Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、中国を中心としたアジア東部における現生人類(Homo sapiens)の起源、つまり現生人類がいつアジア東部に到来したのか、という問題を取り上げています。これに関しては、現生人類の拡散は1回だけで、6万年前頃にアフリカから拡散し始め、アジアやオーストラリアへ一気に拡散した、という見解と、主要な拡散は2回あり、最初は10万年前頃、2回目は6万年前頃だった、という見解が提示されています。

 本論文はまず、アジア東部の環境を取り上げます。中国の自然環境は南北に二分されます。北部は旧北区の亜乾燥地域で、南部は降水量が多く、典型的な亜熱帯・熱帯の植生が広がっています。もちろん、これは現代の気候ですが、中国は過去250万年の古気候記録も豊富で、人類拡散の研究に役立っています。本論文では、現生人類のアジア東部への拡散と関わってくる、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5および4の植生復元図が掲載されており、温暖なMIS5では現在とさほど変わらない地形ですが、寒冷なMIS4(MISは奇数が温暖期、偶数が寒冷期)では、砂漠が拡大するとともに、海水面の低下により陸地が増大し、現在とは大きく異なる地形であることが改めて了解されます。温暖で湿潤な時期には中国北部では砂漠が縮小し、西方や北方からの移住が容易となった一方で、中国南部では密集した森林の発達により移住はやや困難となります。逆に寒冷期には、南部への移住は容易になるものの、北部では北方や西方からの移住は拡大した砂漠により困難となります。中国への南方からの移住は、難易度の違いはあれどもどの時期にも可能だったのに対して、北方への移住は温暖な時期にのみ可能だったことになります。こうした人類の移住パターンは過去50万年以上にわたって繰り返されていただろう、と本論文は指摘します。

 黄土高原の気候復元データからは、過去50万年に温暖湿潤な時期は4回あった、と明らかになっています。この時期の中国北部の人類遺骸としては、MIS7における遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡の頭蓋骨があります。年代は、大茘人の方がやや新しい20万年前頃と推定されています。本論文は両者をハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類していますが、ハイデルベルゲンシスという分類群には大きな問題があると思うので(関連記事)、とりあえず非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と考えておきます。

 本論文は、中国北部で確認されているホモ・エレクトス(Homo erectus)は金牛山遺跡や大茘遺跡の古代型ホモ属の祖先ではない、という見解を採用しています。中国北部の河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸(関連記事)については、33万年前頃、20万~16万年前頃、16万年前頃よりもずっと新しいなど、年代が確定していませんが、分類も難しい、と本論文は指摘します。エレクトスでもハイデルベルク人でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑系統かもしれない、と本論文は推測しています。河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、MIS 5となる125000~105000年前頃の頭蓋骨(関連記事)について本論文は、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人的特徴とが混在していることから、交雑の可能性を指摘しています。このように、現生人類が中国に拡散してきた時、すでに異なる系統のホモ属が存在しており、交雑が起きた可能性も考えられます。

 早期現生人類の証拠としてアジア南東部で挙げられているのは、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタンパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(関連記事)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)遺跡、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)です。このうち、現生人類の痕跡として最古となりそうなのは、73000~63000年前頃の現生人類の歯が発見されているリダアジャー遺跡ですが、疑問も呈されています(関連記事)。タンパリンの現生人類遺骸の推定年代は63000~44000年前頃です。ニア洞窟では45000年前頃の現生人類頭蓋骨が発見されており、熱帯雨林における適応の最古級の事例という点で注目されます。なお、ニア洞窟では10万年以上前の人類の痕跡も報告されています(関連記事)。

 中国南部では、広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前とされる現生人類の下顎骨と歯が発見されています(関連記事)。これは在地の人類集団と外来の現生人類との交雑集団である可能性も指摘されています。また本論文は、これが単に新しいホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性も提示しています。さらに、この智人洞窟の人類遺骸については、年代に疑問が呈されています。年代は洞窟の床面の一部に堆積したフローストーン(流華石)に基づいていますが、数cmの幅に密集して堆積した流華石の最上部が55000年前頃、最下部が10万年前頃と推定されており、どの部分が下顎骨と関連しているのか決定するのは不可能だろう、というわけです。湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)では、10万~8万年前頃の現生人類の歯が48本発見されています(関連記事)。福岩洞窟では床面全体が8万年前頃の流華石に覆われており、中国南部には8万年前頃に現生人類が到来していたことになります。しかし本論文は、現生人類の歯が出土した層の形成過程について、さらに詳細に調査されるべきである、と慎重な姿勢を示します。

 このように、中国南部には10万~8万年前頃に現生人類が到来していた可能性もあるものの、その年代についてはまだ議論の余地があるようです。雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡では、14310±340~13590±160年前のホモ属遺骸が発見されています(関連記事)。馬鹿洞人には祖先的特徴も見られ、未知のホモ属系統である可能性も指摘されていますが、山間盆地の点在する環境なので、非現生人類種とは言えないまでも孤立した集団ではないか、と本論文は指摘しています。モンゴル国東部に位置するヘンティー(Khentii)県ノロヴリン(Norovlin)郡のサルキット渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の頭蓋に関しては、祖先的特徴が指摘されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では現生人類の変異内に収まる、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、形態から種を決定するのは難しくなってきており、また現生人類とネアンデルタール人との交雑集団をどう区分すべきなのか、といった問題が生じてきている、と指摘します。

 中国北部は、現生人類の到来を検証するうえで重要となる8万~3万年前頃には、砂漠と草原との間の変化が何回も起きていたように、ひじょうに不安定な気候だった、と明らかになっています。中国北部では、さらに北方からの人類移住の証拠も見られ、防寒性の高い服がすでに使用されていたことを示唆します。チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では4万~3万年前頃の現生人類のものと思われる石器群が発見されており(関連記事)、これも当時の人類の寒冷適応を示しています。内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、本論文はその製作者を、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑集団と推測しています。

 中国北部において確実な現生人類の痕跡として最古のものは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類の下顎と足の骨で、石器の共伴はありませんが、形態学でも遺伝学でも現生人類に分類されています(関連記事)。田园洞窟の現生人類男性は日常的に履物を使用していた、と推測されています(関連記事)。北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)遺跡では現生人類の頭蓋骨と、ヨーロッパの上部旧石器時代初頭のものとよく似たビーズが発見されており、年代は36000年前頃と推定されています。

 寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡では、4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群が発見されており、少なくとも2種類の石刃剥離工程を示すものも含まれ、モンゴルやシベリアの同時代石器群と対比されていますが、中国南部の石器群とは大きく異なります。水洞溝2遺跡では、36000~28000年前頃にかけて断続的にヒトが居住した、と推測されています。水洞溝2遺跡の石器群や装身具はシベリアで発見されたものとよく似ています。中国北部の早期現生人類と関連していると推測される考古学的記録はモンゴルやシベリアのそれとの共通性が高く、中国南部と異なっていますが、これは上述の自然環境の違いを反映しているようです。25000年前頃以降には、中国北部に細石刃石器群が出現し、シベリアやモンゴルや朝鮮半島や日本列島北部でも発見されていることから、北方からの移住は繰り返されていた、と示唆されます。中国北部への現生人類の拡散は、水洞溝1遺跡のような大型石刃石器群を有する集団、次に水洞溝2遺跡のような小型石刃石器群を有する集団、その次に細石刃石刃石器群を有する集団の3回ほどあっただろう、と推測しています。

 本論文は、以上のように中国における人類史は複雑で、それは広大な面積と多様な自然環境に起因する、と指摘します。中国には、現生人類の到来前に他の人類がすでに存在していました。本論文は、上述の金斯太洞窟遺跡の事例から、現生人類が中国北部の環境に適応できた一因として、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人とデニソワ人の交雑集団から技術を学んだ可能性すら考慮すべきである、と指摘します。中国を含めてアジア東部への現生人類の拡散は、以前の想定よりもずっと複雑だったようで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Dennell R. 、西秋良宏翻訳(2020)「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第3章P95-126