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zoom RSS レヴァント南部の後期銅器時代の人類集団のDNA解析

<<   作成日時 : 2018/08/22 17:09   >>

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 レヴァント南部の後期銅器時代の人類集団のDNA解析結果を報告した研究(Harney et al., 2018)が報道されました。レヴァント南部の後期銅器時代の物質文化は、質的に前後の時代と異なります。レヴァント南部後期銅器時代の文化の特徴は、定住密度の増加・聖域的な場所の導入・二次埋葬における骨壺の使用・公的儀式の拡大・銅や玄武岩や象牙の人工物の象徴的文様の彫刻や絵画的表現などです。レヴァント南部の銅器時代には、埋葬や儀式慣行の点で大きな変化が見られます。また、レヴァント南部の後期銅器時代には、「蠟型法」として知られる銅鋳造技術が用いられていました。このような文化的特徴は、レヴァント南北で共有されています。しかし、レヴァント南部の後期銅器時代の文化は、上述したようにレヴァントの前後の時代の文化とほとんど関連していないので、その起源について議論されてきました。一方の仮説は芸術的な模様に基づき、北メソポタミアのような北方からの移民によりもたらされた、というものです。もう一方の仮説は、レヴァント地域集団がこれらの文化を発展させ、北方との類似性は文化交流に起因しており移住の結果ではない、というものです。

 本論文はこれらの仮説の検証のため、イスラエル北部の上ガリラヤ(Upper Galilee)地方にあるペキイン洞窟(Peqi’in Cave)の人類遺骸のDNAを解析し、合計22人からゲノム規模のデータを得ました。イスラエルの気候条件はDNAの保存に適していないので、貴重なデータと評価されています。ペキイン洞窟は長さが17m、幅が4.5〜8mで、擬人的な模様のある200点以上の骨壺や杯などが発見されており、600人以上が埋葬されたと推定されています。ペキイン洞窟は銅器時代のレヴァントでは最大級の墓地となります。直接的な放射性炭素年代測定の結果、ペキイン洞窟は後期銅器時代となる紀元前4500〜紀元前3900年前頃を通じて使われていた、と推測されています。

 農耕が始まった頃の中東の人類集団のゲノム規模の解析結果から、当時のアナトリア半島・イラン・レヴァントの人々は相互に現代のヨーロッパ系と東アジア系ほどに異なっていたものの、青銅器時代までには相互の移住・交雑により中東の人類集団は均質化していき、現在のような遺伝的類似性が形成されました(関連記事)。イランの初期農耕民と遺伝的に最も類似している現代人は、イランのゾロアスター教徒です(関連記事)。ペキイン洞窟銅石器時代集団(PCh)の遺伝的構成は、レヴァントの新石器時代農耕民集団(NL)から57%、イランの銅器時代集団(ICh)から17%、アナトリア半島の新石器時代農耕民集団(NA)から26%と推定されます。一方、青銅器時代のレヴァントでは、紀元前2490〜紀元前2300年前頃となるヨルダンのアインガザル('Ain Ghazal)遺跡の人類集団が、遺伝的には、56%がNL系統に、44%がIch系統に由来する、と推定されています。

 このようにPChは、その前の新石器時代レヴァント農耕民集団とも、その後の後期青銅器時代レヴァント南部集団(LBSL)とも、遺伝的構成が大きく異なっていました。銅器時代には、アナトリア半島やイラン方面から住民がレヴァントに移住してきて、レヴァントにおいてかなりの遺伝的影響を与えて、均質化も進展していき、その傾向は青銅器時代にも続いたようです。PChはゲノム規模のデータでも遺伝的に比較的均質な集団と推定されていますが、Y染色体ハプログループでも、10人中9人がT系統(そのうち、より詳しく分類できた8人はT1a1a)に分類されるように、均質だったようです。レヴァントの人類集団のY染色体ハプログループは、続旧石器時代や新石器時代ではEが、青銅器時代ではJが優勢でしたから、レヴァントでは父系の点でも、新石器時代〜銅器時代〜青銅器時代にかけて、時代の移行にともない大きな変化があったようです。PChのDNA解析は、レヴァントにおける新石器時代と青銅器時代の古代DNA研究の空白期間を埋めるという意味でも貴重です。PChの遺伝的影響は、LBSLにはほとんどないようですが、レヴァント北部の後期青銅器時代の集団には一定以上あるようです。また、アフリカ東部の現代人集団にはレヴァントからの遺伝的影響が指摘されていますが、その中にPChは含まれていないようです。

