渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』

 これは10月27日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2016年10月に刊行されました。この十数年間、戦国時代~江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は一般向け書籍ということで、一般層が戦国時代でとくに関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているように思います。価格も手ごろで、私のような一般層もわりと気軽に購入できそうなのはありがたいことです。この記事では、年代は西暦で統一します(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)。以下、各論考について簡潔に備忘録的に述べていきます。



●長屋隆幸「本当の鉄砲伝来はいつだったのか」P11~25(第1章)
 日本への鉄砲の伝来について、いくつかの論点とその研究史が解説されています。通説では、1543年に種子島にポルトガル人が来航したことで日本に初めて鉄砲がもたらされ、種子島から日本各地に鉄砲が広まった、とされます。しかし、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性や、ポルトガル人が種子島に来航したのは1543年なのか、種子島から日本各地に鉄砲が広まったのか、といった問題が今では議論されているようです。本論考は、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性を認めつつも、それは伝播(商品として伝わること)であって伝来(製造技術まで伝わって定着すること)ではなかっただろう、と指摘しています。また、種子島への鉄砲の伝来は1542~1544年の間のことで、倭寇を通じて同時期に西日本各地にも鉄砲が伝わり製造されるようになったものの、鉄砲の普及に関して種子島の影響力は小さくなかったかもしれない、とも指摘されています。


●千葉篤志「川中島の戦いは何回行われたのか」P26~43(第2章)
 有名なわりに不明なところも少なくない川中島の戦いについて、同時代の意義のみならず、近世・近代にどのように語られたのか、という点も解説されています。川中島の戦いは、5回それぞれ異なる目的・場所の戦いだったようですが、近世になって確立した広域的な「川中島」という地域概念により、5回に及ぶ「川中島の戦い」という認識が成立していったようです。広域的な地域概念としての川中島は交通の要衝だったので、戦国時代に限らず、平安時代・鎌倉時代・室町時代と重要な合戦がありました。5回に及ぶ川中島の戦いについて、上杉(長尾)方が攻め込むことが多いので、戦闘では上杉方の勝ちかもしれないが、領土争奪という観点では武田方の勝ちだろう、と評価されています。ただ、川中島の戦いの結果により武田方も上杉方も権力が崩壊するような事態には陥らなかった、ということも指摘されています。


●古野貢「信長の「天下」は日本全国を指すのか」P44~58(第3章)
 織田信長は1567年、「天下布武」の朱印を捺した書状を用い始めます。これは、信長がまだ一地方大名だった頃から、「全国統一」が視野に入っていたことを示すものであり、信長の革新性の根拠の一つともされていました。しかし本論考は、「天下」の意味するところは時代により変容していったのであり、信長の頃はおおむね畿内に限定されていた、と指摘します。「天下」は室町幕府将軍を指すこともあり、幕府の統治が安定していた室町時代前期には全国を意味していましたが、嘉吉の変や応仁の乱などにより幕府の求心力の低下したことで、幕府が一定の領域支配権を行使できる畿内に限定されていったのではないか、との見通しが提示されています。


●中脇聖「明智光秀の出自は土岐氏なのか」P59~75(第4章)
 明智光秀の出自は美濃の守護である土岐の支流の明智だった、という通俗的認識は根強いと思います。そこから、光秀は清和源氏としての高い誇りを持ち、平氏である織田信長の征夷大将軍就任を阻止するために信長を討った、という俗説を見かけたこともあります。本論考は、光秀の出自が明智なのか定かではないものの、明智と名乗っていたことが当時の人々に共通認識として定着していた、と指摘します。その契機として本論考は、光秀が(細川藤孝の推挙で?)足利義昭に近侍するようになったさい、幕府奉公衆たる明智を名乗ることが許されたからではないか、と推測しています。また本論考では、光秀は1575年に惟任姓を授与されてから、惟任を本姓のような名字として自身の勢力圏の家格秩序の頂点に位置づけるとともに、「明智」名字を国衆や土豪に授与したことが紹介されており、これが豊臣秀吉による大名への「羽柴」名字の授与や、徳川家康による大名への「松平」名字授与と通ずるものだったのではないか、と指摘されています。


