ボノボとチンパンジーの集団内および集団間の雄同士の血縁度の比較

 互いに最近縁の現生種である、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)の集団内および集団間の雄同士の血縁度の比較に関する研究(Ishizuka et al., 2020)が公表されました。血縁関係は動物の理解にたいへん重要ですが、異なる集団における個体間の血縁パターンは、とくに大型哺乳類ではほとんど調査されておらず、それは野生での調査が困難だからです。ボノボとチンパンジーは、父系で複雄複雌集団を構成し、集団は分裂と融合を繰り返すといった点で、共通の社会システムを有しており、集団間の相互作用と異なる集団の個体間の血縁度を調査するのに効果的です。なお、最近の研究では、ボノボの雌はしばしば近隣集団に移動する、と示されています。

 しかし、集団間の関係は、チンパンジーでは基本的に敵対的で、雄がしばしば群れで攻撃し、異なる集団の雄を殺すこともあるのに対して、ボノボではより穏やかな集団間関係が見られます。ボノボでも集団間の雄同士の関係は敵対的ですが、雄のボノボは異なる集団の雄を攻撃して殺すようなことは滅多にありません。またボノボでは、雌が主導しての集団間の非敵対的な遭遇も起きることがあり、集団間の交尾さえしばしば観察されます。したがって、隣接集団間の繁殖は、チンパンジーよりもボノボの方が高頻度と予想されます。これは遺伝的研究でも示唆されており、集団外の雄の子かもしれない個体が、チンパンジーでは4ヶ所の生息地のうち1ヶ所でしか見つかっていないのに、ボノボでは3ヶ所全てで見つかっています。

 さらに、集団間の雄の移動は、チンパンジーよりもボノボの方で多く観察されています。これらの違いから、集団間での雄の遺伝子流動はチンパンジーよりもボノボの方が高頻度であり、チンパンジーよりもボノボの方が雄の血縁関係では集団間の差異は小さい、と予想されます。以前のいくつかの研究では、集団内の雄間の血縁度は、ボノボとチンパンジーでは近隣集団の雄間よりも高い傾向にある、と部分的に示されています。しかし本論文は、まだデータが不足している、と指摘します。本論文は、常染色体とY染色体のデータを用いて、ボノボとチンパンジーの雄の、集団内と集団間の血縁度の違いを検証しました。

 チンパンジーでは調査対象の5集団のうち3集団で、ボノボでは3集団すべてで、雄の平均血縁度は近隣集団間よりも集団内部の方が高い、と示されました。これは、両種が父系社会であることからの予想と矛盾しません。また、ボノボの方がチンパンジーよりも集団内の雄の平均血縁度が高いことも明らかになりました。しかし、全集団を対象とすると、集団内の雄と集団間の雄との平均的血縁度の違いは、ボノボのみで有意な差が示されました。チンパンジーで有意な差が見られないのは、5集団のうち2集団の特異な理由に起因するかもしれません。この2集団のうちの一方では雄は2頭のみで、血縁関係にない可能性があります。この集団は1982~1996年にかけて規模が劇的に減少しました。もう一方の集団には15頭の雄がいました。以前の研究では、集団内の雄の数が少ない場合のみ、雄の平均的血縁度が高いと予想されています。一方の集団は雄が15頭と比較的多いため、平均血縁度は、集団内の雄間で低く、近隣集団とさほど変わらない可能性があります。そのため、集団内の雄と集団間の雄との平均的血縁度が、チンパンジーでは有意な差として示されなかったかもしれません。

 これまでの研究では、雄の繁殖の偏りはチンパンジーよりもボノボの方で高い、と示唆されてきました。これは、ボノボでは雄の繁殖成功がその母親の影響を大きく受けるのに対して、チンパンジーではそうではないからです(関連記事)。そのため、ボノボの集団内においてはチンパンジーの集団内よりも雄間の血縁度は増加する、と予想されます。一方、ボノボの方が頻繁に発生するかもしれませんが、ボノボでもチンパンジーでも、集団間の雄の遺伝子流動は稀です。ボノボやチンパンジーのような父系的社会の種で集団間の雄の遺伝子流動が稀である場合、異なる集団の雄間の平均血縁度は低いと予想されます。じっさい、ボノボとチンパンジーの両種で、隣接集団の雄間の平均血縁度は集団内の雄間の平均血縁度よりも低い、と示されています。したがって、集団内の雄間の血縁度はチンパンジーよりもボノボの方で高くなり、近隣集団の雄間の血縁度は両種ともに集団内よりも低くなります。そのため、集団内でも近隣集団間でも、雄間の平均血縁度はチンパンジーよりもボノボの方で顕著に大きい、と予想されました。

