統とネアンデルタール人との間で複数回起きた可能性も指摘されています(関連記事)。また、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やホモ・エレクトス(Homo erectus)も含めて、ホモ属における複雑な遺伝子流動の可能性も指摘されています(関連記事)。

 上述のCOVID-19重症化をもたらすネアンデルタール人由来の遺伝的多様体の研究でも地域差が見られ、ネアンデルタール人由来と推測されるCOVID-19を重症化させるリスクハプロタイプの頻度は、アジア南部で30%、ヨーロッパで8%、アジア東部ではほぼ0%に近い、と示されています。最も頻度が高い国はバングラデシュで、63%の人々がネアンデルタール人のリスクハプロタイプを少なくとも1コピー有しており、13%の人々がこのハプロタイプをホモ接合型で有しています。

 本論文は、COVID-19重症化をもたらすネアンデルタール人由来の遺伝的要因として、ジペプチジルペプチダーゼ4(DPP4)と呼ばれる酵素に注目しています。DPP4は、中東呼吸器症候群(MERS)の原因となる別のコロナウイルスがヒト細胞に結合して侵入することを可能にする、と知られています。COVID-19患者のDPP4遺伝子多様体の新たな分析から、DPP4も、細胞表面のアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)受容体を経由する通常の感染経路に加えて、SARS-CoV-2にヒト細胞への第二の扉を有する、と示唆されています。

 2番染色体上のDPP4関連遺伝子は、ネアンデルタール人と現生人類とで微妙に異なる、と示されています。ネアンデルタール人型のDPP4関連遺伝子は、深刻なCOVID-19患者7885人のゲノムに、対照群よりも高頻度で見られます。SARS-CoV-2感染時のCOVID-19重症化の危険性は、DPP4関連遺伝子のネアンデルタール人型の多様体が、1コピーある場合は2倍に、2コピーある場合は4倍になります。ユーラシア現代人の1~4%は、DPP4関連遺伝子のネアンデルタール人型の多様体を受け継いでいる、と推定されています。アメリカ大陸先住民では、この割合はユーラシア現代人よりも低くなっています。

 また、ネアンデルタール人由来と推定される遺伝子領域に関して、ヨーロッパ系現代人とアジア東部系現代人との比較では、DNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域では大きな違いがないものの、コロナウイルスなどRNAウイルスへの抵抗性を有するタンパク質と関連する遺伝子領域ではヨーロッパ系の方がずっとネアンデルタール人の影響が大きい、と明らかになっています(関連記事)。COVID-19による被害に関しては、もちろん生活習慣や自然および社会環境の影響を重視すべきでしょうが、地域間の遺伝的違いも無視できず、それにはネアンデルタール人由来の遺伝子も関わっている、と考えるべきなのでしょう。


参考文献:
Niknamian S.(2021): The Negative Impact of The Hominin’s Dpp4 Gene Inherited from Neanderthals To Pandemic of Covid-19. Clinical Case Reports and Clinical Study, 3, 1, 101.
https://doi.org/03.2021/1.1032.

大河ドラマ『青天を衝け』第9回「栄一と桜田門外の変」

 今回は安政の大獄の影響を中心とした話となりました。栄一は江戸から一時的に戻った長七郎から政治情勢を聞き、感化されていきます。当時、このように留学や公務などで江戸に行き地方に戻った人々が地元の人々に思想的影響を及ぼしていき、そうした構造はすでに幕末動乱以前にかなりの程度築かれていたのでしょう。まだ栄一の農村部の話と「中央政界」の話とが直接的には接続していませんが、幕末の歴史ドラマとしてなかなか上手い構成になっているように思います。栄一が江戸留学で喜作に先を越されて焦っているところは、青春群像劇的性格が強く出ていて、ドラマとしてなかなか面白くなっています。

 井伊直弼は、安政の大獄を中心とした話だったのに、予想していたよりも出番が少なかったのですが、将軍の家茂とのやり取りや桜田門外の変では見せ場がありました。まあ、井伊直弼は知名度の高い人物ですが、本作では主人公と直接的に関わるわけではないので、桜田門外の変の描写がやや長めだったことからも、優遇されて出番は多かったと言うべきでしょうか。本作の井伊直弼は、自信がなく頼りなさを自他ともに認めており、これまでの大河ドラマで多かったように思われる、大物感溢れる人物像とはかなり異なっていました。この新たな井伊直弼像は、今後の幕末時代劇に影響を与えるかもしれません。井伊直弼とともに徳川斉昭も今回で退場となります。史実に近いのでしょうが、本作の徳川斉昭もこれまでの大河ドラマのように奇矯な人物として描かれており、強い印象を残しただけに、寂しいものです。

九州の縄文時代早期人類のDNA解析

 九州の縄文時代早期人類のDNA解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本列島の現代の人口集団の遺伝的構造は、移住のいくつかの層とその後の混合の結果です(関連記事)。縄文時代は16000~2800年前頃まで続き(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)、「縄文人(縄文文化関連個体)」は日本列島先史時代の先住民でした。「縄文人」に関しては、考古学や人類学や遺伝学で長い研究蓄積があります。

 古代DNA研究は過去の人々の直接的な遺伝的証拠を提供し、近年著しく発展しています。しかし、縄文時代の人口集団間の遺伝的関係に関しては、これまでほとんど、核DNAよりも解析がずっと容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究に基づいていました。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、mtDNAだけで人口集団の遺伝的特徴を明らかにすることには限界があり、近年の古代DNA研究では核ゲノムデータの分析が主流になっています。

 近年では、縄文人の核ゲノムデータも少ないながら提示されており、それは、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前となる男性と女性の2個体(関連記事)、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる男性と女性の2個体(関連記事)、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の2500年前頃となる女性1個体(関連記事)、千葉市の六通貝塚の紀元前2500~紀元前800年頃となる6個体(関連記事)です。

 しかし、縄文時代は南北に長い日本列島で1万年以上前続き、これまでの核ゲノムデータは東日本の縄文時代中期末以降の標本に限定されていました。したがって、縄文人の遺伝的特徴は、少数の標本だけでは完全には表されない、と予想されます。じっさい、mtDNAを用いた以前の研究では、縄文人の地域差が示唆されていました。縄文人の遺伝的特徴を充分に解明するには、縄文時代の広範な地域と年代を網羅したゲノムデータの蓄積が必要です。


●東名貝塚遺跡

 本論文は、佐賀市の東名貝塚遺跡で出土した縄文人のDNA解析結果を報告しています。東名遺跡は有明海の海岸線から約12km離れた、佐賀平野中央部に位置します(図1)。以下、本論文の図1です。
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 東名遺跡は1990年に発見され、1993~1996年に最初の本格的な発掘調査が行なわれ、2003年の工事中に貝塚が偶然発見され、2004~2007年にかけて2回目の発掘調査が行なわれました。東名遺跡は厚さ5m以上の堆積物で覆われており、有機物が保存されていました。東名遺跡は攪乱されることなく保存されていたので、縄文人の生活に関する追加情報を推測できます。放射性炭素年代は、7980~7460年前頃で、縄文時代早期に相当します。東名遺跡は日本列島で最古かつ最大の湿地帯貝塚で、発掘された人類遺骸は、九州の縄文時代では最古となります。

 本論文は、東名遺跡個体の完全なミトコンドリアゲノムと部分的な核ゲノムを報告します。これは、九州の縄文人の遺伝的特徴および縄文時代早期の最初のゲノムに関する初めての報告です。これらの調査結果は、縄文人の地域差と経時的変化の理解のための重要なデータを提供します。東名遺跡では、人類遺骸8個体と、貝塚などで69個の散在する人類遺骸が発見されました。東名遺跡の人類遺骸の保存状態は一般的に悪く、本論文では、2004年の調査で発見され、標本012と命名された保存状態の良好な遊離した右下第一大臼歯がDNA解析に用いられました。標本012は遊離していたので、どの人類遺骸のものなのか、特定できませんでした。標本012の遺伝的データは、他の縄文人(六通貝塚の個体群は対象とされていません)も含めての古代人や現代人と比較されました。


●DNA分析

 標本012のミトコンドリアゲノムの深度は約47倍で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1aでした。標本012のmtHgは、系統的にM7a1aの基底部に位置します。これは、標本012の年代が縄文時代早期と推定されていることと一致します。これまでに分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。東名遺跡の標本012もmtHg-M7a1aだったことから、縄文時代の九州ではmtHg-M7a1aが優勢だった、と示されます。これは、mtHg-N9bが優勢だった東日本とは対照的です。

 標本012の核ゲノムの深度は0.086倍でした。Y染色体とX染色体の読み取りの比率から、標本012は男性と推測されました。標本012のY染色体ハプログループ(YHg)はD1bに分類されましたが、データ不足のためさらなる細分化はできませんでした。標本012では、YHg-D1bを定義する6ヶ所の一塩基多型の変異が確認されましたが、それらがどの変異に基づくのか、補足データでも見つけられませんでした。したがって、断定できませんが、現在の分類ではYHg-D1bはD1a2aになると思います。以下、()内で現在の分類を示します。標本012の2ヶ所の一塩基多型では、YHg-D1b2(D1a2a2)を定義する変異が見つからなかったので、千葉市の六通貝塚の縄文人3個体で確認されているYHg-D1b1(D1a2a1)に分類できるかもしれせん。

 東名遺跡の標本012と遺伝的に近い現代および古代の人口集団が調べられました。主成分分析では、標本012は他の縄文人とクラスタ化し(図4)、本論文で分析対象とされた縄文人全個体が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 外群f3統計では、他の縄文人が遺伝的に標本012と最も近く、それに続くのが、日本人、ウリチ人(Ulchi)、朝鮮人、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)といった台湾先住民、カンカナイ人(Kankanaey)やイロカノ人(Ilocano)といったフィリピン人など、沿岸部および海洋地域のアジア東部人です。f4の結果からも、標本012が漢人よりも日本人やウリチ人や朝鮮人とより多くのアレル(対立遺伝子)を有意に共有する、と明らかになりました。これらの識別特性は、船泊遺跡の縄文人であるF23個体のそれと類似しています。そこで、縄文人の間の共通する特徴が平等に共有されているのか、調べられました。その結果、本論文で分析された検証対象の人口集団のどれも有意なf4値を示さず、これは縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012の全員が、検証対象の人口集団から等しく離れていることを意味します。

 次に、縄文時代人口集団の遺伝的構造が調べられました。f4統計では、どの組み合わせでも有意なf4値は示されませんでした。これは、地理的もしくは時間的に近い縄文人の間での有意な特定の類似性がなかったことを意味します。最尤系統樹でも、縄文人3個体はクラスタ化し、全ての現代ユーラシア東部人およびアメリカ大陸先住民の外群に属する、と明らかになりました。縄文人3個体のうち、標本012の位置づけは60万ヶ所の一塩基多型データと全ゲノム配列データでは不安定で、前者では標本012がF23とIK002の外群に(図5)、後者ではIK002がF23と標本012の外群に位置します(補足図2)。この不一致は、低網羅率のゲノムデータに起因する可能性があります。

 最後に、現代人口集団における縄文人のDNAの割合が推定されました。60万ヶ所の一塩基多型データに基づく系統樹で3回の遺伝子流動事象を想定すると、東名遺跡標本012から日本人およびウリチ人への遺伝子流動が検出されました。全ゲノム配列データを用いた場合、遺伝子流動事象は厳密には推定されませんでした。朝鮮人を人口集団Bとして用いた場合(人口集団Bはf3統計の結果に基づいて選択されました)、f4比検定では日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は9.7%で、これはTreeMix分析の結果に近いものでした。縄文人祖先系統は朝鮮人とウリチ人でそれぞれ5%と6~8%でした。もちろん、これはあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化にすぎず、朝鮮半島に縄文人が拡散して(少なくとも一時的に)遺伝的影響を残した可能性は高そうですが(関連記事)、現代朝鮮人やウリチ人の祖先に縄文人が直接的に遺伝的影響を残したとは限らず、近い世代で共通祖先を有するなど、縄文人と遺伝的に密接に関連する集団が現代朝鮮人やウリチ人の祖先にいることを示している、とも解釈できるでしょう。以下、本論文の図5と補足図2です。
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●考察

 本論文の結果は、縄文人が主成分分析と系統樹で相互にクラスタを形成する、と示唆します。この知見は、縄文文化関連の人々が共通祖先集団に遺伝的に由来する可能性を示唆します。この仮説は、船泊遺跡縄文人で見つかったYHg-D1b(D1a2a)が、東名遺跡標本012でも検出された事実により裏づけられます。なお、船泊遺跡縄文人のYHgはD1b2b(D1a2a2b)とさらに細分化されており、標本012は、上述のようにYHg-D1b1(D1a2a1)の可能性があります。

 これまでに分析された縄文人標本全てで観察されたYHgから判断すると、YHg-D1b(D1a2a)は縄文時代人口集団で一般的だった、と予測されます。興味深いことに、YHg-D1b(D1a2a)を含むYHg-Dは、現代ではおもに、アンダマン諸島やヒマラヤ地域や日本列島などアジアの海や山岳で隔てられた地域に残っています。これらの知見から、YHg-Dは元々広く分布しており、後に孤立した、と示唆されます。海に隔てられた日本列島の地理的環境は、旧石器時代に流入してきた人々とアジア東部大陸部人口集団との間の相互作用を妨げ、その結果として縄文人固有の遺伝的特徴が形成されたかもしれせん。

 縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012では、f4検定と系統樹の結果は、起源の大きな地理的および年代的違いを反映していませんでした。縄文人は共通祖先の子孫ですが、その形成過程はまだ不明です。しかし、その起源は、縄文人のmtHgの分布と23000~22000年前頃となるその分岐年代、および核ゲノム分析における系統発生的な基底部の位置に基づくと、旧石器時代にまでさかのぼります。

 f4検定と系統樹の結果から、祖先的人口集団は系統発生的に3分枝の多分岐だった、と示唆されました。この知見から、縄文人および/もしくはその祖先的集団の分化と拡散は急速だったかもしれず、この分化と拡散の後において、地域的な相互作用は限定的だったか、ほとんどなかった、と示唆されます。さらに、縄文時代には遺伝的構成を顕著に変化させた移住はなく、遺伝的分化は縄文時代を通じて地域化の進展により促進されたかもしれせん。

 現代日本人における、縄文人の代表的なmtHgであるM7aとN9bの割合に基づくと、現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西部縄文人だった可能性があります。しかし、核ゲノム分析は、東名遺跡の西部縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しません。ただ、東名遺跡の標本012では核ゲノムの6.9%しか読めなかったので、結果が不明瞭になっているかもしれせん。船泊遺跡縄文人の研究では、現代日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は10%程度と推定されており、本論文の分析では、縄文人の地域差を明らかにできませんでしたが、古代DNAは縄文人の人口史に独自の洞察を提供する、と明らかになりました。

 本論文の分析結果は、縄文時代早期から後期まで、遺伝的に類似した人口集団間の遺伝子流動が最小限だった、と示唆します。日本列島における孤立と移住と遺伝的浮動の歴史は、縄文人独自の遺伝的特徴を生み出しました。独自の分化を形成した縄文人の間の相互作用へのより高い解像度と追加の洞察を提供するには、広範な地域と年代にまたがる多くの縄文時代人口集団の高品質なゲノムデータの蓄積と、それらできるだけ高い精度のデータを比較対照する必要があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、これまで核ゲノムデータが報告されていなかった年代(縄文時代早期)と地域(西日本)の縄文人の核ゲノムデータの分析結果を提示しており、たいへん注目されます。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されており(関連記事)、他の現代人および古代人との比較で、地理的には北海道から九州まで、年代的には早期から晩期までの縄文人が遺伝的にクラスタ化することは、意外ではありませんでした。

 しかし、縄文人で現代日本人に遺伝的影響を残したのはおもに西日本集団だった、と推測されていたたけに、九州の縄文時代早期の個体(佐賀市東名遺跡の標本012)でさえ、北海道の後期の個体(船泊遺跡のF23)との比較で、現代日本人との遺伝的違いに差が確認できなかったことは、かなり意外でした。本論文の結果から、縄文人が私の想定以上に時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質だった可能性も考えられます。

 ただ、東名遺跡の標本012は、系統樹における位置づけが不安定であることにも示されるように、ゲノムデータの網羅率が低いので、東名遺跡個体群で高品質なゲノムデータが得られれば、また違った結果が示される可能性もあるように思います。また、7300年前頃の鬼界カルデラの大噴火で東名遺跡個体群も含めて九州の縄文人集団は大打撃を受けた可能性があるので、その後で九州も含めて西日本に定着した縄文人集団は、東名遺跡の標本012とも東日本の縄文人ともやや遺伝的に異なっており、現代日本人と遺伝的により近い可能性も考えられます。

 いずれにしても、縄文人の起源も含めて縄文時代の人口史のより詳細な解明には、本論文が指摘するように、時空間的により広範囲の縄文人のゲノムデータが必要になるでしょう。最近、アジア東部の古代DNA研究が大きく進展しており、現時点では、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系統が沿岸部系統と内陸部系統に分岐し、両者の混合により縄文人が形成された、というモデルが、YHg-D1の分布を上手く説明できることからも、縄文人の起源に関して最も説得的だと思います(関連記事)。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

ヨーロッパ最古級となるチェコの現生人類遺骸のゲノム解析

 ヨーロッパ最古級となるチェコで発見された現生人類(Homo sapiens)遺骸のゲノム解析結果を報告した研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。以下、放射性炭素年代測定法の最新の較正曲線(IntCal20)に基づいている年代(関連記事)は、その後に(IntCal20)と示します。

 4万年前頃前後以前のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムは、最近まで3個体分しか得られていませんでした。第一に、完全なゲノムデータが得られた、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(IntCal20)となる男性の左大腿骨は、後のユーラシア人との遺伝的連続性を示しません(関連記事)。第二の個体は北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性個体で、ウスチイシム個体と対照的に、そのゲノムは、現代ヨーロッパ人よりも現代アジア東部人やアメリカ大陸先住民の方と密接に関連しています(関連記事)。第三に、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃(IntCal20)の現生人類標本「Oase 1」からは、部分的なゲノムデータが得られており、後のヨーロッパ人と共有される祖先系統の証拠を示しません(関連記事 )。しかし、Oase 1はこれまでにゲノム解析された他の現生人類よりも多くのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)祖先系統を有しており(6~9%)、これは6世代以内にネアンデルタール人の祖先がいたことに起因します。


●ズラティクン

 本論文は、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群(図1)で1950年に他の骨格要素とともに発見されたほぼ完全な人類頭蓋のゲノム配列を報告します。全ての骨格要素は、洞窟群の頂上の丘にちなんで、ズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体に由来する、と明らかになりました。ズラティクンとは、黄金の馬(アハルテケ)という意味です。考古学的調査では、洞窟の石器と骨器は早期上部旧石器時代のものとされます。しかし、ズラティクンと関連する人工物は、特定の文化的技術複合に確定的に分類できませんでした。以下、本論文の図1です。
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 ズラティクンは当初、形態学的および層序学的情報と関連する動物相遺骸の種類に基づいて、少なくとも3万年前頃と考えられていました。さらに、前頭骨の左側の損傷は、ヨーロッパ中央部では24000年前頃に絶滅したハイエナにより噛まれた痕跡と解釈されました。直接的な放射性炭素年代測定結果は、15000年前頃と当初の推定よりずっと新しく、ズラティクンの仮想再構築を含む最近の頭蓋測定分析は、ズラティクンが最終氷期前の個体だったことを裏づけます。

 ズラティクンの頭蓋断片に改めて放射性炭素年代測定法が適用され、非較正年代で23080±80年前(較正年代で27000年前頃)と、以前の測定よりかなり古い値が得られました。前処理と限外濾過を用いた測定では、非較正年代で15537±65年前(較正年代で19000年前頃)と、より新しい値が得られました。これら3点の直接的なズラティクンの放射性炭素年代測定結果の大きな不一致は、ズラティクン標本がひじょうに汚染されており、放射性炭素年代が信頼できない可能性を示唆します。そこで、残ったコラーゲンからヒドロキシプロリンを抽出して骨からの化合物特異的断片の年代測定が試みられ、非較正年代で29650±650年前(較正年代で34000年前頃)との結果が得られました。しかし、これも汚染物質により実際よりも新しい年代値となっている可能性が高そうです。

 ズラティクンの側頭骨錐体部(DNAの保存状態が良好な部位とされます)からDNAが抽出されました。ズラティクンのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はNで(図2a)、ヨーロッパで最古級となるブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の44640~42700年前頃(IntCal20)の個体群のうち2個体(BB7-240とCC7-335)と類似しています(関連記事)。ベイジアン年代測定では、ズラティクンの年代は95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)で52600~31500年前頃(43000年前頃)と示唆されます。核DNAでは、124万ヶ所の一塩基多型を標的とし、合計で678000ヶ所の一塩基多型で少なくとも1回網羅されました。X染色体と常染色体の網羅率は同様の範囲を示し、形態に基づく性別判断と一致して女性と決定されます。


●ズラティクンと他の現生人類との遺伝的関係

 ズラティクンと現代および古代の個体群との関係を調べるため、アレル(対立遺伝子)共有に基づいて、要約統計量が計算されました。まずアフリカのムブティ人を外群として用いて、ヨーロッパおよびアジアの現代人とズラティクンとが比較され、ズラティクンはヨーロッパ人よりもアジア人とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。ズラティクンとアジア人とのより密接な遺伝的関係は、ヨーロッパ現代人と比較しての、ヨーロッパの上部旧石器時代の他個体および中石器時代狩猟採集民でも観察され、ヨーロッパ現代人における「基底部ユーラシア人」祖先系統により説明できます。基底部ユーラシア人とは、出アフリカ現生人類系統ではあるものの、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とは早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けなかった、と仮定されている集団(ゴースト集団)で(関連記事)、ヨーロッパ現代人において、ズラティクンとヨーロッパの上部旧石器時代および中石器時代と狩猟採集民との間で共有されていたアレルを「希釈」した可能性があります。

 基底部ユーラシア人祖先系統は、一般的にヨーロッパの狩猟採集民では確認されていませんが、コーカサスやレヴァントやアナトリア半島の古代狩猟採集民で見られます(関連記事)。古代および現代アジア人に対して、基底部ユーラシア人祖先系統を有さないヨーロッパの狩猟採集民を検証すると、これらの比較のいずれも、ズラティクンがどの集団ともより密接な関係を示唆しない、と明らかになりました。これは、ズラティクンがヨーロッパとアジアの人口集団の分岐前の基底部に位置することを示唆します。

 これまで、ズラティクンのようにヨーロッパ人とアジア人の分岐の基底部に位置するように見えるゲノム解析された古代人は2個体だけで、それは上述のウスチイシム個体とOase 1です。ズラティクンがウスチイシム個体と同じ人口集団に由来するのかどうか検証するため、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)や、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された、38000年前頃の若い男性1個体(関連記事)など、他の古代ユーラシア狩猟採集民と比較して、ウスチイシム個体とのより密接な関係が検証されました。

 その結果、興味深いことに、ウスチイシム個体はズラティクンよりも後のユーラシア個体群とより多くの祖先系統を共有している、と明らかになりました(図2b)。これは、ズラティクンが、後にウスチイシムや他のユーラシア人口集団の起源となった人口集団から、より早期に分岐した人口集団の一部だったことを示唆します(図2c)。Oase 1のデータは限定的なので、ズラティクンとOase 1の人口集団が同じなのか、それとも異なるのか、明確にはできません。以下、本論文の図2です。
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●ネアンデルタール人との混合

 Oase 1のゲノムの約6~9%はネアンデルタール人に由来しますが、現代および古代のユーラシア人では1~3%程度です(関連記事)。ズラティクンにもネアンデルタール人からのより高い遺伝的寄与があるのかどうか検証するため、アフリカ人に対してネアンデルタール人と共有されるアレルの過剰としてネアンデルタール人祖先系統が計算され、アフリカ人に対してネアンデルタール人2個体間で予測される共有によりこの量が正規化されました。その結果、ズラティクンはネアンデルタール人祖先系統を3.2%有すると推定されました。これは、ゲノム規模データを有する上部旧石器時代6個体と中石器時代1個体では最高となります。しかし、この差は、7つの比較のうち5つで、2つの標準誤差の水準で有意ではありませんでした(図3a)。

 ゲノムにおけるネアンデルタール人祖先系統の分布を調べるため、高網羅率のクロアチアのネアンデルタール人個体(関連記事)がアフリカ現代人と大型類人猿外群の99.9%以上で見られない多様体を有する、常染色体上の430075ヶ所がまず決定されました。ズラティクンのゲノムの166721ヶ所のうち、4480ヶ所(2.7%)でネアンデルタール人由来のアレルが見られました。ズラティクンのゲノムのネアンデルタール人由来の領域は、高頻度(50%)で発生する区間に集まり(図3b)、このクラスタ化を用いて、ネアンデルタール人祖先系統の可能性のある区間が、隠れマルコフモデルで分類されました。ネアンデルタール人区間の1つは1番染色体上の大きな領域に含まれ、ここでは現代人においてネアンデルタール人祖先系統の証拠をほとんど若しくは全く示しません。これは、ネアンデルタール人祖先系統のこの「砂漠」が、ズラティクンの時代には完全に形成されていなかったことを示唆します。