●木下昌規「本能寺の変の黒幕説(朝廷・足利義昭)は成り立つのか」P76~92(第5章)
 本能寺の変の黒幕説について検証されています。本論考が取り上げているのは、そのうち朝廷説と足利義昭説です。朝廷説においては、朝廷と信長との強い緊張関係が前提となっていますが、本論考は、当時、朝廷は信長を必要として頼りにしていたのであり、信長と朝廷との間に強い緊張関係はなかったので、朝廷黒幕説は成立しない、と論じています。義昭黒幕説に関しては、光秀と義昭や義昭の庇護者たる毛利との間に事前の連絡があったとの証拠がないことから、やはり否定的見解が提示されています。現時点では、本能寺の変の黒幕説を支持することは難しそうです。


●平野明夫「「神君伊賀越え」の真相」P93~109(第6章)
 本能寺の変の後、徳川家康が堺から領国の三河へと戻った経緯について検証されています。この「神君伊賀越え」については、複数の経路が伝わっていますが、誤伝である可能性とともに、分散した可能性も提示されています。これと関連するのが、「神君伊賀越え」のさいの家康一行の人数です。家康一行は少人数だったため、たいへんな苦難だった、との伝承もある一方で、伊賀路をあっさりと通過していることから、伝えられているほどの困難はなかっただろう、との見解も提示されています。本論考は、家康一行からも200人ほどの被害が出ていると考えられることから、家康一行は明智光秀に決戦を挑むほどの人数ではなかったものの、数十名程度という小規模でもなく、危機に直面していただろう、と指摘しています。


●渡邊大門「中国大返し再考」P110~127(第7章)
 羽柴秀吉の中国大返しについて検証されています。俗説では驚異的な速度だったとされる秀吉の中国大返しですが、本論考は一次史料に基づき、俗説の日程を修正しています。俗説では、秀吉は姫路で一泊しただけですぐに進軍したとされますが、本論考は、秀吉は姫路に三泊した、と推測しています。これは、秀吉と一部の将兵のみが騎馬で姫路に到達した後、残りの徒歩の兵の到着を待ったことと、秀吉にとって安全な姫路で情勢を分析していたためではないか、というのが本論考の見解です。ただ、本論考の提示する「秀吉の中国大返し」も、俗説のような非現実的な速度ではないにしても、かなりの強行軍だったように思われます。


●竹井英文「城郭研究を揺るがした「杉山城問題」とは!?」P128~144(特論1)
 埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城をめぐる議論が解説されています。縄張研究では、杉山城を築いたのは北条で、1560年頃のこととされていました。ところが、発掘調査では、15世紀末に近い後半~16世紀第1四半期に近い前半と判断され、この年代は新史料でも裏づけられました。つまり、縄張研究と考古学および文献史学との見解が対立したわけで、これ以降、縄張研究の側からは、さらに時代を下らせて、1580年代後半の北条系城郭か、1590年の豊臣系城郭ではないか、との見解さえ提示され、ますます考古学および文献史学との見解と乖離していきます。こうした乖離の要因として、縄張のみで築城年代・主体を否定する縄張研究の方法論が指摘されています。縄張は単純なものから複雑なものへと発展し、複雑な縄張は戦国時代後半の戦国大名にのみ可能だった、とする縄張研究の前提に問題があるのではないか、というわけです。もっとも、本論考は、考古学・文献史学の側にも、杉山城をめぐる議論はさまざまな課題を提示した、と指摘しています。


●佐島顕子「老いた秀吉の誇大妄想が、朝鮮出兵を引き起こしたのか」P145~163(第8章)
 秀吉の朝鮮出兵について、明などとの貿易の統制・独占という秀吉の思惑とともに、対馬の宗や肥後の小西といった地方勢力(小西は秀吉により肥後に転封となって日が浅いわけですが)が、秀吉を利用しつつ、明との貿易に加わり利益を得ようとした側面がある、と指摘されています。これと関連して、小西行長が関ヶ原の戦いの後に斬首されたのは、国家権威の源泉を日本ではなく明皇帝に求める外交の中心人物だったことと、外国人宣教師の保護など、海に開いた九州の自立性の象徴だったからではないか、と指摘されています。


●水野伍貴「石田三成襲撃事件の真相とは」P164~178(第9章)
 石田三成襲撃事件について検証されています。本論考は、七将は三成を殺害しようとしたのではなく、三成に政治的責任を負わせ、制裁するよう、家康に訴えていたのだ、と論じています。それを踏まえて本書はこの事件の本質を、七将が私怨により三成を襲撃し、家康がそれを調停したわけではなく、徳川方と反徳川方による政争だった、と把握しています。また、この事件の契機として前田利家の死があり、これにより利家と親しい武将が家康側に靡いたことも指摘されています。なお俗説では、襲撃された三成が逃げ込んだのは伏見の家康の屋敷とされていますが、じっさいには三成の屋敷でした。