 ボノボとチンパンジーとの比較では、集団間の雄の遺伝的距離は、常染色体でもY染色体でも有意な違いがありませんでした。そのため、雄の血縁度における集団間の違いがボノボとチンパンジーのどちらでより大きいのか、不明なままです。ただ、集団間の雄の遺伝的距離では、ボノボの方がチンパンジーよりも平均値は高く、ボノボにおいて集団内の雄間の平均血縁度と近隣集団の雄間の平均血縁度とで大きな違いがある、という観察結果と矛盾しません。また、ボノボの1集団では雄間のY染色体の遺伝的距離の値がひじょうに低く、これは集団の雄の低い遺伝的多様性の影響を受けているかもしれません。

 本論文の結果は、ボノボではチンパンジーよりも集団間の雄の攻撃が少ない、という観察からの、ボノボでは集団間の雄の血縁度がチンパンジーよりも有意に高い、という予想とは一致していません。これまでの研究では、雄間の同盟形成や協調的相互作用のパターンは、父系社会の種の集団における血縁度では説明されない、と提案されていました。父系社会の種では、血縁度は基本的に、同じ集団でも異なる集団でも、雄間の社会的相互作用のパターンを説明しないかもしれません。

 ボノボとチンパンジーで異なる集団の雄への攻撃性の説明としては、ボノボにおける発情期間の延長があります。チンパンジーが隣接集団から交尾相手の雌を略奪するために攻撃するのに対して、ボノボの雄にはそうした必要性が低いのではないか、というわけです。また、ボノボが異なる集団の雄とも採集できる、という事実との関連も指摘されています。ボノボはチンパンジーよりも地上の草本に依存しており、果実への依存度が低いと考えられることから、縄張りを守る必要性がチンパンジーよりも低いのではないか、というわけです。また、チンパンジーはボノボよりも採集に出かける構成員の数のバラツキが大きく、遭遇した集団同士の数が大きく違っている可能性を高めるので、激しい攻撃を誘発しているかもしれない、とも指摘されています。

 本論文は、大型哺乳類の精細な遺伝的構造がほとんど明かされていない中で、これらのデータは貴重である、とその意義を指摘します。本論文は、集団間の雄の血縁関係に関して、ボノボはチンパンジーと同等か、あるいはもっと異なっている、と示しました。上述のように、これは両種の行動からの予想とは異なります。ボノボとチンパンジーにおける、集団間の相互作用と集団間の雄の血縁度のパターンとの関連に関しては、さらなる研究が必要になる、と本論文は指摘します。


参考文献:
Ishizuka S. et al.(2020): Comparisons of between-group differentiation in male kinship between bonobos and chimpanzees. Scientific Reports, 10, 177.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-57133-z

最古のサソリ

 最古のサソリに関する研究(Wendruff et al., 2020)が公表されました。サソリは海中から陸上に移動した最初期動物群の1系統ですが、化石記録が少ないため、陸上での生活にいつどのように適応したのか、明らかになっていません。この研究は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州のウォーキシャ生物相で発見され、約4億3750万年~4億3650万年前となるシルル紀初期のものと年代測定された、保存状態の良好な新属新種のサソリ(Parioscorpio venator)化石標本2点について報告しています。この化石は、スコットランドで発見された、これまで最古とされてきたサソリ種(Dolichophonus loudonensis)よりも古いことになります。

 この新属新種サソリには、他の初期の海洋生物に見られる祖先的特徴(複眼など)がいくつか見られる一方で、現代のサソリの特徴(先端に毒針のある尾など)も見られます。この新属新種サソリの2点の標本のいずれにも、内部構造が細かな点まで示されており、たとえば、くびれた砂時計型の構造体は、胴体の中心部分に沿っており、かなりの領域に及んでいます。この構造体は、現代のサソリだけでなく、現代のカブトガニの循環器系や呼吸器系とひじょうによく似ている、と指摘されています。この新属新種サソリの化石には肺や鰓が見つかりませんでしたが、陸上で呼吸できるカブトガニに似ていることから、最古のサソリは完全に陸生化していなかったかもしれないものの、陸上に移動して、長時間滞在していた可能性が示唆されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】最も古くから陸上を探検していたかもしれない先史時代のサソリの新種

