山田康弘『縄文時代の歴史』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2019年1月に刊行されました。縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています。本書は、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期としてI期、早期を定住生活・縄文文化の確立期としてII期、前期・中期を縄文文化の発展および社会複雑化の開始・進展期としてIII期、後期・晩期を中期末から後期初頭の社会変質期を経ての社会複雑化の発達・脈動期としてIV期に区分しています。

 本書では、縄文時代の母胎となった旧石器時代日本列島集団の起源として、朝鮮半島から九州北部への西回り、沿海州からサハリンを経由して北海道へといたる北回り、南西諸島から北上してきた南回りが想定されています。縄文文化の範囲は、現在の日本国の領土と厳密に一致するわけではありません。縄文文化は北海道全域に広がったわけではなく、その北限は道東・道北とされています。縄文文化が北海道全域に広がらなかった理由としては、自然環境の違いが指摘されています。ただ、縄文文化はおおむね現在の日本国土内に収まり、縄文文化の範囲を日本列島の中で考える立場には一定の理がある、と本書は指摘します。

 縄文人の大まかな形態は、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、地域では北海道から九州まで、年代は早期から晩期前半まで、ほとんど同一であり、縄文人と同じ形態の人類集団は日本列島以外に存在しません。これは、縄文人が日本列島で独自に形成された集団であり、縄文時代には他地域からの大規模な集団流入や混合がなかったことを示唆します。ただ、縄文人は形質的には単一とされてきましたが、遺伝的にはかなり地域制・多様性があるようだ、と本書は指摘します。

 縄文時代の始まりについては複数の見解が提示されており、土器の製作を重視する見解では16000年前頃とされます(関連記事)。土器を使うことで利用可能な食資源の幅が広がり、また染料生産などにも用いられました。土器の胎土分析から、土器の原材料地・製作地・消費地は同一だったようです。ただ、縄文時代後半には、ある程度分業が進んでいた可能性も指摘されています。土器は多くの試行錯誤の末に達成され、さまざまな資源や道具類の開発・蔵さんを導くことになる、画期的な技術の成立をも射程に入れるものだったので、歴史的意義は大きい、と本書では評価されています。

 縄文時代の食料には地域的差異があり、それは自然環境の違いに起因し、社会構造や精神文化にも影響を及ぼした、と本書では推測されています。縄文時代の食性は多様で、動物も陸生哺乳類から海の魚や貝まで幅広いものでした。縄文時代にすでに農耕が始まっていた、との見解も提示されています。しかし、「縄文農耕」で想定されるマメ類は、縄文時代の人骨の同位体分析からは主要な食資源とは考えられず、耕作地(畑)も社会構造の変化も確認されていないことから、本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代に定住化が進んだ理由として、気候の温暖化とともに四季が明瞭になり、利用可能な食資源の予測性が高まったことから、移動生活よりも定住生活の方が食料を効率的に入手できるようになったことを本書は挙げています。また、定住生活により廃棄物処理や集住による人間関係の軋轢といった問題が生じ、その解決のために社会が複雑化していくとともに、定住化の進展により大きな地域差が出現するようになった、との見通しを本書は提示しています。

 定住生活の進んだ縄文時代には、集団・集落間にネットワークが張り巡らされ、さまざまな物資が交換されており、貝殻だけで構成される大型の貝塚(多くの貝塚では一般的な生活廃棄物が見られます)や、石材としてよく用いられていた黒曜石の分析から、中期にはすでに、特定の資源を生産・集積し、各地へと運搬する物流センターが存在していた、と本書は推測しています。縄文時代には大小複数の集落間でさまざまな分業と互恵的扶助および交易が行なわれており、こうしたネットワークの発達と社会的紐帯の維持こそが、縄文集落運営上の生命線だった、と本書は指摘しています。

 縄文時代は、一貫して人口が増加していたわけではなかったようです。前期には、居住域・墓域・廃棄帯といった空間の使い分けが明確化した、定型的な集落が成立していき、その代表例が東日本を中心に見られる大規模なものも含む環状集落です。環状集落には、地域の中心となる拠点集落と、それに付随する(時として複数の)集落が存在した、と推測されています。しかし、中期末~後期初頭の関東では遺跡数が大きく減少し、環状集落のような大規模集落も見られなくなります。これは4300年前頃のことで、気候の冷涼化との関連が指摘されています。関東以東の地域でも、住居跡数の減少と集落規模の縮小が見られます。一方、西日本では、集落・住居跡数の増加が見られ、一定規模以上の人々の移住が示唆されています。こうした変化と対応しているのかもしれませんが、後期には、東日本を中心として、装飾性の高い丁寧な作りの土器(精製土器)と、簡素に縄文を施した程度の土器(粗製土器)とに分かれていく傾向が顕著となります。

