手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』

 講談社選書メチエの一冊として、2010年8月に刊行されました。著者は後書きにて、「学問の最前線からは遠ざかり、専門家たちの常識にも疎い私には、とんだ見当違いや自分勝手な思い込みに陥っている点、恐らく多々あろう」と述べており、この点に不安はあるのですが、狭義の古代ギリシア史ではなく、対象としているのが地理的・時間的に広範で、壮大な見通しが提示されているということもあって、専門家ではない私はひじょうに面白く読み進めました。私のように、古代ギリシア史に関心はあるものの、それほど詳しいというわけではない、という人にはとくにお勧めです。

 現在の高校の世界史教科書ではどう扱われているのか、よく知りませんが、おそらくは学校教育などを通じて現代の日本でも根強く浸透しているであろう、ギリシアをヨーロッパと位置づけ、エジプト・メソポタミア・ペルシアといったギリシアよりも東方の世界と対照的であることを強調し、ヨーロッパ文化の直系の源流として古代ギリシアを想定するような、「ギリシア・ヨーロッパ正統史観」とも言うべき歴史認識を克服するにあたって、本書は有用なのではないか、と思います。ただ、古代ギリシア史に関心のある人の多くにとっては、本書の提示する大きな枠組みは目新しいものではないでしょう。

 本書の特徴は、古代ギリシア史を西方世界、つまりヨーロッパよりも、エジプト・メソポタミア・ペルシアといった東方世界と結びつけて認識することにあります。もちろん、東方世界とはいっても、ギリシアとの結びつきの強弱はさまざまで、アレクサンドロス大王による征服事業と、考古学的に確認できるギリシア文化の遺構はあるにしても、けっきょくのところギリシア人は東方世界内陸部に大きな影響力を残したとは言い難く、おもにエジプトやレヴァントといった東地中海へ進出していくことになります。

 こうして東地中海に一体的なギリシア語文化圏が成立し、それはラテン語文化圏の西地中海とは異なる文化圏でした。地中海はローマ帝国により政治的には統一されますが、文化圏が統一されることはなく、ローマ帝国の東西分裂もこうした背景があったのではないか、と指摘されています。また、起源前5世紀~4世紀にかけての、いわゆる古典期における学芸での華々しい成果はあるものの、古代ギリシアは、同時代のエジプト・メソポタミア・ペルシアといった東方世界と比較して、富と文化の蓄積が大きく劣っていたということも強調されており、「貧しく後進的な」ギリシア世界と「豊かで先進的な」東方世界という構図が提示されています。

 近代以降のヨーロッパにおいて強調された、輝かしい先進的文化圏としての古代ギリシアという枠組みは、ギリシア世界とローマ帝国との接触にその源流が認められます。ギリシア世界と比較して「後進的」だったローマ帝国には、ギリシア世界との直接的な接触にともないギリシア文化への憧憬が生じますが、それは、ローマ帝国の支配下に置かれつつある惨めな現実のギリシア世界にたいしてではなく、古典期のギリシア世界にたいしてでした。このローマ人の古典期への憧憬は、ギリシア人の古典期にたいする理想化を押し進め、それが近代以降のヨーロッパの歴史認識にもつながる、ギリシア優位の言説を生じました。

 そうした言説はギリシア本土が発信地となっていくのですが、その前提として、東地中海に成立したギリシア語文化圏において、東方世界との融合が進み発展したエジプトやレヴァントとは異なり、ギリシア本土が停滞していた、という事情があります。現実のギリシア世界と古典期との乖離は、近代ヨーロッパのことだけではなく、起源前2世紀においても生じていた、というわけです。しかし、近代ヨーロッパと、日本などその影響を強く受けた他の地域においては、古典期と現実のギリシアとを結びつけるような歴史認識が主流になっていきます。

 東方世界と融合し発展していった「新世界」のギリシアと、停滞する「旧世界」のギリシアという構図は、アレクサンドロス大王の治世においてすでに見られます。現実の統治も考慮して「先進的な」東方世界の要素を取り込んでいこうとするアレクサンドロス大王にたいして、その配下の将兵の多くは、ギリシア的世界観から抜け出すことはなく、両者の間に緊張した関係をもたらした要因となりました。これは、偉大な学者でありながら、けっきょくはギリシア的世界観を脱することはなかった、アレクサンドロス大王の師であるアリストテレスと、アレクサンドロス大王との確執の背景とも考えられます。

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