衛の滅亡は始皇帝没後?

 まだ日付は変わっていないのですが、6月13日分の記事を掲載しておきます。周代から戦国時代を経て秦代にかけて、いわゆる戦国の七雄には数えられていませんが、衛という国が存在していました。衛の始祖は、周の武王の弟で、商(殷)の故地に封ぜられた康叔封です。高校生の頃に渡辺信一郎「商鞅と始皇帝」を読み、その衛の滅亡が始皇帝没後とされていることを知りました。

 確かに、『史記』「衛康叔世家」によると、衛の最後の君主である君角の9年に秦王が天下を併合して始皇帝となり、始皇帝死後の君角21年に、秦の第二代皇帝(胡亥)が君角を廃して庶民とし、衛の祭祀が絶えたとあります(前209年)。このことを知ったときは、なぜ始皇帝が衛を滅ぼさなかったのか、不思議に思ったものです。

 渡辺信一郎「商鞅と始皇帝」によると、一家もろとも誅滅された商鞅家の本宗を残すことによって、始皇帝が商鞅の功績を記念したのではないか、とのことでした。しかし、これは付会にすぎるだろうか、と渡辺氏自身が述べているように、正直なところ説得力に欠けるのは否めませんでした。

 その後、この問題は忘れかけていたのですが、平勢隆郎氏が第1部を執筆した『世界の歴史2 中華文明の誕生』を読むと、この疑問にたいする答えが提示されていました。平勢氏によると、踰年称元法は戦国中期に出現したものなのに、司馬遷をはじめとした漢代の整理者たちが、踰年称元法を古代から続くものと考え、立年称元法による記録も踰年称元法によるものとみなしたので、『史記』にはかなりの年代矛盾が生じており、衛の実際の滅亡は始皇帝26年(前221年)とのことです。

 踰年称元法とは、君主の位が継承された翌年を新君主の元年とするもので、立年称元法とは、君主の位が継承されたその年を新君主の元年とするものです。そうすると、立年称元法による記録を踰年称元法によるものと解釈した場合、君主が交代するにつれて、じっさいの年代との間に開きが大きくなることになります。

 たとえば、立年称元法が採用されていた場合には、ABCDEの4人の王がいて、A王元年が前500年で、それぞれの治世が10年ずつだったとの記録があったとすると、E王10年は前455年となります。しかし、この記録を踰年称元法によるものと解釈すると、E王10年は前451年となります。このようにして、衛の滅亡はじっさいよりも後代にずれこんでしまった、というわけです。

 このように考えると、『史記』における年代矛盾も解消される、というのが平勢氏の見解です。『史記』における年代矛盾の具体例としては、衛が野王県に遷った年代が挙げられます。『史記』「秦始皇本紀」では、これは始皇帝6年(前241年、このときはまだ皇帝ではありませんが)のことで、衛の君主は君角だとされていますが、『史記』「衛康叔世家」では、君角の父である元君の時代とされています。

 「衛康叔世家」では、始皇帝没後に衛が滅亡したとの年代観に依拠していますから、前241年は元君の時代ということになりますが、衛の滅亡は前221年とする平勢氏による年代補正にしたがえば、前241年は君角元年となり(元君25年でもありますが)、年代矛盾が解消されたと解釈することも可能です。

 古代中国史にかんする平勢氏の諸見解にたいしては、かなり厳しい批判がなされているようなので、私が今回述べたことも、あるいは的外れなのかもしれません。ただ、立年称元法と踰年称元法との混同という見解は、専門家ではない私にはかなり魅力的です。


参考文献:
渡辺信一郎(1989)「商鞅と始皇帝」『週刊朝日百科世界の歴史13 紀元前の世界3●人物』(朝日新聞社)

尾形勇、平勢隆郎(1998)『世界の歴史2 中華文明の誕生』(中央公論社)

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この記事へのコメント

2008年06月12日 23:38
劉公嗣さんの見解に全く同意します。非常に魅力的な記事でした。
2008年06月13日 20:30
お読みいただき、ありがとうございます。

この問題に関しては、平勢氏の見解にはなかなか説得力があると思いますので、全面的に依拠した記事になりました。

ただ、批判も多い人なので、注意が必要かな、とは思っています。

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