梅津和夫『DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』

 講談社ブルーバックスの一冊として、講談社から2019年9月に刊行されました。本書はDNA鑑定の原理をその問題点・限界点とともに分かりやすく解説しており、DNA鑑定の具体例も示されていますから、入門書としてなかなか工夫されており、楽しめると思います。また、環境DNAなど最新の研究動向も抑えられており、この点もよいと思います。著者はDNA鑑定以前の、血液型などを用いた遺伝的情報の鑑定の時代から専門家として活躍しており、DNA鑑定の黎明期から現在の隆盛までを経験してきたため、本書は簡潔なDNA鑑定史としても興味深い一冊になっていると思います。

 このように、本書は全体的には良書だと思うのですが、日本人の起源と古代DNA研究に関する見解には疑問も残りました。まず、本書は全体的に「縄文人」の影響をやや過大に評価しているように思います。もちろん本書は、現代(本州・四国・九州とその近隣の島々を中心とする「本土」)日本人における「縄文人」の遺伝的影響が10~30%程度で、この数値は今後変動する可能性が高い、という近年の知見を踏まえてはいます。また、近隣の漢人・朝鮮人との比較で、日本人の遺伝的独自性の最大の要因が「縄文人」に由来する可能性は高いでしょうから、その意味で、日本人起源論で「縄文人」に注目するのは当然だとは思います。

 しかし、「大陸の言葉ではなく縄文語から連なる日本語」との見解は、現時点ではとても断定的に語ることはできず、他の可能性もじゅうぶん想定されるでしょう(関連記事)。本書は、「縄文人」の祖先集団が長江下流域から南西諸島に少数で到来し、その後日本列島を北上していった、との見解を提示しています。その根拠は、沖縄県民において「縄文人」型一塩基多型の割合が他の都道府県よりも顕著に高いことです。しかし、これは単に「縄文人」の遺伝的影響が、「本土」集団よりも琉球集団において高いこと、つまり弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団の遺伝的影響が、琉球集団よりも「本土」集団の方において高いことを反映しているにすぎない、との解釈もじゅうぶん成立するように思います。

 また本書は、「縄文人」の祖先集団の流入経路として、氷河時代に北方経路からの人類集団の到来は考えにくいと指摘していますが、北海道においては、後期旧石器時代後半にマンモスがシベリアから到来し、細石刃の出現から、人類集団も同様だったと考えられています(関連記事)。また、更新世もずっと寒冷期だったわけではなく、日本列島に現生人類(Homo sapiens)が拡散してき時期は、最終氷期極大期(LGM)よりもずっと温暖だった海洋酸素同位体ステージ(MIS)3と考えられています。「縄文人」の起源は、アジア東部のどこか特定の地域の小集団ではなく、アジア東部の複数地域の集団が日本列島に到来し、融合した結果である可能性の方が高い、と私は考えています。

 日本人起源論と関連して本書の見解で気になるのは、古代DNA研究への懐疑的な視線です。確かに、本書が指摘するように、分子時計はまだとても確定的な精度とは言えませんし、古代DNA研究において試料汚染は今でもひじょうに重要な問題です。本書がとくに懐疑的なネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のような古い年代のDNAでは、確かに深刻な問題と言えるでしょう。しかし、5年前(日本語版は4年前)に刊行された著書(関連記事)でも、試料汚染を防ぐための方法が詳しく解説されていますし、その後も試料から本来のDNAを抽出する方法論は改善されており、近年の論文でも試料汚染解決のための方法論は重点的に解説されることが多いように思います(関連記事)。また、そうした試料汚染除去とともに、より多くの内在性DNAを抽出する方法論も改善されてきています(関連記事)。古代DNA研究に関して、ヨーロッパやアメリカ合衆国のいくつかの研究所の資金力は豊富で、大規模かつ革新的です。正直なところ本書は、ヨーロッパやアメリカ合衆国の大規模な研究所の古代DNA研究を過小評価しているのではないか、と思います。

 本書はネアンデルタール人のDNA解析に懐疑的なことから、ネアンデルタール人と現生人類との交雑との見解にも懐疑的なのですが、その根拠として、ミトコンドリアDNA(mtDNA)でもY染色体DNAでも、ネアンデルタール人由来の領域が現代人では見つかっていない、ということが挙げられています。しかし、母系のmtDNAも父系のY染色体DNAも単系統遺伝なので失われやすい、と考えると別に強く疑問を抱くほどではないと思います。また、ネアンデルタール人のY染色体を有する個体は、ネアンデルタール人と現生人類との交雑集団において繁殖能力が低下し、排除された可能性が指摘されています(関連記事)。もしそうなら、ネアンデルタール人と現生人類との交雑において、ネアンデルタール人男性と現生人類女性という組み合わせが多かったというか一般的だったとすると、(出アフリカ系)現代人の常染色体DNAにネアンデルタール人由来の領域が認められるのに、ネアンデルタール人由来のmtDNAもY染色体DNAも確認されていない理由を上手く説明できそうです。もちろん、これ以外の想定もじゅうぶん可能ですが。


参考文献:
梅津和夫(2019)『DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』(講談社)

髙橋昌明氏による『中世の罪と罰』の書評

 網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』(東京大学出版会、1983年、私が所有している第9刷の刊行は1993年)が講談社学術文庫で再刊された、との呟きをTwitterで見かけました。新たに解説が所収されたのは魅力ですが、以前よりも日本中世史の優先順位が下がっているので、親本を所有しているのに新たに購入すべきか否か、迷っています。上記の呟きでは、『日本読書新聞』1984年5月21日号1面に掲載された、髙橋昌明氏による『中世の罪と罰』の書評が紹介されています。この書評は髙橋昌明『中世史の理論と方法 日本封建社会・身分制・社会史』(校倉書房、1997年)に所収されており、同書は一部の書店でまだ入手可能なようです。髙橋氏は、『中世の罪と罰』において4人の著者の間でほぼ共通の了解事項となっている論点を、以下のように整理しています。

(1)罪と罰の対応関係を現代風に割り切ることはできません。中世では、古代に淵源する罪と穢と禍を同一視する観念が強固に存続しており、そこでは穢と禍の除去=祓こそが問題でした。犯人にたいする刑罰の意識は希薄か、もしくは祓の観念を基底に中世的な刑罰が形成されました。

(2)統治者の側と在地では質的に異なった罪と罰の体系があり、ほとんどの中世人にとって現実に効力を有していたのは在地側の方でした。

(3)村落の秩序保持者たる在地領主と荘園領主の罪観念は異質なもので、後者の罪にたいする消極的な対応とは異なり、前者は積極的で厳しい処罰を強行しました。

(4)中世では路・辻・山・海などとそれ以外、あるいは夜と昼の世界など、場の性格と世界の違いにより、同一の好意が民事訴訟に基づく自力救済になったり、犯罪になったりしました。また、早い時代には正当な行為とされていたことが、時代が降ると罪になる場合もありました。

(5)物と人の本来的な一体性が損なわれた状態は不自然・不吉で、あってはならないこと、という呪術的な観念が広範に存在しました。

 髙橋氏は『中世の罪と罰』をこのように整理し、同書に代表される現在(1984年時点)の「社会史ブーム」は、高度に管理化された現代社会の重圧、あるいは高度経済成長以後のさまざまな精神的荒廃にたいする反発や、失われた人と人の絆、人と物、人と自然の結びつき、自立的・主体的労働の回復などといった人間的な願望に深く根差したものだろう、と指摘します。そのうえで髙橋氏は、こうした願望は、未来への展望が困難な中で、前近代社会、とくに最も非管理的で個人の実力がものをいう中世社会への興味・関心となって現れたのではないか、との見解を提示しています。

 髙橋氏はこのように1984年時点での「社会史ブーム」を解説したうえで、それが、こうした現代人の内面の不満とはかなりずれたところで、仲間内にしか通用しない「隠語」で高度な議論の遊戯にふけっているかに見える、マルクス主義史学も含めた戦後歴史学にたいする不信・鋭い批判にもなっている、と指摘します。髙橋氏は、歴史学の一部に見られる、「社会史には課題意識がない」とか「一種の知的遊戯」とかいった、生真面目ではあるものの高慢な論難は、天に唾する行為に他ならない、と指摘します。社会史には「課題意識がない」のではなく、違った視角からの、違ったスタイルの「課題意識」がある、というわけです。当時、髙橋氏をアンチ「四人組(『中世の罪と罰』の著者4人)」とみなす人もいたようですが、髙橋氏は『中世の罪と罰』を高く評価し、戦後歴史学「主流」側の奮起を促しています。髙橋氏はとくに、笠松氏と勝俣氏について、法制史の伝統的見地を十二分に踏まえた正統派の知的営為で、両氏に比肩するほどの後継者は容易に現れないだろう、と高く評価しています。

 また髙橋氏は、「四人組」との評価は不適切で、4人の立場や現代的な関心も相当に異なる、と指摘します。髙橋氏は、笠松・勝俣両氏と網野・石井両氏の違いとして、網野・石井両氏が笠松・勝俣両氏と多くの点で意見・認識を共有しながら、主題を戦後歴史学と直接切り結ぶところに設定している、と指摘します。髙橋氏は、おそらく4人のうちで笠松氏と網野氏がその両極をなすだろう、と評価しています。髙橋氏はそこから、驚くべき密度を誇る笠松氏の所論にもしアキレス腱があるとすれば、案外それは笠松氏の現代法にたいする理解ではないだろうか、と指摘します。髙橋氏は、「課題意識」とその根底にある現代にたいする認識において、我々は自他ともにもう少し厳しい問いかけをすべきだ、と締めくくっています。

 髙橋氏の書評は、当時の学界の雰囲気が窺えるという点でも興味深いものになっています。『中世史の理論と方法』の後書きを読むと、大学紛争以後の学問をとりまく環境と若者の生態・価値観・政治意識が急速に変わりつつあり、そうした背景で社会史が劇的に台頭した、との髙橋氏の認識が窺えます。同書からは、階級闘争や国家論を主題とした戦後歴史学で育った髙橋氏がこの急速な変化にどう対応すべきか、苦悩していたことが窺えます。髙橋氏は学部生だった1960年代半ばに、出張講義に来た黒田俊雄氏にたいして、「もっと階級的にやってください」と注文をつけたそうです。1960年代半ばには、学部生(とはいっても、「意識の高い」一部だったのでしょうが)が研究者にたいしてこのように発言する雰囲気もあったのでしょう。それが、1980年代半ばには大きく変わっていたようです。

 私の実体験は1990年代前半ですが、ある研究者(日本中世史専攻ではありません)は、1970年代と比較して現在(1990年代前半)の学生の気質は大きく変わった、「反左翼的な」見解を述べても強く反発する学生はほぼいなくなった、と発言していました。1970年代から1980年代前半にかけて日本社会の若者をとりまく知的状況は大きく変わり、それは冷戦終了とソ連崩壊により決定的になったのかもしれません(髙橋氏の書評から窺えるように、上の世代の研究者ではまた様相が異なるのでしょうが)。これを堕落と考えるような人も日本社会にはまだ少ないながら存在するのかもしれませんが、マルクス主義が絶対的な権威から転落したこと自体は、たいへん歓迎すべきではないか、と私は考えています。

中曽根康弘元首相死去

 中曽根康弘元首相が今日(2019年11月29日)101歳で亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。中曽根氏は私が小中学生の頃の首相で、政治に関心を抱き始めて間もなくの頃に首相に就任したため、私にとっては強く印象に残っている政治家でした。各報道ではアメリカ合衆国のレーガン大統領(当時)との蜜月関係が指摘されていますが、中曽根政権期は、その前後も含めて日米貿易摩擦がたいへん深刻だった、との個人的印象を抱いています。中曽根政権は基本的に従米路線を強化したように思いますが、この選択は、少なくとも最悪の選択ではなく、むしろましな部類に入るのではないか、と私は考えています。当時の日本に、アメリカ合衆国から「自立」するだけの条件は整っておらず、無理に「自立」しようとすれば、史実よりも早く日本は(他国との相対的比較において)衰退していた可能性が高いように思います。また従米路線とも関連しますが、日本における「新自由主義」の始まりは中曽根政権だろうとも思います。それが現在の日本社会にどのような影響を及ぼしたのかというと、私の政治的信条からは否定的な評価になってしまうのですが、率直なところ、私の見識で的確な判断ができるはずもなく、今後、専門家の見解を少しずつでも学んでいくつもりです。

 中曽根政権は当初、田中曽根内閣とも揶揄されましたが、首相として実権を掌握していき、ついには後継者を指名して無投票で自民党総裁が選出されるような事態を作り上げた中曽根氏の政治手腕は見事だったと思います。正直なところ、中学生の頃の私は、中曽根氏の復古的な側面が気に入らず、かなり嫌っていましたが、権力者として優れていたことは否定できないでしょう。もっとも、権力者として優れていることが政策の良さを保証するわけではないので、政治的功績の評価はまた別問題ですが。また、中曽根氏は教養の点でも、宮澤喜一元首相などとともに政治家の中ではかなり優れていた方だと思います。旧制高校が廃止されて長年経過した現在、中曽根氏のような教養のある政治家が頭角を現すことはなかなか期待しづらいように思います。

 従米路線との関連で、今日たまたま見かけた呟きで気になったのは、

文政権というのは鳩山小沢政権2.0というシミュレーション的なところがあってね、小沢という人間が本当に危ういのは保守からリベラル、護憲から自主防衛、ネオコンからソーシャリズムまでその時その場で主張は幾らでも変わるくせに対米自立と親中だけは決してブレないところ。なあ怖いだろ。

というものです。しかし小沢氏は、石原慎太郎氏と野中広務氏という、自民党のなかでも対極の立ち位置だっただろう二人から行き過ぎた対米従属を批判された人物でした。もちろん、石原氏と野中氏の認識が妥当なのか、という問題はありますし、「普通の国」を目指した小沢氏は、短期的には対米従属を強化するように見えて、長期的には対米自立を目標としていたのだ、との評価も可能かもしれません。しかし、小沢氏が一貫して「親中」との評価にはかなり疑問が残ります。民主党への合流前の自由党時代の小沢一郎氏は、中国から警戒される政治家でした。それが、小泉政権で日中の政権間の関係が悪化し、自民党でも野中氏たち対中利権を掌握していた経世会の影響力が低下すると、中国に接近していったような印象があります。率直に言って、自由党時代の小沢氏の対中姿勢は、自民党在籍時に経世会での権力闘争に敗れたさい、中国利権の大半を掌握できなかったために「反中」となり、日中の政府関係の悪化や経世会の影響力低下などにより、対中利権に食い込めそうになったので「親中」に転向しただけで、とくに一貫した政治姿勢はないようにも思います。まあ、私は約30年にわたってずっと強烈な「アンチ小沢」なので、悪意に満ちた歪んだ小沢氏認識を抱いているのかもしれませんが。

血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的要因

 血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的要因に関する研究(Thompson et al., 2019)が公表されました。循環白血球におけるY染色体喪失のモザイク(LOY)は、細胞のクローン性増殖によるモザイク現象の最も一般的な形態ですが、その原因や結果についての知見は限られています。この研究は、新たな計算手法を用いて、イギリスのバイオバンク研究に登録されている男性集団(205011人)の20%が検出可能なLOYを有すると推定される、と示しています。

 この研究では、常染色体上の156のLOY遺伝的関連座位が特定され、これらはヨーロッパ系および日本系の男性757114人において再現性が確認されました。これらの座位からは、細胞周期の調節やがんの感受性に関わる遺伝子に加え、腫瘍増殖の体細胞性ドライバー変異や癌治療の標的に関与する遺伝子が明らかになりました。LOYの遺伝的感受性は、男性および女性の両方において、健康に及ぼす非血液学的影響に関連している、と実証されました。これは、クローン性造血が他の組織のゲノム不安定性のバイオマーカーである、という仮説を裏づけています。

 この研究では、単一細胞RNA塩基配列解読から、LOYの見られる白血球には複数の常染色体遺伝子の発現に調節異常がある、と明らかになり、このような細胞のクローン性増殖が起こる理由についての手掛かりが示されました。総合すると、これらのデータは、癌やその他の加齢関連疾患の根底にある基本的な機構を明らかにするために、クローン性モザイク現象を調べる価値がある、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:血液におけるY染色体喪失モザイクの遺伝的素因

遺伝学:Y染色体喪失のモザイク

 J Perryたちは今回、英国バイオバンクに登録されている男性の循環白血球において、細胞のクローン性増殖によるモザイク現象の一般的な形態であるY染色体喪失モザイク(LOY)について、ゲノム規模関連解析を行った結果を報告している。LOYを検出する新たな手法によって、この男性集団の約20%が検出可能なLOYを持つという推定が得られた。また、常染色体上の156のLOY遺伝的関連座位が特定され、これらは別のヨーロッパ系男性集団および日系男性集団で再現性が確認された。さらに、白血球LOYへの遺伝的感受性が、広範な非血液がんと相関することも分かった。



参考文献:
Thompson DJ. et al.(2019): Genetic predisposition to mosaic Y chromosome loss in blood. Nature, 575, 7784, 652–657.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1765-3

記憶の再固定化阻害によるアルコール摂取量の減少

 記憶の再固定化阻害によるアルコール摂取量の減少に関する研究(Das et al., 2019)が公表されました。再固定化は記憶を維持するプロセスで、再活性化した長期記憶が一時的に不安定化して、新しい情報を取り込みます。不安定化した記憶は、N-メチルD-アスパラギン酸受容体(NMDAR)経路により、新しい形の記憶として安定化します。この記憶の再固定化が進行している間に(ケタミンなどのNMDAR拮抗薬の投与による)薬理学的介入を実施すれば、不適応報酬記憶(たとえば、有害な薬物使用行動に関連する記憶)を弱められる可能性がある、と考えられています。

 この研究は、ケタミンが過度のアルコール使用行動に関連する記憶を弱めて、飲酒量を減らせるかどうか、検証しました。この研究に集められたのは、有害な飲酒パターンを示しているものの、アルコール使用障害と正式には診断されておらず、治療を求めていなかった参加者90人(男性55人と女性35人、平均年齢約28歳)でした。そのうちの60人に、一連のビールの画像を見せて、アルコールに関連する不適応報酬記憶を想起させてから、ケタミン(30人)または生理食塩水(30人)を注射しました。残りの30人には、記憶の想起をさせずにケタミンを注射しました。

 次に、いくつかの追跡調査時点を設定し、参加者が飲酒行動(飲酒量・楽しさ・欲求)の変化に気づいた場合に、その変化を報告させました。その結果、記憶の想起があった後にケタミンを投与した場合、その後の最大9ヶ月間に1週間の飲酒日数が減り、アルコール摂取量も減少した、と明らかになりました。ケタミンと記憶の想起の組み合わせは、ケタミンの単独投与よりも飲酒を大きく減らすことができました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】記憶の再固定化を阻害すればアルコール摂取量を減らせるかもしれない

 アルコール報酬記憶を想起した直後にケタミンを単回投与すると、この記憶の再固定化が阻害されて、アルコール摂取量の減少につながった。この研究結果を報告する論文が今週掲載される。今回の研究には90人が参加した。

 再固定化は、記憶を維持するプロセスであり、再活性化した長期記憶が一時的に不安定化して、新しい情報を取り込む。そして、不安定化した記憶は、N-メチルD-アスパラギン酸受容体(NMDAR)経路によって新しい形の記憶として安定化する。この記憶の再固定化が進行している間に(ケタミンなどのNMDAR拮抗薬の投与による)薬理学的介入を実施すれば、不適応報酬記憶(例えば、有害な薬物使用行動に関連する記憶)を弱められる可能性があると考えられている。

 今回の研究で、Ravi Dasたちは、ケタミンが過度のアルコール使用行動に関連する記憶を弱めて、飲酒量を減らせるかどうかを明らかにしようとした。この研究に集められたのは、有害な飲酒パターンを示しているが、アルコール使用障害と正式に診断されておらず、治療を求めていなかった参加者90人(男性55人と女性35人、平均年齢約28歳)だった。そのうちの60人に、一連のビールの画像を見せて、アルコールに関連する不適応報酬記憶を想起させてから、ケタミン(30人)または生理食塩水(30人)を注射した。残りの30人には、記憶の想起をさせずにケタミンを注射した。次に、いくつかの追跡調査時点を設定し、参加者が飲酒行動(飲酒量、楽しさ、欲求)の変化に気づいた場合に、その変化を報告させた。その結果、記憶の想起があった後にケタミンを投与した場合、その後の最大9か月間に、1週間の飲酒日数が減り、アルコール摂取量も減少したことが判明した。ケタミンと記憶の想起の組み合わせは、ケタミンの単独投与よりも飲酒を大きく減らすことができた。



参考文献:
Das RK. et al.(2019): Ketamine can reduce harmful drinking by pharmacologically rewriting drinking memories. Nature Communications, 10, 5187.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-13162-w

メンフクロウの白い羽衣は獲物を捕らえやすくしている

 メンフクロウの白い羽衣と獲物の捕獲に関する研究(San-Jose et al., 2019)が公表されました。月光は、個体の食餌発見能力を変えたり、動物が身を隠したままにしたりするなど、動物の模様の働きを変化させています。また月は、夜の世界をさまざまな光にさらしており、それが夜行性動物の配色の進化を促進している可能性もあります。この研究はGPSトラッカーを利用し、異なる月齢のもとでの赤色および白色のメンフクロウの狩猟成功率をモニタリングしました。その結果、白いフクロウは、月のある夜には獲物からの視認性が高いにも関わらず、赤みが最も強くて目につきにくいと考えられるフクロウよりも、齧歯類の狩猟に成功する確率が高い、と明らかになりました。

 この研究は、白いフクロウの成功率が高かった理由を明らかにするため、ジップワイヤーで剥製のフクロウを飛ばし、メンフクロウの主要な獲物であるハタネズミの驚愕反応を評価しました。すると、白いフクロウの羽毛は光を反射しており、ハタネズミの生来的な明るい光への嫌悪を利用している現象が観察されました。ハタネズミは立ちすくんでしまうため、フクロウはハタネズミの捕獲が容易になると考えられます。メンフクロウで白と赤の両方のタイプの羽衣が維持されていることはこの現象によって説明されるかもしれない、とこの研究は推測しています。白いメンフクロウが有利になるのは、満月のもとなど、特定の条件でのみです。それ以外の状況では、白い羽衣はハシボソガラスなどの厄介な競争相手から容易に発見される原因となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物行動学】白い羽衣は目くらまし

 満月のもとで、メンフクロウの白い羽衣は、獲物が立ちすくむ時間を長くし、それによって獲物を捕らえやすくしていることを明らかにした論文が掲載される。

 月光は、個体の食餌を発見する能力を変えたり、動物が身を隠したままにしたりするなど、動物の模様の働きを変化させている。また月は、夜の世界をさまざまな光にさらしており、それが夜行性動物の配色の進化を促進している可能性もある。

 今回、Alexandre Roulin、Luis San Joseたちは、GPSトラッカーを利用して、異なる月齢のもとでの赤色および白色のメンフクロウの狩猟成功率をモニタリングした。その結果、白いフクロウは、月のある夜には獲物からの視認性が高いにもかかわらず、赤みが最も強くて目につきにくいと考えられるフクロウよりも、齧歯類の狩猟に成功する確率が高いことが分かった。

 研究チームは、白いフクロウの成功率が高かった理由を明らかにするため、ジップワイヤーで剥製のフクロウを飛ばし、メンフクロウの主要な獲物であるハタネズミの驚愕反応を評価した。すると、白いフクロウの羽毛は光を反射しており、ハタネズミの生来的な明るい光への嫌悪を利用している現象が観察された。ハタネズミは立ちすくんでしまうため、フクロウはハタネズミの捕獲が容易になると考えられる。

 メンフクロウで白と赤の両方のタイプの羽衣が維持されていることはこの現象によって説明されるかもしれないと、研究チームは考えている。白いメンフクロウが有利になるのは、満月のもとなど、特定の条件でのみである。それ以外の状況では、白い羽衣は、ハシボソガラスなどの厄介な競争相手から容易に発見される原因となる。



参考文献:
San-Jose LM. et al.(2019): Differential fitness effects of moonlight on plumage colour morphs in barn owls. Nature Ecology & Evolution, 3, 9, 1331–1340.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0967-2

スコットランド人の遺伝的構造

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、スコットランド人の遺伝的構造に関する研究(Gilbert et al., 2019)が報道されました。ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々では、移住と侵略により現代人集団が形成されてきました。ブリテン島に人類が移住してきたのは更新世で、完新世になると、紀元前4000~紀元前3000年頃に農耕民が移住してきて、銅器時代~青銅器時代には鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡散により大規模な人口置換があった、と推測されています(関連記事)。

 ブリテン諸島集団の遺伝的構造はここでほぼ確立し、その後の移住も遺伝的影響を及ぼしたものの、置換は起きませんでした。青銅器時代以後の遺伝的影響として、400~650年頃のアングロサクソンの侵攻が、イングランド南部におけるより高いゲルマン関連系統と関連していることや、8~11世紀のヴァイキングの侵略が、オークニー諸島とアイルランドにおけるノルウェー人関連系統の増加と関連していることなどが挙げられます。さらに、アイルランド北東部では、おもに17世紀においてスコットランドとイングランド起源の集団との混合がありました。

 ブリテン島とアイルランド島の集団遺伝学の以前のゲノム規模調査では、イングランド・ウェールズ・アイルランドと比較して、スコットランドとその近隣地域のデータが少ない、という問題がありました。本論文はこの問題に対処するため、既知のデータとシェトランド諸島・マン島・スコットランド西岸の遺伝的データを組み合わせて、ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々の計2544人のゲノムデータセットを作成し、包括的に分析しました。さらに本論文は、2225人のスカンジナビアの人々のデータセットも比較しました。本論文はこの統合されたデータを用いて、スコットランドとその周辺の島々における、遺伝子構造、ヴァイキングの遺伝的影響、古代アイスランドの創始者集団の遺伝的起源を検証しました。

 これらのデータセットに基づく地理的集団の系統樹では、まずシェトランド諸島およびオークニー諸島集団とその他の他集団に分岐します。後者では、イングランドおよびウェールズ集団とその他の集団が分岐します。さらに後者では、アイルランド集団とスコットランド集団が分岐します。スコットランド集団は、ヘブリディーズ諸島集団とスコットランド北東部および南西部集団が分岐します。ブリテン島およびアイルランド島とその周辺の島々では、遺伝地理的構造がかなりの程度明確に示されています。

 これらの集団の遺伝的構成は、イングランド・ウェールズ・スコットランド・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの6系統の混合モデルでも分析されました。このうち、ウェールズはケルト、イングランドはサクソン、ノルウェーはノースという古代集団をほぼ表しています。ノルウェー系統はヘブリディーズ諸島集団で約7%と低く、スコットランド北部および南西部(アーガイル)とマン島でも約4%と低くなっています。アイルランドでもノルウェー系統の割合は平均7%と低くなっています。スコットランド東部とマン島では、イングランド系統の割合が比較的高くなっています。

 これらのゲノムデータは古代集団とも比較されました。アイスランド古代集団は遺伝的にはゲール人系統とノース人系統とに二分されます。ゲール人系古代アイスランド集団は、スコットランドとアイルランドのゲール人系集団と最大の類似性を示します。ノース人系統古代アイスランド集団と最も低い遺伝的類似性を示すのは、ドニゴールとヘブリディーズ諸島とアーガイルで、これらは、ヴァイキングの激しい活動があったブリテン諸島北西部地域とアイルランド島です。こうした現代人集団の遺伝子的構造は、アイスランドの創始者集団が、ブリテン島北西部もしくはアイルランド起源だったことを示唆します。

 本論文は、ブリテン諸島において、北部ではノース人系統が、南東部および西部ではサクソン人およびケルト人系統が強いことを明らかにしています。とくにオークニー諸島とシェトランド諸島集団は、スカンジナビア外ではノルウェー系統を最高水準で有しています。本論文が示す現代のスコットランドの地域的な遺伝的構造は、明らかな自然障壁がないにも関わらず、暗黒時代(西ローマ帝国が崩壊した476年~1000年頃)の王国の分布と地理的によく一致します。産業革命以後の流動性の増加にも関わらず、過去1000年ほど、スコットランドでは人類集団の大きな移住・遺伝子流動がなかったことを表しているのでしょう。

 また、ヘブリディーズ諸島とスコットランド高地とアーガイル地方とアイルランドのドニゴール州とマン島の集団は、他の地域集団と比較して遺伝的孤立の特徴を示します。ヨーロッパ北部からのヴァイキングの影響は、アイルランドでは以前の推定よりずっと低くなりました。本論文は、この新たな推定が、ヨーロッパ北部系がほとんど見られないアイルランドのY染色体データともよく一致している、と指摘します。また本論文は、これらの遺伝的知見がブリテン島とアイルランド島における地理的に異なる病気発生率の解明にも役立可能性も指摘しています。


参考文献:
Gilbert E. et al.(2019): The genetic landscape of Scotland and the Isles. PNAS, 116, 39, 19064–19070.
https://doi.org/10.1073/pnas.1904761116

山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」

 言語系統やその起源については明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。本論文は、現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説を大前提として、言語系統について考察しています。言語学において現生人類アフリカ単一起源説の影響はまださほどないものの、その意味は小さくなく、しばしば珍説とされてきた「人類言語単一起源説」の可能性も浮上する、と本論文は指摘します。本論文は2013年の講演会の文書化なので、2019年11月時点では情報はやや古くなっています。その点にも言及しつつ、以下に本論文の内容を備忘録的に述べていきます。

 まず、本題とはほとんど関わらないのですが、本論文では180万年前頃以降とされている人類の出アフリカは、現在では200万年以上前までさかのぼる、とされています(関連記事)。「Y染色体アダム」、つまり現代人のY染色体DNA系統の合着年代について、本論文では6万~8万年前頃との見解が採用されていますが、その後、338000年前(95%の信頼性で581000~237000年前の間)という研究(関連記事)と、239000年前頃(95.4%の信頼性で321000~174000年前の間)という研究(関連記事)が提示されています。本論文は、「ミトコンドリア・イヴ」、つまり25万~15万年前頃と推定されている(関連記事)現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統の合着年代の方が「Y染色体アダム」より古いので、人類言語単一起源説の考察ではY染色体の方は考慮しない、と述べていますが、現時点では「ミトコンドリア・イヴ」よりも「Y染色体アダム」の方が古くなります。

 本論文の認識で何よりも問題となるのは、「ミトコンドリア・イヴ」以前の現生人類の系譜をひく人類は現存しないので、「ミトコンドリア・イヴ」の時点で言語があれば、「彼女」の言語こそ「世界祖語」と言える可能性が高い、としていることです。しかし、「ミトコンドリア・イヴ」は現代人のmtDNA系統における合着年代を示しているにすぎず、「Y染色体アダム」がそうであるように、他のDNA領域、つまり核DNAに注目すると、また異なる合着年代が示されます。当時存在した「ミトコンドリア・イヴ」以外の人々でも、もちろん核DNAは現代人にまで継承されているわけで、そうした人々のmtDNA系統は現代人に継承されていないとしても、言語が現代人に継承されている可能性は高いでしょう。逆に、「ミトコンドリア・イヴ」の帰属する集団の言語が、大きく異なる他集団の言語に駆逐・置換された可能性も低くありません。

 このように本論文の認識には疑問が残りますが、伝統的な比較言語学による系統証明方法の限界のために、言語学では現生人類アフリカ単一起源説への注目が高まらない、との本論文の指摘は興味深いと思います。本論文は、語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘します。これは、単なる偶然の一致を越えて基礎語彙が共有される期間がこの程度だからです。そうした限界を超えようとした研究もあり、ノストラ語族という大語族を提示した研究もあるものの、その手法には多くの批判が寄せられ、とても通説とはなっていません。ただ本論文は、手法の誤りもしくは稚拙さが結論の誤りを証明しているとは限らない、と注意を喚起しています。

 本論文は、現代人の言語系統の問題に関して、まず人類がいつ言語を獲得したのか、考察しています。本論文は、現生人類に言語があったことは多くの研究者の間で前提とされているようだ、と指摘します。そこで言語の獲得時期について焦点となったのは、現生人類の近縁系統であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でした。ネアンデルタール人については、現代人のような言語を話せなかっただろう、との見解が以前には有力でしたが、その後、舌骨の研究や舌下神経管から、ネアンデルタール人も現代人とほぼ同様に音声言語を使えたのではないか、との見解が提示されています。これは、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の段階で、現代人にかなり近い音声言語能力があったことを示唆します。本論文は、現生人類も最初から言語を有していただろう、と指摘します。

 本論文が言語単一起源説との関連で注目したのは、5万年前頃に現生人類の文化に飛躍的な発展があったとする見解(創造の爆発論)です(関連記事)。創造の爆発論では、5万年前頃の現生人類における飛躍的な文化発展は神経系の遺伝的変異を基盤としており、現代人のような複雑な言語活動もここで初めて可能になった、と想定されます。本論文は、現代人の主要な祖先集団が6万年前頃にアフリカからユーラシアに拡散したとすると、現代人のような複雑な言語は現生人類の出アフリカ後に獲得されたことになるので、言語単一起源説は必ずしも成立しない、と指摘します。それでも本論文は、不用意に文化的な発達と言語の発達を関連づけることには慎重でなければならない、と指摘します。ただ、本論文は創造の爆発論を誤読しているところがあり、創造の爆発論では、飛躍的な文化発展の基盤となった神経系の遺伝的変異は現代人の主要な祖先集団の出アフリカ前とされており(そうでなければ、各地で複雑な言語活動を可能とする遺伝的変異が独自に起きたことになります)、言語単一起源説と創造の爆発論は矛盾しないと思います。創造の爆発論の5万年前頃という年代も、6万年前頃という現代人の主要な祖先集団の出アフリカの年代もあくまでも幅のある推定値であり、それぞれ確定的ではありません。

 本論文がもう一つ注目したのは、発話能力との関連が指摘されているFOXP2遺伝子に関する研究です。本論文は、現代人型のFOXP2遺伝子の出現時期について、10万~1万年前頃の可能性が最も高く、20万年以上前にさかのぼることはない、という研究を紹介していますが、FOXP2遺伝子が言語能力にのみ関与しているのか不明で、言語能力の獲得には複数の遺伝子が関与している可能性もあるので、FOXP2遺伝子は言語獲得時期の推定の決定的根拠にはならないかもしれない、と指摘します。この本論文の指摘は妥当だと思います。本論文では言及されていませんが、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子も現代人型です(関連記事)。また、本論文の後の研究では、FOXP2遺伝子の発現に影響を及ぼすFOXP2遺伝子の周辺領域において、ネアンデルタール人と現代人とで違いがある、と指摘されています(関連記事)。ただ、これが言語能力とどう関わっているのかは、まだ不明です。

 本論文はまとめとして、遺伝学的研究の進展により現生人類アフリカ単一起源はほぼ確 実となったものの、それにより直ちに言語単一起源説が成立するかというと、以前と比較してその可能性が高くなったとは言えても、現段階では一つの仮説に留まり、結論は保留せざるを得ない、との見解を提示しています。この見解は妥当なところだと思いますが、現生人類の起源に関しては、もはや単純なアフリカ単一起源説では通用しなくなりつつあることも重要だと思います。一つには、現生人類とネアンデルタール人との交雑が明らかになったことですが、より重要なのは、アフリカ全体の異なる集団間の複雑な相互作用により現生人類は形成された、との見解(関連記事)が有力になりつつあるように思われることです。この見解では、現生人類アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、と想定されます。そうすると、現代につながるような言語は、単一起源というよりは、潜在的に言語能力を有する各集団が独自に発展させ、その相互交流・融合・置換の複雑な過程で形成されていった、とも考えられます。まあそれでも、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の段階の最初期言語を「世界祖語」と言えなくもありませんが、それは本論文の想定する「世界祖語」とは大きく異なるものだと思います。


参考文献:
山本秀樹(2013)「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会

大相撲九州場所千秋楽

 今場所は休場が多く、何とも寂しい限りでした。これは、以前よりも八百長が減っていることを反映しているのかもしれませんが、そうだとすると、やはり1場所15日・年間6場所は、力士への負担を考えるとあまりにも多すぎるのでしょう。とはいえ、本場所や巡業の日数を減らせば、それだけ力士をはじめとして相撲関係者の収入も減るわけで、これは相撲の存続という観点から好ましいことではありません。これも人間社会の問題に多いトレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくものなので、解決策は容易ではありません。

 休場した力士としてまず挙げねばならないのが横綱の鶴竜関で、すでに初日の取り組みも決まっていたにも関わらず、初日からの休場となりました。鶴竜関は、前師匠の井筒親方(坂鉾関)が亡くなったことで、精神的にかなり落ち込んでいるのかもしれず、来場所での引退も懸念されます。鶴竜関は肉体的にも満身創痍といった感じですから、状況は厳しいのですが、何とか復活してもらいたいものです。3人の大関陣のうち、豪栄道関は初日に負けて負傷し2日目から、高安関は3勝4敗で迎えた8日目から休場しました。高安関は大関から陥落し、来場所での復帰に挑むことになります。大関復帰をかけた関脇の栃ノ心関は、2連敗から2連勝して相撲勘が戻ってきたかな、と思ったところ、4日目の取り組みで負傷して5日目から休場となり、大関には復帰できませんでした。何とも残念ですが、大怪我から復帰してよく大関まで昇進したと思います。新入幕の頃から応援し続けてきただけに、優勝したことも含めて栃ノ心関には感謝しています。栃ノ心関とともに期待していた逸ノ城関は全休で、来場所は十両に陥落となります。何とか、早く幕内上位に戻ってきてもらいたいものです。

 優勝争いは、白鵬関が途中から単独首位に立ち、14日目に優勝を決め、千秋楽の貴景勝関との結びの一番にも勝ち、14勝1敗で43回目の優勝を果たしました。全盛期からかなり衰えた感のある白鵬関ですが、まだ現役最強であることは間違いないでしょう。というか、本来ならばすでに白鵬関も鶴竜関も引退に追い込まれ、世代交代となっていなければならないのですが、若手の伸び悩みにより、白鵬関と鶴竜関の両横綱は現役を続け、豪栄道関も大関の地位を保っています(来場所陥落しそうですが)。確かに白鵬関は相撲史に残る大横綱ですが、やはり、大相撲全体の水準が低下していることもあるのでしょう。日本社会全体の少子高齢化が進む中、旧悪と指弾されそうな要素の多い大相撲界に進みたいと考える少年も、息子を力士にさせたいと考える保護者も少ないでしょうから、全体的な力士の水準は以前よりも低下している可能性が高いと思います。いかにモンゴルやヨーロッパなどから有望な少年を入門させても、入門者で圧倒的に多いのは日本人ですから、日本社会の少子高齢化が進めば、力士全体の水準が低下しても仕方ないとは思います。これは容易に解決できる問題ではないので、大相撲も指導法などで大きな改善が必要なのでしょう。

 大関に復帰した貴景勝関は、先場所の優勝決定戦での大怪我が心配されましたが、9勝6敗と勝ち越しました。基本的には押し相撲で不安定なところがありますし、研究されてきて容易に勝てなくなっている感もありますが、次の横綱に最も近いとは思います。再度大怪我せず、早いうちにもう二段階くらい強くなって横綱に昇進してもらいたいものです。伸び悩んでいる若手力士の代表格とも言える御嶽海関(もう若手とは言いづらい年齢ですが)は先場所優勝し、今場所は、大関昇進、少なくとも足固めの場所として期待されましたが、6勝9敗と負け越してしまいました。御嶽海関は、白鵬関と鶴竜関が引退すれば、大関にまでは昇進できるかもしれませんが、稽古量の少なさも指摘されており、横綱昇進は難しそうです。一方、同じくすでに優勝経験のある朝乃山関は14日目まで優勝争いに加わり、11勝4敗として大関昇進への道を開きました。朝乃山関には成長も感じられ、あるいは貴景勝関よりも先に横綱に昇進するかもしれません。若手が伸び悩むなか、白鵬関と鶴竜関が引退したらどうなるのかと思うと恐ろしいくらいなので、貴景勝関と朝乃山関には早く横綱に昇進してもらいたいものです。

松本克己「日本語の系統とその遺伝子的背景」

 日本語の系統やその起源については以前当ブログで取り上げましたが(関連記事)、明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。日本語は系統的孤立言語の一つとされていますが、ユーラシア大陸圏における10近い系統的孤立言語の半数近くが日本列島とその周辺に集中している、と本論文は指摘します。日本語以外では、アイヌ語・アムール下流域と樺太のギリヤーク(ニヴフ)語・朝鮮語です。本論文は、こうした系統的孤立言語の系統関係を明らかにするには、伝統的な歴史・比較言語とは別の手法が必要になる、と指摘します。歴史言語学で用いられる、おもに形態素や語彙レベルの類似性に基づいて言語間の同系性を明らかにしようとする手法では、たどれる言語史の年代幅が5000~6000年程度だからです。つまり、たとえば日本語とアイヌ語の共通祖語があったとしても、少なくとも6000年以上はさかのぼる、というわけです。

 本論文は、伝統的な歴史言語学の手法では推定の難しい言語間の系統関係を推定する手法として、「言語類型地理論」を提唱しています。これは、各言語の最も基本的な骨格を形作ると見られるような言語の内奥に潜む特質、通常は「類型的特徴」と呼ばれる言語特質を選び出し、それらの地理的な分布を通して、世界言語の全体を視野に入れた巨視的な立場から、各言語または言語群の位置づけを見極めようとするものです。本論文は、ユーラシア大陸圏の言語をまず内陸言語圏と太平洋沿岸言語圏に分類し、さらに太平洋沿岸圏を南方群(オーストリック大語族)と北方群(環日本海諸語)に分類します。系統的孤立言語とされる日本語・アイヌ語・ギリヤーク語・朝鮮語は北方群に分類されています。本論文の見解で興味深いのは、内陸言語圏と太平洋沿岸圏にまたがると分類されている漢語を、チベット・ビルマ系の言語と太平洋沿岸系の言語が4000年前頃に黄河中流域で接触した結果生まれた一種の混合語(クレオール)と位置づけていることです。また本論文は、太平洋沿岸言語圏がアメリカ大陸にまで分布している、と把握しています。

 本論文は、言語学的分類を遺伝学的研究成果と結びつけ、その系統関係を推定しようと試みている点で、伝統的な言語学とは異なると言えるでしょう。遺伝学的研究成果とは、具体的にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の分類と、地理的分布および各地域集団における頻度で、本論文ではおもにYHgが取り上げられています。太平洋沿岸言語圏で本論文が注目しているYHgは、D・C・Oです。YHg-DとCは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団において、比較的早く分岐した系統です。YHg-Dの地理的分布は特異的で、おもにアンダマン諸島・チベット・日本列島と離れた地域に孤立的に存在します。本論文はこれを、言語地理学用語の「周辺残存分布」の典型と指摘しています。本論文はYHg-Cについても、Dよりも広範に分布しているとはいえ、周辺残存分布的と評価しています。本論文は、日本列島に最初に到来した現生人類のYHgはCとDだっただろう、と推測しています。しかし、本論文は地理的分布から、太平洋沿岸系言語と密接に関連するのはYHg-C・Dではなく、YHg-O1b(本論文公開時の分類はO2、以下、現在の分類名を採用します)と指摘します。YHg-Dが日本列島にもたらした言語は、人称代名詞による区分では出アフリカ古層系だろう、と本論文は推測しています。太平洋沿岸系言語と関連するYHg-O1bのサブグループでは、O1b1a1aが南方群、O1b2が日本語も含む北方群の分布とおおむね一致します。本論文は、アジア東部でもかつてはこうした太平洋沿岸系言語が存在したものの、漢語系のYHg-O2、とくにO2a2b1の拡散により消滅した、と推測しています。

 本論文は、日本語をもたらしたと推測されるYHg-O1b2の日本列島への到来について、アメリカ大陸における太平洋沿岸系言語の存在が重要な鍵になる、と指摘します。アメリカ大陸先住民の祖先集団は、アメリカ大陸へと拡散する前にベーリンジア(ベーリング陸橋)に留まっていた、とするベーリンジア潜伏モデルが有力です(関連記事)。このベーリンジアでの「潜伏」が最終氷期極大期(LGM)によりもたらされ、この「潜伏期」にボトルネック(瓶首効果)によりYHg-O1bが失われたとすると、日本語祖語となる太平洋沿岸系言語の担い手であるYHg-O1b2が日本列島に到来したのはLGM以前で、遅くとも25000年前頃だろう、と本論文は推測します。本論文は、この集団が石刃技法を有していた可能性も提示しています。このYHg-O1b2の到来により、日本列島の言語は、YHg-Dがもたらした出アフリカ古層系から太平洋沿岸系言語へと完全に置換された、と本論文は推測します。しかし、日本列島のYHg-Dは淘汰されず、現在でも高頻度(とくに高頻度のアイヌ集団を除くと3~4割)で足属している、と本論文は指摘します。

 本論文の見解はたいへん興味深く、今後、言語系統の研究と遺伝学的研究との融合が進んでいくだろう、と期待されます。ただ、YHg-O1b2系統における各系統への分岐が25000年前頃までに始まっていたのかというと、疑問も残ります。そうすると、日本列島へのYHg-O1b2の到来年代もずっと後になりそうです。何よりも、まだ「縄文人」においてはYHg-Oが確認されていません。YHg-O1b2はアジア東部にかつて現在よりも広範に分布しており、その中には弥生時代もしくは縄文時代晩期以降に日本列島へと農耕技術とともに到来した日本語祖語集団がいた、という想定の方が現時点では有力なように思われます。また、言語に代表される文化の変容と遺伝的継続・変容の程度との間には常に一定の相関が確認されるわけではなく、かなり多様だったと考えられるので(関連記事)、言語をはじめとして文化と遺伝的構成の関係については、固定的に把握してはならない、と私は考えています。日本語の起源と系統関係については、今後も長く議論が続いていきそうです。


参考文献:
松本克己(2012)「日本語の系統とその遺伝子的背景」千葉大学文学部公開講演会

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第44回「ぼくたちの失敗」

 1962年、ジャカルタで開催されたアジア大会において、アラブ諸国および中華人民共和国との連携を強化していたインドネシアのスカルノ政権がイスラム教徒と中華民国(台湾)を実質的に排除しようとしたため、田畑政治たち日本選手団は参加すべきか否か、苦悩します。田畑はけっきょく開会式直前に参加を決意しますが、日本ではこの決定が批判され、田畑が槍玉に挙げられます。オリンピック担当大臣の川島正次郎は、参加を決めたのは自分ではなく、東京オリンピック組織委員会の会長の津島寿一と都知事の東龍太郎と田畑だと責任転嫁を図ります。

 田畑は河野一郎から助言を受けて、正式大会から親善大会に変えようとしますが、インドネシア国民は激昂します。田畑は閉会後も国際陸連から責め立てられ、親善大会扱いにしようと画策しますが、失言によりさらに窮地に追い込まれます。川島はここぞとばかりに田畑と津島を責め立て、田畑と津島は国会に参考人として招致されます。田畑は国会で議員たちに糾弾され、自分がどこで間違ってしまったのか、考えます。田畑はかつて高橋是清と面会したさいに、政治家もオリンピックを利用すればよい、と言ったことを想起します。津島は批判に耐えられず、会長辞任を申し出ますが、田畑の辞任も条件とし、田畑は事務総長を解任されます。

 今回は田畑が解任へと追い込まれる政治劇でした。田畑が、自分の間違いの原点を探し、高橋是清との面会に思いが及ぶ場面は、長期の連続ドラマらしいつながりでよかった、と思います。ただ、今回もそれなりに長かった落語場面が、終盤になっても本筋と上手く接続しているとは言えないように思えるのは、残念です。まあ、田畑夫妻と落語の場面を重ねていたところは上手かったと思いますが。それでも、最終回では落語場面の重要な意味が浮かび上がってくるのではないか、と期待しています。

人間の歌の普遍的パターン

 人間の歌の普遍的パターンに関する研究(Mehr et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。音楽は人類共通の言語だと昔から言われてきましたが、音楽に意味のある普遍性が存在するかどうかは不明で、多くの音楽学者はこの見解にはたいへん懐疑的です。本論文は、人間の歌(ボーカル・ミュージック)の普遍性と多様性を明らかにするため、現代的なデータサイエンスと世界中の文化の音楽録音および民族学的記録とを融合させました。本論文は、315の文化における、1世紀以上に及ぶ人類学および民族音楽学の研究結果を異文化比較分析し、踊り・癒し・恋・子守の歌について、その背景に関する詳細な説明も添えた録音目録を作成しました。

 本論文は形式性・覚醒度・宗教性に基づいて各録音を比較し、音楽の普遍性が浮き彫りになった。本論文は、音楽が調査した全社会に存在し、予想通り、社会的な機能や背景(踊りや恋愛など)に関連していた、と明らかにしました。世界中のどの社会でも、歌の社会的機能は音楽的特徴から予測できる、と本論文は指摘しています。さらに本論文は、音楽の背景の多様性が文化間よりも文化内で大きいことも明らかにしました。人間の音楽には進化的背景があり、言語の進化とも関連しているかもしれないという点でも、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Mehr SA. et al.(2019): Universality and diversity in human song. Science, 366, 6468, eaax0868.
https://doi.org/10.1126/science.aax0868

森恒二『創世のタイガ』第6巻(講談社)

 本書は2019年11月に刊行されました。第6巻は、タイガたちがマンモス狩りに出かけて苦戦している場面から始まります。苦戦するタイガたちに、アラタがリクの作った槍を届け、タイガは崖からマンモスに飛び掛かり、残りの男たちがマンモスの腹を槍で突き、何とかマンモス1頭を仕留め、タイガは戦士としての名声をますます高めます。マンモスを倒した後の宴では蜂蜜酒も出されます。宴の後、タイガはウルフとともに見回り中にハイエナに襲われていた仔マンモスを思わず助けてしまいます。それを見つけたティアリは激怒しますが、人懐っこい仔マンモスをすぐに気に入り、世話をします。仔マンモスを集落に連れて行けば殺されてしまうので、タイガはじょじょにアフリカと名づけた仔マンモスを人離れさせます。

 狩猟に行ってネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との遭遇機会が増える中、リクは鉄鉱石を見つけて製鉄に取りかかります。そうした未来を先取りする行動にリクは苛立ちます。歴史を変えてしまうと、未来に影響が出てしまい、元の世界に帰れなくなるのではないか、とレンは恐れていました。そんなレンに、洞窟を調べて回ったが何の手がかりもなかったので、自分たちはもう元の世界には帰れない、何らかの目的のために自分たちは連れてこられたのだ、とタイガは諭します。旧石器時代に馴染めないレンですが、それはタイガに恋心を抱くユカも同様でした。

 タイガたちが言い争っていたところへ、集落で一番の快足のカシンが慌てた様子で現れ、これまで見たことがないほど多数のネアンデルタール人が西の森に集結している、とタイガたちに告げます。ネアンデルタール人が自分たちを襲い、集落を焼き、女子供を攫おうとしている、と考えた現生人類(Homo sapiens)集落の男性たちは、先制攻撃を仕掛けて殲滅しよう、と訴えます。ナクムも含めて集落の男性たちは、「現代人」ではタイガとアラタ、女性ではティアリを連れて、ネアンデルタール人を襲撃します。ところが、タイガやナクムやカシンたち現生人類の一団を発見したネアンデルタール人は逃げ出し、反撃しようとしません。あまりにもネアンデルタール人が少なく、逃げるだけなのを不審に思ったタイガたちは自分たちの集落に戻ります。その頃、木を伐りに行ったリクレンとチヒロのいない集落はネアンデルタール人に襲撃されていました。ネアンデルタール人たちが西の森に集結したのは陽動作戦だったわけです。集落は焼かれ、老人は殺され、若い女性たちはリカコとユカも含めてネアンデルタール人に連れ去られます。それをリクから知らされたタイガが激昂するところで第6巻は終了です。


 第6巻も、旧石器時代に適応していくタイガ・リク・アラタと、適応できず疎外感や無力感に苛まれるレンとユカという対比が描かれ、ここは普遍的な物語になっており、本作の魅力の一つだと思います。ネアンデルタール人との戦いは本格化し、ついに現生人類の集落が焼かれ、若い女性たちが連行されてしまいました。旧石器時代の戦いの主要な目的の一つは女性の獲得だった、という学説が採用されているのでしょうか。すでに作中ではネアンデルタール人と現生人類との交雑も言及されているので、タイガたちが若い女性たちの解放に成功した時にはすでに、ネアンデルタール人男性との間の子供を妊娠している女性もおり、その子供をどう扱うのか、ということを巡って現生人類の間で議論になるのかもしれません。そうだとすると、ここも普遍的な物語として描かれそうです。なお、タイガは仔マンモスをアフリカと名づけたさい、いずれこの大地はそう呼ばれると考えていますが、第1巻で、アラタは現在いる場所をアフリカ北部から中東と推測しています。ネアンデルタール人が存在することからも、現在の舞台は中東と考えるのが妥当だと思いますが、この点でも謎解きが進むことを期待しています。


 第1巻~第5巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

第5巻
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_44.html

ヨーロッパの中期中新世類人猿の二足歩行

 ヨーロッパの中期中新世類人猿の二足歩行に関する研究(Böhme et al., 2019)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事(Kivell., 2019)が掲載されています。常習的な二足歩行は、人類系統を定義する最重要とも言える特徴です。この常習的な二足歩行の進化については、その要因・過程・時期をめぐって長く議論が続いてきました。これは、アフリカの大型類人猿(ヒト科)の化石が少ないことに起因しており、そのため現生類人猿(ヒト上科)の移動様式が人類系統の常習的な二足歩行の研究において重視されてきました。人類系統における常習的な二足歩行の起源については、足の裏全体を地面につけて歩行する現生サルに似た四足動物(掌行性/蹠行性の四肢動物)から進化したという見解や、懸垂運動を頻繁に行なう現生チンパンジー属によく似た四足動物から進化したという見解も提示されています。

 人類に最近縁の現生動物はチンパンジー属で、その次がゴリラ属ですが、どちらも移動様式はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)なので、アフリカの大型類人猿系統からまずゴリラ系統が分岐し、その後にチンパンジー系統と人類系統が分岐したことから推測すると、常習的な二足歩行は現生チンパンジー属によく似た四足動物から進化したという見解の方が妥当にも思われますが、初期人類のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動様式は現生類人猿と似ていないので、この問題は未解明のままです。

 本論文は、ドイツのバイエルン州のアルゴイ地方で発見された、中期中新世となる1162万年前頃の類人猿化石を報告しています。この類人猿化石はダヌヴィウス・ガゲンモシ(Danuvius guggenmosi)と命名されました。この類人猿化石の四肢骨はほぼ完全に保存されており、「四肢伸展型よじ登り(extended limb clambering)」という新たに特定された位置的行動の形態の証拠が得られました。ダヌヴィウスの歯の特徴は、ドリオピテクス(Dryopithecus)類などのヨーロッパで見つかっている後期中新世の類人猿に最も似ています。

 ダヌヴィウスには、常習的な二足歩行動物である人類に見られるような幅広い胸郭・長い腰椎・伸展した股関節と膝・全類人猿に共通する長くて完全に伸展した前肢という、二足歩行動物の適応と懸垂型の類人猿の適応を組み合わせたような特徴が見られ、(非人類系統の)大型類人猿と人類系統との最終共通祖先のモデルになり得る、と本論文は指摘します。ダヌヴィウスは、前肢(前腕)で枝にぶら下がれた一方で、後肢(脚)は真っすぐに保たれており、歩行に用いられた可能性がある、というわけです。またダヌヴィウスは物を掴める第1趾を持っており、細い枝の上では足で枝を掴んで体を支え、地面では足の裏全体をつけて歩行していた、と推測されています。本論文は、ダヌヴィウスの系統的位置づけを提示しているわけではありませんが、ダヌヴィウスの移動様式は、類人猿が地上に降りる前から後肢での歩行を行なっていた、と示唆しています。

 ただ、ダヌヴィウスの化石で保存されている脊椎が不充分なので、移動様式の推定は難しい、とも指摘されています。しかし、ダヌヴィウスが(非人類系統の)大型類人猿と人類系統との最終共通祖先のモデルになり得る、との本論文の見解は、近年の知見とも整合的なように思います。すでにラミダスの詳細な分析以前に、(非人類系統の)大型類人猿と人類系統とが分岐する前の類人猿系統において、二足歩行はありふれており、人類系統とチンパンジー系統の最終共通祖先も同様だった、との見解が提示されていました(関連記事)。この見解によると、チンパンジー属系統とゴリラ属系統のナックル歩行は収斂進化となります。その後の研究では、この見解を裏づけるような研究が公表されました(関連記事)。チンパンジーとゴリラの大腿骨の発生パターンは著しく異なっており、全体的に類似したように見える両系統の骨格形態は収斂進化だろう、というわけです。

 この遺伝的基盤はまだ明らかになっていませんが、おそらくゴリラ属系統・チンパンジー属系統・人類系統の最終共通祖先の移動様式はダヌヴィウスに類似しており、それはチンパンジー属系統と人類系統の最終共通祖先でも同様だった可能性が高そうです。現代人は、人類が「最も進化している」、つまり派生的と考えがちかもしれませんが、ゴリラ属とチンパンジー属も人類と同じ時間進化してきたわけですから、人類の進化に関する考察では、人類系統が常に派生的とは限らない、と常に意識しておくべきなのでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【進化学】二足歩行を始める前の類人猿

 ドイツで発見された新種の化石類人猿について報告する論文が、今週掲載される。この化石標本は、約1160万年前の中新世に生息していた類人猿のものとされ、二足歩行する前の類人猿の姿に関する手掛かりとなっている。

 ヒト族の二足歩行と大型類人猿の懸垂の起源を説明する多くの学説が提示されてきたが、化石証拠がなかった。ヒト族の二足歩行については、足の裏全体を地面につけて歩行する現生サルに似た四足動物から進化したという考え方がある一方で、懸垂運動を頻繁に行う現生チンパンジーに最もよく似た四足動物から進化したという考え方も示されている。

 今回、Madelaine Bohmeたちは、完全な四肢骨が保存された新種の化石類人猿Danuvius guggenmosiについて記述している。この化石標本については、「extended limb clambering(四肢を伸ばした姿勢でのよじ登り)」と命名された新たな位置的行動の形態を示す証拠になるとBohmeたちは考えている。D. guggenmosiは、腕で枝にぶら下がることができたと考えられているが、脚より腕を多く使って移動する他の類人猿(例えば、テナガザルやオランウータン)とは異なり、後肢が真っすぐに保たれており、歩行に用いられた可能性がある。また、D. guggenmosiは、物をつかむことのできる第1趾を持っており、足の裏全体を地面につけて歩行していたと考えられる。

 Bohmeたちは、類人猿が地上に降りる前に後肢で歩行し始めた過程がD. guggenmosiの化石によって例証されていると結論付けている。


古生物学:中新世の新たな類人猿と、大型類人猿およびヒトの共通祖先のロコモーション

古生物学:二足歩行への道の途中

 今回M Böhmeたちによって、ドイツで中新世(約1170万年前)の未知の絶滅類人猿種が発見され、二足歩行を行うようになる前の類人猿の姿に光が当てられている。この化石類人猿は、前肢で木の枝からぶら下がることができたと考えられる。一方、その後肢は、ロコモーションにおいて脚が腕と同程度の貢献しかしないテナガザルやオランウータンとは異なり、習慣的にほぼ真っすぐに保たれていて、蹠行性だった(つまり、足裏全体を着地させて歩行していた)が、母趾の物をつかむ力は強く、細い枝の上では足で枝をつかみ体を支えていたと考えられる。この類人猿が、他の化石類人猿とヒト族の「共通祖先」や「ミッシングリンク」だったと示されたわけではないが(著者たちは今回、系統発生学的な再構築は試みていない)、これらの知見は類人猿が地上に降りる前から後肢での歩行を開始していた様子を物語っている。



参考文献:
Böhme M. et al.(2019): A new Miocene ape and locomotion in the ancestor of great apes and humans. Nature, 575, 7783, 489–493.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1731-0

Kivell TL.(2019): Fossil ape hints at how walking on two feet evolved. Nature, 575, 7783, 445–446.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-03347-0

『卑弥呼』第29話「軍界線」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年12月5日号掲載分の感想です。前回は、トメ将軍が、渡河して自分たちを謀反人扱いした那国と戦う、と決断したところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、トメ将軍とその配下の500人の兵士たちが、暈(クマ)と那の国境となる大河(筑後川と思われます)を暈側より渡る場面から始まります。那側の岸に那軍はおらず、トメ将軍は上陸を命じます。トメ将軍は前進して一気に那の「首都」である那城に向かうつもりでした。ホスセリ校尉の率いる、元々はトメ将軍の配下だった9000人の兵士がどこにいるのか、副官らしき男性に問われたトメ将軍は、軍界線だろう、と答えます。そこから先は兵士が入ることは禁じられています。突破できるのか不安げな副官に対して、自分たちの道を進むのみだ、とトメ将軍は力強く答えます。

 ヤノハは新生山社(ヤマト)国の兵士たちと共に千穂を目指しており、その手前の五瀬という邑に寄ろうとしていました。ミマト将軍・テヅチ将軍・イクメ・ミマアキも同行しています。千穂の手前の集落で兵士たちを休ませたいところだが、五瀬の邑が武装集団の我々を受け入れてくれるだろうか、とミマト将軍は半信半疑ですが、ヤノハは邑との交渉を命じます。ミマト将軍とその息子であるミマアキが交渉に向かうと、邑長らしき男性が現れ、余所者は入れない、と答えます。ミマト将軍は、新たな日見子(ヒミコ)様(ヤノハ)に従って来た我々の入場を拒むのか、と入場を認めるよう迫ります。その日見子様がなぜ辺境のここに来たのか、と邑長に問われたミマト将軍は、千穂に向かっている、誰かが鬼を倒さねばならない、と答えます。その返答を聞いた邑長はヤノハたちを集落内に招き入れます。邑長は老翁(ヲジ)を連れてきます。ヤノハは自分に平伏する邑長と老翁に、自分はたまたま神の声を聞けるだけで、年長者に頭を下げられるような殿上人ではない、と声をかけます。しかし、ヤノハの顔を見た邑長と老翁は慌てて平伏します。

 何百年もの間、誰も立ち入れないという千穂に向かおうとしているヤノハは、鬼八(キハチ)と呼ばれる怪物に五瀬邑から毎年8人の処女を差し出しているのは本当なのか、と邑長に尋ねます。本当だと答えた邑長は、明日また新たな人柱を出さねばならない、と言います。生贄に出された娘はどうなるのか、とヤノハに問われた邑長は、毎年鬼に食べられ、千穂の入口に捨てられている、と答えます。なんと酷い、と言うヤノハに対して、あれは化け物だ、と邑長は強く訴えます。天照大御神の聖地である千穂になぜ鬼が棲んでいるのか、とヤノハに問われた老翁は、この一帯の歴史を語ります。この一帯は天照大御神の子孫であるサヌ王(記紀の神武と思われます)とその兄たちが治めた地域でした。サヌ王は四男で、長男はイツセといい、五瀬邑に館がありました。次男はイナイ、三男はミケイリです。サヌ王は日見彦(ヒミヒコ)で、現世の王はイツセでした。サヌ王は兄3人とともに東征に赴いたものの、鬼八荒神(キハチコウジン)の侵略に気づき、兄のミケイリ王を遠征先から派遣しました。ミケイリ王と鬼八の間で壮絶な戦いが繰り広げられましたが、その結果については、ミケイリ王が敗れたという伝説と、ミケイリ王が勝って鬼八を家来にした、という言い伝えがあり、その後何があったのかは不明で、誰も千穂に入れなくなりました。このように老翁は説明し、邑長は、日見子様の降臨でようやく倭国が平和になるかもしれないのに、鬼八の成敗など考えないでほしい、とヤノハに懇願します。するとヤノハは、五瀬邑も倭の平和のうちであり、鬼ごときを退治できなくて自分に日見子を名乗る資格はない、と答えます。

 那の軍界線では、ホスセリ校尉の率いる9000人の軍勢と、トメ将軍の率いる500人の軍勢が対峙しています。ホスセリ校尉はトメ将軍に、ここから先は兵を連れていけない、と伝えます。ホスセリ校尉は、トメ将軍を那の都に連れてくるよう、指示を受けていました。自分は潔白で一点の曇りもない、と堂々と言うトメ将軍に対して、それは廷尉(現代の検察官、律令国家の検非違使)が決めることなので、裁きの場で潔白を申すよう、ホスセリ校尉は言います。自分一人で都へ向かうことは断る、行くなら500人の兵士全員と共にだ、と言うトメ将軍に対して、怖気づいているのか、とホスセリ校尉は問いかけます。するとトメ将軍は、嫌疑が自分だけではなく兵士全員にかかっているのではないか、と反問します。そこでホスセリ校尉は、全員武器を置いて投降してもらいたい、とトメ将軍に求めます。しかしトメ将軍は、それは道理ではあるものの、受け入れられない、と答えます。そもそも武器を捨てて無事に都までたどり着けるとは思えないし、島子(シマコ)のウラの手勢は虎視眈々と自分を狙っている、というわけです。

 わずか500人の兵士で9000人の兵士を突破するつもりなのか、と驚くホスセリ校尉に対して、我々は激戦の勇士なので、9000人の兵士ごときは容易に蹴散らす、とトメ将軍は言い放ちます。トメ将軍の率いる500の兵士たちの士気は高そうですが、ホスセリ校尉の率いる9000人の兵士たちは戦いたくなさそうです。トメ将軍が兵士たちに慕われていることを示した描写なのでしょう。するとホスセリ校尉は、トメ将軍以外は武器を捨てなくとも構わない、都までの道中は9000の兵士たちが護衛する、と言います。軍界線の先にはホスセリ校尉の率いる兵士たちも進めない決まりだ、と訝るトメ将軍に対してホスセリ校尉は、自分が受けた命は、謀反の嫌疑がかけられたトメ将軍を護送せよというもので、何人でその任に当たるかは指示されていないので、9000の兵士たちがトメ将軍を護送しても咎めを受けないはず、と説明します。ホスセリ校尉が、自分はトメ将軍の補佐で、9000の兵士たちも本来はトメ将軍の手勢であり、心は同じだ、と力強く言い、トメ将軍が笑みを浮かべるところで、今回は終了です。


 複数の勢力・人物の動向が描かれている本作ですが、しばらくは、那国の内紛と千穂の謎で話が進みそうです。那国の内紛は、トメ将軍がウツヒオ王を初めとして那国首脳部に、ヤノハを日見子と認めさせることで終息するのではないか、と予想しています。その結果、以前よりトメ将軍を嫌っており、また警戒もしていたウラは失脚するかもしれません。ウラは、トメ将軍に島子の地位を奪われるのではないか、と警戒しているのでしょうし、庶民出身のトメ将軍を軽蔑もしているのでしょう。おそらくトメ将軍は、倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後も那国の王位を奪うことはない、と予想しています。トメ将軍をホスセリ校尉と兵士たちが支持したのは、これまでの描写から納得のいく展開でした。人物造形も魅力の本作ですが、トメ将軍と鞠智彦(ククチヒコ)はとくに成功しているように思います。

 千穂の話は、ヤマタノオロチ伝説と神武東征説話が組み合わされた面白いものになりそうで、謎解きの観点からも注目しています。鬼八荒神は鬼道に通じているとされ、『三国志』によると卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とありますから、千穂の謎解きは本作でもかなり重要になってくるように思います。邑長の話によると、生贄とされた五瀬邑の娘たちは、毎年バラバラにされて千穂の入口に捨てられているとのことですから、差し出された娘たちに子供を産ませている、という私の予想は外れたかもしれません。もっとも、娘たちを生贄に差し出してからバラバラにされて千穂の入口に捨てられるまでの期間は明示されていないので、鬼八荒神は娘たちに子供を産ませた後に殺害しているのかもしれません。今のところはヤノハの思惑通りに事態が進んでいるように見えますが、暈の大夫である鞠智彦と最強の権力者であるイサオ王は一筋縄ではいかないでしょうし、暈は『三国志』の狗奴国でしょうから今後もヤノハとの対立が続いていくと思われ、話がさらに膨らんでいき面白くなるのではないか、と期待しています。

家畜ウマの父系起源

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、家畜ウマの父系起源に関する研究(Wallner et al., 2017)が公表されました。Y染色体の雄特有領域(MSY)は、父親から息子へと組み換えなしに継承されるので、雄の移住および人口史を反映しています。母系継承となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と組み合わせると、単一種の雌雄の人口史を比較できます。家畜ウマ(Equus caballus)は、両性間で人口史が異なるとくに顕著な例です。ウマの場合、家畜化に明確に先行するmtDNAの多様性とは対照的に、MSYはきょくたんに低い多様性を示します。ウマの低いMSY多様性は、低い変異率では説明できません。なぜならば、現代のウマのY染色体系統は明確にモウコノウマ(Equus przewalskii)とは異なり、先史時代のウマのY染色体系統にはもっと多様性があった、と考えられるからです。なお、モウコノウマは現在では唯一の野生ウマと考えられてきましたが、古代DNA研究により、初期家畜馬の野生化した子孫で、現在の家畜ウマにはわずかしか遺伝的影響を及ぼしていない、と明らかになりました(関連記事)。

 現代のヨーロッパのウマにおける低いMSY多様性と限定的な短縦列反復変異性は、雄のきょくたんに低い有効集団規模を示唆します。これは、ウマの雄が厳しい人為的選択を受けてきたことを反映しているのでしょう。ウマのY染色体多様性の低下は、家畜化の過程における遺伝的ボトルネック(瓶首効果)を伴って5500年前頃始まり、複数の先史時代および歴史時代の移住の波によりさらに強化されました。現代のウマの各品種は、過去数百年にわたる集中的かつ組織的なウマの繁殖の結果です。この期間中に、近親交配および戻し交配の概念が一般的になり、ウマ集団全体がこれらの戦略に強く影響を受けてきました。とくに重要なのは、外国の飼育場から種牡馬を輸入して在来の群れを改善する傾向でした。ヨーロッパ中央部ではこれが16世紀に始まり、スペインとナポリの種牡馬が人気でした。

 18世紀末までに、ヨーロッパ中央部の各ウマ集団は東洋の種牡馬の導入により形成されていき、この期間には、外部からの輸入はアジア中央部草原地帯のトルコマン種とアラビア半島からのアラビアン種牡馬に制限されていました。種牡馬を介した改良は19世紀と20世紀に頂点に達し、イギリスのサラブレッドが多大な影響を及ぼしました。イギリスのサラブレッドに関しては閉鎖的な血統書が1793年以来作成され続けており、在来の牝馬と交配した東洋の種牡馬の移入により形成されました。この繁殖の歴史は、現代のウマの品種内にわずかなだけの創始者系統しか残らない状況につながり、輸入された血統の繁殖成功は、在来ウマのY染色体系統の完全な置換をもたらしたかもしれません。したがって、最近の創始者効果は、ウマにおけるMSY多様性に大きな影響を与えました。

 本論文は、高解像度MSYハプロタイプ決定により、影響力のある創始者種牡馬の起源を解明し、現代のウマ集団への遺伝的影響を推測しています。本論文は、21品種の52頭のMSYにおける146万塩基の解析により、867ヶ所の多様体を特定し、1頭の種牡馬につき平均して25頭のうち1頭に新規変異が生じると推定しています。本論文は、この解析から24のY染色体ハプロタイプ(HT)を作成するとともに、これに基づきモウコノウマとロバを外群として、家畜ウマのHT系統樹が作成しました。HT系統は、シェトランドポニーおよびノルウェーのフィヨルドホースの系統群(N)と、アイスランド種(I)と、その他の系統群に分類されます。NとIはヨーロッパ北部の品種に限定されており、その中でもアイスランド種は多様です。

 圧倒的多数はその他の4系統群となるA・L・S・Tに分類されます。Aにはアラブ種とその影響を受けたコネマラポニーおよび南ドイツのトラケナーが含まれます。LとSにはリピッツァーナとソーライアが含まれます。Tには本論文で対象となった品種の2/3以上が含まれており、フランシュ・モンターニュを除いてすべて、記録上はイギリスのサラブレッドの父系子孫です。T系統の多様性はきわめて低く、最終共通祖先の年代の新しさを示唆します。1世代平均7年とすると、A・L・S・Tの最終共通祖先の年代は647±229年前です。N・Iも含めた合着年代は1328±380年前で、これらの系統とモウコノウマ系統の合着年代は23716±1975年前です。ただ、世代ごとの推定変異率は4ヶ所の変異のみに基づいているので、それほど堅牢ではない、と本論文は注意を喚起しています。また、1世代の年代も推定なので、最終共通祖先の推定合着年代には大きな幅が生じます。本論文のデータは、現在の家畜ウマのMSY系統は家畜化後に単一の創始者から始まった、とする見解と一致します。

 より詳しく家畜ウマのMSY系統を見ていくと、アラブ種がAoとTを有しているのに対して、イギリスのサラブレッド種はすべて、Tから派生したTbを有しており、その中でもTb-dWにほぼ独占されています。Tbおよびその派生系統のTb-dWは、イギリスのサラブレッド種の影響を受けたヨーロッパおよびアメリカの競技用ウマ品種でも優勢でした。アラブ種(Ao系統)およびイベリア種(S・L系統)の強い影響は、ドラフト種とポニー種とバロック種で、Ad系統はこの3種に限定されます。

 本論文は、イギリスのサラブレッドの父系3始祖、つまり1700年生まれのダーレーアラビアン(Darley Arabian)、1680年生まれのバイアリーターク(Byerley Turk)、1700年生まれのゴドルフィンアラビアン(Godolphin Arabian)の系統を復元しました。標本となった子孫の数は、ダーレーアラビアンが110頭、バイアリータークが22頭、ゴドルフィンアラビアンが7頭です。MSY系統樹では、Tb-dがダーレーアラビアンで、その中でも優勢なTb-dW1は1807年生まれのホエールボーン(Whalebone)と推定されました。

 ダーレーアラビアンの父系子孫(現在のサラブレッド父系で圧倒的多数派のエクリプス系を含みます)で観察された5つのDNA解析と血統書との食い違いのうち1つは、1775年生まれのキングファーガス(King Fergus)系統で発生した、と推測されます。キングファーガス系統ではTb-dが見られず、TbもしくはTb-kとなります。他の2系統の標本数は少ないのですが、バイアリーターク系統とTbの関連が確認されました。ゴドルフィンアラビアン系統ではおもにTb-g2が観察されましたが、ゴドルフィンアラビアンはTb-gもしくはTbだったかもしれません。

 キングファーガスの父系子孫がサンシモン(St. Simon)なので、これらの結果は、19世紀以降のサラブレッドにおいて最大の遺伝的影響力を有する個体とされているサンシモン(セントサイモン)が、生物学的な父系ではバイアリータークに始まるヘロド系(日本ではパーソロン系が有名です)だった可能性を示唆します。血統理論の中には、9代までさかのぼる精緻なものもありますが、昔から私は、それが「血統理論」ではなく「血統表理論」ではないか、と考えてきました。以前から、血統表と生物学的な血統との違いが指摘されていたからです。本論文はその問題を実証的に示しました。系図と生物学的な血縁関係との食い違いは、人類社会においても当てはまります(関連記事)。

 Tbの亜系統であるg・k・r・dW・dMがほぼ確実にイギリスのサラブレッド起源である一方で、フルツやリピッツァーナのように、基底部Tbはイギリスのサラブレッドの影響の記録がない品種でも見つかっています。しかし、スペイン種やバーブ種やアラブ種のような一般的に改良に用いられてきた古典的品種のどれも、Tbを有していませんでした。本論文は、Tbの起源を特定するため、絶滅したトルコマン種の近縁とされるアハルテケ種を含めて標本数を拡大し、Tbの割合は78頭のアハルテケの雄で81%になる、と明らかにしました。このように、Tbはおそらくトルコマン種起源で、イギリスのサラブレッドの種牡馬を通じて広範に拡大しました。さらに、イギリスのサラブレッド種牡馬の影響が記録されていない多くのヨーロッパの品種におけるTbの存在は、イギリスのサラブレッドとは無関係のトルコマン種の種牡馬の影響を示唆し、これに関しては政治情勢および地理との関連が指摘されています。

 現在の家畜ウマ品種におけるMSYの主要系統(A-L-S-T)は東洋起源と推測され、そのうちTbはトルコマン種起源で、Aoは「起源的アラブ種」に明確に由来します。起源的アラブ種の一部父系子孫はハプログループTに分類されます。これは、東洋の創始者集団には異なる二つの父系があった、という本論文の仮説と矛盾しているように見えますが、祖先集団における不完全な系統分類もしくは固有アレル(対立遺伝子)の過小評価により説明できるかもしれない、と本論文は指摘します。また、19世紀の東洋ウマ市場において、ヨーロッパの馬商が正確に「純粋な」アラブ種の種牡馬を識別できなかった、ということを単純に反映しているのかもしれません。

 本論文は、現代の家畜ウマの父系の大半が、少数の東洋の種牡馬からのみ過去1000年未満に確立した、と示しました。本論文は、アジアの品種MSY領域の解析の進展により、ウマの父系多様性が増加するかもしれない、と展望しています。しかし本論文は、それでも、父系の分岐は浅く、家畜化の始まりまでさかのぼらないかもしれない、とも指摘しています。また本論文は、父系の変遷に遺跡からのウマ遺骸(古代DNA研究)が必要とも指摘しています。本論文は、家畜ウマの父系多様性がきょくたんに低いことを示しました。これは、とくに近世以降の家畜ウマの繁殖において、少数の種牡馬が選択されてきた歴史を考えると、妥当な見解だと思います。これは、有性生殖において子孫を残すコストの性差が大きいことを反映しており、人類も例外ではありません。とはいえ、人類は現在まで、一夫多妻制が容認されているような社会でも、全体的には一夫一妻制が優勢だったように思われます。これは、遺伝的多様性の維持という観点からは重要となりますが、今後、技術の発展と格差の拡大により、父系の多様性が急激に失われていくような事態も生じるのではないか、と懸念されます。本論文の刊行後もウマの遺伝的研究は進展しているようなので、それらも少しずつ取り上げていくつもりです。


参考文献:
Wallner B. et al.(2017): Y Chromosome Uncovers the Recent Oriental Origin of Modern Stallions. Current Biology, 27, 13, 2029–2035.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.05.086

高齢期に始めた食餌制限では寿命は延びない

 栄養状態の記憶の影響に関する研究(Hahn et al., 2019)が公表されました。カロリー摂取量を通常の20~40%減にする食餌制限を一生にわたって行なうと、健康に良い影響があり寿命が延びる、と多くの動物でよく知られています。しかし、食餌制限を一生の比較的遅い時期に開始した場合に効果があるのかどうかは、分かっていませんでした。

 この研究は、24月齢の雌のマウス800匹で食餌制限の効果を調べました。マウスの一部は、制限しない自由食から食餌制限へと切り替え、一部はその逆を行ないました。その結果、食餌制限から制限なしに切り替えたマウスは、すぐに不健康になり、食餌制限をそのまま続けたマウスよりも早く死んだ。しかし、食餌制限なしから食餌制限に切り替えたマウスは、そのまま食餌制限なしを続けたマウスと比較して健康ではあったものの、長生きはしませんでした。この研究は、一生のほとんどの期間、制限されずに食物を摂取できていたマウスでは、食餌制限に対する脂肪組織での分子レベルの応答が違っている、と見出しました。この研究は、脂肪組織に「栄養状態の記憶」が刻まれていて、これが食餌制限の健康や生存に及ぼす効能を抑制するのだろう、と推測しています。

 この研究は、遅く始めた食餌制限の効能をマウスで詳しく調べましたが、この「栄養状態の記憶」の基盤となる分子機構がヒトにも当てはまるかどうかは、まだこれから確かめる必要がある、と強調しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【代謝】高齢マウスでは、栄養状態の記憶の影響が、食餌制限による利益を相殺する

 一生の後半になって食餌制限を行っても、マウスの寿命は延びないということを報告する論文が掲載される。この知見は、後になって健康的な食餌に適応しても、制限を加えないそれまでの食餌によって生じた損傷を元に戻せないことを示唆している。これらの知見が、ヒトにも当てはまるかどうかは、まだ分からない。

 食餌制限を一生にわたって行う(カロリー摂取量を通常の20~40%減にする)と、健康に良い影響があり、寿命が延びることが多くの動物でよく知られている。しかし、食餌制限を一生の比較的遅い時期に開始した場合に効果があるのかどうかは分かっていなかった。

 今回、Linda Partridgeたちは、24月齢の雌のマウス800匹で食餌制限の効果を調べた。マウスの一部は、制限しない自由食から食餌制限へと切り替え、一部はその逆を行った。食餌制限から制限なしに切り替えたマウスは、すぐに不健康になり、食餌制限をそのまま続けたマウスよりも早く死んだ。しかし、食餌制限なしから食餌制限に切り替えたマウスは、そのまま食餌制限なしを続けたマウスに比べて健康ではあったものの、長生きはしなかった。著者たちは、一生のほとんどの期間、制限されずに食物を摂取できていたマウスでは、食餌制限に対する脂肪組織での分子レベルの応答が違っていることを見いたした。著者たちは、脂肪組織に「栄養状態の記憶」が刻まれていて、これが食餌制限の健康や生存に及ぼす効能を抑制するのだろうと述べている。

 この研究は、遅く始めた食餌制限の効能をマウスで詳しく調べたものだが、ここで提案した「栄養状態の記憶」の基盤となる分子機構がヒトにも当てはまるかどうかは、まだこれから確かめる必要があると、著者たちは強調している。



参考文献:
Hahn O. et al.(2019): A nutritional memory effect counteracts the benefits of dietary restriction in old mice. Nature Metabolism, 1, 11, 1059–1073.
https://doi.org/10.1038/s42255-019-0121-0

超長テロメアを持つマウスは代謝老化が少なく寿命が長い

 テロメアの長さと寿命に関する研究(Muñoz-Lorente et al., 2019)が報道されました。テロメアは体内の各細胞の核で染色体の末端を形成しており、その役割は、DNAの遺伝情報の完全性を保護することです。 細胞が分裂するたびに、テロメアは少し短くなるため、老化のおもな特徴の一つは、細胞内の短いテロメアの蓄積です。テロメアの短縮は生物の老化を引き起こし、寿命を縮めます。すでに、テロメア伸長酵素であるテロメラーゼの活性化によるテロメアの短縮を回避することで、二次的な影響なしに寿命を延ばすことが、さまざまな研究ですでに示されています。しかし、これまで、テロメアの長さに関するすべての介入は、何らかの手法により遺伝子の発現を変えることに基づいていました。数年前にはテロメラーゼの合成を促進する遺伝子治療が開発され、癌や加齢に伴う他の病気を発症することなく、24%長く生きるマウスが誕生しました。

 この研究の新規性は、超長テロメアで生まれたマウスに遺伝的変化がなかったことにあります。 2009年には、多能性または完全な生物を生成する能力を与えられた成体からの細胞であるiPS細胞(人工多能性幹細胞)において、特定の回数の分化の後、通常の2倍の長さのテロメアを持つ細胞が獲得されました。同じことは、胚盤胞から除去された後の培養中に、正常な胚細胞でもiPS細胞でも発生する、と確認されました。すでにこの現象の研究における多能性の段階で、テロメラーゼ酵素による伸長を促進するテロメアのクロマチンに特定の生化学的マーク(エピジェネティックマーク)がある、と発見されていました。そのため、培養中の多能性細胞のテロメアは通常の長さの2倍に延長されました。

 問題となったのは、ひじょうに長いテロメアを持つ胚細胞が生きたマウスでも生産されるかどうかでした。数年前にはそれが可能と実証されました。しかし、これらの最初の動物はキメラであり、30%から70%の細胞の一部のみが超長テロメアの胚細胞由来です。そうしたマウスの健康は、正常なテロメアで残りの細胞が適切に機能していることに起因する可能性もあります。この研究では、マウス細胞の100%で超長テロメアを取得できたことが報告されています。これらのマウスは癌が少なく長生きで、脂肪の蓄積が少ないため、通常よりもスリムです。また、コレステロールとLDL(悪玉コレステロール)のレベルが低く、代謝老化が低く、インスリンとグルコースに対する耐性が増加しています。さらに、加齢がより少ないことも明らかになりました。

 これらの結果は、特定の種において通常のテロメアよりも長い細胞は有害ではなく、まったく逆である、と示しています。つまり、寿命が長くなり、代謝年齢が遅くなって、癌が少ない、などの有益な効果があるわけです。より具体的には、ひじょうに長いテロメアを持つマウスの平均寿命は、通常よりも13%長くなっています。テロメアの長さと代謝の間に明確な関係が見つかったのはこの研究が初めてで、観察された代謝の変化も関連しています。インスリンおよびグルコース代謝の遺伝的経路は、加齢に関連して最も重要なものの一つとして特定されています。

 この研究が注目されるのは、生物の遺伝子改変なしに寿命を延ばす道が開かれたためです。多能性期のテロメアの延長を促進するテロメアのクロマチンにおける生化学的変化は後成的で、遺伝子の働きを変更しますが、その本質を変えない化学的アノテーションとして機能します。胚細胞が多能性のままである時間を延長して、より長いテロメアを持ち、癌と肥満から保護され、寿命が長くなると、マウスがより長いテロメアを持ち、長生きするようになります。遺伝子操作なしで老化の遅れた新しいモデルマウスが提示された、というわけです。ヒトではどうなのか、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Muñoz-Lorente MA, Cano-Martin AC, and Blasco MA.(2019): Mice with hyper-long telomeres show less metabolic aging and longer lifespans. Nature Communications, 10, 4723.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12664-x

現代人アフリカ南部起源説

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0系統の詳細な分析を報告した研究(Chan et al., 2019)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。現生人類(Homo sapiens)の起源がアフリカにあることは広く認められています(現生人類アフリカ単一起源説)。本論文は、現生人類の起源地をアフリカ東部と示唆する人類遺骸もあるものの、現代人のmtDNA系統樹では、最初に分岐した系統であるmtHg-L0を代表する複数の現代人集団はアフリカ南部に存在している、と指摘します。しかし、これまで、ヨーロッパ系のmtHg-N(mtHg-L3から分岐)の詳細な分析が進展していた一方で、mtHg-L0の分析は遅れており、代人の遺伝的多様性に関する研究の制約となっていました。そこで本論文は、新たなL0系統のデータを得て、現代の地理的分布と古気候データを組み合わせることで、L0系統の起源地と、L0系統がいつどのように拡散していったのか、推測しました。

 その結果、本論文は、L0系統が現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ–オカバンゴ古湿地という残存古湿地内で20万年前頃(95%の信頼性で240000~165000年前)に出現した、と推定しています。これは、じゅうらいの推定よりもやや古くなります。当時、この地域にはマカディカディ(Makgadikgadi)湖という当時アフリカでは最大の湖(面積は現在のビクトリア湖の約2倍)があり、20万年前頃に乾燥化によりマカディカディ–オカバンゴ古湿地となって、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなりました。さらに本論文は、L0系統が約7万年にわたってこの地域に居住し続け、13万~11万年前頃に、まず北東方向、次に南西方向へと拡散していった、と推測しています。古気候データからは、湿度の上昇により最初に北東方向、次いで南西方向へと緑の回廊が開かれた、と示唆されます。その後、L0系統の故地である現在のボツワナ北部はさらに乾燥化し、推定有効集団規模からL0kが系統故地に留まった一方で、南西方向に拡散したL0d1-2系統は、アフリカ南部の湿潤化と海産資源の利用により人口が増加していった、と推測されます。現生人類の起源は現在のボツワナ北部となるアフリカ南部にあり、この最初期集団は、気候変動による拡散の前まで長期間(約7万年)故地に留まっていた、と本論文は主張します。以下、L0系統の初期の拡散を示した本論文の図2です。
画像

 本論文の見解には多くの批判が寄せられています。遺伝人類学者のバービエリ(Chiara Barbieri)氏は、mtHg-L0系統の詳細な分析興味深く価値があるものの、L0系統の起源地と年代について、現代人のDNAのみに基づいていることに注意を喚起しています。先史時代は長く、人々は移住する、というわけです。バービエリ氏は、L0系統の正確な起源地と年代の確定のためには、年代測定のされた化石からのDNA解析が必要になる、と指摘します。しかし、本論文は古代DNAを考慮に入れておらず、現代人のDNAのみを調べました。

 ゲノムの異なる部分では、本論文の見解と矛盾する物語が現れます、たとえば、現代人のY染色体DNA系統樹では、起源地はアフリカ西部のカメルーンと想定されています(関連記事)。ゲノム研究では、コイサン人系統が他のアフリカ人系統と35万~26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。まだ査読中の研究(Bergström et al., 2019)では、50万年前頃までさかのぼる可能性も指摘されています。進化人類学者のハーヴァティ(Katerina Harvati)氏は、本論文がこれらの研究を参照しなかったか、議論しなかったことに驚いた、と述べています。これら一見すると矛盾した結果は、アフリカにおける人類史が単純なものではなく、現生人類が長期にわたって混合・多様化し、移動していることを示唆しています。化石証拠も同様で、現生人類的な化石は、たとえばモロッコでは30万年以上前(関連記事)、レヴァントでは194000~177000年前頃のもの(関連記事)が発見されています。複雑な石器も、アフリカ北部・東部・南部で30万年前以前のものが知られています。

 こうした知見に基づき、現生人類の起源はアフリカの特定地域にある、という見解を多くの研究者は捨て、アフリカ全体が起源地と考えるようになりました(関連記事)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というような見解です(関連記事)。本論文は、化石や考古学的知見に言及しておらず、反論していない、と指摘されています。また、この研究の指導的立場にあるヘイズ(Vanessa M. Hayes)氏によるサン人のDNA解析に関しても、先住少数民族に関わる非政府組織から傲慢・無知と個人情報の取り扱いについて批判されているそうです。

 本論文は、現代人の核DNAも古代DNAも考慮せず、過去の人類の移動も軽視していることから、複数の研究者に強く批判されています。上記報道ではまだ穏やかな表現になっていますが、Twitter上では辛辣な表現で批判されています。たとえば、奇妙な論文との発言や、本論文が現在『ネイチャー』に掲載されたことに本当に驚いた、20年前からタイムワープしたようだとの発言や、1930年代のような論文との発言です。mtHg-L0系統を詳細に分析した本論文の意義は大きく、それ故に『ネイチャー』に掲載されたのでしょうが、本論文のデータは現代人アフリカ南部起源説を示唆するとか、それと整合的であるとかいった一文を挿入するのに留めておくべきだったのではないか、と思います。Twitter上での複数の研究者による本論文への辛辣な発言も、仕方のないところもあると思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アフリカ南部の古湿地における人類の起源と最初の移動

進化学:そこは「エデンの園」だったのか

 現生の全ての人々の祖先の発祥の地と考えられる場所は、ボツワナ北部の地域である。この地域は、現在は乾燥した塩生砂漠だが、約20万年前まではマカディカディ湖という当時アフリカ最大の古湖(面積は現在のビクトリア湖の2倍)があった。そして約20万年前、気候の乾燥化によってマカディカディ–オカバンゴ古湿地へと変貌し、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなった。それはちょうど、解剖学的現生人類がそこで足掛かりを得た時期であった。その後、解剖学的現生人類は7万年間にわたってこの地にとどまり、約13万年前になってようやく(より穏やかな気候を利用して)外の世界へと移動し広がっていった。その先は先史時代が示すところである。A TimmermannとV Hayesたちは今回、この成り行きを気候の再構築から組み立てたが、その根拠の大部分はミトコンドリアDNAの解析に基づいている。現生人類のミトコンドリアゲノム(ミトゲノム)で最も古く分岐したのは、現在もこの地方に居住しているコイサン族に由来するL0系統のものである。現代人のミトゲノムに関する既存の情報を、新たに得られた情報資源と合わせて用いることで、L0系統の歴史および分岐の状況が再構築され、この系統がどこで出現し、その後どこへ移動したのかが明らかになった。こうして、L0系統が約20万年前にアフリカ南部で出現したという新たな知見が得られた。この年代は、従来の推定を5万~2万5000年さかのぼるものである。



参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Bergström A. et al.(2019): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/674986

社会的な父親と生物学的な父親の不一致率と人口密度および階級との相関

 社会的な父親と生物学的な父親の不一致率と人口密度および階級との相関についての研究(Larmuseau et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。行動生態学では、長期のペア結合を有する種のペア外交尾(extra-pair copulation、EPC)の発生と適応的意義が激しく議論されてきました。進化学の理論では、両方のパートナーが他に繁殖機会を求めることにより、適応度を高められる、と指摘されてきました。EPCは雄に、父としての世話のコストを払うことなく、余分な子を儲ける機会を提供します。雌も、遺伝的に優れた雄と交尾できるか、ペア外パートナーから追加の資源を得られるような場合、EPCの追求により利益を得るかもしれません。

 EPCは同時に、性感染症・配偶者の攻撃・配偶関係解消(ヒト社会だと離婚)・雌の場合には配偶相手からの投資減少の危険性を増加させるので、有害にもなり得ます。さらに、ペア外父性(extra-pair paternity、EPP)は雌への深刻なコストを伴うペア外男性による強制交尾をもたらすかもしれず、その発生が今度は、雄側にとって、配偶者保護のような性的嫉妬により動機づけられた「反寝取られ」戦術を示す動機づけになり得ます。人口密度や資源利用可能性のような社会環境は、個体群がEPCに参加する機会をどの程度有しているかに強く影響を及ぼすかもしれず、EPCの追求と防止の両方への進化的コストと利益を調整します。したがって、(ヒトを除く)動物界とヒト社会の両方で、両性によるEPCの追求と予防の戦略は、状況に大きく依存するだろう、と示唆されてきました。

 本論文は、社会的状況がヒトのEPP発生率にどのように影響を及ぼすのか、父系で遠く関連した男性の詳細な法的家系図とY染色体DNA解析を組み合わせて、大規模な調査結果を提示します。本論文の対象期間は近世から現代で、19世紀ヨーロッパの産業革命期も含む、急速な都市化のようなヒト社会の劇的な変化の起きた時期となります。本論文は、新興の人口密度の高い都市が、EPCの機会増加により起きたEPP率増加を促進し、都市の匿名性によりもたらされる社会的管理の水準を減少させた、という仮説を検証します。さらに本論文は、婚外配偶者から追加の利益を求めるより高い動機のため、EPP発生率が低い社会経済的階級において上昇したのかどうか、強制的性交に対する保護やそうした動機を減少させたのかどうか、検証します。

 本論文は、ヨーロッパ西部の夫婦のEPP率を推定するため、家系図では父系祖先を共有する、つまり同じY染色体(厳密には、X染色体との間でわずかながら組み換えはありますが)を持つと想定される、ベルギーとオランダの513組の現代の成人男性を特定しました。この513組の家系の男性祖先の大半は、現代的な避妊導入の前に生まれました。誕生年の範囲は1315~1974年で、平均すると1840年です。大半が現代的な避妊導入前ということは、現代人集団を対象とした調査よりもじっさいのEPC率をより確実に反映している、と考えられます。本論文は、この513組の男性のY染色体における、191ヶ所の一塩基多型と38ヶ所の短縦列反復の遺伝子型を同定し、家系図で父系的に関連しているY染色体ハプロタイプの不一致が確認された場合、その父系内における1回もしくは複数回のEPP事象の証拠とししまた。

 また本論文は、歴史的な高品質な人口統計学的データと家系図記録から、歴史的なEPP率の復元だけではなく、その発生率に影響を及ぼすと予想される社会人口統計学的要因の機能としてのEPPを推定できました。具体的には、家系図内の1750~1950年生まれの法的父親である6818人の男性祖先の系譜の詳細な記録を得ました。家系図記録では、父系の各子供の誕生(市民登録の始まった1800年以後)は結婚生活の中で起き、公的に家系図の父親が父親と認定されたか、教会記録だけが利用可能だった1600~1800年に生まれた子供に関しては、洗礼を受けた時に父親が生きていた、と常に核にされました。次に本論文は、父親の職業から男性祖先の社会経済的地位を推測し、誕生年を記録もしくは推定された歴史的人口規模および密度と関連づけました。最後に本論文は、生年・人口密度・社会経済的地位の関数としてEPP率を推定しました。

 その結果、以前の研究で推定された、ネーデルラントにおける低い歴史的EPP率(1世代あたり1.6%、95%の信頼性で1.2~2.1%)が改めて確認されました。また、カトリックが主流のフランドルとプロテスタントが主流のオランダの間には宗教的に大きな違いがありますが、EPP率に顕著な違いはありませんでした。しかし、推定EPP率は人口密度および社会経済的地位と強く相関している、と明らかになりました。平均的な人口密度では、農民と中流~上流の社会経済的階級の間での平均EPP率は1.1%と低く、一方で低い社会経済的階級では4.1%とずっと高くなります。同様に、EPP率は人口密度との有意な相関を示しました。人口のまばらな農村では平均EPP率は0.6%ですが、1㎢1万人以上の地域では2.3%です。

 両方の変数効果を組み合わせると、推定EPP率は、人口密度の低い地域の農民や中流~上流階級の0.4~0.5%から、人口密度の高い都市の社会経済的に低い階級の5.9%まで1桁以上の幅があります。生年・両親の年齢・国または地域(州)をモデルに追加しても、この相関は変わりませんでした。時間的経過で見ていくと、19世紀後半にEPP率がピークに達し、これは人口密度の変化および産業革命により発生した低所得層のプロレタリアートの最初の拡大と一致します。このEPP率の観察は、未婚の母親からの子供の誕生といった非嫡出子の誕生パターンを密接に反映しています。じっさい、非嫡出子のピークは19世紀半ばに見られ、田舎では約5%、1㎢1000人以上のベルギーとドイツの都市では12%と推定され、社会経済的下流階級ではもっと高く、ブリュッセルの召使や日雇い労働者の間では36%となります。

 全体として本論文の結果は、西洋集団のEPP率は社会的状況に強く影響を受ける、と示します。この知見は、動機における状況固有の変動と、EPCの追求もしくは防止のどちらかの機会を強調する進化理論的予測と一致します。EPP率と人口密度の相関は(ヒトを除く)動物界でも支持されており、通常は、EPCへの遭遇率上昇と機会増加の結果として解釈されています。ヒトでは、この効果は人口密度の高い都市の匿名性に起因する、社会的管理の減少により増加していきます。この要因もまた、19世紀半ばのヨーロッパ都市部で観察される非嫡出子の高い割合の要因の一つと考えられます。

 社会経済的下流階級におけるEPP率上昇は、同時代のメキシコおよびアメリカ合衆国の社会経済的下流階級におけるEPP率の増加を示唆する、血液型に基づく以前の結果と一致します。これは、不利な生態的もしくは経済的環境が、ペア外の相手から追加の物質的もしくは社会的利益を得る動機を増加させるかもしれない、という仮説を支持します。こうした利益は、資源が乏しい時には、女性(および潜在的には間接的にであってもその家族)の適応度へのより強い影響を有します。じっさい資源の制約は、いくつかの伝統的な小規模社会で一妻多夫を促進すると考えられている、主要な生態要因の一つです。

 より低い社会経済的階級におけるEPP率上昇に関する、別の相互に排他的ではない説明は、社会的父親にはEPPを防ぐ動機が少なく、それは社会的父親が子供に継承される富を多く有していないからだ、というものです。社会学では、非嫡出子の同様の高い割合が、19世紀半ばのヨーロッパの下流階級で観察され、この性的危険性の増加は、性的解放もしくは社会的上昇志向として説明されてきました。しかし、この問題に関しては、劣悪な労働および生活条件に起因する、男性の性的暴力と搾取へのより大きな脆弱性も指摘されています。こうした説明は本論文で観察されたEPPパターンにも適用されますが、EPP事象における生物学的父親のアイデンティティと社会階級を知ることなしには、検証できません。ただ、EPPと人口統計学の間で観察された歴史的関連の要因は、常にある程度は曖昧なままです。それは、どの事例で夫が法的な自分の子供は生物学的に自分の子供ではないと気づいたか知ることはできないか、EPCに関連する妻の状況と意図を再構成できないからです。

 以前には、ペア外父性の比較的高い割合(5%)は、一妻多夫の非公式な形態が社会的に受け入れられ、複数の男性パートナーが同じ女性もしくはその子供に資源を提供するような、南アメリカ大陸とアフリカの少数の伝統的社会でのみ起きる、と考えられていました。ヒト社会において、こうした一妻多夫は、一妻多夫が社会的に受け入れられていない他の伝統的および西洋集団で報告されてきた、1~2%の低いEPP率と対照的です。本論文の調査対象集団におけるEPP率が平均して低いことは確証されましたが、これらの割合は決して不変ではなく、社会の一部では比較的高水準に達する可能性がある、とも示されました。特定の社会層に焦点を当てることにより、ヒト社会内のペア外父性の程度には多くの変動が観察され得る、というわけです。


 本論文の見解はたいへん興味深く、EPP率が人口密度と階層により異なるのは、おそらく多くの階層社会において当てはまるのではないか、と思います。とはいっても、該当地域固有の歴史を反映した社会的文脈があるので、その割合に関しては、14~20世紀のネーデルラントとはかなり異なる場合もあるかもしれません。この点で注目されるのは、最近日本において皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げる人が多くなってきたように思われることです(関連記事)。この問題については、「間違い」、つまりEPPの可能性こそ致命的な欠陥だろう、と私は考えてきました。この認識は今でも変わりません。

 では、じっさいに皇族においてEPP率がどの程度になるのかというと、当然日本社会とネーデルラント社会の在り様は異なりますし、皇族は上流階級とはいってもさらに特殊なので、じっさいにどの程度なのか、まったく見当もつきません。仮に、本論文で提示された人口密度の低い地域の上流階級における0.4%という割合を採用し、継体「天皇」を始祖と仮定した場合、今上天皇は北畠親房の云う「まことの継体(父系直系なので天皇ではない皇族も含みますが、この点に関しては議論もあるようです)」では54世(数え間違えているかもしれませんが)で、53回の父子継承となりますから、始祖と父系でつながっている確率は約81%です。

 もっとも、EPPが起きたとしても、たとえばその可能性が高い直仁親王の事例のように、生物学的な父親が皇族であれば(関連記事)、始祖と父系でつながっていることになります。その意味では、仮に皇族においてEPP率が0.4%だとしても、始祖と父系でつながっている確率は80%を大きく超えるかもしれません。まあ、上述のように皇族におけるEPP率を推定するデータが皆無に近い状況ですから、これは今後も変わらない可能性が高く、まったく参考にならないお遊び程度の計算でしかありませんが。

 そもそも、皇位の男系継承は、社会的合意(前近代において、その社会の範囲は限定的だったわけですが)が積み重ねられてきた伝統により主張されるだけでよく、仮に「初代天皇」の父系が途中で途切れて大きく異なる父系に置換されていたとしても、その後の天皇の正統性は失われず、仮に今後旧宮家の男系男子が皇族に復帰するとしても、DNA検査を受ける必要はない、と私は考えています。皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げる言説は、皇室の権威を傷つけかねない危険なものなので、皇室維持派なのにこれを本気で主張する人は大間抜けだと思います。


参考文献:
Larmuseau MHD. et al.(2019): A Historical-Genetic Reconstruction of Human Extra-Pair Paternity. Current Biology, 29, 23, 4102–4107.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.09.075

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第43回「ヘルプ!」

 1962年、2年後に夏季オリンピック大会が開催されることから、東京では高速道路や新幹線の建設が急速に進められていましたが、国民の間ではさっぱり盛り上がっていないので、田畑政治は国民の間での東京オリンピックへの関心を高めようと考え、その一環で五りんも起用されます。しかし、なかなか国民の間では東京オリンピックへの関心は盛り上がりません。そんな中、田畑は川島正次郎により次第に追い詰められていき、1962年にジャカルタで開催されたアジア大会で窮地に陥ります。インドネシアが中華民国(台湾)とイスラエルを締め出すと報道され、一方でそれと反する報道もあり、日本でもアジア大会への参加について意見が分かれ、田畑も苦悩します。

 今回は政治とオリンピックの関係が描かれました。田畑は、東京オリンピックに対する執念と自分の理念との間で板挟みになり、川島に翻弄されてしまいます。そんな田畑が最後に川島に反撃したのは痛快で、娯楽ドラマとして王道的な構造になっていました。ただ、川島も単なる悪役として描かれているわけではなく、深みのある大物政治家として描かれています。本作で主人公と深く関わった大物政治家としては高橋是清と犬養毅がいますが、この二人が田畑に好意的だったのに対して、川島と田畑の関係は大きく異なります。これは、若手だった頃の田畑との立場の違いをよく表しているように思います。

中国に拘束されていた北海道大学の岩谷将教授が解放される(追記有)

 中国に拘束されていた北海道大学の岩谷将教授が解放され帰国した、と報道されました。この件は気になっていたので、ひとまず安心しました。この件については先日取り上げましたが(関連記事)、中国研究者の懸念が杞憂ではなかったことを示唆する報道になっています。中国外務省の耿爽副報道局長によると、今年(2019年)9月8日、岩谷氏は宿泊先のホテルで機密資料を所持しているのが当局に見つかり拘束され、取り調べに対して、以前から大量の機密資料を収集・取得していた違法な状況を供述し、容疑を認めて後悔の念を示していることから釈放した、とのことです。

 ネットでは掲載されていませんが、読売新聞紙面によると、岩谷氏が拘束されたのは、中国大陸から台湾に逃れた国民党関連の文書を古本屋で購入して所持していたためで、岩谷氏はスパイ法違反などの容疑で取り調べを受けていた、とのことです。耿爽副報道局長の定例記者会見と読売新聞の記事がどこまで真相を伝えているのか、門外漢には分からないのですが、仮におおむね記事の通りだとすると、外国の中国研究者にも中国共産党の統制が及びつつある、という中国研究者の懸念を裏づけるもので、憂慮されます。

 私は十数年前より、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、今よりもずっと中国に「配慮した」言説を日本でも強いられるようになるのではないか、と警戒していましたが、こうした問題は日本に限らないのでしょう。まあそれでも、日本をはじめとして各国には、中国との付き合いで利益を得ていたり、中国に傾倒したりしている人がいるでしょうから、中国に配慮せよ、といった感じで中国に多少なりとも批判的な言説を糾弾する人々が世界で増えていくかもしれません。

 「嫌中感情」がすっかり定着したように見える近年の日本では、それは被害妄想だと笑う人も多いでしょうが、中国が世界全体ではなくともアジア東部・南東部で覇権を確立し、日本も中国に政治・軍事的に従属するようになれば、それまで「反中的な」言説を声高に語っていた輩の中に、「現実主義」と称して「米帝」や「西側」を罵倒して中国共産党に迎合する者が現れ、現在の「ネトウヨ」よりも多数を占めるようになり、「親中的」で「反米(もしくは西側)的」」な本がベストセラーになるのかもしれません。


追記(2019年11月16日)
 「ネットでは掲載されていません」と本文では述べてしまいましたが、Twitterで該当する記事も掲載されていたことを知りました。まあ私が間抜けだったのですが、紙面では1記事のような扱いだったので、ネットでもできれば1記事にまとめておいてもらいたかったものです。

考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい

 文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係については、1年近く前(2018年11月25日)にも述べました(関連記事)。その時からこの問題に関していくつか新たな知見を得ることができましたが、私の見解はほとんど変わっておらず、両者の関係は実に多様なので、考古学的研究成果から担い手の人類集団の変容と継続の程度を一概には判断できない、とさらに確信を強めています。そのため、この問題を現時点で再度取り上げる必要はほとんどないのですが、最近のやり取りで、アイヌは「縄文人」の末裔ではない、という言説の根拠として考古資料が持ち出されたので、改めてこの問題について短く触れておきます。

 古代DNA研究が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。これについては以前の記事で、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、の3通りに区分して具体例を挙げました。もっとも、これは単純化しすぎた分類だと今では反省しています。とはいっても、これらを的確に再整理して提示できるだけの準備は整っていないのですが、とりあえず、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、という区分を追加で提示しておきます。具体的には、紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200~紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(関連記事)。また、鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(関連記事)。

 以前の記事の後に当ブログで取り上げた関連事例では、ヒマラヤ地域が(2)によく当てはまりそうです(関連記事)。一方、中国のフェイ人(Hui)の事例(関連記事)は分類が難しく、(1)と(2)の混合と考えています。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系ではユーラシア西部系の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、全体的にアジア東部系の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部に由来する父系の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、父系では一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 このように、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は多様なので、ある地域の文化変容を単純に集団の遺伝的構成の変容、さらには置換と判断することはできません。これを踏まえて「考古資料から集団置換が起きたか否かを判断するのは容易ではないというかほぼ無理で、古代DNA研究に依拠するしかない」と述べたら、「遺伝子研究では縄文人とアイヌ民族を結びつけることは出来ないということで大変参考になりました」と返信されて、あまりの読解力の低さにうんざりさせられました。

 北海道の時代区分は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ(ニブタニ)文化期と変遷していき、続縄文時代後期~擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。この間の文化変容と「遺伝的証拠」から、アイヌは「(北海道)縄文人」の子孫ではなく、12世紀頃に北海道に到来した、というような言説(関連記事)もネットの一部?では浸透しているようです(アイヌ中世到来説)。もっとも、こうしたアイヌ中世到来説やそれに類する言説を主張する人は、上述のやり取りから窺えるように読解力が低すぎるのではないか、との疑念がますます深まっています。

 それはさておくとして、考古学的には、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期、さらには近現代のアイヌにわたる人類集団の連続性を指摘する見解が主流で、アイヌ中世到来説はまともな議論の対象になっていない、と言えるでしょう(関連記事)。また考古資料から、縄文および続縄文文化を継承した擦文文化の側が主体となってオホーツク文化を吸収し、アイヌ(ニブタニ)文化が形成された、との見解も提示されています(関連記事)。アイヌ中世到来説論者に言わせると、こうした評価は適切ではない、ということになるのでしょうが、上述のように文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではありませんから、置換があったと断定することはとてもできません。もちろん、考古資料だけを根拠に、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を断定することもまたできません。もっとも、考古資料も縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を示唆している、と私は考えていますが。

 古代DNA研究も含めて現時点での遺伝学の研究成果からは(関連記事)、アイヌが「(北海道)縄文人」の強い遺伝的影響を受けている可能性はきわめて高い、と言えそうですが、この問題の解決には古代DNA研究の進展を俟つしかないと思います。ただ、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究はヨーロッパを中心とする西部よりもずっと遅れているので、現時点でのヨーロッパと同水準にまで追いつくのには時間がかかりそうです。ただ、古代DNA研究には「帝国主義・植民地主義的性格」が指摘されており、日本でもこの問題が解決されたとはとても言えないでしょう(関連記事)。古代DNA研究の大御所と言えるだろうウィラースレヴ(Eske Willerslev)氏が中心となってのアメリカ大陸先住民集団との信頼関係構築は、日本においても大いに参考になるでしょうが、歴史的経緯が同じというわけではないので、単純に真似ることは難しいかもしれません。古代DNA研究は倫理面でも大きな問題を抱えていますが、それらを克服しての進展が期待されます。

更科功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2019年10月に刊行されました。本書は、第1部が「ヒトは進化の頂点ではない」とあるように、進化に関する一般的な誤解を強く意識した構成になっています。進化に完成型が存在するとか、ヒトが最も進化していて高性能であるとかいった観念は、今でも根強くあるかもしれません。進化否定論でよく言われているような(今ではそうでもないかもしれませんが)、進化が正しいならばなぜ動物園のサル(あるいはチンパンジー)はヒトに進化しないのか、などといった「疑問」も、ヒトが最も進化している、という通俗的な誤解に起因するのでしょう。

 本書はそうした認識の誤りを、心臓・肺・腎臓・眼といった具体的な器官を事例に解説していきます。身近な器官を身近な動物のものと比較して、ヒトの器官が最も優れているわけでも進化しているわけでもない、と具体的に解説しているのは、一般向けの新書という形式に相応しいと思います。たとえば、チンパンジーの手はヒトよりも派生的、つまりより進化しています(ヒトの手はより祖先的)。また本書を読めば、ある形質が「優れている」とはいっても、それが環境次第である、と了解されます。この点は進化に関する一般向け解説でとくに重要になると思います。これと関連して、特定の形質がある点では有利であるものの、別の点では不利になることは一般的で、あちらを立てればこちらが立たず、ということが進化において一般的であることも了解されます。進化においてトレードオフ(交換)は大変重要な視点となります。

 本書は、人類の進化において重要だったのは一夫一妻的な社会への移行だと想定しています。これにより、直立二足歩行と犬歯の縮小を説明できる、というわけです。ただ、著者の以前の著書を取り上げた時にも述べましたが(関連記事)、犬歯の縮小を雄間の闘争緩和と結びつける著者の見解には私は否定的で(関連記事)、その見解は今でも変わりません。また本書は、雄が子育てに参加するのは一夫一妻と推測していますが、一夫多妻の多いゴリラも父親が子育てに深く関わります(関連記事)。種系統樹ではゴリラよりもチンパンジーの方がヒトと近縁ですが、繁殖に関しては、むしろチンパンジーよりもゴリラの方がヒトの進化を推測するうえで参考になるかもしれません。


参考文献:
更科功(2019B)『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』(NHK出版)

新種の鳥類化石

 新種の鳥類化石に関する研究(Imai et al., 2019)が公表されました。ドイツで発見されたジュラ紀後期(約1億6000万年~1億4000万年前)の始祖鳥は、最初の鳥類だと一般的には考えられていますが、現生鳥類に関連する特徴は、白亜紀まで出現しませんでした。最古となる既知の白亜紀の鳥類化石は、中国北東部で発見された2次元化石標本で、この化石鳥類には尾端骨がありません。尾端骨は現生鳥類の基本的な特徴で、脊柱の末端にあり、尾羽を支えています。

 この研究は、白亜紀前期となる約1億2000万年前の、3次元的に保存されたハトほどのサイズの鳥類の化石について報告しています。この化石標本は、中国以外で初めて発見された白亜紀の祖先的鳥類種の化石で、Fukuipteryx primaと命名されました。この祖先的鳥類種は、始祖鳥といくつかの特徴(頑丈な叉骨・融合していない骨盤・前肢)を共有しているものの、充分に形成された尾端骨も有していた、とこの研究は指摘しています。以前の研究では、尾端骨が鳥類の初期進化における重要な飛翔適応の一つと示唆されていました。一方この研究は、この祖先的鳥類種に尾端骨があることから、尾端骨は単に尾の縮小の副産物にすぎず、飛翔適応とは関係がないとする最近提起された理論を裏づけるものだ、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】尾羽を振っていた白亜紀前期の新種のダイノバード

 日本で発見された新種の鳥類の化石について報告する論文が掲載される。これは、約1億2000万年前の白亜紀前期に生息していた鳥類の化石標本とされ、初期鳥類の進化の解明が進むと考えられている。

 ドイツで発見されたジュラ紀後期(およそ1億6000万年~1億4000万年前)の始祖鳥は、最初の鳥類だと一般に考えられているが、現生鳥類に関連する特徴は、白亜紀まで現れなかった。現在知られている最古の白亜紀の鳥類化石は、中国北東部で見つかった2次元化石標本であり、この化石鳥類には尾端骨がない。尾端骨は、現生鳥類の基本的な特徴で、脊柱の末端にあり、尾羽を支えている。

 この論文で、福井県立大学の今井拓哉(いまい・たくや)たちは、3次元的に保存されたハトほどのサイズの鳥類の化石について記述している。この化石標本は、中国以外で初めて発見された白亜紀の原始的鳥類種の化石で、Fukuipteryx primaと命名された。今井たちは、F. primaと始祖鳥には、いくつかの共通の特徴(頑丈な叉骨、融合していない骨盤、前肢)があるが、F. primaには十分に形成された尾端骨もあったという見解を示している。以前の研究では、尾端骨が、鳥類の初期進化における重要な飛翔適応の1つであることが示唆されていた。これに対して、今井たちは、F. primaに尾端骨があるということは、尾端骨が単に尾の縮小の副産物に過ぎず、飛翔適応とは関係がないとする最近提起された理論を裏付けるものだという考えを提起している。



参考文献:
Imai T. et al.(2019): An unusual bird (Theropoda, Avialae) from the Early Cretaceous of Japan suggests complex evolutionary history of basal birds. Communications Biology, 2, 399.
https://doi.org/10.1038/s42003-019-0639-4

銀行員文化と不誠実さ

 銀行員文化と不誠実さに関する研究(Rahwan et al., 2019)が公表されました。現在、社会科学はいわゆる「再現性の危機」に曝されています。研究室やクラウドソースのワーカープラットフォームのような利用しやすい集団からきわめて影響力のある知見が得られても、それらは必ずしも再現可能ではありません。利用しづらい集団から得られた知見の再現にはあまり注意が向けられておらず、注目度の高い最近の再現の取り組みでは、はっきりとそうした集団が排除されています。

 先駆的な実験研究から、銀行員文化を垣間見る稀な機会が得られており、銀行員は、他の職業とは違って、自分の仕事について考えるときに不誠実さが増す、と示されました。銀行業界の重要性を考えれば、研究者や政策立案者が銀行文化の正確な診断としてこうした知見を信頼する前に、それらの一般化可能性を探査することは正当です。この研究は、3大陸の異なる5集団に属する銀行員および非銀行員を対象に、同一の報奨金付き課題を行ないました(参加者数計1282人)。

 中東およびアジア太平洋地域での銀行員研究(それぞれ148人と620人)では、ある程度の不誠実さが観察されましたが、元になった研究とは対照的に、仕事について考えるよう促した銀行員の場合は、それを促さなかった銀行員と比較して、不誠実さに有意な高まりは見られませんでした。また、非銀行員に自分の仕事について考えるよう促しても、誠実さに有意な影響が生じないことも明らかになりました。

 この研究は、銀行員に関する知見の違いを説明するために、サンプリングおよび方法論の相違を検討したところ、重要な2つのポイントを特定しました。第一に、銀行員の行動に関する一般集団の期待が地域ごとに異なっており、元になった研究が行われた地域の銀行文化は世界的に不変なものではない、という可能性が示唆されました。第二に、金融機関27社に声を掛けたところ、それらの多くが不都合な知見に関する懸念を表明したことから、健全な文化を有する銀行のみが今回の研究に参加した、と予想されます。

 この第二の点は、あらゆる同様の実地研究の一般化可能性を損ねると考えられる、潜在的な選択バイアスを示しています。さらに広い意味では、この研究は、組織の障壁や地理的な障壁が原因で利用困難な集団において広く報道された扱いに注意を要する実地研究を、きわめて忠実に再現しようとするさいの複雑性を明確に示しています。この研究は政策立案者にとって、元となった研究の知見を他の集団で一般化するさいには注意を払う必要がある、と示唆しています。


参考文献:
Rahwan Z, Yoeli E, and Fasolo B.(2019): Heterogeneity in banker culture and its influence on dishonesty. Nature, 575, 7782, 345–349.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1741-y

国立公園のメンタルヘルスへの影響

 国立公園のメンタルヘルスへの影響に関する研究(Buckley et al., 2019)が公表されました。メンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストには、治療・ケア・職場の生産性低下などがある。一方、自然の中で時間を過ごすことによって得られる健康に関連した恩恵としては、注意力・認知力・睡眠の向上、ストレスからの回復などがあると考えられていますが、国立公園が訪問者のメンタルヘルスに与える影響の経済的価値は明らかになっていません。

 この研究は、国立公園がもたらす健康増進サービスの価値を算定しました。この研究は、人間が苦痛や精神障害なしに日常生活動作を行なう能力を測定する「質調整生存年」という概念を用いて、オーストラリアのクイーンズランド州とビクトリア州の代表サンプル集団(19674人)から収集したデータを使って、国立公園の経済的価値を推定し、そのデータからオーストラリア全体と世界全体での経済的価値も推定しました。

 その結果、保護区を訪問することと訪問者のメンタルヘルスとの間に直接的な関連がある、と明らかになりました。オーストラリアの場合、国立公園の健康増進サービスの価値が年間約1000億ドル(約11兆円)と推定されました。さらに、オーストラリアでメンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストは、現在GDPの約10%に相当しており、保護区がない場合には、この経済的コストが7.5%増える可能性がある、と推定されています。ただ、この推定値は予備的研究での計算に基づいたものなので、精緻化するにはより詳細な分析が必要になる、とも指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】国立公園がメンタルヘルスに与える影響の価値評価

 国立公園によって訪問者のメンタルヘルスが改善されることの経済的価値が、世界全体で年間約6兆ドル(約660兆円)に達するという推定結果を報告するPerspectiveが、Nature Communicationsで掲載される。この知見は、予備的研究での計算に基づいたものであり、この推定値を精緻化するには、より詳細な分析が必要となる。

 メンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストには、治療、ケア、職場の生産性低下などがある。一方、自然の中で時間を過ごすことによって得られる健康に関連した恩恵としては、注意力、認知力と睡眠の向上、ストレスからの回復などがあると考えられているが、国立公園が訪問者のメンタルヘルスに与える影響の経済的価値は明らかになっていない。

 今回、Ralf Buckleyたちの研究グループは、国立公園がもたらす健康増進サービスの価値算定に取り組んだ。Buckleyたちは、人間が苦痛や精神障害なしに日常生活動作を行う能力を測定する「質調整生存年」という概念を用いて、オーストラリアのクイーンズランド州とビクトリア州の代表サンプル集団(1万9674人)から収集したデータを使って、国立公園の経済的価値を推定し、このデータを用いて、オーストラリア全体と世界全体での経済的価値も推定した。その結果、保護区を訪問することと訪問者のメンタルヘルスとの間に直接的な関連があることが判明した。オーストラリアの場合、国立公園の健康増進サービスの価値が年間約1000億ドル(約11兆円)と推定された。そして、オーストラリアでメンタルヘルスが損なわれていることの経済的コストは現在、GDPの約10%に相当しており、保護区がない場合には、この経済的コストが7.5%増える可能性があると推定している。



参考文献:
Buckley R. et al.(2019): Economic value of protected areas via visitor mental health. Nature Communications, 10, 5005.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12631-6

酵母の交雑

 違う種類の酵母の交雑により、醸造環境への適応と異なるビールスタイルの出現が促進された、と報告する2編の論文が公表されました。これらの論文は、雑種形成が醸造環境での酵母の適応と多様化をどのように促進したのか示すとともに、産業に関連する他の雑種酵母を開発する上で有益となる情報をもたらしています。人類は、数千年前からサッカロミケス(Saccharomyces)属の酵母を使って、ビールやワインなどさまざまな発酵製品を製造してきており、培養化の過程でそれぞれの製造環境に適応した酵母種を多数作り出してきました。こうした酵母は、異なる種の親から固有の特性を組み合わせてできた雑種です。

 一方の研究(Gallone et al., 2019)は、醸造などの産業活動に用いられている酵母200種類のゲノム塩基配列を解読しました。その結果、解析した酵母の1/4は4種の親の雑種と明らかになり、交雑は、醸造工程を改善する形質(低温への耐性や糖の発酵など)を組み合わせるのに役立っている、と示唆されました。また、現代のラガー酵母は遺伝的多様性が低いと明らかになり、これは19世紀後半に培養・低温貯蔵され、広まった酵母株がわずかであったことで説明されます。しかし、ベルギーの醸造所は、伝統的な醸造法を守り続け、現在に至るまで多種多様な酵母株を用いてビール醸造を行なっています。

 もう一方の研究(Langdon et al., 2019)は、サッカロミケス属の雑種122種類のゲノムを解析しています。そのゲノムから、野生株と産業株が関わる複雑な交雑の歴史が明らかになりました。サッカロミケス属の一種(Saccharomyces cerevisiae)が寄与した雑種は、培養化された3つの親系統のこの種から生じた、と明らかになりました。対照的に、それ以外の3つの親系統は、全て野生の系統でした。スタウトビールとヴァイツェンビールの酵母には、起源の多くをラガー酵母と共有するものが複数あることが明らかになりました。この研究でも、低温耐性形質の遺伝ルートが明らかにされています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】酵母がビールをつくる

 違う種類の酵母の交雑によって、醸造環境への適応と異なるビールスタイルの出現が促進されたと報告する2編の論文が掲載される。

 人類は、数千年前からサッカロミケス(Saccharomyces)属の酵母を使って、ビールやワインなどさまざまな発酵製品を製造してきており、培養化の過程でそれぞれの製造環境に適応した酵母種を多数作り出してきた。こうした酵母は、異なる種の親から固有の特性を組み合わせてできた雑種である。

 今回、Kevin Verstrepenたちは、醸造などの産業活動に用いられている酵母200種類のゲノム塩基配列を解読した。その結果、解析した酵母の4分の1は4種の親の雑種であることが明らかになり、交雑は、醸造工程を改善する形質(低温への耐性や糖の発酵など)を組み合わせるのに役立っていると示唆された。また、現代のラガー酵母は遺伝的多様性が低いことが明らかになり、これは19世紀後半に培養、低温貯蔵され、広まった酵母株がわずかであったことで説明される。しかし、ベルギーの醸造所は、伝統的な醸造法を守り続け、今日に至るまで多種多様な酵母株を用いてビール醸造を行っている。

 別の論文では、Chris Hittingerたちが、サッカロミケス属の雑種122種類のゲノムを解析している。そのゲノムから、野生株と産業株が関わる複雑な交雑の歴史が明らかになった。Saccharomyces cerevisiaeが寄与した雑種は、培養化された3つの親系統のS. cerevisiaeから生じたことが分かった。対照的に、それ以外の3つの親系統は、全て野生の系統であった。スタウトビールとヴァイツェンビールの酵母には、起源の多くをラガー酵母と共有するものが複数あることが明らかになった。Verstrepenたちと同様に、Hittingerたちも低温耐性形質の遺伝ルートを明らかにしている。

 総合すると、今回の2編の論文は、雑種形成が醸造環境での酵母の適応と多様化をどのように促進したのかを示すとともに、産業に関連する他の雑種酵母を開発する上で有益となる情報をもたらしている。



参考文献:
Gallone B. et al.(2019): Interspecific hybridization facilitates niche adaptation in beer yeast. Nature Ecology & Evolution, 3, 11, 1562–1575.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0997-9

Langdon QK. et al.(2019): Fermentation innovation through complex hybridization of wild and domesticated yeasts. Nature Ecology & Evolution, 3, 11, 1576–1586.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0998-8

中国「教授拘束事件」の意味…内外の研究者に及ぶ管理・統制(追記有)

 表題の記事が公開されました。先々月(2019年9月)、中国で日本の国立大学教授が拘束された事件については当ブログでも言及しましたが(関連記事)、川島真氏の表題の記事は、この事件が深刻な意味を有するものである可能性を指摘しており、たいへん注目されます。この事件が「衝撃」だった理由として、川島氏は経緯・専門・準公務員とも言うべき国立大教授という立場を挙げています。拘束の理由は不明なので、この事件のみから中国政府の意図を推測するのは困難なのですが、川島氏が指摘するように、こうした拘束事件は日本人のみを対象としているのではなく、他の外国人相手にも起きており、この点は大いに気になります。

 川島氏は、外国人をめぐる管理・統制の強化は、むしろ中国内の中国人向けの制度が外国人にも適用されつつあることを意味しており、中国内で出版される書籍や論文について、中国人と外国人には別の基準があったものの、習近平政権期になって両者の基準はほぼ同じになり、外国人の書いた文章の中国内での出版は内容によりきわめて難しくなった、と指摘しています。それは政治的性格を仮託されやすい歴史学において、とくに問題となりやすいのでしょう。川島氏は、習近平政権期になって歴史学への統制は強化され、とくに近現代史であれば、国家の歴史よりも共産党の「党史」重視の傾向が強まった、と指摘します。それが中国内の研究者のみならず、外国の研究者にも及びつつあるのではないか、と川島氏は指摘します。

 拘束されたと言われている日本の国立大学教授は日中戦争期を専攻し、中華民国・国民党文書・蔣介石日記・当時の政治家や軍人の個人史料を用いて、きわめて精緻に明らかにしている、と川島氏は評価します。川島氏が実名を挙げていないので私も控えますが、当ブログでも拘束されたと言われている大学教授の論考を取り上げたことがあります。その論考は門外漢には有益で、とくに問題になるようなものとも思えなかったのですが、中国政府の評価は異なるものなのかもしれません。川島氏によると、この十数年で中華民国の歴史研究は大いに進展してきたものの、それは中国共産党の歴史観とは相容れないとして、中国内では強く批判されているそうです。

 中国におけるこうした動向は近現代史だけではなく、ダイチン・グルン(大清帝国)研究にも及んでいるそうです(関連記事)。外国人のダイチン・グルン研究者は新たな衣をまとった帝国主義者と揶揄され、他の帝国と比較することで中華王朝としてのダイチン・グルンの独自性をおとしめた、と非難されたそうです。中国の学術誌『歴史研究』の論説は、多くの中国の歴史家が外国のニヒリストの軍門に下り、「党と人民の要求に応えているとは到底言い難い」と叱責したそうです。もはや前近代の研究においても中国政府の統制が強化されつつあるのかもしれません。

 私が十数年以上前から警戒しているのは、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、今よりもずっと中国に「配慮した」言説を日本でも強いられることなのですが(関連記事)、残念ながらこれは杞憂に終わらないかもしれません。中国に「批判的」というより、中国共産党の歴史観に多少なりとも反するような見解は、「保守反動」として糾弾されるようになる時代も到来するかもしれません。まあ今なら、「保守反動」よりも「ネトウヨ」の方が通用しやすいでしょうか。おそらく中国は、直接的にではなく、「進歩的で良心的な」日本人を通じて日本の言論を統制するのでしょう。まあ、そうした日本人はごく少数でしょうが、マスメディアやネットを通じて大きな声を出すにはじゅうぶんなくらい存在すると思います。

 もっとも、中国が世界全体ではなくともアジア東部・南東部で覇権を確立し、日本も中国に従属するようになれば、それまで「反中的な」言説を声高に語っていた輩の中に、「米帝」や「西側」を罵倒して中国共産党に迎合する者が現れ、現在の「ネトウヨ」よりも多数を占めるようになり、「親中的」で「反米(もしくは西側)的」」な本がベストセラーになるのかもしれません。それもまた人間らしい振る舞いと言ってしまえばそれまでですが、情報通信技術の発展とともに統制を強める中国政府を見ていると、とても冷笑しているような余裕はなく、中国が覇権を確立して日本が従属するような事態は何としても避けたい、というのが私の本音です。


追記(2019年11月16日)
 中国に拘束されていた北海道大学教授が解放されて帰国したので、当ブログに記事を掲載しました。トラックバック機能が廃止になっていなければ、こうした追記は必要なかっただけに、たいへん残念です。

大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。

 本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。

 北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。

 北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。

 上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。

 擦文文化は、紀元後700~1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。

 オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600~1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。

 擦文文化とオホーツク文化は、700~900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。

 こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。

 本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。

 こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。


参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16

中世カトリック教会による西洋工業化社会への心理的影響

 中世カトリック教会による西洋工業化社会への心理的影響に関する研究(Schulz et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。世界の人々の間には、心理的な信念や行動に大きなばらつきがあります。特に、西洋の工業国における個人主義は独特です。これまでの研究により、最近では「Western, Educated, Industrialized, Rich and Democratic(WEIRD、西洋の、教育された、工業化された、裕福な、民主的な)」と表現されるこうした社会は、個人主義で、分析重視で、他人を信じやすい一方で、同調性や服従性や結束力は弱いことが示されていました。こうした特性を後押ししているのが、たとえば政治制度なのか、それとも他のものなのかは、これまで不明でした。

 本論文は、西洋カトリック教会の結婚や家族に関する計画により、強固に結束した親族のネットワークが断ち切られ、その結果、心理にも影響が出た、と仮定しました。その検証のため、この研究は人類学と心理学と歴史学のデータを組み合わせました。人類学では、人間の最も基本的な制度である親族関係が社会の基盤になっている、と指摘されています。心理学では、人間の動機・感情・認識は成長中に遭遇する社会的規範により形成される、と示されています。本論文は人間の心理を把握するため、調査データや行動データや生態学関連の観測データ(自発的献血の有無など)を含む、非常に幅広いデータも利用しました。歴史学では、カトリック教会が中世においてヨーロッパの親族に基づく制度を体系的に弱体化させた、と示唆されています。この研究は、ローマ教皇庁に残こるいとこ婚の割合を示す記録を分析し、親族関係の強さを評価ました。

 こうした分析の結果、結婚に関する教会の宗教令が広がったことにより、血縁に基づく大きな家族のネットワークが、家族の結びつきが弱い、小さくて独立した核家族に体系的に置き換わった、と示唆されました。本論文は、こうした結果を説明できる別の仮説を排除するために、地理的要素や所得・財産・教育などの変数を調整しました。長年教会に接してきた人々に、強い個人主義や低い同調性や見知らぬ人を信じる行動がよく見られるのは、少なくとも部分的には中世カトリック教会の方針が影響している、と本論文は指摘します。個人的には、こうした変化に遺伝的基盤があるのか、文化規範による選択圧がどの程度作用するのか、といったことに興味があります。また、こうした定量的な歴史研究が他地域でも進展することを期待しています。


参考文献:
Schulz JF. et al.(2019): The Church, intensive kinship, and global psychological variation. Science, 366, 6466, eaau5141.
https://doi.org/10.1126/science.aau5141

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第42回「東京流れ者」

 選手村の場所は朝霞にほぼ決まりかけていましたが、田畑政治は会場にずっと近い代々木に拘ります。平沢和重はアメリカ合衆国の日本大使ライシャワーに、代々木の米軍基地の返還を訴えます。日本に米軍基地を返還すれば、日本国民の反米感情も緩和される、というわけです。しかし、米軍側は日本側に60億円を要求し、田畑の責任問題になりかけます。田畑は池田勇人首相と面会し、代々木に選手村を持ってくるよう訴えますが、巨額の返還費が必要となるため、池田首相はまったく相手にしません。しかし田畑は諦めず、米軍が代々木を返還した後、NHKの放送局を移設させ、国民の間でカラーテレビの購入意欲を高めて経済成長に寄与させればよい、と説得し、選手村は代々木と決定します。

 田畑が池田首相と直談判して選手村が代々木と決定したところは、高橋是清や犬養毅と直談判してきた経験が活かされており、長期ドラマらしさが出ていてよかったと思います。長期ドラマらしさといえば、五りんと金栗四三との再会も、五りんの母方祖母からの因縁がありますから、感慨深いものでした。今回も女子バレーチームと大松博文監督が冒頭でしっかりと描かれていました。最終章では女子バレーチームが重要な役割を担うようで、下手に編集せず、当初の予定通り大松監督を登場させ続けてほしい、というのが私の率直な気持ちです。川島正次郎はここまで悪役として描かれていますが、すでに人間的に深いところも描かれており、本作のこれまでの描写からすると、さらに深い側面も出てくるのではないか、と期待しています。円谷幸吉も短時間登場しましたが、前半の主人公が金栗四三だっただけに、やはりマラソン選手ということで重要な役割を担うのでしょうか。悲劇的な最期までは描かれないかもしれませんが。

長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷

 長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。

 本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4~4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代~銅器時代農耕民、鉄器時代~現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。

 より詳細な時代区分では、紀元前10000~紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000~紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500~紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900~紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年~紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300~紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700~紀元後1800年頃となる中世~近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300~紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。

 歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000~紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。

 ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000~紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。

 ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900~紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。

 紀元前900~紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代~鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30~40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。

 国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24~38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。

 これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。

 紀元前509~紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年~紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264~紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万~9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。

 帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。

 帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240~630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30~50%有するとモデル化できます。

 平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。

 一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。

 ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。

 本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38~41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。

 こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。

 帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。

 中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。

 この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は、以下の本論文の図2に示されています。
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 イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代~鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。


参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826

北條芳隆編『考古学講義』第2刷

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15~35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000~36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37~58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59~84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85~102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期~擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。



II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105~122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123~145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147~164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165~192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部~中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193~218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末~中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。



III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221~245
 弥生時代~古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代~魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀~4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247~269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271~290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1~3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291~314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315~346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。

北極海の海氷減少による海生哺乳類の疾患の蔓延(追記有)

 北極海の海氷減少による海生哺乳類の疾患の蔓延に関する研究(VanWormer et al., 2019)が公表されました。アザラシジステンパーウイルス(PDV)は、1988年と2002年に北大西洋のゼニガタアザラシの大量死を引き起こし、2004年には北太平洋で確認されました。この研究は、北太平洋へのPDVの侵入時期、PDVの出現に関連するリスク因子、PDVの伝播パターンを調査しました。この研究は、2001~2016年に収集された海生哺乳類の移動データに加えて、アザラシ・トド・キタオットセイ・ラッコのPDVへの曝露と感染に関するデータを用いました。

 この研究は、2003年と2004年に、北太平洋における海生哺乳類のPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、PDV陽性の海生哺乳類が30%を超えていた、と明らかにしました。その後、PDVの有病率は低下しましたが、2009年に再びピークに達しました。2004年と2009年に試料採取された海生哺乳類のPDV感染率は、その他の年の9.2倍でした。これと関連して、2002年・2005年・2008年に北大西洋から北太平洋に至る水路が開いていた、と衛星画像によって検出されました。

 これらの知見は、2002年以降に北太平洋全域でPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、数々の海生哺乳類にPDVが伝播し、海氷減少があった後にPDVへの曝露と感染がピークに達したことを示す証拠となっています。海氷減少のような環境の変化は、動物の行動を変化させ、それまで別々の海域に生息していた動物個体群が相互に接触できる水路を開いて、新たな病原体への曝露を生じさせる可能性がある。北極海の海氷減少が続けば、病原体が北太平洋と北大西洋の間を移動する機会が増えるかもしれない、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生物学】北極海の海氷減少は海生哺乳類の疾患の蔓延を助長するかもしれない

 気候変動を原因とする北極海の海氷減少により、海生哺乳類に感染する病原体が北大西洋と北太平洋の間で蔓延する頻度が高まる可能性のあることを報告する論文が、今週掲載される。海氷減少のような環境の変化は、動物の行動を変化させ、それまで別々の海域に生息していた動物個体群が相互に接触できる水路を開いて、新たな病原体への曝露を生じさせる可能性がある。

 アザラシジステンパーウイルス(PDV)は、1988年と2002年に北大西洋のゼニガタアザラシの大量死を引き起こし、2004年には北太平洋で確認された。今回、Tracey Goldsteinたちの研究グループは、北太平洋へのPDVの侵入時期、PDVの出現に関連するリスク因子、PDVの伝播パターンを調査した。Goldsteinたちは、2001~2016年に収集された海生哺乳類の移動データに加えて、アザラシ、トド、キタオットセイ、ラッコのPDVへの曝露と感染に関するデータを用いた。

 Goldsteinたちは、2003年と2004年に北太平洋における海生哺乳類のPDVへの曝露と感染が広範囲に及んでいたことを明らかにした。PDV陽性の海生哺乳類が30%を超えていたのだ。その後、PDVの有病率は低下したが、2009年に再びピークに達した。2004年と2009年に試料採取された海生哺乳類のPDV感染率は、その他の年の9.2倍だった。このことと関連して、2002年、2005年、2008年に北大西洋から北太平洋に至る水路が開いていたことが、衛星画像によって検出された。

 以上の知見は、2002年以降に北太平洋全域でPDVへの曝露と感染が広範囲に及び、数々の海生哺乳類にPDVが伝播し、海氷減少があった後にPDVへの曝露と感染がピークに達したことを示す証拠となっている。北極海の海氷減少が続けば、病原体が北太平洋と北大西洋の間を移動する機会が増える可能性がある。



参考文献:
VanWormer E. et al.(2019): Viral emergence in marine mammals in the North Pacific may be linked to Arctic sea ice reduction. Scientific Reports, 9, 15569.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-51699-4


追記(2019年11月12日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

後天性細菌間防御系を含むヒトの腸内細菌

 ヒトの腸内細菌の後天性細菌間防御系に関する研究(Ross et al., 2019)が公表されました。ヒトの消化管は、密で多様な微生物群集によって構成されており、その組成は健康と密接に結びついています。この群集の構成要素を説明するには、食餌や宿主免疫などの外因性の要因だけでは不充分で、共存する微生物間の直接的な相互作用が腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、 マイクロバイオーム)組成の重要な駆動要因として関与している、とされています。腸内微生物叢由来の細菌のゲノムには、接触依存的な細菌間拮抗作用を仲介するいくつかの経路が含まれています。バクテロイデス目のグラム陰性菌の多くはVI型分泌装置(T6SS)をコードしており、T6SSは毒性のあるエフェクタータンパク質の隣接する細胞内への送達を促進します。

 この研究は、ヒトの腸内微生物叢に存在するバクテロイデス目の種において、後天性細菌間防御(AID)遺伝子クラスターが存在する、と報告しています。これらのクラスターは、T6SSを介した種内および種間の細菌の拮抗作用を防ぐ一連の免疫遺伝子の配列をコードしています。さらに、これらのクラスターは可動性エレメントに存在して、それらの移動が試験管内やノトバイオートマウスにおいて毒素に対する抵抗性の付与に充分である、と明らかになりました。また、バクテロイデス目のゲノムに広く存在するリコンビナーゼ関連AIDサブタイプ(rAID-1)の防御能も特定・確認されました。これらのrAID-1遺伝子クラスターは、活発な遺伝子獲得を示唆する構造を持ち、多様な生物に由来する毒素の予測免疫因子を含んでいます。この研究は、AID系による接触依存的な細菌間拮抗作用の中和が、ヒトの腸内微生物叢の生態環境形成を助けている、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


微生物学:ヒトの腸内細菌は後天性細菌間防御系を含む

微生物学:腸内微生物群を免疫で武装

 微生物が高密度で存在する腸内環境では、細菌は隣接する細菌からの攻撃を防ぐ必要がある。J Mougousたちは今回、同じ種あるいは異なる種のVI型分泌装置(T6SS)が分泌する毒素に対して作用する、免疫遺伝子のクラスターが関与する新しい防御戦略を特定した。この細菌間防御系は、バクテロイデス属(Bacteroides)の種の間で広く見られると考えられ、この系が種間を移動できることによって、in vitroおよびマウスで毒素に対する抵抗性の移動が起こる。これらの後天性細菌間防御(AID)遺伝子クラスターは、腸内微生物相の生態学的相互作用を形作るのに重要であると予測される。



参考文献:
Ross BD. et al.(2019): Human gut bacteria contain acquired interbacterial defence systems. Nature, 575, 7781, 224–228.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1708-z

学習に最適な難易度

 学習に最適な難易度に関する研究(Wilson et al., 2019)が公表されました。教育のための最適条件をめぐる論点については、何年も前から研究者の間で議論が続けられています。しかし、学習に有益な特定の難易度が存在している理由とその最適レベルが具体的に何なのかは、まだ分かっていません。この研究は、トレーニングの難易度が学習速度に影響するかどうかを調べました。この研究は、一連の2値分類タスクに用いるアルゴリズムセットのための最適学習条件を導出しました。この場合、学習ベースのアルゴリズムは、明確でない刺激(たとえば、ランダムパターンをとる少数のコヒーレントドットの移動方向)を2つのグループのいずれかに分類できることが求められました。

 その結果、最適なエラー率は約15.87%で、逆の言い方をすれば、アルゴリズムの学習精度が約85%の時にトレーニングが最も速く進行する、と明らかになりました。また、最適精度でのトレーニングの方が、特定の難易度に固定されたトレーニングよりも速く進行することも分かりました。さらにこの研究は、こうした手法を人工知能に使われる人工ネットワークと、人間や動物の知覚学習を記述すると考えられている計算論的神経科学モデルに適用したところ、最適な学習率が「85%ルール」に従っている、と明らかにしました。この新知見は、学習速度を最大化するための最適設定を明らかにするための理論の構築に役立つかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【計算論的科学】学習に最適な難易度とは

 このほど行われた計算論的研究で、学習者の正答率を約85%に保つようにトレーニングの難易度を調整すると、学習が最も急速に生じるという結果が得られたことを報告する論文が、今週掲載される。この新知見は、学習速度を最大化するための最適設定を明らかにするための理論の構築に役立つかもしれない。

 教育のための最適条件をめぐる論点については、何年も前から研究者の間で議論が続けられている。しかし、学習に有益な特定の難易度が存在している理由とその最適レベルが具体的に何なのかは分かっていない。

 今回、Robert Wilsonたちの研究グループは、トレーニングの難易度が学習速度に影響するかどうかを調べた。Wilsonたちは、一連の2値分類タスクに用いるアルゴリズムセットのための最適学習条件を導出した。この場合、学習ベースのアルゴリズムは、明確でない刺激(例えば、ランダムパターンをとる少数のコヒーレントドットの移動方向)を2つのグループのいずれかに分類できることが求められた。その結果、最適なエラー率は約15.87%で、逆の言い方をすれば、アルゴリズムの学習精度が約85%の時にトレーニングが最も速く進行することが分かった。また、最適精度でのトレーニングの方が、特定の難易度に固定されたトレーニングよりも速く進行することも分かった。

 さらにWilsonたちが、この研究アプローチを人工知能に使われる人工ネットワークと人間や動物の知覚学習を記述すると考えられている計算論的神経科学モデルに適用したところ、最適な学習率が「85%ルール」に従っていることが明らかになった。



参考文献:
Wilson RC. et al.(2019): The Eighty Five Percent Rule for optimal learning. Nature Communications, 10, 4646.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-12552-4

『卑弥呼』第28話「賽は投げられた」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年11月20日号掲載分の感想です。前回は、新生「山社国」のためにヤノハとミマト将軍とテヅチ将軍が日向(ヒムカ)侵攻を決意したところで終了しました。今回は、山社(ヤマト)の楼観にて、ヤノハがモモソの夢を見ている場面から始まります。モモソはまず、ヤノハがまた間違った、と伝えます。日向(ヒムカ)への遠征だと思ったヤノハは、もちろん多くの血が流れるだろうが、日向を平定するのが日の守(ヒノモリ)だった自分の義母願いだ、と言ってモモソに理解を求めます。しかし、モモソの意図は違いました。山社を国にするため日向の地を得るのは分かるが、最小限ですみ、そこを取れば誰にも文句を言わせず、ヤノハが真の日見子(ヒミコ)と喧伝できる場所にまず行くべきだ、というわけです。

 山社では、夜明けとともに500人の兵が東の日向に向かうはずだったのに、まだ出陣していないことを、クラトが不審に思っていました。ミマアキは、真夜中に日見子(ヤノハ)に新たな神託が下ったが、テヅチ将軍とミマアキの父であるミマト将軍が難色を示している、と説明します。理由の一つは、日見子自身が同行すると言ったからでした。もう一つは、日見子が遠征先を変えると言ったからですが、ミマアキもその行き先までは知りません。

 ヤノハは楼観で、テヅチ将軍とミマト将軍に自分の考えを明かします。ヤノハは日向のある東へ直ちに向かうのではなく、まず北の閼宗(アソ)山(阿蘇山)を目指し、その手前で東進しようと考えていました。イクメは、ヤノハが天照大御神のいる永遠の聖地たる千穂に参詣するつもりだ、と悟ります。千穂に詣でればヤノハが真の日見子と知らしめることができる、というわけです。それでも躊躇うテヅチ将軍とミマト将軍に対してヤノハは、まず千穂に入場すれば都萬(トマ)も他の諸国も戦おうとはしないだろう、と説得します。ヤノハの望みは倭を平和にすることで、戦をせずにすむ道を選ぶ、というわけです。テヅチ将軍とミマト将軍は、都萬はもちろん、少なくとも筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)のどの国も見ないふりをするだろう、と言います。それは、千穂には「何か」がいるからだ、がテヅチ将軍は説明します。イクメは、それは大昔の言い伝えだろう、と疑問を呈しますが、ミマト将軍は、都萬が百年前にその「何か」を成敗するため派兵したものの、全員帰還できなかった、と説明します。ミマト将軍によると、千穂に近い邑人たちは数百年間、荒ぶる「何か」を鎮めるため、今も毎年、8人の生娘を生贄として捧げているそうです。ヤノハに「何か」を問われたテヅチ将軍は、鬼と答えます。ミマト将軍は、人か魔物か分からないものの、その「何か」が鬼道に通じていることは確かだろう、と推測します。さらにテヅチ将軍は、その「何か」は昔から鬼八荒神(キハチコウジン)と呼ばれている、と補足します。鬼がずっと千穂を支配しているため、百年以上倭人は誰も聖地を訪れられないとは面白い話だ、とヤノハは言います。ヤノハはテヅチ将軍とミマト将軍に対して、鬼八なる者が鬼道に通じているなら、自分も同じ術を用いる、と宣言します。自分は鬼も魔物も一度も見たことはないが、その者の正体を確かめたくはないか、とヤノハに問われたテヅチ将軍とミマト将軍は苦笑し、日見子(ヤノハ)に従うだけだ、と覚悟を決めます。

 暈(クマ)と那(ナ)の国境近くでは、那のトメ将軍が配下から報告を受けていました。那の都では、トメ将軍は謀反人で、新王になるため攻め寄せてきた、と大騒ぎになっていました。大河(筑後川と思われます)の対岸に控えるトメ将軍の配下であるホスセリ校尉も9000人の兵を率いてトメ将軍を迎え撃とうとしていました。その後トメ将軍は伺見(ウカガミ)から、ヤノハの預言通り、那では自分が謀反人と断定され、都への入場が止められようとしている、と報告を受けます。那の島子(シマコ)のウラは、トメ将軍を狙って手勢を差し向けたらしい、と言うトメ将軍に対して、どうするつもりなのか、ヌカデは尋ねます。答えが出ないというトメ将軍に対して、兵法を駆使してはどうか、とヌカデは進言します。するとトメ将軍は、かつてヌカデに話した、ヤノハに似ている兵法家の韓信について語ります。韓信は賽を発明した人物でともありました。賽自体は秦の始皇帝の時代よりあったものの、正六面対の賽を発明したのは韓信と言われています。賽についてヌカデに訊かれたトメ将軍は、各面に壱から六までの漢字か穴が彫られており、放り投げて地に落ちた時に出た数で運命を決める、と答えます。兵法家は情報分析のみを重んじ、天命や運を信じないのでは、とヌカデに問われたトメ将軍は、大兵法家の韓信ですら、時には天命にすがりたくなり、賽を発明したのだろう、と答えます。トメ将軍は兵士たちを集め、祖国である那のために暈を蹴散らしたにも関わらず、謀反人呼ばわりされている、大河を越えれば那国の悲惨、越えねば我々の破滅だが、迷うことなく進もう、我々に疑惑の目を向けた敵どもに一泡吹かせる、とうったえ、兵士たちの士気は高まります。トメ将軍に別れを告げられたヌカデは、今ここに韓信の賽があればどうするのか、と問いかけます。これに対してトメ将軍が、もちろん投げるが、どんな数字が出ようが答えは決まっている、我が道を進むのみ、と答えるところで今回は終了です。


 今回は、トメ将軍が自分たちを謀反人扱いした祖国である那の要人相手に戦う、と決断したところまでが描かれました。那の富は倭国一とされており(第1話)、ヤノハは、倭国安定のためにはまず最も豊かな国を自陣営に引き入れねばならない、と計算しているのでしょうか。トメ将軍は大物感のある魅力的な人物として描かれており、人物造形に成功しているように思います。トメ将軍はヤノハを霊感の持ち主としてよりは、情報分析と決断力に優れた兵法家と認識しています。おそらくトメ将軍は、倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後も、そうした観点からヤノハを支えていくことになりそうです。

 今回、謎解き要素という点で注目されるのは、天照大御神のいる永遠の聖地たる千穂(おそらく高千穂でしょう)に関する話です。千穂にいる「何か」である「鬼八荒神」は鬼道に通じている、とされています。『三国志』には、卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とあります。この鬼道が何なのか、諸説あるようですが、本作ではどう設定されるのか、楽しみです。ヤマタノオロチ伝説も絡められ、なかなか面白い設定になりそうですが、鬼八荒神とは、儒教的な枠組みに収まらないさまざまな術を用いる集団で、古くから天照大御神の聖地を守っているのではないか、と予想しています。娘を生贄にするとは、鬼八荒神集団は父系継承で、外部である近隣集落から若い女性を差し出さて子供を産ませていることを意味しているのかもしれません。暈にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長であるヒルメは、四肢を砕かれて野原に放置され、そこへ狼を率いる人物が現れましたが(第23話)、この人物こそヤノハの弟であるチカラオで、種智院に身を寄せた姉にたいして、鬼八荒神集団に養われ、狼を操る術も習得したのではないか、と予想しているのですが、どうなるでしょうか。ヤノハは、弟は死んだと考えていますが、おそらく、『三国志』に見える卑弥呼を支える「男弟」がチカラオだと思います。次回は巻頭カラーとのことで、たいへん楽しみです。

何故欧州の科学者はネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNAを公表しないのだろう?

 Twitterで検索していたら、表題の発言を発見しました。これは引用で、元の発言

最近は「ネアンデルタール人は最も古いグループの現生人類であり、現代人と同じ民族である」と考えられる様になり、となると「デニソワ人やクロマニヨン人も当然、現生人類である」となる。何故欧州の科学者はネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNAを公表しないのだろう?現生人類ならば、当然ある筈

となります。こう呟いた「ニコイの水芭蕉」氏の発言にはこのように出鱈目なものが多く、しかも呟きが多く検索の邪魔になるので、以前からミュートしていました。取り上げるべきではないのでしょうが、せっかくミュートしていたのに視界に入ってきてイラっとしてしまったので、苛立ちを解消するために言及します。そもそも、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が「現代人と同じ民族」とはあまりにも常軌を逸した発言で、そもそも民族は遺伝的に定義できるものではありません。おそらく、現生人類(Homo sapiens)を「Homo sapiens sapiens」、ネアンデルタール人を「Homo sapiens neanderthalensis」とする種区分のことを念頭に置いているのでしょうが、これは両者が種ではなく亜種レベルで区分される、と言っているにすぎず、「民族」区分を意味しているのではありません。あまりにも常識的なことなので、わざわざ述べていて恥ずかしいくらいですが。

 次に、ヨーロッパの研究者がネアンデルタール人やデニソワ人のY染色体DNAを公表していない、との認識ですが、こちらも出鱈目です。確かに、デニソワ人のY染色体DNAはまだ公表されていないと思いますが、これはデニソワ人男性ではY染色体DNAに基づく系統樹を推定できるだけの品質のデータが得られていないというだけで、ネアンデルタール人に関しては、以前にも取り上げましたが(関連記事)、イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)と、ベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)の個体のものが公表されています。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人に関する論文(Mendez et al., 2016)の図3は以下のようになっています。
画像
スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡のネアンデルタール人に関する論文(Hajdinjak et al., 2018)の図2は以下のようになっています。
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 このようにネアンデルタール人のY染色体DNAに関してはすでに3年半以上前(2016年4月)から公表されています。それを知らなかったのは仕方ないとしても、「ネアンデルタール人 Y染色体」で検索すればすぐに分かることなのに、その手間さえかけず、あたかもヨーロッパの研究者がわざとこうひょうしないかのように仄めかすのは、本当に悪質だと思います。まあ、こうした愚劣な陰謀論的発言は多くの場合、ちょっとした検索もしないような横着と傲慢さに基づいているのでしょう。


参考文献:
Hajdinjak M. et al.(2018): Reconstructing the genetic history of late Neanderthals. Nature, 555, 7698, 652–656.
http://dx.doi.org/10.1038/nature26151

Mendez FL, Poznik GD, Castellano S, and Bustamante CD.(2016): The Divergence of Neandertal and Modern Human Y Chromosomes. The American Journal of Human Genetics, 98, 4, 728-734.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2016.02.023

森林の枯死の予測

 森林の枯死の予測に関する研究(Liu et al., 2019)が公表されました。森林枯死の発生頻度が高まっていることは全世界で観測されており、その結果としての土地被覆の変化が、生態系と在来種に影響を及ぼしています。また、この数十年間にわたって、気候変動による気温と降水量のパターンの変化が、森林にとってストレスになっています。森林枯死を予測できることは、発生を未然に食い止める上で重要ですが、森林枯死の基盤となる機構が解明されていないため、難題となっています。

 この研究は、植生動態のリモートセンシングデータを用いて、森林枯死を予測するための新しい観測的手法を開発しました。この手法は、森林の回復力の変化という早期予兆信号を観測することに基づいています。回復力の変化は、森林が、潅木地のような別の種類の生態系に変化する可能性が生じる転換点に近づくと起きますが、これは一定期間にわたる衛星観測による植生データの解析によって検出でき、撹乱が起こった後の樹木の葉の回復の遅さを示している可能性があります。

 この研究は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の森林でこの観測的手法を検証し、森林枯死の6~19ヶ月前に森林の回復力の変化を検出できる、と発見しました。この早期予兆信号は、緑色植物の密度の低下のような他の森林衰退の兆候よりも早く検出されました。この研究は、こうしたシステムによって、森林枯死の予測をこれまでよりも正確かつ早期に行なえるようになり、森林管理者が脅威を緩和し、森林の健康を回復させて森林枯死を防止するための時間的余裕が得られる、と考えています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】森林の死を予測するための新たな手掛かり

 森林の回復力(撹乱からの回復速度)の低下は、衛星観測による植生データから検出でき、森林の枯死を予測するための早期予兆信号となる可能性があるという考えを示す論文が掲載される。

 森林枯死の発生頻度が高まっていることは全世界で観測されており、その結果としての土地被覆の変化が、生態系と在来種に影響を及ぼしている。また、この数十年間にわたって、気候変動による気温と降水量のパターンの変化が、森林にとってストレスになっている。森林枯死を予測できることは、発生を未然に食い止める上で重要だが、森林枯死の基盤となる機構が解明されていないために難題となっている。

 今回、Yanlan Liu、Mukesh Kumarたちの研究グループは、植生動態のリモートセンシングデータを用いて森林枯死を予測するための新しい観測的手法を開発した。この手法は、森林の回復力の変化という早期予兆信号を観測することに基づいている。回復力の変化は、森林が、別の種類の生態系(例えば、潅木地)に変化する可能性が生じる転換点に近づくと起こるのだが、一定期間にわたる衛星観測による植生データの解析によって検出でき、撹乱が起こった後の樹木の葉の回復が遅いことを示している可能性がある。Liuたちは、カリフォルニア州の森林でこの観測的手法を検証し、森林枯死の6~19か月前に森林の回復力の変化を検出できることを発見した。この早期予兆信号は、他の森林衰退の兆候(例えば、緑色植物の密度の低下)よりも早く検出された。

 Liuたちは、このシステムによって、森林枯死の予測をこれまでよりも正確かつ早期に行えるようになり、森林管理者が脅威を緩和し、森林の健康を回復させて森林枯死を防止するための時間的余裕が得られると考えている。



参考文献:
Liu Y. et al.(2019): Reduced resilience as an early warning signal of forest mortality. Nature Climate Change, 9, 11, 880–885.
https://doi.org/10.1038/s41558-019-0583-9

注目が高まるY染色体(追記有)

 皇位継承をめぐる議論でY染色体への関心が高まっているように思いますが、それ以前より、皇位継承とは関係なく、現代日本人の遺伝的構成の特異性を強調する観点から、Y染色体は注目されていたように思います。そうした言説では、現代日本人男性において3~4割を占めるY染色体ハプログループ(YHg)Dが韓国人や漢人ではほとんど見られないことから、日本人は韓国人や漢人といった近隣地域の人類集団とは遺伝的にはっきりと異なる、と強調されます。これはかなり偏った見解で、父系遺伝となるY染色体限定ではなくはるかに情報量の多いゲノム規模データでは、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。また、Y染色体DNAと同様に情報量はゲノム規模データよりずっと少ないものの、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)でも、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。DNA解析技術が飛躍的に進展したこともあり、近年では、ゲノム規模データによる人類集団間の比較が主流になっています。

 しかし、これはY染色体DNAやmtDNAの解析が無意味になったことを意味しません。どちらも、ある集団の社会構造や形成史を推測するうえで重要な手がかりになります。人類史において移住・配偶の性的非対称は珍しくなく(関連記事)、それがY染色体DNAとmtDNAにはっきりと反映されている場合もあります。たとえばラテンアメリカでは、父系ではユーラシア西部系が、母系ではアメリカ大陸先住民系が多数派を占める傾向にあり、15世紀末以降、ヨーロッパ系の男性が主体となったアメリカ大陸の侵略を反映しています。こうした偏りは、常染色体だけでは解明しにくいと言えるでしょう。また、中国のフェイ人(Hui)の事例は、外来の少数男性がフェイ人(回族)の文化形成に重要な役割を果たした、と示唆します(関連記事)。父系社会の多い現代人において、情報量の多い常染色体DNAデータだけでは分からない歴史をY染色体が提供することも珍しくないだろう、と期待されます。

 とはいっても、当然Y染色体だけで文化や民族を解明できるわけではなく、そもそも民族を遺伝的に定義できるわけではありません。最近では、古代DNA研究の飛躍的な進展とともに、ある文化集団を遺伝的に均一と考える傾向について、懸念が呈されています(関連記事)。この点には注意が必要で、ある地域集団における文化変容・継続と遺伝的構成の関係はかなり複雑なものだった、と考えられます(関連記事)。同じ文化集団だから遺伝的に類似しているはずだ、という見解は問題ですが、一方で、遺伝的継続性が低いから先住集団の文化はほとんど継承されていないはずだ、との見解もまた問題で、たとえば日本列島における縄文時代から弥生時代への移行についても、慎重に検証していかねばならないでしょう。

 具体的には、「縄文人」の遺伝的影響が本州・四国・九州を中心とする現代日本の「本土」集団では低そうなので、縄文文化はその後の「本土」文化にほとんど影響を与えていないとか、「縄文人」や「弥生人」、とくに後者について、均一な遺伝的構成を想定する(関連記事)とかいった主張です。縄文時代から弥生時代への移行の解明に関しても、古代DNA研究が大きく貢献すると期待されますが、そのためには、日本列島だけではなく、広くユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展が必要となるでしょう。


追記(2019年12月1日)
 Y染色体DNA解析の重要性を示す地域として、コーカサスがあります。現在のコーカサス地域では、常染色体やmtDNAが比較的均質なのに対して、Y染色体では民族に応じた大きな違いが見られます(関連記事)。フェイ人と同様に、父系の違いが文化の違いに大きな影響を及ぼした事例と言えそうです。

女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります

 表題の発言は半年ほど前(2019年5月10日)のもので、以下に全文を引用します。

女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります。
身を挺して歴代の天皇や、特に女性天皇が死守してきた皇統が、何者かに乗っ取られるのです。
征服者にとっては、それが始まりなのでしょうけどね。


 この発言を嘲笑する人は多いかもしれませんが、重要な論点が含まれており、一笑に付すようなものではない、と私は考えています。網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)では、「日本」はヤマトを中心に成立した国家の国号で、王朝名だと指摘されています(P333)。また網野氏はかつて、一部の支配者が決めた「日本」という国号は国民の総意で変えられると述べて、日本が嫌いなら日本から出ていけ、という手紙・葉書が届いたそうです(同書P94)。

 現在の女性皇族が「(天皇の男系子孫ではない)民間人」と結婚し、その子供が天皇に即位した場合、これを「王朝交替」と解釈することは、人類史、とくにヨーロッパ史的観点からは無理のない定義と言えるでしょう。日本も含まれる漢字文化圏でも、後周のように異なる男系でも同一王朝という事例もあり、異なる男系での君主継承が王朝交替の第一義的条件ではないとしても、実質的には男系の交替と王朝交替がおおむね一致しています。また漢字文化圏では、王朝が替われば国号も変わります。

 このように、異なる文化圏の概念の組み合わせという側面もありますが、「日本」という国号を王朝名、それまでとは異なる男系の天皇が誕生すれば「王朝交替」と考えれば、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という認識は一笑に付すようなものではない、と私は考えています。日本は、漢字文化圏的枠組みでは少なくとも6世紀以降「王朝交替」はなかったと言えるので(関連記事)、漢字文化圏としては異例の長さで同じ国号が続いたことから(漢字表記で正式に「日本」とされたのは8世紀初頭)、「日本」はもう地理的名称として定着した感もありますが、原理的には変えられるものなのだ、と気づく契機になり得るという点で、表題の発言は嘲笑されるべきではない、と私は考えています。

 もっとも、仮に今後日本で天皇制が廃止されたり、皇位の女系継承が容認され、女性皇族と天皇の男系子孫ではない夫との間の子供が即位したりするようなことがあっても、すでに定着した「日本」という国号を変える必要はまったくないと思いますし、もしそういう運動が起きたとしても、すでに長く定着した国号で愛着があるので、私は反対します。網野善彦氏は、「日本」は王朝名だと強調し、「日本」という枠組みで「(日本)列島」史を把握することに否定的ですが、そもそも「政治的」ではない「中立的な」地理的名称が世界にどれだけあるのかと考えれば、「アジア」や「朝鮮半島」や「中国大陸」という地名を採用しておきながら、ことさら「日本」を標的にすることには疑問が残ります。なお、網野氏は天皇号と日本国号の画期性を強調しますが、これにも疑問が残ります(関連記事)。

ワクチン接種を受けていない小児の「免疫記憶喪失」

 ワクチン接種を受けていない小児の「免疫記憶喪失」に関する二つの研究が公表されました。日本語の解説記事もあります。麻疹ワクチン導入前は、ほぼ全ての小児が麻疹感染を経験していました。ワクチン接種は2000~2017年の麻疹症例の80%減少に役立ち、推定2110万人の生命を救いました。しかし、反ワクチン活動・反ワクチン宗教団体・ワクチン接種の機会が限られていることなどから、麻疹は年間700万人以上に感染し、10万人以上を死亡させ続けています。2018年以降、ワクチン接種の減少のみで、麻疹感染が約300%増加しました。

 ワクチン接種の価値の評価に役立てるため、この二つの研究は、麻疹に関する、特徴的な発疹のような明らかな症状がなくなった後も数ヶ月から数年継続する免疫抑制を引き起こし得る、という仮説を検討しました。つまり、麻疹感染によりウイルスと細菌に対する免疫が長期的に活動不能になり、他の病原体による将来の感染症にかかりやすくなる一種の「免疫記憶喪失」が生じるのではないか、というわけです。この仮説はすでに、麻疹が感染性疾患による小児期の最高50%の死亡と関連しているという証拠など、過去の研究で裏づけられています。しかし、麻疹後の免疫抑制がヒトで正確にどのように生じるのかは不明です。

 一方の研究(Petrova et al., 2019)は、ワクチン接種を受けていない小児77名の麻疹感染前後のB細胞(ウイルスを認識しウイルスへの攻撃を配備できる一次免疫細胞の一つ)のシーケンシングを行ないました。小児は4~17歳で、麻疹の自然感染歴はなく、オランダの三つの東方正教会プロテスタント学校出身でした。小児の感染前後のB細胞データの比較から、麻疹による二つの免疫抑制の徴候が明らかになりました。それは、B細胞プールの不完全な再供給と、B細胞クローンの枯渇による免疫記憶の不全です。また、この研究は動物試験で、インフルエンザワクチン接種を既に受けており麻疹に感染したフェレットは、ウイルスに対する免疫が弱くなり、2回目のインフルエンザ感染時に重度の症状を示した、と明らかにしました。

 もう一方の研究(Mina et al., 2019)は、VirScanと呼ばれるツールを用いて、ワクチン接種を受けていない小児の麻疹感染前後の抗体反応を解析しました。この技術は血中の数千のウイルスおよび微生物抗原に対する抗体を追跡します。この研究は、麻疹感染2ヶ月後、麻疹により患者の抗体レパトアの11~73%が壊滅し、回復後もさまざまな感染症の免疫記憶が損なわれた、と明らかにしました。抗体の枯渇は、麻疹・流行性耳下腺炎・風疹のワクチン接種を受けた乳児では認められませんでした。さらに、麻疹に感染したマカクザルでは、抗体レパトアの60%が少なくとも5ヶ月間検出できませんでした。抗体レパトアは病原体への再曝露によって再構築可能ですが、これには数ヶ月から数年かかる場合があり、いくつかの健康リスクがもたらされるかもしれない、とこの研究は指摘しています。

 これら二つの研究は、麻疹を予防するだけではなく、他の種類の病原体に対する「集団免疫」の減弱も予防できる幅広いワクチン接種の必要性を再び強く示しました。ネットでは反ワクチン運動の言動が目立ちますが、こうした問題では、往々にして極論が目立ち、ネットではそうした極論が増幅される傾向にあるように思えるのは、困ったことです。確かに、ワクチン接種による弊害が皆無とは言えないでしょうが、基本的に人類に限らず生物はトレードオフ(交換)の問題に直面し続けるものなので、さまざまな観点から対策を取りつつも、どこかで割り切って決断しなければならないものだと思います。


参考文献:
Mina MJ. et al.(2019): Measles virus infection diminishes preexisting antibodies that offer protection from other pathogens. Science, 366, 6465, 599–606.
https://doi.org/10.1126/science.aay6485

Petrova VN. et al.(2019): Incomplete genetic reconstitution of B cell pools contributes to prolonged immunosuppression after measles. Science Immunology, 4, 41, eaay6125.
https://doi.org/10.1126/sciimmunol.aay6125

ネアンデルタール人が制作した猛禽類の爪の装飾品

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産と考えられる猛禽類の爪の装飾品を報告した研究(Rodríguez-Hidalgo et al., 2019)が報道されました。ビーズやペンダントのような考古学的装飾品は、伝統的に象徴的行動の直接的証拠として認識されてきました。これは、「行動的現代性」の出現と関連しています。現生人類(Homo sapiens)のものと思われる装飾品は、8万年以上前のものがアフリカやレヴァントで発見されています。一方、ネアンデルタールに関しても、現生人類よりも早いかもしれないイベリア半島南東部における装飾品の事例が報告されています(関連記事)。

 この他にも、ウルツィアン(Uluzzian)やシャテルペロニアン(Châtelperronian)といった中部旧石器時代~上部旧石器時代にかけての「移行期」インダストリーで装飾品が発見されていますが、ウルツィアン(関連記事)にしてもシャテルペロニアン(関連記事)にしても、その担い手をめぐって議論が続いており、ネアンデルタール人の所産と確定したとは言えないでしょう。しかし本論文は、さまざまな証拠からシャテルペロニアンをネアンデルタール人の所産と判断しています。私も、少なくとも一部のシャテルペロニアンの担い手がネアンデルタール人である可能性はきわめて高い、と考えています(関連記事)。本論文は、中部旧石器時代~「移行期」インダストリーの頃となる、上部旧石器時代以前の人為的痕跡がある既知の猛禽類遺骸を整理するとともに、イベリア半島南東部の新たな猛禽類の指骨を、解剖学や民族誌的記録の観点から分析し、ネアンデルタール人製作の装飾品があったのか、改めて検証しています。

 スペインのカタルーニャ州のカラフェユ(Calafell)のコヴァフォラダダ(Cova Foradada)洞窟では、考古学的に10層が確認されており、後期更新世~中期完新世となる8層でヒトの痕跡が発見されています。第1層と第2層は完新世、第3n層はグラヴェティアン(Gravettian)、第3g層と第3c層は早期オーリナシアン(Early Aurignacian)、第4層・第4-1層・第4-2層はシャテルペロニアンです。第4層の下の第5層では考古学的痕跡はほとんど確認されていません。第3n層・第3c層・第4層のパターンから、コヴァフォラダダは時として人類に使用された洞窟と推測されています。第4層ではシャテルペロニアン石器群が確認されており、これはシャテルペロニアン分布範囲としては最南端となります。第4層の動物遺骸1289点のうち1076点の種が識別されており、そのうちウサギが63.8%、小型の鳥が16.5%、イベリアオオヤマネコが9.4%で、また12点(1.1%)は中型~大型の猛禽類です。これら動物遺骸の表面分析は、人為的痕跡が稀であることを示しており、焼けた骨が31点(2.4%)、解体痕のあるウサギの骨が20点(1.6%)です。第4層の状況は人類集団による散発的利用を示唆し、おそらくは人類が休憩して道具を修理する場所だったと推測されます。第4-1層ではイベリアカタシロワシの解体痕のある指骨が発見されています。第4層は較正年代で39000年以上前です。

 第4-1層の猛禽類の左足指骨は、その形態からイベリアカタシロワシ(Aquila adalberti)のものと考えられますが、これをカタシロワシ(Aquila heliaca)の亜種とする見解もあり、その起源については議論が続いています。両者の推定分岐年代についても、100万年以上前という見解と末期更新世もしくは完新世との見解があり、さらには両者の遺伝子流動の可能性も提示され、議論が続いています。もし第4-1層の猛禽類がイベリアカタシロワシもしくはその祖先系統ならば、最古の事例となりますが、本論文はこの問題について断定できない、と慎重な姿勢を示します。以下、とりあえず「カタシロワシ」としておきます。カタシロワシの指骨には12個の解体痕があり、そのうち11点は平行して均一的であることから、人為的と考えられます。

 ネアンデルタール人が鳥類を捕獲し、時として食べていたことは、ヨーロッパで確認されています(関連記事)。鳥類の足は食用に適しませんが、その可能性は排除できず、足の爪の解体痕は食べられない部位を取り除いただけとも考えられます。しかし本論文は、他の鳥類の事例では、足の爪に解体痕が見られることはほとんどないため、これは食用のためではなく、象徴的目的の結果ではないか、と解釈しています。クロアチアでも、13万年前頃の猛禽類の爪で解体痕が確認されており、装飾用と解釈されています(関連記事)。本論文は、ヨーロッパ南部のネアンデルタール人が、短くとも8万年にわたって猛禽類の爪を象徴的に利用する文化習慣があった、と推測しています。本論文はコヴァフォラダダ遺跡の解体痕のある猛禽類の爪を、ネアンデルタール人の象徴的行動の新たな事例と評価しています。

 さらに、こうした装飾品用に加工された猛禽類の爪は、現生人類のみとなったヨーロッパの上部旧石器時代ではさほど多くないのですが、それでもおもにマグダレニアン(Magdalenian)期で発見されています。また、更新世のアフリカでは猛禽類の爪の利用が確認されていないため、猛禽類の爪の象徴的使用は、ネアンデルタール人から現生人類への文化伝播だったかもしれない、と本論文の著者の一人であるモラレス(Juan Ignacio Morales)氏は指摘しています。

 20万年以上前となるアフリカ外の現生人類的遺骸も報告されていることから(関連記事)、あるいは古くからヨーロッパのネアンデルタール人が現生人類の影響を受けていた可能性も考えられますが、発掘の進んでいるヨーロッパでこうした例外を除いて中部旧石器時代の現生人類遺骸が発見されていないことから、中部旧石器時代のヨーロッパのネアンデルタール人が現生人類から受けた影響はきわめて小さかったのではないか、と思います。その意味で、「行動の現代性」の代表例たる象徴的行動の少なくとも一部は、ネアンデルタール人独自の発展だった可能性が高い、と私は考えています。ただ、中部旧石器時代はともかく、シャテルペロニアン期となると、現生人類の直接的影響も想定しなければならないかもしれません。もっとも、上述のように、シャテルペロニアンの担い手がネアンデルタール人なのか、それとも現生人類なのか、という問題もあるわけですが。


参考文献:
Rodríguez-Hidalgo A. et al.(2019): The Châtelperronian Neanderthals of Cova Foradada (Calafell, Spain) used imperial eagle phalanges for symbolic purposes. Science Advances, 5, 11, eaax1984.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax1984

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第41回「おれについてこい」

 1964年夏季オリンピック大会の東京開催が決定し、組織委員会が発足して田畑政治は事務総長となります。そこに大物政治家の川島正次郎が顧問として関わってきます。田畑と川島の間には都知事選での因縁があり、川島は田畑を嫌っていますが、田畑はそのことに気づいていません。川島は東京都知事の東龍太郎に田畑への嫌悪感を伝えますが、東は田畑が多くの人に慕われている、と反論します。じっさい、映画監督の黒澤明も建築家の丹下健三も田畑に誘われて協力を申し出ます。しかし、川島は田畑への嫌悪感を隠さず、衝突します。

 低視聴率が面白おかしく取り上げられ続けている本作ですが、今回は、出演者の醜聞もあって普段よりもさらに注目を集めたかもしれません。前半でも主要人物の醜聞が悪い意味で話題になってしまい、本当に残念です。その注目の大松博文監督ですが、登場時間はなかなか長く、目立っていました。今回、冒頭でお断りが出されましたが、これだけ登場時間が長く目立つのならば、「配慮」せずに当初の演出のまま放送すればよかったのではないか、と思います。まあ、もう撮影も終了し、前半の時のように代役を起用する時間的余裕もなかったので、製作者側としては苦渋の決断だったのかもしれませんが。

皇位継承の根拠をY染色体とする言説について、竹内久美子氏より有本香氏の見解の方がずっとまとも

 現行法では、悠仁親王に息子がいなければ将来皇位継承者が不在になるため、皇位継承への関心が以前よりも高まっているように思います。そうした中で、皇位継承の根拠をY染色体とする言説が支持を拡大しているように見えます。そうした言説の古株とも言える竹内久美子氏は、

神武天皇のY染色体です。男しか持たない性染色体Yは、父から息子へ純粋に受け継がれ、男から男へ、つまり男系でつなげている限り、そのままの状態を保ち続けます。性染色体Xも、その他の常染色体もこういうことはなく、わずか数代で「薄まって」しまいます。

発言し、また

先ほど、読者の方から指摘があり、有本氏は先人が見抜いたこと(男系男子でY染色体が純粋に受け継がれる)に敬意を払っているが、科学的根拠に基づいて説明されることに抵抗があるとのことです。私は科学的根拠ほど客観的で優れたものはないと考え、どうして抵抗があるのか、理解できないのですが。

とも発言しています。皇位継承を男系に限定することは短くとも1500年以上の伝統と言って大過はないでしょうが(前近代において皇位の男系継承が明文化されなかったのは、それが支配層において常識・大前提だったからと考えています)、その根拠をY染色体とすることには弊害が大きい、と私は考えています。この問題については以前述べたので(関連記事)詳しくは述べませんが、DNA解析のない時代には父子関係が遺伝的に保証されていたわけではないので、どこかで「間違い」が起きていた可能性もある、ということが皇位継承の根拠をY染色体とする言説の致命的な欠陥だと思います。

 皇位の男系継承は、社会的合意(前近代において、その社会の範囲は限定的だったわけですが)が積み重ねられてきた伝統により主張されるだけでよく、Y染色体という生物学的根拠を持ち出せば、じっさいに検査しなければ正統性が認められない、という話になってしまいます。その意味で、皇位継承をY染色体で説明することに抵抗がある、という有本香氏の見解は、竹内久美子氏よりもずっとまともだと思います。また、Y染色体には短いながら組換え領域がありますし、もちろん変異は蓄積されていきますから、Y染色体が「純粋に受け継がれ」て「そのままの状態を保ち続け」ることはあり得ません。まあ竹内久美子氏の発言なので、とくに驚きませんが。

 皇位継承の根拠をY染色体とする言説は、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思いますが、それ以上の問題に発展しかねません。今後、男系維持派の大半?が主張するような、旧宮家の男系男子の皇族復帰にさいして(皇別摂家の男系子孫の皇族復帰を主張する人は、私の観測範囲では皆無に近いようです)、Y染色体根拠論に基づくと、Y染色体DNAの検査が必要となるからです。仮に、現在の男性皇族と旧宮家の男系男子とでY染色体ハプログループ(YHg)が大きく異なっていた場合(たとえば、YHg-DとYHg-O)、どちらが「正統」なのか、という点をめぐって議論になり、皇室の権威を傷つけてしまうことになりかねません。じっさい、外国の事例ですが、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系図とは異なる父系が入っている、と推測されています(関連記事)。今後、皇族が減少するなか、旧宮家の男系男子を皇族に復帰させるとしても、DNA検査は必要ない、と私は考えています。

 なお、世論は女系容認と愛子内親王の即位を支持しており、旧宮家の男系男子の皇族復帰は支持されていない、と主張する天皇制支持の女系容認派も少なくないようですが、世論は移ろいやすいものであり、世論を根拠とするのは危険だと思います。かりに、旧宮家の男系男子に、人格・知性・体力・容貌に優れ、皇族復帰の意志のある人、つまり現時点では旧宮家の男系男子として最も有名であろう竹田恒泰氏とはとても似ていないような人がいれば、世論は一気に旧宮家の男系男子の皇族復帰に傾くのではないか、と私は危惧しています。まあ、私は子供の頃からずっと天皇制には好感を抱けず、長く廃止論者でしたから(近年では、世論で強く支持されている以上、直ちに廃止する必要はない、と考えていますが)、男系派が声高に主張し続け、一方で旧宮家の男系男子の皇族復帰も支持されないまま、悠仁親王とその配偶者の間に息子が生まれず、皇族がいなくなり、天皇制が実質的に廃止になってもよい、と考えていますが。

 日本の皇位継承に限らず、人類史において男系継承は普遍的に見られます。その意味で、日本の皇室のように長期にわたって特定の父系がある政治的体制の君主であり続けたのは珍しいとしても、男系継承自体には特別な価値はない、と言うべきでしょう。おそらくこれは、人類社会にはもともと父系的性格が強いことに起因するのではないか、と私は考えています。もっとも、現生人類(Homo sapiens)社会は単純な父系制でも母系制でもなく、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるので、双系的と考えるのが妥当だと思います(関連記事)。ただ、現代人も含まれる現生類人猿(ヒト上科)の社会からは、現生類人猿社会は人類系統の一部を除くと、非母系社会だった可能性がきわめて高いと思います。さらに、ゴリラ社会は基本的に父系でも母系でもない「無系」と言うべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に傾きつつも、じょじょに双系的な社会が形成されていき、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系社会の形成は父系社会よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。

ネオニコチノイド系殺虫剤の使用により破綻した宍道湖の漁業(追記有)

 宍道湖の漁業におけるネオニコチノイド系殺虫剤の使用の影響に関する研究(Yamamuro et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。花粉媒介種に対して世界で最も広く使われているネオニコチノイド系殺虫剤の悪影響はよく知られています。この研究は化学・生物学・漁獲量に関する20年以上に及ぶデータを用いて、動物プランクトンからワカサギやウナギといった商業漁業種に至るまで、宍道湖の水中食物連鎖におけるネオニコチノイドの影響を追跡しました。

 その結果、1993年に初めてネオニコチノイド系殺虫剤が使用されたのと時を同じくして、春季の動物プランクトンの平均生物量が83%減少し、その直後に動物プランクトンを餌とする種の漁業が完全に破綻した、と明らかになりました。ワカサギの漁獲量だけでも、ネオニコチノイド初使用からわずか1年後には年間240トンから22トンに急減しました。この研究は、ネオニコチノイド系殺虫剤によりワカサギやウナギの餌である無脊椎動物の個体数が減少した結果、宍道湖の漁獲量も間接的に減少した、と推測しています。

 また、この時期に日本全国で湖における漁獲量が減少したことも、殺虫剤使用による食物網の崩壊に起因しているのではないか、とこの研究は示唆しています。この研究は、ネオニコチノイド系殺虫剤は世界で最も広く使用されている殺虫剤なので、同様の動態が世界中の水域でも展開している可能性を指摘しています。この研究は、脊椎動物を含むその他の生物に対しても、ネオニコチノイド系殺虫剤の間接的影響が及んでいる可能性を示しました。じっさい、すでにハチに関してはネオニコチノイド系殺虫剤の悪影響が指摘されています(関連記事)。


参考文献:
Yamamuro M. et al.(2019): Neonicotinoids disrupt aquatic food webs and decrease fishery yields. Science, 366, 6465, 620–623.
https://doi.org/10.1126/science.aax3442


追記(2019年11月16日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

数年後に中国人がノーベル賞取りまくるのはほぼ確実なんだよ

 表題の発言がTwitterで話題になっているようです。全文を引用すると、

数年後に中国人がノーベル賞取りまくるのはほぼ確実なんだよ
論文投稿サイトすら知らない一般人は「中国人は真似ばかり」とか言うけど、いつまで中国を科学力の低い国だと思ってんだろ
とっくに追い越されてるんですけど


となります。ノーベル賞では業績から受賞までの間隔が長い場合も多いので、「数年後」では中国人がノーベル賞を「取りまくる」とまではいかないかもしれませんが、中長期的には中国人から多数の受賞者が出るのはほぼ間違いないでしょう。逆に日本人に関しては、中長期的には受賞者が減少する可能性はかなり高く、そう遠くない将来、久しく日本人が受賞していない、という会話が日本の秋の風物詩になるかもしれません。当ブログではおもに自然科学系の論文を取り上げていますが、中国人研究者の論文が増えてきているな、との印象を抱いています。

 発展する中国と衰退する日本という図式は、日本でも「リベラル」や「左翼」の人々が好んでおり、それがおおむね妥当であることは否定できません。私が十数年以上前から警戒しているのは、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、今よりもずっと中国に「配慮した」言説を日本でも強いられることなのですが(関連記事)、最近、北海道大学教授が中国で拘束された一件は、それが現実化しつつあることを示しているのかもしれません。もっとも、この件の背景はまだ不明なので、現時点では断定を避けておきます。

 ただ、中国も日本と同じく人口構造上の大きな弱点を抱えているので、一時期のアメリカ合衆国ほどの影響力を世界に及ぼせるかとなると、疑問も残ります。その意味で日本人は、過剰に中国を警戒するのではなく、適切に評価して是々非々で付き合っていくことが必要なのでしょうが、その判断が難しいこともまた確かです。まあ、人間社会とは難しいものだと開き直って、それをむしろ楽しむようにするのが精神衛生上はよいでしょうか。

金子拓『信長家臣明智光秀』

 平凡社新書の一冊として、平凡社より2019年10月に刊行されました。来年(2019年)の大河ドラマの主人公は明智光秀なので、すでに光秀関連の一般向け書籍が複数刊行されていますし、今後も続々と刊行されていくでしょう。もう15年以上、戦国時代の勉強が停滞しているので、この機会に新たな知見を得るとともに復習することも目的に、光秀関連の一般向け書籍を読むつもりだったのですが、戦国時代に関しては現在の優先順位がさほど高くないので、一冊に絞ろうと考えていました。そこで、著者名を見て、本書を読もうと決断した次第です。

 光秀の前半生についてはよく分からない、と研究者の間では合意が形成されているようですが、本書は、副題にあるように、光秀が織田信長の家臣だった時代に限定しており、それ以前についてはほとんど言及していません。これは研究者としての良心の表れとも言えるでしょうし、私もさほど不満があるわけではないのですが、光秀の前半生についてやや詳しく解説した近年の一般向け書籍もそのうち読んでみよう、と考えています。来年の大河ドラマでは若き日の光秀も描かれるでしょうが、どのような設定が採用されるのでしょうか。

 信長家臣時代後半の光秀は、丹波攻略を中心に、畿内とその周辺の各地に出陣しました。本書から窺える光秀像は、たいへん優秀で、主君の信長から厚い信頼を得ているとともに、主君に感謝している忠実な家臣というものです。その光秀が謀反を起こした(本能寺の変)理由について本書は、謀反の半年前にはまだ信長への感謝が見られることから、それから半年以内に信長に対する強い不満を抱くようなことがあったのではないか、と推測しています。具体的には、光秀が窓口となっていた四国(対長宗我部家)政策の変更や、稲葉家との家臣の所属をめぐる問題が挙げられています。本書の見解で注目されるのは、光秀の謀反の理由として、じゅうらいは俗説として軽視される傾向にあった、光秀が信長に暴行を受けた、という記録を重視していることです。具体的にどのような場面でなぜ光秀が信長に暴行を受けたのか、確定はできないとしても、どこかで暴行はあったのではないか、というわけです。本書は、光秀は信長が無防備で都にいる状況を見て、信長に対する不満から激情的に謀反を起こしたのであり、政権構想など確たる見通しはなかったのではないか、と推測しています。

南極の氷から推測される気候周期

 南極の氷から推測される気候周期に関する研究(Yan et al., 2019)が公表されました。過去80万年にわたって、氷期–間氷期サイクルの振動周期は10万年でした(10万年周期の世界)。氷床コアと海洋堆積物のデータは、10万年周期の世界では、大気中の二酸化炭素濃度・南極の気温・深海の水温・全球の氷体積が互いに強く相関していた、と示しています。約280万〜120万年前には、氷期サイクルの振幅がより小さく、持続期間はより短かった、と推測されています(4万年周期の世界)。深海の堆積物から得られる代理指標データは、4万年周期の世界では、大気中二酸化炭素濃度の変動も10万年周期の世界より小さかったことを示唆していますが、この期間の大気中の温室効果ガス濃度を示す直接的な観測結果はありません。

 本論文は、東南極のアランヒルズにあるブルーアイス地域から、層位が不連続な200万年以上前の氷を回収した、と報告しています。200万年以上前の氷床コア試料の二酸化炭素濃度とメタン濃度は呼吸により変化してきましたが、より若い試料には元のままのものもありました。この研究で回収された氷床コアにより、大気中の二酸化炭素濃度・メタン濃度・南極の気温(局地的な気温の代理指標である重水素と水素の同位体比に基づきます)の直接観測結果が、4万年周期の世界まで拡張されました。

 80万年前以前の気候特性は全て、10万年周期の世界を特徴付ける南極深部の氷床コアの観測結果の範囲内に収まっていました。しかし、4万年周期の世界の二酸化炭素濃度・メタン濃度・南極の気温の最も低い測定値は、過去80万年の氷期の値を大きく上回っていました。これらの知見は、大気中の温室効果ガス濃度と南極の気候の氷期–間氷期変動の振幅は4万年周期の世界では小さかったことと、4万年周期の世界から10万年周期の世界への移行は氷期極大期における二酸化炭素の最小濃度の低下を伴っていたことを裏づけています。人類進化の観点からも注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:南極の氷から得られた200万年前の大気中の気体のスナップショット

気候科学:200万年前の氷における振幅の小さい気候サイクル

 気候システムは、約100万年前に4万年周期の氷期サイクルから10万周期の氷期サイクルへ移行した。いくつかの間接的な古気候学的証拠は、この移行にはより寒冷な氷期状態が伴っていて、大気中のCO2濃度とCH4の濃度が低いことも特徴としていたと示唆している。しかし、過去80万年間の南極深部の氷床コアに存在するような、直接証拠はない。今回Y Yanたちは、東南極のアランヒルズ浅部の「ブルーアイス」を用いて、約200万年前のCO2濃度、CH4濃度、局地的な気温の記録を復元している。こうした3つの記録は全て、過去80万年間の記録の範囲に収まっていた。しかし、著者たちは、「4万年周期の世界」における氷期最盛期の状況ではCO2濃度、CH4濃度、気温が10万年周期の世界より高かったことを見いだしており、以前の間接的な結果が裏付けられた。今回の記録は不連続で、移行の機構に関する確かな知見は得られなかったが、今回の知見は、200万年前のいくつかの重要な大気状態について確実な制約条件を課している。



参考文献:
Yan Y. et al.(2019): Two-million-year-old snapshots of atmospheric gases from Antarctic ice. Nature, 574, 7780, 663–666.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1692-3

節足動物の広範にわたる減少

 節足動物の広範にわたる減少に関する研究(Seibold et al., 2019)が公表されました。節足動物種の局地絶滅や節足動物の生物量の激減に関する最近の報告は、土地利用の強化が生物多様性の低下の主要な駆動要因であることを指摘しています。しかし、土地利用強度の勾配全体にわたる節足動物の存在に関する多地点の時系列データで、因果関係を裏づけるものは存在しません。さらに、どの種類の土地利用や節足動物群が影響を受けているのか、観察されている生物量の減少や多様性の低下が互いに関係しているのかどうかは、まだ明らかにされていません。

 この研究は、ドイツの3地域の150の草原調査地および140の森林調査地で2008~2017年に得られた標準化された複数のインベントリーに基づいて、100万を超す節足動物個体(約2700種)に由来するデータを解析しました。その結果、草原および森林の全体的な多様性は経時的に低下しており、全ての地点と地域で種が喪失している、と明らかになりました。調査が毎年行われた草原では、生物量は67%、個体数は78%、種数は34%減少していました。こうした減少は全栄養段階で一貫しており、おもに希少種が影響を受けていましたが、その規模は局地的な土地利用強度とは無関係でした。

 一方で、農地の比率が高い景観の中にある調査地ほど、経時的な減少はより激しいことも明らかになりました。インベントリーの年次データが存在する30の森林調査地では、生物量に41%、種数に36%の減少が見られましたが、個体数は減少していませんでした。これは、3年間隔のデータが存在する全ての森林調査地の解析結果でも同様でした。こうした減少は希少種と個体数の多い種の両方に影響を及ぼしますが、その傾向は栄養段階によって異なっていました。

 これらの知見は、節足動物の生物量・個体数・種数が全ての栄養段階にわたって広範に減少していることを示しています。また、森林の節足動物の減少は、それらの喪失が開けた生息地に限られるものではないことを実証しています。これらの結果は、節足動物の減少の主要な駆動要因がより大きな空間スケールで作用し、(少なくとも草原では)景観レベルで農業と関連していることを示しており、これは、土地利用による悪影響を緩和するには、政策を景観スケールで取り組む必要がある、と示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


保全:草原および森林の節足動物の減少は景観レベルの駆動要因と関連している

保全:節足動物の個体数、生物量、多様性の広範にわたる減少

 数多くの研究で節足動物の個体数や多様性が最近減少していることが報告されているが、そうした研究は分類群や調査地点が限定的なため、得られた知見をどの範囲まで当てはめることができるのかは不明である。今回S Seiboldたちは、約2700種からなる100万を超す節足動物個体に由来するデータを用いて、ドイツの3地域での2008~2017年における節足動物の多様性、生物量、個体数の変化を調べた。これらのデータは、150の草原調査地と140の森林調査地から得られた標準化された複数のインベントリーに基づいている。解析の結果、節足動物の種数はこの期間、全ての調査地で減少していたことが明らかになった。生物量と種数は草原と森林の両方で大幅に減少していたが、個体数は草原でのみ著しい減少が見られた。草原では、こうした減少の規模は周辺地域の耕作可能地の割合に対応しており、これは、少なくとも草原では節足動物の喪失を食い止めるには景観レベルの政策が必要であることを示唆している。



参考文献:
Seibold S. et al.(2019): Arthropod decline in grasslands and forests is associated with landscape-level drivers. Nature, 574, 7780, 671–674.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1684-3

緑色植物の進化

 緑色植物の進化に関する研究(One Thousand Plant Transcriptomes Initiative., 2019)が公表されました。陸上植物と緑藻類を含む緑色植物門はきわめて多様な約45万~50万種の植物から構成され、陸上生態系および水界生態系で重要な役割を担っています。この研究は、「1000植物トランスクリプトームイニシアチブ(One Thousand Plant Transcriptomes Initiative)」の一環として、緑色植物門・灰色植物門・紅色植物門(紅藻類)を含むアーケプラスチダ(古色素体類)という広義の植物の多様な1124種について、栄養組織のトランスクリプトーム(1細胞中の全mRNAの集合)の塩基配列を解読しました。その結果、緑色植物の進化を調べるための、系統ゲノミクスの強力な枠組みが得られた。

 推測される種間関係の大半は、複数の種系統樹解析およびスーパーマトリックス解析にわたって充分に裏づけられましたが、色素体遺伝子や核遺伝子の系統樹においていくつかの重要な節(ノード)で見られる不一致は、倍数性・急速な種分化期・絶滅などといった植物ゲノム進化の複雑さを浮き彫りにしています。得られた緑色植物の進化史には、祖先的多様性の不完全な選別・倍数化・遺伝子ファミリーの著しい拡大といった事象が散見されます。とくに、遺伝子ファミリーの大幅な拡大は緑色植物、陸上植物と維管束植物の起源に先行して起きたのに対して、全ゲノム重複は顕花植物およびシダ類の進化を通して繰り返し起きていた、と推測されました。高品質の植物ゲノム塩基配列が次々と利用可能になっていることと機能ゲノミクスの進歩により、緑色植物の進化系統樹全体にわたるゲノム進化の研究が可能になりつつある、と本論文は指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:1000種の植物のトランスクリプトームと緑色植物の系統ゲノミクス

Cover Story:多様性の根源:トランスクリプトーム解析によって浮き彫りになった緑色植物の進化

 表紙は、ダーウィンが『種の起源』の結びで、種間の複雑な相互作用を表す例えとした用いた「雑踏した堤」の一例である。ここに写っているのは、シダ類のアメリカシラネワラビ(Dryopteris intermedia)、コケ類のウマスギゴケ(Polytrichum commune)、シノブゴケ類の一種Thuidium delicatumの3種で、緑色植物の著しい多様性を構成する50万種近い植物のほんの一部である。今回「1000植物トランスクリプトームイニシアチブ(One Thousand Plant Transcriptomes Initiative)」のJ Leebens-MackとG Wongたちは、緑色植物門(緑藻類や陸上植物を含む)、灰色植物門、紅色植物門(紅藻類)からなる植物の多様性を網羅する、1124種の栄養組織のトランスクリプトームについて報告している。著者たちは、系統ゲノミクスの枠組みを構築し、これを用いて種間関係を推測し、緑色植物の歴史における多様化事象のタイミングの図示を行った。その結果、遺伝子ファミリーの大幅な拡大は緑色植物、陸上植物、維管束植物の起源に先立って起きていた一方で、全ゲノム重複は顕花植物とシダ類の進化を通して繰り返し起きていたと思われることが分かった。



参考文献:
One Thousand Plant Transcriptomes Initiative.(2019): One thousand plant transcriptomes and the phylogenomics of green plants. Nature, 574, 7780, 679–685.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1693-2

マウスの高塩分摂取と認知機能低下

 マウスの高塩分摂取と認知機能低下に関する研究(Faraco et al., 2019)が公表されました。食習慣や血管リスク因子は、アルツハイマー病と血管性の要因による認知障害の両方を促進します。さらに、過剰リン酸化タウの蓄積(タウは微小管結合タンパク質で、アルツハイマー病の病理学的特徴でもあります)も、血管性認知障害と関連しています。マウスでは、高塩分の食餌が脳の内皮細胞で一酸化窒素欠乏や脳低灌流に関連する認知機能障害を引き起こす、と明らかになっています。この関連性の基盤となる正確な機序は解明されていませんが、血管機能不全とニューロンにおけるタウタンパク質の凝集は、認知機能障害の発生に関わっていると考えられています。この研究は、マウスにおいて、食餌中の塩がタウの過剰リン酸化に続いて認知機能障害を誘導し、これらの効果は内皮の一酸化窒素産生の回復により抑えられることを報告しています。

 通常の食餌の塩分の8~16倍という高塩分の食餌を与えたマウスは、新しい対象物をうまく認識できず、迷路試験の成績もよくありませんでした。この研究は、高塩分摂取により一酸化窒素の合成が低下し、その結果としてタウのリン酸化にかかわる酵素(CDK5)が活性化される、と明らかにしました。一酸化窒素の合成を元に戻すと、マウスの認知機能障害は回復しました。なお、この研究は注意すべき点として、マウスに与えた高塩分の食餌は、ヒトについて報告されている塩分摂取量の最高値を超えて、ヒトの推奨摂取量である1日4~5グラムの3~5倍に達していたことを挙げています。しかし、これらの知見は、食習慣と認知機能の健康を結び付ける未知の経路を明らかにしており、この経路の存在は、高塩分食を避けることで認知機能を維持できる可能性のあることを示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【健康】マウスの高塩分摂取が認知機能低下に結び付いている

 マウスの塩分摂取と認知機能との間に因果関係が認められたことを報告する論文が、今週、掲載される。今回の研究では、マウスに極端な高塩分食を与えると、変異型タウ(アルツハイマー病などの認知症の原因となる病態に関連するタンパク質)が蓄積することが明らかになった。ただし、この結果をヒトに応用できるかどうかは、今後の研究で調べる必要がある。

 塩分の過剰摂取は、認知機能障害と関連付けられており、認知症のリスク因子である。この関連性の基盤となる正確な機序は解明されていないが、血管機能不全とニューロンにおけるタウタンパク質の凝集は、認知機能障害の発生に関わっていると考えられている。今回、Costantino Iadecolaたちの研究グループは、タウの凝集が認知機能障害の発生に関わっていることを示す証拠を発見し、リン酸化タウの濃度を最終的に上昇させるシグナル伝達カスケードを突き止めた。

 通常の食餌の塩分の8~16倍という高塩分の食餌を与えたマウスは、新しい対象物をうまく認識できず、迷路試験の成績もよくなかった。Iadecolaたちは、高塩分摂取によって一酸化窒素の合成が低下し、その結果としてタウのリン酸化にかかわる酵素(CDK5)が活性化されることを明らかにした。一酸化窒素の合成を元に戻すと、マウスの認知機能障害は回復した。なお、Iadecolaたちは注意すべき点として、今回の研究でマウスに与えた高塩分の食餌は、ヒトについて報告されている塩分摂取量の最高値を超えて、ヒトの推奨摂取量である1日4~5グラムの3~5倍に達していたことを挙げている。しかし、今回の研究結果は、食習慣と認知機能の健康を結び付ける未知の経路を明らかにしており、この経路の存在は、高塩分食を避けることで認知機能を維持できる可能性のあることを示している。


神経科学:食餌中の塩がタウのリン酸化を介して認知障害を促進する

神経科学:食餌中の塩が認知機能に影響を及ぼす仕組み

 今回、一連の動物実験により、塩の摂取と認知機能障害を結び付ける生物学的機構が調べられた。この過程には、脳低灌流による機構とタウ関連機構が関係することが示唆されているが、著者たちは、認知障害が脳低灌流ではなくタウ関連機構を介して起こることを示している。この経路は、リンパ球の免疫応答、インターロイキンの産生、一酸化窒素合成の減少、それに続く(ニトロシル化の減少による)カルパインの活性化、カルパインによるp35のp25への切断、サイクリン依存性キナーゼ5(CDK5)の活性化、CDK5によるタウのリン酸化を介して進行する。タウのヌルマウスあるいは抗タウ抗体を投与したマウスでは、脳低灌流や神経血管機能障害が持続するにもかかわらず、高塩分の食餌を摂取させても認知機能が維持された。これらの結果がヒトに拡張できるのであれば、過剰な塩の摂取を避けて血管の健康を維持することは、高齢期の認知機能低下の原因となる病態の防止に役立つ可能性がある。



参考文献:
Faraco G. et al.(2019): Dietary salt promotes cognitive impairment through tau phosphorylation. Nature, 574, 7780, 686–690.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1688-z