日韓「半島外交」失敗の歴史で見える「中臣鎌足」の正体

 表題の記事が記事されました。ヤフーに転載されており、コメントも公開されています。日本(ヤマト政権)は古代において狡猾な百済に何度も煮え湯を飲まされ、海外の工作員たちにつけ込まれて外交に失敗し、大国の唐を相手に無謀な戦いを挑んで大敗し、滅亡の危機に追い込まれてしまった、現代でもさまざまな国のロビー活動や「工作」に警戒しなければならない、といった趣旨です。古代における工作員として具体的に挙げられているのが中臣(藤原)鎌足で、百済の王子の豊璋と同一人物とされています。この記事の執筆者は関裕二氏で、関氏の本を随分前に読んだことがあるので、この記事にはとくに驚きませんでした。

 率直に言って、疑問だらけの記事なのですが、その全てを詳細に検証するだけの気力と見識は現在の私にはないので、とくに問題と思う点を述べていきます。まず、「ヤマト建国後7世紀に至るまで、ヤマトの王に実権は与えられず」との評価ですが、その頃までには摂関政治以降のような幼年の君主がいないことからも、ヤマトの王(大王、後の天皇)は実権を有する強力な君主と考えられます。じっさい、『日本書紀』でも、敏達・推古・皇極などの天皇(大王)の主体的判断が述べられています。この頃は、律令制以降と比較して、天皇(大王)および「中央(ヤマト)政権」による「日本全土」の支配力がずっと劣っていたことは確かでしょうが、だからといって天皇(大王)に実権がなかったとは言えないでしょう。

 次に、日本(ヤマト政権、倭)の外交政策についての認識が問題です。関氏は、蘇我氏が百済に冷淡になったので、ヤマト政権の外交方針を変えるために、親百済派の中大兄(天智)と中臣鎌足が乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した、と指摘します。確かに、日本と百済が以前はたいへん親密だったとすると、推古朝~皇極朝における日本の外交政策は百済に冷淡と言えるかもしれません。この時期、『日本書紀』からは、日本は百済・新羅・高句麗とおおむね等距離外交を続けていたように思われるからです。

 ここで問題となるのが、『日本書紀』は親百済派の歴史書との関氏の認識で、これは基本的に妥当だろう、と思います。百済滅亡後、百済から日本に支配層(知識層)が少なからず亡命してきましたが、そうした百済系知識層が『日本書紀』の編纂に関与した可能性は高いでしょうし、『日本書紀』は百済系史料からの引用を明記しています。それだけに、『日本書紀』の編纂時期に日本と新羅との関係が悪化していき、新羅が唐を朝鮮半島に引き入れて百済を滅亡に追い込んだことも踏まえると、日本と百済との関係は、とくに史料が少なかっただろう崇峻朝以前に関しては、実態以上に良好に描かれていた可能性が高いと思います。逆に、日本と新羅との関係は実態以上に険悪に描かれていたのではないか、と私は推測しています。祖国が滅亡し、もはや日本で生きていく決意を固めた百済系知識層には、日本と百済との歴史的に親密な関係を強調する動機が強くあったでしょう。その意味で、推古朝~皇極朝にかけて、百済が日本の外交方針の転換に不満を抱いていた、との認識にはかなり疑問が残ります。

 次に疑問なのは、乙巳の変で百済に冷淡な蘇我入鹿を殺害したのに、その後の孝徳朝では百済と国交断絶した、との関氏の見解です。孝徳朝でも百済からの使者は来日していますし、儀式において百済・新羅・高句麗の王族や医者や学者が出席しています。孝徳朝においても、推古朝~皇極朝と同様に、日本は百済・新羅・高句麗とおおむね等距離外交を続けており、こうした状況は基本的に、斉明朝において百済滅亡の報せが届くまで続いたように思います。また、孝徳朝において、親百済派の中大兄と中臣鎌足が主導して蘇我入鹿を殺したことへの対抗として百済と国交断絶するくらいなら、なぜ首謀者の中大兄と中臣鎌足は粛清されなかったのか、という疑問が残ります。両者は天皇(大王)でも粛清できないくらいの勢力を有していたとするなら、そもそも百済と国交断絶することは困難でしょう。まあじっさいには、上述のように孝徳朝でも百済との関係は続いているので、関氏の見解は間違っているわけですが。

