岡本隆司『近代中国史』

 これは10月11日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2013年7月に刊行されました。本書における「中国」の範囲は、おおむね欧米でいうところの「中国本土」に相当します。したがって、本書の「中国」は中華人民共和国の支配領域全てを含んでいるわけではありません。本書は、他地域と比較しつつ、中国の伝統的な経済社会がいかに形成され変容していったのか、明・清朝(ダイチングルン)を中心に論じており、清朝の後の民国期の変容についてもそれなりに分量を割いています。

 中華人民共和国成立後については、その画期性と伝統経済との類似性についての言及はあるものの、類似性をどう評価して中国史にどう位置づけてよいのか、著者もまだ確信を持てていないようで、大まかな見通しの提示というか、問題提起に留まっている感があります。本書は明・清朝を中心に民国期までの中国経済・社会史となっており、それぞれの専門分野の研究者からは色々と突っ込みがあるのかもしれませんが、ひじょうに読みやすく分かりやすい解説になっています。これは私にとって大当たりの一冊で、定価880円をはるかに上回る価値があったと思います。以下、本書の見解で興味深いところを備忘録として述べていきます。


 本書はまず、中国の地理的特徴について述べ、華北が遊牧世界と、江南が海洋を通じて海外との関係の深いことを指摘します。次に、漢代~中華人民共和国成立期までの人口の変遷(もちろん、正確な数字は分からず、大まかな傾向ということになりますが)から、人口増減と王朝交替のサイクルがほとんど等しいことを示します。これだけだと、伝統的な王朝史観ということになりそうですが、本書は、人口増減のサイクルを経るたびに、人口の規模が更新・拡大していることを指摘します。

 本書は、中国における人口増大の要因として、漢代までは華北の灌漑農耕を、魏晋南北朝以降は江南の開発を挙げ、時代が下るにつれて中国経済における江南の比重が高まっていったことを指摘します。著者は唐宋変革の意義を高く評価し、中国の伝統経済の特徴が宋代にほぼ準備されたと主張します。宋・金・大元ウルス治下の中国の経済発展は「商業革命」とも言われていますが、14世紀の世界的な気候変動にともない、中国経済も政治的混乱などにより低迷します。

 中国はこの明朝前半の経済的低迷を、日本などの近隣地域やヨーロッパ勢力など海外の需要とあいまった江南の産業構造転換により脱し、14世紀までとは異なる段階の経済成長へと突入していきます。その結果、途中に明清交代という混乱期もあったものの、18世紀には人口が激増します。その後、中華人民共和国の成立まで人口は漸増していき、中華人民共和国期に再び人口が激増します。

 本書はこのように人口の変遷から中国史を概観し、それが聚落形態の変遷とも密接に関係していることを指摘します。本書の見解では、中国の聚落形態は古代の集住(本書では都市国家という言葉は用いられていませんが、事実上古代中国都市国家論が採られています)から三国時代以降の散居(村の誕生)へと変化し、この時期に商業も衰退したものの、唐宋変革の頃に商業の発達により無城郭商業都市の「市鎮」が出現した、ということになります。この間、散居とはいっても、もちろん城郭都市も存在していましたが、それは古代とは異なり行政・軍事に特化していました。

 つまり、唐宋変革により、中国の聚落形態は行政機能の城郭都市・商業機能の市鎮・農業機能の村落という三本立てになったわけです。この形態は基本的に19世紀まで変わらず、これが中国の伝統社会の在り様ということになります。しかし、明・清朝では人口増加・経済発展にともない、市鎮が著しく増加した、ということが大きな特徴になっています。まとめると、中国史の画期は3~4世紀・10世紀・14世紀で、20世紀から現在はそれまでとは異なる段階にある、ということになります。

 こうした中国史の大まかな把握を前提として、本書は明・清朝の中国経済・社会について論じています。本書はまず、19世紀初めの中国と日本とを比較し、行政上の都市化率という点で中国が日本よりずっと低いことを示し、中国は日本よりも(中央)権力の管理の行き届いていない社会だった、と指摘します。その結果、権力が社会を直接管理しようとすると、扇動的・強権的・暴力的にならざるを得ない、というのが本書の見通しです。本書は、これらが中国の伝統社会の特徴であり、日本や西洋の常識では中国経済を理解しづらい要因なのではないか、との見通しを提示し、明・清朝の中国経済の実態・変容について詳しく論じていきます。以下、本書の興味深い指摘を列挙するだけになってしまいますが、備忘録的に述べていきます。