 縄文時代の墓からの社会構造の推測に分量を割いていることも本書の特徴です。縄文時代には明確な墓域が形成されていきますが、貝塚でも埋葬人骨が発見されています。そのため、貝塚には精神文化的な意味合い有したものもあった、と本書は推測しています。草創期の愛媛県上黒岩岩陰遺跡では、女性像の線刻礫が発見されています。これが女性の持ち物だとすると、上黒岩岩陰遺跡以外では発見されていないことから、妻方居住婚だった可能性が指摘されています。正直なところ、女性像の線刻礫が女性の持ち物だという前提が妥当なのか、疑問が残り、当時この地域が母系的社会に多い妻方居住婚だったのか、判然としないと思います。また、仮に当時この地域が母系制社会だったとしても、それは人類社会が元々は母系制的だったことを示すわけではなく、柔軟な行動を示す現生人類(Homo sapiens)の築いた多様な社会構造の一例だろう、と私は考えています(関連記事)。

 早期の1集落は2~3の核家族より構成されており、何らかの血縁関係が存在していた、と推測されています。草創期において母系的な社会が存在し、前期においても母系的な社会が存在していたとすれば、早期においても同様だった可能性がある、と本書は指摘します。続く前期においても、墓域構造の分析から、富山県の小竹貝塚遺跡集団の社会構造は母系的だった、と本書は推測しています。本書は、これを全国に普遍化できないものの、母系的な社会構造はおそらく全国的な傾向だったのではないか、との見通しを提示しています。

 ただ、中期の関東では、墓の人骨の分析により、母系制から双系制を経て父系制へと移行した可能性が指摘されています。これは、上述した中期以降の変容と関連しているかもしれません。また、後期の社会構造は中期からの継承・変容ですが、地域により差があった、と本書は推測しています。たとえば、父系制へと移行した関東以外では、九州では母系的な社会の可能性が想定される、というわけです。縄文時代後期~晩期の社会は、東日本では父系制、東海西部から近畿では双系制、西日本では母系制の傾向がある、と本書は推測しています。人類遺骸の同位体分析からも、東海地方に関しては双系的な社会が指摘されています。

 縄文時代の墓は、階層差の度合いを推測する手がかりにもります。前期から中期になると、特殊な装身具を身に着けるなど、特別な被葬者が見られるようになります。ただ本書は、そうした被葬者がどのような力を有していたのか、また世襲されたのかといった問題は、現時点では解明が難しい、と指摘しています。装身具の数は晩期に多くなり、年齢により着けられる装身具が決まっていたようです。ただ、高齢になるほどより多くの装身具を着けているのではなく、老年期には着装率が急激に低下するので、退役や隠居のような習慣があったのではないか、と本書は推測しています。装身具には何らかの性差があったものの、固定的ではなかったようです。装身具の素材は、男性の方がより多様だったようです。北海道南部の後期~晩期初頭や北部東北の後期には、大規模な墓と墓制上の差異も見られることから、ある程度階層化が進展していたのではないか、と本書は推測しています。しかし、突出した墓が再び見られなくなることから、こうした階層化は一時的で持続しなかったのではないか、と本書は推測しています。

 縄文時代の墓からは、当時の人々の世界観や死生観を推測することも可能です。縄文時代の世界観は男性と女性に大きく区別されていた、と本書は指摘しています。また本書は、縄文時代後半期には、系譜的な結びつきを重視する、祖霊崇拝という新たな思想が成立していた、と推測しています。縄文時代の死生観の一つは円環的であることです。これを示すのが土器棺墓で、土器に子供の遺体を入れる風習はアジア東部を中心として世界中で見られ、土器は母胎に擬えられています。これは、母胎中に子供を戻し、もう一度生まれてくるよう祈願する、「回帰・再生・循環」の思想に基づいている、と本書は指摘します。土器が母胎の象徴と考えられていた証拠として、出産の様子を描いた縄文土器もあることが挙げられています。また本書は、「円環的死生観」は縄文時代に突然発生したのではなく、遅くとも後期旧石器時代にまでさかのぼるだろう、と推測しています。

