『週刊新発見!日本の歴史』第17号「平安時代5 院政期を彩った人々」

 この第17号は後三条天皇の即位から鳥羽院政期までを対象としており、院政が確立していく過程とその時代の様相を扱っています。院政の確立ということで、王権の変容が主題となるのは当然のことなのですが、この時代の仏教の変容についてもかなりの分量が割かれているのがこの第17号の特徴であり、いわゆる鎌倉新仏教への展望にも言及されています。

 院政と摂関政治との違いを強調する見解が通俗的には根強いでしょうが、この第17号は、権力の所在という観点では両者に違いがあるとしつつも、むしろ摂関政治と院政との政治の在り様の共通性・連続性を強調しています。具体的には、天皇と上皇など複数の権力構造が補完的に一つの王権を構成している院政の源流として、藤原道長の晩年における権勢者としての振る舞いがあるのではないか、というわけです。

 道長は官職を辞した後、法成寺の造営にあたって中級・下級貴族のみならず公卿にも負担を命じ、貴族たちはそれを受け入れました。また、法成寺の仏壇の造営にあたって、貴族・僧侶・「雑人雑女」が土を運び築き固めました。道長は仏への結縁を名目として僧侶・貴族を家来のごとく扱いました。ここに、国家鎮護を祈る、天皇とは異なる新たな権力が出現し、それが国政上に制度化されたのが院政である、というのがこの第17号の見通しです。

 ただこの第17号は、院政が白河上皇の思惑通りに順調に進んだのではなく、試行錯誤しつつ確立していったことも指摘しています。白河天皇が息子の堀河天皇に譲位して上皇となった時点で、堀河天皇はまだ8歳であり、当然のことながら政治的実権は白河院が握ります。白河院は、院近臣を天皇・関白に派遣して自らの意思を伝える「口入」という方法で政治的影響力を行使します。ところが、成長した堀河天皇は関白の藤原師通の協力により白河院の政治介入を阻止し、政治的実権を掌握します。

 しかし、その堀河天皇も若くして崩御し、その子(白河院にとっては孫)の鳥羽天皇が5歳で即位したことにより、白河院は再度政治的実権を掌握します。白河院は摂政の藤原忠実との交渉により政治を進め、鳥羽天皇が成長して忠実が関白となった後も同様でした。この第17号では触れられていませんが、忠実の父の師通が若くして亡くなり、忠実の摂関故実の継承が不充分だったことと、それとも関連して、忠実の摂関就任が一時は危ぶまれたことなどにより、忠実は白河院に政治的に従属する立場に置かれたのだろう、と思います。

 白河院は元永年間(1118~1120年)以降、除目において任官予定者を記した「任人折紙」を作成して除目の責任者に渡し、それが白河院政の晩年には不可欠な書類となりました。こうして、白河院は人事権を掌握します。また、政務の決定に際して関白の内覧が省略され、蔵人弁が上皇に直接上奏する事例が増加し、定着していきます。白河院は、摂関との個人的な関係に依拠せず、新たな制度を構築することで政治的実権を掌握していきました。また、堀河天皇の時の教訓から、白河院は若い鳥羽天皇に譲位を命じ、幼少の天皇(崇徳天皇)を即位させることで、引き続き政治的実権を掌握しました。こうして白河院の晩年には院政が確立していきました。

 院政期の特徴として、仏事の遂行が増加したことが挙げられます。寺院の建立・造営過程での人的編成・鎮護国家の祈祷などは、それ自体が新たな権力を生み出し、その正統性を社会に認知させる政治であり、それは貴族社会のみならず「万民」を視野に入れるものでした。寺院の造営の財源として、成功という院と受領との私的主従関係で完結するものだけではなく、各国の荘園・公領にたいして一律に課税された一国平均役も充てられました。一国平均役は「新御願壇築役」などの名目で徴収されるため、負担する民衆には都での寺院造営事業が強く印象づけられました。受領をはじめとして、京と地方を往復する人々は、こうした寺院など京の景観・文化を地方に伝えるとともに、地方から京へとさまざまなものをもたらす役割も果たしました。

 このようにして院政期に寺院建立や仏事の増加など中央権力とより緊密に結びついたことにより既成の寺院勢力が腐敗・堕落し、荘園領主として民衆を搾取したので、それに代わっていわゆる鎌倉新仏教が出現した、という通俗的な見解に、この第17号は疑問を呈しています。まず、王権護持・国家鎮護と民衆の救済とはけっして対立・矛盾するものではなく、両者が一体として機能していたことから、国家仏教と民衆仏教との対立という図式の根本的見直しが提示されています。

 この第17号は次に、10世紀末頃より、日本の仏教界において妻帯など戒律の弛緩が見られることを指摘しています。また、皇族・貴族の子弟の入寺により、本来は無縁だったはずの世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれたことも指摘します。こうして戒律は軽視されていき、戒律・修行・教学の三学一致が基本のはずの僧侶にあって、そのうちの一要素だけ、とくに教学が強調されるようになります。しかし一方で、それを本来あるべき姿の三学一致に戻そうという動きも生じ、遁世した聖もその一例です。両者の間の振幅が大きかったのが、平安時代後期・鎌倉時代初期の仏教の特徴となっています。

 この第17号は、破戒や学の重視など極端な方向へ大きく振れたのが院政期も含む平安時代後期の特徴であり、各僧侶が自らを見つめ直し、仏教とは何かを深く問いかける契機となり、仏教が最も生き生きとした時代だった、と指摘しています。さらに、こうした環境下で成長した法然や親鸞の、諸行の価値を否定する専修念仏や、妻帯を公言して「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば救われる、という教えもまた極端である、と指摘します。いわゆる鎌倉新仏教の代表的人物である法然も親鸞も、平安時代後期以降の仏教思潮から生まれた、というわけです。一方、「旧仏教」たる興福寺の立場から、三学一致より大きく外れているとして法然を批判した貞慶もまた、平安時代後期以降の仏教思潮の一方の極に位置していた、ということになります。

 白河院~鳥羽院にかけての院政確立・展開期は、現代日本社会では不人気な時代のように思われます。近年ではこの時代を中世の始まりと位置づける見解が主流になっているようで、注目すべき時代ではあるのですが、有名な戦乱がその最初期の後三年の役くらいしかなく、面白い国民的物語が広く共有されていないことが原因でしょうか。この第17号は全体的になかなか充実した構成になっていると思いますが、正直なところ、この時代の予備知識がある程度ないと面白くはないかな、とも思います。私が普段購入している書店ではますます入荷数が少なくなっている感があり、この第17号も残念ながら売上は苦戦しそうですから、そのうち予約しないと入荷されなくなるのではないか、と懸念しています。

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