 中国の伝統社会の特徴は、士と庶および官と民の二極化です。士を制度的に保証するのが科挙でした。官になるのは士であり、士と官および庶と民は重なり合うところがあります。もっとも、二極化とはいっても、宋代以降、基本的に士は世襲制ではなく科挙により認定されるので(科挙が始まったのは宋代よりも前ですが)、士と庶の断絶は絶対的なものではありません。官と民との断絶は時代が下るにつれて大きくなっていき、それは、権力が社会の基層をじゅうぶんに把握できていないこととも関わっています。

 その官と民とをつなぐ役割を明代以降に担ったのが、士でありながら官を辞したり官途を諦めたりして地域に根付いた郷紳でした。難関の科挙に合格する(何段階も試験があるので、最終試験にまで到達するのはごく僅かですが)くらいですから、士にはそもそも豊かな家柄の人が多く、そうしたこともあって、在地の指導者となり、官と民とを間接的に結びつける存在となります。

 当時の名称はさまざまですが、おおむね士を長とするような団体が中国の伝統社会には多数存在していました。本書はこれらを中間団体と呼んでいます。中間団体は、宗族や生業などを単位とした、地縁・血縁・職能的な地域的小規模組織でした。中央政権(王朝)の官僚制度は、この中間団体の上層部との接触を通じて徴税業務を遂行していました。つまり、中央政権は直接の徴税業務では主に裕福な階層を対象にしていたことになります。塩の専売や貿易を許可された商人などもそうした裕福な階層の一員でした。

 権力の支配が社会の基層にまで及びにくかった中国伝統社会では、中央政権の任務は徴税と治安の維持が主でした。中央政権には「経済対策」や「殖産興業」のような発想は乏しく、救貧事業もおおむね理念だけに終わりました。救貧事業や育児などといった社会的事業を担っていたのは、中間団体でした。中央政権の支出は主に軍費と官僚の人件費で、官僚の本給が安いところに、汚職・腐敗の生じやすい根本的な要因がありました。中国伝統社会の中央政権は、基本的には安上がりの政府でした。

 中間団体の指導者は士であることが多いので、その基本的価値観は儒教であり、中央政権とは親和的と言えます。ところが、指導者が士ではなく儒教以外の「淫祀邪教」を奉ずるような中間団体は、反中央政府的な性格を有することも珍しくなく、それ故に地下組織化します。このような中間団体は秘密結社と呼ばれ、中央政権と敵対的になりがち故に、専売のはずの塩の密売や密貿易を経済的基盤としました。

 中央政権(の地方組織)はもちろんこれを摘発しようとするので、こうした秘密結社は武装しており、両者の対立による騒擾に対応するため、一般の中間団体も武装するようになります。こうした騒擾は局地的なものに終わることが多いのですが、時としてそれが広範囲にわたり、太平天国の乱といった有名な「反乱」となります。民と官が分離し、中央政権にとっては支配の基礎を担う存在にも敵対する存在にもなり得る中間団体が集積・複合しているのが、中国伝統社会の特徴でした。本書は中国社会についてのこうした認識を前提として、中国経済史について論じています。


 まず本書が指摘するのは、中国における本音と建前の乖離です。農業を重視して商業を軽んじる建前でありながら、政権が社会の基層にまで支配を及ぼしていないため、農産物にしても工業製品にしても、支配層にとっては自然物のように存在・発生するものであり、農業・工業に対して実質ある国家・社会的尊重は生まれなかった、と本書は主張します。大土地所有の是正が長くなされなかったのもそのためだ、というのが本書の見解です。

 唐宋変革により江南の経済が発展した中国社会ですが、14世紀には経済・社会的に低迷・混乱します。こうしたなか、元朝に代わって中国を支配したのが明朝でした。華夷の区別を掲げた明朝は、中国社会における南北の経済格差を解消して南北を統合するために、先進的な南を後進的な北に合わせようとして、貿易・貨幣を制限して現物主義を採用し、江南を弾圧した、というのが本書の見解です。

 しかし、この明朝の方針は、地方間分業も進み経済の発展しつつあった現状と合致しませんでした。北方の遊牧勢力の脅威に対抗するために南京から北京へと遷都してからは、現物主義の徹底も難しくなり、税は銀納化が進展します。この銀を中国にもたらしたのが、日本やヨーロッパ勢力でした。こうして、明代にも経済は大きく発展していきますが、唐宋革命と比較すると、技術革新という点では大きな進展はなく、量の増大が特徴となっています。