 シルル紀初期(約4億3750万年~4億3650万年前)のものとされる先史時代のサソリの新属新種Parioscorpio venatorについて記述した論文が掲載される。今回の研究で得られた知見からは、P. venatorがこれまでに報告されたものの中で最古のサソリ種で、その海洋生息地から陸上に移動する能力を有していた可能性が示唆されている、この行動は、現代のカブトガニの行動に似ている。

 サソリは海中から陸上に移動した最初の動物の1つだが、化石記録が少ないため、陸上での生活にいつどのように適応したのかは明らかになっていない。

 今回Andrew Wendruffたちは、米国ウィスコンシン州のウォーキシャ生物相で発見され、シルル紀初期のものと年代測定された保存状態の良好な未知の化石種のサソリの標本2点について記述している。今回の研究により、スコットランドで発見され、これまで最も古いサソリ種とされてきたDolichophonus loudonensisよりも古い化石となった。

 P. venatorには、他の初期の海洋生物に見られる原始的な特徴(複眼など)がいくつか見られる一方で、現代のサソリの特徴(先端に毒針のある尾など)も見られる。2点のP. venatorの標本のいずれにも、内部構造が細かな点まで示されており、例えば、くびれた砂時計型の構造体が、胴体の中心部分に沿って、かなりの領域に及んでいる。この構造体は、現代のサソリだけでなく、現代のカブトガニの循環器系や呼吸器系と非常によく似ているとWendruffたちは考えている。

 P. venatorの化石には肺や鰓が見つからなかったが、陸上で呼吸できるカブトガニに似ていることから、最古のサソリが完全に陸生化していなかったかもしれないが、陸上に移動して、長時間滞在していた可能性が示唆されている。



参考文献:
Wendruff AJ. et al.(2020): A Silurian ancestral scorpion with fossilised internal anatomy illustrating a pathway to arachnid terrestrialisation. Scientific Reports, 10, 14.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56010-z

小惑星衝突による恐竜の絶滅とその後の生物相の形成を促した火山活動(追記有)

 小惑星衝突による恐竜の絶滅とその後の生物相の形成を促した火山活動に関する研究(Hull et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。非鳥類型恐竜が地球上の生物種の3/4とともに絶滅した白亜紀~古第三紀(K/Pg)境界大量絶滅に関しては、20世紀後半になって小惑星衝突説が有力になりましたが、インドのデカントラップ火山地域の噴火の影響も指摘されています(関連記事)。しかし、K/Pg境界大量絶滅期に発生したデカントラップからの大量の溶岩と小惑星衝突の相対的影響を解析するのは困難で、K/Pg境界大量絶滅の原因は依然として明確ではありません。

 この研究は、おもに溶岩の堆積に注目したデカントラップ火山活動の作用に関するこれまでの研究とは異なり、環境との関連がより深い1つの噴火特徴であるガス放出を評価しました。この研究は複数のシナリオでの炭素循環モデリングにより、デカントラップからのガス放出の年代および二酸化炭素と硫黄の排出の長期的な地球気温に対する影響を調べ、その結果とK/Pg境界絶滅イベント中の地球の古温度記録を比較しました。その結果、おもなデカントラップからのガス放出の少なくとも50%以上は小惑星衝突直前ではなく、それよりかなり前に起こっていた、と明らかになりました。

 そのためこの研究は、K/Pg境界絶滅イベントと同年代なのは小惑星衝突だけだった、と指摘しています。この研究は、ガス放出の年代には炭素循環が変化し、海が大量の二酸化炭素を吸収できるようになったことで、大量絶滅後にデカントラップ火山活動によって起こることが予測される地球の温暖化は制限された、と推測しています。デカントラップの火山活動は、K/Pg境界絶滅イベント後の新生代の種とその群生の登場を形成することに貢献した、というわけです。


参考文献:
Hull PM. et al.(2020): On impact and volcanism across the Cretaceous-Paleogene boundary. Science, 367, 6475, 266–272.
https://doi.org/10.1126/science.aay5055


追記(2020年1月21日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

筒井清忠編『昭和史講義 【戦前文化人篇】』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年7月に刊行されました。すべて筒井清忠氏編の、『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義2─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』(関連記事)、『昭和史講義 【軍人篇】』(関連記事)の続編となります。いずれも好評だったのか、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。


