廣瀬憲雄『古代日本外交史』

 まだ日付は変わっていないのですが、4月21日分の記事として2本掲載しておきます(その二)。講談社選書メチエの一冊として、講談社より2014年2月に刊行されました。本書はまず、古代日本外交の研究の学説史を整理します。冊封体制論は中華王朝と周辺王朝との君臣関係から導き出されたことに起因する問題点を抱えている、と本書は認識しています。そこで本書は、近年の日本史・東洋史の研究動向を踏まえ、中華王朝と周辺王朝の君臣関係に限定されない「国際関係」史を検証・考察します。

 また、本書で検証・考察の舞台となるのは、冊封体制論(やそこから発展した東アジア世界論)で想定される東アジアではなく、もっと広範なパミール高原以東の東部ユーラシアという地域概念が設定されています。本書がこうした視点を打ち出すのは、中華王朝が周辺王朝をしたがえて確たる中心勢力として君臨するのは、せいぜい唐の全盛期と言える630~682年頃(東突厥の崩壊~突厥第二帝国の成立まで)の50年程度である、との認識が根底にあるからです。本書は、唐の全盛期は例外的事態であり、ユーラシア規模の帝国が出現した、後のモンゴル帝国期と並ぶ特異な時期だった、との認識を提示しています。

 本書の提示する東部ユーラシアの「国際関係」の構図は、中華王朝と北方・西方の遊牧王朝という複数の大帝国があり、その周辺に日本(倭)も含めた小帝国としての諸勢力が並置する、というものです。本書は、冊封体制論やそこから発展した東アジア世界論では軽視されていた、中華王朝の周辺勢力の主体性・自律性に着目します。本書はこの視点のもと、まずこの構図に最も適合的な唐の滅亡後からモンゴルが台頭する前までの時代を、次に4世紀にさかのぼり、東部ユーラシア史を考察していきます。

 本書は唐の滅亡直前からモンゴルが台頭する前までの時代を第二次南北朝時代と位置づけています。本書が東部ユーラシアにおける画期と位置づけるのは、905年にキタイ帝国(契丹)と晋(後唐)が雲中の盟を締結したことです。雲中の盟は澶淵の盟にまで継承される南北関係の原型を定めた、というのが本書の見解です。本書は第二次南北朝時代を広義の致書文書の時代と位置づけ、この時代には致書文書は必ずしも対等関係を意味せず、微妙な表現の使用により、上下関係が表されることもあった、と指摘します。

 上位勢力が設定した「国際秩序」が、下位勢力の外交儀礼では何らかの形で相対化され、完全には貫徹しないことが多くあったように、第二次南北朝時代には複数の「国際秩序」が併存していました。この第二次南北朝時代には、日本とユーラシア大陸東部との経済・文化的関係は密接になる一方で、日本と中華王朝との政治的関係は疎遠になります。

 本書はこれを、日本の「退嬰的風潮」や「鎖国的孤立方針」ではなく、全盛期の唐のような圧倒的大勢力が存在しない「国際環境」を利用し、中華王朝を中心とする「国際秩序」から離脱するという、平安中後期における日本の外交政策として評価すべきだろう、との見解を提示しています。第二次南北朝時代は、中心・周辺間の上下関係の縮小という流れが特徴でした。

 この第二次南北朝時代に、日本から少なからぬ僧侶が宋(北宋・南宋)へと渡っています。北宋が日本から渡来した僧侶を厚遇することもありました。本書はこれを、北宋が日本に朝貢を促すためだった、と理解しています。そのため、朝貢を避けたい日本は、僧侶の渡海を制限するようになります。ところが、南宋は日本から入国してきた僧を利用して朝貢を要求することはなかったので、日本から南宋へは多くの僧侶が渡りました。

 本書はこの後、第一次南北朝時代に戻って東部ユーラシア史を考察していきます。第一次南北朝時代とは北魏およびその後継諸王朝(東魏・西魏・北斉・北周)と南朝とが対峙していた時代です。本書は、第一次南北朝時代と第二次南北朝時代との重要な違いとして、盟約による合意の図られていないことを指摘しています。そのため、南北朝双方の独善的な国際秩序がそのまま維持されました。第一次南北朝時代にも複数の「国際秩序」が併存していました。また、近年提言されている「仏教外交」から推測されるのは、当時の東部ユーラシアには複数の「種類」の「国際秩序」も併存しており、中華王朝の「国際秩序」を模倣したものだけではなかったことだ、とも本書は指摘しています。