 商工業の発達した明代に、租税・徭役の銀納化が進み、中小自作農は没落して不在地主が勢力を拡大します。こうした社会の商業化・銀の浸透・貧富の分化という明代の特徴は、清代も変わりませんでした。本書は、こうした前提のもとに展開される経済を、中国の伝統経済と呼んでいます。しかし、社会が商業化したといっても、明代には王朝成立当初の現物主義が完全に払拭されたわけではありませんでした。

 現物主義では品目も用途も最初から決まっていますが、税が銀納化されても、それは変わりませんでした。また、現物主義では徴収した地点から需要消費する機関まで直接送られましたが、銀納化されてもそれは変わりませんでした。この結果として、国家中央の役割は各地の税収を適切に動かす指示を出すことになり、中央は全国からの税収を一括して直接管理することはありませんでした。現代的視点では、「国庫」のない特異な財政ということになります。

 当時の情報管理能力では、各地の事情に応じて膨大な収支額を増減することは困難だったので、収支・配送の額はあらかじめ一定にされていました。本書はこれを「原額主義」と呼んでいます。しかし実際には、経費が一定額を超えることもあります。そのため、追加の課税が繰り返されることになりました。そのため、会計上の「赤字」は存在せず、官が民間に借金することもなく、民間に対する権力の信用も不用でした。国債という概念・制度が中国に生まれなかったのはこのためです。

 原額主義のもと、地方官は一定額を徴税すればよいということになります。余分な額を徴収しても地方官が咎められることはなかったので、上述した本給の低さもあって、官僚の汚職の構造的要因となりました。こうした明代の財政体系は、清代になっても基本的には変わりませんでした。

 財政に限らず経済全般において清は明を踏襲したところが多分にあり、貨幣政策も同様でした。清は明と同じく銀の流通を容認しましたが、その場合の銀は計数貨幣ではなく秤量貨幣でした。明清期の貨幣には銀だけではなく銅もあり、日常生活・少額取引では銅が用いられました。清が明と異なるのは、銅鉱山を盛んに開発して銅銭を多く鋳造したことですが、清は銅銭の価値や使用をまったく管理できず、明代の私鋳の銅銭を代替したにすぎませんでした。ここでも、中央政権の支配力の弱さが現れています。

 中央政権が銅銭の価値や使用をまったく管理できなかったため、同一の規格の政権発行の銅銭でも、地域により価値が異なりました。その結果、地域ごとに商人たちの発行した銭票と呼ばれる一種の有価証券もしくは紙幣が用いられました。中央政権に貨幣政策がないというかそれを実行する意思・能力がないため、銭票などの「現地通貨」の発行には規制がありませんでした。そのため、金融業務の排他的な専門化が起きず、明清期の中国では銀行業が発達しませんでした。

 現地通貨は地域ごとにしか通用しないものであり、地域間を結びつける外貨的な機能を果たしていたのが、上述した秤量貨幣としての銀でした。この場合の「地域間」とは、「国内」の取引のみならず、「外国」との貿易も含みます。現代日本人が普通想起するような、「国内外」区別が存在しないのが、中国伝統経済の特徴でした。明清代において「対外貿易」の境となった「海関」も、「国内」において商業税の徴収のために設置された「関」の延長線上にあったにすぎませんでした。

 こうした明清代の中国は、同時代(江戸時代)の日本と比較した場合、大きく異なっていました。日本では中央政権的な幕府の発行する貨幣に対する民間の信頼が、中国よりもずっと高く、「国内」と「国外」の区別も、日本は中国よりもずっと厳密でした。これは、「全国」を一体とする流通圏が日本ではすでに確立していたのに対して、中国ではそうではなかった、つまり明初の江南への過酷な弾圧も含む「中華統合政策」が、実質的に失敗したことを意味しているのでしょう。

 こうした、官と民が分離し、政権が民間の経済活動への介入に消極的だったという特徴の中国伝統経済において、経済活動を統制していたのは中間団体でした。多くの人々にとって、政権の法律よりも中間団体の規約・慣習の方が重要でした。政権の政策と中間団体の規約・慣習が一致していなければ、その中間団体は容易に秘密結社となり、政権の統治が困難になる、というのが中国伝統社会の特徴となっています。