 組換えは、長いネアンデルタール人区間を時間の経過に伴ってより短く断片化していきます。ズラティクンにおける祖先とネアンデルタール人との混合の年代へのさらなる洞察を得るため、アフリカ系アメリカ人もしくはdeCODE社のデータを用いて、ネアンデルタール人区間の長さが調整され、ズラティクンにおける長さが上位100番までの区間の遺伝的長さが、他の早期ユーラシア狩猟採集民と比較されました。その結果、ズラティクンは平均して他のユーラシア狩猟採集民全員よりも長いネアンデルタール人区間を有する、と明らかになりました(図3c)。

 組換えによりネアンデルタール人祖先系統が世代ごとにより短い区間に断片化されていくと仮定すると、ズラティクンではその70~80世代前の祖先でネアンデルタール人との最後の混合が起きた、と推定されます。対照的に、最近までゲノムデータが得られている最古の現生人類だったウスチイシム個体は、94もしくは99世代前にネアンデルタール人との混合が起きた、と推定されます。低網羅率のゲノムデータでの混合を推定できるソフトウェアのadmixfrog(関連記事)を用いると、一致する結果が得られました。以下、本論文の図3です。
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 ネアンデルタール人祖先系統区間の呼び出しとは無関係に混合年代を推定するため、遺伝的距離の増加につれてネアンデルタール人の情報源の状態が相関することに基づく、以前に公表された手法が適用されました。この手法では、ズラティクンでは63世代前、ウスチイシム個体では84世代前にネアンデルタール人との混合が起きた、と推定されました。

 現代人および古代人におけるネアンデルタール人祖先系統のほとんどは、おそらくはネアンデルタール人の1集団との共通の混合事象に由来します。そのネアンデルタール人集団は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)よりも、ヨーロッパのネアンデルタール人(関連記事)の方と密接に関連しています。ズラティクンにおけるネアンデルタール人祖先系統が同じ関係を示すのかどうか検証するため、D統計が用いられ、高網羅率のゲノムデータが得られている、ヨーロッパのネアンデルタール人1個体とアルタイ山脈のネアンデルタール人1個体に加えて、既知の低網羅率のゲノムデータの後期ネアンデルタール人5個体(関連記事)との、アレルの共有が比較されました。その結果、ズラティクンは後期ネアンデルタール人とのアレル共有において、ウスチイシム個体と比較して有意な違いはないと示し、ズラティクンとウスチイシム個体におけるネアンデルタール人祖先系統の類似した割合と一致します。

 共通するネアンデルタール人との混合事象を想定すると、これらの結果から、ズラティクンは44380年前頃(IntCal20)のウスチイシム個体とほぼ同年代か、最大で数百年前の個体と示唆されます。しかし、以前に提案されたように、最初の共通のネアンデルタール人との混合の後に第二のネアンデルタール人との混合事象がウスチイシム個体に影響を与えた場合、ズラティクンはウスチイシム個体よりも数千年前の個体だった可能性があります。ズラティクンのゲノムデータでは、第二ネアンデルタール人との混合事象の裏づけは見つかりませんでした。


●まとめ

 4万年前頃前後以前のユーラシアの現生人類の遺伝的識別はほとんど知られていないままです。本論文では、チェコで発見されたヨーロッパの初期現生人類個体であるズラティクンが、現代のヨーロッパ人とアジア人が分岐する前に形成された人口集団の一部だった、と判断されました。大部分が保存された頭蓋を有するヨーロッパ最古の現生人類個体であるズラティクンの年代は、本論文では45000年以上前と推定されました。

 ウスチイシム個体およびOase 1と同様に、ズラティクンは4万年前頃以後の現生人類との遺伝的連続性を示しません。この不連続性は、39000年前頃のカンパニアン期のイグニンブライトの噴火と関連している可能性があります。この噴火は北半球の気候に深刻な影響を及ぼし、ユーラシア西部の大半のネアンデルタール人と初期現生人類の生存率を低下させたかもしれません。ただ、この噴火による影響にも初期現生人類は適応できた、との見解も提示されています(関連記事)。

 Oase 1やバチョキロ洞窟の個体群など、ネアンデルタール人との置換事象の前に存在したヨーロッパの現生人類が同じ人口集団に属していたのかどうか、これら旧石器時代個体群のさらなるゲノム規模データによってのみ解決できます。最近のバチョキロ洞窟個体群のゲノム解析からは、バチョキロ洞窟個体群とズラティクンとは大きく異なる人口集団に分類できそうです(関連記事)。したがって、ヨーロッパの初期現生人類の将来の遺伝的研究は、アフリカからユーラシアに拡大した後、非アフリカ系現代人の各地域集団に分岐して拡散する前の初期現生人類の歴史の復元に役立つでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。チェコで発見された現生人類遺骸であるズラティクンの年代は、直接的な測定ではなく遺伝的データに基づいているので、確定的とは言えませんが、45000年以上前である可能性が高そうです。この年代は、ブルガリアのバチョキロ洞窟個体群と近いものの、上述のように両者の遺伝的構成は大きく異なっており、ズラティクンは、ウスチイシム個体の人口集団よりもさらに前に非アフリカ系現代人系統と分岐した、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない人口集団に属するのに対して、上限では44640年前頃(IntCal20)までさかのぼるバチョキロ洞窟の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)個体群は、ユーラシア西部現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に密接に関連しています。

 ズラティクンもウスチイシム個体も、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない人口集団に属する点では同じですが、両者は異なっており、出アフリカ初期現生人類集団の中には、現代人にほとんど遺伝的影響を残していない集団も珍しくなかったというか、むしろ現代人の主要な直接的祖先となった集団はごく一部だった、と考えるべきなのかもしれません。また、ズラティクンには、非アフリカ系現代人全員の共通祖先の時点でのネアンデルタール人との交雑以外に、ネアンデルタール人との混合の痕跡は見つかりませんでしたが、近い年代のバチョキロ洞窟IUP個体群では、6世代前未満のネアンデルタール人との混合が推定されています。

 ヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人と現生人類とが遭遇した場合は、混合が珍しくなかったかもしれませんが、現生人類がヨーロッパに拡散した頃に、ネアンデルタール人が衰退過程にあったならば、両者の遭遇機会はさほど多くなく、それがズラティクンとバチョキロ洞窟IUP個体群との違いの要因かもしれせん。48000年前頃のハインリッヒイベント(HE)5における寒冷化・乾燥化によりネアンデルタール人は減少した、との見解も提示されています(関連記事)。初期現生人類のゲノム規模データはまだ少ないものの、バチョキロ洞窟IUP個体群など蓄積されつつあり、現生人類拡散の経路や年代の解明も進んでいくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:ヨーロッパで最古の現生人類に関する解明が進んだ

 約4万5000年前のものとされるヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石のゲノム解析が行われ、ヨーロッパにおける初期人類の移動に関する新たな知見が得られたことを報告する2編の論文が、それぞれNature とNature Ecology & Evolution に掲載される。これら2つの研究は、ヨーロッパにおける初期現生人類集団の複雑で多様な歴史を描き出している。

 ヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石は、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発見され、放射性炭素年代測定法によって4万5930~4万2580年前のものと決定された。この最古の現生人類集団が、約4万年前まで生存していたネアンデルタール人とどの程度交流していたのかは解明されておらず、その後の人類集団にどのように寄与したのかについても、ほとんど分かっていない。

 Nature に掲載される論文では、Mateja Hajdinjakたちが、バチョキロ洞窟で採集された人類標本の核ゲノム塩基配列の解析が行われて、これらの人類個体の祖先についてと、これらの個体と現代人の関係についての手掛かりが得られたことを報告している。最古の3個体は、西ユーラシアの現代人集団よりも、東アジア、中央アジア、アメリカ大陸の現代人集団と共通の遺伝的変異の数が多かった。また、これら3個体のゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合は3~3.8%であり、これら3個体のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝物質の分布から、わずか6世代前かそれより近い世代の祖先がネアンデルタール人であったことが示された。これらのデータは、現生人類とネアンデルタール人の交雑が、これまで考えられていたよりも頻繁だった可能性のあることを示唆している。

 Nature Ecology & Evolution に掲載される論文では、Kay Prüferたちが、チェコのZlatý kůň遺跡から出土した4万5000年以上前のものと考えられる女性の現生人類の頭蓋骨化石のゲノム塩基配列解析結果を報告している。Prüferたちは、この人類個体が、ゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合が約3%で、その後のヨーロッパ人集団、アジア人集団のいずれにも遺伝的に寄与していないと思われる集団に属していたことを明らかにした。この頭蓋骨化石は、汚染のために放射性炭素年代測定には失敗したが、ネアンデルタール人に由来するゲノム中のDNA断片が、他の初期現生人類個体のゲノムのそれよりも長かったため、この個体は4万5000年以上前に生存しており、アフリカから各地に広がった後のユーラシアにおける最古の現生人類集団の1つに属していたことが示唆された。

 以上の知見を総合すると、ヨーロッパにおける人類集団の交代が連続的に起こったとする従来の学説が裏付けられる。



参考文献:
Prüfer K. et al.(2021): A genome sequence from a modern human skull over 45,000 years old from Zlatý kůň in Czechia. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01443-x

楊海英『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は地政学的観点から、モンゴルと中国との関係を検証していきます。本書は、アジア内陸部を含むユーラシア中央部が、人類史において大きな役割を果たしてきた、と指摘し、アジア内陸部でも農耕地帯と接する内モンゴル(モンゴル南部)の重要性を強調します。漢字文化圏の日本では伝統的に、漢字文献が豊富にある「中国」を重視し、アジア内陸部も含めてユーラシア中央部(内陸部)の歴史的役割が軽視され、さらには漢字文献に見えるアジア内陸部への偏見も多分に受け継がれてきたように思います。こうした状況は、日本の研究者の一連の一般向け書籍により変わってきつつあるように思いますが、まだアジア内陸部への過小評価や偏見には根強いものがあるように見えます。その意味で、本書の意義は小さくないでしょう。

 ユーラシアにおける影響力拡大を意図している中国にとって、内モンゴルはユーラシア内陸部への侵出の足掛かりとなる重要地域なので、その安定した統治が必要となります。内モンゴルの地政学的重要性を強調する本書は、内モンゴルが国際情勢に翻弄されたことを指摘します。内モンゴルの動向にとくに大きな影響を与えたのは、ダイチン・グルン(その後は中華民国)、ロシア(その後はソ連)、日本といった周辺大国でした。このうち、第二次世界大戦後に日本が敗戦により脱落し、中華民国から中華人民共和国(共産党政権)へと交代して、中国とソ連の狭間で内モンゴルは翻弄されます。

 モンゴルは冷戦期に、北部がソ連の事実上の衛星国家ながら一応は独立国家だったのに対して、南部は内モンゴルとして中華人民共和国の支配下に置かれました。同じ民族ながら北部とは異なる国家に支配されたモンゴル南部に対する中華人民共和国支配層の視線は、その民族主義的傾向や漢字文化圏における伝統的な遊牧世界への蔑視もあり、たいへん厳しいものでした。そこへ中ソ対立が激化していったので、内モンゴルに対する中国共産党政権の視線はさらに厳しくなりました。本書は、内モンゴルが中華人民共和国に支配されて以降、文革期を中心に過酷な弾圧があったことを指摘します。

 本書は、ダイチン・グルン期に始まった、漢人(中国人)による内モンゴルの破壊を批判します。それは自然環境の側面では、農耕に適さず、遊牧が行なわれてきた草原で漢人入植者が農耕を始めて、環境破壊が進んだことです。これは、遊牧が農耕よりも劣って遅れている、との漢人側の根強い偏見のためだった、と本書は指摘します。これと強く関連しているというか、同根の問題が、昨年(2020年)以降大きな問題となっているモンゴル語教育の減少など、モンゴル文化の抑圧です。これらの内モンゴル抑圧は中華人民共和国だけの問題ではなく、前近代の中華文化から継承されてきたモンゴル文化への偏見だった、というのが本書の見通しです。

 著者は内モンゴルで迫害されているモンゴル人なので、他の著書と同様に、本書も中華人民共和国(共産党政権)を厳しく糾弾する論調となっています。本書も誇張したり偏ったりしているところはあるかもしれませんが、内モンゴルを地政学的観点で位置づけ、内モンゴルを支配する中国や周辺諸国との関わりで解説する構成は興味深いものだと思います。その他に、私も小学生の頃に教科書で読んだ『スーホの白い馬』が、中国共産党政権の「階級闘争論」の影響を受けており、モンゴル人の視点からは、モンゴルの歴史を実態以上に貶めている問題のある内容になっている、とのオリエンタリズム批判の観点からの指摘も興味深いものです。

ヨーロッパ最古級となるバチョキロ洞窟の現生人類のゲノム解析

 ヨーロッパ最古級の現生人類(Homo sapiens)のゲノム解析結果を報告した研究(Hajdinjak et al., 2021)が公表されました。ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は47000年前頃に始まり(関連記事)、現生人類(Homo sapiens)の拡大、および4万年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の消滅(関連記事)と重なっています。ネアンデルタール人と現生人類のゲノム分析から、両人類集団間で6万~5万年前頃に遺伝子流動が起き(関連記事)、その場所はおそらくアジア南西部だった、と示されています。

 しかし、4万年前頃前後以上前のユーラシアの現生人類遺骸は不足しており、ゲノム規模データが利用可能なのは、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」(関連記事)と、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性の左大腿骨(関連記事)と、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性(関連記事)の3個体だけです(図1)。なお、これらの年代は放射性炭素年代測定法の最新の較正曲線(IntCal20)に基づいており(関連記事)、以下の年代でもIntCal20に基づいている場合は年代の後に(IntCal20)と示します。

 したがって、ユーラシアの最初期現生人類の遺伝的情報、つまりネアンデルタール人のような絶滅ホモ属(古代型ホモ属)との相互作用や後の人口集団への寄与の程度については、ほとんど知られていません。たとえば、39980年前頃のOase 1と、44380年前頃のウスチイシム個体は、その後のユーラシア人口集団との特定の遺伝的関係を示しませんが、39980年前頃の田園個体は、古代および現代のアジア東部人口集団の遺伝的祖先系統に寄与しました(より厳密には、当時存在したアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団と遺伝的にきわめて近縁で、わずかに現代人にも直接的な遺伝的影響を残しているかもしれません)。別の未解決の問題は、現生人類がヨーロッパとアジア全域に拡大した時、ネアンデルタール人とどの程度混合したのか、ということです。Oase 1では地域的な交雑の直接的証拠が得られており、その4~6世代前の祖先にネアンデルタール人がいた、と推測されています。以下、本論文の図1です。
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●バチョキロ洞窟

 本論文は、ブルガリア中央部のドリャノヴォ(Dryanovo)の西方5km、バルカン山脈の北斜面に位置し、ドナウ川からは南へ約70kmとなるバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類遺骸のゲノム規模データを報告します。バチョキロ洞窟(図1-1)では、当初はバチョキリアン(Bachokirian)と報告され、後に初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)インダストリーの一部とされた石器群が発見されており、その石器群と直接的に関連している人類遺骸と、もっと新しい2個の人類遺骸が発見されています。

 IUPは、年代的に、中部旧石器時代の最後の石器群と、上部旧石器時代の最初の小型石刃(bladelet)インダストリーとの間に収まる石器群をまとめています。IUPはアジア南西部とヨーロッパ中央部および東部からモンゴルまで(関連記事)広範な地域にまたがっています(図1)。石器技術に基づいて、これらの石器群をまとめる理由はありますが、IUPは大きな地域的変異性も示します。したがって、IUPが中緯度ユーラシア全域の現生人類の拡散なのか、特定の技術的着想の拡散なのか、独立した発明なのか、これらの一部もしくは全ての組み合わせのどれを表しているのか、議論されています(関連記事)。IUPはヨーロッパ中央部および西部では後期ネアンデルタール人の遺跡と同年代で(関連記事)、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)やオーリナシアン(Aurignacian)などヨーロッパにおける後の上部旧石器技術複合に数千年先行します。

 最近の発掘で、バチョキロ洞窟では人類遺骸5個が回収されました。下顎大臼歯1個(F6-620)は主区域のJ層下部で、4個の断片的な骨(AA7-738、BB7-240、CC7-2289、CC7-335)は壁龕1区域I層で発見されました。これらの直接的な放射性炭素年代は44640~42700年前頃(IntCal20)で、そのミトコンドリアゲノムは現生人類の変異内に収まりましたから、ヨーロッパでは最古級の上部旧石器時代現生人類と示唆されます(関連記事)。

 1個の断片的な骨(F6-597)は主区域B層で発見され、もう1個の断片的な骨(BK1653)は1970年代の発掘において、B層とC層の境界面に対応する位置で発見されました。F6-597とBK1653の直接的な放射性炭素年代は、それぞれ36320~35600年前頃と35290~34610年前頃です。より新しい層の石器群は疎らですが、オーリナシアンの可能性が高そうです。また、考古学的文脈外で見つかったOase 1の追加のデータも生成されました。

 歯または骨のこれら8標本からDNAが抽出されました。このうち6標本では、古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換が一定以上の割合で確認されました。F6-620とAA7-738とBB7-240とCC7-335は男性、BK1653とCC7-2289は女性と推定されますが、データ量が少ないためCC7-2289の性別判断は暫定的です。大臼歯F6-620と骨片AA7-738は同じミトコンドリアゲノム配列を有しており、ともに男性です。一塩基多型でのこれら2標本間の塩基対ミスマッチ率は0.13で、同じ標本のライブラリー間のミスマッチ率と類似しています。対照的に、他のバチョキロ洞窟標本ではミスマッチ率は0.23で、他の研究での無関係な古代人と類似しています。したがって、F6-620とAA7-738は同一個体か、可能性はずっと低いものの、一卵性双生児だった、と結論づけられます。

 Y染色体DNAでは、F6-620で15.2倍、BB7-240で2.5倍、CC7-で1.5倍の網羅率のデータが得られました。F6-620はY染色体ハプログループ(YHg)F(M89)の基底部系統で、BB7-240とCC7-335のYHgはC1(F3393)です。YHg-Cはアジア東部とオセアニアの男性では一般的ですが、YHg-FおよびC1は現代人では比較的低頻度で、オセアニアやアジア南東部本土や日本列島などにおいて低頻度で見られます。


●ゲノム解析

 外群f3統計を用いて、バチョキロ洞窟個体群と他の初期現生人類との間の遺伝的類似性の程度が推定されました。バチョキロ洞窟のIUP期3個体は、他のあらゆる古代の個体よりも相互に類似しています。対照的に、そのずっと後となる35000年前頃のBK1653は、ヨーロッパの38000年前頃以降の上部旧石器時代個体群とより類似しています。たとえば、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)や、さらに後のグラヴェティアン(Gravettian)石器群と関連する、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んで、ヴェストニツェ遺伝的クラスタと呼ばれる個体群の方と類似しています。バチョキロ洞窟個体群を現代の人口集団(関連記事)と比較すると、IUP個体群は、ユーラシア西部人口集団よりも、アジア東部および中央部とアメリカ大陸先住民の人口集団の方と多くのアレル(つまり、より多くの遺伝的多様体)を共有していますが(図2a)、BK1653は、現代ユーラシア西部人口集団の方と多くのアレルを共有しています。

 次に、これらの観察結果は、現代のユーラシア西部人口集団が「基底部ユーラシア人」(関連記事)からの祖先系統の一部に由来する、という事実に起因するのかどうか、調べられました。基底部ユーラシア人とは、出アフリカ現生人類系統ではあるものの、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団とは早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けなかった、と仮定されている集団(ゴースト集団)で、ユーラシア西部人口集団とIUP個体群との間で共有されるアレルを「希釈」した可能性があります。

 この検証のため、ウスチイシム個体とOase1個体とバチョキロ洞窟個体群が、ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された、ヨーロッパへの「基底部ユーラシア人」祖先系統の導入に先行する38000年前頃の若い男性1個体(関連記事)など、ユーラシア西部の個体群と比較されました。その結果、ウスチイシム個体とOase1個体はユーラシア東部人口集団よりもユーラシア西部人口集団の方と多くの類似性を示さず、以前に示されたように、この2個体は後のヨーロッパの人口集団に遺伝的に寄与しなかった、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。

 対照的に、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、コステンキ14個体よりも、4万年前頃の田園個体や他の古代シベリア人(関連記事)やアメリカ大陸先住民(関連記事)の方と多くのアレルを共有します。他のユーラシア西部上部旧石器時代人では、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、コステンキ14個体よりも、Oase1個体および35000年前頃のGoyet Q116-1個体の方と多くのアレルを共有しています。とくに、Goyet Q116-1個体は、ヨーロッパの類似した年代の他の個体との比較で、初期アジア東部人とより多くのアレルを共有する、と示されていました(関連記事)。

 混合グラフを用いて上記の観察結果と一致する人口史のモデルを調べると、バチョキロ洞窟のIUP個体群は、田園個体や、より少ない程度ながらGoyetQ116-1個体やウスチイシム個体に祖先系統をもたらした人口集団とも関連していた、と明らかになりました(図2d)。これにより、ベルギーのGoyetQ116-1個体と中国北東部の田園個体間の以前には不明確だった関係が、地理的に離れた2個体間の遺伝子流動を必要とせずに解決されます。このモデルでは、以下のようなことも示唆されます。まず、バチョキロ洞窟でより新しいBK1653個体は、GoyetQ116-1個体の人口集団と関連するものの、同一ではない人口集団に属します。次に、グラヴェティアン石器群との関連で見つかったヴェストニツェ遺伝的クラスタの祖先系統は、BK1653個体のような人口集団に一部が、ロシアのスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃となる個体群(関連記事)と関連する人口集団に残りが由来します。以下、本論文の図2です。
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●ネアンデルタール人との混合

 バチョキロ洞窟のIUP個体群は、ヨーロッパで末期ネアンデルタール人と同時に存在していたので、高品質なゲノムデータの得られているネアンデルタール人個体、つまりシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の個体(関連記事)と、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の個体(関連記事)のゲノムデータを用いて、バチョキロ洞窟のIUP個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合が推定されました。その結果、IUP個体群(F6-620とBB7-240とCC7-335)はそれぞれ、3.8%(95%信頼区間で3.3~4.4%)、3.0%(95%信頼区間で2.4~3.6%)、3.4%(95%信頼区間で2.8~4.0%)と推定されました。これは、他の古代人および現代人の平均1.9%(95%信頼区間で1.5~2.4%)よりも多く、例外はOase1個体の6.4%(95%信頼区間で5.7~7.1%)です。

 対照的に、IUP個体群よりも新しいBK1653個体では、ネアンデルタール人由来の領域の割合は1.9%(95%信頼区間で1.4~2.4%)と推定されており、他の古代人および現代人と類似しています。これまでに研究された全ての現生人類のように、バチョキロ洞窟のBK1653個体とIUP個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)よりも、クロアチアのヴィンディヤ洞窟の個体(Vindija 33.19)およびアルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)の個体(チャギルスカヤ8)の方と類似していました。

 バチョキロ洞窟個体群におけるネアンデルタール人祖先系統の分布を調べるため、ネアンデルタール人および/もしくは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のゲノム(関連記事)でアフリカ人のゲノムとは異なる約170万ヶ所の一塩基多型と、古代ゲノムにおける古代型DNAの領域を検出する手法が用いられました。その結果、各個体におけるネアンデルタール人のDNAは合計で、F6-620個体で279.6cM(センチモルガン)、CC7-335個体で251.6 cM、BB7-240個体で220.9cMとなり、これら3個体はそれぞれ、5 cMより長いネアンデルタール人由来のDNA断片を、7ヶ所、6ヶ所、9ヶ所有していました(図3)。ネアンデルタール人から遺伝子移入された最長の断片は、F6-620個体で54.3cM、CC7-335個体で25.6cM、BB7-240で17.4cMでした(図3)。対照的に、BK1653個体のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNAの合計は121.7 cMで、最長のネアンデルタール人由来の断片は2.5 cMでした(図3)。以下、本論文の図3です。
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 長いネアンデルタール人断片の分布に基づいて、F6-620個体は6世代前未満にネアンデルタール人の祖先がいた、と推定されます。CC7-335およびBB7-240個体は、7世代前頃(信頼区間の上限は、それぞれ10世代前と17世代前)にネアンデルタール人の祖先がいた、と推定されます。したがって、全てのバチョキロ洞窟IUP個体群は、比較的近い世代の祖先にネアンデルタール人がいました。

 バチョキロ洞窟個体群が後のユーラシア人口集団に遺伝的にどの程度寄与したのかさらに調べるため、バチョキロ洞窟個体群のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNA断片が、現代の人口集団におけるネアンデルタール人由来のDNA断片と、偶然の場合に予測されるよりも多く重複しているのか、検証されました。その結果、現代アジア東部人口集団とバチョキロ洞窟IUP個体群との間で、BK1653個体とよりも多い断片の重複が明らかになりました。対照的に、BK1653個体は、バチョキロ洞窟IUP個体群の場合よりも、現代ユーラシア西部人口集団とネアンデルタール人由来の断片の重複が多い、と示しました。これは、バチョキロ洞窟IUP人口集団が、後のアジア東方集団やアメリカ大陸先住民の方により多く祖先系統をもたらした一方で、BK1653個体はユーラシア西部人口集団により多くの祖先系統をもたらした、との観察結果と一致します。