●光成準治「毛利輝元、吉川広家、安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い」P179~195(第10章)
 関ヶ原の戦い前後の毛利家の動向が、毛利輝元・吉川広家・安国寺恵瓊の関係を中心に検証されています。後世の軍記や同時代の広家の書状には、広家を正当化し、吉川家の家格を上昇させる意図があるため、全面的に信用はできない、と指摘されています。毛利が反徳川方として決起した責任を安国寺恵瓊のみに負わせるため、安国寺恵瓊が愚鈍で強欲な人間として描かれたのではないか、というわけです。安国寺恵瓊と広家の関係は、関ヶ原の戦いの頃には良好ではなかったようですが、以前からそうだったのか、確証はないようです。また、養子問題の件から、輝元が広家に不信感を抱いていたことが指摘されています。こうした要素も、関ヶ原の戦いにおける毛利家の動向に大きな影響を及ぼしていたのでしょう。この時期の毛利家の動向は、輝元が西軍の総大将に推戴されたにも関わらず、何とも中途半端に見えますが、応仁の乱のような長期の戦乱になると毛利家の首脳陣が予想していたのだとしたら(この予想は、当時としては的外れとは言えないでしょう)、戦力の温存や敵対勢力との交渉なども、「合理的」な選択だったと言えるかもしれません。


●白峰旬「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」P196~211(第11章)
 俗説では、関ヶ原の戦いでは正午頃まで一進一退の攻防が続き、東軍への寝返りを約束していた小早川秀秋が去就を明らかにしなかったため、家康が小早川の陣に鉄炮を撃ちかけて寝返りを促し(問鉄炮)、慌てた秀秋が寝返ったため、東軍の勝利が確定した、とされます。しかし本論考は、秀秋の寝返りは早朝であり、俗説とは異なり西軍の前線に位置していた大谷隊は背後の小早川隊と前方の徳川軍に挟撃されて壊滅し、合戦全体も正午頃には東軍の勝利が決定的になったとして、「問鉄炮」を否定しています。


●曽根勇二「家康は豊臣氏を、どのように追い詰めたのか」P212~229(第12章)
 秀吉死後の政局は、秀吉政治の後継者問題が重要な論点となり、関ヶ原の戦いがその端緒で、大坂の陣で最終的に決着した、との見通しが提示されています。この秀吉政治は、朝鮮出兵に対応すべく成立していった、秀吉独裁の集権的なものだった、と本論考は指摘します。関ヶ原の戦い後、家康は直ちに全権を掌握できたわけではなく、自身の領地朱印状を出すことはできませんでした(徳川将軍が自由に諸大名に領地朱印状を発給できるようになったのは1617年以降)。そうした中で家康は、諸大名を普請に動員したり、地域支配や交通支配を強化したりすることで、豊臣への優勢を確立していった、とされます。


●片山正彦「大坂冬の陣後、大坂城の堀は無理やり埋められたのか」P230~248(第13章)
 大坂冬の陣の和睦条件として、大坂城の外堀だけを埋めるはずだったのに、徳川方の謀略で内堀まで埋められてしまった、と俗説では語られます。しかし本論考は、外堀のみならず内堀の埋め立ても和睦条件となっており、豊臣方も納得していた、と指摘します。ただ、外堀は徳川方が、内堀は豊臣方が埋め立てることになっていたのに、豊臣方の埋め立てが(おそらくは意図的に)遅れていたため、徳川方が内堀まで埋め立ててしまい、豊臣方が抗議したことが、後世になって俗説を生んだのではないか、と指摘されています。


●荒垣恒明「忍者とは実在するのか」P249~262(特論2)
 現代において語られる忍者の実像について検証されています。戦国時代~江戸時代初期に、現代において語られるような忍者に近いところもある人々は存在し、「忍び」などと呼ばれていました。「忍び」の基本的な任務は情報収集だったようで、敵陣に潜入する危険な任務でした。放火・夜討ちといったゲリラ的な戦術に「忍び」が用いられることもあったようです。その意味で、当時の「忍び」と現代において語られる忍者とは共通するところが少なからずあったようですが、一方で、同時代史料に登場する「忍び」が、共通の特徴を有する集団だったと言えるのか、今後の検討課題である、とも指摘されています。

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