 その中国伝統社会の村落においては自給の割合が高く、地域間に流通する銀は地域に留まりやすいので、他地域からの銀の供給がなければ容易にデフレが進行します。したがって、各地域が好況であり続けるには、地域内に蓄積される銀を上回る銀が地域外で流通し続ける必要がありました。その銀は、上述したように日本やヨーロッパ勢力からもたらされました。したがって、明清交代期のような戦乱の時代に貿易統制が行なわれると、中国社会ではデフレが進行しました。中国伝統経済は、全体的に外向きの体質を有していました。

 日本の銀産出量が激減し、日中貿易が低迷すると、中国にとって重要な貿易相手は東南アジアとインドになりました。そこへヨーロッパ勢力が重要な貿易相手として相対的な地位を高めてきたのですが、なかでもイギリスは、インドを次第に植民地化していったこともあり、中国にとって重要な貿易相手となっていきました。英中貿易は、当初イギリスの赤字で、18世紀後半にイギリスが茶の輸入税率を引き下げると、中国からイギリスへの茶の輸出はさらに増え、イギリスから中国へ大量の銀が流入しました。その結果、前代から好況の続いていた中国は、18世紀後半に未曽有の好況を迎えます。この間に、好況を背景に中国の人口も大きく増加しました。しかし、この人口増大は、中国に労賃の低下・貧富の差の拡大をもたらしました。

 貧富の差が拡大したとはいっても、事業への投資・資本の蓄積は進みませんでした。これは、政権が民間の経済活動への介入に消極的という中国伝統経済の特徴故に、広域的・統一的な金融や市場の管理ができず、限定された地域的な信用関係でしか貸借ができないためでした。その根本にあるのが、これまでにも述べてきた、官と民との乖離という二元的な社会構成に基づく中国伝統経済の在り様でした。この伝統経済の在り様を前提として、中国社会は近代化を迎えることになります。


 中国近代史はアヘン戦争に始まる、という見解が現代日本でも現代中国でもほぼ常識になっているようですが、本書の見解は異なります。本書では、アヘン戦争後にイギリスの綿布が中国市場での競争に敗れたことからも、アヘン戦争後しばらく、中国伝統経済が根本的には変わらなかったことが強調されます。それは、労賃の低い貧民の自給的な経済活動に支えられた、中国伝統経済の強靭な一面でもありました。

 また、いわゆる買辦はアヘン戦争前に起源があることも指摘され、それは大規模な資本の蓄積が難しいという中国伝統経済の特徴に起因するものでした。取引量が増大すると、小資本の華人商人では対応が困難になります。そこで、大資本の外国商社が、自身では中国内地への進出が難しいという事情もあって、華人商人に資金を貸し付けて売買を委託したのでした。

 もちろん、アヘン戦争により中国伝統経済が変容した面もあり、それが後に新たな変化へと結びついてきます。アヘン戦争による中国経済の変化として本書が指摘するのは、外国貿易とそれにともなう内治流通の量的増加です。その結果、中国経済の中核は蘇州から上海へ、大動脈は大運河・河川水系から沿海・長江へと変わります。

 こうした対外貿易は当時、中国経済に占める割合はさほど高くありませんでしたが、増大分が密貿易・脱税へと流れたため、中央政権としても対策を取らざるを得なくなります。しかし、中間団体の統制もままならない中央政権にとって、外国人社会の取り締まりは手に余る問題で、けっきょくは外国官憲に取り締まりを委ねることになります。

 後世の中国人愛国者はこの点を強く非難しますが、当時の文脈に沿って考えると、居留外国人社会も中間団体の一種という認識の方が客観的事実に近いのかもしれない、と本書では指摘されています。治外法権や租界といった不平等条約にしても、外国貿易の密輸・脱税を取り締まる海関が外国人の手に委ねられたのも、中国の社会経済構造の必要に応じたものだった、というわけです。

 「内治」の方では、アヘン戦争後、秘密結社も含めて武装する中間団体を官僚が義勇軍として組織し、そうした官僚が総督・巡撫という地方高官として財政・軍事で大きな権限を握る、という体制が築かれつつありました。こうした組織が後の軍閥の起源となります。こうした組織の財源は、密輸や闇商売といった非合法な経済行為にも手を染めていた中間団体からの上納金に依拠していました。合法と認める代わりに金を出せというわけです。