 後期~晩期の墓の特徴は、集落の一角や中央広場などに位置してきた墓域が、集落外に出て単独で墓地遺跡を構成する傾向が強くなることです。多数合葬・複葬例が見られるようになりますが、これは集落の新規開設にさいして、伝統的な傑温関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に埋葬することで、集団構造を直接的な地縁関係から擬似的な血縁関係へと再構成するためだった、と本書は推測しています。これも、寒冷化などに対応した中期以降の社会変動の反映かもしれません。

 本書は、縄文時代から弥生時代への移行についても言及しています。縄文文化が稲作を中心とした農耕文化を受け入れて変化していく在り様は、地域によってかなり異なっており、全国一律に縄文時代から弥生時代へと移行したわけではない、と本書は指摘します。縄文文化・弥生文化といった単一の文化を日本列島に適用するのではなく、地域・年代の実情に即した個別の文化を設定する必要がある、というわけです。弥生時代への移行と関連して、青森県の亀ヶ岡式土器についても言及されています。これは晩期のどきで広く九州にも見られますが、亀ヶ岡文化集団の人々が水田稲作の情報を求めて西日本まで行ったからではないか、との見解も提示されているそうです。

 本書は縄文時代の多様性を強調しており、縄文時代を単一の枠組みとして固定的に把握することに慎重な姿勢を示しています。たとえば、縄文時代では、東日本の集落と比較すると、中国の集落は小規模ですが、アジア東部の農耕開始前の遺跡はおおむね中国の縄文集落のように小規模で、世界的にも、農耕開始前の遺跡としては東日本のような大規模集落の方が特殊だ、と本書は指摘します。また、中国の縄文住居の構造は堅牢ではなく、耐久性は低かった、と推測されています。中国の縄文集団は一ヶ所に長期間定住するのではなく、ある程度の移動も可能な居住形態を採用していた、と本書は推測しています。そのため、縄文時代には中国では東日本ほど「複雑な社会システム」は発達せず、それは中国における呪術具の少なさにも表れている、と本書は指摘します。大規模で複雑な社会を構築し、それに起因する問題を頻繁な祈りで解決しようとした定住性の強い集団と、問題を移動などの方法が速やかに解決し、祈る必要の少ない集団のどちらが「人間的に豊かな生活」なのか、と本書は問題提起し、多様な縄文文化のすべてを唯物史観の発展段階説だけで把握はできない、と指摘します。

 本書は現代日本社会における縄文時代の評価についても注意を喚起しています。縄文人の生活は、環境を破壊しない持続可能なものだった、との近年の一部の評価は、現代的な価値観が投影されているのではないか、というわけです。縄文人は必要に応じて自然を開発し、自分たちに都合のよい二次的な自然環境を作り出していきましたが、人口が少ないため、自然からの収奪量よりも自然の回復力の方が上回っていた、と本書は指摘します。自然と共生した縄文人との見解は、現代よりもずっと少ない人口だったことを見落としている、と本書は注意を喚起しています。

 本書は縄文時代について包括的に解説しており、縄文時代の一般向け概説として当分は定番となるような良書だと思います。もちろん、長期にわたった縄文時代を新書一冊でじゅうぶん解説することは不可能ですが、本書は新書としては参考文献欄が充実しており、それらを読んで補っていけばよいのではないか、と思います。本書でも言及されているように、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は低く、2016年の論文では15%程度(「本土」日本人の場合)と推定されています(関連記事)。しかし、だからといって、縄文文化の要素がその後の日本列島、とくに「本土」には継承されていない、とは言えないでしょう。本書は、死生観などの縄文時代の思想が現代日本社会に継承されている可能性を指摘しています。また本書はで、縄文時代の製塩法が奈良時代まで伝わっていた可能性も指摘されています。私も、縄文時代の日本列島の人類集団の遺伝的影響が現代日本社会において小さくとも、言語に代表される文化的影響は小さくない可能性を想定しています(関連記事)。少なくとも現時点では、現代日本社会において「縄文人」の遺伝的影響が小さいからといって、縄文時代の文化要素もほとんど継承されていない、と単純に判断することはとてもできない、と私は考えています。


参考文献:
山田康弘(2019)『縄文時代の歴史』(講談社)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック