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zoom RSS 『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』

<<   作成日時 : 2018/07/24 16:31   >>

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 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に(関連記事)、船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも(関連記事)、縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです(関連記事)。茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。

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