 こうした組織の出現は、地方割拠ということでもあり、中国は統一されていなければならない、との観念からすると批判の対象になります。しかし、武装中間団体が林立し、そもそも中央政権が社会の基層を把握していなかった中国伝統社会においては、地方官に大権を認めて統治させるという手法はそれなりに合理的でした。

 上述したように、アヘン戦争後もしばらく、中国伝統経済の基本的な構造は変わりませんでした。しかし、1880年代以降、中国の貿易は量的だけではなく質的にも変化していき、それが中国の近代化へとつながっていきます。1880年代以降の中国の輸出量の急増は、欧米の金本位制の採用による銀の対金比価の下落と、欧米諸国における産業革命のさらなる進展という事情がありました。ただ、その内容を見ると、茶や生糸といった高度な製造技術を要する奢侈品から、工業の原材料へと輸出の中心が移っており、一般的な通念で言えば、中国経済は先進国型から後進国型へと変化したことになります。

 こうした対外貿易の増加は、開港場とその周辺から成る中国の各地域が、その外向きという伝統的性格もあって、経済的に「国内」の他地域よりも日本・ヨーロッパ・アメリカといった「国外」の地域と強く結びつくようになったためで、独立した経済圏が並立するようになりました。また、銀建て価格のインド綿糸が、銀の対金比価の下落にともない中国市場を席巻したのも、この時期の大きな変化でした。これが、アジアの産業構造変動の始まりとなります。

 「国内」における独立した経済圏の並立・地方官の権限の拡大といった変容は、国民統合という観点からは逆行しており、欧米の近代国民国家と接してきた中央政権たる清朝首脳部にも危機感を与えました。外国人の管理した海関の作成した貿易統計の示した輸入超過にたいして、清朝は保護関税の導入と近代産業の振興を企図しました。また、富国強兵も目指したいわゆる洋務運動も行われました。

 しかし、これは旧体制を抜本的に改めることを志向したものではなく、地方の高官に大権を与えて秩序を維持するという統治方式の一環として行なわれたため、成功したとは言い難い結果に終わりました。軍備増強も殖産興業も総督・巡撫の主導で行なわれ、中国全体を単位とした総合的な改革ではありませんでした。また、殖産興業にしても、中国の多数を占める貧農の動向を把握しきれず、当初は成果を上げられませんでした。これは、士と庶の疎遠という中国伝統社会の構造に起因しているのではないか、というのが本書の見解です。さらに、上述した大資本化の難しいという中国伝統経済の特徴も、殖産興業の妨げとなりました。

 対外貿易の増加は、中国の財政規模の拡大をもたらしました。この時期においても中央政権には「国庫」が存在しませんでしたが、海関にて外国人の管理した関税は、地方官の裁量に任されている徴税とは異なり、外部からも計算可能な信頼できる財源となりました。このため開港場のある現地役人は、この関税収入を担保に外国の商社・銀行から資金の借り入れが可能になりました。社会に対して収奪者・債権者としてしか振る舞えなかったこれまでの政権の在り様からすると、大きな転換です。また、諸外国は自らの常識から関税を「国庫」と誤解し、これが中国において中央政府財政を創出し、財政制度を変容させる契機となりました。


 中国史の大きな転機となったのが日清戦争でした。日清戦争以降、短期間のうちに中国への外圧が強まり、亡国を救うということが最大公約数的な政治目標となります。その結果、旧体制に問題があるという認識から、欧米列強や日本に倣って近代国民国家・国民経済を形成しよう、という動きがつよくなります。1905年の科挙の廃止はその象徴で、立憲・革命という概念が普遍的になり、経済政策も対症療法から積極的な構造改革が志向されました。

 日清戦争の結果、清朝は莫大な賠償金を日本に支払うことになり、戦費と合わせて列強から資金を調達しました。列強は、関税などが中央政府の財源だと相変わらず誤解していましたが、この時期の中国にはまだ国庫がありません。そこで中央政府は、総督・巡撫ら地方高官の徴収した税を中央に取り上げます。こうして地方の中央政府への不満が高まります。さらに、各地方経済が並立して「外国」経済と結びついている状況が、地方の自立を促すことになりました。