 次に、ほとんど若しくは全くネアンデルタール人祖先系統を有さない、ヒトゲノムの部分(ネアンデルタール人「砂漠」)間の重複が調べられました。このネアンデルタール人「砂漠」は、ネアンデルタール人からの遺伝子移入直後に、ネアンデルタール人由来のDNAに対する浄化選択により起きた、と考えられています(関連記事1および関連記事2)。その結果、バチョキロ洞窟IUP個体群とOase1で以前に報告された「砂漠」では、ネアンデルタール人から遺伝子移入されたDNAはほぼない、と明らかになりました。これらの比較をより近い世代でのネアンデルタール人からの遺伝子移入に限定すると(つまり、5 cM以上)同様に重複はないと明らかになり、ネアンデルタール人のDNA多様体への選択は交雑後数世代以内に起きたと推測されるものの、この問題を完全に解決するには、より近い世代でのネアンデルタール人祖先系統を有する追加の個体群が必要になるだろう、と示唆されます。


●まとめ

 バチョキロ洞窟個体群のゲノムは、いくつかの異なる現生人類人口集団が初期上部旧石器時代のユーラシアに存在していたことを示します。Oase1個体とウスチイシム個体に代表されるこれら人口集団の一部は、後の人口集団との検出可能な類似性を示しませんが、バチョキロ洞窟IUP個体群と関連する集団は、アジア東方祖先系統を有する後の人口集団や、GoyetQ116-1個体のような一部のユーラシア西部集団に寄与しました。これは、IUP石器群がヨーロッパ中央部および東部から現在のモンゴルまで見つかるという事実、およびヨーロッパ東部からアジア東部へと達する推定上のIUP拡散と一致します。

 最終的に、バチョキロ洞窟IUP個体群と関連する人口集団は、バチョキロ洞窟のBK1653個体を含む後の個体群が現代アジア東方人口集団よりも現代ヨーロッパ人口集団の方と遺伝的に近い、という事実により示唆されるように、ユーラシア西部では後の人口集団に検出可能な遺伝的寄与を残さずに消滅しました。ヨーロッパでは、連続的な人口集団置換との見解は考古学的記録とも一致し、IUPは中部旧石器に対して明確に侵入的であり、石刃への共通の焦点を除いて、IUPとその後のオーリナシアン技術との間の明確な技術的つながりはありません。最後に、末期ネアンデルタール人と年代的に重複し、そのゲノム規模データが得られているヨーロッパの4個体(F6-620とBB7-240とCC7-335とOase1)全てで、近い世代の祖先にネアンデルタール人がいたことは驚くべきです(図3)。これは、ネアンデルタール人とヨーロッパへ到来した最初の現生人類との間の混合が、想定されるよりも一般的だったことを示唆します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、ヨーロッパ最古級の現生人類のゲノム規模データを提示した点はもちろん、出アフリカ現生人類の複雑な移動を浮き彫りにし、謎めいた遺伝的事象の説明を提供できた点でも、たいへん意義深いと思います。ベルギーの35000年前頃となるGoyet Q116-1個体と、中国北部の4万年前頃の田園個体との遺伝的類似性の解釈はこれまで難問でしたが(関連記事)、バチョキロ洞窟IUP個体群のゲノム規模データにより、ユーラシア西部集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近縁で、おそらくはアジア東部集団の主要な祖先集団の一方ときわめて近縁な集団が、45000年以上前のヨーロッパ東部に存在した、と明らかになりました。この遺伝的構成の集団は上部旧石器時代にヨーロッパでは消滅したようですが、一部の上部旧石器時代ヨーロッパ集団に遺伝的影響を残し、それがGoyet Q116-1個体と田園個体との遺伝的類似性をもたらしたのでしょう。

 ユーラシア中緯度地帯にIUPを広めた人口集団は、遺伝的に均一ではなかったかもしれませんが、少なくともその一部は、アジア東部人口集団に大きな遺伝的影響を残したようです。もちろん、バチョキロ洞窟IUP個体群が現代アジア東部人口集団の直接的祖先である可能性は低く、同時代の直接的祖先はもっと東方に存在した可能性の方が高そうですが。最近のアジア東部人口集団に関する包括的な古代ゲノム研究(関連記事)に従うと、IUPを広めた集団の少なくとも一部は、ユーラシア東部内陸部系統に位置づけられる可能性が高そうです。その意味で、ユーラシア東部内陸部系統の拡散経路と時期の指標として、IUPは重要な意味を有してくるかもしれません。ヨーロッパ上部旧石器時代における現生人類人口集団の置換を改めて示した点でも、本論文は注目されます。現在の分布からの人口史の推定には限界があり、古代DNA研究が必要になる、と再確認されます。

 ネアンデルタール人と現生人類との混合が一般的だったことを示唆する知見も注目されます。アルタイ山脈ではネアンデルタール人とデニソワ人との混合が一般的だったと推測されており(関連記事)、後期ホモ属において異なる系統間の混合は珍しくなかったのかもしれません。これと関連して、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とネアンデルタール人との混合以外に、ヨーロッパ系現代人と東アジア系現代人の祖先集団がそれぞれ、ネアンデルタール人と追加の交雑をした可能性が高い、と推測されていますが(関連記事)、本論文の知見は、アジア東部現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の混合がどこで起きたのか、という観点からも注目されます。

 これまで、ユーラシア東方では少なくともアルタイ山脈にまでネアンデルタール人は拡散していたので、アルタイ山脈などユーラシア東部が追加の混合の場所だったかもしれない、と私は考えていました。しかし、本論文の知見を踏まえると、ヨーロッパでアジア東部現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の混合が起きたかもしれせん。じっさい、アルタイ山脈のデニソワ洞窟のネアンデルタール人個体と遺伝的に近い集団と、アジア東部現代人の祖先集団との混合に関しては、否定的な知見も提示されています(関連記事)。ただ、上述のチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体は、デニソワ洞窟のネアンデルタール人個体よりもヨーロッパのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体の方と遺伝的に近いので、そうしたネアンデルタール人集団とアジア東部現代人の祖先集団が、ユーラシア東部で混合した可能性も考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用ですが、もう一方の研究は後日取り上げる予定です。


集団遺伝学:後期旧石器時代初頭のヨーロッパの人類はネアンデルタール人を近い祖先に持っていた

進化:ヨーロッパで最古の現生人類に関する解明が進んだ

 約4万5000年前のものとされるヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石のゲノム解析が行われ、ヨーロッパにおける初期人類の移動に関する新たな知見が得られたことを報告する2編の論文が、それぞれNature とNature Ecology & Evolution に掲載される。これら2つの研究は、ヨーロッパにおける初期現生人類集団の複雑で多様な歴史を描き出している。

 ヨーロッパで最古の現生人類の骨の化石は、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発見され、放射性炭素年代測定法によって4万5930~4万2580年前のものと決定された。この最古の現生人類集団が、約4万年前まで生存していたネアンデルタール人とどの程度交流していたのかは解明されておらず、その後の人類集団にどのように寄与したのかについても、ほとんど分かっていない。

 Nature に掲載される論文では、Mateja Hajdinjakたちが、バチョキロ洞窟で採集された人類標本の核ゲノム塩基配列の解析が行われて、これらの人類個体の祖先についてと、これらの個体と現代人の関係についての手掛かりが得られたことを報告している。最古の3個体は、西ユーラシアの現代人集団よりも、東アジア、中央アジア、アメリカ大陸の現代人集団と共通の遺伝的変異の数が多かった。また、これら3個体のゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合は3~3.8%であり、これら3個体のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝物質の分布から、わずか6世代前かそれより近い世代の祖先がネアンデルタール人であったことが示された。これらのデータは、現生人類とネアンデルタール人の交雑が、これまで考えられていたよりも頻繁だった可能性のあることを示唆している。

 Nature Ecology & Evolution に掲載される論文では、Kay Prüferたちが、チェコのZlatý kůň遺跡から出土した4万5000年以上前のものと考えられる女性の現生人類の頭蓋骨化石のゲノム塩基配列解析結果を報告している。Prüferたちは、この人類個体が、ゲノムに占めるネアンデルタール人のDNAの割合が約3%で、その後のヨーロッパ人集団、アジア人集団のいずれにも遺伝的に寄与していないと思われる集団に属していたことを明らかにした。この頭蓋骨化石は、汚染のために放射性炭素年代測定には失敗したが、ネアンデルタール人に由来するゲノム中のDNA断片が、他の初期現生人類個体のゲノムのそれよりも長かったため、この個体は4万5000年以上前に生存しており、アフリカから各地に広がった後のユーラシアにおける最古の現生人類集団の1つに属していたことが示唆された。

 以上の知見を総合すると、ヨーロッパにおける人類集団の交代が連続的に起こったとする従来の学説が裏付けられる。



参考文献:
Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3

新たな手法により推測される人類史における遺伝的混合

 新たな手法により人類史における遺伝的混合を推測した研究が、2021年度アメリカ自然人類学会総会(関連記事)で報告されました(Huerta-Sanchez et al., 2021)。この報告の要約はPDFファイルで読めます(P90)。Legofitは、人口集団で共有さそれる派生的アレル(対立遺伝子)で観察される頻度と、人口史の特定のモデルで予測される頻度との間の違いを最小化することにより、パラメータを推定します。これを改良したLegofit2は、より高速で正確なアルゴリズムを用いて、これらの予測される頻度を計算します。

 予備的な分析結果は、以前に報告されたパプアニューギニアの5言語族の70個体のゲノムに基づいています。これらの結果は、現生人類(Homo sapiens)との分岐後の、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」と超古代型人類系統(ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の共通祖先と分岐した人類系統)との混合と、現代パプア人の祖先とデニソワ人との混合を確認します。また、現生人類とネアンデルタール人との2回の混合も示され、それは、ヨーロッパ人とパプア人の共通祖先(つまり、非アフリカ系現代人の共通祖先)との早期の混合と、パプア人系統がヨーロッパ人系統と分岐した後の、パプア人祖先とネアンデルタール人との混合です。

 ネアンデルソヴァンと超古代型人類系統との混合の可能性は、すでに以前の研究で示されており(関連記事)、ネアンデルソヴァンからネアンデルタール人系統とデニソワ人系統に分岐した後に、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統がそれぞれ超古代型人類系統と混合した可能性も指摘されています(関連記事)。後期ホモ属で複雑な混合が起きていた可能性は高そうで、今後の研究の進展により、じっさいの混合史に少しずつ近づいていくのではないか、と期待されます。そのためには、この研究のように新たな手法の開発とともに、より多くの新たな古代DNAデータが必要となります。


参考文献:
Rogers AR, Sudoyo H, and Cox M.(2021): The population history of Indonesia and Melanesia as inferred by Legofit2. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

現代人の骨盤の性差の起源

 現代人の骨盤の性差の起源に関する研究(Fischer et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。平均して、現代人の骨では骨盤で最も性差が強くなります。骨盤は、男性よりも女性の方が平均的に大きい唯一の人骨です。男性と比較して女性では、出産に関連する骨盤管が大きく、恥骨下角と坐骨切痕が広くなっています。これらの違いにより、現生人類(Homo sapiens)の骨盤は、性別決定の最も信頼できる部位となります。

 ヒトと非ヒト霊長類の骨盤の性差は、出産と関連する雌に作用する選択の証拠として、長く解釈されてきました。しかし、骨盤の性差の出産と関連する重要性については、議論があります。児頭骨盤比が高い霊長類(母親の骨盤と比較して胎児の頭が大きいこと)は、強い骨盤の性差を示す傾向があります。しかし、(ヒトを除く)大型類人猿など出産に制約の少ない種でも軽度の骨盤の性差が存在するので、出産が骨盤の性差の選択に排他的な役割を担ってきたのか、議論があります。重量では新生児が母体のわずか0.01%にすぎない有袋類であるキタオポッサム(Virginia opossum)のような出産上の制約がほとんどない種でも、身体サイズの違いとは無関係に骨盤の性差が存在します。ステロイドホルモンは二形性成長と再構築だけではなく、他の多くの発達的および生理学的過程にも関わっているので、骨盤の性差は少なくとも部分的には、他の解剖学的もしくは生理学的特性の自然選択に由来する可能性がある、と示唆されています。

 二足歩行の進化は、男女ともに骨盤を含むヒト骨格の大きな変化と一致しました。しかし、保存状態の良好な骨盤化石が不足しているため、現代人的な骨盤の性差が中新世から鮮新世の二足歩行で現れたのか、更新世の脳の巨大化で現れたのか、あるいは両方の過程に先行したのかどうか、不明です。また、化石記録からの推測も、標本の性別が不明なために妨げられています。たとえば、女性と考えられてきた、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)の化石として最も保存状態が良好で骨盤を含むルーシー(Lucy)と呼ばれる個体(A.L. 288-1)でも、男性の可能性が指摘されています(関連記事)。

 身体比と身長はヒトでは骨盤形態と相関しており、大型類人猿における骨盤の性差は、部分的には性別間の身体サイズの違いの結果である、と一部の研究では示唆されています。しかし現代人の場合、全体的なサイズの違いは骨盤形態の性差に最小限にしか寄与しない、と示されてきました。本論文は、現代人とその最近縁現生種であるチンパンジー(Pan troglodytes)の骨盤の変異の包括的な形態計測により、ヒトの骨盤の性差の進化的起源に取り組みます(図1)。チンパンジーではヒトよりも出産は容易な過程で、これは新生児の頭が母体の最小骨盤寸法の約70%しかなく、分娩が通常は短いためです。チンパンジーの胎児の頭も出産中に回転するように見えますが、ヒトと同一ではありません。それにも関わらず、チンパンジーは通常、骨盤に起因する出産制約があったとしても、ほとんどない種とみなされます。チンパンジーの骨盤の性差を調べた研究のほとんどは、骨器寸法の微妙な違いを記録しています。以下、本論文の図1です。
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●分析結果

 骨盤形態の個体差を調べるため、チンパンジー34個体とヒト99個体を対象に主成分分析が実行されました(図2)。ヒト(赤色が雌、青色が雄)とチンパンジー(薄赤色が雌、薄青色が雄)はPC1軸に沿って明確に分離しており(図2a)、ヒトとチンパンジー両方の性差はPC2軸とPC3軸により表されます(図2b)。骨盤形態の両種の違いは、両種の性差とは明らかに異なっています。PC2軸とPC3軸では、ヒトとチンパンジー両種の両性はほぼ一共線で、性差のパターンが両種でひじょうによく似ていることを示します。しかし、チンパンジーの性差の全体的な程度は、ヒトの52%にすぎません。以下、本論文の図2です。
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 ヒトはチンパンジーよりも身体サイズはずっと大きく、両種で雄は雌よりも大きいので、両種で相対成長や身体サイズと形態の関連が調べられました。骨盤相対成長は両種で類似しているものの、性的二形の方向性と種の違いは明確に異なる、と分かりました。ヒトとチンパンジーの性差の同様のパターンは、骨盤形態の3次元視覚化でも明らかです(図3)。両種で骨盤入口の相対的な横径と恥骨下角は、雄と比較して雌の方が大きくなっています。雌は平均して雄よりも広いものの短い仙骨を有しています。雄は雌よりも比較的大きくて裾幅の広い腸骨片を有しています。以下、本論文の図3です。
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 骨盤形態の両種間の強い違いとは無関係に、両種間の性差パターンをよりよく比較するため、チンパンジーの性差ベクトルが、ヒトの性差ベクトルと同じ長さに調整された後で、ヒトの性差平均値に加えられました。換言すると、ヒトの二形性と同じ程度に調整されたチンパンジーの二形性をヒト雌の平均形態に追加し、この調整されたチンパンジーの二形性をヒト男性の平均形態から差し引いたことになります。これにより、骨盤形態のヒトの性差がほぼ完全に再構築され(図4)、性差のパターンが両種でじっさいにほぼ同じと示されます(上段がヒト、下段がチンパンジー)。以下、本論文の図4です。
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 産道の性差をより具体的に評価するため、骨盤入口の形態が個別に分析されました。産道と最も関連性がある寸法は、骨盤管の上側または冠状部分である骨盤入口と、骨盤の正中面および出口により決定されます。ヒトとチンパンジーの間で最も容易に比較できる入口では、性差のパターンは両種でひじょうに類似していました。平均して、入口の横径は両種において雌の方で相対的により広く、雄と比較して雌では丸い産道がもたらされました(図5)。入口のサイズは、両種で雄よりも雌の方が大きく、その違いは平均して、ヒトでは11%、チンパンジーでは10%です。以下、本論文の図5です。
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●考察

 ヒトの骨盤は出産時に大きな胎児を収容し、直立運動を可能にしなければならず、これは人類進化の中心とみなされる二つの特徴です。このヒト中心の観点からは、チンパンジーが基本的にヒトと同じ骨盤の性差パターンを有している、との本論文の知見は驚くべきことのように思われます。ヒトの骨盤形態は、進化のトレードオフ(交換)の結果と考えられています。出産の安全には広い産道への選択が課されますが、二足歩行の生体力学と直立姿勢の骨盤底安定性には狭い骨盤への選択が課されます。さらに、拡張された雌の骨盤管は、子宮や膣や生殖腺の空間的要件によっても発達的に誘発されるかもしれない、と示唆されています。明らかに、より広い空間的産道への出産の選択は、ヒトよりもチンパンジーでかなり弱いものの、より狭い産道への拮抗も、二足歩行をしないチンパンジーではヒトよりもずっと弱くなります。したがって、チンパンジーの骨盤の最適な「妥協形態」は、新生児が比較的小さいにも関わらず、ある程度の性的二形を含んでいるかもしれません。これは、以前の研究で指摘されているように、チンパンジーや他の大型類人猿の骨盤の二形性の程度を説明できるかもしれません。

 二形性の程度の違いや、出産と生物力学の全ての違いにも関わらず、チンパンジーの骨盤の性差のパターンがヒトとひじょうによく似ている理由は、あまり明白ではありません。ヒトとチンパンジーの骨盤の性差の顕著な類似性から、それらが現生人類で新規に進化せず、すでにヒトとチンパンジーの共通祖先において存在していたので、その程度は異なっていたものの、絶滅したホモ属およびアウストラロピテクス属種と、サヘラントロプス属など推定される人類にも存在していた、と示唆されます。

 しかし、骨盤の性差のパターンはずっと古く、初期哺乳類か、あるいは羊膜類に由来するかもしれません。大きな胎児に起因する困難な分娩はヒトに限らず、テナガザルやマカク属やリスザルなどいくつかの他の霊長類にも見られます。コウモリやアザラシやいくつかの齧歯類やほとんどの有蹄類でさえ、ヒトよりも相対的に大きな新生児を有します。大きな新生児を有する種は、より顕著な性差を示す傾向にもあります。爬虫類と鳥類は産卵しますが、それでも、キーウィ鳥や小型カメのように、母親の体格と比較して卵のサイズが大きい場合には、同じように「出産」の問題に直面する可能性があります。

 じっさい、骨盤の性差は、アフリカ獣上目や真主齧上目や真無盲腸目や翼手目や鯨偶蹄目や異節上目といった全ての主要な胎盤クレード(単系統群)で報告されてきており、骨盤の性差のパターンは、これらの集団間で類似しているようで(およびヒトのパターンとも類似しており)、その違いはおもに恥骨領域に集中しています。同様の微妙な骨盤の性差はいくつかの爬虫類と鳥類に存在します。これは、性的二形の骨盤はすでに初期哺乳類か、あるいは羊膜類にさえ存在しており、それが哺乳類の祖先的状態を構成している、という仮説につながります。この共通祖先はすでに骨盤において性的二形を進化させ、成体と比較して大きな仔もしくは大きな卵を産んだ、と本論文は提案します。

 小さな新生児を有する一部の哺乳類でさえ、骨盤で微妙な性差を示します。有袋類の骨盤は小さな胎児に充分な空間を提供し、出産の選択では骨盤の性差の存在を明確に説明できません。それでも、その性的二形の一部はヒトのパターンと類似しています。出産が完全に骨盤により制約されていない哺乳類種の骨盤の性差は「痕跡パターン」である、と本論文は提案します。つまり、初期哺乳類もしくは羊膜類の祖先で出産において適応的だった発達の残滓だった、というわけです。根底にあるホルモン誘導のため、有袋類のようにもはや出産に必要がなくなったとしても、進化的に骨盤の性差を除去するのは困難かもしれません。微妙な性差は適応の不利益を有さない可能性があり、したがって単純に痕跡的特徴として存続したのかもしれません。

 発達上、骨盤の性差のパターンは、おもにエストロゲンとアンドロゲンとリラキシンのホルモン受容体の空間分布と、ホルモン誘発性の骨再構築により決定されます。たとえばヒトでは、これらのホルモンは思春期の骨盤再構築を調整すると示されてきましたが、これらのホルモンの骨盤受容体は、すでに胎児で発達しています。骨盤の性的二形の程度も、他の組織のエストロゲンの広範で多面的な効果に影響を受けるかもしれません。じっさい、さまざまな体幹要素が、異なる程度ではあるものの、ヒトとチンパンジーの形態学的統合の類似のパターンを示す、と報告されてきました。

 内分泌系のほとんどの側面は脊椎動物間で高度に保存されているので、骨盤の性差の根底にある遺伝的発達機構も、霊長類と、おそらくは羊膜類の進化でさえ比較的安定してきた、と本論文は提案します。しかし、この機構を制御する発達上の「取手」、つまり骨盤におけるホルモン分泌の量と持続期間、および対応する受容体の全体的な反応性は、ずっと進化可能で、迅速に適応できます。進化可能性におけるこの不一致は、霊長類と哺乳類の骨盤の性差の保存されたパターンと、そのひじょうに変動的な程度を説明できるかもしれません。したがって、更新世のヒト系統で新生児の脳サイズが大きく増加した時、より広い雌の骨盤を進化させる遺伝的および発達的機構はすでに存在しており、新たに進化する必要はありませんでした。この進化共同体化が現生人類の骨盤の二形へとつながり、それはほとんどの霊長類では突出した大きさではあるものの、おそらくはほとんどの他の哺乳類と同様のパターンです。

 この見解は、進化発生学と拡張進化合成の中心的概念である、「促進された変化」という概念とひじょうに似ています。その概念では、保存された遺伝的および発達的「核構成要素」の「弱い調節連鎖」が、複雑な有機体の進化可能性をひじょうに高めた、と提案されています。古典的な例は、性別決定と性特有の発達です。性別が決定されると、性特異的発達の遺伝と生理は、脊椎動物で強く保存されます(保存された核構成要素)。しかし、性別を決定する方法、つまり雌雄の発達を活性化するスイッチは、系統によりかなり異なります。骨盤の性差の原因となる遺伝的および発達的機構は、それ自体が保存された核構成要素で、高度に進化可能な調整制御を備えている、と本論文は提案します。

 骨盤の性差の促進された変動性仮説の裏づけは、ヒトの人口集団の比較に由来します。以前の研究では、本論文の仮説で予測されるように、全人口集団は二形の程度に充分な変動があるにも関わらず、骨盤の性差のひじょうに類似したパターンを有する、と示されました。これまで、霊長類と哺乳類と羊膜類全体の骨盤の性差の広範な定量的比較は行なわれていません。本論文の仮説は、ひじょうに異なる出産と生体力学的要件にも関わらず、哺乳類と他の羊膜類全体で、骨盤の性差の程度ではなくパターンがほぼ保存されている、という検証可能な予測を提供します。


参考文献:
Fischer B. et al.(2021): Sex differences in the pelvis did not evolve de novo in modern humans. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-021-01425-z

『卑弥呼』第60話「油津の怪」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年4月20日号掲載分の感想です。前回は、吉備で疫病によると考えられる死者をトメ将軍一行が見つけたところで終了しました。今回は、ヤノハが輿に乗り、山社(ヤマト)から出立する場面から始まります。日見子(ヒミコ)たるヤノハの乗った輿を先導するのはチカラオ(ナツハ)とオオヒコで、ヌカデも同行しています。ヤノハを見送るイクメは不安そうですが、父のミマト将軍は娘を宥めます。閼宗(アソ)までの道は安全で、閼宗には那(ナ)王の軍が迎えに来ている、というわけです。ヤノハが父を同行させなかったことを不安に思う娘に対して、テヅチ将軍が不在なので山社を守るのは自分しかいないし、オオヒコが同行しているので心配不要だ、と言います。それでも不安そうなイクメは、他に不安があるのか、父に尋ねられると、先日の大火以降、ヤノハが変わった、と答えます。事代主(コトシロヌシ)との面会でもヤノハは自分を遠ざけ、ヌカデを指名した、というわけです。ヤノハもそろそろ独り立ちしたいのだろう、と苦笑気味に言う父に対して、事代主は「知の巨人」と言われているが、ヤノハは幼い頃から祈祷女(イノリメ)としての教えを受けてきたわけではない、となおもイクメは不安を討ち受けます。するとミマト将軍は、ヤノハの強さは自分の無知を恐れないことだ、と力強く断言します。ヤノハは事代主の前で心を曝け出すだろう、というわけです。しかしイクメには、それ以上に気がかりなことがありました。それは、ヤノハが倭国の未来を平気で事代主に託しそうなことです。そうなれば、少なくとも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は再び乱れるだろうな、とミマト将軍は言います。