 日本の外交方針が大きく変わるのは斉明朝において百済滅亡の報せが届いてからです。関氏は、百済救援軍が、民衆も負けるに決まっていると非難するなか(当時、民衆がそう考えていたのか、はなはだ疑問ですが)で派遣され、じっさいに惨敗した、と指摘します。日本が唐・新羅相手に百済救援という無謀な戦いを選択したのは、狡猾な百済の工作に乗せられてしまったからだ、というのが関氏の見解です。さらに関氏は、中大兄(天智)から信頼されていた中臣鎌足は百済の王子である豊璋と同一人物だった、との見解を提示しています。中大兄は即位のために鎌足と手を組み、ついには鎌足の要請に応じて鎌足の祖国である百済を復興させるために無謀な戦いに挑んだ、というわけです。

 関氏の挙げる鎌足=豊璋説の根拠は、いずれも確たる証拠ではありません。まず墓については、阿武山古墳が鎌足の墓だとして(その可能性は高そうですが)、「百済の王墓と同じ様式」との評価は疑問で、百済古墳の影響を受けている、というくらいの評価が妥当でしょうし、そもそも7世紀後半の日本(ヤマト政権、倭)の支配層の古墳には、阿武山古墳以外にも百済古墳の影響が見られます(関連記事)。百済滅亡後、百済から多くの支配層・知識層が日本に亡命するなか、百済の文化的影響が墓制でも見られる、というだけのことでしょう。次に、鎌足と豊璋がほぼ同年代の人物という可能性は確かにありますが、それを同一人物説の証拠とするのはたいへん苦しいと思います。

 また、豊璋が白村江の戦いの前後の百済に帰国していた時期に、鎌足の動向が見えないとの指摘については、豊璋が帰国する前の斉明朝の記事においても鎌足の動向は『日本書紀』に明記されていないことから、同一人物説の根拠にはとてもならないでしょう。鎌足は一臣下としては『日本書紀』において登場回数の多い人物でしょうが、そもそも紀伝体ではない『日本書紀』において、一臣下の動向が生涯にわたって詳しく描かれることはまずあり得ないと考えれば、とくに同一人物説の根拠とはならないでしょう。なお、この記事では言及されていませんが、鎌足は臨終時に天智にたいして、「生則無務於軍國」と述べており、これは一般的には白村江の戦いでの敗北を意味している、と解釈されているでしょう。これも鎌足と豊璋を同一人物とする説の根拠にされるかもしれませんが、単に、鎌足も百済救援軍派遣に積極的で、中大兄の決断を後押ししたのに、惨敗に終わったことから、『日本書紀』編纂時の権力者である、鎌足の息子の不比等に配慮して、白村江の戦いへと至る鎌足の動向は省略された、と解釈する方が妥当だと思います。

 なお、関氏は日本による百済救援軍派遣を無謀と批判しており、この認識は現代日本社会でも一般的だと思います。そこから、日本と百済との特別に親密な関係を想定する見解は珍しくないでしょうし、日本は百済の植民地だった、との見解さえ提示されています(関連記事)。しかし、結果的に白村江の戦いでの惨敗に終わった日本による百済救援は、当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様なので、日本と百済との特別に親密な関係を想定する必要はないと思います(関連記事)。また、百済復興運動の中心となった鬼室福信のもたらした情報から、唐は戦いに介入してこないだろう、と日本の首脳層が判断していたと考えられることからも(関連記事)、日本による百済救援軍派遣が当時の多くの人々から無謀と批判されていた、とは想定しづらいと思います。客観的にも、唐の高宗(李治)は百済(残党)にたいする大規模な軍の派遣に慎重だったものの、劉仁軌の進言により大規模な唐水軍が朝鮮半島へと派遣された、という事情があり、百済救援軍派遣を単に無謀と言えるのか、私は疑問視しています。