 こうして、軍閥が割拠する情勢となります。軍閥の指導者層の多くは士であり、つまり知識人です。知識人たちは、国民統合と逆行する軍閥割拠を嘆きますが、じっさいの行動は、郷紳として経済的につながりの深い在地勢力を支持していました。こうした情勢のなか、1912年に清朝は滅亡しました。清朝滅亡後、袁世凱が北京で「中央政権」を樹立します。袁世凱政権はその強大な軍事力で地方勢力たる軍閥の軍隊を破って財源を奪っていき、列強からの大規模な借款を可能にしました。

 袁世凱政権は、地方軍閥の反感を買ったことと、袁世凱の早期の死もあり、中国の統合は達成できませんでした。しかし、中央銀行と統一貨幣は袁世凱政権の遺産となりました。当時の中国は、伝統経済の枠組みがまだ強く残っており、各軍閥が独自に通貨を発行していました。しかし、袁世凱政権の残した中央銀行券は、後に広く通用するようになりました。

 これは、1914年の第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ列強が金本位制を維持できなくなったことが要因でした。金本位制の崩壊により銀貨が急騰し、外債の一部が内債に転化し、その内債で中央政府を運営できるようになりました。袁世凱政権は中央財政の対内化を創始し、これは1930年代の南京国民政府にいたるまでの趨勢となりました。また、中央銀行は内債の主たる引き受け手になり、それを発券準備として銀行券の発行量を増やしていき、通用範囲を広げていきました。

 この中央銀行券を引き受けたのは、日本と同じく第一次世界大戦による好景気に沸いた中国経済界でした。この間に、産業の対内化・民族資本の参入が進みます。その結果、外国とより結びついて自立していた各経済圏が、再び国内での結びつきを強めていきます。こうした中国経済の活況と国民経済統合の動きが強く見られた期間は、「黄金時期」と呼ばれています。

 もっとも、第一次世界大戦が集結してヨーロッパ列強が相次いで金本位制に復帰すると、「黄金時期」も終わります。「黄金時期」に工業化の進展した中国経済にとって、復興したヨーロッパの産業との厳しい競争という現実が立ちはだかります。そこで中国社会の広範な要求となったのが、外国にたいする関税率引き上げで、そのために強力な中央政権が要求されました。

 この要求によく応えようとしたのが、元は広東周辺の一軍閥だった国民党でした。国民党政権は上海経済界と提携して中央財政を握り、列強から関税自主権を回復しました。国民党政府は関税収入を増やし、それをもって上海の商工業を積極的に保護し、地方間分業の紐帯を強化するという、中国史上はじめて真にその名に値する経済政策を実施しました。

 国民党政府は通貨政策の面では、1935年の幣制改革により銀を国有化して一元的に管理する紙幣を発行し、地方銀行に流通を図らせる一方、兌換準備の監督を厳にし、英ポンド・米ドルとの間で定めた相場を安定させました。こうして国民党政府は世界恐慌で落ち込んだ景気を一旦は立て直すことに成功しました。しかし、国民党政府の国民経済建設という目標は、1937年に勃発した日中戦争により達成できませんでした。

 ただ本書は、国民党政府が主観的には国民経済の統一を目指していたものの、けっきょくは旧体制的だったとして、その革命性には否定的な評価を下しています。中国伝統経済では組織できなかった株式会社は、日中戦争や国共内戦があったにしても、国民党が共産党に敗北した1949年の時点でも、全国の企業約130万社のうち会社組織を採用したのは約1万にすぎず、そのうちの99%は法人格を有しない個人企業か合股制の企業でした。この膨大な零細企業が、絶えず競争不沈を繰り広げるとともに、大企業の経営をも脅かし、革新的な動きを阻んでいました。

 伝統経済は牢乎として存続しており、国民党政府は上海とその経済圏に立脚した政権であって、その他の地方へは権力が浸透しておらず、別の政権が生まれる余地がありました。地方軍閥を一掃できなかったのも、日本との対立が解けなかったのも、共産党との対立が収まらなかったのも、そこに原因がある、というのが本書の見解です。

 中国史上初の本格的な経済政策にしても、自らの地盤に及ぶ国内外の需要を管理しようとしたにすぎず、伝統経済の枠組み自体を変えようとするものではありませんでした。発行した紙幣にしても、国民党政府にたいする信頼ではなく、外貨との兌換性で支えられていました。その信頼性を保つには、兌換性を保持しなければならず、規律ある財政運営が欠かせません。国共内戦期のインフレでそれが破綻したとき、国民党政府は崩壊の運命を免れませんでした。

