アジア南部の現生人類の人口史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア南部の現生人類(Homo sapiens)の人口史に関する研究(Metspalu et al., 2018)が公表されました。アジア南部の人口史に関しては、以前にも短く整理しましたが(関連記事)、本論文は近年の研究成果を簡潔にまとめており、私が知らなかったことも多く、たいへん有益だと思います。現生人類のアジア南部への拡散というか、アフリカからユーラシアへの拡散については、回数・年代・経路をめぐって議論が続いています(関連記事)。しかし、これまでの諸研究から、非アフリカ系現代人全員の主要な遺伝子源が、7万~5万年前頃の出アフリカ単一集団に由来する可能性は高そうです。

 しかし、疑問も呈されているとはいえ、アジア東部および南東部とオセアニアに関しては、より早期の現生人類の出アフリカを示唆する見解も複数提示されています(関連記事)。これを整合的に解釈すると、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の前にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類集団は、子孫を残さずに絶滅したか、後続の現生人類集団に吸収され、現代人にはその遺伝的痕跡をほとんど残していない、と想定されます。じっさい、早期にアフリカからユーラシアへと拡散した現生人類集団が、現代パプア人に2%以上の遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。本論文は、そうした早期出アフリカ現生人類集団が存在したならば、存在した場所としてアジア南部は有力であるものの、まだそうした証拠は得られていない、とも指摘しています。それはともかく、おそらくは5万年前頃前後に、アジア南部にも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団が到来した、と考えられます。本論文は、この集団が到来してからのアジア南部の人口史に関する近年の研究を整理しています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの系統からは、アジア南部の人類集団は、他地域の集団との深い分岐を示しつつ、ユーラシア西部集団との遺伝的共通性を有している、と指摘されています。ユーラシア西部集団の遺伝的要素は、アジア南部でも北西部では40%になりますが、南部と東部では10%未満となり、バラモンのような上位カーストでより高くなっています。この地理的勾配がアジア南部の現代人の遺伝的構造の特徴とされています。以前のアジア南部の現代人のゲノム規模データでは、北部(ANI)と南部(ASI)の二つの異なる祖先集団が想定され、遺伝的にANIはASIよりもユーラシア西部集団の方と近縁と推定されています。一方ASIは遺伝的に、ユーラシア西部集団よりもアジア東部集団の方とより近縁か、両方と遠い関係にある、と推定されています。ANIの遺伝的構成は、上述の地理的勾配を示します。ANIとASIとの混合事象の年代は、紀元前2200~紀元後100年頃と推定されています。この混合期間の後、インドの人類集団は同族結婚の傾向を強めた、と推測されています。近現代のカースト制度へとつながる階層差が固定されていった、ということでしょうか。

 ユーラシア西部の人口史は古代DNA研究により飛躍的に発展しましたが、アジア南部の気候条件は古代DNA研究に適していません。ヨーロッパへの農耕の拡大は、アナトリア半島起源の農耕民のヨーロッパへの拡散によるものでした。一方、アジア南部への農耕の拡大は、ザグロス山脈のイラン農耕民集団(IF)の東進によるものでした。アジア南部におけるANIとASIは、IF、出アフリカ現生人類集団で早期に分岐した狩猟採集民集団である古代祖先的アジア南部集団(AASI)、前期および中期青銅器時代草原地帯集団という3要素の混合により説明されてきましたが、最近のアジア南部の古代DNA研究(関連記事)により、この3要素が再定義されました。インダス周辺部集団(IP)は、イラン農耕民(IF)、アジア東部集団と同時に分岐してアンダマン諸島集団やオーストラリア先住民集団の祖先系統と近縁の古代祖先的アジア南部集団(AASI)、シベリア西部狩猟採集民集団(WSHG)の混合で、インダス文化の担い手の遺伝的基盤になった、と推測されています。インダス文化衰退後、IPはANIとASI双方の形成に寄与し、ASIはIPとAASIのさらなる混合により形成されました。ANIは、IPとアジア南部に侵入してきた中期および後期青銅器時代ユーラシア草原地帯集団(SMLBA)との混合です。このANIとASIとの混合により現代アジア南部集団が形成され、上述のように、それはアジア南部において均一な混合ではなく、地理的勾配が見られます。