 ヤノハ一行は夜になって休息し、ヌカデとオオヒコは、今後の道のりを相談していました。閼宗で那軍と合流して那国の「首都」である那城(ナシロ)に向かい、そこから身像(ミノカタ、現在の宗像でしょうか)と岡まで陸路を進み、舟で弁都留島(ムトルノシマ、現在の六連島でしょうか)に渡る手はずだ、とオオヒコはヌカデに説明します。舟に乗るのはヤノハ(日見子)一人なのか、とヌカデに問われたオオヒコは、ナツハ(チカラオ)が漕ぎ手を務めるが、上陸するのはヤノハだけだ、と答えます。ヤノハが受け入れたから仕方ないが、そもそも事代主は信用できるのか、とヌカデは疑っていました。ヤノハは弟のチカラオに、なぜ事代主に会ってから姿を消すのか、説明します。ヤノハは豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の人に会ったことがないので、豊秋津島で生まれた事代主から金砂(カナスナ)や出雲やその他の国を聞いてみたい、場合によってはチカラオと二人で豊秋津島に住んでみるのも一興だ、と笑顔で言います。ヤノハは心配そうなチカラオに対して、まずは事代主に倭国安寧を託し、自分の大役はそこで終わる、と諭します。

 日向(ヒムカ)を併合して成立した山社国の小肥(ヲビ)では、テヅチ将軍が訓練を終えた兵士たちに訓示していました。実に逞しくなり、よく頑張った、と兵士を褒めたテヅチ将軍は、いつ伊予之二名島(イヨノフタナジマ、四国と思われます)から賊が攻め寄せてきても容易に撃退できる、と力強く言います。テヅチ将軍は、自分は近く山社に戻る予定なので、ナギヒコ校尉の支持に従うよう、兵士たちに命じます。そこへ、油津(アブラツ、現在の宮崎県日南市油津港でしょうか)の邑で異変が起きた、と報告が入ります。油津に30艘の船が大挙して押し寄せた、との報告に、五百木(イオキ)の賊の仕業ではないか、とテヅチ将軍は疑います。急遽油津に向かうことになった兵士たちは、これが初陣だと意気軒昂です。

 その頃、山社にはテヅチ将軍から書簡が届いていました。その書簡には、西海道の若者たちはなかなか優秀な兵になり、もういかなる海賊も追い払えるので、テヅチ将軍は近く山社に戻る、とありました。イクメは父のミマト将軍に、テヅチ将軍の帰還を待ってヤノハ(日見子)に合流するよう、進言します。油津に到着したテヅチ将軍の部隊は、海岸に停泊した船にも、油津の邑にも人の気配がなく、さらには襲撃の痕跡がないことや、昼間に襲撃してきたことも不審に思います。テヅチ将軍は、朝まで待ち、動きがなければ自ら攻めることにします。夜が明け、なおも邑が静まりかえっていることから、テヅチ将軍は、部隊を二分し、半分をナギヒコが率いて邑へ、半分を自身が率いて浜へと向かうことにします。船の中には、醜い瘡のできた多数の死者がいました。邑人は全員、身体に膿疱ができて悶え苦しみ、死にかかって家にいました。テヅチ将軍が、これは厲鬼(レイキ)、つまり疫病神(エヤミノカミ)の祟りで、五百木の賊は厲鬼に憑かれ、それが油津の邑に蔓延したのだ、と悟るところで今回は終了です。


 今回は、本州と四国で蔓延していた疫病(天然痘のようですが、天然痘が日本列島に到来したのは本作の舞台である紀元後3世紀前半よりもずっと後のようなので、別の疫病かもしれません)がついに九州にまで上陸したところまで描かれました。この疫病は、『日本書紀』巻第五(崇神天皇)に見える疫病のことかもしれません。この疫病は倭国情勢を大きく動かすことになりそうで、あるいは、この疫病を契機に西日本は日見子(卑弥呼)の下でまとまる、という話になるのかもしれません。事代主は薬にも通じているとすでに明かされているので、事代主と和議を結んで協力を得たヤノハがこの疫病を収束させ、倭国の王として認められる、という話になるのでしょうか。いよいよ本州や四国も本格的に舞台となってきて、ますます壮大な話となる予感がするので、今後もたいへん楽しみです。

大河ドラマ『青天を衝け』第8回「栄一の祝言」

 今回は、農村部の話では渋沢栄一と千代の結婚をめぐる喜作も交えた三角関係と、その決着としての栄一と千代との結婚、および喜作と「よし」との出会いが、「中央政界」の話では安政の大獄が描かれました。栄一と喜作との関係は後腐れのないもので、一層結びつきが強くなったようです。農村部の話は青春群像劇といった感があり、青春群像劇と激動期は一般的に相性がよいと言えそうですから、幕末の激動期を迎えての栄一とその周辺の人物の描写も楽しみです。

 「中央政界」の話は、井伊直弼の大老就任から一気に動き出し、これまでよりも長めでした。本作の井伊直弼は、自信がなく頼りなさを自他ともに認めており、これまでの大河ドラマで多かったように思われる、大物感溢れる人物像とはかなり異なります。井伊直弼の伝記を読んだことはなく、その人物像についてもよく知らないので、本作の描写がどこまで妥当なのか判断できませんが、将軍の徳川家定から重用され、その恩に報いようとして張り切りながらも、自信を持てないので疑心暗鬼に陥り、家定の命令にしたがって強硬路線に走る、という描写はよかったと思います。徳川慶喜の篤い尊王心が描かれたことも、王政復古後の慶喜の行動を描くうえで重要ですから、しっかりと構想されていることが予感され、今後が楽しみです。

新疆ウイグル自治区の青銅器時代以降の住民のmtDNA解析

 現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区(以下、新疆と省略)の古代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Wang et al., 2021)が公表されました。中華人民共和国北西部に位置する新疆は、何千年もの間、ユーラシア東西の移動の交差点として機能してきました。青銅器時代(BA)には早くも、新疆には古代ユーラシア草原地帯とシベリアとアジア中央部とアジア北東部の人口集団に影響を受けた、多様な文化が存在しました。多くの考古学的発見により示唆されているように、新疆へのこれらの文化的影響は、地域と期間により異なりました。新疆北部の遺跡では、アルタイ山脈の紀元前3300~紀元前2500年頃となるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化および紀元前2750~紀元前1900年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化とのつながりが明らかにされてきました。

 新疆西部の青銅器時代墓地には、移動輸送および発達した冶金術と関連する物質が含まれており、草原地帯西部および天山地域の紀元前1700~紀元前1500年頃となるアンドロノヴォ(Andronovo)文化に由来する可能性が高そうです。青銅器時代の新疆は、内陸アジア山地回廊(IAMC)を介してアジア中央部西方とのつながりがあり、コムギやオオムギのような農業で重要性の高い穀類がもたらされ、河西回廊を通じてアジア東部とのつながりがあり、ホウキモロコシがもたらされた可能性が高そうです。さらに、新疆東部の青銅器時代人口集団は、中華人民共和国北部の甘粛省および青海省(甘粛青海)地域のアジア東部人と文化的つながりを共有しています。新疆の青銅器時代の小河(Xiaohe)遺跡と天山北路(Tianshanbeilu)遺跡に関する過去の研究は、Y染色体の一塩基多型とミトコンドリアDNA(mtDNA)の超可変領域の限定的な数を用いており、新疆の過去の遺伝的歴史を解明できません。

 中期~後期青銅器時代(MLBA)を経て紀元前800~紀元前200年頃の鉄器時代(IA)には、ユーラシア草原地帯の遊牧民集団が新疆のさまざまな地域に影響を及ぼしました。そうした集団の一つがスキタイで、タガール(Tagar)文化やパジリク(Pazyryk)文化やサカ(Saka)文化のようないくつかの人口集団の連合でした(関連記事)。一部の埋葬習慣の記録から、中期青銅器時代シベリア南部のオクネヴォ(Okunevo)文化は、草原地帯関連祖先系統を限定的に有し、新疆北部にも影響を及ぼした、と示唆されています(関連記事)。

 鉄器時代遺跡1ヶ所の最近のゲノム研究は、新疆東部における草原地帯関連祖先系統を報告しました。おもに草原地帯となる新疆周辺地域の古代ゲノム研究はさらに、鉄器時代における広範な人口集団移動と西方草原地帯関連祖先系統の混合を裏づけます(関連記事)。しかし、新疆全域の草原地帯関連祖先系統の程度は、より多くの古代DNAがなければ不明です。その後、紀元前200年頃以後、新疆は匈奴や突厥など多くの重要な遊牧民連合により支配されました。これらの集団はとくに新疆に影響を及ぼし、権力の頻繁な移行から、歴史時代(HE)も文化的に混合された期間だった、と示唆されるものの、新疆の人口構造がこれらの文化的変化に影響を受けたのかどうか、古代DNAなしには確定できません。

 全体として、古代新疆の人口集団の遺伝的構造は、青銅器時代から鉄器時代を経て歴史時代までの変化と同様に、特徴づけられていません。言語学的に、トカラ語とコータン語の存在も調べるべき重要な問題です(関連記事)。現在の新疆人口集団に関するゲノム研究からは、頻繁な移住と遺伝的混合を伴う複雑な遺伝的構造が示唆されます。しかし、わずか数遺跡の古代DNAデータしかないので、過去の人口集団構造と混合の全体像を再構築する能力は限られています。したがって、青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の古代遺伝データを得ることは、新疆の人口集団構造の時空間的変化を特徴づけるのに重要です。


●データの概要

 新疆全域の41ヶ所の遺跡から、4962~500年前頃となる古代人237個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)データが得られました。網羅率は31~5515倍です。これら237個体の完全なミトコンドリアゲノムは、時代・地域・文化により分類されました。青銅器時代では、4962~2900年前頃の63個体のデータが得られました。これには4800~4000年前頃となる前期および中期青銅器時代(EMBA)の新疆北部の24個体が含まれます。このうち18個体はチェムルチェク文化と関連しており(北部チェムルチェクEMBA、4811~3965年前頃)、2個体はアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連しています(北西部アファナシェヴォEMBA、4570~4426年前頃)。新疆西部のイリ渓谷のアファナシェヴォ文化と関連する3標本(西部アファナシェヴォEMBA、4962~4840年前頃)が得られ、新疆北部のアファナシェヴォ文化と関連する標本と組み合わされて、北西部アファナシェヴォEMBA集団が形成されます。

 4237~4087年前頃となる松樹溝(Songshugou)遺跡の3個体(NSSG_EMBA)と、4500年前頃となるカバ(Habahe)遺跡の1個体は、その文化に関連する情報がなく、別々に分析されました。新疆東部では、青銅器時代の3600~3000年前頃となる南湾(Nanwan)遺跡の1個体(東部BA)と、後期青銅器時代の追加の25標本が得られました(3000~2900年前頃の東部LBA)。天山北路と南湾の密接な考古学的関係を考慮して、本論文の南湾遺跡1個体のハプログループ情報が既知の天山北路個体群と統合され、東部青銅器時代集団が構成されました。さらに、新疆南東部に位置するタリム盆地東部の小河遺跡の第4層~第5層の10標本が収集されました(3929~3572年前頃となる南東部小河BA)。これらの分類は、青銅器時代の新疆の東部・西部・北部・南東部の人口集団を表しています(図1)。

 鉄器時代に関しては、新疆全域で2900~2000年前頃の128標本が収集されました(図1)。そのうち27標本は新疆東部で(東部IA)、15標本は新疆北部で(北部IA)、55標本は新疆西部のイリ地域で(西部IA)、31標本は新疆南部で(南部IA)得られました。異なる南部IA遺跡群は、その高い文化的異質性と広範な地理的分布のため1つの大集団に統合されず、別々の集団として分析されました。南部IA集団のSZGLK_IA(19標本)とSWJEZKL_IA(12標本)はタリム盆地に由来し、SWJEZKL_IAはチベット高原に隣接する新疆南西部の高地に由来します。天山東部の石人子溝(Shirenzigou)遺跡の既知の鉄器時代10個体(2200年前頃)のハプログループ情報も、収集されて分析されました。

 青銅器時代と鉄器時代の個体群のミトコンドリアゲノムデータに加えて、2000~500年前頃となる歴史時代の個体群のmtDNAも配列されました。歴史時代の遺跡群の標本規模とひじょうに混合された文化を考慮して、まず地理的位置に基づいて標本群が分類され、次に追加で文化に基づいて細分化されました。合計で5集団が分類され、1つは新疆西部(西部HE、11個体)、3つは新疆南部(15個体のSBZL_HE、10個体のSSPL_HE、9個体の南部ホータン)、1つは新疆東部の白楊河(Baiyanghe)遺跡の1個体(東部HE)です。さらに、新疆周辺地域の既知の古代人738個体と現代人7085個体のmtDNAデータが得られ、これら全ての人口集団は、以前の遺伝学的研究に基づいていくつかの下位集団に分類されました。

 一般的に、標本抽出された新疆の古代人口集団全てについて、母系(mtDNA)の遺伝的距離(FST)と地理的距離との間に正で有意な相関係数が見つかります。したがって、新疆の古代人口集団はひじょうに混合しており、低い地理的構造を有していた可能性が高そうです。青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の新疆人口集団の遺伝的比較も、ヌクレオチド多様性の変動を明らかにしました。鉄器時代と歴史時代の人口集団は一般的に、青銅器時代人口集団と比較してより高いヌクレオチド多様性を示し、青銅器時代と比較して鉄器時代と歴史時代における人口集団の移住と混合の増加を示します。鉄器時代と歴史時代の人口集団では、西部HEが最も高い多様性を示し、新疆南部人口集団で最も低い多様性が観察されました。以下、本論文の図1です。
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●青銅器時代新疆人口集団の遺伝的起源と複雑性

 青銅器時代新疆集団間の遺伝的違いと類似性を決定するために、まずmtDNAハプログループ(mtHg)頻度に基づいて主成分判別分析(DAPC)が行なわれました。PC1軸は地理的に東西の人口集団変動を、PC2軸は地理的に南北の人口集団変動を説明します(図2A)。一般的に、全人口集団は主要な4クラスタに区分されます。それは、アジア北東部(NEA、シベリアとアジア東部北方)、アジア南東部(SEA、アジア東部南方とアジア南東部)、草原地帯中央部、ヨーロッパ(トゥーラーンとヨーロッパ)です。新疆古代人全標本は、NEA人口集団から草原地帯中央部およびヨーロッパクラスタへと伸びる勾配に位置し、これら古代新疆人口集団がNEAと草原地帯中央部とヨーロッパの人口集団との関連性をさまざまな程度で有していた、と示唆されます。

 アファナシェヴォ文化(4962~4840年前頃となる北西部アファナシェヴォEMBA)と関連する、新疆北部および西部の青銅器時代個体群は、西方の草原地帯関連人口集団(西部草原地帯EMBAおよびMLBA)に囲まれている、と明らかになります(図2A)。対照的に、新疆北部のチェムルチェク文化と関連するEMBA個体群(北部チェムルチェクEMBA)と松樹溝遺跡個体群(NSSG_EMBA)は、他の中央部草原地帯人口集団により囲まれるそれぞれ別個のクラスタを形成します(図2A)。以前おもに青銅器時代草原地帯人口集団で報告された、mtHg-U・H・Rの高い割合が観察されました。これらEMBA人口集団間の有意な遺伝的分化はありませんが、北部チェムルチェクEMBAのみが、草原地帯西部両人口集団(西部草原地帯EMBAおよびMLBA)とは有意な遺伝的分化を示します(図2B)。北部チェムルチェクEMBAは中央部草原地帯MLBAとも有意な遺伝的分化を示しますが、中央部草原地帯EMBAとは示さず、DAPCの位置と一致します。

 さらに、中央値結合ネットワークでは、西部草原地帯EMBA個体群は、北西部アファナシェヴォEMBAとmtHg-U4・U5・H15で、北部チェムルチェクEMBA とmtHg-U4・U5・H2・H6a・W3で、NSSG_EMBAとmtHg-U4でクラスタ化します(図3D)。mtHg-H2・H5は草原地帯西部関連人口集団に存在し、mtHg-H6aはアルタイ地域のオクネヴォ文化と関連する人口集団に存在します。mtHg-D4jの存在により裏づけられる北部チェムルチェクEMBA とNEAとのつながり(バイカルEBA)も見つかり、それはこれら2人口集団で、ネットワーク分析におけるわずか4ヶ所の変異で異なっており、シベリア地域を含むアジア東部北方に存在しました(図3E)。HBHのEMBA1標本のmtHgはU5で、より多くの草原地帯西部と関連するつながりが示唆されます。したがって、新疆の西部および北部両人口集団は、EMBAにおいてかなりの草原地帯西部関連祖先系統を有していた、と示されます。以下、本論文の図2です。
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 東部集団(東部BAおよびLBA)は新疆北部および西部のEMBA個体群とは別にクラスタ化する、と明らかになります。東部集団は両方、DAPCでは古代および現代のNEAとクラスタ化します(図2A)。東部BAおよびLBAは、mtHg-Dの高い割合(それぞれ36.70%と32.00%)を有しています。mtHg-Dは、中国北部人(18.20~44.80%)および古代モンゴル人(31.20%)など古代および現代のNEA人口集団(関連記事1および関連記事2)で一般的です(図1A・3E)。東部LBAはこれらNEA人口集団の一部と有意ではない遺伝的距離を示します。具体的には、甘粛省・青海省(GQ)の古代2人口集団、つまりGQ斉家(Qijia)文化BAおよびGQ卡約(Kayue)文化LBAと、現代4人口集団、つまり日本人とモンゴル人とツー人(Tu)とオロチョン人(Oroqen)です。

 東部BAおよびLBAは両方、草原地帯西部関連のmtHg-Uを有していますが、ヨーロッパよりもNEAの系統の方でより高い割合を示し、後の標本ではより多くのヨーロッパ系統が確認されます(東部BAでは20%、東部LBAでは36%)。このパターンはDAPCと一致し、東部LBAの位置は東部BAと比較してユーラシア西部人の方に近くなっています。さらに、mtHg-D4b2b4は匈奴と東部LBAの両方でも見つかり(図3E)、共有されるNEA祖先系統の存在に起因する、東部LBAと匈奴の人口集団間の直接的関係を示唆します。したがって、東部BAおよびLBA人口集団は、より多くのNEAとのつながりを示しますが、草原地帯西部関連系統の存在(mtHg-Uが東部BAでは16.7%、東部LBAでは8%)も、草原地帯西部関連人口集団との追加のつながりを裏づけます。

 南東部小河BA はDAPCではNEA集団とクラスタ化し、それは東部BAおよびLBAと類似していますが、古代および現代のシベリア人祖先系統を有する人口集団へのより多くの類似性を示します。南東部小河BAは、NEA人口集団およびシベリア南部のバイカル湖地域近くのシャマンカ(Shamanka)人口集団など、古代および現代のシベリア人口集団に存在するmtHg-C4の高い割合を示します。この人口集団は、他の青銅器時代新疆集団を含む他の全ての古代および現代の人口集団と比較して、有意な遺伝的距離を示すことにおいて独特ですが、シベリアの現代の3人口集団、つまりエヴェン人(Even)とエヴェンキ人(Evenk)とヤクート人(Yakut)とは最短の遺伝的距離を示します。これらの結果は、小河遺跡に関する以前の研究と一致します。以下、本論文の図3です。
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 新疆の東部および西部の青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の標本群では、mtHg-R1bも見つかっています。青銅器時代では、北部チェムルチェクEMBAで2個体、北西部アファナシェヴォEMBAで1個体、NSSG_EMBAで1個体、南東部小河BAで1個体、東部IAで1個体、西部IAで1個体、西部HEで2個体です。mtHg-R1bはロシア北西部のカレリア(Karelia)など(関連記事)ヨーロッパ東部狩猟採集民だけではなく、カザフスタンのボタイ(Botai)文化個体群(関連記事)やダリ(Dali)遺跡個体群(関連記事)でも報告されました。さらに、ボタイ文化(関連記事)および草原地帯関連人口集団では、新疆東部の標本(東部LBA)と同様に、mtHg-K1b2が共有されていました。

 mtHg-R1bの中央値結合ネットワークでは、北西部アファナシェヴォEMBAと関連する、新疆北部および西部のEMBA標本(紀元前3012~紀元前2890年頃)がネットワークの中央に位置し、1ヶ所のみの変異によりボタイ文化個体群と分離する、と示されます(図3B)。この分枝は、NSSG_EMBAおよびダリ遺跡の1個体を含む別の分枝と関連しています(図3B)。これは、古代北ユーラシア(ANE)人口集団との深い祖先系統のつながり、もしくはカザフスタンの地理的に近接する人口集団とのいくつかの遺伝的繋がりを示唆しているかもしれません(関連記事1および関連記事2)。新疆人口集団の1個体でもmtHg-R1bが見つかり、小河遺跡の人々の新疆北部とのつながりも示唆しているかもしれません。したがって青銅器時代において、新疆北西部人口集団がアファナシェヴォ文化およびチェムルチェク文化など草原地帯西部関連文化集団に、新疆南東部人口集団がNEAやシベリア南部の人口集団への高い遺伝的類似性を示し(図4A)、近隣人口集団および多様な文化的背景の共同体との複雑な相互作用が示唆されます。


●鉄器時代新疆におけるより大きな文化的およびmtHgの多様性

 鉄器時代(IA)の新疆における人口集団の移動と変化をよりよく理解するため、新疆全域の128標本が分析されました。一般的に、北部IAを除く全ての新疆鉄器時代集団は、青銅器時代集団よりも高いmtHg多様性を示し、ユーラシア東西からのより多くの移住と伝達が示唆されます。鉄器時代集団間の遺伝的分化(FST)はほぼ有意ではなく、鉄器時代における高水準の混合が示唆されます(図2B)。DAPC(図2A)では、北部IAはは、中国北部のGQ馬家窯(Majiayao)文化EBAやフブスグル(Khovsgol)LBA、中国北部の現代シボ人(Xibo)、シベリアの現代ヤクート人といったNEA人口集団の近くにクラスタ化し、これは草原地帯関連祖先系統を有する人口集団と密接にクラスタ化する新疆北部のEMBA人口集団と対照的です。NEAへのこの高い類似性は、アジア東部の主要な2つのmtHg(図1A)、つまりD(53.30%)およびF(13.30%)と、GQ馬家窯EBAやGQ斉家BAやGQ卡約LBAやLTP_IAといった中国北部人口集団との低いFST値によっても表されます。中央値結合ネットワークはさらに、一部のサカ文化個体群(天山サカIAのmtHg-D4j8)とともに、北部IAとNEAの個体群間のつながり(mtHg-D4eとD5a)を示唆します。さらに、草原地帯関連mtHg-U4(6.70%)・H5(6.7%)と、トゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)関連mtHg-U7(6.7%)も観察され(図3D)、これらの集団との遺伝的つながりが示唆されます。

 新疆東部IAと既知のSRZG_IAを含む2人口集団があります。東部IAとSRZG_IAの両方は、中国北部のGQ斉家BAとひじょうに低い遺伝的距離を示し、青銅器時代標本の東部LBAと一致します(図2B)。DAPCでは、東部IAとSRZG_IAは草原地帯中央部クラスタに位置しますが、東部IAがNEA人口集団とのわずかに大きな類似性を示すのに対して、SRZG_IAの既知の標本群は、草原地帯西部関連祖先系統を有する人口集団と密接に集団化します(図2A)。東部IA(22.20%)と比較して、草原地帯西部関連mtHg-U祖先系統のより高い割合(40%)も観察され、DAPCを裏づけます(図1A)。さらに、東部IAにおける匈奴のmtHg-D4b2bに表される NEAのmtHg-D(14.8%)も見つかりました(図3E)。アジア中央部のmtHgも見つかりました。東部IAにおけるトゥーラーン固有のmtHg-T2d1(ウズベキスタンMLBA)は、トゥーラーン人口集団と共有される追加の類似性を反映している可能性が高そうです。したがって、東部IA人口集団は、NEAとヨーロッパ両方のmtHgを示すだけではなく、トゥーラーン人口集団との追加の遺伝的類似性も共有します。