 またも国民党政府は旧来の中間団体にも手をつけず、かえって連携を深めました。これは、官と民、士と庶が乖離すると言う、二元的な旧来の社会構成のままだったことを意味します。科挙は廃止されましたが、特権エリート層の選抜は留学制度が、知識体系は西洋の学問が、教義は民族主義が代替しただけで、階層構成の原理は変わりませんでした。

 これらは、権力が基層社会にまで浸透していないことを意味します。とくに農村の掌握は困難でした。国民党政府に土地問題解決の意欲がなかったわけではありませんが、地主の牛耳る中間団体を温存した社会構成を改めることなしに、じゅうぶんな成果をあげること無理でした。国民党が共産党に敗北した1949年の時点で、中国の人口の90%近くは農村におり、GDPでも第一次産業の比率は50%を超えていました。


 この牢乎として存続する中国伝統社会を大きく変えたのが、共産党政権の中華人民共和国でした。国共内戦に勝利した共産党政権は、中国における軍事力・政治権力の一元化に成功します。共産党政権の歴史的な意義は、土地革命と管理通貨の実現だというのが本書の見解です。土地革命により、貧富の格差の解消と基層社会への権力の浸透が企図されました。これにより、政府権力が在地社会に根づくことになりました。

 管理通貨の実現は、冷戦下で西側との経済関係がきわめて希薄となったことが、その背景としてありました。通貨の統一には強力な経済統制が必要であり、世界経済の影響から独自である必要がありました。これは、共産党政権が当初から意図していたことではなかったかもしれませんが、ともかく、経済的な孤立のなかで、共産党政権は強力な金融管理体制と通貨統一を実現しました。

 この土地改革と通貨管理により、中国伝統経済の枠組みは大きく変わり、統合的な国民経済の枠組みが生まれました。本書は、ここに革命的な意義があると強調します。もっとも本書は、こうした中国経済の一体化が中国人にとって幸福だったとは限らない、と指摘します。有名な大躍進による多数の餓死者と、対外貿易から得られるはずだった先進技術や外国資本を失うことにより経済の活力が衰えたことを指摘する本書は、毛沢東の統治に弁護の余地はない、と毛沢東政権にたいして厳しい評価を下しています。

 毛沢東の死後、中国では改革開放政策が始まりますが、その結果として貧富の差が拡大し、それは内陸と沿海という地域的関係においても顕著となります。現代中国の矛盾は、中国の一体化と経済発展を両立させねばならないところにあります。歴史的には、前者をとって後者を犠牲にしたのが明初でした。その後の中国は、この明初の志向を否定し、伝統経済が形成されました。改革開放政策下の中国では、再び伝統経済の特徴が見られるようになりました。

 本書は随処で、現代中国に見られる伝統経済社会の特徴に言及しています。現代日本と比較しての現代中国の財政の特徴は、ごく一握りの大企業や富裕層が大口の納税者になっていることです。これは、基層社会まで把握しておらず、中間団体を通じて社会を把握していた、伝統社会と通ずるところがあります。貧富の差の拡大が人口階層だけではなく地域間(内陸部と沿海部)とで見られることも、伝統社会と共通します。

 政権が社会を直接管理しようとすると、扇動的・強権的・暴力的にならざるを得ない、という伝統社会の特徴は、現代の共産党政権の支配形態にまで及んでいるのではないか、とも指摘されています。その他にも、現代中国において、政府予算で軍事費の比重が高く福祉が軽視されていることや(それでも近年は以前よりも重視されるようにはなりましたが)、都市戸籍と農村戸籍との区分や、官僚の甚だしい汚職が見られることなどが、伝統社会と通ずる、とも指摘されています。

 支配層の生産軽視という伝統経済の特徴は、現代中国において著作権の尊重への関心が薄いことや、ブランドが生まれにくいことと通ずるのではないか、というのが本書の見通しです。現代中国において「地下経済」が存在し、それが往々にして権力と衝突するのも、秘密結社が非合法な経済活動を行なっていた伝統経済と通ずるのかもしれない、と本書では指摘されています。また、外資に依存するところの多い現代中国経済は、外向きで「外国」との貿易にその景気を大きく左右された伝統経済と通ずるものがあるのかもしれません。

