遺伝学および考古学と「極右」

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代~青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代~青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189

岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』

 2019年7月に東洋経済新報社より刊行されました。本書は経済を中心とした社会構造の観点からの中国通史です。政治史的要素は薄く、英雄譚的な要素も希薄なため、人間関係中心の通史を期待して読むと、失望するかもしれません。しかし、中国史の大きな構造が提示されているという点で、読みごたえがあります。もちろん、個人による広範な地域を対象とした通史なので、各時代・地域の専門家からすると、異論が少なくないかもしれません。著者の他の一般向け著書である、『世界史序説 アジア史から一望する』(関連記事)と『近代中国史』(関連記事)を読んでいれば、本書を理解しやすいと思います。

 本書の特徴は、気候の違いに起因する生業の違いが、中国史、さらにはユーラシア史の歴史的展開を規定した、という史観です。乾燥した草原地帯の遊牧民社会と、より湿潤な地域の農耕民社会との相互作用により中国史も含むユーラシア史は展開していった、というわけです。これには類型化されたところもあり、じっさい本書で定義されている遊牧地域でも農耕は行なわれているわけですが、大局的には、本書の提示する歴史観に大過はなく、かなりのところ有効だろう、と私は考えています。

 本書はこの遊牧民と農耕民との相克を前提に、中国史を多元的実態と統一志向の観点から把握しています。本書はまず、中国はもともと、多くの勢力が割拠し、身分階層も分化している多元的世界だった、と指摘します。それが、秦と漢による広範な地域の統合の結果、均質化に向かいます。しかし、紀元後3~4世紀の寒冷化によりこの傾向は逆転し、多元化が進展します。3世紀以降、中国では「士」と「庶」の二元的階層が確立していきます。9世紀頃からのユーラシアにおける温暖化により中国社会は経済的に大きく発展し、周辺地域もその影響を受けつつ発展していきます。そうした中から、モンゴルによるユーラシア規模での統合が達成されます。

 ところが、この大統合も14世紀の寒冷化により崩壊し、中国は多元的世界に逆戻りします。大元ウルスの統治体制が弛緩し、まず華南、次に華北を喪失するという混乱した状況のなかで、明が中国(と一般的に認識されているだろう地域)を統一します。本書は、この明代こそ、現代に続く中国の伝統的構造が形成された時期だと指摘します。3世紀以降、中国では江南の人口比率が増加していったのですが、その傾向は大元ウルス治下の13世紀末で終了し、それ以後は中国内部で南北格差は依然としてあるものの、東西格差が拡大していきます。つまり、先進的な沿岸部の東と後進的な内陸部の西というわけです。これは、モンゴル帝国のユーラシア規模での統合が失われて以降、流通路の比重がユーラシア内陸経路から海路へと移っていったことを反映していた、というのが本書の見通しです。

 本書は、明代以降、3世紀以来の士と庶の階層分化に加えて、その中間的な階層も出現し、地域的には、南北に加えて東西の格差も生じ、中国社会はますます複雑化・多元化していった、と指摘します。日本史研究では日本の多様性が主張されることもあるものの、中国社会と比較すると日本社会はずっと単一的で均質的だ、と本書は評価します。さらに本書は、明代以降の中国社会と日本社会の違いとして、前者では下層社会が肥大化し、政権が下層社会をじゅうぶんに掌握できなくなったことを指摘します。本書は、均質化を志向する近代化において、そうした違いが中国には不利に、日本には有利に作用した、との見通しを提示しています。また本書は、物流において海路が重要になっていき、中国の沿岸地域がそれぞれ外国と結びつく傾向がダイチン・グルン(大清帝国)後期になって強くなっていった、と指摘します。これも、中国の近代化の障壁となりました。

 こうした複雑で多元的な中国社会の構造は近代になっても変わらず、国民党も共産党も国民国家の形成で試行錯誤していきます。共産党政権(中華人民共和国)は、肥大化した下層社会の掌握を優先し、資本家層や知識層を弾圧していきます。本書はこの毛沢東の方針が、中国の統一(一元化)を強く志向し、豊かな江南の地主およびそこに基盤のある官僚を弾圧していった明初期の朱元璋(洪武帝)と類似している、と指摘します。この毛沢東路線が経済的には破綻した後、鄧小平による改革開放路線が進められますが、それは、中華理念と皇帝専制を残したまま、明の対外方針を転換させたダイチン・グルンと重なる、と本書は指摘します。中央と下層の乖離や地域間格差といった現代中国の問題は歴史的に形成されてきたものであり、ヨーロッパ基準では理解が容易ではないだろう、というのが本書の見解で、これには学ぶべきところが多いのではないか、と思います。