 アジア南部集団の大半はインド・ヨーロッパ語族かドラヴィダ語族の話者です。しかし、約2000万人はオーストロアジア語族もしくはチベット・ビルマ語族の話者です。オーストロアジア語族であるインドのムンダ(Munda)集団はアジア南東部から南部に流入してきました。Y染色体DNAハプログループ(YHg)に基づくムンダ集団のアジア南部への流入年代は、紀元前3000~紀元前2000年頃と推定されています。しかし、ムンダ集団とアジア南部の在来集団との交雑は、もっと後の紀元前1800~紀元前元年頃と推定されています。ムンダ集団のmtDNAの多様性は完全にアジア南部集団のものですが、Y染色体では、アジア東部集団に特有のYHg- O2aが60%以上になっており、性的非対称が見られます。ゲノム規模データでは、ムンダ集団はアジア南東部集団から20%ほどの遺伝的影響を有している、と推定されています。ムンダ集団は、ASIよりもユーラシア西部集団との遺伝的に近縁ではない、と推測されています。カシ(Khasi)集団はムンダ集団と同じくインドのオーストロアジア語族ですが、遺伝的にはムンダ集団とは大きく異なり、インドのチベット・ビルマ語族集団と類似しています。インドのチベット・ビルマ語族集団は北東部に居住しており、アジア東部集団起源であることを明確に示し、アジア南部集団から過去1000年に20%ほどの遺伝的影響を受けていた、と推定されています。

 アジア南部においては、語族からおおむね遺伝的構造を推定できますが、例外もいくつかあります。インド最大の民族とされるドラヴィダ語族のゴンド(Gond)集団は、他のドラヴィダ語族集団よりも、ムンダ集団とより多くの祖先系統を共有しているようです。また、インド・ヨーロッパ語族のムシャー(Mushars)集団も、遺伝的にムンダ集団と類似しています。これは、集団が新たな言語を採用したためと推測されています。ドラヴィダ語族のブラーフーイ(Brahui)集団は、他のドラヴィダ語族集団の分布範囲からずっと遠くとなる、近隣のパキスタンの集団と遺伝的に類似しています。

 より最近のアジア南部への人類集団の移動としては、アフリカ系のスィッディー(Siddis)、ムスリム、ユダヤ人、ゾロアスター教のパールシー(Parsis)などがいます。スィッディーは、紀元後17~紀元後19世紀にポルトガル人貿易商により、兵士や奴隷としてインドの各地域の領主に売られました。スィッディーの遺伝的分析は、過去200~200年間の、インド系30%とアフリカ系70%の混合を示します。インドのユダヤ人は、紀元後5世紀にインド南部へ、紀元後10世紀にインド西部へと、2回の大きな移住の波によりインドに定着しました。

 パールシーはイスラム勢力がアジア南西部で拡大した7世紀頃にイランからインドへと移住しましたが、ユダヤ人やスィッディーと比較して、インドの在来集団との混合は少なかったようです。パールシーのホモ接合連続領域は長く、閉鎖的な集団だったことを示唆します。パールシーは遺伝的には、比較的新しい時代に近東の集団と混合した現代イラン人よりも新石器時代イラン人に近縁です。イランのザグロス地域の早期新石器時代の農耕民は遺伝的に、現代人ではとくにイランのゾロアスター教徒と類似している、との見解も提示されています(関連記事)。

 イスラム教のアジア南部への拡大はおもに文化的でしたが、検出できるだけの遺伝子流動の痕跡もあり、それはアラビア半島から直接的にというよりもむしろ、イランやアジア中央部からの拡散でした。パキスタンの少数民族のカラシュ人(Kalash)は、アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)の兵士の子孫と主張していますが、以前のY染色体と常染色体の研究では、その証拠は得られませんでした。カラシュ人は長期にわたって人口規模が小さく、遺伝的浮動の強い影響を受けた、と推測されています。