 DAPCでは、西部IA人口集団はNEAとヨーロッパの人口集団の勾配に位置し、サカやフンなど草原地帯中央部のIA人口集団と密接に集団化します(図2A)。このユーラシア東西との類似性は、他の鉄器時代3地域と比較しての、ユーラシア東西のmtHgの多様な配列でも見られます(図1A)。西部IAは2つの主要なヨーロッパのmtHg-U(20.40%)およびH(18.50%)と、NEAのmtHg-C(14.80%)およびD(11.10%)を含みます(図1A)。西部草原地帯MLBA系統とのつながりも、mtHg-T2b34およびU5a2a1で観察されますが、一部地域の青銅器時代標本では観察されません。mtHg-T2b34の中央値結合ネットワークも、西部IAと西部草原地帯MLBAのつながりを示します。この高いmtHg多様性はさらに、NEAおよびヨーロッパの人口集団の多くが西部IAとひじょうに低い値を示すFST値に反映されています。

 さらに、トゥーラーン固有のmtHg-HV(HV18およびHV20)とW(W3b)の存在(図3C)は、トゥーラーンから内陸アジア山地回廊(IAMC)を通ってイリ地域への人々の移住の可能性を示唆します。mtHg-G3a3(匈奴HP)やC4a1a+195およびC4+152(天山フン)やH101(中央部サカIA)の存在などいくつかの重要な外れ値も観察され、草原地帯遊牧民集団とのつながりの可能性が示唆されます。mtHg-C4・G3a3・H101の系統発生ネットワークも、西部IAと、鉄器時代草原地帯遊牧民のサカ文化や匈奴やフンの人口集団との間のわずかな違いを有する直接的つながりを示し(図3A)、古代のサカ文化や匈奴やフンの移住におけるイリ地域の潜在的な役割を示唆します。

 新疆南部のSZGLK_IAは、DAPCで草原地帯およびアジア中央部人口集団の近くに位置するので、草原地帯およびアジア中央部との強いつながりを示しますが、SWJEZKL_IAはNEAおよび草原地帯中央部祖先系統を有する人口集団の近くに位置し、NEAのmtHg-C(25.00%)およびD(25.00%)を高頻度で有します(図1A)。mtHg分析から、SZGLK_IAはmtHg-H(26.3%)とU(5.3%)を比較的高い頻度で有しており、これらのmtHgは、西部草原地帯MLBAなど古代ユーラシア西部人口集団に存在しました。SZGLK_IAは西部草原地帯MLBAとの低いFST値も示します。

 草原地帯MLBAとのつながりは、西部草原地帯MLBAには存在するものの、西部草原地帯EMBAには存在しないmtHg-T2b34・H5a1・U5a2a1・N1a1a1aの存在により、さらに強化されます。さらに、SZGLK_IA におけるmtHg-HV12とR2+13500も、トゥーラーンからのアジア中央部のつながりを明らかにします。アジア中央部人との密接な類似性は、SZGLK_IAをイラン銅器時代およびトルクメン前期新石器時代と比較してのより低いFST値で、さらに見つかりました。さらに、SWJEZKL_IAもトゥーラーン関連系統(mtHg-H13a2a)を有しており、トゥーラーンとのいくつかのつながりが示唆されます。

 鉄器時代人口集団は全体として、激しい混合にも関わらず、新疆全域で明確な人口集団構造を示します。北部IAと高地のSWJEZKL_IAがより多くのNEA祖先系統を有する一方で、西部IAと東部IA人口集団はNEAとヨーロッパ両方の祖先系統を示し、SZGLK_IAはMLBAにおける草原地帯西部関連人口集団とのより多くのつながりを示します(図4B)。さらに、全鉄器時代人口集団はトゥーラーン人口集団との遺伝的つながりを示します。これら鉄器時代標本群において、東部IAと西部IAとSZGLK_IAは、北部IAと比較して、トゥーラーン人口集団とより多くの類似性を共有します。これはさらに、内陸アジア山地回廊(IAMC)が果たした重要な役割を示唆します。それはおそらく、この地域で広く見られたバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化集団と類似した祖先系統を有する、トゥーラーンの人々の移住増加につながりました。以下、本論文の図4です。
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●新疆における鉄器時代と歴史時代の間の遺伝的連続性

 青銅器時代と鉄器時代の個体群に加えて、鉄器時代後の遺伝的多様性をさらに評価するため、2000~500年前頃となる歴史時代の遺跡の46標本のmtDNAが配列されました。一般的に、歴史時代の個体群は新疆以外の他の古代人口集団と比較して、古代新疆人口集団と最小のFST値を示す、と明らかになりました。DAPCでは、西部HEは古代草原地帯中央部個体群とともに、西部IAやSRZG_IAやSBZL_HEやSZGLK_IAの他の鉄器時代個体群と密接にクラスタ化します(図2A)。西部HE人口集団も、西部IAに存在した、同じNEA系統(mtHg-Cが27.30%、mtHg-Gが9.10%)とヨーロッパ系統(mtHg-Hが9.10%、mtHg-Uが18.20%)を示します(図1A)。西部HE人口集団はさらに、西部IAでも見られた、フン(mtHg-C4a1a+195)とサカ文化(mtHg-H101)とトゥーラーンのmtHgを有します。西部HEと西部IAとの間の密接な類似性は、低いFSTでさらに示されます。新疆東部の歴史時代の1標本はmtHg-D4で、より多くのNEAとのつながりを示唆します。

 3ヶ所の遺跡(SBZL_HEとSSPL_HEとSHetian_HE)の南部HE個体群は、さまざまな類似性を示しました。SBZL_HEは南部HEではmtHg-D(13.3%)を有している点で独特ですが、SSPL_HEは草原地帯西部関連のmtHg-Hを高い割合(60%)で有しています(図1A)。mtHg頻度は同じパターンを示し、SBZL_HE個体群はSHetian_HE(mtHg-Cが11.1%)およびSSPL_HE(0.00%)と比較して相対的に高いNEAとの類似性(mtHg-A・C・Dで33.3%)を示し、草原地帯西部関連人口集団とのより高い類似性(SSPL_HEではmtHg-Hが60%、mtHg-Uが20%、mtHg-TおよびWが10%)を示し、DAPCでは草原地帯関連人口集団と密接に集団化します(図2A)。歴史時代の3人口集団は、草原地帯西部関連およびトゥーラーン人口集団と低いFST値を示し、同じ地域の鉄器時代人口集団(SZGLK_IA)と類似しています。しかし、南部HE標本群(SBZL_HE)と西部IAにおけるフン関連のmtHg-D4j5が見つかりました。mtHg-D4ネットワークから、西部IAとSBZL_HEは天山フンHEと少ない変異で分離しており(図3E)、鉄器時代の新疆西部と歴史時代の新疆南部との間のつながりと、イリ地域から新疆南部へのフンの南方への移動を反映しているかもしれません。


●青銅器時代と鉄器時代と歴史時代の新疆個体群のミトコンドリアゲノム比較

 とりわけ、青銅器時代と鉄器時代の異なる新疆の地域間のmtHg比較は、複数の移住および混合事象の発生を示唆します(図1A)。新疆北部のEMBA人口集団は、mtHg-UおよびHにより示唆されているように、草原地帯西部関連人口集団とのより高い類似性を示していますが、鉄器時代人口集団(北部IA)は、ユーラシア東部人とのより多くのつながりを共有しており、とくに、鉄器時代と歴史時代に固有のmtHg-D4c1b1・D4e1・D4o2aなどmtHg-D4を高い割合で有するNEAで見られるつながりが多く共有されています。FST分析では一貫した結果が明らかになり、新疆北部EMBA人口集団は草原地帯西部関連人口集団との、北部IA は古代NEAとの小さな遺伝的距離を示します。青銅器時代から鉄器時代へのより多くのNEA関連祖先系統へのこの変化は、NEAと新疆北部の人口集団間のより頻繁な移住と混合を示唆します。

 新疆西部人口集団は青銅器時代と鉄器時代全体を通じてかなり一致するmtHg構成を示し、草原地帯西部関連mtHg(U5・H15)を有しますが、西部IAはNEAのmtHg(C4・G2・D4)をいくつか共有します。DAPCでは、西部IAはNEAとヨーロッパの人口集団の間に位置し、草原地帯中央部人口集団とクラスタ化します。これは、アファナシェヴォ文化と関連するEMBA個体群(北西部アファナシェヴォEMBA)とは異なります(図2A)。西部IAはトゥーラーン(トゥルクメン前期新石器時代、イラン銅器時代、イランEMBA)とのつながりも示します。したがって、青銅器時代から鉄器時代の遺伝的比較は、イリ地域の果たした重要な役割を裏づけます。イリ地域では、草原地帯関連およびNEA祖先系統を有する人口集団がひじょうに長く存続しました。

 新疆東部では、青銅器時代および鉄器時代両集団が、NEA人口集団とのより多くの類似性を示しますが、ヨーロッパ人口集団のmtHgも見つかり、NEAとヨーロッパの混合人口集団の存在が示唆されます。南部IA人口集団はトゥーラーンとのつながりを示し、西部IAと類似しており、新疆西部(イリ地域)から南部への人口集団の移住を反映しているかもしれません。IA人口集団におけるこれらのひじょうに混合した祖先系統は、歴史時代へと続きました。新疆の歴史時代には、NEAとヨーロッパの両人口集団のさまざまな移住と定住が見られたので、ユーラシア東西の両人口集団により創立され確立した「文明」を反映しています。

 さまざまな分類が異なる新疆集団間の分散にどのように影響するのか検証するため、古代新疆人口集団間で分子分散分析(AMOVA)検証が実行されました。他集団と比較すると、有意に高い値は、新疆標本群を4集団に分類する時に観察されました。その4集団とは、西部新疆(北部チェムルチェクEMBA、北部アファナシェヴォEMBA、NSSG_EMBA、西部IA、西部HE、SZGLK_IA、SSPL_HE、南部ホータンHE、SBZL_HE)、東部新疆(北部IA、SWJEZKL_IA、東部LBA)、東部IA(東部IA、SRZG_IA)、南東部小河BAです。東部新疆集団はNEA人口集団とより多くの類似性を共有し、西部新疆集団は草原地帯西部関連人口集団とクラスタ化し、東部IA集団は草原地帯中央部およびヨーロッパ人とより多くの類似性を共有します。


●新疆の現代人口集団と古代人との比較

 古代新疆人口集団がユーラシア現代人と共有する関係を決定するため、新疆個体群が地理的位置に基づいて下位4集団と比較されました。その下位4集団とは、現代NEA人口集団(pdNEA、シベリアとアジア東部北方)、アジア南東部人口集団(pdSEA、アジア東部南方とアジア南東部)、新疆および周辺地域人口集団(pdCA/XJ)、ヨーロッパとコーカサスとアジア西部を組み合わせた集団(pdEurWA)です。青銅器時代人口集団では、南東部小河BAはpdNEAのシベリア人と、東部LBAはpdNEAのアジア東部人(ツー人と日本人とモンゴル人)と最高の類似性を示しますが、新疆北部および西部EMBAはpdCA/XJおよびpdEurWAと最高の類似性を示し、それはDAPCおよびmtHg分析でも観察されます。鉄器時代と歴史時代の新疆人口集団も一般的に、pdCA/XJと高い類似性を示し、鉄器時代と歴史時代と現代の人口集団間の遺伝的つながりが示されます。さらに、新疆の北部IAおよびSWJEZKL_IAとpdNEAとの有意なつながりが観察されます。

 新疆南西部現代人には、ウイグル、キルギス、サリコル(Sarikoli)・タジク、ワハン(Wakhan)・タジクの4人口集団が含まれます。DAPCでは、ウイグルとキルギスはpdCA/XJ人口集団の近くに位置し、サリコル・タジクとワハン・タジクはpdEurWA人口集団とクラスタ化します。本論文の古代新疆標本群は、ウイグルおよびキルギスとクラスタ化し、ヨーロッパ人およびイラン人とのより多くの類似性を示すサリコル・タジクおよびワハン・タジクと比較して、アジア東部人とのより多くの類似性が示唆されます。FST分析では、新疆EMBAおよびIA個体群が、サリコル・タジクおよびワハン・タジクと比較してウイグルおよびキルギスと高い遺伝的類似性を示す一方で、新疆HE標本群はこれらの集団両方と同じような遺伝的類似性を示す、と一般的に観察されます。したがって、要約すると、シベリアとヨーロッパとアジア東部とアジア西部・中央部の全ての主要な祖先系統が、古代と現代の新疆人口集団に存在するという、古代から現代の遺伝的連続性が見つかります。


●考察

 新疆の考古学的発見は、過去の人口集団構造および移住に関する好奇心を高めました。競合する仮説の中でほとんどの考古学者が支持する見解は、古代新疆はユーラシア東西両方の人々の混合された連合だった、というものです。新疆周辺の青銅器時代および鉄器時代の人々の高い移動性と混合は、限定的な片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の以前の分析でも裏づけられています。しかし、複数の地域および期間の古代DNAの欠如のため、新疆の過去の人口構造は謎に包まれています。本論文の分析を通じて、新疆の人口集団構造と、それが青銅器時代から現代までどのように変化したのか、特徴づけられました。これらの新たなデータと結果から、ずっと詳細で広範な混合シナリオを提供できます。

 新疆周辺の青銅器時代はおもに、EMBAヤムナヤ(Yamnaya)およびアファナシェヴォ文化を含む草原地帯関連祖先系統に代表されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。たとえば、西部草原地帯EMBA人口集団は、複数のmtHg(U4・U5・H2・H6a・W3)で新疆北部の松樹溝遺跡個体群とクラスタ化します。これは、松樹溝遺跡のアファナシェヴォ様式の遺物、およびヨーロッパ人的な特徴を示すM15号墓の1個体の身体的特徴と一致します。青銅器時代新疆のチェムルチェク文化の影響の証拠も見つかりました。これは、さまざまな墓地の周囲の擬人化された彫像を伴う石柱の考古学的記録により示唆されます。

 ユーラシア東部(NEA)と西部(草原地帯西部関連)のmtHgの存在が見つかったように、新疆内の青銅器時代人口集団は遺伝的にかなり混合されていました。青銅器時代新疆の人々の高い混合にも関わらず、いくつかの特有の類似性が依然として観察されます。たとえば、草原地帯西部関連人口集団は、新疆北部および西部の人口集団(北西部アファナシェヴォEMBAと北部チェムルチェクEMBA)に、より多くのNEAとのつながりを示す新疆東部集団(東部BAおよび東部LBA)よりも多くの影響を及ぼしたようです。NEAとのつながりは、青銅器時代新疆東部の最初の既知の文化である、天山北路文化(3900年前頃)の考古学的に仮定された形成と一致します。新疆の東方に位置する甘粛省の馬家窯・馬廠(Machang)文化は、新疆東部で天山北路文化を、河西回廊でシバ(Siba)文化を形成した、と示唆されました。青銅器時代新疆東部の個体群(東部BA、天山北路文化)も甘粛省・青海省地域(GQ)の人口集団と身体的類似性を示しました。これらの報告と一致して本論文では、新疆東部の後のLBA人口集団も、古代GQ人口集団(GQ斉家BAとGQ卡約LBA)との遺伝的つながりを示す、と明らかになりました。

 新疆東部(東部BAと東部LBA)におけるいくつかのユーラシア西部関連mtHgの存在は、ヨーロッパ人的な身体的特徴を有する何人かの個体や、いくつかのユーラシア西部の特徴を有する天山北路文化遺跡の埋葬形態や装飾品や道具とさらに一致します。しかし、南東部小河BA人口集団は、古代および現代のシベリア人口集団とより多くのつながりを示します(図4A)。小河遺跡の考古学的発見には、コムギとキビの穀粒が含まれており、内陸アジア山地回廊(IAMC)沿いの、アジア西部文化と中国北部文化両方からのつながりと交換の可能性が示唆されます。このシナリオは、NEAとユーラシア西部両方からの移住が、青銅器時代新疆人口集団にかなりの影響を及ぼした、と示唆している可能性があります。アファナシェヴォやチェムルチェクやボタイなど、全てのこれら草原地帯関連文化は、おそらくIAMC経路を用いて新疆でその存在を確立した、アルタイ文化の一形態を表せます。さらに、NEAおよびシベリア人との新疆東部および南部青銅器時代人口集団の類似性も、新疆の青銅器時代におけるNEAとシベリアからのより大きな影響を示唆します。

 新疆の鉄器時代標本群は、ユーラシア東西系統とのより多くの混合であり続けましたが、青銅器時代と同様に、特定の地域はNEAとヨーロッパの人口集団へのさまざまな類似性を示しました。新疆北部の鉄器時代人口集団は、より多くの古代NEAとのつながりを示しましたが、新疆西部および東部の人口集団(西部IAおよび東部IA)は、NEAとヨーロッパ(トゥーラーンおよび草原地帯西部関連)両方の人口集団との類似性を有しました。新疆西部鉄器時代において、ユーラシア東西との混合された類似性は、混合された文化的および身体的類似性を反映しているかもしれません。

 新疆西部の前期鉄器時代の索墩布拉克(Suodunbulake)文化の埋葬構造は、アムダリヤ(Amu Darya)のアジア中央部サパリ(Sapali)およびワケシ(Wakeshi)文化と類似しています。索墩布拉克文化の彩色土器はユーラシア東部文化をより想起させますが、索墩布拉克文化と関連する個体群は、より多くのヨーロッパ人的特徴を有します。鉄器時代初期のスキタイ人によるイリ地域の占領も、鉄器時代新疆西部におけるユーラシア東西両方の人口集団との共有された類似性を説明できるかもしれません。東部IAで観察された継続的なNEAとのつながりは、青銅器時代の天山北路文化および鉄器時代の焉不拉克(Yanbulake)文化との間の連続性を反映しており、焉不拉克文化はさらに、新疆のチェムルチェク文化や新塔拉(Xintala)文化と同様に、甘粛省の辛店(Xindian)文化に影響を受けました。

 新疆南部の人口集団(SZGLK_IA)は、西部草原地帯MLBAおよびトゥーラーンとのより多くのつながりを示しますが、新疆南部の高地の人口集団(SWJEZKL_IA)は、NEAとのより多くのつながりを示します。一部の新疆人口集団の地域的な選好、とくに新疆の南西部と北東部との間の分化から、鉄器時代はひじょうに相互作用的な期間だった、と示唆されます。紀元前200年頃から、新疆を通過するシルクロードが、ユーラシア全域での人口集団移動の促進に影響を有するようになりました。新疆北部の鉄器時代標本群(北部IA)は、GQ地域の河西回廊のNEA人口集団とのより密接な類似性を示す点で、新疆北部のEMBA標本群とは異なる、と明らかになりました。さらに、新疆南部の鉄器時代標本群(SZGLK_IA)も、NEA系統(mtHg-C7b・D4i・D4j1b)を有しており、中国北部とタリム盆地との間のつながりが示され、シルクロード沿いのタリム盆地への人口集団移動の影響と一致します。

 歴史時代の人口集団はNEAおよびヨーロッパ両系統を示し続け、新疆における人々の高い移動と混合の維持を反映しています。これら歴史時代の人口集団はひじょうに混合されており、異なる文化的類似性の共存する社会でした(図4C)。北部IAと西部IA両方の人口集団は、サカ文化関連系統を有していると明らかになり、サカ文化の人々は新疆北部および西部で鉄器時代人口集団と混合したかもしれない、と示唆されます。天山の東西両方の人口集団(東部および西部IA)で見られる匈奴系統(図3E)は、紀元前3世紀もしくは紀元前2世紀頃の匈奴人口集団の西方への拡大と一致します(関連記事)。フン人のmtHgが新疆南部の(鉄器時代ではなく)歴史時代の標本群(紀元後421~538年頃のSBZL_HE)で観察され、フン人のスキタイ人口集団への侵略および紀元後4~5世紀のフン・スキタイ人の形成と一致し(関連記事)、歴史時代におけるイリ地域からこのフン伝統への南方への移動を示唆します。

 新疆東部は、消滅したインド・ヨーロッパ語族のトカラ語と関連しています(関連記事)。古代の写本に基づくと、トカラ語は新疆中央部で紀元後500~900年頃まで存在していました。一般的に、考古学者はトカラ語を新疆のアファナシェヴォ文化の人々と関連づけています。青銅器時代遺跡群に関する本論文の結果は、タリム盆地の小河遺跡個体群が古代シベリア人口集団と深い祖先的つながりを有している一方で、新疆北部および西部の他のEMBA人口集団はより多くの草原地帯EMBA(アファナシェヴォ文化)とのつながりを示す、という複雑なシナリオを提案します。したがって、おそらくトカラ語は、アファナシェヴォ文化など草原地帯関連祖先系統と関連する人口集団とともに新疆に到来しました。しかし、他の新疆EMBA(4500年前頃)よりも後になる小河遺跡(3900~3500年前頃)個体群は、代わりに古代シベリア人との深いANEのつながりを有しているので、この仮説の確定にはより多くの標本抽出が必要でしょう。

 別の古代言語であるコータン語はインド・イラン語派と関連しており、タリム盆地南部のコータンのニヤ(Niya)遺跡(紀元後200~500年頃)の古代の記録で最初に観察され、本論文のタリム盆地の標本群(紀元後74~226年頃のSSPL_HE、紀元後138~345年頃の南部ホータンHE、紀元後421~538年頃のSBZL_HE)と同時代です。コータン語は、紀元前200年頃のサカ文化の新疆への拡大と関連しています。多くの鉄器時代および歴史時代の新疆人口集団とサカ文化個体群との遺伝的類似性も観察され、新疆における広範な存在が示唆されます。

 まとめると、新疆のミトコンドリアゲノムの歴史は、草原地帯西部関連と草原地帯中央部とアジア北東部とトゥーラーンの遺伝子移入により強く特徴づけられ、さまざまな古代人口集団の連合が青銅器時代から歴史時代にかけてはっきりと見られます。この混合は新疆の現代人口集団の基礎を形成し、古代ゲノムデータを伴う将来の研究は、新疆におけるより多くの混合パターンを明らかにするでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、あくまでもmtDNAデータに基づいており、核ゲノムデータではやや異なる人口史が、Y染色体ではもっと異なる人口史が示されるかもしれませんが、広範な時代と地域のmtDNAデータに基づいており、たいへん意義深いと思います。確かに、mtDNAでは母系の人口史しか明らかになりませんが、核DNAと比較すると解析がずっと容易なので、より広範な地域と時代のより多くの個体を対象とした古代DNA研究が可能になる、という利点もあります。その意味で、本論文のようにmtDNAを用いた古代DNA研究は、今後も続けられていくでしょう。


参考文献:
Wang W. et al.(2021): Ancient Xinjiang mitogenomes reveal intense admixture with high genetic diversity. Science Advances, 7, 14, eabd6690.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd6690

安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』

 イースト・プレスより2017年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。島津久光の一般的な印象は、今でもたいへん悪いように思います。時代錯誤の頑迷な保守派で、名君である異母兄の斉彬と比較して人物は大きく劣り、明治維新の功績は久光ではなく大久保利通たち家臣のもので、それどころか、久光は家臣たちに騙されて討幕に加担してしまった間抜けな人物だった、というわけです。最近では、久光の評価が見直されており、幕末における主導的な役割が認められている、と一般向けの本や雑誌でも指摘されているので、一度まとまった本を読もうと考えて、本書を購入しました。

 本書は久光の評伝ですが、幕末から明治にかけての激動の時代に久光を位置づけるため、鎌倉時代にさかのぼって島津家の歴史を解説します。本書がとくに重視するのは、江戸時代において島津家と徳川将軍家との間には姻戚関係があった、ということです。島津家は将軍の御台所を二人も輩出しており、徳川将軍家とは、相互に警戒しつつも、密接な関係を築いていました。本書は、こうした関係を前提として、島津家中では討幕路線が主流ではなかった、と指摘します。西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩では非主流派だった、というわけです。討幕に薩摩藩の主流派が消極的だったのは、薩英戦争による打撃で出費が増加したことも一因でした。しかし、久光が健康状態の悪化により政治から離れた時期に、西郷と大久保が主導して薩摩藩は討幕へと動きます。

 薩摩藩が最終的に西郷隆盛や大久保利通の武力討幕に踏み切った要因として、徳川慶喜への不信感があります。慶喜が将軍に就任してからしばらくは、薩摩藩と幕府との関係は良好でしたが、四侯会議の結果、慶喜には雄藩と協調する意思はない、と島津久光や他の薩摩藩有力者は判断しました。ただ、それが直ちに薩摩藩における武力討幕路線の確立につながったのではなく、上述のように、久光を筆頭に武力討幕路線を拒否する有力者は少なくありませんでしたが、久光が病気で政治的影響力を低下させ、上京した息子で藩主の茂久は、西郷の強硬路線を支持しました。不本意ながら幕府を滅亡に追い込んだ薩摩藩主流派にとって、明治時代に大きな課題となったのは徳川家との関係修復でした。これは、島津家と徳川家との姻戚関係の復活として果たされました。

 本書は、西郷と大久保が主導した薩摩藩による討幕という幕末史像を、島津久光を中心とした観点から見直し、明治時代の島津家と徳川家との関係修復にも言及しており、通俗的ではなく、近年の研究に基づいた歴史を学ぶのに適した一般向け書籍になっている、と思います。薩長同盟に関しては、軍事同盟ではなく、長州藩の復権を支援する盟約にすぎなかった、と指摘されています。久光(というかその両親)派と斉彬派との激しい対立は有名ですが、久光は個人的には、斉彬と強い信頼関係で結ばれていた、と本書は指摘します。

南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性

 南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性に関する研究(Castro e Silva et al., 2021)が公表されました。南アメリカ大陸の現代および古代の先住民と、アジア南部の現代の先住民・オーストラリア先住民・メラネシア人との間の遺伝的類似性が、以前に報告されました(関連記事1および関連記事2)。このオーストラレシア人とアメリカ大陸先住民のつながりは、人類における最も興味深く、よく理解されていない事象の一つとして存続しています。

 議論となっているこのオーストラレシア人口集団の遺伝的構成要素は、ユピケラ(Ypikuéra)人口集団もしくは「Y人口集団」構成要素と呼ばれており、現代アマゾン人口集団でのみ特定されており(関連記事)、アマゾン地域の人々の形成につながる少なくとも2つの異なる創始者の波があった、と示唆されます。その最初の波は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)停止人口集団の直接的子孫で構成されていると推測され、第二の波は、ベーリンジア人口集団ともっと新しくベーリンジアに到達したアジア南東部人の祖先の混合人口集団により形成された、と推測されました。これら両人口集団はアマゾン地域に定住し、混合したでしょう。

 在来遺伝子プールへの標本抽出されていない人口集団の寄与は、オーストラレシア人と共有される祖先系統の起源につながった、と考えられています(関連記事)。この意味で、Y人口集団はアメリカ大陸最初の植民集団の一部だったでしょう。南アメリカ大陸の古代標本のデータは、1万年前頃の弱いY兆候を示します(関連記事)。この証拠は、Y祖先系統が、アジア南東部から南アメリカ大陸に入ってくる第二の波というよりはむしろ、アジア北東部に居住していたアメリカ大陸先住民の共通祖先にさかのぼるかもしれない、と示唆します。

 さらに、新たな研究(Ning et al., 2021)の一連の証拠から、最初のアメリカ大陸先住民クレード(単系統群)は、ベーリンジアではなくアジア東部で分岐したと示唆されており、祖先的アジア東部人集団からのY祖先系統の遺伝子流動の可能性がさらに高まっています。しかし、現代および古代の集団間の兆候の不足は、検出の地域特有で明らかに無作為のパターンとともに、それが、アマゾン人口集団(および他の南アメリカ大陸先住民)が経てきた強い遺伝的浮動効果に起因する、偽陽性検出である可能性を高めました。しかし、逆の可能性もあります。それは、Y人口集団の兆候が一部人口集団で高い遺伝的浮動効果のために有意水準を下回った、という想定です。この問題を解明するため、南アメリカ大陸人口集団からのゲノムデータの、現時点で最も包括的な一式となるデータセットが調べられました(383個体の438443ヶ所の指標)。これらのデータは倫理的承認を経ています。

 本論文の結果は、以前にアマゾン人口集団に限定されると報告されたオーストラレシア人の遺伝的兆候が、太平洋沿岸人口集団でも特定されたことを示し、南アメリカ大陸におけるより広範なY人口集団の兆候が指摘され、これは太平洋とアマゾンの住民間の古代の接触を示唆している可能性があります。さらに、この遺伝的兆候の人口集団間および人口集団内の変異の有意な量が検出されました。

 この過剰なアレル(対立遺伝子)共有の存在を検証するために、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)が実行され、YとZは在来集団もしくは本論文のデータセットの個体群が対象とされました。ここでの「オーストラレシア人」とは、オーストラリア先住民とメラネシア人とアンダマン諸島のオンゲ人とパプア人です。集団間の検証では、兆候の検出がアマゾンのカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)で再現されましたが、太平洋沿岸のモチカ人(Mochica)の子孫であるチョトゥナ人(Chotuna)や、ブラジル中央西部のグアラニ・カイオワ人(Guaraní Kaiowá)や、ブラジル高原中央部のシャヴァンテ人(Xavánte)でも観察されました。最大の無関係な個体群一式を用いると、Y人口集団の兆候はカリティアナ人とスルイ人とグアラニ・カイオワ人で有意な水準を失いました。しかし、この兆候は太平洋沿岸人口集団とブラジル中央部先住民でまだ明らかでした(図1)。以下、本論文の図1です。
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 また、一部の個体が同じ人口集団の他者よりも多数の有意な検証を示すのかどうか、検出することも目的とされました。これは、陽性人口集団内の不均一な遺伝的祖先系統を示唆しているかもしれません。じっさい本論文の分析では、一部の個体が過剰なアレル共有を示すより多くの検証を示しましたが、一部は他者との比較でこの祖先の有意な不足を示す可能性も高い、と明らかになりました(図2)。これらの結果から、完全な一式から最大限無関係な標本一式までの変化における兆候の重要性の喪失が、最初の場所で検証された標本間の関連性により引き起こされた偏りの除去というよりもむしろ、オーストラレシア人と共有しているアレルのより高い水準を有する特定の個体群の除外により起きたことは明らかです。以下、本論文の図2です。
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 これは、この兆候の有意な変動が人口集団間水準だけではなく、同じ人口集団の個体間でも存在する、という強い証拠を提供します。これらの結果は、この兆候の人口集団内の変動が稀ではなく(図2)、アパライ人(Apalai)やグアラニ・ニャンデヴァ人(Guaraní Nãndeva)やカリティアナ人やムンドゥルク人(Munduruku)やパラカナ人(Parakanã)やシャヴァンテ人といった、いくつかの集団で観察されることを示唆します。最も有意な検証では、トゥピ(Tupí)語族話者個体群でこの過剰な兆候が検出されましたが、その兆候は主要な全言語集団でも検出され、同時に、南アメリカ大陸内で広範な地理的分布を示しました(図1)。逆に、かなりの数の標本が、オーストラレシア人と共有するアレルの欠損を有している、と推測されました(図2)。一際目立つのは、パラカナ人の1個体(PAR137)で、有意な検証の極端に高い割合(31.64%)を示し、相対的な不足を示唆します。PAR137は、アメリカ大陸先住民標本の主成分分析でも、欠測率に関しても、無関係で混合されていない下部一式の標本間の対の遺伝的距離MDS(多次元尺度構成法)でも、外れ値ではありません。さらに、南アメリカ大陸の現代先住民集団間のY人口集団祖先系統分布は、民族言語的多様性もしくは地理的位置との関係を示しませんでした。

 中央および南アメリカ大陸先住民集団の祖先系統をさらに特徴づけるため、qpWaveで実行された以前の一連の検証(関連記事)が再現され、これら人口集団の形成に必要な祖先系統の波の最小限の数が調べられました。基本的に、世界の6地域(サハラ砂漠以南のアフリカ、ヨーロッパ西部、アジア東部、アジア南部、シベリアおよびアジア中央部、オセアニア)のそれぞれの4人口集団を外群として、混合されておらず無関係な3個体以上のアメリカ大陸先住民14集団が検証集団として選択されました。これらの集団はいくつかの組み合わせで検証されました。その結果、以前の検証により得られた推定値が再現され、中央および南アメリカ大陸先住民人口集団の現代の遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2つの移住の波が必要と示唆されます。

 太平洋沿岸のチョトゥナ人も、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)により推定されるようにオーストラレシア人と共有する過剰なアレルを示したので(図1)、以前の研究(関連記事)に基づいて、セチュラ人(Sechura)とチョトゥナ人とナリフアラ人(Narihuala)という太平洋沿岸集団を追加して、混合グラフモデルが作成されました(図3A)。最適モデルでは、カリティアナ人やスルイ人でも観察されたように、太平洋沿岸は、南アメリカ大陸祖先系統と、オンゲ人との姉妹系統と関連する小さな非アメリカ大陸先住民の寄与の混合集団である、と示されました(図3C)。シャヴァンテ人が分析に含まれると、最適モデルは、太平洋沿岸におけるオーストラレシア人構成要素の直接的寄与を示し、その後、この兆候の強い浮動が続き、アマゾン集団が形成されました(図3D)。図3Dはオーストラレシア人関連祖先系統からの独立した2回の混合事象を示唆しますが、このモデルの結節点間の小さな遺伝的距離は、単一の混合事象の証拠を強固にしました。Treemix分析も、太平洋沿岸とアンデス集団がまず分岐し、続いてアンデス東部斜面人口集団が、最後にアマゾン集団と他の南アメリカ大陸東部集団が分岐した、という多様化のパターンを示しました。これらの知見から、Y人口集団の寄与はアマゾン系統の形成前にもちらされ、太平洋沿岸およびアマゾン人口集団の祖先だった可能性が高い、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
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 南アメリカ大陸へのさまざまな移住経路が以前に提案され、証明されてきました。考古学的および遺伝学的データでは、太平洋沿岸と内陸部の両経路が最初の移民に用いられた可能性が高い、と示されました。本論文のモデルは、太平洋沿岸とアマゾンの人口集団間の古代の遺伝的類似性を指摘し、それは両地域集団のY祖先系統の存在により説明できます。さらに、この共有された祖先系統の導入は、太平洋沿岸系統とアマゾン系統の分離に先行するようで、西岸からの拡散と、ブラジルの人口集団における遺伝的浮動の連続事象が続く、と示されます。南アメリカ大陸太平洋沿岸におけるY祖先系統の遺伝的証拠から、この祖先系統は太平洋沿岸経路でこの地域に到達した可能性が高いので、これまでに研究された北および中央アメリカ大陸の人口集団におけるこの遺伝的構成要素の欠如を説明できる、と示唆されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、アマゾン地域の現代先住民集団の一部と、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)で発見された10400年前頃の1個体で確認されていた、オーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域(Y祖先系統)が、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることを示しました。この問題はひじょうに謎めいており、以前から注目されていたので、新たな手がかりを提示した点で、本論文の意義は大きいと思います。本論文でも、このY祖先系統の正確な起源はまだ明らかになっていませんが、南アメリカ大陸で太平洋沿岸集団とアマゾン集団が分離する前にすでにもたらされていたようですから、南アメリカ大陸への(現代の南アメリカ大陸先住民集団の主要な祖先である)人類集団の初期の移住の時点で、Y祖先系統がすでに存在していた可能性は高そうです。

 最近のアジア東部における古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、Y祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、と考えられます。北および中央アメリカ大陸の先住民集団でY祖先系統が確認されないのは、Y祖先系統を有する集団が北および中央アメリカ大陸にはほとんど留まらず急速に南アメリカ大陸に拡散したか、北および中央アメリカ大陸に留まったものの、後にY祖先系統を有さないアメリカ大陸先住民集団に置換されたか、ヨーロッパ勢力の侵略後の大規模な人口減少の過程で消滅した、と推測できます。もちろん、これは現時点での推測にすぎず、この問題の解明には、現代アメリカ大陸先住民のさらに広範囲なゲノム分析と、何よりも古代DNA研究のさらなる進展が必要になるでしょう。


参考文献:
Castro e Silva MA. et al.(2021): Deep genetic affinity between coastal Pacific and Amazonian natives evidenced by Australasian ancestry. PNAS, 118, 14, e2025739118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2025739118

Ning C. et al.(2021): The genomic formation of First American ancestors in East and Northeast Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.12.336628

中新世の巨大海生蠕形動物

 中新世(2300万~530万年前頃)の巨大海生蠕形動物に関する研究(Pan et al., 2021)が公表されました。この研究は、中新世に形成された台湾北東部の海底層内に保存されていた319点の標本を用いて新しい生痕化石(石中に保存されている巣穴・足跡・植物根による空洞などの地質学的特徴で、古代生物の行動についての結論を導き出せます)を復元し、新種(Pennichnus formosae)と分類しました。この生痕化石には、長さ約2m、直径2~3cmのL字型の巣穴が含まれていました。

 新種の形態から、この巣穴に生息していたのは巨大な海生蠕形動物であった可能性が高い、と示唆されています。そうした蠕形動物の1つがオニイソメ(Eunice aphroditois)で、現在も生息しています。オニイソメは、海底の細長い穴の中に隠れて、勢いよく飛び上がって獲物を捕らえます。この研究は、新種に残されていた特徴的な羽毛様の崩壊構造が、古代の蠕形動物が海底の堆積物の中に獲物を引き込んだときに形成されたもので、巣穴周辺の堆積物の攪乱を示している、と推測しています。

 また、さらなる分析から、巣穴の上部に向かって鉄の濃度が高くなっている、と明らかになりました。この研究は、海生無脊椎動物が分泌する粘液を餌とする細菌は鉄を多く含む環境を作り出す、との知見を踏まえて、古代の蠕形動物が粘液を分泌して巣穴の壁を強化していた、と推測しています。海生蠕形動物は古生代前期から存在していましたが、その胴体は主に軟組織から構成されているため、保存されていることはほとんどありません。この生痕化石は、地下で待ち伏せをする捕食者の初めての化石と考えられ、この生物の海底下での行動を垣間見る貴重な機会を提供します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代の海底に巨大な海生蠕形動物が定住していたことが示す巣穴の化石

 今から約2000万年前、オニイソメ(Eunice aphroditois)の祖先かもしれない巨大な待ち伏せ型捕食者である蠕形動物が、ユーラシア大陸の海底に定住していたと考えられることを示した論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。この知見は、台湾北東部で見つかった中新世(2300万~530万年前)の海底層にあった大きなL字型の巣穴を再構築した結果に基づいている。

 今回、Ludvig Löwemarkたちは、中新世に形成された台湾北東部の海底層内に保存されていた319点の標本を用いて新しい生痕化石を復元し、Pennichnus formosaeと命名した。生痕化石とは、岩石中に保存されている巣穴、足跡、植物根による空洞などの地質学的特徴であり、古代生物の行動についての結論を導き出すことができる。Pennichnusには長さ約2メートル、直径2~3センチメートルのL字型の巣穴が含まれていた。

 Pennichnusの形態からは、この巣穴に生息していたのが巨大な海生蠕形動物であった可能性の高いことが示唆されている。そうした蠕形動物の1つがオニイソメで、現在も生息している。オニイソメは、海底の細長い穴の中に隠れて、勢いよく飛び上がって獲物を捕らえる。Löwemarkたちは、Pennichnusに残されていた特徴的な羽毛様の崩壊構造が、古代の蠕形動物が海底の堆積物の中に獲物を引き込んだときに形成されたものであり、巣穴周辺の堆積物のかく乱を示していると考えている。また、さらなる分析から、巣穴の上部に向かって鉄の濃度が高くなっていることが明らかになった。これについて、Löwemarkたちは、海生無脊椎動物が分泌する粘液を餌とする細菌は鉄を多く含む環境を作り出すことが知られていることを踏まえて、古代の蠕形動物が粘液を分泌して巣穴の壁を強化していたという考えを示している。

 海生蠕形動物は古生代前期から存在していたが、その胴体は主に軟組織から構成されているため、保存されていることはほとんどない。今回示された生痕化石は、地下で待ち伏せをする捕食者の初めての化石と考えられ、この生物の海底下での行動を垣間見る貴重な機会を提供してくれる。



参考文献:
Pan YY. et al.(2021): The 20-million-year old lair of an ambush-predatory worm preserved in northeast Taiwan. Scientific Reports, 11, 1174.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-79311-0

2021年度アメリカ自然人類学会総会(ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域差)

 来月(2021年4月)7日~4月288日にかけて、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市で第90回アメリカ自然人類学会総会が開催される予定ですが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2) により起きる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、オンライン開催となるそうです。アメリカ自然人類学会総会では、最新の研究成果が多数報告されるだけに、古人類学に関心のある私は大いに注目しています。総会での各報告の要約はPDFファイルで公表されているのですが、まだいくつかの報告をざっと読んだだけです。とりあえず今回は、とくに興味深いと思った、ユーラシア現代人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響の地域差報告(Witt et al., 2021)を取り上げます(P115)。

 ネアンデルタール人由来のゲノム領域は、は全ての現代ユーラシア人口集団で見つかりますが、不均一に分布しており、アジア東部人はヨーロッパ人よりもゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域が優位に多い、と報告されています。具体的には、ヨーロッパ人も含めてユーラシア西部現代人では1.8~2.4%、アジア東部現代人では2.3~2.6%と推定されていますが(関連記事)、両者の違いはこの推定より低い、との見解も最近提示されました(関連記事)。この違いに関しては、ネアンデルタール人からのアジア東部現代人の祖先集団への追加のネアンデルタール人からの遺伝子流動や、ネアンデルタール人からの遺伝的影響をほとんど受けていない現生人類集団(基底部ユーラシア人)とユーラシア西部現代人の祖先集団との混合による「希釈」の効果(関連記事)など、複数の人口統計学的モデルがこの違いを説明するために提案されてきました(関連記事)。

 この研究は、以前から報告されてきたユーラシア東西間のネアンデルタール人からの遺伝的影響の程度の違いを解明するため、1000人ゲノム計画のデータに基づいて、現代ユーラシア人口集団における古代型の一塩基多型を識別し、ヨーロッパ人口集団とアジア東部人口集団との間の個体および人口集団特有の古代型網羅率のパターンを比較しました。その結果、アジア東部人とヨーロッパ人は、人口集団全体でほぼ同じ数の古代型アレル(対立遺伝子)を有しているものの、アジア東部人は個体間で共有されるアレルの割合がより高いので、ヨーロッパ人よりも個体あたりのネアンデルタール人由来の多様体の数が多くなる、と示されました。

 次に、「追加の古代型遺伝子流動」仮説および「希釈」仮説と一致する人口統計学的モデルを用いてシミュレーションが実行され、どの人口統計学的仮説が、ヨーロッパ人と比較してアジア東部人において、より多い個体あたりのアレル数があるものの、人口集団あたりのアレル数は類似していることと最も一致するのか、検証されました。その結果、どちらの人口統計学的モデルも経験的結果を個別に複製しませんが、これらのモデルの組み合わせは、ユーラシア現代人で見られるような、個体および人口集団全体のアレル分布をもたらしました。

 したがって、ユーラシア現代人全体におけるネアンデルタール人由来のアレルの分布は、ネアンデルタール人と現生人類との間の複数回の相互作用、および、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けたユーラシア西部現代人の祖先集団と、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けていない仮定的な(ゴースト)人口集団(基底部ユーラシア人)との間の遺伝子流動の結果と推測されます。おそらく、本論文が指摘するように、複数の複雑な要因により、ユーラシア現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来領域の割合の地域差が生じたのでしょう。なお、アメリカ自然人類学会総会に関するこのブログの過去の記事は以下の通りです。


2020年度(第89回)
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_16.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_29.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_30.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_36.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_46.html

2019年度(第88回)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_50.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_51.html
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_53.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_1.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_10.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_11.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_23.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_24.html
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_34.html

2018年度(第87回)
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_46.html

2017年度(第86回)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_13.html

2016年度(第85回)
https://sicambre.at.webry.info/201606/article_23.html

2015年度(第84回)
https://sicambre.at.webry.info/201504/article_15.html

2014年度(第83回)
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_22.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_34.html
https://sicambre.at.webry.info/201404/article_37.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_5.html
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_7.html

2013年度(第82回)
https://sicambre.at.webry.info/201304/article_30.html

2012年度(第81回)
https://sicambre.at.webry.info/201204/article_20.html

2011年度(第80回)
https://sicambre.at.webry.info/201104/article_27.html

2010年度(第79回)
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_23.html

2009年度(第78回)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_27.html

2008年度(第77回)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_20.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_32.html

2007年度(第76回)
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_32.html
https://sicambre.at.webry.info/200704/article_11.html


参考文献:
Witt ‪KE, Villanea FA, Huerta-Sánchez E.(2021): Accounting for Neanderthal ancestry differences in Eurasians using archaic SNP identification and simulations. The 90th Annual Meeting of the AAPA.

スキタイ人集団の遺伝的構造

 スキタイ人集団の遺伝的構造に関する研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)が公表されました。鉄器時代への移行は、ユーラシア史において最重要事象の一つです。紀元前千年紀の変わり目に、考古学的記録の変化は、アルタイ山脈からポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)西端までの草原地帯全域の、いくつかの遊牧民文化の台頭を証明します。これらの文化は、その埋葬文脈で見られる共通の特徴に基づいて、まとめてスキタイとよく呼ばれます。先行する青銅器時代人口集団と比較して、スキタイは定住型から遊牧型の牧畜生活様式への移行を経ており、戦争の増加と、鉄製武器の新様式や鞍の導入を含む乗馬技術など軍事技術の進歩と、階層的なエリートに基づく社会の確立を示しました。

 以前のゲノム研究では、青銅器時代草原地帯において大規模な遺伝的置換(したがって、かなりの人類の移住も)が検出され、それは最終的に、西部および中央部草原地帯の定住牧畜民を特徴づける、均質で広範に拡大した中期~後期青銅器時代遺伝子プールの形成をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら中期~後期青銅器時代(MLBA)クラスタの急速な衰退とスキタイの台頭を促した理由は、まだよく理解されていません。研究者たちが指摘してきたのは、最も関連する要因のなかで、気候湿潤化と、近隣農耕文化(文明)、つまりバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化と関連する文化からの社会経済的圧力です。

 スキタイ人の起源に関しては、競合する3仮説が議論されてきました。第一に、推定されるイラン語により支持されるポントス・カスピ海草原起源説です。第二に、考古学的知見により支持されるカザフ草原起源説です。第三に、共通の文化的特徴を採用した遺伝的に異なる集団の複数独立起源説です。これまでに鉄器時代草原地帯遊牧民から回収されたゲノムの数は限定的で、スキタイ人の遺伝的多様性を一瞥できるものの、さまざまなユーラシア東西の遺伝子プール間の混合の複雑なパターンを特徴づけるには、とても充分ではありません(関連記事1および関連記事2)。

 考古学的観点からは、遊牧民戦士文化と関連する最初の鉄器時代埋葬は、カザフ草原東端の、トゥワ(Tuva)とアルタイ地域で特定されました(紀元前9世紀)。この初期の証拠に続いて、カザフスタン中央部および北部のタセモラ(Tasmola)文化は、最初の主要な鉄器時代遊牧民戦士文化の一つです(紀元前8世紀~紀元前6世紀)。これらの早期集団の後には、カザフスタン南東部と天山(Tian Shan)山脈に位置する象徴的なサカ(Saka)文化(紀元前9世紀~紀元前2世紀)や、アルタイ山脈を中心とするパジリク(Pazyryk)文化(紀元前5世紀~紀元後1世紀)や、ウラル南部地域に最初に出現し(紀元前6世紀~紀元前2世紀)、コーカサス北部やヨーロッパ東部にまで西進した(紀元前4世紀~紀元後4世紀)サルマティア人(Sarmatian)が続きます。遊牧民集団も、トボル(Tobol)川とエルティシ(Irtysh)川との間の北部森林草原地帯に位置する、サルガト(Sargat)文化遺構(紀元前5世紀~紀元前1世紀)と関連する文化など、その定住型隣人に影響を与えました。

 鉄器時代後のカザフ草原は、東方の匈奴(Xiongnu)や鮮卑(Xianbei)、南方のペルシア人関連王国の康居(Kangju)など、複数の帝国の拡大の中心として機能しました。これらの事象は、スキタイ東部文化の終焉をもたらしましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的交代はよく理解されていないままです。さらに、遊牧民生活様式の形態は、何世紀にもわたってカザフ草原で存続しました。遊牧民人口集団の最近の歴史における重要な事象は、紀元後15・16世紀に起きました。この時、現在のカザフスタンの領域に住む全部族が組織化され、主要な3ジュズ(Zhuz)に分類されました。それは、長老(Elder)ジュズと中年(Middle)ジュズと若年(Junior)ジュズで、それぞれカザフスタンの南東部・中央部および北東部・西部に位置します。ジュズとは、本来「100」を意味する言葉で、「(カザフ人全体の中の)部分」を意味する、民族と部族の中間概念とのことです(関連記事)。

 この分割はアジア中央部全域に拡大し、ジョチ・ウルス崩壊後に外部の脅威から自衛する必要があった、異なる部族間の政治的で宗教的な妥協でした。これは、カザフ・ハン国(紀元後1465~1847年)設立の基礎を築きました。現在、カザフスタンのカザフ人集団は依然として、その部族同盟を維持しており、その文化の一部の側面を維持しながら遊牧民の歴史を尊重しています。これらの伝統の一つは、親族間の結婚を避けるために父系により家系図を7世代までさかのぼる「ジェティ・アタ(Zheti-ata)」です。

 さまざまな鉄器時代遊牧民文化の遺伝的構造や、その起源と衰退に関する人口統計学的事象を理解するため、カザフ草原全域(カザフスタンとキルギスとロシア)の39ヶ所の遺跡で回収された古代人111個体と、現在のハンガリーに位置するフン人エリートの埋葬から回収された1個体のゲノム規模データが生成されました。本論文のデータセットの範囲はおもに紀元前8世紀~紀元後4世紀までで、中世の3個体も含みます(図1)。また、最近の歴史事象が現代遊牧民の遺伝的構造をどのように形成してきたのか、よりよく理解するため、現在のカザフスタンの全域にわたる、主要な3ジュズに分類されるいくつかの部族に属する現代カザフ人96個体の新たなゲノム規模データも生成されました。