 本書は、こうした共通点をもって、現代中国と伝統経済とを同一視することはできない、と読者に注意を喚起しています。しかし一方で、これらの共通点は単なる表層的な類似現象ではなく、構造的な連続であるとの見解を提示しています。しかしながら、具体的に何がどのように連続しているのか、不明な点の多いことも本書は認めています。私も、とくに共産党政権下での中間団体の動向・消長が気になります。これは今後の研究課題ということなのでしょう。


 以上で、本書の興味深い見解についての列挙を終わります。簡潔にまとめられず、やたらと長くなってしまい、繰り返しが多くてくどくなった感は否めません。また、私の誤解や不適切な表現もありそうですが、決定的に間違った理解はしていないだろう、と思います。以下、本誌を読んだうえでの私なりの理解と雑感を簡潔に述べていきます。

 中国(ここでは本書の用法に従います)の広大な領域と膨大な人口を考えると、前近代の情報収集能力では、単一の政治権力が支配を貫徹するのは難しかったのだろうな、との素朴な感想に至ります。もっとも、ある王朝を「単一の政治権力」と把握するのが妥当なのかという問題も残りますが、統治の実態はさておき、当事者たちの主観において多分に建前であるとしても、単一の国家というか政治権力に帰属しているという認識があれば、ひとまずそれを認めてもよいのではないか、とも思います。

 士と庶および官と民それぞれの乖離という、中国の伝統社会における二元構造との本書の指摘については、そうした側面があることは否定できないだろう、と思います。本書では官と民をつなぐ存在として中間団体が想定されていますが、胥吏についての詳しい言及があってもよかったのではないか、とも思います。中国の汚職という問題も、胥吏を抜きにしては考えられないのではないか、と思います。

 広大な領域・膨大な人口・社会の二元化という特徴を有する中国伝統社会において、権力の支配が基層社会にまで浸透しにくいことから、資本の蓄積と株式会社の成立・金融業務の排他的な専門化が起きにくかったのは、仕方のないところだろう、とは思います。本書を読むと、中国社会における信用の対象範囲が狭いとの印象を受けるのですが、広大な領域・膨大な人口を考慮すると、実は他地域と比較してさほど狭いとは言えないのではないか、とも思います。まあ、素人の思いつきにすぎませんが。

 ともかく、中国を一つの単位として考えた場合、中国伝統社会はヨーロッパの作り上げた近代社会に適合的ではなかったのだな、とは思います。もっとも、これはヨーロッパや北アメリカ大陸や日本と比較しての話で、世界の他の地域のなかには、中国伝統社会以上にヨーロッパ的近代社会に適合的ではない伝統社会も多数あることでしょう。

 広大な領域・膨大な人口という特徴を考慮すると、近代における中国社会の「後進性」という問題は、結局のところその巨大さに起因するのではないか、とも思います。つまり、中国は一つという観念を捨てて、複数の地域に分裂していれば、そのうちのいくつかは史実の中国よりも容易にヨーロッパ的な近代化を達成できていたのではないか、というわけです。

 しかし一方で、近年の中国の経済的発展が、とくに外資の導入を中心に、そのスケールメリットに由来するところが大きいのも否定できません。この視点では、やはり中国は大きい方がよい、ということになります。覇権主義路線を進めるうえでの軍事力の増強という観点からも、中国の一体化・大中国の存続が望ましいということになります。現代中国が今後、どのように国内の統合と経済発展を両立させつつ、覇権主義路線を強めていくのか、あるいは国内の矛盾が噴出してそうした路線が破綻するのか、私の見識では的確な予想は無理ですが、なにしろ日本人にとってはとても他人事ではないので、徹底した研究が必要なのでしょう。また、現代に限らず、本書のように中国伝統社会についての研究も必要になるのでしょう。

 その意味でも、中国伝統社会と現代中国との類似という本書の見解は興味深く、今後の研究の進展が期待されます。本書は、士と庶という階層の区分・概念は共産党政権下で消滅したと主張しますが(素人の思いつきですが、反右派闘争や文革も士と庶の区分の消滅に大きな影響を与え、それには毛沢東の欧米に対する劣等感が大きく影響していたように思います)、本書の指摘する伝統社会の特徴たる官と民の乖離の方は、共産党政権下でも消滅しなかったばかりか、近年になってさらに深まっているのではないか、と思います。現代中国社会と伝統社会とに類似性が見られるとしたら、ここに根本的要因があるように思います。


 簡潔にと言いつつさらに長くなってしまったので、いい加減にこれで終わらせることにします。

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