中国史の画期についての整理

 画期という観点から、一度短く中国史を整理してみます。そもそも、「中国」とはどの範囲を指すのか、どのように範囲は変遷してきたのか、という大きな問題があります。また、この記事では更新世における人類の出現以降を扱いますが、もちろん、更新世に「中国」という地域区分を設定することは妥当ではありません。考えていくと大きな問題を多数抱えているわけですが、以前から一度整理しようと考えていたので、とりあえず、ダイチン・グルン(大清帝国)の本部18省を基本にします。更新世から叙述の始まる日本通史が珍しくないように、一国史の呪縛は未だに根強く、凡人の私では適切な区分は困難です。今後は少しずつ、より妥当な地域区分や名称を考えていきたいものです。紀元後に関しては、おもに『近代中国史』(関連記事)、『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(関連記事)、『中国経済史』(関連記事)を参照しました。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


●人類の出現(212万年以上前)
 中国における現時点での人類最古の痕跡は212万年前頃までさかのぼり、陝西省で石器が発見されています(関連記事)。これは現時点では地理年代的にほぼ完全に孤立した事例で、どのように人類がアフリカから中国北西部まで到達したのか、まったく明らかになっていません。また、この石器をもたらした人類系統も不明です。おそらく、アフリカからユーラシア南岸を東進してきた、ホモ・ハビリス(Homo habilis)のような最初期ホモ属が、中国に到達して北上したと思われるので、今後、中国南部で220万年前頃の石器や人類遺骸が見つかる可能性は高い、と予想しています。

●「真の」ホモ属の拡散(170万年以上前)
 雲南省では、170万年前頃の初期ホモ属遺骸(元謀人)が発見されています。(関連記事)。陝西省では、上記の212万年前頃の石器が発見された近くの遺跡でホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類されている藍田人が発見されており、その年代は165万~163万年前頃と推定されています(関連記事)。河北省では170万~160万年前頃の石器が発見されていますが、その製作者は不明です(関連記事)。212万年前頃の石器を製作した人類が、これら170万~160万年前頃の中国の人類集団の祖先なのか、現時点では不明ですが、そうではなく、180万年前頃以降に新たにアフリカからおそらくはユーラシア南岸を東進してきた「真の(アウストラロピテクス属的ではない)」ホモ属だった、と私は考えています。人類史において、アフリカからユーラシアへの拡散は珍しくなかっただろう、というわけです(関連記事)。

●後期ホモ属の拡散(60万年前頃以降?)
 現生人類(Homo sapiens)が拡散してくる前まで、中期~後期更新世のアジア東部には多様な系統のホモ属が存在した、と考えられます(関連記事)。中国各地では中期~後期更新世のホモ属遺骸が発見されていますが、その分類については議論が続いています。最近、チベット高原東部で発見された16万年以上前となる下顎骨が、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と確認されました(関連記事)。この下顎骨と中期~後期更新世の中国のホモ属遺骸の一部とが類似しているため、中国には広くデニソワ人が存在したのではないか、とも指摘されています。しかし、デニソワ人の形態はまだほとんど明らかになっていないので(関連記事)、中期~後期更新世の中国のホモ属遺骸がすべてデニソワ人系統に分類されるのか、現時点では不明です。デニソワ人系統と現生人類系統との分岐年代に関しては諸説ありますが、早ければ80万年以上前と推定されています(関連記事)。したがって、上述の170万~160万年前頃の中国のホモ属とは異なる系統が、中期更新世に中国へと拡散してきた可能性はきわめて高そうです。ただ中国では、170万~160万年前頃のホモ属系統が中期更新世まで存続し、アフリカから新たに拡散してきたホモ属と共存し、交雑していた可能性もあると思います。

●現生人類の拡散(5万~4万年前頃?)
 中国における現生人類の拡散には、不明なところが多分にあります。中国における石器技術の画期は、35000年前頃となる、石刃をさらに尖頭器や削器などに加工する石刃石器群の出現との見解もあります(関連記事)。しかし、中国北部に関して、石器技術では様式1(Mode 1)が100万年以上前~2万年前頃か、もっと後まで続き、石器技術の変化は少なく、中国では現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、とも指摘されています(関連記事)。じっさい、4万年前頃となる現生人類遺骸(田园男性)が、北京の近くで発見されており、DNAが解析されています(関連記事)。アジア東部におけるデニソワ人と現生人類との交雑の可能性も指摘されており(関連記事)、中国における現生人類拡散の様相には不明なところが多分に残っています。

