ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合

 ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合に関する研究(Immel et al., 2020)が公表されました。ヨーロッパ東部の考古学的記録では、農耕生活様式の最初の証拠は紀元前六千年紀に現れ、その頃に、たとえば紀元前5400~紀元前4900年頃となる線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)のようなドナウ川流域の新石器時代社会が、カルパティア山脈地域に拡大し始めました。これらの早期農耕文化に続いて、新たな社会であるククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTC)が、現在のルーマニア東部・モルドヴァ・ウクライナ西部および中央部を含む広大な地域に出現しました。CTCは、新石器時代末期から前期青銅器時代にかけて、2000年(紀元前5100~紀元前2800年)にわたってヨーロッパ東部で繁栄し、一般的には前期・中期・後期に区分されます。

 CTCはその地理的位置のため、紀元前5000~紀元前3400年頃となるレンジェル(Lengyel)文化や、紀元前4000~紀元前2800年頃となる漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker、略してFBC)や、紀元前3100~紀元前2400年頃となる球状アンフォラ文化(Globular Amphora、略してGAC)のようないくつかの同時代文化と関係がありました。紀元前4100~紀元前3600年頃の中期CTCには数百人もしくは数千人の居住者がいたかもしれず、巨大集落の大規模遺跡、確立した農業経済、高水準の社会組織、高度な冶金術がCTCの特徴です。しかし、その後、これらの集落はほとんど放棄されました。後期CTCの個体群には、前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のような、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシアの広大な草原地帯に居住していた集団との相互作用の考古学的証拠があります。

 先史時代ヨーロッパ東部のCTCの重要性にも関わらず、CTCと関連する人々の遺伝的構成、近隣集団との混合の程度、もしくは連続する文化的集団との継続性の水準については、ほとんど知られていません。これは、CTC関連遺骸の顕著な不足に起因します。これまでに発見されたCTC関連ヒト遺骸はおもに後期のもので、ウクライナのヴァーテバ洞窟(Verteba Cave)と呼ばれるトリピリャ文化遺跡の遺骸のDNAのみが解析されていました。紀元前3700~紀元前2900年頃となるヴァーテバ洞窟の8人に関するミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、アナトリア半島およびヨーロッパ中央部農耕民に典型的な6系統の母系を明らかにしました。そのうち2個体はmtDNAハプログループ(mtHg)U8b1で、ヨーロッパの狩猟採集民から派生したかもしれません。その後、紀元前3900~紀元前3600年頃となるヴァーテバ洞窟の男性4人のゲノム規模分析からは、主要な新石器時代系統(80%)と小さな狩猟採集民系統(20%)が推定されています。

 本論文は、ポクロフカ5(Pocrovca V)とゴーディネスティ1(Gordinești I)という、現在のモルドバ共和国の2ヶ所の後期CTC遺跡で発掘された女性4人のゲノム規模データを提示します。内訳は、ポクロフカ5遺跡が成人3人(ポクロフカ1・2・3)、ゴーディネスティ1遺跡が推定年齢9歳の子供1人です。この女性4人の年代は紀元前3500~紀元前3100年頃で、ヴァーテバ洞窟の男性の数百年後となります。本論文は、これら新たな標本群と既知のデータを組み合わせて、ヨーロッパ東部先史時代のこの重要な時期における集団移動と動態をより詳細に提示します。

 mtHgは、9歳のゴーディネスティ1がU4a1、20~25歳のポクロフカ1がK1a1、35~40歳のポクロフカ2がT2c1d1、60~65歳のポクロフカ3がT1aです。この4人の間で親族関係は確認されませんでした。この4人には、ペスト菌や結核菌などの感染の兆候は検出されませんでした。主成分分析では、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人と密接なドイツとハンガリーのより新しい年代の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker、略してBBC)個体群と近縁な一方で、ポクロフカ2はLBK個体群と近縁で、その次にアナトリア半島とセルビアのスタルチェヴォ(Starčevo)の新石器時代農耕民と近縁です。

 モルドバの後期CTCの女性4人は、混合モデルではアナトリア新石器時代農耕民系統が最も多く、次に狩猟採集民系統となります。また、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はかなりの草原地帯系統を有しています。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はヴァーテバ洞窟遺跡のCTC男性4人と近縁な一方で、ポクロフカ2はスタルチェヴォの個体群と系統のほとんどを共有しています。モルドバの後期CTCの女性4人は、アナトリア新石器時代農耕民系統よりもLBK系統から、また草原地帯関連系統よりもヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統の方から強い遺伝的影響を受けている、と推測されます。草原地帯系統関連系統のなかでは、ウクライナ中石器時代とヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)とヤムナヤ系統の影響はコーカサス狩猟採集民系統(CHG)よりも高く、この3系統の影響はほぼ同等と推定されています。ある程度明確に混合モデル化できたのはポクロフカ1で、LBK系統が41~60%、草原地帯関連系統が8~18%、WHG系統が29~41%です。

 上述のように、CTCはヨーロッパ東部先史時代において重要な役割を果たしていますが、ヒト遺骸の不足に起因する古代DNA研究の停滞により、CTCに関連する人々の起源についての現在の知識はかなり限定されています。これまで、CTC個体群のゲノム規模データは、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人に限定されていましたが、そこで発見されたヒト遺骸の大半は頭蓋と下顎で、死亡前後の外傷や死後の人為的痕跡が明確に示されています。一方、本論文で新たに分析された後期CTCの女性4人の遺骸には、対人暴力の痕跡は見られません。この4人が発見されたポクロフカ5遺跡とゴーディネスティ1遺跡は近接しており、ヴァーテバ洞窟遺跡からそれぞれ数百km離れています。最近、CTC大規模集落はその高い人口密度によりユーラシア全域に拡大するペスト菌系統の発祥地になった、との見解が提示されました(関連記事)。上述のように、後期CTCの4人の女性ではペスト菌感染の痕跡は検出されませんでしたが、ポクロフカ5遺跡の女性3人は、暴力の痕跡がなく、複数の埋葬地で発見されたことから、本論文は伝染病による死の可能性も指摘します。

 後期CTCの4人の女性は、ゲノム規模データから、アナトリア農耕民とLBK個体群に共通の新石器時代農耕民系統と、草原地帯関連系統と、WHG系統を示します。このうち、新石器時代農耕民系統が最大の割合(41~60%)を示しますが、そのうちアナトリア農耕民よりもLBK個体群の方と近縁です。CTCでも、ヴァーテバ洞窟遺跡の個体群では新石器時代農耕民系統が同様に大きな割合を示しますが、むしろアナトリア農耕民起源と推測されています。CTC集団とLBK集団の遺伝的近縁性は、考古学的証拠によっても裏づけられます。CTCの経済と文化の基礎はヨーロッパのボイアン(Boian)およびスタルチェヴォ文化で見られ、LBKからさらに影響を受けた、と本論文は推測します。

 上述のように、後期CTCの女性4人では草原地帯関連系統が検出されました。草原地帯関連系統からCTC集団への遺伝子流動は、紀元前3500年頃には起きていたことになります。この頃、草原地帯ではトリピリャ関連の発見物が増加します。草原地帯関連系統は、ヨーロッパ東部紀元前2800年頃の縄目文土器文化(Corded Ware、略してCWC)の前に、草原地帯よりも西方のヨーロッパ東部に出現していたわけです。ヨーロッパ東部は、在来集団と侵入してくる草原地帯関連集団との間の古い遺伝的接触地域で、これはウクライナで発見された、紀元前4045~紀元前3974年頃と紀元前3634~紀元前3377年頃の2個体でも確認され、この2個体ではアナトリア新石器時代関連系統と草原地帯関連系統との混合が見られます。しかし、ウクライナのこの2人はまだ狩猟採集民の生活様式だったのに対して、後期CTCの女性4人は農耕文化生活様式でした。

 CTC集団に草原地帯関連系統をもたらした可能性のある集団として、本論文はユーラシア東部中石器時代集団を挙げています。たとえば、ウクライナの中石器時代集団やEHGですが、本論文はもっと後のヤムナヤ牧畜民集団の可能性も指摘しています。後期CTC集団と近隣の前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団との混合は、紀元前3300~紀元前2600年頃の考古学的記録にも見られます。ヤムナヤ文化と後期CTCとの共存期間は短いものの、両方の集落では物資交換の証拠が発見されています。考古学的および本論文の遺伝的知見からは、ヨーロッパ東部における、完全な置換ではなく、継続的な接触と漸進的な遺伝的混合と緩やかな文化的変化が想定されます。しかし、この仮説は、ヤムナヤ文化集団の騎馬民がヨーロッパ中央部に多数で征服的に移動してきた、との仮説(関連記事)と競合します。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、もっと後の青銅器時代もしくはBBC個体群と遺伝的類似性を示したことはとくに驚くべきではなく、それは異なる集団からそれぞれ独立してかなりの草原地帯関連系統が流入してきたからです。

 後期CTC個体群と同時代のFBCおよびGAC個体群との遺伝的類似性は、共通の起源および/または進行中の相互作用を示します。ヴァーテバ洞窟のmtDNA研究ではすでに、CTCとFBCの個体群間の母系での高い類似性が示されています。これは、CTCとFBCの地理的範囲が近いことで説明できます。CTCとFBCの集落遺跡は重なっており、CTCからFBCやGACへの定期的な接触および交易が考古学的に確認されています。後期CTC個体群の遺伝的構成は比較的高い多様性を示唆し、数百kmという近さを考えると驚くべきことです。本論文の知見は、ある文化内の人口動態を示し、特定の考古学的集団と関連した個体群の明らかに安定して均一な構成という概念に疑問を呈しています。考古学と古代DNA研究の政治的悪用の阻止という観点(関連記事)からも、本論文が提示した疑問は重要だと思います。


参考文献:
Immel A. et al.(2020): Gene-flow from steppe individuals into Cucuteni-Trypillia associated populations indicates long-standing contacts and gradual admixture. Scientific Reports, 10, 4253.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-61190-0

大河ドラマ『麒麟がくる』第9回「信長の失敗」

 1549年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)2月、斎藤利政(道三)の娘の帰蝶は織田信長へと嫁ぎますが、祝言の日、信長は不在で、帰蝶が信長と会えたのは翌日でした。信長は帰蝶に率直に謝ります。尾張の織田と美濃の斎藤が同盟を締結したと知った駿河の今川義元は、信秀が苦境に立たされていると判断し、尾張へ攻め入ると決断し、従属している三河の松平広忠を帰国させますが、その途中で襲撃されて殺害されます。ここで、菊丸が竹千代の伯父の水野信元か松平家に仕える者と明かされます。帰蝶とともに末森城に両親を訪ねた信長は、父の信秀に松平広忠の首を献上します。松平広忠を襲撃させたのは信長だったわけです。父の信秀に喜んでもらえると思った信長ですが、まだ斎藤利政は信用できない、現時点で今川と戦えば勝てない、と言って信秀は激怒します。光秀は叔父の光安に命じられて美濃の妻木家を訪ね、幼馴染の煕子と再会します。これは、光秀と煕子を結婚させようという光安の意図でした。

 今回、初めて信長が本格的に描かれました。信長は、まだ思慮が足りず、両親に認められたい純粋な少年といった感じです。下層の者たちにも慕われているところも描かれていますが、この時点で後年の活躍を想像するのはなかなか難しいように思います。信長の成長がどのように描かれるのか、本作の楽しみの一つとなりそうです。光秀の出番は少なめでしたが、後の妻となる煕子との再会で、二人の縁が語られました。もっと早くから言及されていてもよさそうなものですが、本作では駒や帰蝶の方が重要人物ということでしょうか。