 1233013ヶ所の一塩基多型を濃縮するよう設計されたDNA解析技術を用いて、古代人117個体のゲノム規模データが得られました。品質管理の後、現代カザフ人96個体と古代人111個体のデータが保持され、少なくとも2万ヶ所を超える一塩基多型が網羅され、全個体で常染色体網羅率1.5倍のゲノム規模データが得られました。これら新たなデータは、以前に公開された現代および古代の個体群の参照データセットと統合され、586594ヶ所の一塩基多型で主成分分析および混合分析が行なわれました。各個体は、年代と考古学的文化により分類されました。以下、本論文の図1です。
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●カザフ草原における鉄器時代の移行

 全体として、主成分分析とADMIXTUREでは、かなりの人口統計学的変化がカザフ草原の青銅器時代から鉄器時代の移行期に起きた、と示唆されます(図2)。紀元前二千年紀末までカザフ草原全域で見られるひじょうに均質な草原地帯中期~後期青銅器時代(MLBA)とは対照的に、鉄器時代個体群は主成分分析空間全体、とくにPC1軸とPC3軸に散らばっています。これらPC軸に沿った広がりはそれぞれ、MLBA人口集団と比較しての余分なユーラシア東部人との類似性と、最終的には新石器時代イラン人および中石器時代コーカサス狩猟採集民(以下、イラン人関連祖先系統と呼ばれます)と関連する南部人口集団との余分の類似性の、さまざまな程度を示唆します。

 高い遺伝的多様性にも関わらず、同じ文化および/もしくは地域の古代の個体群の均質なクラスタを評価できます。年代順に従うと、前期鉄器時代タセモラ文化と関連する遺跡の個体群のほとんど(タセモラ650BCE)と、カザフスタン中央部・北部の「サカ文化カザフスタン中央部・北部600BCE」は、主成分分析の中央部でクラスタ化し、ADMIXTURE分析では遺伝的構成要素の均一なパターンを示します(図2A・D)。トゥワのアルディベル(Aldy-Bel)文化遺跡の以前に報告された2個体も、この遺伝的集団内に収まります(図2A)。この遺伝的特性は後の中期・後期鉄器時代で持続し、ベレル(Berel)のパジリク文化遺跡のほとんどの個体(パジリク・ベレル50BCE)により示されます(図2B)。

 この鉄器時代クラスタは、同じ地域に居住していた以前の草原地帯MLBA集団とは異なり、これはほぼPC1軸沿いにユーラシア東部人の方へとかなり動いているためです。さらに、主要クラスタよりもユーラシア東部人へと一層強く動いている外れ値も明らかになりました。これは、パジリク・ベレル50BCEの外れ値2個体と、ビルリク(Birlik)のタセモラ文化遺跡の3個体(タセモラ・ビルリク640BCE)と、カザフスタン中央部・北部のコルガンタス(Korgantas)段階の4個体のうち3個体です(図2B)。ユーラシア東部人の遺伝的特性を有するビルリクの女性1個体(BIR013.A0101)は、典型的なユーラシア東部草原地帯の特賞を示す副葬品(青銅鏡)とともに発掘されました。

 天山山脈地域から南方までの古典的な鉄器時代サカ文化個体群(サカ・天山600BCE、サカ・天山400BCE、以前に報告されたサカ・天山200BCE)は、タセモラ文化・パジリク文化クラスタとイラン人関連遺伝子プールとの間でPC3軸沿いに勾配で分布します(図2A・B)。新石器時代イラン人へのより強い類似性も、ADMIXTURE分析で見つかります(図2D)。イラン人関連遺伝子プールへの移動は、早くも紀元前650年頃に、サカ文化のエリート被葬者から回収されたエレケ(Eleke)・サジー(Sazy)の1個体(ESZ002)で見つかりますが、カスパン(Caspan)の紀元前700年頃となる最初の天山サカ文化遺跡の1ヶ所で発見された4個体のうち3個体は、タセモラ・パジリク集団の範囲内に収まります。

 カザフ草原北方の森林草原地帯の定住性サルガト文化と関連する個体群(サルガト300BCE)は部分的に、タセモラ・パジリク文化クラスタと重なりますが、主成分分析では、ユーラシア西部人(PC1軸)および内陸部北方ユーラシア人の最上端の勾配(PC2軸)へと移動する集団を形成します(図2B)。主成分分析と一致して、サルガト文化個体群は、さらに南方の遊牧民集団では検出されなかった、アジア北東部人祖先系統のさまざまな種類の小さな割合を有しています(図2D)。

 タセモラ・パジリク集団に収まる外れ値1個体を除いて、早期のサルマティア450BCEや後期のサルマティア150BCE、西部のサルマティア・カスピ海草原地帯350BCEといったサルマティア文化と関連する個体群は、広範な地域と期間にまたがっているにも関わらず、遺伝的にひじょうに均質です(図2A・B)。カザフスタン中央部および西部の早期サルマティア文化の7ヶ所の遺跡からの本論文の新たなデータ(サルマティア450BCE)は、この遺伝子プールがすでにサルマティア文化の初期段階にこの地域に広がっていた、と示します。さらに、サルマティア人は、ユーラシア西部人へと動くクラスタの形成により、他の鉄器時代集団とは急激な不連続性を示します。以下、本論文の図2です。
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●鉄器時代人口集団の混合モデル化

 qpWaveとqpAdmにより実行された鉄器時代集団の遺伝的祖先系統モデル化では、草原地帯MLBA集団が鉄器時代スキタイ人におけるユーラシア西部祖先系統起源にほぼ適切に近似しているのに対して、ヤムナヤ(Yamnaya)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団のような先行する草原地帯前期青銅器時代(EBA)クラスタは近似していない、と確認されました。ユーラシア東部人の代理として、時空間的近接性に基づき、モンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)の後期青銅器時代(LBA)牧畜民が選ばれました。他のユーラシア東部人の代理は、古代北ユーラシア人(ANE)系統(関連記事)への類似性の欠如もしくは過剰のため、モデルに適合しませんでした。

 しかし、このフブスグルと草原地帯MLBAの2方向混合モデルは、スキタイ人の遺伝子プールの遺伝的構成要素を完全には説明しません。欠けている断片は、コーカサス・イランもしくはトゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)の中部地域に居住していた古代人口集団と関連する起源集団からの、小さな寄与とよく一致します(図3A)。この祖先系統の割合は経時的・地理的に増加します。最北東部のアルディ(Aldy)・ベル(Bel)700BCE集団ではごくわずか、早期のタセモラ650BCEでは6%、パジリク・ベレル50BCEでは12%、サルガト300BCEでは10%、サカ・天山600BCEでは13%、サカ・天山400BCEでは20%で(図3A)、f4統計と一致します。サルマティア人のモデル化にも、イラン人関連祖先系統が15~20%ほど必要となりますが、東部スキタイ人集団よりもフブスグル関連祖先系統がずっと少なく、草原地帯MLBA-関連祖先系統が多くなっています。

 サルマティア人と後の天山サカ人にとって、銅器時代集団やBMACやBMAC後といったトゥーラーンの集団のみが起源集団として一致しますが、イランとコーカサスからの集団は適合しません。本論文では、代表的な代理としてBMACとBMAC後の集団が用いられました(図3A)。タセモラ・ビルリク640BCEやコルガンタス300BCEやパジリク・ベレル50BCEoといった外れ値の余分なユーラシア東部人の流入は、フブスグルのような以前の集団と同じユーラシア東部の代理には由来しません。代わりに、ロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡の前期新石器時代集団(悪魔の門N)に表される、古代アジア北東部人(ANA)系統でのみモデル化できます(図3A)。以下、本論文の図3です。
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●カザフ草原における鉄器時代後の遺伝的置換

 紀元後千年紀早期(鮮卑・フン・ベレル300CE)からカラカバ(Karakaba)830CEやカヤリク(Kayalyk)950CEなどの個体群まで、上述の新たなユーラシア東部人の流入の劇化が観察されます。これらの個体群は主要な鉄器時代タセモラ・パジリクのクラスタからANA 集団に向かってPC1軸沿いに散在しています(図2C)。紀元後3世紀のフン人エリート層埋葬と関連する2個体は、一方がカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡で、もう一方がハンガリーのブダペストで発見されていますが(フン人エリート350CE)、この勾配に沿って密集してクラスタ化します(図2C)。

 カザフスタン南部のオトラル(Otyrar)オアシスの古代都市の個体群は、ひじょうに明確な遺伝的特性を示します。コンレイ(Konyr)・トベ(Tobe)300CE と呼ばれる5個体のうち3個体は、類似の年代と地域の康居250CE個体群と近く、サルマティア人とBMAC集団の間に位置します(図2C)。コンレイ・トベ個体群のうちKNT005は主成分分析ではBMACの方へと動いています(図2C)。さらに、KNT005はアジア南部人のY染色体ハプログループ(YHg)L1a2(M357)を有する唯一の個体で、ADMIXTUREではアジア南部人の遺伝的構成要素を示します(図2D)。KNT004はPC1軸ではアジア東部人の方へと動いています。アジア南部人からの流入を10%、ユーラシア東部人からの流入を50%含む混合モデルは、それぞれ適切にKNT005と KNT004を説明します。対照的に、コンレイ・トベ遺跡の200km東方に位置する天山山脈のアライ・ヌラ(Alai Nura)遺跡の個体群(アライ・ヌラ300CE)は依然として、コンレイ・トベ300CE により近い4個体およびタセモラ・パジリク集団により近い4個体とともに、天山サカの鉄器時代勾配に沿って位置しています(図2C)。


●古代の混合の年代

 DATESプログラムでの混合年代測定により、紀元前1500~紀元前1000年頃の主要なスキタイ人遺伝子プールの形成が明らかになります(図3C)。DATESは2方向混合のみをモデル化するよう設計されているので、qpWaveとqpAdmで得られた推定される3方向モデルを説明するため、3対比較が個別に検証されました(草原地帯MLBAとBMACとフブスグル)。DATESは、ユーラシア東西の2組、草原地帯MLBAとフブスグル、BMACとフブスグルについて、指数関数的減衰の適合に成功しましたが、ユーラシア西部同士(草原地帯MLBAとBMAC)では失敗しました。

 各標的について、草原地帯MLBAとフブスグル、およびBMACとフブスグルでは、ほぼ同じ混合年代推定が得られました。本論文の推定年代は、真のシミュレーション3方向混合を反映しているというよりはむしろ、2つのユーラシア西部起源集団からの相対的寄与により重みづけされる、遺伝的に区別できる東部(フブスグル)と西部(草原地帯MLBAとBMAC)の祖先系統間の平均年代をほぼ反映している、と考えられます。BMAC 関連祖先系統が増加するにつれて、天山サカ集団におれる混合年代が新しくなる、とDATES により明らかになったことは注目されます。サカ・天山600BCEからサカ・天山400BCEまで、タセモラ650BCEの年代についてパジリク・ベレル50BCEおよびサルガト300BCEと同様に、とくに後のアライ・ヌラ300CEにおいてはそうです。

 鉄器時代に継続したBMAC関連起源集団からの小規模な遺伝子流動は、BMAC関連祖先系統の割合の増加と、ますます新しくなる混合年代の両方を説明できるかもしれません(図3A)。繰り返しになりますが、推定された年代は、BMAC関連起源集団との鉄器時代の混合と、草原地帯MLBAとの後期青銅器時代の混合の平均を反映しているので、それらの推定年代は鉄器時代の遺伝子流動の実際の年代よりも古い期間に動いている可能性があります。

 qpAdmの結果を確認して、タセモラ・ビルリク640BCEとコルガンタス300BCEの混合個体群(混合東部鉄器時代)は、ひじょうに最近の混合年代を示します(図3C)。鮮卑・フン・ベレル300CEとフンエリート層350CEとカラカバ830CEといった後の集団はさらに、混合の最近の年代というこの傾向を確証し、この新たなユーラシア東部流入は鉄器時代に始まった可能性が高く、少なくとも紀元後千年紀の最初の数世紀の間継続した、と明らかになります。


●現代カザフ人

 現代カザフ人で行なわれた主成分分析とADMIXTUREとCHROMOPAINTER/fineSTRUCTUREの詳細な規模のハプロタイプに基づく分析は、地理的位置もしくはジュズの所属に関わらず、カザフ人の間での緊密なクラスタ化と検出可能な下位構造の欠如を明らかにします(図2)。ほぼ地理的起源を反映するジュズの所属に従ってカザフ人個体群を分類し、独立した複製としての経路にしたがってGlobetrotter分析を実行して、カザフ人の遺伝子プールに寄与しているさまざまな祖先系統の起源集団が識別され、混合事象の年代が測定されました。Globetrotter分析は、3集団が同じ起源構成要素と混合年代を有し、さまざまなユーラシア西部・南部・東部の祖先系統の複雑な混合の結果である、と確認しました。Globetrotterにより特定された混合年代は、現代カザフ人の遺伝子プール形成の狭く最近の時間範囲(紀元後1341~1544年頃)を浮き彫りにします。


●考察

 アジア中央部の古代人100個体以上の本論文の分析は、カザフ草原の鉄器時代遊牧民人口集団が広範な混合を通じて形成され、草原地帯の先行するMLBA人口集団と近隣地域人口集団との間の複雑な相互作用から生じた、と示します(図2A、図3 A・C、図4A)。本論文の知見は、スキタイ文化の起源について新たな光を当てました。本論文は、スキタイ文化のポントス・カスピ海草原起源を裏づけず、じっさい、同説は最近の歴史学と考古学ではひじょうに疑問視されています。カザフ草原起源説は、代わりに本論文の結果とよりよく一致しますが、人口集団拡散の単一起源と、文化伝播のみの複数起源という、二つの極端な仮説の一方を裏づけるというよりもむしろ、少なくとも2つの独立した起源と、人口集団拡散および混合の証拠が明らかになりました。とくに東部集団は、シンタシュタ(Sintashta)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化など、さまざまな文化と関連しているかもしれない先行する在来の草原地帯MLBA起源集団と、近隣のモンゴル北部地域に後期青銅器時代にはすでに存在していた、特定のユーラシア東部起源集団との間の混合の結果として形成された遺伝子プールの子孫であることと一致します(関連記事)。

 カザフスタン中央部と北部の前期鉄器時代タセモラ文化集団の遺伝的構造は、ほぼこれら2祖先系統で構成されていますが、そのモデル化にはイラン人関連起源集団からの遺伝子流動もわずかに必要です(図3 A、図4A)。トゥーラーンの全体的なBMAC関連人口集団は、本論文のモデルに最適であるものの、コーカサス北部青銅器時代集団のようなさらに西方のイラン人関連起源集団では適合しない、と明らかになりました。これらの結果は、南方文化と北方草原地帯の人々との間の文化的接続という、歴史学と考古学の仮説を確証します。このBMACからの流入は、後の紀元前4世紀~紀元後1世紀となる、ベレルに位置する北東部のパジリク文化遺跡のスキタイ人集団で継続し、南東部に位置する天山山脈のサカ文化個体群で次第に増加し、不均一に分布します(図2B・D、図3 A・C、図4B)。

 以前に報告されたトゥワ地域のアルズハン2(Arzhan 2)遺跡のアルディ・ベル文化の2個体は、主要な東部スキタイ人遺伝的クラスタ内に収まり、最初のスキタイ埋葬が見つかる同じ遺跡にも存在した、と確認されます。モンゴルにおける鉄器時代移行からの最近の知見と組み合わせると(関連記事)、これらのデータは、全東部スキタイ人を形成した主要な遺伝的下位構造のアルタイ地域起源を示しているようです(図4B)。ウラル地域南部の西部サルマティア人も、東部スキタイ人と同じ3祖先的起源集団間の混合の結果として形成されました(図3 A)。それにも関わらず、ユーラシア東部人祖先系統はサルマティア人ではわずかしか存在しません(図3 A)。さらに、サルマティア人と東部集団との間の、その早期の混合(図3 C)と混合勾配の欠如(図2A・B・D)からは、サルマティア人が、東部スキタイ人に寄与した遺伝子プールと比較して、関連しているものの異なる後期青銅器時代遺伝子プールに由来し、おそらくは後期青銅器時代混合勾配に沿って異なる位置にある、と示唆されます。

 既知で最初のサルマティア人遺跡の場所を考えると、この遺伝子プールは後期青銅器時代ウラル地域南部に起源がある、と仮定されます(図4B)。コーカサスとヨーロッパ東部の、後の年代で西端となるスキタイ文化からのより多くのデータが、本論文で分析されたカザフ草原のより早期のスキタイ人との遺伝的類似性の、さらなる理解を提供するでしょう。さらに、本論文の結果から、北部の定住性サルガト関連文化個体群は、スキタイ人、とくに東部遊牧民集団と密接な遺伝的近似性を示す、と明らかになります(図2B)。サルガト文化個体群は、究極的にはシベリア北部系統と関連する、スキタイ人には見られない追加の遺伝的類似性を示します(図2D、図3 A)。これは、サルガト文化集団が、侵入してくるスキタイ人集団と、標本抽出されていない在来人口集団、もしくは恐らくこの余分なシベリア人祖先系統を有する近隣人口集団との間の混合の結果として形成された、との歴史的仮説と一致します。

 紀元前千年紀後半から、興味深いことに、カザフスタン中央部のタセモラ文化を置換したコルガンタス文化の出現と関連する多くの外れ値で、大きな遺伝的変化が検出されます。とくに、後期青銅器時代の変化に寄与した起源集団とは異なる、ユーラシア東部起源集団からの流入が観察されます(図3 A、図4C)。紀元前千年紀の変わり目に、この混合された遺伝的特性は、鮮卑・フン文化および後の中世個体群と関連する北東部個体群間で広がるようになりました(図2C・D、図3 B、図4C)。それらの個体群で得られたひじょうに変動的な混合割合と年代から、これが紀元後千年紀(少なくとも紀元後1世紀~紀元後5世紀)を特徴づける継続的な過程だった、と示唆されます(図3 C)。紀元後千年紀の追加の遺伝的データが、この不均質性の性質と程度のより包括的な理解を可能とするでしょう。

 代わりに、カザフスタン南部地域では、オトラル・オアシスの古代都市に位置するコンレイ・トベ遺跡の個体群が、イラン人関連遺伝的祖先系統の増加によりほぼ特徴づけられる、異なる遺伝的置換を示し、ペルシア帝国の影響を反映している可能性が最も高そうです(図4C)。ユーラシア東部人との高い混合もしくはアジア南部からの遺伝子流動を有する外れ値個体群からは、この時点でオトラル・オアシスの古代都市人口集団は不均質だった、と示唆されます(図2C)。この時期に、オトラルは康居王国の中心で、シルクロードの交差点でした。天山山脈の近隣地域では、アライ・ヌラの紀元後3世紀の遺跡の個体群で、ずっと早い鉄器時代天山サカ個体群に典型的な遺伝的特性がまだ見られます(図3 B)。

 カザフスタンの鉄器時代と鮮卑・フンと中世で観察される不均質性と地理的構造化は、現代カザフ人で観察される遺伝的均質性とはひじょうに対照的です。詳細なハプロタイプに基づく分析はこの均質性を確認し、以前の知見(関連記事)と一致して、カザフ人の遺伝子プールはユーラシア東西のさまざまな起源集団の混合である、と示します。古代人口集団に関する本論文の結果から、これがひじょうに複雑な人口史の結果で、経時的に混合するユーラシア東西の祖先系統の複数の層を伴う、と明らかになりました。

 現代カザフ人で得られた混合年代は、カザフ・ハン国が設立された期間(紀元後15世紀)と重なります。さらに、現代カザフ人の遺伝子プールは、鉄器時代後の北部の鮮卑・フンおよび南部の康居と関連する遺伝子プールの混合として、完全にはモデル化できません。これらの知見から、紀元後二千年紀に起きた可能性が高い最近の事象は、厳密な族外婚を有するカザフ・ハン国の設立の結果として、最終的にカザフ人の遺伝子プールの均質化につながった、この地域のより多くの人口統計学的交代と関連していた、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示したことからも、たいへん意義深いと思います。本論文は改めて、ユーラシア草原地帯の人口集団が大規模な移動と複雑な混合により形成されてきたことを示しました。人口集団の遺伝的構造が、均質から不均質へ、また均質へと変わっていく様相は、動的なユーラシア草原地帯の歴史を反映しているのでしょう。これは、ユーラシア草原地帯で巨大勢力が急速に勃興し、また急速に崩壊することとも関連しているのかもしれません。今後、歴史学でも古代DNA研究の成果が採用されていくのではないか、と予想されます。

 私が日本人の一人として注目したのは、コンレイ・トベ300CEの個体KNT004(紀元後236~331年頃)が、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、YHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHV18と分類されていることです。YHg-D1a2a2aは「縄文人」で確認されており、一般的には「縄文系」と考えられているでしょうが、それが現在のカザフスタン南端の紀元後3世紀の個体で見られる理由については、私の知見ではよく分かりません。一般的に、片親性遺伝標識、とくにY染色体は現在の分布から過去を推測するのに慎重であるべきで、研究の進展により、YHg-D1a2a2aの分布についてより詳細に明らかになるでしょうから、それまでは判断を保留しておくのが妥当でしょうか。KNT004は、ADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の個体群(関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、それとも関連している可能性が考えられます。


参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414

過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類の移住

 過去5万年のフィリピンへの複数回の現生人類(Homo sapiens)の移住に関する研究(Larena et al., 2021)が公表されました。フィリピンは、アジア太平洋地域の過去の人類の移住の交差点となるアジア南東部島嶼部(ISEA)に位置する、7641の島々から構成される群島です。最終氷期末(11700年前頃)までに、フィリピン諸島は一つの巨大な陸塊としてほぼつながっており、ミンドロ海峡とシブツ海峡によりスンダランドと隔てられていました。少なくとも67000年前頃以降、フィリピンには人類が居住してきました(関連記事)。ネグリートと自己認識している民族集団の祖先が、最初の現生人類の居住と広くみなされていますが、その古代型ホモ属(絶滅ホモ属)や他の早期アジア集団やその後の植民との正確な関係は充分に調査されておらず、議論の余地があります。

 片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)および/もしくは常染色体データを用いての以前の調査は、ISEAへのさまざまな移住事象の可能性を解決しようとしましたが(関連記事1および関連記事2)、明確な合意には至っていません。分析の欠如は、フィリピンの多様な民族集団の不充分な把握と、用いられたゲノムデータの限定的な密度に起因するかもしれません。これらの問題に対処するため、これまでで最も包括的なフィリピンの人口集団ゲノムデータセットが収集され、分析されました。その内訳は、全地理的範囲の115の異なる文化的共同体からの1028個体で、250万ヶ所の一塩基多型が遺伝子型決定されました。また、早期完新世におけるアジア東部本土からの移住史をよりよく理解するため、台湾海峡に位置する福建省の亮島(Liangdao)の古代人2個体(それぞれ、較正放射性炭素年代で8320~8060年前頃と7590~7510年前頃)からのゲノムデータが生成されました(図1A)。

 本論文の分析から、フィリピンでは少なくとも5回の大きな現生人類の移住があった、と示唆されます。それは、フィリピン内で在来の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)とそれぞれ独立して混合した、基底部オーストラレシア集団の南北のネグリート分枝集団と、パプア人関連集団、基底部アジア東部人の分枝であるマノボ人(Manobo)とサマ人(Sama)とコルディリェラ人(Cordilleran)です。基底部アジア東部人の最小限の混合分枝のままであるコルディリェラ人は、農耕移行の確立年代に先行してフィリピンに到来し、全オーストロネシア語族(AN)話者人口集団で広がっている遺伝的祖先系統をアジア東部人とともに持ち込んだ可能性が高そうです。この複雑な人口統計学的歴史は、アジア太平洋地域の人口集団の遺伝的構成に大きく影響を与えた、出入口としてのフィリピンの重要性強調します。


●フィリピン現代人の複数の祖先

 主成分分析による調査は、フィリピンの民族集団が世界規模の比較でアジア太平洋地域人口集団とともにクラスタ化する、と示します(図1B)。ネグリートがパプア人と非ネグリートとの間で一直線に並ぶ独特の勾配を形成するのに対して、コルディリェラ人は興味深いことに、PC1軸でアジア東部人クラスタを定義する端に位置し、アメリカ大陸先住民集団およびオセアニア集団よりもさらに極端です(図1B)。ネグリートと非ネグリートとの間には明確な二分があり、コルディリェラ人に最もよく表される基底部アジア東部人祖先系統と、ネグリートおよびオーストラロパプア人により表される祖先系統との間の深い分岐が示唆されます(図1B)。アジア太平洋地域人口集団の詳細な分析を見ると、非ネグリートは、コルディリェラ人、もしくはティン人(Htin)およびムラブリ人(Mlabri)かマレーの非ネグリートのような、アジア南東部本土(MSEA)民族集団のどちらかに属する集団に明確に分かれます。