●農耕・牧畜の開始(10000~8000年前頃)
 中国の現生人類集団は、農耕・牧畜開始の前後で南方系から北方系へと大きく変わった可能性が指摘されています(関連記事)。これは頭蓋データに基づくものですが、4万年前頃の田园男性に関しては、現代人には遺伝的影響を残していない可能性が指摘されています(関連記事)。しかし、この南方系集団と北方系集団がいつどの経路で中国に到来したのか、現時点では不明です。これと整合的かもしれないのは、現代漢人のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究です(関連記事)。その研究では、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と推測されています。もちろん、核DNAやY染色体DNA、とくに後者ではまた違った遺伝的構成が見られるかもしれませんし、この問題の解明には古代DNA研究の進展が必須となりますが。

●青銅器時代~鉄器時代(紀元前1700~紀元前220年頃)
 この間、ユーラシア西方から家畜や金属器などが導入され、中国社会は複雑化していきます。その具体的指標として、性差の拡大が指摘されています(関連記事)。都市国家から領域国家、さらには巨大帝国の出現には、そうした社会的背景があるのでしょう。

●集住から散居(紀元後3~4世紀)
 それまで、中国の聚落形態は集住(都市国家)が主流でしたが、散居(村の誕生)へと変化し、商業も一時的に衰退します。城郭都市は、それ以前とは異なり行政・軍事に特化していました。またこれ以降、「士」と「庶」の二元的階層が確立していきます。

●唐宋変革(10世紀)
 温暖化により中国社会は経済的に大きく発展し、無城郭商業都市である「市鎮」が出現します。中国では南部の発展が著しく、経済・人口で北部を逆転して優位に立ちます。

●伝統社会の形成(14世紀)
 中国における伝統社会は、14世紀以降に形成されていきます。モンゴルによる中国も含むユーラシア規模の広範な統合は、14世紀の寒冷化により崩壊します。これ以降、「士」と「庶」の間の中間的階層も台頭し、社会はますます複雑化していきます。そのため、中央権力の支配は社会の基層にまで及びませんでした。またこれ以降、南北の格差は前代よりも縮まり、東西の格差が拡大していきます(西部に対する東部の優位)。これは、物流において海路が重要になっていったことと関連しています。また、ダイチン・グルン後期には、沿岸部各地域がそれぞれ外国と結びつくなど、経済の多元化がさらに強くなっていきました。

●中華人民共和国の成立(1949年)
 1840~1842年のアヘン戦争と1894~1895年の日清戦争は、ともに中国にとって大きな転機となりました。とくにアヘン戦争は中国近代史の起点として重視されてきましたが、アヘン戦争以後も中国の伝統的な社会経済構造は堅牢で、直ちに大きく変わったわけではありませんでした。中央権力の支配が社会の基層まで届かず、多元的な社会経済構造は、一元化への志向にも関わらず、容易に解消しませんでした。この牢乎として存続する中国伝統社会を大きく変えたのが、共産党政権の中華人民共和国でした。土地革命と管理通貨の実現により、基層社会へと中央権力が浸透し、経済は一体化していき、統合的な国民経済の枠組みが生まれました。中国共産党政権は、まさに革命的でした。


 以上、中国史の画期についてざっと見てきました。現在の私の関心・見識から、更新世の比重が高くなってしまいました。農耕・牧畜開始以降については近年ほとんど勉強が進んでいないので、かなり的外れなことを述べているかもしれず、少しずつ調べていきたいものです。なお、中国共産党政権は革命的と評価しましたが、もはや現在は、「革命的」が直ちに肯定的に評価される時代ではありません。冷戦構造の進展という時代背景はあったにしても、中華人民共和国と「西側」との経済関係はきわめて希薄となり、対外貿易から得られるはずだった先進技術や外国資本を失うことにより経済の活力が衰えた、とも言えます。一方で、そうした事情が、中華人民共和国における強力な金融管理体制と通貨統一を実現させました。「西側」との経済関係が希薄化するなか、共産党政権は物質的な統制を進め、大衆動員型政治運動により反対意見を抑え込んでいきました。物質・思想両面の統制が厳しくなるなかで、逃げ場を失った多くの中国人には、共産党による統治を受け入れるしか選択肢は残されていませんでした。