 もちろん、日本が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。日本は、長年日本に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。おそらく鎌足もそうした観点から百済救援軍派遣を支持し、中大兄もその進言を受け入れたのでしょう。

 このように、関氏の歴史認識は基本的に間違っていると思うのですが、この記事では韓国を批判し、警戒を促すような趣旨になっているためか、悪名高いヤフーコメント欄においてさえ、以下に引用(改行は基本的に省略しました)するような好意的感想が見られるのはたいへん残念です。

やはり半島の人は裏切りと嘘の歴史が現在まで繰り返しである事が理解できました。やはり付き合いは距離を置くべきと先人は教えを認識せざる得ません。
本当ならばすごいはつけん。藤原氏は百済王家の生き残りということになる。いずれにせよ、嘘つきというところは、一千年ぐらいじゃ治らない。つまり、淡々と自滅を待つのがベストてとこでしょうかね
ということは、藤原氏は百済のお家柄なんですね。大臣の蘇我氏をクーデターで亡き者にし、中臣が藤原と改名して実権を握り乗っ取り完了。日本人って昔からアマアマだったのね…
すごいなぁ。1400年も前のことを研究して詳細を推察する学問は興味深いです。ただ、その昔から、かの国は同じようなことをしているんですね。民族のDNAですね。日本はやっと普通の対応をし始めたので、これからの関係性が期待できます。


 もちろん、関氏の歴史認識を批判するコメントもあるわけですが、「ネトウヨ」や「嫌韓派」の一定以上の割合の動機は、「愛国」や「郷土愛」よりむしろ、韓国、さらには日本の「左派」や「リベラル」といった「進歩的で良心的な」人々への反感の方が強く、前近代史に強い関心はないため、「愛国的」見解との整合性もとくに問わない、という以前からの私の見解を補強しているように思います。百田尚樹『日本国紀』にもそうした傾向が見られ(前編および後編)、「愛国的」観点からは、とくに古代に関して「売国的」・「反日的」と言えるような記述もあるのですが、Amazonでの評価は高く、絶賛する人が少なからずいます。

 もちろん、『日本国紀』での「反日的」記述を批判する「ネトウヨ」もいるでしょうし、「ネトウヨ」のような雑な区分では、その内部の意見は多様に決まっている、ということなのだと思います。こうした現象を、日本社会の劣化と解釈する人は少なくないでしょうが、人権意識に関して昔はもっとひどく、インターネットの普及により可視化されるようになった、という側面が大きいと思います。もっとも、人権意識に関して、昔(たとえば1970~1980年代)と現代とで、ヨーロッパ北部および西部諸国との相対的な格差が拡大している、という可能性は高いかもしれませんが。まあ、こうして他人事のように述べている私も、「左派」や「リベラル」といった「進歩的で良心的な」人々から見たら「ネトウヨ」に他ならないのでしょうから(関連記事)、上述の私見もヤフーコメント欄と大して変わらず「ネトウヨ」的だ、と批判・罵倒・嘲笑されそうではありますが。

 なお、個人的にたいへん残念なのは、ヤフーコメント欄において、鎌足と豊璋は同一人物だったとする説を知らなかった、との感想が散見されることです。『天智と天武~新説・日本書紀~』は、まさに鎌足と豊璋は同一人物だったとの設定を採用していたのですが、やはり知名度の低い漫画作品だったのでしょうか。『天智と天武~新説・日本書紀~』の連載が始まってまだ1年が経過していない頃、当ブログの記事 に「この天智と天武は関さんが原案だとばかり思いました」とのコメントが寄せられました。私もそうですが、関氏の見解を知っていれば、『天智と天武~新説・日本書紀~』が関氏の見解を採用している、とすぐに考えることでしょう。もっとも、大海人(天武)が通説にしたがって中大兄よりも年少といった根本的設定のいくつかは、関説とは異なるわけですが。

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