日本の多様性

 もう20年近く前(2001年5月24日)になりますが、大山誠一『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)を取り上げました(前編および後編)。今となっては恥ずかしい限りですが、聖徳太子は架空の人物である、という大山説にたいして、批判的なところもあったとはいえ、当時はおおむね肯定的でした(関連記事)。その後、2008年頃までには大山説にかなり批判的になっており(関連記事)、近年ではおおむね否定的になりました(関連記事)。しかし今でも、「進歩的で良心的な」人が、大山説に肯定的な立場から聖徳太子「架空人物説」を「ネトウヨ」に突き付けている姿がたまに見られ、大山説の影響は根強いのだな、と残念に思います。やはり、地上波のテレビ番組でも取り上げられただけに、大山説は広く認知されているのでしょう。「ネトウヨ」に肯定的な立場から大山説を突き付けるような人は、聖徳太子の「存在を否定」すれば、「ネトウヨ」に精神的打撃を与えられる、とでも考えているのでしょうか。それはさておき、20年近く前も大山説に否定的だった見解の一つが、日本の多様性をめぐる評価です。『聖徳太子と日本人』は、以下のように述べています(P234)。

中国もインドもヨーロッパもアメリカも、確かに広いけれども、日本と比べて単調である。変化を感じない。それに反し、日本の多様性はどうだろう。北陸や東北の日本海側ほど雪が降るところは、地球上にないという。あるかも知れないが、人間が住んでいるところでは、ほかにないという。国境を越えると、もう違った世界ということが、どこでもそうなのだ。この日本の多様さは、まるで地球全体を凝縮したような感じである。

 20年近く前も、「欧州やインドや中国やアメリカは複雑多様な日本と比較して単調であるとの箇所は、正直なところ大山氏ほどの研究者にしては認識不足だと思う(特にインドについては)」と述べたのですが、その見解は今でも変わりません。今年(2019年)刊行された岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済新報社)は、日本史研究では日本の多様性が主張されることもあるものの、中国社会と比較すると日本社会はずっと単一的で均質的だ、と評価します(関連記事)。日本の多様性に関しては、『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の方が『聖徳太子と日本人』よりもずっと妥当な見解を提示している、と私は考えています。

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