 さらなる分析により、後述のようにフィリピンのネグリート集団間の明確な遺伝的構造と、非ネグリート集団間の階層構造とが明らかになり、それはコルディリェラ人やマンギャン人(Mangyan)やマノボ人(Manobo)やサマ・ディラウト人(Sama Dilaut)集団により例証されます(図1C)。これらの観察結果は、推定された祖先系統構成要素と一致します。簡潔に言うと、階層構造はオーストラロパプア人関連のネグリート対非ネグリートの間の二分で始まり、コルディリェラ人対MSEAに属する人口集団への非ネグリートのクラスタ化と、アイタ人(Ayta)やアイタ人(Agta)集団へのネグリートの階層構造、およびコルディリェラ人やマンギャン人やマノボ人やサマ人関連人口集団への非ネグリートの階層構造が続きます。以下、本論文の図1です。
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●フィリピンのネグリートは深い分岐を示します

 地理的障壁と人口集団間の孤立の長い歴史の可能性を考えると、ネグリート集団間ではある程度の分化が予測されます。たとえば、ネグリート集団に限定された主成分分析は、ルソン島中央部ネグリート集団と南部ネグリート集団との間の勾配(PC1軸)、PC2軸沿いのフィリピン北部におけるネグリートの東西のクラスタ化を明らかにします。さらにフィリピン北部ネグリートは深い人口集団構造を示し、3クラスタに分かれます。それは、全アイタ人(Agta)となるルソン島中央部ネグリート、ビコル(Bicol)地域およびケソン(Quezon)州のアイタ人(Agta)集団となるルソン島南東部ネグリート、カガヤン(Cagayan)地域のアイタ人(Agta)とアッタ人(Atta)とアルタ人(Arta)のネグリートとなるルソン島北東部ネグリートです。

 フィリピン北部のネグリートは、オーストラリア先住民およびパプア人の両方にとって外群です(図2A)。合着(合祖)に基づく分岐時間推定手法を用いて人口集団分岐モデルを仮定すると、フィリピン北部のネグリートの祖先は46000年前頃(95%信頼区間で46800~45500年前)に共通の祖先的オーストラレシア人口集団(基底部スンダ)と分岐した、と推定されます。この分岐はスンダランドの古い大陸の陸塊で起きた可能性があり、オーストラリア先住民とパプア人の25000年前頃(95%信頼区間で26700~24700年前)の分岐に先行し、おそらくはフィリピン北部の現在のネグリートにつながる、ルソン島への移住の結果としてでした。

 北部とは対照的に、オーストラロパプア人的な遺伝的兆候は、他のネグリート集団においてよりも、ママヌワ人(Mamanwa)のような南部ネグリートにおいて明らかに高くなっています(図2A)。ママヌワ人ネグリートも、パプア人およびオーストラリア先住民にとって外群として現れ、祖先的ママヌワ人は、37000年前頃(95%信頼区間で36200~38700年前)に分岐した基底部オセアニア人の派生集団で、オーストラリア先住民とパプア人の分岐前に恐らくはスールー諸島経由でミンダナオ島に拡散した、と示唆されます。しかし、南部ネグリートが北部ネグリートとクレード(単系統群)を形成する、という代替的なモデルは却下されません。これを考えると、共通祖先的ネグリート人口集団が、パラワン島もしくはスールー諸島経由で単一の地域からのみフィリピンに拡散し、続いてフィリピン内で分岐して、南北のネグリートに分岐した、という想定を排除できません。

 南北両方のネグリートはその後、コルディリェラ人関連人口集団と混合し、興味深いことに、南部ネグリートはオーストラリア先住民とパプア人の分岐後にパプア人関連人口集団から追加の遺伝子流動を受けました。この以前には評価されていなかったパプア人関連祖先系統の北西部の遺伝子流動は、インドネシア東部や、サンギル人(Sangil)とブラーン人(Blaan)のようなフィリピン南東部の民族集団で最大の影響を有します。


●マノボ人とサマ人の祖先のフィリピンへの早期拡散

 フィリピン南部の民族集団は、非オーストラロパプア人関連で、一般的にフィリピン北部の非ネグリート集団では欠けている、遍在する祖先系統を示します。これまで「マノボ人祖先系統」と呼ばれていたこの独特遺伝的痕跡は、ミンダナオ島の内陸部マノボ人集団で最も高くなっています。コルディリェラ人および南部ネグリート祖先系統を隠し、マノボ人祖先系統のみを保持すると、ミンダナオ島の他の民族集団間でマノボ人構成要素がより明らかになりました。マノボ人祖先系統に加えて、他の異なる祖先系統がフィリピン南西部で識別されました。この遺伝的兆候は、スールー諸島のサマ人海洋民で最も高く、「サマ人祖先系統」と呼ばれます。全ての他の祖先系統を隠し、サマ人祖先系統のみを保持すると、サマ人構成要素は、サンボアンガ半島(Zamboanga Peninsula)、パラワン島、バシラン島、スールー諸島、タウイタウイ島の民族集団間、さらにはサマ人としての自己認識がないか、サマ人関連言語を話さない人口集団間でさえ、より明確になります。

 高いサマ人祖先系統を有する民族集団は、最小限の混合マノボ人集団であるマノボ・アタ人(Manobo Ata)と比較して、ムラブリ人やティン人のようなアジア南東部本土(MSEA)のオーストロアジア語族話者民族集団と顕著に高い遺伝的類似性を示します。このティン・ムラブリ関連遺伝的兆候は、サマ・ディラウト人や内陸部サマ人集団だけではなく、フィリピン南西部のパラワン島およびサンボアンガ半島民族集団でも見られます。これらの知見は、ティン・ムラブリ関連遺伝的兆候がインドネシア西部の民族集団間で検出される、という以前の観察と一致します(関連記事)。本論文の分析では、この遺伝的兆候もインドネシア西部を越えてフィリピン南西部に広がっている、と明らかになります。

 マノボ人とサマ人の両遺伝的祖先系統は、台湾先住民とコルディリェラ人との間の推定される分岐よりも早く、共通アジア東部祖先的遺伝子プールから15000年前頃(95%信頼区間で15400~14800年前)に分岐しました(図2B)。驚くべきことに、マノボ人とサマ人の祖先系統は両方、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)やコルディリェラ人からの漢人や傣人(Dai)やキン人(ベトナム人)の分岐前に、共通アジア東部人から分岐しました(図2B)。したがって、本論文の知見からは、祖先的マノボ人およびサマ人は、他のティン人およびムラブリ人関連民族集団とともに、漢人や傣人や日本人やキン人やアミ人やタイヤル人の拡大前に、基底部アジア東部人から15000年前頃に分岐した分枝を形成します(図2B)。

 サマ人はマノボ・アタ人と比較してティン人とクレードを形成します。サマ人とティン人およびムラブリ人集団の共通祖先は、祖先的マノボ人と12000年前頃(95%信頼区間で12600~11400年前)に分岐した、と推定されます。ティン人およびムラブリ人関連遺伝的兆候の現在の地理的分布を考えると、その祖先はコルディリェラ人関連人口集団の拡大前に、スンダランドを経由してインドネシア西部とフィリピン南西部に拡大した可能性が高そうです(関連記事)。興味深いことに、15000年前頃および12000年前頃という上述の推定は、最終氷期末におけるスンダランドの復元から推測される、アジア南東部島嶼部(ISEA)における主要な地質学的変化と一致します。したがって、ISEAにおける気候要因の変化は、人口集団の氷期後の移動と孤立を促進し、ISEAにおける民族集団の分化につながったかもしれません。以下、本論文の図2です。
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●アジア東部人集団としてのコルディリェラ人

 コルディリェラ人民族集団は、ルソン島北部から中央部のコルディリェラ山脈を越えて、フィリピンで唯一の海に接していない地域に居住しています。歴史的に、コルディリェラ人はスペイン人による直接的な植民地化とキリスト教化に抵抗したと知られており、したがって、その独特の文化的慣習の多くを保持できました。この地理的および文化的孤立は、この地域の高い言語的多様性と、一部の集団により示される遺伝的混合の低水準に役割を果たしたかもしれません。以前に報告されたカンカナイ人(Kankanaey)と(関連記事)、それに続く混合およひf3・f4統計分析の組み合わせに加えて、ボントック人(Bontoc)とバランガオ人(Balangao)とトゥワリ人(Tuwali)とアヤンガン人(Ayangan)とカランガイ人(Kalanguya)とイバロイ人(Ibaloi)が、基底部アジア東部人祖先系統を有する最小の混合人口集団として明らかになりました。

 本論文の全混合分析で観察されたコルディリェラ人の間の均質な祖先系統は、強い遺伝的浮動の存在により説明できます。しかし、ホモ接合性連続の数と領域の長さに基づく以前の分析および本論文の調査は、コルディリェラ人の間での最近のボトルネック(瓶首効果)もしくは広範な近親交配を裏づけません。さらに、f3混合とf4統計を用いての検証は、中央部コルディリェラ人が、ネグリートからの遺伝子流動を受けなかったフィリピン内で唯一の民族集団であり続けた、という直接的証拠を提供します。コルディリェラ地域の周辺での一連の移住および植民地期と、ルソン島のネグリートおよび非ネグリート集団との交易および歴史的相互作用の報告された記録を考えると、これは予想外です。アジア太平洋地域の他の全民族集団は、アンダマン諸島人かパプア人かネグリートかティン人およびムラブリ人か、アジア東部北方人と関連する遺伝的祖先系統と混合しています。したがって、地域集団間の標本規模の違いを制御した後でさえ、コルディリェラ人集団は一貫して世界規模の主成分分析ではPC1軸を一貫して定義し、アフリカのコイサン民族集団とは対極に位置する、と明らかになりました(図1B)。

 台湾のアミ人もしくはタイヤル人ではなくコルディリェラ人は、オーストロネシア語族話者人口集団拡大についての最小限の混合された遺伝的兆候の、最良の現代の代理として機能します。アミ人とタイヤル人は両方、ティン人・ムラブリ人関連(もしくはオーストロアジア語族関連)およびアジア東部北方関連と類似した遺伝的構成要素との混合を示します。さらに、全てのフィリピンの民族集団は、アミ人もしくはタイヤル人とよりも、コルディリェラ人とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有します。さらにコルディリェラ人は、アミ人とタイヤル人を除いて、マレーシア人やインドネシア人やオセアニア人と、さらにはマレー半島とオセアニアのラピタ(Lapita)文化の古代個体群の間でさえ、最も多くのアレルを共有します(関連記事)。


●アジア本土からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移住

 台湾海峡の馬祖(Matsu)島(馬祖列島)は行政区分では中華人民共和国でも中華民国(台湾)でも福建省に属し、現在は台湾が実効支配しています。馬祖島の亮島(Liangdao)で発見された2個体は、現代人ではコルディリェラ人やアミ人やタイヤル人、古代人ではフィリピン北部やマレーシアや台湾やラピタ文化の個体群と最高水準の遺伝的浮動を共有します。中国本土に近い亮島の位置(中国本土からは26km、台湾からは167km)を考えると、8000~7000年前頃の個体である亮島2は、アジア本土への「コルディリェラ人」祖先系統の最古のつながりを表します。

 予測されるように、亮島の2個体(亮島1および亮島2)は、基底部スンダ祖先系統との混合を示しません。亮島1および亮島2は両方、アジア東部北方集団との共有された祖先系統・混合明確な証拠を示し、それはアジア東部本土と台湾の現代および古代の人口集団・個体群と類似しています。これは、アジア東部の古代の個体群の最近の分析と一致します。それによると、さまざまな時点で人口集団間の遺伝子流動が明らかになり、アジア東部北方人と亮島の2個体を含むアジア東部南方人との間である程度の遺伝的類似性が示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 しかし、現代コルディリェラ人はこのアジア東部北方祖先系統構成要素を示さないので、コルディリェラ人関連集団とアジア東部本土および台湾の民族集団との間の分岐の下限(8000年前頃)を提供します。この知見は、フィリピン北部における4000~3000年前頃の新石器時代遺物の最初の考古学的証拠と合わせて、最初のコルディリェラ人はこの時点でのアジア東部沿岸部の他集団と同様に、定住農耕民ではなく複雑な狩猟採集民だった、と示唆されます。アジア東部北方祖先系統は後に到来したに違いなく、中国沿岸部と台湾地域に起源があり、パタン諸島およびルソン島沿岸地域へ拡散しました。アジア東部北方祖先系統の存在がじっさいに農耕拡大の遺伝的兆候ならば、コルディリェラ人におけるその一般的な欠如から、これらの集団間での新石器時代への移行は、人口拡散ではなく文化的拡散の結果だった、と示唆されます。


●完新世の移住と言語および新石器時代文化

 フィリピンへの完新世の移住については、2つの対照的なモデルが提示されてきました。一方は出台湾仮説で、オーストロネシア語族と赤色スリップ土器と穀物農耕をもたらした、台湾から海洋航海民による新石器時代要素一式の北方から南方への一方向の拡大を支持します。もう一方は出スンダランド仮説で、海洋交易ネットワークと、以前に居住可能だった土地の気候変化による浸水に続いてのスンダランドからの人口集団拡大により先行する、早期完新世以来のフィリピンへの人口集団の複雑な南北の移動を想定します。

 本論文の分析では、ネグリートやマノボ人やサマ人的集団の北方への移住後、中国南部・台湾地域からフィリピンへのコルディリェラ人関連祖先系統の遺伝子流動が、1万年前頃以後に複数の波で起きたかもしれない、と示唆されます。これは、アミ人と、コルディリェラ人とフィリピン中央部・北部のさまざまな集団との間の分岐よりも早い中央部コルディリェラ人との間の、推定される(遺伝的)分岐を説明できるかもしれません。さらに、ルソン島からミンダナオ島へのコルディリェラ人関連祖先系統の単純で段階的な一方向の移動で予想される、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の年代の南北の勾配は観察されません。それどころか、ネグリート・パプア人とコルディリェラ人との混合の最古の年代は、フィリピン諸島全域に散らばっており、推定される中国南部・台湾の起源地域からフィリピンへの人口集団の複雑で不均一な移動を示唆します。

 多様な遺伝的祖先系統からの移住にも関わらず、フィリピンの全民族集団が、オーストロアジア語族のマレー・ポリネシア分枝内に収まる言語を話す、という事実の観点では、フィリピンの言語的景観は著しく多様性が低くなっています。言語と遺伝子の不一致のあり得る一つの説明は、フィリピン諸島内外で広範な言語置換を促進した、移住してきたオーストロネシア語族話者人口集団の支配的影響です。一部の単語が元の非オーストロネシア語族言語に保持されてきた可能性があるので、完全に言語置換は起きなかったかもしれません。たとえば、一部のネグリート集団は、あらゆる他のオーストロネシア語族言語では完全に説明されていない、特定の語彙要素を含む言語を話します。同様に、ボルネオ島の陸ダヤク人(Land Dayak)のオーストロネシア語族話者は、その言語に保持されたオーストロアジア語族の語彙項目の証拠をいくつか有しています。

 一連のさまざまな遺伝的および考古学的証拠から、農耕はフィリピンにおけるコルディリェラ人関連人口集団の最初の到来と関連していなかった、と示唆されます。コルディリェラ人には欠如しており、8000年前頃となる亮島の2個体には存在するアジア東部北方祖先系統構成要素に加えて、コルディリェラ人とアミ人・タイヤル人との間の8400年前頃(95%信頼区間で8800~8000年前)の分岐は、台湾およびフィリピンへの農耕の到来に先行します。公開されている利用可能なゲノム配列データを用いて2・2外群(TTo)手法を適用すると、その分岐年代は17000年前頃(95%信頼区間で25000~9500年前)とさらに古くなります。

 さらに、考古学的証拠では、7000~5000年前頃の中国南部沿岸部とベトナム北部の共同体は漁撈民・狩猟採集民であり農耕民ではなく、水田稲作は中国南部とISEAで3000~2000年前頃にやっと確立した、と示唆されます(31)。これは、ジャポニカ米(Oryza japonica)の最近の包括的な系統発生分析と一致します。コメがISEAにもたらされたのは2500年前頃後で、フィリピンの稲作はもっと最近始まった可能性が高い、と示唆されます(32)。さらに、ISEAにおける稲作の研究では、台湾からのフィリピンとインドネシアのイネ品種の起源への裏づけも、コメの台湾からのおもな拡散への強い裏づけも提供されません。

 したがって、コルディリェラ人関連集団の移住の推進力は、農耕ではなく、気候変化による台湾と中国南部との間の古代の陸塊の地質学的変化により触媒されたかもしれません。その地質学的変化は、12000~7000年前頃の沿岸部平野の漸進的な浸水をもたらしました。これは、コルディリェラ人の有効人口規模における推定される減少の時期の頃であり、コルディリェラ人関連人口集団とアミ人・タイヤル人との間の分岐年代と一致します。したがって、以前に議論された一連の証拠を伴う本論文の知見は、フィリピンとISEAの先史時代の文脈における農耕と言語と人々の拡散の一元的モデルを支持しません。


●一部のフィリピンの民族集団への最近のアジア南部人およびスペイン人との混合の証拠

 2000年前頃から植民地期以前まで、ISEAの文化的共同体は地域全体のインド洋交易ネットワークに積極的に参加しました。この長距離の大洋横断交換経路に沿って、2つの連続したヒンドゥー教と仏教の王国であるシュリーヴィジャヤとマジャパヒトがあり、MSEA沿岸部やインドネシア西部やマレーシアやフィリピンのスールー諸島までの広範な地域を支配しました。この大規模な多国間交易の人口統計学的影響は、低地マレー人やインドネシアの一部民族集団において現在明らかで、アジア南部人の遺伝的兆候の検出により示されます。ジャワ島やバリ島やスマトラ島のインドネシア人に加えて、航海民のサマ人関連人口集団であるコタバル・バジョ(Kotabaru Bajo)やデラワン・バジョ(Derawan Bajo)も、アジア南部人祖先系統の検出可能な水準を示します。したがって、予想外ではありませんが、これらの知見から、スールー諸島の海洋民であるサマ・ディラウト人や、サンボアンガ半島のサマ沿岸部住民は、アジア南部人からの遺伝子流動の証拠を示します。

 フィリピンは1565~1898年の333年間、スペインの植民地でした。しかし、ビコラノス人(Bicolanos)や、スペイン語系クレオール話者のチャバカノ人(Chavacanos )といった、一部の都市化された低地住民でのみ、ヨーロッパ人との混合の有意な人口集団水準の兆候が観察されます。ボリナオ人(Bolinao)やセブアノ人(Cebuano)やイバロイ人やイロカノ人(Ilocano)やイヴァタン人(Ivatan)やパンパンガ人(Kapampangan)やパンガシナン人(Pangasinan)やヨガド人(Yogad)の集団の一部の個体も、ヨーロッパ人との混合の低水準を示しました。この混合は450~100年前頃に起きたと推定されており、スペイン植民地期に相当します。他のいくつかのスペイン植民地とは対照的に、フィリピンの人口統計は、ヨーロッパ人との混合による影響を大きくは受けていないようです。


●まとめ

 本論文で説明されたフィリピンの微妙な人口史は、出台湾もしくは出スンダランド仮説のどちらかの基礎的モデルとのみ一致しているわけではありません。まとめると、フィリピンは過去5万年に少なくとも5回の古代の現生人類の移住の大きな波があった、と示されます(図3A~D)。最初の2回は46000年前頃以後の旧石器時代狩猟採集民集団の拡散に特徴づけられ、現代人の基底部オーストラレシア分枝と遺伝的に関連しています。これらのうち、より早期のネグリート集団は、おそらくパラワン島およびミンドロ島を経由してフィリピン北部に拡散してきて、続いてママヌワ人に代表される基底部オセアニア人分枝(図2Aおよび図3A)が、スールー諸島経由でフィリピン南部へと拡散しました。

 さらに、デニソワ人もしくは他の関連する絶滅ホモ属(古代型ホモ属)は、ネグリートの拡散時にすでにフィリピンに存在しており、独立した局所的な古代型ホモ属との混合が生じました(関連記事1および関連記事2)。さらに、ネグリート民族集団間のデニソワ人祖先系統の検出可能な水準を考え得ると、この絶滅ホモ属からの遺伝子移入兆候は現在まで明らかです。さらに、狩猟採集慣行を伴う元々の狩猟採集民の遺伝的祖先系統が、その後の移住により置換および/もしくは希釈されたにヨーロッパの人口史とは対照的に、フィリピンにおけるネグリートの祖先系統は現在まで依然として大量に存在します。これは、現在までの一部集団で観察されるように、生計の狩猟採集民様式の実践が伴います。

 ネグリートに続くのは、15000年前頃以後のフィリピンへの「マノボ人」的および祖先的「サマ人」的な遺伝子流動で、それは最終氷期末のISEAにおける大きな地質学的変化の頃に、南方経路で起きた可能性が高そうです。その後もしくは同時に、パプア人関連人口集団の西方への拡大があり、フィリピン南東部の民族集団に遺伝的影響を残しました。最後に、アジア南部人からサマ人民族集団への遺伝子流動のわずかな影響と、一部の都市化された低地住民とヨーロッパ人との最近の混合に先行する、最も新しい大きな移住事象は、早ければ10000~8000年前頃となる、中国南部と台湾からフィリピンへのコルディリェラ人関連集団の移動でした(図2Bおよび図3D)。この拡大は複数の波で起きた可能性が高く、古代の航海民集団は、フィリピン内外の現代の人口集団に広がっている言語優位の持続的遺産をもたらしました。以下、本論文の図3です。
画像

 現在確認されている、水田稲作の到来および拡大の年代と、中国南部・台湾からフィリピンへの人々の人口統計学的移動の年代との間の関連についての遺伝的証拠は見つかりません。全員が一部のアジア東部北方祖先系統を示す、亮島2および他の台湾とアジア東部南方の古代人個体群の遺伝的構成を考えると、最も簡潔な説明は、コルディリェラ人はアジア東部北方人集団からの遺伝子流動の前にフィリピンに拡散してきた、というものです。この観察から、フィリピンにおけるコルディリェラ人の到来年代の境界は遅くとも8000~7000年前頃と推測され、フィリピンの早期コルディリェラ人は遊動的な狩猟採集民だった、と示唆されます。フィリピンの集団間の複雑な混合から分かるように、他の全てのコルディリェラ人的集団は最終的に、さまざまな時点で在来人口集団と混合しました。したがって、コルディリェラ人は人口史において独特の位置を占めており、基底部アジア東部人の最小限の混合された子孫として明らかにされます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、フィリピンへの現生人類の拡散が、台湾もしくはスンダランドのどちらかのみに由来するのではなく、複雑な複数回の移動の結果だった可能性が高いことを示しました。また、農耕の拡大と人類集団との拡大が一致しない場合もあることも示されました。本論文は、アジア南東部に留まらず、アジア東部やオセアニアの現生人類集団の進化史を考察するうえでも重要な知見を提示した、と言えるでしょう。なお、恐らくは執筆に間に合わなかったため本論文では取り上げられていない最近の研究としては、2200年前頃のグアム島集団がフィリピンから到来した可能性を指摘した研究(関連記事)と、ISEA現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響を検証し、ホモ・エレクトス(Homo erectus)のような「超古代型人類」と現生人類との交雑はなかっただろう、と推測した研究(関連記事)があります。最近のアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(関連記事)を踏まえると、コルディリェラ人関連祖先集団は遺伝的には、基本的に内陸部南方祖先系統で構成されていた、と言えるでしょう。今後のユーラシア東部における古代DNA研究により、内陸部祖先系統内の南北の混合がいつどのように進んでいったのか、明らかにされていくと期待されます。


参考文献:
Larena M. et al.(2021): Multiple migrations to the Philippines during the last 50,000 years. PNAS, 118, 13, e2026132118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026132118

大河ドラマ『青天を衝け』第7回「青天の栄一」

 今回、徳川家康の解説では江戸時代の漢詩の重要性が指摘され、近代以降の日本社会、とくに第二次世界大戦後には、日本史における漢詩の重要性はあまり意識されていないように思うので、よかったと思います。主人公の渋沢栄一を中心とする農村部の話は、千代をめぐる栄一と喜作の三角関係が描かれました。大河ドラマ愛好者にはこうした話を嫌がる人が多いかもしれませんが、千代は主人公の妻ですし、さほど長くはなかったものの、3人の心理が割と丁寧に描かれていたので、悪くはなかった、というかなかなかよかったのではないか、と思います。また、江戸に出た尾高長七郎が尊王攘夷の動向に突き動かされていくところも、なかなか丁寧な描写になっていて、よいと思います。

 徳川慶喜を中心とする「中央政界」の話では、阿部正弘が没し、井伊直弼と将軍の徳川家定が接近し、いよいよ幕末の政治的激動が始まったことを予感させます。井伊直弼はすでに登場していましたが、これまではほとんど目立たず、モブキャラのようでしたが、今回終盤でやっと目立った感があります。本作では慶喜が重要人物として描かれていますが、幕末政治史の重要人物である父の斉昭だけではなく、母と妻も短い描写ながらキャラが立っています。栄一は幕末の最終段階で海外に行くため、国内の政治情勢は慶喜を中心に描かれ、慶喜の周囲の人物も重要になってきそうですから、今からしっかりキャラを立てておくことは必要でしょう。井伊直弼も以前の登場でもう少しキャラを立てておいてもらいたかったものです。