 そう考えると、統合的な国民経済の枠組みが多くの中国人にとって本当に幸福だったのか、大いに疑問が残ります。購買力平価ベースのGDPでは、第二次世界大戦前はもちろん、その後の1950年でも、中国が日本を上回っていました(関連記事)。本来ならば、購買力平価ベースのGDPで中国が日本を下回るようなことはほとんどあり得なかったはずです。それが、20世紀後半の一時期とはいえ日本に逆転されてしまったのは、明らかに共産党政権の失政だと思います。中国共産党の側に立つ人に言わせれば、「西側」の「敵視政策」が原因となるのでしょう。しかし、政治においては結果責任が厳しく問われるべきで、冷戦が進行していく中だったとはいえ、共産党政権の責任は重大だと思います。

 共産党政権が、中国近現代史において最悪もしくはそれに近い選択肢だったとは思いません。選択を誤れば、中国は今でも内戦に近い状態が続き、経済の発展が妨げられていたかもしれません。当然、現在よりも生活・技術・学術の水準は随分と見劣りしたでしょう。しかし、だからといって、共産党政権が中国近現代史において最良に近い選択肢だったかというと、かなり疑問が残ります。1980年代以降の中国の経済発展には目覚ましいものがあります。これを根拠に中国共産党の統治の正当性を称揚する見解は珍しくないかもしれませんが、現実的な別の選択肢では中国は現在もっと発展していたのではないか、との疑問は残ります。大躍進に代表される中国共産党政権の大失策がなければ、少なくとも、購買力平価ベースのGDPで比較的短期間とはいえ中国が日本を下回るようなことはなかっただろう、というわけです。その意味で、中国共産党、とくに毛沢東の責任は重大だと思います。毛沢東こそ、一時的とはいえ、中国を決定的に没落させた最大の責任者だろう、と私は以前から考えています。率直に言って、共産党政権は近現代中国において、むしろ悪い方の選択だったのではないか、と私は考えています。

 もちろん、中国近現代史において、史実よりも都合のよい選択肢はほとんどなく、中国は一度どん底を経験し、社会・経済を統合する必要があり、毛沢東の功績は大きかった、との見解もあるとは思います。私の見解はしょせん素人の思いつきにすぎないわけですが、大躍進や文化大革命などのような大惨事は本当に不可避だったのだろうか、との疑問はどうしても残ります。1980年代以降の中国の経済発展は確かに目覚ましいのですが、もともと経済規模で日本に劣るようなことはほとんどあり得ない中国が、比較的短期間だったとはいえ、共産党政権下で日本を下回ったという事実は、やはり無視できないように思います。こうした疑問は、中国共産党政権の評価、さらにはその公的歴史認識(体制教義)の検証にも関わってくる問題だと思います。最後に、以下に中国の土地改革について、日本での近年の見解を取り上げます(関連記事)。

 まず、中華人民共和国における土地改革の必然性とされてきた帝国主義および地主からの搾取という認識にたいしては、中華民国期の農家経営について、商品経済化や小農による集約的経営を通じて土地生産性が向上した、との見解が提示されています。また、世界恐慌下の地主による土地の兼併は、全国的かつ長期的にわたる趨勢として確認できるわけではない、とされています。共産党が土地の分配により農民の支持を獲得して内戦に勝利した、との見解も見直されつつあるそうです。1920年代末~1930年代前半、共産党は土地改革により勢力拡大を図りましたが、当時の共産党組織の脆弱さにより、国民党の反撃や在地の武装勢力の抵抗に遭って根拠地は短期間に崩壊しました。また、土地の分配を受けた農民が必ずしも積極的に共産党軍に加わったわけではなく、既存の雑多な武装人員が傭兵的に編入され、共産党の軍事力を担ったそうです。第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が再発すると、共産党は土地改革を強く打ち出すようになります。この土地改革で地主・富農からの収奪だけではなく、中農の財産の侵犯が発生し、農業生産は大打撃を受けたそうです。共産党が短期間で多数の兵の徴募に成功した東北地区にしても、土地の分配により農民の自発的な支持を獲得したこと以上に、「階級敵」からの食糧・財産の没収を通じて、新兵の募集や雇用に必要な財を共産党が独占したことを重視する見解が提示されているそうです。

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