 第一次南北朝時代に倭が南朝に朝貢したのは朝鮮半島情勢が原因であり、国内的要因に基づくものではなかった、との見解を本書は提示しています。そのため、倭王の配下に授与された、倭王との差がほとんどない官位は、通説で推測されているような倭王の権力基盤の弱さを示しているのではなく、朝鮮半島における倭の軍事的な優越性を示すという評価が可能となる、というのが本書の見通しです。

 この認識を前提として、第一次南北朝時代において倭と南朝の通交が途絶えたのは、百済が滅亡し復興した後、百済・新羅同盟が成立し、倭が反高句麗同盟の盟主たり得なくなったからだ、と本書は指摘します。倭と南朝との通交の背景には高句麗との対立があったので、百済・新羅同盟が成立し倭と高句麗の直接的な対立関係が解消したら、倭が南朝と通交する必要もなくなった、というわけです。百済・新羅同盟の成立により倭と加耶諸国との関係も弱まり、加耶諸国から先進技術を得ていた倭は、百済の加耶諸国への南進を認める代わりに、百済から先進技術を得ることになった、との見通しを本書は提示しています。

 第一次南北朝時代を経て、中華地域には隋と唐という巨大な王朝が成立します。この時期も、唐が周囲の諸勢力を圧倒する超越した帝国として君臨し得た期間は長くなく、複数の大勢力が併存することは珍しくありませんでした。倭と隋との関係について、本書は興味深い見解を提示しています。裴世清を迎えた倭の外交儀礼は『大唐開元礼』の儀礼手順とほぼ一致していますが、『日本書紀』によると倭は隋に臣下の礼を示していません。これは隋使を迎えた赤土国も同様で、倭も赤土国も隋にとっては「絶域」でした。なお、ここでの「絶域」とは中華王朝から冊封を受けず歳貢も課されないという意味ではなく、単純に「政治的利害関係に乏しい遠方」を意味しています。中華王朝たる隋の国際秩序は、「絶域」の倭や赤土国では貫徹しておらず、それよりも朝貢関係を安定的に継続させることが重視されていた、というのが本書の見解です。

 倭(日本)における律令制の導入についても、本書は興味深い見解を提示しています。この問題については、隋・唐という巨大な王朝の成立による軍事的圧力が、倭(日本)における律令制の導入を促進した、という理解が一般的のように思います。しかし本書は、倭(日本)における律令制の導入は唐の影響力が後退するなかで進み、対外的な緊張の有無とは直結しない、との見解を提示しています。本書は、律令国家日本と統一新羅は、唐の全盛期の終焉過程の中から誕生した一連の「小帝国」なのかもしれない、との興味深い見解を提示しています。

 複数の国際秩序を想定する東部ユーラシアという枠組みでは、倭(日本)独自の国際秩序は、それが倭(日本)国内の支配秩序の延長として設定されている限り、中華王朝が設定した国際秩序と本質的には同等であり、倭(日本)自体も(ふさわしい領土的広がりを持つか否かは別として)十全たる帝国として考えなければいけない、と本書は指摘しています。

 律令制導入後の日本の外交に関する本書の見解も興味深いものです。律令制成立後の日本は、中華王朝の外交儀礼を取り入れつつも、大化前代からの仕奉観念を継続させる独自の外交秩序を築き、新羅・渤海と通交した、というわけです。しかし本書によると、こうした仕奉観念は8世紀を通じて衰退していきます。天皇との関係を、自らの始祖と天皇の祖先との関係を起点とする伝統的なものと捉えていた貴族の意識は9世紀には次第に消滅していき、天皇個人と貴族個人という個人的な関係が前面に出るようになる、との見解(関連記事)と通じているようです。また、8世紀には唐の最新の外交文書形式を取り入れるのに積極的だった日本において、840年以降は外交文書の形式が変化しなくなることを本書は指摘しています。これは、日本貴族層の大陸文物に対する関心が支配の手段から文化へと移行したためなのかもしれない、というのが本書の見通しです。

 この840年頃を、東部ユーラシアの枠組みが大きく変わった時期として、本書は重視しています。唐とならぶ東部ユーラシアにおける強大な勢力だったウイグルとトゥプト(吐蕃)が相次いで崩壊し、東部ユーラシアの北部・西部地域では強大な勢力が不在となります。この巨大勢力空白の時期を経て、沙陀勢力とキタイ帝国(契丹)が勃興し、東部ユーラシアは第二次南北朝時代を迎えることになります。本書の主題は私の昔からの関心と合致するところが多く、たいへん興味深く読み進められ、東部ユーラシアという枠組みの設定など、肯けるところも多々ありました。こうした素晴らしい本を読むのも人生の重要な楽しみになるのだと思います。

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