 アジア南部集団における選択圧の痕跡は、祖先集団の中で新しく到来したユーラシア西部集団と共有されているのではないか、と推測されています。じっさい、アジア南部集団における選択的一掃の兆候として、ユーラシア西部集団起源と考えられる、皮膚の色素沈着関連多様体と乳糖耐性多様体が指摘されています。これらの多様体は、アジア南部の北西部から南東部へと減少していく地理的勾配にほぼ対応しています。しかし、これらの多様体の自然選択がアジア南部で続いているのか、アジア南部への到達以前の選択を反映しているのか、現時点では不明確です。

 最近の古代DNA研究の進展は、アジア南部の人類史の理解をさらに深めました。しかし現時点では、アジア南部の古代DNAデータは、時空的に制限されています。上述のように、アジア南部の環境条件はヨーロッパと比較して古代DNA研究に適していないので、仕方のないところではあります。しかし、この分野の近年の進展は目覚ましいので、今後アジア南部でも古代DNA研究が飛躍的に発展するのではないか、と期待されます。とくに注目されるのは、インダス文化の担い手です。インダス文化の地理的範囲は広いので、その担い手の遺伝的構成も、一定以上多様だったのではないか、と私は推測しています。


参考文献:
Metspalu M, Mondal M, and Chaubey G.(2018): The genetic makings of South Asia. Current Opinion in Genetics & Development, 53, 128-133.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2018.09.003

性善説と性悪説

 性善説と性悪説は、一般的には二項対立的に把握されていると思います。性善説と性悪説のどちらが正しいのか、といった問いかけは、そう頻繁にあるものではないとしても、きょくたんに珍しいものでもないでしょう。ネット上はとくにそうですが、「現実主義者」を自認している人の声は大きいので、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っているのではないか、とでも疑問を呈したならば、直ちに幼稚だとかお人好しだとか散々に罵倒・嘲笑されそうです。しかし私は、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っている、と確信しています。

 こうした二項対立的な問いかけにたいして、そもそも善と悪は固定的ではない、という根本的な批判もあるでしょう。たとえば、多くの社会で勇敢は善として称賛され、臆病は悪として蔑視されるでしょうが、勇敢はしばしば軽率や粗暴と結びつきますし、臆病が冷静で慎重な態度と結びつくことも、きょくたんに珍しいわけではないでしょう。とはいえ、もちろん厳密には状況により変わってくることもあるとはいえ、善としての利他性や悪としての利己性など、かなり普遍的な性格を有する資質も少なくないでしょう。やや大雑把になるとはいえ、性善説と性悪説という二項対立的把握にも有効なところはあるだろう、とは思います。

 一方、中国古代史研究からは、異なる認識も提示されています(平勢.,2005,P307-308)。人間は上上聖人・上中仁人から下下愚人まで9等に区分され、これを上人・中人・下人に3区分しなおすと、中人以上について性善説を主張したのが孟子で、中人以下について性悪説を主張したのが荀子なので、性善説と性悪説は相互に排他的ではなく補完的だった、というわけです。平勢氏の評判はたいへん悪いようなので、どこまで信用してよいものなのか疑問も残りますが、私の見識ではこの見解の妥当性をとても判断できません。ただ、なかなか興味深い見解だと思います。

 私は別の意味で、性善説と性悪説は相互に補完的と考えています。『暴力の人類史』が、人間の心には「5つの内なる悪魔」と「4つの善なる天使」が内在しており、その基本的設計は進化のプロセスに負っている、と説くように(関連記事)、人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっているのではないか、というわけです。その意味で、性善説と性悪説はともに、部分的に正しく、また部分的に間違っており、相互補完関係にある、と私は考えています。

 もちろん、教育も含めて環境は、善悪のどちらに人間を傾かせるのか、という点で決定的に重要です。しかし、そもそも人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっている、という認識を無視して、教育も含めて社会制度を設計していけば、その害悪はたいへん大きくなるのではないか、と思います。その意味で、人間の心は誕生時には「まっさら」で、教育も含めて社会環境次第で善人にも悪人にもなり得る、というような考えは、根本的に間違っているだけではなく、たいへん危険で有害でもある、と私は考えています。


参考文献:
Pinker S.著(2015)、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史』上・下(青土社、原書の刊行は2011年)、関連記事

平勢隆郎(2005)『中国の歴史02 都市国家から中華へ』(講談社)