●筒井清忠「まえがき」P9~17
 本論考はまず、昭和戦前の日本文化全体についてのまとまった本はなく、それは大きく思潮の変わった激変期だったことが根本にある、と指摘します。昭和前期には格差の大きい社会のなか、左翼的思潮が多くの文化人・知識人を捉え、思想・文学・映画・演劇・美術にまで及びました。それが、満洲事変の頃から左翼は弾圧もあって衰退し、多くの文化人・知識人は軍国主義支持へと転向していきます。それが敗戦により、再度左翼的なものが復活します。このように時世が短期間で激変するなか、戦中をなかったようにしたい文化人・知識人も多く、昭和戦前の文化史を扱うことはそうした古傷に触るため、昭和戦前の日本文化全体を扱った本はなかった、というわけです。しかし、この激変期の当事者たちがほとんど去った今、気兼ねすることなく客観的に扱える時期になった、と本論考は本書の意義を指摘します。


第1講●牧野邦昭「石橋湛山―言論人から政治家へ」P19~35
 石橋湛山は言論人として出発しましたが、早くから普通選挙運動のような政治にも関わっていきます。湛山の名声が高まったのは、浜口内閣の金解禁と緊縮財政を批判したからで、これ以降、その経済的知見を政府に高く評価され、政府関係の仕事も引き受けるようになります。その結果、湛山は財界人・学者・評論家・官僚・軍人などの結節点的存在になり、それが戦後に政治家を志したさいに役立ちました。ただ、湛山の名声が高まっていくなか、日本は湛山の主張した「小日本主義」とは反対の方向へと向かっていき、湛山も満洲や華北が日本の勢力下にあることを既成事実として認めていくようになります。それでも湛山は、経済のブロック化には反対し、その基本的な思想を堅持した、と本論考は指摘します。


第2講●苅部直「和辻哲郎―人間と「行為」の哲学」P37~50
 和辻哲郎には「日本人の伝統的心性」を正当化しているという評価もあり、それは的外れではないものの、普遍性と特殊性を強く意識し、同時代のヨーロッパの哲学・民族学・人類学を取り入れていったところもある、と指摘されています。和辻は、特殊性を強く意識した点では日本と西洋にそれぞれ独自の思想があり、価値を序列化するような姿勢を排する点で文化相対主義的なところがありましたが、一方で、1930年代から1945年までに猛威を振るった、人間倫理の普遍性を拒否するかのごとき「日本精神」論の誤りも指摘しており、和辻の議論には単純な読み方を許さないような複雑さが見られます。


第3講●佐々木閑「鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人」P51~67
 鈴木大拙の世界観を形成するうえで重要な『大乗起信論』は、古代インドの仏教哲学書ではなく、6世紀に中国で漢文資料から寄せ集めて自己の見解を盛り込んだ継ぎ接ぎだった、と明らかになっているそうです。鈴木大拙の世界観において重要な「霊性」とは、思想というよりも思想を作成するための書式で、代入する変数により思想は異なってくる、と指摘されています。鈴木大拙が大日本帝国の戦争を支持し、ナチズムに理解を示したことと、第二次世界大戦後に軍国主義批判を展開したことについても、確定性のない書式としての霊性の表れと評価されています。


第4講●赤坂憲雄「柳田国男―失われた共産制を求めて」P69~84
 本論考は柳田国男を、農村から都市へと移住してきた近代日本の知識人の一人と把握し、置き去りにしてきた過去としての農村を嫌悪や侮蔑で語るか、柳田のように「同情ある回顧」で語るかにより、見えてくる日本文化の風景は大きく異なってくる、と指摘します。また本論考は、正統的な保守主義者である柳田が、伝統的な村落に潜む「共産思想」を見出していた、と指摘します。そこには、伝統的村落を貧しくしたものは「外部資本の征服」だった、という認識もあった、というのが本論考の見通しです。


第5講●千葉俊二「谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」」P85~99
 谷崎潤一郎の作家人生にとって転機となったのは1923年の関東大震災で、この後、谷崎は関西に移住します。この関東大震災は、ヨーロッパの第一次世界大戦と同じく、思潮の大きな転機になった、と本論考は指摘します。ヨーロッパにおいては、悲惨な戦争を防げなかったことから理性による合理主義への限界が強く意識されるようになり、日本では、プロレタリア文学とモダニズム文学が勃興し、既成文壇の作家たちは動揺していき、芥川龍之介の自殺もその文脈で起きた、と本論考は解釈しています。また本論考は、戦前・戦後を通じて、谷崎が「今の政に従う者は殆うし」という姿勢を貫き、『春琴抄』は昭和初期の混乱した現実から逃避して関西に残る日本の伝統美に閉じ籠ろうとした作者の気持ちが象徴されているのではないか、との伊藤整の評価は谷崎がひじょうに喜んだ、という逸話を紹介しています。