 上述したように、レヴァントにおいては銅器時代に大きな考古学的変化が見られ、それが人々の移住によるのか、移住ではなく文化的交流の結果なのか、という議論が続いてきました。本論文は、上述の古代DNA解析の結果から、人々の移住による影響が大きかったのではないか、との見解を提示しています。上述したように、PChは、NLを基層に、Ich(17%)とNA(26%)の遺伝的影響で成立しましたが、埋葬習慣や人工物の模様など、レヴァント南部の銅器時代の文化のいくつかは、考古学的にはアナトリア半島と北メソポタミアの新石器時代の文化に起源があったかもしれない、との見解が以前から提示されていました。本論文の古代DNA解析の結果は、そうした考古学的見解と整合的と言えそうです。Ichは、メソポタミアを経由してレヴァント南部へと拡散してきた、と考えられます。レヴァント南部の銅器時代の芸術的表現には、メソポタミアの、イナンナ(Inanna)やタンムーズ(Dumuzi)といった神々との関連も指摘されていました。また、レヴァントの冶金工芸品製作の知識と資源も、イラン方面やメソポタミアやアナトリア半島など北方・東方からもたらされた、との仮説も提示されてきました。

 レヴァント南部における大きな考古学的変化は、新石器時代から銅器時代にかけてと同様に、銅器時代から青銅器時代にかけても起きました。骨壺での二次埋葬の消失といった埋葬習慣や定住パターンの変容、遺跡の大規模な放棄、象徴的意味合いの人工物の激減などです。これも、人類集団の構成が大きく変わったことに起因する、と本論文は指摘します。上述したように、LBSLの遺伝的構成は、NL系統が56%、Ich系統が44%と推定されており、PCh に見られるNA要素が確認されていません。Ich系統の要素は、NLとPChにはなく、LBSLに見られるので、Ich系統は銅器時代までにはレヴァントに拡散してきた、と考えられます。LBSLは、Ichの最初の拡大のさいにNLとの融合の結果成立し、NA系統の影響を受けずにいた系統の残存集団か、あるいはレヴァント外でIch系統の影響を受けつつもNA系統の影響を受けずに成立し、後にレヴァントへ再度拡散してきたのかもしれません。いずれにしても、レヴァント南部では銅器時代から青銅器時代への移行において人類集団の交替と言えそうな大事象があり、それが考古学的記録に見える文化の大きな変化をもたらしたようです。本論文は、遺伝学と考古学のデータを組み合わせた分析は過去の社会の変化の仕組みについて豊富な情報を提供できるし、他地域にも適用できるだろう、と指摘しています。もちろん、文化変容が、新石器時代〜銅器時代〜青銅器時代のレヴァントのように、人類集団の置換とも言えそうな外部からの大規模な遺伝的影響を伴わずに起きた事例も少なくなかったでしょう。

 PChの表現型についても、興味深いことが明らかになっています。ヨーロッパ系現代人集団の青い目と関連しているアレルの頻度が、PChにおいて49%になるので、PChでは青い目は一般的だった、と推測されています。これは、NLにはほとんど見られないので、レヴァントの外部からもたらされた、と考えられます。また、ユーラシア西部系現代人集団において皮膚の色素沈着と関連しているアレルからは、PChにおいて明るい肌の色が一般的だった、と推測されています。ただ、単一部位に基づく皮膚の色素沈着に関しては慎重な検証が必要とも指摘されています。


参考文献:
Harney É. et al.(2018): Ancient DNA from Chalcolithic Israel reveals the role of population mixture in cultural transformation. Nature Communications, 9, 3336.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-05649-9

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