第6講●前田雅之「保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人」P101~116
 保田與重郎は第二次世界大戦後、抹殺状態に置かれていた、と本論考は指摘します。それは、保田が戦争協力者にして若者を死に赴かせた張本人とみなされたからだろう、と本論考は指摘します。保田は戦後、公職追放となりましたが、「思想探偵」として参謀本部に密告する役割を果たしていた、とさえ言われました。保田が懲罰的に応召されていることからも、これは妄言と考えるべきなのでしょうが、戦後における保田への一般的な評価を反映している、と言えそうです。しかし本論考は、戦後の保田への批判はどれも的外れで、批判の多くは自分の罪を保田に押しつけたか、黙って批判に追随したのだろう、と指摘しています。


第7講●藤井淑禎「江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮」P117~134
 本論考は江戸川乱歩の小説を、初期の本格ミステリー、中期の通俗長編、晩期の少年探偵団ものに分類し、中期の通俗長編が乱歩自身の低評価により過小評価されてきた、と指摘します。ただ、乱歩の自己評価の根拠とされてきた『探偵小説四十年』が、異なる時代の自伝を継ぎ接ぎした、言わば増築に次ぐ増築を重ねてきたものなので、これまでその利用には問題があった、と本論考は指摘します。


第8講●伊藤祐吏「中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者」P135~150
 中里介山は戦前にはひじょうに著名な作家で、その代表作である『大菩薩峠』は長いだけではなく、深く面白く、その主人公である机龍之助は丹下左膳や木枯し紋次郎などに受け継がれるほどだった、と本論考は高く評価します。さらに、同時代の芥川龍之介は、百年後に名を遺すのは純文学作家よりも中里の方だろう、と予想しました。しかし、中里の知名度は現在では低く、本論考はその理由として、仇討物語として始まった『大菩薩峠』に仇討を超えた価値を見出した中里が『大菩薩峠』を粗雑に編集し、本文を読んだだけでは物語の流れが分からなくなってしまったことを指摘します。戦前の読者は、演劇や映画や口コミを通じて、『大菩薩峠』がどのような話なのか、認識していましたが、時代の経過に伴いそうした共通認識が失われると、『大菩薩峠』は一気に忘れられた、というわけです。また、中里は文学報国会への加入を拒否した珍しい作家でしたが、それは戦争反対を意味していたのではなく、『大菩薩峠』の成功により名誉と財産を得て自意識の肥大化した中里が、作家として報国の念を離れたことはない特別な存在だ、と自分を規定していたからでした。


第9講●牧野悠「長谷川伸―地中の「紙碑」」P151~167
 長谷川伸は苦労人の作家でした。実家は裕福だったものの長谷川が子供の頃に没落し、母親とも生き別れとなり、父親からは実質的に棄てられたのも同然の境遇でした。そこから作家として大成した長谷川は、庶民への哀憐の念を込めて作品を描き出していった、と本論考は評価します。作家として大成した長谷川はまた、表立った戦意高揚の文章を公表することは少なかったものの、広義の戦争協力者としては他の作家を圧倒していただろう、と本論考は指摘します。長谷川の功績としては弟子の育成もあり、山岡荘八や池波正太郎などがいます。


第10講●竹田志保「吉屋信子―女たちのための物語」P169~185
 吉屋信子は少女小説の作者として知られ、一人の女性と生涯を共にした同性愛者として、その先駆性が注目されています。同時代に、女性同士で共同生活を送った事例は他にもありますが、長期にわたって良好な関係を継続したことは特筆される、と本論考は評価します。ただ本論考は、それは吉屋が当時の女性としては破格の経済力と地位を獲得できたからこそ可能だったことであり、単に二人の愛情や意志の強さだけに還元して特権的に語ってしまうことは、当時の女性たちの絆を過小評価することになるだろう、と指摘します。


第11講●川本三郎「林芙美子―大衆の時代の人気作家」P187~201
 林芙美子は行商人の子供として生まれ、生涯庶民からの視点を貫いた、と本論考は評価します。林は戦争に協力した作家として指弾されます。本論考も、中国の民衆に対する加害者意識が林に欠けているところは責められるべきだ、と指摘します。しかし、林は単に戦意高揚を煽り、戦争を賛美したのではなく、その視点は黙々と任務を果たす下層の兵士たちにあった、と本論考は指摘します。こうした弱者への共感という点では、戦前・戦中・戦後において林は一貫していた、というのが本論考の評価です。


第12講●林洋子「藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影」P203~221
 本論考は藤田嗣治を、20世紀前半にあって、誰よりも早く国際性と多文化性を持ち合わせた「越境」者ゆえの光と影を一身に背負った存在と位置づけています。藤田の戦争協力は戦後になって強く批判されましたが、戦争記録画の中でもアッツ島玉砕以降の一連の「玉砕図」が、現在ではむしろ厭戦的に見えるのに対して、「今日腕を奮つて後世に残す可き記録画の御用をつとめ得る事の出来た光栄をつくづくと有り難く感ずるのである」といった文章の方は、むしろ戦意高揚的に映る、と本論考は評価しています。


第13講●萩原由加里「田河水泡―「笑い」を追求した漫画家」P223~240
 本書で取り上げられている人物については、石橋湛山を除いて全員、詳しく知らないと言ってもよいくらいなのですが(石橋湛山についても、さほど詳しいわけではありませんが)、田河水泡の妻が小林秀雄の妹であることも知りませんでした。田河の代表作である『のらくろ』については、内務省より打ち切りを勧告された、という話が伝わっていますが、本論考は、それだけではなく、『のらくろ』の人気が低下していったこともあるのではないか、と推測しています。のらくろが一兵士から士官へと昇進するにつれて、頭の固い上司の裏をかいて飄々と生きるという作品の魅力が薄れていったのではないか、というわけです。


第14講●井上章一「伊東忠太―エンタシスという幻想」P241~256
 法隆寺の柱の膨らみを古代ギリシアの建築技法であるエンタシスと結びつけ、それはアレクサンドロス大王の東征によるヘレニズムの結果であった、という現在でも日本社会では根強そうな見解を強く主張して広めたのが伊東忠太でした。これは、インド以東の建築文化を侮る西洋史家に対する強い反発がもたらしたものでもありました。しかし、アジア中央部にはエンタシスは見当たらず、そもそもアレクサンドロス大王の百年ほど前に、ギリシアではエンタシスは用いられなくなりました。法隆寺の柱の膨らみの起源としては、北魏が有力なのですが、近代日本において、北魏よりもヨーロッパ文化の源流たるギリシアの影響という言説の方が受け入れられやすかった、というわけです。


第15講●片山杜秀「山田耕筰―交響曲作家から歌劇作家へ」P257~278
 本論考は、山田耕筰が1920年代に歌曲作家として成功するまで、「行きすぎた西洋近代派」で、当時の日本の文化・経済水準に合わず、名誉でも富でも本人が満足するような成功を収められなかった、と指摘します。山田は日本の前近代の民謡や三味線音楽に疎く、当時の日本人の求める音から浮き上がった「西洋派」と認識されてしまった、というわけです。その失敗を踏まえた山田は、日本伝統の音感の研究と活用を心がけ、1920年代に「赤とんぼ」などの歌曲で成功していきました。しかし、山田の本心は歌曲作家としての成功ではなく、オーケストラ曲やオペラなどの大規模音楽で、山田の著名な歌曲や童謡が生涯の限られた時期に偏っていることもそのためだった、と本論考は指摘します。


第16講●筒井清忠「西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人」P279~298
 本論考は、大正期から昭和前期にかけて、日本の詩と歌は大きく変わった、と指摘します。まず、ほぼ全体的に文語文から口語文へと変わっていきました。また、童謡が現れ、子供向きの歌に詩人が大きく関わっていったことも世界的に異例でした。これは、地方の歌の変化として日本中を覆う新民謡の時代へとつながるとともに、各学校・地域・会社・組合など、あらゆる集団で歌が作られ、歌われるようになり、新聞・雑誌・映画などを通じて広がっていきました。本論考は、この大変動の中心にいてそれを領導したのが西條八十で、西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物だった、と評価しています。西條は童謡雑誌での活動を始めますが、本論考は、大正期童謡運動は明治期における上からの西洋音楽強制への反動で、これが昭和前期における下からのナショナリズムの一つの基礎になった、と指摘します。また本論考は、近代の方が地域的差異化を希求したのであり、前近代の方が共通性は高かった、とも指摘しています。